『資本論』

──カール・マルクス

Last updated on 2003/4/7(JST)


目次

第一章 商品
 第一節 商品に は二つの面、すなわち使用価値と「価値」(=価値の実体、価値の量)がある。
 第二節 商品に表われている労働には二つの面がある。
 第三節 商品がもつ価値としての形態あるいは交換価値について
  A.単純な価値形態、単独の価値形態、あるいは偶然な価値形態
   1.価値を表わす等式の二つの極:相対的な価値形態と等価物の形態
   2.相対的な価値形態
    a.相対的な価値形態の中身
    b.相対的な価値形態がもつ数量面の特徴
   3.等価物の形態
   4.単純な価値形態のまとめ
  B.総体的な価値形態、あるいは、長く伸びた価値形態
   1.長く伸びた相対的価値形態
   2.個別の等価物の形態
   3.総体的な価値形態あるいは長く伸びた価値形態の欠点
  C.普遍的な価値形態
   1.価値形態の性格の変化
   2.相対的な価値形態と等価物の形態の発展関係
   3.普遍的な価値形態から貨幣形態への移行
  D.貨幣形態
 第四節 商品の物神性とそのからくり

凡例 ()の数字は原著者注の番号。 但し、番号だけである。注の中身は既存の訳書等を参照されたい。
    <>の数字は原著書のページ番号。但し、その段落の中にページの変わり目が来る。
    (=~)は訳者の注であり、=のないものは原文にもある括弧である。


第一章 商品



第一節 商品には二つの面、すなわち使用価値と「価値」(=価値の実体、価値の量) がある。


<49> 資本主義が行われている国の総資産は「巨大な商品の集積」(1)であり、個々の商品がその基本的な要素であるように見える。した がって、われわれの研究は商品の研究から始まる。

 商品とは、まず最初に、人間が利用する物であって、人間の何らかの欲求を満たす属性を備えた物だといえる。この欲求が胃袋に発するものであるか空想に発 するものであるかは重要ではない(2)。また、生活手段つまり食料のように人間の欲求を直接満たすものであるか、それとも生産手段のように間接的に満たす ものであるかも重要ではない。
 
<50> 紙や鉄など人間の役に立つものは、それが何であれ性質と数量という二つの観点から見ることができる。人間の役に立つものはどれで あっても全体として様々な属性を備えたものなので、様々な面で人の役に立つことができる。人間は歴史を通じて、この様々な面を物の中に発見して、様々な利 用方法を見つけ出してきた(3)。同時に、この便利な物の量を計るための社会的な尺度も見つけてきた。商品を計測する尺度は、計る対象の様々な性質や、習 慣に応じて様々である。

 ある物が便利だとか有用だとかいうことは、その物は使うに値する、つまり使用価値があるということである(4)。物の便利さや有用さというものは空中の どこかに浮んでいるものではない。それは商品という現実の物の属性であって、現実の商品なしには存在しえないものである。だから、たとえば、鉄や小麦やダ イヤモンドという現実の商品が使用価値であり富なのである。ある商品が有用性という属性を持っているかどうかは、その商品にどれだけ多くの人手が掛かって いるかとは関係がない。

 商品の使用価値を考えるときには、われわれは常にその商品の数を数えずにはいられない。われわれは何ダースの時計とか何反の布地(=ここではリンネル、 亜麻布)と か何トンの鉄とかいうのである。ただし、個々の商品の使用価値については、そのための学問である商品学にまかせればよい(5)。
 
 使用価値が実際に現われてくるのは、商品が使用されたり消費されたりする場面である。使用価値は、社会の中で様々な形をした物的資産の内容を形作ってい る。これから我々が考察しようとしている資本主義社会では、使用価値は同時にもう一つの価値、すなわち交換価値の物的な担い手ともなっている。

<51> 交換価値は、一見するところ、使用価値のある物を別の使用価値のある物と交換するときの割合、つまり、ある商品とある商品の量的な 関係であるように思われる(6)。この割合は時と場所によって変化する。したがって、交換価値は全く相対的なものであって、偶然的要素が大きいように思わ れる。だから、「商品が自分自身の中にもっている本質的な交換価値」などと言うならばそれは矛盾であると思われる(7)。この問題をもう少し詳しく見てみ よう。
 
 ある商品、たとえば1クォーター(=約291リットル)の小麦は、靴墨や絹織物や金などの様々な商品と、それぞれ異なる割合で交換できる。したがって、 小 麦はたった一つではなく様々な交換価値を持っている。しかしながら、それぞれに異なる量の靴墨と絹織物と金などが全部同じように1クォーターの小麦の交換 価値を表わしているということは、各々の量の靴墨と絹織物と金なども交換価値であって、互いに交換できるということであり、同じ大きさであるということで ある。

 ここから言えることは、まず第一に、一つの商品がもっている様々な交換価値は一つの同じ物を表わしているということであり、第二に、交換価値とは、要す るに、単なるそれ自身とは別の内容による現れ方、あるいは別の内容による表現方法でありうるということである。
 
 次に、小麦と鉄という二つの商品を例にとってみよう。この二つの商品が交換される関係は、両者の交換比率が如何なるものであろうと、常に特定の量の小麦 とある量の鉄が等しいことを示す一つの等式によって表わすことができる。つまり、
 
 1クォーターの小麦=aツェントナー(=約40キロ)の鉄
 
ということになる。この等式が意味することは何だろうか。それは、1クォーターの小麦とaツェントナーの鉄という二つのまったく異なるものの中に、同じ大 きさの共通なものが存在するということである。つまり、この二つのものは、そのどちらとも異なる三つ目のものと等しいのである。ということは、この二つの ものはいずれも、その交換価値に関する限り、この三つ目のものに置き換えることができるということになる。

 このことは簡単な幾何学の例で説明することができる。多角形の面積を計算して比較する場合、多角形は複数の三角形に分解される。しかし、三角形はその見 かけ上の形とは全く異なる「底辺かける高さ割る2」という表現に置き換えられる。それと同じように、様々な商品のもつ交換価値は、ある共通なものの大きさ に換算されて、その大小で表わされるのである。

<52> この共通なものは、商品がもっている幾何学的属性でも物理学的属性でも化学的属性でも、その他自然に備わったどんな属性でもありえ ない。商品のそのような物としての属性が問題になるのは、それによって様々な使用価値が商品にもたらされる場合だけである。他方、商品の交換関係の明らか な特徴は、そこでは商品の使用価値が度外視されることである。商品と商品が交換される場では、適当な割合の量さえあれば、ある使用価値と別の使用価値の間 には何の違いもなくなるのである。
 
 むかしバルボンが「交換価値が同じなら、ある種類の商品と別の種類の商品とは同じ値打ちである。なぜなら、同じ交換価値をもつ二つのものの間には、どん な違いも存在しないからである」(8)と言ったのは、このことを言ったのである。
 
 つまり、使用価値という面から見れば、様々な商品には何よりもまず性質的な違いがあるが、交換価値という面から見れば、様々な商品には数量的違いしかな く、そこにはいささかの使用価値も含まれないのである。
 
 ところで、商品という現実の物から使用価値がなくなっても、そこにはまだ一つの属性が消えずに残っている。それは労働によって生産された物であるという 属性である。しかし、この労働生産物という属性も今では元のままではありえない。なぜなら、労働生産物から使用価値を取り去るということは、それを使用価 値たらしめている物質的な構成要素も形も取り去ることになる。それはもはや机でも家でも糸でもその他どんな有用なものでもないのだ。生産物に備わっていて 感覚で捉えられるような特徴はすべて消え去っている。
 
 それはまた、もはや家具師の労働の産物でも大工の労働の産物でも紡ぎ師の労働の産物でも、その他いかなる特定の生産的労働の産物でもないということであ る。労働生産物の有用な特徴を取り去ると、そこに表われている労働それ自体の有用な特徴も消え去ってしまうのである。それと同時に、この労働の多様な具体 的形態も消え去ってしまう。その結果、それぞれの労働の違いはなくなってしまい、全ての労働は同じ「人間の労働」、抽象的な「人間の労働」に還元されてし まうのである。
 
 さて、様々な労働生産物から色んなものを差し引いたあとに残った物をよく見てみよう。すると、様々な労働生産物の内容でいま残っているのは、同種のとら えどころのない物体であり、それぞれの違いの無くなった「人間の労働」の単なる固まりである。言い換えれば、それは生産物に注ぎ込まれた「人間の労働力」 の固まりであって、それがどのような形で注ぎ込まれたかは問われないのである。いまや労働生産物が表わしているのは、それを生産するために「人間の労働 力」が注ぎ込まれたということ、つまり、その中に「人間の労働」の蓄積があることだけである。そして、このような様々な生産物に共通する社会的な実体(= 人間の労働)の結実としてみたときの労働生産物こそが「価値」すなわち商品価値なのである。
 
<53> 商品と商品が交換される関係においては、商品の交換価値は商品の使用価値にはまったく依存しないことはすでに明らかである。いま実 際に、労働生産物からその使用価値を取り去ることによって、上で定義したような労働生産物の「価値」が得られた。すると、商品の交換関係や商品の交換価値 の中に指摘された共通なものとは商品の「価値」だということになる。この探求が進んでいけば、あとでわれわれはこの交換価値をふたたび扱うことになるが、 その時には、交換価値は「価値」の必然的な表現方法、あるいは「価値」の現象形態として現われるだろう。けれども、ここではとりあえずその形態は別にして 商品の「価値」の方を考察していこう。
 
 さて、使用価値あるいは富としての商品が「価値」を持っているのは、ひとえに抽象的な「人間の労働」が商品という形に具体化されているからに他ならな い。では、商品の価値の量はどのようにして計るのだろうか。それは、その商品に含まれる「価値を形作る実体」つまり労働の量によって計られる。そしてこの 労働の量は時間の長さによって計られる。さらに、この労働時間は何日とか何時間とかの単位で計られる。
 
 商品の「価値」がそれを作るのに費やした労働の量によって決まるとすれば、未熟な労働者であるほど、それを作るのに多くの労力を要するから、商品の「価 値」も高くなるように思われるかも知れない。しかし、「価値」の実体を形作る労働とは、同じ「人間の労働」であり、同じ「人間の労働力」の注入なのであ る。全ての商品の「価値」の中に表われている社会の全ての労働力は、無数の個別の労働力から成っているにもかかわらず、ここでは全く同じ「人間の労働力」 と見なされる。つまり、この無数の個別の労働力の各々はどれも、他の労働力と同じ「人間の労働力」なのである。ということは、個々の労働力は社会の平均的 な労働力であるという特徴を備えており、そのような社会の平均的な労働力として機能するということであり、ある商品を生産するのに、平均的に必要とされる 労働時間あるいは社会的に必要とされる労働時間しか要しないということである。
 
 この社会的に必要とされる労働時間とは、社会に存在する普通の生産条件を使って、その社会の平均的な技能レベルと集中力をもって、何らかの使用価値を持 つ物を生産するのに必要な労働時間のことである。
 
 英国で蒸気式の織機が導入されてからは、一定量の糸を布地に変えるのに要する労働は以前の約半分ですむようなった。一方、手工業者が同じ量の糸を布地に 変える労働時間は以前と同じである。しかし、手工業者が一人で時間をかけて作った商品も、社会的にはその半分の労働時間しか意味せず、その商品の価値も以 前の半分になってしまうのである。
 
<54> 以上から、社会的に必要とされる労働の量、つまりある使用価値を作り出すためにその社会で必要とされる労働時間だけが、商品の価値 の量を決めているということが分かる(9)。ここでは個々の商品はその商品の種類の平均的な典型と見なされる(10)。同じ大きさの労働量が含まれている 商品、つまり同じ労働時間で作ることのできる商品は同じ価値の量を持っている。ある商品の「価値」と別の商品の「価値」の比率は、その商品を作るのに要す る時間と別の商品を作るのに要する時間の比率と同じである。「全ての商品は価値として見たときは、ある量の労働時間の固まりにすぎない」(11)(マルク ス『経済学批判』)
 
 すると、もしある商品を作るのに必要な労働時間が変わらなければ、その商品の価値の量も変わらないことになる。しかしながら、商品を作るのに必要な労働 時間は、その労働の生産力が変われば変わってくる。この労働生産力は様々な要素で決まってくる。それは例えば、労働者たちの平均的な技能レベルであり、科 学の発展のレベルとそれを技術的に応用する力、生産工程の社会的な組織化、生産手段の規模とその効率性、さらには自然環境である。
 
 これは例えば、同じ量の労働を使っても、豊作の年には8ブッシェル(=約300リットル)の小麦が収穫できるのに、不作の年には4ブッシェルしか収穫で き ないということである。また、同じ量の労働を使っても、豊かな鉱脈の方が、貧しい鉱脈よりたくさんの金属を産出するということである。
 
<55> 地球の浅いところにはダイヤモンドは滅多に存在しない。だからそれを発見するには大抵の場合多大の労働時間を必要とする。だから、 少しの量のダイヤモンドが多大な労働を意味する。金でさえその「価値」に見合った値段で売り買いされたことはないと言う人がいる。ダイヤモンドはなおさら である。

 ブラジルの鉱山から80年間に産出されたダイヤモンドは、ブラジルの砂糖キビ農園やコーヒー農園の1年半の平均生産物と比べると、労力つまり価値の点で はるかに上回っているにもかかわらず、価格の面ではそれらに及ばないという人もいる。
 
