ひらがな愚管抄(1~6)


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愚管抄(巻第一)

〔漢家年代

盤古   天地人、定りし後之首君也。

三皇  天皇子 地皇子 人皇子。 又伏羲(ふくぎ)神農(しんのう)黄帝(こうてい)三皇とす 。

五帝  小昊(しょうこう)顓瑣(せんぎょく)高辛(こうしん)尭(ぎょう)舜(しゅん)。

三王  夏・殷・周。夏、十七王、四百三十二年。殷曰く商、三十(王)六百十八年。周、三十七王、八百六十七年。

十二諸侯(=春秋時代)鄭・曹・宋・晋・衛・秦・斉・燕・魯・蔡・楚・陳、呉諸侯に入れず

六国(りっこく=戦国時代に秦に対抗した)元王(=周王)時六国強。韓・魏・趙・斉・燕・楚。

秦   六帝、五十六年。

漢   十二帝、二百十四年。王莽、十四年。更始三年まで。

後漢   十二帝、百九十五年。

三雄  魏 呉 蜀。
    魏 五帝、四十五年。
    呉 四帝、四十九年。
    蜀 二帝、四十三年。
晋 十五帝、百五十五年。恵帝以後の偽位(=漢民族以外の諸族の漢王)、南燕、後涼、後秦、後蜀、偽夏、西秦、南涼 前秦、前涼、前燕、後趙、代、魏、北涼、西涼、北燕、後燕

南朝(=漢人の王朝)、北朝(=北方民族の王朝)
    宋 八帝、五十九年。
    後魏 十四帝、百三十九年。
    南斉 七帝、三十三年。
    西魏 三帝 二十三年。
    東魏 一帝 十六年。
    梁 四帝 五十五年。
    後周 五帝 二十四年。
    陳 五帝 三十三年。
    北斉 七帝 二十八年。

隋 三帝 三十七年。

唐 廿帝 二百八十九年。

五代
   梁 三帝 十六年。
   唐 四帝 十三年。
   晋 三帝 十二年。
   漢 二帝 三年。
   周 三帝 九年。

大宋  当今に至るまで十三帝。今年に至るまで二百六十三年。承久二年(1220年)注之。〕

一 践祚は即位。祚は阼(=階)也云云。阼 はじめ 践祚 ふむはじめ
一 脱屣(だっし)は避位也。黄帝、仙道を求めて位を避くに脱ぐ如く 云云。
一 国王の治天下の年(=在位年数)を取事は受禅の年を棄て次年より取也。踰年法(ゆねんほう)也。受禅は譲位。禅譲(ぜんじょう=ゆずりゆずる) 受禅(ゆずりをうく)。

〔神武 綏靖(すいぜい) 安寧 懿徳(いとく) 孝昭 孝安 孝霊 孝元 開化 崇神(すじん) 垂仁 景行 日本武尊 仲哀 応神 隼総皇子(はやぶ さ) 男大迹王(おおと) 私斐王(しひ) 彦主人王(ひこあるじ) 継体 欽明 敏達 忍坂大兄皇子(おしさかのおおえ) 舒明 天智 施基皇子(しき) 光仁(こうにん) 桓武 嵯峨 仁明 光孝 宇多 醍醐 村上 円融 一条 後朱雀 後三条 白河 堀河〕(=皇位の直系)


〔皇帝年代記〕

一 神武天皇 七十六年 元年辛酉(かのととり)歳〔五十二即位〕御年百廿七(=崩御)。

    彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけ・うがやふきあわせずのみこと)第四子。正月一日庚辰(かのえたつ)〔生ま令め給ふ云々。〕今御母玉依姫(たまよ りひめ)。海神少女。此時よりやがて始て祭主(=神官)を置てよろずの神を祭り玉ふ。此国を秋津島(あきづしま)と名を云ふ。

    大和国橿原宮。元年辛酉歳、如来(=釈迦)滅後二百九十年に相当すと云々。又周世(=中国)第十六代主僖王三年に相当すと云々。一説、周恵王十七年を以て之に辛酉を当つ。此説を吉しと為す、当時(=現代)に至りて相違之無き故歟。

一 綏靖天皇 卅三年 元年庚辰(かのえたつ) 五十二践祚 御年八十四。

    神武第三子。神武四十二年正月甲寅(きのえとら)日東宮と為す。十九。母たヽら五十鈴姫(いすず)。ことしろぬしの神むすめ也。神武天皇うせ給て四年といふに即位。大和国葛木高岡宮。后一人。皇子一人。

    神武に三人の御子をわしましけり。第一の御子は手研耳命(てぎしみみ)。第二は神八井耳命(かむやいみみ)。第三は東宮、綏靖天皇也。神武天皇崩御後、諒 闇之間、太郎の御子に世の事を申付給けるに、此太郎の御子おとヽ二人にたちまちに害心をおこし給ふ。此心を天皇(=東宮)しろしめして、中御子に射殺し給 ふ可き由をすヽめ給ふに、弓箭をとりながら其手ふるひて射る事をえず。其時この東宮その弓箭をとりてあやまたず射ころし給ひけり。其後中の御子はわが〔受 禅の〕此器量耐えざる事をのべ給ふ。東宮は「兄なれば」と申されける。かく互ひに譲りて四年が間(あいだ)即位なし。四年といふにつゐに兄のすヽめにより て此天皇位につかせ給にけり。

    此事を思ふに、一切の事はかくはじめにめでたくあらはしおかるヽなるべし。兄を殺すは悪に似たれども、わが位につかん料(りょう=ため)に射ころし給ふに はあらず。大方の悪を対治(=退治)被(ら)れん心也。さて残り給ふ兄をまた猶位につき給へとすヽめ玉ふ。これを思ふに只道理を詮(せん=肝心)とせり。 父王此器量をはかりて、第三の皇子を東宮にたて給ひけり。

    此はじめ〔に〕て後を顧(かえりみる)に、仁徳と宇治太子との例は、此中の御子と東宮との正道の御心にて互ひにゆづり給ふ事をあらはす也。終に兄に論じま けて即位令め給ふ事は、仁賢・顕宗(けんぞう)のよろしきに随て、人のはからひにしたがひ給し例也。兄の太郎の御子を射ころし給しは、すべて悪をしりぞけ て善に帰する〔心〕也。聖徳太子の時、崇峻天皇もころされ、天武には又大友皇子もうたれ給ひ、此例は下ざまヽでも多かり。一番にみなの事をしめさるヽ也。

一 安寧天皇 卅八年 元年壬子 二十即位 五十五。
綏靖の太子。綏靖廿五年 正月戊子為東宮。十一。母皇太后五十鈴依姫。ことしろぬしのおとむすめ。
同国片塩浮穴宮。
后三人。皇子四人。

一 懿徳 卅四年 元年辛卯 卅四即位 七十七。
安寧第二子。或三。安寧十一年東宮とす。母皇太后渟名底中姫。ことしろぬしの孫。
同国軽曲峡宮。
此時卅二年、孔子卒云々。或は孝昭七年云々。
后三人。皇子一人也。

一 孝昭天皇 八十三年 元年丙寅 卅二即位 百廿。
懿徳太子廿二年東宮とす。母皇太后天豊津媛。息石耳命娘。
同国掖上池心宮。
后三人。皇子二人。

一 孝安天皇 百二年 元年己丑 三十六即位 百歳或百卅七。
孝昭第二子。同六十八年為東宮。母皇太后世襲足媛。尾張連上祖津世襲足=媛(をはりむらじのかみつおやおきつよそたらし=ひめ)之妹也。
同国室秋津島宮。
后三人。皇子一人。異本に二人と有。

一 孝霊天皇 七十六年 元年庚午 五十三即位 百十或百廿八。
孝安太子。同七十六年為東宮。母皇太后姉押姫。天足彦国押人命娘。
同国黒田廬戸宮。
后五人。男女御子六人。

一 孝元天皇 五十七年 元年丁亥 六十即位 百十七。
孝霊帝太子。同卅六年為東宮。母皇后細媛。磯城県主大目が娘也。
同国軽境原宮。
后三人。男女御子五人。

一 開化天皇 六十年 元年癸未 五十一即位 百十五。
孝元天皇第二子。同廿二年為東宮。母皇太后鬱色謎命。穂積臣遠祖鬱色雄命が妹也。
同国春日率川宮。
后四人。男女御子五人。
已上九代時臣不記。

一 崇神天皇 六十八年 元年甲申 五十二即位 百廿或十九と異本に有。
開化天皇第二子。同廿八年為東宮。母皇太后伊香色謎命。大綜麻杵が娘也。同磯城瑞籬宮。
此御門位の後病死する者多し。これによりて天照太神をかさぬひの里にまつり奉る。又諸国に社を置て神々をあがむ。其後世治り民ゆたか也。おほやけに御つぎ物を備へ、諸国に池を堀、船を作りなどする事、此御時なり。后四人。男女御子十一人。
遣使四道。平不従皇化人等。然無臣・連之号。

一 垂仁天皇 九十九年 元年壬辰 四十三即位 百卅或百一又百五十一。
崇神天皇第三子。同四十八年為東宮。母皇太后御間城姫。大彦命娘。同国巻向珠城宮。
后四人。男女御子十一人。
此御時太神宮を伊勢国五十鈴川の河上にいはひ奉る。神の御をしへによりて也。斎宮も是よりはじまる。昔は人の死する墓につかはし人を生きながら土にほりう づみけり。此御時よりとヾめて土にて人かたをつくりて篭られけり。此御時とこよの国より菓をたてまつる。今の橘是なり。唐へ初て人をつかわす。新羅より始 て使をまいらす。
阿陪臣等五代祖、奉詔議政。而惣称卿等猶無臣号。

一 景行天皇 六十年 元年辛未 四十四即位或は七十一 百六或百卅三又は百卅。
垂仁第三子。同卅七年為東宮。母皇(太)后日葉州媛命。丹波主王(たには(みち)ぬしのおほきみ)娘。同国纒向日代宮。
后八人。男女御子八十人。
此御時武内宿禰を始て大臣とす。国々の民の姓を給ふ。
棟梁臣武内宿禰。棟梁臣起自此。

一 成務天皇 六十一年 元年辛未 四十九即位 百七。
景行天皇第四子。同五十一年為東宮。母皇太后八坂入姫命。八坂入彦皇子女。
近江国志賀高穴穂宮。是より前には皆大和国也。
此御時諸国の境を被定。
后一人。御子なし。
大臣武内宿禰。大臣号起自此。大臣与天皇同日(生)也。故有異寵云々。

一 仲哀天皇 九年 元年壬申 四十四即位 御年五十二。
景行天皇の孫、日本武尊第二子。母〔皇〕太后両道入姫命。活目天皇の御姫也。垂仁の御事也。成務四十八年東宮とす。
長門国穴戸豊浦宮。
后三人。王人四人。
此御時皇后とよらの宮にて如意宝珠を得給へり。海の中より出きたり。
大臣武内宿禰
大連大伴健持連。大連起自此。
此仲哀の御父の日本武尊は今尾張国の熱田大明神是也。

一 神功皇后 摂政六十九年 元年辛巳 卅二即位 御年百。
仲哀天皇の后なり。開化御子に彦生命皇子。此御子に大筒城真稚、此御子に息長宿禰、此御子に神功皇后也。母葛木高額媛。
大和国磐余稚桜宮。
大臣武内宿禰。
男のすがたをして新羅、高麗、百済三の国を討取て、応神天皇をうみたてまつり、武内をもて為後見。応神の兄の御子たち謀反の事有けり。此武内大臣皆うち勝てけり。此事さのみは代々注つくしがたし。

一 応神天皇 四十一年 元年庚寅 七十一即位 百一或十歳。
仲哀天皇第四子。皇后三年為東宮。御母神功皇后。
大和国軽島明宮。
后八人。男女御子十九人。
今八幡大菩薩は此御門也。
百済国よりきぬゝふ女・色々の物師・博士などわたす。経典・馬等まいらせたり。
大臣武内宿禰。
一 仁徳天皇 八十七年 元年癸酉 二十四即位 百十。
応神天皇第四子。同四十年為太子輔之、令知国事。母皇太后仲姫命。
五百木入彦皇子のむまご。
摂津国難波高津宮。
后三人。男女御子六人。
兄弟即位互に譲、空経三年、委はしもに註せり。仁徳の御弟を春宮にはたてまつらせられたりけり。此説宜歟。
大臣武内宿禰。
此大臣帝六代御うしろみにて二百八十余年を経たり。かくれたるところをしらず。
此御時氷室始。又鷹出きて有御狩云々。この御門は平野大明神也。

一 履仲天皇 六年 元年庚子 六十二即位 七十。
仁徳天皇第一子。同卅一年為東宮。母皇(太)后磐之媛命。葛城襲津彦が女。
大和国磐余稚桜宮。
后四人。男女御子四子。
此御時采女いできたり。大臣始四人云云。諸国に蔵を造事此御時也。
執政平群竹宿禰。執政起自此。
宗我満知宿禰。
    物部伊久仏。
大連葛木円使王。武内宿禰会孫。

一 反正天皇 六年 元年丙午 五十五即位 六(十)年。
仁徳第三子。履中二年為東宮。母履中同母。
河内国丹比柴籬宮。
后二人。男女御子四人。
執政葛木円使王。
一 允恭天皇 四十二年 元年壬子 卅九即位 八十。
仁徳天皇第四子。母履中同母。
遠明日香宮。
后二人。男女御子九。衣通姫此帝后也。応神御孫云々。
大連大伴室屋連。
一 安康天皇 三年 元年癸巳 五十三即位 五十六。

允恭天皇第二子。母皇太后忍坂大中姫。稚渟毛二派皇子女。
大和国山辺郡石上穴穂宮。
大臣葛木円大臣。
安康三年八月眉輪王殺〔天〕王逃入円大臣家。因此為大泊瀬皇子所殺。
大連大伴室屋連。
兄の東宮を殺して十二月十四日に五十三にて位につき給。又をぢの大草香の御子を殺して、其妻を取て為后。今の眉輪王其子也。仍親のかたきなりとて此事〔あり〕。委細には在別帖。
一 雄略天皇 廿二年 元年丙申 七十即位 百四。

允恭天皇第四子。母安康同母。
大和国泊瀬朝倉宮。
后四人。男女御子五人。
浦島の子が釣たる亀女と成て仙に登り、此御時也。
大臣平郡真鳥臣。
    物部目連。執政伊久仏子。

一 清寧天皇 五年 元年庚申 卅九即位或卅七。
雄略第三子。母皇太(后)夫人韓媛。葛木円大臣女。
同国磐余甕栗宮。
此御門しらがおひて生給へり。故に御名をしらがとつけたてまつる。父の御門あやしみかしづきて東宮に立て給云々。御子をはしま〔さ〕ず。仍履中の御孫を二人よびとりて子にし給へり。安康の世の乱によりて丹波国にかくれておはしけり。
大臣大連如上。

一 顕宗天皇 三年 元年乙丑 卅六即位 四十八。

履中の孫。市辺押羽皇子第三子。母夷媛。蟻臣のむまご。
近明日香八釣宮。
后一人。御子なし。
曲水宴此時はじまれり。
大臣大連如上。

一 仁賢天皇 十一年 元年戊辰 五十。
顕宗の兄母同。清寧三年東宮とす。
大和国山辺郡石上広高宮。
后二人。男女御子八人。
此両天皇御事委在下。両所互譲給之間、御姉妹の女帝を奉立云々。号飯豊天皇云々。二月即位十一月崩御し給云々。常之皇代記略之歟。此二代殊世おさまれり。田舎におはしまして、民の愁をよく知食て政をおこなはれければにや。
左大臣平群真鳥大臣。
平群真鳥大臣、此御時に大伴金村連が為にころされぬ。此大臣五代の御門の大臣也。
大臣大伴金村連。

一 武烈天皇 八年 元年戊寅 十歳即位 御年十八或五十七。
仁賢太子。同七年東宮とす。母皇后春日大娘皇女。
泊瀬列城宮。
后一人。御子なし。
限なき悪王也。人をころすを御遊にせられけり。
真鳥大臣殺さるヽ事も金村に御心を合てし給ふ。仍金村を大臣になさるゝと也。

一 継体天皇 廿七年 元年丁亥 五十八即位 八十二。
応神天皇五世の孫、彦主人王の御子也。母振媛。いくめの御門の七世の孫のむすめ也。活目の御門とは垂仁天皇也。応神五世の孫者応神・隼総皇子・男太迹王・ 私斐王・彦主人王・継体天皇已上如此。但私斐王は異説歟云云。五世ととる事は、応神を如て数る歟。除之歟。神功皇后をも開化天皇の五世孫云々。其は一定開 化を加て定也。若然ば私斐王僻説歟。慥可検知之。
大和国磐余玉穂宮。山城国(へ)遷都云々。依而猶遷都大和国云々。
此時百済国より五経博士を奉る。
武烈の後王胤絶了。越前国より此君を迎取まいらせたり。郡臣の沙汰也。粗委記下。
后九人。御子廿一人。男九人。女十二人。
大臣巨勢男(こせをひと)大臣。武内子。天皇廿年九月薨。
大連大伴金村連。
    物部麁鹿火大連。

一 安閑天皇 二年 元年癸丑 六十八即位 七十。
継体第二の嫡子。母目子媛。尾張連草香加娘。
大和国勾金橋宮。
后四人。御子なし。
無大臣。
大連同前。

一 宣化天皇 四年 元年乙卯 六十九即位 七十三。
継体第二子。母安閑同母。
大和桧隈宮。
后二人。男女御子六人。
大臣蘇我稲目宿禰。満智宿禰(子)。
大連同前。

欽明 卅二年 元年癸亥 御年六十三。
継体第三子。母皇太后手白香皇女と申。仁賢御女。
磯城島宮。
后六人。御子廿五人。男女十六人。女九人。
大臣稲目宿禰。卅一年三月薨。
大連金村麿。
    物部尾輿連。
此御時百済国より始て仏経を渡せり。御門是をあがめ給ふ。此間国にあやしき病おこれり。物部大臣奏云、此国は昔より神をもて宗とす。今改て仏を敬。是によ りて神いかりをなし給ふにや。是によりて仏像を難波のほり江に流しすて、立寺を焼払。然間空より火くだりて内裏をやく。海に光る物あり。日の光に過たり。 人をつかはして御覧ずればくすの木海に浮べり。是を取て仏を作り給。吉野の光像是也。此天皇終りの年聖徳太子は生給へり。

一 敏達天皇 十四年 元年 壬辰 廿四即位
八十二或卅七或廿八。欽明第二子。欽明十五年為東宮。母皇太后石姫皇女。宜化御娘。
大和国磐余訳語田宮。
后四人。御子十六人。男六人。女十人。
大臣蘇我馬子宿禰。
大連物部弓削守屋連。
此御時、百済国より仏経・僧尼わたせり。守屋大臣仏像を焼、法師を追すつ。此日天に雲なくして雨ふる。王臣以下悪瘡国内にみちたり。仏経を令滅故也。蘇我大臣一人舎利を行ひ、信仏法行之。
高麗より烏の羽に文をかきて参らす。船史祖王是をよむ。

一 用明天皇 二年
元年乙巳丙午い。
欽明第四子。母堅塩姫。蘇我稲目大臣娘。
大和国池辺列槻宮。
后三人。男女御子七人。
左大臣同前。
大連守屋被誅畢。
天皇四月崩御給。入棺不奉葬之。
五月、守屋聖徳太子と合戦。蘇我馬子大臣と太子両人御同心。守屋が首を取て皆ほろぼして、其後仏法盛也。
同七月天皇御葬送あり。

一 崇峻天皇 五年 元年丁未 戊申 六十七即位 七十二。
欽明第十五子。母小姉君娘。稲目大臣娘。
大和国倉橋宮。
后一人。御子二人。
大臣馬子如前。
百済国より仏舎利を渡す。
此天皇は馬子大臣にころされ給ひにけり。

一 推古天皇 卅六年 元年壬子 癸丑い 四十即位 御年七十三或八十三。
欽明中女。敏達天皇の后也。母用明同母。
大和国小墾田宮。
大臣馬子如前。卅四年五月薨。
    蘇我蝦夷臣。同年任大臣。号豊浦。
        崇峻ころされ給て相計て位につけ奉る。
馬屋戸の皇子を東宮とす。世の政をあづけ奉る。此東宮は用明の御子也。是聖徳太子也。太子十七け条憲法を書て奉る。冠位のしな※※を被定置。世中の事をし るしおかる。太子失給て後、世をとろへ民ともしと云へり。暦・天文のふみ百済国より渡せり。僧正・僧都此御時になしはじめらる。寺々僧尼の事を定めらる。

一 舒明天皇 十三年 元年己丑 卅七即位 御年四十九。
敏達の孫、忍坂大兄皇子の子也。母糠手姫皇女。敏達御姫也。
大和国高市崗本宮。
御諱田村也。これよりさき※※の国王御名は世に文字多、人も沙汰せず。世にも慥ならねばかヽず。此後は文字すくなヽれば今は注加べき也。
后五人。男女御子八人。
大臣蘇我蝦夷臣。
此御時伊予国のゆの宮へ行幸あり。推古かくれ給て後、此田村王御時群議にしたがはぬ輩、此とよらの大臣軍をおこして打はらひて後、大臣の子入鹿国の政をして勝於父大臣云々。

一 皇極天皇 三年
元年壬寅。御諱宝。敏達会孫。前の帝舒明の妻后也。敏達御子に押坂大兄皇子。此皇子御子に茅渟王。此王の御子也。御母吉備姫女王。舒明天皇孫云々。
大和国明日香河原宮。
大臣蘇我蝦夷臣。
二年十二月子息入鹿事によりて自死了。
此御時大臣左右大臣をなさる。但次代歟。
豊浦大臣の子蘇我入鹿世の政を執れり。其振舞宜からず。王子たち乱を興すと云へり。此時中大兄皇子。天智天皇也。中臣鎌子。大織冠也。是二人してはかりて入鹿を誅せられぬ。父豊浦の大臣家に火をさして焼死ぬ。又日本国の文書を此家にて皆焼ぬと云へり。
此大臣大鬼となれり。
此女帝三年の後弟に位を譲り給ふ。

一 孝徳天皇 十年 元年甲寅。
御諱軽。天豊田い。皇極弟也。同母也。
乙巳年六月十四日庚戌即位。同日次中大兄皇子立東宮。天智天皇也。
摂津難波長柄豊崎宮。
后三人。皇子一人。
左大臣阿倍倉橋麻呂。五年三月七日薨。
    大紫勢徳(こせのとこ)大臣。大化五年四月廿日任左大臣。
右大臣蘇我山田石川麿。馬子大臣子。大化五年謀反得誅自死。
    大紫大伴長徳連。大化五年四月任。白雉二年七月薨。
内大臣大錦上中臣鎌子連。大化元年任。一名鎌足。天児屋根尊廿一世孫。小徳冠中(臣御)食子卿之長男也。大化元年六月三日。誅入鹿。即賜恩賞。授内大臣詔曰、社稷獲安。寔頼公力。仍拝大錦冠授内大臣封二千戸。軍国機要任公処分云々。
此時年号始てあり。大化五年。白雉五年。
八省百官を定置。国々之堺みつぎ物を定。自唐文書宝物多渡せり。
此御門殊に仏法をあがめて、神事にもすぎたり。二千余人僧尼にて一切経をよましむ。其夜二千余灯〔を〕宮中にともせり。
白雉五年正月鼠多大和国へむれ行。遷都の前相と云へり。

一 斉明天皇 七年 元年乙卯。

皇極再び位に即給ひ、大和国岡本宮におわします。先づ飛鳥川原宮遷幸。
此女帝始には用明のむまご高向の王に具して一子を生み給ひ、後に又舒明の后として御子三人おわします。
此御時の末に人多死けり。豊浦の大臣の霊のすると云へり。其霊竜に乗り空を飛びて人に見けり。此天皇葬の夜は大笠をきて、世間を見ありきけり。
左大臣大紫巨勢徳大臣。四年正月薨。
内大臣大錦中臣鎌子連。

一 天智天皇 十年 元年 壬戌。
諱葛城。舒明第一子。母は皇極天皇。
近江国大津の宮。
后九人。男女御子十四人。
太政大臣大友皇子。天皇第一子。太政大臣始自此。
内大臣大織冠藤原鎌子。天皇八年十月十五日為内大臣。姓藤原氏。同十六日薨。年五十六。在官廿五年。
此外左右大臣等有六人。此御門孝養の御心深くして、御母斉明天皇失給後、七年まで御即位し給はず。
御子の大友皇子を太政大臣とす。又諸国の百姓等を定め民の烟をしるす。又東宮の御時漏刻をつくらる。鎌足を内大臣になして始て藤原の姓を給ふ。
斉明天皇の位につかせ給ふ処にては、七年の後とも見えず、相続して不絶と見たり。失給て後七年まで国王もおはしまさぬには非ざるにや。七年とあるは天智の御即位あるべきを、猶御母の女帝に重祚をせさせ参らせて、七年の後崩御、其後御即位かと心得らるヽ。

一 天武天皇 十五年 元年壬申。
諱大海人。舒明第三子にて天智同母。
大和国飛鳥浄御原宮。
天智七年に東宮とす。天智崩御の後、位を譲り給と云へども、請取給はず。をして、吉野山に入篭給へり。其を猶大友皇子、軍を発しおそひ奉らるべしと御むす め。大友皇子の妃なり。ひそかにつげ給へりければ、「こはいかに我は我とかく振舞に」とや思食けむ。伊勢の方へ逃下て、太神宮に申させ給て、美濃・尾張の 軍を催て、近江にて戦ひ勝給て、御即位ありて世を治給へり。其軍の事ども人皆知れり。
又大津の皇子は御門の御子也。世の政をし給ふと云へり。此皇子からの文を好て、始て詩賦を作り給ふ人也。
左大臣大錦上蘇我赤兄臣。元年八月被配流。
右大臣大錦上中臣金連。元年八〔月〕被誅。
大納言蘇我果安。元年八月坐事被誅。大納言起自此。于時五人云々。
又年号あり。朱雀一年。元年壬申。白鳳十三年。元年壬申。支干同前。年内改元歟。朱鳥八年。内一年。
天武十年に太子草壁の皇子を東宮とす。
大友の皇子合戦の後、左右大臣等被誅了。其後大臣不見也。

一 持統 十年 元年丁亥。
諱莵野。天智第二娘。天武の妻后也。母越智娘。蘇我大臣山田石川麿女也。
大和国藤原宮。
太政大臣浄広一高市皇子。天武第三息。四年七月五日任。十年七月十三日薨。
中納言起自此云々。
此外右大臣大納言在之。
東宮おはしませども、先御母の后位に即給ぬ。さて此東宮の御子軽皇子を又東宮に立給ぬ。
此御時年号あり。
此御時の始に大津皇子謀反の事ありて被殺給にけり。
朱鳥ののこり七年。大化四年。元年乙未。
うづえ踏歌など云事此御時はじまる。
大化三年に位を東宮に譲りたてまつりて、太上天皇の尊号を給はり給ふ。是より始也。其後四年をはします。

一 文武十一年元年丁酉。
諱軽。十五即位。御年廿五。
或七十八。天武孫。東宮草壁皇子第二御子。御母元明天皇也。
同藤原宮。
后二人。御子一人。
大化三年 元年戊戌。二月為東宮。
知太政官事刑部親王。天武第九子。大宝三年正月廿日任。慶雲二年五月七日薨。
大納言藤原不比等。大織冠二男。大宝元年任。
参議大伴安麿。参議始自此。
大化残一年。無年号三年。大宝三年。元年辛丑。三月廿一日改元也。年号此後相続不絶。
律令を被定。官位に随て装束を定めらる。冠をたまへけるを。位記を作り給ふ。
慶雲四年。元年甲辰。五月七日改元。

一 元明 七年。
諱阿閉。慶雲四年六月十五日受禅。四十六。御年六十一。天智第四娘にて文武御母。草壁太子女御也。母宗我嬪。蘇我山田大臣女。
大和国平城宮。
知太政官事穂積親王。
左大臣石上麿。
右大臣藤原不比等。和銅元年三月十一日任。
和銅七年。元年戊申。正月十一日改元。
文武失給ひて聖武いまだおさなくおはしませば、先位に即かせたまふ。

元正 九年。
諱氷高。卅五即位。東宮草壁皇子御子。文武天皇の姉なり。母元明天皇。文武御同母也。
同平城宮。
知太政官事穂積親王。霊亀元年七月十三日薨。
    舎人親王。浄御原天皇第三子。養老四年八月一日任。
左右大臣如前。
中納言藤原武智(麿)。
参議同房前。此二人淡海公息等也。
霊亀二年。元年乙卯。九月三日改元。此日御即位也。
養老七年。元年丁巳。十一月十七日改元。
不比等大臣は養老四年八月三日薨。年六十二。謚号淡海公。聖武の外祖にて病に臥給よりをもくことにもてなされ給。贈太政大臣云々。

聖武 廿五年。廿五即位。御年五十八。
天璽国排開豊桜彦天皇云々。文武太子。和銅七年為東宮。
母夫人藤原宮子。淡海公不比等女。
同平城宮。
后四人。男女御子六人。
知太政官事舎人親王。天平七年十一月十四日薨。年六十。同廿二日贈太政大臣。天平宝字    二年六月追号。崇道天皇。
同知太政官事鈴鹿王。太政大臣高市親王三男。天平九年九月任。同十七年九月十一日薨。
左大臣長屋王。依謀反被誅畢。遣宇合等云々。高市皇子一男也。
左大臣橘諸兄。敏達末孫也。改葛城王為諸兄云々。
右大臣武智麿。天平六年正月十七日任。九年七月廿五日薨。年五十八。贈太政大臣。
中納言豊成。武智一男。中衛大将。
神亀五年。元年甲子。二月四日改元。此日即位。
天平廿一年。元年己巳。八月五日改元。
天平廿一年五十の御年七月二日位をおりさせ給て御出家。法諱勝満と申。其後八年おはします。東大寺を作らせ給ふ。こまかには別帖にかけり。
参議房前。天平二年任中衛大将。大将始也。同九年四月十七日薨。五十七。
此年兄弟四人。四家曾祖也。武智、一男。房前、二男。宇合、三男。麿。四人也。三人は参議也。一年中死去。赤疱発天下、八月五日。七月十三日。没者不可称計云々。

孝謙十年。
諱阿閉。三十即位。聖武御娘。母光明皇后。是同淡海公女也。
同平城宮。
左大臣橘諸兄。天平勝宝八年二月上表致仕。
右大臣藤豊成。同勝宝元年四月十四日任。宝字元年転左。同七月二日坐事左遷。為賞仲麿也云々。
大保藤恵美押勝。本名仲麿。武智二男。宝字元年五月十九日任右大臣。紫微内相。准大臣。中衛大将如元。同二年改右大臣称大保。八月廿五日任之。同日勅云、姓中加恵美二字。以仲磨為押勝。封戸百町云々。
天平感宝元年。七月二日即位。
天平勝宝八年。元年己丑。天平宝字内二年。元年丁酉。八月二日改元。此天平感宝は四月十四日にかく改元ありけれど、其年の七月二日又天平勝宝とかわりにければにや、常の年代記には此年号をばかきもらせるなるべし。
東〔大〕寺にて万僧会あり。内裏にはすヾろに天下太平と云ふ文いで来り。
此君以後事多は在別帖。

淡路廃帝 六年。
諱大炊。廿六即位。天武孫。舎人親王第七子。母夫人山背。上総守当麻老女。平城宮。
大師藤押勝。宝字四年正月十一日自大保任大師。天皇幸大保第。以節部省絁賜主典已上有差。号太政大臣、賜随身。同八年九月十一日謀反。除姓字、勅解官除藤原姓被誅。
大臣道鏡禅師。宝字八年任。賜姓弓削。元少僧都。
右大臣藤豊成。宝字四年転左大臣。宝字八年四月還任。無咎蒙罪。左降。仍被復也。
天平宝字八年。元年戊戌。八月二日改元。元年為東宮。二年八月一日即位。
恵美大臣と同心被奉背孝謙之間、廃淡路国。於彼国三年之後崩御。

称徳 五年。御年五十三。
孝謙重祚也。五十三即位。五十七崩御也。春秋五十七云々。
天平宝字九年正月一日重祚。
太政大臣道鏡禅師。天平神護二年授法皇位。
右大臣吉備真吉備。右衛士少尉下道朝臣国勝男。中衛大将。
大納言藤真楯。房前三男。天平神護二年三月十六日薨。
天平神護二年。元年乙巳。正月七日改元。
神護景雲三年。元年丁未。八月十八日改元。
三年八月四日崩御云々。
道鏡法皇事、和気清丸勅旨。
太神宮八幡等御託宣事。
天平宝字元年は丁酉也。
廃帝元年は戊戌歳也。不能委記。在人口歟。

光仁 十二年。
諱白壁。本大納言。
神護景雲四年庚戌八月四日△癸巳△群臣以大納言白壁王立皇太子摂万機政。年六十二。高野天皇遺詔曰、宜以大納言白壁王立皇太子等云々。
同十月一日 己丑 即位於大極殿云々。
天智天皇孫。施基皇子第六子。母橡姫。紀諸人女。
平城宮。
后五人。御子男女七人。
左大臣藤原永手。宝亀二年二月廿一日(薨)。六十八。
(右大臣)大中臣清麿。
左大臣藤原魚名。房前五男。近衛大将。
内大臣藤良継。本名宿名麿。式部卿宇合二男。
参議藤百川。宇合八男。宝亀十三年七月七日薨。四十八。
宝亀十一年。元年庚戌。十月一日改元。
天応二年。元年辛酉。正月一日改元。
高野天皇称徳也。失給て後、大臣以下群卿はからひてつけ奉れり。天応元年
四月に位を東宮にゆづり奉て十二月にうせ給。御年七十三。

桓武廿四年。
諱山部。
天応元年四月三日受禅。四十五。光仁御子。宝亀四年為東宮。卅七。母高野氏。
新笠乙継朝臣女。
先長岡宮遷都。後平安宮。山城国。今此京也。
后女御十六人。男女卅二人。
左大臣藤魚名。延暦元年六月十四日坐事配流。称病留難波。二年五月還京。七月廿五日薨。贈本官。焼却流罪詔等云々。六十三。
右大臣藤田麿。宇合五男。近衛大将。    藤是公。武智孫。参議乙麿子。延暦二年七月十九日任。同八年九月十九日薨。
    藤継縄。豊成男。中衛大将。延暦九年二月廿七日任。同十五年七月十九日薨。七十。
                神王。天智天皇孫。榎井親王子。延暦十七年八月任。
中納言藤内麿。房前孫。大納言真楯三男。延暦十七年八月十六日任。
延暦廿四年。元年壬戌。八月十九日改元。
伝教大師。依無動寺相応和尚奏、慈覚大師同日有伝教大師号。延暦七年中堂建立。同廿    三年入唐。同廿四年帰朝。弘仁十三年六月四日入滅。五十六。
此御時山城国長岡の京へうつらせ給ふ。其後程なく此平の京に定まりぬ。此後無遷都。
伝教・弘法両大師渡唐此御時の末也。此御門文をこのませ給はず、武をむねとし給ひけると云へり。坂上田村丸大将軍としてえびすをうち平ぐ。今の平氏は此御門の末也。

延暦元年壬戌当唐徳宗建中三年也。今年黄河清七年。伝教大師草創根本中堂。十三年遷都平安宮。十五年建立東西両寺。廿三年七月伝教・弘法入唐。同十二年癸 酉正月十五日始造平安城。東京。愛宕郡。又謂左京。唐名洛陽。西京。葛野郡。又謂右京。唐名長安。南北一千七百五十三丈除大路小路。東西一千五百八十丈除 大路小路。通計東西両京。是歳伝教大師造延暦寺。同十三年甲戌根本中堂供養。
同年十月廿一日辛酉車駕遷于新京。同十四年改山背国為山城国。

愚管抄一巻終。
愚管抄(巻第二)

平城 四年。

諱安殿。延暦廿五年三月十八日受禅。三十三。桓武太郎。同四年十一月為東宮。十二。母皇后乙牟漏。内大臣藤原良継女。后三人。男女御子七人。
右大臣神王。大同元年六月廿四日薨。
藤内麿。 左近衛大将。元近衛大将。大同元年五月十九日任。同二年四月廿二日為左近衛大将。
大同四年。元年丙戌。五月十八日改元。
左右大将此御時始也。元近衛中衛也。改近衛為左近衛、改中衛為右近衛。坂上田村麿任右近衛大将。同日任也。
大同四年四月一日譲位。皇太子神野践祚。此日高丘御子立坊。天皇御不予。仍被行是等事云云。
    おりゐの御門にて十四年おわします。五十一にて崩御。天長元年七月五日也。猶奈良におわします。仍奈良の御門と申也。業平中将は此御孫也。

    嵯峨 十四年。

諱賀美能。或神野。大同四年四月一日受禅。廿四。同元年為東宮。廿一。桓武第二子。母平城同。后女御九人。男女御子四十七人。
右大臣藤内麿。左大将。弘仁三年七月六日薨。五十七。
藤園人。房前嫡孫。参議大蔵卿楓麿男。弘仁三年十二月五日任。同九年(十二月)十九日薨。六十三。
藤冬嗣。左大将内麿三男。弘仁十二年六月九日任。
弘仁十四年。元年庚寅。九月廿七日改元。
天台座主内供義真。
弘仁十三年四月五日官牒。年四十四。治山十一年。座主治山の年を取事は、終の年をば棄て属新任人也云云。天長十年七月四日入滅。五十五。
此御時内宴始まれり。
又文を作らせ給。
王子十六人。女王十四人。皆姓を賜て只人となり給ふ。すべて男女御子四十七人云々。
先帝御不和云々。仍先帝兵を起して東国へ御下向云々。
仍大納言田村参議綿丸等をつかはして、とヾめまいらする間に、太上天皇の御方の大将軍仲成打取畢。又内侍のかみ同死畢。すヽめにて此事ありと云云。上皇の御出家おはりぬ。東宮高丘親王をとヾめて、大伴御子を東宮とす。
高丘親王出家得度。弘法大師弟子に成給ふ。入唐してかしこにて遷化し給。真如親王と申は是也。或唐より猶天竺へ渡り給、流沙にてうせ給と云へり。
天台座主此御時始てなされたり。
御脱屣後十九年、御年五十七、承和九年七月十五日崩御。

淳和 十年。

諱大伴。弘仁十四年四月十七日受禅。卅八。同元年月日東宮とす。廿五。桓武第三子。母贈皇太后旅子。参議藤百川女。
后女御六人。男女御子十三人。
左大臣藤冬嗣。左大将。天長二年転左大臣。同三年七月十四日薨。五十三。在官六年。
藤緒嗣。百川長男。贈太政大臣。
右大臣清原夏野。左大将。舎人親王曾孫。御原王孫。正五位下小倉王男。天長九年十一月二日任。
天長十年。元年甲辰。正月十五日改元。
元年七月五日平城天皇崩御。五十一。
内裏仏名此時始れり。脱 之後七年、五十七或五十九。承和七年五月八日崩御。
此時太上天皇二人おわします間、嵯峨は前太上天皇と申、淳和をば後太上天皇と申けり。

仁明 十七年。

諱正良。深草御門と申。天長十年二月廿八日受禅。廿四。弘仁十四年四月十九日 壬寅 立坊。十四。嵯峨第二子。母皇太后橘嘉智子。内舎人清友女。
后女御更衣九人。御子廿四人。其中に七人は姓を賜ふ。
左大臣藤緒嗣。承和十年致仕。
源常。左大将男。嵯峨第三子。承和七年八月七日任右大臣。同十一年七月二日転左。
右大臣清原夏野。左大将。承和四年七月七日薨。五十六。
藤三守。参議巨勢孫。阿波守真作子。承和五年正月十日任。同七年七月七日薨。五十六。
橘氏公。贈太政大臣清友三男。承和十一年七月二日任。同十四年十二月十九日薨。六十五。
藤良房。冬嗣男。右大将。嘉祥元年正月十日任。
承和十四年。元年甲寅。正月三日改元。
七年五月八日淳和崩御。御年五十九。九年七月十五日嵯峨崩御。御年五十七。
嘉祥三年。元年戊戌。六月十三日改元。
三月三日廿一日崩御。御年四十一。
天台座主円澄。承和元年三年十六日官牒。六十一。治三年。同三年十月廿三日卒。七十四。
此御門は深草御門と常に人申けり。陵の名也。御葬はてヽ遍昭僧正出家と云事あり。少将良岑の宗貞とて近く候ける人なり。
承和九年七月十五日に嵯峨院かくれさせ給ひにけり。これ[より]さきに淳和院、承和七年にかくれ給ひぬ。仁明御位につき給とき、淳和御子恒貞親王をば東宮に立まいらせけれど、両院うせ給ひて後に、東宮御方人謀反のきこえ有てすてられ給ひにけり。
此御時承和二年三月廿一日弘法大師入定事。御年六十二。

文徳 八年。

諱道康。嘉祥三年三月廿一日受禅。廿四。承和九年八月四日立坊。十六。同二月廿六日御元服云云。仁明長子。母皇太后宮藤原順子。左大臣冬嗣女。五条后と申。
女御六人。御子廿九人。十四人は姓を賜はり給ふ。
太政大臣良房。左大将。天安元年二月十九日任太政大臣。左大将如元。
左大臣源常。左大将。斉衡元年六月十日薨。四十四。
源信。嵯峨帝第一源氏。天安元年二月十九日任。
右大臣藤良相。冬嗣五男。右大将同日任。同六年正月転左大将。
仁寿三年。元年辛末。四月廿八日改元。斉衡三年。元年甲戌。十一月廿九日改元。
天安二年。元年丁丑。二月廿日改元。
二年八月廿七日崩御。卅二。
天台座主内供奉円仁。仁寿四年四月三日官牒。六十一。治十年。承和三年為入唐。遣唐使参議右大辧常嗣相共出京、待順風之間、逗留宰府送二け年。同五年六月十三日解纜。同十四年帰朝也。貞観六年正月十四日御遷化。
此御時東大寺大仏御ぐしすヾろに地に落たりけり。

清和 十八年。

諱惟仁。水尾御門と申。天安二年八月廿七日受禅。九。嘉祥三年月日立坊。一歳。文徳第四子。貞観六年正月一日元服。母皇太后藤原明子。忠仁公女。染殿の后と申。
后十三人。御子十八人。賜姓人四人。
摂政太政大臣藤良房。忠仁公。白川殿。日本国幼主摂政此時始也。天安二年十一月七日即位日也。五十五。貞観八年八月十九日摂政詔云云。[可]勘之。
貞観十四年九月二日薨。六十九。
此後代々之間、大臣等不能記畢。摂政外無其要歟。但少々取要可加之。
右大臣良相。貞観九年十月十日薨。五十七。労十一年贈正一位。
右大臣基経。良房養子。実中納言長良三男。長良は長房舎弟、冬嗣一男也。
貞観八年九月廿二日、流大納言伴善男於伊豆国。閏三月十日夕、焼応天門并左右腋門等罪也。
貞観八十八年。元年己卯。四月廿五日改元。
座主内供奉安恵。貞観六年二月十六日宣命。五十五。此時改官符為宣命。慈覚大師遺奏之故也。治四年。同十年四月三日入滅。五十八。
内供奉円珍。権少僧都。贈法印。同十年六月三日宣命。五十四。治廿四年。仁寿三年七月九日入唐。天安二年六月十七日帰朝。寛平三年十月廿九日入滅。七十八。
此御時より摂政始まる。
貞観十八年に位をおりさせ給て、三年あり〔て〕、元慶二年五月八日御出家。
法名素真。同十二〔月四〕日崩御。卅一。御所清和院。
此御時八幡大菩薩、男山へうつりわたらせ給。大安寺の僧行教祈請奉渡之。

陽成 八年。

諱貞明。貞観十八年十一月廿九日受禅。九。同十一年月日立坊。清和太子。
元慶六年正月二日御元服。母皇太后藤原高子。中納言長良二女。
御子九人。皆院之後御子也。
摂政太政大臣基経。受禅同日摂政、後、関白。貞観十八年依先帝の詔摂政。元慶元年二月辞大将。同二年七月十七日賜内舎人二人・左右近衛各六人随身兵仗。同 四年十一月八日、詔為関白。同十二月十四日、任太政大臣。元右大臣。年四十六。同六年二月一日有勅、任爵准三后如忠仁公故事。
元慶八年。元年丁酉。四月十六日改元。
二年十二月四日清和天皇崩御。卅一。
此御門八十一まで御命長くて、天暦三年にうせさせ給にけり。

