私見・偏見(2002年後半)

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 ネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込まれた発言で名誉を傷つけられたとしてある動物病院が発言の削除と賠償を求めて裁判を起こしたという。吉本新喜劇のギャグで言えば「あほちゃうー」というところだ。
 
 「2ちゃんねる」は自由な情報交換の場だ。例えば、いろんな会社の製品が名指しでいろんな評価を受けている。動物病院もそれも同じことである。結果がよくなければ、それがここで公表されるだけのことだ。

 ここの利用者はけっして与太者だけの集まりではない。嘘だと分かれば、ちゃんと嘘として葬り去る程度の良識は持っている。利用者は単に憂さ晴らしのためだけでなく、有用な情報を求めて集まってきているからである。だから、しっかり反論すれば理解してくれる人達を見つけることは出来たはずだ。

 ところが、それを名誉毀損で裁判所に訴えるとは、なんと野暮なことをしたものだろう。そんなことをしたら、自分自身で名誉を損なうようなものである。(2002年12月28日)







 豊郷小学校問題では住民側のやりすぎを批判する声も多いようだ。
 
 住民側は本当に建物が大切で運動をしているのか、それとも町長に勝つために意地になっているだけなのか分からなくなっているからである。

 一部マスコミは住民側に共感しているようだが、特に、町長を告訴したのはやりすぎだろう。一体、人を犯罪者にしてまで保存したい建物とは何なのか。これでは全くの本末転倒で、建物と人間のどちらが大切なのか分からなくなってしまう。

 もしこれで仮に校舎が保存されたとしても、住民側がこんな泥仕合をしてしまったために、この建物には将来常にいやな思い出がつきまとう建物になってしまった。住民側はそれもこれも町長が悪いというのだろうが、それでは無責任である。

 こんなことになった以上、この建物は保存する意味がなくなったのではないか。人間あっての建物である。わたしには住民側の真の目的は何なのか疑わしいと思わざるを得ない。(2002年12月24日)







 今の北朝鮮のむちゃくちゃぶりを見て、朝鮮民族がしっかりしてくれよと、思っている人が多いのではないか。
 
 朝鮮の南北分裂を朝鮮民族はどうして解決できないのか。ドイツ民族もベトナム民族もとっくに解決した。
 
 考えてみれば、もし朝鮮民族がしっかりしていたら、日清戦争も日露戦争も、いやそれどころか、太平洋戦争も無かったのではないかと思えてくる。
 
 朝鮮民族はいつも自国の中ではなく、外の大国を相手にしたがる。
 
 近代の朝鮮は、あるときはロシアと結び、あるときは中国と結んで国情が安定したことがなかった。当時の朝鮮がロシアや中国に支配される恐れがなかったら、日本は朝鮮に兵力を送る必要はなかったのだ。もし、そうなら満州国をつくる必要もなかったし、日華事変も起こっていないだろう。
 
 第二次大戦後は北朝鮮がロシアと中国と結んで朝鮮戦争を始めた。今また、北朝鮮はロシアと中国をあてにして、アメリカを挑発して戦争を起こそうとしている。
 
 それなのに韓国は反米の大統領を選んだ。これでは、一体朝鮮人は何がしたいのか分からない。朝鮮民族よ、しっかりせよ。そして、自分たちの問題は自分たちで解決して欲しい。(2002年12月24日)






 映画版『ゼロの焦点』は、今のサスペンスドラマの原点のような映画だ。それらがどれも海辺の崖の上の謎解きで終わる理由がこれで分かる。みんなこれを真似しているのである。
 
 しかし、映画自体は、最後にスター有馬稲子のためのストーリーを付け加えたために、話の焦点がぼやけてしまった。
 
 夫の失踪とその謎解きのストーリーは、久我美子と高千穂ひづるが崖の上で話し合う場面で終わっている。

 夫には過去に女(有馬稲子)がいて、久我美子との結婚のためにその関係を精算しようとして偽装自殺を考え出しして遺書を書く。ところが、自分の過去を知られた高千穂ひづるによってそれが利用されて本当に殺されてしまう。そのことが明らかになったことで謎解きは充分だった。

 ところが、夫の過去の女の話になって、あのきれいなきれいな有馬稲子の顔がスクリーンを占領し始めると、映画自体の興味はかえって間延びしてしまった。そして、それまでの恐い恐い映画が、切れ長の大きな目をした有馬稲子の可愛い笑顔によって可愛い女の映画に変わってしまった。

 結局、この映画は有馬稲子の笑顔で心なごまされて終わった映画だ。彼女は今いうところの癒し系だろう。有馬稲子とは実に美しい女優なのである。(2002年12月18日)





 飲酒運転の厳罰化についてマスコミの言っていることを読むと、「一杯ぐらいの甘えも許されない」とか「飲んだら乗るなの交通標語をかみしめたい」などと言っているが、その偽善者ぶりには驚かされる。
 
 そういう人間には、「いいかっこ言うな。お前も一度や二度は飲酒運転したことがあるだろう」と言いたくなる。

 そもそも「飲んだら乗るな」を厳密に守っていては日常社会は成り立たなくなる。人の集まりに出て「今日は車だから」と言って酒を断っていては、友だちは一人もいなくなるだろう。

 警察官の飲酒運転が無くならないことを見ても、酒は日本の社会にとって必要なものなのである。

 実際、今回の厳罰化の中身をよく見れば、全然飲むなとは言っていない。呼気中に0.15mg以上のアルコールが検出されれば酒気帯びと見なすと言っているだけである。しかし、0.15mgに達するにはビール大瓶を一本全部飲みほす必要がある。

 ということは、お父さんが家族といっしょに車で外食に行って、ビールをコップ二杯ぐらい飲むのはかまわないと言うことである。もっとも、それでも事故を起こせば「酒酔い運転」にはなるが、それは自己責任である。
 
 それより、何でも政府の規制に依存することの方がよほど危険である。(2002年12月18日)








 国立市の高層マンション訴訟で、裁判官が景観保護のために、すでに完成している14階建てのマンションの20メートルから上を撤去せよと命じる判決を下した。
 
 国立市には、高さ20メートルを超える建物の建築を禁止する条例がある。しかし、それができたのはこのマンションの建設が始まった後である。法律は遡って適用できない。だから、建設前に法律を整備しておかなかった住民側の負けである。

 そこで、この裁判官は住民側の言い分を生かすべく「景観利益は法的保護に値し、これを侵害する行為は不法行為に当たる」として、こんな判決を出した。
 
 確かに、この判決は、結果として、あとからできた条例をこのマンションに適用したように見える。しかし、住民の反対運動を無視して建設を強行した業者に問題があったのである。
 
 この判決は業者は何かをする前に法律だけでなく住民の意見も重視しなければいけないとする画期的な判決だと言える。(2002年12月18日)





 この地球上でゴミがあるのは人間だけだ。人間以外のどの動物にもゴミなどというものはない。人間以外の動物には汚物もない。食べるものがなければ動物は糞でも食らう。
 
 動物はゴミというものを意識しないから、それを取りのけて処分しようとは考えない。動物にはゴミ箱はないのだ。

 いま、ゴミ御殿といってゴミを自宅にため込んで近所迷惑になっている人がよく話題になっている。ゴミ御殿の主人は「これはわたしの財産だ」などと言っているというから、ゴミが汚いものだとは考えていないことは確かだ。これは、彼が本来の動物の姿に戻ったということだろう。

 野生の動物がもし人間の社会の中で生活していたら、迷惑なことだろう。それと同じで野生と化した人間が暮しているのだから、迷惑この上ない。

 しかし、動物のなかでゴミを集めて捨てようとするのは人間だけだということを思い出したら、ゴミを捨てようとしない人間の存在も、すこしは我慢しやすくなるかもしれない。(2002年12月16日)






 無くてはならないものと思っているものが、実はそうではなく、むしろ害になっているものが多い。
 
 例えば、歯磨き粉がそうだ。歯医者によると歯を磨くのに歯磨き粉は必要がない。むしろ、あの爽快感は汚れが取れたとか、口臭が無くなったと勘違いするもとだという。

 また、歯磨き粉を使うと香料のせいで長く歯磨きを続けられない。少なくとも二分はすべきなのだが、カーとなってきてできなくなる。

 電動歯ブラシを使っている人には、研磨剤の入っている歯磨き粉は特に要注意だ。歯のエナメル物質を削り取ってしまうからだ。歯茎との境目のもっと柔らかいセメント質を削り取ってしまうともっと大変なことになる。

 歯磨き粉で歯を白くしようというのは間違いで、人の唾液にはカルシウム分が入っていてそれで白くなるのだそうだ。

 歯磨き粉も歯ブラシもよく売れているのに、どうりで歯医者はどこも満員のはずである。

 さらに、多くの歯磨き粉には界面活性剤が入っていて、よく泡が立つようになっている。しかし、これは海の赤潮の原因になる物質だ。歯磨き粉は環境にも悪いのだ。まさに百害あって一利なしなのである。(2002年12月16日)






 判決の瞬間、にやりと笑ったっていうけど、そりゃ笑いたくもなる。
 
 高い金をかけて弁護士を雇って、長い時間をかけて裁判をしたところで、何の意味もない。裁判官は弁護士の言うことなんか全然聞かず、検事の言うことだけを聞いて、あとは自分勝手に考えて判決を作るのだから。
 
 弁護士の言うとおりに黙秘しても何の意味もなかった。これじゃ、初めから結論が決まっていてそれに向かって手続きが取られてきただけのことだ。

 マスコミが作り上げた虚像を信じ込んだ裁判官に何が裁けるか。だいたい、警察が動き出したのはマスコミがさんざん騒ぎ立てた後じゃないか。
 
 死刑になる犯罪を犯した人間が事件後何ヶ月も同じ場所にぐずぐずしているわけがない。とっくの昔にどこかに逃げ出しているに決まっているじゃないか。それをおとなしく逮捕されてやったら、このざまだ。

 弁護士なんて何の役にも立たない。裁判なんて糞食らえだ。正義なんてこの世にはないのさ。けっ。(2002年12月14日)





 円谷幸吉が自殺したとき、わたしは小学生だった。このニュースをわたしは小学校で聞いた。いや聞いたのではないかもしれない。円谷の自殺のことを、小学校の二階の廊下で茫然と外を眺めながら思ったことを覚えている。それほど衝撃的だった。
 
 円谷があの有名な「父上様母上様、三日とろろ美味しゅうございました」で始まる遺書を残したことを知ったのは、ずっと後のことだ。

 東京オリンピックのマラソンで期待を背負っていたのは君原だった。競技の前夜、緊張で眠れない君原の傍らで円谷はすやすやと眠っていたという。そして、三位になった円谷が今度は期待を一人で背負うことになった。

 しかし、実は東京オリンピックが円谷の頂点だった。あの試合の最後の場内一周はふらふらだった。円谷は腰を痛めていたのである。そして、ついにこの腰痛から永久に立ち直ることはなかった。そのことを最近の週刊誌で読んで知った。

 彼の栄光はその時すでに自分の命と引き替えに手に入れたものだったのである。栄光とはみんなそんなものかもしれない。(2002年12月12日)





 和歌山カレー事件の判決に対してマスコミは状況証拠を丹念に積み上げた判決として評価している。そして、今後も容疑者が黙秘する事例が増える状況では、このような判決が増えるだろうなどといっている。
 
 しかし、これは黙秘権を行使すれば状況証拠だけで有罪にされても仕方がないということなのだろうか。もしそうなら黙秘権に対して今後は制限が加えられるということになる。それなら英国のように、ちゃんと法律を改正すべきだろう。

 憲法も法律も変わらないまま、裁判官の裁量だけで法制度が変わっていくのは決して民主的なことではないからである。

 また、状況証拠だけでは容疑者が犯人である可能性が高いことしか分からない。それなのに、有罪だといって死刑にしてしまって、万が一でも後から真犯人が現れた場合にはどうするのか。

 状況証拠だけによる有罪判決が許されるなら、死刑制度を廃止する必要性はますます高まったと言わなければならない。(2002年12月12日)





 和歌山カレー事件の判決は変な点がいろいろある。まず、殺人の動機を立証していない。ということは、犯罪の証明が不十分だということになる。「未必的な殺意」などといっているが、それは犯行を前提として導き出されたものでしかなく、もし無実なら成立しない。
 
 この裁判官は初めから事件の被害者の側に立って裁判を行ったのではないかと思われる。
 
 まず、被告が黙秘をしていることを理由に事件の報道テープを報道の自由を侵してまで証拠採用したが、これは黙秘に批判的だったことになる。

 また、この人は裁判でいろいろと遺族や被害者に分かりやすくなるように便宜を図っている。これは裁判官の気持ちが初めから原告側に傾いていたことを意味しているのではないか。

 被害者に対して「ちゃんと有罪にしてあげますから見ていなさい」という気持ちがこの人にあったのではないか。つまり、結論が先にあって作られた判決である可能性がある。

 はたしてこんな不公平な裁判で人一人の命を奪っていいのだろうか。(2002年12月11日)




 和歌山カレー事件の判決は死刑だったが、判決理由は被告が犯人である可能性が充分高いというだけである。はたして、可能性が高いというだけで人を死刑にしてよいものだろうか。
 
 この事件ではヒ素の付着した紙コップが事件現場で発見されている。ところが、そのコップからは指紋が発見されていない。

 もし、被告が殺人目的でヒ素を入れたならその紙コップを現場に放置するはずがないだろう。しかし、それが放置され、しかも指紋が付いていない。

 こういう場合、サスペンスドラマでは、被告に恨みを持つ人間が犯行後に、被告に不利になる証拠を現場に放置した場合がほとんどである。
   
 ヒ素は被告の家にあるのと同種のものであり、しかも、被告はヒ素入りの食べ物で人を病気にして保険金を取るような人間である。この状況下では、ヒ素の付いた紙コップという証拠さえあれば、被告に疑いの目が向けられると考えたとしても無理はないだろう。
 
 さらに、カレーの見張りを誰もしていなかった時間帯があるという。わたしは第三者犯行説を排除できないと思う。(2002年12月11日)






 イージス艦を派遣することが憲法違反だという人達は、たとえばこういうことを言う。
 
 「仮に派遣されるイージス艦のレーダーで得た情報を基に、米軍がミサイルを発射したとすれば日本が直接攻撃に参加したことになりかねない」

 では、仮に自衛隊の補給したガソリンを使って米軍がミサイルを動かして発射したとすればどうなのか。

 また、仮に自衛隊が補給した食料を食べた米兵がミサイルを発射したとすればどうなのか。

 いやそれどころか、仮に自衛隊が側にいることで友情を感じて励まされた米兵がミサイルを発射したとすればどうなのか。

 わたしには、これらの間にはどれ程の違いがあるとも思えない。いったい、情報ならば違憲だが物の補給や精神的な支えなら違憲ではないという根拠は何なのか。

 しかもその違憲というのが「日本国憲法は集団的自衛権を禁じている」という一つの解釈に基づいたものでしかない。これではまるで「風が吹けば桶屋がもうかる」と言うのと大差ないではないか。(2002年12月11日)





 『源氏物語』の夕顔の巻は前後と比べて読みやすい。古文がそれほど難しくないのだ。難しさのレベルは『徒然草』に近いと言える。『大鏡』よりやさしいのではないか。若紫の巻や『紫式部日記』の難解さとは雲泥の差である。

 内容も、新古今和歌集からの引用があったり、『大鏡』の中の話が使われていたりする。これらは紫式部の時代から大分後に作られたものだ。最後の作者の言い訳も、この巻が特別にあとから付け加えたことを印象づける。

 『源氏物語』は全部が一度に作られたものでないという説もある。逆に、今の源氏にはない巻も平安時代にはあったといわれている。

 だから、夕顔の巻は鎌倉時代の人の挿入ではないだろうか。ちなみに源氏の最古の写本を作った藤原定家も源光行・親行親子も鎌倉時代の人である。(2002年12月10日)
 




 ブラウンの乾電池式電動歯ブラシの欠点は、ブラシの回転角度つまり、左右に動く度合いが、35度と小さいことだと思う。だから、振動数は9600回と多いのに、こすれている感じが少ないのだ。

 他の製品の数字を挙げると、

D17 5XX     3d-excel        45度7600回、
D15 511    3d               56度7600回、
Ultra タイマーD9511           60度7200回、
D6011CS                  70度2800回(たぶんこの倍)、
リーチは                  60度6000回

 3d-excelも少な目だから、不満が出るのではないか。こうして、比べるとスーパーに売っているブラウンの2980円の充電池式 D8013 がけっこういいのかもしれない。(このデータはホームページにはなかった)

