私見・偏見(2001年)

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 「小学校長を児童買春などの疑いで逮捕」こんな見出しをニュースに見つけた。しかし、記事を読むと相手の女は十八才、れっきとした女だ。けっして児童ではない。ただ、高校生というだけである。
 
 校長先生であろうが、裁判官であろうが、エッチをしたいのは万人に共通である。それは便所の行きたくなるのと同じ。それを暴かれて職を失う。気の毒なことなことだ。それどころか、色恋で失職するのはむしろ男子の本懐か。

 日本の女性の多くは高校生のときにセックスを覚える。しかも、その三年間ほどが一番盛んで、二十歳をすぎるとおとなしくなるという。

 相手はたいてい年上だから、校長さんも金を払わず合意の上なら、これは当たり前の日常的出来事なのだ。

 こういう事件を無くしたかったら、法律を作って「お酒は大人になってから」というのと同じく、「エッチは大人になってから」とキャンペーンでもするしかない。

 しかし、実際には、高校野球でもしていない限り、酒を飲む子供は罰せられないのと同様、エッチをする子供を罰することもできまい。かくて、地位も名誉もある男が児童買春で捕まる事件は決してなくならず、格好のニュースネタを提供し続けるだろう。(2001年12月22日)




 星野仙一氏が阪神の監督に就任するという。全くの茶番である。

 何をしてよいか、何をしてはいけないか、阪神の経営者も、星野氏も分からないらしい。
 
 プロ野球は誰のためにあるのかということを両者共にまったく忘れてしまったのだろう。ファンの気持ちを置き去りにして、何を再建をしようというのか。
 
 中日ファンといえば星野ファンである。その中日ファンに、来年の阪神×中日戦でいったいどちらを応援しろというのか。

 阪神ファンには、中日の人間に支配されたチームをどう応援しろと言うのか。

 結局は、どちらのファンも、日本のプロ野球に見切りをつけるしかないということだろう。これでは去年進行していた、ファンのプロ野球離れがさらに進むだけのことだ。

 プロ野球界全体のことを考えた結果だとは、ちゃんちゃらおかしい。一つのチームをどうにも出来ない人間が、プロ野球全体をうんうんすることのおこがましさよ。自分を何様だと思っているのか一度おうかがいしたいものだ。(2001年12月15日)




 不思議の国日本とよく言うが、最近の一番の不思議は日本のマスコミの多くがテロリストの名前に敬称をつけて呼んでいることだろう。
 
 ビン・ラデンのことである。逮捕状こそ出ていないが、ビン・ラデンはアメリカの官憲によって懸賞金付きで指名手配されている犯罪者である。それなのに日本の多くのマスコミはこの男に敬称をつけて呼んでいる。これほどの不思議はないだろう。

 しかし、日本のマスコミの多くはこれを変だとは思わないし、日本の識者の多くもそれでよいと言っている。

 あれだけのことをやったのだから尊敬に値するということなのだろうか。そうではあるまい。しかし、これは子供たちに間違った教訓を与える恐れがある。同じ悪いことをするにしても、海外で大きなことをやればよいのだと。

 しかしながら、これをやめたのは読売新聞だけで、テレビ局を含めて、相変わらすテロリストに敬称をつけて呼ぶ不思議な光景が日本では続いている。(2001年12月14日)




 今年の十二月八日は日米開戦六〇周年だそうだ。
 
 この六〇年の間に日本は大きく変わった。軍国主義の日本はアメリカとの戦いに敗れて、アメリカが作った憲法を受け入れて、二度と戦争をしない平和主義の国になった。
 
 ところが、その平和主義の憲法を作ったアメリカは、六〇年前と全く変わらずにいるようである。
 
 アメリカの政治家たちは、大統領を筆頭にして、今回のアフガニスタンの戦いを、六〇年前の日本との戦いになぞらえて、軍事力こそ正義を実現するための手段であると堅く信じていることを明らかにしたのである。

 つまり、彼らは日本国憲法の前文に書いてある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」できるなどとは、これっぽっちも思っていないのだ。つまり、彼らは自分では思ってもいないことを日本人にさせようとしたのである。

 それにも関わらず、日本はアメリカの言うとおりにうかうかと平和愛好国になった。はたしてこれでよかったのだろうか。考えさせられる一日であった。(2001年12月8日)
 



 阪神が前中日監督の星野仙一氏に監督就任を求めているという。
 
 阪神のフロントはどこまでも考えが浅いのだろうか。スポーツ紙に載った、就任要請があればすぐにでもOKしそうなコメントを真に受けたのかもしれない。

 しかし、いざ実際に要請が来てみると途端に「ハムレットの心境だ」というコメントが出てきた。当然だ。

 星野氏は生え抜きの中日人間である。野村前監督がヤクルトから移ったのとは全く状況が違う。

 阪神の監督として、中日に負けたら、阪神ファンに何を言われるか、中日に勝ったら、今度は中日ファンに何を言われるか。よく考えないといけない。

 星野氏が阪神の監督になったら、きっとまた野村前監督のように泥まみれにされるだろう。それでもいいのか。

 星野氏の阪神監督就任は、阪神のためにも、ご本人のためにもならないとわたしは思う。(2001年12月8日)



 高速道路の料金所で料金を払うために止まらなくてもよくなるETCという名前のシステムができたという広告をよく見るようになった。

 しかし、考えてみればこんな馬鹿げたことはない。料金所さえなければこんなものはいらないのである。それを、料金所では金を払えといい、しかも、止まりたくなかったらもっと金を払えというのである。

 それもこれも、日本では、業者がいかに儲かるかばかりが重視されて、利用者の便宜はいつも後回しになるからである。

 高速道路にしても、そもそも何のために作るかというと、それはまず第一に業者に仕事をやるためなのだ。そのために、料金所を作って利用者から金をとる仕組みを作ったのだ。税金で作れるだけのものを作っていくつもりなら、こんな仕組みは必要ないはずだ。

 だから、必要なことは新しい機械を考え出すことではなくて、まず根本の間違いを正すことだ。そして、欧米並に料金所を無くせばいいだけのことである。(2001年12月7日)




 最近、無期懲役の囚人が仮出所中に殺人を犯して死刑の判決を受けるという痛ましいことがあった。

 この人間は若い女性を見ると殺さずにはいられない性癖があるという。それなのに刑務所の外へ出たために、一人の女性が殺され、それに続いて、本人が命を落とすことになったのである。

 彼が刑務所から出ていなければ、この二つの命が失われることはなかったに違いない。無期懲役といいながら法務省が形式的手続きにしたがって、この人物を釈放したことの責任は大きいと言わなければならない。 

 ところが、日本の司法は、彼を釈放した己の責任を棚に上げて、悪いやつだから殺してしまえと言っているのである。全く、何をか言わんやである。

 死刑廃止議員連盟という国会議員の集まりがあって、その会長を亀井静香議員がつとめているという。氏がもし本気で死刑の廃止を望んでいるのなら、是非ともその強大な政治力を使って、これ以上司法制度のために命を落とす人がなくなるようにしてもらいたい。(2001年12月6日)




 名誉毀損とは他人の行為によって自分の社会的信用が損なわれたことをいう。自分の名誉感情が損なわれただけでは成立しない。単にプライドが傷つけられたとか、人の言ったことが癪に障るだけではだめなのだ。
 
 ところが、小泉首相の靖国参拝を憲法違反として提訴した人たちが、それに対する小泉首相の「おかしな人たちがいるものだ」という発言を捉えて、名誉毀損だと訴えた。
 
 しかし、彼らは、首相の発言によって、自分たちの社会的信用が失われたと本当に思っているのだろうか。そんなことはあるまい。

 それでは、日本の多くの人たちが首相の発言を支持していると認めたことになってしまう。

 だから、おそらく、彼らは名誉毀損が成立しないことは知っていながら、首相の発言が気にくわないというだけで提訴したのではないだろうか。

 しかし、もしそうなら提訴権の乱用である。裁判所はそうでなくとも仕事が手一杯なのだ。良識を持って訴状を取り下げることが望ましい。(2001年12月4日)




 皇太子妃が女の子を産んだことで女帝論が盛んだ。男女平等だからだという。
 
 しかし、男女平等という民主主義の概念が、はたして天皇制と相容れるものなのだろうか。
 
 さらに、男女平等というならば、天皇になりたいかどうかという本人の意思を尊重しなければならなくなることも、忘れてはならないはずだ。
 
 そもそも今の皇室典範が女子の天皇即位を認めていないのはなぜかも考えるべきだろう。
 
 その中の、結婚した女子は皇室から離れていく規定は何のためなのか。それは皇室を縮小していくことを念頭に置いたものであるはずだ。それなら、いつかは男子の血統が絶える日が来ることは明らかである。ということは、日本人も天皇家に頼らず、いつかは自分自身の責任で生きて行く日が来るべきだと言うことではないのか。
 
 出産当日、大手のテレビ局は軒並み特別番組を放送したが、最も視聴率が高かったのはそのどれでもなく、平常どおり放送された地方局制作のグルメ番組だったという。日本人は自己責任で生きていく準備がすでにできていると言ってよいのではないだろうか。(2001年12月3日)




 今回の医療制度改革案では、小泉首相の言う患者負担の引き上げは時期が曖昧なままに終わったのに対して、自民党の族議員の主張した保険料の引き上げの方は時期が明確に決定した。

 つまり、族議員の言い分が勝ったのである。これをみても、自民党の族議員が小泉改革をいかに妨害しているかは明らかである。これでは小泉改革の先が思いやられる。

 一体、自民党の一議員の方が首相よりも発言権が強いとはどういうことだろうか。そんな国が他にあるだろうか。

 しかも、族議員の多くはかつての閣僚経験者だというから驚く。彼らは政府にいるときは一体何をしていたのだろう。大臣のときは全国民を代表するが、大臣を辞めたら一利益団体のことにしか興味がなくなるのだろうか。しかし、それでは国会議員失格だろう。

 いま大きな顔をしてテレビに出ている族議員たちの顔と名前を、わたしたちはよく覚えておかないといけない。そして、次の選挙で彼らを政界から排除しなければいけない。彼らこそこの国を破滅に導く元凶であることは間違いないのだから。(2001年11月29日)




 刑罰を引き上げて、飲酒運転による交通事故を減らそうと法律を改正したという。しかし、はたしてそんなことで飲酒運転が減るだろうか、疑問である。
 
 国会議員のようにお抱え運転手がいる人ならともかく、普通の人間は車を運転する以上、飲酒運転は避けられないはずだ。
 
 総じて、刑罰を厳しくすれば犯罪が減るという考え方自体馬鹿げている。人を殺したら死刑になるから人を殺さないのではない。人を殺すにはやむにやまれぬ理由がある。飲酒運転も同じことだ。

 被害者の側に立った刑罰強化のつもりだろうが、被害者になることを恐れて加害者になってしまう人間がどれほど多くいることか。

 刑罰を厳しくする方がよいと考える人は、自分が加害者になるかもしれないとは思ってもみないのだろう。ところが、刑罰強化は世論の支持を得ているらしい。

 しかし、これで自分は飲酒運転をする可能性が減ると自信を持って言える人がこの国にどれだけいるか調べたらよい。刑罰強化はそれからでも遅くないはずだ。(2001年11月28日)




 「先日ふと見た映画の中に一瞬映った世界貿易センタービルの姿に、あれがもうないのだと思うと、事件の意味の大きさを改めて実感した」ということを、ニューヨークタイムズの記者がある新聞のインタビューの中で述べていた。
 
 これはまさにわたし自身が、あるアメリカ映画を見ているときに感じたことだった。
 
 しかし、このインタビューをした女性記者はそうではなかったらしい。この言葉に続いて彼女は「米国はなぜテロ攻撃を受けたと思いますか」と質問したのだ。
 
 彼女は人の不幸を自分の不幸と感じることのできない人なのだろうか。彼女はこのインタビューを「高慢なニューヨークがこの事件でその鼻っ柱をおられて優しくなっている」というような言葉で総括した。
 
 アメリカの不幸ならこんなことを書いてもよいと思ったのだろう。しかし、彼女とて日本で犯罪被害者に対して「なぜこんな目にあったと思いますかと」と質問する人ではないだろう。記者たることは悲しいことである。(2001年11月27日)
 



 先日、読売新聞の見本紙というものがうちのポストに入っていた。ご購読中の新聞と比べてくださいというわけだ。
 
 そこで読んでみると、読売新聞と他紙との最大の違いは、文章が易しいことだ。長くて複雑な文章は極力避けているという印象を受けた。
 
 一面のコラムは典型的である。例えば毎日新聞の余録は抽象的な言葉が多用されて非常に難しい文章になっている。インテリを対象にしているのであろうか。読売の編集手帳は庶民的な文章で書かれている。
 