光孝 三年。

諱時康。小松御門と申。元慶八年二月四日受禅。御年五十五。仁明第三子。承和三年十二月二日元服。〔母〕贈皇太后藤原沢子。紀伊守総継女。
執政臣昭宣公基経。元慶八年十二月廿五日帝於内賀大臣五十算云云。
仁和四年。元年乙巳。二月廿一日改元。
三年 丁末 八月廿六日丁卯、巳二刻崩御。五十八。
陽成院御物気強、於事勿論御事也。仍外舅昭宣公大臣以下相談して此御門を位に即まいらせらる。
女御四人。男女御子四十一人。此内源氏卅五人云云。

宇多 十年

諱定省。亭子院。又寛平法皇。仁和三年八月廿六日受禅。廿一。同年月日立坊。光孝第三子。母皇太后宮班子女王。式部卿仲野親王女。
女御五人。御子廿人。姓を賜らせ給一人。
関白太政大臣基経。仁和三年十一月十九日詔。万機巨細百官惣己、皆先関白、然後奏下。一如故事。寛平三年正月十三日薨。五十七。天皇甚哀悼、詔賜正一位、食封資人並如生故大臣又如故。在官廿年。
仁和残一年。寛平九年。元年己酉。四月廿七日改元。
山座主内供惟首。二年五月廿一日宣命。六十六。治一年。同年二月廿九日卒。六十七。
内供猷憲五年三月廿五日宣命。七十三。治六け月。同年同月日卒。
阿闍梨康済。六年九月十二日宣命。六十七。治三年。昌泰二年二月八日卒。七十二。
此御門の御元服は慥にも人知らず、元慶年中とばかり也。そのかみの御事にあればにや。寛平九年御脱。三十一。昌泰三年月日御出家。三十四。法名金剛覚。承平九年崩御。六十五。院にて三十四年までおわしましけり。
此御時賀茂臨時祭始まれり。

醍醐 三十三年。

諱敦仁。寛平九年 丁巳 七月五日 戊寅 受禅。十三。同五年四月二日立坊。九。
宇多第一子。寛平七年正月十九日御元服。十一。或受禅当日云々。但此説非歟。〔母〕贈皇太后藤原胤子。内大臣高藤女。高藤は受禅之時、中納言、昌泰二年任大納言。
左大臣(藤)時平。内覧。号本院大臣。昌泰二年二月十四日任。延喜九年四月四日薨。年卅九。五日贈太政大臣正一位。
右大臣菅原―。内覧。昌泰四年 辛酉 正月廿五日左遷御事。延喜三年 癸亥 二月廿五日於太宰府薨給。御年六十。
内大臣藤高藤。冬嗣孫。内舎人正六位上良門二男。昌泰三年正月廿八日任。同三年十三日薨。六十三。
右大臣源光。仁明天皇第三皇子。延喜元年正月廿六日任。同十三年三月十三日薨。六十八。
右大臣藤忠平。左大将。延喜十四年八月廿五日任右大臣。延喜二年正月七日転左。
右大臣藤定方。故贈太政大臣高藤二男。延長二年正月廿二日任。五十二。
昌泰三年。元年戊午。四月十六日改元。延喜廿二年。元年辛酉。七月十五日改元。延長八年。元年癸末。閏四月十一日改元。
天皇八年九月廿九日崩御。四十六。
山座主阿闍梨長意。
法橋。贈僧正昌泰二年十月八日宣命。七十二。治七年。延喜六年七月三日卒。七十九。同八年贈位。
内供奉増命。法務僧正謚号静観。延喜六年十月十七日宣命。六十四。治十六年。
延長五年十一月十一日卒。八十三。辞退之後六け年云々。
内供良勇。同廿二年八月五日宣命。六十八。治一年。同三年三月六日卒。六十九。
内供玄鑒。法橋。延長元年七月廿二日宣命。六十二。治三年。同四年二月十一日卒。
六十五。
内供尊意。法印。贈僧正。延長四年五月十一日宣命。六十六。治十四年。天慶三年二月廿三日卒。八十三。
延喜元年正月日菅丞相の御事有けり。其間日記皆やかれにけり。延長八年六月廿六日清涼殿に雷落て、大納言清貫・右中弁希世両人蹴殺してけり。
御門常寧殿にうつりゐさせ給。
延長八年九月廿二日脱屣。同月廿九日丑時御出家。法名宝金剛。其後やがて崩御。御年四十六。
后女御更衣等廿一人。男女御子卅六人。此内源氏六人。
此御時彗星たび++出けれども、度ごとに目出く徳政のおこなわれければ、事もなくてのみ過けると申つたへたり。大宝年号はじまりて後、たヾ此御時をぞ見あふぐなるべし。北野の御事も権者の末代の為とての事と心得ぬる上は弥めでたし。

朱雀 十六年。

諱寛明。延長八年九月廿二日受禅。八。同三年月日立坊。醍醐天皇第十一御子。承平七年正月四日御元服。十五。母皇太后宮藤原穏子。昭宣公四女。
摂政太政大臣忠平。受禅同日摂政詔。承平六年八月十九日任太政大臣。天慶四年七月廿日辞摂政。同十一月廿八日為関白。
右大臣藤実頼。忠平長男。天慶七年四月九日任。承平七年。元年辛卯。四月十六日改元。
元年七月十九日宇多院崩御。御年六十五。天慶九年。元年戊戌。五月廿三日改元。
山座主権律師義海。
少僧都。天慶三年三月廿五日宣命。六十八。治五年。同九年五月十日卒。七十四。
権律師延昌。僧正。謚号慈念。同九年十二月卅日宣命。六十七。治十八年。応和三年正月十五日卒。八十五。
賀茂社行幸此御時始まれり。石清水臨時祭始まれり。将門・純友謀反事。平貞盛・橘遠保等うちて奉る。叡山根本中堂焼亡。天慶九年四月脱。天暦六年八月十五日崩御。御年三十。女御后二人。姫宮一人。

村上 廿一年。

諱成明。天暦御門と申。天慶九年四月十三日受禅。廿一。同七年月日立坊。十九。醍醐十四子。天慶三年十月一日御元服。十五。御母朱雀院同母。
関白太政大臣忠平。天慶九年五月廿日関白。准三宮。天暦三年正月廿一日賜度者五十人。又修諷誦於十五大寺。為救大臣之病也。八月八日臥病不起。十四日詔賜 度者卅人。又大赦天下。為救病也。是日戌刻薨。七十。十八日詔遺清蔭中納言元方参議庶明等、就其柩前、贈正一位。封任信濃国、為信濃公。謚曰貞信公。
左大臣実頼。忠平一男。左大将。天暦元年四月廿六日任左大臣。天徳元年三月廿一日。辞大将。四月五日勅授帯剣。同三年三月日聴輦車。
右大臣師輔。同二男。右大将。天暦元年四月廿六日任。同九年六月十七日辞大将。七月廿二日勅授帯剣。天徳四年五月二日出家。五十三。同四日薨。在官十四年。
天暦十年。元年丁朱。四月十四日改元。
三年九月廿九日陽成院崩御。八十一。六年八月十五日朱雀院崩御。
天徳四年。元年丁巳。十月廿七日改元。応和三年。元年辛酉。二月十六日改元。
康保四年。元年申子。七月十日改元。
天皇四年五月廿五日崩御。御年四十二。
山座主権大僧都鎮朝。入道云々。俗名橘高影。応和四年三月九日宣命。七十九。治七け年。同十月五日卒。権少僧都喜慶。康保二年二月十五日宣命。七十七。治一年。同三年七月十七日卒。
権律師良源。法務大僧正。謚号慈恵。同三年八月廿七日宣命。五十五。治十九年。永観三年正月三日御遷化。七十三。
天徳四年九月廿三日大内焼亡。都うつりの後始て焼亡云々。内侍所の温明殿の灰の中に御体神鏡すこしも損し給はでおわしましければ、翌日の朝に職曹司にうつしまいらせて、内蔵寮奉幣ありけり。或大葉椋木に飛出てかヽり給ふとも云めり。其日記はたしかならぬにや。
康保四年五月廿五日崩御。御年四十二。
后女御十人。男女御子十九人。
天暦三年以後此御時一代無関白。小野宮・九条殿為左右大臣被行政也。

冷泉 二年。

諱憲平。康保四年五月廿五日受禅。十八。天暦四年月日立坊。一歳。村上二子。
応和三年二月廿八日御元服。十四。母皇后藤原安子。九条右大臣師輔公女。
関白太政大臣実頼。康保四年六月廿二日関白。十月五日聴牛車。十二月十三日任太政大臣。
右大臣藤師尹。貞信公五男。小一条左大臣。
安和二年。元年戊辰。八月十三日改元。
安和二年月日脱。廿。其後四十余年おわします。

円融 十五年。

諱守平。安和二年八月十三日受禅。十一。康保四年月日立坊。八。村上第五子。
天禄三年正月三日御元服。十四。母冷泉院同。
関白太政大臣実頼。
清慎公。安和二年八月十二日為関白。天禄元年五月八日薨。年七十一。
摂政左大臣伊尹。天禄元年正月任右大臣。左大将如元。同五月廿一日為摂政。七月辞大将。賜兵仗。同二年十一月二日任太政大臣。同三年十一月一日薨。年四十九。
関白太政大臣兼通。天禄三年二月廿七日任内大臣。元中納言。不歴大納言。十二月廿八日為延暦寺検校。
天延二年三月廿六日為関白。貞元二年十一月四日(准三宮、同八日)薨。年五十三。謚曰忠義公。
関白太政大臣頼忠。貞元二年十月十一日為関白。天元二年十月二日任太政大臣。
右大臣兼家。天元元年十月二日任。
天禄三年。元年庚午。三月廿五日改元。
三年正月三日御元服。
天延三年。元年癸酉。十二月廿日改元。貞元二年。元年丙子。七月十三日改元。
天元五年。元年戊寅。四月十五日改元。永観二年。元年癸朱。四月十五日改元。
八幡平野行幸此御時より始まれり。
永観二年八月廿七日脱。廿六。寛和元年三月廿九日御出家。御悩。廿七。法名金剛法。正暦三年二月十三日崩御。御年卅四。
女御后五人。皇子一人。
此御時内裏焼亡たび++あり。北野の御ゆへなど云伝たり。貞元元年五月十一日丁丑、内侍所は不損減。但無光、其色黒云々。天元三年十一月廿二日半減給云々。同五年十一月十七日今度は皆焼うせさせ給ふ。焼たるかねを取あつめてまいらせたり。此後も霊験はあらたなりとぞ。

花山 二年。

諱師貞。永観二年八月廿七日受禅。十七。安和二年月日立坊。冷泉院第一子。
天元五年二月十九日御元服。十五。母贈皇太后藤原懐子。一条摂政女。
関白太政大臣頼忠。
関白可如故之由、自先帝被奏新帝。
左大臣兼家。
中納言義懐。一条摂政五男。永観二年十月十日叙従三位。二階。同十四日正三位。依外舅也。越道隆。寛和元年九月十四日任参議。同十一月廿一日叙従二位。同廿五日任中納言。年廿九。同二年六月廿六日扈法皇御出家。太政大臣雖有関白之号、委万機於義懐云云。
山座主権僧正尋禅。謚号慈忍。永観二年二月廿七日宣命。四十二。治四年。正暦元年二月廿七日卒。四十六。
寛和二年。元年乙酉。四月廿七日改元。
此御門、寛和二年六月俄道心を発させ給て、内裏を出て花山におわしまして御出家。法名入覚と申奉る。其後廿二年おわします。寛弘五年にうせさせ給ふ。

一条 廿五年。

諱懐仁。寛和二年六月廿三日に受禅。七。永観二年八月廿七日立坊。円融院第一子。永祚二年正月五日御元服。十一。母東三条院詮子。大入道殿兼家女。
摂政太政大臣兼家。寛和二年六月廿三日為摂政。七月十四日辞右大臣。八月廿二日勅、年官年爵准三后。但年官年爵固辞不受。永延二年三月廿五日宜旨、宜聴乗 輦出入宮門陣省。正暦元年五月五日依病上表、辞摂政為関白。同八日出家。法名如実。十日以二条京極家地、永為仏寺。号法興院。同七月二日薨。六十二。
摂政内大臣道隆。正暦元年五月八日関白。同廿五日聴牛車。廿六日摂政。六月一日辞大将賜兵仗。同六年七月廿四日辞内大臣。同四年四月廿七日辞摂政為関白。長徳元年三月依病辞関白。同四月六日出家。十日薨。四十三。
関白右大臣道兼。長徳元年四月廿七日為関白。同五月五日薨。卅五。号七日関白。
太政大臣頼忠。永祚元年六月十六日薨。六十六。贈正一位。謚廉義公。
藤為光。
九条殿九男。寛和二年七月廿日任右大臣。正暦二年九月七日任太政大臣。同三年六月六日薨。五十一。贈正一位。謚恒徳公。
左大臣道長。長徳元年五月十一日蒙内覧宜旨。于時大納言。同年六月十九日任右大臣。越内大臣伊周。同二年閏七月廿日任左大臣。同八月辞左大将。以童子六人 為随身。十月九日勅、左右近衛府生各一人・近衛各四人為随身。但止童随身。長徳四年三月十三日上表返上随身近衛并内覧事等、勅許之。長保元年十二月十六日 重賜随身如元。
内大臣伊周。
正暦五年八月廿八日、越御堂。年廿一。長徳元年三月八日宜旨云、太政大臣并殿上令奏下文書等、関白病間、暫触内大臣奏下者。同年四月十日服解。同日賜左右 近衛各四人、為随身。同二年四月廿四日左降太宰権帥。詔云、内大臣藤伊周朝臣、権中納言藤原朝臣隆家、去正月十五日夜、花山法皇御所乎奉射危云々。東三条 院、玉体不予して献厭魅呪咀云々。須法律乃仁に罪べし。然而有所思、内大臣乎太宰権帥に、隆家乎出雲権守に退賜云々。年廿三。在官三年。長徳四年閏十二月 十六日叙本位。依東三条院御悩大赦之次也。寛弘七年二月廿五日宣旨、列大臣下可朝議者。
内大臣藤原公季。
永延二年。元年丁亥。四月五日改元。永祚一年。元年己丑。八月八日改元。正暦五年。元年庚寅。十一月七日改元。円融院二年十二月崩御。御年卅四。長徳四 年。元年乙朱。二月廿二日改元。長保五年。元年己亥。正月十三日改元。寛弘八年。元年甲辰。七月廿日改元。天皇八年六月廿二日崩御。御年三十三。花山院五 年二月八日崩御。御年四十一。
冷泉院八年十月廿四日崩御。御年六十二。
山座主権大僧都余慶。謚号智弁。権僧正。永祚元年九月廿九日宣命。七十一。同十二月廿六日辞退。山僧不用之故也。此後智証大師門人ときヽしは座主なれどもながく不寺務。
前少僧都陽生。権大僧都。永祚元年十二月廿七日宣命。八十二。治一年。正暦元年九月廿八日辞退。同三年七月廿日卒。八十三。
権少僧都暹賀。権僧正。正暦元年十二月廿日宜命。七十七。治八年。長保四年八月一日卒。八十五。
権大僧都覚慶。大僧正。長保四年十月廿九日宜命。七十一。治十六年。長和三年十一月廿二日卒。八十七。
春日・大原野・松尾・北野、巳上四社へ行幸此御時始れり。
帥内大臣流刑事。
寛弘八年月日脱屣。
后女御五人。御子五人。

三条 五年。

諱居貞。寛弘八年六月十三日受禅。卅五。寛和二年七月六日立坊。十一。此日御元服なり。冷泉院第二子。母贈皇后超子。大入道殿兼家第一女。
左大臣道長。寛弘八年八月廿三日聴牛車。内覧如元。
長和五年。元年壬子。十二月廿五日改元。
山座主大僧正慶円。長和三年十二月廿六日宜命。治五年。寛仁三月九月三年卒。七十五。
長和五年脱。四十。寛仁元年四月廿九日御出家。同五月九日うせさせ給にけり。

後一条 廿年。

諱敦成。長和五年正月廿五日受禅。九。寛弘八年月日立坊。一条院第二子。寛仁二年正月三日御元服。十一。母上東門院彰子。御堂関白第一女。
摂政左大臣道長。長和五年正月廿九日為摂政。同六月十日准三宮。又勅して、室家従一位源朝臣倫子賜封戸年爵内外官三分。十一月七日辞左大臣。寛仁元年三月 廿六日依請罷摂政。同年十二月任太政大臣。同六年正月三日中重内聴輦車。二月五日上表辞職。同三年三月廿一日出家。五十四。法名行観。同年五月八日詔准三 宮如元。同年月日改法名行覚。四年三月廿二日供養新造無量寿院。治安三年十月十七日参向紀伊国金剛峯(寺)路次七大寺。十月十三日於天台受菩薩戒。万寿四 年十二月四日薨。六十二。
摂政左大臣頼通。
後関白。寛仁元年三月四日任内大臣。年廿六。同十六日摂政。廿二日辞大将賜兵仗。又聴牛車。同三年十二月廿二日辞摂政為関白。治安元年任左大臣。
太政大臣公季。長元二年十月十七日薨。七十三。賜正一位。謚仁義公。
左大臣顕光。治安元年五月廿五日薨。先是出家。七十八。
右大臣実資。右大将清慎公三男。実参議斎敏三男。治安元年七月廿五日任。
内大臣教通。左大将同日任。
寛仁四年。元年丁巳。四月廿三日改元。
同元年五月九日三条院崩御。四十二。
治安三年。元年辛酉。二月二日改元。万寿四年。元年甲子。七月十三日改元。
長元九年。元年戊辰。七月廿五日改元。
同九年四月十七日崩御。廿九。
山座主僧正明救。寛仁三年十月廿日宜命。七十四。治一年。同四年七月五日卒。七十五。
(西方院)法印院源。法務大僧正。同四年七月十七日宜命。六十七。治八年。万寿五年五月廿四日卒。七十九。
権僧正慶命。万寿五年六月十九日宣命。六十四。治十一年。長暦二年。九月七日卒。七十五。
長元九年四月十七日崩御。廿九。
后一人。女皇二人。
小一条院東宮にておわしますが此御時辞させ給ふ。

後朱雀 九年。

諱敦良。長元九年四月十七日。乙巳。受禅。廿八。寛仁元年月日立坊。九。一条院第三子。寛仁三年八月廿八日御元服。十一。母上東門院。
関白左大臣頼通。
右大臣藤実資。右大将。
内大臣藤教通。左大将。
長歴三年。元年丁丑。四月廿一日改元。長久四年。元年庚辰。十一月十日改元。
寛徳二年。元年甲申。十一月廿四日改元。
二年正月十八日崩御。卅七。
山座主権大僧都教円。長暦三年三月十二日宣命。六十一。治九年。永承二年六月十日卒。七十。
寛徳二年正月十六日脱。
后五人。御子七人。

後冷泉 廿三年。

諱親仁。寛徳二年正月十六日受禅。廿一。長暦元年八月十一日立坊。十三。後朱雀院第一子。長暦元年七月二日御元服。十一。母内侍督嬉子。御堂の乙女。后三人。御子おわしまさず。
関白太政大臣頼通。康平五年九月二日辞左大臣。同七年十二月十三日譲藤氏長者於左大臣。猶為関白。治歴三年七月准七日三宮。同年十二月五日辞関白。久四年正月廿九日於宇治出家。法名寂覚。年八十一。大臣後五十六年。同六年二月二日薨。八十三。
関白左大臣教通。康平三年七月任左大臣。同七年十二月十三日為藤原長者。治暦四年四月十七日為関白。
右大臣実資。永承元年正月八日薨。九十。
頼宗。右大将。康平三年七月十七日任。治暦元年正月五日依病出家。七十三。二月三日薨。
師実。左大将。康平三年七月十七日任内大臣。十九。治暦元年六月三日転右。
内大臣師房。右大将。具平親王三男。治暦元年六月三日任。五十八。同六日兼左大臣。
永承七年。元年丙戌。四月十四日改元。天喜五年。元年癸巳。正月十一日改元。康平七年。元年戉戌。八月廿九日改元。治暦四年。元年乙巳。八月二日改元。
治暦四年四月十九日天皇崩御。四十四。
山座法務大僧正明尊
永承三年八月十一日宣命。七十八。
権少僧都源心。権大僧都。同三年八月廿一日宣命。七十八。治五年。天喜元年十月十一日卒。八十三。
権僧正源泉。天喜元年十月廿六日宣命。七十八。
権大僧都明快。大僧正。天喜元年十月廿五日宣命。六十七。治十七年。

後三条 四年。

諱尊仁。治暦四年四月十九日受禅。卅五。寛徳二年日立坊。十二。後朱雀院第二子。永承元年十二月十九日御元服。十三。母陽明門院禎子。三条院第三女。
関白太政大臣教通。
左大臣藤師実。
延久五年。元年己酉。四月十三日改元。
山座主権大僧都勝範。僧正。延久二年五月九日宣命。七十五。治七年。承保四年正月廿七日卒。八十二。
八幡放生会此御時はじまる。日吉稲荷等行幸同始れり。
延久四年十月六日脱屣。同五年四月廿一日御出家。法名金剛行。五月七日崩御。四十。
后三人。男女御子七人。

白河 十四年。

諱貞仁。延久四年十月六日受禅。廿。同元年月日立坊。十七。後三条院第一子。治暦元年十二月九日御元服。十三。母贈皇太后藤原茂子。権大納言能信女。実には公成中納言女也。
関白教通。承保二年九月廿五日薨。八十。
関白左大臣師実。承保二年九月廿六日内覧。十月三日藤氏長者。同十五日関白。永保六年正月十九日辞大臣。
内大臣師通。左大将。同日任。廿二。
承保三年。元年甲寅。八月廿三日改元。
元年十月三日上東門院崩。八十七。
承暦四年。元年丁巳。十一月十七日改元。永保三年。元年辛酉。二月十日改元。
応徳三年。元年甲子。二月七日改元。
山座主法務大僧正覚円。承保四年二月五日宣命。五十七。
権大僧都覚尋。権僧正。同年同月七日宣命。六十六。治四年。永保元年十月一日卒。七十一。
今年六月四日山門大衆焼失三井寺事。依此座主被払山門畢。山座主被払事此時始れり。後々大略流刑歟。委旨在別帖。永保元年四月十五日焼三井寺。
権大僧都良真。大僧正。永保元年十月廿五日宣命。嘉保三年五月十三日卒。七十六。
応徳三年十一月廿六日脱。嘉保三年八月九日御出家。四十四。大治四年七月七日崩御。七十七。世を知食事五十余年。
后女御二人。男女御子九人。
後三条院おりさせ給て後、世を知食さんとする程に、程なくかくれさせ給ふ。此時よりかく太上天皇にて世を知食事久也。
法勝寺を立られて大乗会等多の御仏事をおかる。国王の氏寺にて今にあがめらる。此大乗会、講師は慈覚智証門人隔年為講師。御斎会・維摩会以南京僧為講師也。
康和に五十の御賀ありけり。
此御時院中に上下の北面をおかれて、上は諸太夫下は衛府所司允おほく候て、下北面、御幸御後には矢おいてつかふまつりけり。後にも皆其例也。

堀河 廿一年。

諱善仁。応徳三年十一月廿六日受禅。此同日先為東宮。嘉承二年七月十九日崩御。廿九。后二人。御子三人。白川院第二子。寛治三年正月五日御元服。十一。母皇后宮賢子。京極大殿師実女。実には六条右大臣顕房女。
摂政太政大臣師実。後関白。寛治二年十二月十四日任太政大臣。嘉保元年三月十九日辞関白。康和二年正月廿九日出家。同二月三日薨。
関白内大臣師通。嘉保元年三月十九日為関白。年卅三。同十一日為氏長者。同廿二日給兵仗。同三年正月五日叙従一位。康和元年六月廿八日薨。卅八。
右大臣忠実。康和元年八月廿八日大納言之間内覧。藤氏長者。廿二。同二年七月十七日任右大臣。長治二年十二月廿五日関白。廿八。
寛治七年。元年丁卯。四年七日改元。嘉保二年。元年甲戌。十二月十五日改元。
永長一年。元年丙子。十二月十七日改元。承徳二年。元年丁丑。十一月廿一日改元。康和五年。元年己卯。八月廿八日改元。長治二年。元年甲申。二月十日改元。嘉承二年。元年丙戌。四月十日改元。
二年七月十九日崩御。御年廿九。
山座主僧正仁覚。大僧正。寛治七年九月十一日宣命。五十。治九年。康和四年三月廿八日卒。六十。
法印権大僧都慶朝。康和四年閠五月廿三日宣命。七十六。治三年。嘉承二年九月廿四日卒。八十二。
僧正増誉。長治二年閠二月十四日宣命。七十四。
法印仁源。権僧正。同年同月廿七日宣命。四十八。治四年天仁二年三月九日卒。五十二。
尊勝寺被建立。同立潅頂堂。胎金両部潅頂隔年被行之。慈覚智証門徒為潅頂阿闍梨。弘法大師門流仁和寺観音院被置之。有議定如此被定畢。
長治二年十月卅日、山大衆日吉神輿をぐしまいらせてくだりける事の始也。
季仲帥と八幡別当光清と同意して竃門社神輿を奉射。専当円徳法師殺害の訴也。先京極寺に下て奉振大内待賢門云々。季仲被流罪了。光清は同一日解却見任。又 八幡宮訴申之間、同三日還着了。寛治六年始て此風聞ありけれどもさもなし。嘉保二年十二月に中堂まで奉振立云々。其も下洛はなし。寛治には為房と訴、嘉保 には義綱を訴けり。

鳥羽 十六年。

諱宗仁。嘉承二年七月十九日受禅。五。康和五年八月日立坊。一歳。保安四年正月廿八日脱。廿一。保元元年七月二日崩御。五十四。堀河院第一子。天永四年正月一日御元服。十一。后三人。御子十四人。母贈皇后藤原茨子。大納言実季女。
摂政太政大臣忠実。天永三年十二月十四日任太政大臣。永久元年四月十四日辞之。嘉承二年七月十九日為摂政。保安元年二月廿三日辞。
関白左大臣忠通。保安二年三月五日為関白。廿四。聴牛車。同四年十二月十七日任左大臣。元内大臣。
天仁二年。元年戉子。八月三日改元。天永三年。元年庚寅。七月十六日改元。
永久五年。元年癸巳。七月十二日改元。元永二年。元年戉戌。四月三日改元。
保安四年。元年庚子。四月十日改元。
座主法印賢暹。天仁二年二月廿日宣命。八十一。治一年。天永三年十二月廿三日卒。八十五。
権大僧都仁豪。権僧正。天仁三年五月十二日宣命。六十。治十一年。保安二年十月四日卒。七十二。同元年六月日焼三井寺、第二度。
権僧正寛慶。保安二年十月六日宣命。七十八。治二年。
最勝寺御建立。始置両部潅頂等尊勝寺云々。
仁平五十賀ありけり。
御熊野詣に、中院右大臣、花園左大臣御供にて、右大臣に胡飲酒まはせられて、我御笛、左大臣笙吹て、いひしらぬ程の事にて有けり。資賢太皷に候けり。

崇徳 十八年。

諱顕仁。保安四年正月廿八日受禅。五。無立坊。永治元年十二月七日脱屣。
鳥羽院第一子。大治四年正月一御元服。十一。母待賢門院璋子。白河院御女。実には大納言公実女也。
前関白忠実。保延六年二月中重内聴輦車。六月五日准三宮。同十月二日出家。法名円理。年六十三。応保二年六月十八日薨。八十五。
摂政太政大臣忠通。後関白。大治三年三月任太政大臣。同四年四月十日辞之。
内大臣藤頼長。左大将。保延二年十二月任。十七。
天治二年。元年甲辰。四月三日改元。大治五年。元年丙午。正月廿二日改元。
同四年七月七日白河院崩御。御年七十七。
天承一年。元年辛亥。正月廿九日改元。長承三年。元年壬子。八月十四日改元。
保延六年。元年乙卯。四月廿七日改元。永治一年。元年辛酉。七月廿八日改元。
座主僧正行尊。保安四年十二月十八日宣命。六十九。同廿三日京都拝賀云々。則日辞退。
法印仁実。僧正。同年同月卅日宣命。卅三。治七年。天承元年六月八日卒。四十。
法印権大僧都忠尋。法務大僧正。大治五年十二月廿九日宣命。六十六。治八年。保延四年十月十四日卒。七十四。
大僧正覚猷。法務。保延四年十月廿八日宣命。八十六。
法務権僧正行玄。大僧正。同年同月廿九日宣命。四十二。治十八年。久寿二年十一月五日入滅。五十九。
保延六年四月十四日焼三井寺、第三度。
永治元年十二月七日脱 の後、すべて鳥羽法皇の御心にかなはせおわしまさヾりけるにや、法皇崩御の後の事ども細に別帖にあり。御在位の間成勝寺を被立。

近衛 十四年。

諱体仁。永治元年十二月七日受禅。三。保延五年八月十七日立坊。一歳。鳥羽院第八子。久安六年正月四日御元服。十二。加冠法性寺殿、理髪宇治左府。能冠光頼権右中弁云々。母美福門院得子。中納言長実女。贈左大臣。久寿二年七月廿三日崩御。十七。
摂政忠通。後関白。久安六年九月廿六日停藤氏長者。十二月九日為関白。
太政大臣実行。公実二男。久安五年八月廿七日任右大臣。七十。同六年八月廿一日任太政大臣。
左大臣頼長。久安五年七月廿八日任左大臣。卅。同六年九月廿六日請藤氏長者印。同七年正月十日蒙内覧宣旨。
左大臣源有仁。輔仁親王男。右大将。後転左。保安三年十二月十七日任内大臣。天永元年十二月廿二日任右大臣。保延六年十二月九日転左。久安三年二月三日出家。四十五。同十三日薨。
康治二年。元年壬戌。四月廿八日改元。天養一年。元年甲子。二月廿二日改元。
久安六年。元年乙丑。七月廿二日改元。仁平三年。元年辛未。正月廿六日改元。
久寿二年。元年甲戌。十月廿八日改元。
同二年七月廿六日崩御。
延勝寺を被立。此後代々如此大伽藍御願寺きこへず。五代の御門、此五勝寺を立らるヽに、待賢門女院の円勝寺を加て六勝寺といふ。
此御時鳥羽院の御沙汰にて、宇治左大臣頼長公内覧宣旨など云事出きて、大乱逆きざしてけるにや。此後の事ども細在別帖。

後白河 三年。

諱雅仁。久寿二年七月廿二日己巳受禅。廿九。無立坊。保元三年八月十一日脱屣。卅二。鳥羽院第四子。保延五年十二月廿七日御元服。十三。母崇徳院同。
関白忠通。保元元年七月十一日更藤氏長者。応保二年六月八日出家。六十六。長寛二年二月十九日薨。六十八。
太政大臣実行。保元元年八月九日辞退。
左大臣頼長。内覧。藤氏長者。保元元年七月十一日合戦官軍。同十六日薨。卅七。
保元三年。元年丙子。四月廿四日改元。
保元元年七月二日鳥羽院崩御。五十四。
座主権僧正(最雲)。無品親王。元法印。久寿三年三月卅日宣命。五十二。治六年。応保二年。二月十六日卒。
嘉応元年六月御出家。四十二。法名行真。建久三年三月十三日崩御。六十六。
御願には、法住寺に千手観音千体、御堂号蓮華(王)院、此御建立也。閼伽水涌出、有霊験事等云々。一向此御時、連々乱世、具に在別帖。
此君は一身阿闍梨に成て、終に入壇潅頂遂させ給。御師は公顕大僧正也。智証大師門流也。

二条 七年。

諱守仁。保元三年八月十二日受禅。十六。同元年九月廿三日立坊。十三。後白河第一子。久寿二年十二月九日御元服。母女御懿子。大納言経実女。
関白左大臣基実。譲位日蒙関白詔。十六。平治元年八月十一日任左大臣。長寛二年閏十月十七日辞左大臣。
平治一年。元年己卯。四月廿日改元。永暦一年。元年庚辰。正月十日改元。応保二年。元年辛巳。九月四日改元。
二年六月十八日知足院殿薨。
長寛二年。元年癸未。三月廿九日改元。
同二年(二月)十九日法性寺入道殿下薨。六十八。
崇徳院二年八月廿六日崩御。四十六。
永万一年。元年乙酉。六月五日改元。
元年七月廿二日崩御。廿二。六月御脱屣。
座主権僧正覚忠。法務大僧正。応保二年二月卅日宣命。四十五。
権僧正重輸。同二年閏二月三日宣命。六十八。治一年。長寛二年正月十二日卒。
権僧正快修。法務大僧正。同年五月廿九日宣命。六十五。治二年。同三年九月二日焼三井寺、第四度。
権僧正俊円。長寛二年閏十月十三日宣命。五十六。治二年。仁安元年八月廿八日卒。

六条 三年。

諱順仁。永万元年六月廿五日受禅。仁安三年脱 。四。安元二年七月十九日崩御。御年十三。終に御元服なし。二条院御子也。母不分明。異に云。中宮育子。右大臣藤公能女云々。妻后中宮の御子の由にて御受禅ありけり。密事には大蔵大輔伊岐宗遠女子云々。
摂政基実。永万二年七月廿六日薨。廿四。
摂政基房。永万二年七月廿七日摂政。同十一月四日辞左大臣。
太政大臣伊通。長寛三年二月日依所労辞退。同十一日出家。七十三。十五日薨。
平清盛。刑部卿忠盛一男。永万二年十一月十一日任内大臣。仁安二年二月十一日任太政大臣。同年月日辞。
左大臣経宗。永万二年十一月十一日任。
右大臣兼実兵仗。同日任。
内大臣藤忠雅。右大将。家忠孫。中納言忠宗男。仁安二年二月廿一日任。
仁安三年。元年丙戌。八月廿六日改元。
座主僧正快修。還補始例也。仁安元年九月二日宣命。治一年。承安二年六月十二日卒。避職之後六け年。
法印明雲。法務大僧正。仁安二年二月十五日宣命。五十二。治十年。安元三年五月日配流。於勢多、山門大衆抑留了。相具登山畢。

高倉 十二年。

諱憲仁。仁安三年二月十九日受禅。八。同二年十一月七日立坊。七。後白河第五子。嘉応三年正月三日御元服。十一。治承四年二月廿一日脱。母建春門院滋子。
摂政基房。後関白。承安二年十二月廿七日関白。治承三年十一月十六日停関白氏長者。同(十)八日左遷太宰権帥、同月同日赴西海之間、於(川尻)辺出家。卅五。其後留備前国。同五年月日被召返聴帰京。
関白内大臣基通。治承三年十一月十四日任内大臣。元二位中将。同十六日為関白藤氏長者。廿。
太政大臣忠雅。仁安三年八月十日任。嘉応二年十一(月)日辞。
師長。承安五年十一月十日任内大臣。安元三年三月五日任太政大臣。治承三年十一月十七日辞官。坐事配流於尾張国。出家。
左大臣経宗。
右大臣兼実。兵仗。
内大臣源雅通。右大将。大納言顕通一男。雅定猶子。仁安三年八月十日任。承安五年二月廿七日薨。五十八。
平重盛。左大将。安元三年三月五日任。六月五日辞大将。治承三年三月十一日辞。同五月廿五日(出家)。八月一日薨。本のまヽ
嘉応二年。元年己丑。四月八日改元。承安四年。元年辛卯。四月廿一日改元。
治承四年。元年丁酉。八月四日改元。
座主阿闍梨覚快親王。安元三年五月十一日宣命。四十四。治二年。治承三年十一月十七日辞退。但始日改補云々。不知此事云々。養和元年十一月六日入滅。辞退之後三け年。
僧正明雲。治承三年十一月十六日宣命。六十五。治四年。寿永二年十一月十九日卒。六十九。横死之様、可謂勿論。
承安元年月日、母后建春門院御堂最勝光院供養大法会。導師覚珍、呪願明雲。
安元三年月日、大極殿焼亡事。後三条聖主造らせ給て後、保元に修理せられて此年焼にけり。樋口京極辺より出きたりける火、思もよらぬに飛付て焼にける也。 中の辺は焼ず。此君御脱 之後、安芸国いつくしまへ御幸ありけり。平相国入道世を取て遷都などきこえし時、ぐしまひらせてと聞へき。神筆の御願文あそばし て、御仏事ありけり。漢才殊に、御学問あて、詩作り雑筆など好みて、女房の申文などいひて遊したる物おほかりけり。

安徳 三年。

諱言仁。治承四年二月廿一日受禅。三。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。入道太政大臣平清盛女。
摂政基通。
内大臣平宗盛。
養和一年。元年辛丑。七月十四日改元。寿永二年。元年壬寅。五月十七日改元。
此時遷都事有けり。委在別帖。
此天皇は、寿永二年七月廿五日に、外祖の清盛入道殿反逆之後、外舅内大臣宗盛、源氏の武士東国北陸等せめのぼりしかば、城を落て西国へぐしまいらせて後、 終に元暦二年三月廿四日に長門国もじの関だむの浦にて、海に入て失させ給けり。七歳。宝剣はしづみてうせぬ。神璽は筥うきて返まいりぬ。又内侍所は時忠と りてまいりにけり。此不思議ども細在別帖。

後鳥羽十五年。

諱尊成。寿永二年八月廿日受禅。四歳。建久九年正月十一日脱屣。高倉院第四子。文治六年正月三日御元服。十一。加冠摂政太政大臣兼実。理髪左大臣実定、能冠内蔵頭範能。
摂政基通。寿永二年十一月廿一日止摂政藤氏長者。廿四。
摂政内大臣師家。寿永二年十一月廿一日任内大臣為摂政。元大納言。年十二。同三年正月廿二日止摂政氏長者。
内大臣実定。重服之間令後日可還任。
基通。寿永二年正月廿二日為摂政。廿五。文治二年三月十二日止摂政氏長者。
摂政太政大臣兼実。文治元年十二月廿八日内覧。于時摂政猶内覧。同二年二月廿二日為摂政。同五年十二月十四日任太政大臣。建久二年十二月十七日関白。同七年十一月廿五日止関白氏長者。建仁二年正月廿七日出家。五十四。建永二年四月五日薨。五十九。
基通。建久七年十一月廿五日為関白氏長者。廿七。
太政大臣兼房。文治六年十月十七日任内大臣。建久二年三月廿三日任太政大臣。同七(年)月日上表。
左大臣経宗。寿永三年十一月十七日聴輦車。同十八日聴牛車。直聴牛車事、先例不分明。仍先聴輦車、是依大嘗会歩行也。宿老行歩不堪故也。
実定。文治二年任右大臣。同五年七月十日任左大臣。同六年月日辞左大臣。
実房。公教男。文治五年七月十日任右大臣。同六年七月十七日任左大臣。建久七年三月廿三日辞。五十。四月十六日出家。
兼雅。忠雅一男。文治五年七月十日任内大臣。同六月七月廿七日任右大臣。建久九年十一月十四日転左大臣。
右大臣頼実。右大将経宗男。建久九年十一月十四日任。越後京極殿。
内大臣良通。左大将。左右。文治二年十月廿九日任。廿。同四年二月廿日頓死。
忠親。忠雅弟。建久二年三月廿三日任。同五年十二月十五日出家。同六年三月十二日薨。
良経。左大将。建久六年十一月十日任。廿七。同九年正月廿九日止大将。
前右大将頼朝。左馬頭義朝男。文治元年四月廿七日、依搦進前内大臣賞叙従二位。元前兵衛佐正四位下。同六年十一月十日権大納言。元散位。同廿五日兼右大将。十二月三日辞両職。
元暦一年。元年甲辰。四月十六日改元。
安徳天皇二年三月廿四日崩御。
文治五年。元年乙巳。八月十四日改元。建久九年。元年庚戌。四月十一日改元。
後白河院三年三月十三日崩御。六十六。
座主権僧正俊尭。寿永二年十一月廿三日宣命。治二け月。同三年正月廿日被追却山門畢。
前権僧正全玄。法務大僧正。寿永三年二月三日宣命。七十二。治六年。
前大僧正公顕。法務。文治六年三月四日宣命。
法印顕真。権僧正。同年同月七日宣命。六十。治二年。建久三年十一月日卒。六十二。
権僧正慈円。法務大僧正。建久三年十一月廿九日宣命。卅八。治四年。同七年十一月日辞退。
阿闍梨承仁親王。同七年十一月卅日宣命。廿八。治一年。但五け月。同八年四月廿七日入滅。
法印弁雅。同八年五月廿一日宣命。六十三。治四年。建仁元年二月十七日卒。六十六。
此君は、安徳西海へ落させ給て後に、(後)白川法皇の宣命にて御受禅ある也。鳥羽院も堀川院は宣命之御沙汰もなかりけるにや。白河法皇の宣命ときこゆ。さ き※※も加様なるにこそ。御脱 後、承元元年月日御堂供養あり。号最勝四天王院。此御時、北面の上に西面と云事はじまりて、武士が子どもなど多めしつけら れけり。弓馬の御遊びありて、中古以後なき事多くはじまれり。

土御門 十二年。

諱為仁。建久九年正月十一日受禅。四。無立坊。承元四年十二月日脱。後烏羽院太子。元久二年正月三日御元服。母承明門院。内大臣通親女。実には能円法印娘なり。
摂政基通。如元。建仁二年十二月廿七日止摂政長者。四十三。承元二年十月五日出家。四十九。貞永元年五月廿九日薨。七十四。
摂政太政大臣良経。建仁二年十二月廿七日。卅四。同十一月廿七日先内覧氏長者宣下云々。元久三年三月七日薨。卅八。
正治二年。元年己未。四月廿七日改元。建仁三年。元年辛酉。二月十三日改元。
元久二年。元年甲子。二月廿日改元。建永一年。元年丙寅。四月廿七日改元。承元四年。元年丁卯。十月廿五日改元。
座主前権僧正慈円。還補建仁元年二月十九日宣命。四十七。治一年。同二年七月七日辞退。
法印実全。権僧正。同二年七月十三日宣命。六十三。治一年。同三年八月日山門学徒堂衆等合戦之間改易畢。
僧正真性。大僧正。同年同月廿八日宣命。卅七。治二年。元久二年十二月日辞退。大講堂等焼失之故歟。
法印承円。法務僧正。元久二年十二月十三日宣命。廿六。治七年。建暦元年十二月日辞退。惣持院焼亡。又日吉社辺(八)王子宮以下払地焼亡云々。如此故歟。
此君はたへたる彗星出て数夜失せず、消て後、又程なく出ければ、やう++に御(祈)請ありておりさせ給にけり。御母かた、うちたへ、あらはなる法師の孫位につかせ給事はなしとぞ世に沙汰しける。されども御位は十年にもあまりにけり。

順徳十一年。

諱守成。承元四年十一月廿五日受禅。十四。正治二年四月十五日立坊。四歳。後鳥羽院第二子。承元二年十二月廿五日御元服。十二。母修明門院、贈左大臣範季女。現存には従二位。
関白家実。承久三年四月廿日止摂政氏長者。四十三。
建暦二年。元年辛未。三月九日改元。建保六年。元年癸酉。十二月六日改元。承久三年。元年己卯。四月十二日改元。
座主前大僧正慈円。又還補。建暦二年正月十六日宣命。五十八。治一年。同(三)年正月十一日譲公円法印又辞退畢。此日先以公円被任権僧正。其後被下座主宣命云々。
権僧正公円。同年同月日宣命。四十六。治十け月。同年十一月南京衆徒山門衆徒清水寺相論事出来。仍辞退云々。
前大僧正慈円。猶還補四け度也。同三年十一月十九日宣命。五十九。治一年。建保二年六月十日又辞退。同年四月十三日焼三井寺、第五度。
前権僧正承円。還補。同年同月十二日宣命。
巳上代々摂政臣之外大臣は取要書之。つくして皆は不書也、心うべし。此山座主の間に前大僧正慈円の四度まで成て、かく辞ける事こそ心得がたくあさましき様 なれ。かうほど辞申人をば上よりもいかに成たびけるにや、又下にもかう辞申べくば、いかにして又なり++はせられけるにや。いかにも+ 是は様あるべき事 にや。かやうの事は山門の仏法、王法と相対する、仏法のまこと見へて侍けり。平の京にうつらるゝ始に、此山門建立せられて、いかにも+やうあるべき事にて 侍とあらはに覚ゆれば、山門の事を此奥に一帖かきあらはし侍る也。其に細にかやうに覚束なき事どもをば申ひらかんずる也。
承久元年七月十三日大内焼亡事、此大内炎上今度相加て十五け度。度々大内守護重代右馬権頭頼茂在謀反聞被召之間及合戦放火。頼茂焼畢云々。則被誅了。此大内造営事殊有御沙汰可有造営云々。白河・鳥羽両代は大略棄置云々。此事不審云々。
建保六年月日山大衆戴日吉神輿下洛、代々此事甚多不能記録、最略記なれば略之也。
承久二年十月之比記之了。後見之人此趣にて可書続也。最略尤大切歟。於別記者不能外見。

