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 工藤美代子による『われ巣鴨に出頭せずー近衛文麿と天皇』ではじめて近衛文麿の伝記を読んだが、近衛がまるで小説かドラマのやうな人生を送つてゐたことがわかる。

 近衛は藤原鎌足の血を引く名家の跡継ぎとして生まれる。しかし、母親は直後に死んでしまひ、後添へに来た母の妹を実母と信じて成長する。ところが、何時の頃か、母親は生みの母ではないといふ噂を耳にする。

 十三歳で父を失ひ早くも一家の当主となるが、その父の墓参に行つたとき、伯母の墓だと思つてゐた墓が実は生母の墓であることを知る。裏側に彫つてある命日が自分の誕生日の七日後であることを知つて愕然とするのだ。それまで明るかつた少年は、物思ひにふけるやうになる。

 成績優秀な近衛は一高に進むが、藤村の『破戒』やトルストイの『復活』を読んで、自分が特権階級にゐることに疑問を抱くやうになり、二十歳になつて天皇から従五位の杯を受けるために宮中に参内するのを拒否したりしてゐる。

 京都帝大に在学中に結婚した女性は、一高時代の通学途中に電車の中で見初めた学習院の女学生で、悩んだあげくに同じ学習院に通ふ妹に調べさせて、家族の 反対を押し切つて結婚にこぎ着けてゐる。この子爵家の十七歳の令嬢との結婚式は京都で衣冠束帯・十二単をまとつて行はれた。

 ところが、生母の温もりを追ひ続ける近衛は祇園で一人の芸者菊に出会ふ。近衛が菊を散歩に連れて行つた先は河原町の丸善だつた。菊は近衛が何者か知らなかつた・・・。

 このやうに近衛の生涯には、テレビドラマに出来るやうな出来事がふんだんにある。しかし、今だに戦争を引きずる日本人は、まだ近衛の生涯をテレビドラマに出来るほどには、近衛を一人の人間として受け入れることが出来ずにゐる。(2006年9月30日)







 昔から「馬には乗つてみよ」といふが、自転車も同じで自転車によつては乗り味がまつたく違ふ。

 特に感じるのは空走距離の違ひである。漕ぎ始めは少し重いが、少し漕ぐだけで後は漕がなくてもずつと進める自転車がある。空走距離が長いのである。それに対して、漕ぎ始めは軽いが漕ぎ続けないとすぐに止つてしまふ自転車がある。

 この種の自転車は近場の買物用にはいいのだらうが、すこし遠出をするとひどく疲れる。値段の安い自転車がさうなのかどうかは分からない。さういふ仕様な のかと思ふ。このタイプの自転車に使へば随分運動になることは確かで、どこにも行けないエアロバイクを家でせつせと漕ぐよりよほど有意義だらう。

 だから、自転車を買ふときは、店屋で並んでゐるのを見るだけではだめで、すこし乗つてみる必要がある。少なくとも、スタンドを建てた状態で後輪を動かして何回空回りするか数へてみるとよいのではないか。

 遠乗り用には10回以上空回りしてなかなか止まらないのがよいと思ふ。(2006年9月29日)







 電球型の丸い形をした蛍光灯が売られてゐる。メーカーは蛍光灯に換へると節電になると宣伝してゐるが、値段が高いので今ひとつ説得力がない。電気代が節約出来ても、それで値段の高い分を回収出来るかどうか分からないからである。

 白熱灯の電球に比べた場合に蛍光灯のはつきりした長所は、電球よりも寿命が長いことである。わたしはそこに目を付けて購入してみた。どこに使ふかと云ふと、廊下や階段の天井の電球の代はりをさせるのである。

 廊下や階段の電球は毎日点けたり消したりしてよく使ふので、一年ぐらゐで寿命が来てしまふ。新品に交換するにも、天井の電球は手が届かないので、脚立や 椅子の上に登つて、上向きになりながら交換しないといけない。廊下ならまだしも階段の踊り場で椅子の上に登つて交換するのは、少々おつかない。

 そこで電球型の蛍光灯にしてみたのである。最近は電球とほぼ同じ形状のスリムなものまで出てゐるので、ダウンライトのレフ球の代はりにもなる。

 蛍光灯は点けたり消したりしない方がいいので、夜になれば点けつぱなしにしてゐるから、電気代の節約になつてゐるかは知らないが、これで3年は交換しないですむかと期待してゐる。(2006年9月28日)







 NHKの週刊子供ニュースはいつも大人のニュースを扱つてゐるが、そんなことをしても子供は分からないと思ふ。

 最近も格差問題を扱つてゐたが、何が子供に分かるといふのか。NHKは子供ニュースを利用して政府の批判をするのが目的だとしか思へないのだ。

 私が新聞の社説の意味が理解できるようになつたのは、やつと大学に入つてからである。なぜなら、新聞の記事を理解するには、高校卒業程度以上の知識が必要だからである。

 ところが、NHKの子供ニュースに出てゐる子供たちはまだ小学生ではないか。そんな、中学程度の国語も社会も勉強してゐない子供たちに新聞の社説が扱ふやうな問題を教へても、基礎知識がないのだから、分かるはずがない。

 確かに子供たちは大人たちに説明されて分かつたやうな顔をする。しかし、それは単に大人たちに調子を合せてゐるだけである。子供には子供の興味に合つたニュースを与へるのが子供のためであり、子供ニュースの役割でもあると思ふ。(2006年9月27日)







 工藤美代子は『われ巣鴨に出頭せず』(2006年刊)のなかで、「ノーマンがソ連共産党もしくはKGBのスパイであったという確度はかなり高いものだと今日では言われている」と書いてゐる。

 工藤は以前に『悲劇の外交官』(1991年刊)と題するノーマンの伝記を書いてゐるが、そこでは、確かにノーマンは一時期共産党員であつたが、断じてソ連のスパイではなかつたと強く印象附けるやうに書いてゐるのだ。

 工藤のノーマン観はいつたいどこでどう変つてしまつたのだらう。少なくともノーマンの伝記の中では、工藤はノーマンの弱さを指摘はしても、その人格と仕 事ぶりに対しては高い評価を与へてゐるやうに見える。ところが、近衛の伝記の中ではそれが180度転換してしまつてゐるのだ。

 ノーマンが近衛に戦争責任をおつ被せるためにひどい「覚書」を書いてGHQに提出したことも、既にノーマンの伝記の中で言及されてゐる。つまり、工藤はほぼ同じ資料を元にして正反対のことを書いてゐるのだ。

 その原因として考へられることは、工藤が新たに手に入れた資料で近衛の人格の高潔さを知つたこともあらうが、左翼系の評論家の嫌ふ『マオ』を有力な資料として挙げてゐるところから見ると、この15年間に工藤の中で大きな転換があつたことも考へられる。

 まさか、ノーマンの伝記は岩波書店から出すからああなつたと云ふ訳ではあるまい。(2006年9月26日)







 自民党の新総裁になつた安倍さんの最大の目標は、来年の参議院選挙に勝つことださうである。しかし、安倍さんは衆議院議員なのに、どうして参議院の選挙のことに熱心にならなければいけないのだらうか。

 参議院選挙は参議院の人たちだけでやればよいはずである。ところが、参議院議員がなぜか衆議院議員である首相の人気に頼つて選挙をする。人気に頼るだけならまだしも、参議院選挙に負けた責任を取つて、首相をやめた衆議院議員もゐる。

 そもそも参議院議員でも首相になれるのである。だからこそ、参議院でも首相指名選挙があるのだらう。ところが、参議院には首相になれる力と人気のある人は誰もゐないらしい。

 青木さんは参議院のドンださうで、参議院の人事を一人で握つてゐるらしい。ならば、どうして青木さんが一人で責任をもつて参議院選挙をやらないのか。

 参議院議員の閣僚ポストを安倍さんにおねだりした青木さんが、その選挙で衆議院議員の安倍さんの人気に頼らうとしてゐるのだから、参議院にとつては余りに情けない話である。(2006年9月25日)







 NHKの連続テレビ小説を見なくなつて久しい。どれもこれも似たやうなストーリーで、同じような情緒と同じような雰囲気の作品だから見る必要を感じなくなつたのである。

 次の連続テレビ小説は田辺聖子の自伝を元にしたものださうで、予告編がしきりに流れてゐるが、それを見るとやはり同じやうなストーリーである。つまり、女性の主人公が自分の夢の実現に向つて、幾多の困難を乗り越えながら、明るく素直にたくましく生きていく物語である。

 毎回毎回同じ人が作るのではないかと思ふくらゐにストーリーが似てゐて、それをまた日本人は飽きもせず毎回毎回見てゐるのだから驚きだ。

 こんなドラマが毎日流れるお蔭で、日本では家庭の主婦より働く女の方が偉いかのやうな幻想が定着してしまひ、結婚せず子供を産まない女がどんどん増えてしまつた。

 そして誰もが自分の夢の実現にこだはつて、自分の夢につながらない職業を嫌がり、フリーターやニートが増えてしまつたのではないかと思ふ。

 一度くらゐは仕事ではなく女としての喜びに目覚める女の話を見たいものだ。さうしたらまた見るかも知れない。(2006年9月24日)







 『われ巣鴨に出頭せず』といふ近衛文麿の新しい伝記が出たが、自分の会社から出した日経新聞に書評が出たのは当然として、それ以外では産経新聞と地方紙の書評欄で扱はれただけで、他紙の書評家たちからは黙殺されてゐる。

 日経新聞で書評を担当した保阪正康もいやいや書いたらしく、とてもこの本を読みたくなる様な書評ではなかつた。作者の工藤美代子が使つた資料の価値を疑ふだけでなく、肝心の都留重人とハーバード・ノーマンによる陰謀説にも触れずじまいなのだ。

 秦郁彦に言はせたらこの本も修正主義者による謀略史観なのだらう。ユン・チヤンの『マオ』と同じく、東京裁判史観を奉ずる書評担当者たちにとつては困つた本なのかもしれない。

 近衛文麿と云へば、むかし大学浪人のときに東京の下宿で岩波新書の『昭和史』に描かれたこの男の優柔不断さに舌打ちしながら読んだことをよく覚へてゐる。今から思へばこの本自体が変な本だつたのだが、その当時は事実が書いてあると思つてゐた。

 その近衛が実はそんな人間ではなかつたことを描いてみせるといふのだから、岩波新書の行き過ぎを訂正する意味からも、是非とも読んでおきたい本だらう。(2006年9月23日)







 私は髭剃りはジレットを愛用してゐるが、私の機種の替え刃を買いに行つたらどこにも売つてゐなかつた。ジレット・センサー・スリーといふものだ。ジレットのホームページにはまだ製品情報が残つているから、生産してゐるはずなのだが。

 それにしても、髭剃り業界ではジレットとシックの競争が熾烈だ。今の競争は殆んど髭剃りの刃の数の増やし合ひと言つてよい。

 最初はどちらもカミソリの刃の数は二枚重ねだつた。それをジレットが三枚重ねにした。するとシックは一気に四枚重ねにしてきた。すると今度はジレットが五枚重ねの製品を売り出したのだ。

 いつたいカミソリの刃の数は何枚まで増えるのだらうかと思ひたくなる。

 わたしは最近三枚刃にしたばかりだが、二枚刃よりやはり三枚刃の方が切れ味がよい。一枚目で剃り残した髭を二枚目が剃り、それでも残つたのを三枚目が剃り落としてくれるのだらう。前ほど一生懸命剃らなくてもよくなつたやうな気がする。

 それが五枚刃になつたらさぞ切れ味がよいのだらうが、五枚刃を使ふにはホルダーごと新しく買ひ換へなければ行けない。千円程度の出費だが、メーカーの開発に一々付合はされるのも嫌なので、替え刃を探しに行つたといふ分けだ。

 ところで、なぜジレットを愛用してゐるかと云ふと、昔シックを使つてゐてよく唇の端を切つたことがあるからである。シックが一時期「キレテナーイ」と安全性を宣伝し始めたのは、それと関係があると思つてゐる。

 (なほ、ジレット・センサー・スリーの替え刃は一個200円するが、ジレット・センサー・スリーの使ひ捨て版が一本100円以下で売られてゐること、そ のホルダーが軽すぎると思へば、刃だけを取り外して手持ちのホルダーに装着可能であることが分かつた)(2006年9月22日)







 タイで軍事クーデターが起きたが、やつたことは日本の二二六事件と同じである。政府の腐敗に憤つた軍が政治を正すために立ち上がつたのである。二二六事件は軍による極悪事件のやうに言はれてゐるが、当時の日本と今のタイとは似たやうなものだつたのである。

 タイの軍首脳はこれは民主的なクーデターだなどと言つてゐるさうだが、軍隊によつて首相の首がすげ替へられる国は民主国家ではない。

 第二次大戦後に植民地から独立して生まれた国がたくさんあるが、民主主義が根付いてゐる国は少ない。タイのやうに戦前から独立してゐた国ですら、すぐに軍隊が出てきて暴力を行使する。

 そんな野蛮なことはイギリスならクロムウェルの一七世紀に、フランスならナポレオンの一九世紀に終つたことで、日本でも終戦で終つてゐる。ところがまだ同じことをやつてゐる国があちこちにあるのだ。

 古代ギリシャと違つて、現代では民主主義とはある程度以上の経済発展の後でこそ初めて可能になるものであつて、その段階に至らない国を無理やり民主化しようとしても無理なのだと思ふ。(2006年9月21日)







 飲酒運転の取り締まりもいよいよ魔女狩りの様相を呈してきた。今度は一月以上も前のことがほじくり出されたのである。それも、缶ビール一本飲んで4時間以上あけて運転したのに飲酒運転だと批判されるのである。全くこの飲酒運転をめぐる気狂ひ沙汰はいつまで続くのか。

