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 『哲学書簡』の第15でヴォルテールはニュートンの万有引力の発見を扱つてゐる。ヴォルテールの紹介は次のやうなものである。

 宇宙に浮かぶ恒星や惑星は何の力によつて回転してゐるかは、昔から哲学者たちを悩ましてゐた謎だつた。デカルトは、それは宇宙に充満してゐるエーテルと いふ物質が渦巻きを作つてゐて、それに乗つて星々は回転してをり、そのエーテルの重みが地球上に重力をもたらしてゐると考へた。

 しかし、ニュートンにはそれは真実とは思へなかつた。第一、その理論はケプラーの法則に一致しなかつた。そんなある日、ニュートンはりんごが木から落ち るのを見て、りんごの木の遥か上の月から地球に向つて物体を落としたらどうなるかと考へた。

 月の軌道の直径も、月の公転速度も分かつてゐたから、物体が月から地球に落下する場合に、最初の1分間で物体が落下する距離は幾何学を使つて計算で分か つてゐた。しかし、当時は地球の正確な大きさが分らなかつた。

 その内、仏人ピカールが地球を計測してその周長を突き止めた。そこから、月の軌道の半径は地球の半径の60倍であることが判明したのだ。それ以前に、彼 は重力の力は距離の2乗に反比例することを計算によつて突き止めてゐた。

 すると月から落ちてきた物体は地球上では60の2乗を掛けただけ大きな重力を受けてゐるはずであり、最初の1分間で落下する距離も月の上でよりも60の 2乗だけ大きくなつてゐるはずだ。そしてその距離は、実際に地球上で物体が落下する距離と一致する。

 かうして、ニュートンは、地球上で物を落下させる力は月にも働いてゐること、即ち重力こそが月をその軌道上に維持してゐること、つまり重力が引力である ことを突き止めたのである。(なほこの書簡の林達夫の訳は、peserといふ動詞の訳語を文脈を無視して全部「のしかかる」としたため、非常に分かりにく いものとなつてゐる)

 追記:一方、中央公論新社から出てゐる中川信の訳は、これを「重みをかける」と訳したので、まるで引力が押す力であるかのやうになつてゐる。どれもみな 「引かれる」といふ意味だが、直訳に拘るなら「重さをもつ」程度にしたいところだ。この人の訳 は林達夫の訳をよく参考にしてゐるやうだが、注釈まで同じ内容のものがあるのには驚かされる。とは言へ、林達夫の分かりにくい個所や間違ひが改善されてゐ る場合が多いので(例へば第8書簡の「三段論法」→「くだらない議論」。第5書簡も全体として分かりやすくなつてゐる)、大いに参考になる。(2006年 12月31日)







 いぢめ問題が今だにかまびすしいが、政治が効果的にいぢめを解決できるとは思へない。

 そんなことをするには、いぢめを見逃さないやうにする必要があるが、そのためには大人が子供たちを厳しく監視し続ける必要がある。隠れたいぢめも見つけ 出さなければいけないからである。

 児童虐待もさうだ。児童虐待をなくすためには、近所の家で子供が大人に虐められてゐないかを近隣住民が監視してゐなければいけない。

 飲酒運転撲滅運動もさうだ。飲食店に車で来た客に酒を飲ませないためには、客が何で来たかを監視してゐなければいけない。車で来た客が酒を飲みたくて 「歩いてきた」と嘘をつくかもしれないからである。

 愛国心も同じだ。教師が教室で愛国心に反することを子供たちに教へてゐないか監視する必要がある。

 かうして様々な問題を政治が解決しようとすれば、日本をどんどん相互監視社会に変へていく必要がある。それは正にジョージ・オーエルの『1984』の世 界である。自由な日本社会で果たしてそんなことが可能だらうか。(2006年12月30日)







 ヴォルテールの『哲学書簡』は、最初から読んでいくと「クェーカー派について」といふのが幾つも並んでゐて、その次も宗教の話なのでうんざりして読むの を止めてしまひがちである。

 林達夫の翻訳にも責任があつて、宗教の話題は苦手らしく何が書いてあるか分からない文章が多い。ところが、得意の哲学の話になると俄然流暢になつて来て 面白い。

 例へば、ベーコン(1561〜1626)のことを「經驗論哲學の父である」と言ひ、「彼以後試みられたあらゆる物理學的實驗で、彼の書物に示されてゐな いものはほとんど一つもないのである」と言ふのだ。

 さらに、ニュートン(1642〜1727)が発見したとされる引力についても、既にベーコンの本に書いてあるとなれば、一つベーコンの本を読んでみよう かと云ふ気持にもなる。この本は読書案内にもなつてゐるのだ。

 ところで、そのベーコンの『ノヴム・オルガヌム』(岩波文庫)だが、書名を見ると全訳であるかのやうだがさにあらず。この本に訳されてゐるのは第一巻だ けで引力の話が出てくる第二巻は訳されてゐない。正しくは『ノヴム・オルガヌム第一巻』なのである。(2006年12月29日)








 最近は反論をするのではなく抗議するのが流行つてゐる。ある週刊誌が煙草は体に良いといふ記事を出したら、禁煙学会といふものが抗議したといふ。学者な らなぜ反論しないのか。

 非核三原則を議論しようと言つたら非核団体が抗議した。これは被害者たちの感情に基づいた情緒的なものだ。

 一方、韓国人は日本の韓国統治が合法的だつたなどといふと妄言だと行つて抗議する。完璧に反証してみせれば、相手の議論の嘘ははつきりする。それが出来 ないので、情緒に訴へて抗議するのだらう。

 禁煙学会も情緒の団体なのだらうか。

 もともと先進国で日本の喫煙率は高い。それなのに、日本人の平均寿命は世界一である。しかも、男性の喫煙率が下がつたのに、男性の平均寿命は4位に下が つた。喫煙と健康の因果関係は弱いのである。

 抗議といふのは相手の議論の存在を抹殺しようとする姿勢である。ロシアでは都合の悪いことを言ふ人間を抹殺してしまふ。抹殺は良くない。ちやんと反論す べきである。(2006年12月28日)







 『哲学書簡』の十三番目「ロック氏について」は経験論哲学のロックのことで、霊魂とは何かについてのロックの明解な答を紹介してゐるが、その内容だけで なく、書きぶりが面白い。

 「學術と誤謬との揺籃であり、人間精神の偉大さと愚昧さをあんなにもぎりぎりまで推し進めたギリシア」と古典ギリシア崇拝を皮肉り、

 「アリストテレスになると、彼のいふことは不明瞭なので千差万別に解釋されてきたが」とアリストテレスの権威を皮肉り、

 「聖ベルナルドスは・・靈魂に関して、死後それは天へ行つても決して神は見ないが、しかし人のすがたをしたイエス・キリストと會話だけは交はす、とヘへ てゐたさうだ。この度は、人々も彼の言には信をおかなかつた。(第二回)十字軍の冒險が少しばかり彼の御託宣の信用を失墜させてゐたからである」と聖人ベ ルナルドゥスの功績を皮肉り、

 「我々のデカルトは、古代の誤謬を看破するために、しかしそれに置換えるに自分の誤謬を以てするために生れ出」とデカルト哲学を切つて捨てる。

 その後に「こんなに大勢の理窟屋たちが靈魂の物語(ロマン)を書いた後に、一人の賢人が出て來て、これは謙遜にもその歴史を書いたのである」とロックの 哲学を「謙遜」の一言で特徴づける。

 ヴォルテールを読むと物の見方が広がることは間違ひないやうである。(2006年12月27日)







 今度出た労働法制の改革案は労働組合などが大反対してゐる。

 しかしながら、そもそも労働を8時間と決める意味は何なのか。それは機械に付き合はされる単純労働、誰がやつても成果は大して変はらない労働だからこ そ、時間で区切る意味があるのだ。

 ところが、会社を一番支へてゐる営業はどうか。営業は契約を取つてくるのが仕事だが、個人差が大きい。8時間かけても一本も取れない人もゐれば、半日で 充分の人もゐる。だから、既に時間給のほかに歩合給も導入されてゐる。

 事務職のホワイトカラーなどは総じて、能力によつて仕事の能率は全く違ふ。残業しないと終はらないのは、無能の証明のやうなものだ。逆に仕事が速い人は 会社にゐて暇で仕方がない。8時間も会社にゐると怠けてゐると思はれるのだ。

 ホワイトカラーでなくてもそれは言へる。自転車を一人で組み立てる作業を考へてみれば明らかだらう。

 能力が問はれる仕事に対して時間で給料を要求するのは、何の成果を出せなくても金をくれと言つてゐるに等しい。仕事が出来ない人間に合はせた労働法制を 改めようとするのも一理あると思はれる。(2006年12月26日)







 種痘はイギリスのジェンナーが発明したことになつてゐるが、ヴォルテールの『哲学書簡』によると、イギリスではそれよりもずつと以前から行はれてゐたこ とが分かる。

 元々はコーカサス地方で行はれてゐた風習で、それがトルコに伝はり、ジョージ1世の時代にトルコのイギリス大使婦人が自分の子供に施したのがヨーロッパ 人では最初だといふのだ。

 その話が当時の皇太子妃に伝はると、彼女の奨励によつて種痘は英国中に広まり、お陰で疱瘡で死ぬイギリス人は激減したのだが、フランスではこの風習は広 まらなかつた。

 ヴォルテールの言ひたいのはここからだが、フランスでは教会や医者が種痘の採用に反対したために、大勢の有為の人材が疱瘡のために死に続けた。特に教会 の説教師たちは人の命よりも自分たちの偏見の方を重視したのである。

 今の日本でこの教会の役割をしてゐるのはマスコミである。彼らは決つた倫理綱領を持つてゐるわけでもなく自分たちの常識を振り回して、自分たちの気に入 らない何か新しいことをする人達を弾圧するのである。

 おかげで多くの有為の人材が牢獄に入れられ、多くの人の命が失はれてゐのは、アンシャンレジームのフランスと同様である。(2006年12月25日)







 本間氏の辞任では自分が選んだ人を守れない安倍首相も情けないが、『週刊ポスト』といふゴシップ雑誌の尻馬に乗っかった新聞記者たちも情けない。

 夜討ち朝駆けの新聞記者なら、本間氏がどこで誰と暮らしてゐるかぐらゐはとつくに知つてゐたはずだ。ところが、自分では問題にせずに下世話な週刊誌が取 り上げたら、一斉にさうださうだと言つたのである。

 そもそも本間氏自身には何の落ち度もない。公務員宿舎を提供したのは政府なのである。同居の女性が妻でないことが責められる訳もない。そんなことした ら、とどのつまりはさつさと離婚に応じない夫人が悪いことになつてしまふ。

 もちろん職業差別になるから女性が元ホステスだといふことを責めるわけにも行かない。しかも事はプライバシーの侵害にもなりうる。こんなことを上品な一 流紙を標榜する自分の新聞で問題にするのはふさわしくない。

 それで週刊誌が問題にするのを待つてゐたのか、週刊誌に問題にするやう勧めたのかは知らない。しかし、本間氏が「薄汚い」といふのであれば、新聞記者た ちの薄汚なさも似たやうなものなのである。(2006年12月24日)







 昔の人が子供を沢山産んだのは、貧しくて働き手が沢山いつたからである。豊かな人は子供の労働を当てにする必要がないから、子供を沢山生む必要はなかつ た。だから、貧乏人の子沢山だつたのである。

 ところが、今や年金制度のために子供世代の労働が必要になつて来た。今の制度は次の世代の労働によつて支へられてゐるからである。豊かなのに子供の労働 が必要なのである。ところが、貧乏人の子沢山は昔と同じで、豊かな人は相変はらず子供を作らない。

 非正社員の給料を増やせば子供が増えるといふ人がゐるが、そんなことはあり得ない。豊かになりたいと思ふのは誰しもだが、それで子育てをもつとしようと 誰が思ふだらうか。沢山子供を生み育てたいから共働きをしてゐる夫婦がどこにゐよう。

 結局、子供の世代の働きに依存する年金制度は、人々が貧しい間しか機能しない制度なのである。豊かな社会の中で少子化を止めて現行の年金制度を維持しよ うとする考へ方自体がおかしいのである。

 むしろ、次の世代の労働に依存しない年金制度を作るべき時が来てゐると考へるべきなのである。(2006年12月23日)







 朝日新聞が「銀行の献金 預金者よりも自民党か」といふ社説を出したら、途端に安倍首相が銀行から献金を断ると言ひ出した。実に手回しの良いことだが、 これ以上支持率を下げたくないといふ思惑が見え見えなのが情けない。

 元々政治は献金によつて支へられるべきものだ。銀行側としては業績の改善は自民党政治のお陰であり、この辺りで本来の姿に戻つて献金をと考へたとしても 不思議ではない。

 それを政党助成金といふ名の税金で賄はうとすること自体がおかしいのである。こんな制度は献金を賄賂だと言はれるのが嫌で作られたものでしかない。

 献金するなら預金者に還元しろといふが、それは屁理屈でしかない。預金の利息は日銀が決める公定歩合に連動するものであり、銀行の責任ではないからであ る。仮に献金分が利息になつたとしても、一人あたり10円にもならないはずだ。

 首相はいい決断をした積りだらうが、世論に対して右顧左眄する姿が露呈しただけである。それを追ひ打ちするやうな政府税調の会長辞任では、現政権の弱体 振りは益々際立つばかりである。(2006年12月22日)







 交通違反がばれさうになつて検問から逃げてゐる内に運転を誤つて街路樹に突つ込んだら、責任は交通検問ではなくドライバーにある。ところが、尼崎の脱線 事故の報告書は、厳しい取り締まりをしたJRが悪いといふのだ。

 運転手は自分のミスを誤魔化さうとした。それは飲酒運転がばれさうになつて逃走するドライバーと同じである。それは単なる我儘であり、パトカーに追跡さ れて当然である。

 そこで事故を起したら、パトカーが悪いのか。さうだパトカーが悪いと言つてゐるのが、今回の事故報告書である。パトカー、つまりJRのせゐにしなければ 世論が収まるまい、遺族が収まるまいといふ配慮である。

