ガリア戦記を読む(第一巻)



新かな版

   シーザーの書いた文章が現代に伝はつてゐる。歴史上の人物とは言へ伝説的な人物となつてゐるシーザーによつて書かれたものが現代でも読めるのである。それが「ガリア戦記」である。これは、日本で言へば「太閤記」のやうなものと言つていい。しかも主人公本人が書いたものである。だから、おもしろくないはずがない。 

 (「ガリア戦記」はラテン語を勉強する上でも恰好の教材で、とくにオックスフォードのエレメンタリー・ラテン・ディクショナリを使ひながら読むと非常に勉強がはかどる。「ガリア戦記」を読んでゐて解らない箇所に出くはしたとき、この辞書を引くとその箇所が必ずと言つていいほど引用されてゐてその部分の英訳が付いてゐるからだ。このやうなことは他にはヴァージルの「アエネイス」やオヴィディウスの「変身物語[メタモルフォーゼス]」などについても言へることである。)

 ガリアとは今のフランス。そこのヘルウェティア国のオルゲトリクスという一人の男がフランス全土の王にならうといふ野望を抱いた。国民にはこんな狭い国から出てヘルウェティア人の強さを見せてやらうとだけ言つて自分の意見を取り入れるように説得する。彼は外の世界に打つて出るために必要な手を着々とうつていつた。戦争に必要な物資を調達し、近隣の部族を味方につけていく。しかしそのうちオルゲトリクスが王にならうとしてゐるといふ野望が人々に知れわたると、民衆は彼をきびしく追求して、あげくに彼を自殺に追ひ込んでしまう。しかし外の世界に出ていかうといふオルゲトリクスの魅力的なスローガンは、民衆の気持ちを動かしつづけた。そしてついに彼らは南の道を通つてローマ領に出撃することを決定したのだ。それを聞きつけたシーザーは急いでローマを出発する。さてどうなるか。

ガリア戦記

1 ガリアは大きく三つの地域に分かれてゐる。一つめがベルギー人の住む地域、二つめがアキテーヌ人の住む地域、三つめが当地の言葉でケルト人の住む地域である。このケルト人のことを我々はガリア人と呼んでゐるのである。

  三つの民族はそれぞれに異なつた言語、習慣、法律をもつてゐる。

  ガリア人とアキテーヌ人を分けてゐるのがガロンヌ川であり、ガリア人とベルギー人を分けてゐるのがセクアナ(=セーヌ)川とマルヌ川である。

  これらの民族の中ではベルギー人が最も勇猛果敢である。その理由は、ローマの属州(=プロバンス)の文化と文明から最も遠く離れてゐるからである。つまり、彼らのところには商人がやつて来ることが少なく、人の心を軟弱にする物を持ち込むことがほとんどないからである。さらに、彼らがゲルマン民族の隣りで暮らしてゐることも大きい。ゲルマン民族はライン川の対岸に住んでをり、ベルギー人は彼らといつも戦かつてゐるのである。

 ガリア人の中でヘルウェティア(=スイス)人が最も武勇にまさつてゐるのも、この理由からである。といふのは、ヘルウェティア人は自分たちの領土からゲルマン民族を追ひ払つたり、自からゲルマン民族の領土に侵入したりと、ゲルマン民族との間で毎日のやうに戦闘に励んでゐるからである。

 上記のガリア人の支配地域はローヌ川に始まり、ガロンヌ川と大西洋とベルギー人の領土によつて回りを囲まれてゐる。またセクアナ(=セーヌ)人の住む地域とヘルウェティア人の住む地域ではライン川に達してゐて、北の方角に広がつてゐる。

  ベルギー人の領土はガリア人の領土の端から始まつて、ライン川の下流域に達してゐて、北東の方角に広がつてゐる。

  アキテーヌ人の領土はガロンヌ川からピレネー山脈とスペイン沿岸の大西洋に達してゐて、北西の方角に広がつてゐる。

2 ヘルウェティア(=スイス)人の間ではオルゲトリクスが最も生まれがよくて裕福だつた。M.メッサラとM.ピソが執政官だつた年(=紀元前61年)のこと、王座への欲望に駆られたオルゲトリクスは各地の王族と盟約を結び、国民には全員による国外移住を説得することとした。ヘルウェティア人は武勇では誰にも負けないから全ガリアを支配下に置くのは容易なことだ、と。

 この説得は簡単にいつた。ヘルウェティア人はその領地に四方から閉じ込められた状態だからである。つまり、一方にはライン川の広大な流れがあつて、ヘルウェティア人の領地をゲルマン民族から遠ざけ(=東側)、他方には高くそびえるジュラ山脈があつて、ヘルウェティア人をセクアナ(=セーヌ川源流)人から隔ててをり(=北西側)、三つめにはレマン湖とローヌ川があつて、ヘルウェティア人をローマの属州(=プロバンス、アッロブロゲス)から引き離してゐるのだ(=南側)。

 このやうな状況から彼らの行動範囲は狭く、近隣諸国を攻撃するのも容易には出来なかつた。好戦的な民族である彼らはこの点が大いに不満だつたのである。つまり、彼らの人口の豊かさからも武勲の誉れの高さからも、長さ24万歩(=355km)幅18万歩(=266km)に広がる領地(=現代のスイスの2倍)が狭く感じらてゐたのだつた。

3 ヘルウェティア(=スイス)人は、オルゲトリクスの説得に動かされただけでなく、かうした事情に促されて、出発の準備に取り掛かることを決めた。つまり、出来るだけ多くの運搬用家畜と荷車を買ひ集め、道中の食料を充分確保するために出来るだけ多くの穀物を栽培し、さらに近隣諸国との友好関係を確立することにしたのである。

 彼らはこれだけの事を成し遂げるのに二年もあれば充分だと考へた。そこで三年以内に出発することを法律に定め、その準備にオルゲトリクスを選任すると、彼は自ら周辺国への使節になることを引き受けるのである。

 この使節としての旅の際に、オルゲトリクスはセクアナ人カタマンタロエディスの息子カスティクスに対して、「君はかつて父親のものだつた王座に着くべきだ」と説得するのだ。といふのは、彼の父は長年セクアナで王座にあつて元老院からローマ人の友と呼ばれた人だからである(注、ローマの影響でガリアでは王制は概ね廃されてゐた)。

 同様にオルゲトリクスはハエドゥイ人(=フランス中央)ディウィキアクスの弟ドゥムノリクスに対しても同じやうに説得して、自分の妹を彼に嫁がせるのである。当時ドゥムノリクスはその国の指導権を握つてゐて民衆から大きな人気を集めてゐたのである。

 オルゲトリクスは二人に対して、クーデターのいともたやすい事を証明してみせる。「ヘルウェティアの王座は間もなく私の手に入るし、疑ひもなくヘルウェティア人は全ガリアで最強である。したがつて、ヘルウェティアの財力と軍事力を使へば私が君たちを王座に着けるのは確実である」と言ふのだ。

 この言葉に突き動かされた彼らは、互に盟約を交はして同盟を結び、王座を手にした暁には最大最強の三カ国の力で自分たちが全ガリアの支配者となることが出来ると目論むのである。

4 しかし、このクーデター計画は裏切りにあつてヘルウェティア(=スイス)に密告された。オルゲトリクスはヘルウェティアの慣例に従つて鎖につながれたまま裁判を受けることになつた。有罪となれば火あぶりの刑が待つてゐたのだ。

 裁判の日取りが決まると、オルゲトリクスは至る所から自分の奴隷約一万人を裁判所近くに全員集結させ、莫大な数にのぼる自分の庇護者たちと負債者たちも同じくそこに全員集合させた。そしてオルゲトリクスは彼らの力によつて裁判を受けずにその場を去つたのである。

 この事実に激昂した国民は彼らの法を強制的に執行しようとし、高官たちは住民を国中から大量に召集した。しかし、その間にオルゲトリクスは絶命してゐたのだ。これはヘルウェティア人の考へるやうに自殺だつた疑ひが濃厚である。

5ところが、ヘルウェティア人はオルゲトリクスが死んだあとも国外移住といふ決定をなほも実行しようとする。国外移住の準備が整つたと見るや、彼らは望郷の念を断ち切つてどんな危険にも立ち向かふ覚悟を固めるために、約12ある町と約400ある村々、その他個人の建物の全てに火を放ち、穀物も携行して行くもの以外は全てを焼却するのだ。しかも、各自が携行を許される食糧は三ヶ月分である。
 
 そしてヘルウェティア人は北に隣接するラウラキ人、トゥリンギ人、ラトブリギ人にも自分たちと同じ計画にしたがつて町と村を焼き尽くして一緒に出発するやう説得する。さらに、ライン川の向かう側に住んでノリクム国(=オーストリア)にまで移動してノレイア(=ノリクムの首都)を攻撃してゐたボイア人を自国に受け入れて仲間に加へる。

6彼らが国外に脱出できる可能性のあるルートは二つしかなかつた。一つはセクアナ国(=セーヌ川源流)に入るルートであるが、そこはジュラ山脈とローヌ川の間の隘路(=ローヌ川右岸の切通しでいま水門要塞Fort del'Ecluseがある所)で、車がやつと一台通る幅しかなく、聳え立つ山々が頭上にせり出して、わづかの人間によつて簡単に通行を阻止される可能性があつた。

 もう一つはローマの属州(=アッロブロゲス)に入るルートで、一つ目のルートよりはるかに容易に通過できる道だつた。といふのは、最近ローマの属州となつたアッロブロゲスとヘルウェティアの国境を流れるローヌ川は、多くの個所で浅瀬を渡ることができるし、アッロブロゲスの北端の町ジュネーブはヘルウェティアとの国境に接してをり、そこからヘルウェティアに橋もかかつてゐるからである。

 ヘルウェティア人たちは、アッロブロゲス人がローマ人に対してまだ好意を持つてはゐないと見てゐたので、自分たちの説得に応じて領内に入ることを認めるだらうし、それが駄目でも力づくで認めさせればよいと考へてゐた。

