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 病院には老人を大事にする病院とそうでない病院があるということを聞いた。知り合いの九十近い婆さんは決して惚けてはいないのに、多くの病院で惚け老人扱いされて玄関払いされたという。

 そして、やっと惚け扱いしない病院を探し出して入院し、その後回復して退院したというのだ。その病院はどうやら老人を大切にする病院らしい。

 救急車が病人を運び込む病院はどれも急性期型病院と呼ばれ、それに対して、そこを退院した患者のリハビリなどを主にする病院を療養型病院と呼ばれるらしい。そしてこの療養型病院は老人病院とも呼ばれる。

 急性期型病院の中には、この療養型病院つまり老人病院とタイアップしている病院があって、そういう病院は老人を大切にする病院であり、高齢者医療を得意としているのだそうである。

 とすると、私の父親もこのタイプの病院に入院していたら今頃はまだ生きていたかも知れないと思いたくなる。父が死んだ加古川の神鋼病院(今の加古川東市民病院)は高齢者が得意ではないのに間違って受け入れてしまったのだろう。病院が救急患者の受け入れを断わるのも、あながち悪いことではないのである。(2007年12月31日)







 最初に父の血圧が低下してしまった時も神鋼病院(今の加古川東市民病院)はそれを本人のせいにしたが、一旦回復したにも関わらず突然また血圧が下がって死んでしまったのもこの病院は本人のせいにした。

 最期の日に家族で見舞いに行ったとき、父の顔色が悪く呼吸も荒いので大丈夫かと聞いても、研修医(忘れもしない寺尾医師である)は問題はない。呼吸が荒いのは人口呼吸器を調節してそうしているからだという。

 しかし、これまでにないあの呼吸の荒らさは、死を間近にした人の呼吸の荒さだから危ないのではと危惧を抱きながら帰宅したら、案の定、夜になって血圧がまた低下したと研修医が連絡してきたのである。

 医者でなくても人の死も見たことのある人間なら研修医より医学の常識があるということだろうか。それともそんな呼吸の仕方になるように呼吸器を調節したとでもいうのだろうか。

 結局、研修医は死因を敗血症だと言ったのだが、なぜそうなったかを明確にすることは出来なかった。死因を明らかにするために遺体の解剖をしたいと言って来たので容認したが、解剖結果を我々に語ることはなかったのである。

 神鋼病院の玄関には御多分に洩れず「患者様の権利」として立派なことが書き連ねてある。しかし、あれは役所に言われてそうしているのだと思う。医者たちは自分たちの権利を守ることには熱心だが、患者の権利に興味があるとはとても思えないからである。(2007年12月29日)







 父の入院死に関して驚いたことはまだまだある。肝臓に大きなガンがありそれは十数年前に入院して手術をしたときに見つかっていたと言われたことにも驚かされた。

 その時は胆嚢摘出手術で、腹を切らずに腹腔鏡手術を始めたがうまく行かずに結局腹を切らざるを得なかった。担当の医者からは、肝臓が脂肪肝になっていて良くないということまでは聞かされた。

 しかし、その時ガンを発見していたことは言わなかったのだ。ところが、その事実がカルテに書かれていると研修医が明言したのである。では、当時の担当医はなぜガンを見つけながら、それを摘出しなかったのか。

 父の最後の一年は腰の強烈な痛みのためにペインクリニックに通う日々だったが、整形外科医の麻酔注射がなかなか効かなかったのも、ガンなら説明がつく。圧迫骨折による痛みだと言われていたものが、ガンの痛みだったことになるのだから。

 ところが、父が死んだ神鋼病院(今の加古川東市民病院)の医師たちは、この肝臓ガンを患者の死期の近いことの理由の一つにはしたが、同僚の医師がガンを見つけながら放置して我々に知らせなかったことは、謝罪すべきことだとは思わないのである。(2007年12月27日)







 当直医がつけた父の病名は肺炎だったがCT画像による診断であり、自信なさげだったので、私は自分で一晩ネットや本を調べてみたら、症状の経過からうっ血性心不全ではないかという結論を得た。

 そこで自分の考えを参考にしてもらおうと医師たちに伝えようとしたのだが、そこで驚いたのは、彼らはまるで官僚なのかと思うくらいに誰一人として耳を貸そうとはしないのである。

 入院直後にとったレントゲン写真は、患者に意識があり肺に浸潤した血液をしきりに口から吐き出していたので、肺に顕著な白濁が見られなかったとしても無理はない。一方、その後家族が見せられた肺が真つ白のレントゲン写真は全身麻酔後のものであり、肺浸潤の血液が排出されなくなったためであろうと推測できる。

 ところが、その写真を我々に見せた医者は、左右両方の肺が真つ白になっていることを指摘して、肺炎がかなり進行した結果だろうと言ったのである。ところが、レントゲン写真の白濁は入院後数日して消えてきたのだ。

 その頃には血圧も正常化し尿も大量に排出され血中酸素濃度も100%近くになっていた。80も半ばの老人の急性肺炎が治ることも不可能ではないだろうが、心不全が改善した結果と見るほうが余程分かりやすい。

 しかし、医者たちは一度誰かが下した診断を変えることは出来ないらしい。それとも、治療中に心原性ショックに陥った患者に対する誤診を認めることが出来なかったのか、治療不可能と断じた患者の病名を変えることは無意味なことだったのか...。(2007年12月25日)








 父が救急車で神鋼病院(今の加古川東市民病院)に運び込まれたときの若い医者は病気の診断は出来ないくせに、延命治療の決断ばかり要求して困ったものだ。

 喀血だからとまず肺のレントゲンを撮っても分からない。そこで慌ててCTスキャンをした。すると肝臓が極度に肥大して大きな腫瘍があると言い、これは肝臓破裂による喀血だと思う、もう長くはないので人口呼吸器による延命治療をするかどうか決めてくれというのだ。

 延命治療なら本人も日頃から要らないと言っていたから、私は即座に断った。ところが、その後集中治療室に入ったので自分も行くと、肺のCT画像にかすかに色違いの部分があることを指摘して、やはり肺炎ではないかと言ったのである。

 そして、集中治療室の計器を指摘して、酸素マスクをしているのに血中酸素濃度が低いので人口呼吸器の装着をしないと脳障害などが生ずる恐れがあると言って、人口呼吸器の装着することを決断してくれというのである。

 しかし、それは延命治療になるとさっき言ったばかりで、それについては断ったではないか。ところが、医者は私が人口呼吸器を着けることを決断するまで何もしようとはしない。

 とにかく、父が呼吸困難であることだけは確かだった。そこで仕方なく全身麻酔による人口呼吸器の装着を決めたのである。そして、そのことを伝えにベッドサイドに行くと父は真赤な顔をして酸素マスクをずらしながら「苦しい。苦しい。」と私に訴えたのだ。そして、それが父の最期の言葉となったのである。(2007年12月24日)







 「あなたには戦国時代の霊がついているなどと嘘を言い何百万円だまし取った」などという霊感商法のニュースが流れているが、これは金額が大きいから問題になったのだろう。

 なぜなら、占い師はみんなそんな事を言って金を取っているが誰も嘘を言って騙したと非難されないし、それで逮捕されることもないからである。しかし、占い師のいうことなどみな裏付けのない嘘であって、この事件の占い師だけが嘘を言っているわけではない。

 占い師のつく嘘は、その主な目的が人生相談であれば大抵は許してもらえるが、金が主目的になると問題化する可能性が出てくるというわけだ。

 世の中にはこの種の嘘は一杯あって、例えば冬至にカボチャを食べると風邪を引かないとテレビのアナウンサーが堂々と言っているが、これも嘘である。そして、この嘘で全国のカボチャ業者は何百万何千万円と儲けているのであるが、この嘘による個々の出費は知れているので問題にはならないのである。

 しかし、もしカボチャが一個何百万円もするならアナウンサーは発言を控えるだろうし、それで金儲けをしたら詐欺になる。多くの場合、合法性とは程度問題であるようだ。(2007年12月23日)







 混合治療とは保険が効く治療と保険が効かない治療を同時に受けて、しかも保険の部分は保険で払い、保険外の部分だけ自費で払う治療のことであるが、今はそれが出来ない。保険外治療が含まれる場合は全部自費で払はなければならないのである。

 もしこれが保険外の部分だけを自費で払えばよいのなら、かなりの割合の人が保険外の治療を受けられることになるはずだが、現状では保険外の治療を受けられるのは全額を自費で払える金持ちだけということになる。

 ところが、医師会は混合治療に反対である。その理由は、混合治療を認めると金持ちとそうでない人の間に医療の差が出来るからというものだが、これが嘘なのは上記から既に明らかであろう。

 医師会はホームページで混合治療に反対する理由を色々挙げているが説得力がないものばかりだ。その極めつけは「社会としてどうあるべきか」という視点が大事だとしている箇所である。こういう社会を第一とする考え方こそ社会主義というのではないのか。

 この考え方では、要するに、金を払える人も金を払えない人が受けられる治療で我慢すべきだということになる。日本はいつから自由主義の資本主義国家ではなくなったのだろう。なるほど医者に共産党の支持者が多いはずである。(2007年12月21日)







 またホッチキスの針で手を刺してしまった。店のぶら下がり商品を抜き取ろうとしてよくやるのだ。商品の包装をとめたホッチキスの閉じ方が不充分で、そこに指が触れたまま手前へ引くものだから、クシャリとやる。

 この前は、近所のホームセンターの自転車用品売り場だった。痛いことはよく覚えているもので、ビニール袋に入ったパナソニックの空気入れを取り出そうと、上の紙のところを持って引いたらクシャリと来た。

 今日はダイソーの自転車用品売り場だ。ハンドルの握りを新しいのにしようとグレーのを取り出したのだが、次にぶら下がっている黒のと比べてみようとしたのがよくなかった。今度はグシャリだ。

 見る見るうちに血がにじんできて滴りそうになる。必死に舌でなめていると血はなんとか止まったが、このままでは帰れないので、同じ店でバンドエイドも買うことになった。

 私はいつも自転車用品売り場だが、携帯電話の充電器売り場を見ると、ぶら下がり商品の裏のホッチキスがセロテープで覆ってあるのを見つけた。どうやら苦情を申し出た人がいるらしい。私は今度からは手袋をはめて商品を見ることにして、黙って帰った。(2007年12月19日)







 父親が最初に入れられたのは集中治療室(ICU)だったのだが、ここの看護婦の我々に対する対応からは、人の生死が掛っているという緊迫感がまったく感じられなかったものだ。

 私がICUに行くと、入り口に看護婦が出てきて、患者が酸素マスクを付けて苦しんで今にも死ぬかというときに、既に医者に話した患者の症状の話を一から私にさせて、入院手続きの説明を長々とするのだ。

 翌朝からは父の症状がどうなったか知りたくて毎朝ICUに電話を入れるのだが、電話に出る看護婦はこちらが患者の名前を告げても「何の御用ですか」という始末である。

 そして、症状はどうかと聞くと、それは医者にしか答えられないと回答を拒否するのだ。それで「血圧は下がったままか」と聞くと不承不承に「はい」と答えるのみで、懸命な治療をしているという雰囲気は全くない。

 どうやら、集中治療室ではあっても医者が常駐しているわけではないらしいのだが、それならそれで患者の家族への対応の仕方があるはずだ。いったい集中治療室とはこんなものなのだろうか。(2007年12月18日)







 私の父親が命を落としたのは加古川の神鋼病院(今の加古川東市民病院)であるが、この病院に救急車で運ばれて入院したとき担当になった医師(忘れもしない男前の山名医師である)が治療する気を全く見せなかったのは驚くべきものだった。

 当直医のあとを受け継いだというその医師(これまた忘れもしない角谷医師である)は、CT画像とレントゲン写真と血液データを見せながら、患者の血圧低下が著しく長く生きる見込みがないことを我々に納得させることにばかり熱心なのだ。

 そして、血圧低下の原因を何ら明らかにすることなく、この患者が心停止に陥ったときに心臓マッサージをすることが如何に無駄であるかを、反論を許さない強硬な態度で、我々に向って説き続けたのである。

 これまでの常識では、一日でも一時間でもいや一分一秒でも患者の命を永らえさせることが医者の使命だったはずだ。ところが、この医師にとっては、何らかの原因で血圧低下に陥った高齢患者を一日でも早く病院から立ち退かせることにしか興味がないかのようだった。

 そして、まるでこの医師の仕事は心臓マッサージをしないことを我々に決断させたことで終了したかのように、その後我々の前に二度と姿を見せることはなく、父の最期はインターンが看取ったのである。(2007年12月15日)







 日本漢字能力検定協会が毎年「今年の漢字」を発表しているが、今年はどうやら政権批判に加担してしまったようだ。野党の民主党が国会で今年の漢字に「偽」が選ばれたことを利用して、政府批判を展開したからである。

 それに対して、福田首相は「今年の漢字は信だ」と言ったという。首相にしてみれば自分が治めている一国の世相を表わす漢字がこんなマイナスイメージしかない字であるのは不愉快なことに違いない。

 去年迄に選ばれた漢字も「倒」「毒」「末」「戦」「災」など否定的なイメージの漢字が多く、自国を貶しめる自虐史観が好きな傾向の人たちには、とても便利な行事であるに違いない。

 日本漢字能力検定協会は本来は日本の漢字の伝統を守るのが目的で作られた、政治色のない団体だったはずだが、こうして「今年の漢字」の行事によって何やら世相批判の団体になってしまった。

 この行事のハイライトは清水寺の貫首が「今年の漢字」を大書する場面であるが、宗教界の人間がこうして世俗の次元の出来事に深く関わって恥じないのもまた、現代の混乱した世の中を象徴しているといえるかもしれない。(2007年12月14日)








 全ての年金記録の照合が出来ないことが判明したことを政府が公表したら、それは公約違反だいう批判が出ている。確かに、参議院選挙前に安倍首相はそんな公約をしたかもしれない。しかし、国民はそれを拒否して野党に勝たせたではないか。

 そもそもこの公約が実現不可能なことは当時既にマスコミが報道していた。そして、国民は政府よりもマスコミを信じて野党に投票したのである。それがマスコミの予想通りになったのだから、何の文句も出て来ようはずがない。

 それよりも国民が信じて投票した民主党の公約はどれほど守られているというのか。民主党は、参議院選挙に勝たせてもらっただけでは公約は実現できませんという積りなのだろうか。それなら立派な公約違反である。

 だからこそ、小沢代表わ参議院選の公約を実現しようとして、自民党と連立を組もうとしたのだ。ところが、連立には反対だ、公約の実現になんか拘る必要がないと、民主党の他の議員も左翼マスコミも言ったのである。

 国民が信じて勝たせた政党の公約は実現されなくてもよくて、国民が拒否した政党の公約が実現されないのはけしからんという。世の中、逆立ちしているというしかない。(2007年12月12日)







 ネットに「デジマガ」というものがあって週刊誌の中身を一部分だけ読むことが出来る。『週刊朝日』の今週号の目玉は朝青龍の記事で、購読数低迷のこの週刊誌の必死さがよくわかるが、デジマガではこれは読めない。

 その代わりに読めるのは「裁判員制度は困った制度」という見出しの記事である。しかし、その中身は裁判員制度に対する批判ではなく死刑廃止論で、日本の世論には受け入れられない内容なので見出しで欺して読ませようという趣向である。

 しかし、それもまた単なる死刑廃止論ではない。伊東乾という人による團道重光に対するおべんちゃら付き死刑廃止論である。團道重光は元最高裁判事であるが、その團道重光が如何に偉い人であるか、その團道重光が主張する死刑廃止論であり、その團道重光と昵懇である有能な私こと伊東乾が主張する死刑廃止論であり、その團道重光とその私の共著の宣伝も兼ねた死刑廃止論である。

 これは先日法務大臣が開いた「死刑執行に関する勉強会」の報告として書かれたもので、伊東乾はどうやら團道重光の代理人として出席したらしいのだが、こういう内容なので、残念ながら非常に下品で論理的にも説得力のない死刑廃止論になっている。(2007年12月11日)







  テレビに出てくる民主党の議員たちを見ていると、彼らほど「虎の威を借る狐」という言葉がよく似合う人たちはないのではと思える。

 もちろん、ここでいう「虎」とは小沢一郎である。彼は何人もの首相の首を取って来た強者であり、与野党の政権交代も一度なしとげ、今の政治体制を作り出した立て役者でもある。

 しかし、その下にいる民主党の議員たちは社会党議員の生き残りなど政治家であるお陰で食いつないでいる有象無象の寄せ集めでしかない。そんな彼らが参議院で多数を取ったものだから、まるでヤクザが市民権を得たかのような調子で国会をもてあそんでいるのだ。

 そして、国対委員長や前国対委員長がテレビに出てきて解散はいつだのと、首相の大権を自分の手にしたかのような発言を繰り返す姿は、大親分の威光を笠に着たチンピラヤクザそのものである。

 だから、そんな彼らの親分が急に辞めると言い出した時の彼らの慌てぶりは想像に難くない。虎がいなければ威張れなくなることをよく知っている彼らが、小沢氏に辞めないでくれと泣きついたのは当然のことだったのである。

 マスコミは日本にも二大政党制をなどと言っているが、自民党の対立軸になるべき政党がこんな連中の集まりでは、この夢も小沢一郎が健康でいる間だけということになりそうである。(2007年12月10日)







 最近は新聞をとっていない。下宿暮らしの学生時代以来のことだが、新聞がなくても何の不自由も感じない。ニュースはインターネットで知ることが出来るからである。

 インターネットは只ではない。新聞代ほどの金を払っているのだ。しかも、新聞の記事はインターネットに出ているものと同じである。だから新聞代を払うのは情報料を二重取りされていることになる。

 また以前からテレビでも新聞に出ているのと同じニュースが流れている。最近では、テレビのニュース番組で親切に新聞を読んでくれている。だから、インターネットに接続していない人でも、新聞を取る必要はないのだ。

 公告のちらしを見るために新聞を取る人もいるらしいが、最近ではそれもインターネットで見ることが出来る。新聞を取る理由はどんどん無くなって来ているのである。

 かつては新聞を取ることが一つのステータスだった。全国紙を取るのがインテリの印のような時代もあった。しかし、いまではそれは逆転している。パソコンを使えない人が新聞を取るのだ。

 ネットでニュースを読むのに慣れてくると、なぜ新聞にはあんなに文字がぎっしり詰めて書いてあるのかと思う。そのうち新聞を好んで読む人は活字中毒の人だけになるではないか。(2007年12月5日)







 参議院の過半数を野党が占めたことから、国政調査権の活性化が期待されると新聞にしきりに書かれていた。しかし、これが的外れの指摘だったことが今回の額賀大臣の証人喚問中止で明らかになった。

 国政調査権には証人喚問と資料要求の二つがあるが、どちらもこれまで与野党一致の合意のもとに行われてきたものであり、この慣例は野党が参議院を取ったからといって変えることは出来ないのである。

 なぜなら、多数決で証人喚問が出来るなら、多数派は自分たちの気に食わない少数派の政治家を片端から証人喚問に呼び出して吊るし上げにすることが出来るからである。

 ところが、今回、額賀大臣の問題に関して、参議院の野党は民主党の主導で、多数決で証人喚問の実施を決めてしまったのだから、それなら衆議院で民主党の議員を証人喚問してやると、自民党の議員たちが息巻いたのも無理はない。

 もっとも、これまでは証人喚問を要求するのはいつも野党であって、それに与党はしぶしぶ応じていたのだから、ずっと全員一致だったのは当たり前である。その少数野党が参議院で多数派になって、これで自民党に対して遠慮なく証人喚問ができると意気込んだのも無理はない。しかし、これは勘違いだったのである。(2007年12月1日)







 「牛肉の産地偽装」のニュースで、佐賀県の知事が大阪の料亭に対して、佐賀牛を但馬牛と同列に扱ったことを抗議したそうだが、それは筋違いというものだ。

 佐賀牛がそんなにおいしい牛肉だと知らなかった人は多いはずだ。ところが、この料亭の主人はそれを知っていて、佐賀牛を客に提供していた。ただし、関西では馴染みのない名前ではなく、おいしい肉という代名詞の但馬牛の名前で出していただけである。

 佐賀牛は但馬牛と同等かそれ以上の商品なのである。但馬牛の代替品としては充分以上なのだ。ところが、当の料亭の客の感想として「道理であの料亭の牛肉はうまくなかった」と書いたお調子者の新聞記者がいる。

  この感想が記者の捏造か偽装かは知らないが、それほどにも佐賀牛のよさは知られていなかったということである。

 だから、佐賀牛のうまさを知って巧みにそれを広めようとしてくれた料亭の主人に、知事は感謝すべきなのだ。むしろ、知事が抗議すべきは、その努力を偽装扱いして佐賀牛を貶しめたマスコミに対してではないのか。(2007年11月26日)







 これは神鋼病院(今の加古川東市民病院)に年寄りを入院させたときに気付いたことだが、老人病棟の医局には若い医者ばかりがいる。ベテランの医者は老人病棟には来ないのである。

 これは、インターンや一年目二年目の若い医者に老人によって医療を学ばせるのが目的だと思われる。死にかけの老人なら失敗して死なせてしまっても家族に騒がれることはない。いずれにせよ近いうちに死ぬからである。

 だから、インターンが最初に確実に身に付けるのは人の死なせ方であって、生かせ方ではない。その中には遺体の搬出方法も含まれる。若くして何の戸惑いも感じさせずに、線香に一本火を付けてりんを一度だけ打って合掌できるようになるのである。

 そうして何十人もの治せない患者の遺体を送り出しながら彼らは医療を学ぶのだ。そして、その間に、彼らは血液データの見方や体液の電解バランスの取り方ばかりに詳しくなって、患者とその家族の言葉に謙虚に耳を傾けるという基本を忘れてしまうのである。

 これでは、治せる患者を担当できる日がいつかやって来たとしても、どれだけ多くの検査を受けさせ、どれだけ多くの薬を飲ませるかにしか興味のない医者になってしまうのは、当然なのかも知れない。(2007年11月23日)







 近くのケーズデンキに行くといつもすいている。その店は到頭売り場を縮小するらしい。この地域ではミドリ電化が対抗馬なのだが、こちらの方が元気がある。

 ケーズデンキはドリフターズをテレビCMに使っている会社で「その場でうれしい現金値引き、ポイント制よりお得」とポイント制でないことを売り文句にしている電気チェーンである。

 ところが、この現金値引きは客が言い出さないと実現しないのだ。値札に書かれている値段は他店と同じであるから、黙っていると値引きなしの値段で買わされてしまう。

 それに対してポイント制のミドリ電化では、値段の1パーセントにポイントが付く。ポイントはあとで買物をしたときに、貯まった分だけレジで安くしてもらえる。つまり、ポイント制は黙っていても値引きをしてもらえるシステムなのだ。

 こうなると、いちいち交渉しないと値引きがないケーズデンキから客足が遠のくのは当然だろう。最近では買い物をすると次回に3%値引きする紙の券を出すようになった。しかし、それは同じ店限定であるし、会員カードのように持ち歩きにも適していない。

 という訳で、近くのケーズデンキには閑古鳥が鳴いている。やはりポイント制の方がお得なのだろうか。(2007年11月22日)







 デジカメというものは専用充電池式のものも乾電池式のものも、どちらも充電池で使うものらしい。

 専用充電池式のデジカメが電池切れで困った経験から、乾電池式のものを買ってきたが、そこらで売っているアルカリ乾電池ではすぐに電池切れになってしまう。

 安いアルカリ乾電池では、まっさらでも10枚ほど撮れるだけ、使い古しだとスイッチも入らないのである。電池ならどこでも買えるというが、秋の浜辺には売っていない。新品の乾電池の束でも持ち歩かなければ、アルカリ乾電池だけではデジカメは使えないのだ。

 しかも、説明書にはデジカメはアルカリ電池では充分に機能しないとか、アルカリ電池やニッケルマンガン電池(=オキシライド電池)は寒さに弱いと書いてある。となると、ニッケル水素電池かリチウム電池を使うしかない。

 ニッケル水素電池とは充電池のことである。で、結局、充電池+充電器を別に買わなければならないのである。そして、ここでサンヨーのエネループが登場するのだ。つまり、エネループは環境のためではなくデジカメのために売れているのである。

 ところで、リチウム電池には充電式でない乾電池が出ており、こちらは高価だが軽くて長持ちだと評判がいいようだ。(2007年11月20日)







 民主党の小沢氏によれば「ブッシュ政権の支持率は低くて国民に支持されていないから、日本がインド洋の給油を継続できなくても日米関係は悪くならない」のだそうである。

 しかし、そんなことを言い出したら、どうせアメリカの大統領なんて4年で替わるかもしれないのだから、そんな人の気持を無視しても日米関係に影響しないとさえいえるだろう。

 そもそもブッシュ氏の支持率は純粋にアメリカの国内問題であって、それを根拠にして他所の国の政治家がアメリカ大統領をみくびったようなことをいえば、ブッシュ氏を支持しないアメリカ国民も怒り出すはずだ。

 いくら支持率が低くても今のアメリカの大統領はブッシュ氏であり、彼とうまくやって行くことが日米関係なのである。だから、こんな論理は何が何でも自民党政権に反対するための屁理屈に過ぎないことは明らかである。

 こんなことは誰でも分かるはずなのだが、それでも小沢氏を批判できない左翼マスコミもまた小沢氏の下駄の雪になってしまったのだと思うしかない。(2007年11月19日)







 いったい鹿児島牛と但馬牛とはそんな違いがあるのだろうか。鹿児島牛を但馬牛と買いて売るのはそんなに悪いことなのだろうか。牛は牛でどちらも似たようなものだろう。

 それを差別してどちらがどうのというのは単なる人間のエゴではないのか。鹿児島の農家もおいしい牛を育てるために一生懸命頑張っているはずだ。それなのに、鹿児島牛を但馬牛と書いたというだけで警察までしゃしゃり出てくるとは、鹿児島牛も見くびられたものである。

 何万円の高級ワインの飲み比べも出来ないのが人間の舌である。値段や価値などと言っても、人間の思惑が作り出した幻影に過ぎないのだ。価値はその出発点からして既に騙しが入っているのである。

 世の中には完全に公正な商品などというものは存在しない。正義を売り物にしている新聞ですら、それを配達するバイクたちが日々犯している右側通行や歩道走行、スピード違反といった何万件もの交通違反は大目に見られているのである。

  少しはマスコミも人の落ち度を大目に見る訓練をしておく方がいいのではないか。(2007年11月17日)







 消費期限や産地の偽装がどうのとニュースが飛び交っているが、これは日本人の贅沢病ではないかと思っている。今日明日食う物に困っている国ではあり得ない話だからである。

 そもそも食品に消費期限や産地などというものを表示するようになったこと自体、日本に食べる物があり余っていることの証拠である。

 一部で聞かれるようになった「物を大切に」とか「もったいない」とかいうスローガンも、贅沢品に取り巻かれた余裕の産物と言っていい。

 これはハリウッドの映画スターがエコカーを購入して乗り回すのとよく似ている。ガソリン消費を節約するための車が貧乏人の買えない高級車であるという矛盾は、これが一つのファッションに過ぎないからだろう。

 誰も本気で環境のことなど考えてはいないことは、高排気量の高価なスポーツカーに予約が殺到していることからも明らかである。物に困っていないくせに「もったいない」というのもまた一つのファッションに過ぎないのである。(2007年11月15日)







 民主党は自民党との連立を拒否することで解散総選挙を引き寄せようとしているようだが、自民党は民主党との連立の可能性が明らかにならない限り解散は出来ないはずだ。

 なぜなら、自民党は衆議院を解散してたとえ総選挙に勝ったとしても、もし連立が出来ないのなら、参議院がいつでも首相に対する問責決議案を可決できるという今の状況は何も変わらないからである。これは個別の政策協議が可能になっても同じことである。

 つまり自民党は民主党と連立できない限りは、自分たちが総選挙で負けて野党が過半数を占めるまで、永遠に野党から解散総選挙を迫られ続けるのである。これでは、政府は国民の支持を得るために衆議院を解散することは出来なくなり、野党が勝つためだけにしか解散できないという馬鹿げたことになってしまう。

 憲法は首相を任免する権利を衆議院にのみ与えており、参議院にはそんな権利を与えてはいない。ところが、民主党は参議院の多数を根拠にして衆議院を解散総選挙に持ち込み、政権を獲得しようとしているのだ。これが憲法から見て如何に間違ったことであるかは以上から明らかだろう。(2007年11月14日)







 世の中の医者は、患者や患者の家族に謝れる医者と謝れない医者の二通りに分けられる。そして謝れる医者だけが病気を治せる医者だと思えばだいたい当っている。

 謝れる医者は、患者の病気を治せなければ謝るし、痛い思いをさせたら謝る。無駄足を踏ませただけでも謝る。これは人間として見た場合にはごく普通のことである。ところが、それが大抵の医者には出来ないのだ。

  そして、謝れる医者だけが患者の身になって考えることが出来るから、患者の病状を正しくつかむことが出来る。

 それに対して、謝れない医者はよく誤診をする。なぜなら、何年も何十年も生きてきた人間の状態を、検査によって数時間後には理解したと考えて診断を下し、それを何があっても絶対に変えないからである。

 謝れる医者だけが診断を変えることが出来る。すぐに謝る医者を頼りない医者だと思うかも知れないが、謝れない医者よりはましである。

 謝れない医者は治療を押しつけ、薬を押しつけて、あげくに患者を殺してしまうのだ。死にたくなければそんな医者には関わらないことである。(2007年11月12日)







 最近、物が値上がりしたというニュースが流れている。しかし、それはむしろ普通のことであって、これまで値上がりしなかったことの方がおかしかったのである。

 それどころか、この10年ほどの間に起った物の値下がりは驚くべきものがある。例えば、10年前に買ったパソコンは25万円もしたが、2年前に買ったパソコンはたった6万円だった。

 また、17年前に買ったシャープのファックスは14万円もしたが、最近買ったファックスは1万3千円である。7年前に買ったポータブルCDは9千円なのに、最近買ったMP3再生付きCDは4千円なのだ。液晶モニタも5年前の半値になっている。

 自動車の場合わこの20年ほどの間ほとんど値段が変わっていない。わたしの場合、20年前に買った車を、排気量が少し大きいものに買い換えたのに、値段はほとんど同じだった。

 昔は10年で物価は10倍になると言われたものだが、この20年のあいだ物価は横ばいかむしろ下落しているのだ。それが最近の石油価格の上昇で少し上昇し始めた。これはきっと歓迎すべきことにちがいない。(2007年11月11日)







 朝日新聞の最近の世論調査で、「自衛隊の活動停止で日本の国際的立場に悪い影響があると思う人は50%と多数でそうは思わないは37%だった」というのが興味深い。

 なぜなら、同じ調査で、自衛隊の活動の再開が必要かどうかを聞くと、「必要だ」が43%、「必要ではない」が41%となっているからである。

 これは、このアンケートに答えた人の中に、自衛隊の活動を再開する必要はないし、それで日本の国際的立場が悪くなったままでもかまわないと思っている人が沢山交じっているということを意味する。

 新聞社の世論調査は無作為に選ばれた人を対象にするのが建前だが、実際は自分の新聞の購読者に電話をする。つまり、朝日新聞の読者の中には、日本の国益が損なはれてもかまわないと考えている人が沢山いることになる。

 実際、この新聞自身、自分たちの政治的主張を実現させるためには、この国はどうすべきかや何が正しいかについては敢て考えない姿勢を貫いてきた新聞である。読者もそれを真似するようになってきたと見える。(2007年11月10日)







 今回の小沢氏の辞任騒動で、民主党が自民党と連立する可能性が明らかになったことは、次の総選挙はもはや天下分け目の戦いとはならないということを意味する。

 なぜなら、次の総選挙で民主党が勝てば単独で政権を担当するのは当然として、たとえ選挙に負けても自民党政権と何らかの形で協力することが明らかだからである。それなのに、どうして天下分け目の戦いといえるだろうか。

 だから、小沢氏が代表復帰会見で、自民党との連立を考えずに総選挙での勝利に向ってがんばると言ったにも関らず、民主党にとっては、もう総選挙の勝ち負けはそれほど重要なことではなくなっているのだ。

 これは要するに先の参議院選挙で勝利したことが、民主党が政権を取ることの足かせになっているということである。国政の停滞批判をかわすために、民主党は自民党政権に協力せざるをえないからである。

 自民党は多くの重要な法案を成立させるために民主党に協力を要請している。民主党がその全てを否定しないで、しかも総選挙向けに対立のポーズを見せようとしても国民はもう欺されはしないだろう。(2007年11月9日)







 今回の小沢氏の辞任撤回会見では、党首が公の席で発表した辞任を撤回したことが民主党にとって痛手だが、その党首が連立の話だと知りながらそれを隠して首相との会談に臨んでいたことが明かになったことも大きな痛手だろう。

 民主党はそんな人を懸命になって代表の座に引き止めたのだから、この党は言行一致でなくてもかまわない政党になってしまったといえる。こうなれば、もう民主党では何でもありだ。

 例えば、今回の騒動で、小沢氏が民主党の参議院議員を17人連れて離党する可能性が云々されたが、そんなことがありなのだと知れ渡った事は大きい。わずか17人が決断して動けば日本の政治は安定するのである。そして、彼らを連れ出すのは何も小沢氏でなくてもよいのだ。

 党首がこんな体たらくなのであるから、その政党の党員が寝返りを考えたとしても不思議ではないし、自民党からこの17という数字を目指した誘いが活発になることも大いに考えられる。

 これでは民主党は今後は党としての体裁を維持し続けるのが精一杯となり、とても政権交代を目指すどころではなくなるのではないか。(2007年11月8日)







 小沢氏の辞任騒動での一番大きな成果は、将来は自民党と民主党の大連立が一つの選択肢となることが明らかになったことだろう。解散総選挙で民主党が勝てなかった場合、民主党が解散でもしない限りは、大連立になるいうことが分かったのである。

 今国会においても、民主党の方から「連立」という言葉が一旦出てしまった以上、これまでのように政府との全面対決の姿勢をとり続けることは難しくなった。小沢氏が辞任を撤回して民主党の体制は元に戻ったが、日本の政治もまた元の振り出しに戻ったことにはならないのである。

 国民の耳には「連立」と「辞任」の二つの言葉が届いてしまっているのだ。これによって民主党に対する国民の支持が高まるはずはあるまい。解散総選挙が遠のいた見るべきだろう。

 また、小沢代表の口から「辞任」という言葉が一旦出てしまった以上、これも言わなかったことには出来ないはずだ。総理大臣の辞任は撤回できないが民主党の党首なら撤回できるというのでは筋が通らない。政党は仲好しクラブではないのだ。小沢氏も結局辞めることになるのではないか。(2007年11月7日)







 小沢氏が民主党の役員たちに自民党との連立を提案したとき、赤松広隆氏がまっさきに「選挙で民意を経ないで連立を組むのはおかしい。今すぐ断るべきだ」と反対すると、小沢氏は自社さ政権の例を挙げてやり返したという。

 これは自民党を飛び出した小沢氏が細川内閣に続いて羽田内閣を作ったときに、赤松氏らの旧社会党が小沢氏の手法に反発して連立を離脱し、選挙を経ないで自民党と一緒に村山内閣を作ってしまったときのことを言っている。

 小沢氏は、かつて自分の夢をぶち壊した張本人であり、普通なら二度と顔も見たくないような連中といま同じ政党にいて、またも自民党政権を倒そうと苦労しているのだ。それなのに、旧社会党出の赤松氏に偉そうなことを言われて反対されたのだから、「もう疲れた」と言ったのはまさに本音に違いない。

 その小沢氏が先に表明した辞意を撤回することを、民主党は一致して熱望し、左翼マスコミもその動向に熱い視線をそそいでいる。小沢氏がこの野党根性の染みついた連中ともう一度やり直す気になれるかどうかは知らないが、左翼の人たちは小沢氏をこの地獄からもう解放してやったらどうかと思う。(2007年11月5日)







 小沢氏は代表辞任会見で「政策を実行するのが政治」だと言った。しかし、自民党政権を倒すことしか眼中にない他の民主党議員たちには、小沢氏の言葉は理解不可能だったに違いない。

 彼らにしてみれば野党の政策が実現されなくても野党は困らないはずなのである。しかし、小沢氏一人はそんな野党感覚とは無縁だったのだ。このまま何の政策も実現できないままに選挙に突入して負けましたでは、それこそ「有権者の理解が得られない」と小沢氏は考えていたのである。

 民主党がこのまま政府と対立し続けて解散総選挙に追い込みさえすれば自民党政権は倒れるものと、誰もが深く信じていた。しかし、ここでも小沢氏一人はそうは思っていなかった。「次期総選挙での勝利は大変厳しい情勢にある」と考えていたのだ。

 政権担当能力とは選挙に勝つ能力だけのことではない。それは政策実行能力のことでもある。ところが、小沢氏が見る今の民主党にはその二つが二つとも欠けているのだ。辞任会見はそのことが明かになった瞬間だったのである。(2007年11月4日)







 首相と小沢代表による党首会談に対する左翼マスコミのヒステリックな密室談合批判には全くうんざりさせられる。党首会談を公開して何のメリットがあるのか。それでは党首討論と同じではないか。二人だけで腹を割って話し合ってこそ党首会談に意味があるのだ。

 左翼マスコミは大連立になれば翼賛政治だとか批判勢力が無くなるだとか理屈を並べているが、ではドイツでいま行われている大連立は翼賛政治なのか。国民生活に必要な政策を実現するために連立を組み、必要がなくなれば解消する、実にまっとうな選択だろう。

 それより、国会を開きながら何一つ法律が成立しない今の状況がずっと続くことを彼らも少しは心配したらどうだ。ところが、彼らは、政府が潰れて贔屓の政党が政権を取れるなら、この国の国際的信用が失墜しようが、国民生活が犠牲になろうがかまわないのである。

 彼らはしきりに早く解散しろというが、そんな手前勝手な要求を与党がのむ訳がない。ならばどうすべきか。与野党が協力するしかないではないか。ヒステリックではなく論理的な思考力があるなら、これが当然導かれる結論だろう。(2007年11月3日)







 四国で輸入肉を国産と偽った業者が逮捕されたそうだが、輸入肉は国産と比べて人を逮捕しなければならない程に劣っていて食えない肉なのか。食べた人間が国産ではないと分かるほどに輸入肉はまずいのだろうか。

 例えば牛には品種がある。同じ品種の牛なら国内で育てようが国外で育てようが同じ肉であるはずだ。その場合、DNAは同じであるはずだが、それでも外国で育った牛を国産というとはけしからんというのだろうか。

 むかしは何でも国産より外国産の方が高級だった。例えば地鶏よりもブロイラーの方が高級だったし旨かったものだ。それが業者の宣伝で逆転してしまっただけである。ブロイラーがまずくなったわけではないのだ。

 また最近ではフードマイレージとか言って、輸入品は運搬途中にCO2を沢山排出しているから、少し値段が高くても地元品を買おうなどという考え方が出て来ているが、こんなものは形を変えた拝外主義だろう。

 今回の事件で逮捕までいったことの背景には、こうした行き過ぎた国産至上主義や拝外主義があるのではないかと思われるのだ。(2007年11月2日)







 苦労して弁護士や医者になっても、金儲けをするにはそれだけでは足りない。他人と関わる必要があるのだ。金は天下の回りものといって、お金は他人の懐の中にあるものであり、それをいただかなければ金儲けにならないからである。

 だから、人嫌いの弁護士や医者は個人で開業するとすぐに行き詰まってしまう。そんな人はどこかの事務所や病院に努める必要がある。サラリーマンになるのである。

 しかし、そのためにはサラリーマンに給料を出す人の存在が必要で、それが経営者なのだ。彼が人嫌いでは会社は成り立たない。せっせと人付合いをして仕事を取って来る必要がある。偉い人にへいこらして接待もしないといけないのだ。

 証人喚問をしている国会議員の先生方もそれは同じことだ。選挙運動期間の前には一軒一軒戸別訪問をして頭を下げて回るのである。民主党の小沢代表が今やっているという企業回りも付合いを求めてのことである。

 規則は規則として存在する。しかし、それだけでは誰も生きてはいけないし、社員を食わせることはできない。まして人に勝つためには濃密な人付合いが必要になってくる。そして、それは経営者も議員もマスコミも同じことなのである。(2007年10月30日)







 英会話のNOVAがいよいよ潰れるそうだ。裁判所のいう正しいことだけをしていては、やはり商売は成り立たないということだろう。

 もともとNOVAの授業料は他の英会話学校と比べてかなり安い。それなのに、途中でやめた生徒から解約手数料が取れなくなっては、潰れるのは時間の問題だったのかもしれない。

 英会話学校や塾の教師をしてみると分かるが、生徒はいろいろと理由を付けてすぐに来なくなってしまう。初めの志を最後まで貫くまじめな生徒はごく稀なのである。

 しかし、来なくなっても退校しないで授業料を払い続ける心やさしい生徒が何人もいる。再開するかも知れないと自分に言い訳したり、飽きたのは自分のせいと自責の念にかられるからだろう。そして、そういう生徒の存在が塾の経営にとっては是非とも必要なのだ。

 ところが、裁判所のお陰で、途中でやめても先払いの授業料を満額取り返せることになったので、来なくなった生徒たちは完全に退校してしまい、経営者は一部のまじめな生徒の授業料しか当てにできなくなってしまった。

 裁判所も罪なことをしたものである。学校もまた正義だけではやって行けないのである。(2007年10月29日)








 厚労省と製薬会社が、薬害C型肝炎の疑いがある418人のリストの存在を知りながら患者たちに伝えていなかったことが批判されている。しかし、こんなことになったのは、患者たちが国と製薬会社を相手に裁判を起していたからではないのか。

 国と製薬会社を相手に裁判を起した以上は、患者側に有利な情報が国と製薬会社から得られなくなるのは当然である。患者側はそれを覚悟して裁判を起すべきだったのである。

 患者側に対してひたすら甘いマスコミは、国民の生命を守る義務のある国がこのような重要な情報を隠していたのはけしからんと言っているが、どこの世界に自分の喧嘩相手に助け船を出すお人好しがいるだろうか。

 患者たちは国に助けてもらいたかったのなら、国を訴えるべきではなかったのである。そもそも裁判に訴えたところで、それを担当する裁判官はみんな公務員であって国側の人間なのだ。なのにどうして、彼らが国に不利な判決を出してくれると期待したのだろうか。

 裁判をすれば何か良いことがあるという考え方がマスコミを中心に拡がっているようだが、そんなことは決してないのである。それは今回のC型肝炎の問題でも明らかになったといえるのではないか。(2007年10月28日)







 読売新聞は血液製剤によるC型肝炎に関する社説で「C型肝炎ウイルスの感染を放っておくと肝硬変や肝ガンを引き起こす。だが、早期に適切な治療を行えば、多くは大事に至らない」と書いている。

 しかし、これは厚労省や企業が問題の血液製剤を投与した人の名前を知りながら、それを放置したことを批判したいがために書かれた文章であり、現実にはその適切な治療を受けることが大きな苦痛である。

 何と言っても主な治療薬であるインターフェロンの副作用が凄まじい。しかも、治る可能性は5割程度であり、失敗すればガンで死ぬかもしれないのだから、C型肝炎に感染していることを知ることは、人生に死の恐怖が付きまとうことを意味するのだ。

 その一方で、C型肝炎ウイルスの感染者の3割は発症しないと言われ、発症しても自覚症状がないままに高齢を迎える可能性がかなりある。それなら、告知されない方が幸せな人生が送れるのではと考えたくもなる。

 感染しているかどうかをどうしても知りたければ、自分で検査を受けることが出来る。だから、今さらC型肝炎に感染している事実を告知しますと言われても、そっとしておいて欲しいと思っている人は多いのではないだろうか。(2007年10月25日)







 家族の命を何とか救いたいと思って救急車を呼んだのに、生きて送り出した体が遺体となって葬儀屋の車で帰って来た時の無念さはない。そんなことなら救急車なんか呼ぶのでなかった。同じ事なら家で死なせてやればよかったと思うものである。

 少女を失った加古川市別府の家族の思いは知らない。しかし、「救急車なんか呼んだばかりに、はるか須磨まで運ばれてしまって、すぐに治療を受けさせてやれなかった。目の前にある病院に自分で抱いて駆け込んでやっていたら、もしかしたら」という思いがあるのではないか。

 もちろん救急隊員はその時に出来る最善の選択をしたのだろう。しかし、その経緯は不明である。マスコミはそこに立入ろうとはしないし、病院はどんな治療をしたかを明らかにはしない。

 マスコミにとって憎しみの対象は犯人一人で充分なのだろう。しかしながら、家族にとってはそうではない。救急車を呼んだのにどうして救ってくれなかったのかという思いは消えないはずだ。

 それほどにも日本の救急医療体制は脆弱で、何もしなかったのと同じ結果しかもたらすことが出来ない。だから、そんなことなら救急車なんか呼ぶのでなかったという思いは、この国のどこかで毎日毎日生まれているに違いないのだ。(2007年10月24日)







 小沢一郎氏の論文が岩波書店の月刊誌である「世界」に掲載されたという。しかも、その中で国連の治安部隊に自衛隊員を派遣することを勧めているというのだ。

 「世界」といえば左翼の雑誌で護憲勢力の代表格なのだから、世の中変ったものである。同じ考えでも自民党の議員や政府から出てきたものなら「世界」がとても相手にするはずはなく掲載を断わるところだろうが、民主党の小沢一郎ならOKなのだ。

 自衛隊の海外での武力行使に事実上道を開くようなこんな暴論に、天下の岩波書店が聞く耳ありというのだから、いかに小沢氏が左翼にとって希望の星であるかが分かろうというものである。

 それだけ左翼の退潮ぶりが著しいということであり、自民党政権を倒せるならその主人公が小沢一郎であろうと誰であろうとかまわない、それを左翼の勝利と見做さねばならないのだ。

 細川政権の時には社会党は下駄の雪と言われたものだが、左翼陣営は次の衆議院選挙までは何があっても小沢一郎に付いて行くつもりらしい。(2007年10月21日)







  NHKの赤福バッシングが突出している。常にトップ扱いで他局や新聞と比べても異常な報道ぶりである。

 しかし、昔は存在しなかった冷凍技術を赤福が活用して何が悪いのだろう。解凍した時点から消費期限を決めて品質に何の問題もないのに、なぜ「偽装」と言われなければならないのか。

 そもそも赤福は生産者であり、製品の品質について判断する権利があり、最初に決めた消費期限を伸ばすことも自由である。大切なのは品質なのであって、当てにならない人間の言葉ではないのだ。

 この問題で誰か一人でもお腹をこわした人がいるのかといえばゼロである。つまり、製品の品質には何の問題もないのだ。NHKは、赤福が最初に決めた消費期限を過ぎた商品を処分すべきだと言うのだろうか。『もったいない』という歌を流行らせたのはNHKではないか。

