人物再登場がおもしろいバルザック




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 バルザック (Balzac 1799-1850 ) の面白さの最たるものは、同じ登場人物を別の作品の中に見つける面白さではないだろうか。

 バルザックの小説では、同じ人間が複数の作品の中に何度も繰り返して登場する。人物再登場というこの手法はバルザック独特のもので、それによってバルザックは同じ一つの世界をさまざまな視点から描いていく。この世界を描く視点の違い、またこの世界を描く時点の違いが、別々の作品となって結実しているのだ。

 バルザックを最初に読む人はたいてい『ゴリオ爺さん』を読むが、その中の主人公の一人であるニュシンゲン夫人(ニュサンジャンとする人もいる。綴りNucingenから見ればこちらが正しい)の旦那ニュシンゲン氏が、『浮かれ女盛衰記』の中では娼婦エステルに対する恋の虜となった男として再登場する。また『ゴリオ爺さん』の主人公たちニュシンゲン夫人とラスティニヤックもこの作品の中で脇役として再登場する。

 実はニュシンゲン氏には別の作品である『ニュシンゲン銀行』という作品でも主人公として登場する。また『浮かれ女盛衰記』の中に腕利きの探偵として登場するるコランタンの最初のデビュー作は『ふくろう党』である。

 こういったことがバルザックの愛読者にはこたえられない楽しみである。そして、バルザックの愛読者は、ある一つの作品を読むと、その中に出てくる登場人物がほかの作品ではどう描かれているか見たくて、つぎづきと彼の小説を渉猟していくことになるのである。

 また、バルザック自身、自分の作品の中で、ある登場人物にまつわる事件をちょっとほのめかしてみせて、その後に括弧を付けて、その事件が描かれている作品名を挿入して、読者にその作品も読むように促しているのである。これは見事な宣伝である。こうして見るとバルザックは資本主義の悪を描きながらも、しっかりと自分自身、資本主義的な生き方をしていたのだといえる。

 もっとも、バルザックは悪を「悪いもの」としては描かなかった。というと変だが、かれは悪も、一つの人間としてのありうべき生き方の一つとして描いたのである。その典型が『ゴリオ爺さん』と『浮かれ女盛衰記』で大活躍するヴォートランである。
 
 ヴォートランはバルザックがもっとも愛した登物人物の一人である。この男は盗人である。悪の化身である。ヴォートランは『ゴリオ爺さん』では、ラスティニアックを誘惑する悪い奴である。しかし、悪は生きるためのやむを得ざる一つの手段なのだ。したがって、ヴォートランは最後まで破滅しない。勧善懲悪ではないのである。だから、悪が敗れることを期待してバルザックを読むと、がっかりするかもしれない。

 つまり、バルザックは正義が勝つという小説を書かないのである。現実の世界をありのままに描くのである。バルザックは巨悪が勝ち、小さい悪が負けるこの世の仕組みを知り抜いていた。そして、それをそのまま、いやそれ以上に、その皮肉な現実を自分の世界の中に再構築してみせた。そして、巨悪ではないが、かなりの悪であるヴォートランを最後まで生き残らせた。このような、実際の社会ではちょっとありえないような結末の付け方は、バルザックが現実の社会に対して放った批判の矢であるかも知れない。

 ところで、バルザックの『浮かれ女盛衰記』に出てくる話の要素は、アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』と驚くほどよく似ている。イギリス商人や司祭への変装、毒薬の使用(特に死人に見せ掛けるための毒薬。これはシェークスピアの『ロミオとジュリエット』にも出てくる!)、警察の捕物、ダニエル書の「マネ、テセル、ファルシン」、小説家クーパーとスコットの影響、有名な名前の使用(サミュエル・ジョンソン)、等々、まるっきり同じなのである。ところが、それを材料にして組み立てられた物語は天と地ほど違う。デュマの話は希望に満ちていて、天を駈けるロマンであり、何よりも面白くてわくわくするものなのに、バルザックの語る話は地をはう人間の生き様を絶望的に描き出す。