 そのうち、半年前の飲酒運転、一年前の飲酒運転、いや一生についての取調べが始まるかもしれない。つまり、生涯一度でも飲酒運転した覚えのある人間は免許剥奪になるのだ。

 もちろん正直に申し出なかつた者は偽証罪で逮捕である。さうなれば日本は全く飲酒運転のない良い国になるだらう。しかし、同時に日本の流通が完全にストップすることも確実である。

 かつて治安維持法といふ法律があつた。初めは共産主義運動を取り締まる法律だつた。ところが、取り締まりの範囲がどんどん拡大して、最後には自由主義、いや反軍的な考へを持つだけでも逮捕されるやうになつた。
 
 もちろん、それを主導したのもマスコミだつた。日本のマスコミの全体主義的傾向は、戦前も戦後もまつたく変はらないやうである。(2006年9月20日)







 NHK教育の10minボックスといふ番組で不思議な光景を見た。

 台車に乗つてゐる人を別の人が後ろから押して進んでゐる。そして台車に乗つてゐる人がボールを真上に放り上げる。すると、ボールは台車に乗つてゐる人の手の上にちやんと戻つて来るのである。

 普通に考へると、ボールを放り上げた時点から落ちてくる時点の間に台車は前に進んでゐるのであるから、ボールは放り上げた場所からまつすぐ下に落ちて、台車を押してゐる人の上か、さらにその後ろに落ちさうなものである。

 ところが、さうならないのだ。これはボールには人が上に放り上げた力だけでなく、台車が前へ進む力も加つてゐると考へれば、理解できるのかもしれない。 台車が動いてゐる以上は、台車に乗つてゐる人だけでなく台車に乗つてゐるボールにも、台車が前方に動く力が作用してゐるのだ。

 だから、例へば飛行機で海外に行くときに、西回りで行かうが東回りで行かうが、同じ距離で同じ速度なら、風の影響がない限り、同じ時間で行けるはずなの である。地球が東から西へ自転してゐるから、東へ行く方が速く行けると云ふことはないのである。(2006年9月19日)







 モラル(道徳)の意味が最近は変つてしまつてゐるやうだ。命を大切にするとか、子供を大切にすることなどは本来モラルや道徳とは何の関係もないが、そんなものがモラル扱ひを受けてゐる。

 モラルとは実は人間の自然の感情に基づくものではない。むしろその反対であるけれども、しなければならないことするのがモラルなのである。

 子供を大切にするのは自然の感情に基づくことであり、当たり前のことである。しかし、老人を大切にすることは自然の感情に基づくものではない。老人は汚いし、しばしば邪魔になる。しかし、それでも老人を大切にするのがモラルなのである。

 命も同じである。高い価値を実現するために命を粗末にすることがモラルなのである。

 昔は電車の中で老人に席を譲ることがモラルだつた。本当はやりたくないけれども善い事だからである。ところが、今では電車の中で携帯電話を使はないことがモラルになつてしまつた。しかし、それは「したいけれども悪いことだから我慢する」ことでしかない。

 最近のマスコミによる「モラル」といふ言葉の使ひ方を見ると、この国ではモラルそのものが失はれてしまつたと言つて良いのではないか。(2006年9月18日)







 福岡の交通事故は「子供三人が犠牲となつた」をその前に附けるのが慣行となつてゐる。それほど子供の死を重大視するのである。それほど子供の命が大切なのである。

 ところが、そんなに大切にされてゐる子供たちが小学校で暴れるのである。女教師を「くそばばあ」と呼んで蹴りつけるのである。

 昔は子供の死をこれほど大げさに扱はなかつた。エスカレータの手すりと床や天井の間に挟まれて、多くの子供が死んだが、エスカレータ会社がバッシングされたことはなかつた。むしろ親の管理責任が問はれたものだ。

 そして、そのころの子供たちは小学校で暴れたりしなかつた。黙つておとなしく先生の授業を聞いたものだ。

 子供たちはよく知つてゐるのである。自分たちが大人たちから、下へも置かぬ扱ひをされてゐることを。大人たちの掛け買ひのないの宝となつてゐることを。だから、子供たちは増長して、大人を舐めるやうになつてしまつたのである。

 大人たちは邪魔な年寄りを老人ホームに押し込んで、子供ばかりを大切にしてゐる。さうやつて子供たちを駄目にしてしまつたのである。道徳から云へば、子供よりも年寄りをこそ大事にすべきはずなのだが。(2006年9月17日)







 多くの日本人にとつて憲法はお経のやうなものらしい。お経は宗教の教典だから、人間が勝手にその中身を変へてはならない。だから、日本人は憲法を一度も変へたことがない。

 憲法はお経だから、その文字を大きく書いた本を作つて売り出して、それを普及しようとする人たちが出てくる。中にはそれを有り難く声に出して読むだけではなく、紙に書き写さうといふ人たちもゐるらしい。そしてそれを写経ならぬ写憲だと誇らしげに言ふのである。

 日本人は憲法が何か有難ひものだとは思つてゐるが、実は何であるか分かつてゐないといふことを、これほど明瞭に示した例はあるまい。

 実は憲法とは自分自身に対する約束でしかない。それは自分には出来ないと分かればすぐに変へなければいけない物であり、自己保存のために、いざとなれば無視してもいい物なのである。

 最近、日本でもこの憲法を変へるべきだといふ考へ方が大勢を占めるやうになつてきた。一方で、この変更を妨害しようと必死になつてゐる狂信者たちもゐる。

 しかし、人間でも同じだが、出来もしない約束に縛られてゐると終ひにはノイローゼになる。そのノイローゼが明治憲法では太平洋戦争だつた。憲法をお経扱ひして変へないでゐると、むしろ破局を迎へると考へるべきなのである。(2006年9月16日)







 渡部昇一の「文科の時代」といふ論文は、30年前に書かれたものだが、まさにこれからの日本に相応しい内容である。

 理科が生産のための科学だとすれば、文科は非生産の科学である。音楽を見よ、それは感動をもたらすけれども、音は空間の中に跡形もなく消えてしまふ。ところが、理科の延長にある工業生産はかならず大量のゴミを出す。

 娯楽について見ても、レジャーのために自動車を走らせれば娯楽施設は潤ふけれども車は排気ガスを出すし、レジャー施設は大量のゴミを出す。それに対して家で碁・将棋・三味線などをして遊んでゐる限り、あとに何の利益も生産物も遺さないけれども、ゴミを出す心配もない。

 物質的な生産性の高さは必ずゴミといふ副産物を出さずには居られないのに対して、文学は非生産的であるが環境汚染をもたらすこともないのだ。

 少子化で人口減少の時代に入つた日本においては、資本主義の永遠に続く拡大生産の時代は終つた。そんな現代の日本にとつて手本にすべき時代が、遣唐使を止めた平安時代であり鎖国をした江戸時代、つまり「文科の時代」なのである。(2006年9月15日)








 多くの地方自治体の市長が飲酒運転で検挙された職員を免職にするとなどと言ひ出したが、パフォーマンスが過ぎると思ふ。世間の風潮に流されて処分規定を変へても、有効性が担保されるとは思へない。

 実際、飲酒運転の検挙だけで懲戒免職にされた学校の教師が「裁量権の乱用」と不服申し立てをしてゐるし、同様の不服申し立てで免職が取り消された例が過去にあるといふ。

 そのやうな判例があるとなれば、飲酒運転の検挙だけで免職にすると言つても、実際には出来ないことになる。 

 そんなことを言ふ市長自身はどうかと云へば、運転手付きの車だから飲酒運転をする心配はない。市長がこれまでの人生で一度も飲酒運転をしたことがないと誓約書を出すぐらゐでないと、部下は付いて来ないのではないか。

 その意味で兵庫県が飲酒運転で死亡事故を起こした場合だけを免職にしたのは合理的だといへる。人をおどして何かをやめさせようとするなどは恐怖政治であり、罪刑法定主義の民主国家に相応しいとは言へないのである。(2006年9月14日)







 福山の高専殺人事件の容疑者は未成年だつたが、読売新聞はこの少年を写真付きで実名報道した。

 ところが、少年法第61条には「少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本 人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」とはつきり書いてある。

 この新聞は少年がもう死んだからいいだらうと勝手に判断して法律を破つたのである。しかし、法律には「生存中」の但し書きはない。

 だから、図書館がこの違法行為の共犯になるわけには行かないと、この新聞の閲覧を制限したのは正しい。

 新聞社は他人の違法行為に対しては常に厳しい態度で臨むが、自分の違法行為は何らかの理屈を付ければ許されると考へてゐるのである。そして自分の法律破りの正しさを新聞紙面を使つて宣伝するのである。

 この新聞は自分のことを法に優先する存在だと考へてゐる可能性がある。図書館は今後こんな新聞は置かないことにすればよいのである。さうすれば閲覧を制限して知る権利を侵したなどと、いちやもんを付けられる心配はなくなるだらう。(2006年9月13日)







 サラ金の上限金利を引き下げたら、多重債務問題が解決するかのやうに言はれてゐるが嘘だらう。借金する奴はどうならうが、返すあてのない金を借りようとするからである。

 そもそもなぜ金利が高いのか。それは無担保で貸すためである。金利を下げてしまつたら担保のない人間は金が借りられなくなつてしまふ。

 さうなつたら担保のない人は何処で借りるのか。ヤミ金に走るしかなくなるではないか。そのヤミ金には金利の上限はないのである。

 サラ金の借金ならまだ民事再生や自己破産などの合法的な手段で逃げる方法があるが、ヤミ金から逃げるにはそれこそ自殺して生命保険で返すしかなくなつてしまふ。金利の上限を下げたら借金苦による自殺が減るなんてとんでもないことだ。

 弁護士たちは、低所得者向けの低金利融資を政府が実施すればいいなどといふ。しかし、返済能力のない人間が作るであらう借金の焦げ付きを税金でまかなふことを国民が許すわけがない。

 多重債務者の問題は極めて個人的な問題である。子供の時から「返す当てのない金を借りてはいけない」と厳しく教育する以外に、この問題を解決する方法はないのではないか。(2006年9月12日)







 夏目漱石が今でも人気があるのは、一つには『坊つちやん』の主人公は漱石自身のことだと思はれてゐるからではないか。

 しかし、例へば坊つちやんが赤シヤツと野だいこに誘はれて釣りに行つた時に、赤シヤツと野だが風景を眺めながら

「あの松を見給へ・・・ターナーの画にありさうだね」
「あの曲り具合つたらありませんね。ターナーそつくりですよ」
「あの島をターナー島と名づけ様ぢやありませんか」

などとキザなことを言ふが、実際にターナーの絵を愛好してこのやうな事を言つてゐたのは漱石自身であつて、「ターナーとは何の事だか知らない」坊つちやんのやうな野暮天ではなかつた。

 また、バツタ事件を起こした生徒の処分を決める会議で、坊つちやんは自分の意見をろくに言ふことが出来ないが、実際の漱石は弁が立つた。

 そして、会議の最後に赤シヤツが坊つちやんをたしなめて「文学書を読むとか、又は新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくつてはいけない」と言ふが、漱石こそはまさにその高尚な精神的娯楽にいそしんでゐた男だつた。

 つまり、漱石は坊つちやんのやうな男ではなく、赤シヤツの様な男だつたのであつて、むしろ文学士赤シヤツこそ漱石自身の姿だと思ふべきなのである。(2006年9月11日)







 日本は酒飲み社会である。日が沈んだら下戸以外は全員が酒を飲む。いや下戸も無理矢理飲まされる。だから、夜中に車を運転してゐる人は、事故を起こさうが起こすまいがほぼ全員が飲酒運転である。

 いや酔つてゐるのはドライバーだけではない。夜は歩行者も自転車に乗つてゐる人も酔つてゐる。酔つてゐる者同士が夜中に出くはせば、必然的にぶつかつて事故にならざるをえない。

 飲酒運転をなくすために、飲酒運転をした公務員は全員懲戒免職にしろなどと乱暴なことを云ふ人がゐる。そんなことをしたら公務員は一人もゐなくなつてしまふと思ふが、実際さうするといふ自治体もある。

 しかし、職員を首にしたら代はりが必要だらう。代はりが簡単に見つかるのなら、公務員は誰でも出来る仕事だといふことになる。もしさうなら、むしろ人員削減で首にした方がいい。

 小さな会社が社員を飲酒運転で首にしてゐたら、代はりがゐなくて潰れてしまふ。まつたく公務員は気楽な稼業であるらしい。(2006年9月10日)







 M&Aで企業買収するにしても、ライブドアがやると新聞は犯罪扱ひしたが、これを王子製紙がやると美挙扱ひにした。

 この違ひはどこから来たのか。それはおそらく王子製紙が新聞社への新聞紙の供給先であつて、新聞社のお仲間であることと大きな関係があるのに違ひない。一方、ライブドアが買収しようとしたニッポン放送は新聞社のお仲間である。

 新聞は、M&Aの被害者が仲間だと加害者を蛇蝎の如くに言ひ、加害者が仲間だと企業経営の新しい姿だと誉める。つまり、新聞社の意見には自社の利害が大きく関係してゐるのである。

 一方、読売新聞のスポーツ欄でいつも鋭い意見を書いてゐる鹿取氏は、早実の斎藤投手をべた褒めするコラムを書いた。

 苫小牧の田中投手には対しては「もつと直球を磨け」とアドバイスを書いたのに、斎藤投手については何の欠点もないかの如くに誉めちぎつたのである。

 これもまた、斎藤投手に絶対に嫌はれたくない読売グループの意向を存分に反映したものだと言へるだらう。お家の事情は本来自由であるはずのコラムの内容にさへ影響を及ぼすらしいのである。(2006年9月9日)







 敬語といふのは日本では是非とも身に着けておきたい常識である。ところが、私の知る多くの医者は自分より年上の患者に対して敬語を使はない。

 今や医者も手術で失敗して患者を死なせたら逮捕される時代である。医者と云へども特別に偉い人間とは思はれてゐない。むしろ国民が高い保険料で養つてゐるサービス業の一つとさへ言つても良いくらゐである。

