徒然草 テキスト(ルビ付き)




*序段

つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、心に移りゆくよしなし事(ゴト)を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

*第一段

いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多(オホ)かンめれ。

御門(ミカド)の御位(オホンクラヰ)は、いともかしこし。竹の園生(ソノフ)の、末葉(スヱバ)まで人間の種(タネ)ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様はさらなり、たゞ人(ビト)も、舎人(トネリ)など賜はるきはは、ゆゝしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下(シモ)つかたは、ほどにつけつゝ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。

法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるゝよ」と清少納言(セイセウナゴン)が書けるも、げにさることぞかし。勢(イキホヒ)まうに、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖(ソウガヒジリ)の言ひけんやうに、名聞(ミャウモン)ぐるしく、仏の御教(ミオシヘ)にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人(ヨステビト)は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向(ムカ)はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才(ザエ)なく成りぬれば、品(シナ)下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。

ありたき事は、まことしき文(フミ)の道、作文(サクモン)・和歌(ワカ)・管絃(クワンゲン)の道。また、有職(イウショク)に公事(クジ)の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙(ツタナ)からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸(ゲコ)ならぬこそ、男(ヲノコ)はよけれ。

*第二段

いにしへのひじりの御代(ミヨ)の政(マツリゴト)をも忘れ、民の愁(ウレヘ)、国のそこなはるゝをも知らず、万(ヨロヅ)にきよらを尽していみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。

「衣冠(イクワン)より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ」とぞ、九条(クデウ)殿の遺誡(ユイカイ)にも侍(ハンベ)る。順徳院の、禁中(キンチュウ)の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉(タテマツ)り物は、おろそかなるをもッてよしとす」とこそ侍れ。

*第三段

万(ヨロヅ)にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵(サカヅキ)の当(ソコ)なき心地ぞすべき。

露霜(ツユシモ)にしほたれて、所定めずまどひ歩(アリ)き、親の諫(イサ)め、世の謗(ソシ)りをつゝむに心の暇(イトマ)なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。

さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

*第四段

後の世(ヨ)の事、心に忘れず、仏の道うとからぬ、心にくし。

*第五段

不幸(フカウ)に憂(ウレヘ)に沈める人の、頭(カシラ)おろしなどふつゝかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに、門(カド)さしこめて、待つこともなく明(アカ)し暮したる、さるかたにあらまほし。

顕基(アキモト)中納言の言ひけん、配所(ハイショ)の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。

*第六段

わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。

前中書王(サキノチユウシヨワウ)・九条太政大臣(クデウノオホキオトド)・花園(ハナゾノノ)左大臣、みな、族(ゾウ)絶えん事を願ひ給へり。染殿大臣(ソメドノノオトド)も、「子孫おはせぬぞよく侍(ハンベ)る。末のおくれ給へるは、わろき事なり」とぞ、世継の翁(オキナ)の物語には言へる。聖徳太子の、御墓(ミハカ)をかねて築(ツ)かせ給ひける時も、「こゝを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。

*第七段

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部(トリベ)山の煙(ケブリ)立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋(ハルアキ)を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ヒトトセ)を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(チトセ)を過(スグ)すとも、一夜(ヒトヨ)の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱(ハヂ)多し。長くとも、四十(ヨソヂ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(イ)で交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末(スヱ)を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

*第八段

世の人の心惑はす事、色欲(シキヨク)には如(シ)かず。人の心は愚かなるものかな。

匂(ニホ)ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳(イシヤウ)に薫物(タキモノ)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米(クメ)の仙人の、物洗ふ女の脛(ハギ)の白きを見て、通(ツウ)を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。

*第九段

女は、髪のめでたからんこそ、人の目立(メタ)つべかンめれ、人のほど・心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越しにも知らるれ。

ことにふれて、うちあるさまにも人の心を惑はし、すべて、女の、うちとけたる寝(イ)もねず、身を惜(ヲ)しとも思ひたらず、堪(タ)ふべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ、色を思ふがゆゑなり。

まことに、愛著(アイヂヤク)の道、その根深く、源(ミナモト)遠し。六塵(ロクヂン)の楽欲(ゲウヨク)多しといへども、みな厭離(オンリ)しつべし。その中に、たゞ、かの惑ひのひとつ止(ヤ)めがたきのみぞ、老いたるも、若きも、智(チ)あるも、愚かなるも、変る所なしと見ゆる。

されば、女の髪すぢを縒(ヨ)れる綱には、大象(ダイザウ)もよく繋(ツナ)がれ、女のはける足駄(アシダ)にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ伝へ侍る。自ら戒(イマシ)めて、恐るべく、慎むべきは、この惑(マド)ひなり。

*第十段

家居(イヘヰ)のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。

よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きらゝかならねど、木立(コダチ)もの古(フ)りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子(スノコ)・透垣(スイガイ)のたよりをかしく、うちある調度(テウド)も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。

多くの工(タクミ)の、心を尽(ツク)してみがきたて、唐(カラ)の、大和(ヤマト)の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽(センザイ)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間(マ)の烟(ケブリ)ともなりなんとぞ、うち見るより思はるゝ。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。

後徳大寺大臣(ゴトクダイジノオトド)の、寝殿(シンデン)に、鳶(トビ)ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心(ミココロ)さばかりにこそ」とて、その後(ノチ)は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮(アヤノコウヂノミヤ)の、おはします小坂(コサカ)殿の棟(ムネ)に、いつぞや縄を引かれたりしかば、かの例(タメシ)思ひ出でられ侍りしに、「まことや、烏(カラス)の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧(ゴラン)じかなしませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にも、いかなる故(ユヱ)か侍りけん。

*第十一段

神無月(カミナヅキ)のころ、栗栖野(クルスノ)といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入(イ)る事侍りしに、遥かなる苔(コケ)の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵(イホリ)あり。木の葉に埋(ウヅ)もるゝ懸樋(カケヒ)の雫(シヅク)ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(アカダナ)に菊・紅葉(モミヂ)など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。

かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子(カウジ)の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。

*第十二段

同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰(ナグサ)まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違(タガ)はざらんと向ひゐたらんは、たゞひとりある心地やせん。

たがひに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いさゝか違(タガ)ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など争ひ憎(ニク)み、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少し、かこつ方(カタ)も我と等しからざらん人は、大方のよしなし事言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔(ヘダ)たる所のありぬべきぞ、わびしきや。

*第十三段

ひとり、燈(トモシビ)のもとに文(フミ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。

文は、文選(モンゼン)のあはれなる巻(マキ)々、白氏文集(ハクシノモンジフ)、老子(ラウシ)のことば、南華(ナンクワ)の篇(ヘン)。この国の博士(ハカセ)どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。

*第十四段

和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしづ・山がつのしわざも、言ひ出(イ)でつればおもしろく、おそろしき猪(ヰ)のししも、「ふす猪の床(トコ)」と言へば、やさしくなりぬ。

この比(ゴロ)の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外(ホカ)に、あはれに、けしき覚ゆるはなし。貫之(ツラユキ)が、「糸による物ならなくに」といへるは、古今集(コキンシフ)の中の歌屑(ウタクヅ)とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、姿・ことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかく言いたてられたるも、知り難(ガタ)し。源氏物語には、「物とはなしに」とぞ書ける。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞいふなるは、まことに、少しくだけたる姿にもや見ゆらん。されど、この歌も、衆議判(シュギハン)の時、よろしきよし沙汰(サタ)ありて、後にも、ことさらに感じ、仰(オホ)せ下されけるよし、家長(イヘナガ)が日記には書けり。

歌の道のみいにしへに変らぬなどいふ事もあれど、いさや。今も詠(ヨ)みあへる同じ詞(コトバ)・歌枕も、昔の人の詠めるは、さらに、同じものにあらず、やすく、すなほにして、姿もきよげに、あはれも深く見ゆ。

梁塵秘抄(リヤウジンヒセウ)の郢曲(エイキヨク)の言葉こそ、また、あはれなる事は多かンめれ。昔の人は、たゞ、いかに言ひ捨てたることぐさも、みな、いみじく聞ゆるにや。

*第十五段

いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地(ココチ)すれ。

そのわたり、こゝ・かしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、いと目慣れぬ事のみぞ多かる。都へ便り求めて文やる、「その事、かの事、便宜(ビンギ)に忘るな」など言ひやるこそをかしけれ。

さやうの所にてこそ、万(ヨロヅ)に心づかひせらるれ。持てる調度(テウド)まで、よきはよく、能(ノウ)ある人、かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。

寺・社(ヤシロ)などに忍びて籠(コモ)りたるもをかし。

*第十六段

神楽(カグラ)こそ、なまめかしく、おもしろけれ。

おほかた、ものの音(ネ)には、笛・篳篥(ヒチリキ)。常に聞きたきは、琵琶(ビハ)・和琴(ワゴン)。

*第十七段

山寺にかきこもりて、仏に仕(ツカ)うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。

*第十八段

人は、己(オノ)れをつゞまやかにし、奢(オゴ)りを退(シリソ)けて、財(タカラ)を持たず、世を貪(ムサボ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀(マレ)なり。

唐土(モロコシ)に許由(キヨイウ)といひける人は、さらに、身にしたがへる貯(タクハ)へもなくて、水をも手して捧(ササ)げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝(エダ)に懸(カ)けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬(ムス)びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨(ソンシン)は、冬の月に衾(フスマ)なくて、藁一束(ワラヒトツカ)ありけるを、夕べにはこれに臥(フ)し、朝(アシタ)には収(ヲサ)めけり。

唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記(シル)し止(トド)めて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。

*第十九段

折節(ヲリフシ)の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。

「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあンめれ。鳥の声などもことの外(ホカ)に春めきて、のどやかなる日影に、墻根(カキネ)の草萌(モ)え出(イ)づるころより、やゝ春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折(ヲリ)しも、雨・風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万(ヨロズ)に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘(ハナタチバナ)は名にこそ負(オ)へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古(イニシヘ)の事も、立ちかへり恋(コヒ)しう思ひ出でらるゝ。山吹(ヤマブキ)の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。

「灌仏(クワンブツ)の比(コロ)、祭(マツリ)の比(コロ)、若葉の、梢(コズヱ)涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月(サツキ)、菖蒲(アヤメ)ふく比、早苗(サナヘ)とる比、水鶏(クヒナ)の叩(タタ)くなど、心ぼそからぬかは。六月(ミナヅキ)の比、あやしき家に夕顔(ユウガホ)の白く見えて、蚊遣火(カヤリビ)ふすぶるも、あはれなり。六月祓(ミナヅキバラヘ)、またをかし。

七夕(タナバタ)祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(ヨサム)になるほど、雁(カリ)鳴きてくる比、萩(ハギ)の下葉(シタバ)色づくほど、早稲田(ワサダ)刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分(ノワキ)の朝(アシタ)こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古(フ)りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破(ヤ)り捨(ス)つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。

さて、冬枯(フユガレ)のけしきこそ、秋にはをさをさ劣(オト)るまじけれ。汀(ミギハ)の草に紅葉(モミヂ)の散り止(トドマ)りて、霜いと白うおける朝(アシタ)、遣水(ヤリミヅ)より烟(ケブリ)の立つこそをかしけれ。年の暮れ果(ハ)てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日(ハツカ)余りの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名(オブツミヤウ)、荷前(ノサキ)の使(ツカヒ)立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事(クジ)ども繁(シゲ)く、春の急ぎにとり重ねて催(モヨホ)し行はるるさまぞ、いみじきや。追儺(ツヰナ)より四方拝(シホウハイ)に続くこそ面白(オモシロ)けれ。晦日(ツゴモリ)の夜(ヨ)、いたう闇(クラ)きに、松どもともして、夜半(ヨナカ)過ぐるまで、人の、門(カド)叩き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空に惑(マド)ふが、暁(アカツキ)がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡(ナ)き人のくる夜とて魂(タマ)祭るわざは、このごろ都にはなきを、東(アヅマ)のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。

かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路(オホチ)のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。

*第二十段

某(ナニガシ)とかやいひし世捨人(ヨステビト)の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。

*第二十一段

万(ヨロヅ)のことは、月見るにこそ、慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものはあらじ」と言ひしに、またひとり、「露(ツユ)こそなほあはれなれ」と争ひしこそ、をかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。

月・花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るゝ水のけしきこそ、時をも分かずめでたけれ。「沅(ゲン)・湘(シヤウ)、日夜(ニチヤ)、東(ヒンガシ)に流れ去る。愁人(シウジン)のために止まること少時(シバラク)もせず」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。嵆康(ケイカウ)も、「山沢(サンタク)に遊びて、魚鳥(ギヨテウ)を見れば、心楽しぶ」と言へり。人遠く、水草(ミヅクサ)清き所にさまよひありきたるばかり、心慰むことはあらじ。

*第二十二段

何事も、古き世のみぞ慕(シタ)はしき。今様(イマヤウ)は、無下(ムゲ)にいやしくこそなりゆくめれ。かの木(キ)の道の匠(タクミ)の造れる、うつくしき器物(ウツハモノ)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。

文(フミ)の詞(コトバ)などぞ、昔の反古(ホウゴ)どもはいみじき。たゞ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。古(イニシヘ)は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様(イマヤウ)の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数立(トノモレウニンジユタ)て」と言ふべきを、「たちあかししろくせよ」と言ひ、最勝講(サイシヤウカウ)の御聴聞所(ミチヤウモンジヨ)なるをば「御講(ゴカウ)の廬(ロ)」とこそ言ふを、「講廬(カウロ)」と言ふ。口をしとぞ、古き人は仰せられし。

*第二十三段

衰(オトロ)へたる末(スヱ)の世とはいへど、なほ、九重(ココノヘ)の神(カム)さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ。

露台(ロダイ)・朝餉(アサガレヒ)・何殿(ナニデン)・何門(ナニモン)などは、いみじとも聞ゆべし。あやしの所にもありぬべき小蔀(コジトミ)・小板敷(コイタジキ)・高遣戸(タカヤリド)なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣(ヂン)に夜(ヨ)の設(マウケ)せよ」と言ふこそいみじけれ。夜の御殿(オトド)のをば、「かいともしとうよ」など言ふ、まためでたし。上卿(シヤウケイ)の、陣にて事,行(オコナ)へるさまはさらなり、諸司(シヨシ)の下人(シモウド)どもの、したり顔に馴れたるも、をかし。さばかり寒き夜もすがら、こゝ・かしこに睡(ネブ)り居たるこそをかしけれ。「内侍所(ナイシドコロ)の御鈴(ミスズ)の音は、めでたく、優(イウ)なるものなり」とぞ、徳大寺太政大臣(トクダイジノオホキオトド)は仰(オホ)せられける。

*第二十四段

斎宮(サイグウ)の、野宮(ノノミヤ)におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。「経(キヤウ)」「仏(ホトケ)」など忌(イ)みて、「なかご」「染紙(ソメガミ)」など言ふなるもをかし。

すべて、神の社(ヤシロ)こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。もの古(フ)りたる森のけしきもたゞならぬに、玉垣(タマガキ)しわたして、榊(サカキ)に木綿(ユフ)懸(カ)けたるなど、いみじからぬかは。殊(コト)にをかしきは、伊勢・賀茂(カモ)・春日(カスガ)・平野・住吉(スミヨシ)・三輪(ミワ)・貴布禰(キブネ)・吉田・大原野(オホハラノ)・松尾(マツノヲ)・梅宮(ウメノミヤ)。

*第二十五段

飛鳥川(アスカガハ)の淵瀬(フチセ)常(ツネ)ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび、悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野(ノ)らとなり、変らぬ住家(スミカ)は人,改(アラタ)まりぬ。桃李(タウリ)もの言はねば、誰(タレ)とともにか昔を語らん。まして、見ぬ古(イニシヘ)のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。

京極殿(キヤウゴクドノ)・法成寺(ホフジヤウジ)など見るこそ、志(ココロザシ)留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂(ミダウ)殿の作り磨(ミガ)かせ給ひて、庄園(シヤウヱン)多く寄せられ、我(ワ)が御族(オホンゾウ)のみ、御門(ミカド)の御後見(オホンウシロミ)、世の固めにて、行末(ユクスヱ)までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門(ダイモン)・金堂(コンダウ)など近くまでありしかど、正和(シヤウワ)の比(コロ)、南門(ナンモン)は焼けぬ。金堂は、その後、倒(タフ)れ伏したるまゝにて、とり立つるわざもなし。無量寿院(ムリヤウジユヰン)ばかりぞ、その形(カタ)とて残りたる。丈六(ヂヤウロク)の仏,九体(クタイ)、いと尊(タフト)くて並びおはします。行成(カウゼイノ)大納言の額(ガク)、兼行(カネユキ)が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂(ホツケダウ)なども、未(イマ)だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎(イシズヱ)ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。

されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟(オキ)てんこそ、はかなかるべけれ。

*第二十六段

風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月(トシツキ)を思へば、あはれと聞きし言(コト)の葉(ハ)ごとに忘れぬものから、我が世の外(ホカ)になりゆくならひこそ、亡(ナ)き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。

されば、白き糸の染(ソ)まんことを悲しび、路(ミチ)のちまたの分れんことを嘆く人もありけんかし。堀川院(ホリカハノヰン)の百首の歌の中に、

昔見し妹(イモ)が墻根(カキネ)は荒れにけりつばなまじりの菫(スミレ)のみして

さびしきけしき、さる事侍りけん。

*第二十七段

御国譲(ミクニユヅ)りの節会(セチヱ)行はれて、剣・璽(ジ)・内侍所(ナイイシドコロ)渡し奉らるるほどこそ、限りなう心ぼそけれ。

新院(シンヰン)の、おりゐさせ給ひての春、詠(ヨ)ませ給ひけるとかや。

殿守(トノモリ)のとものみやつこよそにして掃(ハラ)はぬ庭に花ぞ散りしく

今の世のこと繁(シゲ)きにまぎれて、院には参る人もなきぞさびしげなる。かゝる折(ヲリ)にぞ、人の心もあらはれぬべき。

*第二十八段

諒闇(リヤウアン)の年ばかり、あはれなることはあらじ。

倚廬(イロ)の御所(ゴショ)のさまなど、板敷(イタジキ)を下げ、葦(アシ)の御簾(ミス)を掛けて、布の帽額(モカウ)あらあらしく、御調度(ミテウド)どもおろそかに、皆人(ミナヒト)の装束(シヤウゾク)・太刀(タチ)・平緒(ヒラオ)まで、異様(コトヤウ)なるぞゆゆしき。

*第二十九段

静かに思へば、万(ヨロヅ)に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。

ふ反古(ホウゴ)など破(ヤ)り棄(ス)つる中に、亡き人の手習(テナラ)ひ、絵かきすさびたる、見出(イ)でたるこそ、たゞ、その折(ヲリ)の心地すれ。このごろある人の文(フミ)だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手馴(テナ)れし具足なども、心もなくて、変らず、久しき、いとかなし。

*第三十段

人の亡き跡(アト)ばかり、悲しきはなし。

中陰(チユウイン=49日)のほど、山里などに移ろひて、便(ビン)あしく、狭(セバ)き所にあまたあひ居(ヰ)て、後のわざ(=法事)ども営(イトナ)み合へる、心あわたゝし。日数(ヒカズ)の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果(ハ)ての日は、いと情(ナサケ)なう、たがひに言ふ事もなく、我賢(カシコ)げに物ひきしたゝめ(=片付ける)、ちりぢりに行(ユ)きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌(イ)むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。

年月経(トシツキヘ)ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎(ウト)しと言へることなれば、さはいへど、その際(キハ)ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸(カラ)は気(ケ)うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣(マウ)でつゝ見れば、ほどなく、卒都婆(ソトバ)も苔(コケ)むし、木の葉降(フ)り埋(ウヅ)みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。

思ひ出でて偲(シノ)ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失(ウ)せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々(トシドシ)の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽(ムセ)びし松も千年(チトセ)を待たで薪(タキギ)に摧(クダ)かれ、古き墳(ツカ)は犂(ス)かれて田となりぬ。その形(カタ)だになくなりぬるぞ悲しき。

*第三十一段

雪のおもしろう降りたりし朝(アシタ)、人のがり言ふべき事ありて、文(フミ)をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事(カヘリコト)に、「この雪いかゞ見ると一筆(ヒトフデ)のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるゝ事、聞き入(イ)るべきかは。返(カヘ)す返(ガヘ)す口をしき御心(ミココロ)なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。

今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。

*第三十二段

九月廿日(ナガツキハツカ)の比、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思(オボ)し出(イ)づる所ありて、案内せさせて、入(イ)り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫uカヲ)りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。

よきほどにて出(イ)で給ひぬれど、なほ、事ざまの優(イウ)に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸(ツマド)をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕(アサユフ)の心づかひによるべし。

その人、ほどなく失(ウ)せにけりと聞き侍りし。

*第三十三段

今の内裏(ダイリ)作り出(イダ)されて、有職(イウシヨク)の人々に見せられけるに、いづくも難(ナン)なしとて、既(スデ)に遷幸(センカウ)の日近く成りけるに、玄輝門院(ゲンキモンヰン)の御覧じて、「閑院殿(カンヰンドノ)の櫛形(クシガタ)の穴は、丸(マロ)く、縁もなくてぞありし」と仰せられける、いみじかりけり。

これは、葉(エフ)の入りて、木にて縁をしたりければ、あやまりにて、なほされにけり。

*第三十四段

甲香(カヒカウ)は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし出でたる貝の蓋なり。

武蔵国金沢(カネサハ)といふ浦にありしを、所の者は、「へだなりと申し侍る」とぞ言ひし。

*第三十五段

手のわろき人の、はばからず、文(フミ)書き散(チ)らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし。

*第三十六段

「久しくおとづれぬ比(コロ)、いかばかり恨(ウラ)むらんと、我が怠(オコタ)り思ひ知られて、言葉(コトノハ)なき心地するに、女の方(カタ)より、『仕丁(ジチヤウ)やある。ひとり』など言ひおこせたるこそ、ありがたく、うれしけれ。さる心ざましたる人ぞよき」と人の申し侍(ハンベ)りし、さもあるべき事なり。

*第三十七段

朝夕(アサユフ)、隔(ヘダ)てなく馴れたる人の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさまに見ゆるこそ、「今更(イマサラ)、かくやは」など言ふ人もありぬべけれど、なほ、げにげにしく、よき人かなとぞ覚ゆる。

疎(ウト)き人の、うちとけたる事など言ひたる、また、よしと思ひつきぬべし。

*第三十八段

名利(ミヤウリ)に使はれて、閑(シヅ)かなる暇(イトマ)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。

財(タカラ)多ければ、身を守るにまどし。害を賈(カ)ひ、累(ワヅラヒ)ひを招く媒(ナカダチ)なり。身の後には、金(コガネ)をして北斗(ホクト)を支(ササ)ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉(キンギョク)の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金(コガネ)は山に棄(ス)て、玉(タマ)は淵(フチ)に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位(クラヰ)高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢(ア)へば、高き位に昇り、奢(オゴリ)を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賎しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏(ヒトヘ)に高き官(ツカサ)・位を望むも、次に愚かなり。

智恵(チヱ)と心とこそ、世にすぐれたる誉(ホマレ)も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり、誉(ホ)むる人、毀(ソシ)る人、共に世に止(トド)まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰(タレ)をか恥(ハ)ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉はまた毀りの本(モト)なり。身の後(ノチ)の名、残りて、さらに益(エキ)なし。これを願ふも、次に愚かなり。

但(タダ)し、強(シ)ひて智(チ)を求め、賢(ケン)を願ふ人のために言はば、智恵(チエ)出でては偽(イツワ)りあり。才能は煩悩(ボンナウ)の増長(ゾウチヤウ)せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可(カ)・不可(フカ)は一条(イチデウ)なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功(コウ)もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本(モト)より、賢愚(ケング)・得失(トクシツ)の境(サカヒ)にをらざればなり。

迷ひの心をもちて名利の要(エウ)を求むるに、かくの如し。万事は皆(ミナ)非(ヒ)なり。言ふに足らず、願ふに足らず。

*第三十九段

或人(アルヒト)、法然(ホフネン)上人に、「念仏の時、睡(ネブリ)にをかされて、行(ギヤウ)を怠り侍る事、いかゞして、この障(サハ)りを止(ヤ)め侍らん」と申しければ、「目の醒(サ)めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊(タフト)かりけり。

