『読史余論』上 または『公武治乱考』上


新井白石著

〈〉は白石による注。(=)は本ページ作者による注である。


一、本朝天下の大勢、九変して武家の代となり、武家の代また五変して当代に及ぶ総論の事

 『神皇正統記』に、光孝(=五十八代)より上(かみ)つかたは一向上古也。万づの例(=前例)を勘(かんが)ふるも、仁和(=光孝の年号)より下つかたをぞ申すめる。

 五十六代清和、幼主にて、外祖良房、摂政す。是、外戚専権の始。〈一変〉

 基経、外舅(ぐわいきう)の親(しん)によりて陽成(=基経の甥の子)を廃し光孝を建てしかば、天下の権、藤氏に帰す。そののち関白を置き或は置かざる代ありしかど、藤氏の権、おのづから日々盛也。〈二変〉

 六十三代冷泉(れいぜい)より、円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉、凡そ八代約百三の年の間は、外戚、権を専らにす〈三変〉

 後三条・白河両朝は、政(まつりごと)天子に出ず。〈四変〉

 堀河・鳥羽・崇徳〈白河四十三年・鳥羽十三年〉・近衛〈鳥羽十四年〉・後白河・二条・六条・高倉・安徳〈後白河三十年〉、凡そ九代九十七年の間は、政、上皇に出ず。〈五変〉

 後鳥羽・土御門・順徳、三世凡そ卅八年の間は、鎌倉殿、天下兵馬の権を分掌(わかちつかさど)らる。〈六変〉

 後堀河・四条・後嵯峨・後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐・光厳、十二代凡そ百十二年の間は、北条、陪臣にて国命を執る。〈七変〉

 後醍醐重祚、天下朝家に帰する事纔(わづ)か三年。〈八変〉

 そののち天子蒙塵(=宮城を出る)。尊氏、光明をたてゝ共主となしてより、天下ながく武家の代となる。〈九変〉

 武家は源頼朝、幕府を開て、父子三代天下兵馬の権を司どれり。凡そ三十三年。〈一変〉

 平義時、承久の乱後、天下の権を執る。そののち七代凡そ百十二年、高時が代に至て滅ぶ。〈二変〉〈此時に、摂家将軍二代、親王将軍四代ありき。頼経・頼嗣、宗尊・惟康・久明・守邦。〉

 後醍醐中興ののち、源尊氏反して天子蒙塵。尊氏、光明院を北朝の主となして、みづから幕府を開く。子孫相継ぎて十二代に及ぶ。凡そ二百三十八年。〈三変〉〈このうち南北戦争五十四年、応仁の乱後百七年の間、天下大いに乱る。実に七十七年が間、武威(=将軍の威光)あるがごとくなれども、東国は皆鎌倉(=関東管領)に属せし也〉

 足利殿の末、織田家勃興して将軍を廃し、天子を挟(さしは)み(=支配)て天下に令せんと謀りしかど、事未だ成らずして、凡そ十年がほど、その臣光秀に弑(しい)せらる。豊臣家、その故智を用ひ、みづから関白となりて天下の権を恣(ほしいまま)にせしこと、凡そ十五年〈四変〉

 そののち終(つひ)に当代(=徳川)の世となる〈五変〉

謹按(つつしみてあんずるに)、鎌倉殿天下の権を分かたれし事は、平清盛武功によりて身を起し、遂に外祖の親をもて権勢を専(もつぱら)にせしによれり。清盛かくありし事も、上は上皇の政みだれ、下は藤氏累代(るいだい)権を恣にせしに倣(なら)ひしによれる也。されば、王家の衰し始は、文徳、幼子をもて世継となされしによれりとは存ずる也。尊氏天下の権を恣にせられし事も、後醍醐中興の政、正しからず、天下の武士、武家の代を慕ひしによれる也。尊氏より下は、朝家はたゞ虚器を擁せられしまゝにて、天下は全く武家の代とはなりたる也。



一変

一、本朝幼主并びに摂政治 付けたり藤氏家学を建つる事
 五十五   五十四
 文徳帝は、仁明の太子也。母は左大臣藤冬嗣の女〈冬嗣は鎌足の五代の孫なり〉、五条の后といふ。嘉祥(かじやう)三年三月、仁明崩ず。四月文徳即位。即位より五日にあたりて清和生まる。母は右大臣藤良房の女(むすめ)、染殿の后、是也〈良房は冬嗣二男にて、文徳の外舅〉。

 始、文徳に三子あり。長は惟高〈文徳即位の時七歳也〉、次は惟条(これえだ)、二人共に紀名虎(きのなとら)の女の生める所也。三は惟彦といふ。滋野貞主が女の生る所也。しかるに文徳、第四子惟仁を太子とす。即ち即位の年の十一月、惟仁生まれて纔に九月也〈かゝる例いまだあらず〉。大納言源信を皇太子傅とす〈信は帝の叔父〉。『江談』に云ふ、帝惟高に譲位するの志有れども、良房に憚りて果さず。或は神に祈り又秘法を修す。真済は惟高が為に祈り、真雅は東宮が為に祈る。按ずるに、此事亦た国史(=『文徳実録』)に見ゆ。たゞし信、諫止し也。

按、斉衡(さいこう)三年十一月、帝、新たに殿を作り、庭上にてみづから天を祭る事あり。これ、『江談』謂ふ所祈神の事歟。天安元、二月、右大臣良房太政大臣と為る〈大友・高市・押勝・道鏡が後、初度也〉、帯剣をゆるさる。これ源信が諫めによりて、良房の心を慰せむため歟。その十一月、弘法に大僧正を贈る。これ、其弟子真済が請ひによるといふ。おもふに、真済をして惟高が事を祈らるゝが故歟。

 その十二月、惟高元服、四品(しほん)を授く。明くる二年八月、天皇崩ず。卅二歳也〈惟高十五歳〉。惟仁九歳にて践祚。外祖良房、摂政す〈『実録』を按ずるに、帝倉卒(=にはかに)に不予(=病気)の事有りて、言語通ぜずと云々。又、良房摂政たるべきよしの遺詔(いしよう)の事も見えず〉。

異朝の例、堯の時、舜、摂政。殷の時、伊尹、保衡。周の時、周公旦。漢の時、霍光(くわくくわう)。本朝の例、応神の時、神功(じんぐう)后。推古の時、厩戸(うまやど)。斉明の時、中大兄。元明の時、皇女浄足姫尊(きよたるひめのみこと)、すなはち元正の御事也。

 貞観(ぢやうぐわん)六年正月、帝元服。良房、政を還して〈摂政五年〉、白河に閑居す。十三年二月、帝紫宸殿に御して、政を視る。四月、良房に食禄(じきろく)を加へ、随身兵仗を賜ひ、三后(さんごう)に准ぜらる〈准三后の始〉。十四年九月、良房薨ず、年六十九。正一位を贈り、美濃公に封じ、忠仁公と諡(おくりな)す〈中間十三年、摂政なし〉。此後、源融(とほる)・藤基経、執政たり。

 初め閑院左大臣冬嗣、藤氏の衰ふることを嘆き、子孫・親族の学を勧めんために勧学院を建つ〈大学に東西の曹司(ぞうし)(=教室)ありて、菅・江(=大江氏)二家これを掌る。(=勧学院は)その南にあれば、南曹といふ〉。氏長者管領して、興福寺及び氏の社の事を司る。良房が後、此一流に伝りつかさどる。

 『西宮記(さいきゆうき)』に、奨学院は、元慶(ぐわんぎやう)五年中納言在原行平卿、勧学院の例を庶幾(=希望)するを、建立する所也。『江次第(がうしだい)』に、応和二年閏十二月源氏の王卿大納言高明以下、当院学生(がくしやう)をして勧学院の例に准ぜられんことを申し請ふ。『拾芥(しふがい)』に、淳和院(=学院の一)、天長の上皇(=淳和天皇)離宮、今の西院。或は云ふ、橘太后(=嵯峨天皇の后)の宮と。源氏長者、長者宣の事、改氏の事。

 『江次第』、学館院は、橘氏諸兄(もろえ)公の右大臣申して之を立つ。

 良房、源信を救ふ事、『正統記』に詳(くは)し。〈大納言伴善男寵有りて大臣に任ぜられんと欲す。しかれども三公(=太政大臣、左大臣、右大臣)闕(=欠員)なかりしかば(=太政大臣良房、左大臣信、右大臣良相)。左大臣信をうしなひて、其闕にならむとおもひ、応天門を焼きて、「左大臣世をみだらん謀(はかりごと)也」と申す。清和帝おどろきて、右大臣良相(よしみ)に詔(みことのり)してすでに誅せらるべしとありしに、良房かくと聞きて、烏帽子直衣(=略服)のまゝにて、白昼に騎馬にて馳参(はせさん)じて申なだむ。そののち善男が謀顕(あらは)れて、流されたり。〉



二変

一、関白并びに廃立始の事

 貞観十八年、清和〈廿六歳〉位を太子〈陽成〉(=九歳)に伝ふ。外舅右大臣基経を以て、摂政と為す〈陽成の母は、長良(=冬嗣の子)の女、二条の后、是也〉元慶(ぐわんぎやう)三年、上皇薙染(ていせん)(=出家)。四年、丹波の水尾山(みのをやま)に遷りて、十二月崩ず〈三十一歳〉。一説に、此年十二月八日、基経を以て関白と為す〈『公卿補任』には摂政四年と〉。

 八年二月四日、基経、陽成帝を廃す〈十七歳也〉。帝を二条の陽成院に遷す。源融、これを難ぜしに、藤原諸葛(もろかづ)剣を握りて曰く、「誰か太政大臣の言に違ふや」といひしかば、事決すともいふ。又『古事談』には、此事の陣の定の時、融の左大臣帝位を望むの志ありて、「皇親(=皇族)を求められば、融等も侍(さぶら)ふは」とありしに、基経、「皇胤たりといふとも、すでに姓を賜る。たゞ人にて仕へられし人、即位の例、如何にや」といひしかば、融の言無かりしとも見ゆ。融は嵯峨第十三子。

 かくて、基経、諸皇子を相し、光孝帝を建つ〈帝は仁明が第三の子。時に一品式部卿親王、御年五十五歳なり〉。『古事談』に、基経、親王たちの許へゆきめぐりつゝ事の体(てい)を見給ふに、他の親王たちはさわぎあひて、或は装束し或は円座取りて奔走せられし(=敷物を奪ひ合ふ)に、小松の帝(=光孝、小松殿にいた)の御許に参られしに、破れたる簾(みす)の内に縁(へり)破りたる畳におはしまして、もとゞり二俣に取りて(=髷が二股に分れて)、傾動の気おはしまさゞりしかば、「此親王をこそ帝位には即け給はめ」とて、御輿を寄せたりと云々。『三代実録』には、嘉祥二年、渤海大使王文矩、帝の諸親王中に在るを望み見て、所親(=親しい人)に謂ひて曰く、此公子至貴の相有れば、其の天位に登るは必ずなりと。『古事談』、帝在藩(=常陸太守)の日、多くの町人の物を借り用ひ給ひしかば、即位ののち参内してせめ申しければ、納殿(をさめどの)の物をもて返し与へらる。

 『正統記』、践祚の始、摂政を改て関白とす。これ、我朝関白の始也〈宣帝(=漢)の詔の万機の政なほ光(=霍光)に関(あづか)り白(まう)せの語にとる〉。

按ずるに、此二月廿三日即位。五月九日勅して博士等に令して、太政大臣職掌有るや否や、并びに大唐の何官に当るやを、勘奏せしむ。六月五日詔して、応(まさ)に奏すべき応に下すべきの事、必ず先づ諮(はか)り稟(う)けよ。朕将(まさ)に垂拱(すいきよう)(=任せる事)して成を仰(=頼む)がんとすと云々。源融、勅を奉じて、文章博士菅道真・善淵永貞・大蔵善行等をして議せしむ。

廃立の事、四十六代孝謙上皇、淡路(=淳仁)帝を廃して重祚ののち、此度を始とす。又、関白の事は、帝、やむごとを得ざるに出たる歟。はじめ博士等に議せしめられしとき、「太政大臣職掌あるべからず」と申さば、基経が権を抑(おさへ)むとの御事歟。又按ずるに、当代の老臣、ことごとく関白或は内覧(=政務の代行)の臣のごとくなる歟。不審。


一、宇多・醍醐・村上三代摂関を置かれざる事 管丞相の事

 光孝在位三年にして崩ず〈五十八歳〉。第三子宇多即位〈母は桓武の子仲野親王の女、班子女王といひし也〉。はじめ、仁和三年八月廿六日、光孝大漸(たいぜん)(=危篤)の日、基経等勧めて太子に立つ〈二十一歳〉。

 宇多践祚の初め、十一月廿一日、詔して曰く、万機巨細、皆太政大臣に関り白さしめよと。廿六日、基経上表して辞す。閏十一月、詔して曰く、「社稷の臣にして、朕が臣に非ず。宜しく阿衡の任を以て卿が任と為すべし」と。四年二月廿二日、勅して、基経を三宮に准じ年官年爵を賜ふこと、忠仁公(=良房)の事の如し。五月九日、基経上表して曰く、「未だ阿衡の任を知らず、関白を如何せん。仍(より)て疑ひを持すること久し。伏して聞く、左大臣(=源融)・明経博士等をして勘(かんがへ)て申さ令むるに云ふ、阿衡の任は典職(=仕事)無かる可してへり(=と言へり)。其の典職無かる可きを以て、阿衡の貴為(た)るを知る。臣を以て此に擬するは、克(よ)く堪ふる所に非ずや」と。

 勅して曰く、「左大弁橘広相(ひろみ)をして詔を作らしめて曰く、『宜しく阿衡の任を以て卿の任と為すべし』と。而るに尚ほ疑を持して(=基経)、事を視るを肯んぜず。天下の務め、皆擁滞(とどこほ)りたり。是において、明経・紀伝の士をして勘へ使むるに、申して云く、『阿衡は是れ殷の世の三公の官名なり。三公は坐して道を論じ、典職する所無し』。然れども朕が本意は、万機を関白(あづかりまう)して其の輔導に頼らんと欲す。広相草する所、已に朕の意に乖(そむ)きたり。自今以後、衆務を輔け行ひ、百官を総(す)べ、応(まさ)に奏すべきの事、応に下すべきの事、必ず先づ諮り稟(う)けよ。朕将に垂拱して成を仰がんとす」。

 寛平元年十一月、基経に腰輿(えうよ)に乗りて宮中に出入すること、源融に輦(てぐるま)に乗る事を聴す。三年正月、基経薨ず〈五十六歳〉。正一位を贈り、越前公に封じ、昭宣公と諡す〈『公卿補任』によれば、元慶四年より寛平二年まで関白、十一年の間也〉。

