「ノックさんならやりかねない」これが横山ノック大阪府知事のセクハラ疑惑に対する大方の関西人の感想だろうか。
しかし、女子大生をとるかノックさんをとるかと言われれば、ノックさんをとるというのもまた多くの関西人の見方ではあるまいか。
ノックさんはこれまで長い間わたしたちを楽しませてきてくれた愛すべき人である。たとえ、女子大生側の主張が事実だとしても、そのためにノックさんが追いつめられるようなことになれば、私たちが失うものはあまりにも大きい。
女子大生側は多大の賠償金を勝ち取ったのだから、もうノックさんをそっとしておいてやって欲しい。これを政治的に利用すること自体、ノックさんの選挙運動員までした女子大生自身の本意ではないと思う。
それにしても、報道とは言い条、これまでノックさんのおかげで潤ってきたことがあるはずの関西の各放送局の今度の事件に対する対応のつれなさは、とても恩人に対するものとは思えない。
わたしは、むしろピンチに立っている今こそ、ノックさんに頑張れとエールを送りたい。(1999年11月4日)
介護保険制度は保険方式ではなく税方式でやるべきという自由党の主張に賛成である。
保険方式を主張する人たちは、負担とサービス給付の関係を明確化できると言う。これは、自分が将来介護を受けるためにあらかじめお金を納めておくという意識を持ってもらえるという考え方である。
しかし、介護保険料はサラリーマンにとっては健康保険と同じく天引きであるため、給料から引かれるというイメージのほうが強く、逆に、自営業者の場合には、国民保険と同じく収めない人が出てくる。要するに、介護保険料には一般に言う保険を収めるというイメージは薄いのである。
むしろ、自由党のいう税方式、つまり消費税を充てる方式こそ、寝たきり老人の面倒を社会がみんなでみるという考え方に合致していると思われる。
それを国民に意識してもらうために、消費税の名前を「介護福祉税」などという名に変えればよい。そうすれば、これまでの消費税の「いやいや払わされる」というイメージも払拭でき、増税に対する国民の拒絶反応も減らせるのではないだろうか。(1999年10月29日)
インターネットのホームページを見ると、よくこんな情報をただで公開しているなと感心するようなページがある。金が取れようが取れまいが、人間は自分を表現したいという欲望が非常に強いということだろう。これまでのメディアを通じて自分を表現するには、金儲けという形をとる必要があった。それは、もちろん飯を食う必要があるためだが、そのほかに、自己表現を公開するためには他人の手を借りなければ不可能だったからである。
しかし、ホームページというメディアでは他人の手を借りる必要がない。おかけで、金儲けを度外視した自己表現が可能になった。つまり、自己表現を公開するために、自分を売り物にする必要がなくなったのである。
今の世の中はフリーターの時代である。金儲けをしない人たちが大威張りでいられる時代だ。だから、飯を食う必要という第一条件のほうも疑わしくなっている。
かつては物書きは売文の徒と言われ、おのれの身を切って文章を書きながら飯の種を稼いだが、こんな時代にあってはもうそのような人種は育たなくなるかもしれない。自己表現という要求は、金儲けという要求から無関係なまま存在することが可能だからだ。少なくとも、ホームページは金儲けとは無縁でいられる表現の場である。
ところで、はたして、金儲けのからんだ表現とそうでない表現と、どちらがすぐれたものを生み出せるだろうか。興味深いところだ。(1999年10月26日)
西村前政務次官の発言問題で、自分の考えに反する意見に対する多くの日本人の不寛容ぶりをまたも見せつけられた。特にその傾向は左寄りの人間に強い。
彼らは一方で言論の自由を口にしながら、他方で自分の気にくわぬ考えに出会うと、どんな屁理屈でも持ちだして、揚げ句の果てには相手の人格までも否定し、議論の可能性をも含めてその全てを否定しようとするのである。
それにしても、今回の問題の対する民主党の対応には失望した。この党の党首の鳩山氏は、先の党首選挙で徴兵制の復活を主張している。タブーを恐れずあらゆることを議論しようというこれまでにない姿勢の現れであろうかと期待を抱かせるものであった。
ところがその鳩山氏を党首に選んだ民主党が、西村氏のタブーに挑戦する発言に対して野党の先頭に立って罷免を要求した。これでは、民主党がタブーを恐れないのは野党にいる間だけで、民主党が政権についても何も変わりませんよと言っているようなものではないか。(1999年10月21日)
最近、刑事裁判で係争中の被告に対して民事裁判を起こして損害賠償を請求する事例が数多く見られる。わたしはこのような傾向が果たして正しいものか識者の意見を問いたい。
なぜなら、刑事裁判においては推定無罪の立場にある被告が、同時期に民事裁判においては犯人であるとの推測の元に損害賠償を請求される立場におかれるからである。しかも、それらは弁護士という同じ職業のものによって主張されるのである。
これは言い換えれば、ある弁護士が容疑者の無罪を主張している際中に、別の弁護士が容疑者の有罪を主張していることになる。
聞くところによると、金にならない刑事裁判で容疑者の権利を擁護する弁護士の数は少なく、高い報酬が得られる民事裁判で容疑者を追及する民事弁護士の方がはるかに多いそうである。
もちろん彼らにも被害者の権利を守るという立派な使命はあるだろう。しかし、刑事裁判で被告の有罪が確定してから民事裁判を引き受けるぐらいの職業倫理を彼らに期待するのは間違っているのだろうか。(1999年10月19日)
新たに二千円札が発行されるそうだが、わたしは歓迎したい。
このお札の発行を聞いて「二万円札かと思った」とテレビで述べた人がいたが、さぞかしあの方の財布には一万円札の束がうなっていることであろう。
しかし、わたしのような庶民の財布の中でうなっているのは千円札ばかり。たまに一万円札が迷いこむことがあっても、またたくまに千円札の分厚い束に姿を変えてしまう。おかげでわたしは、中身は知れているのにもかかわらず丸々と太った財布でポケットを膨らませて歩くことになる。
もし二千円札が発行されれば、このような不便も少しは解消されることだろう。また、店員が一万円札のおつりに出す千円札を数えているのを、一緒になって首を動かしながら数える手間も減るというものだ。
わたしはこのニュースを聞いたときに、まず何よりもその発想の豊かさに驚いた。西暦二千年に二千円札をしかも沖縄サミットを記念して発行することなど、いったい誰が思いつくだろうか。まだまだ日本の政治家も捨てたものではない。(1999年10月16日)
東海村の燃料会社の事故で、マニュアルどおりにしていなかったことが問題になっているが、わたしはむしろフェイルセーフ、つまり失敗しても事故が起きないシステムになっていなかったことに問題があると思う。
人間のすることである以上はマニュアルが変わっていくのは当然のことだからである。
最初に教えられた方法よりももっとうまい方法はないかと常に思いながら事に当たる、これが人間の当たり前の姿である。また、それでこそ、仕事にもやりがいが生まれてくる。何から何までマニュアルどおりにやって欲しかったら、ロポットにやらせたらよいのである。これは自動車の運転技術一つとって考えてみても分ることだ。
人間は自分の判断と創意工夫で生きている。最初に教えられたとおりにいつまでも同じようにやっていられる人間がいたら、むしろその方が異状である。
今度の事故でマニュアル、マニュアルと言い立てる人は、きっと自分の頭でものごとを考えることのできない人であるとわたしは思っている。(1999年10月14日)
東海村の核燃料施設で発生した事故のおかげで、原子力は危険だから原子力発電などやめてしまえという声がまたざろ大きくなってきた。しかし、これは間違った考えだと思う。
原子の火も、普通の火と同じく、使用を誤れば大災難をもたらすことに変わりはない。しかし、それを上手に管理して利用するところに人間の知恵がある。
昔、人類がはじめて火を手にしたとき、それが有用なだけでなく恐ろしく危険なものでもあることを知って、神として敬いながら活用した。
火によって多くの災難を被ったはずだが、だからといって、火は危険だから使わないようにしようとは考えなかったのである。もしそうしていたら、人類は現在の文明を築くどころか、とっくの昔に地球上から姿を消していたことだろう。
石炭や石油などの化石燃料がこの地球上から枯渇するときは必ずやってくる。太陽電池を家の屋根につけたところで、その家の必要電力すらまかなえないのが現実である。原子力発電をやめてしまうことは人類の歴史に逆行するだけでなく、未来の人類の存続そのものをも危険にさらしかねない行為であると知るべきであろう。(1999年10月8日)
自由党の主張する衆議院議員の定数削減法案に公明党は反対しているが、まったく筋が通っていない。
この法案は、自民党と自由党が連立政権を作るときの合意事項であり、公党間の約束である。公明党はその約束を自民党に破ることを求めているのである。
いったい、人に約束破りを求めることのどこに道理があるのか。
公明党は自民党と連立するつもりらしいが、その際に自分たちもまた自民党と政策協議を行って、政策上の約束を取り付けるのではないのか。その約束を公明党は是非とも自民党に守ってもらいたいはずだ。しかし、いま、公明党が自民党に対して、自由党との約束を破れということは、自分との約束も破ってよいと言っているに等しい。
自分との約束は絶対に守って欲しいが、ほかとの約束は破っても良いと言うは、人の道に反したことだし、あまりにも虫が良すぎる。
自民党は内心ほくそ笑んでいることだろう。いましぶしぶ公明党のいいなりになって、自由党との約束を反故にしておけば、後で公明党との約束を守れなくなったときに、公党間の約束でも守れないことがあることの、言い訳に使えるからである。(1999年9月5日)
今年の夏もまた高校野球は多くの感動をもたらしてくれたが、また多くの矛盾を含んでいることも明らかになった。
その中でも一番大きな矛盾は、大人でも先発投手の連投はあり得ないのに、高校生の投手たちが最高で四連投もしたことである。
高野連は複数投手制を奨励してはいるが、まったく形だけであり、勝ち残るチームは一人のエースに頼らざるを得ないのが現実である。
本気で子供たちの体の成長を考えるのなら、百球以上投げた投手は四日以上の間隔を置かなければ登板してはならないという規定を作るべきではないか。そんなことをすれば、トーナメント制の大会は開けないと言うかもしれない。しかし、ここに大きな矛盾がある。
子供たちが体を壊すような無理をしなければ維持できないような大会の存在意義とは何なのか。
高野連は、大人の楽しみのために子供を英雄に祭り上げて過大な負担を強いているという現実にもう少し目を向けるべきではないだろうか。(1999年9月5日)
小沢一郎氏はよく「日本人はまだ多数決原理を受け入れていない」と言うが、まさにその通りの光景が最近の参議院で繰り広げられた。多数決による決定に反対する人たちが、委員長席に押し掛けて、採決を腕力で阻止しようとしたのである。議題は通信傍受法案である。この法案の成立に野党は絶対反対である。少数派である彼らは、採決されたらおしまいだと思って必死に採決を妨害しようとした。
しかし、本当に採決されたらおしまいだろうか。実は、彼らは、次の選挙で多数の議席を取ってこの法律を廃止する法案を作って、多数決で成立させればよいのである。そのためには、国民の多数を説得するしかない。民主主義の根本はこの説得ということであって、腕力で採決を阻止することではない。
ルソーは『社会契約論』のなかで「多数決の原理の前に、この原理を受け入れることに対する全員一致の賛成が必要だ」と言った。この社会が民主主義社会である以上、この原理に対する全員一致の賛成は大前提のはずである。
ところが日本では、重要法案の採決が行われるたびに、この多数決原理に反対する議員が現れる。その多くの人たちが、少数意見の支配する共産主義・社会主義勢力を代表する人たちであることを考えれば、むべなるかなである。 (1999年8月11日)