また、「往生(ワウジャウ)は、一定(イチヂヤウ)と思へば一定、不定(フヂヤウ)と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。

また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。

*第四十段

因幡国(イナバノクニ)に、何(ナニ)の入道(ニフダウ)とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、たゞ、栗(クリ)をのみ食ひて、更に、米(ヨネ)の類(タグヒ)を食はざりれば、「かゝる異様(コトヤウ)の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親許(ユル)さざりけり。

*第四十一段

五月五日(サツキイツカ)、賀茂(カモ)の競(クラ)べ馬を見侍りしに、車の前に雑人(ザフニン)立ち隔(ヘダ)てて見えざりしかば、おのおの下(オ)りて、埒(ラチ)のきはに寄りたれど、殊(コト)に人多く立ち込みて、分(ワ)け入りぬべきやうもなし。

かかる折に、向ひなる楝(アフチ)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡(ネブ)りて、落ちぬべき時に目を醒(サ)ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危(アヤフ)き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死(シヤウジ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候(サウラ)ひけれ。尤(モツト)も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「こゝに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。

かほどの理(コトワリ)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石(ボクセキ)にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。

*第四十二段

唐橋中将(カラハシノチユウジヤウ)といふ人の子に、行雅僧都(ギヤウガノソウヅ)とて、教相(ケウサウ)の人の師(シ)する僧ありけり。気(ケ)の上る病ありて、年のやうやう闌(タ)くる程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難(ガタ)かりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞(マヒ)の面(オモテ)のやうに見えけるが、たゞ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂(イタダキ)の方(カタ)につき、額のほど鼻になりなどして、後(ノチ)は、坊(ボウ)の内の人にも見えず籠(コモ)りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。

かゝる病もある事にこそありけれ。

*第四十三段

春の暮つかた、のどやかに艶(エン)なる空に、賎(イヤ)しからぬ家の、奥深く、木立(コダチ)もの古(フ)りて、庭に散り萎(シヲ)れたる花,見過(ミスグ)しがたきを、さし入(イ)りて見れば、南面(ミナミオモテ)の格子皆おろしてさびしげなるに、東(ヒガシ)に向きて妻戸(ツマド)のよきほどにあきたる、御簾(ミス)の破れより見れば、かたち清(キヨ)げなる男の、年廿(ハタチ)ばかりにて、うちとけたれど、心にくゝ、のどやかなるさまして、机の上に文(フミ)をくりひろげて見ゐたり。

いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。

*第四十四段

あやしの竹の編戸(アミド)の内より、いと若き男(ヲトコ)の、月影に色あひさだかならねど、つやゝかなる狩衣(カリギヌ)に濃き指貫(サシヌキ)、いとゆゑづきたるさまにて、さゝやかなる童(ワラハ)ひとりを具(グ)して、遥(ハルカ)かなる田の中の細道を、稲葉(イナバ)の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹き止(ヤ)みて、山のきはに惣門(ソウモン)のある内に入(イ)りぬ。榻(シヂ)に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止(トマ)る心地して、下人(シモウド)に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、御仏事(ゴブツジ)など候ふにや」と言ふ。

御堂(ミダウ)の方(カタ)に法師ども参りたり。夜寒(ヨサム)の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身に沁(シ)む心地す。寝殿より御堂の廊(ラウ)に通ふ女房の追風用意(オヒカゼヨウイ)など、人目なき山里ともいはず、心遣(ヅカ)ひしたり。

心のまゝに茂れる秋の野(ノ)らは、置き余る露に埋もれて、虫の音(ネ)かごとがましく、遣水(ヤリミヅ)の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来(ユキキ)も速き心地して、月の晴(ハ)れ曇(クモ)る事定め難し。

*第四十五段

公世(キンヨ)の二位のせうとに、良覚僧正(リヤウガクソウジヤウ)と聞えしは、極めて腹あしき人なりけり。

坊(ボウ)の傍(カタハラ)に、大きなる榎(エ)の木(キ)のありければ、人、「榎木(エノキノ)僧正」とぞ言ひける。この名然(シカ)るべからずとて、かの木を伐(キ)られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀(ホリイケノ)池僧正」とぞ言ひける。

*第四十六段

柳原(ヤナギハラ)の辺(ヘン)に、強盗(ゴウダウノ)法印と号(カウ)する僧ありけり。度々強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。

*第四十七段

或人(アルヒト)、清水(キヨミヅ)へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前(アマゴゼ)、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応(イラ)へもせず、なほ言ひ止(ヤ)まざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて「やゝ。鼻(ハナ)ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君(ヤシナヒギミ)の、比叡山(ヒエノヤマ)に児(チゴ)にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。

有り難き志(ココロザシ)なりけんかし。

*第四十八段

光親卿(ミチツカノキヤウ)、院の最勝講奉行(サイシヨウカウブギヨウ)してさぶらひけるを、御前(ゴゼン)へ召されて、供御(クゴ)を出だされて食はせられけり。さて、食ひ散らしたる衝重(ツイガサネ)を御簾(ミス)の中(ウチ)へさし入れて、罷(マカ)り出でにけり。女房、「あな汚(キタ)な。誰にとれとてか」など申し合(ア)はれければ、「有職(イウシヨク)の振舞、やんごとなき事なり」と、返々(カヘスガエス)感ぜさせ給ひけるとぞ。

*第四十九段

老来(オイキタ)りて、始めて道を行(ギヤウ)ぜんと待つことなかれ。古き墳(ツカ)、多くはこれ少年(セウネン)の人なり。はからざるに病を受けて、忽(タチマ)ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方(カタ)の誤(アヤマ)れる事は知らるなれ。誤りといふは、他(タ)の事にあらず、速(スミヤ)かにすべき事を緩(ユル)くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔(クヤ)しきなり。その時悔(ク)ゆとも、かひあらんや。

人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁(ニゴ)りも薄く、仏道を勤(ツト)むる心もまめやかならざらん。

「昔ありける聖(ヒジリ)は、人来りて自他(ジタ)の要事(エウジ)を言ふ時、答へて云はく、「今、火急(クワキフ)の事ありて、既(スデ)に朝夕(テウセキ)に逼(セマ)れり」とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生(ワウジヤウ)を遂(ト)げけり」と、禅林(ゼンリン)の十因(ジフイン)に侍り。心戒(シンカイ)といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、静かについゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。

*第五十段

応長(オウチヤウ)の比、伊勢国(イセノクニ)より、女の鬼に成りたるをゐて上(ノボ)りたりといふ事ありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京(キヤウ)・白川(シラカハ)の人、鬼見(オニミ)にとて出(イ)で惑(マド)ふ。「昨日は西園寺(サイヲンジ)に参(マヰ)りたりし」、「今日は院(ヰン)へ参るべし」、「たゞ今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(ソラゴト)と云う人もなし。上下(ジヤウゲ)、ただ鬼の事のみ言ひ止(ヤ)まず。

その比、東山(ヒガシヤマ)より安居院辺(アグヰヘン)へ罷(マカ)り侍りしに、四条(シデウ)よりかみさまの人、皆、北をさして走る。「一条室町(ムロマチ)に鬼あり」とのゝしり合へり。今出川(イマデガハ)の辺(ヘン)より見やれば、院の御桟敷(オンサジキ)のあたり、更に通り得べうもあらず、立ちこみたり。はやく、跡なき事にはあらざンめりとて、人を遣(ヤ)りて見するに、おほかた、逢(ア)へる者なし。暮るゝまでかく立ち騒ぎて、果(ハテ)は闘諍(トウジヤウ)起りて、あさましきことどもありけり。

その比、おしなべて、二三日(フツカミカ)、人のわづらふ事侍りしをぞ、かの、鬼の虚言(ソラゴト)は、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし。

*第五十一段

亀山殿(カメヤマドノ)の御池(ミイケ)に大井川の水を引(マカ)せられんとて、大井の土民(ドミン)に仰せて、水車(ミヅグルマ)を作らせられけり。多くの銭(アシ)を給ひて、数日(スジツ)に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻(オホカタメグ)らざりければ、とかく直しけれども、終(ツヒ)に廻らで、いたづらに立てりけり。

さて、宇治の里人(サトビト)を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結(ユ)ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るゝ事めでたかりけり。

万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。

*第五十二段

仁和寺(ニンナジ)にある法師、年寄るまで石清水(イハシミヅ)を拝(ヲガ)まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(カチ)より詣でけり。極楽寺・高良(カウラ)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

さて、かたへの人にあひて、「年比(トシゴロ)思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ホンイ)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

少しのことにも、先達(センダツ)はあらまほしき事なり。

*第五十三段

これも仁和寺の法師、童(ワラハ)の法師にならんとする名残(ナゴリ)とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔(ヱ)ひて興に入る余り、傍(カタハラ)なる足鼎(アシガナヘ)を取りて、頭(カシラ)に被(カヅ)きたれば、詰(ツマ)るやうにするを、鼻をおし平(ヒラ)めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座(マンザ)興に入る事限りなし。

しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせんと惑ひけり。とかくすれば、頚(クビ)の廻(マハ)り欠けて、血垂(タ)り、たゞ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へ難かりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(ミツアシ)なる角の上に帷子(カタビラ)をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる医師(クスシ)のがり率(ヰ)て行(ユ)きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様(コトヤウ)なりけめ。物を言ふも、くゞもり声に響きて聞えず。「かゝることは、文(フミ)にも見えず、伝へたる教へもなし」と言へば、また、仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母(ハワ)など、枕上(ガミ)に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。

かゝるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。たゞ、力を立てて引きに引き給へ」とて、藁(ワラ)のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頚もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。

*第五十四段

御室(オムロ)にいみじき児(チゴ)のありけるを、いかで誘ひ出(イダ)して遊ばんと企(タク)む法師どもありて、能(ノウ)あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子(ワリゴ)やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情(ハコフゼイ)の物にしたゝめ入れて、双(ナラビ)の岡の便(ビン)よき所に埋(ウヅ)み置きて、紅葉(モミヂ)散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそゝのかし出でにけり。

うれしと思ひて、こゝ・かしこ遊び廻りて、ありつる苔(コケ)のむしろに並(ナ)み居て、「いたうこそ困(コウ)じにたれ」、「あはれ、紅葉(モミジ)を焼(タ)かん人もがな」、「験(ゲン)あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木(コ)の下(モト)に向きて、数珠(ジユズ)おし摩(ス)り、印(イン)ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。埋(ウヅ)みける人を見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言(コト)の葉なくて、聞きにくゝいさかひ、腹立ちて帰りにけり。

あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。

*第五十五段

家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑(アツ)き比(コロ)わろき住居(スマヒ)は、堪へ難き事なり。

深き水は、涼(スズ)しげなし。浅くて流れたる、遥(ハル)かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸(ヤリド)は、蔀(シトミ)の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈(トモシビ)暗し。造作(ザウサク)は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万(ヨロヅ)の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。

*第五十六段

久しく隔(ヘダタ)りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、数々に残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程(ホド)経て見るは、恥づかしからぬかは。つぎざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日(ケフ)ありつる事とて、息も継ぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ、よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひのゝしる、いとらうがはし。をかしき事を言ひてもいたく興ぜぬと、興なき事を言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計(ハカ)られぬべき。

人の身ざまのよし・あし、才(ザエ)ある人はその事など定め合へるに、己(オノ)が身をひきかけて言ひ出(イ)でたる、いとわびし。

*第五十七段

人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意(ホイ)なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。

すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。

*第五十八段

「道心(ダウシン)あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世(ゴセ)を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死(シヤウジ)を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君(アサユウキミ)に仕へ、家を顧(カヘリ)みる営みのいさましからん。心は縁(エン)にひかれて移るものなれば、閑(シヅ)かならでは、道は行(ギヤウ)じ難し。

その器(ウツハモノ)、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓(ウヱ)を助け、嵐を防(フセ)くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪(ムサボ)るに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背(ソム)けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下(ムゲ)の事なり。さすがに、一度(ヒトタビ)、道に入りて世を厭(イト)はん人、たとひ望(ノゾミ)ありとも、勢(イキホヒ)ある人の貪欲(トンヨク)多きに似るべからず。紙の衾(フスマ)、麻の衣(コロモ)、一鉢(ヒトハチ)のまうけ、藜(アカザ)の羹(アツモノ)、いくばくか人の費(ツヒ)えをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪には疎く、善には近づく事のみぞ多き。

人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁(ノガ)れんことこそ、あらまほしけれ。偏(ヒト)へに貪る事をつとめて、菩提(ボダイ)に趣(オモム)かざらんは、万の畜類に変る所あるまじくや。

*第五十九段

大事(ダイジ)を思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意(ホンイ)を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰(サタ)しおきて」、「しかしかの事、人の嘲(アザケ)りやあらん。行末難(ユクスヱナン)なくしたゝめまうけて」、「年来(トシゴロ)もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒(サワ)がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期(イチゴ)は過ぐめる。

近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥(ハヂ)をも顧みず、財(タカラ)をも捨てて遁(ノガ)れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火(スヰクワ)の攻むるよりも速(スミヤ)かに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情(ナサケ)、捨て難しとて捨てざらんや。

*第六十段

真乗院(シンジヨウヰン)に、盛親僧都(ジヤウシンソウヅ)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭(イモガシラ)といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢(ハチ)にうづたかく盛りて、膝元に置きつゝ、食ひながら、文をも読みけり。患(ワヅラ)ふ事あるには、七日(ナヌカ)・二七日(フタナヌカ)など、療治(レウヂ)とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊(ボウ)ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋(ビキ)を芋頭の銭(アシ)と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏(トモ)しからず召しけるほどに、また、他用(コトヨウ)に用ゐることなくて、その銭(アシ)皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計(ハカ)らひける、まことに有り難き道心者(ジヤ)なり」とぞ、人申しける。

この僧都、或(アル)法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。

この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書(ノウジヨ)・学匠(ガクシヨウ)・辯舌(ベンゼツ)、人にすぐれて、宗の法燈(ホフトウ)なれば、寺中(ジチユウ)にも重く思はれたりけれども、世を軽(カロ)く思ひたる曲者(クセモノ)にて、万自由(ジイウ)にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕(シユツシ)して饗膳(キヤウゼン)などにつく時も、皆人の前据(ス)ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎(トキ)・非時(ヒジ)も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁(アカツキ)にも食ひて、睡(ネブ)たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜(イクヨ)も寝(イ)ねず、心を澄(ス)ましてうそぶきありきなど、尋常(ヨノツネ)ならぬさまなれども、人に厭(イト)はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。

*第六十一段

御産(ゴサン)の時、甑(コシキ)落す事は、定まれる事にあらず。御胞衣(オンエナ)とゞこほる時のまじなひなり。とゞこほらせ給はねば、この事なし。

下ざまより事起りて、させる本説(ホンゼツ)なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵(ホウザウ)の絵に、賎(イヤ)しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。

*第六十二段

延政門(エンセイモン)院、いときなくおはしましける時、院へ参る人に、御言(オンコト)つてとて申させ給ひける御歌、

ふたつ文字(モジ)、牛の角(ツノ)文字、直(ス)ぐな文字、歪(ユガ)み文字とぞ君は覚(オボ)ゆる

恋しく思ひ参らせ給ふとなり。

*第六十三段

後七日(ゴシチニチ)の阿闍梨(アザリ)、武者(ムシヤ)を集むる事、いつとかや、盗人(ヌスビト)にあひにけるより、宿直人(トノヰビト)とて、かくことことしくなりにけり。一年(ヒトトセ)の相(サウ)は、この修中(シユヂユウ)のありさまにこそ見ゆなれば、兵(ツハモノ)を用ゐん事、穏かならぬことなり。

*第六十四段

「車の五緒(イツツヲ)は、必ず人によらず、程につけて、極(キハ)むる官(ツカサ)・位(クラヰ)に至りぬれば、乗るものなり」とぞ、或人仰せられし。

*第六十五段

この比(ゴロ)の冠(カムリ)は、昔よりははるかに高くなりたるなり。古代の冠桶(カムリヲケ)を持ちたる人は、はたを継(ツ)ぎて、今用(モチ)ゐるなり。

*第六十六段

岡本関白殿(ヲカモトノクワンパクドノ)、盛りなる紅梅(コウバイ)の枝に、鳥一双(イツソウ)を添(ソ)へて、この枝に付けて参らすべきよし、御鷹飼(オンタカガヒ)、下毛野武勝(シモツケノノタケカツ)に仰せられたりけるに、「花に鳥付くる術(スベ)、知り候はず。一枝(ヒトエダ)に二つ付くる事も、存知(ゾンヂ)し候はず」と申しければ、膳部(ゼンブ)に尋ねられ、人々に問はせ給ひて、また、武勝に、「さらば、己(オノ)れが思はんやうに付けて参らせよ」と仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つを付けて参らせけり。

武勝が申し侍りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるとに付く。五葉(ゴエフ)などにも付く。枝の長さ七尺(シチシヤク)、或(アルヒ)は六尺(ロクシヤク)、返(カヘ)し刀五分(ガタナゴブ)に切る。枝の半(ナカバ)に鳥を付く。付くる枝、踏まする枝あり。しゞら藤の割らぬにて、二所(フタトコロ)付くべし。藤の先は、ひうち羽(バ)の長(タケ)に比べて切りて、牛の角のやうに撓(タワ)むべし。初雪の朝(アシタ)、枝を肩にかけて、中門(チユウモン)より振舞ひて参る。大砌(オホミギリ)の石を伝ひて、雪に跡をつけず、あまおほひの毛を少しかなぐり散らして、二棟の御所の高欄(カウラン)に寄せ掛く。禄(ロク)を出ださるれば、肩に掛けて、拝(ハイ)して退(シリゾ)く。初雪といへども、沓(クツ)のはなの隠れぬほどの雪には、参らず。あまおほひの毛を散らすことは、鷹はよわ腰を取る事なれば、御鷹(オンタカ)の取りたるよしなるべし」と申しき。

花に鳥付けずとは、いかなる故にかありけん。長月(ナガヅキ)ばかりに、梅の作り枝に雉(キジ)を付けて、「君がためにと折る花は時しも分(ワ)かぬ」と言へる事、伊勢物語に見えたり。造り花は苦しからぬにや。

*第六十七段

賀茂(カモ)の岩本(イハモト)・橋本(ハシモト)は、業平(ナリヒラ)・実方(サネカタ)なり。人の常に言ひ粉(マガ)へ侍れば、一年(ヒトトセ)参りたりしに、老いたる宮司(ミヤヅカサ)の過ぎしを呼び止(トド)めて、尋(タズ)ね侍りしに、「実方は、御手洗(ミタラシ)に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚(ヨシミヅノクワシヤウノ)の、

月をめで花を眺めしいにしへのやさしき人はこゝにありはら

と詠み給ひけるは、岩本の社(ヤシロ)とこそ承(ウケタマハ)り置き侍れど、己(オノ)れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ」と、いとやうやうしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。

今出川院近衛(イマデガハヰンノコノヱ)とて、集(シフ)どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前(ミマヘ)の水にて書きて、手向(タム)けられけり。まことにやんごとなき誉(ホマレ)れありて、人の口にある歌多し。作文(サクモン)・詞序(シジヨ)など、いみじく書く人なり。

*第六十八段

筑紫(ツクシ)に、なにがしの押領使(アフリヤウシ)などいふやうなる者のありけるが、土大根(ツチオホネ)を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづゝ焼きて食ひける事、年久(ヒサ)しくなりぬ。

或時(アルトキ)、館(タチ)の内に人もなかりける隙(ヒマ)をはかりて、敵襲(カタキオソ)ひ来りて、囲み攻めけるに、館の内に兵(ツハモノ)二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追ひ返してンげり。いと不思議に覚えて、「日比(ヒゴロ)こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来(トシゴロ)頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う」と言ひて、失(ウ)せにけり。

深く信(シン)を致(イタ)しぬれば、かゝる徳もありけるにこそ。

*第六十九段

書写(シヨシヤ)の上人(シヤウニン)は、法華読誦(ホツケドクジユ)の功(コウ)積りて、六根浄(ロクコンジヤウ)にかなへる人なりけり。旅の仮屋(カリヤ)に立ち入られけるに、豆の殻を焚(タ)きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎(ウト)からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛(カラ)き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるゝ豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるゝはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。

*第七十段

元応(ゲンオウ)の清暑堂(セイシヨダウ)の御遊(ギヨイウ)に、玄上(ゲンジヤウ)は失せにし比、菊亭大臣(キクテイノオトド)、牧馬(ボクバ)を弾(タン)じ給ひけるに、座に著(ツ)きて、先(マ)づ柱(ヂユウ)を探られたりければ、一つ落ちにけり。御懐(オンフトコロ)にそくひを持ち給ひたるにて付けられにければ、神供(ジング)の参る程によく干(ヒ)て、事故(コトユヱ)なかりけり。

いかなる意趣(イシユ)かありけん。物見ける衣被(キヌカヅキ)の、寄りて、放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。

*第七十一段

名を聞くより、やがて、面影(オモカゲ)は推(オ)し測(ハカ)らるゝ心地(ココチ)するを、見る時は、また、かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ、昔物語(ムカシモノガタリ)を聞きても、この比(ゴロ)の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覚ゆるにや。

また、如何なる折ぞ、たゞ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中(ウチ)に、かゝる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。

*第七十二段

賤(イヤ)しげなる物、居(ヰ)たるあたりに調度(テウド)の多き。硯(スズリ)に筆の多き。持仏堂(ジブツダウ)に仏の多き。前栽(センザイ)に石・草木の多き。家の内に子孫(コウマゴ)の多き。人にあひて詞(コトバ)の多き。願文(グワンモン)に作善(サゼン)多く書き載せたる。

多くて見苦しからぬは、文車(フグルマ)の文(フミ)。塵塚(チリヅカ)の塵。

*第七十三段

世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(ソラゴト)なり。

あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月(トシツキ)過ぎ、境(サカヒ)も隔(ヘダタ)りぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止(トド)めぬれば、やがて定まりぬ。道々の物の上手(ジヤウズ)のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起さず。音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。

かつあらはるゝをも顧(カヘリ)みず、口に任(マカ)せて言ひ散らすは、やがて、浮きたることと聞(キコ)ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしまゝに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐しき事なり。我がため面目(メンボク)あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興(キヨウ)ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮(セン)なくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとゞ定まりぬべし。

とにもかくにも、虚言多き世なり。たゞ、常にある、珍らしからぬ事のまゝに心得たらん、万違ふべからず。下(シモ)ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。

かくは言へど、仏神(ブツジン)の奇特(キドク)、権者(ゴンジヤ)の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗(セゾク)の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方(オホカタ)は、まことしくあひしらひて、偏(ヒトヘ)に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。

*第七十四段

蟻(アリ)の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走(ワシ)る人、高きあり、賤(イヤ)しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕(ユフベ)に寝(イ)ねて、朝(アシタ)に起く。いとなむ所何事ぞや。生(シヤウ)を貪(ムサボリ)り、利を求めて、止む時なし。

身を養ひて、何事をか待つ。期(ゴ)する処(トコロ)、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々(ネンネン)の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利(ミヤウリ)に溺(オボ)れて、先途(センド)の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住(ジヤウヂユウ)ならんことを思ひて、変化(ヘンゲ)の理(コトワリ)を知らねばなり。

*第七十五段

つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるゝ方なく、たゞひとりあるのみこそよけれ。

世に従へば、心、外(ホカ)の塵(チリ)に奪はれて惑ひ易く、人に交れば、言葉、よその聞きに随(シタガ)ひて、さながら、心にあらず。人に戯(タハブ)れ、物に争ひ、一度(ヒトタビ)は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別(フンベツ)みだりに起りて、得失(トクシツ)止む時なし。惑ひの上に酔(ヱ)へり。酔ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。

未(イマ)だ、まことの道を知らずとも、縁(エン)を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事(ニンジ)・伎能(ギノウ)・学問等の諸縁(シヨエン)を止めよ」とこそ、摩訶止観(マカシクワン)にも侍れ。

*第七十六段

世の覚え花(ハナ)やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師(ヒジリボウシ)の交じりて、言ひ入れ、たゝずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。

さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。

*第七十七段

世中(ヨノナカ)に、その比、人のもてあつかひぐさに言ひ合へる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、うけられね。ことに、片ほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、我が如く尋ね聞き、いかでかばかりは知りけんと覚ゆるまで、言ひ散らすめる。

