日本のマスコミは小沢一郎に選挙で勝たせるぐらいなら消費税が5パーセントになる方がましだと思った。そこで消費税の引き上げが正しいかのような報道を行って自民党に勝たせた。一部の新聞は選挙の出口調査の結果を自民党や民主党に教えて反小沢を実行した。
消費税の引き上げ反対を言い出したのが小沢新進党でなかったら、マスコミはきっと消費税の引き上げ反対に回っただろう。なぜなら、国民の多くは消費税引き上げに反対していたからである。消費税導入に反対した大衆を扇動して社会党に勝たせたのはまさにマスコミだった。
ところで、本当に消費税の引き上げが必要かどうかなど誰にも分からない。そうすれば必ず日本がよくなるとは誰も断言できない。
にもかかわらず、マスコミが消費税の引き上げに反対した小沢一郎を批判したのは小沢一郎を嫌っているからという理由以外には考えられない。これは日本のマスコミは何が正しいかではなく好き嫌いを基準にして報道することの明らかな証拠と言えるだろう。
小沢一郎を首相にするより消費税を引き上げる方が正しかったかどうかは一年もすればじきに分る。(1996年12月13日)
戦時中に全体主義と滅私奉公を強いられた体験は、戦後の人間を個人主義に向かわせたが、この個人主義は単なる自分勝手主義でしかないものだった。
国家に対する忠誠や社会に対する奉仕こそが最も大切なものであるという教育はなされてこなかったのである。そんなことを言えば全体主義者という烙印を押されかねない風潮がある。
しかしたとえぱ国旗に対する忠誠は、どこの国でも当然のこととして求められるものである。にもかかわらずこの国では国旗を掲げることに反対する人間が大手を振っているのが現状だ。
もし清原選手がファンのために野球をし、プロ野球界全体の将来を考えて移籍先の球団を選んでいたなら、そしてこの選択が広く日本人に与える影響を考えて いたなら、また後に続く子供たちに対する影響を考えのうちに入れていたなら、かれは結婚相手を選ぶときのような選択の仕方をしなかっただろう。
自分の好みを優先する社会風潮がこれ以上広まらないことを祈るのみである。(1996年11月25日)
オリックスのイチロー選手は日本シリーズの優勝の瞬間に、誰よりも早く客席のファンの方を振り向いた。それに対して、西武時代の清原選手は巨人に勝った日本シリーズでまず自分自身の過去に思いが行って涙してしまった。この違いがこの両選手の根本的な違いを象徴している。
ファンのためにプロ野球はあるのだということに、清原選手はまったく気づくことがないままにプロ野球生活を送ってきたのだ。そのことに気づかなかったがゆえに彼は何のタイトルも取ることもできなかったと言ってよい。
自分のためだけに生きている人間は弱い。人間は人の間にあって始めて一人前の人間であるのだ。そしてそのときはじめて最高の力を発揮することができるのである。
社会のために生きることが戦後の教育ではなおざりにされてきている。わがままを通すことが民主主義であるとと教えられてきた。自分の願いよりもまず人の願いを満たすことに専念できる人間をこの社会は育ててこなかったのである。(1996年11月25日)
清原選手は巨人を選んだが、さて彼は誰の気持ちを大切にしてこの選択を行ったのだろうか。
プロ野球選手は誰のために野球をするのかについて、彼はこの9年にも及ぶプロ生活でついに学ぶことがなかったようである。
プロはフャンのために野球をするのである。自分のために野球をするのはアマチュアである。高校を出たばかりの福留選手がこのことが理解できずに、自分の 好みを優先して近鉄球団入りを拒否したが、清原選手は阪神入りを熱望する多くの阪神ファンの気持ちがまったく眼中になかったのだろうか。
PL学園の中村監督は今年卒業する前川投手の近鉄入りを表明した席に同席して、選手としてだけでなく人間として大成することの重要性を強調した。しかしこの言葉の意味も清原選手は理解できなかったのだろう。
入団する気もない阪神との交渉の席について、阪神側に期待を抱かせたことの罪にも気づくことなく、親に助言を求めてやっと巨人入りを表明するというていたらくだった。
彼の将来は推して知るべしである。(1996年11月25日)
西洋型民主主義が現代文明を生んだということを忘れて西洋型民主主義を否定するなら、それは現代文明自体をも否定することになることを忘れてはならない。
ギリシャの民主主義抜きにギリシャ文明は生まれなかった。ギリシャ文明の素材はエジプトやアジアが提供したものだが、ギリシャの自由な思考のみがそれを科学に発展させた。
たとえば幾何学の基になるものを使いだしたのはエジプト人だがそれを人類共通の知識に変えたのはギリシャ人だった。エジプトの専制政治のもとでは自由な思考が発展する余地はなく、ギリシャの民主的な空気の中ではじめて科学の形に結実したのである。
もしそれを忘れて、文明だけを享受しながら西洋民主主義を東洋的でないとして拒否するなら、それは中国の共産主義となんら変わらない、中身を欠いた形だけの文明ということになる。
精神面では圧制を許容しながら、物質面だけの自由を求めることになるからである。(199611月19日)
行政改革に対する期待が高いが、まず補欠選挙というのをやめたらどうだろうか。まずもって、一人や二人国会議員が欠けたところで大勢に影響がないのは明らかだろう。政治家の数が多すぎると言う意見も最近よく聞く。次の選挙まで欠員扱いで十分だろう。
とくに今回の兵庫県の補欠選挙では当選した議員の任期はたったの一年半というではないか。いなくてとくに困るというものではない。しかも存在感の薄い参議院である。
今回の補欠選挙は特に税金の無駄使いであるようなに気がする。
この選挙は参議院議員が衆議院に鞍替えするために辞職したために行われたものだ。つまり一個人の勝手な都合のために選挙が行われ、そのために膨大な費用が使われたのだ。
議員が死亡したのなら仕方がないという気もするが、衆議院議員の親の跡目を継いで立候補するために参議院を辞めたのだから、この補欠選挙のための出費はその議員が負うべき性質のものである。(1996年11月19日)
昔は経済一流政治は三流と言われたが、次にバブルの崩壊で経済も三流だと言われて銀行などに批判が集中した。かと思うと、政治が三流であることはいつのまにか忘れられてしまい、今では政治家に行政改革の期待が寄せられている。
しかし三流は三流であって政治家の顔ぶれは変わっていないのだからそんな連中に期待しても無駄というものだろう。(1996年11月18日)
今、日本では行政改革ができないと日本は滅亡するかのように騒がれている。このまま官僚に日本をまかせていれば大変なことになると言われている。だから、今は橋本政権に期待するしかないということらしい。そして国民はこれを支援すべきだなどと言われている。
確かに、大和銀行事件に見られるように日本の官僚には必要以上の権限が与えられているし、政府を動かしているのが選挙の洗礼を受けない官僚たちであるのは民主的でない。
しかし、たとえ行政改革が必要だとしても、はたして橋本政権にそれができるだろうか。
この政権をつくっている自民党の政治家たちの顔ぶれを見れば、この党が以前の単独政権の時代と何も変わったいないことはすぐ分かる。ロッキード事件やリ クルート事件で名を馳せた者たちが相変わらず幅を利かせているからだ。そして共和の献金疑惑はまったく晴らされていない。この党は相変わらず金権腐敗にま みれた者たちであふれているのだ。
しかも、自民党はかつて政治改革に反対した者たちで構成されている党である。彼らは現在の行き詰まりをもたらした張本人たちでもある。
その彼らに行政改革をどうして期待できるだろうか。行政改革が急務であることが事実であるなら、そしてここ三・四年が大切だというなら、国民は橋本政権に一日も早い退陣を願うぺきだろう。あだな期待にうつつを抜かしている時間はないはずだ。(1996年11月11日)
都心部、とくに近畿地方で自民党の議員が選挙で大敗したのに対して、それ以外の地方で自民党の議員が大量に当選した。そして大阪出身の自民党の議員は、今後近畿地方の意見は政府の政策に反映されにくくなると、近畿の財界に対して警告を発したという。
これは今回の選挙で生まれた政府が、自民党が大量当選した地方の民意を強く反映しものになったということを示している。
ところが、この民意は、地方と都心部では一票の格差が大きいために、国民全体のものとはかけ離れたものである可能性が大きい。
一票の格差の問題は、選挙によって生まれる政府が国民のどの部分の意見を代表するものとなるかに、大きく影響してくるのである。
このまま格差が解消されず、しかも都心部に人口が集中し続けるなら、ますます都心部の人間の意見は軽視され、安定を求める地方の少数の人たちの意見ばかりが反映される政府が作られることになる。
一票の格差をなくす運動は一部の人たちの問題ではなく、都会に住む人間全員にとって重要なことなのである。(1996年11月8日)
近頃、若い女性が男に殺される事件が相次いで起こっている。しかもそのあとで家に放火するという悪質なものが多い。これらはほとんどが恋愛関係のもつれが原因だ。
これらの事件を引き起こした男たちとて、正気に返ればなぜあんなことまでしたのか自分自身の行為を悔いているはずだ。そして、彼らが後悔するのはそれが正気を失っていた間の出来事であるからだ。
とはいえ、一般に恋愛は精神異常とは認められないため、彼らは自分の行った犯罪の責任をとらねばならないが、彼らが一時的に正気を失っていたと言っても間違ってはない。
これらの事件を見れば分かるとおり恋愛とは一種の狂気であり、人間を正気では考えられないような行動に向かわせる。
古代ギリシャ悲劇の「アンティゴネ」には、恋愛をうたった歌があるがそれは恋は狂気であるといって、人々に警戒をうながすものだ。そこには今日のドラマのような甘い浮ついた恋愛のイメージはまったくない。恋愛礼賛はやめるべきだろう。(1996年11月2日)
自民党が行っている社民、さきがけとの政策協議を見ていると、まったく腹が立ってくる。
今回の選挙での国民の審判は自社さ連立政権に対する批判であったはずだ。それにもかかわらず選挙前と同じ連立政権を作ろうと画策するととは、まったく民意を無視した行動と言わざるを得ない。
とくに社さは、国会で嘘をついたことがほぼ明らかになった自民党の加藤幹事長と同じテーブルについていること自体を恥と感じるべきである。
社民党はこれまで金権批判を繰り返してきたはずだが、それを忘れてしまったかのように、献金疑惑がもたれている人間と政策協議をするなどもってのほかだ。
しかもその協議の内容といったら、「いっしょに考えましょう」というレベルのものばかりで、とうてい合意とは言えないにもかかわらず、合意文書を交わし たという。これでは単なる数字合わせが目当てであることは明らかだ。まったく国民を馬鹿にした茶番である。(1996年11月1日)
ヘロドトスの「歴史」の第二巻でエジプトの話である。
そこで彼は「エジプトを作ったのはナイル川である、エジプトはナイルの賜だ」という有名な言葉を残したが、それはエジプトの肥沃なデルタ地帯はナ イル川が運んできた土砂の堆積によって作られたもので、デルタ地帯は元々何もなかったところに生まれたものだという意味である。
そして、このエジプトの繁栄はナイル川の定期的な氾濫のおかげであり、この氾濫が如何に農業をたやすいものにしているかを説明している。
しかしその一方ヘロドトスは、このままナイル川による土砂の堆積が続くと、土地が高くなってしまいナイル川は簡単には氾濫しなくなってしまい、その結果大地が干上がってしまい、国民は飢え死にすることだろうとも言っている。
実際、メソポタミア文明もエジプト文明も水が枯渇して滅んだことを考えると、ヘロドトスの言ったとおりになったのだろうかと思いたくなる。実際はどうなのだろう。(1996年10月30日)
そもそも大相撲の不公平な状況は現在の二子山部屋の誕生に始まっている。あの時二子山部屋と藤島部屋とが合併して大勢の幕内力士が一つの部屋に集まってしまったことが間違いの始まりである。しかも、その二子山部屋の誕生に不正行為がからんでいることが明らかになった。
その不正行為を犯した当事者は処分を受けたが、それによって生まれた二子山部屋力士による上位独占と不公平な状況はなにも変わっていないのである。
この二子山部屋の力士に有利な状況を、他の部屋の親方たちもおもしろく思っていないはずだ。この状況を放置したままで、他の部屋の親方たちから一方的に 年寄名跡という既得権を取り上げようとしても、何故よその部屋の不祥事でとばっちりを受けなければならないのかと反発を買っても不思議ではない。
大相撲の改革はまず取り組みの公平さを維持するという、スポーツとして最も基本的なことから始めなければいけないのでないか。貴乃花と若乃花が人気力士であることをいいことにして今の状況をこのままにしていてはいけない。(1996年10月29日)
また大相撲の季節がやってきたが、取り組みが二子山部屋の力士に有利な状況はなんら改善される様子がない。
その間にまた二子山部屋の力士が大関になろうとしている。それは貴闘力のことだが、現状から考えれば、彼が大関に昇進することはそれほど困難なこどではない。
なぜなら、自分より上位の力士、つまり自分より強い力士との対戦が2番しかないからである。そのため彼は自分より弱い力士との対戦だけで大関昇進に必要な勝ち星を稼ぐことができる。
これはこれまで大関昇進に挑戦して失敗している武双山や魁皇とはまったく条件が違っている。彼らには横綱大関戦が4番から5番もあり、横綱か大関を必ず倒さなければけっして昇進を望むことはできなかった。
つまり、自分より強い力士に勝たなければならなかったのである。しかし二子山部屋の力士にはその必要がない。だから、大関昇進は貴闘力の場合には難関を突破するというイメージが乏しいことは否めない。(1996年10月29日)
『嵐が丘』第一章。ロックウッドはヒースクリフの家で犬に取り囲まれて女中に危うく救われる。そのあと、ヒースクリフに犬に咬まれなかったどうか聞かれれた時、ロックウッドは不愛想な歓迎にむかつきながらこう答えた。
If I had been, I would have set my signet on the biter.
このsignetとは何か。辞書を引くと「指輪などに彫った印鑑」と出ている。文字通り訳すと「咬んだ者に印鑑を押しただろう」となるが分かりにくい。 そこで多くの訳書では「焼き印を押していただろう」というふうに訳している。直前に火かき棒で犬を追い払ったという記述があることからそういう連想になっ たのだろう。
しかし、これは自分の指輪の印鑑のことだから「もし噛まれたりしたら、その犬にわたしの指輪の印章のあとをつけてやったことでしょう」ということであ る。つまりは「そんなことをする犬がいたらわたしのパンチを一発お見舞してますよ」という意味なのである。(1996年10月21日)
『嵐が丘』第一章最後。ヒースクリフは、善良な店子であるロックウッドの機嫌をそこねるのは得策ではないと思ったので、それまでの調子を改めて、相手の興味を引きそうな話題について話し始めた。その時の彼の口調はどうだったのか、
He relaxed a little in the laconic style of chipping off his pronouns and auxiliary verbs.