 帝、在位十年、寛平九年七月三日、位を醍醐帝〈十三歳〉に伝ふ。延喜(=醍醐)の母は、中納言藤高藤の女。上皇、時平(=基経の子)〈廿七〉・菅家〈五十四〉〈大納言の大将たり〉に勅して、相並びて政を行ふ。昌泰(しようたい)二年二月、時平左大臣(=文官の位)、左大将(=武官の位)元の如し。菅家右大臣、右大将元の如し。菅家の辞表許さず。

 延喜元年正月廿五日、菅家を徙(うつ)し、源光(ひかる)を以て、右大臣と為す。三年二月廿五日、菅家薨ず。四年、保明(やすあきら)を立て太子と為す〈二歳〉。母時平女弟〈穏子(をんし)〉。九年四月、時平薨ず〈卅九〉。正一位太政大臣を贈る。十三年三月、源光薨ず〈六十九歳〉。十四年七月、忠平(=基経の子)右大臣。延長元、三月、太子薨ず。文彦(ぶんげん)と諡す。二年、忠平左大臣、帝の外舅藤定方右大臣。八年九月廿二日、帝大漸、位を寛明〈朱雀也〉に伝へ、廿九日崩ず〈四十六歳〉。在位卅三年、摂関なし。

 朱雀は醍醐が第十一子〈按ずるに、延喜に皇子廿人あり〉。太子克明(かつあきら)、早世。二子保明も早世。朱雀〈十一〉、村上〈十四〉、この三人は基経の女(=穏子)の所生也。

 『大鏡』に、此みかど生れさせ給ひては、御格子もまゐらず(=上げず)、夜昼火をともして、御帳の内にて三とせ迄生(おほ)し奉らせ給ひき。北野(=道真のたたり)に怖(お)ぢ申させ給ひ、かくありしぞかし。此みかど、生れおはしまさずば、藤氏の栄、いとかうしもおはしまさゞらまし。いみじき折節、生まれさせ給へりしぞかし。

 三歳にて太子に立つ〈延長十三年〉。八歳にて践祚。忠平摂政す。

 承平六年、南海に賊起る〈純友〉。天慶(てんぎやう)二年十一月、平将門反す。三年二月、将門誅に伏す。四年六月、南海の賊平らぐ。此年十一月、忠平、政を還(かへ)して、関白と為る。

 九年、皇太弟(=天皇の弟で次の天皇)成明(なりあきら)に譲位し、朱雀院に遷(うつ)る〈廿四歳〉。在位十六年〈村上の天暦(てんりやく)六年八月崩ず。三十歳〉。『保元物語』に、朱雀、母后の勧にて譲位ありしかど、後悔ありて、重祚の事を諸神に祈り、伊勢へも公卿勅使ありき。

 村上は醍醐が第十四子、天慶九年四月廿八日即位〈廿一歳〉。天暦元年四月、実頼(さねより)左大臣の左大将、師輔(もろすけ)右大臣の右大将、其父忠平関白太政大臣にて、父子三人三公たり。三年正月、忠平致仕し、実頼・師輔執政たり。八月、忠平薨ず〈七十歳〉。正一位を贈り、信濃公に封じ、貞信公(ていじんこう)と諡す〈摂政十一年、関白九年〉。此後十九年間、摂関を置かれず。

謹んで按ずるに、朱雀の初め、東南乱るゝ事は、延喜の政衰し上、外戚の権を専らにせしによれる歟。又朱雀に男なかりしかば、同母弟を以て太子とせり。伝位のはやかりし事は、災変のしきりなるによれる歟。

 『大鏡』、宇多の下に、此帝(=宇多)の、たゞ人になり給ふほど(=十八歳から二十一歳まで源氏姓)なむ、おぼつかなし。よくも覚え侍らず。又醍醐の下に、寛平九年(897)七月三日に(=醍醐)位につかせ給ふ。御歳十三。やがて今宵、夜のおとゞより俄に御冠(かうぶり)(=元服)奉りて、さし出でおはしましたりける。御手づからわざ(=自分でした)、と人の申すはまことにやと云々〈按、上皇(=宇多)、崩年六十五、伝位の日三十一歳也〉。『大和物語』に、宇多禅位ののち跡を滅してのがれ給ひし事をのせられたり。橘良利(よしとし)一人供奉せしよし。

 菅家は、是善(これよし)の子也〈一説、天子の御子と。しからば、仁明の御子歟。仁明、諱は道康、公の諱、道真といへば也。〉儒家より起りて、宇多の時にしきりに登庸、大納言の右大将たり〈公、極諫(ごくかん)直言の事共多し。又、相工(=人相見)の相せし事あり〉。『続古事談』、寛平の時、菅公諫め申されし事、漢人の諫を奉ずるに異ならず(=中国の諫官のやうである)。ある時、殺生禁断ありし次の年、君みづから鷹狩りし給ひしを、「今年は鳥獣何の謬(あやま)りあれば忽(たちまち)にこれを狩給ふ」とあれば、止(とどま)り給ひけり。すべてかやうの器量を御覧じ被(られ)しに、纔に九ヶ年間に讃岐守より右大臣・内覧迄に至り給へり。

 一説、宇多ひそかに菅家を召して、伝位の事を議せられる。公、諫めて申しとゞめらる。其後、又此事を議せられしかば、「いそぎ其事あるべし。時のびなば、他の妨げもあるもの也」とありし。されば、延喜即位の日、「菅公は当今(たうぎん)の忠臣也」と、上皇(=宇多)仰せられしとも云ふ〈此事不審〉。

 『正統記』に、丁巳の年即位(=醍醐)、戊午に改元。時平・菅氏両人、上皇の勅をうけて輔佐し申されき。後に左右大臣に任じて、共に万機を内覧せられけりとぞ。右相は年もたけ才も賢くて、天下の望む也。左相は譜代の器也ければ捨てられがたし。ある時、上皇の御在所朱雀院に行幸。「猶右相に(=関白を)まかせらるべし」と云ふ定ありて、既に召し仰給ひけるを、右相かたく逃れ申されて、止みぬ。其事、世に漏れにけるにや、左相、憤りをふくみ、さまざまの讒をまうけて、終にかたぶけ奉りし事こそ、浅ましけれ。善相公清行(=三善氏)朝臣は、此事いまだ兆(きざ)さざりしにかねて悟りて、菅氏に災をのがれ給べきよしを申けれど、沙汰なくて此事出来にき。

 『北野縁起』に、其比(そのころ)みかどの御身近く召しつかはれ給ふ人々に、〈源〉光卿・〈藤〉定国卿・菅根朝臣もろともに偽りて勅宣と称し申構へ、博士(=陰陽)どもに色々の珍宝を与へて、冥衆(=神々)を祭り皇城の八方に厭術(=まじない)の雑宝を埋め給ひけり。一説、延喜の弟斉世(ときよ)親王は公の壻なれば、此人をたてんとの事ありと讒せしともいふ。

 延喜元年辛酉(しんいう)正月元日、日蝕。その廿五日、菅公左遷。晦日の夜、上皇、諫め給はんとて参らせ給ひしかど、宮門に入れず〈菅根がわざといふ〉。二月朔日、むなしく還御。此日、菅公都を出づ。斉世も出家也。菅公左遷の年、十二月上皇御室(おむろ)を造る。或は云ふ、上皇双岡(ならびがをか)を築き京鄙(けいひ)を隔つ。

 三年二月廿五日、公薨ず〈五十九歳〉。九年、時平薨ず。十年、旱(ひでり)す。十三年、〈右大臣〉源光薨ず。十四年正月、京師火(や)く。六月、大水。十六年三月、大風。十七年、大旱。廿二年、旱す。延長元年文彦太子薨ず。菅公の官位を復す。七年、洪水。八年六月廿六日、雷清涼殿に震(ふるは)す。大納言藤清貫・右中弁平希世等数輩震死(しんし)す。帝、常寧殿に遷り、僧尊意を召して聖躰(=天皇の体)を加持す。九月廿九日、帝崩ず。

 朱雀の天慶四年八月、僧道賢、菅公を金峰に見る〈賢、日蔵と改む〉事、『道賢上人冥途記』に出づ。天慶五年七月、西京(にしのきやう)七条坊門女子文子(あやこ)といふものに、公、託して右近馬場(=北野の)に止まる事、『北野縁起』に見ゆ〈村上の天暦元年六月、北野に(=七条から)は移せといふ〉。

 村上の天暦九年三月十二日、近江比良社禰宜神(みわ)良種が子太郎とて、七歳なるに神託して、「我至らむ所には松を生ずべし」とあり。良種、右近馬場に行むかひて、朝日寺の住僧等に相議するほどに、一夜に松数千本生じて、忽に林をなす事、『天満天神神託宣記』并びに『北野縁起』等に見ゆ。

 『琉球記』云ふ、封王第七代王尚元が時に、古米(くめ)村の林氏大夫といふもの、つねに、

 いづくにも 梅さへあらば 我としれ 心づくしに 外なたづねそ

といふ歌を吟じて神を祭る。後、入唐船の上使たり。漳州梅花海にて船覆り、船中百工皆溺死す。林氏ひとり梅枝に取りつきて活し、他船に乗じて帰り、終に天満宮をたつ。

 先師木恭靖(=木下順庵)いはく、菅公、外戚の権を抑むとの志ありしかば、藤氏の子弟等、これを讒しけるなるべしと云々。



三変

一、冷泉已後(いご)八代の間、摂家の人々権を専らにせられし事 天子院号の始の事

 冷泉院は、村上が第二子。母は中宮(=皇后)安子、右大臣師輔の女也。天暦四年五月生れて、七月立太子〈中間一月〉。按ずるに、村上九男あり。長は広平親王〈藤原元方女の所生〉。冷泉・円融〈共に藤氏の出也〉、具平〈代明(よあきら)親王女の所生〉。為平は四男なれども、源高明(たかあきら)の壻故に立てられずと云々。

 はじめ、村上在位久しく、康保(かうほう)元年四月、中宮藤安子崩じ、其妹登子をむかへて寵す。これは、帝が兄重明(しげあきら)親王の室也。中宮へ参られし時に、帝通ぜり。今は重明も薨じ給ひければ、迎へ入れられし。これより朝政(あさまつりごと)衰ふ〈時に卅九〉。康保四年五月に崩じ給ふ〈卌二歳〉。在位廿一年也き。

 かくて、冷泉院〈五月〉凝華舎に践祚す〈十八歳〉。従舅左大臣実頼関白為り。冷泉帝、是年五月受禅(=即位)、十月即位なりき。その九月、帝、同母弟守平(=円融)九歳なるを、村上の遺詔と称して太弟(=皇太弟)となす。世人皆、為平を以て太弟に立てるべしと思ひけるなり。『古事談』、紫宸殿にて即位あり。大極殿(たいごくでん)にて此事を行れば、さだめてみぐるしからん(=冷泉狂気故に)歟との事也。小野宮殿(=実頼)の高名、此事也と云々。『江談』・『続古事談』等に、帝神剣を抽きて神璽を開くの事あり。『栄花物語』(=原文は『大鏡』)に、此帝に元方のものゝけおわしまして、あさましかりしと。按ずるに、村上長子広平親王は、元方の女のむめる所也。それをさしおきて、帝を以て嗣とせられし故にや。

 『江談』にいはく、天慶の征討使(=将門討伐)、朝議元方を以て大将軍に為さんと欲す。元方之を聞きて曰く、「大将軍の言ふ所は、一事以上(=何でも)国家に用ひられざるは莫し。若し大将軍を拝せらるれば、必ず貞信公が息一人を請ひて副と為さん」と。茲に因りて此議寝(や)む。此一事を以て見るに、元方、剛直の気ありし人也。

 安和二年三月、左馬助源満仲・武蔵介藤善時、中務少輔源連・橘繁延反すを告ぐ。これは左大臣源高明〈延喜が第十六子、西宮と号す〉が謀にて、帝を廃し其壻為平〈先帝が愛子〉を即位せしめむとの事也といふ。太政大臣実頼・右大臣師尹(もろただ)奏して、高明を太宰権帥(ごんのそち)とし、剃髪せしめて出す。繁延・僧蓮茂等を捕へて窮問するに、藤千晴も〈秀郷が子〉与党のよしにて、これを捕へて皆々流刑す〈或はいふ、満仲の讒也〉。高明が家を焼く。此年八月、帝位を皇弟に伝ふ。冷泉在位三年、此後卌二年を歴て一条の寛弘八年十月崩ず。寿六十二。これより已後、天子皆院号にて、諡なし。

 『正統記』に、此帝より天皇の号を申さず。又、宇多より後、謚を奉らず。遺詔ありて国忌(こき)(=忌日)・山陵(=墓)を置かれざる事は、君父の賢道なれど、尊号を止(とど)めらるゝ事は、臣子(=臣下)の義にあらず。神武以来の御号も、皆、後代(=淡海三船)の定なり。持統・元明より此かた、遜位(=譲位)或は出家の君も、謚を奉り、天皇とのみこそ申めれ。中古の先賢の義なれども、心を得ぬ事に侍る也。

 円融は、冷泉が同母弟。安和二年九月、即位〈十一歳〉。『大鏡』に、此帝の東宮にたゝせ給ふほどは、いと聞きにくゝいみじき事共こそ侍れ。是は皆人の知ろしめしたる事なれば、事も長し。とゞめ侍りぬ。

按ずるに、『大鏡』にいふ所は、為平を立てずして、円融を太弟とし、又源高明を流せし類をさすなるべし。初め、村上、その長子広平をすてゝ、劇(にはか)に冷泉の生れて三月にみたざるを太子とせし事、尤(もつと)も誤りといふべし。かつは、冷泉の狂疾あるを、そのまゝに太子として位を伝へられしも、誤れるなるべし。次に村上崩じてのち、実頼、為平をすてゝ円融を太弟とせし事は、為平も帝の同母弟なりといへども、源高明が女其妃たれば、為平もし伝位ならば、高明がために藤氏の権を奪はるべし、とおもひしが故也。高明、終に罪せられしも、世人実頼が此挙(=円融を太弟とした事)を議するもの多きが故に、みづから疑懼(ぎぐ)の心あるが故なるべし。さらば、此事は、村上始めに誤りて、実頼その誤りを重ねし也。

 実頼、摂政、随身兵仗・牛車・内覧の宣旨あり〈時に七十〉。天禄元、五月、実頼薨ず〈七十一歳〉。正一位を贈り、尾張公に封じ、清慎公(せいしんこう)と諡す〈関白・摂政共に二年づゝ〉。帝が外舅右大臣伊尹(これまさ)、摂政す。三年四月、源高明、帰京。十一月、太政大臣伊尹薨ず〈四十九歳〉。正一位を贈り、参河公に封じ、謙徳公と諡す〈摂政三年〉。伊尹が弟兼通、内大臣に任じ〈もとは中納言〉関白たり〈天延三年二月、太政大臣〉。貞元(ぢやうげん)元年五月、宮殿災す。六月より七月に至り、地震。帝・后、兼通の堀河の第(=屋敷)に在り〈后は兼通女〉。二年、兼通奏して、左大臣源兼明〈高明の兄〉を以て親王と為し、中務卿に任ず前(さきの)中書王。陽に尊びて其職を奪ふ。十月、兼通病に因りて関白を従弟頼忠に譲り〈実頼の子〉、奏して、我弟兼家女(=超子)、寵を冷泉上皇に受けて、子を誕(う)む〈三条〉故に、帝位(=冷泉の)を復さんとの志有りと。請ふ貶(おと)して〈大納言大将(=兼家)〉治部卿に為さんと。復請ひて、流死の刑に処さんとすれど、帝許さず〈これは、兼通(=兄)三木(=参議)たりし時に、兼家(=弟)中納言に任じ、兼通中納言の時、兼家大納言たりしを憤りて、頼忠と相議して兼家を害せんとせしこゝろ也〉。十一月、兼通薨ず〈五十一〉。遠江公に封じ、忠義公と諡す。兼家は今の摂家の祖、大入道殿なり。