君が代伴奏を拒否した女性教師が処分を受けたというニュースがNHKで流れたが、なぜこれがニュースになるのだろうか。こんなことはけしからん、思想弾圧だとでも言うのだろうか。思想信条の自由を理由に仕事を拒否することは許されるべきだとでもいうのだろうか。
そうなると、たとえば、NHKの相撲中継で君が代斉唱の場面を思想信条の自由を理由にカメラマンが撮影を拒否するとしても、許されるということになる。
しかし、そんなことはあり得ないだろう。そんなことをすれば、公私混同だとして処分の対象になるからである。それともNHKではそういうことが許されているのだろうか。
そもそも、あのニュースをもし局のアナウンサーが読むことを拒否したらどうするのか。そこまで考えてあのニュースを作ったのだろうか。うちの局では、そんな変な人は雇っていないと言うだろう。ところが、あの小学校はそんな人間を雇っている。
思想信条は個人の問題である。それを仕事の場に持ち出すとは何事か。こういって彼女はきびしく叱られるべきなのである。(1999年7月29日)
今年のプロ野球のオールスターゲーム第1試合は、西武ライオンズの松阪投手一人のための試合だった。松阪が一球投げるごとに、アナウンサーは大きな声を上げて絶叫を繰り返す。他の選手は、主役である松阪のために登場する脇役、いやエキストラのごとくに扱われた。
そして、彼の登板が終わると、グランド上での出来事などはまったくそっちのけで、 彼に対するインタビューが延々と行われわれた。視聴者が試合の進行を楽しむことなど、とてもできるような状態ではなかった。
今年の西武ライオンズは、ペナントレースでの成績がもうひとつだが、このフィーバーぶりを見れば無理もない。西武の試合は、松阪が出る試合と松阪が出ない試合の二種類に分けられ、観客は松阪の出る試合にだけ殺到するのである。これで、ライオンズの選手たちの間にチームワークが保たれるとしたら、奇跡というしかない。
オールスターゲーム第1試合の裏番組は、大輔という名前の松坂牛を登場させてこのフィーバーを皮肉ったが、野球の楽しみを松阪に奪われたわたしには、実に痛快事だった。
松阪よ、君はいま人寄せパンダになってしまっている。もし本当に君が野球をしたいのなら、マスコミを遠ざけて野球に打ち込んできたオリックスのイチローの姿を見習うことだ。さもなけば、そのうちマスコミにつぶされてしまうだろう。 (1999年7月25日)
公明党は世論の批判をまったく気にしない政党のようである。地方振興券が何の効果もないと批判されても、公明党はまったく気にする様子がない。それどころか、天声人語氏によれば、党の機関誌で自画自賛しているという。
選挙制度を中選挙区制にもどすという同党の案も、マスコミから総すかんを食らっているが、平気の平左で言い続けている。
自分にだけ都合の良い選挙制度は、昔からゲリマンダーと言って政治家にとって恥ずべきものとされてきたが、公明党はそんな案を出しているのに、まったく恥ずかしがる様子がない。
世論の批判を浴びれば、考え直すのが民主主義である。しかし、公明党にはそんな姿勢は全くない。学会の外の人間に、どんなに批判されても痛くもかゆくもないからだろう。選挙になると、 学会員が全員運動員となって選挙運動をし、また自ら投票するからである。それ以外の人間の言うことに耳を貸す必要はないわけだ。
そんな唯我独尊の政党が自民党と手を組んで政権を握ろうとしている。不安を感じるのはわたしだけではあるまい。(1999年7月15日)
中身より名前で売ろうとするためか、有名人の翻訳には読みにくいものがたくさんある。
たとえば小説家では吉行淳之介の『酒について』、古井由吉の『愛の完成』、評論家では佐伯彰一の『さよならコロンバス』、それにわたしが今読んでいる寺田透の『浮かれ女盛衰記』などが代表的だ。
翻訳家でも有名なのは気をつけたほうがいい。常盤新平などがそうで『大統領の陰謀』や『夏服を着た女たち』などはかなり読みにくい。
さらに、この『夏服の女たち』の原作の文庫が日本で出ているが、それに付いている注釈は常盤氏の訳の写したものであるから、何の助けにもならない。
結局、本当の意味は自分で読んで見つけるしかないのである。(1999年7月2日)
純文学。半人前の小説。話を自分で作れないから実際の出来事をさも自分の創作のようにして文章にしたもの。創造力のない国民にだけ見られる特有の現象。しかし、日本ではそれに賞を設けて特別に奨励している。
私小説。ノン・フィクションとしては材料の足りないところを想像で補ってつくった半端な作品。自分のことだけ書いている場合は問題はないが、しばしば自分の友人を登場させて、あとで訴訟を起こされる。
小説家。自分の友達をいつのまにか小説の材料に利用してしまう裏切り者。
外国の作家は、しばしば嘘ばかりついているといって非難されるのに、日本の作家は本当のことを書いているといってしばしば非難される。
確かに、かのギリシャの詩人ホメロスの作品も作り話と思われていた、その中に事実が含まれていることをトロイを発掘したシュリーマンが証明している。どんな作り話でも、現実の出来事から出発する。
裁判官はモデルを使うなと言っているわけではない。それなら、モデルにした人に感謝されるような作品を書けばいいのである。人を傷つけて金もうけしていいという法はない。
それよりも、この判決に対するこの作家の態度には失望した。勝負事に負けたときにその人の本性が出るものだが、この作家が「こんなことなら小説なんて書けない」とむくれて見せたのはいただけない。
小説を読んでいて、よくもこう見てきたようなことを書くものだと感心するものだが、それが実は本当に見てきたことだったとしたら、読者はだまされたことになる。(1999年6月23日)
おいしい紅茶を家で飲めなくなって久しい。おいしい紅茶を飲むには喫茶店に行かなければならない。昔はティーバックの紅茶でもいい香りのするおいしい紅茶が飲めたものだ。
しかし、いつの頃からか、ティーバックはだめになり、ホテル仕様などという袋入りの紅茶を買わなければならなくなった。しかし、それもいつの間にか単なる色付け粉でしかなくなると、もはや市販の紅茶では紅茶の味は楽しめなくなった。
それでも新しい銘柄の紅茶が出ると、もしやと思って試しに買ってみる。そして、聞いたことのないメーカーのティーバックを近くのコンビニで見つけて、久しぶりにおいしい紅茶を飲んだことがある。ところが、そのティーバックもいつの間にか店頭から消えてしまい、それに代わって店頭に置かれた有名メーカーのティーバックは、単なる色付け粉でしかなかった。
おいしい紅茶の出るティーバックは一体どこへ行ってしまったのだろう。市販の紅茶は一体どうなってしまったのだろう。おいしい紅茶を家で飲むには、勇気を出して喫茶店で紅茶の葉を分けてもらうしかないのだろうか。あなたはおいしい紅茶を家で飲んでいますか。(1999年6月18日)
革命当初のフランスでは、共和主義を唱える人たちが主権在民の世の中にトランプの絵柄が王様ではおかしいと言って、それを変えようとした。さらに、実際にカレンダーの月の名前を変えてしまっている。テルミドール云々という今となっては訳の分からない名前を使うことにしたのである。
その理由は、現行の暦を最初に作ったのは古代のローマ王であり、無知蒙昧な神話からとった名前や、皇帝の名前が含まれており、主権在民の世の中にふさわしくないからというのである。
日本でも、同じようなことがある。例えば元号の使用の拒否がそうである。元号は天皇の寿命に合わせてあるから、主権在民にはふさわしくない。したがって、彼らは元号を使わずに西暦を使うのである。国歌の「君が代」に対する反対運動も同様の理由からである。
つまり、彼らがやろうとしていることは革命当初のフランスの人たちがやろうとしたことと同じことなのである。
ところで、そのフランス革命とは何だったのか。
たとえばシュテファン・ツヴァイクは「マリー・アントワネット」の中で、「革命とは人間の果てしない低俗化と教養の否定であり、それに合致しないものの死を意味する」ということを、これでもかという具合に赤裸々に描いた。
また、アナトール・フランスは「神々は渇く」の中で、革命に付随する粛正の悲惨さと愚劣さを、これもまたあからさまに描いた。
特にこのフランスの作品の中で印象的なのは、主人公に対して母親が言った次の言葉である。
「古い制度が滅びたことを残念だとは思わないけれど、でも、革命によって平等が打ち立てられるなんて考えてはいけないよ。人間はどんなにしたって平等になることなどないんだからね。どんなに国をひっくり返してみたところで、お偉方とささやかな庶民と、肥った者と痩せたものがあることに変わりはないんだ」
この言葉の真実はその後の歴史の証明するところである。フランス革命を真似てさまざま革命が行われたが、その結果、どこの国民も平等にはならなかった。ただおびただしい数の人たちが殺されただけである。
ベルリンの壁が壊されてからもう十年にもなる。しかし、なおもこの事実を認めたくない人たちが、日の丸・君が代を批判して、フランス革命の愚を繰り返そうとしている。わたしにはそう思えてならない。なぜなら、実際にこの批判のために人の命が奪われているからである。(1999年6月3日)
「同点の七回裏二死一、三塁。力投していた薮が、清水に勝負を決定づける3ランを右翼スタンドへ運ばれた―。これまでの野々村監督のさい配なら、当然、左の遠山か田村の場面だった」
産経新聞の大月達也記者はちょくちょく間違いを犯すが、今日のスポーツ面のこの記事も間違っている。こういう場面でエース級のピッチャーを代えないのが野村監督一流のさい配であることをこの記者は知らない。
ヤクルト時代の野村監督がエース級のピッチャーを交代しなかったために勝ち試合を同点にされたり逆転されてしまった場面を、わたしは何度も見てきている。石井や吉井といったエース級のピッチャーは、勝っているときには同点になるまで、同点の時は逆転されるまで代えないのを常としていたのである。
目先の一勝よりも大切なものがあることを野村監督は知っているのだ。シーズンを通して選手に働いてもらうためには、主力級の選手のプライド、選手の格というものを大切にしなければならないことを知っているのだ。そうしないと、トータルで勝ち越せないのである。
野球は勝ったり負けたりのゲームである。全部勝ちに行くさい配をすれば結局負け越してしまう。勝ち越すためには、いかにプラスの価値を残して負けるかである。
藪は、代えられずに打たれたからこそ、次の試合でも一人で最後までがんばろうと思うのである。あそこで代えていたら、藪は、次の試合から、ピンチに左打者が出てくるたびにベンチの顔色を覗うようなピッチャーになってしまうことだろう。それではエースはつとまらないのだ。
大月記者は野村監督のさい配を批判する前に、野村ヤクルトの負け試合の記事を読み直してみるべきだろう。勉強不足である。(1999年5月31日)
コソボ紛争でNATOは政治解決に傾いているという。どうやらこの戦争はユーゴのミロセビッチ大統領の勝ちのようである。
民主主義は弱し。全体主義を相手の戦争では勝てないのである。
なぜなら、民主主義のNATOは敵国だけでなく、マスコミも相手に戦わなければならないからだ。全体主義のユーゴは報道管制をしいてユーゴ軍の虐殺をまったく報道しないのに、西側のマスコミはNATOが誤爆すると途端に報道してしまうのである。
そのうえ、ユーゴ軍がどんどんアルバニア系住民を殺しているというのに、NATO軍は民間人を殺せない。いくら空爆でユーゴの国力をそいだつもりでいても、民間人が安泰なら、国は安泰である。壊されたのがモノだけならあとで作り直せばよいのだ。
ユーゴはコソボからアルバニア系住民をほとんど追い出して手中に収めてしまった。これをNATOが取り返すには地上軍の投入以外に手はない。
しかし、やんぬんかな、NATOは民主主義である。自分の命を危険にさらしたくない世論にお伺いを立てねばならないのだ。もはや勝負はついているといっていい。民主主義陣営は全体主義国に戦争を仕掛けても勝てないのである。ほかの方法を考えるべきときであろう。(1999年5月24日)
