ルソーの『社会契約論』 第一巻


社会契約論 あるいは 国家における正義の原則
                 

ジュネーブ市民 ジャンジャック・ルソー
                 
さあ契約の正しい中身を定めよう 『アエネイス』第11巻
 本小論は、数年前、己が浅学非才を省みることなく企図しその後投げ出してしまった大作の一部分である。かつて書きためておいた様々な断片の中で、最もまとまりがありかつ公表に値するのはこれぐらいのものであろうかと思われる。残りはもうない。

 

第一巻

 この本の目的は、国の統治機構のあるべき姿についての原理原則を社会秩序のなかに見出すことです。その際、人間の本性と法のありうべき姿を同時に考慮に入れるつもりです。この研究においては、正義と実益を常に両立させるために、正義にかなう事と利益の要求する事を常に一致させることに努めるつもりです。

 私はこのテーマの重要性の証明は抜きにして直ちに本題に入るつもりです。「政治のことを論ずるとは、お前は国王かそれとも政治家か」と問う人がいるかもしれません。この問いに対して私は「そうではない、が、そうではないからこそ私は政治を論じるのだ」と答えるでしょう。そもそも国王や政治家が何をなすべきかについてあれこれ論じて時間を浪費するでしょうか。私なら実行あるのみです。

 天下国家の問題に私ごときが何か言ったところで甲斐のないことかもしれません。しかし、自由な国の一市民として、また自治組織の一員として生まれた私には、投票権が与えられています。それゆえ私には天下国家の問題に熟知しておく義務があるのです。私は統治機構の研究をしながらいつも幸福な思いに満たされます。なぜなら、この研究が進むにつれてわたしの祖国スイスの統治機構を賞賛する理由が益々増えていくのを発見するからです。

 

 

第一章 第一巻について

 

1. 人はみな何にもしばられない自由な身で生まれてきます。ところが、世の中に入るとあらゆるしがらみにがんじがらめにされてしまいます。いや、王侯・貴族の人たちは自分たちは他人の支配者だと思っているでしょうが、実はその彼らの方が家来たちよりも、はるかに多くのしがらみに囚われて暮らしているのです。では、なぜ、このようなことになってしまうのでしょうか。私はこの問いに対する答を持っておりません。しかし、この社会のしがらみをどうすれば正しいものにすることができるか、この問いについてなら私は答えることができます。

2. もし、この世の中が弱肉強食の世界であり、勝てば官軍の力と力の世界であって、それでよいのだと考えるならば、何も考えることはありません。私はこう言うでしょう。「人民が服従を強制されて服従する、それもまたよし、その人民が力をつけてその強制から脱けだす、それもさらによしであります。人民の自由を奪ったのも、また人民が自由を取り戻したのも、強いものが勝つという同じ原理に由来しているのですから、もし人民が自由を取り戻したのが正しくないとすれば、人民から自由を奪ったのも正しくなかったことになりますから(=力の論理で言えばどちらも正しい)」と。しかしながら、この世には秩序というものが必要不可欠です。そしてこの秩序こそは正義であり、人間の他のあらゆる正義の土台となるものです。しかし、これは決して自然に生まれて来るものではなく、人と人との約束事、つまり契約に基づくものなのです。そして問題はまさにこの契約の中身をどのようなものにすべきかということなのです。が、しかしその前に、これまで述べたところをまず具体的に説明して参りましょう。

 

 

第二章 最初の共同体

 

1. この世で最初に生まれた共同体は家族です。しかも家族はただ一つ自然に発生した共同体です。しかし本来、子供が父親の束縛を受けるのは自己保存のために父親を必要としている間だけのことであって、この必要がなくなるとこの自然に生まれた束縛も終わってしまいます。そうなればもう子供は親に服従する義務から解放されます。一方、親の方も子供を養育する義務から解放されます。こうして両者は共に本来の気ままな自由を回復するのです。そして、もしこの段階を過ぎても両者が一緒に暮らし続けているとすれば、この結びつきはもはや自然に生まれたものではなく、本人たちの選択によるものです。そうなれば家族自体も、両者の合意すなわち契約のみによって維持されていくのです。

2. 両者が回復したこの気ままな自由は、人間の自然な状態の当然の帰結です。つまり、自分の身の安全は自分で守り、自分の面倒は自分で見るというのがこの世の第一のきまりなのです。子供の頃はともかく、人は物事の分別がつく年齢になれば、自分のことについてはもうあれこれ人の指図は受けずに、自由気ままに暮らせるのです。

3. したがって、このような構成員からなる家族は、政治的な共同体の最初の雛形と見ることができます。たとえば、国家の長はいわば国家の父親であり、国民はその子供であるというふうに言うことができます。そして、その構成員は全員が等しく自由に生まれて来ているのですから、仮にこの気ままな自由を手放すようなことがあるとしても、それは自分自身のためになる場合に限られているのです。国家と家族の唯一の相違点は、家族の場合は父親が子供の面倒を見ることによって子供に愛情を感じるという喜びがあるのに対して、国家の場合は支配者が国民に対して愛情を感じることがない代わりに、人を支配する喜びを感じることができるという点でしょうか。

4. 人間の作る支配機構は全て支配される人たちのために作られているのですが、グロティウスはこの意見に反対です(訳注)。そして、彼は奴隷の存在をその実例として挙げています。これはグロティウスがよくやる理由づけのやり方で、彼は事実さえあればそれで正しさの証明になると思いこんでいるのです(原注)。もっと論理的なやり方がありそうなものですが、これほど独裁者たちに好都合な理由づけのやり方は他には思いつかないほどです。