 天元元年八月、兼家が女詮子(962-1001)を梅壺に入る。これよりさき、兼通が女、中宮たり。故に他家の女の入内(じゆだい)をゆるさず。去年、兼通薨じければ也。詮子、やがて一条帝を生めり。

 四年七月、帝不予。叡山の慈恵に詔して輦車(れんしや)を聴(ゆる)し大僧正と為す〈行基已後二百年〉。十月、新宮(しんみや)に還(かへ)る。五年十一月十七日、宮殿災し、堀河院に遷る。

 永観元年二月、検非違使に命じて、京畿に猥りに弓箭兵仗を帯する者を捕へしむ。二年、帝(=円融)、位を太子師貞に伝ふ〈帝の姪(をひ)也。帝、時に廿六歳、在位十五年〉

 花山(くわざん)は冷泉が第一子。母は懐子、摂政伊尹の女にて、円融の受禅の日に、二歳にて太子に立つ。永観二年八月、即位〈十七歳〉〈按ずるに、一条帝(=円融の子)は時に六歳〉。頼忠、関白為(た)り〈此時、冷泉・円融兄弟共に上皇としてまします〉。寛和(くわんな)元年、弘徽殿の女御卒す〈藤為光の女〉。帝、即位ののち、関白頼忠が女・為平親王の女・大納言藤朝光の女三人をめして女御とす。又、大納言藤為光が女恒子を弘徽殿に納れて、寵する事、殊(こと)に甚だしかりしに、卒せしかば悲傷も又甚だし。二年六月廿二日、貞観殿の小門より出て花山寺に入りて落飾〈十九歳なり〉。在位二年。寛弘五年二月八日崩ず、四十一歳

 『正統記』に、粟田の関白〈道兼なり。兼家が二子〉の蔵人の弁と聞えし比(ころ)、そゝなはかし(=そそのかし)申てけるとぞ。『古事談』に、弘徽殿女御薨ぜられし時、帝、御悲嘆の処、町尻殿〈即ち、粟田の関白也〉、世間無常の法文を記してみせまいらせ、御出家を勧め申し、もろ共に出家し御供すべしと也。出御の時、女御の手車とりに還り入られんとありしに、道兼、「剣璽、すでに東宮〈一条也〉にわたりぬ。今は叶ひさぶらはじ」と申されたり。御落飾の時に「大臣〈兼家也〉に、かはらぬ姿、今一度見えて、帰り参るべし」とて、逐電ありしかば、「我をはかる也けり」とて、涕泣し給ふ。又云ふ、花山御出家の時、天下騒動す(=天皇行方不明として)。大入道殿〈兼家〉仰せに云ふ、「怪(け)しうはあらじ。よく求めよ」とて、さはがしめ給はず。

按ずるに、道兼の妹、一人(=超子)は、冷泉の女御にて、花山の弟の三条の母也。一人(=詮子)は、円融の后にて、一条の母也。されば、花山世を捨て給はゞ、我が女弟のうみし皇子、立ち給ふべし。さらば、帝の外舅となりなむとの事なるべし。『古事談』に、粟田殿、五ヶ月の内、五位の弁より正三位中納言に至るとある事、案ずべし。

 『江談』云ふ、惟成(=藤原氏)の弁、意に任せて叙位を行ふの下に、此帝即位の日、大極殿の高座の上に於て、馬内侍(うまのないし)を犯すの間、惟成、玉佩及び御冠の鈴の声に驚きて、叙位の申し文を持ち参る。帝、手を以て之を還すの間、意に任せて叙位を行ふと云々。惟成も、後に帝と共に出家す。又云ふ、帝、女房并びに下女等の袴を禁ず。

 又、一条の時、長徳二年正月、花山法皇、鷹司の四の君〈恒徳公為光の女〉按ずるに、四の君と云ふは弘徽殿の女弟。へゆきて帰るを、中の関白道隆の子伊周(これちか)〈内大臣〉、其弟中納言隆家と謀りて、これを射て腋に当つ。これは、伊周、四の君の姉三の君に通ぜしが、法皇かれに通ぜしやと疑ありしによりて也。法皇、恥じて言はざりしかど、事あらはれて、伊周、筑紫に流さる。

 これらの事によりて観れば、帝の不徳を知る。

 一条は、円融院の長子。母は梅壺の女御、即ち兼家の女なり。花山即位の日、東宮に立つ〈五歳〉。花山遜位の日、兼家、速やかに参内して東宮を位につかしめて〈七歳〉、みづから摂政となる〈此時に、頼忠関白を辞せしなるべし。関白十年なり〉。此時、冷泉を太上皇といひ、円融・花山、共に法皇といふ〈三上皇ある也〉。

 永延(えいえん)二年八月、兼家が二条京極の第、成る。源頼光、駒三十疋を献ず。永祚元年六月、前関白頼忠薨ず〈六十六歳〉。駿河公に封じ、廉義公と諡す。正暦(しやうりやく)元年正月、帝元服〈十一〉。五月、兼家病に因りて薙染して、東三条の大入道と号し、摂政を嫡子道隆(953-995)に譲る。兼家を以て准三后と為す〈摂政出家のはじめ〉。兼家摂政六年。七月二日薨ず〈六十二歳〉。病中出家の故に、諡無し。宅を棄て寺と為す。法興院と号す〈摂家院号のはじめ〉〈按ずるに、冷泉已後、天子、院号たり。今、兼家薨じて、院号を称す。尤も以て僭上(=僭越)といひつべし〉。十月、梅壺の皇太后、尼と為り東三条の院と号す〈皇后院号の始〉。

 五年、源満政・平惟時・源頼親・源頼信等をして、群盗を分かち捕へしむ。『古事談』に、頼信は町尻殿〈弟道兼(961-995)〉の家人也。常に其主の為に中関白〈兄道隆〉を殺さんと欲す。頼光(=源)、之を止めて曰く、殺し得か不定なり、一。殺し得と雖も、汝の主の関白為るは不定なり、二。関白為ると雖も、事露(あらはる)れば則ち汝の主に事ふるは不定なり、三、云々。

 長徳元年三月、道隆、病に因りて薙染(ていせん)し、奏請(そうせい)して其子伊周(これちか)を以て仮の関白と為して、既にして幾ばく無くして薨ず〈四十一歳〉。『正統記』には、道隆病ありて、其子内大臣伊周しばらく相かはりて内覧せられしが、相続して関白なるべしと存ぜられしに、道隆かくれてやがて弟右大臣道兼なられぬ。七日といひしに(=道兼)あへなくうせられにき。

 按、四月、右大臣道兼関白と為り、五月八日に薨ず。十一日、道兼が弟道長(966-1027)の左大将を関白とす。これ、女院(=道長の同母姉、詮子)の心なりといふ。『大鏡』に、道兼、花山をすかしおろせし功によりて、父の我に関白を譲らざるを恨み、居喪(きよさう)の時、悲の躰なかりしよし見ゆ。

 『正統記』に、道長、大納言にておはせしが、内覧の宣をかうぶりて左大臣迄いたられしかど、延喜・天暦の昔を思し召しけるにや、関白はやめられき。『正統記』によれば、一条の時に関白にはあらず。『続世継』(いやよつぎ)(=今鏡)等には、関白たりしと見ゆ。

 七月、道長右大臣為り〈これより道長、朝政を恣にす〉。二年正月、伊周流さる。これは、伊周は道隆の子にて嫡流なれども、道長に超えられしを恨み、且つは又、花山法皇を射たりし罪によりて、道長、姉の女院へ申してかく行ひし也。三年、伊周帰る。これは、伊周女弟(=定子)の皇后、皇子を誕む故也〈長子敦康親王うまれ給ひし也〉。八月、源満仲卒す〈八十一〉。長保元年、道長が女彰子入内、藤壺の女御といふ。そのゝち、中宮定子〈伊周女弟〉崩じ、彰子中宮と為る〈これを上東門院(じやうとうもんゐん)と申せしなり〉。寛弘五年、伊周を准大臣とし封戸(ふこ)を賜ふ。これを儀同三司(さんじ)(=大臣同等)といふ。八年六月十三日、帝(=一条)病あり。位を東宮居貞(おきさだ)に伝へ、廿二日崩ず〈三十二歳〉。在位廿五年。

 『続古事談』に、帝、寒夜に御衣を脱がせられしよし、上東門院の仰せありしよし、見ゆ。『古事談』に、源国盛、越前守に任ぜしとき、藤為時(=紫式部の父)、女房に就て上奏す。其辞にいはく「苦学の寒夜、紅涙袖を沾(うるほ)し、除目春朝、蒼天眼に在り(=選にもれた除目の春の朝、空の青さが目にしみる)」と、帝、之を覧じて、食せずして臥して涕泣す。道長之を聴きて、忽ち国盛を召して、辞表を上(たてまつ)らしめ、為時を以て越前守に任ず。国盛の家中涕泣す。国盛此より鬱々たり。秋に及び播磨守に任ぜられ遂に卒すと。

 『正統記』に、此御代には、さるべき上達部・諸道の家々・顕密の僧までも、すぐれたる人多かりき。されば、帝も、「われ、人を得たる事は延喜・天暦にまされり」と自嘆(=自賛)させ給ける。

 林氏(=林羅山の家)が説に、兼明親王(=源)の子源伊陟(これたか)、『菟裘賦(ときうのふ)』を献ず。序に曰く、「君昏(くらく)して臣諛(へつら)ふれば、愬(うつた)ふるに処無し」と。賦に云く、「扶桑(=太陽)豈に影(=光)無からんや。浮雲掩ひて乍(たちま)ち昏し。叢蘭豈に芳しからざらんや。秋風吹きて先づ(=蘭を)敗(やぶ)る」(=和漢朗詠集287)と。帝自ら之を書きて篋笥(けふし)(=箱)に蔵す。崩後、道長之を見て破り棄つ。『古事談』に、『帝範』の去讒篇の、「叢蘭茂らんと欲すれども、秋風之を敗り、王者明ならんと欲すれども、讒人之を蔽(かく)す」とあそばされしを、道長、「我事を思食(おぼしめし)て書かしめ給ひたり」とて、破りしと也。伊陟の此賦を献ずる事、『古事談』には村上の時としるせり。

 三条は、冷泉が第二子。母は兼家の女也。一条即位の日、東宮とす〈十一歳〉。寛弘八年六月受禅〈卅六〉。道長、執政たり。帝、目を患ひて伝位。在位五年〈四十一〉。寛仁元、五月崩。四十二歳。

 『古事談』に、道長請ふ事あり。聴されず、道長退出す。敦儀(あつよし)親王して召し返さる。親王、たちながら勅喚(=お呼び)のよしを称す。道長帰り奏して曰く、「此の如く生宮達、板敷の上に立ちて、執柄の人を召すや」と。経任卿の説に云く、「帰らずして親王を罵りて直ちに出づ」と云々。

 後一条(1008-1036)は一条が第二の子。母は道長の女也。三条即位の日、東宮とす〈四歳〉。『大鏡』(=原文は『水鏡』)云ふ、一条院御悩のおり仰せられけるは、すべからくは次第のまゝに、一の御子を春宮とすべけれど、後見すべき人なきにより思ひかけず。されば此宮をば立て奉るなりと〈一の御子とは敦康也。これは道隆の女、定子皇后の所生也。定子は伊周の女弟〉。長和五年正月受禅〈九歳〉。外祖道長、摂政す。此日、三条の長子敦明を東宮とす。此帝東宮の時、傅の大納言(=藤原道綱が納殿の)砂金を懐(ふところ)しゝ事、『続古事談』に見ゆ。

 寛仁元、三月、道長、摂政を嫡子の頼通に譲る〈廿六〉。『公卿補任(くぎやうぶにん)』には、道長内覧廿一年。『正統記』には、三条の御時にや関白、後一条の御代の始、摂政と見えたり。

 此年五月、三条上皇崩ず。八月、東宮敦明(=三条の子)東宮をのがる。皇弟敦良(=後朱雀)を東宮とす〈帝同母弟なり〉。敦明を小一条院と申す。此のゝちに、冷泉の統は絶えたり。三条の子八人あれど立てず、敦良をたちたり。按ずるに、道長が三条の子を立てざるは、彼帝、在位の時より、君臣の間隙あるが故なるべし。『大鏡』に、粟田殿、花山院をすかしおろし奉り、左衛門督、小一条すかしおろし奉り給へり。帝・東宮のあたり近づかでありぬべき御曹といふ事(=道兼の息子たちは出世しなかつた)、出来にしぞかしと云々。

按ずるに、左衛門督といふは粟田殿道兼の第二子兼隆也。此兼隆が長女、敦明の弟敦平の親王の室となす。かゝる故に敦明をすかしおろせしにや。林氏は、道長父子の謀にやといふ。

 二年正月、元服〈十一〉。三月、道長、女(=威子)を納れ女御と為す〈帝の姨(をば)(=母の妹)〉。三年三月、道長薙染す〈五十四〉。入道殿といふ。十二月、頼通摂政を辞し関白為り。四年、道長、法性寺を造る〈かるが故に御堂殿といふ〉。万寿元年三月、京師に強盗多し。四年、道長薨ず〈六十二〉。三代の間、権を恣にせしこと三十余年、一条・三条・後一条并びに東宮、共に皆その女壻也。長元元年六月、上総介平忠常反す。四年四月、甲斐守頼信之を平ぐ。九年四月に帝崩ず〈廿九〉。

 後朱雀は、一条が第三子にて、後一条の同母弟也。九歳にて東宮、廿八歳にて受禅。外舅頼通、関白たり。長暦三年三月、山門衆徒、頼通に書を呈し、「明尊は〈去年冬、座主〉智証の門流也。慈覚の派に非ずんば、座主に任ず可からず」といふ。頼通聴さず。山徒憤怒し頼通の門柱を伐る。使ひ平直方之を禦ぐ。死傷者多し。長久元年九月、神鏡やけたり。在位九年にして崩ず〈三十七〉。『正統記』に、天皇、賢明なれど、執柄(=摂政・関白)、権を恣にせし故、政迹聞えず、無念なる事にや、と見えたり。