 また、読売は読者の気持ちをよく反映した記事作りをしているようだ。その代表例が、オサマビンラデンの扱いだ。他紙は軒並みオサマビンラデン氏としているのに対して、読売だけは「氏」を付けていない。
 
 これは、なぜ日本のマスコミだけはオサマビンラデンに「氏」を付けるのかと疑問に思う多くの読者の気持ちを反映してのことだろうか。
 
 購読者数一千万部は伊達じゃないことをうかがわせる内容になっていると言っていい。(2001年11月20日)
 
 



 若者たちがミニバイクや自動車で違反しているところを警察に見つかり、逃げて事故を起こして命を落としたというニュースをよく耳にする。

 そんなときわたしはいつも「なぜ逃げるのか」と思う。

 もちろん違反しているのだから、警察に捕まれば、小言を食らうかもしれないし、罰金を払わされるかもしれない。

 しかし、だからといって、逃げることはない。逃げるとなると命がけになる。

 おとなしく捕まっておれば、罰金だけで済む。しかも、それで犯罪を犯したことにはならずに済むのだ。ところが逃げたら犯罪になる。その上、命を落とす可能性さえ出てくるのだ。

 逃げた若者が命を落とすと、無理に追いかけなければいいのにと、警察に非難の矛先が向けられることがある。しかし、警察は逃げたら追いかけるのが仕事だ。逆に、追いかけなければあとで叱られるだろう。

 わたしは若者たちに言いたい。「違反を見つかったら捕まっておけ。くだらないことに命を掛けるな」と。(2001年11月16日)
 
 
 

 アフガニスタンの戦争のニュースの中で、一つ注目すべき点は、海外の女性は実に様々なところで活躍しているということである。
 
 アフガニスタンの戦闘に巻き込まれて死亡した外国人記者の中に、フランス人女性がいたことには、一番驚かされた。
 
 別のフランス人の女性記者がタリバンに拘束されてその後解放されたニュースも記憶に新しい。
 
 タリバンに人質になっていたNGOの国際援助職員のなかにも女性がたくさん混じっていた。
 
 海外では、男女平等とは、危険なところに行くのも男女の区別はないということなのだ。
 
 ひるがえって日本人の記者では、男性の記者がアフガニスタンに入っているということはニュースから分かるが、女性はパキスタン止まりのようだ。
 
 日本の女たちの言う男女同権は、まだまだ口の達者な女性たちが目立つだけで、実際の行動の、しかも危険な事となると、結局は男頼みだ、と言ったら叱られるだろうか。(2001年11月16日)
 
 



 日本でパソコンを買うと、キーの上にひらがなが書いてあるキーボードがついてくる。

 ところが、このひらがなを使って入力する人は比較的少なく、ローマ字で入力する人の方が多い。小学校のパソコン教育では「ローマ字入力」を教えているそうだから、今後はもっと多くなるに違いない。

 実際、ノートパソコンの中には「ローマ字入力」を前提にして、「かな入力」で「っ」を打つときに絶対に必要な右側のシフトキーを小さくしたものもある。

 ところが、英語を入力するときには、この小さなシフトキーでは大文字が非常に打ちずらい。しかも、インターネットの普及した現代では、英語を入力する機会は誰にでもある。

 実は「ローマ字入力」する人にとっては、英語配列のキーボードの方が見た目がすっきりしているだけでなく便利でもある。

 そこで、パソコンメーカーの中には英語のキーボードを最初から選べるようにしているところもでてきた。わたしはこの動きを歓迎したい。(2001年11月11日)
 
 
 
 
 

 今年のプロ野球の特に巨人戦はつまらなかった。だから、当然視聴率は上がらなかった。そこで、わたしは来年からは巨人戦の放送時間の延長をやめてくれないかと期待していた。
 
 何よりそのほうがビデオの予約設定が楽になる。延長分を考える必要がなくなるからだ。
 
 ところが、何と逆に延長時間を延ばすというではないか。しかし、元々面白くないものをいくら長くしたところで面白くなるわけがない。放送時間よりもその中身を面白くすることのほうが先決問題であるはずだ。
 
 いまのプロ野球が面白くない最大の理由は、巨人がいい選手を独り占めしていることだ。巨人が善玉なら巨人が勝つのを見るのも面白かろう。しかし、今や金に物を言わせる悪玉と化した巨人が勝つところなど見たくもない。だから、視聴率が上がらないのだ。
 
 ところがこちらの原因はまったく改める気はないらしい。わたしとしては、他の民放各局がこの愚かな決定に追随しないことを祈るのみである。(2001年11月1日)
 
 



 テロ対策法の審議過程でしきりと国会の事前承認を求める声が上がったが、それは戦前に逆戻りして自衛隊が暴走してしまうことを恐れるからだという。しかし、そんな心配は杞憂である。戦前の日本軍は完全に解体されてしまったからである。
 
 ところが、軍隊も含めて戦前に存在した官僚組織のうちで解体されていないものがたくさんあって、そちらの暴走はなかなか止まらない。総理大臣の言うことに抵抗する官僚たちがたくさんいるのだ。
 
 国の役人たちは、特殊法人の廃止・民営化を唱える総理大臣の指示になかなか素直に従わないというではないか。
 
 シビリアンコントロールは、軍隊だけのことではない。他の官庁の役人たちに対しても当然あてはまるはずだ。現場の役人つまり兵隊たちは、総理大臣の意向を無視して動いていいはずはないのである。
 
 さもなければ、またもや官僚の暴走によって、いつか来た道を、こんどは経済の分野でたどることになりかねない。(2001年10月31日)
 
 



 今年のプロ野球の日本シリーズは、「面白い野球をするパリーグ」が「つまらない野球をするセリーグ」に負けたシリーズだと言える。
 
 今年のセリーグはまったくつまらなかった。巨人がたくさん金をかけて選手を集めて、見かけ上はずっと首位を独走してしまい、興味をそいだ。ところが、巨人に負け越し、最後はずっと負けてばかりいたヤクルトが優勝してしまうというつまらない結果になった。
 
 それを救ったのがパリーグの近鉄の優勝だった。打って打って打ち勝つ、見ていて楽しい野球をして、その結果の優勝だったために、大リーグに奪われていた興味は一気に日本のプロ野球に戻った。
 
 しかし、日本でも面白い野球が見られると期待した日本シリーズでは、つまらない野球をやり通したヤクルトが勝ってしまうという結果に終わった。
 
 近鉄の選手たちはきっとセリーグの野球に戸惑ったことだろう。大リーグから来たアメリカ人の選手が日本のセリーグに入って感じるのと同じ戸惑いを、彼らは感じたに違いない。
 
 ストライクで勝負をしないセリーグの野球はパリーグの野球とはまったく違う。だから、外国人選手はパリーグではよく活躍するが、セリーグではなかなか活躍できない。(例外のヤクルトは、球場の狭さが外国人選手を救っているだけである)
 
 今年の日本シリーズで、つまらないセリーグ野球が勝ったことで、日本の野球はますますつまらない方向に向かいそうである。(2001年10月25日)
 
 



 アーミテージ米国務副長官の言った「ショー・ザ・フラッグ」という言葉を日本政府は「日の丸を見せて欲しい」と解釈したが、それは誤訳だと言う人たちがいる。

 なかでも英会話で有名な鳥飼玖美子さんは「英和辞典を引けば『(国などの)支持を表明する』ことと、説明が載っている。各紙とも、辞書を調べて確認するくらいの慎重さが欲しかった」と苦言を呈しておられる。

 しかし、わたしはこの意見に疑問を持った。言葉の意味は辞書が決めるのではなく、文脈が決めるからである。大切なのはアーミテージ氏がどういう意図であの言葉を使ったかであって、辞書にどんな訳語があるかではない。

 それどころか、わたしの愛用の英和辞典にはshow the flagの訳語として、ちゃんと「(他国で)自国の軍事[政治]力の存在を見せつける」と書いてあるのだ。

 つまり「日の丸を見せて欲しい」という解釈は、文脈の上からも辞書の訳語としても決して誤りではないのである。
 
注 この英和辞書は人気の高い「ジーニアス英和辞典」で、この辞書には他の辞書にない新しい訳語がたくさん載っています。(2001年10月19日)
 
 
 


 イスラムにはイスラム原理主義者がいますが、日本にはたくさん平和憲法原理主義者がいます。
 
 この人たちは何よりも憲法が大切。この人たちは国よりも憲法の方が大事な人たちです。だから、何よりまず第一に憲法を守れといいます。世界から孤立しようがどうしようがかまわないから、憲法を守れといいます。
 
 いやそうじゃないと言うかもしれません。守れないならまず憲法を変えてからにしろと。しかし、憲法は急には変えられません。そんなときはどうするか。憲法は破っていいのです。
 
 憲法は自分に対する約束なのです。自分に対する約束は守れなくなったら変えればいい。すぐに変えられなければ、破るしかないのです。そして、今どうしてもしなくてはいけないことをするのです。そうしないと人も国も死んでしまいます。
 
 いまの日本は民主主義の国です。だから、大丈夫です。決して、戦前に逆戻りするなどということはありません。(2001年10月18日)
 



 アフガニスタンのタリバン勢力に対して空襲が始まりました。それを見てわが国が第二次大戦の時に受けた空襲を思い出す人も多いでしょう。東京大空襲では十万の無実の市民がアメリカ軍によって殺されました。今また、アフガニスタンの無垢の市民の命が奪われています。
 
 しかし、日本はあの空襲を受けて自分の過ちを悟ってアメリカに降伏することによって、平和な国に生まれ変わったことも忘れてはなりません。
 
 そうです。タリバンは昔の日本なのです。昔の日本が間違っていたようにタリバンも間違っています。それをアメリカは正しい国にしてやろうとしているのです。
 
 アフガニスタンのタリバン勢力も早く自己の非を認めて降伏することを祈ります。タリバンが降伏してアメリカの占領を受け入れれば、様々な援助を得てアフガニスタンは日本と同じような、圧制で国民を苦しめることのない平和な国に生まれ変わることができるでしょう。
 
 そのアメリカを日本が支援するのは当然ではないでしょうか。(2001年10月10日)
 
 



 英国のブレア首相はアメリカのテロで自国民が多数殺されたことから自衛権を発動して今回の戦争に踏み切り、戦時内閣を結成した。日本も同じく多数の自国民が同じテロで殺されたが自衛権は発動せず、アメリカの後方支援に甘んじている。
 
 いっぽう、北朝鮮には百人以上の日本人が拉致されて奴隷状態に置かれているといわれている。ルソーは「人が奴隷状態にいるということは、戦争状態にあるということである」と言っているが、この言に従えば、すでに日本と北朝鮮は戦争状態に入っていることになる。
 
 ところが、どういうわけか日本は武力に訴えて自国民を救おうとはしない。少数の人のために国が戦争するなんて馬鹿げている。いやそもそも戦争は悪だから、一部の人には辛抱してもらえばよいというのが一般的な考え方だ。
 
 そして、今またニューヨークで日本の自国民の多数の命を奪われながら、日本は武器を取って戦おうとしない。いったいこれで国といえるだろうか。(2001年10月9日)
 
 
 


 テロ対策法についての対応で、またもや民主党は政権担当能力のなさをさらけ出してしまった。
 
 イギリスのブレア首相は労働党の首相である。しかし、彼が保守党の首相であっても今回の対応は同じものであったに違いない。フランスの大統領は保守で首相は革新であるが、二人の対応に違いはない。
 
 このように、国家の安全保障にかかわる問題では、保守も革新もないのが欧米での常識である。
 
 ところが日本はどうか。今回のテロ対策に関して、民主党の政治家たちは相も変わらぬ憲法論議を持ち出して、積極的な対応をとれないでいるのだ。
 
 国民の安全を守るということは、国を守るということだ。その国の安全が危機に瀕しているときに、何が憲法だろうか。国が無くなってしまえば憲法も無くなってしまうということが彼らには分からないのだろうか。
 
 憲法あって国家なし。これでは民主党の政治家にこの国は任せられないと言わざるを得ない。(2001年10月7日)
 
 
 


 今回の同時多発テロでは国連という組織が相変わらず役に立たないものであることが明らかになった。
 
 国連総会はテロ撲滅のための決議一つすることができないでいる。会議はテロの定義をするのに行き詰まってしまい、あげくの果てには、アメリカの報復攻撃自体をテロだと言い出す国が出る始末である。
 
