私見・偏見(2005年)

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 耐震偽装問題でのマスコミの大騒ぎぶりに対して、一般の反応はかなり冷ややかなものである。

 例へばマンション販売会社社長の「天災地震によつて倒壊したときに調査し発覚したことにしたい」といふの発言は極悪非道のやうに報道されてゐるが、一面の真実を衝いてゐるのではないか。

 先づもつて、問題のマンションが立つてゐる場所で、危険とされる震度5強の地震が起こるのは、百年に一度あるかないかである。だから、地震が起きずに済んでしまふ可能性は非常に大きいのだ。

 しかも、その震度5強で倒れない可能性も大いにある。実際、去年の東京の震度5強の地震で、都内のマンションは一つも倒壊してゐない。

 だから、何を大騒ぎしてゐるのかといふ声が大きくなつてゐるのも当然だらう。

 そもそもひび一つ入つてゐない都心の高級マンションから、狭くて不便な都営住宅にどうして引つ越さなければならないのか。都営住宅の方がむしろ危険ではないのか。

 野党はこの問題の追求で得点をあげようとしてゐるらしいが、無駄な税金の投入を嫌ふ世論を読み違へてゐるのではないか。(2005年12月31日)







 労災補償が最近はよく認められるやうになつたが、それと同時に、仕事があることへの感謝とか、仕事をもつことの誇りとか、さういつたものが忘れられてしまつたやうに思へてならない。

 例へば、長年の労働で体に不具合が生じたからと補償を要求するのはどうだらうか。その不具合は自分が長年働いて社会に貢献してきたことへの勲章とは思へないだらうか。

 引退した職人が年老いてから病気で死んで、調べたら道具に有害物質が使はれてゐたから遺族が補償を要求するのは、本人の仕事に対する誇りを無視したことにならないだらうか。

 大企業の周囲の住人が有害物質で被害を受けたと補償を要求するのもどうだらう。大企業の近くに暮らせば、何らかの潤ひがあつたはずだ。商店なら企業の従業員が客に来たらうし、サラリーマンなら企業に勤めたか、その下請けで稼がせてもらつたのではないだらうか。

 良いことがあれば悪いこともあるわけで、良いことだけがあるなどといふことはない。ところが、良いことは忘れて悪いことだけを主張して金を要求するのが今では当然のことになつてゐる。(2005年12月30日)







 関西のテレビ番組で田嶋陽子氏は二〇〇六年の予想として「安倍晋三の失脚」と書いた。本人のその後の話でこれは予想ではなく願望だと言つたが、左翼系の人たちが心の中で考へてゐることが、生の形で現はれたと見てよい。

 実際、その安倍氏の失脚をねらつた策謀が、朝日新聞によるNHK番組改変報道だつた。朝日新聞は首相の靖国参拝を肯定する発言を繰り返す安倍氏が気に入らなかつたので、この報道をきつかけに安倍氏を黙らせようとしたのである。

 扶桑社の歴史教科書に対する彼らの反対運動も同じことである。この教科書を不採用にさせるために、彼らは脅迫やいやがらせや裁判など、言論以外のあらゆる手段をとる。この運動に中核派が関つてゐるといふ調査結果も出た。

 彼らは言論には言論によつて対決すべきだとは思はない。自分の気に入らない言論を抹殺しようとかかるのである。もちろん彼らとて表向きは自由と民主主義を標榜する。しかし、実態はそんなものではない。(2005年12月29日)







 もしNHKがスクランブル放送になつたら、受信料を払へない貧しい人はどうすればよいか。

 むかし家にテレビがないころは、人の家のテレビを見せてもらつてゐた。しかし、もうそんなことの出来る時代ではない。今の日本の社会ではテレビを見せてくれと近所の家に上がり込むことなどあり得ないのだ。

 平均的な家庭に全てのものが行き渡り、家庭が一つの自給自足の単体と化した現代では、他人に頼らず家族の中で全てのことを処理すべきだといふ価値観が定着した。

 荷物運びも家族だけで済ませるために、昔は営業用だつたライトバンが家庭用として普及するやうになつてゐる。自給自足家族の象徴であらう。

 さうなると頼りになるのは金だけである。子供の教育費も全てを自分でまかなふ前提で計算すれば莫大な費用となり、複数の子供を持つことはとてつもない贅沢と見做さざるを得ない。

 そして、もし家族に不都合な事が起きたら、その原因となつた外部に対して「補償、補償」と金をひたすら要求するのも当然の事なのである。「不幸はお互ひ様」の世界はもう過去のものとなつたのである。(2005年12月28日)







 NHKの受信料未払ひ問題で外部の人間はスクランブルにしろ、つまり払つた人しか見られないやうにしろと言ふが、NHKはさうはしたくないはずだ。

 なぜなら、受信料を払つた人しか見ない放送局になつてしまふと、無料で全員が見てゐる民放のテレビ局よりも影響力が落ちてしまふからである。

 さうなればNHKはスカパーやWowowと同レベルの放送局になつてしまふ。

 スクランブルでもニュースや緊急放送は只(ただ)で見せるといふが、そんなチャンネルは付けつぱなしにしてもらへない。NHKは最早まじめ人間以外は誰も見ないテレビ局になつてしまふのだ。

 NHKがスクランブル放送にしたくないもう一つの理由は、はつきりと料金の支払ひと引換へで見せるテレビ局になれば、その料金に相応しい番組を作らねばならなくなるからだ。果たして、朝ドラも大河ドラマも金を払つてまで見るに値するドラマかといふことになる。

 したがつて、NHKにしてみればスクランブル放送にするぐらいなら、只で見られる方がましなのだ。つまり、NHKはある意味で只見客によつて支へられて ゐるのである。これでは受信料を益々払ひたくなくなる。(2005年12月27日)







 ある株取引に関して「美しくない」と与謝野大臣が言つたが、高校駅伝で黒人選手が走るのも美しくない。

 黒人が美しくないのではない。黒人を使つて勝たうとする高校の姿勢が美しくないのである。黒人の留学生を集めて駅伝に勝たうとするのは、地方の高校が大阪の中学生を野球留学させて甲子園出場を狙ふのと何ら変はりがない。

 何故、そんなことまでして勝ちたがるか。それは私立高校の経営と大きな関係がある。少子化時代に生徒を集め続けるには、有名になる必要があるからだ。

 つまり、高校駅伝も高校野球も学校の宣伝の手段に使はれてゐるのである。なぜ、宣伝になるかといへば、それはNHKが只で全国中継してくれるからであ る。

 高校はこの宣伝に大した金をかける必要はない。必要な費用と言へば、優秀な留学生を集めてきて面倒を見るための費用くらいのものだ。放送をするためにかかる莫大な費用は、国民が受信料として払つてゐる金である。

 私立高校も私企業である。NHKはその私企業に国民から集めた受信料を使つて宣伝させてゐる。これでは受信料を益々払ひたくなくなる。(2005年12 月26日)







 今年から人口減社会へ突入したといふ。これが一九八五年に男女雇用機会均等法が成立して二十年たつた結果だとを思ふのは私だけだらうか。女性が働くやうになつて自立すれば、結婚しなくなり、子供が生まれなくなる。それが自然の道理だからである。

 ところが、政府とマスコミは、女性がもつと働けるやうになつたら、もつと子供が生まれるといふのだ。その際、女性の労働率と出生率には相関関係があるといふ説が頻りに出される。

 しかし、それはさう見える国々の統計だけを取り上げてゐるだけで、反対の統計がある国は五万とある。しかも、相関関係があるやうに見える国でも、よく調べたら出生率が高い原因はほかにあつたといふデータがどんどん出てきてゐる(特に、移民の出生率の高さや、婚外子の多さ)。

 政府とマスコミの論調を作つてゐる女たちは働く女たちであり、その働く女たちが子供を産まない言ひ訳に出してきたのが、この説ではないのか。そして、女性の労働環境が悪いから安心して子供を産めないなどといふのだ。

 これは要するに、「子供を産んで欲しかつたらもつとお給料をちやうだい」と言つてゐるやうなもので、女のこんな「おねだり」を真に受けて政策にしたこと自体が間違つてゐたのである。(2005年12月25日)







 米国産牛肉、マンション耐震偽装、少子化問題、アスペスト、子供の安全、イラク派兵、原子炉空母、どれもこれも日本人の反応はヒステリックなものばかりだ。

 このヒステリックさはきつと日本が世界の中で大国になつてきた理由の一つなのだらう。何でも完璧でないと安心できないのだ。

 しかし、設計図が偽装だとして、そのマンションは地震が来たら必ず倒れるものでもあるまい。アスベストを吸つたら必ず肺ガンになるものでもあるまい。原子炉空母は必ず事故を起こすものでもあるまい。

 少しの可能性を頭の中で連鎖させ、増殖させて、それを論理的であると思ひこんで、今にも事故が起きるかのやうに騒ぎ立てるのはノイローゼでありヒステリーである。

 例へば、偽装マンションの住民たちとて、そのマンションでの何度かの地震の経験からその建物がどの程度安全であるかぐらいは知つてゐるはずだ。建物が建つてしまつた後の問題は、現実の建物がどうかであつて図面ではない。

 だから、図面が偽装でも自分はこのまま住み続けるといふ剛者がゐても何ら不思議ではない。理論上なら震度5強で倒壊する建物は他にも日本中にいつぱいあるはずだが、まだどこにも退居勧告は出てゐないからである。(2005年12月24日)







 民主党の前原代表は中国で行なつた講演で中国の軍事的脅威を指摘したところ、「冷戦時代の発想だ」と満座の中で笑ひ者にされ、首脳との会談も拒否された。

 前原氏がこれまで小泉首相の靖国参拝に反対し、自身も靖国参拝をしてこなかつたことは何の役にもたたなかつたのだ。

 その後の記者会見で「靖国問題が解決しても、すべてがうまくいくわけでないことが明らかになつた」と捨てぜりふを吐いたが、あながち的外れではない。

 ニュースなどに見られる「首相の靖国参拝によつて中断している首脳の相互訪問」などの言ひ方が嘘だといふことが、氏の訪問で明かになつたからである。中国共産党の意向に反するあらゆる言動を慎まなければ、首脳の相互訪問は不可能なのだ。

 前原氏は「誰かに会ふために自説を曲げることがあつてはならない」とも言つてゐる。とすると、たとへ前原氏が首相になつても、首脳の相互訪問は復活しないことになる。

 といふわけで、所謂「険悪化した日中関係」が小泉首相のせゐでないことが分かつたのは何より目出度いことである。(2005年12月23日)







 最近、子供の安全を守るにはどうすればよいかといふ議論が盛んだが、国が何とかしろといふ意見が多く、結局はお上頼みの国民性が出たやうだ。

 私の意見はそれとは違つて「自分のことは自分で守れ」である。そのためには他人に対する警戒心を子供の時から身に付けることである。

 ところが、日本では童話の『赤ずきんちやん』で世界の怖さを学ばずに、『となりのトトロ』の優しさあふれる世界を現実と思つて、何の警戒心もなくぽーと道を一人で歩いてゐるやうな女の子が多いのではないか。

 さういふ警戒心のない女の子は、たまたま無事に成人しても、電車の中で痴漢をされたり、道でキャッチセールスに引つかかつたり、オレオレ詐欺に騙されたり、老いては変額保険に入らされてしまふのだらう。

 これらは全部、警戒心があれば避けられる事ばかりだ。それは、赤の他人が近づいてきたら警戒の目を向けるとか、自分は騙されてゐないことを第三者に確認するとか、大きな金を動かす決断は決して一日ではしない、などである。

 しかし、それだけ警戒してゐても女子の場合には、避けられない危険が襲つて来る可能性がある。女子はかわいいだけでは生き延びる事さへ難しい。それは決して今に始まつた事ではない。(2005年12月22日)







 読売新聞の最近の世論調査で、父方が一般人で母方だけが天皇につながる「女系」天皇を容認する人が6割に上つたといふ。しかし、果たして6割は多いのだらうか。

 憲法は第一条で、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」としてゐる。「総意」とは全員のことだが、数字的には8割から9割必要ではないか。6割とは過半数のことで「総意」にはほど遠い。

 民主主義の原則からすれば、過半数の賛成で充分だらう。しかし、天皇の地位は民主主義の原則によつて決めるべきものではない。それは平等思想とも合理主義とも関係がなく、もつぱら伝統的なものである。だからこそ、憲法は「総意」と言つたのではないのか。

 「女系」については、まだまだ理解が広まつてゐないやうで、識者の間でも「昔は女性天皇が力を持つてゐたし、天皇家には伝統的に女子が多く生まれたから、もともと女系だつた」などとトンチンカンなことをいふ人が多い。

 今後「女系」についての理解が広まれば、「女系」容認の世論はさらに「総意」から遠退くのではないか。(2005年12月21日)







 米国産牛肉の輸入再開問題では、日本人の多くが既に狂牛病に罹(かか)つてゐるのではないかと思へるほどのヒステリーぶりである。

 「政府は国民の命を危険にさらすつもりか」とか「子供たちを米国産牛肉から守れ」など、頭の中だけで米国産牛肉に対する勝手な妄想を作り上げて、勝手に怖がつてゐるのを見ると笑ふしかない。

 問題は実際に米国産牛肉に危険性があるかどうか、それがどの程度のものかと言ふことだらう。

 例へば、フランスで狂牛病が問題になつた時には、実際にフランスのレストランのメニューから牛ステーキが姿を消し、スーパーの店頭にも牛肉が大量に売れ残つた。しかし、その後牛肉の検査態勢が整備され、騒動は収まつてゐる。それでもフランスの検査態勢は、二歳以上の牛だけで日本のやうな全頭検査ではない。

 では問題のアメリカはどうかといふと、全頭どころか二歳以上の全ての牛でもない、単なる抜き取り検査なのである。なぜか。それで充分安全性が担保されると考へたからであり、それでも国民の間で何の問題にもなつてゐないのだ。

 とすると、問題は単に日本人がヒステリーなだけといふ結論に達する。しかし、そのヒステリーも反米マスコミに煽(あふ)られた人たちだけなのか、輸入が再開されたばかりの米国産牛肉を出した焼き肉店は大繁盛だといふ。(2005年12月20日)







 戦前の日本が悪かつた理由としてよく軍国主義があげられるが、本当にさうだつたのか考へてみるべきである。

 当時もし日本が軍国主義だつたのなら、それはどこの国も軍国主義だつたからにほかならない。もしさうでなかつたら、なぜ何度も軍縮条約が議論されたのか。しかも、それによつて日本の軍事力は英米各国の七割に抑へられたのだ。

 といふことは、英米は既に日本より遥かに大きな軍事力を持つてゐたのである。軍国主義だつた日本に遥かにまさる軍事力をアメリカが持つてゐたからこそ、アメリカは日本に勝てたのである。

 そんなアメリカがどうして軍国主義でなかつたと言へるだらう。実際、当時だけでなく、第二次大戦後もアメリカはソ連と軍拡競争を続けた。戦争によつて独立を勝ち得たアメリカは、建国以来言はばずつと軍国主義なのである。

 日本が軍国主義だつたから間違つてゐたといふ考へ方は、アメリカが自分の軍国主義を隠して、戦争の罪を全部日本に押しつけるために編み出したインチキな論理に過ぎないのである。(2005年12月19日)







 ドストエフスキーの『罪と罰』は岩波文庫の江川卓氏の訳が読みやすいといふ評判だ。確かに日本語がこなれてゐるが、欠点もある。

 例へば、最初の方でラスコルニコフが、妹の結婚を伝へる母親の手紙を読んだあとで、妹の結婚相手に疑念を抱く個所(第一部四の最初。89頁)

 「ルージンさんは、あのとおりの実務家で、お忙しい方ですから、ご結婚も、駅逓馬車とか、汽車のなかとかいったふうでないと、おできにならないんです」だと。

 と怒りながら、手紙の中の母の言葉に言及するが、前の方のページの母の手紙には、汽車の中で結婚するやうな変な事は書いてなかつたはずだ。結婚を急いでいると言ふ話はあつたが、そんな話は読み返しても見つからなかつた。

 では、この個所は英訳ではどうなつてゐるかと思つてネットを捜すと、

 'Pyotr Petrovitch is such a busy man that even his wedding has to be in post-haste, almost by express.'

 「駅逓馬車とか、汽車のなか」は「in post-haste, almost by express」になつてゐる。これが「大急ぎで、至急に」といふ意味の熟語であることは、どんな英和辞典にも載つてゐる。そして、それなら結婚を急いでゐるといふ意味で何の問題もない。

 江川氏はラスコルニコフが言及した内容が変であり、実際の手紙の中にないのもおかしいと考へて英訳を見れば、この間違ひを避けられたのである。(この間違ひは新潮文庫も同じ)

 競争の少ないロシア語やドイツ語の辞書は、英和辞典ほど進歩してゐず、必要な熟語が収録されてゐないことがある。有名な本を翻訳するときは、既存の和訳はもちろんだが、英訳ともう一つの外国語訳ぐらいは是非参照したいものだ。(2005年12月18日)







 ある県の 男女共同参画センターのコンテストで最優秀賞に選ばれたものがネットに公開されてゐる。

 それは二コマ漫画で、一コマ目には、男女二人が一台の自転車に二人乗りして、後ろに乗つた女性が「もっと早く走ってよ! 男でしょ!」と言ふと前の男性が「女のクセにうるさいな!」と言ふ。その絵の右側に「こうあるべき、を決めてしまっていませんか?」と書いてある。

 二コマ目の漫画は、男女が別々の自転車に乗つてこちらを向いてゐる絵があり「お互いが並んで同じ視点で物事を見てみるのも、良いものだと思いますよ」「寄りかかるのではなく、支えあっていきたいですね」とコメントが付いてゐる。
 
 ここから、かういふ考へ方を広めることが男女共同参画センターの仕事らしい事が分る。つまり、このセンターは、男女の性差に対する従来の物の見方を変へようといふ運動をしてゐるらしいのだ。

 しかし、これはある特定の考へ方、生き方を広めようとするもので、思想教育であるのは明らかである。その内容は哲学であり、それを広めようとするのは宗教であらう。こんなことを国がしてはならないのは、戦時中を持ち出すまでもないことである。(2005年12月17日)







 イランの新大統領が「ユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)は作り話だ」と言つたといふ話はある意味でおもしろい。これはアンデルセンの子供が「王様は裸だ」と言つた話を思ひ起こさせるからである。

 ホロコーストの証拠を見たことのない人にとつても、ホロコーストはあつた事になつてゐる。それは王様の服が見えない人にとつても、王様は服を着てゐる事になつてゐるのと同じく、暗黙の了解事項である。

 この暗黙の了解事項は、これに疑問を呈する言論の自由さへない程のものである。ところが、ユダヤ人でもキリスト教徒でもなく、その正反対のイスラム強硬派の大統領には、そんな了解事項は通用しない。

 だから、ホロコーストの証拠を見たことのない大統領は、王様の服が見えないアンデルセンの子供と同じように、思つたままを言へたのである。

 ただし、あれがもし作り話なら、その作り話のためにユダヤ人はナチスの残党を追ひかけ回して捕まへては、一方的な裁判にかけて死刑にしてきたことになる。

 ユダヤ人は自分たちの神話を守るために人殺しを繰り返してきたのか。イランの大統領はホロコーストが作り話である根拠を是非とも提示して欲しいと思ふ。(2005年12月16日)







 兵庫県が政府に先駈けてショッピングモールなど大規模店舗の郊外出店を規制して、出店できる地域を駅前の商業地を中心に定めるといふニュースが流れた。ところが、皮肉なことにその翌日、本竜野駅前のジャスコ龍野店が経営不振で撤退すると発表した。

 今や小売業はスーパー同士の客の取り合ひであつて、従来の商店街には集客力は殆どなくなつてゐる。しかも、郊外型の大型スーパーと駅前スーパーの戦ひは後者の負けと決まつてゐる。

 ジャスコ龍野店の客を奪つたのは、10キロも離れてゐない郊外にある同じジャスコの姫路大津店だらう。姫路大津店はまさにショッピングモールであり、魅力的な商店街がこの中に入つてゐる。

 一方、商店街が駅前にあつて栄える時代は終つてしまつた。それを元に戻さうとするのが政府が音頭取りをしてゐる中心市街地活性化計画であるが、果たしてそんなことが出来るだらうか。

