私見・偏見(2004年)

私見・偏見(2003 年)へ




 紀宮の婚約発表はのびにのびてやつと三十日に行はれた。しかし、誘拐殺人犯逮捕のニュースに新聞一面トップの座を奪はれた。警察は皇室の婚約発表に遠慮することなく同じ日に逮捕したのだ。それほどに警察は殺人事件になると必死になる。

 泥棒はしばしば顔を見られたといつて人を殺すが逆効果なのだ。単なる窃盗事件では警察は殺人事件ほどに熱心な捜査をしない。だから顔を見られた程度で人を殺すことはないのである。捕まりたくなければ人を殺さない方がいいと言つてもよい。

 おれおれ詐欺は被害額が何百億円に昇つてゐるのに、逮捕された容疑者は少ない。警察は殺人事件以外の捜査にはそれほどに不熱心なのだ。

 犯罪の数は増える一方だといふ。しかし人は好きこのんで犯罪者になるわけではない。必然的な状況から犯罪者になる。つまりは誰もが犯罪者になりうるのた。だから被害者になることを恐れるより加害者になることを恐れるべきである。

 そして殺人だけは割に合はないと心得るべきである。人は殺さずとも、そのうちに必ず死ぬのだから。(2004年12月31日)







 清水寺の貫首がテレビカメラの前で今年を象徴する漢字として「災」と書いてみせたのは12月13日だつた。彼はきつと「災」はもうこれきりにしてもらひたいと願ひながらこの文字を書いたことだらう。しかし、災ひはそこで打ち切りとはならなかつた。

 来年の事を言ふと鬼が笑ふといふが、今年の事を言つてさへも鬼は笑ふのであらうか。台風地震と災難続きの日本から脱出した海外の日本人に今年最後(?)の災難が見舞つた。

 確かに、宗教が民衆に慰めを提供することをやめ観光産業と化してからすでに久しい。また、貫首の行為は単に漢字協会が選んだ字を書いただけである。しかし、その時、彼は自分が「災」といふ字を大書してみせることの意味を考へていたはずだ。

 神や仏を恐れる心をもつ僧侶ならば、この言霊のさきはふ国で、自分のこの行為が国民に慰めをもたらすどころか、災ひを増大させるかもしれぬと恐れないは ずはない。そしてその恐れがいま現実となつてしまつた。彼はきつと自分のあの行為を悔いてゐることだらう。またさうであつてもらひたい。(2004年12 月27日)






 政府の来年度予算案に対して、マスコミは相も変はらず借金が多いと批判する。しかし、そもそも借金が悪いものなら銀行は成りたたない。銀行が預金の利子を払へるのは、借金をする人がゐるからである。

 一家の家計にしてもローンは借金である。ローンで物を買ふのが悪ければ、誰もマイホームは持てない。

 新聞は安易に国の予算を家の家計になぞらへるが、むしろ企業の予算になぞらへるべきだらう。企業は資金を外部から調達するために株といふ形の借金をしなければやつていけない。

 国も同様の意味で国債を発行するのである。ではそれがどの程度の規模にとどまるべきなのか。それは財政の専門家でもよく分らないことだらう。ましてや新聞記者に何が分らう。要は批判のための批判をしてゐるだけなのだ。

 借金がリスクを伴ふことは当然である。しかし経済には借金は付きものなのだ。借金が多いといふだけの安易な批判はいい加減にもうやめにしてもらいたい。(2004年12月25日)







 学校を出ても働かずにぶらぶらしてゐる人たちが最近「ニート」と呼ばれて、社会問題になつてゐるといふ。

 しかし、これが問題だといふ前提には「誰でもがんばれば金儲けができる」といふ考へ方があると思ふ。しかし、実際にはさうではない。

 金儲けは様々な幸運の積み重ねによつて初めて可能となる。健康に恵まれ、能力に恵まれ、機会に恵まれ、人間関係に恵まれて初めて金儲けはできるのである。

 ところが今金儲けができてゐる人たちはそのことに気付かないため、ニートのことを怠け者の穀潰しだと言つたりする。

 ところでこのニートには、果たして女は含まれてゐるのかといふ疑問がある。女は働かなくても「家事手伝ひ」などの立派な肩書きがあり、彼らを食はしていくのは社会の役割の一つに数へられてゐるからである。

 しかし、それなら男についても同様にして社会が食はして行つてもよいではないか。そして、それが豊かな社会といふものではないだらうか。

 どんな人間であれ相手をありのままの姿で受け入れるべきだといふのは、個人的関係だけのことではないと私は思ふ。(2004年12月15日)







 最近、民主党が何ら問題視してゐないことについて、共産党と社民党が批判してゐる記者会見が相次いでニュースで流されたがおかしなことだ。

 国会議員は衆参合はせて720人以上ゐるが、この二つの政党の国会議員の数は合計で三十人に満たない。といふことは、単に政党を組んでゐるといふだけで、全体の五パーセントにも満たない国会議員の意見が特別扱ひされてゐることになり、実に不公平である。

 そもそも、この二つの政党の野党としての価値は、先の二度の選挙で国民によつてほぼ完全に否定されてゐる。

 いまや野党とは民主党のことであり、民主党が何も言はないことについて、共産と社民が何かを言つたとしても、それは広く国民の意見を代表するものとは言へない。

 確かに少数意見を大切にするのはよいことではあるが、それをニュースで取り上げるなら、アナウンサーが紹介するだけで十分であり、党首の会見映像を流す必要はないと思はれる。(2004年12月12日)







 中国は今回の日中首脳会談で靖国問題を持ちだしたことで、いよいよ自縄自縛に陥つてしまつたやうだ。

 元々日本国内では首相が靖国神社に参拝することは何の問題でもなかつた。ところがそれをけしからんと中国が言ひ出した。

 それに対して、当時の日本の政治家もマスコミも中国の強大な軍事力を前に、唯唯諾諾と中国の意に従ひ、首相の靖国参拝をとりやめてきた。ところが、小泉 氏が 首相になるや中国何するものぞと、敢然として靖国参拝を再開、毎年行ふやうになつたのである。

 困つたのは中国だ。これでは国内向けの面子も立たない。そこで日中首脳会談を拒否する戦術に出た。しかし、それでも小泉首相は中国の言ふとおりにならな い。原潜の領海侵犯問題もあつて、中国は今回仕方なく首脳会談に応じたのである。しかし、そこでも靖国参拝中止を要求するという暴挙に出てしまつた。

 そのあげくに又も断われたのである。これこそ中国独裁国家の政治の稚拙さとその限界を物語る一幕だと言へよう。(2004年11月23日)







 党首討論が三十回になるといふが、いつも議論はすれ違ひに終はる。それは、いつも野党は野党の立場で質問し、政府は政府の立場で答へるからである。

 野党の質問はなんとか相手を自分の論理に引き込んで、政府の矛盾を明かにしやうとするものが多い。それに対して、政府はその手にはのりませんと、はぐら かしにかかる。それを野党は議論のすり替へだといつて怒る。この繰返しである。

 しかし国会は野党のためにあるのだから、議論がかみ合はなければ野党は自分のやり方を改めるしかない。

 ではどうするか。野党には影の内閣があつて、いつでも政権をとれる備へがある。だから野党は国会では今のやうに政府の揚げ足とりに終始するのをやめて、 自分も為政者の立場にたつた議論をすればよいのである。

 さうすれば野党と政府は同じ立場に立つて議論できるやうになるから、議論がすれ違ひに終はることはなくなり、国会はもつと有益な議論の場になるはずであ る。(2004年11月12日)







 フランスといへばフランス革命なので、フランスを自由と独立を愛する国であると思ひがちである。確かに彼らは自分の自由と独立を愛しはするが、他人の自 由と独立には興味がない。

 例へば、アメリカが独立戦争を始めたときにフランスはアメリカに派兵して独立軍に味方したが、これは何もフランスがアメリカの自由と独立の精神に感動し たからではない。

 独立戦争はフランス革命より十年以上前の出来事であつて、当時フランスは絶対王政だつた。フランスは、アメリカにおけるイギリスとの植民地争いに敗れた 報復をするために独立軍に味方しただけなのである。

 その後、革命後のフランスが独立したアメリカにルイジアナを売つたのも、ナポレオンが自由なアメリカを愛したからではなく自分の戦争に金が必要だつたか らである。

 イラク問題についても同じことが言へるはずである。旧植民地を独立後も半植民地状態に置いて搾取し続け、混乱の火種を残すのがむしろフランスのやり方 で、それはハイチやコートジボアールを見れば一目瞭然である。(2004年11月9日)







 十一月七日付読売新聞『地球を読む』でアメリカのキッシンジャーはいいことを言つてゐる。

 それはイラク問題に関しては、ブッシュ大統領のやり方が好きか嫌いかに関はらず、現状ではイラクの反米武装勢力に対して武力によつて勝利する以外に、今 の世界平和を維持していく方法はないといふことである。

 キッシンジャーはイラク問題に積極的に関はらうとしない国々の姿勢を逃避主義とさへ言つて批判してゐる。

 日本でもイラクから自衛隊を撤退させれば何かいいことがあるかのやうにいふ論調が見られるが、それは大間違いであると私は思ふ。しやかりきになつて世界 平和を壊さうとしてゐる連中が一方にゐるといふのに、それに対して積極的に何らの対抗策も講せずして、世界平和に寄与する何かをなし得るとどうして言へる のか。

 イラクから自衛隊を撤退させることは、まさに世界平和に対して脅威となつてゐるイラクの反米武装勢力を勢ひづかせるだけであると私は思ふ。(2004年 11月8日)







 ラジオ番組の中に交通情報といふものがあるが、あまり役に立たないばかりか、迷惑でありさへする。

 車を運転中に渋滞情報を聞かされても、スムーズに走つてゐるときには関係ないし、逆に渋滞に巻込まれた後ではどうしやうもない。

 高速道路に入る前に渋滞してゐるかどうか知りたくてラジオをつけても、知りたいときに交通情報をやつてゐるわけではない。

 交通情報ばかりやつてゐるラジオはあるが、それは高速道路に入らないと聞けないのだ。

 もちろん、家にゐるときにラジオで交通情報を聞かされても何の意味もない。それどころか、NHKで大相撲を聞いてゐると、取組と取組とのあいだの解説者 の話にかぶせて交通情報を聞かされたりする。

 結局、ラジオの交通情報にはニュースと同じく、番組の埋草以上の価値はないのではないか。カーナビが普及した今では、もはやラジオの交通情報はいらない と思はれる。(2004年11月4日)







 最近知つたことだが、日本には最早A級戦犯と称すべき人はゐないのださうである。

 といふのは、日本では戦犯はすべて恩赦されてをり、先の戦争に関して非難されるべき人は一人もゐないからである。つまり、日本人にとつては、もはや東条 英機は戦犯ではないのである。

 確かに、中国や韓国の人たちはいまだに「A級戦犯」といふ言葉を使つて、日本の首相の靖国参拝を批判してゐるが、それは、中韓の人たちにとつて日本国内 の恩赦は関係がないからにすぎない。

 一方、日本人の中にも「A級戦犯」といふ言葉を使つて首相の靖国参拝を批判してゐる人がゐるが、それは中韓の立場に立つて、中韓の論理に従つてさうして ゐることを忘れるべきではないだらう。

 もちろん、時には他人の立場に立つて物事を考へることは大切なことである。しかし、日本人である以上、そればかりでは困る。(2004年10月30日)







 日本の消費者は商品の外見を重視するから、規格に合はない野菜や果物は出荷されずに捨てられてしまふとよく言はれる。

 しかし、事実はさうではない。日本の消費者は、曲がつた胡瓜でも傷のあるバナナでも値段が安ければ買ふのである。

 しかし、曲がつた胡瓜が安い値段で売れれば、きれいな胡瓜が高い値段で売れなくなつてしまふ。それでは生産者も商店も儲からない。だから曲がつた胡瓜は 市場に出ないのである。

 もちろん、消費者が曲がつた胡瓜をまつすぐの胡瓜と同じ値段で買ふなら、こんなことをする必要はないといへる。

 しかし、だからと言つて曲がつた胡瓜を捨てる原因の全てを消費者に押しつけるのは間違ひだらう。業者がもし利益だけでなく物を大切にする気持ちも重視す るなら、曲がつた胡瓜を捨てずに安値で売れるはずだからである。

 日本の消費者は決して規格外の野菜や果物を嫌つてはいない。ただ、安くてうまいものを望んでゐるだけである。(2004年10月24日)







 岩波文庫の『春秋左氏伝』の重版が書店に並んでゐる。

 『春秋左氏伝』と言へば、福沢諭吉が自伝のなかで「他の奴らは途中で挫折したが自分は十一回も読んだし面白いところは暗記さへしてゐる」と自慢してゐる 本である。漢文に関はる人間なら誰でも『左氏伝』を読んでゐるといへば鼻が高いらしい。

 話はオムニバス方式、つまり複数のストーリーが同時に進行していく、アメリカのテレビドラマによくあるやり方である。その年度中にあちこちの国で起つた 出来事が書かれてゐる。とはいへ、その年に起つた事だけが細切れに並んでゐるのではなく。その事件の原因になることも書かれており、一年ごとにまとまりが あつて、一番前から順番に読んで行つても、読み物として充分に楽しめる。

 岩波版が最新の訳であるが、読み下し文に近いものであり、分かりやすくはないし、躍動的でもない。また、系図があちこちに散らばつてゐるのが不便だ。単 独で読むものではなく、原文の訳本として使ふものだらう。

 系図なら筑摩書房の『世界古典文学全集13』が巻末にまとめてある。また地名の詳しい索引がある。筑摩は複数の人が訳したものであるが、その中の永田英 正の訳した部分(文公元年〜成公十八年)がズバ抜けて優れてゐる。

 これを読めば、「『左伝』は決して通読しておもしろい書物ではない」といふ岩波文庫の解説が嘘であり、岩波の『プルターク英雄伝』と同様に、岩波の訳が おもしろくないのは訳者の腕不足にすぎないことがわかる。

 例へば宣王十二年の「邲(ヒツ)の戦い」の有名な「舟中の指、掬(きく)す可し」のところを読み比べると、違ひがよく分かるだらう。以下に原文の読み下 し文、岩波版、平凡社版、筑摩版と並べる。

