『フランスにおける階級闘争一八四八年から一八五〇年まで』(全訳)







マルクス著
()内は原文の文字の和訳文であり、(=)内は本訳者の注解である。
第一章 一八四八年六月の敗北 一八四八年二月から六月まで
第二 章 一八四九年六月十三日 一八四八年六月から一八四九年六月十三日まで
第三章  一八四九年六月十三日の結果 一八四九年六月十三日から一八五〇年三 月十日まで
第四章 一八五〇年の普 通選挙の廃止




 一八四八年から一八四九年までの革命の年代記は、若干の章を除くと、重要などの章にも「革命の敗北」といふ題がついてゐる。

 しかし、この敗北において滅んだのは革命ではない。明確な階級対立にまで先鋭化してゐなかつた社会的状況の産物が滅んだのである。つまり、二月革命以前の革命党がまだ持つてゐた人物と空想と観念と計画が滅んだのである。それらは二月革命以前の革命党に伝統的に付きまとつてゐたものであり、それらから革命党は二月の勝利によつてではなく一連の敗北によつて、やつと自由になることができたのである。

 一言でいへば、革命の前進は、この革命の悲喜劇的な直接の成果によつてはもたらされなかつた。反対に、それは結束した強力な反革命、すなはち革命の敵が生み出されたことによつてもたらされたのである。この敵との戦ひによつて初めて、改革党は真の革命党に成長できるのである。

 このことを証明するのが、以下のページの課題である。



第一章 一八四八年六月の敗北 一八四八年二月から六月まで


 七月革命の後、自由主義の銀行家ラフィットは、勝利の喜びのなか compère(仲良し)のオルレアン公を Hôtel deVille(パリ市役所)に案内しながら、ふと漏らした。「これからは銀行家の天下です」と。ラフィットは革命の秘密を漏らしたのだ。

 ルイ・フィリップの時代は、フランスのブルジョアの天下ではなくて、その一部分の人間の天下だつた。つまり銀行家と証券取引所王と鉄道王と炭鉱と鉄鉱山と森林の所有者と、さらにそれらと結びついた土地所有者の一部、いはゆる金融貴族の天下だつた。彼らが玉座に座り、議会で法律を決め、内閣からタバコ局に至るまでの公職を支配した。

 本来の産業ブルジョアは正式な野党の一部だつた。つまり彼らは議会の少数派だつたのである。一八三二年と三四年と三九年の暴動が流血のなかで圧殺され、産業ブルジョアは自分たちの労働者階級に対する支配に自信を深めていつた。その一方で、金融貴族の独裁が益々本格的になると、産業ブルジョアと金融貴族の対立はさらに際立つてきた。

 ルーアンの工場主グランダンは、後の憲法制定国民議会でも立法国民議会でも、ブルジョア的反動の最も熱狂的な一人となるが、ルイ・フィリップ時代の下院ではギゾーの最も強硬な敵対者だつた。レオン・フォシェはのちにフランス反革命のギゾーに成り上がろうとする無益な努力で有名となつたが、ルイ・フィリップ時代の終盤には、投機に反対しその提灯持ちである政府に反対して、産業界を擁護する論陣を張つた。バスティアはボルドーとフランスの全ワイン業者のために、支配体制に反対する世論を巻き起こした。

 あらゆるレベルの小ブルジョアと農民階級もまた、政治的な権力から完全に除外されてゐた。最後にこれらの階級のイデオロギー的な支援者と代弁者、或ひは学者、弁護士、医者等々、要するにいはゆる有識者たちは、この正式な野党の一部であるか、さもなければ payslégal(選挙権所有者階級)でさへなかつた。

 七月王政は財政難のために最初から大ブルジョアに依存してゐたが、この大ブルジョアへの依存が財政難を限りなく増大させる原因だつた。予算の均衡、すなはち国家の支出と収入の均衡なくして、国家の経営を国内の産業の利害に従はせることは不可能である。そして、国家の支出を制限せずに、すなはち支配体制の多くの支持者の利益も侵害せず税の配分をやり直すこともなく、すなはち税負担の大きな部分を大ブルジョアに負はせることなしに、どうしてこの均衡が可能だらうか?

 ところが、この国家の負債こそは、議会によつて国を支配し法を定めてゐたこのブルジョア派に恐らく直接的な利益をもたらしてゐたものだつた。国庫の赤字、それは正に彼らの投機の真の対象であり、彼らの富の主な源泉だつた。

 毎年末には新たな赤字が生じ、四、五年おきに新たな借入れが行なはれ、そのたびに金融貴族は、人為的に破産の瀬戸際に立たされた国家を食ひ物にする機会が与へられた。国家は最も不利な条件で銀行家と契約しなければならなかつたのである。さらに、新たに借入れが行なはれるたびに金融貴族には、自分の資本を国債に投資する国民を、取引所を操作することによつて略奪する機会が与へられた。取引所の操作の秘密は、政府と議会の多数派の熟知するところだつた。

 そもそも国家の信用状況が不安定であつたのと、国家の秘密を握つてゐたためとで、銀行家と、議場と玉座にゐるその仲間たちは、国債の相場を異常なまでに急激に変動させることができた。その結果、常に多くの小資本家が破産し、大物相場師が信じられないほど速やかに大金を手に入れた。

 もし国庫の赤字が、国を支配するブルジョア派に直接的な利益をもたらしたのが本当ならば、フランスの年間総輸出額が平均七億五千万フランになることは稀だつたのに、ルイ・フィリップの末期の臨時支出が年四億フランに達して、ナポレオン統治下の臨時支出の倍を遥かに超えてゐた事も説明できる。その上、国家の手を介して流れ出た莫大な金が、詐欺的な納入契約と贈収賄と公金横領などあらゆる種類の悪事に機会を与へた。

 国家を騙して利益を上げる行為は、国の借入れの場合には大規模に行なはれたが、公共事業においてはそれが小規模な形で繰り返された。議会と政府との関係は、個々の政府機関と企業家の関係の中でそのまま繰り返されたのである。

 国家の支出と国の借入れを食ひ物にした支配階級は、鉄道建設も食ひ物にした。議会は主な負担を国家に押しつけて、投機をする金融貴族に黄金の果実を保証した。我々が記憶するところでは、一部の大臣を含む与党議員の全員が、ある鉄道建設事業に株主として参加してゐながら、後に立法者として国費でこの事業を実施させたことが表沙汰になり、下院のスキャンダルに発展してゐる。

 これに対して、どれほど些細な財政改革も銀行家の影響で挫折した。例へば郵政改革がさうだつた。「増え続ける借金の利息を支払ふための収入源を国は縮小してよいのか」と言つてロトシルトが反対したのだ。

 七月王政とはフランスの国有財産を食ひ物にするための一つの株式会社にほかならなかつた。この会社の配当金は大臣と議員と二十四万の有権者およびその取り巻きの間で分配された。ルイ・フィリップはこの会社の社長だつた。それはロベール・マケール(=詐欺師)が玉座に座つたも同然だつた。

 商業と工業と農業と海運業、つまり産業ブルジョアの利益は、この制度のもとでは常に危険にさらされ妨害される運命にあつた。といふのは、産業ブルジョアが七月革命の時に旗印としたのは「 gouvernement à bon marché(安上がりの政府)」だつたからである。

 金融貴族が法律を制定し行政を導き組織的な公権力の全てを行使し、既成事実と新聞によつて世論を支配してゐたから、同じ変節、同じ恥知らずな詐欺、同じ金儲け熱が、宮廷からCaféBorgne(=カフェ・ボルニュ)(パリのいかがはしい飲み屋)に至るまであらゆるレベルで繰り返された。それは生産による金儲けではなく、既にある他人の富をかすめ取ることによる金儲けだつた。

 特にブルジョア社会の頂点では、不健全でだらしない欲望が歯止めなく、民法自体と絶えず衝突しながら主張された。といふのは、ギャンブルで生まれた金持ちが満足を求めるのは、快楽がcrapuleux(自堕落な)ものとなり、金と汚物と血が溶け合つてゐる場所だからである。金融貴族とは、その金儲けの方法を見ても享楽の方法を見ても、ブルジョア社会の頂点へのルンペンプロレタリアの生れ変り以外の何物でもない。

 そしてフランスのブルジョアの内で支配権のない派閥は「腐敗だ」と叫んだ。ルンペンプロレタリアがやつたら、法律に基づいて売春宿か救貧院か精神病院に送り込まれ、被告人席か牢獄か断頭台へ引き立てられるやうなことが、一八四七年にはブルジョア社会の最も目立つ舞台の上で繰り広げられたのだ。そのとき、国民は「À bas les grands voleurs!  À bas lesassassins!(大泥棒を打ち倒せ。人殺しを打ち倒せ)」と叫んだ。

 産業ブルジョアは自分たちの利益が危険に晒されるのを見、小ブルジョアは道徳的に憤慨し、国民は想像力をかき立てられて激昂した。「Ladynastie Rothschild(ロトシルト王朝)」「Les juifs rois del'époque(ユダヤ人は現代の王)」といつた怪文書がパリに溢れたが、それらはユーモア豊かに金融貴族の支配を非難し告発した。

 「Rien pour la gloire!(栄光のためには一文も出すな。栄光は一文にもならぬ) La paix partout ettoujours!(いつでもどこでも平和を)。戦争は三分公債と四分公債の相場を下げる」これが取引所のユダヤ人にとつてのフランスの旗印だつたのだ。したがつて、彼らの外交政策は次々とフランスの国民感情を傷つけた。そして、オーストリアのポーランドへの侵略がクラカウ共和国の併合といふ結果に終り、ギゾーが神聖同盟(=ウィーン体制保持を目的とする露墺普の同盟、後に英仏も加盟)側に立つてスイス分離同盟戦争に介入したとき、国民は益々激昂した。

 形だけのこの戦争におけるスイス自由主義者の勝利は、フランスのブルジョア野党の自信を高めた。またパレルモの民衆による流血の反乱は、麻痺状態に陥つてゐたフランスの大衆に対して電気ショックのやうに作用して、彼らの偉大な革命の記憶と情熱を呼び覚ました。

 最後に、国中に充ちたこの不満の爆発を促進し、反乱の気分を醸成したのは二つの世界的な経済現象だつた。

 一八四五年と四六年の不作とジャガイモ胴枯れ病によつて、国民の間に不穏な空気が高まつた。一八四七年の物価騰貴はフランスでもヨーロッパ大陸の他の地域でも流血の衝突をひき起こした。これは金融貴族の恥知らずな狂宴に対する国民の戦ひであり、緊急食糧を得るための戦ひだつた。パリで飽食のEscrocs(詐欺師)が王族のはからいで裁判を免れた一方、ビュザンセでは飢饉による暴動参加者が処刑された。

 革命の勃発を促した二つ目の大きな経済現象は、イギリスの商工業界全般の経済恐慌だつた。恐慌の兆しはすでに一八四五年秋には鉄道株に対する投機の大規模な失敗に現はれてゐたが、一八四六年の間は穀物関税の廃止が目前に迫つてゐたことなど偶然の積み重ねで抑へられてゐた。そして一八四七年の秋にロンドンの食品雑貨卸商の倒産によつて恐慌はつひに引き起こされた。地方銀行の倒産とイギリス工業地帯の工場閉鎖がそれに続いた。この恐慌のヨーロッパ大陸への余波が終息しないうちに二月革命が勃発したのである。

 この経済的疫病がひき起こした商業と産業の荒廃によつて、金融貴族の専制はいつそう耐へ難いものになつた。ブルジョア野党は議会の多数を得て取引所の内閣を倒すために、選挙改革を求める宴会運動をフランス全土で巻き起こした。

 パリでは産業恐慌によつて、特に次のやうな結果が生れた。すなはち、現状ではもはや外国の市場で商売ができなくなつた多数の製造業者と卸売業者が、国内市場に向かつたのである。彼らがパリに大きな店を開いたので、競合する Épiciers undBoutiquiers(小売り商人や商店主)が大量に破産した。

 かくしてパリの無数の小ブルジョアが破産し、かくして彼らは二月革命に立上がつた。ギゾーと議会が選挙法改革の提案に対して明白な挑戦によつて答へ、ルイ・フィリップのバロ内閣任命は遅きに失し、国民と軍隊が衝突し、民兵の消極的態度によつて軍隊は武装解除され、七月王政が臨時政府に席を譲るしかなくなるまでの経緯は周知のとおりである。

 二月のバリケードから誕生した臨時政府の構成は、革命の勝利を共に分かち合つた様々な党派の構成を必然的に反映したものとなつた。それは共に七月王政を倒したけれども利害関係においては敵対する様々な階級の妥協の産物以外のものではありえなかつた。

 臨時政府の構成員は大多数がブルジョアの代表だつた。小ブルジョア共和派を代表したのはルドリュ-ロラン(=一八四九年~一八七一年、英国に亡命)とフロコンであり、ブルジョア共和派を代表したのは『ナショナル』紙(=ティエール創刊のパリ日刊紙、王朝派)の人々、野党王朝派を代表したのはクレミューとデュポン・ド・ルール等々だつた。労働者階級を代表したのはルイ・ブランとアルベールの僅か二人だつた。(=Dupont del'Eure,Alphonse de Lamartine,François Arago,Alexandre AugusteLedru-Rollin,Adolphe Crémieux,Armand Marrast,Ferdinand Flocon,AlexandreMarie,Louis Antoine Garnier-Pagès,Louis Blanc,Albertの十人)

 最後に、ラマルティーヌが臨時政府の中にゐること、それは当時どんな現実的利害もどんな明確な階級をも意味しなかつた。それは二月革命そのものであり、特有の幻想と特有の歌と特有の空想的中身と特有のスローガンをもつ共同の蜂起を意味した。もつとも、この二月革命の代弁者は、その地位から言つてもその見解から言つても、ブルジョアに属してゐた。

 パリが中央集権制度によつてフランスを支配してゐたとすれば、労働者たちは革命の激震の瞬間にはパリを支配してゐた。臨時政府が生まれて最初にした事は、労働者の圧倒的な影響から逃れるために、酔つたパリに対抗してしらふのフランスに訴へることだつた。

 つまり、ラマルティーヌは、バリケードの戦士たちが共和制を宣言する権利を否定して、「それを行なふ権利があるのはフランスの大多数の人たちだけだから、彼らの意見を待たねばならない。パリのプロレタリアはこの権利を簒奪することによつて自分たちの勝利を汚してはならない」と言つたのである。ブルジョアがプロレタリアに許したのは戦ふ権利の簒奪だけだつた。

 二月二十五日の正午には、まだ共和制は宣言されてゐなかつた。一方で全ての大臣の椅子はすでに臨時政府のブルジョアたちと、『ナショナル』派の将軍と、銀行家と弁護士の間で配分されてしまつてゐた。しかし労働者たちは一八三〇年七月の時のやうなごまかしを今度は許すまいと決意してゐた。彼らは新たな戦ひを起こして武力で共和制を勝ち取る覚悟だつた。

 このことを伝へるためにラスパーユ(=一七九四年~一八七八年、化学者、医者、共和主義者)はパリ市役所(=臨時政府があつた)へ向かつた。そして、彼はパリのプロレタリアを代表して、臨時政府に共和制の宣言を命じた。もしこの国民の命令が二時間以内に実行されなかつたら、自分は二十万人の先頭に立つて戻つて来るといふのだつた。戦ひに倒れた死体はまだ暖かく、バリケードはまだ撤去されず、労働者たちは武装解除されてゐなかつた。そして臨時政府が彼らに対抗してさし向けることのできる武力は民兵だけだつた。

 このやうな状況のもとで、臨時政府が抱いてゐた政治的な躊躇と法律的な懸念は突如として消え失せた。二時間の制限時間が切れる前に、パリ中の壁といふ壁は次の歴史的なスローガンの大きな文字によつて飾られた。「Republique francais! Liberte, Egalite,Fraternite!(フランス共和国。自由、平等、友愛)」

 普通選挙(=三月五日)に基づいた共和制が宣言されると、ブルジョアを二月革命へ駆り立てた本来の目的も動機も完全に忘れられてしまつた。ブルジョアのわづかな党派だけでなく、フランス社会の全階級が突如として政治的な権力の環の中に投げ込まれた。そして、彼らは貴賓席や平土間席や天上桟敷から出て自ら革命の舞台の上にあがつて芝居をせざるを得なくなつた。

 立憲君主制が消え去るとともに、ブルジョア社会と対立する独裁的国家権力の姿も消え去り、この権力像のために引き起こされてきた一連の些細な争ひも悉(ことごと)く消え去つた。

 プロレタリアは、臨時政府に共和制を命令し、臨時政府を通じて全フランスに共和制を命じたことで、急に独立した党派として表舞台に登場した。しかし、それと同時に、プロレタリアはブルジョアフランスの全体を敵に回した。プロレタリアは、革命による解放を勝ち取るための戦ひの地歩を手にしただけであつて、決して解放それ自体を手にしたわけではなかつた。

 むしろ、二月共和制の最初の仕事はブルジョアの支配を完成させることだつた。それは金融貴族とともに全ての有産階級を政治的な権力の環の中に加へることだつた。

 大地主の多数を占めた正統王朝派(=ブルボン王朝支持派)は、七月王政(=オルレアン王朝)によつて奪はれてゐた政治的な権力を取り戻した。『ガゼット・ド・フランス』紙(=正統王朝派新聞)が野党系の新聞とともに革命を煽動したのは無駄ではなかつた。ラ・ロッシュジャクラン(=正統王朝派議員)が二月二十四日の下院議会で革命を支持したのも無駄ではなかつた。

 地主とは名ばかりだつたがフランス国民の大多数を占めてゐた農民が、今や普通選挙によつてフランスの運命の左右する地位を与へられた。資本はこれまで王冠の陰に隠れてゐたが、二月革命によつてその王冠が取り除かれて、遂にブルジョア支配がはつきりとその姿を現はしたのである。

 七月革命でブルジョア王政を勝ち取つたのが労働者たちだつたやうに、二月革命でブルジョア共和制を勝ち取つたのも労働者たちだつた。だから、七月王政は自らを共和主義的な制度に取り囲まれた王政だと宣言せざるを得なかつたやうに、二月共和制は自らを社会主義的な制度に取り囲まれた共和制だと宣言せざるを得なかつた。パリのプロレタリアが再度この譲歩をもぎ取つたのである。

 マルシュといふ労働者は、生まれたばかりの臨時政府に対して、労働者が労働によつて生活できることを保証し、全ての市民に仕事を斡旋するなどの義務を負ふといふ布告を課した。だが臨時政府がこの約束をすぐに忘れてプロレタリアの気持ちを無視してゐるやうに見えたとき、二万人の労働者たちの群れは「労働を組織せよ。独立した労働省をつくれ」と連呼しながら、パリ市役所に向つて行進した。

 臨時政府はしぶしぶとしかも長い討論の末に常設の特別委員会を任命して、この委員会に労働者階級の生活を改善する方法を見つける仕事を課した。この委員会はパリの手工業組合の代表たちから成り、ルイ・ブランとアルベールが議長となつた。この委員会の会議場にはリュクサンブール宮殿が指定された(=二月二十八日)。

 かくして、労働者階級の代表は臨時政府の所在地から追ひ出され、臨時政府のブルジョアたちは実際の国家権力と行政権を独占的にその手に収めた。そして財務省と商務省と公共事業省とともに、銀行と証券取引所とともに、社会主義者の礼拝所(=空想的社会主義)が現はれたのだ。

 その祭司長ルイ・ブランとアルベールは「約束の地(=現代のイスラエル)」を発見し新しい福音(=社会主義)を告げパリのプロレタリアを雇用するといふ使命を負つた。いかなる世俗的な国家権力からも切り離された彼らには、予算もなく執行権もなかつた。彼らはブルジョア社会の支柱を頭突きで倒すしかなかつた。リュクサンブールが賢者の石(=錬金術師が探し求めた何でも金に変へる石)を探してゐる間に、パリ市役所では流通硬貨(=現実的政策)が鋳造されてゐた。

 しかしながら、パリのプロレタリアの要求がブルジョア共和制の範囲を越えてしまつてゐた以上、リュクサンブール委員会といふ雲を掴むやうな話しか出て来なかつたのは仕方がなかつた。

 確かに、労働者たちはブルジョアとともに二月革命を行なつた。臨時政府の中にブルジョア多数派とともに一人の労働者を入閣させた事からわかるやうに、労働者たちは確かにブルジョアとともに自分たちの利益を実現しようとした。「労働の組織を」とも言つた。しかし、賃労働、これこそは今現に存在するブルジョアによる労働の組織なのだ。賃労働がなければ、資本もなく、ブルジョアもなく、ブルジョア社会もない。

 労働者たちは「独立した労働省をつくれ」といふ。しかし、財務省と商務省と公共事業省がブルジョアによる労働省ではないのか。このやうな省庁とともに生まれたプロレタリアの労働省は、無力な省、かなわぬ望みの省、つまりリュクサンブール委員会でしかなかつた。

 労働者たちはブルジョアとともに自分自身を解放できると考へてゐたが、それと同じやうに、労働者たちは他のブルジョア国家とともに、フランスの国家の壁の中だけでプロレタリア革命を達成できると考へてゐた。しかし、フランスの生産関係は、フランスの対外貿易と世界の市場におけるその地位と世界の市場の法則を前提としてゐる。ヨーロッパに革命戦争を起こして世界市場の専制君主であるイギリスを打ち破ることなしに、どうしてフランスはフランスの生産関係を破壊できるだらうか。

 社会の革命的利益が集中してゐる階級なら、立ち上がるやいなや、自分の居場所の中に自分の革命的活動の内容と材料をすぐに見つける。すなはち、敵を打ち倒し、闘争に必要な処置をとる。自分の行動の結果はそのまま次の行動につながるのであり、自分の課題について理論的研究などしない。フランスの労働者階級はまだこの見解に立つてをらず、まだ自分自身の革命を成し遂げる能力がなかつた。

 総じて産業プロレタリアの発展は産業ブルジョアの発展を前提としてゐる。プロレタリアは、産業ブルジョアの支配のもとではじめて、自分の革命を国民の革命に高めることができる広大な国民的存在となる。また、産業ブルジョアの支配のもとではじめて、彼らは自分の革命的解放の手段となる近代的な生産手段を自ら作り出すことができる。また、産業ブルジョアの支配のもとではじめて、封建社会の経済的な根つ子が引き抜かれ、プロレタリア革命が実現する地盤が固められる。

 確かに、フランスの工業はヨーロッパ大陸の他の地域より発展してをり、フランスのブルジョアはヨーロッパ大陸の他の地域より革命的に発展してゐる。しかるに、二月革命は直接に金融貴族に向けられたものだつた。この事実は産業ブルジョアがフランスをまだ支配してゐないことを証明した。

 産業ブルジョアの支配は、近代的工業が所有関係を自分に合はせて形作つた国でのみ可能である。そして近代工業がこのやうな力を発揮できるのは、世界市場を征服できた場合だけである。なぜなら国境は工業の発展を阻害するからである。ところが、多くの場合、フランス工業は国内市場に対する支配でさへ、多かれ少なかれ調整された保護関税制度によつて維持されてゐるにすぎない。

 したがつて、革命の瞬間にフランスのプロレタリアはパリでは事実上の権力と影響力を持つて、能力以上の突進に駆り立てられたが、フランスの他の地域のプロレタリアは、個々の分散した工業地帯に集中して住んでゐるだけで、圧倒的多数の農民と小ブルジョアの間ではほとんど影響力がない。

 産業界の賃金労働者の産業ブルジョアに対する闘争とは、発達した近代的な形態の資本に対する闘争であり、跳躍点における資本に対する闘争であるから、それはフランスではまだ部分的な現象でしかない。だから、それは二月革命後も革命による国民的な成果をほとんど提供できなかつた。

 といふのは、二月革命の金融貴族に対する反乱の陰には、なほ資本の未発達な搾取の仕方に対する闘争、すなはち農民の高利貸と抵当権に対する闘争、小ブルジョアの卸売業者と銀行家と工場主に対する闘争、一言でいへば破産に対する闘争が隠れてゐたからである。

 したがつて、パリのプロレタリアはブルジョアの利益ととともに自分たちの利益を実現しようとしたが、自分たちの利益を社会全体の革命的利益として主張せず、また三色旗を前に赤旗を引き降ろしたことは、全く仕方のないことなのである。

 フランスの労働者たちが一歩も前進できず、ブルジョアの秩序を微塵も破壊することができなかつたのは、プロレタリアとブルジョアの間に位置する国民大衆、つまり農民と小ブルジョアが、革命の進展にともなつてブルジョア秩序に憤り資本の支配に憤つて、革命の闘士であるプロレタリアと手を組まざるを得ない状況にならなかつたからである。この勝利(=国民大衆の参加)を労働者たちは六月の大きな敗北によつてはじめて手に入れることができたのである。

 リュクサンブール委員会といふパリの労働者たちのこの創造物には一つの功績が残つた。それは、ヨーロッパの演壇からプロレタリアの解放といふ十九世紀の革命の秘密を明らかにしたことである。『モニトゥール』紙(=官報)はこの「野蛮な空想」を公式に宣伝しなくてはならなくなつたとき赤くなつた(=赤面した、社会主義化した)。これはそれまで社会主義者の怪文書の中に埋もれ、時々半ば恐ろしく半ば滑稽な噂として遠くからブルジョアの耳に届いてゐただけのものだつた。だから、ヨーロッパはブルジョア的まどろみから驚いてはね起きたのだつた。

 金融貴族をブルジョア全体と混同してゐたプロレタリアの頭の中でも、階級の存在を否定するかそれはせいぜい立憲君主制の産物であると見做してゐた共和主義的小市民の頭の中でも、今まで支配権から排除されてゐたブルジョア派の偽善的スローガンの中でも、フランスのブルジョア支配は共和制の採用とともに終つてゐたのだ。

 王朝派は当時全員が共和主義者になつてゐたし、パリの百万長者は全員が労働者になつてゐたのだ。当時のフランス人の頭の中で階級差別が無くなつてゐたことを意味するスローガンがfraternite(=友愛)、つまり普遍的な親しさと友愛である。階級の対立のこのやうな心地よい解消、矛盾する階級利益のこのやうな感傷的和解、階級闘争を越えたこのやうな空想的高揚、このfraterniteが二月革命の真のスローガンだつた。

 階級の分裂は単なる誤解だつた。だからラマルティーヌは二月二十四日の臨時政府を「un gouvernement qui suspende cemalentendu terrible qui existe entre les différentclasses(異なる階級間に存在するこのやうな恐ろしい誤解を取り除く政府)」と名付けた。パリのプロレタリアはこの気前のいい友愛に陶酔してゐた。

 臨時政府自身は、一度はやむなく共和制を宣言したものの、全ゆる手を尽くしてブルジョアと地方の人たちに受け入れられやうとした。政治犯に対する死刑を廃止してフランス第一共和制の流血の恐怖を否定し、新聞に言論の自由を与へ、軍隊と裁判所と行政官庁は二三の例外を除いて元の高官の手に残し、七月王政の大罪人は誰も責任を問はなかつたのである。

 『ナショナル』のブルジョア共和派たちは王政時代の名前と衣装を第一共和制時代のものに取り換へておもしろがつた。彼らにとつては、この共和制は古いブルジョア社会が外見だけを取り換へたものにすぎなかつた。

 この若き共和制は自分の主な特長を、人を怯えさせることではなく、自分が常に怯えることに求めた。つまり、逆らはないことと柔軟に譲歩することによつて存在を認めさせ、抵抗を和らげようとしたのである。また、国内の特権階級と国外の専制国家に対して、この共和制は平和的なものだと声を大にして言ひ、共存共栄がこの共和制のモットーだと言つたのである。

 二月革命の直後には、ドイツとポーランドとハンガリーとイタリアの国民が、直面するそれぞれの状況に応じた暴動を起こした。ロシアとイギリスは準備ができてゐなかつた。イギリスは国内が動揺してゐたからであり、ロシアはおじけづいてゐたからである。つまり、この共和制に敵対する国民はゐなかつたのだ。といふことは、大規模な外国との戦争が革命の活動力に火をつけて、その過程を加速することもなければ、臨時政府を前へ駆り立てたり或ひは転覆させてしまふやうな事もなかつたのである。

 パリのプロレタリアは、この共和制は自分たちが作つたものだと思つてゐたから、ブルジョア社会の中に共和制を根付かせるやうな臨時政府のどんな行為にも当然賛成した。彼らはパリの財産を守るために喜んでコシディエールによる警察業務に従つたし、労働者と使用者との賃金紛争の調停をルイ・ブランに任せた。ヨーロッパの見てゐる前で共和制に対するブルジョアの尊敬をそのまま維持することに、プロレタリアは Pointd'honneur(面子)を賭けてゐたのである。

 この共和制は国外でも国内でも何の抵抗にも会はなかつた。このためこの共和制は警戒心を解いてしまつた。この共和制の課題はもはや世界を革命によつて改造することではなく、自分をブルジョア社会の環境に適応させることだけだつた。臨時政府がこの課題にどれほど熱心に取り組んだかは、何よりもその財政政策が雄弁に物語つてゐる。

 公的な信用も私的な信用も当然のことながら揺らいでゐた。これまでは公的な信用とは、国家が金融界のユダヤ人たちの食ひ物になることの信用だつた。ところが、古い国家は消えて無くなつてゐたし、革命は何よりも金融貴族に対する革命だつた。

 一方、最近のヨーロッパの商業恐慌の振動はまだ収まつてゐなかつた。破産はなほも続いてゐたのだ。だから、二月革命が勃発する前には、私的な信用は麻痺し流通は妨害され生産は停滞してゐた。

 革命による危機は商業恐慌を増幅した。そして、もし私的な信用が基づいてゐるものが、ブルジョア的関係の全てを包括したブルジョア的生産が温存され、ブルジョア的秩序が無傷で破壊されずにゐるといふ信頼感だとすれば、ブルジョア的生産の基盤であるプロレタリアの経済的奴隷制を危ふくし、証券取引所に対抗してリュクサンブール委員会といふスフィンクスを設立した革命が、どんな働きをすべきだつたといふのか。

 プロレタリアの蜂起とはブルジョア的信用の廃止なのである。といふのは、それはブルジョア的生産とブルジョア的秩序の廃止だからである。公的な信用と私的な信用は、革命の強さを測ることのできる経済的なバロメーターである。これらの信用が低がるといふことは、それだけ革命の熱と創造力が上がるといふことなのである。  

 臨時政府はこの共和制から反ブルジョア的外見を取り去らうとした。そこで、臨時政府は何よりこの新しい国家形態の交換価値、つまり証券取引所でのその株価の安定を求める必要があつた。そして取引所における共和制の株価が上がるとともに、私的な信用も必然的に再び上昇したのである。

 臨時政府は王政から受け継いだ債務を履行しないのではないか、或ひはできないのではないかといふ疑念を自ら払拭するため、つまり共和制のブルジョア的道徳と支払能力への信頼を築くために、子供じみたみつともない虚勢を張つてみせた。といふのは、臨時政府は、法定支払日前に国債の持ち主たちに五%、四.五%、四%の利子を払つたからである。この政府が信頼を買はうと焦つてゐるのを見て、ブルジョアの落ち着きと資本家の自信が突如としてよみがへつた。

 臨時政府の金詰まりはこんな芝居じみたパフォーマンスでは、当然ながら緩和されることはなく、却つて手持ちの現金を失つてしまつた。財政難はもはや隠しやうがなく、政府から国債の持ち主に贈られたうれしいプレゼントの代価を、小ブルジョアと使用人と労働者が支払はされることになつた。

 貯蓄銀行の預金通帳から今後百フラン以上の金額は引き出せないといふ布告が出されたのである。貯蓄銀行に預金してゐた金額は没収され、償還できない国債に一片の布告によつて変へられたのである。それでなくとも苦しんでゐた小ブルジョアはこれを聞いて共和制に対して憤慨した。彼らは貯蓄銀行の預金通帳の代はりに国債を受け取ると、やむを得ず証券取引所に行つてそれを売つた。かうして小ブルジョアは自分たちが二月革命を起こした相手である取引所のユダヤ人たちの軍門に自ら下つたのである。