 「消費期限」を表示する制度にも問題がある。消費者にも生産者にも何の利益ももたらさず、マスコミにニュースのネタを提供するだけだからである。しかし、恐らくこのニュースの全てが真実なのではあるまい。ニュースこそは偽装の産物だからである。(2007年10月19日)







 ゴア元副大統領に対するノーベル平和賞を日本の多くの新聞が歓迎する社説を書いているが、それはやはり日本の新聞の多くがサヨクだからであろう。

 確かにゴア氏ほど平和賞の名にふさわしい人はいまい。なぜなら、もし民主党のゴア氏がブッシュ氏の代わりにアメリカ大統領に当選していたらイラク戦争はなかったはずだからである。

 さらに、もしゴア氏が大統領なら、もしかしたら9.11の同時テロもなかったかもしれず、もしそうならアフガニスタンに対するアメリカの攻撃もなかったからである。また、イラク戦争がなければ当然、現在イラク国内で多発しているテロもなかったのだ。

 そして、ゴア氏が当選していれば今の世界はもっと平和だったに違いないという思い、ブッシュ大統領こそは世界平和の破壊者だという思いが、ノルウェーの選考委員たちの頭の中を支配していたに違いない。

 しかし、時計の針を逆に回すことは出来ないのである。地球温暖化の問題を安全保障の問題に強引に結びつけてゴア氏に平和賞を与えても、世界が平和になることはないのだ。それはスーチー氏にノーベル平和賞を与えてもビルマに平和が訪れなかったのと同じである。(2007年10月18日)







 沖縄戦の集団自決を軍命令だと言ったのは遺族年金をもらうためだった、本当は軍の強制はなかった、という「不都合な真実」を沖縄の人たちは政治の力で握りつぶそうと必死になっている。これが教科書に採用されたのが耐えられないらしいのだ。

 しかし、もともと歴史教科書は赤裸々な事実を書くものではなく、子供たちに自分の郷土を誇れるような事実だけを教えるためのものである。沖縄の人たちが誇れないと思うような真実を載せたがらないは当然の感情だろう。

 それより、テレビのワイドショーやNHKがこの問題を大きく取り上げないことの方が注目に値する。さすがに「遺族年金のために軍命令にした」という告白を隠して番組作りなどは出来ないはずで、そんな告白を扱えば沖縄の運動に水を差すことになってしまう。ここは政府に困らせておけということなのだろう。

 大半の新聞の扱いも実におざなりなものである。それは多くの人が強制があったと言っているのだから、教科書に「軍の強制」が復活するのは当然だなどと書くレベルでしかない。

 だが、多くの人が主張していること、長年言われていることが疑う必要のない真実なら、歴史家など存在する必要のない道理である。沖縄戦の「不都合な真実」の解明には新聞もテレビも不適切な存在だということなのだろう。(2007年10月17日)








 社会がタバコや酒にうるさくなって来るのは危険な時代になってきた兆候ではないかと思う。第二次大戦前にタバコや酒をやめさせようとする運動が世界の各地で広まっていたのは周知の事実だ。

 そして、当時はファシズムの時代だったのである。反タバコ運動を広げたドイツはナチスが支配していたし、禁酒法が作られたアメリカでも寛容の精神が失なわれて、後に世界大戦に突入して行くのである。

 こういう時代の論調は何かにつけて「何々は百害あって一利なし」のような全否定になりがちである。そこに見られるのは、議論を拒否して一方的に自分たちの主張を押しつけようとする姿勢だ。

 こういう主張は外向きには科学を標榜するがそれは名ばかりであり、合理的な精神に基づくものではない。例えば禁煙を主張する人たちはタバコの害を否定するようなデータを排除するのにやっきで、公平な立場からタバコの価値を見つめようとはしないのである。

 人間のすることはどんなことでも善い面もあれば悪い面もある。ところが、その片方だけが強調されるのがこの時代の特徴である。精神の自由を保つためには複眼的思考が重要であるが、不寛容な時代にはそれは容易なことではない。(2007年10月16日)







 タバコを吸うとガンになりやすいといわれている。ところが、タバコを吸わなくてもガンになる人が沢山いる。ガンにならないようにと規則正しい生活をして、肉食を控えて酒もタバコもやらない人がガンになるのだ。

 となると、ガンにならないように暮らしてガンになるのと、ガンになってもかまわないと好きに暮らしてガンになるのと、どちらが良い生き方であるかと考えたくなる。結局、ガンになるもならないも運なのではないのかと。

 タバコを吸う人がガンになる確率はタバコを吸わない人の何倍であるなどとよく言われるが、これはガンになった人の中で喫煙歴のある人とない人の割合が五分五分ではなく、喫煙歴のある人の方が少し多いということでしかない。

 しかも、その数字はタバコを吸わなければ少しはガンになりにくいかもしれないと言っているに過ぎないだけでなく、実際にタバコを吸わずにガンになった人に自分の運の悪さを思い知らせることだけは確実な数字である。

  タバコを吸う人の多くがタバコの箱に書かれている警告を無視するのも、結局のところ自分のしたいように生きるのが一番であることをよく知っているからに違いない。(2007年10月15日)







 もし気象予報士が天気予報で「明日の天気がどうなるかは分かりません」と言ったらどうだろう。実際、明日の天気などは明日になってみないと分からないものだ。しかし、彼らは「分からない」とは言わないし、そう言うのが義務だと言ったりはしない。

 それどころか、天気予報は大胆にも一週間先の予報もする。しかも週間予報は大抵は外れるものだ。自然が相手なのだから当然のことである。にもかかわらず、気象予報士たちは勇敢にも自らの仕事を敢行するのである。

 それに対して、医学もまた人間の肉体という自然を相手にするにもかかわらず、医者たちは「分からない」を連発するのだ。人間の判断は間違うものである。しかし、間違うから判断を回避するのでは、何の仕事もしないのと同じである。

 医学は気象予報と同じくらいに人々の明日の生活と密接に関わっているものだ。しかも、その判断が直接間接に人の生き死にに繋がっているのも同じである。ならば、医師たちだけが自らの判断を回避したがることが、如何に無責任なことであるかが分かろうというものである。(2007年10月14日)








 ゴキブリはどこから来るか。それは家の外から来る。わたしは、まさにドアの下の隙間を横向きになってくぐり抜けて土間に入ってくるゴキブリを見たのである。

 以前からそのような推測はしていた。わが家の縁の下はシートで覆はれていて、土が露出している所はないし、家の中で繁殖に適した場所は奇麗に掃除されているからである。

 だから、年に必ず二三匹現われるゴキブリはきっと家の外から来たものに違いないと思っていた。そこでわたしはゴキブリ捕獲器、つまりゴキブリホイホイのたぐいを購入して玄関の左右の壁沿いに設置しておいた。

 そんな折りも折り、夜中に玄関の戸締まりを確認しようとドアの方に目をやったわたしの目に、ドアの下から現われたゴキブリの姿が飛び込んで来たのである。

 わたしの推測は正しかった。そして、直ちに殺虫スプレーを手にして玄関に戻り、敵が隠れている思われる下駄箱の下方向に集中的にスプレーを噴射して敵を退治したのであった。

 その後、夜中に玄関でかさかさという音を二度ばかり聞いたことがあるが、あれはきっとドアの下から侵入してきたゴキブリが捕獲器の中に誘い込まれて、無駄なあがきをしている音だろうと思っている。

 ただし、わたしはゴキブリ捕獲器の中をのぞき込む趣味はないので、残念ながら、実際の戦果をこの目で確認したわけではないことを、ここにお断りしておかねばならない。(2007年10月13日)







 医療崩壊などと言われているが、むしろ医師が崩壊していると考えた方がよい。医師たちはもはや医学というものに付いて行けなくなっているらしいからである。

 今の日本で医者になるのは医者の子供か学校の勉強の秀才たちである。そして、私の知る限り、医者の子供にろくな奴はいなかったし、学校の秀才に立派な奴は一人もいなかった。その中に医者になった奴もいるが、あんな奴には診て欲しくないと思う奴ばかりだ。

 要するに、今の殆どの医師たちは人を救うという崇高な使命とは何の関係もなくなっているのである。だから、小泉改革で医師が高収入の特権階級でなくなったら、彼らからやる気が失せたのは当然のことなのである。

 事ここに至っては、かつて人を救うために存在した仏教が今では葬式をするために存在するように、かつて人を救うために存在した日本の医療も、今では合法的に人が死ぬための存在になっていると考えた方がよい。

 自殺志願の少女たちよ、死にたければ自殺サイトなどに行かずに病院に行きたまえ。20万円もあればしっかりと死なせてくれて、しかもきっとたっぷりお釣りが来る。(2007年10月12日)







 生産者による賞味期限や消費期限の書き換えは法律的には何の問題もないことである。賞味期限などを決めるのは生産者なのだから、その生産者がもっと長くても大丈夫だと判断して書換えて売っても問題のあるはずがない。

 例えば、賞味期限が伸びることは、その期間はおいしく食べられることを保証するのだから、消費者にとってはありがたいことであり、生産者の負担が増えるだけのことなのだ。

 また、消費期限はその期間内なら安全に食べられますという意味なのだから、消費期限を長くすればするほど、生産者の責任は大きくなる。より大きな責任を負おうとする生産者を誰も責めることは出来ないはずである。

 ところが、物事の正しさではなく、スキャンダル的に物事を考えることしか出来ないマスコミは、生産者ではなく販売者が勝手に書き換えた場合に使うべきである「改竄(かいざん)」などという言葉を使って、生産者による消費期限や賞味期限の書き換えをさも悪いことであるかのように言うのである。

 生産者はマスコミから悪いと指摘されたら謝るしかないので、結果としてマスコミの言い分が通ってしまっているのが現状なのである。(2007年10月11日)







 医者と付き合うときには、医者だから医学の知識に詳しいだろうなどと思わない方がよい。確かに国家試験を通るために色んな知識を頭に叩き込むことはする。しかし、試験が終ると覚えたことを忘れてしまう点では、我々一般人と同じなのである。

 そもそも昔と違って病気の情報量が格段に増えているので、とても覚えきれない。だから、急病人が来ても症状から何の病気なのかすぐに見当が付かなくても仕方がないのである。後から考えたら誰の目にも明らかなヒ素中毒を和歌山の医者が誰も見抜けなかったのは有名な話である。だから彼らは検査に頼るのである。

 その上に、数え切れない薬とその副作用についての膨大な情報がある。そんなものを全部覚えきれる分けがない。だから、認可された薬ならそれほど危険はないと考えて、副作用の事は深く考えずに同じ薬を色んな患者に使わざるを得ないのである。

 だからこそ、良い医者は初めて会う患者については、本人かその家族から徹底的に話を聞いた後でなければ治療に移らない。それは根掘り葉掘りとまるで警察の尋問のように延々と続くはずである。それで治してもらえるとは限らないが、少なくとも間違った治療を受けずにすむのである。(2007年10月10日)








 臓器提供意思表示カードというものがある。市役所などに置いてあるあの黄色いカードである。これは是非手に入れて1番の脳死になったら臓器を提供するところに丸を付けて署名しておくのがよい。これで脳死になった時の延命治療を拒否することができるからである。

 心臓死といって心臓が止ったら確実に死ねるが、脳死といって脳が死んだだけでは病院で人工呼吸器を付けられると、首から下はいつまでも生きた状態にされてしまう恐れがある。そんなことになったら残された家族は悲惨なことになる。それをこのカードは防いでくれるのだ。

 医師の手で一度人工呼吸器につながれると死ぬまで外してはもらえないのが普通だが、もしこのカードに署名して脳死の同意していれば外してもらえるのである。そこで自力呼吸できなければ脳死だということで晴れて死なせてもらえるのだ。

 ただし、脳溢血などになって脳の大部分が死んでも脳の中心である脳幹が生きていれば自力呼吸ができてしまう。この状態で病院に運び込まれたら人工呼吸器なしにいつまでも病院のベッドで植物人間として生き続けなければならなくなる。残念ながらこのカードに署名しても、それを防ぐことは出来ないようである。(2007年10月9日)







 ロシアでは大統領が自分に都合の悪いマスメディアを排除してしまったが、日本ではマスメディアが自分の考え方に合わない首相を排除してしまった。

 安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げたが、それは殆んどのマスコミの考え方と敵対するものだった。保守系である読売新聞でさえも多くの記者は戦後レジームからの脱却なんてとんでもないと思っていたし、産経新聞でさえも若い記者アンチ安倍だった。

 だから、安倍政権を貶しめるニュースがどんどん作られて、その正当性がさして検証されることなく同じ内容のままで日本中にばらまかれて行ったのだ。こうして、この政権に対する国民の支持はなし崩しにされたのである。

 報道言論の自由が侵害されていると言われているロシアが、経済力を高めて軍事力を増強させ世界に対する発言力をどんどん強めているのに対して、日本はテロとの戦いへのささやかな寄与である石油の供給さえも、マスコミと左翼の力で差し止められて国益を失いかねないありさまだ。

 日本の自由で強大すぎるマスコミの力が今やこの国の将来を危うくさせている。そう言ってもよいのではないだろうか。(2007年10月8日)







 日頃たいした考えもなくいつも誰かに対してしていることが、相手が死ぬと途端に暴行とか脅迫という用語でマスコミに書かれるようになる。

 誰も殺そうとか死んだらいいと思ってしているわけではない。ところが、相手の体調が悪かったり性格が弱かったりして死んでしまうことがある。すると、実際には悪意をもってした分けではない行為が死亡原因として扱われてしまうのだ。

 もちろん余りにも相手が真面目だったり、露骨に困った様子を見せたり、無抵抗だったりすると、からかいやいじめがエスカレートすることはある。しかし、からこう方もいじめる方も止め時を計ってはいるのだ。

 だから、相手の死という予想もしないことが起きると、こちらはびっくり仰天してしまう。そして、一般人はマスコミほど悪どくはないから、相手の死に責任を感じてしまって、余計な自白までしてしまうのである。

 こういう事故が起こらないための一番手つ取り早い方法は、人と関りを持たないことだろう。ところが、学校でも社会でも人間は孤立して生きることは出来ない。誰もが誰かとの上下関係の中に入って生活するしかないのだ。だから、こういう事故が無くなることはないのである。(2007年10月7日)







 地域の大きな病院に行くとどこも満員である。駐車場は早朝から満杯で、待合室は人々でごった返している。それを見るたびに、なぜ人々そんなに医者を当てにするのだろうと思ってしまう。

 医者たちは病気を直す以前に、患者が何の病気であるかをすぐに知るための方法を持っているわけではない。検査によって何の病気であるかをおぼろげに知るためだけでも普通一週間はかかるのである。

 だから、医者たちはみんな当てずっぽうで患者の治療に取掛かるしかない。その当てずっぽうが上手な医者が名医なのであるが、逆に殆んどの医者はこの当てずっぽうが当たらない医者なのである。

 それにも関わらず、医者には人を殺せる劇薬を扱う権限が与えられれている。だから、気違いに刃物と言わないまでも、医者が処方した薬の副作用によって病気が悪化する確率の方が高いと思うべきなのである。

 だから、医者にかかって良くなろうと思うことが間違いなのである。確かに、医者は病気を調べて直す手段を学んで知ってはいる。しかし、それをDNAの異なる万人に応用しなければならない点で、既に病気に対して甚だ劣勢なのである。(2007年10月6日)







 歴史の真実は徐々に明らかになって来るが、その中に第二次大戦の沖縄戦での住民の集団自決が軍の強制ではなかったという事実がある。沖縄の人たちは軍人に命令されたのではなく、自ら敢然として自決の道を選んだのである。

 ところが、この実に誇るべき事実が教科書に採用されるのが気に入らない人たちが沖縄には沢山いて、大会まで開いたというのだから驚きである。しかも、県知事がそれを受けて、これこそ県民の気持だと文科大臣に陳情までしたというのだ。

 これまで軍人に命令されて自決したと思われていたのがそうではないことが分かったのだから喜ぶべきなのに、彼らは自分たちの祖先を軍の命令に抵抗できずに自害した、か弱き被害者のままにしておきたいのである。

 なぜこんなことが起きるかというと、それは政治だからであろう。政治は人間に誇りというものを忘れさせてしまう。そして、何が正しいのかも忘れさせてしまうものなのだ。そして、自分たちの祖先をおとしめてそれを声高に言って憚らないのであるから、これも一種の自虐史観なのであろう。(2007年10月5日)







 人間はミスをする動物である。だから、医者のミス=医療過誤などは日常茶飯事であるが、そのミスで死に至り、さらに表沙汰になることは稀だから、我々はついつい医者を信用してしまうのだ。

 例えば、救急車で運ばれてきた高齢者が息をぜいぜい言わせ、口からピンク色の泡状の痰を出していて、しかも足がむくんでいれば、うっ血性心不全の肺水腫だとまともな医者ならピンと来て利尿剤を処方する。

 ところが、経験がなく深夜の当直で寝ぼけたりしていると、足のむくみを見ながらも、喀血だからと胸のレントゲンをとると影があるので高齢者に多い肺炎かと思ってしまう。肺水腫でも当然影はあるのだが。

 次に、CT検査をすると肝臓が巨大化しているので、肝臓ガンの破裂による喀血なのかとも思うが、さらに胸のCT画像の影からやはり肺炎なのかと思い直す。実は肝臓肥大はうっ血性心不全に付き物なのだ。

 そこで抗生剤による肺炎の治療にかかるが、人口呼吸器を付けるために麻酔をすると血圧低下を招いてショック状態になってしまい、やっと心臓が悪かったことに気付くがもう手遅れである。あとは先輩の医師に、家族に対して「元々手遅れ」だったと説明してもらうしかない。

 心不全と肺炎はとてもよく似ているが、それを間違えて治療すれば患者は死んでしまう。しかし、こんなミスも医師のかばい合いで決して表に出ることはない。「知らぬは患者ばかりなり」なのである。(2007年10月4日)







 安倍内閣の最大の欠陥は塩崎官房長官にあったのではないか。防衛次官の更迭人事で見せたごたごたを見るとそう思いたくなる。

 官房長官の仕事とは、物事を丸く治めて行くという正に調整型の能力を必要とする。自分の面子を後回しにしてでも、政府は上手く行っているというところを国民に見せなければならない存在である。

 ところが、塩崎長官は小池大臣が防衛次官の更迭を自分を通さずに発表した事に対する不満をおおっぴらにしてしまったのだ。これではこの内閣は上手く行っていないと自分から言っているようなものであり、それでは官房長官の存在意義を自ら否定することになる。

 一人の大臣が他の大臣を批判して傷を付けたりすれば、任命権者である首相に傷が付き、ひいては内閣全体に傷が付いてしまうことぐらい分りそうなものである。

 ところが、塩崎長官にそんな配慮はなく、あくまで筋論を優先させて、結局首相の指導力に問題ありと報道されてしまったのだ。こんな官房長官ではどんな内閣でも長続きしないと思われても仕方がないのではないか。(2007年10月3日)







 「名選手必しも名監督ならず」という格言はヤクルトの古田選手兼任監督にも当てはまってしまったようだ。名選手が名監督になった野村監督の申し子たる古田がなぜに名監督になれなかったのか。

 特に野村監督が古田と同年配の若いころから名監督としてリーグ優勝を果たし日本シリーズにまで進出したことを考えると、兼任監督のときに既に名監督だった野村の凄さが改めて思いやられる。

 普通、勉強が出来る人と教えるのが上手な人とは違うものであるが、それとこの名選手が名監督でないのとは、似ているのだろうと思う。そして、監督というのは教えるのが上手い人でなくてはならないのだろうと思う。

 教えるのもまた技術であるが、やはり才能というのもあるのだろう。教えることの上手い下手にも生まれつきや育ちと言うものが関係してくるに違いない。マネージメントの能力もまたしかりである。

 だから、古田は監督向きの人間ではないのかも知れない。キャチャーとしての能力と監督としての能力もまた別なのだろう。そう思うしかない。(2007年10月2日)







  最近の医者は「わかりません」と平気で言う。しかも、残念そうにではなく当然のことのように言うのだ。

 それは一つには検査をしたいからであるが、検査をした結果についてもまた「よくわかりません」と言う。要は責任を負いたくないのだ。

 昔の医者はそんなことはなかった。うんうんと頷きながら患者の話を聞いて「これは~だな」と病名を言当ててみせて、すぐに治療を始めてくれたものだ。少なくとも30年前頃までの医者はそうだった。

 一方、今の医者は「わからない」と言ってから、さらに最悪の話にすぐに持っていく。それは、病が治癒しなくても自分のせいではない事にしたいからだろうが、患者の気持を落ち込ませてどうして病気が治るだろうか。

 かくして彼らは医療行為をダメ元の行為にしてしまうのだ。患者は病院に行くのに、どうせ治るまい、万一治ったら儲け物といった気持で来る事が求められているのである。

 今も落語の『代脈』に言う「手遅れ医者」は沢山いるが、最悪のことばかり言いたがる「最悪医者」「ダメ元医者」もどんどん増えているようである。(2007年10月1日)







 マスコミの福田首相に対する期待が高いようだが、福田氏は政治家としてのこれまでの経歴の中でいったい何かを積極的に実現しようとしたことなどあるのだろうか。

 アジア重視外交などと言われているが、それは自分の政治信条を実現するための外交姿勢などではなく、中国や韓国を怒らせて問題が起きては困るといった発想でしかないのではないのか。だからこそ、北朝鮮から帰ってきた拉致被害者を一旦返す約束を破って大丈夫かと言ったりしたのだと思われる。

 バランス感覚に富んでいるというのも、彼が閣僚として経験したのが官房長官だけであり、それはまさにバランス感覚を必要とする仕事であり、それを無難にこなしたということでしかない。それがトップとして相応しい能力であるかとなれば、また別問題だろう。

 彼の政策について一番はっきりしているのは靖国参拝をしないということだが、その理由が、人の嫌がることはしないというもので、その一方で国立の追悼施設を作るつもりもなくて、こちらも反対する人がいるのでやらないと言うのだから、政策実現に対する考え方が知れるというものだ。

 要するにはこの人は事なかれ主義の人なのである。それをマスコミは勘違いしてリベラルだとか調整型とか色々言っているだけなのだとわたしは思うのである。(2007年9月30日)


 年収の格差が拡大というニュースが流れているが、最近は何でも格差と言われる有り様で、却って問題の本質が分からなくなってしまっている。
 
  もともと「格差」という言葉の意味は、新明解国語辞典が「平等が期待されるものの間に現実に存在する高低・上下・多寡の開き」というように、平等であるべきものについて使用すべき言葉なのだ。

 では給与の多寡はどうか。給与が各人の能力や労働時間や仕事の内容によって大きく違ってくるのは当たり前だろう。給与が平等であることなど決してあり得ないことだ。そんなものに「格差」という言葉を使うのはおかしなことである。

  以前は「格差」という言葉は、例えば「一票の格差」というように正しく使われていた。投票権は平等でなければならないからだ。それが際限もなく何でもかんでもに使われるようになったのは、小泉改革を攻撃するためにこの言葉が使われるようになってからである。

 ニュースというものは言葉を正確に使わなければならないことは言うまでもない。ところが、それをなおざりにして何でも格差と書くマスコミの現状は大いに憂うべきものである。(2007年9月29日)









 「働く女性」といっても戦前生まれ女性は当然のように結婚した。ところが、戦後生まれの働く女性は結婚を自由意志に任されたので、仕事優先で一人のままで来てしまう例が多くなった。

 では、その結婚しないで働く女性の未来はどうなのか、これは誰もこれまで経験したことのない未知の領域だった。ところが、最近その一つの答が出た。山口小夜子の孤独死である。

 もちろん、働く女たちの未来も理屈で考えれば分かることなので、例えば上野千鶴子が『おひとりさまの老後』という本を書いたりしている。しかし、結婚してもしなくても女は結局一人で死ぬのだという悟りも、50代での肺炎による死という現実の前には強がりにしか聞こえない。

 老いて夫に先立たれ子供と別に暮らしている一人暮らしと、働く女のなれの果ての一人暮らしとは全然違うということを、この「モデルの先駆け」の死は白日の下にさらけ出した。

 男女平等は権利である。しかし、この権利は女性を幸福にはしなかった。戦後の日本女性の生き方に対する一つの答が出たといえるのではないか。(2007年9月28日)







 二十年ほど前の産院の新生児室にはうつぶせに寝た赤ちゃんがずらりと並んでいて奇異の感を抱かせたものだが、今では仰向けに戻っている。突然死になってしまう赤ちゃんが増えたからである。

 当時は、うつぶせに寝かせると頭の形が良くなると言われたものだが、まさか医者たちがそんなことを信じていたはずもあるまい。では、彼らは何の目的でそんなことをしていたのか。

 タバコが肺ガンの原因になるという説が今や流行である。だが、これもいつまで持つか知れたものではない。三十年ほど前にはそんなことは言われていなかったのだから、三十年後にまだ言われ続けている保証はどこにもないのだ。

 最近レストランに入ると、喫煙席か禁煙席かを選ばされるのが決まりになっているが、その元を作った「受動喫煙の害」に関する学説は、とっくに骨抜きになっているというではないか。

 医学と言っても何ら確固としたものではなく、ああしたからこうなったという程度の知識を寄せ集めたものでしかない。だから、医者の言うことは、ほどほどに聞いておく方がよいのである。(2007年9月27日)







 クライストの『ミヒャエル・コールハースの運命』を読み返したが、数年前に読んだはずなのに何一つ覚えていないのに驚いた。堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』に出てきたのに触発されて神田の本屋で昔買ったレクラムを何とか読み通したはずなのだが、何も分かっていなかったらしい。

 今読んでみると、クライストのドイツ語が古いために最近の独和辞典ではなく『岩波独和辞典』を本棚から引っぱり出してくる必要がある。しかも、レクラム版だけなのか、コンマの位置が出鱈目で、何がどこまで続くのか分からず、読みにくい事この上ない。昔はどうやって読んだのか見当も付かないのだ。

 ストーリーは、領主の不当な通行証の要求に対して、仕方なく預けた馬が骨と皮にされたことに怒った博労の主人公が、馬を元の状態で返せと提訴するが、領主の身内の妨害で却下されたのに業を煮やし、領主の逮捕に乗り出して、逃げた領主を追ってドレスデン一帯を焼き討ちにするが、最後に捕まって死刑になるというものだ。

 ところが、占いの婆さんによるドレスデン選帝侯の未来を書いた紙が主人公の手に渡る話が途中から入って来て、話にアラビアンナイトのような神秘性が加わって来る。そして、何とかしてその紙を手に入れようとする選帝侯と、絶対にそれを手渡すまいとする主人公の対決が最後の見所になっている。岩波文庫の翻訳は名訳である。(2007年9月26日)







 私の近所では、エコバックは早くも下火になっているようだ。スーパーマーケットのレジでエコバックを出している人を最近は殆んど見かけないのである。

 私も何年か前には、布袋をスーパーに持って行って、レジ袋を断るようにしていたことがある。しかし、これをいつまでも続けることは出来なかった。

 それは第一に、からの布袋をポケットに突っ込んで出かけるのが意外に面倒なのである。だから、布袋を持って行くのをよく忘れる。手提げカバンはいつも持ち歩いているのだが、そこに布袋をいつも入れて置くのはスペースの無駄なのだ。

 次に、同じレジ袋を使っていると汚れてくるという難点がある。洗えばよいのだろうが、その手間がまた面倒である。それに、同じ袋を使っていると飽きてくるということもあるのだ。

 最後に、布袋をスーパーのレジ係の人に見せるのは良いことなのだが、それが次第に面倒になって来るのだ。黙っていれば只か5円ほどでレジ袋が出てくるのである。やはりレジ袋削減による環境運動には限界があると考えるべきではないかと思う。(2007年9月25日)







  今回に自民党の総裁選挙を見ていると、まるでちょんまげを結った人たちの争いを見ているような感じがした。

 徳川幕府は徳川御三家から将軍を出したが、自民党が総裁を出すのは首相の御三家から出すことにでも決っているかのように、福田元首相の息子と吉田元首相の孫のもとに人々が馳せ参じた。

 特に福田氏の場合には、源氏が平家と戦うために、源義朝の御曹司たる頼朝の元に有力武士たちが馳せ参じて旗揚げを迫ったのとよく似ているような気がしてならない。

 次に、その元首相の御曹司たる福田康夫氏は、まるで関ヶ原の戦の前に徳川家康が有力大名たちを味方につけたように、党内の有力者たちの支持を集めて回って、戦う前に勝敗を決してしまった。

 確かにアメリカでもブッシュ家は親子で大統領になっている。しかし、首相の世襲を重んじるかのような今回の自民党の総裁選挙は、日本人が背広を着て民主主義だと言っているものが実は表面的な事でしかないのではと思わせるに充分であった。(2007年9月24日)








 禁煙原理主義を批判する養老孟司と山崎正和の対談が載っている『文藝春秋』を買って来た。その中で、アフガンの住民を救おうとしているうちに土建屋になってしまった医師たちの話が印象的だ。

 彼らも最初は診療所を開いて難民を救おうとしていた。ところが、汚れた水を飲んでいる人たちに抗生物質を与えてもきりがないことを知り、飲料水を確保することの重要性に気づいた彼らは、今や井戸掘りに専念しているというのだ。

 彼らの井戸掘り自体は貴重なものだ。しかし、これは裏を返せば、人の健康にとって大切なものとしては、医学は第一番には来ないということの証明でもある。

 日本でも昔は似たような事があった。大正9年までは日本の水道水は塩素殺菌がされていなかった。ところが、それが始ってから日本の女性の寿命が延び始めたというのだ。

 18世紀半ばにイギリスから始まった世界の人口の急激な増加は、医学の進歩ではなく栄養の改善のせいであると見られているが、日本の結核患者の激減も同様なのだそうだ。結局、健康にとって大事なのは生活であって、医学は補助的なものなのである。(2007年9月23日)







 現代の医者は余りにも検査に頼りすぎて、症状から病気を判断する能力を失ってしまっているように思われる。検査の結果得られたデータが余りにも多すぎて何の病気か判断できないのだ。

 本屋に出回っている家庭の医学書は、症状から病名を判断する記述がなされているが、それは最早古き良き時代の昔の医学なのである。

 今の医者は患者の様態や症状、家族の報告よりも、CTによる画像診断と血液検査の方を信用する。しかし、画像も血液検査のデータも病気を教えてくれない。むしろ判断を誤らせる可能性もあるのだ。

 それなのに、彼らは症状から病名を推測してすぐに治療に移ろうとはしない。「検査をします」なのだ。その間に急性の病気ならどんどん進行してしまって、まさに手遅れに至ってしまうのである。

 毎日全国の病院のICU(集中治療室)に救急患者が運び込まれている。しかし、この部屋は検査づけ医療のせいで手遅れになった患者が人工呼吸器を付けて死を待つ部屋でしかなくなっているのが実状である。(2007年9月22日)







 街中を走る車の後ろにメーカーの名前が書かれているのを見て、金を払って買って自分の物になったものなのに、売った会社の名前がなぜ書いてあるのかと、不思議に思ったものだ。

 どうして、買って自分の物にした人が、売った会社の宣伝をしなければいけないのか。いや、そもそも、どうして買った人間の名前を書かずに他人の名前が書いてあるのかと。

 ところが、現代社会では、所有権がとっくに他人に移っている物について、売ってもう所有権のない会社が責任を持たされるという現象が普通に起こる。

 まず、車が昔からそうなっている。車は売ったあとも安全性に問題が出たら売った会社が責任を持つ決まりになっている。また、食品もそうである。食品の安全性に対して会社が責任をもつ期間が消費期限なのだ。

 そして最近では、そんな決まりのない、ガス給湯器や石油ファンヒーター、扇風機のメーカーが何十年も前に売った製品の責任を問われるようになっている。

 我々は只で他人に物をやった場合には、やった事をいつまでも覚えていて、相手に貸しを作った気でいるものだが、会社から商品を買った場合にも、いつまでも会社に貸しを作った気でいて良いことになったのである。(2007年9月21日)







 救急車をタクシー代りに使う人がいると批判されている。しかし、救急車の使い方としてはむしろ正解なのではないかと思う。重篤な病気になってから救急車を呼んでも助かることはまずないからである。

 確かに救急車は呼ばれたら5分で病人のもとにたどり着く。しかし、そこから病院に行くまでが5分ではない。救急隊員が最初に連絡した病院が受け入れるとしても、打合せから受入れ決定まで救急車は路上に停まっているのだ。そして再出発して病院に入るまでに30分は経ってしまう。

 さらに、病院の救急病棟に入っても、待っている医者は経験の少ない若い医者でしかない。というのは、経験のある年配の医者はそこにはいず、外来診療と病室の回診をしており、特に夜中の時間帯は家で寝ている。

 一方、経験の少ない医者は症状からすばやく診断して必要な処置を施すことが出来ない。そんな彼らがまさに救急医療の必要な切羽詰まった夜中の時間帯に救急車の到着を待っているのだ。これで助かったらまさに奇蹟である。

 最近、救急車に乗った妊婦のタライ回しが問題になっている。しかし、実は救急車に乗った時点でもう手遅れなのである。だから、救急車は病状の切迫していない人が病院に行くのに使うべき乗り物なのである。(2007年9月20日)







 高血圧だからといって血圧降下剤を安易に勧める医者には注意が必要だ。血圧降下剤は一旦始めるとやめられない薬だからである。血圧降下剤を飲み出すと体がその薬無しでは生きていけないようになってしまう。特に高齢者はやめると死んでしまうかも知れない。

 高齢者の多くは心臓が弱い。しかし、血圧が高くても血圧降下剤を飲まないうちは、心臓もそれに順応して働いている。ところが血圧降下剤の使用に慣れて、心臓が楽な状態を覚えてしまうと、それが心臓の能力をさらに弱めてしまい、薬をやめたとき、心臓が元の体の状態に耐えられずに、いっぺんに心不全に陥る可能性があるのだ。

 高齢者が高血圧になるのは高齢で血管が細くなったためで自然なことである。最近では高齢者の血圧が180ー100以下では、血圧降下剤を勧めない医者も出て来ている。しかも、血圧降下剤にはそれなりの副作用もある。

 だから、血圧降下剤を勧める以上はやめられないことやその副作用を丁寧に説明しなければいけないのだ。それ抜きに医者に血圧降下剤を勧めれたら、断るか飲まない勇気が必要かも知れない。(2007年9月19日)







 「ウイスキーがお好きでしょ」のCMがいい。石川さゆりの歌声が実にいいのだ。ネットで調べるとこういう歌詞だと確認した。

  ウイスキーがお好きでしょ
  もう少ししゃべりましょ
  ありふれた 話でしょ
  それでいいの 今は

 しかし、最初の一行だけでいい。あの石川さゆりの伸びやかな声には、CMが流れるたびに痺れてしまう。いいなあと、自分でついつい口ずさんでしまう。

 そこで、94年の紅白歌合戦のことを思い出した。そして、録画テープを取り出してみる。紅組の取りを彼女が歌っているのだ。『飢餓海峡』である。テレビに映してみてあの「連れてって」のかすれ声にまた痺れる。

 彼女が歌へば、かすれ声なのに失敗ではないのだ。彼女はあの紅白の本番の一発勝負で、精一杯の気持を籠めてあのかすれ声を出してみせた。そして、あの余りにもエロチックな笑顔。そしてそれが全部作られたものなのだ。まさに芸術作品である。

 紅白で彼女は『天城越え』は何度も歌ったが、『飢餓海峡』はただの一度きりである。なぜかは知らない。だが、あのかすれ声といいあのエロチシズムといい、この歌は彼女には、取って置きの一曲ではないのかと思う。(2007年9月18日)







 新聞社の世論調査がまたインチキぶりを見せている。急に出て来た福田氏の方が次に自民党の総裁に相応しいという数字をはじき出したのだ。街頭演説の反応は正反対なのだから、世論調査の数字などどうにでもなることを証明したようなものだ。

 福田氏のやり方がまずいのは、国民に対して出馬表明をしないうちに、派閥単位の多数派工作で優位を確保してしまった点である。出馬表明をしたのも、どこかの派閥の会合であって、国民に向けたカメラの前ではなかったのだ。

 これは事実上、総裁選挙を無効にしたものと言わなければならない。各都道府県で行われようとしている党員投票もまったく意味が無くなってしまった。

 そもそも、自分の当選を確実にしてから出馬表明をするなどは卑怯者のすることである。「勝てそうになったから出ます」では国民の広汎な支持を得られなくても仕方がない。

 党本部の演説会でも福田氏は思いつきを並べただけで大した内容もなく、時間切れに救われたのが見え見えだった。そんな人に対する支持の方が多いと言われても、嘘だろうと思うしかない。(2007年9月17日)







 自民党総裁選挙の候補者記者会見を見たが、テロ特措法に関して福田氏が民主党との話し合いを重視すると言って新法に消極的なのが印象的だった。福田氏は民主党との協調路線を模索するつもりらしい。

 新法には国会承認の項目がない。参議院の承認が当てに出来ないからそうしたのだが、これを押し通すということは、これからは政府与党は参議院は無いものとして国政を運営していくという意思の表れになってしまう。

 極端にいえば、国政は衆議院だけで運営し、参議院の可決が必要な法律は衆議院で再議決していく。民主党中心の参議院がどんな法案や決議案を可決しても無視して与党だけでやって行くということである。

 逆に新法を出さないということは、これからも参議院が国政に重要な役割を持ち続けるだけでなく、民主党にも国政に積極的に参画してもらい、民主党の法案の実現にも協力するという意思表示となり得るのだ。

 福田氏が小沢氏に対してテロ特措法の継続をどのように説得するつもりか知らないが、小沢氏は実質的にこの二者択一を迫られることになるのではないか。(2007年9月16日)







 マスコミと政界には福田康夫待望論があって、今度の総裁選挙で一気に福田優位の状勢になりつつあるという。だが、国民も福田氏を待っているとは限らない。

 福田氏は舞台裏にいてテレビ出演もしないうちに、イメージ先行で支持が広がっているが、討論会などで人前に立って持論を喋り始めたら、党員や国民の間に失望感が広がる可能性がないわけではない。

 今夜のテレビ出演でも、この人は民主党の小沢代表に対抗する人ではなく、まさに自民党の中の宥和的な雰囲気を体現した人だ、この人は戦う人ではなく、むしろ大連立を目指す人だということが、一目瞭然なのである。

 しかも、50歳台の安倍さんに代わるのに71歳の老人であり、ぼそぼそした喋り方で、言うことがはっきりしない人でもある。昔の自民党支配の時代ならそんな政治家でも首相は勤まったが、今の時代にどうなのか。

 今のところ選挙は自民党の内向きの論理だけで進行している。しかし、国民の目線が気になってきたとき、マスコミや政界の「福田にいっぺんやらしてみたい」というだけでこの人を首相にしていいのかという疑問が噴出して来ないとも限らないのではないか。(2007年9月15日)






 テロ特措法継続が世界の注目を浴びている中で、自民党は呑気に十日もかけて総裁選挙をやるそうだが、その中で元官房長官の福田康夫氏が有力になって来たらしい。

 マスコミは自民党の中でもリベラルな福田氏ならと、うれしそうである。誰がやっても自民党なら同じだと切り捨てないところを見ると、やはり日本の政治は自民党なのだ。

 実際、いまの自民党に対する逆風を鎮められるのは福田氏だけだろう。民主党に対する期待をそげるのも、リベラルな印象の強い福田氏だけである。しかし、仮に自民党が福田氏で盛り返せば、自民党支配がもっと長引いてしまうのだが、マスコミの小沢贔屓も潮時なのかもしれない。

 前と違って当選しそうな雲行きに福田氏は出馬するらしい。そして、福田首相誕生となれば、民主党の小沢代表と対等に渡り合う力量と覚悟のほどが試されることになる。

 福田赳夫氏のあとを継ぐはずの次男が死んで議員になった福田氏が、安倍退陣のたなぼたで首相の座に付くとしたら、それも運命かも知れない。しかし、官房長官の仕事と違って斜に構えていては、この難局を乗り越えられないことだけは確かだろう。(2007年9月14日)







 これで小沢氏が辞めさせた首相は小渕さんを含めると4、5人目だろうか。「給油継続が出来ないと辞めるっつうなら辞めたらいいじゃないすか」と言ったかどうかは知らないが、小沢民主党は首相との党首会談を断わることで念願の安倍退陣を実現した。

 これで局面を打開したいとする安倍氏の考えが理解できないニュースキャスターがいるようだが、小沢氏は次の首相との会談には応じると明言しているのだから、確実に状況が変化するのは間違いない。

 民主党の政権公約にはイラク特措法に反対とは書いているが、テロ特措法に反対とはどこにも書いていない。にもかかわらず参議院選の勝利に絡めてテロ特措法反対は民意だなどと言い出したのは、理屈も何もなく安倍退陣を実現するためだったのである。

 もちろん、これまでの経緯から民主党が特措法に賛成することはあり得ないが、反対の仕方が違って来る可能性はある。安倍在任のままなら国会座り込みも辞さずに採決阻止に出たろうが、退陣したからには強行採決ぐらいは見逃すことになって、ひょっとすると措置法継続があるかもしれない。(2007年9月13日)







 冤罪が起る一番大きな原因は、法廷では誰も本当のことを言わないことにある。検察は有罪になるようなことだけを言い、弁護士は無罪か減刑されるようなことだけをいうのであり、どちらも本当のことを言わないのだ。

 物証は重要だが、それは何とでも解釈できる。だから、証人の証言こそが事実を構成する殆んど唯一のものである。ところが、この証言が嘘ばかりなのだからどうしようもない。

 検察官は被告人から聴取した証言をもって事実を示す証拠だ主張する。しかし、それは警察や検察が自分の都合のいい事を被告人に喋らせたものであり、自由意思を奪われた状況に置かれた被告人の言葉に真実性はない。

 それに対して、被告が法廷で語る言葉は、弁護士が自分の目的のために教えたものであって、これもまた真実を語るものではない。検察側、弁護側の証人もまたそれぞれ頼まれたことをいうだけである。

 このように裁判とはみんなが嘘ばかり言い合う場なのであるから、正しい判決が下されるわけがない。だから、冤罪が起こるのは当たり前なのであって、決して無くすことは出来ないのである。(2007年9月12日)







 大学時代には学校の教師はやる気のないいい加減な人間のなるものだと思っていたので、教職の免許は取らなかった。そのうちアルバイトで塾の先生をしてみて、実に嫌な仕事であることも分かってきた。
 
 何が嫌といって人前で自分が間違うことほど嫌なことはない。塾では英語を教えたのだが、英語の「家」をhousと黒板に書いて生徒に間違いを指摘されたことがある。ああ、これはドイツ語だったと誤魔化したものだ。

 逆に、大学で教官の間違いを指摘したら「こんなのもあるよ」と強弁された事もある。そんなのはなくても、大学の教師とはそんなことを言わねばならぬものらしいが、そう言った教官も不愉快に違いない。

 教師という仕事で次に嫌なのは、生徒に対する好き嫌いがどうしても出てくることである。依怙贔屓をする気はなくても、親切にする生徒とそうでない生徒が出てきてしまう。自分が学生時代にも自分を贔屓にする教師と、自分を目の敵にする教師がいたものである。

 教師というのは、こういう嫌な点があまり気にならない人間にしか出来ない仕事なのだろうと思う。やはり、教師とはやる気のある真面目な人間には無理な仕事のようである。(2007年9月11日)







 安倍首相が、何かの法律によってインド洋での海上給油を継続できなければ、辞任することを示唆した。一方、既に民主党の小沢代表はこの給油継続を阻止することで首相を辞任させることを目指している。

 ということは、首相は小沢代表がやろうとしていることに口実を与えたに等しい。民主党はもともとテロ特措法を政局に絡める積もりだったが、政局のために反対しても首相のせいに出来るようになったからである。

 民主党にすれば、首相の退陣と引き替えに法案を成立させることもあり得たのだが、こうなれば、法案成立に協力する可能性はなくなってしまった。法案が成立しなれば首相が辞めると言っている以上、政府に協力することなどあり得ないからである。

 したがって、民主党は衆議院での審議から徹底して反対し続けるだろう。一方、自民党は野党に対する今の宥和姿勢から見て、衆議院で強行採決することは難しい。その結果、法案が衆議院さえ通過せずに終ってしまう可能性も出てきた。

  事態は常に最悪のコースを取るものである。首相は自ら退陣の時期を早めてしまったのかもしれない。(2007年9月10日)







 川の堤防は普段見るととても高くて、川の水は下の方を少し流れているだけである。ところが、その堤防の高さには意味があることを知らされる時がある。台風が来た時だ。あの堤防の高さぎりぎりまで水が流れるからである。

 これまでの経験から川が溢れないために、堤防はあの高さにまで積み上げられているのだ。ところが、その堤防の内側に住んでいる人たちはそうは思わなかったらしい。台風が来ようとしているのに避難しなかった人が大量にいたのである。

 彼らとて営々と築いてきた財産があるはずだ。公務員をしている連中に言われて避難するのは嫌だという気持は分からなくもないが、台風に備えて早めに家財道具や資材を持ち出していれば、全損は免れたはずなのである。

 彼らは何があっても昨日と同じ生活が出来ると思っていたのだろうか。しかし、「そんな考え方だからあんたらはホームレスになったんだよ、おまけに只で救助してもらって」と、世間の彼らに対する目は「ネットカフェ難民」とは対照的に益々冷たくなるばかりである。(2007年9月9日)







 漫才の千原兄弟の兄が中学の時に校内10キロマラソンでずるをして、親戚のお姉ちゃんに途中車に乗せてもらってゴールしたが、記録が6分台だったのでずるをしたのがバレバレだったという話がある。

 大阪で行われた世界陸上では、競歩の山崎選手が最後の一周を走らずにゴールしてしまった話が話題だが、山崎選手は一周パスして世界新記録でゴールしたのかと思いきや、それでも一位の選手に5分近くも遅れていたというのだ。

 その上に、審判員の誘導ミスのせいで本来のゴールができなかったとマスコミに同情されているのだから、格好悪い事この上ない。彼は自分が周回遅れであることを知っていたのに、誘導ミスをした審判員がその時は救いの神に見えたらしい。

 だから、この出来事はどちらが悪いとはいえないのだが、マスコミの手にかかると山崎選手はまるで被害者扱いである。もちろん被害者とは何の落ち度もない人のことである。

 しかし、そんな人はこの世の中には滅多に存在しないものだ。それなのに、出来事を加害者と被害者の枠組みに押し込めた段階で、ニュースはすでに嘘を語ってしまっているのである。(2007年9月8日)








 医師不足などと言われているがこれも嘘だと思う。医師が足りないなどと感じたことはないからである。医師が足りないと言っているのは医者の方であって、患者の声ではないのだ。

 むしろ、医者は少ない方がいいし、医者の数が少ないことを周知させて行けばよい。そうすれば、医者にかかる患者の数も減って来る。本当に医者にかかる必要のある人だけが、病院に行くようにすべきだからである。

