私見・偏見(2000年)

私見・偏見(1999〜97年)へ




 日頃おとなしい動物園の動物が飼育員を殺したりすることを、野生に戻ったというふうにわれわれは考える。人間の場合に、日頃おとなしい人が人殺しをしたりするのも、これと同じように考えることができる。

 人間には理性によっては抑えられない衝動というものがあって、それが姿を現すとき反社会的な行動をとる。動物の場合、その動物には何の罪もないこ とは明らかである。動物園という社会に連れてこられないかぎり、その動物は裁かれることはない。しかし、動物園にいるために人間を殺した動物は処分されて しまう。

 人間社会の犯罪もそれと同じことである。社会を作っているがゆえに人間は犯罪者になる。社会というものを大切にするかぎりは刑法と言うものは無くてはならない。

 しかし、人間もまた動物である以上は、犯罪者になる可能性は誰もが持っているということを忘れるべきではない。犯罪が自分以外の別のところにあるかのような議論をする人は自分を神と見なしているのと同じである。誰もが犯罪者の予備軍なのである。

 誰かが今の時点で犯罪者にならずに済んでいることは、単なる偶然の産物と言っていい。犯罪者を蛇蝎視することは、天につばする行為であることを忘れずにいたいものである。(2000年12月28日)
 



 わが町の休日の朝の空は自治会の拡声機を使った放送によって占領されている。休日の朝7時から9時にかけて、各自治会の役員が自前の放送設備を 使ってその日におこなう行事の案内をする。ピンポンパンポンというチャイムの音が、間を置いてあちらからこちらからと町の空を覆っていく。

 行事の内容は、運動会であったり祭りであったり公園の清掃であったり廃品回収であったりと様々である。それらの行事に参加を求める放送があちらからこちらからと聞こえてくるのである。

 しかし、このようにして朝の静けさを奪うことは、第一にまず環境破壊であろう。

 また当然ながら、この時間帯に眠っている人の睡眠を妨害することになる。「普通の人なら起きている時間だ」と考えて放送しているのなら、それは夜中に働く人たちを差別していることにもなる。

 本来、自治会活動は、住民相互の善意の上に成り立っているものである。それを「今からやるから集まれ」と言わんばかりに放送で招集をかけるとは、少々乱暴すぎると思うのである。(2000年12月20日)
 
 



 人間の進歩はけっして良い結果だけをもたらすわけではない。

 最近起こったオーストラリアの登山電車の火災事故についてもこのことがいえる。かつては、山上のゲレンデまで行くのに何時間もかかっていたもの が、山腹を貫くこの電車の開通でわずか一時間で行けるようになった。しかも一度に大量の人間を運べるようになった。しかしその結果、今回の事故での死者数 は百五十人近くにのぼることにもなったのである。

 尼崎の公害訴訟では被害者原告団のうちで百四十人もの人たちがすでに亡くなっているという。わたしたちは自動車の便利さを手に入れたこととの引き換えに、これだけ大きな代償を支払ったわけである。

 最近のニュースを見ているだけでも、人間の進歩は常に悲劇と背中合わせのものなのだとつくづく思う。それでも人間は進歩の歩みを止めてしまうわけにはいかない。進歩をあきらめた人間はもはや人間ではなくなってしまうからである。(2000年12月10日)
 



 雪印はあれだけの食中毒事件を起こしたのにもかかわず、あまり反省しているようには見えないという意見を、多くの被害者の方たちが抱いているそう だ。被害者でないわたしでもそれは想像がつく。なぜなら、雪印は牛乳の紙パックのデザインを変えることなく販売を再開したからである。

 被害者の立場に立てば、あの牛乳バックのデザインを見るだけでも気分が悪くなることは容易に想像がつくはずだ。もし販売を再開するなら、外見から変えるべぎであろう。それが被害者に対する思いやりであり、消費者に対するサービスであろう。

 小さな会社が消費者の注意を引こうとして牛乳パックのデザインをいろいろと工夫をして販売しているのに対して、雪印は何十年もあの単純なデザインで売ってきている。このこと自体、雪印がブランドにあぐらをかいてきた証拠である。

 消費者に対するそういう姿勢に反発を感じたわたしはもともと雪印の牛乳をあまり買わなかったが、雪印がこの姿勢を改めるつもりがないらしいのはあのパックを見てもわかる。(2000年12月9日)
 
 
 



 アメリカの大統領選挙のフロリダでのごたごたを見ていて、一番驚いたことは、アメリカ人は投票用紙の勘定もろくにできない国民らしいということだ。日本人なら一晩で数えてしまうものを何日もかけて、しかも設定された期限までに数えられずにいるである。

 いったいこういう国民が世界を支配する資格のある国民であるといえるだろうか。

 例えば、彼らのつくったコンピュータが世界の標準として世界中で使われている。しかし、これがどうにかするとすぐに動かなくなって、最初 からやり直さなければならないような代物なのだ。まさに今の大統領選挙に見られるアメリカ人の不器用さをそのまま反映したようなものなのである。

 しかし、日本人ならもっとうまくやれる。例えばこのやっかいなコンピュータを上手に活用した携帯電話がいい例だ。

 そして今のこの大統領選挙の不手際である。アメリカ人恐れるに足らず。これをアメリカに対する盲目的な信仰から脱却する機会にしようではないか。(2000年12月5日)
 
 



 野党の不信任案に同調するなら加藤氏は自民党を離党すべきだったという意見が多く見られるが、これはまったく間違った考え方である。

 そもそも投票するという行動は政党の枠を越えて個人の判断でなされるべきものである。どの党に属するからどう投票しなければなならないなどという ことがまかり通るならば、投票すること自体が無意味になってしまう。それは別々の独立した人間が投票したことではなくなり、一人の同じ人間が何票も投票す るのと同じことになってしまうからである。

 したがって、議員の投票行動によって党の幹部がその議員の待遇をどうのこうのするなどということは、投票という神聖な行為に対する冒涜でしかない。議員は政党を代表する前に、何を措いてもまず全国民を代表する存在であるからだ。

 これは欧米先進諸国では常識である。ところが、こんな基本的なことを知らない人間がこの国では首相を筆頭としてマスコミにもあふれている。情けないかぎりである。(2000年 11月27日)
 



 今回の不信任案否決を、わたしは野党の民主党の失敗であると考えている。

 小沢一郎氏ら自由党は不信任案の提出時期を十七日の金曜日とすべきだと言ったという。結果の読めないあの時期なら、自民党の加藤氏も賛成投票をし ていたろうし、主流派からも欠席議員が出たかもしれない。また、たとえ否決されたとしても、自民党を分裂に追い込んでいたかもしれないのである。

 ところが民主党は共産党といっしょになって、衆議院の予算委員会を終えてから出すことにしてしまった。

 その間に、自民党の幹部のなりふり構わぬ締めつけが進んで、造反議員の数はどんどん減っていき、とうとう加藤氏は投票できないところに追い込まれた。

 一方、なりふりを構った民主党は、加藤氏に期待するという過ちを犯して、加藤氏を何一つ利用できず終わったのである。

 民主党はかつての金融国会の時にもなりふりを構って政権取りを逃している。民主党は政権を取る気があるのか疑わしいと言わざるを得ない。(2000年11月21日)
 
 



 わたしの住む地方では、人が亡くなると町内会長が拡声器を使ってその死を伝え、お通夜や葬式の日取りを放送して、多くの人に参加するようにと勧めることが習慣となっている。このような習慣は他の地域にも存在するのだろうか。

 この地域に拡声機による放送網が張り巡らされたのはそう古いことではないので、この習慣も最近生まれたものであろうが、わたしはこの習慣に疑問を持っている。

 この放送は当然遺族の依頼によるものではない。いわんや死者が生前に望んだことでもない。もしこんな放送をして欲しいかと尋ねなられて、 お願いしますという人は皆無であろう。死んでまで世間を騒がせたくないというのが普通の気持だからである。要するに町内会がおせっかいでやっていることな のである。

 このようなことをする原因としては、日本ではまだプライバシーの考え方が未熟なこともあるだあろう。例えば、飛行機事故の犠牲者名を一切公表しない欧米などでは、人の死という極めて個人的な事実を拡声機で放送するなど考えられないことである。

 こんな習慣はやめたほうがいい。少なくともわたしが死んだときには放送はお断りである。(2000年11月9日)
 
 