 後冷泉は、後朱雀が第一子、母は道長が第四女。十三にて東宮、廿一歳にて寛徳二年正月受禅。外舅頼通関白為り。永承六年、安倍頼時反す(=前九年の役)。使ひ源頼義をして陸奥守兼鎮守将軍と為して之を伐たしむ。康平五年冬、之を討ち平ぐ〈凡そ十二年〉。在位廿二年にて崩ず〈卌四〉。

 忠仁公 良房 摂政五年〈清和の貞観元年至五年〉。

        中間十三年、摂政無し〈貞観五年より十八年に至る〉。

 昭宣公 基経 摂政四年〈陽成の元慶元年至四年〉、関白十一年〈元慶四年より光孝・宇多を経て寛平二年迄〉。

        中間十四年、摂関なし〈宇多の寛平三年ののち、延喜一代摂関なし〉。

 貞信公 忠平 摂政十一年〈朱雀の承平元年至天慶四年〉、関白九年〈天慶四年より至村上の天暦三年〉。

        中間十九年、摂関なし〈天暦三年ののち、おかれず〉。

 此後、連綿たり。

 小野宮 実頼 関白二年〈冷泉の康保四年至安和元年〉、摂政二年〈円融即位より天禄元年に至る〉。

 一条 伊尹 摂政三年〈天禄元年至三年〉。

 堀河 兼通 関白六年〈天禄三年至貞元二年〉。

 三条 頼忠 関白十年〈天元元年至花山の寛和二年〉。

 東三条・大入道 兼家 摂政六年〈一条即位より正暦元年迄〉。

 中関白 道隆 摂政三年〈正暦元年至三年〉関白三年〈正暦四年至長徳元年〉。

 町尻・粟田 道兼 関白二月〈一条長徳元年四月至五月〉。或は曰く、七日と。

 御室・入道 道長 内覧廿一年〈長徳二年より三条の長和五年迄〉。

 宇治 頼通 摂政四年〈後一条の寛仁元年至四年〉、関白卌九年〈寛仁元年より後朱雀を経て後冷泉の治暦四まで〉。

 凡そ、十二代百四十九年。実頼已後、九代百九年。

按、冷泉、狂疾ありて遜位。こゝにおいて同母弟円融、位を継ぐ。そのゝち冷泉・円融の子(=三条・一条)、かはるがはる帝位につきて、後一条の後は、円融の皇統のみ嗣位(しい)にて、冷泉の帝胤は絶えたり。又按、小野宮殿が嗣絶えし事、藤原忠文が冤鬼(ゑんき)(=怨念)によるよしをいひ伝ふれど、村上の詔を矯めて為平をすてゝ円融をもて冷泉の東宮とし、西宮殿(=源高明)を誣(し)ひて流刑して無辜のもの多く罪に処し、又、冷泉をおろして円融たてられしの類、姦邪の人といふべし。兼通の嗣なかりし事も、前中書王兼明(=源氏)の権をうばひ、且つは我弟兼家を誣ひて冷泉と円融兄弟の間をあしくし、三条を危ぶめむとせし類、これ又、姦邪の人也。道隆のよつぎ微(かすか)也しも、その子伊周・隆家が不忠の罪によれるなるべし。町尻殿(=道兼)の嗣なき事も、花山院をすかしおろして、その功に募(つの)りて父大入道殿に恨みをふくみ、居喪いさゝか悲傷の色なきの類、不忠不孝の人なり。天の報応(=応報)あやまらずといふべし。



四変

一、後三条院、摂家の権を抑へ給ひし事

 帝(=後三条)は、後朱雀第二の子。母は陽明門院とて三条の皇女也。『続世継』に、後朱雀、寛徳二年(1045)正月十六日、位を後冷泉に譲り給ふ時〈病によりて〉、大納言能信〈関白頼通の弟也〉、「二ノ宮尊仁(=後三条)をば僧になし給ふ歟」と申す。帝(=後冷泉)、「此次(=の帝)の東宮たるべし」と仰せらる。「しからば早く御定あるべし」と申すに、帝、「東宮の定は遅からざる(=急がない)よし関白頼通申せば、重ねて、其沙汰あるべし」と仰せけり。能信、「さらば今日の中に仰せ出だされ、しかるべし」と申せしによりて、即ち決定したり。『古事談』に、帝(=後朱雀)、新帝〈後冷泉〉并びに新東宮〈後三条〉の御事を宇治殿〈頼通〉に仰せ置かせらるるの処、春宮の御事仰せられし時は御返事申さしめ給はず、受けずの色あり。後冷泉には男なし。斎院にて尊子内親王と申せし一人ありき。

按、時に帝(=後三条)、十二歳にて東宮にたつ。能信を以て東宮大夫(だいぶ)と為す。同月十八日、後朱雀崩じ給へども、東宮既に定れば動きなし。按、帝、東宮にある事廿五年、静かに学び給ふ。大江匡房(おほえのまさふさ 1041-1111)御師範たり〈退居せしを召出されし也〉。『続古事談』に、「後三条はいかほどの学生(がくしやう)ぞ」と問ひしに、匡房、思ひまうけしやうに、「佐国(すけくに)(=有名な学者)ほどやおはし給はむ」といふを、長方卿(=藤原長方1139-91)は聞きて泣けり。

 『正統記』に、帝、坊の時より、頼通三代の執政にて五十余年、権を専らにせし事をあしざまに思し召すと聞えて、隙出来て危ぶみ思し召すほどの事あり。即位の日〈時に、帝三十五歳〉、頼通、関白を辞して宇治に退居。其弟教通〈二条〉関白たれど、事の外(=殊の外)に威権なし。帝、詩歌の御製も多く世に伝ふるあり。後冷泉の季(すゑ)に、世の中荒れて民間の愁ひありき。帝、四月即位ありしに、秋の納(おさ)めにも及ばぬに世の中直(なほ)りけり。始て記録所を置て国々の衰へを直されたり。延喜・天暦以来には、誠にかしこき御事也。此時より執柄の権抑へられて、君みづから政を知り給ふ事に帰る。記録所の事、猶後に詳(つまび)らか也。

 『古事談』、大嘗会の時の冕(べん)(=冠)は、応神の物也。後三条院の御頭にめでたく合せ給ひしを、御自讃と云々。『続古事談』、東宮御護刀(まもりがたな)壺切は、昭宣公(=藤原基経)の物也。延喜(=醍醐)儲君(ちよくん)(=皇太子)の時、奉らる。是より代々の東宮にわたる。此帝の時、後冷泉よりわたされず。後冷泉崩後もとめ出し、教通関白の時、献ず。「立坊廿余年さてやみき。今は止(とど)められずとも」と申せしに、「神璽・宝剣、え得まじかりしかど(=立派だが)、廿余年過ぎにき、何か苦しからん」とて、止め(=手元に)給ひき。其後程なく二条内裏の火に焼きて、刀ばかり残りたりしに、柄・鞘を造りて進ぜられたる也。又(=『古事談』)云、堀河左府〈頼通の弟、頼宗なり〉(=実際は、源俊房)、三木の時、前斎院(=娟子内親王、後三条の妹)をとりこめして、家に置く。後冷泉は宇治殿に憚給ひて問ひ給はざりしを、帝は東宮におはして事の外憤り給ひ、「あはれ、吾一人が妹にてもなきものを」と仰せらる。即位の後、追ひこめ(=蟄居)給ふ〈帯ぶ所は解かれず〉。延久の間、召使はれず。白河の御時、召し出されて、大納言ともなされし也。又(=『古事談』)云、後冷泉の季、過奢(くわしや)。上官(しやうくわん)(=政官)の車、外金物(とかなもの)(=金物飾り)を用ふ。此帝の代始の八幡行幸に、鳳輦を停めて見物の車の外金物をぬかせられたり。中の金物は、御覧ぜざりしかばぬかれず。故に今に用ふる也。賀茂行幸の日、外金物車一輛もなし。又云、此帝、犬をにくませ給ひ、「内裏のやせ犬を取りすてよ」と蔵人に仰せければ、犬をにくませ給ふとて、京より始めて諸国にて殺す。聞こし召し驚きければ、又殺さず。

 『続古事談』に、帝、東宮の時、天下の政をよくよく聞き置き給ひ、即位の後、さまざまの善政を行ひ給ふ。其中、諸国重任の功といふ事、ながく停止せられしに、興福寺の南円堂を作りしに、国の重任(ちようにん)(=寄進による再任)を関白教通枉げて申すこと度々に及び、帝怒りて、「摂政の重くおそろしき事は、帝の外祖のなどの事也。我は何と思はむ(=外祖のない自分は何とも思はない)」とて、揮鬚(きしゆ)して仰せければ、教通座をたちて出るとて、「藤氏の上達部皆罷(まか)りたて。春日大明神の御威(みいつ)は、今日うせ果てぬる」と、大音にいひければ、氏の公卿一人ものこらず退出す。帝これを聞こし召して、関白并びに藤氏の諸卿を召し返されて、南円堂の成功(じやうごう)(=寄進による任用)を許さる。

 『古事談』に、宇治殿平等院をたてられて、宇治辺り多く寺領に打入れらる。帝、「いかで恣にさる事あるや、検注すべし」とて官使をむけらる。頼通これを聞きて、平等院の門前の錦の平張り(=幕舎)打ちて、種々の儲(まう)けども用意して官使を待つ。官使恐れて参向せずしてやみぬ。

 『続古事談』・『続世継』に、帝、宸筆(=自筆)の宣旨を太神宮へ献られんとて、匡房御前にありしに読み聞かせ給ふ。其辞に、「我即位の後、一事として僻事(ひがごと)せず」といふ事を書き給へり。匡房、「此御辞、いかゞ侍るらん」と申しければ、事の外に怒り給ひ、「何事を思ひ出でてかくはいふぞ」と問ひ給ひけり。「実政に常陸の弁隆方を超えさせられし事は、いかに」と申しければ、さる事ありと、思食出でたる様にて、色直り給ひ、読みも果てず宣命を持ちて内に入り給ひき。此事ははじめ、帝、東宮の時、春日の使ひに東宮学士実政が向ひしに、隆方は弁にて下る。和泉木津にて、実政まづ儲けて(=用意して)渡らんとせし船を(=隆方が)おし妨げて、「待ち幸ひする者、何に急ぐぞ(=昇進をただ待つだけでゐる者が何を急ぐか)」などいふ〈実政、東宮の学士にて老者(=老人)たれば也〉。実政、泣く泣く此事を訴へ申すを、やすからず思し召しけり。〈『古事談』に、実政、学士より甲斐国守に拝し赴任の時、東宮御餞別に、州民縦ひ甘棠の詠を為す(=民衆に慕われる)とも、忘る莫かれ多年風月の遊(=自分と遊んだ事)を〉御製、忘れずば同じ空とは月を見よ、程は雲ゐにめぐりあふ迄。実政、白河の承暦四年、三木左大弁従三位。応徳二年、前三木三位にて太宰大弐となり、堀河の寛治二年、八幡宮の訴へに依り、豆州に流さる。七年薨ず。七十五歳。其後、即位ののち、実政、左中弁を望み申しけるに〈文章博士兼播磨守〉、「露ばかりも理(ことわり)なきことをばすまじきに、いかでかゝる事をば申すぞ、正左中弁に始めてならむ事、あるまじき」よし仰せけり〈『職原抄』に、名家・譜代の之に任ずるは、多くは先づ五位の蔵人に補し、乃ち弁に任ずる也。蔵人の之を帯するは、頗る清撰也。近衛の中少将(=武官)の中、才名有るの人、弁官(=文官)に遷任し、或は之を兼ず、又規模(=手本)為り。又中少弁の間、権官一人必ず之に任ず、仍りて之を七弁と謂ふ〉。資仲(藤原氏1018-1087)の中納言、其時蔵人頭也しが、かさねて「実政申す事侍り。木津の渡しの事を一日にて思ひしり侍らむ」と奏しければ、帝、沈思の躰にて「此理、天照大神に申し請けむ」とて左中弁に加へられたる也。つぎのあしたの陪膳は、隆方が番せしを、それに向ひて「え物くはじ」と仰せられて、内にて供御(くご)(=食事)はまいりけり。隆方、終に弁を辞してこもれり。

 宇治大納言源隆国は、先朝の寵臣にて、東宮(=後三条)には無礼の事どもあり。即位後、彼の子息等に事の次(つい)で罪科(=しおき)あるべしと思し召す時に、権中納言隆俊の殿上伺候の躰を窺ひ見給ふに、威儀・容貌・政事、并びに当時無双也。もし彼なからんには、朝(てう)のため然る可からずと。二男宰相の中将隆綱を見給ふに、斎宮寮(=斎宮に関する役所)の申せし(=告発した)「狐を射殺の罪(=殺生禁断)」ありやなしやとの陣の定めに、帥(そちの)大納言経信、「白竜(はくりよう)魚服、予且(よしよ)の密網に懸かる(=高貴の者が卑しい者によつて災難に遭ふこと)」とばかり打言ひてゐられたり。又ある人、「射たりといふとも、其狐正しく死したるを見ずば、科重からず」と申す。其日の定め文は隆綱執筆(しゆひつ)にて、「飲羽(=矢が突き刺さつてゐること)の名有りと雖も、未だ首丘の実を見ず(=狐は死ぬと丘に首をむけるといふ故事から)」と記しけるを御覧じて、「隆綱が宰相の中将を過分に(=身分に不相応だと)思ひしは、ゆゝしき僻事也けり。天照大神・正八幡宮いかゞ思食けむ」と仰せられて、近侍をゆるされ、今はとて三男四位の少将俊明を罰せられんと思し召しの時、忽に内裏焼亡す。帝、腰輿に駕して出でんとし給ふに、雑人(ざふにん)(=庶民)南庭に入りて其隙なく、安座し給ふ事なくてたゝせ給ふに、俊明頗る遅参して其御有様を見奉り、みづから弓を執りて走り廻り、雑人を撃ち退けしかば、安座し給ふ。其時の仰せに、「今日、俊明が力によりて恥を見ず。是れ運未だ尽きざるが故也」とて、三人皆近臣として肩を比する人なし。

 『続世継』に、此時、帝、南殿(なでん)(=紫宸殿)に出給ひしに、誰も参らず。見知り給はぬ者、すくやかに走り廻りて、神鏡出し、右近の陣に御輿尋ね出して、階(はし)に寄せて乗せ奉りければ、「おのれは誰」とありしに、「左少弁正家」と申す。「弁官ならば近く侍へ」とあり。正家・匡房一双の博士なるに、匡房は朝夕に参り、正家は御覧じも知られざるに、官を具して名対面(=官名をつけて名乗る)申せし、折に就けて、いと才(かど)ある心也。

 大極殿、前朝にやけて十年を経しに、即位後つくり始給ひ、延久三年八月落成。四年十二月譲位〈在位四年〉。白河の延久五年五月崩〈四十一歳〉。

 『古事談』、頼通、時に出家して宇治にあり。帝の崩を聞きて、食をとゞめ箸をたてゝ嘆息し、「末代の賢主也。本朝、運つたなくて、早く以て崩御也」といふ。帝剛明の才有れども、天智に及ばず。

