『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』

第一章




マルクス著

(=)内は本訳者の注解である。



 ヘーゲルはどこかで言つてゐる。あらゆる世界史上の偉大な出来事と人物は言はば二度現れると。彼はかう付け加えるのを忘れてゐた。「一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」

 ダントンに代つてコーシディエールが、ロベスピエールに代つてルイ・ブランが、一七九三年から一七九五年の山岳党に代つて一八四八年から一八五一年の山岳党が、伯父のナポレオンに代つて甥のナポレオンが現はれた。そして二度目(=一八五一年)の「ブリュメール十八日」(=クーデター)が行なはれた時、まさにこの茶番劇が演じられたのである。

 人間は自分の歴史を作るが、自由に作るのではなく、目の前にある与へられた条件、過去とつながりのある条件のもとで作る。その条件は自分では選べない。いま生きてる人間の頭には、過去の死せる世代の伝統が悪夢のやうに重くのしかかつてゐるのである。

 だから、自己と社会を変革しようとする時や、これまで存在しなかつたものを作り出さうとする時など、まさに革命の危機のまつただ中に於てさへ、人は過去の亡霊を呼び寄せて、彼らの名前とスローガンと衣装を借用して、歴史の権威ある服装に着替へて、借り物のせりふを使つて、新しい世界史の場面を演じようとするのである。

 だから、ルターは使徒パウロの振りをしたのであり、一七八九年から一八一四年の間の革命では順にローマ共和国(=第一共和制)とローマ帝国(=第一帝政)を装つたのである。ところが、一八四八年の革命(=二月革命)は、ある時は一七八九年の大革命を、ある時は一七九三年から一七九五年(=反動が始めるまで)の革命的伝統を真似るよりましなことはできなかつた。

 これではまるで新しい外国語を学びたての初心者である。外国語の初心者はいつも母国語に訳したがるものだ。母国語を思ひ出さずにその言語をあやつれるやうになり、その言語を使ふときには母国語を忘れるやうになつて初めて、その言語をものにしたと言へるのであり、その言語を自由に使ひこなせるやうになるのである。

 過去の死んだ人間を呼び戻してきた有り様を世界史上で比べてみると、昔は今とは全然違つてゐた。

 カミーユ・デムラン、ダントン、ロベスピエール、サン・ジュスト、ナポレオン、その他フランス革命の諸々の英雄たちや党派と民衆たちは、ローマ時代の服装をしてローマ時代のスローガンを使ひながら、自分たちの時代の課題、つまり近代的ブルジョア社会を解放して確立するといふ課題を達成した。

 ある者は封建制の土台を破壊し、その土台の上に栄えてゐた封建領主たちを一掃した。ある者は、国内において自由な競争が発展し、分割された土地所有を生かし、国民の自由な産業生産力を活用できるやうに諸々の条件を整へて、国外においては、ヨーロッパ大陸の封建的制度を破壊して、フランスのブルジョア社会に相応しい環境、時勢に合つた環境を作り出した。

 新しい社会が一旦確立するやいなや、昔の偉人たちが消え失せ、それと共に、復活してゐた古代ローマ世界、ブルータスとグラックス兄弟とプブリコラと護民官たちと元老院議員たちとシーザーの全てが消え去つた。

 革命の熱からさめた現実のブルジョア社会では、セーとクザンとロワイエ・コラールとベンジャミン・コンスタンとギゾーが社会の真の代弁者となつた。そして、帳場の後ろに座る者たちが社会の真の推進役となつて、ずんぐり頭のルイ十八世が政治的指導者となつた。

 ブルジョア社会では富の生産と競争といふ平和的な戦ひに没頭して、自分たちの揺りかごをローマ時代の亡霊が守つてくれてゐたことなどきれいさつぱり忘れてしまつてゐた。しかしながら、ブルジョア社会が如何に非英雄的であつても、これが生まれるためには英雄主義と自己犠牲とテロルと内戦と諸国民戦争が必要だつたのである。

 そして、この時の戦士たちは、ローマ共和制の古典の伝統の中に革命の理想と方法を見出したが、かうして自分をごまかすことによつて、戦ひの中身がブルジョアの利益に限られてゐることに目をつぶつて自分たちの情熱を偉大な歴史的悲劇の高みに留めることができたのである。