 出発の準備が全て整ふと、彼らはローヌ川の岸辺に集合する期日を定める。それはL.ピソとA.ガビニウスが執政官だつた年(=紀元前58年)の4月朔日の第5日目前(=3月28日)だつた。

7ヘルウェティア人がローマの属州に入らうとしてゐるといふニュースがシーザーのもとに届くと、彼は急いでローマを発ち、これ以上ない強行軍で外ガリア(=アルプス山脈の外側で属州となつてゐるガリア、つまり属州=プロバンスと同じ意味)へ急ぎ、ジュネーブに到着する。そして、属州中から出来るだけ多くの兵隊を招集するやうに命じて(外ガリアにはローマ軍が一個軍団しか駐留してゐなかつた)、ジュネーブにあつた橋の破壊を命令する。

 シーザーの到着を聞きつけたヘルウェティア人たちは、シーザーのもとへ国民の中で最も優れた者たちを使者に派遣する。その代表を務めたナムメイユスとウェルクロエティウスは次のやうに言ふのだつた。われわれは属州に入つても何ら危害を与へる積もりはない。他に行く所がないので、シーザーの御厚意をもつて是非とも入国をお許し願ひたい、と。

 シーザーは、執政官L.カッシウスを殺害し(=紀元前107年)その軍を打ち敗つて槍門くぐりをやらせたのはヘルウェティア人であることを覚えてゐたので、奴らの言ふ通りにさせるわけにはいかないと考へた。それに敵対心をもつた連中が属州に入る機会を与へられて何も危害を加へずにゐられるはずはないとも思つてゐた。
 
 しかし、召集を命じておいた軍隊が集まるまでの時間を稼ぐために、使節たちには、「暫くの間よく考へてみよう。もし用があるなら4月の中日(=13日)に戻つて来るがよい」と答へる。

8 その間に、シーザーは手持ちの軍団と属州から集めた兵士たちを使つて、ローヌ川の源流であるレマン湖から、ヘルウェティアとセクアナの国境をなすジュラ山脈までに至るローヌ川左岸1万9千歩(=28km)に、高さ16足(=4.7m)の防壁と塹壕を巡らせるのである。

 その工事が完成すると、ヘルウェティア人が無理に川を渡らうとしたら、より速やかに阻止できるやうに、守備隊を配置して櫓(やぐら)を固めさせるのだ。

 ヘルウェティアの使者との約束の日に彼らが再びやつてきた時、シーザーはかう言ふ。「ローマ人の慣習と前例にしたがつて、何人にも属州内の通行権を与へることは出来ぬ」と言ひ、「たとへ暴力に訟へようとも、許す積もりはない」と言明するのである。

 かうして当てが外れたヘルウェティア人は、船を繋げたり無数の筏を組んだり、ある者はローヌ川の浅瀬で水嵩の最も浅い場所を捜して、一部は明るいうちに多くは暗くなつてから、強行突破の可能性を試みた。しかし、張り巡らされた防壁とローマ兵による迎撃と飛び道具によつて撃退されてしまひ、彼らはこの企てを断念したのである。

9残るはセクアナ国へ入る道だけだつたが、狭いのでセクアナ人の同意なしに通過するのは不可能だつた。しかし、ヘルウェティア人は自分たちの力ではセクアナ人を説得するすることが出来なかつたので、ハエドゥイ人ドゥムノリクスの口添へによつてセクアナ人に入国を認めさせることとし、ドゥムノリクスのもとへ使者を派遣するのである。

 ドゥムノリクスは、その人望と多大な援助のおかげでセクアナ人に対して大きな影響力があつた。また、オルゲトリクスの妹と結婚したことでヘルウェティアと友好関係にあつただけでなく、王座への欲望に駆られてクーデターを起こさうとしてゐたので、出来るだけ多くの国に恩を売つておきたいとも思つてゐた。

 そこで彼はこの依頼を引き受けて、ヘルウェティア人の入国をセクアナ人に認めさせるのである。さらに、セクアナ人にはヘルウェティア人の通行を妨害させないため、またヘルウェティア人には住民に損害をかけずにおとなしく通過させるために、互ひに人質を交換させる。

10 ヘルウェティア人がセクアナ国とハエドゥイ国(=フランス中央)を通つてサントニ国(=フランス西部)に入るつもりでゐるといふ情報がシーザーのもとに届けられる。サントニ国はローマ属州(=プロバンス)内のトロサ国(=トゥールーズ)からさう遠く離れてゐない。

 もしヘルウェティア人の思ふとほりになれば、属州第一の穀倉地帯でありしかも何の障害物も持たない地域のすぐ隣りに、ローマ人に敵意を抱く好戦的な国民が居を定めることになるのであり、これは属州にとつて大きな脅威となるとシーザーは考へた。

 そこでローヌ川沿ひに作らせた防壁は副官T.ラビエヌスの指揮にゆだねて、シーザーは大急ぎで北イタリアに向ひ、そこで二個軍団を召集し、さらにアクイレイア(=北イタリア東端)郊外の冬営地で越冬してゐた三個軍団を呼び出し、アルプス山脈(=フランス側)を越えて外ガリア(=プロバンス)に至る最短コースを、五つの軍団を連れて急ぐのである。

 このアルプス山中でケウトロネス人、グライオケリ人、カトゥリゲス人が山岳地帯を占領してローマ軍の進路を妨害しようとする。シーザーはこれらを何度かの戦ひで退けて、アルプス手前の北イタリア西端の町オケルムからアルプスの向かう側の属州(=プロバンス)のウォコンティー人の領地に七日で到達する。

 それからアッロブロゲス人(=上記)の領地へ、さらにアッロブロゲスからセグシアウィと軍を進める。セグシアウィはローヌ川を越えてローマ属州の外に出たところにある最初の国である。

11 今やヘルウェティア人は上記の隘路からセクアナ国の領土に全員が移り終へて、さらにハエドゥイ国の国境にまで到達して、その領地に略奪行為を働かうとしてゐた。

 この略奪から自らの生命財産を守ることの困難を見てとつたハエドゥイ人は、シーザーに使者を送つて助けを求める。「自分たちがいつもローマ人に尽くしてきたのは、ローマ軍の目の前で、国土が拷掠され、子供たちが攫(さら)はれて奴隷にされ、町が次々に占領されるためではない」と言ふのである。

  同じ頃、ハエドゥイ人と同族で同盟も組んでゐるアンバッリ人(=ハエドゥイの南)からシーザーのもとに、自国の領土が既に荒らされ、町から敵を追ひ出すこともままならないと報告が入る。また、ローヌ川の右岸に土地を持つて村を営んでゐるアッロブロゲス人がシーザーのもとに逃れてきて、土だけを残して全てを奪はれたと自分たちの惨状を訴へる。

 このやうな事態に心を動かされたシーザーは、もはやヘルウェティア人がローマの同盟国の富をことごとく破壊しながら、サントニ国に到達するのを待つべきではないと決断するのである。
 
12 ハエドゥイ国とセクアナ国の境界をなしてローヌ川に流れ込むソーヌ川(古名アラル川)は、途轍もなく流れが穏やかで、どちらへ流れてゐるのか一見して見分けがつかないくらゐである。ヘルウェティア人は筏(いかだ)や小船を繋いでこの川を渡らうとしてゐた。
 
 シーザーは偵察隊によつて、既に全ヘルウェティア人の四分の三が川を渡り終へたが、まだ四分の一はソーヌ川のこちら側に残つてゐることを知ると、真夜中すぎに三個軍団を引き連れてセグシアウィ(=上記)の陣営を出発して、まだ川を渡つてゐないヘルウェティア人たちのところにやつて来る。
 
 そしてシーザーは荷物で身動きの取れない彼らの不意をついて襲ひかかり、その大半を滅ぼしたのである。残りの者たちは、そこから逃げ出して近くの森の中に身を隠した。
 
 ヘルウェティア国は全部で四つの地域に分かれてゐるが、この時シーザーに襲はれたのはその一つであるチグリヌス(=チューリッヒ)といふ地域の一団だつた。彼らこそは、我々の父の時代に出国を企てたとき、まさにL.カッシウスを殺害して彼の軍隊に槍門くぐり(=上記)をやらせた者たちだつた。
 
 偶然かそれとも不死なる神々の思し召しによるものか、ヘルウェティア国民の中でローマ人に対して嘗て多大なる損害を与へた者たちの一団が、かくして真つ先に罰を受けたのである。
 
 実はチグリヌスの一団はカッシウスを殺害した戦闘で、シーザーの義父L.ピソの祖父にあたる副官L.ピソをも殺害してゐたので、シーザーはこの戦ひで公私の恥辱を一度に雪いだことになつた。

13 この戦闘が終はるとシーザーは、他のヘルウェティア人の追跡を可能にするために、ソーヌ川に橋をかけてローマ軍を川向かうへ渡らせる。ヘルウェティア人は、シーザーの突然の出現に驚き、自分たちが20日かかつてやつと実現した渡河を、シーザーがたつた一日でやつてのけたのを知つて、シーザーのもとに使者を派遣する。

  その代表はカッシウスとの戦闘時にヘルウェティア人の指揮官だつたディウィコだつた。彼はシーザーに対してかう言つた。

 「もしローマ人がヘルウェティア人と和平を結ぶつもりなら、ヘルウェティア人はシーザーの指し示す所に向ひシーザーの望む所に止まらう。しかし、もしシーザーがヘルウェティア人の追撃を続行するつもりならば、ローマ人の過去の敗北と当時のヘルウェティア人の勇猛さを思ひ起こすべきである。

 「シーザーが先の一団に不意に襲ひかかつた時、川を渡つたヘルウェティア人は味方を救援できなかつたが、それを根拠にして、シーザーは自分たちの武勇を高く見積もつたり、ヘルウェティア人を見下したりしてはならない。

 「ヘルウェティア人は策を弄せず不屈の精神力をもつて戦ふことを父祖たちから学んできた。したがつて、シーザーはローマ人の不幸とローマ軍の全滅によつて、いま両者の立つてゐるこの地が有名になり後世に名を残すことがないやう、誤りなき判断をすべきである」と。