訳注 グロティウス『戦争と平和の法』第一巻第三章、第三巻第七章、明石欽司『ルソーによるグロティウス批判』参照

原注「公法に関する学者たちの研究はしばしば昔の権力乱用の歴史でしかない。何であれあまり一生懸命研究しすぎると間違った方向に走ってしまうものだ」(ダルジャンソン侯)。これこそまさにグロティウスがやったことなのです。

5. こういう次第ですから、グロティウスの言うことを聞いていると、一体、人類は百人ばかりの一握りの人間のためにいるのか、それとも逆にその一握りの人間が人類のためにいるのか分からなくなってしまいます。もっとも、彼の本をよく読んでみると、グロティウスの意見はどうもこの二つのうちの最初の方に傾いているらしいのです。実は、ホッブスも彼と同意見です。この人たちの手にかかると、人類は家畜の群れにされてしまいます。かれらはこの家畜の群れを分割して、各群れごとにその世話をする飼い主をあてがいます。飼い主たちは、好きなだけその家畜を取って食っていいというわけです。

6. そして「飼い主は家畜の群れよりも生まれつき優っているのと同じように、人間の飼い主である支配者たちも、その国民よりも生まれつき優っている」というのです。事実、皇帝カリグラはまさにこのように主張したと、ユダヤの哲学者フィロンは伝えています(訳注)。カリグラはここからつぎのような結論を導き出しました。すなわち「国王は神であるにちがいない、さもなければ国民の方がけだものでなければならない」と。これは、さっきの類推を応用すれば当然出てくる結論であることには違いありません。そして、このカリグラの理屈はまさにホッブスとグロティウスの理屈にほかならないのです。


訳注 フィロン『ガイウスへの使節』(西洋古典叢書)76節以下参照。このガイウスとはカリグラのことである。

7. アリストテレスは「人間はけっして生まれながらにして平等ではない、奴隷になるべく生まれる者もいれば、主人になるべく生まれる者もいる」と誰よりも先に言っています(訳注)。そしてこの理屈はある意味では間違ってはおりません。ただし、アリストテレスは原因と結果の関係をさかさまにとらえていました。奴隷の親から生まれたから奴隷になる、確かにその通りで、これ以上確かなことはありません。拘束のもとに置かれた奴隷は何もかも無くしてしまい、ついには自由になりたいという欲望さえも無くしてしまうのです。その上、けだものに変えられたオデッセイの家来たちがけだものの生活を愛したように、奴隷たちは奴隷の生活を愛するようになってしまうのです。しかしながら、もし仮に生まれついての奴隷というものがいるとしても、それはかつて生まれつきでない奴隷がいたからにほかなりません。この最初の奴隷は無理矢理奴隷にされたのであって、彼らは気力を失ってしまったために、ずっと奴隷でありつづけただけなのです。


訳注 アリストテレス『政治学』第一巻第三章以下参照

8. ここまで私はアダム王のことや、あの皇帝ノアのこと、それにノアの子供で世界を三つに分割して支配した三人の王、セム、ヤペテ、ハム(まるでギリシャ神話のクロノスの子供たち、ゼウス、ポセイドン、ハデスの三人とそっくりです)について言及することを一切控えてきましたが、読者のみなさんは私のこの控え目な態度をきっとほめて下さると思います。というのは、みなさん、実は私はこの王たちの直系の、しかもおそらくは正統な血を受け継いだ子孫なのです。ですからよく調べて頂きさえすれば、必ずや私こそは全人類の正統な王であるということが判明するはずです。私のことはともかくとして、ロビンソンクルーソーが無人島の王であったのですから、アダムが世界の王だったということは否定しがたい事実です。なぜなら、アダムはこの世の中のただ一人の住民だったのですから。この帝国のありがたいところは、この国には反乱の心配もなけれれば、戦争の心配もないし、陰謀を企てる者が現れる心配もなく、王の地位が極めて安泰であったということです。

 

 

第三章 強者の権利(勝てば官軍)

 

1. どんなに力の強い者であっても、いつかは自分より強い者に出会って打ち負かされる日が来るものです。そこで、そうなる前に彼は、力は正義だ、この力に服従するのは義務であると主張して、自分の地位の安泰を図ろうとします。そこであみ出されたのが might is right、つまり「強者の権利」という言葉です。これは一見皮肉を込めた言い回しのように見えますが、実はこれが実際に原理原則として通用しているのです。しかし、この言葉の意味を一度詳しく説明してもらいたいものです。力というのは物理的な力のことであって、そんなものを行使した結果、義務などという道徳的なものが生まれるとは、私はどうしても信じられないのです。力に屈伏するのは、何も自ら進んですることでなくて、やむを得ずすることです。ですから、それはよく言っても賢明な行動でしかありません。これがどういう意味で、道徳的な義務などと言えるでしょうか。

2. ここでしばらくの間、この「強者の権利」なるものが存在すると仮定してみましょう。しかし私はそこから生まれて来るのは無意味な混乱状態でしかないと思うのです。なぜなら、力が原因となって、結果として正義が生まれるのなら、結果である正義は原因が変わるとともに変化してしまい、力が力を征服するたびに正義の持ち主がつぎつぎに移り変わってしまうからです。また、不服従はそれが罰せられないと途端に正義と名を変えてしまうことでしょう。そして、一番強いものだけが正しいのですから、問題はどのようにしてそのより強い者になるかということだけに限られてしまうでしょう。しかし、力が消え去るとともに消え去ってしまうような正義とはいったい何でありましょうか。服従を力で強制しようとする限りは、服従は義務とはなり得ませんし、服従が強制されなくなってしまえば、もはや服従する必要もなくなってしまうのです。以上から分かるように、力を正義と言い換えたところで、何も得られないのです。「強者の権利」などという言葉は、なんの意味もないのです。

