他人がどのようにして金儲けをしているかは大いなる謎である。あの人はどうやって金儲けをしているのだろうと思うことはよくある。それ以上に、いったい
どうやったらお金をうまく稼げるのだろうかと思うことがある。
そういう思いにとらわれる人はこの『資本論』を読むとよい。すると、金のある人は金を元手にして金儲けをするが、金のない人は汗を出して金儲けをするし
かないという、ごく当たり前のことを教えられる。もちろん、前者が資本家であり、後者が労働者である。
また、物を売り買いして金儲けをするのはおかしいと思う人がいるかもしれない。なぜなら、物々交換とは同じ値打ちのものを交換することである。それな
ら、お金で物を買うときも品物の値打ちと同じ価値のお金を払うべきだ。それなのに、仕入れ値に利益を上乗せして物を売るのは正直ではない。こんなふうに思
う人はこの本を読めばよい。商人はけっして利益を上乗せして売るようなインチキをしているわけではないことがこれを読めば分かる。
ものの価値とは何だろうと考えることもあるだろう。例えば、ゴッホの絵はあんなにへたくそなのに何億と値が付く。それは、あの絵を欲しがる人が多くて、
しかも金に糸目を付けない人がいるからだろう。しかし、ゴッホが生きていたときには何の価値もなかったものが、どうして今ではあんなに価値があるのだろう
か。そんな疑問を持った人にもこの本はおすすめだ。
また、政府がどうしていつまでも景気を回復できないでいるのか知りたい人も、これを読めば多少の参考にはなるだろう。すくなくとも、資本主義経済では物
の値段は人間の思い通りにはならないこと、人ではなく物がこの社会を支配していることが分かるだろう。
それらのことをマルクスは、商品というものの存在を分析することから解明していった。
たとえば靴は履き物として使うほかに別の物と交換する道具として使うこともできると言ったのは、アリストテレスだ。これは要するに物々交換のことを言っ
ているのであるが、物々交換専用に作られたものが商品であり、物々交換の進んだ形が貨幣経済だ。
そこでマルクスは、同じ価値の物同士の交換である物々交換の分析から出発して、商品とはなにか、貨幣とはなにかを明らかにしようとした。そこから出発し
て、最終的に資本主義経済を解明しようとしたのがこの本である。
しかし、最近では『資本論』を読もうとしても、本屋で見かけることもむつかしくなった。社会主義や共産主義の失敗があきらかになった現代では、マルクス
の書いた『資本論』などはその失敗の原因のようなものだと思われて誰にも読まれなくなっている。
しかし、実は『資本論』とは社会主義や共産主義の教典ではないし、左翼活動のバイブルでもない。
この本は、商品とは何か、商品の価値とは何か、労働とは何か、お金とは何か、利潤とは何か、資本とは何かが明らかにしたものである。しかし、それだけで
はなく、資本主義社会がどれほど人間を不幸にしているかをも明らかにしている。その意味では、糾弾の書である。
つまり、『資本論』とは、近代経済の仕組みを分析した学者の研究書であるだけでなく、資本主義が如何に非人間的であるかを明らかにした書物なのである。
ところが、『資本論』を手に入れていざ読もうとしても、とても読めたしろものではないことがすぐに分かる。内容が難しいのだけでなく、そもそも何が書い
てあるか分からないのだ。
本当のことを言うと、難しいのは最初だけである。一番よく出回っている新日本出版社の新書本でいえば、一冊目だけが難しい。しかもその最初の第一章と第
二章だけが難しい。さらに、第二章の内容は第一章の内容の言い換えでしかないから、第一章さえ乗り越えればよいのだ。そうすれば後は小説でも読むように読
めるだろう。
この第一章が難しい原因の一つが日本の翻訳書だ。英訳ならまだ分かるように訳してある。ところが、日本語の訳はどれもこれもひどい直訳で、見たこともな
いような漢字の熟語がつぎつぎに出してきて、わけの分からないものにしてしまっている。
もっとも、マルクスも言い方も分かりにくいことが多い。例えば、第一章商品の第一節の題名は、「商品の二つの要素:使用価値と価値」となっているが、使
用価値と価値を分けて考えるとはどういうことか。そもそも、使用価値は価値の一つではないのかと言いたくなる。初っぱなから分かりにくいのだ。
実は、マルクスのいう「価値」と「使用価値」は別物なのだ。それは本文を読んではじめて分かることである。それでは不都合だということでフランス語版で
は「使用価値と交換価値つまり本来の価値」と変えてある。では、マルクスの言う「価値」とは交換価値のことかというとそうでもない。
たとえば、机の値段は何で決まるか。それは机の使用価値かと言えばそうではない。どんな机もその上でものを書いたり読んだりするのに使うという点では変
わらない。だから、基本的に使用価値ではどの机の値段も差が付かない。ものの値段、つまりものの価値を考えるときには使用価値は考えてはいけないのだ。
では、机の値段の違いは何から来るかと言えば、その机をつくるのにどれだけ手がかかっているかだろう。いい材料を使えば高くなるが、そのいい材料も探し
てくるのに手間がかかる。こういうふうに、その机を作るのにどれだけ労力がかかっているかで価値は決まる。これを労働価値と呼ぶ人もいる。マルクスにとっ
ての商品の「価値」とは、まさにこのことである。
しかし、マルクスはこれを単に「価値」と呼んでいるので注意がいる。
逆に、机の使用価値は、それを作るにのどれほど手が掛かっているかとは関係がない。いくら手が込んだ机でも、使い方は同じだからである。
しかし、その机は実際に市場で何円の価値があるかとなれば、別の考え方を導入する必要がある。つまり何円の価値があるかと言うことは、何円のお金と交換
できるかということである。そこで交換価値という考え方がでてくる。