 七月王政を支配した金融貴族の高教会派(=偏狭な不寛容主義者)が銀行だつた。証券取引所が国家の信用を支配したとすれば、銀行は商業の信用を支配してゐた。その銀行が二月革命によつて自らの支配を脅かされただけでなく、その存在そのものが脅威にさらされた。だから、銀行は信用欠如の状態を広めることで、最初から共和制の信用を失墜させることに努めた。

 銀行は突如として銀行家と製造業者と商人の信用停止を通告した。しかし、この策略はすぐに反革命を引き起こすに至らず、却つて当然ながら銀行自身に悪影響をもたらした。資本家は銀行の地下金庫に預けてゐた金(きん)を回収した。銀行券の所有者は金や銀に交換するため、自分の貯蓄銀行に殺到した。

 臨時政府は強制的な干渉に乗り出すことなく、合法的なやりかたで、銀行を破産に追ひ込むことができた。臨時政府はただ消極的な姿勢に終始して、銀行を運命に委ねるだけでよかつたのだ。

 銀行の破産こそは、金融貴族といふこの共和制の最強にして最悪の敵であり、七月王政の金の基盤だつたものを、一瞬にしてフランス国土から一掃する大洪水だつた。そして一旦銀行が破産したあとは、政府が国立銀行を設立して国の信用を国のコントロールのもとに置いたなら、ブルジョア自身それを最後の頼みの綱と仰いだに違ひない。

 ところが、臨時政府はその反対に銀行券を強制的に流通させたのである。それだけでなく臨時政府は全ての地方銀行をフランス銀行の支店にし、フランス全土にフランス銀行の支店網を広げさせた。その後、臨時政府は国有林を担保にしてフランス銀行との間で借入れ契約をしたのだ。かうして二月革命が倒すはずだつた銀行支配を二月革命自らが強固にし、拡大したのだつた。

 その間にも臨時政府は増大する赤字の悪夢に悶え苦しんでゐた。政府は愛国的な犠牲をしきりに求めたが無駄だつた。労働者だけが政府に対してなけなしの金を投げ与へた。もはや英雄的手段に訴へるしかなくなつた。つまり新しい税金を課するのである。

 しかし誰に課税すべきか。証券取引所の相場師にか、銀行王にか、国債保有者にか、金利生活者にか、企業家にか。それは共和制をブルジョアにうまく受け入れさせるやり方ではなかつた。そんなことをすれば、一方で多大な犠牲と屈辱を代償にして手に入れようとした国家の信用と商業の信用を、もう一方で危険にさらすことになる。しかし誰かが払はなければならない。では誰がブルジョアの信用を損なはないための犠牲となつたのか。それは Jacques lebonhomme(お人好しの田吾作)つまり農民だつた。

 臨時政府は四つの直接税について、一フランにつき四十五サンチームだけ追加の税を課した(=三月十五日)。政府の新聞はパリのプロレタリアに対して、この税は特に大土地所有者に、つまり王政復古が与へた十億フランの所有者に課せられるのだと言つてごまかした。しかし実際には、この税は何よりも農民階級すなはちフランス国民の大多数を直撃した。農民が二月革命の費用を払はされたのである。そして反革命は農民のなかにその主要な火種を見出したのである。

 四十五サンチーム税はフランス農民にとつて死活問題だつた。そして農民はこの四十五サンチーム税を共和制にとつての死活問題に作り変へたのである。この瞬間からフランス農民にとつて、共和制とは四十五サンチーム税のことだつた。そして彼らはパリのプロレタリアを、農民の負担で裕福に暮らす浪費家だと思つた。

 一七八九年の革命はまづ最初に農民から封建制の重荷を取り除いたが、一八四八年の革命は資本家を危険にさらさないため、そして資本家の国家機構の機能をを維持するために、農村の人々に新しい税金を課すことから始めたのである。

 臨時政府がかうした面倒を一挙に片付けて、この国を古い軌道からひつぱり出す方法が一つだけあつた。それは国家の破産を宣言することだつた。ルドリュ-ロランは、現財務大臣である取引所のユダヤ人フルドが出したこの要求を、自分は義憤をもつて拒否したと、その後の国民議会で報告したのを我々は覚えてゐる。フルドは彼に知恵の木のリンゴを差し出してゐたのである。

 臨時政府は、古いブルジョア社会が国家に振り出した手形を引き受けたことで、ブルジョア社会のものになつた。臨時政府は、多年にわたる革命の借りを徴収すべき債権者としてブルジョア社会に対して威嚇的に立ち向かふ替はりに、ブルジョア社会に責め立てられる債務者となつたのである。

 臨時政府は、ブルジョア的環境の中だけで守られる約束事を果たすために、動揺してゐるブルジョア的環境を確立せねばならなかつた。かくして信用が政府の生存条件となり、プロレタリアに対する譲歩とプロレタリアへの約束は足枷となり、それらを粉砕しなければならなくなつた。労働者の解放はスローガンとしてさへも新たな共和制には耐へがたい脅威となつた。なぜなら、それは信用の確立に対する絶えざる抗議であつたからである。そして信用を確立するためには、現在の経済的な階級差別の承認に邪魔が入つては困るのである。だからどうしても労働者とは手を切る必要があつた。

 二月革命のために軍隊はパリの外に出払つてゐた。だから様々な階層のブルジョアからなる民兵がパリの唯一の軍事力だつた。しかし、民兵たちは自分たちだけでプロレタリアに太刀打ちできないと思つてゐた。その上、彼らはそれまでプロレタリアの入隊に頑強に抵抗し、様々な無数の妨害を試みてゐたが、やむを得ず少しづつ隊列をゆるめて、武装したプロレタリアを受け入れはじめてゐた。かうして出来る事は一つしかなかつた。それは一部のプロレタリアを残りのプロレタリアに対抗させることだつた。

 臨時政府が二十四個大隊の遊動隊を編成した(=二月二十六日)のは、これが目的だつた。各大隊は十五歳から二十歳までの千人の若者から成つてゐた。彼らの大部分はルンペンプロレタリア出身だつた。

 ルンペンプロレタリアは産業プロレタリアとは明確に区別される一団で、あらゆる大都会にゐた。彼らは定職のない人々で、町からでるゴミで生活してをり、浮浪者つまり gens sans feu et sansaveu(住所不定の無宿者)であつて、泥棒などあらゆる種類の犯罪者の供給源となつてゐた。所属する人種の文化レベルに違ひはあるが、彼らの貧民的性格は隠しやうがなかつた。

 また臨時政府が集めた彼らはまだ若いのでどのやうに仕込むこともできた。だから最も英雄的な行為や最も熱狂的、犠牲的行為も可能なら、最も卑劣な山賊的行為や最も汚ない収賄行為も可能だつた。

 臨時政府は彼らに一フラン五十サンチームの日当を出した。つまりは臨時政府は彼らを買収したのだ。また臨時政府は彼らに特別の制服を支給した。つまり臨時政府は彼らを仕事着の労働者と外見によつて差をつけたのである。指揮官としては軍隊の将校が配備され、若いブルジョアの子息が選ばれた。彼らは祖国のために死に共和制のために犠牲になることを讃へる威勢のいい演説をして人々を魅了した。

 かくしてパリのプロレタリアの前に、自分たちの仲間から引き抜かれた二万四千人の向かう見ずで屈強な若者からなる軍隊が現はれた。プロレタリアはパリを行進する遊動隊に万歳の歓声をあげた。彼らは遊動隊をバリケードの戦士だと思つてゐたのだ。彼らはそれをブルジョアの民兵に対抗するプロレタリアの親衛隊だと見てゐたのである。彼らの誤解も無理はなかつた。

 遊動隊とは別に、政府は自分たちの周囲に産業労働者の大群を集めることを決定した。恐慌と革命によつて首になつた十万の労働者たちを、大臣マリ(=Marie)がいはゆる国立作業所に登録したのである。この美名によつて隠されてゐたものは、労働者たちを二十三スーの賃金で退屈で単調で非生産的な土木作業に斡旋することだつた。この国立作業所とは、イギリスの救貧院を野外に置いたものの範囲を超えてはゐなかつた。臨時政府はこの国民作業所といふ形で、労働者たちに対抗するプロレタリアの軍隊をもう一つの作つた積もりでゐた。労働者たちは遊動隊を誤解したが、今度はブルジョアが国立作業所を誤解した。彼らは反乱隊を創つてしまつたのだ。

 しかし一つの目的は達成された。

 国立作業所、それは元々ルイ・ブランがリュクサンブールで唱導してゐた民衆のための仕事場に付けた名前だつた。マリの作業場はリュクサンブールの人たちとは正反対の目的で構想されたものだが、同じ名前だつたことがある誤解を広める策略のきつかけとなつた。この誤解はスペインの召使の喜劇にふさはしいものだつた。

 国立作業所はルイ・ブランの発明だといふ噂を、臨時政府が自らこつそりと広めて回つたのだ。ところが、国立作業所の預言者であるルイ・ブランは臨時政府の一員であつたことから、この噂は益々本当らしく聞こえた。ブルジョアの半ば素朴で半ば意図的な混同と、フランスやヨーロッパで人工的に作られた世論によつて、初めて社会主義を実現したものがあんな救貧院なのだと言はれたのである。社会主義はこの作業所と一緒に嘲笑の的となつた。

 国立作業所は、その内容ではなくその名前によつて、ブルジョアの産業と信用と共和制に対するプロレタリアの抗議を体現してゐた。そのためにブルジョアの全憎しみがこの作業所に向けられることになつた。そして、ブルジョアは、二月の幻想と公然と手を切ることができるまで力を回復するやいなや、自分たちの攻撃目標を国立作業所に見出した。

 それと同時に、小ブルジョアのあらゆるいらだちとあらゆる不満もこの共通の標的である国立作業所に向けられた。彼らは自分たちの状況が日に日に耐へがたくなつてゐる間に、プロレタリアの怠け者が消費してゐる金額を心底怒りながら計算した。

 「見かけだけの仕事に対する国家の手当、それが社会主義だ」と小ブルジョアは互ひに不平を言ひ合つた。国立作業所、リュクサンブールの熱弁、パリの労働者の行進、これらの中に彼らは自分たちの不幸の原因を求めた。そして破産の淵を絶望的にさまよふ小ブルジョアは、所謂共産主義者の陰謀なるものを誰よりも激しく批判した。

 かうしてブルジョアとプロレタリアの戦ひは目前に迫つてゐたが、戦闘の全ゆる有利な条件と全ゆる要衝と社会の中間層全体をブルジョアが握つてゐた。まさにその時、二月革命の波は高くあがつてヨーロッパ大陸全体を覆ひ、新しい郵便はイタリアから、ドイツから、ヨーロッパの遥か東南地方から革命の知らせをもたらした。そのため、絶え間無く勝利の証拠を見せられた国民はみな興奮状態に陥つてゐた。しかしこの勝利は既に失われたものだつた。

 三月十七日と四月十六日の事件は、ブルジョア共和制が秘かに企んでゐた大きな階級闘争の最初の小競合ひだつた。

 三月十七日の事件はプロレタリアがどつちつかずの立場にあつて、断固たる行動に出られないことを暴露した。この日のデモの本来の目的は、臨時政府を革命の軌道に押し戻し、状況次第でブルジョア閣僚を政府から排除するやう働きかけ、国民議会と民兵司令部の選挙を延期させることだつた。

 ところが、前日の三月十六日に民兵を先頭とするブルジョアが臨時政府に敵対するデモを行なつた。彼らは「À basLedru-Rollin!(ルドリュ-ロランを倒せ)」と叫びながら、パリ市役所に押し寄せたのである。

 そこで三月十七日に民衆は「ルドリュ-ロラン万歳。臨時政府万歳」と叫ばざるを得なくなつてしまつた。危機に瀕してゐると思われるブルジョア共和制をブルジョアに対抗して支持せざるを得なくなつたのである。彼らは臨時政府を自分たちに服従させる代はりに臨時政府を強固にしてしまつた。

 三月十七日は芝居じみた言ひ争ひで終つた。そしてこの日パリのプロレタリアが再度その巨体を誇示したのに対して、臨時政府の内側と外側のブルジョアがこぞつてプロレタリアをやつつける決意を益々固めた。

 四月十六日の事件は臨時政府がブルジョアとともに行なつた誤報を広める企ての結果だつた。労働者は民兵の司令部に推薦する自分たちの候補を選ぶために、練兵場と競馬場に大勢集まつてゐた。すると突如としてパリを端から端まで稲妻のやうな速さである噂が広まつた。それは労働者たちが武装して練兵場に集結して、ルイ・ブランとブランキとカベー(一七八八~一八五六年、共産主義者)とラスパーユを先頭にして練兵場からパリ市役所に行進して、臨時政府を倒して共産主義政府の樹立を宣言しようとしてゐるといふものだつた。

 緊急警報が打ち鳴らされた。のちにルドリュ-ロラン、マラスト、ラマルティ-ヌが「この警報を発令したのは自分だ」とその名誉を争つた。一時間の間に十万人が武器を手にとつた。パリ市役所は民兵に完全に占拠され、「共産主義者を倒せ。ルイ・ブランを倒せ。ブランキを倒せ。ラスパーユを倒せ。カベーを倒せ」といふ叫びがパリ中に轟いた。

 そして夥しい数の代表団たちが臨時政府に対して忠誠を誓い、全員が祖国と社会を救ふ覚悟を示した。到頭、労働者たちがパリ市役所の前に現れた。彼らは練兵場で集めた愛国募金を臨時政府に贈呈するために来たのだが、パリのブルジョアが極めて入念に計画した模擬戦争を使つて自分たち労働者の影を打ち破つてゐたことを知つて驚いた。

 四月十六日の恐るべき騙し討ちはパリに軍隊を呼び戻す口実を与へ(これこそが不器用に仕組まれた喜劇の真の目的だつた)、また地方の反動的連邦主義者にデモの口実を与へた。

 直接普通選挙(=四月二十三日)によつて生まれた国民議会(=憲法制定国民議会)が五月四日に招集された。この普通選挙は古いタイプの共和主義者が信じてゐたやうな魔力は持つてゐなかつた。彼らはフランス国民が、或ひは少なくともフランス人の大多数が、同じ利害や同じ見識を持つCitoyens(市民)だと思つてゐた。これが彼らの国民崇拝だつた。しかしながら、この選挙によつて明かになつたのは共和主義者が想像したやうな国民の姿ではなく、現実の国民の姿だつた。それは即ち様々に分裂した階級の代表たちだつたのである。

 なぜ農民と小ブルジョアが戦闘的なブルジョアや熱烈な王政復古主義の大土地所有者の言ふ通りに投票せざるを得なかつたかは、既に見てきた通りである。しかし、この普通選挙は共和主義の愚直者たちが思つてゐたやうな奇跡を行なふ魔法の杖ではないとしても、階級闘争を引き起こすといふ極めて大きな功績を果たした。つまり、この普通選挙によつて、ブルジョア社会の様々な中間層が急に自分たちの錯覚と幻滅を知らされたのである。

 財産の基準による選挙制度だつた王政時代には、ブルジョアのごく限られた派閥だけが非難の矢面に立ち、その他の派閥は彼らの後ろに隠れて野党と同じ栄光に包まれたゐたのに対して、普通選挙の後は、搾取階級の全派閥が一挙に国家の表舞台に押し上げられて偽りの仮面を剥ぎ取られたのである。

 五月四日に招集された憲法制定国民議会では、ブルジョア共和派すなはち『ナショナル』の共和派が優位に立つた。正統王朝派とオルレアン派(=オルレアン王朝支持派)さへも、最初はブルジョア共和派のふりをするしかなかつた。プロレタリアに対する戦ひは共和制の名においてのみ可能だつたからである。

 この共和制、すなはちフランス国民が承認した共和制は、二月二十五日ではなく五月四日から始まつた。それはパリのプロレタリアが臨時政府に押しつけた共和制でもなく、社会主義的な制度をともなつた共和制でもなく、バリケード上の戦士たちが考へてゐた理想像とも違つてゐた。

 国民議会が宣言した共和制、つまり唯一の正当な共和制は、ブルジョア秩序に大変革をもたらす武器としての共和制ではなく、ブルジョア秩序を政治的に構成し直す共和制であり、ブルジョア社会を政治的に強固にし直す共和制だつた。それは一言でいへばブルジョア共和制だつた。この主張は国民議会の壇上から発せられて、共和主義と反共和主義の全てのブルジョア新聞で繰り返された。

 我々がこれまでに見たことは、二月共和制(=臨時政府の共和制)は実際にはブルジョア共和制であり、それ以外のものではあり得ないといふこと、しかし、臨時政府はプロレタリアの直接の圧力のもとで、この共和制を社会主義的制度をもつ共和制だと宣言せざるを得なかつたこと、パリのプロレタリアは観念と想像の中以外では、ブルジョア共和制から先に進むことはできなかつたこと、プロレタリアが実際に行動に移るときには、いつもブルジョア共和制を助けてしまつたとこと、新しい共和制にとつてプロレタリアと結んだ約束は堪えがたい脅威となつたこと、要するに、臨時政府が活動した全期間はプロレタリアの要求に対する絶え間のない戦ひだつた、といふことである。

 この国民議会では全フランスがパリのプロレタリアに対して厳しい判決を下した。この議会は二月革命の社会主義的な幻想とただちに決別し、ブルジョア共和制をはつきりと宣言した。それはこの共和制がブルジョア共和制以外の何物でもないことの宣言だつた。

 この議会は自分たちが任命した執行委員会からプロレタリアの代議士であるルイ・ブランとアルベールをただちに排除した。議会は特別の労働省を作るといふ提案を却下して、大臣トレラの「重要な事は労働を以前の条件に戻すことだけである」といふ発言を万雷の拍手をもつて迎へた。

 しかし、これだけでは終はらなかつた。二月共和制はブルジョアの消極的支持のもとで労働者たちが勝ち取つたものだつた。当然プロレタリアは自分たちを二月の勝利者だと思つて勝利者の高慢な要求を出してきた。だからブルジョアはプロレタリアを街頭で打ち破る必要があつた。プロレタリアはブルジョアを味方にして戦ふときには勝てても、ブルジョアを敵に回して戦ふときにはすぐに敗れることを彼らに教へてやる必要があつた。

 社会主義に対する譲歩を伴ふ二月共和制が生まれるためには、ブルジョアはプロレタリアと連合して王政と戦ふ必要があつたが、この共和制が社会主義に対する譲歩から切り離されて、ブルジョア共和制が現実のものとして公けに生み出されるためには、ブルジョアはもう一度戦ふ必要があつた。ブルジョアは武器をとつてプロレタリアの要求を否定する必要があつた。本当のブルジョア共和制を生み出したのは二月の勝利ではなく六月の敗北だつたのである。

 プロレタリアが五月十五日に国民議会に押し入つて、革命的な影響力を取り戻さうとして失敗して、単に自分たちの熱心な指導者(=バルベス、ブランキ)をブルジョアの獄吏に引き渡しただけに終つた時、彼らは問題の決着を早めただけだつた。

 Il faut enfinir!(この状況は終らせなくてはならない)。かう叫んで国民議会はプロレタリアを決戦の場にひきずり出す決意を明らかにした。執行委員会は国民集会の禁止などの挑発的な命令を次々と出した。憲法制定議会の論壇から労働者たちはじかに挑発され、侮辱され、嘲笑された。

 しかし我々が既に見たやうに、本当の攻撃目標は国立作業所だつた。憲法制定議会は緊急にこの作業場に対して執行委員会の注意を喚起したが、執行委員会は作業所に対する自分たちの計画が国民議会の命令として言ひ渡されるのを待つばかりだつた。

 執行委員会は手始めに、国立作業所への入所を困難にして、日給を出来高給に変更し、パリ生まれ以外の労働者たちを土木作業と称してソローニュへ追放した。幻滅して帰つて来た労働者たちが仲間に告げたとほり、この土木作業といふのは追放をごまかすための言葉の言ひ換へにすぎなかつた。つひに六月二十一日付け『モニトゥール』紙上に、全ての独身労働者を国立作業所から強制的に排除するか、さもなければ軍隊に入隊させることを命ずる法令が掲載された。

 労働者たちには選択の余地はなかつた。彼らは餓死するか戦ひを始めるかしかなかつたのだ。六月二十二日に出された彼らの回答は大規模な暴動だつた。それは近代社会を二分する二つの階級間の最初の大きな戦ひだつた。それはブルジョアの秩序を維持するか破棄するかの戦ひだつた。共和制の実態を隠してゐたヴェールは完全に引き裂かれた。

 よく知られてゐる通り、労働者たちは共通の計画も資金も指導者も持たず、大半は武器も持たずに未曾有の勇敢さと独創性を発揮して、軍隊と遊動隊とパリにゐた民兵と地方から流れ来む民兵たちを、五日間にわたつて立ち往生させ続けた。またよく知られてゐる通り、ブルジョアたちは、自分たちが味はつた死の恐怖の埋め合はせに、前代未聞の残虐さで三千人以上の捕虜を虐殺した。

 フランスの民主主義の公けの代表者たち(=ルドリュ-ロランたち)は共和制の空論にひどく囚はれてゐたので、六月の戦ひの意味が分かり始めたのはやつと数週間後のことだつた。彼らは自分たちが想像してゐた共和制が硝煙の中に消え去つたことを知つて茫然自失となつた。

 六月の敗北のニュースが我々に与へた最初の印象を、『新ライン新聞』に載せた言葉(六月二十九日付のマルクスの記事)を引いて述べることを、読者にはお許し願ひたい。

 「この執行委員会、つまり二月革命の公的な最後の名残りが、いま重大事件の前に幻のやうに消え去つた。ラマルティーヌの照明弾は、カヴェニャック(陸軍大臣、六月暴動鎮圧の全権、共和派)の焼夷弾に変はつたのだ。

 「Fraternité、一方が他方を搾取し対立する関係にある二つの階級の間の友愛。二月に宣言され、パリの建物の正面と全ての牢獄と全ての兵舎に大書された友愛。その本当の表現、混じりけのない散文的な表現が内戦なのである。それは最も恐ろしい様相をした内乱であり、労働者たちの資本家に対する戦ひである。

 「この友愛が六月二十五日の晩、パリの全ての窓の前で燃え上がつた。そのときブルジョアのパリは美しく照らし出されたのに、プロレタリアのパリは焼け落ち、血を流し、断末魔の喘ぎ声をあげた。

 「この友愛はブルジョアの利益とプロレタリアの利益が親密な関係にある間だけ続いた。国民が二月革命を戦つた同士とは次のやうな人たちだつた。一七九三年(=ルイ十六世を処刑して第一共和制が始まつた)の古い革命の伝統にしがみつく小理屈屋たち、国民への施しをブルジョアに乞ひ、プロレタリアといふライオンをあやしつける必要がある間だけ長い説教をして恥を晒すのを許された社会主義空論家たち、王冠をかぶつた頭を取り除く以外は古いブルジョア秩序をそつくりそのまま要求する共和派、内閣更迭の代はりにたまたま王朝の転覆に出会はされた王朝野党、お仕着せを脱ぎたいのではなく単にそのスタイルを変へたいだけの正統王朝派。...

 「二月革命は美しい革命、誰もが共感した革命だつた。なぜなら、この革命の中で王政に反対して噴き出した様々な対立は、まだ未発達で仲良く並んで眠つてゐたからであり、この革命の背景をなした社会主義的闘争は、かりそめの存在、単なるスローガンだけの存在、言葉だけの存在だつたからである。

 「一方、六月革命は醜い革命、忌むべき革命だつた。なぜなら、スローガンの代はりに事実が姿を現はしてゐたからであり、共和制が怪物(=ブルジョア)の頭を覆ひ隠してゐた王冠(=王政)を叩き落して、怪物の頭をむき出しにしたからである。

 「『秩序』、それはギゾー(=二月革命で亡命。一八四九年帰国後著述に専念)の鬨(とき)の声だつた。『秩序』、ワルシャワがロシア領になつたとき、ギゾー派のセバスティアニ(=一七七二年~一八五一年、七月王政の外務大臣)はさう叫んだ。『秩序』、カヴェニャックがかう叫ぶとき、彼はフランス国民議会とブルジョア共和派の残虐な木霊となつた。

 「『秩序』、カヴェニャックの砲弾はプロレタリアの体を引き裂いた時、さう鳴り響いた。

 「一七八九年以来フランスブルジョアの数多くの革命のどれ一つとして、秩序を攻撃したものはなかつた。といふのは、たとへ階級支配と労働者の隷属の政治的形態がたびたび変化したにせよ、どの革命も階級支配を残し、労働者の隷属を残し、ブルジョア秩序を残したからである。ところが、六月暴動はこの秩序を攻撃したのだ。六月暴動に禍ひあれ」(『新ライン新聞』一八四八年七月二十九日)

 「六月暴動に禍ひあれ」、この言葉がヨーロッパを木霊してゐる。

 パリのプロレタリアはブルジョアによつて六月暴動に追ひ込まれた。パリのプロレタリアに対する呪ひの宣告はこの事実の中にあつたのである。プロレタリアは自らが認める差し迫つた必要性に駆り立てられて、暴力でブルジョアの転覆を勝ち取らうとしたわけでもないし、プロレタリアにこの使命を成し遂げる力があつたわけでもなかつた。

 共和制がプロレタリアの幻想に敬意を表する必要があると思はれる時は過ぎ去つたことを、『モニトゥール』紙は彼らにはつきり告げるべきだつた。しかるにプロレタリアは自らの敗北によつてはじめて事の真相に気付いた。それは、彼らの境遇の些細な改善でさへもブルジョア共和制の中ではユートピアでしかなく、しかもこのユートピアは、実現されようとするやいなや犯罪となるといふことである。

 プロレタリアが二月共和制から譲歩を引き出さうとした要求は、外見は大げさだが中身は貧弱で、なほブルジョア的な要求だつた。それに代るのが、「ブルジョアの打倒。労働者階級の独裁」といふ大胆で革命的な闘争スローガンなのである。

 プロレタリアが自らの墓場をブルジョア共和制の生誕地とすることによつて、ブルジョア共和制はその純粋な姿を現はさざるを得なくなつた。それは国家としては資本家の支配と労働者の隷属を永続化する目的をもつて現はれた。

 プロレタリアは満身創痍でありながら、なほもブルジョアにとつては和解できない敵だつた。そして、プロレタリアの存在は、それがブルジョア支配が存続し続けるための条件であつたがゆゑに、これまでブルジョアにとつて決して克服できない敵だつた。だから、ブルジョアの支配は、あらゆる束縛から解放されるやいなや、この目障りな敵に対するブルジョアのテロリズムに変はらざるを得なかつた。

 プロレタリアが当分表舞台から排除されてブルジョア独裁が公式に承認されると、ブルジョア社会の中間層である小ブルジョアと農民階級は自分たちの境遇が耐へがたくなり、自分たちとブルジョアとの対立が激しくなるにしたがつて、益々プロレタリアとの連繋を深めざるを得なくなつた。これまでは自分たちの不幸はプロレタリアの躍進のせいだと思つてゐた彼らは、今やそれがプロレタリアの敗北のせいだと思はざるを得なくなつてゐた。

 六月暴動のおかげでヨーロッパ大陸中のブルジョアが自信を深め、ブルジョアが封建王政と公然たる連繋を組んで国民に対抗するやうになつたとき、この連繋の最初の被害者は誰だつたか。それはヨーロッパ大陸のブルジョア自身だつた。六月のプロレタリアの敗北のおかげで、ヨーロッパ大陸のブルジョアは却つてその支配を確立することができず、国民を不満ながらもブルジョア革命の最低の段階で止まらせることができなかつたからである。最後に、六月のプロレタリアの敗北のおかげで、フランスは内戦のために、どんな条件を出されても外国と戦争のできない状況にあるといふ秘密を、ヨーローッパの専制諸国は知つたのである。

 このために各国で独立の戦ひを始めてゐた民族は、ロシアとオーストリアとプロシアの優勢な軍勢(=神聖同盟)の餌食となつたのである。しかし、それと同時に、これらの国々の革命の運命がプロレタリア革命の運命に依存すること、見かけとは違つて、これらの国々の革命が巨大な社会主義による大変革から独立した別個のものではないことが明かになつた。つまり、労働者が奴隷であるかぎり、ハンガリー人もポーランド人もイタリア人も自由になれない運命なのである。

 そして遂にヨーロッパは、神聖同盟の勝利によつて、フランスでプロレタリアの新たな蜂起があれば、それに伴つてただちに世界戦争が起きるといふ情勢になつたのである。つまり、新しいフランス革命が起きたら、必ずそれはただちにフランスの国外に拡大して、ヨーロッパ全土を制覇するのであり、そのとき初めて十九世紀の社会主義革命が完成するのである。

 かくして、やうやく六月の敗北によつて、フランスがヨーロッパ革命の主導権を握ることのできる全ての条件が整つたのである。フランスの三色旗は六月の反逆者の血に浸されることによつて、やうやくヨーロッパ革命の旗、赤旗となつたのである。

 そして我々は叫ぶ。「革命は死んだ。革命万歳」と。



第二章 一八四九年六月十三日 一八四八年六月から一八四九年六月十三日まで

 一八四八年二月二十五日がフランスに共和制を強制したとすれば、六月二十五日はフランスに革命を強制したのである。しかも革命は二月以前には国家形態の大変革を意味してゐたのに対して、六月以後はブルジョア社会の大変革を意味した。

 六月の戦ひはブルジョア共和派の主導のもとに行はれ、その勝利によつて国家権力は当然ながらブルジョア共和派のものとなつた。猿ぐつわを噛まされたパリは戒厳状態によつて無抵抗なまま彼らの前に跪(ひざまづ)かされた。地方を支配してゐたのは、精神的な戒厳状態と、ブルジョアの威嚇的で野蛮な勝利の驕りと、農民の野放しな財産欲だつた。したがつて、下からの脅威は全くなかつた。

 労働者たちの革命の暴力が敗れるとともに、民主的共和派、すなはち小ブルジョアを代表する共和派の政治的な影響力も崩壊した。彼らの共和派は執行委員会ではルドリュ-ロランによつて代表され、憲法制定国民議会では山岳党によつて代表され、新聞では『レフォルム』によつて代表されてゐた。

 四月十六日には彼らはブルジョア共和派とともにプロレタリアに対して陰謀を企て、六月暴動でもブルジョア共和派とともにプロレタリアと戦つた。かうして小ブルジョアは、自分の党派が一大勢力として抜きんでるために依存してゐたバックボーンを自らの手で粉砕したのである。自分の背後にプロレタリアがゐた間だけ、小ブルジョアはブルジョアに対する革命的姿勢を維持できたからである。

 小ブルジョアはお払ひ箱になつた。ブルジョア共和派は、臨時政府と執行委員会の時代にはしぶしぶながら計算ずくで小ブルジョア共和派とうわべだけの同盟関係を結んでゐたが、いまそれを公然と破棄したのである。かうして仲間外れにされ追ひ払はれた彼らは、三色旗派(=『ナショナル』派、ブルジョア共和派)の下つ端の取り巻きにまで成り下がつた。といふのは、彼らは三色旗派から何の譲歩も引き出せなかつたが、三色旗派の支配が反共和主義ブルジョア派によつて脅かされ、共和制そのものが脅かされた思はれるときは、いつも三色旗派を支持せざるを得なかつたからである。

 最後にこの反共和主義ブルジョア派、つまりオルレアン派と正統王朝派は、憲法制定国民議会では初めから少数派だつた。六月暴動以前には、彼らはブルジョア共和主義の仮面を被らない限りは何の反応も起こさなかつた。六月の勝利によつて、しばらくの間ブルジョアの全フランスはカヴェニャックを彼らの救世主と呼んだ。六月暴動直後に反共和主義派が独自の党派としての行動を再開したときにも、軍事独裁とパリの戒厳状態のために、彼らはただおずおずと用心深く触角を伸ばすことが許されただけだつた。