 ある人、夢に異国のそこなはれしを直さむとて、此国をば去り給ふと見しと也。

 白河、位をつぎて親政し給ひし事は、下に詳なれば、こゝに記さず。




五変

一、上皇御政務の事

 白河(1053-1129)は、後三条が第一子。母は中納言藤公成の女を大納言能信養ひて、後三条東宮の時に御息所に参らせし也。白河十七にして東宮にたち、廿歳にて受禅。廿一歳より政をみづからし給ふ。関白は教通たり。承保元年二月、前関白頼道薨ず〈八十三〉。二年九月、関白教通薨ぜしかば〈八十歳〉、十月、左大臣師実を関白とす。

 『続世継』に、此帝、人の司(つかさ)などなさせ(=役人の採用)給ふこと、たやすくし給はず。六条の修理大夫顕季、世(=帝)の覚えあれども、宰相にはならず。御気色(=ご機嫌)とりしに、「それも物書く上の事也」と仰せらる。『正統記』に、顕季は院の御乳母の夫也又顕隆の中納言、夜の関白などいひしも、弁(=太政官)になさむと思ふに、「詩(=漢詩)つくらではいかゞならむ。四韻の詩作る者こそ、弁にはなれ」と仰せければ、驚きて好みき。『古事談』に、太政大臣藤伊通、二条院にまいらせられし草紙に、詩を作らざる人の卿相に至る事は、源顕雅(1074-1136)に始り、消息を書かざる人の卿相に至る事は、藤俊忠に始るとしるされたり。按ずるに、二人が事堀河院の御時の事也。

 『古事談』に、帝曰く、「我は是文王也。必ずしも稽古大才を以ては文王と謂はず。我、匡房を抽賞(=誉める)せんは文道を尊ぶに非ざらん乎。文道を尊べば則ち文王と謂ふ也」

 此時、人才おほく出たり。歌には藤通俊・顕季・源俊頼、詩には藤実政・敦光、詩歌には匡房、詩歌管弦には源経信等あり。『後拾遺』・『金葉集』も此時撰ばれ、『続本朝秀句』も撰ばせらる。

 『続世継』に、御弓なども上手にておはしましけるにや、池の鳥射たりしかば、故院(=後三条)のむづからせ給ひしなど仰せられける。又、此帝は、御心ばへたけくもやさしくもおはしましけるさまは、後三条に似奉らせ給へり。

 かくて在位十四年にて、堀河に位を伝へ給ひ、院中にて政をしろしめさる〈卅四にて伝位。政務五十六年にて、七十七の時、崩〉『保元物語』に、白河院重祚の心ざしましまして出家ありしかど、法名をばつかせ給はず。天武の例を思し召しけるにや、重祚の御志ふかゝりける。

 『正統記』に、孝謙(女帝在位749-758)脱屣(だつと)(=退位)の後、廃帝(=淳仁天皇)は位に居給ふばかり(=院政に似ている)と見えたれど確かならず。嵯峨・清和・宇多も、たゞ譲りて退かせ給ふ。円融の御時はやうやうしらせ(=院政し)給ことも有りしにや、院の御前にて、摂政兼家承りて源時仲を三木になされしを、小野の宮実資の大臣は傾(かたぶき)(=非難)申されし。されば上皇ましませど、主上幼き時は偏(ひとへ)に執柄の政也き。後三条践祚の時、頼道即ち関白をやめて宇治にこもり、弟教通関白たりしかど、その権もなし。ましてこの御代(=堀河)には院(=白河)にて政を聞かせ給へば、執柄は只職に具(そな)はりたるばかり也。されど是より又(=天皇中心の)古き姿は、一変するにや。『保元物語』に、新帝に譲りてのち、又重祚の望あり。それ叶はねば院中にての政務ある事、すべて道理にもそむき、王者の法にも違へり。執柄世を行はれしかど、宣旨・官符(=天皇の)にてこそ天上の事は施行せられしに、此御時より院宣・庁の下文を重くせられしによりて、在位の君、又位に具はり給へるばかり也。世の末になれる姿なるべきにや。

 又城南(せいなん)鳥羽に離宮をたて、土木の功大に起る。昔はおり位の君は、朱雀院にまします。これを後院(ごゐん)とも冷然院(れいぜんゐん)ともいふ。此帝はかの所々にはまさで、白河より後には鳥羽殿を以て御座の本所と定められたり。院中の礼も是より始れる也。

 『続世継』に、後二条大臣〈師通なり〉こそ、「おりゐの帝の門に車たつるやうやはある」とのたまひし。それ(=師通)かくれ給ひて後は、すこしも息おとたつる(=院政に反対する)人やは侍りし。

 『正統記』に、此帝(=白河)、白河に法勝寺をたて、九重塔など昔の御願寺(=天皇の願で建てた寺)に越え〈永保三年〉、此後、代々に打つゞき御願寺建てられ、造寺熾盛(しじやう)の謗(そし)りあり。造作のため諸国重任などいふ事多くなり、受領の功課も正しからず。封戸・庄園多く寄せられて、誠に国の費となる〈『続世継』を按ずるに、後三条は、五壇の御修法(みずほふ)にも、「国やそこなはれぬらん」と仰られ、円宗寺をもこちたく作りたまはず〉。

 法勝寺をたてられし年の二月、仁和寺御室性信を二品に叙す。皇子の僧となり位を賜ふこと、これにはじまる〈性信、もとは師明といふ。三条の四子、大御室といふ、これ也〉

按ずるに、帝(=白河)、八男あり。六人は僧となす。その中、第三子覚行法親王と申せしは、法親王の始也。『続世継』に、後二条大臣師通、出家のゝち例なきよしを申されしに、「内親王といふ事もあれば、法親王もなどかなからむ」とて、法親王になされし也。又、皇子の僧となされし事、此比(このころ)より打続かせ給へり。

 又、金泥一切経を写さる。此事の始也。又、殺生を禁じ、猟具など持ちしものも罪せらる。殿上の台盤(=料理)も六斎日(=精進料理)に変はる事なし。

 『古事談』に、加藤大夫成家、厳制に拘はらず、鷹を仕るよし聞えて、使庁(=検非違使庁)に仰せてめす。早速参洛、門前にみづから鷹をすゑ、下人二人も同じ。「制禁数年に及ぶに、いかゞ存じて猶鷹を仕る。すでに朝敵にあらずや」と也。申していはく、「宿(=自宅)にも今一二鷹候。下人候はで相具せず。某(それがし)は、刑部卿殿(=平忠盛)相伝(=代々の)の家人也。女御所(=白河の女御)、供御料に毎日に鮮鳥をあてられ、闕怠あらば、重科に処す可きと也。源氏・平氏の習、重科とは刎首(はねくび)に候也。猟の道には、獲る日も獲らぬ日もあり、必定首を刎ねらるべし。勅勘はたとへ禁獄・流罪たりとも死には及ぶまじと存じ、命惜しさに此の如く候」と申す。「さるしれものをば追放す可し」と仰せ出ださる。

 堀河院は白河が第二子〈第一敦文早世、三井頼豪が事也〉。母は、右大臣源顕房の女を関白師実の子としてまいらせし也。八歳にて受禅〈此日まづ立太子、応徳三年十一月也〉。師実、摂政す。寛治四年に関白。嘉保元年、其子師通関白〈後二条殿と申せし〉。在位廿一年、廿九歳にて崩ず。嘉承二年七月崩。

 『続古事談』に、堀河院は末代の賢王也。天下の雑務を殊に御心に入れ給ひ、職事(=蔵人)の奏せし申し文を御夜居(おんとのゐ)に又細かに御覧じて、所々にはさみ紙して、「此事尋ぬべし」「此事重ねて問ふべし」など手づから書きて、次の日、職事に給はる。一通にこまかに聞こし召す事だにありがたきに、重ねて御覧じてさまでの御沙汰、いと止事(やんごと)なき事也。すべて人の公事勤むる程などをも御心に御覧じ定めけるにや。追儺(=大晦日)の出仕に故障申したる公卿、元三(=三が日)の小朝拝(こでうはい)に参りたるを、悉く追ひ入れ(=閉門)られ、「去る夜迄所労あらむ者の、いかで一夜のうちに直るべき。偽れる事也」と仰せけり。白河院は聞こし召して、「きくともきかじ(=聞かなかつたことにする)」と仰せられけり。あまりの事也と思食けるにや。又ある時の逍遥に、序書くべき人なし。大業(=大学寮出の)の蔵人国資無才のものにて、人許さず。五位蔵人時範『職事補任』を按ずるに、勘解由次官の平時範歟。寛治四年五月六日補、承徳二年七月九日任因幡守。書きけり。其日、帝人々に連句(=漢詩の連句)させ給ひしに、国資に、「末句いへ」と仰せければ、「今日、私の衰日(=凶日)也。憚あり」と申す。殿上の暦をめして御覧ずるに、巳の日也。「巳の日の衰日、いまだなき事也。いかで君を欺く。連句いはぬ程の者、いかで博士(=学士)になるべき」と仰せられけり。昔も無才の博士はあるもの也けり〈按ずるに、卿相の詩作らぬ始、消息書かぬ始も、此朝の人也。又無才の博士あり。すべて本朝の文運、此時より衰たり〉

 又云ふ、ある人、柑子の木を献ぜたるを、御庭に植えられて愛し給ひければ、蔵人の滝口(=武士)集て、木を枯らさじとて家をつくり覆へり。坊城左大弁為隆これを見て、「あれは、何事ぞ。さる事やあるべき」とて、御倉の小舎人(こどねり)(=雑用係)を召して散々にこぼたせしかば、木ほどなく枯れたり。いかほども仰せられず。〈此為隆、白河院に事を奏しける時に、題目、事の外重なりて、うるさげに思し召したるを、此次でに申し文あるかぎり奏し果てむと思ひ、しらず顔にて申す。申し文五六通になりて、院立ち給ふを見ぬ顔にて、「祭主大中臣某謹んで天裁を申し請ふ事」と読みければ、「太神宮の訴かな」とて還坐し給ふ。それを力にのこらず奏せしと也〉

 帝、歌を好み給ふ事ふかくて、世に聞えし人に源俊頼・藤基俊・周防内侍・伊勢大輔などいふものあり。堀河百首、又堀河院艶書合(えんしよあはせ)などいふもの、此時の事也。帝、又笛を吹かせ給ひ、郢曲(=俗謡)に長じ給ふ〈田楽の張行(ちやうぎやう)(=興業)、此時の事也〉。

按ずるに、此時に至りて、文学(=漢詩文)漸く衰へたり。大江匡房中納言になされ、太宰帥に任ぜしも此御時なれど、これは白河法皇の御心なるべし。奥三年の戦(=後三年の役)・源義親の事あり

 鳥羽は、堀河が第一の子。母は閑院大納言実季の女也。『続古事談』に、堀河院、皇子遅く出来給ひしかば(=なかなかできない)、白河(=上皇)嘆き給ひて、鳥羽の御母后は入内也。懐妊ののち、彼(=彼女の)母の坊門尼、上賀茂に籠りて男子を祈り給ひし時の夢に、明神、衣(きぬ)の袖に居給ひてもののたまひ、「男子を生べし。その巻たる物をとれ」とありしを見て、驚きて巻をさぐられしに、作りたる竜あり。それをとりて、つたはりて鳥羽院に献(たてまつ)れけり。かの衣は御正躰(みしやうたい)(=ご神体)とて、四条坊門の別宮をば、かの尼上作れり。又女一人参て、女房に申していはく、「はらみ給ふは王子也。めでたくおはしますべし。右の御尻にあざおはしますべし」といふ。実季、出で会はむとせしに、彼女はうせたり。むまれ給ひしに、まことに右の御尻に痣おはしましけり。

 帝(=鳥羽)、生れて八月にて立太子、五歳にて即位、右大臣藤忠実、摂政。十一歳にて元服〈永久元年(1113)正月〉、忠実関白。保安二年(1121)二月忠実関白を辞す〈卌四〉。三月、忠通関白〈廿五、富家(ふけ)殿〉。在位十六年にて譲位〈廿一歳。政事は白河の上皇より出づ。白河崩後、此帝の(=上皇として)政務廿四年。五十四歳にて崩ず〉。白河をば本院といひ、鳥羽をば新院といふ。白河の花宴〈保安三年二月の閏〉・鳥羽の御賀〈仁平二年三月七日、五十賀〉などいふ、此時の事也。

 『正統記』に、此帝の時に装束こはく(=硬く)なり、烏帽子の額(ひたひ)などいふ事も出来ぬ。花園の有仁大臣と仰せ合(=申し合は)されし。『続世継』、花園の大臣の伝に〈白河の第三宮輔仁(すけひと)親王の一男、源姓を給ふ。白河の御養子たり〉、此大将殿は事の外に衣紋(=着物の着方)を好み給ひて、袍の長短など細かに調(ととの)へて、其道にすぐれ給へり。昔は、奴袴(ぬばかま)の中を踏みて、えぼうしもこはく塗る事なかりき。此比より、さびえぼうし・きらめきえぼうしなど、折々かはりて侍る。白河院は、御装束に参る人ひきつくろひ(=細かく)申せば、さいなみ給ひき。鳥羽院・此大臣、細かに沙汰し給ひ、肩当・腰当(=裏布)・えぼうしとゞめ・冠とゞめ(=針)せぬ人なし。冠・烏帽子のしり(=先)、雲をうがちたれば(=高い)、さらずば落ちぬべし。衣紋の雑色(ざふしき)といひて、蔵人になりしも、此御家の人也〈院中にて政きゝ給ひし事は、代を逐ひて下にしるす〉。

 『正統記』に、鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属する事をとゞむべしといふ制符(=禁令)、たびたびありき。源平、久しく武を取りて仕へしかども、事ある時は、宣旨を給りて諸国の兵を召し具しけるに、近代となりて、頓(やが)て肩をいるゝ(=私的に家来になる)族(やから)多くなりしによりて、此制符は下されき。果して、今迄の乱世の基(もとゐ)なれば、云ふかひなき事に成にけり。

 又、白河・鳥羽の御代の比より、政道の古きすがたやうやう衰ふ〈審らかには武家の下にあらはすべし〉。

 崇徳院は鳥羽が第一の子。母は待賢門院也〈大納言公実(きんざね)の女を白河養ひて入内〉。保安四年正月受禅〈五歳〉。関白忠通摂政たり。此時、曾祖白河を本院といひ、鳥羽をば新院といひき。大治三年、待賢門院の御願とて、円勝寺をたつ。四年(1129)七月、白河法皇崩〈七十七歳〉。此後は、鳥羽上皇政を聴き給ふ〈廿七歳〉。白河世にませし時は、待賢門院寵(=鳥羽の)ありて、男女の子あまたうむ〈男五人・女一人〉。白河崩後、鳥羽憚る所なく、前関白忠実女入内して高陽院(かやのゐん)といふ〈子はなし〉。三木藤の長実の女を召して女御とす。美福門院といふ。一時、女院三人ある中にも、美福門院専寵して、鳥羽の政怠る。