 重要なのは、医者は病気を直せないことをもっと広めるべきだ。医者は気休めであって、患者は自分で治るだけなのである。外科手術で悪いところを切除したり骨折をつないだりすることは必要だが、あとはやはり自分で治るのである。

 自分で治る能力のない患者は医者が何をしても治らない。あとは寿命だと諦めるのである。年を取ればあちこちガタが来るのは避けがたい。それを元の体に戻してくれと医者に駆け込むから、医者は忙しくなるのだ。

 医者の数は足りているという厚生労働省の考えは正しい。医者を増やせば医療費が増える。医療費が増えれば税金が増えるだけである。医者を暇にさせてやろう。体も機械と同じで使えば故障もするし、買い換えの時期も来るのだと。(2007年9月7日)








 ニュースが嘘半分間違い半分なのは、妊婦たらい回しで死産のニュースでも、奈良の救急車が大阪で断わられたのなら大阪の救急車も断わられた事件があるはずで嘘、後から医師が断っていないという話が出て来て間違い、と判断できるからである。

 最近出て来た「ネットカフェ難民」というニュースも嘘半分間違い半分だろう。何より「難民」という用語が嘘である。「難民」とはむしろ橋の下で暮らすホームレスの人たちにこそ相応しい。金を使って雨露(あめつゆ)を凌いでいる人間にわざわざ「難民」と名付けるのは、そこに作為があるからである。

 さらに「難民」という言葉をあんな悠々自適な生活をしている人間を指すのに使うのは間違いである。彼らは定職が無いなりに上手に暮らしている人たちであって、救いを待っている人達ではない。

 彼らの境遇を調べて、帰る家がないとか保証人がないとか言っている人がいるが、余計なお世話だろう。彼らは好きでそんな暮らし方をしているのだ。それを騒ぎに仕立てて政府を攻撃する材料にするのは悪い人たちである。(2007年9月6日)








 三菱の洗濯機の風呂水ホースの調子が悪いと家族が訴えてきた。ホースに穴があいたので、あちこちテープを巻いて使っているのだが、風呂水をうまく吸い上げないというのだ。

 それでいよいよこの洗濯機も寿命かという話になったが、取りあえず風呂水ホースを何とかしようとネットで検索すると、MAW-FR1という型名で売っている。しかし、そこには「お取り寄せ」と書いてあるのだ。

 どうしようかと思って風呂水ホースの現物を眺めていて、ネットで売られているホースには「風呂水フィルターは付属していません」とか「延長用のホースです」とか書いてあったことを思い出した。

 風呂水フィルターつまり風呂水ホースの先の吸水口は再利用できる。つまり、簡単に外れるのだ。そこで、穴を塞ぐために巻いてあるテープを外して吸水口を外してみたら、ホースをねじ込めばいいだけのことが分かった。

 そして、ホースが傷んでいるのも吸水口の近くの方に集中していることに気が付いた。それなら、バスタブのお湯に届く範囲の長さで傷んだ部分をハサミでちょん切って吸水口を付け直せばいいのだと。

 というわけで、先の方だけ50センチ程ホースをちょん切って、吸水口をねじ込んでから、バケツに水を入れて洗濯機本体の風呂水ポンプを作動してみた。するとちゃんと水を吸い上げるではないか。かくして、我が家の三菱洗濯機はまたしてもその寿命を長らえたのであった。(2007年9月5日)







 警察官が交際相手の女性を射殺したとか、夜遅く帰宅途中の女性が拉致殺害されたとか、若い女性が被害者になるとマスコミは活気づくようだ。

 しかし、男と女がいて事件が起きれば殺されるのはたいてい女の方で、殺した方が悪いと決っていても、殺す方になる男は損だなという気もする。

 海辺の自転車道路をサイクリングしていると、海を眺めているおじさんがよくいるが、よく見ると眺めているのは海ではなくビキニ姿のお嬢さんである。今日もバイクを止めて海を眺めているおじさんがいたが、やはり眺めているのは海ではなくビキニ姿のお嬢さんであった。

 やはり女は見られる方であり、男は見る方なのである。それは生まれつきであって、その役回りで世の中は回っている。だから、被害者の遺族だからと手記を発表されても、警察官の遺族が退職金を辞退したと聞いても、少々違和感がある。

 本心は、車で迎えに行っていればとか、悪い女に引つ掛かったとかいう後悔で一杯のはずなのだが、マスコミのために誰もが芝居ばかりさせられてしまう世の中なのである。(2007年9月4日)







 安倍改造内閣で早々に大臣が辞任することになったのは、参議院で問責決議案が可決されるのが確実だからである。しかし、問責決議案を出す理由は建前さえあれば何でもいいのだ。

 ということは、安倍首相に対する問責決議案が次の臨時国会で必ず可決されるということでもある。政治に対する私の興味は、安倍首相がその時どうするかである。

 これまで問責決議案が参議院本会議で可決された例は一度だけあって、その時は当該大臣が辞任した。その例に従うなら、安倍首相は辞任することになるが、それは内閣総辞職か衆議院解散かということになる。

 それに対して、安倍首相が辞任も解散も何もしないということはあり得るのだろうか。しかし、野党は国会を混乱させたくして仕方がないのだから、問責決議案を可決した段階で国会審議に出てこなくなるだろう。そのとき与党だけで国会を開くことが出来るのだろうか。

 これまで首相に対する問責決議案が参議院本会議で可決された例はないから、まさに興味津々である。マスコミの興味はテロ特措法の行く末だろうが、結局は「政局が第一」となるのは間違いないところだろう。(2007年9月3日)







 「妊婦がたらい回しで死産」などというと、まるで医者のせいで死産になったかのようであるが、事実は違うらしい。医者は断った覚えがないと言っているのだ。

 そこで、救急隊員と医者のコミュニケーションに問題があるのではという見方が出てきた。これは要するに奈良の救急隊員に問題があるのではないかということになる。

 さもなければ、産婦人科医が少ないのは奈良だけの事ではないのに、奈良で救急車に乗って産婦人科を探すと断られることの説明ができない。奈良から大阪に出ても次々に断られたというが、大阪の救急車だったらどうなのかと言いたくなる。

 そして、奈良の救急隊員は性格がおとなしいのではないのかと聞きたくなる。病院から少し都合が悪いと言われたらすぐに引き下がってしまい、すぐに次の病院に当たるのだろうか。そうだとすれば、たらい回しの原因は救急隊員にあることになる。

 そもそも「女性が死にそうだ」と救急隊員に強く訴えらて断る医者がいるのか。事実はニュースだけからは分からない。現実はニュースより遥かに複雑だからである。(2007年9月2日)







 「責任ある対応は政権を取ってからでいい」小沢氏はこうつぶやいた。それに対して民主党の議員たちは誰も反論できなかった。彼らは権力を手にするために悪魔に魂を売り渡したのである。

 こうなった以上、民主党はもはや「民主」党ではない。小沢「君主」党である。だれも小沢氏を批判できないのだ。そして、小沢一郎は目的のためには手段を選ばぬ革命家となったのである。国政を混乱させ国益を無視し国民生活を混乱させても政権を取ることが第一なのだ。

 そうだ、小沢氏の考えていることは「生活が第一」ではなく「権力が第一」「政局が第一」なのである。ところが、与野党マスコミと通じてこの小沢氏のやり方を批判する声は殆んど聞こえてこない。

 ただ一人、防衛大臣だった小池百合子氏だけが公然と小沢氏のやり方を批判したことがあったが、自民党の中から「小沢氏を激怒させた」と小沢氏に迎合的な発言が出る始末である。

 いまや日本の政界は小沢氏の手中にある。テレビも新聞も小沢氏の政策秘書の問題を大きく報道しようとはしない。民主制の次は君主制の時代が来ると言われているが、小沢君主制の時代は既に始っているのである。(2007年9月1日)








 政体循環論というのがあって、民主政治が堕落すると衆愚政治になるのだそうである。子供の指しゃぶりをやめさせるためにからしを塗ったことを批判するニュースを見て、日本もいよいよこの衆愚政治の時代が来たと実感した。

 もはや日本のマスコミは物事の善悪を判断する力が無くなってしまっているのである。指しゃぶりをやめさせるのに指にからしを塗るのは昔からの知恵である。ところが、一時の苦痛によって悪い習慣をやめさせるのと、苦痛を避けてそれを放置するのと、どちらがいいのか、マスコミは分からなくなっているのだ。

 だから、指しゃぶりをやめさせるのにからしを使った事を悪い事とするニュースが出来てしまうと、もうそれをマスコミは誰も修正することが出来ない。自分で考える力が無くなってしまっているからである。

 大衆はマスコミの言いなりであるから、こんな愚かなマスコミの支配下にある大衆が選択する政治が衆愚政治になるのは当然の成り行きであろう。

 ところで、政体循環論によると、民主政治が衆愚政治になって堕落したとき、次に来るのは君主政治である。実際、ロシアのプーチン大統領の政治はまさに君主政治といえるような独裁体制をしいている。そして国民を堕落させるマスコミを退場させてしまったのである。(2007年8月31日)








 殺人事件で若い女性が殺されると、夢が奪われたなどという紋切り型の記事が出るが、あれには違和感がある。人生にあるのは夢ではなく義務感ばかりだからである。

 女たちが夢などという言葉で自分の人生をいつも考えているかどうかは知らないが、もし男女に違いがないとすれば、今これからどうすべきかに最大の注意を払って生きるのが普通の生き方であるはずだ。

 そもそも夢などという言葉で自分の将来を語る人間に出会ったことはない。私が知っているのは、仕方なく与えられた選択肢の内で最も増しなものを手に入れるために齷齪(あくせく)と努力する人間ばかりである。

 また、たまたま人が羨む立場に恵まれることがあっても、その立場が要求する義務をどう果すかに汲々としながら生きているのが普通であって、それを他人は無責任に夢が実現したなどというのであろう。

 人生は悪くなることはあっても良くなることなど無いし、良くしようとして何かをすれば却って悪くなるものだと思いながら生きるのが賢明とされるこの国では、死んだからとて夢を奪われたと悔やむことなどないのである。(2007年8月30日)







 今度の内閣改造の目玉は何と言っても舛添要一氏だろう。舛添氏は自民党の中ではこれまで殆んど一人で安倍内閣批判をやっていた人物である。

 だから、そんなにいうなら自分でやって見ろということになったのかは知らないが、「いうは安し行うは難し」を実感するのもいいことだ。また、これで安倍首相が舛添氏のうるさい口を塞いだことは間違いない。

 一方、参議院枠で入閣確実と鼻高々でテレビカメラを自室に入れて生中継をさせた矢野氏が外れたのは面白かった。勝負は下駄を履くまで分からないのはどの世界でも同じなのである。大切なことが決まるまでは神妙に構えておくべきことを、改めて国民に思い出させた矢野氏の功績は大きい。

 この内閣で一番期待したいのは与謝野官房長官ではないか。この人が内閣の前面に出てくれば、安倍内閣のこれまでの軽薄なイメージを一掃することが出来るのではと思うからである。

 何と言ってもこれまでの安倍内閣はマスコミに弱すぎた。与謝野氏は官僚ににらみが利くと言われているが、内閣のスポークスマンとしてマスコミにもにらみを利かせてもらいたいところである。(2007年8月29日)







 スーパーのエスカレーターに乗っていて、エスカレーターに足の指を挟まれたというニュースを思い出した。そして、どうして足先がそんなところにあったのかという疑問を抱いた。

 なぜなら、実際にエスカレーターに乗ってみると、足先をステップの前面に付けてエスカレーターに乗ることなど通常はあり得ないことが分かるからである。

 スーパーのエスカレーターの各ステップには黄色で端に四角く線が引いてあり、「エスカレーターはステップの中央にお乗り下さい」と、しつこいほどのアナウンスが流れている。

 しかも、エスカレーターの各段の前面は上へ行くに従って突き出る形にカーブしており、足先を前のステップの前面にくつつければ、足の脛(すね)が前のステップの角に当たりかねないのである。

 そこまでしなければ乗れない状況とは、エスカレーターが相当に混雑していて、一つのステップに二人の人間が重なって乗っていたとしか考えられないのだ。

 しかし、ニュースはエスカレーターのステップの前面が破損していたことを伝えるばかりで、被害者がどんな乗り方をしていたのかは伝えない。これもまたニュースでは本当のことは分からないという例であろうか。(2007年8月28日)







 27日に内閣改造があるというが、誰がどの大臣になろうと次の内閣もまたマスコミによって泥まみれにされてしまうのではないかと見ている。今の自民党の敵は民主党ではなく、ほぼマスコミだと言っていいからである。

 事務所経費の問題にしても、実家を事務所にして家賃を払っていなかったと言って問題にされ、今度は自分のビルを事務所にして家賃を払っていたと言って問題にされている。マスコミによる自民党攻撃は、今や何でもありなのだ。

 自民党がこのような状態から逃れるには、とても内閣改造くらいでは間に合いそうにない。そして、このまま衆議院選挙になだれ込めば、民主党に政権の座を奪われるのは目に見えている。だから、今は自分たちに向けられたマスコミの矛先をそらすことを考えなければならない時だろう。

 そのためには安倍総裁に辞めてもらって、マスコミの大好きな福田康夫元官房長官を担ぎ出すのも一つの手段ではないか。そうすれば、マスコミの矛先が本当は大嫌いな小沢一郎に向けられる可能性も出てくる。

 ただし、問題は福田康夫氏に自民党総裁になって日本の首相になる覚悟があるかどうかである。その辺がどうも疑わしいのがこの方法の難点ではある。(2007年8月27日)







  「扇風機火災過去に死者10人」というニュースが流れているが、多分嘘だろうと思っている。

 一体扇風機のどこが燃えるのか。燃えるとしたら後ろのモーターを覆っているプラスティックのカバーぐらいだろうが、それが家を一軒燃やすほどの大きな炎を上げるとは信じがたい。

 扇風機をしばらく動かしてから、手で触ってみると羽根に近いモーターのカバーが微かに暖まっていることがわかる。しかし、熱を持つ電気器具なら他にいくらもあるのだ。

 例えば、コンピューターの本体やモデムなどは手で触ればかなり熱くなっている。もし火災が発生するならこれらの器具からだろう。トースターなど直接熱を使う器具もたくさんある。それに、扇風機が燃えるなら、油だらけで掃除もあまりされない換気扇が燃えないのがおかしい。

 メーカーはマスコミのバッシングが怖いからさっさと謝ってしまったが、ちゃんと検証した上でのニュースならともかく、書きっぱなしの新聞記事などを信用して電気屋に行く必要などないのである。(2007年8月26日)







 中学で野球部員だった時に学校のソフトボール大会で審判をやらされたことがある。くたびれるので早く終らせようと、一塁の塁審の時はどんどんアウトにしていた。すると大勢で押しかけて来て「今のはセーフだろ」と言われてしまった。もちろん、次からは割合ちゃんとやったものだ。

 野球部のOBになってからも母校の練習試合で二塁審判をやらされたことがある。母校の盗塁のサインは知っていたので、盗塁の時にはベースに近寄って、なんとか無難にこなしていた。

 ところが、慌てたのは、母校でない相手チームが盗塁をしてきた時だ。サインを知らないから急に走って来る。おまけに守備側の後輩の選手たちがアウトだアウトだというのでアウトにしたら、相手チームの監督から「移動ベースでセーフやろ」と大声で一喝されたものだ。

 逆に、審判に間違われたこともある。公式戦で投手をしていて明らかなストライクをボールと言われたのだ。その時私は「え~」と大声を上げてやった。あとで監督に睨まれたが平気である。

 今年の高校野球の決勝でストライクをボールと判定されたと監督が後で騒いでいるらしいが、なぜその時に声を出さないのか。審判も人間である。次からはちゃんとやってくれたろうに。

  何でもそうだが、その時は辛抱していて後でいうのはよくないのである。(2007年8月25日)







  最近ウイスキーが旨いと思うようになった。昔はビールさえどこが旨いのかと思っていたのに、今やこのざまである。

 大学生の頃には大人ぶってウイスキーを飲んでも旨いとは思わなかったものだ。ところがウイスキーのオンザロックや水割りが「甘い」などと感じるようになって仕舞ったのだ。

 もっとも、わたしが好んで飲むのは第三のビールで割って飲むやり方である。こうして飲むと微かなビールの苦みの中にウイスキーの甘みが際だってくる。

 ウイスキーの量はシングルとかダブルとかいう言い方で表現するが、シングルのウイスキーに第三のビールをコップ一杯までつぐのである。ウイスキーの量はこれ以上でもこれ以下でもよくない。そして、ビールは第三ぐらいが苦過ぎなくてちようどよいのだ。

 日本酒の旨さはすぐに分かるが、ウイスキーの旨さを知れば、世界の旨さを知ったような気がする。こうなれば、旨い物を口にするなとは誰もいえまいという気になる。そして「酒なくて何の己れが天下かな」と言い出す。やっと人生の意味を知ったような気になるのである。(2007年8月24日)








 医者が藪医者かどうか知りたければ、例えば、診察室の外で患者と出合ったときの対応を見ればよい。藪医者は診察室の外で自分の患者と出会っても気づかないからである。

 そんな医者は、診察室にカルテが回って来たときだけその患者のことを思い出し、カルテが診察室から出て行った途端に、その患者のことを自分の頭から消し去ってしまう。

 診察室に来た患者が苦痛を訴えたら、その苦痛を取り去ることを至上命題と考えるはずだが、そんな医者にとっては、苦痛の訴えは高価な検査を受けさせる切っ掛けでしかない。

 そして、検査の結果何も分からなければ、その苦痛は存在しないことになる。次にその医者の考えることは、何かの薬を出す理由か、別の検査を受けさせる口実を探し出すことである。

 患者をカルテでしか思い出さない医者の一番分かりやすい特徴は、患者の訴えを自分より先に看護婦に聞かせることである。

 そんな医者からは出来るだけ早く逃れるのが賢明である。「勝手にやめて先生気を悪くしないかしら」などと悩む必要はない。そんな医者は患者が来なくなっても気がつかないからである。(2007年8月23日)







 将棋の渡辺龍王が「高校野球は見ませんね」とNHKの将棋講座の中で発言したのは面白かった。自分より年上の人たちがやっている間は見たが、同年配か年下になってからは見なくなったというのだ。

  大抵の日本人はそんなものだろう。高校野球と言っても、たかが少年野球だと気付くときが来るのである。

 ところが、テレビやラジオではその少年野球を伝えるのにあいも変わらず必死になっている大人たちがいる。何でそんなに絶叫するのだと思うような放送を連日やっているのだ。

 スーパーマーケットなどに行くと、高校野球に熱心に見入っている人たちが沢山いる。家にいては暑いのでクーラーの利いたスーパーで時を過ごす爺さんたちである。

 しかし、その側にいる子供たちはテレビに背を向けてゲーム本に見入っている。高校野球のファンは、かなりの割合で高齢者のしかも男性に限られてきているのだ。

 ところが、それを放送しているのは分別盛りの中年の男たちなのである。これもまた、東洋の大国日本に見られる奇異なる風景の一つといえるのではないだろうか。(2007年8月22日)






 参議院を野党が支配したということは、野党も賛成する法律しか成立しなくなったということである。それは要するに全員の議員が賛成する法律しか作れなくなったということである。

 全員が賛成する法律なのだからさぞかし善い法律がたくさん出来るようになると思いたいが、では全員が賛成する法律とはどんな法律だろうか。

 それは例えば、コムスンやノヴァのような会社や飲酒運転のドライバーを取り締まる法律がそうだろう。一方、社会保険庁の怠慢職員を辞めさせる法律は民主党が賛成しない。つまり、全員が賛成する法律とは、政治家・政党やその支援団体とは関係のない企業や団体・個人に対する法律である。

 だから、これからはどんな個人や団体も自分を守るために、どちらかの政党の支援団体に加入することが必要になる。予算案は衆議院を支配する政党の意見が通るから、自分に有利な状況を作り出すためにも、何れかの政党を支援する方が得だということにもなる。

 現在の衆参のねじれ状態が長引くようだと、日本国民も政治に無関心なお客さんではいられなくなり、欧米のように二大政党のどちらかを積極的に支援する人が増えて来ざるを得ないのではないか。(2007年8月21日)







 天気予報というは元々外れるものだが、最近気象予報士が天気予報をするようになってから、よけいに外れるようになった気がする。

 最近では、台風4号の予報で、いつまでも台風が去らないという予報を見ながら、嘘だろうと思っていたらやはり嘘だった。さっさと関西を一晩で通過してしまったではないか。

 気象予報士の試験は難しいというが、タレントが片手間の勉強で通ってしまうのだから高が知れている。若いお姉ちゃんの気象予報士のいうことなんかより、長年の経験がある我等一般人の方が天気のことはよく分かっているのだ。

 気象予報士が予報すると言っても、元ネタは気象庁が作っている。ならば、視聴者が聞きたいのはそれを作った人間の意見であって、人のフンドシで相撲を取るだけの気象予報士の意見ではないのだ。

 これは最近のテレビのニュース番組全体についてもいえることである。素人が新聞の記事を元にして分かったようなことをいうのは聞くに堪えないものがある。

 「どんな技術であろうと、それが完成の域に達するには、物の本姓についての空論に近いまでの詳細な議論と、現実遊離と言われるほどの高邁な思索を必要とする」というプラトンの言葉はここでも有効なのである。(2007年8月20日)







 サラリーマン川柳に「売る人の顔見てやめた化粧品」というのがあるそうだ。化粧品を売る女は化粧部員といってみんな美人である。こんな美人が使うから綺麗になる。同じ化粧品でも自分が使えば高く付くだけなので、買うのをやめたという意味だろう。

 売り手があまりに美しいと胡散臭くなるのは政治も同じである。安倍首相が「美しい国」と言い、選挙でも真面目一点張りで、実際に出来ることしか公約にせず、年金不祥事も格差社会も全部自分で背負い込んだのを見て、あまりにも美しい姿と美しい振舞いに国民は辟易してしまった。

 一方、多少は醜男でも多少は嘘臭く思える公約でも、夢を与えてくれる小沢代表の方が、国民にとっては自分の背丈に合って好ましく思えた。美しい化粧部員が売る化粧品よりも、不美人の必死の厚化粧の方が、これなら自分も少しは綺麗になれる気がしたのである。

 ところで、この川柳を読売新聞の編集手帳は、化粧品も売り手がブスでは買う気も失せると解釈して、安倍政権の美しくない点をからかうために利用していた。新聞記者もたまには百貨店の一階にある化粧品売り場を廻ってみるのもいいのではないか。(2007年8月19日)







 妙な歌が流行っている。「私のお墓の前で泣かないで下さい」という歌詞で始まる『千の風になって』だ。まず「私のお墓」がおかしい。自分の物に「お」は付けないのが日本語の敬語の常識であろう。

 次に、「お墓」は詩語ではないだろう。詩に使う言葉というのは何でもいいわけではない。墓所であることを意味する「はか」を使った歌は稀ではないか。百人一首を見てもそんな歌はない。岩波古語辞典を見ると、万葉集には「みはか」の読みを含む歌が出ているが、「おはか」は他にあるのだろうか。

 歌謡曲の歌詞はどうかと検索サイトで調べていると、「お墓」を歌詞に含む歌は「千の風」を含めて8曲あると出た。しかし、どれも知らない歌ばかりだ。

 文学の世界はどうか。墓を意味する言葉は使っても、こんなにストレートに「お墓」と書いた詩は見たことがない。「お墓」という言葉自体、墓地や墓石のコマーシャルによく見る言葉という印象が強い。

 この歌をお笑いタレントがしきりにおちょくって歌ってみせるが、この歌にはおかしな物を真剣に扱うというギャップがあるからに違いない。お笑いタレントの感覚は間違っていない。この歌の詩は変なのである。(2007年8月18日)







 今年の夏も、テレビや新聞では戦後がまだ続いているとする論調が多く見られたが、あの戦争が国民にとってどんどん遠ざかっていることを示す現象があちこちで見られた。

 その第一が、靖国神社を参拝した現役閣僚の減少である。かつては靖国神社に参拝しなければ国民の期待にこたえられないと、万難を排して参拝を決行したものだが、今や参拝しなくても大勢に影響はないと考えられるようになった。

 全国戦没者追悼式での河野議長の言葉もまたそうだろう。戦後間もない頃に戦没者を貶しめるような発言をしたら大騒ぎになるところだが、それが大した批判も受けないのは、命賭けで戦った軍人に対する尊敬の念が失なわれて来たからに他ならない。

 現実の戦争には敵と味方しかないのだが、被害者や加害者という交通事故のような言葉が飛び交うようになったのも、また戦争を交通事故と同じく誰か他人のやらかした事と考えるようになった結果である。戦争はもはや評論の対象と化したのだ。

 そして最後に参議院選挙における野党の勝利である。もはや国民は旧軍人たちの利益を守ってくれる自民党でなくてもよくなったのである。こうして、戦後レジームからの脱却は誰かが言わなくても、確実に進行していくのである。(2007年8月17日)







 日本社会で出世している女性の中に男女平等思想を梃子にして出世している女性が沢山いる。役人である。役人は男女平等の規準を満たすために一定数の女性が登用される。だから、ある程度能力があって当り障りのない人物評があれば、どんどん出世していく。

 役人の世界が女性を大切にするのが実力を正当に評価した結果ならばよいが、女性を登用することに数としての意味合いが強いのでは困る。今の最高裁判所判事にも女性が入っているが、この人は社会保険庁の長官だったことが明らかになっている。そして、その長官当時の能力はどうだったかが疑われているのだ。

 一方、政治の世界は女性優遇ではないので、いくら女性官僚でも選挙に出ると実力が問われるから、おいそれと勝つことは出来ない。これまであまり重要でなかった外見も重要になる。

 それでも、女性の国会議員は役人上がりの人が非常に多い。日本で男女平等の恩恵を受けているのは役人と元役人たちだけなのである。だから、そういう恵まれた立場で出世した女性たちが男女共同参画社会などと言って男女平等を主張してもあまり説得力はないのである。(2007年8月16日)







 最近森元首相がテレビ出演して発言した中で、民主党は政府の法案に反対することによってしか纏まることが出来ないと言ったのは正しい。

 民主党は元社会党から元自民党まで全く異なる政治信条を持つ政治家たちの寄せ集めであるから、積極的に何かをすることではなく、何かをしないという消極的姿勢に依ってでしか纏まることができない。

 先の国会で民主党が政府提出の法案にことごとく反対して与党を強行採決に追い込んだのも、これから提出する郵政民営化凍結法案や年金流用禁止法案などが消極的内容なのもその現れである。

 テロ特措法を、小沢代表はブッシュ大統領がアメリカの戦争だと言ったというのを口実にして反対しているが、それは国民投票法案を、安倍首相が憲法改正を公約にすると言ったのを口実にして反対したのと全く同じで、反対できれば理由は何でもいいのである。

 小沢代表は、いま世界状勢や日本の国益などに関わっている余裕はなく、ひたすら反対することで次の衆議院選挙まで民主党の団結を維持することしか念頭にないのである。(2007年8月15日)







 毎年夏になると第二次大戦のしかも日本関連のものを扱ったテレビ番組がしきりに流されるようになるが、最近は見たことがない。

 第一に、いつまで60年以上も前の戦争を扱うのか、100年経ってもまだやるのかと思うからである。実際、同じ戦争でも102年前の日露戦争に関するテレビ番組をやる放送局はない。

 第二に、あんな物を見ても正確な史実を知ることは出来ないからである。特にNHKが作ったものは、必ず反戦平和思想というバイアスがかかっているので、この考え方にとって都合の悪い事実は隠されているのだ。

 これらの番組が主張する、戦争は悲惨なもので平和は良いものという考え方は、極めて左翼的なものである。戦争さえなければ人々が幸福に暮らせるなら、こんな簡単なことはない。

 ところが、世界の国々は平和を作り出すために世界の至る所に軍隊を派遣していま現在も戦っているのだ。そうした現実に目をつぶって、何も分からない子供に「平和への誓い」を読ませるなどは、無意味である。

 平和集会に参加して平和を祈ったりするのは如何にも良いことのように見える。しかし、そんなものに関わっても世界平和が達成されることはなく、ただ左翼の政治運動に巻き込まれるだけなのである。(2007年8月14日)







 憲法を改正することは戦争ができる国にすることだという人たちがいるが、これは、誰もが戦争には反対だから憲法改正=戦争といえば、誰もが憲法改正に反対するだろうという安直な考え方に基づいている。

 第一、憲法改正によって戦争ができる国にならないことは、今でも日本は戦争のできる国であることを思い出せば明らかである。戦争放棄と言っても、自国を攻撃されたら戦争をせざるを得ないからである。

 戦争放棄というのは外交交渉において戦争を手段にしないということである。だから、日本は沖縄返還のためにも北方領土の返還のためにも戦争をしなかったし、これからもしないのである。

 したがって、安倍内閣は憲法改正によって戦争ができる国にしようとしているというなら、もっと正確に、安倍内閣は憲法改正によって外交手段の中に戦争を含める国にしようとしていると、言わなければならない。ところが、彼らはそうは言わない。そんな本当のことをいえば運動が盛り上がらないからである。

 自民党の憲法改正案では第九条第一項の戦争放棄の条項は変えないと言っている。だから、この改正案によって外交手段として戦争のできる国になることなどあり得ないのが真相なのである。(2007年8月13日)







  全国の自治体で放置自転車を撤去するのが流行っているが、撤去した自転車を引き取りに来ないで困っているのだそうである。

 姫路市では去年撤去した自転車のうち引き取りに来たのは1/4しかなかった。この費用に市は年間3300万円も使っている。一方、引き取りの際に徴収できた料金収入は160万円しかなく大赤字だというのだ。

 しかし、1/4の引き取りで160万円なら全部取りに来ても4倍の640万円にしかならず、赤字であることに変わりはないはずだ。それを市役所は「心ない人たちのために多額の税金が使われている」と言っているというのである。

 市役所の人たちは自転車を撤去された人の気持を考えたことがないのではないか。撤去されたといっても盗まれたのと変わりはない。しかも、町外れの保管場所に問合せて車で取りに行くにしても、わざわざ金を払って怒られに行くようなものなのだ。

 放置自転車を無くしたら快適で安全な町作りができるというので、後先をよく考えもせずに右へ倣えで制度を導入するからこんな事になる。むしろ「頭脳のない役人のために多額の税金が使われている」というのが正解ではないのか。(2007年8月12日)







 民主党が参議院を征したのでいいところを見せようと、テロ特措法に反対したり、色々と法案を出してきている。しかし、それらは政府与党の政策に何でも反対の、これまでのやり方と全く同じで新味のないものだ。

 ところが、左翼系の新聞はその何でも反対のやり方に何でも賛成なのだ。しかし、賛成したいにも、それらが国益も何も眼中になく、与党に対する嫌がらせの法案でしかないのは明らかなので、支持するための論調作りに苦労しているようである。

 その結果、テロ特措法に反対するのは、国会の議論に緊張感が出てよいと書く新聞があれば、この法律はテロ撲滅には何の役にも立っていない、と言い切る新聞まで出てきた。

 民主党の法案の中に「年金保険料流用禁止法案」というのがある。実に分かりやすい名前なので、誰もが賛成するのだそうである。しかし、民主党は年金を根本から作り直すのではなかったのか。

 なぜそちらを先に出さない。基礎年金は税金で賄い給付に所得制限を付けるという年金案だ。しかし、これが審議されたら財源がないことがばれてしまう。そこで出したのが流用禁止法案だろう。

 これが世間受けを狙ったものであることは明らかである。なのに国政をそんなことに利用していいのかと書けないのだ。新聞もまた野党のこの勝利に耐えられるかが試されていると言ってもいいのではないか。(2007年8月11日)







  『決定版 正伝・後藤新平』という本が出ているが、実に不思議な本である。

 著者は鶴見祐輔なのだが、その原稿を使っていない。本の始めにタイプ原稿があると書いてあるのだが、凡例には底本がどうのと書いてあるだけなのだ。しかも、その底本の名前も書いていない。

 おそらく底本とは太平洋出版会から戦時中に出た本のことで、それは近所の図書館にもある。それなのに、なぜ明記しないのか。

 次に、一海知義校訂となっているが、校訂者の「あとがき」などが一切ない。だから、どういう校訂作業をしたのかが不明なのである。これでは名前を借りただけなのかと思わざるを得ない。

 また、この本は現代の読者が読みやすいようにと、現代仮名遣いにしたり漢字を常用漢字に改めたり、漢文や文語文には本文の中に現代語訳を付け、さらに歴史的な事実を説明するコラムまで作って、至れり尽くせりである。

 しかし、鶴見祐輔は『プルターク英雄伝』の訳者で、実に名文家であって、明治の人間の難解な言葉遣いにこそ価値があるのだ。それなのに、内容が分かればいいという編集になってしまっている。

 鶴見祐輔ファンとしては、元の本をしっかりと復刻して、その上で振り仮名や注釈を付けてくれたら良かったのだ。これでは資料価値は半減である。旧仮名遣いが気になる読者がこんな本を手にすることはないという割り切りが必要ではなかったろうか。(2007年8月10日)







 私立高校の大学合格者水増しが批判されている。しかし、これは皆やっているからやっただけのことであって、校長たちは自分たちの世界の流行に従っただけなのだ。

 この流行、つまり流れや潮流というのは、実は新聞がよく使う正しさの根拠でもある。これは、欧米では禁煙の流れが定着しているのに日本は遅れているという例の論理でもある。新聞もまた正しいかどうかの価値規準を流れに求めているのだ。

 私学の野球部の特待生問題もそうである。みんなやっているからやったまでなのだ。わたしには、これも金を使ったチーム力の水増しにしか見えないのだが、こちらは新聞によると正しい事なのだそうである。金で優秀な子供を集める事は、他のスポーツではみんなやっているからというのだ。

 とすると、私学の合格者の水増しについては、今回マスコミのせいで「流れ」が変ってしまって、今度は悪い事という流れになっただけということになる。

 このようなマスコミの作る流れは、大臣の失言や疑惑でも見られたことだ。しかし、「こんな非道いことをやっている」という論調は、議論を封じることでもある。まず議論が来るべきところに流れが来てしまう。これはもっと警戒すべきことではないだろうか。(2007年8月9日)








 今度の選挙の結果、自民党の議員の中からも安倍首相の続投に異論が出ている。では、議会政治の本家である英国ではどうか。どうやら選挙の結果で政権与党の党首が交代したことなど無いようである。

 例えば、チャーチルは第二次大戦後すぐの総選挙で破れて下野したが、保守党の党首の地位はそのままである。そして、次の総選挙で勝つとまた首相の座に返り咲いている。

 ブレアの労働党に1997年の総選挙で大敗した保守党のメージャー首相でさえ、政権を失ったにもかかわらず、次の党首選挙まで党首を辞めていない。その他でも、政権党の党首が国政選挙で負けて交代したという例は見当たらない。

 英国では、党首を選ぶのは党員であり、首相を選ぶのは国民であると、明確に区別されているからだろう。だから、野党はともかく、政権党の党首は本人が引退するまではなかなか交代しないものなのである。

 今回の参議院選挙の結果では、自民党の支持者の7割以上が安倍首相の続投を支持している。つまり、自民党総裁を代える必要はないと言っているのである。代えろ言っているのは野党の支持者である。

  自民党の議員たちはもっと自分の党の支持者の意見を尊重すべきだろう。(2007年8月8日)







 朝青龍がうつ病状態であるという報道が流れている。もし本当なら自殺の可能性があることになるが、それでも相撲協会は様子見を決め込んでいる。このような状況は、命を大切にしようと言いながら実は人間を大切にしない日本社会を凝縮したものといえる。

 この国では、組織と人間の関係では組織が絶対的な優位に立ち、人を人とは思わない一方的な決定が下ることが珍しくない。朝青龍に対する処遇は、本人の弁明に耳を傾けることもなく、独自の事実調べもせず独断的に下されたものだ。

 まるで江戸幕府の裁定を思わせるような、このような前近代的なやり方が罷(まか)り通って、しかも誰も疑問に思わないところに、ヒューマニズムとはかけ離れた日本社会の実態がある。いうまでもないが、ヒューマニズムとは組織ではなく人間を第一にする考え方だ。

 相撲協会は、大相撲の全てを自分の思うがままに操る朝青龍が憎くてたまらなかった。そこで朝青龍の僅かな判断ミスにつけ込んで、朝青龍を村八分にして意趣晴らしをしているのだ。しかし、そこにあるのは子供じみた私情でしかない。

 そしていま相撲協会も国民の多くも朝青龍が自殺をしてもかまわない、自業自得だと思っているのだ。人の命はこの国ではこれほどに軽いのである。(2007年8月7日)







 今度の選挙で自民党に投票した人たちの目から見れば、いまの政治状況はプロレスでいえば、悪役レスラーが好き放題している時間にそっくりだろう。

 レフリー役であるマスコミは、悪役レスラーがタイツに何かを隠していて、それを使って力道山に痛い目を遇はせているのだが、その瞬間だけレフリーの沖識名(おきしきな)は、リングの外にいる別の選手に気をとられて、見ていないのだ。

 そして、力道山が反撃しようにも悪役レスラーの反則技に遮られて、どうしようもない。やっと力道山がその武器を奪って相手を押さえこんでも、沖識名はリングの外に気をとられて、それにも気がつかない。

 沖識名の名前は阿部四郎と言ってもいい。今回の選挙でのマスコミの役割はまさに彼ら悪徳レフリーにそっくりだった。自民党から出馬した弁護士を黒塗りにしたりして、政府与党に有利になるようなことは一切避けながら、その同じ局のニュースキャスターが政府与党に対する悪口を言い続けたのだから。

 そして世論調査から小沢一郎を信用して期待する国民が皆無であることからも、彼が悪役レスラーであることは明らかなのだ。ならば、力道山の空手チョップが炸裂して、小沢一郎がリングに沈むのもそう遠くないはずである。

 果して、昔のプロレスのようにこの後の政局が進むかどうか。それは、観客である国民が声を上げて悪徳レフリーを目覚めされられるかどうかであり、これも昔のプロレスの試合とよく似ている。(2007年8月6日)







 「大は小を兼ねる」というのは大体当っていて、下着はいつもLLを買ったりするが、学歴の方は大きすぎると困ることもあるらしい。

 高卒の募集に対して大卒で応募することは出来ない。しかし、せつかく公務員になれるなら清掃作業員でもかまわないと、自分の履歴の最後の行を書かずに済ました人が多くて問題になっている。

 もともと学歴詐称とは卒業していない大学を卒業したと書くことのはずだ。だから、卒業した大学を書かないで学歴詐称だと言われるとは思いも寄らなかったのではないか。マスコミの論理は、本当に高卒で応募して採用されなかった被害者を思えというのだろう。

 しかし、本当に高卒だったとしても試験で負けたのは事実である。役所としても優秀な人材が取れたのだから、本来文句をいう筋合いのことではない。しかも、事実に反することを書いたのではなく、事実を書くのを一行だけ省略しただけなのである。

 新聞記事などでは、前者は時々見られるが、後者はしよつちゆうあることだ。自己申告で大目に見るのが妥当なところではないか。(2007年8月5日)







 道路交通法が治安維持法のようになってきた。昔は社会の有能な人間がこの法律によって次々と引つ張られた。現代では道路交通法の犠牲者になる人が次々と出ているが、その中にスケートの織田信成が含まれることになった。

 この法律の酒気帯び運転の条項は社会に何一つ損害を与えずに処罰される点で、治安維持法の予防拘禁と同じである。かつてはインテリが進歩的な考え方をしているというだけで引つ張られたが、現代では少し酔って運転していたというだけで引つ張られるのだ。

 酒飲みは誰であろうと、飲んだ後で車を運転する状況に追い込まれることは稀ではない。酒なしで暮らせないのは何もアルコール中毒患者だけではないのだ。日本は酒飲み社会だからだ。

 しかも、飲酒運転が社会問題化していることに対する認識が問われるとなって、物の考え方自体が問題視されている。これは思想を取り締まるのと同じであり、ますます治安維持法に似てきた。

 治安維持法はなくなったが、今や進歩思想の中毒患者は日本から無くなるどころか増えるばかりである。では、新治安維持法の効果はどうなのか。酒飲みという思想もまた無くすることなどあるはずがないのである。(2007年8月4日)







 今度の選挙によって参議院では野党が過半数を占めたから、与党はこれまでのように衆議院で強行採決できなくなると言われている。

 これは衆議院で強行採決して可決しても参議院で否決されるから、与党は野党と協力して国会を運営しなければならなくなったという意味であろう。

 しかし、小沢民主党に果して衆議院で与党と協力する気があるのだろうか。むしろ、ここで一気に衆議院を解散に追い込みたい民主党は、これまで通り徹底的に与党の法案の採決に反対する姿勢を続けるのではないか。

 そうなれば、やはり与党はこれまで通り強行採決をするしかなく、しかも参議院で否決後に衆議院で再議決という手段を選ばざるを得なくなる。

 一方、民主党は参議院に次々と法案を出して可決させると言っている。しかし、参議院で与党が採決に反対すれば、今度は野党が強行採決しなければならなくなる。

 そうなった時、マスコミは与党の強行採決は悪くて野党の強行採決は正しいというのだろうか。(2007年8月3日)
 







 新聞に今回の参議院選挙の得票数の比率が出ていた。それを見ると、比例区での民主党の得票割合は前回よりわづかに2%増えただけ、選挙区に至ては1%増に過ぎないという数字が出ている。

 それに対して、自民党は比例区で2%減、選挙区で5%減だ。この数字を見る限り、この選挙では民主党の票はたいして増えていず、自民党が勝手に票を減らしていたということになる。

  要するに、この参議院選挙はまさに典型的な「自民党にお灸を据ゑる」選挙だったのである。

 実際、朝日新聞の世論調査によると、「民主に何を期待するかでは、『与党の政策を改めさせる』が37%と多く、『政権交代を実現する』は25%、『期待していない』は33%」もある。

 しかも、「衆院の解散・総選挙の時期を聞くと、『急ぐ必要はない』という人が54%と半数を超えた」のである。民主党の議席増は国民が民主党に期待した結果ではなかった。

 民主党はこの選挙に勝って大喜びしているが、相変わらず野党としての役割しか期待されていないというこの現実をよく噛みしめるべきであろう。(2007年8月2日)








 怪我の治療のためにモンゴルに帰国していた朝青龍がサッカーをしていたことをマスコミが問題にして騒いでいる。しかし、これがモンゴル政府と日本の外務省の要請に従ったものであることをどう考えているのか。

 北の湖理事長は政府の要請なら仕方がないと突っぱねればいいだけのことだ。日本相撲協会は文科庁の管轄下にあるとはいえ、政府機関ではない。モンゴル政府の方が偉いのである。それを何とモンゴル大使館に謝らせてしまったのだ。日本相撲協会は一体何様なのか。

 そもそも相撲協会は、マスコミが「サッカーに興じていた」と書いたのを真に受けることからして間違っている。朝青龍は無理をして子供たちに元気なところを見せて笑顔振りまいていたと何故考えないのか。帰国を許可したのは相撲協会自身なのだ。

 怪我をしていたらサッカーなんか出来るはずがないというが、相撲協会も朝青龍の先場所の優勝を見ていたはずだ。怪我にも色々ある。朝青龍の怪我が我慢すれば動ける怪我であることは明らかではないか。

 これはマスコミによる悪意の報道である。北の湖理事長さえもそんなものに振り回されるとは情けないことだ。(2007年8月1日)







 民主党の鳩山幹事長は、参議院の議長の人事を聞かれたとき、それは小沢さんに聞いてみますと答えた。民主党が如何に小沢氏一人に依りかかった政党であるかが、これを見ても分かる。

 テレビに出演した民主党の議員たちの語ることもまた小沢氏のいう事とそっくりだ。民主党は小沢氏の個人商店なのである。先の国会で与党の法案に何でも反対したのも小沢氏の指示だった。ここに民主党の大きな弱点がある。

 その民主党の議員たちがこの勝利に驕り高ぶるばかりなのはどうしたことだろう。彼らは「勝ってかぶとの緒を締めよ」とか「驕る平家は久しからず」という言葉を忘れたのだろうか。

 勝負事はしばしば人の本性をさらけ出す。負けた自民党を見よ。誰一人恨み言をいう者はいない。マスコミの報道がおかしかったとか、逆風で負けただけだと強がっても良さそうなものだが、誰もが神妙な面持ちで、謙虚な態度に終始している。

 一方で民主党は、たかが60議席で大喜びである。自民党が参議院選挙で勝った時はいつも取っている65議席前後を取れなかった事を反省することなど思いもよらない。民主党はまだまだ野党気分が抜けないようである。(2007年7月31日)







 テレビでプロ野球中継を見ていると、自分の好きなチームがチャンスでいつも凡退して中々得点できない。ところが、自分がテレビを見ていないとヒットを打って得点することが多いのだ。

 また、自分がテレビをつけた途端に相手チームがホームランを打つことがよくある。そこで、どうやら自分がテレビを見ていない方が贔屓(ひいき)チームが得点して勝つらしいことが分かって来た。

 つまり、球場から遠く離れた家のテレビで自分がプロ野球を見ないという事と、贔屓チームが勝つということは、相当の因果関係があるとしか思えないのである。

 これと正反対なのが選挙である。自分が誰かに投票することと、その人が当選するかどうかはあまり関係がないのだ。選挙には風とか組織とかいうものがあって、それを操作する人たちが自分とは関係のないところで結果を決めてしまっているらしいのである。

 実際は、プロ野球の場合には、自分が家で何をしようがチームの勝ち負けとは関係ないはずであり、選挙の場合には、自分の投票行動が選挙結果に直接関係するはずなのだ。しかし、どう見ても逆にしか思えないのである。(2007年7月30日)







 こんどの参議院選挙で、民主党が参議院の第一党になり議長も取れそうだという話だ。これまで戦後政治の歴史の中で、こんなことは一度もない。もしこれが実現すれば、まさに広義における「戦後レジームからの脱却」となる。

 例えば、二大政党制のアメリカでは、大統領の与党が議会で少数であることは珍しくない。だから、二大政党制になれば、二院制の一方で与野党が逆転していてもおかしくないのである。

 しかし、アメリカではそのために大統領の提案が議会でことごとく否決されるようなことはない。議会は議会としての役割を果してきたのだ。つまり、参議院で与野党が逆転すれば、参議院の良識がいよいよ問われることになるのである。

 例えば、この機会に、参議院は党議拘束をなくして、誰の指図にも依らずに、与野党の法案を是々非々で審議して、党利党略による反対をなくしていけば、独自の審議機関としての権威を手にすることが出来る。

 しかも、そうなれば、参議院選挙で衆議院議員が走り回るという奇妙な現象はなくなり、参議院は参議院だけの選挙となり、誰のスキャンダルに目を眩ませられることなく、しっかりと政策を考える選挙になるはずで、実にいいことずくめなのである。(2007年7月29日)








