『靖献遺言』(読み下し版)


 
浅見絅斉編著

原文の一部はこ ちら

遺言は本文中太字の部分であり、
他の部分はその遺言の背景を説明するための文章。
多くは朱子などをもとにして絅斎が書いた文章、
《》はその中にさらに注釈として絅斎が
朱子などをもとにして小文字で書いた部分。
○は原文に書かれた区切りの印。
()はこのページの作者による歴史的仮名遣による振り仮名。
(=)はこのこのページの作者による説明か解釈である。

巻の一


 離騒懐沙賦《沙石を懐抱して以て自ら沈むを言ふ》

  楚屈平


 平、字(あざな)は原(=前343頃~前277頃)。楚と同姓なり。懐王(=在位前328~前298)に仕へて三閭大夫(さんりよたいふ)となる。三閭の職は、王族の三姓を掌(つかさど)る。曰く昭・屈・景。

 平、その譜属を序(じよし)て、その賢良を率ゐて、以て国士を厲(はげ)まし、入りては則ち懐王と政事を図議(とぎ)し嫌疑を決定し、出ては則ち群下(=臣下)を監察し諸侯に応対し、謀(はかりごと)行はれ職脩(しよくをさ)まる。懐王、甚だこれを珍とす。

 同列の上官大夫その能を妬害し、因てこれを譖毀(しんき=そしる)す。懐王、平を疏(うと)んず。平、讒を被り憂心煩乱、愬(うつた)ふる所を知らず。乃ち『離騒』を作り、上、唐虞三后(たうぐさんこう)の制を述べ、下、桀紂羿澆(けつちうげいげう)の敗を序し、君、覚悟し正道に返りて己(おのれ)を還さんことを冀(こひねが)ふなり。


 この時、秦、張儀をして懐王を譎詐せしめ、斉の交を絶たしむ。楚、大(おほい)に困(くるし)む。後、儀また楚に来り、また幣(へい=贈り物)を、事を用ふる(権力を振るふ)臣靳尚(きんしやう)に厚くして、詭弁を懐王の寵姫鄭袖(ていしう)に設(まう)く。懐王、竟(つひ)にまた張儀を釈(ゆる)し去る。

 時に平、既に疏んぜられまた位に在らず。斉に使し、顧反(=帰国)して懐王を諫めて曰く「何ぞ儀を殺さざる」と。懐王、儀を追ふ。及ばず。秦、また懐王を誘(いざな)ひ倶に武関に会す。平また懐王を諫め行くことなからしむ。聴かずして往き遂に脅すところとなり、これと倶に帰り拘留して遣(や)らず。卒(つひ)に秦に客死す。

 而して子襄王立ち、また讒言を用ひ、平を江南に遷(うつ)す。平また『九歌』『天問』『九章』『遠遊』『卜居』『漁夫』等の篇を作り、己の志を伸べ以て君の心を悟らしめんことを冀ふ。而して終に省せられず。その宗国の将(まさ)に遂に危亡せんとするを見るに忍びず、遂に汨羅(べきら)の淵に赴き、石を懐きて自ら沈んで死す。


 伝に曰く「夫(そ)れ、天は人の始なり。父母は人の本なり。人、窮すれば則ち本に反る。故に労苦倦極、未だ嘗て天を呼ばずんばあらず。疾痛惨怛、未だ嘗て父母を呼ばずんばあらず。」

 屈平、道を正し行を直し忠を竭(つく)し智を尽し、以てその君に事(つか)へ、讒人(ざんじん)これを間(かん=疑はせる)す。窮すと謂ふべし。その志潔し。故に其の物を称すること芳し。その行ひ廉なり。故に死して容れられず。濁穢(だくわい)の中に蝉蛻(せいぜい)して、以て塵埃(じんあい)の外に浮游し、世の滋垢(じこう)を獲ず。皭然(しやくぜん=潔白)として泥して滓(けが)されず。この志を推すに日月と光を争ふと雖も可なり。


 朱子(=朱熹1130~1200)曰く「原の人たる、その志行(しかう)或は中庸を過ぎて以て法となすべからずと雖も、然れどもみな君に忠し国を愛するの誠心に出づ。原の書たる、その辞旨(じし)或は跌宕(てつたう)怪神(かいしん)怨懟(えんつい)激発に流て、以て訓となすべからずと雖も、然れどもみな繾綣(けんけん)惻怛(そくだつ)、自ら已む能はざるの至意に生ず。

 「其の北方(=河北)に学んで以て周公仲尼の道を求むることを知らずして、独り変風変雅の末流に馳騁(ちてい=奔放)し、故を以て醇儒荘士(=正当な学者)、或はこれを称するを羞づると雖も、然れども世の放臣(はうしん)屏子(へいし)怨妻(ゑんさい)去婦(=捨てられた臣子妻婦)をして下において汶涙(ぶんるい)唫謳(ぎんおう)し、天とする所の者(=捨てた君父夫)をして幸にしてこれを聴かしめば、則ち彼比の間、天性民彛(民彜=みんい=道徳)の善において、豈に以て交り発する所ありて夫(か)の三綱五典(=君臣父子夫婦の間の秩序)の重を増すに足らざらん。此れ予の毎(つね)にその言(=逸話)を味(あぢは)ふことありて、敢て直(ただ)に詞人の賦を以てこれを視ざる所以なり」(=朱子『楚辞集注序』=朱子文集76より)


浩浩たる沅湘(げんしやう)、分流して汨(いつ=急流)たり。脩路(=長途)幽蔽し、道遠忽(えんこつ)たり。曾(かさね)て傷み爰(ここ)に哀み、永く嘆喟(たんき)す。世溷濁(こんだく)し、吾を知るなし。人心謂ふべからず。質(=素直さ)を懐き情(=本心)を抱きて、独り匹(たぐひ)なし。伯楽既に没す。驥焉(いずく)んぞ程(はか=力試し)らん。民生(=天性)、命を稟(う)け、各(おのおの)錯(お)く所あり。心を定め志を広めば、余何ぞ畏懼せん。死の譲るべからざるを知る。願くは愛(をし)むなからん。明(あきらか)に君子に告ぐ、「吾将に以て類(のり)とならん」と。(=『楚辞』懐沙より)


 『漁夫の辞』に曰く「屈原既に放たれ、江潭に游び、沢畔に行吟す。顔色憔悴し、形容枯槁(こかう)す。漁父見てこれを問て曰く『子は三閭太夫にあらずや。何の故にここに至る』と。屈原曰く『世を挙て皆濁り、我独り清む。衆人皆酔ひ、我独り醒む。これを以て放たる』と。

 「漁父曰く『聖人は物に凝滞せず、よく世と推移す。世人皆濁らば、何ぞその泥を淈(にご)して、その波を揚げざる。衆人皆酔はば、何ぞその糟を餔(くらひ)て釃(し)を歠(すす)らざる。何故に深く思ひ高く挙り、自ら放たしむるをなせる』と。

 「屈原曰く『吾これを聞けり。新に沐する者は必ず冠を弾き、新に浴する者は必ず衣を振ふと。安んぞ能く身の察察(=潔白)たるを以て、物の汶汶(もんもん=汚れ)たるを受くる者ならんや。寧ろ湘流(=湘江)に赴き江魚の腹中に葬らるも、安んぞよく皓皓(=潔白)の白きを以てして、世俗の塵埃を蒙らんや』と。

 「漁父莞爾として笑ひ、枻(えい=船べり)を鼓して去る。乃ち歌ひて曰く『滄浪の水清まば、以て吾纓(=冠の紐)を濯ふべし、滄浪の水濁らば、以て吾足を濯ふべし』と。遂に去てまたともに言はず」


 朱子また『反離騒』に叙して曰く「『反離騒』は漢の給事黄門郎、《句(くぎり=二主に仕へたことを示す)》新莽(しんまう)が諸吏中散大夫(ちゆうさんたいふ)、楊雄(やういう=前53~後18)の作る所なり。雄、少(わか)くして詩賦を好み司馬相如(しばしやうじよ=前179~前117)が作る所を慕て式(のり)となす。

 「また屈原の文、相如に過ぎ、容れられざるに至り『離騒』を作り自ら江に投じて死するを怪しみ、その文を悲みこれを読て未だ嘗て涕(なみだ)を流さずんばあらず。以為(おもへ)らく、『君子時を得ば則ち大いに行ひ、得ざれば則ち竜蛇(=隠遁)す。遇不遇は命なり。何ぞ必しも身を湛(たた=沈める)へんや』と。廼(すなは)ち書を作り、往往『離騒』の文を摭(ひろひ)てこれを反(ひるがへ)し、岷山(びんざん)より諸(これ)を江流に投じ、以て原を弔ふと云ふ(=『漢書』卷八十七揚雄伝より)。

 「始め雄、学を好で博覧、勢利(=権勢と利益)に恬(てん=平然)なり。漢に仕へ三世、官を徙(うつ)さず。然るに王莽が安漢公となる時、雄『法言』を作り、已にその美を称して伊尹周公に比し、莽漢を簒(うば)ひ帝号を窃(ぬす)むに及んで、雄遂にこれの臣たり。耆老(きらう)久次(きうじ=年功)を以て転じて大夫となり、また相如が封禅(ほうぜん)文に放(なら)ひ『劇秦美新』を献じて以て莽が意に媚び、書を天禄閣の上に校することを得たり。


 「劉尋(=劉歆の子)《漢書を按ずるに尋はまさに棻に作らんとす》ら符命(=未来記)を作るを以て、莽が誅する所となるに会ふ。辞連ねて雄に及ぶ。使者来たりてこれを収めんと欲す。雄恐懼し閣上より自ら投下し、幾(ほと)んど死す。

 「これより先、『解嘲(=弁明)』を作り『爰に清、爰に静、神の廷に遊ぶ。惟だ寂、惟だ寞、徳の宅を守る』の語あり。ここに至て京師(=人々)これが語をなして曰く『爰に清静、符命を作り、惟だ寂寞、自ら閣より投ず』と。雄因て病免(=病と称して辞職)す。

 「既にしてまた召され大夫となり竟に莽が朝に死す。その出処の大致(=大体)の本末かくの如し。豈にそれ所謂竜蛇なる者や。然れば則ち雄固より屈原の罪人なり。而してこの文は乃ち『離騒』の讒賊なり。他になほ何をか説かんや」


 司馬光曰く「王莽、龔勝(きようしよう=前68~前11年)の名を慕ひ、沐(浴びせる)するに尊爵厚禄を以てし、却(かへ)すに淫威重勢を以てして、必ずこれを致(=招く)さんとす。勝、逼迫に勝(た)へず。食を絶ちて死す。

《漢の龔勝、名節(=名誉と節操)直言を以て著じるしく、哀帝崩じ王莽政を秉(と)るに会ふや、骸骨(=引退)を乞ひ郷里に帰老す。莽既に国を簒ふに及び、使者を遣し即ち勝を拝し講学祭酒(=役職名)となす。勝疾と称して応ぜず。後、莽また使者を遣し勝を迎ふ。使者、郡太守・官属・諸生千人以上と勝の里に入り、詔(みことのり)を致し、使者勝をして起迎(たちむか)へしめんと欲す。勝、病篤しと称す。使者入りて勝に謂ひて曰く「聖朝君を待ちて政を為す」勝対(こたへ)て曰く「命(いのち)朝夕にあり、道を上れば必ず死す。万分を益(えき)するなし」。使者印綬を以て就(すなは)ち勝の身を加ふるに至る。勝輒ち推して受けず。使者、勝の子及び門人らの為に言ふ、「朝廷心を虚しくして君を待つ。茅土(ばうど=領土)の封を以て、疾病と雖も宜しく動移して伝舎(でんしや=宿屋)に至り行意(=行く気)あるを示すべし。必ず子孫の為に大業を遺さん」門人ら使者の言を白(まを)す。勝曰く「吾漢家の厚恩を受く。以て報ずる亡く、今年老い、旦暮(たんぼ)地に入らん。誼(よ)し豈に一身を以て二姓に事へんや、下(=あの世)に故主を見るかな。因りて勅(いま)しむるに棺斂(かんれん=納棺)喪事(=葬式)を以てし、衣は身に周り、棺は衣を周る。俗に随ふなかれ」語り畢りて、遂にまた口を開きて飲食せずして、十四日を積みて死す。時に七十九。(=『漢書』巻七十二より)》

 「班固、薫膏の語を以て譏る。

《漢書の龔勝伝末に云ふ。老父あり来りて弔ひ、哭して甚だ哀しむ。既にして曰く「嗟虖(ああ)、薫(くん=香草)は香(よい香り)を以て自ら燒き、膏(=白い肉)は明(よい色)を以て自ら銷(き)ゆ。龔生きて竟に天年(=天寿)より夭(わかじに)す。吾徒にあらず(=人並みでないことで命を縮めたこと)」遂に趨(はし)りて出づ。その誰なるかを知るなし。》

 「未だ為にこれを弁ずるあるを聞かず。大いに哀しまざるべけんや。むかし紂不道をなし四海を毒痡(どくほ)す。武王天下の困窮に忍びずしてこれを征す。而るに伯夷・叔斉(はくい・しゆくせい)深くこれを非とし、義にして、周の粟を食はずして餓死す。仲尼(=孔子)なほこれを称して仁と曰ふは、以てその節を殞(お)とさずとなすのみ。

 「況や、王莽、漢の累世の恩に憑(よ)りながら、その継嗣衰絶に因て、詐偽を飾りてこれを盗み、また清士(=龔勝)を誣洿(ふお=騙し汚す)するに、その臭腐の爵禄を以てせんと欲し、甘言諛礼(かんげんゆれい)必致(=招致)に期し、智を以て免るべからず、義を以て譲(=遁れる)るべからざるにおいてをや、則ち志行の士、死を舎(す)てて何を以てその道を全うせんや。


 「或者(=上記の老父)、其の芳(かをり)を黜(しりぞ)け明を棄ててもその天年を保つべきを、能はざりしを謂ふ。然らば則ち(=しかしそれでは)虎豹の鞹(かわ)、何を以て犬羊の鞹に異ならん。庸人(=凡人)の行ひ、孰れか此のごとくならざらん。

 「また(=ある人は)其(=龔勝)の詭辞曲対、薛方(せつぽう)が若(ごと)く、然らざるを責む。

《漢末の清名の士、斉に薛方あり。莽、国を簒ふに及んで安車を以て方を迎ふ。方、辞謝して曰く「尭舜上にありて下に巣由(=巣父と許由)あり。いま明主はまさに唐虞の徳を隆くし、小臣は箕山の節を守らんと欲するなり」と。使者、以聞(いぶん=奏上)す。莽その言を説(よろこ)び強いて致さずと」》

然らば則ちまさに未だ謟(たう=疑ひ)に免れざらんとす。豈に能く賢と曰はんや。故に勝、無道に遭遇する、此に及びて窮(きはま)れり。

 「節を失ふの徒

《班固を指すなり。漢の竇憲(とうけん)外戚を以て権を専らにす。後、遂に逆を謀りて和帝これを誅す。固(=班固)、憲の客たるを以て亦た獄中に死す》

忠正を排毀(はいき)して以て己が非を遂げ、察せざる者また従(より)てこれに和す。太史公称す、「伯夷叔斉も、孔子あらざれば則ち西山の餓夫にして、誰かこれを識知せん」とか信なるかな=(本当だな)」


 朱子曰く「今の世人多く道(い)ふ、『東漢(=後漢)の名節(=名誉と節操)、事に補ふなし』と。某(なにがし)謂ふ、『三代(=夏殷周の三王朝)より下る(=劣る)』と。惟だ東漢の人才、大義その心に根ざし、利害を顧みず、生死も変せず。その節、自ら是保つべし。未だ公卿大臣を説かず(=言ふまでもない)。且(まさ)に当時(=今)の郡守が、宦官の親党を懲治(ちようち)するが如し。

 「前なる者既に治する所となると雖も、来者またその迹(あと)を蹈(ふ)み、誅殛(ちゆうきよく)竄戮(ざんりく=処罰)、項背(かうはい)相望み(=陸続)、略ぼ創(こり=懲)る所なし。

 「今の士大夫、顧惜(こせき)畏懼(いく)して、何ぞ其の此の如きを望まん。平居(へいきよ=平日)暇日(=暇な日)、琢磨(たくま)淬厲(さいれい=鍛へる)して、緩急の際、尚ほ退縮を免れず。

 「況や游談(ゆうだん)聚議(しゆうぎ)、習ひて軟熟(なんじゆく=軟弱)をなし、卒然警(=危急の知らせ)あれば、何を以て其の節に仗(よ)り義に死することを得ん。大抵は、義理を顧りみず、只だ利害を計較(けいかう)するのみ。皆な奴婢の態にして、殊に鄙厭(ひえん=唾棄)すべし」(=『朱子文集』第三十五、佐藤直方著『講学鞭策録』所収)


 また曰く「荀淑(じゆんしゆく)、梁氏の事を用ひるの日に正言して

《順帝崩じ太子幼し。梁の太后朝に臨ず。太后の兄の大将軍梁冀(りようき)事を用ひて跋扈す。時に日食地震の変あり。淑、索(=下問)に対(こた)へて貴倖(=寵愛される人)を譏刺(きし=批判)し、冀の忌む所となり、遂に官を弃(す)てて帰る(=『後漢書』)》

 而してその子爽、已に跡を董卓命を専らにするの朝(てう)に濡(ぬら=とどめる)す。

《范曄(=398~445後漢書の著者)曰く「董卓の朝に当るに及んで、爽及び鄭玄・申屠蟠、倶に処士を以て召し、蟠・玄、竟に屈せず以て高尚を全うす。爽、已に黄髮(=老齢)独り至る。未だ十荀(=百日)せずして卿相(けいしやう)を取る。意(おも)ふ者は、其の趨舎(すうしや=進退)に乖(もと)るを疑ひ、余(=他の者)は窃かにその情を商(はか)る。以為らく、跡を濡(ぬら)し以て時を匡(ただ)すか。然らずんば則ち何為れぞ貞吉(=幽人貞吉=無名の美徳)に違ひて虎尾を履(ふ)まん」と》
      
  「その孫彧(ゐく)に及び則ち遂に唐衡(=東漢の宦官、五侯の一人)の壻(むこ)、曹操の臣となる。而して以て非となすを知らず。

《彧は爽の兄緄(こん)の子なり。緄は宦官を畏憚(いたん)して乃ち彧の為に中常侍唐衡の女を娶る。後に曹操の謀主(=政策立案者)となりて死す。中常侍は宦者の官名、朱子また尤延之(いうえんし=朱子の門人)及び潘叔昌に答へた書において詳しく彧の失身(=操を失ふ)の本末を断ず》

 「蓋し剛方直大の気、凶虐の余りに折れて、漸く、身を全うし事を就(な)す所以の計を図る。故に、淪胥(りんしよ=共に沈む)して此に至ることを覚らざるのみ。想ふに、その当時、父兄師友の間、亦た自ら一種の議論、文飾蓋覆(がいふく=飾りで隠すこと)して、驟(にはか)にこれを聴く者、その非をなすを覚らずして、真に以て是れ必ず深謀奇計、以て万分ある一の中に国を治め民を救ふ可きことありと為さしむるありと。邪説横流、洪水猛獣の害より甚しき所以なり。孟子、豈に予を欺むかんや」(=朱子文集三十五、明徳出版社刊朱子学体系の『朱子文集』には未収録)


 黄幹(=朱子の弟子黄勉斎)曰く「陳太丘(=陳寔)、張譲《宦官の名》が父の喪を送る。人以て(=それを見て)善類(=善人)の頼(より=そのお蔭で)て以て全活(=その身を全うする)する者甚だ衆(おほし)となす。前輩(ぜんぱい=先輩)も亦た以て太丘は道広し(=交遊が広い)となす。

 「嘗て窃かにこれを疑ふ。此の如くなれば則ち尺を枉げ尋(=八尺)を直くして(=一尺を曲げても八尺が真直ぐならよしとする)、而もなすべきか。士君子、己を行ひ身を立てる。自ら法度あり、義ありて命あり。豈に宜しく以て法となすべし。

 「天地此の如くそれ広く、古今此の如くそれ遠く、人物此の如くそれ衆し。便ち東漢の善類尽(ことごと)く宦官の殺す所とならしむるとも、世亦た曷(なん)ぞ嘗て善類無からんや。若し是れ真に丈夫ならしめば、また豈に宦官の禍を畏れて太丘、此の如くの屈辱に藉(よ)りて、以てその身を全うせんや。吾人(ごじん)此等の処において直ちに須く見得て分明なるべし。然らずんば、未だ坑(あな)に堕ち塹(ほり)に落ちざる者あらず(=必ず落ちる)」

 右、類に因て後に付録す。後、皆此に傚(なら)へ。




巻の二

 出師(=出兵)の表 
 
  漢の丞相武郷侯諸葛亮


 亮、字は孔明。瑯琊(らうや)の人なり。襄陽の隆中(=山の名)に寓居し、隴畝(ろうほ=田んぼ)に躬畊(きゆうかう=自ら耕す)す。時に漢室衰乱し四海分裂し姦賊相ひ争ふ。

 涿郡(たくぐん)の劉備といふ者、景帝の子中山靖王の後(=子孫)なり。自ら王室の胄(ちう=血筋)なるを以て微賤より兵を起して以て興復を図る。是を昭烈皇帝となす《後、位につき崩じて後の諡(おくりな)なり》。

 荊州にありて未だ志を得ず、士(=指導者)を襄陽の司馬徽(しばき)に訪(と=尋ねる)ふ。徽、亮を以て答ふ。徐庶(じよしよ=劉備の臣)亦た昭烈(=劉備)に謂て曰く「諸葛孔明は臥竜なり。将軍豈にこれを見ることを願ふや」昭烈曰く「君、ともに倶(とも)に来れ」と。庶曰く「此の人、就(つき=赴い)て見るべく、屈致(くつち=呼付け)すべからず。将軍宜しく駕を枉げて(=わざわざ)これを顧(かへり=訪れる)みるべし」と。昭烈、是に由て亮に詣(いた)る。

 凡そ三たび往き乃ち見る。昭烈、因りて曰く「漢室傾頽し姦臣(=曹操)命を窃み、孤(=私)徳を度(はか)り力を量らず、大義を天下に信(の)べんと欲す。計、将に安(いづ)くに出でん」と。亮、為に索を画して曰く「将軍は既に帝室の胄。信義、四海に著(あら)はる。百姓(=人民)、孰(たれ)か敢て箪食壺漿(たんしこしやう=食事を用意する)して以て将軍を迎へざる者あらん。誠に是の如くならば則ち漢室興るべし」と。

 昭烈これを善とす。亮、是れより昭烈に従ひ険を履み力を竭して以てこれを相(たす)け、呉に約し曹を破り、遂に荊蜀(=地名)を定めて以て興復の基となす。

 既にして曹丕、献帝を廃し、位を簒ひ号を僭す《是れ魏たり》。蜀中伝言す「帝(=献帝)已に害に遇ふ(=殺された)」と。是において昭烈喪を発し服を制し、遂に「漢中王」より皇帝の位につき改元して、亮を以て丞相となし国事を委(まか)す。