*第七十八段

今様(イマヤウ)の事どもの珍しきを、言ひ広め、もてなすこそ、またうけられね。世にこと古りたるまで知らぬ人は、心にくし。

いまさらの人などのある時、こゝもとに言ひつけたることぐさ、物の名など、心得たるどち、片端(カタハシ)言ひ交し、目見合(メミア)はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世慣れず、よからぬ人の必ずある事なり。

*第七十九段

何事も入りたゝぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知り顔にやは言ふ。片田舎(カタヰナカ)よりさし出でたる人こそ、万の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあれど、自らもいみじと思へる気色、かたくななり。

よくわきまへたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ。

*第八十段

人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は、兵(ツハモノ)の道を立て、夷(エビス)は、弓ひく術(スベ)知らず、仏法(ブツポフ)知りたる気色(キソク)し、連歌(レンガ)し、管絃(クワンゲン)を嗜(タシナ)み合へり。されど、おろかなる己(オノ)れが道よりは、なほ、人に思ひ侮(アナヅ)られぬべし。

法師のみにもあらず、上達部(カンダチメ)・殿上人(テンジヤウビト)・上(カミ)ざままで、おしなべて、武(ブ)を好む人多かり。百度(モモタビ)戦ひて百度勝つとも、未(イマ)だ、武勇(ブユウ)の名を定め難し。その故は、運に乗じて敵を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵(ツハモノ)尽き、矢窮(キハマ)りて、つひに敵に降(クダ)らず、死をやすくして後(ノチ)、初めて名を顕(アラ)はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇(ホコ)るべからず。人倫(ジンリン)に遠く、禽獣(キンジウ)に近き振舞(フルマヒ)、その家にあらずは、好みて益(ヤク)なきことなり。

*第八十一段

屏風(ビヤウブ)・障子(シヤウジ)などの、絵も文字もかたくななる筆様(フデヤウ)して書きたるが、見にくきよりも、宿(ヤド)の主(アルジ)のつたなく覚ゆるなり。

大方、持てる調度(テウド)にても、心劣りせらるゝ事はありぬべし。さのみよき物を持つべしとにもあらず。損ぜざらんためとて、品(シナ)なく、見にくきさまにしなし、珍しからんとて、用なきことどもし添へ、わづらはしく好みなせるをいふなり。古めかしきやうにて、いたくことことしからず、つひえもなくて、物がらのよきがよきなり。

*第八十二段

「羅(ウスモノ)の表紙(ヘウシ)は、疾(ト)く損ずるがわびしき」と人の言ひしに、頓阿(トンナ)が、「羅は上下(カミシモ)はつれ、螺鈿(ラデン)の軸(ヂク)は貝落ちて後(ノチ)こそ、いみじけれ」と申し侍りしこそ、心まさりして覚えしか。一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしと言へど、弘融(コウユウ)僧都(ソウヅ)が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなき者のする事なり。不具(フグ)なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。

「すべて、何も皆、事のとゝのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏(ダイリ)造らるゝにも、必ず、作り果てぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。先賢(センケン)の作れる内外(ナイゲ)の文(フミ)にも、章段(シヤウダン)の欠(カ)けたる事のみこそ侍れ。

*第八十三段

竹林院入道左大臣殿(チクリンヰンノニフダウサダイジンドノ)、太政大臣に上(アガ)り給はんに、何の滞(トドコホ)りかおはせんなれども、「珍しげなし。一上(イチノカミ)にて止(ヤ)みなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿(トウヰンノサダイジンドノ)、この事を甘心(カンシン)し給ひて、相国(シヤウコク)の望みおはせざりけり。

「亢竜(カウリヨウ)の悔(クイ)あり」とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。万の事、先の詰まりたるは、破れに近き道なり。

*第八十四段

法顕三蔵(ホツケンサンザウ)の、天竺(テンヂク)に渡りて、故郷(フルサト)の扇(アフギ)を見ては悲しび、病に臥(フ)しては漢の食(ジキ)を願ひ給ひける事を聞きて、「さばかりの人の、無下(ムゲ)にこそ心弱き気色(ケシキ)を人の国にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、弘融僧都(コウユウソウヅ)、「優(イウ)に情ありける三蔵かな」と言ひたりしこそ、法師のやうにもあらず、心にくゝ覚えしか。

*第八十五段

人の心すなほならねば、偽(イツハ)りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直(シヤウヂキ)の人、などかなからん。己(オノ)れすなほならねど、人の賢(ケン)を見て羨(ウラヤ)むは、尋常(ヨノツネ)なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少(スコ)しきの利を受けず、偽(イツハ)り飾りて名を立てんとす」と謗(ソシ)る。己れが心に違(タガ)へるによりてこの嘲(アザケ)りをなすにて知りぬ、この人は、下愚(カグ)の性(セイ)移るべからず、偽りて小利(セウリ)をも辞(ジ)すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。

狂人の真似(マネ)とて大路(オホチ)を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(キ)を学ぶは驥の類(タグ)ひ、舜(シユン)を学ぶは舜の徒(トモガラ)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

*第八十六段

惟継(コレツグノ)中納言は、風月(フゲツ)の才(ザエ)に富める人なり。一生精進(イツシヤウシヤウジン)にて、読経(ドツキヤウ)うちして、寺法師(テラボフシ)の円伊僧正(ヱンインソウジヤウ)と同宿して侍りけるに、文保(ブンポウ)に三井寺(ミヰデラ)焼かれし時、坊主にあひて、「御坊(ゴボウ)をば寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ、今よりは法師とこそ申さめ」と言はれけり。いみじき秀句(シウク)なりけり。

*第八十七段

下部(シモベ)に酒飲まする事は、心すべきことなり。宇治(ウヂ)に住み侍りけるをのこ、京に、具覚房(グカクボウ)とて、なまめきたる遁世(トンゼイ)の僧を、こじうとなりければ、常に申し睦(ムツ)びけり。或時(アルトキ)、迎へに馬を遣(ツカハ)したりければ、「遥(ハル)かなるほどなり。口(クチ)づきのをのこに、先(マ)づ一度せさせよ」とて、酒を出だしたれば、さし受けさし受け、よゝと飲みぬ。

太刀(タチ)うち佩(ハ)きてかひがひしげなれば、頼(タノ)もしく覚えて、召(メ)し具(グ)して行くほどに、木幡(コハダ)のほどにて、奈良法師(ナラボフシ)の、兵士(ヒヤウジ)あまた具(ア)して逢ひたるに、この男立ち向ひて、「日暮れにたる山中(サンチユウ)に、怪しきぞ。止(トマ)り候へ」と言ひて、太刀を引き抜きければ、人も皆、太刀抜き、矢はげなどしけるを、具覚房、手を摺(ス)りて、「現(ウツ)し心なく酔(ヱ)ひたる者に候ふ。まげて許し給はらん」と言ひければ、おのおの嘲(アザケ)りて過ぎぬ。この男、具覚房にあひて、「御房(ゴバウ)は口惜しき事し給ひつるものかな。己れ酔ひたる事侍らず。高名(カウミヤウ)仕らんとするを、抜ける太刀空(ムナ)しくなし給ひつること」と怒りて、ひた斬りに斬り落としつ。

さて、「山だちあり」とのゝしりければ、里人(サトビト)おこりて出であへば、「我こそ山だちよ」と言ひて、走りかゝりつゝ斬り廻りけるを、あまたして手負(テオ)ほせ、打ち伏せて縛(シバ)りけり。馬は血つきて、宇治大路(ウヂノオホチ)の家に走り入りたり。あさましくて、をのこどもあまた走らかしたれば、具覚房はくちなし原にによひ伏したるを、求め出でて、舁(カ)きもて来つ。辛き命(イノチ)生きたれど、腰斬り損(ソン)ぜられて、かたはに成りにけり。

*第八十八段

或者(アルモノ)、小野道風(ヲノノタウフウ)の書ける和漢朗詠集(ワカンラウエイシフ)とて持ちたりけるを、ある人、「御相伝(ゴサウデン)、浮ける事には侍らじなれども、四条(シデウノ)大納言撰(エラ)ばれたる物を、道風書かん事、時代や違(タガ)ひ侍らん。覚束(オボツカ)なくこそ」と言ひければ、「さ候(サウラ)へばこそ、世にあり難(ガタ)き物には侍りけれ」とて、いよいよ秘蔵(ヒサウ)しけり。

*第八十九段

「奥山に、猫(ネコ)またといふものありて、人を食(クラ)ふなる」と人の言ひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経上(ヘアガ)りて、猫またに成りて、人とる事はあンなるものを」と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(ナニアミダブツ)とかや、連歌(レンガ)しける法師の、行願寺(ギヤウグワンジ)の辺にありけるが聞きて、独り歩(アリ)かん身は心すべきことにこそと思ひける比(コロ)しも、或所にて夜更(ヨフ)くるまで連歌して、たゞ独り帰りけるに、小川(コガハ)の端(ハタ)にて、音(オト)に聞きし猫また、あやまたず、足許(アシモト)へふと寄り来て、やがてかきつくまゝに、頚(クビ)のほどを食はんとす。肝心(キモゴコロ)も失せて、防(フセ)かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転(ころ)び入りて、「助けよや、猫またよやよや」と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こは如何(イカ)に」とて、川の中より抱(イダ)き起したれば、連歌の賭物(カケモノ)取りて、扇(アフギ)・小箱(コバコ)など懐(フトコロ)に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有(ケウ)にして助かりたるさまにて、這(ハ)ふ這ふ家に入りにけり。

飼ひける犬の、暗けれど、主(ヌシ)を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

*第九十段

大納言法印(ホフイン)の召使(メシツカ)ひし乙鶴丸(オトヅルマル)、やすら殿といふ者を知りて、常に行(ユ)き通(カヨ)ひしに、或時出でて帰り来たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがり罷(マカ)りて候ふ」と言ふ。「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問はれて、袖掻(ソデカ)き合せて、「いかゞ候ふらん。頭(カシラ)をば見候はず」と答へ申しき。

などか、頭(カシラ)ばかりの見えざりけん。

*第九十一段

赤舌日(シヤクゼツニチ)といふ事、陰陽道(オンヤウダウ)には沙汰(サタ)なき事なり。昔の人、これを忌(イ)まず。この比、何者(ナニモノ)の言ひ出でて忌み始めけるにか、この日ある事、末とほらずと言ひて、その日言ひたりしこと、したりしことかなはず、得たりし物は失(ウシナ)ひつ、企(クハタ)てたりし事成らずといふ、愚かなり。吉日(キチニチ)を撰びてなしたるわざの末とほらぬを数(カゾ)へて見んも、また等しかるべし。

その故は、無常変易(ムジヤウヘンエキ)の境(サカヒ)、ありと見るものも存ぜず。始めある事も終りなし。志(ココロザシ)は遂げず。望みは絶えず。人の心不定(フジヤウ)なり。物皆幻化(モノミナゲンゲ)なり。何事か暫(シバラ)くも住(ヂユウ)する。この理(コトワリ)を知らざるなり。「吉日(キチニチ)に悪をなすに、必ず凶なり。悪日(アクニチ)に善を行ふに、必ず吉なり」と言へり。吉凶(キツキヨウ)は、人によりて、日によらず。

*第九十二段

或人(アルヒト)、弓射(イ)る事を習ふに、諸矢(モロヤ)をたばさみて的に向(ムカ)ふ。師の云はく、「初心(シヨシン)の人、二つの矢を持つ事なかれ。後(ノチ)の矢を頼(タノ)みて、始めの矢に等閑(ナホザリ)の心あり。毎度(マイド)、たゞ、得失(トクシツ)なく、この一矢(ヒトヤ)に定(サダ)むべしと思へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠(ケダイ)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒(イマシ)め、万事(バンジ)にわたるべし。

道(ミチ)を学(ガク)する人、夕(ユウベ)には朝(アシタ)あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修(シユ)せんことを期(ゴ)す。況(イハ)んや、一刹那(セツナ)の中において、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直(タダ)ちにする事の甚(ハナハ)だ難(カタ)き。

*第九十三段

「牛を売る者あり。買ふ人、明日(アス)、その値(アタヒ)をやりて、牛を取らんといふ。夜(ヨ)の間(マ)に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。

これを聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主(ヌシ)、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生(シヤウ)あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金(マンキン)よりも重し。牛の値、鵝毛(ガモウ)よりも軽(カロ)し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人(ミナヒト)嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふ。

また云はく、「されば、人、死を憎まば、生(シヤウ)を愛すべし。存命(ゾンメイ)の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外(ホカ)の楽しびを求め、この財(タカラ)を忘れて、危(アヤフ)く他の財を貪るには、志(ココロザシ)満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨(ノゾ)みて死を恐れば、この理(コトワリ)あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死(シヤウジ)の相(サウ)にあづからずといはば、実(マコト)の理(コトワリ)を得たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲る。

*第九十四段

常磐井相国(トキハヰノシヤウコク)、出仕(シユツシ)し給ひけるに、勅書(チヨクシヨ)を持ちたる北面(ホクメン)あひ奉りて、馬より下りたりけるを、相国、後に、「北面某(ナニガシ)は、勅書を持ちながら下馬(ゲバ)し侍りし者なり。かほどの者、いかでか、君に仕うまつり候ふべき」と申されければ、北面を放たれにけり。

勅書を、馬の上ながら、捧(ササ)げて見せ奉るべし、下るべからずとぞ。

*第九十五段

「箱(ハコ)のくりかたに緒(ヲ)を付くる事、いづかたに付け侍るべきぞ」と、ある有職(イウシヨク)の人に尋ね申し侍りしかば、「軸(ヂク)に付け、表紙に付くる事、両説(リヤウセツ)なれば、いづれも難(ナン)なし。文(フミ)の箱は、多くは右に付く。手箱(テバコ)には、軸に付くるも常の事なり」と仰せられき。

*第九十六段

めなもみといふ草あり。くちばみに螫(サ)されたる人、かの草を揉(モ)みて付けぬれば、即ち癒(イ)ゆとなん。見知りて置くべし。

*第九十七段

その物に付きて、その物をつひやし損ふ物、数を知らずあり。身に蝨(シラミ)あり。家に鼠(ネズミ)あり。国に賊(ゾク)あり。小人(セウジン)に財(ザイ)あり。君子(クンシ)に仁義(ジンギ)あり。僧に法(ホフ)あり。

*第九十八段

尊(タフト)きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談(イチゴンハウダン)とかや名づけたる草子(サウシ)を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども。

一しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり。

一後世(ゴセ)を思はん者は、糂汰瓶(ジンダガメ)一つも持つまじきことなり。持経(ヂキヤウ)・本尊(ホンゾン)に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。

一遁世者(トンゼイジヤ)は、なきにことかけぬやうを計(ハカラ)ひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。

一上臈(ジヤウラフ)は下臈(ゲラフ)に成り、智者(チシヤ)は愚者(グシヤ)に成り、徳人(トクニン)は貧(ヒン)に成り、能ある人は無能に成るべきなり。

一仏道を願ふといふは、別の事なし。暇(イトマ)ある身になりて、世の事を心にかけぬを、第一の道とす。

この外もありし事ども、覚えず。

*第九十九段

堀川相国(ホリカハノシヤウコク)は、美男(ビナン)のたのしき人にて、そのこととなく過差(クワサ)を好み給ひけり。御子(オンコ)基俊卿(モトトシ)を大理(ダイリ)になして、庁務(チヤウム)行はれけるに、庁屋(チヨウヤ)の唐櫃(カラヒツ)見苦しとて、めでたく作り改めらるべき由(ヨシ)仰せられけるに、この唐櫃は、上古(シヤウコ)より伝はりて、その始めを知らず、数百年(スヒヤクネン)を経たり。累代(ルヰタイ)の公物(クモツ)、古弊(コヘイ)をもちて規模とす。たやすく改められ難き由、故実(コシツ)の諸官等申しければ、その事止みにけり。

*第百段

久我相国(コガノシヤウコク)は、殿上(テンジヤウ)にて水を召(メ)しけるに、主殿司(トノモヅカサ)、土器(カハラケ)を奉りければ、「まがりを参らせよ」とて、まがりしてぞ召しける。

*第百一段

或人(アルヒト)、任大臣(ニンダイジン)の節会(セチヱ)の内辨(ナイベン)を勤められけるに、内記(ナイキ)の持ちたる宣命(センミヤウ)を取らずして、堂上(タウシヤウ)せられにけり。極まりなき失礼(シチライ)なれども、立ち帰り取るべきにもあらず、思ひわづらはれけるに、六位外記康綱(ロクヰノゲキヤスツナ)、衣被(キヌカヅ)きの女房をかたらひて、かの宣命を持たせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり。

*第百二段

尹(インノ)大納言光忠卿(ミツタダノキヤウ)、追儺(ツヰナ)の上卿(シヤウケイ)を勤められけるに、洞院(トウヰンノ)右大臣殿に次第(シダイ)を申し請(ウ)けられければ、「又五郎男(マタゴラウヲノコ)を師とするより外(ホカ)の才覚(サイカク)候はじ」とぞのたまひける。かの又五郎は、老いたる衛士(ヱジ)の、よく公事(クジ)に慣れたる者にてぞありける。

近衛(コノヱ)殿著陣(チヤクヂン)し給ひける時、軾(ヒザツキ)を忘れて、外記(ゲキ)を召されければ、火たきて候ひけるが、「先づ、軾を召さるべくや候ふらん」と忍びやかに呟(ツブヤ)きける、いとをかしかりけり。

*第百三段

大覚寺殿(ダイカクジドノ)にて、近習(キンジユ)の人ども、なぞなぞを作りて解かれける処へ、医師忠守(クスシタダモリ)参りたりけるに、侍従(ジジユウ)大納言公明卿(キンアキラノキヤウ)、「我が朝(テウ)の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを、「唐医師(カライシ)」と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちて退(マカ)り出(イ)でにけり。

*第百四段

荒れたる宿の、人目(ヒトメ)なきに、女の、憚(ハバカ)る事ある比(コロ)にて、つれづれと籠(コモ)り居たるを、或人、とぶらひ給はんとて、夕月夜(ユフヅクヨ)のおぼつかなきほどに、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことことしくとがむれば、下衆女(ゲスヲンナ)の、出でて、「いづくよりぞ」と言ふに、やがて案内せさせて、入り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷(イタジキ)に暫(シバ)し立ち給へるを、もてしづめたるけはひの、若(ワカ)やかなるして、「こなた」と言ふ人あれば、たてあけ所狭(トコロセ)げなる遣戸(ヤリド)よりぞ入り給ひぬる。

内(ウチ)のさまは、いたくすさまじからず。心にくゝ、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄(ニハ)かにしもあらぬ匂ひいとなつかしう住みなしたり。「門(カド)よくさしてよ。雨もぞ降る、御車(ミクルマ)は門の下に、御供(オトモ)の人はそこそこに」と言へば、「今宵(コヨヒ)ぞ安き寝(イ)は寝(ヌ)べかンめる」とうちさゝめくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞(キコ)ゆ。

さて、このほどの事ども細やかに聞え給ふに、夜深(ヨブカ)き鳥も鳴きぬ。来(コ)し方・行末(ユクスヱ)かけてまめやかなる御(オン)物語に、この度(タビ)は鳥も花やかなる声にうちしきれば、明けはなるゝにやと聞き給へど、夜深く急ぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、隙(ヒマ)白くなれば、忘れ難き事など言ひて立ち出(イ)で給ふに、梢(コズヱ)も庭もめづらしく青み渡りたる卯月(ウヅキ)ばかりの曙(アケボノ)、艶(エン)にをかしかりしを思(オボ)し出でて、桂の木の大きなるが隠るゝまで、今も見送り給ふとぞ。

*第百五段

北の屋蔭(ヤカゲ)に消え残りたる雪の、いたう凍(コホ)りたるに、さし寄せたる車の轅(ナガエ)も、霜いたくきらめきて、有明(アリアケ)の月、さやかなれども、隈なくはあらぬに、人離れなる御堂(ミダウ)の廊(ラウ)に、なみなみにはあらずと見ゆる男(ヲトコ)、女(ヲンナ)となげしに尻かけて、物語するさまこそ、何事かあらん、尽(ツ)きすまじけれ。

かぶし・かたちなどいとよしと見えて、えもいはぬ匂ひのさと薫(カホ)りたるこそ、をかしけれ。けはひなど、はつれつれ聞こえたるも、ゆかし。

*第百六段

高野証空上人(カウヤノシヨウクウシヤウニン)、京へ上りけるに、細道(ホソミチ)にて、馬に乗りたる女の、行(ユ)きあひたりけるが、口曳(ヒ)きける男、あしく曳きて、聖(ヒジリ)の馬を堀へ落してンげり。

聖、いと腹悪(ハラア)しくとがめて、「こは希有(ケウ)の狼藉(ラウゼキ)かな。四部(シブ)の弟子はよな、比丘(ビク)よりは比丘尼(ビクニ)に劣り、比丘尼より優婆塞(ウバソク)は劣り、優婆塞より優婆夷(ウバイ)は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入(ケイ)れさする、未曾有(ミゾウ)の悪行(アクギヤウ)なり」と言はれければ、口曳きの男、「いかに仰せらるゝやらん、えこそ聞き知らね」と言ふに、上人、なほいきまきて、「何と言ふぞ、非修非学(ヒシュヒガク)の男」とあらゝかに言ひて、極まりなき放言(ハウゴン)しつと思ひける気色(ケシキ)にて、馬ひき返して逃げられにけり。

尊(タフト)かりけるいさかひなるべし。

*第百七段

「女の物言ひかけたる返事、とりあへず、よきほどにする男はありがたきものぞ」とて、亀山(カメヤマノ)院の御時、しれたる女房ども、若き男達(オノコタチ)の参らるる毎に、「郭公(ホトトギス)や聞き給へる」と問ひて心見(ココロミ)られけるに、某(ナニガシ)の大納言とかやは、「数ならぬ身は、え聞き候はず」と答へられけり。堀川(ホリカハノ)内大臣殿は、「岩倉(イハクラ)にて聞きて候ひしやらん」と仰せられたりけるを、「これは難(ナン)なし。数ならぬ身、むつかし」など定め合はれけり。

すべて、男(オノコ)をば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。「浄土寺前(ジヤウドジノサキノ)関白殿は、幼(ヲサナ)くて、安喜門(アンキモン)院のよく教へ参らせさせ給ひける故に、御詞(オンコトバ)などのよきぞ」と、人の仰せられけるとかや。山階(ヤマシナノ)左大臣殿は、「あやしの下女(シモヲンナ)の身奉るも、いと恥づかしく、心づかひせらるゝ」とこそ仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣文(エモン)も冠(カムリ)も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ。

かく人に恥ぢらるゝ女、如何(イカ)ばかりいみじきものぞと思ふに、女の性(シヤウ)は皆ひがめり。人我(ニンガ)の相(サウ)深く、貪欲甚(トンヨクハナハ)だしく、物の理(コトワリ)を知らず。たゞ、迷ひの方に心も速く移り、詞(コトバ)も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず。用意あるかと見れば、また、あさましき事まで問はず語りに言ひ出だす。深くたばかり飾れる事は、男の智恵にもまさりたるかと思へば、その事、跡(アト)より顕(アラ)はるゝを知らず。すなほならずして拙(ツタナ)きものは、女なり。その心に随(シタガ)ひてよく思はれん事は、心憂(ココロウ)かるべし。されば、何かは女の恥づかしからん。もし賢女(ケンジヨ)あらば、それもものうとく、すさまじかりなん。たゞ、迷ひを主(アルジ)としてかれに随ふ時、やさしくも、面白くも覚(オボ)ゆべき事なり。

*第百八段

寸陰惜(スンインヲ)しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽(イツセンカロ)しと言へども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人(アキビト)の、一銭を惜しむ心、切(セツ)なり。刹那(セツナ)覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終(ヲ)ふる期(ゴ)、忽(タチマ)ちに至る。

