私見・偏見(2008年)

私見・偏見(2007 年)へ



 

    田母神論文に対する批判の中でよく使はれるフレーズに「自衛隊が築き上げてきた国民の信頼を一気に揺るがしかねない」といふのがある。しかし、それはどん な信頼のことを言つてゐるのだらうか。

    たとへば、阪神大震災のときに自衛隊は政府の指示がないからと、5千人の被災者の命を見殺しにしたが、これは明らかに国民の信頼を損ふことにつながつた。 しかし、このフレーズで言ふ信頼とは、国民の命を救ふ存在といふ積極的なものではなく、かつての日本軍とは違ふ平和的な存在といふ消極的なものだらう。

    さういふ信頼を求める人たちにとつては、自分の頭で考へて発言する自衛隊などといふものは、危険な存在であり信頼できないものに映つて当然である。しか し、そんな信頼を自衛隊の側が国民に対して築く努力をして来たなどといふ話は聞いたことがない。

    さう思つて調べてゐると、このフレーズとよく似たものを見つけた。それは「日本が憲法九条の平和主義によつて周辺諸国に対して築いてきた信頼」なんたらと いふフレーズである。

     先のフレーズはこのフレーズの使ひ回しに過ぎないと考へていいだらう。周辺国を国民に置き替ただけなのである。

     そして、こんな勝手なフレーズを作つて自衛隊に対して使ふ人たちは、元々は自衛隊は憲法違反だから廃止すべきだと言つて居た人たちであるに違 ひない。彼らは自衛隊を廃止できないと分かつたので、それなら出来るだけ何もしないでゐてくれと思つてゐるのである。

    そんな彼らには、命がけで国を守る自衛隊員に対する尊敬の念、いやそもそも同じ人間としての尊敬すら、欠如してゐるのだ。だからこそ、自衛隊の高官が自分 の考へを文章にして公表しただけで文民統制に反するなどと云ふ論理の飛躍が生れてくるのである。(2008年12月9日)







    先に「枕草子のこの伝言ゲームは、堺本→能因本→三巻本の順で行はれたことは明らかであらう」と書いたが、それはもちろん、この三つの写本だけを比較した 場合のことであつて、現実はもうすこし複雑である。

    実は枕草子の伝言ゲームは、一直線に行はれたのではなく、三本のルートに分かれて行はれた。つまり、清少納言は最初に三人の人に伝言を伝へて、そのそれぞ れが別々に彼女の言葉を伝へて行つたのである。その結果が、この三つの写本、堺本、能因本、三巻本に残つてゐるのである。

    もちろん、清少納言自身が書いた本は伝はつてゐない。だから、最初に清少納言が伝へた言葉は何だつたのかを、我々は推測するしかない。もちろん、それぞれ の伝言ルートの最初に近ければ近い人(=写本)ほど、元の言葉に近いものを知つてゐる可能性が高い。

    ところが、この三人とも室町時代末期かそれ以降の人でしかないので、どれもがかなりの間違ひを伝へてゐる可能性が高い。それでも何とか最初の言葉を知るに は、三人か らの情報を比べて、それぞれが持つてゐない情報を補ひ合ふしかないだらう。

    ところが、この三つの伝言ルートの途中で、自分のルートの伝言だけでなく、それを別のルートの伝言と合はせた人がゐた。それが前田本と呼ばれる本である。 この伝承者は当時の能因本の伝承に堺本の伝承を付け加へて書き残したのである。

    しかも、これが今、源氏物語の最古の写本と騒がれてゐるのと同じ鎌倉時代中期のものなのだ。そして、現代に伝はる堺本の伝承がこの前田本の伝承とほぼ一致 することが証明されてゐる。

    実は、三巻本は藤原定家らしい人が持つてゐた本、能因本は文字通り能因法師が持つてゐた本と、それぞれ由緒正しいのだが、それらの本の情報が戦国時代にま で正しく伝はつてゐる保証はどこにもない。それに対して、堺本の情報が鎌倉時代のものであることは、この前田本によつてわかつてゐるのである。

  ならば、この堺本の伝へる情報を無視してよいわけがない。それが如何に我々が慣れ親しんでゐる枕草子と異なつてゐようとである。ところが、今売られてゐる 『枕草子』はこの堺本を無視することによつて成り立つてゐるのである。

  いやそれどころか、現代の枕草子はこの四人の伝承者の情報を比較補完して総合的に扱ふことなく、ほぼ三巻本と云ふ室町末期の伝承者一人の情報だけで作り上 げられたものなのである。(2008年10月31日)







   学校で習ふ古文で一番難しいのは枕草子ではないかと思ふが、この難しさは実は古文そのものの難しさではない。枕草子は伝承が悪くて、清少納言が書いた文章 がそのまま現代まで伝はつてゐないといふ面が非常に大きく作用してゐる。

    江戸時代より前の印刷といふ物がない時代には、本は全部手で書き写して作られた。本は買ふと云ふよりは見せてもらふものであつて、それを自分のものにした ければ、書き写すしかなかつた。

    さうやつて生れる写本は当然写し間違ひが多かつた。写本の伝承とは伝言ゲームのやうなもので、次から次へと書き写されて行く間に、内容が変はつてしまふの である。その最悪の例が枕草子だと言つていい。

    枕草子は、書き間違ひ、書き落とし、一行脱落などのオンパレードなのだ。そんなものから意味を読み取らなければならないのだから、難解なのは当然である。

例へば、「こころもとなきもの(=待ち遠しいもの)」の段の最初は、

「人のもとに、とみ(=急ぎ)の物縫ひにやりて、今今と苦しう居入りて、あなたをまもら(=見守る)へたる心地。子生むべき人の、そのほど過ぐるまで、さ る気色もなき。遠き所より思ふ人の文を得て、固く封じたる続飯(そくひ=糊)など開くるほど、いと心もとなし。物見(=祭りの行列見物)に遅く出でて、事 なりにけり、白きしもと(=杖)など見付けたるに、近くやり寄するほど、わびしう、下りてもいぬ(=帰る)べき心地こそすれ。(岩波文庫=三巻本)」

「人のもとに、とみの物縫ひにやりて、待つほど。物見に急ぎ出でて、今や今やと苦しう居入りつつ、あなたをまもらへたる心地。子生むべき人の、ほど過ぐる まで、さる気色のなき。遠き所より思ふ人の文を得て、固く封じたる続飯など放ち開くる、心もとなし。物見に急ぎ出でて、事なりにけり、白きしもとなど見付 けたるに、近くやり寄するほど、わびしう、下りてもいぬべき心地こそすれ。(日本古典文学全集=能因本)」

    三巻本と能因本は写本の名前だが、この二つを比べても、三巻本では能因本にある最初の「物見」の話が抜け落ちて、「苦しう居入りつつ、あなたをまもらへ」 の対象が祭りの行列ではなく、帰つてくるはずの縫物の使ひになつてしまつてゐる。一方、三巻本で物見に遅れた話が、能因本では急いで出かけた話に変はつて しまつてゐる。

    あとは似たやうなものだが、例へば「事なりにけり(=行列が来てしまつた)」といふ終止形で終はつてゐる文章が、途中に入つてゐるのがどういふことなの か、理解しにくい。

    ところが、ここに、もう一つ別の堺本といふ写本がある。その写本では、同じ話が次のやうに伝へられてゐる。

「とみの物人のもとに縫ひにやりて、待つほどの心地。物見に急ぎ出でたるに、今や今やと久しく居入りて、そなたをまもらへたる心地。また、まだしからむと (=まだだらうと)たゆみ(=油断)て遅く出たるに、事なりにけりとて、とく(=既に)立ちにける車(=行列の牛車)どもの狭間(はざま)より赤衣着たる 者の白きしもとささげたるを見付けて、急ぎてやり寄するほど、わびしう、下りてもいぬべき心地こそす。子生むべき人の、ほど過ぐるまでさる気色のなき。遠 き所より思ふ人の文を暗きほどに持てきたる、火点(ひとも)すほど待つこそ、わりなく心もとなけれ。固く封じたる続飯など開くるも、わりなく心もとなし。 (堺本)」

    これなら古文を習つたばかりの高校生でも分かるのではないか。物見の話も、早く行き過ぎた場合と、遅れて行つた場合の二つが対照的に描かれた話であること が、ここでは判然としてゐる。「事なりにけり」も誰かが言つた言葉であることがよく分かる。