 一八三〇年以来、ブルジョア共和派には著述家と、代弁者と、有識者と、野心家と、代議士と、将軍と、銀行家と、弁護士が、パリの新聞『ナショナル』を中心に集つてゐた。この新聞は地方にも兄弟紙を持つてゐた。『ナショナル』の派閥こそは三色旗共和制に君臨する一族だつた。即座に彼らは国家の要職、即ち閣僚、警察庁、郵政局、県庁、空席となつてゐた軍の高級将校の地位を独占した。執行権力の頂点には彼らの将軍カヴェニャックが立つた。彼らの編集長マラストは憲法制定国民議会の常任議長となつた。同時に彼は自分のサロンでホストとして「Republiquehonnete(穏健な共和制)」の主役たちを歓待した。

 ところが、革命的なフランスの著述家さへ、共和主義の伝統に対するある種の遠慮から、憲法制定国民議会を支配してゐたのは王朝主義者たちであつたかのやうな誤解を広めてきた。しかし、特に六月暴動後は憲法制定国民議会を代表してゐたのはブルジョア共和主義だけだつた。そして、議会の外で三色旗共和派たちの影響力が崩れ去るにつれて、議会は益々はつきりとこの面を強調するやうになつた。

 ブルジョア共和制といふ政体の維持が問題になつてゐる時なら、三色旗共和派は民主的共和派の票を当てにしたが、その中身が問題となると、既に話ぶりからして彼らは最早ブルジョア王朝派との違ひがなくなつてきた。なぜなら、ブルジョアの利益、つまりブルジョアによる階級支配と階級搾取の物質的条件こそ、まさにブルジョア共和制の中身を成してゐたからである。

 したがつて、憲法制定議会の活動期間中に実現されたのは王朝主義ではなくブルジョア共和主義だつたのである。そしてこの憲法制定議会は最終的には死ぬことも殺されることもなく、みづから朽ち果てていつた。

 憲法制定議会が支配し、憲法制定議会が表舞台に立つて国家といふ大きな芝居を演じてゐた間、舞台の裏側では生け贄の祭が絶え間なく上演されてゐた。即ち逮捕された六月の反逆者たちが軍事法廷において続々と判決を言ひ渡され、或ひは裁判なしに国外追放された。憲法制定議会は六月の反逆者の場合には犯罪者を裁いてゐるのではなく、敵を打ち負かしてゐるのだと言ふ機転を持つてゐた。

 憲法制定国民議会の最初の仕事は、五月十五日と六月の事件と、その時の社会主義的および民主的党派の指導者たちの関与を調査する委員会を設置することだつた。その調査の直接の標的はルイ・ブランと、ルドリュ-ロランと、コシディエールだつた。ブルジョア共和派はこのライバルたちを排除したくていらいらしてゐたのだ。

 この復讐を任せるのにオディロン・バロ氏(=オルレアン派)以上の適任者はゐなかつた。彼は王朝派野党の元党首であり、自由主義の権化、nullité grave(鼻持ちならぬ能なし)、底なしの浅薄漢であり、王朝のために復讐するだけでなく、自分の首相就任を妨げたとことで、革命家に仕返しをせずにはゐられなかつた。かうしたことは彼が問題を情け容赦なく処理することの確かな保証であり、だからこそ、バロが調査委員会の議長に任命されたのである(=六月二十八日)。

 そこで彼は二月革命に対する完全な捜査令状を作り上げた。その内容は三月十七日のデモと四月十六日の陰謀と五月十五日の襲撃と六月二十三日の内乱とにまとめられた。なぜ彼は学問的な犯罪調査を二月二十四日にまで広げなかつたのか。「ジュルナル・デ・デバ(=オルレアン派の新聞)」紙の答はかうだ。「二月二十四日、それはローマ建国の日(=第二共和制の始まり)である。国家の起源は神話のなかに消え去る。神話は信じるものであつて論議することは許されない」ルイ・ブランとコシディエールが法廷に引き渡された(=八月二十五日、二人は英国へ亡命)。国民議会は五月十五日に始めた自らの粛清といふ仕事を完了した。

 臨時政府がまとめたものをグショー(=銀行家、憲法制定議会議員、カヴェニャック内閣の財務大臣)が再び取り上げた資産課税法案である抵当権課税は、憲法制定議会で否決された。一日の労働時間を十時間に制限する法律は廃止され、債務監獄が再び導入された。また、フランス人口の大部分を占める読み書きのできない者が陪審員になる資格も廃止された(なぜか選挙権は廃止されなかつた)。新聞に対する保証金制度が再び導入され、結社の権利が制限された。

 しかしながら、ブルジョア共和主義者は、昔のブルジョア的関係に昔の保証を再び与へて、革命の波が残した痕跡を全部払拭することを急いだために、思ひがけない危険を伴つた抵抗に会つた。

 六月暴動のときには、財産の保護と信用の回復のために、パリの小ブルジョア、つまりカフェの主人とレストラン主と marchands devins(居酒屋の店主)と小商人と小売店主と職人たちが最も熱心に戦つた。商店主たちは団結してバリケードに向かつて行進し、通りから店に入る交通路を回復しようとした。

 しかし、バリケードの後ろには商店の得意客と債務者が居り、バリケードの前には商店の債権者たちが居た。そして、バリケードを打ち倒し、労働者たちを粉砕して、商店主たちが勝利に酔いしれて急いで店に帰つてみると、財産の保護者である公的な取り立て人が入口を釘付けして、脅迫状を差し出したのだ。その中に書かれてゐたのは、手形の満期であり、家賃の滞納であり、借金の未済であり、商店の破産であり、商店主の破産だつた。

 財産の保護に間違ひはなかつた。しかし、彼らが住んでゐた家も、彼らが守つてゐた店も、彼らが商つてゐた商品も、彼らの商売も、彼らが食事をとる皿も、彼らが眠るベッドも、彼らの財産ではなかつた。この財産の保護とは、家を貸した家主と、手形を割り引いた銀行家と、現金を貸した資本家と、商人に商品の販売を委託した製造業者と、職人に原料を貸した卸売業者の財産を、彼ら小ブルジョアから保護することだつたのである。

 信用の回復にも間違ひはなかつた。しかし、再び強さを回復した信用とはまさに生きた神、嫉妬深い神であることがわかつた。この神は支払不能の債務者を妻子もろとも部屋から追ひ出し、彼の見せかけの財産を資本家に引き渡し、債務者本人を債務監獄に放り込んだからである。ちなみに、この監獄は六月の反逆者の屍の上に再び築かれて、人々に恐れられてゐた。

 小ブルジョアは、自分たちが労働者を打ち倒したことによつて、自分自身を無抵抗なまま債権者の手に引き渡したのだと知つて愕然とした。二月以来小ブルジョアの破産は引き延ばされ、表向き見て見ぬ振りをされてゐたのに、六月以降彼らの破産が公然と宣告されたからである。
 
 小ブルジョアの名ばかりの財産が異論なく彼らの手に委ねられてゐたのは、彼らを財産のために戦場に駆りたてる必要がある間だけだつた。しかし、プロレタリアとの大きな問題が片付いてしまつた今、小売店主たちとの小さな問題を片付けることも出来るやうになつたのである。

 不渡り手形の総額が、パリでは二千百万フラン以上になり、地方では千百万フラン以上になつた。七千軒以上のパリの商店主たちは二月以降家賃の支払ひが滞(とどこほ)つてゐた。

 国民議会が政治的な負債の調査を二月末まで遡つて行なつたのなら、ブルジョアの負債の調査をさらに二月二十四日にまで遡つて行なふやう小ブルジョア側は要求した。

 彼らは証券取引所のホールに大勢で集合した。そして、革命が引き起こした不景気のために支払ひ不能に陥つたが二月二十四日には商売は順調だつたことを証明できる商売人たちのために、商事裁判所の判断による支払ひ期限の延長を威圧的に要求した。さらに彼らは、適当な割合での債務の清算と引き換へに、債権者に債権を強制的に放棄させることを要求した。

 この問題は法案として、国民議会で concordats al'amiable(和解協約)といふ形で審理された。議会は決心が付かなかつた。ところが、反逆者の妻と子供たち数千人が一斉にサン・ドニ門で恩赦請願の準備をしてゐるといふ知らせが突然議会に届いた。

 再び蘇つた六月の亡霊を前にして、小ブルジョアは動揺し、国民議会は冷酷さを取り戻した。concordats a l'amiable、この債権者と債務者との和解協約は、最も本質的な点に関して拒否されたのである。

 かうして、以前に国民議会内で小ブルジョアの民主的代議士がブルジョア共和派の代議士に仲間外れにされた後に、この議会内の仲間割れはブルジョア的な意味、現実の経済的な意味をもつた。つまり、債務者としての小ブルジョアは債権者としてのブルジョアの餌食となつたのである。小ブルジョアの大部分はすつかり没落し、残りの者たちも無条件で資本家の奴隷になる条件で商売を続けることが許されただけだつた。

 国民議会が和解協約を否決したのは一八四八年八月二十二日のことだつた。そして一八四八年九月十九日、戒厳のただ中に、ルイ・ボナパルト公と、ヴァンセンヌの囚人で共産主義者のラスパーユがパリで代議士に当選した。一方、ブルジョアからはユダヤの両替商でオルレアン派のフルドが当選した。つまり同時にあらゆる方向から、憲法制定国民議会に対して、ブルジョア共和主義に対して、カヴェニャックに対して公然と宣戦が布告されたのである。

 国家の赤字が六月暴動による出費でさらにふくれ上がり、国家の収入が生産の停滞と消費の縮小と輸入(=関税収入)の減少によつて落ち込み続けてゐる中で、パリの小ブルジョアの大量破産の影響は、直接の犠牲者の範囲をはるかに超えて及び、ブルジョアの取り引きにさらなるダメージを与へたことは、あへて詳論する必要がない。カヴェニャックと国民議会は新たな借入れ以外に逃げ道はなかつたので、彼らの金融貴族に対する隷属は一段と強まらざるを得なかつた。

 小ブルジョアが六月の勝利の結果として得た収穫が破産と裁判所による清算だつたとすれば、カヴェニャックのイエニチェリである遊動隊が得た報酬は娼婦の柔らかい腕だつた。そして「社会の若々しい救世主」である彼らは、マラストのサロンで最大限の歓待を受けた。マラストは三色旗のgentilhomme(紳士)として「穏健な共和制」の主人役と吟遊詩人役を同時にこなした。

 その一方で、遊動隊が享受してゐた社会的な特別扱ひとずばぬけて高い給料に軍隊は憤慨してゐた。それと同時に、ルイ・フィリップの治下のブルジョア共和主義が、その新聞である『ナショナル』によつて振りまいた幻想、軍隊や農民階級の一部を引きつけておく役割をしてゐた国民的な幻想は全て消え失せた。

 『ナショナル』派が支配者となつて、カヴェニャックと国民議会がイギリスと一緒に北イタリアをオーストリアに売る手助けをしたことは、『ナショナル』派の野党としての十八年の歳月を否定するものだつた。

 『ナショナル(=国民)』派の政府ほど国民的でない政府はなかつたし、イギリスに依存した政府はなかつた。しかも、かつてルイ・フィリップ時代には『ナショナル』はカトーの格言「カルタゴは絶滅すべし」を日々言ひ替へて(=イギリスは絶滅すべし)生きてゐたのだ。

 一方、この政府ほど神聖同盟(=ウィーン体制保持を目的とする同盟)にへつらつたものはなかつた。しかも、かつて『ナショナル』派はギゾーのやうな人間にウィーン条約の破棄を要求してゐたのだ。

 『ナショナル』紙の外交問題担当の元編集者だつたバスティードがフランスの外務大臣になつて、自分のかつての記事を悉く自分の外交文書で否定してゐるのは歴史の皮肉である。

 しばらくの間、軍隊と農民階級は、軍事独裁が始まるとともに、外国に対する戦争と「栄光」がフランスの緊急の問題となつたと信じてゐた。ところが、カヴェニャクの独裁は、ブルジョア社会に対する剣の独裁ではなく、剣によるブルジョア独裁だつた。

 そしてこの独裁が当面必要とする兵隊はもはや憲兵だけだつた。カヴェニャックは、古代の共和主義者の忍従を表はすやうな厳格な顔つきをしてゐたが、自分のブルジョア的任務の屈辱的な条件に唯々諾々と屈従してゐるだけだつた。

 カヴェニャックと憲法制定議会は「L'argent n'a pas de maitre!(金は主人を持たない。金は天下の回りもの)」といふこのtiers-état(第三階級)の古い標語を自分の理想に合はせて解釈して、「ブルジョアは王を持たない。ブルジョア支配の真の形は共和制である」といふ政治的な表現に翻訳したのである。

 共和制といふこの形の仕上げをすること、すなはち共和国憲法の仕上げをするために、憲法制定国民議会による「偉大な組織法作り」が行なはれた。つまり、キリスト暦を共和暦に改名し、聖バーソロミューを聖ロベスピエールに改名したからといつて、風や天候に何の変化もなかつたのと同じやうに、この憲法がブルジョア社会を変へることはなかつたし、変へるはずもなかつたのである。

 この憲法が単なる衣更へ以上のことを制定する個所では、すでに存在する事実がそのまま記録されてゐる。

 かくしてこの憲法には共和制といふ事実、普通選挙といふ事実、権力を制限された二つの立憲議会に代はる単一の最高権力をもつ国民議会といふ事実が厳かに記録された。

 かくしてこの憲法にはカヴェニャックの独裁といふ事実が記録されて正式なものとなつた。つまり、永続する無責任な世襲王政に代つて、一時的で有責な選挙王政つまり任期四年の大統領制が置かれた。

 かくしてこの憲法では、国民議会が五月十五日と六月二十五日の危機の後で自分の安全のために用心深く非常大権を大統領に授けた事実が、憲法の法規に昇格した。

 憲法制定の残りの作業は術語上のものだけだつた。古い王政の機構から王権主義のラベルがはがされて、共和主義のラベルが貼り付けられた。『ナショナル』紙の元編集長マラストは今や憲法の編集長となつて、このアカデミックな仕事を如才なく片づけた。

 地下で地鳴りがして今にも火山が噴火して足もとの土地を吹き飛ばさうとしてゐることが明らかな時に、地籍測量をして土地の所有関係をはつきり確定しやうとしたチリの役人がゐたといふが、憲法制定議会はこの役人に似てゐた。

 憲法制定議会はブルジョア支配を共和主義的に表現する形式を理論的に細かく憲法に規定したが、現実のブルジョア支配は、あらゆる形式の廃棄とsans phrase(簡明直裁)な暴力、つまりただ戒厳状態によつて維持されてゐたからである。

 議会は憲法制定作業に入る二日前に戒厳状態の継続を宣言した。以前なら、憲法が作られて承認されるのは、社会の大変革の過程が休止点に到達して、新たに形成された階級関係が確定してからであつた。その頃には、支配階級の中の対立しあふ党派は、力尽きた国民大衆を締め出して自分たちだけで権力闘争を続けるために、和解に走つたものである。

 ところが、この憲法は社会的な大変革を認定したものではなく、むしろ大変革に対する古い社会(=ブルジョア王朝派)の一時的勝利を認定したものだつた。

 六月暴動以前に作られた憲法の第一次草案にはまだ droit autravail(労働の権利)が含まれてゐた。この権利はプロレタリアの革命的要求が要約された最初のぎこちない表はれだつた。それが droit al'assistance(公的扶助の権利)に変へられたのである。

 しかし、近代国家が何らかの形で貧困者を扶養するのは当然であり、憲法にするまでもないことだつた。一方、労働の権利は、ブルジョア的意味では不合理なことであり、同情すべきはかない願ひだつたのであるが、この労働の権利の後ろには資本に対する支配があり、資本に対する支配の後ろには生産手段の独占、つまり生産手段を労働者階級の団結した支配のもとに置くことが、したがつて賃労働と資本および両者の相互関係の廃止があつた。要するに「労働の権利」の後ろには六月暴動があつたのだ。

 革命的プロレタリアを事実上 hors laloi(法の外)に置いた憲法制定議会は、プロレタリア的表現を、法の中の法である憲法から根本的に排除しなければならなかつた。つまり「労働の権利」に破門を言ひ渡さなければならなかつたのである。

 だが憲法制定議会はそこに止まらなかつた。プラトンが自分の共和国から詩人を追放したやうに、議会はその共和国から累進税を永久追放したのだ。累進税は現在の生産関係の範囲内で、適当な段階を設けて実施できるブルジョア的手段であるだけでなく、ブルジョア社会の中間層を「穏健な」共和主義に引き付け、国債を減らし、共和主義に反対するブルジョア多数派をやつつける唯一の手段だつた。

 ところが、和解協約の時に、三色旗共和派は小ブルジョアを事実上大ブルジョアの犠牲に供してしまつた。彼らはこの単独の出来事を、累進税の法的禁止によつて原則にまで高めてしまつた。彼らはこのブルジョア的な改革をプロレタリア革命と同列に扱つたのである。

 かうして、彼らの共和国の拠り所として残つたのは大ブルジョアだけとなつた。ところが大ブルジョアは共和主義に反対だつたのである。大ブルジョアが『ナショナル』の共和派を利用して、古い経済状況を再び強固にしたなら、次にはこの再度強固になつた社会的状況を利用して、自分たちに相応しい政治形態を復活させようと思つてゐた。

 早くも十月初め、カヴェニャックは、自分の党の脳なしの潔癖家が不平を言つて騒いだにもかかはらず、ルイ・フィリップの元大臣だつたデュフォールとヴィヴィアンを共和国の大臣にせざるを得なくなつてゐた。

 三色旗憲法は、小ブルジョアに対しては如何なる妥協も拒否し、新しい政府形態に新しい社会階層(=中間層)を全く引き付けることができなかつたが、その一方で、古い国家の最も頑固で狂信的な擁護者からなる団体に、伝統的な不可侵性を急いで返してやつた。つまりこの憲法では、臨時政府によつて廃止の危機に瀕してゐた裁判官終身制が憲法の法規によつて認められたのである。一人の王が憲法によつて退位させられたが、その代はりに解任できない終身の異端審問官が大量に復活したのである。

 マラスト氏が書いた憲法の矛盾は、フランスの新聞によつて多角的に分析された。例へば、二つの主権者、つまり国民議会と大統領が並存してゐることなどである。

 しかし、この憲法の矛盾は次の点に集約される。それは、この憲法が社会的隷属状態を永久化したプロレタリアと農民と小ブルジョアの階級に普通選挙権によつて政治的権力を持たせた一方で、この憲法が古くからの社会的権力を承認したブルジョア階級から、この権力の政治的保証を取り上げたことである。

 この憲法はブルジョアの政治的支配を民主的条件にはめ込んだが、かうした条件は敵の階級が勝利することを助けるものであり、ブルジョア社会そのものの基盤を脅かしてゐるといへる。この憲法は、一方の階級には政治的解放から社会的解放へ進まないことを求めながら、もう一方の階級には社会的復古から政治的復古へと後退しないことを求めてゐるのだ。

 かうした矛盾をブルジョア共和派は殆ど気にしなかつた。ブルジョア共和派は古い社会(=ブルジョア王朝派)にとつては、革命的プロレタリアに対抗する戦士としてのみ不可欠な存在だつた。ところが、彼らがもはや古い社会にとつて不可欠な存在ではなくなると、六月の勝利の数週間後には、政党の地位から一派閥の地位に転落してゐた。だから、ブルジョア共和派は憲法を自分たちの重要な策略の一つとして扱ひ、何よりもこの派閥による支配を憲法に規定しようとしたのである。

 だから、この憲法に規定された大統領はカヴェニャックの延長であり、立法議会は憲法制定議会の延長だつた。国民大衆の政治的な権力を見せかけだけの権力に縮小し、この見せかけの権力を操つて、ブルジョアの大多数(=ブルジョア王朝派)を六月暴動のディレンマ、すなはち『ナショナル』派の国か無政府の国かといふディレンマにいつも陥れておかうとした。

 九月四日に始まつた憲法制定の作業は十月二十三日には終了した。九月二日に憲法制定議会は憲法を補足する組織法が制定されるまでは解散しないと決議してゐた。にもかかはらず、憲法制定議会の活動(=一八四八年五月四日~一八四九年五月二十七日)が完結するずつと前の十二月十日(=大統領選挙投票日)に、その最も独特な創造物である大統領をこの世に送り出すことに決めた。

 それは、この憲法が作り出したホムンクルス(=錬金術師パラケルススが作り出した人工生命体=大統領)が、自分たちに忠実なお母さん子になると確信してゐたからである。また万一のため、二百万票を獲得した候補者がゐない時には、国民が選ばずに議会が選ぶ措置を準備してゐた。

 だが、この予防措置は無駄だつた。憲法施行の第一日目(=十二月二十日)が、憲法制定議会の支配の最終日となつたのである。投票箱の底には憲法制定議会に対する死刑判決が入つてゐたのだ。彼らは「お母さん子」を探してゐたのだが、見つけたのは「伯父の甥つ子」だつた。

 サウル(=ヘブライ人の初代の王)のカヴェニャックは百万票を勝ち取つた。だがダビデ(=ヘブライ人の二代目の王)のナポレオン(=一八〇八年~一八七三年、ナポレオン一世の甥)は六百万票を勝ち取つた。サウルのカヴェニャックは六倍の差で打ち負かされたのである。

 一八四八年十二月十日(=大統領選挙の日)は農民反乱の日だつた。この日から初めてフランスの農民にとつての二月(=革命)が始まつた。農民が、不器用で狡猾な、無頼で素朴な、間抜けで崇高な革命運動を開始したのだ。彼らの運動のシンボルは、計算ずくの迷信であり、悲壮な茶番であり、巧妙だが愚かな時代錯誤であり、世界史的な悪ふざけであり、文明人の理解力では判読できない象形文字だつた。文明の中における野蛮を代表するこの階級の容貌を、このシンボルははつきりと表してゐた。

 共和制は農民に対して自らの到来を徴税人によつて知らせた。それに対して、農民は共和制に対して自らの到来を皇帝によつて知らせた。ナポレオンは、一七八九年に新たに生まれた農民階級の利益と幻想を余すところなく代表する唯一の人間だつた。

 農民は共和制の最初のページにナポレオンの名前を書くことによつて、外国に向かつては戦争を宣言し、国内に向かつては自らの階級利益の貫徹を宣言したのである。農民にとつてナポレオンは人間ではなくて一つの綱領だつた。農民は旗を立て、かね太鼓を打ち鳴らしながら、投票所へ叫びながら行進した「plusd'impôts, à bas les riches, à bas le République, vivel'Empereur(税金はたくさんだ。金持ちを倒せ、共和制を倒せ、皇帝万歳)」と。皇帝の後ろには農民戦争が隠れてゐた。農民が選挙で倒した共和制、それは金持ちの共和制だつた。

 十二月十日は現政府を打倒した農民の coupd'état(クーデター)だつた。農民がフランスから一つの政府を奪つてもう一つの政府を与へたこの日以来、農民の目はじつとパリに向けられた。農民は一瞬にして革命のドラマの主人公となつた。もはや農民を行動力も意志もない後列の合唱隊(=ギリシャ悲劇のコロス)の役割に戻すことはできなかつた。

 その他の階級も、選挙での農民の勝利を完全なものにするのを助けた。プロレタリアにとつて、ナポレオンの選出は、カヴェニャックの罷免と、憲法制定議会の打倒と、ブルジョア共和主義の退場と、六月の勝利の破棄を意味した。小ブルジョアにとつて、ナポレオンの選出は、債務者が債権者を支配することを意味した。

 大多数の大ブルジョアにとつては、ナポレオンの選出は、ブルジョア共和派と公然と手を切ることを意味した。大ブルジョアはブルジョア共和派を革命と対抗するために一時的に利用したが、ブルジョア共和派がその一時的な地位を憲法上の地位として固定しようとした途端に、大ブルジョアにとつて我慢ならない存在になつてゐたのだ。

 大ブルジョアにとつて、カヴェニャックがナポレオンと交替することは、共和制が王政と交替することであり、王政復古が始まることであり、控へ目にオルレアン朝をほのめかすことであり、スミレ(=ボナパルトの紋章)の下にユリ(=ブルボン家の紋章)を隠すことだつた。最後に、軍隊がナポレオンに投票したのは、遊動隊に反対し、平和の牧歌に反対し、戦争に賛成するためだつた。

 かうして『新ライン新聞』が言つたやうに、フランスの最も単純な男が、最も多様な意味を持つことになつた。この男は何者でもなかつたので、自分以外の全てのものを意味することができたのである。

 このやうにナポレオンといふ名前の意味は、様々な階級にとつて様々に異なつてゐたにもかかはらず、どの階級であらうと投票用紙にこの名前を書くことは、「『ナショナル』派を倒せ。カヴェニャックを倒せ。憲法制定議会を倒せ。ブルジョア共和制を倒せ」と書くことだつた。大臣のデュフォールは憲法制定議会で「十二月十日は第二の二月二十四日である」と公然と言ひ放つた。

 小ブルジョアとプロレタリアは enbloc(結束して)ナポレオンに投票した。それはカヴェニャックを落選させるためであり、票を合はせて憲法制定議会から最終決断(=解散)を引き出すためだつた。一方、この二つの階級の最も進歩的な層は独自の候補(=ルドリュ-ロランとラスパーユ)を立ててゐた。

 ナポレオンはブルジョア共和制に反対する全ての党派が結束した集合名詞だつたのに対して、ルドリュ-ロランとラスパーユは固有名詞だつた。前者は民主的小ブルジョアの固有名詞であり、後者は革命的プロレタリアの固有名詞だつた。

 ラスパーユへの投票は、プロレタリアやその社会主義的代弁者が大声で言つてゐた通り、単なる示威行動となるべきものだつた。つまりそれは、あらゆる大統領制への反対票、すなはち憲法そのものへの反対票であり、同時にルドリュ-ロランへの反対票だつた。これはプロレタリアが独立した政治的党派として、民主的な党派から決別したことを宣言する最初の行動だつた。

 一方、この民主的な党派、つまり民主的小ブルジョアとその議会の代表である山岳党は、ルドリュ-ロランの立候補を大真面目に扱つた。この物々しさは、彼らがいつも自分自身を騙すやり方である。ところで、これは彼らが独立した政党としてプロレタリアに対抗した最後の試みだつた。ブルジョア共和派だけでなく民主的小ブルジョアとその山岳党も、十二月十日の敗北者だつた。

 フランスに似非山岳党に加へて今また似非ナポレオンが生まれたことは、両者がそれと同名の偉大な本物を写した命のない風刺画にすぎないことを証明してゐた。この山岳党が一七九三年から借りたスローガンを使ひ煽動的ポーズをして昔の山岳党をみじめに真似たやうに、ルイ・ナポレオンは皇帝帽をかぶり鷲の紋章をつけて昔のナポレオンをみじめに真似たのである。

 かくして、一七九三年に対する伝統的な盲目的信仰は、ナポレオンに対する伝統的な盲目的信仰とともに、同時に打ち破られたのである。革命が本領を発揮したのは、それが自分だけの独自の名前を獲得できた時だけであり、それができたのは、現代の革命的階級である産業プロレタリアが主役となつて前面に現れた時だけだつた。

 十二月十日の結果に山岳党が茫然として頭を混乱させてしまつたのは、昔の革命との古典的な類似が、まさにこの日の農民の不作法な悪ふざけによつて、突然滑稽な形で終つてしまつたからだと言へる。

 十二月二十日にカヴェニャックはその職を退き、憲法制定議会はルイ・ナポレオンを共和国大統領と宣言した。十二月十九日、その単独支配の最後の日に、憲法制定議会は六月の反逆者に大赦を与へる動議を否決した。裁判の判決なしに一万五千人の反逆者を国外追放に処した六月二十七日の布告を無効にすることは、六月の戦闘それ自体を無効にすることを意味したのではなからうか。

 ルイ・フィリップの最後の大臣オディロン・バロがルイ・ナポレオンの総理大臣になつた。ルイ・ナポレオンは、自分の統治は十二月十日に由来するのではなく、一八〇四年の元老院決議(=ナポレオン一世を皇帝とした決議)に由来すると考へたが、それと同じやうに、彼の選んだ総理大臣バロは、自分の内閣は十二月二十日に由来するのではなく二月二十四日の勅令に由来すると考へてゐた。

 ルイ・フィリップの正統な継承者であるルイ・ナポレオンは、以前のバロの内閣をそのまま使ふことによつて、急激な政権交代を避けたのである。以前のバロ内閣は、仕事にとりかかる暇もなかつたから、使ひ古しになる暇もなかつたのだ。

 この人選をナポレオンに進言したのは、ブルジョア王朝派の指導者たちだつた。王朝派野党の党首だつたバロは、以前は無意識のうちに『ナショナル』共和派への権力の橋渡し役をしたが、意識してブルジョア共和制から君主制への権力の橋渡し役をやる方が、ずつと似合つてゐた。

 オディロン・バロは以前は野党の党首だつたが、彼の党だけは大臣の椅子を得ようとしていつも失敗してゐた。しかし彼はまだ使ひ捨てにならずに生き残つてゐたのだ。

 革命は次から次へと矢継ぎ早に以前の野党を悉く国家の頂点に投げ上げてきた。しかし、その結果、どの党派も自分たちの過去のスローガンを、行動だけでなく新たなスローガンによつて否定し撤回しなければならなくなつた。そして、挙げ句の果てには、どの党派も陳腐ながらくたと一緒にされて、国民によつて十把ひとからげに歴史のごみ捨て場に投げ込まれてきたのである。

 このバロ、このブルジョア自由主義の化身、十八年間(=七月革命からの)にわたり精神の破廉恥な空虚を重々しい身のこなしの陰に隠してきた男も、またあらゆる変節を免れなかつた。

 彼は、時には過去の勝利の月桂樹と現在の棘(とげ)だらけのアザミとのあまりにも大きな違ひに我ながら驚くことはあつても、鏡をちらりと覗けば、大臣らしい落ち着きと人間らしいうぬぼれを取り戻すことができた。

 鏡の中から彼に向つて微笑んでゐたのはギゾーだつた(=秩序の化身への変節)。それはバロがいつも羨み、いつも自分を押へつけてきたギゾーその人だつたが、持ち前のひどく突き出た額をしたギゾーだつた。バロがそこに見落としたのはミダス王の耳だつた(=金融貴族に取りこまれたこと)。

 二月二十四日に組閣したバロの正体は、十二月二十日に組閣したバロによつてはじめて明らかになつた。オルレアン派でヴォルテール主義者のバロと組んで文部大臣になつたのは、正統王朝派でイエズス会士のファルーだつたのである。

 数日後、内務大臣の椅子がマルサス主義者のレオン・フォシェに与へられた。法律学者と宗教家と政治経済学者、バロ内閣はこの全てを含んでをり、さらに正統王朝派とオルレアン派の連合体をも含んでゐた。ただそこにはボナパルト派だけが欠けてゐた。

 ボナパルトはナポレオンたらんとする熱望をしばらくは隠してゐた。といふのもスルーク(=ナポレオン一世の真似をしたハイチの大統領、ルイ・ナポレオンのあだ名)はトゥサン・ルヴェルチュール(=ハイチの黒人指導者、終身の独裁官となる)の役をまだ演じてなかつたからである。

 『ナショナル』派はすぐに、これまで居座つてきた国家の要職から外された。警察庁と郵政局と検察庁とパリ市役所は悉く以前の王政の手先たちによつて占められた。正統王朝派のシャンガルニエ(=実はオルレアン派)はセーヌ県の民兵と遊動隊と正規軍第一師団の統合総指令部を受け持つた。オルレアン派のビュジョーはアルプス軍最高指令官に任命された。かういふ役職の変更はバロ政権のもとでは絶え間なく続いた。バロ内閣が最初にやつたのは、昔の王政期の行政機関の復活だつた。

 あつといふ間に公けの舞台は変貌した。舞台背景も、衣装も、台詞も、役者も、端役も、エキストラも、プロンプターも、関係者の位置付けも、ドラマのモチーフも、葛藤の内容も、全ての状況が一変した。ただ過去の遺物となつた憲法制定議会だけは自分の席に留まつてゐた。

