私見・偏見(2003年)

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 先日古本屋で新潮社日本文學全集という赤い箱入りの本が並んでいるので開いてみると、そのなかに旧仮名遣いのものがある。これはおもしろいと思って一冊百円なので旧仮名遣いのものだけを全部買って帰った。

 戦前の作家はみんな旧仮名遣いで書いたが、それをそのまま読むには新刊では個人全集ぐらいしかなく、とても値が張る。古本でも今では旧仮名遣いのものはなかなかない。それが捨て値で売られているのだから喜んで買ったわけだ。

 現代仮名遣いは旧仮名遣いよりも実際の発音に近づいた表記方法ではあるが、発音どおりではない。例えば「〜しよう」と書いて「〜しよお」と読む。「お」で終わる文は見た目に美しくないから旧仮名遣いの「う」は残したのだろう。

 こんな風な間に合わせのものだから、それなら昔のままでいいじゃないかと旧仮名遣いを使う人たちがいるのも無理はない。しかし、旧仮名遣いで書くのは大変で、たとえば三通りの「い」(い、ゐ、ひ)の使い分けを知っていなければいけない。

 もっとも、旧仮名遣いで書くときにも漢字を多く使えば旧仮名遣いの出番はあまりないのだが、そこまで行かなくても私のように読むだけは旧仮名遣いでという人は増えているのではないか。(2003年12月31日)






 『伊勢物語』というと、在原業平(ありわらのなりひら)という色男の一代記のように言われているが、実際に読んでみると違う印象を受ける。私の印象では、これは在原業平の歌の自慢集である。

 『伊勢物語』は百二十五の話からなっているが、その多くは彼がどんな機会にどんな上手な歌を作ったかを記録したものである。それを集めて年代順に並べたのが『伊勢物語』なのである。

 色男の一代記なら女性遍歴が主題でなければならないが、女のこととは無縁の話もたくさんある。そういう話では、沢山の人がいた中で業平の歌が一番よかっ たとか、あとの人は気が引けて歌うのをやめてしまったとか、彼の歌でみんなが感動したとかいう自慢話の面がはっきり出てくる。

 昔も今も和歌を作るのは簡単なことではないのだ。たいていは五七五の字数を合わせるのに精一杯で、その上で美的価値のあるものを作るなどとても出来るこ とではない。ところが、在原業平はそれがずば抜けてうまかった。しかも、その歌は古今集の時代の歌のなかでも、凝りに凝った複雑な歌で技術的に完成された ものだった。そのことが『伊勢物語』を読むと分かるのである。

 だから、『伊勢物語』を読んでいると、全体を今の順に並べた人は別として、個々の話を書いたのは在原業平自身だとしか思えないのである。逆に、これを 『好色一代記』や『ドンファン』のようなものと思って読み始めると、話として面白いのは五つ(第4、6、62、63、65段)ほどしかないので退屈して途 中で投げ出してしまうだろう。この本はあくまでも和歌を楽しむ本なのである。(2003年12月31日)







 NHKの『映像の世紀』には、動画を使えば歴史の真実をまざまざと伝えられるという思いこみがある。

 しかし、過去の動画からは人間の滑稽さばかりが見えてくる。歴史上のどんな悲惨な出来事も、動画で見ると何をそんなに動き回っているのかと思われることのほうが多い。

 だから、NHKはやたらと深刻な音楽とナレーションを付け加えた。

 しかし、もともと生物としての人間の存在には何か特別な価値があるわけではない。人間はゴキリブリよりも深刻な生き物ではないのだ。人間の命を価値あるものと見るのは、人間の独善的な想像力のおかげでしかない。

 ところが、動画は自由な想像を許さない。動画では、人が射殺されるということはステンとこけるだけなのである。それに比べるとむしろ写真の方がインパクトが強い。写真はそこに含まれている意味を想像で補う必要がある。それがかえって写真の真実性を増大する。

 動画に写った人間の姿は滑稽であり、音楽とナレーションは脚色でしかない。それで歴史の真実が伝わると考えるなら、それは早計というものである。(2003年12月24日)






 今年はフランスについて考え直したくなることが色々あった。

 その第一は、夏の猛暑で何千人もの老人が死んだことである。なんとフランスの老人ホームにはクーラーがない。一般の家にもクーラーはあまりついてないのだ。

 その第二は、フランスではレストランに修行に来ている外国人に給料を払わないということである。

 もともとフランスで毎日のようにストと洪水があることは、テレビのニュースで知っていた。
 
 ストは人権意識が高いからだと思っていた。しかし、先進国のフランスで毎日のように洪水があるのはおかしい。また、フランスの夏は涼しいからクーラーは いらないと言う人もいるが、実際にフランス旅行をした日本人はクーラーのない生活にかなり面食らうらしい。それに、日本でなら何の役にも立たない新人にも 10万円ぐらいの給料はやるものだ。

 ここらから考えられるのは、フランス人はかなりケチなのではないかということだ。レ・ミゼラブルでコゼットを酷使したテナルディエ夫婦は決して誇張ではなく、フランス人は川の堤防にも従業員の給料にもケチっているのではないか。

 さもなければフランスは貧しい国なのである。フランス好きの人にはそれもこれも文化の違いと言いたいかもしれない。しかし、人をただ働きさせたり老人にクーラーを使わせないような国はやはり豊かな国ではない。(2003年12月23日)






 毎日新聞社が世論調査を発表したが変な内容である。

 見出しは「自衛隊イラク派遣:反対54%と過半数」となっている。この数字は、この新聞社が自衛隊のイラク派遣に反対していることを考えるとかなり少ない数字だ。賛成している新聞社の調査では、条件付きながら賛成している人が七割近くにのぼるからである。

 さらに、この記事の下の方を見ると何と内閣支持率が前回よりも6%も増えたと書いてある。この新聞の調査で多くの国民が反対していると分かった政策を実行しようとしている当の首相の支持率が増えたとはどういうことなのか。

 また、イラク派遣反対の理由のなかで「軍事以外の方法で貢献すべきだから」が最も多かったそうだが「軍事」とはどういうことだろう。自衛隊はイラクに戦争をしに行くのではない。それとも、この新聞社は自衛隊がすることは全部軍事だと思っているのだろうか。

 まったく新聞社の世論調査とはいい加減なものだと思わせる記事である。(2003年12月22日)







 「あの頃、もし日本に骨髄バンクがあり、あなたのドナー登録があったなら、きっと僕らは、46歳の夏目雅子さんに会えたにちがいない」。公共広告機構による骨髄バンク登録キャンペーンのテレビCMのせりふである。

 わたしはこのあとに続いて、いつもテレビに向かってこう言っている。

 「でも僕らは、日本に骨髄バンクがなくても、47才の浅田美代子さんに会えたし、52才の天地真理さんにも会えた。

 「僕らが、もしいま46才の夏目雅子さんに会えたとしても、それはお笑い番組で活躍する夏目雅子さんかもしれないし、ぶくぶくに太った夏目雅子さんかも知れない。

 「でも、日本に骨髄バンクがなくても、あなたのドナー登録がなくても、僕らの夏目雅子さんは、僕らの心の中で永遠に生きている。僕らの夏目雅子さんは27才の永遠に変わらない夏目雅子さんでいつづけてくれている。公共広告機構です」

 なお最近、骨髄性の白血病を骨髄移植をしなくても治せる薬がスイスのノバルティスファーマ社によって開発されたそうである。(2003年12月18日)






 昔、『現代文の書き方』(扇谷正造著 講談社現代新書 絶版)という本を読んだことがある。その中に引用された『とけちゃった』と題する文章が印象的で、それだけはよく覚えている。

 社会党の浅沼稲二郎がアメリカを日中共同の敵とする声明を北京で発表して物議をかもしたあと、次に北京に行った鈴木茂三郎も北京のペースに巻き込まれて浅沼の声明を修正することができなかった。

 それについて阪本勝は、何でも溶かしてしまうヒトデや巻き貝の話をした後で次のように書いた。

「北京という古都はあやしくも美しい町である。しばらくあすこにいると、何千年の文化のうちに育った触手がわれわれの体中にへばりつき、触手の先から分泌液が出て、溶かされてしまいそうな気分になるのはふしぎだ。
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 分泌液をたっぷりたたえてニコニコしていれば、来るもの、はいるものがみな溶けてくれる。それが五千年の高血圧にたえてきた中国のお家芸というものだ。

 鈴木のモサさんも溶けちゃった。ああ、溶けちゃった」

 最近ブッシュ大統領は中国の首相と会談後、台湾が計画している住民投票に反対する声明を出して、台湾政策変更かと物議をかもしている。北京に行かなくてもブッシュさんは溶けちゃったのだろうか。(2003年12月18日)







 マスコミのニュースが如何に間違いだらけであるかは、身近なニュースを見ればよく分かる。

 例えば、最近近くの国道の交差点で人身事故があったが、ある新聞は現場の片側二車線の道路をなぜか「現場は片側三車線の直進道路」としていたのだ。また、私の親戚の集合住宅が火事になったときも住所を間違えた記事が流れた。

 もちろん、マスコミがニュースの正確さを第一に考えているなら、たまに間違うのは仕方がない。人間は間違うものだからである。

 しかし、実際のところマスコミは正確な事実を伝えるより、いかに出来事を自分の主張に有利に利用するかばかり考えているようだ。その結果、これはニュースではなく記者の意見じゃないかと思えるような記事が世にあふれ返っている。

 意見は意見として大切なものだが、それは社説などに書くべきものであってニュースの中に含めるべきではない。いわんや自分の意見で事実を脚色するなどはもってのほかである。(2003年12月18日)








 広葉樹に代えて杉などの針葉樹が至る所で植林されたために花粉症が広まったことはよく知られている。しかし、針葉樹の植林は人間の体だけでなく海の生物にも影響を及ぼしているらしい。

 山が針葉樹ばかりになると、広葉樹の落葉による腐葉土が育たなくなり、そこに含まれる微生物や鉄分などが作られなくなり、それらが雨水とともに海へ流れなくなり、海で海草が育たなくなり、それを食べる生物が育たなくなるということだ。

 自然は至るところで結び付いている。山は山だけで海は海だけで存在するのではなく自然は全体として一つなのだ。人間もまたその自然の一部である。その自 然に人間が手を加えれば、その影響は必ず人間に返ってくる。しかも、それがどんな深刻な影響であるかを人間は予測できない。人間の知恵はたかが知れている のだ。

 だからこそ、資源を再利用するリサイクルは自然をできるだけ変えないための手段として人間にとって重要なのである。(2003年12月17日)








 私は自分の考えを四百字ぐらいの短文にまとめて自分のホームページに掲載したり、新聞に投稿したりするのが趣味なのだが、一時期全く書かなくなったことがある。2チャンネルに投稿していたからである。

 2チャンネルに投稿するのも短文にするのも出発点は同じで、それは世の中の出来事について心の中に湧いてきた非常に感情的なものである。

 短文を作るにはそれを感情的なままではなく、感情を原動力にしながらそれを論理的なものにしていく必要がある。ところが、2チャンネルの場合は、感情的 なものを殆どそのまま書き込めばよく、それで感情的な満足が得られるから、それ以上文章にする必要がなくなってしまったのである。

 しかしながら、2チャンネルは人との意見交換によって有益なこともあるが不快なことも多く、何かで書き込めなくなったのを機にやめてしまった。するとまた短文を書きたくなった。私にはこちらの方が向いているようである。(2003年12月16日)








 新聞の訃報欄に時々「葬儀は近親者だけですませた」という文がのっている。かっこいいなと思う。幸福な人生を送った人が小さな葬式を選ぶのだろうかとも思う。

 しかし、田舎では今でも大きな葬式をするのが普通だ。

 生きている間にほとんど目立たなかった普通の人々が、初めて大勢の人たちに敬われ顕彰されるのが葬式であるかのようである。国会議員から電報が贈られたりするのも死んでこそだ。おかげで田舎には葬儀屋が次々に出来て大繁盛である。

 一方、フーテンの寅さんの葬儀は近親者による密葬だった。この人のように充分すぎる程に名前が世の中に広がり、国民栄誉賞をもらう程に世の中に顕彰されてきた人は、大勢の人を集めた葬式などしないものなのだろうか。

 もちろん、その人の生き方というものもある。だから有名人でも大きな葬式をする人もいる。しかし、もし私の葬式をしてくれる人がいるなら、たとえ無名でも小さな葬式をしてほしいと思う。(2003年12月16日)







 戦争報道について、昔は大本営発表といって事実がそのまま報道されなかったと教えられたものだが、現代の民主主義の世の中になっても事実は何なのかを報道によって知ることは難しいようだ。

 昔の報道が戦争を推進するためにゆがめられた報道だったとすれば、今の報道は戦争に反対するためにゆがめられた報道になっているとようだからである。

 今度のイラク戦争については特にその傾向が強いようだ。例えば、最近イラクで頻発しているテロは何の犯行声明もないため誰が何の目的で行なっているかは不明である。ところが、それが反米勢力とか抵抗勢力による攻撃だと報道されている。

 フセイン元大統領の拘束についても、一部の親フセイン派の声をことさらに取り上げて、イラク国民はたいして喜んでいないかのような印象作りがされているのが見られる。

 結局、戦争になるといつの世でも国民が正しい事実を報道によって知ることは難しくなると思っておくのがいいようである。(2003年12月16日)







 毎日新聞のカメラマン長尾靖が浅沼稲二郎暗殺を写した有名な写真があるが、よく分からないところがある。

 沢木耕太郎の『テロルの決算』では、この写真は「さらに突こうと短刀を水平に構える少年の姿と眼鏡がずれ手を前に出し今にも崩れ落ちそうな浅沼の姿」(文春文庫242頁)だといっている。つまり、この写真は最初の一突きの瞬間をとらえた写真ではない。

 この写真には演壇中央の演台が写っていないので、日比谷公会堂の演壇のどこをとった写真かよく分からない。しかし、暗殺の瞬間の動画を見ると、この写真がとらえているのは演壇の左半分だということがわかる。

 動画では、演壇の右側からきた少年が演説中の浅沼を演台の左側へ突き飛ばして、勢い余って浅沼を追い越してしまって、さらにもう一突きしようと振り向い て身構えるようすが辛うじて分かる。カメラマンはこの振り向いた瞬間を写したのである。だから、この写真では浅沼と少年の位置の左右が逆転している。

 問題はこの後だ。少年は一度突き刺しただけと供述しているが、浅沼の体の左側には二つの刺し傷がある。第一撃は演台の前で少年がぶつかった瞬間であるが、第二撃はこの写真の瞬間の直後なのだろうか。どうもそうではないようなのである。

 傷が二つあることを知っている沢木は少年が第三撃を与えようと身構えたとき取り押さえられたと言い、少年は第二撃のために身構えたとき取り押さえられた と供述している。いずれにしろ身構えたのはこの写真の瞬間だけだから、この写真の後すぐに取り押さえられて、もう何もできなかったことになる。

 一方、沢木によると致命傷となったのは最初の一撃で、その瞬間をとらえた写真もあるが、それはテレビの中継映像から切り取ったものだと思われる。このような写真は初めからずっとカメラを構えていなければ撮れない写真だからである。

 ところで、毎日新聞のホームページには、長尾の写真は浅沼に致命傷を与えた二突き目の瞬間をとらえた写真であると紹介されているが、事実はそのどちらでもないようである。(2003年12月15日)







 小泉首相は「いまだにイラクで大量破壊兵器が見つからないから、イラク攻撃を支持したのは誤りだ」と野党に批判された時、「フセイン大統領が見つからないからといって、フセイン大統領が存在しなかったと言えるか」と反論した。

 これを当時詭弁だと非難した人がいるが、どうもそうとは言えなくなってきた。現にフセイン大統領はイラク戦争が終わって何カ月も経つのにいっこうに見つからない。イラクのような所では、一旦姿をくらましたものは、人も物もなかなか見つからないのである。

 実際には、大量破壊兵器はイラク戦争以前にすでにクルド人などに対して使われているから、それがイラクに存在しないとは誰も初めから思っていなかったは ずである。戦争をしたくないフランスやロシアは、それが国連の査察によって見つからないことを、単に開戦に反対する口実に使っていただけなのだ。

 したがって、元々このような野党の批判は的外れな批判なのである。(2003年12月12日)







 日米共同世論調査によると、日本人が一番信用している組織は新聞なのだそうだ。新聞だけが六割をこえて突出した信頼度である。

 だからであろうか、この調査は日米の信頼度を調べるのが主な目的だが、その結果は日本の多くの新聞の主張をよく反映したものになっている。

 日本の新聞は全国紙の読売などを除けば、地方紙を含めてそのほとんど全てが極端な反米反ブッシュを社論としている。だから、新聞の言うことを信用する日本人の多くが米国を信頼していないと答えたのは当然の結果であろう。