今上 三け月。

諱懐成。承久三年辛巳四月廿日甲戌受禅。四歳。建保六年十一月廿八日立坊。一歳。十月十日寅時御誕生。母中宮立子。土御門院太子。
摂政左大臣道家。受禅同日為摂政。廿九。後京極殿良経嫡男。外祖外舅為大臣之時無不居摂政之例、道理必然。被載宣命云々。同廿六日為藤氏長者。兵仗・勅授・一座・牛車等任例宣下。此日有兵仗拝賀。
同廿六日新院初御幸一院御所、賀陽院。去廿三日太上天皇尊号云々。本の新院をば土御門院云々。太上天皇三人初例云々。法皇にて令置給事は先例多云々。

今上 十一。

諱茂仁。承久三年辛巳七月九日辛卯受禅。十歳。同年十二月一日庚辰於官庁即位。孫王即位、光仁以後無此例云々。高倉院御孫。入道守貞親王御子。後有太上天皇尊号。母北白河院。中納言基家女也。同四年正月三日御元服。
摂政家実。受禅前日、七月八日、以前帝詔還任云々。其後巳上無沙汰云々。
受禅当日、無節会、無宣命、無警固、無固関、云云。世以為奇歟。及八九月先帝之摂政詔を施行すべき由を有沙汰。外記仰天云云。花山院脱 夜こそさる不思議 にて有けれど、翌日に摂政の詔は大入道殿に下されにけり。節会はなかりけれど、固関の事などは行なはれけり。今度の事むげの事かなとぞ世には申ける。
左大臣家通。摂政家実嫡男。左大将。
右大臣藤原公継。還任始例云々。実定公例不似之云々。兼大将。同年閠十月十日任。
内大臣藤原公経。右大将。同日任。同年閠十月十日大饗云々。任大臣夜如例云々。
貞応二年。元年壬午。四月十三日改元。
天台座主権僧正円基。承久三年八月廿七日宣命。
承久三年四月に、入道親王尊快年十八なるを被補天台座主由きこえき。されども大嘗会以前に宣命を下さるゝ事例なし。木曾義仲が時にこそ俊尭座主は宣命りけ れど、例もよからずとて末被下宣命之間、五月十五日に乱起りて六月に武士打入て、此座主師弟等にげまどひなどしければ、十八歳天台座主、仏法・王法のかヽ りける表示かなとぞ世の人はいひける。さて円基僧正摂政の弟とて成にけるなるべし。されば尊快親王をば座主の数にも書入れまじきにや。今年天下有内乱。こ れによて、俄に主上執政臣改易、世人迷惑云云。
一院遠流せられ給、隠岐国。七月八日於鳥羽殿御出家、十三日御下向云々。但うるはしきやうはなくて令首途給云々。御共には俄入道清範只一人、女房両三云 々。則義茂法師参かはりて清範帰京云々。土御門院并新院・六条宮・冷泉宮、皆被行流刑給云々。新院同月廿一日佐渡国、冷泉宮同廿五日備前国小島、六条宮同 廿四日但馬国、土御門院は其比すぎて、同年閠十月土佐国へ又被流刑給。其後同四年四月改元。五月比阿波国へうつらせ給ふ由聞ゆ。三院、両宮皆遠国に流され 給へども、うるはしき儀はなしとぞ世に沙汰しける也。
承久三年八月十六日大王御尊号あり。日本国に此例いまだなきにや。漢高祖の父の太公の例を、是には似たるべきなど世に沙汰しける。国母の御院号の事は、貞 応元年四月十三日従三位准三宮云々。御名は陳子と申。こぞの春御出家の御身にて其例もなきにや。但鎌倉の二位政子右大将頼朝卿の後家三位せられし例とか や。其例は又いづれの例にて侍べきにや。加様の事、末代ざまには何となき事にてあるにこそ。世の末こそ誠にあはれなる事にて侍れ。貞応の改元は、やがて此 十三日也。同年の七月十一日准后陳子院号の定め、北白川院と申。二年五月十四日太上法皇崩御畢。如夢+。天下諒闇。三年六月十三日関東武士将軍度々後見義 時朝臣死去了。同十七日夕、息男武蔵守泰時下向関東畢。同十九日舎舎弟相模守時房同下向了。
此皇代年代之外に、神武より去々年に至るまで、世のうつり行道理の一とをりをかけり。
是を能々心得てみん人はみらるべき也。偏に仮名に書つくる事は、是も道理を思ひて書る也。先是をかくかヽんと思よる事は、物しれる事なき人の料也。此末代 ざまの事をみるに、文簿にたづさわれる人は、高きも卑も、僧にも俗にも、ありがたく学問はさすがする由にて、僅に真名の文字をば読ども、又其義理をさとり 知れる人はなし。男は紀伝・明経の文をほかれども、みしらざるがごとし。僧は経論章疏あれども、学する人すくなし。日本紀以下律令は我国の事なれども、今 すこし読とく人ありがたし。仮名にかくばかりにては倭と詞の本体にて文字にえか(ヽ)らず。仮名に書たるも、猶よみにくき程のことばを、むげの事にして人 是をわらふ。はたと・むずと・しやくと・どうと、などいふことばども也。是こそ此やまとことばの本体にてはあれ。此詞どもの心をば人皆是をしれり。あやし の夫とのゐ人までも、此ことのはやうなることぐさにて、多事をば心えらるヽ也。是をおかしとてかヽずはヾた、真名をこそ用いるべけれ。此道理どもを思つヾ けて、是はかき付侍りぬる也。さすがに此国に生れて、是程だに国の風俗のなれるやう世のうつり行をもむきを、わきまへしらでは又あるべき事にもあらずと、 思はからひ侍ぞかし。
かきおとす事申たき事の多さは、是をかく人の心にだに残る事は多く、あらわす事は少くこそ侍れば、ましてすこしもげに++しき才人の目にさこそはみるべけ れど、さのみかき侍らば、をほかたの文のおもてよだけく多く成て、みる人もあるまじ。あかれぬべければ皆とヾめつ。又無益の事ども書ぐしたりとありぬべき は、皆思ところ侍べし。心あらん人の目をとヾめん時は、心をつくるはしとなり、道理をわきまうるみちと成ぬべき事をのみかきて侍る也。才学めかしきかたは 是より心つきて我今更に学問せらるべき也。又人語りつたふる事は皆たしかならず、さしもなき口弁にてまことの詮意趣をばいひのけたる事どもの多く侍れば、 其うたがひある程の事をばえかきとヾめ侍らぬ也。
かく心得て是よりつぎ++の巻どもをば此時代に引合つヽ見るべき也。


此一帖の奥をば今四五代もかくばかりとて料紙をおきて、かくかけるをも、いま物もあらじとて思よらで見のこす人も侍らんずらん。奥にてかやうの物にはかく 書つくる事もあらんかしなど思ひて、ひらき+して文をみる程の心あるべくも侍らぬ世にて、今は人の心むげにすくなく成はてヽ侍れば、是もかく書つくる事を ば道理かなと見なさるべき也。

愚管抄(巻第三)

年にそへ日にそへては、物の道理をのみ思つヾけて、老のねざめをもなぐさめつヽ、いとヾ、年もかたぶきまかるまヽに、世中もひさしくみて侍れば、昔よりう つりまかる道理もあはれにおぼえて、神の御代はしらず、人代となりて神武天皇の御後、百王ときこゆる、すでにのこりすくなく、八十四代にも成にけるなか に、保元の乱いできてのちのことも、また世継がものがたりと申ものもかきつぎたる人なし。少々ありとかやうけたまはれども、いまだえみ侍らず。それはみな たヾよき事をのみしるさんとて侍れば、保元以後のことはみな乱世にて侍れば、わろき事にてのみあらんずるをはばかりて、人も申をかぬにやとをろかに覚て、
ひとすぢに世のうつりかはりおとろへくだることはり、ひとすぢを申さばやとおもひて思ひつヾくれば、まことにいはれてのみ覚ゆるを、かくは人のおもはで、 道理にそむく心のみありて、いとヾ世もみだれをだしからぬことにてのみ侍れば、これを思つヾくる心をもやすめんと思てかきつけ侍也。
皇代年代記あればひきあわせつヽみてふかく心うべきなり。
神武より成務天皇までは十三代、御子の王子つがせ給へり。第十四の仲哀は景行の御むまごにてぞつがせ給ける。成務は御子おはしまさで、成務四十八年にぞ仲 哀をば東宮にたて給ける。景行の御子のふた子にてむまれおはしましける次郎の御子をば日本武尊と申ける。御年卅にてしろきとりになりそらへのぼりてうせ給 にけり。仲哀はその御子なり。この仲哀に后には神功皇后をぞしたまひける。この皇后は開化天皇五世のむまご息長の宿禰のむすめなり。応神天皇をはらみ給 て、仲哀天皇の(御時の神の)御をしえによりて、仲哀うせ給てのち「しばしなむまれ給そ」とて、女の御身にて男のすがたをつくりて、新羅・高麗・百済の三 国をばうちとり給て後に、筑紫にかへりてうみのみやの槐にとりすがりてぞ、応神天皇をばうみたてまつり給ける。
さて神功皇后、仲哀の後、応神を東宮にたてヽ、六十九年があいだ摂政して世をばおさめてうせ給て後、応神位につきて四十一年、御年は百十歳までおはしましけり。仲哀は神の御をしへにて新羅等の国をうちとらんとて、つくしにおはしましてにわかにうせ給にけり。
まづこの次第を思ひつヾくるに、最道理は十三代成務まで、継体正道のまヽにて、一向国王世を一人して輔佐なくて事かけざるべし。仲哀の御とき、国王御子な くば孫子をもちゐるべしといふ道理いできぬ。仲哀神のをしへをかうぶらせおはしましながら、其節をとげずしてにはかにうせ給にけり。これは如是のあいだ、 神のをしへを信ぜさせ給はぬ事おほくて、うせ給にけりとなん。
さて皇后は女身にて王子をはらみながら、いくさの大将軍せさせ給べしやは。むまれさせ給て後また六十年まで、皇后を国主にておはしますべしやは。これはな に事もさだめなき道理をやう++あらはされけるなるべし。男女によらず天性の器量をさきとすべき道理、又母后のおはしまさんほど、たヾそれにまかせて御孝 養あるべき道理、これらの道理を末代の人にしらせんとてかヽる因縁は和合する也。この道理を又かくしも、さとる人なし。
次に成務のさき、景行の御時、はじめて武内大臣ををかる。これまた臣下いでくべき道理なり。武内は第八の孝元天皇のやしは子なり。
さて応神の御のち清寧まで八代は、皇子々々つがせ給ふ。仁徳の御子は三人まで位につかせ給ふ。顕宗の御時、これは又履中のむまごなり。
仁徳天皇は、応神うせおはしましてのち、御在生の時太子に立給ふ宇治皇太子也。それこそは則即位せさせ給べかりけんに、仁徳はあにヽておはしましければに や、仁徳を「位につかせ給へ」と申させ給けり。仁徳は「太子に立給たり。いかでさること候はん」と、互位につかんといふあらそひこそある事を、これはわれ はつかじ+といふあらそひに、三年までむなしく年をへにければ、宇治の太子かくのみ論じて国王おはしまさでとしふる事、民のためなげきなり、我身づから死 なんとのたまひてうせ給にけり。これを仁徳きこしめして、さはぎまどひてわたらせ給たりければ、三日になりけるがたちまちにいきかへりて御物がたりあり て、猶ついにうせ給にけり。其後仁徳は位につきて八十七年までおはしましけり。
この次第こそ心もことばもをよばね。人といふものは、身づからをわすれて他をしるを実道とは申侍也。この宇治太子の御心ばへをあらわさんれうに、太子に立 まいらせられけるにやとこそ推知せられ侍れ。応神などの御あとのことは、さだめてかヾみおぼしめしけん、日本国の正法にこそ侍めれ。そのヽち御子たち三人 みな御位につかせ給ふ。武内大臣この御時まで候へけり。二百八十四年をへてかくれたる所をしらずとこそ申をきたれ。つぎ++に履中・反正・允恭と、三人あ によりをとヽざまへ御位にて、
安康は允恭の第二皇子にておはしましけるが、第一の太子をころしたてまつりて位につかせ給にけり。ゆヽしの仁徳の御むまごながら、にさせ給はずなどあさま しく覚ゆるもしるく、三年のほどに、まヽこの眉輪王とて七歳にならせ給けるとぞ申つたへたる、この眉輪の王にころされ給にけり。又すなはち円の大臣の家に て眉輪もつぶらもころされにけり。わづか二三年のほどの乱逆、これも世のすゑを又ことのはじめにをしへをけるにや。
まゆわの王のちヽ大草香の皇子は、安康のをとヽなり。このをとヽをころしてそのめをとりて后にして、楼のうへにたのしみてものがたりして、このまヽこのま ゆわおとなしくなりて、思ところやあらんずらんと、をほせられけるを、ろうのしたにてきヽて、母のひざをまくらにして、さけにゑひてふし給けるを、はしり のぼりて御かたはらにありけるたちをとりて、くびをうちきりたてまつりて、つぶらの大臣の家へにげておわしたりけりと申つたへたり。かへす※この事は思ひ 知るべき事どもかな。
その次に雄略天皇は安康のをとヽにて、位につきて世をおさめたまへり。次に清寧天皇は雄略の御子にてつがせ給たりけるが、皇子をゑまうけ給はで、履中天皇 の御まご二人をむかえとりて子にして、あにの仁賢を東宮にたてヽ、をとヽの顕宗は皇子にておはしましけり。この二人は安康の世の乱におそれて、播磨・丹波 などににげかくれておはしけるを、たづねいだしたてまつりけるが、清寧うせ給て、兄の東宮こそはつがせ給べきを、かたく辞してをとヽの顕宗にゆづり給ける あひだに、たがひにたわまずおはしましければ、いもうとの女帝を二月二位につけたてまつりてありけるが、其年の十二月にうせさせ給にければにや、つねの皇 代記にもみゑず、人もいとしらぬさま也。飯豊天皇とぞ申ける。これは甲子のとしとぞしるせる。
さて次年の乙丑の歳の正月一日、顕宗天皇位につかせ給ぬ。あにの東宮なるををきて、をとヽのたヾの皇子にたてヽおはしますを、さのみたがひにゆづりてもい かヾは、群臣たちもことにすヽめ申ければ、あにの御命、臣下のはからひにしたがひて、つゐにつかせ給にけり。されどわづか二三年にて崩御ありければ、つぎ に皇太子の仁賢天皇位にて、十一年にてかくれさせ給にけり。
これを思ふに、かならず位の御運をの++おはしましけるに、をとヽは御命みじかく、あには御命のながければ、その運命にひかれてかくはありけるにこそ。人の命と果報とは、かならずしもつくりあはせぬ事也。末代ざまにこそつぎ++の職位までこのことはりはみえ侍れ。
さて仁賢の太子に武烈天皇と申、いふばかりなき悪王のいできて、十にて位につき、十八までおはしましければ、群臣なげくより外の事なかりけるほどに、皇子 もまうけたまはでうせ給にければ、国王のたねなくて世のなげきにて、臣下あつまりて越前国に応神天王の五世の皇子おはしましけるを、もとめいだしまいらせ て位につけまいらせたる。継体天王と申てこのさき※※よりは久しく廿五年たもち給て、としごろゐなかにて民の様をもよく++しろしめして、この御時ことに 国もよくおさまりて、皇子三人みな次第に位につかせ給にけり。安閑・宣化・欽明なり。あに二人はほどもなし。欽明天皇の御時はじめて仏法この国に渡て、聖 徳太子、すゑに御むまごにてむまれ給しより、この国は仏法にまぼられて今までたもてりとぞみへ侍る。
仁徳天皇八十七年たもたせ給てのち、履中より宣化まで十二代、無下に位の御治天下程なし、允恭ぞ四十二年久しくおはします。此十二代の間には安康・武烈な のめならずあしき御代なり。顕宗・仁賢は仁徳と宇治太子との例をおぼしめしてめでたけれどまた程なし。これをはかりみるに、一期一段のをとろふるつぎめに こそ。人代のはじめ成務まで、さわ++と皇子++つがせ給て正法とみえたり。仲哀ははじめて国王のむまごにてつがせ給ふ。神功皇后、又開化の五世の女帝は じまりて、応神天皇いでおはしまして、今は我国は神代の気分あるまじ、ひとへに人の心たヾあしにておとろへんずらんとおぼしめして、仏法のわたらんまでと まもらせ給けれども、代々の聖運ほどなくて、允恭・雄略など王孫もつヾかず、又子孫をもとめなどして、其後仏法わたりなどして国王ばかりは治天下相応しが たくて、聖徳太子東宮には立ながら、推古天皇女帝にて卅六年をおさめおはしまして、崇峻天皇ころされ給ふことなどいできながら世をおさめ、仏法をうけよろ こばざりし守屋の臣をば、聖徳太子十六にて蘇我大臣と同心して、たヽかひうしなひて仏法をおこしはじめて、やがていまにいたるまでさかりなり。
この崇峻天皇の、馬子の大臣にころされ給て、大臣すこしのとがもをこなわれず、よき事をしたるていにてさてやみたることはいかにとも、昔の人もこれをあや めさたしをくべし。いまの人も又これを心得べし。日本国には当時国王をころしまいらせたる事はおほかたなし。又あるまじとひしとさだめたるくになり。それ にこの王と安康天皇とばかり也。
その安康は七歳なるままこの眉輪の王にころされ給にけるは、やがてまゆわの王もその時ころされにければいかヾわせん。その眉輪も七歳の人也。まヽこにてお やのかたきなれば、道理もあざやかなり。又安康は一定あにの位につくべき東宮にておはします、ころして位につきて、わづかに中一年の程に眉輪の王のちヽを もころして眉輪の母をとりなどしちらして、あらはにどしたヽかひにて、さるふしぎもありければ、これはをぼつかなからず。
此崇峻のころされ給ふやうは、時の大臣をころさんとおぼしけるをきヽかざどりて、その大臣の国王をころしまいらせたるにてあり。それにすこしのとがもなく て、つヽらとしてあるべしやは。なかにも聖徳太子おはしますおりにて、太子はいかに、さては御さたもなくてやがて馬子とひとつ心にておはしましけるぞと、 よに心えぬ事にてあるなり。さて其後かヽりければとて、これを例と思ふをもむきつや++となし。
このことをふかく案ずるに、たヾせんは仏法にて王法をばまもらんずるぞ。仏法なくては、仏法のわたりぬるうへには、王法はゑあるまじきぞといふことはりを あらはさんれうと、又物の道理には一定軽重のあるを、おもきにつきてかろきをすつるぞと、このことはりとこの二をひしとあらはかされたるにて侍なり。これ をばたれがあらはすべきぞといふに、観音の化身聖徳太子のあらはさせ給べければ、かくありけることさだかに心得らるヽなり。
其故は、いみじき権者とは其人うせてのちにこそ思へ、聖徳太子いみじとは申せどん其時はたヾの人にこそ思まいらせてあるが、おさなくてさすがにおさな振舞 をもしてこそはおはしますに、わずかに十六歳の御時まさしく仏法をころしける守屋をうたるヽも、おとなしき大臣の世に威勢ありて、我身たりたる馬子大臣の ひとつ心にてさたせしこそ、太子のせんの御ちからにはなりにしか。仏法に帰したる大臣の手本にてこの馬子の臣は侍けりとあらはなり。この大臣を、すこしも 徳もおはしまさずたヾ欽明の御子といふばかりにて位につかせ給たる国王の、この臣をころさんとせさせ給ふ時、馬子大臣仏法を信じたるちからにて、かヽる王 を我がころされぬさきにうしなひたてまつりつるにて侍れば、唯このをもむき也。さらば守屋がやうに、この国の仏法を令滅給ふゆえとてかくあれかしといふべ きは、それはゑさあるまじき也。仏法と王法とをひたはたのかたきになして、仏法かちぬといはん事は、かへりて仏法のためきず也。守屋等をころすことは仏法 のころすにはあらず。王法のわろき臣下をうしなひ給也。王法のための宝をほろぼす故也。ものヽ道理をたつるやうはこれがまことの道理にては侍也。
つぎに世間の道理の軽重をたつるに、欽明の御子にて敏達、推古、いもうとせうとにてしかも妻后にて推古天王のおはします。いかにいもうとをば妻にはし給ひ けるぞと云ことは、其比などまでは是をはヽかるべしと云事なかりけるなるべし。加様の礼義者のちざまに、ことに仏法などあらはれて後定らるヽ也。其に神功 皇后の例も有。推古のやがて御即位はあるべきなり。されど用明は太子の御ちヽにてもともしかるべしとてつぎ給ぬ。されど二年にて程なし。太子かくみ給け ん。そのうえは又崇峻ををさえらるべきやうなくて、またつぎ給ど、太子相しまいらせて、程あらじ、兵やくもおはしますべし、御まなこしか※※也など申され ぬ。それを信じ給で、猪の子をころして、あれがやうにわがにくき者いつせんずらんと仰られぬ。この王うせ給ば、推古女帝につきて太子執政して、仏法王法守 べき道理のをもさが、其時にとりてひきはたらかざるべくもなき道理にてありけるなり。本闕それをころしつる事は、この馬子大臣よきことをしつるよとこそ、 世の人思けめ。しらず又推古の御気色もやまじりたりけんとまで、道理のおさるヽなり。この仏法のかた王法のかたの二道の道理のかくひしとゆきあひぬれば、 太子はさぞかしとてものもいはで、臣下の沙汰を御らんじけんに、この道理におちたちぬれば、さぞかしにてありけるよとゆるがず見ゆる也。そのすぢにて、其 後仏法と王法と中あしき事つゆなし。かヽればとて国王をおかさんといふ心おこす人なし。ことがらは又いま++しきことなれば人これをさたせず。若さたせん と思はヾ、この道理あざやかなりにて侍けるなるべしと心えぬる也。これにつきて、馬子にとがを行はれば、この災を常のさいにもてなすにならんこと本意なか るべし。
たヾをしはかるべし。父の王のしなせ給ひたるををきて、さたもせずして守屋がくびをきり、多の合戦をして人をころして、其後御さうそうなどあるべしやは。 仏道をかくふたぎたれば、それをうちあけてこそをくりまいらせめとおぼしめしけん道理こそ誠に目出けれ。権者のしをかせ給こと又わろき例になるべしやは。 さて世のすえにまたこれにたがはぬこといでこば、さこそは又あらんずらんめ。太子のおはしますらん世にかヽることはあるまじ。太子のおはしましながら、 かヽることにてすぎにしかばこそ、それがあしき例にはならね。こヽをかく心うべき也。大方かうほどの事に、とがなどををこなはれなば、さはさることのある べきかと世の常の因果の道理ならんこと道理かなはず。中++かヽる国王は、かくならせ給こそ道理やとてあればこそ、この世までも沙汰の外にては、あること なれ。まめやかの道理の是ほどきはまらん時は、又いまも+ よろづはをそるべきこと也。よのすゑの国王の、我玉体にかぎりてつよ++しからずおはします は、造意至極の、とがを国王にあらせじと、大神宮の御はからひの有て、かやうのことはいでこぬぞと心得べき也。
さてこのヽち、臣家のいできて世をおさむべき時代にぞ、よくなりいる時までまた天照大神あまのこやねの春日の大明神に同侍殿内能為防護と御一諾をはりにし かば、臣家にて王をたすけたてまつらるべき期いたりて、大織冠は聖徳太子につ恠きて生れ給て、又女帝の皇極天皇御時、天智天皇の東宮にておはしますと、二 人して、世ををしをこないける入鹿がくびを節会のにはにて身づからきらせ給ひしにより、唯国王之威勢ばかりにてこの日本国はあるまじ、たヾみだれにみだれ なんず、臣下のはからひに仏法の力を合て、とおぼしめしけることのはじめはあらはに心得られたり。
さればそのをもむきのまヽにて、今日までも侍にこそ。
皇極と申は、敏達のやしはご、舒明の后にて、天智天皇をうみたてまつりて東宮にたてヽやがて位につきておはしましけるは、神功皇后の例を、をはれけるとあ らはにみえ侍り。次には天智位につかせ給べけれども、孝徳天皇、天智のおぢにて皇極の御をとヽなりけるが、王位の御運も有り、其徳もおはしましければに や、それをさきだてヽ位につけまいらせて十年、其後猶、御母の皇極を重祚にて又七年、このたびの御名は斉名と申けり。重祚のはじまることもこの女帝の時 也。天智は孝養の御心ふかくて、御母の御門うせおはしまして後、なを七年の後に位につかせ給ひけるに、大織冠はひしと御まつりことをたすけて、藤原の姓を はじめて給りて、内大臣と云事もこれにはじまりておはしましけり。天智は十年たもち給ふに、第八年に大織冠うせ給時、行幸成てなく++わかれをおしみ、い ともかしこくかたじけなき御なさけにてこそ侍けれ。
さて又天智の御をとヽ、はらもやがて斉明天王にておはしましける天武天皇を、東宮として御位ひきうつし給べかりけるを、天智の御子大友王子とておはしける をば大政大臣になしておはしましけるが、御心のうるはしからざりけるをや天武は御らんじけん、位を(辞)し給て御出家有て、吉野山にこもりゐさせ給けれ ば、天智大になげきながら崩御をはりて後、大友皇子いくさをおこして芳野山をせめたてまつらんとするとき、大友皇子のさきにては、やがて天武天皇の御むす めのおはしましければ、御父のやがてころされ給はん事をかなしみやおぼしめしけん、かヽることいできたるよしを、しのびやかに芳野山へつげまいらせられた りけるとぞ申伝へたる。是をきヽて「こはいかに我は我とよしなく思て出家に及てとりこもりたるを、かくせめらればこそ」とて吉野山を出て出家のかたちをな をして、伊勢太神宮をおがみたまひて、美濃・尾張の勢をもよほしおこして、近江国に大友皇子いくさをまうけ給たりけるによせたヽかひて、天武天皇の御かた かちにければ、大友皇子のくびをとりて、其時の左右大臣、大友皇子の御方にて有りけるをも、おなじくくびをとり、或流しなどして、やがて位につき世をおさ め給て十五年おはしましけるにも、大織冠の御子孫たちこそは、偏に輔佐には候はせ給けめ。淡海公は無下にまだしくやおはしましけん。加様の次第をば、かく みちをやりて正道どもを申ひらくうへは、ひろくしらんと思はん人はかんがへみるべき事也。
いかにも+天武の御心ばへは、すぐれたる人におはしましけり。無益とおぼしめす方は、宇治の太子のごとし。なをそれをさえもちゐぬ人にあわせ給時は、我国 うせなんずとつよくおぼしめして、うちかたせたまう方は又唐の太宗にことならずおはしましければにや、天智天王も我御子の大友皇子をさしをきて、世のぬし にはとおぼしめしけり。
天智の御遺誡こそまことにすゑとをりければ、女帝も二人まで持統・元明まで位におはしますめり。つぎに持統天皇位につかせ給。是は女帝なり。天智の第二の 御女めなり。やがて天武の后にておはしましけるが王子をうみ給へりける。草壁の王子と申けるを東宮に立て、まづ例の事にて御母位につきておはしましける程 に、草壁の皇子東宮にて程なくうせ給にければ、かなしみながら其御子を東宮に又たて給けるは、即文武天皇なり。この文武の御時より大宝と云年号はいでき て、其後は年号たえずしていまヽで有也。
文武位後、太上天皇と云尊号給りて、太上天皇のはじまりは、この持統の女帝の御時也。文武の王子にて聖武天皇はいできておはしませども、二人女帝をつけた てまつる。元明・元正也。元明は天智の御女め、文武の御母なり。元正は文武のあね、やがて御母は元明天皇也。聖武はしばらく東宮にて、御母は大織冠のむま ご不比等の大臣のむすめなり。是より大織冠子孫みな国王の御母とはなりにけり。をのづからこと人まじれども、今日までに藤原のうぢのみ国母にておはします なり。
聖武の東宮にて、世をばおさめたまふ、元明の時はをさなくおはします。すえざまには世ををこなひ給。元正の御時は偏に東宮の御まヽにて、この御時百官に笏をもたせ、女人の衣装をさだめ、僧尼の度者を給せなどすることはこの御時也。
さて聖武は廿五の御歳、養老八年甲子二月四日甲午大極殿にて御即位有りけり。廿五年たもたせ給。この御時仏法はさかりなり。吉備大臣・玄昉僧正等入唐し て、五千巻一切経をわたさる。東大寺作られたり。行基菩薩諸国の国分寺をつくる。かやうにして仏法はこの御時にさかりにきこゆ。皇子おはしまさで皇女に位 をゆづりて、天平勝宝のとしおりさせ給て八年おわします。孝謙天皇是也。この御時、八幡大菩薩、託宣有て、東大寺をおがませ給んために宇佐より京へおわし ますと云り。この時、太上天皇・主上・皇后・皆東大寺へまいらせおわしましたりけり。内裏に天下大平と云文字すヾろにいできたりけり。
聖武天皇は位おりさせ給て、太上天皇にて八年までおわしましてうせさせ給ける後、御遺勅にて孝謙天皇の御さたにて、天武天皇孫、一品新田部親王御子式部卿 道祖王と申けるを立太子有けるほどに、いかにおはしましけるにか、聖武御追善以下事も無下に思いれ給はず、ことにをきて勅命にもかなわぬ事にて有りけれ ば、東宮をとヾめてこと人を立まいらせんと、公卿どもにおほせあわける中に、大炊王と申けるを東宮にたてて位をゆづり給けるほどに、又其大炊王悪き御心お こりて、ゑみの大臣と一心にて、孝謙をそむき給ければ、王位をかへしとりて淡路国にながしまいらせて、重祚して位にかへりつき給にけり。淡路の廃帝と云帝 王は是也。
孝謙をばこのたび称徳天王と申ける。此女帝道鏡と云法師を愛せさせ給て、法王の位をさづけ、法師どもに俗の官をなしなどして、さまあしきことおほかり。ゑ みの大臣のおぼえも道鏡にとられてあしざまになりにけるにや。たヾ人にはおわしまさず。西大寺の不空羂索のものがたりも有り。これらはみないひふりたる事 どもなり。かうほどのことは後の例にもならず。いかにも権化の事どもと、このさかひのことをば心得べき也。このたびは位五年にて、御歳五十三にてうせ給け る。
後に位につくべき人なくて、やう++に群臣はからひける中に、房前・宇合の子たちにて永手・百川とてぬきいでたる人々有て、天智天皇の御むまごにて施基の 皇子の御子にて王大納言とておはしけるを、位にはつけたてまつりたりける。光仁天皇と申は是也。先帝高野天皇詔曰、宜以大納言白壁王立皇太子云々。是は百 川はかる処也。則位につきて十二年たもちて、其御子にて桓武天皇は東宮にて位ひきうつして、
此平安城たいらの京へ初て都うつり有て、此桓武の御後、この京の後は、女帝もおはしまさず、又むまごの位と云事もなし。つヾき+ してあにをとヽつがせ給 つヽ国母は又みな大織冠のながれの大臣どもの女めにて、ひしと国おさまり、民あつくてめでたかりけり。今日までもそのまヽはたがはぬをもむき也。
是は此御時延暦年中に、伝教・弘法と申両大師、唐にわたりて天台宗と云、無二無三、一代教主尺迦如来の出世の御本懐の至極無双の教門、真言宗とて又一切真 俗二諦をさながら一宗にこめたる三世諸仏の己証の真言宗とをば、この二人大師わたし給て、両人潅頂道場をおこし、天台宗菩薩戒をひろめ、後七日法を真言院 とて大内に立てはじめなどせられたる、しるしにて偏に侍也。つヾきて慈覚大師、智証大師、又々わたりて熾盛光法、尊星王法などををこないて君守り、国をお さまりて侍也。
其後やう++のいらんはおほかれども、王法仏法はたがひにまもりて、臣下の家魚水合体のたがうことなくて、かくめでたき国にて侍れども、次第におとろへて、今は王法仏法なきがごとくなりゆくやうを、さらに又こまかに申侍べき也。
大方は日本国のやうは、よく++心得て仏法の中の深義の大事を悟りて、菩提心をおこして仏道へはいるやうに、すこしもたがはず、この世間の事も侍るを、そ の侭にたがえず心うべきにて有るを、つや++とこの韻に入て心得んとする人もなし。されば又え心得でのみ侍れば、かくは又うせまかる也。これ又法爾の様な れば、力はをよばねども、仏法にみな対治の法をとく事也。
又世間は一蔀と申て一蔀がほどをば六十年と申、支干おなじ年にめぐりかへるほどなり。このほどをはからひ、次第におとろへては又おこり+ して、おこるたびは、おとろへたりつるを、すこしもちおこし+ してのみこそ、今日まで世も人も侍るめれ。
たとへば百王と申につきてこれを心得ぬ人に心得させんれうにたとへをとりて申さば、百帖のかみををきて、次第につかふほどに、いま一二でうになりて又まふ けくわふるたびは、九十帖をまふけてつかひ、又それつきてまうくるたびは八十帖をまふけ、或はあまりにおとろへて又おこるに、たとへば一帖のこりて其一帖 いまは十枚ばかりになりて後、九十四五帖をもまうけなんどせんをば、おとろへきはまりて殊によくおこりいづるにたとうべし。或七八十帖になりてつかうほど に、いまだみなはつきず、六七十帖つきて、今十二十帖ものこりたるほどに、四五十帖を又まうけくはへんをば、いたくおとろへてぬさきに、又いたう目出から ずひきかへたるにはあらでよきさまにをきたちたらんにたとふべきにて侍也。詮ずる所は、唐土も天竺も、三国の風儀、南州の盛衰のことはりは、おとろへてお こり、おこり+ てはおとろへ、かく次第にして、
はてには人寿十歳に減じはてヽ、劫末になりて又次第におこりいで+ して、人寿八万歳までおこりあがり侍也。その中の百王のあひだの盛衰も、その心ざし道 理のゆくところは、この定にて侍也。是を昼夜毎月に顕さんとて、月のひかりはかけてはみち、みちてはかくることにて侍也。この道理をひしと心得るまへに は、一切事の証拠はみなかくのみ侍也。盛者必衰会者定離と云ことはりは、是にて侍也。是を心得て法門の仏道に皆いるヽまでさとり侍べき也。この心を得て後 々のやうも御覧ずべきにや。
神武より成務まで十三代は、ひしと正法の王位なり。自仲哀光仁まで三十六代は、とかくうつりてやう++のことはりをあらはすにて侍也。このあひだ女帝いで きて重祚とて、ふたヽび位につかせ給ことも、女帝の皇極と孝謙とにて侍るめり。女人此国をば入眼すと申伝へたるは是也。其故を仏法にいれて心得るに、人界 の生と申は、母の腹にやどりて人はいでくる事にて侍也。この母の苦、いひやる方なし。此苦をうけて人をうみいだす。この人の中に因果善悪あひまじりて、悪 人善人はいでくる中に、二乗、菩薩のひじりも有り、調達、くがりの外道も有り。是はみな女人母の恩なり。是によりて母をやしなひうやまひすべき道理のあら はるヽにて侍也。妻后母后を兼じたるより、神功皇后も皇極天王も位につかせおはします也。よき臣家のをこなふべきがあるときは、わざと女帝にて侍べし。神 功皇后には武内、推古天王には聖徳太子、皇極天皇には大織冠、かくいであはせ給にけん。本闕
さて桓武の後は、ひしと大織冠の御子孫臣下にてそいたまふと申は、みなまた妻后母と申は、この大臣の家に妻后母后ををきて、誠の女帝は末代あしからんずれ ば、其の后の父を内覧にして令用たらんこそ、女人入眼の、孝養報恩の方も兼行してよからめとつくりて、末代ざまの、とかくまもらせ給と、ひしと心得べきに て侍也。
