ルソー (Rousseau 1712-1778)は自分の言いたいことをかなりはっきりと言った人だ。彼は王様が特別な地位についていることに疑問を持っていた。そこでこんなことを平気で言ってしまうのだ。「王様が王家の血筋を引いているから偉いなら、ぼくだって王様だ。だってぼくの先祖はアダムだよ。あのころ人間はアダムしかいなかったんだからアダムは王様だったに違いない。それならその血を引くぼくが王様でないはずがない」と。ただ、そんなことばかり言っているから、だんだん住むところがなくなってしまい、あちこちこち放浪することになってしまった。
ところで、この人間はみんな平等だという考え方をルソーは「社会契約論(しゃかいけいやくろん)」という難しい名前の本の中で、皮肉をたっぶりこめながら、しかも熱っぽく読者に語りかけている。しかし、この本のフランス語は非常に難解で、かれの時代から現代にわたってあまり読まれることなく、「人間はあらゆるところで自由を奪われている。我々はこの自由を取り戻さねばならない」という勝手に作られたイメージだけが広まり、それがかえってフランス革命の原動力にまでなったのである。
ルソーは非常に凝った文体で書いたためにに現代はもちろん当時から非常に読みにくいものになっている。例えば、同じ単語を何度も使わないことが良いことだとされていたために、同じことを言っていても別のことを言っているように読めてしまう。
学者や先生がたによる翻訳ならば、別の単語で書いてあることを同じ日本語で訳すことはできないし、原文の単語の数と日本語の単語の数はなるべく合わせなければいけないので、日本の翻訳も非常に分かりにくいものになっている。しかし、学者や先生ではないからわたしにはそんな義務はないので、自由に自分の言葉で訳してみた。だから、きっと誰にでも読んで分かるものになっているはずである。
とにかく、この本の中身をちょっとのぞいてみてほしい。
上の王様の話のところだけをのぞき見て見ようと思う人はここをクリック。
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ただ、第一巻の第七章の「主権者について」はちょっとややこしいので説明しておこう。君主制の国では王や天皇が支配しており、一般民衆は支配されている。だから、君主制では主権者と支配を受けている一般民衆は別々の存在である。ところが、君主のいない共和制では、国民は主権者の役割も、一般民衆の役割も両方持っている(大統領も国民の代表にすぎない)。この章で、「社会契約には二重の意味がある」というのは、そういうこと意味している。ここでいう社会契約とは憲法のことだと考えてよいだろう。
すると、「各個人はまず第一に主権者の一部として各個人に対して契約を結ぶ」というのは、国の国民に対する義務のことで、例えば人権の尊重であり、「第二に国家の一部として主権者に対して契約を結ぶ」というのは、国民の国に対する義務のことで、例えば、納税や労働の義務のことであるとわかる。また、ルソーが不可能だと言っている「主権者自身に対する義務を主権者に課す」というのは、例えば日本の戦争放棄のことだろうか。日本の憲法で戦争放棄の条項がうまく機能しないのは、もともとこの条文自体に無理があるということが、ここのルソーの記述からもうかがえる。
なお、この訳では一般意志(volonté générale)など学者が作り出した用語は採用していない。学者でもないかぎり、「一般意志」「全体意志」といっても、それだけでは区別がつかないからである。そもそもルソーは用語を定めてそれを一貫して使うということをやっていない。「社会契約」そのものについても色んな言い方をしているのだ。
この訳では、それぞれを「全体の意志」と「全員の意志」と訳している。意味は文脈からとってもらいたい。
この翻訳についてのちょっとまじめな説明
この翻訳が市販されている書物、とくに岩波文庫のものと比べてあまりに違うために戸惑いを感じ、これは間違っているのではないかと思われる方もおられるでしょう。そこで読者の便宜のために訳者のとった翻訳の方針をここで説明しておきたいと思います。
ルソーの『社会契約論』は美文で書かれています。その上、修辞学的に言えば、精神が高揚した状態で話されるべきもの、いわゆる荘重体で書かれています。このことは内容の理解に大きな影響を与えるでしょう。文体を意識して書かれたものとして読まなければ内容の正しい理解は得られません。ましてこれを訳す場合には、この事実を意識して意味を汲み取っていくことが大前提となります。
ルソーは18世紀啓蒙時代の人で、その思想形成の上で古代ギリシャ・ローマの影響を大きく受けただけではなく、文章の書き方という面でも西洋古典文学の伝統を受け継いでいます。西洋古典文学において最も重要なことの一つに美文の伝統があり、ルソーはその面でも忠実に古代ギリシャ・ローマを範として仰いでいます。日本におけるルソーの翻訳書は例外なく難解ですが、それはこの事実を知らずに、または考慮に入れずに翻訳しようとしたことに原因があるのではないでしょうか。
