『ひらがな愚管抄巻七巻』



 

凡例

 元のテキストは http://ucblibrary3.berkeley.edu/jhti/cgi-bin/jhti/txt/bungk07-j.txt
 ひらがなカタカナ変換は http://tool.muzin.org/hirakata/ によつた。

 参考文献は、テキストと注釈で、「日本古典文学大系86」(岩波書店)。
テキストで、岩波文庫『愚管抄』。この両者は本文が濁点等で異なつてゐる。
現代語訳は「日本の名著9」(中央公論社)。

 「日本の名著」にある小見出しを参照の便に援用した。
 仮名遣ひは、気が付いた限りにおいて歴史的仮名遣ひに改めた。また、送り仮名を付けた。
 意味の理解のために必要な言葉を<..>の中に加へ、除く文字を[..]に入れた。
振り仮名は(..)に入れ、注釈は(=..)に入れた。
愚管抄の要点はこの第7巻にまとめらてゐる。
ひらがな愚管抄1~6はこちら



現代の学問の水準

 今仮名にて書くこと高きやうなれど、世の移りゆく次第と[を]心得べき様(やう)を、書きつけ侍る意趣は、惣じて僧も俗も今の世を見るに、智解(ちげ=知恵の理解)のむげに失せて学問と云ふことをせぬなり。学問は僧の顕密を学ぶも、俗の紀伝・明経を習ふも、これを学(がく)するに従ひて、智解にてその心を得ればこそ面白くなりて為(せ)らるることなれ。すべて末代には犬の星を守(=見守る)るなんど云ふやうなることにてえ心得ぬなり。

 それは又学し <てぞ書か>[とかく]する文(ぶん)は、梵本より起こりて漢字にてあれば、この日本国の人はこれを和(やは)らげて和詞(やまとことば)になして心得るも、猶うるさくて知解の要(い)るなる。明経に十三経とて、孝経・礼記より、孔子の春秋とて、左伝・公羊(くやう)・穀(こく)など云ふも、又紀伝の三史、八代史乃至(ないし)文選・文集・貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)これらを見て心得ん人のためには、かやうの事は可笑(をか)し事にてやみぬ。

 本朝にとりては入鹿が時、豊浦大臣(とよらのおとど=蝦夷)の家にて文書みな焼けにしかども、舎人親王のとき清人と『日本記』を猶つくられき。又大朝臣(おおのあそん)安麿など云ふ説もありける。それよりうち続き『続日本記』五十巻をば、初め二十巻は中納言石川野足、次十四巻は右大臣継縄、残り十六巻は民部大輔菅野真道、これら本体とはうけ給りて作りけり。『日本後記』は左大臣緒嗣、『続日本後記』は忠仁公、『文徳実録』は昭宣公、『三代実録』は左大臣時平、かやうに聞こゆ。又律令は淡海公(=不比等)つくらる。弘仁格式は閑院大臣冬嗣、貞観格は大納言氏宗、延喜格式は時平作りさしてありけるをば、貞信公作り果てられけり。この外にも官曹事類とかや云ふ文も在(あ)むなれども、持たる人もなきとかや。蓮華王院(=三十三間堂)の宝蔵には置かれたると聞こゆれど、取り出して見むと云ふ事だにもなし。

 すべてさすがに内典・外典の文籍は、一切経などもきらきらと在(あ)むめれど、鶸(ひは)の胡桃を抱へ、隣の宝を数ふると申すことにて学する人もなし。さすがに殊にその家に生(む)まれたる者はたしなむと思ひたれど、その義理(=意味)を悟ることはなし。いよいよこれより後、当時(=今)ある人の子孫を見るに、いささかも親の跡に入るべしと見ゆる人もなし。


この書執筆の意図

 これを思ふに、中々かやうの戯言(ざれごと=この本)にて書き置きたらんは、いみじ顔ならん学生(がくしやう)達も、心の中には心得易くて、一人笑みして才学にもしてん物をと思ひ寄りて<なり>。中々本文(=古典)など頻(しき)りに引きて<も>才学気色もよしなし(=役立たない)。誠(まこと)にも、つやつやと(=私は全く何も)知らぬ上に、我にて人を知るに、物の道理をわきまへ知らん事はかやう(=このやり方)にてや、少しもその後世に残るべきと思ひて、これは書きつけ侍るなり。

 これだにも言葉こそ仮名なる上に、むげに可笑しく耳近く侍れども、猶心は上に深く籠りたること侍らんかし。それをもこの可笑しく浅き方にて賺(すか)し出だして、正意道理をわきまへよかしと思ひて、ただ一筋をわざと耳遠き事をば心詞(こころことば)に削(けづ)り捨てて、世の中の道理の次第に作り変へられて、世を守る、人を守(も)る事を申し侍るなるべし。もし万が一にこれに心付(づ)きて「これこそ無下(=ひどい)なれ、本文(=古典)少々見ばや」など思ふ人も出でこば、いとど本意に侍らん。

 さあらん人はこの申し立てたる内外典の書籍あれば、必ずそれを御覧ずべし。それも寛平遺誡、二代御記、九条殿の遺誡、又名誉の職者の人の家々の日記、内典には顕密の先徳たちの抄物などぞ、すこし物の要には適(かな)ふべき。それらを我が物に見たてて、もしそれに余る心付きたらん人ぞ、本書(=古典)の心をも心得解くべき。左右なく深(ふか)裁(た)ちして本書(=古典)より道理を知る人は定めて侍らじ。

 むげに軽々(かろがろ)なる<言葉>どもの多くて、はたと・むずと・きと・しやくと・きよとなど云ふ事のみ多く書きて侍る事は、和語の本体にてはこれが侍るべきと覚(おぼ)ゆるなり。訓の読みなれど、心(=意味)をさし詰めて字尺(=漢字の解釈)に表はしたる事は、猶心の広がぬなり。真名の文字にはすぐれぬ、言葉のむげに只事なるやうなる言葉こそ、日本国の言葉の本体なるべけれ。

 その故(ゆへ)は、物を言ひ続くるに心の多く籠りて時の景気を表はすことは、かやうの言葉のさはさはと(=明瞭に)知らする事にて侍る也。児女子が口遊(くいう)とてこれらを可笑しきことに申すは、詩歌の誠の道を本意に用ゐる時のことなり。愚痴無智の人にも物の道理を心の底に知らせんとて、仮名に書きつくるを、法(=法則の理解)の事には、ただ心を得ん方の真実の要(かなめ)を一つ取るばかりなり。この可笑し事(=この本)をば、ただ一筋にかく心得て見るべきなり。

 その中に代々の移り行く道理をば、心に浮かぶばかりは申しつ。それを又押し総(ふさ=まとめる)ねてその心の詮(せん=要点)を申し表はさんと思ふには、神武より承久までのこと、詮をとりつつ、心に浮かぶに従ひて書きつけ侍りぬ。


皇道・帝道・王道

 大きにこ<れ>を分かつに漢家(かんか=中国)に三つの道あり。皇道(=三皇五帝の政道)・帝道(=帝者の徳治)・王道(=夏殷周の徳治)也。この三つの道に、この日本国の帝王を推知(=類推)して擬(なぞら)へ充てて申さまほしけれど、それは日本国には、『日本記』已下(いげ=以下)の風儀にも劣り、つやつやと(=全く何も)無き事にて中々(=却て)悪しかりぬべし。その分際(=程度)はまた知りたからん人は、みなこの仮名の戯言にも「その程(ほど)よ」などは思ひ合はせられむずる事ぞかし。

 漢土に衛鞅(=商鞅)と云ふ執政の臣の出で来しが<こ>とこそ、万(よろ)づの事の器量を知る道にはよき物語にて侍れ。秦代に孝公(第十三代)良き臣を求め給ひしかば、景監と云ふ者衛鞅を求めて参らせたり。見参に入りて天下を治めらるべき様(やう)を申す。孝公聞こし召して御心に適(かな)はずと見ゆ。又参りて申す。うちねぶりて聞こし召し入れず。第三度「まげて今一度見参にいらむ」と申して参ら令(し)めて申しけるたび、居寄り居寄りせさせ給ひて、いみじく用ゐられけり。さてひしと天下を治めてけり。