 豊かな鉱山なら、同じ量の労働を使ってより多くのダイヤモンドが産出されるから、ダイヤモンドの「価値」は下がる。もし、少しの労働で炭素をダイヤモン ドに変えることができるようになれば、ダイヤモンドの「価値」は煉瓦の「価値」よりも下がる可能性がある。
 
 一般的に言って、労働生産力が増せば増すほど、製品を作るのに必要な労働時間は短くなり、その製品の中に結実している労働の量も小さくなり、製品の「価 値」も下がる。逆に、労働生産力が下がれば下がるほど、製品を作るのに必要な労働時間は長くなり、製品の「価値」も上がる。したがって、ある商品の価値の 量は、その商品に具体化されている労働の量に比例し、労働生産力に反比例して変化する。
 
 ただし、使用価値はあるが上記の意味での「価値」を持たない物もある。便宜を享受するのに労働を必要としないものがそれである。たとえば、空気、処女 地、自然の草原、野生の木などがそうである。
 
 また、人間の労働の生産物で便利なものなのに商品ではないものがある。自分が作ったもので自分の欲求を満たしているだけの人は、使用価値を作り出しては いるが、商品を作っているわけではない。商品を作るためには、単に使用価値を作るだけではなく、他人にとっての使用価値、社会的な使用価値を作らなければ ならない。
 
 結局、ある物が「価値」であるためには、人が利用するものでなければならないのである。役に立たないものをつくる労働は役に立たない労働であるから労働 と呼ぶに値せず、それは全く「価値」を作り出すことはない。



 
第二節 商品に表われている労働には二つの面がある。



<56> まず、商品が使用価値と交換価値の二つの面を持つことが明らかになった。次に、労働にもこの二つの面があり、「価値」の観点から見 るかぎり、使用価値をもたらしている労働の様々な特徴は消えてしまうことが示された。特に商品に含まれているこの労働の二面性をわたしは初めて指摘して検 討を加えておいた(12)。しかし、この労働の二面性は現代の経済学を理解する上での重要なポイントなので、ここでもう少し詳しく説明しておこう。

 ここでは例として一着の上着と一反の布地を考えてみよう。そして、前者は後者の倍の「価値」があるとしよう。この場合、一反の布地の「価値」をWとする と、一着の上着の「価値」は2Wということになる。
 
 上着は使用価値であって、人間の特定の欲求を満たすことができる。上着を作るためには、ある種の生産的活動が必要である。その活動の内容は、どんな目的 をもって、どんな作業をし、どんな材料を使い、どんな道具を使って、どんな物を作るのかによって決まってくる。
 
 われわれはここで、ある労働の有用性が生産物の使用価値の中に現われている場合や、ある労働が使用価値を作り出しているような場合に、そのような労働を 簡単に「有用な労働」と呼ぶことにする。そしてこの有用性の観点からは、労働は常にその目標とする成果との関係において観察されることになる。
 
 さて、上着と布地はその使用価値の性質が異なっているが、それと同様に、これらのものを産み出す二種類の労働つまり裁縫とはたおり(機織)もまたそれぞ れ性質が異なっている。もしこの二つのものが性質の異なる使用価値を持たず、それぞれの製品が異なる性質をもつ有用な労働によって作られたのでなかった ら、そもそもこの二つのものが商品として互いに交換されることはありえない。上着と上着は交換されることはない、つまり、同じ使用価値同士が互いに交換さ れることはないからである。
 
 これは商品全体とそれを作り出す労働全体について言えることで、様々な種類の使用価値とそれを体現する様々な商品があれば、それだけ様々な種類、部類、 種別、科目、系列を異にする有用な労働があるのは明らかである。そして、これこそが労働の社会的な分業ということなのである。
 
<57> そして、この労働の社会的分業は、商品の生産が可能となるためには無くてはならない条件である。もっとも、商品の生産が行われてい なくても、労働の社会的分業が行われていることはある。例えば、古代のインドでは労働は社会の階層に分割されてはいたが、生産されたものが商品となること はなかった。もっと身近な例でいうと、どこの工場でも組織的に労働の分業が行われているが、だからといって労働者たちは自分たちがそれぞれに作ったものを 自分たちの間で交換することはない。互いに依存し合わない独立した私的な労働によって作られた製品だけが、商品となって互いに交換されるのである。
 
 これまでに分かったことを整理してみよう。まず、どんな商品であろうとその使用価値には、一定の目的を持った生産的活動、すなわち有用な労働が込められ ている。使用価値のある様々なものが商品として互いに交換されるためには、それぞれの使用価値の中に、性質の異なる有用な労働が込められていなければなら ない。
 
 生産物が商品という形をとっている社会、商品を作る人たちからなる社会では、このような性質の異なる有用な様々な労働が、独立した生産者による互いに依 存しない私的な事業として行われ、それが多方面に分岐した体系となって、労働の社会的な分業に発展する。
 
 ところで、上着は客が買って着ようが、仕立屋が自分で着ようが、いずれの場合も使用価値として機能していることに変わりはない。また、仕立屋が独自の職 業となって、労働の社会的分業の独立した一部となっても、それによって、上着とそれを作る労働との関係はそれ自体変化するわけではない。実際、服をつくる 必要があれば、誰かが仕立屋にならなくても人類は太古の昔から服を作ってきた。
 
 しかしながら、上着や布地やその他の物的な資産のうちで自然に存在しないものは、目的を持った特別な生産的活動(=有用な労働)によって常に作り出して やる必要があった。そして、自然に存在する特定の物を使って人間の特定の欲求を満たしてやらねばならなかった。だから、どんな社会形態であるかに関わら ず、労働は、使用価値を生み出すもの、つまり「有用な労働」として、人間と自然の間の物質変換を媒介し人間の生活を成り立たせるためには無くてはならない 条件であり永遠に変わらない摂理なのである。
 
 使用価値のあるもの、つまり上着や布地などの現実の商品は、自然に存在する物と労働という二つの基本要素が結び付いたものである。ということは、上着や 布地などに込められている様々な有用な労働のすべてを除き去ったとしても、その材料となっている要素は残る。それは人間とは無関係に自然に存在するもので ある。
 
<58> 人間の生産活動は物の形態を変えるだけあって、自然と同じことをするのである(13)。それだけでなく、この形態を変える仕事にお いても、人間は常に自然の様々な力に助けられている。だから、人間は労働によって様々な使用価値を作り出しているといっても、ただ労働だけでそうしている わけではない。つまり、物的資産の源は労働だけにあるのではない。だから、ある人が言うように、労働が物的資産の父であるとすれば、自然すなわち大地がそ の母だということになる。
 
 さて、われわれの考察はここからは人が利用するものとしての商品から、「価値」としての商品に移る。
 
 先程われわれは上着は布地の倍の「価値」があると仮定した。しかし、いまわれわれにとって重要なのは、二つの商品の間にこのような量的な違いがあるとい うことではない。むしろ、われわれがここで注目したいのは、一着の上着の価値の量が一反の布地の価値の量の倍なら、二反の布地は一着の上着と同じ価値の量 をもつということである。つまり、価値として見るかぎり、布地も上着も、同じ種類の労働が物として現われたものであって、同じ実体をもつ物なのである。
 
 確かにはたおりと裁縫とは性質の違う労働ではある。しかし、同じ人間が交互にはたおりをしたり裁縫をしたりする段階の社会もある。そういう段階の社会で は、この二つの異なった労働の方法は同じ人間の労働の異なった表われでしかなく、別々の人間がする個別の役割分担として固定してはいない。それはたとえ ば、われわれの仕立屋が今日は上着を作り、次の日にズボンを作っても、それらは同じ一人の人間の労働の異なった表われでしかないのと同じである。また、 ちょっと考えたら分かることだが、現代の資本主義社会でも、労働需要の変化に合わせて、特定の量の労働力が、ある時は裁縫にまわされたり、ある時ははたお りにまわされたりする。このような労働の形態の変更は必ずしもスムーズに行くとは限らないが、必要とされている。

<59> 生産的活動からその特徴つまり有用な労働の特徴が取り去られても、その活動が「人間の労働力」の注入であることに変わりはない。裁 縫とはたおりはそれぞれ性質の異なった生産的活動ではあるが、両方とも人間の知力、腕力、感覚、技能などを物を作るために注入することに変わりはない。そ の意味で両者はともに「人間の労働」なのである。これらは「人間の労働力」を注入するための二つの異なった労働形態に過ぎない。もちろん、いずれの労働形 態に「人間の労働力」を注入するにしても、そのためにはその労働力自体がある程度のレベルに到達している必要があるのは言うまでもない。
 
 しかし、商品の「価値」が表わしているものは、まさに抽象的な「人間の労働」であり、抽象的な「人間の労働力」の注入なのである。ブルジョア社会では将 軍や銀行家は大きな特徴をもっているのに一般的人間にはほとんど特徴がないが(14)、それは「人間の労働」についても言える。「人間の労働」とは、単純 な労働力、つまり、平均的な普通の人間なら誰でも自分の肉体組織の中に持っている、何の訓練も経ていないような労働力の注入のことである。
 
 もちろん、平均的で単純な労働自体、国によって文化レベルの違いによって様々な特徴の違いはあるが、ある特定の社会の中ではそれは一定のものである。こ の場合、複雑な労働は単に単純な労働を何乗かしたものか、あるいは何倍かしたものと見なされ、その結果、少ない量の複雑な労働は大量の単純な労働と等しい ことになる。このような置き換えが日常茶飯事で行われているのは、誰にも覚えがあるだろう。複雑な労働によって作られた商品でも、「価値」としては単純な 労働で作られたものと同じ扱いを受ける。つまり、商品の「価値」はある量の単純労働だけを表わしているのである(15)。
 
 単純労働を基本単位として様々な種類の労働を換算する場合の換算比率は、生産者たちの知らないうちに社会のどこかで決められている。だから、この比率は 生産者たちには慣習によって決まっているように思える。話を簡単にするために、これからはどのような種類の労働力も単純な労働力を意味するものとする。そ の方が換算の手間が省けるからである。
 
 というわけで、「価値」としての上着と布地は、それらが持っている使用価値の違いが取り去られているが、それと同じように、これらの「価値」の中に体現 されている労働も、裁縫とはたおりという有用な労働形態の違いは取り去られている。
 
 使用価値としての上着と布地は、目的をもった生産的活動と布と糸が結び付いたものであり、それに対して、「価値」としての上着と布地は、単なる同種の労 働の固まりでしかないが、それと同じように、これらの商品の「価値」の中に含まれている労働もまた、布と糸が労働と生産的に結び付いたものではなく、単な る「人間の労働力」の注入と見なされるのである。
 
<60> 使用価値としての上着と布地を裁縫とはたおりが作りだすことができるのは、まさにこの二つの労働が異なった性質を持っているからで ある。それに対して、「価値」としての上着と布地の実体が裁縫とはたおりであるのは、まさにこの二つの労働がそれぞれの独特の性質を失い、どちらも同じ性 質、「人間の労働」という性質を手に入れたからにほかならない。
 
 ところが、上着と布地は単に「価値」であるだけでなく、一定の大きさをもつ価値である。そして、われわれの仮定では、上着は一反の布地の倍の「価値」を もっているのである。では、両者の価値の量のこの違いはどこから来るのか。それは、布地には上着の半分の労働しか含まれていないということ、つまり、上着 を作るためには、布地を作るのと比べて、倍の時間の労働力を注ぎ込む必要があることから来ているのである。
 
 したがって、商品に込められた労働は、使用価値に関する限りその性質に意味があるが、価値の量に関する限り、それはすでに特別な性質のない「人間の労 働」に換算されており、その量だけに意味がある。前の場合は、どのような労働であり何という労働であるかが重要だが、あとの場合は、どれほどの労働である か、つまり労働時間の長さが重要なのである。ある商品の価値の量はその中に込められた労働の量だけを表わしているから、様々な商品は適当な比率のもとで は、常に同じ価値の量を持つはずなのである。
 
 つぎに、一着の上着を作るのに要する全ての有用な労働の生産力が変わらないなら、上着の量が増えるにつれて上着の価値の量は増えていく。つまり、一着の 上着がX日の労働日を意味するなら、二着の上着は2X日の労働日を意味するというふうに増えていくのである。
 
 では、一着の上着を作るのに必要な労働が倍になったり半分になったりしたらどうだろう。前の場合は、一着の「価値」は以前の二着分の「価値」を持つよう になるだろうし、後の場合は、二着の「価値」が以前の一着分の「価値」しか持たないようになるだろう。しかし、いずれの場合も一着の上着が果たす服として の役割は変わらないし、一着の上着に込められた有用な労働の性質も変わってはいない。ところが、その生産のために注入された労働の量は変わっている。
 
 使用価値の量が多くなればそれだけ物的な資産も大きくなる。例えば、二着の上着の方が一着の上着よりも大きな資産となる。これは、二着の上着があれば二 人の人に着せることが出来るが、一着の上着しかなければ一人しか着せることが出来ないということである。
 
 ところが、物的な資産が大きくなるほどその価値の量は小さくなるということもある。このような逆向きの動きが起きるのは、労働に「価値」と使用価値とい う二つの面があるためである。
 
 生産力とは当然ながら有用で具体的な労働の生産力のことであり、実際に、目的を持った生産的活動が一定の時間内に達成できる達成効率を左右するのはこの 生産力である。したがって、有用な労働は、生産力が大きくなればより豊かな生産源となるし、生産力が小さくなればより貧しい生産源となる。
 