イスラエルで新しい首相が誕生したが、このニュースを聞いて首相を直接選挙する制度があることに驚いた人も多いのではないか。特にこの選挙で注目すべき点は、上位二人による決選投票方式を採用している点だ。
今度選ばれたイスラエルの新しい首相はいまは野党の党首だが、この決選投票方式のおかげで、選挙の段階で政党レベルの過半数の支持を確保したため、組閣するときに過半数の与党を容易に形成することが出来るので、不信任決議におびえる必要がない。
いっぽう日本の選挙では地方自治体の首長は直接選挙で選ばれるが、決選投票を行わないため、野党の出身者が当選した場合、議会対策に苦しむことになる。
中には、議会から不信任を突きつけられて、職を失うものが出てくる始末である。そうなると、不信任決議、議会解散、議員選挙、不信任決議、首長選挙となり、無駄な労力と金が使われ、政治に空白が生ずる。
このような無用の混乱を回避するために、日本でも決選投票方式を採用したらどうだろうか。(1999年5月18日)
ユーゴスラビアに対するNATOの空爆の問題で、NHKは中国の動きを大きく報道しているが、これは以下の意味において間違っていると思われる。
すなわち、中国は平和主義の国ではなく、今回の空爆に関しても、ユーゴに平和をもたらすことには興味がなく、世界における権威の確保のためにしか動いていないからである。
今回、中国がロシアとともに、空爆の停止を政治的解決の条件としたことの目的も、真にNATOの空爆停止を求めているわけではなく、ロシアをNATOから引き離すことでしかない。これは、共産主義国がよくやる政治的駆け引きであるにすぎない。
そもそも、NATOが空爆を始めた目的はコソボからのユーゴ軍の完全撤退であり、その目的を達成することなく空爆をやめれば、空爆が無意味となる。
ところで、NHKが「ユーゴに対するNATOの空爆によって発生しているアルバニア人難民」という表現を使っているが、これは間違っている。「セルビア軍の民族浄化によて発生しているアルバニア人難民」と正確に報道すべきである。知ってやっているとすれば悪質である。
NHKはユーゴスラビアや中国の報道機関ではないはずだ。(1999年5月11日)
アメリカでは決して銃規制が完全に実現することなぞあり得ない。それは、銃を持つことは自らが民兵となる権利を持つことだからである。
民兵とは何か、それは革命をするための軍隊である。銃を所持することは革命するを権利を国民の手に保持することである。馬鹿な少年の起こした事件のために革命を起こす権利を、それはすなわち民主主義を守る権利を手放すはずがないのである。
ひるがえって、銃を持つ権利を奪われている日本国民は決して革命を起こすことは出来ない。それは共産主義革命を防止するには役立つだろう。しかし、革命を起こすことが出来ないということは、憲法を捨てることが出来ないということである。
主権者は憲法を捨てることが出来なければならない。憲法は主権者にとっては自分自身に対する約束であって、自分の存在がおびやかされたときにはそれを捨てる権利を持っている。ところが、銃を持たない国民は革命を起こすことが出来ないゆえに、それが出来ないのだ。(1999年5月3日)
私の住む小さな町でも町会議員を選ぶ選挙があった。立候補者の二十一人の中から一人を選んで投票しなければならない。しかし、いったいどういう基準でその一人を選び出せばいいのだろうか。
公平を期すならば二十一人全員についてよく勉強しなければならない。しかしどうやって勉強するのか。選挙公報もあるが、全員が全員似たようなことを書いている。
ほかの人たちは何かの縁故で投票する人を選ぶのだろうと思う。しかし、何の縁故もない私には選びようが無いし、そもそも縁故で投票するのがよいとも思えない。
そこで私は思うのである。これが二人のうちの一人を選ぶのだったらどれほどいいだろうかと。二人を比べるのならそれほど難しいことではなさそうである。もちろん、二十一人を比べるよりもはるかにたやすいに違いない。
この二人のうちの一人を選ぶやり方、つまり小選挙区制は、日本でも衆議院議員の選挙ではその方向に進んでいるようだが、地方議会議員の選挙からそうしてもらえないだろうか。私はそれが選挙民に対する何よりの親切だと思うのである。
ところで、私の町の町会議員選挙の結果は、産経新聞には翌日に掲載されないため、私の家では地元の新聞をわざわざ買いに行かねばならなかった。産経新聞は翌々日に掲載とのことだが、これでは古新聞と何の違いもないのではないだろうか。古新聞を金を出して買う馬鹿はいない。(1999年4月26日)
最近ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィッチの一日」を久しぶりに読み直してみたが、こんなにユーモアに満ちた面白い本だったのかと、まるで宝物を発見した気分である。
実は昔読んだときには、単に寒いところの話という印象しかなかったのだが、ソビエトが崩壊して、社会主義の嘘があばかれた今だからか、作者がずっと昔にこの本で言っていることが実によく理解できるのである。
話は強制収容所に放り込まれた男の一日の出来事をつづったものだが、ソビエトは何と、収容所の囚人に、ろくな材料も与えずに只働きさせて、それで都市を造り、工場を造り、おまけに収容所まで作っていたのである。そのでたらめぶりを、作者は実体験をもとに皮肉たっぷりに描いている。
これを読むと、何よりも人生やる気が出てくる。不況どころの話じゃない、強制収容所という絶望的な状況にいながら、プライドを失わず、自分自身を律して、たくましく、巧みに環境に順応して、そこから最大の利益を引き出し、少しずる賢く生き延びていく主人公ショーホフの姿に、わたしは大いに元気づけられたのである。(1999年4月21日)
東京都知事に当選した石原氏に対する中国の批判をニュースで見たが、わたしはあのニュースを見て「もっともだ」と思うどころか、「また始まった。いいかげんにしてくれ」と思った。なぜなら、それは「中国を怒らせたら怖いぞ、発言に気をつけろ」という脅しにしか聞こえないからである。
考えてみれば、中国の言うことはすべて権力闘争の一環であり、利益を狙ったものであって、純粋な感情の表現でないことは、誰の目にも明らかである。それなのに、中国の言うことを、いちいち真に受けて日本で報道する必要があるのだろうか。
中国に関するニュースはその扱い方をよく考えて行わなければ、かえって日本人の反中国感情を増幅し、日中関係を危うくするだけだと思われる。
ベルリンの壁の崩壊の前と後では、共産主義国に対する国民の見方は大きく変わっている。したがって、報道機関の姿勢も変わらなければいけないと思われる。しかし、彼らの多くは、共産主義は民主主義ではないという事実をまだ受け入れていないように思われてならない。(1999年4月19日)
当選したばかりの新知事を待っているのは「あなたの公約は実際には何一つ実現できませんよ」という言葉である。
まず、テレビのニュースキャスターがその先鞭を切り、つぎに役人、最後に議会がそれを知事に教える。そうやって、政策の実現できない知事を選んだ国民のおろかさを明らかにするのである。
特に議会は、新知事の政策をことごとく拒否して、自分たちが支持する知事を選ばなかった国民を非難するのである。そんな政策なんぞ実現しなくても、この世の中はうまくやっていけると言うのならまだしも、議会は、国民を不幸にして、政治の混乱をまねいても、新知事の公約を何一つ実現させないようにするのである。そして、その全ての責任を知事に押し付けるのである。
首相公選制をいう人がいるが、日本でそんなことをすれば、これと同じことが起こるとことは明らかである。アメリカで大統領制が機能しているのは、議会で野党の議員が過半数を占めていても、大統領の政策が全て否決されることはないからである。日本の村政治ではそうはいかない。(1999年4月12日)
セルビア人はいまアメリカの空爆を受けて、不幸な目に会っている。しかし、彼らに教えたい。これはよい兆候である。アメリカには破れたほうがいいのだ。
日本を見たまえ。日本はアメリカに破れたおかげで、軍国主義から解放され、民主主義を与えられ、すばらしい憲法を与えられ、二度と戦争をする心配のない国になったのである。
ところがアメリカに勝ったベトナムはどうなったか。社会主義のくびきにつながれ、言論の自由を奪われ、経済の発展もままならず、戦争前よりも貧乏な国になったではないか。
考えてみれば、セルビア人は幸福である。かつての日本に対する空襲は、今行われているような生ぬるいものではなかった。民間人もお構いなしに攻撃対象にされ、揚げ句のはてには、原子爆弾まで落とされたのである。ところが、ユーゴに原爆が落ちる心配はない。
セルビア市民にはアメリカにすすんで降伏することをお勧めする。そうすれば、日本のような幸福な国に生まれ変わることが出来るのであるから。(1999年4月9日)
国旗・国歌の法制化に反対する人たちはよく「国民的な合意がない」と言っているが、この国民的合意とはいったい何を意味するのだろう。
もしそれが全員一致を意味するとすれば、全体主義社会でもないかぎり、その達成は不可能だろう。それとも、少しぐらいは反対する人がいても、ほとんどの人が賛成するということだろうか。その「ほとんど」とは例えば、三分の二以上の賛成なのだろうか。それなら達成は可能だが、根強い反対論が消えることはないだろう。
現に七割以上の人たちが「君が代・日の丸」に賛成しているが、反対する人たちは「国民的合意がない」と言っている。これは四分の三でも同じことである。
ところで、民主主義とは過半数の賛成意見を全体の意見として採用する制度である。もしわれわれが民主主義を選択するつもりなら、「国民的な合意」などというものはあきらめて、過半数の賛成で我慢すべきではないだろうか。さもなければ、新しいことは何一つ実現出来ないことになってしまうからである。(1999年4月8日)
広島県世羅高校の入学式で君が代が斉唱される様子がテレビで放映されたが、会場中央の学生や父兄達の席の人たちが起立して斉唱しているのに対して、教員席にいる人たちがほぼ全員座ったままでいた。まったく異様な光景であった。座ったままでいた教員たちにわたしは言いたい。
目を覚ませ。主権在民はそんなことをしても達成できないぞ。馬鹿なことはよせ。テープレコーダが壊れて音楽を流せなかったそうだが、まさか君たちの仕業ではあるまいな。そんなことをしても誰にも尊敬されないぞ。
共産主義革命でも考えているのか。そんなことをしても誰も幸福にならないことはもう明らかなんだぞ。天皇が嫌いなのか。それならそうとはっきりそう言え。
それより何より、そんなことに血道を上げている暇があったら、教え方の勉強でもしろ。高校生の勉強は難しいんだぞ。ほとんどの高校生が教科を理解できないで落ちこぼれているんだぞ。責任を感じないのか。身の程をわきまえろ。(1999年4月7日)
産経新聞に連載中の『坂の上の雲』をこれまで読んだ中で、最も衝撃的だったことは、日清戦争の勃発を当時の首相の伊藤博文は望んでなかったということである。首相が戦争に発展することを恐れて大軍の派遣に反対したのに、軍部が統帥権をたてにそれを堂々と無視したのである。
第二次大戦の時に近衛首相らが戦争の拡大を望まなかったことはよく知られている。しかし、伊藤博文がそうだったことはあまり知られていないのではないか。軍部の独走はなにも第二次大戦に始まったことではなく、明治憲法の初めからそうだったのである。
そしてこれが衝撃的なのは、もし明治の初めから総理大臣に統帥権があったなら、第二次大戦はおろか、日清日露の戦争もなかったことになるからである。もちろん軍国主義もなかったのである。
戦前の軍国主義の罪を君が代や日の丸に負わせようとしている人たちは、是非とも『坂の上の雲』を読むべきである。そうすれば、軍国主義の罪は、旗や歌などのモノにあるのではなく、明治憲法の条文にあることが分かるはずである。(1999年4月6日)
最近の省エネブームで私も徒歩や自転車で外出することが多くなったが、そこで一番驚きまた憤慨させられるのが、子供たちが誰も信号を守らないということである。
私などは信号は守るものだと思っているから、車が来る来ないに関わらず、目の前の信号が赤ならあきらめてじっと待っているのだが、車が来ないとわかると子供たちは後ろから前からどんどんわたっていく。