 それは一番には帝道を説きて諌(いさ)め申しけり。次には王道を説きて教へ申しけり。この二度(たび)御心にかなはず。第三度の度(たび)この君かなはじと見参らせて、覇業を説き申して用ゐられにけり。秦の始皇と申す君も覇業の君とこそ申すなれ。

 後に又魏の斉王の時に、范叔(はんしゆく)と云ふ臣の世を取りたる。衛鞅をいみじき者と云ふけれど、蔡沢(さいたく)と云ふ者出で来て、「衛鞅はいみじかりしが、後に車裂(くるまざき)にせられたりなど申すぞかし。王臣も一期生(いちごしやう=一生)無為無事にこともなくて過ぐるこそは良けれ」と論じて、范叔は蔡沢に論(ろんじ)負けて、さらばとて世の政(まつりごと)を蔡沢にゆづりて入り籠りにければ、蔡沢受け取りて誠に王臣一生は穏(をだ)しくて止みにけり。あはれ好(この)もしき者どもかな。蔡沢が目出度(めでた)きよりも、范叔が我が世を道理に折れて、去りて退(の)きける心有り難かるべし。漢家の聖人賢人の有り様これにて皆知らるべし。唐太宗の事は貞観政要にあきらけし。仏の悟りにも、菩薩(ぼさつ=修行者)の四十二位(=42段階)まで立つるも、善悪の悟り分際皆思ひ知らるる事なり。

 今神武以後、延喜・天暦まで下りつつ、この世(=今の世)を思ひ続くるに、心も言葉も及ばず。さりながらこの代に臨(のぞ)みて思ふに、神武より成務まで十三代は、王法・俗諦(ぞくたい)ばかりにて、いささかの様(やう=子細)もなく、皇子々々うち続きて八百四十六年は過ぎにけり。仲哀より欽明まで十七代は、とかく落ち上がりて、安康・武烈の王も混じらせ給ひて、又仁徳・仁賢めでたくて過ぎにけり。三百九十四年なり。十三代よりも十七代は少なし。

 さて欽明に仏法渡り始めて、敏達より、聖徳太子の幼なくおはします五つ六つより渡るところの経論、ひとへに幼なき人にうちまかせて、見解きて王に申させたまひて、敏達・用明・崇峻三代は過ぎぬ。その次に女帝の推古にひしと太子を摂政にて、仏法に王法は保(たも)たれておはしませば、この敏達より桓武まで二十一代、この平安の京へ移るまでを一段にとらば、その間は二百卅六年、これ又十七代の年の数よりも少なし。


歴史の段階

 このやうにて世の道理の移り行く事を立てむには、一切の法はただ道理と云ふ二文字が持つなり。其の外には何もなき也。僻事(ひがこと)の道理なるを、知り分かつことの極(きは)まれる大事にてあるなり。この道理の道を、劫初(ごふしよ)より劫末へ歩み下り、劫末より劫初へ歩み上るなり。これを又大小の国々の初めより終りざまへ下り行くなり。

 この道理を立つるに、様々(やうやう)さまざまなるを、心得ぬ人に心得させん料(れう=為)に、少々心得易きやう、書き表はし侍るべし。

一、冥顕(みやうげん)和合して道理を道理にて通す様(やう)は初めなり。これは神武より十三代までか。

二、冥の道理のゆくゆくと(=すらすらと)移り行くを顕の人はえ心得ぬ道理、これは前後首尾の違(たが)ひ違ひして、善きも善くて[も]通らず、悪ろきも悪ろくて[も]果てぬを人のえ心得ぬなり。これは仲哀より欽明までか。

三、顕には道理かなと皆人許してあれど、冥衆(=神仏)の御心には適はぬ道理なり。これは善しと思ひてしつることの必ず後悔のあるなり。その時道理と思ひてする人の、後に思ひ合はせて悟り知る也。これは敏達より後一条院の御堂の関白(=道長)までか。

四、当時沙汰しぬる間は我も人も善き道理と思ふほどに、智ある人の出で来て、これこそ謂(いは)れ無けれと云ふ時、誠にさありけりと思ひ返す道理なり。これは世の末の人の深くあるべきやうの道理なり。これまた宇治殿(=藤原頼通)より鳥羽院などまでか。

五、初めより其の儀両方に分かれて、ひしひしと論じて揺(ゆ)り行くほどに、さすがに道理は一つこそあれば、其の道理へ言ひ勝ちて行なふ道理なり。これは地体(ぢたい=元々)に道理を知れるにはあらねど、しかるべくて威徳ある人の主人なる時はこれを用ゐる道理也。これは武士の世の方の頼朝までか。

六、かくのごとく分別しがたくて、とかくあるいは論じあるいは未定にて過ぐるほどに、ついに一方(いつぱう)に就きて行なふ時、悪ろき心の引く方にて、無道を道理と悪しくはからひて、僻事(ひがごと)になるが道理なる道理なり。これはすべて世の移り行くさまの僻事が道理にて、悪ろき寸法の世々落ち下る時々の道理なり。これ又後白河よりこの院の御位(くらゐ)までか。

七、すべて初めより思ひ企つる所、道理と云ふ物をつやつや我も人も知らぬ間に、ただ当たるに従ひて後をかへりみず、腹に寸白(すばく=寄生虫)など病む人の、当時<病の>起こらぬとき喉(のど)の渇(かは)けばとて水などを飲みてしばしあれば、その病<の>起こりて死に行くにも及ぶ道理也。これはこの世(=今の世)の道理なり。されば今は道理<と>云ふ物は無きにや。


歴史の推移と道理

 このやうを、日本国の世の初めより次第に王臣の器量果報衰(をとろ)へ行くに従ひて、かかる道理を作り換へ作り換へして世の中は過ぐるなり。劫初劫末の道理に、仏法王法、上古中古、王臣万民の器量をかくひしと作り表(あら)はする也。さればとかく思ふとも叶(かな)ふまじければ、叶はでかく落ち下る也。

 かくはあれど内外典(ないげてん)に滅罪生善と<いふ>道理、遮悪持善といふ道理、諸悪莫作(まくさ)、諸善奉行といふ仏説のきらきらとして、諸仏菩薩の利生(りしやう)方便といふものの一定(いちぢやう)またあるなり。これをこの初めの(=上記の)道理どもに心得合はすべきなり。いかに心得合はすべきぞと言ふに、さらにさらに人これを教ふべからず。智恵あらん人の我が智解にて知るべきなり。但しもしやと心の及び言葉の行かん程をば申し開くべし。

 大方古き昔のことは、ただ片端を聞くに皆よろづは知らるる心ばへの人にて、記し置く事極(きは)めてかすか也。これを見て申さむことは、ひとへの推量のやうなれば、又此頃の人は信を起こさぬことにて侍らんずれば、細かに申しがたし。をろをろは、又やがて事のけずらい(=核心)をば、さやうにやと云ふ事は書きつけ侍りぬ。


国王の条件

 さて<世の>末ざまは事の繁くなりて尽くしがたく侍れども、清和の御時はじめて摂政を置かれて、良房の大臣(おとど)出で来たまひし後、その御子にて昭宣公(=基経)の我が甥(をひ)の陽成院をおろし奉りて、小松の御門を立て給ひしより後の事を申すべき也。

 先づ道理移り行く事を、地体(ぢたい)によくよく人は心得べき也。いかに国王と云ふは、天下の沙汰をして世を鎮(しづ)め民を憐(あは)れむべきに、十(とを)が内なる幼き人を国王にはせんぞ(=するだらうか)と云ふ道理の侍るぞかし。

 次に国王とて据ゑまいらせ後は、いかに悪ろくとも、たださてこそあらめ。それを我が御心より起こりて降りなんとも仰せられぬに、押し降ろしまいらすべきやうなし。「これを云ふぞかし、謀反とは」と云ふ道理又必然の事にて侍るぞかし。其れにこの陽成院を降ろし参らせられしをば、謂はれず昭宣公の謀反なりと申す人やは世々侍る。つやつやとさも思はず又申さぬぞかし。御門(みかど)の御為(ため)限りなき功にこそ申し伝へたれ。

 又幼主とて四つ五つより位に即(つ)かせ給ふを、しかるべからず、もの沙汰するほどにならせ給ひてこそ、と云ふ人やは又侍る。昔今即(つ)くまじき人を位に即くる事なければ、幼しとて嫌はば、王位は絶へなんず(=だらう)れば、この道理によりて幼きを嫌ふことなし。これら二つにて物の道理をば知るべきなり。