 駅前は旧市街で道が狭くて車の通行には向いてゐない。しかも土地の価格が高いので、道幅を広げることも容易ではないし、そこへ大きなショッピングモールを作るのことなど不可能だ。空想的都市計画とマルクスなら揶揄するところではないか。(2005年12月15日)







 姉歯氏の証言によれば建設会社から「構造事務所はお前の所だけぢやない」と言はれたといふ。そこまで言はれれば、仕事を断わらない以上は、もはや自分から偽装を拒否することはできない。

 ただ、彼には頼みの綱が一つあつた。それは検査機関である。

 偽装したものを検査機関に出して、そこで不合格になれば、たとへ自分で拒否できなくとも、それを理由に拒否できるからである。

 ところが、その検査が合格してしまつたのだ。かうなれば姉歯氏にはもう偽装を拒否する理由は無くなつてしまつた。検査機関が合格を出した以上、法律違反はもう理由にはならない。

 この状況から一人で脱出するには英雄的行為が必要である。

 それは「捨てる神あれば拾ふ神あり」を信じて偽装を断固拒否するか、ビルが建つてしまふ前に報復を恐れず内部告発するかである。つまり、法律を守るには勇気が必要なのだ。

 しかし、金を稼ぐ事と法律を守る事にはあまり一致点がない。法律を守つてゐても誰も金をくれず、むしろその逆のことが多いのが、人間社会の厄介なところである。(2005年12月14日)







 政教分離とは政治と宗教を切り離すことだが、さう完璧にいくものではない。その一番分かりやすい例が天皇である。

 かつて天皇は神官であると同時に政治家でもあつた。しかし、今では天皇は政治をせずに宗教の役割だけを果たし、政治家は宗教をせず政治の役目だけをするやうになつた。つまり政教分離になつた。

 それなら天皇は政治に全然無関係かと言へば、そんなことはない。憲法は天皇が国会を開き内閣総理大臣と最高裁長官を任命すると定めてゐるからである。これらは形式的なことだが、厳密な政教分離ではない。

 人間が聖なるものに価値を置く限り、政教分離の完全な実施など不可能なことなのである。

 では、なぜ政教分離が必要かと言へば、それがないと宗教の自由が阻害され、思想の自由が阻害され、言論の自由が阻害されるからである。

 とは言へどんな社会でも完全な言論の自由は存在しない。言へば都合の悪いことは有るものだからである。

 結局、完全な政教分離も完全な言論の自由も不可能なのである。要するに、何にしても程度問題なのであつて、憲法に万全をもとめても無理な話である。 (2005年12月13日)







 NHKテレビは耳の不自由な人には親切だが、目の不自由な人にはあまり親切ではない。耳の不自由な人のために文字放送はたくさんあるし、特別に「手話 ニュース」といふ番組まである。

 ところが、目の不自由な人には何もない。それどころか、字幕だけ付けて聞こえてくるのは外国語だけといふ番組が沢山ある。

 その代表格が外国映画だ。民放テレビが外国映画を放送するときは、必ず吹替へが付けてあるのに、NHKテレビの場合はたいてい字幕だけである。ニュースの場合も、外国人の発言は字幕だけの場合が多い。目の不自由な人で外国語が分からない場合には、内容が全く分からないが、それでもお構ひなしである。

 目が不自由な人は盲人だけではない。近眼の人間もさうだ。

 近眼の人間はメガネをかけないと何も見えないが、それだけではない。小さな字幕はメガネをかけてもよく見えないのだ。だから、字幕を見るときはテレビの方に身を乗り出して、掛けてゐるメガネを上にずらして目を凝らさなければならない。

 それを外国映画の時にはしよつちゆうしなければならないのがNHKテレビなのである。これでは疲れる事この上ない。

 NHKは視聴者の信頼を取り戻すことに懸命らしいが、それなら外国語の音声に漏れなく吹替へを付けてもらしたい。そして目の不自由な人にも親切な放送局になつてもらいたい。(2005年12月12日)







 車を買ひ換へようと思つて、ディーラーを試乗して回つたことがある。そこで不思議に思つたのは、同乗するセールスマンがなかなか車を勧めてこないことだ。

 とにかく自分から話しかけてこない。そこで仕方なくこちらから「エンジンが静かですね」とか話を向けても、相づちを打つ位で車の特徴を話すわけでもない。

 たまに話しかけてきたと思つたら「今日はお仕事はお休みですか」などと余計なことを聞く。

 かうして、私が十何軒試乗して回つた中でたつた一人だけ違ふのがゐた。

 試乗が始まると、コースを教えながら、その合間にエンジンの静粛性、サスペンションの独自性、座席のクッションの良さ、収納の多さなどを次々に、しかもこの車に対する誇りを込めて説明していく。さらに海外の雑誌で褒められた内容の紹介、他の試乗客の褒めた感想。もちろん自分だけ喋つてゐずに、こちらの感想を聞くことも忘れない。

 そして営業所に戻つてきてキーを回してエンジンを止めると同時に、「どうです。いい車でしよう。ぜひ、うちで買つて下さい」

 そうだ、セールスマンとはかうでなきやいけない。私がこのセールスマンから買つたことは言ふまでもない。(2005年12月11日)







 マルクスの書いたものに学問的真実を求めるのはもう共産党員くらいかもしれないが、文学として読むならとても面白いものが多い。その中でよく推薦されるのが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』だらう。

 ところが、この本はとても読みにくい。ここにはフランスの一八四八年の二月革命とその後の反革命でルイ・ボナパルトが大統領になり、さらに皇帝になつてしまふ過程が描かれてゐるのだが、完全に同時代の出来事なので、読者は新聞の事件報道を読む程度の豊富な予備知識が必要となる。だから、一世紀半も後の我々には、マルクスが個々の表現で何をさしてゐるか分かりにくい場合が多い。

 さらに、この本はその直前に書いた『フランスにおける階級闘争』(大月書店刊『マルクス・エンゲルス全集』第7巻所収)の言はば書き直しであるため、当然読者は先にこちらも読んでゐなければならない。

 この先行本の最後で、マルクスは大統領の任期終了後は大変な事になることを予想してゐたが、ルイ・ボナパルトが任期途中でクーデターを起こして皇帝になつてしまふとは全く予想してゐなかつた。そこで二月革命をこのクーデターといふ観点から全面的に描き直したのが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』なのである。

 革命を期待したマルクスにとつては、ルイ・ボナパルトが皇帝になるなど、悪い冗談にしか見えなかつた。そのために、この本でマルクスは比喩と抽象とアイロニーなどあらゆる文学的テクニックを駆使して、この男を徹底的にアンチ・ヒーローとして描いてみせた。これはさういふ、歴史に対する一種の仕返しの本だと思つて読むと、少しは分かりやすくなる。なほ、翻訳は岩波書店のものより大月書店の方がいくらかましである。(2005年12月9日)







 靖国神社の展示施設である「遊就館」が戦争を美化してゐるといふ批判に対して、外務大臣の麻生氏が「戦争の美化ではない」と反論したさうだ。

 しかし、靖国神社こそは戦争を美化すべき組織であつて、もし彼らが英霊をお祭りしてゐながら、その展示館では世の自虐史観に従つて、兵士たちの批判し、断罪したとしたら、その方がよほどおかしなことになる。

 死者をお祭りする以上は、死者のしたことを肯定し尊敬し美化するのは当然のことである。したがつて、「遊就館」の展示内容が戦争美化だと批判するのはお門違ひといふしかない。

 だから、麻生大臣はあの施設が戦争を美化してゐても何の問題はないと答へれば良かつたのである。そして、靖国神社にお参りすることは、そこに祭られてゐる英霊にお参りすることであつて、それが即ち靖国神社といふ組織と意見を共有することではないと言へば良かつたのである。おそらくこれが小泉首相や麻生外相の立場であらう。

 もちろん、靖国神社と意見を共有したところで何ら悪いことではない。この国のために命を投げだした英霊に対して尊崇の念を抱くことは、当然のことだからである。(2005年12月8日)







 第二次大戦で日本が悪いことをしたかのやうに言はれてゐるが、それは当時のアジアがどんな状態だつたかに目をつぶつた考へ方である。

 当時のアジアは日本とタイを除いてまともな独立国は一つも無く、全ては欧米列強の植民地だつたのである。

 だから、日本の支配がもし悪いことなら、もつと悪いことを欧米諸国がアジア中でやつてゐたことになる。

 では、その欧米諸国が過去の植民地支配を少しでも謝罪したか。彼らは謝るどころか、独立に反対して戦争はするは、独立した国の原住民を今でも只働きさせるはでやりたい放題なのだ。

 実際、欧米の植民地支配の悪辣さは、日本が戦争をしなかつたアフリカを見ればよく分かる。日本の占領を経なかつたアフリカがどれほど貧しい状態に放置され、今も放置されつづけてゐるか。それは日本が支配して大金を注ぎ込んだ台湾や韓国とは大違ひなのである。

 そもそも戦争とは国同士の喧嘩であつて、どちらが悪いといふことはない。もし戦争犯罪が裁かれるとしたら、無差別爆撃で市民を大量に殺したアメリカ軍にこそ沢山の犯罪人がゐるはずである。

 戦争をした日本が悪いといふ考へ方はいいかげんに捨てなければならない。(2005年12月7日)







 皇室典範の改正に関する有識者会議の最終報告に対する社民・共産両党のコメントが面白い。

 共産党「天皇が男性という合理的根拠はなく、女性・女系天皇を認めることは賛成だ」
 社民党「男性しか天皇になるのを認めないのは、男女平等の観点から間違っている」

 これらはそれぞれ「合理的」と「平等」といふ言葉を使つてゐるところがミソである。この二つの概念を主張することは、天皇制とは相容れないことであつて、それは少し言葉を入れ換へてみるとよく分かる。
 
 「天皇が天皇家という合理的根拠はなく、一般人の天皇を認めることは賛成だ」
 「天皇家しか天皇になるのを認めないのは、人類平等の観点から間違っている」

 実にその通りで、天皇制に合理的根拠はないし、平等でもない。しかし、その合理的でも平等でもないところにこそ天皇制の価値があるのであつて、社民・共産にはそれがわからないのか、それとも本当は天皇制に反対なのだが、賛成のふりをしてゐながらつい本音が出てしまつたといふことだらう。(2005年12 月6日)







 もし君が高校の野球部に入つて試合をしたければ、単に野球がうまくなるだけでは駄目だ。それより大事なことは君が酒・たばこ・暴力に手を出さないことである。

 しかしそれだけでは全然駄目である。他の部員が酒・たばこ・暴力に手を出したり、部長や監督が暴力に手を出せば、自分がどれ程しつかりしてゐても駄目なのだ。なぜなら、高校野球では誰か一人のせゐで高校全体が罪を負はされて、対外試合ができなくなるからである。

 だから、高校の野球部に入つて試合がしたければ、他の部員と野球部の先生の行動に注意深く監視の目を光らせてゐなければならないのである。

 しかし、現実にこれを実行するのはなかなか難しいやうだ。なぜなら最近の新聞にも出てゐたやうに、一度に何十もの高校が一部の人間の不祥事のせゐで対外試合禁止処分受けてゐるからである。

 恐らくこのやうな高校は年間にすれば百校を超すのではあるまいか。しかし、こんなに沢山の高校が試合が出来ないのでは、何のための野球か分からなくなる。

 こんな事ならいつそのこと、これらの処分された高校だけで別に連盟を作つて、互いに試合をして全国大会を開催するやうにしたらいいと私は思ふ。題して「野球を純粋に楽しむ連盟」である。

 もちろん、この連盟でも酒・たばこ・暴力は禁止である。しかし、たとへ誰が不祥事を起こしても、罰を受けて試合に出られないのは本人だけであつて、決して人の罪をかぶらされる事はないのだ。(2005年12月5日)







 我が輩は犬である。犬であるからわんわんと吠えるのである。

 我が輩は犬である。犬であるから散歩に出るのである。気持ちよく散歩してゐると突然家の中から犬に吠えられるのである。我が輩はびくつとして吠え返さずにはゐられないのである。

 我が輩は犬である。犬であるから、相手が吠えるだけ吠えるのである。犬の世界ではたくさん吠えた方が勝ちなのである。犬であるから、やられたらやり返せの主義なのである。犬であるから、吠えられたら必ず吠え返すのである。吠え返してすつきりするのである。

 我が輩は犬である。犬であるから、人がゐても吠えるのである。人がどう思はうと吠えずにはゐられないのである。犬であるから、吠え返して、うるさい鳴き声を倍にしてやるである。

 我が輩が人間だつた頃は、犬に吠えられても黙つてゐた。しかし、今や我が輩は犬である。犬であるから、吠えられたら黙つてゐないのである。(2005年 11月26日)







 憲法九条の改正に反対する知識人たちが「九条の会」を作つたさうだ。その顔ぶれを見ると戦後の日本に一時代を画した人ばかりだ。

 映画界でも賛同する人たちが沢山ゐるらしい。吉永小百合もその一人だが、彼女などはまさに戦後の映画界の繁栄を象徴してゐる。

 憲法が変はるといふことは時代が変はるといふことである。それを古い時代に活躍してゐた人たちが押し止めようとしてゐる。この運動はさういふ事ではないか。

 ところで、そのスローガンが例へば「日本国憲法第9条を改悪し、日本を『戦争のできる国』に変えようとする策動が強まっています」では情け無い。これでは共産党だ。

 誰が憲法を「改悪」しようなどとするものか。誰が自分の国を「戦争のできる国」にしようとするものか。誰が「策動」などするものか。日本にはそんな悪意をもつてこの国を変へようとする人間は一人もゐない。

 ところが、彼らは自分の主張に相容れない人たちを悪人扱ひするのである。そして悪人の言ふ事にまじめに耳を貸す必要はないと考へて、徒党を組んで事を決しようとするのだ。

 しかしこんな共産主義者のやり方が広く大衆の支持を得られないのは、60年安保の時に実証済みではないか。共産主義では駄目なんだとどうして彼らは分からないのだらう。これでは知識人の名が泣くばかりである。(2005年11月18日)







 「フランス共和国は、征服を目的とする如何なる戦争をも行わず、また如何なる民族に対する武力も行使しない」これは戦後すぐに公布されたフランス第四共 和制憲法の前文の一部ださうだ。

 しかし、その後のフランスがベトナムやアルジェリアで戦争をして多くの民族を苦しめたのは誰でも知つてゐる。戦争をするかどうかを決めるのは憲法の文言 ではなく国民の意志なのである。

 日本にも似たような憲法がある。しかし、この憲法のおかげで日本は戦争をしてこなかつたといふのがお門違ひの議論であるのは、フランスの例からも明らか だ。日本が戦争をしなかつたのは国民が戦争を望まなかつたからである。

 一方、このフランスの憲法と日本の憲法には決定的に違ふ点がある。それは自分で作つた憲法か占領軍が作つた憲法かの違ひである。

 フランスは戦後独立を取り戻すと途端に、ドイツ軍の占領中に作られた憲法を破棄してこの第四共和制憲法を作つた。

 ところが日本は戦後独立を取り戻しても、アメリカの占領軍が作つた憲法を破棄しなかつた。内容が良ければ誰が作つた憲法でもよいと考へる人が少なからず ゐたからである。

 戦争に勝つたフランスが憲法を作り換へ、戦争に負けた日本が憲法を作り換へずにゐる。日本の戦後は日本が自分の憲法を自分で作つたときに初めて終はるの ではあるまいか。(2005年11月17日)







 麻生さんはどうやら内弁慶の人らしい。APECの閣僚会議で首相の靖国参拝に関して中韓の外相に言ひたい放題されて黙つてゐる。

 日本の記者会見で新聞記者を見下した態度で首相を声高に擁護したのと大違ひだ。

 そもそも、先の大戦で中韓両国に日本は一体どんな迷惑をかけたと言ふのか。何より日本は韓国と戦争をしてゐない。それどころか日本は朝鮮半島に大金をか けて国造りをしてやつたではないか。

 中国についても、革命のために戦争を待つてゐたのは中国共産党ではないか。日中戦争があつたからこそ、西安事件があり、蒋介石に対する中共の勝利があつ たの歴史的事実である。

 それにも関はらず恩を仇で返すこんな両国に対して、麻生さんなら言ふべき事を言つてくれるのではと期待してゐた国民も多いはずだ。

 ところが、「靖国参拝はヒトラーの墓に詣るやうなもの」とまで言はれて黙つてゐるとは、期待はずれを通り越して情け無いといふしかない。

 小泉さんもこの辺を見越して、麻生さんを外相にしたのではないか。麻生さんは早くも首相レースから脱落したやうである。(2005年11月16日)







 これからは事件や事故が起きた場合、被害者の名前を公表するかどうかの判断は警察に任せることになるさうだが、これにマスコミは反対してゐる。

 事件などが発生すると、マスコミは警察発表をもとに被害者やその周辺に取材して検証報道をするさうだが、これが匿名となると検証が不可能となり、ひいて は「国民の知る権利を奪う結果となる」といふのだ。

 「国民の知る権利」などと大きなことをいふが、要するに匿名では新聞が売れなくなると言ふことだらう。

 検証報道などと良い格好をいふなら、事件を一から自分で調べ直して、被害者の名前も自分で明らかにしたらいいではないか。

 そもそも何のために警察署に記者クラブがあるのか。事件があれば警官と一緒に現場に飛んでいつて調べたら、警察に匿名にされても平気なはずだ。

 要するにマスコミは今のまま楽をして金儲けをしたいのである。(2005年11月8日)








 最近のプロ野球の世界では、ID野球と言つて頭を使ふ野球が野村克也氏のおかげで流行をみせたが、野球といふものは結局は反射神経のスポーツだと納得さ せられたのが今年の日本シリーズだ。

 反射神経といふのは常時動かしてゐるものが一番活発である。ずつと動かせてゐた者と、ずつと休ませてゐた者と比べたら雲泥の差が出るのだ。実力が同じだ とされた阪神とロッテでこれだけの差が出たのは、公式戦をずつと続けてゐたのとさうでないのとの違ひでしかない。

 阪神が負けたのは阪神が弱かつたからではない。ロッテが勝つたのはロッテが強かつたからではない。公平な条件が整へられなかつた。それだけの事である。
 
 だから、この日本シリーズに勝つたからと言つて、ロッテの選手と監督を誉めて、阪神の選手と監督をけなすのは筋違ひといふものだ。

 責めるなら公平な条件整備を怠つたコミッショナーを責めるべきだらう。このままでは、去年と今年がさうだつたやうに、来年もパリーグで二位のチームが日 本一になつてしまふ。(2005年11月2日)







 女性天皇と女系天皇ははつきり区別して考へなければいけない。女性天皇とは愛子内親王が天皇になることであり、これは国民世論も大きな反対はないだら う。

 一方、女系天皇とはその愛子天皇の子が一般人と結婚して生まれた子が天皇になることである。つまり、一般人、民間人を父親に持つ天皇が出来てしまふこと になる。

 これは例へば、紀宮清子内親王が近々結婚される黒田さんの息子が天皇になるのと同じ事である。これには国民にも異論があるのではないか。

 そもそも女性天皇には前例があるが、女系天皇には前例がない。天皇制の正当性は全く前例に従つてゐるかどうかにかかつてゐる。

 前例に背ひてしまつては天皇制の正当性が揺らいでしまふ恐れがある。そしてもしさうなればその先に来るのは共和制である。いま我々はしつかりとそこまで 考へておかなければならないのではないか。

 ところが、有識者会議の議論はそんな所まで踏み込んで考へてゐるとはとても思へないのである。(2005年11月1日)







 『嫌韓流』といふマンガ本がある。これは韓国の悪口を言つてすつきりする本である。しかも完璧な論理を使つて相手の言ひ分をこてんぱんにやつつけてゐる から、韓国嫌ひの人間なら溜飲の下がること請(う)け合ひである。

 相手をやつつける以上、嘘は書いてゐない。よく調べたら嘘だつたと分かれば負けだからである。つまり、この本は韓国にとつて都合の悪い事実がしつかりと 書かれてゐる本なのである。

 しかし、これは言ひかへれば、不細工な女に「この女は不細工だ」と公然と言つてゐる本でもある。不細工な女が不細工だと言はれて腹が立つやうに、これを 読んだ韓国人は腹が立つだらう。だから、韓国とうまくやつて金儲けがしたいに日本人にとつては困つた本である。