<61> その代わりに、生産力が変わっても「価値」の中に表われている労働それ自体は変化しない。生産力は労働の有用で具体的な面に関する ものであるから、労働の有用で具体的な面が取り去られるやいなや、当然ながら、生産力の変化は労働に影響を及ぼすことが出来ない。
 
 したがって、生産力の大小に関わらず、同じ時間内の同じ労働は常に同じ量の「価値」を生み出す。しかし、同じ時間内の同じ労働が産み出す使用価値の量は 一定ではなく、生産力が上がればより大きな使用価値を生み出すようになるし、生産力が下がればより小さな使用価値しか生み出せなくなる。
 
 したがって、生産力が上がって、同じ労働でも多くの製品を作れるようになり、労働が産み出す使用価値の量が増えたとしても、もしこの生産力の上昇によっ て生産に必要な労働時間の合計が短縮されれば、増産された全体のものの価値の量はかえって小さくなる。逆の場合もまた同じである。
 
 あらゆる労働は、一方では、肉体を使って「人間の労働力」を注入することであり、同じ「人間の労働」つまり抽象的な「人間の労働」という属性によって、 商品の「価値」を産み出すのである。しかし、他方で、全ての労働は、目的をもった特別な形態で「人間の労働力」を注入することであり、この有用で具体的な 労働という属性によって、使用価値を産み出すのである(16)。





第三節 商品がもつ価値としての形態あるいは交換価値について



<62> 商品というものは、使用価値つまり鉄とか布地とか小麦など現実の商品の形態で世の中に現われる。これが商品のありふれた本来の形態 である。しかしながら、これが商品であるためには、二つの意味、すなわち人に使用されるものであると同時に「価値」を持っているものである必要がある。と いうことは、商品が商品である、つまり商品が商品の形態をもつためには、本来の形態と「価値」としての形態の二重の形態を持っていなければならないことに なる。
 
 ところで、商品に「価値」があるということは、実に捉え所のなく非常に分かりにくいことである。現実の商品は手に取ってみればおおざっぱにでもそれがど んなものかは理解できる。それとは違って、自然にある物質は「価値」があるということとは少しも関係がない。だから、一つの商品を手にとって、いくらひね くり返してみても、どうしてそれが「価値」ある物なのかは分からないままである。
 
 しかしながら、商品に「価値」があるためには、商品が「人間の労働」という同じ社会的単位の表われでなければならないこと、したがって商品に「価値」が あるということは極めて社会的なことだということを思い出すなら、商品に「価値」があるということは商品と商品の社会的関係の中にしか現われないことは明 らかである。
 
 実際、われわれは、商品の交換価値あるいは商品の交換関係から出発して、商品の中に隠れている「価値」の実体を明らかにした。われわれは今やこの「価 値」の現象形態つまり交換価値に立ち戻らねばならない。
 
 他のことはいざ知らず、様々な商品にはそれぞれの使用価値という多様な自然形態があるが、そのほかに、それとは極めて対照的に全ての商品に共通な「価値 としての形態」があり、お金の代わりに使われることがあることは誰でも知っているだろう。
 
 しかし、ここで大切なことは、ブルジョア経済学がこれまで一度も手がけたことがないこと、つまり、お金がどのようにして発生したかを跡づけることであ る。つまり、商品の「価値」は価値の等式によって表わされるが、この価値の表われの発展の跡を、その最も単純素朴なものから魅惑的なお金になるまでを順に たどっていくのである。その過程で、お金というものがもつ謎を解いていきたいと思う。

 価値の等式のうちで最も単純なものは、明らかに、一つの商品と任意の別のもう一つの商品の価値の等式である。二つの商品の価値の等式によって、ある商品 の「価値」は最も簡単に表わされる。
 



<63>

A.単純な価値形態、単独の価値形態、あるいは偶然な価値形態


 x量の商品A=y量の商品B:x量の商品Aはy量の商品Bの価値がある。

(二反の布地=一着の上着 つまり 二反の布地は一着の上着の価値がある)

 
1.価値を表わす等式の二つの極:相対的な価値形態と等価物の形態


 全ての価値形態の秘密はこの単純な価値形態つまりこの一つの等式の中に隠れている。だからこそ、単純な価値形態の分析には特別な困難が伴うのである。
 
 この等式では二つの異なる商品、この例では布地と上着が、明らかに、それぞれ別々の役割を果たしている。この式では布地が自分の価値を上着によって表わ しており、上着は布地の価値を表わす材料となっている。布地が主役であって、上着は補助的な役割をしているといえる。布地の価値は上着との比較によって表 わされている。つまり、布地は相対的な価値の形態をとっている。一方、上着は等価物としての役割を果たしている。つまり、上着は等価物の形態をとってい る。
 
 相対的な価値形態と等価物の形態は、価値を表わす一つの等式の中で、相互に依存しあい密接に結び付いて切り離すことのできない要素であるが、同時に、互 いに相容れることのない対極をなしている。つまり、これらの形態のそれぞれが常にこの等号で結ばれた商品に別々に割り当てられるのである。
 
 例えば布地の価値は布地で表わすことはできない。二反の布地=二反の布地という等式は、布地の価値を表わしてはいない。むしろ、この等式は二反の布地は 二反の布地以外の何ものでもなく、布地という実用品が特定の量だけ存在することを表わしているだけである。
 
 だから、布地の価値は他の商品によって相対的に表わすしかない。ということは、布地の相対的な価値を表わすためには、その前提として等価物の形態をした 何か別の商品が布地と交換できる必要があるということである。
 
 一方、この別の商品は等価物の役割をしながら、同時に相対的な価値形態で表わされることは不可能である。それは自分自身の価値を表現するのではなく、別 の商品の価値を表わす材料を提供するだけなのである。
 
 もちろん、「二反の布地=一着の上着 つまり、二反の布地は一着の上着の価値がある」という等式は、その逆向きの「一着の上着=二反の布地 つまり、一 着の上着は二反の布地の価値がある」という意味も含んでいる。しかしながら、上着の価値を相対的に表わすためには、等式の向きを実際に逆にしなければなら ない。そして、そうするやいなや、上着ではなく布地が等価物の役割を負ってくる。ということは、価値を表わす同じ等式の中では、一つの商品が同時に二つの 形態をとることはできないということである。つまり、この二つの価値形態は対極に位置して、互いに相容れないものなのである。
 
<64> 次に言えることは、一つの商品が相対的な価値の形態となるかその反対の等価物の形態となるかは、その時に価値を表わす等式のどちら 側に来るかにかかっているということである。つまり、その商品が他の商品の価値を表わす道具となるのか、それとも他の商品によってそれ自身の価値が表わさ れるのか、によってそれが決まってくるのである。

 
2.相対的な価値形態


a.相対的な価値形態の中身


 では、二つの商品の価値の等式の中に、一つの商品の単純な価値の形態はどのように表われているだろうか。それを知るためには、われわれはまず最初にこの 価値の等式を、その数量的な面から完全に離れて観察しなければならない。
 
 ところが、一般に行われている方法はこの逆で、人々は価値の等式の中にある二種類の商品が同じ価値を持つための比率にばかり注目しがちである。
 
 相異なる二つのものの大きさを量的に比較するためには、この二つのものの量を同じ単位に換算する必要があることを人々は忘れている。この二つのものの量 は、同じ単位で表わすことによってはじめて同種のものとなり、同じ尺度で比べることができるようになるのである(17)。 

 「二反の布地=一着の上着」であろうと、「二反の布地=二十着の上着」であろうと、「二反の布地=X着の上着」であろうと、ある一定の布地が何着の上着 の価値と等しいかには関わらず、それらが何らかの比率で等しくなるということは、布地と上着は価値の量としては同じ単位で表わされており、両者ともに同じ 性質を持つものだということになる。つまり、この等式の背景には「布地=上着」という等式があるのである。
 
 しかし、同じ性質を持つと見なされるこの二つの商品は、この等式の中でどちらも同じ役目を果たしているわけではない。ここでは布地の価値だけが表わされ ているのである。布地の価値は、布地がその「等価物」である上着、つまり布地と「交換できる物(=上着)」との関係によって表わされているのである。
 
 この関係においては、上着はすでに価値ある物で、別の商品が価値であることを表わす物と見なされる。というのは、ここでは上着はそういう物としてはじめ て布地と等しい物となるからである。
 
 一方で、布地はそれ自身が価値であることが明らかになる。つまり、そのことが明確な形で表わされるのである。というのは、価値である布地だけが、同じく 価値であり「交換できる物」である上着と関われるからである。
 
<65> 布地と上着の場合と同じように、酪酸は蟻酸塩とは全く異なる物質である。ところが、両方とも同じ化学物質である炭素(C)水素 (H)酸素(O)からできており、しかもこれらの割合も同じである。つまり、両方ともC482なのである。
 
 そこで、もしわれわれが酪酸は蟻酸塩と等しいと言うなら、それは第一に、この関係の中で蟻酸塩は別の物がC482であることを示す物と見なすことであり、第二に、酪酸もまた C482で あることを示すことにである。つまり、酪酸が蟻酸塩と等しいと言うことによって、酪酸の実際の形とは別に、酪酸の化学的な実体が表わされるのである。
 
 われわれが、価値としての商品は「人間の労働」の固まりにすぎないと言うとき、それはわれわれの分析によって商品の使用価値を取り去っただけであって、 商品の本来の形態つまり自然形態とは別に、価値としての形態を商品に与えているわけではない。
 
 ある商品と別の商品を価値の等式におく場合は、そうではない。ある商品を別の商品と関連づけることによって、その商品が価値であることがはっきりしてく る。
 
 例えば、布地が価値ある物としての上着と等しいと言うことは、上着の中に込められた労働は布地の中に込められた労働と等しいと言うことである。
 
 確かに、上着を作る裁縫という労働は、布地を作るはたおりという労働とは種類の異なる具体的な労働であるが、はたおりは裁縫と等しいと言うときには、裁 縫はこの両方の労働のなかに現に存在する同じ物、つまり「人間の労働」という両者に共通な特徴に事実上置き換えられるのである。
 
 こうして、回りまわって、はたおりが価値としての布地を織る限りにおいては、はたおりもまた裁縫と異なる特徴を何も持っていない抽象的な「人間の労働」 であると言えるのである。
 
 つまり、様々な種類の商品を等式の形で表わすことによってのみ、価値を作り出す労働に特有の性格が明らかになるのである。なぜなら、そうすることによっ て、様々な種類の商品の中に込められた様々な種類の労働は、それらに共通のものつまり抽象的な「人間の労働」に事実上置き換えられるからである (17a)。

 しかしながら、布地の価値を作り出すという労働の特有の性格が明らかになっただけでは充分ではない。なぜなら、「人間の労働」あるいはまだ固定した状態 に達していない「人間の労働力」は価値を作り出しはするが、それ自身は価値ではなく、それが固定した状態になり物の形になったときにはじめて価値となるか らである。
 
<66> この布地の価値を「人間の労働」の固まりとして表わすには、布地の価値を、布地とは違う物であってしかも同時に布地と他の商品に共 通する「ある物」で表せばよいのである。われわれの問題はもう解けたも同然である。
 
 上着が布地の価値を表わす等式の中で、布地と中身が同じ物であり、布地と同じ性質を持つものと見なされるのは、上着が一つの価値だからである。したがっ て、上着はここでは価値が目に見える形で現われている物、手にとって分かる自然形態のままで価値を表わす物と見なされるのである。
 
 といっても、この上着は現実の上着という商品であって、単なる一つの使用価値にすぎない。単独で存在する一着の上着は、ありふれた布地同様、価値を表わ してはいない。しかし、このことは、この上着は布地と価値の等式の中にある時の方が、この等式の外にあるときより、多くの意味を持つということに過ぎな い。それは、多くの人が金モールの付いた上着を着ているときの方が、着ていないときより偉いのと同じ事である。
 
 この上着の製作の際には、実際に「人間の労働力」が裁縫という形で注入されている。つまり、この上着の中には「人間の労働」の蓄積がある。この点から見 ると、この上着は価値の担い手なのである。もっとも、この属性はいくらこの上着を眺めても目に見えるものではない。
 
 そして、この布地の価値を表わす等式の中では、この上着はこの点からのみ意味があるのである。つまり、ここでは上着は価値が具体化した物、価値を体現す る物と見なされるのである。そして、この布地は、上着がいかに無愛想な表情をしていようとも、この上着の中に自分と同じ「価値」という美しい心があること を認めたのである。とはいえ、上着が布地の価値を表わすことができるのは、たまたまその時布地にとって「価値」が上着の形をしていたからにすぎない。
 
 同様にして、例えば、Aという人がBという人を「陛下」と言って敬うのは、たまたまその時Aにとって「陛下」というものがBの姿をしていたからにすぎな い。つまり、Aにとって「陛下」というものは君主が変わるに従って髪形や表情やその他の多くの特徴を変えるものなのである。
 
 したがって、上着が布地の等価物となっているこの等式の中では、上着という形のものが価値の姿をしていると見なされるのである。したがって、布地という 商品の価値が、上着という現実の商品によって表わされる、つまり、ある商品の価値が別の商品の使用価値で表わされるのである。
 