このように考えると、商品には使用価値と「価値」と交換価値があることがわかる。資本論の中でもこの三つの価値が論じられるのだが、その順番は使用価
値、交換価値、価値となっている。
この中で注目すべきは、この「価値」の概念が広まるためには、人間が平等であるという考え方が広まる必要があるということだ。だから、奴隷制労働に基づ
いていた古代ギリシャのアリストテレスには、この「価値」の概念が分からなかった。
しかし、マルクスは、この「価値」の概念を広めた貨幣経済の発達が、人間の平等という考え方を広めるのに貢献したとも言っている。
貨幣経済では金さえあれば何でも買える。貨幣経済とは商品をお金に交換することである。お金に代えられるということによって、さまざまの商品の違いはな
くなってしまう。商品は全て平等なのだ。なぜなら、お金は平等だから。
お金が平等なのは、労働が平等だからである。労働が平等なのは、人間が平等だからである。こうして、貨幣経済の発達と、人間の平等とは共に発展したので
ある。人間が平等になったのは、貨幣経済が発達したからなのだ。
そもそも、価値の大きさを決めるのが労働時間の長さである以上、それが誰の労働であるかを区別するのは意味がない。価値でありさえすれば、それがどこの
馬の骨が作った価値であろうと価値に変わりはない。恋に貴賤の上下はないというわけである。
この分析の中では、商品の価値の分析と労働の分析が平行して行われていて、それが分かりにくいところだ。しかし、労働が「価値」を作り出している以上
は、この二つの分析が平行して行われるのは当然のことなのである。マルクスにとっては「価値」の研究をするということは、とりもなおさず労働の研究をする
ことである。だから、マルクスが労働のことをあれこれ言い出したら、これは価値のことつまりお金のことを言っているのだと思いながら読むといい。
この本では「形態」という言葉がしょっちゅう出てくる。これもこの本の分りにくさの原因の一つだ。この言葉は「あるものがそのもの自体としての意味だけ
でなく、別のものとして意味を持っている」あるいは「別の物としての役割を果たす。あるいは機能を持つ」ということを言いたいときに出てくる。
たとえば、商品は利用される物としての役割だけでなく、「価値」としての役割もある。そういう場合に、商品の「価値の形態」「価値形態」という言い方を
する。逆に、その本来の役割は「自然形態」と呼ばれる。しかし、日本語で理解する場合には、「形態」という言葉を省略して考える方が分かりやすいことが多
い。
また、「何々の現象形態である」という言い方もしきりに出てくる。この場合は、「何々を表す役割を持っている」あるいは「何々の表れとしての意味をもっ
ている」ということである。
実際、この本は有名な本ではあるが、読まれることの少ない本でもある。その第一の原因は、上でも言ったように、日本語の読みやすい翻訳書がないことであ
る。どれもこれもマルクスが軽蔑したガチガチの直訳ばかりなのだ。
色々ある和訳書の中では、わたしの知る限り、大月書店の「マルクス・エンゲルス全集」(文庫本にもなっている)が比較的に優れている。これも直訳である
が「抽象」ではなく「捨象」を使っており、また前後の脈略を意識して訳されており、一番整然とした日本語になっている。
古本屋でよく見かけるのは新日本出版社の新書版のものだが、大月書店のものより新しいにもかかわらず、訳が荒っぽく日本語の質はむしろ低下している。そ
れなのに訳語に困ったら大月書店の訳語を利用してさえいる。訳語の統一も同じ訳者の担当範囲でさえなされていないことがある。
例えば、620頁で「法律的」、622頁で「法則」、623頁で「規則」と訳されている言葉はすべて Gesetzかその派生語であり、同じ文脈で使われている。特に「法律的」は意味不明だ。
くだけた日本語に訳されているものとしては、「世界の名著54マルクス・エンゲルス」がある。ただし、この訳は独訳の難しいところを英訳から直訳してい
るところが多くあるし、例の個所で「抽象」を使っているなど、わけの分からない部分も多い。
書店で新刊本としてよく見かけるのは岩波文庫だけだろう。しかし、これは避けた方がよい。何と言っても古すぎる。
しかし、結局、『資本論』の場合も英訳で読む方がはるかに簡単だ。よい英訳や仏訳がたくさんある。しかも、そのう
ちのいくつかはインターネット上で公開されている。だから、読みにくい和訳の解読に時間を浪費することはないのである。英訳ならどんどん読めるのだ。もち
ろん、ドイツ語もある。
そのうちでも特に仏訳は、最初の仏訳のあまりの直訳ぶりに業を煮やしたマルクス本人が手を加えたものだと言われており信頼度が高い。
しかし、日本語の訳書でも、第一章さえ乗り越えてしまえば、あとは何とか読める。第三章以降は普通に読めると言ってもいい。哲学的なのは最初だけなの
だ。
ここに公開する『資本論』は「第一章商品」の意訳である。こ
れなら大体のことは誰でも分かると思う。少なくとも日本語として読めるはずだ。
『資本論』はそれ以前の経済学の内容を全否定したものではなく、それを土台にして書かれている。だから、『資本論』はマルクス主義者でなくても、経済学
を学びたければ是非読んでおきたい古典中の古典である。もちろん、経済学に取り組むのにもっと手頃な入門書はあるだろう。『資本論』自身の解説書もたくさ
んある。しかし、結局は本物に立ち戻るしかないのだ。
Hic Rhodus, hic
salta! 「ここがロードス島だ。ここで跳べ」(イソップ寓話集の中で、ロードス島でなら高く跳べると言い張る走り高跳びの選手に、ある人がいった言
葉。『資本論』第4章「貨幣の資本への転化」第2節「一般的定式の諸矛盾」の末尾に引用された)なのである。