 また、日本の新聞社がこの本の広告を拒否するのは、何より韓国に派遣してゐる社員の身を危険に曝したくないからであらう。不細工な女でも不細工だと言つ た相手をぶん殴るぐらいは許されるだらうからである。

 (なほ、この中では大月隆寛のコラムが少々難解だが、これまで当たり前だつた「自虐史観」に対して新たに生まれた「嫌韓」を弁証法的なアンチテーゼ(同 じコインの裏表)として肯定的に捉へ、さらにそこに留まらない発展(止揚!)を期待した文章だと思はれる。下條正男のコラムでは資料の解読の中に于山国 (うざんこく)の説明があればよかつた。また、P265の上段10行目「鬱陵島が新羅に帰属」は「于山国が新羅に帰属」と読む方が分かりやすい) (2005年10月31日)







 天皇の父親が一般人であるのと、一般人が天皇になるのとどちらがいいか。女系天皇を容認するかどうかの問ひは、要するにこの問ひに集約されるのではない か。

 天皇制を維持するには、今の天皇家の女子しかゐない跡継ぎに一般人から婿をとり、そこから生まれた子を天皇にするか、今は一般人になつてゐるが天皇家の 男子の血筋を受け継いでゐる旧宮家の人に天皇になつてもらふかの、どちらかしかない。

 女系天皇が悪いわけではない。ただ、それだと天皇家と一般人を区別するものが、今後改正されるだらう皇室典範といふ一片の法律だけになつてしまひ、血筋 としては民間人と天皇家の違ひはあまり無くなつてしまふのが難点である。

 といふのは、天皇家の血筋は天皇家だけに伝へられてゐるのではなく、天皇家から生まれた女子が早くから民間人と結婚して、天皇の血は民間に広まつてゐる からである。女子の血筋でいいのなら、遠い縁をたどつて行けば、日本人の誰もが天皇家の血筋を受けてゐないとも限らない。

 だから、天皇が女系だといふことは、民間人と五十歩百歩のレベルになつてしまふことであり、それは要するに誰が天皇でも大して変らないことになつてしま ふのである。

 しかしその一方で、今一般人である人が血筋だけの理由で急に天皇になるのも、国民としては受け入れがたいかもしれないし、旧宮家の人たちも今さら天皇に なるのも大変かも知れない。

 ただしこちらは、江戸時代に皇統断絶を恐れた新井白石が新たに創設した閑院宮家から光格天皇が即位して、辛うじて天皇家の歴史が維持されたといふ例があ る。だから、同じやうに今から宮家を作つて置いて何十年後に備へるのは無理な話ではない。

 それに比べると、女系天皇を安易に容認した今の「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーには赫赫(かくかく)たる肩書きこそあるらしいが、彼らに白石 の英知は望むべくもなささうである。(2005年10月26日)







 シグマンド・ノイマンの『大衆の独裁』を読んでその慧眼に感服するのは、スターリンの独裁をヒトラーやムッソリーニの独裁と同列に扱つてゐることである。

 しかし、この翻訳書の出版社にも翻訳者たちにもそれが気に沿はなかつたのだらう。この本の帯にも巻末の解説にも、この本がナチスのファシズムを明らかにした本であることばかりが書かれて、ソ連を全体主義国家の一番手として扱つた本であることは省略されてゐるのだ。

 ノイマンはこの三つの全体主義の正体を微に入り細をうがち、非常に詳細に描いて見せてゐるが、中でもスターリンが党の活動として銀行襲撃を行なつた事に繰り返して言及してゐるのが印象深い。これほどソ連といふ全体主義国家の犯罪性を明らかにした事実はないからだらう。
 
 一方、この本ではアメリカ、イギリス、フランスなど多くの国の政治制度も歴史的にくわしく分析されてをり、なぜイギリスやフランスが全体主義国家にならずに済んだかが分るやうになつてゐる。

 また戦時中の日本はファシズムではなかつたと書いてあるのも面白い。その理由は、日本の宗教の中心は天皇であつて、独裁政党がそれに取つて代ることがなかつたからだといふのである。

 戦前の日本も戦後のアメリカも何でもファシズムにしたくせにソ連には甘かつた丸山真男とはだいぶ違ふのである。(2005年10月23日)







 阪神球団の株を上場すべきかどうかのアンケート結果が読売新聞(10月21日朝刊)に掲載されたが、その中では球界全体の発展を視野に入れた上で賛成を 表明してゐる野球評論家江本氏の意見がずば抜けて筋の通つたものである。

 かつて関西にはプロ野球の球団が四つあつたが、そのうちの三つが売りに出され、一つは福岡に一つは仙台にもつて行かれてしまつた。それは親会社の都合だけで行なはれ、ファンの意向は全く無視された。

 たまたま阪神だけは元の姿を保つてゐるが、それは単に阪神がセリーグの球団だつたからにすぎない。ファンの応援が熱心だとしても、それは巨人戦に負ふところが大きいのだ。

 その巨人戦の数が今年から交流戦の導入によつて減少した。世の中は変つて行くのである。今後、どんなことがあつて、親会社が阪神を売りに出す事態にならないとも限らない。そのとき阪神を関西に残すためにファンはどうすべきなのか。そのことが今問はれてゐるのだ。

 だからこそ、一つの親会社の独占といふ今の球団経営の形を、球団株の上場によつて変へていくべきだといふ江本氏の意見には説得力がある。

 一方、日頃から阪神優勝の経済効果を唱へて球団の勝ち負けを金儲けの話にしてきた経済学者たちが、株による金儲けだけを蛇蝎視して上場に反対してゐるのは筋が通らない。

 「株の問題だけを取り上げて『ファンをないがしろにしている』などという議論は、次元が低い」まさに江本氏の言ふとほりである。(2005年10月22 日)








 10月18日の毎日新聞の一面コラム『余録』は小泉首相の今回の靖国参拝を批判しようとしてかう書きはじめた。

「『徒然草』の第百九十二段はごく短い。『神仏にも、人のもうでぬ日、夜まいりたる、よし』、それだけである。神社仏閣への参拝は、祭礼のないふだんの日、それも夜に詣でるのがいいという。簡潔で、断固とした書きようだ。信心は他人に合わせるものでも、見せるものでもない。ひとりひとりの魂の問題だということだろう」

 全然違ふ。吉田兼好はそんなことは言つてゐない。そもそも第百九十二段は百九十一段の続きとして書かれてゐるのである。そして、夜は何を着ても見栄えがしないと人は言ふが、夜こそが衣装の美しさを際だたせるのだと、さう百九十一段は言つてゐるのである。そして百九十二段では、それに付け足して、神仏のお参りをするのも祭りのない日の、特に夜が美しいと言つているのだ。これは信心の問題などでは全くなく、美学の話なのである。

 『徒然草』を読むことは一見簡単さうで簡単ではない。誤読の可能性がいつぱい潜んでゐるのだ。最近の読売の『編集手帳』の博覧強記に比べると今の毎日の『余録』はたいしたことはないやうである。(2005年10月21日)







 民主主義と言へば多数決だが、その前に多数決で決めていいかどうかを決めることが必要である。そのときの決め方は全員一致でなければならない。多数決の方は常識だが、その前のこの全員一致の方についてはあまり知られてゐないやうだ。

 例へば、特定の住民たちの間で自治会を作るかどうかは全員の参加が必要であるから、全員一致の決議で決めなければならないのであつて、それを多数決で決めてはいけない。

 ルソーはその事を『社会契約論』の第一巻の第五章で書いてゐるが、ジョン・ロックも同じことを書いてゐるらしいことが、丸山真男の「ジョン・ロックと近代政治原理」(『戦中と戦後の間』所収)を読むと分かる。

 「いわゆる原始契約(pactum unionis)は当然それに加入する全個人の相互契約の総和として成立するが、その原始契約には、今後の国家意思の決定は一切多数決に従うということが 条件となっている」がそれである。

 また「政治学入門」(同上)では「『多数が支配し少数が服従するというのは自然に反する』(民約論第一部第四条)というルソーの言葉は永遠の真実であり、デモクラシーを多数支配と呼ぶことは、一つの擬制(フィクション)にほかなりません」と書いてゐるが、これも同じことを言つてゐるのである。

 ただし、この引用文はそのまま正確な文章ではないし、引用元も第四条ではなく第五条(第五章の第三段落)だと思はれる。(2005年10月20日)







 スポーツの世界では男女の能力に差があることは当然のことだと考へられてゐて、例へば女子百メートル走で優勝して世界一になれば、男子の記録に及ばなくても立派に表彰される。

 一方、知力を競ふ将棋の世界でも、女性の場合は女流何段といふ言ひ方をして、男女別の競技になつてゐる。囲碁の場合には段位に男女の区別はないが、女性だけ特別の入段制度があつたりする。

 といふことは、知力も体力も男女で差があることを前提として考へてよいといふことではないか。もつと言ふなら、知力も体力の一部だと考へた方がよいのではないか。

 その最たる例がノーベル賞だ。欧米人の方が、日本人を含めたアジア人に比べてノーベル賞の受賞数が段違ひに多いのは、欧米人の方がアジア人よりも体が大きいからではないのか。

 欧米人はアジア人より総体的に体が大きい、だから欧米人はアジア人より知力が上回る。それと同じ理屈で、男は女より総体的に体が大きい、だから男は女より総体的に知力が上回る。違ふだらうか。

 もちろん私は知力も体力の一部ではないかと言ひたいだけであつて、社会的な男女差別を正当化してゐるのではない。(2005年10月19日)







 あるタレントがテレビ番組の中で小泉さんの今回の靖国参拝について、「このあいだ違憲判決が出たのに、小泉さんはあんなことして逮捕されないのか」と言つてゐた。全くもつともな疑問である。

 確かに、この判決によつて小泉さんはもう靖国参拝が出来なくなつたとは誰も言はなかつた。しかし、裁判所が悪いと言つたのだからもう出来なくなつたと思ふのは当然だ。
 
 しかし、ここは反対に、小泉さんが今回の参拝で逮捕されなかつたのだから、あの違憲判決に法的拘束力のなかつたことが証明されたとも言へる。つまり、あれは個人的意見だつたのだ。

 恐らく最高裁の違憲判決なら拘束力があるのだらう。しかし、最高裁が違憲判決を出す可能性は無いのではないか。なぜなら、法的には靖国神社は伊勢神宮や他の神社と同じであり、もし首相の靖国参拝を違憲としたら伊勢神宮の参拝も違憲にしなければいけない。

 首相になつたらどこの神社にも参拝できなくなる、そんな事あるわけ無いのは明らかである。今回の大阪高裁の判決はそれを意図的に無視したのである。(2005年10月18日)







 丸山真男は「政治学に於ける国家の概念」(『戦中と戦後の間』所収)のなかで、個人的生産者を結びつける社会的規制をもたらすものとしての近代国家の登場を描いてゐる。

 ヘーゲルが言つたやうに近代市民社会は欲望の体系である。この社会における人間活動は欲望の充足を基準とする。そしてその満足は商品生産によつてもたらされる。ところが、この商品生産はマルクスが言つたやうに私有財産を使つた私事として現はれる。つまり人は個人的な欲望のもとに生産するが、これが他人の欲望を満たすためには社会における交換が必要である。そして、そのためには社会的規制が整備される必要がある。それが近代国家の役割なのだ。

 このやうに近代国家(ナショナリズム)の発展と個人主義(リベラリズム)の発展が一体として考へるべきであることは、『戦中と戦後の間』に含まれる他の論文にも繰り返し主張されてゐる。

 私は以前にイタリアの街並みの統一性に関して、これは個人主義の発展を守るための社会の一体性の表はれではないかと書いた事があるが、あながち的外れではなかつたのではないか。

 この『戦中と戦後の間』は今でも勉強になる論文が多く含まれてゐる(特に「ジョン・ロックと近代政治原理」は秀逸)が、左翼の論客としてのプロパガンダ的な文章(時事放談!)も沢山出てくるのでそこは目をつぶる必要がある。(2005年10月15日)








 丸山真男の『日本の思想』の第三、第四章は一般読者に向けて書かれてをり、簡単な図式が使はれて分かり易いが、第一、第二章はマルクス主義に詳しい専門家向けに書かれたものなので、一般人にはちんぷんかんぷんである。

 そこでこの本で紹介されてゐる戸坂潤著『日本イデオロギー論』(岩波文庫、特に和辻哲郎の倫理学に対する批判は痛快である)を読んでから再読してみたら、多少は分かつたやうな気になつた。
 
 それで私のやうな素人にも推測できることは、第三、第四章で使はれた「『である』ことと『する』こと」と「タコツボとササラ」が実は弁証法的唯物論の説明を図式化したもので、それぞれの組み合はせの中で進歩的であるとされた「する」ことと「ササラ」型が弁証法的唯物論つまりマルクス主義だといふことである。(例へば第四章の有名な「プディングの味は食べてみなければわからない」の一節はエンゲルスから来てゐる)

 そして、第一、第二章はこの弁証法的唯物論によつて、それぞれ日本の思想状況と文学状況を分析したものだといふことである。

 例へば、第二章では、政治と文学の関係は漱石の時代には「てんでばらばらに孤立」(74頁)してゐたが、マルクス主義が知られるやうになると、文学もまた「する」ことの世界に引き入れられ、マルクス主義(ここでは科学と同義である)といふササラの一部に統合されるのである。

 そして、文学を從へたマルクス主義の科学的及び政治的な全体主義とそれに続くファシズム全体主義が、当時の日本の文学界に対して振るつた猛威が詳細に描き出されるのである。

 また第一章では日本の様々な思想がタコツボ式に雑居して、相互の関係が構造化(=整序=蓄積=伝統化)されてをらず、一度は国体思想が基軸に置かれた事があつたが、それが失はれた戦後はさらに雑然とした状況にあるといふことが歴史的に正に整序されるのだ。

 なほこの二つの章は専門家向きであるだけでなく、生硬な文章が多くそれがわかりにくさを倍増させてゐる。そこで気がついた点を以下に列挙する。

 5頁3行目「それとの関係で」の「それ」は文章のあとの方に出てくる「中核あるいは座標軸に当る思想的伝統」を指す。後から3行目「超近代と前近代」は34頁に再出。
 20頁2行目「儒者は、」文で「盲点を衝いた」の主語は「儒者」ではなく本居宣長。この最初の読点は不要であらう。
 22頁5行目「イデオロギー批判が原理的なもの自体の拒否によって、感覚的な次元から抽象されない」の「抽象」は「切り離す」といふ意味(『資本論』と同じ!)。イデオロギー批判が感覚的なレベルに留まつてゐるといふこと。
 同頁8行目の「『無』理論」とは「原理や論理を拒否する理論」。
 同頁末から2行目「外在的」は18頁3行目「外から」の言ひ換へか。
 同頁末の「別の特質」とは、「その思想は西欧ではもう古い」と批判する傾向。
 28頁注末の「虚偽意識」は「イデオロギー」のことか。
 30頁中「制度における精神~」の一文は、「例へば大陸の合理論(=一つの認識論)が絶対君主による政治的集中に結びついてゐるが日本ではどうか」といふことを抽象的に表現したもの。まさに弁証法的唯物論。
 33頁2行目「あの『固有思想』」の「固有思想」は11、20頁に既出。
 39頁5行目「一大器械」は既出のやうに書かれてゐるがが見当たらない。
 42頁の末「経験世界の認識主体(悟性)による構成を志したデカルト」は「認識主体(悟性)によつて経験世界を構成することを志したデカルト」。
 44頁最初の「経験世界の主体的作為による組織化」は「主体的作為によつて経験世界を組織化すること」。
  同頁2行目「旋回」が自動詞なら「君主の役割を」は「君主の役割から」の誤植が疑はれる。しかし「旋回」は他動詞として85頁にも再出。この「旋回」は157頁や他の論文によく見られる「転回」(他動詞。『転換』の意味が込められてゐるらしい。マルクス主義者がよく使ふ言葉らしい)と同じ意味で使はれてゐるのではないか。とすると、ここは要するに「君主の役割を市民の手に移した」といふ意味になる。
 同頁末から6行目「資本の本源的蓄積」は「資本の原始的蓄積」とも言はれ、封建勢力打倒を伴ふ資本主義の初期段階のことを指すらしい。マルクス主義の用語であらう。
 53頁の末「国学的な事実の絶対化」は「事実を国学的に絶対化すること」。
 56頁末から6行目「切り難し得ない」は「切り離し得ない」の誤植であらう。
 59頁末から5行目「同時にこれを逆転させた」は「ヘーゲルでは事実がトータルに現はれたときにその認識が生まれるとしたのに対して、マルクスは認識がトータルに生まれたときに現実が完結(=資本主義の没落)するといふ風に逆転させたといふこと。
 58頁の最初の「第二に~」の文の主語は4行目の「物神崇拝の傾向」。「公式主義」は教条主義のことか。「公式」は22頁に=牽強附会として既出。15 頁、16頁、17頁にも出てゐる
 61頁4行目「自然成長性と目的意識性」の「目的意識性」は85頁に再出。92頁に対で再出。
 76頁末「二七テーゼ」「三二テーゼ」はそれぞれ1927年と1932年に出た日本共産党の綱領。一部の人間にしか知られてゐない言葉を注釈なしで使ふ のは、丸山の書いた他の文章にもよく見られることで、丸山の文章のわかりにくさの大きな原因となつてゐる。
 85頁8行目「逆のヴェクトル」の政治とは「反動政治」「ファシズムの政治」のことだらう。
 87頁4行目「見合った形で」は「対になって」「一体となって」といふ意味か。末の「『一般原則』が状況の自由な操作を制約する危険性」は「政治家が状況を自由に操作することが『一般原則』(例へばマルクス主義)によつて制約される危険性」。
 88頁5行目「操作的な」は「操作が可能な」
 91頁3行目「トハチェフスキー事件」とは1937年のスターリンによるト元帥粛清のこと。
 95頁6行目「アナルコ・サンディカリズム」は無政府主義労働組合。
 98頁8行目「アパラート」はapparat=機関。
 110頁末、「マルクス主義の割れ口」は次頁「割れ目」と同じで、「科学を規定の法則の適用と見なすこと」を指すのであらう。(2005年10月3日)








 丸山真男著『日本の思想』の第三章「思想のあり方について」も第四章と同じく読みやすい。が、ここでも一つのパターンをこしらへてそれで何でも分析してしまふといふ悪い癖を見せてゐる。

 日本の学問の世界はタコツボ型で、各分野の専門化ばかりが進んで、縄張り意識が強く、各分野同士の横のコミュニケーションがない。それに対して西欧の学問の世界はササラ型で、今は個別に分かれてゐてもその根つこにはギリシア・ルネサンス文化といふ共通の根がある。また、教会やサロンなど別々の分野の人たちが交流する場もあると。

 しかし、このタコツボの図式が丸山によつて日本の他の世界にもどんどん当てはめられていくのを見ると、本当にさうかと眉に唾をつけたくなる。

 例へば、全面講和を唱へた東大総長の南原繁を、首相の吉田茂が曲学阿世だと罵倒したことをとらえて、タコツボ文化と関係づけるのはどうだらう。東大教授と自民党の政治家の間では今だに似たやうな関係が続いてゐるし、それは保守と革新の対立の範囲で説明されるべきだらう。昭和史論争と平和論争についても同様である。

 「進歩派の論調は一、二の綜合雑誌でこそ優勢だけれども、現実の日本の歩みは大体それと逆の方向を歩んで来た」といふのは正しく、今でも日本の学者たちがタコツボに安住してゐることは確かだが、吉田の発言の方は単に東大総長の意見の社会的な影響力を恐れただけのことだらう。吉田までタコツボに入れてしまふことはない。

 この論文は最後にはタコツボを越えた「階級を横断する組織化」を唱道する革新運動のプロパガンダになつてしまつてゐるが、話を学問の専門化の問題に止めておく方が良かつたのではないか。(2005年9月28日)







 丸山真男の『日本の思想』は第四章「『である』ことと『する』こと」が一見読みやすくて、教科書にも採用されてゐる。しかし、実際に読んでみるとかなり過激なことが書いてある。