 かつて小泉前首相が参議院で法案が否決されたことを理由に衆議院を解散するのは邪道だと言われた。それなら、今度の参議院選挙で与野党が逆転したら衆議院を解散すべきだというのも邪道であろう。

 政府与党は、参議院選挙で負けたからといって衆議院を解散して国民の信を問うて、仮に総選挙で勝っても野党の多い参議院が屈服させることはできない。それは単に野党に政権交代のチャンスを与えるだけのことであり、あまりにお人好しということになる。

 それより問題なのは、参議院選挙で与野党を逆転させることで衆議院を解散させて政権交代を目指している小沢民主党の姿勢である。これでは、参議院選挙は衆議院選挙の前哨戦でしかないではないか。

 今でさえ、参議院は衆議院の議決の追認機関でしかないとか、衆議院のカーボンコピーとか言われているのに、小沢民主党は参議院を衆議院の政権交代の道具にしようというのだろうか。

  これこそまさに参議院軽視であり、ますます参議院の存在意義を失なわせるものに他ならない。(2007年7月28日)






 最近の新聞の投書に「一度民主党に政権をゆだねたらどうだろう、それで駄目ならまた選挙で選び直せばいい」などと書く人がいるのを見つけた。今度の参議院選挙によって与野党間の政権交代があると早合点しているのだ。

 しかし、参議院選挙は首相を選ぶ選挙ではない。政権交代があるとしてもそれは自民党の中だけのことである。民主党の中には、参議院を取れば政府を衆議院解散に追い込めるという人もいるが、その道筋をはっきり描いているわけではない。

 また、そんなことをいう民主党の議員はみんな衆議院議員である。小沢氏も鳩山氏も参議院議員ではない。民主党が参議院を支配しても、参議院議長に小沢氏がなるわけではないのだ。参議院が彼らの言いなりになると思うのもまた早合点であろう。

 民主党の参議院議員たちは今度の選挙で勝てば勝つほど発言権が増す。「俺たちは小沢の操り人形ぢやない」と言い出すことも大いに考えられる。彼らが「本来の参議院の姿を取り戻そう」と言い出したら、民主党の衆議院議員たちの思惑通りには行かなくなる。

 かつて小泉前首相は衆議院選挙を使って参議院を押さえこんだが、参議院選挙を使って衆議院をひつくり返すという小沢氏の目論見は果して実現するだろうか。(2007年7月27日)








 現代は先生と呼ばれる職業の人たちの受難の時代である。学校の先生しかり、政治家しかり、今や医者も御同様の憂き目に会っているらしい。

 昔の医者は尊敬される職業だったが、今の医者はサービス業である。患者は客であり、医者は客の希望に沿った治療をしなければならない。治療法の選択権は患者にあり、患者の承諾無しに勝手な医療を選択することは許されない。

 これは患者が消費者としての地位を確立し、市場の論理が医者と患者の間にも適用されるようになったということであろう。

 医者は患者を治して当たり前、治せずに死なせたら逮捕される可能性もある。それは、役人や企業の責任者が、事故を防ぐために万全を尽くさなかったとして刑事告発されるのと同じである。

 その上に、昨今の医療制度改革だ。医療費の削減と株式会社の参入である。これによって医者は黙っていても儲かる仕事ではなくなり、自分で開業でもしない限り、サラリーマンとして一生働くことになった。

 せつかく勉強して医者になり、患者を消費者として扱うことにも慣れたのに、今度は商才がなければ死ぬほど働くしかなくなったのである。

  そして、こんなのは嫌だと医者たちが逃げ出したのが、今の医者不足なのである。(2007年7月26日)







 男女平等思想に踊らされて「働く女性」になった女たちは、自分たちにろくな未来が待っていないことを知らない。男並みに仕事が出来るようになる頃には三十路も半ば。もう結婚相手はいず、すぐに四十。子供を作りたくても作りにくい年齢に突入してしまうのだ。

 そうなればもう世の中は女として扱ってくれない。尼さんと同じなのである。つまり、職業婦人になるということは、尼さんになるということだと覚悟していなければならないのだ。

 昔は親がお膳立てした見合い相手と結婚するのが普通だった。もっと昔は親が勝手に決めた相手とまるで人身売買同然の結婚をさせられた。いま恋愛こそ結婚の条件と信じている女たちから見れば不幸なことに見えるだろう。しかし、自分の好き嫌いを尊重させてもらうことの方がもっと不幸なことであることにそのうち気が付くのである。

 「働く女性」にバラ色の未来はない。結婚しても中途半端、子育ても中途半端。そうなりや仕事も結局中途半端。もちろん、中には社長になったり、大臣になつたりする女性もいる。しかし、それが本当に女としての幸福なのか。それをよく考えた上で「働く女性」を選択すべきだろう。(2007年7月25日)







 民主党が参議院選挙に勝って、内閣を国会解散に追い込めば民主党政権が誕生するという話がある。これが本当に二大政党による政権交代なら歓迎すべきことだろう。

 しかし、問題はいま小沢氏が仕掛けている政権交代は、かつて熾烈を極めた自民党内部の政争の匂いがぷんぷんすることである。もし自民党から大量の造反議員を出して内閣不信任案を可決するなら、それは細川内閣誕生の時の解散、もっと古くは大平・福田の40日抗争の果てのハプニング解散と同じなのだ。

 かつての自民党は政権の座を賭けて党の内部で何でもありの政争を行なったものだ。今度の参議院選挙がかつてない中傷合戦になっているのは、民主党の党首が元自民党であるからに他ならない。

 そして、このままで政権交代が起っても、政権の座は自民党から元自民党に移るだけであり、中選挙区制時代に自民党内部で行われた政権交代が姿を変えたものでしかないのである。

 二大政党による真の政権交代が実現するためには、民主党は自民党とは全く異なる支持基盤と政策を持つ政治家を党首にして、堂々と総選挙に勝って政権を奪取しなければならはずである。(2007年7月24日)







 大相撲は他流試合でなく身内の戦いである。そのため、誰かの昇進がかかって来ると、人の出世は邪魔しないという日本的なモラルが働きがちである。

 先場所の白鵬の場合もそうだったが、今場所は最初から琴光喜の大関昇進場所という設定が出来上がっていた。そのため、彼と対戦する力士からは普段の何でもありの姿勢が見られなかったように見えた。

 それは、逆に琴光喜の大関昇進が決った後の相撲からもいえることでもある。千秋楽に対戦した稀勢の里は、相手の優勝までお手伝いする必要はないと、琴光喜の親御さんの目の前で相手を思いさま土俵に叩き付けたのだ。

 今場所は普段通りにとっている朝青龍でさえ、琴光喜と対戦した日には、自分に有利な体勢になったにもかかわらず、いつもと違って暫く動かなかった。まるで、このまま勝っていいのかと躊躇しているかのように。

 同部屋力士の優勝決定戦の場合はもちろんだが、別の部屋の力士同士の場合でも、昇進がかかると相手の不調が明らかでない限り大人しい相撲をしてしまう。これが日本の大相撲の悪いところであり、良いところでもある。(2007年7月23日)







 今度の参議院選挙で民主党が勝てば政治が大混乱するとか政権交代につながるとか色々言われている。しかし、政府与党が衆議院で3分の2を持っている現状では、参議院が無力化に追い込まれる可能性もある。

 民主党が参議院を支配することになれば、衆議院を通った法案は全部廃案になると言われているが、予算案は参議院の議決を必要としないし、他の法案も参議院での廃案=否決と見做して60日後に衆議院で3分の2の多数で再議決すれば成立する(憲法59条)。

 つまり、この参議院選挙で与党が負けて安倍さんが辞める辞めないにかかわらず、政府与党は次の衆議院選挙までの二年間に二度の予算案を参議院なしで通せるし、再議決をうまく活用すれば、通したい法案を通せるのである。

 そうして二年間を粛々と過ごせば、その間、参議院は何も出来ない。参議院はあってなきがごとき存在となり、日本は二院制だが事実上の一院制になってしまう。

 そして、この国の政治は参議院なしでも立派にやっていけることが証明されれば、国民は参議院が無くてもいい事に気付き、参議院廃止論が活気づくやもしれない。こう考えれば、この参議院選挙で民主党が勝つのも悪くないと思えてくるのだ。(2007年7月22日)







 『時計仕掛けのオレンジ』にロシア語が出てきたことからロシア語の辞書と『ゼロから始めるロシア語』という本を買って来て、一通りやってみた。

 この入門書は巻末に単語帳が付いていなかったり、発音表記のない新語がいきなり出てくるなど、初心者に親切とはいえず、カタカナ発音付きの辞書が必要だが、内容的には充分なものらしい。

 最初は、ロシア語の発音を気にせず基本テキストも無視して主に文法だけを最後まで読んで全体像をつかみ、二回目は練習問題を無視してテキストと例文を通して読み、三回目は単語のチェックをしながら主にロシア語の部分だけを読み通した。

 結局、練習問題はやらずに、次は『ロシア語初級読本』である。この本は前半では文法事項と基本的な単語の確認をするためのやさしい文章が、後半はドストエフスキーやトルストイなどロシアの文豪の文章が抜萃して収められている。

 例えば、第1課は同じ名詞を六回使った文章で、ロシア語の六つ(!)の格変化が確認できるようになっている。注釈には基本的な動詞の人称変化が丁寧に説明してあり、さらに訳文まで付けて、まさに初心者向けの作りでいる。

 後半になると第27課で待望のドストエフスキー『罪と罰』の冒頭の一文を訳文付きで読むことが出来る。ここでも注釈では変化形の元の形がいちいち説明してあって、辞書を引く手間は必要だが、初心者に細かい配慮が為されているようだ。
 
 ところで、ロシア語のこの複雑な格変化はイタリア語の前身であるラテン語以上である。これは他のヨーロッパ諸国の人たちがルネサンスでやった言語の俗語化=民衆化をロシア人がやらなかったためではないか。

 日本人も現代では古文の伝統を引き継いだ文語を使うのをやめて、複雑な文法を簡略化してしまったが、ロシア人はきっと昔のままの複雑な言語を延々と使い続けているのだと思う。(2007年7月21日)







  新聞はインターネットの匿名性をしきりに攻撃する。そしてインターネットには無責任なウソ情報が溢れているというのである。

   しかし、そんなことをいう新聞の情報はどうだろう。こちらも匿名ではないのか。最近の新聞はどうでもいい記事は署名記事にするが、スキャンダルを曝いたりした時には決って匿名である。

 久間元大臣の原爆についての諦めの言葉を容認発言だと最初にウソを書いた記者は誰なのか。赤城大臣の親に息子にとって不利になる発言させて、合算を無視して架空計上とウソを書いたのは誰なのか。

 どれも誰だか分らない。これではインターネットの掲示板と同じではないか。情報の信憑性に自信があるなら、誰が書いたのかをちゃんと明示すればよい。ところが、新聞は言い出しつぺの名前を隠して世論を誘導するのである。

 新聞の記事は新聞社の名前があるから匿名ではないというかも知れない。それなら、ネットの掲示板もアドレスがあるから匿名ではないともいえる。現に犯罪予告を書き込んだ者は逮捕されている。

  インターネットの掲示板の匿名性を批判できるほど、新聞は立派なことはしていないのである。(2007年7月20日)







  プロ野球の結果をインターネットで知ることが出来るようになってからは、テレビのニュース番組でプロ野球の結果を見ることがなくなった。

 テレビのニュースでは試合の結果を先に知らせずに気を持たせるやり方をする。我々が知りたいのは結果なのだ。ところが、テレビはそれを知りながらすぐに教えようとしない。勝ったのかと思ったら負けていた、というような編集をするのである。

 他の番組でもそうだ。知りたい気持をしきりに煽っておいてから、さあというころでCMを挟む。知りたかったらCMを見ろというのである。そんなやり方をされると当然チャンネルを変える。馬鹿にするな、そんなことは知らなくてもいいのだと。また、クイズ番組では答をCM明けまで待たずに、その前にインターネットで調べてしまう。

 こうした現象は、なにもテレビ番組に限った事ではない。情報をマスコミに管理されたくないという気持が、インターネットの出現で我々の中に芽生えたのである。

 だから、どんなニュースが出ようと、インターネットで事の真相を自分で確認するまでは、マスコミのいうことを決して信用しなくなったのである。(2007年7月19日)







 新聞がしばしば間違ったニュースを流す。いや嘘を書く新聞さえある。ところが、一旦それで世論が出来上がってしまうと、もうそのニュースを修正することが出来ないのだ。

 久間氏は歴史の流れの話をしたにもかかわらず、どこかの記者が原爆投下を容認と書いたら、それはそのまま全紙の論調になってしまう。赤城大臣が事務所費を架空計上と書いたら、同じように全紙が赤城氏を批判して領収書を出せという。

  誰かが途中で軌道修正するということが、日本の新聞界には出来ないのである。あの記事はどこの新聞社の誰が書いたことであって、当社は独自に調べたが違う見方だとはなかなかいえないのだ。

 新聞界とは書いた者勝ちの世界なのだ。だから、たとえ別の新聞がニュースの間違いを指摘しても、世論の流れを変えることは出来ない。むしろ他紙に遅れるなという意識の方が先に立って、付和雷同してしまうのである。

 間違ったニュース・嘘のニュースを出す新聞社も、あとで記事の信憑性に疑問符がついても決して謝罪して訂正したりはしない。こういう訳で、新聞の書くことの半分は嘘で半分は間違いということにならざるを得ないのである。(2007年7月18日)








 ロシア語は、既に英語を学んでいる人、ローマ字の読み方を身に付けている人には、とても学びにくい言葉である。というのは、ロシア語のアルファベットは、英語と違うだけでなく、同じ文字を使って違う発音をするからである。

 例えば、ロシア語ではHをNと思って発音しなければならない。だから、HOは「ホー」ではなく「ノー」と読む。また、Cで英語のSの音を、PでRの音を、YでUの音を、XでHの音を表わす。だから、例えばTyは「ティ」ではなく「ツ」と読み、Coは「コ」でなく「ソー」と読む。

 PをRの音に使ってしまったので、Pの音にはギリシア語のΠ(パイ)を持ってきた。ではロシア語にはRはないのかというと、それは裏返しにしてЯという形で出てくる。これが何故か母音扱いで「ヤ」と読むが、初心者はついつい「ル」と読んでしまう。

  Nも裏返しのИになって登場する。こいつはI(アイ)の音を表わして「イー」と読むのだがついついNと読んでしまう。

 英語のLに当る音はギリシア語のЛ(ラムダ)で表わし、Dは同じくД(デルタ)で表わす。ところが、この二つの形は非常によく似ているのですぐに読み間違える。

 ロシア語にもBはあるが、これはVの音を表わす。では英語のBに当るのは何かというとBの上が欠けたБだ。その小文字はбなのだが、これはギリシア文字のδ(デルタの小文字)とそっくりなので、ついつい「ディー」と読んでしまう。

 Eは「イー」ではなく「ィエー(!)」と読む。だが、それはアクセントのある時で、普通は「ィ」と読む。そこでついつい「ィエー」と読むのを忘れてしまう。

 Oはそのまま「オー」なのだが、それはアクセントがあるときだけで、普通は「ァ」と読まなければいけない。ところがついつい「オ」と読んでしまうだ。

 Юという変な文字もあるが、I+Oで「イオー」かと思ったらOとは関係なく「ユー」と読む。Ёという文字はEに似ているのに今度は「ヨー」と読む。「ユー」と「ヨー」で紛らはしい事この上ない。

  ロシア語にはΥによく似たЧという字もあって「チ」と読むのだが、この二つもよく見間違う。

 そんなわけで、ロシア語は文法どころか文を音読するだけで既に難解な言語なのである。そしてすらすら音読が出来なければ黙読も出来ず、多くの人はドストエフスキーの原書などは遥かかなたの段階で挫折してしまうのである。(2007年7月17日)







 日本の選挙の特徴は、与党対野党の戦いではなく与党対マスコミの戦いであることだ。国民は野党の政策がよいから野党に投票するのではなく、与党に不満だから野党に投票するだけなのである。

 したがって、政権側はまずマスコミに勝たなければならない。小泉前首相がマスコミ批判を続けたのはそのためであろう。

 ところが、安倍首相はそうはしなかった。マスコミが言い出した格差社会論を、小泉氏は相手にしなかったのに、安倍氏は受け入れて再チャレンジなどと言い出した。

 安倍氏はあくまで善意から格差是正に乗り出したのだが、格差論を政権に対する攻撃手段と見たマスコミの悪意にとっては、格好の餌食になってしまったのだ。

 その結果、マスコミが失言だといえば失言になり、マスコミが疑惑だといえば疑惑になり、首相の発言がテレビキャスターや新聞記者に平気で遮られるという、マスコミ主権の状況が出来上がってしまったのである。

 政府ではなくマスコミの言い分ばかりが通るこのような状況になってしまった以上は、政府与党が選挙で苦戦すいのは当然のことなのである。(2007年7月16日)







 体にアルコールが入ると運動神経が鈍くなって運転技能がこんなに落ちると、よくテレビで放送されたりする。しかし、酒気帯び程度の男性ドライバーとへたくそなおばちゃんドライバーとでどちらが運転が下手かといえば、おばちゃんの方だろう。

 実際、車をバックで車庫に入れられない女性にも、交差点で右折が出来ない女性にも免許は与えられているのである。そんな女性が免許をもらって公道を走っているのだから、危険な事はこの上ない。

 へたくそな女性ドライバーはゆっくり走るからそんなに危険ではないというなら、酒気帯びドライバーでもゆっくり走っていれば罰することはないはずだ。

 もともと、酒気帯び程度で取り締まるのは、酔っぱらい運転を防止するために予備的に設けられたものだろう。ならば、そんな予備的なもので人を懲戒免職にしたりするのは行き過ぎだと考えるのが、理性的な対応ではないのか。

 少しでも危険なら何でも罰するというのなら、免許証を与える段階から規準を厳しく設定すべきである。ところが、実際は交通標識の漢字さえ読めない人間にも免許を出しているのだ。全く本末転倒である。(2007年7月15日)







 高層住宅に住むのは恐ろしい。簡単に自殺ができるからである。二階建ての家なら窓から飛び降りても骨折するだけだが、高層マンションなら上の方から落ちたら即死である。だから、わざわざ高層マンションに住む人の気がしれない。

 人間と他の動物の一番大きな違いは自殺することである。特にうつ病になると死にたくなるが、失恋しても死にたくなる。うつ病は働きすぎの人がなるが、失恋なら怠け者でもなる。誰でも自殺の可能性はあるのだ。

 だから、景色がいいからとか、高い方が高級だとかいう理由で高層マンションなど買わない方がよい。

 高層住宅は日本では戦後のものだが、ヨーロッパでは昔からあった。あれは城壁に囲まれた都市の狭い土地に多くの人間が暮らすために考えられたものだろう。本来横に広がるべき家の並びを縦に積み上げた結果なのである。

 だから、城壁に囲まれていない日本の都市には本来高層住宅は必要ないのだ。ところが、都会の高層マンションに住みたい人たちが沢山いて、高層住宅が林立するようになった。そのために日本の自殺者の数も増えてきた、かどうかは知らない。(2007年7月14日)







 東京新聞が7月9日に参院選前の内閣支持率と獲得議席には相関関係があるという記事を出した。

 98年の選挙では橋本内閣の支持率が35%だったので44議席だった。01年は小泉内閣の支持率が72%だったので64議席。04年の小泉内閣の支持率は44.4%だったので49議席にとどまった。だから、安倍内閣の支持率が33.5%に下がった今回の選挙での苦戦は必至だ、というものである。

 ところが皮肉なことに、翌日に東京新聞が発表した世論調査では、安倍内閣の支持率は44.2%に跳ね上っていたのだ。これに困った東京新聞は、見出しには不支持率を書いて、支持率の方は記事の中に、安倍内閣の不支持率は「53・4%で、『支持』の44・2%を10ポイント近く上回った」と目立たぬように書いたのである。

 産経新聞の阿比留記者は記者ブログの中でこのことを指摘して、そのやり方に疑問を呈している。しかし、もし東京新聞の「法則」通りなら、自民党は48議席ぐらいは獲得できることになり、苦戦の安倍内閣にとってはまことに目出度いことである。(2007年7月12日)







 赤城大臣の「事務所費疑惑」について各新聞は「領収書を出せば済むことだ」と頻りに書いている。彼らは国会議員のいうことは信用できないが、領収書なら信用できるというのだろうか。

 しかし、国民の選んだ国会議員の言葉を信用できないマスコミに、誰が書いたか分からない領収書を信用できるわけがないのだ。

 民主党の小沢氏は自らの政治資金疑惑を晴らすためと称して領収書を公開したが、そのコピーも写真もとらせなかった。領収書の詳細な検討を拒否したのである。

 しかし、野党の党首だからそれで済んだのであって、大臣なら何故コピーを取らせない、疑惑は消えないと言い出すのは間違いない。そして、もしコピーを取らせなどしたら、鵜の目鷹の目であら探しをして、新たな疑惑が浮上などと言い出すことは必定である。

 元々この「疑惑」は、新聞記者が「実家を事務所として九千万円もの経費を計上」と、他の事務所との合算の事実を全く隠して報道し、さらに両親から息子にとって不利な発言を引き出すなど不自然な形で作られたものだ。

 新聞社は自分たちの落ち度を認めて、いい加減に矛(ほこ)を収めるべきだろう。 (2007年7月12日)







 民主党の小沢代表は、今回の選挙で民主党が勝てば農家に所得保障するとか高校の授業料を只にするとか、大甘の公約を並べているが、新進党の代表だった時の衆議院選挙でもそうだった。

 あの時も消費税の5%への増税を公約にして逆風だった橋本自民党に対して、勝てば大幅減税をすると頻りにテレビCMを流して自信満々だったが、勝てなかったものだ。

 今回の選挙でも逆風の安倍自民党に対して小沢氏は自信満々で、負ければ引退するとまで言い出した。

 しかし、この選挙は参議院選挙であり、勝っても首相になれるわけではない。しかも、参議院を支配するだけでは、目指す法案が一つも通らないのは自民党と同じである。

 小沢氏は政界再編などと言っているが、では自民と民主のどちらが割れるというのか。結局、民主党は次の衆議院選挙まで自民党と協力しなければならないはずで、自民党と連立することもあり得るのだ。今は口が裂けてもいえないだろうが。(2007年7月11日)







 赤城農水相の政治資金に関して盛んにニュースになっているが、いったい何が問題なのかさっぱり分らない。

 最初は、実家が事務費でないのに計上していると決めつけて報道していたが、本人に架空でないと言われると、今度は一億円を何に使ったか領収書を出せと言いだした。しかし、領収書保存の義務は今度の法律から。10年前の領収書をどうやって出せというのだ。

 別の新聞は、改正された政治資金規正法でもこの経費は問題にならないと分ると、この法律が悪いと八つ当たり。また別の新聞は妻の実家も事務所費に計上と書いたが、そもそも家賃の掛からない実家を事務所にして何が悪いのかもまったく分らない。

 そもそも赤城大臣は毎年の事務所費とその内訳を公表しているが、それはろくに報道せずに、勝手に足し算して一億などというのだから、領収書を出してもまた難癖を付けられるのが落ちだろう。

 読売新聞や産経新聞はまともな新聞だと思っていたが、最近のニュースに関しては出鱈目な政府批判を繰返している他の新聞とまったく同じだ。この国には信頼できる新聞は一つも無いのかと思うばかりである。(2007年7月10日)







 政治家の家に行って「何々新聞です」と言って名刺を出せば、大抵は新聞記者だと思って、手厚くもてなしてもらえるものだ。赤城農水相のご両親もそうだったのだろう。

 座敷に上がった新聞記者は、出されたお茶を飲みながら世間話を始める。そのうち頃を見計らって「ところで、こちらは大臣の事務所になっているんですか」と聞くわけだ。両親は事務所というのは政治資金規正法が指す事務所のことだとは思ってもみないから、「いいえ、事務所だなんて。私らが二人で住んでるだけですよ」などと答える。

 「じゃあ、息子さんからは家賃ももらっていらっしゃらない」「当たり前ですよ。そんなものもらうものですか」。これで大臣が事務所の家賃を払っていないことになったのである。

 そうやって新聞記者が帰ったあと数日経って、両親は自分たちの発言のせいで息子にスキャンダルが持上がっていることを知ってあっと驚くのだ。ご両親はまんまと記者に騙されたのである。

 新聞記者に親切になんかしたら、こんな目に遇うといういい例である。桑原桑原。(2007年7月9日)







 テレビのニュースなどを聞いていると「~ということが分かりました」という表現が頻繁に使われている。しかし、これは不正確であって実際は誰かがそういうこと発表したということに過ぎない。

 例えば何かの事件についてなら、大抵は警察が発表したことであって、報道機関はそれをそのまま読んでいるにのだ。だから、本当は「警察が~と発表しました」というべきなのである。なぜなら、警察が事実だと思って発表したことが必ずしも事実でないことはよくあることだからである。

 また、新聞やテレビ局が調べて記事にしたことなら、「何々新聞が発表しました」とすべきなのである。それが事実であるかどうかは分からないし、たいていは事実ではない。

 ところが、多くの国民はニュースを見ると、特定の視点から作られたニュースを厳然たる事実であると思いこんでしまうようだ。しかし、これはマスコミの言い方に騙されているのである。

 したがって、我々はどんなニュースを耳にしても、「ああ誰かがそんなことを言っているんだな。事実は違うんだろうな」と思うようにすべきなのである。(2007年7月8日)







 部屋のカーテンを洗濯しようとはずしてみると、カーテンをつるしてレールの中を走る部品が真つ黒である。それは、よく開く窓の部分に集中している。明らかに戸外の車の排気ガスによる汚れである。

 大阪の御堂筋で路上喫煙を禁止するそうだが、もし空気の汚染を問題にするなら車の通行を禁止した方がよい。車の排気ガスがもたらす空気の汚れはすさまじいものがある。

 東京では車の排ガスによるぜんそく患者が集団で裁判を起しているが、間接喫煙によって病気になった人たちが集団訴訟を起したという話は一向に聞かない。車の排ガスに比べたらタバコの煙などきれいなものなのである。

 それなのに、屋内の喫煙は禁止、外へ出た喫煙も禁止だ。その側を、健康被害を起す大気汚染の張本人たる自動車がぶんぶん走っているのに、そちらはお構いなしである。

 もちろん歩きながらのタバコは危険だろう。だとしても、歩きタバコによる傷害事件が起きたという話も寡聞にして聞いたことがない。要するに、これは理性的な判断に基づく禁止ではなく、「流れ」に乗りたがるお調子者の仕業に過ぎないのだ。(2007年7月7日)







 小沢代表が次の参議院選挙で野党が過半数に届かなければ辞任すると言ったそうである。

 参議院の総定数は242だから、過半数は122。いま与党は133である。ということは、公明党の議席数が変わらないとして、野党が過半数をとるには民主党が自民党の議席を13減らせばいいことになる。

 民主の改選議席は32だから、他の野党が同じなら、たった13議席増の45議席で小沢氏の首は繋がることになる。以前に小沢氏は民主で55議席以上とるのが目標だと言っていたのだから、ここに来て大幅な下方修正ということになる。

 しかし、45では民主は全部で94(非改選49)で、自民は97になるから、参議院で第一党になれない。議長は第一党が出すのが慣例だから、民主は議長を出せないことになる。

 つまり、民主党が参院を牛耳るためにはもう2議席必要ではないのか。それとも、小沢氏は2議席ぐらいは他の野党が取ってくれると考えているのだろうか。(2007年7月6日)







 久間発言に対して海外の反応はどうかと英語のニュースを検索してみたが、東京発のものばかりである。この発言をけしからんとする海外の政治家などのコメントが出たという記事は見つからなかった。

 やはり、この騒動は完全に人の言葉尻だけを捕らえたものだから、それについては何とも言いようがないのだろう。英語に訳せば「しょうがない」は inevitable でしかなく、このどこがまずいのか全く理解不可能なのに違いない。

 日本のマスコミは、久間氏本人が原爆の使用を容認するつもりはないと弁明しても、もう聞く耳持たずで、理性はどこかにふつとんでしまい、久間が言った久間が言ったと大合唱するだけである。これでは議論も何もあったものではない。

 アメリカ政府のスポークスマンは「これは日本の国内問題である」と言ったというが、そのとおりで、原爆投下を認めないぞと井の中の蛙たちが井戸の水をいくらかき回したところで、それが外の大海にどんな波を起すわけでもないのである。

 毎日新聞は社説で「久間氏の発言で、核兵器廃絶を訴える日本に対する国際社会の信頼は損なわれた」と調子に乗ったことを書いているが、国際社会の誰がそんなことを言ったというのだろうか。(2007年7月5日)







 俳優の三田村邦彦がデビューしたての頃に新聞記者に呼ばれて、「僕たちが君を悪い人だと書けば悪い人になる。いい人だと書けばいい人になるんだよ」と教えられてびっくりしたとテレビで話していたことを覚えている。

 「そんな馬鹿な。僕は僕なのに」と思ったというが、後に彼もマスコミの恐ろしさを知って、その通りなのだと納得したということである。

 「原爆投下は仕方がない」と言った人はこれまでにいくらもいて、その中には以前の長崎市長や昭和天皇まで含まれるという。ところが、同じ発言で久間氏一人がマスコミによって悪人にされてしまった。

 いかにマスコミの報道がいい加減なものであり恐ろしいか、そしてこんなインチキ報道にころっと欺される世論がいかに頼りないものであるかが、今回の出来事からもいやというほど明らかになったといえよう。

 安倍政権には何ら大きな失政が無いにも関わらず、安倍首相本人もマスコミによって悪人にされてしまっているのが現状である。この状況を見ていると、ロシアのプーチン大統領が報道機関の支配に力を入れたのは、ある意味で正解だったと言わなければならない。(2007年7月4日)







 人の集まりの話を立ち聞きしておいて、よそへ行って「あの人がこんなひどい事を言っていましたよ」と言いふらす人間は下の下であるというのが世間の通り相場である。ところが、そういうことを商売にしている人たちがいる。新聞記者である。

 久間大臣は大学生を集めて歴史の話をしただけなのだが、歴史の真実などには興味のない彼らは、「これはしめた」と被爆者団体などにご注進に及んだ。すると相手も「そんなことを言ったのか、けしからん」と怒った振りをして見せる。

 もちろん相手も左翼団体であるから、選挙前であることも手伝って両者でやいのやいのと言いつのることになる。ニュースでこればっかり流す放送局も出てくる始末だ。

 そんな報道機関には、選挙を政策判断の場にする気などさらさらなく、人気投票の場になろうと知ったことか、これで野党の票が増えたら万々歳という意図が見え見えだ。

 実際、安倍首相の人気は下がる一方で、それを支持率と名付ければ「政権は危険水域」という立派な解説が成り立つ。この有り様に、政策や実績よりも民主主義ではやはり人気取りの方が大切なのかと安倍氏の悩みも深いことだろう。(2007年7月3日)







 第二次大戦末期にアメリカが日本に原爆を使用したのはソ連の参戦を防ぐためだったのは今や定説であり常識である。それに対して、日本は公式にアメリカを非難したことはない。
 
 つまるところ、みんな「しょうがない」と思って戦後60年を過ごしてきたのである。

 もし本当にどんな理由でも原爆を使うべきではなかったというなら、それはアメリカにいえばいい事である。ところが、左翼団体や被害者団体は今回の久間発言に対するように、それをひたすら政府に対する攻撃材料にしてきた。

 「従軍慰安婦」についても同じことだ。これが捏造であることは最早どの新聞社も知っていることである。それにもかかわらず、アメリカ議会から公式謝罪を要求されそうになって、彼らが批判したのは日本政府なのだ。

 左翼団体は決して正面から外国と喧嘩しようとはしない。自国が不利な状況に置かれたらその責任は日本政府にあると反政府運動をしてきただけである。

 こういう彼らの姿勢からいえることは、彼らには当事者意識がなく、いわば常にこの国にお客さんつまり食客として生きて来たということだけである。(2007年7月2日)







 三年毎に行れる参議院選挙では野党の得票率が高くなるのが普通であり、これは国民が政府与党にお灸をすゑるために与党の支持者でも野党に投票する傾向があるからだという。

 元々参議院は青島幸男で知られる二院クラブなどがあって庶民の目線からの政府に対するささやかな反乱の場としての意味合が濃く、自民党はだいたい過半数を取ってずっと安泰であった。

 ところが、1989年(平成元年)に消費税で自民が大負けして首相が退陣してから、政局が絡むようになってしまった。そうなるともはや二院クラブのような存在は意味が薄れ、参議院は衆議院と変わらない政争の場になってしまった。

 さらに、参議院は三年ごとの改選のため、自民が一気に議席を回復することが出来ずにいることも手伝って、野党は今やお灸をすゑるどころか、首相の首を取ろうと必死になっている。

 しかし、参議院の歴史を振り返れば、戦後すぐの頃の政府与党は過半数に遥かに遠い議席しかなく、1956年(昭和31年)でも過半数を取れなかった。それでも政府はやっていけたのである。

 だから、今度の参議院選挙でも何かが大きく変わるはずはなく、国民はマスコミや政治家にあまり踊らされないようにするのがよいのかもしれない。(2007年7月1日)








 テレビの『鬼嫁日記 いい湯だな』には色んなパロディが仕組まれていたが、モデル役のえびちゃん(蛯原友里)が中国語会話のテレビ番組に生徒役で出ているという設定もその一つだった。

 実際、NHK教育テレビの外国語会話の番組はこのところ色んな美男美女タレントが生徒役で登場する。以前、吉岡美穂がイタリア語会話に出ていた時は、私も釣られてイタリア語の勉強したものだ。今年の目玉はロシア語会話に出ている小林恵美だろうか。

 しかし、モデルやテレビタレントになるような美人は学生時代には勉強が不得手なのが普通で、『鬼嫁日記』でもえびちゃんが番組で喋らされる中国語会話を丸暗記するのに悪戦苦闘しているところが描かれいて、実際のタレントたちの苦労を偲(しの)ばせてくれた。

 このように学生時代に勉強が苦手でも大人になって仕事をするようになれば否が応でも勉強させられる人もいるが、一方で学生時代に頑張っても大人になって仕事のない人もいる。親は子供の勉強にあまり心配する必要はないということではないか。(2007年6月30日)







 被害者の遺族の主張は最大限に尊重しなければならないと、新聞社の内部マニュアルに書いてあるかどうかは知らないが、報道を見るとそう思うしかない。

 刑事事件の被告の弁護士は被害者の遺族には耐え難いことを主張するが、それは仕方のないことである。なぜなら、それが仕事だからである。

 JR福知山線の脱線事故はどうやら運転手のミスのために起ったらしいのだが、会社の責任にしなけらば被害者の遺族の納得が行かないので、会社の日勤教育が原因だと事故調は精一杯の配慮をして見せた。

 遺族にしてみれば、ATSの設置遅れなどが原因だと会社の経営責任を問いたいのだが、他の運転手は同じ条件のもとで事故を起こさず運転をしている以上、事故調がそれらを原因といえないのは仕方がない。これも仕事なのである。

 人にはそれぞれの仕事があり、それが被害者の遺族にとって有利なことであるとは限らない。しかし、そうは言わないのもまた新聞の仕事であり、そのせいで多くの国民には被告側弁護士も事故調もさぞ冷血漢に見えることだろう。(2007年6月29日)







 ミンチは牛だけより豚を主にした合い挽きミンチの方がおいしい。牛だけでは癖が強すぎるからである。しかも、牛には強烈な匂いがあるから、牛は少しでよい。

 それを入れたコロッケをどう名付けるか。「合い挽きコロッケ」よりは、牛肉の味がするなら「牛コロッケ」でいいではないか。

 しかし、牛コロッケと名前が付いているのに、成分表示に合い挽きミンチ使用、しかも豚の方が多いとなっていたら、牛コロッケという名前が嘘になる。だから成分表示の方は適当である。

 そうやって売った牛コロッケは大人気だった。うまいものはうまいのである。ところが、元社員というのが出てきて余計なことを言い出した。牛コロッケとは名ばかりだと。

 それを聞いたお役所の方は、人気の商品にケチを付けるとは無粋な奴だ、おかげで税金も沢山納めてもらっている、というわけでそんなに厳しい検査はしない。

 ところが、世の中にはもっと無粋な奴がいる。新聞記者である。かくて会社はつぶれ、安くておいしい「牛コロッケ」は世の中から消えてなくなった。これが善かったのか悪かったのか、それは神のみぞ知るである。(2007年6月28日)







 NHKテレビで時論・公論「牛肉偽装はなぜ起ったか」をやっていたので、事件の原因を明らかにしてくれるものと期待して見たが、全く期待外れだった。

 まずもって前置きが長くてなかなか原因の話にたどり着かない。やっと原因のことを語り始めたと思ったら、豚肉と牛肉を見分ける検査体制が無かったとか、農林省の対応が甘かったとか、どこか他所で聞いたような事を延々と述べるだけである。

 なぜあの社長は牛肉と偽って豚肉を混ぜなければならなかったかという肝腎の原因の話にはならないのだ。検査がなければ、農林省が何もしなければ誰もが偽装をするわけではなかろう。

 日本の製造業は安い中国産の製品に押されて採算の合わない状況にあるが、それがこの場合に当てはまるのか。いや、単に社長が私腹を肥やすためにやったことなのか。「なぜ」というからには、そうした因果関係を明らかにしなければならないはずだ。

 ところが、そういった話は全くなかった。これでは時論・公論の表題に偽りありで「表題偽装」ではないか。関係者は深く反省して内容に沿った題名にすべきだろう。(2007年6月27日)







 「あの金髪のかつこいピッチャーは誰」。日ハム×阪神戦を見た家族の言葉である。プロ野球ファンなら誰でも知っているダルビュッシュ投手のことである。

 彼の雄姿が地上波のテレビに映るのはまさにセパ交流戦のお陰である。しかし、その格好いい姿も交流戦が終れば、シーズン終了まで見られないのだ。

 これはもったいないことである。プロ野球人気が低迷しているなかで、人気回復の切り札と見られている早稲田の斉藤投手もプロ野球に入るのは四年先のことだ。なぜ、パリーグの素敵な選手をもっとブラウン管に映さないのか。

 そのために、もっと交流戦が続ければいい、いやいつそのこと、セ・パ2リーグ制などやめてしまってサッカーのように1リーグ制にすればいいと思うのは私だけではないはずだ。

 それなのに、交流戦が終れば相も変わらぬ巨人戦中心の放送が待っている。関西ならば阪神中心の放送であるが、阪神にダルビュッシュ級の魅力ある選手がいるかといえば、阪神ファンでも言葉を濁さざるを得ないのが現実であろう。

 しかも、期待の斉藤投手も今やドラフト改革でセリーグに入るとは決っていない。また、もし江川の時のように無理矢理巨人に入れてしまはうものなら、プロ野球人気はもっと下がってしまう。

 斉藤投手が今のパリーグのチームに入っても多くのファンが楽しめるように、今のうちから1リーグ制に改革をしておくのがプロ野球のためであると思うのだが、どうだろうか。(2007年6月26日)







 丸山弁護士が参議院選挙に出ることが明かになった途端に、あれだけテレビに出演していた丸山弁護士はテレビ界から抹殺されてしまった。

 テレビ局はこれまで丸山弁護士にテレビに出てもらっていたはずなのだが、これではテレビ局は彼を出してやっていたと思っているとしか考えられない。

 候補者の中にはテレビで有名な人間もいれば本で有名な人間もあれば建築物で有名な人間もいる。人それぞれに有名な分野は違うのである。

 ところが、テレビで有名な人間だけは選挙に出るとテレビに出られなくなるのはおかしなことだろう。本で有名な人間が選挙に出ると本屋からその人の本が排除されてしまうのか。建築物で有名な人間が選挙に出れば、彼の建築物は人目から隠されてしまうのか。

 そもそも次の選挙では候補者であるはずの国会議員は選挙中でもテレビに出るではないか。これでは候補者としての公平は全く保たれてはいないと言っていい。

 テレビ局はテレビに出ているとそれだけで票が取れると勘違いしているのである。出ればそれだけ落選する可能性が増えることもあるはずだ。それをテレビに出ているだけで多くの人が投票すると考えるのは、テレビ局が国民を愚民視している証拠である。(2007年6月25日)








 牛肉コロッケに豚肉が使われていたというニュースがあるが、食べたら分かるだろうにと思う。そこで、自分の舌で一つ試してやらうと思うのだが、もうどこにも売っていない。

 不二家が問題になった時もそうだった。本当に食べたらお腹をこわすのかと思ってももう売ってはいない。スーパーが売ってくれないからである。

 いやそれだけではない。問題の商品だけでなく、我が家でいつも買っているホームパイまでスーパーが売るのをやめてしまった。そのお蔭で、我が家はしばらくの間、不二家のホームパイなしで暮らさざるを得なかったのである

 消費者はネットで宅配してもらうなど特別な手続きを踏まない限り、スーパーマーケットが売るものしか買えないのだ。その意味で消費者の自由は制限されているのである。消費者はスーパーがあらかじめ決めた判断に従うしかないからである。

 したがって、例えば我が家でいくら羊の肉が健康的だから買いたいと思っても、スーパーで売っていなければ買えないのだ。我々の食生活はスーパーの決めた範囲のものにならざるを得ず、ある程度までスーパーに牛耳られていると言って過言ではない。(2007年6月24日)







 世の中何か起きると加害者と被害者に分ける傾向があるが、渋谷の爆発事故も例外ではない。死んだ従業員は早々に被害者扱いが確定したらしい。

 自分の身内が働いている会社で事故が起きたとなれば、昔なら自分の身内が会社で何か不始末をしたのではないかと親兄弟が聞いて回るということもあったが、報道を見る限り今や堂々と被害者の遺族として登場するのが普通らしい。

 開業以来一年半の間何もなかった施設で突然何かが起きるとしたら、それは人間のやり損ないだろう。機械は一年半程度では中々故障しないものだが、人間は簡単に失敗するものだからである。

 しかし、被害者が決まっている事故では、そんなことを考えてはいけないのだ。そこで、普通は10年以上回し続けても故障しない換気扇に責任を押しつけることになったが、果たしてそんなことが証明できるのか。

 JR福知山線の事故では加害者がJR西日本であると早々に決められたために、結局原因は分からず、日勤教育というどの社員も受けるような制度のせいにするしかなくなってしまった。加害者とか被害者とか言い立てる時代には、真相の究明も難しいということだろう。(2007年6月23日)







 国会の会期が延長されたことを批判する声があるが、これを真に受けることはない。延長しなければ何故延長しないのかと言い、延長したら何故延長するのかというのが報道だからである。

 小泉首相が退任した直前の通常国会は延長されなかった。あの時は、重要法案が山積みなのに何故延長しないのかと言われたものだ。

 しかも、元々野党はこぞって会期の延長に反対だったのである。ところが、小泉が延長しないと言い出したら途端に今度は延長しないことを批判し始めた。それに合わせてマスコミもなぜ延長しないのかと騒ぎ出したのである。

 あの時小泉は、次の総裁候補として自分の推す安倍の優位が、森元首相がしきりに推薦する福田元官房長官によって脅かされてきたことに危機感を持って、権力闘争を優先させるためにさっさと国会を閉じてしまったのだった。

 今回は負け方次第では首相の退陣もあると言われる参議院選挙を控えての国会の延長である。小泉とは反対に、権力闘争よりも法案成立を優先させるという安倍のこのやり方が吉と出るかどうかは不明である。(2007年6月22日)







 バージェスの小説『時計仕掛けのオレンジ』は英語で書かれているがロシア語の単語が外来語として使われていて、「今日はハラショーな天気だ」といった風の文章が頻出する。

 その一覧表(正確なものはWiktionaryのConcordance:A ClockworkOrange)がネットにあるが、英語は英和辞典で調べて、ロシア語はその一覧表を捜すのだが、その説明も英語なので実に面倒くさい。

 共産主義が流行した戦後すぐのイギリスではこの程度のロシア語は注釈抜きでも読めたのだろうか。だとすると、この小説も共産主義の遺物の一つなのかも知れない。

 昔は日本でも多くの人がロシア語を勉強したものだ。ところが、ロシアの共産主義がだめになり、しかもプーチンの強権政治でロシアの印象が悪化するばかりの今日では、ロシア語を勉強する気にはなりにくい。

 特に日本との関係では、ロシアは戦後一貫して強面(こはもて)の振舞いを続けて、全く友好関係を築いて来なかった。その結果が、本屋にロシア語の辞書は一冊もないか、あっても大学書林の『ロシア語小辞典』だけという現実なのである。(2007年6月21日)








 野党が国会の委員会の強行採決に関して安倍首相を批判しているが、これはおかしなことである。国会の委員会の委員長は首相の部下ではないため、首相が委員長に強行採決を命ずることなどあり得ないからである。

 国の権力は憲法によって国会と政府と裁判所に分かれており、それぞれが独立して運営されている。これは三権分立と言って、たとえ国民は知らなくても野党の議員たちには常識のはずだ。

 仮に三権分立ではなく首相にあらゆる権力が集中しているのなら、首相は国会の運営に対しても裁判所の判決に対しても自分で命令を出せる。しかし、実際は三権分立なのでどちらも出来ないのである。

 したがって、もし安倍首相が本当に委員長に強行採決をさせているのなら、それは憲法違反である。だから、野党は強行採決で首相を批判するなら、首相を憲法違反だと批判しなけらばならないはずだ。

 ところがそうしないのは、実際にはそんなことはなく、これが参議院選挙に向けて安倍政権のイメージダウンを狙った印象操作でしかないことを自分でもよく知っているからである。(2007年6月20日)







 朝鮮総連中央本部の所有権が公安調査庁の元長官の会社に移行したというニュースでは、朝日新聞の社説が面白い事を書いている。

 この取り引き自体驚くべきだが、もっと驚くべきは、東京地検特捜部が元長官の自宅などを捜索した素早さであるというのだ。「元長官に強い不快感を示した安倍首相に背中を押されたかのような異例の早さである」というのだが、まさにその通りだろう。

 橋本首相の時代ならあり得ないし、小泉首相でもこうはならなかった。やはり安倍首相ならではの素早さなのだ。それほど今の政府は北朝鮮に対しては徹底して厳しいのである。

 所有権移転登記の偽装の疑いで検察の捜査に乗り出したことで、関係者は一遍にびびってしまい、自分たちは正しいことをしていると得々と会見した元長官も日弁連の元会長も移転登記を撤回して弁明に追はれる始末である。

 もちろん、首相が直接検察に指図することはないが、首相の政治姿勢というものはかくも大きくものをいうのだ。国民には人気のない安倍首相だが、当分の間はこの国にとって掛け替えのない首相であることは間違いなさそうである。(2007年6月19日)