14 それに対してシーザーはかう答へる。「自分はヘルウェティアの使者が言及した不幸な出来事を忘れることがないが故に、ますます自分の気持ちに疑ひはない。その不幸がローマ人にとつて不当なものだつたが故に、ますます自分の怒りは大きいのだ。

 「当時のローマ人たちがもし自分たちの不正行為を知つてゐたなら、あらかじめ用心することはたやすかつたらう。ところが、彼らは用心すべきことは何もしてゐないと知つてゐたが故に、また、わけもなく用心すべきでないと考へてゐたが故に、だまし討ちに会つたのである。

 「だが、仮にもシーザーが過去の恥辱を忘れようと望んだとしても、ヘルウェティア人がシーザーの意に反してローマの属領に侵入を企て、ハエドゥイ人とアンバッリ人とアッロブロゲス人を悩ませたといふ、この新たな恥辱を同様に忘れることができようか。

 「ヘルウェティア人がこれほど自分たちの勝利に酔ひしれてゐるのも、ローマ人に恥辱を与へながらこれほど長い間無事でゐられたのも、一つの同じ理由を指し示してゐる。

 「それは、不死なる神々が人間の不正を罰せんとする場合には、運命の逆転をさらに苦痛に満ちたものとするために、しばしば、その前により大きな幸福を与へ、より長く無事でゐることを許したまふのを常とするからなのだ。

 「しかしながら、それはそれとして、もしヘルウェティア人がシーザーに人質を差し出して、約束の確実な実行を保証し、ハエドゥイ人とその同盟国に対して加へた損害を弁償して、アッロブロゲス人にも同様にするなら、シーザーはヘルウェティア人との間に和平を結ぶ用意がある」と。

 ディウィコは答へる。「ヘルウェティア人は人質は受け入れるが提供はしないことを常とする、といふのが先祖からの教へである。この事はローマ人が一番よく知つてゐるはずだ」。ディウィコはかう答へるとその場から立ち去つた。
 
15 翌日にはヘルウェティア人がソーヌ川の川辺から陣地を移動する。シーザーも同じやうにする。そして、全属州とハエドゥイ人とその同盟国から集めた約4千からなる騎馬隊の全てを先行させ、敵の進行方向を探らせる。

  彼らが敵の殿(しんがり)を深追ひして不利な地点でヘルウェティアの騎馬隊と交戦状態に陥り、わづかながら我が軍に死者が出る。

 この戦闘において、かくも大勢の騎兵を五百の騎兵によつて撃退したことで、ヘルウェティア人の士気は大いに上がつた。そして、前より大胆になつて時々立ち止まつては我が軍を挑発するやうになつたのである。

 シーザーは兵士たちに戦闘の許可を与へず、当面は敵の略奪・徴発・破壊行為を阻止することをもつてよしとした。かうして敵の殿と味方の先頭は常に7~9キロに満たない距離を置いたままで、およそ15日間の行程を進んだのである。

16 その間毎日シーザーはハエドゥイ人が公式に約束してゐた穀物の提供を催促する。といふのは、ガリアは前述のやうに北方に位置するため気候が寒冷で畑の穀物はまだ実つておらず、馬の餌の蓄へも不足気味だつた。

 その上、シーザーが逃がすまいと追つてゐたヘルウェティア人はソーヌ川からどんどん離れて行くので、ソーヌ川を船で運ばせてゐた穀物をあまり利用できなかつた。

 しかし、ハエドゥイ人は来る日も来る日も日延べをして、集積中、運搬中、接近中と言ふばかりなのだ。シーザーはこれは遅過ぎると思ひ、兵隊に穀物を分配する期日も迫つてゐたので、陣営にゐた大勢のハエドゥイ人の指導者たちを招集する。

 その中にはディウィキアクス(=既出)とリスコスも含まれてゐた。リスコスはハエドゥイでウェルゴブレトゥスと呼ばれる任期一年の最高官の地位にあつて、国民の生殺与奪権を握つてゐた。

 シーザーは彼らが集まると、敵にこれほどに接近してゐて、人からも土地からも穀物の調達が不可能なこの緊急時に、特に大部分ハエドゥイ人の懇願に動かされて自分がこの戦ひに乗り出したにも関はらず、そのハエドゥイ人から協力が得られないことに対して、強い調子で釈明を求める。彼らの約束不履行に対しては特に激しい憤りを見せるのである。

17  その時リスクスがシーザーの言葉に動かされてそれまで隠してゐたこと到頭打ち明ける。

  この国には一般人でありながら自分たち高官よりも力があつて、民衆の間で大きな影響力をもつてゐる者がゐる。

 彼らは国民に向かつて、もしわが国がガリアを支配できないなら、ローマ人よりもガリア人の支配に甘んじる方がよほどましである、ローマ人はヘルウェティア人を征服したなら、次は他のガリア人と同様、ハエドゥイ人からも自由を奪はうとするに違ひない、などと扇動的で出鱈目な言辞を弄して約束の穀物を集めさせないのである。

 彼らを通じて味方の計略もこの陣営で起きてゐることも敵に筒抜けになつてゐる。自分たちの言ふことなど彼らは聞く耳を持たない。いやそれどころか、自分がこんな重要なことを進んでシーザーに言はなかつたのは、この行為がいかに大きな危険を伴ふかを知つてゐるからで、そのために自分は可能な限りの間沈黙を守つてゐたのだと。

18  シーザーはこのリスクスの発言の中で言はれてゐるのはディウィキアクスの弟ドゥムノリクスであることに気づいてゐた。

 しかし、みんなの前でこの問題に触れたくなかつたので、リスクスだけを残して早速集まりを解散する。そして一人になつたリスクスに集会で言つたことを問ひただす。リスクスはさつきよりはつきりと率直な言葉で語る。シーザーは他の者たちにも個別に問ひ糾して、リスクスの言つた事が真実であることを突き止める。首謀者はドゥムノリクスなのだ。

 ドゥムノリクスは極めて無謀な男で民衆に金をばら撒いて獲得した大きな人気を頼りにクーデターを企ててゐた。彼はハエドゥイの通行税やその他の税金の徴収権の入札に応札する者がないので独占して長年の間安価で請け負つてゐる。この収入で自分の財産を増やすだけでなく、金をばら撒くだけの大きな財力を蓄へてゐる。

  また彼は大きな騎馬隊を自費で養つていつも連れ回つて、国内だけでなく隣りの国々でも大きな影響力を持つてゐる。

 この力を手に入れるために彼は自分の母親をビトゥルゲス国(=サントニ国の南隣)の最高権力者に嫁がせ、自分の妹や親族の女たちを他の国々に嫁がせ、自分自身はヘルウェティアから妻を娶つてゐる。彼がヘルウェティアを贔屓して力を貸さうとするのはこの婚姻関係のせいである。

 また彼がシーザーとローマ人に好意を抱いてゐないのは、ローマ人が来てから彼の影響力が衰えて兄のディウィキアクスが昔の地位と人気を取り戻してしまひ、自分の立場が悪くなつたからである。

 ローマ人にもしもの事があればヘルウェティア人の力で彼が王位に就くことは確実になつてくるだろう。しかし、逆にローマ人の支配が始まれば王位はおろかこれまでの彼に対する国民の支持も諦めねばならないのだ。

 シーザーのこの尋問で明らかになつたことは、それだけではなかつた。数日前騎馬隊が不利な戦闘を起こしたのも、あの敗走を始めたのもドゥムノリクスと彼の騎士たちだつたのだ(ハエドゥイ人が援軍としてシーザーに送つた騎馬隊はドゥムノリクスのものだつた)。彼らの敗走で他の騎馬隊はパニックに陥つたのである。
 
19  ドゥムノリクスに関してシーザーはこれらのことを聞き出したが、この疑惑に対して動かし難い事実が加へられる。

 それはヘルウェティア人をセクアナ国に引き入れたこと、両国の間の人質交換を斡旋したこと、これら全てををシーザーや国民の命令を待たず両者に知らせもせずに行なつたこと、ハエドゥイの高官から告発されてゐること、である。

 かくなる上は、シーザーが執行するにしろハエドゥイ国民に執行させるにしろ、ドゥムノリクスを処刑すべき理由は出揃つたと思はれた。しかし、たつた一つの考へがこれら全ての考へに反対した。

 シーザーは、ドゥムノリクスの兄であるディウィキアクスがローマ人を非常に愛してをり、自分を非常に信頼してゐて、極めて誠実で公平で節度を重んじる人間であることをよく知つてゐた。だからドゥムノリクスの処刑によつてディウィキアクスの気持ちを損ねることを恐れたのである。

 そこで何か事を起こす前に、シーザーはディウィキアクスを呼び出すのである。そして日頃の通訳を退席させて、自分が全てにおいて最大の信頼を置いてゐる親友で属州の第一人者C.ウァレリウス・トロウキッルス(=後出のガリア人プロキッルス)を介してディウィキアクスと話し合ふ。

 シーザーはディウィキアクスも参加してゐた集まりでドゥムノリクスについて言はれたことを思ひ出させるとともに、指導者たちが一人づつ個別にドゥムノリクスについてシーザーに話したことを打ち明ける。

 そして、ディウィキアクスに対して、気を悪くすることなくドゥムノリクスに関して自らこの問題を審理して判決を下すか、或ひは国民にさうするやう命じて欲しいと要請するのである。

20 ディウィキアクスは止めどなく涙を流しながらシーザーを抱きしめた。そして、シーザーに対して弟に厳しい判決を下さないで欲しいと懇願しはじめたのである。

 シーザーの言つたことが事実なのは自分も知つてゐる。あの男のことで一番悩んでゐるのは他ならぬこのわたしだ。といふのは、わたしがこの国でも他のガリアでも大きな影響力があつたときは、あの男はまだ若く何の力もなく、わたしを通じて力を蓄へていつた。ところが、さうして蓄へた富と力を使つてあの男はわたしの影響力を弱めようとするばかりか、わたしを無き者にしようとさへしてゐるのだ。

 しかしながら、それでも兄弟としての愛情は捨てられないし国民の評判も気にせずにはゐられない。といふのは、もしシーザーがあの男に厳しい処置をしたら、わたしはシーザーとこれほど親しい間柄にあるから、その処置はわたしの同意のもとに行なはれたと誰もが思ふはずだ。さうなると、全ガリアの民意はわたしに背を向けるだらう。