 国鉄がJRになったときに国労の組合員が採用されなかったことの非を訴えた裁判に対する裁判所の判決は、全くJR側の言い分を鵜呑みにしたものだ。JR は国鉄が提出した名簿に基づいて採用しただけだと言うが、国鉄が民営化したときに国鉄の経営陣が全員解雇され、JRの経営陣は全員別の人がなったというの ならその言い分は正しいかもしれない。しかし、民営化とは何も経営陣が総入れ替えになることではないはずだ。

 本当は、ほとんど同じ人間が、まず国鉄側として採用者の名簿を作ってから、JR側としてその名簿にしたがって採用者を決めたに違いない。しかし、それは脱法行為である。

 この裁判の例のように、労働者側が経営者側を訴えたときに、労働者を切り捨てるような判決が目立っている。これまでの法に照らせばそれが 正義なのだろう。しかし、その正義が労働者の労働意欲を殺ぎ、ひいては就労意識を弱め、フリーターを生み出していると言えば言い過ぎだろうか。

 裁判所はもっと労働者を助けるような判決を心がけなければ、フリーターの増加に歯止めがかからないだろう。(2000年11月8日)
 
 



 オリックスのイチロー選手がアメリカの大リーグに行くことを歓迎する見方があるが、わたしは、これは日本のプロ野球の危機だと考える。

 今後同じようなことが繰り返されると、日本にいるプロ野球選手は大リーグに行く能力のない選手の集まりになってしまうだろう。そうなれば、もはや 日本のプロ野球では二流のプレーしか見られないことになり、大学野球や社会人野球のようになってしまうかもしれないからである。

 大学野球も社会人野球も、それぞれプロ野球に行けなかった人たちの集まりであと見なされ、その世代の若者たちの最高のプレーが 見られないと思われているがゆえに、その試合は関係者以外には興味を引かないものになっている。彼らはブロ野球の二番せんじか出がらしとなっているからで ある。

 同じようにして、もし日本のプロ野球が米大リーグの出がらしとなってしまえば、プロ野球は人気を失って衰退することは想像に難くない。

 優秀な選手、特にパリーグのスター選手が大リーグに行かずとも満足できるような環境の整備を考えなければ、日本のプロ野球の将来はないと言っていいのではないか。
(2000年11月7日)
 
 



 フリーター現象が将来の日本を危うくしかねないことは、産経新聞の十一月五日の主張の言う通りであろう。しかし、そこに言うような職業意識、就業意識を若者たちに根づかせることの重要性をいくら説いたところで、現実感にとぼしい。

 むしろ、定職につくことによってある程度の幸福が確保できるという意識の方が大切ではないだろうか。つまり正社員になれば人生において有利な立場に立てるというのでなければならない。そのためには、労働環境の整備が急務であろう。

 例えば、週四十時間制が確実に実施され、しかも長期の有給休暇が自由にとれ、しかもフリーターでは得られない安定した地位が手に入るというのなら、若者たちは競って定職に就こうとするだろう。

 ところが現状では、会社で正社員として働くことは、会社の言いなりになることであり、サービス残業などの過酷な労働状況に自らをおくことを意味している。しかもいつ首になるか分らないのだ。

 フリーター対策は、まず労働環境を改善することから始めるべきである。(2000年11月6 日)
 
 



 プロ野球選手会が、無免許運転で謹慎中の松坂大輔投手について、球団が科している「年内の野球活動の禁止」を解除してほしいとの要望書を西武球団に出したという。プロ野球の選手たちは、いったい何を考えているのだろうか。

 松阪選手のやった替え玉事件は一般人なら当然逮捕拘禁されて、裁判まで拘置所暮らしを強いられても仕方がないところだ。そこを有名プロ野球選手と いうことで大目に見てもらっている。それでもまだ足りない、野球をさせろとは自分たちの立場をわきまえていない愚挙だと言わざるを得ない。

 彼らは今の日本のプロ野球が置かれている危機的情況を知らないのか。有力選手は大リーグに行くか巨人に行くかで、一方的な試合 ばかりが多くなっている。おまけに、一部チームのわがままのためにオリンピックでのメダルなし。その上に、巨人杉山捕手の逮捕、江藤選手のスキャンダル。 そんなことはどこ吹く風と言わんばかりの、巨人の優勝シャンパンかけの大はしゃぎ。

 これでは、心あるファンの気持がどんどんプロ野球から離れてしまっていくのも当然だ。プロ野球の選手会は、いったいこの事態を どうするのか真剣に考えるべきときだろう。それなのに、自分たちが野球バカの集まりであることを証明するようなことをしかできないとは、まったく嘆かわし いかぎりである。(2000年11月1日)
 



 古代のギリシアの作家クセノフォンの『アナバシス』(筑摩書房)を読んだ。まったく唖然とするほかない訳である。

 いったいどうしてこうなのか。訳者は何十年とギリシア語をやって飯を食ってきている人物である。それなのにどうしてこんな訳しか書けないのだろう。

 そもそも、クセノフォンといえばギリシア語ではやさしい方の代表格で、初心者のテキストに使われるほどのものである。しかるに、ここぞというところに来ると、まったく臆病とも言える忠実さで原文をなぞって、たどたどしい日本語にすることしかできていないのだ。

 また、例えば、なぜ「バルバロイ(蛮族、蛮人ども)」を「異民族」や「土着民」や「異国人」と訳してしまうのか。文章には書き手の誇りがこめられているはずだ。ところが、これでは作者のギリシア人としての誇りも何もあったものではない。

 確かに、間違った翻訳だとはいえない。しかし、クセノフォンは果たしてこんなものを書きたかったのか。クセノフォンは自分の『オデッセイ』を書いたつもりのはずなのだが。(2000年10月30日)




 政府与党は参議院の選挙制度を非拘束名簿式にする法律をなんとかして成立させようとやっきである。

 しかし、この制度になったとしても、党名で投票できるところをわざわざ面倒な個人名で投票する有権者がどれだけいるか大いに疑問だ。むしろ、投票方法が複雑になって投票率が下がる原因になる可能性が大である。

 さらに、この制度では、候補者名で大量得票した候補の処遇が難しいと思われる。

 例えば、一人で何人分もの票を獲得した候補に対して何の特別待遇も与えないなら、その候補はたんなる人寄せパンダとして使われただけとい うことになり、候補もその人に投票した有権者も釈然としないだろう。一方他人の票で当選した議員は肩身が狭いことになるだろうし、そもそも、当選したとき から国会議員の間に優劣が生まれるというおかしなことにもなる。

 このように私のような素人の頭にもさまざまな疑問点が浮かぶ制度を、選挙制度審議会も通さずに、一回の国会だけでむりやり法律化してしまうのは拙速に過ぎると言うしかない。(2000年10月19日)
 




 昔の栄光に頼った人寄せパンダのヘボ監督二人が、金にあかして有力選手を集めて、それでもやっとのことでリーグ優勝して対決するのが今年の日本シリーズだ。

 世に0N対決などともてはやす向きはあるが、その実態はヘボ監督の金権野球対決でしかない。そんなものにぞくぞくするなどということはあるはずもない。むしろ、誰がこんなシリーズを観るものかと強がって見せてこそ、大和魂というものだろう。

 この日本シリーズは、相撲界で言えば、まさに若乃花の横綱昇進のころの二子山部屋全盛時代と情況が同じ。人気があれば底上げ横綱でも構わ ないという風潮に嫌気がさして、相撲観戦をやめた真剣なファンの心情が、ここにも当てはまるのだ。人気があれば底上げ名監督でも大歓迎ということらしい が、わたしは騙されない。

 その後の二子山部屋の衰退ぶりは、プロ野球界にとっても他山の石とすべきはずなのだが、浮かれるマスコミには、阪神の野村監督の巨人批判に真剣に耳を傾ける冷静さはないのか。(2000年10月12日)
 
 



 国会の委員会といえば、かつては野党の議員が審議を中断しただけで自民党は大慌てで審議再開のために奔走したもので、その議員は爆弾男などと呼ばれてもてはやされたものだ。

 ところがいまや、審議の中断どころか野党が出席していなくても与党だけで勝手に審議を進めてしまって平気である。国会対策委員長も昔ならば、野党 に審議に出て来てもらうために知恵を絞ったものだが、今や国対委員長ほど楽な仕事はない。野党がいなくても審議が進んで、どんな法案でもどんどん通るから である。

 昔の自民党のリーダーたちはなぜあんなに国会の審議を大切にしたのだろうか。彼らには野党のいないまま審議をするなど考えられなかったのであろう。野党がいてこその民主主義だということを彼らは知っていたのである。