3. 「権力者には服従せよ」といいます。もしそれが単に力に屈伏することを意味するなら、もっともな忠告ですが、余計なお世話でもあります。みんなもう既にそうしていますし、今後もそうするしかないからです。「あらゆる権力は神々が下さるものである」。いいでしょう。しかし、あらゆる病気もまた神々が下さるというではありませんか。しかし、だからといって医者を呼ぶことが禁止されているでしょうか? 森のまん中で強盗に襲われたら、財布を差し出すのはやむをえないことでしょう。しかしなんとかして強盗の手から財布を守れそうなときにも、必ず財布を差し出さねばならないでしょうか? いいえ違います。結局のところ、強盗の手に握られた拳銃もまた正当性を欠いた一つの権力にすぎないからです。

4. 以上から、力が正義を作り出すことなどないということと、服従の義務があるのはもっぱら正当な権力に対してのみであるということは、認めざるを得ないのです。こうしてわれわれはつねに、正義が因って来るところの契約の中身という最初の問題に引き戻されるのです。

 

 

第四章 人を奴隷にすること

 

1. 誰も生まれながらにして他人に対する権力をもっているわけではないし(第二章)、力だけでは何の正義ももたらさないからには(第三章)、人間界のあらゆる正当な権力は、契約に基づくべきであるということになります。

2. グロティウスは言っています。「個々の人間が自分の自由を譲り渡して人の奴隷になることができるのであれば、国民の全員が自分の自由を譲り渡して王の家来になれない道理はない」と。この発言の中には、説明を要するあいまいな表現がいくつも含まれています。今はその中の「譲り渡す」という言葉にしぼって議論を進めて行きましょう。「譲り渡す」というのはただでやってしまうか、売り渡してしまうかのいずれかです。ところで、他人の奴隷になるということは自分をただでやってしまうことではなくて、少なくとも食べさせてもらうことと引き換えに自分を売り渡すことなのです。では一体国民は何と引き換えに自分を売り渡すというのでしょうか。王は国民を食べさせてやるどころか、ひたすら国民に食べさせてもらっている身です。しかもラブレーの話では、王という連中は、とうてい少しの食べ物では足りないという話です。では、国民が自分の身を王に渡すには、自分の財産もいっしょに王に渡さなければならないのでしょうか。もしそんなことになったら、国民の手元にはいったい何が残るというのでしょうか。

3. 「専制君主なら国民に平和な暮らしを保証してくださる」と言う人がいるでしょう。よろしい。ではもしその君主がもっばら自分の野心から戦争を引き起こしたら、もし君主が果てしなく貪欲で政府の役人を使って過酷な取り立てをやったら、そしてそのおかげで、国内が乱れていた時よりも国民の生活が荒廃してしまったら、国民にとって平和な暮らしがどんな得になるでしょうか。国内の平和と引き換えに国民が苦しまなければならないとしたら、一体国民はどんな得をしたことになるでしょうか。地下牢の中にも平和はあります、だからといって地下牢に入りたいという人がいるでしょうか。かつて怪物キュクロプスの洞窟に閉じ込められたギリシャ人は、その中で怪物に取って食われる番を待ちながらもその間を平和に暮らしていたのです。

4. では、「譲り渡す」というのは自分をただでやってしまうことなのでしょうか。しかしそれではあまりに無茶苦茶な話であります。そんな行為は、それが正気な人間のすることではないという点だけから言っても、不正で無効な行為です。一国の国民全体がこぞってそんなことをするなどというのは、国民全員が狂っていると言うに等しいことです。そして、もちろん狂気に基づいた正義などというものはありえません。

5. いま仮に百歩譲って個々の人間が自分を譲り渡すということがありうるとしても、自分の子供までも譲り渡すことは許されません。なぜなら、子供たちは人間として生まれた以上は、生まれながらの自由を持っているからです。自由は彼らのものであり、誰も勝手に彼らの自由を処分できないのです。子供が分別のつく年齢になるまでは、子供を守り幸福に育てるために、子供に代わって親が子供の持っている自由を制限することは許されていますが、親が子供の自由を無条件かつ永久に人にやってしまうことは許されないことなのです。それは自然の道理に反する行為であり、親権の乱用です。ですから、独裁的な政権が正当性を獲得するためには、世代が代わるごとに、各世代にその政権を信任するかどうかの選択権が与えられなければならないでしょう。しかしその時には、もはやその政権は独裁的とは言えなくなってしまいます。

6. 人間が自分の自由を放棄するということは、人間性を放棄するということなのです。それは、人間の権利も、さらには義務までも放棄してしまうことです。全てを放棄してしまえば、もはやどんな見返りの可能性もなくなってしまいます。そのように全てを放棄するということは、人間の本質に反する行為です。そして、意志の自由を失うということは、もはや自分の行動に対して善悪の判断がつかなくなってしまうことです。つまり、一方の当事者に完全な支配を認め、もう一方の当事者には完全な服従を要求するような契約は、でたらめな契約であって無効なのです。相手に全てを要求する権利がある人間はその相手に対して何の義務も負わないことは誰の目にも明らかでしょう。相互の利益がなく相互の義務もないというこの条件一つをとってみても、この契約が無効なのは明らかではないでしょうか。というのは、そんな契約のもとにある奴隷には主人に対抗するどんな権利もないからです。なぜなら、奴隷のものは全て主人のものだからです。さらにいえば、奴隷が主人に対抗する権利も主人の所有物なのですから、奴隷の権利とは、主人が自分自身に対抗する権利ということになってしまい、全くナンセンスだからです。

