ゲートボールといふものが一時流行つたが今では全く下火になつたやうだ。
そもそもあれをスポーツと呼べるかどうか疑はしい。ゲートボールのプレーヤはスティックを力いつぱい振り回すことがまづない。体を力いつぱい動かすことがないのである。
そこがゴルフと一番違ふところであり、他のスポーツと違ふところである。これに一番近い動きをするのはビリヤードだらうか。
屋外で立つてするといふことで体力は使ふが、散歩に毛が生えたやうなものである。だからこそ老人向きのスポーツとされたのだが、これでは健康増進には役立たない。
が、それ以上にルールが精神衛生上よくない。下手な者は除け者になつてしまふのである。まづ第一ゲートを通過できない者は、最後まで何もさせてもらへない。
次に、やつと通過させても、相手にボールを当てられて外に追ひ出されてしまふのである。お前は参加するなと言はれるのだ。これでは面白くない。いや不愉快でさへある。
かうしてゲートボールは心身両面であまり益のないスポーツであるとされて、人気を失つたのである。(2006年6月30日)
これまで電話代と新聞代が一つの家で毎月払ふ情報料だつたが、最近はそこにインターネット接続料と携帯電話料金が加はつた。
電話代つまり固定電話の料金は携帯電話料金と目的が重複してゐるが、固定電話を止めるわけには行かない。光通信にしない限り固定電話はインターネット接続に必要だからである。
新聞代もインターネット接続料と目的が重複してゐる。新聞はそもそもインターネットで読めるからである。最近はスーパーなどの広告チラシもインターネットで見ることができるので、チラシのために新聞をとる必要もなくなつた。
むしろ新聞をとると後始末が大変で、新聞紙とチラシを廃品回収に出す手間がいる。新聞社によつては古新聞をトイレットペーパーに交換してくれてゐたが今はそれもない。
新聞社の入社試験を受ける人が新聞をとつてゐないと試験で不利になることは確かだらう。しかし、それ以外の人にとつては、新聞はとつてゐなくて特段不利になることは無くなつたのではないか。
新聞代もインターネット接続料も同じく4000円ほどだ。どちらかを削る必要が生れた時にどちらを削るかは明らかだらう。(2006年6月29日)
日本の報道はバッシング報道に偏つてゐるために、国民にとつては情報としての価値が少いやうに思へる。
インドネシアで鳥インフルエンザが人から人へ感染したが、日本では大きなニュースにならない。インドネシア当局をバッシングできないからだらう。
エレベータで人が挟まれた死亡事故はアメリカで以前に発生してゐたが、日本人が被害者でもないアメリカの会社を謝らせることも出来ないから大して報道されなかつた。
外国に起きたことは日本にも起る可能性がある。それを早い段階でしつかり報道して行政に対応させることも可能だつた筈だ。ところが、目的がバッシングであつて、国民の生命財産を守ることではないので、報道は熱心にならないのである。
一方で、東横インが違法に改造してゐたとか、日銀総裁がいくら儲けたかなど、国民にはたいして役に立たないが、バッシングには大いに役立つ報道は頻りに流れるのだ。
理性に基づいたものではなく国民感情や遺族感情に悪乗りした報道が、情報としての価値の大きな報道なるわけがない。そもそも中世でもあるまいし、ヒューマニズムを重んじるべきジャーナリストが死刑判決を歓迎してどうするのか。(2006年6月28日)
開幕から飛ばしてゐた巨人が6月になつて怪我人続出で連敗地獄に陥つて失速した。これは星野阪神の一年目とそつくりである。
負け癖の附いたチームの監督に請はれて就任した星野も原も、開幕ダッシュに成功して4月は勝ちまくつた。星野阪神15勝8敗。原巨人17勝6敗。ところ が、6月になると星野阪神は4勝13敗、原巨人は6勝15敗(6月25日現在)。(阪神のデータは「虎の穴郵便局」を参照した)
星野も原も開幕時には申し分のない戦力をもらつてゐた。そこで親会社とファンの期待に応へるべく選手をフル回転させた。その結果、4月前半にはなんとにどちらも2つしか負けず、とても野球とは思へない勝率を残した。
しかし、それが落し穴だつた。野球とは本来勝つたり負けたりするスポーツなのだ。多く勝つても6割程度、普通は5割を少し超せば御の字とすべきスポーツである。
それを8割も9割も勝つたこと自体をかしかつたのである。無理をしてゐたのである。その無理が選手の怪我として表面化してきたのだ。一年目の星野阪神は怪我人続出だつたが、原監督は先人の失敗に学ばなかつた。
競馬でも最初から鞭を入れすぎると失速するものだ。ところが、相手が人間だと知らぬ間にさうして仕舞ふ。それが破綻を招くことは人間の集まりであるチーム、そして家族とて同じなのである。(2006年6月27日)
首相の靖国参拝についての訴訟に対する最高裁の判決がでた。その結果は門前払ひ。この訴へは裁判するに値せずといふものだつた。
最高裁は「こんなことで裁判を起すな」「裁判を政治に利用するな。馬鹿者ども」と云つたのである。
そもそも人の行動が気に食はないと感じただけでは、傷つけられたことにはならないのである。それ以上に、この訴訟は裁判官を政治的に利用しようとする意図が丸見えなのだ。そんなものに裁判官がいちいち附合はされてはたまらない。
多くの新聞は「最高裁、憲法判断せず」と書き、最高裁が判断を逃げてゐるやうに書いてゐるが、少なくともこの判決によつて、首相の靖国参拝を違憲だと裁判所に言はせることは出来ないことがはつきりした。
これと同じ内容の訴訟をいま地裁や高裁で争つてゐる人たちは訴訟を取りやめるのが賢明だらう。最高裁は一つしかないのだからもう結論は出たのである。
そして、首相の靖国参拝を裁判によつて止めさせることが出来ないことが分かつた以上、反対派は別の方法を考へる可きだらう。(2006年6月26日)
耐震偽装事件は問題の建築士の単独犯だつたことで終つたさうだが、捜査の過程で「耐震偽装」事件でさへなかつたことが明かになつたのはお笑ひだつた。
悪の親玉のやうに言はれたコンサル会社の社長が偽装を指図したのではないが、建設会社に鉄筋の数を減らすやうに求められたことは確かだと思つてゐた。ところが、これも嘘だつたのだ。
あの建築士は鉄筋の数を減らしても安全な構造計算をする能力がなかつたどころではなく、そもそも高層建築物の構造計算が出来なかつたのである。
だから、彼は耐震強度の計算をごまかしたのではなかつた。彼にそんな高度な芸当が出来るはずはなく、彼はただ単に計算がうまく行かないので適当に書いてしまつただけだつた。その結果として耐震強度のない設計になつてしまつたのである。
結局、この事件は建築士が構造計算を偽装した事件ではなく、建築士が構造計算をできなかつた事件だつたのである。それを社会がチェック出来なかつたために、強度不足のマンションがあちこちに建つてしまつたといふわけである。(2006年6月25日)
手品が流行してゐるが、テレビ番組の手品を見てテレビタレントたちが過剰に驚くのを見ると違和感を感ぜざるを得ない。
手品は仕掛けのあるもので、本当に物が消えたりするのではない。手品はさう見える様にしてゐるだけのことなのである。だから、その手際のよさを誉めることはあつても、現象それ自体に驚く必要はないのだ。
手品は表に見えることと事実が別物である代表的な例だが、裁判などもさうである。検察は容疑者を極悪人であるかのやうに描いてみせるが、これも仕事上さう見える様にしてゐるのであつて、事実もさうだと思つて被疑者に腹を立てる必要はない。
光市の母子殺害事件なども同じで、事実は分からないのである。
単にセックスをしたいといふだけで昼間から行当りばつたりに女性のゐるアパートに侵入したといふのも信じがたいことで、本当はもつと悪くて強盗目的だつたのかもしれないし、それとも最初は単にこの女性に会いたかつただけかもしれないのだ。
だから、事件の現場からただ一人生き残つた男性を殺してしまへば、事実を知つてゐる者が誰もゐなくなつてしまふことだけは確実である。(2006年6月24日)
『岩波中国語辞典』の特徴は、他の中国語辞典のやうに漢字の親字を中心とした配列ではなく、全ての語彙がアルファベット順に並んでゐることである。
しかし、それよりさらに変つてゐるのは例文がローマ字で書いてあつて、漢字はそのあとに括弧に入れて書いてあることである。
この二つの特徴によつて、この中国語辞典はまるでまるで英和辞典のやうに使ふことが出来る。
中国語は漢字の読み方が日本語とは異なつてゐるので、初心者は漢字の日本語による音訓索引があると便利だと思ふ。ところが、少し進んでくると、漢字の中 国語読みのうちでも抑揚(漢字ごとに決まつてゐる四つの声調)が覚えにくいことに気がつく。その段階になると、目的の言葉を直接検索できるこの辞書の便利 さが際立つて来るのだ。
ところが、この辞書はおいそれとそこいらの本屋に売つてゐない。
また、収録語彙が1963年の儘(まま)であるため言葉が古く、ピーマンが「燈籠辣椒」で「青椒」でなかつたり、載つてない言葉があれこれ見つかるし、北京語中心なので発音も普通語と違ふことがある。
しかし、中国語の発音を身に付けるのに絶好の辞書であることには間違ひがなく、この言語の学習者とつては持つてゐて損のない辞書だらう。(2006年6月23日)
ワールドカップの新聞記事に「中沢」といふ選手がどうのかうのとしきりに書いてある。実はこれは「中澤」のことらしいのだが、新聞は「中沢」と書く。
テレビでは既に人名の正字(所謂旧漢字)使用が一般的である。本人がさう書いてゐるのだから、さう書くべきなのであり、テレビ局がさうしてゐるのは当然のことである。
ところが、新聞は本人の書き様を無視してわざと間違つて簡略字を使ひ続けてゐる。これなども「新聞は嘘を書く」例の一つである。
光市の母子殺害事件でも最高裁の弁論を欠席した弁護士は任命されてたつた2週間で準備不足だつたことを、新聞は書かないのである。職務でしてゐること、 仕事でしてゐることに対して大衆の憎しみを掻き立てるやうに書くのである。事件自体の記述も検察の丸写しで大いに眉唾物である。
新聞記者は自分で見てゐないことを書くのだから、嘘半分間違ひ半分になるのは仕方がないのである。
その上に意図して歪めて書くのだから質(たち)が悪い。だから、そんなものを人に読み聞かせたりしてはいけないのである。嘘だらうなと思ひながら、それでも読みたい者が読めばいいのである。(2006年6月22日)
考へてみれば、盗作とは本来無名の作家の作品を有名な作家が無断で借用することである。有名な作家の作品を借用した場合は盗作ではなくパロディーとかカバーとかアレンジとか言はれるだけである。
したがつて、イタリア人画家のスギ氏が日本の和田氏に盗作されたと騒いだのは、自分が世界では無名であることをよく認識してゐたからだといふことになる。スギ氏はイタリヤやヨーロッパでは有名らしいが日本を含めた世界ではまだまだ無名なのだ。
しかしながら、もしスギ氏が和田氏の説明を受け入れて、和田氏の作品を自分の絵に対するオマージュだと認める余裕があつたなら、自分の作品に対する ヨーロッパでの高い評価を日本でも広めることも出来たはずである。さうなればスギ氏は優れた画家としても日本でも有名になれたに違ひない。
ところが、スギ氏は日本でスキャンダルを起してしまつたために、そのチャンスを逸してしまつた。その結果、彼は日本では和田氏に「盗作」された暗い絵を描く画家として有名になつてしまつたのである。(2006年6月21日)
ワールドカップを見てゐると、やはり日本人はサッカーでは体格で不利だなとつくづく思ふ。
サッカーは単にボールを蹴り合ふだけのスポーツではなく、敵と味方が体をぶつけ合ふ一種の格闘技であることがテレビの画面を通じてよく分かる。
その点、野球はいい。敵と味方の位置があらかじめ決められてゐるからである。バッターがキャッチャーの居場所に入つて来るとか、バッターがピッチャーに体をぶつけて来ることなど退場覚悟でない限りありえない。
野球では何といつても敵と味方が18メートル以上も離れて勝負するのがいい。だからバッターが身長2メートルの大男でピッチャーがチビでも何とか技術で勝負が出来る。
ところが、サッカー、それにバスケットボールやラグビー、アメリカンフットボールなど体をくつつけ合ふ競技ではさうはいかない。技術を使ふ前に体格で勝負がついてしまふからだ。
やはり日本人は野球がいい。それに同じ球技でも卓球やテニス、バレーボール、ゴルフなど、敵と味方の体が離れてゐて、技術で何とかなる競技が日本人には 向いてゐる。あとは一人で出来る体操だ。この点からすると、大相撲に外国人を入れたのは大間違ひであることは明らかだらう。(2006年6月20日)