 しかしながら、国民議会がボナパルトを、ボナパルトがバロを、バロがシャンガルニエを任命した時から、フランスは、共和制を制定する時代から、制定された共和制の時代へ移つてゐた。

 では、制定された共和制においては憲法制定議会は何をすべきなのか。大地が創造された後には、その創造者はただ天上に逃げ込むしかない。憲法制定議会はその前例に従はないことを決めた。議会はブルジョア共和派にとつて最後の拠り所だつたからである。

 議会から執行権力のあらゆる手段が奪ひ去られても、議会には憲法を制定する全能の力が残つてゐるではないか。議会の最初の考へは、彼らが占めてゐる主権者の地位を死守して、そこから失地を回復しようといふものだつた。バロ内閣を『ナショナル』派の内閣によつて押しのけてしまへば、王朝派の官僚はすぐに行政府の宮殿を立ち退かねばならない。さうなると三色旗派の官僚が意気揚々と戻つてくるだらう。

 議会は内閣を打倒しようと決意した。すると内閣の方から攻撃の機会を提供してきた。それは憲法制定議会にとつてこれ以上はうまく作れないと思へるやうな機会だつた。

 我々の記憶によれば、ルイ・ボナパルトは農民にとつて「税金はたくさんだ」といふ主張を意味してゐた。ところが、ボナパルトが大統領の椅子に座つて六日経過して七日目になつた十二月二十七日、彼の内閣は塩税の復活を提案したのだ。この税は臨時政府が廃止を布告してゐたものだつた。塩税は、特に田舎の人々の目には、酒税とともにフランスの古い財政制度の罪を一身に背負はされるといふ名誉を担つてゐた。

 農民に選ばれた人の口からバロ内閣が言はせるのに「塩税の復活」といふ言葉ほど当の選挙民にとつて痛烈は皮肉はなかつた。塩税の復活とともにボナパルトから革命の香りは消え去つた。つまり農民の反乱を象徴するナポレオンは幻のやうに消え失せた。そして、あとに残つたのはブルジョア王朝派の陰謀を象徴する未知の大物だけだつた。バロ内閣はわざわざこんなにひどく無礼な幻滅的行為を、大統領の最初の統治行為にしたのである。

 憲法制定議会としては、内閣を打倒するとともに、農民に選ばれたこの人に対抗して自分たちこそ農民の利益を代表する者であると売り出すこの二重の機会を必死に捕らへようとした。

 彼らは財務大臣の法案を拒否して、塩税を以前の税額の三分の一に減額した。そして、これによつて五億六千フランの国の負債を六千万フラン増やして、この不信任投票のあとで静かに内閣の退陣を待つた。それほどまでに彼らは、自分たちをとりまく新しい世界のことも、自分たちの立場が変はつてしまつたことも理解してゐなかつたのである。

 内閣の後ろには大統領がゐて、大統領の後ろには、憲法制定議会に対する不信任票六百万を投票箱に投じた六百万の人々がゐたのだ。憲法制定議会は国民に対してその不信任票のお返しをしたのである。馬鹿げた応酬だつた。

 議会はその投票にはもう神通力がないことを忘れてゐた。ボナパルトとその内閣は、この塩税の否決によつて、憲法制定議会と手を切る決断を強めただけだつた。
 
 かうして憲法制定議会が存在した後半期に絶え間なく続いたあの長い戦が始まつた。一月二十九日(=憲法制定議会解散動議の可決)と三月二十一日(=クラブ禁止法可決)と五月八日(=議会によるローマ出兵批判)が、この危機のjournees(歴史的に重要な日々)であり、六月十三日(=小ブルジョアのデモ)の先触れの日々だつた。

 フランス人たち、例へばルイ・ブランは、一月二十九日を立憲制の矛盾が表面化した日だと解釈してゐる。それは、主権をもち、解散できず、普通選挙から生まれた国民議会と、言葉の上では議会に責任を負ふが、実際は同じやうに普通選挙によつて承認されてゐる大統領との間の矛盾である。

 大統領は、国民議会の各議員に分け与へられ何百に分散してゐる票を一人で全部持つてゐるだけでなく、全執行権力を完全に掌握してゐるのに対して、国民議会は単なる道徳的な力として、大統領の権力の上にぶらさがつてゐるだけなのである。

 しかし、一月二十九日に対するこの解釈は、演壇上や新聞紙上やクラブ内での言葉の争ひを実際の争ひの中身と混同するものである。ルイ・ボナパルトと憲法制定国民議会との対立は、憲法が規定する権力の一方ともう一方の対立、執行権と立法権の対立ではない。

 それは制定されたブルジョア共和制と共和制を制定する道具との対立であり、制定されたブルジョア共和制と革命的ブルジョア派(=ブルジョア共和派)の野心的陰謀およびイデオロギー的要求との対立だつた。革命的ブルジョア派は共和制を設立したが、その制定された共和制が今では復古王政のやうに見えることに気づいて驚き、共和制を制定する期間を、その条件と幻想と用語と人物とともに、強制的に延長させ、一人前のブルジョア共和制がその完成した本来の姿で出現するのを妨げようとしてゐた。

 憲法制定国民議会はこの議会に逆戻りしたカヴェニャックを代表したとすれば、ボナパルトは、まだ彼から分離してゐない立法国民議会、つまり制定されたブルジョア共和制の国民議会を代表した。

 ボナパルト選出の意味は、彼の選出が新しい国民議会の選出のなかで繰り返されて、一つの名前がもつ様々な意味を一つの名前に置き換へたとき、はじめて明らかになるのである。古い国民議会に対する国民の信託は十二月十日の選挙で無効になつてゐた。

 かうして、一月二十九日に対立したのは、同じ共和国の大統領と国民議会ではなく、制定途中の共和制の国民議会と既に制定された共和制の大統領だつた。つまりそれは共和制を制定する過程の全く異なる段階を体現した二つの権力の対立だつた。

 一方には、ブルジョア内の小さな共和派がゐて、彼らだけが共和制を宣言でき、市街戦と恐怖政治によつて革命的プロレタリアから共和制を奪ひ取り、憲法の中に共和制の理想的な特徴を立案することのできた。

 もう一方には、ブルジョア内の全ての王朝派集団がゐて、彼らだけがこの制定されたブルジョア共和制の中で支配し、憲法からイデオロギー的飾りをはぎ取り、プロレタリア弾圧に不可欠の条件を立法と統治によつて実現できた。

 一月二十九日に起こつた嵐はそれ以前の一ヵ月の間に風雨を蓄へてゐた。憲法制定議会は不信任投票でバロ内閣を退陣に追ひ込まうとしてゐたが、これに対して、バロ内閣は憲法制定議会に、議会が自分自身に最終的な不信任票を投じること、議会が自殺を決意すること、つまり自分自身の解散を布告することを提案してゐた(=十二月二十九日)。一月六日には、無名議員の一人ラトーが内閣の命令で、憲法制定議会にこの動議を提出した。

 だがこの議会は憲法を補完する一連の組織法を全て制定するまでは解散しないと八月(=既出では九月二日)に決議してゐた。与党のフルドは、議会に対してはつきりと「『損なわれた信用を回復するため』に議会の解散が必要だ」と宣告した。議会は過渡的状態を引き延ばし、バロを危ふくすることでボナパルトを危ふくし、ボナパルトを危ふくすることでさらに制定された共和制を危ふくして、議会は信用を損なつたのではなからうか。

 ひどく突き出た額のバロは、共和派のせいで十年も、いや十ヵ月もお預けを食つたあげくにやつと手に入れた首相の椅子が、わづか二週間座つただけでまた取り上げられさうなのを見て、狂えるローランとなつた。バロはこの哀れな議会に対して、暴君以上の暴君ぶりを発揮した。

 彼の一番穏やかな言葉は「議会にはいかなる未来もあり得ない」といふものだつた。そして実際、議会はもはや過去しか代表してゐなかつた。彼は皮肉つぽく付け加へた「議会には、この共和制を強固にするのに必要な制度をもたらす能力はない」と。そして実際さうだつた。

 議会はプロレタリアともつぱら対立することで、ブルジョアの情熱が使ひ果たし、王朝派と対立することで、今度は共和派の情熱が活発になつてゐた。これでは、議会には、自分がもう理解できなかつたブルジョア共和制を、それに相応しい制度によつて強固にすることなど二重の意味で不可能だつた。

 ラトーの動議と同時に、内閣は請願の嵐を国中に巻き起こし、憲法制定議会の頭上にはフランスの津々浦々から毎日、多かれ少なかれ解散して遺言状を作ることを明確に求める billets-doux(恋文)が舞ひ込んできた。憲法制定議会の方でも反対請願を呼び起こして、議会の存続を求めさせた。

 ボナパルトとカヴェニャックの選挙戦が、議会の解散の是非を問ふ請願合戦として再現された。この請願は十二月十日の選挙に対する遅ればせの論評となるはずだつた。一月の間中この宣伝合戦は続いた。

 憲法制定議会と大統領の間のこの衝突では、議会は自分たちの起源として普通選挙を引き合ひに出すことができなかつた。なぜなら、普通選挙は大統領が議会と対抗する手段だつたからである。議会は合法的権力に頼ることができなかつた。なぜなら、これは合法的権力に対する戦ひだつたからである。議会は一月六日と二十六日に再度試みたやうな不信任投票によつて内閣を倒すことはできなかつた。なぜなら、内閣は議会の信任を求めてゐなかつたからである。

 ただ一つ残された可能性は反乱だけだつた。反乱を戦ふ力となつたのは、民兵の共和主義者の部分と、遊動隊と、革命的プロレタリアの中心つまりクラブだつた。

 六月以前には国立作業所が革命的プロレタリアの組織的な戦闘力となつたやうに、六月暴動を鎮圧した英雄、遊動隊は、この十二月にはブルジョア共和派の組織的な戦闘力となつてゐた。

 なぜなら、憲法制定議会の執行委員会が、プロレタリアからの我慢ならない要求と手を切るべき時、国立作業所に残酷な攻撃をし向けたのと同じやうに、ボナパルトの内閣は、革命的ブルジョア派(=ブルジョア共和派)からの我慢ならない要求と手を切るべき時、遊動隊に残酷な攻撃をし向けたからである。つまり、内閣は遊動隊の解散を命じたのである。

 遊動隊の半数は解雇されて失業した。残りの半数は民主的な組織の代はりに王政時代の組織に入らされ、給料も正規軍並みに下げられた。遊動隊は六月の反逆者の立場に身を置き、公開懺悔を新聞に連日掲載して、六月の罪を告白してプロレタリアに許しを請ふた。

 ではクラブとは。憲法制定議会がバロを危ふくすることで大統領を危ふくし、大統領を危ふくすることで、制定されたブルジョア共和制を危ふくし、制定されたブルジョア共和制を危ふくすることでブルジョア共和制全体を危ふくした瞬間から、二月共和制を構成したゐたあらゆる人たちが必然的に憲法制定議会の回りに次々と集まつてきた。

 彼らは現在の共和制を倒して、時計の針を無理に逆に回して、自分たちの階級利益と原則に適つた共和制に作り変へようとした。あつた事がなかつた事になつてゐた。革命運動の結晶は再び流動的となり、戦ひの的である共和制は再び二月革命の時期の未確定な共和制になり、どんな共和制にするかを決める権利はどの党派にもあつた。

 しばらくの間、各党派は以前の二月の立場にたち戻つたが、二月の幻想を共有してはゐなかつた。『ナショナル』の三色旗共和派は再び『レフォルム』の民主的共和派を頼りにして、彼らを議会内闘争の最前線の戦士として押し立てた。民主的共和派は再び社会主義的な共和派を頼りにした。一月二十七日に公けの声明によつて彼らの和解と団結が発表されてゐたのである。そして彼らはクラブを反乱のバックグラウンドとして準備してゐたのだ。

 与党系新聞が『ナショナル』の三色旗共和派を六月の反逆者の復活として扱つたのは間違ひではなかつた。三色旗共和派はブルジョア共和制に対する主導権を維持するために、ブルジョア共和制そのものを危ふくしたからである。

 一月二十六日、大臣フォシェは結社の権利に関する法案を提出した。その第一条は「クラブは禁止する」だつた。彼はこれをただちに緊急法案として討議する動議を提出した。憲法制定議会はこの緊急動議を否決し、一月二十七日にはルドリュ-ロランが二百三十人の署名を付けて、憲法違反を理由に内閣を告発する動議を提出した。

 内閣に対する告発動議を提出すること、しかも、裁き手となる議会多数派の無力さのへたな暴露となるか、さもなければ、告発者のこの多数派に対する無力な抗議となるやうな瞬間にこのやうな動議が提出すること、これが以後危機が頂点に達する度に二代目の山岳党によつて繰り出された大きな革命の切り札だつた。哀れな山岳党よ。この党は自分自身の名前の重みに圧倒されてゐたのである。

 かつてブランキとバルブとラスパーユ等が五月十五日にパリ・プロレタリアの先頭に立つて憲法制定議会の議場に押し入つて議会を粉砕しようとしたことがあつたが、バロはまさにこの議会に精神的な「五月十五日」を準備して、議会に自主的解散を命じて議場を閉鎖しようとしたのだ。

 この同じ議会が五月事件の被告に対する調査をバロに委任したことがあつたが、バロがこの議会に対抗して王朝派のブランキとして現れ、議会がバロに対抗してクラブや革命的プロレタリアやブランキの党派に同盟者を探し求めてゐたまさにその時、情け容赦ないバロは五月事件の囚人を陪審裁判から引き離して、『ナショナル』派が創設した高等法院 haute cour に引き渡すといふ動議を提出して議会を苦しめた。

 大臣の職に関する不安に駈られたバロのやうな人間の頭からボーマルシェ(=劇作家)に匹敵するやうな妙手が編み出されたのだ。国民議会はさんざん迷つたあげく彼の動議を受け入れた。五月の襲撃犯を目の前にしたときは、議会は正気を取り戻したのである。

 憲法制定議会が大統領と内閣に対抗する反乱を迫られてゐたとするなら、大統領と内閣は憲法制定議会に対抗するクーデタを迫られてゐた。なぜなら大統領と内閣には議会を解散する法的手段が全くなかつたからである。

 しかしながら、憲法制定議会は憲法の母であり、憲法は大統領の母だつた。大統領がクーデタを起こすといふことは、憲法を引き裂き、自分の共和制の権原(=法律上の根拠)を抹消することだつた。さうなれば彼は帝政の権原を引つ張り出してくるしかなくなる。しかし、帝制の権原はオルレアン朝の権原を呼び覚まし、さらにこの両者の権原は正統王朝の権原を前にしては顔色を失ふものだつた。

 だから合法的な共和制を倒すことは、その対極にある正統王政を一気に頂上まで押し上げることにほかならなかつた。当時は、オルレアン派は最早二月の敗者にすぎず、ボナパルトも最早十二月十日の勝者にすぎなかつたので、この両者が共和主義者による簒奪に対抗するには自分たちが簒奪した王政の権原を持ち出すしかなかつたのである。

 正統王朝派はこの瞬間が好機であることに気づいて、公然と陰謀をめぐらした。彼らはシャンガルニエ将軍が自分たちのモンク(=一六〇八年~一六六九年、英国反革命の将軍)になることを期待した。プロレタリアのクラブでは赤色共和制が迫つてゐると公然と予告されたが、それと同様に、正統王朝派のクラブでは白色王政が迫つてゐると公然と予告された。

 内閣は暴動を巧く鎮圧しさへすれば、あらゆる困難は切り抜けることができる。「憲法を守つて議会を解散しないかぎり我々は終りだ」とオディロン・バロは叫んだ。暴動さへ起これば、salut public(公共の安全)を口実にして憲法制定議会を解散できる。憲法自身のために憲法を侵害できるのだ。

 国民議会でのオディロン・バロの乱暴な振舞ひ、クラブ解散の動議、五十人の三色旗派の知事を大騒ぎで罷免したのちに王朝派の知事に置き換へたこと、遊動隊の解散、シャンガルニエによる遊動隊隊長に対する虐待、ギゾーのもとでさへ不可能だつたレルミニェ教授の復職、正統王朝派の大言壮語の容認、これらは全てが暴徒への挑発だつた。

 しかし暴徒は鳴りを潜めたままだつた。暴徒が待つてゐたのは内閣からの合図ではなくて、憲法制定議会からの合図だつたのである。

 つひに一月二十九日が来た。この日はラトーの動議(=議会解散動議)の無条件否決を求めた(ドローム県選出の)マテューの動議が採決される日だつた。この日は正統王朝派も、オルレアン派も、ボナパルト派も、遊動隊も、山岳党も、クラブも、誰もが見せかけの敵と味方の双方に対して陰謀を企てた。

 ボナパルトは馬に乗つてコンコルド広場で一部の軍隊の閲兵式を行なひ、シャンガルニエは戦略的な大演習をやつて見せた。

 憲法制定議会が議事堂に入るとそこはすでに軍隊によつて占拠されてゐた。議会は、あらゆる希望と恐怖と期待と興奮と緊張と陰謀が交錯する中心となつた。このライオンのやうに勇敢だつた議会は、今迄で自分の死期に一番近づいた時に、一瞬たりともひるまなかつた。

 議会は、昔の戦士が自分の武器を使ふことを恐れたのみならず、敵の武器を無傷で保つことに義務を感じたのに似てゐた。議会は死ぬことなど何とも思はず自分の死刑宣告にサインした。つまりラトーの動議の無条件否決案を否決したのである。

 もともと議会は憲法制定活動をパリの戒厳状態の中で行なふといふ限界をやむを得ず設けたのであるが、議会はまさに戒厳状態の中で自分の憲法制定活動の終点(=五月二十七日)を定めたのである。

 翌日議会は自分にふさわしいやり方で復讐した。一月二十九日に議会を恐怖に陥れた内閣の行為を調査することに決めたのである。

 山岳党は自分たちには革命を起こす力も政治的判断力もないことを証明した。彼らはこの大きな陰謀劇の中で『ナショナル』派によつてこの戦ひの先兵として利用されるがままになつたからである。『ナショナル』派は、ブルジョア共和制が始まつた頃に持つてゐた独占的支配権を、制定された共和制でも引続き維持しようと最後の試みを行なつてきた。それが破れたのである。  

 一月危機では憲法制定議会の存続が問題となつたのに対して、三月二十一日の危機では憲法の存続が問題となつた。一月には『ナショナル』派の官僚が問題だつたのに対して、三月には彼らの理念が問題となつた。穏健な共和主義者が、政権がもたらす世俗的喜びよりイデオロギーがもたらす誇りの方を、たやすく手放したのは言ふまでもない。

 三月二十一日には結社権を否定するフォシェの法案、つまりクラブ禁止法案が国民議会の議題となつた。憲法第八条は全てのフランス人に結社の権利を保証してゐる。だからクラブ禁止は明らかな憲法違反である。しかも憲法制定議会自身に自ら神聖なものの冒涜を認めさせようといふのである。

 しかしながら、クラブは革命的プロレタリアが集まる場所であり、その陰謀の本拠地だつた。国民議会自身がすでにブルジョアに対抗する労働者の団結を禁じたことがあつた。そしてクラブなるものは、全ブルジョア階級に対抗する全労働者階級の団結、ブルジョア国家に対抗する労働者国家の形成に他ならないものであつたのではなからうか。クラブとは、それぞれがみなプロレタリアの憲法制定議会であり、それぞれがみな戦闘準備の整つた反乱部隊であつたのではなからうか。

 憲法が何をさておき制定すべきもの、それはブルジョアによる支配だつた。だから憲法のいふ結社の権利とは、明らかにブルジョアによる支配すなはちブルジョア的秩序と調和する結社のことだけを意味するにほかならない。憲法には理論的な作法から普遍的表現がとられてゐるとしても、政府と国民議会は憲法を個別の事例に対して解釈して適用するためにこそ存在してゐるのではなからうか。さらに、共和制の創生期にクラブが戒厳状態によつて事実上禁止されてゐたのなら、法に基づいて制定された共和制のもとでもクラブは法律によつて禁止されるべきではなからうか。

 憲法のこの散文的な解釈に三色旗共和派が反論するには、憲法の大げさなスローガンを使ふしかなかつた。

 パニェル、デュクレールら三色旗共和派の一部の人たちは内閣に賛成票を投じて、それによつて内閣に多数票をもたらした。三色旗共和派の他の人々は、守護神カヴェニャックと教父マラストを先頭に、クラブ禁止条項が可決したあと、ルドリュ-ロランと山岳党とともに、別の委員会室に退いた「そして協議した」。

 国民議会は麻痺し、定数不足に陥つた。別の委員会室ではクレミュー議員がよい頃合を見て、こににゐてはこのまま失業してしまふこと、さらに今はもはや一八四八年二月ではなく一八四九年三月だといふことを思ひ出させた。突然目覚めた『ナショナル』派は国民議会の議場に戻つた。

 彼らの後から、またもや騙された山岳党が付き従つた。山岳党は常に革命の欲望に悩まされながらも、常に護憲の可能性を模索してゐたので、革命的プロレタリアの前面に立つよりブルジョア共和派の後ろにゐる方が相変はらず居心地がよかつた。この芝居はこのやうにして終つた。そして、憲法の精神を適切に実現するには憲法の文面に違反するしかないことを、憲法制定議会自身が布告したのである。

 もはや残つた問題は一つだけだつた。それは制定された共和制とヨーロッパ革命との関係、つまりその外交政策だつた。一八四九年五月八日、存続期間が残り少なくなつてゐた憲法制定議会をいつにない興奮が支配してゐた。議題になつてゐたのは、フランス軍のローマ攻撃、ローマ人による撃退、フランス軍の政治的不名誉と軍事的恥辱、フランス共和制によるローマ共和制の抹殺、つまり第二ボナパルトの第一回イタリア出兵だつた。

 山岳党はまたも取つておきの切り札を使つた。ルドリュ-ロランは憲法違反を理由に、内閣とこの度はボナパルトに対してお定まりの告発動議を議長の机に置いた。

 五月八日のモチーフは後に六月十三日のモチーフとして繰り返された。そこでこのローマ遠征について説明しておかう。

 カヴェニャックはすでに一八四八年十一月半ばにチヴィタヴェッキア(=ローマの港)に艦隊を派遣したことがあつた。教皇(=ピウス九世、民衆暴動で当時ナポリに逃れてゐた)を保護して船に乗せてフランスに連れ帰るためである。教皇には穏健な共和制に祝福を与へて、カヴェニャックの大統領当選を確実にしてもらふ積もりだつた。つまりカヴェニャックは教皇を使つて坊主を釣り上げ、坊主を使つて農民を釣り上げ、農民を使つて大統領職を釣り上げる積もりだつた。手近な目的から言へば選挙運動だつたカヴェニャックの遠征は、同時にローマの革命に対する抗議と脅しだつた。それは教皇のために行なはれたフランスによる介入の先駈けでもあつた。

 この教皇のための介入がオーストリアとナポリ王国に連携してローマ共和国に対して行なわれることは、十二月二十三日にボナパルトの第一回閣議で決定された。内閣にはファルーがゐた。それは教皇をローマに、しかも教皇領(=そこにローマ共和国が樹立されてゐた)のローマに戻すことを意味してゐた。

 ボナパルトが農民の大統領になるためには教皇はもう必要ではなかつた。だが「大統領の農民」を維持するためには、教皇を維持する必要があつた。農民の信じやすさのおかげでボナパルトは大統領になれた。それなのに、農民が教皇を失へば農民は信仰を失ひ、農民が信仰を失へば農民は信じやすさを失ふからである。

 さらに、ボナパルトの名前で支配してゐたオルレアン派と正統王朝派による連合王朝派がゐた。国王が復活する前に、国王を正当化する権力が復活してゐなくてはならなかつたのである。

 彼らの王朝主義は別としても、教皇の世俗的支配に服従する古いローマがもしなくなつてしまつたら、教皇はなくなつてしまふだらう。もし教皇がなくなつてしまつたら、カトリック教はなくなつてしまふだらう。もしカトリック教がなくなつてしまつたら、フランスの宗教はなくなつてしまふだらう。もし宗教がなくなつてしまつたら、フランスの古い社会(=ブルジョア王朝派)はどうなつてしまふだらうか。

 ブルジョアが農民の財産に対して持つてゐる抵当権を保証するものは、農民が天国の財産に対して持つ抵当権である(=貧しき者は幸なり。天国は彼らのものなればなり)。だから、ローマ共和国といふ存在は財産への攻撃であり、それは即ちブルジョア的秩序への攻撃だつた。だから、それは六月革命のやうに恐れられた。フランスにおいて復活したブルジョア支配は、ローマにおける教皇支配の復活を必要としたのである。

 最後に、ローマの革命家を叩くことはフランスの革命家との同盟者を叩くことであつた。制定されたフランス共和制における反革命階級の同盟は、当然フランス共和制と神聖同盟、即ちオーストリアとナポリ王国との同盟によつて補はれたのである。

 十二月二十三日の閣議決定は憲法制定議会に対しては決して秘密ではなかつた。一月八日にルドリュ-ロランはこれについて内閣に質問してゐるからである。ところが、内閣がこれを否定したので、国民議会は通常の議事日程に移つてゐる。議会は内閣の言ふことを信用したのだらうか。知つての通り、議会は内閣の不信任投票をするまでに、一月まるまるを費した。だが嘘をつくのが内閣の役割の一つだとするなら、その嘘を信じるふりをしてrepublikanischen dehors(共和制のうわべ)を繕ふのことが国民議会の役割の一つだつたのである。

 その間に(=三月二十三日)ピエモンテ(=北イタリア、サルディニャ王国領、仏国境に隣接)はオーストリア軍に敗れ、カルロ・アルベルト王(=イタリア解放に尽くしたサルディニャ王)が退位してしまつた。そしてオーストリア軍がフランス国境に迫つてきた。ルドリュ-ロランは激しく説明を求めた。内閣は単に北イタリアでカヴェニャックの政策(=反オーストリア)を継続しただけであり、カヴェニャックは単に臨時政府の政策を、つまりルドリュ-ロランの政策を継続しただけであることを証明した。

 今回、内閣は国民議会から信任投票さへ手に入れて、北イタリアの重要地点を一時的に占領することを承認された。それはサルディニアの領土保全とローマ問題について、オーストリアと平和的に交渉する材料を手に入れるためだつた。

 周知のやうにイタリアの運命は北イタリアの戦場で決まる。したがつて、ロンバルディアやピエモンテとともにローマを失ひたくなければ、フランスはオーストリアに宣戦布告して、さうすることによつてヨーロッパの反革命に対して宣戦布告しなければならなかつた。

 国民議会は突然バロ内閣が昔の公安委員会(=一七九三年、外敵から革命を救ふために設置された)に見えたのだらうか。それとも自分を昔の国民公会(=公安委員会の独裁を容認)と思つたのだらうか。要するに何のために北イタリアの一部を軍事占領するのだらう。この見え見えの目くらまし策はローマ遠征を隠すためだつたのである。

 四月十四日、ウディノの指揮下に一万四千人がチヴィタヴェッキアに向かつて出航した。四月十六日、国民議会は内閣に対して、地中海における干渉艦隊の三ヵ月の維持費として百二十万フランの借入れを承認した。かうして議会は内閣に対して、オーストリアに干渉することを認める形で、ローマに干渉するあらゆる手段を与へた。

 議会は内閣のしてゐることは見ず、内閣の言ふことを聞いてゐるだけだつた。これほどの信仰はイスラエルの民にも見られないものだつた。憲法制定議会は、制定された共和制が何をしようとしてゐるかを知ることが許されない立場に置かれてゐたのである。

 つひに五月八日、芝居の最後の場面が上演された。憲法制定議会が内閣に対して、イタリア遠征を本来の目的に戻すために大至急対策を講じるやうに要求したのである。ボナパルトはその晩『モニトゥール』紙に書簡を掲載して、ウディノを最大限に賞賛した。

 五月十一日、国民議会はまさにこのボナパルトとその内閣に対する告発動議を否決した。しかも山岳党はこの詐欺のからくりを打破するどころか、議会のいんちき芝居を大まじめに信用して、その芝居の中で自らフーキエ・タンヴィル(=昔の革命裁判所の首切り検事)の告発役を演じようとしたのだ。しかし、借り物の国民公会の獅子の皮の下から、生まれついた小ブルジョアの子牛の皮が見えたのではなからうか。

 憲法制定議会が存在した後半期は、次のやうに要約できる。憲法制定議会は一月二十九日(=議会解散日決定)には、自分が制定した共和制の当然の支配者はブルジョア王朝派(=バロとボナパルトの政府)であることを認め、三月二十一日(=クラブ禁止法)には憲法を実現するには憲法に違反する必要があることを認めた。また、フランス共和制は諸外国で階級闘争する国民たちと消極的ながらも同盟することが大々的に予告されてゐたが、五月十一日(=ローマ介入承認)に議会は、それが実はフランス共和制とヨーロッパ反革命との積極的同盟を意味することを認めた。

 このみじめな議会は舞台から降りる前に、自分の一年目の誕生日である五月四日の二日前、六月の反逆者に対する大赦の動議を否決して自己満足をした。

 憲法制定議会は、自分の権力を粉々に砕かれ、国民からはひどく憎まれ、ブルジョアの手先だつたのにブルジョアからは拒絶され虐待されさげすまれて除け者にされ、その存在の後半期には前半期を否認せざるを得ず、共和制の幻想を奪ひ取られ、過去に偉大な業績を上げることもなく、将来に希望もなく、生きたまま徐々に死んでいく存在だつた。

 だから彼らは、もはや六月の勝利を絶えず思ひ起こして何度も過去を体験し直すことによつてはじめて、死にかけの自分の体に電気ショックを与へることができた。つまり、処罰された者を絶えず繰り返し処罰することで自分自身を肯定したのである。彼らはまさに六月の反逆者の血で生き長らえる吸血鬼だつたのだ。

 憲法制定議会があとに残したものは国家の負債だつた。それは六月反乱の費用と、塩税の廃止と、黒人奴隷制廃止に対してプランテーションの所有者に払つた補償金と、ローマ遠征の費用と、酒税の廃止によつて以前よりふくらんでゐた。酒税の廃止はこの議会が今はの際に決めたものだつた。それはまさに意地悪な年寄りが、自分の死を喜ぶ相続人に人迷惑な博打の借金を押しつけて喜ぶ姿だつた。

 三月が始まるとともに、立法国民議会の選挙運動が始まつた。二つの主要グループが対立してゐた。秩序党と民主的社会主義的政党つまり赤色党である。この両者の間には「憲法の友」の政党がゐた。この名のもとに『ナショナル』の三色旗共和派は一つの党を代表してゐたのである。

 秩序党は六月暴動の直後に結成された。だが、その誕生の秘密、つまりオルレアン派と正統王朝派が連合して一つの党になつたといふことは、十二月十日の選挙によつて秩序党がブルジョア共和派即ち『ナショナル』派を切り捨てることができるやうになつて初めて明らかになつた。

 ブルジョア階級は二つの大きな派閥、つまり大土地所有者の派閥と、金融貴族と産業ブルジョアの派閥に分かれゐた。そのうちで大土地所有者が復古王政下で、金融貴族と産業ブルジョアが七月王政下で、独占的支配を代はる代はる維持してきたのである。

 「ブルボン」は前者の派閥利益の影響力が優勢なことを表す王朝の名前だつたのに対して、「オルレアン」は後者の派閥利益の影響力が優勢なことを表す王朝の名前だつた。そして無名の共和国は、両派閥が平等の支配権をもち、互ひの競争をやめなくても共通の階級利益を維持できる唯一の国だつた。

 ブルジョア共和制が、まさに全ブルジョア階級の支配が完成され明確に表現されたものであるなら、それは正統王朝派に補完されたオルレアン派の支配であり、しかもオルレアン派に補完された正統王朝派の支配、即ち、復古王政と七月王政の総合以外の何であり得たらうか。

 『ナショナル』のブルジョア共和派は、経済的基盤に立脚したブルジョア階級の大きな派閥を何一つ代表してゐなかつた。王政下の二つのブルジョア派が自分たちの特殊な政治体制しか理解しなかつたのに比べて、ブルジョア共和派は、ブルジョア階級の普遍的な政治体制つまり無名の共和国を主張したといふ重要性と歴史的権原しかもつてゐなかつた。