 ところが、今の自民党にはこんなことはしてはいけないと言う政治家が一人もいない。これではいくら選挙制度をいじくったところで自民党が勝つ見込みなど生まれるわけがない。(2000年10月11日)
 
 



 参議院の非拘束名簿方式の導入を柱とする選挙制度の改正法案を与党が強行採決をしてでも成立させようとしているが、これを見てわたしは日本はもうだめなのではないかという気持が強くなっている。

 選挙制度などというものはその裏にしっかりとした理念や思想が無ければならないものだ。この制度に変えることによって日本は、そして参議院はどう良くなるという考え方が存在しなければならないはずだ。

 ところが、今度の改革はどうすれば自民党が勝てるかという考え方だけで生まれたものだ。こんな選挙制度改革をよく恥ずかしくもなく自民党は国会に提出できたものだと思う。もはや、自民党は恥も外聞もなくただひたすら政権にすがりつくことしか眼中に無くなっている。

 そんな政党が一番多くの議席を取っていて、それを助ける政党があって政権にとどまっている。国民はそれを不思議とも思わない。これはもうこの国はだめだと言うしかない。

 この国を去っていく若い女性が急増しているというが、わたしもその仲間に加わりたい気分である。(2000年10月6日)
 
 



 オリンピックの野球で日本チームの試合を見ていると、試合の解説をしているアマチュア野球の指導者が、プロ出身の選手たちに対して実に気を使ってコメントをしている。プロの選手に無理を言って来てもらっているという引け目があるのだろう。

 しかし、元々彼らを育てたのは全部アマチュアの指導者たちである。プロの選手たちが今あるのは、彼らの指導のおかげなのである。彼らを無視してプロ野球選手の存在は考えられないのだ。だから何も遠慮せずに言いたいことを言ってよいのである。

 そもそも、彼らアマチュア野球の指導者たちのおかげで日本の津々浦々で野球が盛んなのであり、その結果としてプロは優秀な選手を獲得する ことが出来ているのである。だから、アマチュア野球がオリンピックのためにプロに協力して欲しいと言ったとき、ブロ側は率先して協力すべき立場にあったの である。

 ところが現実にはプロ側がオリンピックの野球チームに選手を出すことを渋った。わたしにはこれは実に恩知らずな行為だったと思えて仕方がない。(2000年9月24日)
 
 



 先日NHKは巨人が優勝したことニュース速報を打ってテレビで伝えたが、不思議なことをするものだ。なぜなら、巨人戦はちゃんと他のテレビ局で全国中継されており、巨人の優勝に興味のある人は自分で見て知っているからである。

 NHKは巨人以外のチームの試合を中継しているときにも、他局で生放送されている巨人戦の途中経過を熱心に報道する。

 このような情報は、巨人ファンでいながら巨人戦を見られない人たちにはきっと有り難いことだうろ。

 しかしそれはいったい誰だろうか。それはNHKの中の巨人ファンの人たちではないのか。NHKは巨人ファンが多く、他の番組を放送していて巨人戦を見られない人のために、巨人戦の情報をいち早く流すのではないのか。

 しかし、巨人戦が見たい視聴者は自分で巨人戦を見ている。見ていない人は見たくないか野球に興味がないから見ていないのである。そんな人に、巨人の情報を伝えても邪魔なだけである。公共放送を社内連絡に使うのは止めてもらいたいものだ。(2000年9月 24日)
 
 



 オリンピックの柔道の決勝で篠原選手が審判の誤審によってフランス人選手に敗れたその夜、メダルを獲得した他の日本人選手がテレビ番組に出演して笑いな がら手柄話をしていたが、それを見たわたしは、なんと日本人は連帯意識にとぼしい国民であろうかと思わずにはいられなかった。

 あれがもし立場が逆で誤審で負けたのがフランス人選手だったら、他のフランス人の選手たちは誤審に対する抗議の意志を何とかしてテレビ画面に表そうとするだろう。フランス人は個人主義であるが、いざと言うときに見せる連帯意識の強さは見習うべきものがある。

 例えば、フィリピンでフランス人が人質になった最近の事件では、大統領が先頭に立って解放運動を行った。それに対して、日本政府は北朝鮮に拉致された人たちの返還を熱心に求めるどころか、外務大臣にいたってはこの問題を邪魔者扱いするありさまである。

 上がこうなのであるから、国民に連帯意識がとぼしいのも仕方のないことなのかもしれぬが、実に情けないことである。(2000年9月22日)
 




 憲法にいう三権分立とは、政府と国会と裁判所という三つの権力の持ち主がそれぞれ我こそはこの国の最高権力者であると主張するものであるという前提に立っている。

 例えば、最高裁判所は政府の政策が憲法違反であって無効であると言い、この国の全ての最終決定権は我々にあると主張してこそ、その存在価値がある というものである。だからこそ、それに対抗するために政府に最高裁判所の判事の任命権が与えられているのである。そして、それではじめて憲法は正常に機能 するのである。

 ところが、日本の最高裁判所のように、選挙で五倍近くの人口格差があるのに合憲であると言ったり、あれもこれも政府の裁量権の 範囲内だと言って合憲にするのであれば、何も三権分立にする必要はない。むしろ、このような行為は憲法の精神を踏みにじるものでさえあると言える。

 これでは最高裁判所は単なる政府の一官僚機関でしかないと言われても仕方がないだろう。このような最高裁判所は即刻解体して、官僚を廃して作り直すべきである。(2000年 9月10日)
 
 



 ブロ野球の巨人が大金をかけて他球団の有力選手を引き抜いて戦力アップしたことに対して、「なりふり構わぬ補強」と批判が出るのは当然である。

 巨人はなりふりを構うべきチームなのだ。かつては、巨人は正義の味方として、次々とかかってくる敵と戦ってきた。だからこそ、巨人戦だけは全国中継される価値があった。だからこそ「巨人軍の選手は紳士であれ」と言われたのだ。

 ところが、今や勝つためにはなりふりを構わぬチームになってしまった彼らは、もはや正義の味方ではない。いわば「なりふり構わぬ悪の味方」が「なりふリ構う正義の味方」と戦ってしかも勝ってしまうのである。

 そんなところを毎日テレビで見せられた子供たちが、これを正義だと勘違いして、誰も彼もなりふり構わぬ自己中心の生き方を始めたら、世の中いったいどうなるのか。

 もはや巨人戦は全国放送されるべきではない。放送は東京ローカルに限るべきである。一地方球団がどんな補強の仕方をしようが自由だからである。(2000年9月3日)
 


 


 脳死移植のドナーカードが普及しない最大の理由は、縁起が悪いということだろうと思う。このカードを持つことは自分の死を予定することになるからである。

 このカードを持ったために、なにかの事故に会ったり病気にかかったりして自分が死ぬことになるのではないかという恐怖感がある。何もわざわざ死を近づけるかもしれないギャンブルをすることはなかろうと思うのである。

 これが全員一斉に持つというのならばよい。全員が同じことをするのであれば、全員が同じ運命を分け持つのであるから、自分だけに不幸が降りかかるかもしれないという恐れは緩和される。

 だから、ドナーカードを普及させるには義務化するしかないだろう。運転免許の更新時など、様々な機会を通じて、義務としてカードを持っていくしかない。これは脳死移植を認めることを強制するのではないのだから問題はないと思われる。

 誰もが脳死移植を受ける立場になる可能性があるということからも、やはり義務化が望ましい。(2000年8月29日)
 




 「ややこしいことに関るのはごめんだ」と、会場の一般使用を止めてしまったピースおおさかのやり方は、まったく日本人らしいやり方だ。

 だがはたして、それで良いのか。この施設は過去の戦争の反省から生まれたものであるはずだ。なぜあんな戦争をしたのか。それは戦争の是非を論じる ようなややこしいことを国民がしなかったからではなかったのか。その結果、戦争を助長することになり、戦争の惨禍を被ったのではなかったのか。その過去の にがい経験を生かすために作られたピースおおさかではないのか。

 それとも過去の経験など水に流して、日本人らしく事なかれ主義で行けば、平和は続くとでも考えているであろうか。

 ピースおおさかは、議論の可能性を排除したことによって、自分たちが平和を語る資格をも失ってしまったことに気づくべきである。議論の可 能性のないところに真実は生まれない。こんな簡単なことも知らずに平和を主張できると思うなら、それは大きな勘違いというものである。(2000年8月 25日)
 