    そして、この三つの比べるなら、枕草子のこの伝言ゲームは、堺本→能因本→三巻本の順で行はれたことは明らかであらう。つまり、堺本は清少納言が書いた枕 草子に一番近いのではないかと、思はれるのだ。

  ところが、今の日本の国文学者たちの意見は、伝言ゲームはこの正反対だつたと云ふのである。そして、書き間違ひと書き落としによつて短くなつてしまつた三 巻本の、読みづらい枕草子が、清少納言の書いたものに最も近いとして、本として流通され、教科書にされて、学校で読まされてゐるのだ。

  では、この堺本の読みやすさ、言葉の多さはどうしてなのかと言へば、これは後世の人間による捏造だと言ふのである。

  こんな読みやすい堺本が拒否されてゐるその最大の理由は、江戸時代の流布本によつて日本人の間にひろまつた枕草子と、堺本の枕草子とでは、冒頭からしてま つたく違ふといふことにある。

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」(流布本=枕草子春曙抄)

「春はあけぼのの空はいたく霞みたるに、やうやう白くなりゆく山の端(は)、少しづつ明かみて、紫だちたる雲の細くたなびきたるも、いとをかし」(堺本)

  つまり、上で紹介した堺本の「こころもとなきもの」の分かり易さを受け入れるためには、その代償として、我々が慣れ親しんできた、「春はあけぼの。やうや う白くなりゆく」も捨てなければならないのである。

  この事に対する拒否反応が、堺本に対する拒否反応の根源と言つてよい。そして、それを正当化するために万巻の論文が書かれて、堺本は流通から排除されたの である。

  そして、そのおかげで古文は難しいものになつてしまつた。

  しかし、現代はもはや難しいものを尊ぶ時代ではない。我々は何も無理をして、断片集を繋ぎ合はせて作られたやうな枕草子にこだわることはないのだ。分か りやすいものがあればそれを読めばよいのである。

  また、この堺本には清少納言の書いた日記的な文章が伝へられてゐないが、それは、この伝言ゲームで堺本の次に清少納言に近いと見られる能因本で読めばよ いのだ。そして、そのあとで暇があれば、衒学と韜晦を好む学者たちの意見につきあつて、難しい断片集に取り組めばいいのである。(2008年10月29 日)







    福島の産科医に対する無罪判決は実にけしからん判決であると言はなければならない。仕事で失敗して人を死なせた人間がその責任を問はねばならないのは、バ スの運転手が事故を起して客を死なせた場合と何も変ることはないからである。

    この思ひは自分の家族を医者によつて殺された、或ひは殺されたと信じてゐる人たちにとつては共通のものである。「医者を逮捕するな」などと言へる人たち は、単に彼らが医者の被害者になつたことがないと言つてゐるにすぎないのだ。

    医者は今や国民の敵なのである。医者の団体がこの無罪判決を歓迎する声明を出したといふだけも、それは明らかである。彼らは医者の過失によつて自分の家族 を奪はれた人たちの気持を全く斟酌することのなく、自分たちの主張を公表できる単なる利益団体に過ぎない。

    地裁判決は被告の医療行為と死亡の因果関係を認めてゐる。それなのに無罪としたのは完全な矛盾だあり、医者を特別扱ひしろと言つてゐるに等しい。しかし、 そんな法律はこの国には存在しないのだ。したがつて、この判決は違法である。

    もしこのやうなインチキが罷り通るものなら、もはや遺族は司法を当てに出来なくなり、自らの手で殺された家族の復讐をしなけれがならなくなるだらう。 (2008年8月21日)







    本屋に山口仲美著『すらすら読める枕草子』といふ本が並んでゐる。本屋に行くたびに覗いてゐたが、どうやら斬新な現代語訳がついてゐるやうなので買つてし まつた。

    枕草子の現代語訳と言へば、橋本治の『桃尻語訳枕草子』が有名なので比べてみたら、こちらは意外にもがちがちの直訳で逐語訳なのだ。「すごく」を「すっご く」にするとか、文末を現代女性の言葉風にするといふ作業が施してあるので、一見読みやすさうに見える。

    しかし、その中に「指貫」とか「狩衣」とか「とのものつかさ」とか現代では無意味な一連の古語がそのまま使はれゐるので、それが分からない者には分からな い。そこで、詳しい註釈が付けられてゐるといつた有様である。

    せめて訳語を文脈から判断して選んでくれてゐたならと思ふが、さうでもなく、学者の書いた注釈書に忠実に従つてゐる。だから、本人が言ふやうに、このまま 古文の試験の答案に書いても大丈夫なものになつてゐるのだ。しかし、それでは面白くない。

    それに比べると「すらすら〜」は自分の判断で選んだ現代語に訳してある。しかも、橋本のやうに同じ言葉には同じ訳語なんていふやり方はとらずに、その場そ の場に合ふことばを縦横無尽に選んでゐるので、註釈なしでまさにすらすら読めて面白い。

    例へば「はづかしきもの」では、女に対して口のうまい男のことを清少納言は「はづかし」と評してゐるのだが、それを山口は「油断ならない」とし、だから 「男に対して臆病になる」と訳してゐる。橋本はそんな男に「落ち込む」と訳したが、今ひとつピンとこないのは、辞書などの「気後れする」の言ひ換へに すぎないからだらう。

    実は枕草子を書いたときの清少納言は既に30台の女性であつて、キャピキャピの桃尻語を使ふわけがないのだが、山口はそれも年相応の女性が使ふやうな文体 にしてある。枕草子とはこんな本だといふことを知るのに格好の本になつてゐるのではないか。(2008年8月17日)







    北京オリンピックのバドミントン準決勝では日本が韓国に惜敗したが、そのテレビ中継にゲスト出演した明石家さんまと解説で柔道家の棟田康幸(むねたやすゆ き)のやり取りが面白かつた。

    さんまが負けた日本チームを評して「国際試合に勝つには日本もこれからは韓国を見習つて、不利なときには審判にしつこくクレームをつけたり、靴ひもを直し たりして、少しはずるいこともしないといけませんね」と言つたのだ。すると棟田は即座に「いえ、日本は武士道の国ですから、いつも正々堂々と戦はなければ いけません」と言ひ返したのである。

    さんまはそれを受けて即座に「さうですね。それは申し訳ありませんでした」と謝り、さらに「ぼくは『かけ逃げの男』ですから。俺、さういふ男(をとこ)」 とギャグに持つて行つたのであつた。

    確かにオリンピックの試合を見てゐると柔道でも勝つためには何でもやる、ずるい選手が多い。それに対して、日本人選手は常に正々堂々と立ち向かひながら も、そのずるさを躱(かは)して勝利をかちとらなければならないのだ。

    今回のオリンピックでは、柔道の男子は女子とは違つて、国内の最終選考会の優勝者をそのまま出場させて失敗したが、彼らの多くが外人選手のずるさに対抗で き なかつたといふ面があるのではないか。誰もが正々堂々と戦ふ日本の大会で勝つのと、ずるさも勝負のうちである国際大会で勝つのとは違ふといふことを改めて 思ひ知ら されたオリンピックであつた。(2008年8月15日)







    医者にかかるときには、まづ自分でどこが悪いかよく調べて、どんな治療をするのがよいかを見極めてからにしないといけない。さもないと医者にあてずつぽう の診断を下されて、あてずつぽうの薬を出され、あてずつぽうの治療をされることになる。

    わが家の父親の場合がさうだつた。腰が痛いと近くのK外科に行つたら、レントゲンを取られて、薬を出されたが直らないのでまた行くと、ベッドに括り付けて 体を引つ張る牽引治療をやられて、帰りに歩けなくなつた。

    この痛みは私の薦めで明石のN病院の麻酔科で脊椎ブロック注射を受けたら効果があつたが、今度は胸がひつかかると言ひだした。それで、同じ病院の内科を受 診したら、レントゲンと心電図とエコーを取られた挙句、医者は血圧が高いからと血圧降下剤を出したのだ。

    次に腹に汗をかくと同じ医者に訴へたら、メタボリックのCT検査を受けろと言ひ出した。真夏の盛りに80を超えた年寄りに前日から絶食して検査を受けろと 云ふの だ。この医者は何を考へてゐるのかとあきれて、その内科には行かなくなつた。