 彼らはこの無名の共和国を理想化し古代風の手の込んだ模様で飾りたてたが、この共和国が何よりも自分たちの党派による支配になると思つてゐた。『ナショナル』派は、自分たちが創設した共和国の頂上に連合王朝派がゐるのを見て理解できないでゐたが、それに劣らず連合王朝派も自分たちの連合支配の真相を理解できないでゐた。

 連合王朝派は、それぞれの派閥を別々に見れば王朝主義であるが、二つを化学的に結び付けて出来たものは共和主義にならざる得ないこと、白の君主制と青の君主制は互ひに相殺して三色旗共和制にならざるを得ないことが理解できなかつたのである。

 秩序党のそれぞれの派閥は、革命的プロレタリアとそれを中心にして結集してゐる中間階級に対抗するために、両派閥の連合した力を動員し、さらにこの連合した力の組織を保持せざるを得ず、相手の王朝派の復古欲と越権欲に対抗するには、共同支配すなはち共和的形態のブルジョア支配を主張するしかなかつたのである。

 かうして、この二つの王朝派は、初めはすぐにでも王政復古ができると信じてゐた。しかし、のちに彼らは共和制に憤慨して罵詈雑言を浴びせながらも共和制を守るやうになり、最後には両者がうまく折り合へるのは共和制だけであることを認めて、王政復古を無期限に延期したのである。

 この二つの派閥は、共同支配によつてそれぞれが力を付けてくると、一方が他方に従属して君主制を復活させることが益々不可能になり、また望まないやうになつた。

 秩序党はその選挙綱領の中でブルジョア階級の支配を率直に表明した。それは秩序党による支配の存立条件である財産の維持と、家族の維持と、宗教の維持と、秩序の維持だつた。秩序党は当然自分たちによる階級支配とこの階級支配の条件こそ文明による支配なのだと言ひ、それが物質的生産とその生産から生じる社会的交易関係の必要条件なのだと言つたのである。

 秩序党は膨大な資源を自由に出来た。そしてフランス中に支部を開設して、古い社会の理論家を悉く雇ひ入れ、いまある行政権の影響力を思ふがままに駆使した。また彼らは、小ブルジョアと農民階級の全大衆の中に大勢の無給の家来を持つてゐた。小ブルジョアと農民階級はまだ革命運動から距離を置いてをり、金持ちのお偉方を、自分たちのわづかな財産とこの財産に対する些細な偏見の代表と見てゐたのである。

 この党は、全国の無数の小さな王様たちによつて代表されてをり、自党の候補者を拒否することを反乱として罰することもできれば、反抗的な労働者たちを解雇でき、逆らふ農場労働者、召使、店員、鉄道従業員、秘書、つまりブルジョア社会で彼らに隷属する全職員を解雇できた。

 最後に、秩序党は、十二月十日に選ばれたボナパルトがその奇跡的力を発揮するのを邪魔したのは共和主義的な憲法制定議会だといふ思ひ違ひを、あちこちに広めることができた。

 我々は秩序党の一員であるボナパルト派にまだ触れてゐなかつた。ボナパルト派はブルジョア階級の重要な派閥ではなく、年老いた迷信深い傷痍軍人と若く不信心な冒険家たちの寄せ集めだつた。秩序党は選挙に勝利して、立法議会に巨大与党を形成した。

 小ブルジョアと農民階級の中でもすでに革命的になつてゐた部分は、反革命で連合したブルジョア階級に対抗するために、当然ながら革命的利益の立て役者だつた革命的プロレタリアと連合せざるを得なかつた。

 既に見たやうに、議会での小ブルジョアの民主的な代弁者つまり山岳党は、議会での敗北によつて、プロレタリアの社会主義的代弁者の方へ追ひやられ、議会の外の現実の小ブルジョアは、和解協約とブルジョア的利益の無慈悲な要求と破産とによつて、現実のプロレタリアの方へ追ひやられてゐた。

 一八四九年の一月二十七日に山岳党は社会主義者と和解して、二月の大きな宴会では和解決議を新たにした。社会主義政党と民主的政党、労働者の政党と小ブルジョアの党派は連合して社会主義的民主的政党、つまり赤色党をつくつた。

 フランスの共和制は、六月暴動に続く断末魔の苦しみによつてしばらく無力になつてゐたが、戒厳状態の解除以来、つまり十月十四日(=一八四八年)以来、ずつと続く熱病のやうな混乱状態にあつた。先づ大統領の椅子をめぐる戦ひが、次いで大統領と憲法制定議会の戦ひが、クラブ存続をめぐる戦ひが、そしてブルジェにおける裁判(=五月十五日事件の参加者ブランキなどの裁判)があつた。

 この裁判は、大統領や連合王朝派や穏健な共和主義者たちや民主的な山岳党やプロレタリアの社会主義空論家などの卑小な姿に比べて、プロレタリアの本物の革命家を、大洪水が社会の表面に唯一残していつた創世期の巨人、或ひは社会的大洪水に唯一先立つ巨人として見せたのである。

 その次ぎには選挙運動が、ブレア(=将軍、六月暴動鎮圧中殉死)殺害犯の処刑が、絶え間ない新聞訴訟が、宴会運動への政府による警察の暴力的干渉が、王朝派の横柄な挑発が、ルイ・ブランとコシディエールの肖像が晒し台に置かれた事件が、制定された共和制と憲法制定議会との不断の戦ひがあつた。

 この戦ひは常に革命をその出発点に引き戻し、常に勝者を敗者に、敗者を勝者に変へ、常に政党と階級の立場を変へさせ、離合集散を繰り返させた。

 さらにヨーロッパ反革命のすばやい進展が、栄光に満ちたハンガリーの戦ひが、ドイツでの武装蜂起が、ローマ遠征が、ローマでのフランス軍の不名誉な敗北があつた。

 そして、この激動の渦中で、この社会不安の苦悩の中で、この革命的情熱と希望と失望の劇的な潮の満ち干の中で、フランス社会の様々な階級は、自分たちの進化の時間を以前は半世紀単位で計つてゐたのに対して、今では週単位で計らなければならなかつた。

 農民階級と地方のかなり大きな部分が革命に向つてゐた。農民階級はナポレオンに失望しただけではなかつた。赤色党は彼らに名目に代つて内容を、幻の減税に代つて、正統王朝派に支払はれた十億フランの返還を、抵当の調整を、高利貸の廃止を公約したからである。

 軍隊自体が革命熱に感染してゐた。彼らがボナパルトに投票したのは勝利を得るためだつたのに、ボナパルトが彼らに与へたのは敗北(=ローマの敗北)だつた。また、軍隊がボナパルトに投票したのは、偉大な革命将軍を内に秘めた小さな伍長(=ナポレオン一世)を得るためだつたのに、ボナパルトが彼らに与へたのは、厳格なだけの伍長を内に秘めた将軍達だつた。

 したがつて、パリの民衆と軍隊と地方の人々の大部分が赤色党即ち連合した民主的政党に投票して、彼らが勝利(=勝つたのは秩序党)はできなくとも当然の大成功を収めたことは疑ひがなかつた。山岳党の党首ルドリュ-ロランは五つの県から選出されたが、秩序党の指導者も、本来のプロレタリア政党のどの候補者もこれほどの勝利を収めた者はゐなかつた。

 この選挙は民主的社会主義的政党の秘密を我々に明らかにした。それは先づ、民主的小ブルジョアの議会の戦士である山岳党は、プロレタリアの社会主義空論家と連合せざるを得なかつたことである。

 プロレタリアは、六月の恐るべき物理的敗北のせいで知的勝利による再起を強ひられ、しかも他の階級の発展のせいで革命的独裁権を手に入れることはできず、自分たちの解放を説く空論家、社会主義的派閥の創設者に身を委ねるしかなかつた。

 二つめの秘密は、革命的な農民と軍隊と地方の人々は山岳党の後ろについたことである。かうして山岳党は革命陣営の指導者となり、社会主義者との合意によつて革命的党派の中の対立を解消した。

 憲法制定議会の後半期には、山岳党は議会の中の共和主義的熱意を代表してをり、臨時政府と執行委員会と六月暴動の時に犯した自分たちの罪を忘れ去つてゐた。

 『ナショナル』派が中途半端な性格のせいで王朝派内閣による抑圧を許してゐたとき、『ナショナル』派の全盛期に排除されてゐた山岳党が台頭して、議会で革命を代表する党として頭角を現はしたのである。

 事実『ナショナル』派は、野心的人間と理想主義的おしやべり以外に、王朝派に対抗できるものは何も持つてゐなかつた。それに対して、山岳党はブルジョアとプロレタリアの間で揺れ動く大衆を代表してゐた。大衆の経済的利益は民主的制度を必要としてゐたからである。

 したがつて、カヴェニャックやマラストと比べると、ルドリュ-ロランと山岳党は革命のまつただ中にゐた。そしてこの立場の重要性を意識してゐた彼らは、革命的エネルギーの発露が議会での攻撃に制限されれてゐたので、却つて勇気満々になれた。そして告発動議の提出したり、脅したり、声を張り上げたり、雷のやうな演説をしたり、言葉を越えない範囲で可能な限りの過激な手段に訴へたのである。

 農民階級は小ブルジョアと殆ど同じ立場にたつて、殆ど同じ社会主義的要求を持ち出した。したがつて、革命運動に駆り立てられてゐた中間層は悉く、ルドリュ-ロランを自分たちの英雄と認めざるを得なかつた。ルドリュ-ロランは民主的小ブルジョアの名士だつた。秩序党に対抗するために、半ば保守的で半ば革命的なこの改革者、全くユートピア的なこの秩序の改革者を、当面先頭に押し立てるしかなかつたのである。

 『ナショナル』派、「quand même(何があつても)憲法の友」、この républicains purs etsimples(生粋の共和主義者)は、選挙で完全に敗北した。立法議会に送り込まれたのはごくわづかだつた。この党の最も有名な指導者たちは表舞台から姿を消した。編集長であり穏健な共和制のオルフェウス(=詩人)であるマラストもさうだつた。

 五月二十八日に立法議会が招集された。六月十一日には五月八日の衝突が再現された。ルドリュ-ロランが山岳党の名で、ローマ砲撃を理由に憲法違反のかどで大統領と内閣への告発動議を提出した。憲法制定議会が五月十一日に告発動議を否決したのと同じやうに、六月十二日に立法議会は告発動議を否決した。

 しかし今回はプロレタリアが山岳党を街頭へ駆り出した。それは市街戦のためではなく、ただ街頭行進するためだつた。山岳党はこの運動の先頭に立つた。しかし、その結果山岳党は、この運動が粉砕され、一八四九年六月が一八四八年六月の滑稽で馬鹿々々しい物真似となつたことを知つただけだつた。

 六月十三日のこの偉大な退却の馬鹿々々しさを上回つたものは、秩序党が間に合はせに作り出した偉人シャンガルニエのさらに偉大な戦闘報告(=この運動の鎮圧)だけだつた。各々の時代はそれぞれの偉人を必要とする。もし偉人が見つからなければ、エルヴェティウス(=仏哲学者、一七一五年~一七七一年)が言ふやうに、時代が偉人をでつち上げるのである。

 十二月二十日(=一八四八年)には、制定されたブルジョア共和制の半分、即ち大統領しか存在しなかつた。制定されたブルジョア共和制は、五月二十八日(=一九四九年)に残りの半分即ち立法議会によつて補完された。

 一八四八年の六月には、制定されつつあつたブルジョア共和制が、プロレタリアに対する言語に絶する戦闘によつて、一八四九年六月には、制定されたブルジョア共和制が、小ブルジョアとのお話しにならない喜劇によつて、歴史の出生届にその名を刻まれた。

 一八四九年の六月(=小ブルジョアの敗北)は一八四八年の六月(=労働者だけの敗北)に対する天罰だつた。一八四九年六月に敗れたのは労働者ではなく、かつて労働者の革命を妨げた小ブルジョアだつたからである。一八四九年六月は、賃労働と資本の間に起つた流血の悲劇ではなく、債務者(=小ブルジョア)と債権者(=大ブルジョア)の間に演じられた、監獄シーン満載のお涙頂戴劇だつた。

 秩序党は勝利して全能となつた。今その正体が明らかになる時が来たのである。



第三章 一八四九年六月十三日の結果 一八四九年六月十三日から一八五〇年三月十日まで

 十二月二十日には立憲共和制のヤヌス(=二つの顔を持つ神)の頭はまだその一方の顔、ルイ・ボナパルトのぼんやりとして平板な表情をした執行権力の顔だけを持つてゐたが、一八四九年五月二十八日には第二の顔つまり立法権力の顔を持つた。この顔は、王政復古と七月王政のやりすぎが残した深いしわが刻まれてゐた。

 立法国民議会の成立とともに、立憲共和制すなはち共和的な統治形態の外見は完成した。それはブルジョアによる階級支配の制定であり、フランスのブルジョアを形成する正統王朝派とオルレアン派の二大王朝派が連合した共同支配であり、秩序党の支配だつた。

 かうしてフランス共和制は連合王朝派の所有物となつた。一方、ヨーロッパ反革命の連合勢力は、三月革命の最後の拠点に向つて一斉に十字軍による総攻撃を行なつてゐた。ロシアはハンガリーに侵攻し、プロイセンはドイツ国憲法(=一八四九年三月二十八日のフランクフルト憲法)擁護人民軍に向つて進軍し(=エンゲルス『ドイツ国憲法戦役』参照)、ウディノはローマを砲撃した。

 ヨーロッパの危機は明らかに決定的転回点にさしかかつてゐた。ヨーロッパ中の目はパリに向けられ、パリ中の目が立法議会に向けられた。

 六月十一日、ルドリュ-ロランが演壇に登つた。彼は演説をしたのではなかつた。内閣に対する非難を、あけすけに、飾り立てずに、事実に即して、集中的に、力強く述べた。

 「ローマへの攻撃は憲法に対する攻撃であり、ローマ共和国への攻撃はフランス共和国への攻撃である。憲法の前文第五項には『フランス共和国はいかなる国民の自由に対しても武力を行使しない』と書いてある。ところが大統領はローマ人の自由に対してフランスの武力を行使してゐる。

 「憲法第五十四条は行政権が国民議会の同意なしにいかなる宣戦布告をすることも禁止してゐる。憲法制定議会の五月八日の決議はローマ遠征を元々の目的に緊急に合致させるよう内閣にはつきり命令した。つまりこの決議はローマに対する戦争を内閣にはつきり禁じたものだ。しかるにウディノはローマを砲撃してゐる」

 このやうにルドリュ-ロランは、ボナパルトとその閣僚に対する有罪証人として憲法そのものを持ち出した。この憲法の護民官は、国民議会の王朝派多数派に対して威嚇的な発言を投げつけた。「共和主義者はあらゆる手段に訴へて、たとへ武力に訴へても憲法を尊重させることができるだらう」。「武力に訴へても」と山岳党の百倍のこだまが繰り替へした。

 これを聞いた多数派は大騒ぎになつた。国民議会議長はルドリュ-ロランに言葉を慎むやうに命じたが、ルドリュ-ロランは挑発的な発言を繰り返し、最後にボナパルトとその内閣の告発動議を議長の机に置いた。国民議会は三百六十一票対二百三票でローマ砲撃問題の討議を打ち切り、通常の議事へ移ることを決定した。

 ルドリュ-ロランは、国民議会を憲法によつて打ち負かし、大統領を国民議会によつて打ち負かすことができると信じてゐたのだらうか。

 確かに憲法は外国の国民の自由に対する攻撃を一切禁じてゐた。しかし、フランス軍がローマで攻撃してゐたのは、内閣によれば「自由」ではなく「無政府の専制」であつた。

 山岳党は、憲法制定議会での経験にもかかわらず、次のことを相変はらず理解してゐなかつたのではなからうか。それは、憲法を解釈する権利は、憲法を作つた人のものではなく、憲法を受け入れた人だけのものだといふことであり、憲法の言葉は生きた意味で解釈されるべきであり、ブルジョア的意味がその唯一の生きた意味であるといふことであり、僧侶が聖書の確かな通訳であり、裁判官が法律の確かな通訳であるやうに、ボナパルトと国民議会の王朝派多数派が憲法の確かな通訳であることである。

 憲法制定議会の意志は生前でさへオディロン・バロのやうな人間によつて踏みにじられたのであるから、普通選挙の胎内から新たに生まれた国民議会は、死んだ憲法制定議会の遺言に拘束されると感じる必要があるだらうか。

 ルドリュ-ロランが五月八日の憲法制定議会の決議を引き合ひに出したとき、彼は次のことを忘れてしまつたのだらうか。つまり、この同じ憲法制定議会が五月十一日にボナパルトとその内閣に対する彼の最初の告発動議を否決して、大統領と内閣に無罪を言ひ渡し、その結果、ローマ攻撃を「合憲」として既に承認してゐること、だから、彼はすでに下された判決に対して控訴したにすぎないこと、要するに彼は共和派が占める憲法制定議会の判決を不服として王朝派が占める立法議会に控訴したのだといふことを、忘れてしまつたのだらうか。

 憲法は反乱に救ひを求めてゐる。憲法は特に条項(=第百十条)を設けて全ての市民に憲法擁護を呼びかけてゐるからである。ルドリュ-ロランはこの条項を拠り所にした。

 しかしそれと同時に、様々な公的権力は憲法擁護のために組織されてゐるのではなからうか。さらに憲法違反とは、憲法に基づく一つの公的権力が別の公的権力に反乱を起こす瞬間にこそ始まることではなからうか。ところが、共和国の大統領と共和国の内閣と共和国の国民議会は極めて円満な状態にあつたのである。

 山岳党が六月十一日に試みたこと(=ルドリュ-ロランによる内閣告発動議)は、「純粋理性の範囲内の反乱」つまり純粋に議会内の反乱だつた。彼らの狙ひは、議会の多数派が、国民大衆の武装蜂起におびえて、ボナパルトと内閣を破壊してしまひ、その結果、自らの権力と自らが選出された意義を破壊してしまふことだつた。

 かつて憲法制定議会がバロ=ファルー内閣の退陣を頑強に主張したとき(=塩税の否決)、今回と同じやうにボナパルトの選出を無効にしようとしたのではなからうか。

 多数派と少数派の関係を突然根底から覆すやうな議会内の反乱の手本は、国民公会時代には確かにあつた。だから、昔の山岳党が出来たことが今の山岳党に出来ないことがあらうか。また、目下の関係がさういふ企てにとつて不利とは思へなかつた。

 大衆の興奮はパリでは危機的レベルに達してゐた。軍隊は選挙の投票行動から見て、政府を支持してゐるとは思へなかつた。立法議会の多数派自身は、出来てからまだ日が浅く脆弱だつただけでなく、中身は老人ばかりだつた。山岳党が議会内の反乱に成功したなら、国家の指揮権はすぐに彼らのものとなつたらう。

 一方、民主的小ブルジョアとしては、いつものやうに戦ひが自分たちの頭の上の雲のなか、議会の世間離れした人たちの間で戦はれるのを何よりも見たいと望んでゐた。

 結局、民主的小ブルジョアと彼らを代表する山岳党の両者は、議会内で反乱を起こせば、プロレタリアを解放せず彼らを後ろに置いたままで、ブルジョアの権力を打破するといふ大きな目標を達成できる、プロレタリアを危険な存在にすることなく利用できる、と共に考へてゐたのである。

 六月十一日の国民議会の票決(=ローマ砲撃問題討議打ち切り)のあとで、山岳党の数名の党員と労働者の秘密結社の代表者の間で会合が持たれた。秘密結社の代表者はその晩にも攻撃を開始するやう迫つた。山岳党は断固としてこの計画を拒否した。山岳党はなんとしても主導権を手放すまいとした。山岳党は自分たちの同盟者を敵と同じくらいに信用してゐなかつたが、それも無理はなかつた。

 一八四八年六月の記憶は、パリのプロレタリアの陣営の間では、かつてなく生き生きと波打つてゐた。にもかかわらず、彼らは山岳党との同盟関係に縛りつけられてゐた。山岳党は大部分の県から代議士を出してをり、軍隊内でも自分たちの影響力を強調し、民兵の中の民主的な部分を自由に使へ、商店主たちの精神的支持をバックにしてゐたからである。

 だから、山岳党の意思に反してこの瞬間に革命を始めることは、ただでさへコレラで大損害を被り、失業でかなりの数がパリから追ひ払はれ、絶望的な戦ひをする差し迫つた事情もなかつたプロレタリアにとつて、一八四八年の六月暴動を無益に繰り返すこと意味してゐた。

 プロレタリアの代表者は唯一の賢明な方法をとつた。山岳党から妥協の約束を取り付けたのである。それは彼らの告発動議が否決された場合には、議会内闘争の枠を踏み越えるといふものだつた。

 六月十三日、プロレタリアは一日中かうして用心深く状況を見守る姿勢をとりつづけて、民主的な民兵と軍隊との間に、後戻りの出来ない大きな衝突が起こるのをじつと待つてゐた。そして、さうなれば小ブルジョアの目標を越えて、戦闘と革命に飛び込んで行かうとしてゐたのである。

 この戦ひに勝利した場合に備へて、プロレタリアのコミューンがすでに組織されてゐた。それが公けの政府と並び立つことになる予定だつたのである。パリの労働者たちは一八四八年六月の血にまみれた学校でしつかり学んでゐたのだ。

 六月十二日、ラクロス大臣自身が告発動議の討議にただちに移る動議を立法議会に提出した。政府は夜のうちに防衛と攻撃のためのあらゆる準備を整へてゐた。国民議会の多数派は反抗的な少数派を街頭に追ひ出す決意を固めてゐたのだ。少数派自身はもはや後へは退けなかつた。采(さい)は投げられたのである。

 告発動議は三七七票対八票で否決された。投票を棄権した山岳党は、憤概しながら「平和的民主主義」の広報本部である『デモクラティ・パシフィーク』紙(=フーリエ派の新聞)の発行所へ走つた。

 しかし、議事堂から離れるやいなや山岳党は力を失なつた。それは大地の子巨人アンタイオス(=ヘラクレスが倒した巨人の一人)が大地から引き離されるやいなや力を失つたのと似てゐる。立法議会の議場ではサムソン(=イスラエルの民を救ふ怪力)だつた山岳党は、「平和的民主主義」の部屋の中ではもはやペリシテ人(=俗物、凡人)でしかなかつた。

 長々と騒々しくてとりとめもない議論が続いた。山岳党は「ただ武力だけは使はず」あらゆる手段を使つて無理にでも憲法に敬意を払はせようと決意してゐた。この決意をした山岳党を「憲法の友」はその声明と代表団の派遣によつて支援した。

 「憲法の友」は『ナショナル』派の残党、即ちブルジョア共和派の残党が自分に付けた名前である。この党からなほ当選してゐた議員のうちでは六名の議員が告発動議の否決に反対票を投じ、残りの全員が賛成票を投じた。またカヴェニャック(=この党員)は自分のサーベルを秩序党に自由に使はせた。そんな中、議員以外の『ナショナル』派のもつと大きな一団は、政治的な除け者の地位から抜け出して、この民主的政党の陣営に馳せ参じるこの機会をしやにむに捕らへた。

 かつてはこの民主的政党は『ナショナル』派の盾のかげに、その原理のかげに、つまり憲法のかげに身を隠してゐたのだが、今では『ナショナル』派がこの政党の生まれついての盾持ちに見えたのではなからうか。

 山岳党は明け方まで産みの苦しみを味はつてゐた。そして「国民への声明」を産み落としたのである。この声明は六月十三日の朝に、二つの社会主義系新聞の多少控へ目な欄に掲載された。

 この声明は大統領と内閣と立法議会の多数派は「憲法を逸脱した(hors laconstitution)」と宣言し、民兵と軍隊と最後に国民に対して「蜂起せよ」と呼び掛けた。「憲法万歳」がこの声明が伝へたスローガンだつた。しかし、それは「革命を倒せ」といふ意味でしかなかつた。

 山岳党の憲法擁護の声明に呼応して、六月十三日には小ブルジョアのいはゆる平和的デモが行なはれた。それはシャトー・ドーから大通りを通る三万人の街頭行進で、おもに非武装の民兵からなつてゐたが、労働者の秘密結社のメンバーも混つてゐた。

 彼らはだらだら歩きながら「憲法万歳」と呼びかけた。しかし、その声は行進の参加者自身が機械的に醒めた調子で、恥づかしげに発せられるもので、歩道にむらがる群集の反響は雷鳴のやうな高まりを見せることなく、皮肉を込めて投げ返されるだけだつた。

 この多重合唱には胸の底から沸き上がる歌声が欠けてゐた。そして行進が「憲法の友」の会議場の建物の前にさしかかつて、雇はれた憲法伝令使が家の切妻の上に現はれて、オペラハットを打ち振りながら、途方もない肺臓から「憲法万歳」といふ標語を巡礼たちの頭の上から雨霰(あられ)のやうにそそぎかけたとき、彼らはしばらくこの状況の滑稽さに打ちのめされたやうだつた。

 周知のとおり、一行はドゥ・ラ・ペ通りの入り口に着いて、大通りでシャンガルニエの竜騎兵と狙撃兵によつて全く議会人に相応しくないやり方で迎へられた。すると一行は六月十一日の議会での「武力に訴へても」を実行させるはずの「武器をとれ」といふかすかな叫び声を背中にして、一瞬にしてクモの子を散らすように逃げ去つたのである。

 このやうに平和的な行進が暴力的に粉砕されると、非武装の市民が大通りで虐殺されたといふいい加減な噂が流れて、街頭の混乱がますます広まつた。そして、いまや暴動がさし迫つてゐると思へたとき、アザール通りに集まつてゐた多くの山岳党員は四散した。

 ルドリュ-ロランは議員の小さな群れの先頭に立つて、山岳党の名誉を救つた。彼らは、パレ・ナショナルに集合してゐたパリ砲兵隊に守られて、Conservatoire des arts etmétiers(工芸学校)におもむいた。そこには民兵の第五、第六軍団が到着するはずだつた。しかし、山岳党が待つても、第五、第六軍団は来なかつた。用心深い民兵は自分たちの議員を見捨てたのである。

 またパリ砲兵隊自身も民衆がバリケードを築くのを妨害した。事態は混沌としてゐたのでいかなる決定もできなかつた。正規軍が銃剣を構へて迫つた来た。議員のある者は逮捕され、ある者は逃走した。かうして六月十三日は終つた。

 一八四八年六月二十三日が革命的プロレタリアの反乱だつたのに対して、一八四九年六月十三日は民主的小ブルジョアの反乱だつた。この二つの反乱はどちらも、それぞれの反乱を支へた階級の純粋で典型的な表現だつた。

 唯一リヨンにおいて頑強で凄惨な戦ひが起つた。ここでは産業ブルジョアと産業プロレタリアが正面から対決した。また、ここの労働運動はパリの労働運動のやうな全体的な運動の枠組みがなかつたので、六月十三日は本来の性格を失つて暴走してしまつたのである。

 その他の地方で六月十三日の雷が落ちたところでは、火がつくことはなかつた。それは発火しない落雷だつた。

 六月十三日、一八四九年五月二十八日に立法議会の召集によつて正規な存在となつた立憲共和制の最初の活動期間が終つた。この序章の全期間は、秩序党と山岳党との、ブルジョアと小ブルジョアとのすさまじい争ひに明け暮れた。小ブルジョアは、ブルジョア共和制が確定することに反対したが無駄だつた。

 かつてはその小ブルジョアが、ブルジョア共和制のために、臨時政府の中でも執行委員会の中でも絶え間なく陰謀を企ててゐたし、六月暴動のときはプロレタリアを敵に回して熱狂的に闘つたものであつた。

 六月十三日は、小ブルジョアの抵抗が打ち破られ、連合王朝派の立法府における独裁が faitaccompli(既成事実)になつた日となつた。この瞬間から国民議会はもはや秩序党の公安委員会でしかなくなつた。

 先にパリは大統領と内閣と国民議会の多数派とを「告発状態」したのに対して、今はこの三者がパリを「戒厳状態」に置いた。先に山岳党は立法議会の多数派が「憲法を逸脱した」と宣言したが、今は多数派が山岳党を憲法違反の理由でhaute-cour(高等法院)に引渡し、山岳党の中でまだエネルギーのある者を全員追放した。山岳党は切り刻まれて頭も心臓もない胴体だけの体にされてしまつた。先に少数派は議会内反乱を試みるまでに至つたが、今は多数派が議会内独裁を法律にまで高めたのだ。

 多数派は新しい議事規則を制定して演壇の自由をなくした。国民議会の議長には、秩序侵害を理由に議員を戒告、罰金、議員歳費の剥奪、登院停止、禁足処分をする権限が与へられた。多数派は山岳党の胴体だけの体の上に、剣に代へて鞭をぶら下げたといふわけである。

 残つた山岳党議員は名誉のために集団辞職をすべきだつた。山岳党がさういふ行為に出てゐたら、秩序党の分解は早まつただらう。反対派との対立といふ外観がもはや彼らの結束を保つことができなくなつた瞬間から、この党は元の構成分子に分解せざるをえなかつたらう。

 議会内の勢力を失つた民主的小ブルジョアは、これと同時期にパリ砲兵隊と民兵第八、第九、第十二軍団が解散されたことで兵力も失つた。

 他方、大金融家が支配する民兵の軍団は、六月十三日にブーレとルーの印刷所を襲ひ、印刷機を破壊し、共和主義的な新聞社を荒し、編集者、植字工、印刷工、発送人、給仕人などを好き勝手に逮捕した。その後、この軍団は議会の壇上から激励の言葉を受けた。フランス全土にわたつて、共和主義の疑ひがある民兵の軍団は次々と解散させられた。

 新しい新聞法、新しい結社法、新しい戒厳状態法、超満員のパリ監獄、追ひ返される政治難民、『ナショナル』紙の限界を越えるやうな全新聞の発行停止、軍事独裁による容赦のない迫害の餌食となつたリヨンとその周囲五県、神出鬼没の検事局、既にしばしば粛清された官吏のさらなる粛清。これらは勝利を収めた反動がいつも繰り返すお定まりの日常茶飯事だつた。

 これらについて六月の虐殺と国外追放のあとで、なほも言及する意味があるとすれば、それは今回これらがパリだけでなく、地方の県にも向けられ、プロレタリアだけでなく、とくに中間階級にも向けられたからである。

 戒厳令の布告を政府の判断に委ね、新聞の言論をさらに厳しく制限し、結社権を無くすやうな様々の弾圧法案の成立が、六月と七月と八月の国民議会の立法活動の全てだつた。

 しかし、この時代の特徴をよく表してゐるのは、この勝利の実際上の利用よりもむしろ主義主張のための利用であり、国民議会の決定よりも、その決定の動機であり、中身よりもスローガンであり、スローガンよりもむしろこれに命を吹き込む声の調子と身振りだつた。

 王朝主義的な主張を遠慮なく恥づかしがらずに表明すること、共和制を軽蔑的に上品に攻撃すること、王政復古の目的をことさら軽薄にしやべること、一言でいへば、共和主義的な礼儀作法を大いばりで破ることが、この時代に特有のスタイルであり流行だつた。

 「憲法万歳」といふのが六月十三日の敗者が上げた閧(とき)の声であつたために、勝者の方はしやべるときに憲法や共和主義を信じてゐるふりをする必要がなくなつた。反革命はハンガリーとイタリアとドイツを屈服させた。しかも彼らは王政復古が既にフランスのもうすぐそこまで迫つてゐると信じてゐたのだ。

 秩序党の円陣のリーダーたちの間では、われ先にと、自分の王朝主義を『モニトゥール』紙上に表明し、或ひは王政時代に犯したかもしれない自由主義的な罪を懺悔し、後悔し、神と人とに対して許しを請ふことを真剣に競つた。一日として国民議会の壇上で二月革命が国民の不幸として宣言されない日はなかつた。