 使用価値としての布地は、どう見ても上着とは異なる物であるが、「価値」としての布地は「上着と同じ物」であって、上着と同じ姿、価値の姿をしているの である。こうして、布地はその本来の形態とは似ても似つかぬ「価値としての形態」を手に入れるのである。布地が「価値」であることは、それが上着と等しい ことによって明らかになる。それは、キリスト教徒の本質が羊であることは、キリスト教徒が神の子羊(=キリスト)と等しいことによって明らかになるのと同 じ である。
 
<67> 以上から、布地が別の商品である上着と関わりを持つやいなや、商品の価値の分析で明らかになったことの全てがこの布地に当てはまる ことが分かるだろう。ただし、ここでは布地の価値は商品の世界だけに通用する言葉で表わされている。

 だから、例えば、労働が「人間の労働」という抽象的な属性によって布地の「価値」を作り出すということは、「上着が布地と等しい物と見なされ、上着が価 値である時に、上着は布地と同じ労働によって作られている」と表現される。また、布地が価値あるものであるという素晴らしいことと、布地(=亜麻)が現実 に はごわごわした物であるということとは関係がないということは、「価値は上着の姿をしており、その結果、ある卵が別の卵と同じであるように、価値ある物と しては布地は上着と等しい」と表現される。

 ちなみに、商品の言葉にはユダヤ人の使うヘブライ語のほかにも多くの言語が存在するが、その正確さはまちまちである。たとえば、商品Aの価値は、商品A が商品Bと等しいことによって表わされるということを、ドイツ語の"wert sein"は、ロマンス語の動詞である"valere, valer, valoir"ほど分かりやすくは表現できない。例えば、 Paris vaut bien une messe!(訳注「パリはミサに値する」仏王アンリ四世の言葉で、パリは新教派の王がカトリックに改宗してでも入城する値打ちがあるという意味。この改 宗によって王は国内の宗教的対立を収束させてスペインと戦う体制を作った)。

 要するに、商品Aの価値を商品Bで表わす等式によって、商品Bの自然形態は商品Aの価値形態となるのである(18)。つまり、商品Bという現実の物が商 品Aの価値を映す鏡となるのである。商品Aを、価値を体現する物としての商品B、つまり「人間の労働」が物の形をとったものとしての商品Bと結び付けるこ とによって、使用価値Bは商品Aの価値を表わす素材に変わるのである。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表わされることによって、相対的な価 値形態を獲得するのである。

 
b.相対的な価値形態がもつ数量面の特徴


 ところで、こうして価値が表わされる商品はどれもみな、例えば、15シェッフェル(=約800リットル)の小麦とか、100ポンド(=50キログラム) の コーヒーのように、一定の量で使われるものである。この一定の量の商品にはある量の「人間の労働」が込められている。ということは、価値形態は単に抽象的 な価値を表わすだけではなく、ある特定の量的価値つまり価値の量を表わさねばならないことになる。
 
 つまり、商品Aの価値を商品Bで表わす等式、つまり布地の価値を上着で表わす等式では、「価値を体現する物」としての上着という商品種が布地と質的に等 しいだけではなく、特定の量の布地(例えば二反の布地)が、「価値を体現する物」つまり「等価物」の特定の量(例えば一着の上着)と等しい。
 
 「二反の布地=一着の上着 つまり、二反の布地は一着の上着の価値がある」という等式が成り立つためには、一着の上着と二反の布地に込められた価値の実 体は同じでなければならない。つまり、それぞれの量の二つの商品は同じ労働量、つまり同じ長さの労働時間で作られていなければならない。
 
<68> ところが、二反の布地を作るのに必要な労働時間も、一着の上着を作るのに必要な労働時間も、それらを作るはたおりと裁縫の生産力が 変われば、それにつれて変わってくる。そこで、この生産力の変化は価値の量の相対的表現にどんな影響を与えるか、考えてみる必要がある。
 
I. 上着の価値が変わらないのに、布地の価値が変わった場合(19)。

 例えば亜麻をつくる田畑のひどい不作のために、布地を作るのに必要な労働時間が倍になったら、布地の価値は倍になる。すると「二反の布地=一着の上着」 ではなく「二反の布地=二着の上着」となる。つまり、今や一着の上着には二反の布地の半分の労働時間しか含まれていないのである。
 
 その反対に、例えば織機が改善されて、布地の生産に必要な労働時間が半分になれば、布地の価値も半分に減少する。それにしたがって、今では「二反の布地 =1/2着の上着」となっている。商品Aの相対的価値、つまり商品Bによって表わされた商品Aの価値は、商品Bの価値が変わらない場合には、商品Aの価値 に正比例して上がったり下がったりする。

II. 上着の価値が変わったのに、布地の価値が変わらない場合。

 この場合、例えば羊毛の刈り取り作業が停滞したために、上着を生産するのに必要な労働時間が倍になったら、「二反の布地=一着の上着」ではなく今や「二 反の布地=1/2着の上着」となる。その反対に、上着の価値が半分に減少すれば、「二反の布地=一着の上着」ではなく「二反の布地=二着の上着」となる。 商品Bによって表わされる商品Aの相対的価値は、商品Aの価値が変わらない場合には、商品Bの価値に反比例して下がったり上がったりする。
 
 IのケースとIIのケースを比べると、相対的価値の量はまったく正反対の原因によって同じような変化をすることがわかる。「二反の布地=一着の上着」 は、(一)布地の価値が二倍になっても上着の価値が半分になっても「二反の布地=二着の上着」という等式になり、また、(二)布地の価値が半分になっても 上着の価値が二倍になっても「二反の布地=1/2着の上着」という等式になる。

<69> III. 布地と上着を製作するのに必要な労働量が、同時に同じ方向に同じ割合だけ変化する場合。

 この場合には、両者の価値がどう変わろうと「二反の布地=一着の上着」はその前後で不変である。この両者の価値の変化は、価値が変わらない三つ目の商品 と比べたときに明らかになる。すべての商品の価値が同時に同じ割合だけ上がるか下がるかした場合には、それらのすべての商品の相対的な価値は変わらない。 二つの商品の価値が実際にどう変わったかは、同じ労働時間の間に生産される商品の数量が以前と比べて今の方が多いか少ないかを見れば分かる。

IV. 布地と上着のそれぞれを製作するのに必要な労働量、つまりそれらの価値が、同時に同じ方向に変化するが同じ程度でない場合、あるいは反対方向に変化する場 合など。

 ある商品の相対的な価値に対して、可能なすべての組み合わせが与える影響については、以上のI、II、IIIの三つの場合を応用すれば容易に明らかにな るだろう。

 つまり、商品の価値の量の実際の変化は、相対的な価値の表現に、つまり相対的な価値の量に、明確で完全な形で反映されることはない。ある商品自身の価値 が変わらなくてもその商品の相対的な価値が変わる可能性があるし、ある商品自身の価値が変わったのにその商品の相対的な価値が変わらない可能性がある。さ らには、商品自身の価値の量と商品の相対的な価値が同時に変わったとしてもその変化の量が同じとは限らない(20)。


3.等価物の形態


<70> これまで見てきたように、ある商品A(布地)はその価値を別の種類の商品B(上着)の使用価値で表わすことによって、商品Aは商品 Bに等価物の形態という独特の価値形態を付与する。

 上着は実際の形とは異なる価値形態(たとえばお金)に代わることなく、布地の等価物となることによって、布地という商品がそれ自身価値であることを明ら かにする。つまり、布地がそれ自身価値であることは、布地と上着が直接交換できることによって実際に表わされる。したがって、ある商品が等価物の形態であ るということは、その商品が他の商品と直接交換できる形態であるということである。
 
 しかしながら、ある種の商品、例えば上着は別種の商品例えば布地の等価物になり、布地と直接交換できるという独特の属性を手に入れるとしても、それに よって上着と布地を交換する比率が与えらるわけでは決してない。布地の価値の量が与えられている場合、この比率は上着の価値の量によって変わってくる。
 
 そして、上着の価値の量は上着を生産するのに要する労働時間によってきまる。それは上着が等価物として表わされていて布地が相対的価値として表わされて いるのか、その反対に布地が等価物として表わされていて上着が相対的価値として表わされているのかには関わりがない。つまり、いずれの場合でも上着の価値 の量はその価値形態とは関係なく決まるのである。
 
 しかしながら、上着という種類の商品は価値を表わす等式の中で等価物の位置を受け持つやいなや、もはや上着の価値の量は価値の量として表わされることは ない。上着は価値の等式の中では別の物の量を表わすだけである。
 
 例えば、四反の布地の価値はどれ程かと問えば、それは二着の上着の価値があるということになる。ここでは上着という種類の商品が等価物の役割を果たして おり、「上着という使用価値」が「価値を体現する物」として布地と交換できると見なされている。ということはまた布地の価値の特定の量を表わすには、特定 の数の上着があればいいということである。
 
 このように、二着の上着は四反の布地の価値の量を表わすことはできるが、上着によってそれ自身価値の量、つまり上着の価値の量を表わすことはできない。
 
 これらの事実を皮相的に捉えて、価値の等式の中で等価物はある物(=使用価値)の単純な量を意味するだけだと考えた人たちは、しばしば、価値を表わす等 式に表われているのは単なる量的な関係だけだと誤解しがちである。しかし、ある商品に等価物の形態を与えることは、けっしてその商品の価値の量を決めるこ とではない。
 
<71> 等価物という価値形態を観察する場合にわれわれの目を引く第一の特異性は、「使用価値がそれとは反対のものつまり「価値」の形態と なる」ということである。つまり、商品はその本来の役割を捨てて価値を表わす役割をもつようになるのである。

 しかし、このとき注意しなければならないのは、この変化は、商品B(上着、小麦、鉄など)に対して別の任意の商品A(布地など)が置かれている価値の等 式の中で、商品Bについてこの関係の中だけで起こるということである。どんな商品も自分自身を等価物としての自分自身に結びつけることは出来ないし、自分 自身の自然形態を自分自身の価値を表わすために使うことは出来ない。したがって、あらゆる商品は等価物である他の商品に結び付くしかないのである。つま り、他の商品の自然形態を自分自身の価値を表わす形態として使うしかないのである。

 このことを別の例で説明しよう。例えば、計量の単位の「重さ」という尺度は、現実の商品を現実の商品(=使用価値)のままで尺度の基準として利用する。 例えば砂糖は物として見た場合には重い物であり重さを持っている。しかし、砂糖の重さは見ただけでは分からないし感じることも出来ない。そこで、重さがあ らかじめ分かっている鉄の固まりを利用する。
 
 鉄の本来の役割は、それだけで見る限りは、砂糖の本来の役割と同じく、重さを表わすことではない。しかし、砂糖を「重さ」として表わすために、われわれ は砂糖と鉄を重さの等式の中に置く。この等式の中で鉄は重さ以外のどんな意味も持たない物と見なされる。こうして、一定の量の鉄が砂糖の重さを表わす計量 単位となり、砂糖という物に対して重さを表わす役割だけをもつようになる。鉄がこの役割をもつのは、重さを知りたい砂糖か何か別の物が鉄と比較される等式 の中だけのことである。
 
 もちろん、この二つの商品に重さがなければ、これらがこの重さの等式の中に置かれることはないし、一方が他方の重さを表わすものとなることもない。しか し、鉄と砂糖を天秤で計れば、どちらにも重さがあることはすぐに分かるし、適当な割合にすれば同じ重さになる。
 
 この重さの等式の中では鉄という現実の物が砂糖に対して重さとしての意味しかもたないが、それと同じように、価値を表わす等式の中では上着という現実の 物が布地に対しては価値としての意味しかもたないのである。
 
 しかしながら、似ているのはここまでである。砂糖の重さを表わす等式の中で鉄が意味しているものは、鉄と砂糖の両方が共通にもっている自然な属性つまり 両者の重さだが、布地の価値を表わす等式の中で上着が意味しているのは両者の自然な属性ではなく、両者の「価値」という極めて社会的なものである。
 
 ある商品例えば布地の相対的な価値形態によって表わされていることは、布地が価値であることは、その現実の物ともその物の属性ともまったく別のもの、例 えば「上着と同じ物」であることなのである。そして、そのことによって、この形態に社会的関係が秘められていることがわかるのである。
 
<72> 等価物の形態については逆のことが言える。等価物の形態は、上着のような現実の商品が、そのままの自然な形態で価値を表わしてい る。ということは、それは元々はじめから価値の形態を持っているということである。

 たしかに、これは等価物としての上着という商品に布地という商品が結び付いている価値の等式の中だけで有効である(21)。しかし、ある物の属性は他の ものとの関係から生まれるのではなくて、その関係の中で発揮されるものであるから、上着の等価物としての形態、つまり直接他のものと交換できるという属性 は、上着が重さを持っているとか着れば暖かいとかいう属性と同じく、明らかに上着が元々持っている属性なのである。
 
 そして、これこそが等価物の形態の不可解さの原因である。この不可解さは、等価物の形態がお金という完成した形で現われてはじめて、ブルジョア経済学者 たちのうかつな目にも見えてきた。その時になってやっと彼らは金や銀の不思議な特徴を明らかにしようとした。といっても、彼らは金や銀よりも地味な商品で もお金として使えるのだと言い、つぎつぎと粗末な商品を持ち出して、昔はこんなものでも商品の等価物としての役割を果たしていたのだと、その度ごとに悦に 入っているだけなのである。
 