 日本によるイラクの復興支援について、すべきでないなどの消極的意見が日本人の過半数を占めたのも、多くの新聞の論調に引きずられた結果だろう。しかし、この人たちは日本は一体どこで石油を買えばいいと思っているのだろうか。

 これ一つをとって見ても、日本の多くの新聞は読者の高い信頼に値するような、もっと責任ある報道をすべきだということが分かる。(2003年12月12日)







 「押しの一手」といって、むかしの男は女を強引に口説くことが許されていた。しかし、いまではこの「押しの一手」は犯罪になる可能性がある。

 嫌がる相手を口説くのはストーカー規制法の対象になっているからである。それはおかしいだろうと上告した男性の主張は最高裁であっさり退けられた。この 法律は合憲だというのだ。日本の最高裁が違憲判決を出すのは自らの沽券に関わるときだけだから、予想通りの判決とは言える。

 しかし、振られた女に手紙や花束を贈ったら犯罪になる国は、世界広しといえども日本だけだろう。タレントの明石屋さんまさんも、恋愛を取り締まるような法律はおかしいとテレビ番組の中で言っていたが、そのとおりである。

 取り締まるべきは暴力行為であって、男が女を口説くことに警察が関与すべきではない。ところが、警察は桶川の殺人を防げなかったことに懲りて、女の尻を しつこく追いかける男を犯罪者にしてしまったのである。まさに「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)をふく」法律といえるだろう。(2003年12月11 日)







 民主党の菅直人氏は、かつて自民党にいた田中真紀子氏が秘書給与問題で議員辞職したとき、辞職しても何の解決にもならないといって批判した。

 その後、田中氏はこの問題で不起訴になったとはいえ、氏の政治的道義的責任まで消えたわけではない。ところが、田中氏が自民党を離党して選挙に当選して民主党の会派に入るやいなや、菅氏は田中氏を歓迎して迎え、以後この問題を不問に付してしている。

 それは田中氏が民主党の仲間入りをしたことによって、この問題も民主党の問題になったからであろう。

 その田中氏が父親の田中角栄元首相のテレビドラマ化にあいついで待ったをかけている。ロッキード事件の問題があるからだろう。

 この問題はこれまで自民党の問題だった。しかし、いまや田中氏が民主党に仲間入りしたことで、この負の遺産もまた民主党のものになったのである。このテレビドラマ化問題は、端無くもこの事を示しているのではないだろうか。(2003年12月10日)







 読売新聞の『時代の証言者 大相撲 大鵬』は毎回感動させられる。この人は何と純粋なんだと毎回思う。この人の心には何の混じりけもない。

 漁師になるつもりの少年が、わけの分からないままに相撲界に放り込まれたのに、まわりの人たちから過大な期待を受けると、それをそのまま自分の希望として、血の出るようなけいこを重ねて横綱になる夢を追いかける。

 ところが、その夢が成就した瞬間に「横綱にふさわしい成績が残せなくなったら、やめるしかない」と覚悟するのだ。まったくこの人には我欲というものがない。

 使者から伝達を受けたとき、ずしりと肩に重みがかかりました。そして、「横綱にふさわしい成績が残せず、綱の責任を果たせなかったら、やめるしかない」と思いました。

 新入幕して、実力よりも人気が先行するようになっても、けっしてそれを重荷とせず、それに見合った実力を身につけようと「自分の人気を必死になって追いかけた」という。

 新入幕で十一連勝し、ワーッと人気が沸騰した。実力より、人気が先に行ってしまった。追いかけるのは大変だった。しかし、追っかけた。『勝たなければならない』と、自分の人気を必死になって追いかけたんです。それにはけいこしかなかった。

 自らのうぬぼれ心を否定はしない。しかし「それを正してくれる人たちが、私の周りにはいました」というのだ。

 うぬぼれたら、人間はガタガタになる。そりゃ人間だから、うぬぼれそうになることもあります。師匠なり後援者なり、それを正してくれる人たちが、私の周りにはいました。

 大鵬の強さの秘密はここにあったのかと思わせる連載である。(2003年11月28日)







 総理大臣は主権の存する国民の代表であって国民そのものである。その総理大臣はどのような場であってもけっして馬鹿にされるようなことがあってはならないはずである。それは政府を構成する大臣に対しても同じことである。

 ところが、国会の論戦を見ていると野党の議員たちは総理大臣を言い負かすのに必死である。そしてそれが思うようにいかないと、勝ったと言わんばかりに嫌 味を言ったり捨てぜりふを吐いたりする。挙げ句に、この大臣は頭が悪いと言い出す始末だ。しかし、これが国民が選んだ政府に対する正しい態度だろうか。

 彼らは国民に対して「あなたたちの選んだ政府はこんなに無能ですよ」と言いたいのだろうが、それは「こんな政府を選んだあなたたちはこんなに馬鹿ですよ」と言っているのと同じだということに気づかないのだろうか。

 民主主義とは国民の選択を尊重することである。それが出来ないものが民主主義を標榜するなどもってのほかだ。(2003年11月26日)







 イラクに派遣された自衛隊が戦闘に巻き込まれたりテロで犠牲者を出したりすれば小泉政権は吹き飛ばされるという、まことしやかな噂が流れている。

 しかし、これは自衛隊をイラクに派遣すれば東京でテロを起こすというテロリストの脅しと何の違いもない。いやむしろ、この噂の方がイラク派遣を阻止するには効果的な脅しとなっているようだ。

 確かに、先の衆議院選挙で与党が自衛隊のイラク派遣という公約を掲げて勝った時と比べて、イラクの状況は悪化しているかもしれない。しかし、既に派遣された国々の兵隊がその後イラクから撤退したという話は聞いたことがない。

 もしこのまま政府が弱気になってイラクに自衛隊を派遣しないなら、それは自衛隊の安全のためではなく、政権の安全のためにそうすることは明らかである。

 そしてそうなれば、今度は国益を守ることを第一にすべきはずの政府に対して非難の矛先が向けられることを覚悟しなければならない。(2003年11月25日)







 ブッシュ大統領の英国訪問の最中に、トルコの英国領事館に対するテロ攻撃があった。
 
 これはテロを無くすためにイラク戦争を起こした英米両国に対する明らかな挑戦である。しかし、それだけではなく、イラク戦争に反対していた諸国も、もはや頻発するテロをアメリカのせいにして傍観していられない事態になったことを、このテロは意味している。

 今や世界が一致団結してテロとの戦いに取り組まねばならない段階になったのである。

 そんな中で日本は何が出来るだろうか。テロとの戦いは戦争であるから、日本は何もできないのだろうか。もしそうなら日本は憲法九条のおかげで世界平和に何も貢献できないことになる。そればかりか、日本は世界の動きから取り残されて孤立してしまうことになりかねない。

 これだけを見ても、憲法九条の存在が日本の国際的地位をいかに危うくしているかは明らかである。日本にとって憲法改正はすでに急務の情勢なのである。(2003年11月21日)







 イラクにおけるイタリア人に対するテロを理由に政府は自衛隊のイラクへの年内派遣を躊躇しているそうだ。

 しかし、もし本当に日本が自衛隊のイラク派遣を延期したりするなら、それはイラクの不安定さだけでなく、アメリカのイラク戦争の失敗を、アメリカの最大の同盟国たる日本が世界に対して認めることになってしまう。小泉政権はそのことに気づいているのだろうか。

 また、今回のテロで十七人を失ったイタリヤがすぐに五十人の増派を決定して、テロに屈しない姿勢を世界に示したのに対して、日本はそれとは正反対の姿勢 を世界にさらけ出すことになる。これでは、日本はいざとなると当てにならない国だという評価を世界に広めるようなものである。

 政府は自衛隊員の安全が第一だというが、実は小泉内閣の安全が第一なのではないのか。我が国が国際社会で名誉ある地位を占めることを政府が本当に望んでいるなら、自衛隊の年内派遣を変更すべきではない。(2003年11月16日)







 今回の衆議院選挙は政権選択の選挙だとか言われたが、実際はそうなっていないようである。小選挙区で自民党の候補の名前を書いた人の多くが、比例区では民主党と書いたと思われるからである。私の身近にもそういう人がいる。

 選挙では色んな人から投票を頼まれるので、その全部にいい顔をするために、与野党の両方に投票する人が多いようである。しかし、それでは政権を選んだことにはならない。

 もちろん本人の心の中では小選挙区で政権を選び、比例区はつき合いで野党に投票するのだろうが、このやり方のせいで民主党は大躍進を遂げたかもしれないのだ。

 実際、国民の多くが単に自民党にあまり勝たせないために民主党に投票したという読売新聞の調査結果もある。

 しかし、それではいつまでたってもわが国は欧米先進国並に政権交代が可能な国とはならない。良いものは良い悪いものは悪いと自分で決めて、小選挙区と比例区は同じ党に投票すべきである。(2003年11月13日)







 東電OL殺人事件に対する地裁判決と高裁判決は、同じ証拠から正反対の結論が導かれている点ばかりが注目されている。

 しかし、判決文をつぶさに読んでみると、両者はその説得力の点で雲泥の差があることが分かる。中でも被害者が顧客管理のためにつけていた手帳の評価においてそれは著しい。

 地裁判決は手帳の記載内容の正確さを、その都度書いたものではなく一日あるいはそれ以上をまとめて書いたものであるから、という一般的な理由だけで否定している。

 それに対して、高裁判決は実際の顧客を法廷に呼んで手帳の内容を細かい点まで検証して、その記載内容の高度な正確さを立証している。その説得力は殆ど圧倒的でさえある。

 そして、被告が最後に被害者と会ったのは事件より以前の日だという証言と、この手帳のその日の記述内容が大きく食い違っていることは、被告の証言の信憑性を疑わせるに充分なのだ。

(被告が最後に被害者と会ったのが「2月25日から3月2日までのいずれかの日」であるという証言は、被害者の手帳の”2月28日<?外人0.2万>”と符合するように見えるが、高裁は彼女が初回の身元不明の客にしか?を付けないことを証明して、この証言の信憑性を否定するのである)

 この確定判決を覆すのは容易なことではないだろう。(2003年11月6日)







 東電OL殺人事件の最高裁判決を期にこの事件について読んでみた。
 
 その中で、犠牲者である女性が一流大出で一流会社の社員であるにもかかわらず渋谷の円山町あたりで売春していたことについて様々なことが言われており、特に心理学的な観点から、早く亡くした父親に対する空虚感を根拠にした自虐的な解釈を多く見かけた。

 しかし、それは間違っていると思う。なぜなら、人間はそのようなマイナス思考で生きていくことはできないし、そのような気持ちで5年以上の長期にわたって同じ生活を続けることは不可能だからである。

 結果だけから見ると、まるで彼女の行為はいつか殺される日が来ることを知りながら続けた一種の苦行であって自殺行為であったかのように見えるが、彼女には金儲けという明確な目的があった。

 そして、サラリーマンでしかも女子社員が稼げる金額が知れていることを良く知っていた彼女は、自分の十人並み以上の美貌を武器にした売春という方法を選んだのである。

 さらに彼女は売り上げを全部自分の利益にするために人に雇われない道をとり、綿密な記録 (この正確さが有罪の決め手になった) をつけて顧客管理も自分自身でやった。

 そうして稼いだ金が7千万円だというから、事業としては失敗ではないだろうし、この成績に彼女はプライドを持っていたに違いない。

 また、一日に四人というノルマを自分に課していたことも、仕事として見れば当然のことである。それは彼女にとっては、例えば英単語を日に十個暗記するのと何ら異なることではなかったのである。

 しかし、こうして脇目もふらずに自分の立てた目標に向かって、人目もはばからずに一心不乱にまい進する姿は、他人の目には異様に映ったかも知れない。しかし、だからといって、彼女が異様な人間であったとわけではないのだ。

 そんな彼女のことを、適齢期を逸して結婚できなかった不幸な女が自虐に走ったと見るのは間違いであり失礼である。彼女は彼女の打ち立てた方法にしたがって、極めて積極的な人生を前向きに歩んでいたのである。

 彼女の人生に同情した多くの女性が、事件現場のアパートや彼女が客待ちをしていた道玄坂地蔵 (円山町6-1
) に花を手向けているそうだが、もしそれが彼女を自分の人生を選択できない多くの無力な悲しい女と同列に置くことであるなら、彼女には甚だ迷惑なことだろう。(2003年11月1日)







 テレビで阪神優勝を星野監督一人の手柄であるかのような番組がしきりに流されているが、間違っていると思う。

 そもそもチームの大規模なリストラを断行したのは球団の編成であって、星野監督ではない。

 プロ野球の監督とは現場を任されるだけであって、組織の編成を任されてはいない。球団が星野氏の名前を利用していい選手を集めたことはあるかも知れないが、よく言われるように監督はしょせん雇われマダムに過ぎない。

 それはトレードされた坪井、伊達がトレード先の日本ハムで活躍していることに対する星野監督自身の「編成は『どこをみていたんや』」という批判的な言葉から明らかで、トレードを指示したのは星野監督ではないのである。

 阪神の優勝は球団の補強がうまくいって、他球団との戦力差が大きく開いた結果に他ならない。それは会社の勝利なのである。

 それを星野氏個人の手柄にして、カルロス・ゴーン氏に譬えるのは大きな間違いである。ゴーン氏と違って、星野氏には組織の編成権はないのだ。

 プロ野球は監督だけ変えてもだめなことは、これまでの多くの例から明らかで、それは阪神優勝によっても変わることのない事実である。

 この教訓をあたかも否定するような番組をしきりに放送することは、日本のプロ野球の発展のために何の益ももたらさないばかりか、二三年でだめなら監督の首だけすげ替える悪しき慣行を助長するだけだろう。(2003年9月20日)








 国土交通省がノンストップ自動料金収受システム(ETC)の利用促進のために、あの手この手の普及策を講じているそうだが、当初の目的である料金所での渋滞解消はいっこうに進んでいない。
 
 先日、私が高速道路を利用したときも、料金所の手前一キロから大渋滞に巻き込まれた。料金所に近づくと、なるほど立派なETC専用車線が一つ作られている。しかし、私の見る限りそこを通る車は一台もなかった。

 それどころか、これほど大量の車が殺到しているのに、ETC専用ゲートのために一般車両が使えるゲートが一つ減ったおかげで、渋滞がよけいにひどくなっているのが現状だ。

 高速道路を利用することなどめったにない私などと違って、高速道路を頻繁に使う運送会社は率先してETCを採用しているかといえばどうもそうではないらしい。料金所の前に列をなしているのは運送会社のトラックばかりだったからである。

 交通渋滞で一番損害を蒙るのは時間を競う運送業者のはずである。その運送業者に普及していないとは、国土交通省はETC普及のためにいったい何をしているのだろうか。(2003年9月8日)







 テレビで法律番組が増えているが、あれほどくだらない番組はない。お笑いタレントによって楽しめる番組にはなっているが、彼らがいなければ単に屁理屈をこねる番組でしかない。

 そもそも慰謝料を取れるか取れないかなどどうでもいいではないか。そんなことのために「訴えてやる」などといって裁判を起こすこと自体馬鹿げている。

 自分の不幸の責任を他人に求めたところで何が得られるというのか。たとえいくらかの金を得られたとしても、一度失ったものは決して返ってこないのだ。

 人間が生きていく上で一番大切なのは「次へ行こう」という前向きの精神である。裁判などして何年も過去にこだわり続けるのは無益なことである。そんなことをして喜ぶのは法律家だけだ。
 
 法律を利用するのはよい。法律によって新しい事業を起こすのはよい。しかし、人を訴えて法律を自分の不幸を償うための手段にしてはならない。それは不幸を長引かせるだけである。(2003年9月7日)







 今年の夏の高校野球について、雨で日程が伸びたことや野球留学の多さを批判する声があるようだ。これらの問題を解決するよい方法がある。それは夏の大会の出場校数を昔に戻すのである。

 夏の大会の出場校数はいつの間にか一県一校以上の四九校にもなっているが、それを昔のように三〇校程度にするのである。そうすれば、雨のために強行日程を組む必要はなくなるはずだ。

 一方、野球留学する子供たちの多くは、地方大会で八回も勝たなければ甲子園に出られない大阪の子供たちが多い。彼らが四〜六回勝てば甲子園に出られる県の高校から甲子園を目指そうとするのは自然なことだ。

 しかし、それが昔のように、どの地方でも公平に同じ数だけ勝ち抜かなければ甲子園に出られないとなれば、野球留学する意味はなくなるだろう。

 どの県の子にも甲子園を体験させたいという親心だろうが、高校野球もそろそろ本来の昔の姿に立ち戻ってもよい頃ではないだろうか。(2003年9月5日)