 会社人間である以上、会社のプレッシャーの下で仕事をするのは当たり前のことだ。多くの運転手はそのプレッシャーの下で事故を起さずに仕事をしてゐる。 JRに落ち度があるとすれば、そのプレッシャーに耐へられない人間を運転手に採用したことだらう。

 ところが、事故調は新型のATMを設置してゐたらとまで言つてJRの責任を問はうとしてゐる。それなら、全ての車に衝突防止装置を導入しない自動車メー カーに全ての交通事故の責任があることになつてしまふではないか。

 このやうな報告書を作つた事故調は、余程のプレッシャーにさらされてゐたのだらうと同情するばかりである。(2006年12月21日)







 日本には至るところに「倫理委員会」なるものがある。しかし、そこでいふ「倫理」が何を意味するかは定かではない。日本人の倫理にはしつかりとした法則 が有るわけではないからである。

 倫理とはもともと宗教的なもののはずだ。ところが、日本ではそれは宗教とは関係がない。それはむしろ個人的な感覚である。「生命を操作することは倫理に 反する」などといふが、それは所有に対するある種の執着を言ひ換へたものに過ぎない。

 まだ生きてゐると思ふ人から臓器をとるなんて許せない、一歩間違へたら犯罪だ。病気の腎臓を使ふなんてあり得ない、それなら取り出すべきぢゃな い・・・。

 そこにあるのは倫理観といふよりは倫理感といふべきものであり、行き着くところは、自分さへ良ければといふ戦後思想だらう。お陰で日本の移植医療は進ま ないが、それで困つてゐる人が沢山ゐても仕方がないと思はれてゐるのである。

 聖書には「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし」(『ヨハネ伝』) といふ言葉があるが、この思想は日本人とはまつたく無縁のものである。誰もこのやうに死なうとは思はない。

 命は大切だと言ふ。しかし、それは自分や身内のために大切だと言つてゐるに過ぎない。そしてそれが日本人の倫理感であり、そこで終りなのだ。この貧しい 倫理が貧しい医療につながつてゐると言つてよい。(2006年12月20日)







 弱者であるはずの者がいつの間にか強者になるのはよくあることで、それをうまく利用すれば大きな力が手に入る。それは最近明かになつた、解放同盟の人間 が役所を食ひ物にしてゐたといふ事実に見られるだけではない。

 被害者といふ弱者、被害者の遺族といふ弱者、障害者といふ弱者も次々と強者に姿を変へて、政府や地方自治体に圧力を加へて、法律さへ変へてしまふのはよ くあることだ。

 なぜかうなつてしまふのかは明らかだらう。マスコミが作り出した世論の力である。しかし、かうして手に入れた力も使ひ方を誤ると、途端にその力を失ふだ けでなく、また弱者に逆戻りしかねない。

 フランス革命で庶民の代表として台頭したロベスピエールは、王族を始めとして反対勢力の人間を次々と断頭台に送つたが、やりすぎて最後には自分自身が断 頭台に送られる身となつてしまつた。

 郵政解散の「刺客」たちもまた今や弱者の立場である。反動はいつ何時始まるか分からない。一部の人間のやりすぎで同和地区に対する世間の見方も大きく変 つたに違ひない。驕る平家は久しからずである。(2006年12月19日)







 共産党が石原都知事の息子の公費出張を問題だと言ひ出したら、左翼マスコミが飛びついた。につくき石原を都知事の座から引きづり落とすチャンスだと思つ たのだらう。

 しかし、その公費の内容を見ると一回のヨーロッパ出張にたつたの55万円である。これは飛行機代で大半が消えてしまふ金額である。格安チケットのパック 旅行ではないのだ。

 仕事の必要で急に海外出張した人間ならそれくらゐの額が要るのは知つてゐるはずだが、問題視する人たちはそれを隠してゐるのである。エコノミーならもつ と安いのは確かだが、仕事を依頼した人間にエコノミーチケットを渡すやうな失礼な会社がどこにあらう。

 息子を使つたのは公私混同だといふ話もある。しかし、高額の依頼料を払つたのならともかく、旅費だけのただ働きでは文句も言へまい。

 その息子が無名の芸術家だと言ふのも失礼な話である。海外からあんな作品しか作れない芸術家を使つたと批判されてゐるのならまだしも、そんな批判もない 以上、芸術家としての価値を云々すべきではない。

 これは国民の嫉妬心を利用した共産党の策謀だと見て良いのではないか。こんな策謀に乗るとは、まさに御里が知れるといふものである。(2006年12月 18日)







 かういふのを正に「いい子ぶる」と言ふのだらう。ドライバーにノンアルコールビールも出さないチェーン店が現はれた。ノンアルコールでもわづかにアル コールが含まれてゐるといふのだ。

 しかし、飲酒運転の検挙で酒の提供者が幇助(ほうじよ)で問題視されるのは余程の酔つぱらい運転の時だけのはずだ。それなのにここ迄すると云ふことは、 店に車で来るなと言つてゐるに等しい。

 この全国チェーン店、スカイラーク系列はこんなことでも宣伝になると思つてゐるのだらう。確かに、そんなことをする店がテレビで紹介されてゐるのを見た ことがある。その店ではドライバーにはそれと分かる小さなプラカードを首に掛けさせてゐたのだ。

 その客がほかの客の酒を飲んでゐないかどうか店員に監視させでもするのだらうか。まつたく客を馬鹿にした話である。

 大資本の全国チェーン店だからこんな綺麗事を言つてゐられるのだらうが、得意客に頼つてゐる個人商店ではある程度のリスクを負はなければやつて行けない はずだ。これもまた強者の論理といふことなのだらう。いやな世の中である。(2006年12月17日)







 神戸で今年もまたルミナリエが始まつたが、行きたいと思つたことがない。鎮魂などと言つてゐるが、要は観光客集めの催しで、大勢でわいわい言ひながら行 くものだから、私には関係がないのである。

 あれを見に行くにはまづ人混みが嫌ひでないことが必要だ。しかも、ルミナリエの会場だけではなく途中の道筋も帰りの電車の中もずつと長時間の立ちん坊を 我慢しなければならない。

 そもそも阪神大震災の犠牲者に対する鎮魂が、なぜイスラム風アラベスクの電飾なのか意味不明である。犠牲者にはイスラム教徒もゐるだらうが、大半は仏教 徒の日本人のはずである。

 初めは東京でやる積りの物だつたと言ふから、あんな飾り物になつたのだらうか。著名な芸術家が作る物ださうだが、恒例ともなればさう大きく変へる訳にも 行かないので、詰らなからうと思ふ。

 ともあれ女子供のミーハー趣味にはぴつたりだから今年も盛況だ。それなのに開催費用に苦しんでゐると云ふのも不思議な話である。何百億円の経済効果があ ると言ふのだから、全部地元の企業が出せば良ささうなものだが、神戸の企業がケチなのか、それとも鎮魂といふ名前が邪魔してゐるのだらうか。(2006年 12月16日)







 歯磨き一回で歯の汚れの65パーセントしか取れないが、歯間ブラシを併用すると85パーセントまで取れるといふ広告を見た。どつちみち一回では完全には 取れないのである。

 かうなると回数を増やすしかないわけで、歯磨き+歯間ブラシを二回やると100パーセントに近づくのではないかと思つて、夕食後と寝る前に磨くことにし てゐる。

 昔は朝起きて朝食前に一度だけ磨いてゐたが、しよつちゆう歯医者のお世話になつてゐた。食後のしかも寝る前に磨かないと意味がないことを知らなかつたの だ。

 最近は良心的な歯医者の勧めで、私もブラウンの電動歯磨きを使つてゐるが、ブラシが高価なのに寿命の3か月持たずに毛先が開いてしまふのが何故か分から なかつた。

 ところが、歯磨き本体の説明書をよく読むと、ちやんとブラシの洗ひ方が書いてある。ブラシを本体から外さずにスイッチを入れたまま水道水の下に持つてい つてそそぎ、次ぎに本体から外してお尻から中に水をそそぎ込むのだ。

 つまり、親指でごしごし洗ふのではないのである。やはり説明書は読んでおくべきものらしい。(2006年12月15日)







 安倍内閣の支持率がまた下がつた。しかし、ここで確認しておかねばならないことは、安倍首相は前任者とは違ふ政治手法をとつてゐるといふ点で一貫してゐ ることである。

 安倍氏は外交で中韓に対して友好姿勢をとつたのと同じやうに、国内でも自民党に対して友好的な政治手法を採用してゐるからである。

 ところが、復党問題や道路問題で安倍氏が党と対立する手法をとらずに党の言ひ分を大幅に汲み入れたことに対して、一部のマスコミは安倍氏が小泉氏のやう な対決姿勢をとらないことに御不満のやうである。

 しかし、安倍氏は小泉氏とは違ふのである。それをもし小泉氏と同じやうにやるべきだと言ふなら、安倍氏に対して小泉氏と同じやうに己の信念に従つて靖国 神社に参拝すべきだと言ふべきだらう。ところが、彼らの言ひ分は、中韓とは仲良くしろ、だが自民党と仲良くするなといふものである。

 だが、そんなに何もかも彼らの都合良く行くものではない。小泉氏が一貫して内外で大喧嘩をしたやうに、安倍氏は一貫して仲良くしようとしてゐるのであ る。それはそれで評価すべき事ではないか。(2006年12月14日)







 道路特定財源の一般財源化について森元首相が「納税者も、税金が高いけど道路整備のためならと納得した。ほかのものに回すのはなかなか理解が得られな い」と言つたといふが、この考へ方は国民感覚とはかなり乖離したものだ。

 一体国民が納得して払つてゐる税金などあるだらうか。ガソリン税は道路を作るために使はれてゐるから納得して払つてゐたことなど更々ない。国民はそんな ことを書いた看板があつたなと思ふ程度である。

 国民の多くは、ガソリン税の税率が本来の倍以上になつてゐることすら知らないのだ。だから、一般財源化するなら税率を下げろといふ議論も反対するために 持ち出されたとしか聞こえない。

 そもそも地球温暖化の原因の多くが車の排気ガスだと言はれてゐる時代に、ガソリン税を半分以下にして、ガソリンをもつと安く使へるやうにするなど有り得 ない話だ。

 森氏は納税者に名を借りて業界や族議員の言ひ分を代弁してゐるに過ぎないのである。(2006年12月13日)







 ヨーグルトは体によいさうで、昔はなかつた白いどろどろのヨーグルトがスーパーに沢山並んでゐてよく売れてゐる。しかし、本当にあんなものが体によいの だらうか。

 といふのは、家族がよく買つて来るので、賞味期限を切らせないやうにせつせと食べてゐるうちに、太つて来たやうな気がしたのである。そこで、容器のに 書いてある成分表をよく見たら、脂肪や炭水化物が沢山含まれてゐることが分かつた。

 一番小さな容器でも、脂質や炭水化物の量が牛乳200cc一瓶に含まれる脂質より多いものもある。だから、それを二個も三個も食べると牛乳を何本も飲ん だのと同じ量を採つたことになるのだ。

 それは、わざわざ低脂肪乳を買つて来て飲んでゐても、小さな容器のヨーグルトを一つ食べれば、本も子もないことになるといふことである。

 炭水化物や脂肪が肥満の原因であることは誰もが知る通りだ。そもそも乳酸菌を採りたければヤクルトなどごく小さいものを一つ飲むだけで充分である。いく ら健康ブームでも、ヨーグルトなどぱくぱく沢山食べるものではないやうである。(2006年12月11日)







 求人広告で年齢制限があるのは日本では仕方がないかもしれない。日本は年上の人に敬語を使ふ国だから、年上の人間を雇ふと気楽に使へないからである。

 年上の人間は年下の人間から命令されるのが嫌ひである。「〜さん、〜して下さい」と丁寧に言はれても、年上はかちんと来る。

 最近は敬語を大切にしようといふ運動さへある。となると、年上の人に仕事を指図するには、「〜さん、〜して頂けませんか」「〜して下さいませんか」と言 はなければならない。

 これではしち面倒臭くてやつていけない。能力の低い人間ならまだよいが、能力の高い人間は特に厄介だ。彼らはプライドも高いからである。

 米国では雇用条件の中に年齢制限を入れることを法律で禁じてゐるさうだが、それは例へばテレビのニュース番組で、キャスターと現場のアナウンサーが ファーストネームで呼び合ふ御国柄だから出来るのである。

 敬語を重んじる習慣が日本で無くならないかぎり、求人に年齢制限を禁止しても事実上は無くならないのではないか。(2006年12月11日)







 内閣府の調査によると、殆んどの人が飲酒運転の厳罰化を望んでゐるといふことだが、7日一晩だけで790人もの人が飲酒運転で検挙された。

 といふことは、多くの人が飲酒運転の厳罰化を望みながら、飲酒運転をしてゐることになる。この事実は、飲酒運転をやめることが如何に困難であるかをよく 示してゐる。

 そりやさうだ。誰もが移動手段に車を使ふ時代に、郊外の飲食店を利用するからには、誰もが飲酒運転せざるを得ない状況にあるからである。

 運転するからお前だけ飲むなと誰が言へるだらう。運転するからあんたには酒を出さないと言ふ店には、二度と行くものかと思ふのが当然だらう。

 この調子では、わざわざ飲食店に出向いたところで酒も飲めないやうなら家にゐようといふことになつて、外食産業が軒並み潰れるのは時間の問題だ。

 景気が回復しても個人消費やGDPは伸び悩んでゐると云ふが、飲酒運転に対する厳しい取り締まりがそれとは無関係だと言ひ切れるのだらうか。

 全員が反対するやうな議論は、全員が賛成する議論と同じで、結局うまく行かないのである。(2006年12月10日)







 最近知事の逮捕が相継いでゐるが、検察が知事を逮捕するのは、一つには逮捕しないと自白させられないからである。

 自白させるとはセールスマンに喩(たと)へれば、自白を押し売りすることである。何であれ物を押し売りするには、相手が独りぽつちでなければ難しい。相 手が誰かと同席してゐると、押し売りはまず無理である。