 このやうにディウィキアクスは泣きながら言葉を尽くしてシーザーに弟の助命を嘆願するのである。シーザーはディウィキアクスの右手を取つて安心させて嘆願はもうやめてほしいと言ふ。

 そして、ディウィキアクスが自分の中で占めてゐる価値の大きさに鑑み、ドゥムノリクスによつてローマが受けた損害とシーザーの被つた恥辱は、ディウィキアクスの日頃の好意と今回の懇願に免じて許すことにすると表明する。

 シーザーは自分の部屋にドゥムノリクスを呼んで兄を同席させながら、自分がドゥムノリクスに関して問題があると思ふ点を明らかにして、自分がつかんだ事実と国民による告発内容を伝へる。

 そして、今後は疑はしい行動は避けること、これまでの事は兄のディウィキアクスに免じて罪を免じてやるとドゥムノリクスに言ふ。そして、この男の行動と連絡相手を探るために見張りをつけるのである。

21 同じ日、偵察隊によつて敵がこちらの陣営から12キロ(=8ローママイル×1.4795キロ)の地点の山のふもとに陣取つてゐると報告が入り、シーザーはその山の形状と裏手の登山道の様子を調べさせるために偵察隊を派遣する。

 山は登りやすいといふ報告が入る。真夜中すぎ、副官ラビエヌスに指揮官として二個軍団と道案内を連れてその山の頂に登れと命令するとともに、自分の意図を説明する。

 シーザーは夜明け前ごろに敵と同じコースをたどつて敵に急行し、騎馬隊を全員前衛に並べたてる。また、P.コンシディウスといふ名で、軍事に精通してゐるとの評判で、昔スラの軍に、次にM.クラッススの軍にゐた男を偵察隊と一緒に先行させる。

22 明け方には、山頂はラビエヌスによつて占領され、シーザーは敵の陣営から約2キロの地点に到着したが、後に捕虜から聞いたところでは、まだシーザーとラビエヌスの到着は敵に知られてゐなかつた。

 ところが、その時コンシディウスが馬を飛ばしてシーザーの所にやつてきて、ラビエヌスが占領するはずの山は敵に占領されてゐる。これはガリアの武器と旗印を見て分かつたと言ふのだ。

 シーザーは軍を近くの丘に退避させて臨戦態勢をとらせる。ラビエヌスは、敵を挟み撃ちにするために、シーザーの軍が敵陣営の近くに見えるまでは戦闘を始めるなとするシーザーの命令に従つて、山を占領したまま我が軍を待つて戦闘を控へてゐた。

 結局その日遅くなつてシーザーは、山を占領してゐたのは味方であり、ヘルウェティア人は陣営を移動してしまつたこと、コンシディウスは恐怖でパニックになつて見てもゐないものを見たと報告したのだといふことを、偵察隊から知つたのである。

  そこでその日のうちにシーザーはいつもの間隔を保つて敵を追跡し、敵の陣から4キロ半の地点に味方の陣を布く。

23 その翌日、食糧を配給する日までわづか2日となり、ハエドゥイ最大で最も豊かな町ビブラクテから27キロ足らずのところに来てゐたので、シーザーは食糧確保を先に行ふべきだと考へた。そこでヘルウェティア人の進路から逸れてビブラクテに急行する。

  このことはガリアの騎馬隊長L.アエミリウスの逃亡奴隷によつて敵に伝へられる。

 ヘルウェティア人は、ローマ人が昨日有利な地点を占領しながら戦闘を始めなかつたことから、自分たちを恐れて遠ざからうとしてゐると見たのか、それともローマ人の食糧補給を妨害しようと考へたのか、作戦を変更して方向転換して我が軍の後衛部隊のあとを追つて挑発しはじめた。

24  シーザーはこのことに気づくと軍を近くの丘に退避させて、敵の攻撃を食ひ止めるために騎馬隊を送つた。

  その間にシーザーは古参兵の四個軍団(=外ガリアの一個とアクイレイアで越冬した三個)を丘の中腹に三段に並ばせた。

 一方、丘の頂には北イタリアで召集したばかりの二個軍団と全援軍を置いて、シーザーの上方は味方の兵で一杯になるやうにした。荷車と手荷物は一箇所に集めさせ、最上段に配置した兵にその防備を命じた。

 荷車を全部引き連れて追つてきたヘルウェティア人も荷物を一箇所に集めた。そして敵の兵士たちは密集隊形をとつて我々の騎馬隊を押しのけると、重歩兵による密集方陣(=盾で覆ひ尽くす陣形)を組んで我が軍の一段目の兵列に迫つてきたのだ。

25 シーザーは、誰かが逃亡する余地を払拭して危険を全員で分かち合ふために、自分の馬から始めて全員の馬を誰も見えないところに移した。そして兵士たちに声を掛けてから戦闘を開始した。

 敵の密集方陣は我が軍の上段の兵たちが投げた槍によつて簡単に粉砕された。そして味方が敵の方陣が乱れたところに剣を抜いて切り込んで行つた。

 ところが、敵のガリア人たちの盾は刺さつた槍のためにつながつてしまひ、戦ふにも身動きがとれず、槍の鉄が曲がつて抜くことも出来ず、盾を持つ左手が使へないので充分に戦ふことができなかつた。

 多くの敵は暫く腕を振り回してゐたが最後には盾を手から離して、体をむき出しにしたまま戦ふ方を選んだ。しかし結局多くの傷を受けて体力を消耗させて後退し始め、約一キロ半のところに丘があつたので、そこへ向かつて退却を開始した。

 敵が丘に到着して味方が背後から迫つたとき、敵の最後尾を守るボイイ人とトゥリンギ人(=既出)一万五千がコースを変へて我が軍の右側を攻撃して、我々の退路を包囲し始めた。すると、丘まで退却してゐたヘルウェティア人はこれを見て、再び前進して戦闘を再開したのだ。

 それに対してローマ人は作戦を変更して二正面作戦とし、第一列と第二列の部隊は丘まで退却してゐる敵にそのまま当たり、第三列の部隊が後ろから来る敵に当たることにした。

26 かうして二箇所で激しい戦闘が延々と続いた。敵は到頭我々の攻撃を持ちこたへられなくなると、片方は最初と同じやうに丘の方へ退却し、もう一方は荷物と荷車のある所へ向かつた。

 この戦ひは正午過ぎから夕方まで続いたが、その間敵が背中を見せるところを誰も見ることはできなつた。夜遅くなつても荷物置き場の戦ひは続いた。

 敵は荷車を積み上げてバリケードにして、向かつて来る我が軍に対して上から槍を降り注いだ。荷車や車輪の間からもマタラといふガリア式の投げ槍や紐付きの槍を飛ばして来て、我が軍に負傷者を出した。

  この長い戦闘の末に、我が軍は敵の陣営と荷物を我が物とし、同時にオルゲトリクスの娘と息子を一人ずつ捕虜にした。

 この戦ひで約13万人が生き残つた敵はその夜休むことなく移動しつづけて、4日目にリンゴネス人の国に到着した。その間、我が軍は負傷兵を休ませ戦死者を埋葬するために3日間を費やして、敵を追ふことができなかつた。

 シーザーはリンゴネス人に信書と使者を送り、ヘルウェティア人に食糧その他の援助をしてはならない、もし助けたらヘルウェティア人と同じ扱ひにすると伝へた。

  三日後、シーザーは全軍を連れて敵の追跡を再開した。

27 全てに窮乏したヘルウェティア人はやむなく降伏を伝へる使者をシーザーのもとに派遣した。彼らは行軍中のシーザーに出会ふとその足元にひれ伏して懇願口調で泣きながら和平を乞ふた。

  シーザーは彼らに対してヘルウェティア人が今ゐる所で自分の到着を待つやうに命じた。彼らは言はれたとほりにした。

  シーザーがヘルウェティア人のゐる所に着くと、人質の引渡しと武器の提出を要求し、逃亡奴隷(=既出)の返還を求めた。

  これらを探し出して集めてゐる間に夜が訪れた。するとヘルウェティア人の中のウェルビゲネスといふ地域の一団の約6千人が逃げ出したのだ。

 武器を差し出した後に処刑されるかもしれないといふ恐怖に駆られたのか、降伏した者がこれだけ多ければ、自分たちが逃げても見つからないはず、いや全く無視されるかもしれないから逃げ切れると思つたのか、彼らは日が暮れるとともにヘルウェティアの陣地を抜け出してライン川とゲルマン民族の国へ向かつて走つたのである。

28 シーザーはこの事実に気付くと、逃亡者が通過する国々の国民に対して、共犯者になりたくなければ逃亡者を探し出して連れ戻せと命令を出した。

 さうして連れ戻された者たちをシーザーは敵として処理し、それ以外の逃亡しなかつた者たちは、人質と武器と逃亡奴隷の引き渡しの後、全員の降伏を許したのである。

 そしてヘルウェティア人とラウラキ人(=ヘルウェティアの北隣の国として既出)とトゥリンギ人とラトブリギ人(=既出)には、それぞれが出してきた元の国へ戻ることを命じた。しかし、祖国では穀物が全て処分されて飢えを満たすものが何もなかつたので、アッロブロゲス人(=既出)に命じて彼らのために食糧を供給させた。

 またヘルウェティア人らには自分で焼いた町や村の再建を命じた。シーザーがこのやうに命じた主な理由は、ヘルウェティア人が出てきた土地を空き地にしておくと、ライン川の向かう側に住むゲルマン民族が良い土地を求めてヘルウェティアの領内に移住して来て、ガリアのローマ属州つまりアッロブロゲス国のすぐ隣に住むことになつてしまふ恐れたからである。

 またボイイ人(=既出)は武勇の誉れが高かつたので、ハエドゥイ人が彼らを自国の領内に置くことをシーザーに求めたので許可した。ハエドゥイ人はボイイ人に土地を与へ、後には自分たちと対等の権利と自由をもつ地位を彼らに認めたのである。

