寿阿弥の手紙



森鷗外著



 わたくしは渋江抽斎の事蹟を書いた時、抽斎の父定所の友で、抽斎に劇神仙の号を譲つた寿阿弥陀仏(1769-1848)の事に言ひ及んだ。そして寿阿弥が文章を善くした証拠として其手紙を引用した。

 寿阿弥の手紙は苾堂と云ふ人に宛てたものであつた。わたくしは初め苾堂の何人たるかを知らぬので、二三の友人に問ひ合せたが明答を得なかつた。そこで苾堂は誰かわからぬと書いた。

 さうすると早速其人は駿河の桑原苾堂であらうと云つて、友人賀古鶴所さんの許に報じてくれた人がある。それは二宮孤松さんである。二宮氏は五山堂詩話の中の詩を記憶してゐたのである。

 わたくしは書庫から五山堂詩話を出して見た。五山は其詩話の正篇に於て、一たび苾堂を説いて詩二首を挙げ、再び説いて、又四首を挙げ、後補遺に於て、三たび説いて一首を挙げてゐる。詩の采録を経たるもの通計七首である。そして最初にかう云ふ人物評が下してある。「公圭書法嫻雅(公圭、書法は嫻雅)、兼善音律(兼て音律を善くす)、其人温厚謙恪(其人は温厚謙恪)、一望而知為君子(一望して君子為るを知る)」と云ふのである。公圭は苾堂の字である。

 次で置塩棠園さんの手紙が来て、わたくしは苾堂の事を一層精しく知ることが出来た。

 桑原苾堂、名は正瑞、字は公圭、通称は古作である。天明四(1784)年に生れ、天保八(1837)年六月十八日に歿した。桑原氏は駿河国島田駅の素封家で、徳川幕府時代には東海道十三駅の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用とは為換(かはせ)方を謂ふのである。桑原氏が後に産を傾けたのは此引換のためださうである。

 菊池五山は苾堂の詩と書と音律とを称してゐる。苾堂は詩を以て梁川星巌、柏木如亭及五山と交つた。書は子昻(すかう)を宗とし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又画をも学んで、崋山門下の福田半香、その他勾田台嶺(まがたたいれい)、高久隆古等と交つた。

 苾堂の妻は置塩蘆庵の二女ためで、石川依平(よりひら)の門に入つて和歌を学んだ。蘆庵は棠園さんの五世の祖である。

 苾堂の子は長を霜崖と云ふ。名は正旭である。書を善くした。次を桂叢と云ふ。名は正望である。画を善くした。桂叢の墓誌銘は斎藤拙堂が撰んだ。

 桑原氏の今の主人は喜代平さんと称して苾堂の玄孫に当つてゐる。戸籍は島田町にあつて、町の北半里許の伝心寺に住んでゐる。伝心寺は桑原氏が独力を以て建立した禅寺で、寺禄をも有してゐる。桑原氏累代の菩提所である。

 以上の事実は棠園さんの手書中より抄出したものである。棠園さんは置塩氏、名は維裕、字は季余(きよ)、通称は藤四郎である。居る所を聴雲楼と云ふ。川田甕江(をうこう)の門人で、明治三十三年に静岡県周智郡長から伊勢神宮の神官に転じた。今は山田市岩淵町に住んでゐる。わたくしの旧知内田魯庵さんは棠園さんの妻の姪夫(めひむこ)ださうである。

 わたくしは寿阿弥の手紙に由つて棠園さんと相識になつたのを喜んだ。


 寿阿弥の手紙の宛名桑原苾堂が何人かと云ふことを、二宮孤松さんに由つて略知ることが出来、置塩棠園さんに由つて委く知ることが出来たので、わたくしは正誤文を新聞に出した。然るに正誤文に偶誤字があつた。市河三陽さんは此誤字を正してくれるためにわたくしに書を寄せた。

 三陽さんは祖父米庵が苾堂と交はつてゐたので、苾堂の名を知つてゐた。米庵の西征日乗中癸亥十月十七日の条に、「十七日、到島田、訪桑原苾堂已宿」と記してある。癸亥は享和三(1803)年で、安永八(1779)年生れの米庵が二十五歳、天明四(1784)年生の苾堂が二十歳の時である。客も主人も壮年であつた。わたくしは主客の関係を詳にせぬが、苾堂の詩を詩話中に収めた菊池五山が米庵の父寛斎の門人であつたことを思へば、米庵は苾堂がためには、啻に己より長ずること五歳なる友であつたのみではなく、頗る貴い賓客であつただらう。

 三陽さんは別に其祖父米庵に就いてわたくしに教ふる所があつた。これはわたくしが渋江抽斎の死を記するに当つて、米庵に言ひ及ぼしたからである。抽斎と米庵とは共に安政五年の虎列拉に侵された。抽斎は文化二(1805)年生の五十四歳、米庵は八十歳であつたのである。しかしわたくしは略抽斎の病状を悉してゐて、その虎列拉たることを断じたが、米庵を同病だらうと云つたのは、推測に過ぎなかつた。

 わたくしの推測は幸にして誤でなかつた。三陽さんの言ふ所に従へば、神惟徳の米庵略伝に下の如く云つてあるさうである。「震災後二年を隔てて夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、発熱劇甚にして、良医交々来り診し苦心治療を加ふれど効験なく、年八十にして七月十八日溘然属纊の哀悼を至す」と云ふのである。又当時虎列拉に死した人々の番附が発刊せられた。三陽さんは其二種を蔵してゐるが、並に皆米庵を載せてゐるさうである。

 寿阿弥の苾堂に遣つた手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを勧めた。わたくしも此手紙の印刷に附する価値あるものたるを信ずる。なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文芸史上にも尊重すべき資料であつて、且読んで興味あるべきものだからである。

 手紙には考ふべき人物九人と苾堂の親戚知人四五人との名が出てゐる。前者中儒者には山本北山がある。詩人には大窪天民、菊池五山、石野雲嶺がある。歌人には岸本弦がある。画家には喜多可庵がある。茶人には川上宗寿がある。医師には分家名倉がある。俳優には四世坂東彦三郎がある。手紙を書いた寿阿弥と其親戚と、手紙を受けた苾堂と其親戚知人との外、此等の人物の事蹟の上に多少の光明を投射する一篇の文章に、史料としての価値があると云ふことは、何人も否定することが出来ぬであらう。


 わたくしは寿阿弥の手紙に註を加へて印刷に付することにしようかとも思つた。しかし文政頃の手紙の文は、縦ひ興味のある事が巧に書いてあつても、今の人には読み易くは無い。忍んでこれを読むとしたところで、許多の敬語や慣用語が邪魔になつてその煩はしきに堪へない。ましてやそれが手紙にめづらしい長文なのだから、わたくしは遠慮しなくてはならぬやうに思つて差し控へた。

 そしてわたくしは全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにした。以下が其筋書である。

 手紙には最初に二字程下げて、長文と云ふことに就いてのことわりが言つてある。これだけは全文を此に写し出す。「いつも余り長い手紙にてかさばり候故、当年は罫紙に認候。御免可被下候。」わたくしは此ことわりを面白く思ふ。当年はと云つたのは、年が改まつてから始めて遣る手紙だからである。其年が文政十一(1828)年であることは、下に明証がある。六十歳の寿阿弥が四十五歳の苾堂に書いて遣つたのである。

 寿阿弥と苾堂との交は余程久しいものであつたらしいが、其詳なることを知らない。只此手紙の書かれた時より二年前に、寿阿弥が苾堂の家に泊つてゐたことがある。山内香雪が市河米庵に随つて有馬の温泉に浴した紀行中、文政九年丙戌二月三日の条κ、「二日、藤枝に至り、荷渓また雲嶺を問ふ、到島田問苾堂、寿阿弥為客こゝにあり、掛川仕立屋投宿」と云つてある。帰途に米庵等は苾堂の家に宿したが、只「主島田苾堂」とのみ記してある。これは四月十八日の事である。紀行は市河三陽さんが抄出してくれた。

 荷渓は五山堂詩話に出てゐる。「藤枝冡荷渓。碧字風暁。才調独絶。工画能詩。(中略)於詩意期上乗。是以生平所作。多不慊己意。撕毀摧焼。留者無幾。」菊池五山は西駿の知己二人として、荷渓と苾堂とを並記してゐる。

 次に書中に見えてゐるのは、不音のわび、時候の挨拶、問安で、其末に「貧道無異に勤行仕候間乍憚御掛念被下間敷候」とある。勤行と書いたのは剃髪後だからである。当時の武鑑を閲するに、連歌師の部に浅草日輪寺其阿と云ふものが載せてあつて、寿阿弥は執筆目輪寺内寿阿曇奝と記してある。原来時宗遊行派の阿弥号は相摸国高座郡藤沢の清浄光寺から出すもので、江戸では浅草芝崎町日輪寺が其出張所になつてゐた。想ふに新石町の菓子商で真志屋五郎作と云つてゐた此人は、寿阿弥号を受けた後に、去つて日輪寺其阿の許に寓したのではあるまいか。

 寿阿弥は単に剃髪したばかりでは無い。僧衣を着けて托鉢にさへ出た。托鉢に出たのは某年正月十七日が始で、先づ二代目烏亭焉馬の八丁堀の家の門に立つたさうである。江戸町与力の伜山崎賞次郎が焉馬の名を襲いだのは、文政十一(1828)年だと云ふことで、月日は不詳である。わたくしが推察するに、焉馬は文政十一年の元日から襲名したので、其月十七日に寿阿弥は托鉢に出て、先づ焉馬を驚したのではあるまいか。若しさうだとすると、苾堂に遣る此遅馳の年始状を書いたのは、始て托鉢に出た翌月であらう。此手紙は二月十九日の日附だからである。

 寿阿弥が托鉢に出て、焉馬の門に立つた時の事は、仮名垣魯文が書いて、明治二十三年一月二十二日の歌舞伎新報に出した。わたくしの手許には鈴木春浦さんの写してくれたものがある。

 寿阿弥は焉馬の門に立つて、七代目団十郎の声色で「厭離焉馬、欣求浄土、寿阿弥陀仏々々々々々」と唱へた。

 深川の銀馬と云ふ弟子が主人に、「怪しい坊主が来て焉馬がどうのかうのと云つてゐます」と告げた。

 焉馬は棒を持つて玄関に出て、「なんだ」と叫んだ。

 寿阿弥は数歩退いて笠を取つた。

 「先生悪い洒落だ」と、焉馬は棒を投げた。「まあ、ちよつとお通下さい。」

 「いや。けふは修行中の草鞋穿だから御免蒙る。焉馬あつたら又逢はう。」云ひ畢つて寿阿弥は、岡崎町の地蔵橋の方へ、錫枚を衝き鳴らして去つたと云ふのである。

 魯文の記事には多少の文飾もあらうが、寿阿弥の剃髪、寿阿弥の勤行がどんなものであつたかは、大概此出来事によつて想見することが出来よう。寛政三(1791)年生で当時三十八歳の戯作者焉馬が、寿阿弥のためには自分の贔屓にして遣る末輩であつたことは論を須たない。


 次に「大下の岳母様」が亡くなつたと聞いたのに、弔書を遣らなかつたわびが言つてある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、寿阿弥が物事に拘らなかつた証に充つべきであらう。

 大下の岳母が何人かと云ふことは、棠園さんに問うて知ることが出来た。駿河国志太郡島田駅で桑原氏の家は駅の西端、置塩氏の家は駅の東方にあつた。土地の人は彼を大上と看ひ、此を大下と云つた。苾堂は大上の檀那と呼ばれてゐた。苾堂の妻ためは大下の置塩氏から来り嫁した。ための父即ち苾堂の岳父は置塩薦庵で、母即ち苾堂の岳母は蘆庵の妻すなである。

 さて大下の岳母すなは文政十年(1827)九月十二日に歿した。寿阿弥は其年の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年(1828)年の春まで不音に打ち過ぎた。其詫言を言つたのである。

 次に「清右衛門様先はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御様子故御案じ被成間敷候」云々と云ふ一節がある。此清右衛門と云ふ人の事蹟は、棠園さんの手許でも猶不明の廉があるさうである。しかし大概はわかつてゐる。苾堂の同家に桑原清右衛門と云ふ人があつた。同家とのみで本末は明白でない。清右衛門は名を公綽と云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた、当時の仙石家は但馬国出石郡出石の城主仙石道之助久利の世である。清右衛門は仙石家に仕へて、氏名を原逸一と更めた。頗る気節のある人で、和歌を善くし、又画を作つた。画の号は南田である。晩年には故郷に帰つて、明治の初年に七十余歳で歿したさうである。文政十一(1828)年の二月は此清右衛門が奉公口に有り附いた当座であつたのではあるまいか。気節のある人が志を得ないでゐたのに、咋今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、寿阿弥の文は読まれるのである。

 次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との直話を骨子として、逐年物価が騰貴し、儒者画家などの金を獲ることも容易ならず、束脩謝金の高くなることを言つたものである。

 大窪天民は、「客歳」と云つてあるから文政十(1827)年に、加賀から大阪へ旅稼に出たと見える。天民の収入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと当るつもり」で大阪へ乗り込んだ。大阪では佐竹家蔵屋敷の役人等が周旋して大賈の書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽国秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫義厚の抱への身分で、佐竹家蔵屋敷の役人が「世話を焼いてゐる」ので、町人共が「金子の謝礼はなるまいとの間ちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日数二百日にて、百両ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。