中には、こちらの方を見ながら「ばーか」と言わんばかりの表情でわたっていくのがいる。私も腹が立つから「お前ら、絶対に車にひかれて死ぬぞ」と言ってやるのだが、彼らは平気である。
もともと信号は歩行者のためにある。だから車が来なければいいじゃないかとも言える。しかし、余裕のあるときは安全かもしれないが、急いでいるときやあせっているときに、いつものくせが出るのが恐いのだ。たまたま通りかかった自動車とはちあわせしたときにどうなるかは明らかである。
子供を交通事故で失った親は、例外なく、うちの子に限って信号を守っていたはずだという。しかし、私はそういうニュースを聞くと、いつも「へえー、そうですかね」と思ってしまう。それほど、最近の子供は例外なく信号を守らないのである。(1999年3月23日)
「君が代の歌は、我が天皇陛下のお治めになるこの御代みよは、千年も万年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお栄えになるやうにという意味で、まことにおめでたい歌であります」
戦前の国定教科書にはこう書いてあると朝日新聞の「天声人語」はいう。つまり、「君が代」の「君」とは天皇のことだ、だから主権在民の現在の日本にはふさわしくない、と言うのであろう。
しかし、日本は主権在民であると同時に立憲君主制の国である。それは憲法の第一条にも規定されている。君主制の国では、国歌の中で君主の幸福を祈るのはあたりまえのことである。それはたとえば英国を見ればよい。
だから、「君が代」の是非を議論するということは、君主制の是非を議論するということである。日本は天皇制をやめて共和制にすべきかどうかを議論することである。それが出来ないのなら、国歌は「君が代」でよいということになる。
ところで、共産党や社民党も含めて日本の国会議員で天皇制に反対している人は一人もいない。これは、誰も「君が代」の「君」が天皇であることに反対していないことを意味している。国民の代表である国会議員が全員認めているのであれば、「君が代」が国歌であることには誰も異存はないはずである。(1999年3月11日)
「国旗国歌をなぜ強制されなれければならないのだろう」というのは、実に素朴な疑問である。しかし、わたしは「では、国旗国歌を拒否する人間がどこかの国民であると言えるのだろうか」という素朴な疑問をもっている。
自分がどこかの国の国民であることを示すのは、自分の国旗国歌がこれこれであり、自分はこの旗の下に生きていると言えることではないのか。それが国民であることの出発点ではないのか。
国旗国歌に関して様々な議論があるからといって、学校の教師は国旗国歌に対して敬意を払うことを子供に教えなくてよいのか。それでは、どこの国にも属さない人間を作り出していることになるのではないのか。
まして、それらを拒否することを教えることは、国民であることを拒否することを教えていることになるのではないのか。もしそうだとしたら、国民主権も何も言えなくなるのではないのか。
アメリカでは幼稚園に入る子供に「わたしはアメリカ国旗並びに神のもと自由・正義で結ばれたアメリカ社会に対し忠誠を誓います」という忠誠の誓いを暗唱させるという。日本の一部の学校ではこれとは逆のことが行われているそうだが、それでよいのだろうか。素朴な疑問である。(1999年)
脳死移植、国旗国歌の問題でよく聞かれるのは、様々な議論があるから実施には慎重であるべきだという意見である。 「国旗国歌に関しては様々な議論がある。だから、国旗の掲揚も国歌の斉唱もしなくてもよい。それを無理にすれば押し付けになる」と言うのである。
地方振興券についても「お金を使うのは自分の勝手だ。使うのを強制されるのはご免だ」という意見をよく聞く。そこによく出てくるのは「人に押しつけてはいけない」という言い方である。しかし、その中身は体のよい自分勝手主義に過ぎない。
民主主義とは過半数の賛成があれば、少数派もそれに従うという制度である。「少数の反対がある間は、何もすべきではない。それは少数者に対する押し付けになる」というのでは、少数者による支配になってしまう。それは民主主義ではない。
民主主義に賛成している以上は、自分の意見が多数の支持を獲得しなかったからといって、多数意見の失敗を願ったり、その実施を妨害するのはフェアな態度ではない。
「様々な議論がある」と言うのはよい。しかし、そこから、「だから、何もしないでおこう」というのでは困る。議論があるからと言って、国旗も国歌も知らない子供をつくってどうするのか。それでは、子供たちに議論する権利さえ奪っている。
いったい過去の歴史を理由に自分の国の国旗や国歌を否定している国がどこにある。民主主義の国である英国は、はっきりと「神よ、女王を救い給え」と歌い。
ベトナム戦争の経験のある米国は、幼稚園の生徒に国旗に対する忠誠を教えるために、忠誠の誓いを暗記させる。国旗も国歌も知らない人間はどこの国にも属さない人間だからである。(1999年3月5日)
脳死による臓器移植の第一号の報道の加熱ぶりは、臓器提供者の家族が臓器提供の承諾を撤回させるに充分なものがある。
今日明日の間に臓器提供者の家族の家の周りにはレポーターが殺到して、インターフォンによって家族にインタビューをしようとするものが続出するのではないか。
また、いたずら電話がかかるようになり、嫌がらせの手紙や葉書が舞い込むようになるのではないか。そして、この臓器提供者の家族は、電話番号を変えなければならないのではないか。このような危惧を抱かせるに充分だからである。
今回の報道では、臓器提供者の名前は匿名で報道されているが、報道してしまった以上は、提供者の名前が広く知れわたるのは時間の問題である。
この大騒ぎを見た人たちは、脳死による臓器提供によって家族の安全が確保できないと思うようになり、脳死による臓器提供を拒否するようになるのではないか。
脳死による臓器提供が進展しないことに対する報道機関の責任は大きい。脳死判定の段階で報道してしまうのではなく、移植後まで報道管制を敷くべきではなかったか。(1999年2月25日)
わたしはNHKの大河ドラマ『元禄繚乱』は次のような解釈のもとに作られていると思って見ている。
狂人ばかりの中に一人だけ正気の人間がいれば、その人は狂人だと思われる。これまで、浅野内匠頭の刃傷事件は狂気の沙汰だと思われていた。だが、実はあの狂った世の中で一人正気を保っていた人物が浅野内匠頭だった。
成人した彼は、世の中に出ていくと、まわりの人間のいいかげんさ、自分勝手さ、不道徳さに次々と気づいていく。内匠頭はそれに対して怒りを感じた。世の中は狂っていると思った。
そして、浅野内匠頭にとって、この狂った世の中の典型が吉良上野介だった。彼の怒りはこの男に対する怒りとなって結晶していく。その結果起こったのが刃傷事件であった。
大石内蔵助もはじめは世の中の風潮と同じく狂った生活を送っていた。しかし、内蔵助は主君の死によって目覚めた。それがもう少し早ければ、主君を追い込まずに済んだかもしれないと、彼は悔やんだ。そして、主君に対してどうしてもわびたいと思った。それは内蔵助にとって主君の仇を討つことであった。その結果が討ち入り事件であった。
はたしてドラマはこのように進むかどうか、楽しみにして見ている。(1999年2月21日)
プロ野球のオーナーたちが、シドニーオリンピックには二軍のプロ野球選手なら出してもいいが、一軍選手は出さない意向を表明したという。しかも、あるオーナーは韓国に負けたって構わないというような発言をしているという。
このような発言が飛び出してくる原因は、日本の野球にアマチュア野球とプロ野球の区別があり、オリンピックに関してはアマ野球側が大きな権限を握っていることにあると思われる。
プロ野球側は、日本が韓国に負けても自分たちに責任がないから、ペナントレース優先などということが平気で言えるのである。
日本の野球がオリンピックで勝てるようにするには、アマチュア野球がプロ野球に協力を求めている現状を変えて、オリンピックの選手団の派遣に関するすべての権限をプロ野球のコミッショナーに譲り渡すしかない。
もしそうなれば、コミッショナーは真剣にオリンピックのことを考えて、例の通達によって特別なシーズンにすることを決め、一軍の選手を参加させ、韓国にも勝てるようするのではないか。
さらに言うなら、この際アマとプロの区別をやめて、野球機構を一つに統一するのが最善であろう。アマチュア野球の山本英一郎会長の英断を期待したい。(1999年2月10日)
地方自治体の首長が無所属で立候補するのは、議会の議員の構成に左右されずに政治を行えるようにするためである。野党の方が多いということが往々にしてあり、その場合には首長が政党に属していれば、議会が何かも否決するという結果になってしまう。
それを避けるために、無所属になるのである。こうして、少数与党になることを避けようとする。逆に政党色をはっきりさせる共産党の首長が誕生した場合には、議会が何でも否決してしまうということが起きている。
これは、個々の議員の良識よりも党派性が優先している日本だけの現象である。 アメリカでは大統領はたいてい野党の方が多い議会を相手にするが、法案が一つも通らないなどということは起こらない。
なぜなら、大統領は国民によって選ばれた存在であるために、ふさわしい尊敬が与えられるだけでなく、議員が議会でも党議拘束を受けずに投票するからである。
ということは、日本の民主主義が未熟だということである。日本で首相公選制をとる場合は、候補者は共産党以外は全員無所属になるだろう。二大政党制とは何のためにあるのか。(1999年2月9日)
青島幸雄氏の東京都知事選不出馬を聞いて、わたしはシェークスピアの『コリオレイナス』(ラテン語はコリオラヌス)という劇を思い出した。
古代ローマの将軍コリオレイナスは蛮族との戦いで手柄を上げて凱旋し、ローマの執政官(日本の首相にあたる)に推薦される。しかし、彼は民衆の賛成を得るために、選挙運動をしなければならないとことが死ぬほどいやだった。民衆に頭を下げることは彼のプライドが許さなかったのである。
しかし、民主主義とは為政者に対して、民衆に頭を下げることを要求する制度であり、古代ローマにおいてすでに定着した制度だった。
ところで、青島氏はこれまでの選挙で一度も国民に頭を下げてこなかった。しかし、今再選に向けて出馬するとなれば、もはやこれまでのように、選挙期間中に海外旅行をしていて勝てるような情勢ではない。
国民に頭を下げて選挙運動をする必要がある。しかし、それは青島氏のプライドが許さない。そこで、不出馬を決断した。わたしはそう推測している。
今回のことで、国民は重要な教訓を得たのではないか。つまり、民衆に頭を下げて選挙運動をしようとしない人を行政のトップに選んでいけないということである。しかし、国民に対して責任を負うということは、そこから始まる。青島氏は無責任であるといわれても仕方がない。(1999年2月2日)
青酸カリの自殺でマスコミが騒いでいるが、いったいなぜ騒いであるのかよくわからない。自殺する人間は年に二万人もいる。ということは、一日六十人も自殺している。その原因を一体マスコミはつかんでいるのか。二万人死んだら死に方はいろいろあるのは当たり前だ。死にたい人は死ねばいいというのが、いつものマスコミの姿勢ではないのか。中学生の自殺以外はほとんど報道しないくせして、今回だけは大騒ぎしている。警察が動いたから騒いでいるとしか見えないのである。
社会の病理だとかインターネットの危うさだとか、適当な言葉を使って勝手な事を書いているが、マスコミは本気で他人の自殺を扱う気があるのか。それなら、毎日、自殺者数とその原因と手段を報道してほしい。
そんなことすれば、世の中暗くてやってられないというかもしれないが、世の中の真の姿を報道するのが君たちの使命ではないのか。
マスコミの報道が如何にいいかげんなもので、警察のいいなりであるかが、今回もまた明らかになった。札幌の男性を悪者扱いしているのがそのいい例だ。
主婦の証言によると「ドクター・キリコの診察室」というページをつくったのはなんとその男性ではないというではないか。まったくこれまでの報道はでたらめだったのだ。ここまでくればこれはもうマスコミの暴力である。