 要するに、高級品は角度を犠牲にして、回数を増やしたり、3d振動を加えたりしていると、考えられるからだ。

 しかし、一方では振動幅は小さい方がブラシの先が歯の間に入りやすくてよいという人もいる。
 
 また、振動数も多い方が汚れが落ちやすいと思われている。そのために、リニアモーターを使ったものまで出ている。しかし、あまり振動数が多いと磨いているというよりも、震えているという印象の方が強くなってしまい、本来の歯磨きとは違ってしまう。(2002年12月9日)





 川崎の安楽死事件に関して逮捕された医師については、全く気の毒というしかない。医師に対して長男が安楽死を望んだのに、後から次男が望んでいないと言いだしたために事件になってしまった。いわばあの医師は家族の中の主導権争いに巻き込まれて容疑者にされたのである。
 
 新聞は過去の安楽死に関する判例を列挙している。しかし、どこの新聞記者があんなものを常識として知っているだろうか。

 いやそれどころか、彼らとて、人間社会はけっして判例や法律を頼りに成り立っているのではないことぐらい知っているはずだ。もし、法律に反する行為をすべて取り締まらなければ社会が成り立たないとすれば、この世の人間は全員犯罪者になってしまう。飲酒運転を自己申告制にしたら、運転免許を今現在持ち続けられる人間はごく限られてしまうからである。

 社会は法律によってではなく、人々の善意をやりとりによって成り立っている。それを、拒否して法律だけに根拠を求めるならば、今後だれも医者の治療など受けることはできなくなる。あの医師は即刻釈放すべきである。(2002年12月9日)







 敷金返還訴訟でつぎつぎと借り主側が勝利している。めでたいことだ。わたしも何度かアパートを借りたことがあるが、大阪では何かといちゃもんをつけて敷金を全額返そうとしない。こんなことは東京ではないことだ。

 そもそも敷金とは家賃の滞納や、家賃を払わずに夜逃げすされた場合にそなえた保証である。

 だから、家主は優良な借り手には出ていくときに敷金を全額返すべきである。それでも家主の手元には礼金と家賃が残っている。出たあとの家の美化はそれで賄えばよいのである。敷金からは、ガラスをこわしたとか、襖を破ったとかの純粋な弁償にとどめるべきだ。

 だいたい、借り手が出るときに部屋をまっさらに戻す義務があるなら、家主ほど楽な商売はないことになる。いったん家を作ったらあとは全部借り主の負担でやってもらえて、しかも、家賃と礼金が入ってくるのなら、家を建てたあとの出費はゼロで、儲かる一方だということなる。それでは家主はあまりに優遇されすぎというものだ。(2002年12月5日)






 (承前) こんなワルの光源氏だが、空蝉につれなくされて、女に振られるという初めての体験のおかげで、がっくり落ち込んでしまう。そして、人生をはかなんで、「もう俺は死にたいよ」などと、小君という小姓にこぼすのだ。
 
 こうなるとこのワルは愛すべきワルだということになる。わたしは、こんな光は『蒲田行進曲」の銀ちゃんなのであり、小君はヤスなのかと思えてきた。
 
 空蝉に会えないことが忌々しくてならない光は、もう一回会う場面をセッティングするように、小君を責め立てる。ところが、小君は、銀ちゃん命のヤスのように、自分をあてにしてくれる光君のためなら「たとえ火の中水の中」とばかりに、よろこんで走り出すのだ。

 そして、空蝉の夫が仕事で地方に下るという情報をつかんできて、光を自分の車で空蝉の家に忍び込ませることまでする。

 ところが、家に入った光は中を覗いて、空蝉が他の女といるところを見つけて、その女が美人だとわかると、もうこっちの女もいいなと思い始めているのだ。

 そこへ小君が連絡に来たので、光は女を覗き見していたことは知らぬ顔で縁側の欄干にもたれて空などを眺める振りをする。そして、「で、どうなんだ。うまくいきそうか」と小声でせっつくのである。(2002年12月5日)






 警察が人を逮捕するということは、容疑を固めたということである。したがって、逮捕後の取り調べの目的は、容疑者の言い分を聞くことではなく、起訴するための証拠をつくることである。
 
 警察が逮捕した容疑者の言い分を聞いて釈放するなどということはあり得ない。そんなことをすれば、逮捕が間違いだったことになってしまう。

 だから、逮捕された人には自分を守る手段として黙秘権が与えられている。逮捕されたあとでも、容疑者は事情を説明して無実を主張すべきように思われるが、そんな主張に警察が耳を貸すことはあり得ない。

 だから、逮捕された後の取り調べで黙秘しない場合には、罪を認めてその内容を供述して情状を求めることだけが許されている。

 したがって、逮捕後の取り調べで容疑者が黙秘したことを理由に、容疑者を批判するのは筋違いである。これは容疑者が真犯人である場合でも同様である。

 和歌山カレー事件で容疑者が逮捕後の取り調べで黙秘したことを批判するのは、警察というものを知らない人のすることである。(2002年12月4日)





 『源氏物語』の光源氏はかなりの悪(わる)である。彼のワルぶりは、「帚木」の段でさっそく描かれている。
 
 彼は自分の煙たい正妻のいる家にはめったに帰らない。たまに帰るのもちょうど方角が悪くて、その晩は泊まれない日だったりする。それで友だちの家に行くのだが、ちょうどその晩美人の継母が泊まると聞くと相手が迷惑がるのもかまわず無理やり押し掛けてしまう。

 そして、継母の部屋がちょうど隣だとわかると、適当な口実をつけて女が寝ているところへ入っていって、抱き上げて自分の部屋にもち帰って、「あなたのことをずっと思っていました」とかなんとか出任せを言いながら、相手が必死に抵抗するのもかまわず関係してしまうのである。

 もち帰る途中に女の侍女に見つかっても動じるどころか、朝になったら迎えに来いと言って目の前で障子を閉めるプレーボーイぶりだ。

 そのうえ、その一回では満足できず、女の弟が就職口に困っているという弱みを抜け目なく利用して、弟を自分の小姓に雇って、女との連絡に利用するのである。それが光源氏まだ17才のときのことなのだ。

 紫式部などというお堅い淑女が書いたとはとても信じられない話の進み具合である。(2002年12月4日)






 民主党の鳩山代表がとうとう辞意を表明させられた。補選敗北の責任をとった形は取っているが、要するに反対派がよってこって辞めさせてしまったのだ。
 
 それにしても、自分たちが選挙で選んだ人間をたった三ヶ月で辞めさせてしまうとはどういうことだ。

 イギリスの保守党でも、党首選挙で選ばれた前の党首は不人気だったが、こんな辞めさせ方はしなかった。

 フランスのシラク大統領などは、献金疑惑があって証言テープまで出てきたのに、一回の事情聴取もされずに、とうとう再選してしまった。どちらも、選挙で選ばれた人間はそれだけ大切にされるということだろう。

 これぐらいなら有権者もわざわざ投票に行く甲斐がある。
 
 ところが、日本では選挙結果が簡単に覆ってしまう。例えば、せっかく国民が選挙で選んだ人間を議会が気に入らないといって辞めさせてしまうのだ。これでは日本の選挙は軽視されていると言わざるを得ない。
 
 日本で選挙結果が重視されるとしたら、それはせいぜい人を辞めさせる口実としてだけだといっても言い過ぎではあるまい。(2002年12月3日)





 『猫と庄造と二人のをんな』 という映画をみた。1956年の作品だ。家の水は手押しポンプで汲み上げる時代だ。電動モーターが井戸の上に据えられるのは、それよりも少し後のことだ。洗濯はたらいでしていた。夏は夜に蚊帳をつった。家の明かりも蛍光灯ではなく電灯である。自動車もあまり走っていなかった。そういう時代だった。
 
 この映画を見ていると、この風景は夏目漱石の『吾輩は猫である』の風景とあまり変わらないのではないかと思えてくる。明治時代の後期なら、似たり寄ったりだろう。つまり、戦争で一時忘れていた町の風景が、昭和30年頃には回復していたのではないか。そんな気がするのだ。

 それがその後の高度成長時代の間に変わってしまった。それと同時に人の心も変わってしまったのだ。つまり、変わったのは、戦争に負けたからではなく、昭和30年頃からあとの高度経済成長のせいだったのではないのか。

 その何よりの証拠は、この映画の題名だ。「をんな」は「おんな」の旧仮名遣いだ。今ではあり得ないことだが、それが昭和30年頃までは通ったのだ。ということは、そのころまでは、旧仮名遣いの日本がまだ社会の底辺には息づいていたのかもしれない。(2002年12月3日)





 昔の歌謡曲に「あなたがかんだ小指が痛い」というのがあった。これは男が女の指をかんだ話のようである。もちろん歌っている歌手は女性だから、女が男にかまれたととるのが当然だ。しかし、はたして、男が女の指をかむだろうか思っていた。
 
 ところが、やはりかんだのは女の方だと『源氏物語』を読んで思うようになった。「帚木」の段を読むとそれが分かる。

 いつも自分に嫉妬ばかりする女がうるさくなって、「そんなに焼き餅ばかり焼くのなら、もうこれっきりだと思え。これからも、いっしょにやっていきたいのなら、性根を入れ替えてもう焼き餅を焼くのを止めることだ」と叱りつけたのに対して、女は「あんたが全然出世できないでいるのは気長に待ってあげてもいいけど、あんたの浮気癖が直る時がくるまでは、とうてい待てないわ。そうね、もうそろそろわたしたち、おしまいね」ときた。カッとなった男はさらに憎まれ口を畳みかけると、女は男の手をつかんだかと思うと、悔し紛れに男の指にかみついたのだ。

 こんなことがあって別れた女も今はこの世になく、懐かしい思い出になっているという話である。

 指にかみつくのはやはり、女なのである。(2002年12月2日)





 日本の政治家は選挙の結果というものをどう考えているのか。長野県知事の解職に続いて、こんどは民主党の代表を辞めさせようとしている。
 
 いったい、選挙の結果は神聖なものである。だから、選挙で選ばれたものが辞める理由は、非行があった場合に限るべきである。結果が気に入らないからといって、あれこれいちゃもんをつけて辞めさせようとするのは選挙の重要性を無視するものだ。

 民の声は天の声であるというのは、選挙の結果は絶対であるということである。それが民主主義というものだ。

 いったい、どこの先進諸国で選挙で選んだ人間を犯罪以外の理由で軽々しく辞めさせたりすることがあるだろうか。イギリスの野党である保守党の前党首も不人気だったが、だからといって一年も経たずに辞めさせられたりはしていない。

 ところが、民主党では鳩山党首が当選直後から辞任させようと運動する者が排出した。こんな政党はとても民主的な政党とは言えないのである。(2002年12月2日)





 毎日新聞夕刊の「雑誌を読む-11月」(橋爪大三郎)が興味深い。その一節。
 
 「国家は人民を抱えているので、反撃を恐れる。つまり、抑止がきく。しかし、人民には責任を持たないテロリストに、抑止はきかない。」
 「国家と国家の戦争が最大の脅威だった時代は、先に戦争を仕かけるのは不法行為とされた(不戦条約)。だが、《テロリストは殉教者であり、従来の抑止理論からはみ出る。死にたい者を事後報復で脅しても無効だから、先制攻撃に出るというのは・・・理論的に正しい》(片岡論文)」
 
 同様にして、パレスチナに対するイスラエルの報復攻撃が役に立たず、報復の連鎖になっているのは、パレスチナが国ではないからである。アフガニスタンに対する報復攻撃がテロ撲滅につながっていないのは、ビンラデンに国民に対する責任がないからである。
 
 ならば、パレスチナを国にして、そこの大統領をビンラデンにすれば、全部が一度に解決する!? 少なくとも先制攻撃以外の選択肢もありそうだ。(2002年11月28日)






 あるテレビ番組を見ていたら、中国人の日当は三百円、日本人は時給が七五〇円だという。日本人の場合は八時間で六千円だから、両国の人件費の差は二十倍もあるのだ。

 これを利用して、日本の企業は中国でものを作って日本に輸入して安く売る。しかし、日本製に比べてむちゃくちゃ安いというわけではないから、日本で作るのに比べて企業は大きな収益を得られる。日本で作って日本人に支払うはずの給料の二〇分の一を中国人に支払うだけだからである。

 その儲けの残りが、日本の本社の従業員の給料にまわってくる。つまり、日本人の高い給料は中国人の安い給料のおかげで成り立っているということになる。だとすれば、日本と中国は運命共同体になっているということである。

 しかも、これは両国がEUのように密接に結び付いていないからこそ維持できる。もしEUのように関税なしの自由往来となれば、日本人は自分で中国から輸入してしまい、日本企業の稼ぎのからくりは消えてしまうからである。

 はたしてこんなからくりがいつまで続くものだろうか。(2002年11月25日)






 高円宮が亡くなった。そのニュースの文字が新聞社によって二通りに別れた。一つは「高円宮さま急逝」もう一つは「高円宮さまご逝去」だ。前者が朝日・毎日・日経であり、後者が読売・産経である。
 
 皇室のニュースに敬語を多用するかどうかで、新聞社は常に二分されてきたが、ここでもはっきり二つに分かれた。

 しかし、左寄りの新聞も高円宮の死を悼む記事を書かずに入られない。朝日新聞は、ノーベル賞受賞者を扱ったときと同じく、社説のスペースを割いて生前の高円宮を讃えた。

 産経抄は「三笠宮ご一家の兄弟では一番若く、一番元気であらせられた。ご一家の嘆きはいかばかりか」と古風に結んだ。

 ただ、中身は各社似たり寄ったりである。英語でプロポーズしたとか、サッカーで日韓交流に尽力したとか。要するに、生まれの良さを除けば、ごく常識的な人だったようだ。

 しかし、わたしには、なぜ新聞社がこれほど皇室に媚びをふる必要があるのかわからない。高円宮と聞いて誰のことか分からないような我々平民には想像もつかないことがあるのかも知れない。(2002年11月23日)






 電動歯ブラシがいろいろ出ている。わたしは最初オムロンのを買ったが、横磨きでたいしてこすれていないようなので、コルゲートのスピンブラシに代えた。
 
 ところが、こいつには大きな欠点がある。ブラシと本体の結合部に歯磨き粉が入り込んで溜まるのだ。それが時間が経つと臭くなる。そのために、使ったらブラシを抜いて、駆動部を洗う必要がある。

 次に、ブラウンの乾電池式を購入。こちらにも、ブラシと本体の結合部に磨き粉が入るが、駆動部が外に突き出ている形なので、溜まることはなく、簡単に洗い落とせる。

 次に、リーチの電動歯ブラシを購入。これもブラシと本体の間に歯磨き粉が入る。だから、ときどき外して洗ってやる必要がある。

 リーチのはブラシが単にスピンするだけではなく、振動もするので、よく磨けるような気がする。電池が一本で軽いのだが、その分電池の交換時期が早く来る。また、一月もしないのにブラシの毛の先が開きだしたのが心配だ。(2002年11月22日)





 犬は昔は「びょーびょー」と鳴いていたと、狂言の和泉元彌がテレビ番組で話していた。そういえば、昔狂言を見たとき、実際にそう鳴きまねするのを見たような気がする。

 『大鏡』の犬の葬式の話に出てくる鳴き声は「ひよ」であるが、濁点を付けて「びよ」と読むと、最近国文学者の山口仲美が言っているが、正しいと思う。

 では、なぜ現代の「わんわん」に変わったか。犬が家畜化したからだという意見があるが、私にはそうは思えない。はるか昔から、犬は人間の友として家に飼われていたからだ。
 
 私の考えでは幼児語の「わんわん」が先に生まれて、そこから鳴き声に使われるようになったのではないかと思われる。
 
 たとえば猫の幼児語は「にゃんにゃん」だが、猫はそうは鳴かない。猫の場合、鳴き声の「にゃおにゃお」に「ん」を付けて幼児語になった。それと似た過程が犬の場合にもあったのではないかと思う。(2002年11月17日)





 「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといえり」と言った福沢諭吉は慶応大学の創始者である。その慶応大学の学生サークルが企画した台湾の李登輝前総統の三田祭での講演を、中国の反発を恐れた大学当局が学生側に圧力をかけてやめさせてしまった。
 
 慶応大学は情けないことをしたものだ。原理原則よりも、おつきあいを優先したのである。これが処世術として立派なものであることはもちろんだが、正義の実現にほど遠いことも認めねばなるまい。それは単に言論と集会の自由に反しているだけではない。

 李登輝氏といえば、一党独裁国家中国の武力による脅しをものともせずに、台湾の独立を主張している人だ。その人の講演を止めさせることは、この人を「分裂主義者」とおとしめる中国の言い分に同調することになる。それが上記の諭吉の平等の精神に反することは明らかだ。諭吉は後輩たちの意気地のない行為を天国でさぞ苦々しく見ていることだろう。(2002年11月12日)