 大方世のため人のため良かるべきやうを用ゐる。何ごとにも道理詮(せん=究極)とは申すなり。世と申すと人と申すとは、二つの物にてはなき也。世とは人を申す也。

 その、人にとりて世と言はるる方は公(おほやけ)道理とて、国の政(まつりこと)にかかりて善悪を定むるを世とは申す也。人と申すは、世の政にも臨まず、すべて一切の諸人の家の内までを穏(おだ)しく哀れむ方の政を、又人とは申すなり。其の人の中に国王より始めてあやしの民まで侍るぞかし。

 それに国王には、国王の振舞ひ能(よ)くせん人のよかるべきに、日本国の習ひは、国王の種姓(しゆしやう)の人ならぬ筋を国王にはすまじと、神の代より定めたる国なり。その中には又同じくは善からんをと願ふは、又世の習ひ也。

 それに必ずしも我からの手ごみ(=手はずよく)に目出度くおはします事の難(かた)ければ、御後見(うしろみ)を用ゐて大臣(おほおみ)と云ふ臣下をなして、仰せ合はせつつ世をば行なへと定めつる也。この道理にて国王もあまりに悪ろくならせ給ひぬれば、世と人との果報に押されて、え保(たも)たせ給はぬなり。その悪ろき国王の運の尽きさせたまうに、また様々(やうやう=さまざま)のさま(=様態)の侍るなり。


天皇と御後見役

 太神宮(=伊勢神宮)・八幡大菩薩の御教へのやうは、「御後見の臣下と少しも心を置かずおはしませ」とて、魚水合体(がつてい)の礼と云ふことを定められたる也。こればかりにて天下の治まり乱るる事は侍るなり。

 天児屋根命(あまのこやねのみこと=藤原氏の祖先の神)に、天照(あまてる)御神の、「殿(との)の内にさぶらいて、よく防ぎ守れ」と御一諾(いちだく)を遥か<昔>にし、末(すへ)の違(たが)うべきやうの露ばかりもなき道理を得て、藤氏の三功といふ事出で来ぬ。

 その三つと云ふは、大織冠(=鎌足)の入鹿を誅し給ひしこと、永手(ながた)大臣・百河(ももかは)の宰相が光仁天皇を立て参らせし事、昭宣公の光孝天皇を又立て給ひしこと、この三つ也。はじめ二つは事上がりたり(=遠い昔のこと)。昭宣公の御事は、清和の後に定かに出で来たる事也。

 その後すべて国王の御命の短き云ふばかりなし。五十に及ばせ給ひたる一人もなし。位(くらゐ)を降りさせ給ひて後は、皆又久しくおはしますめり。これらは皆人知りたれど、一度に心に浮かぶことなければ、うるさきやうなれど、これを先づ申しあらはすべし。

 清和はわづかに御歳三十一、治天下十八年なり。
 陽成は八年にて降りさせ給ひぬ。八十一までおはしませど世もしらせたまはず。
 光孝はただ三年、これはさらに(=特別に)出で来おはしたる事にて、五十五にてはじめてつかせ給ふ。
 宇多は三十年にて位を去りて御出家、六十五までおはします。
 醍醐は卅三年まで久しくて、御年も四十六にて、ただこればかり目出度き事にておはします。
 朱雀は十六年にてあれど卅にて失せ給ふ。
 村上は廿一年にて四十二まで也。
 これ延喜・天暦とて、これこそ少し長くおはしませ。
 冷泉は二年にて位を降りて、六十二迄おはしませど、ただ陽成と同じ御事なり。
 円融は十五年にて卅四。
 花山は二年にて四十一迄おはしませど云ふに足らず。
 一条は廿五年にて卅二、幼主にてのみおはしますは、久しきも甲斐なし。
 三条は五年なり。東宮にてこそ久しくおはしませども又甲斐なし。
 後一条は二十年なれど廿九にて、又幼主にて久しくおはしましき。
 後朱雀は九年にて大人(おとな=分別がある)しくおはしませども卅七、又程なし(=短い)。
 後冷泉は廿三年にて四十二、これぞ少し程あれど、ひとへにただ宇治殿のままなり。

 この国王の代々の若死をせさせ給ふにて深く心得べきなり。高きも卑しきも、命の耐(た)ふるに過ぎて、作り堅めたる道理を表はす道はあるまじき也。日本国の政を作り変(かふ)る道理(=摂関政治)と、降りゐの御門の世を知ろしめすべき時代に落ち下ることの、まだしきほど、国王の六十七十までもおはしまさば、摂籙(せつろく)の臣の世を行なふと云ふ一段の世はあるまじき也。

 さすがに君とならせおはしまして、五十六十まで脱屣(だつし=退位)もなくてあらんには、ただ昔のままにてこそあるべけれ。誠に御年の若くて、初めは幼主の摂政にて、やうやうさばかりにならせ給へども、我と(=自分で)世をしらむと思(おぼ)し召すほどの御心ばへなし。

 摂籙の臣の器量めでたくて、その御まつり事を助けて、世を治めらるれば事も欠けず。さるほどに君は卅が内外(うちと)にて皆失せさせ給ふ也。これこそは太神宮の、この中ほど(=清和以後)は君(きみ)の君にて昔の如くえあるまじければ、此料(れう=為)にこそ神代より、「よく殿内(とのうち)を防ぎ守れ」と言ひてしかば、その子孫に又かく器量あい適(かな)ひて、生まれあい生まれあいして、この九条の右丞相の子孫の、君の政をば助けんずるぞと、<道理が>作り合はせられたる也。

 さてその後、太上天皇にて世を知ろしめすべしと又定まりぬれば、白河・鳥羽・後白河と三代は七十、六<十>、五十に皆余り余りして世をば知ろしめすになん。さればこの理(ことはり)はこれにて心得られぬ。


上皇政治の出現

 さて後三条院(=後冷泉の次)久しくおはしますべきに、事をば兆(きざ)して(=政治を始めて)四十にて失せおはします事ぞおぼつかなけれど、それはむずと(=急に)世の衰ふべき道理の現はるるなるべし。後三条院御心に思(おぼ)し召す程のありけむは(=御考へが実現したら)、いかに目出度(めでた)かりけむ。

 さて、とも言へかくも言へ、時にとりて、世を知ろしめす君と摂籙臣(=摂政)とひしと一つ御心にて、違ふことの返す返す侍るまじきを、別に院の近臣と云ふ物の、男女につけて出で来ぬれば、それが中にいて、いかにもいかにもこの王臣の御中を悪しく申すなり。あはれ俊明卿まではいみじかりける人哉。ここを詮(=要点)に<して>は君の知ろしめすべきなり。

 今は又武者の出で来て、将軍とて君と摂籙の家とを押し籠めて世を取りたることの、世の果てには侍るほどに、此武将(=源氏平家)をみな失ひ果てて、誰にも郎従となるべき武士ばかりになして、その将軍には摂籙の臣の家の君公(=頼経)をなされぬる事の、いかにもいかにも宗廟神の、猶君臣合体して昔に帰りて、世をしばし治めんと思し召したるにて侍れば、その始終を申し通し侍るべき也。されば後三条院は四年、これよりの事を細かに申すべし。

 この後は事変はりて位降りて後、世を知らんと思し召し企てて、我(=後三条)はとく失せさせ給しかど、白河院七十七まで世を知ろしめしき。これは臣下(=藤原氏)の御振る舞ひになれば久しくおはしますなり。次に鳥羽院又五十四までおはしますべきに、又後白河五代の御門(みかど)の父祖にて、六十六までおはします。

 太上天皇世を知ろしめしての後、その中の御子・御孫の位の久しさ疾(と)さのことは、無益(むやく)なれば申すに及ばず。わざとせんやうに程なく代はらせ給ふめり。その次にこの院(=後鳥羽院)の御世に成りて、すでに後白河院失せさせおはしまして後、承久まで既に廿八年になり侍りぬる也。