「マスコミは彼らをそっとしておいてやれ。おまえら彼らの生き死にに責任持てるのか」「警察につられた報道はいいかげんにしろ」これがマスコミに対する今回の騒ぎに対するわたしの意見である。(1998年12月29日)
インターネットは本音の世界、新聞は建前の世界である。新聞紙上ではけしからぬホームページがインターネットにアクセスする人間にとってはありがたいホームページなのである。
早い話がアダルトのページだ。新聞記者は間違ってもこれらのページを貴重なページだとは書かないだろう。むしろ有害ページなどと思ってもみない言葉を使って表現する。しかし、インターネットの世界ではこれらは貴重なページの一つである。
それと同じように、自殺を勧めるホームページもインターネットの世界では貴重なページである。新聞は自殺を本気で扱わない。建前のメディアである新聞は自殺をあってはならないこととして片付けてしまう。だから、一日六十件以上も自殺があるのに報道しない。見て見ぬ振りをするのだ。
例えば、全ての自殺を毎日報道する新聞があればどうだろう。しかし、そんな新聞は成立しない。誰も買わないからではない。けしからんと言われて出せないからである。しかし、インターネット上で自殺だけを報道するホームページが現れたとしても、それをやめさせることはできないのではないか。
死を論じることが哲学であるなら自殺について考えることも必要なことに違いない。それができるのは本ではなく、新聞ではもちろんなくてインターネットの世界である。自殺についてのページが無数にあるのは、それを実証している。
新聞や本よりもマイナーなメディアとしての役割がインターネットの役割の一つである。「普通」という基準にとらわれることのない世界である。一日に六十人の人にしか必要とされないメディアでも存在価値を失わないでいられるのがインターネットだとも言えるだろう。(1998年12月28日)
アジア大会に日本の野球チームはアマチュア選手だけが参加しているのに対して、台湾・韓国はプロ野球選手が参加している。特に韓国は、アメリカの大リーグにいる選手がこの大会のためにわざわざ帰国して参加している。ところが日本のプロ野球の選手にもアメリカ大リーグの日本人選手にもお呼びがないらしい。なぜなのか。
勝たなくてもいいと思っているからではないだろうか。
この大会で、プロの選手でない日本の投手は台湾や韓国のバッターに滅多打ちにあっている。プロの投手ならあんなことにはならないのではないか。
次のオリンピックでもプロの選手が参加できるが、日本はプロの選手は参加しないという。シーズン中だからというのがその理由らしいが、これがはたして理由と言えるだろうか。なぜオリンピックは特別だという気にならないのだろう。
プロは変則シーズンを組んででも参加すべきではないだろうか。各チーム公平に選手を出して、オリンピック期間中はシーズンを中断するか前期後期制にすれば問題はクリヤーできるのではないか。要はやる気の問題であろう。
プロの選手の中には、一般庶民にはとても手の出ない夢のようなか豪邸に住んでいる選手が大勢いる。彼らは、日頃から自分たちの成功をファンのお陰だとか、ファンの夢を叶えるのが使命だとか口癖のように言っている。もしそれが本気ならば、国民のためにユニホームを着て恩返しをしようという気になってもいいのではないか。
去年の脱税事件、今年のスパイ疑惑と、プロ野球選手の資質に対して疑問符がつくような事件が続いている。オリンピックはそのような汚名を挽回する絶好のチャンスでもある。
国民の代表として出場して国民のために汗を流せば、プロ野球人気もまた違ったものになるのではないか。アメリカの大リーグ選手が出ないとすれば、金メダルを取るチャンスでもある。
ところで、アメリカの大リーグの選手がオリンピックに出ないのは、金属バットではボールが飛びすぎて危険だからだという、まことしやかな記事が出ていたが、あれはアメリカ人お得意のジョークであろう。本気で言ったとすれば他国の野球を馬鹿にしたことになり、大変失礼な発言である。
しかし、発言はジョークでも本心は似たようなものかもしれない。アメリカの大リーグ選手たちは、自分たちの権利のためにはストライキをしてシーズンを途中で止めてしまうほどにファンを無視した行動がとれる。そんな選手たちが、オリンピックで怪我でもしたら大損だと思っているとしても不思議ではないからである。
日本の選手はこんなことは考えていないとわたしは信じている。(1998年12月17日)
林容疑者が和歌山のカレー事件の犯人として逮捕されたが、この逮捕にはたくさんの疑問点がある。
例えば目撃証言の信憑性だ。あの少年の目撃証言は林夫婦に報道の目が集中する以前に出たものであろうか、それともそれ以後であろうか。あの人が怪しいという報道の後で出てきた証言は、非常に危うい面がある。
あれだけの悪人の有罪を証明するためなら、ある程度の嘘は許されると考える人物が出てきても何ら不思議ではない。その結果生まれた目撃証言が冤罪を作り出した例は洋の東西を問わず数限りなくある。また、目撃証人に対する警察の誘導が百パーセントないと言えるのだろうか。
また、園部地区の他の住民の証言は百パーセント信じられているようであるが、本当にそれで大丈夫だろうかという疑問もある。他の住民が何らかの方法で砒素を手に入れていた可能性は全くないのだろうか。複数犯である可能性はないのだろうか。
あの現場検証に林容疑者が来ていないということは、他の住民の行動や証言が無批判に受け入れられたということにはならないのか。現場検証は容疑者本人が立ち会うのが普通ではないのかという疑問もある。
警察の捜査はすべていわゆる見込み捜査ではないのか。少なくとも林夫婦に対する捜査は、この夫婦が犯人であるという想定で行われているように見える。
もし林夫婦が犯人でなければという観点から事件を考えてみる必要はないのだろうか。
林容疑者が犯人でないと仮定してまず浮かぶのは、林夫妻を陥れるための謀略説である。この夫婦を陥れるために砒素を使った大量殺人事件を起こした人物がどこかにいないだろうか。
その人物は、この夫婦に恨みを持ち、この夫婦が砒素を使って保険金詐欺を何度も行っていることを知ってる人物である。もしその人物が、何らかの手段を使ってあの夏祭りで砒素を使った殺人事件が起こせば、
あの夫婦に疑いの目が向くのは時間の問題であろう。もちろん、その人物は夏祭りのカレー作りの時間帯に、園部地区にいる必要がある。
本当にそのような人物は一人もいないのだろうか。一度その可能性を全て消してから、もう一度林夫婦に疑いの目を向けても遅くはないはずだ。決定的証拠がない以上は裁判が長期化するのは今から予想できる。時間はまだまだあると思う。
「疑わしきは被告人の利益に」というのが裁判の原則である。このままでは、無罪になる可能性が大きい。(1998年12月9日)
アメリカのプロ野球のドラフト制度は、大の大人が子供に振り回されることがないようにできている。ところが、日本のプロ野球のドラフト制度では、毎年大の大人が18才の子供の好き嫌いに振り回される。
挙げ句の果てに今年は自殺者まで出してしまった。こんなことでよいのか真剣に考えるべき時である。
今の制度はプロ入りするかプロ入りしないかをくじ引きの結果を見てから決めるなどという虫のいい考え方を許している。高校生には、まずプロに入るか入らないかをはっきりさせることだ。
そしてすぐにプロ入りしたい高校生だけを対象にくじ引きであろうが前年度最下位チームからの選択によろうが、選手の所属を決めてしまう。
そして三年間辛抱させるのだ。その後にあらたに希望球団を選ばせればよい。なんといってもアマチュアに行くより稼げる点にプロ入りのメリットがある。また、球団にとっても、三年後に自分が仕込んだ一人前の大人を交渉相手にできるというメリットがある。
一方、逆指名の資格がほしい高校生には、社会人で三年間なり大学で四年間なり辛抱させればよい。プロで三年間お世話になってから他球団に行くよりも、この方が好きな球団にあっさりいけるというメリットがある。
いずれにしても、最低三年辛抱させるという点で条件を同じにするのだ。
そして、これならもう18歳の子供に大の大人が振り回されるようなことはなくなるはずだ。これは大人たちのためだけでなく、子供たちのためでもあることは明らかである。なぜなら、子供に辛抱させることは悪いことではないからである。(1998年11月28日)
人間は過ちを犯す動物である。林被告がカレー事件の犯人であるかのごとくマスコミは報道している。しかし、この判断は絶対に正しいと言えるか。
林被告の黙秘に批判が集まっている。しかし、もし被告が無実であるなら、自分が何を言おうとどう答えようと、自分を犯人だと決めつけて自白させようとする捜査官に対して、被告がとりうる手段はそれしかない。
証拠といっても状況証拠しかない。被告に不利な目撃者はこの状況ではいくらも出てくるだろう。しかし、これまで偽りの目撃者の証言によって死罪になった人は少なくないのだ。
死刑が執行された後で、本当はわたしがやったと申し出る人が出たら取り返しがつかない。
真犯人は思いもかけないところにいるかもしれない。松本サリン事件がそうだった。あの事件の教訓はこの事件では全く生かされていない。
冷静になって考えるならば、わたしはこの事件で弁護団の言っていること行っていることは、百パーセント正しいと言わざるを得ない。弁護士が仮にも庶民感情に流されるようなことがあっては決してならないのだ。(1998年11月13日)
消費税があるかきり日本の景気回復はないのではないだろうか。
日本人は消費税が嫌いなのだ。それがどんな名目であろうと消費税は払いたくない。福祉目的税にしてもいやなものはいやなのだ。それは、細川政権のときにはっきりしている。
そもそも物を買うときにいくら払うことになるかわからないから、消費税が嫌いなのだ。頭の中でいくら払うことになるとだいたい計算しても、それよりかなり多くなってしまうことが多いのだ。足し算は暗算でできても掛け算まではできない。計算機を持ち歩かないと安心して買い物ができない。だから消費税が嫌いなのだ。車を買おうと思っても、車屋のチラシを見て買えると思う車と、税金を足した後で買える車はまったく違う。「そんなに税金を払うのか、なら今の車でいい。まだ充分走るから」ということになるのだ。
税制で欧米の真似をしようとしてもだめだということだ。何でも欧米の制度を日本にそのまま持ち込んでもうまくは行かないのだ。消費税がその典型だ。
消費税がある限り、日本はだめになる。別の方法を考えるべきではなないのか。そんな気がする。(1998年11月13日)
阪神に野村監督が来たのに、どうして阪神を逆指名する選手が出て来ないのか不思議である。一人前の選手になれるこれ以上のチャンスはないのに、それをみすみす見逃そうというのだろうか。
彼らは、よい指導者に出会うということがどれだけ大切なことなのかを知らないのだろうか。彼らは自分だけの力でプロ野球界に入れるようになったと思っているのだろうか。彼らはアマチュア時代によい指導者に恵まれたからこそ、今こうして注目される選手になったということがわからないのだろうか。
いったいこの現代のプロ野球の世界に、野村氏以上の優れた指導者がどこにいるというのだろうか。彼らは指導者を見てから行くべき球団を決めていないのだろうか。
人生におけるこのような大切な選択を前にしたとき、自分の好みなど二の次にすべきであることを誰にも教わらなかったのだろうか。
野球をやっている若者たちはいったい何を考えているのか、まったく不思議である。(1998年11月8日)
アメリカのスペースシャトルのニュースで、しきりに「宇宙に行った、宇宙に行った」と言っていますがあれは大気圏外に行っただけのことでしょう。彼らは別に地球から離れて宇宙旅行をしているわけではない。地球の周りを回っているだけじゃないですか。
宇宙といえば少なくとも月より向こうに行ってくれないといけない。飛行機だって地球の周りを回っているんだし、スペースシャトルは人工衛星みたいに地球から遠く離れるわけではない、飛行機の少し上を飛んでいるだけなのに「宇宙に行った」とは言い過ぎじゃないですか。