 講談社文庫の徒然草をいつもの図書館で借りようとして、予約の電話をしたら、年輩の男性とおぼしき人が出てきた。ちょっとついてないなと思いながらも、「徒然草で、講談社文庫のありますか」と聞くと、コンピューターで調べて「あります」と言ったが、続けて「古い本ですよ」とおっしゃる。書庫にある本なのだ。
 
 わたしは古くて本屋にないから借りようと思ったのだが、古いものはよくないとお考えなのだろうか。しかし、図書館員の考えには興味はないので、よけいなことを言うなと思いながらも、予約を頼んで車で受け取りに行った。

 カウンターで予約の件を話すと、受付の女性はなんと岩波文庫の徒然草を出してきた。おまけに、紙が付いていて、予約の本は見つからなかった旨が書いてある。

 「古いですよ」の意味が一瞬にして理解できた。自分は書庫を走り回って本を探すのが苦手である。徒然草が読みたかったらこれでもいいだろうと。住民を見下した態度も気になった。

 これはたいして探さなかったなと思って、なじみの図書館員に再度の調査を頼むとちゃんと探し出してきてくれた。探す気があれば見つかるのだ。いい加減な公務員はどこにでもいるものである。(2002年11月11日)





 兵庫県播磨町の広報誌「はりま」11月号に奇妙な文章が載っている。題は「町長からのメッセージ」となっているが、実に感情的なものである。
 
 議会の中に町長のいいなりにならない議員がいて、議会でたびたび自分を批判するのを腹に据えかねて書いたものらしい。

 本来、議員に対する反論は議会ですべきある。ところが、「議会だより」を見ると、この人は議会で反対派の質問に会うと、激昂してちゃんと喋れなくなるようなのだ。それで言いたいことが言えなかったものだから、広報誌を利用して自分の言い分を書いたのである。

 しかし、広報誌というものは町長の私有物ではない。「今月号から数カ月ごとに町長からのメッセージを、お届けしたいと思っております」と前置きしているが、これを書きたくて作らせた欄であることは明白である。

 こんなことは自分の金でやればいいことだ。広報誌は町民のためにあるもので、町長のためにあるものではないからだ。(2002年11月10日)






 旧正田邸の保存問題は、皇室の意向を勝手に想像して錦の御旗をたてる人間がまだまだいるということを如実に示したものだと言える。
 
 保存を主張した人たちの心には、自分の生家は残したいものだから、皇后もきっと生家を残したいはずだという思いこみがあったのではないか。

 こういう考え方は危険である。戦前に軍部は、天皇は戦争に勝ちたがっているはずだ、国土の拡大を望んでいるはずだ、と勝手に想像してどんどん戦争を押し進めた。ところが、昭和天皇は平和主義者で最後は人間宣言までした。
 
 今回も、当の皇后が存続を望まないとわざわざ発表しなければならなくなった。これは騒動を鎮めたいという意向が働いたからに違いない。そもそも、皇室は政府の意向に反対することはできない。そんなことをすれば憲法違反になるからだ。

 しかし、解体業者が辞退したことなどを見ても、皇室のためと勝手に錦の御旗をたてる人間には逆らえない風土が、まだまだこの日本には存在するということで、空恐ろしいことである。(2002年11月8日)






 今度の統一地方選挙では投票率の低さが言われている。千葉県の投票率はたった二四パーセントしかなかった。一方、一番投票率の高かったのは鳥取県で五六パーセントである。
 
 しかし、選挙結果をよく見ると、この一番投票率が高かった鳥取で当選した人の得票は九万票なのに、千葉で次点で落選した人の得票数は四二万票もある。

 つまり、投票所に足を運んだ人の数だけを比べたら、千葉の方がはるかに多いのである。それなのに千葉の有権者は政治に無関心だと言われる。これはおかしいと言わねばならない。

 当選した人の得票数を比べたら、この二つの県の間の一票の格差は五倍もあることは明白である。ところが、国会も裁判所もこれでいいと言っているのだ。

 しかし、おまえの所の人間は五人で一人前だと言われているのに、誰がわざわざ正直に投票所にまで足を運ぶだろうか。国は国民に投票を呼びかけるなら、その前に公平な選挙制度を整備すべきだろう。(2002年10月28日)





 アメリカ大リーグのワールドシリーズの視聴率が低迷しているというが、当然だろう。ジャイアンツの4番バッターのボンズが打席に立つと、敬遠の四球の連発なのだから。
 
 特に、一死で走者が一塁三塁の場面で、敬遠するのにはあきれた。日本では一塁ベースに走者がいるときには敬遠しないものだ。うまく内野ゴロを打たせたらダブルプレーをとれる可能性があるからだ。その可能性も棄てて満塁にして、大量失点の危険を冒してでも敬遠するのだ。これでは野球の面白みは半減である。

 ボンズがまともに勝負してもらえるのは、相手が大量リードでホームランを打たれても勝敗に影響が出ない場合だけである。また、そんな状況だからホームランがよく出る。ボンズがホームランを打った試合は負け試合が多いのも当然である。

 いくらホームランバッター相手でも、日本ではこんな事はない。勝負所で一流投手と一流打者がのるかそるかの勝負をする、日本の野球の方がまだ面白いといえる。(2002年10月24日)





 騒音問題を解決すると言うことは、騒音源をなくすことであるはずだ。ところが、金をやるから騒音を我慢しろというのが、今の伊丹空港の騒音問題の解決の仕方である。
 
 そもそも、関西新空港を作ったのは、伊丹空港を廃止して騒音被害者を救済することであったはずである。

 ところが、伊丹空港からうまい汁を吸っている人たちの声が大きくなって、空港は廃止されず、その代わりに金を配ればいいと言うことになった。

 しかしながら、そもそも、騒音被害者が裁判を起こしたのは何のためだろう。騒音と引き替えに金を引き出すことであったはずはない。騒音とは金をもらえば耐えられると言うものではないからだ。

 最近、国土運輸省が伊丹空港の格下げを打ち出し、扇大臣が伊丹空港廃止にまで言及した。

 伊丹空港の騒音公害調停団はこれをきっかけにして、自分たちの本来の目的である騒音被害の解消、つまり、伊丹空港廃止に向けた取り組みを再開すべきである。(2002年10月17日)






 バリ島の事件とアメリカが計画しているイラク攻撃を結びつけて、ある新聞は「このテロは、・・・米国主導の「対テロ戦争」の見直しを迫る。イラクを攻撃してフセイン政権をつぶせば、テロはなくなるのか、と」などと言っている。
 
 テレビでは「テロ対策がテロを呼ぶ」などと言う人も現われた。

 それぞれ一見うがった意見のようではあるが、現実は話が逆である。

 インドネシア政府はアメリカから何度もテロの警告を受けていた。今回も前日に警告を受けながら、何もしなかったのである。

 今回のテロは、テロ対策を怠ればテロが起きるということを証明したようなものだ。

 ところが、日本では、テロの原因は貧困にあるというような、犯罪者に同情的な議論が跡を絶たない。イラク攻撃についても、侵略者フセインに味方するような意見が横行している。

 このような議論は、テロリストを利することあっても決してテロ撲滅にはつながらないと知るべきだ。(2002年10月17日)






 拉致被害の生存者が日本に帰ってきたが、彼らは祖国の土を踏み家族に会うために帰ってきたのであって、家族の会の質問を受けるためではない。まして、拉致問題を解決するためでは決してない。
 
 彼らは生きて帰ってきたというその事実だけで尊いのである。ところが、死亡者とされる人たちの家族の質問に満足に答えないといって早くも批判されている。

 国民が躍起になって拉致問題の解決を求め、拉致被害者の家族が団結して死亡者とされる人たちの消息を求めているのに、それに積極的に協力しないのはおかしい。そう拉致被害者の家族の会は言いたそうだ。

 しかし、家族の会は被害者が頼んで作ったものではない。その家族の会が帰国者たちに質問しても、彼らはそれに答える義務はない。帰国者の側から見れば、彼らは単なる赤の他人なのである。

 家族の会が、帰国者の行動を不可解だとか、発言がテープレコーダを聞いているようだとか言っていたのには驚いた。家族の会は彼らが生きて帰って来たことをどうして理屈抜きに喜んでやれないのか。(2002年10月16日)






 拉致被害者がやっと越えて帰ってきた。ところが、どういうわけか一時帰国である。しかも、なんと北朝鮮は被害者たちが早く北朝鮮に帰りたがっており二週間の日程が十日に縮まるという。
 
 どうしてそれが被害者たちの意志であり得ようか。むしろ、このまま日本に留まることこそ、彼らの本心であるはずだ。

 ならば、日本政府は「彼らはこのまま帰りたくないと言っている」と発表して。彼らを日本に永住させ、家族を早急に引き渡すことを要求すべきであろう。そしてもし、そうしないのなら、国交正常化交渉は終わりだと言えばよい。

 これに対する拒否はないはずだ。家族を含めた彼らの永住帰国は彼らの当然の権利である。

 なぜなら、北朝鮮は家族の返還をもし拒否すれば、正常化交渉が終わるだけでなく、家族を人質に取るという新たな犯罪を、今度ははっきり国家の名において犯すことになるからである。(2002年10月16日)







 小泉首相の「北朝鮮批判」報道を各紙比べると面白い。

読売新聞は

北朝鮮による日本人拉致事件に関して、「北朝鮮は確かにけしからん国だ。(日本人を)拉致して殺してしまう。日本社会を不安にさせるような工作員を送り込んでいる。国民の安全にとって重大問題だ。そういうことを2度とさせないためにも、私は交渉すべきだと思っている」と述べ・・・

と発言の本旨である日朝交渉の重要性までちゃんと引用している。

 ところが朝日新聞は、

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人拉致事件について「(5人以外にも)生存されている方々がいると期待している」としたうえで、「確かにけしからん国だ。(日本人を)誘拐して、拉致して、殺してしまう。工作船にロケット砲を積んでいる、機関銃を積んでいる。日本の社会経済を不安にさせるような工作を、工作員を送り込んでしようとしている」などと語った。

と、その本旨はカットしてしまい、被害者の生死だけを問題視している。が、発言の趣旨、方向性は外していない。

 それが毎日新聞になると、

北朝鮮について「けしからん国だ。(日本人を)誘拐して、拉致して、殺してしまう」と発言した。

となってしまう。まるで首相はこれだけ言ったかのようである。本旨も趣旨もあったものではない。これによっても、毎日新聞はニュースを作ってしまう新聞だということがよく分かる。新聞協会賞受賞もあてにはならない。(2002年10月15日)






 高速道路で何台もの自動車がからむ多重事故がよく起こる。淡路島の事故は記憶に新しい。その原因の最たるものは、車間距離を取らないで走ることにある。
 
 しかし、これらの事故を教訓にして車間距離を取って走ろうという人は、滅多にないのが現実だ。時速に応じた車間距離を取って走っていると、必ず後ろの車に追い越されて、前に入ってこられる。

 先日、テレビであるタレントが車で渋滞していた時に「アホがまた車間距離を取って走っているからやと思った」と言って、誰にも咎められないという場面に出くわした。

 どうやら、車がたくさん走っているのに車間距離を取って走る人間は渋滞を引き起こす、常識のない人間だという評価が、世間では出来ているようなのだ。

 しかし、車間距離を取って走るのは道交法で定められていることであって、それを無視する方がアホでなければならないはずだ。

 ところは、現実は逆で、時速100キロでも前と10メーターほどしかあけずに走るのが、常識なのである。

 これでは高速道での多重衝突事故はなくならないはずである。(2002年10月15日)








 岩波文庫の「平家物語」を図書館から借りてきて、買わなかくてよかったと胸をなで下ろした。本文は歴史的かなづかいで書いてあるが、漢字のふりがなが現代かなづかいになっているのだ。これには仰天した。
 
 本文の平仮名を読むときは、歴史的かなづかいの知識を使って読むのに、漢字の所だけは日頃の現代かなづかいで読めというのだ。そんなややこしい芸当を誰ができるというのだろう。
 
 そもそも古典を原作で読むということは、歴史的かなづかいを読むということである。これは慣れればそんなに面倒なことではない。しかも、漢字を見ながら読むのだから、仮名だけの場合よりもはるかに容易である。

 それに、天皇(てんわう)とあるのを「てんのお」と読み、関白(くゎんぱく)を「かんぱく」と読むのが楽しいのである。

 現代かなづかいにして、この楽しみの代わりに読者が得るものはいったい何だろう。便利さだろうか。わたしには古典が何か安っぽくなった印象しかない。(2002年10月15日)






 国会図書館が柳美里の「石に泳ぐ魚」の閲覧を禁止した。到頭来るべきものが来たという印象だ。これが閲覧できないと言うことは、何を書いたら出版できないかを自分では判断できなくなったと言うことだ。まさに「知らしむべからず、よらしむべし」である。
 
 憲法には出版の自由を保障すると明確に書かれている。しかし、これからは役人が認める出版の自由だけが保障されることになったのであり、事実上この条文は空文となったと言っていい。

 裁判所の判決は「石に泳ぐ魚」の単行本の出版を禁止したものだ。ところが、このように、役人が最初の雑誌の出版にさかのぼって禁止してしまえば、もはや、この国には出版の自由はないと言ってよい。

 裁判所は若い女に甘い。そこでは原理原則よりも、若い女の感情の方が重視される傾向がある。これが男なら相手にされなかったろうし、そもそも男は顔のことを書かれたことぐらいでは訴えない。どうして、それを考えなかったのか。

 この判決が「女性専用車両」などという、世界に例のないものがある国ならではの判決だということを忘れてはいけない。(2002年10月13日)








 充電2時間半で30キロ走れる電動スクーターがでるという。これはぜひとも郵便局や新聞配達店に置いてもらいたい。静かな住宅地における騒音源の一番手は、実は郵便局と新聞配達のバイクだからである。

 郵便配達も新聞配達も昔は自転車が主流だったが、いまはバイクばかりだ。しかし、バイクはエンジンの音がものすごい。それは自動車の比ではない。とくに、早朝の新聞配達のバイクの音は、安眠妨害である。

 これはよくは分からないが、一回の充電で30キロ走れたら、配達地域を一回りぐらいできるのではないだろうか。
 
 電動スクーターというと、排気ガスが出ないことが注目されがちだが、わたしは騒音面でもっと注目されるべきだと思う。
 
 そのうち性能が改善されて、うるさいガソリン式のミニバイクがなくなれば、夜中のミニバイクの暴走もできなくなるわけで、こんなにありがたいことはない。(2002年10月9日)





 湯川秀樹が1949年に日本で最初にノーベル賞を取ってからもう50年近くたつが、日本人がノーベル賞をとったニュースは、いまだにトップニュース扱いである。

 各新聞は一面でこのニュースを扱い、社説と一面のコラムがこぞって取り上げる。社会面も全面、受賞者の喜びをあつかう。まったく、田舎者まるだしである。

 日頃からこういう話題を学芸面でしっかり扱っておけば、あわてて何理論がどうのこうのという必要もないし、ノーベル賞受賞者を誰も知らなかったということもないはずだ。

 要するに、マスコミが興味を示すのは、名利に関わるものだけで、そうでもないかぎり、この人のことなどまったく知らんぷりである。

 引用される日本人の論文の数がたまに話題になることはあるが、それとても、論文の中身が話題になることはない。

 多くの学者の理論が日頃から話題になり、ノーベル賞受賞のニュースがさらっと上品に科学面だけで扱われる日が、この日本にいつかやってくることはあるのだろうか。(2002年10月9日)





 自分の家に住んでいる人が拡声器を使って外から人に話しかけられるとしたら、それは家に立てこもった犯人ぐらいものだろう。普通は家にいて、外から拡声器で話しかけられることはないし、もしそんなことをしたらとても失礼なことになるだろう。
 
 ところが、わたしの住む播磨町では、そういうことが日常的にある。どこかの自治会長が回覧板をまわすより早いと思いついたらしいが、自治会で連絡したいことがあると、拡声器で用件を言いながら町を歩くのだ。

 最近では、拡声器を持って歩かないで済むように、電柱を何本も建ててその上に拡声器をいくつも設置して、自治会館から放送をする。
 
 しかし、そんなことをしたらプラバシーの侵害になることがどうして分からないのか。人が自分の家にいるときは自由なはずだ。そこへ拡声器で放送をするということは、聞くことを強制することになる。それはあきらかな人権侵害である。こんなことは絶対にやめるべきである。(2002年10月5日)






 北朝鮮による拉致のニュースに対して国民はいまヒステリーに陥っている。テレビをはじめとするマスコミはこのニュースを感情的に扱っているため、国民のヒステリーはエスカレートするばかりだ。
 