 今年の夏の高校野球もまた、野球の素晴らしさを思い出させてくれるものだった。特にその幕切れは劇的だった。

 一点差で迎えた最終回ツーアウト。打球はショートの手前で跳ね上がってレフトの前に転がる。それを見たセカンドランナーがホームに向かって走っ た。が、その前にレフトからの返球がキャッチャーミットにおさまる。ランナーとキャッチャーはホームベースの手前で交錯して二人ともに倒れ込む。仰向けに なったキャッチャーは右手に持った白球を高々と空に向かってさし上げた。

 もう一つの試合も一点差で最終回ツーアウト。ランナーはセカンド。外角の球を捕えた打球は金属音を残してライトへ。これで同点 だと誰もが思った瞬間、白球は、思いさまジャンプして倒れ込んだ二塁手のグローブの中におさまっていた。一塁に向かっていた打者は、それを見て頭から走路 に倒れ込んでうずくまる。

 こんなシーンはわが国の高校野球以外には見られまい。それもこれも高校生のひたむきな心が生み出したものだ。なんだかんだ言っても、今どきの高校生も捨てたもんじゃないぞ。(2000年8月20日)
 




 わたしの祖先の墓と同じ敷地に兵士の墓がある。兵士の墓は他の墓と違って、細く先細りなっており、頭が尖っている。そして、その側面には、故人が生まれてから戦死するまでの一生が細かい文字でぎっしりと刻まれている。

 生まれたときのこと、出身学校のこと、就職した会社のこと、応召で入隊した連隊のこと、国内の各地を移動したことが記され、最後に南方に出征して 戦死したことが書かれている。実に淡々とした文章である。おそらくは型にはまった文章なのであろう。しかし、これをたまたま一度読んでからというもの、自 然と毎年この場所に引きつけられる。

 ぎっしりと一面に刻まれた文字からは、戦争で息子を失った親の無念さが伝わってくる。そして、この日本の片田舎の一青年をはるか彼方の海外の地にまで送り込んだあの戦争の凄まじさを肌で感じることができる。

 わたしの知らないあの戦争を、墓石の文章は、どの書物より、どの映像よりも現実のものとして教えてくれるのである。(2000年8月13日)
 
 



 屋外に設置した拡声機による放送は、けっして確実な伝達手段ではない。風向きによって聞こえるところと聞こえないところが必ず発生する。しかも、特定の地域にだけ聞こえるような放送は不可能であるから、必ず関係のない人たちに騒音被害をもたらす。

 また、拡声機による放送は、テレビやラジオの放送などと違って、聴取者の側に選択権がない。まったく強制的な手段である。そのような手段を使ってまで伝えるべき情報があるとすれば、それは災害情報ぐらいのものであろう。

 ところが、このようなものを町内会の連絡手段に使うようにと奨励している地方自治体がある。例えば、明石市である。そしてこの放送設備を設置するために市が金銭的補助もすると言っている。この設備にはかなりの金が必要だからである。

 とすると、この設備で潤う企業もあるはずだ。つまりはここにもしっかりと利権が絡んでいるのだ。

 民主的な手続きという点で不適当なこのような設備に熱心であるために、いったい他にどんな理由が考えられるだろうか。それとも単に明石市の役人に民主的な考え方が不足しているだけなのだろうか。(2000年8月13日)
 
 



 横山ノック前大阪府知事のセクハラ事件にたいする有罪判決が出た翌日の全国紙は一斉に社説でこの判決を取り上げ論評した。

 これを見ても、この事件の対立軸が原告女性対横山氏ではなく、マスコミ対横山氏であったことがよく分る。もはやマスコミにとって大切なのは、マスコミに挑戦した横山氏をやっつけることで、事件の真相などどうでもよくなったかのごとくである。

 例えば、家族の反対を押し切って告訴した女性の勇気をたたえる記事をあっても、ではどうして事件の翌日に告訴できたのという点に疑問を呈するマスコミはない。

 また、最初に彼女と接触した弁護士(一部で共産党系弁護士と報道された)が彼女を政治的に利用したのではないかという疑いは消えない。しかし、この点に言及するマスコミはもはやなくなった。

 このような扇動的なやり方は、わたしの中のマスコミに対する信頼感を新たに減ずるものだった。

 将来、原告女性は告訴したせいで就職に苦労するかもしれない。この女性を英雄扱いしたマスコミ各社は、自社への就職を提示して、彼女の「勇気」に報いるべきだろう。 (2000年8月11日)
 


 


 今年のプロ野球のオールスターゲームはセリーグの圧勝で終わったが、これは逆指名によるドラフト制度の形骸化とフリーエージェント制の導入が何をもたらしたかを白日の下にさらけ出したと言ってよい。

 実力のある新人選手は逆指名制度によって人気のあるセリーグに集まり、実力のあるパリーグの選手がフリーエージェント制度によってセリーグに移籍するのであるから、セリーグがパリーグより強くて当然なのである。

 また、この二つの制度によって、実力のある選手は、最も人気のある巨人に集まってくる。特に、フリーエージェント制度によって、他の球団の有力選手の多くは、巨人に移るかアメリカの大リーグに行くかするのであるから、巨人と他の球団の実力の差は開くばかりである。

 こうなれば、当然、今後毎年巨人が優勝することだろう。では、他の球団のファンは何を楽しみにプロ野球を見ればいいのだろうか。プロ野球機構のお偉方には、ぜひ教えてもらいたいものである。(2000年7月28日)
 
 



 「人間の休息を敵視する神が学問を発明したというのは、エジプトからギリシアに伝わった古い伝説でした。では、学問の生みの親であるエジプト人自身が、 学問について持っていたにちがいない見解は、どんなものだったのでしょうか」(岩波文庫、ルソー『学問芸術論』第二部冒頭)

 「どんなものだったのでしょうか」はないでしょう。ルソーはそういうものだった、つまり休息を邪魔する程度のものだったと言っているのですから。実はここは、原文には疑問詞が付いていますが、意味的には疑問文ではなく感嘆文なのです。

 「学問の生みの親であるはずのエジプト人が、学問に関していったい何という意見を持っていたのでしょう。こんなはずがあるでしょうか」とルソーは言っているのです。

 疑問文の中のdoncは辞書を引くと「いったい」と訳すことはすぐ分ります。それを「では」と訳すなんて、いったいなんという学者が日本にははびこっているのでしょうか。
 
 これが第一流の学者として名前が通っているのですから、いやはやです。この翻訳にはこの種の誤訳がたくさん入っているので気をつけましょう。(2000年7月27日)




 今や出版業界はコンパクトディスク(CD)が花盛りである。コンピュータやインターネット関係の雑誌や書籍にはCDの付いているのが常識である。

 そのCDが今度は語学関係の書籍にも広がってきた。これまでは語学の書籍はテキスト中心でネイティブスピーカーが話す声を聞きたければ、別売りのカセットを買わなければならなかった。カセットは一本二千円はしたものだ。

 ところが、もうこの別売りカセットを買う時代は終わった。テキストの内容を吹き込んだCDが本に付録で付いてくるようになったのである。しかも、値段は本だけのときと全く変わらない。

 これは、CDはカセットテープよりも安く大量に複製でき、しかも本に添付するのが簡単であるためだろう。

 そうなると次は音楽CDの番ではないか。カセットやレコードからCDに移ったときに中身は同じなのに値上りした。しかし、今ならもっと安く作って安く売れるはずである。それを出版界が教えてくれている。(2000年7月26日)
 
 



 先日のこと、わたしは涼を求めて入ったある喫茶店でクリームソーダを注文した。一口飲んだソーダ水にかすかにチーズのような臭いがしたが、おかし いと思いながらアイスクリームだけ食べてしばらくすると、溶け出たクリームがソーダ水と完全に分離してしまった。わたしはこれはおかしいと確信して勇気を 出して店員にクレームをつけた。

 やがて出てきた店長らしき女性は、わたしにクレームの内容を確認すると、謝罪もせずに店の奥に引っ込んでこうのたまわったのである。「ソーダ水が 薄いとこういうことがあるのよ」と。そして「アイスクリームはもう食べてるから、ソーダ水を足せばいいでしょう」と言ってから、ソーダ水を上から注ぎ足し たものを持ってきたのである。

 彼女にすればうまくやったつもりかもしれない。しかし、こんなことをされて再び同じ店に足を運ぶ客がいるだろうか。客商売で生きる人間なら、せめて客のクレームを真剣に受け取る心構えは持っていて欲しいものである。(2000年7月24日)
 
 



 プロ野球のヤクルト球団が古田選手をオリンピックに参加させないことを決めたことは、国の威信よりも一企業の論理を優先させた結果であろう。今の時代には、そういう決定もあるのかもしれない。