 発展段階は違ふが百年前にクロムウェルとイギリス国民が、自分たちのブルジョア革命のための言葉遣ひと情熱と理想を、旧約聖書から借りてゐる。しかし、いざ目的が実際に達成されて、イギリスにブルジョア社会が確立されてしまふと、ロックが旧約聖書の予言者ハバククに取つて代つた。

 したがつて、これらの革命で死者を蘇らせたのは、新たな戦ひを美化するためであつて、決して昔の革命を真似するためではない。やらなければならないことを空想の中で膨らませるためであつて、現実の解決から逃避するためではない。それは革命の精神を再発見するためであつて、革命の亡霊をさまよはせるためではない。

 ところが、一八四八年から五一年の革命(=二月革命)では、昔のバイイ(=一七三六年〜一七九三年、テニスコートの誓ひを読む第三身分のリーダー、パリ市長)の扮装をした Republicain en gantsjaunes(絹の手袋をした共和主義者)マラストに始まり、ナポレオンに似せた鉄仮面の下にぞつとするほど平板な表情を隠した冒険家ルイ・ボナパルトに至るまで、過去の革命の亡霊たちがさまよつただけだつた。

 そして、革命を前進させようとして力を尽くした民衆たちは、突如として昔の時代に引き戻されたことに気付くのである。そして昔に戻つたことをよく分からせるために、とつくに考古学の対象になつてゐるはずの古い日付、古い暦、古い名前、古い勅令、さらにとつくにその肉体が朽ち果ててゐるはずの執達吏たちが蘇(よみがへ)つてきたのである。

 ベドラム精神病院に入院中のあるイギリス人は、自分がファラオの時代に生きてゐると信じて、エチオピアの鉱山で毎日やらされる金鉱掘りのつらさを嘆いてゐるといふ話である。彼は地下の牢獄に閉じこめられて、頭に薄暗いランプをくくりつけられてゐる。後ろには長い鞭をもつた奴隷監視人が控へてをり、出口には野蛮な傭兵がたむろしてゐる。彼らは全員共通の言葉をもたないため、互ひに話ができないし、鉱山の強制労働者とも話ができない。その気違ひのイギリス人は正気に返つても、「自由な国に生まれたこのわしがこんな病院に閉じこめられてゐるのは、みんな昔のファラオに黄金を掘つてやるためなのさ」とため息をつくといふのである。

 現代のフランス人はこのイギリス人にそつくりである。そして「これはみんなボナパルト家の借金を払つてやるためなのさ」とため息をつくのである。

 このイギリス人は正気の間も黄金掘りの固定観念から抜けられなかつたが、フランス人は革命をしてゐる間もナポレオンの思い出から抜けられなかつた。そのことを十二月十日(=一八四八年)の大統領選挙が証明したのである。

 彼らは革命の危険から逃れて過去の逸楽に戻らうとしたのである。そしてその答が一八五一年十二月二日のクーデターだつた。そこで彼らは単に昔のナポレオンの茶番を見ただけではなかつた。このナポレオンは十九世紀半ばにおいては茶番としか見えなかつたにも拘らず、彼らは昔のナポレオンその人を見たのである。

 十九世紀の社会革命は、革命の歌を過去から取り出してくることは出来ない。それはただ未来からしか得られないのである。過去に対する思ひこみを振り捨てないかぎり革命は始まらない。

 それまでの革命はその中身をごまかすために世界の歴史を持ち出してくる必要があつた。十九世紀の革命は死んだ者たちに拘(かかづ)らはつてゐては、その中身を達成することはできないのだ。過去の革命においてはスローガンが中身を凌駕してゐたが、現代の革命においては中身がスローガンを凌駕するのである。

 二月革命は古い社会にとつて全く予期しない不意打ちだつた。民衆はこの突然の襲撃を、新しい時代の幕開けを告げる歴史的行動だと宣言した。その二月革命が十二月二日、いんちき博打打ちのいかさまにかかつて、かすめ取られてしまつたのだ。そして、投げ倒されたと思つたのは結局王政ではなく、何世紀にも渡る闘ひを通じて王政から譲歩させて勝ち取つたはずの自由だつた。

 社会は新しい中身を手に入れるどころか、国家がその最も古い形、サーベルと僧服による至極単純な支配に逆戻りしただけだつた。一八四八年の二月革命のcoup de main(不意打ち)の答が一八五一年十二月のcoup detete(まぐれ当たり)だつたのである。手に入るのもたやすかつたが、無くすのもたやすかつた。

