この世は一寸先は闇だと言った
劇作家ソフォクレス
『オイディプス王』
朝は四本足で、昼は二本足、そして、
夕方は三本足で歩く動物は何か
さあ、あなたはこの問題が解けるだろうか。これに正解を出せないと怪物に食われてしまうとしたらどうだろう。そもそもこんな問題を出す怪物なんて変かもしれない。これはスフィンクスというエジプト伝来の怪物である。これがギリシャの英雄オイディプスの物語では一役買うことになっている。
ギリシャのテーバイの人たちはこの怪物の出した問題が解けないために人身御供を差し出さねばならず、パニックにおちいっていた。そこにたまたまやってきたオイディプスが
それは人間だ。赤ん坊は手と足を使って歩き、成長すると二本足で歩き、
老人になると杖をついて歩くからだ。
と喝破(かっぱ)したのである。そして町を救ったオイディプスは請われてテーバイの王となった。しかしこの幸運は実は大きな不幸の始まりだった、ジャジャーンというわけである。
ソフォクレスはここから先を劇にして『オイディプス王』を作った。オイディプスが王になってしばらくするとテーバイの町は飢饉におそわれた。町の人間は再びオイディプスに救いを求めて、子供たちを王の元へ送った。そこで芝居の幕が上がる。
そこで子供たちの嘆願を神官を通じて聞いたオイディプスは「手はもう打ってある」と言う。解決策を求めて既に義弟クレオンをアポロンの神託をうかがいにデルフィの社に送り出していて、いまその帰りを待っているところだと言うのである。
ちょうどその時まるでこの話を聞いていたかのようにクレオンが帰ってくる(こういう展開はソフォクレスの劇の常套手段でこの後にも、他のソフォクレスの劇にも使われる。日本の落語にも使われている)。
そして、クレオンが伝えたアポロンの答えは、テーバイの先王ライオスを殺した犯人を捕まえて処罰しろというものだった。
そこで、オイディプスはライオス殺しの犯人探しを始める。ところが、この犯人はオイディプスその人だったという運命の皮肉を描いたのがこの悲劇というわけだ。
この悲劇の意味を筆者なりに解説すると、次のようになるかもしれない。
人間が行動するのはきっと幸福になることを求めている。しかしそれは同時にうまくいかなければ不幸になるかもしれないという危険性をはらんでいる。ということは、逆に言えば、人間は行動しなければ不幸になることはないけれども、さりとて幸福になることもないというわけだ。(早い話、受験をしなければ落ちる心配はない)
それでも、人間は行動せずにはいられない(受験しなくてもよい?)。そこに人間の悲劇が生まれる。そして、それでも人間は行動(受験)しつづけねばならないのだ。
『オイディプス王』とは、こういう人間存在の根本を描いた作品だと言っていい。
なお『オイディプス王』の岩波文庫の藤沢令夫氏の訳は読みやすい訳で、よい訳だと思う。筆者も大いに参考にさせていただいた。
また、このギリシャ悲劇が描く世界観については、『オイディプス王の世界観』を参考にされたし。
『アンティゴネ』
ソフォクレスの作品(七つ伝わっている)でも、「どんでん返し」のあるドラマチックなドラマとして完成度は、微妙に違っている。その中で最も完成されたものが『オイディプス王』と『エレクトラ』てある。
しかし、ソフォクレスの作品の中でもっとも読者の馴染みが深いのは『アンティゴネ』かもしれない。
現代の作家から見れば、『アンティゴネ』がもっとも理解しやすいらしい。小説家サマセット・モームも『要約すると』のなかで唯一取り上げているのがこの作品である。『オイディプス王』も『エレクトラ』も結末が残酷すぎる。それに対して、『アンティゴネ』では、恋愛が扱われているからであろうか。
フランスの小説家アナトール・フランスの『シルヴェストル・ボナールの罪』(写本を追いかける古典学者を主人公としたほのぼのとした作品。飼っている猫の名前がハンニバルで、犬の名前がそのの父親のハミルカルだったりする)の中で、この『アンティゴネ』を登場させている。