 これでは国連は発展途上国の憂さ晴らしの場でしかない。
 
 国連の職員たちは世界をアメリカに牛耳られ、その無力感を反米的発言で発散している。
 
 アメリカが平和主義であってくれさえすれば、今回の事件もなく、大量の難民も生まれなかったはずだからだ。難民支援に駆り出される職員たちは、アメリカの尻拭いをさせているという気持ちだろう。
 
 しかし、アメリカが日本のように平和主義を標榜できる日は当分来そうにない。その前に、まずテロ組織が無くなり、朝鮮半島が統一し、おまけに中国が民主化する必要があるからである。(2001年10月3日)
 
 



 今回の同時多発テロに関して、新聞の中にはアメリカの報復攻撃を批判する記事の見出しとして「テロはなくならない」と書いたものがあった。
 
 報復攻撃ではテロはなくならないと言いたいのだろうが、彼らは自分の主張のためにテロを正当化していることに気づいていない。
 
 もし、国内の犯罪に関して新聞の見出しに「犯罪は無くならない」と書けば、犯罪を正当化するのかと袋叩きにあうことは必至である。ところが、ことが戦争となると自分が何を言っているかわからなくなってしまうのである。
 
 現実は逆が真実であることを教えている。この世に犯罪はなくならなくても、テロはなくなる。実際、日本にも戦前にはテロが横行したものだが、今ではテロなどほとんどない。それはテロ組織が徹底的に壊滅されたからにほかならない。
 
 今もまたアメリカが世界の国々といっしょになって、テロ組織の撲滅に乗り出そうとしている。この国には、それをあたかも悪いことのように書き立てる新聞がある。この国には目が見えていない新聞記者が多すぎるようだ。(2001年10月3日)
 
 



 ルソーの「社会契約論」の第一巻の「主権」の章を読むと、社会契約というのは、国民の国に対する義務と、国の国民に対する義務を規定するものではあっても、国の国自身に対する義務を規定するものではない、これは憲法でも同じだと書いてある。
 
 国の国自身に対する義務を定めるということは、自分自身に対する約束であるから無意味だというのである。それはいつでも破れるものであるし、もし破れないと自己保存すらできなくなるからだと言うのである。
 
 これをわが国の憲法に当てはめると、国民の国に対する義務とは納税や労働の義務などであり、国の国民に対する義務とは人権の尊重や言論の自由の保障などであろう。

 憲法九条の戦争放棄はどれにあたるだろうか。これは上の二つのいずれにも該当しない。それは国の交戦権を否定し、主権を制限したまさに自分自身に対する約束である。ルソーによれば、これは主権国家の憲法として無効な条文だということになる。

 そういえば、この憲法は日本が主権をまだ回復していない時に米国によって作られたものである。だから、憲法としては無意味なこんな条文が紛れ込んでしまったのであろう。(2001年9月28日)
 



 アメリカは今回のテロで多くの市民を殺されて、報復を叫んでいる。個人は報復してはならないが国家は報復しなければならない。だから、それが当然なのである。
 
 ひるがえってわが国のことを考えれば、広島と長崎で何十万という無辜の市民をアメリカに殺害されながら、それに対して報復しなかった。
 
 しかも、アメリカによって日本の軍隊は解体され、憲法によって戦争する権利さえ奪われてしまい、もはや、二度と報復できない国になってしまったのである。
 
 こんな国をはたして国家と呼べるだろうか。
 
 報復しない国は国家ではない。だから、イスラエルは必ず報復し、アメリカは報復しようとしているのである。報復しない国は、愛国心を国民の間に育てることができない。報復しない国の国民は、国旗のもとに団結することができない。

 わが国が、広島・長崎の被害に対して報復しなかったために負ったトラウマは、深く今も生き続けて、国民に誇りと愛国心を持つことを恐れさせているのである。(2001年9月19日)
 



 毎日新聞に「記者の目」というコーナーがある。
 
 毎日新聞は読者に新聞に対する意見を求めているそうだ。なら、言おう。このコーナーはやめた方がいい。誰も読まないからだ。
 
 もともと毎日新聞は意見が多すぎる。その意見が多様ならまだいい。ところが、毎日の記者たちの書く意見なんてみんな同じ。日本の視野の狭い社民主義・共産主義たちの意見と同じなのだ。だから、どれを見ても同じことが書いてある。
 
 読者にとってすべては旧聞に属することばかり、これじゃ新聞じゃない。
 
 今日と昨日の「記者の目」も例によって空想的平和主義からの貧しい主張だ。汲々として社論に合わせて生きていこうとする、自立心のない毎日新聞の記者像が浮かび上がってくるだけだった。
 
 このコーナーは、毎日新聞の若手の記者に意見を発表する場を与えて、やる気を持ってもらうために作ったコーナーであろう。読者のために作ったコーナーでないことは確かだ。そんなものは廃止しろ。

 読者はニュースを求めている。新しい出来事、新しい発想、つまり新聞を求めているのだ。(2001年9月19日)
 
 



 アメリカの同時多発テロのニュースの中で、ウォールストリートの証券市場の建物に、また、大リーグの野球場に、巨大なアメリカの国旗が広げられ、掲げられている映像を見ながら、日本のことを考えた。
 
 国旗に対する態度はあれが本当なのであると。それができなくなってしまっている日本人はおかしくなってしまっているのだと。先の大戦の敗北で、日本人が国旗に対して持つべき自然の感情、国民としての団結の象徴としての国旗を見失ってしまっているのだと。そう考えないわけにはいかなかった。
 
 不幸なのはテロの被害を受けたアメリカ人ではなくて、むしろ国民としての団結心を見失ってしまった日本人ではないのかと。
 
 「こういうときにはアメリカ人はよく団結しますが・・・」と、あるニュースキャスターは言ったが、団結するのが当たり前なのに、日本人はそれを不思議なことのようにしか見られなくなっているのだと。
 
 これは異常なこと、不幸なことなのであると、思わずにいられなかった。(2001年9月19日)
 



 新聞にも色々あって、やたらと意見を載せたがる新聞がある。
 
 しかし、意見の記事は、電話の前に座っていれば書けるから、じつに楽である。有識者とかいう人たちに電話をしたり、ファックスやメールで送られてくる意見を、適当に書き写したらそれで記事になる。こんな楽なことはない。
 
 ところが、事実は小説より奇なりと言って、出来事は実に様々でバラエティーに富んでいる。だから、記事は足で書けというのだ。意見ばかり載せる新聞は、その反対のことをやって楽をしているわけだ。言ってみれば手抜き新聞である。
 
 しかも、意見はもともとみんな似たり寄ったりである。わずかに左右の違いがある程度で、そんなに違ったことを言える人はいない。だから、意見ばかり載せていると、毎日同じニュースをくり返しくり返し載せているのと同じことになる。
 
 はたしてそれで新聞と呼べるのかどうか。旧聞に属することばかり書いているのだから、そんな新聞は旧聞と呼ぶ方が正しいのではないか。(2001年9月18日)
 
 
 



 今日の毎日新聞の社会面に「厳刑を求める署名六十万」とあった。
 
 これを見て最初、「減刑」だと思い、「なかなか立派な人たちがいるものだ。許しを覚えてこそ人間」と思った。
 
 ところがよく見ると、「厳刑」ではないか。まさか、この国には、死刑を求める署名をするような人道に反したことをおおっぴらにする人たちがいるのかと。まったく恥ずかしいことだ。
 
 「厳刑」を求めるその裏にあるのは、どろどろとした憎しみと復讐心だけ。要するに、報復を求めているのだ。
 
 一方で、この新聞は、アメリカのテロ事件の被害者が報復を求めていることに反対している。

 ほほー、あなたたちは、テロの報復は反対で、小学生殺人の報復には賛成なのですか。

 あっちを向いてはこう言い。こっちを向いてはああいう。これでは読者の支持は得られませんなあ。
 
 ヨーロッパの社民主義が成功したのは、日本と違って正道を行っているからでしょう。彼らは死刑を廃止して個人の報復の道を封じた。しかし今回の事件では「われわれはみんなアメリカ人だ」と言って、国家としての報復に賛意を示した。
  
 「国家は報復しなければならず、個人は報復してはならない」これが世界の常識なのですよ。その正反対を行く毎日新聞、そして日本の社民主義。どちらも、支持を失うばかりですなあ。(2001年9月18日)
 
 



 アメリカのテロ報道についての日米のマスコミの報道姿勢の違いが印象的だ。

 日本人はまず自分、自分さえよければよいという国民性だ。マスコミもそれを反映して、個人の安否情報が中心となる。個人の命がすべてなのだ。だから固有名詞がつぎつぎに出てくる。顔写真まで出てくる。

 アメリカのマスコミは個人の安否は一切扱わない。何が起こったかを精密に検討し、それに対してこの国はどうすべきかを論じ続ける。個人の名前はおろか、会社の名前も出てこない。

 ところが、アメリカは個人主義の国であって、日本は個人主義ではないのだ。

 (日本で命の大切さをいう場合、それはあくまで個人の利益の問題なのだ)

 アメリカのマスコミは個人名を調べようとはしないどころか、行方不明者の顔写真を手に入れようとするなどもってのほか。そんなことをすれば、人の不幸を笑うことになるからだ。人の不幸で金儲けをすることになるからだ。当然のモラルである。

 日本ではこの事件で景気がどうなるかとか、個人の安全がどうなるのかなどにしか興味が行かない。アメリカが戦争なんか起こしたら大変だ、協力を求められたらどうするのかと心配しているのだ。

 いかに日本のマスコミにはモラルがないことか。唖然とするほどだ。(2001年9月12日)
 



 「新しい歴史教科書をつくる会」主導の中学歴史教科書の出版の禁止を求めて東京地裁に仮処分申請をしていた韓国の国会議員がこの申し立てを取り下げたとき、「日本の良心を見せて下さった日本国民に深い感謝と尊敬の意を表す」とコメントを出したという。

 彼らはどうやら日本の事情をご存じないらしい。日本人は七割方あの教科書の採用に賛成しており、反対は二割ほどしかないはずだ。では、なぜほとんど採用されなかったか。それは、採用して自分の家に火をつけられたくなかったからである。良心ではなく、恐怖心がその原因なのだ。

 また「日本の民主主義に感謝する」と言った人がいるそうだが、それも間違い。二割の意見が通るのが民主主義かどうかは明らかである。もっとも、日本は韓国よりは民主的で、いったん出た本についてあれこれ言えても、本の出版をはじめから禁止することなど出来ない。言論出版の自由があるからだ。

 さらに言うなら、この教科書はベストセラーになって、学校という狭い社会ではなく、一般社会に受け入れられたことも忘れてもらっては困る。(2001年9月5日)
 



 選挙違反で逮捕者を出している郵政省出身の高祖議員に対して、野党が辞職要求を出している。しかし、野党の議員の多くは高祖議員の選挙を批判できる立場にはない。組織に依存した選挙で当選している議員がたくさんいるからである。 

 そもそも高祖議員と野党の労働組合出身の議員との違いは、選挙の運動員が公務員であるかないかだけである。つまり、公務員でなくなれば何の違いもないのである。しかも、郵便局はこれから民営化するのである。参議院議員の任期は六年もある。その間に違いはなくなっているはずだ。

 だから、高祖議員は連座制の適用がない限り、野党の要求に屈して辞任する必要などさらさらない。

 しかし、高祖議員が郵便局の民営化に反対するなら話は別である。選挙運動をした公務員たちは将来も民間人にならないからである。

 高祖議員は自ら先頭になって郵便局の民営化を推進すると宣言してほしい。それが、野党議員たちの口を封じ、国民に対して罪滅ぼしをする唯一の道である。(2001年8月30日)
 
 



 神戸に入港する艦船に「非核証明書」を義務付ける「非核神戸方式」は、二五年も前の神戸市議会で決議されたものだ。

 この決議は米国には入港拒否と受け取られ、以後、神戸に米艦は一度も来ていない。

 しかし、最近、同じ兵庫県内の姫路港にアメリカのイージス艦ビンセントが入港した際、反対運動のために姫路港に集まった人たちは五百人、それに対して、米艦の見学に集まった人たちは八月二八日の一日だけで二千八百人に達したという。

 この数字から、米艦の姫路港入港に反対したのは一部の市民団体だけであると考えられる。

 「非核神戸方式」決議以前には、神戸港にも米艦が来て見学者でにぎわっていた。当時でさえも「非核神戸方式」が正しく世論を反映していたかは疑わしい。

 日本の中心的な港である神戸港が、同盟国の艦船の入港を拒否しているのは、有事の備えを放棄していることにもなる。

 世論を反映しない危険な「非核神戸方式」は見直すべきだと思う。(2001年8月29日)
 