    後から考へるとこれは心臓が原因で色々な症状が出てゐたのだ。心臓が弱ると一歩を歩くのにも大変な労力が要るやうになる。神鋼病院(今の加古川東市民病院)に入院する前日などは階 段の上り下りだけでハーハー言つて大汗をかいてゐたことを、今更ながら思ひ出す。

    最後はそれが喀血まで行くことを、私は医学書を読んで知つてゐたのだが、それを思ひ出したのは入院させた後であつた。先に思ひ出して居れば、医学書にある 通りの治療法を医者に指示して命を救ふことが出来たのだが、弱つた心臓に追ひ討ちをかける麻酔をかけられては万事休すであつた。(2008年8月10日)







    甲子園に近くの加古川の高校が出るといふのでテレビをつけて試合を見たが、なぜか投手の投げ方が違ふ。兵庫県の大会の決勝で見たのは上手投げなのに横手で 投げてゐるのだ。

    そのうち初回に3点も取られてしまつた。そんなはずはないが、さすがに甲子園は違ふのかと思ひチャンネルを変へて、しばらくしてまた見てみると6点も取ら れてゐる。

    しかも、ピッチャーが交代してゐる。ちよつと林家木久蔵に似たその顔を見て思ひ出した。そして背番号18。この子だよ。兵庫県の決勝で見たのは。この子が 準々決勝から西兵庫の強豪校を次々とねじ伏せて、加古川北を甲子園に連れてきたのだ。

    といふことは、加古川北の監督さん、初の甲子園で上がつてしまつたのか、予選でほとんど出てゐない名ばかりのエースを先発させたのだ。それなら6点取られ ても当り前。何せ相手は甲子園の常連校の聖光学院だ。

    初出場校の一回戦負けはよくある。しかし、他所の県の高校ならその原因は分かりにくいところだが、地元ならこんなにはつきりしてゐる。予選の立役者抜きで は初めから試合にならないのは当然なのである。(2008年8月8日)







    山本七平の『日本人とは何か』と『日本的革命の哲学』には鎌倉時代に北条氏が作つた御成敗式目のことが紹介されてゐる。

    これを読むと日本の民主主義は何も戦後にアメリカがもたらしたものではなく、鎌倉時代に既にその伝統があつたことがわかる。

    まづもつて相続が長男の単独相続ではなく、兄弟間の分割相続であり、娘や妻にも相続権があつた。しかも、一族を束ねる惣領は能力本位で選ばれたのだ。

    武士の社会は徹底した能力社会だつたのである。だから、百姓の子が太閤にまで上り詰めることが可能だつた。しかし、その社会は猛烈な競争社会で、誰もがあ らゆる策略を使つて同僚よりも上へ行かうとした。

    この競争をやめさせて社会を安定させたのが徳川時代だつたのである。それでも新井白石のやうに能力だけで実質的に幕府を一人で切り回すまで出世することが できたのは、日本が基本的に能力重視の社会だからである。。

    したがつて、例へば会社に能力重視の職制や給与体系を持ち込む必要はないのである。日本人は何もしないでも能力主義なのであるから、会社は社員全員が仲良 くやつて行けることの方に気を使つて居ればよいのである。(2008年8月7日)







  山本七平の『日本人とは何か』は日本の仮名文字の誕生から書き起こして、如何に日本人が独創的な民族であるかを明らかにしてゐるが、その過程でなされる韓 国人との比較が面白い。

    韓国人には15世紀にハングルが出来るまで自分たちの言葉を書き表す文字がなかつた。ではどうやつて文章を書いてゐたのかといふと、全部中国語で書いてゐ たといふのだ。だから、韓国には自前の古典文学がない。

    また、韓国人は中国語を自分たちのものにしただけでなく、自分たちの名前も中国式にしてしまつた。つまり、金とか朴とかいふ名前も、韓国人の元々の名前で はないといふのだ。

    韓国人は言葉だけではなく中国の政治制度も几帳面に受け入れて、そのまま実行に移したらしい。だから、日本では実施されなかつた科挙や宦官も韓国では行は れたといふのだ。

    それに対して、日本人は中国語の漢字を輸入しても、そのまま使ふのではなく、自前の文字である仮名文字を生み出したし、政治制度も自分たちに都合のいい所 だけを受け入れて、独自の制度を作つた。

    日本人は自分たちを物真似が得意な民族だと思つてゐるが、それは間違ひなのである。むしろ韓国人よりずつと物真似が下手で、そのお陰で日本人の独自性と独 創性が育くまれてきたのである。(2008年8月5日)







 患者の人工呼吸器を外して安楽死させたとして富山の医師が送検されたさうだが、私の父の場合のやうに、延命治療はしないでくれ と言つてゐたのに、無理やり人工呼吸器を装着され、その挙句に病状を悪化させてしまつた場合はどうなるのだらう。

 さらに、今度は逆にこの状態ではもうこれ以上延命措置をしても無駄だからと、心臓マッサージを拒否されたのだが、これはどうなるのだらう。

 さらに、もう望みが無いと言つてゐたのに、患者の血圧が復活して、肺の状態も自力呼吸が可能になつてきたからと、今度はまた人工呼吸k器を外すためと称 して治療方針を転換して、その挙句に死んでしまつたのはどうなるのだらう。

 しかも、回復基調の治療をしておきながら、また容態が悪化したら、最初に決めた方針だからと心臓マッサージをしなかつたのは、どうなるのだらう。

 私の父親は、救急車で神鋼病院(今の加古川東市民病院)に運び込まれる前日まで、手押し車を押しながらも自分で歩けたのである。家の階段を一人で上り下りできたのである。食事も 家族と一緒に食卓で自分で食べてゐたのだ。

 それが入院して人工呼吸器を着けられてから、わづか10日で死んでしまつたのだから、これはおかしい。とても納得が行くわけがないのである。(2008 年7月31日)







    私の父親の死に関して一番不可解なのは、肺炎が改善してきたのでこれから人工呼吸をやめる方向で治療して行くと言はれたあとの、その回復過程で急に死亡し てしまつたことである。

    直りかけてゐたのが急に死んでしまつたのだから、家族のショックは大きいし、これは不審死ではないかと疑はざるを得ないのだ。

    肺のレントゲン写真を3枚見せながら、これだけ白い部分が減つてきてゐるので、もう自力呼吸に戻すことを考へてももいいと言つて、その後、使用薬を変へた り、強心剤の量を減らしたりして行つたのである。

  ところが、それが失敗だつた。強心剤を外して行つたら死んでしまつたのである。 人工呼吸にするために全身麻酔をしたら血圧が下がつてしまつたので、強心剤を大量に点滴してやつと心臓を動かしてゐたのだ。

  そんな状況で強心剤は減らせば心臓が止まつてしまふことくらゐ分かりさうなものだ。そもそも全身麻酔から回復させるなどといふ冒険をしてゐなければ、もつ と生きてゐた可能性は大きいと言はねばならない。

  しかし、神鋼病院(今の加古川東市民病院)はこの件で何の説明もなく、死亡した原因を全部死人のせいにして処理したのである。一体、こんな病院が許せるだらうか。(2008年7月 17日)







  NHKはなぜか大島康徳を野球解説者として多用してゐる。アメリカの大リーグ中継だけでなく、日本のプロ野球中継にも使はれてゐて、ひつぱりだこである。

  しかし、彼の解説はほとんど中身がない。アナウンサーが何か言ふと「ええさうなんですよ」とか「ええ実はね」とか物知り顔で話し出すのだが、そこにはアナ ウンサーが既に言つたこと以上の新しい情報は何もないのだ。

  起こつた場面ごとの説明もするが、よく外れる。当てずつぽうで言つてゐることは明らかある。しかも、外れたことを正直に認めず、選手がインタビューで自分 の予想と反対のことを言ふと、あれは嘘を言つてゐると言ふ始末である。

  このやうに話に中身はない、性格は悪いでは、見せられる視聴者にとつて不快でしかない。

  恐らく彼は現役からも現場からもあまりにも遠ざかり過ぎてゐるのだ。だから、何を言つても実感がともなはないし、自分自身よく分からなくなつてゐるのだら う。だから、アナウンサーの話しかけてくる言葉を頼りにして物を言ふしかなくなつてゐるのである。