 継いで昭烈、呉を討(たう)じ永安に還りて病篤し。乃ち亮に命じて太子禅を輔けしむ。亮に謂ひて曰く「君、必ず能く終に大事を定めん。嗣子輔くべくはこれを輔けよ。その不可なるが如くば、君自ら取るべし」。

 亮、涕泣して曰く「臣敢て股肱の力を竭し忠貞の節を効(いた)し、これに継ぐに死を以てせざらんや」と。

 昭烈また禅に詔勅して曰く「悪小なるを以てこれを為すなかれ。善小なるを以てこれを為さざるなかれ。惟だ賢、惟だ徳、以て人を服すべし。汝、丞相と事に従ひこれに事ふること父の如くせよ」遂に崩ず。

 亮既に遺詔を受け、喪を奉じて成都に還り、禅位につく。是を後帝と称す。時に年十七。亮を封じて武郷侯となす。政事咸(あまね)く決を取る。亮乃ち官職を約し法制を修め、教へを群下(=臣下)に発して以て直言を求む。

《其(=諸葛亮)の教て曰く「夫(そ)れ参署する者(=役人)は衆思を集め忠益を広めるなり。若し小嫌(=遠慮)を遠ざけ相違を覆(くつがへ)し難ければ、曠(むな)しく闕(あやま)ちて損ぜん。違を覆して中るを得るは、猶ほ敝(やぶ)れ蹻(わらぐつ)を棄て珠玉を獲るがごとし。然るに人心尽す能はざるを苦しむ。惟だ徐元直(=徐庶)は茲(ここ)に処して惑はず、また董幼宰(=諸葛亮の片腕)は参署すること七年、事至らざる有れば、十たび反へり来りて相ひ啓告(=相談)するに至る。苟も能く元直の十に一、幼宰の勤渠(きんきよ=努力)、国に忠あるを慕へば、則ち亮、過ち少なかるべし」と。また曰く「昔、初めて州平(=崔州平)と交はり、屡々ば得失を聞き、後、元直と交はり、勤めて啓誨(=教へ)を見る。幼宰は言ふ毎(ごと)に則ち尽し、偉度(=胡済)は数々(しばしば)諫正あり。質性、鄙暗(ひあん=下品で愚か)にして悉く納める能はずと雖も、然れど此の四子と終始好合(=仲良く)し、亦た以て疑はざるをその直言において明らにするに足るなり」と。州平は崔烈の子、偉度は亮の主簿胡済なり(=正史三国志蜀書)》

 必ず姦凶を攘除(じやうじよ=排除)し漢室を興復するを以て己が任となす。既に雍闓(ようかい=蜀の南部で反乱を起こした豪族)等を討じ南中(=蜀の南部)を定む。建興五年、諸軍を率ゐ出でて漢中を屯(=陣取る)して以て中原を図る。発するに臨みて表(=奏章)を上(たてまつ)ると云ふ。


臣亮言ふ。先帝業を創(はじ)むるに未だ半ばならず。而して中道にして崩殂(ほうそ)す。いま天下三分し益州(=四川省)は疲敝(ひへい)す。此れ誠に危急存亡の秋なり。然るに待衛(じえい=近衛)の臣、内に懈(おこた)らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇(=特別待遇)を追ひ、これを陛下に報ひんと欲するなり。

誠に宜しく聖聴を開張して以て先帝の遺徳を光(かがや)かし、志士の気を恢弘(くわいこう=広げる)すべし。宜しく妄りに自ら菲薄(ひはく=卑下)し、喩(たと=前例)へを引き、義を失ひて、以て忠諌(ちゆうかん)の路(みち)を塞ぐべからず。

宮中(=宮廷)府中(=役所)、倶に一体となり、臧否(ざうひ=功罪)を陟罰(ちよくばつ=賞罰)するに、宜しく異同(=不一致)すべからず。若し姦を作(な)し科を犯し、及び忠善をなす者あらば、宜しく有司(ゆうし=役人)に付し、その刑賞(けいしやう)を論じて、以て陛下平明(=公平)の治を昭(あき)らかにすべく、宜しく偏私(=えこひいき)して内外の法を異にせしむべからず。

侍中侍郎(=近習)の郭攸之(かくゆうし)・費褘(ひい)・董允(とういん)等は此れ皆良実、志慮(=こころざし)忠純。是を以て、先帝簡抜(=選抜)し、以て陛下に遺(のこ)す。

愚(=私)以為(おもへ)らく、宮中の事は事の大小無く、悉く以てこれに諮り、然る後施行せば、必ずや能く闕漏(けつろう=欠点)を裨補(ひほ=補ふ)し、広益(=世のため)する所有らん。

将軍の向寵(しようちよう)、性行は淑均(=公平)、軍事に曉暢(げうちやう=詳しい)す。昔日に試用せられ、先帝これを称して能と曰ふ。是れを以て衆議して、寵を挙げて督(=指揮官)となす。

愚以為らく、営中の事は事大小と無く、悉く以てこれに咨(はか)らば、必ずや能く行陣(かうじん)和睦し、優劣所を得しめん。


賢臣を親しみ小人を遠ざくる、此れ先漢(=前漢)の興隆する所以なり。小人を親しみ賢人を遠ざくる、これ後漢の傾頽(けいたい)する所以なり。先帝在(いま)す時、毎に臣と此の事を論ず。未だ嘗て桓・霊に嘆息痛恨せずんばあらず。

侍中・尚書・長史・参軍、此れ悉く貞亮(ていりよう=忠義)にして、節に死するの臣なり。願はくは陛下これを親しみこれを信ぜば、則ち漢室の隆なる、日を計(かぞ)へて待つべきなり。

臣、本(も)と布衣(ふい)、南陽に躬耕(きゆうこう)し、苟も性命(=生命)を乱世に全うし、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。先帝、臣が卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(わうくつ=へりくだり)し、三たび臣を草盧の中に顧み、臣に諮るに当世の事を以てす。

是に由て感激し、遂に先帝に許すに駆馳(=つくすこと)を以てす。後、傾覆(けいふく=滅亡)に値(あ)ひ、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。爾来二十有一年。先帝、臣が謹慎なるを知る。故に崩に臨みて臣に寄するに大事を以てせり。


命を受けて以来、夙夜(しゆくや=朝から晩まで)憂慮(ゆうりよ)し、付託の効あらずして以て先帝の明を傷(そこな)はんことを恐る。故に五月、瀘(ろ=南蛮の川)を渡り深く不毛に入る。

今、南方已に定まり、兵甲已に足る。まさに三軍を奨率(しやうそつ)し、北の中原を定むべし。庶(こひねが)はくは駑鈍(どどん鈍才)を竭し、姦凶を攘除し、漢室を興復し、旧都(=長安)に還さん。

此れ臣が先帝に報ひ、陛下に忠なる所以の職分なり。損益を斟酌し、進んで忠言を尽くすに至りては、則ち攸之・褘・允(=郭攸之・費禕・董允)の任なり。願はくは陛下臣に託するに賊を討ち興復するの効を以てせよ。

効あらざれば則ち臣の罪を治めて、以て先帝の霊に告げよ。若し徳を興すの言無くば、則ち允等を戮(ころ)して、以てその慢(=怠慢)を彰(あらは)せ。

陛下も亦た宜しく自ら謀りて、以て善道を咨諏(ししゆ=諮問)し、雅言(がげん=正論)を察納(さつのう)し、深く先帝の遺詔(いせう)を追ふべし。

臣、恩を受けて感激するに勝(た)へず。今まさに遠離(=出発)すべし、表に臨みて涕泣し言ふ所を知らず。


 後の出師の表


 亮已に前表を上り、大軍を率ゐて魏を伐ち、戎陳(=軍備)整斉、号令明粛(明解で粛然)、是において天水・南安・安定、皆な郡を挙げて亮に応じ関中響震す。

 魏、将軍張郃(ちやうかふ)をしてこれを拒ましむ。亮、参軍(=官命)馬謖をして諸軍を督し郃と街亭に戦はしむ。謖、亮が節度(=命令)に違ひ敗績す。

 亮、漢中に還り群下に謂ひて曰く「いま罰を明らかにし過を思ひ、変通(=臨機)の道を将来に校(たださ)んと欲す。自今已後、諸々の国において忠慮あり。但だ勤めて吾の闕(あやまち)を攻(をさ=研究)めば、則ち事は定むべく、賊は死すべし」是において微労(=手柄)を考へ、烈壮を甄(けん=登用)し、咎を引き、躬(みづか)らを責め、所失(うしないしところ)を天下に布(=伝)き、兵を厲し、武を講じ、以て後図(こうと)となす。

 戎士(=兵士)簡練(=熟練)、民その敗を忘る。建興六年冬、また兵を出し魏を伐たんと欲し、群臣多く以て疑をなす。

 亮また表を上り、帝に言(あらは)すこと此の如し。遂に兵を引きて散関(=関所の名)を出で、是より後、屡々出で魏を伐ち、郡を抜き将を斬ること数々なり。

 魏将司馬懿(しばい)、亮が威名(=評判)を憚り山に登り営を掘り、戦ふことを肯んぜず。亮、是において民を息(やす)め士を休むること三年、また大衆を悉(つく)して出でて、進みて武功の五丈原に拠り、懿と渭水の南に対陳(=対陣)す。

 亮、前者(さきに)数々出るも皆な糧運継がず、己が志をして伸びざらしめしを以て、乃ち兵を分かちて屯田し久駐(=持久戦)の基となす。耕す者は渭浜(ゐひん)の居民の間に雑(まじ)はれども、百姓安堵し、軍に私なし。


 亮、数々戦ひを挑む。遣(おく)るに巾幗(きんくわく=婦人の帽子)・婦人の服を以てするに至る(=懿が応戦しないことをからかつた)。懿、終に畏れて敢て出でず。尋で亮病篤し。乃ち後事を処分し、従容精整、終に軍に卒す。年五十四。

 遺命して「漢中の定軍山に葬る。山に因て墳をなす。冢(つか)、棺を容るるに足り、斂(れん=葬式)するに時服(=平服)を以てす。余物を須(もち)ひず」と云ふ。

 初め亮自ら後帝に表して曰く「臣、成都に桑八百株(しゆ)、薄田(=やせ田)十五頃(けい)あり。子孫の衣食、自(おのづか)ら余饒(よぜう)あり。外任にありて別の調度なし。身に随ふ衣食、悉く官に仰ぐ。別に生を治めて(=生計する)、以て尺寸(=身代)を長ぜず。若(かくのごと)く臣死するの日、内に余帛あり外に贏財(えいざい=蓄財)あらしめて、以て陛下に負(そむ)かず」と。是に至て訖(つひ)にその言の如し。

《朱子曰く「孔明、婦を択ぶに正に醜女を得、身を奉ずる調度、人の堪へざる所なり。彼その正大の気、経綸の蘊、固より已に天資に得、然るにその智慮の日々益々精明する所以、威望の日々益々隆重する所以の者は、則ち寡欲養心の助、与(とも)に多を為すなり(=諸葛羲、諸葛倬輯『諸葛孔明全集』巻十七)》。


 亮、諸事精錬、至る所、営塁(えいるい=陣小屋)井竈(せいさう)藩籬(はんり)障塞(しやうさい=土手)、皆な縄墨(じようぼく=規準)に応ず。嘗ての兵法を推演(すいえん=応用)し、八陣図を作る。

 其の已に卒するに及びて、楊儀(=蜀の忠臣)ら軍を整へて還(もど)る。懿、敢て偪(せま)らず。その営塁を案行(あんかう=偵察)し嘆じて曰く「天下の奇才なり。其の国を治むるや、百姓を撫で、儀軌(ぎき=模範)を示し、誠心を開き、公道を布き、賞遠きを遺(わす)れず、罰近きに阿(おもね)ず。爵(=位)は功なきを以て取るべからず、刑は貴勢を以て免るべからず」

 瘳立(れうりつ)・李平みな罪あり。嘗て亮がために廃せらる。亮卒すと聞くに及び、立、泣(なみだ)を垂れて曰く「吾終に左衽(さじん=夷狄)とならん(=許されて都に帰ることがなくなつた)」。平、亦たこれが為に病を発して死す。

 亮が子、瞻(せん)爵を継ぐ。鄧艾(とうがい=魏の将)蜀を破るに至つて、瞻を誘ひて曰く「若し降らば必ず表して琅琊王(らうやわう)となさん」と。瞻、怒りて艾が使を斬り、遂に戦ひ陣に臨んで死す。

 瞻が子、尚嘆じて曰く「父子国の重恩を荷ふ。生を用ひて何をかなさん」と。亦た馬に策(むちう)ち敵軍に赴きて死す。

《鄧艾已に成都に至る。帝(=禅)使を遣はし璽綬(じじゆ)を奉り、艾を詣でて降る。皇子・北地王、諶(じん=諶)怒りて曰く「若し理窮し力屈せば、禍敗将に及ぶべし。便ち当に父子君臣城を背に一戦せば、同(とも)に社稷死して、以て先帝に見(まみ)ゆべし。奈何(いかん)ぞ降せんや」と。帝聴かず。諶昭烈の廟に哭きて、先ず妻子を殺して後自殺す(=『漢晉春秋』、『三国志』蜀史所収)》


 張栻(ちやうしやく=1133~1180、朱子と同時代の儒者、南軒先生)曰く「漢相ひ伝ふる四百余年にして曹氏漢を簒ふ。諸葛武侯此の時に当りて間関(=苦労する)百為、昭烈父子を左右(=仕へる)し、国を蜀に立て、賊を討ずるの義を明かにし、強弱と利害を以てその心を二つにせず。蓋し凛凛乎たる三代(=夏殷周の三王朝)の佐(=助け)なり」と。

 侯(=諸葛亮)の言に曰く「漢賊両立せず。王業偏安(=全国制覇せずに甘んじる)せず」と。また曰く「臣、鞠躬(きつきゆう=謙虚)力を尽し、死して後已まん。成敗利鈍(=運の善し悪し)に至ては、臣の明らかに能く逆睹(げきと=予想)する所に非らず」と。

 嗟乎(ああ)この言を誦味(しようみ)せば則ち侯の心は見るべし。不幸にして功業未だ究まらず。中道にして殞(いん=死)すと雖も、然れどその皇極を扶(たす)け人心を正し、先王の仁義の風を挽回し、これを万世に垂る。日月とその光明を同(とも)にすべきなり。

 夫れ天地あれば則ち三綱(=君臣の序)あり。中国の夷狄に異なる所以、人類の庶物に別かるる所以は、是を以ての故のみ。若し利害の中に汨(しず)んで夫の天理の正を失はゞ、則ち天下あると雖も一朝だも居る能はず。

 此れ侯が敢て斯須(ししゆ=しばらく)賊(=曹操)を討ずるの義を忘れず、その心力を尽し死に至りて悔いざる所以なり。


 天下雲擾(うんぜう=大乱)の初めに方(あた)りて、侯(=諸葛亮)独り高臥(=高尚)す。昭烈、帝室の胄を以て、三たびその廬を顧みて、後起ちてこれ(=諸葛亮)に従へば、則ち夫(=諸葛亮)の出処の際、固より已に大いに人に過ぐるものあり。

 其の国を治むるや、経を立て紀を陳べて近図(=目の前の謀)をなさず。其の兵を用る、義を正し律を明かにして詭計を以てせず。凡そその為すところ悉く大公(=公平)に本づき曾て繊毫(せんがう)も姑息の意なし。類(おほむ)ね皆後世の及ぶべき所にあらず。

 其の将に没せんとし、自ら表の辞を読むに至ては、則ち天下の物欲、挙げて以てこれ(=諸葛亮)を動かすに足らざるを知る。養ふ所のもの深ければ、則ち発する所のもの大なり。理、固より然り。

 曾子曰く「士以て弘毅ならざるべからず」と。侯の若(ごと)きはその所謂弘且つ毅なる者か。

 孟子曰く「富貴も淫すること能はず。貧賤も移すこと能はず。威武も屈すること能はず。此れをこれ大丈夫と謂ふ」と(=滕文下2)。侯の若き者は所謂大丈夫に非ざるや。


 朱子曰く「君子、法を行ひて以て命を俟つのみ。是れ理なり。三代(=夏殷周の三王朝)以降、惟だ董子(=董仲舒、前176~?)嘗てこれを言ふ。諸葛武侯(=諸葛亮の諡)その君に言して曰へることあり。『臣鞠躬して力を尽し死して後已まん。成敗利鈍に至ては臣の明らかに能く逆(あらかじ)め睹(み)る所に非らず』と。

 「程子(=程明道1032~85)その門人に語りて曰へることあり。『いま容貌必ず端(ただ)しく言語必ず正しき。独りその身を善くして、人に知らるゝを求めんと欲するにあらず。但だ天理当に然るべし』と。

 「亦た曰く『これに循(したが)ふのみ』と。この三言(=董子、諸葛、程子)は指すところ殊(こと)なると雖も、要するに皆な法を行ひ命を俟つの意。此の外は則ち寂寥(せきれう)として聞くことなし」


先帝深く慮(うれ)ふに、漢賊(=魏)両立せずして王業偏安せざる、を以てす。故に臣に託するに賊を討ずるを以てせり。先帝の明を以て臣の才を量る。固よりまさに臣の賊を伐つの才弱く敵彊きを知るなり。然れど賊を伐たざれば、王業も亦た亡ぶ。惟だ坐して亡を待つは、これを伐つに孰与(いづれ)ぞや。是の故に臣に託して疑はざるなり。

臣命を受くるの日、寝、席を安んぜず、食、味を甘(うま)しとせず。北征を思惟するに宜く先づ南に入るべし。故に五月瀘を渡り深く不毛に入り、日を并て食す(=数日分を一日に食べる)。

臣、自ら惜しまざるにあらず。顧(おも)ふに、王業蜀都に偏全なるを得べからず。故に危難を冒して以て先帝の遺志を奉ずなり。

而して議する者、謂ひて計(はかりごと=良計)にあらずと為す。いま賊適々(たまたま)西に疲れ、また東に務む。兵法に「労(つかれ)に乗ず」と。此れ進趨(しんすう=進撃)の時なり。謹みてその事を陳(の)ぶること左の如し。


高帝(=漢高祖)の明、日月に並び、謀臣淵深。然るに険を渉り、創(きず)を破り、危ふくして然るのち安し。いま陛下、未だ高帝に及ばず。謀臣、良平(=張良・陳平)に如かず。而して長計を以て勝を取り、坐して天下を定めんと欲す。此れ臣の未だ解せざる一なり。

劉繇(りうえう)・王郎は各々州郡に拠り、安んずるを論じ、計(はかりごと)を言ひ、動(やや)もすれば聖人を引き、群疑(ぐんぎ)腹に満ち、衆難(しゆうなん)胸に塞がる。今歳(こんさい)戦はず、明年征せず。孫策(=孫権の兄)をして坐して大となり遂に江東を并せしむ。此れ臣の未だ解せざる二なり。

曹操の智計、人に殊絶(しゆぜつ)し、其の兵を用るや、孫呉(=孫子・呉起)に髣髴(はうふつ)す。然るに南陽に困しみ、烏巣(うそう)に険(けは)しく、祁連(きれん=西域)に危ふく、黎陽(れいよう)に偪(せま)り、幾(ほとんど)伯山(はくさん)に敗れ、殆ど潼関(どうくわん)に死し、然る後一時に偽定(ぎてい=国を盗んだ)す。况(いは)んや臣の才弱くして、危ふからざるを以てこれ(=魏)を定(=平定)めんと欲するをや(=才能のない私が安全な方法を選ぶべきでせうか)。此れ臣の未だ解せざる三なり。

曹操、五たび昌覇(しやうは=東海の英雄昌豨)を攻めて下らず。四たび巣湖(さうこ)を越えて成らず。李服(りふく)を任用して李服これを図(=裏切り)り、夏侯(=夏侯淵)に委任して夏侯敗亡す。先帝、毎(つね)に操を称して能と為すも、猶ほ此の失あり。况んや臣の駑下(どか=不才)なる、何ぞ能く必ず勝たん(=才能のない私が必ず勝てるまで何もしないのでせうか)。此れ臣の未だ解せざる四なり。

臣、漢中に到るより中間朞年(きねん=一年)のみ。然るに趙雲・陽群・馬玉・閻芝(えんし)・丁立(ていりつ)・白寿・劉郃(りうこう)・鄧銅(とうどう)ら及び曲長(=組頭)屯将七十余人、突将の無前(=無敵)なる賨叟(そうそう)青羌(せいきょう)散騎(さんき)武騎一千余人を喪(うしな)ふ。此れ皆数十年の内、糾合する所、四方の精鋭にして、一州の有する所にあらず。若しまた数年ならば三分の二を損せん。当に何を以て敵を図るべき。此れ臣の未だ解せざる五なり。

いま民窮し兵疲れて事息むべからず。事息むべからざれば則ち住(とど)まると行くと労費まさに等し。而して、蚤(はや)きに及てこれを図らず、一州(=益州)の地を以て賊に与へ久(きう)を持せんと欲す。此れ臣の未だ解せざる六なり。

夫れ平らにし難きは事なり。昔、先帝楚に敗軍す。此の時に当り、曹操手を拊(う)ちて、天下以て定まると謂ふ。然れど後、先帝、東に呉越に連なり、西に巴蜀を取り、兵を挙げて北征し、夏侯(=夏侯淵)は首を授く。此れ操の失計にして、漢の事、将に成らんとす。然れど後に呉さらに盟に違ひ、関羽毀敗(きはい)し、秭帰(しき=地名)に蹉跌し、曹丕、帝と称す。凡そ事是の如く、逆(あらかじ)め見るべきこと難し。臣、鞠躬して力を尽し、死して後已まん。成敗利鈍に至ては、臣の明らかに能く逆覩する所にあらず。




巻の三

 読史述夷斉(=伯夷と叔斉)章(=史を読みて夷斉の章を述ぶ 《自ら注して曰、「余(=私)史記を読み感ずる所ありてこれを述ぶ》 

  晋の処士陶潜

 潜(=365?~427)、字は淵明。

《一に字を元亮とす。○按ずるに、張縯(=十二世紀南宋の学者)年譜を引きて云ふ。晋に在りて名は淵明、宋(=劉宋)に在りて名は潜、元亮の字則ち未だ嘗て易へず。此の言これを得て、未だ詳ならず》

潯陽(じんやう)柴桑(さいさう)の人。晋の大司馬、侃(かん)の曾孫。

 少(わか)くして高志遠識あり。時俗に俯仰すること能はず、以て親老い家貧す。起ちて州の祭酒(=学頭)となる。吏職に堪へず少日自ら解きて帰り、環堵(かんと=狭い家)蕭然(せうぜん=寂しい)、風日を蔽はず、短褐(たんかつ=粗末な服)穿結(けんせつ=襤褸をつくろう)、箪瓢(たんぺう)屡々空しきも晏如(=平気)たり。

 州、主簿(=文書係)に召すも就かず。躬ら耕して自ら資(たす)け、遂に羸疾(るいしつ=疲労)を抱く。江州の刺史(=知事)檀道済、往てこれを候(=訪問)す。偃臥(えんが=横になつて寝る)瘠餒(せきだい=やせ衰へて)して日あり。道済、饋(おく)るに粱肉(りやうにく=穀物と肉)を以てす。麾(さしまねき)てこれを去る。