 だから、医者も年上の人に敬語を使ふ程度の常識は弁へてゐるべきであらう。医者は日頃から看護婦たちにかしづかれてゐるので勘違ひしがちなのかもしれないが、これからは社会的常識のない医者に大事な体を委せたくないといふ声が出てきてもおかしくない。

 敬語に関して驚いたのは、東京の予備校の教師が生徒に対して敬語を使ふのを聞いた時である。芸能界ではトップに上り詰めた明石屋さんまが自分より一つでも年上の芸人に対して敬語を使ふのを忘れない。

 やはり中央で出世する人間には敬語は必須条件といふことだらうか。もしさうなら、技術はあつても地方でくすぶつてゐる人間には敬語の苦手な人が多いといふことであり、同病相憐むといふことになる。(2006年9月8日)







 ドイツの作家ギュンター・グラスが自分はナチスだつたと告白したことは、第二次大戦の責任をナチスに押しつけて被害者面をしてゐるドイツ人には大打撃である。

 ドイツ人は自国民をナチスかさうでないかで分類してきた。しかし、そんな分類が当てにならないことをギュンター・グラスの告白が証明したからである。つまり、戦前世代のドイツ人なら誰でもナチスであつたかもしれないのだ。

 ドイツ人がナチスに戦争責任を押しつけたのに対して、日本人はA級戦犯に戦争責任を押しつけることをせずに、一億総懺悔した。

 ところが、最近読売新聞が戦争責任を検証すると称して、第二次大戦の全責任を軍部に押しつけて、国民は被害者だつたかのやうな記事を連載した。過去の戦争について自国民を加害者と被害者に分類したは、まさにドイツ人のやり方と同じである。

 しかも、それは靖国神社にA級戦犯分祠を求める読売自身の主張を後押しするものであり、A級戦犯と一般国民を分離する中国政府の目論見を支持するものである。

 初めから結論ありきのそんな検証が「検証」の名に値しないのは明らかだらう。(2006年9月7日)






 公立の小学校の給食代を払はない家庭があつて問題になつてゐるらしい。生活保護家庭でもなく金があるのに払はないのはけしからんといふのである。

 しかし、義務教育は無料なのだから、給食費も無料のはずだといふ理屈にも一理ある。なぜなら、給食は教育の一環であつて、みんなと同じものを一緒に食べることに意味があると云はれてゐるからである。

 それなら給食も義務教育の範囲内だから無料であつていい。

 アメリカの小学校のやうにカフェテリアで各々が好きな物を食べるのなら、それぞれが喜んで自分の金を出すだらうが、同じ物を強制的に食べさせられるのなら、自分の金を出したくないと言ひ出す人がゐても不思議ではない。

 そもそも同じ物を一緒に食べることに意味があるなどといふ考へ方が古いのである。

 結局、給食代を先払いにして、払はない家の子供には弁当を持つて来させればよいのである。払はなくても食べさせておきながら「払はないなら法的処置をとる」などと言ふのは本末転倒であらう。(2006年9月6日)







 『偽書の精神史』といふ本があるが、偽書の話といふより未来記の話である。

 未来記とは未来を予言する書のことで、その作者が聖徳太子だつたり聖武天皇だつたりしてゐて偽書なのである。

 その未来記の最後には呪詛の言葉があつて、もし道に反するやからが現はれて私の願ひに背いたらな、そいつは地獄に落ちて永久に浮かび上がれないし、天下は大混乱に陥るだらうと予言する。

 これはもちろん仏法の退廃を恐れる人たちがでつち上げた言葉なのだが、最近も似たやうな言葉をしきりに言ひ触らしてゐる人たちがゐる。

 それは「憲法を変へると戦争になる」と言ふ人たちのことである。

 明治憲法を発布した天皇が神だつたのと同じやうに、彼らにとつて戦後の憲法を作つたマッカーサーは戦後の日本を作つた神なのであらう。

 その神の言葉を人間が勝手にいじくるほど罰当たりなことはない。現代日本にとつての憲法は、中世日本の仏教なのだ。だから、改憲を恐れる彼らは、しきりに現代の未来記を書くのである。(2006年9月5日)







 総合病院に行くといつも満員である。「まあこれだけ沢山の人が来るものだ。彼らは本当に医者が好きに違ひない」と感心してしまふ。

 私は歯医者以外は医者には殆ど行かない。薬は信用してゐるが医者は信用してゐないからである。

 先づ、開業医はみんな藪医者だから行つても仕方がない。総合病院の医者には優秀なのがゐるが、治すのは結局自分自身だし、治らないものは治らない。

 もちろん、大病をしたら別だらうが、総合病院の待合室に座つてゐる人たちを見ると、どこも痛さうにしてゐないし、何より長時間おとなしくじつと待つてゐられるほど元気な人たちである。

 きつと彼らは何かあるとすぐに医者に行く人たちなのだらう。わたしは少しぐらいの不具合では医者に行かずに、かぜ薬を飲むかステロイド軟膏を塗るかして1週間ほど辛抱してゐる。すると大抵は治つてしまふのだ。

 歯医者以外では目医者にはたまに行く。治るのは日にち薬であるのは同じであるが、失明しては困るので異常のない事だけを確かめに行くのである。(2006年9月4日)







 飲酒運転で大きな事故があると決まつて新聞の投書欄に掲載されるのが、飲酒運転防止装置の付いた車の開発を望む声である。しかし、そんな装置の付いた車を一体誰が買ふといふのだらう。

 自分は酒飲みだから飲酒運転するかもしれないと思ふ人が買ふかと言へば、むろん買はないだらう。なぜなら、そんな装置のついた自動車を買つたら少しの二日酔ひでも車が使へなくなつて不便で仕方がないからである。

 レンタカー会社が買ふかといふと、酔つぱらいに車を貸さなければいいだけのことだから買はない。バス会社はどうかといへば、そんな車を買つて職員の管理に手を抜くつもりかと逆に叱られるだらう。

 「飲んだら乗るな」とは云ふものの、そもそも日本は飲んでも乗らなければならない社会なのである。だから、警官も乗る、公務員も乗る、新聞記者も乗るのだ。

 本当に飲酒運転がいけないのなら、アルコール検知器を売り出してみればよい。そんな装置を買ふ人は酒飲みで、どれだけ酒を飲んだら違反にならないかを知るために買ふ人ばかりに違ひない。結局、飲んでも乗るのである。(2006年9月3日)







 「乞食は三日やつたらやめられない」といふが、これは一度自由の味を知つた人はそれを捨てられないといふ意味である。

 私が一番最初に自由の味を知つたのは、大学受験の浪人時代だ。それも二浪で自宅浪人してゐたときの自由は忘れ難い。

 学力は充分にあるが失敗して落ちたのは明らかだつたから、最初の半年は受験勉強をしないことにした。その代はりにフランス語の初歩など大学で勉強したい科目の新書本を読んだり旅行をしたりして過ごした。

 後の半年は、一浪の予備校通ひの時に受けた模擬試験の模範解答を整理したり、駿台の模擬試験を寝不足など色んな条件のもとに受けながら過ごした。

 まつたく自分の計画だけで生活する味をあの時覚えてしまつた。かうなると束縛の多い普通の生活には戻れない。

 これはフリーターも同じではないか。だから、フリーターは正社員にならうとはしないのだらうし、企業もフリーターを正社員に雇はうとは思はないのだらう。

 だから、会社員になりたかつたら現役入学現役卒でいくのがよいのである。(2006年9月2日)







 松本清張の『昭和史発掘』の「北、西田と青年将校運動」には、北一輝が三井財閥の池田成彬から金を受け取つてをり、その金額が尋常なものではなかつたことが書かれてゐる。

 当時の金で年に二万から三万円、今の一千万から一千五百万円にもなると云ふのだ。

 それは三井が青年将校の決起から会社を守るために青年将校の動向を北から聞くための情報料だつたが、その金で北は妻子のほかに女中を三人抱へて豪邸に住み、運転手付きの自動車に乗るといふ豪勢な暮らしをしてゐた。

 北一輝は右翼の生活の仕方の見本のやうな人だつたことになるが、最近のグローリー工業のニュースでは、右翼に支払つた顧問料が16年間に一億七千万円だつたといふから、北一輝のときの相場は今でも生きてゐることになる。

 かうして北一輝は財閥のためにスパイをやりながら、他方でその著書によつて青年将校たちに重臣や財閥に対する憎悪を掻き立ててゐたのである。

 こんな男が二・二六事件の首謀者であるはずがないが、その北を首謀者として抹殺しなければならなかつたところに、当時の軍部の窮状が現はれてゐるといふわけである。(2006年9月1日)







 早実の斎藤投手に対するマスコミのスター扱ひは理解できないわけではない。彼こそは低迷するプロ野球人気を回復させる救世主となるかもしれないからだ。

 しかも、彼を一番欲しいのは巨人だらう。巨人戦のテレビの視聴率は今や惨憺たるもので、同系列の日本テレビでさへ中継延長を断念したぐらゐだ。

 そこへもし斎藤投手が巨人に入つたら、そして巨人の先発のマウンドを踏むことになつたら、甲子園の決勝再試合の視聴率をそのまま日本テレビの巨人戦の視聴率に出来るのである。全く夢のやうな話ではないか。

 過去に巨人は早実の荒木をドラフトの抽選でヤクルトにとられた苦い経験がある。今度は他所にとられないやうにと、読売グループは斎藤投手に今から唾を付けて置かうと必死である。ヤンキースの松井に会はせたのはその一環だらう。

 そしてどうにかして斎藤投手に「巨人が好き」と言はせたらこつちのものだ。さうなれば斎藤君の希望通りにしろといふ世論が湧いて、ドラフト前に勝負を決めることができる可能性が大きい。

 斎藤君をめぐるこの先の読売グループの振舞ひが注目されるところである。(2006年8月31日)







 漱石の『坊つちやん』で際立つてゐるのは主人公の孤独さだらう。精神的な支柱は下女の清だけなのだ。何か事ある毎に「清」が出てくる。心の中の対話の相手は「清」ばかりである。

 坊つちやんには友達は一人もゐない。この話の中で「山嵐」とは友達関係になるが、なつた途端に話は終つてしまひ、別々の故郷に帰つてしまふ。話の最後では唯一の心の友だつた清にも死なれてしまふ。

 それに対する狸と赤シヤツには味方が沢山ゐて社会的な力があるやうに見えるが、実は何かと策を弄することによつてその力を作つてゐるだけであることがやがて明らかになる。その策を弄する有り様を露骨に描いて見せたのが、この作品の中のマドンナをめぐるストーリーである。

 それに対して純粋で世間知らずの坊つちやんは腹を立てるのだが、その坊つちやんとてもそれに対抗するためにはやはり策を弄さずにはゐられない。

 孤独であつて策を弄さずにはゐられない存在としての人間、これを描くことが漱石の小説の大きな目的の一つだつたのではあるまいか。(2006年8月30日)







 甲子園に出るために、甲子園で勝つために何でもやるのが高校野球である。野球留学、飛ぶバットと高校野球は次々と新手の手段の見つけたきた。その最新の手段が酸素カプセルだつたのである。

 日焼けマシンほどの大きさで高圧高濃度の酸素が詰つた器具の中に身を横たへてゐると怪我の回復が早い。その器具のお蔭で早実の佑ちやんは甲子園の七連投に耐へられたのだつた。

 去年は駒大苫小牧が優勝した後で不祥事がばれて優勝にケチが付いたが、今年も決勝再試合の一点差は酸素カプセルの差だつたと分かつたわけで、甲子園で勝つ奴は何かインチキをやつてゐると思つた方が良ささうだ。

 その上なんと早実は酸素マシンを業者から只で借りてゐるといふのだ。これはそれだけの金を業者からもらつてゐるのと同じである。

 かうして高校野球の指導者たちは勝つために何でもやる。それを生徒の方もよく見てゐて、自分たちも何でもやつていいのだと思ひ始める。その結果が、有名 校で度重なつて起こる不祥事なのである。これが教育の名のもとに行なはれている高校野球なのだ。(2006年8月29日)







 ぶつかつた車とぶつかられた車がゐたら、ぶつかつた方の原因だけでなくぶつかられた方にも原因があるはずだ。ところが、新聞はぶつかつた方の原因ばかりを報道する。

 交通事故はお互ひ様なのである。たとへ今日ぶつかつた方に飲酒運転の落ち度があるとしても、ぶつかられた方も酒飲みならば生涯の内に飲酒運転の経験が無いわけではあるまい。

 ぶつかつた方が制限速度を大幅にオーバーしてゐたとしても、ぶつかられた方もまたこれまで決して制限速度を超えて運転したことはないなどとは言へまい。

 今日ぶつかる方になり今日ぶつかられる方になつたことは偶々のことであつてお互いに運が悪かつたのである。どちらかの側で何の落ち度もなかつたなどと言へることなどあり得ないのである。

 だから、多くの交通事故は被害者が軽傷の場合、加害者は民事賠償の責めは受けるが、免許停止になるどころか何の刑事罰も受けないのが通常であり、それでよいのである。

 私はこれが重傷や死亡の場合でも同様であつてよいと思ふ。事故はお互ひが意図せずお互ひの偶然の積み重ねによつて起こることであり、運命に刑事罰を科しても無意味だからである。(2006年8月28日)







 ヨーロッパと違つて日本でオートマチック車がどんどん普及したのは、日本人が裕福でガソリンの値段も安いことが大きな原因らしい。

 実はアメリカでも日本ほどオートマチック車は全盛ではなく、大抵の車種にマニュアル車が用意されてゐることは、アメリカのトヨタなどのホームページを見ればすぐに分かる。

 それを見ても分かるが、オートマチック車の方がマニュアル車よりも高価である。ガソリンもオートマチック車の方が沢山使ふ。だから、本来オートマチック車は贅沢品であり金持ちの買物だつた。