  NHKのスタッフもそんなことは分りさうなものだ。それなのにNHKが大島を多用するのは巷間言はれるやうに、星野仙一の推薦のお陰としか考へられないの である。(2008年7月7日)






    兵庫県の明石市で高いところと云へば天文科学館の時計台だが、その次に高いのは県立図書館ではないか。明石城の中にある図書館はまさに城の本丸と思へるほ どに中々たどり着けないのだ。

    お城の表門から入つて広い公園の中を右へ左へと進んで西の方へ廻ると、そこには急勾配の長い長い坂が待つてゐる。まづはこの坂をふうふう言ひながら登つて 行かねばならない。

    さうしてやつとこさレンガ色の天守閣の下に到着すると、目の前にはさらに急勾配の階段がそそり立つてゐる。その階段を登り切るとすぐ左手にさらに高大な階 段がそびえ立つてゐるのだ。この二つの階段を登るのは、長い坂道のあとだけにまさに難行苦行である。

    ここに来る度に、誰がこんな高い所にこんな階段だらけの建物を設計したのだ、また安藤忠雄か、と思ふがさうではないらしい。

    そして汗だらけになりながら階段を登り切つて図書館の閲覧室にたどり着くと、そこで待つてゐるのはクーラーの設定温度28度の生暖かい空間である。汗が引 くどころか、ここからさつさと立ち去ることしか思ひつかない。

    もちろんこの難攻不落の天守閣にも弱点があつて搦め手から責められると弱い。裏から車で来れば楽ちんなのだ。最近1時間無料になつた広大な駐車場もある。 それでもエコロジーを大切にする私は車を使はず、堂々と正面から責め続けるのである。(2008年7月5日)







    最近を貞永式目の古文書を読んでゐると漢字ばかりのはずの文章の中にひらがなが混じつてゐるのを発見した。

    そのひらがなと云ふのは「お、ふ、や、ゆ」等である。もちろんこれらは漢字として書かれてゐる。つまり「於、不、也、由」等である。しかし、一見してひら がなに読める。

    この古文書はくずし字で書かれたもので、「於、不、也、由」のくずし字が「お、ふ、や、ゆ」に見えるのだ。では、くずし字とは何かと云ふと、それは書き手 が好き勝手に横着をして書き崩したものではなく、立派な一つの書体である。

    それは草書体と云つて、現代よく見られる几帳面な楷書体や少し崩した行書体よりも歴史が古く、西暦300年ごろに中国で隷書体から作られたものだといふ。

    そして、その中に既に「ふ」も「や」も含まれてゐたのである。4世紀の中国の書家である王羲之も「ふ」「や」と書いてゐたのだ。

    実は、他のひらがなも全て漢字の草書体とほとんど同じ形である。といふことは、ひらがなの原型はすでに中国の漢字の一部として古くから存在してゐたのであ り、ひらがなは日本人が漢字から独自に作り出したものではないことになる。(2008年7月3日)







    文字を持たない日本人は日本語の音を中国の文字である漢字の音を使つて書き表すことから始めた。といふことは、古代の日本人は今の若者たちが「夜露死苦」 と書くやうに書くことから始めたのである。

    「夜露死苦」と書く若者は正しく「宜しく」と書くことを知らないかもしれないが、自分たちの言葉を漢字で書いてゐることに違いはない。それと同じことが古 代の日本人に当てはまるのではないか。つまり、文盲であるはずの古代日本人も相当早くから自分たちの言葉を当てずつぽうの漢字で書いてゐた可能性が考へら れるのだ。

    教養は上から下へと流れるとばかり考へる必要はない。文字の文化は日本では一般民衆の間から広まつて行つたことも大いに考へられる。例へば日本人の独創と 言はれるひらがな・カタカナにしても、それを作つたのは誰か分からない。

    例へば上から下へ広まつたハングル文字は誰が作つたか分かつてゐる。ひらがな・カタカナも上から下へ広まつたものなら誰が作つたかぐらゐ分かりさうなもの だ。ところが、それが分からないのだから、上流階級で作られたものではないと考へてもよいのではないか。(2008年7月1日)







 私の父親が肺炎でなかつたのは、血圧低下になつてから肺炎だとして見せられたレントゲン写真が真つ白だつたのが、人工呼吸のために全身麻酔をした後に起 つた肺水腫の悪化の結果を撮影したものでしかなかつたことから明らかである。
 
 心臓の機能低下で肺に逆流した血液が肺の中に滲み出るのが、心不全の肺水腫である。もしその状態で全身麻酔をかければ、それまで口から排出されてゐた血 液は肺の中に溜まる一方になつてしまふ。その時点でレントゲンを撮れば真つ白になるのは当たり前なのだ。

 実は、最初に風間慎吾似の当直医が取つたレントゲンは真つ白ではなかつた。また、その直後に撮つたCTスキャンの画像でも肺浸潤は僅かでしかなつたの だ。だからこそ彼は肺疾患と診断できず、肝臓肥大を見て肝臓の末期ガンだと思ふと言つたのである。

 その後ICUで半時間ほどしてから、この医師はCTスキャン画像の肺の部分に僅かに点在する濃い色彩の部分を私に見せて、肺炎かも知れないと言つたので ある。

 今私にとつて不思議でならないのは、その時彼はこれまでこの患者はどんな治療を受けてきたのか私に一切質問しなかつたことである。人間は急に肺から血を 吐くやうになりはしない。これまで色んなことがあつて今現在の重い症状に至つてゐるのだ。

 だから、もし医者に治さうといふ気持があるなら、これまでの経過を根ほり葉ほり聞くはずなのである。ところが、その後に来た揉み上げの長いベテラン医も 何も聞かず、研修医も同じだつた。といふことは、これが神鋼病院(今の加古川東市民病院)のやり方なのだらうと思ふしかない。桑原桑原である。(2008年6月29日)







  東芝が新しいDVDレコーダを出して、テレビCMで「フルハイビジョン6倍録画」と言つてゐるが、このうたひ文句はあまり真に受けてはいけないやうであ る。

  CMに興味を持つて電気屋でカタログをもらつて来たが、「フルハイビジョン6倍録画」の説明があるページの下に、低い画質レートでTSE録画を行ふとノイ ズが目立つたり映像が乱れたりするから、高い画質レートに設定して録画した方がいいと赤字で書いてあるのだ。

  つまり、6倍録画したらまともに見られるものは録画できないかも知れないと言つてゐるのである。

  このレコーダはフルハイビジョン録画(TSEモード録画)の品質を自由に設定できる。その内で最も低い3.6なら266時間録画できるといふのである。し かし、最もきれいに見れる17 でなら62時間しか録画できない。この値を映像の密度のやうなものだと考へると、それに録画時間を掛けたものが録画の総データ量といふことになり、実際両 者は3.6×266=957.6、17×62=1054で、ほぼ1000になる。

  一方、電気屋でもらつて来たパナソニックのDVDレコーダでは、同じ500ギガの機種のフルハイビジョン録画のHEモード(TSEモードで最低の品質に設 定した場合に相当する)では、189時間録画できると書いてある。この数字を東芝のレコーダの値に換算すると1000÷189=5.2で録画したのと同じ だと考へることができる。

  しかるに、この東芝のレコーダで値を5.2にしてTSE録画した映像は殆ど見るに耐へず、9.2でやつと見る耐へるといふ情報がネットにはある。しかも、 この9.2といふ品質で逆計算したら録画時間は約109時間しかないと推定できるのだ。これでは、パナソニックのHEモード189時間に大幅に負けてゐる ではないか。

  となると、この「6倍録画」につられて東芝のDVDレコーダを買つてはいけないといふことになる。

  そもそも、フルハイビジョン録画といつても、放送局から送られてきた映像をそのまま録画するのではなく、圧縮して録画するのもフルハイビジョン録画だから 話がややこしい。圧縮すればそれだけ画質が悪くなるはずだし、圧縮せずに録画するために開発されたのがブルーレイだからである。

  ところが、周知のごとく東芝のレコーダにはブルーレイがない。そこで、何と東芝はこの新しいDVDレコーダでは、ブルーレイディスクではなくDVDディス クに圧縮しないままの映像を録画できるやうにしてしまつたのである。それは高価なブルーレイの役割となつてゐるパナソニックの機械ではできない相談なの だ。東芝の新しいDVDレコーダは、この画期的な機能に限つて購入を考へるべきではないかと思ふ。(2008年6月27日)