 仕事についての男女の考え方で最も大きく違っている点の一つに、若い頃の動機というのがある。

 男は学生時代に勉強したりスポーツをしたりギターの練習に打ち込んだりするが、それは女にもてたいからである。そして女にもてたくて始めたことが、サラリーマンにしろスポーツ選手にしろミュージシャンにしろ、それぞれ将来の仕事につながるのである。

 これと同じ事が女にいえるかというと、私は女でないからよくは知らないが、疑わしいと思う。

 女が男にもてたいと思った時は、勉強などしないし、まして男まさりのスポーツに打ち込んだりはしない。そんな時、女は顔に化粧品を塗りたくろうとするのだ。

 もちろん、男も女にもてたくて鏡とにらめつこすることはあろうが、どうみても男前ではないと分かれば、他の事に活路を見出そうとする。

 ところが、女はそうではない。どうみても美人ではないと分かれば、さらに余計に化粧品を顔に塗りたくるのである。揚げ句に眉毛を剃ったり、眼をまったく変えてしまったりする。

 逆にいえば、女は仕事につながる事にいそしめばいそしむほど男女関係から遠くなってしまう。そして、そうなれば子供も生まれなくなるし、世の中うまく行かなくなってしまうである。(2007年6月18日)







 NOVAにしろコムスンにしろ、新聞社やテレビ局にとってはこれまでどんどんテレビコマーシャルを出してくれる大事なお得意さんだったはずだが、ちょっと役人がケチを付けたら、手の平を反したような悪口のオンパレードである。まったく新聞記者というのは恥を知る人間には出来ない仕事だと思う。

 特にNOVAは、婆さんを出してノーバだの宇宙人を出して異文化交流だの「よく身に付く」だのと、うるさいほどのテレビコマーシャルの連発で、私などはうんざりしていたのだが、新聞社もテレビ局も何億という広告料を取っていながら、広告主の事業内容は何一つチェックせずに、いま初めて知ったような顔をして報道しているのだからあきれるしかない。

 今回、役人がNOVAに対して一年以上の予約を取る事をやめさせたというが、誰が一年以上も予約をするのだろうか。人間は飽きるものなのだ。

 それでも、飽きないで一年以上も続けられる自信のある人がいるなら予約をしたらいいだけのことで、そんなことに役人がいちいち口出しすべきではない。ところが、国民は上から取締ってやらないと、一年以上も予約して途中で飽きて解約して損をしたと騒いで面倒を起すと思っているのだ。ユーザーはこんな愚民扱いに満足している場合ではない。(2007年6月17日)







 古代ローマの歴史家であるリヴィウスの書いた『ローマ建国史』(岩波文庫、上中下、リーウィウスとしている)が出版中であるが、これはかなり癖のある翻訳なので注意がいる。

 先づ、「序文」がなぜか「あとがき」のように訳されている。これから執筆するのではなく、書き終ってから書いた体裁になっているのだ。もちろん原文はそんなことはない。

 用語もかなり独特である。コンスルは執政官ではなく「執政委員」、ディクタトールは「独裁委員」、その他にも何々委員が多い。まるでソ連の共産党を連想させる呼び名である。

 読みやすい翻訳との評が一部にあるようだが、仲間誉めだろう。一見文体に格調があるため、つられて読んでしまうが、よく考えると意味が分からないままということが多いようだ。

 古代ローマについてあらかじめちゃんとした知識を持たない人が読むと、変な知識を身に付けてしまう恐れさえある。困った翻訳書がまた一冊岩波文庫に加わったといえそうだ。図書館で借りるにとどめておく方がよいかもしれない。(2007年6月16日)







 この国で自殺が多いことの原因ははっきりしている。社会が大人に冷たいからである。それは人を見捨てて平気な冷たさであり、人をとことんまで追い詰める冷たさである。

 その現れの一つが厳罰主義だろう。社会正義が第一で個人の生は二の次なのだ。公正さは人が生きていくための公正さでなければならないのだが、この国では人を追いつめて死なせる公正さなのだ。

 「借金返せ」ということも貸し借りの関係の中では、揺るぎない正義である。それは約束を守れという正義であるが、人から生きる道を奪って行く正義である。ところが、日本では法の正義の追求が借金取りの正義と何ら変わるところがない。

 これは例えば、困っている人のために病気腎移植という方法を考え出して多くの人を救っている医師が出てきても、あれやこれやとあら探しをしてやめさせてしまい、患者は人工透析で辛抱しろといえる正義なのである。

 自殺とは自分自身でする死刑である。「極刑にすべき」と言って、正義によって人を殺すことを奨励する新聞が「自殺を減らそう」と言っても何の説得力もないのは明らかなのだ。(2007年6月15日)







 年金記録不備の問題はこれを管轄する政府の問題であると共に、年金記録を扱う社会保険庁の問題である。そして、社会保険庁の問題であるということは、政府の問題であると共に、そこで働く公務員の労働組合の問題である。

 つまり、この問題は政府自民党の問題であるだけでなく、この労組と組んでいる民主党の問題でもあるのだ。

 ところが、政府自民党はこの年金記録の問題を自分の問題として責任を感じて対応しているのに、民主党は、社保庁に対して不思議な労働慣行を押しつけてきた労働組合に対して、何の責任も感じることもなく、責任は全て政府にあるとして、まるで他人事のような対応をしている。

 しかも民主党の提案している社保庁改革案は、社保庁を国税庁と合併させて、社保庁の職員の公務員としての身分を保証するものだという。民主党に親方日の丸の労働組合を改革する気は全くないらしい。

 こんな当事者意識の薄い民主党が仮に政権を取っても、この問題を解決できないことは明らかだろう。(2007年6月14日)







 福岡市の幼児三人が死んだ交通事故の裁判で、何と弁護側が「被害者側のRV車が現場で急ブレーキをかけた」と主張している。これがもし嘘でないなら報道はこの事実を隠してきたことになる。

 最近のエキスポランドの事故でも被害者の個人的なデータは今だに隠されたままである。報道は全ての情報を国民に開示しないものなのだ。

 報道によって国民が知らされるのは、事実ではなくて事実らしきものによって構成されたマスコミの意図だけだと言ってよいのではないか。

 コムスンの報道についても、そこからはっきり見えるのは、会長を叩けという意図である。そのためにコムスンのサービスが他社より喜ばれたという事実はそのうちに誰も言わなくなってしまった。

 事実に意図が絡んでくると、事実では無くなってしまう。それはもはや事実の一面でしかない。

 しかしながら、事実の信用性は公平さの中からのみ生まれる。目的や意図のもとに提示された事実は事実とは認められない。だからこそ、報道は公平性が求められるのである。(2007年6月13日)







 年金問題では、国民に早く安心してもらいたい政府与党と、国民に早く安心してもらはずに問題を未解決のままにして次の参議院選挙まで持ち込みたい野党という色分けがはっきりしている。

 マスコミはというと大体が全部左翼で野党の味方であるから、年金に対する国民の不安をドンドンあおることに懸命で、NHKを初めてとしてこの問題を毎日毎日やっている。

 それにまんまと乗せられた国民が社会保険庁に殺到したものだから、当然のことながらコンピューターはパンクしてしまう。ところが、それも政府が悪いという話になって、野党の思う壺の展開である。

 では国民は本当にそんなにも熱心に年金のことを考えているのかというと、四割近くもの人が国民年金の掛け金を払っていないし、せつかくなけなしの金を払い込んだのに、領収書も無くしてしまうという体たらくだ。

 自分が払った年金の記録さえもろくに保存できないのだから、親方日の丸の役人がいい加減なことをしていても驚くこともないと思うが、自分の非を棚に上げて人をけなすのが当節の風潮である。(2007年6月12日)







 シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』には、フランス革命の有り様がまざまざと描かれている。

 我々は主権在民という言葉を教はるが、それがこの本の中には実に具体的な形をとって描かれる。主権を持っていた王が惨めにその主権を失い、タンブルの牢屋に連れて行かれる様子こそは、主権在民が実現した瞬間なのだ。

 王が立派なお城で暮らしているのに、国民の方で主権在民だと言ってみたところで、そんなものは言葉の上だけのことである。主権が国民にある以上は、まずは国会議員の方が王より偉くないといけない。偉くない王が尊敬されているのは、国会議員が馬鹿にされているのは、主権在民でない証拠である。

 だから、もし主権在民ならまずは国会議員や首相が尊敬されなければならない。次に、地方自治体の政治家も尊敬されなければならない。そしてもし政治家たちが主権在民が実現するものとして尊敬されるなら、彼らを選ぶ選挙の価値もまた違って来るというものだ。

 一方、歴史に主権在民がはっきりと形となって現われているフランスの大統領選挙は、決選投票と合わせて二回もあるのに、高い投票率を維持している。それに対する日本の投票率の低さは、マスコミが先頭に立って政治家を馬鹿にしているのと無関係ではあるまい。(2007年6月11日)







 読売新聞は自社の世論調査で内閣支持率が下がったことについて、「理由は明らかだろう。年金の記録漏れ問題と、松岡利勝・前農相の自殺だ」と社説に書いている。しかしながら、最初の下落を報じた毎日新聞の世論調査は松岡氏の自殺前である。

 逆に読売の今回の調査では政府の年金対策に過半数が肯定的に評価している。ならば、支持率が上がってもいいはずであるが、下がったままである。

 おりしも台湾の前総統李登輝が来日して靖国神社を参拝するという大胆なことをやってのけた。安倍首相が参拝を控えているのを知って、ならば私が代わりにと思っての事かは知らないが、靖国問題に関して中韓を批判するなど、安倍首相がやるべきことを確実に代弁してくれている。

 一方、その安倍氏は小泉前首相のもとで「次の首相も靖国参拝をして欲しい」と言ったが、いざ自分が首相になったらやらないのだから、支持率が下がるは当たり前である。

 この世論調査では、参議院選挙で与野党逆転を期待する人が過半数を越えている。松岡でも年金でもなく、すでに安倍首相は国民に見限られていると考えてよいのではないか。(2007年6月10日)







 介護サービスは現場の人間が不足している。給料が安くて辞めてしまうからである。どれだけがんばっても手取りで30万に届かないというではないか。

 だから、経営面でいくらコムスンがインチキをやっていると非難して、介護サービス事業から排除しても、コムスンの代わりはおいそれとは見つからないのである。

 事業所を開設する条件を満たすために申請書に何を書いたとかそんなことは、サービスを受ける側にとってはどうでもよいことなのである。会長がどんな人であるかも関係がない。大事なのは現場のヘルパーがよい人間かどうかなのだ。

 ところが、マスコミは会長が記者会見をして国民に頭を下げないのはけしからんなどと、経営者に対する個人攻撃が主になっている。まず法律を守るべきだというが、その点では誰も五十歩百歩であろう。

 コムスン排除で困るのは誰か。それは新聞記者でもなく金持ちの政治家でもないはずだ。手続き面の公正さを問題にして、現実に困っている人間を見殺しにする点で、コムスンの問題は病気腎移植の問題とよく似ているといえそうである。(2007年6月9日)







 少年は両親を交通事故で失い、伯父夫婦に育てられているが、与えられた部屋は階段下の物置であり、着る物は伯父夫婦の息子のぼろのお下がり、そして年がら年中この息子にいじめられている。

 ところが、ある日少年をこのみじめな暮らしから救い出してくれる人物が現われる。

 その人に連れられて魔法使いの学校に行くために買い物に出かけるが、行く先々で自分の名前がわかると人々に握手を求められる。誰もが彼をヒーローとして扱い、彼の前で緊張してどもり、興奮の余りに慌てふためくのだ。

 ついこの間まで自分の存在価値を完全に否定されていた少年が、翌日には有名人として迎えられ、「御会いできて光栄です」と口々に言われるようになる。自分としては努力して何かをしたわけではないのにである。

 ハリー・ポッターの物語は男の子版シンデレラである。この本は私には、余りにも不幸な境遇に置かれて、それに耐えられずに空想の世界に逃げ込んで自己満足を見出した少年の物語に見えて仕方がない。(2007年6月8日)







 民主党はしきりに社会保険庁のていたらくぶりを攻撃しているが、ではその情報はどこから得ているのかといえば、それはまさに社会保険庁の職員からであろう。

 かつて、国民年金の掛け金未納問題があったが、その時に国民年金を収めていない人の情報を民主党の議員がいち早く入手して政府を攻撃したことがあった。その後、個人情報を勝手に閲覧したとして情報を漏らした職員は処分されたが、その構造は今回も同じであろう。

 社会保険庁の職員は民主党の支持母体の一つである自治労に加盟している。そのお蔭で、民主党の議員は政府や自民党よりも社会保険庁の内情に詳しいのである。

 つまり、民主党は社会保険庁を政府の一部として攻撃しておきながら、一方でその社会保険庁の職員は民主党の身内で固められているのだ。これでは社会保険庁の協力を得て社会保険庁を批判していることになる。これを八百長と言わずして何と言わう。民主党は偉そうなことをいえる身分ではないのである。(2007年6月7日)







 カントの『啓蒙とは何か』は「啓蒙とは自業自得の半人前状態からの脱けだすことである」で始まる有名な文章だが、カントの書いたものなので、ご多分に漏れず分かりにくい。

 「半人前状態」つまり自分だけの力で物を考えられない状態から抜け出すのは、個人よりも大衆全体としてやる方が可能性が大きいというのだが、その際の問題点が分かりにくい。

 直訳すると「それは、以前に指導者たちによってくびきの元に置かれた大衆が、啓蒙できない一部の指導者に扇動されると、今度は指導者たちにくびきの元に留まることを強制することである」となるのだが、指導者がくびきの元に留まるというのが分かりにくい。

 そこで最近出た光文社文庫の訳では、「自らをくびきの元に留めさせろと後見人(=指導者)に迫るのである」と、くびきの元に留まるのを大衆の方にして訳している。

 ところが、これだと「偏見はそれを広めた者に仕返しをする」というこの後の文章と符合しない。半人前である方がよいという偏見を広めた指導者自身が半人前状態を要求されてこその皮肉だからである。

 読みやすいと評判の光文社文庫だが、やはり翻訳で読むだけでは半人前状態を抜け出すことは難しいようである。(2007年6月6日)







 グレアム・グリーンの『権力と栄光』は以前に原書で読んだが、本多顕彰の訳が手に入ったので再読してみた。それにしても、グレアム・グリーンの英語は難しい。学校で習う英語とは全然違うのだ。

 第二部、「祭日と断食日と禁欲日は the first to go だった」とは何のことか。「次に聖務日課について more than occasionally に悩むことを止めてしまった。そして、ついにそれをすっかり港に置いてきた」ここまで来て goが「やめる」という意味だと推測する。「最初にやめざるを得ないことだった」。

 「祭壇の石も捨てた。持ち歩くには危険すぎるからだ。彼にはもうミサをする資格もなくなった」「恐らく彼は liable to suspension だ」「教会による罰は最早無意味になっていた」。suspension は教会による罰のことかと辞書を引くと、「聖職停止」とある。「聖職停止になっても仕方なかった」

 共産革命下のメキシコで最後に生き残った牧師が逃げ回る話だが、英語の力だけではなくキリスト教の知識も必要だ。キリスト教の信者は不倫などの罪を牧師に告白して許しを得ようとする。告白せずに死ぬと地獄に落ちると信じているのである。

 ところが、一人残った牧師は酒飲みで姦淫の罪を犯し、自分の生を重荷としている。この救いのない世界の論理に付合いながら、理解しがたい英語を読むのは、まさに苦行である。(2007年6月5日)







 近頃急に増えたものにウォーキングをする女性がある。歩くのは健康によいとテレビでいうものだから、納豆の嘘に懲りずに、言われた通りにしているのだろう。

 しかし、日本人の世界的な長寿はウォーキングなどというものが流行る前からのことであることを考えると、ウォーキングと健康はあまり関係がないことは想像がつく。

 ところが、ウォーキングもただ歩くだけではだめだという人がいるお陰で、大きく腰を振りながら歩く女性までいる。それに手の振りも加わるから、もはや踊りながら歩いているに等しい。

 女性といっても、ウォーキングをしているのは30代以上であって、それ以下の若い女性はウォーキングなどはしない。逆に高齢になって来ると女性は一人ではなくご亭主と二人連れでウォーキングをする。

 いずれにしても、体のことを考えてのウォーキングであろうが、例えば、骨粗鬆症にはウォーキングは効果がない。だから、ウォーキング人口が増えたとしても、日本の平均寿命に与える影響はないと考えてよいのではないか。(2007年6月4日)







 WHOの推計によると、世界で年間に二〇万人が職場の受動喫煙で死亡しているという。これは煙草を吸っている人の回りで即死した人がそんなにいたというわけではない。ならば、翌日死んだのか。そうでもなかろう。ならば何なのか。

 地球上で既に死亡した人間の数は何百億人だろうか。その内で受動喫煙が直接の原因で死んだ人間が何人いるのだろう。日本では、誰の家でもこれまで何十年以上もの間受動喫煙が行われていたはずだ。その内の誰が受動喫煙が直接の原因で死んだといえるのか。そんな報告はどこにもない。

 マスコミはそうしたことを一切考えることなく、WHOがどう言ったと垂れ流しているだけである。そんなものをどうして信用できるだろう。

 タバコに関するマスコミの議論にはバランスの欠いたものが多い。新聞記者は自分が苦労してタバコをやめたのにどうして他の人もやめさせないのかといった動機から書いているとしか思えないような文章ばかりだ。受動喫煙有害論は多分に情緒的なものと考えてよいのではないか。(2007年6月3日)







 日本の外国語辞典にはどれも外国の種本があるが、だからといってその種本の方を買ってきてそれだけで勉強できるかというとそれは不可能なので、パクリだと思っても日本製の方を買ってくることになる。

 学習用の英和辞典は大抵オックスフォードやロングマンの学習用の英英辞典を見て作ってあるのに対して、コンサイス英和辞典は名前も同じオックスフォードのコンサイスを参考にして作られている。どちらにしても、訳語の並びや例文が本国の物とよく似ているからである。

 英語の学習者は米国や英国の辞典を使うのが理想なのだが、なかなかそうはいかない。特にオックスフォードのコンサイスとなると単語を説明している言葉の方がむつかしいので、買っても本棚の飾りになることが多い。

 しかし、それを避ける方法がないわけではない。日本製のコンサイス英和を参考に、本家のコンサイスを読むのである。訳語の並びが同じだから、この英語の説明がこの日本語だと分かるし、例文の日本語訳は即ち本家のコンサイスの例文の訳なのだ。(2007年6月2日)







 テレビで党首討論を見たが、小沢一郎氏はなぜあんなに討論が下手なのだろうか。

 同じ事をぐだぐだと繰り返すばかりなのだ。聴衆に分かりやすく論点を整理して、説得力をもって話すことがまるでできない。そして、委員会で議論をもっと続けるべきだというような枝葉末節の問題に最後まで拘はり続けた。

 考えてみれば小沢氏は大臣の経験もあまりなく、国会で答弁をしたことも殆どないし、自ら議員として質問に立ったこともないのだろう。だから討論の仕方が分からないのではないか。

 党首討論とは、我こそは首相に相応しい人間だということを国民に見せる場であるはずだ。参議院選挙が政権選択選挙だというなら、特にそうである。それなのに、あんなふうに下から見上げたような目線でねちねちと話すのでは、誰が小沢氏に首相になってほしいと願うだろうか。

 どうして真向から正々堂々と首相に立ち向かはないのか。安倍首相を年下扱いして叱りとばすぐらいでなければ、小沢人気は生まれてこないのではないか。(2007年6月1日)







 ニートやフリーターに正社員が如何に有利であるかを教えようとして、あるグラフを見せる人がいる。そのグラフには、収入の多い男性ほど結婚している割合が高く、収入が少ないと結婚も少ないことが描かれている。

 だから、正社員になる方がよいと言いたいのだろうが、私に言わせれば、あのグラフが示しているのは、男の金目当てに結婚する女が如何に多いかという女の情けない現実だろう。

 そして、金目当の女に結婚された男が幸福かどうかといえば、答がノーであることは明らかである。そんな結婚をするくらいなら、ニートやフリーターのままで結婚などしないでいる方が、男にとって余程の幸せというものだ。

 そもそも、このグラフの前提には結婚している方が幸せだという偏見が横たはっている。しかし、そんなことは誰にも分からないのである。むしろ結婚したがために地獄のような生活を強いられている男たちは五万といるのだ。

 結婚を餌にして若者たちを働らかせようと考えるなど、学者馬鹿も休み休みにして欲しいものである。(2007年5月31日)







 プロ野球チームの中心選手が大リーグに行くことがどういうことかを今年の阪神ファンは痛いほどに分かったことだろう。阪神の投手陣は井川が一人抜けただけで総崩れになってしまったからである。

 エースはチームの大黒柱だとはよく言ったもので、確かに大黒柱が抜ければチームは崩壊する。考えてみれば松井が抜けた巨人、イチローが抜けたオリックスも同じだった。

 確かに、野茂を初めとするパリーグの選手が大リーグに行ってアメリカ人を手玉に取る有り様は、日本から見ていて気持のよいものだった。しかし、セリーグの選手まで大リーグに行くことはなかったのだ。

 大リーグの松井はセカンドゴロばかり打つし、ヤクルト出身の石井も高津も打たれてすぐに帰って来た。井川に至っては監督に嫌われてずっと二軍生活である。

 球団が選手の大リーグ行きを拒否すると、ファンは球団が意地悪をしているかのように言って非難したものだが、もうそんなことはいうまい。

 日本のプロ野球の選手は大リーグなんかに行くことはないのだ。大リーグの野球は、野球とは似て非なる何か変な物なのであるから。(2007年5月30日)







 松岡大臣は悪人面をしていたが、中身は違っていたようだ。悪人は自殺などしないからである。しかし、左翼マスコミはここを先途と悪人扱いで突っ走り、この自殺を政権打倒に利用しようと必死である。

 そして「自殺の責任は松岡氏を庇い続けた安倍首相にある」とか「自殺は政権に打撃」とか訳の分からないことを書き散らしている。庇わないから自殺をするのが普通であり、自殺に同情する心理から政権に有利になるのが普通である。

 彼らはそれを何とか防止したくて正反対のことを書いているのだ。こういう記事はもはや記事でも何でもなく立派な政治活動である。そして、肝腎の自殺の原因の解明はどこへやらで、新聞にとって事実などはどうでもいいのだ。

 年金不払いの問題にしても今の政権が作った問題ではない。その問題に対して安倍政権に責任があるかのような嘘を書く。これから選挙が近くなるにつれて、新聞はどんどんこんな嘘を書くようになる。世論調査の数字も作る。嘘でもかまわないのである。なぜなら、それが新聞だからである。(2007年5月29日)







 横綱朝青龍の今場所の負け方が尋常ではない。そこに横綱昇進のかかった大関白鵬との優勝争いを何としても避けたいという横綱の執念のようなものを見たのは、私だけだろうか。

 白鵬が今場所優勝すれば二場所連続優勝で横綱昇進が確定する。それには誰も文句をいえないはずだ。以前、白鵬の横綱昇進がかかった場所で、白鵬は朝青龍戦に勝てば昇進と前日に言われながら、勝っても昇進を見送られた。

 それに懲りた朝青龍は、自分の後継者たるべき白鵬を昇進させるには、自分との一番が来る前に白鵬に優勝してもらうしかないと考えたのではないか。だからこそ朝青龍は、千代大海に立ち後れし、魁皇に腰を左へ振って右上手を取らせたのではないのか。

 そして、白鵬が既に優勝していれば、最後の直接対決で白鵬に自分が負けても八百長などと言われる心配はない。かつてユーラシア大陸を征服したモンゴル人の深慮遠謀斯くの如し、なのではあるまいか。(2007年5月28日)







 女性医師の就労支援のために病院に保育所を設けるという。いったい一つの病院に赤ちゃんのいる女医が何人いるというのだろう。

 結婚した女医が仕事に戻らない主な理由が子育てだというが、嘘ではないのか。使命感のある女医なら何を置いても患者のために仕事場に戻って来るはずだからである。

 女医は医者の3割を占めるというが、国立大出の女医はその内の何人なのか。医者の娘が親の金で為った女医ならそのまま引つ込んでいてくれる方が世のため人のためではないのか。

 結婚して子供が出来たから辞めてしまうのなら初めから医者になどならないことだ。医者は体力的に男でも大変な仕事であり、のしかかる責任も大きい。同じ医者でも女医は看護婦の尊敬もなかなか得られまい。人間関係も大変なはずだ。女の「でもしか医者」ではとても勤まらない。

 女医のために保育所など作る必要はない。保育所はまず子持ちの看護婦のためにこそ作るべきである。そもそも女医が辞めることと、出生率の低さは関係がないのである。(2007年5月27日)







 一度買った本や雑誌をまた買うことは滅多にないが、一度見たサスペンスドラマを何度も見てしまうことはよくある。先日も『九門法律相談所(10)』を最後まで見て、これは前に何度も見たことを思い出した。

 自分の保護司を殺したとして逮捕された男の冤罪を晴らすストーリーなのだが、この男の目撃者で被害者の妻という小さな役で高橋恵子が出て来たところから、彼女が犯人かと目星を着けて見始める。

 パソコンやインターネットが珍しそうに扱われているから、そんなに昔の作品ではないなと思いながら見ていると、その内、九門弁護士役の山崎努が焼鳥屋で真赤な服を着た高橋恵子のお尻を撫で回すシーンで、前に見たとピンと来た。

 高橋の夫の弟は事件後自殺したが小学生の娘がいて祖母と二人で暮らしている。その子を九門が自分になつかせるところからドラマの逆転が始まる。そして遂にその子が弟と高橋との子であることを突き止めて、高橋に真相を語らせるに至る。

 夫の弟の子を高橋が身籠ったことから修羅場となり、夫が弟に殺さたのだった。しかし、最後の法廷シーンでもう一回どんでん返しがある。自殺した弟の身代はりに高橋が自ら殺人犯として名乗り出るのだ。

 ここまでのストーリーを全部思い出したのと、ドラマが終るのは同時だった。少しずつ思い出しながらも、結末までは思い出せずに楽しみながら最後まで見てしまうのだから、人間の記憶力は全くうまく出来ているようだ。(2007年5月26日)







 沈没しかけた船から様々な国籍の乗客を脱出させるために、船長が使うべき効果的な説得法は、

 アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄だ」イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士だ」ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則だ」イタリア人には「飛び込めば女性にもてる」日本人には「みんなもう飛び込んでいる」というものである。

 これは日本人が集団主義で何事にも付和雷同したがる気質を衝いた有名なジョークである。しかし、現実はそうでもない。

 例えば、世界の国々では何度も憲法を変えているとか、死刑廃止は世界の流れだとか言われても、日本は別だという考え方が頑として存在して、世界の声に耳を傾けようとはしない。日本対世界となると日本人は決して付和雷同ではないのである。

 だから、日本人はこのジョークのような状況で、他の国の人たちがみんなもう海に飛び込んだと聞いただけで、それを真似たりはしないのである。ただし「アメリカ人はもう飛び込んでいる」というのが一番効果的なのは確かではある。(2007年5月25日)







 古本屋でフロイデ独和辞典を見つけたので購入して使ってみた。この辞書の特徴は

 1、個々の単語についての情報量は郁文堂独和と同程度かそれ以上に詳しい
 2、動詞の過去形などの変化形も見出しにして初心者に配慮している。
 3、動詞の名詞形などの見出しは動詞の後に繰り込まず、段落を変えて見易くしている。
 4、用例(慣用句)の並び順は、前置詞別では前置詞のアルファベット順、それ以外は見出し語と共に使われる動詞あるいは名詞のアルファベット順になっている。(凡例4ー2ー1)

 特に4はこの辞書の特筆できる長所で、クラウン独和や郁文堂独和などが似た意味毎にまとめて並べているのと違って、用例(慣用句)が探しやすい。

 独和のページ数は郁文堂独和とほぼ同じだが、上記2、3、のために語彙数はその分だけ郁文堂独和より少なくなっている。

 ただ、この辞書をしばらく使っていると内容が郁文堂独和と殆ど同じであるように思えてきた。つまり、フロイデ独和は、郁文堂独和の例文を簡略化したり、訳語を手直したりして、見易く構成し直した物ではないかという気がしてきたのである。

 そうなると、語彙数がもの足りなくなる。結局、元になっている郁文堂独和を使う方が手つ取り早いということになり、今ではフロイデ独和は私の本棚の奥に飾られている。(2007年5月24日)








 特待生問題ではこれまで高野連に頭が上がらなかった新聞各紙が、ここぞとばかり高野連批判をやっているのが面白い。高野連は独断的だとか現実を見ていないとか言っているが、そんな事は前から分かっていたことである。

 高野連が民間人のやる事に対して高飛車な態度で何かと口出しをしてきたが、それらに新聞各紙はずっと何の批判もして来なかった。高野連にはまるで腫れ物に触るようにしてきたのである。

 ところが今回の問題で新聞各紙は例の「子供たちが可哀想だ」という錦の御旗を手にしてなかなか威勢がいい。

 もっとも、新聞各紙はどういうわけか野球留学に寛大である。それどころか、特待生制度がなくなれば「これからどうやって優秀な生徒を集めたらいいかわからない」という監督の言葉を紹介して、金で生徒を集めて甲子園を目指すことを正当化する有様である。

 とはいえ、これまでタブーだった高野連批判がこの問題を契機に自由になるとしたら、それはそれで結構なことだ。これで少しは高野連も謙虚になるかも知れないからである。(2007年5月23日)







 スーパーマーケットの喫煙ルームに座っていると、一服吸いに女性たちがどんどん入って来る。役所によれば女性の愛煙家は一割しかないというが、彼女たちはきっと調査で嘘をついているのである。

 その一方で、煙草を吸わない方が健康的だという理由から、タバコを吸えないようにしてしまえという風潮がどんどん広まりつつある。新聞各紙は、日本は煙草が安すぎるから煙草を吸う馬鹿者が絶えないと言わんばかりである。

 昔アメリカで禁酒法が作られて、酒を飲ませないようにしたことがある。今から思えば実に馬鹿げたことだが、憲法にまでなったのだから民主主義は恐ろしい。民主主義では多くの国民が望んでいるならそれが正義となる。しかし、それは一歩間違えば少数派の抑圧となり全体主義につながる。

 健康に反することは禁止してよいという考え方は、健康全体主義と呼ぶべきものになりつつある。その先頭に立つのが禁煙全体主義である。そして、かつての喫煙ハラスメントは、今や立場が逆転して嫌煙ハラスメントになりつつあるのだ。(2007年5月22日)







 大学時代には朝日新聞をとっていて、中曽根康弘氏が将来日本の首相になったら、アメリカに亡命しないといけないと友人と話し合ったことがある。中曽根氏は右翼で軍国主義者だと思っていたからである。

 これは中曽根氏が靖国神社に参拝したり憲法改正を主張したりする悪い人間だという朝日新聞を真に受けていたからであるが、今でも本気でこんな考え方をしている人がどれだけいるのだろうか。

 確かにそう見える人たちは沢山いる。朝日の社説を書いている人たち、共産党や社民党の人間、それに民主党の社会主義者たちがそうだろう。前国立市長は、次の参議院選挙に出ると発表した記者会見で、「今の安倍政権に本当に恐怖を感じている」とか「今の右傾化する日本の危機的状況に黙っていていいのか」などと言っている。

 しかし、朝日の社説を長年読んでいれば、こんな考え方は政府を攻撃するための方便でしかないことに嫌でも気が附くものである。前国立市長のこの発言も生きるための方便だと私は思っている。(2007年5月21日)








 戦時中の日本は表現の自由がなかったとよく言われるが、それは日本だけのことではない。

 例えば、日本やドイツで戦争に協力する映画が作られたが、アメリカでも同じだった。アカデミー賞を3度も受賞したフランク・キャプラ監督が作った『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(1944年公開)はまさにそういう映画である。

 この映画は、日本に対する敵意を米国民に植え付けるために作られたプロパガンダ映画であり、当時の中国国民党軍の共産軍に対する残虐行為の映像を、日本軍の行為と見せかける捏造映画だったことが明らかになっている。

 アカデミー賞監督が自分の経歴を汚すこんなインチキ映画を作っていたのだから、第二次大戦中における情報戦のすさまじさが偲(しの)ばれる。

 しかし、アメリカはその後も戦争中の自国の兵士たちを英雄扱いしてドイツ軍を悪者扱いする映画を延々と作り続けたし、今も南京事件に関する捏造映画を作っている。アメリカ人が歴史の真実に興味を持つようになるのは何時のことだろうか。(2007年5月20日)







 東京暮らしの経験のあるものなら、東京の家賃が埼玉の家賃の二倍もすることを知っている。東京は地方より物価が高いのである。

 物価が高いということは、収入が大きいが出費も大きいということである。つまり、物価の高い東京では動く金の高が大きいのだ。そして、税金は動いた金にかかって来る。だから、東京が地方より税収が多くなるのは当然である。

 ところが、この税収の多寡をめぐって、東京は豊かで地方は貧しいという言い方が広まっている。それを当世流行の言葉で「地域間格差」というのだそうだ。

 そこでこの「格差」を是正するために、東京都民が住民税の一部を出身地の役所に納めることを可能にしようという意見が出てきた。題して「ふるさと納税」という。

 しかし、地方の住民からすれば東京の住民のお情けにすがらうとするこんな制度は、地方の沽券に関わる話であるはずだ。ところが、県知事たちは「格差是正」になると早速賛成しているという。

 『国家の品格』という本が売れたそうだが、『地方の品格』の方はどうなっているのだろうか。(2007年5月19日)







 永井荷風の『四畳半襖の下張』の入った河出文庫が本屋にあったので買って読んでみた。さすがにこれを猥褻だとして裁判になっただけのことはある猥褻さである。

 これはネットでも読めるのだが、『四畳半襖の下張』で検索しても中々出てこない。『四畳半襖の下張り』で検索すると有料版が出てくる。しかし、「今年曝書の折ふと廃塵の中」と書き出しの文で(ウェブ全体から)検索すると、無料版が出てくる。

 文語で書かれているが古文が読めなければ意味が分からないというものではなく、日本人なら本能で読んでしまえるものだ。

 かつて待合(ラブホテル)だった家の四畳半の襖の下地紙に、待合の元の主人と芸妓だった妻との初めての性交渉の有様が細かく書かれているという設定で、そこに描かれた手練手管は男なら誰でも真似してみたいと思うようなものである。

 文庫本は文語文のまま現代かな遣いに変えたもの、ネットの有料版はそれを送りがなや平仮名を多用して読み易くしたもの、無料版は文庫本のかな遣いを旧かなに戻したものであるが、無料版で充分堪能できると思われる。(2007年5月18日)







 YahooUSの大リーグの井川の記事を読んでいると、outingという単語がしきりに出てきたが手持ちの英和辞典を見ると「ピクニック、遠出」とあるだけで文脈に合わない。

 本屋の棚に並んでいる辞典を見ると、「遠出」の後に「(試合などへの)出場」と「同性愛を暴露すること」の二つの意味が追加されていた。とすると、大リーグの記事のoutingは「出場」という意味だったわけだ。

 つまり、手持ちの英和辞典は時代遅れになっていたのだ。英和辞典はここ五六年で大幅に進化している。その最後に来たのが『ジーニアス』の第4版への改訂だ。第3版には「遠出」しか載せていないからである。

 このoutingの三つの意味は、1991年のアメリカ製のカレッジ版英英辞典に既に掲載されている。アメリカの最新の情報が10年以上かかって、やっと日本に反映されたことになる。

 そこで英和辞典の買い換えが必要かと、英和辞典を物色しているが、『ロングマン英和辞典』が面白そうだ。politicianの訳語で、他の辞書が決まって「策士」としている処を「うまく立ち回る人、策謀家」としているのだ。どうやら日本語の新鮮さが売りの辞書であると思われる。(2007年5月17日)







 野球の特待生制度で不思議なのは、なぜ私立の高校や大学にあって公立に殆どないのかということである。スポーツが優秀なだけで生徒をとることが私立に許されるなら、なぜ公立にも許されないのか。どちらも同じ法律の下に設立された学校だからである。

 もし公立にもスポーツ特待生制度が可能なら、甲子園の出場校が今のように私立に偏ることもなくなるし、六大学野球で東大が勝ってニュースになることも無くなるはずだ。

 慶応や早稲田にスポーツ枠で入学する学生がいるのなら、東大や京大にスポーツ枠で入る学生があってもいいではないのか。逆に、東大や京大にスポーツ枠があって悪いのなら、慶応や早稲田にあるのはおかしいなことである。

 国立の体育大学は鹿児島にあるだけである。なぜもっと国や県がスポーツの優秀な学生を育てようとしないのか。文部大臣が高野連に特待生制度を残せというのなら、税金でスポーツ教育を奨励する制度を考えるべきではないだろうか。(2007年5月16日)







 300日規定の問題で驚かされたのは、離婚前の妊娠の多さであろう。これは女たちが子供を作ることを結婚の道具にしているからだと思われる。

 初婚と同じく再婚でも出来ちやった婚が多いのは、女たちが避妊を知らないからではあるまい。出生率の低さから見て、女たちは結婚したら避妊して子供を作らずにいるが、新たに結婚したくなると避妊をやめているらしいのである。

 つまり、女たちは離婚しそうになると次の相手を確保するために子供を作っているのである。

 しかしながら、男にとって、結婚していない女から妊娠を告げられるほど恐ろしいことはない。ところが、自分の愛する男をそんな目に遇はせて羞ぢないのが今の女たちなのだ。

 結婚前に妊娠することで男に結婚を言い出させようとするのは卑怯なことだが、女たちは自分がフェアであるべきだとは思っていない。なかには、妊娠したと嘘をついて結婚を言い出させようとする女までいる。

 こんな女たちが子供の給食費や保育費を滞納するようになるのは想像に難くないというべきだろう。(2007年5月15日)







 このごろ手書きではカタカナを使うようにしている。カタカナの方が直線的なので自分には書きやすく、またあとで読みやすいからである。

 今や日本語はひらがな全盛である。カタカナを使うのは外来語と動植物の名前を書く時などに限られている。ところが、昔はカタカナもひらがなと同じくらいによく使われた。

 カタカナ文は漢文の振り仮名や送り仮名にカタカナが使われたことに始まる。だから、昔は漢文の読み下し文やその文体の文章でカタカナがよく使われた。しかし、漢文が廃れると共にカタカナ文も廃れ、今や誰でも漢字とひらがなで文章を書く。

 ひらがなは漢字の草書体から作られたものであり、カタカナは漢字の一部をとって作られた。だから、ひらがなは丸みがあるのに対して、カタカナは角張っている。ひらがなは縦書きをするのに便利な字体であるが、カタカナは独立している。

 活字を使う場合にはひらがなでもよく分かるが、手書きのひらがなは少し雑に書くと見分けが付かなくなる。そこで手書きの時にはカタカナを使わうというわけだ。特に外国語の原書を読んでいて訳語を行間に書き込むときに便利である。(2007年5月14日)







 最近になって自転車の交通事故が増えたというが、それはエコブームに乗って自転車を使う人が増えたからだろう。自転車が増えれば事故が増えるのは当たり前のことである。

 その中で自転車と歩行者の事故が増えたのは、あながち自転車に乗る人のせいだけではない。道路を自動車が便利なようにばかり整備して自転車を歩道に追いやってしまった警察にも責任がある。

 自転車が安心して車道を走れるなら、歩道の上にいる歩行者に自転車がぶつかる道理はないからである。

 自転車による信号無視が多いのも同じことだ。自動車が通るから信号が出来た。それで割を食っているのは自転車や歩行者の方だ。車の運転手は座って信号を待てるが、立っている人間の身からすれば、車が通らないのに意味もなく待たされるのは、疲れるばかりである。

 これからはますます自転車は増える。それに対応して自転車の走りやすい道路を整備するのが事故を減らすための警察の責務ではないか。(2007年5月13日)







 村岡元官房長官に対する控訴審の判決は一審の無罪を覆して今度は有罪というものだった。一審とは違う証拠が出てきたのではないのに、こんな正反対の判決が出るのだから、裁判とは好い加減なものである。

 裁判官と検察官は同じ公務員で仲がいい。だから、三審制で三回も裁判をすればそのうち必ず検察側に理解のある裁判官に当るというわけで、弁護側にとって三審制は損なだけである。

 日本の刑事裁判の有罪率が高いのも、国側の検察官に何度も再チャレンジの機会が与えられているからであり、「まだ最高裁がある」というのは日本では検察官の言葉なのだ。

 しかし、有罪か無罪かという人の人生を左右するような重要なことで、裁判官によって意見が異なること自体、あってはならないことである。誰が裁判官でも有罪になるのでなければ、国と戦う立場に置かれた個人は浮かばれない。

 自由心証主義といって、裁判官にはそれぞれに広範な裁量権が与えられているが、検察側証人の信憑性が裁判官によってこんなに違うのだから、裁判とはどの裁判官に当るかの運次第であり、たまに幸運に巡り会うことがあってもそんなことは三回も続かないということになる。(2007年5月12日)








 事故は常に人知の及ばないところで発生する。アメリカ生まれのジェットコースターの車軸が折れると誰が予想しただろうか。

 どんな機械にしてもその構造を隅から隅まで知り抜いているわけではなく、誰もがこんなものだと思って使っている。それは六本木の回転ドアにしても同じなのだが、事故が起きてみると回転ドアの場合と同様に、事故の可能性を完全に把握していなかったことを理由にエキスポランドはさんざ批判されることだろう。

 今回の事故でもう一つ特徴的なことは、事故の被害者の名前がなかなか明らかにならなかった事である。警察の最近の方針で、被害者の実名公表を家族に確認する必要があったからだろうと思われる。

 しかし、その名前とともに顔写真の掲載された新聞を見て驚いた読者も多かったのではないか。もし匿名のままだったら分からなかった情報が、実名報道によって明らかになったからである。

 新聞各紙は、事実を知らせるためには実名報道が欠かせないと主張していたが、今回は新聞が決して指摘することのないような事実が実名報道によって明かになったのだから皮肉なものである。(2007年5月11日)







 プロ野球の裏金問題は西武だけが悪者になって、他の球団はお構いなしということらしい。2005年以降は西武以外は不正がないと報告したというのだが、もっと前のことがあるはずだ。

 なぜダイエーには毎年々々その年のナンバーワン投手が入団していたのか。西武が強くなったのは根本氏の力が大きかったが、根本氏がその西武からダイエーに移ってからダイエーが強くなったことは誰でも知っている。

 その西武が不正だらけだったのだから、当然ダイエーも同じ事をしていたのではないのかと思われても当然ではないのか。それに、巨人に高橋が入団した時に大金が動いたという話はどうなったのか。

 どうやら全てをうやむやのままで済ます積もりらしい。西武は洗いざらい公表してドラフトの指名権を一部失ったというが、それで幕引きはおかしいだろう。

 今回の処分対象を2005年6月の倫理行動宣言の後だけに絞ったのもおかしなことだ。これでは、その前はやりたい放題だったと思われても仕方がない。こんな汚れたプロ野球を楽めと言われても無理というものである。(2007年5月10日)







 "Président Sarkozy"サルコジ氏の大統領当選の第一報を伝えるリベラシオン紙の見出しは簡潔にして感動的だった。日本語に直訳すれば「サルコジ大統領」となるが、これではサルコジ氏が大統領に選ばれたことにはならないのだから、フランス語は面白い。

 この選挙結果を日本式にいえば、フランス国民は「格差是正」を訴えたロワイヤル氏よりも「格差拡大」の可能性がある競争社会の実現を主張したサルコジ氏を選んだことになる。

 公共放送はフランスもイギリスも日本もこぞって反米左派の論調をとって、社会党のロワイヤル氏を応援したのだが、マスコミと国民の考え方の「格差」はまたもや明かになった。

 欧米式のやり方が進歩的だと信じて日本の左派やマスコミがいつも引き合いに出してきたフランスが、これまでの政策を自ら否定したのだから驚きである。日本の労組にとって夢の週35時間労働制を何とフランスは撤廃するというのだ。

 まさに欧州状勢は複雑怪奇である。この選挙結果を知った日本の民主党などの野党は、フランスで時代遅れの烙印を押された「格差是正」のスローガンを、これからも使い続ける積もりなのだろうか。(2007年5月9日)







 市場の独占が消費者の利益にならないという事を、姫路の本好きたちはジュンク堂の進出で痛感しているのではないか。

 とにかくジュンク堂が扱う本はべらぼうに多い。だから、ジュンク堂が来てからは誰もがここばかりに行くようになった。するとあっという間に大きな地元書店が二つ消えてしまったのだ。

 ジュンク堂が来て、読者の選択肢は一つ増えて三つになるどころかジュンク堂一つになってしまったのである。

 以前なら、同レベルの本屋が二つあったので、目当ての本がこちらに無ければあちらへ行こうとなったのだが、いまやジュンク堂一つなので、ここになければ終わりである。つまり、姫路広しといえどももうどこにも無いのだ。

 これは新アクセス独和辞典がどう新しいのか実物を見に行った時に実際に体験したことである。結局、ジュンク堂が来ていない近くの町の本屋で見ることができた。

 ジュンク堂は品揃えがよくて学者が買うような難しい本まで置いてあるが、この程度の本でも置いていないことがよくある。しかし、学者は研究書を本屋で見て買ったりしない。地方都市には大きすぎる本屋は却って迷惑である。(2007年5月8日)








 辞書は何でもそうだが、外国語の学習では特に小さい辞書が便利である。

 小さい辞書は、初歩の段階でまず役に立つ。教科書でも単語の意味を全部教えてくれるわけではないので、自分で調べる必要がある。そして、この段階では小さな辞書で充分である。

 それが済んで、長い文章を読む段階では、出てくる単語を片つ端から調べなければならない。そんな時、大きな辞書は面倒だ。やはりどんどん引ける小さな辞書がよい。

 次の段階は、同じ長い文章でも、なるべく単語を調べずに読む練習をする必要がある。もう殆どの単語の意味は分かるから、出てくる単語の意味を片つ端から調べるようなことはない。むしろ、文脈だけから意味を汲み取っていく訓練が大切だ。

 日本語を読むのと同じで、外国語の場合もいちいち辞書を引いていては、速く沢山読めるようにはならないのだ。そして、沢山読まなければ語学はものにならない。

 そして、そんな時にも重要単語の載っている小さい辞書で充分である。つまるところ、辞書は小さなのを買うのがベストの選択だということになる。(2007年5月7日)








 子育て支援に保育園を作れという声をよく聞く。もちろん子育てをしながら働く必要があるならそれもいい事だろう。しかし、そこに男女平等思想が絡んでくると話がややこしくなる。