摂関の権威の下落

 延喜・天暦までは君臣合体魚水の儀まことに目出度しと見ゆ。北野の御事もせめて時平と御心違(たが)はぬ方の印(しるし)なるべし。

 冷泉院の御後、ひしと天下は執政臣に付きたりと見ゆ。それにとりて御堂までは摂籙の御心の、時の君を思ひあなづり参らする心のさわさわと(=全く)なくて、君の悪しくおはします事をば目出度く申し直し申し直しておはしますを、君の悪しく御心得て、円融・一条院などより「我をあなづるか、世を我が心にまかせぬこそ」など思し召しけるは、みな君の御僻事(ひがこと)と見ゆ。

 宇治殿の、後冷泉院の御時、世をひしと取らせ給ひし後に、すこしは君をあなづり参らせて、世を我が世に思はれける方の混じりにけるよ、など見ゆ。後三条院これをさ(=そのやうに)御覧じて、この事(=頼通の専横)あれと思し召して、「今はただ脱屣の後われ世を知らん」と思し召してけり。されどこの宇治と後三条院とはさは思し召せども、悪しかりけり悪しかりけりと皆(=二人)思ひ直し思ひ直して、王道へ落とし据ゑて世の政(まつりこと)は止みやみ(=決着)しけるよ、など見ゆ。

 白河院の後、ひしと太上天皇の御心のほかに、臣下(=摂籙臣)といふ者の詮(せん)に立つ事のなくて、別に近臣とて白河院には初めは俊明等も候。末には顕隆・顕頼など云ふ者ども出で来て、本体(=本来)の摂籙臣、痴(をこ)の下様(しもざま)の人(=師通、忠実、頼長)のおはしけるに、又かなしう押されて恐れ憚りながら、又昔の末はさすがに強くのこりて、鳥羽、後白河の初め法性寺殿(=忠通)まではありけりと見ゆ。

 この中に白河院の、知足院殿(=忠実)をひしと仲悪しくもてなして追ひ籠めて、その知足院の子法性寺殿を別に取り放つやうに使ひ立てさせ給ひたる御僻事の、ひしと世をば失ひつるにて侍るなり。これにつけて定かに冥顕の二つの道、邪神善神の御違へ(=争ひ)、色に表はれ内に籠りて見ゆるなり。

 されども鳥羽院は最後ざまに思し召し知りけん、物を法性寺殿に申し合はせて、その申さるるままにて、後白河院位に即けまいらせて、立ち直りぬべきところに、かやうに(=乱世に)成り行くは世の直るまじければ、すなはち天下日本国の運の尽き果てて、大乱の出で来て、ひしと武者の世になりにし也。

 その後、摂籙の臣と云ふ物の、世の中にとりて、三四番に下りたる威勢にて、きらもなく成りにしなり。其の後わづかに松殿・九条殿この二人、いささか一の人に似たる事どもあれど、かく成りぬる上の情けにてこそあれ。松殿は平家に失なはれ、九条殿は源将軍に取り出だされたる人にて、国王の御<意>にまかせて、摂籙臣を我が物に頼みもし憎みもする筋の、こそこそと(=いつの間にか)失せぬる上は、善きも悪しきもをかしき事にて今は止みぬるに、ただ暫しこの院(=後白河)の後、(=後鳥羽院が)京極殿良経を摂籙になされたりしこそ、こは目出度き事かなと見えしほどに、夢のやうにて頓死せられにき。

 近衛殿と云ふ父子(=基通、家実)の、家には生まれて、職には居ながら、つやつやと掻い払ひて、世の様(やう)をも家の習ひをも、すべて知らず、聞かず、見ず、習はぬ人にて、しかも家領文書抱(かか)へて、かく取られぬ、返されぬして、いまだ失せず死なでおはするにて、ひしと世は王臣の道は失せ果てぬるにて侍るよと、さはさはと見ゆる也。それに、王も臣も間近(まぢか)き九条殿の世の事を、思はれたりし。力の正道なる方は、宗廟社稷の本なれば、それが通るべきにや。


怨霊と道理

 いま左大臣の子(=頼経)を武士の大将軍に、一定八幡大菩薩のなさせ給ひぬ。人のする事にあらず、一定神々のし出ださせ給ひぬるよと見ゆる。不可思議の事の出で来侍りぬる也。

 これを近衛殿など云ふ、沙汰のほかの者は、「我が家にかかることなし。恥かかるるか」言はるるを、誠になど思ふ人もあるとかや。をかしき事とは、ただこれらなり。我が身うるはしく家を継ぎたる人にてこそ、さやうの事は愚かながらも言ふべけれ。平将軍が乱世に成り定まる謀反の詮に、二位中将(=の位)より、つやつや物も知らぬ人の若々愚かおろかとしたるに、摂籙の臣の名ばかり授(さづ)けられて、怨霊にわざと守られて、我が家失なはん料(れう)に久しく生きたるぞと、え思ひ知らぬ程の身にして、「家の恥也」など言はばや、大菩薩の御心に適ふべき。「言ふに足らず」と云ふはこれなり。

 すこしは、世の移り物の道理の変はり行くやうは、人これを弁(わきま)へがたければ、その料(れう)にこれは書き付け侍れど、これを見む人も我が心に入れ心に入れせんずれ(=せんざれ)ば、さらにかなふまじ。こはいかがし侍るべき。

 されば摂籙家と武士家とを一つになして、文武兼行して世を守り、君を後見(うしろみ)参らすべきに成りぬるかと見ゆるなり。これにつきて昔を思ひ出で今を顧(かへり)みて、正意(しやうい=正しい意味)に落とし据ゑて、邪を捨て正に帰する道をひしと心得べきにあひ成りて侍るぞかし。先づこれにつきて、是は一定大菩薩の御計らひか、天狗・地狗(ぢく)の又仕業かと深く疑ふべし。

 この疑ひにつきて、昔より怨霊と云ふ物の世を失ひ人を滅ぼす道理の一つ侍るを、先づ仏神に祈らるべきなり。

 百川の宰相いみじく光仁を立て申ししと、又その後の王子立太子論ぜしに、桓武をば立て果(おほ)せ参らせたれど、あまりに沙汰(=策略)し過ごして、井上(いのかみ)の内親王(=廃皇太子の母)を穴を彫(ゑ)りて獄を作りて籠め参らせなんどせしかば、現身(げんしん)に竜に成りて、ついに蹴殺させ給ふと云ふめり。

 一条摂政(=藤原伊尹)は朝成(あさひら)の中納言を生霊(いきすだま)に儲(まう=身に受)けて、義孝(のりたか)の少将まで失せぬと云ふめり。

 朝成(あさひら)は定方(さだかた)右大臣の子也。宰相の時は一条摂政は下臈にて競望の間、放言(=悪口)し申したりけり。大納言所望の時は摂籙臣(=伊尹)になられたるに参りて、昔は左右(さう)なく上へ登る事もなかりけるに、良(やや)久しく庭に立ちて、たまたま(=やつと)呼び入れて会はれたるに、大納言には我(=朝成)がなるべき道理を立てけるをうち聞きて、「往年、納言のときは放言せられき。今は貴閣の昇進我が心に任せたり。世間は計り難き事ぞ」と云ひて、やがて内へ入られにければ、なのめならず腹立て出でける。車にまづ笏を投げ入れける二つに割れにけり。さて生霊となれり、とこそ江帥(がうのそち=大江匡房)も語りけれ。三条東洞院は朝<成>[平]が家の跡なり。それへは一条摂政の子孫は臨まずなど申すめり。

 元方の大納言は天暦(=村上天皇)の第一皇子広平親王の外祖にて、冷泉院(=村上第二皇子が即位)を取り詰め参らせたり。顕光大臣は御堂の霊になれり(=第4巻)。小一条院(=敦明親王)<の>御舅(しうと)なりし故など、かやうに申す也。されども仏法と云ふものの盛りにて、智行の僧多かれば、かやうの事は祟(たた)れども、事のほかなる事をば防ぐめり。まめやかに<心>底より尊(たうと)き僧を頼みて、三宝の益をば得る也。九条殿は慈恵大師、御堂は三昧和尚・無動寺座主、宇治殿は滋賀僧正など、かやうに聞こゆめり。

