森鷗外の『渋江抽斎』は「その三十」で抽斎の四人目の妻の五百(いほ)が登場するところから俄然面白くなる。この女性が実に魅力的なのだ。どうしてNHKはこの人を朝ドラの主人公にしないのかと思ふほどである。
この作品の題名となつてゐる渋江抽斎本人は、儒学の教へである「無為不言(ぶいふげん)」を忠実に守つた人なので、その人生には何ら波乱に富んだことはない。まじめで正直で情が厚く、困つている人がゐればよろこんで助けてやる立派な人で、勉強熱心で出世も遂げた人だが、残念ながらこの人の人生は面白くもおかしくもない。
ところが五百は勇気と行動力に満ちた積極的な女性で、その人生は冒険あり、立廻りありの波瀾万丈、涙と感動に満ちた英雄伝である。
だから読者は五百にどうしても感情移入してしまふ。彼女の死は自分の母の死のやうに悲しくなる。最後に五百を一人で買い物にやらせたことを、息子の保(たもつ)とともに後悔する。五百がしきりに話をしてゐたのが急に黙つて座つてしまつた場面を思ひ出すたびに目に涙が浮かぶのである。
読者は五百が地動説を知つてゐたことを鷗外と共に誇りに思ふのである。子供時代に江戸城に務めてゐた五百が本丸に棲む物の怪の正体を一人で突き止めたことを誇りに思ふのである。三人の強盗に囲まれて何も出来ない抽斎を救ふために、風呂場から半裸のまゝ短剣を口にくはえて手に湯桶をもつて強盗に立ち向かつた五百を誇りに思ふのである。
鷗外の『渋江抽斎』はこの五百といふ人を描き出したことで、永遠の価値を得たと言へる。
五百以外に面白い人物といへば息子の優善(やすよし)だらうか。真面目な一家の中で一人だけぐれる。抽斎の蔵書を勝手に持出して売り払ふ。この家にとつてまるで疫病神のやうな存在である。なぜこんな人間ができたのか不思議であり鷗外もその原因を深く追求しないが、優成が先妻の子で一番可愛がられることが少なかつたことは間違ひない。しかし、その優善が明治維新以後、兄弟の中では一番よく出世する。人生の皮肉である。
次に鷗外が発表した『寿阿弥の手紙』は何と言つても八百屋お七が作つた袱紗(ふくさ)を鷗外が手にするくだりが圧巻である。
水戸藩御用達の菓子商真志屋(ましや)の隠居が出家して寿阿弥(じゆあみ)と称した。この人は奇行で有名なだけでなく文名も高かつた。たまたま鷗外はこの人の書いた長文の手紙を手に入れて、その一部を『渋江抽斎』の中で紹介した。
その手紙をもつと詳しく紹介するために書いたのが『寿阿弥の手紙』である。しかし、話は手紙だけでは終らない。鷗外は『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』の取材中に、この寿阿弥といふ人は水戸侯の御落胤だといふ情報を得てゐた。そして鷗外は寿阿弥の菩提寺に参つたときに、寿阿弥の墓に今でも墓参りに来る老女がゐることを聞きつけて、その家を訪問する。
しかし、その老女の話からは、寿阿弥自身は御落胤ではなく寿阿弥の祖先が御落胤らしいといふことがわかつただけで、寿阿弥自身が何者かは分からないまま引き上げてくる。
ところがその鷗外のもとに、老女の婿つまりその家の当主が寿阿弥の祖先のことを伝へる文書と遺品をもつてやつてくるのである。そしてその中に八百屋お七の袱紗が含まれてゐた。
この袱紗については『渋江抽斎』の中で、寿阿弥が家に伝はつてゐるのを見つけて人に見せたことが書かれてゐる。いまそれを書いた鷗外の目の前にその袱紗が時間を超えてやつてきたのである。
その袱紗はお七の幼なじみのお島といふ娘が武家奉公のために家を出るとき、餞別としてお七が手づから縫つて拵えたものである。そこまでは『渋江抽斎』を書いたときに分かつていた。
しかし今その袱紗と共に届けられた文書によつてそのお島の奉公先が水戸家であるといふこと、そしてそのお島こそは水戸侯の落胤をはらんで宿下がりになり、そのまま寿阿弥の祖先である菓子商真志屋に嫁いできたといはれてゐる女だといふことが明かになつた。そしてその水戸侯とはほかならぬ水戸光圀であるらしいことが分かつたのである。
こうして今あのお七の袱紗と真志屋の御落胤問題が島といふ一人の女のもとで一つに繋がつたのだ。