翻訳書について

 さて、バルザック・ワールドにひたりたい人の何よりの悩みの種は良い日本訳が少ないことであろう。東京創元社からバルザック全集が出ているが、その翻訳の出来は玉石混交で、とても良い翻訳ばかりだとはいえない。

 その中で良いのは、小西茂也の翻訳であろう。『ゴリオ爺さん』がこの全集に入っているし、『谷間の百合』が新潮社の昔の世界文学全集に入っている。この人の訳はゆっくり読んでみると、すべての文章にリズムが込められていることが分かる。だから、読点の位置が意味の区切りではなく、リズムの区切りになっている。それを意識して読んでいくと、実に読みやすい名文であることが分かる。

(ただ、この人の『ゴリオ爺さん』の訳の中の「二人の娘」の初めの方にある、ラスティニヤックがヌシンゲン夫人のもとに招待状をもっていって、はじめて夫人を自分のものにする場面の、恋愛に関する哲学的な省察、「体裁上から各人が、そのいわゆる欲得を離れた愛情に対し、陳腐なお座なりをもって、その うわべを飾っている見せかけに、まんまと欺かれるような男女は、パリには一人もおらない」だけは、日本語として読んでも、前後と矛盾している。なぜなら、まさに「うわべの見せかけ」をパリは愛したからである。

  これは、「パリでは無償の愛などと称するものなどいくらお上品振って言ってみても、そんなものは陳腐きわまりないものとして誰も相手にしない。そんなものをいくら仰々しく言い立てたところで、何の値打ちもない」というのが本当の意味で、次にあげた高山哲男氏は正しく訳している)


 高山哲男と いう人の訳も良い訳の部類に入る。講談社文庫に『谷間の百合』が、岩波文庫に『ゴリオ爺さん』がある。ただ、『谷間の百合』を原文と読み比べてみると、これは小西茂也の訳の影響を大きく受けていることがわかる。また、この中に出てくるトリクトラックは西洋双六でバックギャモンのことだが、このゲームを知らずに訳しているため、逆に小西氏の訳を改悪しているところもあるようだ。

 平岡篤頼の『ゴリオ爺さん』(新潮社)をわたしは読み終えることが出来ずに、小西茂也に移った。ところが、『従妹ベット』(新潮社)は同じ人の訳とは思えないほどに、こなれた日本語に訳されている。このほうが『ゴリオ爺さん』よりも前に訳されたもので、翻訳家というものは年をとるにしたがって訳文がだんだんこなれてくるのではなく、逆に直訳調になってしまうのではないかというわたしの考えを裏付けているように思われる。平岡篤頼訳の『ゴリオ爺さん』は推薦しないが、平岡篤頼訳の『従妹ベット』、こちらは推薦に値すると思う。

 藤原書店から出た、『ペール・ゴリオ-パリ物語』(鹿島茂訳)は『ゴリオ爺さん』のことで、「読みやすさ」を第一に心掛けたと解説にうたっている。しかし、もうすこし文章を推敲してくれていたらと残念に思われるところが多々あるようだ。
 

 例えば、8頁「パリの外で理解されるのかと危ぶむむきもあるだろう」は「パリ以外のところでも、十分に分かってもらえるだろうか?」(小西訳)の方があきらかに読みやすい。

 「しかもそこには悪徳と美徳とがよりかたまって、ゆゆしいどえらいものとなった苦悩が、あちこちにころがっている」(小西訳)と
「にもかかわらず、この谷間では、悪徳と美徳が分かちがたく結びついているために時として偉大で荘厳になった苦悩というものにあちこちで出くわす」(鹿島訳)とではどちらがよい文章かはあきらかだろう。

 また、いきなり二つも誤植が見つかる。「滞在してしたり(→滞在していたり)」(7頁)「しばし偽物である(→しばしば偽物である)」(8頁)。しかし、こんなことは、もしかしたら、最初だけのことで、先へ進むほどよい訳になっていて、誤植もないのかもしれない。