 天民が加賀から帰る途中の事に就て、寿阿弥はかう云つてゐる。「加賀の帰り高堂の前をば通らねばならぬ処ながら、直通りにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飲む故なるベし。」天民の上戸は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を嗜んだことがわかり、又苾堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世彝、一に世夷に作る、字は希之、別に天均又皆梅と号した。亦駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。

 皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之さんに質して知つた。これがわたくしの雲嶺の石野氏なることを知つた始である。後にわたくしは拙堂文集を読んでふと「皆梅園記」を見出だした。斎藤拙堂はかう云つてゐる。「老人姓石氏。本為市井人。住藤枝駅。風流温藉。以善詩聞於江湖上。庚子歳余東征。過憩駅亭相見。間晤半日。知其名不虚。爾来毎門下生往来過駅。輒嘱訪老人。得其近作以覧観焉。去年夏余復東征。宿駅亭。首問老人近状。駅吏曰。数年前辞市務。老於孤山下村。余即往訪之。従駅中左折数武。槐花満地。既覚非尋常行蹊。竹籬茅屋間。得門而入。老人大喜。迎飲於其舎。園数畝。経営位置甚工。皆出老人之意匠。有菅神廟林仙祠。各奉祀其主。有賜春館。傍植東叡王府所賜之梅。其他皆以梅為名。有小香国鶴避茶寮鶯逕戛玉泉等勝。前対巌田洞雲二山。風煙可愛。使人徘徊賞之。」庚子は天保十一(1840)年で、拙堂は藤堂高猷に扈随して津から江戸に赴いたのであらう。記を作つたのは安政中の事かとおもはれる。

 天民の年齢は、市河三陽さんの言に従へば、明和四(1767)年生で天保八(1837)年に七十一歳を以て終つたことになるから、加賀大阪の旅は六十一歳の時であつた。素通りをせられた苾堂は四十四歳であつた。

 喜多可庵の直話を寿阿弥が聞いて書いたのも、天民と五山との詩の添削料の事である。これは首尾の整つた小品をなしてゐるから、全文を載せる。「画人武清上州桐生に游候時、桐生の何某申候には、数年玉池へ詩を直してもらひに遣し候へ共、兎角斧正麤漏にて、時として同字などある時もありてこまり申候、これよりは五山へ願可申候間、先生御紹介可被下と頼候時、武清申候には、随分承知致候、帰府の上なり共、当地より文通にてなり共、五山へ可申込候、しかしながら爰に一つの訳合あり、謝物が薄ければ、疏漏は五山も同じ事なるべし、矢張馴染の天民へ気を附て謝物をするがよささうな物と申てわらひ候由、武清はなしに御座候。」武清は可庵の名である。又笑翁とも号した。文晁門で八丁堀に住んでゐた。安永五(1776)年生で安政三(1856)年に八十一歳で歿した人だから、此話を寿阿弥に書かれた時が五十三歳であつた。玉池は天民がお玉が池に住したからの称である。菊池五山は寿阿弥と同じく明和六(1769)年生で、嘉永二(1849)年に八十一歳で歿したから、天民よりは二つの年下で、寿阿弥がこれを書いた時六十歳になつてゐた。

 寿阿弥は天民の話と可庵の話とを書いて、さて束脩の高くなつたことを言つてゐる。其文はかうである。「近年役者の給金のみならげ、儒者の束脩までが高くなり、天民貧道など奚疑塾に居候時分、百疋持た弟子入が参れば、よい入門と申候物が、此頃は天でも五山でも、二分の弟子入はそれ程好いとは思はず、流行はあぢな物に御座候。」寿阿弥は天民と共に山本北山に従学した。奚疑塾は北山の家塾である。北山は宝暦二(1752)年生で文化九(1812)年に六十一歳で歿したから、束脩百疋の時代は、恐らくはまだ二十に満たぬ天民、寿阿弥が三十幾歳の北山に師事した天明の初年であらう。此手紙は北山歿後十六年に書かれたのである。天は天民の後略である。

 次は寿阿弥が怪我をして名倉の治療を受けた記事になつてゐる。怪我をした時、場所、容体、名倉の診察、治療、名倉の許で邂逅した怪我人等が頗る細かに書いてある。

 時は文政十年(1827)七月末で、寿阿弥は姪の家の板の間から落ちた。そして両腕を傷めた。「骨は不砕候へ共、両腕共強く痛め候故」云々と云つてある。


 寿阿弥が怪我をした家は姪の家ださうで、「愚姪方」と云つてある。此姪は其名を詳にせぬが、尋常の人では無かつたらしい。

 寿阿弥の姪は茶技には余程精しかつたと見える。同じ手紙の末にかう云つてある。「近況茶事御取出しの由川上宗寿、三島の鯉昇などより伝聞仕候、宗寿と申候者風流なる人にて、平家をも相応にかたり、貧道は連歌にてまじはり申候、此節江戸一の茶博士に御座候て、愚姪など敬伏仕り居候事に御座候。」これは苾堂が一たびさしおいた茶を又弄ぶのを、宗寿、鯉昇等に聞いたと云つて、それから宗寿の人物評に入り、宗寿を江戸一の茶博士と称へ、姪も敬服してゐると云つたのである。

 川上宗寿は茶技の聞人である。宗寿は宗什に学び、宗什は不白に学んだ。安永六(1777)年に生れ、弘化元(1844)年に六十八歳で歿したから、此手紙の書かれた時は五十二歳である。寿阿弥は姪が敬服してゐると云ふを以て、此宗寿の重きをなさうとしてゐる。姪は余程茶技に精しかつたものとしなくてはならない。手紙に宗寿と並べて挙げてある三島の鯉昇は、その何人たるを知らない。

 寿阿弥は両腕の打撲を名倉弥次兵衛に診察して貰つた。「はじめ参候節に、弥次兵衛申候は、生得の下戸と、戒行の堅固な処と、気の強い処と、三つのかね合故、目をまはさずにすみ申候、此三つの内が一つ闕候ても目をまはす怪我にて、目をまはす程にては、療治も二百日余り懸り可申、目をばまはさずとも百五六十日の日数を経ねば治しがたしと申候。」流行医の口吻、昔も今も殊なることなく、実に其声を聞くが如くである。

 寿阿弥は文政十年(1827)七月の末に怪我をして、其時から日々名倉へ通つた。「極月末までかゝり申候」と云つてあるから、五箇月間通つたのである。さて翌年二月十九日になつても、「今以而金快と申には無御座候而、少々麻痹仕候気味に御座候へ共、老体のこと故、元の通りには所詮なるまいと、其儘に而此節は療治もやめ申候」と云ふ転掃である。

 手紙には当時の名倉の流行が叙してある。「元大阪町名倉弥次兵衛と申候而、此節高名の骨接医師、大に流行にて、日々八十人九十人位づゝ怪我人参候故、早朝参候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」流行医の待合の光景も亦古今同趣である。次で寿阿弥が名倉の家に於て邂逅した人々の名が挙げてある。「岸本椎園、牛込の東更なども怪我にて参候、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて邂逅、其節御噂も申出候。」やまぶきぞのの岸本虫豆流は寛政元(1789)年に生れ、弘化三(1846)年に五十八歳で歿したから、寿阿弥に名倉で逢つた文政十年(1827)には三十九歳である。通称は佐佐木信綱さんに問ふに、大隅であつたさうであるが、此年の武鑑御弦師の下には、五十俵白銀一丁目岸本能声と云ふ人があるのみで、大隅の名は見えない。能声と大隅とは同人か非か、知る人があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は艸体の文字が不明であるから、読み誤つたかも知れぬが、その何人たるを詳にしない。大塚父子も未だ考へ得ない。


 寿阿弥は怪我の話をして、其末には不沙汰の詫言を繰り返してゐる。
「怪我旁」で疎遠に過したと云ふのである。此詫言に又今一つの詫言が重ねてある。それは例年には品物を贈るに、今年は「から手紙」を遣ると云ふので、理由としては「御存知の丸焼後万事不調」だと云ふことが言つてある。

 寿阿弥の家の焼けたのは、いつの事か明かでない。又その焼けた家もどこの家だか明かでない。しかし試に推測すればかうである、真志屋の菓子店は新石町にあつて、そこに寿阿弥の五郎作は住んでゐた。此家が文政九(1826)年七月九日に松田町から出て、南風でひろがつた火事に焼けた。これが手紙に所謂丸焼である。さて其跡に建てた家に姪を住まはせて菓子を売らせ、寿阿弥は連歌仲間の浅草の日輪寺其阿が所に移つた。しかし折々は姪の店にも往つてとまつてゐた。怪我をしたのはさう云ふ時の事である。わたくしの推測は、単に此の如くに説くときは、余りに空漠であるが、下にある文政十一(1828)年の火事の段と併せ考ふるときは、稍プロバビリテエが増して来るのである。

 次に遊行上人の事が書いてある。手紙を書いた文政十一年(1828)年三月十日頃に、遊行上人は駿河国志太郡焼津の普門寺に五日程、それから駿河本町の一華堂に七日程留錫する筈である。さて島田駅の人は定めて普門寺へ十念を受けに往くであらう。苾堂の親戚が往く時雑遝のために困まぬやうに、手紙と切手とを送る。最初に往く親戚は手紙と切手とを持つて行くが好い。手紙は普門寺に宛てたもので、中には証牛と云ふ僧に世話を頼んである。証牛は寿阿弥の弟子である。切手は十念を受ける時、座敷に通す特待券である。二度目からは切手のみを持つて行つて好いと云ふのである。寿阿弥は時宗の遊行派に縁故があつたものと見えて、海録にも山崎美成が遊行上人の事を寿阿弥に問うて書き留めた文がある。

 次に文政十一年(1828)年二月五日の神田の火事が「本月五日」として叙してある。手紙を書く十四日前の火事である。単に二月十九日とのみ日附のしてある此手紙を、文政十一年のものと定めるには、此記事だけでも足るのである。火の起つたのは、武江年表に暮六時としてあるが、此手紙には「夜五つ時分」としてある。火元は神田多町二丁目湯屋の二階である。これは二階と云ふだけが、手紙の方が年表より委しい。年表には初め東風、後北風としてあるのに、手紙には「風もなき夜」としてある。恐くは徴風であつたのだらう。

 延焼の町名は年表と手紙とに互に出入がある。年表には「東風にて西神田町一円に類焼し、又北風になりて、本銀町、本町、石町、駿河町、室町の辺に至り、夜亥の下刻鎮まる」と云つてある。手紙には「西神田はのこらず焼失、北は小川町へ焼け出で、南は本町一丁目片かは焼申候、(中略)町数七十丁余、死亡の者六十三人と申候ことに御座候」と云つてある。

 わたくしの前に云つた推測は、寿阿弥が姪の家と此火事との関係によつてプロバビリテエを増すのである。手紙に「愚姪方は大道一筋の境にて東神田故、此度は免れ候へ共、向側は西神田故過半焼失仕り候」と云つてある。わたくしはこの姪の家を新石町だらうと推するのである。


 文政十一年(1828)年二月五日に多町二丁目から出た火事に、大道一筋を境にして東側にあつて類焼を免れた家は、新石町にあつたとするのが殆ど自然であらう。新石町は諸書に見えてゐる真志屋の菓子店のあつた街である。そこから日輪寺方へ移る時、寿阿弥は菓子店を姪に譲つたのだらう、其時昔の我店が「愚姪方」になつたのだらうと云ふ推測は出て来るのである。

 寿阿弥は若し此火事に姪の家が焼けたら、自分は無宿になる筈であつたと云つてゐる。「難渋之段愁訴可仕水府も、先達而丸焼故難渋申出候処無之、無宿に成候筈」云々と云つてゐる。これは此手紙の中の難句で、句読次第でどうにも読み得られるが、わたくしは水府もの下で切つて、丸焼は前年七月の真志屋の丸焼を斥すものとしたい。既に一たび丸焼のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出来ぬと云ふ意味だとしたい。なぜと云ふに丸焼故の下で切ると、水府が丸焼になつたことになる。当時の水戸家は上屋敷か小石川門外、中屋敷か本郷追分、目白の二箇所、下屋敷か永代新田、小梅村の二箇所で、此等は火事に逢つてゐないやうである。寿阿弥が水戸家の用達商人であつたことは、諸書に載せてある通りである。