29  ヘルウェティア人の陣営内で、ギリシア文字で書かれた一覧表が見つかり、シーザーのところにもたらされた。

 その表には故国を脱出した者たちの人数と、そのうちで武器を扱かへる者の氏名の一覧が作られてゐて、さらにそれとは別に子供と老人と女の数の一覧が書かれてゐた。

 総数はヘルウェティア人が26万3千人、トゥリンギ人が3万6千人、ラトブリギ人が1万4千人、ラウラキ人が2万3千人、ボイイ人が3万2千人で、全部合はせて36万8千人だつた。そのうち、武器を扱かへる者は約9万2千人だつた。

  彼らのうちで故国に帰つた者の人数は、シーザーの命令で調べたところ11万人だつた。

30  ヘルウェティアとの戦争が終はるとガリアの国々の指導者たちのほぼ全員が使者としてシーザーのもとに訪れて祝意を伝へた。

 「今度の戦ひはシーザーとローマ人が昔ヘルウェティアから被つた恥辱を雪いだものではあるが、我々はこの勝利がローマ人だけでなくガリアにとつても有益なものであることを理解してゐる。

 「なぜなら、ヘルウェティア人が極めて裕福な生活をしてゐるにも関はらず祖国を後にしたのは、全ガリアを相手に戦争をしかけて支配権を手に入れ、全ガリアの中から最も豊かで最も有利だと思はれる地域を居住地として多くの中から選びとり、他の国々を自分の朝貢国にする積もりだつたからである」と。

 そして、全ガリア会議の日取りを決めて布告すること、しかもこれをシーザーの同意のもとに行ふことを許されたいと要請したのである。「我々には会議で全員の合意の後にシーザーに頼みたい事があるのだ」と。

 シーザーの許可が出ると彼らは会議の日取りを決めて、総意によつて委任された者以外は誰もこれを他言しないことを互に誓約して決めたのである。

31 その会議が終了したのち、以前シーザーのもとに来た国々の指導者たちが再びやつてきて、上記の頼み事の内容を伝へた。それは自分たちと自分たちの国民全員の生存について誰にも知られずシーザーとこつそり相談することを許してほしいといふものだつた。

  これが実現すると彼らは全員泣きながらシーザーの足元にひれ伏して、かう言つたのである。

 「我々にとつて目下の切実な問題は、我々の願ひを実現することだけでなく、我々の話したことが他へ洩れないやうにすることである。といふのは、もし話が洩れたりしたら、我々はひどい拷問を受けることになると思ふからである」と。

  そしてハエドゥイ人のディウィキアクスが彼らに代はつて話した。

 「ガリアは全体が二つの派に分かれてゐる。その一方のリーダーがハエドゥイ人であるが、もう一方のリーダーはアルウェルニ人(=オーベルニュ)である。

 「両者は長年の間熾烈な勢力争ひをしてきたが、その結果、アルウェルニ人がセクアニ人と一緒になつてゲルマン民族を傭兵として招き入れる事態になつてしまつた(=紀元前70~65年)。
 
 「そこで先づ1万5千人のゲルマン民族がライン川を渡つた。その後、文明を知らぬ野蛮人である彼らは、ガリアの土地とその文化とその生活の豊かさが気に入ると、移民の数を増大させ、今では12万のゲルマン民族がガリアに入りこんでゐるのである。

 「ハエドゥイ人は従属国とともにこのゲルマン民族と何度も武器をとつて戦つたが、戦ひに敗れて手痛い損害を被り、優秀な市民たちと長老たちと騎士たちの全て失なつたのである。

 「この敗北で打ちのめされたハエドゥイ人は、その武勇とローマ人との友好関係とによつてガリアで大きな影響力をもつてゐたにも関はらず、セクアニ人に最も優れた国民を人質に差し出す羽目に陥り、『ハエドゥイ人は人質の返還を要求せず、ローマ人に助けも求めず、今後永久にセクアニ人の支配下にあることに異議を唱へない』と誓はせられたのである。

 「ハエドゥイ人の中でこんなことを誓はせられたり子供を人質に出させられたりしなかつたのは唯一人私だけである。だから、私が国を抜け出してローマの元老院に助けを求めに行つたのも(=紀元前60年)、私だけが誓ひと人質によつて縛られてゐなかつたからに他ならない。

 「しかしながら、負けたハエドゥイ人よりも勝つたセクアニ人の方がもつとひどい目に会つてゐる。といふのは、ゲルマン民族の王アリオウィストスがセクアニ領内に住みついて、ガリア中で最も肥沃な土地であるセクアニ領の3分の1を占領して、その上、あと3分の1を明け渡すやうに命じてゐるからである。

 「といふのは、数か月前にハルデス人(=デンマーク北部)2万4千がアリオウィストスのところにやつて来たために、彼らの住む場所を用意する必要が生まれたからである。このままいくと、数年の内にガリアからガリア人が全員が追ひ出されて、ゲルマン民族が全員ライン川を渡つてくるにちがひない。

 「なぜなら、ガリア人の土地が肥沃なことはゲルマン民族の土地とは比べ物にならないし、こちら側の高度な文化水準もあちら側とは比較にならないからだ。

 「一方、アリオウィストスはマゲトブリガム(=アルザス地方)で戦はれた戦闘でガリア軍に勝利してからといふもの(=紀元前61年)、傲慢で残虐な支配を行なつて、高位の者たち全員から子供を人質に要求し、彼の意に反することを何か行つたりすると、人質にあらゆる拷問を加へて見せしめにするのである。

 「彼は野蛮で怒りつぽく分別を知らない人間であり、彼の支配をこれ以上長く耐へることはできない。もしシーザーとローマ人から何の助けも得られないなら、全ガリア人がヘルウェティア人と同じことをして、祖国を脱出して、ゲルマン民族から離れた住みかを探して、先にどんな運命が待つてゐようとも、運試しをすることになるだらう。

 「この話がアリオウィストスの耳に入つたら、彼のもとにゐる人質全員に対して最も重い罰が下されることは疑ひない。しかし、シーザーならば、自身の権威と軍事力によるなり、最近の戦勝なりローマ人の名声に拠るなりすれば、ゲルマン民族がこれ以上ライン川を渡ることを阻止できるし、全ガリアをアリオウィストスの侵略から守ることができると思ふ」と。

32 ディウィキアクスの話が終ると、そこにゐた者たち全員が涙を流しながらシーザーに助けを求め始めた。ところが、その中でセクアニ人だけが全然他の者たちと同じ様にせずに、頭を下げて沈鬱な面持ちで地面を見つめてゐることにシーザーは気付いた。

 驚いたシーザーはその理由を彼らに問ひただしたが、セクアニ人は何も答へずに、同じく沈鬱な表情で黙り続けてゐる。シーザーがさらに繰り返し尋ねても声一つ立てることも出来ないでゐると、先程のハエドゥイ人ディウィキアクスが応じた。

 「セクアニ人の運命は他の者たちよりも過酷で悲惨なものである。といふのは、セクアニ人は、たとへアリオウィストスがこの場にゐなくても、まるで彼が面前にゐるかのやうにその残虐さを恐れてゐるために、内緒で不平を言ふことも人に助けを求めることもできないのである。

 「なぜなら、逃亡の可能性のある他の国民とちがつて、自国の領内にアリオウィストスを受け入れ、全部の町がアリオウィストスの支配下にあるセクアニ人はどんな拷問にも耐へるしかないからである」と。

33  これらの事実を知つたシーザーは言葉を尽くしてガリア人たちを励まし、

「アリオウィストスは私がかつて好意をかけてやつたことがあり、私の権威の前に悪さをやめる公算が大きい」と言つて、自分がこの問題に当たることを約束した。

  シーザーはこの言葉で会議を締め括つたが、シーザーがこの問題を自ら引き受けて対処すべきと思はざる得ない理由はこの他にも沢山あつた。

 それは何よりも、ローマの元老院が何度も「ローマ人の親戚で兄弟」と呼んだハエドゥイ人がゲルマン民族の支配を受けて隷属してをり、ハエドゥイ人の人質がアリオウィストスとセクアニ人のもとにゐることを知つたからである。

  それがローマ人の偉大な支配の下で起きてゐるのは、シーザー自身にとつてもローマ国にとつても大きな恥辱だと思はれた。

 その一方で、ゲルマン民族がライン川を渡つてガリアに大量にやつて来ることが徐々に習慣化することは、ローマ人にとつて危険なことだと思はれた。

 文明を知らぬ野蛮人である彼らが、昔のキンブリ人とテウトニ人(=ゲルマン民族)のやうに(=紀元前109年~101年)もし全ガリアを占領したら、ローマの属州にまであふれ出て、北イタリアにやつて来ずに済ますはずがないのだ。何と言つても、ローマ属州とセクアニ国を隔ててゐるのはローヌ川しかないのである。

 そのやうな事態は急いで阻止しなければならないとシーザーは考へた。一方、アリオウィストス自身についても、あまりにも傲岸不遜であり、とても放置しておけないと思はれた。

34  そこでシーザーはアリオウィストスに使者を送ることにした。

 使者はアリオウィストスに、会談の場所としてどこか双方の中間点を選ぶように求めるとともに、シーザーが国家の問題について、また双方にとつて極めて重要な問題についてアリオウィストスと協議することを希望してゐると伝へた。

  その使者に対してアリオウィストスはかう答へた。
 
 「もし私がシーザーに対して用があるならこちらからシーザーのもとに出向くだらう。もしシーザーが自分に対して用があるならシーザーが自分のところに出向くべきである。

 「といふのは、自分は軍隊を連れずにガリアの内のシーザーの支配地域に出向くことはできないし、軍隊を連れて行くにしても、それをどこかに集めるのは多大な労力と食糧の補給なしにはできないことである。
 
  「それに私が戦争によつて勝ち取つた私のガリアに対して、シーザーがいや、そもそもローマ人が何の用があるのか不思議でならない」と。

35 シーザーの所にこんな返事が返つてきたので、彼はアリオウィストスに対する最後通牒を持たせて再び使者を送つた。

 といふのは、アリオウィストスはシーザーとローマ人によつて非常に手厚くもてなされ、シーザーが執政官の時(=紀元前59年)には元老院から「王にして友」といふ名前を送られてゐた。