7. 人を奴隷にする権利と称するものが存在するという根拠として、この他にグロティウスたちは戦争を挙げています。「戦争の勝利者が敗者を殺す権利があるのだから、敗者は自由と引き替えに命を買い戻す権利がある」と、彼らは主張しています。この契約は、当事者双方の利益になるのだから、合法的だと言うのです。

8. しかし、戦争状態の結果として敗者を殺す権利と称するものが生まれることなどけっしてないことは明らかです。人間が共同体を作らずに自由気ままに暮らしている限り、平和であったり戦争状態になったりするような密接な関係を持つことはありません。この点だけから見ても、個々の人間は生まれついての敵同士ではないことがわかります。実は、戦争とは人と人の関係から起こるものではなくて、物と物との関係から起こるのです。そして、戦争状態が単なる人間同士の関係からではなくもっぱら物と物との関係から発生するものであるかぎり、個人と個人の戦争などというものは、人間が決まった所有物をもたない自然な状態にある場合にも、また全てが法に支配されている国家の中にいる場合にも、起こり得ないのです。

9. 個人的なけんかや決闘などは、突発的な行為であって何かの状態とは言えません。確かに私闘がフランス王ルイ九世の政府によって認められたり、教会による「神の平和」によって中断されたりしたことがありました。しかし、これは封建支配の悪習でしかなく、制度としてはまったくばかげたものでした。それは、自然な正義の原則に反しており、まともな政府が採用するはずのないものです。

10. このように考えていくと、戦争とは人と人との間にではなく、国と国との間に起こるものであることが分かるでしょう。ですから、戦争においては個々の人間はたまたま敵同士になるのであって、けっして人間として、あるいは市民として敵対するのではなく、ひとえに戦闘員としてのみ敵対するのです。つまり、戦場において個々の人間が敵同士になるのは、それぞれの国の一員であるためではなく、ひたすらその国を防衛する任についているためなのです。結局、国の敵は国だけであって人間ではないのです。なぜなら、国と人間という本質的にまったく異なる性質をもつ二つのものの間には、いかなる関係も生まれようがないからです。

11. 国の敵は国であるというこの原則は、古くからの常識であって、どこの文明国に対しても当てはまるものなのです。ですから、例えば宣戦布告は、相手の国家に対するというよりは、相手の国民に対してするものなのです。国王であろうと個人であろうとまた国民全体であろうと、他国の君主に対してあらかじめ宣戦布告もせずにその国の国民を略奪したり殺したり拘束したりすることは許されません。それは敵の行為ではなく単なる強盗の行為と見なされます。また戦争中には、正義を重んじる君主は敵国にある全ての公の財産を奪うけれども、個人の生命・財産には手を出さず大切に扱います。こうして自分の権利の基盤となる正義の原則を大切にしているのです。戦争の目的は敵国を征服することですから、戦闘員が殺す権利がある相手は、武装してその国を防衛しようとしている人間だけなのです。しかしその人間が一旦武器を捨てて降伏したなら、もはや敵でも敵の道具でもなくなり、再びただの人間にもどるのです。そしてもはや誰にも彼らを殺す権利はなくなってしまうのです。時には相手の国の構成員をだれ一人殺すことなくその国を滅ぼすことも可能です。戦争状態にあるからといって、勝利する目的に必要でない権利まで与えられるわけではありません。こうした原則はなにもグロティウスが発明したものでもなければ、詩人たちの権威に基づくものでもありません。これらは、物の道理、理の当然というべきものなのです。

12. 征服する権利について言うなら、この権利の根拠は強者の権利以外の何物でもありません。もし戦争をしても征服者には自分が征服した国民を殺す権利が生まれないなら、このありもしない権利を根拠にして、征服した国民を奴隷にする権利を主張することもできないわけです。まだ戦争中で敵を奴隷にできないあいだだけ、敵を殺す権利があるのであって、逆に、敵を奴隷にできるようになった時には、もはや敵を殺す権利はなくなっているのですから、敵を殺す権利から敵を奴隷にする権利を引き出せるわけがありません。ですから、もともと勝者には敗者の命を奪う権利がないにもかかわらず、敗者が自分の自由と引き換えに勝者に命を助けてもらうなどどいうのは、不当な契約と言わねばなりません。奴隷にする権利があれば当然殺す権利があるのだから、殺す権利があるなら奴隷にする権利もあるはずだなどという議論が循環論法であるのは明らかです。

13. 仮に勝者には敗者を抹殺するという恐ろしい権利があると仮定してみても、そこから被征服民が征服者に服従しなければならない義務が生じたりはいたしません。奴隷となって服従するとしてもそれは強制的に服従させられるだけのことです。勝者は敗者から「自由」という命に匹敵するものを取り上げて奴隷にするのですから、これは決して命を助けてやることにはなりません。それは無益に殺すかわりに、有効に殺すだけのことです。つまり、勝者は敗者に強制することはできても、その強制にはいかなる正当性もないのです。こうして、両者の間には戦争状態が依然として続いており、主人と奴隷という関係もその現象でしかありません。そして戦争をする権利は消滅していない以上、平和条約が結ばれることはありません。ある種の条約が結ばれることはあるとしても、それは決して戦争状態の終結を意味するものではありません。依然として戦争が継続していることに変わりはないのです。