「八百屋お七の幼馴染で、後に真志屋祖先の許に嫁した島の事は海録(かいろく)に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下つて真志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ちこの島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。真志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とがともに島、その岳父、その夫の三人の上に輳(あつま)り来るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或いは一人と云つても不可なることが無からう。その中心人物は島である。」(『寿阿弥の手紙』十八より)
鷗外の興奮は、ここで二度繰り替へされてゐる「わたくしは知らなかつた」に如実に表れてゐる。まさに仰天ものの発見であつた。こんなにすごいことを経験した鷗外が歴史に取り憑かれてしまつたのは無理もないことであらう。
かうして鷗外は一片の砂金を求めて川底の砂を浚ひ続ける人のやうに、歴史といふ大河の砂を黙々とさらひ続ける人となる。そして巨大な砂の山を作つた。それが『伊沢蘭軒』であり『北条霞亭』である。しかも、その山から砂金を見つけ出すのは、今度は読者の仕事になつたのである。
それは『寿阿弥の手紙』の後半にも当てはまる。寿阿弥自身については、江間家からの養子であることはわかつたが、母のことも妹のことも分からずじまいで、あとはただ真志屋の衰退を示す歴史の砂山が延々と築かれていくのである。
逆に言へば、星のやうに輝く興味深い話を、鷗外はあくまで単調な歴史の中から浮かび上がる出来事として描こうとした。
だから、例へば『北条霞亭』の最後の淡々とした編年体の記述の中に、何の衒ひもなく、「(明治)三年庚午七月二十八日に笠峰(りつぽう)は根津高田屋の娼妓を誘ひ出だして失踪した。」などといふ文があつさりと挿入される。鷗外はこの事件あるが故に、この伝記を北条霞亭の死後はるか明治の世まで書き継いだのだらう。
このやうに鷗外の興味はあくまで俗である。鷗外は、人間が求めるものは俗なことであり、俗なことにこそ人間の本当の姿が現れてゐると思つてゐたやうである。彼の興味が、人の立身出世や幸不幸の変転にあつたのは間違ひがない。
例へば、鷗外は常に人の美醜に言及した。『渋江抽斎』の中では、抽斎の父允成(ただしげ)が美男で、その茶碗の底の飲み残しを女中たちが競つてなめたといふ話を、鷗外は決して書き落としはしない。
また『伊沢蘭軒』には醜い女をいとはず結婚した男の話が二つも出てくる。どちらの場合も、その男はまるで立派なことをしたかのやうに書いてある。それに対して美しい女たちのゐる遊郭へ入り浸りになる男の話もしよつちゆう出てくるが、それは決して非難の眼差しで見られてはゐない。
鷗外の歴史小説は普通の小説とは違つて、明確なストーリーはなく、始まりも終わりも主に鷗外その人の興味である。この人のことを調べてみたいといふ興味から話が始まり、その興味の尽きるところでその話が終わる。
そのほかに鷗外が伝記を書く動機の一つに、取材に協力してくれた人たちへの礼儀がある。『渋江抽斎』の最後に延々と付け加へられた長唄の師匠勝久とその一派の伝記はまさにこれである。話自体は面白いものではあるが、学者の伝記のあとに続けられては違和感を禁じ得ない。
『伊沢蘭軒』のあとに発表された『小島宝素』は、この考証家を後世に伝へねばといふ鷗外の義務感から書かれたが、これも小島家のために書かれたといふ要素がある。
『小島宝素』には、宝素の先祖代々の系譜と、宝素と関係のある人々の生死、宝素の住んだ場所、宝素が将軍付きの医師にまで出世した様子、そして息子たちの伝記、墓の場所などが書かれてゐるにすぎない。しかし、この作品は手に入つた情報を全て処理してから書かれてゐるために、読みやすいことは読みやすい。
歴史に取り憑かれた鷗外はかうして次々に伝記を書いた。伝記を書くには材料を集めなければならない。その材料とは、まづ第一にお墓である。その人について別の人が書いた文章があればそれも使ふ。それは墓碑であつたり書物であつたりする。そして手紙、日記である。さらに詩などの創作物もそこに加はつて来る。