最後のほうで、主人公ボナールは、ジュリス(初恋相手の孫娘)とジャンヌの恋を知って、本棚からソフォクレスのなかの『アンティゴネ』の恋の歌を読む。
このくだりは非常に印象深く、『アンティゴネ』を読むきっかけとしては充分である。伊吹武彦氏の名訳から引用してみよう。
私は一番手近の棚の上から、手当たり次第に一冊の本を抜き出して開き、うやうやしくソフォクレス悲劇の真っ只中にはいって行った。段々年をとるにつれて、私は両古代に愛着を感じるようになり、今ではギリシャとイタリアの詩人たちが本の都でもすぐ手近なところに置かれている。私は激しい芝居のただ中に美しい朗詠調を繰りひろげる優麗かがやくばかりのあのコーラス、老いたるテーベ人らのコーラスを読んだ。《Ερωσ ανικατε・・・無敵なる愛のちからよ、おおなんじ、富める館(やかた)をおそい、乙女の柔らかき頬にいこい、海越えて牛小屋を訪れ来る者よ、不死なる神々も露のいのちの人の子も、なんじを逃れんすべあらず。なんじを胸にいだく者はすなわち狂う》。美しいこの歌を今再び読み終わったとき、アンチゴーネの面影が移ろうことのない清らかさをもって現われ出た。真澄の空を駆けった神々、女神たちよ、それは何たる美しいすがたであろう。アンチゴーネに導かれて久しく放浪をつづけた盲目の翁、乞食(こつじき)王は、今や聖なる墳墓を得ることができた。そして、人間の心にえがき得た限りの美しい絵姿とも娟(けん)を競(きそ)うその娘は、暴王にそむいて恭しく兄を葬る。娘は暴王の子を愛し、暴王の子は娘を愛している。娘が信仰ゆえに刑に処せられ、仕置きの庭におもむくとき、老人たちは歌うのである。
《無敵なる愛のちからよ、おおなんじ、富める館をおそい、乙女の柔らかき頬にいこう者よ・・・》(岩波文庫244頁以下)
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してみよう。あらすじは次のようなものである。
この悲劇はテーバイに敵対行為を働いたアンティゴネの兄ポリュネイケスの遺体の埋葬の禁じる布告をめぐって繰り広げられる。
王家の一族として王宮に暮らすアンティゴネはこの布告のことを聞きつけて、妹のイスメネを王宮の外に呼び出して、自分はこの布告に反して一人でも兄の埋葬をする決意であることを密かに伝える。ここからこのドラマは始まるのである。
オイディプス亡きあとテーバイ王となっているのはオイディプスの妻だったイスメネの弟クレオンである。彼はテーバイの長老たちを従えて王宮の前に現れて、この布告を発表する。しかし、出されたばかりの布告はすでに破られていたことが明らかになる。ポリュネイケスの遺体は砂で覆われてお供え物をされていたのである。
この不思議な出来事の報告のあとで、コーラスは歌う。
不思議なものは数々あれど、人間ほどの不思議はない。南の風が吹き荒れる灰色の真冬の海を、逆巻く怒濤(どとう)をくぐりぬけて行くのもまた人間。神々の中でも最古の神、永遠に実り絶やさぬ大地の神を、毎年(まいとし)休まず鍬を動かしラバで耕し、わずらわせるのもまた人間。
物を思わぬ鳥たちも、野にすむ獣たちも、波打つ海に暮らす魚たちも、網を打ちかけからめとるのは、知恵の豊かな人間なり。山に暮らす羊たちを道具を使って取り押さえ、たてがみ豊かな馬たちと、疲れを知らぬ野の牛に、くびきをかけるのもまた人間。
言葉も、速やかなる知恵も、国を治める熱意さえも、自分自身で身に付ける。どんなことにも知恵を発揮し、田畑を襲う厳しい霜や烈しい豪雨の矢玉からも、逃れる術(すべ)を心得ている。用意なくして未来に臨むことなく、死の神ハデスから逃れる術は見つからなくとも、困難な病から逃れる術は編み出している。
