私見・偏見(2010年)

私見・偏見(2009年)へ



『素数入門』(ブルーバックス) 誤植一覧

第1刷には誤植が多くて、それもこの本の難しさにつながっているようだ。

p119 (1型の素数)の式が間違ってる。=(1型の素数)→(1型の素数を因数とする合成数) =4(ab+a+b)+1 →=4(4ab+a+b)+1
p125 ガウスの学位論文のラテン語の題名は後半がデタラメ。prim vel secondi qradus reselvi passe→ primi vel secundi gradus resolvi posse(これは2刷以降でも直っていない)
p130 2乗の式もあきらかに間違ってる。2a=b→2b=a 
p143 -9≡3(mod10)はおかしい。
p150 式の最初の行に-をつけているが、次の行からのはず。
p153 最後の式も合成数の式なのに、(13-1)!にしてるが(12ー1)!でないと論旨と合わない。
p196 T7-4はT7-5ではないのか。
p221 「kの約数は2の2つだけ」は「kの約数はこの2つだけ」の誤植だろう。
p222 積AB・ACは明らかに積CB・ACである。
p223 [Ada]→[Ad2]
p234 (mod p)→(mod q)
p235 計算例b│aの対応がずれている。5│101・・であるはず。さらに、最後のaは素数の積になっている。
p235 例 n=15なのに(mod 5)となっている。(mod 15)の間違いだろう。
p245 証明の(mod p)→(mod n) r≡0→r=0
p250 証明の「T8-4によって」は「T9-4によって」であろう。T9-6とT9-7の証明でもT9-4が使われているが、ここで初めてこれを使うことが明記されている。また、3個のord(n)はどれもordn(a)の間違い。ab-c≡0(mod p)はab-c≡1(mod p)の間違い(nの場合を使う。なおap-1≡1(mod p)よりord(a)=p-1)。
p251 「奇素数pの原始根はφ(p)=(p-1)個ある」はおかしい。「奇素数pの原始根はφ(p-1)個ある」のはず。

p266 「{α、β}を得る。α={65,56}」はおかしい。γ={65,56}の間違い。

これらは第2刷以降の本で訂正されている。

また「合同方程式の係数はそれと合同な数に置き換えてよい」と明記していないので、無用な難解さが生じているし、p200に突然登場する「完全代表系」の説明がどうやら抜けている。「既約代表系」(たぶん=既約剰余系)も同様である。

p236の(2)に対応する(1)がないが、p237の最初の(1)に対応する(2)もない。おそらく原稿ではこの(1)はp236のものでそこの(2)に対応するものだったのだろう。

また、フェルマーテストの条件である底aがa<nを書き落としている。p241の下から3行目「パスしない」とあるが「パスする」の間違いだろう。合成数であるのに2を底とするフェルマーテストに合格する数は3個だという論旨だからである。

p249の位数がある数の合計12個の表は素数13についてのものだが、なぜここにあるのか説明がない。この表は実際に総数が個別の合計と合っている確認するためだから、Σφ(d)=p-1のあとに来るものだと思われる。

p258 チェックの 710+12k云々は意味不明。結局710にもどっている。

p263 最初の(1)はd|nではなく、n|p-1につくのが正しいと思われる。

以上から、この第1刷はゲラ刷りを著者が充分手を入れずにそのまま印刷してしまったものではないかと推測される。

なお、この本には講談社のホームページに正誤表があるが、ここで指摘した誤植はほとんど含まれていない。つまり、この他にもたくさんの間違いがあるということである。

(2010年11月12日)








『数論入門』(ブルーバックス)P29の「素数が無限にあることの別の証明」を丁寧に書く。

素数が3個しかないとする。これらをp,q、rとする。

N→∞ のとき N÷(log2N+1)3 →∞

(log2N+1)3<N のような N>0 がある。

N 以下で pabc のように表される正整数の数を考えると、

abc≦N から
a≦pa≦N、2b≦qb≦N、2c≦rc≦N

このlogをとると、

a≦log2N、b≦log2N、c≦log2

これらの不等式の両辺にそれぞれ1を足してから掛けると、

(a+1)(b+1)(c+1)≦(log2N+1)3

ところで、pabcの因数の数は(a+1)(b+1)(c+1)である。

だから、求める正整数の個数は(log2N+1)3以下である。それは、Nよりもさらに小さい。

したがって、N未満でpabcで表せない正整数が存在する。つまりp,q,r以外の素数が存在する。(2010年11月12日)







テレビのデジタル放送の二カ国語放送を録画しても二カ国語にならないで日本語しか録画されないことがある。例えば『刑事コロンボ』なら二カ国語になるが『名探偵モンク』や『ER』は日本語だけになる。