 おかげで、在日朝鮮人に対する嫌がらせがあちこちで起きているという。国民感情が悪化して、日本人妻の帰国も延期しなくてはならなくなった。

 被害者の家族と一緒になって、怒りと悲しみに浸るのがはたしてマスコミの仕事だろうか。社会の木鐸であるべきマスコミがそれでは、役割を果たしているとは言えないのではないか。

 被害者の家族たちは、生存者を強制的に連れ帰るべきだなどと、無茶なことを言いだしている。それでは北朝鮮と同じではないか。彼らは現実を見る目を失っているとしか思えない。

 拉致問題に対しては感情的になっても当然だが、在日朝鮮人に対しては冷静な対応をすべきだというのことなのか。そんなに都合よくいくわけがない。

 「拉致の結果を冷静に受け止めよう」そう呼びかける勇気が今こそマスコミには求められているのではないか。(2002年10月4日)






 「更級日記」のクライマックスといえば源氏物語を親戚のおばさんにもらって家にもって帰るときの次の一節だ。
 
 「はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず心もとなく思う源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几張のうちにうちふしてひき出でつつ見るここち、后の位も何にかはせむ」

 この文章の言いたいことは最後の「后の位も何にかはせむ」であるが、そこに至る文章の飛翔。とくに「はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず心もとなく思う源氏を」がすばらしいのである。

 これを「いままでとびとびに読みかじって、話の筋も納得がいかず、じれったく思っていた源氏物語を」と訳してしまえば、何のことはない平凡な説明文になってしまう。「はしるはしるわづかに見つつ」の感じはそんなものではない。

 本をもらった帰りの走る車の中で、やっと手に入れた源氏物語をわくわくしながらちょっとめくってみるその喜びこそは、「はしるはしるわづかに見つつ」ではないだろうか。そして、彼女はこれから一人きりで源氏物語を読みふけることが出来るわが身の幸せを思い浮かべるのである。その自分の幸せな姿と比べたら「后の位も何にかはせむ」なのである。

 読書の喜びをこれほど熱烈に表現した文章はないと言っていい。この熱意をいつまでも忘れないようにしたいものである。(2002年10月4日)
 







 「厳重な監視のもとにあるから、帰りたくても帰りたいとは言えないのだろう」と拉致被害者の家族は言う。しかし、この期に及んで日本に帰りたいと言ったところで、その人間を北朝鮮がどうするというのか。

 「強制的にでも連れて帰ってきて本心を聞きたい」。しかし、仮にそんなことが可能であっても、彼らの言うことは同じだろう。
 
 二十四年は長すぎたのだ。誘拐された人間が犯人と仲良くなるのはストックホルムシンドロームといって、よくあることである。ストックホルムのくだんの事件では、人質が犯人の仲間になるまでたった六日しかかからなかったという。それがこの場合は何十年である。拉致された人たちが北朝鮮を好きになっていたとしても、けっしておかしくない。

 「北朝鮮みたいな国になんか一瞬たりとも居たくないはずだ」被害者の家族はそう思いたいのだろう。しかし、そんな国に二千万の人たちが暮らしているのである。そのほとんどの人たちが不幸だとどうして言えよう。社会に順応して幸福に暮らしている人もたくさんいるはずだ。また、食うに困っているから、自由がないから不幸だとも言えない。
 
 彼らを無理に連れ帰ってきたとして、それで彼らが幸福になれるとは誰も保証出来ない。むしろ、マスコミにもみくちゃにされていいように利用されるのが落ちだろう。そっとしておいてやるべきではないのか。(2002年10月3日)





 北朝鮮から外務省がもってきた拉致被害の報告に対してマスコミはこぞって「さらなる解明が必要」という。しかし、解明がこれまでに何をもたらしたか。怒りと悲しみだけだった。今後の解明はさらなる怒りさらなる悲しみをもたらすだけだろう。
 
 「とても信じがたい」とマスコミはこれもこぞっていう。では、もっと調べたら信じられるようになるのか。初めから信じたくないものは、どう調べようと信じられるものにはならないのではないか。

 これから調査を重ねてその報告が来るたびに、テレビのワイドショーを初めとするマスコミは大にぎわいする。これだけは確かだが、それでいいのか。

 被害者の家族にとって満足できる結果があるとすれば、北朝鮮の政府転覆ぐらいしかないだろう。しかし、それで死亡者とされる人たちについての正確な情報が得られるかといえば、大いに疑問だ。

 拉致被害者で生存している人たちは、日本への帰国に慎重だという。きっとそれが本心だろう。彼らにはすでに彼らの守るべき生活がある。これが真実の重みだと言ったら叱られるだろうか。(2002年10月3日)






 北朝鮮の拉致被害者の家族や関係者たちの対応が少々気になってきた。
 
 外務省の役人がはるばる北朝鮮まで行って自分たちの家族の安否を調べてきてくれたことに対する感謝の言葉は誰からも聞かれることなく、国に対する不満ばかりを言う人たち。その調べてきてくれた内容をべらべらと公衆の前で読み上げる人。「拉致されたことは信じられるが死んだことは信じられない」と、勝手なことを言う人。そして政府批判をあおり立てる一部の政治家。

 拉致された人に対する同情が薄らぐことはないが、その家族や関係者たちのエゴ丸出しの対応ぶりには鼻白むことが多くなってきた。
 
 この事件に関しては、国に何かしてもらうことが当然だという雰囲気ができあがっているのか。「この事件で自分たちは国のために何かお役に立てることはないでしょうか」というような言葉が彼らの口から聞かれる可能性はゼロなのだろうか。それではあまりにさびしいではないか。(2002年10月2日)





 牛肉偽装や原発トラブル隠しで企業が責められ、不正をする企業というものが批判されてきた。しかし、不正をするのは実はそれに携わる一人一人の人間である。そのことをあらためて教えてくれたのが、札幌のスーパー西友の返金騒動だ。
 
 これまで、不正を犯す企業とそれに怒る消費者という別々のものがあって、それが対立しているように思われていたが、実は、様々な不正の根っ子には、モラルを失った日本人という一つの同じものがあるだけなのだ。

 批判する人間も批判される人間も、みんな同じ穴のむじななのであって、似たり寄ったりの日本人、うまい汁が吸えるとなると恥も外聞も忘れて群がる日本人なのである。

 はたして、今の日本で他人の不正行為を批判する資格のある人間がどこかにいるのだろうか。
 
 西友の騒動を見て我々が出来ることは「恥ずかしくないのか」と怒ることではなく、その場にいれば同じことをやりかねない日本人である自分自身をせいぜい戒めるだけである。(2002年10月2日)






 現代の国語は使える漢字を増やそうという傾向にある。

 戦後すぐに決められた当用漢字1850では足りないとして、1981年に常用漢字1945が定められた。その後ワープロの普及によってますます使われる漢字は増える傾向にある。

 実際、漢字は文の意味を知るには便利な道具だ。古文でも平仮名だけで書かれたテキストは非常に読みにくい。歴史的仮名遣いを愛用する文筆家も平仮名だけで書こうとはしない。

 しかし、日本語の学習を難しくしているのも漢字である。日本語を流暢にしゃべる外国人も、書いたものは読めないというのが普通だ。これがカナだけならはるかに日本語の普及は楽だろう。

 もともと日本語は仮名だけで十分表現できた。ところが、歴史的仮名遣いをやめた時に仮名の持っていた表現力は決定的に失われてしまった。

 歴史的仮名遣いは実際の発音と違うということで捨てられてしまったが、英語を見ても分かるように、歴史のある言葉とはそんなものだ。惜しいことをしたような気がする。(2002年10月1日)





 英語は表音文字であるアルファベットだけで書く。日本語も表音文字であるカナだけで書いたらどうなるか。同音異義語が沢山あって意味不明の文章ができあがるだろうか。
 
 じっさいに古文はほとんど平仮名だけで書かれているが、それで意味が通じる。それは歴史的仮名遣いのおかげである。

 たとえば、いま平仮名で「じょう」と書く言葉は、歴史的仮名遣いでは「じょう」「じゃう」「ぜう」「ぢゃう」「でう」「でう」「でふ」と書き分けた。だから、同音異義語は今よりもはるかに少なかったことになる。同時に、言葉の意味は文脈からも理解されるから、この書き分けによって、平仮名だけでも誤解の可能性はほとんど無かったわけだ。

 日本語は元々漢字によって出来た言葉ではない。外来語である漢語を別にすれば、漢字なしで言いたいことが言えるはずである。

  戦後の国語政策は、歴史的仮名遣いをやめ、使える漢字も減らすという方向だった。

 しかし、日本語の表現力を保ちつつ、しかも、書くのを簡単にするのが目的なら、漢字は減らしても、歴史的仮名遣いはやめるべきではなかったのかもしれない。(2002年10月1日)
 






 国産牛肉買い取りで偽装して国から金をだまし取った企業のニュースで相も変わらず大騒ぎだが、今度は、北海道の西友が国産と偽って外国産の豚肉を売ったことに対して、勝った客に金を返そうとしたところ、買ってもいない客が詰めかけて金をもらって帰ったという。
 
 どちらも嘘をついて金をもらおうとした点では同じだ。

 ところが、嘘をついて国から金をもらおうとした企業を非難する声はテレビからいっぱい聞こえてくるのに、嘘を付いて西友から金をだまし取った消費者を非難する声はまったく聞こえてこない。

 マスコミにとっては消費者や被害者は神様である。だから、彼らを非難するようなことは決してないのだ。

 北朝鮮の拉致被害者の家族に対しても同様で、彼らのエゴ丸出しの態度を非難する声はテレビからは全く聞こえてこない。

 マスコミは悪いものは悪いという姿勢ではないのである。(2002年9月30日)







 ブラウンの電動歯ブラシは、ほかのスピンブラシと違って、ブラシの両端の毛が長くなっているため、使い方にこつがいる。
 
 ブラシの柄が歯列に対して平行になるようにして、あの長い毛が歯間に入り込むようにしなければいけない。そしてブラシの先で一本ずつ歯を包むようにして磨くのである。
 
 そうしないと、それ以外の中央部の毛が歯によく当たらないので、十分磨けないことになってしまう。
 
 最近、ブラウンの電動歯ブラシに乾電池式が出た。それで他のスピンブラシから有名なブラウンに買い換えてみようと思った人は多いのではないか。わたしもその一人だった。ところが、最初はこのこつを知らずに使っていたので、以前よりも汚れ落ちが悪いような気がしていた。
 
 ブラウンの説明では、あの長い毛で歯間も磨けるように書いてあったが持ち方まで説明はしていない。
 
 ちなみに、濃いウーロン茶を飲むと茶渋が歯の汚れに付くので、汚れ落ちの度合いがよく分かるようだ。(2002年9月30日)
 
 






 賞味期限とか品質保持期限とかで大騒ぎするのは、いい加減にしたらどうか。
 
 これらは本来、消費者の便宜のために作られたものである。それが今や企業の首を絞める事態になっているのはおかしなことだ。
 
 資源を大切にしなければならない時代であれば、むしろ期限が切れたからといって捨ててしまうことの方をいましめるべきではないか。
 
 昔から、食べられるものを捨てるのは大きいな罪だった。ところが、今や、食べられるのに期限が切れたら捨てろ、そうしなければけしからんといって叱られる時代になった。今の時代は狂っているいうしかない。
 
 腐ったものを売ったら怒ればよい。腐っているどころか、十分な品質を保っているものなら、それを売ることはむしろ誉められるべき事である。
 
 品質に自信があるなら、期限が切れたからといって安売りする必要もない。ラベルを貼り替えたことが何だろう。それよりも、食えるものを捨てる方が余程悪いことである。(2002年9月27日)






 今回の日朝首脳会談の最大の収穫は、北朝鮮がアメリカのブッシュ大統領の言うとおり紛れもない「悪の枢軸」であることが明らかになったことだ。
 
 ブッシュ大統領のこの表現に眉をひそめた日本人は多かった。しかし、金総書記が自ら拉致を認め、そのうちの多くが不可解な死を遂げていたという現実は、ブッシュ大統領が正しかったことの何よりの証拠である。

 拉致は明らかな刑事事件であり、この容疑者の引き渡しを日本が北朝鮮に求めるのは当然のことだ。さらに、金総書記がこの拉致事件に関わっていたことが明らかになるなら、彼を人道に対する罪で告発しなければならない。

 そうなればもはや北朝鮮に政変でも起こらない限り、日朝の国交正常化は問題外となる。

 日本の安全保障のために、こんな国のこんな人間に頭を下げる必要は全くない。それで日本が再びミサイルの脅威にさらされることになるかもしれないが、その時は日米が団結して事に当たるだけだ。(2002年9月20日)







 2002年9月13日毎日新聞の余録はこう結ばれている。

 大統領はイラク攻撃を広言する。だが、100歳をはるか超えて成熟した女神はもう血を求めていないだろう。女神の台座にはユダヤ系女性詩人エマ・ラザラスの詩が刻まれている。《あなたの国の疲れた人、貧しい人を私に与えよ……住む家もなく、嵐にもまれる人を、私に送りたまえ。私は黄金の扉の傍らで灯(ともしび)をかかげよう》

 自由の女神に刻まれた、エマ・ラザラスの詩はこうなっている。

Not like the brazen giant of Greek fame,
With conquering limbs astride from land to land;
Here at our sea-washed, sunset gates shall stand
A mighty woman with a torch, whose flame
Is the imprisoned lightning, and her name
Mother of Exiles. From her beacon-hand
Glows world-wide welcome; her mild eyes command
The air-bridged harbor that twin cities frame.
"Keep ancient lands, your storied pomp!" cries she
With silent lips. "Give me your tired, your poor,
Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore.
Send these, the homeless, tempest-tost to me,
I lift my lamp beside the golden door!"
--"The New Colossus" (1883) by Emma Lazarus(1849-87),

 最後の所を訳すと、次のようになる。
 
 「私に与えておくれ、あなたの国の疲れた貧しい人たちを、
自由な空気を求めて体を寄せ合っている人たちを、
人であふれた岸辺に惨めに捨てられた人たちを。
私のもとに送っておくれ、この家なき人たちを、
嵐に翻弄された人たちを。
私は黄金の扉のそばでランプをかかげよう」

 「余録」は自分に都合のいい部分だけ引用したのである。この詩の中心である「自由」の二文字をカットするとは、まったく毎日新聞もいい加減なことをするものである。(2002年9月16日)







 最近の日本語ブームでわたしも日本の古典を読んでみるのだが、歴的的仮名遣いという大きな障害に当たってなかなか前へ進めない。
 
 それは単に「い」と「え」と「お」の音を表すカナが二種類あるということだけではない。この二種類のうちのどちらを使うかが単語毎に決まっているので、古語辞典で目当ての単語を探し出すのが非常にやっかいなのだ。
 
 わたしはついつい現代仮名遣いで引いてしまい、見つからなくてもう一度テキストを見直して引き直すことがしょっちゅうである。

 実は英語もつづりと発音は別に覚えるが、英語は中学からうんとやらされているから辞書を引くのに困るということはない。一方、古文の勉強をうんとやらされたのは高校に入ってからだ。それではむつかしい歴史的仮名遣いに慣れるのには遅すぎたのである。

 どうやら古文は中学から本格的に学ぶべきものなのである。なぜなら、歴史的仮名遣いは過去と現代の日本文化をつなぐ鍵であると思われるからである。(2002年9月14日)






 滋賀県が琵琶湖で釣ったブラックバスのリリースを条例で禁止するそうだが、これこそ「焼け石に水」というものではないだろうか。
 
 そもそも琵琶湖でブラックバスが増えた始まりは、釣り人がブラックバスを琵琶湖に放したことからだろう。ということは、最初の数匹が今の数まで増えてしまったことになる。

 とすれば、仮に条例によって数匹までブラックバスを減らすことができたとしても、完全に絶滅させない限り、すぐに今の状態に戻ってしまうということになる。

 在来魚の保護のためというが、人為的にそんなことが出来るものだろうか。

 仮にブラックバスなどを食い尽くしてくれると同時に在来魚にやさしい魚がいるとして、そんな魚を放流したとしても、その結果はまったく予想できない。

 人間は神ではない。人の力で自然の生態系をいじるということは、遺伝子操作をしたり、クローン動物を作ったりするのと同じリスクをともなう。滋賀県にそれだけの覚悟があるのだろうか。(2002年9月13日)






 現代の日本人が自国の古典と縁遠くなってしまったことの決定的な原因は戦後すぐに行われた現代仮名遣いの採用だろう。
 
 これは表記を発音に近づけようとすることだったが、このおかげで現代の日本人は、江戸時代以前はおろか樋口一葉の書いたものさえ簡単には読めなくなってしまった。

 外国語でもフランス語やイタリア語のように歴史が浅い言葉は、発音と表記が一致しているが、歴史のある英語は発音どおりの表記ではない。これを発音通りに変えてしまったらどうなるか。それはシェークピアを含めた過去の英国の文学との間に、断絶を作ることになる。