 河出書房世界文学全集と東京創元社のバルザック全集に入っている『幻滅』は生島僚一訳となっているが、後書きにあるように山田稔が第2部を田村淑が第1部と第3部を担当して、生島が訳文を統一したものとなっている。しかし、統一したとは言うものの、山田の部分と田村の部分では出来が異なり、山田の訳の方がはるかにすぐれている。全部を山田が訳してくれていたらと思った人はわたしだけではないだろう。

 同じ山田稔は『ふくろう党』の第一・二部を訳しているが、読みやすいものになっている。

 『幻滅』は最近藤原書店から野崎歓青木真紀子の共訳が出ているが、まずまずよい訳だと思う。河出版の訳を読みながら、わたしが意味不明としてチェックを入れたところはことごとく読みやすい日本語になっているようだ。英訳を参考にしたといっているところも好感が持てる。しかし、初っぱなの一段落だけを比べると、河出版の方が日本語がこなれていて読みやすいのはどうしたわけだろう。

 そのほかにも生島僚一という人の翻訳は非常に多い。多いだけに少々荒い。が、読めないことはない。ただし、すべて時間勝負という感じで訳文が組み立てられているため、細かいところの意味がわかりにくいことが時々ある。たとえばフロベールの『ボバリー夫人』のこの人の訳を、わたしは最後まで読み切ることが出来なかった。フロベールの『感情教育』はこの人の訳しかないから、原作のテキストを参考にしながらやっと読み終えた。

 そして、何と言っても一番多くの訳があるのが水野亮であるが、この人の訳も、生島氏と似ていて、細かいところまでよい日本語にしてあるとは言い難い。日本語をすっと読んで、なぜこんな文章がここに出てくるのかと思えるようなものがときどき出てくる。で、本当はどうなのかを知りたければ、原本や英訳を見る必要が出てくるというわけだ。水野亮訳の『ウジェニー・グランデ』を最初のところで挫折したとしても、それは読者が悪いのではない。

 ただし、この人の訳した『ゴプセック』はどういうわけか、素晴らしい出来で、感心しながら読み通すことが出来た。

 また、岩波文庫に入っている水野亮訳の短編集のうちで、『知られざる傑作』は「あとがき」で改訳したといっているとおり少しは読みやすいものになっているが、「本当はもっと面白いのではないか、フランス語を勉強しなきゃ」と思わせるような訳だ。
 

  例えば『恐怖時代の一挿話』の最後の「フランスのどこにも勇気が見当たらぬときに、ただギヨチンの鋼鉄の刃だけにそれがあったのだ」。ここはどうして「勇気」と訳したのか不思議だ。普通に「こころ」と訳せば十分だしその方が意味がよくわかる。「勇気」では何のことか分からない。訳を読み終わったときにもう一つしっくり来なかった人がいるなら、それはこのせいである。
  また、『ざくろ屋敷』は改訳していないかのように日本語としてわかりにくい文章が多い。この話の主人公ブランドン夫人の「最もやさしい罪」とは何かを伝えるバルザックの小説はわたしの知るかぎり存在しないのでますます分かりにくい。他の作品から二人の息子が私生児であることとダッドレー夫人と三角関係になったことは分かる。この物語の最後の1820年の時点で私生児の父親は死んでいるが、その父親とは誰かもわからない。フランシェッシニ大佐という人もいる(岩波文庫『谷間の百合』下172頁)が『アルシの代議士』では彼は1830年にもまだ生きている。


 一方、この人の『暗黒事件』は読みやすいが、『ルイ・ランベール』は読みにくい。こういう風に、この人の訳は良かったり悪かったりといろいろなので、読んでみないと分からない。『「絶対」の探求』も悪くない。