信じ難い知恵と技術を備えた人間も、時によっては幸福に、時によっては不幸になる。国の掟と神の掟をともに忘れぬ人間は、国にとっての名誉となるが、恐れを知らず悪に染まる人間たちは、国から追われることだろう。こんな人間が仲間や家族にいないことを我らは願う。
この有名な人間賛歌は同時に最初と最後でこのようにたくみにこの劇のストーリーに組み込まれている。
先の不思議な出来事はアンティゴネが犯人として連れてこられてさらに不思議の度合いを高める。そこでコーラスがまた歌う。
これは摩訶不思議な、信じられない。だが、あれはどう見てもアンティゴネお嬢さまにちがいない。ああ、おかわいそうに。父オイディプスの不幸にまたこの不幸。一体、どうしたことだ。まさか、あなたが王の掟を破って、馬鹿なことをしているところを捕まって、連れてこられたのではあるまいな。
そして、クレオンはアンティゴネを尋問するが、娘は犯行を認めるばかりか、禁令を知っていながらの犯行だと言う。その上、娘は遺体の埋葬は神の掟でありそれを守る為にしたことだと犯行を正当化するのである。
しかし、クレオンはそれをあくまで犯罪としてアンティゴネとついでにイスメネにも死罪を言い渡す。
そこで二人の間で論争が巻き起こる。
クレオン テーバイの市民の中であの埋葬が名誉だなどと考えているのはおまえ一人だぞ。
アンティゴネ この人たちもわたしと同じ考えだわ。あなたの前をはばかって黙っているだけだわ。
クレオン それならそれで、自分だけ違う行動をとったことを、おまえは恥ずかしく思わないのか。
アンティゴネ 兄弟を大切にして何を恥ずかしがることがあるというのよ。
クレオン あの男と立ち向かって殺されたエテオクレス殿もおまえの兄弟ではないのか。
アンティゴネ 同じ父と母から産まれた兄弟ですとも。
クレオン では、どうしてエテオクレス殿にとって非礼ことをしたのか。
アンティゴネ 死んだ人間に聞けば、そんなことは言わないわ。
クレオン おまえは極悪人とエテオクレス殿を同列に扱うつもりか。
アンティゴネ 当然だわ。死んだポリュネイケスはエテオクレスの兄であって、奴隷ではないのだもの。
クレオン しかし、彼はこの国を荒らしに来て死んだのだぞ。この国を守るために死んだ人とは違う。
アンティゴネ それでも、あの世の神さまは、この儀式を要求するのです。
クレオン それでも、善人と悪人とが同じ扱いを受けていいはずがない。
アンティゴネ ひょっとしたら、あの世ではそれが敬虔というものかもしれないわ。
クレオン いいや、敵は死んでも決して味方にはならないものだ。
アンティゴネ いいえ、わたしは敵意を共有するのではなく味方を大切する人間ですわ。
クレオン 味方を大切にしたのなら、あの世に行って、二人を味方にするがいい。
クレオンは生きている時の敵は死んだ後も敵でありそれ相応の扱いを受けるべきだと言う。それに対して、アンティゴネは、ポリュネイケスとエテオクレスはこの世では敵同士であっても、同じ父母から生まれているので味方であることに変わりはないと言うのである。
ポリュネイケスを埋葬すべきだという考え方は自分だけではないというアンティゴネの主張は、この後登場するクレオンの息子ハイモンによっても裏付けられる。
町の住民はみんな陰であの娘のしたことを褒めている。みんなあの娘の不当な死を悲しんでいる。一つの考えに凝り固まらずに、人の意見を聞くことも大切だ、と言うのである。
クレオンはハイモンが恋人アンティゴネのためにこんな事を言っていると邪推する。
クレオン どうやら、こいつは女の助太刀に来たらしい。
ハイモン あなたは女ですか。わたしが助けたいのはあなたなのですよ。
クレオン おお、この親不孝者め、自分の父親に口答えをするとは。
ハイモン 父上が間違いを犯しているのを見かねて申しているのです。
クレオン 自分の国を統治するのが間違いだと言うのか?