 これは女性が男性と同等に働くためには子育てから女性を解放する必要があるという考え方である。女は子育てで損をしているというのである。

 その一方で、子供を産めない女は、大金をかけて人工授精どころか代理出産をするほどに子供を欲しがるのだ。そんな女が今度はその子を保育園に預けて仕事をするだろうか。

 ところが、普通に子供が産める女は子供を邪魔者扱いして保育園に入れようとする。仕事と子育ての両立のためだというが、子育ては人に任せて仕事を続けたいのが本音だろう。

 そんな仕事第一の女たちに対して子育て支援をして、どうして少子化対策になるといえるのか。そんなことをすれば、子育てを軽んじる女がますます増えて、ますます少子化に拍車がかかるだけではないのか。(2007年5月6日)







 憲法記念日の毎日新聞の社説によると、「首相は『占領軍の影響下で制定された』憲法に強い違和感を表明し、愛国心が育たず家族のきずながうすれるなど、改憲しなかった弊害が出てきた」と言っているらしい。実にもっともな事である。

 これは「戦後の繁栄は米国の『押し付け憲法』に発する。この皮肉に満ちた戦後史をなんとか修正したい。自前の憲法にしない限り、日本人としての誇りが十全にならない」という考え方なのだそうだが、その通りだろう。

 で、それについての毎日新聞の反論はというと、「危なっかしい言葉だ」「書生論じみている」これで終わり。何故そう思うのか何の説明もない。そのあとは、国際環境は激変したが改憲せずとも何とかなると言いたいらしいのだが、何一つ説得力のある根拠を示せないのだ。

 なぜ護憲派は、アメリカ製の憲法ではなく日本製の憲法を作ろうと言わないのか。何条かは知らないが、その中に国民の合意のもとで新たに平和主義の条文を盛り込めばいいだけではないか。

 その結果「九条の会」が「十条の会」になっても、一向にかまわないと思うのだが、「九」でなければ何か困る理由でもあるのだろうか。(2007年5月5日)







 地球温暖化が問題視されていて、このままでは百年後には海面が三十センチ以上も上昇してしまうなどと言われている。しかし、これも石油あっての話であらう。ところが、その石油はあと50年もすれば無くなってしまうと言われているのだ。

 つまり、地球温暖化の議論は石油が永遠にあり続けるという前提の上に立っての話である。しかし、実際はそうではない。

 そして、石油がなくなれば温暖化どころか寒冷化の方を心配する必要が出てくるかも知れない。もしそうなら、その時までに充分に地球が暖まってくれていたら、寒冷化をある程度抑えられるかも知れないのだ。

 それに石油がなければ自動車は走らない。電気自動車などというが、トラックは電気で走るのか。もし走らなければ現在の流通は完全にストップしてしまう。そうなれば、排気ガスを温暖化ガスなどと言って悪口を言っている場合ではなくなる。

 しかし、その電気も石油が無くなれば何で作るのか。天然ガスの埋蔵量も石油と似たようなものだ。風力や太陽光の発電量は高が知れている。原子力発電所を至る所に作る訳にもいかない。わたしの知るかぎり、人類はまだ何の答も持っていないのである。(2007年5月4日)







 高校野球から特待生制度をなくしたら、貧しい学生が甲子園を目指せなくなるなどという人がいるが、今の特待生制度がそんな目的で使われているとでもいうのだろうか。

 むしろ、学校が甲子園に出るために野球の得意な子供を全国から集めるために使われているから問題なのである。

 そもそも、野球で特待生になるような生徒は、小さい時から親に高価な野球道具を与えられ、地域のリトルリーグに加入して野球三昧の少年時代を送れる子供なのである。貧しい家庭の子供にはとても真似の出来ない話である。

 最近、只でも出来る勉強の成績について「経済格差」が言われているが、野球の「経済格差」の方がもっと顕著なはずだ。各家庭の「経済格差」の結果が、スカウトの目に留まるような立派な体格をした野球上手の子供たちに他ならない。

 親が大金をつぎ込んだ子供たちだけが、野球特待生となって大金をもらって私立の野球名門校へ進み、あはよくばさらにプロ野球に進めるのだ。特待生制度こそは豊かな家庭の子供を益々豊かにして「格差」を拡大する制度となっているのである。(2007年5月3日)







 五月三日は憲法記念日であるが、これが決ったのはまだアメリカ軍が日本を占領中の昭和二十三年のことである。アメリカはうまく考えたものだ。自分が作つた憲法の発布記念日も作らせて、日本人に自動的にアメリカ製憲法の発布を祝はせることにしたのだから。

 日本が独立を回復したのはその後の昭和二十七年のことである。それまでの間、日本の最高権力機関は国会ではなかった。だから、今の憲法は国会で発布されたと言っても、その実態はアメリカ軍の司令官が発布したものである。

 だから、この憲法記念日はインチキな記念日なのである。日本人はこんなインチキな憲法をありがたがって、インチキな憲法発布の日を呑気に祝って来たのだ。

 一方、どこの国でも記念日にしている独立記念日が日本にはない。それどころか、多くの人は日本がアメリカから独立したとは思っていない。つまり、本当は日本はまだ心理的にはアメリカから独立していないのである。

 その象徴がアメリカの作った憲法を日本人が祝うこのインチキ憲法記念日の存在だといえるのではないだろうか。(2007年5月2日)







 ティッシュペーパーをこれほどよく使うようになったのは、ここ二十年ほどだろうか。以前は鼻をかんだりするのに使うだけだったが、今では何にでも使う。

 食事中に少し手が汚れただけでティッシュを使う。机を拭くのにもティッシュを使う。メガネのレンズを拭くのにも使うし、料理の皿を拭うのにもティッシュを使う。

 ティッシュを使うのと、布巾やタオルを使うのとどちらが経済的かといえばティッシュだろう。なにせ、一箱50円ほどしかしないのだから。

 しかし、こんなティッシュの使い方は何故かもったいないような気がする。使ったティッシュが目に見えて汚れていなかったら、すぐに捨てる気になれない。それでズボンのボケツトに突つ込んでおいたりする。

 ところで、こんなにしよつちゆうティッシュを使うのは日本人だけらしい。イギリスではティッシュ一箱が1000円以上するという話である。街角でもティッシュを配っていない。

 ちなみにイギリスではタバコも一箱1000円以上する。日本は欧米などよりまだまだ自由な国であるらしい。(2007年5月1日)







 泣いているだけではわからない。女性は「助けて」と微かにでも言わなかったのである。そんな女性を助けなかった40人の乗客を、その場にいなかった新聞記者たちが批判している。しかし、仮定の話なら誰でも出来るのだ。

 新聞は若い女や子供に同情するのが好きらしい。それは民法の300日規定の問題でいやというほど見せつけられた。高校野球でもそうだ。しかし、彼らは病気腎移植問題では医師会によるいじめに見て見ぬふりをした。いや積極的に加担した新聞もある。

 人工透析患者たちは署名運動をして「助けて」とはっきり声を上げたではないか。それにもかかわらず、彼らは平気で「あきらめろ」といえたのである。そんな彼らがもし同じ車内にいたとしても、見て見ぬふりをしたことは想像に難くない。

 「神は自ら助くる者を助く」である。若い女が無防備で一人旅をすることがそもそも無謀なのだ。痴漢の対抗手段を何も持たず危機に陥って助けを乞うことも出来ないなら一人旅などすべきではない。同情すべき人間はほかに沢山いるのである。(2007年4月30日)







 最近よく新聞で聞く言葉に「かわいそうだ」がある。これは特に子供に対して使われる。例えば「子の戸籍に親を変更した記録が残るのはかわいそうだ」とか「いつまでも対外試合をできず、甲子園をめざすことができないのでは、かわいそうだ」といった具合である。

 しかし、子供は不幸でもいいのである。立派な大人になるためには、可哀想な少年少女時代を送るべきだとさえいえる。

 高校野球でもそうだろう。他の生徒の不祥事や病気のために甲子園に行けなかった選手がプロで大成した例は多いのだ。いじめ問題も同じである。子供時代にいじめの体験のある子供が思いやりのある人間になるのである。

 不幸な子供時代はバネになる。親にびんたの一つも受けたことのない子供はろくな大人にはなれないものだ。子供時代からちやほやされて育つのは、人間としては大きな不幸である。

 大切なのは、不幸な大人を救うことである。ところが、人工透析で苦しむ大人は見捨てておいて、たかが野球の試合が出来ないくらいで可哀想だという。子供は健康な体さえあれば、人より多少不幸な方がいいのである。(2007年4月29日)







 岩波新書『外国語の学び方』に「よい読みものを、よい辞書を使って、確実に4000~5000ページ読めば、一応ものになると言われています」と書いてある。だが、ドイツ語は4000ページ位読んでも、なかなかものにならない。

 何と言っても、慣れた英語の感覚が邪魔をする。英語とドイツ語では文体が全然違うのだ。英語は付随的なものを文章の後ろにつなげて行くのに、ドイツ語はそれを文章の初めや真ん中などどこでも放り込んでくる。

 ドイツ語で何が言いたいかを知るためには、文章の最後まで行かないといけない。文の主動詞に付いている前置詞が文の最後の最後に置かれているからである。

 ドイツ語では主語が文章の前に来るとは限らない。目的語が先に来ることがよくあるのだ。動詞が必ず最後に来る関係文では、目的語のある文は関係代名詞+名詞+動詞の順番であるが、この名詞が目的語か主語かは順番からは分からない。

 ドイツ語ではコンマが一つの文章の中にやたらと出てくる。英語のように主文と複文を分けるだけではない。関係文も英語と違って全部カンマで別にしてある。だから、どの名詞にかかるのか分かりにくい。

 どうやら英語を先に学ぶとドイツ語は学びにくいらしい。戦前の教育を受けた『外国語の学び方』の著者は、あれだけ英語の学び方を書いておきながら、最後の方で得意なのはドイツ語だと書いている。逆も真なりらしい。(2007年4月28日)








 特待生に関する高野連の考え方は明白だ。「野球馬鹿はいらない」である。特待生扱いは学業優秀が第一でその次に経済的理由、それで終りである。スポーツが優秀では理由にならないのだ。

 高野連は高校野球を教育の一環と口を酸っぱくして言い続けてきた。この教育とは勉強のことであってスポーツのことではないのだ。スポーツだけ出来て勉強の出来ない子供を育てても何にもならないのである。

 ところが、新聞社は軒並み、野球憲章がおかしいのだから野球憲章を変えろという。しかし、教育とはまず現に存在するルールを守らせることから始まる。守れなければルールの方を変えたらいいでは、教育は成り立たないのだ。

 新聞社はスポーツ特待生でいいはずだともいう。しかし、それでは野球馬鹿を大量生産することになってしまう。野球馬鹿で成功して生きていけるのは、ごく一部の例外なのだ。大部分の学生は普通の人生を送るのであり、高野連は彼らの将来を考えなければならないのである。

 高野連のこうした考え方のどこに問題があるだろう。現に今の高校野球が無茶苦茶になっていることは否定できない事実である。それを一度原点に戻そうという高野連の取り組みは、むしろ遅かったくらいである。(2007年4月27日)







 私は「格差」と言われてもよく分からないのだが、今どきの新聞記者はどこであろうと「格差」と使わないと一流の記事が書けないと思っているらしい。

 日本の記者にかかるとアメリカにも「格差問題」があることになってしまうようで、「米国で男女の収入格差くっきり」という産経の記事(4/24)にもその思いが見て取れる。

 「米国の大卒女性の収入は大卒男性に比べて低く、年を経るごとに格差が拡大していることが・・分かった」というのだが、平均を取ればどこの国でもそんなものだろうと誰もが思うことも、「格差問題」に見えるらしいのだ。

 「女性の学業面での成果が報酬に反映されていない」ともいうが、学校の成績と実社会での収入とが関係ないのは誰でも知っていることだ。

 この問題に対する答は簡単である。実社会における男女の収入格差は男女の能力格差に起因するのである。男女の能力格差は男女の性別格差に基づくものであり、そこから男女の勤務時間格差と男女の責任感格差と男女の行動力格差が生じ、それが男女の収入格差につながっているのである。

 つまり男女格差が生まれるのは、男女格差があるからということになる。(2007年4月26日)







 貧富の差といえば誰でもそんなことは当たり前だと思うし、それを無くすことなど出来ないことを知っている。ところが、それを「格差」という言葉に言い換えて、それが政治によって無くせるかのように言っているのが野党である。

 しかし、学者が使うこんな難しい言葉を持ってきたから話がややこしくなった。しかも、何でもかんでも「格差」を付けて問題だというものだから、訳が分からない。

 それにも関わらず「格差」という言葉の意味を何とか理解して、しかも選挙に関心があって投票に行く人たちがいるとして、そんな彼らが社会の底辺で明日の生活にも事欠く人たちでないことは確かだろう。

 その上、選挙に行く人たちが社会的弱者のことをおもんばかって一票を投ずることなど皆無に近いのだから、いくら選挙運動で「格差問題」を訴えても、一向に盛り上がらないのは無理もないことだ。

 野党の「格差問題」という付け焼き刃はどうやらあまり使い物になりそうにない。民主党は「格差解消」を訴えるテレビCMを変えた方がいいかもしれない。(2007年4月25日)







 映画『プライドー運命の瞬間』は東京裁判が茶番だったことを示す多くの事実を提示している。

 この裁判は勝者が敗者を裁く間違った裁判であることは、多くのアメリカ人弁護士がこの裁判の中で繰返し証言したことだった。

 この裁判の茶番を見抜いた大川周明は、裁判中に「これは茶番だ茶番だ」と叫び出した。それに困った裁判長は彼を精神異常扱いにして、免責して裁判から排除せざるを得なかった。

 また、侵略戦争をしていたのはイギリスなどの欧米諸国であって、日本はインパール作戦でインドの独立を目指すなど、アジアの民族にとっては解放軍だつた。ところが、この事実を覆い隠し、逆に日本に侵略者の汚名を着せることがこの裁判の目的とされた。

 しかし、そのために法廷に提出された検事調書は伝聞証拠ばかりで、判事も有罪判決を出すのに困り果てた。本来伝聞証拠は裁判では証拠にならないからである。その結果、ニュルンベルグ裁判が一年以内で終わったのに、東京裁判は二年半もかかった。

 ところが、日本には東京裁判の検事側資料を日本軍が悪事を犯した証拠を見つけた言って出してくる学者が今だにいる始末だ。東京裁判が茶番だったという事実は、まだまだよく知られていないのである。(2007年4月24日)







 『コレリ大尉のマンドリン』という映画にはイタリア人とドイツ人の気質の違いが鮮明に描かれている。

 第二次大戦中、ギリシアのケファレニア島に進駐してきたイタリア軍が行進する途中で、その中のコレリ大尉(ニコラス・ケイジ)はこの映画の女主人公であるフェラギア(ペネロペ・クルス)を見つけると、「二時の方向に美女発見、敬礼!」と号令をかける。すると全員が彼女の方を向いて敬礼するのである。

 戦争の暗い雰囲気に覆はれていたこの映画は、その瞬間から明るくコミカルな雰囲気に包まれるのだ。

 コレリ大尉率いる兵士たちはみんなオペラを口ずさんでいる。コレリ大尉の宿舎の割り当て命令をフェラギアの家に伝えに来た兵士は、主人に抵抗されると、たぢたぢの態で引き返そうとする。コレリ大尉はフェラギアのベッドを自分が使うのを「お嬢さんに悪い」と言って断ったりもする。

 なかでも、イタリア兵たちが祖国の降伏後に島民と共にドイツ軍と戦うことに決めた時、既にフェラギアの愛を得ていたコレリ大尉の命を同僚の一兵士が何としても守ると彼女に約束して、銃殺の場でそれを実行したのは印象的だ。

 常に無慈悲で機械の如くに行動するドイツ兵とは対照的に、イタリア兵たちはどこまでも人間的なのである。この映画を見た誰もがドイツ人よりもイタリア人が好きになったとして仕方のないことだろう。(2007年4月23日)








 風力発電や太陽電池による発電を化石燃料による発電に取って代らせるのが環境に良いことは分かるが、それで化石燃料なしの産業社会に移行して行けるかといえば、そんなことはない。

 人類の文明は、化石燃料、特に石油を中心とするエネルギーによる産業革命によって現代の段階に到達した。今やどんな製品でも石油の恩恵を蒙らずに作られているものは殆どない。

 それは自動車一つをとって見ても分る。最新のハイブリッドカーさえも、車体からエンジンからバッテリーから何もかも石油の力によって作られているという点では、これまでの車と何も変わらないのだ。

 要するに、現代は石油文明である。だから、太陽電池も風力発電機も石油の力によって作られていると言っても過言ではない。そこから得られた電力を電力会社が買う場合の資金も、石油から得られたものなのである。

 だから、太陽発電も風力発電も本当の意味での石油の代替エネルギーにはなれないのである。完全な石油抜きの産業社会の姿が見えてこないかぎり、真の意味での次世代エネルギーの開発は不可能なのではないだろうか。(2007年4月22日)







 アウシユヴィッツの強制収容所から生還した人の書いたものが色々出ているが、どうも信用できない。これらに共通しているのは、書いている人間がアウシユヴィッツから生還した事に対して後ろめたさを持っていることで、そのために文章がストレートではないのだ。

 抹殺収容所と呼ばれる以上は、全員が死んでいるはずなのだが、彼らは生きて帰って来ている。だから、まずその理由を書かざるを得ない。そこで、健康な男性は労働に使うために生かして置かれたなどというのだが、子供でも生残った人もいる。

 ガス室で大量殺戮が行われたことになっているが、生き残った人はそれを直接見たわけではないので証人にはなれない。しかし、その事実を否定するわけにはいかないので、例えば、ここで別れた人たちはきっとガス室送りになったのだ、などと書くのである。

 つまり彼らは直接自分で体験してことだけを書くと、「史実」に反したことを書いてしまうことになるのだ。そこで文章の中に、あとで知った伝聞証拠をあちこちに混在させざるを得ないのである。

 ところが、その体験とはソ連の強制収容所の体験談とあまり違はないのだ。その中には、温水シャワーを使ったり殺虫剤で消毒されたことなどがあり、さらには、ヒトラーの暗殺が失敗したことを聞かされたこともあって、いったいこれがドイツの抹殺収容所なのかと思わせられるのである。(2007年4月21日)







 護憲派が国民投票法案をつぶそうとして最低投票率を持ち出している。例えば「投票率が四割を下回る場合、有権者の二割を超えただけで改憲が認められてしまう。これで民意を反映した結果と言えるのか」といったものだ。

 しかし、この議論は、投票しないのは白紙委任をすることであり、賛成するのと同じであることを無視しており、インチキな議論である。

 そんなことをいうなら、投票率が五割を上回っても、有権者の二割五分程度で改憲が認められることになり、二割とたいして変わらない。いや投票率が八割あっても、五割以上の国民が賛成したことになるのは難しいのだ。

 そもそも最低投票率など存在すれば、改憲の当否をめぐる争いが、ボイコット運動によって最低投票率をめぐる争いに変質してしまう恐れが大きい。つまり、この議論は国民投票法を無効にしようとする策謀であることが明らかなのである。

 もともと護憲派は憲法に改正規定があるのに改正に反対するという憲法違反を犯してきた連中である。しかも、憲法は改憲には国民投票で過半数の賛成が必要というだけで、最低投票率を規定していないのだ。

 朝日新聞は、世論調査で最低投票率を支持する人が79%だったと言ってその必要性を主張しているが、この主張こそごく少数の人間の意見を全体の意見のやうに扱っており、自分たちの意見のインチキさを露呈するものといえる。(2007年4月20日)







 明石の花火大会事故に関して、私は警備を担当した人間の責任ばかりが問われて、会場に押しかけて自らリスクを回避しようとしなかった市民たちの責任が不問に付されたことに疑問を持っている。

 花火大会の見物人は、閉じられた空間で他に行き場のないコンサート会場の観客とは違う。しかも市のイベントは無料であり、市民には参加するという側面もあったはずだからである。

 土本武司氏はこの事故に関する産経新聞の正論(4/17)で、判決自体は支持しながらも、「市民の側は、危険を完全に回避しようとする態度には出ず、むしろ一定のリスクを保つように行動する性質があり、警備担当者の指示を遵守することより花火見物の場所取りに高い価値を求める」と、一般論の形はとりながらも、市民たちの行動が事故の一因であったことを示唆している。

 そして、今後このようなイベントが開催されるためには、市民は無責任な客でいるのでなく、企画段階からイベントに参加して安全に対する責任も主催者と分ち合わなければならないと言っている。私は氏の指摘はもっともだと思う。(2007年4月19日)







 姫路城の大手門の橋が架け替えになったので見に行った。以前の橋は大手門から真つ直ぐの位置にあったのだが、それを十メーターほど東にずれた昔の位置に戻したのだそうである。

 これによって、昔はこの橋を渡って一度左へ曲がりさらに右へ曲がらないと大手門をくぐれないようになっていたことが分かる。姫路城の中はどこも迷路のやうに入り組んでいて、本丸までなかなかたどり着けないようになっているが、入口からして既にそうなっていたのである。

 橋の手前に掲げられている江戸時代の播州姫路城図からも昔の橋の位置が分かるが、この図面からは、大手門を入った先の広大な三の丸広場には、昔は真ん中を縦に真つ直ぐ塀が立っていたことも分かる。

 その塀にある門が大手門の次の門だった。大手門を入っても真つ直ぐに進むことはできず、左へ曲がってさらに左へ九十度曲がらないとその次の門にはたどり着けなかったのである。

 つまり、本当の姫路城は大手門を入るところから既に行き止まりだらけの難攻不落の構造になっていたのである。(2007年4月18日)







 民法の300日規定について、前夫たちが記者会見して法改正を求めたという記事が毎日新聞に出た。

 この男性は単身赴任中に妻に不倫されて仕方なく離婚手続をとったが、その二か月後に前妻が不倫相手の子供を産んでしまい、そのため裁判所に呼ばれて、妻との性交渉のなかったことを証言させられたというのだ。

 その前夫が記者会見で「子どもに罪はなく、救済の道を作るべきだ」と語ったとのことだが、妻に裏切られたあげくにこんなことをいうなど、私なら絶対にあり得ない。

 裁判所で自分の子でないことを証言する事を「理不尽な負担」だともいうのだが、自分の恥をこのような公開の席で話すのが「理不尽な負担」でないらしいのは、不思議というしかない。

 他紙によるとこの記者会見自体、法改正を求めるNPOが主催したものであり、その実態は決起集会のようなもので、会見内容の信憑性がどう担保されているかは不明である。

 ただ、この会見に出た前夫たちが暴力夫でなかったことは、これまでの報道のいい加減さを証明するもので、一方的に暴力夫にされている他の前夫たちにとつては目出度い事かもしれない。(2007年4月16日)







 民法の300日規定の問題で解せないのは、報道が子供の人権といいながら、離婚した妻の立場を一方的に擁護している点である。

 曰く「相手が嫌がらせ目的で離婚に応じないケースも目立つ」
 曰く「前夫の協力が得られず手続きが難航すれば」
 曰く「暴力を振るう前夫と家庭内別居の末」
 曰く「避けてきた前夫を巻き込んでの裁判をしない限り」

 これらは全部妻の側からの見方であり、前夫を一方的に悪者扱いしている点で共通している。しかし、男女関係においてどちらが一方的に悪いなどということは出来ないはずだ。

 それに、離婚の直接の原因を作ったのが妻であることは、離婚前に他の男の子供を妊娠していることからして明らかであろう。子供の養育義務が明確にならないため妻の生活が苦しいなどともいうが、それは自分が選んだ素敵な今の夫に金を出してもらえばいいことではないのか。

 それにしても、報道は何故これほどにも妻の勝手な言い分ばかりを並べて、前夫の言い分を聞かないのか。フェミニズムが流行らしいが、こんな一方的な議論ではとても保守派の反撃を押し戻すことは出来無いだろう。(2007年4月16日)







 早大の斎藤投手が六大学野球で初登板する様子が日本テレビ系列で生中継された。しかし、如何せん東大では相手が弱すぎた。

 地上波の放送は40分程度だったが、テレビ画面に映るのは東大の投手ばかりなのだ。一回表の東大の攻撃が三者凡退であっさり終ると、その裏の早大の攻撃がなかなか終らない。

 東大の投手はテレビカメラが並んでいるのを見てびびったか、ストライクが入らないのだ。あげくの果てに一回途中で投手交代。お陰で、茶の間のファンはお目当ての斎藤投手の活躍を堪能する間もなく放送は終ってしまった。

 早大の監督は3年生の先輩投手を差し置いて、わざわざテレビ中継用に斎藤投手を先発にしたのに、その機転も台無しである。それもこれも弱い東大のせいなのだ。

 そもそも何故あんな弱いチームが六大学に入っているのか。今や大学野球も一年生の斎藤投手が開幕戦に先発するほどの実力主義である。六大学野球の人気回復のために、実力のない東大は六大学の椅子を日大にでも譲った方が良いのではないか。(2007年4月15日)







 産むか産まないかを決めるのは女である。だから、女が一旦産むと決めた以上、それが離婚して300日以内で何が悪かろう。いや、自分が産めないなら、別の女つまり代理母に生ませてもいいはずである。

 代理母は決して別の女を「産む機械」にすることではない。その女が同意してそうするのであるから何の問題もないのだ。

 女にとって産むことこそ人生における最大の障害である。産むことさえなければ女は男と対等になれるのだ。だから、専門の女性に産むことを任せてしまえば、女性の解放は完全なものとなる。

 産むことを仕事とする女、つまり代理母になる女も解放されている。なぜなら、彼女は男のために産むのではなく、女のために産むからである。この出産は男との関係からは自由なのだ。代理母、これこそこれからの女性解放のシンボルである。

 女は仕事をするために、既に育児もそして家事も専門家に任せているではないか。ならば、出産も専門家に任せて何が悪かろう。そうなれば、もはや女を仕事から引き離すものは何もなくなるのだ。これで女は働きたいだけ働けるようになるのだ。代理母バンザーイ。(2007年4月14日)








 Piazzaというイタリア語教材の中に、『ニュー・シネマ・パラダイス』の科白(せりふ)のテキストが含まれている。主人公のトトと映写技師アルフレードの三つの会話である。さつそく近所のTSUTAYAでDVDを借りてきた。

 映写室へ入ることを禁じられたトトは、アルフレードの奥さんが弁当を持って来るのを見ると、自分がその弁当を渡すことを口実に映写室に入ることを思いつく。「アルフレード、お使いだよ。おばさんが、お弁当を届けてくれとさ」(科白の訳は映画の吹替えから。以下同じ)で始まる場面が第一のテキスト。

 アルフレードが、映写技師なんかになるなと言いきかせるのに、トトはいつの間にか映写機の扱い方を覚えてしまっていることが分かって、

 「話し聞いてなかったな。何だ。何を見てる。しおらしく聞く振りして、目を離すと途端にこれだ。・・・神父さんにも話してやる。お前に手伝いはさせないように、ようく言っとく。もう二度と来るな」と言われて追い出される。

 第二のテキストは、火事で視力を失ったアルフレードが奥さんに手を引かれながら、今はトトが映写技師をしている映写室に入って来て、「ここに私の席はあるかね」「アルフレード、来たんだね。アルフレード」で始まる場面。

 仕事で学校に行けないトトを心配したアルフレードは、トトにはもっと大切な仕事があることを言って聞かせる。「前より見えるんだ。視力はなくしたが。前より見えるようになった」と言って、トトの顔を撫でると、トトが青年のトトに変わる。

 第三のテキストは、兵役から帰って来たトトが海岸でアルフレードに、「百日の恋」の話に譬えて自分がエレナに振られたことを打ち明ける場面。

 「兵士と王女の話、してくれたね。覚えてる? 兵士が何故土壇場で去ったのか分かったよ。そうなんだ。あと一晩で、王女は彼のものだ。でも、もしも王女が約束を破ったら? 兵士にはそれこそ救いがない。死ぬしかないだろ」

 この場面で印象的なのは、アルフレードがトトに、故郷を「一度出たら帰ってくるな。何十年も帰るな。年月を経て戻れば、昔馴染みや、ふるさとに再会できる」という野口英世を彷彿させる科白だろう。
 
 しかし、よく考えると、これは映画の終盤(特に完全版ではエレーナと再会する!)に対する伏線を作るための科白なのである。だから、真似をして故郷を捨てることはないのである。

 ところで、私が借りたDVDには傷があって、SonyのDVDプレーヤが二個所でフリーズしてしまった。ところが、オームのDVDラジカセでは何ともないのだ。傷つきDVDを貸し出すTSUTAYAが駄目なのか、それを再生できないSonyが駄目なのかは不明である。(2007年4月13日)







 「母親が前夫の暴力で家を出て離婚調停中に他の男性の子として生まれた子は、出生届を出せば居所が知れてしまうため、出せずにいた」

 自分の子供を無戸籍にした母親側の言い分である。新聞はこれをそのまま報道しているが、恐らく弁護士が書いたものであろうから、その分を割り引いて読む必要がある。

 まず、暴力云々は口実であろう。そもそも住民票通りの住所に住んでいる必要はないから、出生届を出しても本当の居所を前夫に知られる恐れはないはずだ。むしろ、知られて困るのは、女性が身を寄せている「他の男性」の住所ではないか。

 つまり、出生届を出して本当に困るのは、離婚調停中に女性が他の男性の子を生んだことを前夫に知られてしまうことであろう。これが知れたら、弁護士は離婚調停を女性に有利に進めることが難しくなるし、調停自体が破綻してしまう。

 そこで、弁護士は女性をそそのかして、出生届を出させなかったのではないか。そして、今度は「無戸籍の子供が可哀想だ。民法は時代遅れだ」などと言って、自分の不始末を糊塗しようとしているのではないか。このケースは以上のような推測が可能だと思われる。(2007年4月12日)







 結婚・出産のために仕事をやめていた女性が、また仕事を始めることを「社会復帰」するというのだそうである。今や家事や育児は病気になるのと同じ扱いなのである。

 今の女性たちは、家事や育児では家族の役にしかたてないので、情けなくなるのだそうである。社会に出て働いている女性が耀いて見えるのだそうである。

 ということは、彼女たちが「社会復帰」するのは、働かないと食べていけないからではなく、生き甲斐として、あるいは、ファッションとしてそうするのだ。これは男の働き方とはだいぶ違う。

 大阪府の女性の就労率は全国で一番少ないそうである。これを新聞は全国でワースト1だと書いた。社会に参加していないことは良くないこと、生甲斐を見つけていないことだからであろうか。

 もっとも、ホームレスでさえも餓死せずに生きていける時代である。食うために働くのはもう古いのかもしれぬ。しかしながら、男も女の真似をして生甲斐のために働くことにしたら、それを女が許してくれるかどうかは定かではない。(2007年4月11日)








 一度は自分の夫にした男に二度と会いたくないために、次の男との間に生まれた子供に無戸籍という犠牲を強いている女たちが沢山いるらしい。

 子供の身になって見れば、自分が誰の子であろうと戸籍ぐらいは持っていたいものである。また、自分の子を無戸籍者にするのは忍びないと思うのが親の情というものだろう。ところが彼女たち前夫の子として届けるのは嫌だという自分の気持ちを優先して子供を無戸籍者にしてしまった。

 いや、それだけではない。彼女たちは戸籍法に違反して子供の出生を届けなかったのだから、犯罪者でもある。しかも彼女たちは、自分の気持ちに合わないからと法律を破っておいて、その法律を変えろと言い張っているのである。盗人猛々しいとはまさにこの事をいうのでであろう。

 子供の戸籍を作るのは親の責任である。その責任を放棄した親たちの無軌道を問わずに、子供のために法律を変えろといい、それをマスコミが応援する。まさにこの国では不倫は文化になったのである。(2007年4月10日)








 井川は大事な試合で負ける投手である。阪神時代にも開幕投手として何度負けたか。高校時代も地方大会の決勝で負けている。だから、アメリカに渡った最初の試合でへまをやったのも、予想を裏切るものではない。

 Dice-K he wasn't.とYahoo.sportsは書いた。そのとおり、彼は松坂大輔ではないのだ。神奈川の都会のチームで育った洗練された松坂と、茨城の田舎で育った無骨者の井川とは違うのである。

 阪神の公式戦での初登板は一つのアウトも取れずに降板した。松坂のように常に順風満帆、いつも上手く立ち回って来たエリートとは対照的な、格好悪い投手なのだ。

 ところが、球はやたらと速いがどこへ行くか分からない、そんな投手を野球人たちは大好きだ。この子をなんとか一人前にしたいとみんなが躍起になる。野村がダーツの例えで教え、八木沢がチェンジアップの投げ方を仕込んだ。

 しかし、やはりアメリカに行っても同じだった。ベンチに下がって悠然とガムを噛む井川。A・ロッドの逆転サヨナラホームランを目で追ってから、おもむろに立ち上がる井川。彼はあれで結構マイペースなのだ。(2007年4月9日)







 Piazzaというイタリア語教材の中に、ウンベルト・エーコの評論が含まれている。昔は物を流通させるために道を作ったが、今は道が先に出来てそこに流通させる物を作り出す時代になったという趣旨である。

 その例としてインターネットや、携帯電話、高速道路、CDROMが挙げられているが、何と言ってもその代表はテレビのチャンネルである。現実にNHKは増えたチャンネルの中身を作るのに四苦八苦している。

 いまのNHKは再放送のオンパレードである。当人たちは別のチャンネルで放送しているから再放送ではないと言っているらしいが、視聴者にとっては同じ事だ。

 それではまずいと思ったのか、最近では、昔のNHK番組をまた紹介する番組を色々考え出したり、これまで民放の独壇場だった漫画番組を急に増やしだした。あげくに、教育テレビの中に他チャンネルの番組宣伝まで挟み込むというあり様で、まさに穴埋めに必死である。

 チャンネルを一つ減らせと竹中平蔵氏に言われた時には、参議院の片山氏の鶴の一声で救われたが、やはりコンテンツ不足は明白である。チャンネルを減らして受信料を値下げするのが、視聴者にとっての最大のサービスではないか。(2007年4月8日)







 朝日新聞が記者ブログを開設したそうだが、これが完全な会員制クラブなのだ。つまり、朝日新聞の長年の愛読者でなければ、記者ブログを読めないし、書き込みも出来ないのである。

 会員には購読年数に応じてランク分けがあって、一年以上と一年以下ではサービスが違う。さらに販売店に本人であるかまで確認して、それでもコメントの書き込みは検閲するのだ。

 日頃、自由と平等を標榜している新聞のこの体たらくはどうだろう。自分たちがいざ新しく一つの社会を作ろうとすると、まるで中国そっくりの格差社会・階級社会・検閲社会を作ってしまうのである。

 彼らは、自分たちが日頃書いていることで如何に多くの国民を敵に回しているかをよく知っているのだ。確かに、記者が一人散弾銃で打ち殺されたのだから、その心配ももっともかもしれない。

 しかしながら、インターネットがいくら無法地帯だと言っても、パソコンの画面から実弾が飛んでくる恐れはないのである。いうことは勇ましい朝日新聞が実はこんなに弱虫だとは全く笑止千万である。(2007年4月7日)







 読売新聞が社説で「親子関係はDNAで判定できる」と大きく書いている。それはそうだろう、DNAを見れば猿の親子関係でも判定できる。だが、人間の親子関係を猿と同じ方法で決めてよいのかという問題意識はゼロである。

 猿は結婚しなくてもセックスをして子供を作る。日本人も猿の真似をする人が増えてきた。そこで、人間のために作った法律が合わなくなって来たので、猿にも使えるDNA鑑定で親子関係を決めようという事になった。

 親子関係を決めるのために裁判所で証言するのは人間にしかできないが、DNA鑑定なら猿にも出来る。「猿にも分かる~入門」という本があるが、さしずめこれは「猿にも出来る人生入門」というところか。

 もっとも、DNA鑑定も只では出来ない。20万円払ってそれで済むなら裁判所へ行くより安い物かもしれない。しかし、金のない親から生まれた子供は相変らず戸籍がないことになる。DNA鑑定の費用を国が立替えでもしない限り、これでは新たな格差問題を生んでしまう。

 DNA鑑定による親子関係の法制化で確かなのは、日本人に広まっている猿並みのセックスを法律で追認することだけではないか。(2007年4月6日)







 Novaの最高裁判決は全く理解不可能だが、新聞記者はそんなことは気にならないらしい。彼らの興味はまた企業バッシングが出来ることだけなのだろう。

 六百回受講するからと一回千二百円の安価で契約しておきながら、途中で契約を破棄して、受講した分をその安価で清算しろとは無茶な話だが、これが通ったのだから驚きだ。

 そんなことなら十回であろうと百回であろうと、みんな六百回契約の安い授業料で受講して途中でさっさとやめればいいことになる。

 ところが、記者たちは、単価を安くして大量受注することが悪い事であるかのような出鱈目を書いている。こんなことは新聞社自身がやっていることではないか。新聞を長期契約して途中で解約したらサービス分を返せと言われた読者は五万といるのだ。

 その上、原告が最初に支払った金額は、読売新聞では約七十五万六千円、東京新聞では約八十九万円と食違い、六百回契約の単価も、読売新聞は一面で千二百円と書き、社会面では千五百円と、内容からして出鱈目なのだ。

 Novaがどんな悪どい商法をとっているかは知らないが、この判決に関する限り、出鱈目ばかりを並べる新聞記事よりも自分自身の常識を信じて、Novaの言い分が正しいと思いたい。(2007年4月5日)







 いつ頃からか散髪屋に行かなくなって久しい。自分の頭は自分で刈ることにしたからである。

 元々は普通の散髪屋に行っていた。ところが、値段の安い散髪屋があちこちに出来たのでそちらに行くようになった。そこで見ていると、普通の散髪屋の腕はとても真似られないが、安い散髪屋の腕なら真似られることに気が付いた。

 安い散髪屋の髪の切り方は、髪の束を摘み上げて先を櫛で揃えてから鋏で切って行く。そんなことを繰返すだけでおしまいなのだ。普通の散髪屋なら、それから鋏を横にして頭の形にそって切り揃えていくのだが、安い散髪屋は時間を節約したいので、そんなことはしない。

 しかし、結果は普通の散髪屋と大して変らない。あれでよいのなら自分で出来る。鏡を見ながら、左手で髪の毛の長いところを掴んでくるくると丸めてやる。そして掴んだ先に出ている分の髪の毛を切るだけである。そんなことを数回やってから、櫛で撫でてやると、もう散髪屋に行く必要はなくなるのだ。

 安い散髪屋の出現で、普通の散髪屋はがら空きになったが、そのうち、わたしのように散髪のカラクリを知った人間が増えてくると、安い散髪屋もがら空きになるのではないか。(2007年4月4日)







 寝たきり老人を面倒を家族が見ることほど大変なことはない。何と言っても希望がないのだ。近々死ぬことが分かっているからである。
 
 ところが、老人は世話を受けているにもかかわらず我儘である。大抵は家族の中で一番年上だから、家族に対して偉そうにする。自分が気に入らないと、人を傷つけるようなことを平気で口にしたりするのだ。

 それが惚けてくると、自分の物をとっただろうと言い出したりして、最早始末に負えなくなってくる。そうなると、面倒を見る方は、もう勝手にしろという気持になって来るのである。

 よく寝たきりゼロを目指せなどというが、それは施設に預けてしまって、家族で面倒を見ない人がいえることである。本人が寝ていたがるのに、家族は無理やり起き上がらせることなど出来ないのだ。

 最近、寝たきり老人が家族に見放されて死んだのを「家族の崩壊」などと書きたてた新聞があるが、それは現実を知らない人間の言葉である。人工透析の経験のない記者が病気腎移植を批判するのと同じで、苦しんでいる家族には単なる悪口にしか聞こえないのだ。(2007年4月3日)








 レジ袋の有料化の最大の欠点はその発想の貧しさであろう。有料化すれば国民は金を惜しんでレジ袋の利用を減らすだろうという考え方は、国民に対して大変失礼なものである。

 例えば、殆んどの国民は只でも見られるNHKの受信料をちゃんと払っているのだ。それと同じ様に、レジ袋が有料になれば殆んどの国民はその料金をちゃんと払うだけのことである。

 そもそも、金が惜しいのなら、誰が五円のレジ袋代を惜しんで六百円のエコバックを買うだろうか。国民はその方が金銭的には損だということぐらいは分かるのである。

 何としてでもレジ袋を減らしたいのなら、ちゃんと議論をして、レジ袋は環境汚染に繋がるから利用を減らそうと、国民に対して真剣に呼びかければいいだけのことである。

 ところが、役人は国民の理解力に見切りを付けて、法律の力で押しつけようとする。これでは、まるで江戸時代の寛政の改革などと少しも変らないではないか。全く国民も馬鹿にされたものである。(2007年4月2日)







 麻酔注射をして痛みを取ることを専門にするペインクリニックという医院があちこちに出現している。

 医学の考え方が変って、痛みは病気の徴候であるだけでなく病気を悪化させる原因となっているので、痛みを積極的に取り除くべきだと考えるようになったのである。

 痛みというのはそれ自身の相乗作用で段々大きくなる性質がある。そこで、麻酔によって痛い部分を麻痺させてこの相乗作用を絶つことに意義を見出したのがこの治療法である。

 さらに、大抵の病気は自分の力で治るものだから、痛みを小さくすることによって体の自然治癒力を活発にして、最終的に病気を治すことを目指している。

 ところで、これは別に医者に行かなくても応用できる話だ。例えば、痔の痛みは耐え難いが病院には行きづらい。かといって、薬局には塗り薬ぐらいしか売つていない。

 そんな時役立つのが、歯医者等でもらったロルカムなどの頓服である。これで痛みと共に腫れも引く。御同輩は試されるとよいかと思う。(2007年4月1日)







 ラジオを聞いていると、「行きつけの喫茶店にとても素敵なウエートレスがいるが、辞めて地方に帰ってしまう。ここは声を掛けるべきか悩んでいる」という投書が読まれていた。

 それに対してキャスターは、いま声を掛けておかないと後できっと後悔するから、声を掛けなさいなどと言って、そのやり方まで教えている。

 しかし、異性関係では積極的になったことを後悔することはあっても、その反対はないものだ。うまく行かずに自分がストーカーになる可能性があるし、仮にうまく行っても、今度は相手に振り回されてひどい目に遭う可能性が大きいのだ。

 兼好法師は「しやせまし、せずやあらましと思う事は、おほようは、せぬはよきなり」と書いたが、これはきっと女のことを言ったのである。男というものは、いいなと思うような女性にはいくらでも出会うように出来ているのだ。

 君子危うきに近寄らず。道を歩いていて綺麗な女の人が前から来ても、すれ違いざまにUターンしてその女性の後ろを追ってはならないのである。必ず何かのトラブルに巻き込まれると言ってよい。(2007年3月31日)








 スーパーのレジ袋の有料化に関する記事に面白い数字が二つ出ていた。レジ袋は家庭から出るプラスチックごみの15%を占めるというのがその一つである。

 記事ではこれが如何にも多いかのように書いてあるが、僅か15%である。むしろ、この数字が物語っているのは、家庭から出るプラスチックごみの殆んどは、レジ袋ではないということだろう。

 次に、レジ袋の原料となる石油消費量は、年間で日本の石油の輸入量の1日分だというのである。これも多いように書いてある。しかし、365分の1≒0.0027で0.3%以下なのである。実に微々たるものではないか。

 先日、アメリカのブッシュ大統領がこの先10年間で全米のガソリン消費量を2割削減すると発表した。仮にガソリンが石油製品の半分を占めるとすれば、石油消費量の10%を削減することになる。

 ところが、日本の政府は、「自動車で出かけるのを控えよう」とは言わずに、「レジ袋を減らそう」と言っているのである。石油消費量の僅か0.3%を減らすことにどんな意味があるのか。レジ袋の有料化に象徴的な意味しかないことは明らかである。(2007年3月30日)







 Piazzaという東大のイタリア語教材についてやたら難しいと不満が出ているので、ひとつ挑戦してやろうと思って買って来た。

 わたしのイタリア語は、『今すぐ話せるイタリア語』シリーズの初歩・応用・自由自在をやったり、NHKのイタリア語講座応用編でオペラを楽んだりした程度で、しかもブランクがあるのでほぼ全単語を辞書で引く必要があるが、いうほど難しくはないという印象だ。

 Piazzaにはダンテもあればボッカチオもあって、かなり高いレベルまで扱っているが、注釈には辞書に載っていない意味や古い語法について詳しい説明があり、難しいところは部分訳まで付いているので、力のある人なら辞書なしでも読み進められるようになっている。

 解説にはテキストの要旨と背景説明が書いてあるから、全訳がないことを嘆く必要はない。全訳の日本語は一つの例でしかないし、それに頼っていては読解力は身に付かないからである。

 本の帯に「文法の学習を終えた段階から読める」とあるが、それはもちろん条件法や接続法を理解していることも含まれる。それがないといくら辞書を引いても読めないことは確実である。(2007年3月29日)







 スーパーで買い物をしていると、布袋を下げてレジに並んでいる人を二人程見かけた。所謂エコバックというやつである。それは女子高生とお年寄りだった。

 彼らは最近流行の地球を救おう話に共鳴したかどうかは知らないが、レジ袋不要派になってそれを実践しているのだ。

 しかし、こんなことをする人を見かけることは滅多にない。特に世のおばさん達は地球のことより今日の暮らしの方が大切なのだろう。みんな手ぶらで買物に来て、レジ袋をいっぱいぶら下げてスーパーから出て行く。

 レジ袋を只でくれないスーパーもある。そんなスーパーに対しておばさん達は、何千円も払って買い物をしたのに、レジ袋ぐらい只でくれても良さそうなものだと、不満たらたらである。

 新聞に、地球の未来のためにエコバックを使って買い物をしている主婦の投書が掲載されていたが、あれは多分採用されるための嘘だと思う。私の知る限り、そんなおばさんなど一人も見たことがないからである。

 日頃のこんなおばさん達の行動を見ていると、レジ袋を一律に有料にしても、レジ袋の利用が減ったりするとはとても思えない。(2007年3月28日)







 村上春樹訳『グレート・ギャツビー』の冒頭を少し読んでみたが、賞味期限が一日遅れただけで会社が潰れそうになるのとは全く違い、出版界とは実に寛容な世界であることを痛感した。

 これは私の印象だが、どうやら村上氏は英語の単語の意味を一つ知っていればもう辞書を引かないらしい。例えばsuppressionには「抑圧」のほかに「(事実)を隠すこと」、confidenceには「信頼」のほかに「打ち明け話」と、それぞれ文脈にぴったりの意味がある。

 ところが、氏はこれらに全く顧慮することなく、既に知っている意味だけで訳文が出来たらそれでよしとし、それでうまく行かない場合は、前後の文脈に合いそうな訳語を適当に作ってしまうらしいのだ。

 村上氏は「忠実に訳すつもりはない」と言っているそうだが、ピカソは対象を忠実に描く能力の上に立って独自の世界を作り上げたから評価されたのだろう。ところが、この作品の冒頭を見る限り、氏には原文に忠実な訳を作る能力があるとはとても思えないのだ。

 出版界では間違いの多い翻訳書が出ないような仕組みはない。それで人がお腹を壊す心配はないからである。しかし、この翻訳を参考にしながら原文を読んだら、間違った英語の知識を身に付けてしまう怖れが大きいのではないか。(2007年3月27日)







 『グレート・ギャツビー』の英語は難解で野崎孝も訳出に苦しんだ処があるようだ。文庫本の第三段落の最後の訳にもそれが窺える。

 「そうだ ー最後になってみれば、ギャツビーにはなんの問題もなかったのだ。むしろ、ギャツビーを食いものにしていたもの、航跡に浮ぶ汚ない塵芥(ごみ)のようにギャツビーの夢の後に随(つ)いていたものに眼を奪われて、ぼくは、人間の悲しみや喜びが、あるいは実らず潰(つい)え、あるいははかなく息絶える姿に対する関心を阻(はば)まれていたのだ」(7頁)。この原文は、

   No - Gatsby turned out all right at the end; it iswhat preyed on Gatsby,what foul dust floated in the wake of his dreamsthat temporarily closed out my interest in the abortive sorrows andshortwinded elations of men.