 まづ、憲法第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」といふのは、「国民はいまや主権者となつた、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなつているといつた事態が起こるぞ」といふ警告になつてゐると言ふのだ。

 これは、ぼやぼやしてゐるとまた戦前の全体主義・軍国主義の世の中に戻つてしまふぞと言つてゐるやうに聞こえる。しかし、本当にさうだらうか。私には極論としか思へない。

 また、「自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです」といふ一文。

 これはデモやストライキの擁護ではないのか。不当だと思へばすぐ裁判に訴へろといふことではないのか。いや、左翼過激派の擁護にさへも聞こえる。

 「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなりうるのです」の「物神化」の批判とはまさにマルクスの『資本論』そのものではないか。

 このあとにも「です」で終はる様々な断定文、言い切つた文章が出てくるが、それらの多くは丸山の意見であつて、事実とは言へないものが多くあるので、注意して読む必要がある。

 丸山は「である」と「する」の対比関係で日本社会のあらゆることを分析していくのだが、読み進んで行くにしたがつて、必ずしもこの二つの範疇に分けなくてもいいのではないかと思へてきた。

 封建社会が「である」社会で民主社会「する」社会だとか、家柄が「である」価値で、世の中の役に立つことが「する」価値だと言つてみたところで、さういへばさうだと言ふほかない。

 しかし、途中で「である」と「する」だけでは間に合はなくなつて「うち」と「そと」の範疇が急遽登場してくると、「である」と「する」も間に合はせの性格が強いのではないかと思へてくる。

 さらには住居の変化で床の間が「である」原理で台所・居間が「使う」見地だと言ひ、さらにこれまでの休暇とちがつてレジャーは「する」価値だと言ふに至つては、もはや何でもありかと言ひたくなる。

 そして何でも分析できる論理は無意味な論理ではないかといふ疑問がわたしの頭に浮かんでくるのだ。

 丸山真男の『日本の思想』はどうやら日本社会に歴史を越えて連綿と受け継がれてきた思想のことを書いた本ではない。(2005年9月27日)







 戦前と戦後はまつたく別世界であるといふのは、教科書を見る限りさう見えるかもしれない。特に戦前の歴史教科書は右翼思想に染まつてゐたのに対して、戦後はそのほとんどが左翼思想に染まつてゐる。

 だから、よく勉強した現代日本のインテリの多くは教科書通りの左翼思想に傾きがちだ。小説家の多くが政治的に左翼系なのもそのためであるし、どこの社の新聞記者もよく勉強した優等生たちなのでみんな左翼思想に傾いている。

 しかし、教科書に影響されるのはそんな優等生だけであつて、大多数の劣等生は教科書には影響されないでゐる。だから、一般庶民は左翼思想とは無縁なのである。

 その証拠として、インテリたちがどれほど右翼系の自民党を批判しても、選挙で左翼政党が政権を獲得したことは戦後の最初を除いて一度もない。

 たとへ戦後の教科書から楠木正成も東郷平八郎も消えてしまつたとしても、「日本の思想」は戦争によつてもとぎれることなく面々と続いてゐると考へるのがよいのではないか。(2005年9月26日)







 読売新聞が今回の衆議院選挙の結果に関する世論調査で、「小泉首相が、政権運営や政策などの面で、数の力を背景にした強引な手法をとる不安を感じるかとの質問では、大いに感じるが15%、多少感じるが34%で、計49%が不安を指摘した」と書いた。

 しかしながら、この質問から分かることは、この質問を設定した人間がこの不安を感じたといふことだけであらう。実際、これに対する回答は、さう言はれればさうだといふ程度の気持ちだけで充分できるものだ。つまりこれは誘導尋問なのである。

 これと似た質問は、郵政法案に反対した自民党の前議員に対抗馬を立てる首相のやり方を「良いと思いますか、良くないと思いますか」といふ選挙中の世論調査である。この質問も「こんなやり方は良くない」といふ記者の思ひが先に立つた誘導尋問である。

 もちろんこれらの意見が自由な意見として自発的に多く出てきたのなら意味があるが、こんな誘導尋問で出てきた数字をもとに、これが世論だと言はれてはたまらない。ところが、どこの新聞社の世論調査にもこれに類する質問が非常に多いのだ。

 しかし、こんな質問は世論調査ではなく世論捏造とでも呼ぶべきものである。そして、新聞社はこんなことばかりしてゐるから今回の選挙で小泉大勝をもたらした本当の世論が全く読めなかつたのである。(2005年9月20日)







 新聞記者の文章といふのは好い加減な物だが、今回の選挙報道でもその好い加減さがよく出てゐた。

 例へば、「劇場型」とか「刺客」とか耳慣れない表現を明確な定義もなしにどんどん使ふ。その文章だけを初めて読んだ場合には何のことか分からないが、それでも平気で使ふ。

 この好い加減さは「です・ます」調に換へてみると際立つてくる。読売新聞の夕刊には子供向けの欄に普通の記事を殆ど「です・ます」調に換へただけの文章が載つてゐるが、それを読むと記者の文章の適当さがよく分かる。

 例へば、「今回の選挙は、”小泉劇場”とも言はれ、注目を集めました」。これがもし「です・ます」調でなければ、すつと読み飛ばしてしまふところだが、「です・ます」調となると、「言はれ」が引つ掛かる。そこには「です・ます」調が要求する丁寧さがない。だから、誰が言つたんだと聞きたくなる。

 逆に言へば、そんなことは適当でいいんだといふ書き手の気持ちが見えてくる。新聞記者とは無責任なものだといふことがよく分かる。子供たちは、子供向けの欄に書いてあるからといつて、決してこんな文章を真似してはいけない。新聞とは悪文の寄せ集めなのだ。(2005年9月17日)







 民主主義は少数意見の尊重だとよく言はれるが、小泉政治の特徴は少数意見を尊重しない政治だと言へるかもしれない。

 確かに民主主義にとつて少数意見は大切だが、日本ではそれが根回しによる全員一致主義にすり替へられてしまふことが多い。そして、かういふ日本的な少数意見の尊重を排除したのが小泉政治であらう。

 これは本人の性格から来るところが大きいと思はれる。玉虫色の曖昧決着を目指す従来の根回し方式は姑息に見えるのだらう。その結果として出てきたのが、彼一流の常に賛成か反対かの二者択一を迫るやり方なのである。ここには日本的な少数意見の尊重はない。その意味では独裁的かもしれない。

 しかし、本当に改革をやりたければこのやり方しかないのではないか。根回しによつて全員一致になる頃には改革は骨抜きになつてしまふ。道路公団の民営化がさうだつた。そこで郵政民営化について小泉首相は「法案の修正はありません」と言ひ続けた。それでもかなり骨抜きになつた。しかもそれでも国会は反対だと言つたのだ。

 そこで、首相は今度は国民に向つて二者択一の問ひかけをしたのである。したがつて、二者択一は単なる選挙戦術ではないし、ましてや目くらましやマジックなどでないことは明らかである。(2005年9月13日)







 国民注視の中で進行する犯罪を「劇場型犯罪」といふ。この意味では民主主義国で行なはれる選挙は常に「劇場型選挙」だといへる。だから、特に今回の選挙を指して「劇場型選挙」といふのは間違ひだらう。

 むしろ今回の選挙は「劇場」ならぬ「激情」型選挙だつたのではないか。小泉純一郎の郵政民営化にかける激情が有権者の激情に火をつけたのである。その端的な現れが、小泉首相が街頭演説で集めた人数の多さである。かつて社会党の土井党首がいつたやうに今回も「山が動いた」のだ。

 新聞には自民優勢ながらも民主にも政権交代の可能性があるかのやうに書かれてゐた。しかし、その紙面に出てゐる数字を見れば、小泉が大阪の街頭で一度に集めた数が4000人、それに対する民主党の岡田は目を疑ふばかりのたつた500人。すでにこの時点で勝負は決してゐたのである。

 しかしながら、問題はここからである。これで郵政民営化は果たせるかもしれぬ。しかし、小泉はそのあと何をするのか。そこで期待はずれに終はれば、逆の激情が待つてゐるだらう。(2005年9月11日)








 NHKの受信料不払に対する新聞社の論調はどこも冷たい。NHKの自業自得だと言はんばかりである。しかし、新聞料金の徴収に携(たづさ)はる現場の人間の苦労を知つてゐれば、そんな冷たいことは言つてゐられないはずだ。

 私にも経験があるが、月末に購読紙の代金を貰ひに各家を回つたときの冷たい反応は想像を絶するものがある。

 別にとりたくてお宅の新聞をとつてるわけぢやない、勧誘員がしつこいから仕方なくとつてゐるだけだ、いつやめてもいいんだよといふ態度で、嫌みの二つ三つも言はれるのはよくあることで、挙句にまたあとで来てくれと言はれるのが普通なのである。

 そんな集金人にとつて、待つてましたと代金を払つてくれるお客さんは神様に見えるものだ。だから現場の集金人たちから見れば、NHKの受信料不払はとても他人事には見えないはずだ。

 受信料不払とは只見のことである。それを咎めない新聞は購読料不払いの只読みを容認するやうなものである。明日は我身だと言ふ危機感が新聞社にも必要ではないか。(2005年9月9日)







 犬を散歩させてゐる人を見てゐると、立ち止まるのも歩くのも犬の自由にさせてゐる人が多い。しかし、犬はご主人様と居るときにはご主人様に指図され教へられることを最大の喜びとする動物である。

 だから、犬が一人でゐるときには犬の好きにさせたらよいが、人間が一緒にゐるときには犬の好きにさせてはいけないのだ。

 これは親が子供と一緒にゐるときにも同じことが言へる。

 親が子供と一緒にゐるときは、何をすべきか何をしてはいけないかを付きつ切りで子供に教へることに精力を費やすべきである。子供をゴルファーや野球の選手にしたい親が教育熱心である話はよく聞くが、ただ単に一人前の大人にするためだけでも、親は子供にあれこれ教へ続けなければならない。

 子供が一人でゐても成長するとしたら、それは親が教へたやうにして成長するのである。

 ところが、公園などに親が子供と一緒にゐるのに子供に勝手にさせてゐる親が多い。しかし、自由にのびのびさせるのは、何も教へず放つておくのとは違ふのである。それは一緒にゐるときに充分に教へてからの話である。(2005年9月4日)







 マスコミは今アスベストで大騒ぎをしてゐるが多分あれは間違ひである。

 日本人は一年にだいたい百万人ずつ死んでゐるが、そのうちの三十万人がガンで死ぬ。さらにそのうち肺ガンで死ぬのはだいたい六万人である。

 それに対して、いまアスベストによる肺ガンで死んだ人として発表されてゐる数字は百人単位であつて、しかも何年にもかけての数字である。

 毎年何万人もの人が肺ガンで死んでゐることに比べたら微々たる数字である。しかも、日本ではアスベスト(=石綿)は至る所に使はれてゐる。それにもかかはらずアスベストによるガンの発症例はこんなに少ないのである。

 ここから考へられるのは、アスベストによつてガンになるかもしれないが、その可能性は非常に小さいといふことである。アスベスト以外の原因による肺ガンの割合の方が遥かに、何千倍も高いのである。

 だからアスベストを撤去しろと大騒ぎするなら、例へばタバコ屋とタバコの自動販売機を撤去しろと大騒ぎすべきなのだ。

 アスベストによつてガンになる確率とタバコによつてガンになる確率のどちらが高いか私は知らない。しかし、六万人と何十人とでは推して知るべしであらう。(2005年8月29日)







 今回の駒大苫小牧に対する高野連の処分は、高校野球の実態に目をつぶつた甘い裁定であると言はなければならない。
 
 指導者の不祥事であつて子供たちに罪はないから優勝は取り消さないといふのは、話がまつたく逆である。子供の罪は許しても大人の罪は許されないのが社会の常識である。

 しかも、高校野球の主体は子供ではなく大人である。

 確かにゲームをするのは子供だが、子供はやらされてゐるだけであり、勝利の名誉は大人のものである。さうでなければ、どうして勝利インタビューを監督が受けるのか。どうして県対抗になつてゐるのか。どうして勝つために全国から選手を集めてくるのか。どうして県知事が応援に行くのか。どれもこれも高校野球が大人の面子がかかつた大人の勝負になつてゐるからに他ならない。

 高校野球にはあまりにも多くの大人の利害が関はり過ぎてゐる。新聞社の利害、放送局の利害、各県・各市町村・各高校の利害。高校野球はもはや純粋な子供のスポーツでない。子供に罪はないだけでは済まされないレベルになつてゐるのである。(2005年8月28日)







 高校野球の全国大会は戦前の制度をそのまま引き継いだもので、戦前の精神をも引き継いでゐる。それは君が代、日の丸、勝利至上主義であり、まさに軍国主義そのものである。

 そんな大会が民主主義の戦後の日本で維持できてきたのも、主催者が朝日新聞と毎日新聞といふリベラル系、つまり民主主義を推し進めると間違つて思はれてゐる新聞社だつたからだ。

 軍隊式の入場行進や、大会のために体をこわして野球が出来なくなつた多くの子供たちの不幸もしばしば批判されてきたが、朝日・毎日であるが故に大目に見られてきた。

 これがもし読売や産経などの保守系の新聞だつたなら、いはゆる知識人や弁護士会など左翼系の団体から厳しい批判を受けて、春夏の全国大会は継続を危ぶまれ、抜本的な改革をせざるをえなかつただらう。

 例へば、投手の連投禁止や投球数の制限など、既に少年野球で取り入れられてゐる規定が高校野球にも取り入れられたかもしれない。しかし、主催者が朝日・毎日であるが故にさうはなつてゐないのが現状である。

 左翼=善といふ信仰が日本にはまだあつて、このやうにさまざまな不幸を生み出してゐる。左翼は批判してゐるだけならいいが、主催者にしてはいけないのである。(2005年8月25日)







 今から二千年前のローマのコロセウムの遺跡を発掘した学者たちはここで何が行はれてゐたかについて研究して、当時のローマ人が猛獣とグラディエータ(剣闘士)に命がけの死闘をさせ、それを見せ物にして興じてゐたことを明らかにした。世界は二千年前のローマ人の残酷さに戦慄を覚えた。

 さて、いまから二千年後の日本で巨大な円形施設が発掘される。学者たちはここで何が行はれてゐたのかについて研究して、当時の日本人が、真夏の炎天下の40度以上になる土の上で、18歳以下の子供たちに棒と球を使つた点取りゲームで勝負をさせ、それを見せ物にして興じてゐたことを明らかにする。世界は二千年前の日本人の子供に対する残酷さに戦慄を覚えるのである。

 二千年前のローマ人にとつて何の不思議もないゲームが今となつては残酷さ以外の何物でもないやうに、現代の日本人にとつて何の不思議もないゲームが、二千年後の世界には子供に対する残酷さとしか見えないのである。

 この円形施設での勝利は子供のその後の人生に不幸の種しかもたらさないにもかかはらず、子供たちはここで勝利することを至上命令として教へ込まれ、早くも人生をここでの勝負に捧げたのである。そして、このことの異常さに日本人が気付くまでに二千年の時が過ぎた。(2005年8月24日)







 高校野球と暴力事件はいまやセットになつてしまつた観があるが、高校野球から暴力事件をなくす方法がないわけではない。それは勝利第一主義をやめることである。

 軍隊がその最たるものであるが、勝つことを至上命令とする組織に暴力はつきものである。勝つためには組織を引き締めなければならず、組織の統制を乱す者はボカリとやらねばならない。

 日本の高校野球は一回戦で負けるやうな弱い学校であらうと、すべてが勝利至上主義であり、決して仲良しクラブではない。だから、どんな学校のクラブにもケツバットなどの暴力歴はつきものである。

 もし高野連が本当に暴力事件を無くしたいのなら、この勝利至上主義をやめて、野球を楽しむスポーツに変へればよい。

 ただし、それをマスコミやファンが許すかどうかは別問題だ。なぜなら、さうなれば高校野球の全国大会などは全部無意味なものとなるからである。

 しかし、本来出てゐなかつたはずのチームが優勝してしまつた今年の全国大会を見ても分かるやうに、甲子園はすでに無意味なものとなつてゐる。暴力事件を無くすことと甲子園は両立しないのである。(2005年8月23日)







 郵政民営化に賛成か反対かを国民に問ひたいと、小泉首相は衆議院を解散した。選挙を通じて国民に国の政策を選んでほしいといふである。一体このやうな選挙がかつてあつたらうか。

 消費税にしろ年金にしろイラク派兵にしろ、特定の政策が選挙の争点となつたことはあつても、選挙の結果に従つて政府が政策を決めたことは一度もない。選挙によつて国民が消費税にノーを突きつけても消費税は導入されたのだ。

 確かにこれまでの選挙でも公約はあつたし、国民はそれに対する賛否を投票によつて表明してきた。しかし、多くの場合、国民は政党や政治家に対する好き嫌いで投票してきたのであり、選挙がすんだらその後の実際の政治はほとんど政府に白紙委任してきたのが実態である。

 それが今回は違ふ。国民が選挙を通じて実際の政治を決められるのである。

 ところがこの違ひを理解できない人たちが、「一つの政策の賛否にしぼつた選挙は、それ以外の政策を政府に白紙委任することになる」と言ひだした。実際はその逆であり、これまでの選挙が白紙委任の選挙だつたのである。(2005年8月21日)







 7月31日(日)の読売新聞にはこれまでの常識をくつがへす記事がもつ一つあつた。それは虫歯は自然に治らないことはないといふ記事である。人間の体には自然治癒力があるが、歯だけはそれがないと言はれてきたが、歯にも自然治癒力があるといふのだ。

 虫歯が出来たらそこを削つて金属を詰めるのが今の治療法だが、この直し方では虫歯菌は完全に死なないから、虫歯が再発して最後は歯の神経に到達する。さうなるとまた虫歯の部分を削つて金属をかぶせ、歯から神経を抜いてその跡に金属を入れるが、それでは歯の強度が足りないので外側も金属でかぶせてしまふ。

 かうして歯はどんどん削られて小さくなつていき、その代はりに外側も内側も金属だらけになる。さうなると小さくなつた歯は自分の上の大量の金属を相手の歯で噛んでゐる状態になる。これは小さなぶんちんを常に噛んでゐるのと同じである。

 その結末は、歯の破壊である。つまり金属の重量に耐へられなくなつた歯が噛んだ拍子に割れてしまふのだ。かうなれば割れた歯を抜いて義歯にするしかない。

 つまり歯を削る治療は実は治療ではなく入れ歯への道筋を突き進んでゐるだけなのだ。

 それはおかしいと思ふ日本人の歯医者が、歯を削らずに治すことを考へ出した。それは保険外の薬を使つて虫歯菌を完全に殺す方法である。その後は「歯の自己回復力でカルシウムが沈着し、元の歯に戻る」のだ。つまり歯に存在する自然治癒力を使つて直すのである。

 普通の医者は患者の自然治癒力で治すといふから、歯医者もやつと普通の医者らしくなつてきた。この治療法は3Mix-MP法といひ日本人の独創ださうである。ホームページもある。(2005年8月19日)







 7月31日(日)の読売新聞にはこれまでの常識をくつがへす記事があつた。それは戦後社会は戦前の社会と断絶したものではなく、戦前にすでに完成されてゐた市民社会の延長であるとする山崎正和の文章である。

 戦前は暗黒時代であつたかのやうに思はれたゐるが、そんなことはない。違ふのは戦前に威張つてゐた軍人が戦後は謙虚になつた程度で、それ以外の価値観は戦前から全て受け継がれたものなのである。

 戦争が終はると日本人は戦争で中断してゐたことをさつさと再開した。その代表格が高校野球である。だから戦前がどんなだつたかを知りたければ高校野球を見ればよいのである。

 それは「日の丸」と「君が代」があり、滅私奉公の精神主義がありながらも、学生たちの野球による自由な自己主張を許す空間である。投手にとつては、勝てば勝つほど肩を傷めてその後の野球人生が不利になるトーナメント方式も、そのまま受け継がれた。

 そして「戦時中」とはまさにこの高校野球が中断した5年間のことであり、継続する市民社会が中断した5年間だつたのである。(2005年8月18日)