 深く世を見るには、讚岐院、知足院殿の霊の沙汰(=対策)のなくて、ただ我が家を失なはんと云ふ事にて、法性寺殿は子ながら余りに器量の、手掛(が)くべくもなければにや、我が御身にはあながちの(=ひどい)事もなし。中の殿の疾く失せざま、松殿・九条殿の事に合はれやう、近衛(このい)殿(=基通)のたびたび取られ給ひて、今まで命を生(い)けて遊びてこの家を失(うしな)はれぬる事と、後白河一代明け暮れ事に遭はせ給ふことなどは、験(あらた)に(=明らかに)この怨霊も何もただ道理を得る方の応(こた)ふる事にて侍るなり。

 一(ひ)と当たりはただ易々とある事の、一大事にはなる也。讃岐より呼び返(か<へ>[は])し参らせて、京に置き奉りて、国一つなど参らせて、「御作善(おんさぜん)候べし」などにて歌うち詠ませ参らせてあらましかば、かう程の事あるまじ。

 知足院殿をも申し受けて、法性寺殿の御沙汰には、宇治の常楽院に据ゑ申して、いま少し庄どもも参らせて、同じく遊びして管絃もてなしておはしまさましかば、かう程の事はあるまじき也。

 法性寺殿は我が親なれば、流刑のなきこそ所望(そまう)の事と思はれたりけるにや。それも言はれたれど、我身にあらたなる祟りはなけれども、いかに物の計らひは、これ程の様(やう)を深く思ひ解かぬ所に、事は出で来るなり。

 人間界には怨憎会苦(をんぞうえく)、必ず果たすところなり。ただ口にて一言我に勝りたる人を過分に放言しつれば、当座にむずと突き殺して命を失なはるるなり。怨霊と云ふは、詮(せん)はただ現世ながら深く意趣を結びて敵(かたき)に取りて、小家(こいへ)より天下にも及びて、その敵を掘り転(まろ)ばかさんとして、讒言空事を作り出だすにて、世の乱れ又人の損ずる事はただ同じ事なり。顕(あらは)にその報ひを果たさねば冥(みやう)になるばかりなり。


末の世の姿

 聖徳太子の十七条の中に、「嫉妬をやめよ、嫉妬の思ひはその際(きは)なし。賢こく愚かなる事は、又環(たまき)の端無きが如し。我一人<心>得たりとな思ひそ」といましめて、「宝あるもの、憂へ(=訴訟)は易々と通るなり。石を水に投げ入るるやう也。貧しき者の憂へは難くて通る事なし。水にて岩を打つやう也」と仰られたる。

 この三事の詮にては侍るを、世の末ざま、当時の世間にはさる戒(いまし)めのあるかとだにも思はで、わざとこれを目出度き事に思ひて、すこしも魂(たましい=分別)あらんと思ひ(=自認し)たる人は、物妬みと自是非他(=自分に甘く他人に厳しい態度)と追従・賄(まいない)とにて、これがひとへに(=こんなことだけで)世を保(<た>も)たんには難(なん=災難)の候はんぞな。あざやかあざやか(=明々白々)と侍るものかな。

 治(をさ)まれる世には「官、人を求む」、乱れたる世には「人、官を求む」と。この頃の十人大納言、三位五六十人、故院の御時までも十人が内外(=前後)にてこそ侍りしか。靫負(ゆげい)の尉(ぜう)・検非違使は数も定まらず。一度の除目を見れば、靭負の尉・兵衛の尉四十人に劣るたびなし。千人にもなりぬらん。

 人、官をもとめて、贖労(そくらう=買官)・脇差(わきざし)をたづねて願ふ者は、近臣恪勤(かくご=側近)の男女にてあらんには左右に及ばぬ(=ためらはない)ことぞかし。さまでは(=これほどひどい状況は)思ひ寄らず。

 まことには、末代悪世、武士が世になりはて、末法(=1052年)にも入りにたれば、ただ塵(ちり)ばかりこの道理どもを君も思し召し出でて、こはいかにと驚き覚(さ)めさせ給ひて、さのみは如何にこの邪魔悪霊の手にも入るべきと思し召し、近臣の男女もいささか驚けかしとのみこそ念願せられ侍れ。

 又武士将軍を失ひて、我身には恐ろしき物もなくて、地頭々々とてみな日本国の所当(=年貢)取り持ちたり。院の御事をば、近臣の脇、地頭の得分(=収益)にて、こそぐれば笑まずと云ふ事なし。武士なれば、当時心に叶はぬ物をば俺々とにらみつれば、手向かひする者なし。ただ心に任せてんと、ひしと案じたり(=心に決めた)と今は見ゆめり。

 さてこれらの僻事の積もりて大乱になりて、この世(=今の世)は我も人も滅び果てなんずらん。大の三災(=水火兵)はまだしき物を、さすがに仏法の行ひも残りたり。宗廟社稷の神もきらきらとあんめり。ただいささかの正意とり出だして、無顕無道の事少しなのめ(=普通)になりて、さすがにこれを弁(わきま)へたる人、僧俗の中に二三人四五人などはあるらん物を、これを召し出だして、天下に仕(つか)へられよかし。

 事の詮には、人の一切智具足してまことの賢人・聖人はかなふまじ。少しも分々に(=分に応じて)主(ぬし)とならん人は、国王より初めまいらせて、人の善し悪しを見知りて召し使いおはします御心一つが、やすかるべき事の詮になる事にて侍るなり。それがわざとするやうに、何事にも、さながら烏を鵜に使はるることにて侍るめれば、つやつやと世の失せ侍りぬるぞとよ。


後世への期待

 又道理と云ふ物はやすやすと侍るぞかし。それ弁(わきま)へたらん臣下にて、武士の勢あらんを召し集めて仰せ聞かせばや。その仰せ言葉は、

 「先づ武士と云ふものは、今は世の末に一定、当時あるやうに用ゐられてあるべき世の末になりたりとひしと見ゆ。さればそのやうは勿論(=異論なき)也。その上にはこの武士を悪ろしと思し召して<も>、これにまさりたる輩(ともがら)出で来べきにあらず。この様(やう)に付けても世の末ざま<なれ>ば、いよいよ悪ろき者のみこそあらんずれ。この輩(ともがら)滅ぼさんずる逆乱(げきらん=争乱)はいかばかりの事にてかはあるべき<やう>な<け>れば、冥(みやう)に天道の御沙汰のほかに、顕(あらは)に汝等を憎くも疑ひも思し召すことは無き也」。

 地頭の事こそ大事なれ。これは静かに静かによくよく武士に仰せ合せて御計らひあるべき也。これ(=地頭)停(とど)められ参らせじとて、迎へ火を作りて朝家を威し参らする事もあるべからず。さればとて又怖ぢさせ給うべきことにもあらぬなり。ただ大方のやうの武士の輩(ともがら)が、今は正道を存ずべき世になりたる也。

 この東宮、この将軍と云ふはわづかに二歳の少人なり。これを作り出で給ふことはひとへに宗廟の神の御沙汰あらはなる。東宮も御母はみなし子になられたり。祈念すべき人もなし。外祖父の願力の応(こた)ふらんをば知らねども、かかること今出で来給ふべしやは。将軍又かかる死して源氏平氏の氏つやつやと絶ゆべしやは。その代はりにこの子を用ゐるべしやは。一定只事(ただこと)にはあらぬ也。

 昔より成り行く世を見るに、廃(す)たれ果てて又起こるべき時にあい当たりたり。これに過ぎては失せむとては、いかに失せむずるぞ。記典・明経もすこしは残れり。明法・法令も塵ばかりはあんめり。顕密の僧徒も又過失なくきこゆ。百王を数ふるにいま十六代は残れり。今この二歳の人々の大人しく成りて、世をば失ひも果て、起こしも立てむずるなり。

 「それ今廿年待たん迄、武士僻事(ひがこと)すな僻事すな、僻事せずは自余の人の僻事は停めやすし」と仰せ聞かせて、神社・仏寺、祠官・僧侶に良けらかならん庄薗さらに珍しく寄せ給(た)びて、「この世を猶失なはん邪魔をば、神力・仏力にて押さへ、悪人、反道の心あらん輩をば、その心あらせぬ先に召し取れと祈念せよ」と、ひしと仰せられて、この賄(まいない)献芹(=献上)すこし停められよかし。世に安かりぬべき事かなとこそ、神武より今日(けふ)までの事がらを見下して思ひ続くるに、この道理はさすがに残りて侍る物をと悟られ侍れ。