 晋人、二子の楚の師を怒らせんことを懼(おそ)れ、軘車(とんしや)をして之を 逆(むか)へしむ。潘党(はんたう)其の塵を望み、騁(は)せて告げしめて曰く、「晋の師至る」と。楚人も亦王の晋軍に入らんことを懼れ、遂(つひ)に出 でて陣す。孫叔(そんしゆく)曰く、「之を進めよ。寧(むし)ろ我(われ)人に薄(せま)るも、人をして我に薄らしむること無かれ。詩に云ふ、『元戎(げ んじゆう)十乗、以て先づ行を啓く』とは、人に先(さき)んずるなり。軍志に曰く、『人に先んずれば人の心を奪ふ有り』とは、之に薄るなり。」と。遂に疾 (と)く師を進め、車馳せ、卒奔(はし)り、晋軍に乗ず。桓子、為す所を知らず。軍中に鼓して曰く、「先づ済(わた)る者に賞有らん」と。中軍下軍、舟を 争ふ。舟中の指掬(きく)す可し。

 晋の人は、〔交渉に行った魏リと趙旃の〕二人が、楚軍を怒らせるのを恐れて、運搬車を迎えに出したところ、〔魏リを追いかけていた〕潘党はその車塵を遠 く望んで、「晋軍がやって来た」と急報した。楚の人も、王が晋軍に取り囲まれるのを恐れて、出陣した。孫叔は、「進め。敵に肉薄せよ。敵に肉薄を許すな。 『詩』の「先頭を切る兵車は十輛、敵陣に血路をひらく。(小雅六月)」とは、敵に先制攻撃をかけよということ。また『軍志』に、「先制して敵の戦意を奪 え」とあるのは、敵に肉薄せよということだ」と、ただちに進軍を始め、兵車は疾走し、士卒は早駆けして、晋軍に襲いかかった。桓子(荀林父)は為すすべを 知らず。軍中に鼓を撃ち、「先に渡った者には褒美をやるぞ」と伝えたので、中軍・下軍の士卒は、われ先に舟に乗ろうとしたが、〔先に乗った人に〕切り落と された舟底の指の数は、両手で救うほどになった。(岩波文庫)

 晋の本陣では趙旃・魏リの二人が楚の軍を怒らせているのではないかと、(戦うのではないと楚に示すため、兵車ではなく)工事用の車を出して、二人を迎え にやった。ところが楚の潘党は晋の軍の方から(迎えの車が)しきりに砂ぼこりを立てて来るのを見てまちがえ、本陣に告げさせた、「晋の軍が押して来たぞ」 楚の人も、王が深入りしてしまったのではないかと、ついに出陣した。令尹孫叔(敖)は命じた。「進め、ただ進め、敵に迫ろうとも、敵に迫られるな。詩に も、『先立てる十の車に、劣らじとわれこそつづけ』とあるぞ。人に後れるな。兵法にも、『人に先手を打ち、肝を奪うこと』とある。ただ敵に迫れ」この下知 に、楚の軍は急進撃。車が馳せ、兵が走り、どっと晋の軍に乗りかかった。晋の桓子(元帥)は手も足も出ぬ。ただ全軍に鼓を打って命を伝えた。「退却だ。早 く河を越えたならば賞を与える」そこで中軍と下軍は、先を争って舟に跳び込もうとする。(後から船べりに手を掛けると)指が斬り払われて見る見るうちに舟 一杯とならんばかり。(平凡社)

 一方、晋軍では魏リと趙旃の二人が楚を怒らせることを心配し、軘車(注1)を出して迎えにやらせた。ところが潘党は晋のあたりからまきおこるもうもうた る車塵を見て、てっきり晋の襲撃と思いこみ、「敵襲!」と注進した。このとき楚でも王が晋軍の中に深入りしすぎないかと心配していた最中であり、ついに全 軍出撃と決まった。孫叔(敖)が叫んだ。「進め、進め! こちらから敵に迫っても、敵に迫られてはならぬぞ。『詩』(小雅、六月)の『大車十乗さきに立 ち、行(みち)を啓(ひら)いてすすみゆく』とは先手をとることをうたったものだ。兵法の書にも『人に先んずれば、その戦闘意欲を奪う』とあるぞ。がむ しゃらに突っこめ!」楚軍は疾風のごとく突撃した。車も兵士も一丸となって晋の軍にぶつかった。晋は完全に不意をつかれた。桓子はうろたえ、どうしてよい かわからない。やたらと太鼓をうちならして「河をわたれ! 一番にわたった者には褒美をとらせるぞ」と声をうわずらせて叫ぶ。中軍も下軍も、われ先にと舟 にのろうとするが、先にのった者は後の者が舟べりに取りつく指をつぎつぎと斬りはらう。たちまち舟は指であふれ、両手ですくわんばかりとなった。(筑摩版 永田英正訳)

 行間を訳してすばらしい日本語になつてゐる永田英正のものが筑摩版のごく一部に留まつてゐることを残念に思ふのは私だけであるまい。ただ、夏目漱石が 『文学論』や『我輩は猫である』で左氏伝中の白眉として言及してゐる「鄢陵(えんりよう)の戦」の段は成公十六年にあたり、幸ひこの中に含まれてゐる。

 それ以外の所の訳は分りやすくはあるが、訳文の出来はかなり落ちる。ところが、世の中捨てる神あれば救う神ありで、ここに安能務といふ人の書いた『春秋 戦国志』(講談社文庫)といふ本がある。これは小説であるが、『春秋左氏伝』の解説書として充分に通用する。上中下三冊もあるが、実によく書けてゐるので どんどん読めてしまふ。『春秋左氏伝』の入門書として勧めてよいと思ふ。(2004年9月24日)







 「韓国の日本植民地時代」といふ言ひ方がいまだにまかり通つてゐるが嘆かはしいことである。朝鮮半島は日本の植民地ではなく日本だつたのである。だから 当時朝鮮の人たちは日本人として扱はれた。

 その証拠の最たるものが、ベルリンオリンピックのマラソンに朝鮮の孫基禎選手が日本代表として出場して金メダルをとつたことである。なんと日本は朝鮮人 にスポーツ教育を施し、優秀だといふことでオリンピックにまで出場させてゐたのだ。

 住民を奴隷にして収奪することを目的とする植民地支配ならあり得ないことである。同じようにして日本人は朝鮮人に野球を教へ、日本の高校野球の全国大会 に朝鮮の代表高を出場させてゐる。

 ところが多くの韓国人はそれらを恩に感じるどころか「孫選手は心の中で韓国のために走つた」といひ、「日本の国歌がスタジアムにこだましたとき、彼はた だうつむいて口を真一文字に引き結んだきりだつた」などと見てきたやうな事を書くのである。

 確かに、孫選手は自伝の中で「私はそれまで、私の表彰式に日章旗が掲揚されるとは正直思つてもいなかつた」と書いてゐる。しかし、それなら胸のゼッケン に付いてゐる日の丸を彼は何だと思いながら走つたのかといふことになる。彼の自伝がどこまで真実を語つてゐるかを検証した研究はまだない。(2004年8 月22日)





 戦前は暗黒時代のやうにいはれてきたが、山本夏彦の『戦前という時代』によれば、どうもさうではないらしい。共産主義者には確かに暗黒時代だつたが、さ うでない人たちにはむしろ戦後より自由だつたのではないかと思はれる。

 何より戦前はピストルが買へた。そんな物騒なものを買ふ必要はないと言はれさうだが、「買へるけれども買はない」のと「買へないから買はない」のとは大 きく違ふ。戦後はそれだけ自由ではなくなつたのである。

 戦後の警察は国民にピストルや刀の所持を禁じて、自分で自分を守る手段を奪つてしまつた。では代はりに警察が国民を守つてくれるかといふとさうではな い。

 最近も一度に七人もの人が殺される事件があつたが、警察に相談しても何もしてくれなかつたといふ。

 戦後の国民はピストルを買ふ自由を失つたが、それで戦前よりも戦後の方が安全になつたと言へるかどうか。最近の厳罰化の傾向は逆の事実を指してゐるとし か思へない。(2004年8月14日)









 人名漢字の中から一部の漢字を排除すべきだと、いまだにかまびすしい。その主な理由は、そんな漢字の名前の子供はいじめられるからだといふものである。

 しかし、これではいじめは、いじめられる側にも原因があると言つてゐることになる。

 だいたい、名前のせゐでいじめられるのではないかと思ふやうな小心翼翼とした子供は、却つていじめられるものである。

 逆に、他人のどんな扱ひにも毅然と対応できる子供なら、どんな名前であつてもいじめられることはないだらう。

 そもそも、自分の子供をいじめられつ子にしようとして、子供に名前をつけるやうな親など、いま現在もこれからも存在しない。

 子供を虐待する親がゐるから、そんな変な名前を付ける親もゐるはずだといふ人がゐるが、虐待された子供たちがどんな名前か調べてから言つてゐるのだらう か。

 いじめはいじめる方が悪い。いじめと人名漢字は関係がない。問題をはき違へないことである。(2004年8月4日)







  建築家安藤忠雄と経団連会長奥田碩が旅行をする『イタリア式街の愛し方』といふNHKの番組を見たが、最後にこの二人は口を揃へたやうにイタリアの町並み には個人があると頻りに言つてゐた。そして彼らが見るところではその次に社会が来るらしいのだ。

 しかし、私は逆だと思ふ。イタリヤの町並みは日本と違つて屋根の色も建築様式も統一されて整然としてゐる。そこに私はまづ社会を見る。

 そしてこの社会のまとまりがあつて、その中でイタリア人はそれぞれが安心して個性を発揮してゐるのだ。逆に言ふと、日本には社会的なまとまりは皆無で、 そこにはばらばらな個人ばかりがゐる。

 ばらばらな個人の集まりでは強い者勝ちの弱肉強食がまかり通り、弱い個人が個性を発揮する場面はない。そして、社会はそれを防ぐための仕組みなのであ る。

 かうして、社会のない日本には個人がなく、社会のあるイタリアには個人があるといふことになつたのである。(2004年7月31日)







 今回増やされた人名漢字の中にけしからん漢字が含まれてゐるから削除しろと大騒ぎである。しかし、気に入らなければ使はなければいいだけのことではない のか。

 いや、世の中には馬鹿な奴がゐて、きつと「糞男」とか「淫子」とか自分の子供に付ける親が出てくるにきまつてゐる。だから、そういふ文字は削除しろと言 ふのだ。

 この考へ方には、自分は賢いからそんなことはしないが国民は馬鹿だから何をしでかすかわからないといふ国民を見下した姿勢がある。そこでお上に制限して もらはうといふ官僚依存の態度がある。

 そもそも人名漢字を役所に決めてもらふ必要がどこにあるのか。自由でいいではないか。変な名前を付けられた子供が可哀想だといふが、現状でも変な名前は 幾らでも付けられるのだ。

 昔の君主たちは、もし国民に自由など与へたら世の中とんでもないことになると考へたが、いまだにその発想から抜けられない人が大勢ゐる。残念なことであ る。(2004年7月26日)






 6年前の参議院選挙で大敗して退陣した橋本首相と、今度の参議院選挙をほぼ現状維持で生き延びた小泉首相の最大の違ひは、靖国神社の参拝をやめたか続け たかの違ひだと私は思つてゐる。

 橋本内閣も小泉内閣も改革を旗印にした内閣であることには違ひがない。しかし実際に改革を成し遂げるには多くの妥協が必要であり、マスコミから「骨抜 き」の批判を受けざるを得なかつた。

 ここまでは小泉内閣も橋本内閣も同じである。しかし、一つ違つてゐたのは、橋本首相が靖国参拝を、中国などの批判のためにやめてしまつたのに対して、小 泉首相が批判に屈せずあくまで続けてゐることである。

 靖国参拝は改革などと違つてその達成感が明確である。

 小泉内閣の支持率が4割を切つたなどと言はれてゐるが、今なほ小泉内閣を支持する人たちの多くは、小泉首相が靖国参拝を続けてゐるがゆゑの支持者である と言つてよい。

 だから小泉首相は、靖国参拝だけはやめないことだ。なぜなら、靖国参拝をしない小泉内閣は橋本内閣と同じになつてしまふからである。(2004年7月 16日)








 参議院は無用であると言はれながら、いざ選挙をしてみるとその結果に対して首相の責任を云々せずにはゐられないやうだ。しかし、元々無用な参議院なのだ から、その選挙も無用のはずである。

 参議院選挙で野党が勝つても野党に政権が移るわけではない。たとへ首相が辞任したところで、首相の座は与党の中でたらい回しにされるだけである。しか し、それでは選挙の結果が政治に反映されたとは言へないだらう。では、なぜそんな選挙をする必要があるのかと言ひたくなる。

 そもそも議院内閣制をとつてゐる国で参議院にあたる上院の直接選挙があるのは、我国以外ではイタリアぐらいのものである。そしてそのイタリアと日本で首 相がよく交代する。

 一方、上院が貴族院で選挙がないイギリスでは、政権が比較的安定してゐる。日本の政治の混乱の一因は参議院選挙にあると言つても過言ではあるまい。なら ば参議院選挙をなくすことを考へるべきではあるまいか。(2004年7月13日)







 私はこれまで選挙でほとんど棄権したことがない。しかし、私がもし棄権してゐたら選挙結果が変つてゐたといふやうなことは一度もなかつた。つまり、私が 投票したかしなかつたかは、選挙の結果には何の影響もなかつたのである。

 それでももし支持者が一票差で落選することがあつたら困ると思つて投票してきた。私は真面目な有権者である。ところが、世の中はそのやうな真面目な有権 者よりは、きまぐれで投票する人の方を重視する。

 マスコミは、どんな選挙でも必ず投票するやうな真面目人間ではなく、天気などに影響されて投票したりしなかつたりするいい加減な有権者の動向にばかり注 目するのだ。こんなけしからん事はない。

 私は三回棄権したら選挙権を失うやうにしたらいいと思ふ。さうして真面目な有権者だけが投票できるやうにするのである。さうすれば政治のことを真面目に 考へる人だけが投票できるやうになつて、もつと世の中はよくなると思ふ。(2004年7月10日)