日本語の現代文にも美文調のものがあり、もし訳者がそれを駆使できるならば、ルソーの翻訳に際しても、その力を生かして翻訳も美文調にすればよいでしょう。しかし、そうする場合でも、思い切って原文の意味だけを伝えることに甘んじなければなりません。修辞は日本独自のものをもちこむことになります。
また美文にするかしないかに関わらず、けっしてしてはならないことは、原文の単語の一個一個を忠実に訳そうとすることでしょう。原文の単語一個一個は、単に意味を伝えようとするだけの役割だけでなく、文章を際立たせて、美しく、聞きよいものにするための役割を担っているだけのものがあります。いわゆる直訳はそれらを意味としての重要性を持つものとして日本語に組み込んでしまう恐れが大きいのです。そのため、文章が全体として意味が分かりにくいものになってしまいます。したがって、もし原文の意味を忠実に伝えようとするなら、けっして原文の単語に忠実に翻訳するのではなく、原文の意図するところを、自分の言葉で表現するしかないのです。原文に見られる、文と文との構成の仕方、単語と単語の並べ方には決して頓着することなく、むしろ換骨奪胎、一から自分で文章を組み立てるのが理想でしょう。
一例を挙げれば、美文のなかでは同じ意味を表現するとき、文章の体裁を考えて違う単語を使おうとします。この本の場合、「契約」という言葉がその典型で、原文ではcontractだけでなくactなど様々な言葉で表現されています。もし、これらを全て表面的な直訳によって異なるものとして訳せば、まったくわけの分からない文章ができあがることは確実でしょう。
また、この『社会契約論』の原文フランス語の単語を順番に一個ずつ訳して足していくようなことをすると、おかしなことになる例としては本文の冒頭の文章が挙げられるでしょう。
「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか? わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるのか? わたしはこの問題は解きうると信じる」(岩波文庫より)
これを読むとまるで「人間は生まれながらにして自由なのに、圧政によって全員が奴隷状態に置かれてしまっている。これをなんとか正しい状態に戻して自由を取り戻さねばならない。革命によってこの問題を解くしかない」とでも言っているかのような錯覚を受けかねません。
しかし本当はこの文章の言いたいことは、社会の中に生きる人間というのものの不自由さについて言っているのであって、奴隷とか鎖とかいうのはその表現上の比喩に過ぎないのです。社会のなかの人間がどのようにすれば仲良く、この社会規範という束縛の中で暮らしていけるかをこれから考えてみようと言っているにすぎないのです。このように原文の比喩すらそのまま訳すことは、訳文を難解なものにしてしまう原因となりうるのです。
では、次の文章はどうでしょうか。そうすると、この文章は「ここで人民が自由をとり戻したことが間違っているとすれば、人民から自由を奪ったことも間違いだったことになるでしょう」となります。つまり人民も支配者も両方とも強者の権利に従ったのであって、その意味ではどちらも正しいのだと言っているのです。しかしながら、それでは社会は成り立たない、社会には秩序が必要だと、続くのです。(fondéを「資格」としたのも誤解のもとで、fondéは根拠があるという意味です)
もっとも、原文通りに訳すだけで充分原文のニュアンスを伝えられる場合の方がはるかに多いことに違いはありません。
例えば、『社会契約論』第2章・4の、支配機構が支配者のためであることの正しさの証明として奴隷の存在いう事実をあげるグロティウスに対して、
「もっと論理的なやり方がありそうなものですが、これほど独裁者たちに好都合な理由づけのやり方は他には思いつかないほどです。」
と言っています。これは 桑原武夫代表訳の「もっと筋の通った方法を使うこともできるが、そうすれば暴君のお気に召すまい。」と比べて少し皮肉っぽい訳し方だと思われる方もあるでしょう。しかしこの箇所の原文は
On pourrait employer une methode plus consequente,mais non pas plus favoravle aux tyrans.
これをペンギンブックスの英訳で見ますと
It is possible to imagine a more logical method,but not more favorable to tyrants.