 また、短編集『海辺の悲劇』の最後に含まれる『海辺の悲劇』はすばらしい翻訳だ。しかし、最初にある『グランド・ブルテーシュ奇譚』は分かりにくかった。

 これより更に輪をかけて読みにくい訳になっているのが寺田透訳の『浮かれ女盛衰記』であろう。これはもうしょっちゅう原本ではどうなっているのか照らしあわせながら読み進まなければ何がどうなっているのか理解不可能である。ところが、この作品の日本語訳は藤原書店のものが出るまではこれしかなかった。リュシアン・ド・リュバンプレの運命を知りたい人は辛抱してこれを読むか、原作のフランス語を読むか英訳を読むかするしかなかった。しかし何と言っても、日本人は日本語で読むのが一番手っ取り早い。わたしは、原本と英訳を参考にしながら、この日本語訳を読んだ。その際、「ここはこういう日本語にした方が分かりやすいでしょう」というのをノートにとっていった。それをまとめたのが、 このホームページの読み替え集である。他人の役に立つかどうかは知らないが、全部を自分で訳す力もないので、これを掲載した。(『浮かれ女盛衰記』でしばしば言及されるルサージュの戯曲『チュルカレ』は筑摩書房の世界文学大系『古典劇集★★』に鈴木力衛のすぐれた和訳がある)

 同じ全集に入っている寺田透訳の『モデスト・ミニョン』も同じく非常に読みづらい訳である。これが読めなくても読者の責任ではない。

 初めの方に出て来る「必要とあれば、その子のために乳房と乳をもう一回見出すこともできる位であった」が「必要なら、その子のためにもう一度自分の乳房でお乳を与えることもできるくらいだった」という意味であることを、この訳だけから読み取れというのは無理な話だろう。


 ところで、残念ながら、この『浮かれ女盛衰記』の新訳『娼婦の栄光と悲惨』(藤原書店 飯島耕一訳)は寺田の訳を現代風にしたものという域を出ていない。いやそれどころか、むしろ誤訳を増やしていると言っていい代物である。少し込み入った個所になると全くお手上げ状態である。ところがバルザックの特徴はまさにそういう個所にあるのだから困ったものだ。図書館で借りるだけにするのが賢明であろう。しかし、寺田透の訳は読み通せなくても、この訳なら読み通せるという人がいるかもしれない。とはいえ、わたしがこれを読み通す気にならなかったことは確かだ。

 藤原書店の「金融小説名篇集」には上で言及した『ニュシンゲン銀行』(吉田典子訳)が入っている。これは東京創元社のシリーズには入っていないもので、バルザックファンにとっては一つの収穫と言いたいところだ。しかし、これは読めない。原本と照らし合わせてやっと意味がわかるような日本語

(例えば、110p「心の秘められた病」とは「秘かな心の病」のことだろう。113p「個人攻撃はやめにして、話を始めよう」は「僕がこれからする話には個人攻撃はなしにするよ」ということだろう)


が続出する。原文と英訳の助けなしに読み続けることはかなり難しい。

 では、と気を入れ替えて、同じ巻の続きに入っている『骨董室』(宮下志郎訳)を読み始めたが、第一段落から途端にこういう文章が出て来る。
 

 「しかしながら、作者がどうあがいても、真実は現われでるのかもしれぬ―しっかりと引き抜かなかったブドウの苗が、やがては耕されたブドウ畑で力強く芽を出すように」

  「うん? なんだって?」と読み返してみるがよく分からない。なんか変だ。「それならしっかり引き抜いておけばいいじゃないか」と言いたくなる。また、「ブドウ畑なのにどうしてブドウ苗を引き抜くの?」それに「耕された」とは何を意味するのか。これは「畑を耕しおえたころになって」という意味じゃないのか。それに、原本と比べると分かるが、こういうふうに後ろから前へ後ろから前へと訳したがる人は信用できない。個々の単語は正しく日本語に変えてあるが、文章としてはちと違うというものになりがちだからだ。

 「しかしながら、作者がどうあがこうと、真実は必ず現われるものなのである―ブドウの木はうまく引き抜いておかないと、やがて、ブドウ畑がきれいに耕されたころになって、また元気な芽を出してくるように」ということらしい。