鷗外は手に入つた材料をなるべく手を加へないままで読者に伝へようとした。だから読者は鷗外と同じ出発点に立つて事実を推測することができる。
それが『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』の場合、蘭軒、霞亭自身の書いた漢詩と手紙である。特に霞亭については既に『伊沢蘭軒』の中で一通りその生涯が描かれたにもかかはらず、その後あらたに借用できた大量の霞亭の手紙を生かすために『北条霞亭』は書かれた。だから『北条霞亭』では手紙の引用が多い。
それらの手紙からは江戸時代の学者の肉声を聞くことができる。漢詩はそれを文学として味はふといふよりは、むしろそこから詩の材料となつた出来事を引き出すために引用される。まさに考証である。
詩はもちろんのこと手紙にも年度は書いてないものが多く、それがいつ書かれものかは内容から推測するしかない。そして詩や手紙を時間の順番に並べて、事実を推測し解説を付していく。『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』はそのやうにして書かれた。
しかし鷗外は、蘭軒の詩も霞亭の手紙も、自分が伝へなければ忘却の中に置かれてしまふといふ思ひで多くを書き写した。それが当時の多くの読者から批判を受けた。これでは過去の事実を並べてゐるだけぢやないかと言はれた。
現代の読者もきつと同じ感想を持つ人が多いに違ひない。だからここであらかじめどこが面白いか知つておくのもよいだらう。
『伊沢蘭軒』の最初の見所は頼山陽である。頼山陽は二十一歳で家出をして藩の許しを得ずに上京したために寛政十二年から文化二年の五年間父春水の屋敷に幽閉されるが、その直前の寛政九年から十年まで江戸へ旅行をしてゐる。その間にこのやんちや者の若き山陽は何をしでかしたかである。
少なくとも、十八歳の山陽は江戸のどこにゐたのか。おとなしく昌平黌にゐずにそこを飛び出して伊沢蘭軒の家にゐたのではないかと鷗外は考へるのである。ちなみに、若い頃の放蕩を改めて勉学に励んでその後名を為した例は鷗外の好むところであり、頼山陽もその一人である。
次の見所は蘭軒が長崎旅行の途次に作つた漢詩を交へた紀行文である。これは芭蕉の『奥の細道』を旅先を長崎にして俳句を漢詩にしたやうなものである。
俳句なら今では子供でも作る。だから俳句で紀行文を残した芭蕉はいまも有名だが、同じやうにして漢詩で紀行文を残した蘭軒は、森鷗外のおかげで辛うじてこの小説の中に命を永らへてゐるのみである。
しかし、当時のエリートはみな漢詩を作つた。その筆頭に来るのが江戸時代では管茶山であり頼山陽であつた。明治になつても漱石や鷗外も漢詩を作つた。これは今で言ふと、英語で詩を作るやうなもので、江戸時代以前の日本人は、それほどに中国文化の吸収に熱心だつた。
蘭軒は、江戸から中山道、山陽道を通つて長崎に至るまでの途中の土地々々の名所をたどりながら、それを漢詩にしていく。『奥の細道』が一種の名所案内であつたのと同じやうに、蘭軒の紀行文も名所案内として読むことが出来る。(この中で蘭軒は宿場といふ言葉を使はずに「駅」といふ)
鷗外が訳した『即興詩人』もイタリア観光のガイドブックとしての側面があるが、『伊沢蘭軒』もまた名所旧跡と土地の名物を紹介する旅行のガイドとしての価値がある。(例へば、江戸時代に兵庫県の加古川はシタビラメの名所だつたことが分かる)
渋江抽斎の師の一人であつた医師池田京水といふ人の廃嫡の謎を解くくだりも、『伊沢蘭軒』の中での読ませ所である。
一旦池田家の嫡男として養子に入つた京水がどうして廃嫡になつたかは鷗外にとつて大いなる謎であつた。この問題は『渋江抽斎』の中で提起されたものであり、『伊沢蘭軒』の中でやつと解決にたどり着く。
京水の子孫が保存してゐた京水自筆の巻物が鷗外の手にもたらされたのである。それによつて、養父の後妻に嫌はれた京水自らが世継ぎたることを辞退して家を出たことが明らかになる。これまた鷗外にとつて大いなる発見であり、読者を引きつける内容をもつてゐる。