    万葉集の歌を書いた木簡が発見されたといふ。それは万葉集が編纂された時代よりも前のもので、万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)・・・流夜真(るやま)」 と読み取れるといふのだ。

    この歌は万葉集16巻に収録された3807番の歌であることは確実らしい。ところが、現代に伝はる万葉集ではこの歌は「安積香山(あさかやま)影副所見 (かげさへみゆる)山(やま)」となつてゐる。

    すると、ここから一つのことが推測できる。それは、元々は「阿佐可夜・・」と書かれていたものが万葉集を編纂する過程で「安積香山・・」と変更されたとい ふことである。

    万葉集の歌はすべて漢字で書かれてはゐるが、漢字の訓読みを利用して表はされたものと、漢字の音読みを利用して日本語一音に漢字一字を充てて書き表はされ たものの二種類に大まかに分類される。

    この後者がのちの平仮名に発展したものであり、しかも万葉集の後ろの方の比較的時代の新しい巻(第5、14、15、17、18、20巻)に多く見られるこ とから、訓読み表記よりも後から発達したも のであると、単純には思はれるが、実際には逆だつたといふことが今回の発見から明らかになつたのである。

    すなはち、万葉集の歌は初めは全部漢字の音読みを使つた歌として収集されたものであつたが、時代が下るにつれて、より意味がとりやすい漢字の訓読みを利用 したもの(=漢文の構文も利用しているからより高級な書き方)に書き改められて行つたのであり、後ろの方の巻はその作業が手付かずに残されたのだと。

    さらに、ここから、日本語の表記はまづ一字一音の万葉仮名ばかりで書く方法が発達し、それが普及して一般民衆さへもが歌を書き残すやうになつたが、その後 漢字の訓読みが発展して、それが上流階級の間に普及して行つたといふ推測も成り立つ。したがつて、この木簡の発見は日本語の発展の歴史を知る上で大発見だ と言へるのである。(2008年6月3日)








    山本周五郎の『樅ノ木は残った』は伊達騒動の悪人原田甲斐を善人として描いたものであることは知つてゐた。一方で、原田甲斐は伊達安芸を大老酒井忠清邸で 斬殺し、自分も切り殺されたことも知つてゐた。

    そこで、原田が安芸を善意を持つてどういふ経緯で斬殺するのか、と思つてこの小説を読んでいると、何と原田と安芸を殺したのは酒井忠清になつてしまつてゐ るのだ。そして、原田が殺したことにされたが故に伊達六十万石は守られたといふのだ。

    しかし、大老が伊達の重臣たちを殺したなどといふ史実はどこにもない。そこで、作者は最後の章で僧侶のせりふを借りて言ひ訳をしてゐる。史実として伝はつ てゐ ることには、評定の場が急に酒井邸に変更されたことなど、おかしな事が沢山あるといふのだ。

 しかし、そんなことを言ふなら、酒井邸にスパイとして何年も住み込んでゐた原田の家来が屋敷の間取りも知らずに主人に危急を伝へられなかつたのはもつと おかしいと言へるはずで、事実を変へてしまふのは歴史小説としてどうだらうか。また、登場人物の名前が覚えにくく、人の名前が出てくるたびに前のページを 繰りなほす必要があるのも、長編小説としてはいただけない。

 この小説が作り出した、戦かはず抵抗もせず甘んじて悪役になり、自分が殺されることによつて伊達騒動を収拾した原田甲斐像は、恐らくこれが書かれた第二 次大戦直後の 平和思想 を反映し たものであり、性的な描写もふんだんにあつて、むしろ一種の人間賛歌と見る方がよいのかもしれない。(2008年4月4日)







 週刊朝日の今週号に「戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』は改竄されていた」といふ有田芳生氏の記事が出てゐるらしい。

 第二次大戦に学徒出陣して戦死した兵隊の遺稿を集めたものだが、これを編集した「日本戦没学生記念会」(わだつみ会)が、自分たちの主張する反戦平和運 動に都合がいいように、勝手にどんどん書き換へて本にしてゐたといふのだ。

 全くさもありなんである。私はあんなものはどうせインチキだらうと思つて、本屋で見ても一行も読まなかつたものだが、それで正しかつたのである。

  共産主義者をはじめとする左翼の連中は、公正さといふものには無頓着で、目的のためには手段を選ばないから、他人のルール違反には厳しくても自分たちの ルール違反には寛容なものだ。

 最近では民主党の執行部も左翼の連中に引つ張られて、何でもありになつてきてゐる。テロ防止にも協力しないし、日銀総裁も空席でいいし、ガソリン税に関 する議長斡旋もいちゃんもんをつけて反故にする積りらしい。

 かうなれば良識をもつて真面目に約束を守らうとする人間が馬鹿に見えてくるが、それでも福田首相は前任者と違つて「山よりでつかい獅子は出ん」と思つて ゐるのか、何があつても平気らしい。(2008年3月21日)







    現在国会では参議院で野党が審議拒否をしてゐるが、それは何日まで許されるか決めておく方がよい。なぜなら、何時までも審議拒否してよいとなると、野党が 過半数を占める状態では、これを政変の手段に出来るからである。

    今は衆議院の三分の二を与党が占めてゐるから予算以外の法律も再議決で成立させることが出来るが、さうでなくなれば与党は予算以外には何一つ法律を成立さ せることが出来なくなる。

    さうなれば政府は衆議院を解散するしかないが、それでも三分の二の議席をとることが出来なければ、同じ状態が続くことになつてしまふ。そこでまた野党は審 議拒否をして政府を解散に追い込むのだ。さうやつて野党は衆議院選挙で勝つまで審議拒否をすればよいのである。

    ただし、民主党が仮にこの方法で政府を解散に追い込んで政権を取つても、参院選挙で負けた瞬間から自分たちが同じ立場に置かれることになる。それでは日本 の政治は安定しない。やはり参議院での審議拒否を使つた倒閣運動を禁止する何らかの仕組みが必要ではないか。(2008年3月6日)







 New Lavie L のテレビコマーシャルが始まつた。NECのノートパソコンだ。男前二人が出てきて「このフォルムとグラデーションが美しい」と宣(のたま)ふ。わたしも最 近ノートパソコンを新調したが、まさにこの美しいフォルムのNECだ。

 しかし、前面スロットもなければ、お財布携帯対応でもない。「メモリー2ギガでウインドーズヴィスタも快適」でもない。メモリはたつた512メガだが、 ウインドーズXPがとても快適である。

 我が家の先代のノートパソコンは液晶が暗くハードディスクも不安定になつてきたので買ひ換へたのだ。パソコンの寿命は液晶とハードディスクの寿命なので ある。

 その先代がメモリ256メガだつたが、今度はその倍の512メガ、さらにCPU(中央演算装置)の速度は二倍になつてゐる。しかも値段は半額近いのだか ら、まさに万々歳。これで満足しないはずがない。

 しかし、それもこれも先代と同じウインドーズXPを選択したからに他ならない。

 これが新製品のヴィスタなら、快適に使ふためにはテレビCM通りにメモリが2メガ必要になる。しかし、なぜに慣れ親しんだXPを捨てる必要があるだら う。ヴィスタに変へて何をしろと言ふのか。インターネットと文書作成が主なユーザーにとつてXPは既に完成型なのだ。

 メモリ512メガ、ハードディスク80ギガ、CPUのスピード1.73ギガヘルツ、CDは書き込めるがDVDは読み取りだけ、そしてウインドーズXP。 それ以上に何が必要なのか。Lavie L ではなく Lavie G。この金色の美しさよ。この色が L にも存在するのかどうかは知らない。(2008年3月3日)







    ロックの『市民政府論』(岩波文庫)には既に中央公論社の「世界の名著32」に『統治論』と題した遥かに読みやすい翻訳がある。岩波文庫版にはない訳注も ついてゐてこちらの方が親切でもある。しかし、英文を読んでゐて躓きさうな箇所を覗いてみたが、うまく乗り越えていないところもあるやうだ。

    例えば第21節の最後、「だからその疑問は、他人が私と戦争の状態に立ちいたったかどうか、またその場合に、私がエフタのように天に訴えてよいかどうか、 果たしてだれが裁くのか、ということを意味するものではない」と「〜かどうか」「〜かどうか」「誰が裁くのか」の三つの疑問文をそれぞれ「意味する」の目 的節として訳してゐる。