 また、どこかの地方の正統王朝派の田舎貴族が、自分は一度も共和制を承認したことはないと厳かに断言しない日もなかつた。さらに、七月王政から卑怯にも逃げた者や七月王政を見捨てた者(=ティエールなど)が、ルイ・フィリップの慈悲や誤解などで実行できなかつた英雄的行為(=七月王政を救ふための)を遅ればせに語らない日もなかつた。

 二月事件で称賛すべきことは、勝利した民衆の高潔さではなくて、民衆に勝利を許した王朝派の自己犠牲と節度であつた。ある代議士は、二月の負傷者のために充てられた義捐金の一部を、当時祖国のために一人孤軍奮闘したパリの守備隊に寄付することを提案した。別の代議士は、オルレアン公の騎馬像をカルーセル広場に建てる命令を出すやうに要求した。

 ティエールは憲法を一枚の汚ない紙切れと呼んだ。オルレアン派は正統王政に対する自分たちの陰謀を後悔し、正統王朝派は非正統王政に反抗したことで王政全般の転覆を早めたことを、演壇から順番に後悔して見せた。さらにその演壇では、ティエールがモレ(一七八一年~一八五五年、一八四八年革命直前にルイ・フィリップに首相になるやう招請されたが断念)に対して、モレがギゾーに対して、バロが以上三人に対して陰謀を企てたことを後悔して見せた。

 「社会主義的・民主的共和国万歳」といふ呼びかけは憲法違反と宣言され、「共和国万歳」といふ呼びかけは社会主義的・民主的だとして告発された。

 ワーテルローの戦ひの記念日に、ある議員は「私にはプロイセン軍のフランス侵入は亡命革命家のフランス入国ほどに恐くない」と明言した。リヨンとその隣接県で計画されてゐるといふテロに関する訴へに、バラゲ・ディリエ(一七九五年~一八七八年、元帥)は「赤色テロより白色テロの方がまだいい(J'aime mieux la terreur blanche que la terreur rouge)」と答へた。

 そして議会では、共和制に反対し、革命に反対し、憲法に反対し、王政を支持し、神聖同盟を支持する皮肉が演説者の口から出るたびに、熱狂的な拍手喝采が送られた。ごく些細な共和制下の形式的儀礼、例へば議員たちが「Citoyens(市民諸君)」と呼びかける儀礼に違反することにも、秩序の紳士たちは熱狂した。

 七月八日のパリ補欠選挙が戒厳令下にプロレタリアの大部分が棄権した中で実施されたこと、フランス軍によるローマ占領(=七月初め)、緋色の衣をまとふ枢機卿たちのローマ入り、それに続く異端審問と修道士テロ(=ローマの共和主義者たちの粛清)、これらが六月の勝利の後に続いた新たな勝利の数々だつた。これらの勝利に秩序党は益々有頂天になつた。

 最後に八月半ば王朝派は、丁度その頃開催された県議会に出席するためと、何カ月もの宣伝合戦に疲れたために、国民議会に二カ月の休会を命じた。王朝派は、国民議会の代理および共和制の保護者として、明らかな皮肉を込めて、正統王朝派とオルレアン王朝派の幹部つまりモレやシャンガルニエらから選んだ二十五人の議員からなる委員会を残して行つた。

 この皮肉には彼らが思つた以上の深い意味があつた。自分たちの愛する王国の打倒を手伝ふやう歴史に強ひられた彼らが、自分たちの憎む共和制を保護するやう歴史によつて運命付けられたからである。

 立法議会の休会によつて立憲共和制の活動期間の第二期、その王朝主義の青年期が終はる。

 パリの戒厳状態が再び解除されると、出版活動も再開した。社会民主主義の新聞が発行停止になつてゐた間、つまり弾圧法が制定され王朝派が荒れ狂つてゐた間に、立憲君主主義的小ブルジョアを代表する古くからの文芸紙『シエクル』は共和主義にされ、ブルジョア改良派を表現する古くからの文芸紙『プレス』は民主主義にされ、ブルジョア共和派を代弁する古くからの伝統紙『ナショナル』は社会主義と見做されるやうになつた。

 公開のクラブが不可能となると、秘密結社がその広がりと密度を高めていつた。産業労働者の協同組合が純粋な商業団体として黙認され、経済的な価値はなかつたが、政治的な意味でプロレタリアを結びつける役割をした。ある程度革命的だつた様々な党派は、六月十三日の事件によつて、正式のリーダーを奪はれたが、あとに残つた民衆は自分自身のリーダーを獲得した。

 秩序の紳士たちは赤色共和制によるテロの予言で人々を縮み上がらせたが、ハンガリーとバーデンとローマで勝利した反革命の下劣な暴力と寒気を催す残虐行為は「赤色共和制」の潔白を証明した。そして不満をもつフランス社会の中間階級は、絶望が確かな赤色君主制がもたらすテロよりも、テロの可能性はあつても赤色共和制の約束の方を選び始めた。

 どんな社会主義者もフランスにおいてハイナウ(=オーストリアの反革命元帥)ほど革命の宣伝を多く行なつたものはない。「A chaquecapacité selon ses œuvres(才能のある者には、仕事に応じて与へよ)」(能力主義を言つたサン・シモンの言葉)

 その間に、ルイ・ボナパルトは国民議会の休会を利用して派手な地方周遊を行なつた。また、最も情熱的な正統王朝派は聖ルイの後裔(=フランス王位継承権者シャンボール伯、アンリ五世、シャルル十世の孫)を訪ねてエムス(=ドイツ西部の温泉保養地)へ巡礼に出かけた。そして、秩序の友の代議士たちは丁度開会中の県議会で陰謀をめぐらした。

 その陰謀とは、国民議会の多数派がまだ口に出す勇気がなかつたこと、つまり今すぐ憲法改正することを求める緊急動議を県議会の口に出させることだつた。憲法によれば、憲法の改正は一八五二年に特にこのために召集された国民議会によつてはじめて行なふことができた。

 しかしながら、もし過半数の県議会がこの緊急動議を口にしたら、国民議会は憲法の処女性をこのフランスの声に捧げざるを得ないのではなからうか。つまり、国民議会は地方議会に対して、ヴォルテールの『アンリアード』の中の尼僧たちがパンドゥール兵に対して抱いたのと同じ希望(=処女を奪つてほしい?)を抱いたのである。

 ところが、国民議会のポテパル(=旧約中の人物、ヨセフの主人)たちは、二、三の例外を除いて、それぞれの地方のヨセフ(=ポテパルの妻の誘惑を断わる)たちに苦しめられた。地方議会の圧倒的多数は、この厚かましい要求を理解しようとしなかつたのである。

 憲法改正は、それを実現する道具になるはずの多くの県議会の投票によつて葬り去られた。フランスの声、しかもブルジョア・フランスの声が確かに発言した。しかし、それは憲法改正は反対だと発言したのである。

 十月はじめ、立法国民議会が再開された。だが、tantum mutatus abillo(前とは何といふ変はりやうであらう。=『アエネイス』より)。その外見は全く変つてゐたのだ。多くの県議会によつて憲法改正が思ひがけない拒否に会つたことで、国民議会は憲法の枠内に引き戻され、しかも議会にまだ寿命(=三年、一八五二年五月二十七日まで)があることを思ひ出したのである。

 オルレアン派は正統王朝派のエムス巡礼に不信を抱き、正統王朝派はオルレアン派のロンドン(=ルイ・フィリップが亡命してゐる)との交渉に疑ひを抱いた。両派の新聞は火をあおり立て、互ひに相手の王位継承権者の正当性を吟味した。

 ボナパルトの派手な周遊旅行とかなり明白な独立の試み、そしてボナパルト系の新聞の野心的な論調で明かになつたボナパルト派の陰謀に対して、オルレアン派と正統王朝派は協力して不平を鳴らした。

 ルイ・ボナパルトは、正統王朝派とオルレアン派の陰謀に役立つ法案ばかりを通過させる国民議会と、この国民議会の場でいつも自分を見殺しにする内閣に対して不平を鳴らした。

 最後に、内閣は、財務大臣パッシ(一七九三年~一八八〇年)が提出して保守派から社会主義的だと非難された所得税法案とローマ政策で内部分裂してゐた。

 再開された立法議会にバロ内閣が提出した最初の法案の一つは、オルレアン公妃(=ルイ・フィリップの長男の妻)に寡婦給付を支払ふための三十万フランの借入要求だつた。国民議会はこれを認可して、フランス国民の負債簿に七百万フランを付け加へた。

 かうしてルイ・フィリップは pauvrehonteux(内気な乞食)の役を見事に演じ続けたのであるが、その一方で内閣はボナパルトのために追加手当を敢て提案しようとはせず、議会の方もそんな物を出しさうになかつた。そこでルイ・ボナパルトは相変はらず「Aut Caesar autClichy!(皇帝か、しからずんば破産監獄か)」といふ窮地に立つてゐた。

 内閣の提出した第二回の借入要求案はローマの遠征費用九百万フランだつた。この要求案はボナパルトに対する大臣および国民議会の緊張を増大した。ルイ・ボナパルトは自分の司令部将校エドガー・ネーに宛てた書簡を『モニトゥール』紙(=一八四九年八月十八日)に掲載したが、この中で彼は憲法による保証をローマ市民に与へる義務を教皇庁政府に負はせた。それに対して教皇は、復活された支配に対する如何なる制限も拒否するとの教皇談話を motuproprio(特別勅書で)発表した。

 この書簡によつて、ボナパルトは自分の執務室のカーテンをわざと不作法に掲げてみせて、自分は民衆に対する善意に満ちてゐるが身内には認められず自由も与へられてゐない天才であることを大衆の目に曝さうとしたのだつた。彼が「自由な魂の秘かな羽ばたき」をちらつかせたのはこれが最初ではない。

 伝言を伝へた二十五人委員会のティエールは、ボナパルトの「羽ばたき」を全く無視して、教皇談話をフランス語に訳すだけで充分だと考へた。大統領に助け船を出したのは内閣ではなくてヴィクトル・ユーゴーだつた。彼はナポレオンの書簡に国民議会が同意を表明すべきだといふ動議を提出した(=十月十五日)。

 「Allons donc! Allonsdonc!(よしてくれ。よしてくれ。)」多数派は、この無礼で軽薄な間投詞で、ユーゴーの動議を葬り去つた。大統領の政策。大統領の書簡。大統領が自ら。「Allons donc! Allons donc!」だれが一体ムッシュ・ボナパルトの言ふことを auserieux(真に)受けるのかね。ムッシュ・ヴィクトル・ユーゴー、大統領を信じてゐるといふ君の言葉を我々が信じると君は信じるのか。「Allons donc! Allons donc!」

 ボナパルトと国民議会の決裂は、最終的にはオルレアン家とブルボン家の召還についての論争によつて早められた。内閣がそれをしないので、大統領の従弟である前ウェストファリア国王の息子(=ジェローム・ナポレオン・ボナパルト)がこの動議を提出した。その目的は、正統王朝派とオルレアン派の王位継承権者を、少なくとも実際に国家の頂点に立つてゐるボナパルト派の王位継承権者(=ナポレオン一世の王位)と同じかそれ以下に格下げすることに他ならなかつた。

 ナポレオン・ボナパルト(=ルイ・ナポレオン)は、追放された王家の召還と六月の反逆者の大赦とを同じ一つの動議に組み込むといふ無礼なことをした。多数派は大いに憤慨した。そして神聖な者と邪悪な者、国王の血筋とプロレタリアのならず者、社会の星とそれが沼地に映る光とを、不埒にも結びつけたことについて、彼に謝罪を求め、この二つの動議に対してそれぞれに相応しい序列を与へさせたのである。

 彼らは王家の召還案を断固拒否した。そして正統王朝派のデモステネス(=古代ギリシアの雄弁家)であるベリエは、この投票の意味を一点の疑念なきまでに解明した。ベリエは叫んだ。「王位継承権者たちを市民の地位に格下げすること、これこそが召還案の狙ひである。彼らは王位継承権者の後光を奪ひ、彼らに残された最後の尊厳、流謫の尊厳をはぎ取らうとしてゐる。王位継承権者の中で、高貴な生まれを忘れてここに来て一般人として暮らす人がゐるとして、その人のことを世人はどう思ふだらうか」

 この言葉はルイ・ボナパルトに対してまさに次の事実をこれ以上ない程あからさまに告げてゐる。「彼はここに居ることによつて何も得をしてゐない。仮に連合王朝派がここフランスで大統領の椅子に座る中立的人間(=正統王朝派とオルレアン派の両派から中立)として彼を必要としてゐるとしても、真の王位継承権者の姿は流謫の霧によつて世俗の目から遮断して置かねばならない」

 この立法議会に対するルイ・ボナパルトの返答は十一月一日の教書だつた。そこには、バロ内閣の罷免と新しい内閣の組閣(=オプール内閣)がかなり無愛想な言葉で通告されてゐた。バロ=ファルー内閣は連合王朝派の内閣だつたのに対して、オプール内閣はボナパルトの内閣、立法議会に対抗する大統領の機関、秘書官からなる内閣だつた。

 ボナパルトはもはや単なる一八四八年十二月十日の中立的人間ではなくなつてゐた。ボナパルトが行政権を握つたために彼の周りに多くの利権が集中し、秩序党自身、無政府と戦ふためには彼の影響力を高めざるを得なかつた。そしてボナパルトはもう人気が無かつたとしても、秩序党は不人気だつた。

 「オルレアン派と正統王朝派の競争、何らかの王政復古への要請、これらを利用すれば中立的な王位継承権者を秩序党に認めさせることができるかもしれない」と、ボナパルトは思つたのではなからうか。

 一八四九年十一月一日から立憲共和制の第三期が始まり、それは一八五〇年三月十日(=議会補欠選挙)で終はる。それとともにギゾーが大いに称賛した立憲制度の合法的な試合、つまり行政権と立法権との間の喧嘩が始まつたが、それだけではなかつた。

 まづボナパルトは、連合したオルレアン派と正統王朝派の王政復古欲に対抗して、自分の実権の権原である共和制を主張し、秩序党はボナパルトの王政復古欲に対抗して自分たちの共同支配の権原である共和制を主張し、正統王朝派はオルレアン派に対抗して、オルレアン派は正統王朝派に対抗して、それぞれStatus quo(=現状)すなはち共和制を主張したのである。

 つまり、これらの秩序党の全派閥は、いずれも inpetto(=胸中秘かに)自分たちの王と自分たちの王政復古を願ひながら、自分たちの競争相手の権力簒奪と昇格との野望に対抗して、ブルジョアの共同支配を互ひに主張し、特殊な要求を中和し留保する方法すなはち共和制を互ひに主張したのだ。

 カントは共和制を唯一の合理的な国家形態として実践理性の要請とした。カントにとつては、共和制はけつして実現されないけれども、その実現をつねに目標として追求し、また信念の中に保持しなければならないものだつた。王朝派の人々にとつては王政こそがまさにそのやうなものだつたのである。

 かくして、中身のないイデオロギー的形式としてブルジョア共和派の手から生まれてきた立憲共和制は、それが連合王朝派の手に移つて内容の充実した生きた方法となつた。

 そしてティエールが「我々王朝派こそ立憲共和制の真の支持者である」と言つたとき、彼は自分が思つた以上に的を射たことを言つたのである。

 連合王朝派の内閣が倒れて、秘書官の内閣が出現したことには、もう一つの意味があつた。この内閣の財務大臣はフルドだつたが、フルドが財務大臣であるといふことは、フランスの富を公式に証券取引所に委ねることであり、国家の資産を証券取引所のために証券取引所によつて管理することである。フルドの任命によつて、金融資本は自分たちの王政復古を『モニトゥール』紙上で発表したのである。この王政復古は、立憲共和制の鎖の環となつてゐる様々な王政復古の一つを構成するものだつた。

 ルイ・フィリップでさへ証券取引所の本当の相場師を財務大臣にすることはなかつた。ルイ・フィリップの王国は大ブルジョア支配の精神的な名前であつたが、ルイ・フィリップの内閣の中でも特権階級の利益は精神的で利害を離れた大臣の名前を持たねばならなかつた。

 ところが正統王朝派の王政とオルレアン派の王政が背景に押し隠してゐたものを、ブルジョア共和制は至る所で前面に押し出した。ブルジョア共和制は、君主制が神とあがめてゐたものを地上に引き降ろしたのである。ブルジョア共和制は、聖人の名前の代はりに支配階級であるブルジョアの個人名を置いたのである。

 我々はこれまでの叙述によつて、この共和制はその創設の最初の日から、金融貴族を倒すどころか、むしろこれを強固にしたことを示してきた。しかし、金融貴族に対するこの譲歩は運命だつた。それは思ひがけない敗北だつた。フルドの就任によつて、政府の主導権は金融貴族の手に戻つてしまつたのである。

 ルイ・フィリップの治下でブルジョアの他の派閥の排除と隷属の上に成り立つてゐた金融貴族の支配が戻つてくることに、どうして連合ブルジョアが耐へられたのかといふ疑問が浮かぶかもしれない。

 その答は単純である。

 第一に、金融貴族そのものは連合王朝派の重要な一部であり、その連合した政治権力が共和制と呼ばれてゐるからである。しかも、オルレアン派の代弁者や知識人たちは金融貴族の古くからの同盟者であり共犯者だつたのではなからうか。金融貴族自身がオルレアン派の黄金の軍団だつたのではなからうか。

 正統王朝派について言へば、彼らは既にルイ・フィリップの治下において、事実上、証券取引所や鉱山や鉄道の投機などあらゆる饗宴に参加してゐた。そもそも大地主と大金融貴族の結合は当たり前の事である。その証拠にイギリスを見よ。さらにオーストリアを見よ。

 フランスでは、国民総生産が国家の負債額を極端に下回り、国債が投機の最も大きな対象となり、証券取引所が非生産的方法で利益を生み出さうとする資本を投下する主な市場となつてゐるが、そのやうな国では、全てのブルジョア階級または半ブルジョア階級の無数の人たちが、国債や投機や金融に携はざるを得ないのである。

 この従属的な参加者の誰もが、この種の利益を最大の規模で全体として代表してゐるこの金融貴族といふ派閥を、自分たちの当然の支へでありリーダーであると思ふのではなからうか。

 国の資産が大金融家の手に入つてしまふのは何故だらうか。それは常に増え続ける国の債務のためである。では国の債務は何故増えるのか。それは常に支出が収入を超過するためである。この収支の不均衡は国債制度の原因であり結果である。

 この国の債務を回避する第一の方法は、国家の支出を縮小することである。つまり行政機構を簡素化し縮小し、できるだけ小さい政府にして、職員の数を減らし、市民社会との関係を少なくすることである。

 秩序党にとつては、この方法は不可能だつた。秩序党は、自分たちの支配とこの階級の生存基盤を多方面から脅かされるに応じて、その抑圧手段と、国家の公的な干渉と、国家機関によるあらゆる場面への介入を増やさざるを得なかつた。人の肉体と財産に対する攻撃が増加すればするほど、憲兵隊を減らすことはできなくなつていつた。

 その第二の方法は、国が借金をしないやうにするだけでなく、最富裕階級に特別の税金をかけて、一時的でも予算の均衡を作り出すことである。しかし国の資産が証券取引所によつて搾取されないために、秩序党が自分の財産を祖国に捧げたりするだらうか。Pas si bête!(彼らはそれほどばかではない)

 したがつて、フランス国家を全面的に大変革しなければ、フランスの国家財政の大変革はありえないのである。このやうな国家財政には、国家の負債は必然であり、国家の負債には国債取引の支配と国債の債権者と銀行家と両替業者と相場師の支配が必然だからである。

 秩序党の中ではただ一つの派閥だけが、金融貴族の転落と直接結びついてゐた。それは工場主たちである。といつても中小の工業主ではなく、ルイ・フィリップの治下で王朝的野党の広範な基礎をなしてゐた工場界の支配者たちのことである。彼らの利益は、明らかに生産費の減少のことであり、つまり、それは生産費に含まれる税金の減少のことであり、つまりは国債が減少することである。なぜなら、国債の利息が税金に入つてくるからである。したがつて、工場主の利益とは金融貴族が転落することなのである。

 しかしながら、フランスで最大の工場主は、イギリスで最大の工場主と比べると小ブルジョアにすぎないのである。実際イギリスにはコブデンとかブライトなどのやうな工場主が、銀行や取引所の貴族たちに対抗する十字軍の先頭に立つてゐる。

 ではなぜフランスにはそのやうな工場主がゐないのだらうか。それはイギリスでは工業が支配的であるのに対して、フランスでは農業が支配的であるからである。

 イギリスの工業は freetrade(自由貿易)を必要としてゐるのに、フランスの工業は保護関税を必要としてゐる。つまり、フランスの工業は、様々な独占とならんで国家の独占を必要としてゐるのである。

 フランスの工業はフランスの生産部門を支配してゐない。したがつて、フランスの工業主たちはフランスのブルジョアを支配してゐない。彼らはブルジョアのその他の派閥に対抗して彼らの利益を押し通すために、イギリスの工場主のやうに、運動の先頭に立つことができないし、同時に彼らの階級的利益を先頭に押し出すことができない。

 だから、彼らは革命の列の中に入つて、自分の階級の全ての利益と対立するやうな利益に奉仕しなければならなかつた。二月革命では彼らは自分の立場が分からなかつたのだ。しかし、この二月革命によつて彼らは利口になつた。

 そもそも誰が労働者の雇ひ主つまり産業資本家以上に直接労働者によつて危険にさらされてゐるだらうか。だからフランスでは工場主が必然的に秩序党の最も熱狂的なメンバーになつたのである。自分たちの利益が金融資本によつて減らされることは、自分たちの利益がプロレタリアによつて廃止されることに比べれば何であらう。

 フランスでは、普通なら産業ブルジョアがすべきこと(=金融貴族との対決)を小ブルジョアがなし、普通なら小ブルジョアがすべきこと(=空想的社会革命)を労働者がしてゐる。では労働者たちがすべきこと(=革命的独裁)を誰が実行するのか。誰も実行しない。

 フランスの中ではそれは実行されることはない。フランスの中ではそれは宣言されるのである。国家の壁の内側ではどこであらうとそれは実行されることはない。フランス社会の内側の階級闘争が世界戦争に転換するのである。そして、世界中の国々が互ひに対決するのである。

 労働者たちがすべきこと(=革命的独裁)の実行は、世界市場を支配してゐる国民つまりイギリス国民の先頭に、世界戦争によつてプロレタリアが押し出される瞬間にはじめて始まるのである。革命はこの国で終はるのではなく、この国で組織的に始まるのである。

 それは決して息の短い革命ではない。現在の世代はモーゼが砂漠の中を導いて行つたユダヤ人に似てゐる。現代の世代は一つの新しい世界を征服しなければならないだけでなく、新しい世界に相応しい人たちに席を譲るために滅亡せねばならないのだ。

 さてフルドの話に戻らう。

 一八四九年十一月十四日に、フルドは国民議会の壇上に登つて自分の財政政策を説明した。すなはち、旧税制の弁護、酒税の存続、パッシの所得税法案の撤回である。

 確かにパッシも革命家ではなかつた。彼はルイ・フィリップの大臣であり、デュフォール派のピューリタンであり、七月王政の贖罪の羊となつたテスト(=一八四七年贈賄で有罪となつた)の最も仲のいい友人の一人だつた。またパッシも旧税制をほめて酒税の存続を主張した。しかしながら、同時に彼は国庫の赤字を白日の下に晒した。国家の破産を望まないなら、新税つまり所得税が必要だと言明したのである。

 そして、かつてルドリュ-ロランに対して国家の破産を望ましいこととして勧めたフルドが、立法議会に対して国庫の赤字を望ましいこととして勧めたのだ。フルドは節約を約束した。しかし、その秘密は後日明かになつた。それは例へば、支出は六千フラン縮小したが、短期公債が二億フラン増加したといふやり方だつた。それは数合はせと計算の魔術で、結局全部が新しい公債の発行に繋がつてゐたのである。

 フルドのもとでは、金融貴族は他の嫉妬深いブルジョア派と肩を並べてゐたので、当然のことながらルイ・フィリップ治下ほどの破廉恥な腐敗ぶりは示さなかつた。しかしながら、一旦同じ制度ができてしまふと、負債は増えつづけ、赤字は隠された。そして時とともに昔ながらの取引所詐偽が次第に露骨に現はれてきた。

 その証拠は、アヴィニョン鉄道法であり、国債相場の不可解な変動であつて、これは一時パリ中の話題になつた。もう一つ、一八五〇年三月十日の補欠選挙に賭けたフルドとボナパルトの投機の失敗(=野党社民党の勝利、ブルジョアの敗北)がその証拠である。金融貴族の正式な王政復古の結果、フランス国民はまたすぐに二月二十四日(=革命)の前に立ち戻らざるを得なかつたのである。

 憲法制定議会は、自分の相続者(=立法議会)に対する人間嫌ひの発作をおこして、一八五〇年度予算から酒税を廃止してゐた。古い税金を廃止したことによつて、政府は新しい負債を返せなくなつた。

 秩序党のクレティン(=気違ひ)であるクルトンがすでに立法議会の休会前に酒税の存続を提案してゐた。フルドがボナパルト内閣を代表してこの提案を採用した。そして国民議会は一八四九年十二月二十日、ボナパルトの大統領就任一周年記念日に酒税の復活を宣言したのである。

 酒税の復活を支持する演説をしたのは財政家ではなくて、イエズス会士の代表のモンタランベール(=正統王朝派代表)だつた。彼の論法は非常に単純なものだつた。

 税金、それは政府をはぐくむ母親の乳房である。政府、それは鎮圧の手段であり、権力機構であり、軍隊であり、警察であり、官吏であり、裁判官であり、大臣であり、司祭である。税金に対する攻撃、それは秩序の哨兵に対する無政府主義者の攻撃である。秩序の哨兵は、ブルジョア社会の物質的および精神的生産物を、プロレタリアつまり野蛮人の侵略から守るのである。税金、それは財産と家族と秩序と宗教に並ぶ五番目の神である。そして酒税は疑問の余地の無い一つの税金であり、さらに酒税はありきたりの税金ではなく、君主主義に相応しい、尊敬すべき伝統ある税金である。Vive I'impôt desboissons! Three cheers and one cheer more!(酒税万歳、万歳三唱、そしてもう一度万歳)

 フランスの農民が悪魔を壁に描くとき徴税吏の姿で描く。モンタランベールが税金を神に祭り上げた瞬間から、農民は神を失ひ無神論となつて、悪魔つまり社会主義に身を委ねた。

 秩序の宗教が農民を取り逃がし、イエズス会士が農民を取り逃がし、ボナパルトが農民を取り逃がした。一八四九年十二月二十日は一八四八年十二月二十日(=ボナパルトの大統領就任日)の名声を、取り返しのつかないまでに傷つけてしまつた。

 「伯父の甥」は、その一族のうちで酒税によつて打撃を受けた最初の人ではなかつた。本物の偉大なるナポレオンは、酒税の復活が何よりも自分を没落させる原因となつたとセントヘレナで告白した。酒税のせいで南フランスの農民が自分から離反したといふのである。モンタランベールの言ひ方を借りると、酒税は「革命の雷の前触れ」である。

 すでにルイ十四世の時代に国民の憎悪の的であつた酒税は(ボアギュペール(=一六四六年~一七一四年、経済学者)やヴォバン(=一六三三年~一七〇七年、軍人)の著作を参照)、最初のフランス革命によつて廃止された。それが一八〇八年に形を変へてナポレオンの手で復活したのである。

 王政復古がフランスに入つて来たときには、それに先駆けてコサック兵だけではなく酒税廃止の約束も入つて来た。もちろんgentilhommerie(貴族たち)は、gent taillable a merci etmisericorde(無条件で納税義務のある国民)に約束を守る必要はなかつた。

 一八三〇年の革命は酒税の廃止を約束した。言つたことを行なふことと、行なつたことを言ふことは、七月王政の流儀ではなかつた。一八四八年の革命は、何でも約束したが酒税の廃止も約束した。

 最後に、何も約束しなかつた憲法制定議会が、上述のやうに、遺言で命令を残して、酒税は一八五〇年一月一日に廃止されることになつてゐた。そして一八五〇年一月一日の丁度十日前に立法議会がそれをまた復活したのだ。

 つまり、フランス国民はいつも酒税を追ひかけ回して、ドアから放り出したかと思ふと、それが窓からまた入つて来るといふ始末だつたのである。

 酒税に対する民衆の憎しみの原因は、酒税がフランス税制のあらゆる憎むべき点を一身に合はせ持つてゐたことにある。税の徴収方法は憎むべきものであり、税の分配方法は特権的だつた。なぜなら、低級なワインも高級なワインも税率が同じだつたために、消費者の経済力が低下するにしたがつて、税金は幾何級数的に上昇した。つまり逆累進課税だつたのだ。

 だから酒税は変造酒や模造酒を作る奨励金となり、労働者階級を直接毒殺する結果になつた。また酒税はワインの消費を激減させた。なぜなら、酒税のために人口四千人以上の全ての都市の入口に税関が設けられ、フランスワインが入ることを防ぐこの保護関税によつて全ての都市がまるで外国になつてしまつたからである。

 そのため大きな酒屋だけでなく、小さな酒屋と、ワインの売り上げに直接生計を依存してゐる marchands devins(飲み屋)は、みな酒税を明確に反対した。

 そして最後には、酒税がワインの消費量を激減させてしまつたので、製品を扱ふ市場が無くなつてしまつたのである。この税のおかげで都会の労働者たちはワインを買へなくなり、ワイン農家はワインを売れなくなつた。しかも、フランスにはおよそ千二百万のワイン農家があつた。だから、国民全体が酒税を憎んだのは当然であり、農民が特に頑強に酒税に反対したのも当然なのである。

 しかもその上、農民は酒税の復活を単独の出来事とも偶然の出来事とも見なかつた。農民は一種独特の歴史的伝統を持つてゐて、それを父から子へと受け継いでゐる。彼らはこの歴史の学校の中で小声で伝へてゐるのである。農民を騙さうとする政府は酒税の廃止を約束するが、農民を騙し終ると、酒税を存続させたり復活させたりする、と。農民は酒税によつて政府の香り、つまりその傾向を確かめるのである。

 十二月二十日の酒税復活は、ルイ・ボナパルトもほかの政治家と同じだつたといふ意味である。かつては彼もさうではなく、農民が産み出した政治家だつた。ところがいま彼らは何百万にのぼる署名を付けた酒税反対の請願によつて、一年前に「伯父の甥」に与へた支持を撤回したのである。

 フランスの全人口の三分の二を超える農村人口は、大部分が奴隷でない土地所有者からなつてゐるのである。その最初の世代こそ、一七八九年の革命によつて無償で封建的負担から解放され、土地に何らの代価も払はなかつた(=実際は有償)。しかし、それ以降の世代は、彼らの半農奴的な祖先が地代と十分の一税と賦役などを払つて手に入れたものを、土地の価格を払つて手に入れた。

 一方では人口が増加するにつれて、他方では土地の分割が益々進むにつれて、それだけ益々小農地(=分割されてできた農地のこと。マルクス主義の用語では「分割地」)の価格も騰貴した。そのわけは、小農地が小さくなるにつれて、これを必要とする人の範囲が拡大したからである。

 しかし、農民が直接買ふにせよ、彼の共同相続人による投資であるにせよ、農民が小農地に対して支払ふ価格が高騰するにつれて、農民の負債すなはち抵当権も必然的に増大した。

 土地が背負つてゐる債権を抵当権といひ、土地についた質札である。中世の土地の上に特権が累積したやうに、近代の小農地の上には抵当権が累積してゐる。他方、小農地制度においては土地はその所有者の純然たる生産手段である。

 ところが、土地が分割されるにつれて、土地の生産性は低下する。土地に対する機械の適用も、分業も、排水溝や灌漑設備のやうな大規模な土地改良も、益々困難になる。その反面、生産手段そのものが分割されるわけだから、それに比例して耕作にかかる余計な経費が増加する。