 日本語の場合は、仮名遣いを変えたときに、まさにそれと同じことが起きたのである。

 おかげで、われわれは自分の古典を翻訳によってでしか理解できない国民となった。これは、過去の日本が外国のようなものになってしまったということである。

 要するに、戦後の日本は過去の軍国主義を捨てるだけでは足りずに、同時に過去の精神文化も捨ててしまったのである。(2002年9月9日)







 日本の憲法は変えることは出来ない。理屈の上では可能だが、事実上不可能だ。なぜなら、日本の憲法は日本の敗戦の象徴だからである。
 
 この憲法はアメリカの統治下で、日本の主権が回復していない間に、有無を言わさずアメリカによって作られて公布させられたものであって、まさに日本がアメリカに敗れたことを象徴するものなのである。
 
 だから、日本国憲法を変えるということは、日本の敗戦の象徴を変えることになる。
 
 この憲法はアメリカの押しつけであるが故に汚れのない理想の憲法であり続けることが出来た。もし変えたらそれは日本の政治によって穢されたものになってしまう。それはどの条文を変えるにしても同じことである。
 
 それはもはや元の憲法ではなくなり、だめな日本人の作っただめな憲法になってしまう。それが今の日本人には耐えられないのだ。
 
 しかし、もしこれを変えることできたら、そのときこそ日本の戦後の終わりであり、新しい時代が始まることになることは間違いない。(2002年9月4日)








 不祥事のあった企業の製品をスーパーが独自の判断で売場から撤去することが、普通のように行われているが、これはいわゆる村八分で、明らかな私的制裁であって人権侵害に当たるおそれがある。
 
 また、企業の一部の人間が犯した過ちに対して、その企業で働く全員に連帯責任を負わせているが、これは明白な人権侵害である。

 スーパーには私的制裁をする権限はないし、ましてや誰かに連帯責任を負わせる法的根拠ももっていない。

 そもそも不祥事をどう考えるかは消費者が判断すべきことであって、消費者が買うかもしれない商品を勝手に売場から撤去するのは消費者の選択権を侵害している。

 もともと、スーパーなどが不祥事のあった企業の商品を撤去するのは、消費者の批判を招いて企業イメージを損なうことを恐れた姑息な自己保身でしかないものだ。

 そんな彼らが「日本ハムが再発防止策が発表したから今日からまた販売を再開する」などと偉そうに言える身分でないのは明らかである。

 まったく、スーパーも偉くなったものである。(2002年9月3日)






 北朝鮮の金日成総書記と会談することになった小泉首相は、この会談に「政治生命を賭ける」と言ったという。その言やよしである。国民の生命財産を守ることこそ政府の第一の仕事である。それが出来ずに他のどんな立派な政治を行っても無意味だからである。
 
 今回の首相の決断を最も喜んだのは拉致被害者の家族だろう。首相はこの家族と直接面談して、家族の気持ちを肌で感じたはずだ。この決断をした首相の頭に拉致家族の真剣な眼差しがあったことは間違いない。

 この決断が冷静な計算の上に立ったものかどうかは知らないが、この決断の裏に、遺族会の願いを叶えるために決然として靖国に参拝したのと同じ心意気があることは間違いがない。

 拉致問題よりも国内の政治改革の方が大事だと思う人たちは、こんなところで政治生命を賭けてもらっては困ると思うかもしれない。

 しかし、わたしは、拉致問題に対する糸口を少しでも見つけることが出来るなら身を捨ててもよいと考えた小泉氏に敬意を表したい。(2002年9月2日)






 NHKは放送時間の変更が多すぎる。特に衛星放送と教育テレビはあらかじめ予告もなしに、放送時間の変更をしたり、放送を中止したりすることがしょっちゅうだ。

 民放ではスポンサーの意向を重視するため、めったなことでは放送時間の変更はない。NHKには各番組にスポンサーが付いているという意識がないようだ。

 しかし、受信料を払っている我々はスポンサーである。どの番組にも、見ようと思って待っている人がいるのである。その人たちこそ、それぞれの番組のスポンサーだ。

 ニュースを見たい思って受信料を払っている人もいれば、特定のドラマを見ようと思って払っている人もいるだろう。

 だから、放送時間を変えたり、放送しなかった場合には、受信料の返還を求める権利が視聴者に発生するのではないか。スポンサーの意向を無視した以上当然だろう。スポンサーとしての金はもう払ってあるのだ。

 金をもらったらこっちのものだと言わんばかりに優先順位を勝手に決めて、番組をあちらにやったりこちらにやったりするNHKのやり方にはまったく腹が立つ。(2002年8月31日)






 更級日記は自分の人生を振り返って、もっとましな人生があったはずだと後悔する話である。
 
 結婚して男の子ができて夫が国司になって、さあこれからだというときに突如夫が死んでしまう。それは自分が物語にばかり打ち込んで、しっかり信心してこなかったからだという思いで書いたのが、この日記だ。

 子供の頃から物語が読みたくて読みたくて、そのために望み通りに上京して、しばらくしてやっと源氏物語を手に入れて、「后の位もいらない」と天にも昇る気持ちで、むさぼり読んでいる時に、坊さんが夢に出てきて「早く法華経の五巻を勉強しなさい」と言う。

 それからそんな夢を何度も見たのに、その頃は真に受けずに、浮ついた人生を送ってしまった。それがよくなかったと言うのだ。

 夢の場面はそこだけを読むと、何故こんな夢のことを書いているのか不思議だが、最後まで読むとその理由が分かる。

 この時代の人の世界観がいかに信仰と密接に結びついているか、よく分かる話である。(2002年8月30日)








 環境保全のためにはゴミの分別収集が大切だといわれている。資源の再利用のためにはその方がいいのだろう。しかし、それによって本来の目的である環境の保全が本当に出来るのだろうか。
 
 わたしは、分別収集によって環境保全産業が活況を呈することは確かとしても、環境が改善されることは疑わしいと思っている。

 それは例えば、これまで週二回だったゴミ収集が、分別すればするほど回数が増えることを考えても分かる。やれ、燃えないゴミだ、やれ、プラスチックゴミだ、やれ空き缶だビンだと、分別が進む度に収集車の走る回数が増えるのである。

 自動車は地球の環境を破壊するものの代表格だ。それが走りまわる回数が増えるということは、それだけ環境破壊が進むことにほかならない。

 だから、ゴミの分別収集によって環境を改善するつもりなら、ゴミ収集車の走る回数を増やさない工夫が必要となる。

 また、ゴミ収集車はだいたいディーゼル車が普通だ。これも変えて行かねばならないのではないか。(2002年8月28日)







 動物愛護法は妙な法律である。公共団体は動物を殺してもよいのに、個人が動物を殺すことを禁じている。法のもとでは公共団体も個人も対等であるのに、この差をもうけている。
 
 国民に動物を大切にせよというならまず役所が動物を大切にして手本を示すべきなのだが、実体はその反対である。役所は何かと理由を付けて動物を殺していながら、市民には動物を大切にせよと言っているのだ。
 
 江戸時代にも「生類憐れみの令」といって動物を大切にせよという法律があった。しかし、江戸幕府は国民に命ずるだけでなく、まず自ら率先して動物を大切にした。

 死刑についても同じ事が言える。現代の法律では、国民に人を殺すなと言いながら、国は人を殺しているからだ。

 ここでも江戸時代の方が合理的のように見える。自らは人殺しをしながら国民に人殺しを禁じたのは同じだが、敵討ちを認めて、国民にも罪人を罰することを許していたからだ。

 これは、刑罰としての殺人なら国民にもしてもよいと言っていたことになり、政府も国民もこの意味では対等だったことになる。(2002年8月25日)






 米国が二酸化炭素などの削減率を定めた京都議定書に不参加を決めたことを批判する向きが多い。しかし、わたしは一理あると思っている。
 
 この議定書で定められた削減率が国によって違うことは問題である。本当に二酸化炭素などを排出することが地球にとって悪いことなら、どの国も同じように排出を減らすべきである。
 
 ところが、先進国の削減率が高いのに、途上国は低い。特にロシアや中国は0である。議定書に法的な拘束力を持たせたければ、法の下における平等という原則をまずうち立てなければならない。

 つまり、悪いことは誰がやっても悪いのでなければ意味がないのだ。いまの国別に違う削減率は、金持ちは泥棒をしてはいけないが、貧乏人は泥棒をしてもいいと言うのと同じである。
 
 途上国の産業発展を考慮に入れようとするからこんなおかしな事になる。途上国は京都議定書によって地球温暖化問題をきっかけに、南北の経済格差を縮めようとしてると思われても仕方がない。

 南北問題は地球温暖化問題と切り離して考えるべきなのである。(2002年8月25日)








 8月22日の産経抄は敬語の使い方を考えさせるいい例だ。

 「きのう本紙の「8月に語る」で脚本家大石静さんとエッセイスト阿川佐和子さんお二人の人生にも、父親が大きな影を落としていることが語られていた。」と始まるものだ。ここでは敬語が使われている。そして「阿川さんのお父さんはいうまでもなく作家の弘之氏だが」云々に続いて、「父親をモデルに書きつづけた作家に向田邦子がいる(八月二十二日が命日)。父の敏雄は」と話の対象が変わる。すると途端に敬語が消えた。
 
 生きている人について書くときには敬語を使い、死んだ人について書くときに敬語を使わない。これはどういうことか。生者は尊ぶべきだが、死者は尊ぶべからずということか。そうではなかろう。これがマスコミの習慣だからそうしているのである。
  
 しかし、並べて書くと妙な習慣だということが分かる。新聞社としておつきあいのある人には敬語を使い、死んでつきあいの無くなった人には敬語を使わないというふうに見える。そして、読者にそんな関係を押しつけているように見える。だから、読んでいて違和感を感じるのである。

 この文章は全部敬語なしで書いたほうがすっきりしていて読みやすいものになる。

 「きのう本紙の「8月に語る」で脚本家大石静とエッセイスト阿川佐和子が二人の人生に父親が大きな影を落としていると話していた。・・・阿川の父はいうまでもなく作家の弘之だが・・・父親をモデルに書きつづけた作家に向田邦子がいる(八月二十二日が命日)。父の敏雄は・・・」(2002年8月24日)





 出会い系サイトをきっかけにした犯罪が多いというので、出会い系サイトを悪者扱いする人たちがいる。日本人らしい発想だ。しかし、本当は、悪いのは出会い系サイトではなく、出会い系サイトを悪用する人である。

 これは何事に当てはまる。悪いのは物ではなくそれを悪用する人である。それは核兵器についても言える。悪いのは核兵器ではない。核兵器を悪用する人が悪いのである。

 ところが、「核兵器をもたず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則は、核兵器が悪いという発想である。

 もし、核兵器があったら悪用してしまうかもしれないという発想である。あっても悪用しないだけの自信がないと言っているのである。これほど自信の欠如した、自虐的な考え方はない。

 これが日本の国是だという。しかし、自分の国は自信のない国だということを国是にしている国がどこにあろう。さっさと廃止すべきである。

 まして、これを法制化するなど以ての外である。(2002年8月23日)






 新井白石の「読史余論」を読むと、徳川時代以前の政治家、特に織田信長を極悪人のごとくに書いているのに驚く。白石は、信長を戦後日本にとっての東条英機のように扱っているのだ。
 
 「総じてこの人は、生まれつき残忍な性格で、詐力によって志をとげた。だから、その最期がよろしくなかったことも、自業自得である。不運というのではない」と、白石は言い切っている。最近の日本では信長は英雄視されているが、それとは大違いである。

 なぜこういうことになるかというと、白石は徳川時代の価値観で前の時代を批判しているからである。徳川時代は儒教全盛で、主君や親兄弟をだまし討ちした信長は、言語道断の人間なのだ。

 それと同じく、現代の平和主義の価値観からすれば、太平洋戦争を始めた東条英機は悪人である。しかし、何百年後の日本で、その同じ人間が信長と同じように悲劇のヒーローと見なされる日が来ないとも限らない。

 いやすでに、東条英機を見直す映画や本も出ているようだ。

 公平な見方をするなら、一度でもトップに立ったような人間が単なる悪人であるはずがない。ヒトラーも例外ではない。(2002年8月21日)






 戦闘機による神風特攻隊が特別なもののように見なされているがそれは誤りである。

 戦前の兵隊はみな死ぬために出撃したのであり、それは飛行機のパイロットも歩兵も同じことだった。どの部隊に属するかには関係なく、すべての兵士は一身をお国のために捧げるために、故郷をあとにしてきたのである。それを当時の人たちは当然のことと考えた。

 ただし、病気の兵隊は突入させなかった。飛行機が故障すれば、無駄死にさせないために引き返させた。だから、全滅であっても、生き残りはいる。しかし、それは上官の温情ではなく決まり事なのだ。
 
 鹿児島の知覧には特攻兵を顕彰した展示施設があるそうだ。しかし、それをするなら肉弾突撃をやったすべての歩兵のための記念館を全国に作るべきだ。
 
 知覧は国内からの突撃だったからよく知られているが、どの兵隊もみな「全滅を期して突撃せよ」と言われて突撃していったのである。誤解の無いようにしたい。(2002年8月21日)







 日本ハムをもう許してやれ。日本ハムは牛肉偽装で税金をだまし取ったわけではない。検査にかかる前にやめて撤回したのである。雪印と決定的に違うのだ。
 
 それに、日本ハムは消費者をだましたのではない。日頃悪いことばかりしている官僚をだまそうとしただけだ。むしろ、農水省の管理不行き届きで起きた事件ともいえる。今度の処分は官僚の側の復讐でしかない。

 それに農水省の意見とは違い、日本ハムに対する消費者の批判は強くない。日本ハムの製品によって消費者がだまされたわけではないからだ。それなのに、店頭から日本ハムの製品を撤去するのはやりすぎである。

 これらの事件の大本の原因は経済不況にある。だから、これらの事件の根本責任は政府にある。そして、その政府を選んだ国民自身にある。

 いったい、この日本に本当に日本ハムを批判する資格のある人間が何人いるか。あらを捜せば五十歩百歩であるはずだ。日本ハムに対するバッシングはいいかげんにすべきである。(2002年8月20日)






 秋場所に向けた貴乃花のけいこの様子が日々報道されている。貴乃花はあくまで強気で「まあ、見ていてください」と言っているという。
 
 北の海理事長は貴乃花の体調をしっかり把握しているのだろうか。横綱審委員会が貴乃花に秋場所での全快復帰と求めている。もし、それができなければ、日本国民は貴乃花を永遠に失うことになってしまう。そんなことにならないための有効な手を何か打っているのだろうか。非常に心配である。

 例えば、理事長は「そもそも年に6場所は多すぎるのだから、いずれは2場所ぐらい減らすつもりだ。とりあえず、今度の秋場所は中止にしたい」と言ってもよいのではないか。これは貴乃花とは関係がないと言って、貴乃花に事実上の時間的猶予を与えてもよいのではないか。

 仮にそうしたからと言って、国民は相撲協会を恨みはしない。その結果、全快の貴乃花を土俵上に迎えたなら、国民は熱狂して彼を迎えるだろう。そのためには、一場所ぐらいは惜しくはないのではなかろうか。(2002年8月16日)







 「わたしたちは戦争の愚かさを後の人たちに伝えていかねばなりません」この時期よく聞く言葉である。しかし、この「戦争」とは戦争全般のことなのか、それとも日本が中国やアメリカに対して行った戦争のことなのだろうか。
 
 もし、愚かというのが戦争全般のことなら、アメリカがアフガニスタンで行った戦争も愚かだったことになるし、第二次世界大戦で日本に対して行った戦争も愚かだと言うことになる。そして、もしそうなら、アメリカはアフガニスタンに対しても日本に対しても戦争をしなかった方がよいことになる。本当に、それでよいのか。
 
 もし、愚かというのが日本の行った戦争のことなら、それは弱肉強食のあの時代にも日本は戦争は起こさなければ良かったことになる。それはつまり、日本はどんな脅威を受けても戦争をすべきでないと言うことになる。しかし、もし日本が他国に攻撃されたらどうするのか。すぐに無条件降伏すべきだというのだろうか。
 
 「戦争の愚かさ」という言葉は、簡単に言えて実に手頃な言葉ではあるが、これほど無責任な言葉はない。(2002年8月15日)






 終戦の日に各地で平和について考える集会が開かれたという。しかし、実はそれは平和について考えるのではなく、戦争について考えることでしかない。なぜなら、平和は戦争の後に来るものであり、平和の大切さを言いたければ、戦争のことを話すしかないからである。
 