となっており、原文をそのままいわば直訳するだけでルソーの皮肉な気持ちをそのまま再現することのできることがよく解る例だと思います。
その他にもう一つ大切なのは、古典古代の文章は決して黙読されるために書かれたものではないということです。それは演説するためのものであるか、人前で朗読するためのものなのです。したがって、それを日本語に訳する場合は、必ず人々に呼び掛け感情に訴える調子を持ったものでなくてはなりません。
このことを忘れて評論家や学者の文章のように淡々と訳しても、決して原文の意味は正しく伝わりません。ルソーの文章を訳す場合にも、同じことがあてはまります。これに対してカントはまったく黙読されるべきもとして書かれています。ルソーとカントは同じく哲学者ですが、まったく違った文体を使って書かれているのです。それを同じ哲学者であるから、同じように訳せばよいと考えてはいけないのです。
そして、この「社会契約論」の文体はまさに演説用のもので、きっとルソーは身ぶり手振りを加えながら皮肉たっぷりにあるいは机を叩いたりしながらこの文章を人々の前で読み上げるつもりだったでしょう。ルソーは「社会契約論」を人前で発表する機会に恵まれたとは思いませんが、初期の彼の文章が人前で読まれたものであることはよく知られています。「社会契約論」はけっして醒めた姿勢で書かれた学術論文ではありません。あるいはぼくのこの翻訳文が感情を込めすぎている、皮肉すぎると感じる方もいられるでしょう。しかし、まさにルソーは感情を一杯に込めて皮肉たっぷりにこの文章を書いたのです。本訳で「です・ます調」を採用したのもこのために他なりません。
「人間不平等起源論」についても、同じことが言えます。例えば、その本論の冒頭は既訳では実に分かりにくいものになっています。
「私が語らなければならないのは人間についてである。しかも私が検討している問題は、私が〔正しい〕人間に話しかけようとしていることを、私に教えてくれる。というのは、真理を尊重することを恐れるとき、人はこのような問題を決して提出しないからである。それゆえ、私は私をうながす賢者たちの前で、自信をもって人間のために弁護するであろう。そして私が自分の論題と自分の審査員とにふさわしいだけのことが出来れば、私は自分を不満には思わないであろう。」(岩波文庫p36)
ここで訳者は〔正しい〕という原文にない言葉を挿入しています。これを入れないと意味不明の文章になってしまうために、ルソーの真意を推測して、読者の理解を助けるために入れたのです。
しかし、これも演説であることを意識して原文ほ読んでみると、その必要はない、いやむしろ入れてはいけないことが分ります。ルソーはここで聴衆の注意を引きつけるために、わざとこんな謎めいたことを言っているのです(演説家の常套手段!)。そしてそのすぐあとで、「これはどういうことかと言うと」と、説明しているのです。ですから、この文章は次のような訳すと分かりやすくなるでしょう。
「わたしはこれから人間についてお話しする次第であります。そして、わたしがここで検討するように与えられた問題(人間の不平等の起源は何か、また人間の不平等は自然法によって容認されているか)から考えますと、わたしはこれから人間を相手にしてお話しするのだなと悟った次第であります。これはどういうことかと言いますと、あなた方がこのような問題を提出されるからには、けっして真実を前にしてひるんだりなさる方々ではないだろうと言いたいのであります。ですから、わたくしにこのチャンスを下さった識者の皆さまを前にして、これから安心して人間性の弁護をしていきたいと思っております。そして、わたしは、与えられたこの問題と審査員のみなさま方に恥じないだけのことが出来さえすれば、満足することが出来ると思っております」(前置き!)
以上のようなことを考慮にいれながら訳したものがこの『社会契約論』の訳です。この訳を読んで一人でも多くの人が、『社会契約論』という本が実におもしろい本であって、しかも歴史を変えるだけの力をもった書物であったことを実感して頂ければ幸いです。
なお『社会契約論』の翻訳では、角川文庫の平岡昇氏の訳したものが一番すぐれています。同じ平岡昇氏の訳した『エミール』も非常に読みやすいよい翻訳になっています。
また古い岩波文庫の平林初之輔訳『民約論』は現行の岩波文庫のひどさに比べたらかなり良いものです。これは新字新仮名にされ、『社会契約論: 政治的権利の諸原則』と名を改めて、ネットにあります。くれぐれも現在の岩波文庫と光文社文庫は避けた方が良いでしょう。
ルソーの『告白』(岩波文庫)について
ルソーの『社会契約論』は複数の人間によって訳されていますが、『告白』もそうなっています。『社会契約論』はどうにも読めない翻訳になっていますが、『告白』の方は中に優れた翻訳家がいるらしく、巻によってはとてもよいものになっています。ところが、そのよい部分は最初からではないので、この『告白』を早くからなげ出してしまった人もいることでしょう。しかし、第一巻を辛抱して読み終えると第二巻からは素晴らしい世界が待っています。
文章が第二巻は全く違うのです。つぎは第四巻が読みやすいが、第五巻は×。以下、偶数巻は読みやすいようです。しかし、最後の二巻は大丈夫のようです。
四人の共同訳者の名前の中に山田稔という名があります。よい訳の方はこの人の訳かもしれません。この人の訳が優れているのは、バルザックの『幻滅』(新潮社)第二巻の訳でわたしは知っています。しかし、第六巻も山田と考えたいところですが、第六巻の訳者は『幻滅』の第二巻にも出てくるinanima vili(「下等動物を使って」)を誤訳(「へっぴり腰で」p.325)しているので、違うようです。
三・七巻の訳者の日本語も悪くはありません。ところがこの訳者は難しいところではいつも井上究一郎氏の翻訳(河出世界文学体系14)を参考にしているようです。いろんな人の翻訳を見たい人には役に立たないでしょう。