ワールドカップにトリニダード・トバコが出てゐる。なぜこんな小さな国がアメリカなどの大国と並んでワールドカップに出場できるかといふと、それはこの国の多くの選手がヨーロッパのサッカーリーグの選手だからである。
つまりワールドカップと言つても世界中から各国の選手たちがドイツに集つて来て戦つてゐるのではなく、ヨーロッパにゐる選手たちが同じヨーロッパで国別のユニフォームに着替へて試合をしてゐるだけのことなのである。
これは日本の代表選手の多くについても言へることだが、日本の選手と違つてアフリカや南米の選手たちは母国では一度もサッカーの試合をしたことがない選手が多いといふのだ。
これは例へて言ふと、いま日本の大相撲ではお相撲さんの多国籍化が進んでゐるが、もしその外国人力士たちが日本で国別対抗戦を開催したとしたら、それが相撲のワールドカップとなるのである。
大相撲の国別対抗戦でモンゴルチームが優勝しても、モンゴルは生れた国といふだけのことである。それと同じやうに、ヨーロッパで育つた選手たちがヨー ロッパで国別対抗戦をしてどこの国が勝たうが、それはその国の功績といふよりも彼らを育てたヨーロッパ・サッカーの手柄でしかないのである。(2006年 6月19日)
いま日銀総裁の信頼性が揺らいでゐると言はれてゐるが、もつと深刻に揺らいでゐるのはマスコミの信頼性の方ではないか。
「シンドラー社エレベーター、扉開いたまま上昇」といふニュースが実はほんのちよつと開いてゐるだけで事故の可能性のないものだつたり、その原因のプロ グラムミスが実は死亡事故とは関係がなかつたりと、シンドラー社に関するニュースには、謝罪が遅れた同社に対するマスコミの悪意ばかりが目立つてゐる。
新聞社を代表とするマスコミが人には厳しいが自分に甘いことは、放送局が盗撮社員をプライバシー保護の名目で庇ひ立てしたことだけにとどまらない。
村上ファンドに出資した日銀総裁に資産公開を要求するなら、なぜ新聞社がまづ自ら資産を公開しないのか。
新聞社が独占禁止法の適用を除外してもらふほどに公共性のある存在なら、資産公開は当然の責務だらう。総保有資産、投資状況、広告収入、購読者の実数、 社員の給料などを全て公開して、国民に対する透明性を保持してこそ、厳しい報道姿勢に対する国民の信頼性も確保できるといふものだ。(2006年6月 18日)
オーストラリア戦の日本の敗因を、ジーコ監督の采配ミスだとか選手のミスだと言つた日本人はゐたが、駒野にPKを与へなかつたエジプト人審判の誤審のせゐだと言つた日本人はゐなかつたのではないか。
ところが、日本は誰かのミスによつて負けたのではなく、エジプト人審判によつて負けさせられたことが明かになつた。
まつたくヒディング監督は審判の誤審によつてよく勝つ監督である。今回もヒディング率ゐるオーストラリアはエジプト人審判のサポートで日本に勝つた。と ころが、そのヒディングは日本の得点、つまりオーストラリアの失点を審判の誤審だと言ひふらし、オーストラリアの勝利を正義の実現だと言ひ張つたのだ。
それに対して日本人は、審判を批判せず、ヒディングを批判せず、自分を責めるのである。
ワールドカップは戦ひの場であつて教育の場ではない。だから、嘘ハツタリは当然なのだ。日本人はヒディングの爪の垢でも少し煎じて飲んだ方がいいのではないか。(2006年6月17日)
オーストラリア戦に負けて評判の悪い日本のサッカーだが、日本のサッカーとは元々ああいふものなのである。
つまり、どさくさ紛れに相手のゴールに押込んだ少ない得点を最後まで守り抜くのが、世界を相手にしたときの日本サッカーなのである。
外国の選手のやうな、または国内試合で見られるやうな、ゴールネットに突き刺さる派手なシュートなんてものは期待してはいけない。
責任の重い国際試合では、日本的な譲り合ひの精神がチームを支配してゐて、ゴールを前にするとシュートを打つのではなく、お前が打てお前が打てとパスばかりするのが日本式サッカーなのである。
オーストラリア戦の中村のゴールにしてもシュートではなく、ゴール前に上げたパスが入つてしまつただけの、まさに日本らしいゴールだつた。だから、日本のシュート数が相手チームの三分の一だからといつて、日本が弱いわけではないのだ。
ただ、今年のこのチームはどうやら守りに問題があるらしく、オーストラリア戦でも虎の子の一点を最後まで守りきれなかつた。ところが、ジーコ監督はもつと攻撃的な布陣ににすると言つてゐるらしい。はたしてそれで大丈夫なのだらうか。(2006年6月16日)
JA(農協)が安いと思ひ自動車保険の申し込みに行つたが、インターネットで見積もつた掛金と同額にならない。そんなこともあるかと思つてゐたが、案の定だつた。
今の保険にある「エコカー割引」に相当する「環境対策自動車割引」が出来ないと受付の女性がいふのだ。「それはおかしいなあ」などといふと、本に載つてゐないといふだけで、理由をはつきり言はずに、支店長に相談に行つてしまつた。
それから優に半時間も待たしたあげく、支店長が出てきて、あなたがインターネットの入力の際に、自分で環境対策自動車に指定したのが間違ひだといふのだ。
なぜ、素直に初めから「JAではお客様のお車は環境対策車になつてゐないんです。ごめんなさいね」と言はないのか。(三井住友海上でも東京海上でも私の車は歴とした環境対策車なのだ)
調べると高々500円ほど割高になるだけなのに、女性はそれも言はずに席をはずしたまま、半時間以上も客をほつたらかしにする始末だ。「お待ち下さいね。今調べてをりますから」などと言つて客の機嫌をとるのが礼儀だらう。
自動車保険をインターネットで契約できる時代に、客がわざわざ足を運んできたのだ。それをわづか500円ばかりのことで長年の客を怒らせて帰らせることがあるだらうか。
JAのホームページには環境対策自動車が何を指すのか書いてゐない。これはJAの手落ちだらう。支店長はそれを客のせゐにして勝つた気でゐる。これは客商売ではない。お役所仕事だ。JAにも民営化が必要ではないか。(2006年6月15日)
巨人の選手によるベース踏み忘れ事件で、事実とは何かについて考へさせられた。
ロッテの今江三塁手は巨人の小関選手が三塁を踏まずに通過したと、審判にアピールした。すると審判はそれを認めてアウトのコールをした。といふことは、小関の三塁踏み忘れを、今江と審判の二人が見てゐたことになる。
ところが、その晩のフジテレビの放送で小関が三塁ベースの端を踏んでゐる映像が流された。当然巨人は抗議する。しかし、判定が覆ることはないのだ。
小関は試合後「塁を踏むのにいちいち意識なんかしてゐない」とうそぶいたが、踏んでゐないやうに見えてゐないかを意識しながら塁を踏むべきだつたのではないか。実際、二人もの人間に踏んでゐないやうに見えたからである。
球場における「事実」はその時どう見えたかに尽きる。あとで異なる「事実」のビデオや写真が出てきても、まさに後の祭である。
「人にどう見えるかを意識して行動すること」。これは日常詰らないトラブルに巻込まれないために一般人にも是非必要な心遣ひであらう。(2006年6月14日)
車のドライビングポジションはシートを出来るだけ前にした方が足腰が楽なやうだ。
シートを後ろにずらして、右足の膝を伸した状態でアクセルペダルを土踏まずで押すやり方は運転中は楽なやうな気がするが、車から降りてから足腰の疲れがひどいことに気附く。
いろいろ調べるとマニュアル車の基準では左足でクラッチを一杯に踏みこんだ時に、踵(かかと)が浮かないやうにシート位置を決めるのが良いらしい。となると、座席はかなり前になる。
運転中の右膝の角度も普通は45度(内側は135度)にするのが良いらしいが、90度に近い方がさらに楽らしい。
となると、車のアクセルペダルの設置場所が気になる。膝を90度にしたときに足もとにアクセルペダルが来ないと困るのだ。流行の吊り下げ式のアクセルでは、つま先でしか踏めなくなつて仕舞ふ。
となると、昔のやうなオルガンのペダルのやうなアクセルが体には楽だと云ふことになる。そのためか、最近ではオルガン式ペダルが新型シビックなどあちこちで復活してゐるやうである。(2006年6月13日)
小西甚一の『基本古語辞典』の前書きにはこの辞書を作つたときの経緯(いきさつ)が書いてある。
彼はこの辞書を作るに当つて、既存の古語辞典を調べてみた。すると、「驚いたことに、語釈・用例ともに大部分は先行辞書のまる写しというのが多い。前の辞書が誤っていると、あとは右へならえ、同じ誤りがいつまでも写し継がれていく」
私も古本屋で沢山の古語辞典を買つてきて比べながら使つてみたが同じ感想を持つた。
しかしながら、模倣は重要な知恵でもある。
テレビの動物番組を見ると、高い処にあるバナナを取るのに、猿はいつも一匹で立ち向ふ。助け合へばすぐに取れるのに助け合はない。しかし、別の猿のやることをよく見てゐて真似をして、それに自分の工夫を加へるのだ。
経済社会もこれに似てゐる。競争だから各社は互に助け合はないが、他社が開発した技術の模倣には余念がない。出版社の辞書づくりも同じなのである。
ただし、せつかく上手い方法を見つけてバナナを取つた猿はいつも他の猿にバナナを横取りされるやうだが、人間社会ではそんなことがないやうに特許権や著作権があるといふわけである。(2006年6月12日)
A級戦犯が合祀されたから天皇の靖国参拝がなくなつたといふ人たちは、天皇が名代として毎年勅使を靖国神社に送つてゐることについてはなぜか言及しない。
しかしながら、天皇がA級戦犯の合祀を批判して参拝をやめたのなら、勅使を送るのは筋が通らない。といふことは、天皇による靖国参拝がなくなつたのは、A級戦犯の合祀が原因ではないといふことになる。
本当の原因は、天皇による参拝が「私的参拝」か「公的参拝」かといふ議論が国会で起きた為である。本人による参拝が問題になるから名代になつたのだ。
このことは誰でも知つてゐることである。なぜなら、麻生外務大臣が会見でこれにはつきりと言及してゐるからである。
ところが、今だに天皇による靖国参拝を復活するためにもA級戦犯の合祀をやめるべきなどと言ふ人たちがゐる。彼等は反小泉や親中国などの政治的立場や平 和主義などといふマスコミ的な立場から、本当の原因には知らんぷりをして「A級戦犯、A級戦犯」と年寄りの繰り言のやうに言つてゐるのである。
立場によつて、知つてゐても信じたくない事実と、知らなくても信じてゐたい事実と云ふのがこの世の中には存在するわけである。(2006年6月10日)
むかし言論の自由が確立される以前には、政府は自分と異なる意見を言ふ人間を黙らせようとした。
しかし、自分と異なる意見に出くはすと腹が立つて、そいつを黙らせたいと思ふ衝動は、何も政府や王様に限られたことではない。一般人の誰もが感じるることである。
最近、自分と異なる意見の書いてあるブログに出くはすと、相手が意見を変へるかブログをやめてしまふまで、大量のコメントを書き込んで攻撃するといふことが流行つてゐるが、それも同じ衝動から来てゐる。
これは右翼も左翼も関係なく、他人の言論を封じたいといふ人間の根つ子にある衝動が生の形で現はれたものである。ブログに対するコメントは一見、言論に言論で対抗してゐるやうに見えるが、さうではなくてあれは言論に対する暴力である。
大量のコメントが殺到したのを見たときに感じる恐怖は、ある日突然家の前にマスコミが殺到してゐるのを見た時に感じるのと同じ恐怖であるまいか。自分に襲ひ掛らうとする目に見えない悪意の存在ほど恐ろしいものはない。
かくて国民大衆が政府の手から勝ち取つた言論の自由は、国民大衆自らの手で失はれていくのである。(2006年6月10日)
私が小学校の頃には文庫は岩波文庫しかなかつたが、ピンク色の帯が附いてゐることもあつて、文庫売場にはエッチな本を売つてゐると思つてゐた。
実際に読めるやうになつて読んでみると、その通りのエッチな内容の本が多い。ピンクの帯ではないが『今昔物語』の世俗編や『宇治拾遺物語』などは日本版 の『デカメロン』で、中身はかなりのピンク色だ。恋愛やセックスの話だけではなく、そのものずばり性器の話があちこちに出てくる。
『源氏物語』にも実は露骨な性描写があることは田辺聖子の訳によつて分かるが、『今昔物語』や『宇治拾遺』ではそれらが訳を通さなくても分かるのである。
人間と云ふのは古今東西、何処であらうと何時であらうと考へてゐることは同じだらうと想像はできるが、千年以上も前の人間の露骨な性行動を実際に目の当たりにするとやはり驚かされる。
学生には『徒然草』ではなく『宇治拾遺』などをもつと読ませたら、古文の勉強がはかどるのではないか。ちなみに古文では男性性器のことをマラといふが、それは本屋にある古語辞典では『岩波古語辞典』だけに載つてゐる。(2006年6月9日)