 プロ野球がどんどん魅力を失つてゐる。まつたく痛々しいほどだ。

 近鉄は買収先が見つからないからといつて、オリックスと合併話を始めた。ところが、近鉄を買ふといふ会社があつた。

 それなら合併をやめるかといへば、無視して合併するといふ。まつたく筋の通らない話だ。

 近鉄を買いたいのはインターネット関係の会社ださうだが、さすがに社長が若くて、かつこいい。

 一方、それを断るといふ近鉄の社長と、「俺の知らない人は入れてやらない」と子供じみたことを言ふ読売の社長は、どちらも年寄りで、かつこわるい爺さん たちだ。

 プロ野球とはあんな爺さんたちに支配されてゐるスポーツだつたのだ。

 会社と会社が合併するのは勝手だらう。しかし、チームは会社の私物ではない。ファンあつてのチームである。それを勝手に合併させるなど、もつてのほかで ある。

 チームを合併させるから、バッファローズとオリックスのフアンも合併しろとでも言ふのか。それでは、あまりにファンを馬鹿にしすぎてゐる。(2004年 7月1日)










 政府の「男女共同参画社会の将来像検討会」が、2020年の社会のあり方として「女性が企業の管理職の3割以上を占める」を柱としたといふ。

 「まだ言ふか」である。彼らには自分たちのこれまでの活動が日本の出生率の低下をもたらしたことがわからないのだらうか。

 管理職になるやうな女性が子供を3人以上も産むことはまづないだらう。そのやうな女性を日本でもつと増やせといふことは、日本の出生率をもつと減らせと 言ふに等しいのである。

 それとも女性がたくさんの子供を産むことは、男女共同参画社会の実現とは関係ないと言ふのだらうか。

 日本の出生率が1.29となり、このまま行くと将来人口はゼロになるといはれてゐる。社会がなくなつてしまへば、男女共同も何もあつたものではない。

 わたしは彼らに教へてやろう。君たちの目標は「女性が企業の管理職の3割以上を占める」ではなく「女性が生涯に子供を3人以上を生む」にすぺきである と。(2004年6月27日)









 日本とロシアの間で平和条約を結びたいと、外務省がロシアと交渉してゐるさうだ。

 しかし、ロシアが日本を攻撃する可能性はあつても、日本は憲法で交戦権を放棄してゐるから、日本がロシアを攻撃する可能性はない。だから、ロシアからす れば日本と平和条約を結ぶ必要は全くないのである。

 また、日本がロシアと平和条約を結ぶといふことは北方四島の返還を意味するから、日本にとつては得なことである。しかし、ロシアから見れば、それは損な ことである。

 つまり、ロシアにとつては、日本と平和条約を結ぶことは、その必要性がないだけでなく、損なことである。そのやうな条約をロシアが結ぶはずのないことは 明かである。

 日本が北方四島を武力に訴へても取り返すといふ脅しをかければ、北方四島が日本に返還される可能性はある。しかし、それは日本の憲法上不可能である。

 結局、日本が北方四島をロシアから取り返す可能性はないと考えるしかないのである。(2004年6月25日)







 「子供を三人以上、例へば五人育てることが共働き家庭に可能か」と言へば、不可能とは言へないまでも極めて困難だといふことに誰も否定すまい。

 ところが一方で「女性の就業率が高いほど出生率も高くなる」といふデータがある。例へばデンマークでは出生率の低下に歯止めがかかつたが、それについて 「女性の社会進出をより一層促進しようとしたことが、出生率上昇につながった」と言はれてゐる。

 しかしデンマークの出生率が2以下であることに変はりはなく、少子化現象が食い止められたわけではない。たとへ働く女性が子供を産みやすい環境を整えた としても、働く女性が子供を三人以上産むことには至らないのである。

 女性の労働環境の整備はそれ自体重要なことだが、それと子育て支援の問題が混同されてきたきらいもある。

 少子化を食い止めるためには、共働きではない家族が三人以上の子供を育てられる環境の充実にもつと力を注いでいくべきではないか。(2004年6月16 日)









Q:女性が仕事を持つようになったから少子化現象が起こったのでしょうか。

A:それはあたっていません。表(グラフ)○を見てください。六歳未満の子どもを持つ母親が一番働いている山形県を始めとして福井・島根・鳥取・新潟の上 位五県は、出生率も高くて、共働き率の低い神奈川・大阪・奈良・兵庫・埼玉の五県は出生率が低いのです。地方では男性の所得が低いため、共働きでないと子 どもを産み育てていけず、多くの女性が働き続けているといえます。そしてもう一人子どもを生むために働いているともいえるでしょう。

 欧米諸国でも同様で、先進諸国では女性の就業率の高い国ほど出生率も高くなっているし、男女の賃金格差が小さい国ほど出生率が高いようです。


 これは女性団体のホームページではなく、ある地方自治体のホームページに掲載されゐるものである。地方自治体といふものが国の政策に何如に唯唯諾諾とし てゐるかがよくわかる例であらう。国が男女共同参画社会を推進する言へば、その通りとこんなホームページをつくる。その結果が、出生率1.29のていたら くである。

 女が自分で働けば結婚もしなくなるし子供も産まなくなる。こんな当たり前のことを無理やり否定するために、あれやこれやと資料を持出してきても無駄だと いふことは、もはや明らかである。

 年金政策ではなく男女共同参画社会といふ名の政策が間違つてゐたのだ。年金政策をどう変へたところで、人口が減つて行くやうな社会が立ちゆかなくなるの は、これまた当たり前のことである。(2004年6月15日)






 「戦前の三菱グループを率いた岩崎小弥太は俳句をたしなんだ。こんな句がある。〈新聞の来ぬがうれしや雪の朝〉。1933年の作という(宮川隆泰『岩崎 小彌太』中公新書)。前年、犬養毅首相が暗殺された五・一五事件では三菱銀行も襲撃された。軍部・右翼を中心に財閥への批判が高まっていたころで、毎朝の 新聞を見るのも嫌だったのだろう。雪のため新聞が配達されない朝のほっとした気分を素直に詠んだ」(天声人語6月4日)

 それに対して誰かが「岩崎が新聞を読みたくなかつたのは、そのころも今の新聞みたいにくだらん記事が多かつたからさ。事件が原因じゃない。事件を餌にし て儲けている新聞に嫌気がさしたのさ」

 それに対して誰かが「まさにそのとおりで、当時の朝日新聞には『婉然と笑う妖婦さだ』とかのくだらん週刊紙並の記事が多かった。それに515事件を報じ た朝日新聞記事では、反乱軍のテロ殺人犯を『壮漢』呼ばわりしている。企業悪と政府の腐敗を糾弾しているつもりの朝日は、戦前と同じことを繰り返している だけで、進歩がない」

 またそれに対して誰かが「まー、それで天皇陛下をはじめ、時流が彼らを『反乱者』扱いするようになると『姦賊』呼ばわりになるわけで……」
 
 2chの書き込みもまんざらではない。(2004年6月14日)






 自社の製品に欠陥が見つかつた会社の幹部がそれを放置することを決定したなどといふニュースが流れてゐるが、そんなことを誰が信用するだら う。

 会社といふものは自社の製品をなるべく良いものにしようとする努力の積み重ねで成立つてをり、もし欠陥が見つかれば時期や方法は別として何らかの改善措 置を講じたことは間違ひない。だからこのニュースが嘘であることは明らかである。

 それにも拘らず三菱自動車についてこのやうなニュースが流されるといふことは、警察や新聞記者が三菱自動車に対して、かなり感情的になつてゐることは間 違ひない。

 何故なら、クラッチの欠陥が直接的原因で死亡事故が起きたのなら、同じ車種で何万件の死亡事故が起きてゐなければならないことは明らかだからである。

 実際、一般庶民はそれほど馬鹿ではなく、これら一連のニュースを三菱バッシングとして捉えるだけで、本当に三菱が悪いことをしたとは思つてゐないやうで ある。(2004年6月12日)






 女性一人が生涯に産む子供の数が1.3を切り、このままでは年金制度の維持どころか、この国自体の将来が危うくなつてきてゐる。

 その原因として様々なことが言はれてるが、一方でテレビ番組などを見ると、子だくさんの大家族も沢山あつたりする。彼らの話を聞くとその理由は授かつた 子は産むといふ当たり前のことをしてきた結果らしい。

 といふことは一方で、授かつた命を無駄にしてしまつてゐる場合が何如に多いかといふことになる。

 しかし、人工妊娠中絶は法によつて厳しく制限されてゐる。暴行などによる妊娠でない場合には、身体的か経済的に母体の健康を著しく害する恐れがある場合 に限られてゐるのだ。

 もしも法律通りなら、今の日本で妊娠中絶が許されるのはかなり限られたものとなる。ところが現実はどうだらう。

 要は法を守り、授かつた子は産まねばならないといふ当たり前の精神に立ち返ることだ。それだけで、少子化はかなり改善するのではなからうか。(2004 年6月11日)





 長崎の事件をきつかけにまた「命を大切に」といふ言葉が言はれてゐるが、それを実現するにはまづ政府が手本を示すことである。

 第一に死刑を廃止すること。さうすることによつて、この世には殺してよい命はないことを示すのである。第二に、警察が被疑者の命を大切にすることであ る。

 特に警察の捜査や追跡の途中に被疑者が事故や自殺で死亡する例が跡を絶たない。ところが被疑者を死なせた警察官は誰も責任をとつてゐない。これでは警察 が人の命を何とも思つてゐないと思はれても仕方がない。

 最近では、死亡事故の原因がリコール隠しのためだとして、自動車メーカーの元社長が過失致死罪に問はれてゐるし、言葉によつて自殺を勧めた人間が自殺幇 助罪に問はれた例がある。

 これらと同様の罪を、被疑者を死なせた警察官に負はせるべきである。

 警察の捜査による致死事件の処罰と死刑の廃止。この二つが実現して始めて、政府は国民に命の大切さを訴へる資格ができると言つていい。(2004年6月 6日)






 『レナードの朝』を見ながらわたしはデニーロの演技に何度も大笑いした。最後にウイリアムズがおばさん看護婦をデートに誘う場面でもう一度笑 つた。

 実際の精神病患者を見ても笑へない。役者の演技だからこそ笑へるのだ。特にデニーロは明らかにこの演技を楽しんでゐる。元々デニーロは医者役だつたの に、ウイリアムズの患者役をうらやましくなつて代つてもらつたといふほどだ。

 原題は『目覚め』である。重傷の精神病患者が薬によつて束の間の目覚めを得る。その束の間がレナードの人生なのだ。動けない姿も滑稽なら、動き出してか らの動作も滑稽の連続だ。ロバート・デニーロの動きの滑稽さは人生の滑稽さなのだ。

 普通の人間の普通の姿が実は滑稽なのだがそれは分かりにくい。人はいつか必ず死んでしまふのに恋をしたり夢をもつたりする。それは束の間の目覚めの中の レナードの姿そのものである。

 レナードも恋をして自由になる夢を見る。その夢は叶はずにまた元の動けない世界に帰つて行く。しかし、彼も束の間の思い出を得た。人生とは皆こんなも の、それでいいのだ。

 デニーロの動きを笑ふことは人生を笑ふことである。この映画を見て泣く人は、きつと人生を悲しいものと思つてゐる人だらう。だが人生を愉快なもの滑稽な ものと思つてゐる人なら、この映画を見て大笑ひできることだらう。(2004年6月5日)





 五月三十一日に放送された水野真紀主演の『ホステス探偵危機一髪』を見てカッターナイフによる殺人を思ひついたと、長崎の小学生殺人事件の加 害者とされる女の子が言つたと報道された。

 その後、この話はどうなつたのか。各紙のホームページに出たはずなのだが、いま検索してもそんな記事はどこにも見つからない。

 小学校六年生の幼い少女は、警察の質問に何でもはいはいと答へたのだらう。彼女はこの人の言ふ通りにすれば、きつと許してもらへると思つたのだらう。

 彼女がいま唯一の頼みの綱と思つて話をしてゐる大人が、実は自分を凶悪犯罪者に仕立てようとしてゐるとは夢にも思ふまい。

 自白を誘導し、被害者に対する謝罪で自白を認めさせ、次に計画性を認めさせる。殺人事件の容疑者尋問で刑事が使ふ典型的なやり方だ。それをいま長崎県警 の刑事は、四年生にしか見えないやうな幼い少女に対して使つてゐるのである。

 そして彼女はその刑事の言ふがままに答へたがために強制施設送りになるのである。彼女は大人社会の嘘と非情を身をもつて知ることだらう。(2004年6 月5日)






 プロ野球巨人戦の番組宣伝コマーシャルが流れてゐる。巨人戦はもはや宣伝しないと見てもらへない時代になつたのである。それでも巨人戦の視聴率が伸びな い。その理由の一つに、巨人のイメージが悪くなつてしまつてゐることがある。

 いまや巨人は正義の味方ではなく悪の集団である。監督からしてイメージが悪い。彼は現役時代ですら既に悪玉であつた。その彼が監督になつた時、今までの コーチが全員辞めてしまつたのは最悪だつた。

 ダイエーの四番バッターの小久保を只でとつたのもひどかつた。裏に何かあると思はれても仕方がない。清原のイメージも悪い。「番長」がゴールデンタイム に出てはいけないだらう。

 巨人は去年ヤクルトの四番をとつたのに、今年は小久保のほかに、近鉄の四番のローズもとつた。欲張りにもほどがあるといふものだらう。

 今年の巨人はすごい勢いでホームランを量産してゐる。視聴率が上がつても良ささうなものだ。しかし、それが飛ぶボールと狭い球場のせゐだといふことは、 ヤンキースの松井のホームランの少なさによつて視聴者は既に知つてしまつてゐる。

 かうして、巨人戦をテレビで見る理由は減る一方である。延長放送が無くなるのは時間の問題ではないだらうか。(2004年6月1日)






 年金法案の今国会成立に世論の七割が反対したとき、多くマスコミは世論の正しさを言つたが、今回の小泉訪朝に対して世論の七割近くが肯定的な評価をした とき、多くのマスコミは目前の現象に欺された世論の愚かさを言つた。