 



 靖国問題では国民の気持ちがメディアに反映されていなかった。参拝反対は国民の二割、逆に賛成は七割にのぼった。それなのに、全国有力五紙の三紙が参拝に反対の社説を出した。これは変なことだと言わざるを得ない。反対は一紙でよかったはずだ。

 新聞社だけではない、テレビ局にいたっては、主要民放4チャンネルのどれもこれもが反対を唱えていた。実に不可解な状況が作られていたのである。

 小泉首相の改革に関しても同様のことがいえる。国民の八割がこの改革を支持している。ところが、この改革のマイナスイメージを書き立てる新聞が全国紙のあいだで二紙もある。民放のテレビ局はどの局も、それと似た報道姿勢をとっている。

 マスコミには一定のチェック機関としての役割があるのは確かだ。しかし、マスコミと国民の気持ちがこれほどかけ離れていてよいのだろうか。

 世論に応じて政治は変わろうとしているのに、マスコミは一向に変わろうとしない。変化に一番順応できないのはマスコミでないか。(2001年8月29日)
 
 
 
 


 「十日間飲まず食わずだった」太平洋上を漂流していてやっと救助された漁師の言葉だ。

 ところが、似たようなことは人がいっぱいいる陸の上でも起きる。

 海外旅行でベルリンに到着したとき、パスポートとお金を盗まれてしまった人が、ドイツの日本大使館に救助を求めたときの話だ。

 大使館は、当座に泊まるところの手配と、パスポートの再発行と日本からの送金の手配はしてくれたが、それ以外は一切何もしてくれなかったというのだ。

 そのために彼はお金が届くまでの十日間をまったく飲まず食わずで過ごしたという。 海外には外務省の役人が税金を使って滞在している。にもかかわらず、太平洋上を漂流している人と同じことが起こるのである。

 お金を盗まれたら食べるものを自分で買えないのは明らかだろう。ところが彼らは「お金は貸せない」と突き放したというのだ。

 わたしたちは海外旅行をするときには、太平洋に船で乗り出すのと同じ覚悟をしておく必要があるようだ。少なくとも、大使館は国民を助けてくれない。(2001年8月28日)
 
 



 日本の現代の風景の中でもっとも戦前的なものを保存しているのが、高校野球の全国大会が開催される甲子園の空間だ。

 そこでは君が代が吹奏され日の丸が掲揚される。音楽に合わせた入場行進が行われ、選手たちが整列して選手宣誓が行われる。そして最後の会長の挨拶。あの口から「天皇陛下万歳」が最後に出てきても何の不思議もない権威主義的雰囲気。

 野球部には戦前的な上級生の下級生いじめがしっかり保存されている。戦後五十年以上経っているのにも繰り返される暴力事件。

 高野連が「青少年の育成」を口実に、あちこちに口出しをして国民の自由な活動をやめさせるやり方は、まさに戦前の軍部が「兵隊さんのため」を口実に口出ししていたやり方とそっくりだ。

 高校野球は戦後日本の中に温存された戦前そのものである。甲子園を慰霊空間に? とんでもない。甲子園大会をやめること、それが最大の慰霊であり、戦前との決別である。(2001年8月25日)
 



 台風が来るといつも思うことは、その名前の付け方である。日本では何号と番号をつけるだけだ。ところが、外国では名前を付ける。台風花子という具合にだ。

 日本人にはとてもこんな事は出来ない。人々に被害をもたらし、人を殺しさえする。そんなものに人の名前をつけるなど不真面目な気がするからである。ところが、外国の人たちはそう感じないのである。なぜか分からない。

 しかし、これだけを見ても、外国の人たちと日本人のものの感じ方考え方がいかに違っているかが分かる。日本人はけっして全てについて外国人と同じように感じ考えることは出来ないのである。文化の断絶とはこれほど激しいものなのだ。

 しかし、だからといって日本は外国を批判したりしない。だが、個人の場合、いっしょにいるとそれが喧嘩の原因になることがある。国対国となれば戦争だ。

 それを防ぐには結局は、お互いの違いを認めあう以外にはないのだ。靖国問題もその一つだと思う。(2001年8月23日)
 
 



 今回の高校野球の全国大会で、応援中のブラスバンドの女性部員にファールの球が当たって失明の危機にあるという。高野連は甲子園のフェンスを高くしよう考えているそうだ。

 しかし、原因は高校野球の応援の仕方にあるのではないだろうか。野球の応援に来ていながら、野球を見ていない人がたくさんいる。だからファールがよけられないのである。

 ピッチャーが球を投げ始めたら、球場の方に注意を向けて、その行き先がどうなるか息を詰めて注視する。それが野球の応援のし方である。ブラスバンドはその間演奏をやめるべきなのである。

 それが常識となっているから、アメリカの大リーグの球場は、キャッチャーのすぐ後ろ以外には観客席のフェンスがなく、ファールボールを拾う仕事を女性がやっているくらいである。

 このような事故を防ぐ第一の対策は、フェンスを高くすることではなく、応援の仕方を改めることなのである。わたしはこれ以上野球を檻の向こうの見せ物にしてもらいたくはない。(2001年8月22日)
 



 靖国問題では国民の気持ちがメディアに反映されていなかった。参拝反対は国民の二割にすぎなかった。それなのに、全国有力五紙の三紙が参拝に反対の社説を出した。これは変なことだと言わざるを得ない。

 反対は朝日一紙でよかったのだ。それでバランスがとれていたのである。

 ところが、民主党の管直人幹事長は、先の参議院選挙の直前に靖国問題で激しく小泉首相を非難した。あの批判のおかけで、民主党へ行こうとした票の多くは自由党に流れたのでないだろうか。彼はきっと国民の七割が参拝に賛成しているという事実を知らなかったのだろう。

 なぜなら、毎日新聞の六月の世論調査の結果のこの部分を知っている人は少ないはずだからである。わたしも八月二十二日の世論調査発表の記事の中ではじめてこの事実を知った。

 毎日新聞の人たちはどうなのだろう。自分たちがたった二割の支持しか得られない記事、つまりほとんど読まれない記事を書いていることを知っていたのだろうか。実際、八月の世論調査で見られるように、賛成から反対にまわった人はほとんどいないようである。

 毎日新聞は国民の世論をもっと反映した紙面づくりをしていってほしいと思う。それが毎日の生きる道だとわたしは思う。朝日は二つ要なないから。(2001年8月22日)
 
 



 明石の花火大会の事故で、「茶髪のせいにしよう」と警備会社と明石市が口裏合わせをしたと兵庫県警の調べで分かったというニュース、じつは兵庫県警のでっち上げだったそうだ。

 新聞は、警察発表を信じて、そのたびに記事にするのはやめたらどうだろうか。特に取調室から出てくるニュースは嘘が多い。警察は取調室でむちゃくちゃなことをしているのは誰でも知っている。

 憲法には第三十四条に「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と明記されている。ところが取調室でやっていることは、この「自己に不利益な供述の強要」以外の何物でもない。

 憲法違反は何も九条や二十条だけのことではないのだ。

 沖縄の婦女暴行事件で、日本の刑事裁判制度が海外のメディアに批判されているが、彼らは日本の実態をよく知っているのである。

 新聞は警察と仲良くしないとニュースがとれないかもしれない。しかし、新聞はもっと警察を疑って記事を書いてほしいものだ。(2001年8月22日)
 
 



 八月二十日の毎日新聞を読んで驚いた。世論調査の結果を発表しているのだが、その中でなんと「首相の靖国参拝に対しては、6月の世論調査で「参拝してよい」が69%と「すべきでない」の21%を上回ったが・・・」と書いてあるのだ。

 わたしは毎日新聞は毎日読んでいるが、この事実ははじめて知った。

 毎日新聞は首相の靖国参拝に反対して連日特集記事を組み、七月には社説で二回にわたって参拝反対を主張していた。例えばそのうちの一つは「靖国神社参拝 首相は強行理由を明確にせよ」と題していた。しかし、これに対して「それは国民が圧倒的に支持しているから」という毎日新聞自身がよく知っていた事実があったのである。

 ところがわたしの知る限り、毎日新聞はこの事実を六月の時点で公表しなかった。ずるいというしかない。

 本当は靖国参拝は国論を二分する問題ではなかったのである。それを彼らは二分しているかのように書きつのった。日にちを変えて参拝した首相は、見事に一杯食わされたわけである。(2001年8月20日)
 
 



 野球はツキが勝敗を大きく左右するスポーツである。だから、強いチームが必ずしも勝つとは限らない。

 ところが高校野球の夏の大会は全部トーナメント制の一発勝負である。だから、全国優勝するチームは、一番運が良かったチームではあっても、必ずしも一番強かったチームではない可能性がある。

 しかも、運がよいということは、いいことばかりではない。運が良いために試合が続いて、体を壊してしまって、野球が出来なくなった選手は過去にいくらもいる。

 また、全国大会で優勝した選手がプロ野球で大成しなかったり、逆に、全国大会に出られなかった選手の中からプロ野球で活躍する選手が出たりするのだ。

 だから、高校野球の大会で負けてしまったからといって嘆く必要はない。学生時代の勝利は仮の勝利でしかない。本当に力のある選手には、大人になってから本当の勝利を得るチャンスが必ずやってくる。

 このことを学生たちは是非知っておいてほしい。(2001年8月18日)
 



 憲法第三十四条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

 憲法にはこんなことが書いてある。しかし、警察はこれを守っているだろうか。日本の警察の被疑者に対する取り調べは、まさに「自己に不利益な供述」を引き出すために行われている。憲法違反である。

 憲法どおりなら、彼らに許されているのは、被疑者に自白する気があるかどうか聞いて、その気があるなら、自白を聞くことだけである。

 自白する気がない被疑者を、厳しい取り調べによって、自白する気持ちにさせようとしてはいけないのである。本人が嫌がっている事をさせるのは強要だからである。

 しかるに、彼らは一貫して何としてでも被疑者に自白させようとする。憲法違反をやり続けているのだ。

 欧米ではこの条項を守らせる担保として、取り調べに弁護士が同席する。しかし、日本ではそれがない。警察にまかされているのだ。

 警察とは、法を守らせるための組織である。それならまず自ら憲法を厳密に守って範を示してほしい。(2001年8月18日)
 



 阪神タイガースは来年も野村監督にお願いすると発表した。ということは、来年も最下位と言うことだ。

 野村監督は弱い投手陣をやりくりして最小失点にすることには長けているが、弱い打撃陣をやりくりして何とか得点をもぎ取るということは苦手である。

 彼は自身ホームランバッターであり、キャッチャーであった。それが采配にそのまま現れている。キャッチァーとして投手を操ることは得意だが、ホームラン以外の方法で得点をすることは得意ではない。

 ヤクルト時代には球場が狭いこともあって、代打のホームランで勝ちを拾うという試合がいくらもあったし、そんなことができるバッターがたくさんいた。ところが、阪神の場合、甲子園球場は広すぎるし、そのうえ、ホームランを打てるだけの腕力のある選手が少ない。

 この状況が同じである以上、野村監督が何年阪神の監督をやっても最下位を脱出することは出来ないだろう。(2001年8月16日)
 



 テレビのプロ野球の巨人戦を見ていると、アナウンサーはみんな巨人びいきである。あれを毎日見ている子供たちは巨人びいきになる。巨人が正義であると思いこんでしまう。好き嫌いはこんなことで簡単にできあがってしまい、同じ環境にいる限り、それを変えることはなかなか出来ない。わたしもそうだった。正義感などというものもその程度のものである。

 ところが、大学に入って東京に行ってテレビを見なくなると途端に巨人ファンでなくなってしまったのである。そしていつの間にか、アンチ巨人になっていたのである。

 これは全ての場合に当てはまる。日頃その人の接するマスコミの言い方がその人の価値観を左右するのだ。例えば、朝日新聞をとっていると朝日新聞の言うことが正しいと思ってしまう。しかし、産経新聞をしばらくとっていると、産経の言うことにも一理あると思うようになる。

 人の価値観などとはその程度のものである。最近はやりの反戦平和主義についても同じに違いない。(2001年8月15日)
 
 