 この whatの中身は、全体の文脈から言って、ギャツビーの夢をもてあそび富にたかるだけで彼の葬式にも来なかった汚い奴等のことを言っているのだと思われる。

 だから、floated は、ギャツビーの夢が消えた後に人間の汚さが「見えてきた」ことを言っているのであろう。

 この小説の語り手であるニックは、そのために一時人間嫌いになって、人の打ち明け話(悲しみや喜び)に耳を傾ける興味が閉ざされて(closed out my interest)しまったのである。
 
 最初の No は前文の not の確認。all rightは、ギャツビーがニックの回りに集って来た異常な人間たちとは違うことを言い、turned out ..at the endで、最後にそれが分かったと言っているのだ。

 以上を繋げると次の様になる。

 「そうだ、結局ギャツビーは至極まともな奴だったのだ。私がしばらくの間、他人の甲斐なき悲しみや束の間の喜びに興味が持てなくなったのは、ギャツビーを食い物にした者ども、ギャツビーの夢のあとに浮び上った汚い塵芥(ごみあくた)どものせいだったのである」(2007年3月26日)







 「女は結婚すると家庭に閉じこめられて自由を失う」などと言い触らしている女がいる。そんなことを言いながら自分は結婚していないのだから、無責任なものだ。

 あの発言は経験に基づかないものであって、自分が結婚出来ないことを正当化するために編み出した屁理屈である。ところが、恐いことには、そんなテレビでの発言を信じてしまう女たちが沢山いるらしい。

 育児や家事などはおさんどんつまり女中のすることだなどというのは、まったく差別的な偏見も甚だしいのだが、うるさいので放っておけとまともに咎める人もいない。

 お陰で、働いていた女が結婚して育児ノイローゼになって自殺してしまったりする。あの発言がもたらす社会的損失は量り知れないのだ。それでも女は悪いのは男社会の方だと、責任を人に転嫁して平気なのである。

 自分の人生を正当化するために他人を貶しめるなどは最低の人間のすることだ。その最低の人間を視聴率稼ぎに使うマスコミはもっと最低である。(2007年3月25日)







 プロ野球のドラフトからは希望枠を無くすというのが流れだが、巨人はコミッショナーを抱き込んで強力な卷き返しに出ている。そして到頭希望枠の廃止を来年からに一年先延ばしするところまでこぎ着けた。

 これは明らかな時間稼ぎである。希望枠を今年存続させて、来年までの間に世論の風向きが変るのを待とうとしているのだ。もし世論が変りさえすれば、来年の廃止をうやむやにできるという計算である。

 もし今年から希望枠を廃止してしまえば、来年以降にまた復活させるのは至難の業である。しかし、今年さえ存続させれば、来年もこのままで行く可能性が出てくるのだ。

 何といっても、巨人にとって早稲田の斎藤投手獲得は至上命令である。巨人がこのままおとなしく引き下がることはない。

 実際、読売の紙面では、サッカーを見ろ、ドラフトなんかない、全部選手の希望通りじゃないか、選手の人権はどうなるのだ、などとすでに逆転に向けたキャンペーンが始っている。読売も巨人もまったく油断のならない会社である。(2007年3月24日)








 「車で時速80キロで走ると1時間で何キロ行けるか」という問に対する答は「それは道路の渋滞状況によって違う」が正解である。もちろん、これを数学の問題とし考えるなら「80キロ行ける」となるが、現実はそんなにうまく行くものではない。

 つまり、数学で考える数は、概念としての数なのだ。物理の法則などもそうだが、それはあらゆる阻害要因を排除して理想的な状況を想定した上で考えた結果でしかない。

 実際には、時速80キロで道路を走り続けることは高速道路上でさえ不可能なのだ。それなのに、そんなことが可能であるかのように考えるのが科学なのだから、科学は万能ではないのである。

 統計の数字もそうで、何人とか何パーセントの人と言っても、それはそれぞれの人間の個人的な状況をすべて無視して、全員が同じ能力や人格や環境をもっと仮定した上で数字化しているわけで、必しも実態を反映しているとはいえないのである。

 ところが、新聞などはそういうことを全く忘れてしまって数字がそれだけで意味を持つかのように報道するわけで、この点でも新聞をあまり信用すべきでないのである。(2007年3月23日)







 村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』の最初の処がネットにあるので原作と比べながら読んでみた。

 この小説は「人の批判をするな」という父のアドバイスを紹介するところから始まるのだが、それに続く原文は、He did'nt say anymore,but we've always been unusually communicative in a reserved wayとなっている。

 この後半を村上は「僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった」と訳している。しかし、communicativeは実際に言葉を交はすことで、大して話さなくても分かり合えることではない。

 だから例えば「人とは違って父と私はいつもさりげなく言葉を交はしていた」とでもすべきだった。

 それに続く「おかげで僕は、何ごとによらずものごとをすぐに決めつけないという傾向を身につけてしまった」は、原文ではInconsequence,I'm inclined to reserve all judgementsである。

 このjudgementは単に「判断すること」ではなく、辞書にもある「批判」という意味で、父のアドバイスにあるcriticizeの言い換えなのだ。それが分かれば「そこで私はあらゆる批判を控えるようにしている」ともっと簡単に訳せたのである。

 このように村上訳は原文にしてたった10行にして明らかな間違いが2つもある。ただし、これらは別の翻訳家の野崎孝も犯している間違いなので、必しも村上のせいだといえないかも知れない。(2007年3月22日)







 私は何日も続けてコーヒーか紅茶を飲むが、少し体調が悪くなればすぐにウーロン茶に切り替える。ウーロン茶さえ飲んでいれば健康を回復できる気がするからである。

 これは漱石の『明暗』で病気の主人公が医者の勧めで食パンとウーロン茶を飲んでいるのを読んでからの習慣である。

 ところが、ウーロン茶はスーパーマーケットにはいいのが売っていない。緑茶なら色んな物が売り場の棚にぎっしり並んでいるが、ウーロン茶は隅つこに一つあるきりの店が多く、あっても二種類で、しかもティーバックのものが多い。

 ウーロン茶が日本人に不人気なのは、あのひなびたような風味が受けないからだろう。だから、例えばスーパーのイオンがトップバリューという自社ブランドで売っているものは、別の茶葉を混ぜて、わざわざあの香りを抜いてしまっているほどだ。

 昔はティーバック式のウーロン茶でも独特の良い香りがしたものだが、最近はそんな具合で茶葉で売っているのを見つけると兎に角買っておくことにしている。(2007年3月21日)







 村上春樹の翻訳が沢山出ているが、あまり買う気がしない。本屋で立ち読みする限りではとてもうまい翻訳とは思えないからである。

 そんな折り、読売の夕刊(3/14)に村上の翻訳に対する小鷹信光の評論が出た。最初に村上を「一級の翻訳家」と持ち上げる一方で、その新訳『ロング・グッドバイ』を「とても誠実で、楽しげな仕上がり」と書いている。

 「誠実」とは直訳が多いことをいうのであろう。「楽しげな」とは村上訳の表現の「意図的な古めかしさ」と「いささか馴染まない表現」を指して言っていると思われる。この二つめは、プロの翻訳家なら誉め言葉とは受け取るまい。

 また、村上が清水俊二訳を「自分の新訳と読み比べてほしい」と自信満々に書いた「あとがき」をわざわざ引用しているのも意味深長だ。清水はプロ中のプロであり、意訳の名人だからである。

 もちろん、小鷹は下手だとは書いていないし、本当に自分で訳したのか疑問だとも書いてはいない。しかし、私は小鷹が村上訳を遠まはしに批判したと見たが如何だろうか。(2007年3月20日)







 堀江判決に対する新聞の追随ぶりが際だっている。新聞は判事のいうことを当然視して全く批判することがないのである。

 ところが、テレビでは橋下弁護士がこの判決を糞味噌にけなしているし、局によっては堀江本人を出演させて不満を述べさせ、同情までしてみせている。ところが、新聞にはそれがまるでないのだ。「また検察追認のこんな判決が」と書いてもいいはずなのだが。

 また、インターネットでは既に日興証券の粉飾決算で逮捕もなし上場もそのままという、堀江事件とはまったくバランスを欠いた処置に対する批判が渦巻いている。新聞はそれさえも視野に入れることが出来ないのだ。

 この判決自体にも様々な欠陥があることは明らかだろう。たとえ有罪でも形式犯である。元検事の評論家でさえ執行猶予を予想したのになぜ実刑なのか。事実認定の曖昧さを指摘する声もある。ところが、新聞の論説はそれらを一顧だにしていない。

 新聞だけ読んでいては本当のことが分からないし、何が正しいかを判断することも出来ないということか。この裁判報道で国民は新聞メディアの限界に気が付くのではないか。(2007年3月19日)







 堀江事件に対する判決は、まさに鹿児島の志布志事件の裏返しのような判決である。法廷の外で検察に不利な状況が生まれない限り、裁判官は検察の言いなりに判決を出すのである。

 実刑の理由が「反省がない」というのも、おかしいな判決だ。これは被告が無実を主張する権利を否定するものであり、検察のいう通りにしないと不利になると言っているのと同じことである。

 こんなことでは、いくら自分の無実を信じて、警察の取調べで無実を訴え、法廷で無実を訴えても無駄だというようなものである。冤罪が無くならないわけだ。

 日本の司法の貧困が言われて久しいが、この裁判官にとっては馬耳東風なのだろう。裁判は何のためにあるのか、単なる検察の筋書きを追認する手続きでしかないのか。

 この判決では弁護士がいないのと同じである。あやふやな証拠だけで人を断罪するのだから、弁護士が怒るのも当然だ。この判決もまた日本の司法の歴史の多くの汚点の一つになるのではないか。(2007年3月18日)







 中勘助の『銀の匙』(岩波文庫)は自分が幼児の頃から十七才になる迄のことを書いたものだが、まるで詩を読むような小説である。ひらがなが多く、描写が主なので、少し気をそらしていると、意味も分からず漫然と読み飛ばしそうになる。

 しかし例えば、「そこにはたくさんやどり蟹(がに)の子がいて、ちょいとみればただの貝がらみたいに見えるがすこしたつと手をだしてひょこひょこ歩きまわる。とがったのや、まるいのや、勝手次第の殻(から)にいて、それでどれもやどり蟹の子なのがおかしい」(140頁)とさらりと書いてあるのを見つけると、何度も読み返してみたくなる。

 泣き虫の子だったといえばそれまでだが、「低い波が時をおいては、さぶーん、さぶーん、とうちよせる。それをきくと自然に胸がせまってせっかく泣きやんだ涙がまたこぼれだす」。お友だちがふりかえって尋ねると、「波の音が悲しいんです」と答える感じやすい子だった。

 蚕(かいこ)を飼ったときの話も忘れ難い。「冷たいくちびるからはきだす糸の美しいつやが仇(あだ)となって遠い昔から人の手にのみ育てられたこの虫は自ら食を求めようとはせず蓆(むしろ)のうえに頭をならべておとなしく桑の葉のふりまかれるのを待ってるのを」(145頁)伯母にお姫様の生まれ変わりだからと教えられて、愛着を持つようになる。

 ここで「待っている」と書かずに「待ってる」とわざと舌足らずに書くのもこの作者の特徴で、流利な文章の中に子供らしさを残しているのが面白い。この小説を解説者は誰の真似でもないと言ったが、枕草子のような雰囲気をもつ作品だといえるかもしれない。(2007年3月17日)







 統一地方選挙を控えて読売新聞が地方自治体の長たちにアンケートをした。その記事には、

 ”三位一体改革や規制緩和などの「小泉改革」で、格差が広がったかとの問いには、「そう思う」が54・8%で、「どちらかと言えばそう思う」と合わせると89・2%に上った。”と書いてある。

 ここから分かることは、第一に、地方自治体の長たちは「小泉改革」で無駄な公共工事が出来なくなったから、自分の町が貧乏になったと考えているということである。「小泉改革」で意識が変るどころか、彼らは相変らず公共工事頼みの政治をしているのである。

 さらに、この質問に肯定的に答えたということは、自分の町の貧しさを自分の政治ではなく小泉改革のせいにしたことになり、そんな責任感も気概もない連中が9割近くもいるということも分かる。

 最後に、「格差」が広がったという地方が9割近くもあるということは、貧しいのはどこも殆んど同じだということであり、「格差」というのは新聞の創作で、現実には存在しないということが分かるのある。(2007年3月16日)







 ドラマ『ハケンの品格』で、派遣者員が会社を辞めるときの寂しさが描かれていたが、私は会社を辞めて辛いと思った事はない。むしろ、いつも清々するか、やっと逃げ出せたと思うばかりである。

 なぜなら、会社というものはどこであろうが酷いことをやっているからである。こんな事をしていると自分は犯罪の片棒を担ぐことになると思うようなことはざらなのだ。

 まともな事をしていると思える会社でも、今度は体を駄目にしてしまうような仕事であることが多い。アスベストの危険性があとから分かったように、働いている間に何を扱わされるか知れたものではないのだ。

 そもそも、会社というものは社員を騙して働かせるものである。だから、どんな会社にいても、ここから何とかして逃げ出さなければと思うようになって普通なのである。

 したがって、正社員になんか成ってしまって会社に深入りしてはいけないのである。会社で働くなら『ハケンの品格』の大前春子のように三カ月でおさらばするのが、まっとうな人間でいられる唯一の方法なのだ。(2007年3月15日)







 プロ野球の裏金問題が発覚して、新聞社は一斉に「希望入団枠をなくせ」と言い出したが、読売の渡辺社長だけがファッショだと言って反対している。その理由が、早大の斎藤佑樹投手にあるのは明らかだ。

 斎藤投手が甲子園で優勝してからの読売のラブコールはすさまじい。紙面には斎藤投手を絶賛する記事を満載してきたし、今年から六大学野球の早大戦だけを系列局でテレビ中継することにした。

 それもこれも希望入団枠あってのことで、斎藤投手が巨人を逆指名してくれると見込みんでのことなのだ。それが今回の不祥事で不可能になれば、あらゆる努力は水の泡で、斎藤投手入団による巨人人気復活も夢と消えてしまう。

 しかし、裏金問題は元々巨人の渡辺氏も一枚噛んで、オーナー職を辞任までした事件である。ほとぼりが醒めたと思ったのか、ちゃっかり要職に復帰しているが、問題は消えていなかったのだ。前科のある渡辺氏は偉そうな事をいえる身分ではないのである。(2007年3月14日)







 フランスの出生率が高いのは、婚外子が多いからだそうである。実に4割が婚外子だというのだ。それに対して、同じヨーロッパでもスペインやイタリアは結婚しなければ子供を産めないので、出生率が低いのだそうだ。
 
 それなら出生率の低い方が立派な国民ではないかと思うが、フランスが婚外子の多いことを指して、フランスは自由なライフスタイルを認める社会だからというのだ。まさに物も言いようである。

 確かに、フランスでは婚外子を育てるための社会政策が充実しているかもしれない。しかし、彼らの将来までが保障されているのだろうか。婚外子の子供たちは、物心が付いてきた時に、父親がいないことに悩まないのだろうか。社会は父無し子をすんなり受け入れるのだろうか。

 出生率という数字が婚外子で上がれば年金制度の未来は安泰だろう。しかし、それが社会全体の安定に繋がるかどうかは不明ではないだろうか。なぜなら、自由とモラルの低下はしばしばコインの両面だからである。(2007年3月13日)







 「ガス機器を使う時は換気をしましょう」などというテレビコマーシャルを見ると、この国の国民は益々馬鹿になっているのではないかと思う。そんなこともテレビに教えてもらわなければ分からなくなったのだ。

 例えば、瞬間湯沸かし器を換気をせずに使って中毒死した人がいるのは、そんなことも知らない消費者が悪いのではなく、メーカーが換気の必要をよく教えなかったからなのだそうだ。

 よく自己責任社会などというが、日本ではそんなものは不可能であることは、これも見ても良く分かる。買った製品をどう使おうと消費者の勝手である。ところが、使い方を間違って怪我をしたり死んだりしたら消費者は被害者になれるのである。

 被害者万歳のマスコミだから、消費者が悪くてもマスコミはメーカーを叩く。メーカーはそれが消費者を子供扱いすることになっても、長いものには巻かれておけと、くだらないコマーシャルを出すようになってしまった。

 おそらく、日本が自己責任社会になって一番困るのはマスコミだろう。消費者が失敗して怪我をしたのは消費者の使い方が悪いとなれば、メーカーを叩いてニュースにすることが出来なくなるからである。(2007年3月12日)







 アメリカにおける時代錯誤の「従軍慰安婦」騒動に対して首相が反論したら、朝日新聞がまた妙なこと言っている。
 
 「全体としては、植民地や占領地の女性たちが意思に反して連れて行かれ、日本軍の将兵の相手をさせられたことは間違いない」だから国の責任を認めた河野談話を「潔い態度」だったというのだ。

 しかし、この論理こそまさに日本政府に責任がないことを証明している。占領地の女性が意思に反して将兵の相手をさせられたのは、最近までどこの国の軍隊にもあった事だからである。

 それとも朝日は日本を占領していたアメリカ軍将兵の相手をした日本人女性は、自分の意思でやっていたとでもいうのだろうか。そんなことは口が裂けても言えまい。だからこそ首相は「広義の強制性」に言及したのである。

 ところで、この社説には「従軍慰安婦」という言葉がどこにもない。朝日はすでにそんなものがなかった事を知っているからである。ならば、この問題を捏造した自分自身の責任を認めて、日本の名誉を傷つけたことを謝罪するのが「潔い態度」ではないのか。(2007年3月11日)







 拉致問題が進展なく終った日朝協議に関する朝日新聞の社説は突出して北朝鮮寄りである。日本広しといえども、これほど北のやり方を代弁した新聞もあるまい。

 曰く「この問題が議題となった初日の協議を途中で打ち切ったのも、予定の行動だった」
 曰く「北朝鮮の代表は『日本の言うことは、死んだ人間を生き返らせて帰せということだ』とも述べた」
 曰く「過去の植民地支配の清算と経済制裁の撤回、朝鮮総連に関連する捜査の中止を要求した。ただ、日本側の対応しだいで、拉致問題の再調査に応じる可能性もある」
 曰く「北朝鮮の生き残りには、米国との関係正常化とともに、日本からの経済支援が欠かせない」

 これを見れば、日本が北に対して無理難題を突きつけていること、北の協議打ち切りは正当な行為であること、この協議は北の生き残りのためのものであること、北の要求通りにすれば交渉進展の可能性があることなどが実によく分かる。

 中でも、三つめの一節は意味深い。この中の「ただ、」は元々は「だから、」と書かれていたとしか思えないのだ。「北朝鮮の言動は私たちにとって腹立たしいことばかり」と付け足しているが、「日朝協議―焦らず、ねばり強く」は北朝鮮への激励の言葉としか聞こえないのである。(2007年3月10日)







 モラルの低下を嘆く声がよく聞かれるが、低下してもいいモラルもあるらしい。女の貞操である。こんなものはもう時代遅れなので、モラルのうちには入らないらしい。そこで、出来ちやた婚がおおはやりとなったのである。

 ところが、出来ちやた婚も初婚なら法律上は何の問題もないらしいが、これが再婚となると、引つかかる法律が出てくる。それが民法の三〇〇日規定というわけだ。

 離婚してから半年間は結婚できないのに、離婚して三〇〇日以内に子供が生れる。まさに婚前交渉の証拠である。しかし、初婚の婚前交渉が悪くないのなら、再婚の婚前交渉の何が悪いとなるのは物の道理である。

 生まれてきた子供には何の罪もないと、大手を振っていえるのも、生んだ親に貞操に対する罪悪感も羞恥心もないからだろう。この上、法的障害がなくなれば、もはやフリーパスである。

 ただし、このモラルの低下は全体的にモラルが崩壊したことの一つの端緒になっているということは覚えておいてもいいだろう。これが良ければあれも良いだろうとなるのもまた物の道理だからである。(2007年3月9日)







 私は地球温暖化には興味がないが、十年以上もずっと前からレジ袋不要派である。しかし、レジのおばちゃんたちはなかなか協力的ではない。

 要らないと言っても、無理矢理レジ袋に突つ込むおばちゃんがいるし、くしやくしやの古いレジ袋をポケットから出してレジ籠に入れておくと、「これに入れるんですか」と怪訝な顔をされたりと、さんざんである。

 最近は地球温暖化の宣伝が盛んで、それが若い人たちには効いているらしい。若いレジ係の対応はくしやくしやのレジ袋にも概ね好意的である。ところが、今度はレジ袋持参用のポイントカードを親切に勧めてくるのが面倒くさい。

 地球の未来のためにレジ袋を減らそうなどという人がいるが、日本人の誰が本気でそんなことを考えているのか。どうせ今だけの流行ではないのかと思う。

 だいたい、そんな良い子ぶった考え方が長続きする訳がないではないか。その内きっと本音が出てくるはずだ。だから、レジ袋など沢山もらっても邪魔になるから要らない、それで充分なのである。(2007年3月8日)







 「働く貧困層(ワーキングプア)」という言葉を最近よく見かける。いくら働いても豊かになれない人のことだそうだが、本当にそんな人がいるのかと思う。

 確かに、年収の少ない人はいるだろう。しかし、では彼らが車も買えない生活をしているのかというと、一人に一台ずつ持っていたりする。だからこそ、休日のスーパーマーケットの駐車場はきれいな車で満員なのだ。

 最低賃金を月給に換算して、それが生活保護費より低いというのが根拠の一つらしいが、そんな比較をするのもおかしなことである。アルバイトはフルタイムでは働かないものだ。「生活保護費に満たない給料では働く意欲を持つのは難しい」などというに至ては、労働を何と考えているのかと思う。

 働けないのにもらう金と、働かせてもらってもらう金とは全然意味が違うのである。生活保護費は幾らもらってもそれつきりである。自分には何も残らないし何も身に付かない。労働の価値は給料の高だけで量れるものではないのだ。

 いったい能力があって勤勉で意欲のある人を最低賃金でフルタイム働かせている会社があったら、教えてもらいたいものである。そんな会社こそ「働く貧困層」を生んでいると非難されるべきだろう。(2007年3月7日)







 私の経験からすると時間制労働というのは苦痛以外の何物でもないので、マスコミがこぞってホワイトカラー法制に反対したのは理解できない。

 時間制労働ほど拘束感の強いものはない。会社の中にいて、とにかく仕事をしているか、している振りをしていなければならない。こうなると時間を経過させることが優先されて仕事自体が面白く無くなる。夕方になると時計ばかりが気になるのだ。

 その点、営業は自由である。契約さえ取ればいいのだから、頑張る気になれる。ここでねばったら一本取れそうだとなれば、夕方の5時を過ぎようがそんなことは関係なくなるのだ。

 何と言っても仕事の面白さは達成感だろう。新聞記者などは特にそうであるはずだ。いい記事を書くためには時間を気にしてなどいられないし、自分の仕事の価値を時間で計られたくない職種の典型であるはずだ。

 それなのに、各紙が「残業代ゼロ法案」などと書いたのは、労働組合との関係があるからなのかと勘ぐりたくなる。それとも、新聞記者たちも、いつの間にか時間の奴隷になることに慣れてしまったのだろうか。(2007年3月6日)







 新聞がしきりと格差問題を論じている。例えば正社員とフリーターの生涯賃金が大きく違うという。しかし、それは当たり前のことで、単なる賃金差だと思うが格差だというのである。

 恐らくそういう人たちは、賃金の多い方が良いという考え方を持っているのだろう。それも一つの考え方だろうが、その考え方が正しいと決まったわけではない。

 よくいうではないか、幸福は金では買えないと。もちろんある程度の生活をするには金が要る。しかし、贅沢をすれば幸福になれるわけではないことなら誰でも知っている。

 だから、格差というなら、その前に先づ金儲けの多い人間の方が上だという価値観が正しいのかどうかを問うべきではないのか。

 実際、女性が子供を産みたがらないのも、それで仕事を失って収入が減り、しかも出費ばかりが増えるからであろう。要するに子供より金の方が大事だという価値観に縛られているのである。

 しかし、そんな考え方でいいのだろうか。日本で深刻な問題なのは賃金の差ではなく、拝金主義の万延の方なのではないのだろうか。(2007年3月5日)







 今の新書は昔と違って、かなり分かり易い言葉で書かれている。ところが、昔の新書の典型である岩波新書は、その反対のものが多く、またそれが値打ちだった。

 『歴史とは何か』もかなりの分りにくさである。実はこれは翻訳のまずさのせいなのだが、岩波新書ならこんなものと思われていたのだ。しかし、この本を訳本にして英語の原書を読んだ者なら、かなりひどい間違いが沢山あることがすぐに分かる。

 例えばこの訳者は、no more~thanは比較される両方が否定されることを知らないし、not A or Bも、A,Bの両方が否定されることを知らない。not~butは知っていても、few~butとなるとbutを「しかし」と訳してしまう。

 後ろの方には、pedestrian historian が「足で書く歴史家」(正しくは「平凡な歴史家」p.224)となっていて唖然とさせられる。また、「認識論」をずっと「知識理論」と訳していたり、訳語の選択も変なところが沢山ある。

 それでも売れたのは岩波新書と訳者の権威のお陰なのだろう。しかし、この出版社の本はかなりまずい翻訳でも平気で売られているので注意が必要だ。(2007年3月4日)








 「日本は植民地支配で鉄道や港を整備した。後の韓国の発展につながっていく善いこともした――。そんなことを強調する人もいる」。最近の朝日新聞の社説の一節だが、こんな文章を朝日が書くのは何回目だろうか。

 しかし、日本の朝鮮統治は「善いこともした」どころではない。朝鮮半島の近代化が日本の統治下に行われたことは紛れもない事実であり、今日の韓国の経済発展の基礎を作ったのは日本なのである。

 それは英国やオランダなどの植民地支配が収奪だけだったのとは大きく違う。日本はこれでもかという程に善意を持って統治に臨んだ。ところが、それが朝鮮人には通じなかったのだ。

 それは中国についてもいえる。今だに中国人は「歴史」と称して「南京大虐殺」を言い立てて、日本に対して優位に立とうとする。しかし、これらは日本の歴史の負の面であるだけではなく、彼らの歴史の負の面でもある。

 E.H.カーは『歴史とは何か』で、歴史は未来のために書かれるべきものだと言っている。朝日が同じ事を繰返して書くのは、朝鮮人の未来にどんな利益をもたらそうとしての事だろうか。(2007年3月3日)








 タレントの明石家さんまが、オーストラリアの空港の税関で麻薬の売人に疑われて厳しい取調べを受けたという話をテレビ番組でしていた。頻りに周りの人間に目配せするのが怪しいと睨まれたというのだ。

 この話の中で注目したいのは、やっと疑いが晴れて解放された時に、取調べ官から一本のビデオテープを渡されたことである。そこには取調べの様子の一部始終が録画されていたのだ。

 欧米では、被疑者に対する取調べが始まると自動的にビデオ録画されるのが常識らしい。もちろん、これは捜査の公正さを証明するためである。ところが、日本の警察はあれこれ屁理屈を並べて、ビデオ録画どころかテープ録音さえ採用しようとしない。

 そこで、これに対抗して日本の弁護士たちが考え出したのが「被疑者ノート」というものだ。逮捕された被疑者に差入れて、警察の取調べ内容を毎日留置場の中で詳しく書いてもらうのである。

 これは弁護士と被疑者の接見交通権を最大限に利用した方法である。ビデオほどではないが、文字に書いたものであるから証拠能力がある。このお陰で強引な取り調べはかなり減ったという話である。(2007年3月2日)







 最高裁が「君が代」伴奏を拒否した教諭を戒告にしたのは憲法に違反しないと判決を出したが、それが気にくわない朝日と毎日が社説で珍妙な論理を展開している。

 教諭が「君が代」伴奏を嫌だと言ったらテープでやればいいだけじゃないか、それを命令違反で処分することはないというのだ。

 こんなことをいう朝日や毎日の社員は会社でどうしているのだろうか。例えば、新聞配達員が、この判決が載った今日の朝刊は自分の信条に反するから、こんな新聞は配りたくありませんといえば通るのか。仲良しクラブでもあるまいし、そんなことを言っていたら仕事にならないことは明らかである。

 この判決をお墨付きにすべきではないというのも笑わせてくれる。朝日も毎日も日頃から最高裁はもっと憲法判断をすべきだと言っていたくせに、いざ憲法判断が出ると、こんなことをいうのである。

 最高裁の判決は下級裁判所にとって判例という最大のお墨付きになることは間違いない。そして、判例が法律と同じ効力を持つことは常識なのである。(2007年3月1日)







 アメリカの議会が「従軍慰安婦」問題で対日非難決議を出そうとしているらしい。

 日本政府は「従軍慰安婦」の存在を認めているのに正式に謝罪していないというのだ。その根拠がかつての河野談話であり村山談話らしい。これらは「とにかく謝っておくべき」ということで出したものだが、その附けが回って来たわけだ。

 もう一つの理由は、現実に「従軍慰安婦」にされたという人が名乗り出ていることである。被害者がいるのだから、加害者がいるはずだという理屈だ。

 これは最近のガス湯沸かし器の事故と似ている。「死人が出た以上、換気の必要を周知しなかったメーカーが悪い」という理屈である。日本政府もメーカーも、彼らは本当に被害者なのか、自分たちは本当に加害者なのかとは言いだしにくい。

 というわけで、一部を除いて日本のマスコミはこの問題をまるで他人事のような扱い方をしている。彼らはこれが右も左もない自分自身の名誉の問題だとは気附いていないのだろう。(2007年2月28日)








 日本の移植学会が病気腎移植を禁止するのだという。この学会の医者たちは腎移植したかったら外国へ行け、それができなかったら、苦しんでおれとでもいうのだろうか。これでは移植学会ではなく、非移植学会、或いは移植しない学会ではないか。

 その一方で、厚生労働省は万波医師の移植を「医学的に不適切」と言ったという。彼らにとって「医学的」とは何なのか。それは患者を見殺しにすることなのか。むしろ患者を救うことこそ「医学的」ではないのか。ならば、万波医師のしたことは「医学的には正しい」というべきだろう。

 万波医師は「倫理より、目の前で苦しんでいる患者を救いたい」と語ったという、倫理で人が死ぬのなら、本当の医者はそんな倫理に構って居れないはずである。

 かつてリトアニアでユダヤ人に対して政府の命令に反しても「命のビザ」を出し続けた杉原という人がいる。政府の建前より目の前の命のことを考えたからだろう。

 ところが、偉い先生たちは建前ばかりを言っているのだ。日本の医者のモラルはどうなっているのか。「命のビザ」を出せる医者はもうほかにはいないのか。(2007年2月27日)







 鹿児島の選挙違反事件で無罪判決が出たというので、新聞は一斉に警察批判をしている。しかし、まだこんな「自白偏重」の捜査があったのかと大げさに驚いた振りをしているのには白けさせるものがある。

 任意同行による長時間の尋問で自白をとって逮捕するのは日本の警察の常道ではないか。判決が有罪だったら、この捜査方法自体を誰も批判しなかったはずである。

 今回の事件で際立っているのは、捜査の途中で違法捜査の訴えが出て、それを認める判決が先に出てしまったことである。

 もともと裁判官は警察の言いなりになって逮捕状を出しているのだから、こんな前代未聞の判決が先に出ていなかったら、有罪にしていた可能性は大きいのである。

 マスコミはこの事件をどのように報道をしてきたのか。逮捕されたら悪人扱い、無罪になったら善人扱いでは、都合が良すぎるだろう。日頃からこんな行き当たりばったりの報道をしていながら、正義の味方気取りなのだから、マスコミなんていい気なものである。(2007年2月26日)







 女が働くことの最大の問題は、働く男は働かない女と結婚するのに、働く女は働かない男と結婚しないことではないか。だから、結婚が減って少子化になったのである。

 働く男は働く女と結婚すると、相手に家庭に入って欲しいなどという。それを逆にして働く女が、働く男に家庭に入って欲しいと言ってもよいのである。それが本当の男女平等であろう。

 ところが、昔から髪結の亭主と言って、働かない男は怠け者の代表とされている。働かない女はそんなことは言われないのにである。

 全体的に女の給料が男より安いとしても、それは仕事の内容によるし、社長になれば男も女もないはずである。

 だから、女が働くなら男並に働いて、自分より稼ぎの少ない男と結婚して、家庭に入ってもらえばいいのだ。つまり、女は自分たちの働く環境を改善せよなどという代わりに、男が家庭に入る環境を作ればいいのである。

 この方が、女が自分も働き男にも働らかせて、しかも仕事で疲れた男に子育てや家事を分担させようとするよりは、余程合理的ではないか。(2007年2月25日)







 正社員はそんなにいいものだろうか。その仕事ぶりを見ると大変の一語に尽きる。毎日の帰宅が午前様なのは当たり前。休日出勤も珍しいことではない。睡眠時間を削っての奉公は、金だけで計れるものではない。

 大手の一流企業の正社員なら、マイカーに外車も買えるだろう。しかし、いいのはそこまでだ。ちょっと優越感を与えておいて、あとは奴隷扱いである。

 その上、正社員ともなれば、結婚もし、自分の家も建て、子供も育てて留学もさせようかとなる。どれだけ金がかかることか。給料が多い分、出費も多いのである。

 そのあげくが単身赴任か出向で、会社の言いなりで飛ばされるのである。断ったら辞めるしかない。

 その点、フリーターは恵まれている。何せ自由になる時間はたっぷりあるのだ。稼ぎが少ないから、女も寄って来ない。自分一人食べていくのに、どれだけの金が要るというのか。

 少子化対策とかいって正社員されてしまえば、責任も義務も大幅に増えてしまう。その分自由が減るのである。正社員になったからと言って決してバラ色の人生が待っているわけではない。(2007年2月24日)







 世の中何でも金に換算することが流行っている。少子化の問題は全て金で説明できるのだそうである。しかし、昔は貧乏でも子供を産んだ。あれは間違いだつたのだろうか。

 「家庭が幻滅の源泉である」という人がいる。家にいても金が稼げないからだろう。女が家庭で割を食うと思うのは、子育てや家事を仕事より下に見た発想である。

 今や国の政策で一番大事なのは経済政策である。そんなことだから、国民のモラルが低下してしまうのだ。金が一番大事なら、給食費を払はない家庭が出てくるのも道理である。

 女性の社会進出度を調べた「男女格差ランキング」というものがある。これが世界経済フォーラムから出たことは象徴的だ。社会進出とは高い給料をもらうことなのである。人の値打ちを金で換算するから、こんなくだらない統計が出てくる。

 そのランキングで北欧がトップだという。しかし、北欧には北欧の事情がある。人口の少ない国が国際競争力を保っために国を挙げて女も働けるようにした結果ではないのか。北欧礼賛も大概にして欲しいものである。(2007年2月23日)








 受験の季節である。受験などというと結果は本人だけの責任のはずなのだが、失敗するとどうしても人を恨みたくなるものらしい。

 まず受験校の選択に教師が関っている場合には、落ちた生徒は受からない学校を受けさせた教師を恨むのである。自分の実力は自分で分かりそうなものだが、そうではないのだ。

 また、受験前に異性と付合っていたりすると、落ちたのは相手のせいだということになって別れたりする。特に家族は、悪い女(男)に引つ掛かったと交際相手を恨むことになるのだ。

 合格発表も中々厄介な出来事である。同じ学校を受けたからと一緒に見に行ったりして、誰かが受かり誰かが落ちると、受かった奴は落ちた奴から恨まれること必定である。

 また、発表会場からの帰り道で、一緒に受験した奴がこれから見に行くのに出くはすのも厄介なことだ。相手が受かっていればよいが、落ちていたら無視しないといけない。結果を教えたりすると必ず恨まれるからである。

 受験の季節とは何かと人間関係が壊れる季節でもある。(2007年2月22日)







 自転車が歩道を走れるように法律を改正するそうだが、自転車はずっと前から歩道を走っている。むしろ車道を走る人の方が珍しいくらいだ。むしろ今回の法律改正で自転車は本来は車道を走るのかと、車道に出る自転車が増えるかも知れない。

 しかし、自転車の車道走行は、車に追い越されるときが恐い。だから、なるべくそれを避けるようにするしかない。それには、車の流れが途切れた隙間を狙つて車道に出るのがいい。

 よく見ているとそんな瞬間がないことはない。例えば、赤信号で車の流れは確実に途切れる。また道が狭ければ、右折車が曲がれずに後ろの車を止めて、車道ががら空きになることがよくある。

 休日などは裏道の通行量がかなり少ないので、車に追い越されずに走れる距離が長くなる。日曜ドライバーは国道が大渋滞でも裏道をあまり通らないからである。

 何と言っても車道は段差が少なく鋪装がいいから、走っていて楽なのは確かだ。だから、歩道も車道並に整備してから、自転車も歩道を走れと言って欲しいものである。(2007年2月21日)







 女の自立などと言って仕事をする方が偉いと思われている。しかし、それが結婚しないことの理由となるなら、ちよとおかしいのではないだろうか。

 結婚せずに仕事をしてどんないいことがあるのか。仕事をすれば確かに自分で自由に使える金が手に入る。しかし、それが自立なのだろうか。結婚せずに一生を過ごすなら、それは自立ではなく孤立になるのではないのか。

 働いている間はそれでもよいかもしれない。しかし、退職して両親も失ってしまえば、自分を必要とし自分に関心を持ってくれる人は誰もいなくなってしまうかもしれないのだ。もしそうなれば完全にひとりぼつちではないか。

 孤独な高齢者にとって、後は頼りになるのは金だけである。そんな孤独な高齢者が悪質セールスマンの餌食になるのではないのか。

 もちろん家族が全てではないし、自分の金を当てにするだけの親族など居ない方がいいかもしれない。犬でも飼って置けば孤独を紛らすことも可能だろう。

 しかし、もし人生の生き甲斐が仕事だけなら、女たちが批判する男の貧しい人生と同じである。そんな人生の惨めな末路を知った上で結婚しないことを選んでいるのだろうか。(2007年2月20日)







 盲人の為の黄色い点字ブロックはなぜ歩道の上ばかりに敷設されるのであろうか。車道と歩道の区別のあれば、既に安全であるのはずなのにである。

 中には幅が狭くて一本道で欄干のある歩道にまで敷設される。しかし、そんな道なら盲人でも方向を見失うことはないのではないか。

 むしろ必要なのは、歩道の区別がない道路だろう。盲人が道の端からそれずに歩けるようにしてこそ、点字ブロックの存在意義があるのではないのか。ところが、端が明らかで人しか通らない歩道の上ばかりに敷設される。

 さらには盲人の為に音が出る信号機もある。しかし、肝心の車道を横切る横断歩道の上には点字ブロックはない。石膏のゼブラ模様が代わりなのだろうか。車道に敷けば車の邪魔になるから敷かないのではないのか。

 点字ブロックも公共工事である。沢山敷けば儲かるのは業者だ。しかし、それは盲人たちの声を聞いた上での施策なのだろうか。例えば、盲人は点字ブロックの上を歩かないことを知っているのだろうか。(2007年2月19日)







 産経新聞の阿比留記者のブログ(2/17)に、事務所経費問題に関する国会質疑が報告されている。それを見ると、大臣たちの事務所経費問題は、どうやら共産党の問題になりそうな雲行きである。

 共産党の議員は本人の資金管理団体も政党支部も持っていない。各地方の委員会が政治団体として届出されているが、全て中央委員会の支部でしかない。政治資金の管理は党の委員会が全部やっているのである。

 その結果、共産党の議員個人の収支の実態が全く不明なのだ。しかし、自民党などの議員の事務所経費を明らかにしろというなら、共産党は自民党などの議員の事務所経費に匹敵する地方委員会の経費を明かにすべきだと。

 こうして、国会では自民と民主がタッグを組みつつあるらしい。

 それにしても、政治活動の資金を全部党に握られているとは、共産党の議員たちは党の操り人形ではないか。道理で共産党の議員は上から下までみんな同じこという。しかし、こんな政党が自由と民主主義の日本にあっていいのかと、その先を問いたくなるのは私だけではあるまい。(2007年2月18日)







 「笑っていいとも」の番組のコーナーの中で、会場の50人の女性にバレンタインデーにチョコを渡した場所のアンケートをしたら、バレンタインデーにチョコを渡したことがない人は何とゼロだった。

 50人もいれば一人ぐらいは渡したことがない女性がいてもおかしくないと思っていたら、これである。

 女の自立などというが、好きな男に気持を伝えるにしても、自分は違うやり方をするという誇りはないのだろうか。これでは、女はチョコを渡す機械ではないか。

 子供を産む産まないは女の自由だというのなら、チョコを渡す渡さないは女の自由だともいうべきなのだ。そしてチョコを渡さない権利を主張しても良さそうなものだ。

 そもそも子供を授かりながら正当な理由もなしに産まないのは、優生保護法の趣旨に反した脱法行為であるし、チョコを渡すのは業者の宣伝に乗せられることである。

 ところが、女たちは誰かが言いだしたことが流行り出すと真似をせずにはいられない。そんな人真似ばかりしている女たちの気まぐれに国の将来を託さねばならないとは情けないことである。(2007年2月17日)







 読売新聞のコラム『遠景近景』(2/14)が ”EHカーは「現代の眼を通してでなければ、私たちは過去を眺めることはできず、過去の理解に成功することもできない」と言っている(『歴史とは何か』岩波新書)” と書いている。

 これはおかしい、EHカーがそんなことをいう筈がないと思って同書を読み返してみた。やはり、間違いである。これはEHカーの意見ではなくEHカーが紹介したコリングウッドの意見なのである。EHカーの意見は、歴史とは過去と現代の対話であり、現代の眼を通して過去を見るだけではだめだというものである。

 このコラムの構成は、『昭和33年』という本に実際の昭和は平成の世よりもあらゆる面で劣っていた事が書かれていること、EHカーの引用、自分が経験した貧しい昭和、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が描く懐かしい昭和に対する感慨、となっている。

 しかし、EHカーの引用が本文とどう関係するのかは書かれていない。全体としての結論もない。材料だけ並べてあとは自分で考えて下さいという態度である。

 ところが、EHカーが同書の中で批判したのは、まさにこういう態度なのだ。筆者は本当にこの本を読んだのだろうか。(この本の岩波新書の翻訳は上出来とは言いがたく、変なところが沢山あるのでお勧めしない)(2007年2月16日)







 国会で審議が始まり、民主党は得意の「格差問題」で切り込まうとしたのだが、入口のところで躓いてしまったようだ。首相にその「格差問題」の存在さえ認めさせることが出来ないからである。

 日本は社会主義でも共産主義でもない。人によって収入に違いがあるのは当たり前のことである。それを格差だと言い立てることには様々な異論がある。

 だから、民主党が「格差問題」をいうなら、例えば収入の違いが資本主義社会に於いても許されない程に大きな問題となっていることを、政府に反論できないほど完膚無きまで徹底的に証明しなければならないのである。

 ところが、それが出来ない。首相に簡単に反論されてしまうのである。ということは、まだこの問題は、ああもいえるこうもいえる程度のものでしかないということになる。

 確かにバスに乗り遅れるなとばかりに、新聞社はほぼ全紙が「格差問題」の解消が急務だと言っている。しかし、そもそもそんな問題があるのかどうかさえ怪しいのではないだろうか。(2007年2月15日)








 子供はよく走る。大人が見ていると、ちょっと冷や冷やさせられるが、子供は感情を抑へることをしないで、気持のままに走るのだ。それは大人から見れば何か羨やましいことでもある。

 『剣客商売』の「待ち伏せ」では、最後の場面で剣客秋山小兵衛の息子大治郎が走る。妻の三冬が懐妊したことを知った瞬間に、走り出すのだ。江戸の街の人混みの中を縫うようにして右へ左へ一目散に走る。やがて見えてくるのは、義父で三冬の父田沼意次の屋敷である。

 大治郎がその屋敷の庭に駆け込むと、それに応じて田沼意次も従者を一人連れて、屋敷の縁側の廊下を今や遅しと走って来る。そして両者が廊下のかどの上と下で息を切らせながら言葉を交はす。

 「三冬に子が・・。子を授かりました」「うむ!それで、いつ生れる!」「さあ、それは」「どうしてそれを確かめて来ん!」「早速確かめて参りまする」

 映画『砂の器』では幼い主人公が父が旅立とうとする駅に向かって線路の中を走る場面が感動を誘ったが、大人が走るのもいいものだ。そして子を授かる事の自然な喜びを、改めて教えてくれた走りであった。(2007年2月14日)







 最近読んだ内村鑑三の『基督教のなぐさめ』や彼の聖書註解全集などに引用されている聖書の文章は、本屋で買って来た文語訳聖書とは異なっている。

 調べると、新約聖書の文語訳には大正訳と、さらに古い明治訳(翻訳委員社中訳)などがあることが分かった。本屋に売っている文語訳聖書は大正訳なのだ。一方、明治訳聖書は高価な復刻本以外では、ミッション系の大学のホームページなどで公開されている影印(写真)を読むしかない。そして内村鑑三が引用したのは明治訳なのだ。

 ところで、例えば内村の引用した「人はパンのみにて生くるものにあらず」(マタイ伝第四章、明治訳)は、「人の生くるはパンのみによるにあらず」(大正訳)よりすつきりしている。

 どうやら、大正訳に改めた理由は、明治訳の意訳を嫌って、より原文に近づけるためだったようである。大正訳が難しいのもそのせいらしい。幸い旧約の方は明治訳のままである。新約の方も明治訳の安価な出版を望みたいところだ。(2007年2月13日)







 今の日本社会は、男も女も仕事人間であること、いわば働く機械であることを誇りにする社会である。

 誰もが家事や子育てより外で働く方が偉い、あるいは上だと思っている。だから、自分が家事や子育ての機械だと言われるのは許せないのだろう。

 男が主夫であることが世間体の悪い事であるように、今や多くの女性も専業主婦であることに誇りが持てなくなっているのではないか。

 社会の役に立つという観点から見れば、働くことも産むことも同じぐらいに立派なことである。いや、社会の存続という観点に立てば、産み育てることの方がずっと重要なことである。