されば、道人(ダウニン)は、遠く日月(ニチグワツ)を惜しむべからず。たゞ今の一念(イチネン)、空(ムナ)しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日(ケフ)の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等(ワレラ)が生ける今日の日、何ぞ、その時節(ジセツ)に異ならん。一日のうちに、飲食(オンジキ)・便利(ベンリ)・睡眠(スイメン)・言語(ゴンゴ)・行歩(ギヤウブ)、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇幾(イトマイク)ばくならぬうちに、無益(ムヤク)の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟(シユヰ)して時を移すのみならず、日を消(セウ)し、月を亘(ワタ)りて、一生を送る、尤(モツト)も愚かなり。

謝霊運(シヤレイウン)は、法華(ホツケ)の筆受(ヒツジユ)なりしかども、心、常(ツネ)に風雲(フウウン)の思(オモヒ)を観(クワン)ぜしかば、恵遠(ヱヲン)、白蓮(ビヤクレン)の交(マジハ)りを許さざりき。暫(シバラ)くもこれなき時は、死人に同じ。光陰(クワウイン)何のためにか惜しむとならば、内(ウチ)に思慮なく、外(ホカ)に世事(セジ)なくして、止まん人は止み、修(シュ)せん人は修せよとなり。

*第百九段

高名(カウミヤウ)の木登りといひし男(ヲノコ)、人を掟(オキ)てて、高き木に登(ノボ)せて、梢(コズヱ)を切らせしに、いと危(アヤフ)く見えしほどは言ふ事もなくて、降るゝ時に、軒長(ノキタケ)ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍(ハンベ)りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何(イカ)にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候(サウラ)ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕(ツカマツ)る事に候ふ」と言ふ。

あやしき下臈(ゲラフ)なれども、聖人の戒(イマシ)めにかなへり。鞠(マリ)も、難(カタ)き所を蹴(ケ)出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

*第百十段

双六(スゴロク)の上手(ジヤウズ)といひし人に、その手立(テダテ)を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾(ト)く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目(ヒトメ)なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。

道を知れる教(ヲシヘ)、身を治(ヲサ)め、国を保(タモ)たん道も、またしかなり。

*第百十一段

「囲碁(ヰゴ)・双六(スグロク)好みて明かし暮らす人は、四重(シヂユウ)・五逆(ゴギヤク)にもまされる悪事とぞ思ふ」と、或ひじりの申しし事、耳に止(トド)まりて、いみじく覚え侍り。

*第百十二段

明日は遠き国へ赴(オモム)くべしと聞かん人に、心閑(シヅ)かになすべからんわざをば、人言ひかけてんや。俄(ニハ)かの大事をも営み、切(セツ)に歎(ナゲ)く事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁(ウレ)へ・喜びをも問はず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば、年もやうやう闌(タ)け、病にもまつはれ、況(イハ)んや世をも遁(ノガ)れたらん人、また、これに同じかるべし。

人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗(セゾク)の黙(モダ)し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(イトマ)もなく、一生は、雑事(ザフジ)の小節(セウセツ)にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗(ミチ)遠し。吾が生既に蹉蛇(サダ)たり。諸縁(シヨエン)を放下(ハウゲ)すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情(ナサケ)なしとも思へ。毀(ソシ)るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。

*第百十三段

四十(ヨソヂ)にも余りぬる人の、色めきたる方(カタ)、おのづから忍びてあらんは、いかゞはせん、言(コト)に打ち出でて、男・女の事、人の上(ウヘ)をも言ひ戯(タハブ)るゝこそ、にげなく、見苦しけれ。

大方、聞きにくゝ、見苦しき事、老人(オイビト)の、若き人に交りて、興(キヤウ)あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人(マラウト)に饗応(アルジ)せんときらめきたる。

*第百十四段

今出川(イマデガハ)の大殿(オホイトノ)、嵯峨(サガ)へおはしけるに、有栖川(アリスガハ)のわたりに、水の流れたる所にて、賽王丸(サイワウマル)、御牛(オンウシ)を追ひたりければ、あがきの水、前板(マヘイタ)までさゝとかゝりけるを、為則(タメノリ)、御車(ミクルマ)のしりに候ひけるが、「希有(ケウ)の童(ワラハ)かな。かゝる所にて御牛(オンウシ)をば追ふものか」と言ひたりければ、大殿、御気色(ミケシキ)悪(ア)しくなりて、「おのれ、車やらん事、賽王丸にまさりてえ知らじ。希有の男なり」とて、御車に頭(カシラ)を打ち当てられにけり。この高名(カウミヤウ)の賽王丸は、太秦殿(ウヅマサドノ)の男、料(レウ)の御牛飼(オンウシカヒ)ぞかし。

この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふばら、一人はおとうしと付けられけり。

*第百十五段

宿河原(シュクガハラ)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品(クホン)の念仏を申しけるに、外(ホカ)より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中(オンナカ)に、いろをし房(バウ)と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候ふ。かくのたまふは、誰(タ)そ」と答ふれば、「しら梵字(ボンジ)と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国(トウゴク)にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承(ウケタマハ)りしかば、その人に逢ひ奉(タテマツ)りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場(ダウヂヤウ)を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方(カタ)をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事(ブツジ)の妨(サマタ)げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫(ツラヌ)き合ひて、共に死ににけり。

ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執(ガシフ)深く、仏道を願ふに似て闘諍(トウジヤウ)を事(コト)とす。放逸(ハウイツ)・無慙(ムザン)の有様なれども、死を軽(カロ)くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍るなり。

*第百十六段

寺院の号(ガウ)、さらぬ万(ヨロヅ)の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり。この比(コロ)は、深く案じ、才覚(サイカク)をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益(エキ)なき事なり。

何事も、珍しき事を求め、異説(イセツ)を好むは、浅才(センザイ)の人の必ずある事なりとぞ。

*第百十七段

友とするに悪(ワロ)き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇(イサ)める兵(ツハモノ)。六つには、虚言(ソラゴト)する人。七つには、欲深き人。

よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師(クスシ)。三つには、智恵ある友。

*第百十八段

鯉(コヒ)の羹(アツモノ)食ひたる日は、鬢(ビン)そゝけずとなん。膠(ニカハ)にも作るものなれば、粘りたるものにこそ。

鯉ばかりこそ、御前(ゴゼン)にても切らるゝものなれば、やんごとなき魚(ウヲ)なり。鳥には雉(キジ)、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿(ミユドノ)の上に懸(カカ)りたるも苦しからず。その外は、心うき事なり。中宮の御方(オンカタ)の御湯殿の上の黒み棚(ダナ)に雁(カリ)の見えつるを、北山(キタヤマノ)入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて、御文(オンフミ)にて、「かやうのもの、さながら、その姿にて御棚(ミタナ)にゐて候ひし事、見慣はず、さまあしき事なり。はかばかしき人のさふらはぬ故にこそ」など申されたりけり。

*第百十九段

鎌倉の海に、鰹(カツヲ)と言ふ魚は、かの境(サカ)ひには、さうなきものにて、この比(ゴロ)もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄(トシヨリ)の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭(カシラ)は、下部(シモベ)も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。

かやうの物も、世の末(スヱ)になれば、上(カミ)ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。

*第百二十段

唐(カラ)の物は、薬(クスリ)の外は、みななくとも事欠くまじ。書(フミ)どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。唐土舟(モロコシブネ)の、たやすからぬ道に、無用(ムヨウ)の物どものみ取り積みて、所狭(トコロセ)く渡しもて来る、いと愚かなり。

「遠き物を宝とせず」とも、また、「得難(エガタ)き貨(タカラ)を貴(タフト)まず」とも、文(フミ)にも侍るとかや。

*第百二十一段

養ひ飼ふものには、馬・牛。繋(ツナ)ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかゞはせん。犬は、守り防(フセ)くつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家毎(イヘゴト)にあるものなれば、殊更(コトサラ)に求め飼はずともありなん。

その外の鳥・獣(ケダモノ)、すべて用なきものなり。走る獣(ケダモノ)は、檻(ヲリ)にこめ、鎖をさゝれ、飛ぶ鳥は、翅(ツバサ)を切り、籠(コ)に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁(ウレヘ)、止(ヤ)む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生(シヨウ)を苦しめて目を喜ばしむるは、桀(ケツ)・紂(チウ)が心なり。王(ワウ)子猷(シイウ)が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙(セウエウ)の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。

凡(オヨ)そ、「珍らしき禽(トリ)、あやしき獣、国に育(ヤシナ)はず」とこそ、文(フミ)にも侍るなれ。

*第百二十二段

人の才能(サイノウ)は、文(フミ)明らかにして、聖(ヒジリ)の教(ヲシヘ)を知れるを第一とす。次には、手書く事、むねとする事はなくとも、これを習ふべし。学問に便(タヨ)りあらんためなり。次に、医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝の務(ツトメ)も、医にあらずはあるべからず。次に、弓射(ユミイ)、馬に乗る事、六芸(リクゲイ)に出(イ)だせり。必ずこれをうかゞふべし。文(ブン)・武(ブ)・医(イ)の道、まことに、欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食(シヨク)は、人の天なり。よく味(アジ)はひを調(トトノ)へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工(サイク)、万(ヨロヅ)に要(エウ)多し。

この外の事ども、多能(タノウ)は君子の恥づる処なり。詩歌(シイカ)に巧(タク)みに、糸竹(シチク)に妙(タエ)なるは幽玄(イウゲン)の道、君臣(クンシン)これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸(ヤウヤ)くおろかになるに似(ニ)たり。金(コガネ)はすぐれたれども、鉄(クロガネ)の益(ヤク)多きに及(シ)かざるが如し。

*第百二十三段

無益(ムヤク)のことをなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事(ヒガコト)する人とも言ふべし。国のため、君のために、止むことを得ずして為すべき事多し。その余りの暇(イトマ)、幾(イク)ばくならず。思ふべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居(ヰ)る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。饑(ウ)ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑(シズ)かに過(スグ)すを楽しびとす。たゞし、人皆病(ヤマイ)あり。病に冒されぬれば、その愁(ウレヘ)忍び難し。医療(イレウ)を忘るべからず。薬を加へて、四(ヨ)つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富(ト)めりとす。この四つの外を求め営むを奢(オゴ)りとす。四つの事倹約(ケンヤク)ならば、誰(タレ)の人か足らずとせん。

*第百二十四段

是法(ゼホフ)法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠(ガクシヤウ)を立てず、たゞ、明暮(アケクレ)念仏して、安らかに世を過(スグ)す有様、いとあらまほし。

*第百二十五段

人におくれて、四十九日(シジフクニチ)の仏事(ブツジ)に、或(アル)聖を請(シヤウ)じ侍りしに、説法(セツポフ)いみじくして、皆人涙を流しけり。導師(ダウシ)帰りて後、聴聞(チヤウモン)の人ども、「いつよりも、殊(コト)に今日(ケフ)は尊(タフト)く覚え侍りつる」と感じ合へりし返事(カヘリコト)に、或者の云(イ)はく、「何とも候(サウラ)へ、あれほど唐(カラ)の狗(イヌ)に似候(ニサウラ)ひなん上は」と言ひたりしに、あはれもさめて、をかしかりけり。さる、導師の讃(ホ)めやうやはあるべき。

また、「人に酒勧(スス)むるとて、己れ先(マ)づたべて、人に強(シ)ひ奉らんとするは、剣にて人を斬らんとするに似たる事なり。二方(フタカタ)に刃(ハ)つきたるものなれば、もたぐる時、先づ我が頭(カシラ)を斬る故に、人をばえ斬らぬなり。己れ先づ酔(ヱ)ひて臥(フ)しなば、人はよも召さじ」と申しき。剣にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。

*第百二十六段

「ばくちの、負極(マケキハ)まりて、残りなく打ち入れんとせんにあひては、打つべからず。立ち返り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり」と、或者(アルモノ)申しき。

*第百二十七段

改めて益(ヤク)なき事は、改めぬをよしとするなり。

改めて益なき事は、改めぬを力(ヨリドコロ)とするなり。(正徹本)

改めて益なき事は、改めぬを心とするなり。(常縁本)

*第百二十八段

雅房(マサフサノ)大納言は、才(ザエ)賢く、よき人にて、大将にもなさばやと思(オボ)しける比、院の近習(キンジユ)なる人、「たゞ今、あさましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹(タカ)に飼はんとて、生きたる犬の足を斬り侍りつるを、中墻(ナカガキ)の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、憎く思(オボ)しめして、日来(ヒゴロ)の御気色(ミケシキ)も違(タガ)ひ、昇進(シヤウジン)もし給はざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言(ソラゴト)は不便(フビン)なれども、かゝる事を聞かせ給ひて、憎ませ給ひける君の御心(ミココロ)は、いと尊き事なり。

大方(オホカタ)、生ける物を殺し、傷(イタ)め、闘(タタカ)はしめて、遊び楽しまん人は、畜生残害(チクシヤウサンガイ)の類(タグイ)なり。万の鳥獣(トリケダモノ)、小さき虫までも、心をとめて有様(アリサマ)を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴(トモナ)ひ、嫉(ネタ)み、怒り、欲多く、身を愛し、命(イノチ)を惜しめること、偏(ヒト)へに愚痴(グチ)なる故に、人よりもまさりて甚(ハナハ)だし。彼に苦しみを与へ、命を奪(ウバ)はん事、いかでかいたましからざらん。

すべて、一切(イツサイ)の有情(ウジヤウ)を見て、慈悲(ジヒ)の心なからんは、人倫(ジンリン)にあらず。

*第百二十九段

顔回(グワンカイ)は、志(ココロザシ)、人に労(ラウ)を施(ホドコ)さじとなり。すべて、人を苦しめ、物を虐(シヘタ)ぐる事、賤しき民の志をも奪ふべからず。また、いときなき子を賺(スカ)し、威(オド)し、言ひ恥(ハヅ)かしめて、興ずる事あり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身に沁(シ)みて、恐ろしく、恥かしく、あさましき思ひ、まことに切(セツ)なるべし。これを悩まして興ずる事、慈悲(ジヒ)の心にあらず。おとなしき人の、喜び、怒り、哀しび、楽しぶも、皆虚妄(コマウ)なれども、誰(タレ)か実有(ジツウ)の相(サウ)に著(ヂヤク)せざる。

身をやぶるよりも、心を傷(イタ)ましむるは、人を害(ソコナ)ふ事なほ甚(ハナハ)だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少し。薬を飲みて汗を求むるには、験(シルシ)なきことあれども、一旦恥ぢ、恐るゝことあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲(リヨウウン)の額(ガク)を書きて白頭(ハクトウ)の人と成りし例(タメシ)、なきにあらず。

*第百三十段

物に争はず、己れを枉(マ)げて人に従ひ、我が身を後(ノチ)にして、人を先にするには及(シ)かず。

万(ヨロヅ)の遊びにも、勝負(カチマケ)を好む人は、勝ちて興(キョウ)あらんためなり。己れが芸のまさりたる事を喜ぶ。されば、負けて興なく覚(オボ)ゆべき事、また知られたり。我負けて人を喜ばしめんと思はば、更(サラ)に遊びの興なかるべし。人に本意(ホイ)なく思はせて我が心を慰めん事、徳に背(ソム)けり。睦(ムツマ)しき中に戯(タハブ)るゝも、人に計(ハカ)り欺(アザム)きて、己れが智(チ)のまさりたる事を興とす。これまた、礼にあらず。されば、始め興宴(キヨウエン)より起りて、長き恨みを結ぶ類(タグイ)多し。これみな、争ひを好む失(シツ)なり。

人にまさらん事を思はば、たゞ学問して、その智を人に増さんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐(ホコ)らず、輩(トモガラ)に争ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、たゞ、学問の力なり。

*第百三十一段

貧しき者は、財(タカラ)をもッて礼とし、老いたる者は、力をもッて礼とす。己(オノ)が分(ブン)を知りて、及ばざる時は速(スミヤ)かに止(ヤ)むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強(シ)ひて励むは、己れが誤りなり。

貧しくして分を知らざれば盗(ヌス)み、力衰へて分を知らざれば病(ヤマヒ)を受く。

*第百三十二段

鳥羽(トバ)の作道(ツクリミチ)は、鳥羽殿建てられて後の号(ナ)にはあらず。昔よりの名なり。元良親王(モトヨシノシンノウ)、元日(グワンニチ)の奏賀(ソウガ)の声、甚だ殊勝(シユシヨウ)にして、大極殿(ダイコクデン)より鳥羽の作道まで聞えけるよし、李部(リホウ)王(ワウ)の記に侍るとかや。

*第百三十三段

夜の御殿(オトド)は、東御枕(ミマクラ)なり。大方(オホカタ)、東を枕として陽気(ヤウキ)を受くべき故に、孔子も東首(トウシユ)し給へり。寝殿(シンデン)のしつらひ、或(アルヒ)は南枕、常(ツネ)の事なり。白河(シラカハノ)院は、北首(ホクシユ)に御寝(ギヨシン)なりけり。「北は忌(イ)む事なり。また、伊勢(イセ)は南なり。太神宮(ダイジングウ)の御方(オンカタ)を御跡(オンアト)にせさせ給ふ事いかゞ」と、人申しけり。たゞし、太神宮の遥拝(エウハイ)は、巽(タウミ)に向はせ給ふ。南にはあらず。

*第百三十四段

高倉院(タカクラノヰン)の法華堂(ホツケダウ)の三昧僧(ザンマイソウ)、なにがしの律師(リツシ)とかやいふもの、或時(アルトキ)、鏡を取りて、顔をつくづくと見て、我がかたちの見にくゝ、あさましき事余りに心うく覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後(ノチ)、長く、鏡を恐れて、手にだに取らず、更に、人に交はる事なし。御堂(ミダウ)のつとめばかりにあひて、籠(コモ)り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。

賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己れをば知らざるなり。我を知らずして、外(ホカ)を知るといふ理(コトワリ)あるべからず。されば、己れを知るを、物知れる人といふべし。かたち醜(ミニク)けれども知らず。心の愚かなるをも知らず、芸の拙(ツタナ)きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒(ヲカ)すをも知らず、死の近き事をも知らず。行(オコナ)ふ道の至らざるをも知らず。身の上の非を知らねば、まして、外の譏(ソシ)りを知らず。但し、かたちは鏡に見ゆ、年は数へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ、知らぬに似(ニ)たりとぞ言はまし。かたちを改め、齢(ヨハヒ)を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞ、やがて退(シリゾ)かざる。老いぬと知らば、何ぞ、閑(シヅ)かに居て、身を安くせざる。行ひおろかなりと知らば、何ぞ、茲(コレ)を思ふこと茲にあらざる。

すべて、人に愛楽(アイゲウ)せられずして衆(シユ)に交(マジ)はるは恥(ハヂ)なり。かたち見にくゝ、心おくれにして出(イ)で仕へ、無智(ムチ)にして大才(タイサイ)に交はり、不堪(フカン)の芸をもちて堪能(カンノウ)の座に列(ツラナ)り、雪の頭(カシラ)を頂きて盛りなる人に並び、況(イハ)んや、及ばざる事を望み、叶(カナ)はぬ事を憂(ウレ)へ、来(キタ)らざることを待ち、人に恐れ、人に媚(コ)ぶるは、人の与(アタ)ふる恥にあらず、貪(ムサボ)る心に引かれて、自(ミヅカ)ら身を恥かしむるなり。貪る事の止まざるは、命を終(ヲ)ふる大事(ダイジ)、今こゝに来れりと、確(タシ)かに知らざればなり。

*第百三十五段

資季(スケスヱノ)大納言入道とかや聞(キコ)えける人、具氏宰相中将(トモウヂサイシヤウチユウジヤウ)にあひて、「わぬしの問はれんほどのこと、何事(ナニゴト)なりとも答へ申さざらんや」と言はれければ、具氏、「いかゞ侍らん」と申されけるを、「さらば、あらがひ給へ」と言はれて、「はかばかしき事は、片端(カタハシ)も学(マネ)び知り侍らねば、尋ね申すまでもなし。何となきそゞろごとの中に、おぼつかなき事をこそ問ひ奉(タテマツ)らめ」と申されけり。「まして、こゝもとの浅(アサ)き事は、何事なりとも明(アキ)らめ申さん」と言はれければ、近習(キンジユ)の人々、女房なども、「興(キヤウ)あるあらがひなり。同じくは、御前(ゴゼン)にて争はるべし。負けたらん人は、供御(グゴ)をまうけらるべし」と定めて、御前にて召し合はせられたりけるに、具氏、「幼(ヲサナ)くより聞き習ひ侍れど、その心知らぬこと侍り。『むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう』と申す事は、如何(イカ)なる心にか侍らん。承(ウケタマハ)らん」と申されけるに、大納言入道、はたと詰(ツマ)りて、「これはそゞろごとなれば、言ふにも足(タ)らず」と言はれけるを、「本(モト)より深き道は知り侍らず。そゞろごとを尋ね奉(タテマツ)らんと定め申しつ」と申されければ、大納言入道、負(マケ)になりて、所課(シヨクワ)いかめしくせられたりけるとぞ。

*第百三十六段

医師篤成(クスシアツシゲ)、故法皇(コホフワウ)の御前(ゴゼン)に候ひて、供御(グゴ)の参りけるに、「今参り侍る供御の色々を、文字(モンジ)も功能(クノウ)も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草(ホンザウ)に御覧(ゴラン)じ合はせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ」と申しける時しも、六条故内府(ロクデウノコダイフ)参り給ひて、「有房(アリフサ)、ついでに物(モノ)習ひ侍らん」とて、「先づ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏(ヘン)にか侍らん」と問はれたりけるに、「土偏(ドヘン)に候ふ」と申したりければ、「才(ザエ)の程(ホド)、既にあらはれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし」と申されけるに、どよみに成りて、罷(マカ)り出でにけり。

*第百三十七段

花は盛(サカ)りに、月は隈(クマ)なきをのみ、見るものかは。雨に対(ムカ)ひて月を恋(コ)ひ、垂(タ)れこめて春の行衛(ユクヘ)知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢(コズエ)、散り萎(シヲ)れたる庭などこそ、見所(ミドコロ)多けれ。歌の詞書(コトバガキ)にも、「花見(ハナミ)にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障(サハ)る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣(オト)れる事かは。花の散り、月の傾(カタブ)くを慕(シタ)ふ習(ナラ)ひはさる事なれど、殊(コト)にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所(ミドコロ)なし」などは言ふめる。

万(ヨロヅ)の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女(ヲトコオンナ)の情(ナサケ)も、ひとへに逢(ア)ひ見るをば言ふものかは。逢はで止(ヤ)みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独(ヒト)り明し、遠き雲井(クモヰ)を思ひやり、浅茅(アサヂ)が宿に昔を偲(シノ)ぶこそ、色好(イロコノ)むとは言はめ。望月(モチヅキ)の隈なきを千里(チサト)の外(ホカ)まで眺(ナガ)めたるよりも、暁(アカツキ)近くなりて待ち出でたるが、いと心深(ブカ)う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木(コ)の間(マ)の影、うちしぐれたる村雲隠(ムラグモガク)れのほど、またなくあはれなり。椎柴(シヒシバ)・白樫(シラカシ)などの、濡(ヌ)れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁(シ)みて、心あらん友もがなと、都恋(ミヤココヒ)しう覚ゆれ。

すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ネヤ)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好(ス)けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑(ナホザリ)なり。片田舎(カタヰナカ)の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本(モト)には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌(レンガ)して、果(ハテ)は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉(イヅミ)には手足さし浸(ヒタ)して、雪には下(オ)り立ちて跡(アト)つけなど、万の物、よそながら見ることなし。

さやうの人の祭見しさま、いと珍(メヅ)らかなりき。「見事(ミゴト)いと遅し。そのほどは桟敷(サジキ)不用(フヨウ)なり」とて、奥なる屋(ヤ)にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」と言ふ時に、おのおの肝潰(キモツブ)るゝやうに争(アラソ)ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾(スダレ)張り出でて、押し合ひつゝ、一事(ヒトコト)も見洩(モラ)さじとまぼりて、「とあり、かゝり」と物毎(モノゴト)に言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。たゞ、物をのみ見んとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、睡(ネブ)りて、いとも見ず。若く末々(スヱズヱ)なるは、宮仕(ヅカ)へに立ち居(ヰ)、人の後(ウシロ)に侍ふは、様(サマ)あしくも及びかゝらず、わりなく見んとする人もなし。