 とにかく、こんな調子では先が思いやられる。

 そう言えばロジェ・グルニエ作『ユリシーズの涙』(みすず書房 宮下史郎訳)の翻訳の評判もよくないとか。最近みすず書房から出た『モンテーニュエセー抄』の翻訳も読み辛いもので、モンテーニュの『エセー(随想録)』はやはり「世界の大思想」の松浪信三郎訳がよい。また、渡辺一夫訳のラブレー作『ガルガンチュワとパンタグルエル物語』の日本語は今でも充分新鮮で読みやすいものであり、宮下の新訳に対する褒め言葉があるとしてもそれが仲間褒めにすぎないことは、本屋で立ち読みするだけでわかるだろう。

 『骨董室』は杉捷夫の訳がバルザック全集の中に入っている。古いけれどもこちらの方は立派なものだ。ただ、どうしても意味の取れないところもあるので、原文と英訳を頼りに、意味を考えてみた

  以上、藤原書店のバルザック「人間喜劇」コレクションの翻訳は、あまり期待しないほうがよいと思われる。一見読みやすそうな文章で書いてあるのでよけいに警戒が必要である。どうやら藤原書店=〇とはいかないようだ。いずれにしろ、大学の先生が学校の仕事の片手間に翻訳するには、バルザックのフランス語はあまりに難物であるようだ。

 次に、大矢タカヤスは、翻訳家としてはどちらかというとへたな(失礼!)部類にはいるのではないかと思う。彼の訳した『シャベール大佐』(河出文庫)をわたしはごまかしごまかし読んでいたが、例えば、

「このときの大佐は、十五年間も熱病に苦しみ回復した瞬間、ただ別の病気にかかったような気がしたという婦人に似ていた」(38頁)


というふうな意味不明の文章に出会うのだ。それまでにも、原文と対照させれば間違ってはいないのだろうが日本語として単独で読むと意味が分からない文章がよく出てくる。「複本」を次のところでは「副本」と書いていたりもする。「瞑想」に入った人が「夢想」からさめたりする。原稿が荒いのだ。かといって、

 石井晴一訳の『シャベール大佐』に移っても、例えば、

「不幸に残された相手をやりこめる唯一の手段は、正義や慈善を正当ならざる拒否へと追い込むことである」


というふうな舌足らずな文章がちょくちょく出てきて、読み続けることができない。文章は大矢より簡潔に整理されているのだが、今度は逆に言葉が足りないのだ。結局どちらも帯に短したすきに長しで、『シャベール大佐』を読み終えるには二人の訳を交互に読むしかない。『シャベール大佐』で気になったところをあげると、

47頁 (石田訳) 「感謝しますよ、公証人殿。僕にあの事件を思い出させてくれてありがとう」「あの一件を思い出させてもらってお礼を言うよ」(創元ライブラリ60頁) ここで言っている「あの事件」「あの一件」とはシャベール大佐の訴訟事件を指している。翻訳だけ読んだときには、何か別の事件のことかと思ってしまう。原文は

 Je te remercie, mon cher maitre, repondit Derville, de me rappeler cette affaire-la

デルヴィルはシャベール大佐の件が面倒になってきていた。だから、ここは感謝しているのではなくて、皮肉を言っている。「あの事件のことを思い出させてくれるとは、ありがたいよ」。続きのせりふが、その理由を明らかにしている。「ぼくの慈善活動は500フラン止まりだ。どうやら愛国心のせいで目がくらんでいたようだ」 ところがドイツから届いた証拠を見て、シャベールの話は嘘ではないことを知る。そこで Ceci devient serieux (これは大変なことになってきたぞ)と叫ぶのである。

55頁 「おそらく天使たちが破片を拾い集めてくれたかもしれない」。天国から天使たちが舞い降りてきて、パイプの破片を拾い集めてくれるのだろうか。ここでいう天使たちとは、シャベール大佐と同居する子供たちを指すのであろう。原文は

Les anges auraient peut-etre ramasse les morceaux.