 寿阿弥の手紙には、多町の火事の条下に、一の奇聞が載せてある。此に其全文を挙げる。「永富町と申候処の銅物屋大釜の中にて、七人やけ死申候、(原註、親父一人、息子一人、十五歳に成候見せの者一人、丁穉三人、抱への鳶の者一人)外に十八歳に成候見せの者一人、丁穉一人、母一人、嫁一人、乳飲子一人、是等は助り申候、十八歳に成候者愚姪方にて去暮迄召仕候女の身寄之者、十五歳に成候者愚姪方へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工の伜に御坐候、此銅物屋の親父夫婦貪慾強情にて、七年以前見せの手代一人土蔵の三階にて腹切相果申候、此度は共恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此辺出火之節、向ふ側計焼失にて、道幅も格別広き処故、今度ものがれ可申、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ様に心得、いか様にやけて参候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、十八歳に成候男は土蔵の戸前をうちしまひ、是迄はたらき候へば、私方は多町一丁目にて、此所よりは火元へも近く候間、宅へ参り働き度、是より御暇被下れと申候て、自分親元へ働に帰り候故助り申候、此者の一処に居候間の事は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかく見せ蔵、奥蔵などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合旁故彼是仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりや釜の中よといふやうな事にて釜へ入候処、釜は沸上り、烟りは吹かけ、大釜故入るには鍔を足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成旁にて死に候事と相見え申候、母と嫁と小児と丁穉一人つれ、貧道弟子杵屋佐吉が裏に親類御坐候而夫へ立退候故助り申候、一つの釜へ父子と丁穉一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は檀那寺へ納候へ共、見物夥敷参候而不外聞の由にて、寺にては(自註、根津忠綱寺一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、余り変なることに御坐候故、御覧も御面倒なるべくとは奉存候へ共書付申候。」


 此銅物屋は屋号三文字屋であつたことが、大郷信斎の道聴途説に由つて知られる。道聴途説は林若樹さんの所蔵の書である。

 釜の話は此手紙の中で最も欣賞すべき文章である。叙事は精緻を極めて一の剰語をだに著けない。実に拠つて文を行る間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の発動を見る。寿阿弥は一部の書をも著さなかつた。しかしわたくしは寿阿弥がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。

 次に笛の彦七と云ふものと、坂東彦三郎とのコンプリマンを取り次いでゐる。彦七はその何人なるを考へることが出来ない。しかし「祭礼の節は不相変御厚情蒙り難有由時々申出候」と云つてあるから、江戸から神楽の笛を吹きに往く人であつたのではなからうか。

 「坂東彦三郎も御噂申出、兎角駿河へ参りたい参りたいと計申居候」の句は、人をして十三駅取締(=苾堂)の勢力をしのばしむると同時に、苾堂の襟懐をも想ひ遣らせる。彦三郎は四世彦三郎であることは論を須たない。寛政十二(1800)年に生れて、明治六(1873)年に七十四歳で歿した人だから、此手紙の書かれた時二十九歳になつてゐた。「去夏狂言評好く拙作の所作事勤候処、先づ勤めてのき候故、去顔見せには三座より抱へに参候仕合故、まづ役者にはなりすまし申候。」彦三郎を推称する語の中に、寿阿弥の高く自ら標置してゐるのが窺はれて、頗る愛敬がある。

 次に茶番流行の事が言つてある。これは「別に書付御覧に入候」と云つてあるが、別紙は佚亡してしまつた。

 「何かまだ申上度儀御座候やうながら、あまり長事故、まづ是にて擱筆、奉待後鴻候頓首。」此に二月十九日の日附があり、寿阿と署してある。宛は苾堂先生座有としてある。

 次に苾堂の親戚及同駅の知人に宛てたコンプリマンが書き添へてある。其中に「小右衛門殿へも宜しく」と特筆してあるから、試に棠園さんに小右衛門の誰なるかを問うて見たが、これはわからなかつた。

 寿阿弥は此等の人々に一々書を裁するに及ばぬ分疏に、「府城、沼津、焼津等所々認候故、自由ながら貴境は先生より御口達奉願候」と云つてゐる。わたくしは筆不精ではないが、手紙不精で、親威故旧に不沙汰ばかりしてゐるので、読んで此に到つた時寿阿弥のコルレズボンダンスの範囲に驚かされた。

 寿阿弥の生涯は多く暗黒の中にある。抽斎文庫には秀鶴冊子と劇神仙話とが各二部あつて、そのどれかに抽斎が此人の事を手記して置いたさうである。青々園伊原さんの言に、劇神仙話の一本は現に安田横阿弥さんの蔵弆する所となつてゐるさうである。若し其本に寿阿弥が上に光明を投射する書入がありはせぬか。

 抽斎文庫から出て世間に散らばつた書籍の中、演劇に関するものは、意外に多く横阿弥さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行会は曾て抽斎の奥書のある喜三二が随筆を印行したが、大正五年五月に至つて、又飛蝶の劇界珍話と云ふものを収刻した、前者は無論横阿弥さんの所蔵本に拠つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、抽斎の次男優善後の優が寄席に出た頃看板に書かせた芸名である。劇界珍話は優善の未定稿が渋江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それを刊行会が謄写したものではなからうか。


 寿阿弥の生涯は多く暗黒の中にある。写本刊本の文献に就てこれを求むるに、得る所が甚だ少い。然るにわたくしは幸に一人の活きた典拠を知つてゐる。それは伊沢蘭軒の嗣子榛軒の女で、棠軒の妻であつた曾能子刀自である。刀自は天保六(1835)年に生れて大正五(1916)年に八十二歳の高齢を保つてゐて、耳も猶聡く、言舌も猶さわやかである。そして寿阿弥の晩年の事を実験して記憶してゐる。

 刀自の生れた天保六年には、寿阿弥は六十七歳であつた。即ち此手紙が書かれてから七年の後に、刀自は生れたのである。刀自が四五歳の頃は寿阿弥が七十か七十一の頃で、それから刀自が十四歳の時に寿阿弥が八十で歿するまで、此畸人の言行は少女の目に映じてゐたのである。

 刀自の最も古い記憶として遺つてゐるのは寿阿弥の七十七の賀で、刀自が十一歳になつた弘化二(1845)年の出来事である。此賀は刀自の父榛軒が主として世話を焼いて挙行したもので、歌を書いた袱紗が知友の間に配られた。

 次に寿阿弥の奇行が穉かつた刀自に驚異の念を作さしめたことがある。それは寿阿弥が道に溺する毎に手水を使ふ料にと云つて、常に一升徳利に水を入れて携へてゐた事である。

 わたくしは前に寿阿弥の托鉢の事を書いた。そこには一たび仮名垣魯文のタンペラマンを経由して写された寿阿弥の滑稽の一面のみが現れてゐた。劇通で芝居の所作事をしくんだ寿阿弥に斯の如き滑稽のあつたことは怪むことを須ゐない。

 しかし寿阿弥の生活の全体、特にその僧侶としての生活が、啻に滑稽のみでなかつたことは、活きた典拠に由つて証せられる。少時の刀自の目に映じた寿阿弥は真面目の僧侶である。真面日の学者である。只此僧侶学者は往々人に異なる行を敢てしたのである。

 寿阿弥は刀自の穉かつた時、伊沢の家へ度々来た。僧侶としては毎月十七日に闕かさずに来た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の忌日である。此日には刀自の父榛軒が寿阿弥に読経を請ひ、それが畢つてから饗応して還す例になつてゐた。饗饌には必ず蕃椒を皿に一ぱい盛つて附けた。寿阿弥はそれを剰さずに食べた。「あの方は年に馬に一駄の蕃椒を食へるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。寿阿弥の着てゐたのは木綿の法衣であつたと刀白は云ふ。

 寿阿弥に請うて読経せしむる家は、独り伊沢氏のみではなかつた。寿阿弥は高貴の家へも回向に往き、素封家へも往つた。刀自の識つてゐた範囲では、飯田町あたりに此人を請ずる家が殊に多かつた。

 寿阿弥は又学者として日を定めて伊沢氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釈をしに来たのである。此講筵も亦独り伊沢氏に於て開かれたのみではなく、他家でも催されたさうである。刀自は寿阿弥が同じ講釈をしに永井えいはく方へ往くと云ふことを聞いた。

 永井えいはくは何人なるを詳にしない。医師か、さなくば所謂お坊主などで、武鑑に載せてありはせぬかと思つて検したが、見当らなかつた。表坊主に横井栄伯があつて、氏名が稍似てゐるが、これは別人であらう。或は想ふに、永井氏は諸侯の抱医師若くは江戸の町医ではなからうか。

十一
 寿阿弥が源氏物語の講釈をしたと云ふことに因んだ話を、伊沢の刀自は今一つ記憶してゐる。それはかうである、或時人々が寿阿弥の噂をして、「あの方は坊さんにおなりなさる前に、奥さんがおありなさつたでせうか」と誰やらが問うた。すると誰やらが答へて云つた。「あの方は己に源氏のやうな文章で手紙を書いてよこす女があると、己はすぐ女房に持つのだがと云つて入らつしやつたさうです。しかしさう云ふ女がとうとう無かつたと云ふことです。」此話に由つて観れば、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の女壻になつて出されたと云ふ、喜多村筠庭の説は疑はしい。

 寿阿弥は伊沢氏に来ても、回向に来た時には雑談などはしなかつた。しかし講釈に来た時には、事果てて後に暫く世間話をもした。刀自はそれに就いてかう云ふ。「惜しい事には其時寿阿弥さんがどんな話をなさつたやら、わたくしは記えてゐません、どうも石川貞白さんなどのやうに、子供の面白がるやうな事を仰やらなかつたので、後にはわたくしは余り其席へ出ませんでした。」石川貞白は伊沢氏と共に福山の阿部家に仕へてゐた医者である。当時阿部家は伊勢守正弘の代であつた。

 刀自は寿阿弥の姪の事をも少し知つてゐる。姪は五郎作の妹の子であつた。しかし恨むらくは其名を逸した。刀自の記憶してゐるのは蒔絵師としての姪の号で、それはすゐさいであつたきうである。若し其文字を知るたつきを得たら、他日訂正することとしよう。寿阿弥が蒔絵師の株を貰つたことがあると云ふ筠庭の説は、これを誤り伝へたのではなからうか。

 刀自の識つてゐた頃には、寿阿弥は姪に御家人の株を買つて遣つて、浅草菊屋橋の近所に住はせてゐた。其株は扶持が多く附いてゐなかつたので、姪は内職に蒔絵をしてゐたのださうである。

 或るとき伊沢氏で、蚊母樹で作つた櫛を沢山に病家から貰つたことがある。榛軒は寿阿弥の姪に誂へて、それに蒔絵をさせ、知人に配つた。「大そう牙の長い櫛でございましたので、其比の御婦人はお使なさらなかつたさうです、今なら宜しかつたのでせう」と刀自は云つた。

 菊屋橋附近の家へは、刀自が度々榛軒に連れられて往つた。始て往つた時は十二歳であつたと云ふから、弘化三(1846)年に寿阿弥が七十七歳になつた時の事である。其頃からは寿阿弥は姪と同居してゐて、とうとう其家で亡くなつた。刀自はそれが孟蘭盆の頃であつたと思ふと云ふ。嘉永元(1848)年八月二十九日に歿したと云ふ記載と、略符合してゐる。

 寿阿弥の姪が茶技に精しかつたことは、伯父の手紙に徴して知ることが出来るが、その蒔絵を善くしたことは、刀自の話に由つて知られる。其他蒔絵師としての号をすゐさいと云つたこと、寿阿弥がためには妹の子であつたこと、御家人であつたこと等の分かつたのも、亦刀自の賜である。

 最後に残つてゐるのは、寿阿弥と水戸家との関係である。寿阿弥が水戸家の用達であつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし両者の関係は必ず此用達の名羲に尽きてゐるものとも云ひ難い。

 新石町の菓子商なる五郎作は富豪の身の上ではなかつたらしい。それがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又剃髪して寿阿弥となり、幕府の連歌師の執筆にせられてから後までも、どうして水戸家との関係が継続せられてゐたか。これは稍暗黒なる一問題である。

十二
 何故に生涯富人ではなかつたらしい寿阿弥が水戸家の用達と呼ばれてゐたかと云ふ問題は、単に彼海録に見えてゐる如く、数代前から用達を勤めてゐたと云ふのみを以て解釈し尽されてはゐない。水戸家が此用達を待つことの頗る厚かつたのを見ると、問題は一層の暗黒を加ふる感がある。

 手紙の記す所を見るに、寿阿弥が火事に遭つて丸焼になつた時、水戸家は十分の保護を加へたらしい。それゆゑ寿阿弥は再び火事に遭つて、重ねて救を水戸家に仰ぐことを憚かつたのである。これは水戸家の一の用達に対する処置としては、或は稍厚きに過ぎたものと見るべきではなからうか。

 且寿阿弥の経歴には、有力者の渥き庇保の下に立つてゐたのではなからうかと思はれる節が、用達問題以外にもある。久しく連歌師の職に居つたのなどもさうである。啻に其職に居つたと云ふのみではない。わたくしは寿阿弥が曇奝と号したのは、芝居好であつたので、緞帳の音に似た文字を選んだものだらうと云ふことを推する。然るに此号が立派に公儀に通つて、年久しく武鑑の上に赫いてゐたのである。

 次に渋江保さんに聞く所に依るに、寿阿弥は社会一般から始終一種の尊敬を受けてゐて、誰も蔭で「寿阿弥が」云々したなどと云ふものはなく、必ず「寿阿弥さんが」と云つたものださうである。これも亦仔細のありさうな事である。

 次に寿阿弥は微官とは云ひながら公儀の務をしてゐて、頻繁に劇場に出入し、俳優と親しく交り、種々の奇行があつても、曾て咎を被つたことを聞かない。これも其類例が少からう。