 さらに、ヨーロッパのガソリンの値段は日本よりリッターで50円以上も高い。だからヨーロッパでは日本で消えてしまつたディーゼル車がまだ売られてゐ る。ディーゼル車はドンドン言つて振動がうるさいが、ディーゼル車に入れる軽油はガソリンよりリッターで50円ほど安いのだ。

 とすると日本はオートマチック車を誰もが買へるほどに豊かな社会になつたといふことだらう。その上日本では誰でも高価なバンやワゴン車が買へるのだ。そ んな日本と違つて欧米はまだまだ階級社会で、ガソリン車やオートマチック車を買へない貧しい社会層があるといふことなのだらう。(2006年8月27日)







 自分の子供の野球の試合を見て感動するなら分かるが、他人の子供の試合を見て感動するなどは全く私の理解の範疇外である。もちろん、高校野球のことだ。

 たかが子供どうしの試合である。どつちかが勝つてどつちかが負ける。当たり前のことだ。トーナメント制なら最後に優勝するチームも出てくるだらう。だからどうだといふのだ。それをとらまへて偉業だの何だのと言ふのは、頭がおかしいのである。

 もちろん、それぞれの国で外国から見たら頭がおかしいのではと言へるやうなスポーツはある。古代ローマでは剣闘士の殺し合ひを見て皇帝と民衆が一緒にな つて感動してゐたといふが、今から見れば全くおかしな事だ。それと同じくらいに高校野球の大騒ぎは外から見ればおかしな事なのである。

 仮にも世界で一番になつたところでたかが子供のすることである。大人には到底かなひつこない。甲子園で優勝したからと言つても、人類の歴史の中では何も達成してゐないのである。

 それをマスコミはWBCでの日本の優勝と同程度かそれ以上に扱つてゐるが、まさに子供をスポイルする亡国の業と言ふしかない。(2006年8月26日)







 大学を出たらすぐに就職して同じ会社に辛抱してゐる奴が正社員で、さういふ奴はすぐに結婚もする。それに対して、大学を出ても就職せずにやりたいことをしてゐる人間は、束縛されるのがいやなので結婚もしない。

 だから、同じ世代では正社員の男性の方が非正社員より結婚してゐる割合が多いのは当然であり、それは収入の多寡による結果ではなく、価値観、人生観の違ひといふべきだらう。

 ところが、大学を出てすぐに新聞社に入つて辞めずに辛抱してやつと論説委員になつた爺さんたちは、若者たちの世代で非正社員の結婚率が低いことについ て、「将来の見通しが立たないのに、結婚や子どもを持つことなど、とても考えられないのは当然だろう」などと社説の中で御託を並べるのである。

 この人たちが自分のフリーターの息子に対して「お前、将来の見通しもなしにフリーターなんかしてたら、結婚もできんし子供も持てんぞ」と説教して、自分 の価値観を押しつけて煙たがられるのは自由だが、そんなものを社説と云ふ名前で世間に公表すべきではないだらう。(2006年8月25日)







 道路の制限速度以下でのスピードで走る車は滅多にないし、またそんなことをすれば回りのドライバーに迷惑でもあるが、これは鉄道でも同じことらしい。

 福知山の脱線事故を契機にあちこちの線路のカーブの手前にATSを設置して、制限速度を超えてカーブに進入してくる列車を自動的に停止させるやうにしたら、それに引つ掛かつて緊急停止する列車が続発したといふのだ。

 それでJRはどうしたかといふと、少しぐらい制限速度をオーバーしても緊急停止させないやうに設定し直したのである。実際にはそれでも脱線しないし、むしろ緊急停止の方が乗客にとつては危険だからである。

 福知山の脱線事故では、当初JRは制限速度を超えてカーブに入つても余程のことがないと脱線しないと発表して批判されたが、事実は事実なのである。

 報道は制限速度を超えたために脱線事故が起きたとして、事故の責任をもつぱら運転手に押しつけようとしてゐるが、事故の原因究明が遺族感情に対する配慮によつて歪められる事があつてはならないのは言ふまでもない。(2006年8月24日)







 佐藤栄作といふ愛媛大学の教授によると、『坊つちやん』の原稿には松山出身の浜虚子の手が入つてゐて、中でも「なもし」の数を40ばかり増やしたのは虚子だといふことらしい。(読売新聞「新・日本語の現場」69〜72)

 そして「なもし」は最上級の敬語だといふことである。

 とすると、漱石は松山で聞いた「なもし」をよく覚えてゐて小説の中で使つたが、虚子はもつと使へと漱石に教へたことになる。虚子が「なもし」を特に増やしたのは二軒目の下宿屋の奥さんの台詞だといふ。

 一方、漱石が「なもし」を敬語などとは思つてもみなかつたのは、例のバツタ事件の件りで「篦棒(べらぼう)め、イナゴもバツタも同じもんだ。第一先生を 捕(つら)まへて『なもし』た何だ。菜飯(なめし)は田楽の時より外に食ふもんぢやない」と坊つちやんに言はせてゐることから分かる。

 佐藤氏には「『坊っちやん』原稿の「なもし」―『坊っちやん』論の前に」(「国文学」46-1) といふ論文があるらしいが、未見である。(2006年8月23日)







 江戸時代には女が外で働くといふことは、多くの場合そのままセックスと結びついてゐた。飯盛り女、湯女、御殿女中などは、みんなセックス付きの仕事だつた。売春は遊廓だけのことではなかつたのである。

 女が外でセックス抜きで働けるやうになつたのは産業革命のお陰である。だから、『女工哀史』は工場労働のごく一面的な描写でしかない。女が自分の努力と才覚だけで金儲けが出来るやうになつたのであるから、「哀史」ではなかつた女たちも沢山ゐたはずだ。

 これは逆にいへば、世の中が段々男本意ではなくなつて来たといふことでもある。男が飲屋や料理屋で奇麗なウエイトレスを見れば、別室で相手をして欲しく なるのは江戸時代も今も同じだらう。それが江戸時代ではOKだつたのだから、男にとつては良い時代だつたといふことになる。

 江戸時代にお城に仕へる御女中がお殿さまの御手付きになるのはむしろ名誉なことだつたが、今では会社の社長が秘書に手を出せばセクハラで訴へられるリスクを覚悟しなければならない。

 だから、女にとつて世の中は確実に良くなつて来てゐると考へてよいのである。(2006年8月22日)







 吉田兼好は「家の作りやうは、夏をむねとすべし」(第55段)と書いた。ではどんな家かと云へば、昔の家を見ればよい。

 昔の家の代表格はお寺である。お寺は軒の廂が深くて縁側がある。これによつて夏の日差しが中に差し込まない家になる。今でも少し古い家の一階には縁側の廊下があつて、その外に硝子戸と雨戸があつたりする。

 ところが、最近のプレハブ住宅には軒の廂もなければ縁側の廊下もなく、さらに雨戸もない家が多い。これでは夏暑い家になつてしまふ。外断熱工法で断熱材を外壁に張り巡らしても、窓から夏の日差しが直接入つて来ては元も子もない。

 次に夏涼しい家にするためには緑の庭が要る。家の前がコンクリートだと夏の熱気が地面に蓄へられてしまふ。地面の熱と夏の日差しによつて戸外の空気が暖められて、それが熱気となつて家に入つて来る。それでは益々暑い家になつてしまふのだ。

 住まいの実用性から見れば、縁側も庭も贅沢品のやうに見えるが、実はさうではなく住みやすい家にとつては必需品なのである。(2006年8月21日)







 子供に金を掛けたかどうかで学校の成績が違つて来るかのやうな迷信が広まつてゐる。

 しかしながら、もし掛けた金の高で子供の成績が決まるのなら、同じ塾に通つてゐる生徒はみんな同じ成績になるはずである。なぜなら、塾の月謝はどの生徒も同じだからである。

 しかし、塾に通つてゐる子の中にも、出来る子と出来ない子が出てくる。なぜなら、塾へ行くか行かないかで成績が違つて来るのではなく、自分で勉強にかける時間の長さで成績は違つて来るからである。

 確かに、塾へ行けば勉強にかける時間は自動的に増える。しかし、塾へ行かなければ勉強しない子は、自分では勉強しない。それは勉強に興味がないからである。

 子供が勉強に興味を持つかどうかは、親が勉強に興味があるかどうかにかかつて来る。といつても、それは子供の勉強に対する興味ではなくて、自分の知識や教養としての勉強であつて、端的に云へば親の文化の高さのことである。

 逆に言へば、親がパチンコにしか興味がなければ、いくら金をかけて子供を塾にやつても子供はなかなか勉強に興味を持つやうにはならないし、成績も上がつてこないのではないか。(2006年8月20日)







 五・一五事件や二・二六事件事件を起こした青年将校たちが願つてゐた「昭和維新」を実際に断行したのが、アメリカ軍だつたのは昭和史の最大の皮肉だらう。

 まづ何より彼らが願つた富の不公平の解消は、農地改革と財閥の解散、華族の廃止、貴族院の廃止などによつてたちまちの内に実現した。

 そして彼らの決起の主眼だつた重臣ブロックの排除もGHQのお蔭で実現して、日本の政治はもはや天皇を取り巻く少数の重臣たちによつて左右されることはなくなつた。

 最後に、天皇は象徴天皇として遂に「国民の天皇」となつたのである。しかしながら、それは同時に国体(=天皇を全ての価値観の中心とする国家体制)の消失を意味した。

 戦前のあらゆる不合理、行き詰まりはまさにこの国体(=天皇の意を体すると称してそれぞれが勝手なことをする国家体制)に結びついてゐたのであり、この不合理の解消のためには天皇が神秘的な絶対君主でなくなることが必要だつたのである。

 そして、現代では天皇が総理大臣の意に従ふことはあつても、総理大臣は天皇の意に従はなくてくてもよい世の中になつたのである。(2006年8月19日)







 日本人が謝罪といふ一見表面的な行為にこだはるのは、そこに表面的でない意味があるからに違ひない。それは恐らく日本が敬語必須のタテ社会である事と関係がある。謝罪と云ふ行為はこのタテ社会のヒエラルキーを逆転させる行為なのだ。

 日本人のドミニカ移民の代表が首相から直接の謝罪を受けて感激して、僅かな見舞金だけで訴訟を取り下げたが、これは首相といふ日本のトップの人間がへり下つてきたからである。

 下の者が上の者に謝るのは、自分が相手より下であることを確認する行為であるのに対して、上の者が下の者に謝るのは自分の立場を相手より下げることを意味する。だから首相の謝罪には途轍もない価値があるのだ。

 これが人間が対等な個人と個人の関係にある社会では、謝罪はそれほど大きな意味を持たない。謝まつたあとの方が重視される。

 日本流の謝罪とは犬で云へばお腹を見せる行為だらう。それは降参と服従の仕草である。個人がヒエラルキーのどこかに組み入れられてゐる社会は、犬の社会と似てゐるのかもしれない。(2006年8月18日)







 松本清張の『昭和史発掘』によれば、二・二六事件の直接の引き金を引いたのは、東京の第一師団に対して昭和11年3月に満洲への転属する命令が出たことだつたといふことである。これはまさに教科書が教へない歴史だらう。

 反乱を計画してゐた青年将校たちは第一師団に属してゐた。その彼らがもし満州に行つてしまへばもう生きて日本に帰つて来れないかも知れない。さうなれば もはや決起は不可能になる。かう思ひ詰めた青年将校たちは、11年の3月迄に決起するしかないと決断したのだ。そこで決つた決行日が2月26日だつたので ある。

 青年将校たちは日頃から今やるか今やるかと切羽詰まつた思ひに捕らはれてはゐたが、いざ決行となると必ず時期尚早論が出てきてまとまらなかつた。そこへ届いたこの転属命令の情報は誰にも異論を挟ませない決定打となつてしまつた。

 この転属命令は、軍の上層部が第一師団の青年将校たちの決起を怖れて、いつそのこと師団ごと満洲にやつてしまへといふ考へから来たものではないか、そして歴史の皮肉は、この命令が逆に決起を現実の物にしてしまつたと、松本清張は推測してゐる。(2006年8月17日)







 先日、ある役所で女性職員に書類のコピーを頼んだときのこと。彼女は快く引き受けてコピー機のあるブースに行くために通路に出てきた。

 その時私は念のために書類の内容を確認しようとして「ちよつと見せて」と女性の手元の書類を覗き込まうと近づいた。すると、彼女は「キャッ」と小さな声を発して私から飛び退いたのである。

 私はとても驚いた。そして、なぜ彼女に痴漢扱ひされなければならないのかと当惑した。私は彼女にそんなスケベ親父に見えたのだらうか。

 しかし、ここでもし勝手な推測が許されるならば、これは彼女の私に対する嫌悪感から生まれた行動ではなく、彼女の体に染みついた一種の条件反射だつたのだ。

 彼女は役所に就職してから、何らかの口実をつけて彼女に近づいてきた上役の男性職員にお尻などを触られた経験が何度もあるに違ひない。そこから身に付けた彼女なりの防衛反応だつたのだと。

 世間のセクハラに対する目は厳しくなつてゐるが、その役所ではセクハラを訴へる有効な制度がないために、女性職員は彼女のやうに自己防衛するしかないのが実態なのだ、と痴漢の冤罪を受けた私にはさう思ふことにした。(2006年8月16日)







 読売新聞の「読書委員が選ぶ『夏の一冊』」で編集委員の布施裕之がユン・チアン著『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を挙げてゐるが、その紹介文が面白い。

 この本が読売新聞の書評の選に漏れた際の内幕をばらしてゐるからである。つまり、この本には日中戦争についてのこれまでの日本の学界の常識を無視した記 述が沢山あるので、書評の先生方の評判が悪いらしいのだ。だから、先生方の御機嫌を損ねてはとボツになつたといふわけである。