さて又王位の正法の、末代に次第にうせて、国王の御身のふるまひにて、万機の沙汰のゆかぬやうになるとき、脱の後に大上天皇ながら、主上を子にもちて、み だりがはしくはヾからず世をしらんといふはからひをも、後三条天皇はしいださせ給也。これはみな王法のおとろふるうへに又おこしたつるつぎめに、やうかは りてめづらしくて、しばし世をおさめらるべき道理のあらはるるなり。本闕
さて桓武の御子三人、平城・嵯峨、御中ことのはじめにあしかりけり。みやこうつりのあひだ、いまだひしともおちゐぬほど、御心々にてあしくなりぬ。それも 平城の内侍督薬子が処為といふ。あしきことをも女人の入眼にはなる也。嵯峨東宮のあひだ、平城国主の時、東宮を可奉廃之よし沙汰有りけりと、後中書王の御 物語ありけり。それは伝大臣冬嗣申すヽめて、「事火急に候、可令申宗廟(給)」とて、桓武の聖廟を拝して東宮訴申給しかば、天下みだれゆきて、平城この御 ひが事を思かへらせ給にけりとなんかたらせ給にけり。
一番にみな末代のをもむきをばあらはさるヽなり。
次淳和と嵯峨とは、あやにくに御中よくて、二人脱の後は、ゆきあひつ、神泉にてあそばせ給けり。さて仁明は嵯峨の御子にて位に付て、又淳和の御子を東宮に たてられてあるほどに、淳和は承和七年五月八日にかくれ給ぬ。嵯峨は又同九年七月十五日に崩御をはりにけり。この二人の太上(天)皇のうせさせ給をやまた れけん、この東宮の御方人発覚の事ありけるを、其後いつしか中一日ありて、十七日に阿保親王の、当今の仁明の御母につげまいらせらるヽ事ありけり。東宮の たちはき健峯と云ものまいりて申たりける。わがヽた人になんと思けるにや。但馬権守橘逸勢・大納言藤原愛発・中納言同吉野などいふ人々謀反おこして、東宮 いそぎ位につけたてまつらんと云ことを、おこすといふ事いできて、大皇太后宮いそぎ中納言良房をめして、かヽる事と仰られあはせて、この人++皆ながされ にけり。橘逸勢伊豆の島へなどつかはされて、大納言よしちか解官のところに良房は大納言になられにけり。東宮は十六にならせ給ければ、我御心よりはおこら ずもありけん。この東宮をば恒貞親王とぞ申ける。太子の冷泉院におはしますへまいられたりけるに申されければ、われしらずと仰られけれど、この御れうにこ れらが支度する事あらはれにければ、参議正躬王に勅して、東宮をば送廃しまいらせられにけり。さて同四日道康親王と云は文徳天皇也。是を東宮に立まいらせ られにけり。
あはれ+かまへて仁徳の御世までこそなからめ、仁徳は平野大明神也、仁賢・顕宗の御心づかひにてあらばや、嵯峨と淳和とは、すこぶるそのをもむきおはしけるとぞ申伝て侍れ。
さて文徳の王子にて清和いでき給。このとき山の恵亮和上は、御いのりしてなづきを護摩の火にいれたりなど申伝たり。一歳にて東宮にたヽせ給けり。九歳にて 位につかせ給ければ、幼主の摂政は日本国にはいまだなければ漢家の成王の御時の周公旦の例をもちゐて、母后の父にて忠仁公良房をはじめて摂政にをかれけ り。是後摂政関白といふことはいできたるなり。それもはじめはたヾ内覧臣にをかれて、まことしく摂政の詔くださるヽことは、七年をへて後、貞観八年八月十 九日にてありけるとぞ日記には侍なる。
この御時伴大納言善男、応天門やきて信の大臣に仰て、すでにながされんとしけること、そのあひだには良相と申右大臣は良房のをとヽにて、いりこもられて後 天下のまつりこと良相にうちまかせてありけるに、天皇伴大納言が申ことをまことヽおぼしめして、かう++とおほせられけるをうたがひおもはで、ゆヽしき失 錯せられたりけり。それをば昭宣公蔵人頭にてきヽおどろきて、白川殿へはせまいりつげ申てこそ善男がことはあらはれにけれ。これらは人皆しりたればこまか にはしるさず。
さて清和は、十八年たもちて、廿六にて又太子の陽成院の九歳の御年御譲位有て、廿九にて御出家有りて、三十一にてうせさせ給にけり。この陽成院、九歳にて 位につきて八年十六までのあひだ、昔の武烈天皇のごとくなのめならずあさましくおはしましければ、おぢにて昭宣公基経は摂政にて諸卿群儀有て、「是は御も のヽけのかくあれておはしませば、いかヾ国主とて国をもおさめおはしますべき」とてなん、をろしまいらせんとてやう++に沙汰有りけるに、仁明の御子にて 時康親王とて式部卿宮にておはしましけるをむかへとりて、位につけまいらせられにけり。これは光孝天皇と申也。五十五にて位につかせ給て、三年ありて五十 八にてうせさせ給けり。
さてその御子にて宇多天皇と申寛平法皇は、廿一にて位につきておはしましける。此小松の御門、御病をもりてうせさせ給けるには、御子あまたおはしましけれ ども、位をつがせんことをばさだかにもえおほせられず、いま我かくきみとあふがるヽことも、このおとヾのしわざなれば、又いまはからひ申てんとおぼしめし けるにや、御病のむしろに昭宣公まいり給て、「位はたれにか御譲り候べき」と申されけるに、「その事也、唯御はからひにこそ」と仰られければ、寛平は王の 侍従とて、第三の御子にておはしましけるを、「それにておはしますべく候、よき君にておはしますべき」よし申されければ、かぎりなくよろこばせ給て、やが てよびまいらせてそのよし申させ給けり。寛平の御記には、左の手にては公が手をとり、右の手にては朕が手をとらへさせ給て、なく++「公が恩まことにふか し、よく++是をしらせ給へ」と申をかれけるよしこそかヽせ給たんなれ。中++かやうのことは、かく其御記をみぬ人までもれきく事のかたはしをかきつけた るを、まさしく御記をみん人もみあはせたらば、わが物になりてあはれに侍なり。
さて寛平は位につかせおはしましけるはじめより、「我身は無下に聖主の器量にあらず」とて、「とくおりなん」とつねに昭宣公におほせあはせけるを、「いかでかさる事候ん」とのみ申されければ、「さらば一向に世のまつりことをしてたべ」とうちまかせておはしましける程に、
十年たもちおはしましける第六年かに、昭宣公うせ給にければ、その太郎の時平と菅丞相とを内覧の臣にさだめられて、遺誡かゝせ給て三十一にておりさせ給 て、延喜の御門は醍醐天皇と申に御譲位ありければ、十三にていまだ御元服もなかりけるを、今日只元服をして位につかんとて、にはかに御元服ありて摂政をも ちゐられず、寛平の御遺誡のまヽに時平と天神とに、まつりことをおほせあはせてありけるほどに、
十七の御歳、延喜元年に北野の御事はいできにけり。その事は、御門どゆヽしきわが御ひが事、大事をしいだしたりとやおぼしめしけん、すべて北野の御事、諸 家、官外記の日記をみなやけとて、被焼にければ、たしかにこの事をしれる人なし。されども少々まじりてみゆる処もあり。又かうほどのことあれば、人の口伝 にいひつたへ+したることにてあれば、事のせんはみなみえるにや。
権者たちのむまれて、かヽることはありけるにや。されどこと人を権者と云ことはなし。天神はうたがひなき観音の化現にて、末代ざまの王法をまぢかくまもら んとおぼしめして、かヽることはありけりとあらはに知る事也。時平の讒言と云事は一定也。浄蔵法師伝にも見たり。さりながら八年まではゑとらせ給ざりける にや。天神の霊の時平につかせ給たりけるを、浄蔵が加持して、したヽかにせめければ、仏法威験にかちがたくて、浄蔵が父の善宰相清行存日なりければ、善相 公に汝が子の僧よびのけよとねんごろに託宣しておほせられければ、浄蔵もをそれてさりにける後、つゐに時平うせ給にけるとこそみえて侍めれ。この御心なら ば、すべて内覧臣、摂籙の家は、天神の御かたきにてうしなはるべきにてこそあるに、やがて時平の弟の貞信公、家を伝へ、内覧摂政あやにくに繁昌して、子孫 たふることなく、
いまヽでめでたくてすぎらるヽことをふかく案ずるには、日本国小国也、内覧の臣二人ならびては一定あしかるべし、その中に太神宮鹿島の御一諾は、すゑまで たがふべきことにあらず、大織冠の御あとをふかくまもらんとて、時平の讒口にわざといりて御身をうしなひて、しかも摂籙の家をまもらせ給なり。あざ++と は、時平こそかく心もあしけれ、貞信公は弟にて、菅丞相のつくしへおはしましけるにも、うち++に貞信公は御音信有りて、申かよはしなどせらるれば、それ をばいかヾはあたみ思はんと云をもむき也。
これもすなはちことの真実をこそいへ。賢が子、賢ならずとこそ云へ。おほかたの内覧臣、摂籙の家をかたきにとらんことは世間の愚者の法也。真実をこそとお ぼしめす、すぢのとをさるヽ事を、かくともまめやかに心得人なし。これらを返々まことの道理にいれて、かく心得べきなり。
さればまぢかくこの大内の北野に、一夜松おひてわたらせ給て、行幸なる神とならせ給て人の無実をたヾさせおはします。ことに摂籙の臣のふかくうやまひ、ふ かく頼みまいらせらるべき神とこそあらはには心得侍れ。かやうの方便教門の化導ならで、ひとえに劫初劫末のまヽにては、南州衆生の果報の勝劣も、寿命長短 も、かくてこそ敬神帰仏縁ふかくして、出離成仏の果位には至るべけれども、かやうのさかひに入て心うる日は、一々にそのふし※※はたがふことなし。
さて寛平は卅一にて御出家ありて、弘法大師門流真言の道をきはめて、承平九年に御年六十五にて御入滅とこそ承はれ。北野の御事のとき、内裏にまいらせおは しまして、いかにかヽることをばと申されけれども、国のまつりことをゆづりたまひてのちは、しらせおはしますまじとこそさだめられて候へとて、きヽ入させ おはしまさずとこそは申伝て侍めれ。つゐにえ申いれさせ給はず。申つぐ人なかりけりとぞ又申める。それも心はたヾこの御心にてをこなはれけるなりけり。昔 よりおりゐの御門になりて、よの事しらせ給ことはなきなり。よのすえになりてかくなるべしといふことも、いまだおぼしめしよらざりけん。君は臣をうたが ひ、臣は君をへつらふことのいできたりて、中に大上天皇世をしろしめす也。めでたくうつりゆくなるべし。
この北野の御事は日蔵が夢記人もちゐねども、又ひがことにはあらぬなるべし。延喜は卅三年までたもたせ給たり。其後は三十年にをよびてひさしき御位はなし。
この貞信公御子に小野宮・九条殿とておはすめり。此事どもは、よつぎの鏡の巻にこま※※とかきたれば申にをよばねども、つじ++のあふところをば申べきに や。弟の九条右丞相、あにの小野宮殿にさきだちて一定うせなんずとしらせ給て、「我身こそ短祚にうけたりとも、我子孫に摂政をば伝ん、又我子孫を帝の外戚 とはなさん」とちかひて、観音の化身の叡山の慈恵大師と師檀の契ふかくして、横川の峯に楞厳三昧院と云寺を立て、九条殿の御存日には法華堂ばかりをまづつ くりて、のぼりて大衆の中にて火うちの火をうちて、「我が此願成就すべくば三度が中につけ」、とてうたせ給けるに、一番に火うちつけて法華堂の常灯につけ られたり。いまにきえずと申伝へたり。さればその御女の腹に、冷泉・円融両帝よりはじめて、後冷泉院まで、継体守文の君、内覧摂籙の臣あざやかにさかりな り。其後、閑院の大臣のかたにうつりて、又白川・鳥羽・後白川、太上天皇ながら世をしろしめす君におはします。後白川のつぎには、当院伝ておはしますも、 中関白道隆のすぢなり、
この日本国観音の利生方便は、聖徳太子よりはじめて、大織冠・菅丞相・慈恵大僧正かくのみ侍る事をふかく思しる人なし。あはれ+ 王臣みなかやうの事をふ かく信じて、聊もゆがまず、正道の御案だにもあらば、劫初劫末の時運は不及力、中間の不運不慮の災難は侍らじものを。さればよくをこなはるヽ世はみな夭は 徳にかたずとてのみこそ侍れ。
その九条右丞相の世をぼへは、ならぶ人もなかりければにや、延喜の御むすめ、村上の内裏に御同宿にてありけるを、はじめはしのびやかなれども後にはあらは れにけり。内親王にて弘徽殿にすへまいらせられたりける也。閑院の大政大臣公季と申はその御はらなり。閑院(を)ことなる華族の人とよに云ことはこの故な りとこそ申めれ。
さてこの九条右丞相師輔の公の家に摂録の臣のつきにける事は、小野宮殿うせ給て、九条殿の嫡子一条摂政伊尹摂政になり、又これは円融院の外舅にて右大臣にて有れば、九条殿は摂籙せざりしかば、なにとてかたをならぶべきものなくて、かくは侍なり。
地体は藤氏長者といふことは、上よりなさるヽことなし。家の一なる人に次第に朱器台盤・印などをわたし+ することなり。その人又おなじく内覧の臣とはな る也。関白摂政と云ことは、必しもたえずなることにはあらず。摂政は幼主の時ばかりなり。忠仁公の後は、たヾ藤氏長者内覧の臣になりぬるを一の人とは申な り。内覧もかならずしもなきこと也。関白は昭宣公摂政の後に関白の詔ははじまりけり。漢の宣帝の時、霍光がまづあづかりきかしめてのちに奏せよと、うけた まはりける例なるべし。小野宮殿の摂政をへずして関白詔はじまりけるをば、をそれ申されけり。されば延喜の御時、時平うせ給てのちと、天暦の御時には内覧 臣だになし。まして摂政関白と云つかさもなされず、唯藤氏長者、一のかみにて、延喜の御時は貞信公、後にこそ朱雀院八にて御位なれば摂政にならせ給へ。村 上にははじめは貞信公関白如元とて有りけれど、うせさせ給て後は、左大臣にて小野宮殿こそはたヾ一の上にて事をこなひて、冷泉院御時、直関白の詔有りけ り。
時の君の御器量がらにて、かつはをかるヽこと也。よのすゑは、みな君も昔にはにさせ給ず、まことの聖主はありがたければ、いまは様の事と摂政関白の名はた ふることなし。それも御堂のはじめ、一条院、三条院、知足院殿のはじめ、堀川院、このふたヽびは内覧ばかりにて、関白にはならせ給ざりけり。やさしきこと 也。
貞信公の御事は、いかにも+たヾうちある人にはおはせず。将門が謀反の時、禁中に仁王会ありける。ことをこなひ給けるに、こえばかりにてをこなひ給て、身は人にみえ給はざりけり。隠形の法など成就したる人は、かくやと覚けるは、たしかにいひつたえたること也。
又小野宮どのヽうせられたりける時、とぶらひのため門に人おほくきたりあつまりたりけるが、昔は徳有る人のうせたるには、挙哀といひて、あつまれる人、声 をあげて哀傷することありけれど、今はさる人もなきに、この時門外にあつまれる貴賎上下、挙哀の声をのづからいできてかなしみけるこそ、天下になげくべき こときはまりにけりと人は申けれ。かやうのことをば思しるべきこと也。
九条殿の御子にて堀川の関白兼通、法興院殿兼家、このふたり次第たがひたることヾもにて、なかあしくおはしけり。兼通はあにながら弟の兼家にこえられて、 おひたヽれたることは、さだめて様ありけん。おろ++人のをもひならひたることは、冷泉・円融両帝は、此の人々のをひにておはしませば、をぢにて立太子の 坊官どもになられけるに、あになれば先冷泉院のにて堀川殿は候はるヽほどに、いかなることかありけん、御気色よろしからで、東宮亮をとヾめられにけり。そ の処に法興院殿はなりて、やがて受禅のとき蔵人頭になりてこえ給にける也。大方兼家はよろづにつけてをしがらのかちたる人にて、蔵人頭も中納言までかけて おはしけり。大納言大将にておはしけるときに、兼通は中納言にて有けるに、
円融院位の御時、一条摂政所労大事になりぬときヽて、仮名のふみを持てまいりて、鬼の間にたヽせ給たりけるとき、まいらせられたりけるをひきひろげて御覧 じければ、「摂籙は次第のまヽに候べし」とかヽれたりけり。御母の中宮の御手にてありける。うせさせ給ぬるを思ひいでつヽこいまいらせさせ給けるおりふ し、かヽるふみを御母の皇后にかヽせまいらせてもたれたりけるをまいらせて、いみじくかしこかりける人かなとよにも申けり。是を御覧じて、一条摂政の病か ぎりになりにければ、左右なく中納言なる人に内覧を仰られて、大納言をへずして中納言より弟の大納言の大将をこえて内大臣になりて、天延二年に関白の詔く だりたりけるなり。
法興院殿は、是をやすからぬことに思ひゐられたりけるほどに、貞元二年に関白病をもりてすでにときこえけるに、とりつくろひて、法興院大入道殿は大将大納 言にて内裏へまいられけるを、人の「このやまいのとぶらひに、これはおはするか」といひけるは、さもやとおもはれけるほどに、はやう参内といひけるをきヽ て、病のむしろよりにわかに内へまいらんとてまいられける。とものものまで「こはいかに」とあやしみ思ければ、四人にかヽりてたヾまいりにまいられけれ ば、内裏には「殿下の御出」とのヽしりけるを、弟の大将、「すでにしぬるときく人たヾいま参内ひが事ならん」とおもはれけるほどに、まことにまいられけれ ば、さわぎていでられにけり。まいりて御前にさぶらひて、「最後に除目申をこなひ候んと思給てまいりて候也。やヽ人まいれ。ちかき公卿もよをせ、除目のあ らんずるぞ」とありければ、あやしみ思て人々まいれりけるに、少々事ども申て、「右大将はきくわいのものに候。めされ候べき也。大将所望の人や候。はヾか らず申せ」とたかくいはれけるに、たれかはさうなく申さん。をそれてありけるに、小一条大臣師尹は、九条殿の御弟なり。その人の子に済時とて中納言なる人 ありけり。この人おもひけるやう、「このときならでは、いつかわれ大将をゆるされん、申てん」と思て、かさねて、「いかに大将所望の人の候はぬか、たヾ申 せ」といはれけるたび、済時とたかく名のりいだしたりければ、「めでたし+、とく++」とて、右大将に済時とかきてげり。執筆はたれにかありけん。それま での日記なきにや。たヾし、まさしき除目は直廬にてをこなはれけるにや。
さて、「関白には頼忠其仁にあたりて候大臣にて候。異儀候まじ。ゆづり候也」とて、やがて関白詔申下されければ、主上は「こはいかに」と返々をそろしくお ぼしめして、又申さるヽ事いたくひがことならずやおぼしめしけん、申まヽにをこなはれにけり。故皇后の御ふみに次第のまヽとありけるはたがひたれど、この つぎおなじ事ぞ、などや(お)ぼしめしけん。この冷泉・円融の御母は安子中宮とて、九条殿の御女なり。
大方は一条摂政病のあひだ、御前にあにをとヽ二人候て、このつぎの摂籙をことばをいだしつヽいさかひ論ぜられける。済時大将が日記には、各放言にをよぶな どかきたるとかや。最後除目はおぼつかなけれど、をこなはれたる様は疑なし。かやうの意趣、よのため人のため、国のおとろえ、道理のとほらぬことなれど も、この頼忠三条関白、よにゆるされ、よき人にて、小野宮殿の子にて、その運のありけるが、かやうならではかなふまじき因縁どものかく和合するみちは、こ れも道理なる方侍べきにや。さて三条関白頼忠は貞元二年十一月十一日、関白の詔くだりて、一条院位につかせ給けるまで、十年歟おはしける程に、一条院践祚 のとき、つひに大入道殿は、さうなき道理にて摂籙になられにければ、ちからをよばでありけり。
抑円融院の華山院に御譲位ありけり、大方はこの摂籙臣むまごにて、あにをとヽみなおはします、位を其の弟に譲せ給ふときは、やがてあにの皇子を太子に立 て、東宮としてのみ、のち++もおほく侍めり。冷泉院おりさせ給て、円融院位につかせたまへば、やがて冷泉院の御子花山院を東宮にたてまいらせて、花山院 に又位をゆづらせ給ふときは、円融院太子一条院を東宮にはたてられけるになん。
此大入道殿は、あにの堀川殿の為にをひこめられてのちは、治部卿になされて、さて花山院と申は、御母は一条摂政のむすめ冷泉院の后也。この時法興院どの は、やがて摂籙せんと思はせ給けれども、猶関白如元と云仰にてありければ、法興院どのは右大臣にて、前日固関事をこなひ給けるに、関白如元ときヽ給て、や がて出仕をとヾめて、節会の内弁もをこなはれざりけるあひだに、つぎの人をこなふべかりけるを、左大臣と弟の大納言と、雅信・重信の二人は、服気にて出仕 なかりけり。為光・朝光両大納言は、さはりを申ていでにければ、済時こそは、なを四大納言にてをこなひ侍けれ。この済時は大入道殿のためには、はヾからぬ 人にこそ。それも道理のゆくところなれば、にくかるべきにあらず。
忠仁公、清和の御門日本国の幼主のはじめ、外祖にてはじめて摂政もをかれてのち、この摂政の家に帝の外祖外舅ならん大臣のあらんが、かならず+ 執政の臣 なるべき道理は、ひしとつくりかためたる道理にて、一度もさなきことはなし。此花山院には義懐中納言こそは、外舅なれば執政すべけれども、践祚の時は蔵人 頭にこそ、はじめて四位侍従にて任じて、やがてとく中納言になりて、三条関白は如元とておはしけれども、国の政はをさえて義懐をこなひけるほどに、わづか に中一年にて不可思議のやういできにければいふばかりなし。
大入道殿このつぎめにと日比の遺恨をおぼしけめども、外祖外舅にもあらず。小野宮殿の子、九条殿の子たヾおなじことなれば、もと宿老になりて、関白ならんをかうべきやうなしとおぼしめしけるも道理にて、このときはやみにけるほどに、
花山院は十九にて為光のむすめ最愛におぼしめしける后にをくれさせ給て、かぎりなく道心をおこさせ給て、よにもあらじとおぼしめして、うちながめつヽおは しけるに、大入道殿の運のおそきことを常になげかせ給ける、二郎子にて粟田殿七日関白といはるヽ人は、その時五位蔵人・左少弁とて、時の職事なれば、ちか くみやづかひておはしけるに、「世のあぢきなく出家して仏道に入なんと思ふ」とのみ仰られけるをきヽて、おりをえたりとこそは思はれけめ。昔も今も心きヽ てはかりごとある人は、我とだにこそ不可思議の事をも思よりつヽしいだすことなれ。これは君のさほどにおぼしめす御気色なれば、たがひにわかき心に、又青 道心とて、その比よりこの比までも、人の心ばへは只おなじことにや。それもかヽるおりふし侍べし。この比はむげにあらぬ事也。
寛平までは上古正法のすえとおぼゆ。延喜・天暦はそのすゑ、中古のはじめにて、めでたくてしかも又けちかくもなりけり。冷泉・円融より、白川・鳥羽の院ま での人の心は、たヾおなじやうにこそみゆれ。後白川御すゑよりむげになりをとりて、この十廿年はつや++とあらぬことになりけるにこそ。
されば花山院青道心をこし給けんも、みなをしはからる。粟田殿の同心して申すヽめられけんもあらはなり。一定かく申されけるとはきかねども、かやうのこと は道理きはまりて、そのことばをつくることは、天竺・唐土のことをこヽにて口ききたる説経師の申になれば、かの国々のことばにてはなけれども、道理の詮の たがはぬほどのことは、げに++といふをこそは正説とは申ことなれば、さこそ申されけめ。恵心僧都の道心ごろにて、厳久僧都と申人ありける。その人などめ されて道心発心のやうなどたづねられんには、さこそ申けめ。
「経文には、妻子珍宝及王位、臨命終時不随者とこそは申て候へ。
法華経の序品にも、悉捨王位、今随出家、発大乗意、常臨梵行とときて候には候はずや。
提婆品には、時有阿私仙、来白於大王、我有微妙法、世間所希有、即便随仙人、供給於所須とこそは申て候。
尺迦仏も我小出家得阿耨菩提とこそは我御身の事をもとかせ給へ。
かヽる御心をこり候時、難入き仏道へはいらせたもふべきに候。
おぼしめしかへるといふとも、御発心の一念はくち候まじ。
妙法にすぎたる教門候はず。不軽の縁だにもつゐには得道してこそ候へ。
菩薩戒こそせんにては候へ。やぶれどもなをたもつになり候ぞかし。
さればこそ、受法はあれど捨法はなしとは申候へば、たヾまことしくおぼしめしたち候はヾ、とく++とげさせ給へ」
などこそは、あさゆふ申されけめ。其上は、「君一定御出家にをよび候はヾ、やがて道兼も出家して、仏法修行の御同行とはなりまいらせ候べし。縁のふかくお はしませばこそ、王臣のかたまでも、けふは君につかへ候へ」など申されければ、いとヾ御心もをこりて、時いたりて寛和二年六月廿二日庚申夜半に、蔵人左少 弁道兼、厳久法師と二人御車のしりにのせて、大内裏をいでさせ給けるには、縫殿陣よりとこそは申すめれ。ものがたりには、すでになに殿とかやのほどにて、 「いたくにはかなり。なをしばし案ずげきにや」と仰られければ、道兼は、「爾剣すでに東宮御方へわたされ候ぬるには候はずや。いまはなかひ候はじ」と申さ れければ、「まことに+とていでさせ給けるとこそは申つたえたれ。
すでにとおぼしめしけるとき、道隆・道綱この人たちをまうけて、「いまは璽剣わたさるべくや」と申て、道隆・道綱、両種をもてち東宮一条院御方凝花舎へま いられりければ、右大臣まいりて諸門をとぢて、御堂の兵衛佐にておはしけるを頼忠のもとへはつかはして、「かヽる大事いできぬ」とはつげ給てげり。
さて立王の儀になりにければ、とかくいふばかりなし。一条院七歳にておはしませば、摂政になりてこのたびは此右大臣兼家は外祖なれば頼忠は思ひよらぬことにて、ひしと世はをちゐにけり。
さて花山と云は、元慶寺にて御ぐしおろされにければ、やがて道兼も出家せんずとおぼしめしけるを、なく++、
「いま一度おやをみ候はゞや。わがすがたをもいま一度みえ候はヾや。さ候はずは不孝の身になり候はヾ三宝もあやしとやおぼしめすべくや候らん。君の御出家とうけ給はり候なば、道兼をとヾむること候まじ。程なくかへりまいり候はん」
とてたヽれければ、「いかに我をすかしつるな」と仰られければ、「いかでかさること候はん」とて鞭を揚てかへりにけり。なにしにかは又まいるべき。
このことを聞て中納言義懐・左中弁惟成は、やがて華山にまいりてすなはち出家して、この二人はいさヽかのきずなく仏道に入とほりにけり。義懐は飯室の安楽 五僧になりにけり。惟成は賀茂祭のわさづのひじりしてわたるほどになりにけりとこそは申侍めれ。花山法皇はのちにはさまあしく思かへりておはしましけれ ど、又はじめものち++もめでたくをこなはせおはしますおり++ありければ、さだめて仏道にはいらせ給にけんかし。本闕
かくて一条院は位の後、この大入道殿ひしと世をとられにけるのち++、宇治殿までを見るに、さらに+ いふばかりなく、一の人の家のさかりに世ものたし く、人の心もはなれはてたるさまに、あしきこともなく、正道をまもりて世をおさめられて、一門の人々もわざとしたらんやうに、とり※※によき人どもにて、 四納言と云も三人は一門也。かくて世はおさまりけるとみゆ。
さて大入道殿は永祚二年五月四日出家して、嫡子内大臣道隆に関白ゆづりて、同七月二日うせ給にけり。道隆は中関白と申。その子伊周帥内大臣と云。ながされ て後、儀同三司と云。この人に内覧の宣旨を申なされたりけれども、をとヽの道兼は右大臣、この伊周は内大臣にてありける。
一条院の御母は東三条院と申は、女院のはじめはこの女院也。これは兼家のむすめにて、円融院の后也。この女院の御はからひのまヽにて世はありけんとなん申つたえたり。
道兼同御せうとにて、なにとなく、花山院のあひだのことも、わが結構ならねど、時にあひてちヽのためいみじかりけん。右大臣上臈なれば、内大臣伊周人がら やまと心ばへはわろかりける人なり、唐才はよくて詩などは、いみじくつくられけれど、右大臣をこゆべきならねば、右大臣関白にはなりにけれど、長徳元年四 月廿七日になりて、五月八日うせられにければ、よの人七日関白といひけり。
其後、内大臣にて伊周、もと内覧の宣旨かうぶりたる人にてありけるに、大納言にて御堂はおはしけるは、道兼・道隆の弟なり。をぢの大納言その器量抜群 (に)して、よも人もゆるしたりけり。我身もこのとき、「伊周執政の臣たらば、世はみだれうせなんずるが、身を摂籙の臣にをかれなば、よはをだしかるべ き」と、さめ++とおほせられけり。いもうとの女院、当今の母后にて、ひしとかくおぼしめしたりけるを、主上の思ふやうにも御ゆるしなくてありけるほど に、いたく申されけるをうるさくやおぼしめしけん、あさがれひをたヽせ給て、ひの御座のかたにおはしまして、蔵人頭俊賢を御まへにめして、御ものがたりあ りける処へ、よるのをとヾのつまどをあけて、女院は御目のへんたヾならで、「いかによのため君のためよく候べきことをかく申候をば、きこしめしいれぬさま には候ぞ。このぎに候はヾいまはながくかやうのことも申候まじ。心うくくちおしきことに候ものかな」と申させ給けるとき、ゐなをらせ給て、「いかでかこれ ほどにおほせられんことをば、いなび申候べき。はやくおほせくだし候はん」と、内の御気色もまめやかになりておほせられければ、女院のわたらせ給と心え て、御前に候ける俊賢たちのきけるを、「さらばやがて蔵人頭俊賢候めり、めしおはしませ。申きかせ候はん」と申させ給ければ、「や、としかたこれへまい れ」とめしければまいりたりけるに、女院の、「大納言道長に太政官文書は奏せよと、とくおせほくだせ」と仰られければ、俊賢たかくゐせうしてまかりたち て、やがて仰下ければ、女院はあさがれいの方へかへらせ給て、御堂は大納言の左大将にて、この左右うけたまはらんとて、候まうけておはしけるに、女院は御 袖にては御涙をのごひて、御目はなき御口はえみて、「はやく仰下されぬるぞ」とおほせられければ、かしこまりていでさせ給にけり。しばし大納言にて内覧臣 にて、やがてその年程なく右大臣になられにけり。内覧臣なれば内大臣をこえられにけるなり。
長徳二年四月に、伊周内大臣とをとヽの隆家とは左遷せられて、内大臣は太宰権帥、中納言隆家は出雲権守になりて、をの++ながされにけることは、華山院を 射まいらせたりけるなりけり。その事のをこりは、法住寺太政大臣為光は恒徳公とぞ申、この人二三人むすめありけり。一女は花山院に道心をこさせまいらする 人にて、うせ給てのち道心さめさせ給て、其中のむすめにかよはせ給にけるに、又三のむすめを伊周の大臣かよひけるを、「この院のやがてこの三のむすめの方 へもおはします」と人のいひけるを、やすからず思て、をとヽの隆家帥は十六にてありけるに、「いかヾせんずる。やすからず」といひけるほどに、隆家のわか く、いかうきやうなる人にて、うかヾひてゆみやをもちて射まいらせたりければ、御衣の袖をつひぢにいつけたりけり。あやうながらにげさせ給て、この事をば ひしとかくしたりけるを、やう++披露して、さほどのこといかでかさてあるべきとて、さたどもありて、このことはありけるといひつたへたりけれど、小野宮 の記には、やがてその夜よりきこえて正月十三日除目に内大臣円座とられたりけり。もともしかるべしと時の人いひけり。こまかにその日記には侍ればそれをみ るべき也。
このとがなれど、御堂の御あだうかなと人思ひたりければ、返々いたませ給けり。をの++のちにはめしかへされて、内大臣は儀同三司と云位をたまはり、隆家 は帥になりてくだりなんどして、富有人になんいはれけり。帥になりてつくしへくだりて、いひしらずとくつきてのぼりたりけるに、いつしか御堂へまいりける に、いであはせ給たりければ、いとも申事はなくて名符をかきて、ふところよりとりいだしまいらせていでにけり。いみじく心かしこなりける人なりとこそうけ たまはれ。
かヽりけるほどに、一条院うせさせ給て後に、御堂は御遺物どものさたありけるに、御手箱のありけるをひらき御覧じけるに、震筆の宣命めかしき物をかヽせお はしましたりけるはじめに、三光欲明覆重雲大精暗とあそばされたりけるを御覧じて、次ざまをよませたまはで、やがてまきこめてやきあげられにけりとこそ、 宇治殿は隆国宇治大納言にはかたり給けると、隆国は記して侍なれ。
大方御堂御事は、たとへば唐の太宗の世ををこして、我は尭舜にひとしとまでおもはせ給たりけると申やうに、御堂は昭宣公にも大織冠までにもをとらぬほど に、正道に理の外なる御心なかりけるとみゆ。わが威光威勢といふは、さながら君の御威也。王威のすゑをうけてこそかくあれと、わたくしなくおぼしけるな り。その証拠は、万寿四年十二月四日うせさせ給ける御臨終にあらはなり。思のごとく出家して多年、九体の丈六堂法成寺の無量寿院の中堂の御前を閉眼の所に して、屏風をたてヽ脇足によりかヽりて、法衣をたヾしくしてゐながら御閉眼ありけることは、むかしもいまもかヽる臨終のためしあるべしとやは。
十二月四日なるに、十二月は神今食の神事とてきびしければ、閠朔日其の斎いみじくきびしくて、摂政関白公家同事にてあるに、法成寺の御八講とて南北に京の 堅義をかれたるに、大伽藍の仏前の法会に、氏長者・関白摂政なる、かならず公卿引率して令参詣て、堅義、例講御聴聞一切にはヾからるヽ事なし。伊勢太神宮 是をゆるしおぼしめすなり。これこそは人間界の中にその人の徳と云手本にて侍めれ。かヽる徳はすこしもわたくしにけがれて、為朝家不忠ならん人ありなん や。返々やんごとなきこと也。
これは一条院もあるまヽに御覧じしらせ給はで、かヽる宣命めかしきものをかきをかせ給て、とくうせさせ給にけるに、御堂に其後久しくたもちて、子孫の繁 昌、臨終正念たぐひなきを、御心の中にをふかくみとほして、「いかにぞや、悪心もをこさじ。われとヾまりてかく御追福いとなむ。たかきもいやしきも御心ば へのにずもある。又いかにぞや、きかふことはすこしもいかにとおもふべきことならず」とて、まきこめて、やきあげさせ給ひけんをば、
伊勢大神宮・八幡大菩薩もあはれにまもらせ給けんとこそあらはにさとられ侍れ。さればこそ其後万寿の歳までひさしくたもちて、さる臨終をも人にはきかれさせ給へ。