 あな多の申すべきことのを多さや。ただ塵ばかり書きつけ侍りぬ。これをこの人々大人しくおはしまさん折(をり)御覧ぜよかし。いかが思しめさん。露ばかり空事もなく、最も真実の<真実の>世の成り行くさま、書き付けたる人もよも侍らじとて、ただ一筋の道理と云ふことの侍るを書き侍りぬる也。


後鳥羽上皇の心得違ひ

 又ことの詮(せん)一つ侍りけり。人と申すものは、詮(せん)が詮には、似るを友とすと申すことの、その詮にては侍るなり。それが世の末に、悪ろき人のさながら一つ心に同心合力してこの世(=今の世)を取りて侍るにこそ。善き人は又同じくあい語らひて同心に侍るべきに、善き人のあらばやは合力にも及ぶべき。あな悲しやと思ひつつ、いささか仏神の御沙汰を仰(あふ)ぐばかりなり。用ゐる時は虎となるべき人はさすがに候(さふらふ)らんものを、善き物は世の様(やう)を見てさし出でぬにこそ侍らめ。

 かくこの世の失せゆく事は君も近臣も空事にて世を行なはるめり。空事と云ふ物は朝議の方にはいささかも無きこと也。空事と云ふ物を用ゐられんには、善き人の世に得(え)あるまじき也。

 さやうの事も中々世の末には、民は正直なる将軍の出で来て、正(ただ)さずは、直(なを)る方あるまじきに、かかる将軍のかく出で来る事は大菩薩の御計らひにて、文武兼じて威勢ありて世を守り君を守るべき摂籙の人(=道家と頼経)をまうけて、世の為人の為君の御為に参らせらるるをば、君のえ御心得御座(おは)しまさぬにこそ。これこそ由々しき大事にて侍れ。

 これは君の御為、摂籙臣と将軍と同(おな)じ人にて良かるべしと、一定照らし御沙汰の侍る物を、その故(ゆへ)顕(あらは)なり。謀反筋の心は無く、しかも威勢つよくして、君の御後見せさせむと也。

 かく御心得られよかし。陽成院御事体(てい)ならんためなどこそ、いよいよ目出度かるべけれ。それを防ぎ思し召しては、君こそ太神宮・八幡の御心には違(たがは)せおはしまさんずれ。ここを構て君の悟らせたまうべき也。

 この藤氏の摂籙の人の、君の為謀反の方の心遣ひは、けづりはてて、あるまじと定められたるなり。さてしかも君の悪ろくおはしまさんずるを、強く後見(うしろみ)まいらせて、王道の君の筋を違(たが)へず守り奉(たてまつ)れ、にて侍れば、陽成院のやうにおはしまさん君は御為こそ悪しからんずれ。さる君は又おぼろげにはおはしますまじ。さほどならん君は又よき摂籙をそねみ思し召さば、やは叶(かな)はんずる。太神宮・大菩薩の御心にてこそあらんずれ。この道理はすこしも違ふまじ。ひしと定(さだ)まりたることにて侍るなり。

 始終落ち立たむずるやうの道理をも、この世の末の、昔より成り罷(まか)る道理の、宗廟社稷の神の照らさせ給ふやうをも知らせ給はで、浅き御沙汰とこそうけたまはり侍れ。物の道理、吾国の成り行くやうは、かくてこそひしとは落居(らくきよ)せんずることにて侍れ。

 法門の十如是(じふによぜ)の中にも、如是本末究竟(くきやう)等と申すこと也。必ず昔<と>今は帰り合いて、様(やう=外見)は昔<と>今なれば変はるやうなれども、同じ筋<道>に帰りて持たふる事にて侍るなり。大織冠の入鹿を討たせ給ひて、世はひしと遮悪持善の理(ことはり)には適(かな)ひにしぞかし。今又この定めなるべきにこそ。このやうにてこそひしと君臣合体にて目出度からんずれ。


君と臣の道理

 猶をろをろ(=大略)この世(=今の世)のやうを承(うけたまは)れば、摂籙の臣とて表(おもて)は用ゐる由にて、底には奇怪の物に思し召しもてなして、近臣は摂籙臣を讒言するを、君の御<意>に適ふことと知りて世を失なはるる事は、申しても申しても言ふばかりなき僻事にて侍る也。

 これは内々小家(こいへ)の家主(いへぬし)、随分の後見(うしろみ)までただ同じことにて侍る也。それが随分々々の後見と主人と、ひしと相(あひ)思ひたる人の家のやうに治まり良きことは侍らぬ也。まして文武兼行の大織冠の苗裔(べうえい)と、国王の御身にて不和の仲らひにて、互ひに心を置きてあらんと云ふことは、冥顕(みやうけん)、首尾、始中終、過現当、いささかも事の道理に適ふ道侍りなんや。哀れ哀れこの道理こそ、いかにもいかにも末にはひしと作りまからんずらめとこそ、かねてより心得伏せて侍れ。

 それが如何に申すとも<人力の>適ふまじき事にて侍るぞとよ、世の末に世の中は穏(をだ)しかるまじと云ふ道理の方へ、ふふと移(うつ)り移りし侍るなり。それに悪魔邪神はひしと悪(わろ)がらせんと取りなす処に、時運(じうん)しからしめぬれば、又三宝善神の化益(けやく)の力及ばず成りてんずと、事出で来ては衰へ衰へしまかりて、かく世の末と云ふことに成り下(くだ)り侍るぞかし。

 そのやうは、時の君の強くうるさき摂籙臣をあらせじばやと思し召す御心の、世の末ざまにはいよいよ又強く出で来るなり。この僻事の由々しき大事(だいじ)にて侍る也。それに文武兼行の摂籙臣の強々(つよつよ)として、いかにもいかにもえ引き働(はたら)かすまじきが出で来む様(やう)に<は>、君の御意に適はぬ事は何事かはあるべき。ここに世は損ぜんずるなり。この道理を返々君の思し悟りて、この御僻事のふつとあるまじき也。

 君は臣を立て、臣は君を立つる理(ことはり)のひしとあるぞかし。この理をこの日本国を昔より定めたる様(やう)と、又この道理によりて先例のさはさはと見ゆると、これを一々に思し召し合はせて、道理をだにも心得通させ給ひなば目出度かるべき也。


乱と治の天皇擁立

 遠くは伊勢大神宮と鹿島の大明神と、近くは八幡大菩薩と春日の大明神と、昔今ひしと議定して世をば持たせ給ふなり。今文武兼行して君の御後見あるべしと、この末代、と移りかう移りし以てまかりて、かく定められぬる事は顕(あらは)なることぞかし。

 それに漢家の事はただ詮にはその器量の一事極まれるをとりて、それが打ち勝ちて国王とは成ることと定めたり。この日本国は初より王胤はほかへ移ることなし。臣下の家又定め置かれぬ。そのままにて如何なる事出で来れども今日まで違はず。百王のいま十六代残りたるほどは、このやうはふつと違ふまじき也。ここにかかる文武兼行の執政を作り出だして、宗廟社稷の神の参らせられぬるを、憎みそねみ思し召しては、君(きみ)は君にて得(え)おはしますまじきなり。

 日本にも臣の君を立つる道げにげにと二つあんめり。一つには先づ清盛公が後白河院を悪ろがり参らせて、その御子(=高倉)、御孫(=安徳)にて世を治めんとせしやう、木曾が又一戦ひに勝ちて、君を押し込め参らせし筋、このやうは君を立つとは申すべくもなけれども、武士が心の底に、世を知ろしめす君を改め参らするにてある也。されば世を乱す方にて立て参らせ、世を治むる方にて参らする、二つのやう也。乱す方は謀反の義なり。それは末通(すゑとほ)る道なし。

 いま一つの国を治むる筋にて立て参らするは、昭宣公の陽成院を降ろし参らせて、小松の御門を立て参らせ、永手大臣・百川宰相と二人して光仁天皇を立て参らせし、武烈失せ給ひて継体天皇を臣下どもの求め出で参らせし、これらは君の為世の為に、一定この君悪ろくて代はらせ給ふべしと、その道理定まりぬ。この君出で来給ひて、この日本国は始終目出度かるべしと云ふ道理のひしと定まりしかば、これによりて神明の冥(みやう)には御沙汰あるに代はり参らせて(=神々に代つて臣下が)、臣下の君を立て参らせしなり。されば過(あやま)たずこの御門の末こそはみな継がせ給ひて、今日までこの世は持たへられて侍れ。さはさはと、この二つのやうは侍るぞかし。