 確かに、かうしたことはどれも小農地の所有者が資本を持つか持たないかに関係がない。しかしながら、土地の分割が進むにつれて、極めて悲惨な財産目録のついた土地がいよいよ小農地農民の資本の全てとなり、土地に対する投資は益々減少し、小百姓は農業の進歩を適用するための土地も金も教養も益々乏しくなり、農業は益々衰退する。最後に、農民の全家族は土地を持つてゐるため他の仕事に就けず、しかも土地によつては生活できないので、消費の総額が増加するにつれて純収益は減少するのだ。

 このやうに、人口が増加しそれとともに土地の分割が進むにつれて、生産手段つまり土地の値段が上がり、しかも土地の生産性は低下し、それに比例して農業は衰退し農民は負債に陥る。そして、この結果が次は原因になるのだ。

 どの世代も次の世代に益々多くの負債を残し、新しい世代ほど益々不利で困難な条件のもとで出発する。抵当化は抵当化を生み、農民がもう小農地を新しい負債の担保とすることができなくなり、その小農地に新しい抵当権を設定できなくなると、農民は直接高利貸の支配下に入つた。おかげで高利貸の利息は高騰した。

 かうしてフランスの農民は、土地についた抵当権に対する利子と、高利貸からの無抵当な借入金に対する利子の形で、地代と商業利益つまり全ゆる純利益だけでなく、自分の賃金の一部までも資本家に譲渡してしまつて、アイルランドの小作人のレベルにまで落ちぶれるに至つた。しかも、これらは全て彼らが私有財産の所有者であるために起つたことだつた。

 かうした過程が、フランスでは税負担と裁判費用が常に増大することで加速された。この裁判費用は、フランスの法律では土地所有に煩雑な手続きが要求されることから直接発生するのであるが、さらには、至る所で小農地が隣接し交錯してゐるために無数の紛争が起きるためと、農民たちの訴訟に対する熱狂のために発生するのである。農民の財産への執着とは、ひたすら想像上の財産つまり所有権を熱烈に主張することだつたからである。

 一八四〇年の統計では、フランス農業の総生産高は五十二億三千七百十七万八千フランだつた。ここから耕作者の消費を含めた耕作費三十五億五千二百万フランを差し引けば、残りは十六億八千五百十七万八千フランの純生産高となる。そこから抵当の利子が五億五千万フラン、裁判費用が一億フラン、税金が三億五千フラン、登記費用、印紙税、抵当手数料など一億七百フランが差し引かれる。

 残りは五億三千八百万フランで純生産高の三分の一である。これを人口一人当たりにすれば純生産高は二十五フランにも足りない。この計算にはもちろん抵当外の高利や弁護士費用などは含まれてゐない。

 共和制が農民に対して古くからの負担に新たな負担を付け加へた時のフランスの農民の状態は以上から理解できよう。また、農民の搾取が産業プロレタリアの搾取と違ふのはただ形の上だけだといふことも理解できよう。搾取する者はどちらも同じく資本である。抵当や高利貸によつて個々の資本家が個々の農民を搾取し、国税によつて資本家階級が農民階級を搾取してゐるのである。

 農民にとつて所有権はお守りである。このお守りで資本は農民をこれまで魅了してきた。所有権は資本が農民を産業プロレタリアにけしかる口実でもある。だから、資本の没落のみが農民を向上させ、反資本主義政府つまりプロレタリア政府のみが農民の経済的悲惨とその社会的地位の低下を打破することができるのである。

 「立憲共和制、それは連合した農民搾取者の独裁である。一方、社会民主主義的共和制すなはち赤色共和制、それは農民の同盟者の独裁である。農民の投票次第で、そのどちらにもなるのだ。農民自らが自分の運命を決定しなければならない」社会主義者たちは、パンフレットや年鑑やカレンダーやあらゆる種類のビラにかう書いたのだ。

 この言葉は、それに対する秩序党の反対文書によつて、いつそう農民に理解しやすいものとなつた。つまり秩序党の方も農民に呼びかけて、社会主義者の意図や理念を、乱暴な誇張や野蛮な解釈や説明によつて農民の真の口調に合はせたので、結果として、禁断の木の実(=社会主義)に対する農民の欲望を刺激することになつたからである。

 しかしながら、農民自身の経験ほどに農民にとつて分かりやすい教師はなかつた。それは農民階級が選挙権の行使によつて得た経験であり、革命的な速さで次々と農民を襲つた幻滅だつた。革命こそは歴史の先導者なのである。

 農民が次第に大きく変化していつたことが、色々な徴候のうちに現はれてきた。それは既に立法議会の選挙に現はれ、リヨンと隣接する多くの県に戒厳令がしかれたことに現はれ、六月十三日(=山岳党のデモ鎮圧)の二三カ月後にジロンド県から Chambreintrouvable(無類の議会)の元議長の代はりに山岳党員が選出されたことに現はれ、一八四九年十二月二十日にガール県から、死んだ正統王朝派の議員の代はりに赤色議員が選出されたことに現はれた。ガール県は正統王朝派の約束の地で、一七九四年と一七九五年に起きた共和主義者に対する恐ろしい暴行の舞台であり、自由主義者とプロテスタントが公然と殺された一八一五年の terreur blanche(白色テロ)の中心地だつた。

 最も停滞的な階級のかうした大きな変化は、酒税の復活(=一八四九年十二月二十日)の後に最も顕著に現はれた。政府の政策と法律は、一八五〇年一月と二月の間には、ほとんどもつぱら地方の県と農民に突きつけられたものだつた。これこそ農民の進歩の最も明確な証拠である。

 そのうちでオプールの通達は、憲兵を任命して知事と副知事と特に市町村長に対する異端審問官とし、僻地の村落の隅々までスパイを浸透させるものだつた。

 また、学校教師取締法は、農民階級の知識人、代弁者、教育者、通訳である教師たちを知事の意向に従はせて、知識階級のプロレタリアである教師たちを、野獣を狩りたてるやうに、村から村へと追ひ立てるものだつた。

 また、市町村長取締法案は、市町村長の頭上に免職といふダモクレスの剣をぶら下げて、農村の大統領である彼らを共和制と秩序党の大統領と絶えず対立させるものだつた。

 また、訓令によつて、フランスの十七師団を四司令区に変へ、兵営や露営を国民のサロンとしてフランス人に強制した。

 最後に教育法が布告されたが、それはフランスの無知と強制的な愚鈍化が普通選挙制度のもとで秩序党が生き延びるための条件だと宣言したに等しいものだつた。

 これら全ての法律と政策は何だつたのか。それは地方の県と農民の支持を再び秩序党に取り戻さうとする絶望的な試みだつたのである。

 これらは弾圧手段として見ても、とても目的を達成できない哀れむべき策だつた。酒税の存続、四十五サンチーム税(=既出)、十億フラン(=既出)の返還を求める農民の請願に対するすげない拒否などの重要な政策、これらの法律による稲妻の衝撃はどれも農民階級の中心に強烈な打撃を与へたが一過性のものだつた。

 それに対して、上記の法律と政策による攻撃とそれに対する反抗は国中に広まつて行き、どんな掘つ立て小屋でも話題に上つた。つまりこれらの法律と政策によつて、どの村にも革命が植え付けられ、革命が地方の農民の間に広がつたのである。

 他方で、ボナパルトがこれら法案を提出して国民議会が承認したことは、無政府の抑圧、すなはち、ブルジョア独裁に反抗する全ての階級の抑圧に関するかぎり、立憲共和制の二つの権力が一致協力してゐたことを証明してゐるのではなからうか。

 スルーク(=既出)は無愛想な教書(=既出、十一月一日の教書)を議会に提出した直後、ただちにカルリエに採用通知(=パリ警視総監に)を出して、秩序に対する忠誠を立法議会に保証したではないか。ルイ・ボナパルト自身が大ナポレオンの平板な物真似だつたように、カルリエはフーシェ(=ナポレオンの警視総監)の薄汚れた物真似だつた。

 教育法は、若いカトリック教徒(=ファルー)と年取つたヴォルテール主義者(=バロ)との同盟を我々に教へてゐる。連合したブルジョアの支配は、親イエズス会的王政復古派と自由思想家ぶつた七月王政派との連合した専制以外の何物であり得たらうか。

 ブルジョア派が互ひに支配権を争つてゐた時期に、その一方の派閥が他方の派閥に対抗して国民の間に配つた武器(=ヴォルテール主義、自由思想)は、国民が彼らの連合した独裁に対抗するようになつた時には、再び国民から取り上げるべきだつたのである。このイエズス会主義の誇示ほど、パリの小店主たちを憤慨させたものはなかつた。あの和解協約の否決さへこれ程ではなかつた。

 その間に、秩序党の様々な派閥の間にも、国民議会とボナパルトの間にも衝突は続いた。ボナパルトがクーデターを起こしてボナパルト的内閣を組織したあとに、あらたに知事に任命した王政時代の老人たちを呼び出して、自分の大統領再選のために憲法違反の扇動をしてくれることをその就任の条件としたこと、カルリエが自分の就任祝ひに正統王朝派のクラブを一つ閉鎖させたこと、ボナパルトが機関紙『ル・ナポレオン』を創刊して大統領の秘密の野心を公衆に打ち明けたが、彼の内閣は立法議会の舞台でその野心を否定せざるを得なかつたこと、かうしたことは、国民議会の気にいらなかつた。

 議会の幾度もの不信任投票を無視して内閣を強情に居座らせたこと、日給を四スー増額して下士官の人気取りをしたこと、ウジェーヌ・シューの『パリの秘密』から剽窃した失業給付銀行を創設してプロレタリアの人気取りをしたこと、最後に大統領自身は特赦令の小出しで人気を稼ぎながら、恥知らずにも六月の反逆者の残党のアルジェリアへの追放を内閣に提案させて、不人気を立法議会に大量に押しつけたこと、これらのことも国民議会には気にいらなかつた。

 ティエールは「coups d'état(クーデター)」と「coups detête(向かう見ずな行為)」について威嚇的な言葉を漏らした。また立法議会はボナパルトが自分の利益のために提出した法案はどれも否決し、彼が公衆の利益のために提案した法案はどれも、行政権を拡大して彼の個人的権力を利するのではないかと疑つてうるさく審議することによつて、ボナパルトに復讐した。一言でいへば、立法議会は申し合はせて、ボナパルトを馬鹿にすることで彼に復讐したのである。

 正統王朝派としては、主に地方分権の方がうまく行くと思つてゐるのに、自分たちより有能なオルレアン派の人たちが、殆どのポストを押さへて中央集権化を益々強めるのを苦々しく思ひながら見てゐた。そして実際、反革命は強力に中央集権化を推し進めた。これはすなはち、革命の仕組みを用意したことになつた。さらに、反革命は銀行券の強制流通によつてフランス中の金銀をパリの銀行に集中させた。これはすなはち、革命のためのすぐ使へる軍資金を用意したことになつたのである。

 最後に、オルレアン派は、台頭してくる正統主義が自分たちの庶子主義と対比されるのを苦々しく思ひながら見てゐた。自分たちのことをブルジョア女が貴族の夫と身分違ひの結婚をしたと言つて、冷遇し虐待してゐたからである。

 これまで我々は、農民、小ブルジョア、全中間階級と順番にプロレタリアの側に立つて立ち上がり、公式の共和制に対して公然と対立するやうになり、この共和制によつて敵として扱はれる様子を見てきた。

 ブルジョア独裁に対する反抗、社会変革の要求、彼らの運動機関としての民主的共和的制度の保持、決定的な革命勢力であるプロレタリアの周囲への結集、これらはいはゆる社会主義的民主的政党つまり赤色共和党の共通の特徴である。

 彼らの敵がいふこの無政府(=無秩序)の党が様々な利益の集合体であるのは、秩序党と同じである。古い社会的混乱のごく小さな改良から、古い社会秩序の大変革に至るまで、ブルジョア自由主義から革命的テロリズムに至るまで、「無政府」の党の出発点と終着点を形成する両端は、これほどかけ離れてゐる。

 保護関税の撤廃、これは社会主義だ。なぜなら、それは秩序党のうちの産業的な派閥による独占に手を付けるからである。国家財政の調整、これも社会主義だ。なぜなら、それは秩序党のうちの金融的な派閥による独占に手を付けるからである。外国産食肉と穀物の自由な輸入、これも社会主義だ。なぜなら、それは秩序党の第三派閥である大土地所有者による独占に手を付けるからである。

 自由貿易党、すなはち最も進歩的なイギリスのブルジョア党(=ホイッグ党)の要求は、フランスでは社会主義的要求に見えた。ヴォルテール主義、これも社会主義だ。なぜなら、それは秩序党のうちの第四派閥であるカトリック派を非難するものだからである。出版の自由、結社の権利、国民皆教育、これも社会主義だ、社会主義だ。なぜなら、それは秩序党の全体的な独占に手を付けるからである。

 革命の進行によつて非常に急速に社会情勢が成熟したので、改良を支持するあらゆるレベルの人々、ごく控へ目な要求をもつ中間階級の人々が、極端な革命党の旗の下に、つまり赤旗のもとに結集せざるを得なくなつてゐた。

 にも拘らず、無政府の党の様々な構成要素に帰属させられたこれらの社会主義は、以上のやうに、階級或ひは階級の派閥の経済的な条件と、それから生まれる革命的な必要の全体像にしたがつて、多種多様なものだつた。しかし、それらは次の一点で一致してゐる。すなはち、それぞれの社会主義は自らをプロレタリア解放の手段であると言ひ、プロレタリア解放を自らの目的としてゐると言つてゐる点である。

 これらの社会主義は、ある者にとつては故意の欺瞞であり、他の者にとつては自己欺瞞だつた。つまり、彼らは自分たちの要求に従つて改造された世界こそ万人にとつて最善の世界であり、全ての革命的要求を実現する世界であり、全ての革命的衝突を除去する世界であると主張してゐるのである。

 この「無政府の党」のかなり一律的な内容である社会主義の一般的なスローガンの裏には、『ナショナル』や『プレス』や『シエクル』の社会主義が隠れてゐる。これらの社会主義は、多かれ少なかれ一貫して金融貴族の支配を倒し、産業と交易を従来の束縛から解放することを望むものである。これは工業と商業と農業の社会主義である。これらの産業の重要性が秩序党の中のこれらの産業の支配者たちの私的独占と一致しなくなるとき、彼らの支配は否定されるからである。

 もちろん、これらブルジョア社会主義(=革命によらず政治の改善によつて社会改革を目指す社会主義)は、社会主義のあらゆる亜種と同じく、労働者や小ブルジョアの一部を結集したが、それは本来の小ブルジョアの社会主義、つまり par excellence(正真正銘)の社会主義とは違ふものである。

 資本は主に債権者として、この小ブルジョアを追ひ回す。そこで、小ブルジョアは融資制度を要求する。資本は競争によつて小ブルジョアを押しつぶす。そこで、小ブルジョアは国家に支へられた生活協同組合を要求する。資本はその集中によつて小ブルジョアを打ちのめす。そこで彼らは累進課税、相続の制限、大土木工事の国営など資本の成長を強制的に抑へる政策を要求する。

 小ブルジョアは、短期的な二月革命のやうなことは別としても、自分たちの社会主義が平和的に実現されることを夢見たとき、今後の歴史過程が彼らには、社会思想家たちがグループで或ひは単独で考案したか考案しつつある体系の応用のやうに見えたのは当然である。

 そこで彼らは既存の社会主義体系、つまり空想的社会主義の追随者か信奉者となる。空想的社会主義こそは、プロレタリアがまだ自由で歴史的な自律運動をするほど発達してゐなかつた間は、プロレタリアの理論的表現だつたからである。

 しかし、ユートピア、つまり空想的社会主義とは、全体の運動をその一つのモーメントに従属させるものであり、共同生産と社会生産の代はりに一人の学者の頭の働きを置き、特に階級の革命的闘争とその必然性をともに、けちな手品と大げさな感傷によつて空想的に除去するものである。

 さらに、この空想的社会主義とは、本質的には単に今ある社会を理想化するものであり、今ある社会の曇りなき姿を記録し、この社会の現実に対抗して自分の理想を貫徹しようとするものなのである。

 さらに、この空想的社会主義はプロレタリアから小ブルジョアに譲り渡されていく。その上、様々な社会主義のリーダー間の闘争によつて、いはゆる社会主義の体系なる物のどれもが、社会の大変革の一つの通過点に対抗して別の通過点に特にしがみつくものに過ぎないことが明らかになりつつある。
 
 かうした社会主義の動きの中で、プロレタリアは益々革命的社会主義、すなはち共産主義(ブルジョア自身はこれをブランキのやつてゐることだと考へた)の回りに結集してきたのである。

 この社会主義は永久革命の宣言であり、プロレタリア階級の独裁である。これは全ての階級差別の廃止と、この階級差別をもたらす全ての生産関係の廃止と、この生産関係に対応する全ての社会関係の廃止と、この社会関係から生れる全ての観念の大変革に達するための必然的通過点なのである。

 今はこの問題をこれ以上詳しく論ずる余地はない。

 秩序党内で金融貴族が必然的にその先頭に立つたやうに、「無政府」の党内ではプロレタリアがその先頭に立つたことは見てきた通りである。

 つまり、一つの革命的同盟に結合した様々な階級が、プロレタリアを中心にして結合したのである。また、地方の県は益々不安定になり、立法議会自身もフランスのスルーク(=ルイ・ナポレオン)の帝位継承欲に対して益々不機嫌になつてゐた。その間に、久しく延期されてゐた補欠選挙が近づいてゐた。これは六月十三日に追放された山岳党員の議席を補充するものだつた。

 ボナパルトの政府は、敵からは軽蔑され、表向きだけの味方からも冷遇されて、日々辛酸を嘗めさせられてゐたが、この不愉快で我慢ならない状況から抜け出すための唯一の頼みの綱は暴動しかないと思つてゐた。もしパリに暴動が起これば、パリと地方の県に戒厳令を敷いて選挙を支配することができるだらう。他方、秩序の友も、自分たちが無政府主義者と見られたくなければ、無政府に対する勝利を勝ち取つたボナパルトの政府に協力せざるを得ないだらう。

 政府はさつそく仕事に取り掛かつた。一八五〇年の二月初めに政府は「自由の樹」を切り倒して国民を挑発したが無駄だつた。確かに自由の樹はなくなつたが政府自身の落ち着きもなくなり、自分自身の挑発に驚いてあとずさりした。国民議会は、ボナパルトのこの不器用な独立の試みを知つて冷淡な不信感を抱いただけだつた。

 また「七月の円柱」に献花された麦わら菊の花輪を取り去つたが、これもあまり成功しなかつた。この企ては、軍隊の一部が扇動的な示威行為を起こすきつかけとなり、国民議会の内閣に対する不信感をさらに深めるきつかけとなつた。

 また、政府系新聞が普通選挙を廃止すると言つたりコサック兵(=反革命軍)が侵入してくるといつて脅したが、これも無駄だつた。さらにオプールが立法議会の最中に左翼席に向つて街頭に出よと直接要求して、政府は彼らを迎へる用意があると言明したが、これも無駄だつた。オプールは議長から言葉を慎むように注意されただけだつた。そして大統領に恨みのある秩序党は、左翼席の議員がボナパルトの不法な野望を茶化すのを黙つて聞き流した。

 最後に政府は二月二十四日にまた革命が起きると予言したが無駄だつた。政府は国民に二月二十四日を無視するやうしむけただけだつた。プロレタリアは暴動を起こさせるどんな挑発にも乗らなかつた。なぜなら、彼らはまさに革命(=補欠選挙)を起こさうとしてゐたからである。

 政府の挑発は現実の状況に対する人々のいらだちを強めたに過ぎなかつた。しかしながら、それとは関係なしに、選挙委員会は完全に労働者の影響を受けて、パリに次の三人の候補者を立てた。それはド・フロット、ヴィダル、カルノーだつた。

 ド・フロットは六月暴動による流刑者で、ボナパルトの人気とりで大赦されてゐた。彼はブランキの友人で、五月十五日の襲撃事件にも参加した男だつた。ヴィダルは、『富の分配について』といふ著書によつて共産主義作家として知られ、リュクサンブール委員会ではルイ・ブランの秘書だつた。カルノーは「勝利の組織者」と呼ばれた国民公会議員の息子だつた。彼は『ナショナル』派では最も妥協の少なかつた人間であり、臨時政府と執行委員会で文部大臣を歴任、その民主的な国民教育法案によつてイエズス派の教育法案に対する抗議を体現してゐた。

 これら三人の候補者は、一つの同盟に結合した三つの階級を代表してゐた。すなはち、先頭には六月の反逆者であり革命的プロレタリアの代表、その次に、空想的社会主義者であり社会主義的小ブルジョアの代表、最後の三番目は、共和主義的ブルジョア派の代表である。共和主義的ブルジョア派の民主的スローガンは秩序党に対してはとつくにその本来の意味を失つてをり、社会主義的な意味をもつやうになつてゐたからである。

 これはまさにブルジョアと政府に対する普遍的連合であり、二月革命の様相を呈してゐた。しかし、今回はプロレタリアが革命的同盟の中心だつた。

 あらゆる妨害工作に拘はらず、社会主義者の候補者たちが勝利した。軍隊自身、陸軍大臣のライットを敵視して、六月の反逆者に投票した。秩序党は雷に打たれたやうになつた。地方の県の選挙の結果も気休めにならなかつた。地方の選挙では山岳党が過半数を占めたからである。

 一八五〇年三月十日の選挙、それは一八四八年六月の撤回だつた。すなはち、六月の反逆者を虐殺したり流刑にした議員たちも国民議会に戻つては来たが、彼らは流刑にされた者たちの後ろに続いて頭を下げて、流刑にされた者たちの主張を唱へながら戻つてきたのである。

 また、それは一八四九年六月十三日の撤回だつた。すなはち、国民議会から追放された山岳党が国民議会に帰つて来たのである。しかし、山岳党はもはや革命の指揮官ではなく、単なる革命のラッパ手だつた。

 また、それは一八四八年十二月十日の撤回だつた。すなはち、ナポレオンの大臣ライットが落選したことは、ナポレオンの落選を意味した。フランス議会史にこれに似た例はただ一つ、一八三〇年にシャルル十世の大臣オセが落選したことがあるだけだ。

 最後に、一八五〇年三月十日の選挙は、秩序党に過半数を与へた一八四九年五月十三日の選挙の取り消しだつた。三月十日の選挙は五月十三日の多数派に異議を唱へたのである。三月十日は一つの革命だつた。投票用紙の後ろには道の敷石が隠れてゐたのである。

 「三月十日の投票は戦争だ」と秩序党の最も進歩的な党員セギュール・ダゲソーは叫んだ。

 一八五〇年三月十日から立憲共和制は新しい段階、つまりその解体の段階に入つた。多数派を形成する派閥は再び互ひに結集し、ボナパルトととも手を結んだ。彼らは再び秩序の救済者となり、ボナパルトは再び彼らの中立的人物となつた。

 彼らが王朝派であることを思ひ出すのは、もはやブルジョア共和制を続けることに対する絶望感からでしかなかつた。また、ボナパルトが帝位継承権者であることを思ひ出すのは、もはや自分が大統領であり続けることに対する絶望感からでしかなかつた。

 六月の反逆者ド・フロットの当選に対してはボナパルトが、秩序党の命令通りにバロシュを内務大臣に任命することで対抗した。バロシュはブランキとバルベの告発者、ルドリュ-ロランとギナールの告発者だつた。

 カルノーの当選に対しては立法議会が、教育法の通過によつて対抗した。またヴィダルの当選に対しては、社会主義的な新聞を弾圧することによつて対抗した。

 秩序党は自分たちの新聞によるラッパの一吹きによつて、恐怖を吹き飛ばさうと考へた。彼らのある機関紙は「剣は神聖である」と叫んだ。もう一つの機関紙は「秩序の擁護者は赤色党に対して身構へねばならない」と叫んだ。さらにもう一つの秩序の雄鶏は「社会主義と社会の間には生死をかけた戦ひがある。それは絶え間なき残酷な戦争である。この必死の戦ひにおいてはいづれかが滅びなければならない。社会が社会主義を絶滅しなければ、社会主義が社会を絶滅する」と叫んだ。

 秩序のバリケードを築け。宗教のバリケードを築け。家族のバリケードを築け。パリの十二万七千の有権者を片づけなければならない。社会主義者たちに聖バートロミューの夜さへ来れば、忽ちにして秩序党は自分たちの勝利を確信できるのだ。

 秩序党の機関紙が最も熱狂的に攻撃してゐるのは「パリの小店主たち」である。パリの小店主たちによつてパリの六月の反逆者たちが代議士に選出されたからである。それはすなはち、第二の一八四八年六月はもうあり得ない(=選挙があるから)といふことであり、それはすなはち、第二の一八四九年六月十三日(=山岳党デモの鎮圧)もありえないといふことである。

 それはすなはち、資本の精神的な影響力が破壊されたといふことであり、それはすなはち、ブルジョア議会がもはやブルジョアしか代表しないといふことであり、それはすなはち、大資本が敗北したといふことである。なぜなら、大資本の家臣である小資本が無産者の陣営に救ひを求めてゐるからである。

 秩序党は当然いつもの常套句に立ち帰る。彼らは「弾圧を強化せよ。弾圧を十倍にせよ」と叫ぶのである。しかしながら、彼らの弾圧する力は十分の一に減少してをり、一方で抵抗する力は百倍に増加してゐる。そもそも彼らは弾圧の主な道具そのもの、つまり軍隊を弾圧しなければならないのではなからうか。

 そして秩序党は最後の言葉を語る。「息詰まる合法性の鉄の環を打破しなければならない。立憲共和制は不可能だ。我々は自分の本当の武器で戦ふべきである。一八四八年二月以来、我々は、革命に対して相手の武器を使つて相手の土俵で戦つて来た。我々は相手の制度を受け入れたのだ。

 「しかし、憲法といふ要塞が守るのは包囲する者たちだけであつて包囲されてゐる者たちではない。我々はトロイの木馬の腹に隠れて聖なるイリオンに忍び込んだ(=二月革命)。しかし、我々の祖先であるギリシア人と違つて、我々は敵の都を征服するどころか、自分たちが捕虜になつてしまつた(=無産者の陣営によつて)」と。

 ところで、憲法の基盤は普通選挙である。そこで、普通選挙の廃止、これが秩序党の、すなはちブルジョア独裁の最後の言葉となつたのである。

 一八四八年五月四日、一八四八年十二月十日(=原文は二十日)、一八四九年五月十三日、一八四九年七月八日(=既出)には普通選挙は、彼ら秩序党の正しさを証明したが、一八五〇年三月十日には普通選挙は自分自身の間違ひを証明したのだ。

 普通選挙の結果としてのブルジョア支配、主権者である国民の意志の表れとしてのブルジョア支配、これこそブルジョア憲法の存在する意味である。

 ところが、選挙といふ主権者の意志の中身がもはやブルジョア支配でなくなつた時に、それでもまだ憲法が存在する意味があるだらうか。選挙がブルジョアの支配といふ合理的なものを欲するやうに法制化することが、ブルジョアの義務ではなからうか。普通選挙は、現在の国家権力を絶えず繰り返して破壊しては新たなものを作り出すことによつて、あらゆる安定を破壊して、常に現在の権力を危ふくしてゐるのではなからうか。普通選挙は権威を破壊し、無政府そのものを権威に高めようとしてゐるのではなからうか。一八五〇年三月十日のあとでこの事を誰がなほも疑ふだらうか。

 ブルジョアは、これまでは普通選挙を自分の飾りとし普通選挙から自分の全能を引き出してゐたのに、今それを非難することは、あからさまに次のやうに告白するのと同じである。「我々の独裁はこれまでは国民の意志によつて成り立つてゐたが、いまやそれは国民の意志に反して確立されねばならない」と。

 そしてこの当然の帰結として、彼らは自己の支持者をもはやフランスの国内に求めずに、国外つまり外国からの侵入に求めてゐるのである。

 ブルジョアとはフランス国内に本拠を構へた第二のコブレンツ(=ドイツにある反革命の亡命地)であり、彼らが国内に外敵の侵入を誘つたりすれば、それは自分たちを敵視するあらゆる国民的情熱を呼び覚ますことになる。ブルジョアが普通選挙を攻撃したりすれば、それは新しい革命に漠然とした口実を与へることになる。そして革命はさういふ口実が必要なのだ。

 何であれ特殊な口実は革命的同盟に加はつた各派閥を分裂させ、派閥の相違をはつきりさせてしまふ。ところが、漠然とした口実ならば、それは革命に対して中途半端な階級も迷ふことがなくなるし、来るべき革命が特定の性格をもつてゐることや自分たちの行動の結末について思ひ悩むこともなくなる。要するに、どんな革命も、二月革命のきつかけとなつたやうな「宴会問題」を必要とするのである。普通選挙、それは新しい革命の宴会問題なのだ。

 しかし、連合ブルジョア派の転落の運命は既に決まつてゐる。なぜなら、立憲共和制こそは彼らの連合した権力の唯一可能な形態であり、彼らの階級支配の最も強力で完全な形態であるにも拘はらず、彼らはその立憲共和制を離れて、もつと低級で不完全で弱い形態である君主制へ退避しつつあるからである。彼らは老人が青春の力を回復しようとして、子供時代の晴れ着をまとふために萎(しな)びた手足を痛めつける姿に似てゐる。

 彼らの共和制が残し唯一つの功績は、その中で革命をはぐくみ育てたことだつた。一八五〇年三月十日に記された銘文は「Apres moi ledeluge!(我あとに洪水よ来たれ)」である。


第四章 一八五〇年の普通選挙の廃止

(前の三つの章の続きは、『新ライン新聞』の最新号である第五・六合併号の『評論』の中にある。この中では、まづ初めに一八四七年にイギリスで勃発した大きな商業恐慌が描写され、この恐慌のヨーロッパ大陸に及ぼした影響から、ヨーロッパ大陸の政治的紛糾が一八四八年の二月と三月の革命にまで先鋭化した有り様までが説明された後に、一八四八年のうちに再び始まり一八四九年にはさらに上昇した商工業界の好況が、革命的高陽を萎えさせ、同時に反動の勝利を可能にした事情が描かれてゐる。次ぎに、特にフランスについて以下のやうに述べられてゐる。)<エンゲルス>

 同じ徴候がフランスにおいては、一八四九年以降と特に一八五〇年初め以降に現はれた。パリの工業はフル操業してゐる。またルーアンとミュルーズの木綿工業はイギリスのやうに原料の高値が障害となつてゐたにも拘はらず、かなり好調である。

 そのほかに、フランスの好景気は、スペインの包括的な関税率の改正とメキシコでの各種の奢侈税の引き下げによつて、特に促進された。これらの市場へのフランス製品の輸出は著しく増加した。資本の増殖はフランスでは多くの投機を生みだした。カリフォルニア金鉱の大規模な採掘はその投機の口実として役立つた。

 多数の会社が出現して、その少額の株式額面と社会主義的色彩をおびた設立趣意書は、直接に小ブルジョアや労働者の財布にアピールした。しかしながら、これらはことごとく、フランス人と中国人だけに特有のあの純然たる詐偽に終つた。それどころか、これらの会社の一つは直接政府の庇護さへ受けてゐる。

 フランスの最初の九カ月の輸入関税は、一八四八年には九千五百万フラン、一八五〇年には九千三百万フランの額になつた。その他に、一八五〇年九月の輸入関税は一八四九年の同じ月に比べてさらに百万フラン以上増加した。輸出も同様に一八四九年には増加し、一八五〇年にはさらにいつそう増加した。

 景気回復の最も明らかな証拠は、一八五〇年八月六日の法律によつてフランス銀行による金兌換が復活したことである。一八四八年三月十五日にフランス銀行は金兌換を停止する権限を付与されてゐたのである。

 当時フランス銀行券の流通高は、地方銀行発券分をも含めて三億七千三百万フラン(千四百九十二万ポンド)だつた。一八四九年十一月二日には、この流通高は四億八千二百万フランすなはち千九百二十八万ポンドに達した。これは四百三十六万ポンドの増加である。そして一八五〇年九月二日には、四億九千六百万フランすなはち千九百八十四万ポンドに達した。これは約五百万ポンドの増加である。