 郵政民営化法案に反対票を投じた自民党の国会議員たちは、自分の支援団体の利益のために反対したのであつて、国の利益や党の利益のために反対したではなかつた。

 それは造反議員たちの地元の自民党県連の反応にも表れてゐる。多くの県連は造反議員を「地元への貢献が大きいから」公認したいと言つてゐるのだ。これは造反が地元の県連ぐるみの行動だつたことを再確認させるものである。

 かうした県連の反応は、地方の自民党の古い利益誘導体質を露呈させるとともに、造反議員たちの国会議員としてのこれまでの活動が支援団体の個利個略を図るものだつたことを暴露してゐる。

 しかしながら、国会議員の価値はあくまで国への貢献度で計られる。憲法にも「全国民を代表する」とあるやうに、国会議員は地方の利益を代表する人間であつてはならないのである。

 造反議員たちはそれほど地元に貢献したいのなら地方の議員か首長になればよい。そして国会には二度と出て来ないことだ。さうすれば自民党は分裂選挙を回避することができ、彼らも党と国に対してささやかな貢献ができるだらう。(2005年8月13日)







 今年もまた甲子園では真夏の炎天下に野球の試合が行なはれてゐる。炎天下での激しい運動は危険であるが、戦前からずつと続けられてゐる。

 これこそまさに日本の精神主義・根性主義の表れである。先の大戦でアメリカに勝てなかつた最大の理由の一つが、日本の行き過ぎた精神主義だつたはずだが、朝日新聞社は戦後の高校生にそれを改めさせる必要を感じなかつた。

 しかし、高校生たち自身はもつと合理的である。有力選手たちの多くは、地方大会の予選が7試合も8試合もある府県を避けて、5試合か6試合も勝てば甲子園に出られる府県に野球留学して甲子園出場を目指してゐるからである。

 真夏の炎天下の2試合は大きい。そこで消耗した体力は全国大会までの2週間足らずでは中々回復できない。全国大会で勝つためにも小さな県に野球留学する必要があるのだ。

 学生たちのこのような合理的精神の発達は、県代表といふ概念をも変へてしまつた。甲子園大会の出場選手が県外からの留学生で占められ、県出身者がほとんどゐない学校が続出し始めたのである。

 各県一代表(東京と北海道以外)にしたのは夏の大会を県対抗にして盛り上げたいとする新聞社の意図だが、学生たちは甲子園出場の機会が増えたとしか考へなかつたため、県代表すら有名無実となつてゐるのが現状である。(2005年8月12日)







 最近の調査によると収入の多い男ほど結婚してゐる割合が高いさうだ。つまり、男は収入が多くなると結婚しようと考へる。男にとつて家族をもつことは一つの贅沢となつてゐるのだ。

 だから、家族はもはや運命共同体ではない。いまや男にとつて、家族をつくるとは客を迎へるやうなことなのである。客を立派にもてなせる男だけが客を迎へる資格があるのだ。

 かう考へると、大きなワンボックスカーが最近よく売れることも理解できる。お父さんはバスのやうな大きな車を買つて運転手となり、お客さんである家族を送り迎へするのである。

 お客様は神様であるから、お父さんは家族のために死ぬまで働いて尽くさなければならない。

 しかし、何らかの理由で男に収入がなくなると家族を維持できなくなる。こうなると離婚するしかない。客に迷惑をかけられないからである。(2005年8月10日)







 小泉首相は選挙で「郵政民営化に賛成か反対か国民に問ひたい」と言つた。これを聞いて、そんなことは自分には関係ないと思つて投票する人はどれくらいゐるだらう。多くの無党派層は素直に郵政民営化の賛否で投票するのではないか。

 しかしさうなると、国民の多くは郵政民営化に賛成だから、国会でこれに反対した野党はうまくない。そこで野党が第一にやるべきことは郵政民営化に我党も本当は賛成だといふことだらう。さうして郵政民営化に賛成の人も野党に投票できる環境を作るのである。

 ところが、例へば民主党は郵政民営化に対する立場を明らかにせずに、頬かぶりをして済まさうとしてゐる。「もっと大事なことがある」などと曖昧なスローガンで票が取れると思つてゐる。

 そもそも国の代表たる首相の「郵政民営化の賛否を問ふ選挙だ」といふ言葉は重い。それを民主党が「郵政ではなく政権選択の選挙だ」といふ方向にどの程度まで変へることが出来るか。そこが注目される。(2005年8月9日)







 高校野球では「甲子園」が聖地だなどとインチキくさいことが言はれてゐるが、そのインチキぶりをさらに増大するやうな事件が起きた。

 今年の夏の大会の出場校が匿名の投書によつて取り消しになり、地方大会準優勝の高校が出場することになつたのである。この投書がその準優勝校の関係者によるものではないとどうして言へるだらうか。

 結果としては、地方大会で負けた学校が投書によつてその勝敗をくつがへしたことになる。この現実を高野連はどう説明するのか。

 越境入学の大流行で既に地方大会の勝ち負けには意味が無くなつてゐる。優秀な選手を奨学金で集める高校野球は、スター選手を金で集めるプロ野球と何も変はらない。

 それが今度は金ではなく投書で勝利を手に入れたのだ。これはもはやスポーツではない。

 しかも、今どきの高校生は酒タバコ暴力それにセックスはありふれたことだ。「甲子園」の感動はすでに虚構でしかないのである。(2005年8月6日)







 広島平和記念公園の「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」と書かれた慰霊碑は、ペンキをかけたり壊したりする人が跡を絶たない。

 といふのは、どうやらこの文章の後半には、原爆を落とされたのは戦争を起こした日本が悪いからだといふ政治的主張が含まれてゐるからである。しかし、この主張は東京裁判史観であつて、誰もがすんなり受け入れられるものではない。

 一方で、首相の靖国参拝は第二次大戦を肯定するものと見なされ、それが気に入らないとして裁判を起こす人が跡を絶たない。

 しかしながら、靖国参拝に右翼の政治的主張があり、慰霊碑に左翼の政治的主張があるとしても、それが気にくはないから強制的にやめさせようとするのは間違ひである。

 靖国の御魂も広島の原爆死没者の霊も、それぞれ慰霊したい者が慰霊すればよい。慰霊を強制することも妨害することも無用だ。さもなければどちらの魂もとうてい安らかには眠つてゐられないだらう。(2005年8月1日)






  おしやべりであることを咎めたプルタークのエッセイの中に、皇帝アウグストスが、追放されてゐる孫のポストゥムスを呼び戻せないかと思つてゐることを知つた側近がそのことを妻に話したところ、妻が皇帝の妻リヴィアに話したため、アウグストスの目論見が御破算になつてしまひ、側近は自殺に追込まれたといふ話がある。

 これと同じ話がタキトゥスの『年代記』(岩波文庫)の中にあるといふので読んでみると、側近が秘密を妻に漏したことは「アウグストスの耳にも入った。それからしばらくしてマキシム(側近)は死ぬ。はたして自殺だったかどうか、あやしい」(上巻18頁)となつてゐる。つまり自殺ではなく謀殺だつた可能性をほのめかしてゐるのだ。

 「へえ」と思つて原文を見ると、dubium an quaesita morte となつてゐる。この dubium は「あやしい」であり anは「かどうか」、quaesita morte は「自殺」だから、確かにこれらを足すと上記の意味になるかもしれない。

 しかしながら、dubium an は熟語で「おそらく」といふ意味だといふことは、ラテン語をしばらく勉強した者なら知つてゐるはずのことで、正しくそのやうに読むなら「おそらく自殺だった」となりタキトゥスの話はプルタークの話と矛盾しない。

 ところで、こんなところでつまずいてゐる翻訳が大きな出版社から出て長年訂正されないのが日本の翻訳界の実状である。本当のことを知りたければ出版社の翻訳はあてにせずに頑張つて原文なり英訳なりを読むしかない。(2005年7月23日)







 郵政民営化法案の参議院での可決が危ふい情勢だと聞かされても、それを講演会であつけらかんと公表してしまふ小泉首相に悲壮感はまつたく感じられない。それは今度の郵政国会はどうころんでも自分に負けはないと考へてゐるからではないか。

 もちろん参議院で可決すれば言ふことはないが、否決されても解散といふ手があり、もう一度郵政民営化を国民に訴へて戦ふことが出来るからであらう。

 さらに仮に選挙に負けて野党に政権が移つたとしても、それはそれで「自民党をぶつつぶす」といふ自分の公約を小泉は実現したことになる。

 そしてこの解散のために先の内閣改造があつたのだ。幹事長は自分の側近だし、内閣にも解散の署名を拒否するやうな反対派の大物はいない。だから、かつて解散したくても出来なかつた首相たちの二の舞を演じる心配はないのである。

 誰かの怒りを恐れて反対派も含めた本格政権にしてゐたら、かうは行かなかつたらう。自分にはフリーハンドがあるいふ確信、これが首相のあの余裕につながつてゐるに違ひない。(2005年7月22日)







 郵政で解散総選挙になれば自民党は分裂選挙になるから政権は民主党に行くと言はれてゐる。しかし、そんなにうまく行くだらうか。

 民主党は郵政民営化は当面必要ではないといつて民営化に反対してゐるが、要は小泉政権をつぶせさうだから反対してゐるに過ぎない。

 しかし、郵政公社の総裁ですら「民営化は必要だ。しかも急いでする必要がある」と言つてゐる。それに反対して小泉首相を解散に追込み、国民に投票の労力を課す罪は小さくない。そんな政党に国民の多くが喜んで投票するだらうか。

 さらに、もし解散すれば「郵政解散」なのだから、民主党は郵便局をどうするか言はなければならない。

 これまで通り民営化は必要ないといふなら、民営化賛成の全マスコミを敵に回して改革反対政党のレッテルを貼られる恐れがある。いややつぱり民営化は必要だといへば、今度は労働組合を敵に回すことになる。

 いずれにしろこの選挙で民主党が勝つ見込みが大きいとは言へまい。(2005年7月16日)







 最近のマニュアル車は誤作動を防ぐためにクラッチを踏んだ状態でキーを回さないとエンジンがかからない仕組み(クラッチスタート)になつてゐるが、これが極めて不評である。

 第一に、車に乗つて最初にエンジンを回すのは走り出すためではなく、エアコンを点けたい場合の方が多い。エアコンを点けるのにクラッチを踏むのは無意味である。第二に、車を駐車するときはハンドブレーキを引いてクラッチはニュートラルにしてゐる人が多い。ニュートラルなのにクラッチを踏むのは無意味である。

 第三に、今どきマニュアル車は買ふ人は少数派でかなり車に詳しい人である。だからキーを回す時にクラッチがニュートラルであることを確かめるのは当り前である。それなのに、しろうと扱ひされてゐることが気にくはない。最後に、何より無駄な動作を強制的にやらされるのが不愉快である。実用面でも、エンストやガス欠になつたら車を動かせないといふ重大な欠点がある。

 そこで、マニュアル車を買つた人でこのシステムを解除しようとする人が沢山でてきた。ディーラーに頼めばやつてくれる場合もあるが断られる場合が多いので、自分でやつてその方法をウエブ上で公表してゐる人が沢山ゐる。

 クラッチを踏んだかどうかは、クラッチの根本の右横にあるスイッチのボタン(写真、左の黒いクラッチと右の銀色のハンドルシャフトの間の小さな黒い箱から出てゐる白い突起)をクラッチと連動して実際に押すことで確認してゐる。だから、このシステムを解除するにはそのボタンを常に押してゐる状態にすればよい。その方法は五つあるらしい。

 1.そのスイッチのボタンを押した状態でタイラップ(ビニールのバンド)でしばる(あとで外れてしまふらしい)。
 2.そのスイッチのボタンをネジ式の蓋で押込む(ボタンの根本の軸にネジが切つてある場合)。
 3.そのスイッチの箱を外して分解し、中に詰め物をして常に押した状態にする。
 4.そのスイッチ自体の電気のコネクタをはづして、それにクリップを切つたものなどを突つ込んで電気的にショートさせる(ボタンを押すと電気が流れる仕組みなので、その手前で流してしまふ)。
 5.そのスイッチから出てゐるコードの先にあるコネクタをはづして、その相手側のコネクタに電気的にショートさせたコネクタをつなぐ(4と原理は同じ。別のコネクタを用意する必要があるが、この方法が一番流行つてゐるやうだ。いづれにしてもかなりややこしいところに手を突つ込むので、手を切ることが多いらしい)。

 しかし、こんなことをすると車検が通らないのではないかとか、ずつと押した状態にしてゐると車のコンピュータが誤作動するのではないかなどと心配して、このシステムの解除を更にオン・オフできるやうにわざわざ別のスイッチまで付けてゐる人がゐる。まだまだ日本には小心翼翼たる善人が多いやうだ。

 ところで、実はこのスイッチは足の親指が届く場合がある。だから、システムを解除するほどではないが、ガス欠で動かせないことが心配な人は、日頃から足の指でこのスイッチを押す練習をしておけばよい。ただしこの場合も足の皮膚をどこかで切る恐れがあるから、靴は脱いでも靴下は履いておく方がよい。 (2005年7月15日)







 自動車メーカーのマツダは年間約80万台の車を作つてゐるが、その内の30万台つまり4割以上が一つの車種である。しかもその9割以上を輸出してゐる。この車はアクセラといふ車で日本ではめつたに見かけない車だ。

 この車は去年の10月に発売されたが、トヨタが新車と出すたびに有名芸能人を使つたテレビCMをがんがん打つて宣伝するのに対して、この車のCMはただ車が走るところにナレーションが付くだけといふ簡素なもので、しかもめつたに流れてゐない。

 これ以上売れては生産が追ひつかないので宣伝もあんまりやらないのかと言いたくなるが、実際、アクセラの納車はヨーロッパでは何ヶ月も待たされるさうだ。だから最近マツダはアクセラの生産工場を増やしてゐる。

 一方、日本でよく売れる車はミニバン車だ。日本では家族を大切にするならミニバン車を買はねばならない(おかげでお父さんたちは七人乗りの車に一人で乗つて会社に通ふはめになる)。だからマツダもハッチバックとセダン車であるアクセラではなく、ミニバン車のデミオとプレマシーのコマーシャルばかり流すのだ。

 これが日本の家族観と世界の家族観の違ひを意味するかどうかは知らないが、とにかく日本の常識は世界の非常識といふのは車の買ひ方にも当てはまるらしい。(2005年7月15日)







 カレー事件の一連の判決は、被告を犯人するには疑わしいことが沢山あるのにも拘らず、それでは「疑はしきは罰せず」になつてしまふために、それらに見て見ぬ振りをした判決である。

 そもそも一つのカレー鍋の高々100人分のカレーに投入されたヒ素の量が450人から1350人の致死量に相当するものだつたことからしておかしなことで、ヒ素の毒性を熟知してゐた真須美被告の犯行とするには疑問がある。

 もちろん彼女がカレーにヒ素が入つてゐたことを知つてゐたことは間違いはない。だからこそ彼女は、祭りの準備には参加しておきながら、祭りそのものには参加せず、家族に対してカレーを食べるなと言ひ、家族揃つてカラオケ屋に出かけたのだ。

 そこから、いまや世間では犯人は彼女の娘ではないかといふ説が広まつてゐる。

 しかし、マスコミはこの説を全く取り上げようとはしない。それは犯人が子供では死刑に出来ないからだらう。要するに、マスコミの報道姿勢とはこんなものなのである。(2005年7月2日)







 山本周五郎の小説『さぶ』は人の無償の善意といふものをしみじみと感じさせてくれる話であり、主人公のさぶはその無償の善意の象徴である。

 栄二といふどこにでもいる男の身の回りで起きるぎすぎすした出来事の話をはらはらしながら読んでゐると、そこへ忘れられていた男がひよつこりと戻つてきて、人間の中の善意の存在を思い出させてくれる。そして、読者を熱い思ひにさせてくれる。それがさぶだ。

 栄二の物語の中にさぶがふと登場するたびに、読者は本を横に置いてしばらくの間さぶのことを思はずにはゐられない。(例へば六の四の最後)

 もちろん、冤罪に苦しみ復讐心に燃える栄二が変つて行く物語は秀逸であり、けっして眠気を誘ふやうなことはない。しかし、完璧な説得力のあるものではないし(特に最後のどんでん返しとそれに対する栄二の対応)、こんな男はよくゐるし、こんな苦労話もよくあるものである。それに対して、さぶはほかのどこにもないこの作品だけの創造物である。

 どうしやうもない人間社会の中で、まだ人間も捨てたものではないと思はせてくれるさぶ。読者は栄二のストーリーを追ひながらも、そんなさぶがどうなるのかばかりが気になつて仕方がない。そして、最後にさぶが無事に戻つてきたといふ唯それだけの事実に感動して本を置くのである。(2005年6月28日)







 私は尼崎の脱線事故以来、電車の運転について知りたいと思ひ、電車に乗る時はいつも先頭車両に乗つて、運転の様子を見るやうにしてゐる。

 そのうち、運転手が非常ブレーキを使ふのはスピードを下げるためではなく、駅以外の場所で急に電車を止めるためだといふことが分かつた。

 一方、事故車両の運転手はその日の運転で何度も非常ブレーキを使つてゐるが、最初の二回を駅に止るために、最後はスピードを下げるために使つてゐるやうに見える。これは明らかにおかしな使ひ方である。

 また普通、駅に止る時には、まづブレーキレバーを八段階の三ないし五まで押込み、その後ブレーキを緩めながら止る。それに対して、非常ブレーキの場合は一気に一番奥までレバーを押込みそのまま止るのである。

 ところが、この運転手はまづ普通にブレーキを掛けて、その後さらにレバーを奥まで押込んで非常ブレーキを掛けてゐるのだ。

 これは普通にブレーキをかけても思ふやうにスピードが下がらなかつたことを意味してゐる。なぜそんなことになつたのか。その理由を私は知りたいと思ふ。(2005年6月19日)







 小説を読んでから映画を見ると、小説で読みながら作つたイメージが壊されるために映画を楽しめないことが多いが、映画を見てから小説を読むと、映画からもらつたイメージを利用できるので小説を楽しめることが多い。

 しかし、『砂の器』の場合は、映画を見てから小説を読んでもあまり楽しめない。この小説はあくまで筋を追ふための小説だからであらうか、映画でもらつたイメージを利用しながら小説独特の細かい描写を楽しむといふことがないからである。

 また、この小説では登場人物の描き方の落差が大きい。刑事の今西が詳しく描かれるのは当然として、その他は、関川重雄とその愛人の恵美子については詳しく書いてあるのに、和賀英良とその愛人のリエ子はどんな人なのかもよくわからないほどに省略されてゐる。

 その上、最初から詳しく書いてあつた関川ではなく、よく分らない和賀が犯人だつたり、超音波を使つた殺人方法といふ荒唐無稽なものが出てきたりと、小説全体の説得力が乏しくなつてしまつてゐる。

 また、新聞連載のせゐか、明かに文字数を稼ぐための段落や、全体の筋にとつてあまり重要とは思へない会合の描写があちこちにあつたりするので、ついつい飛ばし読みしてしまふ。同じ内容の重複した文章にもよく出くはす。

 「ヌーボーグループ」の描写はおそらく当時の遠藤周作らの「第三の新人」や石原慎太郎の「太陽族」を揶揄したものだらうが、松本清張のひがみのやうに見えてしまつて成功してゐない。

 また、終りの方で急に本浦千代吉と慈光園のことが出てきたり、和賀英良の大阪の戸籍の話が急に出てきたりと、終盤になつて和賀が犯人であることを示す材料がばたばたと組込まれてしまつたのは、初めは関川が犯人のつもりが、終盤になつて和賀に変へたんぢやないかと思はれるほどの慌ただしさだ。

 小説『砂の器』は多分小説としてはB級だらう。それを換骨奪胎して、関川と和賀を和賀一人にし、恵美子とリエ子を一人にし、殺人を最初の一回だけにし、今西の発見から超音波を省いて亀嵩の東北弁だけにし、三木が伊勢から東京に来る決心をした動機をさぐるために今西が映画を見ることをやめさせ、和賀の抽象音楽をクラシックに変へ、和賀とその父本浦千代吉の巡礼の旅を前面に押し出して、死んだ父親を生き伸びさせて最後の逆転(アリストテレスの言ふペリペテイア)の場面を作りだして、B級小説をギリシャ悲劇並のA級映画に作り換へたのは監督の野村芳太郎や脚本の山田洋次らの手柄であらう。(2005年6月18日)