 軍国主義はどこにでもある。

 企業のために働きすぎて死ぬのは軍国主義である。

 人を強制して意に添わぬことをさせるのは軍国主義である。人のしたいということをやめさせようとするのも軍国主義である。

 軍隊がなくても軍国主義になるし、軍隊があっても軍国主義にならないこともある。人の自由が守られ、人が法を守る国は軍国主義にはならない。

 日本には軍隊がなくなったのに、軍国主義はなくなっていない。

 平和主義を唱えていながら、軍国主義なのである。

 人の命を尊ばない、人の意志を尊ばない。

 死者を尊ばない。平和主義のくせに軍国主義である。

 家族と個人を大切にしないのは軍国主義である。(2001年8月15日)
 



 高校野球は軍国主義である。まず軍国主義の戦前に始まり、軍国少年の精神を形成した。それはけっして楽しみのために行われたものではなかった。高校野球が戦争の犠牲になったように言われるが嘘である。

 鐘太鼓を使った応援は、軍国主義である。戦争で戦うときに各軍隊に楽団が同行した。音楽に合わせた入場行進は軍国主義である。学徒動員を思い出させる。日の丸を掲揚し、君が代を歌うのは、軍国主義である。

 千本ノックは軍国主義である。楽しむ野球のすることではない。強制して練習させるのは軍国主義である。

 夏の炎天下の全国大会は軍国主義である。人の命を大切にしていない。

 高校野球の根性主義は軍国主義である。

 高野連の会長の挨拶は軍国主義である。学徒動員の東条英機の挨拶を思い起こさせる。高校野球が楽しみでやる野球にならない限り、日本の軍国主義はなくならない。軍隊がなくても。

 軍国主義に反対するなら、高校野球の全国大会は戦後になって再開すべきではなかったのだ。(2001年8月15日)
 
 



 PL学園の野球部が暴力事件を起こして、試合に出られなくなった。

 PL学園と言えば、高校野球界では代表的な学校である。だから、これは単に一つの学校の問題ではなく、高校野球全体の問題と捉えるべきだろう。

 高校野球の全国大会は、いわゆる革新系の新聞社が主催者となって、教育の一環とか人格形成とか、きれい事を言いながら続けられてきた。しかし、この事件を見ると、実はそんなことは何一つ達成されなかったのではないかという疑問がわいてくる。

 これは、戦後五十年にわたってこれらの新聞社が平和主義だ民主主義だと言ってきたことが、いかにスローガンだけのものだったのかということとつながってくる。

 彼らは、軍隊さえなければ軍国主義はなくなるかのように言っているが、びんたやけつバットが上級生の権利として残っている高校野球は、戦時中の軍国主義を形を変えて温存してきていると言える。

 PLの暴力事件で一番反省すべきは、これらの新聞社であるはずだ。高校野球もまた見直すときが来ているのではないか。(2001年8月12日)




 今回の靖国問題で小泉首相の受けたダメージは限りなく大きいものとなった。彼が当初持っていた強い首相という改革者としてのイメージはもろくも崩れ去ってしまったからである。

 「虚心坦懐に意見を聞いて熟慮する」と言ったことは最大の間違いだった。「これはわたしの心の問題だ」と小さく扱うべきだったのだが、善人ぶったのがよくなかった。これによって、首相はぐらついているという印象を与えてしまったのだ。もはや、首相が実際にいつ参拝するかどうかは問題ではなくなったのである。

 このぐらつきによって、彼の唱える構造改革はとん挫したに等しくなってしまった。国が危機にあるときに、いちいち反論に耳を貸していれば、窮状を打開することは不可能である。しかるに、靖国問題で彼は反論に耳を貸してしまった。他の問題でも、反論を無視できなくなってしまったのである。

 どうやら、早くも次の首相探しを始めなければならなくなったようである。さもなければ、この国がつぶれてしまう。(2001年8月12日)
 



 どうやらこの国は変われそうにない。まったく絶望的なことであるが、こう結論せざるを得ない。

 この国で何かを変えることがいかに難しいか。靖国問題一つ見ればそれは明らかだ。少し変えようとすると、あらゆるところから文句が出る。

 そして、その最大の抵抗勢力はマスコミなのだ。

 もともとマスコミは、変わることを最も嫌う勢力だ。マスコミの改革について、色んな議論は出たが結局何一つ変わらなかった。再販制度一つ変えられない。既得権保持に血眼なのだ。

 靖国問題もそうだ。ルールも何もあったものではない。あのニュース、このニュースはどこへいったのか。これが新聞かと思うほど、政治キャンペーン一色だ。

 土下座外交でも、外国追従でも何でもいいらしい。自分たちの既得権を保持することが一番というわけだ。

 靖国問題はマスコミの最大の既得権となっている。それを捨てられない。しかし、それを捨てない限り、日本は変わらない。(2001年8月11日)
 



 首相の靖国神社参拝問題は、この国をとりまく多くの他の問題と同じく、「既得権の打破」という問題の一つだと考える。

 靖国神社参拝を首相に断念させることは、この国の左翼陣営と中国共産党と韓国世論にとっては、一つの既得権となっている。だから、彼らはいま大騒ぎしているのである。それは、郵政族が郵便局の民営化で大騒ぎし、道路族が道路特定財源の見直しで大騒ぎしているのと何ら変わらない。

 彼らにとって、首相の靖国神社参拝の善し悪しなどは二の次である。これもまた、族議員にとって、郵便局の民営化の善し悪し、道路特定財源の見直しの善し悪しが二の次なのと同じである。

 既得権を死守するためには何でもするこのような人たちが、今後小泉首相の前にはつぎつぎと現れるだろう。しかも、彼らはみな善人面をしていることだろう。しかし、それに惑わされていては改革はできない。

 靖国神社参拝は、小泉首相が本当に改革ができるかどうかの試金石となるだろう。(2001年8月1日)
 
 



 日本では容疑者に対する警察の取り調べの内容がどんどん報道される。こんなことは陪審制を採用している国では、そして「推定無罪」の国では、行われていない。なぜなら、マスコミは陪審員に予見を与える可能性があることをしてはならないからである。

 日本では容疑者に対する取り調べでは弁護士の立ち会いがないため、警察は容疑者に対して何でもできる状況にある。欧米では、そのような場所で得られた供述はそもそも信用できないと判断される。ところが、日本のマスコミは警察発表をまるで事実のように報道する。人権感覚がゼロである。

 また、個人的な殺人事件を毎日毎日報道するような新聞は、欧米では大衆紙と呼ばれ、一流紙はそんなことはしないものだ。なぜなら、それらはプライバシーの侵害になるうえに、人の不幸を金にすることになるからである。ところが、そんな意識の乏しい日本では大新聞が欧米の大衆紙のようなことを毎日やっている。情けないことだ。(2001年7月18日)
 
 



 話題の「新しい歴史教科書」を購入して、通読した。そして、日本の一部の歴史家たちが発表している「『新しい歴史教科書』に見られる初歩的な誤り」を点検してみた。

 すると、その内容は明確に誤りと言えるようなものはほとんどなく、細かい表現の仕方に言い掛かりをつけたものばかりであることがわかった。その多くは重箱の隅をつつく内容で、とても「初歩的」などとは言えないものなのだ。

 結局、彼らは「新しい歴史教科書」をおとしめるためにこのようなものを発表した、としか感じられなかった。

 ここには既存の歴史家たちの「なわばり意識」も感じられた。この教科書の執筆者の中に、従来の歴史家の範疇に入らない人たちが含まれているからである。

 彼らが誤りとして指摘したことが、一つを除いて、単なる表現上の問題として、文部省にしりぞけられたのは当然である。

 むしろわたしは、日本の多くの歴史家が、表現の自由を踏みにじるこのような活動に加わっていることを情けなく思うばかりであった。(2001年7月14日)
 
 



 小泉総理大臣は、靖国神社に合祀されているA級戦犯について「死者を選別する必要があるのか」と述べたという。

 わたしはこの話を聞いて、古代ギリシャ悲劇「アンティゴネ」を思い出した。

 テーバイの王座をめぐる戦いで、オイディプスの二人の息子は敵味方に別れて戦い、二人とも死んでしまった。その後テーバイの王座についたクレオンは、テーバイの側で戦った方は手厚く埋葬するが、テーバイの敵として戦った方の遺体は埋葬を禁じて、野良犬に食わせるよう命じた。

 しかし、二人の妹のアンティゴネは、この命令に反して、放置された兄の遺体に埋葬の儀式を施す。そして、死ねばもはや敵も味方もない、肉親を埋葬するのは当然のことだと主張する。この主張は古代アテネの民衆の意見でもあった。

 A級戦犯となった人たちも、わが国民の一員であることに変わりはない。ましてや、彼らは敵としてあの戦争を戦ったのではない。国民の代表たる総理大臣が参拝して、彼らの御霊に礼を尽くすのは当然のことなのである。(2001年7月12日)
 
 
 



 筋弛緩剤混入疑惑事件は、日本の警察の捜査方法がいかに人権を無視したものであるかをよく示している。
 
 「容疑者の人権は保護されるのに、被害者の人権はなおざりにされている」とよく言われるが、容疑者の人権が保護されていると言うためには、容疑者に対するの警察の尋問に弁護士を立ち会わせることが前提条件である。

 ところが、弁護士が同席しない日本では、警察の尋問は、容疑者を自白に追い込むための場でしかない。警察官は、あの手この手を使って、事実上、容疑者に精神的なリンチを加えることが許されている。これでどうして容疑者の人権が守られていると言えるだろうか。

 この事件の容疑者は、弁護士と接見したとたんに自白をひるがえした。ということは、弁護士が知らぬ間に、警察官がやりたい放題をやったことの何よりの証拠である。

 このような自白偏重の捜査方法は、世界でも例のない人権侵害である。これを改めるには、容疑者の尋問に弁護士を同席させるように一刻も早く制度を改めるしかない。(2001年7月11日)
 
 



 「新しい歴史教科書」を読んだ。これほど多方面から批判されるのである。それだけでも大したものだ。だから、購入した。
 
 しかし、読んでみると教科書はしょせん教科書である。事実が淡々と列挙されている個所がほとんどで、退屈なくらいだ。どんなにすごいことが書いてあるのかと楽しみにしたが肩すかしだった。

 ただ、この教科書の事実の選択の仕方には一つ特徴がある。それは、冷戦終結という事態をそこに反映しているということである。共産主義の敗北が明らかになった後に出た教科書として、これまでの共産主義に同情的な学者ならきっと書かなかったような事実が書いてある。ソ連によるアフガニスタン侵攻の実態や、レーニンの独裁などがそれである。

 それがこれまでの歴史家たちの気にさわったのだろう。この教科書を認めることは、自分たちが敗者であることを認めることになってしまうからである。従って、彼らの批判は感情的であり、揚げ足取りやあら探しが主になっている。彼らは、細部の間違い探しを、これまでの教科書に対して行ってこなかったのに、この教科書に対してだけ行っているのだ。

 彼らは、まるで歴史教科書を書く専売特許を奪われることに腹が立っているかのようである。その意味で、彼らは既得権益を死守しようとする特殊法人に似ている。彼らも今の日本の反改革勢力の一つのように見えてくる。

 自分のたちの書いたものに自信があれば、人の揚げ足取りをする必要はないはずである。(2001年7月8日)
 



 アメリカで妊娠中絶手術を行っていた医師を殺害したアメリカ人の容疑者が、先日フランスで拘束され、身柄がアメリカに引き渡された。その際、フランスはこの容疑者に死刑を求刑しないという条件を付けた。アメリカはすぐにそれに従ったという。

 フランスでは死刑制度がないために、容疑者の引き渡しに自国と同レベルの人権保護を求めたのである。

 日本ではこの事件はあまり報道されなかったが、このように欧米先進諸国では、他国から犯罪の容疑者の引き渡しを求められた場合には、自国の人権保護のレベルを守ることを条件とするのは常識となっている。

 アメリカが、沖縄で婦女暴行事件を起こしたとされる米兵容疑者の身柄を日本側に引き渡すに際して、アメリカ並の人権保護を求めたのは、当然のことなのである。

 したがって、今回、容疑者の引き渡しが遅れたことでアメリカを非難するのはお門違いである。むしろ、日本人と日本政府の人権感覚の乏しさを反省すべきなのである。(2001年7月6日)
 

 精神障害者による殺人事件が起きるたびに、彼らに対する偏見が大きくなることは残念なことである。その結果、精神障害者の支援体制の整備が遅れたり、彼らを閉じこめてしまうような風潮が広がってしまう。しかし、そのような事件が起きるのは、逆に、わが国の精神病の治療体制と支援体制の遅れが原因なのである。

 彼らもまた人間としてのプライドを持っており、自由を奪われることに非常に嫌う。したがって、自由な行動を禁止して一ヶ所に長期間閉じこめたりすれば、彼らは社会に対して激しい恨みを抱くようになり、社会に対して復讐を企てたり、自由を手に入れるために手段を選ばなくなってしまう。それが殺人事件につながってくるのである。