これを「端々を削り落としたようなぶっきらぼうな言葉遣いを少しばかりやわらげて」(田中西二郎訳)のように訳しているものが多い。その中でただ一つ学研の世界文学全集に入っている荒正人訳だけは「少し、打ちとけ、できるだけ短いぶっきら棒な話し方で」としている。
私はこの方が正しいと思う。確かに、自動詞のrelaxeにはrelaxe in の例文はあるがその場合は努力をゆるめる意味に使う。ここはむしろrelax intoの「リラックスして~になる」の方が近い。すなわち「少しくつろいだ様子で、代名詞や助動詞を省略した単刀直入な話し方になって」であろう。
文脈から見てもこの方がいい。ヒースクリフはこれまでの慇懃無礼な話し方をやめて、親しげな話し方を始めたのである。ちなみに、laconic styleには「ぶっきら棒な」というような悪い意味はない。むしろ単刀直入にという意味に近い。(1996年10月21日)
相撲協会はなぜ公平さに対して鈍感なのか。横綱大関戦が四番ある力士と二番しかない力士がどうして勝ち星で優勝を争って公平と言えるのか。
力の接近した力士との対戦こそ、もっとも緊張する一番であろう。その一番に備えて前半中盤と戦っていく。しかしその大一番が土日にしかない力士と木曜から四日間続く力士では、それまでの戦い方が全然違うはずだ。
優勝が部屋によって争われるのならともかく、個人によって争われる限り、個々の力士の条件は同じなくてはならないはずだ。
横綱大関戦が二番しかない力士がいるのなら、その力士に他の力士も合わせるべきではないか。そして同じ条件にたってこそ、力士の真の力量を比べることができるのではないか。(1996年9月19日)
原発を設置するかどうかを議会が投票で決めるのがよくて、どうして住民が住民投票で決めるのはよくないと言えるのか。
従軍慰安婦自身が強制されたと言っているのに、どうして従軍慰安婦が強制されたという証拠はないと言い張れるのか。
100人殺しても大虐殺なのに、どうして2・3万人だから南京では大虐殺はなかったと言えるのか。
国民が愛国心をもてるような歴史教育がどうして過去を美化して都合の良い事実だけを見ることになるのか。
韓国の軍事政権の大統領は全員暗殺されたり告発されたりしているのに、どうしてビルマの軍事政権を韓国の軍事政権になぞらえて肯定できるのか。(1996年8月23日)
近代オリンピックは国別対抗戦という色彩が強い。国単位でメダルの獲得数を争っている。日本はメダルをいくつとったという言い方がよく使われる。正しくは日本の選手がとったメダルの数なのだが。
オリンピックは本来、誰が最も足が速いか誰が一番力持ちかということを決めるためのものだった。ところが今では、どの国がスポーツに優れた人間を一番多く輩出できるかの方が重要であるかのように、日々メダルの数が数えられている。
団体競技の場合は、どうしても国対抗の競技になってしまう。そこから、オリンピックに政治の入り込む余地が生まれた。
誰が一番かにしか興味がないなら、その選手がどこの国の出身であるかは意味がないはずだ。ところが、国が前面に出てきたがために、国単位で参加させない参加しないという話になってしまったのである。(1996年8月1日)
金銀銅のメダルを賞品にすることによって、優勝者以外の者も表彰の対象にするという新しい考え方が導入された。いわば残念賞が出るようになったのだ。
しかし、それと同時に「参加することに意味がある」という考え方が生まれたことを忘れてはいけないだろう。ところが、このことを忘れたマスコミは銀メダルや銅メダルを金に値する銀だの銅だのといって自国の選手を慰めはじめた。
そして同時に4位以下の選手を軽視する傾向が生まれた。3位と4位では雲泥の差だなどと言いだしたのだ。
こんなことなら、いっそ2位や3位にはメダルをやらないか、4位以下にも錫や鉄や鉛などといったメダルをやればよい。そしてもう一度参加することに意義があることを思い出した方がよいのではないか。(1996年8月1日)
金・銀・銅のメダルが賞品に出ることが、オリンピックを魅力的なものにしていることは疑いがない。もしメダルがなかったら、どれほどオリンピックは味気ないものになるだろう。
しかし古代オリンピックにはメダルなどなく、賞品はただ月桂樹で編んだ冠一つだった。かつてギリシャを攻めたペルシャ軍が、このことを知ったとき恐怖に襲われたという話がある。ペルシャ人は物欲以外の動機で競争する民族を理解できなかったのである。
現代の我々にとってもメダルという物ぬきのオリンピックなど考えられない。逆に言えば、メダルを賞品にすることで近代オリンピックはペルシャ人のみなら ず世界中のバルバロイ(ギリシャ人以外の野蛮人という意味)にとって魅力的なものになったのである。(1996年7月22日)
ペルシャ戦争をヘロドトスは自由と民主主義をめぐる対立であるととらえた。ミャンマーの民主化運動をめぐるアジア諸国と欧米の対立を見ると、古代の対立はいまだに存在することが分かる。
かつてペルシャが他国の民の自由と民主化に対して無関心であったのと同じように、現在のアジア諸国もミャンマー国民の自由と民主化に対して内政干渉を口実に知らぬ顔を決め込んでいる。
いっぽうアメリカを代表とする欧米諸国は制裁を使ってまでミャンマーの軍事独裁を非難している。これまた、他国の政治体制に積極的に干渉して民主主義を 広めようとしたアテナイと同じである。二千年以上の時間を隔てても、民族の考え方には大した変化がないと言っていいのかも知れない。(1996年7月21 日)
プロボクシングの辰吉選手が国内で試合が出来るようになった。一部にはルールを守れと反発する声がある。もちろんある社会に属するものは、その社会のルールを守ることを要求される。
しかし、その社会で一定の市民権を獲得した人間、つまりその社会で実力を認められた人間は、その社会の既存のルールの改正を要求する権利をもっていることを忘れてはならない。
それを忘れて、やみくもにルール遵守を叫んで一人の実力ある選手を見殺しにしてよいという議論は、全体の秩序維持のためには個人の能力を封殺してもよいとする非民主的で人権無視の考え方である。
プロ野球オリックスの長谷川投手が大リーグ入りを希望している。彼の願いを叶えるためには、おそらくこの社会のルールの変更が必要だろう。しかし、彼は すでにこの社会で立派に市民権を獲得した一人前の選手である。当然、彼のためにルールの改正を検討してやってよいはずだ。ところが、彼に対してもルールを 守れという声が出ている。
それに対して、まだ半人前にすぎない福留選手が好きな球団に入れなかったからルールを変えろという意見が出ている。人権の何たるかを履き違えた議論であろう。(1995年)
福留選手が近鉄入団を拒否するのが間違いである理由はいくらでもあげることができる。まず、彼自身自分を含めて3年先がどうなっているかはまったく分からないということがある。自分の願いを達成するのに、ただ3年過ぎるのを待てばよいなどという虫のいい話がどこにあろうか。この3年間に何が起きても不思議ではない。
いや、むしろこういう場合にはどんでんがえしがあるのが人生の常である。自分の願いを成就させるのは、自分の努力以外にはなく、その上さらに運というのもが付きまとう。それが人生だろう。
つぎに、プロへ入る実力がありながらプロ球団をより好みして社会人の球団に入ってくる選手を、社会人の選手たちがどんな気持ちで迎えるか考えるべきだろう。
すぐれた選手が入部することは、部長にとっては喜びかもしれない。しかし、レギュラーの座を奪われるかもしれない選手たちが、3年間腰掛けの積も りで入ってくる少年を手放しで歓迎するとはとても考えられない。野球がチームでするスポーツであることを考えれば、彼の立場が微妙なものとなることは明ら かだろう。
そもそも社会人野球とは、ふつうはプロ野球のレベルに達していない選手が入るところである。また、そうであるからこそ、より高いレベルを求めて共に切磋琢磨する雰囲気も生まれてこよう。
ところがそこへ、もうプロから誘いを受けてしかもそれを断った選手が入ってくる。彼の高い技量は他の選手の手本となるだろうか。いや、チームの中で浮いた存在となってしまうのは目に見えている。
くわえて、彼を受け入れる会社は、彼がダーティーなイメージの付きまとう巨人の入団を希望している点から、企業イメージを損ねることが考えられると言えば言いすぎだろうか。しかし、近鉄ファン、さらにアンチ巨人ファンの人間は多いのである。
そのほかに、球団をより好みしてプロ入りを拒否するような選手は、概して自分に甘いということが言える。それは、結局、最後には自分との戦いであるプロ の勝負の世界で成功できないことを意味している。現に、プロ入り時に自分の選り好みを何よりも優先した選手は、野球人として大成していない。
高校時代ならば、ずば抜けた才能と恵まれた体格さえあれば、ある程度努力すれば他の選手を圧倒するだけの力を獲得することは可能だろう。
しかし、プロの世界はすでに自分と同じかそれ以上の体格をもち、自分と同じかそれ以上の才能の持つ人間の集まりである。その中で勝ち抜いていくためには、並み大抵の努力では対等に位置に立つことさえおぼつかない。
おまけに外国人選手という超えがたい壁があるのだ。自分の好き嫌いを優先して、自分に勝つことを知らない選手が、この世界で勝ち残っていけるとはとうてい考えられない。
これだけの理由があれば、彼の判断が正しいものではないことは明らかではないだろうか。いや、この世に正しさなどというものはない、あるのは好き嫌いだけだとでも彼が思っているなら、何をか言わんやである。(1995年)
一人の少年が間違った判断に固執しているのに、適切な忠告ができない大人社会。現代の日本社会の欠陥を、福留君のプロ野球入団をめぐる問題は露呈している。
3年後の人の心を誰が予言できよう。3年後の自分の心を誰が予想できよう。今の執着が3年間変わらないなど、とても言い切れるものではない。しかも、子供が大人になる狭間の時期にさしかかった少年の好みを何よりも重視する社会がどこにあろう。自分のより好みを何よりも優先する人間を、結局大人社会は尊しとはしないことに少年は気づいていない。なのに、どうしてそのことを誰も教えてやらないのか。
もし、少年が意見を変えることを弱さだと勘違いして、一つの考えに固執し続けているとすれば、説得を受け入れることは決して悪いことではないと誰か教えてやってほしい。
力さえあれば好きな球団にいつか行けるときが来ることは、多くのプロ野球の先輩が証明しているではないか。いまは自分の執着よりも、まず野球人と して大成することの方がいかに重要であることを誰かこの少年に教えてやってほしい。そしてこの少年に人生を誤らせないでやってほしい。(1995年)
自分の兄を優勝させるために二番つづけて八百長まがいの相撲をとった相撲とりに同情がよせられ、何の悪さもしていないクモが目の敵にされて、絶滅させられようとしているのに誰も同情しない、日本とは妙な国である。
この国には毒のある虫はこれまで一匹も存在したことがないのか。刺されて死ぬ恐れがある虫は全滅させてよいなら、すずめバチはどうなるのだ。セアカコケグモには何の罪もない。
外国でこのクモを絶滅させようという動きがあったというなら教えてもらいたい。いったい日本には毒のあるクモは一匹もいないのか。沖縄にいるなら問題ではないのか。
それに対して、土俵を私物化して、国民の浄財で成り立っているNHKの番組のなかで、自分の兄のためにいい加減な相撲をとる力士の存在が許されている。これこそ絶滅すべき害虫ではないのか。
情によって勝負を左右することが許されるなら、ヤクルトは神戸の人のためにオリックスにわざと負けるべきだったのか。
相撲をマスコミは未だにスポーツ欄で扱っている。これが大きな間違いであることは今場所の一人の力士が示してくれた。相撲は今後、プロレスと同じく娯楽面で扱うべきだ。(1995年)
野茂選手の活躍を見ようと、わたしも今年から衛星放送を見始めた一人ですが、衛星放送を 見ていて気付いたことが一つあります。 それはイギリスやアメリカのニュースには黒人のニュースキャスターが非常に多いことです。とくにイギリスのBBC のニュースに黒人の姿を見て不思議な気分になりました。
イギリスといえば白人と思っていた日本人が多いのではないでしょうか。わたしもその一人で最初は違和感がありました。
しかしそのうち、日本ではどうだろうかと考えるようになりました。日本の七時のニュースに在日朝鮮人や中国人のアナウンサーが出ていても、いいのではないか。そう思うようになりました。
しばしば問題になる日本の植民地支配に対する反省が、もし建前だけでなく現実のものであるならば、NHKの七時のニュースでキムさんや王さんがアナウンサーをしていてもまったく不思議ではありません。
イギリスやアメリカでは過去に対する反省が、ニュースの画面に現実の姿をとってあらわれています。しかるに日本では在日朝鮮人や中国人は大企業に雇用すらされない。それが日本人の反省の実態ではないでしょうか。(1995年)
二子山部屋の力士が上位を独占してから大相撲に対する興味が半減してしまった。同部屋の力士の対戦がないため、二子山部屋の横綱や大関は、下位の力士にばかり勝っていても優勝や勝ち越しができるからである。
個人総当たり制を採用せずにこの状況を改善するには大相撲に勝ち点制度を導入するしかない。たとえば大関・横綱に勝てば勝ち点三、関脇・小結に勝てば勝ち点二、平幕に勝てば勝ち点一とする。
こうすれば、弱い力士と対戦しても強い力士と対戦しても一勝の価値に変わりがないという状況が改善できるし、大関・横綱に四回対戦する力士と、二回でよい力士が勝ち星だけで優勝を争うという不合理もなくなる。
ちなみに、これで今場所の成績を計算すると、貴乃花は十七点、それに対して曙は十九点と逆転する。しかし優勝したのは二〇点を稼いだ武蔵丸である。大関若乃花は成績こそ曙と同じ十一勝四敗だが勝ち点はたった十三点となり六点もの差が生まれる。
現状の不合理さこそ日本文化だという人がいるだろう。しかし、不合理なスポーツなどというものはない。大相撲がスポーツでなく単なる見世物というならば現状のまま放置するがよい。(1995年)
この町でも町会議員の選挙があった。連日、各候補者は宣伝カーを走らせて、自分の名前を連呼する。しかし、どうしてあんなことをするのか不思議だ。名前を大きな音で聞いたからといって、投票所でその人の名前を書く人など一人もいないだろう。
有権者はそれほど愚か者の集まりではない。見ず知らずの人の名前を何度聞いたところで、夢遊病者でもあるまいし、投票所で思わずその人の名前を書いてしまうなどということはいない。
もちろん、知名度が低いから、それを上げようとしてあんなことをしているのだということくらいは想像がつく。しかし、知名度を投票間際になって、あんな 手段で上げようなどと考えること自体愚かである。タレントでなくても知名度を上げる方法はありそうなものだ。それすら工夫できない人が議員になっても町の ために何もできないだろう。
そもそも、人の静寂を自分の都合のために乱しても仕方がないと思っている人が議員に当選したところで、よい政治ができるわけがない。もしよい政治をするつもりなら選挙運動の仕方から変えてもらいたいものだ。(1995年)
「ああわが受け売り人生」とお嘆きの素粒子殿、安心召されよ。受け売り人生は貴殿のみに あらず。かの柳沼先生もまた同じ。先生のご意見もまたG.ハイエット氏『古典の伝統』の受け売りに他ならず。かくて記者と学者のこの両者は仲良く受け売り 人生を送るなり。ただし学者はこれを「受け売り」とは言わず「参考」と称して恥じることなし。
というわけで、柳沼先生も著作の中のどこかにハイエット氏の名前を入れておられるはずです。なにせご自分の訳書ですから。またハイエット氏も自分の取材先を注の中で明確にしています。(ちくま叢書141、本文上巻7ページ下段と268ページ注6)
さては、学問とは受け売りの連続のことと見つけたり。
ちなみにハリエット氏の本は、丸谷才一氏が書評でギリシャ・ローマに言及するときによく引用(受け売り!)する本でもあり(これしかご存知ないのかと思うくらい)、素粒子殿もご存知のことでしょう。すでに柳沼先生からのご連絡や、他の投書でご存知ならば悪しからずご了承下さい。
「悪口を言わせたら天下一品」の素粒子殿の今後のご活躍をお祈りしております。ただしこれは受け売りにあらず。
素粒子に注文がある。新しい素粒子は個性がある。それはよい。すばらしいことだ。現代的だ。これまでの素粒子は、人が代わっても分からないほど、個性がなかった。だれが書い ても同じような文章だった。今度の素粒子には顔がある。しかし、今度の素粒子にないものがある。それは、はっきり言って、情報だ。
昔は、素粒子を読んで自分の見落としたニュースの存在を教えられることが多かった。丁寧に読んだつもりが見落としていたニュースの多さに驚かされた。お いおい、こんなニュースどこに出ていたっけと朝刊を広げ直すことが多かった。この人は何と新聞を丁寧に読んでいるのだろうと驚かされたことがよくあった。 だから、素粒子は貴重な情報源だった。
言い方を変えれば、むかしの素粒子は新聞の読み方を教えてくれた。
だが、今はそんなことは殆どなくなった。一面トップのニュースの感想文ばかり読まされることが多くなった。一番つまらないのは、政治に対する皮肉であ る。政治の悪口を言っておけば無難だ。原稿用紙の枡目を埋めるのに、これほど簡単な方法はない。最も安易なやり方だ。おかげで情報源が一つ減った。素粒子には、三行で一つのニュースを扱う、それぐらいの厳しさをもってやってもらいたい。素粒子の仕事は、まず新聞を隅から隅まで読むことだ。そして、一見見落とされるような記事を書いた記者の労に報いてやることだ。違うだろうか。
不真面目だという意見は当たらない。大真面目なのだ。この個性に、ファンも多いことだろう。個性はよい。スタイルは自由だ。しかし情報はどこへ行った。
行政対市民の訴訟で裁判官が行政寄りの判決を出す傾向があるとよく言われるが、それは何も裁判官が行政側の肩をもつからだけではない。その理由の一つに裁判所は政策決定機関ではないということがある。
公共機関が決定したことに市民が気に入らないといって、裁判を起こせば何でも取り止めになるなら行政の機能は麻痺してしまうからである。
行政のやり方が気に入らないなら、それは選挙によって表現するのが正しいやり方で、任期の間を待てないのなら、陳情するなり、議員に頼むなり、運動して大衆の意見を変えて行くしかない。
議会で決定されたら、それは法律であったり、条例であったりするから、それには従うのが市民の義務というものである。その法律が別の法律に違反することが明確に指摘できるなら、そしてその違反によって自分に損害が生ずるなら裁判所に訴えることができる。
しかし、相手に明確な違反が見出されないなら、裁判官は行政側の勝ちとするだろう。そうするのは、既に言ったように、政策を決定する権限は裁判所ではなく、行政と立法機関に委託されているからである。
これが間接民主主義で、市民は権限の一部を自分たちの代表に委託して政治を行わせているのだから、そうしたものである。その代表を選ぶのが選挙で、政治に参加する重要な機会ということになる。選ばれた人間は市民の声を拾い上げて政策とし、法律によってそれを実現する。
そこで、彼らが市民の意見を拾い上げずに勝手なことばかりするなら、次の選挙で辞めてもらうか、途中で辞めてもらう手続きを取るしかない。政治家のすることが法律に違反していないなら、裁判所に頼んで止めさせることはできない。
例えば国側といっても、要は自民党政権のことだから、損害を被ったのに国が弁償してくれないようなら、弁償してくれるような政党に政権を取らせるように運動することだ。
裁判所に訴えても、国などに余程の過失が無くては到底勝てる見込みはないと思ったほうがよい。世の中良くならないと嘆いても、裁判所は政策決定機関ではないのだから、助けて欲しいと思って訴え出ても無理というものである。
どんな事もありうる。
何でも起こりうる。
時間にも空間にも縛られず、
想像の力は色あせた現実から、
美しい模様の布を紡ぎ出すのだ。
『ファニーとアレクサンドル』より
構築するのはすばらしい。言葉によって何らかのものを作り出すとき、はじめて充実感をともなった疲労を感じることができる。それは、ただものを読むだけでは得られないものだ。
ものを読むとは理解することだが、ものを書くとは作りだすことだ。そして、作り出すとは構築することだ。翻訳でさえ作りだすことだ。
ただ理解するだけでは文章に作り変えることはできない。それだけでは、文章を作り出すことはできない。写し出すことには違いがないが、別のものを作り出すことである。つまり、翻訳もまた構築することだ。だから愉快なのだ。
文章は一つの織物だが、その模様には意味がある。何かの表現がある。そこに向かって作り上げていくのである。
野田氏の受験制度批判を大学教授だからといって批判するF君、では集団の構成員として適応していない無職の私が言えば文句はないだろう。私も今の受験体制に反対である。私は君に問う。義務教育終了から今までの5年間、君はいったい何をして生きてきたのかね。あと2年で大学を出て一人で食っていく用意は出来ているのか。 おそらく勉強以外何の能力もなく、会社に入るしかないのだろう。そういう人間を大量生産しているのが今の受験体制であることに、君はまだ気付いていないら しい。
大学卒業後の君を待っているのは、いまだ封建体制の確固としている会社社会でしかない。そこへいったん入ってしまえば、二度と抜け出すことはできない。 会社にとって一番欲しいのはやめない、そしてやめられない人間なのだ。その会社で君は朝の8時から真夜中の2時まで働かされるのである。
週休二日もサービス出勤のただ働きで消えてしまう。そして死んだら本人の責任にされるだけのことだ。こんな社会に適応する人間を造り出しているのが、君の擁護する受験体制なのだ。
そしてこの受験体制にとって一番のタブーは、自分は何がしたいかを考えることである。職業は点数が決めるからそんなことを考えるよりまず点数を稼げといって、職業選択の自由を奪っているのがこの受験体制である。
例外的な芸能入試などで入っている者こそ本来のあるべき姿なのだ。彼らは自分のしたいことを知っている。君はこの例外をもってこんな制度全体を擁護するのかね。私は野田氏の議論のどこにもおかしいところはないと思う。
現在の改憲論議に欠けているものは、憲法は理想を語るものであるという視点であろう。
憲法を現実に則していないから改正すべきだというなら第9条は改正すべきであろう。現実に軍隊があるのに、あたかも軍隊を持っていないかのような条文は現状にあわない。だから改正すべきだというのである。