和田氏の盗作問題で文化庁がいつたん和田氏にやつた賞を取り消すさうだが、これはやつてはいけないことである。
賞などといふものは一旦与へる以上は何があつても後で取り消さない覚悟をした上で与へるべきである。なぜなら、賞を与へてあとで取り消せば、何もしなかつた場合以上に相手の名誉を傷つけることになるからである。
それにしても日本人は外国人の意見に弱い。外国人は平気で嘘をつくものだが、相手の動機を疑ひもせずに外国人の言ひ分を全面的に受け入れて自国の人間をやつきになつて貶めるのが日本人の習ひである。
しかしながら、そもそも芸術家といふものは人の作品を自分の盗作だと言つて騒いだりしないものだ。また、一流の芸術家が他国の芸術家を「画家とは知らなかつた」などと言ふだらうか。
ところで、和田氏の絵は今なら貧乏人が買へるまで値下りしてゐる筈だから、絵の好きな人にとつては、今こそ買ひ時だらう。将来どこかの外国人が和田氏の 絵を称賛して絵の価値が上がるかもしれないし、さうでなくても絵としてはスギ氏の絵より美しいからである。(2006年6月8日)
民主党は所謂「共謀罪」を含む法案で対案を出したが、いざその民主党案が国会で採用されて可決されさうになると、それに反対したのだ。
こんな馬鹿げたことはない。どこの世界に自分が出した法案の成立に反対する政党があるだらうか。そんなことなら初めから提出しなければ良かつたのである。
どうやら野党である民主党が提出する法案は、単に与党との違ひを強調して自分の党の宣伝をするためだけの法案であるらしい。
投票権を18歳に設定した国民投票法案しかり、夫婦別姓を認める民法改正案しかりである。民主党は本当に法律になるとは思つてゐないから色々と斬新なことが提案できるのである。
しかし、かつて消費税廃止を主張した社会党が政権につくと消費税を引き上げたやうに、民主党も実際に政権を担当すれば現実的な政策をとらざるを得ないのである。
民主党が格好いい法案を出すのは野党の間だけだといふことを「共謀罪」の法案は明らかにしたと言へる。(2006年6月7日)
日本は共存共栄の社会から弱肉強食の社会に変はつてしまつたと言はれるが、さうでないこと村上逮捕は物語つてゐる。
M&Aは日本ではまだ悪なのである。だからM&Aを行ふ村上氏は悪人なのである。悪人を早く捕まへろといふ国民の声に応へて村上氏は逮捕された。逮捕理 由は怪しいものだが(M&A目的の株の売買をインサイダー取引とするのは、M&Aの否定である)、これは大した意味がない。
彼を逮捕してこの世から追放するのが、マスコミのひいては国民の願ひだつたのであり、その願ひが実現されたのである。
凡庸な経営者による凡庸な経営こそが、日本では求められてゐる。だから、阪急が並行して走る阪神を買収するなどと云ふ、企業の保身以外には何の意味もないことが行はれても、この国では批判されないのである。
有能な人間が出てきて支配してしまへば、多くの負け組が生れてしまふ。それが許せないのだ。大切なことは事の良し悪しではなく、好き嫌ひなのである。嫌ひな奴の云ふことならいくら良いことでも聞かないのである。
そして凡庸な人間が集つて談合を繰り返して共存共栄を続けるのが日本社会なのだ。談合のために一握りの管理職が逮捕されはするが、それによつて有能な人間が排除されるから、却て企業は安泰なのである。(2006年6月6日)
新聞を独禁法の適用除外とする「特殊指定」の撤廃が今回は見送られることになつた。
つまり新聞だけが法律違反を許され続けることになつたのだが、これに対して各新聞社は「お陰様で、特殊指定が継続することになりました。これも読者の皆様のご声援の賜物です。これからも新聞をよろしくお願いします」と書いたかといへばさにあらずだ。
各社は軒並み「特殊指定の継続は当然だ」と高飛車な姿勢で、自分たちの法律違反を正当化して見せるのである。
この問題に関して何よりひどいのは特殊指定の廃止を求める人々の声を新聞が一切報道しなかつたことだ。新聞は真実を報道しないことを又も明らかにしてしまつたのである。
特殊指定が民主主義の維持につながるといふのが彼らの決り文句だが、多くの新聞が民主主義の日本政府よりも一党独裁の中国政府を大切にしてゐるのをみても、彼らが民主主義を大切にしてゐないことは明らかである。
新聞は特殊指定存続を勝ち取つたことに鼻高々だが、現実に新聞の読む人間は確実に減つてゐる。驕る平家は久しからずなのである。(2006年6月5日)
テレビ局がスギ氏の作品と和田氏の作品を並べて、こんなに似てゐると連日放送してゐるが、笑止である。似てゐる似てゐないといふ指摘自体が無意味なのだ。元の構図が同じなのだから、似てゐて当たり前なのである。
和田氏のあの一連の作品は、色の附け方にオリジナリティーを求めたものだと考へられる。そして、スギ氏の色附けよりも和田氏の色附けの方が、私の目には遥かに優れてゐるやうに見える。
元の構図の作成に関して、スギ氏と和田氏の意見が食ひ違つてゐるやうだが、日本人なら先づイタリア人が嘘を衝いてゐると考へるべきだらう。
スギ氏は近々日本で展覧会を開くさうだが、その時に自分の作品が和田氏の作品に似てゐて盗作扱ひされるのを恐れたのではないか。そのために、和田氏の作品を盗作扱ひすることで先手を打つたとも考へられる。
スギ氏が日本で無名であつたことも今回の盗作騒ぎの一因であらう。ゴッホのひまわりの絵を、構図をそのままに色附けを変へて発表しても誰も盗作とは言はないからである。(2006年6月4日)
小泉首相は今国会を延長せずに教育基本法の改正を継続審議にすると強調したが、これは小泉改革を継承しない福田康夫前官房長官を次期総裁に擁立しようとする動きを牽制したものであると思はれる。
教育基本法の改正は愛国心を法律に盛り込む保守的な法案であるが、福田康夫氏を首相にしてそれが出来ますかと小泉首相は言つてゐるのである。
小泉改革の中には靖国参拝も入つてゐる。小泉は口では個人の信条の問題だと云つてゐるが、森前総理などが行なつた中国に遠慮した政治では、この先の日本は世界の中でやつて行けないといふ思ひがある。それを福田氏は否定してゐる。
その他にも防衛庁の防衛省への昇格問題がある。その法制化もリベラルなイメージを売り物にする福田氏に出来ますかと言つてゐるのだ。
保守的な法律は自分の代で片付けて、あとはリベラルな福田氏でといふのでは虫が良すぎるのではありませんかと、小泉は言つてゐるのである。(2006年6月3日)
年金不正免除のニュースを見ると、世論はマスコミによつて勝手に作られてゐることがよく分かる。
不正、不正といふが何が不正なのか。無年金者を生み出さないために社会保険庁の職員の皆さんよくやつてくれましたと、多くの国民は感謝してゐるのに、マスコミが一方的に不正扱ひしてゐるのである。
マスコミは役所の「不正」を曝き立てるのが大好きである。それが多くの国民のためになつてゐやうと、法律通りでなければいかんと言ふのである。
そんなことがあるものか。法律は便宜的な物で、人が住みやすい世の中にするためにこそ法律はある。それを破つた方が住みやすい世の中になるなら、そんな法律は破つてよいのである。
マスコミの親玉である新聞社は、日頃批判してゐる与党の政治家に取り入つて、独占禁止法の適用除外をお願ひしたばかりだ。
それなのに、マスコミは他人には厳しい。彼等もまた日本で流行の「自分さへよければいい」病に罹つてしまつたに違ひない。(2006年6月2日)
私が死刑に反対なのは人命尊重もさることながら、人は殺されることによつて値打ちが上がるのに、犯罪者の値打ちを上げることはないと思ふからである。
自殺もさうで、昔の小説家が競ふやうにして自殺したのは、自分の名前を永遠に遺したいといふ思ひがどこかにあつたからである。
犯罪者が死刑を望んだり拘置所で自殺したりするのは、もちろんその方が楽だからである。
大量殺人などするやうな人間にとつては、既にこの世は地獄であり、だからこそ犯罪を犯したのである。したがつて、死刑は地獄からの救済なのである。それを公費で援助するほど馬鹿げたことはない、
死刑によつて被害者の遺族は加害者に対する復讐慾を満たすことが出来るといふが、そもそも犯罪者が犯罪を犯したのも社会に対する復讐慾を満たすためなの だから、遺族は死刑を求めることによつて加害者と同じ穴の狢(むじな)になつてしまふ。それでいいはずはあるまいと思ふのである。(2006年6月1日)
最近の本屋は大抵は売れた本を再注文しなので、売り切れた本はその本屋では二度と買ふことが出来ないのが普通である。
本には一冊毎に売上げカードといふ栞(しをり)のやうな紙が附いてゐて、本屋は本が売れたらそれを抜き取つて保存して再注文に使へるやうになつてゐる。ところが、最近はこの売上げカードを抜かない本屋が多い。
売上げカードを抜かないと云ふことは一旦売れたらそれつきりで、その本はその店では再注文しないと云ふことである。だから、本屋の棚にあると思つてゐた本が無くなると、二度とその本はその本棚に戻つて来ないといふことになる。
売上げカードを抜く本屋でも、本の再注文はしない店が殆どだ。大きな有名書店でも在庫を減らすのに精いつぱいで再注文をしない。だから、叢書などのシリーズ物で本棚に途中の番号の卷が脱けてゐても、それが埋まることは決してないのである。
その結果、目当の本が古本屋にはあるが、本屋にはないといふことがよく起る。新刊本で少しでも珍しい本は、もう本屋で買ふ時代ではないのである。(2006年5月31日)
ウンチを食べないのは人間だけで、他の動物はウンチを食べる。それは本能なのだ。中国の便所の下に豚が飼つてある絵を見たことがあるが、あながち嘘ではない。
山の庵に住む坊さんがウンチをしてゐるとその前に野良犬が座つて待つてゐたが、生憎その日は腹の調子が悪くて水のやうなウンチだつたのを申し訳なく思つた坊さんは、次の日に山盛のご飯を犬に与へたといふ話が『今昔物語』(第19卷の3)にある。
犬が坊さんのウンチを食べようと待つてゐるのを坊さんは知つてゐたのである。犬がウンチを食ふことは奇異なことではなかつた。ところがそんな知識を失つてしまつた現代の日本人は「うちのペットのワンちやんがウンチを食べて困ります」と悩むのである。
この坊さんは、動物は人間の生まれ変りで、両親が何度も生まれ変つた姿であると固く信じてゐたので、犬や馬を自分の親のやうに敬つたが、その坊さんによると犬がウンチを食べるのは前世に犯した罪業の報ひだといふことである。(2006年5月30日)
所得格差が学力に影響すると答へた人が75%といふ世論調査の結果を見たら、ちよつと気の利いた子供なら「僕が勉強出来ないのはお父さんの稼ぎが悪いからなのか」と納得したことだらう。
こんな世論調査は子供に勉強を怠ける口実を与へるやうなものだが、読売新聞の人間はそのことを分かつて公表したのかどうか。
答へる方も答へる方で、「『経済的に恵まれていて、高い水準の教育を受けさせられる家庭と、そうでない家庭との間で、子供の学力の格差が広がっている』 という指摘があります。あなたは、実際に、こうした格差が広がりつつあると思いますか、そうは思いませんか」などと聞かれて、「そりや〜、それを言つては お仕舞ひですよ」と答へる心意気も思考力もない。
これに同意すると云ふことは、自分の息子が馬鹿なことを自分の稼ぎの悪さのせゐにすることになる、と気附いても良かつたのである。
ところが、それに気附かない頭の悪い親たちが75%もゐて、その子供たちの学力が低下してゐるといふのだから、親が馬鹿なら子も馬鹿になるといふことがよく現はれた世論調査だつたといふことになる。(2006年5月29日)
「古本市場」といふ古本屋に行くと店内放送でホットトピック・イン・メイなどと言つてゐる。五月だからメイだ。四月はエイプリル。六月になればジューンとなる。
この店内放送のおかげでこの古本屋の利用者は月の英語名を自然に覚えて仕舞へるわけである。
英語ではこのやうに月の名前をワン・マンス、ツー・マンス・・とは言はずにジャニュアリー、フェブラリー・・と云ふが、日本語でも実は一月、二月・・を 昔はムツキ、キサラギ・・と言つてゐた。古典を読むときに一月と書いてあつてもイチガツとは読まずにムツキと読まないといけないのだ。
ところが、日本ではこの呼び方を明治になつてやめて仕舞つた。英語では昔からの月の呼び方を継承して居るのに何故やめたのだらう。これもまた古い物をやめるのが進歩的だと思ひがちな日本人の勘違ひの一つだらうか。
お陰で古典を読んでゐても一月をついついイチガツと読んで仕舞ふ。どこかの店内放送でホットトピック・イン・ミナヅキとかいふ風にやつて呉れないだらうか。もつとも古文だから「水無月にての熱き話題」とでもなるのかもしれないが。(2006年5月28日)