 阪神が優勝しそうだということで、その原因を監督の手腕に求めようとするる声が多い。しかし、よく考えてみれば、今年まともな戦力で戦ったのは阪神だけだったのである。

 巨人も広島も中日もヤクルトも、全部主力が抜けたり故障したりしていた。逆に、阪神だけが戦力を増やしていた。

 だから戦力的にみて阪神が優勝するのは当たり前だったのである。それを指揮官一人の手柄にするのは、状況を見ていないと言うしかない。
 
 阪神以外のチームが全部戦力ダウンするなどということは、まさに十八年に一度しかない千載一遇のチャンスだった。

 その好機に、阪神球団が監督一人変えれば全てが変わるかのような錯覚を捨てて、積極的な補強をするという努力が報われて、幸いにも優勝につながったのである。
 
 ところが、それが分からない人が沢山いるらしい。まことに嘆かわしいことである。なぜなら、これは我々の生活に直結する政治にも当てはまることだからである。(2003年9月3日)








 池田小児殺傷事件の裁判はおかしな裁判だと思う。裁判長は初めから結論を持って審理に臨んだのではないかと思われるからである。それは裁判長の遺族に対する異例の配慮にうかがわれる。その段階で死刑は彼の中で決まっていたことは明らかである。

 日本の裁判は形式的で何も明らかに出来ないとよくいわれるが、この裁判も単なる儀式に過ぎなかったのである。

 裁判で採用された精神鑑定も大いに疑問だ。遺族感情に対する配慮と世論の流れにそった鑑定としか思えない。微罪のときには精神病者だった者が重罪を犯せば正常な人間になれるのだろうか。

 裁判長が被告の最後の言葉をさえぎったのは、被告が何を言うか分からない異常な人間だと思ったからだろう。ならば精神鑑定の結果をこの裁判長自身信じていなかったことになる。

 この事件の原因は精神病者を野放しにした過去の司法にある。この判決はその責任を精神病者一人に押しつけた無責任な判決だと言える。(2003年8月29日)







 裁判なんかしてはいけない。

 どんなことにも別の見方がある。だから裁判をすると、自分が信じる正義が通用せずに腹を立てることになる。山形マット事件、草加事件しかりである。

 いくら子供を人に殺されたとしても、裁判なんかするといやな思いをさせられるだけである。被害者に対する世間の同情も、警察と検察を頼って国をバックにした瞬間に吹っ飛んでしまうものだ。

 被害者だからといってマスコミに話をしてはいけない。復讐鬼として描かれるだけである。

 これは被疑者として逮捕されたときと同じである。何も言ってはいけない。言ったことはすべて他人に利用され、必ず自分に不利になる。

 たとえ裁判に勝っても賠償金が支払われずに、さらに腹を立てることになる。たとえ支払われても、しょせんはあぶく銭であり、争いの種になるだけである。

 裁判をしてはいけない。人と争ってはいけない。これは『徒然草』で兼好法師も言っていることである。(2003年8月26日)







 憲法は第十三条は「すべて国民は、個人として尊重される」と個性の尊重をうたっている。これは例えば「世の中には酒に強い者もいれば弱いものもいる。そ れを一緒くたに扱ってはいけない」と言っているのである。ところが、警察はこの条項に反して、一緒くたに扱おうとする。

 この条項に従うなら、酒気帯び運転と見なされるべき血中アルコール濃度は、どんなに酒に強い人間でも運転に支障を来すような量でなければならないはずだ。

 ところが、日本では呼気1リットル中のアルコール濃度を0.15ミリグラム以上を酒気帯びと定めている。これは酒に弱い人間を基準にしているのだ。海外の先進諸国の多くが0.5か0.8であるのと比べても、日本の低さは異常である。

 世界の人権団体が指摘しているように、日本の警察は多くの面で日本国民の人権を侵害しているが、その中にこの酒気帯び運転の基準も含めるべきである。

 個人の独立は侵害されてはならない。誰がどこで酒を飲もうと勝手である。酒のせいで事故を起こした人間に限って罰すればよいのだ。事故を起こしていない先から、どこで何をしたかで人を罰するのはプライバシーの侵害である。

 アルコールは麻薬ではない。酒を飲んだだけで人を罰するのはやめるべきである。(2003年8月24日)







 高速バス運転手の酒気帯び運転のニュースにはおかしな点がある。

 この運転手は蛇行運転を繰り返していたと報じられている。これは典型的な居眠り運転である。ところが、ニュースでは飲酒のことが言われるばかりで、この運転手が過労で寝不足であったかについての報道が全くない。

 その後の報道でこの運転手の飲酒運転は常習だったことが明らかになっている。この事実は、むしろアルコールと交通事故の因果関係の低さを証明しているように思える。

 そもそも交通事故の原因は一元的ではない。アルコールが人に与える影響は非常に個人差があるものだ。それを一律に悪と断じるのは合理的ではない。

 このニュースを書いた記者も下戸でない限り、飲酒運転の経験があるはずだ。そして、人によってはアルコールが運転に影響がないことも大いにあり得る事を知っているはずだ。
 
 警察が飲酒運転を目の敵にするからといって、それが正しいとは限らないのである。(2003年8月19日)








 カメラは世の中の明るさを20ほどの段階に分ける。そして、そのうちの1つの段階を中心とする前後3段階、合計6段階だけを選んで写真に映し出す。その6段階の両端から外側は真っ白か真っ黒に写るだけである。

 写真は一度に全てを映すことはできない。人間の目はすべてを見ることができるが、写真は人間の目ほど物を一度に見分ける力はないのだ。

 逆光の景色を写すが難しいのは、最も明るいものと最も暗いものが一つの絵の中に共存するからである。つまり、逆光では、20ほどの段階の明るさのほとんど全てが一つの景色の中にいっしょに現われるのだ。

 だから、逆光でもし空の青い色を写したければ、手前の日陰の部分は真っ黒に写すしかない。逆に、日陰にあるものをはっきり写したければ、空は真っ白に写すしかない。
 
 しかし、見たままに写すぶんには、露出は全体の明るさの中位の明るさに合わせておけばよい。そのままでまわりの景色を暗いものは暗く明るいものは明るく写せるのである。(2003年8月10日)








 カメラはこれまで様々に自動化をしてきた。まず露出が自動化して、絞りとシャッター速度が自動で決定されるようになり、次に焦点合わせが自動化されてオートフォーカスになった。

 実は露出は中ぐらいの明るさの所(地面にある明るい緑色のもの)に合わせておけば、天気が変わったり家に入ったりしない限り変える必要はない。そのままで、明るいところは明るく、暗いところは暗く写るのである。

 ところが、露出が自動化したおかげで、出来上がった写真を見ると、明るいところが暗く写ったり、暗いところが明るく写ったりするようになってしまった。

 また、焦点合わせが自動化されたお陰で、どこに焦点が合っているのか分からなくなってしまった。

 そこで、これらの欠点を補うために新たに様々な工夫が付け加わって、カメラは益々ややこしい代物になっていった。

 しかし、デジカメの出現によって、やっとそれらの自動化の工夫が人間のコントロールしやすい物になった。液晶モニターで結果が確認出来るようになったからである。

 自動化されたカメラは、やっと誰でも使える物になったのである。(2003年8月6日)






 核廃絶の論理は被害者の論理である。この主張の中で常に描かれるのは、原爆の焦熱地獄で苦しんで死んでいった人たちと、今なお後遺症に苦しむ被爆者の姿である。

 しかし、第二次大戦を終わったのが原爆のお陰であることは否定することのできない事実である。そして、その原爆のおかげで第二次大戦後に平和が続いているのも紛れもない事実である。

 原爆がなかったら、あの被害者の苦しみは無かったかもしれないが、戦争は続いていただろう。そして、いま原爆が無くなったら、この平和を担保しているものが無くなってしまうことも事実であろう。

 したがって、核廃絶の主張は情緒に訴えることは出来ても合理的説得力はない。いま世界が恐れているのは核兵器の存在ではなく、その拡散であることは実に合理的なことなのである。

 したがって、我々が訴えるべきは核兵器の廃絶などという非合理ことではなく、北朝鮮のような国に核兵器が広がらないことなのである。(2003年8月6日)







 民主党が自由党を吸収合併して勢力を拡大した。これは次の総選挙で民主党が政権をとる可能性が大きくなったということである。

 この事実を前にして、小泉首相はかえって元気が出てきたようだ。なぜなら、次の総裁選挙で自分が再選されない場合には、次の総選挙で自民党は野党に政権を奪われる可能性が出てきたからである。

 自民党内の非主流派は一致結束しさえすれば小泉氏以外の人間を総裁にすることが出来る。しかし、それでは時計の針を逆に回して、森首相・野中幹事長の時代に戻るようなものである。

 そんなことをする自民党が、合併して大きくなった民主党にはたして勝てるだろうか。

 一方、小泉氏とて、総裁に選ばれても自分の政策が実現できないなら意味がない。彼がこの機に強気に出るのも無理のない事だ。

 それに対して、自民党非主流派には、小泉氏の改革を拒否しながら、それと同時に総選挙にも勝って政権の座に留まる秘策があるのだろうか。(2003年7月31日)








 デジタルカメラでは写真を現像に出す必要がない。ということは、これからは写真屋から自由に写真を楽しめるということである。

 これまでのカメラは妙な存在だった。普通は何かを買えば故障でもしない限り、買った店と付き合うことはない。ところが、現像しないとフイルムの絵が見れないために、カメラユーザーは写真屋との関係を続けなければならなかった。
 
 写真屋でフイルムを買ってもそれだけでは意味がない。カメラとて同様だった。他人様のお世話にならなければ使い物にならない代物だったのだ。
 
 写真はプライベートなものなのに、これまでは一度他人の目を通さなければ自分で見ることができなかった。

 デジタルカメラのおかげで、我々はやっとこんな不合理から解放されたのである。買ったものがやっと本当の意味で自分のものになった。自由自在に使えるようになったのである。

 これはカメラユーザーの解放であり、ある種の革命と言ってもよいのではないか。(2003年7月30日)







 デジカメは本当に便利だ。写真屋に現像に出して、写した結果を待つ必要がなくなったのである。印刷を写真屋を頼むことはあるが、それはすでに知っている結果を紙に固定するためだけである。

 現像を待つ楽しみが無くなったとも言えるが、写したつもりのものが写っていなくてがっかりすることも無くなったのである。

 特にフイルムカメラでは、明るいものを撮ったのに暗い写真ができてくることがよくあったが、それも写すときに修正できるから安心だ。

 要するに、これまではどんなに高級なカメラを使っても、出来上がりは神のみぞ知るという面があったが、デジカメではそんなことが無くなったのである。

 その上、デジカメなら小さなものでも望遠機能が付いているから、これまでのように大きな望遠レンズを買う必要もない。

 画質についても、Lサイズ程度ならデジカメとフィルムカメラには何の違いもない。

 フィルムカメラはこれからは自動車でいうクラシックカー的存在になるのではないか。(2003年7月30日)







 デジカメを買ってしばらく使ってみたが、すごいものができたものだ。これではカメラ業界は大変だろうと思う。

 何といっても、デジカメは撮った写真がすぐに見られることが大きい。

 これまでなら、撮った写真は写真屋の手を経てやっと見ることができたから、写した写真が下手でも写真屋の手で修正が利いた。また、それでも写りが悪いなら、それは写した人間の腕のせいにされてきた。

 しかし、デジカメでは結果がその場で分かるため、撮り直しがいくらでもきく。そのため、カメラの段階でまともな写真が撮れないとなると、それはカメラが悪いということになってしまう。

 だから、どんな安物のデジカメにも同じクラスのコンパクトカメラには付かない露出補正やスポット測光などの高級な機能がたいてい付いている。

 カメラ会社は、もはや適当な機能の写真機を売って、あとはあなたの腕次第とは言っていられなくなったのである。これは腕のない我々一般ユーザーにとっては喜ばしい変化である。(2003年7月30日)







 長崎で幼児が死んだ事件でそれに関わったとされる少年の名前がインターネットの掲示版に書き込みされている。それに対して法務局などが人権侵害であるとして削除を求めているという。

 しかし、少年の名前はすでに多くの人間が知っている。とくに少年が補導された翌日の週刊誌にはその少年に関する記事が掲載された事を見ても、マスコミや関係者ならほとんどの人間がすでに知っている事実である。

 その事実をそれ以外の人間が知ってはいけないという法がどこにあるだろう。マスコミも役人も特権階級ではない。これまでは情報はマスコミに独占されてきたために、情報操作ができただけのことである。

 そもそも誰は知ってもよいが誰は知ってはならないということを決める権利が誰にあるだろう。役人たちは自分たちにそれがあると思っているらしいが、彼らとて同じ人間であり特別高い倫理観を備えているわけではない。むしろ彼らが多くの人権侵害の原因になっているほどだ。

 そんな人間たちに我々の知る権利を制限されるのは御免だ。インターネット万歳である。(2003年7月19日)








 長崎市の幼児誘拐殺害事件で中学一年生の男子が補導された。しかし、中学一年生が犯人なら誘拐とか殺害とかいう言葉が果たして適当か考え直さねばならない。

 この事件は当初大人が犯人であるという前提で報じられた。しかし、十二才の子供ならこの事件の名称は不似合いである。

 まず何と言っても誘拐はおかしい。一緒に遊んでいたのだろう。殺害もどうだろうか。殺したことを自供したと報じられているがあやしいものである。警察は怒鳴りつけさえすれば、女子供からどんな自供でも引き出すことができる。

 だからこそ、海外先進国では警察の取り調べには弁護士が立ち会う。それがない現状では、警察発表をそのまま受け取るわけには行かない。

 今回の事件は凶悪犯罪だという世論作りがなされてきた。しかし、十二才と四才の子供の遊びのなかで起きた事故だと考える方向へ軌道修正すべきではないか。当然、少年に対する憎しみをあおる報道は慎むべきである。

 もちろん、十二才の子供の起こしたことの責任は全面的に親と社会にあることも忘れてはならないだろう。(2003年7月9日)







 大リーグの入団テストを高校生が受けていたことを、日本学生野球協会は「プロ野球の入団テストを受けることを禁じた規則に違反する」と息巻いているそうだ。

 「大リーグはプロ野球」というのがその理由だそうだが、大リーグは日本のレベルの低い職業野球と同列に扱われることには納得できないだろうし、日本の学生野球の封建的な対応こそおかしいと考えるかもしれない。

 協会は、このテストを受けた選手には「厳しい対応」が必要で、夏の全国大会に参加させないと言っているそうだ。しかし、もはや高校野球の全国大会の価値は以前ほどではなくなっている。

 特に夏の大会のトーナメント方式は、多くの投手の選手生命を奪ってきた歴史がある。大リーグに行けるなら日本の高校野球を捨ててもいいと考える学生が増えても不思議ではない。

 この時代の流れを理解できずに、あいもかわらず「処分」の二文字を振り回す協会の存在意義こそ問い直されるべきだろう。(2003年6月15日)








 女性専用車両とは電車の中で痴漢されても抵抗できない女性のために作られたものだ。ストーカー防止法は、振った男にしつこく追いかけられたくない女性のために作られた法律だ。
 
 いずれも、社会性に乏しい女性を救済するためのものだと、わたしは思う。なぜなら、前者は嫌なことをされても嫌だと言えない女性を、後者は警察の助けがなければ自分で男女関係を解消出来ない女性を、救うためのものだからである。

 考えてみれば、電車で会社勤めをすることも、自分でボーイフレンドを見つけることも、昔の女性にはまれなことだった。ところが、いまはそうするのが当たり前になっている。

 しかし、社会に出て自由に行動するということは、人に嫌なことをされる可能性を前提とすることであり、それを跳ね返す力が求められる。男は外に出れば七人の敵がいると言われるのもそのことを言ったものだろう。

 ところが、いま女性たちが外に出て自由に行動しはじめたために、色んな特別扱いが必要なってきている。しかし、これは果たして女性たちにとって名誉なことだろうか。(2003年6月1日)







 住基ネットに長野県の審議会が不参加の提言をしたという。しかし、住基ネットへの参加は法律で決まったことだ。ということは、この審議会は違法行為を知事にすすめていることになる。

 民主主義は過半数の賛成で物事を決めるが、そうして決まったことには、たとえ反対した人も従うというのが大前提だ。それを否定することは過半数による決定を否定し、ひいては民主主義自体を否定することになる。

 だからこそソクラテスはたとえ自分の考えが正しいと思っても、国民の決定に従って毒杯を飲んで死んだのである。

 ところがこの審議会の委員たちの考え方はそうではないらしい。自分が反対する法律には従わなくてもいいという意見らしいのだ。

 しかし、決まったことに反対するのと、決まったことを破るのとは同じではない。前者は自由だが後者は犯罪である。

 地方自治体も条例を作って市民に守らせようとするが、まず自分が法律を守って手本を示すべきだろう。(2003年5月30日)