 中央公論の『日本の名著』の読みやすい現代語訳のおかげで、『愚管抄』は気楽に通読できるものになつてゐる。『愚管抄』と言へば何やら難しい道理を論じてゐる本だといふ印象があつたが、実際に読むとかなり面白い本である。

 『愚管抄』は第一巻と第二巻は年表のやうなもので、本編は第三巻から始る。第七巻がまとめの巻で理論が勝つてゐて退屈だが、三から六は慈円(1155-1225)が聞き知つた歴史上の事件を独自の視点から詳しく書いてあるので読み応へがある。

 保元の乱から承久の乱に至る過程で摂関家による権力支配が終つてしまふのだが、これは摂関家の出である慈円にとつては、非常にショッキングな出来事で、その意味をなんとしても理解する必要があつた。

 貴族から武士に権力が移つたのは、貴族が自分で武器を取ることをやめた事が、そもそもの原因なのだが、慈円はさうは考へず、それはさういふ摂理(=道理)なのだと思ひ込まうとした。

 一方、慈円は平治の乱(1159)の時に四歳であり(ペルシャ戦争の歴史を書いたヘロドトスもサラミスの海戦のとき四歳だつた)、関係者から直接取材してゐるため、事件の有り様を実に細かいことまで書いてゐる。

 例へば、平治の乱で二条天皇が義朝方に占拠された内裏から女装して抜け出すくだりでは、その手引をした別当惟方(平治物語絵巻では天皇を乗せた牛車をのぞき込む武士たちを後から制止する公家とされる)が小男で、中小(なかのこ)別当とあだ名されたことまで書いてある。

 また『保元物語』や『平治物語』が鎌倉幕府の視点から平氏をおとしめる立場で書かれてゐるのに対して、慈円は藤原氏の一族なのでさういふことはない。

 例へば、保元・平治・平家物語では、平清盛はだめな人間であり、立派だつたのは息子の重盛であつたかのやうに描かれてゐるが、『愚管抄』では清盛が最高権力を握るに足る充分な知略と大胆さと風采を備へた人間であつたことがよくわかるやうに描かれてゐる。

 逆に、『平家物語』とは違つて、重盛の子の資盛が松殿(慈円の兄)に無礼をたしなめられたことの仕返しをしたのは重盛自身であるとしてゐる。

 その外にも、清盛は福原つまり神戸に遷都するずつと前から神戸に住んでおり、鹿ヶ谷の謀議の知らせを神戸で知つたとも書いてゐる。

 一方、この本には頼朝が鎌倉に幕府を開いたことは書いてゐない。それよりもその頃の最大の事件は源通親とその妻範子による陰謀によつて関白忠実(慈円の兄)が失脚したことだつた。

 後鳥羽天皇はこの範子の娘から生まれた子に天皇の位を譲つて上皇になつたが、それは頼朝の関係しないところで起つてゐるのだ。

 京都の貴族たちの見るところでは、権力が貴族から武士に決定的に移つたのは承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐に流されてからで、それまでは院政が続いており、都ではまだまだ院の近臣が力を揮つてゐたのである。(2005年6月17日)







 DVDプレーヤーを買つたのでとりあへずTSUTAYAで『砂の器』を借りてきた。

 むかし渋谷駅東口の映画館で見た映画なので、最初はこんなシーンがあつたかなと思ひながら見ていたが、「亀田」が「亀嵩」だとわかる場面で丹波哲朗が内外地図といふ店の階段を駆け下りるシーンで思ひ出した。

 これはお茶の水を南に降る長い坂(明大通り)の途中の実在の店(今もあるらしい)で、映画を見たときにあそこだと直感したことを今でもよく覚えてゐる。

 その次に丹波がその店で買つた地図を見るシーンは、渋谷センター街の喫茶店の二階であることも、手すりの曲がり具合の形状から鮮明に思ひ出した。

 この二つで私はこの映画に再びのめり込んで見ることになつた。むかし見た時も確かさうだつた。監督の野村芳太郎は、実在の店をそのまま使ふことの効用をよく知つてゐたのではないか。(逆に亀嵩の駅も派出所も実在のものではないといふ)

 映画の前半では丹波哲郎演じる今西刑事が殺人事件の捜査を進める様子が中心に描かれるが、それと平行して、新進気鋭の指揮者和賀英良によるクラシック演奏会の準備の進行する様子が描かれる。

 犯人が明かになり捜査が完結する頃、演奏会のための交響曲『宿命』も完成する。そしてまさに演奏会の当日が、和賀英良逮捕を発表する捜査会議の日にあたるのだ。

 会議の席で一人立つ丹波哲郎は和賀英良の逮捕理由を述べ始める。そして話は和賀英良の不幸な生立ちの説明に移る。

 癩病が理由で英良父子が故郷を捨てた事を話した丁度その時、演奏会場では和賀英良がピアノの前に座つて『宿命』の演奏を始める。

 映像は回想シーンに変はり、親子二人の巡礼が始る。喜捨を求めて旅をする悲惨な二人の姿は、少年英良が子供にいじめられるシーンを含めて、延々とこれでもかといふほどに続いていく。

 しかし、それは演奏会場のシーンと交互に映されるため、あたかも和賀英良(加藤剛)がこの演奏会の晴れ舞台でピアノを弾きながら、自らの不幸な過去を回想してゐるかのやうな印象を与へる。

 また、この巡礼のシーンから科白は聞えないが、その代りをしてゐるのがこの『宿命』といふ音楽の旋律である。この音楽に重ねられた過去の映像から、『宿命』といふ楽曲を形作つてゐるものは英良の人生そのものだと言ふことが分る。

 二人が亀嵩村に来て緒方拳扮する三木巡査と出会ふところで、音楽は突然中断してこの親切な巡査との出逢ひのドラマ(科白付き)が挿入される。

 しかし、癩病を患ふ父親が巡査の斡旋で療養所に入ることになり、親子の別れが決まると、再び映像から科白が聞えなくなり、『宿命』の旋律がそれに取つて代る。
 
 寝台に横たはり馬に引かれていく父とそれを見送る息子。しばらくしてなほ惜別の思ひを絶ちがたい少年は走り出す。手で涙を拭ひながら少年は田んぼの中を走りぬける。そして線路に入る。駅から見る人たちの目に、遥かかなたの線路の中を駅に向つて走つてくる少年の姿が映る。少年を見つけた父親もまた息子の方に向つて走り出す。そして二人はひしと抱合ふのだ。もちろんバックには『宿命』が流れ続けてゐる。

 少年が巡査の家から逃げ出すところで、また音楽は中断する。そして捜査会議の席で和賀英良の父親がまだ生きてゐるといふ事実が公表されるや、また音楽が再開する。丹波と和賀英良の父(加藤嘉)との面会のシーンで、父は息子の成長した写真を見せられて号泣する。号泣しながら「こんな人は知らない」と叫ぶのだ。

 『宿命』がバックに流れながら丹波は逮捕状を持つて、和賀が一世一代の演奏をしてゐる会場に向ふ。丹波のいる空間と和賀英良の音楽が本当に流れてゐる空間が到頭一つになる。演奏が終り和賀は拍手に包まれ、白い逮捕状を手にした警官が舞台の袖で待つ。そこで再び親子の昔の巡礼の映像が流されるが、それは演奏を終へた和賀英良の脳裏にあつたものに違ひない。かうして和賀英良の宿命が完結して映画は終る。

 この結末にわれわれが感じるのは犯罪者が捕まる因果応報の満足感でもなければ、主人公が逮捕されてしまふ残念さでもない。これは明かにアリストテレスのいふカタルシス、つまり精神の浄化であらう。

 ただし、苦学して学校を出て、成功の道をたどるやうな人間は、自分をコントロールする力があるから人殺しはしない。また、これだけの芸術作品を完成してそれを発表できる人間は人を殺す必要がない。したがつてこの話はギリシヤ悲劇『オイディプス王』と同じく嘘である。しかし、同時に『オイディプス王』と同じくらいに嘘を信じさせ、感動させる力がある。9点。(2005年6月15日)







  産経新聞に【反日デモ 私はこうみる】で野田毅氏はかう書いた。

 「日中の国交正常化の原点は、『先の大戦の責任はA級戦犯にあり、一般の国民には責任はない』という理屈で中国が戦後賠償を放棄したことだ。だから、首相の靖国参拝は中国から見ると、A級戦犯の名誉を回復し顕彰しようとするばかりか、日本が国交正常化の原点を否定しようとしているように見えるのだ。」

 「先の大戦の責任はA級戦犯にあり、一般の国民には責任はない」という理屈で中国が戦後賠償を放棄したという論理は、私には初耳なので、その根拠は何だらうと思つてネットを検索すると、次のやうな文章に出くわした。

 「ただ日本がしっかり認識しておかねばならないことがある。1972年に日中は国交正常化を実現したが、その原点は『先の大戦の責任はA級戦犯にあり、一般国民に責任はない』とする中国リーダーの基本認識に基づくものであり、この考えに立って賠償請求権も放棄したということである。A級戦犯を合祀する靖国神社への総理大臣参拝は、この国交正常化の原点を否定するものだと中国が考えるのは当然ともいえる。小泉総理の言動は独りよがりの非常識な歴史認識と言わざるを得ない。」

 野田氏の文章の日付は2005/04/17、この文章の日付は2005/05/01。内容からも明かにパクリである。最近ブログがおほはやりだが、新聞社の記事をそのまま掲載したパクリもおほはやりである。おかげで検索で同じ文章ばかりが引つ掛かつて来て困る。

 それはさうとして、先の論理は「河野太郎の国会日記(16/12/1)」に既に出てゐることがわかつた。そしてその根拠は日中共同声明だと書いてゐる。しかし、日中共同声明には中国が賠償を放棄した理由は「日中両国民の友好のため」と書かれてをり、先の論理はどこにもない。

 実は「先の大戦の責任はA級戦犯(一部の軍国主義者)にあり、一般国民に責任はない」とは、周恩来が自分たちの度量の大きさを示すために日中首脳会談で言つたことらしい。しかし、それは中国が戦後の日本と友好関係を結ぶ理由として言つたことである。

 それをいま小泉首相の靖国参拝を反対する理由とするのは中国側の都合である。また、その都合を斟酌するやう主張する日本の国会議員といふのも奇妙なものである。

 結局は、当時中国の賠償放棄を有難く受入れた田中首相が今日の日中の軋轢の種をまいた事になるやうだ。なぜなら、賠償を放棄しなかつたフィリピンやインドネシアは、首相の靖国参拝に何も言はないからである。まさに「ただほど高いものはない」のである。(2005年6月14日)








 電車の先頭車両に乗れば、運転手の運転する様子がよく分る。

 まづハンドルがない。進行方向は線路に任せて、運転手はスピードの調節さへしておけばよい。左右に二つのレバーがあつて、左レバーで電流を上げて速度を上げ、右レバーでブレーキを掛ける。

 発車後運転手は左レバーを操作して、スピードをすぐに100キロまでもつていく。その後も上げて120キロになると、電流をゼロにして惰性で走る。電車では120キロはめずらしいことではなく、108キロが暴走でないことが分る。快速電車ならスピードを最高130キロまで上げるから、最高速度125キロも別にめずらしいことではない。

 ブレーキは8段階あり、運転台の右端に赤いランプの縦の列で表示される。駅で止まる時にはいきなり5つのランプがつく。その後適度に下げていき、止ると一旦ゼロになり、また5にして電車が固定される。
 
 個々の駅のどこでブレーキを掛ければよいかを覚えておけば、停車位置で止めることはさう難しいことではなささうだ。

 ブレーキを使ふのは駅で止る時だけで、スピードの調節にブレーキを使わない運転手が多い。しよつちゆうブレーキを使ふ運転手は自動車の場合と同じで下手な運転手ではないか。
 
 非常ブレーキも体験したが、急に止るのではなく自然に止る。自動車の急ブレーキのようなショックはない。非常ブレーキの場合は、運転台のブレーキランプの一番上だけが点灯する。

 電車の先頭車両に乗つて見てゐると、電車の運転は自動車の運転よりもはるかにやさしいことが分る。事故の原因が運転手のミスであるといふ説には説得力がないことがよく分る。(2005年6月13日)








 なぜ中国と韓国で反日運動が起きるかといへば、それはこの二つの国に言論の自由が無く、日本についての正しい情報が伝はつてゐないからである。

 日本のマスコミには反中もあれば親中もあるから、いい話も悪い話も伝はる。だから、日本人は自分の好みによつてどちらかを選択できる。しかし、中韓両国のマスコミには反日しかない。マスコミは日本のよい事を伝へない。だから国民は反日しか選べない。

 それどころか、これらの国の国民が親日的な議論をすることは社会的な死をさへ意味する。だから論理的な思考をするはずの学者たちでさへも感情的になつて反日的な議論しかできない。

 このやうなマスコミしかもてないのは両国にとつて大きな不幸である。しかし、日本はそれをどうすることも出来ない。日本はただ反日に対して感情的にならず、日本が戦後一貫して良い国であつたといふ自信を失なはないことだ。中韓に迎合しても無意味である。(2005年6月10日)








 二子山親方の死にともなつて発生した兄弟の争ひの原因は、長男ではなく次男が家を継いだことに尽きる。

 日本の歴史上で最初の大きな戦争は保元の乱であらう。その原因は、鳥羽上皇が長男たる崇徳天皇より、愛妻美徳門院から生まれた子を可愛がつて、崇徳天皇を辞めさせて天皇にしたことであり、関白の藤原忠実が長男の忠通より次男の頼長を可愛がつて家長の地位を与へたことである。

 その前の壬申の乱も、そもそもは天智天皇が自分の息子ではなく自分の弟の天武天皇を皇太子にしたことに起因してゐる。

 継嗣の問題は争いの元であつて、しかるべき順序にある人間が跡継になることの重要性は、中国の『春秋』に始つて、それに倣つたと言はれる新井白石の『読史余論』でも強調されてゐる。

 天皇制の弱体化は、長男を差し措いて幼児を天皇にした藤原氏の恣意が原因であると白石は論じてゐる。

 二子山親方が兄より弟を可愛がつたかどうかは知らない。しかし、花田の家と二子山の名跡を長男に継がせて、貴乃花親方は一代年寄で我慢させておけば今の争ひは無かつたはずだ。(2005年6月10日)







 最近の日本の出生率の低下には、男性が女性に対してみだらな気持になること自体を悪とみなす考え方が影響してゐるのではないか。

 元々、男が生殖能力を持つといふことは、女性に対して劣情をもよほすことを抜きにしてはあり得ない。そして、男性はその感情の対象を一人の女性に限定できないといふ生理を有してゐる。

 ところが、その男の劣情が犯罪と見做され出したのである。盗撮を犯罪視することは、劣情を犯罪視することに他ならない。なぜなら、カメラを向けて他人を許可なく撮影すること自体は違法な行為ではないからである。

 かうして人類の生殖に必然的な感情が社会によつて否定されてしまつた以上は、日本の男性の多くが、子孫を残すための行為自体に対しても消極的となり、あげくに、セックスレスに陥ることが多くなつてゐるのではないか。

 日本社会にかつてあったおおらかさと寛容さが失われてしまつたことが、日本の少子化につながつてゐるのではないかと危惧される。(2005年6月7日)







 尼崎の脱線事故での警察の捜査は、死んだ運転手に事故の全ての責任を押しつけやうとしてゐる。まさに「死人に口なし」で、これほど警察に都合のいい被疑者もゐまい。

 警察によるとこの事故は全て運転手のミスで起つた事なのださうだ。信号無視もオーバーランもミスであり、スピード超過も運転手のせゐなら、急ブレーキも運転手のせゐだと。

 しかし、どうして電車の故障でないと言ひきれるのか。電車はめちゃめちゃに壊れてしまつたために、電車自体に異常が在つたかどうかは全く分らない。だからと言つて、全部を人為的なミスと決めつけて良い訳がない。

 運転手の遺族にとつては、運転手は事件の被害者である。それをまるで加害者のやうに扱ふとは、死者を冒涜するにも程があるといふものだ。

 脱線の原因がスピードなのか急ブレーキなのかさへは未だに明確ではない。運転手のミスといふのも単なる憶測に過ぎないのだ。それなのにJR西日本が改善計画を出したといふ。単なる憶測に基づいて一体何を改善しようといふのか。全くおかしなことである。(2005年5月28日)







 運転手が前の駅でオーバーランして、そのために生じた遅れを取戻すために速度超過したあげく、カーブで非常ブレーキを使ふといふ無謀運転のために事故は発生した。これが尼崎の脱線事故について一般に言はれてゐることである。

 しかし、このストーリーの信憑性がどうもあやしくなつてきた。この運転手はこの日三度も非常ブレーキを使つてゐたことが明かになつたからである。
 
 これは普通は、ブレーキが利かなかつたことを意味してゐる。そして、このことから、手前の駅でのオーバーランも、速度超過も、全てが説明出来るのである。

 さらに、もし運転手が生きてゐて、ブレーキが利かなかつたと証言してゐたなら、事故調査委員会のこれまでの全ての「断定」は違ふものになつてゐたはずなのだ。

 つまりいま事故原因として言はれてゐるものは、あくまでも一つの推測に過ぎないのである。そして、もしブレーキ故障が原因なら、ATSの不備も日勤教育も事故とは何の関係もない事になるのである。(2005年5月20日)







 電車の痴漢もいろいろあるが、見せる痴漢や触らせる痴漢は万国共通でも、女の体に触つてくる痴漢は日本だけである。

 なぜなら、外国の女は日本の女と違つて、触られた瞬間に何らかのリアクションを起すから、ロンドンであらうとパリであらうと、触る痴漢は行為として成立しないからである。

 といふことは、もし日本でも全ての女性が触られた瞬間にその方を向いて、「何ですか」と声に出して言ふやうになれば、触る痴漢は日本からもいなくなるのだ。

 ところが、日本の女の大多数はそれが言へない。触られた瞬間に、恐怖心で硬直してしまふのである。

 その瞬間に恐怖心に捕はれずに「何ですか」といふためには、自分が何をしてゐようと、誰かが触つて来るかもしれないと、常に身構へてゐなければならない。

 ところが日本の多くの女はそれが出来ないし、さうする気もない。電車の中でも家にゐる時と同じやうにのんきにしてゐたいのである。

 そして、そんな彼女たちに安心して外出して頂くために、日本では至る所で女性専用車両が用意される事とは相成つたのである。(2005年5月14日)







 五木寛之が五木ひろしの新曲の作詞をしたさうだ。

 NHKの『ラジオ深夜便』によると、五木ひろしは五木寛之の名前にあやかつてこの名前に変へて『横浜たそがれ』の大ヒットをものにしたといふ。

 作詞家でもある五木寛之は、これまで五木ひろしの歌の作詞をしたことがなかつたが、いま初めて二人がコンビが組んだといふのである。

 しかし、五木寛之は元々歌手五木ひろしが自分の名前を真似たことを歓迎していなかつたはずだ。

 昭和五十年、私は中野に下宿して、中野ブロードウエーに至る商店街の裏通りにある書店で、『週刊朝日』の立ち読みをするのを日課にしてゐたが、そのミミ ヅク何とかといふ見開き2ページのエッセイに、五木寛之が五木ひろしのファンから、名前が似ていて紛らはしいから名前を変へてほしいといふ手紙をもらつたことを、さも迷惑さうに書いていたのをよく覚えてゐる。

 あれから三十年近くがたつ。当時売れつ子だつた二人が手を組まず、いま過去の人となつた二人が手を組んだといふわけだ。

 最近流行つてゐる歌謡曲の歌詞が「詩」からほど遠いことを嘆く私としては期待したいところだが、仕事が減つた女優のヌード写真集のやうでもあつて複雜である。(2005年5月12日)







 「ありうること」はしばしば「あつてはならないこと」に変化する。

 むかしの例では、ユダヤ人虐殺がさうである。今では信じ難い事だが、ユダヤ人虐殺はナチスだけが行なつた事ではないし(イェドバブネ事件)、第二次大戦前までは人道に対する罪でもなかつた。

 そもそもナチスによると云はれる虐殺は戦争中は問題とはならず、アメリカ軍によるユダヤ人救出作戦もなかつた。仮に当時ユダヤ人虐殺が知られていたとしても、それは「ありうること」として見過されたにちがいない。