自民党の福田康夫氏はアメリカから帰つて来ても相変らず、総裁選出馬が取り沙汰されることを「迷惑なことだ」と切捨てたさうだ。
福田氏本人には総裁選に出る気がないことは前々から明らかなのだが、マスコミによると、次の自民党の総裁選挙は福田氏と安倍氏との2強の戦ひになるのだといふ。
森前首相は福田氏を次の総裁に担ぎたいらしく、しきりに福田氏を持ちあげるが何の思惑があつての事だらうか。安倍氏が総裁として次の参議院選挙で負けて傷付くのがもつたいないなどと言ふが、では福田氏ならいいのか。
世論調査で福田氏の支持率が上がつて来てゐることをもつて、福田氏が総裁になる可能性を云々する向きがあるが、世論調査のパーセントによつて総裁の適否を論ずるべきではないと言つてゐるのは、福田氏自身である。
自民党の総裁は首相になる人である。単に人気があるからといふだけでなく積極的な意欲を持つてゐる人になつて貰はなければ困る。さうでなければあの大きな責任をとても担ひやうがないではないか。(2006年5月27日)
『今昔物語』は第二十六巻がずば抜けて面白い。あり得ない話の中に平安時代から今も変らない人間のあり様が活写されてゐるからである。
第一話では、赤子を鷲にさらはれた夫婦が十年後に旅先でその子に再会する話だが、その子が近所の子供たちにいじめられて「あんたは鷲の食べ残しぢやないの」と言はれて泣いて家に帰つて来る有り様が時代を超えて息づいてゐる。
第二話では、旅の途中の男が道を歩いてゐて突然性慾が高じてどうにもならなく為つたので、道ばたの畠から蕪(かぶ)を抜いてきて、穴をくり抜いて中にし てほつとして復た旅を続ける話だが、その「女の事の、物に狂ふが如くに思えければ、心を靜め難くて思ひわづらひける」といふ描写は、今に変らぬ男の真実で あらう。
第五話では自分の子供が行方不明になつたと聞かされた親の嘆き悲しむ有り様が実に真に迫つて描かれてゐる。それが「臥し丸び泣く(ふしまろびなく)」といふ短い表現で書き表はされてゐて、この作者の能力の高さを思はせる。
この巻は一つ一つの話の印象が強烈で、他の巻のやうに次々と読み進めるのが憚られる程の力がある。この巻の作者は他とは違ふのではないかとさへ思はれるのである。(2006年5月26日)
松山恵子が六十九歳で亡くなつたが、この二月にNHKの衛星放送で見た最後の舞台ではこの人が六十九歳とは信じられなかつた。それ程に若々しくて、全く女は化け物だと思つたものだ。
男はかうはいかない。若い頃ハンサムの代名詞だつたロバート・レッドフォードが最近テレビに出てゐるのを見たが全く別人である。竹脇無我も同じことが言へるのではないか。
男は化粧で顔を作つてゐないので、年を取れば容貌の衰へがそのまま出る。それに対して、女の顔は元々化粧で作られたものが多い。だから、年を取つても同じやうに作れば同じ顔ができあがる。だけら、いくら年を取つても女の顔は変はらないのである。
もちろん、人に依つて違ふのかもしれない。だから、かう言ふことが言へるのではないか。つまり、年を取つて顔が変つて来た女優は、化粧によつて顔を作つてゐなかつた本当の美人だと。
ところが、実際はその逆で、化粧を落せば誰だか分らない美人が横行してゐるのである。(2006年5月25日)
最近のテレビの野球中継のアナウンサーは実況を殆どしなくなつた。画面なら見たら分るのだからと、自分の感想を言ふのが主な仕事になつてきてゐる。NHKのBSの大リーグ中継は特にのんびりしてゐる。
昔はテレビでもラジオみたいに丁寧に描写してゐた。「ピッチャーふりかぶつて第一球を投げました。ボール」といふ風にリズムがあつて、聞いてゐて気持が良かつたものだ。
ところが最近は「打ちました」とさへ言はなくなつた。その代はりに「あっ」とか「うっ」とか「どうでしょう」とか言ふ。球がどつちに飛んだかさへ言はない。
見たら分るのだから五月蠅いとをいふ批判もあつての事だらうが、緊張感も何もあつたものではない。
一時、野球中継を女性がやるといふ企劃があつたが、今は廃れてしまつたやうだ。しかし、今くらゐ何も言はない野球中継なら、女性アナウンサーがやつても充分できるのではないかと思ふ。(2006年5月24日)
白鵬の優勝に終つた大相撲夏場所は多くの点で感動させられた。
先づ何よりも、白鵬の優勝インタビューである。特に「お父さんお母さんに有り難ふと言ひたいです」と日本語で語つたのは感涙ものだつた。日本人に果たしてあんな純朴な言葉が言へるだらうか。
また、白鵬は表彰式でモンゴル人にも拘はらず、しかも初優勝なのに日本の国歌である「君が代」をちやんと口を開いて歌つてゐた。日本の若者たちは学校で「君が代」を歌ふなと教師たちに教へられてゐるのにである。
さらに、新入幕ながら優勝争ひに加はり、千秋楽に白鵬に敗れたばかりのエストニア出身の把瑠都(ばると)が、優勝決定戦に勝つて戻つてきた白鵬を祝福の抱擁で迎へた爽やかさにも驚かされた。日本人にこんなことが出来るだらうか。
敗者が勝者を讃へる礼儀など日本人はとつくの昔に忘れてしまつてゐるのではないのか。
大相撲は日本の文化の筈なのだが、この文化を体現して後世に伝へるのは外国人たちなのかと思ふと、情けなくもあり頼もしいことでもある。(2006年5月23日)
鳥は生まれて最初に見た物を自分の親だと信じるさうだが、人間の男は生まれて初めて欲情した対象にしか一生涯欲情できないのではなからうか。下着泥棒とか盗撮とかのニュースを聞くたびにさう思ふ。
私の場合は西洋絵画の女性の全裸像、特にアングルの『泉』だつたのではないかと思ふ。だから幸ひにも人の下着を盗まなくても満足を得ることが出来るのだ。
日本人は西洋の裸体芸術が町中に展示されてゐるのを嫌ふ傾向があるが、この観点から考へると、西洋の裸体像は正しい性慾を男たちに植え附けるといふ重要な役割を果してゐるのではないかと思へてくる。
芸術家の方も、昔から神話を描くと云ふ口実で女性の裸体を好んで描いてきたが、それはもてない男が欲望を満たす道具としての役割があつたからに違ひない。ミロのビーナスとアジアの仏像とではその意味が全然違つてゐたはずだ。
しかも、芸術作品には日本の春画などと違つて人前で堂々と鑑賞することが出来るといふ利点がある。頭の中で何を考へてゐようと「芸術鑑賞」だからである。(2006年5月22日)
なにやら最近は、塾に行けば誰でも勉強が出来るやうになるといふ迷信が広まつてゐるらしい。
しかし、塾と云ふのは出来る子がもつと出来るやうになるために行く所だと、私などはずつと思つてゐたし、今も思つてゐる。出来ない子が塾に行つても出来るやうにはならないからである。
駆けつこの能力と同じく勉強も子供の能力の一つでしかない。そして、駆けつこの遅い子が特別に練習しても速い子に勝てるやうにはならないのと同じく、勉強の苦手な子が特別に勉強しても勉強の出来る子に勝てるやうにはならない。
子供にはそれぞれに得手不得手があり、その得意分野を伸してやるのが親の役割である。勉強の出来ない子を塾に遣つてはいけない。子供の不得意分野を得意分野に変へることは出来ないのである。
学歴の差が収入の差に繋がるといふが、それは余程の高学歴で、しかも学歴を生かせる職にある人の話で、中途半端に勉強だけ出来る子供を作つても何の役にも立たないのである。(2006年5月21日)
スーパーマーケットなどでよくCDの廉価版が売られてゐる。大体クラシック物が多かつたが、最近は歌謡曲も沢山出てゐる。
その中に色んな歌手の物があるのだが、小川知子だけはどこにもない。伊東ゆかりや園マリはあるのにない。無いと欲しくなるのが人情で、レコード店で探すと三十曲入り三千円程のCDがあつた。
しかし、知らない曲ばかりだ。小川知子にはヒット曲は二、三曲しかない。三十曲も要らないのだ。となると、あとはオムニバスものだ。コンピレーションともいふらしい。
調べると「初恋のひと」と「ゆうべの秘密」が『歌う明星』といふCDの「赤」と「青」に別々に入つてゐるのがわかつた。
丁度、TSUTAYAの更新ハガキが来てゐたのでそれを持つて、会員登録してある店に行つたらあつたので、更新料+CD一枚分(一枚分は更新時のサービス)で借りてきて、iTunesでパソコンに取込んだ。
そしてさつそく全部聞いてみたが、いやー、懷かしい。
「初恋のひと」もさうだが、中でも園マリの「逢いたくて逢いたくて」が秀逸だ。よくもまあこんなに甘くてせつない歌が作れたものだと感心する。子供の頃、恋とはこんなものかと思ひながら聞いたことを思ひ出した。(2006年5月20日)
『ワイルド・スワン』で有名なユン・チアンが出した毛沢東伝『マオ』は、毛沢東がスターリン以上の恐怖政治をやつた独裁者だつたといふ真相を暴露してゐるさうだ。
これに対して親中派の学者たちは猛反発で、何とかこの本を貶めやうと必死である。曰く「俗悪」「失敗作」「三文小説」「信憑性が問われる」「論拠がない」「いかがわしい本の引き写し」「誤りに満ちている」「フィクション」。
しかしながら、この『マオ』の中身を裏付けるやうな本が欧米から次々と刊行されてゐると、読売新聞の『夕景時評』(布施裕之)(5.16)が伝へてゐる。
その一つとしてまだ和訳のないギャディス米エール大教授の『ザ・コールドウォー』が挙げられてゐる。そして、朝鮮戦争やハンガリー暴動弾圧において毛沢東が果たした役割が、毛沢東の「モンスター」ぶりを実証する例として紹介されてゐる。
また『マオ』には張作霖爆殺をスターリンの陰謀だとする説が肯定的に紹介されてゐる(上301頁註)。日中戦争拡大に果たしたソ連と中国共産党の役割は日本ではこれまで無視されてきたが、本家の中国人が言い出した意味は大きいのではないか。(2006年5月19日)
警察がやたらと誰でも彼でも逮捕するのはおかしいと思つてゐたが、やつと文句をいふ人達が現れた。帝王切開で妊婦が死んだことを業務上過失致死だとして担当医師を逮捕したことを、産婦人科学会が批判したのである。
手術は医師の裁量であつて、失敗して患者が死んだら逮捕されるのでは手術をする医者はゐなくなる。逆に手術をしなくて死んでも逮捕されるかもしれない。
いつたい警察に医学の何が判るのか。医者の判断より警察の判断が上廻るのであれば、手術の相談は警察にしなければならなくなる。かういふのを警察国家といふのだ。
今日は今日とてヒューザーの社長が逮捕されたが、彼は逃げも隠れもしないのに何故逮捕する必要があるのか。自白の強要以外の目的があるとは思へない。しかし、自白の強要は違法である。警察は違法行為を止めるべきである。
交通の取締りも出鱈目である。パトカーに追ひかけられるのと、酒気帯びで運転するのとどちらが大きな危険であるかは明らかだ。些細な罪で人を死に追ひやる警察はもつと批判されていい。(2006年5月18日)
大相撲には毎日最後の取組みの後に弓取り式といふものがある。このことを皇牙といふ相撲取りが久し振りに思い出させてくれた。
昔はテレビの大相撲中継はいつも弓取り式の映像で終つてゐたが、最近ではとんと見なくなつた。テレビの映像技術の発達で、すぐにリプレー映像が出せるやうになつてからは、そちらが優先されるやうになつたからである。
しかも、最近は特にスローモーション映像の発達で、結びの一番を凡ゆる角度から映し直してくれる。さらには力士インタビューといふ余計な物まで入つて来て、その間に弓取り式は終つて仕舞ふのである。
ところが、いま弓取り式を担当してゐる皇牙といふお相撲さんが幕下から十両に昇進したことが話題になつて、彼の勇姿が特別にテレビに流される機会が生まれた。
それを偶々(たまたま)見たが、弓取り式は今もちやんと行はれて居り、残つた熱心なお客さんがそれを見ながら掛声をかけてゐる昔ながらの情景が繰り広げられてゐた。
そして大相撲とは単に勝ち負けを争ふスポーツではなく、一つの儀式なのだといふことを思ひ出させてくれた。全く映像技術の進歩も良し悪しである。(2006年5月17日)
最近子供による人殺しが増えたのは、最近の子供が昔の子供より残酷になつたからではない。子供は元々残酷な生き物であり、その残酷さを矯正する教育が疎かになつただけの話である。
子供といふ残酷な生き物を情ある人間にするのが教育である。ところが、最近の教育の荒廃のために、子供の残酷さが取り除かれずに、子供は残酷な生き物のままで取り残されてゐるのである。その結果、子供の人殺しが増加したのである。
何もインターネットやコンピューターゲームによつて子供たちが新たに残酷になつたのではない。
子供は悪い事が大好きである。だから、教はらなければ弱い者苛めをする。橋の下で暮らしてゐる人間に火をつけたりする。ホームレスを弱者として憐れむことを、子供は大人に教へられなければ分からないのである。