 仙台の病院で起きた筋弛緩剤混入事件の裁判で、被告は一貫して無罪を主張しているが、その公判はまるで米国の裁判ドラマそのものである。
 
 例えば、被告に有利な証言をする人間が現われると、検察官はその人間に関する個人的に不利な情報をあげて、証言の信憑性を下げようとするのである。

 最近の公判では、当時留置所に被告と一緒にいた人間を呼んできて、留置所の中でこの男に対して被告が罪を告白したと証言させている。

 なぜこの人が今頃そんな証言をする気になったのかは不明だが、直接証拠のない検察側が、何が何でも被告を犯人にしたてようと躍起であることは確かである。

 検察官にとっては、無実の人間を犯罪者にするリスクよりも、自分の面子の方が大事であることがここからもよく分かる。

 報道を見る限り、この被告が警察で自白してから否認に転じた過程はえん罪事件の典型である。それでも、有罪を勝ち取れば検事にとっては手柄なのだろうか。(2003年5月29日)







 KSD汚職事件で受託収賄罪に問われた元労相村上正邦被告に対して実刑判決が言い渡された。しかし、彼は無罪を主張している。いったいどんな証拠があってこの人を大嘘つきだと断じたのかと、判決要旨を読んでみた。

 しかし、そこには金銭授受や請託についての物的証拠に対する言及は一切なく、ただ誰がどう言った彼がこう言ったという実に曖昧なことばかりが書いてあるだけなのだ。

 要するに、この判事は、猶予判決をもらうために検察側の言いなりになった贈賄側の言うことを、全面的に認めただけなのである。

 しかし、何十年も国会議員をやり大臣も務めたほどの人物の言うことを、団体の金を流用して女に注ぎ込んでいた人間の言うことだけで、全部嘘だと断じていいものだろうか。

 もしかして村上被告は無罪ではないかという視点が少しでもあるなら、こんな判決は出なかったはずだ。

 日本の裁判所はいい加減なものだと、あらためて確信した次第である。(2003年5月21日)







 日本では選挙の価値が非常に軽い。選挙で選ばれた人間が欠けたらまた選挙をすればいいという考え方だ。
 
 徳島県民はこの一年半で三回も知事選挙をやらされた。まず警察が選挙後半年ほどの円藤知事を逮捕して、県民に選挙をやり直させた。つぎは県議会が大田知事を選挙後一年ほどで辞めさせ、県民に選挙をやり直させた。

 どれも県民の意志で行なった選挙ではない。どこかの偉い人が選挙をやるから投票に来なさいというので、県民は投票に行くだけのことである。

 選挙こそは民主主義の原点のはずだ。選挙で決められた結果がこうも簡単に覆ってしまうのでは、とても民主的だとは言えない。有権者とは権力の有る人のはずだが、実際は政治家を選ぶ道具にされてしまっている。

 知事が欠ければ副知事が知事になればよいのである。そのために米国のように副知事もいっしょに選挙で選ぶのも一法だ。選挙は4年に一回で充分である。それでこその間接民主制である。(2003年5月19日)







 警察は嘘の自白を強要するということが、三浦和義氏の万引き事件でまたもや明らかになった。いったん警察につかまった以上は、身に覚えのない罪でも認めなければ釈放してくれないのである。
 
 商品の代金を支払わずにビルを出たなら万引きだろう。ところが、三浦氏は五階の書店の本を六階のCD店に持って上がって万引き犯にされてしまった。

 書店のレジが混んでいて並ぶのが面倒で持ち歩いたというのは本当だろう。誰でも経験があることだからである。

 警察は「容疑を認め反省している」と三浦氏を処分保留で釈放したというが、その直後に三浦氏は、上の階のレジでも支払えるという思い込みがあったことは、深く悔いているというコメントを発表したという。ならば、容疑を認めたのは嘘だったということになる。

 いくら真実を主張しても、警察でも裁判所でも反省がないと言われるだけだということを、三浦氏はイヤというほど知っているのである。(2003年5月8日)







 白ずくめ集団に対するマスコミのバッシングが始まっている。彼らはいま急に出てきたわけではなから、イラク戦争が終わってネタに困ったマスコミの餌食にされているのは明らかだ。

 そのマスコミにあおられて警察や役所も動き出した。法の厳格適用とか退去命令とかぶっそうな言葉が飛び交っている。

 一方で、アザラシの出現を歓迎して住民票まで出す役所があると思うと、見てくれが気味が悪いと人を人とも扱わずに出ていけというのがこの国の人権感覚である。

 白ずくめ集団の外見は表現の自由であり、道路交通法のような法律で取り締まるべきものではない。憲法にいう思想信条の自由、信仰の自由、そして居住移転の自由も充分に保証されるべきである。彼らの外見が公共の福祉に反しているとはとても思えない。

 その彼らがあのアザラシの世話をしているという。かわいさと憲法とどちらが大事か、われわれはいま彼らによって試されていると言っていい。(2003年5月5日)







 名古屋刑務所で受刑者が革手錠による暴行で死亡した事件をきっかけとして、全国の刑務所には不審な死に方をした受刑者がたくさんいるらしいことがわかってきた。
 
 一時、「加害者の人権は守られているのに、被害者の人権は守られていない」ということが盛んに言われたが、実は加害者の人権も守られていないことが明らかになったわけである。

 このような人権軽視の傾向は、和歌山市議選挙で拘置所の中から当選した議員に対する世間の見方にも表われているように思われる。その多くは議員活動ができないから税金の無駄遣いだというものである。

 しかし、国民の人権意識が高ければ「容疑者は犯罪者ではないから、当選したのに議員活動ができないのは重大な人権侵害ではないか」という声が起こってしかるべきなのである。

 拘置所にいる人間は選挙に出馬できないようにしてしまえというような乱暴な意見ではなく、有罪が確定するまでは無罪なのだから、議員に当選すれば議員活動ができるようにすべきだという意見が聞かれるような、人権重視の世の中でありたいものだ。(2003年5月5日)







 逮捕されて拘置所の中いる旅田氏が和歌山市議選挙で当選した。住民の意思は旅田氏に議員活動をして欲しいということである。ならば、裁判所は旅田氏の保釈を認めるべきである。
 
 裁判で有罪が確定したら失職するそうだが、日本の裁判は任期の4年で終わらない可能性が高い。その間中、拘置し続ければそれは住民の意志に反するだけでなく、税金の無駄遣いにもなる。

 テレビに流れるのは批判の声ばかりだが、現に彼に投票した人が六千人以上いるのである。その人たちの声を積極的に受け止めようとしないのはどういうことだろう。

 民主主義の基本は自由な選挙だ。その結果をないがしろにするような報道をする新聞や放送局は民主主義をどう考えているのか。

 彼を逮捕した警察の判断はそれなりに尊重されるべきだが、それより住民の意思の方が重視されるべきである。それでこそ有権者はわざわざ投票に行く価値があるというものである。警察が一番偉い国では困る。(2003年4月28日)







 選挙で一番迷惑なのは、拡声器を使った候補者名の連呼だ。とくに地方議員の選挙の時がうるさい。

 だいたい、拡声器で人に話しかけることほど無礼なことはない。家の中の人間に向かってそんなことをするのは、物売りか、立てこもり犯に投降を呼びかける警察ぐらいのものだ。

 ところが、人が寝ていようが何をしていようがお構いなしの連呼である。これが如何に常識はずれの行為であるかが分かっていれば、最小限の音量にするなど の配慮をしそうなものだが、そんな候補者は非常に少ない。むしろ、こんなにがんばっていますと言わんばかりの大音量の候補者が多い。

 しかし、そもそも連呼の回数や音量の大きさによって、投票する候補を決める人などいないことは、議員にも成ろうかという程の人なら分かっているはずだ。
 
 もうそろそろ、こんな馬鹿げた選挙の仕方はやめるべきだ。世の中を良くしようというなら、この騒音公害を無くすことから始めてもらいたい。(2003年4月24日)







 最近、酒気帯び運転でつかまった人が、その日は酒を飲んでいないという例が増えている。要するに、昨日の酒が残ったままで運転していたのである。
 
 日本では「酒気帯び運転」の基準が非常に厳しい。だから、午前中に酒気帯び検問をやれば、きっと違反者がどんどん見つかるにちがいない。

 しかし、酒が翌朝に完全に抜けることを気にしながら酒を飲むのは難しい。だから、いまや「飲んだら乗るな」の時代ではなく「酒飲みは乗るな」の時代になったと考えるべきである。

 確かに、酒を飲んで運転すれば事故を起こしやすいかもしれない。しかし、県別の酒の消費量と飲酒事故数の間には特別な相関関係はないというデータもある。実際、事故を最も起こしやすいのは、急いでいるときや焦っているときであって、酒が入っているときではない。

 にもかかわらず、昨日の酒の責任まで問われる時代になったのである。そのうち、交通機関や運送会社は酒を飲まない人しか運転手に雇わなくなるかもしれない。道交法は一種の禁酒法の色合いを帯びてきたと考えるべきである。(2003年4月24日)







 愛知県の誘拐殺人事件で容疑者が逮捕されたというニュースが流れた。それが何と夜中の二時である。しかも逮捕容疑は脅迫だという。調べてみると、容疑者が知人に自分の誘拐を偽装するために脅迫電話をかけさせた嫌疑による逮捕だという。
 
 これは明らかな別件逮捕である。しかも、任意同行の人間を真夜中まで取り調べをして自白が取れないから仕方なく逮捕したらしいのだ。

 こんな無法なことが許されるのか。つい最近までイラクのフセイン政権に対するアメリカの軍事攻撃には手続きに正当性がないと大騒ぎをしていたこの国であるが、この逮捕についてはそんな議論は起こりそうにもない。

 この容疑者が殺したのはフセインと違ってわづかに一人である。しかし、一万人殺せば英雄だが一人しか殺さなければ犯罪者にしかならない。
 
 加害者の人権がかくも軽んじられるのがこの国である。彼がたとえ死刑を免れたとしても、きっと刑務所で殺されしまうのだろう。(2003年4月23日)








 わたしの住む播磨町では毎年夏に花火大会があって、それが住民の楽しみの一つとなっている。だから、政府が進める市町村合併によって隣の町と合併すれば播磨町の港で行われる花火大会はなくなってさみしくなるなと思っていた。
 
 ところが、今年播磨町は花火大会をやらないという。まだ、どことも合併していないのにである。どういう理由からかは何の説明もない。とにかく、この町の住民は今年から花火大会を見たければ加古川か明石へ出かけなくてはならないらしいのだ。

 播磨町では公共工事が盛んで大きな施設が次々に建設されている。しかし、いくら施設が出来ても私などが利用する回数は限られている。それに対して、花火大会は私の家の窓からも見えて、自分が播磨町に住んでいることの唯一のあかしとなっていた。それがなくなるのである。
 
 小さな町の住民は元々何かと肩身の狭いものだが、こんなことなら近所の大きな市との合併も悪くはないな思う。(2003年4月16日)








 むかしGHQが日本の軍国主義を排除するために将棋にもクレームをつけて「取った駒を使うのは捕虜を味方として戦わせるのと同じで捕虜虐待だ」と言ったそうだ。
  
 実際には、日本の兵隊は敵の捕虜になるとすぐに敵に協力して敵と一緒に戦うことはあったが、日本軍が捕まえた外国人捕虜を利用したわけではない。だから、将棋に表れているのは日本人捕虜の心性の方だということになる。

 また、GHQがこの主張をすぐに引っ込めたのも、この事実に気がついたからではないか。当時の日本は国全体が米国の捕虜になっていたのであり、この日本という捕虜が将棋と同じように、敵である米国と協力してくれるほうが米国にとっては都合がよかったからである。

 実際、日本はその後米国の同盟国になってしまったのだから、将棋のやり方を地で行ったということになる。

 そして日本は、戦闘能力を奪う憲法を持たされて、米国の捕虜状態のままで今に至っている。そう言えないだろうか。(2003年4月13日)








 イラク戦争は終わりに近づいたが、フセインなどかつてのイラク政府首脳たちはどこへ行ったのだろう。彼らは敗戦が確実になると姿をくらましてしまった。
 
 これは第二次大戦で敗北した日本の天皇を始めとする政府首脳の態度とは大違いである。彼らは逃げも隠れもしなかった。

 近衛や東条など多くの責任者は自ら命を絶って責任をとろうとした。また広田弘毅のように東京裁判でいっさいの自己弁護をせずに極刑に服した人もいた。それと比べてイラクの首脳たちの無責任ぶりはどうだろう。

 イラクの国連大使はフセイン政権が倒れると、平気で自分は関係ないと言い、これまでフセイン政権を支えてきた責任を一切とろうとしない。

 これらは彼らが国に巣くう寄生虫でしかなく、 彼らの政府が犯罪者集団でしかなかったことの証明でなくて何だろう。
 
 米国のイラク攻撃を主権侵害だといって批判した人たちが守ろうとした主権の正体はこんなものだったのである。(2003年4月13日)








 今度のイラク戦争では報道の頼りなさをあらためて思い知らされた。各国の記者たちの多くが、現実の戦争を前にして冷静な判断力を失っていたからだ。

 例えば、三月二〇日に開戦したとき、この戦争は一月ほどの短期で終結するという予想が一般的だった。ところが、始まって五日目で米軍が少しつまずきを見せると、多くの記者が早くも作戦の失敗を言いたて、十日目ごろには長期化必至と書き始めたのだ。

 しかし、例えばサハフ情報相の記者会見の大法螺ぶりを見るだけでも、フセイン政権には米国と対抗する本当の力がないだけでなく、頑強に抵抗するような精神的強さもないことは明らかだった。

 ところが、記者たちの多くは反戦という色眼鏡で戦争を見ていたために、フセイン政権とその軍隊の本当の姿が見えなかったのだ。
 
 これらの記者たちは民主国家で最高の教育を受けてきたはずなのに、恐怖政治のお先棒を担ぐような報道をしたことを恥じるべきである。(2003年4月10日)







 イラクのバグダッドでアメリカ軍の砲弾を受けて記者が死んだ事件で、現地の記者たちが報道の自由の侵害だといって憤慨しているそうだ。

 しかし彼らのいう報道の自由とは何なのだろう。

 彼らはバグダッドに留まって報道を続けているが、それはイラク政府の監視の下に報道することを受け入れた結果である。だから、彼らにとっての報道の自由とは、フセイン大統領にとって都合のいい報道をする自由でしかない。

 実際、彼らの報道はイラク政府に好き放題に利用され続けた。サハフ情報相のウソ八百会見の垂れ流しはその際たるものだ。

 そういうインチキ報道に反発して真の報道の自由を主張した記者たちは、とっくの昔にバグダッドから追放されている。

 イラク政府の言いなりになってバグダッドに今居残っているそんな記者たちが、アメリカ軍から特別の敬意を払われなくても仕方がないのではないか。少なくとも彼らには報道の自由を云々する資格はないと思う。(2003年4月9日)







 四月一日付け毎日新聞の発信箱「反戦報道」はおもしろい。
 
 それによると、先週の「週刊現代」にジャーナリストの大谷昭宏氏が、日本国内の反戦デモの参加者の少なさを指摘して、国民が「笛吹けど踊らず」にもかかわらず、毎日新聞などがそのデモを大々的に報ずるのはおかしいと書いたそうだ。

 「ほんの少しばかり踊ってくれた市民に焦点を当てて、これぞ反戦の機運だと報道していく新聞の手法は、果たしてこのままでいいのか」

 同紙の社会面を使った連日の反戦報道に辟易していたわたしなどには、まさにわが意を得たりの言葉である。この記者自身、市民団体からもっと反戦の声を取り上げろと言われて、十分すぎるではないかと反論したことがあるそうだ。

 つまり、マスコミの人間も自分たちのやっていることの嘘に気づいていたのである。ところが、このコラムは同紙のホームページ掲載を見送られたようだ。反戦報道の扇情的傾向を正直に認めたのがよくなかったのだろうか。

 とすると、この新聞では嘘はよくて真実はだめということになるのだが。(2003年4月3日)







 今回のイラク戦争の反対の理由の多くは「どんな戦争にも反対だから」という素朴なものだ。しかし、こう言う人たちの多くはイラクやアメリカがどこにあるかも知らない。
 
 だから、そんな彼らが、自由と民主主義を手に入れるための人類の苦難の歴史を知らないのは無理もないことである。

 アメリカは戦争をせずにイギリスから独立できただろうか。ヒトラーのドイツが隣国を侵略したとき、イギリスはドイツに宣戦布告すべきでなかったのだろうか。人類は民主主義を手に入れ、民主主義を守るために、戦わねばならない時があったのである。

 日本には「外国から侵略されたらどうするか」と聞かれて、「いっさい抵抗しない」と答えた人が7・7%もあるという。彼らは北朝鮮に侵略されたら金正日の奴隷になってもいいのだろうか。