 相手が一人で押し売りする側が複数であることがより望ましい。逮捕は独りぽつちにさせるだけでなく監禁してしまふのだから、どこぞのキャッチセールスの やり方とそつくりである。

 家に帰して欲しかつたら「有罪」といふ名の商品を買へといふ分けである。さうやつて契約書にサインさせてしまつたら、もうこつちの勝ちだ。検察にはクー リングオフは無いからである。

 裁判になつてやつぱり断ると言ひ出す客もゐるが、裁判官はこつちの味方だからよほどの欠陥商品でない限り、「有罪」の返品は出来ない。

 検察や警察のしてゐることが、こんなに押し売り業者とそつくりではまずいとして、欧米では逮捕された被疑者の取り調べに弁護士の同席が認められてゐるの だ。(2006年12月9日)







 安倍首相が族議員や長老議員たちに押しまくられて支持率を下げてゐるのを見かねたのだらう。到頭小泉が動き出した。「安倍首相には一切干渉しない」と明 言した上で、北朝鮮への三度目の訪問に意欲を示したのである。

 これは謂はば搦め手からの安倍政権支援であらう。干渉を否定したことも、森前首相たちの干渉しまくり状態を牽制したものと言へる。

 そのために選んだ会談相手が、かつての盟友とされる山崎氏だ。彼は小泉政権誕生以前に加藤紘一氏と共に党改革を目指した同志だ。

 首相時代に山崎氏とは靖国問題などで疎遠になつてゐたが、首相でなくなつた今その障害もなくなつてゐる。また昔のやうに改革の同志の関係に戻れる可能性 はある。北朝鮮問題はそのきつかけ作りではないか。

 これまでの経緯から二人の盟友関係が復活するかどうかは未知数だが、青木や森などの言ひ分ばかりが大手を振つてゐる現状を何とかしなければといふ思ひ が、今回の会談に結びついたと考へたい。(2006年12月8日)







 日本の企業がイスラム教徒を雇ふことは非常に難しい。イスラム教徒は一日に五回も礼拝するし、十一月になると一月間断食をするからである。

 社員全員がイスラム教徒なら問題はないかもしれない。しかし、社長やほかの社員がさうでない場合、仕事中に何度もメッカに向かつてお祈りを始めたり、断 食をして元気がなくなる社員がゐれば困るだらう。

 日本のとある会社がイスラム教徒のインドネシア人を雇ふときに、条件として礼拝や断食を禁止したのもそんな理由からだらう。ところが、それが人権侵害だ と批判されてゐる。

 これは難しい問題だ。フランス政府がイスラム教徒の学生に学校でのスカーフ着用を禁止した例もある。「郷にいれば郷に従へ」とも言ふ。日本の会社も日本 に来た外国人に対して、日本のやり方に従つて欲しいと思ふのは当然のことである。

 企業は学校や役場などと違つて厳しい様々な決まりや慣行がある。企業とは、それがいやなら辞めてくれと言へる世界である。だから、日本のやり方でやつて くれと言ふのが人権侵害になるなら、日本の企業はイスラム教徒を雇ふことを諦めるしかないのではないか。(2006年12月7日)








 委員会の採決を欠席した片山さつき・佐藤ゆかり議員に対して、自民党が「重大な反党行為で許し難い」として、さまざまな罰を科したといふ。

 小泉首相時代に造反議員たちと対決するために国会議員になつた二人が厳しい処罰を受けるその一方で、当の造反議員たちが反党行為を許されてどんどん復党 してきてゐる。これほど今の自民党の中の動きを象徴する出来事はないだらう。

 これは自民党から小泉色が払拭されたことを意味してゐる。それは小泉が青木や森の意向に反して断行した郵政解散の否定であり、さうしたトップダウン式手 法の否定である。

 自民党の青木や森ら党の重鎮たちは、これからは党のトップに立つ総裁=首相の意向によつてではなく、自分たちの意向によつて党が動いて行くことを示した のである。かつて橋本や森が首相だつた時代の自民党がさうだつたやうに。

 小泉首相の出現によつて自民党に投票するやうになつた多くの国民は、この有り様を見て自分が森首相時代にどうしてゐたかを思ひ出してゐることだらう。 (2006年12月6日)







 自動車の排ガスによる大気汚染のせゐで喘息(ぜんそく)になつたといふ訴へに対して、東京都は裁判所の和解勧告に従つて助成金を出すことにしたが、国は 拒否した。患者側はそんな国を許し難いと怒つてゐる。

 ところで、日本は民主主義国だから、国民がゐてそれとは別に国があるのではない。国とは国民のことである。そしてここで問題になつてゐるのは、国民の税 金の使ひ道のことだから、国が大気汚染と喘息の因果関係は証明されてゐないと言つて、慎重な姿勢をとつたのは当然だらう。

 その因果関係にしても、例へば、自転車の排ガスのうちでも特にディーゼル車の排ガスが大気汚染の元凶としてやり玉に上げられ、日本ではディーゼル乗用車 が消えてしまつたが、欧米ではディーゼル車は環境に良いとされて益々普及してゐる。

 そもそも何が原因でどんな結果に至るかは単純ではない。いぢめ自殺の原因がいぢめだけとは特定できないやうに、ぜんそくの原因が大気汚染だけと特定でき るのだらうか。

 いや、そもそも自分に降りかかつた不幸の原因が自分以外だけにあるとどうして言ひ張れるのか。ましてそれを国の責任だと訴へることは正しい事なのだらう か。(2006年12月5日)







 地デジが全国の84パーセントの世帯で受信できるやうになつたといふが、地デジ対応テレビの普及は伸び悩んでゐると云ふ。日本にテレビは一億台あるさう だが、買ひ換へたのはわづかに千五百万台で、十五パーセントに過ぎない。

 日本より先に地デジを導入したアメリカでもデジタルテレビの普及は進んでゐない。そこで、アメリカではアナログ放送の終了時期を二年ほど延期したとい ふ。となると、五年後に終了する予定の日本でも、延期されるのではと考へたくなる。

 ただでさへ「社会格差」などだと騒がれてゐる今日、アナログ放送終了でデジタルテレビを見られない新たな「社会格差」が生まれるやうな事態は避けるべき だといふ話が必ず出てこよう。

 さらに、資源節約の声が大きい中、まだ使へるテレビやビデオがアナログ放送終了で使へなくなることを「もつたいない」とする意見も大きくなるはずだ。

 だから、各家庭のテレビが壊れて買ひ換へることで、デジタルテレビが徐々に広まつて行くのを待たざるを得ないのではないか。離党や遠隔地では採算が取れ ないから地デジの中継局が作れないといふ事情もある。

 テレビ局を傘下にもつ各新聞社は決してそんなことは言はないが、結局アナログ放送はデジタル放送と同時にずつと放送され続けるのではないかと思はれる。 (2006年12月4日)







 病気腎移植の万波医師に対するバッシングがやうやく治まつて来たやうだ。

 週三回四時間ずつ腕に針を刺す人工透析の苦しさが理解されてきたのか。万波医師を支援する人たちの輪の広がりの大きさに戸惑つたのか。万波医師にインタ ビューしてその人柄に感銘を受けたのか。おそらくその全てが重なつた結果だらう。

 人工透析患者たちにとつては腎移植は夢の夢である。大金があれば海外で移植を受けることも可能だらうが、普通の人たちにとつて、移植治療を受けることは 日本では事実上不可能だ。

 子供が海外で移植を受けると言へば、募金が集まるかもしれない。しかし、大人はさうは行かない。大人は誰も助けてくれないのである。ところが、助けてく れる人が現れたのだ。万波医師のことを神様、仏様と呼びたくなるのも理解できる。

 まさに捨てる神あれば拾ふ神ありである。捨てる腎臓があれば、それを拾つて人を救ふことのどこが悪いのか。困つてゐる人を見殺しにしても自分の名誉を守 るだけの医者なら五万とゐる。名誉よりも患者のために嫌な仕事でも引き受けるのが医者の使命のはずだ。

 万波医師を批判したかつたら、人工透析を受けながら仕事をしてゐる新聞記者を全国から一人でも探してくるべきだ。正しいか正しくないかだけで人を責める 新聞記者は要らないのである。(2006年12月3日)








 道路特定財源の一般財源化は安倍内閣の改革の目玉だが、その額がわづか千五百億円にとどまるらしいことを読売新聞がすっぱ抜いた。道路特定財源は三兆五 千億円余あるのだから、一般財源化されるのはそのうちの五%に過ぎないことになる。

 道路特定財源の大部分を占める揮発油税は税率が本来の倍以上になつてゐるが、それをそのまま一般財源化することには業界や族議員から異論噴出である。し かも、揮発油税の一般財源化には法律の改正が要る。そこで異論も少なく法改正も不要な自動車重量税の一部を一般財源化するのだといふ。

 自民党が改革政党であり古い自民党でないことの証明は、まさに業界や族議員の主張を押しのけることにあるはずだが、安倍内閣にはそんなことはとても出来 さうにない。

 つい最近も参議院と云ふ利益団体の族議員とも言へる青木氏による造反議員復党要求に屈したばかりだ。「やわらか戦車」ではないが、生き延びるための退却 ばかりが目立つ安倍内閣である。(2006年12月2日)







 『十八史略』を読んでゐると、法律を緩やかにして民を休ませることが大切だとか、外国に対して厳しく制裁しない方が良いといふ考へ方が頻りに出てくる。

 このやうな考へ方は、欧米系の国々や最近の日本の厳罰化の流れ、就中(なかんづく)北朝鮮に対する厳しい姿勢を歓迎する世論とは一線を画するものであ る。

 北朝鮮に対する制裁に中国と韓国が反対するのは、必ずしも北朝鮮を温存することのよつて自国の利益を追求するためばかりではなく、かういふ古代から綿々 と続いてゐる儒教の伝統と無関係ではないやうに思はれる。

 もちろん、古代中国は民主国家ではないから、国民を法律でがんじがらめに締め付けようとすれば容易に出来たから、その逆を尊ぶ考へ方が生まれたとも考へ られる。

 しかしながら、何でも厳しくすれば社会が良くなるといふ最近流行に考へ方には、もつと慎重になるべきではないかと、『十八史略』を読みながら思ふのであ る。(2006年12月1日)







 ドロップハンドルのスポーツ自転車を常用してゐる人の書いたものを読むと、大抵が落車で大けがをして交通事故に遭つた腰痛持ちである。

 『自転車で痩せた人』の著者も腰痛がかなり酷いらしい。自転車と健康がテーマの本であるから、自転車で腰痛が酷くなつたとは書いてゐない。しかし、自転 車に乗つてゐるときには痛まないが、自転車から降りて歩くと痛むのは典型的な自転車乗りの腰痛である。

 四つん這ひの姿勢で自転車にずつと乗つてゐると人間は歩けなくなつてしまふのだ。無重力状態で暮らしてゐた宇宙飛行士が地球に帰つて来たとき歩けなくな るが、それと似てゐる。歩くのに必要な筋肉が退化して、直立歩行のときに背骨にかかる重力に耐へられなくなるのだ。

 最近テレビに出たツールドフランスの日本人選手も歩くのが辛いと告白してゐる。腰痛は競輪選手の持病なのである。だから、『自転車で痩せた人』の著者 も、痩せたと言ふよりは競輪選手の身体になつただけなのである。

 健康ブームに乗つてこんな題の本になつたのだらうが、ツールドフランスに使はれる50万円もする自転車を買つてしまつた人の不幸を、ただ痩せたといふ面 から強がつてみせた本だと見るべきだらう (なほ、この人が短期間で痩せた主な原因はプロテイン摂取を中心とする食事療法であると見られる)。(2006年11月30日)







 自転車に関する本を読むと、やたらとママチャリの悪口が書いてある。車体が20キロもあつて重いとか、初めからスピードが出ないやうに作られてあると か、くそみそである。

 しかし、自転車の重さがそれほど重要だらうか。自転車の重量を軽くするのは少しでも余計にスピードが出るやうにするためであるが、それは一分一秒を争ふ 競技スポーツの世界の話で、個人が街中で乗ることに大した意味はない。

 そもそもスポーツ自転車が軽いと云つても10キロ前後はあるのであり、ママチャリの半分に過ぎない。しかし、それはスタンドも前カゴも荷台も電灯も泥よ けもなくての数字である。全部付けたらスポーツ自転車とてすぐに5キロぐらゐは増えてしまふのだ。

 さらにその自転車に50キロの人が乗れば総重量は65キロで、ママチャリの70キロと大差なくなつてしまふ。

 中には軽い自転車でスピードを出さなければダイエットにならないかのやうに書く本もあるが、ダイエットシューズと云つて、わざわざ一キロ以上も重くした 靴を履いて歩く人がゐると云ふのに、軽い方がエネルギー消費量が多くなるなどあり得ない話である。

 単に速足で歩くだけでも充分な有酸素運動になるのである。ママチャリでもちよつと速めに漕いでやれば、それと同じことが出来ないはずはないのである(た だし、有酸素運動は体質改善になつても体重が減ることはない)。(2006年11月29日)







 飲酒運転防止のキャンペーンをやつても飲酒運転は無くなりさうもないが、その原因の一つに「飲んだら乗るな」といふ標語があるのではないか。

 「飲んだら乗るな」と言つても、飲んだらいつまで乗るなと云ふことが明確ではない。飲んだら永遠に乗るなといふ意味では無いだらう。それなら「酔つたら 乗るな」であるべきだ。

 「飲んだら乗るな」といふと、飲んだらすぐには乗るなといふ意味だと普通は思ふ。だから、一晩明けたら良いだらうと思つて二日酔ひで乗るドライバーがゐ るのも理解できる。

 「酔つてゐるなら乗るな」と何故言はないのか。国民は自分では酔つてゐるかどうかを判断できないから「飲んだら乗るな」にしたのだらう。これでは国民を 子供扱ひしてゐると言はざるを得ない。

 そんな子供扱ひに反発して「てやんでえ馬鹿にするな」と、わざわざ酔つてゐるのに乗る人間も出てくる。しかも、腹立ち紛れだから余計に事故を起しやす い。酔つてゐるより怒つてゐる方が危険だからである。