 それなのに、働く方が偉いという見方が支配的であるのは、それが社会的な貢献という観点からの見方ではないということになる。むしろ、金、金の世の中だから稼ぎがある方が尊ばれているだけなのではないのか。

 もしそうだとするなら、「女を産む機械というのは女性差別だ」という批判は、単なる拝金主義の現れはでしかなく、自由と民主主義に基く男女同権の考え方とは全く無関係だということになる。(2007年2月12日)







 柳沢大臣の発言内容の全文がやっと読売新聞(2/10)に載ったので読んでみた。「女性は産む機械のようなものだから、がんばって子供を産んで下さい」と言ったのかと思って読んだが、そんなことは全然言っていないのである。

 発言の趣旨は、今や女性は産む機械に譬えられざる得ない憂うべき状況になっているということである。機械というのは柳沢氏がそう思って言ったのではなく、いわば状況によって言わされた言葉である。だから、彼が謝ったのもこの状況に成り代って謝っただけなのだ。

 ところが、マスコミはホワイトカラー法制をよく理解できずに残業代ゼロ法案と言ったように、今度も氏の発言をよく分かりもせず、柳沢氏が女性を機械に譬へたと言ったのである。

 もっとも民主社会ではこういう事はよくあることで、ソクラテスが自分の発言を理解されずに死刑になったのもその一つである。むしろこの社会には、人の発言を無理矢理誤解してその人を貶しめようとする連中がごろごろいるのである。

 ソクラテスは毒杯を仰いで自害したが、柳沢氏は辞任しなかった。高一で母を失い、定時制高校に通うなどして、東大から大蔵省に入った苦労人だからこその粘り腰なのだろう。(2007年2月11日)







 「日本では、結婚しないと子供を産むのが難しい。しかし、結婚すれば、仕事のほかに家事、育児、夫の親の介護が降りかかってくることを考えると、女性は踏み切れない。結局、結婚を子供ごとあきらめるしかなくなる」「女性たちの冷静な決断の積み重ねが、少子化の背景にある」「制度と施設と意識という三つをクリアしないと、結婚しよう、子供を産もう、ということになりにくい」「女性は依然として介護から解放されていない」「単身高齢女性が増えることもあるので、施設など、安心して暮らせる住まいを充実させて欲しい」

 先日読売新聞(2/6)に掲載された遙洋子氏の言葉である。これらは一見、世の女性の立場を代弁しているようであるが、私には全てが自分の人生を正当化する言葉にしか聞こえない。

 彼女にも愛情はあるのだろう、この人のために苦労したいと思った事もあるのだろう。しかしそれが叶わぬ人生の悲しみを隠して、自分の孤独を社会制度の不備のせいにして強がっている言葉にしか聞こえないのだ。

 既に彼女は自分の孤独な老後をも予想せざるを得ないらしい。しかし、安心するがいい。彼女は少なくとも彼女が産まなかった娘、彼女が産まなかった息子の嫁を、彼女の介護という苦労から解放してやれるからである。

 そうだ。苦労さえしなければいいのである。そして、産まなければ、生まれてこなければ、女性は人生の苦労から解放されるのだ。(2007年2月10日)







 「責任者出てこい」「出て来はったら、どうすんの」「謝ったらしまいや」。むかし漫才の人生幸朗・生恵幸子さんは、この掛合いで観客の爆笑を誘ったものだ。ところが、現実は謝ったらしまいではないのである。

 謝ることによって人は許すどころか、相手が自分の間違いを認めたことで自分の立場の正しさに自信をもって、さらに批判のトーンを高めてくることが多いからである。

 逆にいうなら、謝ってくる前には、仮に怒っていたとしても、その怒りが正しいかどうかに確証が持てず不安な状態にあると言っていい。「ひどいじゃないか」と言っても、「どこが悪い」「仕方のないことだ」「お前の勘違いだ」いや「お前も悪い」と逆襲されるかも知れないからである。

 したがって、もし謝るという方法を取るなら、それによって最終的な解決が得らる状況にあるかどうかをよく見極める必要がある。さもなければ、謝ることによって事態は更に悪化する可能性が大きいのだ。

 柳沢大臣がまた失言したと騒がれているが、今回は謝らなかった。彼は先の発言でわざわざ自分から先に謝ったことが、失敗の最大の原因であることを学んだに違いない。(2007年2月9日)







 小金井市の女性議長が柳沢大臣罷免要求を出したという。その文面にこんな文章がある。

 ”21世紀の女性は多様な生き方をしており、子どもを産むか産まないかは本人が決めることであり、国の政策で決まるものではなく、ましては第三者が口を挟めるものではありません。”

 まさに、この考え方こそが日本の少子化現象の大きな原因の一つであろう。しかしながら、今でも子どもを産むことについて、舅姑や親類が口を挟むはずだ。それが家というものであり、それが生活共同体というものだからである。その共同体の一番上に来るのが国であろう。

 人間は一人では生きて行けないといえば、誰でもその通りだというが、それは共同体のしがらみの中で生きることだといえばどうだろう。それは嫌だというのが、「口を挟むな」という考え方ではないのか。

 女性がどんな生き方をしようと、それは共同体を離れては実現できないはずだ。その共同体をどう維持するかを考えることが、政治家の仕事ではないのか。それを女の自由だで済ませられるのなら、政治も政治家もいらないのではないか。(2007年2月8日)







 最近、国民の公共精神や規範意識の低下が問題とされるに及んで、各界の識者たちも様々な処方箋を提供している。

 例えば、養老孟司は『バカの壁』で、常識を普遍的な価値の柱にしろと言い、山崎正和は最近読売新聞(1/21)に寄せた論稿で順法精神を涵養すべしと言っている。

 しかし、そもそも順法精神といえば、順法闘争という言葉がすぐに浮ぶくらいで、法に違反していなければ何をしてもいいという話になりやすいのが難点だ。

 一方、養老氏は、例えばキリスト教は一神教であるから価値の一元化につながり、悪くすると原理主義になるから駄目だといい、それより「人間であればこうだろう?」という常識に規準を置けば、普遍性を提示できるという。

 しかし、常識こそは人によって千変万化であり、常に相対主義に陥る危険性を孕はらんでいる。

 結局、どちらも人間の作ったものに価値の尺度を置けと言っていることになり、プロタゴラスのいう「人間は万物の尺度である」になってしまう。神なき世界に絶対的な価値規準を作ることは大変難しいようである。(2007年2月7日)







 2007年問題といって、戦後の経済発展を支えた団塊の世代が退職したら日本の経済はどうなるのかと、団塊の世代が持ち上げられている。また、この世代は戦後民主主義の申し子だともされている。

 しかし、彼らの生き方には疑問点も多い。例えば、養老孟司の『バカの壁』では、この団塊の世代が批判の対象になっている。大学を自由にすると言って学生運動を起していたくせに、後でちゃっかり「でもしか」先生になって信念のない教育をして、今の日本を駄目にしたというのだ。

 彼らのゲバ棒は国民の支持を得ることが出来ず、自由と民主主義のはき違えでしかなかったことは今や明らかである。しかし、彼らにはその反省がないらしい。今回の柳沢発言にひとりで怒っているのは、この世代の女性たちだという話がある。また、世論調査で安倍政権を一番嫌っているのも、この世代だという。

 しかし、これもまた昔のゲバ棒思考の名残りではないのか。もしそうだとしたら、そういう世代の人たちが社会の一線から退くことには、良い面もあると思いたくなる。(2007年2月6日)







 『バカの壁』の考え方に従えば、少子化の最大の原因は社会の都市化であるということになる。とすれば、農業国でパリのすぐ外側にさえ広大な農地が広がっているフランスの出生率が高いのも説明がつく。

 そして、もう一つ大きな要因は国民負担率の高さだろう。高負担高福祉というあれである。フランスでは収入の六割が国にもって行かれてしまう。スウェーデンなどは七割である。

 これらの国では子供を生んだ女性に対する施策が至れり尽くせりだそうだが、こうなれば、子供を産まなければ取られ損になる。つまり、女性は国によって上手に子供を産む機械にされてしまっているといえるのだ。

 それに比べて日本では子供を生む事はあくまで個人的な出来事であり、子供の面倒は基本的には全部自分でやりくりしなければならない。その代わり、日本の国民負担率はスウェーデンの半分程度で済んでいるのだ。

 日本も税金を沢山とって、子供を産む方が得だいえる国にすることも出来るはずだが、産む機械だと言われてヒステリーを起す女たちが大きな顔をしている現状ではとても無理な話であろう。(2007年2月5日)







 賞味期限と消費期限の表示が始まったのは1995年のことだというが、日本人のモラルが低下した原因の一つはこれではないかと思っている。

 以前は、製造年月日を見て何日経っているかを考え、自分の目と鼻で物の良し悪しを判断していた。ところが、賞味期限などの出現でそういう習慣がなくなり、それと同時に商品毎に何時まで食べられるかという知恵も知識も失ってしまった。

 そして、期限切れだからと食べられる物を捨てるようなった日本人は、自分自身で物事を判断する習慣も捨ててしまったのではないか。なぜなら、判断は全部他人任せで、何か不都合なことが起きると全部他人のせいにする生き方が広まってしまったからである。

 小沢一郎が『日本改造論』にグランドキャニオンには転落防止策がないことを引合いにして、自己責任の大切さを説いたのは1993年のことだった。

 それから14年。日本人はこの本の趣旨に反して、自己責任を放棄する習慣ばかりを身に着けてしまったように思われる。それは取りも直さず自分の行動に責任を持たない人間が増えたということではないだろうか。(2007年2月4日)








 養老孟司の『バカの壁』の中の重要なテーマの一つに「共同体の崩壊」がある。その中で退学について書いていることが面白い。

 "本来、退学と言われても担当教官が二名付いて、退学処分を受けた学生が一年通って指導を受けれていれば、「改悛の情あり」とか何とか言って、復学させてもらえていた。それが退学だった。"(p162)

 それに対して、今の退学は言葉通り「生徒の追放」になっている。これは本来あるべき共同体の姿ではない。共同体というのは絶対に人を追い出さないからだというのである。

 ところが、今の社会はどんどん人を追放する。リストラがその典型で、その追放された人たちがホームレスという訳である。

 しかし、社会に少しでも共同体意識が残っていれば、ホームレスも大事にしなければという意識が働くはずなのだが、それが無くなってしまった今ではホームレスは社会の邪魔者でしかない。

 そして、そんな社会に育った子供たちがホームレスを自分のストレスの捌け口にしたとしても、それは彼らがこの社会の流儀に従ったに過ぎないといえるのではないか。(2007年2月3日)







 日本が徴兵制を止めてから、日本の男たちは身体のことが分からなくなったと養老孟司が『バカの壁』の中で言っている。多くの国民が自分の身体を使う百姓であることをやめて都市人間になってからは、特にそうだという。

 都市化した現代人は身体を動かす代わりに、あれこれ考えつべこべいうことばかりを優先するするようになった。そして意識の中で捉へえられることしか考えなくなってしまった。

 一方、軍隊であれ百姓であれ身体を使うには、あれこれ考えずにまず動けるようにしなければならない。しかも、身体を動かすことの多くは無意識の領域に属する。それを勘定に入れなければ、ものの役には立たないのだ。

 ある大臣が女性を機械に譬えて女たちの反発を買ったそうだが、男が戦争をする機械であることを止めて久しいように、女もまた子供を産む機械であることを止めてしまったのだろう。

 しかし、人間が意識のない機械であるという側面を持っていることを忘れてしまっては、個人も家庭も社会も立ち往かなくなることを忘れるべきではないだろう。(2007年2月2日)








 養老孟司の『バカの壁』が古本屋で百円になっていたので、買って来て読んでみたら、何とこれは哲学書ではないか。非常に難しいことが延々と書いてある。これがベストセラーで飛ぶように売れたとはとても信じられない。

 いや買っても誰も読まなかったのだと思うしかない。というのは、しょっぱなに、CO2の増加が地球温暖化の原因であるというのは一つの推測に過ぎないから「CO2の増加による地球温暖化」というのは間違いだと書いてあるのに、その間違った言い方を誰も止めようとしないからである。

 また、例えば適者生存の進化論によって、恐竜は環境に適応できなかったから滅んだと推測はできても、恐竜は今現在存在しないからその事実は証明できない。つまり、進化論は反証できないから科学的理論ではない、というのだが、多くの人にとっては、だからどうなのだで終ってしまう話である。

 これらはまさにこの本のいう「バカの壁」が存在することの証明で、知りたくないことは理解できないし、関心のないことを知っても、その人の行動には何の影響もしないのである。

 昔、哲学者の今道友信博士が『同一性の自己塑性』という御自分の講義について、一般の人には関係のない講義であると言われたことがあるが、この本についても同じことがいえそうである。(2007年2月1日)








 うまい話というものは中々そう無いもので、それを週に一回ずつ出してくるのは並大抵の苦労ではなかったろう。

 それに対して、まずい話は世の中にいっぱいある。だから、マスコミはまずい話を出すのは得意だが、うまい話を出すのが苦手なのは仕方がない。

 ところが、マスコミはそのまずい話に飛びつくとなかなか手放そうとせず、「これでもか」としつこく報道し続けるので、それを見せられる方はうんざりしてしまう。

 『あるある大辞典』や不二家のネタなども、昔の話までネチネチと掘り出してきているが、まだやっているのかという印象しかない。まるで女の腐ったような奴らだと思ったりもする。

 だいたい人のしでかした失敗をネタにして飯を食っているのだから、偉そうなことはいえないはずだ。そんなにいうならお前らも、うまい話をちょっとは自分でも捜して来いと言いたくなる。

 週に一回うまい話を出すのにあれほど苦労するのだ。毎日毎日お昼の番組でうまい話を出してくる日本テレビはたいしたものだと感心するばかりである。(2007年1月31日)







 万年浪人の侍に仕官の話が来たが、条件があった。それは無外流の剣客秋山小兵衛の息子大治郎に御前試合で勝つことだった。試合を断われない大治郎は父に相談にくる。その時父は即座に息子に言った、「負けてやれ」。

 「そんなことは武士の名折れだし、第一、相手に失礼だ」と大治郎はいうのだが、家に帰ると妻にも「負けてお上げなさいませ」と言われ、相手の妻の父親からは「勝ちをお讓り下さい」と土下座されてしまい、いざ試合に臨んだ大治郎は集中力を高めることが出来ずに本当に負けてしまう。

 ところが、その直後からあれは八百長試合だという噂が広まり出すのだ。その噂に悩んだ相手の侍が大治郎の道場に直談判に来るに及んで、ではもう一度やりましょうという事になる。その試合で大治郎は今度は見事に負けてやって相手の仕官が叶ったというストーリーである。

 これは『剣客商売』というドラマの話だが、去年の大相撲で白鵬と雅山が勝てば昇進と言われた千秋楽の二番は、まさにそんな試合だった。だから二人の勝ちに相手力士の情を嗅ぎとった相撲協会は即座に昇進なしの裁断を下した。

 しかし、そんな試合の対戦相手となった人間もやりにくいものなのだ。勝てば恨まれるし、負ければ疑われる。試合とは相手があるものであり、それに勝てば仕官を許すとか、昇進させるとかいうことがそもそもの間違いなのである。(2007年1月30日)







 一時マスコミが「加害者の人権は手厚く守られているのに、被害者の人権は守られていない」などとしきりに言っていたことがある。

 では、被害者の人権を守りましょうと被害者の実名を隠すことがあると警察が言い出したら、マスコミは大反対である。日頃、警察発表をそのまま記事にして恥じない記者たちが、事実の確認が出来ないと騒いだのだが、実名のない記事では現実味がなくて売れ行きに影響すると恐れたのだろう。

 被害者の人権重視がこの程度のものなのだから、加害者の人権を侵害するのは当たり前で、「犯罪者のくせに、プライバシーなんか守られる権利はない」とばかりに、学生時代の写真から何から何まで使って過去の事を曝き放題である。

 そもそも裁判で判決が出て加害者と決った人間の人権は罰を受けてしっかり制限されている。法で守られるのは被疑者の人権の方である。そんな事もごっちゃにしてしまうのだから、日本のマスコミの人権意識など高が知れているのである。(2007年1月29日)







 ドライバーの血中アルコールが0.14ではなく0.15であれば犯罪者にされ、賞味期限が一日ずれたことから寄ってたかって老舗の会社を一つ潰してしまおうとする。

 まったく嫌な御時世であるが、それもこれも法律万能主義から来た弊害である。人間のすべての行為を法律で計ることなど出来るわけがない。法律を越えた真実があるのだ。

 その最たる例が、離婚後301日ではなく300日で生れた子が前夫の子とされる民法の規定であろう。出生日を偽って届け出ない限り、ウソが事実としてまかり通ってしまうのである。法を守ることによって人は不幸になるのだ。

 キリストの使徒パウロは、人間は法律通りに生きることなど出来ないと言った。法に支配されている人間は罪という主人の奴隷である。法を破らないためには、破るような法を作らないようにするしかないとまで言った。

 パウロの言いたいことは、法に従うのではなくキリストに従って善い人間になれということであるが、彼の「ローマ人への手紙」は人を幸福にするために法が如何に無力であるかを教えてくれる。(聖書は超訳の『リビングバイブル』推奨)(2007年1月28日)







 民法772条は生れた子供の父親が誰かを決める条項である。子供の母親は産んだ女で明らかだが、誰と結ばれて出来た子だかは知れたものではない。

 そこで便宜的に、結婚している時に生れた子は夫の子とし、離婚した後に生れた子は300日以内なら前夫の子とすることにした。

 これでいくと、離婚後すぐに別の男と結ばれて出来た子は前夫の子になってしまう可能性がある。再婚に180日待つ必要あり、生れたのが再婚から120日以内なら前夫の子とされるからである。

 しかし、女は自分の産んだ子の父親が誰かを知っている。だから、うまく計算して適当な誕生日で届ければ、本当の父親を子供の父親にすることが出来るのだ。昔はそんなことはよくあったが、今でも家で一人で生んだといえば出産証明書がなくて済むはずだからである。

 ところが、正直に届けて前夫の子になってしまったと怒っている女たちが大勢いるという。だが人の親ともなれば子供のために一芝居打つぐらいの覚悟も必要ではないのか。それは惚れた男を落とすために使った手練手管を思い出せばよいはずである。(2007年1月27日)







 三菱の洗濯機がC1エラーが出て脱水出来なくなったら、蓋を閉めたことを知らせるセンサーの故障である。これは自分で直すことが出来るとネット上で報告がある。実際、それほど難しいことではないようだ。

 センサーなどが入っているカバーは、洗濯機の後ろにある2本の上向きのねじを外してから、カバーを洗濯機正面から見て斜め手前に引き上げると外れる。

 左側にある黒色のものがそれでオムロンのVX-01-1A2であるが、名前は取り付け側に書いてあるので、2本のねじを抜いて外さないと見えない。洗濯機につながっているコードを引き抜くと、上側に1本、横側に2本、プラグの差し込み状の金具が出ている。

 センサーを爪でこじ開けると、赤いボタンを押したときに中の金具が動いて、上側の1本の金具から来た電気信号が、横側の2本の内の上の金具に流れ、押さないときには下の金具に流れる仕組みであることが分かる。

 問題は上側の1本の金具の接触不良である。全体が白っぽくなっている。特にボタンを押したときに動く接点の部分が腐蝕して電流が流れなくなっているのだ。だからその部分を中心に先の細いヤスリなどでこすってやると、また電気が流れるようになる。

 通電の確認にはテスターがあることが望ましい。私はペン型の懐中電灯とビデオコードの余りを切って自作したが、むしろこの方が面倒だったくらいである。(2007年1月26日)







 子供がホームレスを殺すのは、大人がホームレスをいじめるからである。大人がいじめるのに、子供がもっといじめて何が悪いと思うのは当然だ。違うのは大人が合法的にいじめるのに対して、子供はそんな慎重さがないだけである。

 大阪市によるホームレスの住民登録実態調査は、合法的なホームレスいじめの最たるものである。役所がいじめるのであるから、子供たちのいじめにお墨付きを与えたようなものである。

 ホームレスは昔はお乞食さんといって、彼等を邪険に扱う家には不幸が舞い込むとされたものだ。金銭的な幸福など一時の幻のようなもので、いつどんなことで自分も同じ立場に陥るかも知れぬという謙虚さがあったからである。

 古代ギリシアの『オデュッセイア』を読むと、お乞食さんは神(ゼウス)の使いとして尊敬され、おもらいに来たら丁重にもてなすのが正しい人間の姿とされていたことが分かる(14巻58行)。

 神のいない日本社会が、法あってモラル無き社会に堕するのは仕方がないが、役所や裁判官がモラル破壊の先頭に立つのだけはやめてもらいたいものだ。(2007年1月25日)







 ロボットコンテスト、略してロボコンというのがNHKの主催が毎年テレビで放映されている。

 しかし、ロボットといえばガンダムのようなの姿をしたものを想像する我々の目に、相も変わらず年寄りの手押し車か乳母車のようなものを見せらるのであるから、興醒めを越えて学生たちが気の毒になってくる。

 このコンテストはお題が決まっていて、運動会の障害物競争のようなことを機械にやらせるだけで、しかもその過程が細ごまと決められている。その中でアイデアを競うのだが、それはまさに小手先のアイデアでしかないだろう。

 高専の学生といっても年齢は大学生と変わらない。中には最先端のロボット工学を自分のものにして、メーカー顔負けのロボットを作ってくる天才が一人や二人いても不思議はないはずなのだが、誰でも参加できるように低いレベルに抑えられた競技だから、参加させられる学生にとっては、ロボコンという宿題が一つ増えただけではないのか。

 キャッチボールしかできない生徒と剛速球を投げられるかもしれない生徒を無理矢理一緒に競わせるような競技はもうやめたらどうかと思う。(2007年1月24日)







 投票日前にそのまんま東候補が大接戦とニュースが出たとき、これはひょっとすればひょっとするかと思って記事をよく読んで見ると、識者の予想は誰もがよくて次点止まりというもので、これはやっかみがこもっていると思ったものだ。

 安倍政権が無党派層から完全にそっぽを向かれ、その一方で民主党は三人衆のお馬鹿CMで信頼度を下げるばかりの状況である。強い意志を持って政治を勉強して、優秀なブレーンに恵まれているなら、タレント候補も馬鹿に出来ないのだ。

 さて前知事辞職の原因となった談合だが、これは遥か昔からあって誰がどうしようが無くならない。選挙中に東候補が「談合は必要悪の面もある」と口を滑らせても落選の原因にならないぐらいに、それは国民の本音を語っているのだ。

 一般競争入札にすべきとはよく言われることだが、その一般の段階であらかじめ談合してしまえばそれも同じ事で、誰かの面子を潰しては生きていけない日本の階層社会では、たとえ談合で逮捕される危険があっても、それを避けて自分だけ正義を貫くことは難しいのである。(2007年1月23日)







 図書館の本に書き込みするなどけしからんという話をよく聞く。私は、ページを破ってしまうのは困るが、何が書いてあるか分かるなら、そんなに目くじらを立てることもないと思っている。

 例えば、謗線が引いてあれば、前の人がどんな所を大事だと思って読んだのか分かるし、書き込みがあれば、それを参考にも出来るからである。

 「公共のものだから」というが、使えば汚れるものであり、きれいな物が読みたければ自分で買えばいいのである。図書館の本が余りにきれいなのは、誰にも読まれなかった証拠であり、税金の無駄遣いでもある。

 むしろ、借り手があってこその図書館なのだから、どんどん使ってどんどん汚して下さいという、そんな図書館があってもいいと思う。

 昔の西洋の写本などは、欄外にびつしりと書き込みがあって、それが注釈として後代の人に珍重されて、それでその本の価値が増大したくらいだ。

 公共精神が大切などと言いながらも利他的精神はどこにもなく、自分だけの夢の追求が賞讃される社会である。そんな社会の住人に多くを求めるべきではないだろう。(2007年1月22日)







 日本人の常識の多くはキリスト教の教えと一致している。男女平等、一夫一婦制、福祉社会、個人の尊重、愛の概念もそうである。老人も引退せずに働こうという最近出て来た考え方も元はキリスト教のものである。

 そもそも西洋の民主主義思想は、キリスト教の思想を背景にして育ってきたものである。民主主義の起源とされる古代ギリシアは奴隷制社会だった。その奴隷制を排除したのはキリスト教の平等思想のお陰なのだ。

 日本がキリスト教を採用しないのにキリスト教の教えは採用するという妙なことになったのは、西洋崇拝、つまり西洋の規準に合せることが正しいことだという迷信から来たものである。

 とはいえ、これほどキリスト教の教えが浸透している国なのであるから、あとはキリストに対する信仰さえ加われば、日本は立派なキリスト教国になれる。

 洋行した内村鑑三は西洋のモラルの低さを発見して驚き、だからこそ西洋にはキリスト教が必要だったのだという結論に至った。モラルの低下が叫ばれるこの国でも、そんな厳しい宗教が必要になっているのかも知れない。(2007年1月21日)








 「ゴミを減らそう」などといって、ゴミが増えた原因が消費者にあるかのようなことが言われているが、一体消費者にどうしろいうのか。

 ゴミが増えた原因は商品の包装にある。買って来た商品の包装は全てゴミになるのである。そしてその包装をどんどん作っているのは消費者ではなくメーカーなのだ。

 消費者が本当に自分で作るゴミは、大型ゴミやティッシュペーパーのゴミを除けば、食品の食べかすや食べ残しなどの生ゴミだけである。そしてそれらの量は昔から大して変わらないのだ。

 それなのに消費者に対してゴミを減らそうというのは、商品の包装を捨てるなと言っているに等しい。しかし、ゴミ袋として使えるレジ袋以外は家に置いておいても何の役にも立たないものばかりである。

 その上に、役所は余計な賞味期限などというものまで決めて、食べられる物を捨てさせようとするのだから、ゴミは増えるばかりである。

 この世知辛い世の中に、誰が好きこのんで余計なものを買うだろうか、誰が不要でない物を捨てるだろうか。ゴミが増えた原因は消費者にはないのである。もし本気でゴミを減らしたかったら、せっせとゴミを作っているメーカーにいうべきなのだ。(2007年1月20日)







 山本七平は『日本人と中国人』(第七章冒頭)に、「一国であれ一政権であれ一政治家であれ、その対内認識と対外認識は、常に同一の規準に立っている」と書いた。内政の規準と外交の規準は同じだというのである。

 この後「佐藤外交とは佐藤内政であり」と続くが、まさに小泉外交とは小泉内政だった。反対者との対立を辞せず、は内政外交の両面に於いて貫かれたのである。

 では、安倍政権はどうか。これにもまた同じ事がいえるはずだ。しかも、実際そうなっている。対立の回避、これである。それは内政では自民党への屈従、世論への屈従とさえいえるものだ。

 となると、一見成果を上げているように見える外交も、その内容に疑いの目を向けるべきではないのかと言いたくなる。強気の外交のように見えるものが、本当は屈従の外交ではないのかと。

 ところで、安倍政権の強気の外交の象徴である対北朝鮮外交は、実は外交になっていない。小泉政権も北朝鮮に対しては対話の外交をしたのである。どうやら安倍政権は小泉政権と悉く正反対のことばかりしているようである。(2007年1月19日)







 二宮尊徳が日本各地の農業を再建したときにとった経済政策は道徳だった。荒廃した農村を復興させるために尊徳が提言した報告書の内容は、

 『金錢を與え租税を免除するは、彼等の困窮を援助するの途ではない。彼等に一金をも下し給はないことが、救濟の秘訣である。援助はただ貪慾と無賴を招来し、民の間に軋轢の源泉を生ぜしむるに過ぎない。・・愛、勤勉、自助、ーーこれらの諸德の嚴格な厲行に、之等諸村の希望が存するのである』

 というものである(『代表的日本人』より)。しかし、二宮尊徳(1787-1856)より百年以上前の新井白石(1657-1725)の幕政改革が既に儒学の理念に基づく道徳色の濃いものだった。尊徳だけが独自の政策を提言したのではなかったのである。

 現代の経済政策の重要な柱である公共工事が景気回復に繋がらないのも、そこに道徳の基本を欠いているからだろう。「談合」が駄目なのもそれが違法である前に、嘘をついてする金儲けだからである。それで手に入れた金では到底世の中良く成りようがないのである。(2007年1月18日)







 小学校にある二宮尊徳の銅像はなぜ薪を背負いながら読書をしているのか。戦後教育を受けた私はその理由を知ることがなかったが、内村鑑三の『代表的日本人』を読んでやっとわかった。

 尊徳は天涯孤独の孤児だったのだ。仕方なく伯父の家に身を寄せたが、伯父は尊徳に夜間の読書を許さなかった。そんなことをしても一銭の得にもならないし、人の家にいる間はこの家のためになる仕事をしろと言って家での読書を禁じたのだ。

 それをもっともだとして受け入れた尊徳は、それならと薪拾いの仕事の行き帰りに歩きながら本を読むことを考え出した。その姿を銅像は現わしているのである。それは単に読書好きが歩きながら本を読んでいる姿ではなかったのである。

 この本で紹介されている代表的日本人は二宮尊徳の他に西郷隆盛や日蓮など、付和雷同を好む典型的な日本人とは正反対の、孤立を恐れない独立不羈の偉人たちばかりであり、全然代表的ではないのは大いなる皮肉であろう。

 元々は英語で書かれた物の和訳だが、現行の訳ではなく旧版の鈴木俊郎の訳が、よくぞこれ程の格調高い日本語に翻訳できたものだと感心させられる名訳である。(2007年1月17日)







 牡蠣(かき)は苦手である。生で食うと必ず当たるだけでなく、火を通して食っても当たることがあるからだ。

 スーパーで売っている牡蠣は殻から外したもので、死んだ牡蠣である。魚は魚屋で死んでいるものを買うが、貝類は生きたものを買うのが普通だ。浅蜊(あさり)も蜆(しじみ)も生きたものが売られている。ところが、牡蠣だけは死んだものが売っている。どこかおかしい。

 たまに殻付きの牡蠣を手に入れることがある。しかし、それさえ生きているか死んでいるか分らない。貝類は普通は火を通すと殻が口を開くことで、生きていたことが分る。口を開かない貝は死んでいた貝で食べないのだ。

 ところが、牡蠣は生きているものでも口を開かないことがある。これでは元々生きていたのか死んでいたのか分らない。だから、安心して食べられないのである。業者が安心して食べられるというが、それはそう言わなければ売れないからであろう。

 マスコミが牡蠣のノロウイルスが怖いというのは信ずるに足りない。しかし、牡蠣の生き死にを自分の目で確かめられない以上は、業者の言葉も信用できないのである。(2007年1月16日)







 名張の事件の再審開始の取り消し判決に対して、「疑わしきは罰せず」はどうなったのかと多くの新聞が嘆いて見せた。

 「疑わしきは罰せず」とは犯罪の疑いがあるだけで処罰してはいけないという司法の原則である。しかし、疑わしさのレベルが高ければ罰して良いというのが、昨今の厳罰化の流れだろう。

 酒気帯び運転を罰するのも「疑わしきは罰す」であろう。なぜなら、少しぐらい酒を飲んでも酔わない人は沢山いるが、酔ってしまう人も沢山いる。そこを確かめずに、酔っぱらっている疑いがあるとして一括りに罰するからである。

 昔は酔っている疑いのあるドライバーはまっすぐ歩かせるなどして、酔っているという確証を得ようとした。今はそんな手続きもなく、誰でも同じ基準で酔っていると見なして罰するのだ。

 しかし、その根拠はあくまでも人間の推理であり、神様でもない限りそこに過ちの余地があるのが人間である。しかしながら、人はすぐに神になりたがる。それが「疑わしきは罰す」の流れなのである。(2007年1月15日)







 レジ袋を有料化するというがそんなことをして何になるのかと思う。つい最近ではディーゼルカーを廃止してしまったが、それと同じで一番目に付き安いものを槍玉に挙げて、環境に良いことをしたと言っているに過ぎないのだ。

 スーパーで買い物をしてくれば、全部がビニールなりプラスチックなり石油製品で包装されている。レジ袋はその一番外側を覆う包装に過ぎないのである。その一枚の包装が有料になったからとて何がどう変わる訳ではないことは一目瞭然ではないか。

 今や袋入りのクッキーを買えば、さらにその一個ずつがビニール袋に入っているのが普通である。しかもその一個ずつにビニール袋入りの乾燥剤まで入っている。正に贅沢も極まれりである。この一番内側の包装を放置して、一番外側の包装を減らそうとすることの無意味なことよ。

 レジ袋が有料化になれば、最初は昔のように買い物袋を持参する主婦も現われよう。しかし、郊外のスーパーに車で乗り付けて大量にしかもスマートに買い物をする時代にそんなことが定着するとはとても思えないのである。(2007年1月14日)







 妻による夫のバラバラ殺人に関して、私にとって一番興味深いのは、この事件の犯人を突き止めたのが警察の地道な捜査ではないという事である。

 夫が帰って来ないという話を聞いた夫の友人たちが、マンションの防犯ビデオを調べたところ、妻の言っていることがおかしいと気が付いて、それを警察に通報したことが事件解明の端緒となったのである。

 ところが、新聞やテレビのニュースでは、家出人捜索願にある夫の身長とバラバラ死体から推測される身長が一致したことから、遺体の身元の判明に繋がったかのように報じられた。

 家出人などは五万といるのに、そんなところから遺体の身元が判明するだろうかと思っていたら、やはり違っていたのである。ところが、報道はこの警察発表に何の疑問も呈することなく、そのまま記事にしたのだ。

 これでは警察が友人たちの手柄を横取りしてしまった事になるはずだが、マスコミはそれに対してまるで見て見ぬ振りである。報道機関と警察の癒着した関係はかくやと思い知らせる事件であった。(2007年1月13日)







 通販のテレビCMに有名人が出てきて「あたなも通販生活」などと言っているが、それは外出がままならない有名人だからこその話で、一般人がその真似をする必要はない。

 一般人は別に人に見られてもかまわないのだから、自分でどんどん店に出向いて現物をよく見て買い物をすればいいのだ。店に出向けばこそ外出の楽しみもあり、あはよくば値引きも出来るのである。

 私もネットの通販はよく利用するが、それは近所の店では手に入らない書籍が主で、あとは日本で買うよりも格段に安いカメラ類程度である。

 手に入りにくい本などは、通販で買えると特に重宝するが、それでも手にとって現物を見ない不利は避けられないものだ。本屋で見たら買わないような汚れや傷みのあるものが送られてきて、がつかりすることが多いからである。

 だから、現物の形も見れないラジオの通販などは論外であるし、有名人の出演料や番組の制作費に大金をかけているテレビの通販もとても利用する気になれない。それが一般人の買物感覚だと思う。(2007年1月12日)







 マスコミが国民のモラルの低下を嘆くときによく出てくるのが「公共心の欠如」というものであるが、公共心は日本ではいつからモラルの一つになったのか。

 日本人の守るべきモラルを教えてきたのは『論語』である。そこで重視されるモラルは第一に「孝」である。つまり、親や目上に対する孝行である。次は「忠」であろうか。これは国家に忠誠を尽くすことだ。その他に「仁」や「礼」も挙げられている。しかし、公共心を説くような項目はどこにもない。

 論語は「家」を中心としてその延長として国家を説く本であるから、「公」という概念はないのだ。だから、論語を勉強しても公共心は身に付かないのである。

 日本人の倫理観はこの論語を中心に形成されてきたものであり、戦前育ちの国民の頭には充分にこの倫理観が染み込んでいた。

 そして、彼らの目上に対する「孝」やお上に対する「忠」から発した態度が、今から見れば公共心があったかのように見えるだけなのである。昔は目上やお上が今の「公」の役割を果たしていたともいえる。

 ところが、今では目上もお上も「公」ではない。役人などはむしろ国民の僕(しもべ)の位置までなり下がっている。「公」の中身が無いのであるから、その「公」を尊ぶ「公共心」の無さを嘆いても意味がないのである。(2007年1月11日)







 「拉致問題は解決しなければならない」というとき、その後には必ず「平和的に」と続くのが一般の論調だろう。

 この場合の「平和的に」とは「武力攻撃によらずに」という意味であろう。しかし、それは同時に「日本国民の生命財産がどんなリスクも負うことなく」という意味ではあり得ない。

 拉致問題の解決を求めて北朝鮮に経済制裁をすることは、それに反発した北朝鮮が日本に対して武力攻撃をしかけてくるリスクを負うことだからである。

 そして、この経済制裁に多くの国民は賛成している。これは悪い奴は厳しく罰しろという最近の厳罰主義の流れから来た賛成であるとしても、その罰が自分に跳ね返って来て戦争になる可能性を覚悟してのことであるはずだ。

 そういえば、去年の内閣府の世論調査で、「日本が戦争に巻き込まれる危険がある」と答えた人が77.6%に達したとあるが、これは拉致問題の解決に対する日本国民の並々ならぬ決意を示したものと見てよいのかも知れない。(2007年1月10日)







 山本七平は『小林秀雄の流儀』という本に、思想と実生活の関係を探り、この二つから対象に迫って行くのが小林の流儀だと書いている。思想と実生活は、言葉と実感と言い換えてもよいとも言っている(213頁)。

 そしてこの「流儀」を、かの難解なる『様々なる意匠』とそれに連らなる『作家の顔』『思想と実生活』『文学者の思想と実生活』そして最終作の『正宗白鳥の作について』(昭和文学全集9所収)迄の正宗白鳥との論争に関わる作品群に『「本居宣長」補記』を交えて解読することによって明らかにしてくれている。

 その中で、我々は日本の自然主義文学やプロレタリア文学が実感から出発せず、その実感から決別し純化することによって生れる思想を持たなかったが故に、それらが「意匠」つまり、いわば「衣装」に過ぎなかったことが理解できる。

 そうして見るとき、「劣悪を指嗾(しそう=けしかける)しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない」という有名な一節が、小林のこの「流儀」の萌芽であり、思想と実生活、言葉と実感の二つを対比して考える意識の未分明な形での現われだったということが理解できる。

 この意識が明確になって行くのは『「悪霊」について』からだそうで、小林を読むならこれ以降の作品から、もしくは最後の作品から読むのが分かりやすいということになる。(2007年1月9日)







 救急車よりも早く着けるというので地方自治体がヘリコプターを導入したところ、騒音の苦情が出て困っているという。

 明日はわが身かも知れぬ「命のヘリ」だ。そこから発生する騒音は、隣の町の拡声器放送とはわけが違う。少しぐらい我慢してもいいではないか。

 と言いたいところだが、自分の国を守る軍隊のジェット機の騒音が五月蠅いと言って通る国であるから、これを記事にした新聞も表立って批判できないでいる。

 他人の必要によって発生する迷惑をお互い様だとして我慢できる寛容な社会は消えてしまい、迷惑をかける加害者と迷惑を被る被害者しかいない社会になってしまったのだ。

 もう少し生きたいのはよいが、俺には迷惑をかけずにやってくれ。共に助け合う? 奇麗事はよしてくれ。何より大切な年金の受け取り手が一人でも少ない方がいいに決まっている。これが本音の社会である。

 と諦めるのはまだ早い。この問題を解決する方法が一つある。ヘリコプターに新聞社の旗を付けるのである。迷惑がるどころか、誰もが喜んで見に来るに違いない。(2007年1月8日)







 ニュースキャスターがクイズ番組などに出ることがあるが、あれはよいことだ。ニュースキャスターをしているからさぞ賢い人なのだろうと思うが、そうでないことが視聴者に分かるからである。

 最近も改正労働法に関して「残業代ゼロ法案」と連呼していたキャスターがいたが、彼のクイズ番組での成績は散々であった。そりゃそうだろう、改正労働法は残業代を無しにする法律ではなく、労働を時間で計るというやり方を一部廃止する法律であり、残業という考え方とは全く無関係な法律であるはずだが、彼の発言はそれがまったく理解できていないことを暴露しているからである。

 新聞記者もそうだ。この法律に反対する新聞ならともかく、資本主義陣営であるはずの読売や産経の記者でさえ、この法律の趣旨をちゃんと説明した記事を書けるものがいないのが現状なのだ。

 新聞記者もキャスターもみんなテレビ番組に出て、自分の知的レベルを白日にもとに曝すのが国民のためだろう。(2007年1月7日)







 テレビで、乾電池の代わりに充電池を買わせようとしきりに宣伝しているが、充電池は充電器も一緒に買わなければいけないのが最大の難点である。単三乾電池4本が充電器とセットで4千円もするのだ。

 これでは普通の乾電池と比べて、元を取るのに40回も充電し直して使わなければいけないが、人はそんなに電池ばかりを相手に暮らしていわけではない。そのうちに無くしてしまうか腐らせてしまうのが関の山である。

 おまけに、充電池には「当社専用充電器以外では充電しないこと」と脅し文句が付いている。メーカーはエコの流行に乗って一儲けしようとしているだけなのか、共通仕様の充電器を作ろうとはしないのである。

 要するに、メーカーがエコライフを合言葉に高価なものを買わそうとしている時点で、もうエコロジカルではないのである。ハイブリッド自動車や太陽光発電などもしかり。

 エコロジーはそのままエコノミーに通ずるはずで、高価な物ほどそれを作るのに莫大なエネルギーを必要とし、それを買うお金を稼ぐのに莫大なエネルギーを必要とするから、その過程で既に環境を大きく破壊しているに違いないのである。(2007年1月6日)







 人生の目標は自分の夢を実現することであると、我々戦後生まれの人間はずっと教えられてきた。しかし、この考え方とは別の考え方があることを最近知った。それは先祖を供養するためというものである。

 その意味を私はよく知らないが、夢の実現一本槍の価値観が絶対でないことを知ることは意味のあることである。

 例えば、最近「命を大切にしよう」と言われるが、それは授かった命を大切にして自分の夢を実現しようということで、結局同じことである。しかし、この考え方は「手に入ったお金は大切にして、上手に使おう」というのとよく似ている。

 誰もがお金の大切さを知っているように命の大切さも知っている。それでも、お金を大切にせずにサラ金地獄に落ちてしまう人、命を大切にせずに自殺してしまう人が沢山いる。

 何故そうなるのかといえば、自分自身のために使うことが目的ならば、自分の金も自分の命もそれをどう扱わうと自分の勝手だからである。

 詰まるところ、いくら命を大切にしようと言っても、それが自分の所有物を無駄にするなというのと等しい間は、この国では自殺者は減りはしないのである。(2007年1月5日)







 私は公共広告機構のお節介CMが嫌いである。最近も「日本のマナーが心配です」などと言っているが、マナーはテレビで宣伝すべきものとは思えない。

 電車の中で他人の音楽プレーヤの音漏れが気になるなら、その場で直接いえばよいのである。その場でいえないことをテレビを使っていうのは、テレビの力を借りようとする卑怯なやり方だ。

 そんなことをしても世の中が良くなるとは思えない。それは直接話し合って解決すべき問題を法律の力を借りて解決しようとするのと同じで、人間関係をぎすぎすしたものに変えるだけである。

 昔、下宿生活をしていた時に、下宿人に気に入らないことがあるとすぐに張り紙を出して注意する家主がいたが、そんな家主とはとても信頼関係を築くことは出来ないものだ。

 話をすれば、相手の事情を聞くことも出来る。それを紙に書いて張り出すのは自分の要求を絶対的に正しい物として相手に押しつけることである。

 なぜ、「音漏れが気になったら一声掛けよう」と言わないのか。なぜ話し合いをパスしようとするのか。話し合いこそマナーの第一だろう。マナーは他人に押しつけるものではないのである。(2007年1月4日)







 めくら、びっこ、かたわ、などという言葉は日本では禁句になっている。だから、例えば日中辞典の見出しにはこれらの言葉が掲載されていないし、中日辞典でも訳語として使われていない。

 だから、めくら、びっこ、かたわ、を中国語ではどういうのかと思っても調べられないのである。めくら、なら盲人で調べればよいが、びっこ、は片足の不自由な人、かたわ、は身体障害者で調べるとして、やはりぴったりと当てはまる訳語は見つけられない。

 しかし、これらの言葉が国語辞典に載っていないかというと、ちゃんと載っているのだ。マスコミや公文書で禁句になっていても、人の頭の中から消し去ることは出来ないからである。

 では、どうすれば調べることが出来るかというと、その方法がないわけではない。実は、これらの言葉は古い日本製の辞書や中国製の辞書では平気で使われいるのだ。だから、日本人が自分の国の言葉について調べるのに中国製の辞書を買わなければならないという妙なことになっているのである。(2007年1月3日)







 厳罰化の流れに賛成してきた左翼マスコミも、死刑が一度に四人も執行されたり、死刑囚の再審が閉ざされたりしたのには面食らっているらしい。進歩派の面子に関わるからだろう。

 前の法務大臣が死刑執行の判子を捺さなかったのは、キリスト教徒だったからだと言われる。一方、世論調査をすると国民の九割は死刑に賛成している。それだけ日本人が無宗教だということになる。

 そしてこの無宗教のおかげで、多くの日本人にとっては法律が宗教に替わる役割をもってきてしまっている。だから宗教が法律より上位にあることが理解できない。そこで、大臣が法律を無視していいのかという意見が出てきたりするのだ。

 大臣は法律を無視していいのである。法律通りにやるのなら、大臣に判子をもらう必要はあるまい。その上のことを求めるからこそ判子を求めるのである。

 厳罰化の流れは日本人の法律信仰の結果であり、それは取りも直さず宗教に基づく倫理観の欠如の現れに他ならない。そこを問わずに、死刑の是非だけを論じても無意味なのである。(2007年1月2日)







 北朝鮮はアメリカが金融制裁を解除すれば核施設を廃棄すると言っているが、金融制裁を解除しなければ何時々々迄に核攻撃に踏み切るとは言っていない。なぜだろうか。

 それはもしそんな事をいうと、アメリカが金融制裁を解除しないと核攻撃をしなければならなくなるからだろう。そして、その時に核攻撃をしなければ本当は核兵器を持っていないことになって困るし、もし核攻撃をすればアメリカから報復攻撃を受けて北朝鮮は崩壊してしまって困るからである。

 しかしながら、北朝鮮が金融制裁によって本当に切羽詰まっているなら、そして、本当に核兵器をもっているなら、核攻撃の中止を交換条件に持ってきてもよさそうなものである。

 もともとアメリカの金融制裁は北朝鮮による違法行為が原因だと言われているのだから、その解除は核廃棄などという本来自主的にすべきことの交換条件にはならないはずだ。

 それに、核実験は失敗したという話もある。やはり北朝鮮は核兵器を持っていないのではと疑いたくなるところである。ところが、アメリカは北朝鮮に核兵器をもっていることを証明しろともいえない。

 こう考えてみると米朝交渉が進展しないのは当然のことだと納得する次第である。(2007年1月1日)


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