 しかし、国会で議論されてゐる年金法案の中身を知つてゐる国民がどれほどゐるだらう。それは小泉訪朝の成果よりも遥かに分かりにくいものである。

 よく知らぬ年金法案に対する世論の判断が正しく、一目瞭然たる訪朝の成果に対する世論の判断が間違つてゐるといふのは、まさにマスコミの驕りであらう。

 一般国民は何事もマスコミを通じてしか知ることが出来ない。年金も訪朝も否定的に報道された直後に世論調査が行はれた。ならば、どちらも同じやうに否定 的な結果が得られるはずだつた。ところがさうはならなかつた。

 なぜか。それは何より世論がマスコミの操り人形ではないといふことであるが、それはまたマスコミと一般国民とでは立場が違うといふことでもある。

 事件の被害者はマスコミにとつて何如に大切でも、多くの国民にとつてはさうではない。被害者の家族のことなどさらに軽いのである。(2004年5月26 日)






 テレビで神戸祭りの雨中のパレードを見ながら、今年の京都の葵祭は晴天だつたことを思ひ出した。

 そして今年の斎王代に選ばれた女性(加納麻里さん)が五月初めの「御禊(みそぎ)の儀」で「わたしは晴れ女ですので」と言つたのをテレビで見たのを思ひ出した。新聞の記 事を見ると、確かに「『晴れ女』ですので葵祭当日は晴れてほしい」と言つたと出てゐる。

 さらにその記事で、葵祭は昨年一昨年と二年続きで雨にたたられて午前中だけで中止してゐたこと。去年の雨で破損した衣装の買ひ換へに七百万円かかつたと もわかつた。今年の晴天は祭りの関係者全員の願いだつた。だから彼女のこの言葉はみんなの思ひを背負つたものだつたのである。

 新聞に報じられた祭り当日の彼女の言葉は「天気予報に一喜一憂してたので、晴れてうれしい。」だつた。さぞほつとしたことだらう。「晴れ女」に敢て言及 した彼女の勇気が報はれて、彼女の「予言」通りに祭りの空は晴れたのである。(2004年5月16日)





 北海道の病院で無呼吸状態になつてゐた九十歳の患者の人工呼吸器を外した医師が殺人容疑で逮捕された。医師は家族の求めに応じて呼吸器を外し たのだが、警察はその判断が早すぎるとして逮捕に踏み切つたといふ。
 
 最近では高齢者の延命治療を中止して人工呼吸器を外す医師は少なくない。実際この行為だけを理由に医師を逮捕した例はないといふ。だから、この場合はこ の医師がどう考へたかを問題にしてゐるのである。

 これはファイル交換ソフトWinnyの作者の逮捕理由と同じで、その行為自体ではなく、その行為に伴ふ考へを犯罪視した逮捕である。三菱自動車の前会長 の逮捕もこれに似たところがある。

 これらの動きは警察が人の頭の中の出来事の取締りに乗り出したといふことではないか。インターネットの普及で、判断やその表現と実際の行動との区別が付 きにくくなつてゐることの影響だらう。

 戦前のやうに特定の思想信条に関するものでないから分かりにくいが、これは刑法に反する考へ方やその表明に対する取締りであり、一種の思想統制と見るべ きだらう。(2004年5月14日)







 著作権はそんなに大事なものか。人を逮捕して犯罪者にしなければならないほどに価値ある権利なのか。わたしにはさうは思へない。

 例へば、浜崎あゆみは著作権のおかげでヒット曲を出してゐるのか。違う。ダウンタウンは著作権のおかげで、大儲けをしてゐるのか。断じて違う。

 創造の世界で著作権が問題となるのは、人の作品をコピーして自分の作品だと偽つて金儲けをした場合だけであるはずだ。

 一般人が人のCDをコピーして、そのCDを買はずにすませたとしても、それは著作権とは関係がない。さういうことができるプログラム作つたとしても、そ れは個人と個人の間のやりとりであつて、著作権とは何の関係もない出来事である。

 いはんやそのことを奨励するやうなプログラマー発言を、著作権の侵害と結びつけるのは、こじつけ以外の何ものでもない。いやそれ以上に、表現の自由の侵 害である。

 これは戦前の小林多喜二の逮捕に匹敵する事件である。あらゆる表現者は、このプログラマーの逮捕を戦前の警察ファッショの暗い時代の再来だと大いに怒る べきだらう。(平成16年5月12日)









 マネの『オランピア』は滑稽である。なぜなら、この女は美人ではないからだ。こんなにあごとえらの張つた不美人は、2メートル近くもあるこんな大きなカ ンバスに描く価値はない。

 この女は美人でないから、マネは女に厚化粧をさせネクタイをさせサンダルを履かせ、花束を女中に持たせた。むしろ、さうやつてマネは女の不美人であるこ とを強調してみせた。

 そしてマネは、そんな女を大きなカンバスに丁寧にそのままを描いて見せた。これは徒労である。大きな無駄である。

 しかし、マネはその徒労と無駄に価値に持たせた。人生の無駄を、無意味を、人生の滑稽をそのまま描いたのだ。つまり、マネはそれを肯定したのだ。これが ありのままの人生である。これに労力を注ぎ込む価値があると言つたのである。

 この絵を絵画の伝統の破壊などといふのはマネを過小評価してゐる。ビーナスの代はりに娼婦を描いたと言ふがそんなことはどうでもよい。彼女は実在のモデ ルである。そして本当のモデルは美人ではないが、そのままで描く価値があるのだとマネは言つたのである。

 これまでの絵は確かに理想を画き、マネは現実を画いた。しかし、マネはそこに留まつたのだらうか。マネはわざわざそんな小手先の座興のために人生を絵に 注ぎ込んだとは思へない。(2004年4月23日)






  イラクの人質事件の被害者が日本で厳しく批判されるのは、国会で野党が政府に対して「イラクに被戦闘地域はどこにある」と言つて、自衛隊のイラク派遣の違 法性をあれだけ攻撃してゐたのに、イラクの戦闘地域に民間人がのこのこ出かけて行つて事件に会つたからにほかならない。

 ところが、日本における自衛隊の存在の特殊性とそれに基づく国会での不毛な議論を理解できない海外メディアは、日本の世論の被害者に対する冷たさを理解 できないやうだ。アメリカのパウエル国務長官が被害者たちの行動を賞賛したのも同じ理由からであらう。

 しかし「危ないから行くな」と言つて政府に反対しておきながら、自分は危ないところに行つて危ない目に会つて、自分が反対してゐる政府に助けてもらつた 人たちが、とてもかつこ悪いのはどこの国でも同じだらう。

 反対するなら自分でちやんとやれよといふ自己責任論が、政府だけでなく日本中に吹き出したのは当然のことである。(2004年4月21日)








 イラクの人質事件に関して被害者を批判する声が多く、マスコミの中にも被害者の軽率を批判する豪の者もゐる。

 それにわざわざ反対して被害者を養護してみせる記者たちがつぎつぎと現れたのは、本来被害者はマスコミにとつて神様であるから、何の不思議もない。

 むしろ不思議なのは、イラクへの自衛隊派遣に反対する最大の理由が「危険だから」といふものであり、自衛隊にとつて危険な所は民間人にとつても危険な所 であるはずなのに、自衛隊に行くなといふ人たちがその危険なイラクに出かけて行つた事の方である。

 人に行くなと言ふなら、まづ自分が行かないことが良識といふものだらう。それなのに行つた人たちを、多くの人たちが同情できずに批判するのも理解でき る。

 一方、この事件の責任は政府にあると言つて、事件を政治的に利用しようとする人たちの愚かさには恐れ入つた。それは犯罪を利用することであり、犯罪者の 味方になることである。とても世論の支持は得られない。(2004年4月12日)








 憲法を文字通りに読めば自衛隊は違憲だし、首相の靖国参拝も違憲であらう。ではなぜ違憲な自衛隊が存在し、違憲な靖国参拝を首相はするのか。

 その答は簡単である。さうすることを多くの国民が望んでゐるからである。つまり、多くの国民は自衛隊が存在し首相が靖国を参拝することを望んでゐるので ある。もしそうでなければ、民主国家である今の日本でそんなことが出来るわけがない。

 元々アメリカ人が作つたこの憲法は日本人が現実に必要とすることを充分に満たしてはくれない。しかし、この憲法は改定しにくいやうに作られてゐる。だか ら、私たちは何とかやりくりして、この憲法が想定していない必要性を満たしてきたのである。それが自衛隊の創設であり、首相の靖国参拝だ。

 その間の事情を無視して「王様は裸だよ」と子供みたいに言つてしまふ裁判官が出てくるとすれば、それはさういふ裁判官しか育てられない制度が悪いのであ る。(2004年4月8日)








 日本でも憲法改正の議論が盛んになつてきたが、必ずしも憲法は書かれたものである必要はない。憲法とは国民がさうあるべきだと思つてゐることそのものだ からである。

 その日本で今新たな憲法が生まれようとしてゐる。それは「回転ドアは危険だから禁止する」といふ憲法である。

 既に日本の憲法には軍隊は危険なので持たないといふ条文がある。今度の条文はそれに次ぐ画期的なものである。

 憲法九条はすばらしいので是非とも世界に広めるべきだと言はれてきたが、それと同じやうに回転ドア禁止の憲法も是非とも世界中に広めなければならない。

 さもないとせつかく日本で回転ドアが無くなつて安全になつても、アメリカやフランスに行つた時に、また回転ドアに挟まれて日本の子供が死んでしまふかも しれないからである。

 しかし、残念ながら憲法九条と同じく回転ドア禁止条項も海外では採用されさうにない。だから日本の子供は自衛隊と同じく海外には行つてはいけないのであ る。(2004年4月3日)








 『論語』の有名な言葉に「巧言令色すくなし仁」といふのがある。岩波文庫はこれを「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、人の徳 は」と訳してゐる。

 ところが、アメリカの歴代の大統領で功績を残した人はみんなハンサムて、チビハゲデブの大統領は名前を聞いてもピンと来ない人が多いといふ新聞記事があ つた。アメリカでは「ことば上手」でなければ大統領にはなれないから、孔子の価値観とアメリカの価値観とは正反対だといふことになる。

 福沢諭吉は『学問のすゝめ』の中で弁論の重要性を説いてゐるから、この「巧言令色すくなし仁」にも勿論反対である。

 論語の二つめには「目上に逆らはないのが全ての基本だ」と書いてある。しかし、福沢に言はせれば、この「目上に逆らはない」は親子関係に適用するのはよ いが、それを政治に当てはめると専制になる。民主主義では政府と国民は対等でなければならないからだ。

 『論語』の有名な「一もつてこれを貫く」も福沢は『文明論之概略』の中で「時と場所に合せることの方が大事だ」と、反対してゐる。

 こんな風に福沢諭吉を読んでゐると『論語』は間違ひだらけの本に見えてくる。ところが、『論語』の教へは現代の日本人の価値観にかなり入り込 んでゐる。といふことは、日本人の価値観は間違ひだらけなのかも知れない。(2004年4月2日)








 明石の砂浜陥没事故で四人もの大人が起訴された。物事の判断のつかない子供が危険な場所でとつた行動の責任をとらされるのだから、気の毒なことである。

 明石の事故は六本木の回転ドアの事故とよく似てゐる。閉まりかけのドアにわざわざ頭をつつこみに行つた子供と、入らないように囲つてある場所へわざわざ 入つていつた子供。しかも、どちらの事故も親が近くにゐたのに起きた。

 ところがその場に居合せた親は何の責任も問はれず、その場に居なかつた大人が責任をとらされるのであるから、こんな理不尽なことはない。

 明石で死んだ子は4歳、六本木で死んだ子は6歳、どちらも何をしでかすか分からない年頃である。そんな子供の安全に対する責任は親が負ふしかない。子供 が何をしても安全な社会など作りやうがないからだ。

 こうなれば大人たちは自分が犯罪者にされないために、「お子様立入禁止」の札を至るところに貼り付けるしかないだらう。(平成16年4月2日)








 むかしラジオ番組で「我家の王様」といふのがあつた。この王様とは子供のことである。しかし、今や子供は家の中の王様どころか社会の王様になりつつあ る。

 子供が死んだと言つていくつ法律が作られたか。男女関係のもつれから娘を殺されるとストーカー防止法が作られ、酔つぱらいの運転手に衝突されて子供が死 ぬと危険運転致死傷罪が作られたが、いづれも大人が被害者なら無かつた話である。

 家で折檻される子供が可愛さうと児童虐待防止法も作られた。不登校になつた子供が教師を批判するとその教師が処分された。

 いま回転ドアで大騒ぎしてゐるのも死んだのが子供だからである。ドイツでも似たやうな事故があつたさうだが、大きなニュースになつてゐない。

 テレビや新聞には子供用のニュースがあるが、どれも新聞の社説で扱ふやうな難しい大人の問題を子供に説明するものだ。

 子供を大切にするのはよい。しかし子供を大人扱ひしたり、子供を上座に座らせるやうなことはいかがなものかと思ふ。(2004年4月1日)








 裁判に国民の常識を反映させるために一般人を裁判に参加させる裁判員制度が導入されるといふ。しかし、この常識といふものはくせ者で、建前ばかりのマス コミの主張とは食ひ違ふことが多い。

 例へば、回転ドアで子供が死んだのは親の責任だとは口が裂けても言へず頻りにビル会社の責任を追求してゐるマスコミに対して、インターネットへの一般人 の書き込みの大勢は「親が悪い」である。

 もしこの常識が裁判に反映されるならば、警察がビル会社の管理責任を問ふて告発しても裁判では無罪になる勘定だ。

 一般人はマスコミのやうに被害者にやさしくはない。加害者に対するのと同じだけ被害者にも厳しい目を向ける。バランス感覚から言へば、被害者を神様のや うに扱ふマスコミよりも、一般人の方がはるかに優れてゐると言へる。

 検察官に対する目も同様で、今よりもはるかに厳密な立証責任が求められるだらう。さうなれば今よりずつと無罪判決が増えることになる。常識を導入すると はさういふことである。(2004年3月30日)







 このところ連日、新聞の一面トップ記事は子供を挟んだ回転ドアの話である。まるで飛行機が落ちたかのやうな騒ぎやうで、子供の葬式にまでおしかけてマス コミの馬鹿満開だ。

 子供がドアに挟まれたのはドアが悪いのかと言へばそんなはずはない。運が悪かつたのである。そしてどうしても誰かの責任にしたいのなら、充分な用心深さ を子供に教へておかなかつた親の責任だらう。