 後、鎮軍の建威参軍(=評議員)となり、親朋(=親と友)に謂ひて曰く「聊(いささ)か弦歌して、以て三径(=隠者の暮らし)の資となさんと欲す。可ならんか」。執事者これを聞きて、以つて彭沢(=県名)の令となす。官に之(ゆ)くに家累(=家族)を以て自ら随へず。

 一力(=下男)を送りその子(=自分の子)に給す。書に曰、「汝、旦夕(=朝夕)の費(つひえ)自ら給するを難(かたし)となす。いま此の力を遣(つかは)し、汝が薪水の労(=雑事)を助く。此(=下男)も亦た人の子なり。善くこれを遇するべし」と。

 官にあること八十余日。歳の終りに郡(=県の上部組織)、督郵(=監督官)を遣はし県に至るに会ふ。吏、白(まを)す、「当に束帯してこれを見るべし」と。潜、嘆じて曰く「吾安ぞ能く五斗米のために、腰を折りて郷里の小児に向はんや」と。即日印綬を解きて去り、帰去来の詞を作り、以て志を見(あらは)す。


 後、劉裕(=宋の武帝356~422)将に晋(=東晋)の祚(そ=王位)を移さんとするを以て、二姓に事ふるを恥ぢ、遂にまた仕へず。作る所の詩辞は類(おほむ)ね国を悼み時を傷み感諷するの語多しと云ふ。

 裕、已に位を簒ひ国を宋と号す。文帝(=劉祐の子)の時、特に徴(め)す。至らずして卒す。靖節徴士(=官に就くことを断つた人)と諡す。

《裕、国を簒ひて後、潜、著す所の文詞、年号を用ひず。皆甲子(=えと)を以て年を紀(しる)す。韓子蒼(=宋代の詩人)曰く「或は謂ふ、淵明の題する所の甲子は必ず皆な義凞(=年号)の後れざるものなり(=義凞の年号の方が前に来る)。此れまた豈に淵明を論ずるに足らんや。按ずるに義凞は安帝(=東晋)の年号、その末年に裕、帝を弑す。尋でまた恭帝を廃し、位を奪いこれを弑す」》

 識者謂ふ、「陶潜、史を読んで述ぶる。蓋し感ありて作る。いまに至りて猶ほその人を見るが如しと云ふ」

二子(=伯夷と叔斉)国を譲り、海隅に相将(あひひ)き、天人(=天意と人事)、命を革(あらた)め、景(=境遇)を絶ちて窮居す。薇(ぜんまい)を采り高歌し、黄・虞を慨想す。

《史記曰く「夷斉餓ゑて且(まさ)に死せんとするに及びて歌を作る。その辞に曰く『彼、西山(=首陽山)に登りてその薇を采る。暴を以て暴を易す、その非を知らず。神農・虞・夏、忽焉(こつえん)として没す。我、適(まさ)に安(いづ)くにか帰らんとす。吁嗟(ああ)徂(ゆ=逝)かん。命(=天命)の衰へたるかな』○金履祥(=朱子学者1232~1303)曰、「是の歌辞怨みて気弱し。絶えて孔孟の言ふ所の夷斉の気象と同じくせず」》

貞風(=忠節)、俗を凌ぎ、爰(ここ)に懦夫(だふ=俗人)に感ぜしむ。

 帰去来の辞に曰く「帰去来兮(かへりなんいざ)、田園将に蕪(あ)れなんとす、胡(なん)ぞ帰らざる。既に自ら心を以て形の役となし、奚(なん)ぞ惆悵(ちうちやう)して独り悲まん。

 「已往の諫めざるを悟り、来者の追ふべきを知る。実に途に迷ふ、それ未だ遠からず。今は是にして昨は非なるを覚る。舟は遙遙として以て軽く、風は飄飄として衣を吹く。

 「征夫(=旅人)に問ふに以て前路を以てし、晨光(=朝の光)の熹微(きび)なるを恨む。乃ち衡宇(かうう)を瞻(あふぎみ)て、載(すなは)ち欣び載ち奔る。童僕歓迎し、稚子門に候(さぶら)ふ。三径荒に就き、松菊猶存す。

 「幼を携(たづ)さへて室に入る。酒あり樽に盈つ。壺觴(こしやう)を引きて以て自ら酌み、庭柯(ていか)を眄(ながめ)て以て顔を怡(よろこ)ばす。

 「南牕(なんさう=窓)に倚りて以て傲(がう=悠々とする)を寄せ、膝を容るゝの安んじ易きを審(つまびらか)にし、園は日々に渉りて以て趣を成す。

 「門は設くと雖も常に関(とざ)せり。策(つゑ)は老を扶けて以て流憩(=散歩と休憩)し、時に首を矯(あ)げて遐観(かかん=遥かを眺め)す。

 「雲は心を無くして以て岫(いはあな)を出て、鳥は飛ぶに倦で還るを知る。景は翳翳(えいえい=薄暗い)以て将に入らんとし、孤松を撫でて盤桓(ばんかん)す」


 「帰去來兮、請ふ、交を息めて以て游を絶ち。世、我と以て相ひ遺(わす)る。復た駕して焉(いづく)にか求めん。親戚の情話を悦び、琴書を楽しみて以て憂を消す。

 「農人余に告ぐるに春の及ぶを以てす。将に西疇(せいちう=田)に事あらんとす。或は巾車(=飾つた車)を命じ、或は孤舟に棹(さをさ)す。既に窈窕(えうてう=曲がりくねる)として以て壑(たに)を尋ね。亦た崎嶇(きく=険しい)として丘を経(ふ)。

 「木は欣欣として以て栄に向ひ、泉は涓涓(けんけん=ちよろちよろ)として始めて流る。万物の時を得るを善みし、吾生の行々休むを感ず。

 「已(やん)ぬるかな。形を宇内(うだい=世界)に寓するに復た幾時ぞ。曷(なん)ぞ心に委ねて去留に任せざる。胡為(なんすれ)ぞ遑遑(くわうくわう=忙しさうに)として何くに之(ゆ)かんと欲する。

 「富貴は吾願ひにあらず。帝鄕(=天帝の都)は期すべからず。良辰(=良日)を懐ひて以て孤り往き、或は杖を植(た)てて耘耔(うんし=農業)し、東皐(とうかう=丘)に登りて以て舒嘯(じよせう)し、清流に臨みて詩を賦す。

 「聊か化(=造化)に乗じて以て尽くるに帰し、夫の天命を楽み復た奚(なに)をか疑はん」


 朱子曰く「張子房(=張良、漢の高祖の忠臣)は五世、韓に相とし、韓亡び万金の産を愛さず、弟死すとも葬らず、韓のために讎を報ず。博浪(はくらう)の謀(=始皇帝暗殺)遂げず、横陽(=韓王の子孫)の命延びざると雖も、然れど卒(つひ)に漢に籍り秦を滅ぼし、項(=項羽)を誅して以てその憤を攄(の)(=表す)ぶ。

 「然る後、人間の事を棄てて、導引辟穀(=仙人の修行)に意を託し言を寓(よ)せ、将に古の形解銷化する者(=仙人)と八絃九垓(=中国)の外に相期(あひき)せんとし、千載(=千年)の下その風を聞く者をして想象嘆息、その心胸面目如何なる人たるを知らざらしむ。その志、壮と謂ふべきかな。

 「陶元亮自ら晋の世の宰輔の子孫なるを以て、複た身を後代に屈するを恥ぢ、劉裕簒奪の勢ひ成るより、遂に仕へるを肯ぜず。その功名事業(=政治面)は少(すこし)く概(がい=気概)せずと雖も、その高情逸想、声詩に播(ま)く者は、後世の能言の士皆な自ら以て能く及ぶなしとなすなり。

 「蓋し古の君子はその天命・民彝・君臣・父子・大倫・大法の在る所において惓惓(=熱心)此の如し。是を以て大なる者(=張良)は既に立ちて、而る後に節概(=節操、気概)の高、語言の妙、乃ち得て言ふべきものあり。

 「その然らざるが如きは、則ち紀逡・唐林の節(=節操)、苦しまざるにあらず。

《漢の成帝の時より清名の士、瑯琊に紀逡あり、沛郡に唐林あり。後皆王莽に仕ひ公卿の位を歴す(=資治通鑑37、漢紀29)》

 「王維・儲光羲の詩、翛然(ゆうぜん)清遠ならざるにあらざるなり。

《唐の開元中、王維、左拾遺・給事中に擢(ぬ)きんづ。禄山、京師を陥れ、維、擒(とら)はる所となり、炭を呑みて瘖(=唖)を佯(いつは)る。禄山その才を愛し、旧職を供し普寧寺に拘(かこ)ふ。儲光羲、天宝の末、監察御史となり、亦た禄山の偽官に任じ、賊平ぎて並びに左遷され貶しめられて死す》

 「然るに一たび身を新莽、祿山の朝に失へば、則ちその平生の辛勤して僅(わづか)に以て世に伝ふるを得る所の者(=文名のある者)は、適々(たまたま)後人の嗤笑(しせう)の資(=材料)となるに足るのみ」と。(=朱子文集76)


 韓愈、伯夷の頌に曰く「士の特立独行は義に適ふのみ。人の是非(=評価)を顧みざるは皆な豪傑の士、道を信ずること篤くして自ら知ること明なる者なり。

 「一家にこれを非として、力行して惑ざる者は寡し。一国一州にこれを非とし、力行して惑ざる者に至ては蓋し天下に一人のみ。挙世これを非とし、力行して惑ざる者の若きに至ては、則ち千百年に乃ち一人のみ。

 「伯夷の若き者、天地を窮め、万世に亙(わた)りて顧みざる者なり。昭乎(=明らか)たる日月も明となすに足らず。崒乎(しゆつこ=高い)たる泰山も高きとなすに足らず。巍乎(ぎこ=広大)たる天地も容となすに足らざるなり。

 「殷の亡び周の興るにあたりて、微子(=紂王の兄)は賢なり。祭器を抱てこれを去る。武王周公は聖人なり。天下の賢士と天下の諸侯と率ゐて往きてこれを攻むるに、未だ嘗てこれを非とする者あるを聞かざるなり。

 「彼の伯夷叔斉は乃ち独り以て不可となす。殷既に滅び、天下周を宗とす。彼の二子は独りその粟を食ふを恥ぢ、餓死して顧みず。是れ繇(よ)り言へば、夫れ豈に求むることありて(=人に求められて)なさんや。道を信ずること篤くして自ら知ること明なる者なり。

 「今の世の所謂士なる者は、一凡人これを譽むれば、則ち自ら以て余りありとなし、一凡人これを沮(はば)めば、則ち自ら以て足らずとなす。

 「彼れ独り聖人(=武王周公)を非とし、自らを是とする此の如し。夫れ聖人は乃ち万世の標準なり。余、故に曰く『伯夷の若き者は特立独行、天地を窮め万世を亙りて顧みざる者なり』と。然りと雖も二子微(なか)りせば乱臣賊子、迹を後世(=子孫)に接(つ)がん。


 朱子また漳州高登(=東渓先生)の祠に記して曰く「孟子曰く『聖人は百世の師なり。伯夷・柳下恵、是なり。故に伯夷の風(ふう)を聞く者は、頑夫(がんぷ=欲深)も廉(れん)に、懦夫も志を立つるあり。柳下恵の風を聞く者は、鄙夫(ひふ=卑しい)も寛に、薄夫(=薄情)も敦(あつ)し。百世の上(かみ)に奮(=奮起)ひて百世の下(しも)に聞く者、興起(=発奮)せざるなきなり』と(=尽心下15)。

 「夫れ孟子の二子(=伯夷・柳下恵)における其のこれを論ずるや詳なり。或は以て聖の清となし、或は以て聖の和となすと雖も、然れどもまた嘗てその隘(せま)きと不恭(=不謹慎)とを病(うれ)ひ、且つその道孔子に同じからざるを以て学ぶことを願はざるなり(=公孫上9)。

 「その一旦慨然として発して此の論をなすに百世の師を以てこれに帰し、孔子は反て与(あづ)からざる(=含まれない)は何ぞや。孔子は道大に徳中にして迹なし。故にこれを学ぶ者は身を没(しづむ)るまで鑽仰して足らず。二子は志潔く行高くして迹著(あら)はる。故にこれを慕ふ者は一日感慨して余りあるなり。然らば則ち二子の功、誠に小となさず。孟子の意、それ亦た知るべきのみ。


 「臨漳の東渓先生高公といふ者あり。名は登、字は彦先。靖康(=宋1126~1127)の間大学に遊び陳公少陽と闕(けつ=宮門)に伏して拝疏(=上訴)して、六賊を誅し种・李を留むるを以て請(=要請)をなす。

 《宋の徽宗(=在位1100~1125)の時、蔡京(=宋の宰相)ら君を蠧(むしば)み国を誤りて、事を用ゐる者多くその(=蔡京の)薦引を受け、上のために明かにこれ(=この請)を言ふを肯んずるなし。大学生陳東、字は少陽、諸生を率ゐて上書して曰く

「今日の事、蔡京、前に壊乱し、梁師成、内に陰賊(=密かな悪事)し、李彦(りげん)西北(=金と遼)に結怨(=結託)し、朱勔(しゆべん)東南に聚怨(=民の恨み)し、王黼(わうふ)童貫(どうかん)また従て二虜(=二つの敵)に結怨し辺隙(=国境での紛争)を創開すし、天下の勢、危く糸髮の如くせしむ。伏して願ふは、陛下此の六賊を擒へ、諸(こ)の市朝(=広場)に肆(さら)し、首を四方に伝へ、以て天下に謝らせん」と。

 《金人宋を侵し抃京(=宋の都)を囲むに及ぶや、欽宗(=在位1125~1127)李綱を以て留守となす。綱、親(みづか)ら督戦し力(つと)めてこれを禦(ふせ)ぐ。金人乃ち来りて和を議す。李邦彦(りはうげん)ら力めて金の議に従ふを勧め、綱、極めて諫めるも用ひず。金幣(=お金)割地等を事(こと)とし、一(も)つぱら金人の言に依る。

 《時に种師道、師(=軍隊)を帥(ひ)きゐ入援し、金人を扼(おさ)へて諸河に殲(つく)さんことを請ふも、また従はず。姚平仲、金の寨(とりで)を却(しりぞ)けるに及びて、金、兵を用ひ誓ひに違ふの故を来責せしむるに、邦彦言はく、「兵を用ひし李綱・姚平仲は朝廷の意にあらず」と。因て綱を罷めさせて金人に謝す。是において東(=陳東)らまた千余人と上書して曰く

「李綱、蛮勇を顧みず身を以て天下の重しと任ず。所謂社稷の臣なり。陛下、李綱を抜きて執政となせば、中外相ひ慶ぶ。而して李邦彦らの疾(やま)ひ仇讎(きうしう=敵)の如く、因縁(=因縁をつける)沮敗(=妨害)す。綱の罷命一たび伝はれば、兵民騒動し、涕を流すに至り、咸(みな)謂はん、『不日、虜(=敵)のために擒(とら)ふ。綱を罷むは特(ただ)に邦彦等の計中に堕すにあらず、また虜の計中に堕すなり』と。乞ふ、また綱を用ひて邦彦等を斥け、且つ閫外(かんがい=軍事)を以て种師道に付するを。宗社(=国家)の存亡は此の挙にあり」と。

 《謹しまざるべからずして書奏するに、軍民期せずして集まる者数万人。登聞鼓(=太鼓)を撾壊(たくわい=打壊)し、喧呼、地を動かす。欽宗乃ちまた綱を以て京城防禦使となし、東を以て士学録となす。東、力めて辞して以て帰る。○高宗(=南宋皇帝在位1127~62)位に即くや、東を丹陽より召すに至る。綱また黄潜善・汪伯彦の嫉む所となり罷に会ふ。東また上書して綱を留め潜善・伯彦を罷むるを乞ふ。報ぜずして時に撫州の布衣欧陽澈また徒歩行在(あんざい=仮の御所)に訪ひ、闕に伏して上書し、極めて事を用ふる大臣を詆(そし)る。

 《高宗遂に潜善の言を用ひて東及び澈を殺さしむ。府尹(ふいん=府の長官)吏を遣はして東を召すに、東、食して行かんことを請ふ。手書して家事を区処(=処置)するに、字画平時の如し。已にして乃ち其の(=自分の)従者に授けて曰く「我死せば、爾帰りて此を吾親に致(=届ける)せ」と。食已みて廁に如く。吏、難色あり。東、笑ひて曰く

「我は陳東なり。死を畏るれば即ち敢へて言はず。已に言ひて肯(あ)へて死を逃るるか」と。吏曰く「吾亦た公を知る。安んぞ敢へて相ひ迫(=急かす)らん」と。

 《頃之(しばらくして)、東、冠帯を具して、同邸を出別し、遂に澈と同く市に斬らる。東、初め未だ綱を識らず。特(た)だ国家の故を以て、これのために死す。識ると識らざると皆、ために涕(なみだ)を流せり》

「事を用ひる者(=権力者)これを兵せん(=武器で殺す)と欲す。ために動かずなり。


 「紹興(=南宋1131~1162)の初、(=東渓先生)召されて政事堂(=政府)に至る。また宰相秦檜と論合はず。去て静江府古県の令となる。異政(=善政)あり。帥守(=数県を治める役人)、檜(=秦檜)が意を希(こいねが)ひ、そ(=東渓先生)の過を捃(ひろ)ひて以て吏に属(しよく=告げ口)す。帥(=帥守)亦た讒を以て獄中に死するに(=東渓先生が)会ふ。乃ち釈(ゆる)さるゝことを得て、檄(=檜の命令)を被り進士を潮州に試(こころ)む。

 「諸生をして直言聞かれざるの畏るべきを論じ、閩浙(びんせつ)の水沴(すいれい=洪水)の繇(よ)る所(=原因)を策(=文書)せしめ、遂に檄を投じて以て帰る。檜聞いて大に怒り官を奪ひ容州に徙(うつ)す。


 「公、学博く行高く、議論慷慨、口講指画(=身振りを交へて分かりやすい)し、終日滾滾(こんこん)として、忠臣孝子の言(=逸話)、生を捨て義を取るの意にあらざるなし。

 「聞く者凛然(りんぜん)として、魄(たましい)動き、神(=心)竦(しよう=恐れる)す。其の古県にあるや、学者已に争つてこれに帰す。是に至てその徒また益々盛んなり。疾(やまひ)に属(したが)ひ自ら埋銘を作り、ともに遊ぶ所のもの及び諸生を召して訣別し、正座拱手(=腕組み)し奮髯張目して逝く。

 「嗚呼是れ亦た一世の人豪と謂ふべし。其の学ぶ所、行ふ所未だ尽(ことごと)く孔子に合はずと雖も、然れどその志行の卓然たるや、亦た以て賢者の清となすに足る。而して百世の下その風を聞く者をして廉頑立懦(れんがんりつだ=愚かな者を正しく導き、勇気のない者を奮ひ立たせる。孟子万章下)の操あらしめん。則ち其の世教に功あるや、豈に夫の隠忍回互(=決然と行動に出ず)して以てその私を済(すまし)て自ら孔子の中行(=中庸)に託する者と、日を同じうして語るべけんや」(=朱子『建立高東溪先生祠記』より )




巻の四 

 移蔡帖 
 
  唐太子太師顔真卿


 真卿、字は清臣。玄宗の朝の平原の太守たり。初め安禄山の将に反せんとするを知り、霖雨(りんう=長雨)に因(=口実に)て城壕を脩(をさ=修復)め、廥廩(くわいりん=馬草を入れる倉)を儲く。

 禄山既に反し真卿に牒し、兵を将(ひき)ゐて河津を防がしむ。真卿、使を遣はし間道よりこれを奏す。玄宗、始め河北郡の県皆な賊に従ふと聞き嘆じて曰く「二十四郡曾て一人の義士無きや」と。奏至るに及んで大いに喜んで曰く「朕、顔真卿の何の状(=顔)を作(な)すを知らず。乃ち能く是の如し」と。

 真卿また親しき客をして、密かに賊を購ふ(=賞金を付ける)牒を懐き諸郡に詣(いた)らしめ、及び勇士を召募し、諭すに兵を挙げ禄山を討ずるを以てし、継ぐに涕泣を以てす。士皆な感憤す。

 禄山その党をして、先に東京(=洛陽)を陷るゝ時、節に死する臣李橙[木扁が立心扁]・盧奕・蒋清の三人の首を齎して河北諸郡を徇(とな=見せしめにする)へしめ、平原に至る。

 真卿、使を斬りて以て徇ふ。三首を取りて芻(まぐさ=藁人形)を結ひ体に続ぎ棺斂(くわんれん=納棺)してこれを葬り、位を為して祭哭す。是に由て諸郡多く賊を殺して相応じ、共に真卿を推して盟主となす。


 時に真卿の従兄常山太守、杲卿(かうけい)も亦まさに兵を起して賊を討ず。真卿、平原より潜かに杲卿に告げ遣(し)むるに、兵を連ね禄山が帰路を断ち以てその西入を緩(=遅らす)めんと欲するに会ふ。

 杲卿乃ち謀を以て賊将らを擒斬(きんざん)し、遂に井陘(=地名)の敵を散じ、饒陽の囲を解く。是において河北響応し、凡そ十七郡同日皆な朝廷に帰す。禄山まさに潼関(=長安の入口)を攻めんと欲すれど、これを聞きて進む能はずして還る。

 時に杲卿、兵を起して纔かに八日。守備未だ完(まつた)からず。賊将史思明ら卒ちに兵を引きて城下に至る。杲卿昼夜拒戦す。隣郡の守将、兵を擁して救はず。糧尽き矢竭き、城遂に陥る。賊、杲卿を捕へて禄山に送る。

 禄山これを数(せ)めて曰く「我汝を奏して官となす。何ぞ汝(=汝の本心)に負(そむ)きて反す」と。杲卿罵りて曰く「汝は本と営州の羊を牧するの羯奴(けつど)なり。天子汝を擢(えらん)で三道の節度使となす。恩幸比ぶるなし。何ぞ汝に負きて反する。我世々唐臣たり。禄位(ろくい)は皆な唐の有なり。汝が奏する所となすと雖も、豈に汝に従ひて反せんや。我、国の為に賊を討ず。汝を斬らざるを恨む。何ぞ反すと謂はんや。臊羯狗(さうかつき=犬畜生)よ、何ぞ速やかに我を殺さざる」と。

 禄山大いに怒り、縛してこれを咼(くわい=肉をそぐ)る。死に比(および)て罵りて口を絶たず。賊その舌を鉤断(こうだん)す。顔氏死する者三十余人。


 継いで真卿また賊を破り郡を抜く。軍声大いに振ふ。平盧(=禄山の故郷)の軍将劉客奴ら、使を遣はし真卿と相聞(=内通)し、自ら効(いた=力を尽す)さんと請ふ。

 真卿、惟一子才(わづか)に十余歳なるを、海を踰え客奴に詣(いた)りて質たらしむ。軍中固く請ふてこれを留むれども従はず。尋で潼関、守を失ひ、玄宗、蜀に出奔す。(=資治通鑑217、漢紀33より)