さて廃嫡されたとき京水はわづかに十六歳であつたが、江戸に出て町医者として開業する。当時の秀才は今の中高生の年齢で教師になり町医者になつた。また、当時の社会は早熟の秀才を受け入れた。京水の医院は大いに繁盛し、京水は最後は幕府に取り立てられるまでになる。
蘭軒の嫡子榛軒の妻志保の素性も一読に値する箇所であらう。志保は自分の父が誰であるか調べることを、京都に旅立つ小島春庵に依頼する。榛軒の友人であるこの小島春庵こそは後に別の伝記である『小島宝素』の主人公になる人である(人物再登場!)。
『渋江抽斎』の五百に相当する女性として『伊沢蘭軒』には柏軒の妻たかがゐる。五百がみずから抽斎の妻たらんと欲したやうに、たかは柏軒の妻になることを自ら望んでなつた。両者ともにすぐれた教養の持ち主で、能書家であつた。男勝りの気性の持ち主であつたことも似てゐた。
蘭軒の次男柏軒の生涯も特筆ものだ。若い頃やんちやものだつた柏軒はある日改心する。その後彼は幕府の医師として最高位まで上り詰める。そしてたつた一人で老中阿部正弘の看病を担当してその死を看取る。蘭方が盛んになる中で、最後の漢方医としての面目を保持したまま死ぬのである。
戊辰戦争、中でも五稜郭の戦いに従軍した棠軒(たうけん)の日記も興味深い。この日記からは、明治維新とともに漢方医が洋方医に取つて代られ、時刻の表し方が「とき」「こく」から「じ」に変るやうすがよく分かる。初めのうちは、「時」(とき)と「時」(じ)を区別するために、「何じ」は「何字」で表された。三月には「うまのこく」と言つていた同じ人が四月には「十二字」と書くのである。
棠軒の日録には明治五年十二月二日に太陰暦が太陽暦に変つたことも出てゐる。明日から太陽暦で一月一日とすると言はれたと書いてゐるのである。
ほかにも、頼山陽の壮絶な最期とそれを見取つた関五郎といふ男は誰かといふ問題等々。『伊沢蘭軒』は読み所満載である。(なほ関五郎は関の五郎ではなく三文字の名前であると思はれる。頼家ではそれが省略されて五郎と呼ばれたのではないか。その253で松坂屋の主人の名前は寿平治であつたが、平治と呼ばれたとある。それと同じであらう)
その他に面白いのは、番外編として老中阿部正弘侯毒殺説の紹介と、この小説の退屈さを批判する読者に鷗外が反論するところであらう。
『伊沢蘭軒』は逐次書き足して行つたもので、『小島宝素』のようにまとめて書いたものではないから、しばしば情報が前後で齟齬をきたす場合がある。(例へば、渡辺昌盈の死に場所は「その276」では本所上屋敷だが「その291」では柳島下屋敷となつてゐる。「その276」には上屋敷の当直番を須川隆白に代つてやつたその日に当直の邸が潰れて死んだとあるからである)
『北条霞亭』は鷗外が主人公である霞亭に自分を仮託して書いた小説である。おそらく鷗外は、手紙の中で家族に様々な指図をする霞亭の姿に「闘う家長」としての自分自身の姿を見てゐたに違ひない。
名目上の家長の地位は弟に譲りながらも霞亭は精神的には、家族に対して死ぬまで弱音をはかない家長でありつづけた。鷗外は霞亭と自分を同一化するあまりに、最後には、霞亭の死因となる病気を、自分と同じ萎縮腎ではないかと思ひこむほどである。
『北条霞亭』の中の最大の出来事は、霞亭が菅茶山に惚れ込まれて茶山塾頭になること、霞亭の福山藩への仕官、『小学』といふ本の注釈書の出版、そして何といつても霞亭自身の早すぎる死である。
霞亭はやつとのことで福山藩といふ大きな藩に就職が叶ひ、しかも大目付格といふ破格の大出世を遂げて江戸まで出てくるのだが、江戸に来てわづか二年で病に冒されて死んでしまふのである。
霞亭は何とかしてこの病気を治さうと苦闘する。医者を何人も替へたりもしてゐる。脚気だといふことで米を食ふのをやめ、医師の指示通りに塩気断ちもし、壮絶な努力を積み重ねるのである。しかし、最後の手紙を書いてからわづかに二週間で帰らぬ人となつてしまふ。家も新築してさあこれからといふ時の死であるから、その無念は想像に余りある。
ところで『伊沢蘭軒』も『北条霞亭』も小説とはいへ考証であるから、普通の小説を読むやうにして読んでもなかなか楽しめない。考証、つまり過去の正しい事実をひたすら求めるといふ過程を鷗外と共にするとき、初めて楽しめるものとなる。