 布施裕之はこの本を今回敢て『夏の一冊』に選んでおいて、わざわざ「張作霖爆殺がソ連情報機関の仕業だったとするくだり。・・・かなり怪しい」と、特にこの事件の解釈の件りの評判が悪かつたことを暴露してゐるのだ。

 そりやさうだ。張作霖爆殺が日本軍の仕業でないとなれば、昭和史は全部書き直さなければならなくなる。さうなれば日中戦争は日本の侵略戦争でなくなつてしまふかもしれない。そんなことになれば、過去の日本を批判してきた先生方はおまんまの食ひ上げである。

 だから、布施裕之は「やや筆の走ったノンフィクションとして読むなら、これほど面白い本はない」と先生方にさらに遠慮してみせる。そんなことはさらさら思つてもゐないくせに。(2006年8月15日)







 例へば人が海や川で溺れ死んだら、それは本人のミスとして処理される。しかし、プールで溺れ死んだらプールの管理者の責任になる。

 子供が鉄道に迷ひ込んで列車に轢かれて死んだら、それは親の管理ミスとして処理される。しかし、子供が回転ドアに挟まれて死んだら、回転ドアの管理者の責任になる。

 鉄道会社は子供が迷ひ込まないやうに管理すべきだとならないのは何故なのか、海水浴場の管理人は人が溺れ死なないやうに注意すべきだとならないのは何故なのかは知らない。

 しかしながら、人がどこで溺れ死なうとそれは本人のミスに起因し、子供がどこで死なうとそれは親の管理ミスに起因することは確かであらう。それはプールであらうと鉄道であらうと回転ドアであらうとどんな施設であらうと同じことである。

 その本人のミスや親のミスから出発して起つた事故の責任を全部管理者である他人に転嫁して、本人や親のミスを一切問はないことが習慣化してゐるやうだが、ひよつとして自分の命は自分で守るしかないことまで忘れられてしまつたのだらうか。(2006年8月14日)







 第二次大戦について「軍部が平和な日本を戦争の惨禍に引きずり込んだ」といふ言ひ方がされるが。当時は今考へられるやうな「平和な日本」などは無かつたことが松本清張の『昭和史発掘』を読めば分かる。

 明治の初めに伊藤博文たちが作つた天皇制資本主義国家である日本は、大正から昭和に移る頃には極端な富の偏在を生み出してしまつてゐた。

 農地はどこの町でも明治期の間にごく数人の大地主たちの手に握られてしまひ、農民は殆ど全員が小作人になつてゐた。

 企業も三井三菱などの数少ない財閥のコンツェルンが全ての富を独占してをり、労働者は満洲の安い労働力との競争と当時の不況とのために低賃金を強ひられてゐた。

 政治は天皇の周りの重臣たちの不動の勢力が権力を独占してゐたために総選挙によつては何も変はらず、「君側の奸」に対する憎しみが充満してゐた。

 つまり、当時の行詰つた日本社会は平和どころか上層部に対する敵意がみなぎつてゐたのだ。それを一身に体現したのが軍部の青年将校たちだつた。彼らは我 々が何とかせねばといふ思ひに満ちてゐたのだ。それが五一五事件、二・二六事件となつて現はれたのである。(2006年8月13日)







 日銀の福井総裁がマスコミのバッシングといふ弾圧から生き残つたのは、要するに違法行為がなく、最後に警察や検察が動き出すと云ふ構図にならなかつたためだらう。

 現代の日本で荒れ狂つてゐるバッシングの原型は、実は戦前の天皇機関説問題での美濃部達吉に対するバッシングの中に見られるものであり、それは松本清張の『昭和史発掘』を読むとよく分かる。

 「天皇陛下を『機関』とは何事か」といふ無知なそして単純な右翼の野次から始つた美濃部バッシングは、美濃部の理路整然たる弁明によつて逆に激化し、最 後に検察が動きだしたことで頂点に達するのだ。それまで頑固として学説の撤回を拒否し公職からの辞退を拒んできた美濃部は、検察に起訴状を突きつけられて 到頭屈服させられたのである。

 あの男はけしからんといふ大合唱の嵐を背にした検察が美濃部の著書のあら探しを始めて、遂に不敬罪に該当する一節を発見して美濃部を追ひ詰めるに到る過程は、堀江や村上たちに対する一連のマスコミによる弾圧の過程とそつくりなのだ。

 もちろん美濃部を弾圧した軍はもうゐないが、その代はりにマスコミが似たやうなことをやつてゐるのである。(2006年8月12日)







 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は野球についての名言だが、これは金儲けについても当てはまる。

 貧乏になる理由ははつきりしてゐる。借金、これである。借金をする理由もはつきりしてゐる。ギャンブルをするか働かないかのどちらかである。だから、少しも不思議ではない。

 それに対して金持ちになる理由は、その人の才覚であり運である。その才覚を真似ようとしても真似られるものではない。運もまた同様である。だから、不思議なのである。

 ところが、最近働いても働いても貧乏な人たちがゐる。正社員と同じ様に働いてゐるパートの人たちである。これをフルタイムパートと呼ぶらしい。

 しかし「パート」と「フルタイム」は矛盾した言葉である。パートの給料で正社員と同じだけ働かされるのであるから、これはおかしなことである。不思議な ことである。恐らくは何かの法に違反してゐるに違ひない。ところが、平然と求人広告にフルタイムパート募集と書く業者がゐる。

 それ位にパートのフルタイム労働が当たり前になつてゐる。かういふ不思議は改めなければならない。(2006年8月11日)







 最近「大阪地裁の裁判官が懲役1年2月の実刑を言い渡しながら、判決書の主文に同1年6月と誤記した」といふニュースがあつたが、これを読むと新聞は被害者であれば誰でもいいのかと思ひたくなる内容である。

 ここでの被害者とは恐喝未遂で有罪が確定した男のことである。恐喝事件で加害者だつたはずの男が、この裁判所の誤記事件では一人前の被害者として扱はれて「判決誤記のまま確定」と大見出しを附けて夕刊社会面のトップ記事にしてもらつてゐるのだ。

 そして「謝罪は一切ない。人を裁く裁判所がそういう態度でいいのか」と怒つてゐることまで書いてもらつてゐる。しかし、この男は正規の刑期で出所してをり、事実上何の不利益も蒙つてゐないのである。

 むしろこのニュースを読めば、刑事事件を起こして実刑になつたやうな男にそんな偉さうなことをいふ資格があるのかと思ふの普通だらう。それどころか、こ の男に恐喝されかけた被害者が現実にゐるわけで、その人から見れば、「誤記通りにもつと刑務所に入つてゐたら良かつたのに」と思つてゐるかも知れないの だ。

 まつたく新聞記者が被害者を持ちあげることが如何に常軌を逸してゐるかがよく分かるニュースである。(2006年8月10日)







 高校野球を見てゐて感動すると云ふ人がいるが、私の場合はどうしてあんなに愚かなのかと、見てゐてイライラすることばかりだ。なぜ考へて野球をしないのか、なぜあんなに精神力がないのかと。

 特に試合に負けておいおいと泣く選手たちにはいつもながらあきれてしまふ。あれでは小学生の腕白相撲と同じではないか。

 中学・高校と野球をしてきて、男なら負けて泣くなと教へられなかつたのか。その程度の感情のコントロールが出来ない者が、どうして甲子園まで来れたのか。単に運が良かつただけではないのか。

 情緒を抑へて理性的に行動すること、これこそが精神力である。ところが、甲子園に来る高校生は小学生と同じやうな子供でしかない。まつたく唖然とさせられる。

 18歳から大人扱ひをして選挙権をやれと言ふ人がゐるが、各地方の代表として出てきた高校3年生にもなる男たちがこのていたらくでは、とても大人扱ひなど出来ないではないか。

 「男が泣いてよいのは人生で一度だけだ」と君たちは聞いたことがないのか。この愚かな甘ちやんたちよ。(2006年8月9日)







 読売新聞が世論調査の結果から日韓関係が悪化したと書いてゐるが、では日本での韓国ドラマの高い視聴率をどう説明するのか。

 NHKが放送してゐる『チャングムの誓い』が、先週の土曜日に多くの地方で花火大会と重なつたにかかはらず19%近い高い視聴率を記録した。多くの日本人が韓国嫌ひならばとても考へられない数字である。

 あれは女が見るものだから関係ないとは口が裂けても言へまい。むしろこの結果は世論調査といふものが世の実態を反映せず、聞き方次第でいろんな数字が出るといふことを証明してゐることを認めるべきだらう。

 この世論調査では、日本の首相の靖国参拝の是非を日本人だけでなく韓国人にも聞くといふ愚かなことをしてゐる。

 これは読売新聞が首相の靖国参拝に反対してゐるからだが、その結果は皮肉なことに日本人の60%が「参拝しても構わない」と答へ、小泉首相支持層ではそ れが70%にまで昇つてしまつた。ついこの間のどこかの新聞が世論調査で参拝反対が過半数を越えたと騒いでゐたのは何だつたのか。

 まつたく世論調査とはいい加減なものである。(2006年8月8日)







 夏目漱石の『坊つちやん』には松山といふ地名は一度も出てこない。ただ四国辺といふだけである。かうした例はたくさんあつて、後の人間が漱石の意図に反して『坊つちやん』を松山の話にしてしまつただけである。

 この小説には温泉の話もあるが、それは「住田の温泉」であつて道後温泉ではない。松山の人間はこれを道後温泉と読み替へて宣伝してゐる。確かに建物は附 合するが、この温泉の話の主眼は、主人公が湯舟で泳いで次の回に行くと「湯の中で泳ぐべからず」と札を下げた田舎者の偏狭さである。

 その偏狭さは、最初の宿屋で見せつけられた客の扱ひ方から始つてをり、人が何を食べたかまでいちいち見てゐて話題にするいやらしさなどに表はされてゐる。しかし、これらが実際にあつた事実の記述と信じる必要はないのだ。

 有名な「ぞなもし」が松山の方言であるといふのも、根拠が『坊つちやん』だつたりして判然としない。言葉の後に「ぞな」をつける方言は全国にあるらしいから、それに「もし」を附けた漱石の創作である可能性もある。

 この小説で確かなことは、『今昔物語』によく見られる、不思議な土地に迷ひ込んだ人間がその土地で不思議な体験をして最後に抜け出してくる説話をモデルにしてゐることである。

 もちろんこれを松山の話に読み替へるのは自由だが、それは同時に松山が坊つちやんの云ふ「不浄の地」であることを認めることにもなると知るべきだらう。(2006年8月7日)







 アメリカでガソリンの値段が1ガロン3ドルになつたといふニュースが出た。1ガロンとは約4リッター足らずであるから、アメリカでは1リッター90円ほどといふことになる。

 日本ではそのガソリンが1リッター140円以上になつた。といつても、ではあしたから自動車をやめて電車に乗りませうといふ訳にはいかない。テレビでインタビューされてそんなことを言つてみても、現実にそんなことが出来るわけがない。

 もともと車を使ふこと自体が贅沢なのだが、この贅沢はもはや譲れない贅沢になつてゐる。持ち家がなくても県営住宅に済んでゐても、一人一台車を持つ時代である。もはや車は手足と同じなのである。

 そもそも1リッターで10円上がつた所で、50リッター入れて高々500円の違ひでしかない。この500円が惜しくて、車を使ふのをやめられる人は、初めから車など買はずに自転車で済ませられる人であらう。

 本当にガソリン代の値上がりが腹立たしいなら、とつくの昔にアイドリングストップが広まつてゐるはずである。ところが、現実の日本は炎天下の店先でクー ラーを切りたくないために誰も乗つてゐない車のエンジンがあちこちでぶるぶる鳴つてゐる国なのである。(2006年8月6日)







 昨日の読売新聞に夏目漱石が松山中学に赴任したのは明治28年4月と書いてある。戦前は学校は9月始まりだつたはずだがと思つて調べてみると、大学・高校は9月始まりだが、中学は明治19年から4月始まりに変更されてゐる。だから間違ひではないわけだ。

 年譜を見ると、漱石が明治26年7月に大学の英文科を卒業してから、28年4月に松山に行くまでに一年半の間がある。

 ところが、漱石の『坊つちやん』を読むと、主人公は卒業して8日目に校長に呼ばれて四国行きを言はれてゐるから、実際とは違つてゐることになる。

 そして小説の主人公が四国に行くのは4月の春ではなく、明らかに真夏である。

 赴任した季節を夏とは書いてゐないが、下女の清に「來年の夏休みに歸る」と「來年」を附けて言つてゐる、港に着いた時に赤褌だけで丸裸の船頭を見て「此 熱さでは着物はきられまい」と書き、宿屋の最初の部屋が「熱くつて居られやしない」と言ひ、中学の教頭が「此暑いのにフランネルの襯衣(しやつ)を着て居 る」と驚いてゐることなどから真夏だと推定できる。

 漱石は英語の教師だつたのに坊つちやんを数学の教師にしてゐることなど実際とは色々変へてあるのは知つてゐたが、季節まで違ふところを見ると『坊つちやん』は実際の出来事を思ひ出しながら書いたものでは全然ないことが分かる。(2006年8月5日)







 スポーツの試合には興行といふ重要な一面がある。試合は開催者が莫大な金を注ぎ込んで全部をお膳立てして行なはれるものである。だから、開催者側の選手がどうしても有利になる。ホームとアウェーが違ふのは、何も地元のチームに対する応援が多いからだけではない。

 これは国際試合ではもつと顕著になる。オリンピックやワールドカップで開催国がにはかに強くなるのは、地元の利だけではないのだ。

 ボクシングの試合ではむしろそれが常識である。外国の選手が敵地の試合で勝つてチャンピオンになるためには、相手をKOで倒すしかない。判定になつてしまつた段階でもう勝ちはないのだ。