 それが軍事法廷などにおいて、アメリカの勝利の正当性を主張する過程で、重大な犯罪と見做されるやうになつた。その結果、昔は日常茶飯事で「ありうること」に過ぎなかったユダヤ人差別さえも、今では「あつてはならないこと」になつてゐる。

 この変化は尼崎の脱線事故についても見られる。

 脱線事故はともかく、運転手のスピード超過や懇親会などは「ありうること」だらう。それがいま被害者の立場にたつ報道によつて「あつてはならないこと」と声高に叫ばれるやうになつたのである。(2005年5月11日)







 薄田泣菫の『茶話』のなかにこんな話がある。

 アメリカのある新聞記者が、政府の役人に社説の内容が気に入らないからお前とこの新聞を止めたと言はれた。しかし翌日もその新聞は発行されてゐるので、記者が役人の所に行くと、単に新聞の購読をやめただけだと言ふのだ。そこで記者はかう言つたさうだ。「記事の内容が気に入らないから購読をやめたと言はれてもどうにもならないですよ。あなたのためだけに新聞を作つてゐる訳ではないですから」

 NHKの受信料不払運動といふものがあると聞いて、この話を思ひ出した。

 金がないから払へないのは仕方がないし、NHKは見ないから払はないといふのも一理ある。しかし、NHKの編集方針が気に入らないから払はないといふのは間違つてゐる。

 それは第一に、見てゐるくせに金を払はないのだから、無銭飲食と同じである。第二に、受信料を払はない事でNHKを自分たちの主張に従はせやうとするのは、NHKの独立を犯す事であり、言論の自由と矛盾する。

 NHKの受信料収入は高々年間七千億円で、これは東京の民法放送局の年間広告収入の二社分でしかないさうだ。それで地上波テレビ2チャンネル、衛星放送3チャンネル、ラジオ3チャンネルの番組を作つてゐるのだから、多いとは言へまい。

 もしNHKを利用してゐるなら、気に入らない所があつても受信料は払つてやる事だ。まちがつても受信料を払はない事でNHKを変へさせようとしてはいけない。なぜなら、NHKは「みなさまのNHK」であつて、あなただけのものではないからである。(2005年5月6日)







 弱い立場の側の主張は否定されやすい。尼崎の脱線事故ではこの現象が如実に現はれてゐる。

 例へば、JR西日本は事故の原因として当初置き石の可能性を主張したが、敷石が置き石であつた可能性がなくなつてゐないにも関はらず、今ではその説は否定されてしまつてゐる。

 また、事故のあつた半径300メートルのカーブで電車が脱線する速度についても、当初JR側は133キロと言つてゐたが、これも机上の空論だとして否定されてしまつてゐる。

 しかしながら、例へば、日本の高速道路では半径300メートルのカーブは最小半径のカーブであるが、車は減速せずに通り抜ける事ができる。スポーツカーなら140キロでも平気だといふ話だ。

 だから、福知山線のあのカーブが133キロまで脱線しないといふJRの主張はおそらく事実である。

 そもそも制限速度といふものは、たとへそれを越えても事故が起こらない許容範囲を前提としてゐることは常識であるし、半径300メートルのカーブは決して急カーブではない。

 こうした事実をゆがめて、運転手や会社に対する責任を追求しやすいやうな事故原因を解明したところで、将来の事故防止には何の役にも立たないことだらう。(2005年5月2日)







 イラク戦争開戦のときにアメリカのブッシユ大統領の人格を問ふ声が噴出したが、今回の中国における反日デモ暴動を容認した中国首脳部の姿勢は、彼らの人格に疑問符を付けさせるに充分ではないか。

 中国共産党が国民党との内戦に勝利できたのは、蒋介石に比べて毛沢東や周恩来が人間的に立派だつたことがその一因だと思はれてゐる。しかし今の中国を支配してゐる人たちは明かに人格者ではない。

 さらにまた、そのやうな人たちが主張する歴史問題と称する物のいかがはしさも今また明かになつたと言へやう。

 もちろん、彼らがやつてゐる事は間違つてゐるが言つてゐることは正しいと言ひ張るなら別であるが、それは常識外れといふものである。

 ところが、その常識に外れて、相も変はらず彼らの言い分どおりに首相は靖国参拝をやめるべきだと今日の社説に書いた全国紙が三つもあるのだ。その全国紙とは朝日新聞と毎日新聞と日本経済新聞である。(2005年4月20日)







 法律によつて平等な人権が保証されてゐるからといつて、平等な人間関係まで保証されてゐる訳ではない。それは男女同権でも同じである。

 ところが、新聞の人生相談で、旦那が妻に家事や育児を押しつけて、しかも感謝することなく威張つてゐるばかりで嫌になつたから離婚したいといふ投書に、ある弁護士が「妻を従属物扱ひするとは、男女平等の時代に信じられない。そんな男とは別れた方がよい」と答へてゐる。

 しかし男女平等と、夫婦で家事や育児を分担する事とは何の関係もない。それは二人の人間関係の問題でしかない。

 だから、いつも相手の下に立つのが嫌なら、相手に何かで勝つ算段をするしかない。それは何も喧嘩しろと言ふのではない、相手から一目置かれるやうにすればいいだけのことである。

 昼間のテレビ局の観客やレストランの客になぜ女性が多いかを考へれば、主婦といふ有利な立場を感情的なことで捨てるのが損なだけなのは容易に分ることである。(2005年4月17日)







 日本のプロ野球が面白くない原因の一つに、シーズンオフに球団間で有力選手の取合ひがないことがある。

 アメリカではそれが盛んで、新設球団でも有力選手をトレードで集めて数年でワールドチャンピオンになることができる。

 しかし、日本の新球団の楽天は、チームを強くするためにいくら金を用意しても、他球団からいい選手を集めてくることが出来ないから、いつまでたつても弱いままである。

 それは何故かといふと、日本では有力選手の移動が非常に少ないからである。フリーエージェント権を獲得した選手でさへ、他球団に移籍しないことが多い。

 日本でもトレードはあるがそれは活躍してゐない選手ばかりで、スター選手がトレードされることは殆どない。

 新人選手のドラフト制度の改革が議論されることはあるが、ドラフトでは弱いチームが劇的に強くなることはない。

 例へば楽天が数年後に日本一になれるような制度改革がされない限り、プロ野球人気の凋落傾向は止まらないのではないか。(平成17年4月17日)






 反日デモ隊の暴力行為に対して中国政府は「賛成しない」といふだけで、非難するどころか、それをもつて日本政府に歴史認識の教訓にせよと言つてゐる。

 暴力行為を制止しやうとしなかつた中国の警官隊の行動は、政府のこの見解をそのまま反映したものだつた。

 このやうな対応は日本などの先進諸国にとつては前代未聞のものだが、暴力革命を肯定する共産党の独裁国家である中国ならあり得ることなのだらう。

 中国政府は、要するに「もし小泉首相がまた靖国神社を参拝したら、中国にゐる日本人がどうなつても知らないぞ」と、日本政府を脅してゐるのである。

 中国にゐる日本人は中国政府の政治的な主張のための人質になつたのである。

 恐ろしい国である。日本人はなぜこんな国に行くのか。不思議な事である。(2005年4月13日)







 大阪市諮問会議の解任劇は、女性助役が本間教授と喧嘩になり、馬鹿にされて悔しくてならない助役が、市長に「あの人を辞めさせて」と泣きついたといふ事ではないか。

 国から人を持つて来るといふ本間氏の提案が地方自治の否定だといふ助役の言分は、この助役がいつも首相の秘書官頼みであることを考へれば、もつともな言分だとは思へない。

 市のお客である顧問と喧嘩してあちこちにその人の悪口を言ひふらし、あげくに市長に辞めさせろなどと言つてくるやうな助役なら首にするしかない筈だが、身内が可愛い市長は、三顧の礼を以て迎へたはずの本間氏の方を首にしてしまつた。

 劣等感のある女性は少しでも馬鹿にされたと思ふとヒステリックに反応するものだ。一方、男はいくら背伸びしても能力のある人に敬意を払ふことを知つてゐる。男の助役ならこの解任はなかつただらう。

 大阪市は歴代の助役が市長になつてゐる。次の市長はこの人でいいのか大阪市民は真剣に考るべきではないか。(2005年4月2日)







 シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』もアナトール・フランスの『神々は渇く』も共にフランス革命の愚劣さを描いた本である。

 ツヴァイクの本は、この女主人公の処刑で終るがそれは彼女にとつての勝利として描かれてゐる。彼女は自分の破滅を通じて自分の偉大さを証明したのである。

 ツヴァイクの描く革命は、人間の果てしない低俗化、教養の否定であり、それに合致しないものの死を意味した。民主主義の名にをおいてゞあらうと、その実体は暴力による権力闘争に過ぎなかつた。

 この本は革命といふもののいかがはしさを、あらゆる資料を駆使して白日のもとにさらけだした歴史書である。

 ところが、河出書房版の訳者はツヴァイクが革命を好ましいものとして描いてゐない点が、日本の読者の反発を買ふのではと心配した。

 当時はベルリンの壁の崩壊する前で、革命は良いものだといふ思想がまだ消えてゐない時代であり、いやしくもインテリを自認する訳者にしても、革命を否定するやうな作品の翻訳をしたことに内心忸怩たるものがあつたのかもしれない。

 だから彼はその解説の中で、この伝記はフィクションとして読むべきだと主張する。そして、この本から作者の革命に対する考え方を読み取るべきではないとまでいふ。これは革命論や革命史論ではないと念をおすのだ。

 しかし、今となつては誰にも遠慮することなく言へるだらう、この書は紛れもなく、マリー・アントアネットと同じ国に生まれた作者ツヴァイクが、フランス革命に対する否定的な考へを披瀝したものであると。

 一方、アナトール・フランスの『神々は渇く』の訳者のつけた注と解説は、革命に携はつた人たちの偉大さを語る文章に満ちてゐる。

 しかし、その注釈からは、この訳者が「エリザベトとオーストリア女」といふ文を見て、即座にこの「エリザベト」が「オーストリア女(=マリー・アントワネット)」といつしよに投獄されたエリザベト(=ルイ十六世の妹)であることが分からなかつたことが見て取れる。

 訳者は、名声赫赫たる革命の闘志たちの名前を列挙するのに熱心だが、反革命の罪で殺されたこの不幸な王女のことは知らなかつた。

 この書物は全体としてロベスピエールといふ人間の真の姿を暴く書である。たしかに「この革命家に対して非難がましいことは一言半句も述べてゐない」。しかし、そこに積み上げられた恐るべき事実を見ればそのやうな言葉が不要であることは明らかである。

 革命裁判所の判事ルノダンは、捕へられた身内の助命嘆願に来る若い娘たちを食ひ物にした。彼はそのための特別の部屋を用意してゐた。そんな有り様までも克明に描いてみせたこの本が、読者に革命を肯定する気持ち起こさせるはずがないことは明らかである。ところが、この訳者はこの本は革命を否定するものではないとあくまでも言ひはるのだ。

 実はアナトール・フランス自身、革命を否定するやうな作品を書いたことに対する釈明を求められた。フランスにあつてフランス革命を否定することは許されない暴挙と見なされたのであらう。そこで彼はかう言つたといふ、「私は革命を否定したのではない。主人公を通じて人間一般の弱さを描いただけだ」と。

 彼は共産党に入党したが、それもまた彼の人間として弱さの表れだつたのかもしれない。あくまでも作品は正直である。

 にもかかはらず、訳者は結論としてかう書いた。「『神々は渇く』はけっして反革命的な小説ではない。この小説を反動的なものとして持ち上げた者に禍いあれ!」(2005年3月29日)







 映画『半落ち』をテレビで見たが、シリアスドラマなのに笑つてしまふシーン満載だ。何せことごとくわざとらしいのだ。

 最初はまるで出演者がみんな空白の二日間を隠すために協力してゐるやうに見える。いらいらしてきて思はず「言へよ」と画面に向つて叫びたくなるのだ。

 刑事も隠すし検事も隠すし裁判長も隠す。最後には新聞記者も隠す。それぞれがその職務に従つて隠さうとするのだが、明かにこの映画の監督のために隠してゐるやうに見える。

 ところが途中から、急に真実の解明に熱心な陪席判事が出てきて、これがまたわざとらしい。「いきなりかよ」と笑つてしまふのだ。

 ドラマの本質とは「あり得べからざる出来事を何如にあり得るやうに描くか」なのだ。ところがこの映画はあり得るやうなことをあり得ないやうにばかり描いてゐる。だから深刻なシーンなのに「そんなことあるかよ」の連続になる。

 最後の裁判所のシーンは本来なら感動ものだらう。ところが寺尾聡の「知りません」で笑つてしまふのだ。それは結局、真実を隠すことの価値の大きさを、見る側に説得できないままにドラマを進めてしまつたからに違ひない。

 日本アカデミー賞作品賞受賞作品だといふが、失敗作ではないか。それにしても原田美枝子がぜんぜん原田美枝子に見えなかつたなあ。30点(平成17年3月25日)







 米国産牛肉輸入の早期再開に反対する主張の根拠に、消費者が一致して反対してゐるかのやうな論調が見られる。

 しかし、では吉野家が米牛を使つた牛丼を一日限りで復活させたときの客のあの反応は何なのか。それを見たべーカー駐日米国大使が「日本の消費者が米国産牛肉を好み、今も食べたいと思っていることを確認した」とコメントを出したが、あれは間違ひなのか。

 あの牛肉は日本の食品安全委員会が安全のお墨付きを出したものではない。それでもあの熱狂ぶりだつた。あの人たちは消費者に含まれないのか。

 食品安全委員会の手続きを踏むことは一見合理的に見える。しかし、米国産牛肉が彼らの小田原評定によつて安全になるわけではない。それどころか二十カ月未満の牛肉の安全性は、この安全委員会が何を議論しやうがすでに確認済みの事実である。

 米国産牛輸入の早期再開は、日本の消費者の強い怒りと不信に直面するどころか、むしろ歓呼の声で迎へられるのではないか。(2005年3月20日)







 「十年後にテレビはなくなる」といふ意見があながち嘘とは言へない理由の一つに,、近づいてゐる地上波デジタル放送への切替へがある。

 あと六年もすれば今のアナログ放送は終了してしまひ、いま家庭にあるテレビは、ケーブルテレビかCSデジタル放送でもつないでゐない限り、このままでは何の放送も映らなくなつてしまふのである。

 地上波デジタルのテレビ放送が映るやうにするためには、故障もしてゐないテレビを全て買ひ換へるか、地上波デジタル用のチューナーをテレビ一台ごとに一つづゝ買はなければならないのだ。

 これはテレビの愛好家にとつては重大な岐路であらう。つまり、大きな出費をしてでもこれまでどほりテレビ放送を見続けるか、それとも、あればついつい見てしまふテレビとはこの際きつぱりお別れして、何かもつと面白いことをするかを考へる絶好の機会となるに違ひないのである。

 そしてその時もし国民の間にテレビ離れが起きれば、誰かが言つたやうに「十年後にはテレビはなくなる」方向に進むことは間違ひない。(2005年3月18 日)







 「十年後にはテレビはなくなる」といふ意見にテレビ業界の人間が反発したくなるのは理解できるが、コマーシャルによつて維持されてゐる今の民放のテレビ放送は、さう長くは維持できないのではないか。

 いつたいテレビのコマーシャルをどれだけの人が見るだらう。テレビのチャンネルがリモコンで簡単に切替へられる今日、CMが始まるとチャンネルを替へてしまふ人がほとんどではないか。

 これではテレビ番組の視聴率がそのままCMの視聴率だとはとても言へまい。ビデオ録画ではCMは早送りされるので視聴率に数へないさうだが、それはビデオでなくても同じことなのだ。

 そもそも視聴者はCMにうんざりしてゐる。とくに保険と消費者金融のCMのしつこさといつたらない。あんなCMに釣られたらろくな事がないのは常識的な人間なら誰でも知つてゐることだ。

 そんなCMによつて維持されてゐるテレビがこのままいつまでも続くと考へる方がどうかしてゐるのである。(2005年3月18日)







 わたしは郵便振替の口座をもつてゐて古本屋への送金などに使つてゐるが、これは現金を直接動かさずに済む安価な送金方法でとても便利なものだ。

 今日も古本屋に送金しやうと払出票に相手の振替番号などを書いて、いつも行く特定郵便局の窓口に出した。ところが窓口の若い女性は、これは当局では受け付けられません、印鑑の登録してある郵便局に出してください、といつて突き返してきたのだ。

 いやこれは大阪の事務センターに送つてもらふだけなのだからと言つても、印鑑の照合が出来ないからといつて突き返してくる。いや印鑑の照合は大阪でするからと言つても、間違つてゐたら困るからなどといつて、頑として受け付けない。

 最後には、これは私がこれまで何度もやつてきたことなのだと言つてやつたのだが、それでも聞かない。すつたもんだの挙句に、別の男性職員が出てきてやつと受け付けたが、帰りしなに、もつと勉強してくれ、客に振替制度の説明をさせないでくれと言ひ残してきてやつた。

 それにしても長年この制度を利用してきた客に対して、自分の論理だけで議論を吹つ掛けてくるあの女職員の勇気は何だらうか。全く思ひ出すだに腹立たしい。

 郵政を民営化てしも全国の特定郵便局は残すといふ。しかし無知なくせに客と議論して追ひ返さうとするやうな人間を大量に雇ひ続けることが真の改革の名に値するかどうかよく考へて欲しいと思ふ。(2005年3月14日)







 山本七平の『日本人と中国人』の主張の一つに「日本の基準で日本を見、同時に中国の基準で中国を見るべきだ」といふのがある。

 例へば台湾にある日本の総督府の建物が今も大切に使はれてゐるのに対して、朝鮮総督府が壊されてしまつたことについて、これを日本の統治が台湾より朝鮮の方が苛酷だつたからだと思ひがちだ。

 しかし、日本の統治機構は官僚制であり、人はどんどん入れ替はるから、どちらの方でより苛酷であつたといふことは無かつたのではないか。むしろ原因は二つの地域の文化の違ひにあつたと考へるべきだらう。

 朝鮮は早くから儒教文化が深く浸透してゐる国である。そして儒教とは二主に仕へること、すなはち前の主人を忘れて次の主人に仕へることを拒否する思想である。だから、韓国人は新しい主人=日本人に徹底して反抗することを最大の美徳とした。

 それに対してもともと中国では儒教よりも道教の方が浸透してゐるうえ、端つこにある台湾には儒教はほとんど浸透していなかつた。だから台湾では韓国のやうな抵抗運動は起らなかつたのではないか。

 韓国で今だに反日が有効なスローガンになり得ることも、韓国人の考へ方の中心に今も生きている儒教を基準にして見るべきだらう。(2005年3月10日)







 堤前会長がインサイダー取引で逮捕されたが、本当にインサイダー取引だらうか。堤会長が重要な事実を隠して株を売つたとしても、それは金銭的な利益が目的ではなく、言はば企業防衛のためだつたからである。

 そしてまさにその企業防衛のために、値下がりする株を発行して買い取りを求めてゐるのがニッポン放送である。それでもお付合ひで買ふという会社がどんどん現れてゐる。これは明らかな八百長試合であらう。

 だから、もし堤氏が正直に「先代からの株の名義問題を解消するために協力してほしい」とでも言つて西武株の買い取りを求めてゐたら、値下がりの可能性はあつてもお付合ひで買ふといふ企業はいくらでもあつたのではないのか。

 さらには、虚偽名義問題が証券取引法の禁止するインサイダー情報かどうかは大いに疑はしい。なぜなら虚偽名義は違法行為なのだから本来なら公表されるべき情報ではないからである。

 西武株の問題とニッポン放送株の問題は別のニュースとして扱はれてゐるが、わたしには日本の株式市場のインチキぶりを表す一つのニュースにしか見えない。堤氏の八百長が悪いのなら日枝氏の八百長も悪いはずである。(2005年3月6日)







 ラジオといふメディアが限界に来てゐることは、インターネットによつて利用者が情報を選べることを知つてしまつた人間が日々実感することではないか。

 ラジオでは、聞き手はラジオ局が作つた構成に従つて番組を聞くしかない。ラジオ局が選んだ音楽を聞き、不愉快なニュースに付合はされ、無用な渋滞情報を聞かされ、誰かの勝手な意見を聞かされ、毎日同じこと繰り返すCMを聞かされ、さらに最近は見えない物を売るショッピングにまで付き合はされる。