子供は放つて置けば盗人になり人殺しになる。教育しなければ子供は人間にはならずに化け物になると思つてよい。子供は生まれついての天使ではないのである。(2006年5月16日)
『今昔物語』の第三十巻は恋愛話が集められてゐるが、その第一番の話がいちばんすさまじくて、振られた女の事を忘れるために、その女のウンチを盗んでくる男の話である。
惚れた女があまりにいい女なので、ウンチを見ればその女に対する恋も冷める筈だと思つてのことなのだが、そのウンチがまた香を薫きしめて良い匂ひがしたので余計に惚れて仕舞つたといふ結末だ。
この話から平安時代には仮にトイレと云ふ物があつたとしても、高貴な女性はそこには行かずに美々しい漆塗りのオマルの中にして、それを下女に捨てさせたといふことが分る。また人に扱はせる以上はそのウンチの匂ひを消すために香料を使ふ心遣ひがなされたと云ふことだらう。
『今昔物語』の編集者はこのウンチは偽物だつたと書いてゐるが、平安時代も終りに近い彼の時代にはもうそんな完璧な香料はなかつたから、そんな話にしたのではないか。
また、フランスのヴェルサイユ宮殿にトイレが無かつたとよく言はれてゐるが、当時のフランスの貴婦人もまた美々しいオマルにして召使に捨てさせたのだらうと、この『今昔物語』の話から推測できる。
まさに香水とはオードトワレ(eau de toilette、toilet water)だつたのである。(2006年5月15日)
旧漢字が古い漢字であると思ふのは日本人の勝手であつて、世界では立派に現役である。
CSテレビのスカパーに加入してゐると、休日には時々お試しで中国のテレビ番組の無料放送を見ることが出来る。それらの番組では中国語の字幕を付けたものがよくあるが、その内の半分は中国新字体、半分は旧漢字で書かれてゐる。
だから旧漢字が過去の遺物であるといふ考へは、日本人だけが持つてゐるイメージに過ぎないのであつて、事実はさにあらずである。
岩波書店から出てゐる芥川龍之介の全集も最新のものは、さすがに歴史的仮名遣ひはそのままだが、漢字は全部新漢字に変へられてしまつてゐる。芥川のやうに表記に拘(こだ)はつた作家が、略字体の漢字ばかりになつた自分の全集を見たらさぞ嘆くことだらう。
しかし、旧かな旧漢字の本は現代の読者には疎まれる。正直売れないのだ。与謝野晶子の源氏物語の翻訳を古本屋で買つたら旧カナで損をしたといふ書き込みをネットで読んだことがある。正に猫に小判である。(2006年5月14日)
インターネットと謂へばそこには無限の広い世界が広がつてゐるやうに思ふが、実際に私などが毎日見てゐるページは限られてゐて、その外へ出て行くことは少ない。
私が毎日決つて見るのは新聞社のページくらゐのもので、その他では知りたい事を調べるために検索のページを使ふくらゐである。
タレントのブログなどを覘(のぞ)いてみたことはあるが、たわいないことが書いてあるか自分に興味のないことが書いてあるばかりで、毎日見ようとも思はない。
新聞などではインターネットで世の中が変つたかのやうに書かれてゐるが、たいして変つてゐないのではないか。メールは肉声の電話には勝てないし、電話で言へない話といふものが相変はらずあつて、最後は直接会つて話をするしかないやうだ。
また、ネットの面白いページの存在を知るのも、ネットからではなくテレビや本からだつたりする。
やはり人間のすることは何が出てこようとそれほど大きく変はるものではないのではないか。デパートの中で一番の客を集める売り場は、地下の食品売り場と 上の方の階にある書籍売場である。知識欲を最終的に満たすのはやはり昔からずつと変ることなく本といふことだらう。(2006年5月13日)
最近、振られた側が振つ側を包丁で刺す事件が頻発してゐる。個々の事件の原因は知らないが、大体は振つた方が振られた側を邪険に扱つたのが原因だと思ふ。
相手を振ると云ふことはとても申し訳ない行為であるといふ認識を持たない人間、特に女性が多いのではないか。好き嫌ひは権利ではない。相手が好きでなくなつたからと言つて、その相手をゴミのやうに扱ふ権利が生まれてくる訳ではないのだよ。
それなのに相手を邪魔者扱ひし、さらに犯罪者扱ひして警察に相談するとは何事だらう。誰が悪いかと云へば、それは好きでなくなつたお前が悪いのだよ。振られた相手の側には何の罪もないんだ。
確かに、振られた腹いせでお前に対して「殺してやる」などと過激なことを云つたかもしれない。でも、それはそれだけお前が好きだと言つてゐるに過ぎないんだらうよ。どうしてそれが分からないんだ。ましてそれを警察に相談するなんて。
好きな人に振られた上に、警察から呼び出しを受けた相手の気持を考へてみろ。人を振つて相手を悲しませた上に相手を犯罪者扱ひし、さらに人殺しに迄し立てて仕舞つたあんたは、この世で生きていく資格がない人間だつたんだよ。(2006年5月12日)
今年の4月の新車の販売台数のベスト3はトヨタのヴィッツ、カローラ、エスティマだと言ふ。私はかう云ふ数字は嘘だと思つて居る。
ヴィッツのやうな不細工な車を誰が買ふと云ふのだらう。カローラのやうな何の取り柄もない車を誰が買ふと云ふのだらう。エスティマのやうな馬鹿でかい車 を誰か買ふと云ふのだらう。誰も個人の好みで買ふはずがないではないか。だから、発表は八百長に違ひない。どこかで数字合はせが行はれて居るのである。
まづ全国の膨大な数のトヨタの社員が買つて居るのである。そしてトヨタの下請け会社の社員、トヨタの系列会社の社員が買つて居るのである。
さらに、トヨタの会長は経団連の会長であるから、トヨタと少しでも付合ひのある会社が大量に買つて居るのに違ひない。特にカローラなどは全国の企業の営 業車になつてゐるのであらう。試乗すれば分かるが、とても百万以上の金を出して個人が好んで買ふとは思へないからである。
それにしても日本では何時まであの霊柩車のやうな格好をしてミニバンやワゴン車が流行り続けるのだらう。少しでも美的感覚がある人ならば、ちゃんとしたセダンを買ふ筈だからである。(2006年5月11日)
犯罪をするぞとネット上に書き込むだけで犯罪になる。本当はその気は無くてもだ。共謀罪は犯罪をすることを話合ふだけで犯罪になるが、其れと実によく似てゐる。
しかし、ネットに書き込むだけで犯罪が成立したとする警察の見方を誰もこれまで批判してこなかつた。この国では警察の犯罪捜査を誰も批判できない。なぜなら、日本では警察が一番偉いからである。
ところが、似たやうなことを政府が法制化しようとすると野党が批判して法案審議をボイコットまでする。いい加減なものである。野党は世論の顔色を見て行動してゐるだけであつて、何が正しいかを考へて行動してゐるわけではないことは明かである。
犯罪計画が本心なのか、それとも単に言葉上のことなのかをどう見極めるかは難しい。しかし、内心の自由が問題なら、発言した時点で其れは最早内心の問題 ではなくなつてゐる。やる気もないことでも口に出すことによつてやる気になることはよく有ることだ。言葉にはそんな力が有るのである。
「脣寒し」は自分自身に対する戒めであるが、悪いことをやる相談をする自由が果して必要かどうかは明かだらう。(2006年5月10日)
大相撲の世界では外人力士が花盛りだが、彼等のインタビューにおける日本人らしさには驚かされる。
どんな教へ方をされるのかと思ふ程、どの外人力士もちやんとした日本語を流暢にしやべる。プロ野球の外人選手にいつも通訳が付くと大違ひで、一人でいいから日本語の話せない外人力士を見たいと思ふほどである。
それ以上に驚くのは、外人力士の謙虚な受け答へである。勝ち力士に対してアナウンサーが調子のいい質問をしても、必ず「まづ勝ち越しを狙ひます」とか「一番一番を精一杯に頑張ります」とか答へる。決して驕り昂ぶつたやうなことは言はないのだ。
むしろ日本人力士の方に、そんなことを言つて大丈夫かなと思ふやうな、景気のいいことを言ふ力士がゐるのに、外国人力士の方は飽くまで慎重である。
あれはさういへと親方衆に教へられてゐるのだと思つてゐたが、どの外人力士もあれほど謙虚だと、あれこそが世界共通の礼儀作法なのではないかと思へてきた。
そして、日本人だけがどうも世界の常識から外れて行つてゐるのではないかと思へてきたのである。(2006年5月9日)
最近のニュースに「小泉純一郎首相の靖国神社参拝などで日中間の政治関係が一層冷え込む中」と書いてあつたが、これはおかしい。
そもそも日中の政治関係が冷え込んでゐるとふのはおかしい。日中の政治関係は冷え込んではゐない、中国によつて勝手に冷え込まされてゐるのである。
次に、小泉純一郎首相の靖国神社参拝などでといふのもおかしい。これではこの問題の原因が日本側にあることになつてしまふ。さうではないはずだ。日本の首相の靖国参拝にいちやもんをつける中国側にこそ、この問題のそもそもの原因があるのである。
仮にも他所の国との外交関係が悪くなつた時に、その原因が自国の側にあるかのやうに書くなどといふことは、中国や韓国のマスコミではあり得ないことだ。日本のマスコミは一体誰の立場で書いてゐるのか。
もし公平な立場で書いてゐるといふなら、少なくとも事実を書け。「小泉純一郎首相の靖国神社参拝などにいちやもんをつける中国政府のために日中間の政治関係が一層冷え込まされている中」と。(2006年5月8日)
ソ連が崩壊してロシアの人達は自由を手に入れたが、お陰で昔のやうな楽な暮らしが出来なくなつたと不平を鳴らして、昔の社会主義の方が良かつたと言ふ人達が沢山現れた。
それは今の日本で小泉改革のお陰で日本が格差社会になつたと批判する人達とよく似てゐる。
昔多くの地方は政府による公共工事のばらまき行政のお陰で潤つてゐたが、小泉改革のためにばらまきが無くなつたので、その分地方は貧乏になつた。しかし、これは当然の結果である。地方は東京の人間の稼ぎで潤ふのではなく、自分の稼ぎで潤はなければならない。
規制緩和で自由になつたら勝ち組と負け組が出来て仕舞つたと言つて、折角生まれた自由をけなす人達が居る。ところが、それは曾て規制緩和が大切だと言つてゐたのと同じ人達なのである。
いま談合を税金の無駄使ひだと批判してゐる人達も、談合が完全に無くなつた時には、きつと仕事を貰へる勝ち組と全く仕事にありつけない負け組が生まれて仕舞つたと批判することだらう。(2006年5月7日)
芥川龍之介の『鼻』と『芋粥』も『羅生門』と同じく『今昔物語』の話を元にして書かれたものだが、元の話の方が断然面白い。
『今昔物語』の話は人間の本音が書かれてゐる話である。様々な建前をかなぐり捨ててやりたいことをやる人間の話である。ところが、芥川はそれを建前の話に戻してしまつてゐる。世間体や見栄など人間の枝葉末節を重んじる話にしてしまつてゐる。
芥川の『鼻』では、顎(あご)まである長い鼻でいつも人に笑はれる高僧が、苦労惨憺して鼻を短くしたらまた笑はれたやうな気がしたので、元の長さに戻つ て安心する話だが、それは嘘だらう。長い鼻のせゐで飯もろくに一人で食へなかつたと書いてゐるではないか。その事実を捩ぢ曲げてゐる。
『芋粥(いもがゆ)』の原作では、貧乏役人が芋粥を腹一杯食ひたいと言つたら、それが金持ちの息子の耳に入つて、家に連れて行かれて、途轍もない大釜で 山ほどの芋粥を作つて出されたところ、驚いて食欲も無くなつてしまつたが、夜とぎの女もあてがはれて楽しい一月過して帰つたといふ話だ。
ところが芥川は豪勢な持てなしに気兼ねをする話にしてしまつてゐる。そして貧乏役人で芋粥も満足に食へない頃を懐かしむ話にしてしまつてゐる。若い頃読んでもちんぷんかんぷんだつた分けである。(2006年5月6日)
イランがウランを濃縮するとアメリカが怒るのは、イランがアメリカの敵であるからに他ならない。イランが核ミサイルを持てば、アメリカ本土に格ミサイルを飛ばしてくるかもしれないと恐れてゐるのだ。
それに対して、中国とロシアはこの問題でアメリカ程の熱心でないのは、両国がイランと敵対関係にないからである。
さらに、もしイランが核兵器を持てば、イスラエルの目と鼻の先に核ミサイルが立つことになるかもしれない。しかし、イスラエルも核武装してゐるのだ。核戦争になればイランも無くなつてしまふ。
また、イランは中国と違つて普通選挙が行はれてゐる民主国家である。アメリカはイラクを民主化すれば世界が平和になると言つてイラクに戦争を仕掛けたが、既に民主国家であるイランをどうしようと言ふのか。
核兵器を持つかもしれないイランよりも、既に核兵器を持ちしかも民主国家でない中国の方が恐ろしい筈だ。ところが、アメリカはさうは言はない。ならば、イランの核をそんなに恐れなくてもよいのではないか。(2006年5月5日)