 そして、いまイラク国民は独裁者のもとに隷属状態に置かれている。戦争を止めてこれをそのままにしておけと、彼らは言うのだろうか。(2003年4月2日)







 イラクは自爆攻撃でアメリカ兵を殺害した。これをイラクの副大統領が称賛して、今後も自爆攻撃が続くと宣言したという。イラクが犯罪国家であることはこの一事をもってしても明らかである。
 
 ところがこれを報じるメディアはこのような非人道的なイラク政府の態度を批判することを忘れている。メディアはイラク政府の言うことをアメリカ政府の言うことと同じように公平に報道する。結果として、メディアはイラクに好きなように利用されているのだ。

 イラク政府の言うことは、不正な恐怖政治を維持するためのものである。それにもかかわらず、メディアはそれをそのまま報道している。

 特に、アルジャジーラはイラク寄りの報道姿勢を公然と取り、イラク政府の高官の発言を次々に世界に流して、イラクによる情報操作を助けている。しかも、それを報道の自由などと言っているのだ。

 しかし、報道の自由が恐怖政治維持のために使われてはならないことは言うまでもない。それを忘れた報道がもたらすものは、イラクの恐怖政治の勝利でしかない。(2003年3月30日)








 政体循環論というのがある。政治体制は君主制から専制、貴族制、寡頭制、民主制、衆愚制、君主制と循環するというものだ。しかし、現代ではこのような循環はない。民主制か専制つまり全体主義のどちらかである。
 
 そして、現代の民主制の政治家の最大の責務は民主制を全体主義から守ることである。
 
 民主制の政治家は世論を重視する。しかし、彼は民主制を破壊するような世論や全体主義を助けるような世論にはけっして従ってはならない。
 
 いま、全体主義のイラクと民主主義のアメリカが戦っている。民主制の政治家は如何に世論が反対しようと、民主制のアメリカを支持しなければならない。

 世論はいつも自分が楽になることを望む。世論が反戦を唱えるのは、人が殺されるのを見るのが辛いからである。しかし、全体主義を話し合いで止めさせることは出来ない。
 
 政治家がこのような世論に従えば、自分の最大の責務を放棄することになってしまうだろう。(2003年3月28日)







 人を一人殺せば犯罪者だが何万人も殺せば英雄だと言われるが、これはフセイン大統領についても当てはまる。
 
 日頃殺人犯を死刑にしろと言っている人が、何万人という人間を殺したフセイン大統領に対する戦争に反対しているのだ。反戦論者たちが死刑反対論者なら話は分かる。しかし、日本人の間では死刑賛成とイラク攻撃反対が同じくらいの割合で多い。

 これは米国の攻撃が合法的であるかどうか以前の問題だ。なぜなら、人殺しを捕えるのに合法的であるかどうかを誰も最重要な問題とはしないからである。

 死刑囚を殺すのは一人だけ殺すから賛成だが、フセインを殺すには罪のない市民を巻き込むから反対だと言うのだろうか。それなら、大勢の人間を巻き込む能 力があれば、犯罪者は罪をまぬがれることになる。つまり、何万人も殺せるような権力者になれば、反戦運動をしてもらう資格が手に入ることになる。

 これではフセインは反戦論者から免罪符を手に入れたも同然である。(2003年3月24日)








 国内の犯罪者の言い分に耳を傾ける新聞記者はいないだろう。ところが、テロリストの言い分に耳を傾ける新聞記者なら随分いる。むしろ被害者の言い分より理解ある記者もいるぐらいだ。
 
 国際社会の犯罪では、まるで被害者と加害者は対等になってしまう。法を犯した方が必ずしも悪いわけではないかのようである。 

 とくにアメリカが被害者になった同時テロの場合は、その傾向が顕著だ。なぜかビンラデンとブッシュが対等に語られる。まるで、国際社会には法の支配が及ばないかのように。

 ところが、いまアメリカのイラク攻撃が国際法違反だと批判されている。テロリストに及ばない法の支配がアメリカには及ぶかのように。

 ところで、イラクが昔から何度も国際法に違反したことは大目に見られている。

 これらの事実は、国際社会の問題に一様に適用できる原則なぞないことを意味している。国際社会はまだまだ好き嫌いと強い者勝ちの無原則な社会なのである。(2003年3月21日)







 日本政府がイラクの戦争を支持する理由は明確ではない。しかし、この戦争に反対する理由はもっと明確ではない。それは戦争は悪いことだからという情緒的レベルを超えていない。
 
 アメリカはこの戦争をする理由をイラクの解放とはっきり言明している。それに対して、この戦争に反対する側の理由は、地域が不安定化するからとか、テロ を誘発するからとか、国際法に違反しているからとか、市民の犠牲を伴うからとか、いろいろ言われているが、どれ一つとして決め手になる理由がない。

 それは反戦運動についても言える。そもそも誰のために反対するのかさえ明確ではない。イラク市民のためかと言えば、言論の自由のないイラク市民が本当に何を望んでいるかは明らかではないし、国外のイラク人の中にはこの戦争を望んでいる人たちがたくさんいる。

 要するに、この戦争に反対する側の理由は漠然としたものでしかない。そして漠然としたものは本当の力にならず、戦争を止めることは出来なかったのである。(2003年3月20日)








 わたしはNHKの語学講座が好きで、去年はテレビ・フランス語講座を、今年はテレビ・イタリア語講座を楽しんだ。

 生徒役の女優がみんな美人で、それが第一の目当てだ。去年のフランス語講座は井川遙、今年のイタリア語講座は吉岡美穂、ハングル講座はユン・ソナと黛まどかという豪華さである。

 といっても、放送時にまじめに見ていると眠気が差してくるので、ビデオに撮りだめして、夜中に一杯飲みながら女優の奮闘ぶりを見て楽しむのにちょうどいい退屈さである。

 どの外国語を選ぶかの基準は、生徒役の女優の他にテキストの分厚さがある。
 
 テレビの外国語講座はビデオにとれば、放送内容と同じ内容のテキストは必要ないので、テキストにそれ以外の付加価値があるかどうかが決め手になる。今年度のテレビ・イタリア語講座のテキストには読解の練習にちょうどいいイタリア語の文章が連載されていた。

 来年度は何語講座にしようかと、迷っているところである。(2003年3月19日)







 随分前だが、劇作家の山崎正和氏が毎日新聞に「現代のテロとは何か」という文章を寄せている。

 山崎氏は、アルカイダのテロを社会改革の過激な戦術と見る一般的な政治的解釈を否定する。このテロには自己を正当化する政治理論がない。それは感情の病理なのだ。
 
 現代のテロのはじまりは、「中国の文革から「パリの五月」へと続く、六〇年代の世界的動乱だった。民衆は政治的な背景の違いを超えて、同じ感情の爆発に 身をゆだねた。敵は政治体制それ自体であり、東西両陣営の官僚性がともに攻撃された。ベトナム戦争反対と性の自由、ビートルズと毛沢東の礼賛が直結され た・・・」

 「人類にはときに狐が憑くことがあって、強烈な感情が芽生えて、人びとを相互に扇動させることがあるらしい。集団のなかでは共感の競争が起こり、他人よ り強く共鳴してみせる過剰適合の現象が始まる。古い例としては十五世紀の怪僧サボナローラが煽り、フィレンツェの街を襲った狂気の爆発があった・・・

 「この種の社会病理現象はしばしば文明の爛熟期に、文明の避けがたい複雑さに対する反感として芽生える・・・

 「当然この反感は安直な白黒の価値基準を求め・・・」

 氏の分析には脱帽するほかない。いま世界中で起こっている反戦運動にもこの分析は驚くほどよく当てはまるのだ。それは文明が最も発達しているアメリカに 対する反感に根ざしている。憎しみはフセインではなくブッシュに向けられる。この反戦運動はアルカイダと同根なのである。(2003年3月18日)








 国連に常設の国際刑事裁判所が設立されるそうだ。人道に対する罪や、戦争犯罪の犯した人間を裁く機関である。
 
 この裁判所が本当に機能するためには、主権の壁を越えて逮捕権が行使される必要がある。例えば旧ユーゴ戦犯法廷でミロセビッチが裁かれているが、それは後任のユーゴスラビア大統領が引き渡したからにすぎないからである。

 つまり、国際刑事裁判所の考え方は、国家主権の概念を狭めるものなのである。いかに悪人でも主権は主権だという時代は終わりつつあるのだ。

 将来、国際刑事裁判所が独自の軍隊を持って、ヒトラーのような人間を逮捕するために、彼が支配する国に対して戦争を起こす時代が来るのだろうか。

 ところで、いまアメリカはイラクのフセイン大統領を独裁者と呼んで戦争を起こそうとしている。これを国家主権の侵害だと非難する人がいる。しかし、これは上記の国際社会の流れに沿ったものとも言え、一概に間違いとは言えないのである。(2003年3月15日)







 新聞をしばしば、そこにあるものを伝えずに、そこにないものを伝えようとする。例えば、大学受験資格についての最近の新聞報道がそうである。

 文部科学省は昭和23年の文部省告示を改正して、大学受験資格をインターナショナルスクールの卒業生にも与えると発表した。つまり、大学受験資格の対象を広めたのである。

 この発表の中には、朝鮮人学校のことは一言も書かれていない。ところが、ある新聞がその書かれていない朝鮮人学校のことをニュースにしたのである。そして、この新聞の作った嘘に乗せられて各地で抗議運動が起っている。

 真実は、文部科学省が、教育活動について第三者機関の認定が得られる学校の卒業生に大学受験資格を拡大するということだけである。朝鮮学校の卒業生には未来永劫に与えないなどとは一言も言っていない。ところが、この騒ぎである。

 これはまさに新聞による世論操作であり扇動である。われわれに必要なのはこういう扇動に乗せられない冷静な目である。(2003年3月8日)







 また衆議院議員が逮捕されるが、その理由が「政治資金収支報告書に収入を1億2000万円も少なく記載していた」からだという。
 
 これは政治資金規制法に違反するのだそうだ。で、それがなぜ悪いのか。どうしてそれが、国民がわざわざ投票して選んだ国会議員を逮捕する理由になるのか、今ひとつ分かりにくい。

 われわれが知りたいのは、むしろその金でこの人は何をしたかであろう。

 たとえば、日本では出来ない子供の臓器移植をアメリカでしたいのに資金が足りなくて困っている人に、この人がその金を提供したのなら立派な行為である。しかも、これは政治活動に使ったのではないから、報告書に記載しないのは当然だということになる。

 では、この議員はなぜ報告書に記載しなかったのか。それは今の時点で全く明らかではない。にもかかわらず、この人のことがいかにも悪人のように報道され議員辞職が云々されている。

 「政治と金」が問題になっていると大げさに言われているが、本当にそうなのか。問題はその金で何をするかではないのか。(2003年3月6日)






 ローマ法王が平和を呼びかけている。しかし、世界史を勉強した人なら、歴代のローマ法王がどれほど多くの戦争を引き起こし、どれほど多くの無垢の大衆を殺害してきたかを知っているはずだ。
 
 おそらくローマ法王が殺した人の数はヒトラーが殺した人の数をはるかに上回るだろう。そのローマ法王が今人命の尊重をうたい平和を訴えている。
 
 権力を持っていた間は戦争をして人を殺してきたローマ法王が、権力をもたない今平和を訴えているのである。そして、今世界を支配しているアメリカが戦争をしようとしている。

 してみると、戦争を選ぶか平和を選ぶかは、権力を持っているかいないかに係っているということになる。

 実際、言うことを聞かない相手に暴力を使うことは権力者だけに許されている。それが社会の秩序を維持するための手段であるからだ。

 したがって、もしいま世界の秩序を維持する責任がローマ法王に委ねられているなら、彼もまた武力行使をためらいはしないだろう。(2003年3月6日)







 ニュースをインターネットのサイトで読むようになってから、テレビのニュース番組は見なくなった。
 
 インターネットでは知りたいニュースを選んで読む。この習慣が付いてしまうと、テレビのニュースは押しつけがましく感じるのだ。

 テレビ局が興味を持つニュースに視聴者が興味が持つとは限らない。世の中の出来事は無数にある。その中のどの出来事に興味をもつかは人によって違うはずだ。

 ところが、テレビ局は自分勝手に選んだニュースを、まずこれを知りなさい、次にこれを知りなさいと順番に読み上げるのだ。

 そんな番組を見ていると、そんなことはどうでもいい。そんなことは昔から決まっている。そんなことはもう知っている。それはお前の意見だろう。その話題 はもういいぞ。と、いちいち突っ込みを入れたくなるのだ。それが面倒くさいので、ニュースの時間帯は教育テレビをつけている。

 インターネットの時代にはニュース番組も変わるべきだろう。(2003年3月3日)







 映画「麗しのサブリナ」を見た。後半で、サブリナがライナスにデートの断りを入れる場面が秀逸だ。彼女はライナスのいるビルの一階の電話ボックスから電話をかけるのだが、ライナスが彼女を引き留めるテクニックが巧みなのだ。
 
 「会えない理由をいって御覧、聞いてあげるから」と相手にしゃべらせておいて、その間に自分は受話器をこっそり置いてエレベーターで一階のサブリナのもとにたどり着くのである。恋を成就するにはこんなテクニックがいるのだ。
 
 次にその後の、サブリナが二人の男の間で揺れる自分の気持ちを涙ながらに告白するシーン。ヘップバーンの演技が素晴らしい。あんなに気持ちのこもった演技を見るのは久しぶりのような気がする。
 
 「パリは雨の方がいい。雨の日のパリはいい匂いがするから。だから、パリに傘はいらない」とサブリナは言う。それで、邪魔な傘は通り過ぎる男のコートの背中にかけて、二人が抱き合ってThe End。
 
 この傘といい帽子といい、小道具の使い方もしゃれている。とにかく幸せな気分にしてくれる映画だ。

 ところで、字幕がmergerをずっと「合同」と訳していたのが変だった。「合併」だろうが。(2003年3月3日)









 イラクに対して、武装解除しなければ戦争をするぞと言うアメリカ。アメリカに対して、戦争を許すような安保理の新しい決議には拒否権を行使するぞと言う フランス。ブレア首相に対して、新しい安保理決議なしで戦争に踏みきるなら離党するぞと言うイギリス労働党の議員たち。

 どれも話し合いによって相手を説得しようとしないで、脅しを使っている点では同じである。

 問題が話し合いによっては解決しないことを教えるこれほどいい例はない。哲学者ヴィットゲンシュタインは、「問題はそれが問題でなくなったときにのみ解決される」と言ったという。

 ではそのためにはどうすればよいか。「ゴルディオスの結び目」の話がその参考になる。
 
 この結び目は「これをほどいた者はアジアの征服者になる」と言われていた結び目だが、それまで誰もほどけなかった。それを知ったアレキサンダー大王はこの結び目を刀で一刀両断にしてしまったという。つまり、彼は問題を問題でなくしてしまったのだ。
 
 イラク問題に関しては、この話は参考にならないだろうか。(2003年2月28日)







 ちょっと居眠りしただけで、こんなに大きくマスコミに取り上げられた人はいないだろう。運転中に居眠りをした新幹線の運転手のことである。一流紙がこぞってこれを社説に取り上げている。ほかに書くことがなかったのだろうか。

 きっと彼らは仕事中に一度も居眠りをしたことのない立派な人たちなのだろう。

 新幹線はほとんど自動運転だそうだ。だから、もしちゃんとホームの正しい位置に止まっていたら、こんな大騒ぎにはならなかったに違いない。新幹線はもっと自動運転の精度を上げるべきではないか。だれでも、人間なら眠気はさすものだからである。
 
 もちろん、眠気が差さないようにする方法はある。自動運転をやめればいいのだ。時速270キロという高速運転中に眠くなる人はいない。しかし、そうなれば、危険性ははるかに高くなる。

 マスコミが大騒ぎをしたおかげで、この運転手は警察に呼ばれたそうだ。死んでおわびしろとでも言うのだろうか。普通の人なら神経がもたないだろう。

 全く他人に厳しく自分に甘い人間ばかりの世の中である。(2003年2月28日)







 映画「102」を見た。101匹わんちゃん大冒険の実写版「101」の続編だ。普通は続編はおもしろくないものだが、これは違う。
 
 ぶちのないダルメシアンの子犬と飛べないオームの大活躍、女性保護観察官と捨て犬ホームの男との恋、グレン・グロースにジェラール・デパルデューを加え た豪華キャスト、パリのロケ、一糸乱れぬ犬たちの名演技、グレン・グロースが罰として巨大なケーキにされる趣向などが、ダルメシアンの毛皮でコートを作る という「101」の単純なストーリーの上に加わって、「101」よりはるかに面白く、大人も楽しめる内容になっている。最後にぶちなしの子犬にぶちが出て くる落ちまでついてかなりの出来だ。7点。
 