14. 以上のように、この問題をいかなる角度から眺めても、人を奴隷にする「権利」などというものは無効であることが分かります。それは正当性がないからだけでなく、でたらめで無意味なものであるという点からも無効です。「奴隷」と「権利」という二つの言葉は相矛盾した言葉であって、互いに相手を打ち消す言葉です。ある人がある人に向かって、あるいは、ある人がある国民の全員に向かって、「お前にとって全面的に不利な、そして、私にとって全面的に有利な契約を、私はここにお前と取り結ぶことにする。この契約を私は自分が好きな間だけ守ろう、この契約をお前は私の望む間だけ守りなさい」などと言うのは、いずれの場合においても全くばかげたことなのです。

 

 

第五章 我々は常に最初の契約に戻らねばならないこと

 

1. ここで仮に百歩譲って、私がこれまでありえないこととして否定してきたあらゆる独裁者の権利を認めたとしても、独裁政治の擁護者の立場はなんら強化されません。単にたくさんの人間を服従させることと、ある共同体を支配することとの間には、いつまでたっても消えない大きな違いがあるからです。ばらばらの人間を次々と奴隷にしたとしても、そしてその人数がいくら多くなったとしても、そこに生まれるのは主人と奴隷の関係でしかなく、けっして国民とその統治者の関係は生まれないのです。そこには人の集団は生まれても共同体は生まれないのです。公共財産もなければ、政治的に統一された団体つまり国家もないからです。このような支配者はたとえ世界の人口の半分を奴隷にすることができたとしても、彼は相変わらず一個人のままであり、彼の財産は彼以外の人の財産と常に区別されているために、永久に私的財産のままなのです。このような支配者が死ぬようなことがあれば、後に残された帝国は統一のかなめを失ってばらばらになってしまうでしょう。それは一本の樫の木が燃え尽きると、崩れ落ちて灰の山になるのと同じことです。

2. グロティウスは「国民は王に対して自分自身を委ねることが許されている」と言っています。このグロティウスの言葉に従うならば、国民は自分自身を王に委ねるその前からすでに国民として存在していることになります。すなわら、王に自分自身を委ねること自体がすでに国民としての契約なのであり、国民による審議を前提としているのです。ですから、王に服従する契約より先に、まず国民は国民になるための契約の中身をよく検討すべきでしょう。なぜなら、この国民になるための契約は、王に服従するための契約よりも当然先行すべきものであって、共同体が生まれる真の根拠となるからです。

3. 実際、もし先に来るべきこの契約がなかったら、仮に王に服従する契約が全員一致の決定でない場合に、多数派の決定を少数派が受け入れる義務がどうして生ずるでしょうか。そうです、王を持ちたいと言っている百人の人たちは、王などいらないと言っている十人の人たちに代わって決定する権利などないのです。多数決原理はそれ自体契約に基づいた制度であり、それ以前に少なくとも一度、全員一致の契約、最初の契約がなければなりません。

 

 

第六章 社会契約

 

1. わたしが思いますに、人が自分の力で自分の身の安全を守ろうとしても、自然の状態のままでいては、対処すべき困難があまりに大きすぎて個々の力ではどうしようもないという状況がいつかは到来するものです。そうなってしまえば、人類は最早人間本来の自由な生活を続けることは不可能であり、その生存形態を変えない限り存亡の危機に直面することになるでしょう。

2. ところで、人々は、新たな力を作り出すことはできなくても、すでに存在する力を結集してそれを働かせることならできます。ですから、自分たちの存在を守るためには、どんな困難にも対処できるように、ばらばらに存在する力を結集して、それらの力をただ一つの意志のもとに機能させて、それらの力を一斉に働かせるのが一番です。

3. このような力を結集するためには、これまでばらばらにいた人間が一致団結する以外にはありません。ところが、各人が自分の自由を犠牲にして力を差し出してしまえば、もはや自分で自分の安全を守ることはできないわけですから、自分の力を他人の力に合体した後は、どうすれば自分の身の安全を確保して、同時に自分に対するしかるべき配慮を欠かさずにいられるでしょうか。この問題をこの章のテーマである社会契約という観点から表現すると次のようになります。「全構成員の結集した力で各構成員の身体と財産を守ってくれるような共同体、しかも各個人は他の人々と団結しながらも誰にも服従せず、以前と同様の自由を享受できる共同体の形態はどうすれば見いだすことができるだろうか」。この根本的な問いに対する答えを提供するのが社会契約なのです。

4. 社会契約の条文の規定は、契約の性質上、高度の厳密さを要求されるものです。後からの変更は一切許されず、またどんな些細なものであれ変更を加えたりすればその条文は無効になってしまいます。おそらく個々の条文が正式に発表されることは決してないでしょうが、条文の内容はどこへ行っても同じであり、どこへ行っても暗黙の承認を受けています。もしこの契約に対する違反行為が発生した場合には、全員が生来の権利を取り戻し、本来の気儘な自由を回復するとともに、それと引き換えに獲得した契約に基づく自由を喪失するのです。

5. 正しい理解を妨げない限りにおいて、この契約の条文は一つだけにしても差し支えないでしょう。その一つの条文とは「構成員が自分の身体と自分の全ての権利を共同体に対して完全に譲渡すること」です。こうすれば、まず第一に、全員が例外なく自分自身を完全に委ねることになりますから、全員の置かれた条件は全く同じになります。全員の置かれた条件を同じにしておけば、誰かが他の構成員に対して厳しい条件を課そうとしても、自分にも同じ条件が課せられるため、何の得にもならなくなるでしょう。