    しかし、岩波文庫では「この問はそれで、いったい相手が私に対して戦争状態に身をおいたかどうか、そしてその場合私はヱフタがしたように天に訴えていいの かどうか、を誰が審(さば)くかという意味ではあり得ない」と二つの「〜かどうか」文を「審く」の目的節とし、「意味する」の目的節は「誰が審くか」以下 の全体としてゐる。

    この場合どちらが正しいかは文脈によるが、答はこの本の241節にある。 「しかしこの問題、すなわち、果たして他人が彼との戦争状態に入ったかどうか、また果たして彼が、ヱフタがしたように、最高の審判に訴えるべきかどうかに ついては、他のすべての場合と同じように、各人が自らの審判者なのである」(岩波文庫)。ここでは二つの「〜かどうか」節が「審くこと」の対象になつてゐ る。ならば、21節も同じやうに読み取るべきで、岩波文庫が正しいことになる。

     その他には、230節の Who can help it を「誰がそれに救いの手を差し伸べられようか」(p.337上)と、岩波文庫と同じく help を「助ける」で訳してゐるが、このhelpは「避ける」で「支配者の悪意が明らかになれば、国民も立ち上がらざるを得ない(The people cannot help it)」といふ意味にとるべきだらう。 また、239節のcunninger workmenを「狡猾な職人たち」(p.344下、岩波文庫ではp.240「ずるい職人たち」)としてゐるが、形容詞が比較級であることを無視してゐる のもおかしい。(2008年2月28日)







    漁場にたむろする漁船の群れの方へ一艘(さう)の軍艦が近づいてきた時、ふつう何が起こるか。おそらく漁船たちがクモの子を散らすやうにして軍艦に道をあ けるのだらう。軍艦は漁船がゐることは知つているが別段何もせずに只まつすぐにスーと入つてくるだけである。

    軍艦は右へ左へと進路を変へながら漁船たちの間を縫ふやうにして進むことなどはしない。なぜならそんなことは出来ないからである。では、漁船がもし逃げそ こなつたらどうなるか。おそらく衝突してしまふだらう。

    しかし、一旦衝突事故が起つて犠牲者が出てしまへば、漁船は被害者である。被害者になればもう過失は問はれない。漁船対軍艦の戦は普段は軍艦の圧倒的勝利 だが、漁船が被害者になつた瞬間に漁船の勝ちなのである。

    そして、加害者になつたのが政府の組織である防衛省となれば、あとはマスコミによるヒステリックなバッシング報道が始まると云ふ段取りでことが進むだけで ある。

    しかし、それにしても情けないのは野党の民主党がこの事故を利用して政局を混乱させようとしゐることだ。人の命をもてあそぶとはまさにこのことを言ふので はないか。(2008年2月21日)







 例へば、岩波文庫の『市民政府論』の39節はわけの分からない文になつてゐるが、同じ本の翻訳である『統治二論』(岩波書店) では意味の通る文になつてゐる。

    さてアダムが、他のすべての者を排除し、ただ一人で、全世界に対し私的支配権所有権を有するという前提があるが、これは決して証明はできないし、また何人 の所有権もそこからは説明されない。そういう前提は立てないでも、ただ世界はまさに人の子たちに共有として与えられたのである、という前提を立てればよ い。そうすれば、土地のそれぞれの部分について、それを個人的に使用する明瞭な権原を人々が労働によって得ることができたことを知るのである。そこでは権 利についての疑いはないし、また争いの余地もあり得なかったのである(『市民政府論』45頁)。

  こうして、アダムが、他のすべての人間を排除して世界全体に対する私的な統治権と所有権とをもっていたといういかなる意味でも証明不可能で、他の人間の所 有権をもそこからは論証することのできない想定に立つのではなく、世界は人の子に共有物として与えられたという想定に立つことによって、われわれは、労働 がどのようにして世界のそれぞれの部分を私的な使用に供する人間の権原を作り出すことができ、そこでは、いかに権利をめぐる疑問や争いの余地がありえな かったかを理解することができるであろう(『統治二論』221頁)。

 『市民政府論』の文章は、前後の脈絡を見失つて方向性のない文章になつてゐることが、『統治二論』と比べるとよくわかるはずだ。『市民政府論』は買つて も読めない詐欺のやうな本だつたのである。岩波書店は出来るだけ早く『市民政府論』を絶版にして『統治二論』と入れ替へることで、
これまでの罪滅ぼしをすべきだらう。(2008年2月16日)







    市川崑が亡くなつたといふことで新聞の一面は各紙追悼コラムの競演となつたが、今回は読売新聞が一番の出来ではないかと思ふ。何より「クレーンにつり下げ られた鉄球が古い建物を打ち砕く」といふ書き出しで勝負あつたの感がある。

    読売の編集手帳はいつも古い本からの引用文で始まることが多く、今回は映画監督と云ふことで映画の1シーンの引用から始めただけなのだらうが、市川崑の 『東京オリンピック』を観た人間の脳裏にはあの情景がまざまざと浮かび上がつたに違ひない。

    そして、この映画に関するエピソードを紹介しながら綿々と賛辞を連ね、途中でほかの映画のことも少し紹介しながら、最後はまた「鉄球」で締めくくつた。こ の秀逸さは他紙のコラムと比べるとよくわかる。

    市川崑が死んだので何か書けと言はれたか、彼の映画を見直した楽屋話から始めるものあり、市川崑より谷川俊太郎の方が好きなのかと思はせるものあり、訃報 を聞いて慌てて調べたことを全部並べたのものあり、Wikipediaのパクリかと思へる一文を書いたものあり。

    また市川崑と云へばあの銜(くは)へタバコだが、新聞がタバコのことを書くとどうしても批判に聞こえてしまふ。読売のコラムが「紫煙に煙る」とそれに軽く 触れたのもうまかつた。(2008年2月15日)







 藤原正彦著『国家の品格』のなかではジョン・ロックをくそみそにけなした第三章が特におもしろい。

 そこで、この批判の由来を知るために岩波文庫のロック著『市民政府論』を読み直さうとしたが、わけがわからない。そこで加藤節による新訳を借りてきた ら、『統治二論』と題名からして違ふ。

 「市民政府」はcivil govermentの訳だ。しかし、考へてみればロックの生きた17世紀に、今のやうな市民や政府などがあるはずもない。当時のcivilは宗教に対立す る意味での「世俗」のことであり、 goverment は「支配」といふ程度の意味だつたはずなのだ。

 それを『市民政府論』としたのは、ロックの時代背景より、戦後日本の進歩主義に影響されてのことだらうか。しかし、この本はむしろ神と人間との関係を新 たに規定し直しさうとする神学書の色合ひが濃い。

 つまりこの本は、本来王のものではなく神のものである人間は、神の意志を人間の意志として如何に生存を維持していくべきかといふ問題を論じた書なのだ。 人間は王の所有物ではないと云ふ意味では民主主義の書ではあるが、その中心にあるのは神の所有物としての人間の姿なのである。

 それを知つてゐるからこそ、藤原はあの章で「ロックの言う自由や平等は、王権神授説を否定するピューリタンの考えに過ぎず、・・神がかりのフィクション としか私には思えません」と書けたのだらう。(2008年2月12日)








    病気腎移植で有名な愛媛の万波医師の書いた論文がアメリカの移植学会で高い評価を受けて表彰されたといふニュースが多くのテレビ局で流された。ここで注目 すべきは、このニュースをどこの新聞社も一切報道しなかつたことである。

    なぜなら、どこの新聞社も日本の学会が病気腎移植を否定したのに同調して、社説で病気腎移植を徹底的に批判してしまつたからである。自分たちの判断の間違 ひを証明するやうなこんなニュースを記事にしては新聞の沽券に関はるといふわけで、全紙が知らんぷりを決め込んでしまつた。

    最近の毒ギョーザ事件でも、新聞はJTや保健所の初期対応のずさんさを批判してゐるが、ギョウザで体をこわした人が出たことは新聞記者の耳にも入つて来て ゐたはずだ。ところが、一カ月の間どの新聞も記事にしなかつたのである。だから、保健所も新聞も五十歩百歩のはずなのだ。

    ところが、新聞は自分たちの失敗にはほおかぶりをしてJTや保健所のことをしきりに書き立てるのである。およそ新聞とはこんなものであり、事実を知りたけ れば新聞を読んではいけないのである。(2008年2月11日)