 亀田興毅の勝利はだから当然のことで何も疑ふ必要はない。この判定を批判する日本人は余程のお人好しか、嫉妬深いかのどちらかであらう。

 私たちは亀田興毅が最後まで立ちつづけて、父親とTBSに恥をかかせなかつた事を多いに誉めてやるべきであり、相手選手は亀田を「子供」呼ばはりするならその「子供」を倒せなかつた自分を大いに恥ぢるべきであらう。(2006年8月4日)







 ドストエフスキー『罪と罰』の江川卓氏の翻訳は、簡単な所は実にこなれた日本語になつてゐて分かりやすいが、すこし訳しにくい所になると、原文の直訳になつてゐるといふのが実態のやうである。

 第二部「ぼくは最初、この場所のいっさいの偏見を根こそぎにするつもりで、いたるところに電流を放とうと思ったんだ」(岩波文庫の上250頁)「良心を 晴らすために、やつにも電流を通じてやろうかと思ったんだ」(同253頁)とあるが、「電流」とは具体的に何を意味するのか不明である。

 その直前の「こってり砂糖を利かせたからね」(249頁)は「誘惑する」と意味なのだらうが、日本語としてこなれてゐない。

 「そして、やつらに唾をかけてやるんだ!」(259頁)も米川正男の「そうすれば、あいつらなんかくそ喰らえだ!」の方が自然である。

 「署の事務官のザメートフ君、アレクサンドル・グリゴーリエヴィチとも近づきなったよ」(249頁)も米川氏の「ザミョートフ氏―ほら、あのアレクサン ドル・グリゴーリッチ、つまり、ここの警察の事務官とも、・・・知り合いになった」の方が誰が誰であるかが遥かに分かりやすい。

 『罪と罰』に関する限り、江川氏の功績は庄司薫的な文体(それは元々は『ライ麦畑でつかまえて』の訳者野崎孝の文体である)を採用することによつて、この作品を日本人に近づき易いものにした点に限定して評価すべきではないかと思ふ。(2006年8月3日)







 松本清張の『昭和史発掘』の「京都大学の墓碑銘」は所謂「滝川事件」を扱つたものであるが、この事件の実態が文部省と京大法学部の大喧嘩であり、「学問の自由を守る」といふ名目とはかけ離れた意地の張り合ひでしかなかつたことがよく分かる。

 滝川の問題はもともと右翼の学者がけしかけたことだつたが、文部省も最初は大ごとになるとは思はずに様子見してゐたものが、国会で取り上げられて問題がどんどん大きくなつてしまひ、京大総長が東京で文部省の役人と協議せざるを得なくなつた。

 総長の曖昧な態度に発したマスコミの滝川辞任報道によつて、京大法学部は態度を硬化、文部省は滝川辞任で事が治められたと思つてゐたので引つ込みがつかなくなる。

 そして到頭文部省は滝川の休職を発令、それ対抗して京大法学部全員が辞表を書く事態となり、につちもさつちも行かなくなつてしまつた。

 もちろん全員が辞表を書ゐたのは「京大法学部が無くなつて良いのか」といふ脅しだつたが、本気で辞める気のない者がかなりゐることがその内に分かつてきた。そこで、文部省が強硬派の教授だけを首にしたら残りの教授は辞表を引つ込めてしまつた。

 かくしてハツタリが破れた京大法学部は存続してしまひ、この喧嘩は文部省の勝ちに終つた。しかしながら、滝川は戦後ちやつかりと京大教授に復職して総長 にまでなつてゐる。結局この事件は滝川の軽率さに多くの人間が振り回されただけのことだつたのである。(2006年8月2日)







 お見合ひを40回もして全敗だつたといふ男性がテレビに出てゐたが、40回もお見合ひをした気持ちは分からなくもない。結婚も出来ないのに何でまじめにあくせく働く必要があるのかと思ふからである。

 しかし、お見合ひなどは一回すれば充分である。お見合ひに出てくる女は顔は違つてゐても、中身はみな同じで同じ対応をしてくるからである。

 昔ならお見合ひをしたら、嫌ひでない限り結婚したものだが、今では好きでないと、つまり自分のタイプでないと結婚しない。そして女の好きなタイプといふのは人によつてあまり違ひがないのである。だから何回見合ひをしても駄目なものは駄目である。

 ただ唯一希望があるとすれば、それは旦那を顔で選んで失敗した経験を持つバツイチ子持ちの女ではないか。母子家庭の経済状況は日本ではひどいものだからである。

 だが、それでも駄目なら、仕事は適当にやつて一人で気儘に暮らすのが一番だ。結婚したつて実はろくなことはないのだから。(2006年8月1日)







 松本清張の『昭和史発掘』の中の「桜会の野望」と「五一五事件」を読むと、昭和初期の行詰つた世の中を何とかしようとする改革運動が、民間でも軍部でも強烈な力を持つて胎動してゐたことがよくわかる。

 満洲事変にしろ血盟団事件にしろ五一五事件にしろ、全部がこの国内変革を求めるマグマのやうな巨大な力に突き動かされて発生したものであつて、何をどうしてゐたらこれらの事件が避けられたといふことは全く想像しがたい程の必然性があつたことがよく描かれてゐる。

 特にこの本で注目すべきは、血盟団事件が直接の五一五事件と繋がつてゐたことを明らかにしてゐることである。先づ井上の仲間が民間側として決起した後 に、将校たちが軍隊側として五一五事件を起こしたのである。この二つは一連の運動であり、井上日召の改革思想が軍にも多くの共鳴者をもつてゐたからこそ、 五一五事件が起つたのである。

 実際、井上の作つた暗殺者名簿はそのまま五一五事件に受け継がれてをり、例へば五一五事件で殺された犬養はすでに井上の殺害目標に挙げられてゐた。

 これらの策動は、腐敗した政党政治を排して軍による独占政権を樹立する以外に、最早日本を救ふ道はないといふ切羽詰まつた思ひの現れであり、それは国民 の間に広く共感を得てゐた。五一五事件の被告たちに対する減刑嘆願書35万通はまさにその表れだつた。(2006年7月31日)








 歌舞伎が男だけなのと宝塚が女だけなのとは意味が違ふ。歌舞伎はもともと男女でやつてゐたのに、江戸時代に幕府によつて女の役者が禁止されたから男だけでやることになつたのである。

 ところが、現代でも歌舞伎は男だけでやつてゐる。それは歌舞伎が現代の創造物ではないからである。それはクラシック音楽が昔々に作られた作品を演奏してゐるのと似てゐる。

 女の役者はもう禁止されてゐないのだから女を舞台に戻しても良ささうなものだが、戻すに戻せないのである。女は舞台でどう演じたらよいか分からないのである。それが伝はつてゐないのである。

 歌舞伎は内容から言へば男だけで演じなければならないものではない。しかし、歌舞伎の演目は女ぬきの芸能として完成したものである。そしてそれが古典と して伝はつてきた。古典であるから、昔の人がやつた通りに演じなければいけない。その昔やつた記録に女がゐないのである。

 だから、歌舞伎に女は無用なのである。男女共同でなくても、歌舞伎で充分やつていけるのである。(2006年7月30日)







 マスコミは報道しないやうだが、プロ野球のセリーグはオールスター直後の阪神×中日戦で阪神が三連敗して事実上中日の優勝が決定してしまつたので、翌日からは延々と消化試合になる。

 パリーグと違つて、セリーグは毎年早ばやと優勝チームが決まつてしまふ。これは試合数が少ないから逆転が不可能なこともあるが、プレーオフ制をとつてゐないこともその原因だ。

 アメリカの大リーグなら、シーズンを一位で終つても優勝チームにはならず、プレーオフがあるために最後の最後まで興味が残るが、日本のプロ野球のセリーグはすぐに興味が失せてしまふのである。

 ところが、プロ野球のお偉方はこの上さらにファンの興味を損なふことを考へてゐるやうだ。

 交流戦が面白いのだから1リーグ制にしたらどうだとか、プレーオフ制の方が興味が続くのだからプレーオフの勝者を優勝チームにしようとか、ファンが面白がるやうなことを、彼らは一切考へないのである。

 逆に、優勝チームをプレーオフの勝者ではなくシーズン一位のチームにしてみたり、プロ野球でいま唯一面白い交流戦を減らさうとしてゐるのである。プロ野球は益々つまらなくなりさうである。(2006年7月29日)







 日本は格差社会といふより階級社会になつてきてゐると思ふ。それは正社員階級とパート・アルバイト階級に別れた社会である。

 パート・アルバイトと云へば昔は一家の中に正社員として働く人間がゐる傍らで、子供や妻が働く形態のことであつた。だから、パート・アルバイトは週二回ほど一日三・四時間働くことを意味してゐた

 ところが、今ではパート・アルバイトは複数の企業にわたつて毎日八時間以上働くこと意味するやうになつてきてゐる。しかも、一家の中に正社員として働く者が一人もゐないために、パート・アルバイトの給料で家族を維持するために土日も休まず働かねばならないのだ。

 寮に入つて夜昼交代で働いてゐるのに、パート・アルバイトであることも珍しくない。労働時間は正社員と同じかそれ以上でありながら、パート・アルバイトは正社員より遥かに少い給料しかもらへないのだ。

 かうして今や日本には新たなカースト制が生まれつつある。最近海外旅行に行く人が増えたと云ふが、それは正社員階級の話であつて、彼らの優雅な生活をパート・アルバイト階級の苛酷な労働が支へてゐるのである。(2006年7月28日)








 大きくなつたらお花屋さんになるのが女の子の夢だつたりするが、花屋といふ商売は実際には可愛らしい商売ではない。花と云ふものは非常に高価な商品であり、しかも祝儀不祝儀には欠かせない必需品とあつては、うまくすれば億単位の金儲けにもなる。

 翻訳もまた億単位の金儲けになることを、今回のハリーポッターの翻訳者の税金逃れのニュースで知つた。

 翻訳は何かの資格があつてするものではないが稼げる人は稼げるのである。逆に、医者になつても弁護士になつても貧乏をして犯罪に手を出す人もゐる。

 金儲けは資格ではなく才覚の問題なのだ。

 それにしても、ハリーポッターの翻訳者は何を思つて日本で税金を払ふことを嫌つたのだらうか。

 ハリーポッターの本を買つたのは日本の子供たちだ。その子供たちがなけなしの小遣ひを貯めて買つてくれたのだと思へば、先づもつてその子供たちが使ふ施設や図書館の費用に使つてくれと寄付する位の心遣ひが在つてもよささうなものだ。

 ところが、この女翻訳者はニュースの通りだと、寄付するどころか、ちやんと税金も払はずに儲けを独り占めにしてスイスに逃げてしまつたことになる。もし 子供たちがこれを知つたらどう思ふだらう。是非ともNHKの子供ニュースで取り上げて欲しいものである。(2006年7月27日)







 世論調査で首相の靖国参拝に対する反対意見が過半数になつたといつて社説で早速靖国参拝中止を求めた新聞社も、滋賀県の知事選挙で新駅反対の民意が出たといつてJRに新駅建設中止を求めたりはしないやうだ。

 新駅問題では地元の直接の利害が絡んでくるからだらうか、新聞は何が正しいかを言ふことをやめてしまつて、「新知事お手並み拝見」と完全な傍観者を決め込んでゐる。

 しかし、公共工事による税金の無駄遣ひをやめようといふ流れは、長野の脱ダムから始り、全国に着実に広まりつつある。

 その表れの一つが今回の滋賀県知事選挙であり、私の近くでは兵庫県稲美町や播磨町での町長選挙である。

 この二つの町では借金をしてまで強引に公共工事を進めようとしてゐた現職町長が相継いで落選した。こんな小さな町の住民たちももう箱物行政にはうんざりしてゐるのだ。

 住民たちは最早土建屋に金を回すことに熱心な人ではなく、もつと身近な生活を大事にしてくれる人を求めてゐるのだ。この問題で新聞がいつまでも無責任なことを言つてゐると、いづれは世間から見放されてしまふだらう。(2006年7月26日)







 私は日本は格差社会であるとは思はないが、謝罪社会であるのは確かだらう。とにかく謝つておけといふこの考へ方はあらゆる場面に出てくる。

 それでうまく行くときもあるがさうでない場合もある。例へば、これが刑事事件に出てくるときに冤罪事件が生まれる。

 被疑者がやつてもゐないことに対してとにかく被害者に謝罪してしまふのが冤罪である。名張の毒入り葡萄酒事件で容疑者とされた男性が謝罪してゐる場面をテレビで見たが、あの人は何もしてゐなかつたのだから驚きである。

 それでも他の場面ではとにかく謝罪しておけばうまく行くのが日本社会である。しかし、それが外国でも通用すると思つて、日本政府は第二次大戦のことをアジアの国々に謝罪して廻つたが、これはうまく行かなかつた。

 外国では謝つてもそれで済みはしない。謝るんならあれをしろこれをしろと次々に言つて来る。言ふ通りにしないのなら謝つたのは嘘だつたのかとなる。首相の靖国参拝にケチを付けてくるのもその一つだ。

 謝罪社会といふ日本の特性をよく知つて上手く立ち回つたのが、石油ファンヒーターで死者を出したのに大して叩かれなかつた松下電器だつたわけである。(2006年7月25日)







 大相撲の千秋楽で雅山と白鵬が勝てばそれぞれ大関・横綱に昇進すると報道されてゐたので、それを信じてテレビを見た。ところが、二人とも勝つたのにどちらも昇進は見送られたと発表されたのだ。

 白鵬の横綱昇進見送りの理由は朝青龍に独走を許したからだと理事長が言つたさうだが、そんなことは前日の段階で分かつてゐたことだ。それならなぜファンに気を持たせるやうなことを言つたのか。

 前日の報道では確かに白鵬が千秋楽に勝てば横綱になれるやうなことを言つてゐた。あれは嘘だつたのか。

 これでは単に最終日を盛り上げるために編み出した相撲協会の策略だつたのではないかと疑ひたくもなる。重要な一番となると思はれたからこそテレビの視聴率も上がつたはずだ。それが違つてゐたのだからファンは騙されたやうなものである。