神々の御はからひと政治

 それに今この文武兼行の摂籙の出で来たらんずるを、えて君のこれを憎まんの御心出で来なば、これが日本国の運命の極まりになりぬと悲しき也。この摂籙臣は、いかにもいかにも君に背きて謀反の心の起こるまじきなり。ただ少し頬(ほほ)強(ごは)にてあなづりにくくこそあらんずれ。それをば一同に、事に望みて道理によりて万づの事の行なはるべき也。一同に天道に任せ参らせて、無道に事を行なはば冥罰を待たるべきなり。

 末代ざまの君の、ひとへに御心に任せて世を行なはせ給ひて事出で来なば、百王までをだに待ちつけずして、世の乱れんずる也。ただ憚らず理(ことはり)に任せて仰せふくめられて御覧のあるべき也。さてこそ此代(よ)はしばしも治(をさ)まらんずれと、ひしとこれは神々の御計らひのありて、かく沙汰しなされたることよと、明らかに心得らるるを、かまへて神明の御計らひの定(ぢやう)にあひ適ひて、思し召し計らひて、世を治めらるべきにて侍るなり。

 「冥衆(=神々)はおはしまさぬにこそ」など申すは、せめてあさましき時、<神々を>怨み参らせて人の言ふ言草(ことぐさ)也。誠には劫末までも冥衆のおはしまさぬ世は片時もあるまじき。ましてかやうに道あるやうに人の物を計らひ思ふ時は、殊(こと)に新(あら=あらたか)たにこそ当時(=今)も覚ゆれ。

 これは差し詰めて(=限定して)この将軍がことを申すやうなるは、かかることの当時(=現在)あれば、それにすがりて申すばかり也。この心は、ただ何時(いつ)も何時も異(こと)将軍にても、この趣(おもむき)を心得て、世の中をば君の持たせ給ふべきぞかし。

 将軍が謀反(むほん)心の起こりて運の尽きん時は、又易々と失なはんずる也。実朝が失せやうにて心得られぬ。平家の滅びやうもあらはなり。これは将軍が内外あやまたざらんを、故無く憎まれむことのあしからんずるやうを細かに申す也。この筋は悪ろき男女の近臣の引き出ださんずるなり。ここを知ろしめさんことの詮にては侍るべき也。

 こは以ての外(ほか)の事ども書きつけ侍りぬる物かな。これ書く人の身ながらも、我がする事とは少しも覚え侍らぬ也。申すばかりなし申すばかりなし。哀れ神仏物のたまふ世ならば、問ひ参らせてまし。


白河院政の名残り

 さてもさてもこの世の変はりの継ぎ目に生まれあひて、世の中の<目の>前に変はりぬる事を、かくけざけざと見侍ることこそ、世に哀れにもあさましくも覚ゆれ。人は十三四まではさすがに幼きほど也。十五六ばかりは心ある人は皆何事も弁へ知らるること也。この五<十>年が間、これを見聞くに、全てむげに世に人の失せ果てて侍る也。その人の失せゆく継ぎ目こそ、いかに申すべしともなけれども、をろをろ、尤もこの世の人<の>心得知らるるべき節(ふし=機会)なければ、思ひ出だして申しそふる也。

 今の<世の>風儀は忠仁公(=良房)の後を申すべきにや。それは猶上代なり。一条院の四納言(=斉信、公任、行成、源俊賢)の頃こそはいみじき事にて侍るめれ。僧もその時にあたりて、弘法・慈覚・智証の末流どもも、仁海・皇慶・慶祚などありけり。僧俗の有り様、いささかその風儀の塵(ちり)ばかりづつも残りたるかと覚ゆるは、いつまでぞと云ふに、家々を尋ぬべきに、まづは摂籙臣の身々(みみ)、次にはその庶子どもの末孫、源氏の家々、次々の諸大夫どもの侍る中には、この世の人は白河院の御代を正法にしたる也。

 尤も可然(しかるべし)々々。降(お)り居の御門(みかど)の御世(=院政)になりかはる継ぎ目なり。白河院の御世に候ひけん人は近くまでもありしかばこれを心得べし。一条院の四納言の末も白河院の初めまでは、同じ程の事の、やうやう薄くなるにてこそあれ。白河院御脱屣の後、一(ひと)落ち一落ち下れども、猶またその跡は違(たが)はず。

 後白河院の御時になりて、一の人は法性寺殿、一の人の庶子の末は花山院忠雅、又経宗、伊通(これみち)相国、閑院には間近く公能(きみよし)子三人、実定・実家・実守、公教(きみのり)子三人、実房・実国・実綱、公通(きみみち)・実宗父子、これらまで。

 又源氏には雅通公、諸大夫には顕季(あきすゑ)が末は隆季・重家、勧修寺(くわじうじ)には朝方(ともかた)・経房、日野には資長・兼光父子、これらは、見聞きし人々は、これらまでは塵ばかり昔の匂ひはありけるやらむと、その家々の大方(をほかた)の器量は、覚えき。中の難(=身内の非難)どもは沙汰の外(ほか)なり。

 光頼大納言、桂(かつら)の入道とてありしこそ、末代に抜け出でて人に褒められしか。二条院<の>時は、「世の事一<向>[同]に沙汰せよ」と云ふ仰せありけるを、ふつに辞退して出家してけるは、誠によかりけるにや。ただし大納言になりたる事こそおぼつかなけれ。「諸大夫の大納言は光頼にぞ始まりたり」なんど人に言はるめりまで也。「かからん人は成らで候なん」などや思ふべからん。昔は諸大夫<の>何かと器量ある士をば沙汰なかりき。さやうの頃は勿論(=異論なき)也。久しくかやうの品秩(ほんちつ)定まりて「諸大夫の大納言光頼に始まりたる」など言はるる事は、上品の賢人の言はるべき事にはなきぞかし。末代にはこの難はあまり也。<光頼は>いかさまにもよく許されたりける者にこそ<あれ>。

 この人々の子共(ども)の世になりては、つやつやと、生まれつきより父祖の気分の器量の削り捨てて無きに、孫(むまご)どもになりては当時(=今)ある人々にてあれば、とかく善き人とも、悪ろき人とも云ふに足らぬ事にて侍る也。


人材なき末の世

 さて又一の人は四五人まで並びて出で来ぬ。その中に法性寺殿の子共の摂政になられたる中に、中の殿(基実)の子近衛殿(基通)、又松殿(基房)・九条殿(兼実)の子どもには師家・良経也。父人(ててと)に三人の中に九条殿は社稷の心にしみたりしかばにや、兄二人の子孫には、人と覚ゆる器量は一人もなし。松殿の子に家房と言ひし中納言ぞ良くもやと聞こえしを、卅にも及ばで早世してき。

 九条殿の子どもは昔の匂ひに付きつべし。三人まで取りどりになのめならずこの世の人には褒められき。良通内大臣は廿二にて失せにし。名誉、人口に在り。良経又<執>政臣になりて同じく<能>芸群に抜けたりき。詩歌・能書昔に恥ぢず、政理(=政治)・公事父祖を継げり。左大臣良輔(よしすけ)は漢才古今に比類なしとまで人思ひたりき。卅五にて早世。かやうの人どもの若死(わかじに)にて世の中かかるべしとは知られぬ。あな悲しあな悲し。

 今、良経、後の京極殿(=良経)の子にて、左大臣(=道家)只一人残りたるばかりにて、こと兄々の子息は人型にて迷ふばかりにや。そのほか家々に一人も採るべき人なし。諸大夫家にもつやつやと人も無き也。職事・弁官の官の名ばかりは昔なれど、任人(にんじん)は無きが如し。おのづからありぬべきも出家入道とのみ聞こゆ。掘り求めば三四<人>などは出で来る人もありなんものを、すべて人を求められばこそは、ありて捨てられたらん<人ありて>こそ、頼もしくも聞こえめ。さればこは如何がせんずるや、この人の無さをば。この中に実房は左府入道とて生き残りたるが、ただこの世(=今の世)の人の心になりたるとかや。