しかし、現実が条文と食い違う条項は数多くある。例えば男女平等条項。残酷な刑罰の禁止条項もそうだろう。天皇を元首でなく象徴とする条項もそうだという人もいることだろう。また基本的人権より公共の福祉の方が常に重視されている現実を憲法に明文化しなくなよいのか。
しかしこれらを改正せよという声はない。それはこれらがこれから達成すべき理想であることがあきらかだからである。
当たり前のことだが、憲法とはわれわれの理想、これから目指す目標を示すものである。そうであるならば憲法を変えようという試みは、われわれの理想を変える試みであるはずである。
すなわち、国際社会に対して軍事力によって貢献することをわが国の理想としてよいかどうかが今問われているのである。それは国民の血を流すことによって貢献することを意味するが、はたしてこれがわれわれ全員が共通してもちうる理想であろうか。おおいに疑問である。
いやその前に改憲を唱える人たちは、憲法を理想を描くものではなく、現実の目標を達成するための道具と考えているように思われてならない。
高校野球の新聞記事に「強攻策」という言葉をよく見掛ける。これは、攻撃側がチャンスに犠牲バントを使わず、積極的に打っていく戦法をとることをいう。「強攻策がことごとく失敗した」とか「強攻策がまんまとあたった」とかいうふうに使う。
チャンスには犠牲バントをするのが当然であり、それをせずにバッターに打たせるのは異例であり危険な賭であるという考えが、この表現の裏にはあ る。が、はたしてこれが野球の本来の姿であろうか。野球とは、投手の投げた球を打者がいかにうまく打ち返すかを競うゲームであるはずであろう。一方、バン トはヒットを打つチャンスを捨てて、ランナーを進めて、得点を挙げる可能性を増やし、チームの勝利を優先する。個人を殺し全体を優先するいき方である。
日頃よく打つチームが好投手を前にして打てずに敗れたときに、「打力に頼ったチームのもろさを露呈した」などという批評をよく見掛ける。打力に頼らなけ れば、何に頼るべきだと言うのであろうか。この場合、投手力や守備力のことを言っているのではない、バント戦法を使えと言っているのである。「バントで確 実にランナーを進めておく」などと言う。
しかし、考えてみれば選手は日頃何のためにバッティングの練習にあれだけ時間をかけるのか。それはバッティングが非常に難しい技術を要するからであろう。しかるに、いざその技術を発揮すべきチャンスがきたというのに、自分の技術を捨てて、バントをするのである。
スクイズなどはその典型である。なんともなさけないことではないか。また、全力でボールを投げてくる投手に対して失礼であろう。
だからであろうか。犠牲バントをする選手はみなバットを両手で持ち替えて横向きにして、腰をかがめて投手に対して拝むような格好をする。無意識の内に、投手に対して卑怯な戦法をとってすまないと詫びているのであろう。
スクイズなどは最低の戦法である。なんと言っても成功の手柄を監督にとられてしまうところが情けない。打つ自信がないからバントで点を取ろうというので ある。「打てなくても勝てるチームを作ってきた」などと自慢する監督がいたりする。打てなければ負けるのが野球であって、それでも勝とうとするのである。 なにがなんでも勝ちたいのだ。
実は打てずに勝っても、それはただ勝ったいうだけで、選手には何の収穫もないのである。日頃の打撃練習の成果を得ることもない。チャンスに打てたという自信を得ることもない。監督のサインで勝っただけの、監督一人のした試合である。
監督の名声は高まろうが、主役は監督になってしまう。高校野球の監督だけで食っている先生がよく犠牲バントとスクイズをやるのも理解できる気がす る。彼らはプロなのだから、なにがなんでも勝つ必要がある。食うために稼ぐことは、いずれにしても情けないことである。しかし、高校生を飯の種にするのだ けはやめてもらいたい。
「スクイズの失敗は監督の責任になる。選手に悔いを残させたくない」なとど言う監督がいる。しかし成功の手柄も自分のものになってしまう。本当に 生徒のためを考えているのなら、必要以上に勝負にこだわらず、堂々と勝負をさせて、選手にチャンスやピンチに耐える力を教える戦法をとるはずだろう。
そこには犠牲バントやスクイズや敬遠のファーボールなどはないはずである。堂々と勝負をして敗れて「上には上のやつがいる」と知っただけでも値打ちがあろう。プロ野球ではない、姑息な手段を取らないでもらいたい。
「改新」結成の経過が気に入らないと言って「改新」からの離脱を求めている日本新党の議員は、自分たちが既に権力側の人間になってしまっている事実を真正面からとらえる努力が足りないのではないか。
政権に参加した時点で、日本新党の議員は、理想を云々しておればよい段階を過ぎて、結果を要求される段階に来てしまっていることに気が付かなければならない。もはや期待される立場は終わり、批判される立場に立っているのである。
既存の政治を批判しておればよい段階は終わり、今や現状に対する責任を取ることを求められているのである。理念を主張するだけで良かった結党時とはもう違っているのである。もはや野党のような議論の仕方では国民の信託は得られない。
権力の内側に入ってしまった人間が、外側にいる人間のように振る舞うことはもはや許されないのだ。権力という汚いものの内側に漬かってしまってい るのてある。先の選挙では、野党としての日本新党が信任を受けたに過ぎないということを理解しなけれはならない。しかるに、結党時の野党のような立場でい たいといってもそれは出来ないのである。
「毒食わば皿まで」で行くしかないのだ。それがいやなら、毒を吐き出して離党して野党に入るか、日本新党自体が野党になるしかないのである。
社会党と「さきがけ」は後者を選んだ。単に「改新」を離脱するだけではだめなのである。それだけでは、消えてなくなるだけなのだということを理解しなければならない。野党にもどるか、離党するか、権力の内側で毒に染まってやっていくか、どれか一つしか選択肢はないのだ。
再び選挙で信任を得るには、再び野党に戻るか、さもなければ与党としての立場に立ってその実績を訴え、野党の無責任を言いたて、与党としての公約を示さなければならないのである。そして与党としての特権を最大限に利用しなければならないのである。
奇麗事を言って済む段階は終わったのである。与党にいながら、野党のような事を言っていてももはや誰も相手をしてくれないのでる。新自由クラブは一度与党になったことで消えてしまった。野党のままでいれば続いただろう。
日本新党は今同じ岐路に立っているのだ。そして細川代表は与党の毒につかる方を選んだのである。細川代表は首相になったとき、もう戻れぬ河を渡っ たことを知っているのである。細川氏は細川政権の政策の継承を訴えている自分の後継政権から離脱することができるわけがない。それでは自分自身を否定する ことになってしまう。
もちろん「改新」の結成は、強力なリーダーシップを持つ首相を作り出すため一つの段階であることに違いはない。しかしまた、それは政治家としての 唯一許された生き方なのだという事も理解しなければならない。「改新」離脱はイコール細川氏の政治的な死であることを理解しなければならない。(1994 年)
日本国憲法と日米安保条約との関係が、いま一つはっきりしない。
憲法は第9条で戦力の保持を禁じ、交戦権を否定しているが、安保条約によって日本には強大な米国軍が駐留している。この条約は国会で批准されたもので あって、法律に等しい地位を持つものである。そして、法律は憲法に違反してはならないから、日本国内の米国軍は戦力であってはならないし、交戦権もないは ずである。
だが、実際にそんな拘束力は日本国憲法にはなく、米国は国内の基地から朝鮮半島やベトナムに軍隊を派遣した。いったい、安保条約は憲法の下位に位置するのでないのでないかという疑問が、ここから生まれる。
自衛隊の創設は米国の指示によるから、この憲法を実際に作成した米国側には、自衛のための戦力の保持までは否定していない、と言ってよいのだろうか。
それとも、米国は日本に憲法を違反するように求めたのだろうか。また、憲法を実際に作成した米国人は、自衛の為の軍事力の保持までは否定していないと明確に述べているが、いったん日本人のものになった以上、その解釈は日本人が独自になされるべきなのであろうか。
憲法9条の本来の趣旨は、日本から軍事力を奪い、軍国主義の台頭を防止して、日本を二度と戦争できない状態にしておくことであったのでないか。
日本の平和は、憲法の平和主義によって守られてきたのであろうか。それとも、日本に駐留する強大な米国の軍事力によって守られたのであろうか。精神的な面では、憲法が、実際的な面では、米国軍が、今日の日本の平和と反映をもたらしたのだろうか。
平和憲法が、日本の現在の繁栄をもたらしたという意見をよく聞くが、平和憲法の理念に相いれないような米国軍の存在の貢献には、何も言及されないことが 多い。それとも、安保条約や米国軍の存在は、むしろ日本をソビエトの敵国にし、日本を戦場にする危険性にさらしたのだろうか。
憲法9条と国家の関係は、今や戦前の統帥権と国家の関係に類似する様相を呈するに至っている。
戦前に統帥権が憲法の他の全ての条項の優位に立ち、それらを支配してしまい挙句に国家の自殺を招いてしまったように、今、憲法9条は国家の自殺を招来しようとしている。
戦前のマスコミが統帥権の侵犯を言い立てて政府を追求したように、いまマスコミは憲法9条によって政府を追い詰めようとしている。
統帥権の独り歩きがかつてあったように、憲法9条の平和主義が独り歩きをしている。
憲法9条が日本の平和を支えてきたと本気で言う人が大勢いる。まさに、一個の文章が生きて立ち上がり、世の中を支配しはじめた。かつての統帥権の条項のように。
そして、かつて統帥権が日本を破局の淵へ追い込んだように、憲法9条が今日本を破局へ追い込もうとしている。統帥権が日本を孤立へ導いたように、今、憲法9条が日本を孤立へ導こうとしている。
統帥権は国防の独走を生みだし、9条は国防の怠慢を引き起こしている。憲法9条は日本に二度と戦争をさせないようにするためにアメリカが考え出した条項であるのには間違いはない。
ところが、憲法は今や聖法と化している。聖法は国家の上位に位置し、国家の存亡以上の価値を有する。聖法の遵守は国民の生命財産の保護よりも優先する。
聖法あるところに、多様性の文化のあったことがない。聖法は中世のキリスト教であり、東洋の専制を支えたものである。聖法に反するものは、異端として審問に付され断罪される。
9条こそは、この聖法の最高位に位置する。そしてその神官はマスコミである。
中世キリスト教では、聖書に記載のない天動説という教理があった。現代の聖法には「南京大虐殺は事実である」という教理がある。「南京大虐殺は事実ではない」と言えば、中世のように異端審問の場に引きずり出され、撤回を迫られる。
中世のガリレオが地動説を唱え、異端審問の場に引きずり出され撤回させられた、まさにそれと同じように。聖法は自由な言論を禁じるのである。思想信条の自由をも禁ずる。
「軍国主義の復活をめざしている、またはかつての軍国主義を認めている」。これがいまだに日本で政敵を非難する有力なレッテルとして機能している点に、日本の政治の不幸がある。
憲法改正即ち軍国主義の復活という論理で憲法の改正は拒否されるのである。
しかし、その前に日本に再び軍国主義が復活することが可能かどうか厳密な議論が戦われたことはない。
軍国主義を実体のない一種のシンボル化してその存在の可能性をさぐれないものとしている点に問題がある。それは幽霊のようなものである。ある人は 見たことがあると言うが、その実体は不明である。現代の日本でも軍国主義の芽があると言う人がいるが、それがどこにあるのか明示でき証明されたものとして 提示した人はいない。
右翼が軍国主義の本体なのか。右よりの政治家が軍国主義者なのか。自衛隊が軍国主義の本体なのか。はっきりしているわけではない。
しかし、政治家が前の大戦について何らかの弁護をするようなことがあると、軍国主義者のレッテルを貼られることになり、いっさいの言論の自由は奪われ、政治的権利も奪われてしまうのである。
先日の「声」欄に前の衆議院選挙では小選挙区並立制を公約にして戦った政党はなかったから、民意を問うために中選挙区制で解散すべきだという意見が掲載された。
そんな意見もあるものかと感心したものだが、その後この意見が共産党の書記局長の口から出てくるのをテレビで見たときは開いた口が塞がらなかった。なんと、あれは共産党の意見だったのである。新聞の投書欄が共産党の宣伝に利用されてよいのか。
そんなことを思っている矢先に、今度は自民党の森山眞弓氏の「私の紙面批判」が掲載された。最近のものは朝日に対する恥知らずのおべんちゃらばかりだが、これもその一つかと思って読んでみると、まさにその通り。
小沢氏の女性蔑視発言報道に対する賛辞がたらたらと書き連ねてある。しかし、よく読んでみるとそれは紙面批判とは名ばかりのもの。公器たる新聞紙上を純然たる政治目的に利用した小沢批判でしかない。
「紙面批判」をこのように政治的なプロパガンダに利用してしまう森山氏のしたたかに感心させられられたが、それに気がつかない朝日ではあるまい。これをそのまま掲載した意図は何なのか、先の投書の件と合わせて考えさせられてまった。
最近の朝日新聞社は社をあげて小沢攻撃に取り組んでいるという印象を与える。まさに「切っても切っても豚」状態で、この新聞はどこを見ても、だれの記事を見ても小沢批判一辺倒だ。社説、天声人語、素粒子みな同じ意見だ。
しかし、社内の誰も彼も同じ考え方をしているとは考えられない。ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムスが記者によってクリントン政権に対して180度違う意見のあることを隠していないのと、好対照だ。
しかもその批判は度を越しているように見える。小沢氏を批判するためなら、自民党政権が復活しても、政治改革がつぶれても構わないと考えているのではないかとすら思えてくる。
また奥田議員運営委員長の解任問題に関して朝日がまったく論評をしていないのも不可解だ。日頃数の暴力は民主主義に反すると書き立てている新聞が、小沢氏を困らせるためならと見て見ぬふりをしているのてはないか。
多数決の乱用を批判した天声人語も今回は沈黙している。多数決批判も単なる小沢批判の一環でしかないのではないかという気がしてきた。
しかし、このような個人攻撃は結局はこれまでの朝日の公平でリベラルな論調を愛してきた読者の離反をまねくだけだ。やめたほうがいい。(1994年)
日本人は本当に変わった国民だ。アメリカが自分の都合に合わせて作った憲法を押しつけられても、それを後生大事にしている。文民条項にしてもそうだ。こ れは日本の軍国主義の復活を恐れたアメリカが旧日本軍の軍人が政府の要職について国策を左右する事態にならないように設けた条項にすぎない。
しかしアメリカの当初の目的が無くなってしまった今でも、日本人はアメリカの意図をまるで自分の意図のごとくに大切にしているのである。
9条にしても同じである。アメリカは日本の軍国主義の復活を恐れて戦力を日本に持たせないようにしたが、朝鮮戦争が勃発すると途端にその態度を変えて、警察予備隊を創設させた。
ということは、日本人に軍隊を持つことを、憲法を作った当事者が許したのに、いや欲しくないと日本人は言っていることになる。犬はいったん主人に教えこまれたことは死んでも守るが、日本人は犬より忠実だ。
閣僚の発言が気に入らないから解任せよと外国から言われると、そうだそうだといって辞めさせてしまうのも日本人のよくやることだ。主権意識なんてものは日本人になくなってしまった。内政干渉大歓迎の国なのである。他国の価値感を自分のもののように感じるのだ。
なぜ、日本人は、中国や韓国など第二次対戦で日本から被害を受けた国民の感情を共有できるのだろうか。日本人はそれほど博愛主義なのか。加害者は 被害者の気持ちになって考えるべきだとは口では簡単に言えても本当に実行するのは難しい。しかし、日本人はいとも簡単にそれをする。
国旗や国歌に反対するのも同じだ。今の国旗や国家を見ると、侵略された過去の忌まわしい思い出がよみがえる。被害者国がそう言うのはうなずけるが、加害者国の日本人の中にそういう人が多いのはなぜだろう。
実は、日本人には加害者としての自覚がなく、むしろ先の大戦では国民は被害者であり、中国や韓国の人たちと同じ立場であると思っている人が多いのだろうか。
アメリカに否定された日本の文化や固有の価値感は、いつもでも否定されたままでいなければならないのだろうか。戦後はいつになれば終わるのか。
日本は戦争の賠償をしなかったのか。永遠に批判の対象でいなけれはいけないのか。日本はいつまで戦争の捕虜のような生き方を強いられるのか。
独立国家、一人前の国が外国の干渉で政府の大臣を更迭するのを当然視する人たちがいつになったらいなくなるのか。そんな国が海外にもあるのか。日本人の捕虜はいったん捕まってしまうと、限りなく敵国に協力し、日本の国益や日本人としての価値感を捨ててしまうそうだが、日本の戦後はまさにこれと 同じ態度を海外に対してとり、国民はこれに負けずに文化や価値感を海外の国家に対して迎合的なものにどんどん変えていった。
日本人は「転向」してしまったのである。これは「改宗」といってもよい。
日本人は妙な国民だ。北朝鮮の金日成の葬式の模様を長々と放送する。金日成といえば朝鮮戦争を始めた男であり、韓国機の爆破事件、ビルマの爆破事件の首謀者である。北朝鮮がテロ国家であることは国際的にも常識となっている。
それにもかかわらず、この犯罪者の頭目である金日成の死に際して彼に対して何の批判も向けることなく、葬式の模様を放送する。妙なことだ。
在日朝鮮人が金日成の死を悼む様子も放送された。日本にはこの犯罪者の親玉の同調者がこれほどたくさんいたのかと思ってぞっとした人は私だけではあるまい。それをまるで立派な人の死を悼む様子を伝えるがごとくに何の批判も交えずに放送する。
金日成が憲法第九条の精神からしても決して容認できない人間の一人であることは間違いない。彼が他国の元首であったとしても、朝鮮戦争で韓国人に対して侵した犯罪の大きさは何ら変わることがない。
それにもかかわらず、自分の祖国の祖先を犯罪者扱いしてやまない日本国民が、他国の明白な犯罪者に対してこれほど寛容であるのはまことに奇異なことであると言わなければならない。(1994年7月17日)
自衛隊の合憲、日米安保条約の堅持を言い出した以上、国民にとって社会党の存在意義はなくなってしまった。
自衛隊が合憲ならば、憲法九条の解釈改憲を認めたことになる。安保イコール軍事同盟を認めることは、軍事力による平和の維持を認めたことになる。 護憲社会党はなくなってしまったのである。他の政党とどこに差があるのか、あるとすれば、統治能力の低さという悪い意味での違いでしかない。
最近の朝日新聞の論調に危険なものを感じているのは何も小沢氏一人のことではない。長年朝日を講読してきたが、政治に関する最近の論調はあまりにヒステリックであり、また言葉遊びが過ぎると思われるものが多い。
特に社会党が政権離脱をした翌日の4月27日の社説はひどかった。それは「改新」結成に対する嫌悪感をあらわにしたものだったが、「クーデター」や「だまし討ち」などと物騒な言葉が飛び交い、一種異様な雰囲気さえ漂った。
その後タイム誌の東京特派員がこれを小沢氏に向けた「ビーンボール」と呼んだが、この社説の異様さに気付いた読者は私だけはなかったようだ。
また石川真澄氏の一連の記事には違和感を覚えざるをえない。その典型は5月10日の「『改革』の底流に古い歴史観」と題したコラムである。小沢氏の『日 本改造計画』の真意が永野発言に現れているかのように論じ、この本には「侵略」に対する反省の言葉がないなど事実に反する嘘も混じえて、小沢氏があたかも 軍国主義の復活をねらっているかのごとくに書き立てている。
このような際どい論調に終始する新聞に対して、小沢氏ならずとも危険なものを感じるのは当然だ。
別の署名記事では永野前法相を「愚者」ときめつけたり、羽田氏を「うそつき」と言ったり乱暴な言葉遣いを繰り返している。いずれも、名誉棄損で訴えられたら勝てないものばかりで、挑発目的の確信犯であるとの印象すら受ける。
このようななりふり構わぬ小沢批判にはなんら説得力がないことを知るべきだろう。これらは一部の党派性に染まった人たちには受け入れられても、公平な論調を好む一般読者の心情とは掛け離れたものだ。(1994年)
自社連合政権の成立を正当化しようとして、冷戦構造の終結を持ち出す人がいる。しかしこの意見はどこかおかしい。投票する国民が視野に入っていないからである。
自社の支持母体は全然違う。その原因はなにも冷戦構造のせいではない。会社があって使う人と使われる人がいる。その違いからこの支持母体の違いが生まれた。冷戦構造の終結はこの違いに何の変化も与えていないのである。
そもそも,日本国内の政権交代と自民党の議席の後退は冷戦構造の終結がもたらしたものでは決してない。その原因はひとえにこの政党の腐敗と堕落 だったのである。また,ベルリンの壁が壊れても労働組合も消費者団体も自民党を支持し始めることはなかった。日本国内の対立構造が何も変わっていないから である。
まして,ただ政党と政党が勝手にくっついたからといって,この現状は変わりようがない。国内のこの現状に関係なく自社が連立したことを冷戦構造の終結と結び付けようしても,それが単なる詭弁でしかないのは明白である。
この政権を正当化するものがあるとすればそれは選挙でしかない。そして今明らかなことは,この政権は国民が選挙で選んだ政権ではないということだけである。
自衛隊を合憲とした社会党はもはや護憲政党ではない。憲法九条の解釈改憲を追認したからである。これではずるい自民党と同じだ。憲法九条には軍備を持た ないと明記してあり,国際紛争は軍事力によって解決しないと明記してある。しかるに軍隊である自衛隊を憲法に違反しないと言いくるめる。
確かにそれは現実を生きるための大人の知恵であろう。しかしそこには平和に対する理想はない。日本国憲法が非武装中立を理想として提示していると 信じて,それを党の基本政策としてきた政党であったがゆえに社会党は,理想を失わない多くの人の支持を得てきたのではなかったか。
他の政党がなし崩し的に解釈改憲を進め,現実的という美名のもとに,大人のずるい姿を見せたきたのにかかわらず,社会党はその大人のずるさを知らぬ純粋な心で日本を眺め続ける政党として,将来の日本の理想の姿を追求し続ける政党として存在してきたのではなかったか。
その社会党がずるい大人の仲間入りをしてしまった。今後,護憲政党などと名乗るのは止めてもらいたい。
社会党は政権を離脱してこんどは自民党と手を組むのだそうな。テレビで自社の国対委員長が握手しているのを見たが、びっくり仰天した。そもそも、自民党 は経営者、資本家の政党であり、社会党は労働者の政党のはずだ。その両者が手を組むとはどういうことか。経済連と連合が連携するということなのか。こんな 無茶苦茶な話があるだろうか。