いったい飛行機と如何ほどの違いがあるというのでしょう。飛行機が飛ぶ上空もかなり空気は薄いし、そんなに違う訳じゃない。実際飛行機でも無重力になることもあるし、スペースシャトルでも無重力じゃないこともある。飛行機だって離陸と着陸は今でもかなり危険です。
なんと言っても、地球の重力圏内にいるのに宇宙とは変ではないですか。あれは、正確に「大気圏外に行った」と言ってほしいものです。
地球の重力圏を抜け出てこそ宇宙じゃないですか。マスコミの人たちはスタートレックを見ないのでしょうか。あれを見ていると、アメリカのやってるスペースシャトルなんて、地球というリンゴの皮の上をはい回っているようなものです。
もちろんアメリカ人は自分のやっていることを誇張して「宇宙に行った」などと言いますが、何もそれにおつきあいすることはない。あれは「大気圏外に行った」と言うのが人類としても分相応なのです。
もちろん大気圏外に行くことが大変なことであることには違いありませんが、あれを「宇宙に行った」などといわれると、ちょっとどうかなと思います。(1998年11月1日)
野村氏の阪神監督就任したことで、来シーズンの開幕戦が楽しみになってきた。開幕戦で阪神は巨人と対戦することになるからである。そして、長島巨人と野村氏の率いるヤクルトとの開幕戦では、必ずといっていいほど何か事件が起きたものだ。
巨人の篠塚選手の放ったファールがホームランと判定されたのも開幕戦だったし、広島を解雇されてヤクルトに移ったばかりの小早川選手が2ホーマーを放つ大活躍をしたのも開幕戦だった。
そのヤクルトが3連敗して今年の優勝を逃すきっかけとなったの今年の巨人との開幕戦だった。開幕戦ではそのシーズンを象徴するような何かが起こるのだ。
長島氏は野村氏の阪神監督就任ついてノーコメントで通しているという。「またいやな相手と開幕であたる」。そう思っているのではないだろうか。しかし、長島氏が監督に留任したのに野村氏がヤクルトの監督をやめたことを残念に思っていたわたしたちプロ野球ファンにとっては、また長島対野村の対戦が見られることが今から楽しみだ。(1998年10月29日)
最近の二つの裁判結果について、わたしは人を無視することがいかに罪深いことかをあの少女とともに学んだ。弁護士という仕事がいかに危険であるかを私は学んだ。
それとともに、わたしがあの青年と同じ立場に立たずにすんだことを幸せだと思う。わたしは少女に車にのせてやろうなどと一生言うまいと心に決めた。わたしは弁護士一家を殺さなければならない立場に追い込まれなかったことを幸せに思う。わたしは一生宗教には関わるまいと心に決めた。
わたしは彼らに下された判決には興味がない。彼らはすでに生きながらにして死んでいる。あの青年は永遠に刑務所の中で人知れず残りの人生を過ごしたいと思っていることだろう。出所したとていったいその後にどんな人生が待っていよう。おそらくこの世の中は彼にとって地獄だったに違いない。その世の中に帰ることはむしろ恐怖であろう。
高級官僚や大会社の重役たちでさえもつぎつぎと逮捕されている世の中である。自分が今後の人生を彼らの仲間入りをせずにすごせるかどうかはわからない。ああ願わくは、わたしは不幸な加害者になるよりは、むしろ不幸な被害者になりたいものだ。(1998年10月25日)
商品券を使った減税の話が新聞に出ているが、この方法は大いに疑問だ。たとえ商品券であっても、誰かがどこかの段階で換金できなければ意味がないからだ。
例えばお店で商品券を使って物を買うとする。その商品券は今度はその店が商品の仕入れに使うのであろうか。そのようにして商品券は最後には、商品のメーカーに行きつくのであろうか。そして、そのメーカーが商品券を金に換えるのであろうか。まさか、商品券で給料を支払うわけではあるまい。
それとも、一度商品の購入に使われた商品券なら、誰でも銀行へ行けば、金に換えてもらえるのだろうか。では、いったいどうやって一回使われたことを証明するのであろうか。
消費者はお金に換えられないが、業者ならお金に換えられるのだろうか。しかし、誰もが消費者であり、誰もが製造者である。一方だけの役割しか持たない人は年金生活者ぐらいのものだろう。つまり、そんな区別はつけようがないのだ。
結局、商品券といえども政府が発行する以上は、お札と同じ意味を持たざるを得ない。とすると、使用期限付きのお札が世の中に出回ることになる。このことによって生まれるのが、果たして、景気の回復であるか、経済の混乱であるか、頭のいい宮沢さんなら分かりそうなものだ。(1998年10月8日)
「子供は親の言うとおりにするのではなく、するとおりにする」と言うが、これは国民の政治に対する行動とマスコミとの関係に似ている。
マスコミは投票率の低下を嘆き国民に投票を呼びかけるが、国民はマスコミの言うとおりになどしない。国民はマスコミの日頃の政治に対する言動を見て、それに応じた行動をするのだ。
マスコミは政治の実態を報道しているつもりなのだろうが、その報道を見れば、あんな胡散臭い連中のために投票に行くことをばからしいと思うのは当然である。新聞は大臣について回って提灯記事のようなものを書くか、内情を暴露して馬鹿にしてみせるかどちらかなのである。
記者たちは政党の政策を場当たりの人気取りでしかないように言い、自分だけがいい子になって、ああでもないがこうでもないと評論をしてみせるが、国民の政治離れを招いている責任の一端がそんな自分たちの記事にあることに気が付かないのだろうか。
それもこれも彼らが公平中立という仮面をかぶらざるを得ないことから来ているのだと私は思う。少なくとも新聞ぐらいは、どの政党のどの政策を支持するかを明確にすれば、無責任な評論をなぐり書きするようなこともなくなるのではないか。新聞も変革の時だと思う。(1998年6月24日)
社民党が与党を離脱したそうだが、彼らがまずすべき事は国民に謝罪することではないのか。
国民に今日の政治不信を広めたのは、誰でもない彼らである。政治なんて誰がやっても同じだという考え方を、彼らほどはっきり証明した政党はない。政治家の言うことなど当てにならないことを、彼らほど白日の元にさらけ出した政党はない。
消費税の導入にあれほど反対しておきながら、その消費税を引き上げたのは彼らである。自民党政権にあれほど反対しておきながら、その自民党政権を復活させたのは彼らである。彼らが与党にいてどんな実績を上げたにしろ、それを相殺して余りあることを彼らはやったのだ
。それにもかかわらず、自分たちはいいことをしたのだという顔をして、謝りもせずに、与党離脱を表明するとは、よほどの恥知らずではないか。
政治倫理に対する自民党の体質は今に始まったことではない。そんなことが今まで分からなかったことは恥ではないのか。自民党と手を組めば出口のない迷路に迷い込むことが分からなかったことは恥ではないのか。
人の本質も見抜けず将来に対する見通しもつけられず恥も知らないそんな政治家はいらない。解党して国民に謝罪する、これが人間として取るべき道ではないのか。それとも、彼らは人間以下だということなのか。(1998年6月13日)
内閣不信任案が提出されるそうだが、テレビや新聞の報道を見ているとまるでよその国の出来事のように感じる。この内閣でよいのかどうかが問われているのだから、もっと国民の間でこのままでよいのかどうかについて議論を起こすべきではないのか。
まず、この不信任案の提出はそもそも正しいことなのかどうかについて報道は何も論じようとはしない。単なる党利党略でしかないから勝手にやらせておけばいいことなのか。それとも、この国の行方が問われている重要な出来事だから、国民がいっしょになって考えるべきことなのか、われわれは全く分からない。
報道はただ事実を伝えればよいのではないはずだ。この不信任案の提出の善悪から、この不信任案に賛成するのが善悪まで、しっかりと報道は自分の意見を言ってもらいたい。それでこそ、言論自由であろう。
現実の報道を見ていると、この内閣でも仕方がないというあきらめや現状肯定的姿勢がむしろ目立つように思える。内閣不信任案の提出という機会に、もっとはっきりと報道は自分の意見を述べて国民の判断材料を提供してもらいたい。(1998年6月11日)
相撲界の活性化のためには、二子山部屋以外の力士の奮起を待つしかないという「主張」は正論だ。しかし、はたしてそんなことが可能だろうか。わたしは、それは誰がどうがんばっても、現状では数字的に不可能なではないかと思う。
よく考えてみて欲しい、二子山部屋以外の関脇は横綱大関戦が五番ある。それに対して、彼を迎え撃つ二子山部屋の横綱大関は、それが二番しかない。もしこの関脇が自分より下位の力士にとりこぼし無く戦ったとしても高々九勝だ。その上に、取り組みで自分より三番も楽な横綱大関三人と対戦して勝ち星を重ねなくてはならないのだ。
これは、二子山以外の力士が好成績を残すには下位との対戦で一切の取りこぼしが許されないのに、二子山部屋の力士は下位に取りこぼしをしても悠々と優勝争いが出来るという結果に現れている。
これを小結以上の役力士全員に広げて考えてみれば、他の部屋の力士の不利はさらに顕著になる。そして実際に関脇や小結の地位に二子山部屋の力士がいることが多いのである。これだけ何重にも不利な条件に置かれて、どうやって大関昇進に必要な三場所続けて十番前後の好成績を上げることが出来るだろうか。
一門別総当たりから部屋別総当たりになったときも力士は戸惑ったが、それも最初だけだった。相撲界にも独占禁止法を作らない限り、個人総当たり制にするしか大相撲の活性化は図れないと考えるべきである。(1998年5月26日)
なべて世は事もなし。最近のNHKの相撲中継を一言でいうとこうなるだろうか。
わたしがNHKの相撲中継をほとんど見なくなってから久しい。学生時代は飲食店に入ってテレビで相撲をやっていないと、チャンネルを変えてもらってまで見たものだが、それが最近はまったく見る気がしない。
今の大相撲は多くの問題を抱えているのに、それをまったく無視し見て見ぬふりをして、何の問題もないかのようにしている放送が白々しくて馬鹿らしくて嫌になったからである。
別に八百長云々を言いたいのではない。わたしが問題だと思うのは、二子山部屋の独占による弊害である。
いったい相撲とは個人競技なのか団体競技なのかまったく分からなくなっているのが現状ではないのか。二子山部屋の力士自身公言しているように援護射撃付きで相撲をとっている。果たしてそれでいいのか。
それに取り組み自体、非常に不公平なことになっている。
考えてもみてほしい、他の部屋の下位力士は横綱大関戦が五番もあるというのに、それを迎え撃つ二子山部屋の横綱大関にはそれが二番しかない。これでは、他の部屋の力士がいくらがんばって稽古をしても昇進のしようがないではないか。自分より下位にとりこぼし無くやっても、たかだか九勝だ。
その上に、取り組みで自分より三番も楽な横綱大関と対戦しなければいけないのである。彼らが何の文句も言わずにやっているのは、よほど人間ができていると言うべきだろう。
いやそもそも、この大相撲の閉鎖社会では、文句を言うことは許されないのではないか。協会の御意向には逆らえないのではないのか。なぜ、今場所の武蔵丸がああもあっさりと若乃花に負けたのか。「若乃花を横綱に」という協会の意向に逆らうべきではないという空気ができあがっていたからではないのか。そんなことはまったくないと、果たして言い切れるのか。
また、曙・若乃花戦で、土俵の回りにいた協会の人間=審査役が行事の判定を変えて、取り直しにせずに若乃花に勝たせてしまったことも疑問だ。
ビデオで止めれば、若乃花は立っていよう、残っていよう。しかし、ビデオ判定は動いているスポーツを止めて判定することだ。しかし、動いているところを見た行事には若乃花の体がないと見えたのではないのか。それとも、あの行事は協会の意向に無頓着だっただけなのか。
そもそも、ビデオの導入は審判が自分の目に自信がなくなってしまったことの証拠ではないのか。ビデオ判定が導入されていれば、大鵬の連勝がもっと続いたはずだというが、それでは大鵬の人気に審判が負けたことにならないのか。