 僧中には、山には青蓮院座主の後は、いささかも匂ふべき人なし。失せて後六十年に多くあまりぬ。寺(=三井寺)には行慶・覚忠の後、又つやつやと聞こえず。[東寺には]御室(=仁和寺)には五宮(=鳥羽天皇第五子)まで也。東寺長者の中には、寛助・寛信など云ふ人こそ聞こえけれ。盛(さか)りざまには理性(りしやう=賢覚)・三密(=聖賢)などは名誉ありけり。南京(=奈良)方には恵信法務流されて後は、誰(たれ)こそなど申すべき。寸法にも及ばず。覚珍ぞ悪しうも聞こえぬ。中々当時法性寺殿の子にて残りたる信円前大僧正、上なる人の匂ひにも成りぬべきにこそ。又慈円大僧正弟にて山には残りたるにや。


多すぎる高官位の人

 さればこは如何にすべき世にか侍らん。この人の無さを思ひ続くるにこそ、徒(あだ)に、くさくさ心も成りて、待つべき事も頼もしくもなければ、今は臨終正念にて、とくとく頓死をし侍りなばやとのみこそ覚ゆれ。

 この世の末に、あざやかにあな浅ましと見えて、かかれば成りにけりと覚ゆる印(しるし)には、摂籙経たる人の四五人四五人並びて葛(つづら)として侍るぞや。これは前官にて一人あるだにも猶ありがたき職どもを、小童(こわら)べの歌ひて舞ふ言葉にも、九条殿の摂政の時は、「入道殿下(基房)、小殿下(師家)、近衛殿下(基通)、当殿下(兼実)」と云ひて舞ひけり。それに良経摂政に又なられにしかば五人になりにき。

 天台座主には慈円・実全・真性・承円・公円と五人あんめり。奈良(=興福寺)には信円・雅縁・覚憲・信憲・良円ありき。信憲も覚憲が生きたりしに<座主に>成りたりしやらん。

 十大納言、十中納言、散三位五十人にもやなりぬらん。僧綱には正員(しやうゐん)の律師百五六十人になりぬるにや。故院(=後白河法皇)の御時、百法橋(ほつけう)と云ひてあざみけん事のやさしさよ(=恥づかいことよ)。僧正、故院の御時までも、五人には過ぎざりき。当時、正僧正一度に五人出で来て十三人まであるにや。前僧正又十余人あるにこそ、衛府は数(かぞ)へあらぬ程なれば、とかく申すに及ばず。

 「官、人を求む」と云ふ事は言ひ出だすべき事ならず。人の官を求むるも今は失せにけり。成功々々と猶求むるに、成さんと云ふ人なし。されば半(なか)ばにも及ばで成すをいみじきに今はしたるとかや。それにとりて、この官位の事はかくはあれども、さてあらるる事にてありけり(=それは充分あり得ることである)。又世の末の手本(=典型)とも覚えたり。


人あれどなきがごとし

 大方心ある人の無さこそ申しても申しても悲しけれ。かかれば<法師に>一の人の子の多さよ。この慈円僧正の座主に成りしまでは、山には昔より数(かぞ)へよく、摂籙の家の人の座主になりたるは、飯室(いいむろ)の僧正尋禅と、仁源・行玄・慈円とただ四人とこそ申ししか。当時(=今)は山ばかりにだに、一の人の子一度に並び出で来て十人にもあまりぬらん。

 寺(=三井寺)・奈良(=興福寺)・仁和寺・醍醐と四五十人にもやあまりぬらん。一度に摂籙臣四五人まで前官ながら並びてあらんには、道理にてこそあれ。又宮たちは入道親王とて、御室の中にもありがたかりしを、山にも二人並びておはしますめり。新院(=土御門)・当今(=順徳)、又二宮(=高倉天皇第二子)・三宮(=同第三子)の御子など云ひて、数しらず幼き宮々、法師々々にと、師どもの元へ充てがはるめり。「世滅松」に聖徳太子の書き置かせたまへるも、哀れにこそ、ひしと適ひて見ゆれ。

 これを昔は、されば、人の、子を儲(まう)けざりけるかと、世に疑ふ人多かりぬべし。よくよく心得らるべき也。昔は国王の御子々々多かれど、皆姓を賜はせて只(ただ)の大臣公卿にも為さるれば、親王たちの御子も沙汰に及ばず。

 一の人の子も家を継ぎて、摂籙してんと思はぬほかは、みな只の凡人(ただびと)に振舞はせて、朝家(てうか)に仕(つか)へさせられき。次々の人の子も人がましかりぬべき子をこそ取り出だせ、さなきはただ這(は)ひ痴(し)れて止み止みすれば、ある人は皆よくて持て扱かふもなし。

 今の世には宮も一の人の子も、又次々の人の子もさながら宮振舞ひ、摂籙の家嫡(かちやく)振舞ひにて、次々もよき親の様(やう)ならせんと、悪ろき子どもを充てがひて、この親々の取り出だせば、かくはあるなるべし。

 又僧の中にもその所の長吏(ちやうり)を経つれば、又その門徒々々とて、出世の師弟は世間の父子(=親子)なれば、我も我もとその裁ち分け(=分派)の多さよ。

 されば人無しとは、如何に[も]しかるべき人の多さこそとぞ言ふべき。哀れ哀れ「有若亡(うじやくまう)」、「有名無実」などいふ言葉を人の口につけて云ふは、ただこの料(れう=為)にこそ。かかればいよいよ緇素(しそ=僧俗)みな怨敵にして、闘諍(とうじやう)誠に堅固(=確実)なり。貴賎同じく人無くして、言語(ごんご)すでに道断侍りぬるになむ。しし(為仕?)以てまかりては、物の果てには問答したるが心は慰むなり。


問、されば今は力及ばず、かうて世に直(なを)るまじきか。

答、分(ぶん=随分)には易く直りなむ。


問、すでに世下り果てたり。人又無(な)かん也。跡もなくなりにたるにこそ。しかるに易く直りなんとはいかに。

答、「分には」とはさて申す也。一定易々と直るべき也。


問、その直らんずるやう如何。

答、人は失せたれど、君と摂籙臣と御心一つにて、このある人の中に悪ろけれども、さりとては、僧俗を掻い選(え)り選りして、良からん人を、ただ鳥羽・白河の頃の官の数に召し使ひて、そのほかをばふつと捨てらるべきなり。不中用(=不要)の者をまことしく捨て果てて目をだに見せられずは、目出度めでたとして直らんずる也。随分に直ると云ふはこれなり。昔の如くには人の無ければ、<それも中々>叶ふまじ。選り正したらんずる寸法の世こそは悪ろながら、よく直りたるこの世にてあらんずれ。


問、この官の多さ、人の多さをば、いかに捨てんとては捨てられんずるぞ。

答、捨つと云ふは、ふつと召し使はず。<さ>る者や世にあらんとも知ろしめさるまじき也。陽成院(=上皇として)世におはしまして、やうやうの悪事せさせ給ひしかど、物も言はで聞き入れざりしかば、寛平・延喜の世、目出度くてありき。解官停任(=罷免)にも及ぶまじ。ただ捨てられぬにて、「まことに捨てられたらん人には、なあひしらひそ(=相手にするな)」と、選り採られたらん人に、仰せふくめて、さて有るべきなり。


問、その捨てられ人あまり多くて、寄り合ひて謀反や起こして大事にやならんずらん。

答、武士をかくて持たせおはしましたるは、その料(れう)ぞかし。少しもさる気色(=謀反)いかでか聞こえざらん。聞こえん時二三人さらん者を遠流せられなば、つやつやさる心を起こす人もあるまじき也。


問、此義なりて侍り。いみじいみじ。但し誰かその人をば選りとらんずるぞ。

答、これこれ大事なれ。但しこれ選りて参らする人四五人は一定ありぬべし。その四五人寄り合ひて、選り取りて参らせたらんを、君だにも強々(つよつよ)と働(はたら=変更)かさで、ひしと用ゐさせ給はば、易々とこの世は直らんずるなり。


問、解官せじとはいかに。

答、選り出だされむ人の、八座・弁官・職事ばかりになる人候らん所こそ要(かなめ)なれば、それは解官せられなんず(=前の人は罷免されるだらう)。言(こと)も愚かや。そのほかはせめて無沙汰なれと也。僧俗官の数の定め程こそ大事なれど、鳥羽院最中の数、末代よりよきほど也。



2009.3  Tomokazu Hanafusa / メール

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