ハイモン 神々に対する礼儀を踏みにじっては、統治とは言えません。
クレオン ああ、なさけない。女の言い分に引きずられるとは。
ハイモン わたしが私利私欲から申しているのでないことはお分かりでしょう。
クレオン おまえの言うことはどれもこれもあの女のためなのだ。
ハイモン いいえ、あなたのため、わたしのため、そしてあの世の神々のためなのです。
クレオン とにかく、あの女が生きておまえと結婚することはない。
とクレオンは息子の意見をはねつける。それに対してハイモンは
彼女は死ぬということですか。それでは、誰かを道連れにしてもよいのですか。
と心中をほのめかす。しかし、それにもかかわらずクレオンはアンティゴネを洞窟に閉じ込める刑罰を命ずる。そこでこの場面が終わって、先に紹介した恋の歌が歌われるのである。
次の場面でさらに予言者テイレシアスが登場して、クレオンを諌める。この布告のためにもっと多くの人の命が奪われることになると言われてやっと目が覚めたクレオンは命令を撤回する。しかし、時すでに遅し。次の場面エクソドスで伝令によってクレオンは全てを失ったことが報告されるのである。
なお、わたしの現代語訳に飽きたらぬ人は岩波書店の『ギリシャ悲劇全集』第三巻のなかの柳沼重剛氏の訳を試されるとよい。この訳には以下のような問題点はあるが、能のような文語調と時代劇風の文体を織り交ぜた力作である。何より文章に力がある。なお岩波文庫のものはすすめない。あの日本語は今の人にはとても読めないだろう。
1. 304行からのクレオンの番兵に対する脅しが「おまえたちに申す」となっている。そのまま読むと、テーバイの老人たちも対象にしているように読める。一人の番人だけでなく番兵全員を対象として言っていると解釈したらしいが。
2. 413行から。番人はアンティゴネによって埋葬された死体をもう一度裸にしてから「夜っぴて」番をしていたと言う。眠らないように死体の番をしていたということからそう解釈したらしい。とすると、第一エヒソードから第二エヒソードまでの間に一晩経ったことになる。この解釈は初耳。
3. 1136行「テーバイの港を訪なう君をし送る、雷に撃たれし母君ともども。(一行開き)」は「テーバイの港を訪なう君をし送る。(一行開き) 雷に撃たれし母君ともども、」であるべきで、行送りの誤植であろう。
4. 1201-1202行 ポリュネイケスの遺体を焼いたくだりを訳し落としている。
新潮文庫に入っている福田恆存氏の訳は、英国の学者Jebbの英訳からの翻訳であるが、気合いの入った名訳である。ギリシャ語の原文からはやや離れすぎているとしても、日本語としてはこの方がいいのではと思われる個所がいくらもある。いやそれどころか、本当はこういう意味だったのかと教えられる点が多い。一読に値する。
『エレクトラ』
「オイディプス王」は犯人探しではじまった話がいつのまにか王の素性探しになって、あげくに王が乞食として国を出ることになるという実にドラマチックな展開をみせる。
ソフォクレスの別の悲劇「エレクトラ」も展開の意外性という点では「オイディプス王」にひけを取らない。
このドラマは父親アガメムノンの復讐のために故郷に帰ってきたオレステスが、母クリュタイムネストラと情夫アイギストスを殺して父の敵討ちを果たすという話である。
しかし、話の中心はそこにはなく、むしろオレステスが姉エレクトラと十数年ぶりに再会する場面が最大の見せ場になっている。
オレステスは敵討ちのための計略を立てる。それは自分が死んだという偽りの知らせで敵を油断させるというものだった。
しかし、その計略は皮肉にも自分の味方であるエレクトラをもだます結果になってしまう。
自分が死んだ証拠としてオレステスは骨壷を持ってくる。そして最初に出会った女性を自分の姉とは知らずにその骨壷を手渡す。
弟の帰宅を最後の望みの綱としていたエレクトラは悲しみのどん底につき落される。そして、オレステスの骨が入っているという骨壷を抱いて悲嘆にくれるのである。
オレステスは彼女と会話を重ねるうちに、それが自分の姉であることを発見する。
「本当にこれが、あの名高きエレクトラの姿か。」
「かわいそうに。こんなひどい目に会っていたのか。」
「ひどいことを。こんな無残な姿になるまで虐待されていたのか。」
「ああ、一人身のままで、こんなひどい暮らしをさせられていたのか。」
「何ということだ。わたしは自分の不幸に全く気付かずにいたのか。」
エレクトラ どうしてあなたはそんなことを言うの? わたしが何を言ったから?