で Les angesと定冠詞がついているから、誰か特定の天使を指している。しかも複数。で、「破片は、おそらく、さっきの天使たちが拾い集めたことだろう」 。あるいは、『マッシミラ・ドニ』の最後のような比喩的表現であろうか。


 ところで、石田晴一訳の『谷間の百合』(新潮社)は、最初のあの難解な書き出しでつまずいているので、わたしは避けた。

  しかし、大矢タカヤスが中心となって編纂した「バルザック『人間喜劇』全作品あらすじ」と「バルザック『人間喜劇』ハンドブック」(いずれも藤原書店)は便利な本で、いい本だと思う。藤原書店のこのシーズの最大の収穫はこの二冊ではないか。熱心なバルザックファンなら金を出して買う価値があると思う。

 河盛好蔵訳の『アルベルト・サヴァルス』(全集第9巻)は実に読みやすい。さすがに名文家である。これはおすすめだ。話の方も抜群に面白い。

  ところで、395頁上「副司教はついにこの絶望した政治家の気に入りかけようとしたこの計画に荷担したくなかったのだ」の「計画」とはフランチェスカを裏切ることであろうか。それとも、シャヴォンクール嬢との結婚の約束は本気でするのではなく、選挙が終われば反故にする作戦であるということか。「バルザック『人間喜劇』全作品あらすじ」は後者であるとしている。
 加藤尚宏訳の『村の司祭』(全集第21巻)はこの全集の中でおそらくは最も秀逸な翻訳であろう。この人の訳がこれしかないのが残念なくらいだ。
  この作品は、殺人事件の全容が最後に解明されることを期待して読んでいくと、ちょっとがっかりする。むしろ、バルザックの宗教観や社会観が登場人物の口を通じていかんなく語られているところに注目すべきかもしれない。わたしが読んでいてもっとも感動したのは、最後に医師ビアンションが登場するところだった。ビアンションは何をするわけでもないのだが、実にわくわくしてしまった。まさに人物再登場のおもしろさである。
 『サラジーヌ』の和訳は全集には入っていないが、ロラン・バルトの「S/Z」(みすず書房)に沢崎浩平の全訳がある。本文の方には固有名詞についての注釈もある。しかし、この人の訳は、難しいところは直訳して、あとは勝手にしてくれという訳である。だから、バルザックの小説の訳は何とか読めるが、バルトの本文のほうはさっぱり読めない。
  最初の方に「わたしはこの二つの光景の境界にいて、半ば陽気で、半ば陰気な気分のサラダになっていた」という文章が出てくる。「この二つの光景の境界にいたわたしの頭の中は、半分陽気で半分陰気なごたまぜ状態だった」という意味か。「ここでは、血や泥にまみれた金貨でさえも何も秘密をもらしはしないし、またあらゆるものを表象することが出来るのだ」は「ここでは、金は、たとえ血や泥にまみれていても、決して持ち主を裏切りはしない。ここでは、金が全てを意味するのだ」という意味か。

 また「ああ、それはまさに生と死であり、わたしの瞑想であり、想像のアラベスクであり、半身は醜く、胴体は神々しいほど女性的な怪物であった」は「ああ、その時わたしが考えたこと、それはまさに生と死であり、想像のアラベスクであり、半身は醜く胴体が神々しいほど女性的な怪物であった」の間違いか。


 なお、人間喜劇は英訳ならインターネットでほぼ全作品を楽しむことが出来る。ただし、フランス語の難しいところはときどき訳が抜けているという欠点がある。→ The Human Comedy, by Honore de Balzac

 一方、Penguin Books の中の Balzac: Selected Short Stories Translated by Silvia Raphael にある注は実に役に立つ。また、先に挙げた、宮下志郎、吉田典子もともに実によく調べている。

 日本でバルザックのことに詳しい頁としては 「バルザックの部屋」(リンク切れ)がある。いろいろと役立つ情報があるようだ。

 もちろん人間喜劇のフランス語によるインターネット版もある。

LA COMEDIE HUMAINE D'HONORE DE BALZAC (Edition Furne)

(敬称略)

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