 ところで、戦争について話す以上は、戦争についての本当のことを話さなければならない。嘘を言ってもわかるものだし、それでは説得力がないからだ。
 
 ところが、そうなると戦争には肯定的な面もあるし、格好のいいところもあることが分かってしまう。

 例えば、アメリカのテレビドラマ「スタートレック」は未来の宇宙戦争の話だが、けっして悲惨な話ではない。それどころか、感動的な話ばかりである。

 いっぽう、平和について考える会の目的が反戦である以上は、そこで話されることは戦争の悲惨なことばかり話すことになる。つまり、戦争の真相ではない。だから、彼らの平和運動には説得力が無く、広がりを持たないのである。(2002年8月15日)






 韓国の主張に従って、ある国際機関が発行する海図から「日本海」という名前が削除されそうだという。これは、韓国が日本の領土である竹島を韓国の国立公園化すると決めたことにつづく出来事だ。

 サッカーW杯の日韓共催によって日本は韓国から友好という贈り物をもらった。昔あんな悪事を働いた日本が韓国からそんな高価なものをもらったのだから、その返礼として、日本が島の一つ、海の名前の一つを韓国に譲歩したところで、何の不思議もないと言うわけだろうか。
 
 それとも、平和主義の日本に韓国の主張は阻めないと考えたからだろうか。
 
 いずれにしろ、韓国とはこういう国なのだ。なぜ、秀吉が朝鮮征伐に乗り出し、なぜ、明治時代の日本に征韓論が起こったかが、これで分かったような気がする。
  
 江戸時代の政治家新井白石は、朝鮮使節の不当な要求を戦争の危機を恐れず毅然として退けている。現代の日本に彼のような政治家がいてくれたらとわたしは思う。(2002年8月15日)






 新井白石の「折たく柴の記」を自伝文学の傑作と言ってルソーの「告白」に比べる人がいるが、実際に読んでみると、これは自叙伝というような個人的な内容のものではない。
 
 白石個人に関わる伝記らしい記述が見られるのはごく最初の部分だけで、あとはすべて白石が関わった幕府政治の記録である。

 彼は博覧強記の学者でしかもとびきり弁が立った。当時の学問は儒学しかないが、そのあらゆる知識を駆使して、次々に起こる問題や訴訟事に関して、反対者を論破しながら、世の中を改善する自分の策を採用させていく。この本はその際の細々とした議論を記録したものである。

 白石は徳川家宣(いえのぶ)にとって将軍になる前からの儒学の先生であり、家宣は彼に心酔していたので、どんなことでも白石に意見を求め、重要なことから些細なことまでことごとく白石の言うとおりに幕政を運営した。その様子がこの本からは手に取るように分かる。

 しかし、このような白石の公的な姿は分かっても、彼の私的な姿をこの本から知ることは出来ない。だから、ルソーの自伝を読むときのような楽しみ、たとえば、秘密の告白を聞くような楽しみを、この作品から味わうことは出来ないのである。(2002年8月14日)






 原爆の日に不思議に思ったことは、原爆を投下したアメリカの行為を批判する声が少ないことだ。日本への原爆投下を決めたトルーマンを非難する声がないことだ。それどころか、マスコミには「原爆が落ちた」「原爆が投下された」等の言葉があふれ、誰が落としたかに言及する言葉がないのである。
 
 アメリカは自国の将兵の犠牲を少なくするためだったと、原爆の投下を正当化している。しかし、そのために日本の民間人数十万の犠牲をやむえないとするのは、アメリカ人を日本人の上に置く考え方であり、ドイツ人を救うためにユダヤ人を殺したナチスの考え方と何ら異なるところがない。
 
 ドイツナチスのユダヤ人虐殺が大罪なら、アメリカの原爆投下による日本人虐殺も大きな罪なのである。
 
 この罪を追求することを怠って、昨今のアメリカの政策を批判して事足れりとした今年の広島・長崎の平和宣言のごときは、平和宣言の名に値するどころか、一片の政治的パンフレットに過ぎずと言うべきであろう。(2002年8月14日)





 毎年この時期になると「核兵器が無くなれば世界は平和になる」という意見があちこちで聞かれる。では、今は平和ではないのだろうか。
 
 いや、今は平和だが核兵器が無くなればもっと平和になると言うのだろうか。つまり、こんな恐い物が地球上から無くなれば安心して平和を享受できると言うことだろうか。

 しかし、過去には実際に核兵器のない時代があったのである。第二次大戦でアメリカが核兵器を開発する以前には、この地球上には核兵器は無かった。そして、その時代は平和ではなかったのである。ところが、多くの日本人はこのことを忘れてしまったかのように、核兵器を無くせと言う。

 仮にもし核兵器を廃絶できたとしても、それは平和な時代を意味するだろうか。冷戦が終われば世界はどれほど平和になるかと思った人は多かったろう。しかし、事実はその反対だった。

 核兵器がなくなれば平和になるという単純な思考では人類は決して救われはしない。日本の多くの人たちがこのことに気づくのはいつのことだろう。(2002年8月10日)





 地方自治体が次から次へと公共工事をしたがる公共工事熱中病の症状は、ダム建設だけではない。いまこの病気で流行している症状は、全天候型多目的ドームだ。
 
 出雲ドームが皮切りとなったもので、いまや全国至る所で、このドーム施設の建設がブームとなっている。
 
 試しに「多目的ドーム」でインターネット検索すると、出るは出るは、県や大きな市から、人口一万人以下の小さな町まで、至るところで既に存在するか、計画中である。
 
 というわけで、わたしの住む播磨町でも作ることになったそうだ。今の町長は、よその町に播磨町の施設を作ったぐらいに公共工事大好き町長であるから当然のことかもしれぬ。
 
 以前に公民館建て替えを町民にアンケートをとって反対されたことの反省からか、今回はアンケートなしで住民にろくに知らせもせず三月の議会で可決したという。
 
 しかし、既存のスポーツ施設が大赤字のために併設の駐車場を有料にするなど、町の借金財政のほころびは既に明らかである。
 
 一体、この町長の病気を直す手だてはないものだろうか。(2002年8月5日)






 「ホタル」という映画にはストーリーらしいストーリーはない。昭和天皇崩御のあとの数日の間に、高倉健と田中裕子が演ずるある特攻隊の生き残り夫婦の身の回りに起こった出来事を、淡々と描いた映画である。
 
 だから、この映画は、見る人が見たいものを見ることのできる映画だ。反戦映画をみたい人にはそう見える。兵士の決意の尊さを見たいものにはそう見える。夫婦の情愛を描いた映画とみたければそう見える。戦前をしみじみと懐かしむ映画と見なすこともできる。命の大切さを伝える映画とも見れるだろう。日韓の戦後処理の複雑さを見たければそれも良い。

 つまり、良い意味でも悪い意味でも、日本映画らしい映画なのだ。韓国での対面のシーンで、ずっと無言でいた朝鮮人の老人が、真意を理解して高倉健のもとに駆け寄りながら、むかし習った日本語で語りかけたらさぞ感動的なのだが、そういうこともない。

 ところで、あの若々しい高倉健と田中裕子夫婦の回想場面を描くのに、全然似ていない別の俳優を使っていたことに、日本映画のレベルの低さを痛感した。(2002年8月4日)





 昔はこの国の政治家は保守と革新に分かれていた。これは五五年体制の過去の遺物だが、新聞は未だにこの二つに分かれている。それは、住基ネットに対する報道姿勢を見れば明らかだ。

 これは扶桑社の歴史教科書に関する報道の時も同じだった。朝日と毎日は、あらゆる紙面を使ってこの教科書採択に反対する運動を繰り広げた。それは手段を選ばない左翼活動家の犯罪的な行動と結びついていた。

 それが住基ネットでも同様の様相を呈してきたのだ。静岡市役所には強迫状が届いたという。住基ネット反対運動は、反政府運動にエスカレートしそうな勢いである。不参加を表明した福島県の田舎町に転入の問い合わせが相次いでいるのは、その運動の現れだろう。本気であんな不便なところに転入を希望するはずがないからだ。
 
 地方自治体が理屈を付けて国に逆らうようになれば、この国の社会的秩序は保てなくなる。この地方の反乱を早く抑え込まないと、社会不安が広がりかねない。(2002年8月3日)





 「実録ー福田和子」は大竹しのぶの名演もあってなかなかの出来だった。

 菓子屋の女将におさまっていたとき、警察の手が身辺に伸びたと知って、エプロン姿のまま突っかけを履いて自転車に飛び乗り、ひたすらこいでこいで逃げて逃げて逃げおおせ、逃げてきた家の夫に電話ボックスから詫びの電話をして、そこでタバコを一服吸う姿は感動的でさえあった。
 
 このドラマがもし事実をそのまま描いているのなら、福田和子はかなり人好きのする女だ。だからこそ逃げ続けられた。彼女には自分を好いてくれる人間を見分ける才能があるのだ。

 もちろん、人を利用して逃げつづけた。しかし、人を上手に利用できる人間こそが人に愛される人間なのである。これは「宴のあと」の般若苑の女将にも共通する。やり手であり、たくましい人間なのだ。
 
 やりたいことはみんなやった。逃亡先に息子を呼び寄せて一緒に暮らしもした。逃亡中なのに、息子の婚約者に会って挨拶もした。逃亡者にならなければ経験できないような様々なことを経験した。逃げている間に、人生を学んだのではないか。

 しかし、判決は無期懲役。上告したが、官僚やエリート裁判官は罪を犯して逃げるような下賤な者には冷たいから、上告は棄却されるだろう。これが王妃なら何人殺しても罪に問われることはない。大学出のエリートなら有期刑になったろう。だが、中学出なら死刑もあった。

 無期懲役でも仮釈放のときにはまだ60代だろう、あと30年近く生きられる。再起すればよいし、彼女ならきっとするだろうと、そう思いたくなるドラマだった。(2002年8月2日)






 毎日新聞の投稿欄(7月31日)に投稿に関する注意が掲載された。前代未聞なので、ここに書き写す。
 
 「今回は、本欄への投稿上の注意点について説明します。毎日新聞のホームページ上からの投稿で、困っているのは、封書による投稿と比べて内容が見劣りする点です。自分の意見を訴えるため、説得力のある文章を書いているという印象を受けません。メールでのやり取りと同じ感覚、極端にいうと、おしゃべりと同じです。原稿を書いた後、推敲するようにお願いします。・・・なお、1次審査をパスした原稿は、当分の間保存し、使用することもあります。また、他紙や雑誌への同じテーマによる二重投稿はご遠慮ください。7月の一般投書は1621通、ふんすい塔786通、カット110通でした。【編集委員・浜田重幸】」

 一読、笑ってしまった。稚拙な文章だ。「先生あのね・・・」で始まるたどたどしい小学生の文章に似ている。「投稿で、困っているのは、」とは誰が困っているのか。まさに「おしゃべり」レベルである。

 以前、他紙の投稿係から投稿先の電話番号が変わる旨を伝える丁寧なファックスを頂いたことがある。それが実に立派な文章で、投稿のことが「玉稿」と表現してあり、恐縮したものだ。それと比べると「1次審査をパス」だの「使用」だのと、なんと客を見下した文章だろう。毎日新聞ではこういう文章がパスするらしい。(2002年8月1日)






 キューバ野球のリナレス選手が中日に入団するまでのいきさつを描いたNHKのドキュメントを見た。リナレスが中日に入れたのは中日球団がキューバの老朽化した球場の改修に金を出すという条件を中日が飲んだからだったのである。
 
 最初は、リナレス選手の中日入りは拒否に決まっていた。スター選手がプロ入りすれば国民が騒ぎ出すかもしれず、社会主義体制の維持に支障をきたすというのがその理由だ。
 
 ところが、キューバは野球の世界大会を開こうとしているのに、ぼろぼろの球場しかなく、その改修費用に困っていた。そこでベテランのリナレスなら出してもいいということになった。彼なら指導者育成という名目がつけられるというわけだ。
 
 しかしこれは要するに、キューバも、友好を経済援助と引き替えにする北朝鮮と大して変らないということであろう。彼らは国内では商売を否定しているくせに、よその国に対してはとても商売上手なのである。
 
 お陰で中日は私企業でありながら政府開発援助のようなことをさせられることになったのである。(2002年7月31日)
 






 ガダルカナル島で日本軍はアメリカ軍に対して四度総攻撃と加えてことごとく失敗した。その作戦の見通しの甘さが、しばしば指摘されている。

 しかし、日本の陸軍のやることは昔から決まっている。「全滅を期して、突撃せよ」これである。突撃とは肉弾突撃であり、白兵戦である。これが日本陸軍の唯一の戦法なのだ。

 日露戦争でもそうだった。旅順攻略まで何度総攻撃をやり何度失敗したことか。それでもひたすら突撃をやり続けて、とうとう攻略したのだ。

 ところが、ガダルカナルでは四回失敗しただけで断念、撤退を決めてしまった。何と無責任なことか。なぜ、奪回するまでやり続けなかったのか。旅順では一万死のうが二万死のうがやり続けた。そうしなければ、国家を失うと思ったからだ。

 ところが、当時の軍部はガダルカナルを失っても国家を失うとは思わなかった。だから、断念した。ところが、この撤退をきっかけに、日本は敗戦の坂を転げ落ちることになった。

 この戦いの敗戦の原因は、作戦の誤りではなく、この戦いの重要性を見誤ったことにあると、わたしは思う。(2002年7月31日)






 今年の六月にインドとパキスタンの間の軍事的緊張が高まったとき、両国に住む外国人がつぎつぎと退去したことがあった。当時わたしは「そんな必要はない。核武装した両国が開戦するはずがない」と思ったものだ。

 そして実際、そのとおりになった。日本の一部の人たちが唾棄する核兵器は立派な抑止力となり、平和の維持に役立ったのである。

 7月31日の毎日新聞の「記者の目」は、この現実を踏まえてあの危機を冷静に分析している。この記者はパキスタン在住の日本人主婦が不安を訴えてきたのに対して「大丈夫。戦争にはなりません」と答えたそうだ。

 ひるがえって、我が国では政府高官が非核三原則の変更に言及しただけで、蜂の巣をつついたような騒ぎになる。この国では核兵器はまるで「悪」でしかないかのようだ。それどころか、同じ「核」を使うということで、原子力発電も「悪」だと決めつける人たちがいる。

 「核」は確かに危険である。しかし、その危険と背中合わせの大きな力を利用してこその人間の知恵なのである。(2002年7月31日)





 角田房子の「閔妃暗殺」を読んだ。この本は本来の意味での歴史書ではない。筆者がプロローグの中で言っているように、「遺憾の念は日本政府だけでなく、私たち大衆が持つべきだ」という考えにもとづいて、過去の日本を現代の視点から糾弾するために書かれたものである。だから、この本は文章が初めから予見に満ちている。
 
 いっぽう、この筆者は出来事を年号のあとに年表のように書いて並べたり、自分が調べたことや旅行したこと、閔妃とは直接関係のないこと、むしろ注にすべきことを、本文中に挿入しているので非常に読みにくい(時間のない人は287ページから読むとよい)。

 だからストーリーとして読むことは出来ないが、近代の朝鮮の歴史を年表的に知るには便利な本である。
 
 また、朝鮮は十九世紀になっても十歳程度の子供を王にして、その一族が政治を私物化するという、日本の平安時代のようなことをずっとやっていたこと。王族同士が貧しい国民を尻目に政争に明け暮れていたこと。政権をとっても国民のための政治は行わず、一族の繁栄しか眼中になかったことなどが、よく描かれている。この点では、大院君も閔妃も同罪だった。
 
 特に、閔妃は国家衰亡の元となった女性で、朝鮮の西太后、朝鮮のマリーアントワネットであり、いつ暗殺されてもおかしくない非情な暴君だったことがよくわかる。
 
 しかし、この女性が筆者にとってはスターなのだ。だから、筆者はこのような閔妃のやり方を無批判に書き、批判の矛先を常に日本に向けている。
 
 しかし、当時朝鮮にいて暗殺に加わった日本人の誰もが宮廷討ち入りをお国のために働ける千載一遇の好機ととらえ、閔妃暗殺を美挙だと信じて疑っていなかったことは、正確に描かれている。
 
 また、これが単なる暗殺事件でも殺人事件でもなく、歴とした政治的クーデターであったことが、筆者の意図に反して、明らかになっている。それにしてもずさんな本だ。(2002年7月28日)





 ジョン・ラーベという人の書いた「南京の真実」という本を読んだ。読んだと言うより見たという方が正しいだろう。この本は、日本では南京大虐殺の真実を証明する意図で作られた本なので、前から順番に読んでいっても意味がないからだ。
 