 それを一生懸命ドアが悪いと言つてゐるのがマスコミである。彼らは自分の言つてゐることの滑稽さが分からないのである。

 確かに、ドアの管理責任はあるだらう。しかし、たとへ何らかの手落ちがあつたとしても、それで誰もが命を落とすかと言へばそんなことはない。

 そして人間は何かの手落ちを犯すものだ。だから、この世の中は落とし穴で一杯であり、それをくぐり抜けていくのが人生といふものだ。それに失敗すればそ れは自分が悪いか運が悪いとあきらめるしかない。人を呪はば穴二つなのである。(2004年3月29日)







  消費税がやつと内税表示になる。これまでの外税方式は自分は結局いくら払うのか計算機を手に持つてゐない限りレジに行くまでわか らないといふ不便なものだつた。

 それがこれからは自分がいくら払うかよく分かるやうになつていい。どうせなら値札にはいくら払ふかだけを書いてくれたらいい。

 一部には消費税額はいくらですと別に表示しろといふ声があるが、そんな面倒なことはする必要がない。

 もともと税金はあらゆる商品に含まれてゐる。酒にもガソリンにも消費税以外の税金が含まれてゐるのだ。それを消費税分だけ書けといふのは合理的ではな い。

 もし酒の値札にこのうち酒税はいくらと書いてあつたら、あまりに高い税金を見て酒を飲む気もなくなるといふものだ。それと同じで将来欧米並に消費税が引 き上げられたときに、消費税分が別に書いてあれば買い物が楽しくなくなる。

 税金の使ひ道は別の機会に考へればよいことである。(2004年3月28日)







 テレビのニュースがうざい。なぜ娯楽番組の合間にニュースを流すのか。ニュースを強制してゐるのかと思ふ。特にニュース速報がうざい。いかりや長助が死 んだからどうだといふのだらう。関係ないじやないか。

 私がテレビでニュースを見るのは、唯一NHKのBSニュース50だけだ。この番組は扱ふニュースの一覧表を見せてくれる。私はそれを見て、見たいニュー スがあればそれだけを選んで見るのだ。

 ところが、ラジオやテレビの大抵のニュース番組は放送局が勝手に選んだニュースを勝手にどんどん読んでいく。だから聞きたくもないニュースを無理矢理聞 かされることになる。

 その典型がラジオのFM放送だ。好きな音楽を聴いて気持ちよくなつてゐるところへ、突然北朝鮮の拉致問題のニュースなどを流して不愉快な気分にさせられ るのである。

 そもそもニュースだからといつても、誰もが知つておくべきものばかりではないし、人の不幸ごとが主で不愉快なものが多い。そんなものは個人の名前も含め ていちいち相手にしては居られない。

 テレビがデジタル化すればもつと専門チャンネル化して、ニュースを流さないチャンネルを作つてほしいと思ふ。(2004年3月24日)








 NHKには昔から「こどもニュース」といふ番組がある。ところが最近のものは「子供向け大人のニュース」になつてゐる。

 大人のニュースはあくまで大人が興味をもつて取材して作つたニュースである。それをいくら子供向けに丁寧に説明しても、子供は興味のある振りをしたり分 かつた振りをするだけだらう。

 人間には物心が付く年頃といふものがあつて、それ以前の子供は厳密には社会に暮らしてゐる人間ではない。だから社会の出来事、特に政治的なことには興味 が持てないし、いくら説明しても分かりやうがない。

 私の経験からいへば、新聞の社説を理解できるやうになつたのはやつと高校を卒業した頃からである。だから小学生に社説が扱ふやうな大人の問題を考へさせ るのは無理がある。

 それは子供たちを大人の社会の争ひごとに巻き込むことでもあり健全なことではない。それはパレスティナの子供たちの不幸を見ても分かろうといふものだ。

 「こどもニュース」は子供が取材して子供が作る子供にとつて興味のあるニュースであるべきだと思ふ。(2004年3月24日)








 テロによつて中東和平を常に破壊してきたハマスの指導者ヤシンをイスラエルが殺害したことを、欧州諸国が批判してゐる。スペインのテロが自国に広がるこ と恐れて、テロリストのご機嫌取りに転じたのだらう。

 世界がヤシン殺害をいくら批判しようと、彼がイスラエルにとつて犯罪者以外の何者でもなかつたことは、彼がこれまでずつと身を隠してきたことから明らで ある。

 ではこの殺害によつてマスコミの言ふやうに戦闘が激化するだらうか。

 まづ、これを理由にパレスティナがイスラエルに宣戦布告することはあり得ない。戦争になればパレスティナは敗戦によつて消えてなくなつてしまふ。またパ レスティナ政府がテロを奨励することもあり得ない。
 
 一方ハマスがテロを拡大すれば、それは自分たちが暗殺者集団であることを益々公然化することであり、ヤシン殺害を正当化することになつてしまふ。
 
 だからテロがこれまで以上に拡大することもありえない。むしろ精神的な支柱を失つたテロリストたちには死ぬ意味が無くなつたしまつたので、テロ攻撃は収 束に向かふのではないか。(2004年3月23日)







 恋愛関係でもない女と幸ひにもセックスができた場合には、男はしつかりと相手の女にお礼をしなければいけない。それが合意であるなら尚更のこと、ちやん と便宜を図つてやることだ。

 それをただで済まさうなどと虫のいいことを考へてゐると後でレイプかセクハラで訴へられて、遙かに高い代償を支払はされるのが落ちである。

 訴へられた男は自業自得であるが、そんな裁判を担当させられる判事こそはいい迷惑である。

 寝たら仕事をもらへると思つて寝たのに何もしてもらへなくて訴へる女は、金目当てに寝たのに払つてもらへなかつた売春婦と何の違ひもない。

 だから、担当の裁判官は売春婦の取り立て代行をやらされるのと同じで、まつたく御苦労なことである。 

 もちろん上司とすぐ寝るやうな女は仕事には使へないから、男はそんな女にはその場でなにがしかの金を握らせて帰してしまふことである。そうすれば少なく とも後で訴へられる心配はないはずだ。(2004年3月21日)







 プライバシーの侵害は何をおいても防ぐべきだといふ裁判所の決定は、知る権利などと称してやりたい放題のマスコミに歯止めをかけるものとして 歓迎できる。

 実際ニュースといふニュースはプライバシーの侵害だらけである。一体ニュースの中で個人名を公表することにどれだけの公共性があるのか大いに疑問だ。

 事件の被害者の名前をいちいち一般人が知る必要のないことは明らかだが、容疑者の名前さへも国民の全員が知る必要があるとは思へない。

 マスコミに見せしめの刑を行ふ権利があるはずもないが、どうしてマスコミは容疑者の名前を公表したがるのだらうか。

 もちろん容疑者は犯罪者ではない。いや仮令ひ裁判によつて犯罪者であることが確定したとしても、マスコミに加害者の名前を公表する権利が生まれるとは思 へない。

 それは相変はらずプライバシーの侵害である。プライバシーは基本的人権であり、基本的人権は誰が有罪になつても変はることのない権利だからである。 (2004年3月19日)








 東京地裁の週刊文春最新号に対する出版差止め命令を私は高く評価したい。

 以前に柳美里の小説『石に泳ぐ魚』がプライバシーの侵害だとして最高裁判所によつて出版差止めになつたことがある。

 この小説はモデルにした人の身の上を勝手に公表したものだが、決してその人の名前まで暴露したわけではない。それでも裁判所によつてプライバシーの侵害 が認定されたのだから、今回の週刊誌による実名記事がプライバシーの侵害となるのは明らかである。

 そもそも小説といふ芸術表現にさへ表現の自由に制限が付くのであるから、興味本位の週刊誌の記事に制限が付くのは当たり前である。

 週刊誌側には、プライバシーの侵害になるやうなことでも一旦記事にしてしまえばこちらのもの。あとで裁判になつて負けても百万円程度の金で済むといつた 安易な考へ方があるのではないか。

 今回の決定はそのやうな考へ方にきつくお灸を据ゑたものと言へる。(2004年3月18日)






 日本ではしばしば談合が問題になるが、これは公共工事の入札に限つたことではない。日本人はどんな結果が出るか運を天に任すことを嫌ふ傾向が あつて、この傾向は物事を決定するあらゆる場面に現はれる。

 裁判ではいつもさうだが、それはオリンピックの出場選手の選考のやうな場合にも顕著に現はれる。

 我々日本人は、何とかして出したい結果を話し合ひによつて出すことの方を好むのである。だから、陪審制のようにどんな判決が出るか分からない裁判方法は 嫌はれるし、一発勝負の選考会のやうに間違つて誰が勝つてしまふか分からない方法はとらないのだ。

 もちろん下した判断については色んな説明がつけられる。それは成績であつたり過去の実績であつたりするが、それはその時々の方便にすぎない。

 今回の女子マラソンの選考について言ふなら、小出監督の「高橋を選ばないではいられないはず」といふ傲慢な発言によつて、選考委員の間で高橋は出したく ない選手になつてしまつてゐただけの話である。(2004年3月17日)






 「コルレオーネさま、娘をひどい目に会はせたあの男を罰していただきたいのです」「罰するとはどういふことかね」「あの男を首にして欲しいのでございま す」「それなら娘に市長あての手紙を書かせなさい。私はそのことを記事にするから」

 「どうだね。願ひ通りになつただらう」「はい、コルレオーネさま。でも、あの男を首にすることはお願ひしましたが、校長の命まで奪はなくてもよかつたの です。おかげで娘はショックを受けてをります。それに、これではかへつて娘が学校に行きづらくなつてしまひました」

 「大丈夫だ。こんどは娘さんが学校に行くことを、記事にして流してあげよう。これであの学校には娘さんをいぢめるやうな人間は現れないから」「ありがた うございす、コルレオーネさま。おかげで、娘も何とか学校に行けるやうになりました」

 「ところでお前はこのお礼としてわたしに何をしてくれるのかね」「一生あなたのしもべとしてお役に立たせていただきます、コルレオーネさま」(2004 年3月11日)








 世の中自分に甘く他人にきびしい人が多すぎるやうだ。しかし、わたしは「人にきびしいのなら自分にもきびしくあるべきだ」とは言はない。そんなことは不 可能なので「自分に甘いのなら他人にも甘くあるべきだ」といふ。

 そしてこんな社会が実現したらさぞ住みやすい社会だらうと思ふ。

 さうなれば「高校生が少しぐらい酒を飲んでもいいぢやないか、わたしも若い頃はさうだつたから」と言へるし、「国会議員が秘書の給料をピンハネしたつて いいぢやないか、警察だつて裏金作りをしてゐるのだから」と言へるやうになる。

 「法律を作つても警察官も国会議員も守れないのだから、ほかの誰も守れないのは当たり前だ」と考へて、法律はどんどん廃止すればよい。

 それではまじめな人が馬鹿を見ると言ふかも知れないが、まじめな人はそれで満足してゐるのだからそれでいいのである。それに、誰でも多少のいんちきはし てゐるし、人に迷惑をかけてゐるものだ。だからお互ひに許し合へばいいのである。

 この社会で一番困るのは新聞ぐらいのものだらう。だから新聞記者は自分に甘く他人にきびしいのである。(2004年3月10日)






 「生き馬の目を抜く」といふがマスコミはまさにそのやうにして人の失敗に群がり、しくじりを犯した人間を犯罪者に仕立ててもつと不幸にしようとする。

 いま京都の鳥業者と元衆議院議員がマスコミといふ名のハゲタカの餌食にされてゐる。両者ともに必死に抵抗してはゐるが、無駄な抵抗である。

 マスコミが人の不幸に群がる有り様は事件や事故があつた地点の上空に集まるヘリコプターの群れに象徴されてゐる。あの光景はまさにハゲタカそのものであ る。

 ヘリは一台でも上空を飛べばものすごい騒音だが、それが事件現場の上空には四五台飛ぶのであるから、下に住む人間の被害は計り知れない。しかし、マスコ ミはそんなことにはお構ひなしの図々しさである。

 だからマスコミの取材ヘリが墜落して関係者が死亡したといふニュースが流れても同情する人は少ない。むしろ天罰だと思ふ人の方が多いのは当然である。

 人の不幸に群がるこのやうなマスコミの金儲けの仕方は総会屋や暴力団と大差ないものだが、警察の手先となることで、彼らはちやつかり正義の仮面を被つて ゐるのである。(2004年3月8日)






 新聞の記事の最後に大学教授の意見をのせたりすることでよく分かるやうに、マスコミは非常に権威主義である。

 だから政府を批判するくせに政府が決めたことにはよく従ふ。最近マスコミでは「看護婦」といはずに「看護士」といふのもその一つだ。かう言ひ替へれば男 女平等になるといふわけだ。

 しかし「看護士」といへば男を思ひ浮べるのが普通で、いくら政府が決めてマスコミが右にならつたところでこの連想を変へることはできない。

 仮名遣ひもで同じで政府に言はれると、出版社は本人が旧かなで書いた文章さへも新かなに変へてしまつたりする。岩波文庫は文語文の旧かなも新かなに変へ てしまつた。

 古文の素養もない人間が岩波文庫に手を出すとは考へにくひのだが、いつたい岩波文庫は誰を読者に想定してゐるのだらうか。「学問のすすめ」が旧かなだか ら読めない人は新かなでも読めないだらうに。(2004年3月7日)






 「謝つても済まない」とはよく言はれることだが、実際謝ることによつて状況は改善するより悪くなることのはうが多いものだ。

 最近でも京都の鳥業者が謝罪会見をした途端に告発話が出てきたし、秘書給与詐取の代議士も辞職した途端に逮捕されてしまつた。ハンセン病患者を拒否した ホテルも謝罪した途端に県知事に告発された。

 自分の方の旗色が悪いと見て謝るのはよくないのである。

 相手は自分の考へが正しいかどうか実はよく分かつてゐないことが多い。ところが謝罪を受けるとこれは自分は間違つてゐないどころか相手が間違つていたの だと確信を持つてしまう。さうなると相手はこちらを許してくれるどころか図に乗つてこちらを遣つ付けようとして来るのだ。