 その間に経過した時間を何もせずに過ごしたわけではない。一八四八年から一八五一年の間に、フランスの社会は学習と経験の遅れを取り返したからである。しかし、それは革命的であるが故に泥縄式でしかなかつた。二月革命がもし社会に表面的な動揺を起こすだけで終はるべきものでなかつたら、この学習と経験は、正規の言はば教科書通りの発展をとげて、二月革命の前に彼らの手に入つておくべきものだつたのである。

 今や(=ルイ・ボナパルトのクーデターによつて)フランス社会は自らの出発地点(=二月革命)よりも後退してしまつたやうに見える。しかし実際にはフランス社会は今やつと革命の出発点を作り出さうとしてゐるのだ(=ルイ・ボナパルトのクーデターは次の革命の準備であるとマルクスは強弁してゐるわけである)。それは、現代の革命が本格的なものとなるのに欠かせない条件、環境、状況を作ることである。

 十八世紀のブルジョア革命は成功から成功へと突つ走つた。その劇的な効果はただ増すばかりで、人も物も光明に包まれて見え、日々有頂天だつた。しかし、この有頂天はすぐに絶頂に到達して短命に終つたのである。その後、社会は長い後悔に捕はれて、疾風怒濤時代の成果を冷静に我が物とすることができなかつたのである。

 それに対して、十九世紀のプロレタリア革命は常に自己批判を忘れない。それは自らの歩みの中で絶えず立ち止まる。そして、明白な到達点にまで戻つてから、いつも新たなスタートを切る。以前の試みの不完全なところ、欠点、欠陥を残酷なほど徹底的に笑ひものにする。

 敵は打ち倒したやうに見えても、大地から新たなエネルギーを吸収してさらに大きくなつて再び立ち向かつて来るのだ。プロレタリア革命は、自分自身の漠とした巨大な目標を前にしていつも後ずさりするのだ。それは、プロレタリア革命がもはや引き返せないところまで来て、Hic Rhodus, hicsalta!(ここがロドスだ。ここで跳べ)「ここにバラがある。ここで踊れ」と決断を求める状況が生まれるまで続くのである。

 ところで、フランスの発展の道筋を一歩一歩跡づけてゐなかつたとしても、人並みの観察者なら、前代未聞のぶちこわしが革命に迫つてゐることは誰にも分かつたはずだつた。それは亡命中の民主派諸氏が、一八五二年五月の第二日曜日の恩赦(=ルイ・ボナパルトの任期が終はり帰国できる)を代はる代はる祝つて、独りよがりの遠吠えをあげるのを聞くだけで充分だつた。

 一八五二年五月の第二日曜日は彼らの頭の中では固定観念、言はば教義になつてしまつてゐた。それはキリストが再臨して千年王国が始まる日が、信者の頭の中で固定観念になつてゐるのと似てゐた。

 例によつて彼ら弱者は奇跡が起こることを信じて祖国を脱出した。頭の中で呪文を唱へて追ひ払つたとき敵を打ち負かしたと思つたのだ。そして現在に対する理解力を完全に失つてしまつた。そして、人には見せずにじつと胸に秘めた行為をいつか実行する未来の時を、何もせずに夢見るだけだつた。

 この英雄たちの無能さは証明済みだつた。今度は違ふと言ふために、彼らは一人一人の弱さを認め合つて手を結んだ。帰国の荷造りも終へてゐた。勝利の月桂冠も前もつて手に入れた。未来の共和国を材料にしてせつせと資金集めさへしてゐた。さらに彼らは、こつそりと控へ目ながらも組閣人事を早手回しに完了してゐたのだ。

 十二月二日はそんな彼らにとつて青天の霹靂だつた。意気地のない不遇の時代に声ばかり大きい不平家に耳を傾けて自分たちの不安を紛らせてきた彼らも、ガチョウの鳴き声が祖国を救へる時代ではもうないことに気付いたことだろう。

 憲法も国民議会も、王朝派政党も青色と赤色の共和主義者も、アフリカ(=アルジェリアの戦争)の英雄(=カヴェニャック、ラモリシェール、ブドー)も、演壇からの雷も、日刊新聞が発する稲妻も、文壇も政界の大物も知識人たちも、民法も刑法も、「自由と平等と友愛」も、そして一八五二年五月の第二日曜日も、全てが一人の男の呪文の前に、幻(まぼろし)のやうに消えてしまつた。