 このやうに、この愚かな標語のせゐで飲酒運転は無くならないのである。(2006年11月28日)







 自転車の多段変速機といふのはスポーツ自転車を除いて、すつかり下火になつてしまつた。普通に日常自転車に乗る分には、変速機があつても無くても大して 変はりがないからである。

 変速機があると坂道を登るのが楽だと云ふが、そんなことはない。軽いギアに変へたら途端にペダルを漕ぐ回数が増えて疲れてしまふのである。変速機なしで えいこらえいこらとペダルに体重をかけて漕いでゐる方が、結局足には楽である。

 変速機が如何に役に立たないかは、昔の4段変速が今の27段変速にまで増えてゐることからも分かる。ギアを変へて極端に回転数が増えたり減つたりするの は疲れるといふので、ギアの刃の数を小刻みに設定した結果、後輪のギアを9枚、前輪のギアを3枚にまで増やしたのである。

 ところが、そんなにギアが沢山あると、今度はしよつちゆうギアを変へてゐなければならなくなる。しかも、ギアを変へてゐる間はペダルに力を加へるわけに はいかない。だから、競輪のトラック競技用自転車のギアは一番重いのが一つ有るきりである。

 漕ぎ始めは多少重くても漕いでゐるうちに段々軽くなつて行き、坂道に来たら登りは重く下りは軽くなる、さういふシングルギアの自然な流れが人間の体には 一番合つてゐるのかもしれない。(2006年11月27日)







 「交通事故も含めると、年間の事件、事故は300万件を超える。だれもが被害者になる可能性があるのだ」とある新聞は言ふ。ということは、誰でも加害者 になる可能性があるといふことでもある。

 といふことは、ある事件の被害者が別の事件では加害者であつたりするわけだ。つまり、加害者の分際でぬけぬけと私は被害者であると言つてゐる輩があちこ ちにゐないとも限らない。

 それでも、あつちの事件では被害者だといつて救済を求め、こつちの事件では加害者だからと謝まつてゐるならまだいい。吾は被害者なりと言ひ立てる人はゐ ても、加害者であることを声高に言ひ立てる人は中々ゐない。だから、自分が加害者であることを隠して被害者であることを主張する人ばかりになるかもしれな い。

 被害者とは何時まで被害者なのだらう。死ぬまで永遠に被害者なのだらうか。しかし、そんなに永ければ、何時か何かの事件で加害者にならないとも限らな い。もし道義的な罪を含めたら全員が何らかの加害者になる可能性は大きいが、それでもやはり被害者なのだらうか。(2006年11月26日)







 全員が賛成するやうな意見はどこかおかしいものだが、その典型が非核三原則である。これは個人的感情としては実に分かりやすい。核兵器のやうな恐ろしい ものが国内に存在しないと思ふことは一種の安堵感をもたらせてくれるからである。

 それは自分の家にピストルがあると思ふと嫌な気がするのと同じである。拳銃所持が許されてゐるアメリカでも自宅に拳銃を持ちたくない人は多いらしい。家 族が間違つた使ひ方をする可能性があるし、暴発して家族が死に至る可能性さへある。

 ところが、これが警察だとそんなことは言つてゐられない。警察署に拳銃があるからといつて、それを気味悪がつてゐては仕事にならないからである。

 核兵器も同じではないのか。住民を守るのが警察なら、国を守るのは軍事力である。個人的な感情としてそんな危ないものは要らないと思ふのとは、次元が違 ふのである。

 だから、非核三原則に賛成だと云つても、日本を守る上で核は必要がないといふことの理由とはならないのだ。特に日本は唯一の被爆国だからなどといふ感情 論で国は守れないのである。(2006年11月25日)







 自民党の復党問題で幹事長と平沼氏が会談したり、「土下座しろ」といふ話が出たりしてゐるが、これは復党に対する世論の反発をやわらげるための芝居だと 見た方がよい。自民党はさういふことをやる党なのだ。

 そもそも復党の条件などと言つたところで、どれもこれも口先のことばかりで、そんなことなら政治家には御安い御用である。例へば、復党したら政党交付金 を党に半分寄付するなどといふ処罰が突きつけられてゐる分けではないのだ。

 あの程度の条件を平沼氏がまるで如何にも高いハードルであるかのやうに言ふのは、それを飲んだ他の議員の復党を当たり前のものに見せようとしてゐるので ある。

 来夏の参議院選挙で民主党が勝つたら、参議院の民主党は法案の審議をせずに国会が止つてしまふと青木さんたちが言ふのも、実は自分たちが審議に消極的に なつて法案が成立しなくなるぞと脅してゐるのである。

 実際、去年の郵政法案を参議院で潰したのは他でもない参議院の自民党だつた。数が拮抗してゐる参議院であるから、青木さんたちが臍を曲げたら通る法案も 通らなくなつてしまふ。だからこそ、世論を欺してでも青木さんの言ふ通りに造反議員を復党させようと必死なのである。(2006年11月24日)







 日中友好を促進するために日本はもつと漢文教育に力を入れるべきと云ふ意見は正しいが、一方、いくら漢文を勉強しても中国語の勉強の助けにならないのも 事実である。

 日本人は漢文に出てくる漢字の使ひ方を利用して日本語を書き表すことを進めてきたが、中国人はさうはしてゐないので、漢字の用法が大幅に違つてゐるから である。

 例へば「搭乗」の「搭」の字を日本人は乗せると云ふ意味で使ふが、他には「搭載」程度にしか使はない。ところが、中国語ではこの漢字を使つて、「ナンパ する」といふ意味の熟語など三十以上の熟語がある。その多くは日本語の「乗る、乗せる」の意味からは全く推定できない意味である。

 おまけに、「搭」を日本語では「とう」と読むが、中国語では「た」と読む。文法も主語述語目的語の順番は漢文と同じだが、言葉のつなぎ方がかなり違つて ゐる。さらに、今の漢文は日本の新漢字が使はれてゐるため、中国語の漢字の勉強にすらならない。

 このやうに漢文の知識は中国語の学習には殆んど役に立たないのが現状である。中国語は漢字で書いた英語かドイツ語のやうなものと思つて学ぶ方が効率的で あると思ふ。(2006年11月23日)







 エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルの250cc500円程度の商品がスーパーなどでよく売られてゐる。あれがオリーブ油だと思つてゐる日本人が多 いかと思ふが、何の香りもない単なる植物油である。

 ところが、近くのスーパーで珍しく千円近くするオリーブ油が売られてゐて、買つてみると全く違ふ。トーストにマーガリン代はりに使つてもおいしいのであ る。

 それで愛用してゐたのだが、スーパーが閉店といふことで半額セールになつてゐて、今日行つたら売り切れてゐた。本当の味を知つてゐる人間に買占められて しまつたのだらう。

 このスーパー、カルフールは変な店で、一個売りの商品を二つ買ふ方が二個パックの商品を一つ買ふより安いことがよくある。こんな商品管理のいい加減さも 閉店になつた原因の一つなのだらう。

 私の買つてゐたオリーブ油もそれと同じで、500cc入りの大瓶の方が250cc入りの小瓶二本の値段より高いのだ。半額処分でも同じなので、小瓶ばか りが一斉に買はれてしまつたといふわけである。お陰で前の高い値段でも買つてゐた人間は大迷惑である。(2006年11月22日)







 昔は電気製品を買ふと付いてきた修理センターの一覧表に各地方の修理センターの電話番号がずらりと並んでゐたものだが、今では一つか二つになつてしまつ てゐる。そこから委託業者を手配するやうになつたのである。

 ところが、その委託業者と云ふのは元修理センターにゐた人たちがリストラで無理矢理に委託業者にさせられた人たちで、しかも同じ会社に勤めてゐるのに委 託業者なのだと云ふ。

 そんな馬鹿なことがあるかと委託業者たちが集つて各地で企業に団体交渉を要求し始めたが、これに応じたら委託にした意味が無くなるので企業は当然拒否し てゐる。

 ところが、労働委員会から「これは労働組合法違反である、企業は団体交渉に応じなさい」と命令されてしまつた。それに対して当該企業のビクターは「労組 との団交に応じる考えはない」とコメントを出したと云ふ。

 これでは悪事を働いておきながら反省もしない酷い会社だと見られても仕方がない。人事担当者はうまいカラクリを見つけた積りだつたらうが、おかげで企業 イメージはがた落ちで、広告に大金を費やした意味がなくなつてしまつた。(2006年11月21日)







 強行採決が悪いことのやうに言はれてゐるが、日本の戦後の重要法案の多くは強行採決で成立してきた。
 
 与野党が対決する法案であるからこそ強行採決になる。強く反対する人たちがゐるから強行採決が成り立つのである。

 そして、強く反対する人が居ると云ふことは、それが良い面を持つて居ると云ふことの証明でもある。何かが良いと云ふことは、それでは都合の悪い人がゐる からこそ良いのである。全員にとつて良いことなど、実はないのである。

 逆に満場一致などと云ふものほど胡散臭いものはない。全員が賛成すると云ふことは、全員が反対するのと似てゐる。全員が賛成すると云ふことは、誰も反対 できないことか、反対する値打ちもないことかのいづれかである。

 また、強行採決ではない多数決は馴れ合ひの色彩が濃い。野党も本心から反対ではなかつたことを意味してゐるからである。

 与野党の馴れ合ひの合意で成立した法案などろくなものがない。何かが良いかどうかは決して合意によつて保証されることはないのである。(2006年11 月20日)







 朝日新聞は言葉の力を信じるさうだが、その新聞が応援する野党各党は言葉の力を信じてはゐないやうだ。どうせ話しても分からないと、国会でまた審議拒否 をしてゐるからである。

 中でも民主党は、教育基本法案で対案を国会に提出してゐるにもかかはらず、自分たちの法案の素晴らしさを言葉によつて国民に説明しようとはしないのであ る。

 民主党は言葉の力ではなく、何によつてこの国を動かさうとしてゐるのだらうか。沖縄知事選挙で他の野党と共闘する姿勢を見せるためだと云ふが、そんなこ とで選挙が有利になるのだらうか。

 ここはたとへ相手の方が数の力で優つてゐても、それに言葉の力で対抗して自分たちの党の持つ力を国民に見せるのが議員たちの仕事だらう。そして、言葉で 世論を味方に付ければ、与党の多数など物の数ではないはずだ。
 
 ところが、如何せん、言葉の力が信じられない彼らは、ストライキといふ実力行使に打つて出るしかないのである。そして言葉の力を信じると称する朝日も、 野党の欠席戦術を批判するつもりはないらしい。(2006年11月19日)







 子供の自殺を防ぐ方法はある。マスコミが自殺した子供を批判すればよいのである。

 ところが、マスコミは自殺した子供をまるで被害者扱ひして、いぢめた子供が悪い、いぢめを放置した学校が悪い、いや文部省が悪いと、自殺した子供が正し いかのやうに報道する。これでは、自殺をすれば仕返しが出来ると、いぢめられつ子に教へてゐるやうなものである。

 自殺をさせないために、学校で命の大切さを教へようとするのも間違ひだ。そんなに大切なものなら、是非ともお前たちで我々の命を守つてくれと、子供たち から自殺予告の手紙が文部省に来るやうになつたのは当然である。

 いま我々が子供たちに教へるべきことは命の大切さではなく、命を自分で絶つことの罪深さである。人間には自殺する権利はない、動物は自殺をしない、自殺 する人間は動物以下だ、と子供たちに教へるべきである。

 人間は神の牧場で飼はれてゐる羊に過ぎない。その羊が自分勝手に死んでしまふことは許されないのだ。命は自分のものではない。自分のものではない命を勝 手に処分することは、神の領分を侵す大罪であると。(2006年11月18日)







 核廃絶の議論はそれ自体美しいものだが、この議論の決定的な欠陥は、平和は武力による支配権の確立によつて達成されるといふ事実を見落としてゐることで ある。

 それは日本史を振り返つて見ても明らかである。信長がなぜ天下を統一できたのか。それは話合ひによつて達成されたものではない。鉄砲と云ふ新兵器をいち 早く採用した信長の強大な武力によつてである。

 その後、家康が関ヶ原の戦ひを経て、反対勢力を一掃し屈服させてしまつたからこそ、徳川三百年の平和が訪れたのである。太平洋戦争を終はらせて、極東地 域に平和をもたらしたのも、アメリカの強大な武力であり、核兵器だつた。

 確かに、核兵器は万能ではない。イスラエルは核兵器を持つてゐても、パレスチナの紛争を終はらせることが出来ない。しかし、核兵器の抑止力のお陰で、大 国間の戦争がなくなつたのは事実だらう。

 いまアメリカに対して核廃絶を主導せよと言ふ人たちがゐる。しかし、それはアメリカに世界に対する支配権を放棄しろと言つてゐるに等しく、それは同時に 今ある世界の平和秩序を覆さうとするものであり、到底受け入れられるものでない。(2006年11月17日)







 タウンミーティングでやらせが問題になつてゐる。内閣府が出席者に事前に質問を依頼して謝礼を払つてゐたといふものだ。

 しかし、そもそもタウンミーティングには誰が出席してゐるのか。タウンミーティングを開くに当つては、誰かが出席者を募集して出てもらつてゐるはずだ。 わざわざ時間を割いて出席してもらふ以上は、何らかの謝礼が出るのは当然だらう。

 また、政府側が出席者と質問内容の打合せをしたとしても、政府の方針に反対する市民団体や労働組合の人たちも、あらかじめ質問内容について申し合せをし た上で出席してゐるはずで、五十歩百歩と言へる。

 もしタウンミーティングが市民団体や組合の活動家たちによる反政府運動の場になつてしまつてゐるとしたら、それに対抗するために政府側の人間が何らかの 対策を講じたとしても何の不思議もない。

 政府側の質問者に質問内容の依頼があつたかどうか、謝礼金の支払ひがあつたかどうか調べるなら、反対意見を出した人たちにも、発言内容の申し合はせがな かつたかどうか、所属する団体から何の手当の支給もなかつたかどうか調査すべきではないか。(2006年11月16日)