芥川龍之介の『羅生門』は、門の二階で死人の髪の毛を引き抜いてゐる老婆を見つけた男が、老婆の着物を奪ひとる話である。
『今昔物語』の原作(第29巻の18)では男は初めから盗人なのに対して、芥川の話では職を失つた男が老婆の話を聞いてゐるうちに現実の厳しさに目覚めて盗人になる話になつてゐる。
原作の盗人と違つて、芥川の「下人」には衒ひがある、屈託がある。老婆の言訳を聞いて「では、己が引剥ぎをしようと恨むまいな」と言訳をしてから老婆の着物を奪ふのである。
この老婆から奪ふなら正当な行為だと言つてから奪ふのである。この泥棒には建前が必要なのだ。いや、死人の髪の毛を引き抜いてゐた老婆にも「この死人は生きてゐたとき酷いことをしてゐた女だつた」などと自分の行為を正当化させてゐる。
その相手の理屈の上に立つて、それならあんたの着物を奪つても構はない筈だと言つて老婆の着物を奪ふのである。芥川は理詰めで盗人になる男を作りだしたのである。(2006年5月4日)
レーザーラモンHGがテレビに映ると私などはチャンネルを変へるが、子供には絶大な人気があるらしい。この人気は昔の加藤茶の「ちよつと丈よ」と言ひながら子供に見せたストリップショーの人気と同じで、極めて性的なものである。
子供は性的なものが大好きだ。先日も古本屋で5歳ぐらいの子供が二人で本棚の文庫本を開いて見せ合つてはくすくす笑つて居るので、何を見て居るのかと覗いてみたらポルノ本で、その中のみだらな写真を見せ合つてゐるのだつた。
女児猥褻事件などといつて小学校低学年の女子に淫らなことをしたとして逮捕される成人男性が絶えないが、子供も興味があるから随いて行くのである。
レーザーラモンにしても加藤茶にしても大人ならその下品さといやらしさに目を背けるが、子供は大喜びする。そしてレーザーラモンの腰振りの真似をする。子供はこの腰振りの性的なものに興奮してゐるのだ。
テレビ局は視聴率さへ取れたらよいから、レーザーラモンを見境もなくテレビ番組やCMに出すが、子供が見る時間帯のテレビ番組にレーザーラモンを出すの は、普通の本屋にポルノ本を置くのと同じであり、結果として性犯罪を増やして居ると知るべきである。(2006年5月3日)
毎日新聞が社説を使つて、新聞の特殊指定廃止に向けた公正取引委員会の竹島委員長の意見を批判してゐるが、その意見を読むと尤(もつと)もだと思ふこと許(ばか)りである。
「戸別配達が大変だとか、知る権利のために必要だとか、ワンパターンの話ばかり出てくる」
「皆さん完全にマインドコントロールにかかっている。戸別配達のためには特殊指定が必要だという議論をうのみにしている」
「独禁法は価格競争を促進するための法律なのに、特殊指定では値引きすれば独禁法違反になり、おかしい。新聞には再販制度があり特殊指定がなくなっても宅配がなくなることはない」
それに対する毎日新聞の批判は、こんなことを言ふ公取委員長はこの50年間で初めてだとか、委員長は独禁法といふ狭い枠の中だけで判断してゐるとか、特 殊指定制度に不都合が生じたことはないとか、日本の活字文化は先人たちの知恵で築かれてきたとか、手前勝手なもの許りである。
実際は、自分たちの既得権を温存して事実上の談合を維持したいだけだらう。それに何より新聞は既に値引販売されてゐる。(2006年5月2日)
内閣府による「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」で「日本が戦争に巻き込まれる危険がある」との回答が45%、「ないことはない」を加えると77.6%に達したといふ。
私はそんなことは100%、絶対にないと思つてゐる。
こんな数字が出るのは、安保条約があるとアメリカの戦争に巻込まれるといふ左翼による馬鹿げた安保反対論の影響もあるかと思ふ。
しかし、一番大きいのは北朝鮮情勢だらう。しかし、北朝鮮が日本と戦争になる様なこと、譬へばミサイルを日本国内に打ち込むなどと謂ふことは100%ない。北朝鮮にそんな力はないし、何よりも中国がやらせない。
また、日本と中韓の間でも戦争などは絶対に起こらない。アメリカの同盟国である韓国が、同じくアメリカの同盟国である日本に戦争を仕掛けてくることは100%ないし、日本が外交問題の解決に武力を使へないことは日本国憲法に書いてある通りである。
また核武装した中国は、同じく核武装した日米に戦争を仕掛けることは出来ない。それは世界の終りだからである。
そんな当たり前のことがなぜ多くの日本人に分からないのか、不思議と言ふしかない。(2006年5月1日)
古本屋で旧字旧仮名で書かれた文学全集を見かけるとよく購入するが、「芥川龍之介集」だけは大抵売り切れてゐる。芥川龍之介は今でも絶大な人気があるのだ。
芥川の小説は感動的ではない。その特長はストーリーではなく、分かりやすさでもなく、その反対の文体の難解さと装飾性、つまり芸術性にある。といふことは、芥川の小説を持つてゐると何となく格好がいいやうな気がするのであらう。
しかし、買つても読まれてゐないのではないか。言葉が難しくてよく分からないからである。
芥川は自分の作品を人が知らない難しい漢字で飾り立てることを得意としてゐた。そして、最後に読者を煙に巻くことを狙ひとしてゐた。多少の後味の悪さ、何とはなしの居心地の悪さをを作り出すことこそ芥川の狙ひだつた。
芥川の小説はだから行間を読む小説ではない。まさに行のその文字そのものを、その文字の衒(てら)ひを見なくてはいけないのだ。
彼の翻訳小説である『バルタザアル』に「荅布」といふ言葉が使はれてゐるが、芥川はどこでこんな言葉を知つたのだらうと訝るばかりである(ネットでひくと『史記』に出てくるらしい)。
ところが、この熟語を載せてゐる漢和辞典が一つだけあるのを本屋で見つけた。その名を『漢辞海』といふ。次に買ふ漢和辞典はこれかなと安易に思ふのである。(2006年4月30日)
最近、近所の婆さんのうちに大きな箱が届いた。訊くとそれは電子レンジで、Y新聞をまた4年契約してしまつた結果だといふ。
4年ごとに婆さんの家には電気製品が届くのである。前は掃除機だつたさうだ。別の家ではY新聞からお風呂の只券2万円分をもらつたといふ。しかし、引つ越しのために中途で止めると、恐いお兄さんがやつてきて2万円返せと言はれたさうである。
また、Y新聞はA新聞の購読家庭に「A新聞です、購読の延長お願ひします」と言つて、契約書を出して「ここにハンコを」と言つてY新聞に契約させてしまふといふ手も使ふ。こちらが騙されたことに気付いて断ると、今度駅前で見かけたらどうなるか分からないぞ凄むのである。
とは言ふものの、A新聞も二年間契約すると二箇月分只にするという手を使ふ。
こんな出鱈目がまかり通つてゐるのも、新聞が特殊指定されてゐるためである。かうした事が無くなるやうに公取委には是非がんばつてほしいものだ。(2006年4月29日)
国宝の法隆寺の門柱に「みんな大好き」と落書きをされたが、「愛国心」を拒否する人達が沢山ゐる国柄であるから、そんなこともあるだらうと思ふ。
「みんな大好き」だと感じてそれを形に残すことは、国宝などといふ政府が勝手に決めた寺の柱よりも大切なことだと、子供達は日教組の教師達によつて教へられてきたからである。
国旗・国歌に反対し、首相の靖国参拝に反対して中韓の肩を持つ日本人は、日本といふ国を愛するよりも「みんな大好き」が大切な人達である。
「みんな大好き」なのだから国境なんか必要ない。そもそも国境などといふ物があることが間違つてゐる。友情こそ大切なのだ。さうだ日本海を日韓の「友情の海」にしよう。その為に、些細な領土を譲つたつていいぢやないかと彼らは言ふのである。
一方、韓国は日本海を「友情の海」にする気など全くなく「韓国の海」とするべく、軍事力を使つて竹島を占拠してゐるのである。
これを見ても「みんな大好き」が日本の一部の人達だけの妄想でしかないことが分かるが、それを子供達に教へてゐる教師たちを放置してゐては、益々国宝が損なはれるどころか、行く行くは日本の国土も損なひかねない。(2006年4月28日)
代用監獄とは警察の留置所を拘置所代りに使ふことである。これが何故悪いかは日本ではあまり理解されて居ない。悪いことをした奴がどこに留置されようが同じだと思はれて居るからである。
この制度のもとでは被疑者は警察の取り調べから一息つくことが出来ない。本来なら警察と拘置所との行き来が必要なため、取り調べは9時から5時までといふ風に時間を区切られる。被疑者は今日の取り調べはあと何時間で終はると思ふことが出来るのである。
また、拘置所に行くことで、被疑者は別の環境に移ることが出来、自分を取り戻せることも出來るので、心にもない自白をせずに済むのだ。当然、朝飯と晩飯は拘置所で落ち着いて食べることができる。
代用監獄ではそれらが一切なく、被疑者は警察の奴隷状態に置かれて、夜昼の別なく警察の求める自白を要求され続けることになる。これは拷問と同じである。
被疑者は推定無罪であるから犯罪者扱ひしてはいけないのだが、日本では犯罪者扱ひをする風潮が強く、国際的に見て恥づかしい人権侵害の制度が野放しになつてゐるのである。(2006年4月27日)
耐震偽装事件の関係者を今頃逮捕するのだと云ふ。何のための逮捕なのか。
逮捕するのは逃亡や証拠隠滅の恐れのある場合の筈だが、あの建築士が今さらどこに逃げるといふのか。証拠隠滅をするならもうとつくに終つてゐるだらう。
要するに警察は留置所と云ふ代用監獄に放り込んで何らかの自白をさせようと目論んでゐるのだ。しかし、代用監獄は人権侵害であり国際的に違法である。警察がかう云ふ違法行為を繰り返すのだから、国民は誰も本心から法を守らなくなるのだ。
裁判所もおかしい。自白した被疑者を拘置所から釈放して、自白しない被疑者を拘置し続けてゐる。
逆だらう。自白した被疑者は犯罪者だと自ら認めた悪人である。そんな者を世に放つて、証拠隠滅や口裏合はせをされて裁判で自白を翻されたらどうするのか。自白しない被疑者こそ、まつとうな人間である可能性が高い。そんな人こそ釈放して正業に就かせるべきである。
ところが実際は逆なのである。こんな理不尽なことを法曹界がやつてゐるのだから、世の中良くならない分けである。(2006年4月26日)
川崎市多摩区のマンションで小学生の男の子が殺された件で、被疑者の男性が今頃逮捕されたといふ。
しかし、、この被疑者は女性を投げ落さうとしたとして既に逮捕されてゐる。その起訴が済んだ今日男の子の件で逮捕されたのである。しかしながら、この被疑者はとうの昔に男の子を突き落としたことを自白してゐるではないか。
ところが、報道によると、昨日男の子の突き落としを認めたから再逮捕したのだといふ。嘘だらう。被疑者は警察の捜査日程に合せて犯行を認めたり認めなかつたりするのか。警察は嘘を衝いてはいけない筈だ。
大体この被疑者はずつと拘束されてをり、どこにも逃げるわけがない。何のための再逮捕なのか。警察の手続きだけの為の逮捕ではないのか。警察の代用監獄制度を使つて、被疑者を警察にずつと留置するためだけの逮捕ではないのか。こんな逮捕は逮捕権の乱用だらう。
男の子の件で今頃逮捕するなら、女性の件で逮捕してゐた間は女性のことだけ取り調べをしてゐたといふのか。さうではない筈だ。警察はこんな見え見えのインチキをすべきではない。(2006年4月25日)
コーヒーといふ商品は手がかかつてゐるものほど値段が安い。
一番値が高いのがコーヒーの豆である。次に高いのがコーヒーの粉で、一番安いのがコーヒーの粉を一杯分づつ紙の袋に入れて濾過できるやうにした物だ。
コーヒー一杯に必要なコーヒーの量を10グラムとすると、一杯づつ紙の袋に入れたものは、安いもので一杯10円を切る。コーヒーの粉は400グラムの袋入りで 700円ほどだから、一杯当たり17.5円。それに対してコーヒーの豆は200グラムで700円はするから、一杯35円である。
豆売りは割れてゐないものを選んだりするから高いと云ふ説もある。しかし、それでは濾過パックにしたものの方が安いことの説明が付かない。
卵にも似たやうなことがあつて、生卵より茹で卵の方が安い。こちらは売れ残りの卵で賞味期限の終りに近いものを茹でるから安いのだと言ふ。
コーヒーがこれと同じなら、コーヒーも手を掛けたものほど古いコーヒーを使つてゐることになる。実際、紙パック物は黒くて苦いだけで風味のないコーヒーが出来ることが多いから、これが正解かもしれない。(2006年4月24日)
犯罪が実際に行われなくても謀議に加わるだけで処罰できる「共謀罪」が新設されると報道されてゐるが、これは嘘である。テロを未然に防止するための「共謀罪」が新設されるのである。