労働組合はいったい何のためにあるのか。経営者と対抗するためではなかったのか。いや、労働組合はどこでも御用組合で経営者とは仲良くやってきた から、社会党と自民党が手を組んでも何も不思議はないということなのか。いつから、社会党は自民党の御用政党になり下がったのか。
いったい社会党の主義主張はどこへ行ったのか。たとえそれが打倒小沢を目指すものであっても、経営者の党と組むなど、いつも社会党が批判している党利党略以外の何物でもないではないか。
それに、そもそも自民党は改憲政党ではないか。護憲リベラル勢力と連携していくなどときれいごとを言っているようだが、自民党とは部分的に連携するとでもいうのだろうか。
渡辺前外相とは組めないと言って氏を拒否したのはついこの前のことだ。その渡辺氏のいる自民党とどうして組めるのか。これはまさに国民に対する裏切りでなくてなんだろう。国民を馬鹿にするのもいいかげんにしろと言いたい。
社会党が、現在の自民党とそのまま連立政権を作ることなど不可能だ。であるからには、まず護憲リベラル勢力が自民党を割って出てこなければいけない。
しかし、仮にそんなことがあったとして、国会で過半数を取れるのだろうか。それとも、単に野党として連携したいだけなのだろうか。しかしそれでは、政権はいらないということになる。
では、護憲リベラルの自民党員と一緒になって、いったい何をしようというのか。どんな政策を実現させようとするのか。社会党の公約である消費税の引き上げの阻止だろうか。(それで、減税だけして、どんどん赤字発行し続けるつもりなのだろうか。)
だが、自民党と新生党てはたいした政策の違いはない。結局は、自民党と一緒に政権をとったところで、同じように政策で譲歩を迫られ、あげくに飛び出すという同じ轍を踏むだけなのではないのか。
それに、そもそも社会党が自民党と連携して実現できるような政策があるのだろうか。憲法を守るなどというのが政策となるのでろうか。
そもそも、あっちがだめだから、こっちに行く、そんな政党を誰が真剣なパートナートとして信用するだろうか。結局自民党に利用されるだけに終わるだろう。
自民党からの政権交代を望んでいた国民にとっては、社会党はこのためにこそあったのである。実は新生党もまたそうなのである。ところが、もし社会党が自民党に政権を戻す役割を演じてしまうことになると、もはや社会党の存在意義はなくなってしまう。
国民は元々社会党には現実的な政策など求めていなかった。それは自民党が充分やっていたことで、その行き過ぎを抑える意味のみで社会党は支持された。反自民であれば、実はどの党でもよかった。
現実に不満のある人間は、アンチ巨人になるように反自民になり、社会党を、また共産党をさえ支持した。そして、非自民の政権はどの党によるものでもよかった。
だから、自民党がそのまま引っ越してきたような小沢新生党が中心でも、細川政権は高い支持を得た。そしてその構成員として社会党は価値があった。
そして、まだまだ非自民政権が続いてほしいという人は多い。そんな中で、社会党がこの非自民政権を壊しにでた。国民は早晩、この行為の結果が自民 党政権の復活につながることに気が付くだろう。その時、社会党の今回の政権離脱がなおも支持され続けるかはおおいに疑問である。
護憲リベラルとは結局は現状維持派といってよいのではなか。もっと言えば完璧な保守、いや守旧派である。消費税を上げない、自衛隊を海外派兵しない等 々、なにかをしないことを主張する勢力である。そのような勢力は結局は受け身であって、なにかしたいことを主張する勢力にはどうしてもかなわない。
護憲リベラルとは反対第一主義とも言える。行動力のある勢力に対する、行動力のない勢力では勝ち負けは始めから分かっている。
私は選挙権を得て以来ずっと一貫して社会党に投票してきた。しかし、連立政権参加以来、社会党が見せた一連の情ない有り様にはほとほと愛想が尽きた思いだ。連立政権の中でせっかく第一党になっておりながら首班候補を出す意欲もなければ、重要な閣僚ポストも担えない。
社会党の固有の政策が何か一つでも法案化されたというようなことは全く聞いたことがない。やっているのは、ただ与党内野党のようなことばかり。政権を支えることすら満足にできずに、あげくの果ては内輪もめからの政権離脱だ。
多くの国民は社会党の政権離脱を支持しているらしいが、それを社会党に期待してのことでは全くない。野党しかできない党が野党になるのは当然だと言っているだけなのだ。
それなのに、自民党と手を組んで政府を衆議院解散に追い込んで、中選挙区制で選挙すれば議席が増えるとでも思っているのだろうか。
国民はそれほどお人好しではない。能力のないものは去れ。社会党は解散して一からやり直すことだ。わたしは今のままの社会党に二度と投票するつもりはない。
社会党は野党になって自民党と必要に応じで連携していくそうだ。それなら、ひとつ提案がある。政府の鼻を明かすような立派な法案を自社両党が共同提出して可決にまでもっていったらどうだろう。
社会党と自民党が組めば圧倒的な過半数を占める今日、両党が力を合わせれば法案の一つや二つ通すことは難しくないはずだ。
例えば、政治改革法案が可決する前に自社の議員で共同提案した腐敗防止法を再び提案するのも悪くない。また消費税の改革法案でもいいではないか。自社両党の善意に基づいた法律作りならば、国民はきっと歓迎するに違いない。
そうして、野党になってもこれだけできますよと国民にアピールすれば、社会党の政権復帰も遠いことではなくなるはずだ。
しかし、社会党が再び野党になってやることが自民党と共同でする倒閣運動でしかないとしたら、国民は失望するのではないだろうか。われわれが今求めているのは、そのような陰険な権力闘争ではない。
今こそ、社会党が単なる反対野党から脱却したことを国民にアピールする好機である。 この期を捕らえて、国民のためになる善意に満ちた政策を実現するために積極的に行動してもらいたい。(1994年)
社会党はもはや後戻りの出来ない道を歩み出した。自民党が嫌になってももうどこにも行く所がなくなってしまった。社会党は自民党との連立を解消したくなっても、もはや旧与党側に鞍替えすることはできない。
政策の不一致が理由で自民党側につきながら、政権に就くやいなや固有の政策を次々に捨てていき、政策の不一致が実は自民党側につくための口実でしかなかったことが明らかになってきたからである。
自民党は社会党の党首を首相にしてもらったお返しに次は自民党の総裁を首相にするように要求してくるだろう。その時、社会党は分裂せざるを得ない事態に立ち到るに違いない。
もし選挙で自民党が単独で過半数を獲得した場合、社会党は用済みのおはらい箱になりたくなければ、自民党に小判鮫のようにくっついていくしかない だろう。しかしそんな社会党にどんな存在意義があるというのだろう。旧与党に戻るにしても新生党や公明党が左派社会党を切ることを要求するだろう。
こうして、自民党の総裁を次期首相にすることを求められた時に社会党の終わりの時が来る。社会党はその時冷戦時代のあだ花としてのむなしい生命を終えることだろうう。(1994年)
社会党はかくもあっさり政権の座を捨ててしまったが、社会党にとって政権の座というのはこんなに軽いものだったのか。政治家にとって政権をめざしてそれを獲得することが夢なのではないのか。それは何に替えても手に入れたいものではないのか。
政党は自己の政策を実現するためには政権をめざすのではないのか。それとも、野党にいるほうが気楽だとでもいうのだろうか。そんな政党があるだろうか。
いや、まさに社会党はそんな政党なのだ。答えは出たと思う。自民党の分裂で政権はころがりこんで来たが、社会党は実際に実現できるような政策は一つも持っていなかった。前政権の政策を継承するのでは、何もできない。いや、そもそも実現可能な政策などもっていなかった。
野党として政府の政策に反対するための政策は持っていても、命懸けで実現したいような政策などもっていなかった。社会党にとっては、政権は何よりも大事なものではなかった。
それにしても、かくも簡単に政権を投げ出してしまうこのような政党があるだろうか。いったこれが政党なのか。これでは政党の名に値しないのではないか。反対するだけの野党がまだ必要とされているとでも思っているのだろうか。
社会党が政権離脱を一晩で決めてしまったことは、あまりにも早計であったと思う。
一部の冷静な社会党員も言っていることであるが、このような面子にこだわった決定は一時的な感情を満足させるにはよいかもしれないが、将来の社会党や国政の安定を考えた場合、もっと慎重になすべきだった。
将来、解散総選挙になったときに、現行選挙制度のもとで行われた場合、過半数を取れる政党はないだろう。その時、社会党はどうするのだろうか。
もし自民党と連立するようなことになれば、それこそ国民に対する背信行為となろう。しかし、どことも連立しないとなれば、少数与党政権が続き、国政の不安定な状態を放置することになる。
また、新しい並立制のもとでの選挙になった場合には、自民党が勝利することは、この前の石川県知事選挙での際どい連立政権側の勝利から見て容易に想像できることである。それでは、自民党政権の復活に社会党は手を貸したことになってしまう。
さらに、小選挙区制の選挙では、連立政権を離れた社会党は議席を伸ばすどころか半減してしまう恐れが大きい。
政権離脱などという国を行き先と党の将来を左右するような決定を一晩で感情にまかせてしてしまったことに、大きな危惧を感じざるをえない。(1994年4月26日)
自民党対社会党の対立構造は、連立政権になってからも形を変えて続いている。新生党対社会党の対立がそれである。新生党の党員は自民党出身者によって構 成されている。その党と一緒になって政権を獲得した社会党のとっている政治的な姿勢は、あいかわらずの反対反対である。政権に入っているからこそ、今では 反対を貫くことはできにくくなっている。しかし、時に連立離脱という切り札を使って反対を貫くこともある。
また、マスコミの政治に対する見方も、自民党対社会党の対立構造が形を変えた新生党対社会党という対立構造を通じたものである。
社会党はまるで、与党内野党ともいうべき立場にある。社会党は単に与党の中にかつての野党としてのやり方をそのまま持ち込んだにすぎない。
しかし、本来あるべき姿は、与党対野党の対立であろう。しかしながら、マスコミは、いまだに社会党的立場で政府を批判している。本来ならば、自民党や共産党などの野党的な立場でなされるべきものであろう。なぜ社会党の立場に立たなければならないのか。
社会党が善であり新生党が悪であるかのごときその批判の正当性がどこにあるのだろう。それは単に前時代の習慣にすぎないのではないか。まだ新しい ものの考え方が生まれていず、現状をどう解釈してよいか分からないため、かつての枠組みでしか理解をすることができないのではないか。
しかし、すでに社会党のものの考え方の基礎である社会主義は、その実行性が実際には否定されてしまってる。世界の社会主義国はすべて資本主義に変換し、社会主義や共産主義の体制をかつて持った国は、すべて悲惨な結末を引き起こしているのである。
すでに、社会主義は民主主義とイコールではないことが明らかになっている。マルクスの思想は実行すれば、人に幸福ではなく不幸をもたらすことが明白になっている。にもかかわらず、社会党の立場に立った批判が、政府に対してなされるのはなぜか。
社会主義というものを別にして、社会党は実際にこの国にどんな貢献をしてきたのかを知るべきである。彼らの反対は結局間違いであることがわかったものばかりではないのである。
日本には本当の民主主義なんていうものは本当はないんだということが最近分かってきた。日本で民主主義と呼ばれているものは実は、「和をもって尊しとせよ」の精神なのである。調和を第一に考えることが人々にとって最も重要なことである。
国民主権というのも、国民みんなが仲良く、みんなが満足して暮らしていくべきだという意味なのだ。憲法はアメリカ人が西洋流の民主主義の理念で書いたもので、そのまま日本には当てはめることができないから、必要な場合に必要なだけ拾い出して使うのがこの国の習慣である。
言論の自由も、大抵は右翼のテロに対して言われるだけで、大勢に反した言論によって職を失う人が出ても、言論の自由を守れという議論はけっして起こらない。
もともと現行の憲法は、当時のアメリカ政府につごうよく書かれたものであって、例えば大臣は文民に限るとする条項などはその最たるものだ。アメリカでは 軍人が大統領になることができる。アイゼンハワーはれっきとした将軍だった。マッカーサーが大統領選挙に出る意志があったことはよく知られている。
文民統制の条項は、軍国主義の復活を恐れたアメリカ人が作ったものに過ぎない。軍国主義の復活などありえない現代では無用の条項だ。それは、憲法第9条の軍事力不保持の条項が設けられたのと同じ理由である。
しかし、軍人=悪人とするような現代の条項は、軍人の人権をそこなうものであろう。なぜなら人権には例外はないからである。(1994年5月)
政府を動かすのに外国の力を借りなければならないのは、選挙で政府を選べなかったからではないだろうjか。それとも衆議院の解散まで待てないのだろうか。
主権というものは、国民のものであって、外圧でものが決まるのは国民一人一人の主権が侵されていることになるのだが、それが分からないようだ。まったく権利意識のない国民である。
憲法というのもは、理想を掲げるものではあるが、自分で思いついた理想であるべきではないのか。しかも日本国憲法は、日本を民主主義国家に変えて、米軍 をてこずらせた軍国主義の復活を防止するという目的で作られたものであって、日本人が自分の理想を形にしたものではない。(1994年5月)
永野前法相に関して文民でないとの批判があるが、いかがなものかと思う。
文民条項によって、かつての軍人や自衛隊員が、閣僚になれないとする意見を持つ人たちは、憲法第14条の法の下の平等の条項を思い出すべきだろう。もし、一度自衛隊に入隊したものは政治家になれても大臣になれないとなれば、自衛隊員に対する政治的差別になるだろう。
もちろん、自衛隊員は存在してはならないとする意見があることは承知している。しかし理想は何であれ、現に存在する人たちの人権に対する配慮は公平になされるべきであろう。
またもと日本軍の軍人が大臣になれないとするのも、同じ意味で同意しかねる。
シビリアンコントロールの本旨は軍事独裁を防ぐことである。であれば、退役軍人は排除されないと考えるのが自然ではないか。これは、アメリカの大統領が退役軍人を排除していないことからも分る。アイゼンハワー大統領はれっきとした軍人であった。
有為な人材を過去の経歴で排除するのは、国益に反することでもあろう。文民とは現役軍人でない人をさすと考えるのが適当であろう。(1994年5月)
今回の法相の更迭は、二つの意味で非常に残念な結末を迎えた。
その第一は、南京虐殺についての少数意見が多数の反対意見を前に撤回させられたということである。民主主義にとって少数意見の尊重の大切さはよく言われることだが、実際に不快な少数意見に出会うと、途端にこの主張は忘れられてしまった。
外国の感情を害したことには大いに謝罪すべきだろうが、事実についての論議が起こることなく終わった点に悔いが残る。南京大虐殺について知らない若者は多いはずである。
その第二は、外国の意見によってわが国の大臣が更迭されたことである。このようなことは主権国家、独立国家にとってあってはならないことである。わが国 は中国や韓国の属国ではない。謝罪することと、大臣を更迭することとは同じではない。謝るべきは謝ればよい。しかし、大臣の更迭を求めるような態度を示さ れたら、独立国家として毅然として拒否しなければならない。
いったい、外国の意見で大臣を変えて得られる友好とはなんなのか。このような要求に屈し続けても、結局得られるのは尊敬ではなく軽蔑だけであろう。私は以上二つの点で今回の事件の結末を残念に思う。(1994年5月7日)
例えば本田勝一が中国で行った取材は、単に日本国内での朝日新聞社など戦争犯罪を追求する勢力の優位を獲得するための材料を集めるためであって、中国人に対する謝罪ではなかったといっていい。南京大虐殺についての取材はその典型的な例である。
「歴史的現実は個人においては幾多の動機の乱立を、グループでは躊躇と不確かな手探りをはらんでいる」
「関係する人々の動機が大変複雑であるために、宣伝文句の作成は最も粗雑な単純化をもってしかおこなわれない」
「歴史を書くということの非常な困難さから、たいていの歴史家は伝説の手法を用いるという譲歩を余儀無くされる」
南京攻略やその後の虐殺事件に関しても、さまざまな動機が錯綜していたに違いなく、侵略の一言で割り切ることは歴史的認識の浅さを示すものであ る。また謝罪の言葉が書かれていても、それは中国人に対するものではなく、日本国内の侵略を否定する勢力の口を封じることが目的である。
「中国の人たちに謝罪すべきだ」と言うことによって、国内での自分たちの立場を強固にし、あらゆる事実に関する議論を無礼でけしらんものとして抑 圧してしまうのである。そうすることで平和主義を唱え、護憲を主張する勢力が拡大され、改憲派を押さえ込もうとしているのである。
しかも護憲という主張すら、自派の勢力拡大のための手段でしかないと思われる。なぜなら、それによっては合理的な方向を指し示すことができないばかりか、現状を合理的に説明することすらできていない。
彼らの言うことは、単に憲法9条が日本の平和と繁栄を支えてきたというのみであって、あたかも軍事力が無用であるかのような狂信的な議論を平気で繰り広げるのである。
歴史とは本来倫理やレトリックとは無縁のものである。朝日の歴史認識は実はこの程度のものでしかなく、もしそれを知りながら、あえて倫理を歴史認識の前面に打ち出しているとすれば、それは歴史ではなく政治でしかない。
政治的意図が彼らをして、「永野法相の歴史認識が疑わしい」と言わしめたのである。
古代の歴史は、この倫理とレトリックのみであるといってよく、近代の歴史観からは掛け離れたものでしかなかった。(1994年5月)
永野法相がかつて軍人であり自衛隊出身者であるから大臣になってはいけないというのは、自衛隊員に対する差別ではないだろうか。
自衛隊に入隊することは、すなわち将来政治家になり、大臣になる権利を失うものとすれば問題ではないか。このような条項は改正によって廃止される べきではないだろうか。どの職業についたものが、どの職業につくことができないとするのは、中世、封建時代の出来事でなかったか。
つまり、軍人の経歴を持つものは大臣になれないとすると、以上のような不合理が出てくる。憲法66条第2項の文民条項は、現役の軍人が大臣になれないことを言っていると取らなければおかしなことになる。文民統制の意味を履き違えてはいけない。
現行憲法では、軍人の存在はありえないから、過去の軍人を指すという説があるが、日本だけシビリアンコントロールの意味が歪められて解釈されているのも、軍国主義の亡霊にいまだに悩まされ続けているからであろうか。
これが米国では、現役軍人を指すことは、パウレル参謀総長が、退職後に大統領選挙出馬を考えていることからも、明らかである。(1994年5月)
永野法務大臣が「南京虐殺はでっちあげだ」と発言した問題で、辞任を求める声が出ているが、今回は言論の自由は問題にならないらしい。人がその発言によって職を失うことは、言論の自由に反しているのではなかったか。
かつて長崎市長が、天皇の戦争責任発言で右翼に狙撃されたときには、言論の自由を侵すものとして大きな問題になったものだ。しかし、自衛隊員が雑誌に発表した論文の内容が問題となって解雇された事件では、言論の自由はまったく顧慮されなかった。
これらの例や今回の事件から見ると、言論の自由を尊重すべきなのは、その発言が多くの人の支持を得ることができる場合だけであることがわかる。
しかし、そんな言論の自由をわざわざ憲法は保障しているのであろうか。多くの人の憤激を買い、「けしからん」と大騒ぎになるような言論こそ、力で封じてはいけないということではなかったのか。
戦時中に、戦争反対演説をした国会議員がやめさせられた。そんなことが二度とあってはならないということではないのか。大勢に逆らえば首になるのでは戦時中と同じだ。
永野法相はその言論の内容によっては辞職する必要はない。辞職するならばそれは唯一、政府の方針に反した言動をとり、内閣の一致を乱したという理由でなければならない。(1994年5月)
いまだ政治的な何の能力もない、ただひたすらに理想に燃えた他党の若手政治家なんてものは、小沢氏にとって、政権を作るための単なる数合わせの道具でしかないことを理解しなければならない。
君たちにいったい政治的にどんな力があるのか。自分の理想を実現するどんな力があるのか。どんな経験があるというのか。どうせ数合わせの道具でしかないのだから、どうせのことなら自分の党の議員である方が何かにつけ好都合だ。
数という価値以外に何も提供するものを持っていない若造に、どうして選挙区の一つを任せることができるだろう。一つ選挙区か欲しかったら替わりに何か出せと言うのは当然だ。それが単なる統一会派加入だけでよいとはなんと気前のいいことだろう。
野党として選挙に受かっただけの若手政治家が与党の一員として役に立つ政治家であることの証明を求められているといってもよい。小沢氏と組んで与党統一候補になりたくないなら、それでも政治家として生き延びたかったら五十嵐氏のように離党するしかないのが現実なのだ。
新生党の支持率は下がっていないのに、日本新党の支持率が下がっているのは、中途半端な議員が多いからである。
「連立政権の継続は時代の要請である」。社会党の久保書記長のこの言葉は、けだし名言ではあるまいか。
社会党が与党でいること。これは現代の歴史的な要請なのだ。なぜなら、今こそ、社会民主主義的な政策が求められている時代だからである。
金儲け一点張りの時代はもう終わったのだ。生活者の時代、福祉の時代、環境の時代が来たのである。これらは、どれも、まさに社会党が訴えてきたものなのだ。
経済界=自民党の出番はもう終わったのである。 このような政策を実行に移すためには、確かに社民リベラル勢力が結集されることが望ましい。しか し、自民党が国会解散を言っている以上党の分裂が起こる可能性はなく、自民党のリベラル勢力が新党を結成して社会党と手を組める状況には今はないのだ。
いや、それどころか、このままの状況を続ければ、社会党は単に自民党に利用されるだけに終わってしまい、もう用済の自民党がそのまま政権に復帰してしまう可能性すら出てくる。これでは元の木阿弥である。それに河野首相ではあまりに頼りない。