 ブラウンの電動歯ブラシを電気屋で買つて暫くするとスイッチが切れなくなるといふトラブルがあつた。保証期間内だつたので買つた電気屋に持つて行つたら すぐに新品と取り替へてくれた。

 ところが、その取り替へた製品も暫くするとスイッチが切れなくなつてしまつた。これは同じ原因による故障であることは明らかだ。しかも、同じ店で買つた 商品であるから、同時期に作られた製品に共通してみられる故障、つまり欠陥であると思はれた。

 そこで、ブラウンのお客様相談室に電話すると、答は素つ気ないものだ。また買つた電気屋に持つて行けと言ふのだ。そんなことをしてもまた同じ故障をする 可能性が高いことは誰にも分かりさうなものだ。

 そこで、故障したものをそちらに送るから、その原因を調べてくれと言つてやつたら、やつと代はりの製品を本社から送つてくれることになつた。

 暫くしてブラウンから故障の原因を知らせる手紙が送られてきた。機械の中に水が入つて漏電したためにスイッチが切れなくなつたのだといふ。そして、これ はお客様が歯ブラシを強く歯に押しつけた使ひ方をしたためだと言ふのだ。

 ところで、ブラウンから代はりに送られてきた製品を、私はその後一年以上故障なく使ひ続けてゐる。もちろん、私の使ひ方が以前と同じであるのは言ふまで もない。(2006年11月15日)







 ツーキニストといつて自転車で通勤する人たちがゐるが、その提唱者の本を読むと彼らは歩道ではなくあくまで車道を通るのださうだ。一体そんなことが出来 るものかと車道を自転車で走つてみたが、車道は今や自動車専用道路と化してゐるのが実態のやうである。

 おそらく警察(兵庫県警)は自転車に車道を通つて欲しくないのだ。車道の左側に路側帯があることを示してゐた白線が鋪装のやり直しで消されてゐる所があ ちこちにあるからである。

 今も白線が引いてあるところは確かにあつて、それは路側帯のやうに見えはするが、実は自動車の車線の幅を示すためのものでしかない。その証拠に、交差点 が近づいてきて右折用の車線が設けられたりすると、路側帯であるはずのスペースは完全に無くなつてしまふからである。

 それでも無理をして車道を通らうとすると、交差点の近くでは自転車は側溝のコンクリートの上を走るしかなくなるのだ。これではとても快適なサイクリング は楽しめない。

 と云ふわけで、誰はばかることなくサイクリングを楽むには、マイカーに自転車を積んで、車の交通量が少くて広い道路か、河川敷のサイクリング専用道路ま で行つて、車から自転車を降ろして乗るしかなく、それが一番安全かつ穏当な方法だといふことになる。(2006年11月14日)







 運動会のかけつこで、手をつないでゴールインする小学校が盛に批判されたことがある。学芸会で大勢の生徒を平等に主役にして舞台に立たせる学校も批判さ れてゐる。

 しかし、学校でかうしたことが行はれるのは、個々の能力や努力によつて生徒に差を付けるべきではなく、「結果の平等」を尊ぶべきだとする考へ方の表れで あらう。この考へ方は、いま「格差問題」と名前を変へて復活してきてゐる。

 どんな調査をしたかは知らないが、それが今や企業の中で同じ時間同じ労働をしながら給料が半分しかもらへない人たちがゐると言はれるやうにまでなつてゐ る。

 確かにフルタイムパートや派遣社員と云つて、時間だけなら正社員と変はらない人たちがゐるのは確かだ。しかし、パートにはパートの役割があるのである。

 それは格差、格差と騒いでゐる新聞社や放送局が毎年開催してゐる高校野球を見れば明らかであらう。同じ時間だけ練習しても予選で負けてしまふ高校がある から、甲子園も値打ちがあるのだ。

 それをもし「結果の平等」を尊重すべきだといふなら、甲子園はいくつあつても足りなくなる。学力も仕事も同じことであり、敗ける人がゐるから勝つ人も生 まれるのであり、全員が勝者になれる社会など無いのである。(2006年11月13日)







 日本の核武装に反対する考へ方にはどんなものがあるかを知りたければ、11日付の朝日新聞の社説を読めばよい。ここに全部要約されてゐるからである。

 そして、これを読めば、北朝鮮の核武装に対抗するために日本は核武装すべきではない、といふ主張の根拠がいかに脆弱であるかがよく分かる。

曰く「NPT体制を破壊することになり、日本は世界から批判され、経済制裁を受ける」
曰く「米国に日米安保条約への不信の表明と受け止められる」
曰く「日本の狭い国土では核で核を抑止するには限界がある」
曰く「ウランが輸入できなくなり、電力の多くを原子力に頼っている日本はエネルギー危機に直面する」
曰く「6者協議を生かして、できるだけ早く北朝鮮に核を放棄させるべきだ」
曰く「中国や韓国から疑いの目を向けられ、北朝鮮を取り巻く国々の結束が揺らぐ」
曰く「日本が核武装すればNPT体制が崩壊し、他の国々も核を持とうとする」
曰く「日本は被爆体験を持つから核武装すべきではない」

 どれ一つをとつても現実的なものでないことは、誰でも分かるはずだ。例へば、日本に対して経済制裁すれば世界の経済が麻痺してしまふし、そもそも北朝鮮 の国土は日本より狭いのである。(2006年11月12日)







 電子投票にすればこれまでよりも正確になつてさぞ良からうと導入してみたら、投票結果を集計するコンピュータに侵入されてデータが改竄(かいざん)され てしまつたと云ふ話がある。

 インターネットバンキングにしたらさぞ便利だらうと利用したら、これもまたコンピュータに侵入されて、パスワードを盜まれて貯金を降ろされてしまつたと 云ふ話もある。

 良いこと便利なことをしようとすると、必ずそれを悪用する悪い人が出てくるのだ。

 とは云へ、国も同じことで、せつかく便利だとして作られつたダイナマイトを戦争に使ひ、核エネルギーを原子爆弾に流用したのは、法を執行する役割を担つ た人たちなのだ。

 となると、何か新しいものを作つてしかも悪用されないようにするのは不可能だといふことになる。悪い人を法律で、悪い国を条約で処罰しても悪用する人も 国もなくならないからである。

 だから、結局、何かが便利になつた分だけ不都合なことも増えてゐて、差し引きしたらゼロなのだらう。それでも何か良いもの便利なものを作り出さうとする のをやめないのが人間なのだらう。(2006年11月11日)







 昔エイトマンといふマンガがあつたが、ロボットであるエイトマンはいいところになるといつもエネルギーが切れさうになつてはらはらさせられたものだ。ア ンパンマンも似たやうなところがある。

 しかし、考へてみると人間だつてすぐにエネルギーが切れる。アニメのロボットなら日に一度ぐらゐだが、人間は一日中、しよつちゆうエネルギーが切れる。 人間は日に三度も食べるのだから、これがロボットだつたら日に三度もエネルギーの供給が必要なロボットだといふことになる。

 しかも、人間は食事をして3時間もすれば腹がへつてきて、何か口に入れないと頭が回らないやうな気がしてくるのだ。だから、しよつちゆう何か口に入れて むしやむしやとしてゐなければいけない。

 おまけに、煙草を吸ふ人なら、車に乗つても自転車に乗つても煙草を吸ふ。歩いてゐても煙草を吸ふ。

 もしこんなロボットが売られてゐても、これほど何度もエネルギーの供給が必要で、いつも何かを口に入れたがるロボットを買ふ人はゐないのではないか。こ れだけを見ても、人間が如何に不完全な存在であるかが分かるのではないか。(2006年11月10日)







 「手を挙げて横断歩道を渡りませう」といふ交通標語は何も子供だけのものではない。子供が手を挙げるのは、背が低い自分たちの存在をドライバーに教へる ためのものだが、大人もまた自分の存在を教へる方法として手で合図をすることが役に立つ。

 実はドライバーは手で合図をされると譲る習性を持つてゐる。車を運転してゐて車線変更をしたい時に、単にウインカーを点滅させるだけではなかなか譲つて くれないが、手で合図をすれば大抵は譲つてもらへる。不思議なことだが、これは事実である。

 渋滞してゐる二車線の道路で、どこかのお店に入らうとして左の車線に移らうとしても中々出来ないものだ。そんな時、もし助手席に人が乗つてゐるなら、窓 を開けて手のひらを出して合図してもらふとよい。必ず空けてくれるものだ。

 それほど、ドライバーは手のひらによる合図を重視してゐる。だから、横断歩道を渡る時には、歩行者も自転車もドライバーの顔を見ながら積極的に手で合図 をするとよい。必ず待つてくれるはずである。(2006年11月9日)







 いぢめる側にはいぢめる理由があつて、少しは可哀想だと思つても、いぢめることを間違つた事だと思つてはゐない。いや、むしろそこには正義感さへ存在す る。

 それは私的は制裁であつて、法の執行なのである。自分たちの掟に反する行動を許すわけにはいかないのだ。不法行為を批判するのは当然のことだからであ る。だから、いぢめが無くなることはないのである。

 もし、子供たちのいぢめが減ることがあるとすれば、それは大人がその手本を示すしかない。人が法律を破り、人が非常識な行動をしたとしても、寛容な姿勢 を取ることである。それしかない。

 誰もが善いことだけをして生きてゐるわけではないのだ。善いことをしようとして不正を犯すことは誰にもあることなのだ。しかも、その不正が表に現はれな い限り、誰もが知らん顔をしてゐるのだ。

 受験戦争に苦む生徒を救ふことも、人工透析に苦む患者を救ふことも、善いことなのである。何故そんな人たちのあらをほじくつて非常識だと責めたてるの か。大人がこんなことに血道を上げてゐる限り、子供は子供で自分たちの常識に従つて、別の子供のあらをほじくつて責め続けることだらう。(2006年11 月8日)







 関東の武田軍は信長の種子島といふ新兵器によつて敗れた。いまその新兵器を手に入れた秀吉軍が関東の北条を攻めんと間近に迫つたとき、北条は戦ふかいな かで延々と議論を続けた。

 関東はかつてこの新兵器によつ壊滅的な打撃を受けた悲惨な体験を持つ被害国である。だから、我々は種子島を「持たず作らず持ち込ませず」と決めたのだ。 今でもこの新兵器によつて負傷した兵士たちの傷は癒えてゐない。彼らの感情を考へれば、とてもこの原則を変へることは出来ない。

 それに対して、一人の重臣が、いやここは敵の新兵器に対抗して我軍もこの新兵器を持つかどうか議論すべきではないか、と言ひ出した。ところが、そんな 議論をすれば却つて秀吉からあらぬ疑念を招くだけである、今は議論することも禁止すべきだ、と言ふ多くの重臣たちの声によつて、この意見はかき消されてし まつたの だつた。

 秀吉軍の攻撃が今にも始まらうとしてゐるのに、北条軍は新兵器をめぐつて延々とこんな空論を戦はせてゐた。これを世に小田原評定と謂ふ、といふのは嘘で ある。しかし、敵に対抗できる兵力を持たなかつた北条氏が秀吉の軍に敗れて関東を失つたのは歴史上の事実である。(2006年11月7日)







 変速機付きでスポーツタイプの自転車を買はうとして自転車屋に行くと、むかし買つたやうな4段や5段変速の自転車はもうなくて、前輪3段後輪7段変速な どといふ高級品ばかりになつてしまつてゐる。

 後輪だけの変速でも6、7段が当たり前で、それもママチャリか通学用の自転車ばかりである。たまに後輪だけが変速のスポーツ車があつたりすると、数年前 の売れ残り品だつたりする。

 もつとも、スポーツタイプの棒タイプのハンドルは、ママチャリのハンドルのやうに曲がつてゐないために、ハンドルの色んな所を持ち替へて運転姿勢を変 へることが出来ないので、背中を痛めることがあつて、私は敬遠してゐる。

 また、最近のスポーツ車はタイヤが細くてスピードが出るらしいが、道路の溝の金の格子(3×8cm)の幅より細かつたりするから、溝が横切つてゐる裏道 などは通れないし、タイヤに泥よけが附いてないので好い天気でも水たまりは通れないのだ。

 しかも、タイヤの空気バルブが違つてゐて普通の空気入れが使へなかつたりする、等々。最近のスポーツ車に乗るには数多くの難関をクリアしなければならな いやうだ。やはり私は当分変速なしのママチャリで行くしかないやうである。(2006年11月6日)







 近頃は27インチや28インチの自転車が出回つてゐて、背の高い人がよく乗つてゐるが、ペダルを漕いでゐるときに足がほとんど伸びきるやうにサドルを高 くする正しい乗り方をしたら、座つた状態で足が地面に殆ど着かなくなるはずだ。

 自転車に乗つてゐて座つたまま足が地面に付くかどうかは、実は背の高さや足の長さとは関係がない。それは、乗り手の足のサイズを別にするなら、その自転 車の前後の車輪の中心線から、ペダルのクランク棒の回転軸(B.B)がどれほど下に設定されてゐるか次第となる。

 これはハンガー下がりとかBBdropと呼ぶさうだが、この値が一般の自転車ではかなり小さい。といふことは、ペダルの最下点が高くなるので、サドルを 上げた正規の姿勢では地面に足が届きにくゝなるのである。

 ところが、スポーツ自転車にはこの値がかなり大きくとつてあつて、中には7センチ以上も下に設定されてゐるものがある(だからチェーンがかなり前下がり になつてゐる)。これなら正規の乗車姿勢をとつても、誰でも足先を確実に地面に着けることが出来るのであり、万一の場合に安全なのである。

 逆に言へば、27インチ以上の一般の自転車はママチヤリをただ大きくしただけのもので、正しい乗り方をすることを想定して作られたものではないといふこ とになる。ただし、足のサイズが28センチ以上もあれば、また話は別であるが。(2006年11月5日)







 痩せる目的で運動をする人がゐるが、それは受験目的に勉強をするのと同じで、邪道である。運動によつて痩せることはない。消費したエネルギーより少いエ ネルギーを補給するしかないのだ。

 いくら運動をしても食べたいだけ食べれば、体重が減ることはない。いや、それどころか、運動によつて食欲が増えれば太ることもある。運動とダイエットが 無関係なのは、お相撲さんを見れば一目瞭然ではないか。