本云。
貞治六年六月廿五日以正本一校畢
               之盛
愚管抄(巻第四)

一条院は七にて位につかせたまひて、廿五年たもたせをはしまして、卅二にて寛弘八年六月廿二日かくれさせをはしましけり。六月十三日に御譲位、十九日御出家、御戒師慶円座主なりけり。三条院は卅六にて位につかせ給。御母は大入道殿の御むすめなれば、御堂は外舅さういなし。
一条院位につかせ給てのちに、三条院を東宮に立まいらせられけるこそ、いかなりけるにか。当今は七歳にて、いまだ御元服もなくて、寛和二年六月廿二日受禅 なり。東宮は十一歳にて、やがてその七月の十六日に御元服なりて東宮にたヽせ給。さて廿五年が間三条院は東宮にて、一条院の廿五年たもちて卅にてうせさせ 給ふ時、
三条院は卅六にてまちつけて位につかせ給にけり。それも五年、程なくて、御目にことありて位ををりさせ給て、次の年御出家ありけり。この次第いと++心ゑがたき事也。されども世の人の思ひならへることは、大入道殿すこしの御はたくしもなく、めでたくはからはせ給けるにや。
九条殿のめでたき願力にこたへて、冷泉院いできてをはしませど、天暦第一の皇子広平親王の外祖にて元方大納言ありけるが、この安子の中宮にをされまいらせ て、冷泉・円融など出き給て、広平親王はかいなき事にてありけるを、をもひ死にして悪霊となりにけるにや、冷泉院は御物怪によりて、中一年にてをりさせ給 ぬ。さて円融院の御方めでたけれど、花山院の御事などあさましと云もことをろかなり。その御弟にて三条院をはしますを、いたづらになしまいらせんとをもひ て、かヽるやうどもは出きけるにや。さて冷泉院・花山院はあやにくに御命ばかりは長++としてをはしましけり。
三条院の位の御時、御年六十二にて、冷泉院はうせさせ給はんとしけるに、行幸なるべきにてありけるを、御堂は「先参りて見まいらせ候はん」とてまいられた りけるに、見しらせ給はぬほどにならせ給にければ、「いまはいふかひなく候。猶御物のけのゆくゑもをそろしく候」とて、行幸をば申とゞめられにけり。さり ながら三条院弟の兄のあとをつがんやうに、天道の御はからひ、すこしもさふいなくて、
位五年の後をりさせ給ひにければ、後一条院はかはりて御践祚ありければ、九歳にてつがせ給へば、長和に宇治殿は、御堂の嫡子にて摂政になされ給にけり。こ の国母は又上東門院也。御堂の嫡女ぞかし。その後御堂は入道にて万寿四年まで立そいてをはしける。めでたさ申かぎりなし。
法成寺つくりたてヽ供養せられけるには、あまりに何もかも一つ御事にて、無興なるほどなれば、閑院の太政大臣公季の、九条殿の御子にて、年たかくしらがを ひてのこられたりけるを請じいだし申て、御堂は御出家の身にて法服をたゞしくして、一座につかせ給へりけるに、太政大臣にて摂籙臣なる宇治殿のかみにつけ られたりければ、相国の面目きはまりて、入道殿にはうしろをさしまかせてうるはしき着座、気色もなくて、宇治殿にむかひたる様にゐられたりけるをば、いみ じき事かなとこそ時の人申けれ。
一条院の御時、四納言とのヽしるぬきまだらもなき四人は、斉信・公任・俊賢・行成とて、四人大納言までにて、つゐに大臣にはゑならず。俊賢こそ、西宮左大 臣、延喜御子、一世の源氏にて、凡人になりて、ゆヽしき人なりける、その子にて侍ければ、その西宮左大臣ながされけることも大切なれば、この次に申べきな り。
村上皇子三人、安子の中宮の御腹に、第一は冷泉院、第二は為平親王、第三円融院なり。西宮左大臣は延喜の御子にて、やがて北方は九条殿の娘なり。かヽりけ ればこの高明左大臣のむすめを、為平王にはまいらせて、高明のむこにておはしましけるを、冷泉院即位のすなはち、あにの為平ををきて、おとヽの円融院を東 宮にたてヽおはします。これは康保四年九月一日と云めり。安和二年三月のころ、この左大臣高明謀反の心ありて、むこの為平をとをもひけるなるべし。冷泉院 ほどなく御物怪にて御薬しげヽれば、何となくたぢろきけるころにや。
左馬助源満仲、武蔵介藤善時など云、時の武士のさヽやき告けること出きて、三月廿六日に左大臣は左遷せられて、大宰権帥に成てながされければ、やがて出家 してけり。僧連茂・中務少輔橘敏延・左近衛大尉源連・前相模介藤千晴など、遠流にみなをこなはれにけりとしるせるは、此すぢに満仲なんどもかたらはれける にや、武士にてゆかりつヽかはれて、推知してつげ申たりけるにや、かヽること出きにけり。されど天禄三年五月にめしかへされにけり。これをば世の人のさた しけることは、ことに小一条左大臣師尹九条殿の子ども三人、小野宮の子どもヽ、この人にかくはしなしつるぞなどをもへりけるなるべし。それもいかゞはとが なからんをばさはあるべき。さてもわれやがて出家せられにけり。ねぶかくさをもふとも、しふべきことならねば、人もかくさたすなどをもいて、めしかへされ にけるなめり。
いまその子俊賢は又ことに+御堂にはしたしく候て、いささかもあしき意趣なかりけり。よき人になりぬれば、ひがことは思へれども、やがて思ひかへし、又む やくのあしき意趣などをふかくむすぶことをせぬなり。さてこそわれも人もをだきし正道とは云ことなれ。あやまれるをあらたむる善の、これよりをほきなるな しと云明文は、かやうのことなるべし。大方御堂の御世には、よろづの人その心のをはしけるありさまの、すく++と私なく、当時たゞよかるべきやうのほか に、又やうもなくはからいさだめをはしけるに、よろづ皆きヽて、人もなびき帰し申たりけるよと、あらはにみゆるなりける。
一の人もあるまじ。これを又かくみしりてもちいる臣家もあるまじ。かヽる器量どものあい++ぬる世を、などみざりけんとのみしのばるれども、さらに云かいなきすへの世なれば、思ひやるかたなし。
斉信は為光太政大臣子、公任は三条関白子、行成は一条摂政のむまご、義孝少将子なり。和漢の才にみなひでて、その外の能芸とり※※に人にすぐれたり。され ど宇治殿左大臣、小野宮実資右大臣、大二条殿内大臣にて、みなさしも命ながくておはしければ、力およばぬことにてありけるなるべし。
四納言さかりのとき、てる中将、ひかる少将と(て)、殿上人のめでたきありけるは、中将のてヽは兵部卿の宮、母はたかつかさ殿のあねにてありければ、御堂の御子になりて成信とぞなは申ける。少将はあきみつの左大臣の子なり。重家とぞ申ける。
この二人仗儀のありけるを立聞て、四納言の我も+と才覚をはきつつさだめ申けるを聞て、「われら成あがりなん後あれらがやうにあらんずるが、をとりては世 にありても無益なり。いざ仏道と云道のあんなるへいりなん」とて、かいなして、二人ながら長保三年二月三日出家して、少将入道は大原の少将入道寂源とて、 池上のあざりの弟子にて聞へたる人なり、中将入道は三井寺にて、御堂の御薨逝の時にも、善知識に候はれけるなどこそ申つたへたれ。とにもかくにもよきこと のみ侍りける世にこそ。
一条院は伊周のいもうとをはじめの后にて、最愛の女御にてをはしけるが、いつしか長保元年主上廿の御年にや、王子をうみまいらせたりけるは敦康親王なり。 三条院、老東宮にてをはしませば、御やまいをもくて卅二にてすでにうせなんとせさせ給ふに、東宮は卅六なれば、かヽるさかさまのまうけの君、当今御やまい まちつけてをはしませば、次の君はさうなし。その時この一条院の皇子東宮にたヽせ給べきことをおぼしめして、返々この一宮敦康親王をとをぼしめしけれど、 御堂の御むすめ上東門院もてなしめでたくて、すでに二人まで皇子うみて、後一条・後朱雀をはします間、はぎりをぼしめしわづらふて、行成は中納言にて、こ の一宮敦康王の勅の別当にてありけるを、御病のゆかへちかくめしよせて、東宮にはたれとか遺言すべきと、ふかくをぼしめしわづらいたるさまに仰合られける に、「さらに+思食わづらはるまじく候。二宮にをはすべきに候。さ候はでは、すゑあしきことにて一定為朝為君あしく候べし」とはからい申たりけるなり。二 宮と申ぞ後一条院にてをはします。この事後ざまにもれきこへて、行成まめやかにめでたき人なりとぞ世二も云ける。
いかにも+叡慮にこの趣ふかくきざして、御堂の御事などその時はさてはしませども、伊周ながされなどしてあるも、とがはちからをよばねども、あしき事のみ ゆきあいつヽ、御心もとけざりければ、さやうの御告文どもヽありけるにや。御堂と云誠の賢臣その世にをはせずは、あやうかるべかりける世にや。
大方この一条院の御時、世の中の一つぎめにて、一蔀の運いかにも+ あるべかりけるにや。寛和二年七にて御位の後、次年号永延三年六月下旬に、彗星東西の 天にみへけるより、八月に改元、永祚の風さらにをよばぬ天災なり。一年にて次の年正暦にかはりて、山門に智証・慈覚門人大事いできて、智証門徒千光院みな はらいはてたり。正暦五年、長徳元年つゞきて、大疫癘をこりて都鄙の人をほく死にけり。中にも長徳元年に八人まで人のうせたる事、むかしも今もなき事なれ ば尤あざやかにしるし侍るべし。
大納言朝光 前左大将。三月廿八日、年四十五にてうせけるより、
    関白道隆 四月十日、四十三。
    大納言左大将済時 同廿三日、五十五。
    関白右大臣道兼 右大将、五月八日、卅四、末避大将云云。
    左大臣源重信 同日、七十四。
    中納言保光 同日、七十三、もヽそのヽ中納言、中務の代明親王子なり。
    大納言道頼 六月十一日、(廿)、道隆関白二男也。山井大納言と云。
    中納言右衛門督源伊渉 十一月(日)、五十九。
年の内にかくうせにけり。さて次に長保とかはる。又寛弘とこの長保に、上東門院入内之後、寛弘に最勝講などはじめをかれて後、御堂又まじり物もなく世ををさめ給て、世はひしと落居にけるとみゆ。
この八人うせたる人は、皆時にとりてよくもなかりける人にこそ。しげのぶ公などは七十にをほくあまりにければ、沙汰にをよばず。中関白はあさみつ・なりと きの二人左右大将と、あけくれ酒もりよりほかのこともなくてすぎられけり。僧の極楽浄士のめでたき由ときけるを聞て、極楽いみじくとも、朝光・済時はよも あらじ。これなくはつれ※※なりなんといはれけるなどこそはかたりつたへたれ。
大方彗星と云変は、世のよくならんずるゆへによくならんとてをこる災のかならずあるを、あらはす変にやとぞ心ゑられ侍る。天変も何も智恵ふかヽらん人よく 案じ思ひあはすべき事にて侍るなり。かやうの物語の、しかも人の利口、そら事ならぬは、をり++にいくらともなし。四納言がこへあいけるやうなんども、よ き物語どもなれど、さのみはかきつくしがたし。又用じもなき事なり。たゞ事のふし※※にまめやかになりて、このまこと共を聞ては、この上のさとりをひらく 縁となりぬべき事どもを、かきつけはべるなり。
後一条院廿年、後朱雀院九年、この二所は、上東門院の御腹にてをはしませばさうなし。
さて一条院のきさきに、顕光大臣のむすめをまいらせられたるは、皇子をもゑうまず。さて三条院の御子、東宮にたて給ひたるは小一条院なり。この東宮の女御 に、又顕光大臣のむすめをまいらせたりけるが、東宮の、一条院の御子に、後一条・後朱雀など出き給にしうへは、我御身もてあつかはれなんとをぼしめして、 東宮を辞して院号を申て、小一条院と申てをはしましける。御有心めでたくて、御堂これをいとをしみもてなし申されけるあまりに、むこにとりまいらせられけ れば、もとの女御、顕光のをとゞのむすめ、ゑまいらぬやうにならせ給けるを、心うくかなしく思ひながら、なぐさめ申さんとて我むすめに、「世のならひに候 へば、なげかせ給そ」など申されければ、物も仰せられずして、御火をけにむかいてをはしけるが、火をけの火の、灰にうづもれりけるが、しはり+となりけ る。涙のをちさせ給いけるが、火にかヽりてなりけるよとみて、あな心うやとかなしみふかくて、やがて悪霊となりにけりとぞ人はかたり侍るめる。さもありぬ べき事なり。されば御堂の御あたりには、この霊はやう++にこともありけれども、さまでの大事はゑなきにや。これらは御堂の御とがとや申べからんなれど、 これまでもすこしも我あやまちにはまらず。たゞ世の中のあるやうが、かくてよかるべくて、なりゆくとぞ、うら++とこそは御堂はをぼしめしけんを、あさく をもいて悪霊もいでくるなるべし。後朱雀院、東宮にかはりいて、其御子に後冷泉院は、又御堂のをとむすめ内侍のかみにてまいらせられたりけるがうみまいら せられたりければ、さうなきことにて、やがて位につかせ給にけるなり。顕光は悪霊のをとヽとて、こわき御物のけどもにてありける。
さて後冷泉又廿三年までたもたせ給ひければ、宇治殿は後一条・後朱雀・後冷泉三代のみかどの外舅にて、五十年ばかり執政臣にてをはしけり。
後冷泉のすゑに、摂籙を大二条殿と申は教通、宇治殿の御をとヽなり。てての御堂もよき子とをぼして、宇治殿にもをとらずもてなされけるが、年七十にて左大 臣なりけるを、わが御子には通房の大将とてかぎりなくみめよく人もちいたりける御子の、廿にてうせられにけるのち、京極の大殿師実はむげにわかき人にてあ りけるに、こされむ事のいたましくをぼさるヽほどの器量にて大二条どのありければ、ゆづらせ給ひけるを、よの人宇治どのヽ御高名、善政の本体とをもへりけ り。
さて後三条は後冷泉の御をとヽなれど、御母は陽明門院なり。この女院は三条院の御むすめ、御母は御堂の二のむすめなりけれども、すこしのきなりけり。後冷 泉のきさきに、宇治殿の御むすめ四条宮と申をまいらせられけるが、王子をついにうみまいらせられぬによりて、そのヽちも一の人のむすめきさきにはたちなが ら、王子をうませたまはで、久しくたゑたりけり。
さて後朱雀の御やまいをもくて、後冷泉に御譲位ありけることを、宇治殿まいりて申さたしてたヽせ給けるに、後三条の御事のなにともさたもなかりけるに、御 堂をと子の中に能信の大納言といふ人ありけり。閑院の公成中納言のむすめを子にしてありけるを、後三条のきさきにはまいらせたる人なり。宇治殿たヽせ給け るあとにまいりて、「二宮御出家の御師の事なり。この次にをヽせをかるべくや候らん」と申たりければ、「こはいかに。二宮は東宮にたヽんずる人をば」と勅 答ありけるをきヽて、「さてはけふその御さた候はで、いつかは候べき」と申たりければ、「まことに思わすれて、やまいをもくて」とをほせられて、宇治殿め し返して、譲位の宣命に皇太子のよしのせられにけり。能信をば閑院東宮大夫とぞ申す。この申やうこそふかしぎなれと人をもへり。白川院のつねに能信をば、 「故東宮大夫殿をはせずは、我身はかヽる運もあらましや」とをほせられけるには、かならず+ 殿の文字をつけてをほせられけり。やむごとなき事也。
さて世のすへの大なるかはりめは、後三条院世のすゑに、ひとゑに臣下のままにて摂籙臣世をとりて、内は幽玄のさかいにてをはしまさん事、末代に人の心はを だしからず。脱 のヽち太上天皇とて政をせぬならひはあしきことなりとをぼしめして、かた※※の道理さしもやはをぼしめしけん。くはしくはしらねども、道 理のいたりよも叡慮にのこることあらじ。昔は君は政理かしこく、摂籙の人は一念わたくしなくてこそあれ。世のすへには、君はわかくて幼主がちにて、四十二 にあまらせ給はきこへず。御政理さしもなし。宇治殿などはをほくわたくしありとこそは御覧じけめ。太上天皇にて世をしらん、当今はみなわが子にてこそあら んずればとをぼしめしける間に、ほどなくくらひををりさせ給て、延久四年十二月八日御譲位にて、同五年二月廿日住吉詣とて、陽明門院ぐしまいらせて、関白 御ともして、天王寺・八幡などへまいりめぐらせたまいけり。住吉にて和歌会ありて、御製には、
    いかばかり神もうれしと思らんむなしき船をさしてきたれば
とありけり。
その中に経信の歌に、
をきつ風ふきにけらしな住吉の松のしづゑをあらうしら浪
とよめるはこのたびなり。
さて同四月廿一日より御悩大事にて、五月七日御とし四十にてうせさせ給にけり。
かゝる御心のをこりけるも、君の御わたくしやをほかりけん。我御身はしばしも御脱 のヽち世をばをこなひ給はず。事のだうりは又世のすゑには尤かヽるべければ、白川院はうけとらせをはしまして、太上天皇のヽち七十七まで世をばしろしめしたりけり。
後三条院の位の御時、公卿の勅使たてられけるに、震筆宣命をあそばして、御侍読にて匡房江中納言はありけるに、みせさせをはしましけるに、ひがことせずと 云よしあそばしたりける所を、よみさしてありければ、いかに+ ひが事したる事のあるかと仰られけるを、かしこまりて申さヾりければ、たヾいへ++とせめ 仰られければ、「実政をもちて隆方をこされ候しことはいかヾ候べからん。をぼしめしわすれて候やらん」と申たりければ、御顔をあかめて、告文をとりて内へ いらせ給ひにけり。
これは東宮の御時、実政は東宮学士にて祭の使してわたりけるを、隆方がさじきをして見けるが、たからかに「まちざいはいのしらがこそ見ぐるしけれ」と云た りけるをきヽて、まつりはてヽいそぎ東宮にまいりて、「まさしく隆方がかヽる狂言をこそきヽ候つれ」と申たりけるを、きこしめしつめて、位の後御まつりこ とに、隆方は右中弁なりけるに、左中弁あきたるにすぐにこして、実政を左中弁にくはへられたりけるなり。これを世の人、実政はいかでか隆方をこへんと思ゑ りける事を申たりけりとこそ世の人申けれ。
又我御身に仰られけるは、隆国が二男隆綱が年わかくて、をやばかりの者どもをこへて、宰相中将にてある事は、宇治殿(の)まつりことゆヽしきひがことヽを もいし程に、大神宮のうたへ出きて、神宮の辺にてきつねをいたることありけるさだめに、参議の末座にまいりて、定め文当座にかきけるに、射たれども射殺た りと云ことはたしならず、そのつみはいかヾなんど申人々ありけるを、雖聞飲羽之由、未知丘首之実とかきたりけるを御覧じては、かぎりなくほめをぼしめし て、「隆綱が昇進過分なりと思ひしはひが事なりけり。かう程の器量の者にて有けるとこそしらね。道理なりけり」とこそ仰られけれ。大方理非くらからぬ君 は、かくひがことヽをぼしめすをも、またかくこそ仰ことありけれ。礼記文にきつねしぬるときは、つかをまくらにすと云ふこと、又将軍はをのましむる威など 云ことを、文章ゑたる者は思ひ出あはせて、やす++とかきあらわしたる事を、世の人しありがたき事とをもへりけりとぞかたるめる。
大方は宇治殿をばふかく御意趣どもありけるにやとぞ人は思ひならひたる。そのゆゑは、後朱雀院のきさきにて、陽明門院をはしますは、三条院の御むすめ、御母は御堂の二女なり。それに後に一条院の御子の式部卿宮敦康親王の御むすめは、御母は具平親王の御女なり。
宇治殿は具平親王のむこにとられて、その御むすめ北政所にてをはしましけれど、ついにむまずめにて、御子のいでこざりければ、進の命ぶとて候ける女房をを ぼしめして、をヽくの御子うみたてまつりけるを、いたくねたませ給て、はじめ三人をば別の人の子になされにけり。はじめの定綱をば経家が子になされにけ り。大はりまのかみと云は定綱なり。つぎの忠綱をば大納言信家の子になされにけり。忠綱は中宮亮になされにけり。第三の俊綱をば讚岐守橘俊遠子になされた る。ふしみの修理大夫俊綱と云名人これなり。
大はりま定綱がむこに花山院の家忠のをとヾはなりて、花山院はつたへられたるなり。花山院は京極の大殿の家にてあるを、定綱御所つくりてまいらせたりける かはりに、花山院をばたびたりけるなり。ふるき家たヾ一のこりて、花山院とてあるなり。大原長宴僧都葉衣の鎮したる家なり。
さて通房大将うせて後、命婦腹に京極の大殿は小わらはにてをはしけるを、北政所「さる者ありとこそきけ。それをとりよせよかし」といわれければ、ゆるされかふむりてよろこびてむかへよせて、我子にはあらわれて家つがせ給たる也。
通房の母は為平親王の子に、三位にて右兵衛督憲定と云人のむすめ也。それをば北政所もまめやかに御子なければゆるして、なのめならぬみめよしにて、もてなされけるがうせて、
京極大殿と云運者又殊勝の器量にて、白河院をり居の御門にて、はじめて世をおこなはせ給に、あい++まいらせてめでたくある也。
さてその敦康の親王の御むすめは、御堂の四の御むすめ、御堂の御存日に十九にて後冷泉院をうみまいらせて後うせさせたまいにけり。
後に陽明門院は又中宮とてをはしますを、やがて皇后宮にあげて、敦康王のむすめ嫄子を中宮になして、陽明門院をば内裏へもいれまいらせられざりけり。この 中宮もをぼへにてひめみや二人うみてをわしましけれども、中一年にて程なくこの中宮うせさせ給にければ、其後こそ又陽明門院は、禎子とぞ申、かへりいらせ をわしまして侍りけれ。
かやうのゆへは、この敦康の親王の母は、道隆の関白のむすめにて、たヾの親王にて位は思もよらず。されど御前にては、又具平親王の御むすめにてありけれ ば、宇治殿の北政所をば高倉の北政所と申にや、あさましく命ながくてむごまでをはしけり。この北政所の弟にて、このあつやすのごぜんにてをはしければ、そ の御むすめにて嫄子の中宮はをはしますによりて、宇治殿の子にして姓も藤原氏の中宮にて、入内立后もありけるなり。かくあればにや、後三条院の、陽明門院 の御母なるを、後冷泉院に譲位の時なにとなくてありけるに、
能信がふとまいりて、御出家の御師と申事は、
又御堂の御子の中にこの能信を陽明門院の御うしろみにつけてをはしましけり。女院の御母、御堂の御むすめなれば、女院皇后宮の時の大夫にて、やがてこの御腹の王子、後三条院の御うしろみにてありけるが、
御元服の時よのすけもなくて、春宮御元服あれど、女御にはまいらせたりけるなり。九条殿の子孫摂籙のかたをはなれて、閑院のかたざまに継ていのきみのならせ給ふはじめばかりこそみゆれ。このゆへに能信はさは申て申えたりけるなり。
かやうなる事にて宇治殿は、てヽの御堂をほくの勧賞どもありけるを、能信にもたびたりけるが、すこし昇進しにくき事書たりけるには、御堂にむかいらせて、 能信もきヽけるに、「御子なればとてすゑずゑまで御勧賞などをたび候ときに、かヽるはづらいも候ぞかし」と、をとヽの事をその座(に)をきて、てヽ(の) とのに申されければ、御堂は物も仰られざりけりなど云つたへたることにて侍れば、かやうのことヾもの下につよくこもりたりけるなり。
さればとてもまたぞをろかならずあしきこともなかりけり。されば又後三条院もよく++人々の器量をも御覧じつヽ、終には京極大殿には、むすめ白河院のきさ きにまいらせさせて、をだしくてこそは侍れ。その賢子の中宮を、白河院東宮の御時よりをぼしめしたりける。をぼゑがらのたぐひなく、無二無三の御ことに て、とかく人云ばかりなくめでたかりける間に、二条殿の子の信長太政大臣などの方ざまゑや、うつらんずらんなど人思ひたりけるも、さもなき事にてやみにけ るなり。
この後三条位の御時、延久の宣旨斗と云物さたありて、今まで其を本にして用ひらるる斗まで御沙汰ありて、斗さしてまいりたれば、清涼殿の庭にてすなごを入 てためされけるなんどをば、「こはいみじきことかな」とめであふぐ人もありけり。又、「かヽるまさなきことは、いかに目のくるヽやうにこそみれ」など云人 もありけり。これは内裏の御ことは幽玄にてやさ++とのみ思ひならへる人の云なるべし。
延久の記録所とてはじめてをかれたりけるは、諸国七道の所領の宣旨官符もなくて公田をかすむる事、一天四海の巨害なりときこしめしつめてありけるは、すな はち宇治殿の時二の所の御領+とのみ云て、庄園諸国にみちて受領のつとめたへがたしなど云を、きこしめしもちたりけるにこそ。さて宣旨を下されて、諸人領 知の庄園の文書をめされけるに、宇治殿へ仰られたりける御返事に、
    「皆さ心ゑられたりけるにや、五十余年君の御うしろみをつかうまつりて候し間、所領もちて候者の強縁にせんなど思つヽよせたび候ひしかば、さにこ そなんど申たるばかりにてまかりすぎ候き。なんでう文書かは候べき。たヾそれがしが領と申候はん所の、しかるべからず、たしかならずきこしめされ候はんを ば、いさゝかの御はヾかり候べきことにも候はず。かやうの事は、かくこそ申さたすべき身にて候へば、かずをつくしてたをされ候べきなり」と、
さはやかに申されたりければ、あだに御支度さういの事にて、むごに御案ありて、別に宣旨をくだされて、この記録所へ文書どもめすことには、前太相国の領をばのぞくと云宣下ありて、中++つや++と御沙汰なかりけり。この御さたをばいみじき事哉とこそ世の中に申けれ。
さて又当時氏の長者にては大二条殿をはしめけるに、延久のころ氏寺領、国司と相論事ありける。大事にをよびて御前にて定のありけるに、国司申かたに裁許あ らんとしければ、長者の身面目をうしなふ上に神慮又はかりがたし。たヽ聖断をあをぐべし。ふして神の告をまつとて、すなはち座をたゝれにけり。藤氏の公卿 舌をまき口をとぢてけり。其後やましな寺に如本裁許ありければ、衆徒さらに又長講はじめて国家の御祈しけりと、親経と申し中納言、儒卿こそさいかくの物に てかたりけれ。解脱房と云しひじりも説経にしけるとかや。宇治殿のゆづりをゑて、ことにきかれたてまつらんなどをもはれけるにや。又ある日記には、延久二 年正月、除目終頭、関白攀縁、起座敷出殿上、此間事止数剋、依頻召帰参云云。なに事ゆへとはなけれども季綱ゆげいのすけになりける事にや。
世間のさたかやうにうちききて、宇治殿は年八十に成て宇治にこもりいて、御子の京極の大殿の左大臣とてをはしけるを、「内裏へ日参せよ。さしたることなく とも、日をかヽずまいりてほうこうをつむべきぞ」とをしへ申されければ、そのまヽにまいりて殿上に候て、いで++せられけるに、主上はつねに蔵人をめし て、「殿上にたれ++か候+ 」と、日に二三度もとはせをはしましけるに、たびごとに、「左大臣候」と申て、日ごろ月ごろろになりけるほどに、ある日の夕 べに御たづねありけるに、又、「左大臣候」と申けるを、「これへといへ」とをほせのありければ、蔵人まいりて、「御前のめし候」と申ければ、「めづらしき 事かな。何ごとをほせあらんずるにか」とをぼして、心づくろいせられて御裳束ひきつくろいてまいられたりければ、「ちかくそれへ」と仰られて、なにとなき 世の御物がたりどもありて、夜もやう++ふけゆきけるをはりつかたに、「むすめやもたれたる」と仰いだされたりければ、「ことように候めのわらは候」と申 されける。
わがむすめはなかりけるを、師房の大臣の子の顕房のむすめを、ちの中より子にしてもたせたまへりける也。宇治殿は後中書王具平のむこにて、その御子土御門 の右府師房を子にしてをはしけり。このゆかりにて、宇治殿の御子にして、師房をもその子の仁覚僧正と云山の座主も、一身あざりになしなどしてをはしけり。 又ことにはやがて京極殿は、土御門右府師房の第三のむすめを北政所にしてをはしければ、顕房のむすめは北政所のめいなれば、子にしてをほしたて給ひけるな り。かやうのゆかりにて、源氏の人++もひとつになりてをはしけるゆへに、そのむすめをひとへに我子にはしてをはするなりけり。
これをきこしめして、「さやうのむすめもたらば、とく++東宮へまいらせらるべきなり」と仰られけるを、うけ給はりかしこまりて、やがて御前をたちて、世 間もをぼつかなかりつるに、いまはひしと世はをちいぬること、いそぎ宇治殿にきかせまいらせんとをぼして、内裏より夜ふけてやがて宇治へいられければ、 「人はしらせてうぢのかけかへの所々へ、ひきかへの牛まいらせよ」とて、宇治へをもむかせ給けり。身もたへ心もすくよかなるほどをしはかられてありける に、
うぢには又入道殿は小松殿といふ所にをはしけるが、なにとなく目うちさまして、「心のさはぐやうなる」とて、御前に火ともして、「京の方になにごとかある らん」などをほせられければ、その時まで宇治のへんは、人も居くろみたるさまにてもなくて、こはた岡のやまでもはる※※とみやられてありけるに、人まいり て、「京の方より火のをヽくみへ候」と申ければ、あやしみをもへるに、「よくみよ」と仰られけるほどに、「たヾをほにをほくなり候て、宇治の方へもふでき 候」と申ければ、「左府などのくるにや。夜中あやしきことかな」とて、「よくきけ。みよ」などをほせられけるほどに、随身のさきのこへかすかにしければ、 かう++と申ければ、さればよとをぼして、「火しろくかヽげよ」など仰られてありけり。随身のさきはみな馬上にて、みなかやうのをりはをふことなり。魔縁 もをづることぞなどいひならへるなるべし。
さていらせ給を御覧ずれば、束帯をたヽしくして御前にまいりていられければ、いかにもことありとをぼして、「いかに+何事ぞ」と仰られければ、
「日ごろをほせのごとく参内日をかヽずつかうまつり候つるほどに、このゆうかた「御前のめし候」と蔵人きたり申候つれば、まいりて候つるほどに、こまやか に御物がたりども候て、「むすめあらば東宮へとくまいらせよ」と云勅定を眼前にうけ給候つれば、いそぎまいりて申候なり」と申されければ、
これをきかせ給て、宇治殿はさうなくはら++と涙をおとして、「世中をぼつかなかりつるに、あはれなをこの君はめでたききみかな。とく++いでたちてまいらせられよ」とて、ひし++とさたありて、
東宮と申は白河院なり、東宮の女御にまいらせられにけり。くらいにつかせ給ては、中宮と申、立后ありて、いまに賢子の中宮とて、ほりかはの院の御母これな り。ひとへに一の人の御子のきさきの例にけふまでももちいれども、又源氏之むすめにて、ほりかはの院の位の御ときは、近習にてはこの人++をほく候はれけ り。
後三条の聖主ほどにをはします君は、みな事のせんのすゑ※※にをちたヽんずる事を、ひしと結句をばしろしめしつヽ御さたはある事なれば、摂籙 の家関白摂政をすヾろににくみすてんとは何かはをぼしめすべき。たヾ器量の浅深、道りの軽重をこそと(を)ぼしつヽ、御沙汰はある事なるを、
すゑざまには王臣中あしきやうにのみ近臣愚者もてなし+ しつヽ、世はかたぶきうするなり。王臣近臣、世にあらん緇素男女、これをよく++心うべき也。内 ++のすゑざまの人の家のをさむるやうも、たヾをなじことにて、随分+にはある事ぞかし。さればけふまでも大むねはたがふ事なし。その中の細なりの事は、 みな人の心による事なるを、末代ざまはその人の心に物の道りと云ものヽ、くらくうとくのみなりて、上は下をあはれまず、下は上をうやまはねば、聖徳太子い みじくかきをかせ給ふ十七の憲法もかいなし。それを本にして昔よりつくりをかれたる律令格式にもそむきて、たヾうせに世のうせまかる事こそ、こはいかヾせ んずるとのみかなしき事なれども、猶百王までたのむ所は、宗廟社稷の神++の御めぐみ、三宝諸天の利生なり。この冥衆の利生も、又なかばヽ人の心にのりて こそ、機縁は和合して、事をばなする事にて侍れ。
それも心ゑがたくふかしぎの事のみ侍るべし。その中にこの白河法皇御位の後、この賢子中宮にいかでか王子をうませ給べきとふかくをぼしめして、時にとりて 三井の門徒の中に頼豪あざりと云たうとき僧ありければ、この御祈を仰つけて、成就したらば勧賞は申さんまヽにと仰ありけるに、心をつくしていのり申されけ るほどに、をぼしめすまヽに王子をうみまいらせられたりければ、頼豪よろこびて、「この勧賞に三井寺に戒壇をたてヽ、年(としごろ)の本意をとげん」と申 けるを、
「こはいかに、かやうの勧賞とやはをぼしめす。一度に僧正にならんとも云やうなる事こそあれ、これは山門の衆徒訴申て、両門徒のあらそい、仏法滅尽のしるしをば、いかでかをこなはれん」とて勅許なかりければ、
頼豪、「これを思てこそ御祈はして候へ。かない候まじくは、今は思ひ死にこそ候なれ。しに候なば、いのり出しまいらせて候王子は、とりまいらせ候なんず」 とて、三井に帰り入て、持仏堂にこもり居にけり。これをきこしめして、「匡房こそ師檀のちぎりふかヽらんなれ。それしてなぐさめん」とて、匡房をめしてつ かはされければ、いそぎ三井寺の房へゆきむかひて、「まさふさこそ御使にまいりて候へ」とて縁にしりをかけてありけるに、持仏堂のあかり障子ごまのけぶり にふすぼりて、なにとなく身の毛だちてをぼへけるに、しばしばかりありて、あららかにあかり障子をあけて出たるをみれば、目はくぼくをちいりて面の性もみ へず。しらがのかみながくをほして、「なんでう仰の候はんずるぞ。申きり候にき。かヽる口惜しき事はいかでか候らん」とてかへりいりにければ、匡房も力を よばでかへり参て、このよし奏しける程に、頼豪ついに死て、ほどなく王子又三歳にならせ給ふ、うせをはしましにければ、このうへはとて山の西京座主良真を めして、「かヽることいできたり。いかヾせんずる。たしかに又王子いのりいでまいらせよ」と勅定ありければ、「うけ給り候候ぬ。我山三宝山王大師御力、い かでかこのうへはをよばで候はん」と申て、堀川院はいできさせおはしまして御位にはつかせ給て、やがて鳥羽院又出きおはしまして継体たえずをはしますな り。この事はすこしもかざらぬまことどもなれば、山法師は一定をもふところふかヽらんかし。
鳥羽院践祚の時、御母は実季のむすめなり。東宮大夫公実は外舅にて摂籙の心ありて、
「家すでに九条右丞相の家にて候。身大納言にて候。いまだ外祖外舅ならぬ人、践祚にあひて摂籙すること候はず。さ候はぬたび++は大臣・大納言などにその 人候はぬ時こそ候へ」と白川院にせめ申けり。わが御身も公成のむすめの腹にて、ひきをぼしめす御心やふかヽりけん。をぼしわづらいて御案あらんとやをぼし めしけん。御前へ人のまいる道を三重までかけまはして、御とのごもりけり。
その時けふすでにその日なり。いまだもよをしなんどもなし。こはいかにとをどろき思て、その時の御うしろみ、さうなき院別当にて俊明大納言ありければ、束 帯をたゞしくとりさうぞきてまいれりける。御前ざまの道みなとぢたりければ、こはいかにとてあららかに引けるをうけ給りて、かけたる人いできて、かう++ といひければ、「世間の大事申さんとて俊明がまいるに、猶かけよと云仰はいかでかあらん。たヾあけよ」といひければ、みなあけてけり。ちかくまいりてうち しはぶきければ、「たそ」ととはせ給に、「俊明」となのりければ、「何事ぞ」とおほせありければ、「御受禅の間の事いかに候やらん。日もたかくなり候へ ば、うけ給りにまいり(候)。いかヾ」と申ければ、「その事なり。摂政はさればいかなるべきぞ」とおほせありて、「無左右如元とこそはあるべけれ」とおほ せられけるを、たか※※とさうなく称唯して、やがてそくたいさやはらとならしてたちければ、そのうえをゑともかくもをほせられず。やがて殿下にまいりて、 「例にまかせてとくをこなはれ候べきよし御気色候」と申て、ひし++とをこなはれにけり。
如元とこそはあるべけれども、「公実が申やうは」などをほせられんとをぼしめしけるを、あまりに、こはいかにあるべくもなきことかなとかざどりて、
「いかでかさる事候べき」とをおいけるにや。九条の右丞相の子なれども、公季をもひもよらで、その子むまご実成、公成、実季と五代までたゑはてヽ、ひとえ の凡夫にふるまいて代々をへて、摂政にはさようの人のいるべきほどのつかさかは。さる事は又むかしもいまもあるべきことならずと、親疎、遠近、老少中年、 貴賎、上下、思ひたることを、いさヽかもをぼしめしはづらふはあさましきことかなと思けるなるべし。
さりとて又公実がらの、和漢の才にとみて、北野天神の御あとをもふみ、又知足院殿に人がらやまとだましいのまさりて、識者も実資などやうに思はれたらばや あらんずる。たヾ外舅になりたるばかりにて、まさしき摂籙の子むまごにだにへぬ人こそをおほかれ。いかに公実もさほどには思ひよりけるにか、又君もおぼし めしわづらふべき程のことかはにて、この物語はみそか事にて、うちまかせてよの人のしりてさた(す)る事にては侍らぬなめり。されどせめて一節を思て家を おこさんと思はんも、我身に成ぬれば誠に又大臣・大納言の上臈などにて、外祖外舅なる人の摂籙の子むまごなるが、執政臣にもちいられぬことは一度もなけれ ば、さほどにも思よりけるにや。あまねき口外にはあらねどもかくこそ申つたへたれ。
白河院は堀川院に御譲位ありて、京極の大殿は、又後二条院に執政ゆづりてをはする程に、堀川院御成人、後二条殿又事のほかに引はりたる人にて、世のまつりこと、太上天皇にも大殿にも、いとも申さでせらるヽ事もまじりたりけるにやとぞ申すめる。
白川院御むすめに郁芳門院と申女院をはしましけるが、云ふばかりなくかなしふをもいまいらせられけるに、猶三井の頼豪が霊のつきて、御ものヽ気のをこりけ るを、三井の増誉、隆明などいのり申けれどかなはざりければ、山の良真をめして、中堂の久住者二十人ぐして参りて、いみじく祈やめまいらせて、よろこびを ぼしめしける程に、にはかにうせさせ給にけり。をどろきかなしみて、やがて御出家ありけるに、
ほりかはの院うせ給てける時は、重祚の御心ざしもありぬべかりけるを、御出家の後にて有りければ、鳥羽院をつけまいらせて、陣の内に仙洞をしめて世をばを こなはせ給にけり。光信・為義・保清三人のけびいしを朝夕に内裏の直(とのゐ)をばつとめさせられけるになん。そのあいだにいみじき物がたりどもあれど も、大事ならねばかきつけず。
くらいの御時三宮輔仁親王をおそれ給けるなどいへり。行幸には義家・義綱などみそ(か)に御こしの辺、御後につかうまつらせられければ、義家はうるはしくよろいきてさぶらいけりなどこそ申すめれ。
さてほりかはの院の御時、山の大衆うたへして日吉の御こしをふりくだしたりける。返+ きくはいなりとて、後二条殿さたして射ちらして神輿にやたちなどしてありけり。友実といふ禰宜きずをかふむりなんどしたりければ、そのたヽりにて後二条殿はとくうせられにけり。
仁源理智房のざすといふは兄弟なり。をほみねなどとほりて、世にしるしあるものなれば、いのられけるに、「いで++やめみせん」とて、よりましがふところ よりくろ血をふた++ととりいだしたりければ、あらたなることにて、をそれをなしてのちは、理智房のざすもいのられずなりて、ついにうせ給にけるとぞ申つ たへたる。
されば京極の大殿こそかへりならるべきを、二条どのヽ子にて知足院どのヽ大納言にてをはしけれに、内覧の宣旨をくだして藤氏の長者にて、関白もなくて堀河の院のほどはありけるなり。すゑになりて長治にぞ関白の詔くだりたりける。
さてすゑざまに鳥羽院十六年のヽちに、崇徳院に御譲位ありて、ひヽ子位につけて御覧ずるまで、白河院はをはしまして、大治に七十七にてぞ崩御ありける。
白河に法勝寺たてられて、国王のうぢでらにこれをもてなされけるより、代々みなこの御願をつくられて、六勝寺といふ白河の御堂、大伽藍うちつづきありけ り。ほりかはの院は尊勝寺、鳥羽院は最勝寺、崇徳院は成勝寺、近衛院は延勝寺、これまでにてのちはなし。母后にて待賢門院、円勝寺をくわゑて六勝寺という なるべし。
さて大治のゝち久寿までは、又鳥羽院、白河院の御あとに世をしろしめして、保元元年七月二日、鳥羽院うせさせ給て後、日本国の乱逆と云ことはをこりて後むさの世になりにけるなり。
この次第のことはりを、これはせんに思てかきをき侍なり。城外の乱逆合戦はをほかり。日本国は大友王子、安康天王なんどの世のことは、日記もなにも人さた せず。大宝以後といヽてそのヽちのこと、又この平の京になりてのヽちをこそさたすることにてあるに、天慶に朱雀院の将門が合戦も、頼義が貞任をせむる十二 年のたヽかいなどいふも、又隆家の帥のとういこくうちしたがふるも、関東・鎮西にこそきこゆれ。まさしく王・臣みやこの内にてかヽる乱は鳥羽院の御ときま ではなし。かたじけなくあはれなることなり。
この事のをこりは、後三条院の宇治殿を心ゑずをぼしめしけるよりねはさしそめたるなり。されどそれは王・臣ともにはなれたることはなし。めでたく上も下もはからいこヽろゑてこそをはしませ。
それに白河院の、鳥羽院位のはじめに、きさきだちあるべきに、知足院どのヽむすめをまいらせよとをほせありけるを、かたくじヽてまいらせられざりけり。人 これを心ゑずをもいけり。これをすいするに、鳥羽の院は、をさなくをはしましけるとき、ひあいなる事などもありて、たきぐちが顔に小弓の矢いたてなどせさ せ給と人をもへりけるを、(お)それ給けるにやどぞ人は申ぬる。又公実のむすめを御子にしてもたせ給ひたりけるをば、法性寺殿にむことらんとをぼしめし て、すでにそのさたありけるほどに、日次などゑらばるヽにをよびたりけるが、しかるべくてさはりをほくいでき+ して、いまだとげられざりけるほどに、知 足院殿の、むすめをゑまいらせじと申されけるに、あだに御腹だちて待賢門院をば法性寺殿の儀をあらためて、やがて入内ありけるとぞ。
とばの院はあやにくにをとなしくならせをはしましては、ことにめでたき御心ばへの君にをひなりてこそはをはしましけれ。さて白河院はかの公実のむすめをと りて御子にしてもたせ給りけるを、鳥羽院に入内立后してをはします。待賢門院と申これなり。その御腹に王子いくらともなし。はじめは崇徳院、次二人はなゑ みや、目みやとて、をひもたヽでうせさせ給ぬ。さて崇徳院くらいにつきてをわしましけり。四宮、五宮みな待賢門院の御はらなり。
さて白河院の御時、御くまのもうでといふことはじまりて、たび++まいらせをはしましけるに、いづれのたびにか、信をいだして宝前にをはしましけるに、宝 殿のみすの下よりめでたき手をさしいだして、二三どばかりうちかへし+ してひき入にけり。ゆめなんどにこそかヽることはあれ。あざやかにうつヽに、かヽ る事を御らんじたりけるを、あやしみをぼしめして、みこどもをほかりけるに、何となくものをとはれければ、さらに+げに++しき事なし。それによかのいた とて、くまのヽかうなぎの中にきこへたる物ありけり。みまさかの国のものとぞ申ける。それが七歳にて候けるに、はたと御神つかせ給たりける。世のすゑには 手のうらをかへすやうにのみあらんずることを、みせまいらせつるぞかしと申たりけるが、かヽるふしぎをも御らんと御覧じたりける君なり。
それに保安元年十月に御くまのまうでありけるとき、その間に鳥羽院御在位のすゑつかたに、関白にてをはしける智足院殿のむすめを、なを入内あれとうちの御 心よりをこりてをほせられけるを、うち++によろこびていでたヽせ給ひけることいできたりけるを、くまのへあしざまき人申たりけるに、はたと御はらを立 て、わがまいらせよと云しには方をふりてじヽて、われにしらせでかくするとをぼしめしてけり。さて御帰洛のすなはち、知足院どの当時関白なるをはたと勅勘 ありて、十一月十三日に内覧とヾめて閉門せられにけり。
さて摂籙の臣をかゑんとをぼしめしけるに、大方その人なし。花山院左府家忠、京極殿の子にて、大納言の大将にて、さもやとをぼしめして顕隆にをほせあはせ ければ、「いなりまつりのさじきの事は」と申たりけりなどきこゆ。家忠の子忠宗中納言は、顕季卿が子の宰相がむこなり。かやうのゆかりにてそのとき顕季、 家保などあつまりて、さじきにてさかもりして、さしかよはされたるなど人そしりけることなり。これは一定はしらねども、かくぞ申める。すこしもさやうなら ん人の、すべき事にてはこの摂政関白はなき也。
さて内大臣にて法性寺殿のをはしけるほかには、いさヽかも又さもといふ人なかりければ、ちからをよばで、「をやはをや、こはことこそは、げすもいふめれば、執政せよ」とをほせられければ、法性寺どのは
「この職をつぎ候ばかり候はヾ、忠通にゆるされて候て、一日父の勅勘を免ぜられ候て、門をひらかせ候て、代々の例この職は父のゆづりをゑ候てうけとり候 夜、やがて拝賀などすることにて候を、たがへずし候はヾや。職に居候ばかりにて、父の勅勘ゑ申免ぜず候はんも、不孝の身になり候はヾ仏神の御とがめもや候 べからん」と申されたりければ、
この申さるヽむねかゑす+ しかるべしと感思食とて、その定にすこしもたがへずをこないて、うけとられにけり。
法性寺どのは、白河院陣中に人の家をめしてをはしましけるうへ、かならず参内には先まいられけるに、世の中のこと先例をほせあはせられけるに、一度もとヾ こをることなく、かヾみにむかうやうに申さたしてをはしければ、かばかりの人なしとをぽしめしてすぎけるほどに、鳥羽院は崇徳院の五にならせ給御とし御譲 位ありけり。保安四年正月なり。白河院ひヽ子位につけて御らんじけり。大治四年正月九日摂政のむすめ入内。同十六日女御。これは皇嘉門院な(り)。さてそ の年の七月七日白河院は崩御。御年七十七までをはしましけるなり。天承元年二月九日立后ありけり。
さて鳥羽院の御世になりて、知足院どのはことにみやづかへてとりいらせ給ければ、鳥羽院御本意とげむとて、脱屣のヽちにぞむすめの賀陽院は、なをまいらせ 給にける。長承二年六月廿九日上皇の宮にいり給て、同三年三月十九日にぞ立后ありける。白河院うせさせ給てのち五年なり。それも王子もゑうませ給はず。
さて待賢門院、久安元年八月廿六日にぞうせ給にける。白川院の天永三年三月十六日の御賀は御らんじけん。をさなくてさふらはせ給けんに、鳥羽院の仁平二年 三月七日の御賀は、御らんぜでうせ給にけり。その御なごりに閑院の人々いゑををこしたり。この女院は永久五年十二月十三日に入内。十七日に女御、同六年正 月廿六日にぞ立后ありける。
かヽりけるほどに知足院殿申されけるやうは、
「きみの御ゆかりに不慮の篭居し候にしかども、摂籙は子息にひきうつして候へばよろこびて候。いま一ど出仕をして元日の拝礼にまいり候はん。さてこの関白が上に候はん」と申て、
天承二年正月三日なんたヾ一度出仕せられたり。その日は二男宇治左府頼長のきみは、中将にてしたがさねのしりとりてなどぞ物がたりに人は申す。この日摂政 太政大臣忠通、次右大臣にて花園左府有仁、三宮御子なり。次内大臣宗忠、家人なり。そのつぎ++の公卿さながら礼ふかく家礼なりしに、花園の大臣一人うそ ゑみて揖してたヽれたりし。いみじかりきとこそ申けれ。
すべて知足院どのは執ふかき人にや。この拝礼にまいりて年よりやまいあるよしにて、いまだ公卿列立とヽのほらぬさきに、「脚病ひさしくたちて無術候」と て、「かつかつ拝さふらはん」とて、いそぎ拝せられけり。をきあつかはれければ摂政大政大臣よりてたすけ申されければ、諸卿の拝いぜんにいでられけるに、 内大臣いげ家礼の人をほくありけるをも、人にみゑんとにやと人いひけり。時にとりていみじかりければ、ふるまいをほせられけり。かやうの心にてその霊もを そろし。
かヽりけるほどに、この頼長の公、日本第一大学生、和漢の才にとみて、はらあしくよろづにきはどき人なりけるが、てヽの殿にさいあいなりけり。一日摂籙内 覧をへばや+とあまりに申されけるを、一日へさせばやとをぼして、子の法性寺殿に、「さもありなんや。後には汝が子孫にこそかへさんずれ」と、たび++ね んごろに申されけるを、法性寺殿のともかくもその御返事を申されざりければ、のちにはやすからずをぼして、鳥羽院にこのよしを申て、「かなへかなはずは、 つぎのことにて、存候はんやう、かへりごとのきヽたく候。上より仰たびて申状をきかせられ候へ」と申されければ、この由仰られたりける御返事に、存候むね はとて、
「手のきは、頼長が御心ばへはしか※※と候なり。かれ君の御うしろみになり候ては、天下の損じ候ぬべし。このやうを申候はヾ、いよ++腹立し候はヾ不孝にも候べし。ちヽの申候へばとて承諾し候はば世のため不忠になり候ぬべし。仰天して候」
など申されたりけるをつかはされたりければ、「かくも返事はありけるは。などわが云には返事だになき」とて、いよ++ふかく思つヽ、藤氏長者(は)君のし ろしめさぬことなりとて、久安六年九月廿五日に藤氏長者をとり返して、東三条にをはしまして、左府に朱器台盤わたされにけり。さて院をとかくすかしまいら せられけるほどに、みそかに上卿などもよをして、久安七年正月に内覧はならびたる例もあればにて、内覧の宣旨ばかりくだされにけり。あさましきことかなと 一天のあやしみになりぬ。
さてうえ++の御中あしきことは、崇徳院のくらいにをはしましけるに、鳥羽院は長実中納言がむすめをことに最愛にをぼしめして、はじめは三位せさせてをは しましけるを、東宮にたてヽ崇徳のきさきには、法性殿のむすめまいられたる。皇嘉門院なり。その御子のよしにて外祖の儀にてよく++さたしまいらせよとを ほせられければ、ことに心にいれて誠の外祖のほしさに、さたしまいらせけるに、「その定にて譲位候べし」と申されければ、崇徳院は「さ候べし」とて、永治 元年十二月に御譲位ありける。
保延五年八月に東宮にはたたせ給にけり。その宣命に皇太子とぞあらんずらんとをぼしめしけるを、皇太弟(と)かヽせられけるとき、こはいかにと又崇徳院の御意趣にこもりけり。
さて近衛院くらいにてをはしましけるに、当今をとなしくならせ給て、頼長の公内覧の臣にて左大臣一の上にて、節会の内弁きら++とつとめて、御堂のむかし このもしくてありける。節会ごとに主上御帳にいでをはします事のなくて、ひきかうぶりてとのごもり+してひとゑに違例になりてけり。院よりいかに申させ給 ひけるも、きかせをはしまさず。又関白「はがとがに成候なんず」と、返+ 申されけるをもきかせ給ぬ事にてありければ、「なをこれは関白がする」とをぼし めして御きそくあしかりけり。されど法性寺殿はすこしもこれを思ひいたるけもなくて、備前国ばかりうちしりて、関白、内覧をばとどむる人もなかりければ、 出仕うちしてをはしけり。
其後内裏にて二たびあしくゆきあはれたりければ、左府は昔のごとく家礼してをひたちける兄なればなをいられけり。昔は法性寺殿の子にしてをはしければ、さ やうの事思ひいでられける。あはれなりと人いひけり、てヽの殿は「いかに」とありけれど、「礼はとりかへさずと礼記の文なり。
中あしとていかでかいざらん」といわれけるをば時の人のヽしりけり。
かやうにてすぐるほどに、この左府、悪さふといふ名を天下の諸人つけたりければ、そのしるしあけくれのことにてありけるに、法勝寺御幸に実衡中納言が車や ぶり、又院第一の寵人家成中納言が家ついぶくしたりければ、院の御心にうとみをぼしめしにけり。あにの殿は、「まことによくいひけるものを」とをぼしめし めがらさてすぎけり。人の物がたりに申しヽは、高松の中納言実衡が車やぶりたることを、父殿「いかにさることは」といはれける次に、「かくあしくとも家成 などをばゑせじ物を」と、はらのたたれけるにいはれたりけるをきヽ(は)さみて、親にもかくをもはれたるやすからずとて、無二にあいし寵しける随身公春に 心をあはせて、家成がいゑのかどに下人をたてゝまゑをとをられけるに、高あしだはきてありけるをおいいれたる由にて、ついぶくはしたりけるなり。あしく心 たてたりといヽながら、身をうしなふほどの悪事かくせられけり。
さるほどに主上近衛院十七にて久寿二年七月にうせ給にけるは、ひとへにこのさふが呪咀なりと人いヽけり。院もをぼしめしたりけり。証拠共もありけるにや。 かくうせさせ給ぬれば、「いまはわが身は一人内覧になりなん」とこそはをもはれけんに、例にまかせて大臣内覧辞表をあげたりけるを、かへしもたまはらでの ち、次のとし正月に左大臣ばかりはもとのごとしとてありけり。
院はこの次の位のことををぼしめしわづらいけり。四宮にて後白河院、待賢門院の御はらにて、新院崇徳に同宿してをはしましけるが、いたくさたヾしく御あそ びなどありとて、即位の御器量にはあらずとをぼしめして、近衛院のあねの八条院ひめ宮なるを女帝か、新院一宮か、この四宮の御子二条院のをさなくをはしま すかをなどやう++にをぼしめして、その時は知足院どの左府といふことはなくて一向に法性寺殿に申あはせられける。御返事たびたび「いかにも+君の御事は 人臣のはからいに候はず。たヾ叡慮にあるべし」とのみ申されけるを、第四度のたび「ただはからわせ給へ。この御返事を大神宮の仰と思候はんずるなり」と、 さしつめてをほせられたりけるたび、「この勅定の上は四宮、親王にて廿九にならせをはします、これがをわしまさん上は、先これを御即位の上の御案こそ候は め」と申されたりければ、「左右なし、其定にさたせさせ給へ」とてありければ、主上の御事かなしみながら、例にまかせて、雅仁親王新院御所にをはしましけ る、むかへまいらせて、東三条南の町、高松殿にて、御譲位の儀めでたくをこなはれにけり。されば世をしろしめす太上天皇と、摂籙臣のをやのさきの関白殿、 ともに、あにをにくみてをとヽをかたひき給て、かヽる世中の最大事をおこなはれけるが、世のすゑのかくなるべき時運につくりあはせてければ、鳥羽院、知足 院一御心になりてしばし天下のありける(を)この巨害のこの世をばかくなしたりけるなり。されど鳥羽院の御在生までは、まのあたり内乱合戦はなくてやみに けり。
かくて鳥羽院は久寿を改元して四月廿四日に保元となりにけり。七月の二日うせ給ひける。御やまいのあいだ、「この君をはしまさずは、いかなる事かいでこん ずらん」と、貴賎老少さヽやきつヽやきしけるを、宗能の内大臣といふ人、大納言かにてありけり。さまでの近習者にもなかりけれど、思ひあまりて文をかき て、「この世は君の御眼とぢをはしましなんのちは、いかになりなんずとかをぼしめしをはします。只今みだれうせ候なんず。よく++はからいをほせをかるべ し」などや申たりけん。さなしとても君も思召けん。さてきたをもてには、武士為義、清盛など十人とかやに祭文をかヽせて、美福門院にまいらせられにけり。 後白河法皇くらいにて、少納言入道信西と云学生抜群の者ありけるが、年ごろの御めのとにて紀の二位と云妻もちてありける。これをば人もたのもしく思へりけ るに、美福門院一向母后の儀にて、摂籙の法性寺殿、大臣諸卿ひとつ心にてあるべしと申をかれにけり。
さて七月二日御支度のごとく、鳥羽どのに安楽寿院とて御終焉の御堂御所しおかせ給たりけるにてうせさせ給にけり。
その時新院まいらせ給たりけれども、内へ入れまいらする人だにもなかりければ、はらだちて、鳥羽の南殿(の)、人もなき所へ御幸の御車ちらしてをはしまし けるに、まさしき法皇の御閉眼のときなれば、馬車さはぎあふに、勝光明院のまへのほどにて、ちかのりが十七八のほど、のり家が子にて、勘解由次官になされ てめしつかいけるが、まいりあいたりけるをうたせたまいけるほどに、目をうちつぶされたりとのヽしりけるを、すでに今はかうにてをはしましけるにまいり て、最後の御をもい人にて候ける光安がむすめの土佐殿といひける女房の、「新院のちかのりが目をうちつぶさせたまひたりと申あひ候」と申たりけるをきかせ をはしまして、御目をきらりとみあげてをはしましたりけるが、まさしき最後にてひきいらせたまいにけりとぞ人はかたり侍し。
其後ちかのり現存して民部卿入道とて八十までいきてありしに、「かく人かたるはいかなりしぞ」ととい侍ければ、
「目はつぶれ候はず。きこへ候やうにまいりあいて候しに、御幸気色も候はヾ、やは車はちらしあい候しに、めしつぎがつぶてにて、のりて候し車のものみにう ちあてヽ、はたとなり候しに、「新院の御幸ぞ」と申候しかば、さうなく、「車をおさへよ」とたかく、車ををどりをり候しほどに、いかにして候しやらん、車 のすだれの竹のぬけて候しが、目の下のかはのうすく候所にあたりて、ぬいざまにつらぬかれて候し血の、顕文紗のしらあをヽきて候しかりぎぬの前にかヽりて 候しをみ候て、めしつぎどもうちやみ候にし也。さ候はずは猶もうちふせられもやし候はまし。その血のかヽりやうは、かへりて冥加とぞをぼへ候にし」とぞか たり侍りける。
さて新院は田中殿の御所にをはしましけるほどに、宇治の左府申かはしけむ、にはかに七月九日鳥羽をいでヽ白河の中御門河原に、千体のあみだ堂の御所ときこ ゆるさじき殿と云御所へわたらせ給にけり。それもわが御所にてもなきを、おしあけてをはしましにけり。さればよとすでに京の内のだいりに、関白、徳大寺の 左府などいヽし人++、ひしとまいりつどいて、祭文かきてまいらせたる武士ども候て、警固してをわしましけるに、
悪左府は宇治にをわしける。宇治よりまいらんずらんとて、のぶかぬと云武士、「ひつ河のへんにまかりむかいて、うちてまいらせよ」とすでに仰られにけるに、あまりに俄なればをそくゆきむかいけるほどに、夜半に宇治より中御門御所へまいられにけり。
さて為義を、宰相中将教長としごろの新院の近習者也、それしてたび++めして、為義すぐに新院へまいりぬときこゑて、子二人ぐしてまいりにけり。四郎左衛 門よりかた・源八ためともなり。さて嫡子のよしともは、御方にひしと候けり。としごろこの父の中よからず。子細どもことながし。さて十一日議定ありて、世 の中はいかに+ とののしりけるに、為義は新院にまいりて申けるようは、「むげに無勢に候。郎従はみな義朝につき候て内裏に候。わづかに小男二人候。なに ごとをかはし候べき。この御所にてまちいくさになり候ては、すこしも叶候まじ。いそぎ+ てただ宇治にいらせをはしまして、宇治橋ひき候て、しばしもや さヽへられ候べき。さ候はずは、ただ近江国へ御下向候て、かうかの山うしろにあて、坂東武士候なんず。をそくまいり候はヾ、関東へ御幸候て、あしがらの山 きりふさぎ候なば、やう++京中はゑたヽへ候はじ物を。東国はよりよし・義家がときより為義にしたがはぬもの候はず。京中は誰も+ ことがらをこそうかヾ い候らめ。せめてならば、内裏にまいりて、一あてして、いかにも成候はヾや」と申しけるを、
左府、御前にて、「いたくないそぎ(そ)。只今何事のあらんずるぞ。当時まことに無勢げなり。やまとの国ひがきの冠者と云ものあり。「吉野の勢もよをし て、やがていそぎまいれ」と仰てき。今はまいるらん。しばしあいまて」としづめられければ、「こは以外の御事哉」とて庭に候けり。為義がほかには、正弘・ 家弘・忠正・頼憲などの候ける。勢ずくななる者ども也。
内裏には義朝が申あげヽるは、「いかに、かくいつともなくてさヽへたる。御はからいは候にか、いくさの道はかくは候はず。先たヾをしよせて蹴ちらし候ての 上のことに候。為義、よりかた・為朝ぐしてすでにまいり候にけり。親にて候へども御方にかくて候へば、まかりむかい候はヾ、かれらもひき候なん物を。たヾ よせ候なん」とかしらをかきて申けるに、十日一日に(こ)ときれず、みちのり法し、にはに候て、「いかに+ 」と申けるに、
法性寺殿御まへにひしと候て、目をしばたヽきて、うちみあげ+ みて物もいはれざりけるを、実能・公能以下これをまぼりてありけるほどに、十一日の暁、 「さらば、とくをいちらし候へ」といヽいだされたりけるに、下野守義朝はよろこびて、日いだしたりける紅の扇をはら++とつかいて、
「義朝いくさにあふこと何け度になり候ぬる。みな朝家をおそれて、いかなるとがをか蒙候はんずらんと、むねに先こたへてをそれ候き。けふ追討の宣旨かうぶりて、只今敵にあい候ぬる心のすヾしさこそ候はね」とて、
安芸守清盛と手をわかちて、三条内裏より中御門へよせ参りける。このほかには源頼政・重成・光康など候けり。ほどやはあるべき、ほの※※によせかけたりけ るに、頼賢・ためとも勢ずくなにて、ひしとさヽへたりけるには、義朝が一のらうどう鎌田の次郎まさきよは、たび++かけかへされけれども、御方の勢はかり なければ、をしまはして火かけてければ、新院は御なをしにて御馬にたてまつりて、御馬のしりにはむまのすけのぶざねと云者のりて、仁和寺の御むろの宮ゑわ たらせ給ひけり。左大臣は、したはらまきとかやきてをちられけるを、誰が矢にかありけん、かほにあたりてほうをつよく射つらぬかれにければ、馬よりをちに けり。小家にかき入てけり。
この日やがて藤氏長者は如元と云宣下ありて、法性寺殿にかへしつけられにけり。上の御さたにてかくなる事のはじめなり。
筑後の前司しげさだと云し武士は、土佐源太しげざねが子なり。入道して八十になりしにあいて侍しかば、「我が射て候し矢のまさしくあたり申て候し」とて、 かいなをかきいだして、「七星のはヽくろのかく候て、弓矢のみやうが一度もふかく候はず」とぞ申し。さて悪左府はかつらがはの梅つと云所より小船にのせ て、つねのりなど云者どもぐして宇治にて入道殿に申ければ、「今一度」ともをほせられざりけり。さて大和の般若道と云かたへぐし申てくだりければ、次の日 とかや引いられにけり。こまかに仲行が子にとい侍しかば、
「宇治の左府は馬にのるにをよばず、戦場、大炊御門御所に御堂のありけるにや、つまどに立そいて事をおこないてありけるに、矢のきたりて耳のしもにあたり にければ、門辺にありける事に蔵人大夫経憲と云者のりぐし申て、かつら河に行て鵜船にのせ申て、こつ河へくだして、知足院殿南都へいらせ給たりけるに、 「見参せん」と申されければ、「もとより存たる事也。対面にをよぶまじ」と仰られける後に、船の内にてひきいられければ、このつねのり・図書允利成・監物 信頼など云ける両三人、般若寺の大道より上りての方三段ばかり入て、火葬し申てけりとぞうけたまはりし」と申けり。
かやうの事は人のうち云と、まさしくたづねきくとはかはることに侍り。かれこれをとり合つヽきくに一定ありけんやうはみなしらるヽことなり。
かくして為義は義朝がりにげてきたりけるを、かう++と申ければ、はやくくびをきるべきよし勅定さだまりにければ、義ともやがてこし車にのせてよつヾかへやりて、やがてくびきりてければ、「義ともはをやのくび切つ」と世には又のヽしりけり。
かくて新院をばさぬきの国へながしたてまつられにけり。宇治の入道をば又法性寺のさたにて、知足院にうちこめられにけり。
この十一日のいくさは、五位蔵人にてまさよりの中納言、蔵人の治部大輔とて候しが、奉行してかけりし日記を思がけずみ侍しなり。
「暁よせてのち、うちをとしてかへり参まで、時々剋々「只今は、と候。かう候」といさヽかの不審もなく、義朝が申けるつかいははしりちがいて、むかいてみむやうにこそをぼへしか。ゆヽしき者にて義朝ありけり」とこそ雅頼も申けれ。
そのヽち教長めしとりてやうやうのすいもんありける。官にめして、長者・大夫史・大外記候て、弁官、職事にてとはれける、昔のあとありて猶いみじかりけり。この比などさるすぢあるべしとこそみへね。
愚管抄(巻第五)