オレステス わたしの目には、その姿はあまりにも悲しすぎる。
エレクトラ でも、わたしの不幸はこれだけではないのよ。
オレステス え! これ以上にまだひどいことがあるのか。
エレクトラ 人殺しと一緒に暮らしているのだもの。
オレステスの心には、もっと早く来てやればよかったという自責の念と、姉をこんなにまでしてしまった者たちへの怒りがこみ上げてくる。
オレステス それで、誰があなたをこんなひどい目に会わせているのだ。
エレクトラ 世間では母ということになっているわ。でも、その名前にふさわしいことは何一つしない人よ。
オレステス あなたに何をしたんだ。暴力を振るうのか、それとも、食べさせてもらえないのか。
エレクトラ 暴力も食べ物も何もかもよ。
オレステス それで、助けてくれる人も、やめさせる人もいないのか。
エレクトラ いないの。助けてくれるはずの人を、あなたが灰に変えてわたしに差し出したのですもの。
この最後の言葉にオレステスは唖然とする。自分こそはエレクトラを悲しみのどん底に突き落とした張本人なのだ。
オレステス ああ、かわいそうなことを。さっきから、あなたの姿が哀れでならない。
エレクトラ これまでにあなたほど、このわたしを哀れんでくれた人はいないわ。
オレステス そうだ。あなたの苦しみを見て、わたし以上に苦しんだものがいるだろうか。
オレステスは皮肉なことに、自分のたくらみのために自分自身も嘆き悲しむことになってしまったのである。その姿を見たエレクトラは相手に対して興味を抱く。それに対してオレステスも自分の名を明かす決心をする。
エレクトラ まさかあなたは、ひょっとしてわたしの身内の人じゃないの?
オレステス うむ、言ってしまおう。だか、この人たちは信用していいのか?
エレクトラ もちろん大丈夫。安心して話せる人たちよ。
そこで、偽りの骨壷を抱きしめている姉の姿に耐えられないオレステスは、まず骨壷を姉の手から取り戻そうとする。しかし、弟の骨壷だと信じているエレクトラはそれを必死に守ろうとする。そこで二人の間で骨壷の奪い合いが起きる。
オレステス では、すべてを話すから、その壷を降ろしなさい。
エレクトラ お願い、それだけは勘弁して。
オレステス わたしの言う通りにするんだ、それで間違いはないんだ。
エレクトラ ねえ、お願いよ。わたしの宝物を取らないでちょうだい。
オレステス そういうわけにはいかないんだ。(二人壷を取り合う)
エレクトラ まあ、どうしましょう、オレステス。わたしはあなたにお弔いをすることも許されないの?
オレステス 縁起でもないことを言うのはやめなさい。何も嘆くことはないんだ。
エレクトラ わたしが死んだ弟のことを嘆いてどこが悪いの?
オレステス そんなことを言うものではない。
エレクトラ わたしには死んだ人を嘆くことも許されないの?
オレステス 誰も死んではいないんだ。あなたが嘆くことはないと言っているんだ。
エレクトラ だってわたし、ここにあの子のお骨をもっているのよ。
オレステス これはオレステスのものではないんだ。偽物なんだよ。(壷を受け取る)
エレクトラ かわいそうに。じゃあ、あの子のお墓はどこにあるの?
エレクトラはあくまで弟が死んだと思い込んているのである。そこでやっとオレステスは真実を告げる。
オレステス そんなものはないんだ。生きている人のお墓があるものか。
エレクトラ あなたいま何て言ったの?
オレステス 嘘じゃない。
エレクトラ それじゃあ、あの子は生きてるの?
オレステス このわたしが死んでいるように見えるか?
エレクトラ それじゃあ、あなたがオレステスなの?
オレステス ほら、この父の形見の指輪を見てごらん。わたしが嘘を言っていないことが分かるだろう。
こうして、エレクトラは悲しみから喜びへと180度の変化を見せるのである。ここからエレクトラは自分の喜びを音楽に合わせて歌い出す。それに対してオレステスは歌わない語り口調で応答する。
エレクトラ(歌う) 生きていたのね、生きていたのね、わたしの大事なあなた。帰ってきたのね、突然に。会えたのよ、会えたのよ、あなたの会いたい人に。
オレステス 帰ってきたよ。でも、静かに待っていて。
エレクトラ(歌う) どうして?