 それなのに、何かをして痩せたといふ類の本が次から次へと出る。自転車も同じで、本の著者の真似をして高価なスポーツ用の自転車を買つて毎日乗つてゐて も、それだけで痩せたりはしないのだ。

 そもそも、スポーツサイクルはママチャリよりも少ない力で速く走れる自転車である。だから、同じ時間或ひは同じ距離を走るなら、スポーツサイクルの方が 楽なのである。楽なのに痩せるなどといふ話は、益々嘘である。

 ジョギングやウォーキングや水泳も同じで、運動はそれ自体を楽しむべきものである。自転車に乗るなら、どこかへ行くためか、自転車を楽むために乗るべき で、余計な目的を付けると怪我をするだけである。(2006年11月4日)







 来年の参議院選挙は天下分け目の決戦などと言はれてゐるが、自民党はこの戦ひに勝つには、組織票を固めるだけで充分であり、浮動層の支持を勝ち取る必要 はないと見てゐるやうだ。それは郵政民営化に反対した造反議員の復党運動に現はれてゐる。

 民主党はそれだけ見くびられてゐるのであるが、それも仕方がない。今や民主党の支持率は下がる一方であり、党首の小沢氏をはじめとして菅直人・鳩山由起 夫といつた現在の民主党の先頭に立つてゐる人たちの発言には全く精彩がない。

 彼らは安倍首相の「美しい国」をただ批判するばかりで、それに対抗する明確な国家像を国民に提示することが出来ないでゐるのだ。「美しい国」に対する批 判も「格差問題」などさんざん小泉時代に使はれて手垢にまみれたものばかりで、新鮮味を欠いてゐる。

 自民党の造反議員の復党は、小泉氏がぶつこわした古い自民党を復活させる試みに他ならないとも言へるのだが、このまま民主党の体たらくが続くやうならな ら、来年の夏に安倍首相が大義名分のない衆参同日選挙に打つて出る必要は無さゝうである。(2006年11月3日)







 何事にも本来の目的と云ふものがあつて、それを外すのは間違ひだし、うまく行かないものだ。学校の勉強も同じである。受験目的のためだけにする勉強は身 に付かないし、それでは成績も上がらない。

 受験科目だけを勉強すれば、受験勉強がはかどると勘違ひした高校の先生が沢山ゐるやうだが、さうは問屋が卸さないのである。全体としての教養のレベルを 上げずに、少い科目の知識だけを詰め込んでも身に付かないからである。

 これはスポーツでも囲碁・将棋でも芸術でも同じことで、狭い範囲の知識しかない者は、何々馬鹿になつてしまふだけである。受験科目しか勉強しない生徒た ちは、受験馬鹿になつてしまふのだらう。

 しかし、出来る奴はみんなその受験馬鹿にならないやうに注意してゐる。彼らは学校が決めた履修科目の範囲とは関係なく、自分で広い範囲の読書をしてゐる ものだ。だから仮に履修漏れのための補習があるとしても、これで読書の復習になる程度に考へてゐるはずである。(2006年11月2日)







 煙草は身体に悪くて運動は身体によいと言はれてゐるが、それは一つの流行ではないか。有名人の寿命を見たら分かるが、ヘビースモーカーの多くは長生きな のに、プロスポーツ選手の多くは短命なのだ。

 20年前には煙草が肺炎などの原因になることの証拠はないと言はれてゐた。それがいつの間にか煙草は無条件で身体に悪いものだと言はれるやうになつてゐ る。それに対して、運動は無条件で体によいかのやうに言はれてゐる。

 しかしながら、例へば一日中休まず激しい運動をやり続けたら人間は死んでしまふ。一方、煙草は、チェーンスモーカーと云つて休まず吸い続ける人がゐる が、それで死んだ人はゐない。運動の危険性は煙草の比ではないのだ。

 最近、街中を散歩してゐる人がやたらと増えた。健康のためになると思つてゐるのである。しかし、運動と健康とは直接関係はないのだ。運動は直接的には身 体に害を与へることであり、煙草と同じなのだ。

 しかし、身体には回復力がある。そして、受けた害に対抗する力を身に付けることができる。それでもスポーツ選手は早死にするのだ。運動は体に悪いのであ る。(2006年11月1日)







 江戸時代に生きた郷土の偉人の墓を見つけようとして、あちこちの墓場を捜し歩いたことがあるが、これが中々見つからない。庄屋の墓だからさど立派な墓だ らうと思つて捜してもだめなやうである。

 墓石といふものは江戸時代には小さいものだつたのだ。現代どこの墓場にも見られるやうな、幅が30センチほどで高さが2メーター近くあるやうな立派な 墓は、江戸時代にはお殿様の墓ぐらゐしかなかつた。

 東京には赤穂浪士の墓があるが、写真を見ると現代の墓のやうな大きな物ではない。それも正四角柱ではなく、平べつたい形をしてゐる。

 偉人の墓だから苔むしてとても古くて大きな墓だらうと思つて、これかあれかと後ろに回つて、そこに彫られた年号の文字をよく読むと、必ず明治か大正と書 いてある。

 どうやら、明治時代に四民平等になつてから、百姓の中の金持ちたちが昔は殿様が建てたやうな正四角柱の立派な墓を建てるやうになつたらしいのだ。そし て、今ではそんな立派な墓をどこの家もが建てるやうになり、どこの墓地もそんな墓で満員なのである。(2006年10月31日)







 自動車の使ふのに、目的地まで早く行けることを主眼とするか、座つて楽に行けることを主眼とするかの二つあると思ふが、私は後者の方である。

 渋滞を嫌ふ人がゐるが、渋滞では車は止つてゐるのだから、事故を起す心配がない。だから、渋滞の間は周りの安全を気にせずに、車の中で好きなことができ る。

 例へば、語学のCDを聞きながら走つてゐるときは、渋滞や信号待ちは耳から聞いた音をテキストで確認する時間である。そして、早く次の赤信号にかからな いかと思ひながら、また走るのである。

 車は何と言つても座つたまま移動できるのだから、これほど楽なことはない。そこで、私は目的地に着いたら駐車場ではできるだけ入口から遠くの場所にとめ ることにしてゐる。そして、入口までの距離をてくてくと歩いて、運転でなまつた足を動かすのである。

 世間の人は私とは反対に、駐車場の入口のすぐ近くに車を止めようとする。おかげで入口から離れてゐる場所は、よく空いてゐてとても駐車しやすいのであ る。(2006年10月30日)







 NHKの「スポーツ大陸」で扱つてゐた1978(昭和53)年のパリーグのプレーオフは今だに語りぐさになつてゐる。

 当時は前期・後期制で、前期優勝した南海と後期優勝した阪急による優勝決定戦が行なはれたのだが、後期には阪急に一度も勝てなかつた南海が、プレーオフ では阪急に勝つてしまつたのだから、大きな驚きだつた。

 番組では、その勝因として、この年に野村監督が始めた投手のクイックモーションによつて阪急福本の盗塁を阻止できたことが大きくクローズアップされてゐ た。

 しかし、1970年以前に私が中学で野球をしてゐたとき、下手投げの投手だつた私はすでにクイックモーションを監督から教へられてゐる。左足を上げず に、すり足でホーム方向に足を踏み出す投球フォームの練習を当時したことを、私は今でもよく覚えてゐる。

 下手投げの投手は投球フォームが大きくて盗塁されやすいといふことで、クイックモーションを教はつたのだつた。恐らくこの投げ方は、1970年に追放に なった中日の小川健太郎投手あたりが始めたのではないか。

 だから、野村監督の功績は、それを上手投げの投手にもやらせたところにあるのだと思ふ。(2006年10月29日)







 私は学校の教師から嫌がらせをされたことはあるが、いぢめられたことはないと思つてゐる。クラブを辞めたら、クラブの担当教師がやたら嫌がらせをしてき たことはあるが、そんなものかと思つただけである。

 担任の教師が出欠確認の時に、特定の生徒の名前を呼ばなくても、それはいぢめではなく嫌がらせである。馬鹿な教師がゐるものだと思へばいいのである。

 嫌がらせは無視するに限る。嫌がらせをする人は、こちらがどう働きかけても解決できないから、止むのを待つしかない。学校ならたつた3年間のことだ。ど うしても止めて欲しければ、然るべき筋に話をするだけである。

 それに対して、自分をいぢめる人がゐたら、その人は自分をひいきにする人に変はる可能性があると思ふとよい。いぢめは好き嫌ひが原因だから逆転すること が結構ある。だから、自分をいぢめる人は、自分のことをよく知らないのだと考へるればよいのである。

 実際、自分を嫌つてゐた人間が、ある事をきつかけに、向かうから仲良くしてきたことはよくある。もちろん、やられたらやり返すことも大切だ。それで自分 に対して一目置いて来ることもあるからである。(2006年10月28日)







 流行とは自分でどうしたらいいか分らない人間が従ふ規律である。人間は何がよいかを知つて行動するのではなく、何がよいと言はれてゐるかに従つてしばし ば行動するものだからである。

 例へば囲碁やうな知的なゲームでも流行があつて、「最近はこの打ち方がはやつてますね」と解説者が言つたりする。

 プロ棋士なら自分の論理と判断に従つて打ち進むものと思はれるが、必ずしもさうではなく、布石の段階などは特に流行に支配されるらしいのである。

 裁判の判決について、流れにそつた判決だとか、流れに反する判決だとか言ふ評論家がゐるのも同じことで、法律の世界でも、何がよくて何が悪いかを判断す る規準はしばしば流行である。

 日本人ほどこの流行や流れを重視する国民はないらしい。それは、日本人がどこかの外国に住むと、この国には流行と云ふものがないのかと思へてしまふほど である。

 例へば、欧米では現役で走つてゐるディーゼルの乗用車が環境破壊の元凶とされて日本で廃止されてしまつたのはその典型であらう。(2006年10月27 日)







 サイクリングロードと名の付いた道が近所にもあるが、海沿ひの堤防の道に名前を付けただけに近いものだ。

 大抵はコンクリート打ちの堤防そのままである。アスファルトに舗装してある所があつても、ほぼ5メートルごとに亀裂が走つてゐて、とても走りにくい。

 そこをママチャリで走ると、亀裂を越えるたびに、自転車のチェーンがチェーンカバーに当つて、がちやがちやと賑やかな事この上ない。

 こんな道より、国道沿ひの歩道の方がよほど整備が行き届いてゐる。もちろん、歩道の切れ目に来るたびに、こちらもがちやがちやと五月蠅いのは同じだが、 その数を合計するなら、歩道の方が少いくらゐだ。

 それでもサイクリングロードはここしかないので、サイクリング車にヘルメットを被つて、懸命にペダルを漕いでゐる人に出合ふ。さすがにサイクリング車だ とがちやがちやと言ふことはないないのだらう。

 しかし、サイクリングを運動にするには、よほどクッションの良い自転車を購入する必要がある。安物の自転車では、段差に来るたびに腰を浮かし、ハンドル の手の握りをゆるめて衝撃をやわらげる必要があるからである。(2006年10月26日)







 『十八史略』を読んでから、那珂通世の『支那通史』を読むと、この本には十八史略と同じ文章がたくさん含まれてゐることに気がつく。

 曾先之が『十八史略』を司馬光の『資治通鑑』を見ながら作つたとすれば、那珂博士の『支那通史』は『十八史略』を見ながら作つたと言へるのではないか。 文字を変へてある個所もあるが、省略による十八史略の文章の分り難さは、そのまま受け継がれてゐるからである。

 『支那通史』は名著として名高いが、いざ手に入れて読んでみると、難しい漢字ばかりですぐ投げ出してしまふのが普通だらう。しかし、この本の中に『十八 史略』と同じ文章が大量に含まれてゐることを知つたなら、誰もがもう一度手に取る気になるのではないか。『十八史略』なら注釈も現代語訳も沢山あるから だ。
 
 『十八史略』の丸写しは上巻37頁「舜は」に始まる。さすがに韓信の股潜りは省かれてゐるが、鹿を示して馬と言ひくるめた趙高の逸話も含まれてゐる。

 もちろん全部が丸写しと云ふのではなく、『支那通史』は『十八史略』を発展させたものと云ふべきだらう。しかしながら、『支那通史』が「宋」で終つてゐ るのは『十八史略』と同じであり、必ずしも序文の謂ふ「元史」の杜撰さのせゐだけで無さゝうである。(2006年10月25日)







 日本の道路は強い者勝ちで作られてゐる。一番強いのは電車だ。さすがの自動車も線路に電車が走つて来たら有無を言はせず止まらされてしまふ。電車は自動 車のために止つてくれないのだ。
 
 次に強いのは自動車で、一番弱いのが歩行者や自転車である。それは道路沿ひの歩道が車道に出会ふたびに途切れてゐることからも分かる。

 そのため、歩道は自転車にとつては段差ばかりで走りにくい道になつてゐる。もし歩行者優先なら、歩道はずつと同じ高さで続いてゐるはずなのである。

 そして、もしさうなつてゐたなら、段差を越えなければならないのは自動車の方になり、自動車は歩道の手前で確実に徐行せざるを得なくなり、一時停止も形 だけではなくなり、出会ひ頭の事故も減るはずだ。

 自動車のドライバーは車の中で座つて楽をしてゐる。現状はその楽をしてゐるドライバーから少しでも苦情が出ないやうにしてあるのだ。

 だから、車道はすぐにぴかぴかのまつさらに舗装し直されるのに、その脇を走る歩道のアスファルトは凸凹でくすんだままなのである。歩行者優先とは正に名 ばかりなのである。(2006年10月24日)







 ドナルド・キーンが読売新聞に毎週土曜日に連載してゐる『私と20世紀のクロニクル』は、自分の事を書いてあるところはつまらないが、日本の一流作家と の交遊を書いたところは断然面白い。

 石川淳がドナルド・キーンの書いたものを本人を前にして、次から次へと間違ひを指摘したといふ話は、学生時代に「週刊朝日」のキーンの連載を感心して立 ち読みした私には驚きだつた。上には上がゐるものである。