 此等の不思議の背後には、一の巷説があつて流布せられてゐた。それは寿阿弥は水戸侯の落胤ださうだと云ふのであつた。此巷説は保さんも母五百に聞いてゐる。伊沢の刀自も知つてゐる。当時の社会に於ては所謂公然の秘密の如きものであつたらしい。「なんでも卑しい女に水戸様のお手が附いて下げられたことがあるのださうでございます。菓子店を出した時、大名よりは増屋だと云ふ意で屋号を附けたと聞いてゐます」と、刀自は云ふ。

 わたくしはこれに関して何の判断を下すことも出来ない。しかし真志屋と云ふ屋号の異様なのには、わたくしは初より心附いてゐた。そして刀自の言を聞いた時、なるほどさうかと頷かざることを得なかつた。兎に角真志屋と云ふ屋号は、何か特別な意義を有してゐるらしい。只その水戸家に奉公してゐたと云ふ女は必ずしも寿阿弥の母であつたとは云はれない。其女は寿阿弥の母ではなくて、寿阿弥の祖先の母であつたかも知れない。海録に拠れば、真志屋は数代菓子商で、水戸家の用達をしてゐたらしい。随つて落胤問題も寿阿弥の祖先の身の上に帰着するかも知れない。

 若し然らずして、嘉永元(1848)年に八十歳で歿した寿阿弥自身が、彼疑問の女の胎内に舎つてゐたとすると、寿阿弥の父は明和五六(1768-69)年の交に於ける水戸家の当主でなくてはならない。即ち水戸参議治保でなくてはならない。

十三
 わたくしは寿阿弥の手紙と題する此文を草して将に稿を畢らむとした。然るに何となく心に慊ぬ節があつた。何事かは知らぬが、当に做すべくして做さざる所のものがあつて存する如くであつた。わたくしは前段の末に一の終の字を記すことを猶与した。

 そしてわたくしはかう思惟した。わたくしは寿阿弥の墓の所在を知つてゐる。然るに未だ曾て往いて訪はない。数其名を筆にして、其文に由つて其人に親みつゝ、程近き所にある墓を尋ぬることを怠つてゐるのは、遺憾とすべきである。兎に角一たび往つて見ようと云ふのである。

 雨の日である。わたくしは意を決して車を命じた。そして小石川伝通院の門外にある昌林院へ往つた。

 住持の僧は来意を聞いて答へた。昌林院の墓地は数年前に撤して、墓石の一部は伝通院の門内へ移し入れ、他の一都は洲崎へ送つた。寿阿弥の墓は前者の中にある。しかし柵が結つて錠が卸してあるから、雨中に詣づることは難儀である。幸に当院には位牌があつて、これに記した文字は墓表と同じであるから仏壇へ案内して進ぜようと答へた。

 わたくしは問うた。「柵が結つてあると仰やるのは、寿阿弥一人の墓の事ですか。それとも石塔が幾つもあつて、それに柵が結ひ繞らしてあるのですか。」これは真志屋の祖先数代の墓があるか否かと思つて云つたのである。

「墓は一つではありません。藤井紋太夫の墓も、力士谷の音の墓もありますから。」

 わたくしは耳を欹てた。「それは思ひ掛けないお話です。藤井紋太夫だの谷の音だのが、寿阿弥に縁故のある人達だと云ふのですか。」

 僧は此間の消息を詳にしてはゐなかつた。しかし昔から一つ所に葬つてあるから、縁故があるに相違なからうとの事であつた。

 わたくしは延かれて位牌の前に往つた。寿阿弥の位牌には、中央に「東陽院寿阿弥陀仏曇奝和尚、嘉永元(1848)年戊申八月二十九日」と書し、左右に「戒誉西村清常居士、文政三年庚寅十二月十二日」、「松寿院妙真日実信女、文化十二(1815)年乙亥正月十七日」と書してある。

 僧は「こちらが谷の音です」と云つて、隣の位牌を指きした。「神誉行義居士、明治二十一年十二月二日」と書してある。

「藤井紋太夫のもありますか」と、わたくしは問うた。

「紋太夫の位牌はありません。誰も参詣するものがないのです。しかしこちらに戒名が書き附けてあります。」かう云つて紙牌を示した。「光含院孤峯心了居士、元禄七年甲戌十一月二十三日」と書してある。

「では寿阿弥と谷の音とは参詣するものがあるのですね」と、わたくしは問うた。

「あります。寿阿弥の方へは牛込の藁店からお婆あさんが命日毎に参られます。谷の音の方へは、当主の関口文蔵さんが福島にをられますので、代参に本所緑町の関重兵衛さんが来られます。」

十四
 命日毎に寿阿弥の墓に詣でるお婆あさんは何人であらう。わたくしの胸中には寿阿弥研究上に活きた第二の典拠を得る望が萌した。そこで僧には卒塔婆を寿阿弥の墓に建てることを頼んで置いて、わたくしは藁店の家を尋ねることにした。

「藁店の角店で小間物屋ですから、すぐにわかります」と、僧が教へた。

 小間物屋はすぐにわかつた。立派な手広な角店で、五彩目を奪ふ頭飾の類が陳べてある。店顕には、雨の盛に降つてゐるにも拘らず、蛇目傘をさし、塗足駄を穿いた客が引きも切らず出入してゐる。腰を掛けて飾を選んでゐる客もある。皆美しく粧つた少女のみである。客に応接してゐるのは、紺の前掛をした大勢の若い者である。

 若い者はわたくしの店に入るのを見て、「入らつしやい」の声を発することを躊躇した。

 わたくしも亦忙しげな人々を見て、無用の閒話頭を作すを憚らざることを得なかつた。

 わたくしは若い丸髷のお上さんが、子を負つて門に立つてゐるのを顧みた。

 「それ、雨こんこんが降つてゐます」などと、お上さんは背中の子を賺してゐる。

 「ちよつと物をお尋ね申します」と云つて、わたくしはお上さんに来意を述べた。

 お上さんは怪訝の目を睜つて聞いてゐた。そしてわたくしの語を解せざること良久しかつた。無理は無い。此の如き熱鬧場裏に此の如き閒言語を弄してゐるのだから。

 わたくしが反復して説くに及んで、白い狭い額の奥に、理解の薄明がさした。そしてお上さんは覚えず破顔一笑した。「あゝ。さうですか。ではあの小石川のお墓にまゐるお婆あさんをお尋なさいますのですね。」

「さうです。さうです。」わたくしは喜禁ずべからざるものがあつた。丁度外交官が談判中に相手をして自己の某主張に首肯せしめた刹那のやうに。

 お上さんは繊い指尖を上框に衝いて足駄を脱いだ。そして背中の子を賺しつゝ、帳場の奥に躱れた。

 代つて現れたのは白髪を切つて撫附にした媼である。「どうぞこちらへ」と云つて、わたくしを揮いた。わたくしは媼と帳場格子の傍に対坐した。

 媼名は石、高野氏、御家人の女である。弘化三年(1846)生で、大正五年には七十一歳になつてゐる。少うして御家人師岡久次郎(もろをかきうじらう)に嫁した。久次郎に二人の兄があつた。長を山崎某と云ひ、仲を鈴木某と云つて、師岡氏は其季であつた。三人は同腹の子で、皆伯父に御家人の株を買つて貰つた。それは商賈であつた伯父の産業の衰へた日の事であつた。

 伯父とは誰ぞ。寿阿弥である。兄弟三人を生んだ母とは誰ぞ。寿阿弥の妹である。

十五
 寿阿弥の手紙に「愚姪」と書してあるのは、山崎、鈴木、師岡の三兄弟中の一人でなくてはならない。それが師岡でなかつたことは明白である。お石さんは夫が生きてゐると大正五年に八十二歳になる筈であつたと云ふ。師岡は天保六(1835)年生で、手紙の書かれたのは師岡未生前七年の文政十一(1828)年だからである。

 山崎、鈴木の二人は石が嫁した時皆歿してゐたので、石は其齢を記憶しない。しかし夫よりは余程の年上であつたらしいと云ふ。兎に角齢の懸隔は小さからう筈が無い。彼の文政十一年(1828)年に既に川上宗寿の茶技を評した人は、師岡に比して大いに長じてゐなくてはならない。わたくしは石の言を聞いて、所謂愚姪は山崎の方であらうかと思つた。

 若し此推測が当つてゐるとすると、伊沢の刀自の記憶してゐる蒔絵師は、均しく是れ寿阿弥の妹の子ではあつても、手紙の中の「愚姪(=山崎)」とは別人でなくてはならない。何故と云ふに石の言に従へば、蒔絵をしたのは鈴木と師岡とで、山崎は蒔絵をしなかつたさうだからである。

 蒔絵は初め鈴木が修行したさうである。幕府の蒔絵師に新銀町と皆川町との鈴木がある。此両家と氏を同じうしてゐるのは、或は故あることかと思ふが、今遽に尋ねることは出来ない。次で師岡は兄に此技を学んだ。伊沢の刀自の記憶してゐるすゐさいの号は、鈴木か師岡か不明である。しかしすゐさいの名は石の曾て聞かぬ名だと云ふから、恐くは兄鈴木の方の号であらう。

 然らば寿阿弥の終焉の家は誰の家であつたか。これはどうも師岡の家であつたらしい。「伯父さんは内で亡くなつた」と、石の夫は云つてゐたさうだからである。

 此の如くに考へて見ると、寿阿弥の手紙にある「愚姪」、伊沢榛軒のために櫛に蒔絵をしたすゐさい、寿阿弥を家に居いて生を終らしめた戸主の三人を、山崎、鈴木、師岡の三兄弟で分坦することとなる。わたくしは此まで考へた時事の奇なるに驚かざるを得なかつた。

 初めわたくしは寿阿弥の手紙を読んだ時、所謂「愚姪」の女であるべきことを疑はなかつた。俗にをひを甥と書し、めひを姪と書するからである。しかし石に聞く所に拠るに、寿阿弥を小父と呼ぶべき女は一人も無かつたらしいのである。

 爾雅に「男子謂姉妹之子為出、女子謂姉妹之子為姪」と云つてある。甥の字はこれに反して頗る多義である。姪は素女子の謂ふ所であつても、公羊伝の舅出の語が広く行はれぬので、漢学者はをひを姪と書する。そこで奚疑塾に学んだ寿阿弥は甥と書せずして姪と書したものと見える。此に至つてわたくしは既に新聞紙に刊した文の不用意を悔いた。

 わたくしは石に夫の家の当時の所在を問うた。「わたくしが片附いて参つた時からは始終只今の山伏町の辺にをりました。其頃は組屋敷と申しました」と、石は云ふ。組屋敷とは黒鍬組の屋敷であらうか。伊沢の刀自が父と共に尋ねた家は、菊屋橋附近であつたと云ふから、稍離れ過ぎてゐる。師岡氏は弘化頃に菊屋橋附近にゐて、石の嫁して行く文久前に、山伏町辺に遷つたのではなからうか。

 わたくしの石に問ふべき事は未だ尽きない。落胤問題がある。藤井紋太夫の事がある。谷の音の事がある。

十六
 わたくしは師岡の未亡人石に問うた。「寿阿弥さんが水戸様の落胤だと云ふ噂があつたさうですが、若しあなたのお耳に入つてゐはしませんか。」

 石は答へた。「水戸様の落胤と云ふ話は、わたくしも承はつてゐます。しかしそれは寿阿弥さんの事ではありません。いつ頃だか知りませんが、なんでも寿阿弥さんの先祖の事でございます。水戸様のお屋敷へ御奉公に出てゐた女に、お上のお手が附いて妊娠しました。お屋敷ではその女をお下げになる時、男の子が生れたら申し出るやうにと云ふことでございました。丁度生れたのが男の子でございましたので申し出ました。すると五歳になつたら連れて参るやうにと申す事でございました。それから五歳になりましたので連れて出ました。其子は別間に呼ばれました。そしてお前は侍になりたいか、町人になりたいかと云ふお尋がございました。子供はなんの気なしに町人になりたうございますと申しました。それで別に御用は無いと云ふことになつて下げられたさうでございます。なんでも真志屋と云ふ屋号は其後始て附けたもので、大名よりは増屋だと云ふ意であつたとか申すことでございます。その水戸様のお胤の人は若くて亡くなりましたが、血筋は寿阿弥さんまで続いてゐるのだと、承りました。」

 此言に従へば、真志屋は数世続いた家で、落胤問題と屋号の縁起とは其祖先の世に帰着する。

 次にわたくしは藤井紋太夫の墓が何故に真志屋の墓地にあるかを問うた。

 石は答へた。「あれは別に深い仔細のある事ではないさうでございます。藤井紋太夫は水戸様のお手討ちになりました。所が親戚のものは憚があつて葬式をいたすことが出来ませんでした。其時真志屋の先祖が御用達をいたしてゐますので、内々お許を戴いて死骸を引き取りました。そして自分の菩提所で葬をいたして進ぜたのだと申します。」

 わたくしは落胤問題、屋号の縁起、藤井紋太夫の遺骸の埋葬、此等の事件に、彼の海録に載せてある八百屋お七の話をも考へ合せて見た。

 水戸家の初代威公頼房は慶長十四(1609)年に水戸城を賜はつて、寛文元(1661)年に薨じた。二代義公光国は元禄三(1690)年に致仕し、十三年に薨じた。三代粛公綱条は享保三(1718)年に薨じた。