 その彼がシーザーとローマ人に対してこんな返事を寄こして、会談への招請を煩はしがり、国家の問題で意見を交換すべきとも思はないと言ふからである。

  シーザーがアリオウィストスに突きつけた要求の内容は、以下の如くである。

  第一に、大量の人間をライン川を越えてガリアに今後一切移動させないこと。
  次に、ハエデュイ人から預つてゐる人質を返し、アリオウィストスの同意のもとにセクアニ人が預つてゐる人質の返還を許可すること。
  さらには、ハエドゥイ人に迷惑をかけず、ハエドゥイ人とその同盟国に対して戦争をしかけないこと。

  もしアリオウィストスがこの命令に従ふなら、シーザーとローマ人はアリオウィストスに対して永遠の感謝と友情を抱くだらう。

 しかし、もしこの通りに実行しないなら、シーザーは、「ガリアのローマ属州を統治する者は誰であれ、ローマ国の利益になる限りにおいて、ハエドゥイ人その他のローマの友人たちを保護すべし」とする、M.メッセラとM.ピソが執政官の時(=紀元前61年)元老院が行なつた決議に従つて、ハエドゥイ人が受けた損害を見過ごさないだらうと。

36  これに対してアリオウィストスは答へた。
 
 「勝者が敗者を好きなやうに支配するのが戦争の法だ。ローマ人も敗者を他人の指図によつて支配するのではなく自分の判断で支配するのを常としてきた。私がローマ人に対してその権利をどのやうに行使べきか指図してゐないやうに、私の権利もまたローマ人によつて干渉を受けるべきではない。

 「ハエドゥイ人は私と戦争の運試しをして、武器を手に戦つて敗れたのであるから、私に対して貢納義務を負ふやうになつたのである。シーザーはガリアにやつてきて私の収入を減少させて、私に大きな損害を与へてゐる。

 「私はハエドゥイ人に人質を返すつもりはないが、もし彼らが同意したことを守つて税を毎年支払ひ続けるなら、彼らにもその同盟国にも不当な戦争をしかけることはしないつもりだ。しかし、もし彼らがこの義務を怠るなら、「ローマ人の兄弟」といふ名前は彼らにとつては何の役にも立たないだらう。

 「シーザーは私にハエドゥイ人が受けた損害を見過ごさないと言つてゐるが、これまで私と争つて破滅しなかつた者は存在しない。戦ひたければいつでも戦ひに来い。その時には、ゲルマン民族が14年間屋根の下で暮らしたことがなく、戦争に長けて無敵であることを知り、ゲルマン民族がいかに武勇に優れてゐるかを知ることになるだらう」

37  シーザーがこんな最後通牒のお返しをされたのと同じ頃ハエドゥイ人とトレヴェリ人(=南西ベルギー地方)からの使者が到着した。

 ハエドゥイ人の使者は、最近ガリアに移住させられて来たハルデス人がハエデュイ人の領地を荒らしてゐると訴へて、人質を差し出したのにアリオウィストスは全く戦争をやめてくれないと言ふ。

 一方、トレヴェリ人の使者は、ライン河畔に住む百個もの村からスエビー人が、ナスアスとキンベリウス兄弟に導かれて、ライン川をしきりに渡らうとしてゐると言ふ。

 この事実にひどく驚いたシーザーは、急いで出発する必要があると判断した。ぐずぐずしてゐて、スエビー人の新手の軍勢がアリオウィストスの熟練兵と合流したりすれば、抗し難い勢力になつてしまふ。

  そこでシーザーは大至急で食糧補給を確保すると、強行軍でアリオウィストスのゐる方へ向かつた。

38 シーザーが三日の行程を進んだ頃、アリオウィストスが全軍を引き連れてセクアニ最大の町ブザンソンを占領するために急いでをり、領地から三日の行程を進んでゐるといふ知らせが届いた。

  アリオウィストスがブザンソンを占領するやうなことは何としても防がねばならないとシーザーは考へた。

 なぜなら、ブザンソンは戦争に必要なものが何でも豊富にそろつてゐるだけでなく、難攻不落の地形をしてゐるので長期戦をするにはうつてつけの町だからである。

 といふのは、町のほぼ全体がドゥー川によつてコンパスで引いたやうに取り巻まかれて、川に囲まれてゐない残りの千六百足(×0.2959m=473.44m)足らずの部分は高い山でふさがれてゐて、その上、山の麓の両側は川岸がすぐに接近してゐるからである。さらに、この山は城壁に取り巻かれて山が要塞化して、しかも山と町が繋がつてゐるのだ。

  この町へシーザーは昼夜兼業の強行軍で向ひ、町を占領して守備隊を置く。

39 シーザーが穀物などの食糧補給のためにブザンソンに数日滞在してゐる間に、全軍は突然大変な臆病風に取り付かれてしまひ、全員が落ち着きを失なひ士気を乱してしまつた。

 といふのは、ゲルマン民族は体格が図抜けて大きく、信じられないほど勇敢で、戦いにも習熟してゐるといふ話を、我が軍の者たちが聞き出したり、ガリア人や商人たちに聞かされたりしたからである。

  その話では、彼らは何度もゲルマン民族に出会つたことがあるが、その顔つきや鋭い目つきに耐へられなかつたといふのだ。

 最初に怖気づいたのは軍団長や援軍隊長その他ローマから縁故を頼つてシーザーについて来た戦争経験のあまりない者たちだつた。彼らは銘々自分には出かけなければならない理由があると言ひ張つて、シーザーの許可を得て出て行くことを要求した。

 しかし、多くの者たちは羞恥心から自分が怖気づいたと思はれたくないので居残つてはゐたが、顔色をごまかすことが出来ずに時々泣き出す始末だつた。彼らはテントの中で人に隠れて一人で自分の不運を恨んだり、友人と共に自分たちの苦難を嘆き悲しんだりした。そして陣営の至る所で遺言書の封印が押された。

 そのうち彼らの言ふ事やその怖気づいた態度は、軍隊経験の豊かな者たちにも伝染して、兵士たちも百人隊長たちも騎馬隊長たちも次第に怖気づいていつた。

 そんな中でも自分が臆病者と思はれたくない者たちは、「自分は敵を恐れてはゐないが、この先の道路が狭いことや、味方とアリオウィストスとの間に横たはる巨大な森のことや、食糧の補給が充分に行なはれるかどうかが心配なのだ」と言ふのだつた。

 さらには、「シーザーが陣地をたたんで出発せよと命じても、兵士たちは命令に従はないだらうし、怖気づいて出発しないだらう」と報告する者まで現れた。

40 かうした異変に気付いたシーザーは集会を開き、全階級の百人隊長をその集会に呼び出して、彼らの行動を激しく非難した。といふのは、何よりも軍が通る進路や軍の作戦を自分の頭で考へ検討する資格があると彼らは思つてゐるからである。

 「アリオウィストスは私が執政官のときローマ国民との友好を熱心に求めてやまなかつた男だ。その男がそんなに無謀に友好関係から離脱するなどと、どうして、誰が思ふだらうか。それどころか、私は彼がこちらの要求をよく理解して条件の公平さを認識するなら、決して私とローマ国民の好意を拒否することはないと確信してゐる。

 「また仮にあの男が狂気に駆られて戦ひをしかけてきたとしても、我々は何を一体恐れることがあるだらうか。自分たちの勇気と私の熱意を疑ふべき理由があるとでも言ふのか。

 「この種の敵とは我々の父祖の時代に戦つたことがあるのだ。その当時は、C.マリウスがキンブリ人とテウトニ人(=どちらも既出)を撃退して、指揮官のマリウスに劣らず軍は大きな賞賛に値すると思はれたものだ。

 「また近くは北イタリアの奴隷の反乱(=紀元前73年~71年)で戦つた相手もゲルマン民族だつた。もつとも、その奴隷たちに力を与へてゐたのも我々の訓練と規律だつたのだ。

 「これらの例から、不屈の精神が如何に重要であるかが分からうといふものだ。といふのは、武器を持つてゐないゲルマン民族を長い間わけもなく恐れてゐたローマ人が、後には武器を手に持つて勝ち誇る彼らに勝利したのだから。

 「さらに言へば、この敵はヘルウェティア人が何度も衝突を繰り返して自分の領土だけでなく相手の領土でも勝利をおさめたのと同じゲルマン民族なのである。そのヘルウェティア人が我が軍とは対等どころではないのである。

 「もしガリア人がゲルマン民族に敗れて敗走したといふ事実に不安を覚える者がゐるなら、その者はよく調べてみれば、アリオウィストスは戦闘能力の高さではなく策略によつてガリア人に勝つたことが分かるはずだ。

 「アリオウィストスは、何ヶ月ものあいだ沼に囲まれた陣地に立て籠もつて、敵に戦闘の機会を与へず、長期戦に疲れたガリア人が戦闘を諦めてばらばらになつた時に突然襲ひかかかつて勝利したのである。

 「こんな策略は野蛮で未経験な者たちが相手だからこそ通用したのであつて、我が軍がこんな策略に引つかかる事などアリオウィストスには望むべくもないのである。

 「食糧の補給や道路の狭さを心配してゐると言ふ者たちには、それは分を弁へない行動だと言はねばならない。それとも指揮官の能力が信用できないので自分で命令するとでも言ふのだらうか。それは私の仕事なのだ。

 「食糧はセクアナ人(=既出)とレウキー人とリンゴネス人(=既出)が提供してくれるし、既に畑の穀物も実つてゐる。進路についてはすぐに我々の方で決める。

 「兵士たちが命令に従はずに怖気づいて出発しないといふ話については私は何も心配してゐない。といふのは、兵が命令に従はないのは、私の知る限りでは、指揮官が負け続きで運がないか、私利私欲に走つて悪事が露見した場合だが、私は生まれてこの方悪事に手を染めたことはないし、ヘルウェティア人との戦ひで私の武運は証明されてゐる。