あるいは読者は独自の考証をしながら読むのもよい。例へば、わたしはネット上にあるテキストを修正しながら読んだ。これもまた考証である。だから私はこの小説を楽しめた。
読者は例へばこれらの小説に書かれている地名が現在どこであるのかを探求しながら読むのもよいだらう。また鷗外が使つた漢字の特徴を検証しながら読むのもよいだらう。あるいはまた、私が修正したテキストに尚も残つてゐるはずの誤字を探しながら読むのもよいだらう。そのやうにすればきつと誰でも倦きることなくこの小説を読み続けられるはずである。
ただ一つしてはならない読み方があるとすれば、それはストーリーの面白さを求めて読むことである。鷗外の伝へる話の中には小説より奇なるものが多々含まれてゐるが、それはストーリー仕立てではなく、事実の探求の過程で現はれてくるものである。
鷗外は『大塩平八郎』の「付録」で初めてこの考証をやつてみせた。それを彼は『渋江抽斎』以降、本編の中でやることにしたのである。
とはいへ、『渋江抽斎』で五百の話を書いた鷗外は、若き日に『舞姫』のエリスを描き『雁』のお玉を描いた鷗外に近いものがある。五百の英雄譚はその真実を厳密に確認したものではないだらう。
『渋江抽斎』その六十七の義眼の女の話も面白い話ではあるが、嘘ではないかと思はせる。そもそも、日常気づかれない程に精巧な義眼があつたのだらうか。逆に健常者で寝てゐるときに目を開いて寝る人は少なくない。そこから発展した話とも考へられる。
したがつて、歴史といつてもやはり一種の小説であることを免れない。『寿阿弥の手紙』における水戸光圀の御落胤話も、それが光圀本人の子であるかは推測の域を出ることはない。
ところで、鷗外の歴史小説を読む楽しみの中に、バルザックの小説の場合と同じく、人物再登場の楽しみがある。『渋江抽斎』の中で脇役で登場した伊沢蘭軒が次は主役になり、『伊沢蘭軒』の中で脇役で登場した北条霞亭が、次の小説に主役として登場するのである。
『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』で重要な役割を演じるのは手紙であるが、これがかなりの難物である。当時の手紙は候文で、漢文のやうで漢文でない書き方をする。それが殆ど当て字なのである。だからそれを知つてゐないと読めないのだ。
ここにしばらく例を挙げてみよう。まず「而」は「て」、「度」は「たく」と読む。「致」は「いたす」、「間敷」は「まじく」、「遣」は「つかはす」、「罷」は「まかる」、「頼」は「たのむ」、「希」は「ねがふ」、「請」は「こふ」と読む。
「被」は尊敬の「られ」、「為」は尊敬の「され」、「仕」は「つかまつる」、「奉」は「たてまつる」、「遊」は「あそばす」、「下」は「くださる」、「承」は「うけたまはる」である。
これらを組合せて、「被遊」は「あそばされる」。「被下」は「くだされる」。「被致」は「いたされる」。「被居」は「をられる」。
三文字がくつつくと、「仕度候」は「つかまつりたくそろ」。「奉存侯」は「ぞんじたてまつりそろ」、「被成下候」は「なしくだされそろ」、「奉希候」は「ねがひたてまつりそろ」。
四文字以上になると、「可被下候」は「くださるべくそろ」、「可被成下候」は「なしくださるべくそろ」。「被為入候」は「いらせられそろ」となる。
また鷗外も漱石も漢文で使はれる漢字を使つて日本語を書いた。それは福沢諭吉も同じである。「云ふ」を全部「言ふ」と書くようになつたのは、ごく最近のことである。鷗外の文章も漢文の読み下し文に近いものである。だから、その書き方の決まり事を知つておく必要がある。
そのなかから少しを挙げると、「世」は一字で「世々」つまり「代々」と読む。「愈」なども一字で「いよいよ」と読む。「之」は「これ」か「の」に読み分ける。「先々」は「さきざき」ではなく「まづまづ」と読む。
また「が」は現代語のやうな主語ではなく所有を意味することが多いから注意がいる。逆に「の」が主語を表すことが多い。意味が分からなくなつたら、この「の」と「が」の読み方を間違へてゐることが多い。
例へば『鈴木藤吉郎』の五に「遠山は中根香亭の伝を立てた帰雲子で、少時森田座囃子方を勤め吉村金四朗と称したと云ふ非凡の才子である」では最初の「の」は主語を表してゐる。中根香亭が遠山金四郎の伝を立てたのである。