何となく葵(アフヒ)懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼(ウシカヒ)・下部(シモベ)などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行(ユ)き交(カ)ふ、見るもつれづれならず。暮るゝほどには、立て並(ナラ)べつる車ども、所(トコロ)なく並(ナ)みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程(ホド)なく稀(マレ)に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾(スダレ)・畳(タタミ)も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例(タメシ)も思ひ知られて、あはれなれ。大路(オホチ)見たるこそ、祭見たるにてはあれ。

かの桟敷(サジキ)の前をこゝら行(ユ)き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失(ウ)せなん後(ノチ)、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待(マ)ちつけぬべし。大きなる器(ウツハモノ)に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴(シタダ)ること少(スクナ)しといふとも、怠(オコタ)る間なく洩(モ)りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中(ウチ)に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。鳥部野(トリベノ)・舟岡(フナヲカ)、さらぬ野山(ノヤマ)にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺(ヒツギ)を鬻(ヒサ)く者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期(シゴ)なり。今日(ケフ)まで遁(ノガ)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫(シバ)しも世をのどかには思ひなんや。継子立(ママコダテ)といふものを双六(スグロク)の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁(ノガ)れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜(カレコレマヌ)き行くほどに、いづれも遁(ノガ)れざるに似たり。兵(ツハモノ)の、軍(イクサ)に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵(イホリ)には、閑(シヅ)かに水石(スヰセキ)を翫(モテアソ)びて、これを余所(ヨソ)に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競(カタキキホ)ひ来(キタ)らざらんや。その、死に臨(ノゾ)める事、軍(イクサ)の陣(ヂン)に進めるに同じ。

*第百三十八段

「祭過ぎぬれば、後(ノチ)の葵(アフヒ)不用(フヨウ)なり」とて、或人の、御簾(ミス)なるを皆取らせられ侍りしが、色(イロ)もなく覚え侍りしを、よき人のし給ふ事なれば、さるべきにやと思ひしかど、周防内侍(スハウノナイシ)が、

かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉(カレハ)なりけり

と詠(ヨ)めるも、母屋(モヤ)の御簾(ミス)に葵の懸(カカ)りたる枯葉を詠めるよし、家(イヘ)の集(シフ)に書けり。古き歌の詞書(コトバガキ)に、「枯れたる葵にさして遣(ツカ)はしける」とも侍り。枕草子にも、「来(コ)しかた恋(コヒ)しき物、枯れたる葵」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひ寄りたれ。鴨長明が四季物語(シキノモノガタリ)にも、「玉垂(タマダレ)に後(ノチ)の葵は留(トマ)りけり」とぞ書ける。己(オノ)れと枯(カ)るゝだにこそあるを、名残(ナゴリ)なく、いかゞ取り捨つべき。

御帳(ミチャウ)に懸(カカ)れる薬玉(クスダマ)も、九月九日(ナガツキココノカ)、菊に取り替へらるゝといへば、菖蒲(シヤウブ)は菊の折(ヲリ)までもあるべきにこそ。枇杷皇太后宮(ビハノクワウタイコウクウ)かくれ給ひて後(ノチ)、古き御帳の内(ウチ)に、菖蒲・薬玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「折ならぬ根をなほぞかけつる」と辨(ベン)の乳母(メノト)の言へる返事(カヘリコト)に、「あやめの草(クサ)はありながら」とも、江侍従(ゴウジジウ)が詠みしぞかし。

*第百三十九段

家にありたき木は、松・桜。松は、五葉(ゴエフ)もよし。花は、一重(ヒトヘ)なる、よし。八重桜(ヤヘザクラ)は、奈良の都にのみありけるを、この比(ゴロ)ぞ、世に多く成り侍るなる。吉野の花、左近(サコン)の桜、皆、一重(ヒトヘ)にてこそあれ。八重桜は異様(コトヤウ)のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜(オソザクラ)、またすさまじ。虫の附(ツ)きたるもむつかし。梅は、白き・薄紅梅(ウスコウバイ)。一重なるが疾(ト)く咲きたるも、重(カサ)なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆をかし。遅き梅は、桜に咲き合ひて、覚え劣り、気圧(ケオ)されて、枝に萎(シボ)みつきたる、心うし。「一重なるが、まづ咲きて、散りたるは、心疾く、をかし」とて、京極入道中納言(キヤウゴクノニフダウチユウナゴン)は、なほ、一重梅をなん、軒(ノキ)近く植ゑられたりける。京極の屋(ヤ)の南向きに、今も二本(フタモト)侍るめり。柳、またをかし。卯月(ウヅキ)ばかりの若楓(ワカカヘデ)、すべて、万(ヨロヅ)の花・紅葉(モミヂ)にもまさりてめでたきものなり。橘(タチバナ)・桂(カツラ)、いづれも、木はもの古(フ)り、大きなる、よし。草は、山吹(ヤマブキ)・藤(フヂ)・杜若(カキツバタ)・撫子(ナデシコ)。池には、蓮(ハチス)。秋の草は、荻(ヲギ)・薄(ススキ)・桔梗(キチカウ)・萩(ハギ)・女郎花(ヲミナヘシ)・藤袴(フヂバカマ)・紫苑(シヲニ)・吾木香(ワレモカウ)・刈萱(カルカヤ)・竜胆(リンダウ)・菊。黄菊(キギク)も。蔦(ツタ)・葛(クズ)・朝顔。いづれも、いと高からず、さゝやかなる、墻(カキ)に繁(シゲ)からぬ、よし。この外(ホカ)の、世に稀(マレ)なるもの、唐めきたる名の聞きにくゝ、花も見馴(ナ)れぬなど、いとなつかしからず。

大方(オホカタ)、何(ナニ)も珍(メヅ)らしく、ありがたき物は、よからぬ人のもて興ずる物なり。さやうのもの、なくてありなん。

*第百四十段

身(ミ)死して財(タカラ)残る事は、智者(チシヤ)のせざる処(トコロ)なり。よからぬ物蓄(タクハ)へ置きたるもつたなく、よき物は、心を止(ト)めけんとはかなし。こちたく多かる、まして口惜(クチヲ)し。「我こそ得(エ)め」など言ふ者どもありて、跡(アト)に争ひたる、様(サマ)あし。後(ノチ)は誰(タレ)にと志(ココロザ)す物あらば、生けらんうちにぞ譲(ユヅ)るべき。

朝夕(アサユフ)なくて叶(カナ)はざらん物こそあらめ、その外(ホカ)は、何も持たでぞあらまほしき。

*第百四十一段

悲田院尭蓮(ヒデンヰンノゲウレン)上人は、俗姓(ゾクシヤウ)は三浦(ミウラ)の某(ナニガシ)とかや、双(サウ)なき武者(ムシヤ)なり。故郷(フルサト)の人(キタ)の来りて、物語(モノガタリ)すとて、「吾妻人(アヅマウド)こそ、言ひつる事は頼(タノ)まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実(マコト)なし」と言ひしを、聖、「それはさこそおぼすらめども、己れは都に久しく住みて、馴(ナ)れて見侍るに、人の心劣(オト)れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔(ヤハラ)かに、情(ナサケ)ある故に、人の言ふほどの事、けやけく否(イナ)び難(ガタ)くて、万(ヨロヅ)え言ひ放(ハナ)たず、心弱くことうけしつ。偽(イツハ)りせんとは思はねど、乏(トモ)しく、叶(カナ)はぬ人のみあれば、自(オノヅカ)ら、本意(ホンイ)通(トホ)らぬ事多かるべし。吾妻人(アヅマウド)は、我が方(カタ)なれど、げには、心の色なく、情(ナサケ)おくれ、偏(ヒトヘ)にすぐよかなるものなれば、始めより否(イナ)と言ひて止みぬ。賑(ニギ)はひ、豊(ユタ)かなれば、人には頼まるゝぞかし」とことわられ侍りしこそ、この聖、声うち歪(ユガ)み、荒々(アラアラ)しくて、聖教(シヤウゲウ)の細やかなる理(コトワリ)いと辨(ワキマ)へずもやと思ひしに、この一言(ヒトコト)の後(ノチ)、心にくゝ成りて、多かる中(ナカ)に寺をも住持(ヂユウヂ)せらるゝは、かく柔(ヤハラ)ぎたる所ありて、その益(ヤク)もあるにこそと覚え侍りし。

*第百四十二段

心なしと見ゆる者も、よき一言(ヒトコト)はいふものなり。ある荒夷(アラエビス)の恐しげなるが、かたへにあひて、「御子(オコ)はおはすや」と問ひしに、「一人(ヒトリ)も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、もののあはれは知り給はじ。情(ナサケ)なき御心(ミココロ)にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故(ユヱ)にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(オンナイ)の道ならでは、かゝる者の心に、慈悲(ジヒ)ありなんや。孝養(ケウヤウ)の心なき者も、子持ちてこそ、親の志(ココロザシ)は思ひ知るなれ。

世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂(ヘツラ)ひ、望み深きを見て、無下(ムゲ)に思ひくたすは、僻事(ヒガコト)なり。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子(サイシ)のためには、恥(ハヂ)をも忘れ、盗(ヌス)みもしつべき事なり。されば、盗人(ヌスビト)を縛(イマシ)め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の饑(ウ)ゑず、寒からぬやうに、世をば行(オコナ)はまほしきなり。人、恒(ツネ)の産(サン)なき時は、恒の心なし。人、窮(キハ)まりて盗みす。世治(ヲサマ)らずして、凍餒(トウタイ)の苦しみあらば、科(トガ)の者絶(タ)ゆべからず。人を苦しめ、法(ホフ)を犯さしめて、それを罪(ツミ)なはん事、不便(フビン)のわざなり。

さて、いかゞして人を恵(メグ)むべきとならば、上(カミ)の奢(オゴ)り、費(ツヒヤ)す所を止(ヤ)め、民を撫(ナ)で、農を勧めば、下(シモ)に利あらん事、疑ひあるべからず。衣食尋常(イシヨクヨノツネ)なる上(ウヘ)に僻事せん人をぞ、真(マコト)の盗人とは言ふべき。

*第百四十三段

人の終焉(シユウエン)の有様(アリサマ)のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚(オロ)かなる人は、あやしく、異(コト)なる相(サウ)を語りつけ、言ひし言葉も振舞(フルマヒ)も、己れが好む方(カタ)に誉めなすこそ、その人の日来(ヒゴロ)の本意(ホンイ)にもあらずやと覚ゆれ。

この大事(ダイジ)は、権化(ゴンゲ)の人も定(サダ)むべからず。博学(ハクガク)の士も測(ハカ)るべからず。己れ違(タガ)ふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。

*第百四十四段

栂尾(トガノヲ)の上人(シヤウニン)、道を過ぎ給ひけるに、河(カハ)にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止(ドマ)りて、「あな尊(タフト)や。宿執開発(シユクシフカイホツ)の人かな。阿字(アジ)阿字と唱(トナ)ふるぞや。如何(イカ)なる人の御馬(オンウマ)ぞ。余りに尊(タフト)く覚(オボ)ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿(フシヤウドノ)の御馬に候ふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生(アジホンフシヤウ)にこそあンなれ。うれしき結縁(ケチエン)をもしつるかな」とて、感涙(カンルヰ)を拭(ノゴ)はれけるとぞ。

*第百四十五段

御随身秦重躬(ミズヰジンハダノシゲミ)、北面の下野入道信願(シモツケノニフダウシングワン)を、「落馬(ラクバ)の相(サウ)ある人なり。よくよく慎み給へ」と言ひけるを、いと真(マコト)しからず思ひけるに、信願、馬より落ちて死ににけり。道に長(チヤウ)じぬる一言(ヒトコト)、神の如しと人思へり。

さて、「如何(イカ)なる相ぞ」と人の問ひければ、「極(キハ)めて桃尻(モモジリ)にして、沛艾(ハイガイ)の馬を好みしかば、この相を負(オホ)せ侍りき。何時(イツ)かは申し誤りたる」とぞ言ひける。

*第百四十六段

明雲座主(メイウンザス)、相者(サウジヤ)にあひ給ひて、「己れ、もし兵杖(ヒヤウヂヤウ)の難(ナン)やある」と尋ね給ひければ、相人(サウニン)、「まことに、その相おはします」と申す。「如何なる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害(シヤウガイ)の恐れおはしますまじき御身(オンミ)にて、仮(カリ)にも、かく思(オボ)し寄りて、尋ね給ふ、これ、既(スデ)に、その危(アヤブ)みの兆(キザシ)なり」と申しけり。

果(ハタ)して、矢に当りて失せ給ひにけり。

*第百四十七段

灸治(キウヂ)、あまた所に成りぬれば、神事(ジンジ)に穢(ケガ)れありといふ事、近く、人の言ひ出(イダ)せるなり。格式等(キヤクシキトウ)にも見えずとぞ。

*第百四十八段

四十以後(シジフイゴ)の人、身に灸(キフ)を加(クハ)へて、三里(サンリ)を焼かざれば、上気(ジヤウキ)の事あり。必ず灸すべし。

*第百四十九段

鹿茸(ロクジヨウ)を鼻に当てて嗅(カ)ぐべからず。小(チヒ)さき虫ありて、鼻より入(イ)りて、脳を食(ハ)むと言へり。

*第百五十段

能(ノウ)をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得(エ)て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸(イチゲイ)も習ひ得(ウ)ることなし。

未(イマ)だ堅固(ケンゴ)かたほなるより、上手(ジヤウズ)の中に交りて、毀(ソシ)り笑はるゝにも恥(ハ)ぢず、つれなく過ぎて嗜(タシナ)む人、天性(テンゼイ)、その骨(コツ)なけれども、道(ミチ)になづまず、濫(ミダ)りにせずして、年を送れば、堪能(カンノウ)の嗜まざるよりは、終(ツヒ)に上手の位(クラヰ)に至り、徳たけ、人に許されて、双(ナラビ)なき名を得(ウ)る事なり。

天下(テンカ)のものの上手といへども、始めは、不堪(フカン)の聞(キコ)えもあり、無下(ムゲ)の瑕瑾(カキン)もありき。されども、その人、道の掟正(オキテタダ)しく、これを重くして、放埒(ハウラツ)せざれば、世の博士(ハカセ)にて、万人(バンニン)の師となる事、諸道変(シヨダウカハ)るべからず。

*第百五十一段

或人(アルヒト)の云はく、年五十(ゴジフ)になるまで上手に至らざらん芸(ゲイ)をば捨つべきなり。励(ハゲ)み習ふべき行末(ユクスヱ)もなし。老人(ラウジン)の事をば、人もえ笑はず。衆(シュ)に交りたるも、あいなく、見ぐるし。大方(オホカタ)、万(ヨロヅ)のしわざは止(ヤ)めて、暇(イトマ)あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携(タヅサ)はりて生涯を暮(クラ)すは、下愚(カグ)の人なり。ゆかしく覚(オボ)えん事は、学び訊(キ)くとも、その趣(オモムキ)を知りなば、おぼつかなからずして止(ヤ)むべし。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり。

写本云此段、本はみせけちなれども、私書之。

*第百五十二段

西大寺静然(サイダイジノジャウネン)上人、腰屈(カガ)まり、眉(マユ)白く、まことに徳たけたる有様(アリサマ)にて、内裏(ダイリ)へ参られたりけるを、西園寺内大臣殿(サイヲンジノナイダイジンドノ)、「あな尊(タフト)の気色(ケシキ)や」とて、信仰(シンガウ)の気色(キシヨク)ありければ、資朝卿(スケトモノキヤウ)、これを見て、「年の寄(ヨ)りたるに候(サウラ)ふ」と申されけり。

後日(ゴニチ)に、尨犬(ムクイヌ)のあさましく老(オ)いさらぼひて、毛(ケ)剥(ハ)げたるを曳(ヒ)かせて、「この気色(ケシキ)尊(タフト)く見えて候ふ」とて、内府(ダイフ)へ参らせられたりけるとぞ。

*第百五十三段

為兼大納言入道(タメカネノダイナゴンニフダウ)、召し捕(ト)られて、武士どもうち囲(カコ)みて、六波羅(ロクハラ)へ率(ヰ)て行(ユ)きければ、資朝卿(スケトモノキヤウ)、一条わたりにてこれを見て、「あな羨(ウラヤ)まし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。

*第百五十四段

この人、東寺(トウジ)の門に雨宿(アマヤド)りせられたりけるに、かたは者どもの集(アツマ)りゐたるが、手も足も捩(ネ)ぢ歪(ユガ)み、うち反(カヘ)りて、いづくも不具(フグ)に異様(コトヤウ)なるを見て、とりどりに類(タグヒ)なき曲物(クセモノ)なり、尤(モツト)も愛するに足(タ)れりと思ひて、目守(マモ)り給ひけるほどに、やがてその興尽(キヨウツ)きて、見にくゝ、いぶせく覚(オボ)えければ、たゞ素直(スナホ)に珍(メヅ)らしからぬ物には如(シ)かずと思ひて、帰りて後(ノチ)、この間、植木を好みて、異様(コトヤウ)に曲折(キヨクセツ)あるを求めて、目を喜(ヨロコ)ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興(キヨウ)なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられにけり。

さもありぬべき事なり。

*第百五十五段

世に従(シタガ)はん人は、先(マ)づ、機嫌(キゲン)を知るべし。序悪(ツイデア)しき事は、人の耳にも逆(サカ)ひ、心にも違(タガ)ひて、その事成らず。さやうの折節(ヲリフシ)を心得(ココロウ)べきなり。但(タダ)し、病(ヤマヒ)を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、序悪しとて止む事なし。生(シヤウ)・住(ヂユウ)・異(イ)・滅(メツ)の移り変る、実(マコト)の大事は、猛(タケ)き河(カハ)の漲(ミナギリ)り流るゝが如し。暫(シバ)しも滞(トドコホ)らず、直(タダ)ちに行ひゆくものなり。されば、真俗(シンゾク)につけて、必ず果(ハタ)し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止(トド)むまじきなり。

春暮れて後(ノチ)、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気(キ)を催(モヨホ)し、夏より既に秋は通(カヨ)ひ、秋は即(スナハ)ち寒くなり、十月は小春(コハル)の天気(テンキ)、草も青くなり、梅も蕾(ツボ)みぬ。木(コ)の葉(ハ)の落つるも、先(マ)づ落ちて芽(メ)ぐむにはあらず、下(シタ)より萌(キザ)しつはるに堪(タ)へずして落つるなり。迎(ムカ)ふる気(キ)、下に設けたる故に、待ちとる序甚(ハナハ)だ速し。生・老(ラウ)・病(ビヤウ)・死(シ)の移り来(キタ)る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定(サダ)まれる序あり。死期(シゴ)は序(ツイデ)を待たず。死は、前よりしも来(キタ)らず。かねて後(ウシロ)に迫れり。人皆死(シ)ある事を知りて、待つことしかも急(キフ)ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥(ヒカタハル)かなれども、磯(イソ)より潮(シホ)の満つるが如し。

*第百五十六段

大臣(ダイジン)の大饗(ダイキョウ)は、さるべき所を申(マウ)し請(ウ)けて行ふ、常(ツネ)の事なり。宇治左大臣殿(ウヂノサダイジンドノ)は、東(トウ)三条殿(サンデウドノ)にて行はる。内裏(ダイリ)にてありけるを、申されけるによりて、他所(タシヨ)へ行幸(ギヤウガウ)ありけり。させる事の寄(ヨ)せなけれども、女院(ニヨウヰン)の御所など借り申す、故実(コシツ)なりとぞ。

*第百五十七段

筆を取れば物書かれ、楽器(ガクキ)を取れば音(ネ)を立てんと思ふ。盃(サカヅキ)を取れば酒を思ひ、賽(サイ)を取れば攤(ダ)打たん事を思ふ。心は、必ず、事(コト)に触れて来る。仮にも、不善(フゼン)の戯(タハブ)れをなすべからず。

あからさまに聖教(シヤウゲウ)の一句(イツク)を見れば、何となく、前後(ゼンゴ)の文(モン)も見ゆ。卒爾(ソツジ)にして多年(タネン)の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披(ヒロ)げざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るゝ所の益(ヤク)なり。心更(サラ)に起らずとも、仏前(ブツゼン)にありて、数珠(ジユズ)を取り、経(キヤウ)を取らば、怠るうちにも善業自(ゼンゴフオノヅカ)ら修(シユ)せられ、散乱(サンラン)の心ながらも縄床(ジヨウシヤウ)に座(ザ)せば、覚えずして禅定成(ゼンヂヤウナ)るべし。

事(ジ)・理(リ)もとより二つならず。外相(ゲサウ)もし背かざれば、内証(ナイシヨウ)必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰(アフ)ぎてこれを尊(タフト)むべし。

*第百五十八段

「盃(サカヅキ)の底を捨つる事は、いかゞ心得たる」と、或(アル)人の尋ねさせ給ひしに、「凝当(ギヤウダウ)と申し侍れば、底に凝(コ)りたるを捨つるにや候ふらん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道(ギヨダウ)なり。流れを残して、口の附(ツ)きたる所を滌(スス)ぐなり」とぞ仰(オホ)せられし。

*第百五十九段

「みな結(ムス)びと言ふは、糸を結び重(カサ)ねたるが、蜷(ミナ)といふ貝に似たれば言ふ」と、或やんごとなき人仰せられき。「にな」といふは誤(アヤマリ)なり。

*第百六十段

門(モン)に額懸(ガクカ)くるを「打つ」と言ふは、よからぬにや。勘解由小路二品禅門(カデノコウヂノニホンゼンモン)は、「額懸くる」とのたまひき。「見物(ケンブツ)の桟敷(サジキ)打つ」も、よからぬにや。「平張(ヒラバリ)打つ」などは、常の事なり。「桟敷構(カマ)ふる」など言ふべし。「護摩(ゴマ)焚(タ)く」と言ふも、わろし。「修(シユ)する」「護摩(ゴマ)する」など言ふなり。「行法(ギヤウボフ)も、法(ホフ)の字を清(ス)みて言ふ、わろし。濁(ニゴ)りて言ふ」と、清閑寺僧正(セイガンジノソウジヤウ)仰(オホ)せられき。常に言ふ事に、かゝる事のみ多し。

*第百六十一段

花の盛(サカ)りは、冬至(トウジ)より百五十日とも、時正(ジシヤウ)の後(ノチ)、七日(ナヌカ)とも言へど、立春(リツシユン)より七十(シチジフ)五日(ゴニチ)、大様違(オホヤウタガ)はず。

*第百六十二段

遍照寺(ヘンゼウジ)の承仕法師(ジヨウジホフシ)、池の鳥を日来(ヒゴロ)飼ひつけて、堂(ダウ)の内まで餌(ヱ)を撒(マ)きて、戸一つ開けたれば、数も知らず入(イ)り籠(コモ)りける後(ノチ)、己れも入りて、たて籠(コ)めて、捕(トラ)へつゝ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞(キコ)えけるを、草刈(カ)る童(ワラハ)聞きて、人に告げければ、村の男(ヲノコ)どもおこりて、入りて見るに、大雁(オホカリ)どもふためき合へる中(ナカ)に、法師交(マジ)りて、打ち伏せ、捩(ネ)ぢ殺しければ、この法師を捕(トラ)へて、所(トコロ)より使庁(シチヤウ)へ出(イダ)したりけり。殺す所の鳥を頸(クビ)に懸(カ)けさせて、禁獄(キンゴク)せられにけり。

基俊(モトトシノ)大納言、別当(ベツタウ)の時になん侍りける。

*第百三十三段

太衝(タイショウ)の「太(タイ)」の字、点打つ・打たずといふ事、陰陽(オンヤウ)の輩(トモガラ)、相論(サウロン)の事ありけり。盛親入道(モリチカニフダウ)申し侍りしは、「吉平(ヨシヒラ)が自筆の占文(センモン)の裏に書かれたる御記(ギヨキ)、近衛関白殿(コノヱノクワンバクドノ)にあり。点打ちたるを書きたり」と申しき。

*第百六十四段

世の人相逢(アヒア)ふ時、暫(シバラ)くも黙止(モダ)する事なし。必ず言葉あり。その事を聞くに、多くは無益(ムヤク)の談(ダン)なり。世間(セケン)の浮説(フセツ)、人の是非(ゼヒ)、自他(ジタ)のために、失(シツ)多く、得(トク)少し。