 而して賊、遂に長安を陥る。是において太子亨、霊武に即位す。是を粛宗となす。真卿、河北より蠟丸(=書状)を以て霊武の粛宗に達す。官を真卿に加へ并せて赦書(=恩赦)を致す。真卿則ち諸軍に頒下(=触れ回る)し、また人を遣はし河南江淮に頒つ。是に由て諸道、国に徇(したが)ふの心益々堅し。

 未だ幾(いくばく)ならずして広平王淑・郭子儀(=唐の名将697~781)らが両京(=洛陽と長安)を収復し、

《天宝の末、外阻内訌して、子儀、朔方(=北)より孤軍を提(ひ)きて、転戦して北に逐ひ、誓ひて還顧(=振り返る)せず。是の時に当たりて、天子西走し、唐祚(たうそ)綴旒(ていりゆう=実権がない)の若し。而して太子を輔け、王室を再造す。

《大難を略(をさ)め平ぐに及びて、讒(ざん)に遭ひ、譖詭(=そしりといつはりと)、兵柄を奪ふ。然れども朝に命を聞き、夕べに道を引くとも、纖芥(せんかい=少しも)自ら嫌(いと)ふなし。忠誠精確にして、険を履み難を冒し、始終一の如く、天下その身を以て安危をなすもの、殆ど三十年。

《欧陽脩(=北宋の政治家1007~72)曰く「唐命まさに永しと雖も亦た子儀の忠、日月を貫き、神明の扶持に由る者かな」と。朱子曰く「『易伝』(=程頤の書物)諸葛に及び、次いで郭汾陽(=郭子儀)に及ぶ」と(=『新唐書』などより)》。

李光弼(りくわうひつ)また屡々思明らを敗り、賊勢大い衄(くじ)ける。而して唐朝再興す。


 真卿、朝に復(かへ)りて御史大夫になる。まさに朝廷は草昧(=無秩序)、給するに暇あらず。而して繩治(じようち=正し治める)平日の如く、百官肅然(=冷やか)たり。

 宰相その言を厭ひ、これを出す。尋で召して刑部侍郎となす。時に李輔国まさに勢に籍り両宮(=玄宗と粛宗)を弐間(にかん=へだてる)す。而して玄宗、遂に西内(せいだい=西宮)に遷る。

 真卿、首(はじめ)に百寮(=役人)を帥ゐて上表し、玄宗の起居を問はんことを請ふ。李輔国これを悪み、またこれを奏貶(そうへん)す。(=資治通鑑221)

 代宗(=粛宗の子)、陜より還るや、真卿、時に尚書右丞たり。先ず陵廟(=宗廟)に謁してから宮に即かんことを請ふ。宰相元載、以て迂となす。真卿怒りて曰く「朝廷の事、豈に公再び破壊するに堪へんや」と。載これを啣(ふく)む。

 載、時に権を専らにし、多(あま)たの私党を引く。事を奏する者、其の私を攻訐せん(=元載に私事を暴かれること)ことを恐れ、乃ち紿(あざむ)き請ふ(=尤もらしく言ふ)、「百官事を論ずる皆な先ず宰相に白(まを=言ふ)し、然る後に奏聞せん」と。

 真卿上疏(=天使に意見)して曰く「諫官御史は陛下の耳目なり。いま事を論ずる者をして先ず宰相に白さしむるは、是れ自らその耳目を掩ふなり。

 「李林甫(=~752年)、相となり、深く言ふ者を疾(にく)み、下情通せず。卒(にはか)に蜀に幸するの禍(=安史の乱で皇帝が蜀に逃れたこと)を成し、陵夷(=衰退)して今日に至る。其の従来(=原因)する所のものは漸(=積み重ね)なり。

 「夫れ人主(=君主)は大に不諱(=上疏)の路を開くも、群臣は猶ほ敢て言を尽すことなし。況や今宰相大臣、裁してこれを抑(おさ)へば、則ち陛下、聞見する所の者は三数人に過ぎざるのみ。天下の士、此れより口を鉗(つぐ)み舌を結ばん。陛下、復た言ふ者なきを見て、以て天下、事の論ずべきなしとなさん。

 「是れ林甫(=李林甫のやうなことは)復た今日に起るなり。陛下、儻(も)し早く寤(さと)らざれば、漸く(=次第に)孤立を成し、後これを悔ゆると雖も、亦た及ぶこと無からん」と。載、復たこれを誣貶(しいへん=嘘を言つて貶める)す。


 徳宗(在位779~805)の朝に至て、楊炎、国に当る。時に真卿還て朝に在り、亦た直を以て容れられず。

 盧杞(ろき)、相となるに及んで、益々真卿を悪み、復たこれを出さんと欲す。李希烈反して汝州を陷るに、徳宗、計を杞に問ふ。杞曰く「誠に儒雅(=儒学を修めた人)の重臣を得、為に禍福を陳べば、軍旅を労せずして服すべし。顔真卿は三朝の旧臣、忠直剛決、名海内に重く、人の信服する所、真にその人なり」と。

 真卿時に太子の太師(=教育係)たり。乃ち詔して真卿を遣はし、希烈を宣慰す。挙朝(=朝廷全体)これを聞き色を失ふ。真卿、駅(=早馬)に乗じ東都に至る。留守これを止めて曰く「往かば必ず免れず。宜しく少しく留まつて後命を須(ま)つべし」と。

 真卿曰く「君命なり、将に焉(いづく)にかこれを避けん」と。遂に行く。既に至り詔旨を述べんと欲す。希烈、兵をして環繞慢罵、刃を抜てこれに擬(ぎ=突きつける)す。真卿、色変ぜず。希烈乃ち衆を麾(さしまね)いて退(ひ)か令(し)め、真卿を館に就け、逼つて上疏して己を雪がしめんとす。

 真卿従はず。真卿諸子(=人々)に書を与ふる毎に、但だ家廟を厳奉し、諸孤(=自分の子供)を恤(あはれ)まんことを戒め、訖(つひ)に它語(たご)(=他語)なし。希烈真卿を遣し還さんと欲す。降将(かうしやう=敵に降参した将軍)李元平、座に在るに会ふ。真卿これを責む

《本伝(=唐書列伝)云ふ、「希烈、元平をして真卿に説(=降伏を)かしめ、真卿叱りて曰く『爾、国の委任を受け、能く命を致さず。顧(た)だ吾れ兵して汝を戮(ころ)すなく、尚ほ我に説くや』》

元平慙ぢ密に希烈に言ひ、真卿を留て還さず。(=資治通鑑228より)


 時に朱滔(しゆたう)ら四人、王号を僭し、各々使を遣はし、希烈に詣(いた)り勧進(=帝位を勧める)す。希烈これを真卿に示して曰く「四王に推されれば謀らずとも同じ」と。真卿曰く「此れ乃ち四凶、何ぞ四王と謂はん。公自ら功業を保ちて唐の忠臣とならずして、乃ち乱臣賊子と相ひ従ひ、これと同じく覆滅(=完全に滅びる)するを求るや」と。

 他日四使同じく坐にあり、真卿に謂ひて曰く「都統《即ち希烈の官》将に大号を称せん。而して太師(=真卿)適々(=たまたま)至る。是れ天、宰相を以て都統(=希烈をさす)に賜ふなり」と。真卿叱して曰く「汝ら、安禄山を罵て死する者に顔杲卿あるを知るや。乃ち吾が兄なり。吾れ年且(まさ)に八十にならんとす。太師に官す。節を守りて死するを知るのみ。豈に汝曹(じよさう=お前たち)の誘脇(=誘惑)を受けんや」と。

 諸賊色を失ふ。希烈乃ち真卿を拘(とら)へ、守るに甲士(=武装兵)を以てし、方丈の坎(あな)を庭に掘つて云ふ、「将にこれを阬(かう=落して殺す穴)にせんとす」と。真卿怡然(いぜん=喜び)として曰く「死生已に定まる。何ぞ必ずしも多端(=多忙)せん。丞(=尚書右丞つまり私)に一剣を以て相ひ与よ。豈に公の心事(=気持)を快にせざらんや」と。

 希烈乃ち謝(=断わる)す。荊南節度使張伯儀、希烈が兵と戦ひて敗れ、その持つ所の旌節(せいせつ=軍旗)を亡(うしな)ふ。希烈、人をして旌節及び首級を以て真卿に示さしむ。真卿、号慟(がうどう=泣き叫ぶ)して地に投じて、絶えて復た蘇る。是れより復た言はず。


 希烈の党、周曾ら希烈を襲ひ、真卿を奉じて帥となさんと謀り、事洩れ、曾死するに会ふ。希烈乃ち真卿を蔡州に拘送す。真卿必死を度(はか)り、遺表・墓誌・祭文を作り《三文、顔集載せず》、寝室の西壁の下を指して曰く「此れ吾が殯所(ひんしよ=死体安置所)なり」と。

 希烈、帝を称せんことを謀り、使を遣はして儀(=儀式)を問ふ。真卿曰く「老夫嘗て礼官たり。記する所は惟諸侯天子に朝する礼のみ」と。希烈遂に号を僭し、その将辛景臻を遣はし、これに謂て曰く「節を屈する能はずんば当に自ら焚くべし」と。薪を積み油をその庭に灌ぐ。真卿趨りて火に赴く。景臻遽(にはか)にこれを止む。

 これを久しくして希烈卒に人を遣はして真卿を殺さしむ。終に死す。年七十六。

《按ずるに真卿の死、本伝は歳月を書かず。綱目(=朱子『資治通鑑綱目』)、徳宗の興元元年(784)甲子八月となす。いま此の帖(=移蔡帖)、汝(=汝州)より蔡(=蔡州)に移すを以て貞元元年(785)正月となす。綱目に拠れば即ち真卿の死の明年(=翌年)乙丑年なり。周曾の事、綱目は建中四年(783)癸亥三月となす。而して真卿を蔡に移しゝ事を載せず。或は恐らく、蔡に移しゝは本(も)と曾の事に由りて、その移しゝは則ち実は明年(784)甲子正月なり。然らば則ち此の帖、貞元をまさに興元と作すべし。伝写の誤りなり。姑(しばら)く疑ふ所を書きて云ふ》

 真卿の大節功業、已に偉然として、而して朝に立ち色を正し、剛にして礼あり。公言直道にあらざれば心に萌(きざ)さず。嘗て魯郡公に封ぜらる。天下姓名を以て称せずして独り魯公といふ。


 宗祁(そうき=『新唐書』の編者)曰く「禄山の反するに当り、哮噬(かうぜい=反乱軍の勢い)無前(=無敵)、魯公独り烏合を以てその鋒(ほこさき)に嬰(ふ)れる。功成らずと雖も、その志、称(=称賛)するに足るものあり。晩節偃蹇(えんけん=高邁)、姦臣の擠(おとしめ)る所となり、賊手に殞(おと)さる。毅然の気、折れて沮(はば=くじける)まず。忠と謂ふべきなり。

 「詳かにその行事を観るに、当時亦た尽(ことごと)く君に信ぜらること能はず。大節(たいせつ=大事件)に臨むに及んで、これを蹈(ふ)んで(=忠義を実行する)弐色なき(=忠節)は何ぞや。彼の忠臣誼士(ぎし=義士であること)は、寧ろ、未だ信ぜられざるを以て人に望まんや(=不満を抱くどころか)、諸(これ=忠義)を己(おのれ)に返してその正を得て(=忠義の正しさを確認)、而る後、中(=心の中)に慊(あきた)りて之(=忠義)を行はんことを要すなり。嗚呼、ここに五百歳(=五百年前のこと)と雖も、その英烈言言、厳霜烈日の如し。畏れて仰ぐべきかな」(=『新唐書』列伝78)

 林之奇(=宋の儒者)曰く「燕、斉を伐ち七十余城皆な燕の有となる。初めより未だ忠臣義士の憤(いきどほり)を発するの気あるを聞かず。王蠋(わうしよく)、節に死して義として燕に北面(=臣下になる)せざるに及んで、然る後斉の士靡然(びぜん=なびくこと)としてこれに従ひ、七十余城復た斉の有となる

 《燕将楽毅、斉を破り、画邑の人王蠋の賢なるを聞く。軍中画邑を環りて入るなからしめ、人をして蠋に謂はしめて曰く「斉人多く子の義を高しとす。吾、子を以て将となし万家に封じん」と。蠋固く謝す(=断る)。

《燕人曰く「子聴かざれば、吾軍を引き画邑を屠(ほふ)らん」と。蠋曰く「忠臣二君に事へず、貞女二夫を更へず。斉王吾が諫めを聴かず。故に野(や)に退耕(たいかう=官を去る)せん。国既に破亡し、吾存(たも)つ能はず。今またこれを劫(おびや)かし兵を以て君の将たれば、是れ桀(=夏の最後の王)を助け暴をなすなり。その生、義無きに与(くみ)せば、固より烹(に)らるに如かず」。

《遂にその頸を樹枝に経(くび)れ、自奮(=頑張つて)して脰(くび)を絶ちて死す。斉の亡(に)ぐる大夫これを聞きて曰く「王蠋は布衣(ふい=庶民)なり。義として、燕に北面せず。況んや位に在りて禄を食む者をや」。乃ち相ひ聚まり王子を求めて、これを立て襄王となす。遂に斉を復す。

《朱子曰く「程沙随、深く(=心の底で)王蠋の『忠臣両君に事へず』の言を詆(そし)り、窃かにその失(=やりすぎ)を疑ふ。将に万世不忠の弊(=弊害)を啓(ひら=広める)かんとす。夫れ『疆(さかひ=国境)を出ずれば質(し=進物)を載す』(孟子滕文下3)は乃ち士の已むを得ざるなり。曾て是を以て常となすと謂ふや。楚漢の間、陳平猶ほ心を多とすの誚(せ)めを得、況や平世をや》

 蓋し天下の人、豈に忠義の心なからん。苟しくもその艱難の際、一の倡(とな=主唱)ふをなすあらば則ちこの風を聞く人、孰れかこれに従はざらん。禄山、乱を煽り、河北二十四郡守りを失はざるなし。真卿首(はじめ)に忠義を倡(とな)ふに、諸郡是に由て多く応ず。然らば則ち唐室の中興は郭子儀・李光弼の功と雖も、その実は則ち真卿これを倡ふがなせるなり」


貞元元年正月五日、真卿汝より蔡に移るは天なり。天の昭明はそれ誣(し=だます)ふべけんや。有唐の徳(=唐の徳をもつ)は則ち朽ちざるのみ。十九日書す。(=移蔡帖)


 禄山既に反す。譙郡(せうぐん)太守これに降り、真源(=地名)の令(=長官)張巡に逼(せま)り、賊を迎へしむ。巡、吏民を師ゐ玄元皇帝(=老子)の廟に哭し、兵を起して賊を討ず。

 雍丘に至り賊将令孤潮を拒(ふせ)ぎ、力戦してこれを却(しりぞ)く。潮復た兵数万を引きて奄(たちま)ち城下に至る。巡、乃ち門を開きて突出し、身は士卒(=軍人)に先んじ、直に賊陣を衝く。

 積むこと六十余日、大小三百余戦、甲を帯びて食し、瘡(きず)を裹(つつ)みて復た戦ふ。

 潮、巡と旧あり。城下において相労苦すること平生の如し。潮因りて巡に説いて曰く「天下の事去る。足下(=あなた)堅く危城を守る。誰が為にせんと欲するや」と。

 巡曰く「足下平生忠義を以て自ら許す。今日の挙、忠義何(いづこ)にか在る」と。潮慚ぢて退く。

 囲守することこれを久ふし、朝廷の声問(=消息)通ぜず。潮復た書を以て巡を招く。巡が大将六人、巡に白(まを)すに、兵勢敵せず且つ上(=天子)の存亡知ることなく、降るに如かざるを以てす。

 巡、陽(=見せかけで)に許諾し、明日、堂上に天子の画像を設け、将士を帥ゐてこれに朝す。人人皆泣く。巡、六将を前に引きて、責むるに大義を以てし、これを斬る。士(=士卒)の心益々勧(はげ)む。


 巡その将雷万春をして城上において潮と相聞(=言葉を投げ合ふ)せしめ、語未だ絶えずして、賊弩これを射る。面、六矢に中りて動かず。潮、其の木人なるを疑ひ、諜をしてこれを問はしむ。乃ち大いに驚き、遥かに巡に謂ひて曰く「向(さ)きに雷将軍を見て、まさに足下の軍令を知れり。然るに其の天道を如何せん」と。巡これに謂ひて曰く「君未だ人倫を識らず。焉ぞ天道を知らん」と。

 賊、苦攻すること数月。兵常に数万。而して巡が衆纔かに千余。戦ふ毎に輒ち克ち(=耐へ抜く)、終に下らず。賊、将に寧陵を襲ひ、以て巡が後を断たんとす。巡遂に寧陵を守り、以てこれを待つ。

 始めて眴陽(すゐやう)の太守許遠と相見る。是の日賊亦た至る。巡・遠ともに(=敵と)戦ひ、大いにこれを敗走す。

 賊将尹子奇また(=そのうえに)兵を益(ま)して来り攻む。巡将士を督励し、昼夜苦戦して、将を擒(とりこ)にし、卒を殺すこと甚だ衆(おほ)し。

 是において遠、巡に謂ひて曰く「公、智勇兼済(=兼備)す。遠、公が為めに守らん。公、遠が為めに戦へ」と。遠が位、本と巡が上に在り。是に至りてこれに柄(=権力)を授けてその下に処(を)り、疑忌(ぎき)する所無く、中に居りて軍糧を調(ととの)へ戦具を修(をさ)む。戦闘籌画(ちうかく=作戦)一に巡に出づ。

 巡の獲る所の車馬牛羊は悉く軍士に分かち、秋毫もその家に入るなし。将士に謂ひて曰く「吾国恩を受く。守る所は正に死のみ。但だ念ふ、諸君は躯(み)を捐(す)て力戦して、而も賞は勛(いさを)に酧(むく)いず。此を以て心を痛むるのみ」と。

 将士皆激励して奮(ふる)はんと請ふ。巡乃ち牛を椎(う=打殺す)ち、士を饗し、軍を尽して復た出でて戦ふ。昼夜数十合、屡々敵鋒(=ほこさき)を摧(くじ)く。

 而して賊攻むること弥々(いよいよ)鋭し。城中食尽き、米に襍(まぜ)るに茶・紙・樹皮を以て食となす。士卒消耗飢疲して皆闘ふに堪へず。乃ち更に守具(=城を守る道具)を修めてこれを禦(ふせ)ぐ。

 賊、攻撃の術を尽す。而して巡、方(かた)に随て(=敵のやり方に応じて)拒破し、為す所皆な機に応じ、立ちどころに辦ず(=処理する)。賊その智に服し、敢て復た攻めず。遂に城外において壕を穿ち、柵を立て以て守る。巡、亦たその内において壕を作り以てこれを拒ぐ。


 時に近くにある諸将、観望(=様子見)して救ひ(=救援)を肯んずるなし。賀蘭進明(がらんしんめい)、臨淮にあり。巡、その将南霽雲(なんせいうん)をして囲を犯して出でて急を告げしむ。

 進明、巡・遠が声績(=名声)己が上に出ずるを嫉み、兵を出すを肯ぜず。且つ霽雲が勇壮を愛し、強てこれを留め、食を具へ楽を作しこれを坐に延(ひ=引入れる)く。

 霽雲、忼慨して語りて曰く「昨(きのふ)、眴陽(すゐやう)を出る時、士粒食(りふしよく)せざること月余(=一月余り)日。霽雲独り食せんと欲すと雖も義に忍びず。食すと雖も且(まさ)に咽に下らざらん。大夫、坐りながら彊兵を擁し、曾て災を分かち患を救ふの意なし。豈に忠臣義士の為す所とならんや」と。

 因て佩ぶる所の刀を抜きて一指を断ち、《通鑑(=資治通鑑)一指を齧り落とすと作す》血淋漓(りんり)として以て進明に示して曰く「霽雲(せいうん)既に主将の意を達すること能はず。請ふ一指を留めて以て信(=来た証拠)と為さん」と。(=韓愈『張中丞伝後叙』)

 一座大いに驚き、皆為に感激して泣下る。霽雲、進明の終に師(いくさ=軍隊)を出すの意無きを知り、即ち馳せ去り、また囲を冒し城に入る。

 賊の囲益々急なり。或は城を棄て走らんと議す。巡・遠議して以(おも)へり。「眴陽は江淮の保障なり。若しこれを棄て去らば、則ち是れ江淮無きなり。堅く守り以て救ひを待つに如かず」と。

 巡が士多く餓死す。巡、愛妾を出して曰く「諸君年を経、食に乏しくして忠義少しも衰へず。吾肌を割きて以て衆に啖(くら)はしめざるを恨む。寧ろ一妾を惜んで、而して坐りなから士の飢を視んや」と。乃ち殺して以て大いに饗す。

 坐する者皆泣く。巡、彊(し)ひてこれを食はしむ。茶・紙既に尽き、遂に馬を食す。馬尽く。雀(すずめ)を羅(あみ)し鼠(ねずみ)を掘る。雀・鼠また尽く。鎧・弩を煮て以て食するに至る。城中必死を知りて畔(そむ)く者あるなし。余す所纔かに四百人。


 賊城に登る。将士病んで戦ふこと能はず。巡、西向再拝して曰く「臣力竭く。生きて既に以て陛下に報ひるなし。死して当に厲鬼(れいき)となりて以て賊を殺すべし」と。

 城、遂に陷りて執(とら)はる。子奇問て曰く「聞く、君督戦する毎に大に呼び、輒ち眥(まなじり)裂けて面に血し、歯を嚼(か)みて皆碎くと。何ぞ是に至る」と。巡曰く「吾志は逆賊(=謀反人)を呑む(問題にしない)、但だ力能はざるのみ」と。子奇怒り刀を以てこれを抉(あば)き視れば、歯余す所纔かに三四。

 巡罵りて曰く「我は君父の為めに死す。爾は賊に附く、乃ち犬彘(いぬぶた)なり。安(いづくん)ぞ久しきを得ん」と。子奇その節に服し将にこれを釈(ゆる)さんとす。乃ち刃を以て脅し降(くだ)すも、巡、屈せず。また霽雲(せいうん)を降すも未だ応ぜず。

 巡呼て曰く「南八(=霽雲、 南家の八番目)、男児死せん爾(のみ)。不義をなして屈するべからず」と。霽雲笑て曰く「為すことあらんと将に欲するなり(=予ての決意を実行したい)。公は我を知る者、敢て死せざらんや」と。亦た降るを肯ぜず。

 乃ち遠及び万春ら皆ここに死す。巡、年四十九。且に死せんと起ちて旋(いば=小便)りす。その衆同じく斬らるゝ者、これを見て或は起ち或は泣く。

 巡曰く「これを安んぜよ。死は乃ち命なり」と。衆泣いて仰ぎ視ること能はず。巡顔色乱れず。陽陽として平常の如し。

 初め虢王巨(かくわうきよ=玄宗の子)兵を引いて東に走(=逃げる)る。巡に姉あり陸氏に嫁す。巨を遮り、行くことなかれと勧む。巨納れずして百縑(けん=絹織物)を賜ふ。受けず。巡が為に行間(=巡の軍中にあつて)に補縫(ほほう=繕い物)す。軍中「陸家姑」と号す。巡に先(さきんじ)てここに死す。