連立政権は社会党が参加していてこそ、真の意味での連立政権である。私は歴史認識において的を射た久保書記長の言葉に大賛成である。
かつて日本には反対野党という与党の言うことなら何でも反対する野党がいた。今の日本には、それに代わって反対与党なるものが誕生した。
自社連立政権がそれである。彼らの政策は旧与党の政策の逆であるに過ぎない。彼らには本来のビジョンがない。そのため、人の反対を唱えるしか方法がない。安全保障理事国になるのも反対、消費税を値上げするのも反対、なんでも反対反対である。
反対というからにはその元になる政策がある。実際それは人の政策で、その反対の政策というだけの政策には実行性がない。現実性がない。
赤字国債の発行を言い出したのがそのよい例だ。赤字国債がインフレを招くことは中学生でも知っている。赤字国債が国の財政をどんな状態にしてしまうかは明らかである。
野党ならば、しかしそんなことを言っていても別段支障はなかった。消費税の反対も野党だから言えたことで、いざ政権に就いてみると消費税を廃止することなど不可能であることはよくわかっているはずだ。
将来を何も見越さない政策は野党だけに許される。高齢化社会が来てから、消費税をアップしましょうと言い出したところでもう間に合わない。実質増 税になるのはやむを得ないことは多くの国民が知っている。しかしそれにも係わらず、老齢化社会のビジョンができるまでは消費税をあげてはならぬとのたま う。
ビジョンができたが、いざできてみても財源がないということでよいのか。それからでも間に合うという保証があるのか。実に現政権の無責任ぶりはここに極まれりである。野合政権であるとともに、野党政権と言う言葉がぴったりくる政府である。
世論調査を偏重すべき時代は終わった。自民党の一党支配の続いた時代では、選挙で野党が政権につくことが不可能であったため、政府は世論調査の結果を重視すべきだった。首相が失政をおかしても、決して選挙によってその地位を失うことはなかった。
選挙の勝敗は常に相対的なもので、過半数を割ることはほとんどなく、仮に割ったところで、政権を担える政党は他になかったのであるから、議席の増減を勝ち負けの基準として、党の総裁として責任が問われただけであった。
そのような時代では、国民の意志は選挙によっては明らかにならず、(中選挙区制における選挙は自民党の派閥間の議席争いでしかなく、また議員個人の人気投票に過ぎなかった)、必然的に世論調査の結果を重視しなければならなかった。
首相の支持率の低いものは、まさにそれによって辞職に追い込まれるしかなかった。世論調査こそは、選挙の役割を替わりに果たしていたのである。
しかし、政権交代の可能な野党と選挙制度が存在する現在では(1994年4月)、世論調査はその本来の役割分担に甘んじ、あくまで世論の表れとして止ま るべきである。少なくとも世論調査の数字の多寡で首相が辞任に追い込まれるということは、もはやあってはならない。それはあくまで選挙制度がうまく機能し ない場合の、緊急避難的な利用にとどめるべきものだ。
世論調査と選挙との一番大きな違いは、世論調査がごく一部の人間の意見を聞くだけであるのに対して、選挙は全員の意見を聞くということてあろう。
本来、世論にあまりに重きを置く政治は衆愚政治になる恐れがある。プラトンはかつて世論の動向に合わせた政治を劇場政治と呼んだ。そこでは「一切が聴衆 の拍手喝采によって決定された」。それはデマゴーグの煽動演説によって国策を決定することである。デマゴーグとは国政のいかなる官職のにつかずに一国の言 論を支配し国策を左右するもののことである。
現在のマスコミはまさに、このデマゴーグになる可能性を大いにもっている。新聞の投書欄を見ると、いかに国民が新聞社の言論に左右されているかがよくわ かる。それらはほとんど新聞の論調の丸写しか、新聞の論調が国民の中にかき立てようと目指した感情の吐露にほかならない。
首相の疑惑追求や権力の二重構造論など、それらの是非の判断を投書は全て新聞に委ねている。
現在のようにマスコミがさんざん政府に対する批判的な報道を繰り返してから世論を調査すれば、支持率が下がるのは当然のことだからである。わざわざ支持 率を下げるための報道をしておいてから調査をして、今度はその数字を根拠に政府批判が正しいと主張するとしたら、まったく本末転倒であろう。
海外の裁判の陪審制では、外部の過激な報道からいっさいシャットアウトされた環境に陪審員を置くことに非常な注意が払われている。そうでなければ、公正な判断は期待できないからだ。
現状のような世論調査は、あらかじめ報道によって偏見をたたきこまれた後のものであることが多いため、その信憑性は疑わしいといわざるを得ない。
しかも、同じものに関する調査であるにも関わらず調査機関によって数字が10ポイントも食い違いを示す場合が多いことも、世論調査の信憑性を下げていると言っていい。
マスコミ各社がいっせいに世論調査をして政府の支持率をはじき出した。世論調査は民主主義を維持するために重要なものであることはわかる。しかし、それなら調査をする前に、できる限り多様な意見を公平な形で報道してもらいたい。
国民はそのどれを採るべきかを自ら判断して調査結果に反映させることができる。また、そうである場合にのみ、その調査結果を正しいものと言える。
しかし、今回の調査は、政府や与党の主要人物に対して猛烈な批判報道がなされ、政権を離脱した政党が正しいとする意見ばかりが大声で喧伝されて、それに反対する意見が殆ど聞こえてこない状況下で行われた。これでは、政府の支持率が低く出るのは当然のことであろう。
しきりに批判報道をしておいて、その直後に世論調査をするのはフェアなやり方ではない。このような調査に表れている数字は報道機関の主張がどれほど国民 に浸透したかを示すものでしかない。そして、その数字を今度は報道で政府を批判するために使うのである。何かおかしいと言わざるを得ない。
、 (とくに小沢一郎氏の政治手法について批判があいついだ。しかし、「政治手法」という言葉じたい何ら明確な意義づけのない、間に合わせの言葉でしかない)
比例代表制だけの選挙制度を採用すべきだという人たちは、しばしば二大政党制ではなく、多数の政党が競いあう姿こそは民主的だと主張するが、その実は既存の反対野党の存在を温存しようとしているのではないかと疑われる。
比例代表制は、政党支持率が正確に議席配分に反映する点を長所としており、実際またそうなるようであるが、政党支持率自体大きく変動するものではないため、議席配分も固定されてしまい、とうてい政権交代は望めない。
それは、中選挙区制と非常によく似た結果をまねく。かつて比例代表制をとっていたイタリアと中選挙区制をとっている日本が、同じように政権が特定の集団に固定され、政治腐敗が横行したことはよく知られていることである。
英国の世論調査では、保守党の政党支持率が非常に低く、今選挙をすれば保守党政権は倒れるだろうと言われながらも、実際に選挙をすると保守党が勝利して保守政権が続いている。これは小選挙区制が有効に機能していない証拠であるかのように言われることがある。
しかし、世論調査と選挙では国民の真剣度が違うのではないかという疑問がある。保守党はいやで労働党政権を選ぼうとすると、過去の労働党政権の失政の記憶がよみがえり、結局政権担当能力のある保守党に投票するということが繰り返されているのではないか。
労働党の政策に国民の生活を委ねられないという意見が多いということだろう。政権担当能力のある政党が一つしかない場合には小選挙区制は適当ではないのかもしれない。
逆に言うと、政権担当能力のない単なる反対野党はその存在意義を失った。いやそれどころか、新しい選挙制度はそのような政党の存在意義を否定している。
「民主的」という言葉は、新明解国語辞典には、「どんな事でも一人ひとりの意見を平等に尊重しながら、みんなで相談して決め、だれでも納得のいくようにする様子。←→独裁的」と解釈されている。
実はこれは全会一致主義であって民主主義にのっとったという意味ではない。この解釈は話し合いによって全員の意見が一致するということを暗黙の前提としている。そして、全会一致でなければ民主的でないという考え方である。
これは実にファシズム、全体主義、大政翼賛政治に近い。全会一致を得ることが尊重されるため、突飛な意見は嫌われ、また意見の違いを調整して玉虫色の結論を得ることが好まれる。
全会一致で得られる結論は、得てして感情的なものが多く、それがファシズムに道を開く結果につながる。
また、全会一致が得られない場合は、結論を出さず、何もしないことになるか、多数を占めた意見が採用されるが、それに不満の少数派は採決をボイ コットしたり暴力で妨害したり、揚げ句の果ては全体のグループから脱退・離脱・分離・分裂してしまって、多数の意見に従わないという事態にまで進む。そし て、少数派は多数派を非民主的であると非難するのである。
真に民主的であるとは、全員の自由な討論の後、多数の意見を採用することである。意見の調整がなされてもそれは多数の同調を得るためであって、全員の意見を一致させるためではない。
また、少数意見をもつ者は採決の結果に従わなければならない。しかし、日本では多数の支持を得た方が勝ち、敗者はそれに従わなければならないという前提がないため、議論に説得力を持たせようという努力は全くなされない。
ただもう一方的に自分の主張をするだけで、人がどう思おうとかまわないという討論の繰り返しとなる。議論の場は説得の場ではなく、形式的なものになり、裏取引きが実際の交渉の場とならざるをえないのである。
このあたりは古代ギリシャ・ローマの影響のもとに文化を形成してこなかった日本文化の弱点と言っていい。
1、「民主的な政治手法」という言葉がよく使われているが、現在よく使われているのは、単なる比喩的な意味で使われており、真の意味での民主的な政治手法を意味していないこと。
2、にもかかわらず、この比喩的な意味での「民主的な政治手法」が民主主義にとって大切であるという主張がなされいること。
3、民主主義とは、国民に政策の決定権があり、その決定は話し合いによって形成された過半数の国民の意志を全体の意志としてなされ、反対者もそれに従うということであること。
4、過半数の意志に従いたくないために、少数意見を持つものが、実力に訴えて、過半数の意志を覆そうとすることは非民主的であり、少数意見の尊重は意志を 決定する過程で行われるべきことであるということ。従って、過半数の意志が決定される過程を、議論によらずに実力で妨害することは非民主的であるというこ と。また、投票行為自体を実力で妨害することも非民主的であるということ。議論によって反対するのではなく、議論をすることを妨害したり、議論することを 拒否したりすることは非民主的であるということ。
5、しかし、いくら話し合いをしても全員の合意が得られないから採決をとったとしても、決して非民主的ではないということ。さらに、採決をすることに全員が賛成しなかったのに採決したとしても、それは非民主的であるとは言えないこと。
6、さらに、仮に結論を急いで、充分な話し合いを経ずに採決をとったとしても、それは非民主的とまではいえないこと。これらの強引なやり方を仮に非民主的であるといったとしても、それは比喩的な意味においてそうであるとしか言えないこと。
7、充分な話し合いなしに、強引にものごとを決定してしまうことを非民主的であるというのは、比喩的な意味でそうであるということ。
8、確かに、全員の人の意見をよく聞いてから採決によって決定することは、民主主義の基本の一つであるということ。反対者は議論や弁論によって反対すべき であること。その弁論が長くて議事の進行を遅らすというのが、民主的に許容できる限度であり、弁論以外の方法で議事を遅らすのは、明確に非民主的であると いうこと。
9、しかし、ペルシャのダリウス大王は部下の意見をよく聞いてからギリシャ遠征を決定したり、他民族を大切にしたり国民の意見をよく聞いたが、これを指し てダリウス大王は国民を大切にした民主的な君主だとは言えないから、民主的なという形容は、民主主義の国の政治家にしか当てはまらないということ。
マスコミに「政治手法」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、いつごろからのことだうか。一つ確かなことは、この言葉がきまって小沢一郎氏につ いて使われることだろう。そして、今や「民主的な政治手法」こそは、何をおいても民主主義にとって一番大切な事柄であるかのように言われている。しかし、 例えばこの「政治手法」という言葉一つをとっても、それを厳密に定義する議論を聞いたことがない。例えば、会社の上司に対して、民主的でないとか、封建的であるとか、強圧的であるとか、ものごとの決め方話しの進め方を比喩的に批判することがある。これは多くの人の合意や根回しなしに、民主的な手続きを経ずに、独断先行で話を進めてしまう人についてよく言われる。
まさに、この上司の政治手法が問われているのである。この場合の政治というのが比喩的であることは、はっきりしている。しかし、最近小沢氏に関して言われている「政治手法」の場合、これが比喩表現であるのか、真の意味での政治の方法を指しているか非常に曖昧である。
それなのに「民主主義にとっては、政治手法が大切である」と言われては、にわかに信じることはできない。
さらに、ここにもうひとつ問題がある。小沢氏の「民主的でない政治手法」と言った場合、はたしてこれは真の意味での民主主義と関係のあることなのだろうか、という問題である。確かに、小沢氏の物事を決めていくやり方は、非常に強引なものであろう。また、国民の意見をよく聞いて、物事をきめることこそ民主主義である。
しかし、氏のようなタイプの独断先行型の人物は、民主主義という言葉や概念が生まれる以前から、(民主的という言葉は使われなくても)、様々な言葉で批 判を受けたであろう。また、人の和を大切にしなければならないということであれば、聖徳太子の時代の昔から重要なことであった。
多くの人に相談して合意を得た上で決定を下すべきであるのは、まさにどの時代でもそうである。しかし、これが厳密な意味で民主的であることを意味するかと言えば、それは疑わしいと言わざるを得ない。
「民主的な政治手法でない」などというと如何にももっともらいし政治学の用語であるかのようである。しかし、これは、やり方が強引だということの単なる比喩的表現でしかないのである。
やり方が強引だと言えば、人柄や付き合いの仕方対する批評であるとすぐ理解できる。偉そうにしているとか、傲慢だとかいう場合も同じく人物を批評しているのてある。そのような人物が政治をやってもうまくはいかない。それはは古今東西を通じて同様である。
それは王制であろうと、独裁制であろうと、貴族制であろうと、うまくいかない。これらの言葉は制度としての民主主義とは関係のない批評の言葉なのである。結局、「民主的な政治手法」とか、「民主的な手続き」と言っても、それは単に比喩的な表現でしかない。
また、プロセスを大切にする政治手法が云々されているが、これとて小沢氏を批判するために出てきた言葉であろう。そして、これは「俺たちに相談もなしに勝手に決めた」という反感を、もっともらしい言葉で正当化する場合に使われている。
また、記者が小沢氏の政治手法を批判する場合、その裏には、小沢氏にぞんざいに扱われた記者の個人的反感が潜んでいる疑いが濃い。彼らは、まるで自分の上司が「民主的でない」ことに腹を立てたサリーマンのように、小沢氏を「民主的でない」と言っている疑いがある。
そういえば、記者に当たりのやわらかい新党さきがけの武村氏に対する記事はおおむね好意的であるが、これは偶然だろうか。しかし、武村氏もまた「俺には相談がなかった」という怒りを「プロセスを大切にしよう」という言葉で表現した一人にすぎなかった。
しかし、実際に行動に出た場合、例えば与党の政策協議に先立つ党首会談の呼掛けや、与党各党に相談もなく園田氏を代表者会議から引っ込めてしまったのは、いかにも唐突で強引であった。皮肉なことである。
政治家に対する評言が、その人に対する好き嫌いを多分に反映しているのは、記者も人間であるから致し方のないことでろう。が、そればかりでは、単なる中傷記事と大差ないものとなってしまい、新聞の品位を保つことはできない。
「それなら、小沢氏さえいなければ日本はよくなるのか」と問い返したくなるような小沢批判の大合唱は、それこそ民主的ではなく、まさにデマゴーグのやり方である。
民主主義という言葉は至高のものとして、あらゆる場合に使われる。北朝鮮は正式には朝鮮民主主義共和国と呼ばれている! そして日本では、もっとも大切なものを蔑ろにする政治家として小沢氏を批判する際に使われている。
しかし、もし、比喩的表現を意図的に混同して、あたかも制度として民主主義を破壊する危険人物であると受け取られる可能性を知りながらこの言葉をつかって批判し続けるならば、それは非常に危険なことだ。
かつてアメリカで吹き荒れたマッカーシズムがそうであった。「コミュニスト」という言葉は、人物に対する比喩的表現を越えて、政治的に利用されたため、多くの人間が迫害を受けた。かれらはいつの間にか真の共産主義者にされてしまったのである。
政治家が他の政治家をさして、民主的でない、民主主義の敵だなどと言っても、これが誇張した表現であることは、おおむね理解できよう。しかし、新聞が特 定の政治家をさして反民主的だというからには、単なるやり方の問題以上に、民主主義という制度の何に違反し、何を破壊しようとしているのか明確に論じなけ ればならない。
なぜなら、新聞においては言葉は感情を表現する道具ではなく、理性の道具であるべきであるからだ。さもなければ、新聞はデマゴーグになってしまう。
最近のニュースステーションはつまらない。昔は、弱い野党といっしょになって、強い与党の自民党をとっちめている様子が実に爽快だった。ところが、政府が変わった今でも同じ調子で政府批判をやっている。
しかし、今度は、強い野党といっしょになって弱い連立政権の揚足とりをしているだけで、おまけに、首相の雛人形を出したり、時に厭味で悪趣味であったりする。
番組をラジオ風に編成して映像を流さなかったり、在日韓国人の家族を呼んだりいろいろ工夫の跡は見えるが、小手先のものでしかない。いつだったか、久米キャスターが休んでいる間も、あまり物足りなさを感じなかったことをよく覚えている。
プロ野球のニュースを全チーム公平に放送している以外、他のニュース番組とたいして変わらないものになってしまった。もっと斬新な考え方を導入するか、いっそやめてしまうほうがよいと思う。政権が変わって、もうその使命は終わったと思う。
多数決は、政権交代が可能な国会では、決して横暴ではない。ところが、多数決を多数の暴力などとする議論が相変わらずなされている。しかし、これは55年体制においては有効な議論だったが、それが終わった今ではもはや意味がなくなっている。
55年体制下の日本では、自民党という強い政党が一手に政権を担っており、他の党には政権獲得の可能性はまったくなかった。そのような状況では、 多数決の採決をただ繰り返すことは、一方的に一つの政党の政策ばかりが実施されることになり、その政策が失敗に終わっても、選挙によって政権が交代するこ とはないから、その失敗の責任をその政党がとることはなかった。
採決をとりさえすれば、その政党の政策が法律化され、けっして否定される機会もなく、その責任をとる必要もない、となれば、多数決によって政治を 運営することは、いわば、独裁体制が敷かれているのと同じことになってしまう。(それを知ってか知らずか、とにかく自民党では総裁の任期が2年と定められ ていた。)そのため、55年体制下では、採決に到る過程がことのほか重視されねばならなかった。
しかし、その55年体制が終わり、政権交代の可能な野党が存在し、しかも政権交代を可能とする選挙制度が生まれた現在の日本では、この多数決を多数の暴力とする議論は意味を持たなくなった。
そもそも、多数決は反対者の存在を前提にしている。反対者がいるからこそ採決を取る。そして、反対者もその採決の結果を受け入れる。そして、その結果実 行された政策が失敗に終われば、反対者の意見の正しかったことが明らかになる。そこで、選挙によって政権交代が起こり、反対者が多数を制して政権の座につ く。
もしこの過程の中で、少数の反対者が採決の結果を受け入れないとすればどうなるか。また、この反対者が不利な採決の結果を予想して採決に反対すればどう なるか。いやそもそも、採決にいたる審議をすら拒否すればどうなるか。かれらは政府の失政によって政権の座につく可能性があるにもかかわらず、こういう態 度をとった場合いったい国政はどうなるだろうか。
それに対して、反対者を説得したり反対者に譲歩したりしてなるべく反対者のない状態にもっていくことこそ、民主的ではないのかとする意見があるだろう。 採決は後にしこりを残す。いたずらに対立を深めることは良いことではない。全員が賛成できる政策こそ最もよい政策ではないのか。全員が賛成して全員が一致 してその実行にあたれば、きっとよい成果が得られるに違いない。和をもって尊しとなす、である。
採決によって物事を決めるのは、民主主義の大原則である。それをせずに、話し合いで一致点をあくまで捜し出して対立を無くそうとするのが日本的な考え方であるが、これは全体主義につながる危険性がある。
多数決をすると一党の独裁であるという人がいる。ばかげたことである。野党がいない状況を一党独裁というのである。野党は採決では負けるのが当たり前であってそれは不正ではない。野党は次の選挙に備えて反対の主張の正しさを有権者に訴え、政府の失敗を待つほかないのだ。
多数決をせずに全員が一致できるように話し合う必要はない。まったく政権担当能力のない野党しかいないという状況では、多数党しか実際には政党がないのと同じであって、ほとんど一党独裁状態と言えるだろう。そんな状況で、多数決を繰り返すことは民主的とはいえない。
しかし、政権担当能力のある野党があって、政権交代が可能な状態にあるならば、それは一党独裁状態ではなく、多数による採決は何も問題がない。そ の採決の結果が、うまく運ぶかどうかに政府の責任がかかっているのであり、それが失敗すれば、野党が代わって政権の座につくのであるから、なんら独裁政治 にはならないのである。
政権交代の可能な国会における多数決による採決はいくは行われても、決して多数による暴力でもなければ、独裁政治でもない。
むしろ、審議拒否をすることこそ、暴力である。
現在の国会ではどんどん多数決をやって、政治を実行してもらいたい。その結果を選挙によって国民が審判できる選挙制度ができたのであるから。(以上、ドイツの新聞社の記者の意見。NHKの「視点」より)
審議拒否は一種のストライキ戦術である。ストライキは労働者の権利として認められている。しかし、国会議員は労働者ではないし、仮に労働者であったとしも彼らは公務員であってストライキ権はない。