 そこでわたしは、ボタンで選曲できるラジオを手に入れて、ラジオから気に入らないものが流れ出すと、すぐにチャンネルを変へてしまふやうになつた。

 最近ではそれがあまりに頻繁で面倒なので、誰かが有線放送のやうに音楽だけを流してくれるラジオ局を作つてくれないかと思つてゐたら、既にそれはインターネットラジオとして実現してゐることを発見した。これなら少なくとも嫌なニュースを聞かされる心配はない。

 それに対して、何でもあるが余計な物が多いラジオ放送は既に変るべきときに来てゐるはずだ。(2005年3月3日)







 日本人の外交政策は、今も昔も尊皇攘夷かエコノミックアニマル式かの二つしかないらしい。

 首相が靖国参拝をやめてくれたら中国は新幹線でも何でも買つてくれるのに、といふ考へ方はまさにエコノミックアニマル式の考へ方であらう。

 これは歴代の武家政権がとつて来た方針で、儲かりさへすればよいといふ考へ方だ。平清盛に始つて足利義満から徳川幕府まで、中国が日本を臣下扱ひしようがそんなことには構はず金儲けそのものを重視した。

 それに対して、経済関係の発展のために靖国参拝をやめるのは魂を売るのと同じだと批判する人たちは、かつての公家たちが中国の外交姿勢は日本を属国扱ひするものだと言つて憤慨したのに似ている。(最近のライブドア問題に関して外資規制を主張するのも一種の尊王攘夷であらう)

 ところでその武家も尊皇思想にかぶれることがあつた。それが豊臣秀吉であり戦前の軍部であらう。この両者はどちらも大陸に出兵して引つ込みが付かなくなり、国内が破綻してやつと撤兵してゐる。

 逆に言ふと、戦後のエコノミックアニマル式は昔の武家政権のやり方に戻つたといふことになる。そして山本七平の『日本人と中国人』は、それを推奨してゐるのである。(2005年2月28日)







 詳伝社刊『日本人と中国人』で秀吉の朝鮮出兵を扱つた個所の67頁「国民感情」に付いてゐる<注二-3>は

「夫に別れ妻に離れ、歎き苦しむもの天下に満つ」などとあるように、国民の間にひろがる厭戦感情をさす。

となつてゐる。

 しかし、厭戦感情は山本のいふ「物語の背後にある」ものではなく、まさにあの物語の中にあるものである。そもそもこの「国民感情」は山本七平がこの本で問ふてゐる感情、南京攻略に驚喜した「国民感情」でなくてはならない。したがつてこの注は間違つてゐると考へてよい。

 ではこの「国民感情」とは何か。それは日本が大国中国に対して持つてゐる憧れである。(ただし山本はマルクスの『資本論』に見られる形態論を使つて分析してをり、「尊皇」の別形態として「尊中」といふ言ひ方をしてゐる)

 秀吉の朝鮮出兵の目的は朝鮮ではなく明の征服だつた。そして秀吉は明を征服して天皇を北京に送らうと考へてゐたのである。つまり秀吉は日本より中国の方が上だと考へてゐたのだ。

 もちろんこの憧れの中国つまり日本人が持つてゐる中国のイメージ(内なる中国)と実際の中国(外なる中国)との間にはギャップがある。

 そして、このギャップを相手に改めさせるのが歓喜の南京攻略であり、こちらが改めるのが過去の歴史の全否定と総懺悔だつたといふわけである。(2005年2月24日)







 『日本人と中国人』を読んで何より驚くのは、日本独特のものといふイメージのある「尊皇思想」が実は中国製だといふ説であらう。

 天皇親政は後醍醐天皇以後まつたく廃れてゐたが、江戸時代に忠君としての楠木正成像が生まれた頃から思想として復活してくる。それが尊皇思想あるいは勤皇思想であつて、思想としては実は中国製だつたといふのだ。

 といふのは、後醍醐天皇に殉じた大楠公像を作りあげた人たちの中心には、中国の皇帝に殉じた人たちの列伝を扱つた『靖献遺言』といふ本があり、清朝から亡命してきた朱舜水といふ中国人儒学者がゐたからである。

 朱舜水は「日本で唯一の殉教者たる楠木正成」に中国の権威としてお墨付きを与へた人だつたし、その後の勤皇運動で有名な竹内式部が使つた本こそは『靖献遺言』だつた。

 そして、この思想にとつての象徴的出来事が湊川での水戸黄門による大楠公碑建立であり、これがその後黄門伝説といふ形をとつて一般民衆の間に広まつていくのだ。

 一方、その過程で、『靖献遺言』と朱舜水の両者がこの思想の誕生に果たした役割は忘れられてしまつたといふわけである。(2005年2月24日)







 『日本人と中国人』は既存の概念に大幅な変更を迫る本である。その内の一つに鎖国がある。鎖国といへば外国に対して国を閉ざして全く交流をもたなかつたといふイメージがある。

 しかし実際にはさうではない。それはヨーロッパに対しては宗経分離であり、中国に対しては政経分離でしかないといふのだ。

 つまりヨーロッパとは宗教的文化的な交流を排して経済的な交流だけをやり、中国とは政治的な交流はなかつたが、経済的交流や文化的な交流は盛んにやつたのである。

 特に中国との文化的な交流はめざましく、この時代には一種の中国ブームが起こり、中国関係の本のベストセラー(その代表が『靖献遺言』)がたくさん出たほどだつた。

 そしてこの中国ブームが大楠公ブームにつながり、それが現代も生きてゐる黄門伝説と尊皇思想につながつてゐると話は続く。つまり鎖国時代の中国の影響はその後の日本にとつて決定的なものだつたといふのである。(2005年2月24日)








 デジカメのおかげで、写真をとるのに写真屋に頼る必要がなくなつた。ワープロのおかげで、本を作るのに印刷屋に頼る必要がなくなつた。そして今、インターネットのおかげで、放送をするのに放送局に頼る必要がなくなつたのである。

 ライブドアの堀江氏は、マスメディアに頼ることなく、記者会見を自分でやつて自分のホームページで発表したのだ。いまやマスコミ大手によるメディアの独占は終つたのである。

 一方、ライブドアに関する経団連奥田会長の会見のニュースでは、既存メディアの限界を露呈した。

 朝日新聞が「ライブドア批判に苦言 奥田会長『時代の流れ、対策を』」と書いたの対して、他紙は「『金さえあれば』はまずい 奥田経団連会長が批判」と正反対の内容だつたのだ。

 彼らは如何にニュースを恣意的に編集しているかを、白日にさらしてしまつた。まさに新聞メディアの終わりの始まりが来ていることを自ら証明してしまつたといへる。

 国民は堀江氏の行動から当分目が離せないだらう。(2005年2月23日)







  最近出た山本七平の『日本人と中国人』の第一章に次のやうなことが書いてある。

 日本が支那事変を起こしたのは、中国の国民党政府に満州国の独立を認めさせるためだつた。そして上海事変の後、これを停戦条件とする日本の提案を蒋介石が受け入れたにも関はらず、日本軍は南京への進軍を停止することなく南京を攻略してしまつた。

 それはなぜか。原因は軍部の横暴でもなければ、政府の優柔不断でもなく、当時の日本の国民感情がさうさせたのだ。日本では国民感情が全てであつて、法律も条約もその前では無力なのである。

 この戦争でそのことを知つた周恩来は戦後の日中国交回復に際して、日本の国民感情作りを最優先にした。

 彼はニクソン大統領を日本の頭越しに訪中させることによつて、日本人の間に日中国交回復ブームを作つた。それに乗せられた日本は既存の台湾との日華平和条約を踏みにじつて日中平和条約を結んだのだと。

 感情的な世論を重視する日本人の傾向はいまも変つてゐないやうだ。それは昨今のライブドアの問題で、ルールよりも大事なものがあると声高に叫ぶ人たちにもよく表はれてゐる。

 この本は『山本七平ライブラリー13巻』(1996年文藝春秋社刊、県立図書館にある)の一部分を単行本化したものであるが、注釈を付けて読みやすくしてあり、買つて損のない本だと思ふ。(2005年2月21日)







 山本七平の『日本人と中国人』に次のやうな文章がある。

 「南京には、当時の上海在住のユダヤ人から『ゲッペルスの腹心』と恐れられたナチス党員の一商人がおり、あらゆる情報は大使館とは別の系統でナチス政府に送られ、またさまざまな指示も来て、蒋介石と密接な連絡をとって情報・宣伝に従事していたらしい。」(31頁)

 これは「南京のシンドラー」として有名になったラーベのことだらうか。

 確かにラーベはナチス党員であり商人であつた。その彼の日記は南京大虐殺の証拠のやうに言はれてゐる。しかし、その彼がナチスと蒋介石のために情報宣伝活動をしてゐたのなら、その日記の内容の真偽は疑ふべきものとならないだらうか。

 いや、やはり日記は日記てあつて、宣伝活動とは関係なく真実を伝へてゐるものと考へるべきだらうか。

 それともラーベ以外にもう一人のナチス党員が南京にゐたのだらうか。(2005年2月21日)







 『南京事件「証拠写真」を検証する』には最後にまたすごいことが書いてある。南京大虐殺を最初に世界に報じたスティールとダーディンの二人のアメリカ人記者が実は当時の中国国民党政権の協力者だつたといふのだ。

 特にかつて南京大虐殺の生き証人のやうに言はれたニューヨーク・タイムズの記者ダーディンがさうだつたとは驚いた。読んでみると分かるが、スティールと違つて、ダーディンは自ら見た中国兵に対する処刑と、伝聞による中国人被害の様子を区別して書いてゐる。

 彼の戦争経過の描写は非常に具体的であり、しつかりとした自分の言葉で書かれてゐるが、市民の虐殺のことは全部「外国人」の話であり、記事の精度が全く違ふのである。

 彼が南京陥落後の翌々日に南京を離れてゐることを考へると、その程度のことしか出来なかつたのは仕方がない。それでも彼が生き証人のやうに思はれたのは、権威ある新聞社の記者だつたからである。

 ところがその記者が蒋介石の協力者だつたとは。しかも、この記事が国民党政府の顧問であると判明したベイツの報告書を下敷きにしてゐるとも主張されてゐる。もしこれらが事実なら彼の伝聞記事の信憑性は失はれたと言はざるを得ない。(2005年2月10日)







 『南京事件「証拠写真」を検証する』によると、南京大虐殺の証拠として現在流布してゐる写真の殆んどは、昭和13年に国民党政府から頼まれたベイツやティンパーリたちが作つた反日宣伝を目的とした二冊の本に由来してゐると言ふ。

 それらの写真はよく見ると、場所が南京でないもの、南京陥落時の冬の季節に合はないもの、明らかに合成写真と分かるもの、そもそも日本兵ではないもの、などのオンパレードなのだ。

 例へば、単なるポルノ写真に「日本兵に暴行された哀れな女性」と書いて、その写真が日本兵の残虐性を証明するものとして使はれてゐたりするのである。

 しかし、それらの証拠写真のいくつかは、元々は日本の新聞記者が現地の日本兵の善良さを伝へるために撮影した写真であることが判明してゐる。

 結局、日本をおとしめる為に使へさうな写真を適当に集めてきて、適当なキャプションを付けて作られたのがこれらの本の実態らしい。しかし「戦略より宣伝を」をスローガンとした当時の中国政府にとつては、それが絶大な効果をもたらした。

 何故ならこれらの写真のために、多くの日本兵が戦犯として処刑されただけでなく、南京大虐殺の存在を何が何でも信じる人たちが今でも日本に沢山ゐるほどなのだから。(2005年2月7日)






 アップルのibookが安くなつたので購入を検討してゐたが、ACアダプターがいただけない。コンピュータ本体に接続するプラグがチャチでコードが細すぎるのだ。

 一般にACアダプターの弱点は本体に接続するプラグとコードのつなぎ目にある。日本のメーカーのものは、最近ではたいていつなぎ目の部分が蛇腹の軟らかいゴム様の覆ひによつて厚く保護されてゐるが、アップルのものにはそれがない。しかもコードが非情に細い。

 一方、ibookの電源は本体の後ろではなく横側にある。そのために、本体にコードをつないで使ふと机の上の物がコードに当たりやすい。したがつて、プラグと細いコードの接続部分が容易に断線することが考へられる。実際、そのやうなレポートをネット上で二三見かけた。

 なぜこんなアダプタなのか。それはアップルがibookやPowerbookについては充電池による使用を想定してをり、日本人がよくやる電源コードに繋いだままの使用を想定してゐないからである。

 とはいへ、もともとアップルのコンピュータを買ふといふことは、格好良さの代償としてウインドーズ用の多くのソフトが使へないことを我慢しなければならないハンデを背負ふことである。その上にハードウェアの弱点を背負ひこむのは耐えられない。

 新しいibookは先進のOSを備へ、駆動時間が六時間の充電池をもち、しかもワイヤレス接続カードも裝備してをり、ウインドーズのノートブックに比べて格段に割安であるが、こんな欠点があるので買へない代物なのである。(2005年2月7日)







 『南京事件「証拠写真」を検証する』を買つてきた。この本はその名のとほり写真に関する本であるが、その前に南京戦の概要が書いてあつてなかなか面白い。

 その中でまづ驚かされるのは西安事件を盧溝橋事件を結びつけて書いてゐることである。

 昭和二年から始まつた蒋介石による北伐に悩まされてゐた毛沢東は、その矛先をそらすために抗日戦をしきりに主張する。抗日戦と言つても、当時日本と中国は戦争状態にはない。だから共産党は日中戦争を起こす必要があつた。

 そこへ都合よく西安事件が起きて蒋介石は共産党との内戦を停止せざるを得なくなる。そして、その七か月後に盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まるのだ。

 おかげで共産党は蒋介石の攻撃から逃れて、第二次大戦が終はるまでの間、力を蓄へる時間を得る。力を蓄へた共産党は後に国民党に勝つて中国の支配権を手にするのだ。

 ここから私には西安事件も盧溝橋事件も共産党の謀略ではないかと思はれてきた。そしてこの推測は専門化の間ではかなり一般的なものらしいのだ。

 さらにもしこの推測が事実なら、中国が批判する日本の侵略戦争は、当時の共産党によつて巧みに引き込まれたものに過ぎないことになる。(2005年2月6日)







 前歯の差し歯がはずれた。白い歯の並びの一カ所だけが黒く見える。非常に滑稽である。しかし、ほかの歯も黒ければ、この抜けた個所が目立つことはないはずだ。ここから、昔の人が使つてゐたお歯黒とは、この歯抜けを目立たなくさせる方法なのではないかと思へてきた。

 そもそも歯が白くてきれいなのは若いうちだけである。特に女性は子供を産んだりすると歯が抜けたり変色したりする。それをきれいに見せるには全部を黒く塗ればいいのだ。そしてそれがおしやれとして定着したのではあるまいか。

 今のやうな歯医者がない昔のことだ。お歯黒はきつと歯抜けをごまかすために始められたに違ひない。

 一方、禿頭の年寄りは、そこを黒く塗る代はりに、きれいに剃つてしまうことにした。それがちよんまげの月代(さかやき)の起源ではないか。中国人の弁髪はそれがもつと進んで頭の後ろだけを残して全部剃つてしまつたのだ。

 風習とは不思議な物だが、その起源は案外こんなごまかしから始まつたのではないか。

 ところで、最近のテレビ番組のなかの替え歌の歌詞が傑作だつたので、ここに書き写してをく。

『ビビデバビデブー』の替歌で『地味でダメです』唄 堀一親 

職がなくて金がなくてチビでハゲです
秘密の靴履いても150です
50過ぎて嫁がなくて地味でダメです
ゴリラ顔で見合いも5連敗です
借金の取り立てでちびる日々です
橋の下で寝泊まり、こんな僕の夢と言へば別にないです
(TBSテレビ『さんまのからくりTV』2005年1月23日放送より)

 この番組ではその他にも、『ペッパー警部』の替歌が『めっちゃーデブ』(1月30日放送)だったりと、語呂合はせがあまりにもよく出来てゐるので、きつと優秀な作家が素人の出演者に取材して作つたものを素人に歌はせてゐるのだと思ふ。(2005年1月31日)







 日本の若い人たちの価値観はいまや快楽主義が支配的である。その最も顕著な表れがオリンピックで金メダリをとつた北島康介選手の「チョー気持ちいい」であらう。若者たちにとつていまや人生は楽しむためにある。そしてこの快楽を教義とする宗教の最大の祭典がクリスマスなのだ。

 彼らは「楽しむために生きる」のであるから、当然楽しむために働く。これはいま日本を支配してゐる人たちの世代の価値観とは正反対である。この世代の人たちは義務として生き、義務として結婚し、義務として働いてゐる。

 ただし、若い世代も楽しむために結婚することはできない。「できちやつた結婚」が示す通り、それは楽しんだことの結果でしかない。つまり、結婚とは若い世代にとつては楽しむための人生の副産物であつて、人生の主要な目的ではない。

 結婚が人生の目的でなくなれば、それを維持するための労働も目的ではなくなり、その結果、働かない若者が増えるのも当然である。

 義務としての人生といふ価値観を育てたのは戦前の日本であつて、戦後の日本はこの価値観を捨てた。「生きたいやうに生きればよい」といふ考へ方が支配的になつた。若者たちはその価値観に従つてゐるだけである。

 しかし世界の歴史上の支配者たちは禁欲主義(Stoicism)を尊び、快楽主義を退けてきた。快楽主義を唱へたエピクロスのテキストは廃棄された。彼らは快楽主義に従へば社会が立ちゆかなくなることを知つてゐたのであらう。

 実際、人々がつらいことをしなくなれば社会は維持できなくなる。早い話、女はつらい出産と面倒な子育てを望まなくなる。男は働かなくなり、結婚しなくなる。

 しかしどの国も豊かになれば快楽主義になる。そして、そのやうな国は歴史上では後発の貧しい禁欲主義の国に滅ばされてきた。さてこの国の快楽主義の行き先はどこだらうか。(2005年1月8日)







 ゲーテは「イタリヤ人は楽しむために働いてゐる」と言つたさうだ。それに対して、仕事のない南部イタリヤの人たちは、「だから俺たちはまづ楽しんでゐるのさ」と答へたといふ。

 日本でも「楽しむために働く」といふ考へ方が広がつてをり、それと同時に、就職できずに「まづ楽しむ」ことにした若者たちも増えてきた。それが政府のいふニートであらう。

 義務で働き義務で生きてゐる世代と、楽しむために働き楽しむために生きてゐる若い世代との断絶は大きい。

 若い世代で就職してゐる人たちも、実は「楽しむために生きる」といふ価値観を器用に隠して就職してゐるにすぎない。働かない若者も初めから働く気がないのではなく、人並みに就職にチャレンジしたが、その不器用さゆえに何度も失敗してあきらめてしまつたのである。

 要するに問題のありかは世代間の価値観のギャップにあると考へられる。もしさうなら、将来「楽しむために生きる」世代が支配的になつて、就職試験で嘘をつく必要がなくなれば、働かない若者も自然になくなるだらう。(2005年1月7日)







 男女平等の労働環境が整へば日本の少子化問題は解決すると言はれてゐるが、果たしてさうだらうか。なぜなら男女平等が遅れてゐた昔の方が出生率は高かつたからである。

 問題は男と女の間ではなく、家庭と会社の間にある。日本では仕事と家庭とでは仕事の方が大切である。

 一方、出生率の高いアメリカではさうではない。かつて子供が病気になつた阪神のバース選手はシーズン中でも米国に帰つてしまつた。しかし、それはアメリカでは当然なのだ。

 アメリカの高い出生率を見習ひたければ、アメリカの家庭第一の価値観を見習ふべきだらう。

 子育ての問題も同じである。育児休暇を取る取らないの問題ではない。制度をいくら作つても価値観が変はらなければ同じである。

 家庭のことで会社に迷惑をかけられないといふ考へ方をまづやめる必要がある。これは男も女も同じである。その上で子育てのための制度が整備されるなら、きっと少子化問題は解決するはずだ。(2005年1月1日)

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