オレステス 静かにしないと、中の人に聞かれてしまう。
エレクトラ(歌う) 聞けばいい、聞けばいい。そんなこと、もう怖くはないわ。中にいるのは女だけ、何も出来ない女だけよ。
オレステス いざとなると、女も怖いよ。分かっているだろ、忘れていないね。
エレクトラ(歌う) ひどいわ、ひどいわ、また思い出させて。忘れない、許せない、償いようがない、あの悪行は。
オレステス そうだろう。でも、そのことはやつらが出てきた時に、思い出せばいい。
エレクトラ(歌う) 話せるわ、話せるわ、今からずっと。言わせてよ、言わせてよ、もうこれ以上我慢出来ない。
オレステス 分かったよ。だから、辛抱するんだ。
エレクトラ(歌う) どうやって?
オレステス 適当な時が来るまでは、長話は慎んだ方がいい。
エレクトラ(歌う) あなたが帰った喜びを、誰が黙っていられましょう。思いがけなく、思いがけなく、また会えたのだもの。
ギリシャ悲劇は一種のミュージカルである。ミュージカルでは感情がほとばしる場面で演者が歌い出すことはよくあることだろう。しかし、この場面では、二人はともに歌わずに、気持ちが高ぶっているエレクトラだけが歌い、冷静さを保ちたいオレステスは歌わないのである(ちなみに、アランドロンとダリダの『甘いささやき』に、歌と語りのやり取りの妙が見て取れるかもしれない)。
その後、オレステスは敵討ちを果たして、話はハッピーエンドを迎える。
ところで、昔の高校の世界史の教科書には、欄外に小さく、古代ギリシャの三大悲劇詩人として、ソフォクレスのほかに、アイスキュロスとエウリピデスという名前が書いてあったのを覚えている人もいるだろう。今でも、世界史年表か参考書には必ず書いてある。
この三人の違いをおおざっぱに言うと、ドラマという器を作ったのがアイスキュロスであり、それを今でいうドラマチックなものにしたのがソフォクレス(前497頃―前406)、エウリピデスはそのドラマに作家の個性を吹き込んだ人、ということができる。
実は、この三人はみんな同じオレステスの敵討ちを題材にした『エレクトラ』を書いている。もっとも、アイスキュロスの劇は『コエフォロイ』という題名ではあるが。
この三つの作品を比べてみると、ギリシャ悲劇というものは神話を題材にして、いかに自由に自分の劇を作ったかが分かる。この『エレクトラ』の場合、同じなのはオレステスがエレクトラと再会して父の敵討ちをしたことだけと言っていいほどである。
オレステスの父アガメムノンはトロイ戦争で総大将として勝利を収めたのちに、ギリシャに帰国した途端に妻クリュタイムネストラとその情夫に殺されてしまう。夫がトロイで戦っている間に妻は浮気をしていただけでなく、帰ってきた夫を殺してしまった。
その時に救い出されて他国で成長していたオレステスが父の復讐のために帰国する。
しかし、そこから先が三者三様で全く違うのである。例えば、クリュタイムネストラとアイギストスを殺す順序が違う。アイスキュロスとエウリピデスではアイギストスが先に殺されクリュタイムネストラはその後だが、ソフォクレスでは逆である。
また、アイスキュロスとソフォクレスでは、オレステスが死んだという報せによってクリュタイムネストラたちを騙す作戦が取られるが、エウリピデスではそんな作戦は何もない。
オレステスとエレクトラの再会の仕方も全然違う。アイスキュロスではオレステスがエレクトラの前に進み出て自分から名乗り出る。エウリピデスではオレステスは別人の振りをしてエレクトラに話しかけるばかりで、エレクトラはオレステスの顔を知っている爺やに教えてもらう。
兄弟である証拠となるものもそれぞれ違う。このように、ギリシャ悲劇のストーリーの作り方はまったく自由なのである。
この三つの『エレクトラ』は岩波書店や人文書院から出ている『ギリシャ悲劇全集』に和訳されているので、自分で比べて見るといいだろう。
ちなみに、ソフォクレスの『エレクトラ』の市販の翻訳では、人文書院の『ギリシャ悲劇全集』第二巻の松平千秋氏の訳が苦心の訳で読みやすいものになっていると思う。
by Tomokazu Hanafusa 1997―2016