テロに協力する容疑者が日本に潜伏してゐるのを共謀罪に問ふことで計画段階でも逮捕できるやうにしようといふわけで、結構なことだ。
ところが、大抵の地方新聞では野党や日弁連(=共産党)の意見に従つて、最初のやうに書くから、地方新聞しか読まない人はとんでもない法律が作られようとしてゐると思ふに違ひない。
中にはこれは現代版治安維持法だといふ人までゐる。しかし、治安維持法が天下の悪法だつたのは取り締まりの対象だつた共産党員か隠れ共産党員にとつての話であつて、一般の人達にとつては悪法でも何でもなかつたのである。
それと同じことで、共謀罪はテロリストになる予定のない我々一般人にとつては、何の関係もない話である。また、犯罪の計画を相談をする事と言論の自由とは何の関係もないのは言ふまでもない。(2006年4月23日)
松本清張の『昭和史発掘』シリーズの中で、政治を扱つたものは眉に唾して読む必要がある。
清張の政治に対する見方には権力は悪事を為すものだといふ決め附けが根底にある。だから、「陸軍機密費問題」「石田検事の怪死」「朴烈大逆事件」と読んで行つても、真相が明かになつてゐるやうには読めないのである。
「満洲某重大事件」も東京裁判史観にどつぷり漬かつた書き様で、関東軍による張作霖暗殺の唐突さに全く疑問を呈してゐない。
清張が記すストーリーでは、田中義一が満州占領作戦の一切を中止した(昭和三年五月二五日)ことに対する関東軍の反発が引き金となつて、張作霖暗殺事件 (六月四日)が勃発するのだが、其の間がたつたの十日しかなく、事件の綿密さと規模の大きさから見てあり得ない短さなのである。
そこには僅か十日の思ひ附きではなく、北京にゐる張作霖が満州へ帰還する日程さへ分かれば成功できるだけの用意周到な計画があつたと考へるべきである。
私はこれを読んで、張作霖暗殺は関東軍将校の仕業でなかつたのではないかといふ疑ひを益々深めた次第である。(2006年4月22日)
家電リサイクル法によつて、古いテレビが役場ではゴミとして処理されなくなり、業者に有料で引き取つて貰はねばならなく成つてから大分経つ。
同じ商品を買ふにも少しでも安い店を捜して廻る世の中であるから、映らなくなつたテレビの処分に金を使ふ気になれなくて、家の中に仕舞ひ込んでゐる家も多いのではないかと思ふ。我が家にもそんなテレビがあつて、31型の大型なので二階から一階に降ろすこともできない。
落語の『火焔太鼓』のおかみさんの科白ではないが、このテレビは我が家にズーッとゐて、家の人間が死に絶えてもテレビだけは居続けるのだらう。そして、誰かがこの家を壊すときにそのテレビも一緒に壊されるのだらうと思ふ。
ところで、リサイクル法の趣旨は分解して出た部品を再利用しようといふことである。しかし、こんな古いテレビを分解しても再利用できる部品があるとも思へない。
このあいだ田圃の道ばたに大きなテレビが抛り出されて居るのを見かけた。きつと誰も引き取り手が無くて捨てられたものに違ひない。アナログ放送の終はる五年後には、こんな光景があちこちで見られるやうになるのではないだらうか。(2006年4月21日)
松本清張の『昭和史発掘』の「芥川龍之介の死」は筆者が初めに否定してゐるにも拘はらず面白い「芥川龍之介論」になつてゐる。
筆者は芥川を谷崎潤一郎と比較して、谷崎が一匹狼的存在で誰の後押しを受けることもなく、一面識もない永井荷風に認められて独力で出世したのに対して、 芥川が漱石グループの支援のもと恵まれた環境の中で漱石の後押しで世に出てとんとん拍子に出世した点に注目して、そこに芥川の根本的な弱さを見てゐる。
その為、谷崎が成功した後も自在に自分のスタイルを変へながら旺盛な創作活動を続けたのに、大家になつてグループの庇護から離れた孤独な芥川は、漱石の死後も漱石に褒められたスタイルを変へることが出来ずに行詰つてしまつたと云ふのである。
ところが話は其処の留まらない。芥川は実はH女(秀しげ子)との肉体関係で泥沼に陥つて、心身ともに困憊しきつてゐたのであり、其れが自殺の大きな原因の一つになつたと云ふのだ。
芥川賞作家である松本清張が芥川龍之介の恥部を容赦なく暴いて見せるこの作品は、芥川龍之介のニヒルなイメージを一変させるものである。(2006年4月20日)
「数学を学んで何の役に立つのか」とはよく聞く言葉である。その答は色々あらうが「それは数学の発展に役立つから」といふのも一つの答であらう。
数学の発展は数学者に委せておけばいいと云ふ人が多いかもしれない。しかしながら、一つの物が発展する為には多くの人間がそれに携はる必要があるのだ。
例へば最近「野球の裾野」を拡げることの重要性が言はれてゐるが、それは優れたプロ野球選手が一人輩出する為には野球をする人が沢山ゐることが必要だか ら野球の普及に努めやうと云ふことである。日本に野球の長い歴史があつて、日本人の男性の誰もが子供の頃からみんな野球をやつてきたからこそ、大リーグの松井や イチローが生まれたのである。
それと同じで、数学が発展する為には数学の広い裾野が必要なのである。国語もまた同じで、古文や漢文なんか専門家だけが読めたらよいと思はれ勝ちだが、さうではないのだ。
好きな人が沢山ゐるから、出来る人が沢山ゐるから、優れた学者も生まれてくるのである。(2006年4月19日)
新しく『ポケットプログレッシブ中日辞典』が出たので購入した。これはこれ迄のポケット版のよりも、日本語読みの音訓索引でも熟語の数でも充実してゐるやうだ。
中日辞典は中国語を読む為の辞書ではあるが、明治の日本語を読むときにも役に立つ。中江兆民や中村正直やさらには森鴎外でさへも中国語の熟語をそのまま使ふことがよくあるからである。
「切当」や「羞明」など広辞苑にも漢和辞典にもない単語が中日辞典に掲載されてゐることがよく有るのだ(但し此の二つは『大辞林』には載つてゐる)。そこで役に立つのが小学館の中日辞典なのだが、もつと手軽なのが欲しかつた。
たまたま調べてゐた「顚仆」といふ単語が手持の中日辞典では小学館のものにしか載つてゐなかつたが、この辞書にも載つてゐるので購入した。同じ小学館といふことで親版の情報を大分取込んでゐるやうである。
この「顚仆」を知つたのは『支那文を読む為の辞書』の中である。この辞書には漢和辞典になくて中日辞典に出てくるやうな熟語を多く扱つてゐる。『ポケットプログレッシブ中日辞典』は何よりもこの辞書を読むのに役立ちさうである。(2006年4月18日)
私は車を運転してゐてブレーキを蹈むときにには、軽く一度蹈んでから次に強く蹈むといふ二度蹈みをするやうにしてゐる。
ある時、前方に止つてゐる車に気附くのに遅れて、ぶつかりはしなかつたが、ハッとさせられたことがあつて、点けつぱなしのブレーキランプは気附きにくいものだと思つたことがあつた。
人の目は変化しないものには鈍感だから、ブレーキランプを点灯させたままにせず、ブレーキを二度に蹈み分けてランプを点滅させて、後続車の運転手に直ぐに気附いて貰ふやうにするのである。
同じ理屈で、自分の車が渋滞の最後尾で止まる時にも、ブレーキを蹈みつぱなしにはせず、バツクミラーを見ながらブレーキランプを点滅させて、こちらが止まつてゐることに気附いてもらふやうにしてゐる。
ブレーキの二度蹈みは教習所で教へてゐることだが、実際にしてゐる人を見たことがない。ところが上岡龍太郎が『パペポテレビ』でこれをしてゐると聞いて、意を強くしたことを覚えてゐる。(2006年4月17日)
学生時代には新聞で読むのは夕刊の文化欄くらゐだつたから、大学に入つて下宿暮らしをしてゐたときには新聞はとらなかつた。
新聞を読みたくなつたら近くの銀行に置いてあるものを読んだ。朝日を読むことが多かつたが、スポーツ欄は名文家揃ひで、相撲や陸上競技の描写にはしばしば感動させられたものだ。
一方で、『天声人語』にも時々目を通したが、後味の悪い独善調でいつもうんざりしたことだけを覚えてゐる。
アイフルが営業停止になつたといふので、新聞は「チワワのCMの陰で違法取り立て」などと一斉に書き立ててゐる。しかしながら、そのCMを流して金を稼いでゐるのは新聞社の系列テレビ局であることを忘れてもらつては困る。
しかも、部数の多い新聞ほど暴力団まがいの勧誘員を使つて強引な勧誘をやらせてゐるのは誰でも知つてゐる。新聞に人のことを偉さうに言ふ資格はないのである。
今も昔も、自らの独善を恥ぢる謙虚さは新聞の何処にも存在しないやうだ。(2006年4月16日)
「告」といふ漢字は、旧字体では縦の棒が二番目の横棒で止まらずに「口」に着くまで突き抜けてゐる。突抜けるとどうなるか。「告」は「牛」と「口」とから出来てゐることが分かるのである。
とすると「告」は牛が口を開けてゐる姿に見えてくる(但し辞書では「口」はワクを意味するといふ)。
このやうに旧字体では、新字体で突き出てゐないものが突き出てゐたり、その逆だつたりして、そこに意味のある漢字が沢山あつて面白い。
一方、「虫」の旧字体は「蟲」であり、「糸」の旧字体は「絲」である。ところが「木」の旧字体は「森」でも「林」でもない。
この「蟲」と「絲」を「森」と「林」から類推すると、本来の「蟲」とは無数の「虫」の集まりのことで、本来の「絲」とはある程度の「糸」の集まりのことだと思はれてれてゐたことが分る。
さらに「虫」は「まむし(真虫)」の「むし」で蛇(へび)のことだとも云ふ。昔は「虫」と書いて蝮(まむし)の意味だつたとも云ふ。
旧字体を知ると、今とは違ふ考へ方や物の見方を色々知ることが出来る。(2006年4月15日)
「格差社会」の議論は作られた議論、為にする議論であり、国民の中から沸き上がつて来た議論ではない。
我々は日常の暮らしの中で他人との格差を感じることは殆どない。自分が人と比べるのは、親類縁者であり隣り近所である。そして、親類縁者も隣り近所も自分とそんなに違つた暮らし方をしてゐる者はまづない。
それは下町の住人にも高給住宅街の住人にも言へることである。下町の人間は高給住宅街の人間と自分を比べようとはしないし、逆もまた同じである。だから、日本の社会に格差があるなどといふ人間は、それをわざわざ比べようとする人間なのである。
確かに、テレビのクイズ番組に大金持ちの贅沢な暮らしぶりを紹介してゐるものがある。あれなどを見ると誰もが格差の存在を感じるかもしれない。ところが、その番組を作つてゐるのはTBSで、日本が「格差社会」だと一番騒いでゐる毎日新聞の系列会社なのだ。
どうやら「格差社会」とは、毎日系の新聞社とテレビ局が自作自演て作り上げた虚像だと言つていいのではないか。(2006年4月14日)
トイレの後で手を洗ふときに、いつも思ふのはこれは一体どれほどの意味があるのかと云ふことである。
汚物に触れたのなら兎も角、普通はトイレをする過程で手が汚れることは殆どない。むしろ、汚れた手で自分の下着や体を汚さないやうに、トイレに入る前に手を洗ふ方が大切な気がする程だ。
むかしO157が流行つた頃、大をした後の手洗ひが喧(やかま)しく言はれたことがあつたが、あの時上岡龍太郎が『パペポテレビ』でそれに噛みついて、「ではトイレの後の何時手を洗へばよいのか」と、いちやもんをつけてゐたのを思ひ出す。
手洗ひがそんなに大切なら用を済ませた直後に行ふべきで、パンツを上げたりシヤツをズボンに突つ込んだり等々をして服装を整へてから、さあ手を洗ひませうといふ普通のやり方では、O157の黴菌は手を洗ふ前に下着や服に附着してしまふではないかといふのだ。
実際、これはO157が流行つてゐなくても同じで、トイレの後の手洗ひには気休めとして意味合ひが大きいのだと思ふ。(2006年4月13日)
パソコンで旧漢字を使つて文章を書かうと思つても、実は現状のパソコンでは旧漢字を全部表示することは出来ない。
新字と旧字が余り違はない漢字には両方のフォントが用意されてゐないからである。例へば、旧漢字では点が一個多いだけの「しんによう」の漢字や「暑」な どは、特別なファイルを作つて中国語や韓国語のフォントをいちいち埋込みでもしない限り、パソコンでは旧字体が使へないのだ。
だから、「旧字こそ正字なり」と漢字に旧字だけを使つてホームページを作らうとしても簡単には出来ないのである。また、青空書店などの文学作品のファイルで旧字旧仮名となつてゐるものも全ての旧字が使はれてゐるわけではない。
その一方で、戦後生れの人間だから旧漢字が読めなくても当り前だといふわけではない。旧漢字は漢文の教科書に出てきて居り、ちやんと学校で勉強してゐる 筈だからである(但し、最近では新字で漢文を教へるらしい!?)。それでも、日頃は用が無いので、意識して覚えてゐないことが多いかもしれない。
取り敢ず、新旧で特に字体の違ふ要チェック漢字は下に挙げたもの位だらう。あとは前後の文脈で何とか分かるのではないか。