これを語る時、互(タガ)ひの心に、無益(ムヤク)の事なりといふ事を知らず。

*第百六十五段

吾妻(アヅマ)の人の、都の人に交(マジハ)り、都の人の、吾妻に行きて身を立て、また、本寺(ホンジ)・本山を離れぬる、顕密(ケンミツ)の僧、すべて、我が俗(ゾク)にあらずして人に交れる、見ぐるし。

*第百六十六段

人間の、営み合へるわざを見るに、春の日に雪仏(ユキボトケ)を作りて、そのために金銀・珠玉(シユギヨク)の飾りを営(イトナ)み、堂(ダウ)を建てんとするに似たり。その構(カマ)へを待ちて、よく安置(アンヂ)してんや。人の命(イノチ)ありと見るほども、下(シタ)より消ゆること雪の如くなるうちに、営み待つこと甚だ多し。

*第百六十七段

一道(イチダウ)に携(タヅサ)はる人、あらぬ道の筵(ムシロ)に臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よに悪(ワロ)く覚ゆるなり。知らぬ道の羨(ウラヤ)ましく覚(オボ)えば、「あな羨まし。などか習はざりけん」と言ひてありなん。我が智(チ)を取り出でて人に争ふは、角(ツノ)ある物の、角を傾(カタブ)け、牙(キバ)ある物の、牙を咬み出だす類(タグヒ)なり。

人としては、善に伐(ホコ)らず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大きなる失(シツ)なり。品(シナ)の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖(センゾ)の誉(ホマレ)にても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心(ナイシン)にそこばくの咎(トガ)あり。慎(ツツシ)みて、これを忘るべし。痴(ヲコ)にも見え、人にも言ひ消(ケ)たれ、禍(ワザワヒ)をも招くは、たゞ、この慢心(マンシン)なり。

一道にもまことに長(チヤウ)じぬる人は、自(ミヅカ)ら、明らかにその非(ヒ)を知る故に、志(ココロザシ)常に満たずして、終(ツイ)に、物に伐る事なし。

*第百六十八段

年老(オ)いたる人の、一事(イチジ)すぐれたる才(ザエ)のありて、「この人の後(ノチ)には、誰にか問はん」など言はるゝは、老(オイ)の方人(カタウド)にて、生(イ)けるも徒(イタヅ)らならず。さはあれど、それも廃(スタ)れたる所のなきは、一生、この事にて暮れにけりと、拙(ツタナ)く見ゆ。「今は忘れにけり」と言ひてありなん。

大方は、知りたりとも、すゞろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨(ワキマ)へ知らず」など言ひたるは、なほ、まことに、道の主(アルジ)とも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔(ガホ)に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞きゐたる、いとわびし。

*第百六十九段

「何事(ナニゴト)の式(シキ)といふ事は、後嵯峨(ゴサガ)の御代(ミヨ)までは言はざりけるを、近きほどより言ふ詞(コトバ)なり」と人の申し侍りしに、建礼門(ケンレイモン)院の右京大夫(ウキヤウノダイブ)、後鳥羽(ゴトバノ)院の御位(オホンクラヰ)の後、また内裏住(ウチズ)みしたる事を言ふに、「世の式(シキ)も変(カハ)りたる事はなきにも」と書きたり。

此段、みせけち也。私書之。

*第百七十段

さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば、疾(ト)く帰るべし。久しく居たる、いとむつかし。

人と向(ムカ)ひたれば、詞(コトバ)多く、身もくたびれ、心も閑(シヅ)かならず、万の事障(サハ)りて時を移す、互ひのため益(ヤク)なし。厭(イト)はしげに言はんもわろし。心づきなき事あらん折は、なかなか、その由(ヨシ)をも言ひてん。同じ心に向はまほしく思はん人の、つれづれにて、「今暫(シバ)し。今日(ケフ)は心閑(シヅ)かに」など言はんは、この限りにはあらざるべし。阮籍(ゲンセキ)が青き眼(マナコ)、誰にもあるべきことなり。

そのこととなきに、人の来りて、のどかに物語して帰りぬる、いとよし。また、文(フミ)も、「久しく聞(キコ)えさせねば」などばかり言ひおこせたる、いとうれし。

*第百七十一段

貝(カヒ)を覆(オホ)ふ人の、我が前なるをば措(オ)きて、余所(ヨソ)を見渡して、人の袖(ソデ)のかげ、膝の下まで目を配(クバ)る間に、前なるをば人に覆(オホ)はれぬ。よく覆ふ人は、余所までわりなく取るとは見えずして、近きばかり覆ふやうなれど、多く覆ふなり。碁盤(ゴバン)の隅に石を立てて弾くに、向ひなる石を目守(マボ)りて弾くは、当らず、我が手許(テモト)をよく見て、こゝなる聖目(ヒジリメ)を直(スグ)に弾けば、立てたる石、必ず当る。

万の事、外(ホカ)に向きて求むべからず。たゞ、こゝもとを正しくすべし。清献公(セイケンコウ)が言葉に、「好事(カウジ)を行(ギヤウ)じて、前程(ゼンテイ)を問ふことなかれ」と言へり。世を保(タモ)たん道も、かくや侍らん。内(ウチ)を慎まず、軽(カロ)く、ほしきまゝにして、濫(ミダ)りなれば、遠き国必ず叛(ソム)く時、初めて謀(ハカリコト)を求む。「風に当り、湿(シツ)に臥(フ)して、病を神霊に訴ふるは、愚かなる人なり」と医書に言へるが如し。目の前なる人の愁(ウレヘ)を止(ヤ)め、恵みを施し、道を正しくせば、その化(クワ)遠く流れん事を知らざるなり。禹(ウ)の行きて三苗(サンベウ)を征(セイ)せしも、師(イクサ)を班(カヘ)して徳を敷(シ)くには及(シ)かざりき。

*第百七十二段

若き時は、血気(ケツキ)内に余り、心物(モノ)に動きて、情欲(ジヤウヨク)多し。身を危(アヤブ)めて、砕け易(ヤス)き事、珠(タマ)を走らしむるに似たり。美麗(ビレイ)を好みて宝を費(ツヒヤ)し、これを捨てて苔(コケ)の袂(タモト)に窶(ヤツ)れ、勇(イサ)める心盛(サカ)りにして、物と争ひ、心に恥(ハ)ぢ羨(ウラヤ)み、好む所日々(ヒビ)に定まらず、色に耽(フケ)り、情(ナサケ)にめで、行ひを潔(イサギヨ)くして、百年(モモトセ)の身を誤り、命を失へる例(タメシ)願はしくして、身の全(マツタ)く、久しからん事をば思はず、好ける方に心ひきて、永き世語(ヨガタ)りともなる。身を誤つ事は、若き時のしわざなり。

老いぬる人は、精神衰へ、淡(アハ)く疎(オロソ)かにして、感じ動く所なし。心自(オノヅカ)ら静かなれば、無益(ムヤク)のわざを為さず、身を助けて愁(ウレヘ)なく、人の煩(ワヅラ)ひなからん事を思ふ。老いて、智の、若きにまされる事、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如し。

*第百七十三段

小野小町(ヲノノコマチ)が事、極(キハ)めて定かならず。衰へたる様は、「玉造(タマツクリ)」と言ふ文(フミ)に見えたり。この文、清行(キヨユキ)が書けりといふ説あれど、高野大師(カウヤノダイシ)の御作(ゴサク)の目録に入れり。大師は承和(ジヨウワ)の初めにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後の事にや。なほおぼつかなし。

*第百七十四段

小鷹(コタカ)によき犬、大鷹(オホタカ)に使ひぬれば、小鷹にわろくなるといふ。大(ダイ)に附き小(セウ)を捨つる理(コトワリ)、まことにしかなり。人事(ニンジ)多かる中に、道を楽(タノ)しぶより気味(キミ)深きはなし。これ、実(マコト)の大事なり。一度、道を聞きて、これに志さん人、いづれのわざか廃(スタ)れざらん、何事をか営まん。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らんや。

*第百七十五段

世には、心得ぬ事の多きなり。ともある毎(ゴト)には、まづ、酒を勧めて、強(シ)ひ飲ませたるを興(キヨウ)とする事、如何(イカ)なる故とも心得ず。飲む人の、顔いと堪へ難(ガタ)げに眉(マユ)を顰(ヒソ)め、人目を測りて捨てんとし、逃げんとするを、捉(トラ)へて引き止めて、すゞろに飲ませつれば、うるはしき人も、忽(タチマ)ちに狂人となりてをこがましく、息災(ソクサイ)なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒(タフ)れ伏す。祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。明くる日まで頭(カシラ)痛く、物食はず、によひ臥(フ)し、生(シヤウ)を隔てたるやうにして、昨日の事覚えず、公(オホヤケ)・私(ワタクシ)の大事を欠きて、煩(ワヅラ)ひとなる。人をしてかゝる目を見する事、慈悲(ジヒ)もなく、礼儀にも背けり。かく辛(カラ)き目に逢ひたらん人、ねたく、口惜しと思はざらんや。人の国にかゝる習(ナラ)ひあンなりと、これらになき人事にて伝へ聞きたらんは、あやしく、不思議に覚えぬべし。

人の上(ウヘ)にて見たるだに、心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひのゝしり、詞(コトバ)多く、烏帽子(エボシ)歪(ユガ)み、紐外(ヒモハヅ)し、脛(ハギ)高く掲げて、用意なき気色、日来(ヒゴロ)の人とも覚えず。女は、額髪(ヒタヒガミ)晴れらかに掻(カ)きやり、まばゆからず、顔うちさゝげてうち笑ひ、盃(サカヅキ)持てる手に取り付き、よからぬ人は、肴(サカナ)取りて、口にさし当て、自らも食ひたる、様あし。声の限り出して、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、黒く穢(キタナ)き身(ヌ)を肩抜ぎて、目も当てられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましく、憎し。或(アル)はまた、我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひ聞かせ、或は酔ひ泣きし、下(シモ)ざまの人は、罵(ノ)り合(ア)ひ、争(イサカ)ひて、あさましく、恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、果(ハテ)は、許さぬ物ども押し取りて、縁(エン)より落ち、馬(ウマ)・車(クルマ)より落ちて、過(アヤマチ)しつ。物にも乗らぬ際(キハ)は、大路(オホチ)をよろぼひ行きて、築泥(ツイヒヂ)・門(カド)の下などに向きて、えも言はぬ事どもし散らし、年(トシ)老い、袈裟(ケサ)掛けたる法師の、小童の肩を押(オサ)へて、聞えぬ事ども言ひつゝよろめきたる、いとかはゆし。かゝる事をしても、この世も後の世も益(ヤク)あるべきわざならば、いかゞはせん、この世には過ち多く、財(タカラ)を失ひ、病(ヤマヒ)をまうく。百薬(ヒヤクヤク)の長とはいへど、万の病は酒よりこそ起れ。憂(ウレヘ)忘るといへど、酔ひたる人ぞ、過ぎにし憂(ウ)さをも思ひ出でて泣くめる。後の世は、人の智恵を失ひ、善根(ゼンゴン)を焼くこと火の如くして、悪を増し、万の戒(カイ)を破りて、地獄に堕(オ)つべし。「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。

かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折(ヲリ)もあるべし。月の夜、雪の朝(アシタ)、花の本(モト)にても、心長閑(ノドカ)に物語して、盃出(イダ)したる、万の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入(イ)り来て、とり行ひたるも、心慰(ナグサ)む。馴れ馴れしからぬあたりの御簾(ミス)の中(ウチ)より、御果物・御酒(ミキ)など、よきやうなる気(ケ)はひしてさし出されたる、いとよし。冬、狭(セバ)き所にて、火にて物煎(イ)りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。旅の仮屋(カリヤ)、野山などにて、「御肴(ミサカナ)何がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるも、をかし。いたう痛む人の、強(シ)ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「今ひとつ。上少し」などのたまはせたるも、うれし。近づかまほしき人の、上戸(ジヤウゴ)にて、ひしひしと馴れぬる、またうれし。

さは言へど、上戸は、をかしく、罪許さるゝ者なり。酔ひくたびれて朝寝(アサイ)したる所を、主(アルジ)の引き開けたるに、惑(マド)ひて、惚(ホ)れたる顔ながら、細き髻(モトドリ)差し出し、物も着あへず抱き持ち、ひきしろひて逃ぐる、掻取姿(カイトリスガタ)の後手(ウシロデ)、毛生ひたる細脛(ホソハギ)のほど、をかしく、つきづきし。

*第百七十六段

黒戸(クロド)は、小松御門(コマツノミカド)、位(クラヰ)に即(ツ)かせ給ひて、昔、たゞ人にておはしましし時、まさな事(ゴト)せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営ませ給ひける間なり。御薪(ミカマギ)に煤(スス)けたれば、黒戸と言ふとぞ。

*第百七十七段

鎌倉中書王(カマクラノチユウシヨワウ)にて御鞠(オンマリ)ありけるに、雨降りて後、未だ庭の乾かざりければ、いかゞせんと沙汰(サタ)ありけるに、佐々木隠岐入道(ササキノオキノニフダウ)、鋸(ノコギリ)の屑(クヅ)を車に積(ツ)みて、多く奉(タテマツ)りたりければ、一庭(ヒトニハ)に敷かれて、泥土(デイト)の煩(ワヅラ)ひなかりけり。「取り溜めけん用意、有難し」と、人感じ合へりけり。

この事を或者(アルモノ)の語り出でたりしに、吉田(ヨシダノ)中納言の、「乾き砂子(スナゴ)の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、恥(ハヅ)かしかりき。いみじと思ひける鋸の屑、賤(イヤ)しく、異様(コトヤウ)の事なり。庭の儀(ギ)を奉行(ブギヤウ)する人、乾き砂子を設(マウ)くるは、故実(コシツ)なりとぞ。

*第百七十八段

或所の侍(サブラヒ)ども、内侍所(ナイシドコロ)の御神楽(ミカグラ)を見て、人に語るとて、「宝剣(ホウケン)をばその人ぞ持ち給ひつる」など言ふを聞きて、内なる女房の中に、「別殿(ベツデン)の行幸(ギヤウガウ)には、昼御座(ヒノゴザ)の御剣(ギヨケン)にてこそあれ」と忍びやかに言ひたりし、心にくかりき。その人、古き典侍(ナイシノスケ)なりけるとかや。

*第百七十九段

入宋(ニツソウ)の沙門(シヤモン)、道眼(ダウゲン)上人、一切経(イツサイキヤウ)を持来(ヂライ)して、六波羅(ロクハラ)のあたり、やけ野といふ所に安置(アンヂ)して、殊(コト)に首楞厳経(シユレウゴンキヤウ)を講(カウ)じて、那蘭陀寺(ナランダジ)と号(カウ)す。

その聖の申されしは、那蘭陀寺は、大門(ダイモン)北向きなりと、江帥(ガウゾツ)の説として言ひ伝えたれど、西域伝(サイヰキデン)・法顕伝(ホツケンデン)などにも見えず、更(サラ)に所見(シヨケン)なし。江帥は如何なる才学(サイガク)にてか申されけん、おぼつかなし。唐土(タウド)の西明寺(サイミヤウジ)は、北向き勿論(モチロン)なり」と申しき。

*第百八十段

さぎちやうは、正月(ムツキ)に打ちたる毬杖(ギチヤウ)を、真言(シンゴン)院より神泉苑(シンゼンヱン)へ出(イダ)して、焼き上(ア)ぐるなり。「法成就(ホフジヤウジユ)の池にこそ」と囃(ハヤ)すは、神泉苑の池をいふなり。

*第百八十一段

「『降れ降れ粉雪(コユキ)、たんばの粉雪』といふ事、米搗(ヨネツ)き篩(フル)ひたるに似たれば、粉雪といふ。『たンまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。『垣や木の股(マタ)に』と謡(ウタ)ふべし」と、或物(アルモノ)知り申しき。

昔より言ひける事にや。鳥羽院幼(ヲサナ)くおはしまして、雪の降るにかく仰(オホ)せられける由(ヨシ)、讃岐典侍(サヌキノスケ)が日記に書きたり。

*第百八十二段

四条(シデウ)大納言隆親卿(タカチカノキヤウ)、乾鮭(カラザケ)と言ふものを供御(グゴ)に参らせられたりけるを、「かくあやしき物、参る様(ヤウ)あらじ」と人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚(ウオ)、参らぬ事にてあらんにこそあれ、鮭(サケ)の白乾(シラボ)し、何条事(ナデフゴト)かあらん。鮎(アユ)の白乾しは参らぬかは」と申されけり。

*第百八十三段

人觝(ツ)く牛をば角を截(キ)り、人喰(ク)ふ馬をば耳を截りて、その標(シルシ)とす。標を附(ツ)けずして人を傷(ヤブ)らせぬるは、主(ヌシ)の咎(トガ)なり。人喰ふ犬をば養(ヤシナ)ひ飼ふべからず。これ皆、咎あり。律(リツ)の禁(イマシメ)なり。

*第百八十四段

相模守時頼(サガミノカミトキヨリ)の母(ハハ)は、松下禅尼(マツシタノゼンニ)とぞ申しける。守(カミ)を入れ申さるゝ事ありけるに、煤(スス)けたる明(アカリ)り障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀(コガタナ)して切り廻(マハ)しつゝ張られければ、兄(セウト)の城介義景(ジヤウノスケヨシカゲ)、その日のけいめいして候(サウラ)ひけるが、「給はりて、某男(ナニガシヲノコ)に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、「その男、尼(アマ)が細工によも勝(マサ)り侍らじ」とて、なほ、一間(ヒトマ)づゝ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、遥(ハル)かにたやすく候ふべし。斑(マダ)らに候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、「尼も、後(ノチ)は、さはさはと張り替へんと思へども、今日(ケフ)ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理(シユリ)して用(モチ)ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申されける、いと有難(アリガタ)かりけり。

世を治(ヲサ)むる道、倹約を本(モト)とす。女性(ニヨシヤウ)なれども、聖人の心に通(カヨ)へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、たゞ人(ビト)にはあらざりけるとぞ。

*第百八十五段

城陸奥守泰盛(ジヤウノムツノカミヤスモリ)は、双(サウ)なき馬乗りなりけり。馬を引き出(イダ)させけるに、足を揃(ソロ)へて閾(シキミ)をゆらりと越(コ)ゆるを見ては、「これは勇(イサ)める馬なり」とて、鞍(クラ)を置き換(カ)へさせけり。また、足を伸(ノ)べて閾に蹴当(ケア)てぬれば、「これは鈍(ニブ)くして、過(アヤマ)ちあるべし」とて、乗らざりけり。

道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。

*第百八十六段

吉田(ヨシダ)と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬毎(ウマゴト)にこはきものなり。人の力争(アラソ)ふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、先(マ)づよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に、轡(クツワ)・鞍(クラ)の具(グ)に危(アヤフ)き事やあると見て、心に懸(カカ)る事あらば、その馬を馳(ハ)すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ、秘蔵(ヒサウ)の事なり」と申しき。

*第百八十七段

万(ヨロヅ)の道の人、たとひ不堪(フカン)なりといへども、堪能(カンノウ)の非家(ヒカ)の人に並ぶ時、必ず勝(マサ)る事は、弛(タユ)みなく慎(ツツシ)みて軽々しくせぬと、偏(ヒト)へに自由(ジイウ)なるとの等(ヒト)しからぬなり。

芸能(ゲイノウ)・所作(シヨサ)のみにあらず、大方(オホカタ)の振舞(フルマヒ)・心遣(ココロヅカ)ひも、愚(オロ)かにして慎めるは、得(トク)の本(モト)なり。巧(タク)みにして欲しきまゝなるは、失(シツ)の本なり。

*第百八十八段

或者(アルモノ)、子を法師(ホフシ)になして、「学問して因果(イングワ)の理(コトワリ)をも知り、説経(セツキヤウ)などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教(ヲシヘ)のまゝに、説経師(セツキヤウシ)にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿(コシ)・車(クルマ)は持たぬ身の、導師に請(シヤウ)ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻(モモジリ)にて落ちなんは、心憂(ココロウ)かるべしと思ひけり。次に、仏事(ブツジ)の後(ノチ)、酒など勧むる事あらんに、法師の無下(ムゲ)に能なきは、檀那(ダンナ)すさまじく思ふべしとて、早歌(サウカ)といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境(サカヒ)に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜(タシナ)みけるほどに、説経習うべき隙なくて、年寄りにけり。

この法師のみにもあらず、世間(セケン)の人、なべて、この事あり。若きほどは、諸事(シヨジ)につけて、身を立て、大きなる道をも成(ジヤウ)じ、能をも附き、学問をもせんと、行末(ユクスヱ)久しくあらます事ども心には懸(カ)けながら、世を長閑(ノドカ)に思ひて打ち怠りつゝ、先(マ)づ、差し当りたる、目の前の事のみに紛(マギ)れて、月日を送れば、事々(コトゴト)成す事なくして、身は老いぬ。終(ツヒ)に、物の上手(ジヤウズ)にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔(ク)ゆれども取り返さるゝ齢(ヨハヒ)ならねば、走りて坂を下る輪の如くに衰(オトロ)へ行く。

されば、一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事(イチジ)を励むべし。一日の中(ウチ)、一時(イチジ)の中にも、数多(アマタ)の事の来らん中に、少しも益(ヤク)の勝らん事を営みて、その外(ホカ)をば打ち捨てて、大事(ダイジ)を急ぐべきなり。何方(イヅカタ)をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず。

例へば、碁を打つ人、一手(ヒトテ)も徒(イタヅ)らにせず、人に先立(サキダ)ちて、小(セウ)を捨て大(ダイ)に就(ツ)くが如し。それにとりて、三つの石を捨てて、十(トヲ)の石に就くことは易(ヤス)し。十を捨てて、十一に就くことは難(カタ)し。一つなりとも勝(マサ)らん方へこそ就くべきを、十まで成りぬれば、惜しく覚えて、多く勝らぬ石には換(カ)へ難(ニク)し。これをも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得(エ)ず、これをも失ふべき道なり。

京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行き着きたりとも、西山に行きてその益(ヤク)勝るべき事を思ひ得たらば、門(カド)より帰りて西山へ行くべきなり。「此所(ココ)まで来着(キツ)きぬれば、この事をば先づ言ひてん。日を指(サ)さぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時(イチジ)の懈怠(ケダイ)、即(スナハ)ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。

一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るゝをも傷(イタ)むべからず、人の嘲(アザケ)りをも恥づべからず。万事(バンジ)に換へずしては、一(イツ)の大事(ダイジ)成るべからず。人の数多(アマタ)ありける中にて、或者(アルモノ)、「ますほの薄(ススキ)、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺(ワタノベ)の聖、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮(トウレン)法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑(ミノ)・笠(カサ)やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋(タヅ)ね罷(マカ)らん」と言ひけるを、「余(アマ)りに物騒がし。雨止(ヤ)みてこそ」と人の言ひければ、「無下(ムゲ)の事をも仰せらるゝものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゝしく、有難(アリガタ)う覚ゆれ。「敏(ト)き時は、則ち功(コウ)あり」とぞ、論語(ロンゴ)と云ふ文(フミ)にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁(インネン)をぞ思ふべかりける。

*第百八十九段

今日(ケフ)はその事をなさんと思へど、あらぬ急ぎ先(マ)づ出で来て紛(マギ)れ暮し、待つ人は障(サハ)りありて、頼めぬ人は来たり。頼みたる方の事は違(タガ)ひて、思ひ寄らぬ道ばかりは叶(カナ)ひぬ。煩(ワヅラ)はしかりつる事はことなくて、易(ヤス)かるべき事はいと心苦し。日々(ヒビ)に過ぎ行くさま、予(カネ)て思ひつるには似ず。一年(ヒトトセ)の中(ウチ)もかくの如し。一生の間(アヒダ)もしかなり。

予(カネ)てのあらまし、皆違ひ行くかと思ふに、おのづから、違はぬ事もあれば、いよいよ、物は定め難し。不定(フヂヤウ)と心得ぬるのみ、実(マコト)にて違はず。

*第百九十段

妻(メ)といふものこそ、男(ヲノコ)の持つまじきものなれ。「いつも独(ヒト)り住(ズ)みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰(タレ)がしが婿(ムコ)に成りぬ」とも、また、「如何なる女(ヲンナ)を取り据ゑて、相(アヒ)住む」など聞きつれば、無下(ムゲ)に心劣りせらるゝわざなり。殊(コト)なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添(ソ)ひゐたらめと、苟(イヤ)しくも推(オ)し測(ハカ)られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏(ホトケ)と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内(ウチ)を行(オコナ)ひ治めたる女、いと口惜(クチヲ)し。子など出(イ)で来て、かしづき愛したる、心憂(ウ)し。男なくなりて後、尼(アマ)になりて年寄りたるありさま、亡(ナ)き跡まであさまし。