 あの男がそんな魔法の使ひ手だとは彼の政敵さへも言はなかつた事だ。普通選挙だけは生き残つたやうにしばらくは見えた。しかし、それはこの普通選挙が衆人環視のもとでその生涯を終へて、「すべてこの世に存在するものは亡びるに値する」ことを国民に代つて明らかにするためでしかなかつた。

 国民は不意打ちを食つたのだとフランス人は言ふが、それでは不充分だ。国民であらうと女性であらうと、行きずりのプレイボーイに暴行されてうつかりしてゐたでは済まないからである。そんな言ひ方ではこの謎を解明したことにはならない。それは単なる言ひ換へといふものだ。三千六百万もの国民が三人のペテン師(=ボナパルト、軍司令官マニャン、警視総監モパ)の不意打ちを受けて無抵抗なまま囚はれの身になるなどといふことがどうして起こり得たのか。これは是非とも明らかにされねばならない。

 ここでは、今回のフランス革命が一八四八年二月二十四日から一八五一年十二月までにたどつた段階を、簡単に要約してみよう。(=これをクーデター前に書いたものが『フランスにおける階級闘争』。マルクスの予想外だつたクーデターという現実を前にして書き直すわけである)

 全体を三つの段階に分けられるのは明らかである。それは、まづ、二月の段階、次に、一八四八年五月四日から一八四九年五月二十八日までの共和国創設または憲法制定国民議会の段階、そして、一八四九年五月二十八日から一八五一年十二月二日の立憲共和制または立法国民議会の段階である。

 第一段階は、二月二十四日のルイ・フィリップ打倒から五月四日の憲法制定議会の開会前までで、本来の二月の段階であり革命の序章と呼ぶことが出来る。この段階の特徴は、にはか作りの政府が自らを臨時政府と名付けた点に明確に表はれてゐる。政府だけでなく、この段階でなされた如何なる提案、如何なる試み、如何なる宣言も、臨時のものだと言はれたのだ。如何なる人も如何なる物も、存続の権利、実効性の権利を要求しなかつたのである。

 この革命をもたらした要素、この革命の性格を決定づけた要素の全てが二月の政府の中にかりそめの居場所を見出した。それは、野党の王朝主義者(=クレミュー、デュポン・ド・ルール等)、ブルジョア共和主義者(=マラスト、バスティード、ガルニエ・バジェス等『ナショナル』派)、小ブルジョア民主共和主義者(=ルドリュ・ロラン、フロコン等)、労働者社会民主主義者(=ルイ・ブランとアルベール)だつた。

 かうなることは必然的だつた。二月革命の本来の目的は、選挙制度改革だつた。この改革によつて、有産階級のうちで政治的特権をもつ人々の範囲を拡大して、金融貴族の独占的な支配を打倒すればよかつたのである。ところが、実際に衝突が起こつて、民衆が蜂起すると、民兵は消極的態度に終始し、軍隊は真剣な抵抗を見せず、国王が逃げ出してしまつた。さうなると、共和制になるしかなかつた。

 どの党派もこの共和制を自分流に解釈した。武器を手に共和制をつかみ取つたプロレタリアは、この共和制に自分たちの刻印を押して、これを社会主義的共和制と宣言した。それはこの近代革命の一般的な中身を意味してゐたが、社会主義的共和制といふ宣言は、与へられた環境の下で、実際の人材と不充分な教養レベルの大衆と一緒にとりあへず始められたあらゆるもの(=リュクサンブール委員会と国立作業所など)とは、驚くほどかけ離れてゐた。

 他方、二月革命に参加して臨時政府に名を連ねた残りの全ての党派は、政府の中で圧倒的多数を構成することによつて自分たちの要求を認めさせた。したがつて、この二月の段階では、スローガンは野心的なのに実際の行動は覚束なかつたり、改革意欲は益々熱心なのに因習の支配は益々根強かつたり、一見した社会の調和は益々広がつてゐるのに構成員同士の離反は益々深刻になるなど、他の段階には見られない複雑に入り組んだ様相を呈してゐた。