これはなぜか。それはテレビ欄にはどちらも二カ国語放送と書いてあるが、コロンボは単純な二カ国語であるのに対してモンクはマルチ音声の二カ国語だからである。そしてマルチ音声の場合は普通にVR録画(DigaのXP~LP)すると二カ国語に録画出来ないのである。

ではどうするか。ディーガならDR録画、ヴァルディアならTS録画すると二カ国語になる。

ところで、ここから先が、ディーガとヴァルディアの違うところである。ディーガではDR録画以外では全部だめなのに対してヴァルディアはTSE録画でも二カ国語で録画できるのである。TSE録画とはディーガのAVCREC方式によるハイビジョン録画に相当する。

逆に言えば、ディーガのAVCREC(HG~HE)ではマルチ音声の二カ国語放送は二カ国語で録画出来ないのである。さらにディーガではマルチ音声の二カ国語をDR録画したものはDVDに保存出来ない。保存したければブルーレイのあるデッキとディスクを買うしかないのだ。

ところが、ヴァルディアではTS録画したものだけでなくTSE録画したものもDVDに保存できる。というわけで、二カ国語放送の録画でも、ディーガよりヴァルディ(ただしSかXがつく機種。しかも最近出たブルーレイでない機種))の方が高機能だということができる。(2010年2月12日)







それにしても『新釈現代文』の中の問題を自分でやって行くと、なかなか正解しないことは驚くほどである。現代文ぐらい読めるようになっているはずなのだが、まちがってばかりいる。

しかしながら、丸谷才一が自分の文章を使った入試問題で一向に正解が出せないとどこかで書いていたから、我々ごときが解けなくてがっかりすることはないようである。逆に言えば、入試問題というのはかなりテクニカルなものなのだということでもある。

しかし、だからといって、そんなテクニカルなものばかりを身につけさせる受験勉強はむなしいとか、そんなことを小学生からやらせる塾の存在をけしからんと言うのはどうだろうか。

実は塾の勉強はそんなテクニカルなことばかりではなく、もっと高度で本質的なことを教えているのだ。それはこの『新釈現代文』や伊藤和夫の英語の授業の教えることがテクニカルなものでないのと同じである。

要するに受験勉強とはかくも高度で難解なものなのである。そして、それを経験することが子供たちの知識と思考力を決定的に高めることにつながるのである。その割に日本のノーベル賞受賞者が少ないと言ってはいけない。受験によって身につく思考力はそのスタートラインに立つ程度の力でしかないからである。(もっとも私はこの本の正解はかなり間違っていると密かに思っている)(2010年2月10日)







昔、受験勉強で使った国語の参考書『新釈現代文』が文庫になって復活したというので早速買って来て再読してみた。これは実に内容豊かな本で、単なる受験参考書の域を超えている。

現代文の受験問題を解くためには、当然、現代文を理解する必要があるが、そのためには、まず現代文を書く人たちの知的レベルに近づいておく必要がある。この本はそこから教える。

現代文の根底には現代の思想があるが、その基には近代精神がある。それは人間主義、合理主義、人格主義の三っである。筆者はこの三っの思想を順番に詳しく解説していく。

例えば、人格が「自己自身を目的とする自律的な自由の主体」であるとする人格主義の発展にカントが大きく寄与していることを、入試の出題文を通じて明らかにするのだ。

そのような予備知識と同時に必要なのが、論理的思考力である。そして、そこまでたどり着くと次に、実際にその思考力の使い方を個々の入試問題の文章を細かく分析、解読してみせることで、読者に教えて行くのだ。

これと類似のことを英語でやったのが駿台の伊藤和夫であろう。現実に文章を読むときには、こんな細かいことを意識していたら疲れてしまうが、学生時代の入試という一時期に一度徹底的にこんな厳しい思考力の訓練をしておくことは有意義なことに違いない。

(ところで、こんな本であるから筆者の文章は理屈が勝ちすぎて非常に読みづらいものになっている。例えば16ページの最後から2行目、「つまり、読者を予想して書かれた文章が、そういう性格を持ったものとして取り上げられているのです」の「そういう」が何を指すか分かりにくい。ここは「それがそういうものとして」という同語反復をさけた表現方法が使われていると見て、単に同じ文章の前半の「読者を予想して書かれた」をさすと見てよいのではないか。つまり、「読者を予想して書かれた文章が、読者を予想するという性格をもった文章として取り上げられている」として、特にその性格に注目した表現であると)(2010年2月9日)