鷗外の史伝は漢詩の読み下し文がついてゐる「ちくま文庫」と岩波の「鷗外歴史文学集」が読みやすいだらう。「ちくま文庫」ではそれがひらがなのルビになつているのに対して「鷗外歴史文学集」では別立ての漢字仮名まじり文として漢詩の後に挿入されている。
漢詩の現代語訳は岩波では部分的に注記されてゐるのに対して、「ちくま文庫」では漢詩ごとに全訳が付いている。また岩波の読み下し文は音読みが多く、「ちくま文庫」は訓読みが多い。例へば「話勝十年読」を「はなすはじふねんよむにまさる」(ちくま文庫)なのに対して「話は勝る十年の読」(岩波)といつた具合である。
ただ「ちくま文庫」版の欠点は鷗外の文章を現代仮名遣ひに変へてしまつてゐることである。大正時代に政府が現代仮名遣ひを採用しようとしたときに、鷗外はそれを軍を背景にして強行に阻止した人である。鷗外の遺志を顧みない行為と言はねばならない。
「鷗外歴史文学集」の『伊沢蘭軒』の注釈は、想定する読者のレベルが中学生程度になつてゐる(その割りに漢字のルビが少ないが)。「廃藩」が「廃藩置県」のことであり「左脛」が「左のすね」であることまで註が付いている。かうした無駄な註が多すぎるために、註が次の頁までせり出すことがよくある。
「鷗外歴史文学集」では、テキストの漢字の選択に一貫性がない。例へば、「校定」の「校」は前の方では「挍」としてゐるが終盤では校となつてゐたり、「間」が「閒」となつてまた「間」に戻つたり、ずつと「撿す」で来てゐたのが終盤になると「検す」になつたり、女壻が一カ所だけ女婿になつてゐたりする。
「相模」もだいたい「相摸」だが終盤では「相模」になる。家族関係の子供のことを表すのに、娘のことをずつと「女」で来たものが急に「娘」(『伊沢蘭軒』その三百五十)になつてゐたり、「悴」が「伜」になつたりする。「輒(すなはち)」も「輙」になつたりする。ふりがなも「達」に「たつし」が終盤では「とどけ」に変つてゐる。
「解説」によると、『伊沢蘭軒』では鷗外自身の新聞連載の校定を使つたとあるから、このやうな混乱は鷗外自身の校定漏れの結果かもしれない。本文には鷗外自身の書き間違ひまでそのまま残してゐるが、鷗外自身の意図としては直しても良かつたのではないか。現状では読者は注釈を絶えず参考にする必要がある。「解説」には役割分担を明確にして一貫性を持たせてゐるかのやうに書いてはあるが、実際はそれほどでもなささうである。
漢字は新字に替へてあるのだが、異字体はそのままになつてゐたりとややこしい。
巻尾の人名注と書名注は玉石混合で、本文にある記載内容を整理したり、言ひ換へただけのものもある。例へば、本文の「嵯峨八百喜」の注が「嵯峨の人」ではあんまりだらう。
鷗外は革新保守のいづれかと言へば完璧な保守である。社会主義など彼は一揆や打壊しなどと同列にとらへてゐた。彼の尊んだのは精神的なものである。
「何国にても貧富の違に而、千金を芥にいたし候者も、また銭百文も持不申ものも有之、不同の世也。貧人が富人をうらやむといふは愚者の常なれど、これほど分をしらぬ事はなき也。皆人に命禄といふもの有之候。」今の社会主義乃至共産主義を駁するものとなして読まむも亦可なりである。霞亭をして言はしむれば、社会主義の国家若くは中央機関は愚者の政を為す処である。(『北条霞亭』その十より)
さて、鷗外の歴史小説の一つである『都向太兵衛』には宮本武蔵が登場する。「武士道とは死ぬことと見つけたり」といふ有名な言葉があるが、それは武蔵の信念でもあつた。そして太兵衛もまた死を恐れないことを身につけた男であつた。
武蔵は太兵衛がこの武士道の心得をもつてゐる男であることを初対面にして見抜いてしまふ。そして藩主に太兵衛を推薦するのである。太兵衛はその後「死を決してことに当る」の精神をもつて藩主に仕へ、名を残す偉業を成し遂げる。
一方、鷗外の史伝を読んでいくと、いかに人々が次々に死んでいくかを思はざるを得ない。恐らく鷗外の歴史小説で一番多く使はれてゐる漢字は「歿」であらう。鷗外は死が突然、人の意を無視して訪れるありさまを淡々と描いて行く。武道を重んじてゐた鷗外は、史伝を通じて「人生とは死ぬことである」と言ひたかつたのではあるまいか。