野球でビデオ判定をすれば、審判の権威はまるつぶれだろう。ところが、相撲ではそれがあたかも公正なことであるかのように行なわれている。間違いをするのが人間ではないのか。それも含めたものが権威ではないのか。
さらに、協会の人間があとで判定に文句を付ける物言いの制度も、公正を保つための制度のようではあるが、結果として、行事が便宜的な道具になってしまっている、土俵のお飾りになってしまっている。行事には何の権威もないのだ。ほんとうにあれでいいのか。
そもそも、審査役制度はいつから始まった制度なのか。何のために何がきっかけで始まった制度なのか。洗い直すべき時期に来ているのではないのか。行事の服装が、昔から今と同じだったのではないように、審査役制度も今と同じだったはずがない。
選手の身内が審判をするなんて公正さの観点から言えば信じられないことだ。裁判官は、当事者の関係者であってはならない。それが世間の常識ではないのか。
世の中変わろうとしているが相撲はこのままでいいのか。わたしの目には大相撲は日本の談合社会の典型のように写るが、それはわたしだけなのか。かつての良き伝統は、いつまでも良き伝統なのか。
相撲協会は自分で自分を変える力がない。変えようとした前会長は辞めさされてしまった。この上、NHKが何の問題もないという放送をし続けるなら、相撲は年寄りしか見ない番組になってしまうだろう。
百歳のじいさんが、NHKの番組で貴乃花のファンだと言ったのをわたしはよく覚えている。百歳のじいさんにはあれでいいんだとわたしは感心したものだ。しかし、若者たちはフェアでないスポーツにはいずれ見向きもしなくなるだろう。それでもいいのか。
二子山部屋独占のそもそもの起こりは、前の二子山親方、元の若乃花が藤島親方に株を譲ったことに始まる。しかし、そこに不正があったことは司直の手によって明らかにされている。ところが、その結果招来した独占には手が着けられないままだ。アンフェアな行為によってアンフェアな結果が生まれるのは当然のことだろうに。
「大相撲はこのままでよいのか」と思えるようなことが、二子山の独占で目立つようになってきている。それを何事もないように放送し続けるのか、それとも、事実は事実として放送するのか。相撲放送は過渡期に来ていないのか。
日本は閉塞状態にあると言われる。政治がそうだろう。経済もそうだろう。相撲もそうではないのか。「相撲をオリンピックに」などという声があるが国内でこんなことをやっていることが、はたして世界に知れ渡っていいのだろうか。よく考えてもらいたい。(1998年5月26日)
若乃花が横綱になるという。「お手盛り横綱」、「援護射撃付き横綱」の誕生である。
この横綱は協会がお手盛りで作った横綱である。二子山部屋という有利な立場にある大関が三敗もしたにもかかわらず横綱に推挙したのだ。武蔵丸の横綱挑戦の時に高いレベルの優勝を要求した協会は若乃花の場合には何も言わなかった。
出島が若乃花と同星に並ぶと、小結は他にいるのに二子山部屋の安芸乃島をぶつけるという念の入れようだ。曙・若乃花戦を差し違いにして取り直しにしなかったのも疑わしい。協会による「お手盛り」が見え見えである。
二子山部屋の他の力士は若関を優勝させるために一致団結した。好調な力士は若乃花の上にいくまいとしてか、不思議に負け続けた。しかし、若乃花の優勝を邪魔する力士に対してはしっかり勝った。まさに「援護射撃付き横綱」の誕生である。
それにしても、気の毒なのは若乃花本人だ。大関の地位を維持するのにも汲々としていた力士が、こんどは横綱の地位を維持しなければならないのだ。力士生命が縮まったことだけは間違いあるまい。それともこれからも援護射撃とお手盛りでしのいでいくのだろうか。(1998年5月24日)
先日、産経新聞連載の戲論で「健全な精神は健全な肉体に宿る」という格言の間違いを指摘した玉木氏が「ユウェナリスは若者が体を鍛えるだけで勉強しないことを嘆き、『健全な肉体には健全な精神も!』(肉体だけ鍛えてもダメ!)といった」と書いておられる見て、なるほどそうだったのかと、久しぶりに手もとにある原文をひもといてみたが、どうもそうでもなさそうなのでご報告したい。
この言葉の出てくるユウェナリスの十番目の詩の内容を注釈書の助けを借りてごく大ざっぱにまとめると次のようになる。
人々は間違ったことばかりを神様にお願いしている。例えば金持ちになること、例えば長生き、例えば美貌。しかし、これらはなかなか手に入りにくいだけでなく、手に入ったところで決して持ち主を幸福にはしない。金持ちになっても泥棒の心配が増えるだけ。長生きしても、もうろくした人生にいいことはない。
美人になっても不倫に陥って苦しむだけだ。「心身ともに健康であること」。願うならこの程度にしておきなさい。これなら誰でも自分の力で達成できるし、それが手に入ったことによって不幸になることもない。しかし、けっしてそれ以上の大きな願いを抱いてはいけない。
ユウェナリスが言いたかったことは、要するに「青年よ大志を抱くな」であるらしい。玉木氏の誤訳の指摘はありがたいが、この詩がスポーツマンに勉強しろと言っているのでないことは確かである。(1998年2月6日)
プロ野球の日本シリーズが終わってからまだ日が浅いというのに、近頃はあれがまるで作り事の世界の出来事ように思えてしまう。それはドラフト逆指名とFA(フリーエージェント)というどろどろとした現実の世界が始まったからにほかならない。
シーズン中はチームのためにという合い言葉を胸に「協力する」とか「助け合う」とか「恩に報いる」などというような理想的な人間の姿を追い求めていた選手たちが、シーズンが終わりFAが始まると途端に我利我利亡者の群に豹変するのだ。
例えば、日本シリーズ中に自分の帽子に怪我で出場できない飯田選手の背番号を書いたヤクルトの吉井投手とFAで移籍球団を捜している吉井選手が同じ人間であるとはとても思えない。まるであれはスポーツという一種のフィクションの世界の出来事にすぎなかったのかと思えてくるのである。
しかしながら、あれがスポーツの世界の紛れもない現実であったことに間違いはない。つまり、スポーツの世界とは実に道徳的なものを求めていく世界なのである。
飯田選手の欠場を契機に「飯田のためにがんばろう」という言葉で、選手たちを一挙に理想的な価値を追求する人間集団に変えてしまったヤクルトの野村監督の手腕はその意味で特筆に値する。また、球場の中だけでなく野球を離れた場面でも、選手たちが理想的な人間であることを求められるのも同じく忘れてはならない現実である。
ところが、ここにその理想的な人間像とかけ離れたことをやってよいという制度が、そのスポーツの世界自身から提供されているのである。君は今日から自分のことだけを考える身勝手な欲深い人間として行動してよいというのである。
これがスポーツ選手として大成しようとする者にとって甘い罠であることは明らかだろう。多くの選手がFA制度を使って他のチームに移籍しようとしないのは、その方が有利だからという理由からではなく、この罠の危険性をよく知っているからではないだろうか。
実際、FA制度を使って他のチームに移籍して以前と同じような活躍をした選手が何人いるだろう。自分のスポーツマンとしての心の中にスポーツに反する要素が入り込むことがスポーツマンとしての自分の人生にとって命取りとなりかねないことを、賢明な選手たちは知っているに違いないのだ。
これは逆指名制度についても当てはまる。プロの世界では何の実績のない、今後も何の実績も残せないかもしれない若者たちが、我が物顔に何の臆面もなく、金のある方へ、自分に得な方へと向かっていくことを許すような制度が良い制度であるはずがない。
この制度は若者たちにスポーツの求めるものとは正反対の心を植えつけてしまう恐れが大である。実際、逆指名制度を使って個人的な選り好みを優先させて入団した選手で、実際に活躍している選手が何人いるだろう。
スポーツマンシップに反するFA制度と逆指名制度が廃止されるべきであることは明らかである。(1997年12月17日)
佐藤総務長官が辞任するというが、辞任する理由がいったいどこにあるというのだろうか。
彼は大臣に就任してから今までに何も悪いことをしていないし、この間に過去の悪事が露見したわけでもない。彼が収賄の前科のあることはすでに任命される前から誰もが知っていることであって、大臣になってから分かったことではない。それを知った上で、橋本首相が任命したのである。
それにもかかわらず、就任後に過去の前歴を理由に辞任しろというのは筋が通らない。そんなことがあれば、佐藤氏の名誉と人権の侵害に当たるのではなかろうか。
ところが、社民党が突然、佐藤氏を罷免しないかぎり与党を離脱するといい出した。しかし、土井党首はすでに組閣前に佐藤氏を入閣させないようにと申し入れているのであり、それにもかかわらず首相が佐藤氏を大臣に任命したのだから、その段階でいさぎよく与党を離脱すればよかったのである。
いったんになってしまった人間をやめさせろ、さもなければ与党を離脱するなどと交換条件にするのは、与党を離脱したくないから罷免してくれと言っているようなものである。
これでは政治姿勢をアピールしたことにならない。また、たとえ佐藤氏が辞任をしたところで、首相が佐藤氏を大臣にしたという事実が消えるわけではない。それでもそんな首相を支持してこのまま与党に留まるというのであれば、社民党の政治姿勢が改めて問われることになろう。
また、この社民党の恫喝に屈して自民党の議員までが佐藤氏に辞任を求めたらしいが、これは自民党が政治姿勢を正したということではなく、権力維持のための方便で言い出したにすぎないことは明らかである。自民党とは、党の総裁の決めたことを貫くこともできない情けない政党なのである。(1997年9月18日)
ダイアナさんの死についてどう思いますか。
彼女をかわいそうだと言う報道で一色ですが、わたしは、一般道を150キロ以上のスピードで走って事故を起こして死んだのだから自業自得だと思います。誰であっても、どんな事情であっても、そんなスピードを出すことは許されないはずです。それが自分たちには許される、自分たちは特別なんだというおごりがあったのだと思います。
写真家たちが悪いように言われてますが、かれらに追い回されているのはダイアナさんだけではないはずです。また、もしカメラマンが悪いとするなら、その写真を見て喜んでいた一般大衆にもまた事故の責任があることになると思います。
この死に方を見れば、あの人の慈善運動もパリの上流階級の華やかなお遊びの上辺を繕うものでしかなかったのではないかと思います。(1997年9月1日)
自虐史観などという言葉をよく見かける。日本が戦時中に犯した悪を明らかにする歴史観をこう言う名前で呼んで批判するときに使われているようだ。こんな歴史では自分の国に誇りを持てなくなると言うのである。しかし、この言葉の使い方はちょっとおかしいのではないかと最近思えてきた。自虐的とは自分を虐げると書くのだが、過去の悪事を明らかにすることは何も自分をいじめるためではない。過去の悪事を暴くこと、自分の恥をさらすことは、将来の自分たちのあるべき姿を考えるための行為である。
自分たちはこれからどういう国をつくって行くべきか、過去を反省しようと言うのである。であるから、自虐的ではなく自省的と言うべきである。そしてこの自省、過去に対する反省はプラスの要素をもたらすものであることは疑いがない。自己批判はよりよいものを求めてするものだからである。
自己批判をすれば誇りを失うだろうか。そんなことはない。人間は失敗をする、その失敗を反省することはけっして誇りを失わせる行為ではない。罪を犯してその罪を償う行為はけっして誇りを失わせる行為ではない。反省を自虐というのは言葉の過った使用だ。また、自分の悪事を隠してもけっしてそんな自分を誇ることが出来ないのは明らかだ。
それに比べて、韓国人の反日教育はどんなプラスがあるのだろうか。わたしはこのような教育こそ自虐的と呼ぶべきだと思う。
自分が過去に受けた被害を数え上げることは、自分を慈しむ行為ではない。人にひどい目にあったことを思い出して、その人に対する憎しみの感情をかき立て、しかも現実には何もできないでいる自分の姿はまったく情けないというしかない。自分が虐められたことばかり思い出す行為こそ自虐的である。
