自治会の拡声器使用による被害に対する

播磨町産業生活課と兵庫県環境部の不思議な対応



 播磨町の自治会は拡声器装置を屋外に設置しているところが多く、それを自治会活動の連絡に使っている。ところが、それが休日、しかも午前中に行われることが多く、わたしのような夜型人間は、しばしば安眠を妨げられる。

 そこで、県の公害担当者に相談したところ、播磨町なら産業生活課が環境行政を担当していて、町の静けさに責任をもっているから、そこに自治会との対応をお願いするとよいと教えられた。

 それでいわれたように苦情を申し込んだが、それに対する播磨町の産業生活課の対応は、まず、個人の生活よりも自治会活動のほうが優先されるし、拡声器を屋外で使うことは環境破壊ではないから、自治会による放送によって安眠を妨害されても、遅くまで寝ている人が悪いのだから、我慢すべきものである。だから、苦情対応をいっさい行うつもりはないという驚くべきものであった。( その詳細

 彼らは自治会側の立場に立ってものを言うばかりで、環境を守る立場に立った発言は彼らの口から一切聞くことができなかった。

 例えば、最近聞こえてきた放送の一つは、自治会の公民館の前に駐車している車の移動を求めるものだった。これが緊急な用件と言えるのかどうか、近くにいるに違いない一人の人間を探すの周囲の何百人に影響を与える拡声器放送を使う必要が本当にあったのかどうか疑問だと言うと、役場の担当者は、自治会の人がすることに間違いはない、緊急であったにきまっている、これを苦情としてその自治会に伝える必要はないと、ヒステリックに叫ぶばかりなのである。
 
 このわたしにとっては実に意外な答えを得たことを、県の職員に報告すると、これがまた打って変わって、町の方針がそうであるなら、それが正しいのだろうという答えであった。

 そして、その職員もまた同様に、拡声器を屋外で使うこと自体は環境破壊ではないこと、自治会活動は個人の生活よりも優先されるというこの二点で町と同じ考えであると言ったのである。

 それに対し、では、自治会に入っていない人はどうなるのかと問い返したところ、途端にむにゃむにゃとはぐらかすだけなのだ。かれは、要するに自分の考えを持ってしゃべっているのではなく、単に仲間意識から他の役人の肩を持つために、強がりを言っているだけに過ぎなかったのである。

 自治会などというものは、個人の生活に対して補助的に存在するものであって、個人の生活を犠牲にしてまた自治会の活動に参加する必要はないし、ましてや自治会の活動が個人の生活に被害を及ぼすようなことがあってはならないはずである。

 また、拡声器を屋外で使用することが環境破壊でなければ何が環境破壊であろうか。一般の市街地で拡声器を使う場合には、その音が誰にとっても必要なもので、単なる騒音でない、などということはあり得ないのだ。

 拡声器で大きな音を出しても、誰にとっても騒音ではないような状況とは、音が外部に漏れない屋内か、屋外のコンサート会場であっても、会場の外に音が届かないような場所でおこなれている場合に限られる。

 市街地で拡声器が使われて、それが騒音でない場合がもしあるとすれば、それは住民の生命財産にかかわる重要な情報を流す場合であろう。ところが、そもそも自治会というものは、住民の生命財産を守るために守るために作られたものではない。したがって、自治会レベルでは緊急事態などというものは起こるはずがないのである。

 たとえば、近所で火事が起きたから警戒するように伝える自治会の放送など聞いたことがない。逆に、最近どこそこで交通事故があったから気をつけましょうなどと言ったとしたら、あんたはいったい何様だということになる。

 この程度のことは、一人になって冷静に考えれば分かることであろう。しまいには、拡声器を使うのは人の自由だと言い始めるに至っては、なにをか言わんやである。では、なんのために、選挙時や業者にだけ規制があるのか。結局は、彼は勝ちたいがために強弁しているだけなのである。

 兵庫県には『環境の保全と創造しに関する条例』という実に結構な条例がある。この中で、住みよい環境作りために県も市町も県民も積極的に取り組まなければならないと、うたっている。

 しかし、現実の県職員の対応は、このように実に後ろ向きのもので、自治会による拡声器の使用は、この条例で禁止されていないから、いいのだというレベルのものである。しかし、それでは、環境作りを県民の義務として規定して、前向きな努力を求めている条例の趣旨に明らかに反している。彼らの姿勢には、積極的によい環境を作っていくという意気込みなどどこにも見られないのである。

 それはそうで、彼らは環境を守ろうという意気込みでこの職についたのではなく、単にそういう部所に配置されたために、たまたま環境部門を担当しているだけなのである。そのような人間に高い環境意識を期待しても無理というわけである。

 これでは、われわれの生活環境が改善されていくことは難しいし、結構な条例も絵に描いた餅に過ぎなくなってしまう。

 兵庫県の尼崎の公害訴訟では、何人も死者が出ても、裁判を起こさなければ被害者の住環境が一つも改善されなかったが、それはまさにこのおそまつな環境行政の結果なのである。

 よい環境の中で健康に暮らしたければ、どこかよそに行って住むしかない。
 


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