 巡は長(た)け七尺余、鬚髯(しゆぜん)神の如し。気志高邁、交わる所は必ず大人長者にして、庸俗とは合はず。時人は知る叵(な=無)しなり。

 出でて清河の令となる。治績最にして節義(=節操と道義)を負(=たのむ)ふ。或は困阨(こんやく)を以て帰する者は、貲(し=財)を傾け振護(しんご=分け与へて助ける)して吝(をしむ)ことなし。

 秩(ふち=年期)満ちて都に還る。時に楊国忠まさに国を専らにし、権勢炙(あぶ)るべし。或は勧む、「一見せば、且に顕用せんとす」と。答て曰く「是れ乃ち国の怪祥(=怪しい兆し)なり。朝宦(=仕官)為すべからざるなり」と。

 更に真源(=地名)の令に調(=転任)す。土(=土地)に豪猾(がうかつ=乱暴者)多し。大吏華南金、威を樹て恣肆(しし)す。巡、車より下り、法を以てこれを誅す。余(=残りの)の党、行を改めざるなし。政をなすこと簡約にして、民甚だこれを宜しとす。

 その睢陽(すゐやう)を守るや、士卒居人(=住人)、一見して姓名を問ふ。その後識らざるなし。人を待つに疑ふところなし。賞罰信あり。衆と甘苦塞暑を共にし、廝養(しやう=雑用係)と雖も必ず衣を整へてこれを見る。故を以て下、争て死力を致し、能く少を以て衆を撃ち、未だ嘗て敗れず。

 議する者みな謂ふ、「巡、江淮を蔽遮(へいしや)し、賊勢を沮む。天下亡びざるはその功なり。睢陽、是より巡・遠を祠享(しきやう=祭る)し、号して“双廟”といふ。

《文天祥、双廟に題し詞して曰く「子(こ)と為りては孝に死し、臣と為りては忠に死す。死また何ぞ妨げん。光岳(=全国)の気、分かちてより、士に全節なく、君臣に義欠け、誰か剛腸(がうちやう)を負ふ。

《賊を罵るは張・巡、君を愛するは許・遠、声名を留め得ること万古の香。後に来たる者に、二公の操、百錬の鋼なし。嗟哉(ああ)人生翕欻(きふくつ)(=突然)云(ここ)に亡く、烈烈轟轟一場を作す(=忠義で名声を轟かす)を好しとす。

《当時をして国を売り、甘心して虜(=敵)に降らしめ 人の唾罵(だば)を受くれば、安んぞ芳(かをり=名声)を流すを得ん。古廟(=双廟を指す)幽沈し、音容(=姿)儼雅にして、枯木の寒鴉(かんあ)、幾夕陽。郵亭(=宿駅)の下、奸雄(=悪賢い人間でさへ)此に過ごす有りて仔細思量す(=わが身を省みる)」。○按ずるに此の詞、文山集載せず》


巻の五 衣帯中の賛 

 宋の少保、枢密使、信国公、文天祥
(=文山、南宋末の忠臣、理宗[在位1224~64]に仕へる)

 天祥、字は宋瑞。

《劉定之『文山詩史』の序に曰「公の『集杜句詩』、姓を某履善甫と書くは、『指南集』の中、所謂范睢を張禄に変へ越蠡を陶朱に改むの意なり」》

 帝顯(けん=原文頁なし)

《度宗(=在位1264~1274)の嗣、これ徳祐帝(=在位1274~1276、恭宗)となる。端宗(=在位1276~1278)位に即くや、孝恭懿聖皇帝と号す》

 徳祐の初め、元の兵、已に江を渡りて東に下り、勢ひ日々に迫れり。勤王の詔下る。重臣宿将、率(おほむ)ね頸を縮て駭汗(=冷や汗をかく)す。天祥時に贛州に知(=知事)たり。慨然として郡中の豪傑を発し、孤兵を提げ独り赴く。

 その友これを止めて曰く、「是れ何ぞ群羊を駆りて猛虎を搏つに異ならん」天祥曰く「吾れまたその然るを知るなり。第々(ただ)国家臣庶を養育すること三百余年。一旦急有り、兵を徴し、一人一騎の関に入る者なし。吾れ深く此に恨む、故に自ら力を量らずして身を以て之に徇(したが)ふ、天下の忠臣義士、将(ま)さに風を聞きて起つ者あらん。此の如ければ、則ち社稷なほ可き保つなり」

 既に至り、上疏して敵を抗(ふせ)ぐの策を言ふ。時議以て迂闊と為して報せず。已にして諸路の州県、屠陥降遁相ひ継ぎて、元の兵既に臨安の北関に至る。《臨安、即ち宋南渡して以後都とする所なり》

 天祥前に頻りに敵と血戦し死を以て宗廟を衛(まも)らんことを請ふ。是に至りてまた己れ衆を帥ゐ城を背にして一戦せんことを請ふ。右丞相陳宜中聴かず。

 遂に太皇太后に白(まを)し《理宗の后謝氏、帝顯位に即くや太皇太后といふ》監察御史楊応奎を遣はし、伝国の璽(=天子の印章)を奉じて以て元に降る。

 元の将、伯顏これを受けて、執政来たりて面議せんことを欲す。使ひを遣はし宜中を召す。宜中、先に已に夜遁(のが)る。

 太后乃ち天祥を以て右丞相兼枢密使となし往かしむ。天祥、官を辞して拝せず。遂に挺身(=進み出る)して命を奉じて元の軍に如(ゆ)き、伯顔と抗議争弁す。伯顔大いに怒り、群起(=さっと立つ)して呵斥(かせき=どなる)す。天祥益々自奮(=がんばる)す。伯顔その挙動の常ならざるを顧み、これを留めて還さず。

 天祥怒りて数々(しばしば)帰らんと言ふ。伯顔聴かず。伯顔が属将唆都、従容として天祥に説きて曰く、「大元まさに学校を興し科挙を立てんとす。丞相(=天祥)は大宋に状元(=科挙で主席)宰相たり。今大元の宰相たる疑ひなし。丞相常に称す、国亡ぶればともに亡ぶ、此れ男子の心と。いま天下一統す。大元の宰相たる豈に是れ易事ならん。国亡び与に亡ぶの四字、願はくは公言ふことなかれ」と。天祥、哭してこれを拒(しりぞ)く。

 継いでまた賈余慶を以て右丞相となし、祈請使に充て、元の軍に如かしむ。嘗て天祥と同坐す。天祥、余慶の国を売るを面斥し、且つ伯顔の信を失ふを責む。降将(=降参した将軍)呂文煥、旁らよりこれを諭解す。天祥、并(あは)せて「文煥および其の姪師孟が父子兄弟、国の厚恩を受け,死を以て国に報いること能はず、乃ち合族(=一族こぞつて)逆をなし、尚(な)ほ何をか言ふ」と斥(しりぞ)く。

 文煥ら慚恚(ざんい=恥じて怒る)す。伯顔、遂に天祥を遣(や)らず。これを拘(とら)へて北せしむ。尋いで伯顔臨安城に入り、帝及び太皇太后・皇太后を取り《度宗の后は全氏、帝顯位に即き尊びて皇太后と曰ふ》北に去る。

 度宗の二子益王昰(えきわうぜ)・広王昞(くわうわうへい、昞は原文では日が上)留まりて浙東に在り。元の兵まさにこれを追ふ。天祥なほこれを奉じて以て恢復を図らんと欲す。鎮江に至るに及び、その客杜滸らと密かに脱を謀る。滸曰く、「不幸にして謀泄るれば当に死す、死して怨みあるべきか」と。

 天祥心を指し自ら誓ひて曰く、「死して悔ゆ靡(な)し、且つ匕首(ひしゆ)を辦(そな=用意)ふ、事懼るは済まず、挟みて(=匕首を隠し持て)以て自殺せん」と。

 遂に滸ら十二人と夜潜出して真州の城下に至る。城主苗再成、出迎へ喜泣しこれを延(の=案内)べて城に入れ、ともに国事を議す。

 時に楊州の守将、天祥が敵の為に間をなすと疑ひ、再成をして亟(すみやか)にこれを殺さしむ。再成、天祥が忠義を識り、兵を以てこれ(=兵)を道びき、楊州の城下に抵(いた)る。まさに天祥に備ふること甚だ急なり。衆、相顧みて舌を吐く(=驚いた)。

 天祥乃ち姓名を変じて,東に出で、道に元兵に遇ふ。環堵(くわんと=垣根)の中に伏して免るゝことを得たり。然るに饑ゑて能く起つことなし。樵者に従ひ余糝羹(=余つた雑炊)を乞ひ得て行く。

 元の兵また至る。衆、叢篠の中に伏す。二樵者、蕢(あじか=もつこ)を以て天祥を荷ひ去りて脱するを得たり。更に転じて海に汎(うか)び、以て二王を求む。

 時に益王すでに福州に位に即きて《是れ端宗たり》、天祥遂に至る。即ち以て枢密使同都督諸路軍司馬となす。豪傑を招き兵士を募り、府を開き経略して以て進取を規(はかる)る。

 属将呉浚すでに元に降り、因て来りて天祥に説いて降す。天祥、責むるに大義を以てして之を斬り、遂に元軍を敗り、及び数州の県を復して、諸路の将帥もまた屢々捷(=勝)を報ず。軍勢稍々(やや)振ひ、大勛(たいくん=大きな手柄)集るに垂(なんな)んとし、而も興国の戦、利あらず。空坑に至りて兵尽(ことごと)く潰(つひ)ゆ。

《別将(=副将)趙時賞天祥の肩輿(けんよ=輿の一種)の後に坐するに、元軍問ふて誰かと為す。時賞曰「我が姓文なり」。衆以て天祥と為しこれを禽(とりこ)にす。天祥これに由て逸するをう。

《元将、遍(あま)ねく俘虜人(=宋人)を求め識認するに「これ趙時賞なり」と曰ふあり。時賞、奮罵(ふんば)して屈せず。執はれし者(=別の宋人)或は自ら辨ず。時賞叱りて曰く「死すのみ。何ぞ必ず然るや」。遂にここに死す。

《○一統志(=『大明一統志』)曰く「天祥、時に崖石を顧みて祝(=祈る)ふて曰く『天、宋を相祚(さうそ=王家を助ける)し、願はくば、崖石を以て兵路に堕ち塞ぐことを』。言ひ訖(を)はるや石果たして堕ち、元兵進むを得ず。後人因りて亭を名づけて相石と曰ふ。

《解縉(=1369~1415)曰く「石の大さ数間屋の如し。忽然として山頂より震落し、路径に当る。元兵大いに驚き稍(やや)却(きやく=退却)す。天祥、是に由て脱去するをう。

《鄒■(=三水+鳳)輩、余の兵を以て拒戦(=防ぎ戦ふ)し、死傷地を塗る。父子兄弟相ひ勗(つと)め、白刃を冒(おか=ものともせず)して以て栄を為す。蕭(せう)文琬父子、饋餉(きしよう=食料を送る)を督し、またこの役に在り、幸にして死なず。退(しりぞ)きて是の日の事を筆記し甚だ詳し。

《今の宋史及ち元の天祥伝、空坑の戦、趙孟濚(=趙時賞)の元兵を紿(あざむ)きて以て免るゝを得しと云ふのみ。盖(けだ)し宋史は元の盛時に作りし故に天祥の事においては時に誣陋(ぶろう=こじつけ)し、丞相(=天祥)が黄冠(=農夫の服装)を為すを求むと云ふなどを語るに至る。欺罔(ぎまう)尤も甚し。顧て豈に天祥の軽重を為さんや」》

 妻子幕僚ら皆な執(とら)はれ。天祥なほ散亡を収拾して、以て後挙を謀る。而るに未だ幾ばくなく、端宗また崩ず。群臣多く散去せんと欲す。丞相秀陸夫曰く「度宗皇帝の一子なほ在り。将さに焉(いづ)くに之を置かんと。古人一旅(=五百人)一成(=十里四方)を以て中興する者あり。

 《寒浞、夏后相を弑(しい)す。相の子少康、虞(=国名)に奔る。田一成衆一旅あり、能くその徳を布き、以て夏衆を収め、遂に浞を誅して、禹の旧績を復す》

 天若し未だ宋を絶つことを欲せざれば。これ豈国を為すべからざらんや」。乃ち衆と共に衛王を立つ(=最後の宗帝)。《即ち広王、後に改封(=して衛王)、祥興と改元す》年八歳。


 天祥、王の位に即くを聞き、上表して自ら劾(がい=自己批判)す。詔して少保信国公を加ふ。軍中大いに疫するに会し、士卒多く死し、天祥の母も亦た病没し、長子復た亡びて家属皆尽く。大勢已に支ふ可からず。天祥尚ほ諸将を会し、劇盗(=盗賊)等を潮陽(てうやう)に討じ之を破る。而して残賊又元の兵を導いて来り倉猝突至、衆、戦ふに及ばず。

 天祥遂に執らへられ、脳子(=毒)を呑んで死せず《・・》、潮陽に至るに及んで、元の将張弘範之れを見る。左右之れに拝を命じ、摏(う)つに戈(ほこ)を以てす、屈せず。弘範乃ち其の縛を釈き、客を以て之れを礼す。天祥固く死を請ふ、弘範許さず、之れを舟中(しゆちう)に処く、尋で厓山の戦ひ敗れ宋亡ぶ。

《崖山軍潰れ、陸秀夫先づ其の妻子を駆りて海に入り、帝に謂ひて曰く『国事此に至る、陛下当に国の為に死すべし。徳祐皇帝、辱めらる已甚(はなはだ)し。陛下再び辱めらるべからず。即ち、帝を負ひて同(とも)に溺る。楊太后、帝崩ずと聞き、膺(むね)を撫でて大いに慟(なげ)いて曰く『我死を忍びて艱関之れに至りしは、正に趙氏の一塊肉の為のみ。今、望むことなし』。また海に赴きて死す。

《張世傑、之を海浜に葬り、尚ほ趙氏の後を求めんと欲し、広に入らんと謀る。台風大いに作(おこ)り、将士、世傑に崖に登らんことを勧む。世傑曰く『以て為すことなきなり』。柁楼(=船室)に登り、露香して祝りて曰く、『我、趙氏の為に亦た已に至れり、一君亡びて復た一君を立つ。今又亡ぶ。我が未だ死せざるは庶幾くば敵兵退き、別に趙氏を立て、以て祀(まつり)を存せんのみ。今此の如し、豈に天意ならんや』風濤愈々甚だし、舟履へり遂に之を死(しな)す。○黄衷曰く・・》


 是に於て弘範ら置酒大会、天祥に謂ひて曰く「国亡び丞相忠孝尽く、能く心を改め、宋に事ふる者を以て今に事へば、将に宰相たるを失はざらんとす」と。天祥泫然として涕を流して曰く「国亡びて救ふ能はず、人臣たる者死して余罪あり。況や敢て其の死を逃れて其の心を弐にせんや。弘範また曰く「国已に亡ぶ、身を殺して以て忠する誰か復た之れを書せん」天祥曰く「商亡びざるにあらず、夷斉自ら周の粟を食はず、人臣自ら其の心を尽すのみ、豈に書すると書せざるとを論ぜん」と。

 弘範為に容を改む。乃ち使ひを遣はして護送して燕に赴かしむ。道、吉州を経、痛恨し即ち絶えて食はず。意に擬す。「廬陵に至り瞑目長往(=死ぬ)し、笑ひを含んで地に入るを得ば、首丘の義(=故郷を思ふこと)を失はざらん」と。即ち墓に告ぐるの文を為(つく)り、人を遣はして馳せ帰りて之れを祖禰(でい=廟)に白(まを)す

《其の辞云ふ「嗚呼、古より危乱の世、忠臣義士、孝子慈孫、其の事の両全なる能はざるや久し。吾れ生れて辰(とき)ならず、此の百凶に罹る、仁を求めて仁を得たり、抑も又何をか怨まん。幽明死生一理なり、父子祖孫一気なり、冥漠知るあらば、尚(こひねがは)くは之れを哀監せよ》。

 八日に至つて猶ほ生く、天祥以為く「既に郷州を過ぎ初望を失ふ。命を荒浜に委(す)てゝ則ち節を立つること白(あきら)かならず、盍ぞ少しく従容として以て義に就かざらんや」と。乃ち復た飲食す。


 既に燕に至る、館人供張(きようちやう=饗応)甚だ盛んなり。天祥寝処せず、坐して旦に達す。遂に兵馬司に移し、卒を設けて之れを守らしむ。元の丞相博羅等、天祥を見る。天祥入つて長揖(ちやういふ=立礼)す。之れを跪かしめんと欲す。天祥曰く「南の揖、北の跪、予は南人なり南礼を行ふ、跪を贅(と)る可けんや。博羅左右を叱して之れを地に曳く、或は項(うなじ)を抑へ或は其の背を扼(と)る、天祥屈せず、首を仰いで之れと抗言す。

 博羅曰く「古より宗廟土地を以て人に与へて《此れ宜中・余慶等、国を献じて元に降るを以て、天祥を誣詰(ぶきつ)するのみ、故に天祥の答る所後の如く云ふ》復た逃るゝ者あるか《此れ鎮江より脱帰するを謂ふ》」天祥曰く「国を奉じて人に与ふる、是れ売国の臣なり。国を売る者は利する所あつて、之れを為す必ず去らず《去るは亦た脱帰するを謂ふなり、余慶、燕に至りて館中に留まる》、去る者は必ず国を売る者にあらざるなり。

 「予前に宰相に除して拝せず、使ひを軍前に奉じ尋で拘執せらる。已にして賊臣あり国に献ず、国亡び当に死すべきに、死せざる所以の者は度宗の二子、浙東に在り、老母広に在るを以ての故のみ」。博羅曰く「徳祐の嗣君を棄てゝ二王を立つるは忠か」天祥曰く「此の時に当つて社稷を重しとなし、君を軽しとなす、吾、別に君を立つるは、宗廟社稷の為めに計るなり、懐愍(=懐帝・愍帝)に従つて北する者は忠にあらず、元帝(=東晋初代皇帝、西晋滅亡後建業で東晋を立つ)に従ふを忠となす《・・》。徽欽(=徽宗・欽宗)に従つて北する者は忠にあらず、高宗(=南宋初代皇帝)に従ふを忠となす《靖康の禍事、六巻後を見よ》」


 博羅語塞がる。忽ち曰く「晋の元帝、宋の高宗皆命を受くる所あり。二王、正を以てせず、是れ簒なり」天祥曰く「景炎《端宗年号》は乃ち度宗の長子、徳祐の親兄(=実の兄)、尚、正しからずと謂ふ可けんや。徳祐位を去るの後に登極す。簒と謂ふ可からず。陳丞相太皇の命を以て、二王を奉じて宮を出づ《宋已に元に降り、益王、広王、嘉会門より出て浙江を渡り南す》、命を受くる所なしと謂ふ可からず」

 博羅等皆辞なし。但だ命を受くる無きを以て解となす。天祥曰く「伝受の命なしと雖も、推戴擁立亦た何ぞ不可ならん」博羅怒つて曰く「爾ぢ、二王を立てて竟に何の功をか成せる」天祥曰く「君を立てゝ以て宗社を存す。一日を存すれば、即ち臣氏一日の責めを尽す、何の功か之れ有らん」曰く「既に其の不可なるを知る。何ぞ必ずしも為さん」天祥曰く「父母疾あり、為す可からずと雖も、薬を下さゞるの理なし、吾心を尽す、救ふ可からざるは則ち天命なり。今日天祥此に至る、死あらんのみ。何ぞ必ず多言せん」

 博羅之れを殺さんと欲す。元首可(き)かず、乃ち之れを囚ふ。一小楼に坐臥し、足、地をふまず。正気の歌をを作つて、以て己が志を述ぶ。中山に狂人あり自ら宋主と称して丞相を取らんと欲するに会す。元主、丞相は天祥なりと疑ふ。乃ち天祥を召し、之れに諭して曰く「汝宋に事ふる所以のものを移して、我に事へば当に汝を以て相となすべし。天祥曰く「天祥は宋の宰相なり、安(いづく)んぞ二姓に事へん、願はくば之れに一死を賜はゞ足れり。遂に之れを都城の柴市に殺す。


 天祥刑に臨み、殊に従容として吏卒に謂つて曰く「吾事畢る」と。南向再拝して死す。年四十七。是の賛(=「孔、仁を成すと曰ひ」以下)は即ち其の衣帯の中に有りし所なり。其の妻欧陽氏其の屍を収む。面生けるが如し。尋いで義士張千載其の骨を負ひ、吉州に帰葬す。適々(たまたま)家人広東より其の母曾夫人の柩を奉じ同日に至る。人以て忠孝の感ずる所と為すと云ふ《・・》。


 天祥人と為り、豊下(ほうか=下膨れ)英姿俊爽、両目炯然、童子たりし時より、学宮(=学校)祠る所の郷先生(=先輩)胡銓等の像、皆忠を謚(おくりな)するを見、即ち欣然之れを慕うて曰く「没して其の間に俎豆(そとう=祭る)せられざるは夫(ふ=大丈夫)にあらず」と。

 甫(はじ)めて弱冠、廷対(=天子の試問)を奉じ、君道の大本、経世の急務を陳(の)ぶ。文思(=教養)神発、万言立(たちどこ)ろに就(な)る《時の考官王応麟(1223~1296)奏して曰く「是巻の古誼(こぎ=道理)亀鑑の若(ごと)し、忠肝(=忠義)鉄石の如し、臣敢て人を得たるために賀す」》。

 宦者董宋臣、都を遷し敵を避けんと請ふに当り、上章して之れを斬らんと乞ふ。呂師元、偃蹇(えんけん)して命(=君命)に傲(おご)るや、また上章して之れを斬らんと乞ふ。賈似道、国を誤り君を要(やう=抑制)するや、制(=詔を書く)に当り義を以て之れを裁す。既に軍を督し元を禦ぎ劉珠・羅開礼等戦死するや、為めに服を製して之れを哭す。賓客僚佐と語つて時事に及ぶ毎に、輒ち几(き=脇息)を撫して曰く「人の楽しみを楽しむ者は、人の憂を憂ふ、人の食を食む者は、人の事に死す」と、聞く者之れが為めに感動す。


 性豪華、平生自ら奉ずる甚だ厚し。勤皇の詔至るに及んで、之れを奉じて涕泣し、痛く自ら抑損(よくそん=へりくだる)し、家貲(かし=家財)を罄(つく)して軍費と為す。兵を起して以来、断々焉(=断固)として力を殫(つく)し、謀を竭(つく)し、顚(=顚覆)を扶け危を持し、興復(=再興)を以て己が任となす。鞠躬(=身を慎む)激厲(=激励)、独り其の志を行ふ。