    昔はクズ屋といふものがあつて立派にリサイクルの仕事をしてゐたのに、この仕事に市町村や国が関与するやうになつてからおかしな事になつてゐる。昔のクズ 屋は不要品と交換にお金を暮れたのに、今では不要品を引き取つてもらふのに金を払はねばならないのだ。

    リサイクルにはお金がかかるといふのがその理由らしいが、実はそんなことはない。その証拠に、大手の電器販売業者が有料で回収してきた電器製品を、さらに リサイクル業者に売り払つてゐることが明かになつてゐるのだ。

    つまり、廃家電を金を出して買つてくれる業者が今でもあるのだ。それなのに、金を払つて引き取つてもらつた人は、引き取り相手を間違つたと云ふことにな る。やはり、クズ屋は昔と同じく不要品をお金と交換で引き取つてくれるのである。

    そして、それがクズ屋の本来の姿である。不要品を金をとつて引き取るなど、クズ屋の常識に外れてゐるし、リサイクル精神にも反してゐる。家庭で不要になつ た物を引き取つて利益を出すからクズ屋なのであり、それがリサイクルなのだ。

    民間がやつてゐることに役人が口出しするとろくな事はないが、これもその一つである。(2008年2月5日)








    『国家の品格』が古本屋で100円になつたので買つてきて読んでみた。この本は一般人への講演を元にしたものなので、非常に分かりやすい反面、論理の運び が雑で、おまけに上から口調なので、反発を感じる人も多いに違ひない。

    しかし、この本には全編に渡つて日本人としての自尊心をくすぐる内容が満載なので、その面で充分楽しめる内容になつてゐる。

 例へば、第二次大戦が「民主主義対ファシズムの戦」だつたと云ふのは嘘で、戦前から英米日独はどこも民主国家だつたが、ルーズベルトやチャーチルも戦争 中は東條に劣らぬ独裁者になつたと言はれてみると、日本だけが軍国主義ではなかつたのだと安心することができる。

    また、日本人の感受性の豊かさは世界に類のないもので、そこから生まれた日本文学は世界に冠たるものだとか、この情緒性から関孝和や岡潔など一流の数学者 が生まれたといふ話も快い。

  実は私がこの本を「面白いかも」と思ひ始めたのは第三章からで、西欧では禁欲的なカルヴァン主義が盛んな国ほど資本主義が発展してゐるといふ話のお 蔭で、ジョン・ロックとマックス・ウェーバーをまた読み直してみる気になつた。

    その他に、筆者が語学マニアで英独仏露西葡にまで手を出したために読んでゐない名著が沢山あるといふ話では、似た人がゐるものだと親近感を持つことが出来 た。これも一つの収穫だらう。(2008年2月2日)







    日本では死刑になつても中々本当に死刑になることはない。死刑の判決が出てから何年も、いや十何年もしてから刑が執行される。イラクのフセイン元大統領の やうに翌日執行ではないのだ。

    しかし、死刑が確定してから何年も生きられるのでは、これはひよつとしたら普通の人間と同じではないかと思へてくる。人間は誰もがいつかは死ぬからであ る。

    我々はいつか死ぬんだと思つてはゐるが、日々の暮らしの中で余程のことがない限り死ぬことを忘れてゐる。死刑囚も死刑になるまでに長い年月の暮らしがある から、その間にやはり死ぬことを忘れてゐるに違ひない。なにせ何時のことか分からないといふ意味では、普通の人と同じだからである。

    いやむしろ死刑囚は死ぬまでの生活が保障されてゐて、一般人のやうに日々の生計に苦労する必要がないと云ふ点では楽ではないかとさへ思へる。

    とすると、日本の死刑にはどれほどの意味があるのか、こんな死刑なら無くてもいいのではないかと思へてくる。わざわざ国が手を汚さなくも、終身刑にしてお けば、そのうち必ず死ぬからである。(2008年2月1日)







    確定申告の季節といふことでネットで調べたら、去年死んだ人間の確定申告は遺族がするのださうだ。これを準確定申告といつて、死んでから4か月以内にしな いといけない。しかし、死んだ人間の源泉徴収票は請求しないと送つて来ないし、請求しても東京の社会保険業務センターから送るので約一か月かかるといふ。

    ここまで調べて、準確定申告用源泉徴収票の請求はがきを貰ひに近所の社会保険事務所に行くと、ここから発送すると言ふのだ。やり方が変つたのかと思つて、 はがきではなく請求用紙をもらつて帰り、必要事項を書いて翌日また事務所に行つたら、ここからではなく東京から送る、それも一か月後にと言ふのである。

    私の場合、住所が変つたので同時に届けを出したいと言ふと、「国民年金被保険者住所変更届」といふ紙をくれた。しかし、よく調べたら、まだ年金受給者でな い人の住所変更は住居地の市役所でするのだ。しかも、この用紙は配偶者用ではないか。

    地方の社会保険事務所なんてこんなものである。医学の知識と同様、何事もネットで自分で調べた方が、地方の末端の人間に聞くよりも正しい情報が得られるの である。(2008年1月24日)







    最近の医療崩壊の原因の一つに新臨床研修制度といふのがある。従来の制度では新米の医師は大学を卒業してもその大学に残つて研修を受けてゐたのが、新しい 制度では自分の好きな病院で研修を受けられるやうなになつたのである。

    この結果、都市部の民間病院に若い医師が集中してしまつて大学病院が人手不足に陥つたと言はれてゐるが、もつと大きな問題は、大学の勉強を終へたばかりの 半人前の医者が大量に医療の現場に流れ出たことだらう。

    以前のやうに出身大学に留まつて研修を受ける場合なら、大学の教官たちは医学を教へる延長として学生を一人前の医師に仕込むといふ大きな責任を担つてゐた はずだが、民間病院に行つてしまへば研修医とは言ふものの既に一人前扱ひになる。もはや生徒を親切に叱る怖い教官はゐず、そこには企業としての病院経営に 汲々としてゐる同僚の労働者がゐるばかりなのだ。

    かうして新米医師たちは、すぐに民間病院に入ることで、医療技術では半人前のくせに自己保身に熱心で患者に上からものを言ふことだけは一人前の医者が大量 に出来上がつてしまふのである。これで医療がダメにならないはずがない。(2008年1月23日)








    年賀はがきの「再生紙偽装」といふニュースが流されてゐるが、あの報道の仕方は間違つてゐる。製紙会社が消費者を欺したかのやうに言はれてゐるが、欺した のは日本郵便である。なぜなら、製紙会社は日本郵便の下請けに過ぎないからである。

    「このはがきは古紙40%の再生紙です」と書くとすれば、それは日本郵便であつて製紙会社ではない。製紙会社は、古紙配合率40%でしかも安くて綺麗なは がき用の紙を作れといふ日本郵便の無理な注文に困り果てた揚げ句に、古紙の配合率を少なくするしかなかつただけである。

    ところが、その事実が明らかになると、日本郵便はその責任の全部を下請け会社である弱い立場の製紙会社に押しつけたのである。そして、そんなことはとつく の昔に知つているはずの新聞記者が、新聞社にとつても下請け会社である製紙会社いぢめに、日本郵便とタッグを組んだといふのがこのニュースの真相である。

    そもそも古紙配合率が高ければ高いほど環境負荷が高いことは、もはや常識である。むしろ古紙をあまり使はない方が石油を沢山使はずにすむから環境にはよい のだ。新聞記者はそれを知りながら、製紙会社いぢめに回つたのだから、実に悪質なニュースだと言ふべきである。(2008年1月22日)







    ガソリンの暫定税率廃止に関して、社民党と共産党は単純な廃止ではなく環境税の創設とセットでなければ、民主党に協力することは出来ないと言つてゐる。一 方、国民新党は暫定税率の廃止に反対だから、野党の中で暫定税率の単純な廃止を主張してゐるのは民主党だけである。

    といふことは、民主党は野党の中で孤立してゐるのだ。これは自民党にとつて大きなチャンスである。自民党は民主党のいふガソリンの暫定税率廃止案を受け入 れればよいのである。そして、増税せずに代替財源を捻出する方法を民主党に教はればいいのだ。

    大連立に失敗した福田政権としては、これで民主党と念願の政策協議が実現できる。福田首相はあくまで民主党との話し合ひを目指してゐるといふ。それなら、 相手の主張を受け入れるしかないではないか。