 しかしである。そのチーム名が示す通り、ヤクルト球団は、ヤクルトの宣伝活動の一環として存在する。言ってみれば、古田選手はヤクルトの宣伝員の一人である。

 その古田選手が、全国民が注目するオリンピックに出場した場合と、ヤクルトがペナントレースで優勝した場合とでは、どちらの宣伝効果が大きいであろうか。

 さらに、古田選手をオリンピックに出場させないことに対する国民の反発は、ヤクルトの売れ行きに何の影響も与えないのであろうか。

 ヤクルトといえば、一個何十円の商品を売るためにヤクルトおばさんたちが頭を下げてまわっている商品である。わたしは、今回の古田選手出場拒否を決定するときに、そのおばさんたちの努力が、首脳陣の頭の片隅にあったかどうか疑わしいと思っている。 (2000年7月23日)
 
 



 日本の小選挙区制度は現状ではうまく機能しているとは言えない。これは、地元密着の後援会型の選挙のためだと思われる。

 例えば、小選挙区制なら、政府が失政を行えば、一度の選挙で政権交代が起ると言われたが、後援会型選挙ではそんなことはまず起らない。

 また、今回の選挙で、汚職議員が当選したり、大量の二世議員が当選したことも、後援会型選挙が小選挙区制の掲げた理想の実現を阻んでいる例である。

 小選挙区制の理想である、政権交代が起きやすく、汚職議員が淘汰されるような選挙制度にするためには、後援会型選挙が出来ない仕組みにするしかない。具体的には、後援会作りを事前運動として禁止することである。

 こうすれば、候補者は全て地元出身者以外のいわゆる落下傘候補と変わらなくなる。そうなれば、もはや日本型の利益誘導政治もなくなるし、国会議員は今のように後援会作りのために奔走することがなくなるため、国政に集中できるようになる。

 小選挙区制は日本に向かないという議論は、まずこの後援会型選挙をやめてからにしてもらいたい。(2000年6月29日)
 
 



 野村監督で阪神は強くなるはずだったのに、どうして強くならないのでしょうか。

 野村監督は潜在能力を引きだす名人だということは、他球団で証明されています。すると阪神には、潜在能力のある選手が新庄以外には一人もいなかったというわけでしょうか。

 ヤクルトには潜在能力の高い選手がいっぱいいた。古田とか、飯田とか、土橋とか、いっぱいいた。しかも外人のホームラン王が必ずいた。しかも、すごいピッチャーがいっぱいいた。ところが、阪神にはどれもいないのです。

 とすると、これは阪神のスカウトがスカばっかり連れてきたということですね。そして、二軍の練習が甘くて、一軍クラスの選手を作れていないということでしょう。

 これでは、野村さんでも勝てないのは仕方のないことでしょう。

 それとももう野村さんの知恵も尽きたということ?それに、あげまん女房の不幸がひびいている?(2000年6月27日)
 



 今回の衆議院選挙の投票率の低さは危機的なものである。前回、およそ59パーセントしかなかった反省から、投票時間が2時間延長され、不在者投票も簡素化されて、投票しやすい環境になったにもかかわらず、たったの3パーセントしか増えなかった。

 こうなれば、選挙権が持てる年齢を18才に引き下げるしかないのではいなか。

 小・中・高と学校にいる間、若者たちはみな学校の中でいろんな機会に投票を行っており、投票することは学生にとっては自然な行為となっている。

 ところが高校を出て次に投票するまでの2年間はほとんど投票することなしに過ぎてしまう。その間に、若者の多くは投票することの意義を忘れてしまい、その結果、投票しなくなってしまう。しかし18才から投票権があれば、そのブランクを防ぐことが出来るのではないか。

 また、高校で選挙に行く心構えを教えればよい。高校生である18才のときに選挙があれば、その教育が実地に生かされることにもなる。(2000年6月26日)
 
 



 今回の衆議院選挙で、汚職で有罪判決を受けた議員が当選したことは、この国では小選挙区制による選挙では政権交代は起らないことを象徴的に示した出来事だと言える。

 小選挙区制にすれば、汚職議員は淘汰されるというスローガンは、この国ではまったく当てはまらないことが明らかになったのである。これは、わが国民は善悪に基づいた合理的判断ではなく、あくまで候補者に対する好き嫌いで投票するということを示している。

 小沢一郎氏が、この衆議院選挙で与党は過半数をとれないと言明したのは、国民が合理的判断力を持って投票すると誤解したからである。もしそうなら、これほど失政を続ける与党が過半数を取れるはずがない。

 現代のように国が危機に陥っているときに、国民がこのように相も変わらず私的理由でしか投票できないことは、この国にとって絶望的なことである。

 もし日本で政権交代を実現したければ、小選挙区制ではなく、別の選挙制度を考えなければならないことが、この選挙で明らかになったと言える。(2000年6月26日)
 




 シドニー・オリンピックの野球の日本代表にプロ野球のヤクルト球団が古田捕手を出したくないと言っているが、それは当然だと思う。なぜなら、プロの試合で勝つことが彼らの仕事だからである。

 アマ側は日本が勝つためには古田捕手が必要だと言うが、そもそもアマチュアの団体がオリンピックに出場するのにプロ野球の選手の助けを借りようとするところに問題がある。

 今度のオリンピックはアマチュア主催で監督もアマチュア出身なのだから、選手もアマチュアだけで戦うべきである。

 どうしても日本に勝利をもたらしたいというのなら、アマ側は監督人事も何もかもプロ側に譲るべきだろう。そうすればきっと勝つチャンスは 広がる。しかし、手柄もプロ側に行ってしまうだろう。アマチュア中心でしかもプロの力を借りて自分の手柄にしたいというのでは虫がよすぎる話である。

 あの選手が欲しいこの選手が欲しいと、人のふところに手を突っ込むようなまねはやめることである。(2000年6月23日)
 
 




 わたしは自治会活動に反対するものではないが、あまり活発なのも考えものだと思っている。

 自治会の会長に会社を退職したような人がなる場合には、自治会活動に非常に熱心になって、毎日毎日それにかかりっきりになる方がおられる ようだ。そうなると自治会の行事や活動をつぎからつぎへとやろうとする。その連絡のために、屋外の拡声機を使って毎日のように放送する。役員会は平日でも かまわず開催する。自治会内の誰かが亡くなると葬式の告知までやる。もはや個人の自由な生活などは無いがごとくである。

 こうなればその自治会の人間の中にも苦々しく思う人も出てこようが、熱心にやって下さるのだからと我慢もできよう。しかし、そ の自治会の外に住む人間には迷惑以外の何ものでもない。なぜなら、その熱心な放送がチャイムの音とともに、自治会の外に住む人間の耳にも必ず聞こえてくる からである。

 自治会活動は熱心なものになればそれだけ、人迷惑なものにもなりうるのである。 (2000年6月21日)
 
 




 横山ノック氏が強制わいせつ罪の裁判で罪を認めたのを見て、「真っ赤な嘘」をついていたのは自分の方だったじゃないかと息巻いた新聞のコラムがあったが、このコラム氏は真実が法廷で語られると思っているのであろうか。

 法廷とは決して真実が明らかになる場ではない。このことはこれまでの日本の裁判の歴史で明らかである。この前の愛媛の誤認逮捕事件でも、 真犯人が現れなかった場合には、無実の被告がそのまま有罪の判決を受けただろうと言われている。そのように、裁判官は検察官の主張を鵜呑みにする傾向が大 なのである。

 しかも強制わいせつ、つまり痴漢の裁判で無罪を主張しても主張が通ることはまずなく、最高裁まで争っても無罪にならないことが普通だと言われている。

 さらに、無罪を主張すれば裁判官の心証を害して「反省の色がない」として重い刑を言い渡されるのである。

 つまり、無罪を主張することは、日本の裁判では不利な立場に自分を置くことにほかならない。そのために、軽い罰ですますために、仕方なく罪を認めた人がこれまでにどれほどいたことか。

 横山氏は裁判を続けて残り少ない人生を空費することを避けるために、無実であるにもかかわらず、有罪答弁をしただけのことなのである。(2000年6月20日)



 
 

 森首相の「神の国」発言は、戦前の日本を全否定してきたこれまでのものの考え方に対して一石を投じたものと見ることが出来る。

 今の日本には、自分さえよけれぱという個人主義が蔓延して、一人ひとりがばらばらに生きている国になってしまっている。それでいいのか、 天皇を中心としてまとまりを持つ国に戻ってもよいのではないか。わたしは、首相のこの発言をそう受け取った。それは教育勅語にもいいところがあるという別 の発言からも、うかがうことが出来る。