 海録に拠れば、八百屋お七の地主河内屋の女島は真志屋の祖先の許へ嫁入して、其時お七のくれた袱帛を持つて来た。河内屋も真志屋の祖先も水戸家の用達であつた、お七の刑死せられたのは天和三(1683)年三月二十八日である。即ち義公の世の事で、真志屋の祖先は当時既に水戸家の用達であつた。只真志屋の屋号が何年から附けられたかは不明である。

 藤井紋太夫の手討になつたのは、元禄七(1694)年十一月二十三日ださうで諸書に伝ふる所と、昌林院の記載とが符合してゐる。これは粛公の世の事で、義公は隠居の身分で藤井を誅したのである。

 此等の事実より推窮すれば、落胤問題や屋号の由来は威公の時代より遅れてはをらぬらしく、余程古い事である。姶て真志屋と号した祖先某は、威公若くは義公の胤であつたかも知れない。

十七
 わたくしは以上の事実の断片を湊合して、姑く下の如くに推測した。水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の女が水戸家に仕へて、殿様の胤を舎して下げられた。此女の生んだ子は商人になつた。此商人の家は水戸家の用達で、真志屋と号した。しかし用達になつたのと、落胤問題との孰れが先と云ふことは不明である。その後代々の真志屋は水戸家の特別保護の下にある。寿阿弥の五郎作は此真志屋の後である。

 わたくしの師岡の未亡人石に問ふべき事は、只一つ残つた。それは力士谷の音の事である。

 石は問はれてかう答へた。「それは可笑しな事なのでございます。好くは存じませんが其お相撲は真志屋の出入であつたとかで、それが亡くなつた時、何のことわりもなしに昌林院の墓所にいけてしまつたのださうでございます。幾ら贔屓だつたと云つたつて、死骸まで持つて来るのはひどいと云つて、こちらからは掛け合つたが、色々談判した挙句に、一旦いけてしまつたものなら為方が無いと云ふことになつたと、夫が話したことがございます。」石は関口と云ふ後裔の名をだに知らぬのであつた。

 余り長座をするもいかゞと思つて、わたくしは辞し去らむとしたが、ふと寿阿弥の連歌師であつたことに就いて、石が何か聞いてゐはせぬかと思つた。武鑑には数年間日輪寺其阿と寿阿曇奝とが列記せられてゐて、しかも寿阿の住所は日輪寺方だとしてある。わたくしは是より先、浅草芝崎町の日輪寺に往つて見た。一つには寿阿弥の同僚であつた其阿の墓石を尋ねようと思ひ、二つには日輪寺其阿の名が一代には限らぬらしく、古く物に見えてゐるので、それを確めようと思つたからである。日輪寺は今の浅草公園の活動写真館の西で、昔は東南共に街に面した角地面であつた。今は薪屋の横町の衝当になつてゐる。寺内の墓地は半ば水に浸されて沮洳の地となり、藺を生じ芹を生じてゐる。わたくしは墓を検することを得ずして還つた、わたくしは石に問うた。「若し日輪寺と云ふ寺の名をお聞になつたことはありませんか。」

 「存じてをります。日輪寺は寿阿弥さんの縁故のあるお寺ださうで、寿阿弥さんの御位牌が置いてありました。しかし昌林院の方にあれば、あちらには無くても好いと云ふことになりまして、只今は何もこざいません。」

 わたくしはお石さんに暇乞をして、小間物屋の帳場を辞した。小間物屋は牛込肴町で当主を浅井平八郎さんと云ふ。初め石は師岡久次郎に嫁して一人女京を生んだ。京は会津東山の人浅井善蔵に嫁した。善蔵の女おせいさんが婿平八郎を迎へた。おせいさんは即ち子を負つて門に立つてゐたお上さんである。

 寿阿弥の事は旧に依つて暗黒の中にある。しかしわたくしは伊沢の刀自や師岡の未亡人の如き長寿の人を識ることを得て、幾分か諸書の誤謬を正すことを得たのを喜んだ。

 わたくしは再び此稿を畢らむとした。そこへ平八郎さんが尋ねて来た。前に浅井氏を訪うた時は、平八郎さんは不在であつたが、後にわたくしの事を外祖母に聞いて、今真志屋の祖先の遺物や文書をわたくしに見せに来たのである。

 遺物も文書も、浅井氏に現存してゐるものの一部分に過ぎない。しかし其遺物には頗る珍奇なるものがあり、其文書には種々の新事実の証となすべきものがある。寿阿弥研究の道は幾度か窮まらむとして、又幾度か通ずるのである。八百屋お七の手づから縫つた袱紗は、六十三年前の嘉永六(1853)年に寿阿弥が手から山崎美成の手にわたされた如くに、今平八郎さんの手からわたくしの手にわたされた。水戸家の用達真志屋十余代の継承次第は殆ど脱漏なくわたくしの目の前に展開せられた。

十八
 わたくしは姑く浅井氏所蔵の文書を真志屋文書と名づける。真志屋文書に徴するに真志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に供に立つてゐる。文化二(1805)年に武公治紀が家督して、四年九月九日に十代目真志屋五郎兵衛が先祖書を差し出した。「先祖儀御入国の砌御供仕来元和年中(1615-1624)引続」云々と書してある。入国とは頼房が慶長十四(1609)年に水戸城に入つたことを指すのである。此真志屋始祖西村氏は参河の人で、過去帳に拠ると、浅誉日水信士と法諡し、元和二年正月三日に歿した。屋号は真志屋でなかつたが、名は既に五郎兵衛であつた。

 二代は方誉清西信士で、寛永十九(1642)年九月十八日に歿した。後の数代の法諡の例を以て推すに、清西は生前に命じた名であらう。

 三代は相誉清伝信士で、寛文四(1664)年九月二十二日に歿した。水戸家は既に義公光国の世になつてゐる。

 四代は西村清休居士である、清休の時、元禄三年に光国は致仕し、粛公綱条が家を継いだ。

 此代替に先つて、清休の家は大いなる事件に遭遇した。真志屋の遺物の中に写本西山遺事並附録三巻があつて、其附録の末一枚の表に「文政五(1822)年壬午秋八月、真志屋五郎作秋邦謹書」と署した漢文の書後がある。其中にかう云つてある。「嗚呼家先清休君、得知於公深、身庶人而俸賜三百石、位列参政之後」と云つてある。公は西山公を謂ふのである。

 此俸禄の事は先祖書の方には、側女中島を娶つた次の代廓清が受けたことにしてある。「乍恐御西山君様御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に享保年中迄頂戴仕来冥加至極難有仕合に奉存候」と云つてある。しかし清休がためには、島は子婦である。光国は清休をして島を子婦として迎へしめ、俸禄を与へたのであらう。

 八百屋お七の幼馴染で、後に真志屋祖先の許に嫁した島の事は海録に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下つて真志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち此島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。真志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とが倶に島、其岳父、其夫の三人の上に輳り来るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或は一人と云つても不可なることが無からう。其中心人物は島である。

 真志屋の祖先と共に、水戸家の用達を勤めた河内屋と云ふものがある。真志屋の祖先が代々五郎兵衛と云つたと同じく、河内屋は代々半兵衛と云つた。真志屋の家説には、寛文の頃であつたかと云つてあるが、当時の半兵衛に一人の美しい女が生れて、名を島と云つた。島は後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。

十九
 河内屋は本郷森川宿に地所を持つてゐた。それを借りて住んでゐる八百屋市左衛門にも、亦一人の美しい女があつて、名を七と云つた。七は島より年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、餞別に手づから袱紗を縫つて贈つた。表は緋縮緬、裏は紅絹であつた。

 島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類焼した。此火災のために市左衛門等は駒込の寺院に避難し、七は寺院に於て一少年と相識になり、新築の家に帰つた後、彼少年に再会したさに我家に放火し、其科に因つて天和三(1683)年三月二十八日に十六歳で刑せられた。島は七の死を悼んで、七が遺物の袱紗に祐天上人筆の名号を包んで、大切にして持つてゐた。

 後に寿阿弥は此袱紗の一辺に、白羽二重の切を縫ひ附けて、それに縁起を自書した。そしてそれを持つて山崎美成に見せに往つた。

 此袱紗は今浅井氏の所蔵になつてゐるのを、わたくしは見ることを得た。袱紗は燧袋形に縫つた更紗縮緬の上被の中に入れてある。上被には蓮華と仏像とを画き、裏面中央に「倣尊澄法親王筆」右辺に「保午浴仏日呈寿阿上人蓮座」と題し、背面に心経の全文を写し、其右に「天保五年甲午二月廿五日仏弟子竹谷依田瑾薫沐書」と記してある。依田竹谷、名は瑾、字は子長、盈科斎、三谷庵、又凌寒斎と号した。文晁の門人である。此上被に画いた天保五年は竹谷が四十五歳の時で、後九年にして此人は寿阿弥に先つて歿した。山崎美成が見た時には、上被はまだ作られてゐなかつたのである。

 上被から引き出して見れば、被紗は緋縮緬の表も、紅絹の裏も、皆淡い黄色に褪めて、後に寿阿弥が縫ひ附けた白羽二重の古びたのと、殆ど同色になつてゐる。寿阿弥の仮名文は海録に譲つて此に写さない。末に「文政六(1823)年癸未四月真志屋五郎作新発意寿阿弥陀仏」と署して、邦字の華押がしてある。

 わたくしは更に此袱紗に包んであつた六字の名号を披いて見た。中央に「南無阿弥陀仏」、其両辺に「天下和順、日月清明」と四字づゝに分けて書き、下に祐天と署し、華押がしてある。装潢には葵の紋のある錦が用ゐである。享保三年に八十三歳で、目黒村の草菴に於て祐天の寂したのは、島の歿した享保十一年に先つこと僅に八年である。名号は島が親しく祐天に受けたものであらう。

 島の年齢は今知ることが出来ない。遺物の中に縫薄の振袖がある。袖の一辺に「三誉妙清様小石川御屋形江御上り之節縫箔の振袖、其頃の小唄にたんだ振れふれ六尺袖をと唄ひし物是也、享保十一年丙辰六月七日死、生年不詳、家説を以て考ふれば寛文年間なるベし、裔孫西村氏所蔵」と記してある。

 島が若し寛文元年に生れたとすると、天和元年が二十一歳で、歿年が六十六歳になり、寛文十二年に生れたとすると、天和元年が十歳で、歿年が五十五歳になる。わたくしは島が生れたのは寛文七年より前で、その水戸家に上つたのは、延宝の末(1681)か天和の初であつたとしたい。さうするとお七が十三四になつてゐて、袱紗を縫ふにふさはしいのである。いづれにしても当時の水戸家は義公時代である。

 さていつの事であつたか詳でないが、義公の猶位にある間に、即ち元禄三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島に暇を遣つた。そして清休の子廓清が妻にせいと内命した。島は清休の子婦、廓清の妻になつて、一子東清を挙げた。若し島が下げられた時、義公の胤を舎してゐたとすると、東清は義公の庶子であらう。

二十
 既にして清休は未だ世を去らぬに、主家に於ては義公光国が致仕し、粛公綱条が家を継いだ。頃くあつて藤井紋太夫の事があつた。隠居西山公が能の中入に楽屋に於て紋太夫を斬つた時、清休は其場に居合せた。真志屋の遺物写本西山遺事の附録末二枚の欄外に、寿阿弥の手で書入がしてある。「家説云、元禄七年十一月十三日、御能有之、公羽衣のシテ被遊、御中入之節御楽屋に而、紋太夫を御手討に被遊候、(中略)、御楽屋に有合人々八方へ散乱せし内に、清休君一人公の御側をさらず、御刀の拭、御手水一人にて相勤、扨申上けるは、私共愚昧に而、かゝる奸悪之者共不存、入魂に立入仕候段、只今に相成重々奉恐入候、思召次第如何様共御咎仰付可被下置段申上ける時、公笑はせ玉ひ、余が眼目をさへ眩ませし程のやつ、汝等が欺かれたるは尤ものことなり、少も咎中付る所存なし、しかし汝は格別世話にもなりたる者なれば、汝が菩提所へなりとも、死骸葬り得さすべしと仰有之候に付、則菩提所伝通院寺中昌林院へ埋め、今猶墳墓あれども、一華を手向る者もなし、僅に番町辺の人一人正忌日にのみ参詣すと云ふ、法名光含院孤峰心了居士といへり。」

 説いて此に至れば、独所謂落胤問題と八百屋お七の事のみならず、彼藤井紋太夫の事も亦清休、廓清の父子と子婦島との時代に当つてゐるのがわかる。

 清休は元禄十二年閏九月十日に歿した。次に其家を継いだのが五代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父である。「御西山君様御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置、厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に」頂戴したのは此人である。此書上の文を翫味すれば、落胤問題の生じたのは、決して偶然でない。次で「元文三(1738)年より御扶持方七人分被下置」と云ふことに改められた。廓清は享保四年三月二十九日に歿した。島は遅れて享保十一年六月七日に歿した。真志屋文書の過去帳に「五代廓清君室、六代東清君母儀、三誉妙清信尼、俗名嶋」と記してある。当時水戸家は元禄十三年に西山公が去り、享保三年に粛公綱条が去つて、成公宗尭の世になつてゐた。