 今や高齢者の間でさへも、大相撲は外人ばかりで面白くないといふ意見が広がつてゐる。外人ばかりが優勝するのだから、表彰式で「君が代」を唱ふのはやめたらどうかといふお年寄りファンは多いのだ。

 その上に今回のファンを騙すやうな協会のやり方である。協会は力士に礼儀作法を教へる前に自分たちの言葉遣ひを学んだ方がいいのではないか。(2006年7月24日)







 プロ野球のオールスターゲームに登板した阪神の藤川は、先づ打者に向つて帽子を取つて挨拶をしてから、全部直球で行きますよと ボールの握りを打者に示してから投球を始めた。そして二人を三振にしとめると、その後でまた打者に向かつて帽子を取つて深々とお辞儀をしたのである。

 ところが、新聞が書くとかうなる。「投球練習を終えた阪神・藤川はボールを握った右手を、迎える西武・カブレラに向けて突き出した。打ってみろ――と言わんばかりのふてぶてしいポーズ」。お辞儀ばかりをしてゐた男のどこがふてぶてしいのか。

 元官房長官の福田康夫氏は総裁選の話題になるといつも「迷惑だ」と言つてきた。確かに「出ない」とは言はなかつたが、出るわけがないのに出る出ないを言ふのは意味がないから何も言はなかつたのである。

 それなのに「出ないならはつきりさう言ひなさい」と誰かに言はれて「出ない」と言はざるを得なくなつた。

 そして「僕は出馬するといふことを言ひましたか。言ひました?」と念を押したのである。これは出るわけがないから何も言はなかつた自分が何で不出馬表明しなきやならんのだといふ憤りの表れにほかならない。

 ところが、新聞が書くと「不出馬表明した福田氏の言葉は端々に悔しさがにじんだ」となる。新聞記者とはとかくとんちんかんなことを書くものらしい。(2006年7月23日)







 日本人は法律を杓子定規に守れば全てがうまく行くと思ひがちで、警察はせつせと人を逮捕する。駐車違反の取締りも同じで、民間の調査員を雇つてどんどん検挙すれば世の中良くなると思つてゐるのだ。

 しかし、車は止まるために動かすのである。止まると云ふ目的を禁止したら車を使ふ意味が無くなつてしまふ。

 なぜ駐車禁止を取り締まることより、駐車禁止の場所を減らすことを考へないのか。道路は通るところであるだけでなく止まるところでもある。それを止るな、車から降りるなとは何事であるか。

 アメリカやヨーロッパの道路の両側は車がびつしりと駐車してゐる。あれは全部駐車違反なのか。

 道路といふものは、もともとは近所の住人が無償で自分の土地を出し合つて作つたのが始まりである。それをまるで警察の持ち物のやうに規制して、走るだけのために使はせようとする。

 道路は国民のものである。それをどう使ふかを警察が勝手に決めた通りにしろといふのは民主的ではない。ましてそんな警察に雇はれて駐車違反を検挙して廻る民間人は、国民に対する裏切り者ではないのか。(2006年7月22日)







 日本のことを「謝罪社会」と名付けてよいのではないかと私は思ふ。「何でもいいからとにかく謝つておけ」とはよく言はれる言葉だが、日本ではこれが一面の真実を衝いてゐるのだ。

 その典型が、日本のプロ野球でデッドボールを与へた投手が打者に対して帽子を取る仕草だ。アメリカの大リーグの投手は知らん顔だから、これは日本だけの風習なのだらう。

 企業の不祥事にしても、記者会見で謝罪したかどうかが大きなニュースになる。こんな国は他にはないと思ふのだが、新聞記者たちはこの謝罪の有る無しに狂奔する。

 しかし、謝罪などと云ふものは外見的なものであつて、心の中ではアッカンベーをしてゐても分からないのである。ところが、日本人は外見を即ち内心の現れだと認定するのだ。

 事件の被害者にしてみても「形だけの謝罪なんて要らない。欲しいのは金だ」といふのが本心の筈なのだが、何かと上辺の言葉にこだはる。

 企業バッシングで謝罪ニュースを見るたびに、まつたく日本はフランスに劣らぬ変な国だと思ふのである。(2006年7月21日)







 岩波文庫の新しい『罪と罰』を江川卓氏の訳で読み始めたが、上巻の212頁でストップしてゐる。第二部第一章、警察署での役人たちの会話に、

 「でも犯人を見かけたものはだれもなかったんですかね?」
 「見かけるはずがあるもんですか。あの家は、ノアの箱船同然なんですから」

といふのがある。この「ノアの箱船同然」といふのがよく分からないのだ。これには江川氏によるこんな注釈が附いてゐる(411頁)。

 「ノアの箱船 ノアの箱船に多数の動物がいたことから」

 動物が多数ゐた事と、目撃者がゐるはずがない事とどう関係があるのかと、考へ込んでしまつた。ここの住民は動物のやうにろくに人間の言葉もしやべれないといふ意味なのか。

 ところが、この岩波文庫(1999年)よりずつと前に出ている江川氏の『謎とき「罪と罰」』(1986年)といふ本に、ノアの箱船とはロシア語の慣用句で普通は「雑多な人間がごたごたと住まっている大アパート、あるいは雑居ビルを指す」(129頁)と書いてあるのだ。

 これなら分かる。このアパートの住民は互ひの出来事に関心がなく好き勝手に暮らしてゐるから、誰に何が起こらうと気にもかけない人たちなのである。これなら、目撃者がゐない事とつながつてくる。

 したがつて、江川氏は岩波文庫の注釈を次のやうに書き換へるべきだつた。

 「ノアの箱船 雑多な人間がごたごたと住まっている大アパートの比喩」と。(2006年7月20日)







 自動車業界ではミニバンブームださうだが、日本は少子化で子供が居なくなつてゐる。いつたい大きな車に誰を乗せようとして人々はミニバンを買ふのだらうか。

 日本の家族の子供は一人か多くて二人だ。核家族化で年寄がゐないのだから7人乗りのミニバンの三列目のシートに乗る人はゐないのが実状ではないのか。

 7人も乗らないのに7人乗りを買ふのは、奥さんの買物に便利だといふことが大きいのかも知れない。奥さんが大きなミニバンに一人で乗つてゐるのをよく見かけるからだ。しかし、それでは省エネ時代にガソリンの無駄遣ひといふものだらう。

 いや唯一ミニバンが流行つてゐない施設の駐車場がある。それはゴルフ練習場の駐車場である。そこに停まつてゐるのは昔ながらのセダンが主流である。

 何と言つてもミニバンの荷台はゴルフバッグを積むのに適してゐない。セダンのトランクと違つて、ゴルフバッグが外から見えるのでガラスを割つて盜まれる心配があるからだ。

 つまり、セダンに乗つてゐる男たちは、不景気の時代にもゴルフを続けてゐるやうな人たちであり、家での発言権の強い人たちだと云ふことになるのかもしれない。(2006年7月19日)







 小泉首相は運がいいとよく言はれるが、運の良さはリーダーが持つべき重要な資質の一つであり、それは誉められこそすれ批判すべき事ではない。

 運の悪い人間が一国のリーダーになれば、その人間の運の悪さは本人の不幸だけでなく、それがそのまま国民の不幸につながるからである。

 日露戦争で連合艦隊の司令長官に東郷平八郎を選ばれたとき、その大きな理由の一つに東郷は運がいい男だと云ふのがあつたのは有名な話である。誰をリーダーに選ぶべきかを考へるときに、その人の運の良さは昔から重要なファクターの一つだつたのである。

 折しも日本の景気回復が本格的になつたといふ。これを小泉首相の政策が成功したからではなく、単に彼が運が良かつただけだといふ声があるが、もしさうだとしてもそれで充分ではないか。

 どんな立派な政策を実行しても運が悪くて不景気な首相よりは、どんな政策によつてにしろ景気を恢復させる強運をもつ首相の方が余程よい首相であるのことに間違ひはないからである。(2006年7月18日)







 事故によつて死んだ人の遺族が誰かに刑事責任を取らせることによつて心が癒されることがあるかのやうなマスコミの報道姿勢は疑問である。

 争ひの結果で人が死んだ場合に報復を求めることは人情に適つてゐる。だから、『忠臣蔵』はいつまでも人気がある。しかし、事故の場合にわざわざ責任者を探し出して罰を加へようとするのは、憎しみを作り出すだけで慰めをもたらしはしない。

 争ひには人と人の繋がりがある。それに対して事故には元々の人間関係がない。元々無いところに人間関係を作り出して謝らせようとするのが遺族報道の中心である。それは運が悪かつたと諦めようとしてゐる人間に憎しみの対象を与へようとする行為である。

 ところが、憎しみからは何も生まれないのだ。いや、もしかしたら相手次第では金が取れるかも知れない。しかし、いくら金をもらはうが誰が罰されようが、憎しみに終りはないのである。

 むしろ憎しみは人を醜くする。加害者の極刑を求める人間に同情する人はゐても尊敬する人はゐないのではないのか。(2006年7月17日)







 さぞトヨタはほつとしてゐる事だらう。今度は自分の番かと思つたら、翌日にはバッシングの対象はパロマに移つてゐたからである。

 湯沸かし器の一酸化炭素中毒で人が死んだニュースは何度も見た。不正改造が原因だつたことが今頃明らかになつたとしても、当時よく調べもせず記事を書いてゐた記者たちも威張れまい。

 パロマは日本の企業にしては珍しく記者会見で謝罪しなかつたといふ。もちろん自分の側に落ち度がないなら謝罪しないのが正しいことで、謝罪しないのがおかしいかのやうに書く新聞の方がおかしいのである。

 そもそもどんな製品でも使用中に起きた事故の責任を何でもメーカーに負はせようとする事がおかしいのである。製造、設置、保守点検、使用のそれぞれで責任者は違ふはずだ。ところが、メーカーなら金を持つてゐるだらうとマスコミは何でもメーカーにせゐにしたがる。

 それもこれも被害者やその遺族の側に偏した報道姿勢の結果だが、かういふ偏つた報道に正しさや正確さを期待することが土台無理なのは明らかである。(2006年7月16日)







 自動車のリコール件数がこの二年ほど異常な数にのぼつてゐる。昭和時代には届け出件数が年間一桁も珍しくなかつたのに、平成になつて二桁が普通になり平成16年には331件とほぼ毎日リコールの届けが出されるといふ滅茶苦茶な事になつてゐる。

 これは昭和から平成になるに従つて日本の自動車メーカーがいい加減な車を沢山販売するやうになつたなのかと言へば決してさうではなく、警察が自動車業界に口出しするやうになつたからである。つまり、リコールしておかないと逮捕される恐れがあるやうになつたからである。

 その結果、例へばトヨタは国内での年間販売台数より多い約180万台もの台数を毎年リコールしなければならない事態になつてゐる。

 それなの熊本県警が10年も前のことをほじくり出してきて、リコールを一件怠つたとトヨタの部長ら三人を送検したのである。これではトヨタも一体どれだけリコールしたらいいのかと云ひたくもなるだらう。

 そして、リコールするかどうかの判断を警察に教へられる必要はないとトヨタがお怒りなのも当然だ。

 最近では医学の世界に口出しして医師を逮捕したりと、警察の傲慢な姿勢が色んな方面で目立つやうになつてゐるが、自動車業界もその被害者になつてゐるといふわけである。(2006年7月15日)







 ジダンはサッカー馬鹿だつた。頭突き行為の弁明にテレビ出演したジダンは、「暴力よりも耐へ難い言葉の侮辱を受けたのだから後悔してゐない、むしろ罰を受けるべきは挑発した方だ」と言つたのである。

 そんな理屈がまかり通るものなら刑法はまるつきり改正しなければならなくなる。

 元々サッカーは人間のくせに手を使はずに足を使ふスポーツであり、とてもお上品なスポーツとは言へない。その上にサッカーグランドでは「やーいやーい、お前の母ちゃん出べそ」に類する子供じみたいじめの言葉が飛び交つてゐるのだ。

 ジダンはそれに挑発されて暴力に及び、おまけにテレビに出て「こんな事を言はれたの」と大人たちに言ひつける大きな子供である。

 ところが、大半のフランス国民がこの男を「さうかさうか可哀想に」と宥める始末である。かつてシドニーオリンピックの柔道で篠原に裏返しにされたフランス人が金メダルをとつたことに何の疑問も懐かなかつた変な国だけはある。

 文化大国フランスと言つてもそれは昔の階級差別の産物であつて、革命以降のフランスがもたらしたものはストライキと暴動と、そして自分の暴力を正当化す るサッカー選手くらゐの物でしかない。今のフランスはとても尊敬に値する国とは言へないのである。(2006年7月14日)







 北朝鮮によるミサイル発射はアメリカの独立記念日に当つたため、アメリカ向けの示威行為であると言はれてゐるが、私は韓国がその日に実施した日本の領海内での海洋調査に対する援護射撃ではないかと思つてゐる。

 北朝鮮は、韓国の調査活動が日本と一触即発の事態に発展する可能性があると見て、韓国と一体化して日本に対抗する好機であると見たのだと思ふのである。

 ところが、韓国政府は当初それに気付かずに北朝鮮を非難する声明を出してしまつた。そのため、北朝鮮は韓国を脅す常套手段である「火の海」発言を出すに至つたのである。

 その後の南北閣僚級会談で、北の代表が「『軍優先の政治』は南側の安全を図るものだ。南側の広範囲の大衆が先軍の恩を受けている」などと主張したことからも、援護射撃といふ見方があながち的外れではないと思はれる。

 もつとも韓国の大統領府は北の意図を先刻御承知だつたらしく、北のミサイル発射に対する日本の騒動を「騒ぎすぎ」と言つたりして、北朝鮮に歩調を合はせようとしてゐる。

 もしこの援護射撃といふ見方が正しければ、次に北朝鮮がミサイルを発射するのは日本側が日本海の海洋調査を実施して日韓の緊張が高まるときになると思はれるが、さてどうなるだらう。(2006年7月13日)