 しかし、例えば、パールバックの「大地」では、ダウン症の娘の存在が最後には主人公の精神の拠り所になるところが描かれているし、朝日放送の「探偵ナイトスクープ」では、障害者の少女が大阪から四国まで旅行する感動的な姿が放送された。われわれは彼らを社会の宝として大切にしなければならないのである。

 そのためには、精神病院では開放病棟による治療をもっと押し進め、社会的な支援体制を拡充して行くべきだろう。それが事件の再発の防止にもつながってくるのである。(2001年7月3日)
 




 死刑制度は凶悪犯罪を抑止するどころか、凶悪犯罪の誘因となる。このことは、今回の大阪の小学校乱入事件で改めて明らかになったのではないか。何と容疑者は死刑になりたいから事件を起こしたと言っているという。ということは、死刑制度がなければこの事件は起きなかったかもしれないのだ。

 もともと死刑制度は人が人を殺すことを認めている点で、殺人事件の遠因となりうる。たとえ公的権力にだけ許されているとは言え、悪い奴は殺しても構わないと言う考え方は、簡単に個人的に応用されてしまうからである。つまり、誰かにひどい目にあった人間は、相手を許せない卑劣な人間だと判断すれば、殺しても構わないということになってしまう。

 どんな悪い人間でも殺してはいけないという考え方を国が手本として示さない限りは殺人事件は減りようがない。国だけが人を殺してもよいというのでは理不尽すぎるからである。

 日本も一日も早くヨーロッパ諸国にならって死刑を廃止すべきである。(2001年6月29日)
 
 



 小泉内閣の改革の中身が次第に具体化してきているが、それとともにそれが実現可能性の低いものであることも明らかになってきた。

 この改革の方針はまさに自民党の多くの議員たちの基盤をおびやかすものばかりであり、いわば自民党の議員たちに自殺を求めているような内容であるからだ。こんなものが自民党政権で実現することなどあり得ないのは明らかである。

 他人の首をしめる政治家はいても、自分の首のしめることのできる政治家はいない。

 この小泉革命がすでに自民党の議員たちの反感を買っていることは明らかになりつつある。田中外務大臣を更迭に追い込む動きはすでにはっきりしている。参議院選挙が終わればこうした動きは一気に奔流となって吹き出してくるだろう。自分を殺す動きに反対するのは当然のことだからである。

 そうなれば、小泉首相が退陣に追い込まれるのは時間の問題である。その時、改革は政権交代抜きにはあり得ないことを国民は知るだろう。(2001年6月22日)
 
 



 禿鷹のように舞い、ハイエナのように群がる。マスコミが事件を食い物にする様子は、文字通りこのままである。

 何か事件が起きると、その上にあちこちからたくさんのヘリコプターが集まってきて空中から映像をとる。その様子はまさに禿鷹そのものである。

 そして、事件現場や容疑者の家のまわりに、カメラをもった人たちが殺到する様子は、まさにハイエナそのものだ。

 彼らはそうして金儲けのネタを探しているのである。彼らのこうした行動は何らかの権利に基づいているわけではない。警察のように捜査権を持っているわけではもちろんない。被害者を実名で報道するのも、決して何らかの権利に基づいてやっているわけではない。

 要するに人の不幸で飯を食べているわけである。こんな仕事だけはしたくないものだ。(2001年6月18日)
 



 大阪の小学校乱入事件で、容疑者に刑事責任を負わせるために、警察が容疑者の精神病を芝居であると決めつけようとしていることに危惧を感じる。この容疑者の過去の事件で刑事責任を問わなかったことに対する言い訳を見つけようとしているのように見えるからである。

 言うまでもなく、事件の大きさは容疑者の刑事責任の認定とは関係がない。傷害事件で問われなかった刑事責任が、殺人事件だから問われるとしたらおかしい。そこで考え出したのが、芝居説ではないかと思えるのだ。

 この容疑者が刑事責任を問えるかどうかは、精神鑑定に依るべきで、密室での取り調べの内容で決められるものではない。むしろ、精神的に弱い人間が追い込まれている可能性は充分にある。

 犯人逮捕後のこの時期の警察は、容疑者がいかに悪人であるかを強調しようとする傾向がある。

 しかし、この事件は犯人憎しだけで片づけられないもっと大きな問題をはらんでいるように思われる。それを明らかにするためにも、適正な捜査が望まれる。(2001年6月15日)
 
 



 兵庫県の貝原知事が任期途中で突然辞めたのは、県知事選挙を参議院選挙と同時にするためではないか。そうやって、国会議員が知事選に転出してくることを防いだのではないか。また、任期いっぱい勤めて、知事選挙が参議院選挙のあとになれば、選挙に落選した人が知事選挙に出てくることも考えられる。それを防止したわけだ。自分の好みの副知事をすんなり自分の後継知事に据えるために、貝原さんは深慮遠謀を働かせたということだろう。

 しかし、そんなことを考えている暇があったら震災被害者に出す援助金の男女差別をやめる努力をすべきだろう。このまま副知事しか有力候補が出ないときには、わたしは白票を投ずるつもりだ。こんな八百長選挙は許せないからである。

 後継知事といわれている副知事もなかなか出馬表明をしない。他から有力候補が出ないことを見計らって表明するつもりだろうか。勝ち戦しかしたくないというわけだろう。しかも、そんな人間を連合兵庫までもが候補として推薦したという。これでは兵庫県民は救われない。誰か本気で県民のためになってくれる人はいないのか。(2001年6月14日)
 
 


 日本の自殺者は年間に三万人、つまり毎日百人近くの人がこの世に絶望して死んでいくのである。その百人の中の一人ぐらいは、人に迷惑をかけてから死んでやろうと思ったとしても不思議ではない。

 今回の大阪の小学生殺人は、この範疇にはいる人間のしでかしたことではないか。つまり、人生の負け組が人生の勝ち組に対して死ぬ前に復讐をしようとしたのだ。 

 さらに、犯人は、死刑になることが目当てだったと言っている。となると、死刑が犯罪を引き起こしたと言える事件だ。死刑があれば凶悪犯罪が少なくなると思っていたら、逆だったのだ。しかし、一般に自殺願望のある人間が人殺しをするのだから、この犯人の言うことは一応は筋が通っている。

 結局この事件は、大量の自殺者が出る社会、死刑のある社会が生んだ事件である。本当に人の命を大切にする社会なら、この事件は起こらなかった。そう言えるのではないか。(2001年6月14日)
 



 精神障害者は、軽い傷害事件なら責任能力は問われないが、凶悪事件なら問われるのだろうか。かつて責任能力なしとして不起訴になったのなら、この事件でも不起訴にならなければならない。それが法だ。それが正義だ。マスコミは同じ人間の以前の犯罪を精神病患者の犯罪として報道しなかったのは間違いだったのか。

 犯罪が大きくなればルールは無視して構わないというなら、犯罪者と同列になってしまう。いま日本にはルールを守る人間はどこにもいなくなっている。

 被害者がかわいそうだという報道は本心からではあるまい。本当に被害者を気遣っているのなら、実名は出さないはず。実名を出すのは売るためである。視聴率のためである。金のためである。その後ろめたさを隠すために、被害者の子供の夢がどうだかという記事を書く。「そっとして置いて」と言うなら、記事を書かないことだ。被害者をさらし者にするのはけっして正義ではない。(2001年6月14日)
 



 ティモシー・マクベイ。この名前はアメリカの死刑制度のおかげで一躍世界じゅうに知れ渡った。この人物は死刑になったおかげで歴史上の人物になったのだ。もしこれが終身刑だったら大した話題にもならなかっただろう。皮肉なことである。

 この死刑によって、凶悪犯罪が減るとは考えられない。一介の無名の人物が、超有名人になったのだから、これ以上得なことはない。悪いことをして有名になれるのだ。死刑制度の無意味さ愚かさは、この死刑執行を見ても明らかだ。

 アメリカとはなんと野蛮な国か。この刑の執行を関係者に公開したというのだ。死の直前に彼はカメラの方をじっと見たという。彼が見ている人たちに対して呪いの言葉をはかなかったのが不思議だ。

 事件による死者をもう一人増やしすのが死刑である。人命を尊ぶというスローガンがいかにうそっぱちであるかよく分かる。人命に差別を付けたのが死刑制度だ。(2001年6月14日)
 



 大阪の小学校の殺人事件のニュースも今日で四日目になる。しかし、どんなニュースも三日も同じニュースを聞かされるとうんざりだ。それが四日も五日もなるとチャンネルを変えてしまう。新聞も読む気がしない。

 これは一般人の反応ではないか。一般人にとっては、どんな深刻な事件も他人事にすぎない。どんな重大な事件も例外的なものにすぎない。しかもどんなに報道しても殺人事件は絶対に無くならない。

 マスコミと一般人とのこのギャップはどこから来るか。それはひとえにそれで金儲けになるかどうかだ。マスコミは何日もやればそれで金になる。

 ついこの間も一つの事件で何日もマスコミは大騒ぎをしていた。また同じことの繰り返しだ。前の事件は何だったかすぐには思い出せなかった。よく考えると、多分、浅草の殺人事件だったか、メル友殺人だか、そんなことだったと思う。こうしてマスコミは次から次へと事件に食らいついては金儲けをしていく。新しい事件が起こると前の事件は忘れてしまったかのように。(2001年6月12日)
 
 
 



 田中真紀子外相が、アメリカの全米ミサイル防衛構想に反対する発言を他国の外相にしたということが問題視されているが、公式発表でもないのものがどうして問題になるのだろう。

 外交交渉の場では何も本当のことだけを言うとは限らない。相手の本心を探るために嘘を言ってカマを掛けてもかまわないのである。虚々実々の駆け引きというではないか。

 中国などは公式発表すら本心から言っているのか、単なるこけおどしなのか分からないくらいだ。本当に、日本人はばか正直というか、何でも真に受けすぎる傾向がある。外交は道徳の発表の場ではないのだ。何が国益につながるかが第一であり、そのために嘘を言っても構わないのである。相手もそれぐらいは知っている。

 外相は政府の統一見解しかしゃべってはいけないなどということはない。田中外相は、今回の批判は軽くかわして、これからも自分の感覚を信じてどんどんやってもらいたい。それゆえの田中人気なのだから。(2001年6月2日)
 



 土地の値段は変わるのに土地を担保にして金を貸したから不良債権になった。金は人に貸すべきものであって土地に貸すものではない。最近聞いた言葉で、実に名言だと思う。

 ところが、最近、警察がしきりにあちこちで捜査している背任事件は、充分な担保を取らずに金を貸したという容疑である。いったいどうなっているのかと思う。

 これでは、金を貸すときは、土地建物を担保にとらなければ手が後ろに回るということになる。相手を信用して、相手の能力に期待して、困っている人に対して、金を貸してはいけないということになる。

 しかも、いったい誰が自分の属する組織に損をさせようと思って金を貸すだろうか。

 経済分野の背任事件はよほど注意して捜査しなければ、警察が金の貸し方を制限することになる。そうなれば、経済活動の自由な発展が阻害されるばかりか、土地神話が復活してしまう恐れさえある。こういうことに対して警察はどういう認識を持っているのか、聞いてみたいものである。(2001年5月30日)
 




 けがを押しての出場には感動したが、勝ってしまったときには白けた、というのが多くの人の感想ではないか。今場所の大相撲、千秋楽の横綱貴乃花についてである。

 それにしても貴乃花は人気がない。あれだけがんばって優勝決定戦に勝ったにもかかわらず、その瞬間場内に座布団が舞ったのである。しかも、表彰式のために場内に再登場した貴乃花に対する拍手も満場割れんばかりの拍手というものではなかった。それは、そのあとに登場した小泉首相に対する、場内立ち上がっての拍手と比べても歴然とした差があった。武蔵丸ファンがそれだけ多かったのかそれともアンチ貴乃花が多かったということだろうか。あのけがは芝居だったのかという声さえ聞こえたのだ。

 貴乃花はすごい、しかしすごすぎて人間味がないということだろう。まるで相撲サイボーグかロボコップかといったところだ。それに加えて、優勝インタビューの素っ気ないこと。もしあれが引退した曙なら、もっと雄弁に人々の涙を誘うような言葉を並べたことだろう。ところがあの言葉少なさ。あれもまた人間味の薄さを感じさせる。土俵の鬼は人間ではないということか。彼は勝つべきではなかったのかも知れない。(2001年5月28日)
 