 物事にはいろんな見方があつて、自分のとつた行動はそのうちの一つに基づいたものである。それを別の見方から批判されたら激しく反論しなければならな い。食ふか食はれるかのどちらかなのである。「迷惑をかけました」では済まないのだ。(2004年3月7日)






 『嵐が丘』の新訳が新潮文庫と岩波文庫から相次いで出たので、本屋でちよつと覗いてみたがどちらも大した物ではなささうだ。エミリー・ブロン テの英語は 難しいので阿部知二でも誤訳だらけなのは有名だが、第一章にも注目すべきところが二カ所ある。

 ロックウッドがヒースクリフの犬に吠えかかられたときのせりふを「焼き印を押してやる」云々と訳してゐるか。ロックウッドの帰り際にヒースクリフの口調 が変つたことを「助動詞や代名詞を省いたぞんざいな話し方をやめた」といふ風に訳してゐるかだ。これらは間違ひなのだが、二つの訳はどちらもさう訳してゐ る

 これは正しくはそれぞれ「指輪の跡をつけてやる」と「助動詞や代名詞を省略した単刀直入な話し方になつた」である。

 最初のは「signetを押す」で、辞書を引けばそれが指輪に付いてゐる印章であることは誰でも分る。二つめについては、ヒースクリフはそれまで助動詞 や代名詞を省いたしやべり方などしてゐないし、「助動詞や代名詞を省略した話し方」はむしろ親しさの表れで、ヒースクリフはそれまでの慇懃無礼な調子を改 めたのである。

 実はこれらは『嵐が丘』に受け継がれてゐる誤訳の伝統の一つで、翻訳者といふものは自分の頭で考へるよりは既存の訳を見ながら翻訳するものだといふこと を如実に物語る例である。

 二つの訳は最初からこれであるから後は推して知るべしである。(2004年3月7日)






 『たそがれ清兵衛』は主人公の娘がナレーションをする。岸恵子の声だが婆さん声で、主人公の娘が昔を振り返る設定であることが最初に分る。

 家庭第一のサラリーマン侍で世間体を気にせず人付き合ひの悪い男が、女のことでトラブルに巻込まれ、剣の腕の立つことが藩に知れてしまひ、藩主から反対 派の討伐を命じられるといふストーリーだ。

 しかし、娘の回想なので、このストーリーとは関係のない話がたくさん入つてくる。娘の躾(しつけ)の話とか仕来たりの話とか主人公のものの考え方とか当 時の世相を写した場面、そして結婚の話が入つてくる。すべてが実に淡々とした感じで描かれる。

 あくまで娘の視点から描いてゐるから、命令で決闘に行くと決まつても、まづ映るのは刀を研ぐシーンである。長々としたプロポーズのシーンが決闘の直前に 来るのもそのためだ。

 描写が日常性を離れることはなく、つねに主人公に対して間接的なスタンスをとつてゐる。さすがに決闘シーンは迫力があるが、そこでも娘の父親像から逸脱 することはない。

 決闘が終はつても藩に報告に行くのではなく家に帰つてくる。そこには新妻が待つてゐるのだ。あくまでロマンチックな女の視点である。だから最後にお待ち かねの岸恵子が出てきて、話が完結するのである。7点(2004年3月5日)






 明石家さんまは御巣鷹山に落ちた日航123便に乗る予定だつた一人で、乗らずに命拾ひしたことを運が良かつたと言ひ、偶然のせゐにしてそれで終はりであ る。

 一方、乗つて命を落とした人の遺族は運が悪かつたと偶然のせゐにして終はりにせず、原因となつた責任者を探さうとする。しかし、明石家さんまは乗らずに 済むやうにしてくれた人を探さうとはしないだらう。

 オーストリアのケーブルカー事故でも、運が悪かつたといふ裁判所に対して、百人以上も死んで偶然といふことがあるかと遺族も新聞も怒つてゐる。

 事故や事件で死んでも、老衰で死ぬのと同じやうにそれが寿命だと考へる人は少ない。不幸は誰かのせゐにしたいのが人情である。しかしその人に出会つたの も運なのだ。

 身内の不幸に誰が関つてゐようが運のせゐにしておくのが人の知恵ではないか。不幸の原因を究明するのはよい。しかし、人を憎み恨むのは何とか避けやうと するのが賢明ではないか。(2004年3月5日)






 最近は本は古本屋で買ふが、古本屋にない本はインターネットで買ふ。しかし、いつも使ふ店に在庫がなかつたので、品揃へのいい都会の本屋に車で買ひに行 くことにした。しかしそれが間違ひだつた。

 電話で在庫を聞いて取り除けてもらつたまではいい。何といつても都会に車で行くには駐車場が心配だ。都会では田舎と違つてスーパーも図書館も駐車料金を とるのだ。

 それで車は手前の駅の近くの百円ショップの無料駐車場に止めて電車で行くことにする。JRのスルーカードが残つてゐるからそれを使へばよい。百円ショッ プをちよつと覗いてから駅まで歩かう。

 ひさしぶりの大きな本屋だ。いろんな本をゆつくりと見てこよう。あの本はあるだらうかこの本はどうだらうかと想像しながら家を出る。

 ところが物事は思ひ通りには行かぬものである。目当ての百円ショップの近くまで来ると、その店がない。世の中は移り変はるものである。それなら近くの スーパーの無料駐車場だ、と行つてみたら「一時間まで無料」に変つてゐる。一時間ではとても帰つてこれない。
 
 とにかく本屋の近くまで行つてみよう。さう言へば、公民館のやうなところがあつたと思つて行つてみると既に車で一杯だ。こうなれば路上駐車しかない。店 のある駅前のビルの下で、すでに路駐してゐるトラックの後ろにハザードランプをつけて止めて、急いで目当ての五階へ。

 ところが物事は予想通りには行かぬものである。エレベータの方が早いと飛び乗つたものの、五階のボタンを押しても動かない。で、四階を押すと動いた。降 りるとゲームセンターだ。受付の女の子に本屋にはどう行くのと聞く。

 すると彼女は何と「ここには本屋はありません。向こうのビルに移りました」だと。「えー」である。あわててビルを降りて車に戻る。車は無事だ。それで五 百メーターほど先のビルの前まで行く。
 
 路駐してビルに入ると五階は百円ショップと書いてある。表示を見ると本屋は別館の五階だ。別館はどこだと外へ出ると、少し先にある。また車を動かして、 路駐のトラックの後ろに止めて店に飛び込んだ。ところがエレベータがない。聞くと業務用だけだと。

 仕方がない、エスカレータだ。ところが、これが一人分の幅しかないエスカレータで前の人を追ひ越せない。じりじりしながら五階にたどり着くと即店員に声 をかけて、頼んでおいた本を買う。

 とても本屋の中を見て回るどころではない。またじりじりしながら狭いエスカレータに乗つて一階へ。通りに出ると、車があつた。サイドミラーには何もぶら 下がつていない。やれやれと思ひ乗り込む。

 いつのまにか私の車の後ろには何台もの車が止つてゐる。中から歩道を見ると、同じ本屋の袋を下げた女性が歩いてくる。見てゐると私の後ろの車に乗り込ん だ。あの女は俺より後から来たのに、慣れたものである。しかし、私はもう二度とここに車では来ないだらう。それにしても、世の中は移り変はるものである。 (2004年3月5日)






 最近私は本が買ひたくなつたらまづ古本屋に行くやうになつた。車で行ける範囲にある五六軒の古本屋を順番に回るのである。

 これだけ古本屋ができればそちらを使ふのが当然だらう。読みたい本は新刊書であるとは限らないし、本は新しさより中身の方に価値があるからである。

 とくに文庫本は古本屋の方が品揃へがよかつたりする。また昔出たままのまつさらな文学全集が並んでゐたりもする。読みたいものをそこから選んでゐる限り 普通の本屋に行く必要がない。

 私のやうに考へてゐる人は多いに違ひない。だから、新刊を売る書店はどんどんつぶれてゐる。以前よく行つてゐた書店に久し振りに行つてみるともう無くな つてゐるといふことが少なくない。

 雑貨類も同じである。百円ショップへ行けば、とても百円とは思へないものが百円で売つてゐる。だから、何か入り用ができればまづ百円ショップにいく。

 百円ショップと古本屋のおかげで世の中は随分変化してゐる。(2004年3月5日)






 オウム真理教の教祖麻原に死刑の判決が出たが、宗教の教祖が死刑になるのはこれが初めてではない。そもそもキリストがさうだつた。当時も新聞があればキ リストは極悪人として描かれたに違ひない。

 オウムは殺人事件を起こしたが、宗教団体が人を殺すのも今に始まつたことではない。キリスト教が殺した人間の数はオウムの比ではない。

 死罪になつてもキリストの信者は増え続けたが、オウムの信者も増えてゐる。オウムが単なる犯罪者集団ならさうはならないはずだ。

 憲法にある信教の自由は、日本人が血を流して自分で獲得して憲法に書き込んだものではない。だから日本人はオウムを信仰するのも自由なのかととまどつて ゐる。

 しかし、現実に生きた力を持つ宗教は部外者には気味の悪いものだ。だからその信者は犯罪者と見なされ実際に犯罪者となる。それは大本教からイエスの箱船 から白装束軍団までずつと同じことだつた。

 新聞は自分を民主主義の旗頭のやうに言つてゐるが、その不寛容さは民主主義とは対極のものだ。だから新聞はいつも宗教弾圧の急先鋒となる。(2004年 2月29日)






 いま話題になつてゐる裁判員制度で気に入らないところは、わざわざ国民を呼んで判断させておきながら、それが最終判断とはならないことだ。どうせ控訴さ れて結局は裁判官が決めるのであれば、はじめからさうすればいいのである。

 この制度の趣旨である裁判に国民の常識を反映させるといふことがそもそもをかしい。裁判官にもつと常識的な判断をさせたければ、裁判官に社会経験を積ま せるなりすればいいだけで、国民がわざわざ仕事を休んで彼らの手助けに行く必要はない。

 本来、裁判員制度や陪審制といふものは、官僚ではなく主権者である国民に最終的な決定権があることを示すものであつて、民主主義の象徴となるものであ る。だからこそ、欧米先進国の市民は自国の陪審制や裁判員制度を誇りとするのだ。

 それに対していま言はれてゐる制度は国民を裁判に利用しようとするだけで、わが国の民主主義とは何の関係もない。そんなものに協力するのはご免である。 (2004年2月29日)






 人生がつらければ自殺しても仕方がないわけではないし、社会がつらければひきこもつても仕方がないわけではない。しかし、学校がつらければ不登校になつ ても仕方がないのか。

 昔はいじめに会つても教師がいやでも子供は学校には行くものだつた。ところが、最近は子供が不登校になつたら、その原因を取り除かなければならないとい ふ風になつてきてゐる。

 しかし、学校は人が一般社会に出る予行演習の場であるといふことにかはりはない。否でも応でも学校には行くものだ。それさへできないものが社会に出られ るはずがないからである。

 教師が批判されたからといつて、不登校が正しいかのやうに考へるのは間違ひである。社会に出ればいやな奴ばかりである。だからといつて、人生やめたとは いかないのだ。

 どんが原因があらうが不登校は間違つてゐるのであり、不登校を許す親は間違つてゐる。

 この原則を崩せばそれは本人にとつての不幸であるだけでなく、ゆくゆくは社会が立ち行かなくなつてしまふだらう。(2004年2月26日)






 法は人を不幸にしないための道具ではなく、社会の秩序を維持するための道具でしかない。ところが、それが分からない世論に押されて、人を不幸にしないた めの法律がつぎつぎに作られてゐる。

 最近のストーカー防止法はその際たる例である。この法律は警察官をボディーガードのやうに扱はうとしてゐる。しかし、警察が守るのは、その人に危害が及 んだら社会秩序がこわれてしまふやうな重要人物であつて、一人ゐなくなつても社会全体に何の影響もない一市民ではない。

 いくら命が大切だと言つても、男女関係のもつれによつて恨みをかつた女性全員の命を守るには警察官の数は少なすぎる。本来、法はそのようなことのために 存在するものではないからである。

 児童虐待についても同じことが言へる。法によつて親の過剰な折檻から子供を守ることは不可能である。それがあたかも出来るかのやうに言ふ政治家は気休め を言つてゐるのだ。人が不幸になることを法によつて防ぐことは出来ない。法は万能ではないのである。(2004年2月26日)





 日本産婦人科学会が着床前診断を行つた神戸の医師を除名にするといふが、マスコミは医師免許も取り上げてほしさうにしてゐる。しかし、わたし には神戸の 医師の言ふことの方がはるかに説得力がある。

 着床前診断は危険な妊娠中絶よりはるかに安全だといふ主張は、まさにそのとほりである。中絶は母体に重大な影響を与へ、悪くすると二度と子供が産めなく なる。それに対して学会やマスコミが主張する社会の総意とは何なのか。それは妊娠中絶を罪悪視しないといふ総意ではないのか。

 実際、先進諸国で日本ほど妊娠中絶に対して寛容な国はない。アメリカ人は中絶は殺人だと大騒ぎするのに、日本人は水子地蔵を作つておしまひなのだ。いつ たい、産婦人科医が生命の誕生だけでなく中絶といふ殺人にも関つてゐることを、この学会はどう考へてゐるのか。

 中絶に対して少しでも罪悪感があるなら、誰が神戸の医師を非難することができるだらう。医者が人殺しであることに疑問を持たない社会こそが間違つてゐる のである。(2004年2月23日)






 ローマ字入力、JISかな入力、親指シフトと色々やつてきたが、どれも間違ひなく打てるやうになつたものがない。

 親指シフトならキーを打つ回数が減つて楽かと思つてやつてみたが、一つの文字を親指のシフトキーと合わせて打つのは結局二つのキーを打つことであり、 ローマ字入力とたいして変らないことが分かつてきてやめた。

 JISかな入力の魅力はやはり一つの文字を一個のキーで打てることである。

 確かに、このかな入力でも小文字を打つときはシフトキーを使ふからそのときは二度打つ勘定になる。しかし、それは小文字のかなを使はずに済むやうにプロ グラムしてしまへば解決できる。

 それには、辞書を作り変へればよいのである。その手順はシステム辞書をいつたんテキストファイルにして、エディタで小文字を大文字に一括置換してから、 「かな入力用辞書」として新たなシステム辞書を作るのである。