 ところで、最初のシーンで鉄格子の扉に書かれたBehavior control unitの和訳が「行動制御課」と直訳されているのは笑った。このcontrolは矯正のことだろう。
 
 また、グレン・グロースの吹き替えに山田邦子が使われていることに不満が残った。他は皆声優の張りのあるいい声なのに、グレン・グロースだけは普通の声 なのだ。素晴らしい声優は五万といるのに、知名度に頼って素人を吹き替えに使って映画をだめにするのは、日本の映画会社の悪い癖である。(2003年2月 28日)







 桶川ストーカー殺人の民事訴訟で、一旦家族に対して涙ながらに謝罪した県警本部長が裁判では一転して責任を否定したことを不当だという声がある。
 
 しかし、裁判とは争うものだ。相手側に非があってそれを相手側が全部認めているなら裁判にはなっていないはずである。

 また、裁判で県側が被害女性の不利な情報を利用して故人を冒涜したことも批判されている。しかし、それが裁判というものだろう。

 この事件の真相はあくまで男女関係のもつれである。警察がそれに関われる程度には限度がある。別れ話を持ち出して「殺してやる」と言われた女性のために、警察がいちいち動くことは出来ない。

 そもそも、本当に命の危険を感じていている人間が、真っ昼間に一人で目立つ格好をして外出するだろうか。本人が予見しなかった殺人を警察が予見できなかったとしてもそれは落ち度とは言えない。
 
 遺族には気の毒だが、今回の裁判所の判決は妥当なものだと思う。(2003年2月27日)







 ある新聞記者が小学校3年の自分の息子に「イラクや北朝鮮は、核兵器を持ったらだめなのに、なぜ、アメリカはいいの」と質問されて困ったという。
 
 イラクの大量破壊兵器の廃棄は当然だとしても、米英などが核兵器を保有していることがなぜ許されるか、子供に説明できないというのだ。

 それなら、この息子さんには是非次のように教えてあげてほしい。

 「アメリカはいい国だから、核兵器を持っていても悪いことに使わないからいいけど、北朝鮮やイラクは悪い国だから、核兵器を持ったりしたら、どんなに悪いことに使うか分からないから、核兵器を持ってはいけなんだよ」と。

 この記者はあまりに仕事が忙しくて、こんなことも分からなくなるくらいに頭がこんがらがってしまっているのだろう。しかし、息子さんだけは、物事の善し悪しの区別がちゃんと付けられる立派な大人に育ててあげて欲しいものである。(2003年2月26日)







 内閣総理大臣は天皇に任命された人物だ。ところが、野党のたとえば民主党の党首は天皇に認められた人間ではない。だから、与野党の対立の中で、与党はいつも官軍であり、野党はどこまでも賊軍なのである。

 だから、民主党の党首が質疑で首相をやっつけても、内閣支持率は大して減りはしない。民主党自体の支持率も、高々4%が9%になっただけで、4%が25%になりはしないのである。

 これを見ても、日本ではイギリス流の議会政治はなかなか機能しないと言えるのではないか。

 昔の日本は中国の制度を真似たけれども、けっして同じものを作ろうとはしなかった。むしろ、遣唐使を廃止して国風文化を花咲かせた時代もあったぐらいだ。

 現代の日本も、イギリス流の議会政治の猿まねはやめて、日本流の政治形態を模索すべきではないか。

 二大政党制を目指すべきだとよく言われるが、それは野党が政権につく可能性があっての話だ。しかしそれは日本ではほとんどあり得ない。ならば、もっと多くの英知を結集できる日本式の方法を考えるべきではないだろうか。(2003年2月24日)









 NHKの日曜日の「のど自慢」をわたしは好きではない。わざわざ予選をして下手な人を出しているのが理解できないからだ。
 
 それだけではない。この番組は人を番号で扱う。名前は合格した人だけに聞くのだ。何故そんなことをするのか理解できない。

 この番組は飛び入り参加ではない。予選をやって、職業から年齢から家族構成から調べまくってから本番に出すのだ。それなのに本人の名前をアナウンサーは言わないし、字幕でも紹介しない。
 
 住民基本台帳では人を番号で扱うのはけしからんとさんざん文句が出ている。ならば、どうしてNHKが出演者を番号で扱っても問題ではないのか。
 
 NHKは子供版の「のど自慢」を衛星放送でやっている。こちらは名前と曲名が字幕で出る。大人と子供は違うということだろうか。
 
 こういう分かりにくさがわたしは嫌いなのである。紅白歌合戦の場合も同じである。(2003年2月23日)







 イラクは平和的な手段で武装解除できると主張するフランスだが、いっこうにその具体的な方法を実行に移そうとせず、世界で広まる平和運動をあてにした多数派工作に熱心なようだ。
 
 フランスのドゴール将軍が生きていたらこのシラク大統領のやり方をどう思うだろう。祖国を離れてレジスタンス運動を指揮していたドゴール将軍なら、イラクを離れて海外でフセイン打倒の運動を進めている人たちに対して、シラク大統領のような冷淡な態度はとらないはずだ。

 だから、ドゴール主義を標榜するシラク大統領が、なぜ今回のような態度に固執しているのかは、大いなる謎である。

 シラク大統領は世論を巧みに利用する政治家であることは有名である。献金疑惑を抱えながら、大統領選挙で右翼の台頭を引き出す演説によって再選を確実にした彼のことだ。何か狙いがあって反戦の世論を利用しているにちがいない。
 
 しかし、多数派工作だけでアメリカの攻撃を止めさせることは出来まい。彼の狙いが何であれ、その実現に目途がつくときがフランスの転換点になるのではないか。彼は変わり身の速さでも有名だからである。(2003年2月22日)








 西村知美や浅田美代子がテレビ番組でとんちんかんなことを言って人気を呼んでいる。しかし、日本にはこんな女性は珍しくない。わたしの見るところ毎日新聞の「時代の風」に文章を寄せている高木のぶ子などもその一人である。
 
 そこに書かれた内容はかなりとんちんかんなものなのだが、読者の中にはそれを真に受けて立派なことが書いてあると思う人がかなりいるようだ。

 しかし、例えば、この人はある新聞の対談でこんなことを言った人である。

 「今世紀は男と科学技術と戦争の時代だった。来世紀は女と物語の世紀であってほしい」

 そんな馬鹿なと一笑に付せばいいような発言だが、芥川賞作家の言うことだと、世間は有り難がって拝聴してしまう。

 「時代の風」でも彼女は拉致被害者を北朝鮮に返すのが正しいと書いた。これはさすがに同じ新聞の岩見隆夫に「サンデー時評」でたしなめられたが、彼女はこれに懲りずに、今度は「アメリカは変わった」(2月9日) という題で的外れなことを書いている。

 その内容は今のアメリカは「リンカーンのゲティズバーグの演説、ケネディの理想、ハリウッド映画に見る開放感と正義」のアメリカではもはやないと一方的に断定するもので、その理由が今の軍事力優先の姿勢だと言うのである。
 
 この人はきっとアメリカについて何か自分勝手な夢を抱いていたのであろう。現実のアメリカは軍事力によって生まれた国であり、常に軍事力によって世界を支配してきた国である。しかも、そのアメリカはいま戦時体制にある。
 
 さきの新聞の対談で彼女はさらにこう言ったそうだ。

 「私たちが生きているリアルな生活よりアナザーワールドに遊ぶ能力というかダブルに生きる能力が物語の力になる。今あるものだけで四苦八苦するのでな く、ダブル、トリプルの人生を送るための物語が必要になってくる。それを担うのはぎゅうぎゅうと生きてきた男でなく、女の力ではないか」
 
 現実の政治は今あるもので四苦八苦することである。作家が物語の世界で夢を見るのは自由だが、それを現実の世界に持ち込んでとんちんかんな事を書くのはやめたほうが賢明だろう。(2003年2月22日)







 トヨタ自動車がこの春の賃上げをしないそうだ。トヨタは不況どころか日本で最高の利益を上げている一番の勝ち組である。その企業が賃上げしないのだから、日本のデフレが改善する見込みは少ないと思うしかない。

 賃上げをしない理由はいろいろ言っているようだが、要するに、儲かっているトヨタが儲かっていないマツダや三菱に合わせたのである。トヨタは賃上げの代 わりにボーナスだけで辛抱するらしいが、それさえ、たくさんもらうことを申し訳なさそうに弁明したりしている(後日注: カルロス・ゴーンの日産だけは賃上げしたそうだ。さすがである)。

 不況不況というが、日本全部が不況なのではない。不況の会社と好況の会社があって、たまたま不況の会社の方が多いだけなのだ。ところが、こういうふうに好況の会社が不況の会社に合わせているかぎり、デフレの克服は遠い。

 景気の回復が個人消費にかかっていることは誰でも知っていることだ。それなら、好況の企業の社員から消費を増やしていこうとどうして思わないのか。いつまでも政府委せでは夜明けは来ない。(2003年2月21日)







 フランスのシラク大統領は、雑誌タイムとのインタビューで、

"France is not a pacifist country. We currently have more troops in the Balkans than the Americans. France is obviously not anti-American. It's a true friend of the United States and always has been. It is not France's role to support dictatorial regimes in Iraq or anywhere else. Nor do we have any differences over the goal of eliminating Saddam Hussein's weapons of mass destruction."と言った。

 それを17日に朝日新聞は、「フランスは不戦主義国家でもなければ反米でもない。イラクの大量破壊兵器の武装解除を、戦争以外の手段で達成できると考えているのだ」と要約して記事に引用した。

 すると、19日に産経新聞が、「主張」で「シラク仏大統領は「不戦主義国家でもなければ反米でもない」と述べ」
と書いている。

 これを書いた産経の論説委員は、英語の原文を見ず、朝日新聞の翻訳を流用し、さらに短縮したものと思われる。原文を「〜でも〜でもない」の形にしたのは明らかに朝日新聞の翻訳だからだ。

 さらに、pacifist country を朝日新聞が「平和主義の国」と訳さず、「不戦主義国家」と訳したのは、シラク大統領の発言が平和主義を否定するものにならないよう配慮したものと思われる。

 それをそのまま流用した産経の論説委員の見識が問われる。(2003年2月19日)







 フランスのシラク大統領が、アメリカのイラク攻撃に反対していることに関して、雑誌タイムズのインタビュー記事の中で奇妙なことを言っている。
 
 なんと「フランスは平和主義の国ではない」と言っているのだ。

 おそらくシラク大統領は、アメリカとの対立を緩和しようとして、フランスは軍事力による解決を主張するアメリカの言い分を全否定するものではないと、アメリカに対して一定の理解を示したものであろう。

 それにしても、シラク大統領は日本人が大切にしている平和主義をかくもあっさり否定しまったのだ。これは一体どういうことだろう。

 平和主義は絶対に正しいことで、世界中の誰もが認める普遍的な価値ではないのか。どんなことがあっても戦争をしてはいけないのではないのか。

 ところが、シラク大統領はそれを否定しているのだ。これは単に日本とフランスは違うということだけなのだろうか。それとも日本が特殊なのか。まったく世界は広いというしかない。(2003年2月18日)







 史上空前の反戦デモだそうだ。そのデモが最も盛り上がったヨーロッパは土曜日である。ということは、ヨーロッパでは週休二日制の恩恵に浴する幸福な人たちが非常にたくさんいるということだ。
 
 ローマ、ベルリン、ロンドンでは50万人以上の人出があったという。週休二日制で土曜日が本当に休みなのは公務員ぐらいしかない日本ではとうてい考えられないことだ。

 このような運動が出来るということは、もちろんこの国々で自由と民主主義が栄えている証拠であるが、それ以上にこの国々の人々が土曜日に働くなくていいほど裕福だということである。

 この反戦運動の盛り上がりを一番喜んでいるのが、イラクの自由と民主主義を圧殺して国民を貧困で苦しめているフセイン政権だというのだから、これほど分かりにくいことはない。

 今回の反戦運動の規模はベトナム戦争当時よりも大きいという。ここから唯一よく分かることは、当時より世界がそれだけ裕福になったということだけである。(2003年2月17日)







 イラク攻撃をめぐって世界は新しい方向に向かい始めた。

 いま焦点になっているのは、実はイラクを攻撃すべきかどうかではない。世界の平和を守るのは誰かが問われているのだ。
 
 ソビエトの脅威が無くなった今、フランスもドイツももはやアメリカに頼る必要がなくなった。だから、もうアメリカの言う通りにはしないと言いだした。

 それどころか、かつての脅威だったロシアや共産主義の中国と手を結ぶという手段をとってまで、アメリカをへこませようとしている。
 
 もしフランスやドイツのこの企てが成功して、イラクの周辺に集結した何十万というアメリカ軍を撤退させるのに成功したらどうなるだろう。

 イラクの武装解除は立ち消えになるだろう。が、それだけではない。世界平和を守ってきたアメリカの面子は丸つぶれになり、アメリカ人の中にかつての孤立主義が復活してくる恐れがある。

 そうなったときにフランスやロシアや中国が世界平和を守ってくれるのだろうか。それは大いに疑問である。(2003年2月15日)







 インターネットの自殺願望サイトで知り合った男女が集まって自殺したというニュースが流れた。
 
 わたしはそんなホームページがあることは知らなかった。しかし、もしわたしが自殺したければそのサイトを見つけたことだろう。知りたい人だけが情報を分け合うのがインターネットの特徴だ。

 マスコミでは自殺は悪いことになっているが、インターネットではそんな建前はないから、新聞やテレビでは絶対手に入らない情報が手に入る。

 しかも、自殺願望サイトは自殺したい人しか見ないので、一般人に害を及ぼすことはない。しかし、こういうサイトは、自殺したいと思うだけの人に実行するきっかけを与えることにはなるだろう。

 だから、もし自殺しない方がいいのなら、こんなサイトはない方がいい。では、自殺しない方がいいのか。

 世の中には「生きてるだけで丸儲け」と言える幸せな人がいる。ということは、その正反対の人もいるだろう。そういう人にそれでも生き続けろと言えるか。もし言えないなら、こんなサイトは無くしてしまえとは言えないのではないか。(2003年2月14日)








 先日の党首討論はほとんどニュースにならなかった。政府は野党議員の言うことにまともに答えないという従来の方法に、首相が立ち戻ったためである。
 
 政府の首脳が野党議員の言うことをいちいち真に受けて答えたりしていたらろくなことはない。
 
 かつて吉田首相は野党議員の言うことに腹を立てて「バカヤロー」と言ってしまい、それで衆議院を解散することになってしまったことさえある。おかげで国政は停滞し、選挙費用の無駄遣いになった。

 小泉首相は衆議院の予算委員会で、野党議員の公約違反の指摘に対して「たいしたことはない」と言って物議を醸したが、これがいい薬になったのだろう。

 一部マスコミはこれで国会の論戦が面白くなってきたとはしゃいだが、現実はその逆になってしまい、自分たちの見通しの甘さをまたもや露呈した格好である。

 政府は本来国会の答弁では言いたいことは言わないものである。それで国政が安定するのだから、それでよいのである。(2003年2月13日)







 最近の童話は残酷な場面がなくなっているという話を聞いた。
 
 たとえば、「さるかに合戦」では猿はおにぎりを奪った蟹を殺してしまうが、最近の話では蟹は怪我をしただけになっている。
 
 「かちかちやま」ではおじいさんはおばあさんを殺した狸を殺して狸汁にするが、最近では狸は謝っただけで許されてしまうそうだ。
 
 これらは子供には残酷すぎるとして改められたのだろうが、童話が残酷なのはあらかじめ子供をこの世の残酷さに馴れさせたり、命のはかなさを教えたりする目的があるはずだ。

 最近ひきこもりの子や逆に残酷な事件を起こす子が増えているが、それとこうした童話の改変とは関係があると言えないだろうか。
  
 また、岡山で幼い姉妹が山の中で命を失うという事件があったが、もし二人が自分から山の中に迷い込んだのなら、この世の怖さを教えない優しい童話やアニメに影響された結果ではないかと、わたしには思われてならないのだ。(2003年2月12日)







 『となりのトトロ』を見た。この映画の世界は子供の無防備な好奇心を全面的に受け入れる世界である。
 
 藪の中に飛び込んでも、トゲに刺さることもなければウルシにかぶれることもない。森の中で大きな怪物に出会っても、襲ってくるわけでもなければ取って食おうともしない。
 
 だから、この世界の子供は恐怖心を持っていない。迷子になった子供はトトロに頼めば猫のバスが来て助けてくれる。
 
 大人が見ても子供が見ても楽しい映画だ。しかし同時に、子供がむげにこの世界を信じて現実を生きようとすれば非常に危険だという感想を持った。

 グリム童話などは現実の世界の恐ろしさを子供に教える役割も果たしているが、『となりのトトロ』にはそれがないのだ。
 
 この世は危険がいっぱいである。無防備に走り回れば必ずどこかで怪我をする。少しのことで命を失う危険さえある。大人はこの映画を見終わった子供たちに必ずそのことを教えてやる義務があると思う。(2003年2月10日)