 しかし、「二反の布地=一着の上着」という価値を表わす単純な等式の中に、等価物の形態の不思議な特徴がすでに隠れているということに、彼らは気付かな い。
 
 等価物の役割を果たす現実の商品は、抽象的な「人間の労働」が具体的な形をとって現われたものと見なされており、同時に特定の具体的で有用な労働の産物 である。つまり、具体的な労働がここでは抽象的な「人間の労働」を表わすのである。例えば、上着が単に抽象的な「人間の労働」が具体化したものと見なされ るとすれば、上着という形に現実に具体化される裁縫という労働は、単なる抽象的な「人間の労働」の具体的な表われと見なされるのである。
 
 裁縫の役割は、布地の価値を表わす等式の中では、着る物を作ったり人の外見を飾ることではない。それは、人にそれが「価値」であると見られる物を作り出 すことである。そして、この「価値」とは抽象的な労働の固まりのことであって、布地の価値に結実した労働と少しも違いのないものである。
 
 そして、裁縫がこのような「価値」を映す鏡を作り出すためには、裁縫は「人間の労働」という抽象的な属性以外の何ものをもその作物に映し出してはいけな いのである。
 
 確かに、はたおりという労働形態にも裁縫という労働形態にも「人間の労働力」が注入されている。つまり、この二つの労働形態はともに「人間の労働」とい う普遍的な属性を備えている。だから、ある種の場合、例えば価値を産み出すという場合においては、二つの労働形態は共に「人間の労働」という観点からだけ から見ていればよい。ここには何も不思議なことはない。
 
<73> しかしながら、商品の価値を表わす等式の中では問題は少々ややこしくなる。例えば、布地の価値を産み出すのは「人間の労働」という 普遍的な意味でのはたおりであって、はたおりという具体的な労働ではない。このことを表わすために、この等式では布地の等価物(=上着)を生産する具体的 な労働である裁縫が、はたおりと対置されるのである。そして、この場合には、裁縫は抽象的な「人間の労働」の具体的な表われと見なされるのだ。
 
 しがたって、「具体的な労働がそれと反対のものつまり抽象的な『人間の労働』を表わす役割をもつ」ということが、等価物という価値形態の第二の特異性と いうことになる。
 
 しかしながら、この裁縫という具体的な労働は、単なる普遍的な「人間の労働」を表わすものと見なされることによって、布地の中に込められている別の労働 との同一性を手に入れ、その結果、この裁縫という労働は、様々な製品を生産する他のあらゆる労働と同じく私的な労働であるにもかかわらず、直接社会と関わ りを持つ労働になるのである。それだからこそ、この裁縫という労働は、直接他の商品と交換できる商品として自らの姿を表わしているのである。
 
 そして、「私的な労働がそれと反対のものつまり直接社会と関わりを持つ労働となる」ということが、等価物という価値形態の第三の特異性なのである。
 
 価値形態のみならず、多くの思考形態、社会形態、自然形態を初めて分析した偉大な学者アリストテレスに立ち戻れば、等価物の形態の特異性のうちで最後に 明らかにした二つのものは、いっそう明らかになるだろう。
 
 というのは、第一に、アリストテレスは、商品の貨幣としての形態は単純な価値形態、つまり、ある商品の価値を他の任意の商品で表わすやり方が発展したも のにすぎない、とはっきり言っているのである。というのは、アリストテレスはこう言っているからである。
 
 「『五つのベッド=一軒の家』というのは『五つのベッド=これこれの貨幣』というのと違わない」
 
 さらにアリストテレスは、価値をこのように表わす等式が成り立つためには、家とベッドが性質的に同じ物と見なされる必要があること、そして、どう見ても 別のものであるこの二つの物は、このように本質的に同じ物と見なすことによってはじめて同じ尺度で計れる量として結びつけることができることを、見抜いて いた。
 
<74> なぜならアリストテレスはこう言っているからである。「交換するためには同じ物でなければならない。同じ物は同じ尺度で計られなけ ればならない」

 しかし、アリストテレスはここで終わっていて、価値の形態についてのそれ以上の分析を断念している。そして「実際の所は全然ちがう種類のものを同じ尺度 で計ることは不可能である」つまり性質的に同じ物と見なすことは不可能であり、このように同一視することは、様々な物の真の本質とは相容れないことであっ て、「実際的な必要を満たすための応急処置」でしかないと言っているのである。
 
 アリストテレスの分析がなぜ行き詰まったかは彼の言葉から明らかである。つまり、彼の価値概念には欠陥があったのである。ベッドの価値を表わす等式の中 で、家がベッドに向かって表わしている双方に共通の中身つまり性質的に同じ物とは何だろうか。「そんなものは実際にはあり得ない」とアリストテレスは言 う。なぜだろうか。
 
 家がベッドに向かって双方に共通する物を表わすことができるのは、ベッドと家の双方の中に実際に含まれている共通の物を、家が表わしているからにほかな らない。そして、それこそが「人間の労働」なのである。
 
 ところが、アリストテレスは、商品が価値の形態をとることは知っていたが、あらゆる労働が同じ「人間の労働」として、つまり同じ価値を持つものとして、 この形態の中に表われているということを、価値形態から読みとることが出来なかったのである。なぜなら、ギリシャ社会は奴隷労働に基づいており、人間の不 平等、人間の労働力の不平等を本来の基盤としていたからである。
 
 価値を表わす等式の秘密は、すべての労働が同じものであり、同じ意味を持つもの、普遍的な「人間の労働」であることである。だから、この謎を解くには、 人間はみな同じであるという概念が万人の固定観念に発展している必要がある。しかし、そんなことが実現するには、社会の中で、商品の形態が労働生産物の普 通の形態であり、商品所有者としての人間の相互関係が支配的な社会的関係になっている必要がある。
 
 アリストテレスはその天賦の才を発揮して、商品の価値を表わす等式の中に同一性の関係が潜んでいることを発見した。ただ、彼が生きた社会の制約があっ て、この同一性の関係が「実際には」どこに存在するのかを発見できなかったのである。

 
4.単純な価値形態のまとめ


 ある商品が価値としての役割をすること(=価値形態)は、その商品と別の商品との価値の等式の中に単純な形で表われている。言い換えれば、それはその商 品と別の種類の商品が交換される関係の中に表われている。

<75> 商品Aの価値の質は、商品Aが商品Bと直接交換できることに表われている。商品Aの価値の量は、ある量の商品Aがある量の商品Bと 交換できることに表われている。別の言葉で言えば、ある商品の「価値」は、商品が「交換価値」として扱われることによって明確な形で表わされるのである。
 
 この章の始めにわたしはよくある言い方で「商品とは使用価値と交換価値のことである」というふうに書いたが、厳密にはそれは正しくない。商品とは使用価 値つまり人に使用されるものであると同時に「価値」なのである。商品の価値が商品の自然形態とは異なる固有の現象形態つまり交換価値の形態で表われると き、商品は使用価値と価値の二つの面を元々もっていることが明らかになる。
 
 商品は単独で観察される限りけっして交換価値の形態をとることはない。商品はもう一つの別種の商品との交換関係つまり価値の等式のなかで観察されてはじ めてこの形態をとるのである。このことを知っている限り、先の言い方をしても構わないだろう。むしろ、その方が簡単である。
 
 ここまでのわれわれの分析から次のことが証明された。それは、商品が価値の形態をもつこと、あるいは商品の価値が等式で表わすことができるのは、商品が 元々価値をもっていることからであって、商品が交換価値として表わされるから価値や価値の量が生まれてくるのではないということである。ところが、この後 の考え方こそ、重商主義者やその追随者たちや(22)、その敵である最近の自由貿易提唱者たちが等しく信じ込んでいることである。
 
 重商主義者たちは、価値を表わす等式の質的側面、つまり、貨幣という形で完成する商品の等価物の形態を重視している。それに対して、最近の自由貿易提唱 者たちは、どんな値段でも商品を売りさばく必要があるので、相対的な価値形態の量的側面を重視する。したがって彼らにとっては、商品の価値も価値の量も、 交換関係の中で表われる形、日常の値札に表われる形だけでのみ存在する。
 
 ロンドンの金融街での混乱を極めた出来事に対して学問的な修飾を施すことを仕事にしていたスコットランドのマクロードにしても、迷信にとらわれた重商主 義者と迷信から覚めた自由貿易提唱者との妙ちくりんな合成品となったにすぎない。
 
 商品Aの価値が商品Bとの価値の等式によって表わされることを詳しく観察することによって、この等式の中では、商品Aの自然形態は使用価値だけであると 見なされ、商品Bの自然形態は「価値」だけであると見なされることが明らかになった。したがって、商品の中に隠れている使用価値と「価値」の内的な対立 は、この等式においては、二つの商品の関係という外的な対立によって表わされていることになる。
 
<76> そして、この関係の中では、価値を表わしたい商品は元々使用価値のみをもっていると見なされ、それに対して、価値を表わす商品は元 々交換価値のみをもっていると見なされる。だから、ある商品の単純な価値形態とは、その商品の中に含まれる使用価値と「価値」の対立の単純な現象形態なの である。
 
 労働による生産物はどのレベルの社会でもそれが人に使用されるものであることに変わりはない。歴史上の特定の発展段階になると、人に使用されるものを生 産するのに注ぎ込まれる労働がその物の具体的な属性、つまり、その物の価値と見なされる。そしてその時初めて、労働生産物が商品となる。それは要するに、 商品が単純な価値形態をとると同時に労働生産物も単純な商品の形態をとるということであり、商品形態の発展が価値形態の発展と同時に起こるということであ る。
 
 しかし、この単純な価値形態はまだ充分な発展を遂げていない萌芽状態であり、幾多の変遷を経た後に価格という形態に到達するものであることは、ちょっと 考えれば分かることだ。
 
 商品Aの価値を商品Bによって表わすことは、商品Aの使用価値と「価値」の違いをはっきりさせるだけであり、ある別のたった一つの商品との交換関係に置 くだけである。そこでは、商品Aが他のどの商品とも中身が等しく、どの商品とも量的な比例関係にあることは示されてはいない。
 
 一つの商品の単純な相対的価値の形態には、もう一つの商品による唯一つの等価物の形態が対応するだけである。だから、布地の相対的な価値を示す等式の中 で上着が等価物の形態となって直接交換できるのは、この布地という唯一の種類の商品だけである。
 
 にもかかわらず、この単独の価値形態はひとりでにもっと完全な形態に成長する。確かに、この単独の価値形態によっては、ある商品Aの価値が別のたった一 つの種類の商品によって表わされるだけである。しかし、この別の商品の種類が上着でも鉄でも小麦でも何であっても、この際どうでもよいことである。
 
 商品Aが様々な種類の商品に対して価値の等式に置かれるたびに、同じ商品Aの価値を表わす様々な種類の単純な等式が生まれる(22a)。そして、この商 品の価値を表わす等式は、この商品と異なる商品の種類の数だけ生まれる。この商品の価値を表わすたった一つの等式が、今やこうして様々な種類の単純な等式 の列に変貌を遂げ、その列が次のように長く伸びていくのである。



 
B.総体的な価値形態、あるいは、長く伸びた価値形態


<77> z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =x量の商品E または =等々

(二反の布地=一着の上着 または =10ポンドの紅茶 または =40 ポンドのコーヒー または =1クォーターの小麦 または =2オンスの金 または =1/2トンの鉄 または =等々)


1.長く伸びた相対的価値形態


 ある商品、例えば布地の価値は、今やそれ以外の無数の商品によって表わされている。布地以外のあらゆる現実の商品が布地の価値を映す鏡となっているので ある(23)。
 
 そして、初めてここで布地の価値が真に普遍的な「人間の労働」の固まりであることが明らかになる。というのは、布地を作る労働が今や明確に他のどんな 「人間の労働」とも等しい労働として表われているからである。それらの労働が本来どのような形態をもっているか、それが上着か小麦か鉄か金かそれとも他の どんな商品に結実しているかは関係がない。
 
 したがって、布地は、その価値の形態を通じて、もはや別のもう一つの商品に対して社会的な関係にあるのではなく、全ての商品に対して社会的な関係にある ことになる。商品としての布地は、商品という世界の中で市民権を得たのである。それと同時に、この商品の価値を表わす等式が無限に伸びていることからも、 商品の価値はそれが使用価値としてどんな独特の姿をしているかには無関係であることが分かる。
 
<78> 最初に示した「二反の布地=一着の上着」という等式では、この二つの商品が一定の比率で交換可能であるというのは偶然の出来事であ るかもしれない。それに対して、二番目に示した等式では、この偶然の出来事とは本質的に異なる事実、この一見偶然に見える出来事の背景となっている事実が 透けて見える。
 
 この等式では布地の価値の量は一定である。それは、布地の価値を表わしているのが上着だろうとコーヒーだろうと鉄だろうと、その他無数の様々な所有者の もつ無限の様々な商品のどれだろうと同じである。ここにあるのはもはや商品を所有する二人の人間の偶然の関係ではない。ここから明らかなのは、交換するこ とによって商品の価値の量が決まるのではなく、その反対に、商品の価値の量によって商品の交換比率が決まるという事実である。
 

2.個別の等価物の形態


 布地の価値を表わす上の等式の中で、右辺にある上着、紅茶、小麦、鉄等々の商品はどれもみな等価物であり、したがって価値を体現する物であると見なされ ている。これら右辺のそれぞれの商品がもっている本来の個々の形態は、今やどれもが個別の等価物の形態なのである。
 