この内乱たちまちにおこりて、御方ことなくかちて、とがあるべき者ども皆ほど++に行はれにけり。死罪はとヾまりて久く成たれど、かうほどの事なればにや、行はれにけるを、かたぶく人もありけるにや。
さて後白河院は、仏法の御行ひことに叡慮に入たる方をは(し)まして、御位の程、大内の仁寿殿にて、懺法行ひなどせさせ給ひけり。
偏に信西入道世をとりてありければ、年比思ひとぢたる事にやありけん、大内はなきが如くにて、白河・鳥羽二代ありけるを、有職の人どもは、「公事は大内こ そ本なれ。この二代はすてられてさたなし」と歎きければ、鳥羽院の御時、法性寺殿に、「世の事一向にとりざたせられよ」と仰られける手はじめに、その大内 造営の事を先申ざたせんと企られけるをきこしめして、「世の末にはかなふまじ。この人は昔心の人にこそ」とて叡慮にかなはざりければ、引いられにけり。そ れを信西がはた++と折を得て、めでたく+さたして、諸国七道少しのわづらひもなく、さは++とたヾ二年が程につくり出してけり。その間手づから終夜算を おきける。後夜方には算の音なりける、こゑすみてたうとかりける、など人沙汰しけり。さてひしと功程をかんがへて、諸国にすくな+ とあてヽ、誠にめでた くなりにけり。其後内宴行ひて妓女の舞などして、こはいかにとおぼゆる程に沙汰しけり。
さて大内つねの御所にてありければ、御懺法などさへあしかるべき事にも候はずとて、行はせまいらせなんどしてありけるほどに、保元三年八月十一日におりさせ給て、東宮二条院に御譲位ありて、
太上天皇にて白河・鳥羽の定に世をしらせ給ふ間に、忠隆卿が子に信頼と云殿上人ありけるを、あさましき程に御寵ありけり。さる程に又北面の下臈どもにも、 信成・信忠・為行・為康など云者ども、兄弟にて出きなどしければ、信頼は中納言右衛門督までなされてありけるが、この信西はまた我子ども俊憲大弁宰相・貞 憲右中弁・成憲近衛司などになしてありけり。俊憲等才智文章など誠に人に勝れて、延久例に記録所おこし立てゆヽしかりけり。
大方信西が子どもは、法師どもヽ、数しらずおほかるにも、みなほど++によき者にて有ける程に、この信西を信頼そねむ心いできて、義朝・清盛、源氏・平氏にて候けるを、各この乱の後に世をとらんと思へりける、義朝と一つ心になりて、はたと謀反をおこして、
それも義朝・信西、そこに意趣こぼりにけるなり。信西は時にとりてさうなき者なれば、義朝・清盛とてならびたるに、信西が子に是憲とて信乃入道とて、西山 吉峰の往生院にて最後十念成就して決定往生したりと世に云聖のありしが、男にてさかりの折ふしにしありしをさヽへて、「むこにとらん」と義朝が云けるを、 「我子は学生なり。汝がむこにあたはず」と云あらきやうなる返事をしてきかざりける程に、やがて程なく当時の妻のきの二位が腹なるしげのりを清盛がむこに なしてけるなり。こヽにはいかでかその意趣こもらざらん。かやうのふかくをいみじき者もし出すなり。さらに+ ちから及ばぬ事なり。とてもかくても物の道 理の重き軽きをよく++知て、ふるまひたがへぬほかには、なにもかなふまじきなり。それも一かたばかりにては、皆しばしは思ふさまにすぎらるヽなり、二つ 三つさしあはせてあしき事の出きぬる上は、よき事もわろき事も其時ことは切るなり。信西がふるまひ、子息の昇進、天下の執権、この充満のありさまに、義朝 と云程の武士に此意趣むすぶべしやは。運報のかぎり時のいたれるなり。又腹のあしき、難の第一、人の身をばほろぼすなり。よく腹あしかりけるものにこそ。
かヽりける程に平治元年十二月九日夜、三条烏丸の内裏、院御所にてありけるに、信西子どもぐしてつねに候けるを押こめて、皆うちころさんとしたくして、御所をまきて火をかけてけり。
さて中門に御車をよせて、師仲源中納言同心の者にて、御車よせたりければ、院と上西門院と二所のせまいらせたりけるに、信西が妻成範が母の紀の二位は、せ いちいさき女房にてありけるが、上西門院の御ぞのすそにかくれて御車にのりにけるを、さとる人なかりけり。上西門院は待賢門院の一つ御腹にて、母后のよし とて立后もありけるとかや。さてかた※※殊にあひ思て、一所につねはおはしましけるなり。この御車には重成・光基・季実などつきて一本御書所へいれまいら せてけり。この重成は後に死たる所を人にしられずとほめけり。
俊憲・貞憲ともに候けるはにげにけり。俊憲はたヾやけ死んと思て、北のたいの縁の下に入てありけるが、見まはしけるに逃ぬべくて、焔のたヾもゑにもゑけるに、はしりいでヽそれもにげにけり。
信西はかざどりて左衛門尉師光・右衛門尉成景・田口四郎兼光・斎藤右馬允清実をぐして、人にしらるまじき夫こしかきにかヽれて、大和国の田原と云方へ行 て、穴をほりてかきうづまれにけり。その四人ながら本鳥きりて名つけよと云ければ、西光・西景・西実・西印とつけたりける。その西光・西景は後に院にめし つかはれて候き。西光は、「たヾ唐へ渡らせ給へ。ぐしまいらせん」とぞ云ける。「出立ける時は本星命位にあり。いかにものがるまじ」とぞ云ける。
さて信頼はかくしちらして大内に行幸なして、二条院当今にておはしますをとりまいらせて、世をおこなひて、院を御書所と云所にすゑまいらせて、すでに除目行ひて、義朝は四位して播磨守になりて、子の頼朝十三なりける、右兵衛佐になしなどしてありけるなり。
さて信西はいみじくかくれぬと思ひける程に、猶夫こしかき人に語りて、光康と云武士これを聞つけて、義朝が方にて、求め出してまいらせんとて、田原の方へ 往けるを、師光は、大なる木のありける、上にのぼりて夜を明さんとしけるに、穴の内にてあみだ仏たかく申す声はほのかに聞ゑたり。それにあやしき火どもの 多くみゑければ、木よりおりて、「あやしき火こそみゑ候へ。御心しておはしませ」と、たかく穴のもとに云いれて、又木にのぼりてみける程に、武士どもせい ++と出きて、とかく見め(ぐ)りけるに、よくかきうづみたりと思けれど、穴口に板をふせなんどしたりける、見出してほり出たりければ、腰刀を持てありけ るを、むな骨の上につよくつき立て死てありけるを、ほり出して頚をとりて、いみじがほに以て参りてわた(し)なんどしけり。男、法師の子ども数をつくして 諸国へながしてけり。
この間に、清盛は太宰大弐にてありけるが、熊野詣をしたりける間に、この事どもをばし出してありけるに、清盛はいまだ参りつかで、二たがはの宿と云はたの べの宿なり、それにつきたりけるに、かくりきはしりて、「かヽる事京に出きたり」と告ければ、「こはいかヾせんずる」と思ひわづらひてありけり。子どもに は越前守基盛と、十三になる淡路守宗盛と、侍十五人とをぞぐしたりける。これよりたヾつくしざまへや落て、勢つくべきなんど云へども、湯浅の権守と云て宗 重と云紀伊国に武者あり。たしかに三十七騎ぞありける。その時はよき勢にて、「たヾおはしませ。京へは入れまいらせなん」と云けり。熊野の湛快はさぶらい の数にはゑなくて、よろひ七領をぞ弓矢まで皆具たのもしくとり出て、さうなくとらせたりけり。又宗重が子の十三なるが紫革の小腹巻のありけるをぞ宗盛には きせたりける。その子は文覚が一具の上覚と云ひじりにや。代官を立て参もつかで、やがて十二月十七日に京へ入にけり。
すべからく義朝はうつべかりけるを、東国の勢などもいまだつかざりければにや、これをばともかくもさたせでありける程に、大方世の中には三条内大臣公教、 その後の八条太政大臣以下、さもある人々、「世はかくてはいかヾせんぞ。信頼・義朝・師仲等が中に、まことしく世をおこなふべき人なし」。主上二条院の外 舅にて大納言経宗、ことに鳥羽院もつけまいらせられたりける惟方検非違使別当にてありける、この二人主上にはつきまいらせて、信頼同心のよしにてありける も、そヽやきつヽやきつヽ、「清盛朝臣ことなくいりて、六波羅の家に有ける」と、とかく議定して、六波羅へ行幸をなさんと議しかためたりけり。
その使は近衛院東宮の時の学士にて、知道と云博士ありけるが子に、尹明とて内の非蔵人ありけり。惟方は知通が壻なりければ一つにて有ける。この尹明さかし き者なりけるを使にはして云かはして、尹明はその比は勅勘にて内裏へもゑまいらぬ程なりければ、中々人もしらでよかりければ、十二月廿五日乙亥丑の時に、 六波羅へ行幸をなしてけり。そのやうは、清盛・尹明にこまかにおしへけり。
「ひるより女房の出んずるれうの車とおぼしくて、牛飼ばかりにて下すだれの車をまいらせておき候はん。さて夜さしふけ候はん程に、二条大宮の辺に焼亡をい だし候はヾ、武士どもは何事ぞとてその所へ皆まうで来候なんずらん。その時その御車にて行幸のなり候べきぞ」とやくそくしてけり。
さて内々この(事)しかるべき人々相議定して、「清盛熊野より帰てなにとなくてあれば、一定義朝も信頼もけふ++と思ふ様共おほからん。用心の堅固にては 物のたかくなるもあやむる事なり。すこし心をのべてこそよからめ」にて、「清盛が名簿を信頼がりやるべき、そのよし子細を云へ」とてやりければ、
清盛はたヾ、「いかにも+かやうの事は、人々の御はからひに候」と云ければ、内大臣公教の君ぞまさしくその名簿をばかきたりける。それを一の郎等家定に持 せて云やりけるやうは、「かやうにて候へば、何となく御心おかれ候らん。さなしとておろかなるべきには候はねど、いかにも+御はからひ御気色をばたがへま いらせ候まじきに候。そのしるしにはおそれながら名簿をまいらせ候なり」といはせたりければ、
これはこの行幸の日のつとめてにてありければ、返事には、「返々よろこびて承り候ぬ。このむねを存候て何事も申承候べし。尤本意に候」と云たりければ、「よし++」とてぞ。有けるしたくのごとくにしたりけり。
夜に入て惟方は院の御書所に参りて、小男にて有けるが直衣にくヽりあげて、ふと参りてそヽやき申て出にけり。車は又その御料にもまうけたりければ、院の御方事はさたする人もなく、見あやむ人もなかりければ、覚束なからず。
内の御方にはこの尹明候なれたる者にて、むしろを二枚まうけて、莚道に南殿の廻廊に敷て、一枚を歩ませ給ふ程に今一枚をしき++して、内侍には伊予内侍・ 少輔内侍二人ぞ心ゑたりける。これら先しるしの御はこ宝剣とをば御車に入てけり。支度の如くにて焼亡の間、さりげなしにてやり出してけり。さて火消て後、 信頼は、「焼亡は別事候はずと申させ給へ」と、蔵人して伊予内侍に云ければ、「さ申候ぬ」とて、この内侍どもは小袖ばかりきて、かみわきとりて出にけり。 尹明はしづかに長櫃をまうけて、玄象、すヾか、御笛のはこ、だいとけいのからびつ、日の御座の御太刀、殿上の御倚子などさたし入て、追ざまに六波羅へまい れりければ、武士どもおさへて、弓長刀さしちがへ+してかためたるに、「誰かまいらせ給ふぞ」と云ければ、たかく「進士蔵人尹明が御物持せて参て候なり」 と申させ給へ」と申たりければ、やがて申て、「とく入れよ」とて参りにけり。ほの※※とする程なりけり。やがて院の御幸、上西門院・美福門院、御幸どもな り合せ給てありけり。大殿関白相ぐしてまいられたりけり。大殿とは法性寺殿なり。
関白とはその子、十六歳にて保元三年八月十一日二条院受禅の同日に、関白氏長者皆ゆづられにける。あなわかやと人皆思ひたりけり。この中の殿とぞ世には云 める。又六条摂政、中院とも申やらん。この関白は信頼が妹にむことられて有ければ、すこし法性寺殿をば心おかんなど云こと有けるにや。
六波羅にて院・内おはしましける御前にて人々候けるに、三条内府清盛方を見やりて、「関白まいられたりと申。いかに候べきやらん」と云たりければ、清盛さ うなく、「摂籙の臣の御事などは議に及ぶべくも候はず。まいられざらんをぞわざとめさるべく候。参らせ給ひたらんは神妙の事にてこそ候へ」と申たりける。 あはれよく申物かなと聞く人思ひたりけり。
その夜中には京中に、「行幸六波羅へなり候ぬるぞ+」とのヽしらせけり。山の青蓮院座主行玄の弟子にて、鳥羽院の七宮、法印法性寺座主とておはしける、知 法のおぼゑありければにや、其時仏眼法うけ給りて修せられける白河房へも、夜半にたヽきて、「行幸六波羅へなり候。又よく++いのり申させ給へ」と云御使 ありけり。
かヽりける程に内裏には信頼・義朝・師仲、南殿にてあぶの目ぬけたる如くにてありけり。後に師仲中納言申けるは、義朝は其時、信頼を、「日本第一の不覚人 なりける人をたのみて、かヽる事をし出つる」と申けるをば、少しも物もゑいはざりけり。紫宸殿の大床に立てよろひとりてきける時、だいとけいの唐櫃の小鈎 を守刀に付たりけるを、師仲は内侍所の御体をふところに入て持たりける、「たべ、その鈎これにぐしまいらせてもたん。その刀につけて無益なり」と云けれ ば、「誠に」とてなげおこせたりければ、取て、「いづちも御身をはなれ申まじきぞ」とて、あいずりの直垂をぞ着たりける。やがて義朝は甲の緒をしめて打出 ける。馬のしりにうちぐしてありけれど、京の小路に入にける上は、散々にうちわかれにけり。
さて六波羅よりはやがて内裏へよせけり。義朝は又、「いかさまにも六波羅にて尸をさらさん。一あてしてこそ」とてよせけり。平氏が方には左衛門佐重盛清盛 嫡男・三河守頼盛清盛舎弟、この二人こそ大将軍の誠にたヽかいはしたりけるはありけれ。重盛が馬をいさせて、堀河の材木の上に弓杖つきて立て、のりかへに のりける、ゆヽしく見へけり。鎧の上の矢どもおりかけて各六波羅に参れりける。かちての上は心もおち居て見物にてこそありけれ。
義朝は又六波羅のはた板のきはまでかけ寄て、物さはがしくなりける時、大将軍清盛はひた黒にさうぞきて、かちの直垂に黒革おどしの鎧にぬりのヽ矢おいて、 黒き馬に乗て御所の中門の廊に引よせて、大鍬形の甲取て着て緒しめ打出ければ、歩武者の侍二三十人馬にそひて走りめぐりて、「物さはがしく候。見候はん」 と云て、はた++と打出けるこそ、時にとりてよにたのもしかりけれ。
義朝が方には郎等わづか二十人が内になりにければ、何わざをかはせん、やがで落て、いかにも東国へ向ひて今一度会稽を遂んと思ひければ、大原の千束ががけにかヽりて近江の方へ落にけり。正清もなをはなれずぐしたりけり。
此時内の護持僧にて山の重輸僧正候ける。六波羅に参て香染にて丑寅の方に向て、「南無叡山三宝」とて如法に立、ぬかをつきて拝みけるこそ、よにたのもしかりけれ。かやうの時はさる者の必候べきなり。
又清盛は大内裏に信頼が宿所に咋日かきてやりたる名簿を、そのまヽにて今日とりかへしつるとてこそわらひけれ。
信頼は仁和寺の五の宮の御室へ参りたりけるを、次の日五の宮よりまいらせられたりけるに、清盛は一家者どもあつめて、六原のうしろに清水ある所に平ばりう ちており居たりける所へ、成親中将と二人をぐして前に引すへたりけるに、信頼があやまたぬよし云ける、よに++わろく聞へけり。かう程の事にさ云ばやは叶 べき。清盛はなんでうとて顔をふりければ、心ゑて引たてヽ六条河原にてやがて頚きりてけり。成親は家成中納言が子にて、ふようの若殿上人にてありけるが、 信頼にぐせられてありける。ふかヽるべき者ならねば、とがもいとなかりけり。武士どもヽ何も+程々の刑罰は皆行はれにけり。
さて義朝は又馬にもゑのらず、かちはだしにて尾張国まで落行て、足もはれつかれたれば、郎等鎌田次郎正清がしうとにて内海荘司平忠致とて、大矢の左衛門む ねつねが末孫と云者の有ける家にうちたのみて、かヽるゆかりなれば行つきたりける。侍よろこぶ由にていみじくいたはりつヽ、湯わかしてあぶさんとしける に、正清事のけしきをかざどりて、こヽにてうたれなんずよと見てければ、「かなひ候はじ。あしく候」と云ければ、「さうなし。皆存たり。此頚打てよ」と云 ければ、正清主の頚打落て、やがて我身自害してけり。さて義朝が頚はとりて京へまいらせてわたして、東の獄門のあての木にかけたりける。その頚のかたはら に歌をよみてかきつけたりけるをみければ、
   下つけは木の上にこそなりにけれよしともみへぬかけづかさ哉
となんよめりける。
是をみる人かやうの歌の中に、これ程一文字もあだならぬ歌こそなけれとのヽしりけり。九条の大相国伊通の公ぞかヽる歌よみて、おほくおとし文にかきなどしけるとぞ、時の人思ひたりける。
かくて二条院当今にておはしますは、その十二月廿九日に、美福門院の御所八条殿へ行幸なりてわたらせ給ふ。後白河院をばその正月六日、八条堀河の顕長卿が 家におはしまさせけるに、その家にはさじきのありけるにて、大路御覧じて下すなんどめしよせられければ、経宗・惟方などさたして堀河の板にて桟敷を外より むず++と打つけてけり。かやうの事どもにて、大方此二人して世をば院にしらせまいらせじ、内の御沙汰にてあるべし、と云けるをきこしめして、院は清盛を めして、「わが世にありなしはこの惟方・経宗にあり。これを思ふ程いましめてまいらせよ」となく++仰ありければ、その御前には法性寺殿もおはしましける とかや。清盛又思ふやうどもヽありけん。忠景・為長と云二人の郎等して、この二人をからめとりて、陣頭に御幸なして御車の前に引すへて、おめかせてまいら せたりけるなど世には沙汰しき。その有さまはまが++しければかきつくべからず。人皆しれるなるべし。さてやがて経宗をば阿波国、惟方をば長門国へ流して けり。信西が子どもは又かずを尽してめしかへしてけり。これらからむることは永暦元年二月廿日の事なり。これら流しける時、義朝が子の頼朝をば伊豆国へ同 くながしやりてけり。同き三月十一日にぞ、この流刑どもは行はれける。惟方をば中小別当と云名付て世の人云さたしけり。
さてこの平治元年より応保二年まで三四年が程は、院・内、申し合つ、同じ御心にていみじくありける程に、主上をのろひまいらせけるきこゑありて、賀茂の上 の宮に御かたちをかきてのろひまいらする事見あらはして、実長卿申たりけり。かうなぎ男からめられたりければ、院の近習者資賢卿など云恪勤の人々の所為と あらはれにけり。さてその六月二日資賢が修理大夫解官せられぬ。
又時忠が高倉院の生れさせ給ひける時、いもうとの小弁の殿うみまいらせけるに、ゆヽしき過言をしたりけるよし披露して、前の年解官せられにけり。かやうの事どもヽゆきあいて、資賢・時忠は応保二年六月廿三日に流されにけり。
さて長寛二年四月十日関白中殿をば清盛おさなきむすめにむことり申て、北政所にてありけり。
さて主上二条院世の事をば一向に行はせまいらせて、押小路東洞院に皇居つくりておはしまして、清盛が一家の者さながらその辺にとのゐ所どもつくりて、朝夕 に候はせけり。いかにも+ 清盛もたれも下の心には、この後白河院の御世にて世をしろしめすことをば、いかヾとのみおもへりけるに、清盛はよく++つヽし みていみじくはからひて、あなたこなたしけるにこそ。我妻のおとヽ小弁の殿は、院のおぼゑして皇子うみまいらせなどしてければ、それも下に思ふやうどもあ りけん。
さて後白河院は多年の御宿願にて、千手観音千体の御堂をつくらんとおぼしめしけるをば、清盛奉りて備前国にてつくりてまいらせければ、長寛二年十二月十七 日に供養ありけるに、行幸あらばやとおぼしめしたりけれど、二条院は少しもおぼしめしよらぬさまにてありけるに、寺づかさの勧賞申されけるをも沙汰もなか りけり。親範職事にて奉行して候ける、御使しける。この御堂をば蓮華王院とつけられたり。その御所にて御前へ召て、「いかに」と仰られければ、親範、「勅 許候はぬにこそ」と申たりければ、御目に涙を一とはたうけて、「やヽ、なんのにくさに+」とぞ仰られて、「親範がとがとまでおぼしめされ候にし。おそれ候 て」とぞ親範はかたり侍りける。此御堂は、真言の御師にてこまの僧正行慶は白河院の御子なり、三井門流にたうとき人なりしかば、院は偏にたのみおぼしめし たりけるが、ことにさたして中尊の丈六の御面相を手づからなをされけり。万の事に心きヽたる人とぞ人は云ける。六宮の御師なり。
二条院は御出家の義にて、仁和寺の五宮へわたりはじめておはしけるを、王胤なを大切なりにて、とりかへして遂に立坊ありけり。その御むつびにて五の宮は位 の御時、この二条内裏の辺に三条坊門烏丸に壇所手づからつくりて、あさゆふにひしと候はせ給ければ、万機の御口入もありけり。さて六宮の天王寺別当とりて ならせ給て、人々いはれさせ給ひけり。
さて応保二年三月七日、又経宗大納言はめしかへされて、長寛二年正月廿二日には大納言にかへりなりて、後には左大臣一の上にて多年職者にもちゐられてぞ候 ける。この経宗の大納言はまさしき京極大殿のむまごなり。人がら有て祖父の二位大納言経実には似ず、公事よくつとめて職者がらもありぬべかりければ、知足 院殿の知足院にうちこめられて腰いておはしける、人まいりてつねに世の事ならひまいらせければ、法性寺殿の方にはいよ++あやしみ思ひけり。世には、「二 条院の外舅なり。摂籙もや」など云和讒ども有けれど、いまだこの科には及ばずぞ有ける。大方世の人の口のにくさ、すこしもよりくるやうにのみ人は物を云な り。返々これも心うべき事なり。又惟方はのちに永万二年三月にぞ召かへされたりける。
かくてすぐる程に法性寺殿のおとむすめ入内立后ありて、中宮とておはしましヽかども、なのめならぬおぼへながら、猶御懐姙はゑなかりけり。さて二条院は又 永万元年六月に御病重くて、二歳なる皇子のおはしましける、御母はたれともさだかにきこゑず、この皇子に御譲位ありて、七月廿二日に御年廿三にてかくれさ せ給ひにけり。
永万元年八月十七日に清盛は大納言になりにけり。中の殿むこにて世をばいかにも行ひてんと思ひける程に、やがて仁安元年十一月十三日に内大臣に任じて、同二年二月十一日に太政大臣にはのぼりにけり。
さる程に其年の七月廿六日俄にこの摂政のうせられにければ、清盛の君、「こはいかに」と、いふばかりなきなげきにてある程に、邦綱とて法性寺殿のちかごろ左右なき者にて、伊予播磨守・中宮亮などまでなしてめしつかふものありき。この邦綱が清盛公が許にゆきて云けるやうは、
「この殿下の御あとの事は、必しもみな一の人につくべき事にも候はぬなり。かた※※にわかれてこそ候しを、知足院殿の御時の末にこそ一になりて候しを、法 性寺殿ばかりこそみなすべておはしまし候へ。この北政所殿かくておはします。又故摂政殿の若君もこの御はらにてこそ候はねども、おはし候へば、しろしめさ (れ)んにひが事にて候はじものを」と云けるを、
あだに目をさまして聞よろこびて、そのまヽに云あはせつヽかぎりあることヾもばかりをつけて、左大臣にて松殿おはすれば左右なき事にて摂政にはなされて、 興福寺・法成寺・平等院・勧学院、又鹿田・方上など云所ばかりを摂籙にはつけてたてまつりて、大方の家領鎮西のしまづ以下、鴨居殿の代々の日記宝物、東三 条の御所にいたるまで総領して、邦綱北政所の御後見にて、この近衛殿の若君なる、やしなひて、世の政はみな院の御さたになして、
建春門院はその時小弁殿とて候ける。時信がむすめ、清盛が妻の弟なりければ、これと一にとりなして、後白河院の皇子小弁殿うみまいらせてもちたりけるを、 やがて東三条にわたしまいらせて、仁安二年十月十日東宮にたてまいらせてけり。清盛は同三年二月十一日、病に沈みて、出家して後やみにけり。さて同年四歳 の内をおろしまいらせて、八歳の東宮高倉院を位につけまいらせてけり。この新院をば六条院とぞ申ける。それは十三にて御元服だにもなくてうせ給にけり。
邦綱がむすめ嫡女を御めのとにしたりけり。大夫三位とて成頼が妻なり。成頼入道が出家には物語どもあれど無益なり。二のむすめをば又この高倉院の東宮の御 めのとにして別当の三位と云けり。この事かくはからひたるめでたさに、邦綱は法性寺殿は上階などまではおぼしめしもよらざりけるに、やがて蔵人頭になして 三位・宰相・東宮権大夫になして、御めのとにて後には正二位の大納言までなしてけり。
かくて清盛が子ども重盛・宗盛、左右大将になりにけり。我身は大政大臣にて、重盛は内大臣左大将にてありける程に、院は又この建春院になりかへらせ給て、 日本国女人入眼もかくのみありければ誠なるべし。先は皇后宮、のちに院号国母にて、この女院宗盛を又子にせさせ給てけり。
承安元年十二月十四日、この平太相国入道がむすめを入内せさせて、やがて同二年二月十日立后、中宮とてあるに、皇子を生せまいらせて、いよ++帝の外祖に て世を皆思ふさまにとりてんと思ひけるにや、様々の祈どもしてありけるに、先は母の二位日吉に百日祈けれどしるしもなかりければ、入道云やう、「われが祈 るしるしなし。今見給へ祈出でん」と云て、安芸国厳島をことに信仰したりけるへ、はや船つくりて月まうでを福原よりはじめて祈りける。六十日ばかりの後御 懐姙ときこゑて、治承二年十一月十一日六波羅にて皇子誕生思ひの如くありて、思さまに入道、帝の外祖になりにけり。
かくて建春門院は安元二年七月八日瘡やみてうせ給ひぬ。そのヽち院中あれ行やうにて過る程に、院の男のおぼへにて、成親とて信頼が時あやうかりし人、流れ たりしも、さやうの時の師仲まで、内侍所、又かのこいとりたし小鈎など持て参りつヽ、かへりて忠ある由申しかば、皆かやうの物はめしかへされにける。この 成親をことになのめならず御寵ありける。信西が時の師光・成景は、西光・西景とてことにめしつかひけり。康頼など云さるがうくるい物などにぎ※※とめしつ かひて、又法勝寺執行俊寛と云者、僧都になしたびなどして有けるが、あまりに平家の世のまヽなるをうらやむかにくむか、叡慮をいかに見けるにかして、東山 辺に鹿谷と云所に静賢法印とて、法勝寺の前執行、信西が子の法師ありけるは、蓮華王院の執行にて深くめしつかひける。万の事思ひ知て引いりつヽ、まことの 人にてありければ、これを又院も平相国も用て、物など云あはせけるが、いさヽか山荘を造りたりける所へ、御幸のなり++しける。この閑所にて御幸の次に、 成親・西光・俊寛など聚りて、やう++の議をしけると云事の聞ゑける。
これは一定の説は知ねども、満仲が末孫に多田蔵人行綱と云し者を召て、「用意して候へ」とて白しるしの料に、宇治布三十段た    びたりけるを持て、平 相国は世の事しおほせたりと思ひて出家して、摂津国の福原と云所に常にはありける。それへもて行て、「かヽる事こそ候へ」と告ければ、その返事をばいは で、布ばかりをばとりてつぼにて焼捨て後、京に上りて安元三年六月二日かとよ、西光法師をよびとりて、八条の堂にてや行にかけてひし++と問ければ、皆お ちにけり。白状かヽせて判せさせて、やがて朱雀の大路に引いでヽ頚切てけり。この日は山の座主明雲が方大衆西坂本までくだりて、あくまかり下りて侍るよし 云たりけり。世の中の人あきれまどひたることにて侍き。
この西光が頚切る前の日、成親の大納言をばよびて、盛俊と云ちからある郎従、盛国が子に(て)ありき、それしていだきて打ふせて、ひきしばりて部屋に押篭 てけり。公卿の座に重盛と頼盛と居たりける所へ、「何事にかめしの候へば参て候」とて、諒闇にて建春門院母后にてうせ給て後の事にてぞ、諒闇のなをしに て、よによくてきたりけり。「出候はんにこまかに見参はせん」とてありけるを、やがてかくしてければ、重盛も思もよらであきれながら、こめたる部屋のもと にゆきて、こしうとのむつびにや、「このたびも御命ばかりの事は申候はんずるぞ」と云けり。さやうなりけるにや。肥前国へやりて、七日ばかり物を食せで 後、さうなくよき酒を飲せなどしてやがて死亡してけり。俊寛と検非違使康頼とをば硫黄島と云所へやりて、かしこにて又俊寛は死にけり。
安元三年七月廿九日に讚岐院に崇徳院と云名をば宣下せられけり。かやうの事ども怨霊をおそれたりけり。やがて成勝寺御八講、頼長左府に贈正一位太政大臣のよし宣下などありけり。
さて又この年京中大焼亡にて、その火大極殿に飛付てやけにけり。これによりて改元、治承とありけり。
入道かやうの事ども行ひちらして、西光が白状を持て院へ参りて、右兵衛督光能卿を呼出して、「かヽる次第にて候へばかく沙汰し候ぬ。是は偏に為世為君に候。我身の為は次の事にて候」とぞ申ける。さてやがて福原へ下りにけり。下りざまの出たちにて参りたりけり。
これより院にも光能までも、「こはいかにと世はなりぬるぞ」と思ひける程に、小松内府重盛治承三年八月朔日うせにけり。この小松内府はいみじく心うるはし くて、父入道が謀叛心あるとみて、「とく死なばや」など云と聞へしに、いかにしたりけるにか、父入道が教にはあらで、不可思議の事を一つしたりしなり。子 にて資盛とてありしをば、基家中納言壻にしてありし。さて持明院の三位中将とぞ申し。それがむげにわかヽりし時、松殿の摂籙臣にて御出ありけるに、忍びた るありきをしてあしくいきあひて、うたれて車の簾切れなどしたる事のありしを、ふかくねたく思て、関白嘉応二年十月廿一日高倉院御元服の定に参内する道に て、武士等をまうけて前駈の髻を切てしなり。これによりて御元服定のびにき。さる不思議ありしかど世に沙汰もなし。次の日より又松殿も出仕うちしてあられ けり。このふしぎこの後のちの事どもの始にてありけるにこそ。
この松殿は摂籙の後、年比の北方三条の内大臣公教の女にむことられて、その子ども実房・実国など云人々ともして沓とり簾もたげて、法性寺殿の存日よりの事 にていみじかりけるを、花山太相国忠雅むすめをもちたりける、摂籙の北政所になしたがりて、むこにとり申てけり。世間のゆヽしき沙汰にて、最愛の中になり て、師家と云子うみて、八歳にて中納言になして、かヽる事ども出きにけり。その後はわざと、殿下御出とてあれば実房は直衣の袖中門廊の妻戸にさし出すやう にて、無愛にのみふるまひければ、あれみよなど人云けり。兼雅は又かはりて、そのたうこそは家礼はしけめ。あはれたヾ器量と云もの一にぞ大切なれ。
さて白河殿と云し北政所も、延勝寺の西にいみじく家つくりてありしも、治承三年六月十七日うせられにけり。これは中一年ありて小松内府は八月朔日うせて 後、かれが年比しりける越前国を、入道にもとかくの仰もなくて左右なくめされにけり。又白河殿うせて一の所の家領文書の事など松殿申さるゝ旨ありけり。院 もやう++御沙汰どもありけりなど聞て、をとヽしの事どもふかくきざして上に、いかなるこの外のやうかありけん、入道福原より武者だちてにはかにのぼりて の、我身も腹巻はづさずなどきこゑき。
かくして同き治承三年十一月十九日に解官の除目、同廿一日に任官除目と云ものを行ひて、この近衛殿の二位中将とて年は二十にてありしを、一どに内大臣にな してき。重盛が内大臣闕いまだならざりし所なり。さてやがて関白内覧臣になしてき。九条の右大臣兼実は右大臣にて法性寺殿の三男、さヽいなくて、天下の事 預顧問て、兵杖の大臣にて候はれしをこゑて、しかもこの右大臣に、「殊に扶持し給へ」とて、子の二位の中将とて良通十二にてありしを、一度にこの除目に中 納言の右大将になしなどして、やがて関白をば備前国へながすともなく、邦綱が沙汰にてくだし申ければ、俄に鳥羽にて大原の本覚房よびて出家せられにけり。 院の近習の輩散々に国々へやりて、やがて院をばその廿日鳥羽殿に御幸なして、人ひとりもつけまいらせず、僅に琅慶と云僧一人など候はする体にて置まいらせ て、後に御思ひ人浄土寺の二位をば、其時は丹後と云し、そればかりはまいらせられたりけり。
同四年五月十五日に、高倉の宮とて、院宮に、高倉の三位とておぼゑせし女房うみまいらせたる御子おはしき。諸道の事沙汰ありて王位に御心かけたりと人思ひ たりき。この宮をさうなくながしまいらせんとて、頼政源三位が子に兼綱と云検非違使を追つかいにまいらせて、三条高倉の御所へまいれりけるを、とに逃させ 給て、三井寺に入せ給たりけるを、寺法師どももてなして道々切ふたぎたりけるに、頼政はもとより出家したりけるが、近衛河原の家やきて仲綱伊豆守、兼綱な どぐして参りにけり。宮をにがしまいらせたる一すぢにやとぞ人は思へりける。こはいかにと天下は只今たヾいまとのヽしりき。
さてたヾへておはしますべきならねば、落て吉野の方へ奈良をさしておはしましける。頼政三井寺へ廿二日に参て、寺より六波羅へ夜打いだしたてヽある程に、 おそくさして松坂にて夜明にければ、この事のとげずして、廿四日に宇治へ落させ給て、一夜おはしましける。廿五日に平家押かけて攻寄て戦ひければ、宮の御 方にはたヾ頼政が勢誠にすくなし。大勢にて馬いかだにて宇治河わたしてければ、何わざをかはせん。やがて仲綱は平等院の殿上の廊に入て自害してけり。にゑ 野の池を過る程にて、追つきて宮をば打とりまいらせてけり。頼政もうたれぬ。
宮の御ことはたしかならずとて御頚を万の人にみせける。御学問の御師にて宗業ありければ、召て見せられなんどして一定なりければ、さてありける程に、宮は いまだおはしますなど云事云ひ出して、不可思議の事どもありけれど、信じたる人のおこにてやみにき。さてやがて寺へは武士いれて、堂舎をのぞきて房々はお ほくやきはらはせてき。
さて宮の三井寺よりならへおはします事は、奈良・吉野の方にうけとりまいらせんと支度したりければ、ふかくやす(か)らぬことにして、南都を追討せんとて 公卿僉議行ひけり。隆季・通親など云公卿一すぢに、平禅門になりかへりたりければ、さるべきよし申けるを、左右大臣にて経宗・兼実多年ならびておはしけ る、右大臣おもひきりて、
「一定謀叛の証拠なくて、さうなくさ程の寺を追討はさらにゑ候はじ。就中春日大明神日本第一守護の神明也。王法仏法如牛角。不可被滅」之由、愚詞申されにければ、
左大臣経宗は昔のならひにおそれてよもこれに同ぜじと人思へりけるに、「右大臣申さるヽ旨一言あだならず。ひしとこれに同じ申」と申たりければ、さすがに左右大臣申さるヽ旨然るべしとてその時はやみにけり。
又治承四年六月二日忽に都うつりと云事行ひて、都を福原へ移して行幸なして、とかく云ばかりなき事どもになりにけり。乍去さてあるべき事ならねば、又公卿 僉議行ひて、十一月廿三日還都ありて、すこし人も心おちいて有けるに、猶十二月廿八日に遂に南都へよせて焼はらひてき。その大将軍は三位中将重衡なり。あ さましとも事もおろかなり。長方中納言が云けるは、
「こはいかにと思ひしに、さらに公卿僉議とてありしに、かへりなんと思ふよと推知してしかば、放詞さてよかるべき由申てき」とぞ云ける。
さてかう程に世の中の又なりゆく事は、三条宮寺に七八日おはしましける間、諸国七道へ宮の宣とて武士を催さるヽ文どもを、書ちらかされたりけるを、もてつぎたりけるに、伊豆国に義朝が子頼朝兵衛佐とてありしは、世の事をふかく思てありけり。
平治の乱に十三にて兵衛佐とてありけるを、その乱は十二月なり、正月に永暦と改元ありける二月九日、頼盛が郎等に右兵衛尉平宗清と云者ありけるが、もとめ 出してまいらせたりける。この頼盛が母と云は修理権大夫宗兼が女なり。いひしらぬ程の女房にてありけるが、夫の忠盛をももたへたる者なりけるが、保元の乱 にも、頼盛が母が新院の一宮をやしなひまいらせければ、新院の御方へまいるべき者にて有けるを、「この事は一定新院の御方はまけなんず。勝べきやうもなき 次第なり」とて、「ひしと兄の清盛につきてあれ」とおしへて有ける。かやうの者にて、この頼朝はあさましくおさなくて、いとおしき気したる者にてありける を、「あれが頚をばいかヾは切んずる。我にゆるさせ給へ」となく++こひうけて、伊豆には流刑に行ひてけるなり。物の始終は有興不思議なり。其時もかヽる 又打かへして世のぬしとなるべき者なりければにや、頼盛をもふかく(た)のみたる気色にて有けるなりけり。
この頼朝、この宮の宣旨と云物をもて来りけるを見て、「さればよ、この世の事はさ思しものを」とて心おこりにけり。又光能卿院の御気色をみて、文覚とてあ まりに高雄の事すヽめすごして伊豆に流されたる上人ありき。それして云やりたる旨も有けるとかや。但これはひが事なり。文覚・上覚・千覚とてぐしてあるひ じり流されたりける中、四年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝に馴たりける、その文覚、さかしき事どもを、仰もなけれども、上下の御の内をさぐりつヽ、いヽいたり けるなり。
さて治承四年より事をおこしてうち出けるには、梶原平三景時、土肥次郎実平、舅の伊豆の北条四郎時政、これらをぐして東国をうち従へんとしける程に、平家 世を知て久くなりければ、東国にも郎等多かりける中に、畠山荘司、小山田別当と云者兄弟にてありけり。これらはその時京にありければ、それらが子どもの荘 司次郎など云者どもの押寄て戦て、筥根の山に逐こめてけり。頼朝よろひぬぐ程になりにければ、実平ふるき者にて、「大将軍のよろひぬがせ給ふは、やうある 事ぞかし」とて、松葉をきりて冑の下にしかせて、甲を取て上におきなんどして、いみじき事どもふるまひけるとかや。かくてこれらぐして船に乗て、上総の介 の八郎広経が許へ行て勢つきにける後は、又東国の者皆従ひにけり。三浦党は頼朝がりきける道にて畠山とは戦ひたりけり。それより一所にあつまりにけり。
北国の方には、帯刀先生義方が子にて、木曾冠者義仲と云者などおこりあひけり。宮の御子など云人くだりておはしけり。清盛は三条の以仁の宮うちとりて、弥 心おごりつヽ、かやうにしてありけれど、東国に源氏おこりて国の大事になりにければ、小松内府嫡子三位中将維盛を大将軍にして、追討の宣旨下して頼朝うた んとて、治承四年九月廿一日下りしかば、人見物して有し程に、駿河の浮島原にて合戦にだに及ばで、東国の武士ぐしたりけるも、皆落て敵の方へゆきにけれ ば、かへりのぼりけるは逃まどひたる姿にて京へ入にけり。其後平相国入道は同五年閏二月五日、温病大事にて程なく薨逝しぬ。その後に法皇に国の政かへり て、内大臣宗盛ぞ家を嗣て沙汰しける。
高倉院は先立て正月十四日にうせ給ひにき。かくて日にそへて、東国、北陸道みなふたがりて、このいくさにかたん事を沙汰してありけれど、上下諸人の心みな 源氏に成にけり。次第にせめよするきこへども有ながら、入道うせて後、寿永二年七月までは三年が程すぎけるに、先づ北陸道の源氏すヽみて近江国にみちけ り。これよりさき越前の方へ家の子どもやりたりけれど、散※※に追かへされてやみにけり。となみ山のいくさとぞ云ふ。かヽりける程に七月廿四(日)の夜、 事火急になりて、六はらへ行幸なして、一家の者どもあつまりて、山しながために大納言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、
「治承三年冬の比あしざまなる事ども聞ゑしかば、ながく弓箭のみちはすて候ぬる由故入道殿に申てき。遷都のころ奏聞し候き。今は如此事には不可供奉」
と云けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山しなへむかいてけり。
かやうにしてけふあす義仲・東国武田など云もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるにてをのヽきあいける程に、廿四日の夜半に法王 ひそかに法住寺殿をいでさせ給ひて、鞍馬の方よりまはりて横川へのぼらせをはしまして、あふみの源氏がりこの由仰つかはしけり。たヾ北面下臈にともやす、 つヽみの兵衛と云男御輿かきなんどしてぞ候ける。暁にこの事あやめ出して六はらさはぎて、辰巳午両三時ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗 盛一族さながら鳥羽の方へ落て、船にのりて四国の方へむかいけり。六はらの家に火かけて焼ければ、京中に物とりと名付たる者いできて、火の中へあらそい入 て物とりけり。
その中に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞て先子の兵衛佐為盛を使にして鳥羽にをひつきて、「いかに」と云ければ、返事をだにもゑせず、心も うせてみゑければ、はせかへりてその由云ければ、やがて追様に落ければ、心の内はとまらんと思ひけり。又この中に三位中将資盛はそのころ院のおぼゑしてさ かりに候ければ、御気色うかヾはんと思けり。この二人鳥羽より打かへり法住寺殿に入り居ければ、又京中地をかへしてけるが、山へ二人ながら事由を申たりけ れば、頼盛には、「さ聞食つ。日比よりさ思食き。忍て八条院辺に候へ」と御返事承りにけり。もとより八条院のをちの宰相と云寛雅法印が妻はしうとめなれ ば、女院の御うしろみにて候ければ、さてとまりにけり。資盛は申いるヽ者もなくて、御返事をだに聞かざりければ、又落てあいぐしてけり。
さて廿五日東塔円融房へ御幸なりてありければ、座主明雲はひとへの平氏の護持僧にて、とまりたるをこそわろしと云ければ、山へはのぼりながらゑまいらざり けり。さて京の人さながら摂籙の近衛殿は一定ぐして落ぬらんと人は思ひたりけるも、ちがいてとヾまりて山へ参りにけり。松殿入道も九条右大臣も皆のぼりあ つまりけり。
その刹那京中はたがいについぶくをして物もなく成ぬべかりければ、「残なく平氏は落ぬ。をそれ候まじ」にて、廿六日のつとめて御下京ありければ、近江に入りたる武田先まいりぬ。つヾきて又義仲は廿六日に入りにけり。六条堀川なる八条院のはヽき尼が家を給りて居にけり。
かくてひしめきてありける程に、いかさまにも国王は神璽・宝剣・内侍所あいぐして西国の方へ落給ひぬ。この京に国主なくてはいかでかあらんと云さたにてあ りけり。「父法皇をはしませば、西国王安否之後歟」などやう++にさたありけり。この間の事は左右大臣、松殿入道など云人に仰合けれど、右大臣の申さるヽ むねことにつまびらか也とて、それをぞ用ひられける。
さていかにも+践祚はあるべしとて、高倉院の王子三人をはします。一人は六はらの二位やしないて船にぐしまいらせてありけり。いま二人は京にをはします。 その御中に三宮・四宮なるを法皇よびまいらせて見まいらせられけるに、四宮御をもぎらいもなくよびをはしましけり。又御うらにもよくをはしましければ、四 宮を寿永二年八月廿日御受禅をこなはれにけり。よろづ新儀どもなれど、仰合つヽ、右大臣ことに申をこなひて、国王こヽに出きさせをはしまして、
世はさればいかに落居なんずるぞと、日本国のなれる様今はかうにこそとて、摂籙臣こそ如此はさたすることを、山よりくだらせ給ふまヽに、近衛殿摂籙もとの ごとしと被仰にけり。一定平氏にぐして落べき人のとまりたればにや。又いかなるやうかありけん。されど近衛殿はかやうの事申さたすべき人にもあらず。すこ しもをぼつかなき事は右大臣に問つヽこそをはしければ、たヾ名ばかりの事にて、庄園文書まヽ母の我よりも弟なりしが手よりゑたる由にて、清盛にかくしなさ れたる人にてあるが、猶かくてあら(は)るヽ。いかにも+人は心ゑぬことにてありしをば皆心ゑられたり。かう程にみだれん世は事もいはれたる事はあるまじ き時節なるべし。大方摂籙臣はじまりて後これ程に不中用なる器量の人はいまだなし。かくてこの世はうせぬる也。
贈左大臣範季の申しけるは、「すでに源氏は近江国にみちて六はらさはぎ候之時、院は今熊野にこもらせ給て候しに、近習にめしつけられて候しかば、ひまの候 しに、「いかにも+今は叶候まじ。東国武士は夫までも弓箭にたづさいて候へば、此平家かなひ候はじ。ちがはせをはします御沙汰や候べからん」と申て候しか ば、ゑませをはしまして、「いまその期にこそは」と仰の候し」とかたりけり。もとより(の)御案なりけり。
この範季は後鳥羽院をやしないたてまいらせて、践祚の時もひとへにさたしまいらせし人也。さて加階は二位までしたりしかども、当今の母后のちヽなり。さて贈位もたまはれり。
範季がめい刑部卿の三位と云しは能円法師が妻也。能円は土御門院の母后承明門院の父なり。この僧の妻にて刑部卿三位はありし、その腹也。その上御めのとに て候しかども、能円は六はらの二位が子にしたる者にて、御めのとにもなしたりき。落し時あいぐして平氏の方にありしかば、其後は刑部卿の三位もひとへに範 季をぢにかヽりてありしなり。それを通親内大臣又思て、子をいくらともなくむませて有き。故卿の二位は刑部卿三位が弟にて、ひしと君につきまいらせて、 かヽる果報の人になりたるなり。
かやうにてすぐる程に、この義仲は頼朝を敵に思ひけり。平氏は西海にて京へかへりいらんと思ひたり。この平氏と義仲と云かはして、一になりて関東の頼朝を せめんと云事出きて、つヽやきさヽやきなどしける程に、是も一定もなしなどにてありけるに、院に候北面下臈友康・公友など云者、ひた立に武士を立て、頼朝 こそ猶本体とひしと思て、物がらもさこそきこへければ、それををもはへて頼朝が打のぼらんことをまちて、又義仲何ごとかはと思けるにて、法住寺殿院御所を 城にしまはしてひしとあふれ、源氏山々寺々の者をもよほして、山の座王明雲参りて、山の悪僧ぐしてひしとかためて候けるに、
義仲は又今は思ひきりて、山田・樋口・楯・根の井と云四人の郎従ありけり、我勢をちなんず、落ぬさきにとや思ひけん、寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ 千騎内五百余きなんとぞ云けるほどの勢にてはたとよせてけり。義仲が方に三郎先生と云源氏ありけるも、かく成にければ皆御方へまいりたりけるが、猶義仲に 心をあはせて、最勝光院の方をかためたりける山の座主が方にありけるが内より、座主の兵士なにばかりかはあらんを、ひし++と射けるほどに、ほろ++と落 にけり。散※※に追ちらされて、しかるべき公卿殿上人宮なにか皆武士にとられにけり。殿上人己上の人には美乃守信行と云者ぞ当座にころされにける。そのほ かは死去の者は上臈ざまにはさすがになかりけり。さるやうなる武士も皆にげにけり。院の御幸は清浄光院の方へなりたりけり。武士参りてうるはしく六条の木 曾が六条のかたはらに信成が家あるにすゑまいらせてけり。当時の六条殿はこれなり。
さて山の座主明雲、寺の親王八条宮と云院の御子、これ二人はうたれ給ぬ。明雲が頚は西洞院河にてもとめ出て顕真とりてけり。かゝりけるほどにそれにぐして見たる者の申けるは、
「我かためたる方落ぬと聞て、御所に候けるが、長絹の衣に香のけさぞきたりける、こしかきも何もかなはで馬にのせて弟子少々ぐして、蓮花王院の西のついぢ のきはを南ざまへ逃けるに、その程にてをヽく射かけヽる矢の、鞍のしづはの上より腰に立たりけるを、うしろより引ぬきける。くヽりめより血ながれ出でけ り。さて南面のすゑに田井のありける所にて馬より落にけり。武者ども弓をひきつヽ追ゆきけり。
弟子に院の宮、後には梶井宮とてきと座主になられたりしは、十五六にて有けるは、かしこく「われは宮なり」と名のられければ、生どりに取て武者の小家に唐櫃の上にすゑたりけり」とぞ聞へし。
八条宮はぐしたりける人あしく、衣けさなんどをぬがせ申て、こんのかたびらをきせたてまつりたりければ、はしりかヽりて武者のきらんとしけるに、うしろに 少将房とてちかくつかはれける僧は、院の御所に候源馬助俊光と云があに也、その僧の、「あに」と云て手をひろげたりけるかいなを、打落すまでは見きと申者 ありけり。
山座主が頚をとりて木曾にかう++と云ければ、「なんでうさる者」と云ければ、たヾ西洞院川にすてたりけるなめり。
「院の御前に御室のをはしける、一番に逃給ひにけり。口惜き事也」とぞ人申し。
明雲は山にて座王あらそいて快修とたヽかいして、雪の上に五仏院より西塔まで四十八人ころさせたりし人なり。すべて積悪をヽかる人なり。西光が頚きらるヽ 日は、山大衆西坂本にくだりて、「これまで候」などいはせて、平人道は、「庭にたヽみしきて、大衆大だけへかへりぼらせ給ふ火のみゑ候しまでは、をがみ申 候き」など云けるとぞ聞へし。かやうにて今日は又この武者して候ことこはいかにと、さすがに世の末にもふかくかたぶく人多かりけり。
寺の宮は尊星王法をこなはれけり。院事をはしますべくはかはりまいらせんと祭文にかヽれたりけりとぞ申し。又三条宮寺にをはせしを、追いだす方の人なりき なども申き。いかにも+この院の木曾と御たヽかいは、天狗のしわざうたがいなき事也。これをしづむべき仏法もかく人の心わろくきはまりぬれば、利生のうつ は物にあらず。術なき事なり。
さて義仲は、松殿の子十二歳なる中納言、八歳にて中納言になられて八歳の中納言と云異名ありし人を、やがて内大臣に成して摂政長者になり、又大臣の闕もな きに実定の内大臣を暫とてかりてなしたれば、世にはかるの大臣と云異名又つけてけり。さて松殿世をおこなはるべきにて有りき。さしも平家にうしなはれ給て しかば、この時だにもなど云心にこそ。
さて除目おこなひて善政とをぼしくて、俊経宰相になしなどしてありし程に、かヽる次第なれば、一の所の家領文書は松殿皆すべてさたせらるべきにて、近衛殿 はほろ++と成りぬるにてありければ、法皇の近衛殿をいかにも+いとをしき人に思はせ給て、賀陽院方の領と云は、近衛殿のてヽの中殿賀陽院の御子になりて つたへ(給へ)る方なれば、そればかりをば近衛殿にゆるさるべしやと、その世にも猶院より仰られたりけるを、しかるべからぬやうに返事を申されたりける、 くちをしくをぼしめしたりける也。松殿なんど程の人も、かくて木曾が世にて、世をながくしらんずとをぼしけるにやと返返くちをしき事也。九条殿はうるせ く、その時とりいだされずして松殿になりけるをば、事がらも十二歳のをもて方こそあさましけれど、松殿の返りなりたるにてこそあれ、いみじ+とて、我れの がれたるをば仏神のたすけとよろこばれけり。
かヽる程にやがて次の年正月の廿日、頼朝この事きヽて、弟に九郎と云ひし者に、土肥実平・梶原景時・次官親能など云者さしのぼせたるが、左右なく京へ打い りて、その日の内に打取て頚とりてき。その時すでに坂東武者せめのぼると聞て、義仲は郎等どもを、勢多・宇治・淀なんどの方へちらしてふせがせんと、手び ろにくはだてヽ有けるほどに、すヽどに宇治の方より、九郎、ちかよしはせ入りて川原に打立たりときヽて、義仲はわづかに四五騎にてかけ出でたりける。やが て落て勢多の手にくはヽらんと大津の方へをちけるに、九郎をひかヽりて大津の田中にをいはめて、伊勢三郎と云ける郎等、打てけりときこへき。頚もちて参り たりければ、法皇は御車にて御門へいでヽ御覧じけり。
さて平氏宗盛内大臣は、我主とぐしたてまつりて、義仲と一にならんずるしたくにて、西国より上洛せしめて、福原につきてありける程に、同寿永三年二月六日 やがて此頼朝が郎従等をしかけて行むかいてけり。それも一の谷と云ふ方に、からめ手にて、九郎は義経とぞ云ひし、後の京極殿の名にかよひたれば、後には義 顕とかへさせられにき、この九郎その一の谷より打いりて、平家の家の子東大寺やく大将軍重衡いけどりにして、其外十人ばかりその日打取てけり。教盛中納言 の子の通盛三位、忠度など云者どもなり。さて船にまどいのりて宗盛又をちにけり。
其後やがて寿永三月四月十六日に、崇徳院并宇治贈太政大臣宝殿つくりて社壇春日河原保元戦場にしめられて、範季朝臣奉行して霊蛇出きたり。又預になされた る神祇権大副卜部兼友夢相ありなんどきこへき。この事はこの木曾が法住寺いくさのこと、偏に天狗の所為なりと人をもへり。いかにもこの新院の怨霊ぞなど云 事にて、たちまちにこの事出きたり。新院の御をもい人の烏丸殿とてありし、いまだいきたりければ、それも御影堂とて綾小路河原なる家につくりて、しるしど も有りとてやう++のさたどもありき。
かやうにて平氏は西国に海にうかびつヽ国々領したり。坂東は又あきたれど末落居京中の人あざみなげきてある程に、元暦二年三月廿四日に船いくさの支度に て、いよ++かくと聞て、頼朝が武士等かさなりきたりて西国にをもむきて、長門の門司関だんの浦と云ふ所にて船のいくさして、主上をばむばの二位宗盛母い だきまいらせて、神璽・宝剣とりぐして海に入りにけり。ゆヽしかりける女房也。内大臣宗盛以下かずをつくして入海してける程に、宗盛は水練をする者にて、 うきあがり+して、いかんと思ふ心つきにけり。さていけどりにせられぬ。
主上の母后建礼門院をば海よりとりあげて、とかくしていけたてまつりてけり。神璽・内侍所は同き四月廿五日にかへりいらせ給にけり。宝剣は海にしづみぬ。 そのしるしの御はこはうきて有けるを、武者とりて尹明がむすめの内侍にてありけるにみせなんどしたりけり。内侍所は、大納言時忠とて二位がせうと有りき、 ぐしてある者どもの中に、時信子にてつかへし者にて、さかしきことのみして、たび++ながされなんどしたりし者、とりてもちたりけり。これ皆とりぐして京 へのぼりにけり。二宮もとられさせ給て上西門院にやしなはれてをはしけり。宝剣の沙汰やう++にありしかど、終にゑあまもかづきしかねて出でこず。其間の 次第はいかにともかきつくすべき事ならず。たヾをしはかりつべし。大事のふし※※ならぬ事はその詮もなければ書をとすことのみ有り。
其後この主上をば安徳天皇とつけ申たり。海にしづませ給ひぬることは、この王を平相国いのり出しまいらする事は、安芸のいつくしまの明神の利生なり。この いつくしまと云ふは竜王のむすめなりと申つたへたり、この御神の、心ざしふかきにこたへて、我身のこの王と成てむまれたりけるなり、さてはてには海へかへ りぬる也とぞ、この子細しりたる人は申ける。この事は誠ならんとをぼゆ。
抑この宝剣うせはてぬる事こそ、王法には心うきことにて侍べれ。これをもころうべき道理さだめてあるらんと案をめぐらすに、これはひとへに、今は色にあら はれて、武士のきみの御まもりとなりたる世になれば、それにかへてうせたるにやとをぼゆる也。そのゆへは太刀と云ふ剣はこれ兵器の本也。これは武の方のを ほんまもり也。文武の二道にて国主は世をおさむるに、文は継体守文とて、国王のをほん身につきて、東宮には学士、主上には侍読とて儒家とてをかれたり。武 の方をばこの御まもりに、宗廟の神ものりてまもりまいらせらるヽなり。それに今は武士大将軍世をひしと取て、国主、武士大将軍が心をたがへては、ゑをはし ますまじき時運の、色にあらはれて出きぬる世ぞと、大神宮八幡大菩薩もゆるされぬれば、今は宝剣もむやくになりぬる也。高倉院をば平民たてまいらする君な り。この陛下の兵器の御まもりの、終にこのをりかくうせぬる事こそ、あらはに心ゑられて世のやうあはれに侍れ。
大方は上下の人の運命も三世の時運も、法爾自然にうつりゆく事なれば、いみじくかやうに思ひあはするも、いはれずとをもふ人もあるべけれど、三世に因果の 道理と云物をひしとをきつれば、その道理と法爾の時運とのもとよりひしとつくり合せられて、ながれくだりもゑのぼる事にて侍なり。
それを智ふかき人はこのことはりのあざやかなるをひしと心へつれば、他心智末来智などをゑたらんやうに、すこしもたがはずかねてもしらるヽ也。漢家の聖人 と云孔子・老子よりはじめてみなこの定にかねていヽあつるなり。この世にもすこしかしこき人の物をおもひはからふは、随分にはさのみこそ候へ。さる人をも ちいらるヽ世はをさまり、さなき人の、たヾさしむかいたることばかりをのみさたする人の、世をとりたる時は、世はたヾうせにをとろへまかるとこそはうけ玉 はれ。
さて九郎は大夫尉になされて、いけどりの宗盛公、重衡などぐして、五月七日頼朝がりくだりにけり。二人ながら又京へのぼせて、内大臣宗盛をば六月廿三日 に、このせたの辺にて頚きりてけり。重衡をば、まさしく東大寺大仏やきたりし大将軍なりけり。かく仏の御敵うちてまいらするしるしにせんとて、わざと泉の 木津の辺にて切て、その頚は奈良坂にかけてけり。前内大臣頚をば使庁へわたしければ、見物にて院も御覧じけり。
重衡をば頼政入道が子にて頼兼と云者をその使にさたしのぼせて、東大寺へぐしてゆきて切てけり。大津より醍醐とをり、ひつ川へいでヽ、宇治橋わたりて奈良 へゆきけるに、重衡は、邦綱がをとむすめに大納言すけとて、高倉院に候しが安徳天皇の御めのとなりしにむことりたるが、あねの大夫三位が日野と醍醐とのあ はいに家つくりて有りしにあいぐして居たりける、このもとの妻のもとに便路をよろこびてをりて、只今死なんずる身にて、なく++小袖きかへなどしてすぎけ るをば、頼兼もゆるしてきせさせけり。大方積悪のさかりはこれをにくめども、又かヽる時にのぞみてはきく人かなしみの涙にをぼ(ほ)ゆる事なり。
範源法印とて季通入道が子ありき。天台宗碩学題者なり。そのかみ吉野山にかよふ事ありけるは、相人にてよく人相するをぼゑありき。それが吉野よりのぼりけ るに、くぬ木原の程にこの重衡あいたりければ、「これは何事ぞ」ととはせけるに、かう++と云ひければ、只今死なんずと云者の相こそをぼつかなけれ、見て んと思ひて、輿よりをりてその辺に武士わりごなんどのれうに馬どもやすめける所にて、すこしちかくよりて見けるに、つや++と死相みへず。こはいかにと思 ひてたちまはりつヽみけれど、ゑ見いださですぎにき。ふかしぎの事かなとこそ申けれ。相と云物はいかなるべきにか。
頼朝かやうのさたどもよの人舌なきをしてあふぎたりけり。
頼兼は頼政をつぎて猶大内の守護せさせられき。久くもなくてゑ思ふやうならでうせにき。それが子とて頼茂と云者ぞ又つぎて大内に候ける。かやうにて今は世 の中をち居ぬるにやとをもいしほどに、元暦二年七月九日午時ばかりなのめならぬ大地震ありき。古き堂のまろばぬなし。所々のついがきくづれぬなし。すこし もよはき家のやぶれぬもなし。山の根本中堂以下ゆがまぬ所なし。事もなのめならず竜王動とぞ申し。平相国竜になりてふりたると世には申き。法勝寺九重塔は あだにはたうれず、かたぶきてひえんは重ごとに皆をちにけり。
そのヽち九郎は検非違使五位尉伊与守などになされて、関東が鎌倉のたちへくだりて、又かへり上りなどして後、あしき心出きにけり。さて頼朝は次第に、国に ありながら、加階して正二位までなりにけり。さて平家知行所領かきたてヽ、没官の所と名付て五百余所さながらつかはさる。東国・武蔵・相模をはじめて、申 うくるまヽにたびてけり。
義仲京中にいりてとりくびらんとせしはじめに、頼盛大納言は頼朝がりくだりにけり。二日の道こなたへ頼朝はむかいて如父もてなしける。又頼朝がいもうとヽ 云女房一人ありけるを、大宮権亮能康と云ふ人の妻にして年来ありけり。このゆへによしやす又妻ぐして鎌倉へくだりにき。かやうにしかるべき者どもくだりあ つまりて、京中の人の程ども何もよく++頼朝しりにけり。
さて頼朝がかはりにて京に候この九郎判官、たちまちに頼朝をそむく心をおこして、同文治元年十一月三日、頼朝可追討宣旨給りにけり。人++に被仰合けれ ば、当時のをそれにたへず皆可然と申ける中に、九条右府一人こそ、追討宣旨など申事は依其罪過候事也、頼朝罪過なにごとにて候にか、いまだ其罪をしらず候 へば、とかくはからい申がたき由申されたりけれ。この披露の後、頼朝郎従の中に土佐房と云ふ法師ありけり、左右なく九郎義経がもとへ夜打にいりにけり。九 郎をきあいてひし++とたヽかいて、その害をのがれにけれど、きすさへられてはか※※しく勢もなくて、宣旨を頚にかけて、文治元年十一月三日、西国方へと て船にのりて出にけりときこへしに、その夜京中ことにさはぎけり。人ひとりしちにやとらんずらんと思ひけれどたヾぞ落にける。川尻にて頼朝が方の郎従ども をいかヽりて、ちり※※にうせにけり。十郎蔵人行家とてありしは木曾義仲にぐしたりし。それと又ひとつにてありしもはなれて、北=石蔵(きた=いはくら) にてうたれてその頚なんど云者きこへき。九郎はしばしはとかくれつヽありきける。无動寺に財修とてありける堂衆が房には、暫かくしをきたりけるとのちに聞 へき。ついにみちのくにの康衡がもとへ逃とをりて行にける。をそろしき事なりと聞へしかども、やすひらうちてこの由頼朝がり云けるをば、「それにもよら じ、わろきことしたり」とぞかの国にもいひける。
同十二月廿八日に九条右大臣に内覧宣旨くだされにけり。この頼朝追討の宣旨くだしたる人++、皆勅勘候べき由申したりけり。蔵人頭光雅・大夫史隆職など解 官せられにけり。上卿は左大臣経宗なり。それをばとかくも申さヾりけれど議奏の上卿とて申たりけるには、左大臣をばかきいれざりけり。これにてさよと人に 思はせけり。これまでもいみじくはからいたりけるにや。又院の近習者泰経三位など皆をいこめてけり。同二年十一月廿六日に、又九郎を可搦進之由宣下ありけ り。あさましき次第ども也。
又其後文治五年七月十九日に鎌倉をいでヽ、奥いりとて、終にみちの国のひでひらがあとやすひらと云、打とらんと頼朝の将軍思ひけり。尤いはれたり。かれは 誰にもしたがはぬやうにて、みちの国ほどの国をひとへに領してあれば、いかでか我物にせざらん。ゆゝしく出でたちてせめいりて、同九月三日やす++と打は らいてけり。さてみちの国も皆郎従どもにわけとらせて、この由上へ申てうるはしく国司なされて、年比にもにず国司のためもよくてありけり。
ひでひらが子に母太郎・父太郎とて子二人ありけり。やすひらは母太郎也。それにつたへて父太郎は別の所をこしゑてありける。父太郎は武者がらゆヽしくて、 いくさの日もぬけ出てあはれ物やと見へけるに、こなたよりあれを打とらんと心をかけたりけるにも、庄司次郎重忠こそ分入てやがて落合てくびとりて参たりけ れ。すべて庄司次郎を頼朝は一番にはうたせ+してありけり。ゆヽしき武者なり。終にいかなる納涼をしけるにも、かたへの者ちかく膝をくみて居る事ゑせでや みける者とぞきこゆる。
頼朝は鎌倉を打出けるより、片時もとり弓せさせず。弓を身にはなつ事なかりければ、郎従どもヽなのめならずをぢあいけり。手のきヽざま狩などしけるには、 大鹿にはせならびて角をとりて手どりにもとりけり。太郎頼家は又昔今ふつになき程の手きヽにてありけり。のくもりなくきこゑき。