国のレベルでも同じことが言えるのではないか。韓国人が日本人によって自分たちに祖先に加えられた悪事をこれでもかこれでもかと暴きたてることもまた情けない行為である。
それは彼らの将来になんらブラスの要素をもたらさないどころか、ただ日本人に対する憎しみをかき立てるだけである。憎しみという感情は何か良いことをもたらすのであろうか。他人にされた被害を考えることが、はたして自分たちの将来を考える上で正しい方法だろうか。
臥薪嘗胆という言葉があって、過去の悔しい思い出を将来の成功のための糧とするのはよいことであり立派な行為である。しかし、憎しみはこれとは違う。ただ自分を不幸にするだけだ。人を呪わば穴二つという。過去の不幸に浸ったところでそれは未来の幸福に結びつかない。復讐心に燃えることは野蛮なことなのである。
日本人が自分がした悪事を数え上げることはけっして自虐ではないが、韓国人が自分の身に受けた悪事を数え上げることこそ自虐である。
自虐史観という言葉をつくったのは誰かは知らないが、産経新聞の読者でなければなかなかお目にかかれない言葉である。このような言葉をつくらなければ自分の主張を出来ないわけではない。ところがこのような言葉をつくるところには、一般大衆に対する受けを狙ったキャンペーン的な要素を見て取ることが出来る。
最近では「人権派」という言葉を作って、犯罪の容疑者の人権を擁護することに対する批判を繰り広げているが、これもまた似た手口だと言える。
そして人権という言葉を容疑者など人権侵犯の危険にさらされている人たちに対してではなく、誰であれ生きる権利を持つ人間全体に対して使おうとする。その結果、彼らによれば、戦争における侵略行為は他国の国民に対する人権侵犯であり、軍隊による防衛は国民の人権を守ることだということになるのだ。(1997年8月20日)
昔は「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がよく使われたものだが、最近は「被害者の人権」という言葉がしきりに使われるようになった。「被害者の人権が抹殺されたのに、加害者の人権が守られているのはおかしい」。こういうふうに使うらしい。最近の須磨の事件から特にこんな言い方がよくされるようになった。しかしちょっと待ってくれと言いたい。「被害者の人権」というと聞こえはいいが、ではあの事件で誰が被害者の人権を抹殺したと言うのだろうか。それは中3の少年に決まっているじゃないかという答えが返ってくるかもしれない。
しかし、そうすると「中3の少年が小学校6年生の少年の人権を奪う」などという現象が発生したということになる。しかしこれはおかしい。こんな言い方はない。奪われたのは人権ではなく人生だろう。
いったい加害者が被害者を殺害したことが、人権問題と何の関係があるというのだろう。そこには、人権という言葉の意味を情緒的に拡大して、加害者の人権を軽視したいという魂胆が見えかくれする。このような風潮は非常に危険なことだと思う。
その上、この事件の場合の加害者とされているのは子供である。子供のしたことは大人の責任だと昔から決まっている。これに例外はないはずだ。それなのにこの事件でいったいどの大人が責任をとっただろうか。それどころか、大人たちは自分たちの責任を問うことなく、子供一人に全ての責任をとらせようとしている。
子供は法律を知らない弱者である。その子供に対して厳罰を求める風潮にこそ人権問題が発生しているのでないだろうか。(検察庁は巧妙にも死んだ祖母に責任を転嫁して見せた。公務員の身内意識を見せつけられたような気がしたのは私だけだろうか)
そもそも人権宣言や人権擁護という言葉に使われている人権とは現に生きている人間の権利のことであって、決して死んだ人間のことではない。また、人権を奪うことが出来るのはか弱い個人ではなく、強大な力を持った官憲やマスコミなどの存在である。須磨の事件で誰かの人権が奪われたとすればそれはマスコミの報道によるものであろう。
人権問題は生きている人間にのみ発生する。全ての議論はここから出発しなければならないはずだ。そしてその時にこそ、「罪を憎んで人を憎まず」という古い言葉に込められた昔からの人間の知恵をかみしめることが大切であろう。(1997年8月4日)
死刑は被害者側の復讐欲を満足させるだけの意味しかない。犯罪者に対して重い刑であると思うのは勝手な想像である。
死が恐ろしいものであるというのは生きているものの想像でしかない。その恐ろしさを知っているものはこの世にはいない。勝手に恐ろしいと思っているだけなのだ。死は死ぬ当人にとっては快いものかもしれない。
医学は死が不快なものであることを証明してはいない。苦痛は生きているものにだけに与えることができる。われわれは犯人を死刑に処すことで彼に至福を与えているかもしれないのだ。古代ギリシャ人は死を神の与えうる最大の恵みであると考えていた。
そもそも、死刑は犯罪者に死を与えるだけであって、苦痛を与えることは許されてはいない。死刑は残酷な刑ではないように行われている。これらから死刑が無意味であることが分かる。
むしろ誰にとっても確実に恐ろしいことは罪を犯しながら生き続けることである。終身刑は一生許されることのない刑罰である。これほどおそろしい罰はない。
また死刑がよくないことの理由としてえん罪の可能性がある。人間は過ちを犯すものである。裁判官も陪審も人間である限り犯罪者が過ちを犯したのと同じ確率で過ちを犯す可能性がある。死刑が執行されてからその過ちが明らかになった場合その過ちは取り返しがつかないものとなる。しかし終身刑であるなら、再審の道がある。(1997年6月5日)
このところのヨーロッパの激動を見ていてつくづく思うのは、西洋の人達はなんとまあ理念というか理屈で考えていいと思うことを実行に移せる人達だなと思う。
もちろん、これまでに長い年月があったにしても、あのソ連が一党独裁でなくなったり、ヨーロッパがECとして国境を撤廃しようと相談したり、ドイツの壁が無くなってしまったり、考えてみれはいいに決まっていることがどんどん実行に移されていくのだ。
自由と平等。いいに決まっているじゃないか。戦争を止めよう。軍備を無くそう。歓迎だ。そして、ヨーロッパではその方向にどんどん歩み出している。
ところで日本はどうか。日本にも立派な理屈がある。自由と平等を押し進めようという理念はある。憲法を開いてみればいい。そこにはいいに決まっていることがいっぱい書いてある。ところがどうだ。じっさいに実行に移されていることはほとんどないんじゃないか思えるくらいだ。
そして、実は判例というのがあって、憲法の条文はどんどん、読んですぐに分かる内容からは違うことを意味するとされてしまっている。憲法なんかよりも実情とか、実際にあるもの、現に存在するものの方が優先されて、それにあわせてどんどん「解釈」されてしまっているだ。
そして憲法などは、たんなる「理屈」でしかなくなってしまっているのだ。だが、いったいそれでいいのか。理屈を言うと角が立つという言い方が日本にはあって、人付き合いを円満にしたければ理屈をいってはいけない、言われたとおりにしているのが一番いいという考え方が蔓延しているのだ。(1997年4月17日)
みなさん、じゃんけんではパーがいちばん強いというのをご存じですか。
まず形の作り安さから考えてみて下さい。じゃんけんでグーが一番出しやすいことは明らかでしょう。最初はみなグーの形をしているのですから、それをそのまま出すグーが一番出しやすいのは当然です。その次に出しやすいのはパーでしょう。握っていた手をただ開くだけでいいわけですから。それに対して、チョキの手の形は半分握って半分広げるという特殊な形で、Vサイン以外には日頃使わない形です。チョキが一番出しにくい形と言えるのでしょう。
こう考えていくと、「グーかパーの出る確率が高い」、つまり「パーが一番勝つ確率が高い」となるのです。
この法則をわたしはむかし自動車教習所でキャンセル待ちをしていたときに発見しました。
教習の予約をキャンセルした人があると、その度にホールにいる人たちはカウンターのお姉さんの所に行ってその場でじゃんけんをして勝った人が教習を受けられます。
ところがみんな初対面の人ばかりで気後れするのでしょう、心の準備もなければ、作戦を考えることもなく、じゃんけんで突きだした手の形、つまりグーをそのまま出してしまうのです。
それに気づいたわたしはいつもバーを出すことにしました。その結果、わたしはいつもじゃんけんに勝ってどんどん教習を進めることができ、合宿でもないのに3週間ほどでさっさと免許を取ることができました。
そうです、心理的な面からいっても、バーが勝つ確率が一番高いと言えるのです。グーはそのまま出せばいいのに対して、パーやチョキを出すには一種の決断がいります。いわんやチョキには形が二通りあり、地方によっては自分の知っている形が通用しない可能性さえあるのです。
初対面同士で急にじゃんけんをしなければならない状況で、最初からチョキを出すのはかなり勇気がいると言えるでしょう。
このように形の面から言っても、心理的な面から言っても、じゃんけんではパーが一番勝つ確率が高いのです。このことを知っているかいないかによってじゃんけんは勝ち負けに大きな差が出ます。ですから、重要な事柄の決定にじゃんけんを使ってはいけないのです。(1997年2月22日)
インターネットであれだけたくさんのホームページがあるのにインターネットの使い方を知るのに本を買わなければならないとはおかしなことだ。
どこかに必要な情報があるに違いない。だがそれを捜すのが一苦労なのだ。だから、時間で金を取るプロバイダでは使いこなせないと考えるべきだ。
Niftyserveぐらいのスペースで一括ダウンもできるものなら時間による課金もよいが、世界中に広がっているものを相手に一分いくらでは何もできない。その意味でBekkoameの存在価値は大きいのではないか。(1997年2月20日)
ドイツ人はナチスの復興を恐れ、日本人は軍隊の復興を恐れる。それは第二次世界大戦の失敗の原因をドイツ人はナチスに求め、日本人は軍隊に求めているからである。
それは自国民全体の失敗ととらえたくない気持ちの表れと言ってもよい。しかし、ナチスを権力の座につけたのも軍隊を増長させたのもどちらも当時の国民全体である。だから、ナチスとヒトラーを犯罪者扱いしたところで問題の解決には結びつかないはずだ。
ヒトラーを全否定するところからは明日のドイツはないはずだが、彼らのしていることはまさにそのことであり、あの時代の否定である。
しかし国の歴史がその時代を空白に見なすことができないのと同様に、あの時代の出来事を全て否定しつくしても現代のドイツ人の誇りは生まれない。それは伝統の否定であるからである。
伝統を否定した未来像などというものはない。すべてをありのままに受け入れることがまず必要だ。ナチスは特殊なごく一部の人たちのやったことと見なす考え方が主流のようだがそれは間違いだ.あの時代のドイツ人はみんなヒトラーを積極的にせよ消極的にせよ支持したのだから。(1997年2月13日)
ドラマの本質は人間の生存競争だ。生存をかけた争いが描かれればそれだけでどきどきさせるものになる。
だから、映画のカーチェイスも非常にドラマチックではらはらどきどきさせてくれる。だから、恐竜に追いかけられて必死に逃げるシーンに見入ってしまう。
映画『ジュラシックパーク』には、何と生きるか死ぬかの場面の多いことか。しかも危害を加えてくる相手は恐竜だけでなく人間のこしらえた文明の利器であったりする。
とにかくこの映画はそんなシーンの連続だ。そしてそのどの場面でも主人公たちは生き延びられるかどうかの瀬戸際に追い込まれる。
考えてみればギリシア悲劇の『オイディプス王』でも生きるか死ぬかの瀬戸際に主人公はいつのまにか追いつめられている。直接命を狙われるわけではないものの、オイディプスもまた自分の存亡をかけた瀬戸際に立たされるのだ。
だから、はらはらこそどきどきしながら見入ってしまうのだ。そうでなければそれは演出が悪いということである。(1997年2月9日)
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