 それと同じく、様々な現実の商品の中に込められている様々な種類の個々の具体的で有用な労働も、いまや普遍的な「人間の労働」が同じ数だけ個別に具体化 して表われた姿と見なされるのである。

 
3.総体的な価値形態あるいは長く伸びた価値形態の欠点


 第一の欠点は、この価値の等式の列は終わることがないために、商品の価値を他の商品によって相対的に表わすやり方はいつまでたっても完結しないことであ る。一つの価値の等式が別の価値の等式に結び付いている連鎖は、新しい価値の等式を作り出す新たな商品の種類が現われるとともに永遠に伸びていく。
 
 第二の欠点は、この連鎖を伸ばしていくと、様々な種類のばらばらな価値の等式によるモザイクが出来てしまうことである。
 
 最後の欠点は、それぞれの商品の相対的な価値がこうした長く伸びた形で表わされるしかないとすれば、それぞれの商品の相対的な価値形態は、永遠に終らな い等式の羅列となり、しかもそれが商品ごとに全部異なってくるということである。
 
 そして、長く伸びた相対的な価値形態のこれらの欠点は、その等価物の形態にもそのまま反映される。どの種類の商品であろうとその本来の個々の形態が、こ こではどれもが別の等価物の形態となり、しかもそれが無数に存在する以上は、現実に存在する等価物は不完全なものしかなく、しかも、その内のどれか一つし か等価物になれないのである。
 
<79> それと同様に、個別の商品による等価物の中に込められた個々の具体的で有用な労働も、「人間の労働」の個別の、従って、不完全な現 れ方でしかない。確かにこの個別の現れ方をすべて集めさえすれば、人間の抽象的な労働の総体的なあるいは完全な現れ方が得られるかもしれない。しかし、そ れでも、その現れ方はけっして統一性のあるものではない。
 
 しかしながら、長く伸びた相対的な価値形態は、次に示すような相対的な価値の単純な表現、つまり最初に示した形の単純な等式を単に集めたものでしかな い。
 
 二反の布地 = 一着の上着
 二反の布地 = 10ポンドの紅茶 等々。
 
 そして、これらの等式は逆向きにしても意味は変わらない。
 
   一着の上着 = 二反の布地
 10ポンドの紅茶 = 二反の布地 等々。
 
 実際、ある人は自分の持っている布地をほかの多くの商品と交換しようとして、最初の等式のように布地の価値を多くの別の商品で表わすとすれば、ほかの商 品の持ち主たちは必然的に自分たちの商品を布地と交換しようとして、逆向きの等式のように自分たちの持っている様々な商品の価値を第三の商品である布地で 表わすしかない。
 
 そこで、われわれはもし「二反の布地=一着の上着 または =10ポンドの紅茶 または =等々」という等式の列を逆向きにして、事実上すでにこの列の中に含まれている逆向きの等式にすると、つぎの形態が得られる。



 
C.普遍的な価値形態

 
 一着の上着      =┐
 10ポンドの紅茶    =│
 40 ポンドのコーヒー  =│
 1クォーターの小麦  =├ 二反の布地
 2オンスの金         =│
 1/2トンの鉄          =│
 x量の商品A     =│
 その他の商品         =┘
 
1.価値形態の性格の変化

 この価値形態では、まず第一に、様々な商品の価値が単純に一つの商品によって表わされている。第二に、様々な商品の価値が同じ商品によって統一性をもっ て表わされている。この価値形態は単純で、共通性があり、それゆえ普遍的である。
 
<80> 最初に示した単純な価値形態(A)も二番目の長く伸びた価値形態(B)も、いずれも、ある商品の価値がそれ自身の使用価値つまり現 実の形とは別のものであることを表わしていただけである。

 最初の形態(A)は「一着の上着 = 二反の布地、10 ポンドの紅茶 = 1/2 トンの鉄 等々」という価値の等式で表わされる。これは、上着の価値は「布地と同じ物」であることを表わし、紅茶の価値は「鉄と同じ物」であることを表わし、等々と いうことだが、上着の価値と紅茶の価値を表わす「布地と同じ物」と「鉄と同じ物」は別個のものである。それは布地と鉄が別個のものであるのと同様である。 この最初の形態が実際に現われるのは、労働生産物が偶然の物々交換で商品に変わるというごく初期の段階であるのは明らかである。
 
 二番目の形態(B)では、最初の形態の場合よりも、ある商品の価値とそれ自身の使用価値とを区別する度合いが進んでいる。というのは、例えば上着の価値 は、ただ「上着と同じ物」ではないだけで、「布地と同じ物」、「鉄と同じ物」、「紅茶と同じ物」、その他のあらゆるものと同じ物でもあり得るからである。 つまり、上着の価値は、今やあらゆる形をとって上着の本来の形態と対立する。
 
 しかし他方で、二番目の形態では、普遍的な価値形態のように、様々な商品を一つにまとめる等式の形にすることは全く不可能である。というのは、一つの商 品の価値の等式ごとに、他のあらゆる商品が等価物の形態をとって連なっているからである。この長く伸びた価値形態が実際に最初に現われるのは、ある労働生 産物、たとえば家畜が、もはや例外的ではなく習慣的に他の様々な商品と交換されるようになった段階である。
 
 それに対して、今新たに得られた普遍的な形態では、無限に存在する商品の価値が、それらの中から選び出されたたった一種類の商品、たとえば布地によって 表わされ、全ての商品の価値がこの布地との等式によって表わされる。ここでは、ある商品の価値は「布地と同じ物」と表わされることによって、それ自身の使 用価値から区別されるだけでなく、あらゆる使用価値からも区別される。そして、まさにそれゆえに、その商品が他のあらゆる商品と共通なものであることが示 されるのである。この形態において初めて様々な商品が実際に価値として互いに結び付き、互いに交換価値として姿を現すのである。
 
 最初の二つの形態の場合は、別の種類のもう一つの商品によって、あるいは別種の多くの商品によって、一つ一つの商品の価値が表わされていた。だから、こ の二つの場合では、価値の形態をとることは、それぞれの商品についてのいわば私的な出来事だった。その出来事は単独で完結しており、他の商品がそこに主体 的に関わることはない。他の商品は個々の商品に対してただ等価物として補助的な役割を演じるだけである。
 
 それに対して、普遍的な価値形態は、無限に存在する商品の共同作業によって成り立っている。ある一つの商品が普遍的な価値として表わされるということ は、同時に他の全ての商品の価値がその一つの同じ等価物によって表わされるということであり、新たに登場する商品の種類もそれに従うということである。
 
<81> ここから次のことが明らかになる。様々な商品に価値があるということは商品の単なる「社会的なありよう」であるから、それは全ての 商品の社会的な関わりによってしか表わすことがでない。したがって、商品の価値の形態は社会的に有効な形態でなければならない。
 
 「布地と同じ物」という形態に置かれるとき、あらゆる商品は今や質的に同じ物、つまり普遍的な価値となるだけでなく、同時に量的に比較可能な価値の量と なって姿を現わすのである。つまり、全ての商品の価値の量が全く同じ物つまり布地によって表わされたおかげで、全ての商品の価値の量は互いに比較可能と なったのである。
 
 それは例えば「10ポンドの紅茶 = 二反の布地」であり「40ポンドのコーヒー = 二反の布地」なら「10ポンドの紅茶 = 40 ポンドのコーヒー」ということであり、1ポンドのコーヒーの中に1ポンドの紅茶の1/4の価値の本質つまり労働が込められているということである。
 
 世の中のあらゆる商品の相対的価値を普遍的形態で表わす場合、その中からただ一つ取り出された等価物の商品、ここでは布地に普遍的な等価物の性格が付与 される。布地の自然形態がこの世界の共通の価値の形であり、布地は他の全ての商品と直接交換することができるのである。
 
 こうして、布地の実際の形が、あらゆる「人間の労働」が目に見える形に結実したもの、あらゆる「人間の労働」が普遍的社会的な姿をとったものと見なされ るのである。それと同時に、布地を作り出すはたおりという私的な労働が、同時に普遍的に社会と関わりを持つ労働となり、他のあらゆる労働との同一性を獲得 するのである。
 
 普遍的価値形態を構成している多数の等式の中では、布地に具体化された労働が、それ以外の商品に込められている労働と順に同じ物と見なされる。そうし て、はたおりという労働は、いまや普遍的な「人間の労働」が普遍的な形で現われたものとなったのである。
 
 普遍的価値形態の中では、商品の価値の中に具体化された労働は、現実の労働のあらゆる具体的な形態と有用な属性が取り除かれた労働であるという否定的な 形で表わされるだけではない。普遍的価値形態の肯定的な特徴は明らかである。それは全ての現実の労働が「人間の労働」という共通の特徴、すなわち「人間の 労働力」の注入に置き換えられることである。
 
 普遍的価値形態は、労働生産物を区別のない「人間の労働」の単なる固まりとして表わしており、「人間の労働」こそは全ての商品の社会的な表われであるこ とを、それ自身の構造によって明らかにしている。こうして普遍的な価値形態は、「人間の労働」の普遍的性格が商品世界の中で労働の特有の社会的性格を形 作っていることを明らかにしているのである。

 
2.相対的な価値形態と等価物の形態の発展関係


 相対的な価値形態が発展する程度に応じて等価物の形態も発展する。ただし、等価物の形態の発展は、相対的な価値形態の発展の表われであり結果でしかない ということを忘れてはならない。
 
<82> まず、一つの商品の単純で偶然な価値形態では、別の一つの商品が唯一の等価物になる。次に、相対的な価値の長く伸びた形態、つま り、一つの商品の価値を他の全ての商品によって表わす方法では、それら全ての商品に様々な種類の個別の等価物の形態が与えられた。そして、最後に、一つの 特定の種類の商品に普遍的な等価物の形態が与えられた。というのは、それ以外の全ての商品に、この唯一の商品を通じて統一性のある普遍的な価値形態を与え られたからである。
 
 しかしながら、価値形態が普遍的なものに発展するに応じて、価値形態の二つの極である相対的な価値形態と等価物の形態との対立関係もまた発展する。
 
 すでに、最初の等式の形「二反の布地=一着の上着」にこの対立が含まれている。しかし、まだこの対立は固定されてはいない。この等式は前から読むか後ろ から読むかによって、布地と上着という対極にある二つの商品の各々が相対的な価値形態にもなり等価物の形態にもなりうる。この段階ではまだこの対立関係を 固定して考えることは難しい。
 
 第二の等式の形になってもなお、一つ一つの種類の商品がそれぞれの相対的な価値を全面的に展開するだけである。つまり、他の全ての商品が等価物の形態と なってそれぞれの商品と対立することによって、一つ一つの種類の商品が長く伸びた相対的な価値形態を手に入れるだけである。
 
 ここでは、もう価値の等式、例えば、「二反の布地=一着の上着 または =10ポンドの紅茶 または =1クォーターの小麦 等々」の両辺を入れ替えることはできない。そうすることは、この等式の性格を完全に変更して、長く伸びる総体的な価値形態から普遍的な価値形態に変えるこ とになるからである。
 
 最後の等式の形になってようやく商品の世界は普遍的社会的で相対的な価値形態を手に入れる。なぜなら、一つの商品を除くすべての商品が普遍的な等価物の 形態から排除されるからである。つまり、他の全ての商品がこの形態をとらないことによって、一つの商品、ここでは布地が、他の全ての商品と直接交換できる 形態、つまり、直接社会と関わる形態を手に入れるのである(24)。
 
<83> 逆に、普遍的な等価物の役割を担う商品は、全ての商品が手に入れた統一性のある普遍的な相対的価値形態をそれ自身が手にすることは できない。もし、布地が、つまり普遍的な等価物の形態をもつ何らかの商品が、同時に普遍的な相対的価値形態をとりうるなら、布地は自分自身の等価物になら ざるをえない。そうなると、二反の布地=二反の布地という一種の同語反復になってしまい、価値も価値の量も表わすことはできない。

 もし普遍的な等価物の相対的価値を表わしたければ、普遍的な価値形態を表わす第三の等式を逆転しなければならなくなるだろう。普遍的な等価物は他の全て の商品と共通の相対的な価値形態を持つことはできない。普遍的な等価物の価値は、他の全ての現実の商品の無限の列の中に相対的に表われるだけである。こう して今や、長く伸びた相対的価値形態つまり第二の等式の形が、普遍的な等価物となっている商品の特別な相対的価値形態として姿を現わすのである。
 

3.普遍的な価値形態から貨幣形態への移行


 普遍的な等価物の形態は、抽象的な価値の一形態である。したがって、どの商品もこの形態をとることが出来る。一方、たった一つの商品しか等価物の形態を とることはできない(第三の等式の形)。つまり、その商品は他の全ての商品から等価物として一つだけ選び出されねばならないのである。
  
 そして、特定の一種類の商品が最終的に等価物として選び出された瞬間から、全ての商品についての統一性のある相対的な価値形態が客観的に安定したものと なり、普遍的・社会的に有効なものとなる。
 
 そして、等価物の形態がある特定の商品の自然形態と社会的に結び付いたとき、その商品が「貨幣という名の商品」となり、お金として通用する。そして、商 品世界の中で普遍的な等価物の役を演ずることが、その商品に特有の社会的役割となる。そして、その商品がその機能を社会的に独占して行う。
 