 天承元年(1131)十二月、故(=元)関白忠実、上皇(=鳥羽)に謁す。これは白河と隙ありしにや、退居十二年にて始めて出仕す。すでに致仕したれど、此後、政にあづかり。嫡子関白忠通と不和にて、二子頼長を愛する事甚だし〈時に頼長十二歳。これ保元の乱の本(もと)〉。長承元年正月、忠実内覧の宣。三月、鳥羽上皇、得長寿院を作り三十三間堂をたつ。平忠盛奉行、但馬国を給りて昇殿をゆるさる〈此人、白河の時も寵臣たりき〉。五年五月、近衛生まる〈美福門院生める所也〉。当今(たうぎん)崇徳の養子となし、八月立太子〈中間わづかに二月歟。これ保元の乱の本〉。六年二月、忠実、輦車を聴さる、六月、三后に准じ随身兵仗を賜る、十月、薙染〈六十二歳〉。

 永治元年(1141)、鳥羽上皇薙染〈三十九歳〉。『続世継』に、御年四十だにみたせ給はねども、年比の御本意も、又つゝしみの年にて、年比は御随身なども止め給ひて供せさせ給はねども、宝荘厳院つくらせ給ひて供養し給ふに、兵仗かへし給らせ給ふも、めづらしく太上天皇の御ふるまひ也。打つゞき八幡・賀茂など御幸ありて、三月十日ぞ、鳥羽殿にて御ぐしおろさせ給ふ。五十日御仏事とてせさせ給ふほど、大路にありく犬や、木積みてありく車の牛など迄、養はせ給ひ、御堂の池共の魚(いを)にも、庭の雀・鴉(からす)など飼はせ給ふ。山々寺々の僧に湯浴(ゆあむ)し(=風呂に入れる功徳)、御布施などはいひしらず(=すばらしい)、たゞの節(ふし)(=機会)も、かやうの御功徳は常の御いとなみ也。人の奉る物、多くは僧の布施になむ成りける。おはしますあたり、あまたの御所(ごしよ)共には、いひしらぬ綾錦・唐綾・唐絹、様々の宝物、所もなき迄ぞ置満てれけるを、御布施にせさせ給へば、来む世の御功徳いかばかりか侍らん。

 (=それに比べて)白河院はおはします所きらきらしく掃きのごひて、只うちの見参(=伺候した人の名簿)とて、紙屋紙(=綸旨を書く紙)に書きたる文の、毎日に参らするばかりを、御厨子に取り置せ給ひて、さらぬ(=その他の)物は御あたりに見ゆる物なかりけり。まして裁ち縫はぬ物などは御前に取出さるゝ事なくて、かたしはぶき(=咳払いで呼ぶ)せさせ給ひて、只一所(=只一人)おはしまして、近習(=側近)の上下(=上臈下臈)を取りどり召しつかひおはしましける。

 其年十二月七日受禅(=近衛天皇)〈廿三歳〉(=崇徳天皇)。

 『続世継』に、帝(=崇徳)、ふるき事ども起さむの御志はおはしましながら、世を心にもえ任せ給はで院の御まゝなれば、安き事もかなはせ給はずおはしましける。東宮〈近衛〉に位譲らせ給ふ。其日辰時より、上達部、様々のつかさつかさ参り集るに、帝より鳥羽上皇に度々御使ありて、蔵人の中務少輔師能かはるがはる参り、又六位蔵人御書捧げつゝ参るほどに、日暮かたにぞ、神璽・宝剣など東宮の御所へ、上達部引きつゞきて渡り給ひける〈此帝、後に讃岐へわたり崩じ給ふ事、下に見ゆ〉。『保元物語』に、先帝ことなる御恙もわたり給はぬに(=病気でもないのに)、押し降ろし給ひしこそ、浅ましけれ。

 『古事談』に、待賢門院は、白河院の御猶子の義にて入内(=鳥羽帝に)也。その間、法皇(=白河)密通し給ふ。人皆これをしる歟、崇徳院は白河の御胤と云々。鳥羽院も、其由を知食(しろしめし)て、叔父子(をぢご)とぞ申さしめ給ふ。これによりて、大略不快(=不仲)にてやましめ給ふ。鳥羽院、最後にも惟方〈時に廷尉佐(ていゐのすけ)〉をめして、「汝ばかりぞと思ひて仰せらるゝ也。閉眼ののち、御遺言の旨候とてかけ廻り、入れ奉らざれ(=崇徳を)」とのたまふ。

 近衛院は、鳥羽が第八子、三歳にて即位。関白忠通摂政す。此時、鳥羽を一の院と申し、崇徳を新院といふ。天養二年(1145)八月、待賢門院崩。久安六年(1150)正月、元服〈十二〉。此月、左大臣頼長の女入内〈皇后、実は徳大寺中納言藤公能の女〉、六月摂政忠通の女入内〈中宮〉。帝、中宮には親しく皇后には疎かりしかば、忠通・頼長兄弟の間、弥(いよいよ)不和。九月、忠通氏長者、十二月関白。仁平元年正月、頼長随身兵仗、氏長者、内覧の宣下。これ父忠実申し行ふ所也〈摂関ならず長者并びに内覧の宣、これを始とす〉。久寿二年(1155)七月廿三日崩〈十七〉。在位十四年。

 後白河は、鳥羽が第四子。崇徳同母弟也。廿九歳即位。忠通関白たり。『古事談』に、八条院〈近衛同母女弟、暲子内親王〉をや女帝にすゑ奉る。又、二条院の今宮〈後白河〉の小宮とて坐(おはしまし)けるをや即(つ)け奉るべきなど沙汰ありけるに、法性寺殿〈忠通〉、「今宮の、后腹(=待賢門院の子)に御座するをおきて、いかで異議あるべき」と議し給ひしかば、受禅。

 『保元物語』に、新院此時を得て、「我身こそ位にかへりつかずとも、重仁親王は、一定、今度はつかせ給はむ」と待うけさせおはし、天下の諸人も皆かく存ぜし処に、思ひの外に美福門院の御計らひにて、後白河院、其時はおしこめられて(=四宮として)おはせしを、御位につけ奉り給ひしかば、高きも賤しきも、思ひの外の事におもひけり。此四宮も新院と御一腹にて、女院の御ためには共に御継子(まゝこ)なれども、重仁の位につかせ給はんことを、猶猜(そね)み給ひて、後白河をもてなし参らせ給ひて、法皇にも内々申させ給し也。其故は、近衛の世を早くし給ふ事、新院呪咀し給ふとなむ思し召しけり。これに依りて、新院の御恨み一しほまさらせ給ふもことわり也。

 此時、四宮雅仁(=後白河)をたてゝ、其子守仁〈二条の院〉(=二条天皇)を東宮とし、暲子内親王を東宮の養母として八条女院と尊号し〈皇后ならで院号の始〉、暲子同母の女弟高松院を東宮の御休所と定めらる〈これは東宮の姨(おば)〉

 『保元物語』に、後白河即位ののち、忠通、「世、淳素(=正常)にかへるべくば、関白(=自分)の辞表おさまるか、又内覧・氏長者、関白(=自分)に付けらるか、両様共に天裁にあり」と、頻りに申させ給ひけり〈按ずるに、頼長、内覧をとゞめらる。氏長者はもとのごとし〉。されば頼長、新院の一の宮重仁親王を位につけ奉りて、天下の事を執行せばやと思ひ、常に新院に参りて、宿直(とのゐ)ありけり。保元元年七月二日鳥羽崩じてのち、ある夜、新院、「昔を以て今を思ふに、天智(=三十八代)は、舒明(=三十四代)の太子也。孝徳(=三十六代)の子多かりしかど、位につき給ひ、仁明(=五十四代)は、嵯峨(=五十二代)第二子たれど、淳和(=五十三代)の子をさしおきて祚をふむ。花山(=六十五代)は一条(=六十六代)に先立ち、三条(=六十七代)は後朱雀(=六十九代)にすゝむ(=上皇の子が先に帝位についた例)。我、先帝の太子に生れ、帝位を辱くす。上皇の尊号につらなるべくば、重仁こそ位につくべきに、文にもあらず武にもあらぬ(=凡庸な)四宮に超られて、父子共に愁ひにしづむ。しかれ共、鳥羽おはしますほどは、力なく二年をすごしぬ。今は、我天下を奪はむこと、なにの憚かあるべき」と仰せければ、頼長、「しかるべし」と勧め申す。

 内裏(=後白河)にも此由聞えて、兵をめす。源義朝・義康等の源氏等召しに応ず。鳥羽も、此みだれあるべしと思食されしにや、美福門院へ遺誡ありて、内裏にめさるべき武士の名を記しおかる。重仁親王は故刑部卿忠盛(=平氏)(1096-1153)が養君(やしなひぎみ)にて、清盛は其乳母子たりしかば御遺誡にはもれしを、美福門院の謀にて、「故院の御遺誡に任せて参るべし」と仰せ下されしによりて、清盛も子弟引き具して参りたり。清盛、其時安芸守、卅八歳。恐らくは是、信西、密謀を献ずる也

 新院は鳥羽の田中殿より白河の前斎院の御所へ御幸ありて、義朝の父為義をめさる。為義、その子四郎左衛門尉頼賢・掃部助頼仲・賀茂六郎為宗・七郎為成・鎮西八郎為朝・九郎為仲等六人を具して参る。清盛が叔父平右馬助忠正父子も参れり。頼長も宇治より白河殿に参らる。凡そ兵一千余騎。これよりさき、内裏には関白忠通参内して、頼長を流刑に申し行ふ。これ、反謀(=謀反)発覚の事あれば也。馳せあつまれる兵一千七百余騎。新院、斎院御所より北殿へうつり給ふ。軍議の時、為朝「内裏をやくべし」と奏す。頼長聴さず。

 内裏は高松殿にて、分内(=敷地)狭しとて俄に東三条殿へ遷幸、そののち義朝をめして軍議あり。義朝奏していはく、「清盛等をとゞめて内裏を護り、みづから兵をひきゐて夜討にすべし」と申す〈これ南都の衆徒一千余、明朝、新院へ参ると聞えければ也〉。少納言入道(=信西)奏す、「臣が家の事(=文事)、猶くらし。況や、武事をや。一向、義朝がはからひたるべし。さきんずる時は人を制す。後にする時は人に制せらるゝといへば、今夜の発向、尤も也。清盛をとゞめまもらん事もしかるべからず。武士皆罷り向ふべし。早く凶徒を討じて逆鱗(=帝の怒り)をやすめば、まづ日比(ひごろ)申す(=義朝が希望する)所の昇殿において疑ふべからず」といふ。信西の義、頼長と大いにことなり。義朝、「戦の場に臨んで、なんぞ余命を存ぜむ。只今、昇殿して死後の思ひ出に仕るべし」とて、押して階上にのぼりしを、信西「こはいかに」と制せしを、帝、御入興(=面白がる)ありき。信西、清盛の地を為す(=立場を代弁)。

 白河殿より武者所親久して内裏をうかゞはしめて、敵来たると聞えしかば、為朝、其謀行はれざる事を憤りければ、蔵人になさる。猶怒りて拝さず。十一日、寅時(=午前四時)ばかり軍(いくさ)始り、夜明て義朝奏して、火を放たむ事を奏す。信西承りてゆるさる。やがて火をはなつ。辰時(=午前八時)、新院・頼長出奔、北白河にて頼長流れ矢に中(あた)る。新院、為義を召し具し、如意山に入りて武士等を散じ給ふ。為義・忠正、三井寺のかたにゆく。新院は知足院の傍らの僧坊に入りて薙染。忠実は、新院の軍利なしと聞きて、橋を引き〈宇治〉、南都へ出奔。頼長も南都に赴き、舌を喰ひ切つて死す。新院、そのゝち御室へ入り給ひしを、とり奉る。

 十一日夜に入りて、忠通、関白もとのごとく、氏長者たり。子時(=午前零時)ばかりに勧賞あり。安芸守清盛は播磨守、下野守義朝は左馬権頭。義朝、「むかし左馬助たり。今、権頭たらむこと面目にあらず」といひしかば、頭になさる。重仁は出家。清盛して為義をもとむ。為義東国に赴きしが、忽に病みて父子相失(=別れて一人で)して義朝がもとに来る。忠政も清盛がかたに来たれるを、奏して父子五人を誅す〈これ日比、叔(=忠正)姪(=清盛)不快の上、為義きらせむ謀也といふ〉。「為義をもきるべし」と勅ありしを、義朝ふたゝび迄訴へしかど、「清盛すでに叔父をきる、姪猶ほ子のごとしといへり。豈に、父に異ならんや」と怒らせ給へば、鎌田次郎政清してきらせたり。義朝が弟九人皆きらる。為朝一人のがれたり。近江和田にかくれゐしを、九月二日にいけどり〈湯屋におりし所歟〉、違期(=時効)かつは勇士たる故に流刑。〈九月〉知足院入道相国忠実も、頼長同意(=共謀)のよしにて流罪の沙汰ありしに、忠通訴へしかばその事なく、父子はじめて和睦せり。八月、頼長の三子、皆流さる。為長、雲州。師長、土州。教長、常州。

 廿三日、院は讃州へ流さる〈八年ののち、長寛二年八月六日に崩。四十六歳〉。此日、清盛・義朝合戦すとて、白赤の旗さして武士洛中を東西す。勅使をもて両方へ御たづねありしに、あとかたもなき事の由を奏す。

 『保元物語』に、すべて今度の合戦は前代未聞と申にや。主上・上皇御連枝(=兄弟)也。関白(=忠通)・左府(=頼長)も御兄弟、武士の大将為義・義朝父子也。此兵乱の源も、たゞ故院、后の御勧めによりて不儀の御受禅どもありし故也。

 七月十九日、源平七十余人誅せられき。中の院左大臣雅貞(=源氏)・大宮大納言伊通等議し申しけるは、嵯峨の御時、左兵衛督仲成(=藤原薬子の乱)誅せられしより以来、死罪とゞめらるゝによりて、一条の御時、内大臣伊周・中納言隆家の、花山院を射たりし罪、既に斬刑にあたるよし法家の輩(ともがら)申しけれども、遠流に宥めらる。今あらためて死刑を行はるべきにあらず。就中、故院御中陰也。かたがたなだめるべきよしを申さる。信西、内々申しけるは、「此議然る可からず。多くの凶徒を国々にわかちつかはされんは、定めて、兵乱の基たるべし。非常の理は人主専に(=君主が裁断)せよといふ事あり。重ねてひが事出来らば、後悔何ぞ益あらん」と申しければ、皆きられたり。弘仁に仲成誅せられて帝王廿六代、年記三百四十七年、絶えたる死刑を申行(=進言)ひけるこそうたてけれ。信西其身を保たざるは、正しく此に坐り真の王政也、三代の後未だ聞かざる所