壓(圧)圍(囲)鹽(塩)畫(画)嶽(岳)舊(旧)缺(欠)獻(献)蠶(蚕)實(実)寫(写)處(処)盡(尽)圖(図)竊(窃)雙(双)體(体)臺(台)擔 (担)膽(胆)癡(痴)晝(昼)廳(庁)轉(転)點(点)傳(伝)燈(灯)當(当)濱(浜)邊(辺)寶(宝)與(与)禮(礼)。(2006年4月12日)
昨日は新聞休刊日だつた。新聞休刊日はいつも月曜日であるが、何故月曜日なのだらうか。
月曜日に休む代表は散髪屋と図書館である。この二つは日曜日に利用者が多いから、日曜日に休まずに月曜日に休む。同じやうに、新聞は日曜版の広告が多いので日曜日は休まずに月曜日を休みにしたと云ふことがあるかもしれない。
しかし、新聞休刊日が新聞配達人の為と云ふのは嘘だらう。それなら日曜日に休めるやうにする筈だからである。また新聞の購読者にとつても一週間の始まりである月曜日に新聞がないのは不便である。
月曜日の新聞は日曜日に作られるから、月曜日が休みといふことは、新聞を作る人達が日曜日に休めるといふことである。つまり、新聞休刊日が月曜日であるといふことは、新聞配達人のためでも新聞購読者のためでもなく、新聞記者と新聞社の為だと考へられる。
新聞社はしきりに宅配の重要性を主張してゐるが、それなら新聞休刊日を日曜日にした方が良いのではないか。(2006年4月11日)
時々「この本は旧漢字だから駄目だ」とか云ふ人がゐる。さうではないだらう。旧漢字の本が駄目なのではない。旧漢字が読めないあなたが駄目なのである。
わたしは戦後教育を受けた人間ではあるが、これまで旧漢字を旧漢字と意識して読んだことはなかつた。今改めて調べてみると、これまで読んだ本の中に旧漢字で書かれた本があるが、読んだときには、そのために読めない本だと思つたことはない。問題は中身だからである。
岩波書店が春と秋に「リクエスト復刊」で出す文庫は、殆どが旧漢字である。だから、旧漢字嫌ひの人は見向きもしないかもしれない。一方、旧漢字が何とか読める私とて、復刊だからと云つて慌てて買ふわけではない。近くの図書館に在る本ばかりだからである。
ところが、今回の復刊の中に『O侯爵夫人他六篇』といふクライストの短編集が入つてゐて、これはいつもの図書館に無いので取寄せた。訳者は独和辞典の木 村・相良で有名なあの相良守峯で意外にも上手く訳してゐる。内容も女性の妊娠を扱つて興味が尽きないので、旧漢字の豊かな表現力を味はふのに相応しい本で あると思ふ。(2006年4月10日)
「格差、格差」と一部の新聞が騒いでゐるが、それなら言はう、新聞社の中にこそ最大の格差があると。それは新聞記者と新聞配達人との格差である。
新聞記者と言へば大学出であり社会のエリートだ。それに対して新聞配達と云へばきつい仕事の代表であり、それに携はる人達は社会の底辺を構成してゐる。そしてこの格差を作つたのは小泉改革ではなく新聞社である。
この格差は行政の問題ではなく、新聞社の問題なのである。新聞社は自分の中にあるこの格差をまづ解消してから、さらに新聞社の外に格差があるならそれを指摘して然るべきだらう。
ところが、新聞社は新聞配達人を蔑(ないがし)ろにしてきた。新聞社は新聞配達人に対して高い地位を与へることなく、使ひ捨てにしてきたのである。
折しも、母子家庭の母親が新聞配達中の早朝に家が火事になつて幼い子供二人が焼死ぬと云ふ傷ましい事件が赤穂で起つた。これは格差は新聞社の中にこそ存在することを象徴する事件ではあらう。(2006年4月9日)
戦前と比べれば戦後の方が国民の国語力は飛躍的に向上してゐるといふ見方がある。丸谷才一は『桜もさよならも日本語』でこれは認めねばならない事実だと書いてゐるが、果してさうか。
その根拠として丸谷が挙げる理由は、学校の進学率と新聞の購読数が戦前より飛躍的に上昇したことである。しかし、この二つは戦後の経済発展によつて国民の経済力が高まつた結果であると考へる方が良いのではないか。
また、新聞を取つてゐるからと云つてそれが必ず読まれてゐると考へるのは早計と云ふものだし、上の学校に行つたから勉強がよく出来るやうになつたとは云へないのも常識だ。
逆に戦前の新聞が国民に対してもつてゐた影響力の大きさは、新聞がよく読まれてゐたといふ何よりの証拠であらう。米騒動が鈴木商店焼討ちに発展した事と大阪朝日の扇動記事とは切離して考へられない事である。
また、戦前の教育を受けた私の両親は小学校や青年学校しか出てゐないが、旧字旧かなの森鴎外の小説を平気で読むし、最近まで私よりも漢字を良く知つてゐた。
丸谷氏は戦前を暗黒社会と見る進歩的知識人たちの迷妄に囚はれ過ぎてゐるのではないか。(2006年4月8日)
インターネットは知識の宝庫で、これを使ふと知りたい情報が大抵直ぐに手に入る。ADSLなどの常時接続になると特にさうである。
だから、インターネットを使へば、テレビのクイズ番組の『クイズミリオネア』で解答者が「ファイナルアンサー」と言つた後に、司会者が「ざんねーん」と 言ふのかそれとも「せーかい」と言ふのかが、コマーシャルの時間を待たずとも、司会者の顔と睨めつこしなくても、分かつて仕舞ふのである。
お陰で、ちよつとしたことで疑問に思ふことがあると、すぐにインターネットで答を見附ける癖が附いてしまつた。
以前なら、人に訊く、本で調べる、本屋に行く、図書館に行くなどの手数が必要で、答が見つかるまでの時間を待つための辛抱が必要だつた。それでも判らないときには諦めることも必要だつた。
インターネットをこのまま使つてゐると、自分が堪(こら)へ性のない人間、短気な人間、辛抱のできない、すぐに答へを欲しがる人間になつてしまふのではないかと心配になつて来る。(2006年4月7日)
貧乏な親の子供は充分な教育を受けられないから良い学校に行けずに良い会社にも入れないからまた貧乏になるといふ貧乏の循環論が流行つてゐる
確かに、頭が悪くて貧乏な親の子供がまた頭が悪くて良い学校に行けないことはあるかもしれない。しかし、だからといつて、頭が良くて裕福な親の子供がまた頭が良くて良い学校に行くのを批判するのは嫉妬といふものだらう。
では、金持の子供は頭の悪さを金で補つてゐるのだらうか。確かに教へ方のうまい教師はゐる。だから、金を掛けてよい教師に附けば判るやうにはなる。しかし、勉強は最後は自分ですることである。そして、自分ですることである以上、勉強は只でも出来るのである。
金の掛らない勉強の仕方を一つ教へよう。それは教科書をノートに丸写しすることである。これは国語でも数学でも同じことだ。丁寧にノートに書き写してゐる間に、教科書に何が書いてあるかは自然に分かつて来るからである。
ノートも買へないほど貧しければどうするか。自分の頭に丸暗記すれば良いのだ。そして、働く為にそれすら出来ない子供が沢山ゐる社会こそ格差社会といふのである。(2006年4月6日)
森鷗外の『青年』を読んでゐると、これは発禁になつた『ヰタ・セクスアリス』の書き直しだと思へてくる。詰まりテーマが同じなのだ。
この長篇小説の中で、主人公の純一が、劇場で知り合つた坂井夫人に本を見に来いと家に誘はれて関係をもつてからは、読者の興味は専(もつぱ)ら純一と坂井夫人の関係に引き摺(ず)られざるを得ない。
純一は夫人の家から帰るときラシーヌを借りる。次はラシーヌを返しに行かねばならない。そこでまた関係をもつ。帰りしなに今度は箱根に来いと誘はれる。
鴎外はその途中で性欲を廻つて哲学を論じる。人生の意味を考へる。それを登場人物の口を借りてどんどん喋らせる。メーテルリンクの『青い鳥』に対する批判やルネサンス論が来る。ショーペンハウエル論からニーチェ論までが挿入される。
実に高級な話なのだが、読者の興味は坂井夫人にあつて飽くまで低級である。純一は箱根に行くのか行かないのか。それが結局箱根に行く。そこでまた関係するのかしないのかといふことになる。
結局、鴎外の『青年』は女と性をどう扱ふかがテーマであり、哲学を除くとまさに自然主義小説そのものと言へるのではないか。(2006年4月5日)
この頃はガソリンスタンドは何処もセルフだが、灯油もセルフでポリタンクに自分で入れる。先日そのセルフのスタンドで不思議な光景を見た。
私の隣で爺さんがポリタンクに灯油を入れてゐるのだが、それが中々捗(はかど)らない。よく見ると爺さんはポリタンクの中を覗きながら入れてゐるのだ。
私はそんなことはしない。私のポリタンクには20リッター入るから、給油スタンドのホースのノズルをポリタンクに突つ込んで、把手(とつて)を握つて給 油を始めると、スタンドのメーターをじつと見てゐる。そしてメーターの表示が20になつたら握りを緩めて給油を止めるだけである。
ところが爺さんはメーターを見ずにずつと手元を見てゐるのだ。
手元の灯油と見上げた先のメーターの数字は確かに繋がつてゐる筈である。しかしながら、メーターの数字はデジタル情報であり、灯油がポリタンクに入つて行くといふ実感がない。
恐らく爺さんはそんな実感のない数字よりも自分の目を信じて必死で手元を見てゐたに違ひない。(2006年4月4日)
民主党はこれまで何度も自民党の誰かを辞めさせようと問題を持出して来ては自分たちが辞める羽目になつてきた。
前原氏が代表になつて与党と政策で争ふ方針を打出したのだが、これはこのやうな過去の轍を蹈まないためではなかつたやうである。前原氏も又スキャンダルといふ餌に飛び附いて、同じ失敗に陥つて仕舞つたからである。
「人を呪はば穴二つ」とは人を呪ひ殺さうとしたら自分も死ぬから墓穴が二つ要るといふ意味ださうだが、民主党の場合はいつも自分の方の穴ばかり多い。
そもそも野党の最大の仕事は政府与党のスキャンダルを追求することだらうか。戦前の議会でも、野党はこれこそ我使命であるとして、多くの大臣の首を取つたが、それが結局は政党政治に対する国民の信頼を損ねて軍部の擡頭(たいとう)を招いた。
今回は偽メールで政治に対する国民の信頼を損ねたと云ふが、もしメールが偽物でなかつたら国民の信頼は高まつただらうか。これがさうはならないことは、過去の議会の歴史を顧みれば判ることだ。
やはり野党は政策で与党と争つて貰ひたい。(2006年4月3日)
プロ野球の阪神は確か去年優勝した筈なのに、今年の開幕試合を何故かアウェーの神宮球場でビジターゲームを戦つてゐる。いや実は阪神は前年に優勝しようが最下位だらうが毎年甲子園球場で開幕戦を開く事ができない。
何故かと云へば、それは他でもない、四月の初めには高校野球様が甲子園球場をお使ひになつて居られるからである。
高校野球といへば子供の野球だが、この国ではそれが特別な存在として大人の野球であるプロ野球よりも尊ばれてゐるのである。
しかも、高校生だからと子供扱ひして監督が選手を「あの子、この子」と呼んだりしようものなら新聞に抗議の投書が来る。
高校生であつても大人として、いやそれ以上の存在として敬はねばならないのだ。なぜなら、今やプロ野球の投手ですら出来ない三連投を当り前のやうにやつてのける犠牲的精神が今もなほ高校野球様には健在だからである。
金儲けに汚れたプロ野球の試合などと違つて高校野球様は神聖なのである。だから、阪神の選手たちは開幕と真夏にロードを戦ふといふ不利を蒙つても、一言も文句を言ふことが出来ないのである。(2006年4月2日)
城山三郎の『鼠』には、大正時代の米騒動で焼討ちに遇つた鈴木商店を一人で動かしてゐた金子直吉の栄枯盛衰が描かれて居る。
当時鈴木商店は、弱者の立場に立つ大阪朝日新聞から執拗な攻撃を受けてゐた。大阪朝日は鈴木が米を買占めて米価を釣上げて居ると、事実に反する記事さへ書いて、鈴木に対する憎悪を煽り立て、鈴木商店の焼き討ちの元凶となつた。
一方で、金子自身は清廉潔白な人物であり、金銭欲も名誉欲も全く無く、樟脳・小麦・砂糖などの商機を掴んだ買占め攻勢で小さな鈴木商店を世界に名立たる巨大商社にまで育て上げ、日本の為・世界の為に身を粉にして働いた偉人だつた。
「大阪朝日の社会主義者ども」にも「奸商鈴木」の金子直吉にもそれぞれの正義があつた。
しかし、大阪朝日の正義は「白虹事件」にまで発展して、発行停止寸前に追込まれる。新聞の無責任な言論と社会主義者の出現で各地に暴動が起きるやうになつた社会は、治安維持法を必要とするまでになつた。
一方、「鈴木は何も悪いことはしてゐない」と言ひ続けた金子直吉の正義は、会社が焼討ちされても怯(ひる)むことは無かつたが、大戦景気で手を広げすぎた反動で戦後不況に堪えられずに倒産に至る。
城山三郎の記述は正義に倒れた者に常に同情的である。しかし、誰もが正義によつて躓く事をもつと言つても良かつたのではないか。(2006年4月1日)
ホーム | パソコン試行錯誤 | シェアウエア | 拡声機騒音 | くたばれ高野連