<84> 歴史のなかでこの特等席を獲得した商品は、第二の形の等式(B)では布地の個別の等価物の一つとなり、また第三の形の等式(C)で は相対的な価値が布地によって表わされた様々な商品のうちの一つの商品つまり金だった。そこで、われわれは第三の形の等式の布地という商品の代わりに金と いう商品を置くことにする。すると次の形態が得られる。


 
D.貨幣形態


 二反の布地      =┐
 一着の上着        =│
 10ポンドの紅茶       =│
 40 ポンドのコーヒー  =├ 2オンスの金
 1クォーターの小麦   =│
 1/2トンの鉄          =│
 x量の商品A     =┘
 
 第一の形の等式(A)から第二の形の等式(B)への移行と、第二の形の等式から第三の形の等式(C)への移行では本質的な変化があった。それに対して第 三の形の等式とこの第四の形の等式(D)とでは、等価物の形態が布地から金に変わったこと以外は何の違いもない。
 
 第三の形の等式での布地の役割、つまり普遍的な等価物の役割を、第四の形の等式では金が果たすのである。この間の進歩は、直接に何とでも交換できる形態 つまり普遍的な等価物の形態が、今や社会的な慣習によって金という特別な商品の自然形態と結び付いたことである。
 
 金(きん)がお金として他の商品と交換出来るのは、金がすでに商品として以前から他の商品と交換できたからに他ならない。他の全ての商品と同じく金はす でに等価物の役割を果たしていたのである。それは偶然の交換行為における単独の等価物であったときも、他の多くの商品(=等価物)と並んで個別の等価物で あったときも同様である。金は徐々に様々な大きさの集団の中で普遍的な等価物としての役割を果たすようになる。
 
 全ての商品の価値を表わす等式で金が等価物の役割を独占するとき、金は「貨幣という商品」になる。そして金が「貨幣という商品」になったときから、第四 の形の等式(D)は第三の形の等式(C)とは違うものとなる。言い換えれば、普遍的な価値形態が貨幣形態に変化するのである。
 
 ある商品例えば布地の相対的な価値を、すでに「貨幣という商品」として機能している商品、例えば金で単純に表わしたものが、値段である。したがって、布 地の値段の形態は次のようになる。
 
 二反の布地=二オンスの金 
 あるいは、もし二オンスの金の貨幣が£2なら、
 二反の布地=£2
 
<85> 普遍的な等価物の形態が理解できて、第三の形の等式(C)で表わされる普遍的な価値形態が理解できれば、貨幣形態という考え方には 何も難しいところはない。また、第三の等式は逆向きにすれば第二の等式(B)つまり長く伸びた価値形態になるし、第二の等式を構成しているのは、第一の等 式(A)つまり「二反の布地=一着の上着」あるいは「x量の商品A=y量の商品B」でしかいない。したがって、単純な価値形態の中に貨幣形態の萌芽は既に 存在するのである。




第四節 商品の物神性とそのからくり


 商品というものは、一見するところ何の問題もない自明のものであるように思える。しかし、商品を詳しく研究していくと、それは複雑に錯綜したとんでもな い難物で、とても一筋縄ではいかない代物であることが分かる。商品をその属性によって人間の必要を満たすものと見るにしろ、「人間の労働」が作り出したも のがこのような属性を備えているものと見るにしろ、商品が使用価値であるかぎり、そこには何も分かりにくいことはない。
 
 人間が自然の物質の形を自分の活動によって自分に便利なように作り変えることには,何の不思議なこともない。例えば、人が木を加工して机を作れば、木の 形は変わる。しかし、机が木という手に触れればそれと分かるありふれた材料で作られていることに変わりはない。
 
 ところが、ひとたび机が商品となるやいなや、もう五感の理解を越えた不可解なものとなる。そうなれば、机は地面に足を下にして置かれるだけではなく、足 を上に逆さに置かれて他の全ての商品と交換され、その木製の頭からわけの分からない言葉をしゃべりだすのである。それはこっくりさんのテーブルが勝手に踊 り出すよりも奇妙な光景である(25)。
 
 商品の不思議さはその使用価値から生まれるのではない。それは商品の価値の量を決定するものの中身つまり労働からも生まれない。
 
 なぜなら、最初の場合、使用価値を生み出す労働や生産的活動には様々なものがあるが、それらが単なる人間の肉体の様々な役割分担であり、そのような役割 分担とは、それらがどんな内容でどんな形態をしていようと本質的に人間の脳味噌、神経、筋肉、感覚器官など諸々(もろもろ)の器官を使うことでしかないの は、生理学的に何の疑いもないことだからである。
 
<86> 二つめの場合、つまり、商品の価値の量を決定するものの中身つまり労働時間の長さや労働の量について言うなら、それは労働の質から はっきり区別されており、何ら分かりにくい点はない。商品のない社会でも、生活に必要なものを作るのに要する労働時間は、発展のレベルに応じて程度の違い はあっても、人々にとって重要な意味があったに違いない(26)。結局、人間が何らかの形でお互いのために働くようになりさえすれば、人間の労働は価値と して社会と関わりを持つようになるのである。
 
 では、労働生産物が商品という形をとるやいなや、それが謎めいた性格を持つようになるのはなぜだろう。明らかにこの原因は商品という形態にある。
 
 商品においては、「人間の労働」の同一性は、労働生産物の価値の同一性という形をとり、「人間の労働力」の注入量は、労働生産物の価値の量という形とな り、その結果、生産者たちの労働の社会性(=同一性)が実現される生産者たちの関係は、労働生産物の社会的な関係という形をとるのである。
 
 したがって、商品の形態が謎に満ちていることの原因は単に次のことにある。それは、人間の労働が商品の形をとることで、労働の社会的な性格が労働生産物 それ自身の客観的な性質として、あるいは労働生産物の本来の社会的な属性として、人間の目に見えることである。したがってまた、労働全体に対する生産者た ちの社会的な関係が、生産者たちの関係ではなく生産物の社会的な関係として見えるのである。この置き換えによって、労働生産物は人間の五感ではとらえられ ない社会的な物つまり商品となるのである。
 
 物が光に当たって人間の目に見えるときも、これと同じである。物に反射した光が視神経に当たるとき、光の反射は視神経に対する主観的な刺激としてではな く、目の外側に存在する物の客観的な形として知覚される。
 
 しかし、物を見る場合には、外側の対象物ともう一つの物である目の間を実際に光が飛び交う。それは物理的な物と物との間の物理的関係である。それに対し て、商品の形態は、商品の物理的な性格やそれに由来する物と物との関係とは全く関係 がない。これは労働生産物が商品として表わされる価値形態についても当 てはまる。商品の世界で人間の目に物と物との関係の変幻自在な姿として見えるものは、人間と人間の社会的関係にほかならないのである。
 
 これと似たものを探すとすれば、宗教の世界の曖昧模糊とした領域に逃げ込むしかない。ここでは人間の頭から生まれてきた物たちが、独自の生命を持つ自立 した生き物のように、互いに関わり合い、また人間と関わりを持つのである。
 
<87> 商品の世界でも人間の手によって作られた製品がこれと同じことをする。これをわたしは物神崇拝(=物フェチ)と名付ける。労働生産 物が商品として作られるやいなや物神崇拝がそれに付着する。物神崇拝と商品生産は切り離すことができない。
 
 これまでの研究ですでに明らかなように、全ての商品にこういう物神性があるのは、商品を作り出す労働に特有の社会的性格があるためである。
 
 一般的に言って、何か便利なものが商品となるには、それが互いに独立して私的に行われた労働の産物でなければならない。この私的な労働が集まったもの が、全体としての社会的労働である。生産者たちは自分たちの作ったものを交換することで、初めて社会と接触することができる。したがって、この私的な労働 がそれに特有の社会的性格を手に入れるのもこの交換の場である。
 
 別の言い方をすれば、交換という行為によって労働生産物が互いに直接的に結びつき、それを通じて生産者たちが互いに間接的に結びついて、はじめて私的な 労働が全体としての社会的労働の一部となる。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的な結びつきが、働く人間と人間の直接的な社会的関 係としてではなく、そのままの形で、つまり、物を通じた人間同士の関係、物同士の社会的な関係として見えるのである。
 
 労働生産物は交換によってはじめて、手にとって分かる実用品という性格を離れて、社会的に等しい「価値あるもの」という性格を得る。このように労働生産 物が「便利なもの」と「価値あるもの」という二つの方向に実際に引き裂かれるためには、交換という行為が充分な広がりと重要性を獲得して、便利なものが交 換のために作られるようになり、物に「価値」があるということが生産の場ですでに意識されている必要がある。
 
 これが実現した瞬間から、生産者の私的な労働は実際に二重の社会的性格を持つようになる。
 
 一方では、私的な労働は、有用な労働として社会の要求を満たし、その結果、全体としての労働の一部分、自然に成長した労働の社会的分業システムの一部分 としての意味を持つようになる。
 
 他方で、私的な労働は、生産者自身の多様な要求をも満たしてくれるものとなる。なぜなら、それぞれの有用な私的労働は他の有用な労働と同じ物と見なさ れ、互いに交換可能だからである。
 
<88> 様々な労働をかくも完全に等しいと見なすことは、それらの実際の相違点を度外視することによってはじめて可能となる。つまり、様々 な労働は、「人間の労働力」の注入つまり抽象的な「人間の労働」としてそれらが持っている共通の特徴に置き換えられることによって、はじめて同じ物と見な されるのである。
 
 私的な生産者たちの目には、彼らの私的な労働がもっている二重の社会的性格は、現実の流通と交換の場に表われる形をとって見える。彼らにとっては、私的 労働の有用な社会的性格は、労働生産物がとくに他人にとって便利なものでなければならないということであり、様々な種類の労働の同一性という社会的性格 は、素材の様々に異なる労働生産物が共通の価値をもっているということである。
 
 つまり、人間が労働生産物をどれも「人間の労働」の物的な表われと見なすから、人間は労働生産物を「価値」として交換するのではないのである。その逆で ある。人間は様々な労働生産物を交換の場で「価値」として同一視するから、様々な労働を「人間の労働」として同一視するのである。人間は知らずにそうして いるのである(27)。
 
 だから、「価値」が何かは「価値」自身から読みとることは出来ない。ところが「価値」はあらゆる労働生産物を社会的意味を持つ象形文字に変える。そこ で、後に人間はこの象形文字の意味を解読して、自分自身の作った社会的産物の秘密を探ろうとする。というのは、言葉が社会的産物であるように、人に使用さ れるものを「価値」と見なす習慣は社会的な産物だからである。
 
 労働生産物は「価値」としてみる限り、その生産に注ぎ込まれた「人間の労働力」が 物の形をとって表われたものであると、ある学者がやっとのことで発見し たとき(=労働価値説)、それは人類の発展史上画期的な出来事だった。しかし、この発見では、労働の社会的性格がどうして物の形をして見えるのかは明らか に されなかった。
 
 互いに独立した私的な労働に特有の社会的性格とは、「人間の労働」としての同一性で あり、それが労働生産物の価値の形態として表われるのである。独特な 生産形態つまり商品生産についてだけ当てはまるこの事実は、上記の発見にもかかわらず、商品生産に関わる人たちにとって、変わらぬ決定的な有効性を持って いる。それは、学者によって空気の成分が基本的要素に分析されても、空気その物は何の変化もしないのと同じである。
 
<89> 製品を交換する人が実際に一番関心を持っているのは、自分の商品で他の商品がどれほどたくさん手に入るか、つまり、自分の商品がど んな割合で他の商品と交換されるかということである。交換が繰り返されてこの割合が次第に固定してくると、その割合はその労働生産物の本来の性質であると 思えてくる。だから、例えば、1トンの鉄と2オンスの金が同じ価値であることが、1ポンドの金と鉄が化学的にも物理的にも異なるのに同じ重さであるのと同 じようなことに思えるのである。

 しかし、実際にある労働生産物が価値であることが確定するのは、それが価値の量として流通することによってである。この価値の量は常に変動するが、それ は生産物を交換する人たちの意志や予想や行動には関係がない。交換する人たちの社会的な動きは物の動きという形をとる。しかし、彼らは物の動きを制御する どころか物の動きに制御されてしまうのである。
 
 その後、製品の生産が完全な形に発展してくると、経験だけから次のような学問的洞察が生まれてきた。それは、私的労働は互いに独立して営まれているが、 自然に成長した労働の社会的分業システムの一部として全ての方面で相互に依存し合っており、つねに社会的に釣り合いのとれた尺度で評価されるということで ある。なぜなら、製品の交換比率は偶然に支配されて絶えず変動するにもかかわらず、製品を社会的に生産するのに必要な労働時間が、全てを支配する自然の法 則のように君臨しているからである。それはたとえ家が頭の上から崩れ落ちようとも変えることができない重力の法則のようなものである(28)。
 
 したがって、価値の量を労働時間によって決定する過程こそは、商品 の相対的価値の表面的な変動の裏側に隠れたからくりなのである。しかし、このからくり が分かっても、労働生産物の価値の量が偶然だけで決まるという印象を取り去るだけで、価値の量が物の形で表わされることに変わりはない。
 
<90> 人間生活の形態を考察したり、学問的に分析したりすることは実際の発展の跡を逆向きにさかのぼることである。それは事実の流れに遅 れて行われる。したがって、発展のプロセスが終わったあとの結果を扱うことになる。