 戦前=悪、戦後=善であるという価値観からすれば、こんなことはけしからんということになるだろう。しかし、教育勅語があったから、明治憲法があったから戦争になったというのはあまりにも短絡すぎる考え方である。

 歴史とは現代の価値観から過去を断罪することではないはずだ。

 間違いは改めるとしても、自分の過去のなかの良い点を見直すことに躊躇してはならない。首相はそう言っているのである。(2000年5月28日)
 



 

 森首相に対する支持率が急降下しているが、その原因は「神の国」発言そのものよりも、むしろその後の首相の自信なげな対応ぶりが原因ではないだろうか。

 一部のマスコミは別として、この国の国民はそれほど人の意見に対して狭量ではない。しかし、あの発言のあとで国会で謝ったり、党首討論を拒否したのに対して、がっかりした国民は多いと思う。

 野党の求める党首討論を受けて立って、堂々と自分の意見を述べて相手をやり込めるくらいのことをしていれば、かえって支持率が上がったかもしれないのだ。

 その好機を生かそうともせず、あげくに人の書いたものばかりを読むこの体たらくぶりは、とても一国のリーダーにふさわしいものとはいえない。

 いま国民はこの人に沖縄サミットを任せて大丈夫だろうかと心配になっている。野党の要求は別として、もし自分の言動に自信がないのなら、即刻辞任すべきだろう。そうでないのなら、堂々と自分の意見を語る勇気を見せてもらいたい。(2000年5月23日)
 



 

 あるテレビの番組で、4人のタレントをあげて、この中でいっしょに不倫旅行をしてもいいと思う人は誰かと、若いOL五十人にアンケートをした。すると、その五十人全員が、そのうちの誰かを指名したのである。

 これは驚くべきことである。つまり、だれ一人として不倫旅行は悪いことだから、選べないとは言わなかったのだ。若い女性の道徳感の堕落ぶりをこれほど如実に示すものはない。

 もともとテレビ局はあたかも不倫を奨励するようなドラマを作ってきているのであるから、何の疑問も抱かずにテレビ局がこのようなアンケートを企画して、女性たちがそれに喜んで答えるのは不思議ではないかもしれない。

 しかし、テレビ局はニュースやワイドショー番組の中ではいろんな事件が起きるたびに世の中の堕落ぶりを嘆いているのである。

 視聴率全盛のこの時代に、もっと一貫性のある番組作りをテレビ局に望むのは無理なことなのだろうか。(2000年5月5日)



 
 

 大阪の引ったくり事件を減らすためには、警察による「おとり捜査」の導入しかないのではないかと、わたしは思っている。

 警察官がおばさんの格好をして人気の少ない道を歩くのである。もしこれで悪ガキを一人でも捕まえることが出来たら、本当のおばさんの持ち物に手を出す少年の数は激減するのではと思うのである。

 現在、日本では「おとり捜査」は原則として禁止されている。そのため逆に、日本の子供たちはおばさんたちを狙って、安心して引ったくりを繰り返している。そのおばさんがもしかして警察官かも知れないとなれば、それだけで、犯人たちに二の足を踏ませる効果があるはずだ。

 「おとり捜査」を導入は、自白に頼った捜査方法を改善することにつながるという利点もある。この捜査方法によれば証拠が確実に得られるため、犯人の自白はなくても確実に有罪に持ち込めるからである。

 実際の導入には立法化が望ましいが、まずは引ったくりに限って大阪府が条例を作ったらどうだろうか。(2000年4月21日)
 



 

 テレビで第二次世界大戦のドキュメンタリーを見た。その中に、ヒトラーのドイツはソビエトと東ヨーロッパを半分ずつ支配するつもりでポーランド侵攻を始めたというくだりがあった。

 それに対して、イギリスがドイツに宣戦布告したというのだ。そしてヨーロッパ全土を焼土にして、イギリスはドイツに勝ったが、その結果どうなったか。東ヨーローパの全部と、ドイツの東半分までもが、ソビエトのものになってしまったのである。

 これではイギリスは何のために戦争を始めたのか分らないではないか。

 もともとポーランドは昔から周辺諸国の分割を受けてきた歴史がある。それと同じことが起ったと考えて、もしイギリスが戦争を始めていなければ、ソビエトは東ヨーロッパの半分しか手にすることなく、平和な世界が続いていたかもしれないのだ。

 これは正解ではないかもしれない。しかし、イギリスなどの戦勝国の視点から書かれた歴史だけが正解ではないことは確かだろう。(2000年4月14日)
 



 

 「一人を殺せば殺人罪だが、百人殺したら勲章がもらえる」。これは戦争を批判するときによく言われる言葉だ。しかし、戦争でないときに は、一人殺しても百人殺しても、殺人罪であることに違いはない。戦争の場合は殺人を社会が認めているのに対して、単なる殺人はそうではないが故に罪に問わ れるのである。

 死刑についても同じことが言える。死刑も殺人には違いないが、これもまた社会が認めた殺人であるから合法的殺人である。

 そのほかに、成功すれば犯罪ではないが、失敗すれば犯罪となる殺人もある。クーデターや革命における殺人がそうである。成功すればそれは社会が認めたものとなり、失敗すればその逆ということになる。

 つまり、多くの人間の同意を得ることが犯罪行為をそうでなくす決め手になるということである。

 一般的に世の中に変化をもたらすこと(人間を一人減らすこともそれに含まれる)は、たとえそれが良いことではあっても(「あんな悪いやつはいないほうがいい!」)、必ず誰かの利益を損なうことであり、したがって、個人が勝手にやると犯罪になる。

 多くの人間の同意を得る過程が重要であるゆえんである。(2000年4月9日)
 





 摂津の少女誘拐事件の犯人が逮捕されたが、その決め手になったのが誘拐された少女の証言だったという警察発表にわたしは危惧感を抱いた。警察は功を焦ったのではないか。

 顔写真を見た少女が「このおっちゃんや」と言ったというのが逮捕につながったというが、これは将来の犯罪者に子供を生きて返せば自分の逮捕につながるという教訓を与える恐れがあるからである。

 この種の事件は毎年必ず数件発生する。将来、事件に巻き込まれることになる子供の命にまで配慮がおよぶべきではなかったか。

 その後、自白も得られ、家宅捜索で物証も見つかっているが、もし物証が見つからず自白も得られなかった場合、少女が法廷に立たさせることにもなっていただろう。

 物証が無いまま被疑者の逮捕に踏み切ったことも、自白に頼った捜査として批判されるべきだ。

 犯人が捕まってよかったで済まされる問題ではない。捕まえ方にもっと気を使って欲しかったと思う。(2000年4月8日)
 



 

 自由党が政権から離脱して、野党に帰ってきた。野党の議員たちは「よくやった」とこれを歓呼をもって迎えるべきであろう。自分たちが望ん でも叶えられなかった党首討論の場を作り、政府委員を廃止し、閣僚の数を減らし、衆議院議員の定数を削減したのは、これすべて小沢一郎氏の功績である。

 そして、いまこの強い味方が野党の側に帰ってきたのである。

 一昨年の金融国会で小渕内閣に野党案を丸のみさせることが出来たのは、参議院の首相指名選挙で野党統一候補を立てて管直人氏を首班に選出した小沢一郎氏の発案がその出発点だった。もしそれがなければ、野党は今と同様にばらばらの無力な烏合の衆に過ぎなかったろう。

 思い返せば、ここ数年の政局の動きはすべて小沢一郎氏が作り出してきたものだ

 今、その小沢氏が野党の側に戻ったのである。野党の議員諸君は今の守勢を攻勢に転じるために、彼の帰還を歓迎することはあっても、けっして仲間外れにすることはできないはずだ。(2000年4月7日)
 
 




 本当に偉い人間のことは他人には理解できないものだ。どうしてそんなことをするのか。きっと何かの計算があってのことだろうと、自分と同じレベルから推 測する。無私な心から出ている行為などあるわけがないと思っているから、党利党略だとか、保身だかとかいう観点からしか、説明できない。

 なぜ、今政権を離脱するのか。党利党略を考えているに違いないと誰もが思う。しかし、自民党が党利党略だけを考えているから大 政党であり続けていることを考えると、減る一方の小沢一郎氏が党利党略で行動しているとは考えにくい。むしろ、それが無いがゆえに、人が離れていくのであ ろう。政策実現一本やりであるから人がついてこないのだろう。「バンがなくては生きていけないのだ」と言って、人が離れていくのだ。