似たような事があるものです。私がS予備校の下総中山寮にいたころ、友達と同室の、あれは全国模試でいつもトップを争っていた、その名も忘れもしない野 口君が理科3類コースの、ぼくたちには一面識もない松本なんとかさん(さすがに名前までは忘れてしまいました)が好きになったので、彼女のサインをもらっ てきて欲しいと無茶を言って同室の友達を困らせているという話を聞きつけたのです。
あれは寮の食堂の入り口に列を作って並んでいる時でしたが、私は「そんなことで困っているのかい、簡単じゃないか、ぼくがもらってきてやる」とそ れこそ大見えをきったものです。事実その時は簡単なことだと思ったのですが、実は自分が対人恐怖症で非常に気後れするタイプであることをすっかり忘れてい たのでした。
でもつぎの日、ぼくは友達と二人で理科3類の教室のある3階にまで出かけていったのです。教室は休み時間で女の子が数人残っていました。野口君が好きだという松本さんという子を友達が教えてくれました。
ぼくはその子を見て、野口君がどうしてあの子を好きになったのか不思議に思いましたが、それ以上に、ぼくたちとその数人の女の子たちとの間に、目に見えない大きな壁が立ちふさがっていることに、ぼくはその時はじめて気づいたのです。
いやそれでもぼく一人だったら、目をつぶってでもその女の子の方へ向かって行ったことでしょう。ところがぼくは不覚にも友達の関西弁の「やめと こ、やめとこ」という軟弱な言葉に従って逃げ帰ってしまったのです。ぼくは次の授業時間中に、しかたなく紙に自分で女の子らしい筆跡で松本なんとかと書い て、あとで野口君に渡したのでした。
野口君は大喜びでした。ぼくはこれでなんとかうまくいったと思ったものです。あとは正直者の友達が野口君に黙っていてくれるかどうかだけでした。ところが野口君と同室の彼はこの嘘を一週間もつき続けることが出来なかったのです。
その次の日、ぼくはかんかんに怒った野口君に予備校じゅう追いかけまわされ、あげくの果てに屋上に隠れてなんとか難を逃れたものでした。私が今一 番後悔しているのはにせのサインを作ったことよりも、あのときサインをどうして一人でもらいに行かなかったのかということです。友達はあてにならないので す。あなたの場合も必ず一人で行くことです。(1992年12月19日)
大人は子供には間違いは間違いと正しく教えなくてはならない。9月1日の紙面で高知の記者は、明徳義塾の肩を持った議論を展開している。子供たちと長い間いっしょにいて情が移ったのでろう。
しかし「玉砕しろというのか」と居直ってしまっては困る。(勝ちという名誉を重んずるあまりに、結局本当に玉砕してしまったのは、明徳義塾の方だったのではないだろうか)
この記事から分かるのは、あちこちから批判されて明徳の子供たちも意地になってしまっているらしいということである。「ともに野球をした仲間として松井君には一言謝りたい」という言葉が出てきてもよいのだが。
残念ながら、彼らの回りには「自分たちが同じことをされたらやはり腹がたつだろう。やはり正々堂々とやらなければいけなっかった。間違いは素直に認めて謝るべきだ」と教える大人はいないらしい。
大人の中には勝手な議論をする人がたくさんいるものだ。しかし、それにつられて、間違ったことを正しいかのように子供たちに教えるようなことがないようにしたい。もしあんなことを正しいと勘違いして、全国の子供たちが真似しはじめたらどうするのか。
新聞記者は情に流されて判断を誤ってはいけない。少なくとも今年の明徳義塾の野球部員は、どこへ行っても「ああ、あの年の」と言われ続けることは間違い ない。また、そうでなければ、この世に正義は実現できないだろう。だから少なくとも子供たちに、自分たちのプレーに対する観客のブーイングを批判するよう なことを教えてはいけない。(1992年9年1日)
日本と韓国の歴史学者が歴史教科書を共同で見直していく集まりを開いた時、あまりにも韓国側から批判されたために、日本の学者は、「日本と仲良くしていく気があるのなら、日本人にも韓国併合に反対した人がいたことを韓国人は認めなければならない」と言い出した。
これは、日本が日韓条約を作成したときの韓国に対する態度と同じである。当時の日本側は条約を結びたかったら、日本の言い分通りにせよと、謝罪を拒否し賠償を拒否し経済協力で我慢させたのである。
しかし、韓国に日本と仲良くしたい気持ちが無くて当然なのではあるまいか。被害者は決して加害者と仲直りなどしたくはないものだ。握手を求めると すれば、日本側からだけだろう。被害者側から手をさしのべることを要求することはできない。仲良くしてもらいたかったらというのは傲慢である。
日本は韓国に対しては謝罪をしつづける以外に韓国人と仲直りをする方法はない。韓国側が日本批判を強調するのは建前だとする議論は笑止である。建前と本音が違うのは日本人の話で韓国人にそんな二重の基準をあてはめるは間違いだ。
もちろん、外国人とて本心と違うことを口にすることはよくある。しかし、それは策略である。本心を隠すことで相手に対して優位に立って交渉を上手 く運ぼうとするのは当たり前のことである。つまり、勝負の場面ではこのようなトリックを使うことは当然で、むしろ使わない方が愚かというものだ。
ところが、これが勝負事でない場面でも現れるのが日本人の建前と本音のダブルスタンダートなのである。(1992年9月1日)
高校野球は相手とファンがあって初めて成り立つスポーツだということを知らない人が多い。この間の連続四球に対して客が騒いだのがひいきの引き倒しだと非難する人がいるが、ファンをけなしては高校野球は成り立たない。
全国中継をし5万人も収容できる特別の球場でやっている野球が客を無視してはよいわけがあるだろうか。わざわざ足を運んで来てくれた客が怒ったことを少なくとも主催者、放送局、出場校側は批判できないはずだ。
客あっての高校野球である。客を無視するようなことがこれからも続けば、高校野球も今の大学野球や実業団並みに誰も見に行かなくなってしまうだろ う。(もっとも今の大学野球や実業団はプロへ行けなかった人たちの集まりで、プロ野球のおちこぼれ野球になってしまっている点にも不人気の原因があるのだ が)
その他に、ルールだから良いという意見を学校の教員が出していたのを見て不安を覚えた。この教員、きっとルールだから校門を閉めたの正しい、はさ まれた方が悪いと考えているのではないか。校則もまた野球のルールと同じで相手を人間として尊重するという、紙に書いていない事柄から出発することにおい て何ら変わらない。
生徒の人格を尊重せずルールを杓子定規に当てはめるからあんな事故がおこる。同様に、長年練習を積み重ねてきた相手の選手を尊重する気持ちがあればあんなプレーはなかったはず。さらに見に来てくれている観客を尊重する気持ちがあればあんなプレーはなかったはず。
あれは自分さえよければよいというプレーである。自分と相手とわざわざ見てくれている客とこの三者を大切にする、そこから野球は始まるのである。 とにかく、全国民の見ている前で無様なことはできない、恥ずかしいことはできない、そういう気持ちを失ってしまって、目先のことしか見えなくなってしまう とああいう恥ずかしいことになる。
それに比べて、天理高校の選手はよく教育が行き届いていると感心した。特に感心したのは、デッドボールを受けても、選手が自分から審判に訴えなかった点だ。打席に入ったからには打ちたい。デッドボールなんかで塁に出たくないというのである。
四番バッターなどは、バットに当たったと主張して「打ちたい」という意志を強く見せた。当たってもいないのに当たった振りをするような恥ずかしいことは大勢のお客さんの前ではできないし、それ以上に、一塁に出るにもその過程が大事だと教わっているのだろう。
かつて天理高校が優勝した時、準決勝でエース・ピッチャーが登板しなかったが、試合後そのピッチャーは相手校に謝りに行ったそうである。彼は肩が痛くて投げられなかったのであって、決して相手を見下してのことではないと謝ったそうである。
試合は試合として、明徳の選手も謝りに行く勇気を出して欲しかったと思う。「自分は勝負をしたかったのだが、作戦で仕方がなかった」と一言いえばよかっ た。そうすれば、自分たちもすっきりして次の試合で実力を出せ、あんな無様なコールドゲームのような負け方をしなかったことだろう。
しかもその一言から、新たな友情も生まれたことだろう。しかし、あのままでは、友情どころか今後北陸地方のチームは明徳とは練習試合をしてくれなくなるだろう。相手がいなければ野球はできないことを思い知るだろう。(1992年8月26日)
夫婦喧嘩で奥さんが言葉でさんざん夫をやっつける、反論に困った夫は奥さんをぴしゃりとたたく、これは言論の自由に違反しているだろうか。
暴力団が雑誌社に殴り込んだが、暴力団のしたことは言論の自由に違反しているとすれば、さっきの旦那さんは言論の自由違反だろう。
言論に対して暴力で危害を加えられる恐れがあるため、言論が自由に使用できなくなるのも困ったことだ。しかし、それが個別の当事者、言論の対象者だけのことになれば、奥さんをぽかりとやった旦那さんと同じで、仕方がないとは言えないか。
右翼の行動は右翼に対する言論でなく天皇制に反する全ての言論を暴力で封じ込めようとする点で、言論の自由を侵すものであろう。しかし、やはり警察の警護は言論の自由を守るためであるかどうかは疑わしい。(1992年8月26日)
日本人は対立を最も嫌う。そのため日本では二大政党制がけっして生まれない。二つに分裂した時代は不幸な時代であって、平和な時代は必ず反対勢力が非常に小さいものである時代である。
社会党は日本では不満の代弁者以上のものであったためしはない。いわば不満分子でしかなかった。二つのものの対立から何か一つの良いものを作り出していく、などといういわば弁証法的進展はありえない。
自民党内でも、主流派が圧倒的な勢力を持っているときだけ自民党は安定した政治を行えた。政変は常に異常事態であり、選挙によって政変が起こることはない。(1992年8月25日)
選挙で社会党が敗れ、新聞が頻りに社会党に対する苦言を呈している。愚かなことである。選挙は自民党に対する信任投票としての意味合いしかない。社会党は国政に参画していない。政治をしているのは自民党だけなのである。
自民党に不満があれば棄権が増えたり社会党の票が増えたりする。しかし、それは社会党に対する信任票ではない。社会党は実際には何も政治をしていない。高々一部の利権を質問によって確保しているだけのことである。
社会党は国会の過半数の議席を占めるだめの候補を立てる能力がない。能力のないものを批判してもはじまらない。政治を実際に動かしている自民党の 在り方が変わらない限り、日本の政治は変わらない。自民党の中で全てが決まっており、派閥の対立が与野党の対立の代わりをしている。野党は国会の開会を遅 らせるようなこと以外に何の力も与えられていない。
討論によって、説得によって、何かを達成しているのは、自民党内の出来事であり、与野党間の出来事ではない。(1992年8月23日)
何事にも両論ある。事実だという人もいれば、そうでないという人もいる。また、あれでよいという人もいれば、あれはよくないという人もいる。しかし、結局どちらが正しいのかを明確にしない。そしてうやむやになってしまう。
南京大虐殺では兵士に罪はないといい。また高校野球では選手に罪はないという。では、司令官の罪を、また指導者の罪を厳格に追求するかといえばそうでもない。うやむやである。
そして、何が正しいのかについての議論はついにされないまま終わってしまう。日本的な解決法である。
また例えば、談合は悪いという人がいれば、いや日本的慣行であるという人がいる。そこで談合の悪さは相殺されてしまい厳しい追求はされずに終わる。
正邪の観念の欠如である。正しいことというものが厳として存在していない。法を守ることが正しいことであるという考え方がない。
星陵松井選手の5四球の「アンフェア」であるということが、日に日に曖昧になっていく様子に、日本人の正義の観念の無さがよく現れている。今日の 新聞の指摘は「選手に罪はない」となってしまっている。「アンフェア」という事実は変わらないはずだが、「和」の方を優先させたのである。
日本人にとって最も大切なことは「和」であって、「正しさ」ではない。
星陵松井選手の5四球を作戦として認める人たちに反論したい。
アメリカのプロ野球で、隠し持っていたジャガイモを三塁に暴投して、三塁走者を釣りだしてアウトにしたキャッチャーがいたそうだ。これはルール違 反ではない。こんなことまでルールブックには書いてないからだ。しかし、この選手はその後試合に出してもらえなくなったという。
野球のルールにジャガイモの規定がないように、全打席四球を禁止する規定もない。まさかそこまでずるいことをする選手はいまいというのと、そんなことをすれば相手に失礼であり、今後試合をしてもらえなくなるからである。
ルールの他にスポーツで大切なことは、相手があって初めて成り立つということである。だれも相手にしてくれなくなれば、試合はできなくなる。あんなことをする奴とは試合をしたくないと言われるようなことはしてはいけないのである。
今回の連続四球もこれにあたると思う。試合の初めに「お願いします」といい、終わりに「ありがとうございました」といって互いに頭を下げるのはなぜかを忘れて、「作戦だから」では通らない。(1992年8月19日)
憲法34条は「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与えられなければ、拘留又は逮捕されない」と言っている。刑事訴訟法30条は「被告人又は被疑者は、何時でも弁護人を選任することができる」と言っている。
法律はこのように述べているが、実際には弁護士は被疑者段階で容疑者につくことはほとんどなく、起訴された後のことにすぎない。戦後も冤罪が後を絶たない原因であろう。
今日当番弁護士制度が全国でスタートしたとニュースがあった。逮捕されたらすぐに弁護士を呼べるように初めてなったのである。憲法が「直ちに」といい刑訴法が「何時でも」といっても、何十年間の間これらの条文は実際には行われなかったのである。
このことをこの制度のスタートは端なくも明らかにしている。国の義務である国選弁護人の制度は、国が法が出来たときから実行に移している。しか し、この憲法と刑訴法の条文の実施は一に弁護士次第だったわけである。弁護士自身が憲法を守るということにあまり熱心でないことを示している。弁護士の怠 慢と言えよう。
つぎに、当番弁護士制度がスタートしたと言っても、それが実際にどう生かされるかはもまた弁護士の努力にかかっている。当番弁護士制度は英国が手本であると聞く。
今日見た英国の映画の中では、それだけでなく、弁護士は被疑者の警察による尋問の際に同席していた。現実にそうなっているのだろう。日本で弁護士が逮捕後すぐに付いても、面会時に黙秘権を伝える程度のことだそうである。日英のこの差の何と大きなことであろう。
弁護士が警察の尋問に付き添うことは、長時間の尋問や、長期間の拘禁を止めさせるきっかけになるものと思われる。しかし、これは決して警察側から弁護士に求めてこないことで、やはり弁護士の努力にかかっている。
しかし、日本の弁護士は被疑者の権利には興味がないのだろうかと疑われる。当番弁護士制度が出来るのに憲法か出来てから50年かかった。弁護士たちが50年間怠慢であったわけである。
被疑者と同席するまでにこれから何年の怠慢が重ねられることであろう。被疑者と同席しても大して儲からないのは確実であるから、日本ではこんな制度は生まれないかもしれない。(1992年8月14日)
高校野球が始まった。今年の夏の大会には大阪代表が4校も出ているそうだ。正確に言えば、部員が大阪出身者で占められる高校が、大阪代表以外に3校もある。
実は、大阪では代表になるのに8回勝たなければいけない。その難しさを嫌って、大阪の中学生が他府県の高校に進学して甲子園を目指した結果である。県によっては出場校が少なくて、5回勝てば甲子園に出られる所がある。
大阪ならば5回勝ってやっとベスト8進出である。もし予選で5回勝てば出場権を与えるとするなら、大阪は8校も甲子園に出場できる計算になる。ならば、4校出場もやむをえまい。制度自体が不公平なのであるから。
すなわち、今の制度では、地方大会で8回も勝ったチームも5回しか勝たなかったチームが、府県が違うというだけで、同じように甲子園に出場できるという不公平がある。
しかし、例えば大阪の代表を東京のように2校にするなどしてこれ以上出場校を増やすことは日程的に難しいだろう。昔は今のように一県一校出場ではなく、 県大会の後で、それより広い地域の大会を開いてきた。しかし、地方色の強くなった今の高校野球を、昔に戻して出場校を減らすのはもっと難しかろう。そこで提案だが、地方大会の試合数を同じにすることが難しいなら、甲子園に来てから、それまで多く戦ってきたチームに特典を、つまりシード権を与えてはどうだろう。例えば7回以上勝ったチームを、甲子園では2回戦からの出場にしたらどうだろうか。
これで、大阪出身者の占める学校が減ることはないだろうが、少しは今の不公平感が緩和されるのではなかろうか。
真夏に過密スケジュールで体をこわす選手も多いと聞く。多く戦ってきた選手に、シード権を与えて甲子園での試合日を遅らせて休養させたり、試合数を減らしてやる工夫があってもよいはずである。関係者に一考を請いたい。(1992年8月10日)
憲法13条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】 に付記された「公共の福祉に反しない限り」とは、他人に重大な害毒を及ぼすことがないこと、厳密には刑法に反しないこと程度に解釈すべきである。
もしこれが「多くの人の利益に反しない限り」という意味だとするなら、この条項は滅私奉公の肯定を意味することになる可能性さえ出てくる。もともと個人の利益は多くの人の利益に対しては、数のうえから言っても勝ち目がない。
だから、もしこれが「多くの人の利益に反しない限り」という意味なら、この憲法13条の存在する意味がなくなってしまう。それどころか、憲法13条はそもそも個人の尊重を言うものであるのに、まったく逆に個人の権利を制約する条項になってしまうだろう。
多数決の原理は民主主義のルールであるが、そう言えるためには前提条件がある。それは、党派を組んで予め投票者の投票を縛ることがないということである。さもなければ、投票は単なる儀式となってしまい、議会は飾り物になってしまうだろう。
そして、党と党の間の折衝だけが最も重要なものになってしまう。いわゆる国対政治の現状がそれである。演説は投票に対する説得のためにするもので なくなり、単なる形式的手続きの一つになってしまう。党と違う投票をするためには、離党するしかない日本の政治は、議員一人一人の意見の自由を奪うもので あり、決して民主的なものとはいえない。
英米の議会ではこのようなことがないのは当然のことである。それゆえ、投票に対する説得が党内はもとより、他党に対しても活発に行われる。二大政党制でありながら、決して票が単純に党員の数に従って二分されることはない。
日本で党議に縛るやり方があるのは、きっと、党が議員に金を配っていることと関係があるに違いない。これはよく考えれば一種の買収行為なのだが、倫理感覚の鈍い日本の政界ではこれに疑問を抱く人はいないのである。
国会が形骸化しているという人は多い。しかし、もし党籍にかかわらず各議員が自由に投票することができるとしたらどうだろう。国会が国会の役割を、そしてその地位を回復するのではあるまいか。
国会形骸化の最大の理由は明らかなことだが、誰がどう投票するか分かってしまっているためである。どこの国の議会もこうなのだろうか。票数を予め 正確に予測することはできないからこそ投票行動に意味があるはずだ。そしてそれでこそ、多数決を民主主義のルールだと言えるのではないだろうか。
そうなるためには、国会の投票でも国政選挙の時と同じく秘密投票の原則に従わなければならないし、党が投票を拘束したり、違反すれば罰を加えると いうようなことがあってはならない。また、金銭的に議員は党から自由でなければならない。党に多額の資金をあおいでいるような議員は党の言いなりにならざ るをえないからである。
民主主義の進歩を生み出したのは話し合いではないということは、よく忘れられがちなことである。それは、戦争であり、ストライキであり、デモで あった。だれが話し合いで既得権を手放すだろうか。国会での野党の牛歩戦術を非難する人は、民主主義の何かを知らぬ人たちである。権利の獲得は話し合いで は達成できないのである。
日本の総理大臣が靖国神社を参拝するというが、これはドイツの首相がヒトラーやナチスの人たちの墓に墓参りするのと同じことではないだろうか。靖国神社 にはA級戦犯が祭られている。また日本軍の軍人が祭られている。彼らはドイツにおけるナチスと同じ役割を日本において行った人たちだと思われている。
ドイツのコール首相がナチスの墓に参ったら大騒ぎになり、首相の座を棒にふるだろう。しかし、日本の首相は「日本のナチス」の神社に御参りをしな いと首相の座が安泰ではない。日本人が前の大戦を悔いているどころか、自分たちは彼らの後継者であると思っていることは、これからも明らかであろう。
その最大の原因は天皇制が敗戦によっても無くならなかったことにある。第二次大戦は天皇のための戦いだったのだから、その大義名分か否定されていない以上、戦前の日本と戦後の日本は政治的にも継続していると言える。
憲法は新しくなったものの、その運用によって殆ど前の憲法と同じものになってしまっている。日本は戦前と戦後で何も変わっていないのである。
第二次大戦を起こしたのは、一部の犯罪者の集団ではなく我々の尊敬すべき祖先であった。彼らはナチスではなく、われわれの親であり祖父なのである。親の墓参りに行くのは当然であり、今はなき親の罪を許し、その霊を慰めるのは当然の事なのである。(1992年8月10日)
日本の女子バレーが勝てないのは当然だ。ゴムまりのように跳ね回る外国の女たち、あるいは男勝りのおばさんがかっぽする恐ろしき外国の女たちに対して、柳腰の淑やかな女たちの日本、かわいい乙女たちの日本の女子選手が勝つはずがないのは、当然だろう。
嘆くことはない。人にはそれぞれの良さというものがある。(ソ連の選手に勝てなくても嘆くことはない。彼女たちはバレーボールを仕事にしているのだから。だからこそあんなに歳をとっているのに続けられていられるのだ)(1992年8月5日)
過労死に関して、何のために働くのかということが新聞で話題になっているが、そんなことは遠の昔に分かっている。遊ぶためである。