いかなる女なりとも、明暮添(アケクレソ)ひ見んには、いと心づきなく、憎(ニク)かりなん。女のためも、半空(ナカゾラ)にこそならめ。よそながら時々通ひ住(ス)まんこそ、年月経(ヘ)ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊(トマ)り居(ヰ)などせんは、珍らしかりぬべし。

*第百九十一段

「夜(ヨ)に入りて、物の映(ハ)えなし」といふ人、いと口をし。万のものの綺羅(キラ)・飾(カザ)り・色ふしも、夜(ヨル)のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎ、およすけたる姿(スガタ)にてもありなん。夜は、きらゝかに、花やかなる装束(シヤウゾク)、いとよし。人の気色(ケシキ)も、夜の火影(ホカゲ)ぞ、よきはよく、物言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。匂(ニホ)ひも、ものの音(ネ)も、たゞ、夜ぞひときはめでたき。

さして殊(コト)なる事なき夜、うち更(フ)けて参れる人の、清げなるさましたる、いとよし。若きどち、心止(トド)めて見る人は、時をも分(ワ)かぬものならば、殊に、うち解(ト)けぬべき折節(ヲリフシ)ぞ、褻(ケ)・晴(ハレ)なくひきつくろはまほしき。よき男(ヲトコ)の、日暮(グ)れてゆするし、女(ヲンナ)も、夜更くる程に、すべりつゝ、鏡(カガミ)取りて、顔などつくろひて出づるこそ、をかしけれ。

*第百九十二段

神(カミ)・仏(ホトケ)にも、人の詣(マウ)でぬ日、夜(ヨル)参りたる、よし。

*第百九十三段

くらき人の、人を測(ハカ)りて、その智(チ)を知れりと思はん、さらに当(アタ)るべからず。

拙(ツタナ)き人の、碁(ゴ)打つ事ばかりにさとく、巧(タク)みなるは、賢(カシコ)き人の、この芸におろかなるを見て、己(オノ)れが智に及ばずと定めて、万(ヨロヅ)の道の匠(タクミ)、我が道を人の知らざるを見て、己れすぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。文字(モンジ)の法師、暗証(アンシヨウ)の禅師(ゼンジ)、互(タガ)ひに測りて、己れに如(シ)かずと思へる、共に当(アタ)らず。

己れが境界(キヤウガイ)にあらざるものをば、争(アラソ)ふべからず、是非すべからず。

*第百九十四段

達人(タツジン)の、人を見る眼(マナコ)は、少しも誤(アヤマ)る所あるべからず。

例へば、或人の、世に虚言(ソラゴト)を構(カマ)へ出(イダ)して、人を謀(ハカ)る事あらんに、素直(スナホ)に、実(マコト)と思ひて、言ふまゝに謀らるゝ人あり。余りに深く信を起(オコ)して、なほ煩(ワヅラ)はしく、虚言を心得添(ココロエソ)ふる人あり。また、何(ナニ)としも思はで、心をつけぬ人あり。また、いさゝかおぼつかなく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。また、実(マコト)しくは覚えねども、人の言ふ事なれば、さもあらんとて止(ヤ)みぬる人もあり。また、さまざまに推(スイ)し、心得たるよしして、賢げにうちうなづき、ほゝ笑(ヱ)みてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。また、推(スイ)し出(イダ)して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ、誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、「異(コト)なるやうもなかりけり」と、手を拍(ウ)ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりとも言はず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、少しもあざむかず、構(カマ)へ出したる人と同じ心になりて、力を合(ア)はする人あり。

愚者(グシヤ)の中(ウチ)の戯(タハブ)れだに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞(コトバ)にても、顔にても、隠れなく知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑(マド)へる我等を見んこと、掌(タナゴコロ)の上(ウヘ)の物を見んが如し。但(タダ)し、かやうの推(オ)し測りにて、仏法(ブツポフ)までをなずらへ言ふべきにはあらず。

*第百九十五段

或人(アルヒト)、久我縄手(コガナハテ)を通(トホ)りけるに、小袖(コソデ)に大口(オホクチ)着たる人、木造りの地蔵(ヂザウ)を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗ひけり。心得難(ココロエガタ)く見るほどに、狩衣(カリギヌ)の男二三人(フタリミタリ)出で来て、「こゝにおはしましけり」とて、この人を具(グ)して去(イ)にけり。久我内大臣(コガノナイダイジン)殿にてぞおはしける。

尋常(ヨノツネ)におはしましける時は、神妙(シンベウ)に、やんごとなき人にておはしけり。

*第百九十六段

東大寺の神輿(シンヨ)、東寺の若宮(ワカミヤ)より帰座(キザ)の時、源氏の公卿(クギヤウ)参られけるに、この殿(トノ)、大将(ダイシヤウ)にて先を追はれけるを、土御門相国(ツチミカドノシヤウコク)、「社頭(シヤトウ)にて、警蹕(ケイヒツ)いかゞ侍るべからん」と申されければ、「随身(ズヰジン)の振舞は、兵杖(ヒヤウヂヤウ)の家が知る事に候」とばかり答へ給ひけり。

さて、後に仰せられけるは、「この相国(シヤウコク)、北山抄(ホクザンセウ)を見て、西宮(セイキウ)の説をこそ知られざりけれ。眷属(ケンゾク)の悪鬼(アクキ)・悪神恐るゝ故に、神社にて、殊(コト)に先を追ふべき理あり」とぞ仰せられける。

*第百九十七段

諸寺(シヨジ)の僧のみにもあらず、定額(ヂヤウガク)の女孺(ニヨジユ)といふ事、延喜式(エンギシキ)に見えたり。すべて、数(カズ)定まりたる公人(クニン)の通号(ツウガウ)にこそ。

*第百九十八段

揚名介(ヤウメイノスケ)に限らず、揚名目(ヤウメイノサクワン)といふものあり。政治要略(セイジエウリヤク)にあり。

*第百九十九段

横川行宣法印(ヨカハノギヤウセンホフイン)が申し侍りしは、「唐土(タウド)は呂(リヨ)の国なり。律(リツ)の音(オン)なし。和国(ワコク)は、単律(タンリツ)の国にて、呂の音なし」と申しき。

*第二百段

呉竹(クレタケ)は葉(ハ)細く、河竹(カハタケ)は葉広し。御溝(ミカハ)に近きは河竹、仁寿殿(ジジユウデン)の方(カタ)に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。

*第二百一段

退凡(タイボン)・下乗(ゲジヨウ)の卒都婆(ソトバ)、外(ソト)なるは下乗、内なるは退凡なり。

*第二百二段

十月(ジフグワツ)を神無月(カミナヅキ)と言ひて、神事(ジンジ)に憚るべきよしは、記したる物なし。本文(モトフミ)も見えず。但し、当月(タウゲツ)、諸社(シヨシヤ)の祭なき故に、この名あるか。

この月、万の神達、太神宮(ダイジングウ)に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説(ホンゼツ)なし。さる事ならば、伊勢(イセ)には殊(コト)に祭月(サイゲツ)とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸(ギヤウガウ)、その例も多し。但し、多くは不吉の例なり。

*第二百三段

勅勘(チヨクカン)の所に靫(ユキ)懸くる作法(サホフ)、今は絶えて、知れる人なし。主上(シユシヤウ)の御悩(ゴナウ)、大方、世中(ヨノナカ)の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。鞍馬(クラマ)に靫の明神(ミヤウジン)といふも、靫懸けられたりける神なり。看督長(カドノヲサ)の負(オ)ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封を著(ツ)くることになりにけり。

*第二百四段

犯人(ボンニン)を笞(シモト)にて打つ時は、拷器(ガウキ)に寄せて結ひ附くるなり。拷器の様(ヤウ)も、寄する作法も、今は、わきまへ知れる人なしとぞ。

*第二百五段

比叡山(ヒエノヤマ)に、大師勧請(ダイシクワンジヤウ)の起請(キシヤウ)といふ事は、慈恵僧正(ジヱソウジヤウ)書き始め給ひけるなり。起請文といふ事、法曹(ハウサウ)にはその沙汰なし。古(イニシヘ)の聖代、すべて、起請文につきて行はるゝ政(マツリゴト)はなきを、近代、この事流布(ルフ)したるなり。

また、法令(ハフリヤウ)には、水火に穢(ケガ)れを立てず。入物(イレモノ)には穢れあるべし。

*第二百六段

徳大寺故大臣殿(トクダイジノコオホイトノ)、検非違使(ケンビヰシ)の別当(ベツタウ)の時、中門にて使庁(シチヤウ)の評定(ヒヤウジヤウ)行はれける程(ホド)に、官人章兼(クワンニンアキカネ)が牛放れて、庁の内へ入りて、大理(ダイリ)の座(ザ)の浜床(ハマユカ)の上に登りて、にれうちかみて臥したりけり。重き怪異(ケイ)なりとて、牛を陰陽師(オンヤウジ)の許(モト)へ遣すべきよし、各々(オノオノ)申しけるを、父の相国(シヤウコク)聞き給ひて、「牛に分別(フンベツ)なし。足あれば、いづくへか登らざらん。尫弱(ワウジヤク)の官人、たまたま出仕(シユツシ)の微牛(ビギウ)を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事(キヤウジ)なかりけるとなん。

「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。

*第二百七段

亀山殿(カメヤマドノ)建てられんとて地を引かれけるに、大きなる蛇(クチナハ)、数も知らず凝(コ)り集りたる塚ありけり。「この所の神なり」と言ひて、事の由(ヨシ)を申しければ、「いかゞあるべき」と勅問(チヨクモン)ありけるに、「古くよりこの地を占(シ)めたる物ならば、さうなく掘り捨てられ難し」と皆人(ミナヒト)申されけるに、この大臣(オトド)、一人、「王土(ワウド)にをらん虫、皇居(クワウキヨ)を建てられんに、何の祟(タタ)りをかなすべき。鬼神(キシン)はよこしまなし。咎(トガ)むべからず。たゞ、皆掘り捨つべし」と申されたりければ、塚を崩(クヅ)して、蛇をば大井河に流してンげり。

さらに祟りなかりけり。

*第二百八段

経文(キヤウモン)などの紐(ヒモ)を結ふに、上下(カミシモ)よりたすきに交(チガ)へて、二筋(フタスヂ)の中よりわなの頭(カシラ)を横様(ヨコサマ)に引き出(イダ)す事は、常の事なり。さやうにしたるをば、華厳院弘舜(ケゴンインノコウシユン)僧正、解(ト)きて直させけり。「これは、この比様(ゴロヤウ)の事なり。いとにくし。うるはしくは、たゞ、くるくると巻きて、上より下へ、わなの先を挟(サシハサ)むべし」と申されけり。

古き人にて、かやうの事知れる人になん侍りける。

是はみせけち也。私書之。

*第二百九段

人の田を論ずる者、訴(ウツタ)へに負けて、ねたさに、「その田を刈(カ)りて取れ」とて、人を遣(ツカハ)しけるに、先(マ)づ、道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」と言ひければ、刈る者ども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事(ヒガコト)せんとて罷(マカ)る者なれば、いづくをか刈らざらん」とぞ言ひける。

理、いとをかしかりけり。

*第二百十段

「喚子鳥(ヨブコドリ)は春のものなり」とばかり言ひて、如何(イカ)なる鳥ともさだかに記せる物なし。或真言(アルシンゴン)書の中に、喚子鳥鳴く時、招魂(セウコン)の法をば行ふ次第(シダイ)あり。これは鵺(ヌエ)なり。万葉集の長歌(ナガウタ)に、「霞(カスミ)立つ、長き春日(ハルヒ)の」など続けたり。鵺鳥も喚子鳥のことざまに通(カヨ)いて聞(キコ)ゆ。

*第二百十一段

万(ヨロヅ)の事は頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒(イカ)る事あり。勢(イキホ)ひありとて、頼むべからず。こはき者先(マ)づ滅ぶ。財(タカラ)多しとて、頼むべからず。時の間(マ)に失ひ易し。才(ザエ)ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇(ア)はず。徳ありとて、頼むべからず。顔回(グワンカイ)も不幸なりき。君(キミ)の寵(チョウ)をも頼むべからず。誅(チウ)を受くる事速(スミヤ)かなり。奴(ヤツコ)従へりとて、頼むべからず。背(ソム)き走る事あり。人の志(ココロザシ)をも頼むべからず。必ず変(ヘン)ず。約(ヤク)をも頼むべからず。信(シン)ある事少し。

身をも人をも頼まざれば、是(ゼ)なる時は喜び、非(ヒ)なる時は恨みず。左右(サウ)広ければ、障(サハ)らず、前後遠(ゼンゴトホ)ければ、塞(フサ)がらず。狭(セバ)き時は拉(ヒシ)げ砕(クダ)く。心を用ゐる事少(スコ)しきにして厳(キビ)しき時は、物に逆(サカ)ひ、争ひて破る。緩(ユル)くして柔(ヤハラ)かなる時は、一毛(イチマウ)も損せず。

人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性(シヤウ)、何ぞ異(コト)ならん。寛大(クワンダイ)にして極まらざる時は、喜怒(キド)これに障らずして、物のために煩(ワヅラ)はず。

*第二百十二段

秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下(ムゲ)に心うかるべき事なり。

*第二百十三段

御前(ゴゼン)の火炉(クワロ)に火を置く時は、火箸(ヒバシ)して挟(ハサ)む事なし。土器(カハラケ)より直(タダ)ちに移すべし。されば、転(コロ)び落ちぬやうに心得て、炭を積(ツ)むべきなり。

八幡(ヤハタ)の御幸(ゴカウ)に、供奉(グブ)の人、浄衣(ジヤウエ)を着て、手にて炭をさゝれければ、或有職(アルイウシヨク)の人、「白き物を着たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。

*第二百十四段

想夫恋(サウフレン)といふ楽(ガク)は、女(ヲンナ)、男(ヲトコ)を恋(コ)ふる故の名にはあらず、本(モト)は相府蓮(サウフレン)、文字(モンジ)の通へるなり。晋(シン)の王倹(ワウケン)、大臣(ダイジン)として、家に蓮(ハチス)を植ゑて愛せし時の楽なり。これより、大臣を蓮府(レンプ)といふ。

廻忽(クワイコツ)も廻鶻(クワイコツ)なり。廻鶻国とて、夷(エビス)のこはき国あり。その夷、漢(カン)に伏(フク)して後に、来りて、己れが国の楽を奏せしなり。

*第二百十五段

平宣時朝臣(タヒラノノブトキアツソン)、老(オイ)の後、昔語(ムカシガタリ)に、「最明寺入道(サイミヤウジノニフダウ)、或宵(アルヨヒ)の間(マ)に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂(ヒタタレ)のなくてとかくせしほどに、また、使(ツカヒ)来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様(コトヤウ)なりとも、疾(ト)く』とありしかば、萎(ナ)えたる直垂、うちうちのまゝにて罷(マカ)りたりしに、銚子(テウシ)に土器(カハラケ)取り添(ソ)へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴(サカナ)こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭(シソク)さして、隈々(クマグマ)を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌(ミソ)の少し附きたるを見出(ミイ)でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事(コト)足りなん』とて、心よく数献(スコン)に及びて、興(キョウ)に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。

*第二百十六段

最明寺入道(サイミヤウジノニフダウ)、鶴岡(ツルガヲカ)の社参(シヤサン)の次(ツイデ)に、足利左馬入道(アシカガノサマノニフダウ)の許(モト)へ、先づ使(ツカヒ)を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様(ヤウ)、一献(イツコン)に打ち鮑(アハビ)、二献(ニコン)に海老、三献(サンコン)にかいもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨(リユウベン)僧正、主方(アルジカタ)の人にて座(ザ)せられけり。さて、「年毎に給はる足利の染物(ソメモノ)、心もとなく候ふ」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖(コソデ)に調(テウ)ぜさせて、後に遣されけり。

その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。

*第二百十七段

或大福長者(アルダイフクチヤウジヤ)の云はく、「人は、万(ヨロヅ)をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては、生けるかひなし。富(ト)めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからく、先づ、その心遣(ココロヅカ)ひを修行すべし。その心と云ふは、他の事にあらず。人間常住(ジヤウヂユウ)の思ひに住して、仮にも無常を観(クワン)ずる事なかれ。これ、第一の用心なり。次に、万事の用を叶(カナ)ふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量(シヨグワンムリヤウ)なり。欲に随(シタガ)ひて志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫(シバラ)くも住すべからず。所願(シヨグワン)は止む時なし。財(タカラ)は尽くる期(ゴ)あり。限りある財をもちて、限りなき願ひに随ふ事、得(ウ)べからず。所願心に萌(キザ)す事あらば、我を滅すべき悪念来(アクネンキタ)れりと固く慎(ツツシ)み恐れて、小要(セウエウ)をも為すべからず。次に、銭を奴(ヤツコ)の如くして使ひ用ゐる物と知らば、永く貧苦(ヒンク)を免(マヌカ)るべからず。君の如く、神の如く畏(オソ)れ尊(タフト)みて、従へ用ゐる事なかれ。次に、恥(ハヂ)に臨むといふとも、怒り恨むる事なかれ。次に、正直(シヤウヂキ)にして、約(ヤク)を固くすべし。この義を守(マボ)りて利を求めん人は、富(トミ)の来る事、火の燥(カワ)けるに就(ツ)き、水の下(クダ)れるに随ふが如くなるべし。銭積(ツモ)りて尽きざる時は、宴飲(エンイン)・声色(セイシヨク)を事(コト)とせず、居所(キヨシヨ)を飾らず、所願を成(ジヤウ)ぜざれども、心とこしなへに安く、楽し」と申しき。

そもそも、人は、所願を成ぜんがために、財(ザイ)を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者(ヒンジヤ)と同じ。何をか楽しびとせん。この掟(オキテ)は、たゞ、人間の望みを断ちて、貧を憂(ウレ)ふべからずと聞えたり。欲を成(ジヤウ)じて楽しびとせんよりは、如(シ)かじ、財なからんには。癰(ヨウ)・疽(ソ)を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。こゝに至りては、貧(ヒン)・富(プ)分(ワ)く所なし。究竟(クキヤウ)は理即(リソク)に等し。大欲(タイヨク)は無欲に似たり。

*第二百十八段

狐(キツネ)は人に食ひつくものなり。堀川(ホリカハ)殿にて、舎人(トネリ)が寝たる足を狐に食はる。仁和寺(ニンナジ)にて、夜(ヨル)、本寺(ホンジ)の前を通る下法師(シモボフシ)に、狐三(ミ)つ飛びかゝりて食ひつきければ、刀(カタナ)を抜きてこれを防ぐ間、狐二疋(ヒキ)を突く。一つは突き殺しぬ。二つは逃げぬ。法師は、数多所(アマタトコロ)食はれながら、事故(コトユヱ)なかりけり。

*第二百十九段

四条黄門(シデウノクワウモン)命ぜられて云はく、「竜秋(タツアキ)は、道にとりては、やんごとなき者なり。先日(センジツ)来りて云はく、『短慮(タンリヨ)の至り、極めて荒涼(クワウリヤウ)の事なれども、横笛(ヨコブエ)の五(ゴ)の穴は、聊(イササ)かいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存(ゾン)ず。その故は、干(カン)の穴は平調(ヒヤウデウ)、五の穴は下無調(シモムデウ)なり。その間に、勝絶調(シヨウゼツデウ)を隔てたり。上(ジヤウ)の穴、双調(サウデウ)。次に、鳧鐘調(フシヨウデウ)を置きて、夕(サク)の穴、黄鐘調(ワウジキデウ)なり。その次に鸞鏡調(ランケイデウ)を置きて、中(チユウ)の穴、盤渉調(バンシキデウ)、中と六とのあはひに、神仙調(シンセンデウ)あり。かやうに、間々(ママ)に皆一律(イチリツ)をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子を持たずして、しかも、間(マ)を配る事等(ヒト)しき故に、その声不快(フクワイ)なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得(ウ)る人難(カタ)し』と申しき。料簡(レウケン)の至り、まことに興あり。先達(センダチ)、後生(コウセイ)を畏(オソ)ると云ふこと、この事なり」と侍りき。

他日(タジツ)に、景茂(カゲモチ)が申し侍りしは、「笙(シヤウ)は調べおほせて、持ちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛(フエ)は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴毎(ゴト)に、口伝(クデン)の上に性骨(シヤウコツ)を加へて、心を入(イ)るゝこと、五の穴のみに限らず。偏(ヒトヘ)に、のくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手(ジヤウズ)はいづれをも吹き合はす。呂律(リヨリツ)の、物に適(カナ)はざるは、人の咎(トガ)なり。器(ウツハモノ)の失(シツ)にあらず」と申しき。

*第二百二十段

「何事も、辺土(ヘンド)は賤しく、かたくななれども、天王寺(テンワウジ)の舞楽(ブガク)のみ都(ミヤコ)に恥ぢず」と云ふ。天王寺の伶人(レイジン)の申し侍りしは、「当寺(タウジ)の楽(ガク)は、よく図(ヅ)を調べ合はせて、ものの音(ネ)のめでたく調(トトノホ)り侍る事、外(ホカ)よりもすぐれたり。故は、太子(タイシ)の御時(オントキ)の図、今に侍るを博士(ハカセ)とす。いはゆる六時(ロクジ)堂の前の鐘なり。その声、黄鐘調(ワウジキデウ)の最中(モナカ)なり。寒(カン)・暑(シヨ)に随(シタガ)ひて上(アガ)り・下(サガ)りあるべき故に、二月涅槃会(ニグワツネハンヱ)より聖霊会(シヤウリヤウヱ)までの中間(チユウゲン)を指南(シナン)とす。秘蔵(ヒサウ)の事なり。この一調子(イツテウシ)をもちて、いづれの声をも調へ侍るなり」と申しき。

凡(オヨ)そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎(ギヲンシヤウジヤ)の無常院(ムジヤウヰン)の声なり。西園寺(サイヲンジ)の鐘、黄鐘調に鋳(イ)らるべしとて、数多度(アマタタビ)鋳かへられけれども、叶(カナ)はざりけるを、遠国(ヲンゴク)より尋ね出されけり。浄金剛(ジヤウコンガウ)院の鐘の声、また黄鐘調なり。

*第二百二十一段

「建治(ケンヂ)・弘安(コウアン)の比は、祭(マツリ)の日の放免(ハウベン)の附物(ツケモノ)に、異様(コトヤウ)なる紺の布四五反(シゴタン)にて馬を作りて、尾(ヲ)・髪には燈心(トウジミ)をして、蜘蛛(クモ)の網(イ)書(カ)きたる水干(スヰカン)に附(ツ)けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及(ミオヨ)び侍りしなども、興(キョウ)ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志(ダウシ)どもの、今日(ケフ)も語り侍るなり。

この比は、附物(ツケモノ)、年を送りて、過差(クワサ)殊(コト)の外(ホカ)になりて、万(ヨロヅ)の重き物を多く附けて、左右(サウ)の袖(ソデ)を人に持たせて、自(ミヅカ)らは鉾(ホコ)をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。

*第二百二十二段

竹谷乗願房(タケダニノジヨウグワンボウ)、東二乗院(トウニデウノヰン)へ参られたりけるに、「亡者(マウジヤ)の追善(ツヰゼン)には、何事か勝利(シヨウリ)多き」と尋(タヅ)ねさせ給ひければ、「光明真言(クワウミヤウシンゴン)・宝篋印陀羅尼(ホウケウインダラニ)」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念仏(ネンブツ)に勝る事候ふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「我(ワ)が宗(シユウ)なれば、さこそ申さまほしかりつれども、正しく、称名(ショウミャウ)を追福(ブク)に修(シユ)して巨益(コヤク)あるべしと説ける経文を見及ばねば、何に見えたるぞと重(カサ)ねて問はせ給はば、いかゞ申さんと思ひて、本経(ホンギョウ)の確かなるにつきて、この真言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。