 「したがつて、私はもう少しあとでやらうと思つてゐたことをすぐに実行することにする。兵士たちの中の誰が有能で恥を知る者であり、誰が恐がりであるかを今すぐに見分けるために、私は翌朝早くに軍を動かすことにしたのだ。

 「もしその時になつて兵が誰も私に従はないなら、私は自分が全幅の信頼を置いてゐる第十軍団だけを連れて出発するつもりだ。この軍団を親衛隊とするのである」と。

  シーザーはこの軍団をその勇敢さゆゑに最も信頼してをり、特別に目をかけてゐたのである。

41 シーザーの発言が終ると全員の気持ちは驚くほどに変化した。戦意は最高に高まり今すぐにでも戦ひたいといふ気持ちがみなぎつてきたのだ。

 まづ先に第十軍団が軍団長たちを通じて、自分たちを最高に評価してくれたことに対する感謝をシーザーに表明し、自分たちの戦闘準備は万全であると確言した。

 それに続いて他の軍団が、自分たちはいまだかつて不安になつたり怖気づいたことはないこと、そして軍の最高指揮は自分たちではなく司令官の判断によるべきであると思つてゐることを、軍団長たちと上級百人隊長たちを通じてシーザーに釈明した。

 シーザーはこの釈明を受け入れると、ガリアで最も信頼を置くディウィキアクスに進路を調べさせ、74キロ(50ローママイル×1.4795キロ)以上遠回りすれば軍は広い道を通れることが確かめられた。そこで、シーザーは命令したとほりに早朝に出発した。

 そして、シーザーが休まずに進軍を続けてゐると、七日目に、アリオウィストスの軍隊が味方の軍から35.5キロ(24ローママイル×1.4795キロ)離れた地点にゐることが偵察隊によつて報告された。

42 シーザーの到来を知つたアリオウィストスは使者をシーザーのもとに送つてかう言つた。

 「私はシーザーが求めてゐる会談の開催を認めようと思つてゐる。なぜなら、今やシーザーが私のところに出向いて来たからであり、会談を開いても危険なことはないと思へるからである」と。

 シーザーはこの申し入れを拒否するどころか、以前にはこちらが求めて断つてきたことを自分から申し出たのであるから、今やアリオウィストスは正気に戻つたに違ひないと判断した。

 そして、もし彼がかつてシーザーとローマ国民から受けた非常なもてなしに応へて、こちらの要求をよく理解するならば、その態度を軟化させるのではないかと大きな期待を抱いた。

 会談の日取りは5日後と決まつた。その間、両者の間を何度も使者が行き来するうちに、アリオウィストスはシーザーが会談の場に歩兵を伴はずに来ることを要求してきた。「罠に掛かつて歩兵に襲はれはしないかと心配だから、両者ともに騎兵と共に来るべきである。他の条件では自分は会談をキャンセルする」と。

  シーザーはこんな条件を持ち出されて会談が中止になることを望まなかつたが、自分の身の安全をガリア人の騎兵に委ねる気もなかつた。

 そこでシーザーは、ガリア人の騎兵を全員馬から降ろして、その代はりにシーザーが最も信頼を寄せる第十軍団の軍団兵を乗せて、いざと言ふときには、最も頼れる警護隊になれるやうにしておくのが最善の策だと判断した。

 これが実行に移されると、第十軍団の兵士の一人が非常に面白いことを言つた。「シーザーは我々の軍団に対して約束以上のことをして下さる。先に第十軍団を親衛隊に取り立てて下さるとおつしやつたが、今度は騎士にして下さるのだから」

43 広い平野(=アルザス)の中には土で作つた大きな塚があつた。この場所はアリオウィストスとシーザーの両方の陣営からほぼ同じ距離だけ離れてゐた。その場所へ両者は既に述べたやうにして、会談のためにやつて来た。

 シーザーは馬に乗せた軍団兵を丘から約300メートル離れた地点に止まらせた。同様にアリオウィストスの騎馬隊も同じ距離を置いて立ち止まつた。アリオウィストスは、馬上での会談と、自分のほかに10名を会談に同行させることを要求した。

  シーザーは会談の場に到着すると演説を始めた。まづ彼は自分と元老院がアリオウィストスに対して嘗て行なつた持て成しのことに言及した。

 「元老院が彼を王と呼び友と呼んで豪勢なプレゼントを贈つたが、こんなことはごく稀なことであり、普通はその人のローマへの多大な貢献に対する返礼としてなされることである」と教へたのである。

 「本来ならアリオウィストスにはそんな機会は与へられないし、あんな厚遇を要求する正当な理由もなかつたのであるが、私と元老院の好意と寛大さのおかげであんな持て成しがなされたのである」と。

 またシーザーは、ローマ人とハエドゥイ人との友好関係は歴史があり、正当な根拠に基づいてゐること、元老院がどんな決議を何度行ひ、どれほどの厚遇をハエドゥイ人に与へてきたか、ハエドゥイ人はローマ人との友好関係を求める以前から常に全ガリアで第一の地位を保つてきたことなどを教へた。

 さらに「ローマ人は、その同盟国や友好国の人たちが元々持つてゐた物は何一つ失なはせないだけでなく、彼らの力を発展させ富と名誉を増大させることを願ふのを常としてゐる。したがつて、ローマ人との友好関係を結んだときに彼らが所持してゐたものが彼らの手から奪はれるのを座視することはできないのである」と言つた。

 そして、シーザーは、既に使者によつて最後通牒として伝へたことを再び要求した。即ち、ハエドゥイ人とその同盟国に戦争をしかけないこと、人質を返還すること、ゲルマン民族を祖国に少しでも戻すことが出来ないのなら、少なくともこれ以上のゲルマン民族にライン川を渡らせないことを要求したのである。

44  アリオウィストスはシーザーの要求にはほとんど答へずに、自分の力をしきりに誇示するのだつた。

 「私がライン川を渡つたのは自分の意思ではなくガリア人に求められ招待されてしたことである。祖国と親族を後にして来たのは大きな希望と大きな報酬があつたからに他ならない。
 
 「ガリアの住居はガリア人に譲られたものであり、人質はガリア人が進んで差し出したものだ。私が貢納を受け取るのは、戦争の法によつて勝者が敗者に対して貢納を課すことが通例だからである。
 
 「また、自分の方からガリア人に戦争を仕掛けたのではなくガリア人から仕掛けてきたのである。ガリアの国民が全員で私と戦争するためにやつてきて、私に対峙して陣を布いたのだが、たつた一度の戦ひで私に撃破され制圧されたのである。
 
 「もし彼らがもう一度力試しをしたいと言ふなら、私は喜んでもう一度決戦を行ふつもりだ。また、もし和平を望むといふなら、これまで支払つてきた貢納物を拒否することは不当である。
 
 「ローマ人との友好関係は私に箔をつけてくれる有難いものであつて決して不利益なものであるはずがない、私はさう思つてローマとの友好関係を求めたのである。もしローマ人のせいで貢納物が戻され、降伏した者が取り上げられるのなら、わたしはローマ人に友好関係を求めるどころか、さつさと願ひ下げにするだらう。
 
 「ゲルマン民族を大量にガリアに移住させたことは、自分の身を守るためであつて、決してガリアと戦ふためではない。その証拠に、私は求められなければガリアに来なかつたし、自分から先に戦争を仕掛けたこともなく、いつも防衛戦争しかしてゐない。
 
  「ガリアに来たのはローマ人より私の方が先である。その前にローマ人の軍隊がガリアの属州地域から出たことは一度もなかつた。
 
 「シーザーの目的は何なのだ。何をしに私の占領地域にやつて来たのか。あちらのガリアがローマの属州なら、こちらのガリアは私の属領である。もし私がローマ人の領地を侵略したのなら、それは許されるべきことではない。それと同様にローマ人が私と私の権利を侵害するなら、ローマ人は不正を犯したことになる。

 「ハエドゥイ人はシーザーに友人と呼ばれてゐるといふが、野蛮人だと思つてか、そんなことを言つて私を馬鹿にしてはいけない。最近のアッロブロゲス人の反乱(=紀元前61年)の際にはハエドゥイ人はローマ軍を助けに来なかつたし、我々とセクアニ人がハエドゥイ人と戦つたとき(=上記)には、ローマ人はハエドゥイ人を助けに来なかつたが、その事を知らないほど私は無知ではないのだ。
 
 「私はシーザーがガリアに軍隊を持つてゐるのは、我々との友好関係を装ひながら、我々を征服するためではないかと疑はざるを得ないのだ。だから、私はシーザーがもしこの地から退却して軍を撤退させないならば、シーザーのことを味方ではなく敵と見ることにする。
 
 「もし私がシーザーを倒したら、ローマ人の貴族や指導層の多くの人たちを喜ばせることになる。これはローマ人の有力者たちの使者から聞いて知つたことである。シーザーの死と引き換へに私は彼ら全員の感謝と友情を手にすることができるのである。
 
 「しかしながら、もしシーザーが軍を撤収してガリアを私の好きなやうに支配させてくれるならば、私はシーザーに多大の報償をもつて報ひるだらうし、シーザーが戦争をする必要ができたら、シーザーに何の危険も苦労もかけずにこの私が行なふだらう。

45 シーザーは自分の任務を捨てることが出来ない理由を示すために多くを語つた。「私とローマ人のポリシーによれば、最も信頼の置ける同盟国を見捨てるなどといふことは許されない。

 「また、私はガリアがアリオウィストスのものでローマ人のものではないとは思はない。Q.ファビウス・マキシムスがアルウェルニ人(=既出)とルテニ人を撃破して制圧したとき(=紀元前121年)、ローマ人はこの二つの国民を許して、属領にはせず、貢納金も課さなかつた。だからも時代の古いものが重視されるべきだといふなら、ガリアの正当な支配権はローマ人のものだといふことになる。

 「また、元老院の判断に従ふなら、ガリアには自由が与へられねばならない。なぜなら、元老院はガリアが征服された後にもガリアの法に従ふべきだと決めたからである」
 
46  このやうな会談が行なはれてゐるとき、「アリオウィストスの騎馬兵が塚に近づき、さらに馬に乗つたまま我が軍の方にやつてきて石や槍を投げてゐる」といふ知らせがシーザーの耳に入つた。