 ほかに「。」「、」も「る」「ね」で単語登録して変換で入力する。このやうにして「かな入力」すればほぼシフトキーからおさらば出来る。(2004年2 月22日)






 日曜日の昼にやつてゐる『NHKのど自慢』はつまらないが、実はこの予選の放送があつて、この方はおもしろいので深夜にもかかはらずついつい見てしま う。

 予選では歌の名前の順番に人が次々と舞台に出てきて、自分の選んだ歌の最初の部分を歌ふのであるが、本当の一発勝負でこれこそ真の「のど自慢」だ。本番 と違つて名前のテロップが全員出るのも好感がもてる。

 出てくる人出てくる人は見事なまでにみんな下手であり、その下手な人たちが如何にも自分をうまいと思つてゐるやうに歌ふのが可笑しくてついつい見てしま うのである。

 誰もが精一杯に歌ふのだが、その精一杯が空回りして、音程を外したり、声が裏返つたり、歌詞を忘れたりしてゐるのがおもしろいのである。

 恋の歌をそれとはまつたく似つかわしくないおじさんおばさんが顔を紅潮させて虚空を見つめながら、不自然に声を作つて歌ふのがおもしろいのである。

 緊張してマイクを逆さにもつて歌はうとして、ディレクターに直される老人が愉快なのである。

 さうして一生懸命になつてゐるところへ横から「ありがとうございます」といふ女性の声がきて突然終りになるのがおもしろいのである。

 かういふことが延々二時間半続くのだが、けつして退屈することがない。

 そんなにおもしろい人たちの間にごく普通に歌ふおもしろくない人たちが少しだけ混じつてゐる。その人たちが選ばれて出るのが日曜日の本番なのであるか ら、なるほど本番はおもしろくないはずである。(2004年2月22日)






 天理の小学三年の女児の不登校問題はマスコミの力の恐ろしさをまざまざと見せつけた。マスコミが子供の肩を持つた報道をしなければ、校長の自殺がなかつ たことは確かだからである。

 担任の教師が何を言つたにしろ、世の中が小三の子供の感情によつて左右されてよいはずがない。この問題はこの子供を転校させて決着すべきであり、子供の 言ひ分が通つた形での決着は学校といふ組織の崩壊を意味する。追ひ詰められた校長が自殺を選んだのは、その意味で当然の結末といへる。

 そもそも担任の発言を「差別発言」と決めつけた報道の仕方が間違つてゐたのである。子供が登校許否になつたことがその証拠にならないことは明らかであ る。

 かくしてマスコミは人の不幸に食らひついて、小さな問題を大きな問題に変へ、不幸な人間の数を増やしたのである。担任が交代しようがどうしようが、憂ふ べきはマスコミの力で学校に勝つてしまつたこの少女の将来である。(2004年2月22日)






 郵便局が公社化して以前のやうな横柄な局員は確かに少なくなつた。客に対して「いらつしやいませ」とか「有り難うございました」とか言ふやうにはなつ た。しかし、規則を杓子定規に押し当てるやり方は相変はらずである。

 例えば最近郵便局でも本人確認をするようになつた。しかし、特定郵便局の古株職員なら多くの客と顔なじみになつてゐて、どの客がどこの誰であるかは顔を 見れば分かるはずだ。それにも関はらず、そんな常連客に対して、本人確認の書類を持つて来いと何度も足を運ばせるやうなことをする。

 特定郵便局といへば地域に密着したサービスが売り物のはずである。それなのに、客へのサービスより何より規則が大切だという役人じみた態度が捨てられな いのだ。

 勤務の長い職員ほど地域との豊かな人脈を持つてゐるはずだ。しかし、それを宝として生かせない給料が高いだけの職員は、民営化を控えたこれからは生き残 つていけないと覚悟すべきだらう。(2004年2月16日)






 かつて中世には異端審問官といふ者がゐて、キリスト教の正当な教義に反する者たちを情け容赦なく断罪したものだが、いま日本でその役割を担つてゐるのは 新聞記者である。

 彼らは法律や権威に反した人間は誰であらうと徹底的に批判する。一国の大統領や首相を批判するのと同じ舌鋒をもつて、彼らはバスや新幹線の名もなき運転 手さへも攻撃する。最近は一人の医者が学会という法王庁の教義に反した異端者として糾弾の嵐にさらされた。

 何の権力もなく反論する力もないごく普通の一般人が一度ばかりのルール違反のために全国の新聞社によつて袋叩きにされることの恐ろしさは想像に余りあ る。まさに中世の魔女裁判もかくやである。

 しかも、この異端審問官は大抵は匿名であり、新聞社という大きな要塞に守られて、人間の姿を失つた怪物となつてゐる。不寛容の権化と化した彼らがもし中 世にゐたなら、全員一致でガリレオを牢屋に送り込んだことは疑ひがない。(2004年2月8日)






 今日、古本屋にある翻訳書を探しに行つたら一軒目に下巻が100円で売つてゐるの見つけて早速購入した。上巻を探しに次の店に行くと、こちらも値段を見 ると100円となつてゐる。

 上下200円とは大儲けだと思つて、余裕が出来たのでほくほく顔でほかにも二冊(それぞれ95円)棚から探してレジに行つた。一人待つてから、その三冊 を女の子に渡すと、レジを打つて「462円です」と言ひながら本を袋に入れてテープを貼つた。

 ナニ! 「そんなにする?」と100円の値札が見落とされたのかと思つて言ふと、女は袋のテープをはがして中から私が100円だと思つた本をサッととり 出してきて、値札の所を見せて「これはよその店の値札です」だと。

 さうか。「さつきの店で上巻を100円で買つた奴がその本をこの店に売つたんだ」と、独りごちながら私は引き下がるしかない。後ろには客が並んでゐるの だ。

 しかし考へれば考へるほど不愉快だ。100円で買へたものを250円で買はされたのだ。250円だと分かつてゐればほかの二冊は買はなかつたのに。 100円の本は100円で売れよ。この店の本は何でよその店より高いんだ。買取り値段がよそよりいいのか(実はここは一番安いらしい)。

 それに、なぜ値札が付いたままなんだ。あれではまるで100円だと思はせて騙して買はせてゐるやうなもんぢやないか。確かに値札をよく見るとよその店の 名前が書いてある。しかし、そんなことは客の知つたことではない。それにもし店の名前が無かつたらどうするんだ。

 そもそも女はレジを打つときにその値札を見たから、その本をすぐにとり出せたのだ。つまり、気づいてゐたのである。それなら、レジを打つ前にどうして客 にそれを伝へないのか。それをあとから「あなたの見間違いだ」と、大勢の前で客に恥をかかせることはないはずだ。

 おかげで私は損をした気分で家路につくことになつてしまつた。あれでも気の利いた店員なら、そして美人の店員ならきつとあんな事にはならなかつたらう。 それにしても、よその古本屋の値札ぐらいちやんと外してから売れよ。古本市場!(2004年2月4日)






 イラクでテロがあつたと毎日のやうに報道されてゐる。しかし、イラクは日本より広いから、どこかでテロがあつたとしてもイラク全体が危険地帯 になるわけではない。

 日本の自衛隊が行くところはイラクの南の端で、日本で言へば九州の宮崎あたりに相当するだらうか。それに対してバグダッドは東京だらう。テロがよく起き る北部のモスルは、東北の仙台あたりになるだらうか。

 そして、もし日本の仙台や東京でテロがあつたとしてもそれで宮崎も危険だとは誰も言はないだらう。ところが、テレビの報道から受ける印象は逆である。

 最近、イラクの中央銀行が外国の銀行の参入を認めたといふニュースが流れたが、イラクで中央銀行が機能してゐるとは驚いた。また、テレビに映つたバグ ダッドはまるでイスタンブールのやうに賑はつてゐた。

 「自衛隊が戦地に」といふ文句をよく耳にするが、いつたいどこが戦地なのか。勝手なイメージが独り歩きしてゐるとしか思へない。(2004年2月2日)





 狂牛病と鳥インフルエンザによつて、海外の肉が日本に入つてこなくなつて外食産業は困つてゐるといふ。

 しかし、そんなことより今回の騒ぎで焼鳥屋や牛丼屋の肉は実は輸入肉だつたと分かつたことの方が重大だ。我々は焼鳥屋に行つてこれはタイのニワトリの肉 だなどとは夢にも思はず食べてきたからである。

 もちろん、ニュースなどで外国から色んな肉が入つてゐると聞いたことはあるが、いま自分の口に入つてゐる肉がさうだとは誰も言はなかつた。

 主婦がスーパーで肉を買ふときには、国産でしかもどこの県の肉であるかを厳しくチェックしてから買ふ。もし外国産の肉を国産と偽つていようものなら犯罪 扱ひである。

 それなのに、外食産業は我々の口に入るものに輸入肉を使つていたのだ。そしてそれを今回さも当然のごとくにおほやけにしたのだ。これほど消費者を馬鹿に した話はない。

 我々は外食産業に同情してゐる場合ではない。大いに怒るべきなのだ。(2004年2月1日)





 アメリカから牛肉を輸入出来ないために、牛丼のチェーン店が牛丼をやめるといふので大騒ぎだ。しかし、牛丼を食ひたければそば屋にでも行けば いい。牛丼は牛丼チェーン店の独占物ではないのだ。

 ならば、なぜ牛丼チェーン店は牛丼をやめるのか。それは、彼らはうまい牛丼を売りたいのではなくて、安い牛丼を売りたいからである。客のためにうまい牛 丼を売りたければ、国産の牛肉を使つて値上げしてでも売るだらう。そして、そんなにうまいものならそれでも売れるはずである。

 ところがそれができない。それは彼らがこれまで牛丼を金儲けのためだけに売つてゐた証拠である。そんな牛丼が無くなるからといつて、それを惜しんで食ひ に行く奴がゐるといふ。

 彼らは、事態を牛丼チェーン店の言い分そのままに報道した一部マスコミに踊らされてゐるのである。もう一度言ふ、牛丼はチェーン店の独占物ではない。そ れどころか、あれよりうまい牛丼はどこにでもある。(2004年2月1日)





 今日イラクへの自衛隊派遣に関する国会承認が特別委員会で可決されたが、それを多くのマスコミが「与党の強行採決」と伝へた。テレビ局の中で はNHKを 除いた民放が軒並み「強行採決」と報じ、新聞の中にも「強行採決」と書いたものがある。

 しかし、「強行採決」といふ言葉は野党の立場からみた言ひ方であり、野党の意見の表明でしかない。与党に言はせれば、自分たちは「強行」などしてゐな い。野党が採決を妨害したのだと言ふだらう。

 もともと多くのマスコミは野党的であることを常としてきたが、それは真実をゆがめて報道する結果につながりかねない。

 英国ではBBCがイラクの大量破壊兵器について英国政府による情報操作があつたと報道したが、その嘘が明らかになつて会長と社長が辞任したばかりであ る。反政府報道に行きすぎがあつたのだ。

 日本の多くのマスコミはこの事件を他山の石として、事実と意見の区別をしつかり付けるやうにすべきだらう。(2004年1月31日)






 最近、古今和歌集や万葉集を読んでゐるが、それらと比べると失礼ながら新聞の和歌の投稿はどれも下手の横好きにしか見えない。

 今年の歌会始にしても一般の部は何万といふ中から選ばれたものにしては、それほど感動させられるものはあまり無かつた。だから、新聞の和歌は一週間の間 に来たものから増しなものを選んで仕方なく掲載してゐるものだらうと想像する。

 もちろん勅撰集と比べるのはフェアではない。しかし、新聞の和歌は日常の何気ない感情の起伏を捉へて藤原定家の「みわたせば はなももみじもなかりけり」を焼き直して作つたやうなものばかりになつてゐる。

 どうして、古今や万葉の歌に見られるやうな言葉遊びや生き生きとした感情の発露が忘れられてしまつたのだらう。

 どうして、今年の歌会始の皇后陛下の歌のやうな楽しい、しかも感動させられる歌が一般から生まれてこないのだらう。

  和歌の欄は新聞の中で唯一歴史的かなづかひが使はれてゐる紙面である。

 しかし、歴史的かなづかひを捨てて過去の日本と断絶した日本人には和歌を作るのはそれだけ難しくなつてゐるといふことなのだらうか。(2004年1月 29日)





 「157キロの琴光喜を朝青龍が仰向けに持ち上げた瞬間、国技館に戦りつが走った」。今日の毎日新聞のスポーツ面である。

 この「戦りつ」といふ言葉は「戦慄」のことだらう。しかし、「慄」が常用漢字でないためにかういふ書き方をしたのである。

 ところで、この「戦りつ」の意味が分かるためには「戦慄」といふ熟語を知つてゐなければならない。逆に、この熟語を知らない者には、いくら「戦りつ」と かな混じりで書かれてもその意味は理解できないのだ。つまり、こんな書き方をしても読者には何の役にもたつてゐない。では、いつたい何のためにこんなこと をするのか。

 それはひとへに昔の文部省が決めた常用漢字表を守るためである。これがいかにくだらないものであるかを知つてゐても守るのである。かな交じりの熟語がい かにをかしいと思つていても守るのである。

 いつも政府の改革の遅れを批判する新聞がこの無意味な慣行をうち破れずにゐる。実に笑ふべきことである。(2004年1月21日)





 荒れる成人式が今年も問題になつてゐる。もちろん暴れる若者に非があるのは当然だ。しかし、さういふ人間を育てたのはどこの誰なのかを私は問 ひたいと思 ふ。成人式の会場にて来てゐる若者は、どこでもないまさにその町その市その県で教育を受けた若者たちだからである。

 といふことは、成人式で暴れる人間が出るとすれば、それはその町・市・県の教育が失敗だつたといふことではないのかといふことになる。少なくとも、その 地域でどういふ教育が行はれていたかが、成人式の場において白日の下にさらされると言つていいだらう。

 だから、成人式が荒れたとすれば、その責任は第一には暴れた若者本人にあるが、その次にはその地域の小中高の教師たちにあり、ひいてはその上司たる首長 にあると言へる。

 ところが、その首長の中に暴れた若者を警察に告訴すると言つているものがゐるといふ。

 成人式といふのは単に子供が大人になつたことを祝ふための式ではない。それはその地域の子供の教育の仕上げの式であるはずだ。告訴するといふ市長ははた してそんな心構へもつて式に臨んだかどうか。(2004年1月20日)