遊ぶという言葉が都合が悪ければ、休暇をとる為であると言ってもよい。ところが、日本人はそうは考えていないらしい。日本人にとっては、働くのは生きるためであるとでも言ったほうがぴったりくる。人並みに生きるためにと言った方がはっきりするだろう。
しかし、人並みに生きるというなかには、休暇をとるというのは入っていない。なぜなら、ほかのひとは休暇を取らないからだ。働いて食べて寝ること、それが労働者の一日であり、その永遠の繰り返しなのである。
労働の短縮は人間らしさと切り離しては考えられない。動物は、そして奴隷は働き続けて休むことを知らないし、許されない。人間は動物とは違う、それは人間は休暇をとるからであると、西洋の人たちは考えた。
しかし日本人はそうは考えない。日本人は人間と動物が違うことには大した意味を見出さない。人間は自然の一部であるから、動物と同じであってかまわないのである。働いて働いて意味もなく死んでいくのが日本人の死生観である。
労働時間の短縮を誰が叫ぼうと、そんなことは日本では実現されない。表面的には短くなるが、サービス残業が増えるだけのことである。(1992年8月5日)
国家に育てられた選手と個人で努力してきた選手とでは、国家に育てられた選手の方が強いことがよくある。国家によって育てられた選手は、運動が仕 事であり、年中そればかりやっているのに対して、個人の努力による選手は運動は仕事ではなく、年中練習をしているわけではなく、食べるために仕事をもって いる。
両者が争えば、国家による選手の方が勝つのはむしろ当然だ。しかし、オリンピックは本来、国の争いの場ではない。世界の力自慢、腕自慢が集い寄り、その技能や力を競うことに主眼がある。
国が育てた選手を力自慢と呼ぶにはふさわしくない。それが仕事なら自慢するに値しない。強くて当然だからである。自慢というからには、やはり余技でなくてはならない。
しかも国に育てられた選手が争うのは国のためということになるが、個人の方は自分自身のためであって、両者は大きく違う。国のために戦った者は、 国が無くなれば勝った意味も無くなっってしまう。国のお蔭で勝者になれたのであって、自分の努力によって勝ったとは言えないからである。
国のお蔭で勝つのは薬のお蔭で勝つのと、似ていはしないか。国が育てた韓国や中国の選手(またかつての東ドイツの選手も同じことだが)がいくら 勝ったところで、「世界は広い、上には上があるものだ」と感心するだろうか。むしろ「国の力はすごいな」、と関心するだけだろう。
あるいは、どんな練習をさせられたのだろう、と哀れむ人もいるかもしれない。負ければ彼らは国の恥だろう。しかし、個人で、自分の時間と気力と努 力とおそらくは金を注ぎ込んで獲得した技能で出場した選手は、たとえ敗れようと、誰に恥じることはない。自分自身にのみ責任を負うだけである。
国民の期待は期待として受け止めるしかない、期待に反したとしても国民に謝る必要はないわけである(伊藤みどりが謝ったはその意味では間違いで あったし、そんな気持ちがあったからこそ勝てなかった。また、「自分のために走って下さい」というキョン・キョンのビールのコマーシャルは正しい)。
誤らねばならなくなるとすれば、国に育てられた選手だろう。個人の選手は、多くの人の世話になってきたという気持ちはあっても、根本的には自分あってのことであるはずで、誰に恥じるところはないわけだ。
自分のために走る者こそ偉大なのである。中国の飛び込みの選手、韓国のアーチェリーの選手はいくら金メダルを取っても、誰も偉大だとは思わない (故にアメリカ選手がアーチェリーでメダルを取れなかったことを個人の練習だけで国の支援の少なさのせいとし、韓国の国の育成を讃えた朝日の今日の記事は 誤りである)。
彼らは単なる国の器械に過ぎない。子曰く、君子は器ならず。諸君は器械であってもらっては困る、なのである。誰のためにしたのでもない自分のためにしたということが一番大事な点である。(1992年8月5日)
公定歩合がまた下がり3.25%になった。バブルの崩壊で苦しんでいる人たちを救うしか、景気を浮揚させる方法は結局はない。日本経済は結局はバ ブルに乗っていなければ繁栄しないということはみんな知っていたのだが、建前としてそれはよくないというわけで、金融を引き締めてみたのだが、建前では景 気は良くならない、やっぱりバブルに戻った方がよいという本音が出てきたというわけだろう。
ただし、そんなことをおおっぴらに言う人はいまい。経済というのは麻薬のようなもの、実体のない幻想に頼っていないとやっていけないのだ。
もともと資本主義というのもが、資本という名の借金によって成り立っているのだから、その金を貸ししぶる雰囲気になれば、株価は下がる。証券や株式で金を集めて事業をするのは、一種のギャンブルに他ならない。ギャンブルがいつまでもうまくいくとはかぎらない。
最後まで勝ち続けるギャンブルはない。それなのに経済には終わりはないのだ。好景気が何時までも続くというのはギャンブルに勝ち続けることなのだ から、いつか大負けするときが来るのが当然。おまけに、このギャンブルは金を借りてするギャンブルである。うまくいかなくなって当然。資本主義の運命だろ う。
公定歩合を下げるということは、銀行の金利を下げてその借金の利息を楽にしてやろうというわけだ。さて借金の利息が下がればギャンブルもやりやす くなるには違いない。しかし、ギャンブルする気が起こらなければ、景気は良くはならないところが困ったところで、人の気持ちまで、金利で変えられはしない のである。
借金しやすくなったから、もっとギャンブルしなさいと言われても困る。なぜなら、ギャンブル自体に勝てるかどうかは、金利とは関係がないからだ。
作った商品が売れる保証が少しでもなければならない。消費者の購買意欲というのが、そこで問題になる。公定歩合が下がれば預金金利も下がる、それなら、銀行に置いておくより、使ってしまえとはならないのだ。
また上がるまで置いておこうとなるかもしれない。買う方も借金をしやすくなるわけだが、消費者でも堅実な部類の人たちは特に借金はなるたけしたくない。
家は借金でしか買えないものだが、家を買うには土地の値段がまだまだ高すぎる。土地持ちを損をさせずに土地の値段は下げられないのだが、支持者が 土地持ちが多い自民党政権では土地の値段は下げられない。日銀に公定歩合を下げさせるなら、痛みは消費者なのだから簡単にできるということで、いくらでも 下げる。
しかし、公定歩合を下げれば、借金して土地を持っている人たちはおかげで土地を手放さずにすみ、土地の値段は下がらないから、家を買う人は増えな い。というわけで公定歩合を下げても、一番金の動く不動産部門の不振は続き景気は上がらないというわけた。(1992年7月27日)
参議院の選挙の投票率が低かった。しかし、現在の国会のありかたからして致し方あるまい。
つまりまったく形式的な存在でしかなくなっており、誰が当選しようが大勢に影響しないことが明らかになっている。議員は個人としての価値はほとんどなくなって、国会での数合わせにしか役立っていないからである。
国会は開会される前にすでに、どの法案が通過するかどうか判ってしまっている。与党が出した法案が否決されることはないのである。開かれてしまえば、もはや野党は牛歩戦術でも取らない限り、野党が与党の法案をつぶす方法はない。
ならば、国会を開くまでが勝負ということになり、国会対策が重要になり、議長よりも国会対策委員長の方が実質的な地位の高くなるのも当然だ。
また、野党は対立する法案を出しても、反対するためには全く何の役にも立たない。国会の開会を妨害するしか与党の法案をつぶす方法はない。一旦開かれたら、野党が反対する手段は牛歩しかないのである。
国会が討論と説得の場であり、優れた意見が党派を越えて支持を受けて各議員がそれぞれ独立した判断力をもって投票するのではなく、国会が開かれる前に党によって投票行動が決められているのでは、国会を開くのは形式でしかなく、また必要な手続きでしかない。
つまり、党議拘束がありかぎり、国会の形骸化はなくならないのである。
PKO法案には反対なのに与党にいるいう理由で賛成投票をして、あとで本心は反対だから離党する議員がいた。先に離党して反対投票をするのでは、与党内から造反者を出すことになり、党に迷惑をかけると思ったから、後で離党したのだろう。
しかし、これは国会議員の独立のない今の実体をよく表している。つまり選挙で誰に投票しても党に投票しているのと同じことである。こんな議員しかいないのなら、いっそ全部比例代表制にしてしまったほうが、現在の国会の状態をよく反映していると言える。
小選挙区制は、個人に投票して党を選ぶ制度であるから、これでもよい。今の中選挙区制だけは現実の国政を反映していないのは確実である。
政党は本来政権をとるための組織であり、法案を出したり通したりするのは各議員の役割である。同じ意見に賛同する10人が一つの法案を出す。それを審議してよい法案を各議員の判断によって採決するのが国会である。
政党が法案を出して通すのは、一種の八百長を国会に持ち込んでいるに等しい。採決以前に投票を拘束してしまっては投票する意味がない。談合と同じことである。
また、根回しも日本人のよくやる八百長の一つである。試合をする前に何方が勝つか決めてから試合をするのを八百長と言う。談合、根回し、党議拘束、日本の三大八百長である。
日本人は対立を嫌うから談合や根回しがあるとよく言われているが、それは間違いである。結果に対する不安を解消するために、勝負をせず、運に任せることをせず、予め話し合いと取引で勝ち負けを決めてしまうのである。
日本人が卑怯だといのは、パールハーバーを引合にしてよく言われるが、実は戦争に匹敵することでは、何事においても卑怯なやり方をとる民族で、公正さは後回しとなる。(1992年7月26日)
連合が馬脚を現し参議院選挙で惨敗した。自分自身は政治団体をもたず、野党におんぶして選挙をやって、国会議員になったら自分たちの政治集団を作ってどの野党にも属さないというのでは、野党は選挙で結局何の得もしない。
だから野党が積極的に支援するはずがないのは当然で、連合の会長が敗北の原因は野党にあると言っても、自分で集票をせずに、野党の選挙組織に頼って国会議員を作ろうとしてもそう虫のいいことは続かない。
国民もその辺を見抜いて、彼らは一人前の政治団体ではなく、政策もないと分かれば、無所属で出馬するば当選したかもしれない候補も落選させてしまった。
その点大阪の西川候補が連合からの出馬を断ったのは賢明だった。彼ももし連合から出ていたら共産党に負けたかもしれない。逆に連合が西川氏に断られたのは、その政治団体としての節操のなさを見抜かれていたのかもしれない。
この選挙で現れた庶民の連合に対する判断を西川候補が既に持っていたと言うべきかもしれない。それとも西川氏が予め庶民の批判的な見方を見抜いていたのかもしれない。
連合は野党から推薦だけはもらったがいざ選挙が始まってみるとはしごを外されてしまったし、国民からも弱点を見透かされてしまった。(1992年7月26日)
会社なんぞに行ったら、働いて食って寝るだけになってしまうじゃないか、と言ったら、そんなもんだと会社員の友人が答えた。また、会社にしがみついて金 儲けをすることが一番大切なことだと考えない奴はいいかげんな奴と思われる世の中だ。金儲けは大切だが、その目的が食って寝ることでしかないのに、それが 一番大切というのか。
食って寝るだけが、日本人の生活だ。自分自身の生活がない。だから、金さえ稼げればよい。だから、金にかかわる事には興味があるが、国際関係や憲法などという話となると、まるで興味が無くなってしまう。
よけいなことを考える暇があったら、勉強しなさい、または金を稼いで来い、というわけである。消費税には反対して投票するが、自衛隊がどこで何をしようが自分には関係がないのだから、投票にいく必要は特にない。
PKO法案がもし、国民の一人々々の汗をながす国際貢献を求めるものだったら、国民は選挙に関心を持ち、さらにはそれに反対する野党の大勝利ということになるだろう。
要するに利己主義をこれほど尊ぶ国はない。
平和維持活動に関する法律が、直接自衛隊が出動する、自衛隊が貢献することを定めた法律であれば、そんな法律は法律ではなく、施行令のような行政的なものであるはずだ。
特定の団体に関する決まりをそれに関係のない人たちが決めるなどということはない。国民全体のことを決めるのが法律というものだ。この法律が真に法律なら、国際貢献をするのが自衛隊だけだとは特定していないはずである。
国民は知らぬうちに、国際貢献をすることを約束してしまったのではないか。自衛隊がだめなら、国民が出ていかなければならないということなのでは ないなだろうか。つまり、この法律によって徴兵制が解釈によって可能となったのではないかという心配がある。(1992年7月24日)
一年前から町じゅうにポスターが張り出され、3か月前から、車で名前の連呼をやっていたと思ったら、葉書がうちに二枚も来た。有名な国会議員の息子だそうな。今日新聞を見ると、その候補者が一番有力だと出ている。さもありなん。
他のどの候補も一年も前からポスターを張っていないし、誰も3か月前から連呼していなかったし、他の候補者からは葉書は一枚も来なかったもの。 で、彼らは今日の新聞では難しいとある。どうも最初の二つは違反じゃないかしら。たくさんの人間が投票するそうだから、そうでもないのかな。
結局選挙は一年前から金かけてやったものが勝ちというわけだ。PKOなんて関係ない。一票の重みというけど、これはきっと金の重みのことだね。おこぼれにあずかれないわれわれはいったい投票所にいって何を得するというのだろう。
なんだか投票所に行く気がしなくなった。またまた自民党が勝ちそうだ。日本人の物の考え方からは、自民党しかいらないのではないかと思われる。(1992年7月22日)
バイクに2度乗っただけの学生を退学処分にして、その学生の人生をぶち壊した学校に違法の判決が下った。この際、この処分を決めた高校の校長はこの判決を受けて辞職してはどうか。
規則には従いなさい、さもなくば追い出されると、彼は生徒に教えたはずだ。反論することは許されないとも教えたはずだ。まず自ら手本を示すべきである。そうすればまた、この校長は生徒の痛みを身をもって体験することができ、より立派な教育者になれることだろう。
なにより教育者は潔くなくてはならない。人に規則を押しつけるなら自分も規則に従うことだ。まず魁より始めよである。しかし、裁判官はこの校長に 辞職を勧めはしなかった。これは校長にとって残念なことであった。なぜなら、校則に違反したら即退学にすべしというやり方の正さを実践する機会が得られな かったからでる。
また、辞職した自分の命の大切さとその意味を考える機会が得られなかったからである。しかしまだ遅くはない、今すぐきっぱりと辞職したまえ。(1992年3月20日)
ダウン症のコーキーが劣等感に悩みながらそれを乗り越えようと挫折を繰り返しながら真剣に努力する姿は感動的だ。その努力を支えようとする家族の姿がすがすがしい。
死の問題、老いの問題。自然保護の問題。男と女の問題。差別の問題。自立とは。家族とは。人間とは。生きるとは。毎回様々な問題に子供の目で真正面から取り組んで答えを出そうとする。
「正しい姿勢がとれなければ優雅ではない、優雅でなければ魅力がない、魅力こそはダンスのすべて」。正義感の強い妹のベッカーのチャーミングな口許。人生には勇気が必要だということ。
ダウン症の子を養子にしたいという人が順番待ちをしているという国ならではの物語か。コーキーの顔つきはダウン症の子のそれで、だから嫌うという人もいるが、ダンウ症に対する偏見を無くそうとする意図も成功している。
このドラマは毎回決して期待を裏切ることがない。最後には必ず感動とそして生きる勇気を与えてくれる。(1992年)
日教組の集会について、私は和歌山の中学生の意見に肩入れしたい。日教組も言論の自由を行使しているなら、右翼もまた言論の自由を行使しているのに違いない。相手の言論に反対するのは立派な言論だ。
日教組は集会を開くと周辺住民に迷惑がかかるのは、全部右翼が悪いからだというのは間違いだ。右翼を帰らせることの出来ない日教組にも責任がある。日教組は右翼を帰らせるのは警察の仕事だとでも思っているのだろうか。
しかし、警察はそこまで面倒は見てくれない。警察が出動するのは言論・集会の自由を守るためではない。あくまで暴力行為が起きないようにするためである。そもそも、言論の自由とは、警察官に守られて与えられるものではないはずだ。
それは政府から言論の統制を受けないということであって、右翼によって言論の自由を暴力的に妨害されないことを保証するものではないはずだ。
人の気に入らないことを言えば、相手に暴力を見舞われるかもしれない。これは覚悟しておかなければならない。暴力はよくないが、人間は感情の動物である、かっとなって殴りかかったりしてくるかもしれない。
言いたいことをいう以上、それは覚悟しておかなければいけない。自分は自分で守るしかないのだ。いや、言いたいことをなんの心配もなく自由に言えるのが言論の自由であるというユートピアを夢見ている人がいるかもしれぬが、そんな世界はどこにもない。
言った事の責任は取らなければならない。相手が傷つくことを言えば、たとえ暴力に訴えなくとも、名誉棄損に訴えられたり慰謝料を請求されるかもしれない。
言論の自由を公権力によって守ってもらっているようでは日教組もなさけない。羊飼いが狼をシェパードの替わりに雇っているようなものだ。このようなことが続くとその力は衰えざるをえない。現に日教組に加盟する教職員の数は減る一方ではないか。
日教組は、自前でガードマンを雇うか右翼と正々堂々と対決すればよい。こそこそと会場に忍び込む組合員の姿を見れば、組合に入ろうという気はなくなるだろう。日教組は右翼と談判して会場周辺から帰ってもらうことだ。
それには勇気がいる。しかし相手も無闇に刀を振り回すだけが能でないことぐらいは知っている。談判一つできないやつらが何の教育だろう。日教組の 集会は今のままでは、右翼が付いてくる、機動隊が出てくる、回りの住民に迷惑がかかる、そして日教組の値打ちが下がるという図式から抜け出せないだろう。
右翼のせいにしているだけでは、一歩も前へ進まない。話せばわかるという信念のないやつは教師なんか辞めてしまうほうがいい。いや、そんな信念ある教師などいないだろう。だったらとっくに子どもに体罰という暴力を振るう教師はいなくなっているはずだ。
言っても分からないなら暴力に訴えてもいいと思っているから体罰にでるのだろう。教師も右翼と大差ないじゃないか。右翼に帰ってもらうだけの能力も熱意もないのなら集会などやめてしまうがいい。そのほうが回りの住民のためになる。
この意見に気に入らないやつはどこからでも私にかかってこい、相手になってやる。ところで、この意見が掲載される場合は匿名に願います。
わたしは対人恐怖症です。人が信用できません。悪口を陰で言いながら、表では仲良くしているのはいやだという中学生の人の意見に同感です。わたしはいつも裏表のないつきあいをしたいと思っています。
気に入らないことがあれば、はっきり面とむかって言ってほしい。本心を打ち明けてほしい。それでこそ真の友達じゃないか。「こいつ腹では何思っているのかわかない」と思うと、とても不安でつきあいたくなくなります。
自分だけの友達だと思ってたのに、あいつにもこいつにも仲良くしたがるやつがいます。そういうときはひどくがっかりします。ああ、どうすれば人の心がわかるようになるのだろうと思います。人の心が分かればきっと安心して人とつきあえるようになるのにと。
また「本当はあいつ、おれと付き合っているのは単におれが便利なためだけじゃないか」と思ったりします。本音で付き合えるやつが欲しいのです。本当に俺のことが気に入っていてくれて付き合ってくれるのでなきゃいやなのです。
人が他人の悪口を言っているのを見ると、自分も陰で何を言われているのか分からないという気持ちになります。陰口を言うやつとは付き合いたくありません。
陰口は嫌いですが、面とむかって悪口を言われるのはもっと嫌いです。「君は常識がないね」と言われると、お前にどれだけ常識があるねんと思ってし まいます。「君、ドアを開けるときはノックぐらいしなさい」と言われると、人のミスをあげつらうな。「部屋に入ったらコートは脱ぐものだよ」うるさいな あ。「君の字はきたないね、もっと丁寧に書いたらどうだ」お前はどうやねん。「もっとゆっくりしゃべりなさい」耳の穴ほじくってよく聞け。「君の顔はイグ アナに似ているね」ほっとけ。「君のことなんて、誰も心配してないよ」死んじまえ。「あんたなんて、嫌いよ。二度と電話しないで」ばかやろう。
悪口を言われると、たとえ相手が忠告のつもりで言っていてもいやなものです。いったい自分を何様だと思っているのか、あんたは間違いがないのか、欠点はないのかと思ってしまいます。
わたしは謙虚な人間ではないので、悪口は忠告として聞くことはできません。だから陰でも表でも言ってほしくない。自分の欠点は自分で直します。だからほっといて欲しいとね。
そのかわりにほめ言葉はどんどん陰でも表でも言ってほしい。「おまえはまあまあ男前のほうだよ」とか「君は独創的だね」とか「さすがに頭がいい ね」とかいわれるのはいいものです。また「歌がお上手ね」とか「またお会いしたわ」「またいらしてね」とかも悪い気はしない。ひょっとして「あなたが好き よ」なんていわれるのは特にいい。
ほめことばというのは人づてに聞くのもまたよいものです。また、けなす場合でも、「この人ぶあいそね」と言われるよりも「こちらお静かね」と言われるほうがよいものです。
しかし、なかなか只でそんなによいことは言ってもらえないものです。きっとこちらが何か先に親切をしたり大事にしてあげたり、後でたんまりお金を払わされたりします。
まあとにかく、野球で言えば「攻撃は最大の防御なり」というところで、自分を大切に思ってくれている人の悪口は言わないものだから、悪口を言われないためにはまず先に人を大事にするしかないらしいのです。
ところがこちらが大事にしても必ずしも相手もこちらを大事にしてくれるとは限らないのがやっかいなところで(無視されるかもしれないし、通じない かもしれないし、誤解されるかもしれないし、うるさがられるかもしれない)。これは賭けでいうと「一か八か」「出たとこ勝負」というところでしょうか。
恐ろしいことです。人を大事しようというのに、なんと勇気がいるとは。野球の「ピンチに直面したマウンド上の孤独な投手」の心境を、日常の世界で味わわねばならないなんて。
しかも、野球は失敗しても打たれるだけですが、こちらは心が傷つくことになるので、逃げ出したくなるのは当然のことでしょう。「とにかく真ん中めがけて投げてみろ」と言われても怖くてしかたがないのに無理なことは言わないでほしい。
というわけでなるべく人とは付き合いたくありません。だって怖いんですから。誰か怖くなくなる方法教えて。なに、「稽古が足りんからだ」だって?