 讒(ざん)に遭ひ憂に逢ひ、崎嶇間関(きくかんかん=困難)百挫千折すと雖も、進むあつて退くなし。屢々躓(たふ)れて、愈々奮ふ。故に軍日に敗れ、勢ひ、日に蹙(せま)つて帰附(=天祥に順ふ)日に衆(おほ)し。之れに従ふ者は、家を亡(うしな)ひ族を沈めて顧みず、督府を開き僚族を置く。一時名を知らるゝ者四十余人にして遥かに号令を請ひ、幕府(=陣営)の文武の士と称する者、悉く数ふ可からず。皆一念正に向ひ死に至つて悔ゆる靡(な)し。

 厓山の戦、張弘範、数々(しばしば)人をして張世傑を招かしむ。世傑死守して従はず、古の忠臣を歴数(れきすう=一つ一つ数る)して以て之れに答ふ。弘範乃ち天祥をして書を為つて之れを招かしむ。天祥曰く「吾父母を扞(ふせ)ぐこと能はず、乃ち人をして父母に叛かしめて可ならんや」と。固く之に命ず。天祥遂に過ぐる所の零丁洋の詩を書して之に与ふ。其の末に云ふ有り、「人生古より誰か死なからん、丹心(=真心)を留取(りうしゆ=無くさない)して汗青(かんせい=歴史)を照らす」と。弘範笑つて之れを置く、竟に逼る能はず。

 已に北し、獄に居ること四年、忠義の気、一に詩歌(=天祥の書いた詩)に著(あら)はれ、数十百篇に累(かさ)ぬ。是に至つて(=刑死後)兵馬司、存する所を籍(せき=書物にして)して之を上(たてま=元主に奉ず)つる。観る者涕を流して悲慟(=泣き叫ぶ)せざるなし。其の一履(り=天祥の靴)を得る者あれば亦た之れを宝蔵すと云ふ。


 薛瑄曰く「宋室垂亡の秋に当り、其の守帥、堅城に憑り・・・

中略

孔、(=身を殺して)仁を成すと曰ひ、孟、(=生を捨てて)義を取ると曰ふ。惟々(ただ)その義の尽くるが、仁の至る所以なり。聖賢の書を読み、学ぶ所は何事ぞ。今にして後、庶幾(こひねがはくば)愧づること(=孔孟の言に)無からん。

 正気歌の序に曰く、「予、北庭に囚はれ、一土室に坐す。広さ八尺、深さ四尋(=三十二尺)ばかり、単扉低少。白間(=窓)短窄(たんさく)。汙(よご)れ下にして幽暗。

 この夏の日に当り、諸気萃然(すいぜん=集まること)、雨潦(うろう=水溜り)四集し、床几(しやうぎ=腰掛)を浮動する時は、則ち水が気となり、塗泥(=雨上がりの泥)半朝(=朝の途中から日がでる)、蒸漚(じようおう=蒸せた泡)歴瀾(れきらん=漂流)する時は、則ち土が気となり、

 乍(たちま)ち晴れ暴(にはか)に熱し、風道四塞する時は、則ち日が気となり、簷陰(のきかげ)薪(まき)爨(かし)ぎ、炎虐(えんぎやく)を助長する時は、則ち火が気となり、

 倉腐(=倉の腐つた米)寄頓(きとん=ころがつて来る)し、陳陳(=古米の臭ひ)人に逼る時は、則ち米が気となり、肩を駢(なら)べて雑遝(ざつとう=雑踏)し、腥臊(せいさう=生臭い)汙垢(をこう)する時、則ち人が気となり、

 或は圊溷(せいこん=トイレ)、或は死屍、或は腐鼠(ふそ)、悪気雑出する時は、則ち穢が気となり、是の数気を畳(かさ)ねて、これに当る者は、厲(れい=病気)をなさざること鮮(す)くなし。

 而るに予、孱弱(せんじやく=かよわい)以て,その間に俯仰する、茲(ここ)に二年。嗟呼(あゝ)是れ殆ど養ふことありて然然(しかじか)を致す爾(のみ)。また安(いづくん)ぞ養ふ所の何なるを知らんや。

 孟子曰く『吾れ善く吾が浩然之気を養ふ』彼が気七あり、吾が気一あり、一を以て七に敵す。吾何ぞ患はん。況んや浩然乃ち天地の正気なるをや。正気の歌一首を作る。曰く。


天地に正気あり、雑然として流形(=万物)に賦(=分布)す。下は則ち河岳となり、上は則ち日星となる。人に於ては浩然と曰ひ、沛乎(はいこ=水が盛ん)として蒼溟(さうめい=天地)に塞(ふさ)がる。

皇路(=王道)、清夷(=平ら)に当り、和を含み、明庭(=明らかな朝廷)に吐き、時窮して(=明庭の逆、乱世)は節乃(すなは)ち見(み)ゆ、一々丹青(=絵画、歴史書)に垂る。斉にありては太史(=史官)の簡(=筆記用具、木の札)、

《斉の崔杼(さいちよ ~紀元前546年)、荘公を弑す。太史書曰く「崔杼その君を弑す」。杼これを殺す。その弟嗣(つ)いで書きて、死者二人となる。その弟また書く。乃ちこれを舎(す=放置)てる。南史氏、太史尽(ことごと)く死すと聞き、簡を執りて以て往く、既に書けりと聞き乃ち還へる》

晋にありては董狐(=春秋時代の晋の史官)が筆《・・》。秦にありては張良が椎《・・》。漢にありては蘇武が節(=顔真卿の巻参照)《・・》。

厳将軍が頭となり《・・》、

嵆侍中(けいじちゆう)が血となり《・・》、

張睢陽が歯となり,顔常山が舌となり、或は遼東の帽となり、清操氷雪を厲し《・・》、

或は出師の表となり、鬼神壮烈に泣き、或は、江を渡る楫(かじ)となり、慷慨胡羯(=胡戎)を呑む《・・》。

或は賊を撃つの笏となり、逆豎(ぎやくじゆ=道理に背く者)の頭は破裂す《・・》。

この気、磅礴(はうはく=行き渡る)する所,凜冽(りんれつ)として万古存す。その日月を貫くにあたり、生死安ぞ論ずるに足らん。地維(ちゐ=大地)頼りて以て立ち、天柱頼りて以て尊とし。三綱実に命を繋(つな)げ道義これが根となる。

嗟々(あゝ)予、陽九(やうきう=災難)に遘(あ)ひ、隸(しもべ)なり実に力(つと)めず。楚囚その冠を纓(えい)し、伝車して窮北(きゆうほく=極北)に送る。鼎鑊(ていかく)甘きこと飴の如し(=釜で似られても平気)。これを求めて得べからず。陰房鬼火に闐(み)ち、春院(=春の座敷)天黒を閟(と)づ。

牛驥(ぎうき=牛と馬)一皁(いつそう=食器)を同じくし,鶏栖(けいせい=鳥小屋)に鳳凰食ふ。一朝霧露(むろ=風邪)を蒙らば、溝中の瘠(こうちゆうのせき=痩せた溝の中の死体)と作(な)るを分とす。

かくの如き再寒暑(=二年間)、百沴(れい=悪気)自ら辟易(=しりごみ)す。哀しい哉(かな)沮洳(しよじよ=湿地)塲(=場)が我が安楽国となる。豈に他の繆巧(ぼくかう=上手い手段)あらんや。

陰陽賊すること能はず。顧(かへ)つて此の耿耿(かうかう=憂い)あり。仰(あほぎ)て浮雲の白を観る。悠悠として我が心憂ふ。蒼天曷(なん)そ極りあらん。哲人日に已でに遠く、典刑(てんけい=手本)夙昔(しゆくせき)にあり。風簷(ふうえん=風のあたる軒)書を展げ読めば、古道(=昔からの道義)顔色を照らす。


後略



巻の六 初めて建寧に到りて賦する詩並びに序  

 宋の江西招諭使、知信州、謝枋得(しやばうとく)


 枋得、字は君直、信州の人。宝祐(=年号)中、郷薦(=郷里の推薦)を以て試み、礼部の高等に中(あた)る。対(=天子に直答すること)に比(なら)びて、力(つと)めて時宰(じさい=時の宰相)閹宦(えんかん=宦官)を詆(そし)り奮て前後を顧みず。抑へて第ニ甲(=二位)に置く。

 既に帰る。江東西の宣撫使趙葵(てうき)、枋得を辟(め)して属となす。尋いで礼兵部(=礼部と兵部)架閣(=書記)に除し、兵を募りて江上を援けしむ。枋得、銭粟を給し、信撫(=信州と撫州)の義士数千人を得て、以てこれに応ず。

 時に賈似道(かじどう)国に当り、功を忌み、一時の閫臣(こんしん=大将)を汚衊(をべつ=血で汚す)せんと欲し、官を遣はし辺費を会計す。会計者信に至る。枋得曰く「以て宣撫を累(わづらは)すべからず」と。家を毀ち自ら償ふ。これに由つて坐廃(=解任)す。

 景定(=理宗の年号)の末、元兵江上を圧し、宋社(=宋の社稷)日に替りて、江東の漕司(=運輸官)なほ士を試むるに芸を較す。

 枋得、試を考し(=試験官になる)、似道が政柄を窃(ぬす)み忠良を害し国を誤り民を毒するを憤り、策(=問題)十問を発し、その姦を擿(あば)き、極て言ふ「天心怒り、地気変じ、民心離れ、人才壊(やぶ)れ、国に亡証あり」と。辞甚だ剴切(がいせつ=ぴつたり)。

 似道、その藁(=草稿)を見、大いに怒り、台評(=御史台の評議)竟にその騰謗(とうぼう=悪口で政治をそしる)を刻し、秩を鑴(しりぞけ)てこれを竄(ざん=流)す。後また史館を以て召す。枋得曰く「似道我を餌するなり」。赴かず。 

 徳祐の初め、江西の招諭使知信州となる。元兵、江東に寇す。枋得、安仁に迎へ戦ひ矢尽きて敗る。妻子皆執えられる。

 枋得、遂に服を易へ、母を負ひ、建寧の唐石山に入り、逆旅(げきりよ=旅館)の中に寓し、日に麻衣(=喪服)躡屨(じようりく=喪のためのわらぐつ)し、東郷(とうがう=東に向く)して哭す。

 人これを識らず、以て病(=精神病)を被るとなす。また去りて建陽(=福建省)の市中に売卜す。来り卜する者あらば、ただ 米と屨(りく=藁靴)をとるのみ。委(お)くに銭を以てせば、悉く謝して納めず。遂に閩(=福建省)中に居る。

 宋すでに亡び、元の至元(世祖の年号1264~94年)の末。元主、その臣程文海を遣はし、江南の人才を訪求す。文海、宋の遺士三十余人を薦め、枋得を以て首となす。

 枋得、時にまさに母の喪に居り、書を文海に遣りて曰く「某(それがし)、死せざるの所以(ゆゑん)の者は、九十三歳の母在るを以てのみ。先妣(=亡き母)、今年二月を以て考(=老)終す。某、今より人間の事に意無し。

 亡国の大夫、与に存を図るべからず。李左車なほよくこれを言ふ。

《韓信、兵数万を以て趙を撃たんと欲す。広武君李左車、趙王歇(けつ)及び陳余(ちんよ)のために、信等を取るの策を謀り、用ひず。

《信乃ち兵を引きて大いに趙軍を破る。余を斬りて歇を禽(とりこ)にす。信、軍中に令して広武君を千金で購ひて、これを獲(え)る。信、その縛を解き之に師事して計を問ふ。広武君、謝して曰く「臣聞く『敗軍の将は以て勇を言ふべからず、亡国の大夫は以て存を図るべからず』と。今臣は敗亡の虜なり、何ぞ以て大事を権(はか)るに足らんや」》

いはんや稍(やゝ)詩書(=学問)を知り、頗る義理を識る者をや」

 既にして元の行省丞相忙兀台(まんうたい)、旨を将(も)てこれを召し、手を執つて相勉労(=ねぎらふ)す。枋得曰く「名性不詳。敢て赴かず」宋の降将の留夢炎、《夢炎、理宗の朝に状元たり、帝顯の朝に左丞相たり、元の兵、日に急になるに及びて、遂に遁げ去り、元に降る》

 また力めてこれを薦む。枋得、書を夢炎に遣り、弁論凡そ数千百言、《後に采録す》、卒(つい)に行かず。

 福建参知政事、魏天祐また枋得を薦めて功となさんと欲し、その友をして来り言はしむ。枋得、これを罵る。天祐乃ち誘ひ召して城に入れ、これと言ふ。枋得また倣岸、坐して対へず。或は嫚言(=罵倒)無礼。

 天祐堪ふる能はず。譲(せ)めて曰く「封疆の臣(=国境を守備する臣)はまさに封疆に死すべし。安仁の敗に、何ぞ死せざる」。

 枋得曰く「程嬰(ていえい)・公孫杵臼(しよきう)の二人皆趙に忠す。一は孤を存し、一は節に死す。一は十五年の前に死し、一は十五年の後に死すも、万世の下、皆忠臣たるを失はず。

《史記に曰く、晋の屠岸賈(とがんこ)、諸将と擅(ほしいまま)に趙朔(=晋の大夫)らを下宮に攻め殺し、その族を滅ぼせり。朔の妻に遺腹あり。公宮に走りて匿す。

 朔の客公孫杵臼、朔の友程嬰に謂て曰く「胡(なん)ぞ死なざる」。嬰曰く「朔の婦に遺腹あり、もし幸にして男なら吾これを奉ぜん。即(も)し女子なるや徐(おもむろ)に死せんのみ」

 朔の婦男を生み、賈宮中に索(もと)む。夫人児を絝中(こちゆう=袴)に置く。児竟に声なく已に脱す。

 嬰曰く「後必ず且(まさ)にこれを求むれば奈何」。杵臼曰く「孤を立つるは死すると孰(いづれ)か難き」。嬰曰く「死するは易く、弧を立つるは難きのみ」。杵臼曰く「子彊(つよ)し、難きを為せ。吾その易きをなさん」。乃ち謀りて他人の児を取り、これを負いて山中に匿る。

 嬰出でて謬(あざむき)て曰く「吾趙氏の孤の処を告げん」と。諸将、師を発して嬰に随ひ、杵臼を攻む。杵臼謬て曰く「小人なるかな程嬰、昔下宮の難に死すること能はず。我と謀りて趙氏の弧を匿し、縦(たと)へ立つる能はざるも、これを売るを忍ぶるか(=平気でやるのか)」と。

 諸将遂に杵臼を弧児と殺す。然るに趙氏の真弧は反つて在す。嬰は卒(つい)にともに山中に匿れ、居ること十五年。韓厥(かんけつ=晋の大夫)具さに、実を以て景公に告ぐ。趙弧名は武と曰ふ。景公乃ち武嬰を召し、賈を攻めその族を滅ぼし、復た武田邑と故(もと)の如くにす。

 武冠すに及び、嬰は武に謂ひて曰く「昔、下宮の難、我は死ぬ能はざりしにあらず、我趙氏の後を立てんと思ふ。いま武既に立ち成人となる。我まさに下に趙宣孟(=趙盾、趙氏の始祖)と公孫杵臼とに報ぜんとす」。

 武啼泣(ていきふ)して固く請ひ願ひ、節骨を苦しめ以て子に報ひんとす。嬰曰く「彼は我を以て事をなす者となせり、故に我より先に死す。今我報ぜざれば、我事を以て成さざると為さん」。遂に自殺す。宣孟朔が謚(おくりな)なり。○朱子曰く・・》


 王莽、漢を簒ひて十四年、龔勝乃ち餓死す。また忠臣たるを失はず。韓退之云ふ『棺を蓋いて事始めて定まる』と。司馬子長云ふ『死は泰山より重く、鴻毛より軽きことあり』と。参政(=天祐)豈此を知るに足らんや」。天祐曰く「強辞なり(=負け惜しみの強弁)」。

 枋得曰く「昔張儀(=連衡策)、蘇秦(=合従策)が舎人(=家来)に語りて云ふ『蘇君の時に当りて(=蘇秦の説が勝ちを収めた時に)、儀(=張儀)何ぞ敢へて言はん』と。今日は乃ち参政(=天祐)の時、枋得復た何をか言はんと。


 天祐、怒り之に逼りて北行す。枋得死を以て自ら誓ひ、この詩(=下記)を為(つく)りて、その門人故友に別る。

 時に貧苦甚だし。衣結び屨(りく)穿ち(=衣の破れを結び合せ、靴の底は抜け)雪中を行く。嘗てこれを徳とする者あり。賙(た)すに兼金(けんきん=上質の金)重裘(ぢゆうきう=毛皮衣)を以てす。辞して受けず《・・》。

 嘉興を離れてより、即ち食せず、簥中(農具・竹のかご)に臥眠し、二十余日死せず。乃ち復た食す。既に采石を渡りて、ただ少蔬果(そか=野菜と果物)を茹(くら)ふ。数月を積みて困殆(こんたい=困窮)す。燕に至るに及び、太后(=謝太后)の攢所(=仮の埋葬所)《・・》と瀛国公(えいこくこう=旧徳祐帝、元に降伏後、封を受けてこの名を得た)の在る所を問ふ。再拝慟哭す。

 疾甚だし。憫忠寺に還り、壁間曹娥が碑を見て《・・》、泣きて曰く、「少女子なほ爾(しか)り、吾豈汝に若からざらん」と。

 夢炎、毉(い=医者)をして薬を持し米飯に雑ぜて之を進めしむ。枋得怒りて曰く「吾死せんと欲す。汝乃ち我が生を欲するや」と。これを血に擲ちて、食ざること五日にして死す。子の定之が骸骨を護り信州に帰葬す。定之もまた賢。累(しきり)りに薦すれど起たず《按ずるに定之、元に仕へ起たず、能く志を継ぐ者と謂ふべし》。

 妻李氏初め執(とら)へられて獄に送らる。賊帥(ぞくすい=敵の将軍)あり、これを妻にせんと欲す。一夕自ら縊れて死す《・・》。


中略

 枋得、天資(てんし=性格)厳厲(げんれい)。雅(もと)より奇気(きき=優れた気象)を負ひ、風岸(ふうがん=角がある)弧峭(こせう=険しい)、世と軒輊(けんち=比較)すること能はず。

 天時(てんじ=運命)人事(じんじ=人のすること)を以て、宋の必ず二十年の後に亡びんことを推す。憸(せん=かたくな)宰老を抗論(=批判)し、竭蹶(けつけつ=くじける)して售(う=売、稼ぐ)らず。終に合(=配偶者)を取らず。

 初め竄(ざん=流刑)せられるや、謫所(たくしよ=配所)の山門に因りて自ら畳山と命し、門を閉じて道を講ず。守令(しゆれい=郡守県令)以下皆門に及ぶ。弟子の礼を執りて翕如(きふじよ=力強い)たり。

 里中の人、事を行ひ、或は理に循(したが)はざる者は、輒ち曰く「謝架閣(=謝枋得)は聞けるか」と。両争(りやうさう=争論)を持(じ)するあらば、必ず来り質す。平遺(へいゐ=公平に裁く)するに理を以てし、秋毫も人に仮与(かよ=適当にする)する意なし。

 人もまたその風を高しとし、必ず自ら審(しん=念入り)にして乃ち進む。義にあらざる者は、未だ嘗て敢へて前に至らずなり。

中略

 魏参政(=魏天祐)執拘(=逮捕)して北に投ず。行に期あり。死するに日あり。詩して妻子良友良朋に別れる。

雪中の松柏愈(いよいよ)青青。綱常を扶植する、此の行に在り。天下久しく龔勝(きようしよう前68~前11年)の潔さ無し。人間何ぞ独り伯夷(はくい)のみ清からん。義高くして便(すなは)ち覚ゆ、生の捨つるに堪ふるを。礼重くして方(まさ)に知る、死の甚だ軽きを。南八男児(なんぱつだんじ=南霽雲、巻の四参照)終に屈せず。皇天上帝、眼(まなこ)分明。

中略

 老母年九十三にして終り、浅土に殯在(ひんざい)して、貧にして礼を備ふること能はず。則ち大葬すべからず。妻子爨婢(さんぴ=飯炊き)某を以て連累し、獄に死する者四人、叢冢(そうちよう=草むらの塚)に寄殯(きひん=一箇所に埋める)すること十一年。旅魂飄飄、豈帰るを懐はざらんや。弟姪、国に死する者五人、体魄(たいはく=遺骸)尋ねざるべからず。遊魂また招かざるべからず。凡そこの数事、日夜心に関る。某、何の面目あつて先生に見えんや。これ聘に応ずべからざる者の一なり。

 某、丙子(ひのえね)以後、一たび兵権を解き官を捨て遠く遁れてより、即ち曾(かつ)て降附(=降伏)せず。先生、中書省に出入りし、これを故府に問へ。宋朝の文臣降附の表に、即ち某が姓名無し。宋朝の帥臣監司寄居の官員の降附の状に即ち某が姓名無し。諸道路県申す所の、帰附の人戸に、即ち某が姓名無し。一字の降附あらば、天地神祇必ずこれを殛(ころ)し、十五廟祖宗の神霊必ずこれを殛せん。

 甲申の歳、○○(=大元)、詔を降し過を赦し罪を宥す。事ふる所において忠ある者のごとき、八年の罪犯は悉く置いて問はず。某もまた恩赦放罪の一人の数にあり。

 夷斉、周に仕へずと雖も、西山の薇(わらび)を食ふ。また当に周の武王の恩を知るべし。四皓(=四人の老人)、漢に仕へずと雖も、商山の芝(=野菜)を茹ふ。また当に高帝の恩を知るべし

《東園公・角里先生・綺里季・夏黄公、四人、商山に隠れ、芝を採りこれを茹ふ。漢の高祖屢々これを招くも、高祖の士を嫚(あな)どるを以て、義として辱めを受けず、避け逃れて出でず》

 況や○○の土地に藜(あかざ)を羮(あつもの)にし糲(くろごめ)を含むをや。○○の某を赦す屢々なり。その○○の恩を受くるもまた厚し。もし魯仲連に効(なら)ひ東海を蹈んで死するは、不可なり。

 今既に○○の游民たるなり。荘子曰く「我を呼んで馬となす者には、これに応じて馬となり、我を呼んで牛となさば、これに応じて牛とならん」と。

 世の人、我を呼んで「宋の逋播(ほばん=亡命)の臣」となす者あり、また可なり。我を呼んで「大元の游惰の民」となす者もまた可なり。我を呼んで「宋の頑民」となす者もまた可なり。我を呼んで「○○の逸民」となす者もまた可なり。

 輪となり弾(=はじき玉)となり、化(=造化)と往来し、虫の臂(ひじ)であれ鼠の肝(=実際には存在しないもの)であれ、天の付与に随ふ。

 もし官爵(=官位と爵称)を貪恋(たんれん)し、一行(=忠義の道)に昧(くら)くば、縦ひ○○の仁恕、戮を加ふるに忍びざるとも(=元の役人を殺すことは平気でも)、某、何の面目有てか○○に見(まみえ)んや。これ聘に応ずべからざる者のニなり。

 某、太母《太皇太后謝氏》の恩を受けるもまた厚し。諫行はれず、言聴かれずして去らざりしは、なほ駑鈍(どゞん=愚か)を勉竭(べんけつ=努め尽くす)して、以て上に報ひるを願ふなり。