 石光真清の手記も同じように日記から構成されたものだが、それとは違ってこの本の読み物としての価値は乏しい。要は、どういう証拠を挙げているかだ。
 
 ところが、この本には「城下の人」にあるブラゴベシチェンスクにおけるロシア人による中国人大虐殺のように、何千という中国人を町からつれ出して、揚子江の川べりで包囲して、機関銃でいっせいに機銃掃射したというような記述はどこにもない。三四十人の民間人が機関銃で撃たれたという話ならあるが、それも伝聞でしかないのだ。
 
 むしろ、ラーベ氏は自分の家の六五〇人を含む二十万以上の民間中国人が自分たちの奮闘のお陰で何とか生き延びていると書いているのだ。そして、これこそラーベ氏が日記を通じて言いたかったことで、日記全体が一種の手柄話になっている。
 
 もちろん、日記の個々の記述を疑おうとすればいくらでも疑える。しかし、南京ではドイツのユダヤ人虐殺に匹敵するような民間人の大虐殺がなかったことを、この本はこのままでも十分に証明していると言える。(2002年7月27日)





 夏になると各自治体で花火大会がある。昔は、こんなことはなかったのだが、いまではどこでもする。これが市町村合併したどうなるのか。たとえば、加古川市と明石市と播磨町が合併したら、花火大会はどこか一カ所だけになってしまうのだろうか。
 
 総務省などは合併しても今まで通りに三カ所でやればよいと言うかもしれないが、自治体あっての花火大会だから、自治体が一個になれば花火大会も一個になるべきだという考え方もあろう。
 
 この地域で合併話が進まないのは、要するに、こういう心配があるからである。それぞれにもう十分に裕福で高度な文明生活を営んでいる。それを合併してわざわざ文化レベルを下げることはないじゃないかと言うわけである。
 
 結局、この地域では合併によるメリットよりもデメリットの方が大きいように感じられるのだ。

 国が市町村合併を押し進めたいなら、それによって住民が得られるメリットをもっと具体的に示す必要があるのではないか。(2002年7月27日)





 自分に対する批判を平気で聞ける人はなかなかいない。わたしなども、自分を批判する文章を読まされたりすると、頭に血が上ってしまって、どうにかして相手をやっつけてやろうと思う。
 
 だから、自分に対する批判を年がら年中聞かされる内閣総理大臣は余程辛抱のいる商売である。昔は新聞条例などがあって政府を批判するものを捕まえることが出来たが、今は言論の自由というものがあって、首相は批判されて頭に血が上っても、おいそれと相手をやっつけるわけには行かない。
 
 しかし、兵庫県播磨町の佐伯町長は、自分を批判する内容の議長不信任案を反対議員に突きつけられて辛抱できなくなったようだ。彼は不信任案を否決するだけでは治まらずに、逆に反対議員に対する問責決議案を与党議員に提出させて、相手をやっつけてしまった。

 しかもその問責決議案で、相手の言い分を根拠のない誹謗中傷だと決めつけてしまったのである。これでは言論の自由も何もあったものではない。まさに田舎の町政恐るべしである。(2002年7月27日)






 最近マスコミでは三井物産たたきとUSJたたきが盛んである。

 三井物産たたきで新聞によく出てくるのが創業者の益田孝の名前だ。昔の人は偉かったという伝である。しかし、石光真清著の「城下の人」には、真清の兄の真澄が三井物産の経理をしていた頃、何事にも厳格な兄の作った決算書が赤字になったのを見た益田孝は、これもあれも利益に計上しろと言って、それに従わない兄を首にしてしまった話が出ている。今で言う粉飾である。となると、商売とは昔からそんなものだと言うことになる。

 一方、USJだが、問題の出てきた時期が稼ぎ時の夏休みの直前というのが、引っかかる。このニュースの出所は利用者からではない。ちょうどそのころ、めずらしく東京ディズニーランドがテレビでコマーシャルを流していた。とすると、これはUSJにディズニーランドのスパイが潜入していて、時期を見計らってUSJのイメージダウンになる情報を流したのではないかと推測してみたくなる。一方、ディズニーランドとて細かくあら探しをすれば、似たようなことがないとは言えないから、そのうちUSJのスパイが・・・。

 ニュースは額面だけでとらえない方がよい。(2002年7月27日)






 わたしの住む兵庫県播磨町の「広報はりま」の今月号を何気なくひらいて驚いた。どうやら町長と一部の議員とが感情的に真っ向から対立しているらしい。
 
 ことの起こりは、全天候型体育施設を町に建設することについて、町長が与党議員数名を引き連れて視察旅行をしたことにある。町が政策立案して議会がそれを審査するのが普通だが、この場合は、町長と与党議員が一緒に政策を立案したのか、あるいは、議会を開く前に町長が公然と議会に根回ししたかのどちらかだろう(その様子が何と「議会だより」の表紙として公表されている)。

 それに対して野党議員が、これでは町長と議会のなれ合いであり、議会の存在意義を否定するものだとかみついた。そして町長に同行した議長に対して不信任案を提出した。が、内容は町長に対するものであることは明らかだ。当然否決。

 それに対して今度は与党議員が、こんな不信任案を出すとはけしからんと、提出した議員だけでなく、それに賛成した議員に対しても問責決議案を出して可決した。まさに泥仕合である。

 しかも、その際、町長は自分に対する不信任案でなかったにもかかわらず、問責決議案に賛成するためにわざわざ発言を求め「同行したって何の問題もない。こんな無知な議員は許せないと」と怒りをぶちまけた。

 まさにその発言内容が、口吻も生々しく広報に掲載されているのである。少なくともこれを読めば、地方分権なんてしてもいいのかなと誰が思っても不思議はないだろう。(2002年7月27日)






 江戸時代には月代(さかやき)と言って男は頭をわざわざ前から剃り上げて、いまならハゲ頭といわれるようにした。また、女はお歯黒をつけて歯を黒く塗って、いまなら歯抜けといわれるようにした。これらは、いまの美的感覚からはとても信じられないことだ。
 
 今では増毛産業が盛んで頭の髪の毛が黒々としているのが、男らしさであり、白い歯が女の美しさの源とされて、歯を白くする歯磨き粉が大流行だ。

 つまり、現代では若々しいことが、美しさと密接に関係していると思われているが、それが昔は逆で、老人のようであることが美しいことだったのだ。

 このように価値観というものは時代によって全然違うものであるが、人の笑いを起こす元は変わらないと見えて、江戸時代に書かれた「東海道中膝栗毛」でも、その下ネタは、現代のわれわれも大笑いさせてくれる。
 
 とすると、人間の価値観は時代によって違っていても、感情面ではいつの時代も変わらないということか。(2002年7月26日)






 播磨空港の建設計画が中止になったという。なぜこういうことになってしまったのか、不思議である。
 
 一家に三台も自動車があったり、部屋ごとにテレビがあったり、クーラーも冷蔵庫も何もかも個人の家にある時代に、町に一つ空港を作ろうとすると反対運動が起こる。

 やれ自然破壊だ、税金の無駄遣いだというが、高速道路が縦横に走り、いたるところ車だらけで、排気ガスが空を覆っている世の中に、空港一つ作らなかったくらいでどれほどの自然破壊が防げ、どれだけの税金の無駄遣いが減るというのか。この中止で得られる効果は高々気休め程度のことにすぎまい。

 その気休めのために狂ったように徒党を組んで大騒ぎをする人たちがいる。こういう運動を理性的なものと理解するのはわたしにはとうてい不可能である。むしろ、日頃は自分たちの力ではどうにもならない行政に一矢を報いたいという市民たちのウップン晴らしと捉えるのが妥当ではあるまいか。

 しかし、日常的に飛行機を使う人たちには大きに迷惑なことであろう。(2002年7月25日)






 町長も当選が五回にもなり、対立候補も出ないとなると、一城一国の主にでもなった気になるのだろうか。福島県矢祭町の町長が国の政策に次々と逆らっている。国の進める市町村合併をしないと宣言したかと思うと、今度は、住基ネットに接続しないと言い出した。
 
 これが町民の総意だというならまだしも、総務省が住民との話し合いを求めると「議会制民主主義にあっては、議会の議決は町民との対話そのものである」と言って拒否したそうだ。こうなれば明らかに独裁である。

 この町の人口は約七千人。町が小さいとこういう町長が出てくる。だからこそ市町村合併が必要なのだ。

 ところが毎日新聞は、この独裁町長の尻馬に乗って「矢祭町に続け」と社説で住基ネット反対を奨励している。この町長は反対の理由として、毎日新聞がついこの間まで猛反対していた個人情報保護法がまだ成立していないからだと言っているにもかかわらずである。

 自分の主張を通すためなら何でも利用する、これこそマスコミのご都合主義の典型であろう。(2002年7月24日)






 たった550円の万引き犯を捕まえようと、一キロ近くも追いかけて殺された人の正義感が云々されている。しかし、はたして、これを正義感と呼べるかどうか疑問だ。
 
 この支店長は以前にも万引きをとがめて仕返しされている。老女が店頭のパンに針を入れるという事件を起こしているのだ。
 
 その後に、この殺人である。支店長と万引き犯の間に余程のことがあったにちがいない。
 
 食うに困って万引きする奴らも、プライドだけは一人前だ。しかも社会に恨みを抱いている。正当な反抗手段を持たない者たちが、窮地に追い込まれたとき犯罪的な手段に訴えるのは、パレスチナであろうが、日本であろうが同じだ。
 
 この支店長の熱心すぎた行動は、本社から東京駅という一等地の店を任されたことに異常なプレッシャーを感じて精神的余裕を失っていたためだとわたしは推測する。
 
 本社は万引き犯の安全な扱い方も教えておくべきだったろう。支店長の冥福を祈る。(2002年7月22日)







 朝日新聞が世論調査をして「住基ネット」について質問したら、八割方の人が不安を感じるから実施を延期しろといっていると発表した。

 「住基ネット」と言われてもピンとこない人がほとんどであるはずなのに、よくもこんな数字が出たものだと思って、先の方を読むと、この世論調査の有効回答率は53パーセントだったと書いてある。ということは、半分の人はそもそも質問に答えていないのである。
 
 それなら、その半分の人は「住基ネット」に賛成で今すぐ実施してほしいと思っているかもしれないことになる。つまり、あの八割という数字は大嘘である可能性大なのである。
 
 かつて、小泉首相の靖国神社参拝に七割の人が賛成しているという世論調査の結果を、毎日新聞はすぐに発表しなかったことがあるが、これなどもそれと同じで、我田引水の極みと言えるだろう。
 
 世論調査をしたというなら、せめて七割以上の回答を得てからにしてもらいたいものだ。(2002年7月22日)









 世の中は自分一人の個人的な基準では動いていないものだ。ところが、公立学校ではそうではないらしい。今年から五段階の相対評価ではなくて、個々の生徒の目標達成度に応じた絶対評価を導入するからである。

 絶対評価には良い面もある。自分が幸福かどうかは隣の芝生が青いかどうかとは関係がなく、自分が満足ならば幸福なのだという考え方を、通知簿にも導入したからである。

 一方、社会には法律という自分とは別個の基準があって、それに合わないと罰を受けて刑務所に放り込まれると言う現実がある。もし、法律の世界でも絶対評価が有効なら、犯罪者の言い分はそれぞれにとって正義だから、彼のしたことは正しいことになってしまう。しかし、現実はそうではない。
 
 だから、教師たちは、絶対基準というのは、落ちこぼれを無くすための方便であって、個人的にしか通用しないものだということを、子供たちによく言い聞かせておく必要がある。

 さもなければ、この制度のおかげで犯罪者がもっと増えるのではないかと、わたしは心配している。(2002年7月20日)






 石光真清の「望郷の歌」には、明治44年に帝国劇場が開場してはじめて女優が舞台に上がったと書いてある。ということは、それまでは女優が舞台に上がることはなかったと言うことになる。実際、これが日本で最初の女優劇だったらしい。

 それまでは、江戸時代の延長で役者はみんな男だった。女優は徳川家光のときに禁止されて以来なかったのである。それ以前の女優とはすなわち遊女であった。女優は遊女の美女ぶりを披露する手段でしかなかった。

 それが、明治44年になってはじめて遊女でない女優、いまの女優が生まれた。

 このように大正時代までの日本の文化は、江戸時代の文化とさほど変わりがなかった。
 
 だから「茶話」によると、当時の初代渋谷天外の愛読書が古文の「東海道中膝栗毛」であり、今では何を言っているか分からない浄瑠璃が大流行していた。また、石光真清の妻は夫宛の手紙の末尾に和歌を三首書いたのである。与謝野晶子訳の「源氏物語」の和歌に訳が付いていないのもそのためだろう。

 いまわたしたちはNHK教育テレビで近松門左衛門の芝居を見ても、テキストと解説抜きでは何を言っているか皆目分からない。ところが、それはついこの前までは一般大衆の文化だったのである。戦後教育によって、わたしたちは日本文化の大切なものを失ってしまったのではないだろうか。(2002年7月14日)







 石光真清の手記の「誰のために」では、石光はロシア革命とそれに対する反革命の嵐に巻き込まれる。
 
 場所は東シベリアのブラゴベシチェンスク、石光が最初にロシア語習得のために留学した町だった。中央で起こった革命で、このシベリアの町も混乱状態に陥っており、ボルシェビキの武装蜂起も秒読み段階にあった。

 刻々と近づく蜂起を前に、町は一触即発の緊迫感に包まれる。反革命の謀略機関の長となっていた石光は命を狙われていた。そのなかで、ボルシェビキの頭目ムーヒンと石光との命がけの会談。そのムーヒンの逮捕、脱獄、そしてとうとうやってきた武装蜂起。町は赤軍の手に落ち、赤い旗が町中に翻る。

 ところが、日本のシベリア出兵で、一転、ムーヒンは町を反革命勢力に譲り渡すことになる。

 そんな中で、石光はムーヒンの立派な人柄に打たれ、二人の間に友情が生まれる。「ムーヒンに値する人物が、一人でも共和派や保守派にいるだろうか。いや、日本においても彼のように、己れを棄て、身を張って、国家、民族のために闘える人物が幾人いるだろうか」

 任を解かれて日本に帰っていた石光は、ムーヒン暗殺の報を受けた日から、ムーヒンから譲り受けていた形見のステッキを愛用するようになる。それはシベリアにおける彼の悪戦苦闘のおそらくは唯一の収穫だったのである。(2002年7月14日)






 石光真清の手記の「望郷の歌」には日露戦争でのすさまじい肉弾戦の有様が描かれている。肉弾戦とは特攻突撃のことだ。
 
 第二次大戦では戦闘機でこの戦法がとられ、それが神風と呼ばれて、世界的に有名になった。

 日露戦争では、機関銃で撃ってくるロシア軍の要塞に向かって、日本の兵隊は単発銃と軍刀しか持たずに次々と突撃していった。

 これは相手が刀しかもっていない時代と同じ戦法で、日本では西南戦争でもとられたものだ。当然のことながら、この戦法はロシア軍の機関銃掃射の前に死体の山を築いた。

 しかしながらそれを見た日本軍の総司令官の命令は「全滅を期して攻撃を実行せよ」だったのである。それを実行する現場の指揮官はこう言った。

 「戦友が倒れても留まるな。彼を踏み越えて進め。少尉が倒れたら曹長が指揮をとれ、曹長が倒れたら軍曹が指揮をとれ、軍曹が倒れたら上等兵が指揮をとれ、一歩も譲ってはならぬ。踏みとどまってはならぬ」

 こんな戦い方をする民族はなかった。これに恐れをなしたロシア軍は退却に退却を重ねることになるのである。(2002年7月12日)







 憲法第二十条第三項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と書いてある。
 
 この宗教的活動とは何を指すかがしばしば問題になる。しかし忘れてならないのは、ここに言及されているのは「宗教的活動」であって「宗教的行動」ではないということだ。

 「宗教的行動」ならば、神社にお参りすることなど、宗教行事に関わるあらゆる行動を指すことになるだろう。

 しかし、「宗教的活動」となれば、単に神社にお参りするようなことではなく、もっと積極的で継続的で意図的に宗教を祭り、宗教を広めようとするものでなければならないのではないか。そして、その典型的な例が宗教教育であろう。

 天皇の即位儀礼である大嘗祭に県知事が県費で参列したことが、憲法に違反するかどうかが争われた訴訟で、最高裁は合憲の判断を下した。その理由は、要するに伝統行事に参列しただけだからだというものである。当然の判決といえる。(2002年7月12日)







 長野県の田中知事の支持率が70パーセント近くもあると誰が予想しただろう。
 
 さすがの高支持率の田中知事も最近はじり貧だと誰もが見ていた。マスコミもそうだったし、県議会もそうだった。だから、県議会は不信任を突きつけたのだし、それを見たマスコミはざまを見ろと言ったのである。