 パリのプロレタリアが自分の前に開けた素晴しい展望に見とれて、社会問題を真剣に論じてゐる間に、社会の古い勢力は党派ごとに団結して、我を取り戻してゐた。そして彼らは、七月王政の砦(とりで)が倒されたのちに(=普通選挙導入)突然政治の舞台に飛込んできた国民大衆、すなはち農家と小ブルジョアの中に予期せぬ支持者を見出してゐた。

 第二段階の一八四八年五月四日から一八四九年五月末までは、憲法制定の段階であり、ブルジョア共和制設立の段階である。二月革命の直後は、野党の王朝主義者は共和主義者から、共和主義者は社会主義者から、さらに全フランスがパリから不意打ちを食らつた状態だつた。

 しかし、一八四八年五月四日に召集された国民議会は大衆による選挙によつて生まれたもので、大衆を代表してゐた。それは二月革命における不当な要求に対する生々しい抗議の表はれだつた。この議会は革命の結果をブルジョアの尺度に引き戻すのが仕事だつた。

 パリのプロレタリアは、この国民議会の性格をすぐに理解すると、開会数日後の五月十五日に、この存在を暴力を使つて否定し、議会を解散させようとした。しかし、国民の反動精神の権化となつてプロレタリアを脅かす議会といふ有機体を元の構成要素にばらばらに分解しようとするこの企ては失敗に終つた。この五月十五日の事件は、周知のやうに、ブランキとその仲間、つまりプロレタリアの党派の実質的指導者を、我々がいま観察してゐる期間の間中、表舞台から遠ざけただけに終つた。

 ルイ・フィリップのブルジョア君主制のあとにはブルジョア共和制が続くしかなかつた。つまり、これまでは王の名においてブルジョアの限られた人たちが支配してゐたとすれば、これからは大衆の名においてブルジョアの全員が支配するのである。パリのプロレタリアの要求は馬鹿げた夢物語であり、そんなものには終止符が打たれねばならないのだ。

 このやうな声明を憲法制定国民議会が発表すると、これに対してパリのプロレタリアは六月暴動によつて答へたのである。これはヨーロッパの内戦史上最大の出来事となつた。

 ブルジョア共和制はこの内戦に勝利を収めた。彼らに味方したのは、金融貴族、産業ブルジョア、中産階級、小ブルジョア、軍隊、ルンペンプロレタリアートで組織された国民遊撃隊、知識人、教会、農民だつた。それに対して、パリのプロレタリアに味方した者は誰も居なかつた。勝敗が決した後に三千人以上の反乱者たちが虐殺され、一万五千人が裁判抜きで国外に追放された。

 この敗北によつて、プロレタリアは革命の表舞台から完全に消え去つた。運動が新たな高まりを見せるたびにいつもプロレタリアは前面に出ようとするが、注ぎ込むエネルギーは益々弱まり、得られた結果は益々貧弱になつていつた。プロレタリアは自分より上の階級が革命騒ぎを起こすたびに、いつもその階層と手を組んで、様々な党派が次々に経験する敗北を全て共にする。しかし、これら後続の運動は、社会全体に広がりを持つやうになるにしたがつて、ますますそのインパクトが薄まるばかりなのだ。

 議会とマスコミの中にゐるプロレタリアの重要な指導者たちは順番に裁判所の生け贄となり、幹部になる人間の質は益々低下するばかりである。そしてある者は交換銀行(=プルードン)や労働者協同組合などの空想的な実検に没頭するやうになる。

 彼らの運動は、自分たちの限られた生活条件の範囲内で社会の目立たないところでこつそり自分たちを解放しようとするものである。これは古い世界を覆すのに古い世界のもつ巨大な武器を利用することを断念するものであつて、うまく行くはずがない。

 思ふにプロレタリアが自分の中に革命の栄光を取り戻すことも、新たな結び付きから新たなエネルギーを獲得することもできないうちに、六月暴動でプロレタリアを相手にして戦つた全ての階級が軒並み、プロレタリアとともに枕を並べて倒れ伏てゐるといふのが現状なのである。

 しかしながら、プロレタリアは敗れたものの、少なくとも世界の歴史に残る偉大な戦ひをしたと称賛されてゐる。六月の大地震によつて、フランスだけでなく全ヨーロッパが揺さぶられたからである。それに対して、プロレタリアより上の階級のその後の敗北は大して評価されず、勝つた側が自慢して大げさに言はなければ、事件としても通用しないほどのものでしかなかつた。そして敗れた党派の階級がプロレタリアとかけ離れてゐればゐるほど、その敗北は益々惨めなものとなつたのである。