 「言論の府としての国会の活性化を」などとよく言われるが、日本には論争を尊ぶ伝統はない。
 
 「和をもって尊しとす」が今もって日本人の価値観の第一を占める。人がしようとすることに対してあれこれとあら探しをするのは、むしろ卑しむべき事とされてきた。したがって、いくら活発な論争が国会で行われても、テレビの視聴率が上がることはない。

 むしろ、小田原評定といって長々と議論ばかりしている事への批判の方が大きい。
 
 いまの国会のテレビ中継を見ていてわたしが思うのはそれと同じことである。「今はもう議論をしている時ではなく行動の時なのに、何をごじゃごじゃ言っているのか」である。

 国会の議論が活発であっても、それが日本にはもたらすのは混乱だけで、何もいいことがないのは歴史からも明らかである。戦前の金融恐慌のきっかけはむしろ国会の論戦だった。
 
 そして、いま不況にあえぐ中小の企業家たちが求めているのがあんな議論の応酬でないことだけは確かだろう。(2003年2月7日)







 京都市がゴルフ場予定地を業者から昔買い取った金額が高すぎるでとして適正価格との差額を当時の市長に支払うよう住民が求めた訴訟で、大阪高裁は住民の訴えを認めて約26億円を市に返すように前市長に命じた。
 
 しかし、こんな判決が正しいと言えるのなら、今後は余程の大金持ちでなければ市長になれなくなってしまう。

 どんな小さい町の町長も個人の財産よりもはるかに大きな額の予算を扱う。もし失政を犯せばその結果を個人で全部背負わなければならないなら、町長になることのリスクは大きすぎる。

 また、市の公金支出は議会の承認を経ているはずだ。間接民主制では議会の承認は市民の承認を意味する。それを後から間違っていると一部の住民が訴えてそ れが認められるなら、議会の存在意義は無くなってしまう。こんなことが続くなら、議会議員選挙の投票に行くことは無意味になる。

 この判決は日本の民主主義をつぶしかねない判決と言わねばならない。(2003年2月6日)







 コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバー。スペースシャトルの名前だ。アメリカにはあんなものが五つもあったのであ る。アメリカとは何と金持ちの国だろうとつくづく思う。そのうち二つが爆発してしてしまったが、それでもまだアメリカにはあんなものが三つもあるのだ。な んと贅沢なことか。
 
 夢のためというが、夢はいまだに夢でしかなく、人間が宇宙に脱出できる目途は全く立っていない。人間が出来る事といえば、細々と地球の周りを回ることぐらいだ。

 確かに、衛星の放出や実験など地球上にいる人間に役に立つこともやっている。しかし、スペースシャトルがやっていることの多くは宇宙飛行士のためだけのもので地球上の人間には関係がない。

 それなのに、アメリカはあんなものを最近では年に6回から8回も飛ばしているのだ。回数が増えれば事故が起きるのは当たり前だろう。金持ちの道楽に乗せられて死んだ人たちには気の毒というほかない。(2003年2月4日)








 日本では芥川賞と直木賞が文学賞として大きな位置を占めている。これはアメリカのピューリッツァー賞に匹敵する賞だと言われる。
 
 しかしながら、芥川賞作家にはあまりたいした作家は出ていない。三島由紀夫も太宰治も川端康成も芥川賞作家ではないのだ。唯一の例外は大江健三郎だけである。

 なぜこんなことになるのかというと、大物小説家は同時代の審査員を越えているため、彼らの反発を買って受賞できないからである。だから、芥川賞を受賞したということは、審査員に好かれる程度の小者の作家という烙印を押されたようなものである。

 新聞の訃報に芥川賞作家と紹介される人が、読んだことも聞いたこともない人がほとんどなのはそのためである。

 直木賞の方も同じようなことが言える。たとえば、吉川英治も山岡荘八も直木賞作家ではないのである。

 というわけで、結局どちらの賞もちょっとした有名人を作るだけで、文学的には大した意味がないのが実情である。(2003年2月4日)







 人間の知性には限界がある。スペースシャトルの事故を見て、その思いを新たにした人は多いだろう。しかし、人間社会の多くのことは人間が完全ではないおかげで成り立っている。
 
 たとえば、囲碁や将棋というゲームがある。これらは先の手を読む力を競うゲームであるが、もし人間に完全に先を読む能力があればゲームは成立しない。

 ゲームの進展には何億通りどころか、ほとんど無限に近い可能性があるが、それを全て初めから予想できればゲームをする必要はなくなってしまう。だから、これらのゲームは、人間の持っている乏しい能力を使って、ドングリの背比べをするゲームだと言える。
 
 もちろんプロとアマとは違う。しかし、全てを予見できることと比べたら、五十歩百歩である。そして、そのおかげでプロは金儲けができる。

 学問や宗教についても同じことが言える。要はこの世の事がよく分からないからこんなものがあって商売が成り立っている。宇宙飛行士も同じである。

 だから、人間は自分が不完全であることを嘆くどころか、むしろ感謝すべきなのである。(2003年2月3日)








 東京都の銀行税を高裁が違法と判断したという。しかし、民主的手続きを経て成立した条例を憲法違反でもないのに裁判所が否定してよいはずがない。
 
 この条例は議会で可決されたものである。ということは、議員を通して都民がこの条令に賛成したことを意味する。つまり、東京都民一千万人が賛成して決めたことなのだ。その決定を覆す権限を数人の裁判官が持っていてよいだろうか。

 裁判官は、議会の議決を経て都民の意志として形成された条例の当否を判断をする権限は自分たちにはないと言って棄却すべきだった。ところが、彼らは、自分には一千万人の判断を否定する権限が与えられていると思ったのである。

 最高裁判所には違憲立法審査権が与えられているが、それは民主的に国民が決めた最高法規に反したことを、国民が自ら行おうとしたときに警告を発する権限に過ぎない。

 憲法に反していない限り何が正しいかを決める権限は国民とその代表である議会にある。それをとやかく言う権利は裁判所にあってはならない。(2003年1月30日)








 電動ポットには上蓋の後ろの方に穴が開いている。沸騰のときに蒸気を逃すためである。しかし、沸騰した後は、あの穴から湯が冷めていく。だから、電気で保温しているのだ。
 
 最近は電動ポットでも魔法瓶式などというものが出ているが、穴はちゃんと開いている。だから、電気を切るとどうしても湯はすぐに冷めてしまう。

 湯を冷さずに保つには容器を密閉するのが一番である。しかし、密閉した容器で湯を沸かすと爆発する。つまり、電動ポットは、湯を沸かしてしかも冷さずにおくという矛盾したことを一つの装置でやろうとしているのである。だから、非常に電気を食う、効率の悪い商品なのだ。
 
 電動ポットで便利なのは、ボタンを押せば湯が出ることだ。これは従来の魔法瓶には無かった機能である。

 だから、わたしとしては、魔法瓶にボタンを押せば電動で湯が出る機能だけが付いた製品が出てくれないかと思う。湯は茶瓶を使ってガスで沸かせばよいのである。(2003年1月26日)







 国会の質疑における野党の質問は、今国会の管直人氏の質問のように、面白くても揚足取り的なものが多く、建設的であることは少ない。これでは時間の無駄である。与党の議員はそんなことはしない。ならば全部与党になれば国会はもっと意味あるものになる。
 
 その方法がないわけではない。挙国一致内閣を作るのである。そのためには内閣を構成する大臣は国会の議長と同じようみんな離党する。そして、政府を党派を離れた存在にして、どの党も参加しやすいものにするのである。
 
 これは県政レベルでは既に行われている。知事は無所属であるため、ほとんどの政党が知事の与党になっている。それと同じ事を国政でもやるのだ。
 
 県政のオール与党体制は、知事が無能な場合には県政が停滞する原因になる。しかし、有能な知事を得た県では、改革が非常にスムーズに進んでいるようだ。改革が望まれる今の時代である。国政が県政を真似るのも一方ではなかろうか。(2003年1月26日)







 かつて、政友会の犬養毅は野党にあるとき、自分は軍縮論者であるにもかかわらず、民政党内閣が軍縮条約を結んだことを統帥権の侵犯であるといって攻撃した。
 
 このように野党が自分たちが賛成していることを政府がやったと言って攻撃したり、自分たちが反対している政策を政府が実行しなかったと言って攻撃することで、戦前の政党政治は国民の信頼を失っていった。

 戦前は政府を退陣に追込んだら、次は野党に政権をまかせるという慣行があったので、これでも野党には充分利益があった。しかし、そんなことを繰返しているうちに、五一五事件が起って政党政治は終ってしまう。

 いま、民主党の管党首は自らは靖国参拝反対論者であるにもかかわらず、首相が公約どおりに八月十五日に参拝しなかったといって攻撃して得意になっている。

 しかし、戦後は選挙で勝たなければ政権がとれない。しかも、首相の靖国参拝は七割の国民の支持を得ている。民主党はこの質問でさらに政権から遠のいたと知るべきだろう。(2003年1月25日)







 「千と千尋の神隠し」を見た。

 この作品はアメリカで評判がよい。英語版の予告編(http: //www.apple.com/trailers/disney/spirited_away.html)を見たが、それだけで感動的である。何といっ ても吹替えが素晴しい。主役の女の子の声がとにかくキュートなのだ。ところが、日本語版は、逆に吹替えが駄目なために台無しになっている。

 吹替えに有名俳優や新人を使うのはよいが、しっかり訓練してから使うべきだった。特に主演の女の子の声は、英語版と違って芝居になっていない。そもそも 声が出ていないのだ。内藤剛志、沢口靖子、菅原文太などの俳優たちもへたである。プロの声優たちはうまいが、俳優でうまいのは湯婆婆の夏木マリだけであ る。

 ストーリーの面から言えば、はじめの無人の町は桃源郷のイメージだ。勝手に食べ物を食べて罰を受ける話も、人間が豚にされる話もホメロスのオデッセイ (ナウシカも同じ)と同じ。カードの人間は「不思議の国のアリス」だ。湯婆婆は西太后と黒柳徹子のイメージ。鳥獣戯画などの絵巻物の登場人物やムーミンも 入っている。映画「エイリアン」と「インディー・ジョーンズ」が入っているのも誰もが認めるところだろう。全体的には「ネバーエンディングストーリー」を 思わせる。以前の作品のイメージの焼直しもある。このようにあらゆる映画や物語やイメージをギューと詰め込んで作った映画だ。

 神が出たり何でもありなのを取除けば、要するに、ふとしたことから実社会に放り込まれて成長していく少女の話である。アメリカ版ならアカデミー賞を取ってもおかしくないだろう。日本語版は3点。(2003年1月24日)








 一部の新聞は二三日の予算委員会の質疑を論戦と見なして、民主党の管党首の勝ちと断じた。しかし、論戦とはやりあってこその論戦である。あれは質疑でしかなく勝ち負けはない。
 
 ただし、一回だけ小泉首相がやりかえした場面があった。それは首相が長崎県の諫早湾の干拓に民主党本部が反対しているのに、地元の民主党が干拓を推進する知事を支持しているという矛盾をついたときだ。これには管氏もまともに答えることができなかった。

 ではなぜ長崎県の民主党は知事を支持しているのか。それは県政で主導権をとれる与党になりたいからである。そのために干拓問題で譲歩したのである。それに対して、民主党本部は野党であるため、与党の政策に反対することで得点を稼ぐしかないのだ。

 民主党本部も実は与党になりたいはずだ。それならば自民党と政策協定を結んで与党になればいい。県政でやっていることを国政でやっていけない法は無いはずだからである。(2003年1月24日)







 まるで英米以外の主要国がみんなアメリカのイラク攻撃に一致して反対しているかのようなニュースが流れている。
 
 しかし、それが間違っているのはイタリアがイギリスを支持していることだけを見てもすぐに分る。

 イラク攻撃に反対している国々を見ても事情はそれぞれに違う。イラク攻撃の正当性やテロ対策に対する有効性などは表向きの口実ではないのか。

 むしろ、フランスはいつものようにアメリカに対する独自性を主張したがっているだけであり、ドイツは選挙時の人気取り公約に縛られて身動きがとれなく なっているだけであり、ロシアは湾岸戦争の時のイラク寄りの姿勢を変えていないだけであり、中国はアメリカに世界の主導権をとられたくないだけと見ること もできる。

 実際、これらの国はイラク問題に関して何か具体的で有効な方策を持っているわけではない。いわば、日本の野党のような立場に立っているのである。

 そんな無責任な国々の言分ばかりに耳を傾けるのはいかがなものかと思う。(2003年1月24日)







 「自由と民主主義」は、かつては欧州諸国の最高の価値観を表していた。ところが、最近ではそれに代わって「平和主義」が台頭してきている。アメリカのイラク攻撃反対運動の欧州における盛り上がりから、そう言えるだろう。
 
 「自由と民主主義」はブルジョアつまり資本家の価値観と言われてきた。それに対する「平和主義」はアリストテレスの世界でいう奴隷、今でいう労働者階級の価値観であろう。
 
 つまり、欧州では資本家の支配は終り、今や労働者の時代が来たのであり、欧州の政治家は資本家より労働者の支持を得ることを重視し始めたのである。

 しかし、これは欧州で労働者の力が強くなったということを意味しない。むしろ、大資本がアメリカに集中して、ブルジョア階級と言えるものがもはやアメリカにしか存在しなくなったということだろう。
 
 つまり、欧州の平和運動の盛り上がりは、アメリカの一国支配が経済面でも強まっていることの表れと見るべきなのである。(2003年1月23日)









 女生徒に相談に乗って欲しいと言われてたら用心したほうがいい。わたしはそれで人生を棒に振った。
 
 あの時あの子の目つきはただ事ではなかった。彼女の潤んだ目はわたしの方をまっすぐに見て何か言いたそうにしている。しかし、他の人には聞かれたくないと態度で訴えていた。だから、わたしは彼女を誰もいない別室に連れていったのである。

 ところが、部屋に入るはいなや、彼女はわたしの胸に顔を埋めてきたのだ。そして「先生、わたしの気持を分って下さい」と言ったのである。わたしは女生徒 には人気がある方だったが、こんなことは初めてだった。その瞬間、わたしはこの子はわたしに対する思いを打明けようとしているのだと確信した。

 彼女は美人で以前から気にはなっていたが、こんな形で結ばれるとは思いもよらなかった。しかし、ここは学校であり、彼女はまだ中学生だ。わたしは何とか自分を抑えて彼女を教室に返した。

 翌日の朝、彼女がわたしを警察に告訴したという知らせを聞いたときは、まさに青天の霹靂だった。逮捕されたわたしは訳も分らず、問われるままに「制服の上から彼女の胸に触れることがあったかもしれない」と言ってしまったのだ。

 そして懲戒免職。今わたしは裁判が終るのを待つだけの日々を送っている。今思うとこんなストーリーの小説をどこかで読んだような気がする。しかし、それも今では後の祭である。(2003年1月22日)








 NHKのテレビ番組『国宝探訪』で将軍足利義持が如拙に描かせた「瓢鯰図」を見た。
 
 漁師が瓢箪を持って川の中の鯰を捕えようとしている水墨画である。この絵を義持は、京の高僧三一人に見せて絵の意味を解かせた。僧たちが銘々自分の答を書いた一覧表も一緒に残っている。

 わたしが瓢箪からすぐに思い浮べるのは西遊記の中に出てくる全てのものを吸込む瓢箪と、豊臣秀吉の千成り瓢箪である。時代は違っても、瓢箪は霊妙な力を持つものと考えられていたに違いない。

 すると、この漁師は義持自身であり、瓢箪は将軍という権力であり、鯰はとらえどころのない国民を意味するのではあるまいか。

 権力は瓢箪のように今にもつるりと自分の手から滑り落ちてしまいそうで、保持し続けることすら容易ではない。そんな権力を使って、これまた気紛れな国民を相手に政治をせねばならぬのが権力者なのだ。

 義満の急死で突然権力の座に登らされた義持は、政治の世界の危うさを実感して、その寓意を絵に描かせたのであろう。小泉首相が喜びそうな絵である。(2003年1月22日)








 豊郷小学校建替え問題について、マスコミでは建築家ボーリズの建築物のすばらしさを強調する意見が多いようだ。なるほど、ボーリズが素晴しいものを建てたことはよく分った。
 
 しかし、ここでわたしが問いたいのは、では、今の日本にも世界にもボーリズを越える建築家は一人もいないのかということである。

 もし、そうなら、ボーリズが建てた校舎を残して、それを未来の子供たちに使わせることも良いかもしれない。しかし、そんなことはないだろう。今の世界にも立派な建築家が沢山いるはずだ。そして、きっとボーリズを越えるすばらしい校舎を建ててくれるだろう。
 