 六代西村東清信士は過去帳一本に「幼名五郎作自義公拝領、十五歳初御目見得、依願西村家相続被仰付、真志屋号拝領、高三百石被下置、俳名春局」と詮してある。幼名拝領並に初御目見得から西村家相続に至るには、年月が立つてゐたであらう。此人が即ち所謂落胤である。若し落胤だとすると、水戸家は光国の庶兄頼重の曾孫たる宗尭の世となつてゐたのに、光国の庶子東清は用達商人をしてゐたわけである。

 過去帳一本の註に拠るに、五郎作の称が此時より始まつてゐる。初代以来五郎兵衛と称してゐたのに、東清に至つて始めて五郎作と称し、後に寿阿弥もこれを襲いだのである。又「俳名春局」と註してあるのを見れば、東清が俳諧をしたことが知られる。

 真志屋の屋号は、右の過去帳一本の言ふ所に従へば、東清が始て水戸家から拝領したものである。真志屋の紋は、金沢蒼夫さんの言に従へば、マの字に象つたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云ふ。

 東清は宝暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗尭が享保十五年に去つて、良公宗翰の世になつてゐた。

二十一
 真志屋の七代は西誉浄賀信士である。過去帳一本に「実は東国屋伊兵衛弟、俳名東之」と註してある。東清の壻養子であらう。浄賀は安永十(1781)年三月二十七日に歿した。水戸家は良公宗翰が明和二(1765)年に世を去つて、文公治保の世になつてゐた。

 八代は薫誉沖谷居士である。天明三(1783)年七月二十日に歿した。水戸家は旧に依つて治保の世であつた。

 九代は心誉一鉄信士である。此人の代に、「寛政五(1793)丑年より暫の間三人半扶持御滅し当時三人半被下置」と云ふことになつた。一鉄の歿年は二種の過去帳が記載を殊にしてゐる。文化三(1806)年十一月六日とした本は手入の迹の少い本である。他の一本は此年月日を書してこれを抹殺し、傍に寛政八(1796)年十一月六日と書してある。前者の歿年に先つこと一年、文化二(1805)年に水戸家では武公治紀が家督相続をした。

 十代は二種の過去帳に別人が載せてある。誓誉浄本居士としたのが其一で、他の一本には此に浄誉了蓮信士が入れて、「十代五郎作、後平兵衛」と註してある。浄本は文化十三(1816)年六月二十九日に歿した人、了蓮は寛政八(1796)年七月六日に歿した人である。今遽に孰れを是なりとも定め難いが、要するに九代十代の間に不明な処がある。浄本の歿した年に、水戸家では哀公斉脩が家督相続をした。

 これよりして後の事は、手入の少い過去帳には全く載せて無い。これに反して他の一本には、寿阿弥の五郎作が了蓮の後を襲いで真志屋の十一代目となつたものとしてある。寛政八(1796)年には寿阿弥(1769-1848)は二十八歳になつてゐた。

 寿阿弥は本江間氏で、其家は遠江国浜名郡舞坂から出てゐる。父は利右衛門、法諡頓誉浄岸居士である。過去帳の一本は此人を以て十一代目五郎作としてゐるが、配偶其他卑属を載せてゐない。此人に妹があり、姪があるとしても、此人と彼等とが血統上いかにして真志屋の西村氏と連繋してゐるかは不明である。しかし此連繋は恐らくは此人の尊属姻戚の上に存するのであらう。

 寿阿弥の五郎作は文政五(1822)年に出家した。これは手入の少い過去帳の空白に、後に加へた文と、過去帳一本の八日の下に記した文とを以つて証することが出来る。前者には、「延誉寿阿弥、俗名五郎作、文政五年壬午十月於浅草日輪寺出家」と記してあり、後者は「光誉寿阿弥陀仏、十一代日五郎作、実江間利右衛門男、文政五年壬午十月於日輪寺出家」と記してある。後者は八日の条に出てゐるから、落飾の日は文政五年十月八日である。

 わたくしは寿阿弥の手紙を読んで、寿阿弥は姪に菓子店を譲つて出家したらしいと推測し、又師岡未亡人の言に拠つて、此姪を山崎某であらうと推測した。後に真志屋文書を見るに及んで、新に寿阿弥の姪一人の名を発見した。此姪は分明に五郎兵衛と称して真志屋を継承し、尋で寿阿弥に先だつて歿したのである。

 寿阿弥が自筆の西山遺事の書後に、「姪真志屋五郎兵衛清常、蔵西山遺事一部、其書誤脱不為不多、今謹考数本、校訂以貽後生」と云ひ、「文政五(1822)年秋八月、真志屋五郎作秋邦謹書」と署してある。此年月は寿阿弥が剃髪する二月前である。これに由つて観れば、寿阿弥が将に出家せむとして、戸主たる姪清常のために此文を作つたことは明である。わたくしは少しく推測を加へて、此を以つて十一代の五郎作即ち寿阿弥が十二代の五郎兵衛清常のために書いたものと見たい。

 此清常は過去帳の一本に載せてあり、又寿阿弥の位牌の左辺に「戒誉西村清常居士、文政十三(1830)年庚寅十二月十二日」と記してある。文政十三年は即ち天保元年である。清常は寿阿弥が出家した文政五(1822)年の後八年、真志屋の火災に遇つた文政十年(1827)の後三年、寿附弥が苾堂に与ふる書を作つた文政十一年(1828)年の後二年にして歿した。書中の所謂「愚姪」が此清常であることは、殆ど疑を容れない。しかし此人と石の夫師岡久次郎の兄事した山崎某とは別人で、山崎某は過去帳の一本に「清誉涼風居士、文久元酉年七月二十四日、五郎作兄、行年四十五歳(1817-1861)」と記してあるのが即是であらう。果して然らば山崎は恐らくは鈴木と師岡(1835-1906)との実兄ではあるまい。所謂「五郎作兄」は年齢より推すに、寿阿弥(1769-1848)の兄を謂ふのでないことは勿論であるが、未だ考へられない。

 清常の歿するに先つこと一年、文政十二年に、水戸家は烈公斉昭の世となつた。

二十二
 清常より後の真志屋の歴史は愈模糊として来る。しかし大体を論ずれば真志屋は既に衰替の期に入つてゐると謂ふことが出来る。真志屋は自ら支ふること能はざるがために、人の廡下に倚つた。初は「麹町二本伝次方江同居」と云ふことになり、後「伝次不勝手に付金沢丹後方江又候同居」と云ふことになつた。

 真志屋文書に文化以後の書留と覚しき一冊子があるが、惜むらくはその載する所の沙汰書、伺書、願書等には多く年月日が闕けてゐる。

 此等の文に拠るに、家道衰微の原因として、表向申し立ててあるのは火災である。「類焼後御菓子製所大被に相成」云々と云つてある。此火災は寿阿弥の手紙にある「類焼」と同一で、文政十年(1827)の出来事であつたのだらう。

 さて二本伝次の同居人であつた当時の真志屋五郎兵衛は、病に依つて二本氏の族人をして家を嗣がしめたらしい。年月日を聞いた願書に、「願之上親類麹町二本伝次方江同居仕御用向無滞相勤候処、当夏中より中風相煩歩行相成兼其上甥鎌作儀病身に付(中略)右伝次方私従弟定五郎と申者江跡式相続為仕度(中略)奉願候、尤従弟儀未若年に御座候に付右伝次儀後見仕」云々と云つてある。署名者は真志屋五郎兵衛、二本伝次の二人である。此願は定て聞き届けられたであらう。

 しかし十二代清常と此定五郎との接続が不明である。中風になつた五郎兵衛が二十歳で歿した清常でないことは疑を容れない。已むことなくば一説がある。同じ冊子の定五郎相続願の直前に、同じく年月日を闕いた沙汰書が載せてある。これは五郎兵衛の病気のために、伯父久衛門が相続することを聴許する文である。此五郎兵衛を清常とするときは、(継承順序は十二代五郎兵衛清常、)十三代久衛門、十四代定五郎となるであらう。

 次に同じ冊子に嘉永七(1854)寅霜月とした願書があつて、これは真志屋が既に二本氏から金沢氏に転寓した後の文である。真志屋五郎作が金沢方にゐながら、五郎兵衛と改称したいと云ふので、五郎作の叔父永井栄伯が連署してゐる。此願書が定五郎相続願の直後に載せてあるのを見れば、或は定五郎は相続後に一旦五郎作と称し、次で金沢氏に寓して、五郎兵衛と改めたのではなからうか。それは兎も角も、山崎久次郎を以て兄とする五郎作は、此文に見えてゐる五郎作即ち永井栄伯の兄の子の五郎作ではなからうか。因に云ふ。寿阿弥を講じて源氏物語を講ぜしめた永井栄伯は、真志屋の親戚であつたことが、此文に徴して知られる。師岡氏未亡人の言に拠れば、わたくしが前に諸侯の抱医か町医かと云つた栄伯は、町医であつたのである。

 わたくしの真志屋文書より獲た所の継承順序は、概ね此の如きに過ぎない。今にして寿阿弥の手紙を顧ればその所謂「愚姪」は寿阿弥に家人株を買つて貰つた鈴木、師岡、乃至山崎ではなくて、真志屋十二代清常であつた。鈴木、師岡は伊沢の刀自や師岡未亡人の言の如く、寿阿弥の妹の子であらう。山崎は稍疑はしい。案ずるに偶然師岡氏と同称(久次郎)であつた山崎は、某(十四)代五郎作の実兄で、鈴木と師岡とは義兄としてこれを遇してゐたのではなからうか。清常に至つては寿阿弥がこれを謂つて姪となす所以を審にすることが出来ない。

二十三
 わたくしは師岡未亡人に、寿阿弥の妹の子が二人共蒔絵をしたことを聞いた。しかし先づ蒔絵を学んだのは兄鈴木で、師岡は鈴木の傍にあつてその為す所に傚らつたのださうである。

 わたくしは又伊沢の刀自に、其父榛軒が寿阿弥の姪をして櫛に蒔絵せしめたことを聞いた。此蒔絵師の号はすゐさいであつたさうである。

 師岡未亡人はすゐさいの名を識らない。夫師岡が此号を用ゐたなら、識らぬ筈が無い、そこでわたくしは蒔絵師すゐさいは鈴木であらうと推測した。

 此推測は当つたらしい。浅井平八郎さんは真志屋の遺物の中から、写本二種を選り出して持つて来た。其一は蒔絵の図案を集めたもので、西郭、渓雲、北可、玉燕女等と署した画が貼り込んである。表紙の表には「画本」と題し、裏には通二丁目山本と書して塗抹し、「寿哉所蔵」と書してある。其二は浮世絵師の名を年代順に列記し、これに略伝を附したもので、末に狩野家数世の印譜を写して添へてある。表紙の表には「古今先生記」と題し、裏には「嘉永四辛亥春」と書し、其下に「鈴木寿哉」の印がある。伊沢榛軒のために櫛に蒔絵したのが、此鈴木寿哉であつたことは、殆ど疑を容れない。寿哉は或はしうさいなどと訓ませてゐたので、すゐさいと聞き錯られたかも知れない。

 初めわたくしは寿阿弥の墓を討めに昌林院へ往つた。そして昌林院の住職に由つて師岡氏未亡人を知り、未亡人に由つて真志屋文書を見るたつきを得た。然るにわたくしは曾て昌林院に至りし日雨に阻げられて墓に詣でなかつた。わたくしは平八郎さんが来た時、これに告ぐるに往訪に意あることを以てした。其時平八郎さんはわたくしに意外な事を語つた。それはかうである、近頃昌林院は墓地を整理するに当つて、墓石の一都を伝通院内に移し、爾余のものは別に処分した。そして寿阿弥の墓は伝通院に移された墓石中には無かつた。師岡氏未亡人は忌日に参詣して、寿阿弥の墓の失踪を悲み、寺僧に其所在を問うて已まなかつた。寺僧は資を損てて新に寿阿弥の石を立てた。今伝通院にあるものが即是である。未亡人石は毎に云つてゐる。「原の寿阿弥のお墓は硯のやうな、締麗な石であつたのに、今のお裏はなんと云ふ見苦しい石だちう。」

 わたくしは曩に寺僧の言を聞いた時、寿阿弥が幸にして盛世碑碣の厄を免れたことを喜んだ。然るに当時寺僧は実を以てわたくしに告げなかつたのである。寿阿弥の墓は香華未だ絶えざるに厄に罹つて、後僅に不完全なる代償を得たのである。

 大凡改葬の名の下に墓石を処分するは、今の寺院の常習である。そして警察は措いてこれを問はない。明治以降所謂改葬を経て、踪迹の尋ぬべからざるに至つた墓碣は、その幾何なるを知らない。此厄は世々の貴人大官碩学鴻儒乃至諸芸術の聞人と雖免れぬのである。

 此間寺僧にして能く過を悔いて、一旦処分した墓を再建したものは、恐らくは唯昌林院主一人あるのみであらう。そして院主をして肯て財を投じて此稀有の功徳を成さしめたのは、実に師岡氏未亡人石が悃誠の致す所である。

二十四
 真志屋の西村氏は古くから昌林院を菩提所にしてゐた。然るに中ごろ婚嫁のために、江間氏と長島氏との血が交つたらしい。江間、長島の両家は浅草山谷の光照院を菩提所にしてゐたのである。

 わたくしは真志屋文書に二種の過去帳のあることを言つた。余り手入のしてない原本と、手入のしてある他の一本とである。其手入は江間氏の人々の作した手入である。姑く前者を原本と名づけ、後者を別本と名づけることにする。