6. 第二に、この譲渡は無条件の譲渡となりますから、人々の団結は可能な限り完璧なものになります。また全構成員はもはやいかなる権利を主張することもできなくなります。なぜなら、もし各個人に何らかの権利が温存されたりしたら、彼らと共同体との争いを裁くもう一段高い権威が存在しない状況では、何かの事で一度個人の判断が通ってしまうと、やがては全てにおいて自分の判断を通そうとする要求が生まれてくるからです。これでは自然状態が温存されているのと同じになってしまいます。そして、こうなってしまえば、共同体はもはや独裁を許してしまうか、さもなくば全く無意味なものになってしまうでしょう。

7. 最後に、全員に対して譲渡するということは、誰に対しても譲渡しないということでもあります。どの構成員も自分の権利を他人に一方的に譲り渡すということはなく、必ず同じ権利をその人から与えられるからです。ですから、どの構成員も自分が差し出すものと同じものを必ず手に入れるのです。こうして自分の財産を守る力を、以前よりも大きくすることになるのです。

8. それゆえ、社会契約から付随的な部分を全て取り除くと後に残るのは次のようなものになるでしょう。「われわれは各々自分の身体と持てる力を全て共同体の中に投入して、全体の意志(訳注、原文はvolonté générale。従来この言葉は一般意志と誤って訳されている)による最高の指揮のもとに置くことにする。そして、われわれは共に全構成員を全体の不可分な要素として受け入れることにする」。

9. この社会契約が結ばれると、契約の当事者である私的な人格に代わって、一つの人為的な団体、すなわち投票権をもつ人の数と同じ数の構成員からなる共同体が即座に発生するのです。そして、この共同体は、まさにこの契約によって、統一性と共通の自我を持ち、それ自身の生命と意志を持つようになるのです。このように他のあらゆる人格の団結によって形成された公的な人格を、むかしは「都市国家(Cité)」という名前で呼んでいました。現在ではこれを「共和国(République)」とか「市民共同体(corps politique)」という名で呼んでいます。また、この人格はその構成員によって受動的な役割で呼ばれる場合には「国家(État)」という名前を持つのに対して、能動的な役割を果たす場面では「主権者(Souverain)」という名前を持ちます。さらに、この人格は同種の他の人格と比較して「強国とか大国(Puissance)」と呼ばれることもあります。この共同体の構成員は、全体としては「人民(Peuple)」という名前で、主権を共有する個人として「市民(citoyens)」という名前で、国家の法の下に支配されるものとして「国民(sujets)」という名前で呼ばれます。しかしながら、これらの用語は混同されがちで、前のものが後のものと間違えられることがよくあります。しかし大切なことは、これらの用語が正確な意味で使われた場合には見分けられるようにしておくことです。

 

 

第七章 主権者について

 

1. 様々な名前をこのように整理すれば、社会契約というものが共同体と個人の間の相互の約束事であるということがよくわかると思います。ですから、社会契約とは各人がいわば自分自身と契約することであり、次にあげる二重の意味で契約することなのです。つまり、各個人はまず第一に主権者の一部として各個人に対して契約を結ぶのであり、第二に国家の一員して主権者に対して契約を結ぶのです。民法では、人は自分自身との契約によっては拘束されないとされています。しかし、この民法の原則を社会契約に適用することはできません。なぜなら、社会契約における自分自身との契約は、単に自分自身に対して義務を負うのとは違って、自分の所属する集団に対して義務を負うことだからです。

2. さらに言いますと、国の決議によって主権者に対する義務を国民に課すことは可能ですが、それは各人が上記のように異なった二つの顔を持つと考えられるからです。しかし、逆の理由から(=主権者は一つの顔しか持っていないという理由から)、国の決議によって、主権者自身に対する義務を主権者に課すということはできないことを忘れてはなりません。それは結果として、自分が破れないような法律を主権者が自分自身に対して作ることになり、市民共同体の本質に反することになるのです。なぜなら、主権者はたった一つの顔しかもっていないため、個人が自分自身と約束するのと同じ立場に立つからです。ということは、市民共同体を拘束するどのような基本法も社会契約も存在しないし、また存在できないということになります。といっても、社会契約の内容に反するものでないかぎり、他の国に対する契約によって自分自身を拘束することはできます。外国との関係においては、市民共同体も一個の存在つまり個人と同じものになるからです。

3. とはいっても、主権者である市民共同体の存在はひとえに社会契約が神聖不可侵であるということにかかっているため、たとえ外国に対する義務を負う場合でも、最初に作られた社会契約を損なうよう義務を負うことはできません。例えば自己の一部を譲渡したり、他の主権者に自己を従属させるような約束はできないのです。現在の主権者を誕生させた契約を破るなどということは、主権者自身の自己否定になってしまいます。そして、社会契約が無に帰してしまえば、主権者の存在もまた無に帰してしまうのです。

4. このようにして大勢の人間が社会契約で一つの共同体として団結したのちは、その構成員を傷つける行為があればそれは即ち共同体を傷つける行為であり、逆に共同体を傷つける行為があればそれは即ちその個々の構成員を傷つける行為となります。つまり、共同体とその構成員というこの二つの契約当事者は互いに助け合わねばならず、それが双方にとっての義務でありまた利益となるのです。つまり、共同体の中では同じ人間が二重の役割をもっており、その一方から得た利益は全てをもう一方から得た利益と結びつける義務があるのです。

5. さて、主権者はこれを形成する個人の集まりで成り立っていますから、主権者は個人の利益に反するようなことには関心がないし、また関心があるはずがありません。ですから、最高の権力者は国民に対して担保を差し出す必要はまったくないのです。なぜなら、共同体がその全ての構成員を傷つけようとすることなどあり得ないからです。また、後に第二巻の法律の章で述べるように、共同体は特定のどの構成員を傷つけることも出来ないのです。そもそも主権者たるものは、それが主権者であるというただその一事によって、それがあるべき存在であることが保証されているのです。