 このさい銀行券の価格の下落は全く起こらず、逆に、銀行券の流通の増大に伴つて、銀行の地下室の金銀の蓄積は絶えず増えづづけて、一八五〇年の夏には、金準備高は約千四百万ポンドといふフランスでは前代未聞の額に達した。

 銀行が銀行券の流通高すなはち活動資本を約五百万ポンドすなはち約一億二千三百万フラン増加できるやうになつたといふことは、金融貴族が革命によつて倒されなかつただけでなく、さらに強固なものにされたといふ既刊号(=本書第三章中)の中の我々の主張の正しさを明確に証明してゐる。

 最近のフランスの銀行法についての以下の概観を見れば、この結果はいよいよ明白である。

 一八四七年六月十日、フランス銀行は二百フラン札を発行する権限を付与された。それまでの銀行券の最低額は五百フランだつた。

 一八四八年三月十五日、布告によつてフランス銀行券は法定通貨であると宣言された。そしてフランス銀行は銀行券の金兌換の義務を免除された。銀行券の発行高は三億五千万フランに制限された。同時にフランス銀行は百フラン札を発行する権限を付与された。

 同年四月二十七日、布告によつて地方銀行はフランス銀行への合併を命ぜられた。

 同年五月二日、さらなる布告によつて銀行券の発行高は四億五千二百万フランに引き上げられた。

 一八四九年十二月二十二日、布告によつて銀行券の発行高の最高限度が五億二千五百万フランに引き上げられた。
 
 最後に、一八五〇年八月六日、法律によつて銀行券の金兌換制が復活した。

 プルードン氏はこれらの事実、すなはち銀行券の流通高が絶えず増加し、フランスの信用がすべてフランス銀行の手の中へ集中し、フランスのすべての金銀が銀行の地下室に蓄積されていつたといふ事実を見たとき、銀行は今やその古いヘビの皮を脱ぎ捨ててプルードン式の国民銀行へ変化すべきときだといふ結論に達した。

 しかしながら、プルードン氏にとつてブルジョア社会の歴史上前代未聞のこの出来事は、実はブルジョア世界にとつては極めて当たり前のもので、ただそれがフランスでは今初めて起つたに過ぎないのである。

 プルードン氏がこのことを知るためには、一七九七年から一八一九年までのイギリスの銀行制限(=銀行券の兌換停止)の歴史を知る必要はない。ただちよつと英仏海峡の向かうに目を向けるだけでよいのだ。

 臨時政府成立後に大言壮語してゐた自称革命理論家たちが、臨時政府によつてとられた措置の性質と結果について、臨時政府の人たち自身と同じくらいに何も分かつてゐなかつたことが、これによつてよく分かる。

 フランスは目下商工業界の好況に恵まれてゐるにも拘はらず、国民の大多数である二千五百万農民は深刻な不況に喘いでゐる。最近の豊作はフランスの穀物の価格を、イギリスよりも遥かに下落させた。農民は借金を抱へ、高利に苦しめられ、税金に苦しめられてをり、そこへこの穀物価格の下落である。彼らの立場は素晴らしいとはとても言へない。一方、最近三年間の歴史は、国民の中でこの階級は革命の主導権をとる能力が全くないことを十分に証明してゐる。

 ヨーロッパ大陸ではイギリスより遅れて恐慌の時期が始まるやうに、好況の時期も遅れて始まる。始まりはいつもイギリスである。イギリスはブルジョア宇宙の造物主なのだ。ブルジョア社会が絶えず新たに通り過ぎる循環過程の様々な局面は、ヨーロッパ大陸では二次的、三次的な形で始まるのである。

 第一に、ヨーロッパ大陸からの輸出先は、どの国にもましてイギリスが多かつた。ところが、このイギリスへの輸出はイギリスの状況に左右され、とくにその海外市場の状況に左右される。

 次ぎに、海外市場への輸出ではイギリスはヨーロッパ大陸全体よりも比較にならないほど大きいので、ヨーロッパ大陸の海外市場への輸出量は、常にイギリスのその時々の輸出量に左右される。

 したがつて、恐慌が最初にヨーロッパ大陸に革命を引き起こすとしても、その原因はいつもイギリスにある。革命が暴力的に勃発するのはブルジョアの肉体の中心よりも末端で早く起きるのは当然である。なぜなら、末端より中心の方が順応性が高いからである。

 他方、ヨーロッパ大陸の革命がどの程度イギリスに影響を及ぼすかは、その革命が実際にどの程度ブルジョアの生活環境を危うくするか、或ひは単にその生活環境の政治的な形に影響を及ぼすに過ぎないかが分かるバロメーターである。

 今のやうな全般的好況のもとでは、ブルジョア社会の近代的生産力がブルジョア的生産環境の中で可能なかぎり旺盛な発達をとげるから、真の革命は起こりえない。真の革命は、この二つの要素つまり近代的生産力とブルジョア的生産環境が互ひに矛盾に陥る時期にだけ可能である。

 いまヨーロッパ大陸の秩序党の個々の派閥の代表は盛んに口喧嘩にふけり、互ひの恥を晒し合つてはゐるが、それが新しい革命のきつかけとなることは決してない。逆にそのやうな争ひは、ブルジョア的生産環境の基盤が目下極めて安定してをり、しかも極めてブルジョア的である(この事実を反動勢力は知らない)からこそ可能なのである。

 このやうな安定したブルジョア的生産環境の基盤の前には、ブルジョア的発展を抑へようとするあらゆる反動勢力の試みも、民主主義者のあらゆる道徳的憤慨や感情的宣言も、ともに跳ね返されるだらう。新しい革命は新しい恐慌に続いてのみ可能である。しかし恐慌が確実であるやうに革命も確実である。

 さて、フランスに移らう。

 三月十日の選挙で国民が小ブルジョアと協力して獲得した勝利は国民自身によつて取り消された。国民は四月二十八日にさらに選挙をやらせたからである。ヴィダルがパリのほかにライン下流地方(=ストラスブール)からも選出されてゐたが、パリの選挙委員会は、パリでは山岳党と小ブルジョアの代表が優勢を占めてゐたので、ヴィダルにライン下流地方での選出を勧めて受諾させたのである。

 この結果、三月十日の勝利は決定的なものではなくなつてしまつた。そして決着の時期はまたも延期され、国民の気力は萎えてしまつた。そして国民は革命の勝利ではなくて法的な勝利に慣れてしまつた。

 最後に、六月の反乱の復権といふ三月十日の革命的な意味は、感傷的で小ブルジョア的な社会空想家ウジェーヌ・シュー(=小説家)の立候補によつて、完全に破棄されてしまつた。プロレタリアは、彼の立候補をせいぜいパリの女工向けの頓知として受け入れたにすぎなかつた。

 敵の政策のぶれを見て大胆になつた秩序党は、人のいいこの候補者に対抗して六月の勝利を代表する候補者を立てた。この滑稽な候補者は、スパルタ風の家長ルクレール(=パリの商人、六月暴動鎮圧に協力)だつた。けれども、彼の英雄的な甲冑は、新聞によつて一つ一つはぎ取られて、選挙では見事に敗北した。


 四月二十八日の新たな選挙の勝利に、山岳党と小ブルジョアは有頂天になつた。彼らはもはやプロレタリアを前面に押し立てた革命を起こさなくても、純然たる合法的手段で自分たちの悲願の成就が可能だと考へて喜んだ。つまり、彼らは一八五二年の次の大統領選挙で普通選挙を行へばルドリュ-ロラン氏を大統領の椅子につけ、山岳党を議会の多数派にすることができると確信したのだ。

 一方、秩序党はこの選挙のやり直しとシューの立候補と山岳党と小ブルジョアの上機嫌な様子を見て完全に確信した。この連中は何があらうと騒ぎ立てないと決心したのだと。そこで、この二つの選挙における敵の勝利に対して秩序党が出した答へは、普通選挙を廃止するといふ選挙法だつたのである。

 政府はこの法律を自分の責任で提案することを避けた。表面上は多数派に譲歩して、多数派の領袖である十七人の城主(=王朝派議員)たちに法案の起草を委任したのだ。したがつて、普通選挙の廃止は、政府が議会に提案したのではなく、議会の多数派が自分自身に対して提案したものだつた。

 五月八日、この法案が議会に提出された。社会民主的な新聞は全部が一斉に立ち上がつて、国民に向つて異口同音に、品位ある態度と calmemajestueux(威厳ある平静)と忍耐と、自分たちの代表に対する信頼を説いた。それはこれらの新聞のどの論説もが次のやうに告白したに等しかつた。「革命なんか起きたら何より所謂革命的新聞は一掃されてしまふに違ひない。いま大切なのは自分たちが生き残ることなのだ」と。自称革命的新聞は自らの秘密(=革命的でないこと)を全て打ち明けたのである。彼らは自分自身の死刑判決に署名したのだ。

 五月二十一日、山岳党は予備審議を提案して、この全法案は憲法に違反してゐるから否決すべしといふ動議を提出した。それに対して秩序党は答へた。「必要なら我々は憲法を破るだらう。だが今はその必要がない。憲法はどのやうにでも解釈できるからであり、何が正しい解釈であるかを決める権限は多数派だけが握つてゐるからだ」と。

 ティエールとモンタランベールのこの節度のない乱暴な攻撃に対して、山岳党は礼儀正しく教養ある人道主義によつて対抗した。山岳党は法的基盤を引き合ひに出した。秩序党はブルジョアの財産こそ法律の発達する基盤だと言つた。山岳党はうめきながら言つた。「では是が非でも革命を引き起こしたいのか」と。秩序党は言ひ返した「革命を待つてゐる」と。

 五月二十二日に予備審議は四百六十二票対二百二十七票で片づけられた。「もし国民議会と各議員がその全権委任者である国民を見捨てたなら、彼らは自分の委任を捨てたことになる」と、あれ程まじめくさつて徹底的に証明してみせた人々は、自分の椅子に留まつたままで、いま突然自分自身の代はりに国民を請願といふ手段で行動させようとした。そして五月三十一日に法案が見事に通過したときにも、彼らはまだ自分の椅子にじつと座つてゐた。

 彼らは、憲法陵辱に関して自分たちは無実であることを記録した抗議文によつて仕返しをしようとした。しかし、その抗議文は一度も公けに提出されることはなく、議長のポケットに後ろから忍び込ませただけだつた。

 パリには十五万人の軍隊がをり、議会の採決は延び延びにされ、新聞は慎重な姿勢をとり、山岳党と新人代議士は臆病であり、小ブルジョアは威厳ある平静を保つたが、それだけでなく、何より商工業界が好景気だつたのだ。これらのためにプロレタリアはどんな革命の試みもできなかつた。

 普通選挙はその使命を終へた。国民の大多数はこの啓発の学校を卒業したのだ。普通選挙は革命の時代にだけ啓発の学校となれる。それは革命か反動のいづれかによつて終りとなる運命だつた。

 山岳党はそのあと間もなく生まれた機会にもつと大きなエネルギーを発揮した。陸軍大臣のオプールが壇上から二月革命を不幸な災難と呼んだのである。例によつて義憤に駈られて大騒ぎすることには優れてゐた山岳党の演説者たちは、議長のデュパンから発言を許されなかつた。

 ジラルダン(=『プレス』社主、山岳党員)は山岳党にすぐさま一斉に退場することを提案した。その結果は、山岳党は席についたままで、ジラルダンが党に相応しくないとして山岳党から放逐されたのである。

 選挙法だけではまだ足りなかつた。新しい出版法が必要だつた。それはすぐに作られた。政府の提案は秩序党の修正によつて何倍にも厳しくされた。この法律によつて発行保証金が引き上げられ、新聞小説に特別印紙税が課せられ(ウジェーヌ・シューの当選に対するお返し)、一定の頁数以下の週刊、月刊の一切の刊行物に税がかけられ、最後に新聞の論説には、全て署名することが義務づけられた。

 発行保証金の規定はいはゆる革命的新聞の命を奪つた。しかし、国民はそれらの消滅を、普通選挙廃止に反対しなかつた報ひだと見做した。一方、新出版法の目的も影響も、この部類の新聞だけに及んだわけではなかつた。

 新聞が匿名だつた間、新聞は無数無名な世論の機関と見えた。だから、それは国家における第三の権力だつた。ところが、各論説に署名がついたことで、新聞は多少とも有名な個人の寄稿の単なる寄せ集めに過ぎなくなつてしまつた。どの論説も広告に堕落した。それまでは、新聞は言はば世論の通貨として流通してゐた。それが今ではかなり不確実な約束手形になつてしまつたのである。その信憑性と流通度は、振出人の信用だけでなく裏書人の信用にも左右されるからである。

 普通選挙の廃止を扇動した秩序党の新聞は、不良新聞に対する極端な政策をも扇動した。しかしながら、御用新聞も気持ちの悪い匿名で書かれてゐては、秩序党にとつて、特に個々の地方代表にとつては不愉快だつた。秩序党は、もはや名前と住所と人相書きの分かつてゐるお抱へ執筆者だけを使ふやうに要求した。御用新聞は彼らの奉仕が忘恩をもつて報ひられたことを嘆いたが無駄だつた。この法律が通過したとき、署名の規定が何よりも打撃を与へたのは御用新聞だつた。

 共和主義的な新聞記者の名前はかなり知られてゐた。しかし『ジュルナル・デ・デバ』『アサンブレ・ナショナル(=両王朝派の新聞)』『コンスティテュシオネル(=オルレアン派の新聞)』等々の上品な新聞社は、彼らが高らかな国家の英知の宣言も消え失せ、憐れな姿をさらした。

 なぜなら、それまでの神秘的な一団が突如として消え失せ、そこに現はれたのは、金のためなら何でも弁護する買収可能な熟練したPenny-a-liners(三文文士)(例へばグラニエ・ド・カサニャック(=オルレアン派議員))たちと、自称政治家の年老いた臆病者(例へばカプフィグ(=オルレアン派、歴史家))たちと、思はせぶりの頑固じじい(例へば『デバ』のルモアンヌ氏(=ジャーナリスト、外交官))たちだつたからである。

 この出版法の討議の最中には、山岳党はすでに著しく精神的な荒廃状態に陥つてゐたので、老いたルイ・フィリップ派の名士であるヴィクトル・ユーゴー氏の見事な反対演説にただ拍手を送る以外には何もできなかつた。

 選挙法と出版法の成立(=七月十六日)とともに、革命的で民主的な政党は公けの舞台から姿を消した。故郷へ旅立つ以前、議会閉会(=八月十一日)の直後に、山岳党の両派閥すなはち社会主義民主主義者と民主主義社会主義者は二つの宣言を発表した。それは言はば貧困証明書であり、その中で彼らは、権力と成功は一度も自分たちの味方にはならなかつたが、自分たちは常に永遠の法とその他の全ての永遠の真理の味方だつた、と証明したのである。

 さて次ぎに秩序党を観察しよう。『新ライン新聞』は、第三号十六頁で次のやうに書いた。

 「まづボナパルトは、連合したオルレアン派と正統王朝派の王政復古欲に対抗して、自分の実権の権原である共和制を主張し、秩序党はボナパルトの王政復古欲に対抗して自分たちの共同支配の権原である共和制を主張し、正統王朝派はオルレアン派に対抗して、オルレアン派は正統王朝派に対抗して、それぞれStatus quo(=現状)すなはち共和制を主張したのである。

 「つまり、これらの秩序党の全派閥は、いずれも inpetto(=胸中秘かに)自分たちの王と自分たちの王政復古を願ひながら、自分たちの競争相手の権力簒奪と昇格との野望に対抗して、ブルジョアの共同支配を互ひに主張し、特殊な要求を中和し留保する方法すなはち共和制を互ひに主張したのだ。・・・そしてティエールが『我々王朝派こそ立憲共和制の真の支持者である』と言つたとき、彼は自分が思つた以上に的を射たことを言つたのである」

 républicains malgréeux(不本意ながらの共和主義者)のこの喜劇、つまり、現状を嫌悪しながらも絶えずそれを強固にすること、ボナパルトと国民議会は絶えず仲違ひすること、秩序党はいつもすぐに個々の構成員に分裂しそうになり、またすぐに各派閥が結合し直すこと、各派閥は共同の敵に対するあらゆる勝利を一時的同盟者の敗北に転化しようとすること、互ひに嫉妬し怨み虐め、飽きもせず抜剣沙汰を起こし、いつもラムレツトの接吻(形式的な和解)で終はること、かうしたうんざりするやうな全ての間違ひの喜劇(=シェークスピアの喜劇の題名と同じ)が、最近六カ月間ほど典型的に展開されたことはなかつた。

 それと同時に秩序党は選挙法をボナパルトに対する一つの勝利と見なした。政府は自分の提案の起草と責任を十七人の委員会(=城主たち)に委ねることによつて、自らの敗北を認めたのではなからうか。そして国民議会に対するボナパルトの主な力は、彼が六百万人によつて選ばれたといふことに基づいてゐたのではなからうか。

 ボナパルトにとつては、この選挙法は議会に対する譲歩であり、彼はそれによつて立法権と行政権との調和を買ひ取つたのである。その報酬としてこの冒険家は下劣にも、自分の王室費を三百万フラン増額することを要求した。国民議会はフランス人の大多数に破門を宣告したその瞬間に、あへて行政権と喧嘩は出来ないはずだと考へたのである。国民議会は激昂した。そして、事態を土壇場まで追ひ込まうとしてゐるやうに見えた。議会の委員会はこの動議を否決したからである。

 すると、ボナパルト派の新聞は(=クーデターがくると)脅しにでた。そして、勘当され選挙権を奪はれた国民を引き合ひに出したのである。多くの騒がしい取引きの試みが行なはれ、結局、議会は実質で譲歩して、原則で仕返しをすることにした。議会は、原則としては王室費を年に三百万フラン増額することはせず、その代はりに、二百十六万フランの一時手当なら許すと言い出した。

 これでもまだ腹立ちが治まらなかつた、議会はこの譲歩をするに当つて、シャンガルニエの支持が必要だと言つたのである。シャンガルニエは秩序党の将軍でボナパルトに押しつけられた保護者だつた。かうして、議会はこの二百万フランを本当はボナパルトにではなく、シャンガルニエに対して認めたことにしたのである。de mauvaisegrâce(しぶしぶ)投げ与へられたこの贈り物を、ボナパルトは贈り主の気持ちの通りに受け取つた。ボナパルト派の新聞は、再び国民議会を激しく責め立てたからである。

 次いでいよいよ出版法の討議に入つた。記事の署名についての修正案が作られた。しかしそれは、特にボナパルトの私的利益を代表する二流新聞を狙い打ちにしたものだつた。そこで、ボナパルトの主な新聞である『プヴォアール』は国民議会に対して公然と激しい攻撃を行なつたので、内閣はその新聞は自分たちとは関係がないと議会で言ふ必要に迫られたほどだつた。

 『プヴォアール』の発行人は国民議会の被告席に呼び出され、罰金刑では最高の五千フランを課された。その翌日『プヴォアール』は、もつと無遠慮に国民議会を攻撃する論説を掲載した。そして、検事局は政府による報復として、ただちに若干の正統王朝派の新聞を憲法違反で訴追した。

 最後にいよいよ議会の休会問題となつた。ボナパルトは議会に妨害されずに行動するために休会を望んだ。秩序党も休会を望んだが、それは自分たちの派閥的陰謀を遂行するためであり、個々の代議士の私的利益を追求するためだつた。両者はともに、地方で反動の勝利を固めてさらに反動を推し進めるために休会を必要としてゐたのである。

 したがつて、議会は八月十一日から十一月十一日(=一八五〇年)まで休会した。しかしながら、ボナパルトは国民議会のうるさい監視を逃れることしか考へてゐないことを隠さなかつたので、議会は信任投票で大統領に対して不信任の烙印を押したのである。

 休会中に共和制の美徳の番人として居残る二十八人の常任委員会の名簿からは、全てのボナパルト派が排除された。さらに立憲共和制に対する多数派の忠誠を大統領に見せつけるために、この常任委員会にはボナパルト派の代はりに『シエクル』と『ナショナル』派から若干の共和派が選ばれた。

 議会休会の直前だけでなく特にその直後には、秩序党の二大派閥であるオルレアン派と正統王朝派は、自分たちが支持してゐる両王家を融合させることで和解しようとしてゐるやうに見えた。セント・レナーズ(=ロンドンの南、イーストサセックス)のルイ・フィリップの病床で討議された和解案の記事が新聞に満ち満ちてゐた。

 ところが、突然ルイ・フィリップが亡くなり(=一八五〇年八月二十六日)、状況は一気に単純化した。ルイ・フィリップは王位簒奪者であり、アンリ五世は王位被簒奪者だつた。それに対してパリ伯(=ルイ・フィリップの孫)は、アンリ五世に子供がなかつたので、アンリ五世の正統な王位継承者となつた。いまや両王朝の利益の融合を妨げる一切の口実がなくなつたのである。

 ところが、さうなつてみて初めてブルジョア両派閥は、彼らが別れてゐるのは特定の王家に対する熱意のせいではなく、彼らの分裂した階級利益のせいだといふこと、そのためにこそ両王朝は引き離れてゐたのだといふことに気付いたのである。

 正統王朝派は、自分たちの競争者であるオルレアン派がセント・レナーズに巡礼したのと同じ様に、ヴィースバーデンのアンリ五世の宮廷へお詣りしてゐた。そして、その地でルイ・フィリップの訃報に接したのである。

 すぐさま彼らは in partibusinfidelium(亡命政府の)内閣を組織した。この内閣は大半があの共和制の美徳の番人の委員たちからなつてゐた。そしてこの内閣は、派閥の内側で起つた争ひの際に王権神授説をあからさまに宣言したのだ。

 オルレアン派は、この宣言が新聞紙上に呼び起こした恥さらしのスキャンダルを見て歓呼した。そして正統王朝派に対する彼らの公然たる敵意を二度と隠さうとはしなかつたのである。

 国民議会の休会中に県議会が召集された。県議会の大多数は、憲法を多少の但し書き付きで改正することに賛成を表明した。すなはち彼らは王家を特定しない王政復古といふ一つの「解決」には賛成を表明したが、同時に彼らはどの王家にするかを明からにする能力はないしそんな勇気もないと告白した。ボナパルト派は、県議会によるこの改正要求をそのままボナパルトの大統領任期の延長の意味に解釈した。

 憲法に従つた解決は、一八五二年五月にボナパルトが退職して、同時に全国の有権者が新大統領を選び、新大統領のもと最初の数ヵ月の間に憲法改正議会を開いて憲法を改正することだつたが、それは支配階級にとつては全く受け入れられないことなのである。

 新大統領選挙の日は全ての敵対する党派、つまり正統王朝派とオルレアン派とブルジョア共和派と革命派が一同に会する日となるだらう。それは様々な派閥の間での暴力的な決定に至らざるを得ないだらう。といふのは、かりに秩序党が王家出身でない中立的な人間を立候補させることでまとまることが出来たとしても、これに対して今度はボナパルトが立ちはだかるからである。

 秩序党は国民と闘争する上で絶えず執行権力を増大せざるを得ないが、執行権力が増大することはその担ひ手であるボナパルトの権力が増大することである。だから、秩序党がボナパルトと共有してゐる権力を強化するといふことは、ボナパルトの王位簒奪の闘争手段を強化するといふことであり、その結果、大統領を決める日に、憲法に従つた解決を暴力的に挫折させるボナパルトのチャンスを大きくしてゐるのである。

 さうなると彼は、秩序党をやつつけるために、もはや憲法の一方の柱(=国民議会)の存在など頓着しないだらう。それはちやうど選挙法改正のとき秩序党が国民をやつつけるために憲法のもう一方の柱(=大統領)の存在に頓着しなかつたのと同じである。むしろ彼はおそらく議会をやつつけるために普通選挙に訴へるだらう。

 要するに、憲法に従つた解決によつて、政治の現状の全てが危機に陥るのである。そして現状が危機に陥いるといふことは、ブルジョアにとつては渾沌と無政府と内乱を意味する。つまりブルジョアは買収と売却、そして手形、結婚、公証契約、抵当権、さらに地代・家賃・利潤、つまり全ての契約と収入の源泉が、一八五二年五月の第一日曜日に危機に陥いると見てゐるのだ。

 そしてかうしたリスクにブルジョアは身を曝すことができない。政治の現状が危機に陥いるといふことは、全ブルジョア社会が崩壊の危機に陥るといふことである。ブルジョアのために唯一可能な解決は、解決を引き延ばすことである。彼らは憲法に違反することによつてのみ、つまり大統領の権力を延長することによつてのみ、立憲共和制を救ふことができる。

 これは秩序党の新聞が、県議会の閉会後にこの「解決」について長々と深遠な議論に熱中したあとで語つた最後の言葉でもある。かうして強大な秩序党は恥づかしいことに、にせボナパルトといふ取るにたらぬ平凡で厭はしい人物の言葉をまじめに扱はざるを得ないことになつたのである。

 このいかがはしい男もまた、自分が益々不可欠な人間といふ性質を帯びるやうになつた原因について思ひ違ひしてゐた。ボナパルトの党派は、彼の重要性が増えてゆくのは状況のせいだと充分に見抜いてゐたが、本人はそれはひとへに自分の名前の魔力と、絶えずナポレオンの物真似をしてゐるせいだと信じてゐた。

 彼は日に日にやる気を出してきた。セント・レナーズ詣でとヴィースバーデン詣でに対抗して、彼はフランス中を旅して回つた。ボナパルト派の人々は彼の人格による魔術的効果などはあまり信用してゐなかつたので、十二月十日の会(ボナパルト派)の連中、つまりパリのルンペンプロレタリアの団体を列車や郵便馬車に大量に詰め込んで、至る所さくらとして彼に同行させた。

 彼らは自分たちの操り人形に演説を教へ、様々な都市の歓迎ぶりに応じて、共和的諦めとねばり強い頑固さのどちらかを、大統領の政策のモットーとして言はせた。しかしながら、どんな手管を使はうとも、この旅行は祝勝パレードとはならなかつた。

 ボナパルトはかうして国民を感激させたと思ふと、次には軍隊を獲得しようとして動き始めた。彼はヴェルサイユ付近のサトリの平原で大閲兵式を行なはせ、その際彼はニンニクソーセージとシャンパンと葉巻きで兵士たちを買収しようと試みた。

 本物のナポレオンは遠征の苦労の中で、ひとときの家父長的な親しみを示すことで、疲れた兵士を元気づけることを知つてゐたのに対して、偽ナポレオンは、軍隊が感謝して Vive Napoleon, vive lesaucisson!(=ナポレオン万歳、ソーセージ万歳)と叫んだと思ひこむだけだつた。しかしそれは、道化者万歳といふ意味だつたのである。

 また、この閲兵式によつて、ボナパルト対シャンガルニエ、或ひは陸軍大臣オプール対シャンガルニエの間で長く隠されてゐた不和が表沙汰になつた。

 シャンガルニエならばその王朝的要求は問題にならなかつたから、秩序党は自分たちの本当の中立的人間であると見てゐた。つまり、秩序党は彼をボナパルトの後継者に決めてゐたのだ。その上、シャンガルニエは一八四九年一月二十九日と六月十三日の行動によつて、秩序党の大将軍であり現代のアレクサンダーとなつてゐた。彼の残忍な干渉は臆病なブルジョアの眼には革命といふゴルディオスの結び目を断ち切つたやうに見えたのである。

 シャンガルニエは、元々ボナパルト同様に滑稽な人間でありながら、このやうな極めて安つぽい方法で権力にのし上がつてからは、国民議会によつて大統領に対する監視役にさせられてゐた。例へば給与問題の場合には彼自身ボナパルト対して保護者の振りをして、ボナパルトとその内閣に対して益々優位にたつたのである。選挙法に際して反乱が予想されたときには、シャンガルニエは陸軍大臣や大統領からはどんな命令も受けつけないやう自分の部下の将校たちに命令した。

 その上、新聞もシャンガルニエ像を巨大化するために一役買つた。秩序党には大人物が全く居なかつたので、自分たちの階級に欠けてゐる力をたつた一人の人間に託して、この男を巨人にふくれあがらせる必要に迫られてゐたのだ。かうして「社会のとりで」シャンガルニエといふ神話が生まれた。

 しかし、世界を双肩に担ふことを引き受けた積もりになつたシャンガルニエの思ひ上つた大法螺と曰くありげでもつたいぶつた態度は、サトリの閲兵式中からその後にかけての一連の出来事と滑稽なほど食違つてゐた。この間に、ボナパルトといふ限りない小物の署名一つで、ブルジョアの不安の空想的産物であるシャンガルニエの巨像が月並みの大きさに引き戻され、社会を救済する英雄が一人の退役将軍になつてしまふことが、争ふ余地のないまでに証明されたからである。

 ボナパルトは陸軍大臣をこの不愉快な保護者と軍紀上の問題で争はせることによつて、既にずつと以前からシャンガルニエに仕返しをしてきたが、最近のサトリの閲兵式の際に、つひに二人の宿怨が爆発したのである。騎馬連隊が Vivel'Empereur!(皇帝万歳)といふ違憲の叫びを上げてそばを行進するのを見たとき、シャンガルニエの立憲的憤怒は際限がなかつた。しかし、目前に迫る議会でこの叫びに関するあらゆる不愉快な議論に先手を打つて、ボナパルトは陸軍大臣オプールを解任してアルジェリア総督に任命してしまつた。

 彼は陸軍大臣の後任に、帝政期の信頼できる老将軍(=シュラン 一七八九年~一八八四年Schramm)で、残忍さにかけてはシャンガルニエに全く引けを取らない男を据ゑた。しかしそれと同時に、オプールの解任がシャンガルニエに対する譲歩と見えないやうに、この偉大な社会救済者の右腕であるヌメエ将軍をパリからナントに左遷した。ヌメエは先の閲兵式で全歩兵に命じて、皇帝ナポレオンの後継者の前を氷のやうな沈黙とともに行進させたからである。

 シャンガルニエは、ヌメエが攻撃されたことは自分自身が攻撃をされたことだと思つたので、これに抗議して威嚇したが、無駄だつた。二日間の交渉の後に、ヌメエの左遷命令は『モニトゥール』に出た。そしてこの秩序の英雄は、軍紀に服従する気がないなら辞職する以外に道はなくなつたのである。

 ボナパルトとシャンガルニエとの戦ひは、ボナパルトと秩序党との戦ひの延長だつた。だから、十一月十一日(=一八五〇年)の国民議会の再開は険悪な兆候のもとに行なはれた。コップの嵐は起こるだらう。しかし、本質的には以前の争ひの続きとなるに違ひない。(=シャンガルニエの解任は一八五一年一月十二日、クーデターはその年の十二月二日)

 秩序党の多数派は、様々な派閥の原理主義者たちがどんなに騒ぎ立てようとも、大統領の任期を延長せざるを得ないだらう。同様にボナパルトも、さしあたりどんな異議を唱へようとも、金欠のため既に気力を失つてをり、任期の延長を単純な委任として国民議会の手から受け取るだらう。

 かうして「解決」は延期され、現状は維持され、秩序党の派閥はそれぞれ他派閥によつて信用を傷つけられ、弱められ、面目をつぶされながらも、共同の敵である国民大衆に対する弾圧を拡大し徹底するだらう。そして最後には、経済状況が再びある頂点に達して新しい爆発が起こり、これら相争ふ全ての党派は自らの立憲共和制もろともに空中に吹き飛んでしまふことだらう。

 なほ、ボナパルトと秩序党との間のスキャンダルは、株式取引所の多数の小資本家たちを破産させ、彼らの財産を大物相場師たちのポケットにすべりこませる結果になつたことは、ブルジョアを安心させるために言つておかねばならない。(了)


誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

この訳文はインターネット上のドイツ語原典をもとに、同じくインターネット上の英訳仏訳和訳と、『マルクスエンゲルス全集』第七巻所収の和訳を、大いに参考にしながら作成したものである。なほ、上記ドイツ語原典はあちこちに脱落があつたが、手元にドイツ語の書籍がないので、主に仏訳で補つた。

(c)2006.1 Tomokazu Hanafusa /メール

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