 三島由起夫は、常に礼儀正しく約束の時間に遅れることは決してなく、自分の家族を大切にする男だつた。

 川端康成は三島とは正反対の性格で、ホステスが川端に宛てた手紙を直接渡してくれとキーンに頼んだといふのだから、川端が女性関係にルーズだつたことが 推測される。川端は時間にもルーズで平気で人を待たせた。

 その川端が1968年にノーベル文学賞をもらつたのは、三島の当て馬としてだつたことが暴露してあるのにも驚いた。三島を左翼の過激派だと勘違ひした選 考委員が代はりに川端に賞を贈つたといふのだ。

 しかもそれをキーンは三島に話してしまつた。その瞬間、賞とは無縁の自分の運命を悟つた三島は、1970年11月25日の自決に対する決意を固めたに違 ひない。その年の夏を伊豆下田で三島と過ごしたキーンは、当時を回想して「三島は、三か月後に自分が死ぬことを知っていたのだ」と書いてゐるのである。 (2006年10月23日)







 日本のテレビドラマはあまり見ないが、深夜にやつてゐる海外ドラマはよく見る。古くは『キャグニー&レイシー』や『LAロー』などを欠かさず見たが、最 近では『セックス&シティー』が面白かつた。

 ただ、このドラマは明らかに「どたばた喜劇」に近いコメディーなのだが、日本の吹替へ版はどうも恋愛ドラマのやうに作られてゐた。例へば、最終回の原題 は「パリのアメリカンガール」で題名からしてふざけてゐるのだが、日本版では「しあわせ探しの末に」である。

 また第5節の第5話では、子持ちのミランダがやつと見つけたボーイフレンドとセックスを楽んでゐる最中に、隣の部屋で赤ん坊が泣き出したシーンで、ミラ ンダが「かあさん、いま行くからね。かあさん、いま行くからね」と叫ぶのだが、この訳ではコメディーにならない。

 久し振りの絶頂に達しようしてゐるミランダが、英語では Mammy's coming, Mammy's coming.と叫んでゐるのだ。単に赤ん坊をあやす言葉ではないのである。だから「ママ、いま行くところよ。ママ、いま行くところよ」とでも訳 してくれたら笑へたのではないか。

 このドラマは、題名通りにセックスシーン満載でペニスやヴァギナやフェラチオなどの言葉が普通に使はれてゐるのが面白いのだが、それは古代ギリシアのア リストファネスが作り出したコメディーの伝統があればこそである。日本版の制作者はそれを無視したのか、ニューヨーク女の自由奔放な日常を描いたドラマに してしまつたのだ。(2006年10月22日)







 『十八史略』をテキスト化してゐるうちに、この編者である曾先之は十八の歴史書ではなく『資治通鑑』を種本にしてこの本を作つたことが分つてきた。

 といふのは、『十八史略』をテキストをネットで捜すために、この本のそれぞれの話の中の固有名詞を二三まとめて検索にかけると、そつくりそのままの文字 が並んでゐる文章が『資治通鑑』の中に見つかることがよくあるからである。

 それと同時に、曾先之の巧みな編纂の仕方も分つてきた。彼は『資治通鑑』の本文を省略して写しながら『十八史略』を作つて行つたのだが、それは生半可の 省略ではなく、気持ちよいほど大きくばつさりと省いて行くのだ。

 登場人物は主な人だけを残し、人名も下の一字だけにしていく、「漢王」とあれば「王」だけにする等々、文脈から分るものは全部省略していく。さらに細々 した内容は自分で要約してしまふ。かうして、話の大筋が分る漢字だけを見事に残していくのである。

 しかも、それだけではなく、例へば、項羽の最期のくだりには虞美人を歌ふ詩を他から持つてきて飾りとしてゐる。蓋し曾先之は梗概作りの名手に違ひない。 (2006年10月21日)







 北朝鮮の核実験で、憲法九条の信者たちが一番心配してゐるのは、日本の国の安全ではなく、憲法九条がなし崩しにされて日本が「平和国家」でなくなつてし まふことである。

 国の安全よりも憲法の方が大事といふのだから、まさに九条信者の面目躍如である。国破れて山河ありどころか、国破れて憲法残るが彼らの願ひだと考へるし かない。

 憲法九条を世界遺産にしようと言ふ人たちがゐる。将来どこかよその国の支配下になつた日本列島へ観光旅行に来た人たちに、憲法九条を見物してもらはうと 云ふのだらうか。

 しかし考へてみれば、日本に憲法九条があるといふことは、日本がまだこの憲法を作つたよその国の支配下にあることを証明してゐるやうなものだ。

 その九条を世界に誇つたところで、それを見て有難がる人がゐるとすれば、それは他国の支配下にあることを有難がる人たちに違ひない。(2006年10月 20日)







 最近の翻訳家は自分の力に余程自信があるのか、自分の感性に従つてやることに意味があると考へてゐるのか、過去に出てゐる同じ物の翻訳を参考にせずに好 き勝手に訳してゐるものが多い。

 『星の王子さま』の数多く出た新訳も、既に存在する内藤濯(あろう)の苦心の翻訳を顧みることなく自由に訳されたものが多いやうだ。それは最初の方を見 るだけで分る。なぜ、内藤は aventures を「冒険」と訳さずに「どんなことがおこるのだろう」と疑問文にしたのか。「冒険」では文脈に適合しないからではないのか。

 ところが、それを単に「冒険」と訳してゐるものが如何に多いことか。その中には内藤の東大仏文の後輩である野崎歓までが含まれてゐるのだ。

 原作が一見やさしいからかう云ふ事もあるのかと云ふと、さうでもない。古代ギリシア語の翻訳でも、昔の翻訳書の名前は挙げるが読んでゐないと平気で書く ものがある。

 昔のやうに過去の学者の間違ひまで懇切丁寧に受け継ぐのも問題だが、過去の伝統をまつたく顧みずに、自分だけで勝手にやつたもののレベルが低いのは当然 のことである。(2006年10月19日)







 昔は家の前にワゴン車が止つてゐたら、どこかの営業マンが来たのかと思ひ、バンが止つてゐたら水道屋が来たのかと思つたものだ。私の場合は今でもカロー ラフィルダーは営業車にしか見えない。

 最近ではワゴンもバンも銀飾を付けたり流線型にしたり厚化粧をされて、さも高級車のやうに偽装されてゐるが、いくらコマーシャルで美しさを強調されて も、勤め人が外回りで乗る車にしか見えないのだ。

 車の美しい形はスポーツカーであり、荷物を積むためのトランクを上にふくらませた図体のでかいまがいものの車ではない。

 ところが、日本ではバンもワゴンもふくらみ続けて、最新のオデッセイやアルファードのやうに丸々と太つた車を乗り回すのが、かつこよいことだと思はれる に到つた。

 タイのカレン族の女たちの間では身に着ける首輪の数が多いほど美しいと思はれている。そして他人よりも一本でも多くの首輪を着けることがかつこよい事と なつた。その結果が、今の首長族だらう。

 昔は日本でも、ちよんまげやお歯黒がかつこいいと思はれてゐた。いつの時代でもどこの国でも、美的感覚は特異な方向へ偏つて行くものであるやうだ。 (2006年10月18日)







 自転車に乗る時、一段高い歩道がある道では必ず歩道を走るやうにしてゐる。車道を通ると云ふことは、後ろから来る自動車のドライバーに自分の安全を委ね てしまふことになるからである。

 自動車の運転手が何かの拍子に脇見運転になることは、自分が自動車を運転してゐるのでよく知つてゐる。もし後ろから来るドライバーに見落とされて追突さ れたら一発でアウトなのだ。

 しかし、歩道があるのに車道を走る勇敢な自転車乗りがたくさん見受けられる。歩道は狭いし、小さな交差点があるたびに段差があつて鬱陶しいからだらう。

 また、サイクリング車で歩道をちまちま走つてゐては、サイクリング車に乗る意味がないのは確かである。

 自転車専用道路があれば安全にサイクリング車の能力を味はふことが出来るのだが、そんな道はその辺にはどこにもない。それに似たやうな道はあるが、犬の 散歩のおばさんが通せんぼしてゐて、とてもスピードを出すどころではない。

 だから、サイクリング車のライダーは自分の命を後続のドライバーに委ねて、車道を走るしかないのだ。そして、歩道ばかりを走る私にはサイクリング車は猫 に小判といふわけである。(2006年10月17日)







 NHKのサイクリングの番組で、自転車の止まり方を教へてゐた。それはサドルに腰を着けたままで左足を地面について止まるので はなく、サドルの前に腰をずらしてはづし、自転車を両足に挟んだ格好で、右足をペダルに置いたまま左足で地面につくやり方である。乗るときも、この状態か ら右足で ペダルを踏み込んで走り始めて、立ち漕ぎで腰を上げてからサドルに乗る。

 また、自転車のサドルの高さは自転車をこいでゐる時に足が殆ど伸びきるやうにするとよい事は知つてゐたが、サドルは高さだけではなく前後も調節するとよ いことも知つた。私の場合、サドルを後ろの方にした方が漕ぎよいやうである。

 しかし、番組で使はれてゐるサイクリング用の自転車でサドルを高くすると、さぞ乗り降りが大変だらうと思ふ。何せママチャリと違つて、自転車の前後をつ な ぐポール(トップチューブといふ)が地面と平行についてゐるので、これに乗るためにはまづ足を大きく上げてサドルの上を通過させてトップチューブを跨がな ければいけない。

 昔は普通の自転車でもこのトップチューブがまつすぐな自転車がたくさんあつたが、今ではサイクリング用の高価な自転車以外は皆無だ。自動車が女性向きに AT車ばかりになつたのと同じで、自転車も全部女性仕様となつたのである。特にママチャリは日本独特の物らしい。

 私の場合はサイクリング車を買ふほどのこともないから、ママチャリのサドルをサイクリング車並の位置にして、サイクリング車のやうに乗り下りして勝手に 楽しんでゐる。(2006年10月16日)







 『十八史略』といふ中国の歴史書を読んでみたが、中身があまりにも簡素である。これを読むには内容を詳しく解説できる先生が必要で、自分一人で読んでも 中々理解できない、これは一種の教科書であるらしい。

 それで陣舜臣の『小説十八史略』を読んでみた。ところが、これが『十八史略』の記述とは全然違ふのだ。例へば、原典では秦の孝文王は三日で死に、荘襄王 は四年で死んでゐるが(巻二冒頭)、小説では孝文王は一年、荘襄王は三年で死んでゐる。

 つまり、『小説十八史略』は原典を下敷きにしてゐないのである。これでは先生代りに使へない。

 それではと、最近明治書院から出た新書版を見ると「昭襄王のとき、孝文王柱が太子となった。その昭襄王に妾腹の子で楚という者があった」(巻二冒頭「解 釈」。『十八史略國字解』と同)とある。ところが、その後ろの「背景」には「楚は太子の弟(!)安国君の子であり」と書いてある。

 楚はいつたい誰の子なのかまるで分らない。『十八史略』を読むのはなかなか難しいやうである。(2006年10月15日)







 日銀の福井総裁が国会の答弁の中で、商品に値段があるやうにお金にも値段がある、それが金利だと言つてゐた。その意味を私なりに解釈すると次の様になる だらうか。

 品物は物々交換してゐるかぎり、等価交換であるから、その品物に値段はない。商売として稼ぎを得るためには品物の原価よりも高い価値で交換する必要があ る。そのとき初めて品物が商品となつて値段が発生するのである。

 それと同じ様に、お金も等価交換してゐては、つまり貸した金と同じ額だけ返してもらつてゐては、稼ぎは生まれず商売は成り立たない。お金の交換で商売す るには、利息つまり金利をつける必要がある。だから、お金にとつての金利とは、商品にとつての値段と同じ意味を持つのである。

 このやうに交換のみによつて利益を生み出さうとするのが商業であるから、昔からヨーロッパでも中国でも農業が尊ばれ、商業は強い批判の対象になり、商人 はさげすまれてきた。

 農業などの産業は物を生み出すのに対して、商業は具体的な物を何も生み出さないで利益を得ようとするからである。江戸時代の身分は士農工商に分けられ、 商人が最後に置かれたことには意味があつたのである。(2006年10月14日)







 世の中には二種類の人間がゐる。悪口を言ふ人間と、言はない人間である。これほど明確な区別はない。悪口を言ふ人は誰かに会ふたびにその場にゐない人の 悪口を言ふ。言はない人は絶対に言はないものだ。

 都留重人といふ人は悪口を言ふ人だつたらしい。大戦後、ハーバード・ノーマンと一緒になつて、アメリカ軍に近衛文麿の悪口を言つた。その後、今度は赤狩 りの嵐吹きすさぶアメリカでハーバード・ノーマンの悪口を言つた。近衛もノーマンもその後自殺してゐるのは人も知る通りだ。

 ところが、人の悪口を言ふ人の方がどういふわけか世渡り上手で友達が多い。都留重人もさうだつたのか、彼は日本では大学者と見なされてゐて、私などは都 留文科大学は都留重人の大学だと思つてゐたほどだ。

 ところがその後、彼が友人を売るやうなことをした人だと知つた時には、暗然たる思ひに捕らはれた。東京裁判で都留の義兄である木戸幸一の命を救ふために 嘘まで書いたノーマンは、都留が自分を救つてくれるどころか、共産党員である事を示唆する証言をしたことを知つてショックを受け、その一週間後に自殺した のである。

 その都留重人が今年の二月に93才で亡くなつた。それは日本で共産主義者が大物でゐられた戦後といふ特殊な時代の終りを告げてゐるのかもしれない。 (2006年10月13日)







 最近また煙草を吸つてやらうと思つて自動販売機の前に行くと、いや実に多種多様な煙草が販売されてゐる。マイルドセブンもセブ ンスターもピースもハイライトもそれぞれに何種類も売られてゐて驚いた。さらに驚いたのは、外国煙草より値段の高い日本の煙草が沢山あることだ。今やマイ ルドセブンは高級品なのである。