 確かに、ブルジョア共和制を打ち建てることのできる基盤は、六月暴動の敗北によつて整備されたのである。しかしながらそれと同時に、この敗北によつて明らかになつたのは、ヨーロッパでは「共和制か君主制か」とは別の問題があるといふことである。つまり、ヨーロッパではブルジョア共和制とは一つの階級の他の階級に対する無制限の独裁を意味するといふことが、この敗北によつて明らかになつたのである。

 そして、古い文明国、階級組織が発達し、近代的生産条件が整備され、あらゆる伝統的な考へ方(=家族、宗教など。下記参照)が長年の努力によつて溶け込んだ精神的な意識をもつ、そのやうな古い文明国では、共和制はただブルジョア社会による政治的な転覆(=クーデター)だけをもたらすだけで、継続的な生存形態を意味しない、といふことが、この敗北によつて証明されたのである。

 一方、例へばアメリカ合衆国においては、共和制はブルジョア社会が継続的に存続することを意味する。

 といふのは、アメリカ合衆国においては、確かに階級は存在しても固定されず、常に流動的でその成員は変化して入れ代はつてゐる。また、近代的な生産手段は停滞的な人口過剰を意味せず、むしろ相対的な人手不足を補ふものとなつてゐる。おまけに、若々しい物質的生産活動は、新世界を我が物とすることに忙しく、過去の世界の亡霊(=君主制など)を片づけてゐる暇はないからである。

 六月暴動では、全ての階級と党派が秩序党として一つにまとまつて、無秩序の党、社会主義の党、共産主義の党としてのプロレタリア階級に対抗した。秩序党は「社会の敵」から社会を「救つた」のである。彼らは「財産、家族、宗教、秩序」といふ古い社会のスローガンを自分たちの軍隊の合言葉にした。そして「この旗印のもとに勝利せよ」とこの反革命十字軍に呼びかけた。

 この時期以降、六月暴動に対抗してこの旗印のもとに結集した多くの党派のうちから、どれか一つが自己の階級利益を守らうと革命に訴へるやいなや、「財産、家族、宗教、秩序」のスローガンの前にうち負かされるのである。かうして社会が救はれるたびに、社会を支配する階級の範囲は狭まつていき、益々狭い範囲の階級の利益が広い範囲の階級の利益に対して守られるのである。

 ごく単純なブルジョア的財政改革、ごく平凡な自由主義、ごく形式的な共和主義、ごく表面的な民主主義のどんな要求も、即座に「社会に対するテロ行為」として処罰され、「社会主義」の烙印が押される。

 そして最後には「宗教と秩序」の神官たちさへも、その予言者の座から足蹴にされて追ひ払はれ、夜陰に紛れて寝床から連れ出され、囚人馬車に押し込まれて、地下牢に投げ込まれるか国外に追放される。その神殿は打ち壊され、その口はふさがれ、その筆は折られ、その法は破棄される。しかもそれは宗教と財産と家族と秩序の名において行なはれるのである。

 秩序狂ひのブルジョアたちは自分の家のバルコニーにゐるところを酔つぱらいの兵士の群れによつて射殺され、その家は気晴らしの砲撃を受ける。しかもそれは財産と家族と宗教と秩序の名において行なはれるのである。

 ブルジョア社会の屑どもが最終的には秩序の神聖な軍団を構成するやうになる。そして「社会の救世主」として、一人の放埒な英雄(=ルイ・ボナパルト)がテュイルリー宮に乗り込むのである。(了)


誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

※これ以後は、岩波書店ではなく、大月書店から出てゐる和訳を読むことをお勧めする。

この訳文はインターネット上のドイツ語原典こちらも)をもとに、同じくインターネット上の英訳英訳仏訳和訳と、『マルクスエンゲルス全集』第八巻所収の和訳(=国民文庫32)を、大いに参考にしながら作成したものである。なほ、上記ドイツ語原典はあちこちに脱落があつたが、手元にドイツ語の書籍がないので、主に仏訳で補つた。

最近、平凡社ライブラリーに新しい和訳が出たことを知つたのを契機に、難しいところを読み比べながら全体を見直し、分かりにくいところは改めた。平凡社版よりは大月書店版の和訳の方がやはり分かりやすいやうである。(2009.7)


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