 太母軽くニ三の執政の謀を信じ、祖宗三百年の土地人民を挈(ひつさ=引連れ)げ、尽くこれを○○に献じ、一字の封疆の臣と可否を議するなし。君臣の義もまた大いに削らる。

 三宮北遷し、乃ち大都より帛書(はくしよ=手紙)を寄せて曰く「吾れ已に監司帥臣に代り、姓名を具(そな)へて帰附(=降伏)す。宗廟なほ保全すべく、生霊(=人民)なほ救護すべし」と。

 三尺の童子もその必ずこの事なきを知る(=そんなことは不可能なことは三つの子供でも分かる)。郡臣を紿(あざむ)きて、以て兵(いくさ)を罷むるに過ぎざるのみ。宗社を以て存すべしとなし、生霊を以て救ふべしとなし、臣民を陽紿(ようたい=欺く)するに帰附を以てす。これ太母の人君たる、自ら君たるの仁を尽すなり。

《按ずるにこれまた太后のために諱(い)みて姑(しばら)く之を言ふのみ、その実、太后のなす所は法となすべからず》

 宗社の存すべからず、生霊の救ふべからざるを知り、太母に従つて以て帰附せざるは、これ某の人臣となり、自ら臣たるの義を尽すなり《・・》。

 語に曰く「君は令を行ひ、臣は志を行ふ」と。また曰く「命を制するは君に在り、行を制するは臣に在り、大臣は道を以て君に事へ、可ならざれば則ち止む」と。

 孔子、嘗てわれに告ぐ。「君臣は義を以て合ふ者なり、合へば則ち就き、合はざれば則ち去る」と。

 某、前後、累(しきり)に太母の詔書を奉ず。並びに回奏(=返答)せず。惟々(ただ)二王(=益王と広王)に繳申(けうしん=添状)し、生前致仕し、籍を削つて民となり、山林に遯逃(とんとう)し、殷の逋播(ほぼん)の臣の如きを乞ふあるのみ。

 聞く「太母上仙(=死亡)久し」と。北向長号し、即死せざるを恨む。今日何の面目ありて、麦飯を捧げ太母の陵に洒(そゝ)がんや。これ聘に応ずべからざる者の三なり。

中略

 某、九月十一日嘉禾(かき)《地名、即ち嘉興の別名》を離れしより、即ち煙火(=煮物)を食せず。今は則ち勺水(=一杯の水)一果を并せて口に入れず。ただ速やかに死し、周の夷斉(=伯夷・叔斉)、漢の龔勝と同じく青史に垂れ、以て天下万世、臣となりて忠ならざる者を愧(はづか)しむべきを願ふ。

 茲(こゝ)に頒賜(はんし=朝廷の賜)を蒙り、仰ぎて士(=自分)を礼するの盛心を見る。某、これを聞けり「人の粟(ぞく)を食する者は、当に人の憂を分かつべく、人の衣を衣(き)る者は、当に人の労に任ずべく、人の車に乗る者は、当に人の難を戴すべし」と。

 某、既に死を以て自ら処(を)る。度(はか)るに、この生、恩遇(=もてなし)に報答すること能はず。義として、敢へて拝受せず。有(たも)つ所の鈞翰台餽(=宰相の書翰と食物等の下賜品)の事件(=物)は、尽(ことごと)く来使に交還し、使帑(=使いの下僕)に回納す。

中略

 許浩(=明の大儒)曰く「嗚呼、精忠(=純粋な忠義)勁節(けいせつ=堅い節操)。文山前に倡へ、畳山後に継ぐ。その行す所を質(たゞ)すに、一轍(いつてつ=同じわだち)に出づるが如し、綱常を夷狄華を乱すの時に扶(たす)け、風化(=教化)を宋祚(そうそ=宋の王朝)傾頽の際に振るふ。身死すと雖も今に至りて英気凛々としてなほ存す。身を殺し仁を成し、生を舎て義をとる。二公能く孔孟の訓(おしへ)に遵ふと謂ひつべし。

中略

 ここに於て金の兵、日に急にして、高宗(在位1127~62、徽宗第九子趙講)さらに潜善・伯彦を以て相となし、使ひを遣し和を乞ふ《・・》。奔播狼狽(=うろたえ逃げる)の間、諸京(=東西南北の京)及び健康・臨安、相継いで淪陥(りんかん=滅ぶ)して、高宗遂に海に航す。

 金人乃ち臨安を焚掠(ふんりやく)して、北に去り、宋の叛臣劉予を以て、斉帝となし、悉く取る所の河南陜西の地を以て、これを封じ、且つ秦檜まづ二帝に随ひて北にあり首(はじめ)に和議を唱ふるを以て、陰にこれを縦(ほしいままに)し、(=秦檜に)還して以て宋の謀を撓(たゆ)めしむ。

 高宗、檜を得て喜んで寐ず。遂にその姦計を済(な)すことを得て、異日の禍、これより始まる。

 使者王倫の金に在りて、久しく困(くるし)みて、帰るを思ひ、乃ちまた倡(とな)へて和議をなすに会ふ。金またこれを縦(ほしいまま)にす。尋いで劉予、金を邀(むか)へて南侵す。

 高宗、張浚(=南軒の父)・趙鼎の言を用ひ、自ら将としてこれを禦(ふせ)ぎ、浚に命じて師(=軍)を江上に視せしむ。将士、勇気百倍す。金人引いて還る。

 ここに於て李綱また上疏して曰く「陛下、敵の退くを以て喜ぶべしとなすなかれ。仇敵いまだ報ぜざるを以て、憤るべしとなせ。東南を以て安んずべきとなすなかれ、中原いまだ復せずを以て恥づべしとなせよ

 「大概近年間暇(=平穏時)には則ち和議をもて得計となし、治兵(ちへい=軍備を整る)をもて失策となす。倉卒(さうそつ=乱世)には則ち退避を以て君を愛すとなして、進禦を以て国を誤るとなす。

 「国勢益々弱きは職として此にこれ由る。今親(みづか)ら大敵に臨み北軍をして師を潜めて宵奔せしむれば、則ち和議の治兵と(=の関係)、退避の進禦と(=の関係)、その効概ね見るべし。

 「古は敵国(=諸国)善隣なれば、則ち和親あり、仇讎の邦、また使を遣すこと鮮(すく)なし。何ぞ道を潜偽の国に仮りて自ら辱をとるべけんや。これ古人の謂ふところ、幾何か僥倖して人の国を喪はざるものなり」。高宗、これを褒諭していまだ幾ばくなくまた何蘚を遣はし金に使せしむ。


 中書舎人胡寅、上疏して曰く「女真は乃ち陛下の大讐なり。建炎より紹興に至るまで辞を卑しうし礼を厚くし、問安迎請を以て名となして、使を遣はすもの幾人なるを知らず。二帝のある所を知り、二帝の面を見、因つて講和して兵を息むるもの誰ぞ。

 「夫れ女真は中国の重する所は二帝にあり、恨むる所は劫質にあり、畏る所は用兵にあるを知れば、則ち常に和せんと欲するの端を示し、吾が重んずる所を増し、吾が恨む所を平らげ、吾が畏る所を匿す。

 「中国、坐(ゐなが)らこの餌を受く、既に久しくして而る後悟るなり。天下それ是れより図を改めんと謂ふ。何為(なんすれ)ぞ復た此の謬計(びうけい)を出さんや。

 「苟も姑くこれをなすと曰はば、豈に書を脩め臣と称し厚く金帛(きんぱく=金と絹)を費やして、一姑息(こそく=その場しのぎ)の事を成就することあらんや。適々(たまたま)何蔬の事を観る。恐らくは和説復た行はん。国論傾危し、士気沮喪せん。繋がる所細ならず」と。


 終に用ゐること能はず。さらに王倫を遣はし、反覆数回して、以て和を請ひ地を求めて、遂に秦檜を以て相となす。

 劉予の再寇し大いに敗れ、金因つて予を執りてこれを廃するに会ふ。岳飛・韓世忠、機に乗じ北討して以て中原を取らんことを奏す。また報せずして、倫をして首に予を廃するを謝せしむ。

 紹興八年戊午、金乃ちその臣、張通古を以て江南(=宋)詔諭使となし、倫と来りて廃斉の河南陜西の地を帰すを許すと言はしむ。ここに於て朝論籍籍(=騒がしい)たり。

 礼部侍郎兼直学士院曾開、国書を草するに当り、体制を弁視するに、これに非ず、これを論じて聴かれず、遂に罷めんことを請ふ。

 檜、温言を以てこれを慰めて曰く「主上、執政を虚しうして以て待つ」。開曰く「儒者の争ふ所は義にあり。苟も非義をなさば、高爵厚禄も顧みざるなり。願はくは、敵に事ふる所以の礼を聞かん」。

 檜曰く「高麗の本朝におけるが若(ごと)きのみ」。開曰く「主上盛徳を以て大位に登る。公(おゝや)け、まさに兵を彊くし国を富まし、主を尊び、民を庇ふべし。奈何ぞ、自ら卑辱することここに至るや。開が敢へて聞く所にあらずや」と。復た古誼を引きてこれを折(くじ)く。


 檜、大いに怒りて曰く「侍郎、故事を知り、檜独り知らざらんや」と。然るになほ群言(ぐんげん=世評)を慮り、在朝の侍従台諫に詔(みことのり)して、和好の得失を条奏す。

 ここに於て開、張燾・晏敦復・魏矼・李彌遜・尹焞、梁汝嘉・樓炤・蘇符・薛徽言・方廷実・胡珵・朱松・張拡・凌景・夏常明・范如珪・馮時中・許忻・趙雍と与(くみ)す。皆極めて和すべからざるを言ふ。

 韓世忠、四たび上疏して言ふ「(=和議に)従ふべからず。願はくば兵を挙げ決戦し、兵勢最重き処、臣請ふこれに当らん」と。李綱もまた上疏して言ふ「朝廷、王倫を遣はし往返屢々なり。今、倫の帰る、虜使と偕にす。乃ち国号を著けずして江南と曰ひ、通問と云はずして詔諭と曰ふ。

 「これ何の礼ぞや。宋、天下あつて幾(ほとん)ど二百年。炎運(=火徳)中微す。頼(さいはひ)に陛下入りて大統を継ぎ臣民万物の主となる、茲に一紀(=十二年)なり。

 「敵人乃ち敢へて名を命ずる此の如きは、皆われの自治自強すること能はず、安を朝夕に偸(ぬす)み、群臣陛下を誤るの致すところなり。伝に曰く『その賊たるを名づくれば、敵乃ち服すべし』と。

 「仇讎の名を正し、以て恢復の本を張らんと欲せば、正にこの時にあり。而るに虜使荐(しきり)に至り、乃ち詔諭の号を建て、公(おゝや)け肆(ほしいまゝ)に陵侮(りようぶ)す。

 「将(まさ)に何を以てこれに応ぜんとすを知らず。今、土宇(どう=国土)なほ天下に半し、民心宋を戴いて忘れず。豈に祖宗の大業、生民の属望を忘れ、慮らず、図らず、遽(にはか)に自ら屈服し、哀を祈り憐れみを乞ひ、旦夕の命を延べんことを冀ふべけんや。

 「陛下、縦(たと)ひ自ら軽んずるも、宗社を奈何せん。天下の臣民を奈何せん。後世の史冊を奈何せん。これ臣の夙夜(しゆくや=一日中)痛憤して寒心する所以なり。


 「伝に曰く『日、中すれば必ず彗(かわ)かす。刀を操れば必ず割く』。時なるかな時。再び来たらず。臣が言採るべくんば、陛下断じてこれを行へ。以て今日の至計に害ありとなさば、願はくは斧鉞(ふえつ)の戮(=罪人を罰する)に先だち、以て妄発を懲(こら)せ。

 「夫れ主憂れば臣辱ぢ、主辱められるれば臣死す。国家の事勢ここに至る。死何ぞ惜しむに足らん。今、使事まさに亟(すみや)かなり。国体に係る所、独り安危のみにあらず」と。疏(=上奏文)入りて省みられず。


 枢密院編修官胡銓、抗疏(かうそ=上奏)して曰く、「臣謹んで按ずるに、王倫はもと一狎邪(かふじや)の小人、市井の無頼。頃(この)ごろ、宰相の識無きに縁(より)て、遂に挙げて以て虜に使ひす。

 「専ら詐誕(さたん)を務め、天聴を欺罔(きまう=ないがしろに)し、驟(にはか)に美官(=高位)を得、天下の人、切歯唾罵(だば)す。今は故なく虜使を誘致し、江南に詔諭するを以て名となす。これ我を臣妾にせんと欲するなり。我を劉予にせんと欲するなり。

 「劉予は醜虜に臣事し、南面して王と称す。自ら以為(おもへら)く、子孫帝王万世不抜(=不変)の業(=地位)と。一旦豺狼(さいらう=金)、慮(おもんばか)りを改め、捽(つか)みて之(=劉予)を縛り、父子虜となる。

 「商鑑(=殷鑑、戒め)遠からずして、倫また陛下これ(=劉予)に効(なら)はんことを欲す。夫れ天下は祖宗の天下なり。陛下居る所の位は、祖宗の位なり。奈何ぞ祖宗の天下を以て、金虜の天下となし、祖宗の位を以て、金虜藩臣の位となさん。

中略

 「臣窃(ひそ)かに謂(おもへ)らく、秦檜・孫近(=和平派)もまた斬る可きなり。臣、員に枢属(=枢密院の一員)に備(そなは)る。義として檜らと共に天を戴かず。区々の心(=思ふに)、願はくは三人(=和平派)の頭を断(き)り、これを藁街(=夷狄の居留地)に竿にし、然る後に、虜使を羈留し、責むるに無礼を以てし、徐(おもむろ)に問罪の師を興さば、則ち三軍の士、戦はずして気自ら倍せん。

 「然らざれば、臣、東海に赴いて死することあらんのみ。寧ろ能く小朝廷に処りて、活を求めんや」。書上る。檜、大いに怒り銓が名を除き、昭州に編管す《・・》。

中略

 ○初め癸未の年(=1163年)、朱子召に応じ行宮(=天子の仮の御所)に至り、奏して言ふ「今日の国計を論ずる者、大概三あり。曰く戦、曰く守、曰く和のみ。

 「然るに天下の事、利には必ず害あり、得には必ず失あり。ここを以て三の者の中、また各々両端あり。蓋し戦は誠に進取の勢にして、また軽挙の失あり。守は固より自治(=内政)の術にして、また久しきを持するの難あり。和の策に至りては、則ち下る。

 「而るにその計を主とする者は、また以為く、『己を屈し民を愛し、力を蓄へ釁(きん=隙)を観、敵を疑はし(=和睦と思はせ)師を緩む、未だ失計となさず』と。

 「多事(=靖康の変)以来、この三説六端(=戦守和それぞれの両極端)の者、冥々のうちに(=知らぬまに)是非相攻め、可否相奪ふ。談ずる者、各々その私を飾りて、聴く者はその眩(=眩惑)に勝(た)へず。

 「これその然る所以の者は、義理の根本を折衷(=あれこれ考る)せず、利害の末流に馳騖(ちぶ=奔走)する故に由るなり。


 「故に臣、嘗て謂(おも)へらく『人主の学は、まさに理を明らかにするを以て先となすべし』と。この理既に明らかなれば、則ち凡そまさに為すべき所にして必ず為し、まさに為すべきらざる所にして必ず止(や)むる者は、天の理に循(したが)ふにあらざることなくして、意・必・固・我の私あるにあらざるなり(=論語子罕篇「子は四つを絶てり、意なく必なく固なく我なし」)。

 「請ふ、復たその実を指してこれを明さん。天高く地下り、人、中に位す。天の道は陰陽より出でず、地の道は柔剛より出でず。これ則ち仁と義とを舎(す)てゝ、また以て人の道を立つることなし。

 「然り而して仁は父子より大なるはなく、義は君臣より大なるはなし。これを『三綱の要』『五常の本』と謂ふ。人倫は天理の至り、天地の間に逃るゝ所なし。その君父の讐(あだ)は与(とも)に共に天を戴かずと曰ふ者は、乃ち天の覆ふ所、地の戴する所、凡そ君臣父子の性ある者、至痛自ら已(や)む能はざるの同情に発して、専ら一己の私に出ずるにあらざるなり。

 「国家の北虜(金)と(=の関係)は、乃ち陵廟(=徽宗・欽宗が殺されたこと)の深讐、その与に共に天を戴くべからざる明らかなり。然らば則ち今日まさに為す所のものは、戦にあらざれば以て讐を復することなく、守にあらざれば以て勝を制することなし。これみな天理の自然、人欲の私忿(しふん=私憤)にあらざるなり。


 「陛下既に必ず為すに意あり。間者(このごろ)知らず、何人か輒ち復た唱へて邪議をなし、以て聖聴(=天子が聴くこと)を熒惑(けいわく)し、朝臣を遣はし、書を持して以て虜帥に復して(=金に返事をして)、講和の計をなすに至る。臣恨む、陛下まさに為すべからざる所の者に於て、必ず止む能はずして、重ねてこの挙を失ふなり。

 「夫子(=孔子)政をなして名を正すを以て先となす(=子路篇、名分を正すの意)。蓋し、名正しからざれば則ち言順(したが)はず事成らずして、民その手足を措く所なし。今、乃ち讐(あだ)を復するの名を舎て、講好(=講和)を以て釁(きん=隙)を観、師を緩むるの計となさんと欲す。

 「蓋しただ上下をして離心し、中外をして解体せしめ、緩急の間、以て敵に応ずること無きのみならず、吾れの君臣上下、ために夙興夜寐(=日夜精励)して以て自治(=内政)の政を脩むる所の者も、またまさに因循(いんじゆん=ぐずつく)隳弛(きし=ゆるむ)してまた振るわざらんとす。且つ宣和・靖康より以来、和を請ふの効もまた概見すべし。


 「而るに小人好んでこの説をなす所以のものは、蓋し惟だ君子にして然る後ち義理(=道理)の必ずまさに為すべき所と義理の必ず恃(たの)むべきとを知り、利害得失、既にその心に入る所なくして、その学また以て事物の変に応ずるに足る。ここを以て気勇み謀(はかりごと)明らかに、懾憚(せふたん=恐れ憚る)する所なし。

 「不幸にして蹉跌するとも、死生これを以てす。小人の心は一切これに反す。その専ら講和の説をなす所以のものは、特に以てその私に便するのみ。而るに国を謀る者、過まつて聴く。豈に誤らざらんや。

 「願はくば陛下、姑く利害交至の説を置いて、窮理を以て先となし、仁義の道、三綱の本に於て少しく意を加へよ。亟(すみや)かに講和の義をやめ、大いに黜陟(ちゆつちよく=人材登用)を明らかにし、以て天下に示し、讐を復し恥を雪ぐの本意、未だ嘗て少しも衰へざるを知らしめ、必ず中原を復し、必ず胡虜(=蛮族)を滅すを以て期となし、而して後やまん。

 「その成敗利鈍は逆(あらかじ)め睹(み)るべからずと雖も、而かも吾れ君臣父子の間に於て既に已に憾(うら)みなければ、則ちその屈辱して苟も存するに賢(まさ)る、固より已に遠し。


 「願はくば陛下、これを以て心を処(お)き、これを以て志を立つは、則ち仁義の道、上に明らかにして、忠孝の俗、下に成り、天地の和気自(おのづか)らまさに忻合(きんごう=喜び合ふ)して間(へだて)なかるべし。

 「夷狄禽獣もまた、まさに久しくその毒を肆(ほしいまま)にすることを得ざらんとす。則ち何の事かこれ成るべからざらん、何の功かこれ立つべからざらんや。


 尋で武学(=陸軍大学)博士待次(=次を待つ)に除す。命を拝し遂に帰る。乾道元年乙酉、趣(おもむ)かして職に就かしむに、既に至り、時相(=湯思退)まさに和議を主とするを以て、五月、祠を請ひ(=辞職)て以て帰り、六月戊午讜議(とうぎ)の序著して曰く、・・・

中略

 古より国家の敗亡、その失、講和より甚だしきはなし。而して和を以て亡に致す、未だ趙宋(=趙氏の宋)の乖(そむ)けるが若(ごと)き者あらず、実に万世の殷鑑(いんかん=先例)なり。因つて略(ほ)ぼ、その本末を陳べ、并せて当時の正義の尤も的確となすものを採ること、右の如くして、戊午讜議の序を以てこれを結ぶ。

以下略


巻の七 燕歌行 

 処士(=民間人)劉因



 因、字は夢吉、保定(=地名)容城の人《・・》。天資人に絶し、三歳にして書を識る。日に千百言を記し、目を過ぎて即ち誦(しよう)を成す。甫(はじ)めて弱冠、才器超邁(てうまい=秀でる)、日に方冊(はうさく=書物)を閲し、古人の如き者を得て之を友とせんことを思ひ『希聖の解』を作る。

 初め、経学を為し、訓詁註釈の説を究め、輒ち嘆じて曰く「聖人の精義、殆ど此に止まらず」と。周・程・張・邵(せう)・朱・呂の書を得るに及んで、一見して能く其の微(=深遠)を発(=発見)して曰く「我固より謂(おも)ふ。まさに是あるべきなりと。

 蚤(はや)く父を喪ひ、継母に仕へて孝なり。性、苟(いやし)くも合はざれば、妄りに交接せず。家甚だ貧しと雖も、其の義に非ざれば、一介(いつかい=塵一つ)も取らず。

 家居して教授し、師道尊厳。弟子その門に造(いた)る者、材器(さいき)に随つて之を教へ、皆成就する有り。公卿、保定(=地名)を過ぐる者、因の名を聞き、往々来り謁す。因多く遜避し、与(とも)に相見ず。

 知らざる者、或は以て傲(がう)となすも、恤(うれ)へざるなり。嘗て諸葛孔明の「静に以て身を修む」の語を愛し、居る所を表して「静修」と曰ふ。

 元の世祖、薦(すすめ)を以て之を徴(め=召)し、右賛善大夫となす。尋いで継母老いたるを以て辞し帰り、俸給一も受くる所なし。後、世祖復た使者を遣はし、徴して集賢学士となす。疾を以て固辞す。

 世祖これを聞いて曰く「古(いにしへ)、所謂召さゞるの臣有りと。其れ斯の人の徒か」と。遂に彊(し)いて之を致さず。至元三十年卒す。年四十五.聞く者嗟悼(さたう)す。


 欧陽元曰く「処士(=仕官しない人)に貴ぶ所の者は、能く一己の守る所を以て、一国の慕ふ所となる。当世英君誼辟(ぎへき=名君)の、その豪傑を総攬し、宇内を包挙するの柄を操ると雖も、一旦、その爵禄慶賞致すべからざる所の人に遇ひ、ここに於て怊然(てうぜん=哀然)として先王道徳の懿(い=美徳)を企て、真に己の負挟(=所持)する所の者より貴ぶこと有りて、而るのち上の趣向定まり、下の習俗成る。

 「元、国を有して以来、処士を言へば、必ず劉静脩(=劉因)を宗とすなり。またその画像に賛して曰く『裕皇(=世祖フビライの太子チンキム)の仁に於て、留むべからざるの四皓(=上記参照)を見る。