 原本は昌林院に葬つた人々のみを載せてゐる。初代日水から九代一鉄まで皆然りである。そして此本には十代を浄本としてゐる。

 別本は浄本を歴代の中から除き去つて、代ふるに了蓮を以てしてゐる。これは光照院に葬られた人で、恐らくは江間氏であらう。次が十一代寿阿弥曇奝で、此人が始て江間氏から出て遺該を昌林院に埋めた。

 長島氏の事蹟は頗る明でないが、わたくしは長島氏が江間氏と近密なる関係を有するものと推測する。過去帳別本に「貞誉誠範居士、葬于光照院、長島五郎兵衛、□代五郎兵衛実父、□□□月」として「二十日」の下に記してある。四字は紙質が湿気のために変じて読むべからざるに至つてゐる。然るにこれに参照すべき戒名が今一つある、それは「覚誉泰了居士、明和六(1769)年己丑七月、遠州舞坂人、江間小兵衛三男、俗名利右衛門、九代目五郎作実祖父、葬于浅草光照院」と、「四日」の下に記してある泰了である。

 試みに誠範の所の何代を九代とすると、江間小兵衛の三男が利右衛門泰了、泰了の子が長島五郎兵衛誠範、誠範の子が真志屋九代の五郎作、後五郎兵衛一鉄と云ふことになる。別本一鉄の下には五郎兵衛としてあつて、泰了の下に九代目五郎作としてあるから、初五郎作、後五郎兵衛となつたものと見るのである。

 更に推測の歩を進めて、江間氏は世利右衛門と称してゐて、明和六(1769)年に歿した利右衛門泰了の嫡子が寛政四(1792)年に歿した利右衛門浄岸で、浄岸の弟が長島五郎兵衛誠範であつたとする。さうすると浄岸の子寿阿弥と誠範の子一鉄とは従兄弟になる。わたくしは此推測を以て甚だしく想像を肆にしたものだとは信ぜない。

 わたくしはこれだけの事を考へて、二重の過去帳を、他の真志屋文書に併せて平八郎さんに還した。

 わたくしは昌林院の寿阿弥の墓が新に建てられたものだと聞いたので、これを訪ふ念が稍薄らいだ。これに反して光照院の江間、長島両家の墓所は、わたくしに新に何物をか教へてくれさうに思はれたので、わたくしは大いにこれに属望した。わたくしは山谷の光照院に往つた。

 浅草聖天町の停留場で電車を下りて吉野町を北へ行くと、右側に石柱鉄扉の門があつて、光照院と書いた陶製の標札が懸けてある。墓地は門を入つて右手、本堂の南にある。

二十五
 光照院の墓地の東南隅に、殆ど正方形を成した扁石の墓があつて、それに十四人の戒名が一列に彫り付けてある。其中三人だけは後に追加したものである。追加三人の最も右に居るのが真志屋十一代の寿阿弥、次が十二代の「戒誉西村清常居士、文政十三(1830)年庚寅十二月十二日」、次が「証誉西村清郷居士、天保九(1838)年戊戌七月五日」である。寿阿弥は西村氏の菩提所昌林院に葬られたが、親戚が其名を生家の江間氏の菩提所に留めむがために、此墓に彫り添へさせたものであらう。清常、清郷は過去帳原本の載せざる所で、独別本にのみ見えてゐる。残余十一人の古い戒名は皆別本にのみ出てゐる名である。清郷の何人たるかは考へられぬが、清常の近親らしく推せられる。

 古い戒名の江間氏親戚十一人の関係は、過去帳別本に徴するに頗る複雑で、容易には明め難い。唯二三の注意に値する件々を左に記して遺忘に備へて置く。

 十一人中に「法誉知性大姉、寛政十(1898)年戊午八月二日」と云ふ人がある。十代の実祖母としてあるから、了蓮の祖母であらう。此知性の父は「玄誉幽本居士、宝暦九(1759)年己卯三月十六日」、母は「深誉幽妙大姉、宝暦五年乙亥十一月五日」としてある。更にこれより溯つて、「月窓妙珊大姉、寛保元(1741)年辛酉十月二十四日」がある。これは知性の祖としてあるから、祖母ではなからうか。以上を知性系の人物とする。然るに幽本、幽妙の子、了蓮の父母は考へることが出来ない。

 十一人中に又「貞誉誠範居士、文政五(1822)年壬午五月二十日」と云ふ人がある。即ち過去帳別本に読むべからざる記註を見る戒名である。わたくしは其「何代五郎兵衛実父」を「九代」と読まむと欲した。残余の闕文は月字の上の三字で、わたくしは今これを読んで「同年五月」となさむと欲する。何故と云ふに、別本には誠範の右に「蓮誉定生大姉、文政五年壬午八月」があつたから、此の如くに読むときは、此彫文と符するからである。果して誠範を九代一鉄の父長島五郎兵衛だとすると、此名の左隣にある別本の所謂九代の祖父「覚誉泰了居士、明和六(1769)年己丑七月四日」は、誠範の父であらう。又此列の最右翼に居る「範叟道規庵主、元文三(1738)年戊午八月八日」は、別本に泰了縁家の祖と註してあるから、此系の最も古い人に当り、又此列の最左翼に居る寿阿弥の父「頃誉浄岸居壬、寛政四(1792)年壬子八月九日」は、泰了と利右衛門の称を同じうしてゐるから、泰了の子かと推せられる。以上を誠範系の人物とする。江間氏と長島氏との連繋は、此誠範系の上に存するのである。

 此大墓石と共に南面して、其西隣に小墓石がある。台石に長島氏と彫り、上に四人の法諡が並記してある。二人は女子、二人は小児である。「馨誉慧光大姉、文政六(1823)年癸未十月二十七日」は別本に十二代五郎兵衛姉、実は叔母と註してある。「誠月妙貞大姉、安政三(1856)年丙辰七月十二日」は別本に五郎作母、六十四歳と註してある。小児は勇雪、了智の二童子で、了智は別本に十二代五郎兵衛実弟と註してある。要するに此四人は皆十二代清常の近親らしいから、所謂五郎作母も清常の初称五郎作の母と解すべきであるかも知れない。別本には猶、次に記すべき墓に彫つてある蓮誉定生大姉の下に、十二代五郎兵衛養母と註してある。清常には母かと覚しき妙貞があり、叔母慧光があつて、それが西村氏に養はれてから定生を養母とし、叔母慧光を姉とするに至つた。以上を清常系の人物として、これに別本に見えてゐる慧光の実母を加へなくてはならない。即ち深川霊岸寺開山堂に葬られたと云ふ「華開生悟信女、享和二(1802)年壬戌十二月六日」が其人である しかし清常の父の誰なるかは遂に考へることが出来ない。

二十六
 次に遠く西に離れて、茱萸の木の蔭に稍新しい墓石があつて、これも台石に長島氏と彫つてある。墓表には男女二人の戒名が列記してある。男女の戒名は、「浄誉了蓮居士、寛政八(1796)辰天七月初七日」と「蓮誉定生大姉、文政五(1822)午天八月二十日」とで、其中間に後に「遠誉清久居士、明治三十九(1906)年十二月十三日」の一行が彫り添へてある。了蓮は過去帳別本の十代五郎作、定生は同本の十二代五郎兵衛養母、清久は師岡久次郎即ち高野氏石の亡夫である。

 定生には父母があつて過去帳別本に見えてゐる。父は「本住院活法日観信士、天明四(1784)年甲辰十二月十七日」、母は「霊照院妙慧日耀信女、文化十二(1815)年乙亥正月十三日」で、並に橋場長照寺に葬られた。日観の俗名は別本に小林弥右衛門と註してある。然るに了蓮の祖母知性の母幽妙の下にも、別本に小林弥右衛門妻の註がある。此二箇所に見えてゐる小林弥右衛門は同人であらうか、又は父子襲名であらうか。又定生の外祖母と称するものも別本に見えてゐる。「貞円妙達比丘尼、天明七(1878)年丁未八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものが即是である。

 了蓮と定生との関係、清久の名を其間に厠へた理由は、過去帳別本の記載に由つて明にすることが出来ない。師岡氏未亡人は或はわたくしに教へてくれるであらうか。

 わたくしが光照院の墓の文字を読んでゐるうちに、日は漸く暮れむとした。わたくしのために香華を墓に供へた媼は、「蠟燭を点してまゐりませうか」と云つた。「なに、もう済んだから好い」と云つて、わたくしは光照院を辞した。しかし江間、長島の親戚関係は、到底墓表と過去張とに籍つて、明め得べきものでは無かつた。寿阿弥の母、寿阿弥の妹、寿阿弥の妹の夫の誰たるを審にするに至らなかつたのは、わたくしの最も遺憾とする所である。

 わたくしは新石町の菓子商真志屋が文政の末から衰運に向つて、一たび二本伝次に寄り、又転じて金沢丹後に寄つて僅に自ら支へたことを記した。真志屋は衰へて二本に寄り、二本が真志屋と倶に衰へて又金沢に寄つたと云ふ此金沢は、そもそもどう云ふ家であらう。

 わたくしが此「寿阿弥の手紙」を新聞に公にするのを見て、或日金沢蒼夫と云ふ人がわたくしに音信を通じた。わたくしは蒼夫さんを白金台町の家に訪うて交を結んだ。蒼夫さんは最後の金沢丹後で、祖父明了軒以来西村氏の後を承け、真志屋五郎兵衛の名義を以て水戸家に菓子を調進した人である。

 初めわたくしは渋江抽斎伝中の寿阿弥の事蹟を補ふに、其尺牘一則を以てしようとした。然るに料らずも物語は物語を生んで、断えむと欲しては又続き、此に金沢氏に説き及ばさざることを得ざるに至つた。わたくしは此最後の丹後、真志屋の鑑札を佩びて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを緘點に附するに忍びぬからである。

二十七
 真志屋と云ふ難破船が最後に漕ぎ寄せた港は金沢丹後方である。当時真志屋が金沢氏に寄つた表向の形式は「同居」で、其同居人は初め五郎作と称し、後嘉永七(1854)年即安政元年に至つて五郎兵衛と改めたことが、真志屋文書に徴して知られる。文書の収むる所は改称の願書で、其願が聴許せられたか否かは不明であるが、此の如き願が拒止せらるべきではなささうである。

 しかし此五郎作の五郎兵衛は必ずしも実に金沢氏の家に居つたとは見られない。現に金沢蒼夫さんは此の如き寓公の居つたことを聞き伝へてゐない。さうして見れば、単に寄寓したるものの如くに粧ひ成して、公辺を取り繕つたのであつたかも知れない。

 蒼夫さんの知つてゐる所を以てすれば、金沢氏が真志屋の遺業を継承したのは、蒼夫の祖父明了軒の代の事である。これより以後、金沢氏は江戸城に菓子を調進するためには金沢丹後の名を以て鑑札を受け、水戸邸に調進するためには真志屋五郎兵衛の名を以て鑑札を受けた。金沢氏の年々受け得た所の二様の鑑札は、蒼夫さんの家の筐に満ちてゐる。鑑札は白木の札に墨書して、烙印を押したものである。札は孔を穿ち緒を貫き、覆ふに革袋を以てしてある。革袋は黒の漆塗で、その水戸家から受けたものには、真志の二字が朱書してある。

 想ふに授受が真志屋と金沢氏との間に行はれた初には、縦や実に寓公たらぬまでも、真志屋の名前人が立てられてゐたが、後に至つては特にこれを立つることを須ゐなかつたのではなからうか。兎に角金沢氏の代々の当主は、徳川将軍家に対しては金沢丹後たり、水戸宰相家に対しては真志屋五郎兵衛たることを得たのである。「まあ株を買つたやうなものだつたのでせう」と蒼夫さんは云ふ。今の語を以て言へば、此授受の形式は遂に「併合」に帰したのである。

 真志屋の末裔が二本に寄り、金沢に寄つたのは、啻に同業の好があつたのみではなかつたらしい。二本は真志屋文書に「親類麹町二本伝次方」と云つてある。又真志屋の相続人たるべき定五郎は「右伝次方私従弟定五郎」と云つてある。皆真志屋五郎兵衛が此の如くに謂つたのである。金沢氏は果して真志屋の親戚であつたか否か不明であるが試に系譜を検するに、貞享中に歿した初代相安院清頓の下に、「長島撿校」に嫁した女子がある。此壻は或は真志屋の一族長島氏の人であつたのではなからうか。

 金沢氏は本増田氏であつた。豊臣時代に大和国郡山の城主であつた増田長盛の支族で、曾て加賀国金沢に住したために、商家となるに及んで金沢屋と号し、後単に金沢と云つたのださうである。系譜の載する所の始祖は又兵衛と称した。相摸国三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚を鬻ぐを業とした。蒼夫さんの所有の過去帳に「相安院浄誉清頓信士、貞享五(1688)年五月二十五日」と記してある。