 偉い人といえば、横山ノック氏もそうだ。まったく不可解な行動を次々とやる。どうして、民事訴訟で争わなかったのか。どうして刑事訴訟でも争わないことにしたのか。まったく常人には理解しがたい行動である。

 訴訟というものは、オーム真理教の裁判を見ても分るように、やり方によっては何年でも引き伸ばすことが出来る。激しく争えば、知事の任期の4年などはあっという間に過ぎてしまうことだろう。しかし、彼はそれをしなかった。

 マスコミはこの行動を自分の利益のためにやったしかとれないでいる。さもしい心根しか持ちあわせていないとそういうことになる。しかし、あの人は、右の頬をぶたれたら左の頬を出す人なのではないかと思えるのだ。

 わたしたちは人の行動に対して軽々に判断を下してはならないのである。(2000年4月4 日)
 



 バルザックの『谷間の百合』を読んでいると、「二人の女性」という題の第三巻でレディー・ダッドレーとレディー・アラベルという二つの名前に出くわす。

 ああ、これが「二人の女性」の名前なのかと思いながら、読み進んでいくと、どうもおかしい。どうもこの二つの名前は一人の女性を指しているらしいことに気づく。

 外国の書き物にはこういうことがよくある。同じ人間について、そのファーストネーム、セカンドネーム、肩書き、あだ名、果てはその人間の特徴など、いろんな呼び方でその人間を指すことがよくある。

 翻訳がこれをそのまま訳すと、別の人間がたくさん出てきているように読めてしまうことになる。それで親切な訳は同じ人間を指していることが分るように配慮することになる。当然原文にない言葉を使うことになる。

 しかし現在手に入る『谷間の百合』の日本語訳はその配慮がないので注意が必要だ。(2000年4月7日)
 



 古墳の発掘などで「邪馬台国」と「卑弥呼」の話題が新聞のニュースになるたびに、わたしはどうしてこのような国辱的な名前を自分の祖先に使って恥じないのであろうか思う。

 「邪」とか「卑」とかいう文字は、相手をさげすむ意味を持つものであり、当時の日本人が自分の国や女王の名前に使うはずはなく、当時の中国人が日 本人をさげすんで「邪馬台国」や「卑弥呼」という名前を使ったことは明らかであろう。それを現代の日本人がどうして何の疑問もなく自分の祖先に対して使い 続けるのであろうか。

 さらには、学者たちは当時の中国の史書を金科玉条のごとくに扱って、「邪馬台国」が奈良にあったか九州にあったかなどと論争し ているが、こんな差別的な史書にどれほどの信ぴょう性を期待できるだろうか。それが誤解と偏見に満ちたものであることは容易に想像がつきそうなものだ。

 「邪馬台国論争」はこのような常識的な感覚とあまりにかけ離れているとわたしは思っている。(2000年3月28日)
 
 




 国会における証人喚問の場において偽証を行った者は、議院証言法によって国会から告発される。告発されなかった場合には、偽証はなかったということになるはずだ。

 ところが、その同じ事件について、裁判官が判決の中で、国会における証言を嘘と断じることが間々生じている。最近では、商工ローンの取り立てに関する判決がそうであり、今回の山口前労働大臣に対する判決がそうである。

 証拠が無いがゆえに国会は偽証を告発していないのである。その同じ事件について証拠もないのに一裁判官が自分の心証だけで勝手に偽証と断 じているのである。これはどういうことだろうか。この裁判官は国会が間違っていると言っているのだろうか。それとも国会の怠慢を告発しているのであろう か。

 国会は、自分の権威を無視して、自らの頭ごなしにこのような判決を書く裁判官に対してどうして黙っているのであろうか。一裁判 官の判断の方が国会の判断より優先されるなら、証人喚問など単なるセレモニーでしかなくなってしまう。もしそうなら、そんな証人喚問など時間と経費の無駄 だから、やめてしまうほうがよい。(2000年3月16日)
 





 わたしは死刑制度に反対だが、その理由は、自分はえん罪で死刑台に立ちたくはないということ、それに自分は死刑を執行する人間にはなりたくないという二点にある。

 人知には限りがある。えん罪は防げないのである。ならば死刑制度があるかぎり、いつ自分がえん罪で死刑になるかもしれないのである。その時、死刑制度を維持するために自分は犠牲になってもよいと思えるなら、死刑制度に賛成すればよい。

 裁判の審理の結果によるものであっても、死刑は人殺しの一つに違いはないのだ。天上の世界から見れば、死刑もまた愚かな人間が殺し合いをしていると見えるだけのことである。

 死刑制度には人の命を社会の持ち物と考えるおごりがある。しかし、もし人の命は神からの授かり物だと思うなら、それを人間が勝手に理屈をつけて奪って良いはずがないことは簡単にわかるはずだ。

 一方で、命を大切にしようと言いながら、他方で人殺しに賛成する、これが大いなる矛盾ではないと証明できるなら死刑に賛成すればよい。(2000年3月16日)
 



 
 

 「物事の是非を判断するのに専門的知識は必要がない。物事の最終的な判断を下すのは国民であり、一官僚であってはならない」

 裁判の陪審制はこの二つの点に立脚している。したがって陪審制の裁判では裁判官は決して主役ではない。

 しかも、日本の陪審制は戦争で中止になっているだけで廃止されてはいない。したがって、現在の裁判では裁判官が市民になり代わって判決を下しているだけである。さもなければ、一官僚に過ぎない裁判官に強大な権力が与えられていることになる。

 その精神は、現代の日本の裁判でも忘れてはならないと思う。つまり、彼は単なる行司でなくてはならないのである。裁判官は中立の立場に あって、原告被告のどちらの言い分にも取り込まれるようなことがあってはならない。彼はどうすれば公平な立場を維持できるかに最大の考慮を払うべきであっ て、その意味で、あくまで黒子の立場を守らなければならない。

 逆に言えば、裁判官は世の中を良くしようなどという気を起こして、表に出てくるようなことがあってはならないのである。ところが日本の裁判官はこうした立場を忘れて、正義の味方のふりをしたがるようだ。しかし、それは思い上がりというものである。

 最近、陪審制についての論議が盛んになっているが、それはこうした裁判官の思い上がりを反省させるためにも意義のあることだと思う。(2000年3月15日)
 



 

 アメリカ大リーグのロッカー投手の差別的発言に対する処分が結局軽いもので終わったことは、アメリカ社会では個人や組織に対する批判には 必ずそれに対する別の見方が現れて、それが緩衝剤(クッション)として働いて、極端なバッシングに進むことなく収束することの一例と見ることが出来る。

 それに対して、日本では批判は必ずバッシングに進み、適当なところで終わることが出来ずに、相手からすべてを奪い取るまで進んでしまう。

 クリントン大統領の女性問題が罷免に至ることなく終わったのに対して、大阪府知事が辞任に追い込まれてしまったのも、その一例と見ることが出来る。

 日本社会は反対意見を許さない狭量な社会である。オーム真理教、野村沙知代問題、大阪府知事、商工ローン、そして今の警察と、バッシング が続いている。これらを悪と見なす以外の見方はすべて封殺されしまっている。そして、別の見方が現れるとそれもバッシングの対象になるだけで緩衝剤の役割 を果たすことなく、行き着くところまで行ってしまうのである。

 こういうことを避けなければならないという考え方がもともと日本社会には欠落している。そこには生け贄の羊を避けようとする賢 明さがない。誰かを人身御供にしても事態が解決するわけではないという理性的判断力がない。物ごとには必ず二つの見方があるということを認めたがらず、そ のためにヒステリー現象を避けることができない。つまりは、合理的思考能力が尊重されない社会なのである。

 新潟県警の問題については、監察時期が監禁事件の発覚の時期と重なったということが最大の不運であったのは事実である。しか し、「運が悪かった」という首相の一言はバッシングを呼んだだけだった。あれこそは別の見方を提供するものであるにもかかわらずも、マスコミはそれを利用 することが出来ずに、けしからんとか、不謹慎とかいう批判を浴びせただけだった。しかし、これこそまさにヒステリー現象が起っていることの証拠である。そ こではいつも情緒的・倫理的批判が優先されて、合理的批判がしりぞけられてしまうのである。

 そしてこの社会のヒステリーは、第二次大戦のときからずっと変わっていないのではないかと、わたしは思っている。(2000年3月13日)
 




 時代劇を見ると悪いことをする人間は必ずどこまでも悪い人間であり、被害者はどこまでも良い人間である。そして勧善懲悪の世界観のもとに悪が懲らしめられる様子が描かれる。