6. しかし、主権者が国民を傷つけることはないとは言えても、その逆が真であると言うことはできません。個々の国民に契約を遵守させる何らかの方法が存在しないかぎり、国民は、それが共通の利益につながるにもかかわらず、必ず契約を遵守するとは言えないからです。

7. なぜなら各個人は、みな市民としては全体の意志を共有していますが、人間としては、全体の意志に反する、あるいは、それとは異なる個人的な意志を持っている場合があるからです。人は個人的な利益のために、全体の利益に反する行動をとることがあるのです。本来人間は別々に暮らしており、また生まれつきの気儘な自由をもっているため、公の義務を不当なサービスであると考える人も出てきます。この義務を果たすのは自分にとっては大きな負担だが、自分一人ぐらいこの義務を果たさなくても全体にとっては大した損害にはならないはずだと、考えるわけです。また国家という人為的な人格などは単なる架空の存在で本当はそんな人はいないのだと思う人も出てくるでしょう。そんな人たちはきっと市民としての権利の行使には熱心でも、国民としての義務の方は全く省みないということになってしまうでしょう。この種の不正の蔓延は市民共同体の崩壊へつながるのです。

8. それゆえ、社会契約が実態のない形だけのものになることを避けるために、全体の意志に従おうとしない者はこれに従うように共同体によって強制されるということが、暗黙の了解として契約の中に含まれているのです。この了解があってはじめて他のあらゆることが有効になります。全体の意志に従うことを強制されると言っても、それは自由を奪われることではなく、自由を保つことを強制されるということなのです。なぜなら、市民が自分を国に委ねてあらゆる私的な従属関係から解放されるためには、自由を保っていなければならないからです。また、市民が自由を保っていてはじめて、政治機構を巧みに運用することが可能となるのであり、社会契約はその正当性を保ちうるのです。もしこれがなければ、社会契約は不合理なもの、独裁的なものとなり、甚だしい悪用を免れないでしょう。

 

 

第八章 市民共同体

 

1. 人間の生活形態が自然状態から市民共同体へと移行するとともに、人間自身も大幅な変化を遂げます。人はもはや本能のままに行動することをやめて、正しさを行動の指針として考えるようになります。その行動は以前とは違って道徳的色彩を帯びたものとなるのです。そして、人間が肉体の衝動ではなく義務感に、また欲望ではなく正義感に従って行動するようになると、最早これまでのように自分のことだけを考えるのではなく他の原則にも従わねばならないと感じるようになります。そうなると、好き嫌いを重視することをやめ、理性の声に耳を傾けるようになります。市民共同体の中に暮らす人間は自然状態がもたらす利益を捨てることにはなりますが、その代わりに手に入れた利益は失ったものよりも遥かに大きいのです。様々な能力が開発され鍛練を受けて、知力は増大し感性は洗練されるでしょう。こうして人間に全人格的な高まりがもたらされる結果、この新たな境遇を悪用して元の自分以下の人間へと堕落するようなことが頻発しないかぎり、人類は自然状態から永久に脱皮したこの瞬間を、すなわち、愚かでしかも限界のあるけだものから知的生物つまり人間に生まれ変わった幸福なこの瞬間を、賛美し続けることでしょう。

2. ここで、市民共同体の生活に移行して得たものと失ったものとを簡単に比較するために、損得を整理してみましょう。まず社会契約を結ぶことで人間が失ったものは、生まれつきの気儘な自由でしょう。また、かつては自分の気に入ったもの、自分の手が届くものなら何でも好き勝手に自分のものにする権利がありましたが、それが今はありません。それに対して、社会契約によって人間が手に入れたものは、市民としての自由であり、財産に対する合法的な所有権です。ここで、自然状態と市民共同体の比較において誤りなきを期するために、生まれつきの気儘な自由と市民としての自由を明確に区別しなければいけません。生まれつきの気儘な自由は個人の力のおよぶ限り広がる果てしの無い自由ですが、市民としての自由は全体の意志によって制限された自由です。また、占有と所有の区別も必要です。占有は力の結果であり、いわゆる「先占取得権」だけに基づいているのに対して、所有は合法的な権利証に基づいていなければならないものです。

3. そのほかに市民共同体の成立とともに人間が手に入れるものとしては、精神の自由を挙げてもよいと思います。この精神の自由は人間が自分で自分を支配するためには無くてはならないものです。なぜなら、肉体的な欲望のみによって支配されている人間は奴隷に等しいものであり、自分が決めた法律に従うことによってはじめて精神的な自由を手に入れることができるからです。しかしながら、この問題についてはこれ以上ここで述べる必要はないでしょう。それに「自由」という言葉の哲学的意味をここで論じるつもりはありません。

 

 

第九章 土地の所有権について

 

1. 共同体の構成員は、共同体が成立するときにあるがままの全ての自分を共同体に委ねますが、それは、自分自身と自分がもっている全ての力を与えることで、そこには財産も含まれます。これは本質的には何の変化もなく、これまでの個人の財産が、社会契約によって人手に渡ってしまったり、主権者の所有になるという意味ではありません。そうではなくて、個人の力と比べると国の力の方が桁違いに大きいため、共同体による占有が個人の占有よりも実際上もはるかに安全で確実であるということにすぎず、こうしたからといって以前よりも合法性が増すというわけではありません。国外の人間に対しては特にそうです。なぜなら、国家対国民のレベルでは、国家は社会契約によって国民のあらゆる物の管理者になるのですが、社会契約が他の全ての権利の基盤として効力を発揮するのは国家の内側のことでしかありません。国家対国家のレベルになると、国家は国民から引き継いだあの「先占取得権」に基づいて管理するだけなのです。