    しかも、これで国民に評判の悪い再議決をする必要もなくなるし、自分自身に対する問責決議可決の心配もなくなる。おまけに国民が望んでゐるガソリンの値下 げも出来る。これは一石二鳥どころの話ではないはずだ。(2008年1月21日)







    ガソリンの暫定税率が問題になつてゐるが、政府自民党はなぜ暫定税率の廃止を率先して実施して自分の手柄にしないのか不思議である。

    暫定税率がなくなればガソリンが安くなり、それだけ家計が楽になる、その分を他の商品の購入に宛てて消費を活性化してもらひたい、とPRすればよいのであ る。

    ところが、政府はガソリンを安くすると自動車に乗ることを奨励することになり一層の環境悪化を招くなどと言ふのだ。しかし、ガソリンの値段が下がつたから と車ばかりに乗つてゐられる暇人はそんなに多くないのである。

  暫定税率がなくなると地方の道路財源に穴が空くともいふが、道路財源は元々全部一般財源化すべきはずのもので、余つてゐたのではなかつたのか。それを余ら ないやうに無理やり帳尻合はせをしたのが来年度予算であると報道されてゐる。

  だから、暫定税率の継続を止められないのは、来年度予算の中にそれが組み込み済みだからにすぎないのである。ならば、暫定税率を廃止できるやうに来年度予 算を作り直せばいいのである。

  さうすれば、野党に「ガソリン国会」などと言はせる切つ掛けを与へることもなくなるし、これが景気回復の梃子になるかも知れず、内閣の支持率もひよつとし たら上がるかも知れないではないか。(2008年1月20日)







    ビデオに録画しておいた映画『殯(もがり)の森』を少しだけ見たが、すぐにもうこれはグランプリだと思つた。「もがり」が何かは知らなくても、高齢者のデ イサービスを映画にしたといふだけで、やられたといふ気持で一杯になつた。

    デイサービスセンターは日本の各地方自治体にあり、多くの病院の中に設けられてゐて、年寄りを集めて歌をうたはせたり折り紙を作らせたりしてゐるのは誰で も知つてゐる。

    あれを見て、あそこで仕事をしてゐる若いヘルパーたちと老人たちの交流を見て、なぜ若い男女が先のない年寄りの相手をすることに、やりがひを見いだせるの か。老人たちにとつて、あれは死ぬまでの時間つぶしではないのか。そもそも人生とは何か、と思つたことのある人は多いはずだ。

    それを映画といふ一つの形で表現してしまつたのだから、観る者は一瞬にして痛いところをつかれたといふ気持になつてしまふ。そして、死を待つ大 量の老人たちの存在は今や文明国の世界的現象なのだ。カンヌのフランス人たちも同じ気持になつたに違ひない。

    老人が一杯ゐて、その相手をする若い女たち。その映像をただ流すだけで、見てゐてうーんとうならされる。現代人の生の一番重たい部分を見せつけられてゐ る、さういふ気持にさせられる映画なのだ。(2008年1月18日)







    福岡の飲酒運転事故の判決に関しては新聞各紙が社説を出してゐるが、危険運転致死傷罪が適用されなかつたことに腹を立てて、いい加減なことを書く記者もゐ るやうだ。

    容疑者が飲酒検知の前に大量の水を飲んでゐたから酒醉ひ運転ではなく酒気帯び運転になつたといふのもその一つだ。しかし、酒酔ひ運転は酒のために正常運転 できない状態かどうかで決まるのであり、呼気アルコール量の規定はないのである。

    では、実際にこの容疑者は検知前に大量の水を飲んでゐたのか。ところが、「署員が飲酒検知しようとしたところ、突然ペットボトルの水を飲み始めたため、注 意してやめさせた」といふ記事があるといふ。それなら飲んでないではないか。

    しかも、ペットボトルを持つてきたことを理由に証拠隠滅罪で逮捕された友人は、その後処分保留で釈放されてゐる。それなら、証拠隠滅は証明できなかつたの ではないのか。

    裁判官が容疑者の事故直前の運転状況に拘つたのは、かういふ理由からだつたのだらう。しかし、新聞は情緒的反応を優先させて、読者に正確な事実を伝へよう とはしないのである。(2008年1月12日)







    この前の参議院選挙で民主党が議席を増やしたことから、直近の民意は参議院にあると言ふ人がゐるがそれは間違ひである。参議院は民意を反映するための機関 ではないからである。

    その時々の民意を反映する国会の機関は衆議院である。それに対して参議院はむしろその時々の民意に大きく動かされないために存在する。だからこそ、衆議院 に解散があるのに参議院には解散がないのだ。

    首相が衆議院によつて選ばれるのも、国政に民意を直接反映させるためである。一方、参議院は三年ごとに半数ずつ改選される。このおかげで、衆議院が参議院 の選 挙に合はせて解散しても、国会議員が一人もゐないといふことはなく、政府は国会を召集できるのである。

    したがつて、参議院議員は古代ローマの元老院議員と同じやうに国家の重鎮としての役割を担つてゐると言へる。アメリカの上院がまさにさうであり、だからア メリカの大統領は上院議員がなることが多い。

    全国区の選挙があつた時代には参議院も政党員でない議員が存在して独自性を発揮したが、昭和57(1983)年に比例代表制が導入されて完全な政党選挙に なつてからは、民意を反映するなどと言はれるやうになつてしまつたのである。(2008年1月4日)







    なぜ日本の国会が衆議院と参議院の二院制なのかといふと、それは明治憲法で衆議院と貴族院の二院制であつたことを引き継いでゐるからである。

    衆議院は大衆の利益を代表する議員の集まりであり、貴族院は貴族の利益を代表する議員の集まりだつた。その始まりは古代ローマの元老院と民会(住民集会) であり、貴族 制度がある英国国会では今でもこの二つ議会で構成されてゐる。

    そして、利害の異なるこの二つの議院が異なる議決をするのは当然であり、世界の議会の歴史とは、このどちらの院の議決が優先させれるかの争ひだつた。最初 は貴族院の議決が優先されてゐたが、次第に衆議院の議決が優先されるやうになつたのである。

    日本の国会で衆議院の議決が参議院よりも優先されるのはその結果である。だから、参議院で否決された法案が衆議院の圧倒的多数で再議決されると成立するの は何ら異常なことではない。英国議会では再議決さへ必要がないのである。

    現代の国会で異常なのは、むしろ衆議院と参議院の議員が似たやうな選挙制度で選ばれてゐることであらう。そのために、どちらの議院も同じ利益代表の集まり となつてをり、議院が二つ存在する意味がなくなつてゐるのだ。

    その結果、『広辞苑』などで「参議院」を引いても国会審議を慎重にする機能を担ふ存在といふ適当な説明しかなく、国民も参議院をそんなものだと思つてゐる のである。(2008年1月3日)







    『芸能人格付けチェック』といふテレビ番組で一番面白いのは、舌の肥えた有名芸能人が有名産地の牛肉とスパーの安物牛肉を食べ比べて、有名産地の牛肉を当 てられない場面であらう。

    かういふ番組を見ると、牛肉にそもそも産地名を付けて売ること自体がすでに偽装ではないのかと思へてくる。松坂で作つた肉を松坂の名前を付けて売るだけな らよいが、それで高い値段を付けて売ることがおかしいのである。

    本当にうまい肉なら産地を隠して売つても、味見をさせれば高く売れるはずである。人間の価値がさうだらう。家柄や出身大学で人の値打ちを計るのが間違ひで あることは、とつくの昔から言はれてゐることである。だから、求人の履歴書に大学名を書かせない会社もあるのだ。

    ところが、世の中には相変わらず産地に拘はる人たちが多い。そんなものを当てにするのは、自分の目や舌で相手の価値を見分けれらないからだらう。だから産 地の名前に欺される人も出てくる。

    しかし、The proof of the pudding is in the eating はどの場合にも当てはまる。大学名など書かせるから大学名に拘はるのであり、産地名を書かせるから産地名に欺される人が出てくるのだ。本当は中身が大切な のだらう。それなら、産地名など廃止してしまへばよいのである。(2008年1月1日)

私見・偏見(2007 年)へ

ホーム | パソコン試行錯誤 | シェアウエア | 拡声機騒音 | くたばれ高野連