二十八
 増田氏の二代三右衛門は、享保四年五月九日に五十八歳で歿した。法諡実相院頓誉浄円居士である。此人が菓子商の株を買つた。

 三代も亦同じく三右衛門と称し、享保八年七月二十八日に三十七歳で歿した。法諡寂苑院浄誉玄清居士である。四代三右衛門の覚了院性誉一鎚自聞居士は、明和六(1769)年四月二十四日に四十六歳で歿した。五代三右衛門の自適斎真誉東里威性居士は、天保六(1835)年十月五日に八十四歳で歿した。此人は増田氏累世中で、最も学殖あり最も文事ある人であつた。所謂田威、字は伯孚、別号は東里である。詩を善くし書を善くして、一時の名流に交つた。文政四年に七十の賀をした時、養拙斎高岡秀成、字は実甫と云ふものが寿序を作つて贈つた。二本伝次の妻は東里が長女の第八女であつた。真志屋が少くも此家と間接に親戚たることは、此一条のみを以てしても証するに足るのである。六代三右衛門はわたくしの閲した系譜に載せて無い、増田氏は世駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、独り此人は谷中長運寺に葬られたさうである。七代三右衛門は天保十一(1840)年十月二日に四十四歳で歿し、宝龍院乗誉依心連戒居士と法諡せられた。

 按ずるに此頃に至るまでは、金沢三右衛門は丹後と称せずして越後と称したのではなからうか。文化の末に金沢瀬兵衛と云ふものが長崎奉行を勤めてゐたが、此人は叙爵の時越後守となるべきを、菓子商の称を避けて百官名を受け、大蔵少輔にせられたと、大郷信斎の道聴塗説に見えてゐる。或はおもふに道聴塗説の越後は丹後の誤か。

 八代は通称金蔵で、天保三年七月十六日に六十一歳で歿した。法諡梅翁日実居士である。九代は又三右衛門と称し、後に三輔と改めた。素細工頭支配玉屋市左衛門の子である。明治十年十一月十一日に六十四歳で歿し、明了軒唯誉深広連海居士と法諡せられた。十代三右衛門、後の称三左衛門は明治二十年二月二十六日に歿し、栄寿軒梵誉利貞至道居士と法諡せられた。此栄寿軒の後を襲いだ十一代三右衛門が今の蒼夫さんで、大正五年に七十一歳になつてゐる。その丹後掾と称したのは前代の勅賜に本づく。

 天保元年に真志屋十二代の五郎兵衛清常が歿した時、増田氏の金沢には七十九歳の自適斎東里、五十九歳の梅翁、三十四歳の宝龍院依心、十七歳の明了軒深広、十歳の栄寿軒利貞が並存してゐた筈である。嘉永七(1854)年に最後の真志屋名前人五郎作が五郎右衛門と改称した時に至ると、明了軒が四十一歳、栄寿軒が三十四歳、弘化二(1845)年生の蒼夫さんが九歳になつてゐた筈である。

 わたくしは前に、真志屋最後の名前人五郎作改め五郎兵衛は定五郎ではなからうかと云つた。それは定五郎が真志屋文書に載する所の最後の家督相続者らしく見えるからであつた。しかし更に考ふるに、此定五郎は幾くならずして廃められ、天保弘化の間に明了軒がこれに代つてゐて、所謂五郎作改五郎兵衛は明了軒自身であつたかも知れない。

 真志屋の自立してゐた間の菓子店は、既に屢云つたやうに新石町、金沢の店は本石町二丁目西角であつた

二十九
 わたくしは駒込願行寺に増田氏の墓を訪うた。第一高等学校寄宿舎の西、巷に面した石垣の新に築かれてゐるのが此寺である。露次を曲つて南向の門を入ると、左に大いなる鋳鉄の井欄を見る。井欄の前面に掌大の凸字を以て金沢と記してある。恐らくは増田氏の盛時のかたみであらう。

 墓は門を入つて右に折れて往く塋域にある。上に仏像を安置した墓の隣に、屋蓋形のある石が二基並んで、南に面して立つてゐる。台石には金沢屋と彫り、墓には正面から向つて左の面に及んで、許多の戒名が列記してある。読んで行く間に、明了軒の諡が系譜には運海と書してあつたのに、此には連海に作つてあるのに気が付いた。金石文字は人の意を用ゐるものだから、或は系譜の方が誤ではなからうか。

 拝し畢つて帰る時、わたくしは曾て面を識つてゐる女子に逢つた。恐くは願行寺の住職の妻であらう。此女子は曩の日わたくしに細木香以の墓ををしへてくれた人である。

 「けふは金沢の墓へまゐりました。先日金沢の老人に逢つて、先祖の墓がこちらにあるのを聞いたものですから。」とわたくしは云つた。

 「さやうですか。あれはこちらの古い檀家だと承はつてゐます。昔の御商売は何でございましたでせう。」

 「菓子屋でした。徳川家の菓子の御用を勤めたものです。維新前の菓子屋の番附には金沢丹後が東の大関になつてゐて、風月堂なんぞは西の幕の内の末の方に出てゐます。本郷の菓子屋では、岡野栄泉だの、藤村だの、船橋屋織江だのが載つてゐますが、皆幕外です。なんでも金沢は将軍家や大名ばかりを得意先にしてゐたものだから、維新の時に得意先と一しよに滅びたのださうです。今の老人の細君は木場の万和の女です。里親の万屋和助なんぞも、維新前の金持の番附には幕の内に這入つてゐました。」

 わたくしはこんな話をして女子に別を告げた。美しい怜悧らしい言語の明断な女子である。

 増田氏歴代の中で一人谷中長運寺に葬られたものがあると、わたくしは蒼夫さんに聞いた。家に帰つてから、手近い書に就いて谷中の寺を撿したが、長運寺の名は容易く見附けられなかつた。そこでわたくしは錯り聞いたかも知れぬと思つた。後に武田信賢著墓所集覧で谷中長運寺を撿出して往訪したが、増田氏の墓は無かつた。寺は渡辺治右衛門別荘の辺から一乗寺の辻へ抜ける狭い町の中程にある。

 蒼夫さんはわたくしの家を訪ふ約束をしてゐるから、若し再会したら重ねて長運寺の事をも問ひ質して見よう。

三十
 諸書の載する所の寿阿弥の伝には、西村、江間、長島の三つの氏を列挙して、曾て其交互の関係に説き及ぼしたものが無かつた。わたくしは今浅井平八郎さんの齎し来つた真志屋文書に拠つて、記載のもつれを解きほぐし、明め得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金沢蒼夫さんを訪うて、系譜を閲し談話を聴き、寿阿弥去後の真志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの糸を断ち裁つた縫新の期に迨んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは略此に尽きた。

 然るに浅井、金沢両家の遺物文書の中には、撿閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。

 浅井氏のわたくしに示したものゝ中には、寿阿弥の筆跡と称すべきものが少かつた。袱紗に記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながら太だ意を用ゐずして写した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短冊二葉を糸で綴ぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ八十のちまたの門の松」と書し、下に一の寿字が署してある。今一葉には「八十になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「寿松」と署してある。

 此二句は書估活東子が戯作者小伝に載せてゐるものと同じである。小伝には猶「月こよひ枕団子をのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。

 寿阿弥は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四(1847)年十二月晦日の作、歳旦の句は嘉永元(1848)年正月朔の作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にして病革なるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、寿阿弥には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、寿阿弥の辞世として伝へられてゐるが、わたくしは取らない。

 月今宵は少くも灑脱の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし万葉の百足らず八十のちまたを使つてゐるのが、寿阿弥の寿阿弥たる所であらう。

 短冊の手迹を見るに、寿阿弥は能書であつた。字に媚嫵の態があつて、老人の書らしくは見えない。寿の一字を署したのは寿阿弥の省略であらう。寿松の号は他に所見が無い。

三十一
 連歌師としての寿阿弥は里村昌逸の門人であつたかと思はれる。わたくしは真志屋の遺物中にある連歌の方式を書いた無題号の写本一冊と、弘化嘉永間の某年正月十一日柳営之御会と題した連歌の巻数冊とを見た。無題号の写本は表紙に「如是縁庵」と書し、「寿阿弥陀仏印」の朱記がある。巻尾には「享保八年癸卯七月七日於京都、里村昌億翁以本書、乾正豪写之」と云ふ奥書があつて、其次の余白に、「先師次第」と題した略系と「玄川先祖より次第」と題した略系とが書き添へてある。連歌の巻々には左大臣として徳川家慶の句が入つてゐる。そして嘉永元(1848)年前のものには必ず寿阿弥が名を列して居る。

 先師次第にはかう記してある。「宗砥、宗長、宗牧、里村元祖昌休、紹巴、里村二代昌叱、三代昌琢、四代昌程、弟祖白、五代昌陸、六代昌億、七代昌迪、八代昌桂、九代昌逸、十代昌同」である。玄川先祖より次第にはかう記してある。「法眼紹巴、同玄仍、同玄陳、同玄俊、玄心、紹尹、玄立、玄立、法橋玄川寛政六年六月二十日法橋」である。

 二種の略系は里村両家の承統次第を示したものである。宗家昌叱の裔は世京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし後には両家共京住ひになつたらしい。

 わたくしは此略系を以て寿阿弥の書いたものとして、宗家の次第に先師と書したことに注目する。里村宗家は恐くは寿阿弥の師家であつたのだらう。然るに十代昌同は寿阿弥の同僚で、連歌の巻々に名を列してゐる。其「先師」は一代を溯つて故人昌逸とすべきであらう。昌逸昌同共に「百石二十人扶持京住居」と武鑑に註してある。

 寿阿弥の連歌師としての同僚中、坂昌功は寿阿弥と親しかつたらしい。真志屋の遺物中に、「寿阿弥の手向に」と端書して一句を書し、下に「昌功」と署した短冊がある。坂昌功は初め浅草黒船町河岸に住し、後根岸に遷つた。句は秋季である。しかし録するに足らない。川上宗寿が連歌を以て寿阿弥に交つたことは、苾堂に遣つた手紙に見えてゐた。

 真志屋の扶持は初め河内屋島が此家に嫁した時、米百俵づゝ三季に渡され、次で元文三(1738)年に七人扶持に改められ、九代一鉄の時寛政五(1793)年に暫くの内三人半扶持を滅して三人半扶持にせられたことは既に記した。真志屋文書中の「文化八(1811)年未正月御扶持渡通帳」に拠るに、此後文化五(1808)年戊辰に「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持被下置」と云ふことになつた。これは十代若くは十一代の時の事である。真志屋文書はこれより後の記載を闕いてゐる。然るに金沢蒼夫さんの所蔵の文書に拠れば、天保七(1836)年丙申に又「一人扶持借上暫くの内一人扶持被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたのである。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き続いて 水戸家が真志屋の後継者たる金沢氏に給してゐたさうである

三十二
 西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衛が、西村氏の真志屋五郎兵衛と共に、世水戸家の用達であつたことは、夙く海録の記する所である。しかしわたくしは真志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを知らなかつた。そのこれを知つたのは、金沢蒼夫さんを訪うた日の事である。

 わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半兵衛、元和中(1615-1624)より麪粉類御用相勤」云々の文があつた。河内屋は粉商であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識は啻にそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達たることは此文に徴して知られたのである。慶長中(1596-1615)に水戸頼房人国の供をしたと云ふ真志屋の祖先に較ぶれば少しく遅れてゐるが、河内屋も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。

 金沢氏六代の増田東里には、弊帚集と題する詩文稿があることを、蒼夫さんに聞いた。わたくしは卒に聞いて弊帚の名の耳に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の粟山潜鋒に弊帚集六巻があつて火災に罹り、弟敦恒が其燼余を拾つて二巻を為した。載せて甘雨亭叢書の中にある。東里の集は偶これと名を同じうしてゐたのであつた。

 わたくしの言はむと欲した所は是だけである。只最後に附記して置きたいのは、師岡未亡人石と東条琴台の家との関係である。

 初め高野氏石に一人の姉があつて、名をさくと云つた。さくは東条琴台の子信升に嫁して、名をふぢと改めた。ふぢの生んだ信升の子は夭し、其女が現存してゐるさうである。

 浅井平八郎さんの話に拠るに、石は嘗て此縁故あるがために、東条氏の文書を託せられてゐた。文書は石が東条氏の親戚たる下田歌子さんに交付したさうである。

 わたくしは琴台の事蹟を詳にしない。聞く所に拠れば、琴台は信濃の人で、名は耕、字は子臧、小字は義蔵である。寛政七(1795)年六月七日芝宇田川町に生れ、明治十一年九月二十七日に八十四歳で歿した。文政七(1824)年林氏の門人籍に列し、昌平黌に講説し、十年榊原遠江守政令に聘せられ、天保三(1832)年故あつて林氏の籍を除かれ、弘化四(1847)年榊原氏の臣となり、嘉永三(1850)年伊豆七島全図を著して幕府の譴責を受け、榊原氏の藩邸に幽せられ、四年謫せられて越後国高田に往き、戊辰の年には尚高田幸橋町に居つた。明治五年八月に七十八歳で向島亀戸神社の祠官となり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふことである。先哲叢談続編に「先生後獲罪、謫在越之高田、(中略)無幾王室中興、先生嘗得列官于朝」と書してある。琴台の子信升の名は、平八郎さんに由つて始て聞いたのである。

(大正五年五、六月)

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これは網迫氏が作成し、http://csx.jp/~amizako/ に公開しておられるものを岩波書店刊『鷗外歴史文学集』第四巻に従つて修正し、適宜西暦年号を付けたものです。