 労働生産物を商品に変えてそれを流通させる前提条件となる様々な価値の形態もまた、社会生活の中に自然な形で固定してしまっている。だから、人々はこの 形態を変わらないものと見なして、その歴史的な特徴を明らかにしようとはせずに、この形態の意味を明らかにしようとする。
 
 だから、人々は単に商品の価格を分析して商品の価値の量を明らかにしようとしたのであり、商品をすべて金額で表わすことで商品が価値であることを明らか にしようとしたのである。しかし、商品をすべて金額で表わす貨幣形態は発展の最終形態であって、この形態は、私的労働の社会的性格と私的労働者の社会的関 係を明らかにするどころか、実際にはそれらを覆い隠しているのである。
 
 確かに、抽象的な「人間の労働」の普遍的な具現物としての布地と、 上着や靴墨などの商品が結び付くと言えば、いかにも突飛なことを言っているように見え る。しかし、上着や靴墨などの商品の生産者たちが、その製品を普遍的な等価物としての布地に──あるいはそれが金でも銀でも同じことだが──結び付けると きには、生産者たちの私的労働と社会全体の労働との関係が、生産者たちにとっては、まさにこの物同士の関係という突飛な形をとって見えるのである。
 
 それどころかこの突飛な形態がブルジョア経済学の基本概念を産み出している。この形態こそが、商品生産という歴史的性格を持つ社会的生産様式の生産関係 を理解するための、社会的に有効で客観的な方法なのである。
 
 商品世界の神秘も、商品生産の基礎となる労働生産物を取り巻いているあらゆる不可解な魔力も、別の生産様式がとられている所に行けば、たちまちにして消 えさってしまう。
 
<91> 経済学者たちはロビンソン・クルーソー風の小説を好む傾向があるので(29)、ここで無人島に住むロビンソンに登場してもらおう。 質素な性分のロビンソンではあっても、様々な欲求を満たさねばならないのは同じである。だから、様々な種類の有用な労働によって道具や家具を作ったり家畜 を飼ったり釣りや狩りをしなければならない。ここにはお祈りのたぐいのことは含めていない。なぜなら、それらは楽しむための行動で、労働ではなく娯楽だか らである。
 
 ロビンソンはこのように様々な生産的活動に従事するが、それが同じロビンソンの様々な活動形態でしかないこと、つまり「人間の労働」の様々な表われでし かないことを彼は知っている。だから、彼は自分の時間を様々な労働に正確に振り分ける必要がある。全体としての活動の中でどの活動を長めにどの活動を短め にするかは、目標とする成果を達成するために克服すべき困難の度合いによる。それは経験によって分かることである。
 
 やがてロビンソンは、壊れた船から救出しておいた時計と帳簿とインキとペンを使って、一人前の英国人らしく自分のために帳簿をつけ始める。その帳簿には 自分の持っている実用品と、それを作るために必要な様々な仕事と、様々な物を一定の量だけ作るのに要する平均的な労働時間の一覧が書いてある。
 
 ここには、ロビンソンが作った資産を形づくる様々な物とロビンソン自身との関係が、それほど知力を傾けなくても誰でも理解できるほど、分かりやすく単純 な形で表われている。にもかかわらず、ここには価値の本質的な要素がすべて含まれている。
 
 では、ロビンソンの明るい島から中世の暗いヨーロッパに目を移してみよう。そこにあるのはロビンソンのような独立した人間ではなく、農奴と領主、家来と 主人、信者と牧師というように、相互に依存し合っている人たちである。この個人的な依存関係が、物を生産する社会的関係の性格だけでなく、その関係の上に 築かれた生活空間の性格をも決定している。
 
 しかしながら、まさに個人的な依存関係が社会の基礎を作っているために、労働とその生産物はそれらの現実の姿とは異なる幻想的な姿(=商品)をとる必要 はない。それらは仕事とその成果として社会の営みの中に自然にとけ込んでいる。労働のありのままの姿と個々の労働がもっている特殊性が、ここでは直接社会 と関わりを持つ労働の形態なのであって、商品生産が基本の社会で見られる普遍性は存在しない。
 
<92> 夫役労働も商品を作る労働もその量を時間の長さで計るのは同じである。しかし、農奴は誰でも自分が領主のために注ぎ込む労働力がど れだけかをはっきり知っている。牧師に支払う十分の一税も牧師がくれる祝福よりもはるかに分かりやすい。この世界の人たちの身分上の役割分担についてどう 考えるかは別として、彼らの労働における人と人の社会的関係は人と人の関係のままであり、物と物、労働生産物と労働生産物との社会的関係を仮装することは ない。
 
 次に、共同社会の労働つまり直接社会と関わりを持つ労働は、文明化されたあらゆる民族の歴史の初期に自然に発生するものであるが、それを研究するために わざわざ歴史をさかのぼる必要はない(30)。もっと手近な例で充分である。田舎の農家で父親を中心に行われる産業がまさにそれである。彼らは穀物も家畜 も糸も布地も服も自分たちの必要のために作っている。これらの様々な物はその家族にとっては家族労働の生産物でしかなく、それらが商品として互いに交換さ れることはない。
 
 これら生産物を産み出す様々な労働、つまり農業も畜産も紡績もはたおりも裁縫も、そのままの形で社会的な役割を果たしている。なぜなら、これらの様々な 労働は家族の役割分担であって、商品生産の場合と同じく、独自の自然発生的な労働の分業となっているからである。つまり、男女の別と年齢の違いだけでな く、季節の変化に伴う自然条件の変化に応じて、家族の間で労働が配分され、家族の構成員のそれぞれの労働時間が決められるのである。しかし、個人の労働力 は最初から家族という共同体の労働力の一要素としてのみ機能しているから、時間の長さで計られた「個人の労働力」の注入が、ここでは最初から労働の社会的 性格を具えているのである。
 
<93> 変わって最後に自由な人間の共同体について考えてみよう。ここでは人々は共同の生産手段を使って働き、個人的な労働力を社会的な労 働力として意識的に注入する。ここではロビンソンの労働の特徴がすべてそのまま当てはまる。ただし個人に対してではなく社会に対して当てはまる。ロビンソ ンが 作った物はすべて彼自身の個人的な独占物で、ロビンソンが直接使用出来るものであった。この共同体が作った物はすべて社会のものである。この生産物の一部 は生産手段として使われる。この部分は社会的なまま残る。しかし、別の部分は共同体の構成員の生活手段として消費される。この部分は構成員の間で配分され なければならない。
 
 この配分方法は、社会の生産組織の特殊性とそれに応じた生産者たちの歴史的な発展レベルによって違ってくる。単に商品生産と比較するために、個々の生産 者に割り当てられる生活手段の取り分はその人の労働時間によって決められると仮定してみよう。すると、労働時間は二つの意味を持ってくるだろう。
 
 まず、社会が労働時間を計画して人々に割り当てれば、様々な欲求に応じて労働の分担割合を正しく決定できるようになる。他方、労働時間は、共同労働を個 々 の生産者に割り当てる尺度になるだけでなく、共同生産物のうち個人で消費する分を分配するさいの尺度にもなる。そしてこの場合には、労働と労働生産物に対 する人間の社会的な関係は、生産過程においても分配過程においても単純明快である。
 
 一方、商品生産者たちで構成される社会における一般的な社会的生産関係は、生産物を商品つまり「価値」として扱い、私的な労働を商品という物を通じて同 じ「人間の労働」として相互に結びつけるが、そのような社会にとっては、抽象的な人間を崇拝するキリスト教が最もふさわしい宗教である。特に、キリスト教 のブルジョア的発展であるプロテスタントや理神論がそうである。
 
 古代インドや古代ギリシャ・ローマの生産様式の中では、生産物を商品に変えることや商品生産者としての人間の存在は大きな意味をもっていなかった。しか し、商品生産者の役割は共同体が崩壊するにしたがって大きくなっていった。
 
 本来の意味での商人は、エピクロスの神々のように世界と世界の狭間(はざま)に住むか、あるいはポーランドのユダヤ人のように社会の隙間で暮していた。
 
 このような古代社会の生産機構はブルジョア社会よりもはるかに単純明快なものである。しかし、そのような生産機構は、他人との自然な部族的つながりとい う臍(へそ)の緒がまだ切れない個人の未成熟さ、あるいは人々が支配被支配の直接的関係にあることに依拠したものである。
 
 彼らの生産機構の前提となっているのは、労働生産力が低い発展段階に留まっていることと、その結果として、生活物資を生産する過程にいる人間と人間の関 係、人間と自然の関係が密接であることである。
 
<94> このような関係の密接さは古代の自然崇拝や民間信仰の理念に形を変えて表われている。現実の世界が宗教に反映されることがなくなる には、日々の実際の生活を成り立たせている諸々の関係が、人間と人間との関係あるいは人間と自然との関係として、日頃から人々にとって分かりやすく合理的 なものである必要がある。

 社会生活のプロセス、それはとりもなおさず物質的な生産過程(=労働とその生産物の交換)のことであるが、その姿が神秘的な分りにくさを脱するために は、その過程を共同社会の自由な人間がつくりだして、しかもそれを意図的に計画された統制の元に置きさえすればよい。しかし、そのためには社会の物質的な 基盤あるいは物質的な生活条件が整備されることが必要であり、それは長くてつらい発展の歴史の後に自然発生的に生まれるものである。

<95> これまでの経済学は確かに不完全ながらも(31)価値と価値の量を分析して、これらの形態に込められた中身(=労働)を見つけ出す ことはできた。しかし、なぜこの中身が価値という形をとるのか、なぜ労働が価値として表わされ、時間の長さによって計られた労働の量が労働生産物の価値の 量として表わされるのかを、これまでの経済学は問いかけはしなかった(32)。
 
<96> これらの問題は人間が生産過程を制御するのではなく生産過程が人間を制御する社会形態に特有のものであることは明らかである。とこ ろが、これらの問題は、これまでの経済学者のブルジョア的意識の中では、生産労働自体と同じくらいに理の当然の自明なことと見なされてきたのである。だか ら、彼らがブルジョア以前の社会の生産組織の形態を分析するのは、キリスト以前の宗教をキリスト教の教父たちが分析するようなものだと言える(33)。

<97> 全ての商品と物神崇拝とが切り離せないこと、あるいは、労働の持つ社会的性格が物の形をとっていることについて、一部の経済学者が どれほど思い違いをしているかは、とくに交換価値の形成における自然の役割についての退屈で無意味な論争を見れば明らかである。交換価値とは物に込められ ている労働を表わす一つの社会的な方法であるから、例えば為替相場と同じで、自然の要素を含みようがないのである。

 商品の形態はブルジョア的生産の最もありふれた最も単純な形態である。それゆえ現代ほど際だったものではなく現代ほど支配的でなければ、商品形態は昔か ら姿を現わしている。したがって、その形態の物神性も比較的容易に見抜くことが出来るように思われる。しかし、具体的にこの形態を観察し始めるやいなや、 とても一筋縄でいかないものだと分かるのである。
 
 重金主義者の思い違いはどこから来たのだろうか。重金主義者は金と銀が貨幣という 形で一つの社会的生産関係を表わしていることには思い至らず、奇妙な社 会的属性を備えた自然の物質であると見ていた。重金主義者を馬鹿にしている現代の経済学者も資本を扱うやいなや、彼らの物神崇拝が明らかになってくる。ま た、地代は社会からではなく地面から生まれるという重農主義者の思い違いが消え去ってからどれほどの時間も経ってはいない。
 
 しかし、ここでは話を元に戻して、商品形態自体について書かれたもう一つの例をあげて最後としたい。それはこのよなものである。

 商品がもし話をすることができるなら、商品はこう言 うかもしれない。

 『我々商品の使用価値が人々には重要かもしれないが、それは物としての我々にとっては重要ではない。物としての我々に重要なのは我々の価値であ る。我々が商品というものとして流通していることがこのことを証明している。我々は交換価値としてのみ互いに関わるのである』
 
 そこで、経済学者たちが商品の心をどのように代弁しているか聞いてみよう。

 『価値(交換価値)は物の属性であり、富(使用価値)は人の属性である。物の属性としての価値は当然交換されるが富は交換されない』(34)
 
 『富(使用価値)は人の属性であり、価値は商品の属性である。人や共同体には富があり、真珠やダイヤモンドには価値がある。ある真珠やあるダイヤモンド には真珠やダイヤモンドとしての価値がある』(35)
 
<98> 真珠やダイヤモンドの中に交換価値を発見した化学者は今のところ一人もいない。一方、この化学的な物質を経済的に発見したこの人た ちは自分たちの判断の鋭さに自信満々である。しかし、その発見とは、物の使用価値はその物の物質的特性には依存せず、一方その価値は物とし てのそれに属しているということなのだ。
 
 しかしながら、彼らの正しさが保証されるのは、ある特殊な状況下においてだけである。つまりそれは、物の使用価値は物が交換されなくても、人がその物を 持っているだけで実現されるが、それとは反対に、物の価値は交換という社会的なプロセスの中だけで実現されるという特殊な状況(Umstand)である。

 わたしはここでシェークスピアの喜劇「から騒ぎ」の中でドッグベリーがシーコールに言った妙な忠告を思い出さずにはいられない。「男前であるというのは 特殊な状況(Umstände)でなければ手に入らないが、読み書きの能力はほっといても手に入るものだから自慢してはいかんのだよ」(36)



誤字脱字誤訳に気づいた方は是非教えて下さい。

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