 交際をうまく終へられないからといつて警察に頼る女性がゐるが、そんなことをしてはいけない。

 交際を断わるだけですでに相手の人格を否定してゐる。その上に警察沙汰にして相手を犯罪者扱ひすることは、相手の社会的な存在までも否定することになつ てしまう。

 しかも自分が恋する相手の自分に対する評価は絶対だ。そこにはどんな逃げ道もない。つまり、それは男に死刑を宣告するに等しいのである。自分の全存在を 否定された男に残された唯一の道は、その原因となつた女性を殺して自分も死ぬ以外にない。

 犯罪はたいていの場合必然的であるが、これほど必然的なものはないのである。この犯罪は本人の意思ではもはや避けやうがない。

 ストーカー防止法は米国の禁酒法と似てゐる。この法律のせゐでかへつて被害者になる女性は増えるばかりだ。

 しかし、女性にはまだ自分の身を守る方法がある。それはこの法律を利用せず、第三者に頼らず、相手の気持が冷めるのを辛抱強く待つことである。 (2004年1月18日)






 芥川賞の発表があったが、インターネットの掲示板では受賞者に対するやっかみがすさまじい。ほかにこれ程一般から妬まれるものがあるとすれば、タレント の結婚ぐらいだろうか。

 この原因は、この賞に対するマスコミの必要以上の注目のほかに、芥川賞の対象が私小説で、これなら誰でも書けるという思いが一般にあるからだろう。誰も 自分の手に届かないものを妬まないからである。

 しかし、これは別の見方をすれば、誰でも小説の一つぐらいは書けると思えるくらいに一般人の国語力が向上したということである。これは現代仮名遣いと当 用漢字を採用した戦後の国語改革の成果の一つにちがいない。

 昔は一般人はそもそも字が書けなかったから、小説を書くなど思いもよらなかった。私の祖父の世代でさえも読み書きのできない人はざらにいた。とくに女性 はひどかったものだ。

 それが十代で一人前の女流作家が生まれる時代になったのである。戦後教育もあながち捨てたものではない。(2004年1月16日)





 小泉首相は自衛隊のイラク派遣について二分する世論を、幕末の開国と攘夷の対立にたとえながら自分の決断の正しさを訴えた。

 首相の立場は幕末でいえば井伊直弼であろうか。当時日本の開国を決断して外国と通商条約を結んだ井伊直弼は、それに対して執拗に反対する人たちを片っ端 から殺してしまった。安政の大獄である。

 それに比べたら今はいい時代になったもので、自衛隊のイラク派遣にいくら反対したところで殺される心配はない。自由にものが言えるということはありがた いことである。

 しかし最近、自衛隊の師団長が隊員の雪祭りに対する協力は義務ではないと言い、防衛庁の長官が武器輸出三原則の見直しを言うと、黙れと言う人たちがでて きた。

 自由にものが言えることを、自分にとって耳障りのよい意見だけに限定したがる人たちがいるのである。いつの時代でも権力を手にした者は自分の考えに反対 する者の口を塞ぎたい誘惑には勝てないのだろうか。(2004年1月16日)





 一月九日の産経抄は「ありがたくも日本の皇室はご一家なごやかな家庭を営まれ、世界とわが国の平安を祈って下さっている。静淑なる皇室こそ理 想の姿である」と書いた。

 しかし、静養中の雅子妃がその同じ日に「結婚以来、慣れない環境の中での大きなプレッシャーのもとで、心身の疲労が蓄積され」たために病気になったと思 うという談話を発表した。

 これは「なごやかな家庭」を営んでいる人の言葉ではない。表向きは静淑でも彼女の身体は異常を訴えていることを自ら認めた言葉である。

 結婚して十年も経つのにいまだに「慣れない環境」とか「大きなプレッシャーのもとで」という言葉が出てくること自体おかしなことだ。いまだに嫁ぎ先に慣 れないでいるのは幸福な結婚とは言えない。

 彼女には本音を語る相手がいないのではないか。今の女性は結婚しても実家と常に行き来するのが普通だ。少なくとも、雅子妃ももっと自由に里帰りできるよ うにすべきではないか。(2004年1月10日)






 静養している皇太子妃が現在の心境を発表したが、非常に心配な内容である。

 帯状疱疹で入院したことについて、「結婚以来、慣れない環境の中での大きなプレッシャーのもとで、心身の疲労が蓄積されていたことの結果」だと思うと書 き、その上に子供の養育の負担が重なって体調がすぐれないというのだ。

 これは「この結婚は失敗だった、子育てもうまくいっていない」と言っているように受け取られかねない内容である。嫁ぎ先の不満を言っているようにさえ聞 こえる。

 雅子妃が尋常でない状況に置かれていることは、自分の子供を宮の名前で呼んでいることからも充分に察せられる。

 しかし、病気は病気だろう。それをわざわざ結婚や子育てに関係させる必要はないはずだ。自分で選んだ道であるならなおさらである。

 ところが、あの気丈な女性がこんな弱音を吐いている。これはよほどの事があると考えるべきである。これはSOSのサインではないのか。もう限界だと言っ ているのではないのか。国民は彼女の言葉をもっと真剣に受け止めるべきだろう。そして、もし無理ならもう戻ってきていいよと彼女に言ってあげるべきではな いだろうか。(2004年1月10日)





 モンタネッリの『ルネサンスの歴史』(中公文庫)は読んで面白い歴史書である。基本は個人の伝記であるが、その中で歴史の大きな流れが読みと れるように なっている。

 伝記にはその人物の外見と性格的特徴が詳しく書いてある。それもかなりはっきりとちびはちびはげははげと書いてある。

 例えば、ミケランジェロは「友人を作らず、酒場や遊郭に通わず、女には目もくれず、汚れた服を着、髪はくしけずらず、めったに身体も洗わず、着のみ着の まま、長靴もはいたままで寝た」という具合であり、イグナチウス・ロヨラは「体格が貧弱だったせいもあって、肉欲にはあまり苦しまずに済んだ。彼は小柄で 痩せており、若禿で、黒く鋭い目を焼く熱で身を細らせているように見えた」となる。

 また、歴史上の重要な出来事も具体的に分かりやすく書かれているので世界史の動きが理解しやすい。

 例えば、宗教改革は教会の腐敗に対する批判から始まったが、その出発点がイギリスやドイツの王たちの教皇庁に対する寄付の出し惜しみであり、その本質は ルネサンス=異教文化の否定であったことを、筆者は鋭く描いてみせる。

 しかし、宗教改革の最大の成果は彼に言わせれば、個人の良心に目覚めたカルビニストだった。カルバン派の人たちは教育によって文字を学び聖書を自分で読 み、聖書の中に自分で指針を見つけようとした。彼らは各人が自分の行為の責任を直接神に負っていたのだ。

 さらに、ここから宗教的平等感と個人の責任に支えられた真の民主主義が生まれた。この泉から発しない民主主義はすべて模造品に過ぎず、最後までまがい物 の限界を脱することはできないとまでいう。

 だから、筆者にとって一番残念なことは宗教改革がイタリアで起こらなかったことだ。おかげでこの国には「個人の権利義務の意識がなく、それゆえ独裁的な 権力をふるっても抵抗がなかった。反宗教改革が勝ち誇る中で、イタリアはすべてに従順になり、ご無理ごもっともになり、何でも長いものには巻かれるように なった」と嘆くのである。

 彼はイタリア人だけに当然イタリアを見る目はきびしいようだ。

 しかし、この本で一番面白いのは、スキャンダラスなことが遠慮なく書いてあることだ。エラスムスは司祭の隠し子であり、イグナチウス・ロヨラはびっこに なったために信仰の道に進んだのであり、エリザベス女王は女性として肉体的に不完全であり、ラファエロは房事過多で早死にしたのである。また、ほとんどの ローマ教皇が神学には無知だったとも書いている。

 この本はこういう週刊誌的興味によって読者を何とか最後まで引っ張っていく。この歴史書に難点があるとすれば、それは記述の中心が個人の伝記であるため 時代が行ったり来たりすることと、日本人には馴染みのうすい教皇たちが次々と登場することだろうか。(2004年1月10日)






 朝日新聞は首相の靖国参拝を批判する1月4日の社説では、これで日本は国際社会で孤立するだの、6か国協議に水を差すだの、日韓の経済関係を損なうだの と、現実性に乏しい屁理屈を積み重ねて、あげくに自衛隊のイラク派遣にまで関連させようとした。

 しかし、この空想たくましい社説のなかで「中国や韓国が首相の靖国参拝を非難するのは、A級戦犯がまつられているからだ」ということだけは事実である。

 では、朝日はA級戦犯をどう扱うべきだというのだろう。B級戦犯やC級戦犯は許せるがA級戦犯だけは、永久に許すべきではないというのか。

 朝日は今日の社説で靖国とは別の追悼施設を早く作れといっている。しかし、別の施設にA級戦犯を含めるかどうかは書いていない。中国と韓国が批判するよ うなことは論外なのか。

 問題の本質は日本が今後A級戦犯をどう扱うべきかに尽きている。それを回避して別に施設を作っても何の意味もないのである。(2004年1月8日)






 欧米のニュースを見ていると、事件や事故の被害者や関係者が直接登場する場合以外に、単に名前だけが公表されるということはないことがわか る。

 ところが、日本のニュースには個人の名前がどんどん出てくる。火事でも交通事故でも誰かが死んだといっては名前が出てくる。飛行機が落ちたりしたら一覧 表で出てくる。そこには何の遠慮もない。

 最近日本では個人情報保護法というものが出来たそうだが、いったいどこで保護されているのだろうか。個人の情報が最も保護されるべきなのは報道に対して である。ところが相変らず何にも保護されていない。いったいこの法律は何のために作られたのかと思うほどである。

 そもそも報道によって我々が知りたいのはどこの誰が事件に遭ったかではなく、どんな事件があったかである。それが誰であるかは知る必要がないし、知って もどうしようもない。知人の事故を知るのに報道は必要ないのだ。

 実名報道はニュースが嘘でないことを証明するのには役立っているだろう。しかし、それは報道機関の都合でしかない。そんなことのために、個人の情報が利 用されてよいはずがない。

 報道機関は、本当に個人情報を尊重すべきだと思うのなら、実名報道は当事者か遺族の承認を得てから行なうべきである。(2004年1月4日)





 新聞の世論調査を見ていると面白いことがよくある。

 毎日新聞社は2001年に小泉首相の靖国参拝について「参拝してよい」と「すべきでない」に分けて聞いたところ69%対21%と、国民の7割もの人が首 相の靖国参拝に賛成しているという結果になった。

 しかし、この聞き方では「首相が参拝したければすればいいじゃないか」と思う人も『参拝してよい』に入れた可能性がある。そこで2003年の調査ではこ の年の首相の靖国参拝について「評価する」と「評価しない」に分けて聞いた。すると47%対43%となって「ほぼ二分され」るという結果がなったのであ る。

 しかし、この年の首相の参拝は1月であって終戦記念日ではなかった。だから、この聞き方だとそのことに不満を持つ人が「評価しない」に入れた可能性があ る。

 聞きたいのは要するに首相の靖国参拝はよいか悪いかなのだが、少し聞き方が違うだけでこんなに大きく数字が違ってしまった。つまり、世論調査の結果は聞 き方次第だということである。(2004年1月3日)






 小泉首相は、日本政府が仮に対米追従であったとしても対中追従ではないことを、靖国神社に参拝することによって示したと言える。

 イラクに対する自衛隊の派遣を対米追従であると批判する人たちは、首相の靖国参拝が対中追従でないことをどうして誉めないのだろう。彼らは外国に追従す るのはよくないと言っているのではないのか。それとも追従するのがアメリカなら悪いが中国なら悪くないと言っているのだろうか。

 確かに、政府は何をするにせよ他国に追従するのはよくないだろう。しかし、アメリカに追従するのはよくないが中国に追従するのはよいとすれば、その理由 は何だろうか。

 もちろん、彼らは首相が靖国参拝をやめることは対中追従ではないと言うだろう。それはアジアの平和に貢献することだとでも言うだろう。それなら政府はそ れと同様に、イラクに自衛隊を派遣することは対米追従ではなく中東の平和に貢献することだとすでに言っているではないか。(2004年1月3日)





 今日のNHKのニュースの中に「小泉総理大臣の靖国神社参拝が両国の間の懸案である状態が続いており」という表現が出てきたが、これはおかし い。

 首相の靖国参拝が両国間の懸案であるというのは中国側の意見でしかない。NHKは中国側の意見を事実として報道するのだろうか。

 また、仮にもしこれが日中両国の共通の認識であって、日本政府や外務省も中国と同じ様に考えているとすれば、今度は政府がそれと知りながら自分で懸案事 項を作り出していることになってしまう。

 確かに、政府の一部の人間はそう思っているかもしれないが、政府の代表者である首相がそう思っていないことをくり返し述べている。にもかかわらず、この ような表現をすることは首相の部下の意見を政府の意見として報道することになり不適当である。

 いずれにせよ、NHKの内部には事実はこのとおりだと思っている人間がいることは確かで、まったく自国の政府を馬鹿にした話である。(2004年1月2 日)





 中国の国民総所得が日本を追い越そうとしていることを大げさにいう人がいる。しかし、中国の人口は十四億もあるため、中国が経済大国になるこ とはありえ ない。

 中国の国民総所得が日本と同じであっても、一人あたりの国民所得はそれを十四億で割らなければならない。だから、日本と比べたら、中国人は全体として相 変わらず貧しいままである。

 中国の面積はアメリカと同じくらいなのに人口はアメリカの五倍もある。だから、中国がいくら経済的に発展しても一部の人間だけがいい思いをするだけで国 民みんなが豊かになることはない。

 貧富の差は益々開いていき不満が社会に充満してくるため、とても民主化する余裕はない。そんなことをすれば共産党は政権の座から追われてしまうからであ る。

 しかし、自由にものを言えない国民が自由な発想を前提とする資本主義の世界で高い地位を占めることはあり得ない。中国は今後も安い労働力によって海外の 資本家のために働く、世界の労働大国の地位に留まるしかないのである。(2004年1月1日)


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