 ところが七割もの県民の支持があると分かって、県議会は驚いた。これでは知事を辞めさせるどころか、「脱ダム」に選挙によるお墨付きを与えてしまう。そのうえ、不信任を突きつけた議員たちは責任をとらされるかもしれない情勢なのだ。議会側は一転して窮地に立たされてしまった。

 すべてが田中知事有利に進んでいる。岐阜県や静岡県を荒らし回った台風6号も、どういうわけか長野県には被害をもたらさなかった。新聞社の偉いさんたちと違って、テレビの田原総一郎や筑紫哲也も田中びいきだ。

 もはや県議会側には勝ち目がない。不信任決議をしたことの過ちを認めて、知事選には対立候補を出さず、坊主にでもなって県民に謝ったらどうだろう。
 
 それとも、「宴のあと」や横山ノックの場合のようにスキャンダルを仕掛けるか。政治は何でもありの世界だから、これからが見物だ。(2002年7月11日)






 7月10日の読売新聞の編集手帳は「人類の歴史は数百万年。戦争するようになったのは、わずか九千五百年前。土器の種類なんか覚えなくていい。人間は本来、戦争を知らなかったということを理解するほうが、ずっと大事なんだ」という言葉を引いた。
 
 なるほど。しかし、戦争がないと言うことは国がないと言うことだろう。国がないと言うことは、人殺しも強盗もやり放題で、安心して暮らせる場所がなかったと言うことではないのか。
 
 国がなく戦争がないころは、人々は動物と同じように、強い者勝ちの戦争状態を日常としていたのでないのか。
 
 軍隊を悪と見なし、戦争を悪と見なす人たちは、軍隊と戦争さえなければ平和であると言いたがる。しかし、ただ戦争がないと言うだけで平和であると言うことにはできない。

 本当の平和とは、戦争をしようと思えば出来るが、やらないあるいはできない状態のことであろう。それは、冷戦が終わった現代世界を見ればわかることだ。(2002年7月10日)






 石光真清の手記の「曠野の花」を読むと、そのころは女が外で働くと言うことはすなわち体を売ることだったことがわかる。
 
 産業革命以前は労働と言えば肉体労働だった。そして、そういう場面では女は役に立たなかった。だから、女が外で金儲けしたければ女郎になるしかなかった。そのような状況は明治時代の終わり頃まで続いていた。

 日露戦争前の満州を描いた「曠野の花」に登場する日本人の女たちは、皆が皆女郎か女郎上がりなのだ。

 そのころまでは、働く女=女郎であることが普通だったのである。産業革命によって、腕力のない女たちが手先の器用さではじめて労働力となる機会を得たのである。

 だから、織物工場で働く女たちが辛酸をなめた「女工哀史」は、女がはじめて体を売らずに金を稼げたという意味では「哀史」ではなかったのだ。それ以前の方が働く女にとってはずっと悲しい歴史だった。

 「曠野の花」とは、満州の荒れ野を戦火から逃げまどう悲しい女郎たちをさした言葉である。(2002年7月9日)






 肉の産地偽装で逮捕者まで出ている。しかし、これはそんな大きな問題だろうか。もともと商売なんてものは売り手と買い手の騙しあいだ。
 
 だから、たとえば、国産にしては安すぎると思うなら買わなくてもいいし、買ってうまかったなら得をしたと思ってもいいのだ。それを詐欺だと言って騒ぎ立てるのは大人げないのではないか。
 
 そもそも消費者に肉の産地が見抜けるのか。見抜けないなら産地名のついている高い肉は買わなければいい。実際、たいていの消費者は産地名の虚偽表示は見抜けなかった。だから、虚偽表示が問題化したのも消費者の力ではなかったのである。

 それどころか、実際に見抜けないにしても、多くの消費者は嘘かもしれないと思いながら、高級だという表示を楽しんでいたという面もある。今度の虚偽表示の問題化はそういう消費者の密かな楽しみを奪うものでもある。
 
 つまり、これまで表示を信じていい肉を食べていると満足していた貧乏人たちは、やっぱり自分たちには本当の高級肉など高嶺の花だったと思い知らされたのである。(2002年7月9日)






 NHKの教育テレビに手話ニュースというのがある。ニュースの最初だけ手話を使うが、後半は字幕である。なぜ、全部字幕にしないのか。
 
 手話は耳が聞こえない人たちの伝達手段だから、目はちゃんと見える。ニュースを知るのには字幕だけで十分だしその方が分かり安いだろう。

 実はテレビには文字放送というものがあってその受信機もかなり普及していて、聴覚障害者はテレビを見るのにあまり不自由はしないようになっている。ニュースも普通のニュースを字幕つきで見られるのである。

 であるから、便宜上から言えば、わざわざ教育テレビで手話ニュースなど流す必要はない。ということは、これには別の目的がなければならない。

 それは、手話を普及し、聴覚障害者に対する一般の理解を広め、また聴覚障害者たちのの励みとなることであるはずだ。

 ところが、NHKが手話ニュースについて配っているパンフレットには、聴覚障害者というマイノリティーのためのニュース番組という位置づけしかない。わかってないなあ。(2002年7月8日)






 兵庫県が阪神大震災の被災者自立支援金の支給対象を被災世帯の世帯主としたことが波紋を呼んでいる。
 
 県としては一世帯ごとに百万円ずつ配っていいことをしたつもりだった。しかし、一人暮らしでも百万円、五人暮らしでも百万円、アパート暮らしでも百万円、持ち家を失っても百万円なのだ。つまり、はじめから制度に欠陥があったのである。

 女性がアパートに一人暮らしでそのうえ被災後に結婚していたりすれば、百万円は丸儲けである。ところが、県はあんたはもう世帯主じゃないから百万円はやれないと言い出した。だいたい自立してないじゃないかというわけだ。当てが外れた女性は怒って裁判に訴えた。

 裁判官は女性に優しいから「世帯主条項」は憲法違反、女性に百万円払えと判決した。しかし、「世帯主条項」が間違っているというのなら、五人家族でも百万円で辛抱していた人たちが今度は納得がいくまい。

 県ははじめからひとり二十万円ぐらいずつ公平に配っておけばよかったのである。家という古い制度にこだわった明らかな失敗である。(2002年7月8日)






 石光真清の「城下の人」には西南戦争のことが詳しく書かかれている。

 この戦争では、熊本城下の町は薩摩軍が来るまえに大火に見まわれ、熊本城は焼け落ち、あたりは一面焦土と化してしまう。

 最初これは薩摩軍の隠密が放火したものだと思われていたが、実は熊本の官軍が敵の侵入に備えて火をつけたものだと判明する。それは敵に根拠を与え糧食を与えて戦争が長期化することを防ぐためだった。

 軍隊は国民の生命財産を守ることを第一とするものではなく、敵に勝つことを最優先にすることがこれによってもよく分かる。これは、先の大戦の沖縄戦の場合でも同じことだったろう。

 最近はここから、だから軍隊は悪だ、有事法制はいらないという短絡的な議論をよく見かけるようになった。また、野党の反対理由の中に、国民の生命・財産の安全の確保が後回しになっているというのがある。
 
 しかし、これらがきれいごとの議論にすぎないことは「城下の人」が教えているとおりである。(2002年7月8日)






 石光真清の手記は面白くて面白くてやめられない本だ。笑いあり涙あり、感動あり。まさに「一読巻を措く能わず」と言いたいところだが、話の一つ一つに筆者の気持ちがこもっていて、それとまともにつきあうには、休み休み読む必要がある。
 
 「城下の人」で圧巻なのは、大津事件のくだりだ。大津事件というと今では司法の独立を守った児島惟謙のことばかり語られるが、この本での主役はなんと言っても明治天皇だ。

 大国ロシアの皇太子が日本人によって斬り付けられるという事態を前に、明治天皇はなんとしても自ら行って詫びねばならないと、東京から京都まで赴く。
 
 そして、海上に浮かぶロシアの軍艦上で開かれる最後の晩餐会に招かれると、天皇がそのまま誘拐されるかもしれないと恐れる重臣たちの制止をふりきって、皇族数名と外相一人を連れただけで軍艦を訪問、礼を尽くして国難を回避したという。

 この勇気ある行動は第二次大戦後に昭和天皇が単身マッカーサー元帥を訪問したことに匹敵するだろう。しかし、明治天皇の場合、戦争回避のための訪問だったという点で一段と立ち勝っていると言える。(2002年7月7日)






 長野県議会が知事に「県政を混乱させた政治手法」を理由に不信任決議案を出し、それを可決したのは憲法違反ではないか。議員たちは要するに好き嫌いで不信任を決めた。議会にそんなことが許されているのだろうか。
 
 もしそんなことが許されるなら、選挙の意味は無くなってしまうだろう。選挙で選ばれた人を何の非行もないのに議会の判断でやめさせることは、選挙の結果の軽視であり、それはとりもなおさず、民主主義の軽視である。

 最後の決定権を持っているものは誰か、それは選挙民だ。ところが、選挙民の選択をそれはおかしいからやり直せと言っているのが、今回の長野県議会の議決である。そんな権限が県議たちに与えられているとは思えない。

 県知事は大統領制に似ていると言われる。しかし、アメリカの大統領でも刑法に反した事例以外で辞職に追い込まれた例はない。県知事の場合も同じだ。それだけ国民の選択は尊重されるべきなのだ。

 ある県議を田中知事を傲慢だと言った。本当に傲慢なのは数にものを言わせた議会の方である。
 
 わたしは不信任案の提出用件を法律で知事の不正行為に制限すべきだと思う。(2002年7月5日)







 改革するということは旧勢力との食うか食われるかの戦いである。みんなで仲良く改革をするなどということはない。
 
 もし混乱せずに改革するとすれば、旧勢力と妥協するしかない。しかしそうすれば、改革は中途半端なものになる。いや、下手をすると骨抜きになってしまうだろう。

 結局、混乱を覚悟で改革するか、はじめから改革しないかの二つに一つしかない。

 ところが、日本ではみんなが改革を口にする癖に、混乱をきたすと非難する。世間を騒がしただけで罪なのである。

 長野県議会が、「県政の停滞と混乱を招いた」という理由で田中知事に対して不信任決議をした。改革をしたくない議会からすれば当然のことだ。

 いや東京都の石原知事を見よ。彼は混乱をきたさずに旧勢力を抑え込んで改革していると言う人がいるかもしれない。確かに都議会は混乱していない。しかし、それは知事の改革が議会の受け入れやすいものばかりだからである。しかし、それが本当の改革になっているかは大いに疑問だ。(2002年7月5日)







 毎日新聞の一面コラム「余録」のバックナンバーが毎日新聞のホームページで読める。暇に飽かせて読んでいる。
 
 その中で気に入ったのをあげてみる。

 2000年12月23日アムネスティ、2001年3月16日杉浦民平、4月12日井伊直弼、4月23日李登輝、5月15日田中正造、5月18日團伊玖磨、6月2日加島祥造、6月22日オオカミ少年、6月29日ムーミン、7月19日玄侑宗久、7月14日劉連仁、7月31日田村亮子、8月24日フレッド・ホイル、8月27日チンギス・ハーン、8月31日回転ずしを発明した人。

 これ以前にもたくさんおもしろいものがあるようだが、これ以後にはなかなかよいのがない。
 
 これで見るとだいたい月三回だが、ずっとさかのぼっていくと、おもしろいものの頻度が高くなるようだ。最近はそれが無くなった、それで今度余録の筆者が代わることになったかどうかは分からない。

 わたしが気に入っているのは、総じて筆者があまり自分の意見を書かずに、引用文をたくさん使って、おもしろい話を聞かせてくれるものだ。(2002年7月5日)






 横綱審議委員会のある人の身勝手な発言のために、貴乃花に対する同情が集まっている。
 
 相撲人気を高めるために横綱にされて相撲人気を高めた貴乃花が、怪我でしばらく出てこれないでいると、もう用はないと横綱審議会の委員長である渡辺恒雄氏は言っているそうだ。
 
 日本のプロ野球はすでに渡辺氏の私有物に化して久しいが、日本の国技である大相撲も同じような状態に陥ってしまったのであろうか。

 貴乃花の引退は本人とそして大相撲ファンだけが決めればいいことだ。それを一部の人間が決めることなどもってのほかだ。

 貴乃花よ、膝が完治するまで好きなだけ休養をとればいい。サッカーではブラジルのロナウドが膝を負傷しながら、今度のW杯で見事にカムバックを遂げて見せた。だから、きっと君の怪我も完治する日が来る。

 真の大相撲ファンは、君が日本の大相撲に多大な功績をしてきたことを忘れるような恩知らずではない。わたしたちは君が土俵に復帰するまでいつまででも待っていることを忘れないでもらいたい。(2002年7月4日)






  賞味期限の切れた材料を使ったといってまたどこかの会社が記者会見で頭を下げていた。
 
 賞味期限は本来消費者の便宜のために作られたものだが、今やそのために企業の首が絞められる事態になった。規則はこうして一人歩きして、よけいなことをする。昔の治安維持法と同じである。

 食べ物が食べられるかどうかは本来各人が自分で判断すべきことだ。ところが賞味期限などというものが出来たために、それは出来なくなった。もしそんなことをすればモラルの低下などとマスコミに言われる。まさに本末転倒である。

 ところで、マスコミは同じニュースを何度も使って金儲けをしているが、それも賞味期限違反じゃないのか。特に、新聞などはもうとっくに誰もが知っている賞味期限切れのニュースを平気で載せている。いや、そもそも新聞というもの自体の賞味期限が切れかかっている。

 人間はどうだ。賞味期限切れの人間があちこちでのさばってはいないか。ただし、この場合は、各人が自分で判断しないといけない。賞味期限のラベルは貼ってないからだ。 (2002年7月4日)






 政府と自民党が作った郵便関連法案では郵政の民営化は進まないと、マスコミは総じて批判的だ。しかし、国民の多くが郵政の民営化を望んでいない現状ではやむを得ないものではないだろうか。
 
 特に首相が与党と妥協したことに批判が集まっているが、野党の民主党が、何かとけちを付けてこの法案に反対している以上、当てになる賛成票は与党の票だけであり、仕方のないところだ。

 わたしは、郵政の民営化は少しずつ進めていけばよいと思う。まず、公社化してどうなるか、国民はそれをどう受け止めるかが大切だ。それで民営化してほしいという声が国民の間で大きくなれば民営化を進めていけばよい。

 むしろ早急に民営化しなければならないのは道路公団の方だろう。こっちは赤字でどうにもならなくなっている。ところがこれも族議員がいて、なかなか進みそうにない。

 しかし、改革をするにも法律を作らないといけないから、国会の賛成を得ることが必要だ。独裁制にしない限り、妥協は仕方がない。(2002年7月4日)






 無実の罪で誤認逮捕されたウルトラマン俳優は、無実を認められることなくマスコミの表舞台のから消えていくことになった。ウルトラマンは正義の味方ではなく、単なる金儲けの道具に過ぎなかったのである。
 
 人気テレビドラマ「ウルトラマンコスモス」の主役俳優が知人をなぐりその上、金をおどしとっていたとして逮捕されたが、事実はそうではないことが分かった。しかし、番組は中止になりこの俳優は仕事を失ってしまった。こんな正義に反することがテレビ局ではまかり通るのだ。

 濡れ衣を負わされた無実の人間を救い、社会正義を回復してこその「ウルトラマン」だろう。
 
 ところが、松竹と毎日放送はそうはしなかった。金儲けのためには、一度でも逮捕されたような人間には用は無いというわけだ。

 毎日放送よ、まちがってもこれからはニュース番組で正義などという言葉は使うなよ。あんたらにはその資格はない。(2002年7月3日)






 大阪のJRの環状線で「女性専用車両」が運行をはじめたことが話題になっている。わたしはもし日本にもレディーファーストが定着すればこんなことをする必要はないと思っている。
 
 アメリカなどではレディーファーストが徹底している。電車に乗るときも降りるときも、座席に座るのも女が優先だ。だから、電車のなかには泥棒はいても、女性の体に意図的に触ろうなどというけしからぬ男はいない。
 
 しかし、日本で男がレディーファーストをやろうとするとかえって女性に変に受け取られて痴漢と間違われたりするから、男だけでなく女もレディーファーストを学ぶ必要がる。
 
 レディーファーストとは要するにわたしはあなたの敵ではないというサインである。そして、そういうサインを出す男は痴漢になりようがない。
  
 日本ではレディーファーストはなかなか定着しないが、男たちはこれを機に考え直すべきである。なぜなら、女性専用車両をつくられることは、男たちにとって恥だからである。(2002年7月2日)


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