 一方、サスペンスものの現代劇ではそうではない。犯罪者は決して悪い人ではない。むしろ被害者の悪辣な仕打ちに耐えかねたうえでの犯行であったり して、様々なやむにやまれぬ動機が描かれる。むしろ、犯人は善人である場合が多い。したがって、現代劇では犯人はスターが演じる。ここでは勧善懲悪の価値 観だけでは出来事の意味は測れないことを視聴者は知る。そして人生の不合理を学ぶのである。

 ところで、新聞やマスコミはどうかというと、これは勧善懲悪の価値観に基づいて記事が作られている。ちょっと驚くことだが、時代劇と同じなのだ。

 しかし、われわれはすでにサスペンスものによって、犯人は必ずしも悪い人間ではないことを知っている。争いごとがもとで殺人事件が起きた 場合などは、犯人は被害者に余程ひどい目に会わせられたのだろうと想像する。また、被害者が何の罪もない子供である場合でも、そんな子供を殺すとは、加害 者は余程どうしようもないところに追い込まれた不幸な人間だろうと考える。そして、それが大人の物の見方だ。

 つまり、ある程度精神的に成長した人間は、加害者=悪人とは考えないものである。

 ここから見ると、マスコミの物の見方がいかに一面的であるかがわかる。新聞などを見ると、加害者が極悪人であるように書いてあるが、それ はそうするのが彼らの仕事だからである。決して本心からそう思っているわけではない。だから、新聞を読むときは、そこに書いてあることをそのまま真実であ ると信じてはいけないのである。

 何故マスコミがこういう一面的な書き方をするのかというと、それは新聞がよく売れるためである。そしてそのためには、事件を分かりやすくセンセーショナルに描く必要があるからである。そのほかに、彼らは警察と仲良く仕事をする必要があるというのもその理由の一つだ。

 警察は、「こんな悪いやつだから逮捕という強制的な手段をとったのだ」と、自分たちの行動を正当化する。そのために、犯人を悪い人間であ ると表向き主張するのである。しかし警察官とて馬鹿ではないから、本当はそうではなく加害者が非常に不幸な人間あることぐらいは知っている。

 しかし、われわれはこうしたマスコミの犯人の扱い方をそのままの形で受け入れがちである。そして、何の疑問も持つことなく、犯罪者を悪人であると思い込みがちである。

 新聞を読んだりテレビのニュースを見たりするときは、これは事件を時代劇調(正義の味方!)で描いたものであると思いながら、見たり読んだりすることを忘れないようにしたい。(2000年3月3日)
 



 
 

 新聞やテレビの報道の内容が間違っているとすれば、その責任はまず何をおいてもマスコミにある。もし警察が嘘の発表を行ったとしても、それをそのまま報道すれば、その責任はまずマスコミにあるはずである。なぜなら、マスコミは警察の公報機関ではないからである。

 今回の新潟県警の嘘発表についても、国民はマスコミを通じて嘘を教えられた。つまり国民に嘘をついたのはまずマスコミである。その嘘の源 が警察の発表であったにすぎない。マスコミはこれが嘘であるかどうかを自分で調べてから報道するということを怠った。マスコミは警察の発表を裏付けも取ら ずにそのまま報道したのである。マスコミの怠慢である。

 今回の嘘に対して警察の幹部は責任をとったが、どこの新聞社の社会部長も、嘘を報道したことに対して何の責任もとっていない。不思議なことである。むしろ、マスコミは誤報の全責任を警察になすりつけることで自分たちの責任を完全に回避したようにみえる。

 しかし、今回の嘘によって警察だけではなくマスコミの信用も損なわれたことを忘れてはならない。マスコミはよく調べもせずに警察の発表をそのままニュースとして流していることが明らかになったからである。(2000年3月3日)
 




 関西では夕方のテレビ番組でワイドショーを二つの局が放送しているが、いずれも視聴率が低迷しており、他の局が再放送しているサスペンスドラマに勝てないでいるそうだ。

 その原因は、これらのワイドショーがニュースや芸能情報をほとんど扱わないためだと思われる。

 東京発のワイドショー番組が芸能ニュースや三面記事的なものを中心にしているのとは一線を画している姿勢は評価できる。しかし、関西のワ イドショーはいずれも中身が、健康や娯楽、料理など生活情報が中心で、特に興味を引くものはなく必然性のあるものでもなく、むしろ画一的であると言える。 それらは総じて「お気楽情報」と一括りできるものばかりなのである。

 それらに比べるとサスペンスドラマの内容ははるかに濃厚である。架空の犯罪事件を内容にしながらも、人生を生きるということの意味を問いかける重いテーマを持つものが多いのである。人の幸不幸とは何かと考えさせるものが多いのである。しかも、そこには感動がある。

 いわば人生の表側を撫で回しているだけのワイドショーが、人生の深層を見ようとするサスペンスドラマに勝てないのは当然であろう。

 わたしはこれらのワイドショーを見ていると、大阪の人間はまじめにものを考えることが苦手なのであろうか、何でも笑っていれば済んでしまうと考えているのではないかと思ってしまう。

 そう言えば、これらの番組は先の大阪府知事の交代劇の際にも、これをまじめに取り上げて考えてみようとしたことも無かったように思う。

 しかし、低い視聴率が示すように視聴者は連日提供されている「お気楽情報」ばかりを求めてはいるのではない。東京のワイドショーと違った切り口で、時事問題を取り上げる方向があってもよいのではないか。(2000年3月1日)



 
 
 
 国会は言論の府である。議員はそこで議論を戦わせて物事を決めていくのが仕事である。ところがこんな基本的なことがわからない人たちがこの国の国会議員の中には沢山いる。今、審議拒否をして国会に出てこない議員たちのことである。

 彼らは議論以外の方法で物事を決めようとしている。これはルール違反であり邪道である。

 議論をするのは自分の考えの正しさを人にわかってもらうためである。わかってもらえなかったら議論に説得力がなかったのだと反省するしか ない。そこで昔から西洋の政治家たちは説得力のある議論の仕方を身につけようと弁論術の修得に精を出した。一方日本の野党の政治家は議論をしないことを選 んだわけだ。これがいかにこっけいであるかは明らかだろう。国会開設のために命がけで奮闘した明治の政治家たちは、彼らが苦労して開いた国会に出て行かず に議論を放棄している今の野党議員たちの姿を見て、きっと嘆き悲んでいることだろう。

 野党議員たちは速やかに議場に戻るべきである。(2000年2月4日)
 
 
 




 大相撲には八百長があるという板井氏の発言を迷惑視する相撲ファンが多いようだが、わたしはそうは思わない。

 七勝七敗の力士が勝ち越しのかかった千秋楽の一番で必ずといっていいほど勝つこと、有望力士の昇進のかかる一番が、相手力士のたいした攻撃もなく大抵あっさり勝負がつくことなど、ファンが疑問に思うようなことは多いのである。

 しかも、八百長疑惑は以前にも言われてきたが、今回はこれまでと違って歴とした元幕内力士が自分がやったと言っているのであり、しかも単 なる週刊誌ネタではなく公開の場所で行われた発言である。その重みはまったく違うと言わなければならない。証拠がないとむげにしりぞけて済む類いのもので はないはずである。

 わたしは相撲協会に八百長の存在を認めろとは言わないが、例えば取り組みの発表を前日ではなく当日にするなど八百長をやろうとしても出来ない仕組みを考えてもよいのではないだろうか。(2000年2月3日)
 
 




 ある殺人事件に関わっていると目されている青年が釧路の湖で水死体で発見されたというニュースには、まったく痛ましいというほかない。しかし、これを扱 うテレビのニュースショーに見られるのは真相解明という美名に隠れた露悪趣味ばかりであり、命の大切さを訴える言葉はどこにも見られない。

 悪いことをしたのだから死んでも仕方がないというのだろうか。否、この世に死んでいい人間などどこにもいないはずである。どんな悪人であろうと同じである。そうであってこそはじめて、「命を大切にしよう」という願いは人々の間に広がることが出来る。そうではないか。

 逆に、「あんな悪いやつは死んでもかまわない」という思いが容認されているかぎり、自分の、そして人の命を粗末に扱う事件が跡を絶つことはない。そうではないだろうか。

 親鸞は言った。「善人なおもて往生する。いわんや悪人をや」と。ならばわれわれは敢えてこう言おうではないか。「まじめに生きている人の命は尊い。悪人の命はなおさらである」と。(2000年1月31日)


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