*第二百二十三段

鶴(タヅ)の大臣殿(オホイトノ)は、童名(ワラハナ)、たづ君(ギミ)なり。鶴を飼ひ給ひける故にと申すは、僻事(ヒガコト)なり。

*第二百二十四段

陰陽師有宗入道(オンヤウジアリムネニフダウ)、鎌倉より上(ノボ)りて、尋(タヅ)ねまうで来りしが、先づさし入りて、「この庭のいたすらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植(ウ)うる事を努(ツト)む。細道(ホソミチ)一つ残して、(ミナ)皆、畠(ハタケ)に作り給へ」と諌(イサ)め侍りき。

まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益(ヤク)なき事なり。食ふ物・薬種(ヤクシユ)など植ゑ置くべし。

*第二百二十五段

多久資(オホノヒサスケ)が申しけるは、通憲入道(ミチノリニフダウ)、舞(マヒ)の手の中(ナカ)に興(キョウ)ある事どもを選びて、磯(イソ)の禅師(ゼンジ)といひける女に教へて舞はせけり。白き水干(スヰカン)に、鞘巻(サウマキ)を差させ、烏帽子(エボシ)を引き入れたりければ、男舞(ヲトコマヒ)とぞ言ひける。禅師が娘(ムスメ)、静(シヅカ)と言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子(シラビヤウシ)の根元(コンゲン)なり。仏神(ブツジン)の本縁(ホンエン)を歌ふ。その後、源光行(ミツユキ)、多くの事を作れり。御鳥羽院の御作(ゴサク)もあり、亀菊(カメギク)に教へさせ給ひけるとぞ。

*第二百二十六段

後鳥羽院(ゴトバノヰン)の御時(オントキ)、信濃前司行長(シナノノゼンジユキナガ)、稽古(ケイコ)の誉(ホマレ)ありけるが、楽府(ガフ)の御論議(ミロンギ)の番(バン)に召されて、七徳(シチトク)の舞(マイ)を二つ忘れたりければ、五徳(ゴトク)の冠者(クワンジヤ)と異名(イミヤウ)を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世(トンゼイ)したりけるを、慈鎮和尚(ヂチンクワシヤウ)、一芸(イチゲイ)ある者をば、下部(シモベ)までも召し置きて、不便(フビン)にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(フチ)し給ひけり。

この行長入道、平家物語(ヘイケノモノガタリ)を作りて、生仏(シヤウブツ)といひける盲目(マウモク)に教へて語らせけり。さて、山門(サンモン)の事を殊にゆゝしく書けり。九郎判官(クラウハングワン)の事は委(クハ)しく知りて書き載せたり。蒲冠者(カバノクワンジヤ)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記(シル)し洩らせり。武士の事、弓馬(キウバ)の業(ワザ)は、生仏、東国(トウゴク)の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生(ウマ)れつきの声を、今の琵琶(ビハ)法師は学びたるなり。

*第二百二十七段

六時礼讃(ロクジライサン)は、法然上人(ホフネンシヤウニン)の弟子、安楽(アンラク)といひける僧、経文(キヤウモン)を集めて作りて、勤(ツト)めにしけり。その後、太秦善観房(ウヅマサノゼンクワンボウ)といふ僧、節博士(フシハカセ)を定めて、声明(シヤウミヤウ)になせり。一念(イチネン)の念仏の最初なり。御嵯峨(ゴサガノ)院の御代(ミヨ)より始まれり。法事讃(ホフジサン)も、同じく、善観房始めたるなり。

是にもみせけし也。

*第二百二十八段

千本の釈迦念仏(シヤカネンブツ)は、文永(ブンエイ)の比、如輪(ニヨリン)上人、これを始められけり。

*第二百二十九段

よき細工(サイク)は、少し鈍き刀(カタナ)を使ふと言ふ。妙観(メウクワン)が刀はいたく立たず。

*第二百三十段

五条内裏(ゴデウノダイリ)には、妖物(バケモノ)ありけり。藤大納言殿語(トウノダイナゴンドノ)られ侍りしは、殿上人(テンジヤウビト)ども、黒戸(クロド)にて碁を打ちけるに、御簾(ミス)を掲げて見るものあり。「誰(タ)そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗(ノゾ)きたるを、「あれ狐よ」とどよまれて、惑(マド)ひ逃げにけり。

未練(ミレン)の狐、化け損じけるにこそ。

是も二本は有之

*第二百三十一段

園(ソノ)の別当入道(ベツタウニフダウ)は、さうなき庖丁者(ホウチヤウジヤ)なり。或人の許(モト)にて、いみじき鯉(コヒ)を出だしたりければ、皆人(ミナヒト)、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかゞとためらひけるを、別当入道、さる人にて、「この程(ホド)、百日(ヒヤクニチ)の鯉を切り侍るを、今日(ケフ)欠(カ)き侍るべきにあらず。枉(マ)げて申し請(ウ)けん」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道(キタヤマノダイジヤウニフダウ)殿に語り申されたりければ、「かやうの事、己(オノ)れはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、給(タ)べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。何条(ナデウ)、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。

大方(オホカタ)、振舞(フルマ)ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人(マレビト)の饗応(キヤウオウ)なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、たゞ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉(タテマツ)らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由(ヨシ)して乞(コ)はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

*第二百三十二段

すべて、人は、無智(ムチ)・無能(ムノウ)なるべきものなり。或(アルヒト)人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言(モノイ)ふとて、史書(シシヨ)の文(モン)を引きたりし、賢(サカ)しくは聞えしかども、尊者(ソンジヤ)の前にてはさらずともと覚えしなり。また、或人の許(モト)にて、琵琶法師(ビハホフシ)の物語を聞かんとて琵琶を召(メ)し寄(ヨ)せたるに、柱(ヂユウ)の一つ落ちたりしかば、「作りて附(ツ)けよ」と言ふに、ある男の中(ナカ)に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓(ヒシヤク)の柄(エ)ありや」など言ふを見れば、爪(ツメ)を生(オ)ふしたり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(メクラホフシ)の琵琶、その沙汰(サタ)にも及ばぬことなり。道に心得たる由(ヨシ)にやと、かたはらいたかりき。「柄杓の柄は、檜物木(ヒモノギ)とかやいひて、よからぬ物に」とぞ或人仰せられし。

若き人は、少(スコ)しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

*第二百三十三段

万(ヨロヅ)の咎(トガ)あらじと思はば、何事(ナニゴト)にもまことありて、人を分(ワ)かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女(ナンニヨ)・老少(ラウセウ)、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちよき人の、言(コト)うるはしきは、忘れ難(ガタ)く、思ひつかるゝものなり。

万の咎は、馴れたるさまに上手(ジヤウズ)めき、所得(トコロエ)たる気色(ケシキ)して、人をないがしろにするにあり。

*第二百三十四段

人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのまゝに言はんはをこがましとにや、心惑(マド)はすやうに返事(カヘリコト)したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うらゝかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。

人は未(イマ)だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるまゝに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言ひ遣(ヤ)りたれば、「如何(イカ)なる事のあるにか」と、押し返し問ひに遣るこそ、心づきなけれ。世に古(フ)りぬる事をも、おのづから聞き洩(モラ)すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪(ア)しかるべきことかは。

かやうの事は、物馴(モノナ)れぬ人のある事なり。

*第二百三十五段

主(ヌシ)ある家には、すゞろなる人、心のまゝに入り来(ク)る事なし。主なき所には、道行人濫(ミチユキビトミダ)りに立ち入り、狐・梟(フクロフ)やうの物も、人気(ヒトゲ)に塞(セ)かれねば、所得顔(トコロエガホ)に入(イ)り棲(ス)み、木霊(コタマ)など云ふ、けしからぬ形も現(アラ)はるゝものなり。

また、鏡(カガミ)には、色(イロ)・像(カタチ)なき故に、万の影来(カゲキタ)りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。

虚空(コクウ)よく物を容(イ)る。我等(ワレラ)が心に念々(ネンネン)のほしきまゝに来り浮(ウカ)ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主(ヌシ)あらましかば、胸の中(ウチ)に、若干(ソコバク)の事は入り来らざらまし。

*第二百三十六段

丹波(タンバ)に出雲(イヅモ)と云ふ所あり。大社(オホヤシロ)を移して、めでたく造れり。しだの某(ナニガシ)とかやしる所なれば、秋の比、聖海(シヤウカイ)上人、その他も人数多(ヒトアマタ)誘ひて、「いざ給(タマ)へ、出雲拝(ヲガ)みに。かいもちひ召(メ)させん」とて具(グ)しもて行きたるに、各々(オノオノ)拝みて、ゆゝしく信(シン)起したり。

御前(オマヘ)なる獅子(シシ)・狛犬(コマイヌ)、背きて、後(ウシロ)さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様(ヤウ)、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原(トノバラ)、殊勝(シユシヤウ)の事は御覧(ゴラン)じ咎(トガ)めずや。無下(ムゲ)なり」と言へば、各々怪(アヤ)しみて、「まことに他(タ)に異(コト)なりけり」、「都(ミヤコ)のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官(ジングワン)を呼びて、「この御社(ミヤシロ)の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承(ウケタマハ)らばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童(ワラワベ)どもの仕りける、奇怪(キクワイ)に候う事なり」とて、さし寄りて、据(ス)ゑ直して、往(イ)にければ、上人の感涙(カンルヰ)いたづらになりにけり。

*第二百三十七段

柳筥(ヤナイバコ)に据(ス)うる物は、縦様(タテサマ)・横様(ヨコサマ)、物によるべきにや。「巻物などは、縦様に置きて、木(キ)の間(アハヒ)より紙ひねりを通(トホ)して、結(ユ)い附(ツ)く。硯(スズリ)も、縦様に置きたる、筆転(コロ)ばず、よし」と、三条右大臣殿(サンデウノウダイジン)仰せられき。

勘解由小路(カデノコウヂ)の家の能書(ノウジヨ)の人々は、仮にも縦様に置かるゝ事なし。必ず、横様に据ゑられ侍りき。

*第二百三十八段

御随身近友(ミズヰジンチカトモ)が自讃(ジサン)とて、七箇条(シチカデウ)書き止(トド)めたる事あり。皆(ミナ)、馬芸(バゲイ)、させることなき事どもなり。その例(タメシ)を思ひて、自賛の事七つあり。

一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院(サイシヤウクワウヰン)の辺(ヘン)にて、男(ヲノコ)の、馬を走(ハシ)らしむるを見て、「今一度(ヒトタビ)馬を馳(ハ)するものならば、馬倒(タフ)れて、落つべし。暫(シバ)し見給へ」とて立ち止(ドマ)りたるに、また、馬を馳す。止(トド)むる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土(デイト)の中に転(コロ)び入る。その詞(コトバ)の誤らざる事を人皆感ず。

一、当代未(タウダイイマ)だ坊(ボウ)におはしましし比(コロ)、万里小路殿御所(マデノコウヂドノゴシヨ)なりしに、堀川(ホリカハノ)大納言殿伺候(シコウ)し給ひし御曹司(ミザウシ)へ用ありて参りたりしに、論語(ロンゴ)の四・五・六の巻(マキ)をくりひろげ給ひて、「たゞ今、御所にて、『紫の、朱奪(アケウバ)ふことを悪(ニク)む』と云ふ文(モン)を御覧ぜられたき事ありて、御本(ゴホン)を御覧ずれども、御覧じ出(イダ)されぬなり。『なほよく引き見よ』と仰(オホ)せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九(ク)の巻のそこそこの程(ホド)に侍る」と申したりしかば、「あな嬉(ウレ)し」とて、もて参らせ給ひき。かほどの事は、児(チゴ)どもも常(ツネ)の事なれど、昔の人はいさゝかの事をもいみじく自賛(ジサン)したるなり。御鳥羽(ゴトバ)院の、御歌(ミウタ)に、「袖(ソデ)と袂(タモト)と、一首の中(ウチ)に悪(ア)しかりなんや」と、定家卿(テイカノキヤウ)に尋(タヅ)ね仰せられたるに、「『秋の野の草の袂か花薄穂(ズスキホ)に出(イ)でて招く袖と見ゆらん』と侍れば、何事(ナニゴト)か候ふべき」と申されたる事も、「時に当(アタ)りて本歌(ホンカ)を覚悟(カクゴ)す。道の冥加(ミヤウガ)なり、高運(コウウン)なり」など、ことことしく記(シル)し置かれ侍るなり。九条相国伊通公(クデウノシヤウコクコレミチ)の款状(クワジヤウ)にも、殊(コト)なる事なき題目(ダイモク)をも書き載せて、自賛せられたり。

一、常在光院(ジヤウザイクワウヰン)の撞(ツ)き鐘(ガネ)の銘(メイ)は、在兼卿(アリカネノキヤウ)の草(サウ)なり。行房朝臣清書(ユキフサノアソンセイジヨ)して、鋳型(イカタ)に模(ウツ)さんとせしに、奉行(ブギヤウ)の入道(ニフダウ)、かの草を取り出でて見せ侍りしに、「花の外(ホカ)に夕(ユフベ)を送れば、声百里(ハクリ)に聞(キコ)ゆ」と云ふ句あり。「陽唐(ヤウタウ)の韻(ヰン)と見ゆるに、百里誤(アヤマ)りか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉(タテマツ)りける。己(オノ)れが高名(カウミヤウ)なり」とて、筆者(ヒツシヤ)の許(モト)へ言ひ遣(ヤ)りたるに、「誤り侍りけり。数行(スカウ)と直(ナホ)さるべし」と返事(カヘリコト)侍りき。数行も如何(イカ)なるべきにか。若(モ)し数歩(スホ)の心か。おぼつかなし。

一、人あまた伴(トモナ)ひて、三塔巡礼(サンタフジユンレイ)の事侍りしに、横川(ヨカハ)の常行堂(ジヤウギヤウダウ)の中、竜華院(リョウゲヰン)と書ける、古き額(ガク)あり。「佐理(サリ)・行成(カウゼイ)の間(アヒダ)疑ひありて、未(イマ)だ決(ケツ)せずと申し伝へたり」と、堂僧(ダウソウ)ことことしく申し侍りしを、「行成ならば、裏書(ウラガキ)あるべし。佐理(サリ)ならば、裏書(ウラガキ)あるべからず」と言ひたりしに、裏は塵積(チリツモ)り、虫の巣(ス)にていぶせげなるを、よく掃(ハ)き拭(ノゴ)ひて、各々(オノオノ)見侍りしに、行成位署(カウゼイヰジヨ)・名字(ミヤウジ)・年号(ネンガウ)、さだかに見え侍りしかば、人皆(ミナ)興に入(イ)る。

一、那蘭陀寺(ナランダジ)にて、道眼聖談義(ダウゲンヒジリダンギ)せしに、八災(ハツサイ)と云ふ事を忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化(シヨケ)皆(ミナ)覚えざりしに、局(ツボネ)の内(ウチ)より、「これこれにや」と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

一、賢助僧正(ケンジヨソウジヨウ)に伴(トモナ)ひて、加持香水(カヂコウズヰ)を見侍りしに、未だ果てぬ程(ホド)に、僧正帰り出で侍りしに、陳(ヂン)の外(ト)まで僧都(ソウヅ)見えず。法師どもを返して求めさするに、「同じ様(サマ)なる大衆(ダイシユ)多くて、え求め逢(ア)はず」と言ひて、いと久(ヒサ)しくて出でたりしを、「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、帰り入りて、やがて具(グ)して出でぬ。

一、二月十五日(キサラギジフゴニチ)、月明(ツキアカ)き夜(ヨ)、うち更(フ)けて、千本の寺に詣(マウ)でて、後(ウシロ)より入りて、独(ヒト)り顔深く隠(カク)して聴聞(チヤウモン)し侍(ハンベ)りしに、優(イウ)なる女の、姿・匂(ニホ)ひ、人より殊(コト)なるが、分(ワ)け入りて、膝(ヒザ)に居(ヰ)かゝれば、匂ひなども移るばかりなれば、便(ビン)あしと思ひて、摩(ス)り退(ノ)きたるに、なほ居寄(ヰヨ)りて、同じ様(サマ)なれば、立ちぬ。その後(ノチ)、ある御所様(ゴシヨサマ)の古き女房(ニヨウバウ)の、そゞろごと言はれしついでに、「無下(ムゲ)に(イロ)色なき人におはしけりと、見おとし奉(タテマツ)る事なんありし。情(ナサケ)なしと恨(ウラ)み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更(サラ)にこそ心得(ココロエ)侍れね」と申して止(ヤ)みぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局(ミツボネ)の内より、人の御覧じ知りて、候(サウラ)ふ女房を作り立てて出し給ひて、「便(ビン)よくは、言葉などかけんものぞ。その有様(アリサマ)参りて申せ。興あらん」とて、謀(ハカ)り給ひけるとぞ。

*第二百三十九段

八月十五日(ハツキジフゴニチ)・九月十三日(ナガヅキジフサンニチ)は、婁宿(ロウシユク)なり。この宿、清明(セイメイ)なる故に、月を翫(モテアソ)ぶに良夜(リヤウヤ)とす。

*第二百四十段

しのぶの浦(ウラ)の蜑(アマ)の見る目も所(トコロ)せく、くらぶの山も守(モ)る人繁(シゲ)からんに、わりなく通(カヨ)はん心の色(イロ)こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々(フシブシ)の忘れ難(ガタ)き事も多からめ、親・はらから許(ユル)して、ひたふるに迎(ムカ)へ据(ス)ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。

世にありわぶる女の、似げなき老法師(オイボフシ)、あやしの吾妻人(アヅマウド)なりとも、賑(ニギ)はゝしきにつきて、「誘(サソ)う水あらば」など云ふを、仲人(ナカウド)、何方(イヅカタ)も心にくき様(サマ)に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎(ムカ)へもて来(キ)たらんあいなさよ。何事(ナニゴト)をか打ち出(イ)づる言(コト)の葉(ハ)にせん。年月(トシツキ)のつらさをも、「分(ワ)け来(コ)し葉山(ハヤマ)の」なども相語(アヒカタ)らはんこそ、尽(ツ)きせぬ言(コト)の葉(ハ)にてもあらめ。

すべて、余所(ヨソ)の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下(シナクダ)り、見にくゝ、年(トシ)も長(タ)けなん男は、かくあやしき身(ミ)のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣(ココロオト)りせられ、我が身は、向(ムカ)ひゐたらんも、影恥(カゲハヅ)かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。

梅の花かうばしき夜(ヨ)の朧月(オボロヅキ)に佇(タタズ)み、御垣(ミカキ)が原(ハラ)の露分(ツユワ)け出でん有明(アリアケ)の空も、我(ワ)が身様(ミザマ)に偲(シノ)ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんには如(シ)かじ。

*第二百四十一段

望月(モチヅキ)の円(マド)かなる事は、暫(シバラ)くも住(ヂユウ)せず、やがて欠(カ)けぬ。心止(トド)めぬ人は、一夜(ヒトヨ)の中(ウチ)にさまで変る様(サマ)の見えぬにやあらん。病(ヤマヒ)の重(オモ)るも、住する隙(ヒマ)なくして、死期(シゴ)既に近し。されども、未(イマ)だ病急(キフ)ならず、死に赴(オモム)かざる程は、常住平生(ジヤウヂユウヘイゼイ)の念に習ひて、生(シヤウ)の中に多くの事を成(ジヤウ)じて後(ノチ)、閑(シヅ)かに道を修(シユ)せんと思ふ程に、病を受けて死門(シモン)に臨む時、所願一事(シヨグワンイチジ)も成せず。言ふかひなくて、年月(トシツキ)の懈怠(ケダイ)を悔(ク)いて、この度(タビ)、若(モ)し立ち直りて命(イノチ)を全(マツタ)くせば、夜(ヨ)を日(ヒ)に継ぎて、この事、かの事、怠(オコタ)らず成(ジャウ)じてんと願ひを起すらめど、やがて重(オモ)りぬれば、我(ワレ)にもあらず取り乱して果てぬ。この類(タグイ)のみこそあらめ。この事、先(マ)づ、人々、急ぎ心に置くべし。

所願(シヨグワン)を成じて後(ノチ)、暇(イトマ)ありて道に向(ムカ)はんとせば、所願尽(ツ)くべからず。如幻(ニヨゲン)の生(シヤウ)の中(ウチ)に、何事(ナニゴト)をかなさん。すべて、所願皆妄想(ミナマウザウ)なり。所願心に来たらば、妄信迷乱(マウシンメイラン)すと知りて、一事(イチジ)をもなすべからず。直(ヂキ)に万事(バンジ)を放下(ハウゲ)して道に向(ムカ)ふ時、障りなく、所作(シヨサ)なくて、心身(シンジン)永く閑(シヅ)かなり。

*第二百四十二段

とこしなへに違順(ヰジユン)に使はるゝ事は、ひとへに苦楽(ラク)のためなり。楽(ラク)と言ふは、好(コノ)み愛(アイ)する事なり。これを求むること、止(ヤ)む時なし。楽欲(ゲウヨク)する所、一つには名(ナ)なり。名に二種(ニシユ)あり。行跡(カウセキ)と才芸(サイゲイ)との誉(ホマレ)なり。二つには色欲(シキヨク)、三つには味(アヂハ)ひなり。万(ヨロヅ)の願ひ、この三つには如(シ)かず。これ、顛倒(テンダウ)の想(サウ)より起りて、若干(ソコバク)の煩(ワヅラ)ひあり。求めざらんにには如(シ)かじ。

*第二百四十三段

八(ヤ)つになりし年、父に問ひて云はく、「仏(ホトケ)は如何(イカ)なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成(ナ)りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教(ヲシヘ)によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧(ワ)きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人(シヨニン)に語(カタ)りて興(キヨウ)じき。----------------------------------------------------------------------------

(底本跋文)慶長十八年(1613)八月十五日に烏丸光広が記した。

這両帖、吉田兼好法師、燕居之日、徒然向暮、染筆写情者也。頃、泉南亡羊処士、箕踞洛之草廬、而談李老之虚無、説荘生之自然。且、以晦日、対二三子、戯講焉。加之、後将書以命於工、鏤於梓、而付夫二三子矣。越、句読・清濁以下、俾予糾之。予、坐好其志、忘其醜、卒加校訂而己。復、恐有其遺逸也。

慶長癸丑仲秋日黄門

光広

(上、訳文)

這(コ)ノ両帖(リヤウデフ)ハ、吉田ノ兼好法師、燕居(エンキヨ)ノ日、徒然(トゼン)トシテ暮ニ向ヒ、筆ヲ染メテ情(ジヨウ)ヲ写スモノナリ。頃(コノゴロ)、泉南(センナン)ノ亡羊処士(バウヤウシヨシ)、洛(ラク)ノ草廬(サウロ)ニ箕踞(キキヨ)シテ、李老(リラウ)ノ虚無(キヨム)ヲ談(ダン)ジ、荘生(サウセイ)ノ自然ヲ説キ、且(カ)ツ、暇日(カジツ)ナルヲ以テ、二三子(ニサンシ)ニ対シ、戯(タハム)レニ焉(コレ)ヲ講ズ。加之(シカノミナラズ)、後ニ、将(マサ)ニ、書(シヨ)シテ以テ工(コウ)ニ命ジ、梓(アヅサ)ニ鏤(キザ)ミテ、夫(カ)ノ二三子ニ付(フ)セントス。越(ココ)ニ、句読(クトウ)・清濁以下(セイダクイゲ)、予(ヨ)ヲシテ之(コレ)ヲ糾(タダ)サシム。予、坐(ソゾロ)ニ、其ノ志(ココロザシ)ヲ好(ヨミ)シ、其ノ醜(シウ)ヲ忘レ、卒(ニハカ)ニ校訂(コウテイ)ヲ加(クハ)フルノミ。復(マタ)、其ノ遺逸(ヰイツ)アランコトヲ恐ルヽナリ。

慶長癸丑(ケイチヤウキチユウ)ノ仲秋(チユウシウ)ノ日黄門(クワウモン)

光広(ミツヒロ)

これは松田史生氏をはじめとする多くの人によって作成されPublic Damain Dataとして
http://colorado.kais.kyoto-u.ac.jp/DIRECTORY/personal/matsuda/cannabinol/tsure/tsure.html
に公開されているもののうちのベタテキスト版(ルビ付)に一部当方で手を加えたものである。



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