愚管抄(巻第六)

九条の右大臣は、文治二年三月十二日、ついに摂政詔、氏長者と仰せ下されにけり。去年十二月廿九日より内覧臣計にて、われも人も何ともなく思てありけるに、かくさだまりにければ、世の中の人も、げに++しき摂籙臣こそ出きたれと思へりけり。さて右大臣いはれけるは、
「治承三年の冬より、いかなるべしとも思ひわかで、仏神にいのりて摂籙の前途には必ず達すべき告ありて、十年の後けふまちつけつる」といわれけり。
十六日やがて拝賀せられにけり。その夜ことに雨ふりたりけり。さてのち法皇には心しづかに見参に入てありければ、「われはかくなにとなきやうなる身なれ ど、世をば久く見たり。はヾからずたヾよからんさまにをこなはるべき也」など仰ありて、をぼへの丹後と云は浄土寺二位、宣陽門院の御母なり、いであはせさ せなどしてありけり。又頼朝関東よりやう++にめでたく申やくそくして、世のひしとをちひぬと世間の人も思てすぎけり。
去年十月廿八日に嫡子の良通大納言大将は、任内大臣、大饗いみじくをこないなどして、同四年正月に春日まうでせられけり。家嫡にて良通内大臣はぐせられけ れば、先例まれなることにて、如二長者御さきぐして一員にてありけり。御さきと云は、大外記・大夫史・弁・少納言をくるまのやかたぐちにうたする也。ゆヽ しき事にてありけり。かく二人ならぶ時は一方はたヾの史・外記なり。二人づヽ五位史・外記出きにたれば、さあらん時は今すこし厳重にや。
さてその二月の廿日の暁、この内大臣ね死に頓死をしてけり。この人は三の舟にのりぬべき人にて、学生職者、和漢の才ぬけたる人にて、廿一なる年の人とも人 にをもはれず。すこしせいちいさやかなれど、容儀身体ぬけ出て、人にほめられければ、父の殿もなのめならずよき子もちたりと思はれけり。皇嘉門院にやしな いたてられて、その御あとさながらつぎたる子にてありける。かヽる死をしてければ、やがていみにけがれて、その由院に申てありける程に、
「我よしなし。うけがたき人に生れたると云は、仏道こそ本意なれ。経べき家の前途はとげつ。出家してん」
と思ふ心ふかく付ながら、そのいもうとに女子のまたをなじく最愛なるをはしけり。いまの宜秋門院なり。それを昔の上東門院の例にかない、当今御元服ちかき にあり。八にならせ給、十一にて御元服あらんずらんに、これを入内立后せんと思ふ心ふかけれど、法皇も御出家の後なれど、丹後が腹に女王をはす、頼朝も女 子あむなり、思さまにもかなはじと思て、又この本意とぐまじくば、たヾ出家をこの中陰のはてにしてんと思て、二心なく祈請せさせられけるに、又あらたにと げんずるつげのありければ、思ひのどめて、善政とをぼしき事、禁中の公事などをこしつつ、摂籙のはじめより諸卿に意見めしなどして、記録所殊にとりをこな いてありけり。文治六年正月三日主上御元服なりければ、正月十一日によき日にて、上東門院の例に叶て、むすめの入内思のごとくとげられにけり。

さてすぐるほどに、文治は六年と云四月十一日に、改元にて建久に成にける。元年十一月七日頼朝の卿は京へのぼりにけり。よの人をそにたちてまち思けり。六 波羅平相国が跡に、二町をこめて造作しまうけて京へいりける。きのふとて有ける、雨ふりて勢田の辺にとヾまりて、思さまに雨やみて、七日いりけるやうは、 三騎+ ならべて武士うたせて、我より先にたしかに七百余騎ありけり。後二三百余騎はうちこみてありけり。こむあをにのうち水干に夏毛のむかばきまことに とを白くて、黒き馬にぞのりたりける。そ(の)後院・内へまいりなんどして、院には左右なきものになりにけり。やがて右大将になされにけり。十一月九日先 任権大納言。参議・中納言をもへず直に大納言に任ずる也。同廿四日に任右大将、同日拝賀、十二月三日両官辞退してき。もとよりふし++に正二位までの位に は玉はりにけり。大臣も何もにてありけれど、わが心にいみじくはからい申けり。いかにも+ 末代の将軍にありがたし。ぬけたる器量の人なり。大将のよろこ び申にも、いみじくめづらしき式つくりて、前駈十人はみな院の北面の物給はりて、随身かねよりが太郎かねひら給りて、公卿には能保、いもうとの男にて、や がて次第になしあげたれば、中納言にて、それ一人ぐして、やがてそのいもうとの腹のむすめに、むこにとりたりし公経中将、又いとこを子にしたる、もと家の 中納言が子の保家少将、これらをぞぐしたりける。我車のしりに七騎の武士をよろいきせて、かぶとはきず、たヾ七人ぐしたりき。その名どもはたしかにもをぼ へねば略しぬ。見る人こはゆヽしき見物かなと申けり。さて内裏にまいりあいて、殿下と世の政の作べきやうはなどふかく申承けり。

院へもたび++まいりけり。経房大納言はじめより京の申次にせんと定申てありければ、のぼりても六はらへ行むかいつヽ、いみじき程に一番に院へまいりける は、やがてつくりてまいらせたる六条殿指図より++して、なげしの上下までさたしもちて、もとよく参なれたるやうにふるまいて、人にもほめられんと思ひけ るほどに、先に立て道びけとぞいわんずらんと思に、さもいはずすく++と参けるに、しりに立て、白昼なればをぼつかなかるべくもなきに、「そこはなげしの 上候下候」なにかと、天性口がましきなんありける人にて、云かけヽり。後物に心えぬ人にこそとぞ云ける。

かやうに在京の間人にほめられて、いくほどもなし、八幡・東大寺・天王寺などへ参めぐりて、十二月十八日かへりてくだりにけり。前の日大功田百町宣下など給けり。院に申ける事は、

「わが朝家のため、君の御事を私なく身にかへて思候しるしは、介の八郎ひろつねと申候し者は東国の勢人、頼朝うち出候て、君の御敵しりぞけ候はんとし候し はじめは、ひろつねをめしとりて、勢にしてこそかくも打えて候しかば、功ある者にて候しかど、「ともし候へば、なんでう朝家の事をのみ身ぐるしく思ぞ。 たヾ坂東にかくてあらんに、誰かは引はたらかさん」など申て、謀反心の者にて候しかば、かヽる者を郎従にもちて候はヾ、頼朝まで冥加候はじと思ひて、うし ない候にき」とこそ申けれ。

その介八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりなし。双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頚をかいきりてもてきたりける、ま ことしからぬ程の事也。こまかに申さば、さることはひが事もあれば、これにてたりぬべし。この奏聞のやう誠ならば、返々まことに朝家のたからなりける者か な。

同三年三月十三日に法皇は崩御ある。あへの年より御やまいありて、すこしよろしくならせ給などきこへながら、大腹水痟と云御悩にて、御閉眼の前日まで、御 足などはすくみながら、長日護摩御退転なくをこなはせをはしましけり。御いみの間の御仏事などはちかごろはきかず、あまりなるまでにぞきこへける。

大方この法皇は男にてをはしましヽ時も、袈裟たてまつりて護摩などさへをこなはせ給て、御出家の後はいよ++御行にてのみありけり。法華経の部数など、数 万部の内二百部などにもをよびけり。つねは舞・猿楽をこのみ、せさせつヽぞ御覧じける。御いもうとの上西門院も持経者にて、いますこしはやくよませ給けれ ば、つねは読あいまいらせんなど仰られけり。御悩の間行幸なりつヽ、世の事みな主上に申をかれてければ、太上天皇もをはしまさで、白川・鳥羽・此院と三代 は、をり居の御門の御世にてありければ、めづらしく後院の庁務なくして、院の尊勝陀羅尼供養など云ことも、法勝寺にてをこなはれなどして、殿下、かま倉の 将軍仰せ合つヽ、世の御政はありけり。

その始に、播磨国・備前国は院分にてありしを、上人(二人)にたびて、

「成もまり候はぬ東大寺いそぎ造営候べし。東寺は弘法大師の御建立、鎮護国家無左右候、寺もなきがごとくに成り候をつくられ候べし。其にすぎたる御追善やは候べき」とて、東寺の文学房、東大寺の俊乗坊とに、播磨は文学、備前は俊に給はせてけり。

東大寺にはもとより周防国はつきてありければと、事もなりやらずとて、くはへ給はるヽ也。

文学はそのかみ同じ国にながされてありける時、あさ夕にゆきあいて、仏法を信ずべきやう、王法をおもくまもりたてまつるべきやうなど云聞せけり。かくては つべき世中にもあらず、うち出る事もあらばなど、あらましごともやくそくしけるが、はたして思ふまヽに叶ひにければ、高雄寺をも東寺をもなのめならず興隆 しけり。文学は行はあれど学はなき上人なり。あさましく人をのり悪口の者にて、人にいはれけり。天狗をまつるなどのみ人に云けり。されど誠の心にかヽりけ ればにや、はりまをも七年までしりつヽ、かくこうりうしけるにこそ。

さて九条殿は摂籙本意にかないて、物もなかりし興福寺南円堂の御本尊不空羂索等丈六仏像・大伽藍、東大寺と、はなをならべてつくられけり。同五年九月廿二 日興福寺供養也。甚雨なりけり。前の日殿は春日詣せられけり。中納言巳下騎馬ときこへき。御堂御時よりはじまれる例にや。あまりなる事なりと人思けり。

同六年三月十三日東大寺供養、行幸、七条院御幸ありけり。大風大雨なりけり。この東大寺供養にあはむとて、頼朝将軍は三月四日又京上してありけり。供養の 日東大寺にまいりて、武士等うちまきてありける。大雨にてありけるに、武士等はれは雨にぬるヽとだに思はぬけしきにて、ひしとして居かたまりたりけるこ そ、中++物みしれらん人のためにはをどろかしき程の事なりけれ。

内裏にて又たび++殿下見参しつヽありけり。このたびは万をぼつかなくやありけむ、六月廿五日ほどなくくだりにけり。

この年八月八日、中宮御産とののしりけり。いかばかりかは、御祈前代にもすぎたりけり。されど皇女をうみまいらせられて、殿は口をしくをぼしけり。八条院 やがてやしないまいらせて、たてばひかる、いればひかる程の、末代、上下貴賎の女房かヽる御みめなし。「御ぐしなどのよだけ、さこそ」とぞ世には云ける。 院も、「あまりなるほどのむすめかな」とをぼしめして、つねにむかへたてまつりて見まいらせては、御心をゆかし給けり。後には院号ありて春花門院と申け り。この門の名をぞ人かたぶきける。

さて同七年冬の比こと共出きにけり。摂籙臣九条殿をいこめられ給ぬ。関白をば近衛殿にかへしなして、中宮も内裏を出で給ひぬ。これは何事ぞと云に、この頼 朝がむすめを内へまいらせんの心ふかく付てあるを、通親の大納言と云人、この御めのとなりし刑部卿三位をめにして子ども生せたるを、こめをきたりしを、さ らにわがむすめまいらせむと云文かよはしけり。

明雲が弟子の梶井の宮と云人、木曾が時いけどりにせられたりし、をとなしく成て内へ日々に参りなどして侍りしに、又浄土寺の二位密通のきこへありき。これ らが云あはせつヽ、法皇うせをはしましけるとき、にはかに大庄をはりま・備前などにたてられたるをたをされにき。成経・実教など云諸大夫の家、宰相中将に なりたる、とヾめなんどせられし事は、皆頼朝に云あはせつヽ、かのま引にてこそありと、誠にもこれ善政なりとをもはれたれば、かやうの事を浄土寺の二位も とがめて、梶井の宮にさヽやきつヽ、通親をも云ひすヽむるなりけり。内の御気色をうかがふに、又いたふ事うるはしくて、善政+ とのみ云て、御遊どもはヾ からしくをぼしめしけんをも見まいらせて、こヽにては頼朝が気色かうと申、関東へは君の御気色わろく候と云て、をもてを何となくし成して、又一定をとはん をりは、両方に会尺をまうくる由の案どもにて、これはさだまれる奇謀のならひなれば、かくして又仏神の加護もえあるまじき時いたりにければ、同七年の十一 月廿三日に、中宮は八条院へいで給ひにけり。
廿五日に、前摂政に関白氏長者と宣下せられぬ。上卿通(みちちか)・弁親国・職事朝経ときこへけり。やがて流罪にをよばんと、この人++申をこないけれど も、それをば、つよく御気色えあらじとをぼしめしたりければ、云つぐべき罪過のあらばやは、さしても申べきなれば、さてやみにけり。
かヽりければ九条殿の弟山の座主にてありける、何も皆辞してければ、その所に梶井の宮承仁は座主になされたりける、次の年の四月に拝堂しけるより、やがて病つきて入滅せられにけり。あらたなる事かなと人云けり。慈円僧正座主辞したる事をば、頼朝も大にうらみをこせり。
かヽる程に同九年正月十一日に、通親はたと譲位をおこないて、この刑部卿三位が腹に、能円がむすめにて、この承明門院をはします腹に、王子の四にならせ給 を践祚して、この院も今はやう++意にまかせなばやとをぼしめすによりてかく行てけり。関東の頼朝にはいたうたしかなるゆるされもなかりけるにや。頼朝も 手にあまりたる事かなともや思ひけん。これらはしれる人もなきさかいの事也。さて帝の外祖にて能円法印現存してありしかば、人もいかにと思ひたりし程に、 ほどもなく病てし(に)ヽき。よき事と世の人思へりけり。
能保卿は中納言別当などに成て、終に病をもくて出家して、よくなりて内などへ参しかども、この事どもあきれてもありけん。九条殿の御子後京極の摂政、かの 頼朝がめいの能保卿の嫡女なりしにあはせ申て、執聟の儀いみじくしてありし也。終に同八年十月十三日によしやす入道はうせにける程に、
この年の七月十四日に、京へまいらすべしと聞えし頼朝がむすめ久くわづらいてうせにけり。京より実全法印と云験者くだしたりしも、全くしるしなし。頼朝そ れまでもゆヽしく心きヽて、よろしく成たりと披露してのぼせけるが、いまだ京へのぼりつかぬ先に、うせぬるよし聞へて後、京へいれりければ、祈ころしてか へりたるにてをかしかりけり。
能保が子高能と申し、わかくて公卿に成て参議兵衛督なりし、さはぎくだりなんどしてありし程に、頼朝この後京の事ども聞て、猶次のむすめをぐしてのぼらんずと聞へて、建久九年はすぐる程に、九月十七日高能卿うせにき。

かヽるほどに人思ひよらぬほどの事にて、あさましき事出きぬ。同十年正月に関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて正月十一日に出家して、同十三 日にうせにけりと、十五六日よりきこへたちにき。夢かうつヽかと人思たりき。「今年必しづかにのぼりて世の事さたせんと思ひたりけり。万の事存の外に候」 などぞ、九条殿へは申つかはしける。
この後いつしか正月廿日ぢもくおこないて、通親は右大将に成にき。故摂政をば後京極殿と申にや、その内大臣なりしをこして、頼実大相国入道をば右大臣にな してき。このよりざねは右大将を辞せさせて、その所になりにき。この除目に頼ともが家つぎたる嫡子の頼家をば、左中将になしてき。

其比不か思議の風聞ありき。能保入道、高能卿などが跡のためにむげにあしかりければ、その郎等どもに基清・政経・義成など云三人の左衛門尉ありけり。頼家 が世に成て、梶原が太郎左衛門尉にのぼりたりけるに、この源大将が事などをいかに云たりけるにか、それを又、「かくこれらが申候なり」と告たりけるほど に、ひしと院の御所に参り篭て、「只今まかり出てはころされ候なんず」とて、なのめならぬ事出きて、頼家がり又広元は方人にてありけるして、やう++に云 て、この三人を三右衛門とぞ人は申し、これらを院の御前わたして、三人の武士たまはりて流罪してけり。さて頼朝が拝賀のともしたりし公経・保家をひこめら れにけり。能保ことにいとをしくして左馬頭になしたりしたかやすと云し者など流(さ)れにけり。二月十四日の事にやとぞ聞へし。又文学上人播磨玉はりて思 ふまヽに高雄寺建立して、東寺いみじくつくりてありしも、使庁検非違使にてまもらせられなどする事にてありけり。三左衛門も通親公うせて後は、皆めし返さ れてめでたくて候き。

かヽる程に院の叡慮に、さらに+ ひが事御偏頗なるやうなる事はなし。たヾをぼしめしも入ぬ事を作者のするを、ゑしろしめさずさとらせ玉はぬ事こそちから をよばね。かやうにてあれど内大臣良経は、(内大臣は)さすがにいまだとられぬやうにておはせしを、院よく++おぼしめしはからひて、右大臣頼実を太政大 臣にあげて、正治元年六月廿二日任大臣おこなはれけり。兼雅公辞退の所に、左大臣に故摂政をなして、近衛殿の当摂政なるが嫡子、当時の殿を右大臣になし て、通親は内大臣になりにき。頼実の公あさましく腹立て、土佐国辞て入りこもりて人にいはれけり。通親が我内大臣にならんとてしたる事と思ひけり。九条殿 の左右なき御うしろみ宗頼は大納言にて、この卿二位がをとこにてありしを、いみじき事にて九条殿はあられけり。されども心ばへよきばかりにて、つよ++し き事もなかりけり。
さる程に、つねに院の御所には和歌会・詩会などに、通親も良経も左大臣、内大臣とて、水無瀬殿などにて行あひ+ しつつ、正治二年の程はすぎけるに、この 年の七月十三日に左府の北方はうせにけり。十日産をしてその名残ときこへき。さるほどに松殿のむすめを、さやうにもいわれければ、次の年建仁元年十月三日 むかへられにけり。年八廿八ときこへき。その年十二月九日母の(北)政所うせられぬ。

建仁二年(十月)廿一日に、通親公等うせにけり。頓死の体なり。ふかしぎの事と人も思へりけり。承明門院をぞ母うせて後はあいしまいらせける。

かヽりける程に、院は範季がむすめをおぼしめして三位せさせて、美福門院の例にもにてありけるに、王子もあまた出きたる。御あにを東宮にすえまいらせんと おぼしめしたる御けしきなれば、通親の公申さたして立坊ありて、正治二年四月十四日に東宮に立て、かやうにてすぐる程に、九条殿は又(北)政所にをくれて 出家せられにけり。さる程に、院の御心にぞふかく、世のかはりし我が御心よりをこらずと云ことを、人にもしられんとやおぼしめしけん、建仁二年十一月廿七 日に左大臣に内覧・氏長者の宣旨をくだして、やがて廿八日に熊野御進発なりにけり。母北政所重服、この十二月ばかりにてありけり。さて熊のより御帰洛の 後、十二月廿七日に摂政詔くだされにけり。さて正月一日の拝礼のさきによろこび申せられにければ、よの人は、「こはゆヽしく目出きことかな」と思けり。