 シルバー人材センターというものが全国的に作られている。引退した老人の経験を生かそうというのだが、実態はどうなのか。

 失業率が増大しているなかで、若い人の仕事を奪ってはいないのか。本当に老人は有能なのか。老人の力を借りなければ、できないような仕事がそんなにあるのか。第三セクター方式で作られており、役場の仕事を優先的にもらっているようだが、民業を圧迫しているのではないのか。結局は税金の無駄遣いになっているのではないか等々、数々の疑問がある。

 老人を民間企業が雇わないのは理由がある。使いにくいからである。自分の経験にとらわれて、新しいことに対する順応力が低いのだ。しかもプライドは高い。多くの老人は体力がなく、もたもたして仕事が遅い、などなどである。

 こんな分かり切ったことがあるのに、税金を使ってシルバー人材センターがあちこちに作られている。食べていけない老人を救済するというならわかるが、年金をもらってるのにまだ働くのかという感じだ。

 老人の手も借りたいというほどに景気が戻ってくるまでは、シルバー人材センターはお休みにしてもいいのではないだろうか。(2001年5月21日)
 
 



 阪神の野村監督の野球は、一般には知られていないが、長島監督以上にホームランに頼った、ホームランを待つ野球である。投手をつないでつないで最小失点にとどめて、あとは一発のホームランで勝つのである。

 攻撃は決して積極的ではない。盗塁も滅多にしない。そんなことをしてアウトになればホームランの出るチャンスが減ってしまうからである。

 ヤクルト時代はそのやり方で何度も優勝できた。しかしそれはまさにヤクルトのように年間に十本以上ホームランを打てる力のある選手が何人もいて、しかもホームラン王になるほどの外人バッターがいて、狭い神宮球場がホームで、後攻めの利点をもっているチームだったからこそはじめて可能だったのである。

 阪神のような非力な選手しかいないチームで、そのうえ甲子園球場のような広い球場をホームにしているチームで同じやり方をしても勝てないのは当然だ。せめて外人バッターがホームラン王になるほどの選手ならよかったのだが、それもまさに、野村監督の野球が、ホームラン待ちの野球であることの証拠だ。

 甲子園球場の野球は、高校野球の監督がよく知っている。ホームランバッターのいないチームはヒットエンドランや盗塁を多用して足でかき回してはじめて勝てる球場なのだ。事実、野村監督は今年、足の速い選手をたくさん集めた。しかし、実際の試合となると、走らせない野球、待ちの野球、守りの野球、ホームランを待つ野球に戻ってしまう。

 彼の野球は南海時代の野球を引きずっているのではないか。南海時代は自分がホームランを打って決着をつけていた。そして、彼のホームラン数が減るとともに、南海の成績も落ちていき、最後に解任された。

 彼は阪神むきの監督ではなかった。ヤクルトや広島やオリックスやダイエーや近鉄などホームランを打てるバッターがたくさんいるチームなら優勝できるが、そうでないチーム、例えば中日や横浜やロッテそして阪神ではなかなか勝てない。そういう野球なのである。(2001年5月20日)
 
 



 「アンチ巨人なんていうのはおかしい。プロ野球のファンならどこかのチームのファンであるべきで、そのチームを応援すればいいのだ。巨人が負けることを願って試合を見るのは普通じゃない」

 ある巨人ファンの人がかつてわたしにこう言ったことがある。

 アンチ巨人の人間の心理は、子供時代の夢を実現した幸福な人たちに対するねたみに発するものであろう。例えば、清原が西武にいたときには応援したが、巨人に入ってからは応援しなくなったという人は多いのではないか。

 しかし、巨人があまり負けなくなった今では、そんな人たちは巨人戦を見る理由がなくなってしまった。そのかわりに、地元のUHF局やCSテレビで、それぞれのひいきのチームの試合を応援しながら見るようになったのではないか。かく言うわたしがそうのである。

 そして、まさに最初にあげた彼の言う普通の状態になったのである。巨人戦の視聴率が下がったからと行って、プロ野球全体の人気が落ちたとは一概には言えないとわたしは思う。(2001年5月20日)
 




 雅子妃のご懐妊を機に女子の天皇を認めようという声が上がっているが、どうだろうか。

 皇室典範は皇位の継承順位をちゃんと定めていて、天皇に女の子しかない場合にも支障がないようになっている。

 皇室は一般と違って長子相続である。それを長女でもよいというなら、その伝統を変えることになる。一般にならって男女平等にすべきだというなら、長男以外の男子はどうなのかということにもなる。さらに、長女のあとに長男が生まれたときはどうするのかという問題も生まれるだろう。

 また、皇室には継承順位に則った方が現におられる。長女相続をここで加えるならば、その方の継承権を取り上げることにもなってしまう。はたしてそれでよいのか。

 確かに、女性の天皇はこれまでの歴史の中でなかったわけではない。しかしそれは遠い昔の話である。皇室典範自体が、戦後に作られたものだということも忘れてはならないだろう。雅子妃の人気に便乗した議論は慎むべきである。(2001年5月16日)
 
 



 いったん検定を合格したものを再修正することはあり得ない。教科書問題での政府のこの姿勢は、正しいと言える。ただし、もし検定の過程に誤りがなかったらの話である。だが、もしその過程に誤りがあったならどうだろう。

 今回の扶桑社の歴史教科書の検定は「初めに合格ありき」だった。そして、合格させるために数々の修正をさせている。そう見えるのだ。

 つまり、当時の文部大臣と自民党は「この教科書のせいで、日本と韓国の間の関係が悪化してもかまわない。修正で合格させてしまえ。いったん合格させてしまえばこっちのものだ。あとで何を言ってこようが、内政干渉で突っぱねたらいい」という考えだったように見える。

 しかしもしその通りなら、この検定は八百長試合と同じである。

 小泉政権は、この教科書の検定の過程を調べ直すべきだ。そして、もしそこに誤りがあったのなら、この教科書の検定を最初からやり直すべきだろう。八百長は許されない。(2001年5月9日)
 



 今年になってわたしはテレビでほとんどプロ野球を見ていない。

 わたしはアンチ巨人である。特にひいきのチームはなく、巨人が負けるのを楽しみにテレビを見ていた。ところが、このごろはたいてい巨人が勝ってしまうので見ないのである。

 巨人はわたしにとって悪玉である。その悪玉がテレビでやっつけられるのが面白かった。その悪を懲らしめてくれる正義の味方は、どこのチームでもよかった。

 ところが、最近はそんなチームがいなくなってしまった。たまに巨人に勝っても、巨人の優勝を阻めるようなチームはいなくなってしまった。巨人が大金を使って他の球団の優秀な選手を引き抜いてしまったからである。

 しかし、金の力で自分の思いを遂げるのはドラマの中では昔から悪役と決まっている。巨人は本当に悪役になってしまったらしい。最近は昔からの熱心な巨人ファンもフャンをやめているという。悪役と知って誰が応援するだろうか。当然の結果である。(2001年5月8日)
 
 



 小泉首相は所信表明演説で改革を訴えた。しかし、改革者であるためには国民に嫌われ政権を失うことを覚悟しなければならない。

 例えば、昔で言えば、寛政の改革や天保の改革がそうである。どちらの政治家も最後は失脚した。彼らは本当に改革を実行して国民からそっぽを向かれたからである。

 小泉首相ももし本当に改革を行ったら、まず自民党内から、次に自民党の地盤から総攻撃を受け、最後に国民全体から嫌われるだろう。そうなれば、必ず政権を失うときが来る。しかし、それが本当の改革というものである。

 だから、これまでの自民党政権は口で改革を言いながら、実際には何もやってこなかった。

 しかし、小泉首相の場合は、言うだけで何もしないとなると、その場合もまた政権を失うだろう。国民はとにかく今は改革を望んでいるからだ。

 彼が政権を失わない方法がただ一つだけある。それは少しだけ改革をしてお茶を濁すことだ。しかし、その時にはこの国が滅ぶ。つまり、どちらに進むにしてもこの首相にとっては地獄道である。とにもかくにも、あの人はその道に踏み出したのである。

 彼が失脚して改革が実現する日を待とうではないか。野党の諸君はその日のための準備を忘れないことだ。(2001年5月8日)
 
 



 小泉政権の支持率が異常に高いのは、日本の閉塞感の表れで予想されたことだ。しかし、小泉首相が言ったとおり、これからは支持率は下がるだけである。言ったことが実行できないと言うことが明らかになれば、急降下することは間違いない。

 ところが、その言ったことの内容が過激でとても簡単にできそうにないことばかりだ。すぐに言行不一致に陥ってしまうだろう。

 特に、憲法の改正に言及したのはどうだろうか。首相公選制ならできるだろうと言うが、もっと簡単な条項すら改正されずに来ている。日本ではとてもじゃないが憲法は変わらない。

 靖国神社の公式参拝にしてもそうだ。わたしは祖先に敬意を表するのに外国に遠慮する必要はないと思うが、与党の中に反対者がいるのなかではとてもできないだろう。

 郵政三事業の民営化問題もそうだ。自民党の支持母体の意向に反した改革が自民党を中心とする政権でできるわけがない。

 このように、できないことばかりを彼は言っているのだ。竜頭蛇尾に終わることは今から目に見えている。

 政権交代無くして改革なし。もしこのことに気づかせてくれるのなら、それが小泉政権の唯一の功績となるだろう。(2001年5月6日)
 
 



 北朝鮮の金総書記の長男が不法入国したというが、政府の対応は実にお粗末だった。北朝鮮に恩を売りたいからすぐに国外退去にしたと言うが、話が逆だろう。金総書記の息子なら旅券など必要はないとしてVIP待遇で歓待すればよかったのだ。それでこそ北朝鮮に恩を売ったことになるだろう。

 ディズニーランドに行きたいというなら護衛をつけて行かせてあげればよかったのだ。彼が金総書記の後継者として北朝鮮の指導者になったときにどれだけ日本びいきの指導者になるかは、少し考えれば分かることだ。

 総書記の息子を歓待してくれたとなれば北朝鮮に拉致されている日本人に対する待遇も変わったはずだ。もしかしたら何人かをすぐに返してくれたかもしれない。相手だって血も涙もある人間なのだ。外務省はそんなチャンスをみすみす捨ててしまった。

 外交の基本は人を如何にもてなすかであろう。そんなイロハを知らぬ連中が外交をしているのだから、国益を守れるはずがない。 (2001年5月4日)
 



 野中前幹事長の古賀幹事長留任発言が出たが、これは野中氏のいつもの作戦だ。こうして自派の候補である橋本龍太郎氏が総裁になるための流れを作ってしまおうとしているのである。

 この「流れを作る」というやり方は小渕さんの時も、森さんの時も同じだった。また、加藤の乱の時もこれと同じやり方で勝利を収めた。

 このやり方の特徴は、流れを作ることで「投票」という神聖な行為を無意味なものしてしまうという点である。しかも、同時に、彼がフィクサーとしての自分の地位を固めていることも見逃せない。

 彼は総裁選挙に出ることを辞退したが、それが謙虚さから出たのではないことは明らかである。

 このような行動を反民主的な行動であると言わずして何と言おうか。このようなことを繰り返す政治家を、いつまでわたしたちはのさばらせておかねばならないのか。

 野中的やり方と野中的政治家を排除すること。もし自民党が再生するとしたら、それしかないとわたしは確信している。 (2001年4月20日)
 




 日本のプロ野球の人気が下がっているという。その理由として、アメリカの大リーグでの日本人選手の活躍があげられているが、もっと別の問題がある。

 それは日本のプロ野球が巨人を勝たすための組織になっているということだ。

 ドラフト制度もフリーエージェント制度も巨人を勝たすためにしか役立っていない。特に、フリーエージェント制度で巨人から出ていった選手はただの一人しかないのに、巨人に入った選手は数知れない。

 その上に、今年から始まった勝率ではなく勝ち数が多いチームに優勝させる制度である。昔、勝ち数で優りながら勝率で下回ったために巨人が優勝出来なかったことの反省から生まれたものだ。これが露骨な巨人優遇策であることぐらい誰でもわかる。その証拠に、パリーグではこんな制度はとられていない。

 まったくファンを馬鹿にしたやり方だ。こんな八百長ばかりする日本のプロ野球にファンがそっぽを向くとしても、それは当たり前である。(2001年4月12日)
 




 播磨町に住んでいると休日は朝からにぎやかでね。7時過ぎからあちこちの町内会が何かやるらしくて拡声機で放送をするわけ。それが町内につぎづきと響き渡って、前の日に夜更かしなんかしたら罰を受けているようなもの。きのうも、チャイムの音があちこちでよく鳴っていました。田舎に住むと静かだというのは嘘ですよ。都会暮らしの頃が懐かしいです。都会ではああいうことはないから。

