『ファラリス1』
ファラリスとは前6世紀前半のシシリー島南西部の都市アクラガスの潜主のことで、暴君として有名。とくに、処刑道具として牛の人形をつかったことで悪名を馳せた。中に罪人を閉じこめて、下から火を炊いたと言われる。このような残忍な人間が、その牛をデルフィの神託所に奉納したという想定で、架空の弁明をファラリスにさせたのがこの作品である。
この作品のおもしろさは、レトリックの面白さである。自己を正当化するためにつぎつぎにくり出される弁論のテクニックが面白い。どんな人間も自分を正当化できる様子が面白いのである。その中で次第次第に明らかになっていく本音が面白いのである。語るに落ちるという状況が面白いのである。
ファラリスが罪人を残酷に処罰したことも、港にスパイを配して監視していることも、全て彼の口から明らかになっていく。自分に対する噂の間違いを訂正したいという目的で行なわれた弁明によって、その噂の正しさがますます明らかになっていくのである。まさにアイロニーである。
牛の像の贈り物についての弁明にしても、これが作られた経緯を説明する言葉からは、ファラリスが国内でいかに過酷な罰を課す人間として恐れられていたかが、明らかになるばかりである。さらに、この牛の像を作った男を罰するファラリスの残酷さが明らかになる。そして最後に彼は、刑罰の道具として使っているものがこの牛以外にもたくさんあることを告白してしまうのである。つまり、彼はまさに評判通りの残忍な男であることが、本人の口から明らかにされたのであ
る。
『ファラリス2』
この作品はファラリスに送られた牛を受け取るべきかどうか、デルフィの神官たち(7節)の間で議論が交わされたという想定で、作られたものである。この作品はこの牛の受け入れを主張する論者の意見を描いている。
この作品に面白さは『ファラリス1』と同じである。
デルフィといえば、世界中の人たちが自分の運命の拠り所とする神託を与える所である。ところが、そのデルフィの人間も要するに、自分のこと、自分の生活が第一なのであって、正義は二の次であることが明らかになっていく。
いくら美辞麗句を並べてファラリスの牛を受け取ることを正当化しようとも、議論は結局は自分たちが食べていく事に帰結していくのである。
「この荒れ地で我々が食べていけるのは、奉納物あってのおかげではないか」。まさに本音の吐露である。これを言ったらおしまいよということを、ルキアノスはデルフィの人間に言わせるのである。
「せめて自分自身に対しては真実を述べるべきだ」こんな言葉を聞くと、では神託は真実ではなく、嘘だったのかと言いたくなるだろう。この作品もまたアイロニーを楽しむ作品である。
わたしには、これらの短編の面白さが訳している間に次第に分かってきたのだが、はたしてここに掲載した訳が、そのおもしろさを読み手に伝えているかどうかは分からない。ぜひ読者に試してもらいたい。
(この訳を作るにあたっては、近藤司朗氏の 『古典ギリシャ語事始』(リンク切れ)というホームページにあるルキアノスの翻訳を参考にさせていただいた。ここで近藤氏に感謝の意を表したい。その中の 『ルキアノスを読む』(リンク切れ)では、いまのところ全部でルキアノスの18の作品の翻訳が公表されている。また誤訳を避けるために、LOEB叢書の英訳を参考にしたのはもちろんである)