2. この「先占取得権」は「強者の権利」よりもまだ実質的ですが、所有権が確立されるまでは真の権利としては認められません。自然な状態では人は誰でも自分が必要とするものの全てに対して権利を持っていますが、社会契約によって明確にある財産の所有者になるということは、それ以外の全ての物に対する権利をあきらめるということなのです。自分の取り分を決めるということは、そこに権利を限定するということであり、共有物に手を出す権利を失うということなのです。こうして所有権が確立してはじめて、自然な状態ではさして強力ではなかった「先占取得権」は、市民共同体の中で全ての人から尊重されるものになるのです。つまり、人はこの権利に従って、他人のものを尊重するというよりは、自分の物でないものを尊重するのです。

3. 原則として、土地に関する先占取得権を正当化するには以下の三つの条件を満たさなければいけません。第一にその土地に他の先住者がいないこと、第二に生活に必要である以上の土地を支配しないこと、第三に根拠のない儀式によってではなく、実際に土地を耕して開墾することによって土地を占有していること、この三つです。最後の条件は合法的な権利証の存在しない場合にも、その土地の所有権が他人から尊重されるべきであることを示す唯一の証拠です。

4. 実際、その土地を必要としそこを開墾することで「先占取得権」を認めるということは、この権利をどこまでも拡大するのとはまったく異なるのです(注:以下この節の修辞疑問と反語表現は全部裏返して訳す)。上記の条件によってまさにこの権利は制限することができるのです。つまり、誰のものでもない土地に足を踏み入れただけで、すぐさま自分のものだと主張することはできないのです。一瞬でもその土地から人を追い出しさえすれば、彼らがそこに戻ってくる権利を奪ったことにはならないのです。広大な領地を占領して他の人間が入り込めないようにすることは、ほとんど犯罪的な略奪行為にほかなりません。なぜなら、それはまさに自然が公平に全人類に与えた食物と住みかを他の人類から奪って自分だけのものにすることだからです。

 ニュネス・バルボア〔1475~1519〕が南アメリカの岸辺に立って太平洋と南アメリカの領有をスペイン王の名において宣言しても、それだけで先住民を追い出して全世界の王たちの権利を否定することなどできなかったのです。もしそんなことができたら、そのような無意味な儀式は際限なく繰り返され、スペイン王は王室に居ながらにして全世界を簡単にその手中に収めることができたでしょう。しかし実際のところは、そうして手に入れた領土のうち、先に他国の王に占領されていたものは間もなく全て手放さざるを得なかったでしょう。

5. ここからわかるように、国の領土などというものは個人の土地が合わさって一体となった時にはじめて成立するものなのです。そうすると主権者の権限は国民だけでなく彼らの所有する土地にまで広がっていきます。こうして、主権すなわち統治権は人と土地の両方に及ぶことになるのです。この結果、民衆はますます主権者の保護を当てにするようになる一方で、民衆の方も力を結集して、主権者に対して忠誠をつくすようになるのです。

古代の王たちは人だけでなく土地も支配することの利点に気づかなかったのでしょうか。彼らは自分たちのことをペルシャ人の王とかスキタイ人の王とかマケドニア人の王なとど呼んでいたのです。ということは、彼らは自分たちのことを国の王であるよりむしろ人々の王であると思っていたことになります。その点現在の王たちは抜け目がありません。彼らは自分たちのことをフランス王とかスペイン王とかイギリス王などと呼んでいます。彼らは土地を支配することで、その住民に対する支配を確実なものにしているのです。

6. 社会契約における譲渡の特徴は、共同体は、個人の財産を受け取ることで、個人を丸裸にしてしまうどころか、財産の合法的な所有を保証してくれるという点です。つまり、それは略奪して得た結果を正当な権利に変え、たまたま持っていたものを法的な所有物に変えてくれるのです。各所有者は国の財産を預かっていると見なされるため、所有者の権利は国家の他の全構成員から尊重されます。また外国の侵略に対しては、力を合わせて守ってくれるのです。人々はこの譲渡によって、いわば譲渡した全てのものを獲得するのですから、この譲渡は国にとっては有利なだけでなく、自分自身にとってはさらに有利なことなのです。譲渡することによって獲得するとは一見矛盾しているようですが、この矛盾は、同じ土地に対して主権者が行使できる権利と各所有者が行使できる権利とは同じではないことで簡単に説明できることです。しかし、これについては後でまたお話ししましょう(第二巻四章参照)。

7. また、人々が財産を全く所有していない時から団結を始めることがあるかもしれません。その場合は、全員が住めるような大きさの土地を手に入れることになりますが、その土地は共有にするか、公平に分配するか、それとも主権者の定める割合で分配されることでしょう。土地の取得の仕方はどのような場合でも、その土地に対する個人の権利は、常に全ての土地に対する共同体の権利に従属するものとなります。というのは、もしそうしなければ、共同体のつながりはもろいものとなり、主権の行使も真の威力を持たないものとなってしまうからです。

8. この章とこの巻を終える当たって、あらゆる社会制度の基本として役立つことを一つ申し上げましょう。それは、社会契約とは、人々が生まれつき平等であることを否定するどころか、その反対に、自然が人類に課した肉体的な不平等の代わりに精神的な平等と法的な平等を与えるものなのです。つまり、人々は、腕力や知能では全員が平等でなくても、社会契約と法律によって全員が平等になれるのです。

 

第一巻終了

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