 シーザーは会談を切り上げると味方の兵たちのところに戻つた。そして、敵に対して決して槍を投げ返してはならないと命じた。といふのは、自分の選んだ軍団が騎馬隊と戦つても大丈夫とは思つたが、敵を打ち破つたあとで、会談中にシーザーの騙し討ちにあつたと敵に言はれるやうな真似はすべきではないと考へたのである。

 アリオウィストスが会談で傲慢な態度をとつたことや、ローマ人を全ガリアから締め出さうとしてゐること、そして彼の騎馬隊がローマ軍を攻撃してきたこと、そのために会談が決裂してしまつたことが、兵士たちの間に知れ渡ると、軍隊の戦闘に対する熱意と意欲はいよいよ高まるのだつた。

47 翌日、アリオウィストスはシーザーに使者を寄越してかう言つた。「二人で話しかけた問題についてまたシーザーと話し合ひがしたいので、そちらで次の会談の日取りを決めるか、さもなければ、あなたの副官を誰かこちらに派遣して欲しい」と。

 シーザーはもう話し合つても意味がないと思つた。といふのは何よりも前日にゲルマン民族が我が軍に対して槍を投げるのをアリオウィストスは止められなかつたからである。

  こちらから副官をアリオウィストスのもとへ出すのも、野蛮人の前に彼らを放り出すことになるので非常に危険なことに思はれた。

 シーザーにとつて最善の策と思はれたのは、C.ウァレリウス・プロキッルス(=既出)を、嘗てアリオウィストスの客となつたことがあるM.メティウスとともに派遣することだつた。

 プロキッルスはC.ウァレリウス・カブリウスの息子で、文武両面で極めて優れた若者であり、父親はC.ウァレリウス・フラックスから市民権を与へられてゐた。また、彼は信頼でき、アリオウィストスが今では習慣になつて日常使つてゐるケルト語を知つてをり、ゲルマン民族に危害を加へられる理由がなかつたからである。

  この二人にシーザーはアリオウィストスの言ふことをよく聞いて自分に報告するやう命じた。

 ところが、アリオウィストスは二人が自分の陣営にやつて来たのを見ると、自分の兵士たちがゐる前で、「何をしに来たのだ。我々を偵察しに来たのか」と大声を上げた。そして二人が話さうとするのも許さず逮捕してしまつたのである。

  48  アリオウィストスはその日のうちに陣地を進めて、シーザーの陣地から約9キロ離れた山のふもとに陣取つた。

 翌日にはアリオウィストスは自分の軍をシーザーの陣地の反対側まで移動させて、シーザーから3キロの地点に陣取つた。それはセクアニとハエドゥイから運ばれるシーザーへの食糧の補給を断つことが目的だつた。

 シーザーは、アリオウィストスが戦ひをする気になれば、その機会を逸することがないやうに、その日から五日続けて陣地の前に軍を出して整列させた。しかし、アリオウィストスはその間ずつと軍を陣地の中に留めて、連日騎馬隊による戦ひをしかけてきた。

 ゲルマン民族の採用した戦法はかうである。騎兵は6千ゐた。そしてそれと同数の足が速く屈強な歩兵がゐた。騎兵はそれぞれ自分を守らせるために一人づつ歩兵を全軍の中から選ぶのである。

 騎兵は歩兵と組んで戦闘に加はり、歩兵の助けを得た。つまり、戦闘が激しくなると歩兵が救援に向かひ、騎兵が重傷を負つて落馬したときには歩兵が回りを取り囲んで守るのである。

  遠くまで出撃するときや急いで退却するときには、歩兵は馬のたてがみに捉まつて同じ速さで素早く走れるやうに訓練してゐる。

  49 シーザーはアリオウィストスが陣地から出てこないことに気付くと、糧食の補給に対する敵の妨害をこれ以上長引かせないために、ゲルマン民族の陣地がある場所よりさらに約600歩(×1.4795m=887.7m)先に、陣地に相応しい場所を選んで、軍を三列に整列させてその地点に向かつた。

  そして、一列目と二列目の兵士には武器を持たせ、三列目の兵士には陣地作りをさせたのである。

 前述のやうに、この地点は敵から約600歩離れてゐた。そこへアリオウィストスは約16000の軽装兵を全騎馬隊とともに送り込んできて、我が軍の兵士たちを悩まして、陣地作りを妨害しようとした。

  そこで予定通りシーザーは、先の指図どほりに兵士の前二列に敵を撃退させ、三列目は陣地作りを完成するやう命じた。

  陣地が完成するとそこに援軍の一部と二個軍団を残して、他の四個軍団をここより大きい元の陣地に戻したのである。
 
  50 翌日もシーザーはそれまでと同じやうにして、二つの陣地から軍隊を出して、大きい陣地から少し離れた所まで進めて整列させ、敵に戦闘をする機会を与へた。
 
  それでも敵はどうしても出て来ないと分かると、シーザーは昼近くに兵を陣地に戻した。

  その時になつてついにアリオウィストスは自分の軍隊の一部をシーザーの小さい方の陣地を攻撃するために送り出してきた。

  敵味方双方とも夕方まで激しく戦つた。両者ともにさんざん負傷を与へ合つたのち、日没とともにアリオウィストスは兵を自陣に下げた。

  シーザーは捕虜になつた者に、なぜアリオウィストスが決戦に応じないか尋ねて、次のやうな理由を見出した。

 ゲルマン民族には一家の女主人がくじ引きや占ひなどで戦ひをするのが有利か不利かを明らかにする習慣がある。今はその女主人が、新月の前に決戦に出ると勝てない運命だと言ったのである。

51 その翌日シーザーは二つの陣地に充分な守備隊を残して、小さい方の陣地の前に全援軍を整列させて敵によく見えるやうにした。といふのは、軍団の兵力は敵の兵力に比べて劣つてゐたので、援軍を見せ掛けに使つたのである。
 
 シーザー自身は軍を三列に整列させて敵の陣地の前まで近づいた。その時になつて到頭やむなくゲルマン民族は軍を陣地から引き出して、ハルデス人(=既出)、マルコマンニ人、トリボキ人、ワンギオネス(Vangiones)人、ネメテス人、セドゥシー(Sedusii)人、スエビー人(=既出)と国ごとに等間隔に整列させた。

 そして、彼らの列を四輪馬車と荷車で取り囲んで、逃亡の余地を残さないやうにした。さらに車の上に女たちを並べた。女たちは戦ひに出陣して行く者たちに泣きながら両手を差しのべて、自分らをローマの奴隷に引き渡さないでと嘆願するのだつた。
 
52  シーザーは財務官に一つの軍団の指揮を任せ、副官たちに残りの軍団の指揮を委ねて、それぞれの軍団の兵たちの奮闘振りを監督させた。

 シーザー自身は右翼から戦闘を開始した。敵のその方面が最も弱いと気付いたからである。我が軍は合図が出ると一心不乱に出撃したが、敵もものすごいスピードで突進してきたので、敵に槍を投げる距離がなくなつてしまつた。そこで槍を捨てて剣をとり、白兵戦を行なつた。

 しかし、ゲルマン民族はいつものやうに急いで重歩兵による密集方陣を形成して、剣による攻撃に持ちこたへた。すると、我が軍の兵の中から、方陣の上へ飛び込んで、盾を敵の手からもぎ取つて、上から傷を与へようとする者が沢山現れた。

  敵の左翼の戦列が破れて敗走を始めた時、右翼では敵が数に物を言はせて我々の戦列をぐいぐい押しまくつてゐた。

 騎馬隊の指揮をとつてゐた若いP.クラッススが右翼の劣勢に気付くと、自分自身は戦列の中に混じつてゐた者より余裕があつたので、苦戦をしてゐる味方へ第三列を援軍として送つた。

53 おかげで我が軍の戦列は立ち直り、敵軍は全員背を向け、そこから約7キロ半(=5ローママイル×1.4795キロ)のライン川に着くまで逃げ続けたのである。

  いくらか体力に自信のある者は川を泳ぎ渡らうとがんばつたが、それ以外の者たちは船を見つけて逃げ延びようとした。

 後者の中にアリオウィストスもゐた。彼は岸に繋いだ船を手に入れ、それで逃げおほせたのである。川を渡れなかつた残りの者たちは我が軍の騎馬隊に追ひつかれて全員みな殺しになつた。

 アリオウィストスには二人の妻がゐた。一人はスエビー人の女で祖国で娶つて連れて来た女だつた。もう一人はノリクム国の王ウォッキオの妹で、兄からガリアに送り込まれて妻となつてゐた。この二人の女は逃走中に死亡した。二人の娘がゐたが、一人は殺され一人は生け捕りになつたのである。

 C.ウァレリウス・プロキッルスは、敵の逃亡中も三重の鎖に縛られて看守に運ばれてゐたが、騎馬隊をつれて敵を追つてゐたシーザーにばつたり出くはした。この出来事は戦争の勝利に負けず劣らず、シーザーに大きな喜びをもたらした。

 といふのは、ガリアの属州で最も信頼出来る友人であり客である人間を、敵の手から救ひ出して取り戻すことが叶つたからであり、運命の神が彼を死なせて、勝利の喜びの幾分かを減ずることがなかつたからである。

 プロキッルスの話によれば、彼をすぐさま焼き殺すか後まで生かしておくかを決めるくじが目の前で3度引かれたが、そのくじのおかげで命拾ひしたといふのだ。同じやうにしてM.メティウスも発見されて、シーザーのもとに返された。

54 この戦争のことがライン川の向かう側にまで伝はると、ライン河畔に来てゐたスエビー人は祖国に帰り始めた。ライン川のすぐ近くの住民たちは、スエビー人が恐慌をきたしてゐることに気付くと、彼らを追跡して大勢を殺害した。

 シーザーは、ひと夏の間に二度も大きな戦争をしたので、冬がまだ来ないうちに軍を冬営をさせるために、セクアニ国に軍を引き入れた。そして、冬営の指揮官にラビエヌスを任じた。シーザー自身は巡回裁判をするために北イタリアへ向かつた(第一巻終はり)。


誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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