 就中、義朝に父をきらせられしこと、前代未聞の義なり。且は朝家の御あやまり、且は其身の不覚也。孟子に、「舜天子たり。瞽瞍(こそう)(=舜の父)、人をころす事あらんを、皐陶(かうとう)とらへたらば、舜はいかがし給ふべきといふに、位を捨てゝ父を負ひて去らまし」とあり。義朝、実(まこと)にたすけむと思はむに、などか其道なかるべき。恩を給ふに申換ふるとも、たとひ我身を捨つるとも、いかで是を救はざらん。誠に義にそむける故にや、無双の大忠也しかども、殊なる勧賞もなく、けつく幾ほどなくして身を亡ぼしけるこそ、浅ましけれ。『正統記』の評、これに同じ。又いはく、保元・平治より此かた、天下みだれて、武用盛りに王位かろくなりぬ。いまだ泰平の世にかへらざるは、名行のやぶれぞかし。

按ずるに、白河、その義女(=待賢門院)に私し、その妊めるをもて孫婦(=孫の鳥羽天皇の婦人)とし、その免(=分娩)ずるを待ちてやがて天位(=崇徳)を嗣がしむ。鳥羽また娶麀(しゆいう)(=猟色)して、多くの男女をうましめたり。其子(=崇徳)何の罪かある。其母(=待賢門院)を寵して其子(=崇徳)をにくみ、かつはまた艶妻(=美福門院)にまどひて幼子(=近衛)をたつ。崇徳、また其仮父(=鳥羽)をうらみて同母の弟(=後白河)をせめ、忠実、大臣として故なく幼子(=頼長)を愛し、頼長、長を凌がむとして、忠通、又その弟と氏長者をあらそひ、清盛、其叔父・従兄弟を斬りて義朝が父と弟を斬らむことをはかり、義朝、また朝命を辞しかねて父と弟を斬る。後白河、其兄とあらそひてこれを流し、その功臣等をしてその父子をきらしむ。いひつべし、父、父たらず、子、子たらず。兄、兄たらず、弟、弟たらず。夫、夫たらず、婦、婦たらず。君、君たらず、臣、臣たらずと。北畠准后いはゆる名行のやぶれ、一言以て蔽(おほ)へりといふべし。

 頼長は、忠実の愛子(=寵児)にて、信西に学びたり。其兄忠通が詩歌・手跡にたくみなるをば、朝家の要事にあらずとおもへり。五常(=仁義礼智信)を正しくして、賞罰を分かち、政務をたゞして、善悪をたゞしければ、時人(じじん)、悪左府といひておそれき。真実は心うるはしく、舎人・牛飼等の道理をたてゝ申分くる(=言訳)事をも後悔(=理解)し、陣にて公事の時、外記・官史をいさめられしにも、過またぬよしを申し披(ひら)けば、怠状(=弁明書)をかきて給へり。これを辞すれば、「一の上(=左大臣)の怠状を、以下(いげ)の臣下取り伝ふる事、家の面目ならずや」と仰せけり。

 かの信西といふは左大臣武智麻呂(=藤原南家)の遠孫にて、後白河上皇の御乳母紀伊二位が夫也。此人南家の儒胤(=儒者の系統)たれど、儒業をばつたへず、わかきより諸道兼学して、九流百家に至る迄、当代無双の宏才博覧たり。はじめは日向守道憲とて、御前にて何となく召し遣はれしが、ある時、首きられむずる相あるをみづから相して、出家のいとま申す時、「日向入道と呼ばれんは、うたてしく候。少納言をゆるし給らばや」と申せしを、始はゆるし給はざりしを、やうやうに申してゆるされ、出家して少納言入道信西といふ〈此事、鳥羽の御時にや〉。その出家の心つきし時、頼長いまだわかかりしに〈廿歳の時〉、院にて参会し、「おのれ(=自分)は出家の暇申して法師になるべし。それにいたましき事一つあり。才智、身に余りぬる者は遂に不運なりと人の申して、学文(=学問)を懶(ものう)くせん事、悲しき也。君は摂籙(せつろく)(=摂政関白)の家に生れ、前途頼みあり。かならず学文才智をきはめて、しかも人臣の位をきはめ給ひ、おのれ故人のおこしたらむ邪執をかぶりて(=被りて、破りて?)たべ(=たうべ)」と申しければ、その顔をつくづくとまもりて涙ぐみ、詞はなくてうなづき給ひけり。後四年を経て、頼長〈廿四歳の時〉の病をとふ事ありしに、臥ながら亀卜と蓍筮(しぜい)との事を論ぜしに、左府、「亀卜深し」とて事の外に論じあがりて、入道つひにまけぬ。さて入道、「今は御才智、既に朝にあまり給ひたり。御学文入るべからず。若し猶せさせ給はゞ、一定、御身の祟りとなるべし」と申して、退出せり。此事を自讃して、日記にもしるしおかれき。

 『保元物語』に、弟子を見る事、師にしかずといふ事あり。これ御学文をやめ申すにあらじ。才智にほこり給ふ所をぞ、いましめ参らせけむ。まづ御心誠に心ありて、うるはしき御心ばせの上の御学文こそ然るべけれ。何かすべて内外の鑽仰たゞ一心(=人格)のため也。

按ずるに、此物語に評せし所は然(しか)也。されど道憲がかくいひし所はしかはあらじ。はじめ勧めし所、たゞ智をきはめ給へとこそ見えたれ。徳を修め給へとはいはざりき。ひとり頼長の身を失ひしのみにあらず、信西が終を善くせざりしも、たゞ才智を以て学とせし謬まりによれる歟。

 乱後、帝(=後白河)、後三条の例によりて記録所をたて、みづから政をきゝ、御乳母の夫少納言入道を寵任して、大内(だいだい)をも造られ〈白河已後はじめて〉、洛中をも掃ききよめて、古の盛時にたちかへり、在位三年にて譲位〈卅二歳。これよりのちの事ども、皆下につまびらか也〉。

 二条院は後白河が第一子、母は大炊御門贈太政大臣経実が女也。保元三年八月受禅〈十六歳〉。忠通関白を辞し、其子基実関白たり〈十六歳〉。君相共に童幼、古今未だ嘗て聞かず。天下の事は後白河聴き給ひ、信西いよいよ任用せらる。平治元年十二月信頼・義朝の乱起れり〈保元の乱後、二年を隔つ〉。事は権中納言兼中宮権の大夫右衛門の督藤信頼が事に起る。

 信頼は中関白道隆の後なりしが、父祖は諸国の受領を経て、老後従三位に至りき。しかるに此人、後白河上皇に寵任せられ、廿七歳にて中宮権右衛門督になる。なほ大将を望み申せしを、上皇、信西に議せられしかば、「此事ゆめゆめしかるべからず。君の御政は司召(つかさめ)しを以て先とす。叙位・除目に僻事出来ぬれば、上(かみ)天の意に背き、下(しも)民の謗りをうけて、世のみだるゝ端也。漢家・本朝、其例これ多し。三公には列すれども(=大臣になつた人でも)、大将を経ざる臣のみあり。執柄の息・英才の輩も此職を先途(=最高)とす。信頼などが身を以て大将をけがさば、いよいよ驕を窮めて暴逆の臣となり、天のためにほろぼされむ事、いかで不便には思し召されざらむ」と諫めしかど、げにもと思し召す御色なかりしかば、信西、唐の安禄山が図三巻をかゝしめて献ぜしかど、猶げにもとも思食事なし。信頼、かくと聞きて、常に所労と称し引きこもりて、馬のり・はせ引き(=やぶさめ)・はや足・力持ちなど、ひとへに武芸を習ふ。信西を滅ぼさむためと聞えし。

 信頼、其子信親を清盛が壻になして相はからんと思ひしが、「彼は太宰大弐になされ、大国あまた給りて恨みあらじ。義朝こそ保元の功大にして、賞の軽きを恨べけれ」とおもひ、日比懇(ねんご)ろにかたらひ、帝の外戚新大納言経宗・御乳母の子別当惟方等と睦(むつ)びたり。『正統記』に、清盛は信西が縁者に成て、事の外に召し仕はる。信西・清盛をうしなひて世を恣にせむとはかる。

 此年十二月四月、平清盛其子左衛門佐重盛と熊野に詣でしあとにて、義朝と相謀り、九日子時に義朝、五百騎を率ゐ、信頼、院の御所へ参り、上皇を大内の一品の御書所(=図書館)に捕へ、帝を黒戸の御所に置き参らせ、三条殿をやき、信西が西洞院の宅もやき、其子ども闕官せしめ、御方の兵に除目行ふ〈信頼は朝餉の間にあり〉。信頼みづから大臣の大将たりと云ふ。信西、乳媼(ちうば)の夫たれば、其恩倖(=天子の寵)に倚り、其位に在らずして、其政を謀る、其才博功大、禍を速くせん所以也。義平(=義朝の嫡男)は、母がたの祖父三浦介が許にありしが、都さはがしき事ありと聞えて馳上り、今日の除目にあひしに、「勢を給りて安倍野に出むかひ、清盛父子をうちて後に給はるべし」とて辞す。信頼ゆるさず。

 信西は、九日午時に白虹日を貫くを見て、「今夕御所に夜、討入(うちいる)べし」としりて、奏せんために院参せしに、御遊の中にて、子息等も御前にありしかば、女房に申置、家に帰り、妻の二位に、「子共にもしらせよ」といひ、郎等四人具して奈良へ奔るとて、しがらきの峯にて、忠臣君に代はるといふ事をおもひ出て、十日朝、右衛門尉成景を都に返し見せしに、舎人(=信西の)武沢が来るにあひて変をきゝ、「入道は春日山の奥へゆきし」と(=嘘を)言ひて引き返し、かくと(=信西に)いふ。入道生きながら穴に埋めらる(=上皇の身代りになるため)。出雲前司(ぜんじ)光泰、五十余騎にて追ひかけ、かの月毛の馬と成沢といふ舎人を見つけて尋ね問ひてほり出すに、いまだ息ある首きりて、十四日に獄門にかく(=さらし首にする)。『正統記』に、信西は才学あり、心さかしかりけれど、己が非を知り未萌の禍を防ぐまでの知分(=知力)や欠けたりけん。信頼が非をば諫め申しけれど、我が子どもは顕職・顕官に上り、近衛中将などにさへなし、三木以上に上がるもあり。かくて失せにしかば、是も天意にたがふ所ありとは疑なし。

 十日の朝、六波羅よりたてし早馬、切目の王子にて追付く。清盛、「まづ熊野に参らむや」といふを、重盛諫めて引返す。「兵具なし」といへば、筑後守家貞、長櫃五十合より鎧五十・矢五十腰(?)、竹の朸(あふこ)(=担ぎ棒)の中より弓五十出したり。湛増廿騎を出し、湯浅卅騎にて来る。かれこれ百騎にて返る。義平三千にて安倍野に待つと聞きて、「四国へ渡らん」といふを、重盛諫めて、家貞と共に勧めて帰る。

 其後、信西が子ども流罪〈嫡子新宰相俊憲・播磨中将成範、これは清盛のむこ、後に桜町中納言といふ・権右中弁貞憲・美濃少将長憲・信濃守正憲等なり。僧俗共に男子十二人、女子五人ありしなり〉。

 廿三日、内裏にては六波羅より寄するとてさはぐ。六波羅にても、十日より日々に待つ。廿六日の夜、上皇ひそかに仁和寺に奔る〈蔵人右少弁成頼御供也〉。帝も六波羅に奔る〈経宗・惟方御供なり〉。信頼かくと聞きて驚きて、六波羅を攻むべしとせしに、廿七日、清盛内裏に押し寄す。源氏の兵、これをうちやぶりて六波羅に寄す。源頼政心変はりし、源氏利なくして、義朝、東に奔る。信頼、道にて捨てられ降参してきらる。上皇、信頼が死刑をなだめられん事を請ひ給ひしかど、叶はず。義朝、青墓(=大垣)より尾州野間へ下向、長田忠宗が家に入る。明くる永暦元年正月三日に忠宗がためにうたる。三十八也。

 義平は、父と議して、山道(=東山道)より攻上るべしとて、飛騨に下りしに多勢となる。義朝うたれしと聞えて兵散ず。かく都に上り清盛をねらひしがあらはれ、難波の二郎経遠三百余騎にて旅館をかこみしをうちやぶりて、石山の辺にかくれ在りしを、難波の三郎経房が郎等捕へてのぼる。首きられたり〈正月十八日の事、時に二十歳〉

 二月九日頼朝関原にて捕はる。池の尼の請ひによりて豆州に流さる。常磐(ときは)が腹三人(=今若・乙若・牛若)は助けらる。

 此功によりて、清盛正三位に叙し〈三木になさると云々〉、子息兄弟皆々国賜はる。信西が子十二人は召し返さるべきに、その事なく、これはもとのごとく召しつかはされんには(=信西の子が元に戻ると)、信頼(=と経宗・惟方が)同心の事、天聴に達せん事をおそれて、経宗・惟方が申しすゝめし所也とぞ。

 院は顕長(=惟方の叔父)の宿所に御座ありしが、一説、仁和寺より出給へども、三条殿やけて御所になるべき所なく、八条堀河皇后大夫顕長の宿にませし也二月廿日比、清盛を召して、「主上(=二条帝)幼ければこれほどの御はからひ(=堀河の桟敷から外を見にくくするために板を打つた事)有るべしとも覚えず。按ずるに、御桟敷を板を以てうちつけし也。李輔国(=原文は李林甫)が明皇(=玄宗)を西内に幽(とら)へし事のごとくなるを怒り給ふ也。経宗・惟方がしわざと思し召す。いましめ参らせよ」とありしかば、召捕りて参らす。死刑にさだまりしを、忠通申しなだめられて、流さる。

 『正統記』に、かくてしばし静まりしに、主上・上皇御中あしくて、帝の外舅大納言経宗・御乳母の子別当惟方等、上皇の御意にそむきければ、清盛に仰せて召し捕へられ配所に遣はさる。これより清盛、天下の権を恣にして、程なく太政大臣に上り、其子大臣の大将になり、剰(あまつさ)へ兄弟左右の大将にならべり。天下の諸国半ば過ぐるまで家領となし、官位は多く一門・家僕にふさげたり。王家の権さらになきがごとくになりぬ。

按ずるに、此年、帝、藤原多子を召して后にたてらる。これは近衛院の后也。その美なる事を帝聞こし召して、その父右大臣公能に勅してめさる。此事、しかるべからずとて、上皇もおぼしめし、群臣諫めしかど、聴き給はず。二代の后といふ、これ也。時に帝十八、后は廿三也。これより主上・上皇の間、快からず。此事によりて、経宗・惟方罪せられしか、『平治物語』のごとくなれば、信頼が乱は主上の御旨なりといひし事にや、また信西が子息等流刑の事歟。

 『平家物語』二代の后の下に、永暦応保の比よりして〈二条の年号〉、院の近習者をば内(=帝)より御戒めあり。内の近習者をば院より戒めらるゝ間、上下おそれをのゝいて、やすい心もせず。只深淵に臨みて薄氷を履むがごとし。主上・上皇父子の御間、何事の御隔か有るなれ共、思ひの外の事共多かりけり。