 それにも関わらず、豊郷町の人たちは、未来の子供たちに自分たちのお古を使わせ、自分たちの趣味を押しつようとしているのである。

 相撲界では貴乃花も引退した。いつまでも過去に拘っていてはいけないのだ。新しい人たちに新しい活躍の場を与えることの大切さを忘れてはなるまい。(2003年1月21日)








 昔、アメリカの独立を求めて「自由か、しからずんば死を」と言った人がいる。今、イラクの国民は心の中で何と言っているだろうか。

 ある人は、「アメリカよ、フセインをやっつけて早くわたしたちに自由を下さい。そのためには、少しの血もいといません」と言っていることだろう。

 それに対して別の人は「いいえ、平和が何よりです。罪のない市民が殺されるのは困ります。フセインがこの先何年この国を支配しようと、あなたたちの知ったことではありません。ほっといて下さい」と言っているかもしれない。

 わが国で主に報道されるのは後の方である。また、世界中でイラク攻撃に反対する平和運動が大きな広がりを見せている。

 しかし、平和運動とはいったい何だろうか。それは、自由の実現よりも平和の維持を大切にすることだろうか。少なくともイラク攻撃に反対する平和運動は、独裁者フセインを利するがゆえに、わたしの目にはそう見えてしかたがない。(2003年1月21日)







 貴乃花がやっと引退した。マスコミは貴乃花を平成の大横綱と呼ぶことで一致したらしい。しかし、ここで貴乃花の真の姿を思い出しておくのも悪くない。
 
 貴乃花の出世は藤島部屋と二子山部屋の合併から始った。同部屋対決が無いため、これによって強い対戦相手の数が大幅に減少した。この利点は二子山部屋の 他の力士にも及んで、この部屋の力士が上位を占めるようになる。その結果、貴乃花の対戦相手はほとんどが弱い平幕力士ばかりとなった。
 
 それにも関わらず、大関時代の貴乃花は曙のためになかなか連続優勝できず、横綱になれなかった。この曙が二子山部屋の力士によって膝に半月板損傷という 大怪我を負わされて二場所連続休場を強いられ、力も大幅に低下してはじめて、貴乃花は連続優勝して横綱に昇進できたのである。
 
 それからは貴乃花の天下だった。優勝回数は22回まで伸びた。回数だけ見れば大横綱だが、これが二子山支配の副産物であるという側面を忘れることはできない。

 そして、この引き際の悪さである。貴乃花は内面的にも大横綱と呼ぶに値しないことを自らさらけ出した。その貴乃花が曙と同じ膝の半月板損傷によって引退に追込まれたのは大いなる皮肉である。(2003年1月20日)








 大相撲の栃東の脱臼が公傷扱いになった。
 
 わたしはこの脱臼が嘘だとは言わないが、栃東があのまま休場せずに負け越していたら来場所カド番になるところを、公傷扱いの脱臼のおかげで、栃東が来場所のカド番を逃れたことは確かである。

 もともと今場所の栃東の相撲はひどかった。内臓疾患なのだそうだ。そのせいで力が入らず、ずるずると五連敗。そのあげくのケガが公傷扱いなのだから、相撲協会も北の湖理事長も甘いと言わざるを得ない。

 今場所の体調なら、どうせまともに相撲は取れないのだから、栃東は三番も負けたところで休場してしかるべきところだった。しかし、そうすると来場所はカド番で、もし体調が間に合わなければ大関陥落である。
 
 となれば、栃東は公傷になるケガをするまで待っていたと思われても仕方がない。

 わたしは彼の脱臼が嘘だとは言わない。しかし、わたしの中の大相撲にまた一つけちが付いたことは否定できない。(2003年1月19日)









 ゼネコン汚職事件であっせん収賄罪に問われた中村喜四郎代議士に対して最高裁が上告を棄却したことで、中村被告の有罪が確定した。この判決によって選挙の結果は覆り、中村代議士は失職する。

 国民はこの裁判を知っていながら、中村氏を二度にわたって当選させてきた。つまり、国民は中村氏を無罪と認定したわけだ。その二度にわたる国民の判断を裁判官たちは間違いだと言ったことになる。

 では裁判自体はどんなものかというと、中村氏の有罪の根拠は当時の公取委委員長だった梅沢節男氏の中村代議士から働きかけを受けたという証言だけなの だ。いわば、痴漢されたという女性の証言だけで有罪にされた多くの男性の場合と同じなのである。つまり、えん罪の可能性は十分ある。

 しかも、その証言たるや回数も日時も覚えていないという曖昧なもので、国民が選んだ国会議員をやめさせるのにこんな証言だけでいいのかと思わせるようなものである。

 主権者たる国民の判断が役人達のこのようないいかげんな判断によって否定されてよいのだろうか。国民は今こそ怒るべきである。(2003年1月18日)







 加藤紘一元衆議院議員が毎日新聞を訴えていた裁判で、両者の間に和解が成立したというニュースが流れた。

 それは加藤氏が、所得税法違反で逮捕されて有罪となった佐藤三郎元秘書から一億円を受け取って、それを自宅の家賃などの支払いに当てていたという毎日新聞の記事が、嘘だったことを認めるものである。

 何と、加藤氏は元秘書から一億円を受け取っていなかったのである。

 これは大きなニュースであろう。加藤氏の元秘書が逮捕されただけではなく、その秘書から金を受け取ることで、加藤氏自身が犯罪に関わっていたと思われていた。だからこそ、加藤氏は衆議院議員を辞職する羽目に追い込まれたのである。

 それが嘘だった。ということは、加藤氏は衆議院議員を辞めることはなかったということになる。

 一つの新聞が嘘によって一人の国会議員を辞めさせた。ということは、一つの新聞によって国家の利益が損なわれたということである。「新聞を疑え」とは、よく言ったものだ。(2003年1月17日)








 韓国の次期大統領の盧武鉉氏が日本の川口外相との会談の席で、小泉首相の靖国参拝に遺憾の意を表明したと報道されている。

 確かに、NHKをはじめとする日本のマスコミ報道を見ると、靖国参拝を批判する報道が目立っている。そして、それだけをみると、まるで日本国民の多くが首相の靖国参拝に怒っているかのようにさえ見える。

 まさに、盧武鉉氏はそう判断して発言したのではないだろうか。

 しかし、事実は全く逆であり、新聞社の世論調査では国民の7割が首相の靖国参拝に賛成している。つまり、小泉首相は多くの国民の願いを実現するために参拝したのである。

 もし盧武鉉氏がこの事実を知っており、しかも日韓友好を願うなら、もっと違う発言をしたと思われる。

 また、韓国の国民の多くが小泉首相の靖国参拝に反発しているかどうかも大いに疑問である。

 盧武鉉氏は韓国の大統領となる以上、日本と韓国の両国民の心情をよく理解した上で発言することを望みたい。(2003年1月17日)







 千代富士が横綱に昇進したとき、師匠で今の北の富士さんが「辞めるときはすぱっと辞めような」と、横綱にとっての引き際の大切さをまっ先に教えたというのは有名な話だ。

 では、なぜ横綱には引き際が大切なのか。その理由が、今の横綱貴乃花の最期のあがきを見ていて分かったような気がする。

 貴乃花復活の場所といわれた去年の秋場所は、対戦力士の多くが世論に遠慮した戦い方を強いられて敗れていった。

 そして、今年の初場所だ。初日、貴乃花に軍配が上がったが勝負は微妙だった。しかし審判団は物言いをつけなかった。ところが、二日目は貴乃花が仰向けに倒されて負けになったのに、物言いがついて取り直しになってしまった。これに抗議の電話が殺到したそうだ。

 日本社会は序列社会だ。弱くても横綱の地位にある者には配慮がなされる。その結果、弱い横綱は自身に不名誉なだけでなく、競技の公正さをも左右しかねないのだ。
 
 引き際が大切な所以である。(2003年1月14日)







 米政府が方針を転換して、北朝鮮との対話姿勢を打ち出したとたんに、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)からの脱退を宣言した。
 
 これはまさに北朝鮮が対話に踏み出そうとしていることを意味するものだと思われる。北朝鮮にとって対話をするということは、心を開いて誠実に話し合うことではなく、このように威したりすかしたりすることだからである。

 北朝鮮はNPTから脱退すると言いながら、一方で核兵器を作る意志がないともいっている。要するに、核を取り引き材料にしたいだけなのだ。

 ミサイル開発再開も「火の海にする」報道も同じ文脈で解釈すべきである。本当にそうつもりなら、黙ってやるはずだからである。

 北朝鮮は現在でも米国から食料援助を受けているという。その米国に対するこのような対話姿勢は米国民にはとうてい受け入れ難いものだろう。

 しかし、米国政府は北朝鮮のこの対話へのシグナルを見誤ってはならないと思う。(2003年1月13日)







 皇居の一般参賀のニュースを見て疑問に思うのは、天皇陛下が防弾ガラスの後ろにいることである。

 防弾ガラスは陛下を凶弾から守るために、いつごろからか設けられたものだ。確かに、防弾ガラスに守られていれば陛下は安全だろう。しかし、国民と直接会ってこその参賀ではないのか。それを、ガラス越しにしてしまっては、陛下を国民から遠ざけてしまうことになる。

 天皇陛下はいやしくも国家元首である。いったい、どこの国の元首がガラス越しでしか国民と対面しないだろうか。

 ローマ法王も、移動の際には防弾ガラスの中にいるが、信徒と対面するときには決してガラス越しではない。

 そもそも国民とのガラス越しの対面など陛下ご自身の本意ではあるまい。

 警察は陛下を守るにしても、国民との出会いを担保してこそ自らの職務を果たしたことになるはずだ。それを防弾ガラスで済ませてしまうのは実に安直なやり方だと思う。

 少なくともバルコニーに窓を設けて、陛下が国民と直接会えるようにすべきではないだろうか。それをお守りしてこその警備であろう。(2003年1月11日)







 米国のイラク攻撃に反対する人たちの主な理由は、無垢な市民を巻添えする事とイラクは主権国家だという事だと思う。
 
 では、イラクという国をフセインという一人の犯罪者が国民を人質にとって立てこもっている建物だと考えたらどうだろう。

 この犯罪者を捕らえるために、この建物を攻撃して突入すべきで、その際人質の中から多数の犠牲者が出ても仕方がないと考えるべきか。それとも、人質の命が何よりも大切だから攻撃すべきではないと考えるべきか。

 また、この建物はたとえ他人の持ち物であっても、犯罪者を捕らえるために破壊するのは正しいと考えるべきか。それとも、所有権は何より優先されるから壊すべきではないと考えるべきか。

 もちろん、厳密にはフセインは犯罪者ではないし国民はフセインの人質でもない。しかし、実態は似たようなものだろう。

 その上に、もしこの男がサリンや核兵器のような大量破壊兵器を開発しているとしたら。答えは明白ではないだろうか。(2003年1月8日)







 いま、アメリカがイラクに対して、また北朝鮮がアメリカに対して、戦争だ戦争だと言っているが、戦争というものはやるぞやるぞと言ってからやるものではない。
 
 戦争をやる以上は勝たなければいけない。勝つためには突然やる必要がある。だから、常識から言えば、アメリカのイラク攻撃も北朝鮮の言う戦争も起きずに済むと考えるべきである。

 いま戦争になれば経済が悪化すると盛んに言われているが、戦争が起これば当事者以外の国の景気はよくなるのが普通だ。だから、戦争による経済悪化論は平和主義の建前が言わせていると思うがいい。

 だから、起こってもいない戦争の悲劇を仰々しく言い立てる人たちの言葉を信じてはいけない。戦争が悲劇だというなら、イラクも北朝鮮もかつての交戦国と平和条約を結んでいないという意味では、いまだに戦争状態にある。
 
 この現在の悲劇を終わらせるために何らかの仕方で決着をつける必要がある。その時が今来ていることだけは確かだろう。(2003年1月8日)







 去年の交通事故死者数が1970年に比べて半分になったそうだ。これを警察は去年の厳罰化の成果だと胸を張っている。本当にそうだろうか。
 
 実は交通事故の件数は減るどころか、どんどん増えているという。ということは、厳罰化は効果がなかったことになる。

 では、事故に遭う人が増えたのに事故で死ぬ人が減ったのはなぜだろう。

 医学が進歩して70年より命を救われる人が増えたということがまずあるに違いない。
 
 次に車のブレーキ性能がよくなったことや、シートベルトの普及も忘れてはならない。

 また、道の舗装が行届き、しかもスリップしにくくなったことも関係があるに違いない。
 
 さらに、信号の増加や、信号が全部赤になる方式の導入とも関係があるはずだ。

 狭い道路を片っ端から一方通行にしてしまったことも挙げられよう。

 つまり、死者数の半減は「車は事故を起こすもの」という前提に立って、改善を重ねてきた結果なのであって、決して厳罰化の結果ではないのである。

 もっとも、わたしは、車が多くなりすぎて道路が渋滞ばかりするようになったので、死亡事故を起こすほどスピードが出せなくなったというのが真相ではないかと秘かに思っている。(2003年1月7日)







 日本では二大政党による政権交代は起きたことがない。それなら、これからもないと考えるべきではないか。
 
 英国の制度を真似るとこらから始めたのはよいとして、それがうまく機能しなければ独自のものに変えて行くべきだろう。

 まず、国民は政党を求めているか。無党派層が多いのは良い政党がないからだと言われている。しかし、もうこの辺で、日本人は本来政党が好きではないからだと考えてみる必要がありはしないか。

 それは議院内閣制でない地方議会を見ればあきらかである。知事は無所属だし、議会にも与野党の対立はほとんど存在しない。地方議会の野党は本当の少数派でしかないのが通例だ。
 
 要は、トップにいい人間が来ていい政治をしてくれたらよいのだ。そのために、与野党の対立や二大政党による政権交代などという手続きを踏む必要が本当にあるのか。

 むしろ、日本では政党はトップの足を引っ張る存在になりがちだ。はたして優れた指導者を生むために政党が必要かどうかも疑問である。
 
 私はこの観点から首相公選制を検討すべきだと思う。(2003年1月7日)








 去年話題になった『声に出して読みたい日本語』が浪曲『次郎長三国志』の森の石松の三国船の一節を含めたのはお手柄だった。
 
 石松「飲みねえ、飲みねえ、寿司を食いねえ寿司を・・・、もっとこっちい寄んねえ、おう、江戸っ子だってね」
 船客「神田の生まれよ」
 石松「そうだってねえ、そんなに何か、次郎長にゃいい子分がいるかい」

 いまや浪曲などというものを聞く人は少なくなっているし、広沢虎三などという浪曲の名人が何代も続いて、人々に感動をもたらしたことなど、もう昔話になってしまった現代で、この文章をもう一度思い出してもらおうとするのは実に意味のあることだ。

 しかし、この話が面白いのはここではない。

 船客が、強いと言われる次郎長の子分の名前を順番に挙げていくのに、なかなか自分の名前が出て来ないことに苛立った石松が何度も何度も聞き返す内に、相手が
 
 「強いの何のと言ったって、そりゃあ、大政小政に遠州森のい・・・。大政小政に遠州森のい・・・。そうだ。肝心なのを一人忘れていたやい」
 
 と来て、そこでやっと石松の面目躍如に逆転する。
 
 この話が面白いはここなのであり、ここで感動するのだ。ただ声に出して読めばいいのではない。感動してこそ声に出して読む価値があるのである。(2003年1月2日)









 アメリカに対してうまく行かないから一つ日本を試してみようというのが、去年の日朝首脳会談だった。ところが、拉致を認めても逆効果で日本相手ではうまく行かず、やっぱりアメリカ一本で行こうと決めたというのが今の北朝鮮だろう。
 
 北朝鮮は今やアメリカ相手に必至になって原子力施設の再稼働という挑発に熱中しているところである。そんなところへ日本が拉致被害者家族の返還を呼びかても北朝鮮には日本を相手している余裕はない。

 では、なぜこんな厄介なことになったのかを考えてみるなら、第二次大戦後にロシアが北朝鮮を作ったことにさかのぼる。さらに、その後の朝鮮戦争で中国が北朝鮮を助けたために朝鮮半島は統一されずに終わった。
 
 もしこの二つの国が余計なことをしなければ、今現在北朝鮮という国はないはずなのだ。だから、今のこの厄介事の責任の多くはロシアと中国が負うべきなのである。

 北朝鮮対アメリカという対立は朝鮮戦争の対立の継続でしかなに。ならば、真の対立はロシア・中国対アメリカであるはずだ。この三国が真剣に話し合って北朝鮮という世界のお荷物を解消すべきだろう。(2003年1月1日)


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