宗頼大納言は成頼入道が高野に年比おこないてありける、入滅したる服をきるべきを、真のおやの光頼の大納言がをば、成頼がをきむずればとてきざりけり。こ れは又あまりに世にあいていとまをおしがりてきず。さて親もなかりける者になりぬることを、人もかたぶきけるにや。かく熊のヽ御幸の御ともにまいりて、松 明の火にて足をやきたりけるが、さしも大事になりて、正月卅日うせにけり。其後、卿二位は夫をうしないて又とかくあんじつヽ、この太相国よりざねの七条院 辺に申よりて候けるに申などして、又夫にしてやがて院の御うしろみせさせて候ける。

後京極殿は、院もいみじき関白摂政かなと、よに御心にかないて、よき事したりと、ひしとをぼしめしてありけり。山の座主慈円僧正と云人ありけるは、九条殿 のをとゝ也。うけられぬ事なれど、まめやかの歌よみにてありければ、摂政とをなじ身なるやうなる人にて、「必まいりあへ」と御気色もありければ、つねに候 けり。院の御持僧には昔よりたぐひなくたのみをぼしめしたる人と聞へき。さて宇治にめでたき御所つくりて御幸などなりてけるが、程なくやけにけり。

摂政は主上御元服にあいて、てヽの殿の例もちかし、又昔の例共もわざとしたらんやうなれば、むすめをほくもちて、よしやすがむこになりて、いつしかまうけ られたりし嫡女を、又ならぶ人もなく入内せんとて、院にも申つヽいとなませける程に、卿二位ふかく申むねありけり。大相国もとの妻の腹にをのこごはえなく て、女御代とてむすめをもちたりけるを入内の心ざしふかく、

又太政大臣にをしなされて、左大臣にかへりなりて一の上して、如父経宗ならばやと思ひけり。さて卿二位が夫にもよろこびて成にける程に、左大臣の事申ける は、大臣の下登むげにめづらしく、あるべき事ならずとおぼしめして、ゑ申ゑざりければ、この入内の事を、殿のむすめ参て後はかなふまじ、是まいりて後は、 殿のむすめ参らん事は、例も道理もはヾかるまじければ、一日この本意とげばやと卿二位して殿下に申うけヽり。殿は院に申あはせられけるを、院はこの主上の 御事をば、とくをろして東宮にたてヽをはします修明門院の太子を位につけまいらせた(ら)ん時、殿のむすめはまいらせよかしとおぼしめしけり。人これをし らず。申あはせられける時、いさヽかこの趣きあとのありけるやらんとぞ人は推知しける。さてさりて頼実のむすめを入内立后など思のごとくにしてけり。

殿はまちざいはいおぼつかなく、当時はうら山しくもやおぼしけん。人目はよくとして、さられたるもよしにてすぎけるほどに、中御門京極にいづくにもまさり たるやうなる家つくりたてヽ山水池水峨々たる事にてめでたくして、元久三年三月十三日とかやに、絶たる曲水の宴をこなはんとて、鸚鵡坏つくらせなどして、 いみじくよの人もまち悦て、松殿のむすめを北政所にせられたり、摂籙のやがて摂籙のむこになるもありがたき事にてありければ、さきの入道殿下を二人ながら をやしうとにてもたれたれば、公事のみち職者の方きはめたる人の、昔にすぎたる詠歌の道をきはめて、この宴をおこさるヽしかるべしと人も思ひつヽ、心をと き目耳をたてつヽありける程に、三月七日やうもなくね死にせられにけり。天下のをどろき云ばかりなし。院かぎりな(くな)げきおぼしめしけれど云にかいな し。さてちからをよばでこのたびは近衛殿の子、当時左大臣にてもとよりあれば関白になられにけり。

この春三星合とて大事なる天変のありける。司天の輩大にをぢ申けるに、その間慈円僧正五辻と云てしばしありける御所にて、とりつくろいたる薬師の御修法を はじめられたりける修中にこの変はありけり。太白・木星・火星となり、西の方によひ++にすでに犯分に三合のよりあいたりけるに、雨ふりて消にけり。又は れてみゑけるに、みへてはやがて雨ふりてきゑ+四五日して、しばしはれざりければ、めでたきことかなにてありける程に、その雨はれてなを犯分のかぬ程にて 現じたりけるを、さて第三日に又くもりて朝より夜に入るまで雨をおしみてありけり。いかばかり僧正も祈念しけんに、夜に入て雨しめ※※とめでたくふりて、 つとめて、「消え候ぬ」と奏してけり。その雨はれて後は、犯分とをくさりて、この大事変ついに消えにけり。さてほどなくこの殿の頓死せられにけるをば、

晴光と云天文博士は、「一定この三星合は君の御大事にて候つるが、ついにからかいて消候にしが、殿下にとりかへまいらせられにけるに」とこそたしかに申け れ。このをりふしにさしあはせ、怨霊もちからをえけんとおぼゆるになん。その御修法はことに叡感ありて、勧賞などおこなはれにけり。さていかさまにもこの 殿下のしなれたることは、世の末の口をしさ、かヽる人をえもたふまじき時運かなしきかなと人思へりけり。大方故内大臣良通、この摂政、かヽる死どもせられ ぬる事は、猶法性寺殿のすゑにかヽりけることの人のいでくるを、知足院殿の悪霊のしつるぞとこそは人は思へりけれ。法性寺殿よりこの摂政まで七人に成りぬ るにこそ。其霊の後世菩提まめやかにたすけとぶらふ心したる人だにあらば、今はかうほどの事はよもあらじかし。あはれことの道理まことしく思ひたる臣下だ にも二三人世の中にあらば、すこしはたのもしかりなんものを。

かヽりける程に、院にはもとよりうせたる摂政の事ふかくしのびをぼしめしければ、家実摂政になりて左大将あきけるところに、中納言中将道家をば左大将にな されにけり。建永元年六月廿六日也。摂政関白程の人の名、かくはばからずをさへてかき++したる事は、わざとあざやかならんれうにかきて侍なり。

又ふかしぎの事どもたりき。後白河院うせさせ給て後に、建久七年のころ、兼中と云公時二位入道がうしろみにつかいけるをとこありき。それが妻に故院つきし ませをはしまして、「我祝へ、社つくり、国よせよ」など云ことを云いだして、沙汰にのりて兼中妻夫、妻は安房、夫は隠岐へ流罪せられなどしたる事の出きた りし也。しばしは人信ぜざりけれど、よしやすの中納言出家する程に、一定死なんずるにてありけるころ、すま++と云て生にけるに、あだに信じたりけるに、 後のたび又さやうに云ければ、申やうにさたあるべしなど、浄土寺の二位申などしけるを、七日よびとりて置て、一定事がらのまことそらことをみんとて、入道 よびとれと云事にて、七日をきたりけるに、むげに云事もなく、しるしだちたる事のなかりければ、正体なきことかなとて、やがて狂惑になりて流されにき。

又七八年をへて、建永元年のころをひ、仲国法師は、ことなる光遠法師が子にて、故院には朝夕に候しが、妻につかせ給て、又、「我れいわへ」と云事出きて、 浄土寺の丹後の二位などつねにあひて、なく++これをもてなしなどして、院へ申て公卿僉議に及て、すでにいはヽれんとする事ありけり。万の人皆、「さ候べ し」と申たりけるに、今の前右府公継の公ぞ、すこしいかヾなど申たると聞えしを、(さ)かしく慈円僧正院にことにたのみをぼしたりければにや、大相国頼 実、卿の二位をとこのもとへ一通の文をかきてやりける。

「かヽる事聞へ候は、こはいかに候事哉。先如此の事は怨霊とさだめられたる人にとりてこそさる例多く候へ。故院の怨霊に君のためならせ給ふになり候なんず るは。又八幡大菩薩体に宗廟神の儀に候べきにや。あらたなる瑞相候にや。たヾ野犴・天狗とて、人につき候物の申事を信じて、かかること出き候べしやは。そ れはさる事にて、すでに京中の諸人これを承て、近所にたちて候趣、これを聞き候に、故院は下臈近く候て、世の中の狂ひ者と申て、みこ・かうなぎ・舞・猿楽 のともがら、又あか金ざいく何かと申候ともがらの、これをとりなしまいらせ候はんずるやう見るこヽちこそし候へ。たヾ今世はうせ候なんず。猶さ候べくば誠 しく御祈請候て、真実の冥感をきこしめすべく候」と云よしを申たりけるを、
やがて院きこしめして、「我もさ思ふ。めでたく申たる物かな」とて、やがてひしとこの事を仰合て、「仲国が夫妻流刑にをこなうべきか」と仰せ合せられたりければ、僧正又申けるやうは、
「この事はつや++ときつねたぬきもつき候はで、我心より申いでたるにて候はヾ、尤+流刑にもをこなはれ候べし。それが人不思議の者にて候と申ながら、そ れはよもさは候はじ。先に兼仲と申候し者の妻もかヽる事申いで候けり。それも物ぐるはしきうつは物の候に、必狐天狗など申物は又候ことなれば、さやうの物 は、よのまことしからず成て、我をまつりなどするを一だん本意にをもいて、かく人をたぶらかし候事は昔今の物語にも候。又さ候べき事にても候なり。それが つきてさる病をし出して候にてこそ候へ。病ひすとて上より罪にをこなはるべきにても候はねば、たヾきこしめし入られ候はで、片角なんどにをいこめてをかれ て候はヾ、さる狐狸はさやうに成候へば、やがてひき入りてをともし候はぬに候。さてたヾ事がらをや御覧候べく候らん」と申されたりければ、
「いみじく申たり」にて、その定に御さた有て、をいこめられたりければ、つの国なる山寺に仲山とかやに居てありける程に、又二めに物つきたりと云事もなく て、みそ++としてさてやみにけり。心ある人はこれをかんぜずと云ことなし。浄土寺の二位もしらけ+としてやみにけり。かヽる不思議こそ侍けれ。仲国は後 にはふるされて、卿二位がうしろみにつかいてあん也。
これを思ふに、この院の御事はやむごとなくをはします君也。わが御心には是を正義とのみをぼしめしけるなるべし。それがあさましき人々のみ世にありて、口 ++に申になれば、又さもやとをぼしめすなるべし。さればあやうき事にて、もしかヽるさかしき人もなくば、さはふしぎもとげられて、一旦の己国は邪魔にせ られなんずるはと、あさましくこそ。此天狗つき共は赦免せられていまだ生て侍也。
又建永の年、法然房と云上人ありき。まぢかく京中をすみかにて、念仏宗を立て専宗念仏と号して、「たヾ阿弥陀仏とばかり申べき也。それならぬこと、顕密の つとめはなせそ」と云事を云いだし、不可思議の愚痴無智の尼入道によろこばれて、この事のたヾ繁昌に世にはんじやうしてつよくをこりつヽ、その中に安楽房 とて、泰経入道がもとにありける侍、入道して専修の行人とて、又住蓮とつがいて、六時礼讚は善導和上の行也とて、これをたてヽ尼どもに帰依渇仰せらるヽ者 出きにけり。それらがあまりさへ云はやりて、
「この行者に成ぬれば、女犯をこのむも魚鳥を食も、阿弥陀仏はすこしもとがめ玉はず。一向専修にいりて念仏ばかりを信じつれば、一定最後にむかへ玉ふぞ」と云て、
京田舎さながらこのやうになりける程に、院の小御所の女房、仁和寺の御むろの御母まじりにこれを信じて、みそかに安楽など云物よびよせて、このやうとかせ てきかんとしければ、又ぐして行向どうれいたち出きなんどして、夜るさへとヾめなどする事出きたりけり。とかく云ばかりなくて、終に安楽・住蓮頚きられに けり。法然上人ながして京の中にあるまじにてをはれにけり。かヽる事もかやうに御沙汰のあるに、すこしかヽりてひかへらるヽとこそみゆれ。されど法然はあ まり方人なくて、ゆるされて終に大谷と云東山にて入滅してけり。それも往生+と云なして人あつまりけれど、さるたしかなる事もなし。臨終行儀も増賀上人な どのやうにはいわるヽ事もなし。かヽることもありしかば、これは昨今までしりびきをして、猶その魚鳥女犯の専修は大方えとヾめられぬにや、山の大衆をこり て、空あみだ仏が念仏をいちらさんとて、にげまどはせなどすめり。大方東大寺の俊乗房は、阿弥陀の化身と云こと出きて、わが身の名をば南無阿弥陀仏と名の りて、万の人に上に一字をきて、空阿弥陀仏、法あみだ仏など云名をつけヽるを、まことにやがて我名にしたる尼法師をヽかり。はてに法然が弟子とてかヽる事 どもしいでたる、誠にも仏法の滅相うたがいなし。
これを心うるにも、魔には順魔逆魔と云、この順魔のかなしうかやうの事どもをしふる也。弥陀一教利物偏増のまことならん世には、罪障まことに消て極楽へま いるも人もあるべし。まだしきに真言止観さかりにもありぬべき時、順魔の教にしたがいて得脱する人はよもあらじ。かなしきことヾもなり。
さて九条殿は、念仏の事を法然上人すすめ申しをば信じて、それを戒師にて出家などせられにしかば、仲国が妻の事あさましがり、法然が事などなげきて、其建永二年の四月五日、久しく病にねて起居も心にかなはず、臨終はよくてうせにけり。
さて故摂政のむすめはいよ++みなし子に成て、よろづことたがいて、いかにと人も思ひたりけれども、さやうにをぼしめしきざしてありける上に、春日大明神 も八幡大菩薩もかく、皇子誕生して世も治まり、又祖父の社稷のみち心にいれたるさまは、一定仏神もあはれにてらさせ給ひけんと、人皆思ひたる方のすえとを る事もあるべければにや、承元三年三月十日、十八にて東宮の御息所にまいられにけり。せうとにて今の左大将、をとなには遥かにまさりて、何ごともてヽの殿 にはすぎたりとのみ人思ひたれば、めでたくさたしてまいらせ給にけるなり。
さて又ゆヽしき事の出きたりけり。承元二年五月十五日、法勝寺の九重塔の上に雷をちて火付て焼にけり。あさましきことにてありけり。ほかへはかしこくうつ らず。その時院の、「御つヽしみをもし。しるしありなんとをぼえん法まいりてをこなへ」と慈円僧正に仰られたりければ、「法華経をおこない候はん」とて、 助衆二十人ぐして、院の御所にて七日はてヽ出たりける後、ほどなくこの塔のやけにけるを、僧正いみじく案じて、
「御所に候しほど修中に焼たらばいかに遺恨ならまし。但この事は一定君の御つヽしみのあるべかりけるが、これに転じぬるよ」と思て、「な歎をぼしめし候そ。これはよき事にて候。たヾしやがていそぎつくらるヽ御沙汰の候べき也。当時やけ候ぬるは御死の転じ候ぬるぞ。
やがてつくられ候なんずれば、御滅罪生善に候べし」と申されたりければ、やがて伊予の国にて公経大納言つくれとて、ほどなくつくり出んとしたくしけるを、
是に伊予ふたげられてよの御大事もかけなん。葉上と云上人その骨あり。唐に久しくすみたりし物也とて、葉上に周防の国をたびて、長房宰相奉行して申さたし たりけり。塔の焼を見て執行章玄法印やがて死にけり。年八十にあまりたりける。人感じけるとかや。さて第七年と云に、建暦三年にくみ出て、御供養とげられ にけり。
其時葉上僧正にならんとしいて申て、かねて法印にはなされたりける、僧正に成にけり。院は御後悔ありて、あるまじき事したりとをほせられけり。大師号なんど云さまあしき事さたありけるは、慈円僧正申とヾめてけり。猶僧正には成にけるなり。
さてすぐる程に、承元四年九月卅日、ははき星とて、久しく絶たる、天変の中に第一の変と思ひたる彗星いで、夜を重ねて久く消えざりけり。よの人いかなる事 かとをそれたりけり。御祈どもあり。慈円僧正など熾盛光法をこないなどしていでずなりたれど、御つヽしみはいかヾにてあるほどに、同十一月十一日に又出き にけり。そのたび司天のともがらも大に驚き思ひける程に、「上皇信をいたして御祈念などありけるに御ゆめの告のありけるにや」とぞ人は申ける、忽に御譲位 の事ををこなはれて、承元四年十一月廿五日に受禅事ありけり。さて東宮のみやす所は、やがて承元五年正月廿五日立后ありて、
東宮と申てをはしける程に大相国のむすめの中宮は、其後、内をりさせをはしまして新院とてをはしますにまいらせ給べきを、「今はさなくてありなん」と、院の御気色ありければ、院号蒙りて陰明門院とてをはしましけり。
さて大嘗会をこなはれんとしけるに、朱雀門俄にくづれをちたりける上に、春花門院うせさせ給て、御服仮もいできにければ、次の年にのびにけり。大嘗会の御 禊の行幸の日にて、朱雀門のくづれはよの人もぎよとをもへり。されども御禊ばかりにてのびたる例のあるとてのびにけるなり。よの人いかにぞをもへりけれ ど、別にあしき事もなくて、次の年朱雀門はつくりいだされて、ことなくおこなはれにけり。誠にも彗星この御譲位の事にてありければにや、上皇の         御つヽしみはいともなくてやみにけるなり。
さて大相国はこの陰明門院中宮の御時、春日の行啓と云事、先例もいとなかりける事を思ふごとくおこないて、我身兵仗給て、一の人のごとくにて、ぐしまいら せてまいりなどして、後に出家して大政入道とて候はるヽ也。人は随分に皆、我本意はとぐる事なるを、すぐる案をたヾよく++ひかふべき事也。
さて当今佐渡院御母は、建永二年六月七日院号ありき。立后はなし。二位せさせ給て、きと准后の宮になり給て、修明門院と云院号ありけり。この例は八条院の 御時よりはじまりけるとぞ。又東宮御即位の後、院号近例かならずある事也。されば又範季の二位も贈左大臣に成にき。出家いとよにすべかりし人の、この事を 思て出家もせずしてうせにしが、はたしてかヽればめでたき事也。
さて左大将は又建暦二年六月廿九日に任内大臣にけり。
さて又関東将軍の方には、頼家又叙二位左衛門督に成て、頼朝の将軍があとに候ければ、範光中納言弁なりし時、御つかいにつかはしなどして有ける程に、
建仁三年九月のころをい、大事の病をうけてすでに死んとしけるに、ひきの判官能員阿波国の者也と云者のむすめを思て、男子をうませたりけるに、六に成け る、一万御前と云ける、それに皆家を引うつして、能員が世にてあらんとてしける由を、母方のをぢ北条時政、遠江守に成てありけるが聞て、頼家がをとヽ千万 御前とて頼朝も愛子にてありし、それこそと思て、同九月廿日能員をよびとりて、やがて遠かげ入道にしていだかせて、新田四郎にさしころさせて、やがて武士 をやりて、頼家がやみふしたるをば、自元広元がもとにて病せてそれにすえてけり。さて本体の家にならひて子の一万御前がある、人やりてうたんとしければ、 母いだきて小門より出にけり。されどそれに篭りたる程の郎等のはぢあるは出ざりければ、皆うち殺てけり。
其中にかすや有末をば、「由なし。出せよ+」と敵もをしみて云けるを、ついに出さずして敵八人とりて打死しけるをぞ、人はなのめならずをしみける。
其外笠原の十郎左衛門親景、渋河の刑部兼忠など云者みなうたれぬ。ひきが子共、むこの児玉党など、ありあいたる者は皆うたれにけり。これは建仁三年九月二 日の事なり。同五日、新田四郎と云者は、頼家がことなる近習の者なり、頼家までかヽるべしともしらで、能員をもさしころしけるに、このやうに成にけるに、 本体の頼家が家の侍の西東なるに、義時と二人ありけるがよきたヽかいしてうたれにけり。
さて其十日頼家入道をば、伊豆の修禅寺云山中なる堂へをしこめてけり。頼家は世の中心ちの病にて、八月晦二かうにて出家して、広元がもとにすえたる程に、 出家の後は一万御前の世に成ぬとて、皆中よくてかくしなさるべしともをもはで有けるに、やがて出家のすなはちより病はよろしく成たりける。九月二日かく一 万御前をうつと聞て、「こはいかに」と云て、かたはらなる太刀をとりてふと立ければ、病のなごり誠にはかなはぬに、母の尼もとりつきなどして、やがて守り て修禅寺にをしこめてけり。かなしき事也。
さてその年の十一月三日、ついに一万若をば義時とりてをきて、藤馬と云郎等にてさしころさせてうづみてけり。さて次の年は元久元年七月一八日に、修禅寺に て又頼家入道をばさしころしてけり。とみにゑとりつめざりければ、頚にををつけ、ふぐりを取などしてころしてけりと聞へき。とかく云ばかりなき事どもな り。いかでか+そのむくいなからん。人はいみじくたけくも力をよばぬ事なりけり。
ひきは其郡に父のたうとて、みせやの大夫行時と云者のむすめを妻にして、一万御前が母をばまうけたるなり。其行時は又児玉たうをむこにしたる也。
これより先に正治元年のころ、一の郎等と思ひたりし梶原景時が、やがてめのとにて有けるを、いたく我ばかりと思ひて、次++の郎等をあなづりければにや、 それにうたへられて景時をうたんとしければ、景時国を出て京の方へのぼりける道にてうたれにけり。子共一人だもなく、鎌倉の本体の武士かぢはら皆うせにけ り。これをば頼家がふかくに人思ひたりけるに、はたして今日かゝる事出きにけり。
かくて京へかくりきのぼせて、千万御前元服せさせて、実朝と云名も京より給はりて、建仁三年十二月八日、やがて将軍宣旨申くだして、祖父の北条が世に関東 は成て、いまだをさなく若き実朝を面に立てすぎける程に、将軍が妻に可然人のむすめあはせらるべしと云出出きて、信清大納言、院の御外舅、七条院の御弟な り。それがむすめをほかる中に、十三歳なるをいみじく(し)立て、関東より武士どもむかえにまいらせてくだりけるは、元久元年十一月三日なり。法勝寺の西 の小路に御さじきつくらせて御覧じけり。其御さじきは延勝寺執行増円法印とてありし者ぞ、承てつくりたりける。
さて信清は一定死なんずとしたしきうとき思たる重病久しくわづらいて、やみいきて終に大臣になされて、建保三年二月十八日に出家して、同四年二月十五日にうせにけり。かやうに人の事を申侍れば、年月へだつるやうに侍也。
かくて関東すぐる程に、時正わかき妻を設けて、それが腹に子共設け、むすめ多くもちたりけり。この妻は大舎人允宗親と云ける者のむすめ也。せうとヽて大岡 判官時親とて五位尉になりて有き。其宗親、頼盛入道がもとに多年つかいて、駿河国の大岡の牧と云所をしらせけり。武者にもあらず、かヽる物の中にかヽる果 報の出くる(ふ)しぎの事也。
其子をば京にのぼせて馬助になしなどして有ける、程なく死にけり。むすめの嫡女には、ともまさとて源氏にて有けるはこれ義が弟にや、頼朝が猶子ときこゆ る、この友正をば京へのぼせて、院にまいらせて、御かさがけのをりも参りなんどして、つ(か)はせけり。ことむすめ共も皆公卿・殿上人どもの妻に成てすぎ けり。
さて関東にて又実朝をうちころして、この友正を大将軍にせんと云ことをしたくする由を聞て、母の尼君さはぎて、三浦の義村と云をよびて、「かヽる事聞ゆ。 一定也。これたすけよ。いかヾせんずる」とてありければ、義村よきはかり事の物にて、ぐして義時が家にをきて、何ともなくてかざと郎等をもよをしあつめさ せて、いくさ立て、「将軍の仰なり」とて、この祖父の時正が鎌倉にあるをよび出して、もとの伊豆国へやりてけり。さて京に朝政があるを、京にある武士ども にうてと云仰せて、この由を院奏してけり。京に六角東洞院に家作りて居たりける、武士ひしと巻て攻ければ、しばし戦ひて終に家に火かけ、打出て大津の方へ 落にけり。わざとうしろをばあけて落さんとしけるなるべし。山科にて追武士共も有ければ、自害して死ける頚を、伯耆国守護武士にてかなもちと云者ありけ る、取てもてまいりたりければ、院は御車にて門に出て御覧じけると聞へき。これは元久二年後七月廿六日の事也。
かくして北条をば追こめて、子共と云は実朝が母頼朝が後家なればさうなし。義時又をやなれば、今の妻の方にてかヽるひが事をすれば、むまごが母方の祖父の 我れころさんとするを追こむる也。されば実朝が世にひしと成て沙汰しけり。時正がむすめの、実朝・頼家が母いき残りたるが世にて有にや。義時と云時正が子 をば奏聞して、又ふつと上臈になして、右京権大夫と云官になして、此いもうとせうとして関東をばをこないて有けり。
京には卿二位ひしと世を取たり。女人入眼の日本国いよ++まこと也けりと云べきにや。
かくてすぐる程に、時政が時、関東に勢もあり、さもすこしむつかしかりぬべき武士、荘司二郎重忠など以下皆うちてけり。重忠は武士の方はのぞみたりて第一に聞へき。さればうたれけるにも、よりつく人もなくて、終にわれとこそ死にけれ。
平氏のあと方なきほろびやう、又この源氏頼朝将軍昔今有難き器量にて、ひしと天下をしづめたりつるあとの成行やう、人のしわざとはをぼへず。顕には武士が 世にて有べしと、宗廟の神も定めをぼしめしたることは、今は道理にかないて必然なり。其上は平家の多く怨霊もあり、只冥に因果のこたへゆくにやとぞ心ある 人は思ふべき。
かやうにてあかしくらす程に、関東の方のこと共も又いかになど世の中にはうたがい思ふ程に、実朝卿やう++をとなしく成て、われと世の事ども沙汰せんとて 有けるに、仲章とて光遠と云し者の子、家を興して儒家に入て、菅家の長守朝臣が弟子にて学問したりといはるゝ者の有しが、事のえんども有ければにや、関東 の将軍の師になりて、常に下りて、事の外に武の方よりも文に心を入れたりけり。仲章は京にては飛脚の沙汰などして有けり。これが将軍をやうやうに漢家の例 引て教るなど、世の人沙汰しける程に、又いかなることかと人思ひたりけり。
実朝は又関東に不思議いできて、我が館みな焼れてあやうき事有けり。義盛左衛門と云三浦の長者、義時を深くそねみてうたんの志有けり。たヾあらはれにあら はれぬと聞て、にはかに建暦三年五月二日義時が家に押寄てければ、実朝一所にて有ければ、実朝面にふたがりてたヽかはせければ、当時ある程の武士はみな義 時が方にて、二日戦ひて義盛が頚とりてけり。それに同意したる児玉・横山なんど云者は皆うせにけり。其後又頼家が子の、葉上上人がもとに法師に成て有け る、十四になりけるが、義盛が方に打もらされたる者のあつまりて、一心にて此禅師を取て打出んとしける。又聞へて皆うたれにけり。十四になる禅師の、自害 いかめしくしてけり。其後はすこししづまりにけり。
又中宮は世に大事なる御病ありけるに、御せうとにて良尊法印とて、寺法師実慶大僧正が弟子にてありける人、師もてヽもうせて、大峯笙の岩屋などをこないけ るが御修法して候ける、すゞろに御加持に参たびに、うるはしく祈もまいらせぬに、御物の気のあらはれければ、さらばとて祈まいらせてしるしありて、あらた にやませ給にけり。平法印にて有ける、大僧都に賞かうぶりなどして有けるほどに、
建保五年四月廿四日、忽に御懐姙ありて又皇女をうみ給にけり。猶皇子かたき事かな。中++てての殿などをはせねば、もしさもやとこそ思ひつるになど、人も 思ひたりけるほどに、其次の年の正月より又御懐姙と聞へて、十月十日寅の時に御産平安、皇子誕生思のごとくの事出きにけり。上皇ことに待よろこばせ給て、 十一月廿六日にやがて立坊有けり。清和の御時より一歳の立坊さだまれる事也。かゝるめでたき事世の末に有がたき事かな。猶世はしばしあらんずるにやなど、 上中下の人々思たりけり。
御堂の御むすめにて上東門院、一条院のきさきにて、後一条・後朱雀院二ところの母后にて、又後朱雀院に上東門院の御弟内侍のかみとて、後冷泉院うみ申されて後は、一の人のむすめ(入)内立后はをほかれど、すべて御産と云こと絶へたり。
四条宮 宇治殿娘 後冷泉院后。小野皇(太)后宮 大二条殿女 同院后。賀陽院 知足院殿女 鳥羽院院号の後。皇嘉門院 法性寺殿女 崇徳院后。皇后宮同女 二条院后。これらすべて御産なし。宜秋門院 九条殿女当院后。これは春華門院をはしましヽかど、先に其次第を申つ。此中宮、後京極殿むすめにて、かくはじめ姫宮、後に皇子にて、東宮にたヽせ給ふ。返 +有がたき事也。
さて公経の大納言はこの立坊の春宮大夫になりて、いみじくて候はるヽに、
大方この人は閑院の一家中に、東宮大夫公実の嫡子にたてヽ、ともゑの車などつたへたりける中納言左衛門督通季のすぢ也。中納言にて若死をして、待賢門院の 時、外舅ふるまいもゑせず、実能・実行など云弟共の方に、大臣大将も出きにけり。通季の子公通は大納言まで成たれど、一大納言までにも及ばで、病有てうせ ぬ。其子に内大臣実宗は出きたり。大臣に未ならぬ方なりとてかたかりしかど、其時又これにまさりて大臣になるべき人もなかりしに、此公経院の近習奉公年ご ろにもなりしかば、やう++に申つヽ、中風の気有しかば、
実宗公内大臣になりにき。其子にて大将を申けり。且は実行の大相国息公教内大臣のそのかみの例也。「父の大臣ゆるされにし時、故摂政は三条の内府例は汝にこそとたしかに申候き」と申ければ、院もさもありなんと御約束ありけるを、
卿二位がをとこにて大相国入道、をと、を子にして師経大納言とてあるは、公経の下臈なるを、又申べき事なればとて大将に申けり。未闕もなき時かねごとを各 申けり。世の末のならひ也。大方は官はぬしの心にて、させるとがなければ死闕をこそまつを、この世にはなりつれば辞せよとて、人の心をゆかして、あまねき 政よかるべしとてあれば、この風儀に入ぬれば、かねごとのかく大事にもなるにや。
この間に院の北面に忠綱とて、めしつかいて誠にさせることなき者の真名をだにしらぬを、人従者にて諸家の前駈が党也けり。そのかみ位の御時より候なれて、 近くめしつかいけるゆゑに、内蔵頭殿上人までなされたるを御使にて、「太政入道かく申せば、大将になしたばむ事、このたびは不定なり」と云ことを、水無瀬 殿にて仰つかはしたりけるは、御約束変改の議にはあらず、せめてもの事にて有けるを、其由をばつや++といはで、偏に御変改の定に云ける間に、公経の大納 言はあだに心うく思ひて、
「さ候はゞ片角に出家入道をもしてこそは候はめ。世に候者はたかきも賎も妻子と云事をかなしみ思ひ候は、実朝がゆかりの者に候へば、関東にまかりて命ばかりはいきても候へかし」など申てけり。
子にて中納言左衛門督実氏と云、詩作り歌よみ、めでたき誠の人なる、子など近習に候はせて持たる、かやうに云けるを其まヽに申て、君をおどしまいらせて、 「実朝にうたゑんと申候」など云なして、やがて逆鱗有て公経大納言をばこめられにけり。これは建保五年十一月八日とかやきこへけり。この事は大将のあらそ いばかりにはあらじ。ふかきやう有げなりけり。院の御あとを当今の外につがばやと思はせ給ふ宮だちなどをはします。すぢ++あるにや。はか※※しくはしら ね共、院はもとよりかく位につけまいらせられしより、この内を御あとつぐべき君とはひしとをぼしめしたるになん。
さてやう++この事を実朝ききて大に驚て、
したしければうきことあるに我妻も子も実朝をたのみて身ばかりは命もいきよと内々に申たらんからに、さうなく勅勘に及びて、年ごろ申次して、しうとの信清の君ありしかど、公経の大納言の申次は又相違なかりき。今をいこめらるべき様なしと思て、
卿二位をひしと敵にとりて口惜き由を云ければ、卿二位驚さはぎて、同き六年二月十八日に申ゆるしてけり。ありし事はたヾ我も人も夢になして忘れなんと云ことにてぞ有ける。
其同二月廿一日に、実朝母は熊野へ参らんとて京にのぼりたりけるに、卿二位たび++ゆきてやう++に云つヽ、尼なる者をはじめて三位せさせて、四月十五日にくだりにき。二位になして鎌倉の二位殿とて有けり。はじめたる例かなと人云けり。
かくてすぐる程に仲章と云者、使してをりのぼりしつヽ、実朝先はこれよりさきに、中納言中将申てなりぬ。さて大将にならんとて、左大臣の大将を兵仗にかへ て九条殿の例なればとて、いそぎあけて左大将になされぬ。やがて大臣にならんと申て、ならんに取ては、内大臣は例わろし、重盛・宗盛など云も、皆内大臣な りければなど云不思議どもきこゑし程に、
九条殿の子に良輔左大臣、日本国古今たぐひなき学生にて、左大臣一の上にて朝の重宝かなと思たりき。昔師尹小一条左大臣、一条摂政右大臣なりけるに似たる 物かなと、心ある人思けり。君もいみじと思食たりき。八条院に母三位殿と云し人、母の方の御むつびにて、院中第一の者にて候しかば、女院より養立られまい らせてをひたちたりし人の、同年の冬ごろ、世にもがさと云病をこりたりしを、大事にはづらいて十一月十一日にうせ給にけり。師尹もかくうせられたりける、 これまでも似たる事也。家に皇子誕生十月十日ありて、世のよろこび又家のをこるにて有しかば、「一定我は死なんず。あやしながら此ほどの身になり居たれ ば、憂喜集門云言我身にあたれり」と、死なんとての前日いはれけり。かヽる事出きて左大臣闕ありければ、内大臣実朝思のごとく右大臣になされにけり。
さて京へはのぼらで、この大将の拝賀をも関東鎌倉にいはいまいらせたるに、大臣の拝賀又いみじくもてなし、建保七年正月廿八日甲午とげんとて、京より公卿五人檳榔の車くしつヽくだり集りけり。五人は、
大納言忠信 内大臣信清息。
    中納言実氏 東宮大夫公経息。
    宰相中将国通 故泰通大納言息 朝政旧妻夫也。
    正三位光盛 頼盛大納言息。
    刑部卿三位宗長 蹴鞠之料に本下向云々。
ゆヽしくもてなしつヽ拝賀とげける。夜に入て奉幣終て、宝前の石橋をくだりて、扈従の公卿列立したる前を揖して、下襲尻引て笏もちてゆきけるを、法師のけ うさう・ときんと云物したる、馳かヽりて下がさねの尻の上にのぼりて、かしらを一のかたなには切て、たふれければ、頚をうちをとして取てけり。をいざまに 三四人をなじやうなる者の出きて、供の者をいちらして、この仲章が前駈して火ふりてありけるを義時ぞと思て、同じく切ふせてころしてうせぬ。義時は太刀を 持てかたはらに有けるをさへ、中門にとゞまれとて留めてけり。大方用心せずさ云ばかりなし。皆蛛の子を散すがごとくに、公卿も何もにげにけり。かしこく光 盛はこれへはこで、鳥居にもうけてありければ、わが毛車にのりてかへりにけり。みな散々にちりて、鳥居の外なる数万武士これをしらず。
此法師は、頼家が子を其八幡の別当になしてをきたりけるが、日ごろをもいもちて、今日かヽる本意をとげてけり。一の刀の時、「をやの敵はかくうつぞ」と云 ける、公卿どもあざやかに皆聞けり。かくしちら(し)て一の郎等とをぼしき義村三浦左衛門と云者のもとへ、「われかくしつ。今は我こそわ大将軍よ。それへ ゆかん」と云たりければ、この由を義時に云て、やがて一人、この実朝が頚を持たりけるにや、大雪にて雪のつもりたる中に、岡山の有けるをこゑて、義村がも とへきける道二人をやりて打てけり。とみにうたれずして切ちらし+にげて、義村が家のはた板のもとまできて、はた板をこへていらんとしける所にてうちとり てけり。
猶++頼朝ゆヽしかりける将軍かな。それがむまごにて、かヽる事したる。武士の心ぎはかヽる者出き。又をろかに用心なくて、文の方ありける実朝は、又大臣の大将けがしてけり。又跡もなくうせぬるなりける。
実朝が頚は岡山の雪の中よりもとめ出たりけり。日頃わか宮とぞこの社は云ならいたりける、其辺に房つくりて居たりけるへよせて、同意したる者共をば皆うちてけり。又焼はらいてけり。かヽる夢の又出きて、
二月二日のつとめて京へ申て聞へき。院は水無瀬殿にをはしましけるに、公経大納言のがり実氏などがふみ有ければ、参りてさはぎまどいて申てけり。この二 日、卿二位は熊野へ詣でして天王寺につきて候けるに、かくと告ければ、かへらんとしけるを、「あなかしこ。なかへりそ」と御使をひ++に三人まではしれり ければ、やがてまいりにけり。さてこはふかしぎのはざかなにて有ける程に、下向の公卿も又やう++皆上洛してけり。
さて鎌倉は将軍があとをば母堂の二位尼総領して、猶せうとの義時右京権大夫さたしてあるべしと議定したるよしきこへけり。其夜次の日郎従出家する者七八十人まで有けり。さまあしかりけり。
広元は大膳大夫とて久しく有ける。この先に目をやみて、大事にて目はみず成にけり。すこしはみるにやなどにて出家してあんなれども、今はもとには似ぬなるべし。其子も皆若++として出家してけり。入道のをヽさ云ばかりなし。
かヽること共あれば、公卿の勅使たてられけるに、宸筆宣命には文武の長のうせぬるよしには、去年冬左大臣良輔臣、今年春実朝如此うせぬる、をどろきをぼしめすよしこそのせられたりけれ。よしすけのをとヾ誠にやんごとなかりける人かな。
かヽりけるほどに、尼二位使を参らする。行光とて年ごろ政所の事さたせさせていみじき者とつかいけり。成功まいらせて信濃の守になりたる者也。二品の熊野詣でも、奉行してのぼりたりける物をまいらせて、
「院の宮この中にさも候ぬべからんを、御下向候て、それを将軍になしまいらせて持まいらせられ候へ。将軍があとの武士、いまはありつきて数百候が、主人をうしない候て、一定やう++の心も出き候ぬべし。さてこそのどまり候はめ」と申たりけり。
この事は、熊野詣のれうにのぼりたりけるに、実朝がありし時、子もまうけぬに、さやあるべきなど、卿二位ものがたりしたりと聞へし名残にや、かヽる事を申 たりける。信清のをとヾのむすめに西の御方とて、院に候をば卿二位子にしたるが腹に、院の宮うみまいらせたるを、すぐる御前と名付て、卿二位がやしないま いらせたる、はじめは三井寺へ法師になしまいらせんとてありける、猶御元服有て親王にてをはしますを、もてあつかいて位の心も深く、さらずは将軍にまれな ど思にや。人のにくくてかく推量どもをするにこそ。いかでかまことの心あらん人さは思ふべき。位あらそいばかりは昔よりきこゆる事なれど、今はその心有べ くもなし、院の御気色をみながらはいかに。さて此宮所望のことを上皇きこしめして、「いかに将来にこの日本国二に分る事をばしをかんぞ。こはいかに」と有 まじきことにをぼしめして、「ゑあらじ」とをほせられにけり。其御返事に、「次++のただの人は、関白摂政政の子なりとも申さむにしたがふべし」など云 たヾの御詞の有ける。これにとりつきて、又もとより義村が思よりて、「此上は何も候まじ。左大臣殿の御子の三位の少将殿を、のぼりてむかへまいらせ候な ん」と云けり。この心にてかさねて申けるやうは、
「左府の子息ゆかりも候。頼朝が妹のむまごうみ申たり。宮かなうまじく候はヾ、それをくだしてやしないたて候て、将軍にて君の御まもりにて候べし」と申てけり。
其後やう++の儀ども有て、先にも御使にくだりたりきとて、忠綱を又御使にくだしつかはされたりけり。
されども、「せんはたヾもと申しヽ左府の若君、それはあまた候なれば、いづれにても」と申つめければ、
「さらば誠によかりなん」とて、二歳なる若公、祖父公経の大納言がもとにやしなひけるは、正月寅月の寅の歳寅時むまれて、誠にもつねのをさなき人にも似ぬ 子の、占にも宿曜にもめでたく叶ひたりとて、それを、終に六月廿五日に、武士どもむかへにのぼりて、くだしつかはされにけり。京を出る時よりくだりつくま で、いささかも+なくこゑなくてやまれにけりとて、不可思議のことかなと云けり。
さて大納言公経は、其冬十月十三日、終右大将になしたぶべしとて、「よろこび申の出立せよ」と仰られにけり。御熊野詣の後、十一月十三日の除目に、終に右大将になりて、其十九日拝賀めでたくして、よの人にほめられけり。
この年の七月十三日、俄に頼政がむまごの頼茂大内に候しを、謀反の心をこして我将軍にならんと思たりと云ことあらはれて、住京の武士ども申て、院へ召けれ どまいらざりければ、大内裏を押まはしてうちけるほどに、内裏に火さして大内やけにけり。左衛門尉盛時頚を取て参りにけり。伊予の武士河野と云をかたらい けるが、かう++と申たりけると聞へき。
又院は八月のころをい、御悩はづらいをはしましヽに、
「よく++しづかに物を案ずるに、此忠綱と云男を、これら(な)どに殿上人内蔵頭までなしたるひがことこそ、いかに案ずるも取どころもなきひがことなりけれと、さとり思ふ也」とて、
やがて解官停任して、御領国さながらめしてすてられにけり。すこしも心ある人々は殊勝+の事かなとをもへりければにや、其悩無為無事に御平愈ありけり。此関東の御使の間にも、やう++のひがこと奇謀ども聞へき。
故後京極殿の子左府のをとヽは、松殿のむすめ北政所の腹なり。それを院の子にせんとて、めしとりて忠綱にやしなはせらるヽ有。それを、おとなしくもあり、将軍にくだし申さんなんどかまへて、そら事のみ京いなかと申けるも聞へけり。
又頼茂とことにかたらいて、あやしき事にも人も思けるに、頼茂が後見の法師からめられて、やう++の事申なんど聞へけるは、披露もなくて関東へくだしつか はしてけり。万の事とりあつめて忠綱がうせぬること、不か思ぎの君の御運、御案のめでたさと、心ある人はこれらのみめでたくぞ思たりける。猶申ゆるさんと する卿の二位をぞ人はあざみける。
さて此日本国の王臣武士のなりゆく事は、事がらはこのかきつけて侍る次第にて、皆あらはれまかりぬれど、これはをり++道理に思ひかなへて、然も此ひが事 の世をはかりなしつるよと、其ふしをさとりて心もつきて、後の人の能++つヽしみて世を治め、邪正のことはり善悪の道理をわきまへて、末代の道理にかなひ て、仏神の利生のうつは物となりて、今百王の十六代のこりたる程、仏法王法を守りはてんことの、先かぎりなき利生の本意、仏神の冥応にて侍るべければ、そ れを詮にてかきをき侍なり。
そのやうは事ひろく侍れど、又++次ざまにかきつくし侍べし。其趣にひかれては、みむ人はねぶられてよも見侍らじ。このさきざまの事はよき物語にて、目もさめぬべく侍るめり、残る事のをヽさ、かきつくさぬ恨は力をよばず。
さのみはいかヾ書つくすべきなれば、これにて人の物語をも聞加ゑん人は、其まことそら事も心ゑぬべし。これにはかざりたる事、そらことヽ云事、神仏てらし 給ふらん、一ことばも侍らぬ也。すこしをぼつかなかるべき事は、やがて其趣みへ侍めり。かきをとす事のをヽさこそ猶いやましく侍れ。さてこの後のやうをみ るに、世のなりまからんずるさま、この二十年より以来、ことし承久までの世の政、人の心ばへの、むくいゆかんずる程の事のあやうさ申かぎりなし。こまかに は未来記なれば申あてたらんも誠しからず。たヾ八幡大菩薩の照見にあらはれまからずらん。そのやうを又かきつけつヽ、心あらん人はしるしくはへらるべき 也。



Tomokazu Hanafusa 2012.1.28-2.1

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