 新聞は社説でニートやフリーターに正社員になることを勧めるが、その理由に正社員になると結婚が出来るといふのがあつて笑はせてくれる。

 あれを書いた人間は結婚してゐるらしいが、その人が結婚できたのは自分の魅力のせゐではなく正社員だからだと思つてゐるらしいからである。

 しかし、正社員であるから結婚できるのなら、退職したら離婚されても仕方がないことになつてしまふ。実際、夫の定年退職と同時に離婚する妻が増えてゐると云ふではないか。

 すると正社員であることによる結婚とは要するに女の側から見た金目当の結婚を肯定することになる。そんな結婚を得た男は幸福を得たと言へるのだらうか。

 そもそも結婚とは気持ちでする物のはずだが、正社員でること、つまり安定した収入が結婚の重要な条件であるとするのは、新聞記者が最近批判してゐる拝金主義ではないのか。

 きつと統計では正社員の方が結婚してゐる確率が高いのだらう。しかし、それがどんな結婚であるかは統計には現はれないのである。(2006年7月12日)







 殺人と云ふのはやつた事のない人間にとつては謎である。なぜ人を殺してしまふのか、なぜそこまでやるのか理解できない。いや恐らく人を殺してしまつた人にとつても謎なのではないか。警察は色んな理由付けをするが、殺人は殺人犯にとつてもやはり謎なのではないか。

 人間の行動には理性だけでは計り知れないものがある。犯罪は損得勘定からすれば明らかに損なのに罪を犯してしまふ。そこには何か本能的なものが潜んでゐるに違ひない。

 人が自分自身に言葉で命令することによつて行動することはどれほどあるだらうか。行動とは流れの中でいつの間にかしてゐるものではないか。スポーツでは、むしろその領域に達しなければ大成しないと言はれる。

 だから理性だけでは駄目なのだ。理性は欲望や感情などの本能に支へられたときに力のある行動に結びつく。ところが、人が本能の力を知つて利用することはなかなか出来ない。

 人間は理性と本能の狭間で暮らしてゐるのだ。その微妙なバランスが崩れるときに人は犯罪者になるのではないか。(2006年7月11日)







 また日本はアムネスティに叱られた。死刑制度を廃止しないばかりか、死刑の日にちを明らかにしないことで死刑囚に謂れ無き恐怖を与へてゐると。

 アムネスティは死刑を国家による殺人であると明確に規定して、日本はそれを実行してゐる数少ない先進国であると指摘する。そして世論の支持を死刑の正当化の根拠とするのは間違ひだと、日本を痛烈に批判してゐる。

 日本では戦争を国家による殺人だとして批判する声は大きいが、もう一つの国家による殺人である死刑を批判する声は少ない。

 それどころか、厳罰化は凶悪犯罪を減らすための正しい流れだといふ意見が広まつてをり、今回のアムネスティによる批判は大きなニュースにもならなかつたのである。

 しかしながら、厳罰化は世界の流れではない。世界の「125カ国が法律上または事実上死刑を廃止しており、アジアではフィリピンが6月に廃止を決めた。韓国でも廃止の動きがある」といふのだ。

 死刑とは被害者の遺族が国家の手を借りて行ふ殺人である。国家の手を借りた殺人を奨励することで、国家の手を借りない殺人を減らすことなど出来る分けがないのは明らかではないか。(2006年7月10日)







 ワールドカップが始まるまではあんなに強かつた日本チームがワールドカップが始まつた途端に弱くなつてしまつた。実に不思議なことである。

 一つの同じチームなのであるからワールドカップが始まる前と始まつた後で日本チームの持つてゐる実力は同じはずである。とすると、それは強いものが弱くなつたのではない。

 日本はなぜ一勝も出来なかつたのか。それは持つてゐる実力を発揮できなかつたからである。そして、その原因は私は時差の問題が大きいのではないかと思ふ。

 日頃ヨーロッパでサッカーをしてゐる日本人選手たちは、日本に帰つて来て代表に選ばれ、またヨーロッパに帰つて行くといふ二度の時差の変化を克服する必要があつた。

 思ひ出して欲しい。日韓大会でヨーロッパのチームが日本や韓国で相継いで敗れ去つたことを。ところが、今度の大会ではヨーロッパのチームが強い。これには時差もなく自分たちの住み慣れた環境で試合が出来たことが大きいのではないか。

 そして、かう考へれば日本人選手、そしてブラジルの選手たちの不振も理解できるのではあるまいか。(2006年7月9日)







 7月7日の読売新聞の編集手帳は分かりにくい。極刑を望む被害者の親の気持と、命を惜しむ「惜命」の気持がどう関係があるのだらうか。

 「広島市の小学1年生あいりちゃんを殺害した被告に先日、地裁で無期懲役が言い渡された。『あいりちゃん、ごめん、負けたよ』。極刑を求めていた父親が心臓から絞り出すように語った言葉が耳に残っている」

 これは暴力による復讐を求める人の言葉である。心を鬼にして、自分の子の命の代償を求める人の姿である。裁判の勝ち負けに人生を懸ける人の姿である。けつして命を惜しむ人の言葉ではない。

 もし本当に命を惜しむ人なら自分の子の命だけでなく、人の子の命も惜しむはずである。そしてヤギ被告にも親がゐる。

 極刑を望む人は、命を惜しむ人ではない。「あんな奴は死ねばいい」「あんな奴は殺してしまへ」といふ考へ方が社会にはびこつてゐる。だからこそ残虐な事件が頻発するのである。
 
 人は赦さねばならない。人を赦してこそ「惜命」といふ言葉が輝きを持つてくるのではないのか。(2006年7月8日)







 北朝鮮がミサイルの発射実験をしたらマスコミはまるで戦争が始まつたやうな大騒ぎだ。一方、王監督が手術を受けると言ふとまるでもう亡くなつかのやうな騒ぎ方である。

 しかしながら、本当は何がどうなつてゐるのかは報道からは全く分らない。ミサイルは実験なら実弾は装填されてゐないはずだからどこに落ちようと被害はないはずだし、王監督も胃癌でないのなら腫瘍を取り除くだけの話であらう。

 では、一体、北朝鮮のミサイルには実弾が装填されてゐたのかどうか、王監督は胃癌なのかどうか。一番知りたいことを報道は教へてくれないのである。それでゐながら大騒ぎをしてゐるのだ。

 かういふ場合は、実弾が装填されてゐたのではないか、王監督は胃癌なのではないかと、一緒になつて心配しろと云ふことなのだらうか。

 そもそも自民党の総裁選に出馬すると仄めかしもしない、いやむしろ迷惑がつてゐる人を総裁候補に含めて世論調査することからして分からない。マスコミの言ふこと為ることには全くついて行けない今日この頃である。(2006年7月7日)







 NHKの番組で姫路のモノレールの車両が地下で埃まみれになつて放置されてゐるといふことを知つた。実にもつたいないことをするものだ。今から見れば立派な文化遺産だからである。

 アメリカのやうな歴史の浅い国では自分たちが歴史を作つて行くといふ意識が強い。だから、イチローが最多安打記録を作つたバットが即刻野球殿堂博物館に収納されただけでなく、用が済んで使はれなくなつたものは文化遺産としてすぐに博物館などに入れて展示物にする。

 一方、姫路のモノレールは莫大な赤字がかさんだ末の廃止といふことで、誰の目にも届かない所に仕舞ひ込まれてしまつた。

 人間のすることには失敗も成功もある。なのに日本人は失敗は隠してしまふか、逆に広島ドームのやうに自虐的に人目にさらすかのどちらかになる。しかし、たとへ結果は失敗でも良いところもあつた筈なのだ。ところが、それを全否定するから展示できなくなる。

 姫路のモノレールも車両のデザインや日本で二番目のモノレールだつた事など、誇れる点はいくらもある。失敗にも「よいところもあつた」と思ふところから自分たちのありのままの歴史を築けるのではないか。(2006年7月6日)







 滋賀県の知事選挙で新幹線の新駅建設を進めてゐた現職知事が落選した。借金してまで新駅を作る必要はないといふのが県民の判断だ。

 新幹線には名古屋と京都の間に現在米原駅と岐阜羽島駅がある。さらに三つ目の駅を滋賀県南部に作らうと云ふのが今回の計画だつた。

 栗東近辺の人たちは東京へ行くとき在来線で一旦京都へ戻らねばならないが、新駅が出来ると名古屋から東京直行になる「ひかり」に乗ることが出来て、京都へ戻る必要がなくなるのだ。

 実際に出来ればこの方が便利なことは確かで、新駅が出来ても京都に戻ると言つてゐる人は、神戸空港が出来ても使はないと言つてゐた神戸の人たちと同じであらう。

 問題は建設費だ。地方自治体の多くは今だにどんどん借金をしてもよいといふ考へ方だ。しかし、兵庫県播磨町でも同じ考へ方の現職町長が落選した。

 国が小泉改革で公共工事を止めて歳出削減してゐるときに、箱物行政で借金を増やし続けて公共工事を優先する地方政治は、今や全国的に拒否されつつあるのではないか。(2006年7月5日)








 最近、アイドリングストップと云ふのを実行してゐる。これは車が信号で止まるたびにエンジンを切ることで、テレビで宣伝してゐるので後続車に遠慮せずやれるやうになつた。

 ただしこれには面倒なことが色々ある。まづ車のエンジンを切るとラジオ以外の電源が切れて、例へばエアコンが効かなくなるので、夏はすぐにキーを半分だけ戻して電源だけは入れてやる必要がある。

 また、マニュアル車ではエンジンを掛けるときにクラッチを踏んでゐる必要がある。これはギアをローに入れる動作と連動してゐるので無駄ではない。一方、 AT車の場合にはギアをPかNに入れないとエンジンが掛からない。これは停車時にギアをNにしてハンドブレーキを引く癖を付ければ面倒ではなくなるかもし れない。

 もう一つ困るのは、信号が青になつたときにキーを回してもウインウインと云ふだけでエンジンが掛からないときがあることだ。車が新しいうちはすぐに掛かるが、バッテリーが古くなつて来ると、この事態が発生する可能性が大きくなる。

 自分の前の車が「一旦停止」を真面目に実行すると苛つくドライバーが多い中で、アイドリングストップを広めることはなかなか難しいことかもしれない。(2006年7月4日)







 法律で男女平等だからといつてそれを実生活に持ち出すと角が立つのと同じやうに、子供の扶養義務は法律で二十歳までだからといつて息子に自立を強要すると親が殺されることにもなる。

 子供を持つには、その子供が食つて行けるやうにしてやる覚悟が必要だ。大人になつた時に働いて金儲けができるやうにしてやることが何より大切だが、それに失敗したら大きくなつた子供の衣食住の面倒を見てやるしかない。

 実はこの考へ方は日本では既に一般的な考へ方になつてゐると思はれる。だからこそ、親許に住むニートやフリーターが増加してゐるのであらう。もちろん親の方も、子供がずつと同居してゐてくれたら、面倒を見る楽しみもあり、張り合ひもある。何より寂しくない。

 逆に、この道に外れた家族の中で家庭内暴力や親子間の殺し合ひが起きたりしてゐるのではないか。子供の扶養控除を未成年に限るなどといふ法案が検討されてゐるさうだが、そんなことをすれば平和な家庭に波風を立てるだけである。(2006年7月3日)







 道路で右折で止つてゐる車の後ろに、右折するわけでもない車が何台も連なつて止つてゐるのはよくある光景である。

 もちろん、これは道が狭ければ仕方がない。しかし、道が広かつたり二車線ある場合には、前の車が右折のウインカーを出して止りかけたら、右折しない後続の車は左のウインカーを出して前の車をよけて通ればよいのである。

 ところが、それが出来ない人が沢山ゐるらしいのだ。

 前の右折車をやり過ごすには、あらかじめある程度の車間距離をとつてゐる必要がある。ところが、車間距離を取つてゐないので前の車が右ウインカーを出して止つたら、一緒に止るしかない。

 また二車線あつて左の車線によけるためには、あらかじめバツクミラーや左のサイドミラーで左車線の状況をよく知つてゐて、左車線の車の流れに乗れなければいけない。ところが、それも出来ない人が多いらしいのだ。

 そもそも右折がろくに出来ない運転手が沢山ゐる。対向車線の車の流れが完全に無くならないと右折出来ず、自分の後ろに延々と車を従へて止つてゐる車をよく見かける。

 近年交通事故が増えても死者数が減つたのは恐らくかういふ下手なドライバーが増えたからだらうと思ふ。なにしろ車は止つてゐる限り死亡事故を起すことはないからである。(2006年7月2日)







 「庶民にゼロ金利を押しつけておいて、銀行の元締が株で稼いでゐる」とは日銀の福井総裁を批判するキャッチフレーズだが、これほど庶民を馬鹿にした言葉はない。

 庶民だつて株取引ぐらゐ出来る。それで稼いでゐる人も沢山ゐるのだ。庶民がゼロ金利なのに福井さんだけ高金利で稼いでゐるなら大いに問題だらう。しかし、福井さんの預金も庶民と同じ低金利の筈である。

 比べるべきものを比べずに庶民感情とはこのレベルだと、預金金利と株の利益を同列に扱ふのは、庶民はこんな違ひも分からないと思つてゐるからだらう。

 一方、株取引きにしても、利益を上げたのは福井さんではなく村上ファンドである。ならば、問題は検察の云ふ「インサイダー取引」で村上ファンドの得た利益が、福井さんの利益に流入してゐるかどうかだらう。

 しかしながら、もし仮にさうだつたとしても、さらに福井さんが村上ファンドの「インサイダー取引」を知つてゐた場合だけ福井さんに罪があると言へる筈だ。庶民もこれ位のことは知つてゐるのである。(2006年7月1日)



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