同窓会名簿、わたしも親には見せたくありませんでした。わたしは思いました。
きっと親は同級生の就職先を知りたがるだろうな。たれそれ君は有名などこそこに行っている、あのたろべい君が公務員になっている、てなことを話題にしたがるに違いない。みんないいところに就職しているからなあ。いやだなあ。
そうだよ個人の値打ちは就職先によって決まるわけじゃないんだ。しかし俺は就職失敗したしな。比べられるといやだな。よく見ると中には『パリ在住』なんてのがいたりする。俺は田舎にいるしな。『画家』なんてのもいる。すごいな。
それに比べて俺は何だろうな。情け無いな。『プロゴルファー』なんてのもある。テレビで見たことないなあ。でも何にも書いてないのもけっこうある。会社に行ってないのかな。それともかっこ悪いから書いてないのかな。
女の子はたくさん名字が変わってしまったな。変わってないのもあるな。男でよかったよ。おや、住所も書いてないのがいる。かわいそうに、行方不明なんだな。
『物故者』というもある。そういや亡くなったやつもいるんだ。でも、生きていくのも大変だよ。
というわけで、親には見せずにいました。ところが、しばらくして住所を調べるのに出してそのままにしておいたのに対して、親は別段興味を示す様子もありません。
わたしは思いました。ははあ、もしかして、親も気を使ってくれているのかもしれないな。いやいやそんなに甘くない。きっとこんなの見てもしゃくに さわるだけだから、知らん顔しているのかもしれない。そりゃそうだ。人の就職先を見たくなるからには、自分の子のがよくなくちゃいけないからな。
きっとそうだ。そういや昔、人の子の進学先を知りたがったことがあったけど、あの頃は、きっと俺の進学先が自慢だったに違いない。名簿を見たがるのもいやだが、見たがらないというのも、ちょっと情け無いもんだな。
というわけで、同窓会名簿というやつ、自分の進学先や就職先が良くても親には見せたくないし、良くなくても見せたくないものなのです。
じゃあ何の役にも立たないのかというとさにあらず。これを一番役立てているのが実は会社の営業マンたちなのです。その証拠にそのうちきっと家に電話がかかってきたり、ダイレクトメールが来たりします。(1991年)
市立尼崎高校が筋ジストロフィーの学生を入学させずに裁判になっている。このニュースが出るたびに、そして車椅子の姿がテレビに映し出されるたびに彼の姿が痛ましくてならない。
なぜこれほどのハンディを持った人間がこうまでしなければならないのだろう。学校側はこの姿を見てどうして裁判を受けて立つ気持ちになれたのだろう。早く彼を入学させてやって欲しい。彼にチャンスをやってもいいではないか。
3年間の履修は不可能だというのが不合格にした学校側の理由だそうだが、仮に学校側の予想どおりだとして彼が修学を続けることができなくなったと しても、それは本人の問題ではないか。彼はきっと、トライはしたがだめだったと納得して学校を去っていくだろう。しかも彼はチャンスを与えてくれた学校に 感謝するだろう。
入学させたからには卒業させなければならないという学校側の責任感は立派だ。しかし彼ならきっと最後までやり通すのではないだろうか。合格しても 中退する学生はいくらでもいるが、それと同じかどうか裁判に向かう彼の姿をよく見てやって欲しい。私は赤の他人だがそう願わずにはいられない。(1991 年3月)
大学時代、下宿生活を経験したが、やたらあちこちに張り紙がしてある下宿があった。トイレの中にまで張り紙がしてあって、「こぼさないこと」など と書いてある。「廊下は静かに歩くこと」などとも書いてある。常識である。が、若い連中はできない。で、階下に住む下宿の主人は注文を紙に書いて張り出 す。
口に出して言えば角が立つということもあろう。しかし、口で言おうとすれば、それなりに相手に対する配慮も生まれ、また婉曲な表現を使ったり丁寧な言い方になったりする。しかし張り紙となると直接的である。寛容の精神の入り込む余地もない。
(人を介して忠告する場合も、これに似ている。仲介者は婉曲な言い方をしない。問答無用の命令を伝えるものにある)。
張り紙は相手の弁解を許さない。張り紙は話し合いやコミュニケーションを拒否したやり方である。こんな下宿の主人と下宿人の間に信頼関係は生まれない。
家族はよほどのことがないかぎりこんなやり方をとらない。まず話し合おうとするだろう。相手を相互に尊重する気持ちがあるからである。
校則は張り紙に似ていないか。教師の側が生徒について気に入らない点が見つかると、どんどん校則にする。挙げ句には単なる常識としか言えないような事が校則になってしまう。生徒と教師の間に話し合いなどなく、ただ教師が要求を押しつけるだけである。
廊下を走る子供がいれば、走ったら危ないし、音がしてうるさいことを納得のいくように伝えればそれでよい。ところが、口で言わずに紙に書く。校則にする。「廊下は走らないこと」だと。ここにはどうせ、言っても分からないだろういう姿勢がある。
教師は生徒を尊重しているか。むしろ、生徒を敵視しているかのようである。こうして、校則は下宿の張り紙同様、生徒にとっては追い出されないために守るだけの存在となる。
校則をもし生徒と教師の話し合いによる合意で作ろうとするようになるならば、むしろ校則自体がなくなってしまうだろう。コミュニケーションのある場に張り紙は必要ない。校則も同様である。
実質的な権力のない首相がまた生まれた。
日本の最高権力者は歴史の始めから次々と権力の無い存在に変わっていった。天皇、摂政、太政大臣、関白、将軍、執権、老中、大老と次々に権力を持つものの名前が変わっていった。
戦時中には、権力を軍部が握ったこともある。(実質的な権力者であった東条は、天皇によって名目的な権力の地位である首相にされる)
明治時代、天皇が権力者であった時期には、首相が実際の権力を握った。首相が権力者である現在は、党の幹事長が実際の権力をにぎる。
将軍が権力者であった時代には老中や執権か権力を握った。家庭の中では、亭主が権力者であるが、実際の権力は女房のものである。
脳死を人の死とする医者の意見に反対が出る裏には、医者が信頼されていないということがあると思う。
「医者がより多くの人の命を救うためにと考えて、脳死を人の死としようと言っている。彼らの言うことだから間違いがないだろう。みんな考えを改め よう、首から下が動いていても生きていることにはならないのだから、首から上が動いている人のためになるようにしようじゃないか」そんな議論が出てきても おかしくない。
しかし、本当に彼らの言うことに間違いがないか。彼らの言うことは信頼できるか。そこに疑問符が付くかぎり、その後の議論は続かない。
多くの医者は、医術を金儲けの道具にしか使っていない。外車を乗り回し贅沢な暮らしをして休日には出かけてしまう。自分は高い給料を取っていながら安い給料で看護婦をこきつかう。救急病院は患者をたらい回しにして、人を殺してしまう。
患者を薬づけ、検査づけにしてしまう。税金で優遇されているのに脱税する。医者は庶民の味方ではなく、一個の利益団体でしかない。これではいくら良いことをしようとしても反対が出るのは仕方がないではないか。(1990年)
10月5日付け朝刊の手紙欄には驚きあきれてしまいました。AV嬢が夕刊の一面に載ったのを不快極まると罵り放題の女性の投書が載っていたのです。
多分、こういうのを載せたらきっと反響がいっぱいあるだろうという目論見で載せたんでしょう。でもこういう職業差別に満ちた意見を堂々と載せるとは。天下の朝日さんがこんな投書をする女性をわざわざ白日のもとにさらすことはないでしょうに。
人にはそれぞれ生まれ持ったものがあってそれを生かして金儲けや出世など自分の夢を実現しようと思って、悪戦苦闘するのでしょう。それのどこが悪いのでしょう。
この投書の女性はきっとほかの分野で優れているか、有名になりたいなんて夢をとっくの昔に捨ててしまったのか。いずれにせよ、最近の風潮に乗せられてちょっとあさはかです。こういう人なんでしょう、美人コンテスト反対とか言ってるのは。
「あんなものバネにしたってちっともカッコ良くないし」っていう、そのあんなもの、彼女は持ってないんでしょうか。それが無くてはどんな女性もきっと男 に相手されないかもしれないもの。それがなくて、女がいきなり老いた姿で生まれてきたら一生一人で食ってかなきゃいけないかもしれないもの。
そんな大事なもの、男に無いものをあんなものという言葉で片づける根性ってスッバラシイ。年取ってからもう一度聞きたいものです。
寅さんが「男が目方で売れるなら」こんな苦労はしないと歌ってますが、裏を返せば女は目方で売れるのかもしれないって考えたことありませんか。それにしても同性がこの恐らくは最後のカードを切ってまでして自分の夢に邁進する姿をさげすむとは。
それよりあの記事、こう読めませんでしたか「ああ、このけなげなお嬢さんの叶わぬかも知れない夢の手伝いが、ほんの少しでも出来たらな」と自分の娘みたいな女の子を前にした男が社内の反対押し切って夕刊の一面に載せたんだって。ま、そんなことないか。
それにしてもあの「手紙」はないでしょ。ひとの人生バカにする権利はないよあんた。(1990年10月5日)
9月14日の、縦書きは日本の文化財で是非とも守らなければというご意見、しかし万年筆で縦書きをすると字が汚れてしまうというもう一つのご意見 の二つを拝見した。それならこの両者を生かした一石二鳥の新しい方法がある。縦書きで左から右へ書くのである。これなら字を汚すことなく縦書きができる。
元来は毛筆で手を紙から離すから字が汚れることはなかった。また昔は巻紙を使った。巻紙は左手に持って左から右へ回しながら広げるのが自然で、右から左 へ書くのが便利だった。しかし、現代では手を浮かせて書く人はまれであり、巻紙も使わない。だから、縦書きでは字を汚すか、吸い取り紙が必要になる。
しかし、もし左から右へ書き進むようにすればどんなに便利だろう。字を汚す心配がなくなるだけではない。すでに書いた内容を確認する場合にいちい ち腕をどける必要がなくなる。さらに、書いた内容を簡単に見渡すことができ、前後関係の明確なよい文章も書けるようにもなるだろう。
昔は横書きも右から左へ書いたが、今では左から右に書いている。縦書きを左から右に変えるのもあながち不可能なことではないのではなかろうか。(1990年9月14日)
「女性専用車両をつくろう」というご意見に、おじさんである私も賛成です。
女性専用車両ができれば、まず第一に、朝からくっさい香水の臭いを嗅がなくてすむようになるでしょう。
第二に、あのとんがったハイヒールにふんずけられて痛い思いをしなくてすむようになるでしょう。
第三に、痴漢と間違われて、「この人痴漢で~す」などと言われて、赤っ恥をかくようなこともなくなるでしょう。
第四に、挑発的な女性の身なりを気にせず、集中して読書ができるようになるでしょう。
第五に、ロングヘヤーがこちらの顔にあたって不愉快な思いをしなくてもすむようになるでしょう。
さらには、ひょっとすれば、座席の狭い隙間に、おばさんの大きなお尻をつっこまれなくなるかもしれません。(ただし、おばさんたちがそちらに乗ってくれればの話ですが)いささか残念なことに、女性専用車ができれば、女性の顔が化粧によってどんなに変わるものか、その過程をつぶさに観察する機会が失われることになるでしょうが、そんなことはすぐに慣れるでしょう。
あっ、それから、その車両には是非とも子供連れのお母さん方にも乗っていただけるとよいのですが。そうなれば、おじさんたちもさらに安心して電車に乗れるようになるでしょう。
さて、このようにいいことずくめの女性専用車両です。それをつくるのはおじさんも賛成です。ただ、一つだけお願いがあります。女性専用車両をつくるなら、是非とも、中央の車両ではなくて、先頭車両か最後尾の車両にしてもらえませんか。
発車間際に女性専用車両に間違って飛び乗ってしまって、一駅区間彼女たちの冷たい視線をあびるのだけはご勘弁願いたいからです。
以上は、大方の真面目なおじさんたちに共通の意見だと思いますが、いかがでしょうか。(1990年)
自分一人のためならセクシャルハラスメントを我慢することはあっても、子供という理由ができると途端に人のためになることでも腹が立つというわけです。
女性のみなさんは元々自分勝手な存在ですが、若いうちは気後れしたりしてなかなかそれを表に出しません。でも若いうちは劣等感の固まりだったような女性が子供を生むと突然強くなって、なりふり構わず自分勝手なことを言い始めます。
この前の投書のお母さんは女性専用車が端っこになったら子供を抱いて走ることになるとお怒りになっています。社会が共存共栄だと言うなら、どうして痴漢 に悩んでいる若い女性のために早めに駅に来ようとは思わないのでしょうか。それに、痴漢は電車の混み具合などおかまいなしなのをご存じでしょうに。
間違ってもらっては困りますが、私はけっして若い女性の味方ではなく、むしろ彼女たちの被害者と言ってもいいくらいです。最近の若い女性は子供もいないくせに実に自信たっぷりでずうずうしい。思わせぶりなことを言って、高級料理を食い逃げするくらい朝飯前です。
もちろん立派な女性もいるでしょう。しかし、人間の中身というものほど分かりにくいものはない。顔はもうひとつだけど言うことはまともだから信用 していいかと思っていると、ものの見事に裏切られたりします。女性は若くて外見さえよければいいのだと言う人がいても、これでは当然ではないですか。
それに男女平等と言っても、女は男の方がいくぶんでも強くなければ相手を軽蔑します。本当は女性は主導権を握りたいのではないでしょう。責任は男にとらせておいてあれこれ文句を言っていたいだけではないですか。
文部省に気兼ねして内申書を公開できないのも男なら、電車の利用状況をよく考えて女性専用車を作らないのも男なのです。とにかく、子供を錦の御旗にするのはやめてもらいたいのものです。(1990年)
日本の小説は登場人物の性格を一つの作品によって描こうとする。欧米の小説は登場人物の性格は簡単な言葉で最初に説明しておいて、そのあとその人たちを中心にして起こる出来事を一つの作品によって描こうとする。
日本の小説では主人公の顔も年齢も服装もまったく分からないということが少なくない。そんなものは重要なことではなく、その人のもっている深遠で不可解で魅力的な性格、つまり人物を出来事を通じて描いていく。
欧米のは、どんな顔をしているか、どんな服をきているか、年齢はいくらかがはっきりと書かれてから、話が展開していく。そして事件の展開がどうなるかをスリリングに追っていくことになる。
日本の小説は事態の推移、ストーリーはただ小説を前に進めて、お終いにもっていくためだけにあると言っていい。
常磐新平という翻訳家はどうして有名なのだろう。彼の訳した『大統領の陰謀』という本を読むと、その翻訳が非常にぎこちない日本語であり、専門用語もかなり適当な訳語が付けられていることがわかる。
友だちが常磐新平訳という本を買って読んだらひどい訳だったと言ってきて、きっと本当は別人の訳で名前だけ常磐新平を使っているんだろうと言っていたが、そうなのだろうか。
『大統領の陰謀』の日本語と『アメリカを変えた五十人』という本のなかの常磐新平の訳は、日本語がよく似ていて、括弧(原文にないことばを補うときに括 弧を使ってその中にいれる)の使い方も同じである。もし友だちの考えどおりだと、どちらも本人が訳したものではないことになってしまう。
例えば『大統領の陰謀』の翻訳のなかに『支配人小切手』という奇妙な訳語が出てくる。これはCASHIER'S CHECK の訳として使われているのだが、辞書にはそんな訳語はない。
そもそも銀行に支配人がいること自体驚きである。実は英和辞典の中に、CASHIER に「(銀行の)支配人」という訳語をつけているものがある。どうやら、それと「小切手」を単純にくっつけて作った言葉らしい。
では、その小切手が実際にはどういう風に銀行で発行されるのかというと、それが不明なまま訳されていることが、あちこちの訳文から明らかである。つまり、よく調べもせずに訳したらしいのである。
また、全体的に訳語の統一もされておらず、二、三ページの間に同じ人物を指す単語として、元官吏、元役人、元職員と違う言葉が出てくる。
なぜこんなに違う訳語を使ったのかというと、それは単に次々と出てきた単語を直訳しただけだからである。
確かに、欧米では同じ人間のことを表すのに様々な表現を使う習慣がある。しかし、英文で読めば分かる場合も日本語でそのまま直訳されると読み手は混乱してしまう。
だから、彼の訳では別の人間が登場したのかと思ってしまうのだ。実際、私は何回も読み直してやっと、ああ同じ人間のことを指しているのだと分かったような次第だ。
この『大統領の陰謀』の翻訳は完全な直訳調で、おそらくまず全体を最後まで一回読むこともせずに、頭から順に訳していったものらしい。
ところで、最近彼は小説家としての大した実績もないのに直木賞を取ってしまった。たぶん彼は出版業界ではかなりのやり手なのだろう。
それにしても、翻訳家として有名になるのに一番重要なのは正確な翻訳力ではないらしいことは、この人の翻訳書が証明している。これから翻訳家になろうという人にはとっては全く励みにならないことである。
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