『新釈現代文』(ちくま学芸文庫)が末尾で推薦している田宮虎彦の『絵本』を読んだ。人や社会を憎む「私」を描いていて読後感が良くない。わざわざ苦学生の道を選んでおきながら、その苦しさに喘いで人を憎むのは筋違いだろうと思ってしまうのだ。

ところが、作者の経歴を見ると、この人は貧乏人ではない。大学時代にも華麗な交友関係を築きながら、着々と作家への道を歩んでいるのだ。

とすると、この話はフィクションなのである。太宰が自分の人生を切売りして小説を書いたのとは違って、他人に取材して書いたものなのだ。『菊坂』では業界誌に勤める男が書かれているが、作者は小説を書くかたわら今の東大新聞、東京新聞、女子高教師とちゃんとした職業についている。

なるほど人の話ならば、自分の不幸を人のせいにする話も書けようというものだ。そうやって人間の不幸とはかうしたものだと描いて見せたのだろう。しかも、文章がうまい。読ませる力がある。

しかし、そのうまさが例えば『足摺岬』の書き出しでは仇(あだ)となっている。雨の描写に凝りすぎていて、これはフィクションだと最初から思ってしまうのだ。そして作り物だと思ったら、後を読む気はなくなってしまう。

そうなると、『絵本』の結末で下宿の寝たきりの少年との別れ際に「私」が絵本を買ひ与えるのも、これは梶井基次郎の『檸檬』をまねたのだろうと思ってしまうのである。結局、これは私小説を装ってはいるが私小説ではないのだ。(2010年2月7日)






ブラウン管テレビに地デジのDVDレコーダーをつないで地デジ放送を見ると、上下に黒い帯のついた横長の絵が映る。その帯をとって拡大した絵にするには、ディーガならサブメニューからサイトカットという機能を使う必要がある(ヴァルディアはこれが出来ない)。しかし、これはチャンネルを換えるたびに元にもどってしまう。

DIGAでもVARDIAでも、録画したものを再生するときは、初期設定でパンスキャンを選択しておくと、自動的に黒い帯のない大きな映像が映るが、放送中の映像にはこの機能は自動的に働かないのだ。

だから、いずれは地デジチューナーつきの横長テレビを買うしかないと思っていた。ところが、調べてみると、後付けの地デジチューナのなかに初期設定でパンスキャンを設定しておくと、自動的にサイドカットした映像を見せてくれるチューナーのあることがわかった。

地デジチューナも色々あって、ただ単に横長の絵を映すもの、上下左右に黒帯が付く場合だけそれをカットして拡大した絵を見せてくれるもの、ズームボタンなどでその都度サイドカットする必要のあるものなどがある。しかし、それでは小さいテレビは見づらいし面倒である。

それに対して、初期設定で放送映像をサイドカットしてくれるパンスキャン機能のある地デジチューナなら、今と同じ大きさの絵が映るから小さいテレビでも大丈夫、もう横長テレビに買ひ換える必要はない。

これを古いブラウン管テレビにつなぐと、これまで見ていたのと同じ映像から「アナログ」という右上の表示がないだけの絵を見ることができるのだ。地デジの映像であることを意識するのはチャンネルを切り替へる時に少し時間がかかるのと、朝の時間帯に時刻表示が左上に「分」しか映らないことだけである。私が見つけたのはユニデンとそのOEMのヤギの製品である。(2010年2月4日)








 公立図書館がベストセラー本の寄贈の募集なんてすべきでないと思う。本の寄贈を求めるのに、本の選り好みをするのは本に対して失礼である。

 ところが、ベストセラーの寄贈は募集してそれ以外の寄贈は断わるのだから、役人のご都合主義とはこんなものなのだ。

 以前は本の寄贈を募集していた当地の県立図書館も最近はしていないのは、もちろん使へない本ばかり寄贈されるからであらう。だからといって、使へる本だけの寄贈を求めるのは寄贈してくれる人にも本にも失礼だ。だから大っぴらな募集などしないのがよいでのである。

 図書館はベストセラーの貸出を求める利用者には「ベストセラーの予約に全てお応へすることは出来ません」とでも言へばよいのである。そうしないのは憲法の「最低限の生活」条項のせいだろうか。

 しかし、ベストセラーというのは、買って読む人が多いからベストセラーなのだ。それを図書館で借りて読まうとするなんて、まさに「さもしい」のである。

 そもそも生活保護費には本代も含まれているはずである。だからベストセラーぐらい自分で買って読めばいいのだし、読まなくてたいした事はない。しばらくするとすぐにすたってしまうのが流行なのだから。(2010年2月1日)


私見・偏見(2009年)へ

ホーム | パソコン試行錯誤 | シェアウエア | 拡声機騒音 | くたばれ高野連