 最近は軽いものが流行だが、やはり煙草の王様はピースである。フィルター付でもニコチン1.9mg、普通の煙草の倍である。私などはこれを吸ふとすぐに 頭がくらくらしてくるから、一本吸ひ切ることができない。

 もともとはニコチンでふわっとしたいから煙草を吸ふのであるから、ピースが一番安上がりのはずだが、ニコチンの少ない煙草がよく売れるらしく、色んな香 り付きのおしやれな軽い煙草がたくさん出てゐる。メンソールだけでなく、ヴァニラやシトラス、さらにアップルやココナッツの香りのものまである。

 また、昔懐かしいエコーやしんせい、そして飯島秘書官が御愛飲といふ伝説のゴールデンバットが100円台でまだ売つてゐる。煙草飲みは、実によりどりみ どりで楽しめるのだ。

 しかし、日本ではむかし男の三道楽と謂はれた飲む打つ買ふはおろか煙草もおいそれと自由に吸へない不寛容な社会に成つてしまつた。だから、私が煙草を吸 ふの自分の部屋の中だけである。(2006年10月12日)







 大阪市交通局が乗務前の市バスの運転手の飲酒検査をしたら、一年足らずの間に乗務員の一割の約100人から規準以上のアルコール値が検出されたといふ。 今度は二日酔ひを咎めようと云ふのである。

 もはやプライベートも何もないのだ。昨日の夜の酒の飲み方が悪いと言つて人を罰する時代は、すぐそこである。二日酔ひなら仕事はするな、二日酔ひなら車 で通勤するなといふのである。

 それなら早朝に飲酒検問をすればいいのだ。二日酔ひのドライバーがわんさと捕まつて大量の前科者が生まれることは間違ひない。ところが、午前中に飲酒運 転で死亡事故が起きたなどと云ふ話はあまり聞かない。

 飲酒運転のからむ交通事故は主に見通しの悪い夜に起きる。昼間はアルコールが入つてゐてもよく見えるのだ。ましては二日酔いなどは頭が痛いだけではない か。

 飲酒運転は事故を起しやすいから問題のはずなのだが、起した事故の方ではなく安全な飲酒運転までも責めるのは正に本末転倒である。

 最近は自転車の飲酒運転まで捕まるやうになつて来た。いつたいこの飲酒運転バッシングは何時まで続くことやら。(2006年10月11日)







 昔々に買つた松下のカセットテープレコーダの再生ボタンが押した状態で止まらなくなつてしまつたので、修理に出す金を惜しんで裏蓋を開けて、戻し用の強 力なバネを一本外して使へるやうにしたが、一つ一つの部品の作りがしつかりしてゐるのに驚いた。

 携帯用のCDプレーヤを最初に出したのは確かソニーだつた。真似したデンキの松下が早々に似たやうなCDプレーヤを出したが、ソニーの製品と比べて、何 と頑丈な作りのものにしてきたかと感心したことをよく覚えてゐる。

 ウオークマンについても同じで、カセットを入れるところを見ると、仕組みはまつたく同じなのに、ソニーの部品がちゃちでやわなのに比べて、松下のそれは 一つ一つが堅牢なのだ。

 ソニーの充電池が火を吹いたといふニュースが世界を駆け巡つてゐるが、ソニーの製品は元々やわなものが多くてよく故障する。それも保証期間が終はるの待 つてゐたかのやうに故障するので、ソニースイッチと謂はれるほどだ。

 ソニーは新しいものを安く出すので、ついつい買つてしまふが、充電池の世界的なリコールを機に、もつと製品の頑丈さ壊れにくさにも力を入れて欲しいと思 ふ。(2006年10月10日)







 『十八史略』は中国の何千巻もある歴史書の中身を取つて来て纏めただけの本である。こんな独創性の無い本は中国で尊ばれることはない。中国はオリジナリ ティーを尊ぶ国なのである。

 中国で日本製品のコピーがよく出回るが、それはオリジナリティーに対する尊敬の表れである。こんな凄いものは自分では作れないから、それをそつくりコ ピーするのである。そしてそれを自分で作つたと偽りさへもするのだ。

 日本人はさうはしない。オリジナリティーの有るものを見つけたら、単にコピーしたりせずに、それをよく研究してもつとよいものに改善しようとする。そこ から独創性を発揮したりもする。

 だから『十八史略』は中国のオリジナリティー溢れる厖大な歴史書を研究する格好のとつかかりになるとして、日本人は『十八史略』を珍重した。

 独創性を愛する中国もかつては沢山の独創物をもたらした。この国はまだ再び独創性を発揮することができずにゐる。独裁国家は昔もずつとさうだつたから、 政治体制のせゐとも言へない。

 日本は科学の分野の独創によつて複数のノーベル賞受賞者を出したが、それらは欧米の学者の創始した学問の延長線上に乗つかつたものである。中国人は自ら それをすることが許せないのかもしれない。(2006年10月9日)







 国会での安倍首相に対する野党の質問は、安倍氏の書いた『美しい国へ』といふ本の題名をネタにするなど、首相をいぢめるやうなものばかりで、選挙を前に した野党の愚かさには驚くほかない。

 なぜこの時期にそんなことをするのか。小学生がいぢめで自殺した最近の事件では、市長と教育長が並んで両親に手をついて謝る事態になつてゐる。いぢめは してはならない事だといふ認識が国民の間に広まつてゐるのである。

 さらに言へば、どんなドラマでもいぢめ役は脇役なのだと云ふことを野党は忘れてゐる。ところが、選挙で勝つのは常に主役の座を勝ち取つた方なのである。

 それなのに、わざわざ自分から脇役を買つて出て、それを一生懸命演じてゐるのが野党なのだ。かうなればドラマの観客の同情と共感は、主役である安倍総理 の方に集まりばかりである。

 特に野党の民主党は選挙の結果次第では政権を担はうといふ立場にある。その民主党が首相いぢめに狂奔してゐる。自ら墓穴を掘るとは正にこのことを言ふの ではないだらうか。(2006年10月8日)







 安倍首相の歴史に対する姿勢は、当時の人々の視点に立つて過去を考えると言うことであるが、朝日新聞はそれを批判して、現代の視点から過去を考えること も大切だと昨日の社説に書いてゐる。

 ところが、その論拠として出してきた第二次大戦時のチャーチルの演説は、将来の人たちから見ても誇れるやうな行動をとらうと、英国国民に対して呼びかけ るものである。

 このチャーチルの言葉を教訓として、政治家は現代の自分の行動を後世が評価することに対して緊張感をもつべきだといふのはよい。しかし、だから現代の人 間は過去の政治家の行動を自分たちの視点から評価してもよいとはならないはずだ。

 そもそも、このチャーチルの言葉は、敗勢濃厚な英国国民を励ますために言つたものであつて、歴史的事実に対する認識の仕方を述べたものではない。

 むしろ、この言葉から導かれる本来の教訓は、政治家は現在とるべき行動に対しても過去に取られた行動に対しても、今だけだけに囚はれることなく、広い視 点をもつて、常に謙虚で居なければならないと云ふことではないか。(2006年10月7日)







 首脳会談、首脳会談とうるさいことだが、首脳会談がどれだけの効果をもたらすと云ふのだらう。会談が効果があるのは、話して理解し合へる相手の場合だけ だからである。

 何を話しても、自分の言ひ分だけを言つてこちらの言ひ分を認める気のない相手と話合つたところで、何かが解決されるはずもない。

 まして、中国のやうな独裁国家で、誰も彼もが同じことを言ひ続ける国の人間と会談したところで、下つ端の言ふことと同じことを聞かされるだけである。

 むかしは中国にも周恩来のやうな物わかりの良さを見せようとする政治家がゐたが、今の中国にそんな人物は見あたらない。国民のことを本当に考へる政治家 はみんな失脚してしまつてゐるのである。

 そんな国との首脳会談がしばらく途絶えてゐることをもつて大問題であるかのやうに言ひ立てるのは、相手の国の言ふとほりにしろと云つてゐるの同じで、国 益を無視して、政府の足を引つ張つる行為でしかないのである。(2006年10月6日)







 靖国神社に参拝することは、国のために命を捧げた兵士の霊に敬意を表することであるから、公的も私的もない。ところが、公的な参拝だと憲法違反になると 騒ぐ人たちが現れたので、私的な参拝だと言ふことにした。

 それでもなにやかやと外国がいちやもんを附けてくる。そのいちやもんに多くのマスコミが賛同する。そりやさうだ。いくら私的参拝だと云つても、参拝する ことをマスコミに発表して、テレビに映されながら参拝したら、私的参拝であつても、公的なものになつてしまふ。

 考へてみれば自分の親の墓参りに行くのに、マスコミに発表してから行く人はゐないだらう。どこにも公表しないでやつてこそ私的なのである。

 だから、安倍さんが誰にも言はずにこの四月に靖国参拝をしたのは、まさに私的参拝を実行したのである。それについて後からも言及しないからこそ、私的で あることを維持できるのである。

 それを今度は「秘密にして、こそこそと参拝した」と批判する人たちがゐる。しかし、私的なことは秘密にしておくからこそ私的なのである。

 しかしながら、今後もこの方式をとることで遺族会に「総理に参拝して頂けた」と言つてもらへるか否かは未知数だ。それは安倍氏の人徳と信頼感の如何にか かつてくるのではないか。(2006年10月5日)







 今マスコミをにぎわせてゐる「歴史認識」の中身は日本による朝鮮半島の支配と支那事変を侵略と認めて謝罪すると云ふことであつて、本来の意味での歴史に 対する認識ではない。

 そもそもここで使はれてゐる「歴史」といふ用語は、時代の限られた日本の特定の行為をさしてゐるのであり、中国の江沢民政権が考へ出したものだ。

 だから、「歴史」といふ言葉をその意味で使ふこと自体、特定の政治的な見方・政治的な主張に肩入れすることであり、客観的な論議を不可能にしてしまつて ゐる。

 そして、この用語に従つて「歴史認識をはつきりしろ」といふことは、中国と韓国の言ふ通りにしろといふ事でしか無いのである。だから、日本の首相がそん なことは出来ないし、すべきでもないのは当然のことだと言へる。

 安倍首相の本来の意味での歴史に対する姿勢は明確である。それは当時の人々の視点に立つて過去を考へると言ふことだ。これを批判するとしても、それは現 代の視点から過去を考へるべきだと云ふものであつても、他所の国の視点から過去を見るべきだとはならないはずである。(2006年10月4日)







 飲酒運転をしたといふだけで人を逮捕するのは人権侵害ではないかと思ふ。事故を起したと謂ふならともかく誰にも迷惑をかけてゐないからだ。

 これは共産主義にかぶれてゐるといふだけで人を逮捕した昔に似てゐる。共産党に入つたり共産主義運動をして革命を起さうとしてゐるのならともかく、共産 主義にかぶれても誰にも迷惑にならないはずなのにである。

 道路交通法の違反は点数制を取つてゐる。ところが、飲酒運転になると赤キップで莫大な罰金を払はされるだけでなく、犯罪歴が附いてしまふ。つまり前科者 になるのである。最近の飲酒運転の検挙はすさまじいが、それは同時に膨大な数の前科者を製造してしまつたことになる。

 誰もがやつてゐる飲酒と、誰もがやつてゐる車の運転の間隔が少しみじかかつたといふだけなのにである。この調子で行くと、国民全員が前科者になつてしま ふ日が来るのではないかと言ひたくなる。

 そもそも飲酒が人に与へる影響は個人差が非常に大きい。だから、飲酒運転で事故を起した場合だけを厳罰にすればよいのである。個人差を無視して飲酒運転 を等し並に罰する社会は、自己責任社会とは程遠いものである。(2006年10月3日)







 マスコミは小泉政権で日本社会には「格差」が出来たなどと言ふが、総裁選が安倍・福田の対決になると延々と言ひ続けたマスコミの言ふことであるから信じ るに足りない。

 小泉政権による景気回復を言はずに、勝ち組負け組ができたなどといふのは言ひがかりであらう。もちろん、景気回復以前の誰もが不況で苦しんでゐた昔に戻 れば、「格差」の無い社会に戻れるのは確かである。

 地方都市の商店街はシャッター通りと呼ばれ、今や閉店した店の数珠繋ぎだが、それは小泉首相が就任する以前からのことである。そして小泉政権の間に商店 街の降りたシャッターが再び開くことは殆んどなかつた。景気の回復は別のところから始まつたからだ。

 むかし商店街をぞろぞろと歩いてゐた大勢の人波は、いま郊外で乱立するスーパーを中心とする複合商業施設に移つてしまつた。この人混みの理由は大型店舗 の魅力のせゐだ。

 そこで、小さな個人商店は大型店舗の中に入つて小判鮫として生きようとした。しかし、現実に人が入つてゐる店は小さくてもどこかのチェーン店ばかりであ る。個人商店は大型店舗にない魅力を自ら開発して行くしかないといふことだらう。(2006年10月2日)







 このまえ100円ショップのダイソーに行つたところ、大きなスコップが売つてゐた。これも100円かと思つて値札をよく見ると税別800円となつてゐ る。他にも見ていくと200円以上の商品が沢山並んでゐることに気がついた。

 元々100円ショップは100円では買へないやうな商品が100円で買へるので客が集まつた。客寄せのためにスーパーマーケットのなかに100円コー ナーが出来たりするほどである。

 ところが、その本家のダイソーが100円ショップでなくなつてしまつたのだ。しかし、単なる雑貨屋になつてしまつたのかと云ふと、さうでもない。200 円以上の商品でもかなりの割安感が保たれてゐるからである。

 私は最近近所の100円ショップで12ミリのラチェットスパナが売られてゐるのを見つけた。ところが、その上の13ミリがない。そこで、ダイソーに行つ てみたら13ミリのが315円で売られたゐた。

 スパナとはメガネ形のねじ回しであるが、ラチェット式になると、回すたびにボルトから外してまたはめ直して回すといふ手間が省ける。カチカチ言はせなが ら左を戻してはまた右へボルトを締めることが出来るすぐれものである。

 それが普通の工具屋だと700円ほどするのだから、やはりダイソーは安い。お蔭でその日も満員であつた。(2006年10月1日)


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