 携帯電話を電車の中で使う人を不心得者と決めつけてる人がいるみたいだけど、そういう人がえてして朝から拡声機で放送してるんじゃないのかな。相手が単数でも複数でも、関係ない音が迷惑なのは同じなんですよ。(2001年4月1日)
 


 再販制度などというものは、新聞社が保護を受けなければやっていけない情けない企業であることを証明しているようなもので、いわば業界の恥部のようなもの。だから、そんなことを文化だの公共性だのときれい事を並べて主張することがそもそも恥ずかしいと言う認識がないといけない。新聞社にはそう認識が欠けている。

 98パーセントの国民が制度維持に賛成していること自体、国民のなかにいかに多様性が育っていないか、いかにメディアの世論操作が強烈であったか物語るだけである。

 新聞社の経営を支えているのは、購読料ではなく、広告料であることは誰でも知っている。再販制度と宅配制度とは大した関係がないはずだ。もし大いに関係しているというなら、経営状態を公開すべきだろう。

 新聞は購読料を無料にして、購読者数を倍増させれば、広告料だけでやっていけるはずだ。現にテレビ局はそうしている。

 いったい、他の業界に対して自由化を主張しながら、自分だけ保護を求めることを恥とする骨のある新聞人はいないのか。(2001年3月25日)
 



 新聞の収益の大部分を占めるのは、購読料ではなく、広告収入である。

 実際、新聞を取っている人たちは、何も新聞を読みたい人ばかりではない。新聞をとっていても、見るのはテレビ欄と広告ばかり、中には折り込み広告しか見ない人たちが沢山いる。 だから、より多くの広告収入を得るためには、新聞はより多くの購読者数を持っている必要がある。

 しかし、現在の購読料の高さは購読者を集めるうえでの大きなネックとなっている。それなのにどういうわけか新聞社は購読料金を下げるどころか、引き上げ続けてきた。

 しかも、各新聞社は再販制度の維持を横並びで主張している。何をか言わんやである。本当は、購読者数の多い新聞はそれだけ安くていいはずなのだ。購読者数が多ければ、購読料による収入だけでなく広告収入が多くなるからである。

 海外では購読者数を伸ばすために新聞を無料で配付する試みが始まっているという。読者が高い金を払わされているのは日本だけということは願い下げにしたい。(2001年3月22日)
 




 最初、加古川に「そごう」ができたとき、こんな田舎に百貨店を出店するなんて「そごう」もむちゃなことをするものだと思ったが、案の定十年ほどでつぶれてしまった。そりゃあそうだ、町で一番立派な建物が市役所であるような町に百貨店は分不相応である。

 高嶺の花の良家のお嬢さんがお嫁に来てくれたが帰ってしまった、あるいは、貧しい農家に突然やってきた美人が鶴に戻って旅立ってしまった、そんなところである。

 ところが、高嶺の花のために特別に作った御殿が空き家では困ると、別の百貨店が入ることになった。入れ物があるから中身を作ろうと言うわけだが、何か本末転倒のような気がする。日頃クラシックなど聞く人などいないのに、豪華なコンサートホールをつくる田舎の町の発想だ。要するに、人間が先じゃないのだ。

 そもそも百貨店というのは都会にあってこそ意味がある。それを田舎に作ってどうするのか。加古川は人が寝に帰るところである。そんな町に必要なのは日用品がそろう店であって贅沢品を並べた百貨店ではない。

 分不相応には必ずツケを払うときがやって来る。それを払うのは国民である。(2001年3月7日)
 
 



 国会で野党が不信任案を出すとか出さないとか言っているが、国民はそんなことにはもう興味がない。国会は機能不全に陥っており、そんなところでちまちまと何かをしてもらっても何もうれしくない。それより、いっそこんな国会をぶっつぶしてくれるような人が現われないかと思っているのだ。 

 日本の国会はすでに物事を決定する機関ではなくなっている。決めるのはどこかよその場所であって、ただ民主主義の形をつけるだけのために開かれているだけなのだ。だから、与党は野党が出てこようが来まいが審議を進めて裁決してまう。形をつけるだけなのだから、野党の意向などどうでもいいである。

 国会がこうなってしまった以上は、野党は国会以外のところで勢力を伸ばせばいい。例えば、この国の重要な事柄は国会ではなく、県レベルで決定され始めている。東京都のディーゼルエンジン対策や長野県の「脱ダム宣言」などはその典型だ。

 憲法にどう書いてあろうが、もはや国会は国権の最高機関ではない。その最大の証明が森喜朗なる人物が首相になったことであることは言うまでもない。(2001年3月3日)
 
 



 警察は大きな事件、重要な事件を解決することを優先する。しかし、個々の被害者にとっては、大きな事件も重要な事件もなくて、ただ自分の事件があるだけである。いくら重要な事件を解決されたところで、それで自分の事件が解決されなければ、警察に対する信頼感は沸いて来ない。

 例えば、スージーさん失踪事件で警察は織原容疑者を何度も何度も再逮捕して一生懸命に捜査しているが、それを見て警察を応援したくなる気持より、むしろ被疑者を好き放題に拘束できる警察という存在に対して恐怖感を持つようになるだけである。

 先に証拠を見つけてから逮捕すれば、あんなことはする必要がないはずで、警察に睨まれると何されるか分からないのは戦前と同じだという印象を受ける。

 マスコミは悪いやつを捕まえろと騒ぐかもしれないが、それをそのまま一般市民の考えだと受け取ってもらいたくない。どこの誰だか知らない人の事件が解決するより、自分の事件が解決してくれる警察の方がよほど頼りになる存在なのである。(2001年2月23日)
 
 



 最近、拡声器を積んだ車による物品販売が盛んになっています。私は一日自宅にいるのでよく分かるのですが、そのような車が一週間のうちでやって来ない日はないと言っていいほどです。

 ところが、あまり知られていないと思いますが、住宅地で拡声器を使って物を売ったりすることは各都道府県の条例によってはっきりと禁止されているのです。

 つまり、あのような業者はれっきとした条例違反を犯しているのです。末端の販売員はともかく、経営者は大きな投資をするのですから、あらかじめこの事実を知っていないはずはありません。つまり、彼らはそれと知りながら法律違反をしているのです。そのような人たちが信用できる人たちかどうかは、論じるまでもありません。

 せっかくわたしたちの静かな住環境を守るために作られた条例です。少しぐらい便利だというだけで、せっかく手に入れた権利を住民自らが放棄してしまうことがないようにしたいものです。(2001年2月15日)
 
 



 御津のタクシー強盗犯の少年が検察官送致になった。それを当然だという声が各方面から聞かれるが、いかがなものか。

 わたしは少年の犯罪はあくまで少年法で裁くべきだと思う。さもなければ少年法の存在意義がなくなってしまう。あの少年を刑法で裁けば、強盗殺人であり、死刑または無期懲役である。これではあの少年の人生が終わったに等しい。もう、やり直しどころではない。

 少年の罪はまわりの大人の罪だという考え方が、このようにしてなし崩しにされていけば、社会が人を育てるという考え方はなくなってしまい、ますます自分中心の人間が横行するようになるだけである。

 厳罰主義を求める声の広まりの根底にあるのは、自分はいつも被害者で、犯罪者はいつも他人だという自己中心的な考え方であろう。現実は、裁判官や検事でも、誰でも明日は犯罪者になりうるのである。

 欧米では社会の進歩とともに死刑は廃止され、刑罰は軽減される方向にある。それなのに、日本だけは『目には目を』のハムラビ法典の昔に逆戻りしようとしているのだろうか。(2001年2月14日)
 
 



 定住外国人の参政権付与に反対する人たちの最大の根拠は、国の安全保障をおびやかされるということである。そして定住外国人は参政権を欲しければ日本国籍を取るべきだと言っている。

 安全保障をおびやかされるということは、要するにスパイをされる可能性があるということであるが、それは国籍を取ったところで同じことだ。

 例えば、戦争になれば、たとえ日本国籍を取っていようと、敵国の出身者が日本国に対する忠誠を疑われることになるのは、太平洋戦争における日系アメリカ人にアメリカにおける扱いを見ても分かることだ。

 国籍はないが日本の政策に直接影響を受ける人たちが参政権を持つことに対する合理的な反論の根拠は、すくなくとも安全保障の観点からは得られないと考えるぺきであろう。(2001年2月5日)
 



 灯油の巡回販売が定着して冬の風物詩の一つになった感がある。しかしそれにともなって、問題点も目立つようになってきた。

 その一つは、騒音問題である。音楽と宣伝文句を拡声機で流しながら販売するという方法をとっているが、その音がかなり大きい。そのため、家の前に来たときだけでなく、かなりの長時間にわたって町中にひびく音楽を聞かされる。それが一社で週二回、二社来るから週四回である。

 次に問題なのは、地域の交通安全を脅かしていることだ。彼らは家の玄関口に出されたポリタンクを探しながら、道あるところどこまでも入ってくる。一台のタンクローリーの受け持ち範囲はかなり広く、その全ての道を一日で回らなければならないため、ゆっくり運転している余裕はなく、ポリタンクがないとわかると住宅地でも構わずアクセルを踏み込んで去っていくのだ。

 これらの問題を放置しておいてよいのかどうか、考えるべき時に来ているのではないか。(2001年2月5日)
 



 拡声機を使った巡回販売が多くなっている。灯油の販売店がタンクローリーが音楽を流しながら住宅地のなかを回る光景はいまや冬の風物詩になった感さえある。しかもそれは一社ではない。また、それを真似て最近ではパン屋が放送しながら住宅地に来るようになった。休日には休日で中古バイクの回収車が大きな音を出しながら回ってくる。

 こうして、このごろでは拡声機による宣伝放送を聞かない日はないぐらいになっている。もはや住宅地の静かな環境は失われてしまっている。

 これをそのまま放置してよいのだろうか。大切な選挙の時でさえも、拡声器を使う選挙カーを使う時間帯は制限されている。ところが、こちらの宣伝放送はまったくの野放し状態である。実際、このような宣伝活動は県に問い合わせると生活環境条例に違反しているそうである。

 しかし自分たちの生活環境を守るのは、結局は自分たち自身である。住民の側でも、自分たちの静かな環境を守るためには、便利だからといってそのような巡回車を安易に利用しない心構えが必要ではないだろうか。(2001年2月1日)
 
 



 灯油の巡回販売が全国に広まっているようだ。しかし、拡声機を使って音楽を流しながら売り回るあの商法は、県に聞くと、れっきとした条例違反なのだそうだ。つまり、あれは騒音をまき散らしているのである。しかし、利用者がいるから禁止はしていないという。

 確かに、灯油を玄関先まで運んでくれるのは便利ではある。しかし、だからといって違反が許されるとは、どういうことだろう。

 実際あの放送はかなりうるさいもので、選挙運動カーの拡声器の音よりも大きいくらいだ。しかし、選挙のほうは時間が決められているし、期間も短い。ところが、こちらは一冬中。時間も野放し状態である。ひどいのになると、夜中の十時に来たという話もある。

 難しいことは知らないが、静かな環境を守るためにつくった条例だろう。それが、あのような騒音を防止するのに役に立たなければ、絵に描いた餅でしかない。悪いものは悪いと、しっかり取り締まってもらいたいものだ。そうすれば、騒音なしの販売方法も生まれてくるはずだ。(2001年2月1日)
 
 



 「社会を統治するには国民に恐怖か希望のどちらかを与える必要がある」と誰かが言っていたが、まさに至言である。

 戦前の日本は恐怖によって統治されていた。それに対して戦後の日本は希望によって統治されてきた。しかし、ここに来て日本にはもはや希望がないということが次第に明らかになってきた。その結果として、日本の統治は底辺の部分でほころびを見せはじたのである。成人式の若者たちのご乱行はまさにそれだ。

 そこで、ある人たちは恐怖を国民に与えよと言い始めた。それは神の存在を教えろという宗教教育の提唱にほかならない。それは教育とは強制であるという言う人たちと同じ人たちの口から出てきている。

 しかし、恐怖ははたして悪か。たとえば、神に対する恐れは人間を謙虚にする。そこには秩序が生まれるだろう。それならば、ひょっとして恐怖による支配は悪いことではないかもしれぬ。

 だが、月が埃の固まりでしかないことを知っている今の世代に、神を信じろと言っても無理な話だ。宗教教育は、たとえやってもうまくは行くまい。結局、それは単なる恐怖政治に至る道でしかないかもしれない。(2001年1月16日)
 

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