 《世祖太子裕皇、学を宮中に建て、賛善(=地位)王恂(1235~1281、数学者)に命ず。近侍の子弟を教へ恂卒す、廼(すなは)ち因を徴してこれを継がしむ、而して因辞して帰るなり》

 世祖の略(=知恵)を以てして致すこと能はずの両生に遇ふ

 《漢の高祖、既に天下を并(あは)せ、叔孫通に朝儀を起こさしめ、ここに於て通をして魯諸生三十余人を徴せしむ。両生有りて行くに肯ぜずして曰く「公に事へる所の者、且(まさ)に十主にならんとす。皆面諛(めんゆ=へつらい)以て親貴を得。吾公の為す所のために忍びず。公に為す所、古に合はず、吾行かず。往きて我を汙(けが)す無からん」と(『史記 劉敬叔孫通列伝』より)》

 薛瑄(せつせん 明の大儒 1392~1464年)曰く「劉静脩は鳳凰千仭(=長さ)に翔けるの気象あり」と。また曰く「静脩は就くことを屑(いさぎよ)しとせず。その意、微(=深遠)なり」と。

薊門悲風来り。易水《即ち太子丹、荊軻(けいか)をして秦王を刺さしめんと送り至すの処》寒波を生ず。雲物何ぞ色を改むる。游子燕歌を唱ふ。燕歌何の処にか在る。盤欝たる西山の阿(くま)。武揚燕(=国名)の下都。歳晩(=年末)独り経過す。

青丘遥かに相連なり、風雨嵯峨を隳(やぶ)る。七十、斉の都邑。百二、秦の山河、学術の管(=管仲)・楽(=楽毅)有り、道義に丘(=孔子)・軻(=孟子)なし。

蚩々(しゝ=愚か)たる魚肉の(=魚肉のやうに切られた)民、誰と与にか干戈(かんか=武器)を休めん。往時已に此の如し、後来復た如何。地を割く更に石郎《契丹、敬瑭を呼びて石郎となす》曲終て哀思多し。

中略

 丘濬(きうしゆん=明大儒、丘瓊山)曰く「孔子春秋の一経、関係尤も大なり。元の許衡は則ち春秋の道に悖(もと)る者なり。春秋の道は、夏を内にして夷を外にす。一会の頃、なほその中国に主たるを容れず。況や四海の大、そのこれが君たるを容るを肯んぜんや。(許衡、児は凡ならず。他日必ず大いに人に過ぐるあらん。吾はその師にあらざるなり)

 或は曰く「元に仕ふるの人多し。乃ち独り衡を責めて可ならんや」。曰く「これ朱子、備を楊雄(前53~後18、上記参照)に責むる(=責備、完璧を要求する)の意なり。他人、世に随ひて功を就(な)す者、何ぞ責めん」


 梁《臨江》曰く『衡、中国の人を以て、冠を毀(こぼ)ち冕(べん=中国風冠の一種)を裂きて、以て夷王に事(つか)へ、以て我が中国帝王の統を経つ、可ならんや。然らば、則ち衡がために計らば奈何、曰く「劉因の屢々召されて屈せざるが、可なり」と。


 許浩曰く「胡銓謂ふ『三尺の童子は至つて知なきなり。犬豕(=豚)を指してこれに拝せしめば、則ち怫然として怒らん。今、醜慮は犬豕なり』と。衡は宋儒を以て元に仕へ、反て童子の見に如かざるや」


 丘濬また曰く、「嘗て劉因が作る所の『退斎の記』を視るに、曰へる有り(=その中にこんな劉因の言葉があつた)。

 『老子の術を挟(さしはさ=頼みにする)む者(=許衡)は、一時の利害を以てして天下の休戚(=悲喜)を節量し、その終りは必ず国を誤り民を害(そこな)ふに至る。然れども万物の表に特立(とくりつ=特にすぐれて)して、その責を受けず。且つ、方(まさ)に孔孟の時義、程朱の名理を以て、自ら居て疑はずして、人もまた之を奪ふことを知ること莫きなり。

 『その徒、陳俊民、請ひて曰く、彼(=許衡)方(まさ)に時を得て道を行ひ、大いに文風を闡(ひら)き、衆人之を宗とすること伊洛(=程子)の如し。先生(=劉因)之を斥けて老子の術と曰ふは何ぞや』と。

 この言に由つて之を視れば、則ち因の仕へざる、蓋し的然(=明瞭)として見る有り。その辞に謂ふ所に『孔孟程朱を以て自ら居り』、及びその徒の謂ふ所の『君を得て道を行ひ、衆、伊洛を以て之を宗とする』を味ふに、許衡を指すに似たり。若し然らば因もまた衡の元に使ふるを然りとせざるか」と。


 又曰く、「衡、嘗てその子に語つて曰く、『我平生虚命に累はされ、竟に官を辞すること能はず。死後は慎んで諡(おくりな)を請ふこと勿れ、碑を立ること勿れ。但し、許某之墓の四字を書し、子孫をして其の処を識らしめば足れり』と。衡がこの言を視るに、固より自らその元に仕ふるの非をを知る」と。

中略

 孝子田君の墓表曰く「嗚呼天地至大、万物至衆にして、人、一物にその間に与かる。その形たる至微なり。天地未生の初より、天地既壊の後を極め、前瞻(ぜんせん=前を見る)後察(こうさつ=後ろを見る)、浩乎としてそれ窮まりなく、人、百年にその間に与(あづ)かる。

 「その時たる幾ばくも無きなり。その形は微なりと雖も、而かも以て天地に参ずべき者ありて存す。その時幾ばく無しと雖も、而かも以て天地と相終始すべき者ありて存す。

 「故に君子は平居無事の時に当りて、その一身の微、百年の頃(けい)に於いて、必ず慎しみ守りて深く惜しみ、惟だその或は傷けて之を失はんことを恐る。実に以て夫(そ)の生を貪ること有るに非ず。また将(まさ)に以て夫(そ)の此を全うせんとするのみ。

 「その大変に当り大節に処(を)るに及んで、その天地に参する所以(ゆゑん)の者、これを以てして立ち、その天地と相終始する所以の者、これを以てして行はる。而して夫(そ)の百年の頃、一身の微を回視するに、曾て何ぞ軽重をその間になすに足らんや。


 「然るに天地に参してこれと相終始する所以の者は、皆天理人心の已(や)む容(べから)ざる所にして、人の生れる所以の者なり。ここに於て全(まつたう)せば、一死の余(よ=死後)、その生気、天地万物の間に流行する者、千載(=千年)に凛として自若たり。

 「それをしてこれを舎て、区々たる歳月、筋骸(きんがい=肉体)の計をなして、天地の間に禽視・鳥息(=鳥のやうに生きる)せしめるは、則ちその心固より已に死す。その已む容(べから)ざる所の者、或は時に発すれば、則ち自らその身を視る、また死の愈(まさ)れりと為すに若かざる者あり。

 「これその生を全うせんと欲して、実は未だ嘗て生せず。一死を免れん欲して、継ぐに百千万死を以てす。嗚呼、哀しむに勝(た)ふ可けんや。

後略


巻の八 絶命辞

 明の建文帝の侍講、直文淵閣 方孝孺

 孝孺、字は希直《一字希古》、洪武中、薦を以て召見す。太祖その挙動端整なるを喜び、太子標(=懿文太子)に謂て曰く、「これ荘子なり。まさにその才を老して以て汝を輔くべし」と。諭(さと)して郷に還ら遣(し)む。孝孺、帰りて門を杜(と)ぢて著述し、将(まさ)に身を終へんとするが若(ごと)し。

 これを久しくして復た徴し至り、漢中府の教授となる。太祖崩ず。太子まづ卒す。これを懿文(いぶん)帝となす。太孫允炆(いんぶん)《即ち懿文の子》位に即く、建文と改元す。因つて建文帝と称す。

 孝孺を召して翰林博士となし、尋で侍講に陞(のぼ)し、直文淵閣とす。太祖の先命に従へるなり。孝孺の徳望、素より隆(たか)し。建文帝の礼遇甚だ重く、一時倚重(いぢゆう)す。

 初め懿文太子の弟、太祖第四の子棣(てい=原文は間に辶)、燕王に封ず。素々(もともと)異心を蓄ふ。太祖崩じ、太孫(=允炆)位に即く(=建文帝)及んで、朝廷の近臣斉秦・黄子澄ら旧制を更革し諸王を削弱するを以て、因つて、斉・黄を誅し国難を靖むるを以て号となし、北平に反し、兵を引いて南下し、諸路の官軍、相踵(つ)いで敗績し、燕の兵、遂に江を渡りて京城に逼る。

 孝孺則ち絶命の詞を作り、自ら必死を分とす。

 諸臣、帝に出幸を勧む。孝孺、堅く守り誓つて社稷に死せんと請ふ。燕の兵進みて金川門に駐(とゞま)るに及びて、谷王橞・李景隆ら、門を開き迎へ降る。棣、遂に城に入る。帝乃ち火を縦(はな)ちて宮を焚(や)き、服を変じて遁去す。京師伝へ「帝崩ず」と。

 時に建文四年なり。棣、遂に自立して位に即き《これ世祖文皇帝たり》、建文帝の太子奎(けい)を廃して庶人となし、これを中都に幽す。

 棣の初め発するや、姚広孝(えうくわうけう1335~1419)《即ち僧道衍(だうえん)、棣の謀主なり》嘱して曰く「南に方孝孺と云ふ者あり、素(もと)学行あり。武成の日、必ず降附せざらん。請ふ、これを殺すことなかれ。これを殺せば、則ち天下に学を好むの種子絶えん」と。

 棣これを首肯す。ここに至つて孝孺、賊兵に執へられ、以て献ぜらる。棣、召用せんと欲す。屈するを肯んぜず。一日遣諭再三。終に従はず。


 既にして即位の詔を頒(わか)たんと議するに会ふ。棣、左右に問ふ、誰か代り草すべき者ぞと。皆、孝孺を挙ぐ。乃ち命じて獄より出す。孝孺、斬衰(ざんさい=喪服)して見(まみ)える。悲慟(ひどう)してやまず。声、殿陛(=宮殿の階段)に徹す。

 棣、榻(たふ=長椅子)を降り、慰諭して曰く「先生、労苦することなかれ。吾れ周公(=周公丹)の成王(=周公丹の甥)を輔くるに法(のつと)らんと欲するのみ」と。

 孝孺曰く「既に周公成王を輔くと称す。今成王いづくに在る」と。棣曰く「渠(か)れ自ら焚死す」と。孝孺曰く「成王即ち存せざれば、何ぞ成王の子を立てざる」と。棣曰く「国、長君(=年長者)に頼(よ)る」と。孝孺曰く「何ぞ成王の弟を立てざる」と。棣曰く「これ朕が家事、先生何ぞ自ら苦しめる」と。


 また授くるに紙筆を以てして曰く「天下に詔する、先生草するに非ざれば不可なり。我ために詔命を作れ」と。孝孺、数字を大書し、筆を地に擲ち、また大いに哭し、且つ罵り且つ哭して曰く「死せば則ち死せんのみ。詔、草すべからず」と。

 棣大いに怒り、大声して謂て曰く「汝、焉んぞ能く遽かに死なん。朕まさに汝が十族を滅すべし」と《張芹『備遺録』曰く「王命じてその舌を割く。乃ち血を含んで御座を犯し、語極めて不遜》。また獄に繋ぎて以て俟たしむ。乃ちその宗支(=本家・分家)を拠して、尽くこれを抄没(=財産没収)す。

 宗族の坐死(=連座死)する者八百四十七人《鄭暁『吾学編』云ふ八百七十三人》。その先人の墓を焚夷す、人を抄提(せうだい=逮捕)する毎(ごと)に、輒ち孝孺に示す。孝孺、執(しふ)して従はず。乃ち母族妻族に及ぶ。

 九族既に戮(りく)す。また皆従はず。乃ち朋友門生に及ぶまで、また皆坐誅す。

 然る後、孝孺を聚宝門の外に磔(はりつけ)にし、刀を以てその口の両旁を抉りて耳に至る。これを刑すること凡そ七日。罵声絶えず。死に至つて乃ち已む。年四十六《・・》。

 凡そ九族、外親の外親、数を尽して抄提・調衛(=流刑)す。外親、抄提より後死する者、復た数百人。初め詔して孝孺が妻鄭氏を収む。諸子と皆まづ自ら経(くび)れ死す。二女未だ笄(かうがい=成人)せず。逮せられて淮を過ぎ、相与(とも)に橋水に投じて死す。


 孝友は孝孺の季弟(=末弟)なり。親属みな戮に就くに及びて、孝孺これを目し、覚えず涙下る。孝友、乃ち一絶を口吟す。「阿兄(=あにき)何ぞ必ずしも涙潸々(さんさん=はらはら)たる。(=生を捨てて)義を取り(=身を殺して)仁をなすはこの間にあり。華表柱頭(=墓所の門柱)、千載(=千年)の後、旅魂(=霊魂)旧に依て家山(=故郷)に到らん』と。

 士論これを壮として以て孝孺の弟に愧ぢずとなすと云ふ。

中略

 顧璘曰く「孝孺が王佐の才を以て、服を易へ、列に就かば、宜しく卿相の位を致すべし。厥(そ=其)の謀猷(ぼういう=はかりごと)を究めば、顧(おも)ふに豈、唐の王・魏(=王珪と魏徴)なる者と等しからん。これをこれ顧みず、悲楚抗激(=悲憤抵抗)、身を磔にし族を沈むるに至つて、気少しも回(かへ)らず。嗚呼、忠なるかな」と。


天、乱離を降し、孰(いづれ)かその由を知らん。姦臣、計(はかりごと)を得、国を謀り猶(はかりごと)を用ふ。忠臣、憤を発し、血涙交々流る。死を以て君に殉ず。抑(そもそ)もまた何をか求めん。嗚呼、哀しいかな、庶(こひねが)はくは、我を尤(とが)めざれ。


 兵部尚書鉄鉉。・・・

 都察院副都御史練子寧。・・・

 礼部尚書陳迪。兵起こり上疏して大計を陳ぶ。命を受けて軍儲(=兵糧)を外に督す。家を過ぎて未だ嘗て入らず。変を聞きて即ち京師に赴く。棣、位を簒ひ、迪を召して責問す。迪、慢罵して屈せず。子鳳山ら六人と同日に市に冎(そぎ)ぎる。まさに刑せんとす。鳳山呼びて曰く「父、我を累(わずらわ)す」と。迪、言ふことなかれと叱す。

 罵りて口を絶たず。棣、鳳山らが鼻舌を割き、熬熟(がうじゆく=煮る)して迪に食はしめて曰く「吃(きつ=食)するに好しや否や」。迪曰く「これはこれ忠臣孝子の肉、喫するに好し」益々指斥(しせき)し、遂に倶(とも)に凌遅して死す。衣帯中、詩を得る《・・》。

中略

 余(=浅見絅斉)嘗て論ず。朱子聖学を明らかにし、綱常を植(た)て、天下後世の尊信表章する所たる、固より一日に非ず。而るにその間、大不幸なるもの三あり。宋の理宗なり、元の許衡なり、明の文皇(永楽帝)なり。何ぞや。

 朱子の大中至正の学、百世、聖人を俟つて惑はず、弥々(いよいよ)久しく弥々信ある者、固より自然の理、必到の勢。この輩なしと雖も、奚(なん)ぞその発顕流達せざるを憂えん。

 政(=政治)に適(ただ)に気数(=天運)人事の変(=例へば始皇帝の焚書坑儒)に関(あづ)かり、数千万世、沈淪蔽塞せしむるとも、然れども吾が聖賢相伝ふる綱常名教の学なる者、豈にこれら逆賊臭穢(しうあい)の徒、虚美相誑(あいあざむ)き、同悪相掩(おほ)ひ、鼓唱(こしやう)引重(いんぢゆう=引用して互いにほめあふ)するに憑(よ)りて後、行はるゝを得べきことあらん。吾れ、朱子の天に在るの霊、その憤罵排斥して容れざるを知るや必せり。

 武王・周公、殷に克ち、礼を制し政を立て、沢(=恩恵)は生民に浹(めぐ)り、威は四海に加はり、世祚(せいそ=帝位のつづくこと)の永き、八百余年。盛と謂ふべし。誓誥(せいかう)の策(=聖典籍)、風雅の典、富といふべし。而れども、遂に天下万世をして凛然として名分大義の厳、得て犯すべからず、慚徳口実の責(=不徳を恥ぢることの言訳)、得て辞すべからざるを知りて、天壌処を易(か)へ(=天地が位道を変へる、臣が君を殺す)、人類をして断滅にいたらざらしむる者は、則ち特に西山餓死の両匹夫(伯夷・叔斉)に在るのみ。

 故に予、三不幸に於て、已に朱子のために歎じて、ここに於てまたこれが為に賀する者あり。何ぞや。理宗が時にあたりてや、幸ひに李燔(りはん=朱子の弟子、その朝に仕へず)が如きあり。許衡が時に当りてや、幸ひに劉因が若き有り。文皇(=永楽帝)が時に当りてや、幸ひに方孝孺のごときあり。

 皆な豪傑の才、醇正の学を以てして、而も篤く朱子を信じ、確く綱常を守り、寧ろ世を避け義に就きて、以て各々その志を遂ぐ。西山の餓死と并せて五匹夫なり。今に到つて風采義気、烈々として秋霜夏日の如く、昭掲(せうけい=明らかに高く掲げられる)常に新なり。それ然る後、聖賢綱常の学、実に頼むこと有りとなし、而して天に在るの霊、ここに於てまた慰する所あらんかな。

 孝孺また『朱子手帳』と題して曰く「君子の小人と一時に勝負を較ぶれば、則ち彼れ常に盛にして、これ常に衰ふ。是非を百世に観れば、則ち俄頃に盛んなる者、以て無窮の悪を蓋ふに足らず。

 「一身に屈する者(=君子)、未だ嘗て天下に光顕せずんばあらず。蓋し、時は事と錯迕(さくご)す。聖賢と雖も、能くその躬を達することなし。その勢易(かは)りて理存し、人亡んで謗(=誹謗)息(や)む。

 「狐狸狗鼠(こりくそう)の輩(やから)、臭腐、澌尽(しじん)して遺すことなし。而して論議の公、終に衆庶(=多くの人びと)の口を掩ふこと能はず。徽国文公朱子、西山蔡先生と、小人に屈するの事が若(ごと)き、見るべし。

 「文公(=朱子)・西山(=蔡沈)相ともに講説する者は、孔孟周程の正道にして、胡紘・沈継祖が輩、力を極めて詆誣(=偽り誹る)し、甚き者はこれを死地に寘(お)かんと欲す。

 「西山、栄道の竄(ざん=流刑)、公もまた偽学の目を受け、官を奪はれ、秩(=封禄)を褫(うば)はれ、従遊の士を逐屏(=追放と蟄居)す。小人よりこれを観れば、意を曲げ、義に悖り、媚を権姦を取り、以為へらく、朱・蔡且つ将に終に、身名倶(とも)に滅びんとすと。

 それ孰れか二百年の後、摧抑(さいよく)困悴(こんすい)する者、皎乎(かうこ=輝き)として白日の天に当るが若くにして、鄙陋邪嵬(ひろうじやかい)の流、擠排汙衊(さいはいをべつ)を以て事となせし者、人のこれを視る、なほ不潔の物を覩るがごとし、目憎みて気奪はれ、既に死するの遺魄を戮(りく)して、以て仁賢の憤を快(こころよしと)せんと欲せざるなきをや。嗚呼また千古の鑑となすべし。

中略

 また窃に謂ふ。方孝孺、平日朱子を学んでこの文の称する所、尤も以てその式とする所、養ふ所の素を見るに足れり。これを以て躬(み)親(みづか)ら大節に臨み大難を蒙るに方りて、奮前壁立、磊々落々として、以てその命を致す。

 それ豈に一時の感慨矯激の士の能く及ぶ所ならんや。その已に死するに及びてや、族党門類、株逮(しゆたい)剗尽(せんじん=削尽)し、天下敢へてその姓名を称するなし。

 而して防禁まさに酷(はなはだし)く、遺文手書、焚燬(ふんくゐ)散脱、湮晦(いんくわい=無くなる)埋没、まさに朽骨(きうこつ)に随て倶に亡びんとす。数十年の後、勢易はり理存するに及んで、後ち偉辞微言、醇行精忠、家伝へ戸誦(こしよう)し(=家々に伝へられた)、震蕩(しんとう=振動)磅礴(はうはく=広がる)、愈々久しくして弥々熾んなり。

 これその始終の履歴は、凡そこの文に道(い)へる所、一もその言を讐(しう=報ひる)せざる無し。而してその是非の百世に定まる者、また皆な符節を合はすが如し。それまた言ふ所を食(は=食言、言つた事ができない)まず、学ぶ所に負(そむ)かざる真丈夫と謂ふべきなり。

 夫れ抑(そもそも)、士の身を処し志を行ふ、何ぞ異日の顕晦(けんかい=世間の受入れ)を較ぶべけん。但々(ただ)是非の正、論議の公、天理の人心、同然する所の者は、乃ち天壌(=天地)と与(とも)に得て泯滅(=滅ぶ)す容(べから)ずして、その大端根本、取舎得失の機、皆な己に在つて外に待つことなし。

 則ち孝孺の言を誦(ず)する者、所謂君子の帰となす者に於て、感悟する所ありて以て自ら警(いまし)むるを庶幾せざるべけんや。因つてここを以て編を終ふ。(了)



 この読み下し文作成にあたつては、主に国書刊行会刊『浅見絅斎集』を活用した。

この第一部が靖献遺言篇でこの本の過半を占める。そこに返り点付きの靖献遺言原文に江戸時代の儒学者二人の会話体の解説(○~は本文の説明△~は注釈文につけた説明)を付けたものが復刻されてゐる。この部分自体が『靖献遺言講義』といふ書籍である。その後に絅斎自身の靖献遺言講義が漢文か読み下し文で収録されてゐる。第二部は詩文篇、第三部が語録篇、第四部が道義諸篇(赤穂浪士を論じた「四十六士論」などがある)となってゐる。

 そのほかに、「偽黒武堂の三国志探訪」(ほぼ訳!シリーズに後漢書と資治通鑑の和訳がある)「黙斎を語る会」(中国宋時代の儒学者朱子のテキストの一部とそれに対する江戸時代の学者の注釈がある)や中国語の現代語訳のサイト、『資治通鑑』邦訳Wiki などを参考にした。また、三省堂刊『全訳漢辞海-第二版』、筑摩書房刊『漢書列伝選』(三木克己訳)なども利用にした。

 また、『靖献遺言』の内容と解説としてはアメリカ人の小川ジョージ氏のブログがよくまとまつてゐる。

 「巻の五」以降の読み下し文は、山本七平著『現人神の創作者たち』にある『靖献遺言』の紹介文中にある『靖献遺言』の一部の読み下し文と解釈文を書き写し、それをもとにして上記『浅見絅斎集』に合はせて修正し、前後を一部補ふことによつて作成したものである。巻の五以降は膨大な量であり、未だ一部でしかない。


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