 応保二年、富家の入道相国忠実薨ず〈八十四歳〉。知足院関白といふ、是也。三年二月、前摂政忠通薨ず〈六十八歳〉。法性寺殿といふ〈鳥羽の代より当代迄四十余年、摂政・関白たりき〉。永万元年三月、源為朝豆州大島より鬼島に赴きしといふ。六月、帝病ありて譲位、七月崩ず〈二十三歳〉。在位七年。

 六条は、二条の子。母は大蔵大輔伊吉兼盛が女。受禅の時二歳。摂政は関白基実。後白河上皇、政を聴き給ひき。

 『平家物語』に、一の宮の二歳にならせ給ふを太子にたて給ふべしと聞えし程に、六月廿五日、俄に親王の宣旨蒙らせ給ふ。頓て其夜受禪有りしかば、天下何となうあわてたるさま也。本朝に童帝の例を尋ぬるに、清和天皇九歳にて御譲をうけさせ給ひ、外祖忠仁公、幼主を扶持し給へり。是ぞ攝政の始なる。鳥羽院五歳、近衞院三歳。かれをこそいつしか(=早すぎ)なれと申せしに、是は二歳にならせ給ふ。先例なし。物さわがし共愚か也。

 仁安元年七月基実薨ず〈廿四〉。其弟左大臣基房摂政たり。十月、後白河上皇、その第三子憲仁親王を東宮にたつ。これ主上の叔父也〈主上三歳、東宮六歳〉。二年二月、平清盛太政大臣となる〈二条の応保元年中納言、六条の永万元年大納言、仁安元年に内大臣、それよりすぐに太政大臣也〉。従一位。随身兵仗を賜り輦車を聴さる。時に五十歳。五月辞表。八月、官符を賜りて播磨・肥前・肥後の郡郷を以て功田と為す。三年二月、上皇、帝を廃して東宮を以て帝(=高倉)と為す〈帝を新院といふ。わづかに五歳〉。在位三年。『正統記』に、上皇世をしらせ給しが、二条の帝(=六条の父)本より快からぬ御事なりし故にや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて(=六条天皇)、十三歳にて世を早くしましましき。

按ずるに、上皇、清盛を頻りに擢任せられし事は、愛子憲仁を立てむとおもひ給ひし故に、其力を借らむとの御事なるべし。此事、鳥羽の崇徳を廃して近衛を立てられしよりは、猶僻事たるべし。孫を立つるといふ事、古の礼也、是一。叔父をして姪(をひ)の太子に立てられし事、最逆なり、是二つ。鳥羽院は、崇徳の我子にあらざる事を知り給ひし故ともいふべし、これはまさしき嫡孫なり。しかもすでに帝位をふみ給ひしを、蘖子(げつし)(=庶子)をもて取換へられし事、是三つ。かつは又、元服もなく廃せられしなどいふ事は、古今にその例なき事歟。

 高倉は、後白河が第三子。母は贈左大臣平時信が女、建春門院といふ。八歳にて即位。基房摂政たり。後白河天下を知給ふ事もとのごとし。『正統記』に、清盛、権を専らにせし事は、殊更に此御代の事也。

按ずるに、清盛が妻平時子は建春門院の女兄也。故に平氏ますます勢ひを得し也。又建春門院の兄大納言平時忠は、主上にも院にも平家にも皆親しみありし故、権柄を執れり。時人これを平関白といひき。

 此年十一月、清盛病に依りて薙染〈五十一〉。

 嘉応二年春、豆州狩野介茂光が訴によりて、源為朝追討の院宣が下され、四月、為朝の大島の宅をせむ。為朝自殺〈三十三歳〉。十月、平重盛が第二子資盛、松殿摂政基房と乗り合ひの事あり。『百練抄』、嘉応二年九月上皇福原に幸す。宋人を覧ぜんが為なり。承安元年七月、清盛、羊五頭・麝(じやかう)一頭を上皇に進らす。三年三月、宋人、貢有り。相国入道返牒(=返書)を遣はす可きの由、内々定め仰せらる。

 承安元年正月、帝元服〈十一歳〉。清盛女徳子入内、女御とす〈十五歳〉。二年二月、徳子中宮となる。十二月、基房摂政を辞して関白となる。

 安元二年七月、六条院崩ず〈十三歳〉。同月建春門院崩ず。

 治承元年の春、後白河法皇の別当新大納言藤成親、西光法師等と東山鹿谷(ししがたに)に会して平家をはかる。五月の末事覚(あらは)れて、六月、清盛、成親・西光等を捕(と)り、西光并びに其子加賀前司師高・其弟師経をきりて、成親を流す。其子成経・平康頼・俊寛等、事に坐(つみ)せられて流さる。二年十一月安徳生まる。十二月東宮に立つ。三年八月平重盛薨ず〈四十三歳〉。十一月、清盛宗盛をして法住寺を囲み法皇を鳥羽離宮に幽せしめ、関白基房を備前に、太政大臣師長を尾張に流し、按察大納言源資方等四十三人の官爵を削り、二位中将基通を以て内大臣に任じ、関白となす〈廿歳、基実の子、清盛の壻〉。四年二月(=高倉帝)位を東宮に譲らる〈廿歳〉。在位十二年。『愚管抄』、文才なくして執柄と為れるは基通より始る

 『正統記』に、清盛悪行をのみ為しければ、主上ふかく嘆かせ給ひ、遜位の事ありしも、世を厭(いと)はせましける故とぞ。御心ばへもめでたく、孝行の御心ざし深かりき。管絃の方もすぐれておはしましけり。『平家物語』には、主上殊(こと)なる御恙もわたらせ給はざりしをおしおろし奉りて、東宮践祚あり。これも入道相国よろづ思ふ様なるが致す所也。又、高倉の主徳ありし事どもは、かの物語に見ゆ。

 安徳は高倉の子。母は清盛が女、建礼門院といふ。三歳にて受禅。清盛夫婦准三后の宣旨を蒙る。関白基通摂政たり。法皇は鳥羽殿にとらはれ、高倉上皇は新院と申せしかど、政務をいろひ給はず。摂政も名のみにて、天下の事、ことごとく清盛の心のまゝ也。三月、新院厳島へ御幸〈此時、清盛、上皇に誓紙をかゝせ参らせしといふ也〉。四月、源頼政ひそかに以仁(もちひと)親王を勧めまいらせ、平家を亡ぼさむとはかる〈法皇が第二子にて、新院異腹の兄也〉。五月、事覚れて清盛やがて知盛してうたしむ。親王流れ矢に中りて死す〈三十歳〉。頼政自殺〈七十五歳〉。仲綱・兼綱(=頼政の子)は戦死。六月、清盛都を摂州の福原に遷し、復た法皇を福原の御所に幽す。以仁親王の事によりて也。又、頼政が事によりて、諸国の源氏悉く殺さるべしと沙汰す。八月、頼朝兵を豆州に挙ぐ〈卅四〉。十月、義仲兵を信州に挙ぐ。此月、清盛が下せし兵、富士川にて潰(つひ)ゆ〈維盛大将軍、忠度副将軍〉。十二月、清盛京師を復す。

 養和元年正月、高倉院崩ず〈廿一〉。二月、清盛、城助長に命じて越後守と為し、義仲を討つ。西海・南海兵起〈西国に緒方、伊予に河野、紀州に熊野別当等也〉。源行家尾張に至ると聞えて、知盛・惟盛をさしむく。逗留して皆すゝまず。閏二月、清盛薨ず〈六十四歳〉。此夜西八条の第、火(や)く。宗盛、法皇を法住寺に還し奉る。三月、重衡・惟盛、行家の兵を尾張墨俣川に敗る。卿公義円戦死〈義経の同母兄〉。六月、平助長(=城助長)出師(すいし)して俄に死す。七月、宗盛、肥後守貞能(=平氏)をして鎮西の兵を討たしむ。八月、勅して陸奥守藤秀衡に源頼朝を討たしむ。秀衡命を受けず。

 寿永元年九月、城長茂、越後守に任ず〈助長弟〉。義仲と戦ひて敗れる。二年四月、平惟盛・通盛を大将軍と為し、忠度・経正・清房・知教を副将軍と為して、義仲を討つ。五月、平軍大敗して還る。十万の兵わづかに生還二万人。副将軍知教戦死せり〈清盛季子〉。七月、義仲叡山に陣す。宗盛等主上を奉じて福原に奔る〈七月十四日貞能鎮西を討ちてこれを平らげて帰る。廿五日に都落ちといふ〉。義仲は、以仁の御子を乳母子讃岐守重秀が僧になして北国へ奔りしを、還俗せしめて主にせんとて具して上洛す。木曾宮、還俗宮、後に野依宮(のよりのみや)と申す。按ずるに、義仲、近江路を塞ぎ(=通つて)入洛をせし也。山に上りしにはあらざるか。又按、初め義仲越前の府に至りて議す、「江州を経て都に入らんに、山僧もし拒まんか、彼と戦ん事、せんなし」と云ふ。覚明(かくみよう)(=義仲の書記)謀りて山僧等と合ひ謀りて東坂本に陣し、楯六郎親忠・覚明等六千の兵、山に上りし也。又、平族の中、知盛ばかり、都にて死すべしと諫めしなり。『玉海』(=九条兼実の日記『玉葉』)云ふ、是月朔、帝、紫宸に御して誤ちて南階の霤(あまだれ)下に墜つ。又牛有りて小板敷上に升り、又、狐、御床上に糞す。

 『愚管抄』に、此時、法皇(=後白河)、新熊野(いまくまの)に在(ま)す。藤原範季ひそかに奏して、「源氏すでに江州に至れり。六波羅おどろきさはぎぬ。東北の兵、軍事に長ぜり。平氏の敵すべきにあらず。君もし逃れ給はむには此時也」といひしかば、鞍馬に至り給ふ。『玉海』には、摂政基通艶容あるを法皇常に愛し給ひしかば、基通平家に親しかりしかど、捕り(=平家が上皇を)奉りて西海に赴かんと謀りし事を告げ参らせられしかば、ひそかに鞍馬に〈廿四日〉御幸、そののち叡山に登り給ふ。宗盛等、法皇うせ給ひしかば、力なく主上をとり奉りて都をおつ。かくて〈廿八日〉法皇御帰洛、義仲は勢多(せた)より、行家は宇治より都に入る。法皇、使ひを下されて頼朝も召しけれども答へず。八月〈五日〉法皇、尊成(たかひら)(=後鳥羽)を即位せしむ〈これより二帝あり。安徳をば先帝と申しき。これよりさき、平家は福原にも堪まらず、筑紫へおつ。惟明(=三の宮)をすてゝ尊成(=四の宮)をたてし事〉。此時、高倉の皇子安徳の外の二の宮(=守貞親王)は西海に在す、三の宮と四の宮と洛に在り。三の宮、時に五歳なり。此外に以仁王の子木曾宮おはしき。

 後鳥羽は高倉第四子、四歳にて即位。基通摂政もとのごとし。此時、前関白基房ひそかに法皇にこうて、其子師実を摂家とせむとす。世人は、右大臣兼実其任にあたれりといひしかど、法皇もとより基通を愛し、かつは平家の密謀を告げ申せしが故、その難をのがれ給ふが故なり。〈十日に〉義仲を左馬頭に任じ越後を賜ひ、朝日将軍とす。行家備後守になさる。義仲・行家国をきらひしかば、義仲は伊予守、行家は越前守になさる。此外、源氏十余人、受領・検非違使・衛府の尉になさる。閏十月、頼朝義仲を討たんと欲し、兵を発して遠州に到る。藤秀衡白河関に出師せしを聴きて還る。『平家』(=八巻)には、木曾、平氏筑紫を奔り帰りて讃州屋島に止まり山陽・南海十四国を狥(したが)へしと聞きて、兵を遣はす。備中水島にて負軍すと聞きて、みづから備中に向ひて勝軍す。都の留守行家が院の切り人(=讒奏)すと聞きて帰る。行家播磨に下り室山合戦して平家にやぶられしと見ゆ。

 十一月〈『玉海』には〉、義仲洛を守り、行家兵を播州に発す。頼朝、庁官中原泰定に就きて奏して曰く、「聞くならく、藤秀衡院宣を賜りて、頼朝を討たんとすと。恐らくは是れ叡旨に非ずして、義仲の矯制(=天子の命令を偽る事)也。其院宣転写して関東に至るを以て、乃ち写して呈す」と。法皇大きに驚く。〈按ずるに、これ頼朝の詐謀、法皇と義仲との君臣の際を離間せんとするにあり。また、義仲を討たむとするに辞なきが故也。かつはまた法皇を脅制せむとのためなるべし。〉

 『東鏡』を按ずるに、清盛薨ぜし養和元年閏二月、頼朝その伯父志田三郎義広と戦ふ事あり。義広、戦まけて義仲によれり。その三月、院中にて議定ありて武田太郎信義に仰せて、頼朝追討の庁の御下文を下さるべしとの事、京より大夫の属(さくわん)入道三善善信(ぜんしん)告げたりしかば、頼朝、信義を疑ふの間、信義誓紙を捧げて其事なきよしを申せし。

 中一年を隔てて寿永二年の比、信義、頼朝につぐ、「義仲越後を破り、鎌倉にしたがはず、平氏と縁をむすびて、頼朝をはかる」と。これは信義が女を志水冠者義高(=義仲の嫡子)に嫁がせんとせしを、義仲ゆるさざりしが故に、かくは讒せし也。こゝにおいて頼朝、義仲と戦はむとす。義仲、志田義広を討ちて出す(=その首を)べきやうもなし。さらばとて義高を鎌倉につかはして、頼朝も和したり。これは、平家こそ朝敵たれ、頼朝と軍せむやうはあらず、との事なりき。頼朝、その長女をして義高が妻とす。これ、かねて相約せし所なるべし。そののち義仲は北陸を攻めのぼりて、つひに都に入りしなり。

 十一月十九日、義仲法住寺を攻めて法皇を五条の内裏に幽し、帝を閑院に遷す。これは源氏の兵、京中にみちみちて、洛外にて田をかりて秣(まぐさ)とし、資財等を奪ふと聞えて、院より壱岐の判官知康を御使ひにて制すべきよし仰せ下されしに、知康その(=義仲の)御答をもきかず馳帰りて、「義仲をばうたるべし」と讒せしを、さらばとて山と寺との僧を召し集めて、「義仲をうたるべし」とありしかば、木曾に属せし畿内の兵、皆々院に参り、五万の兵、纔に七千になりたり。院中に参る兵二万。知康、大将を承る。義仲やがて法住寺によせて火箭(ひや)を射かけたれば、官兵皆潰ゆ。法皇の落ち給ふを捕りて五条の内裏へ入れまいらす。帝をば閑院殿へ行幸なす。義仲が手に討つ所六百三十余人といふ。

 廿三日、義仲四十九人の官職をとゞむ。此時、頼朝、舎弟(=自分の弟)等(=範頼、義経)に六万の兵をつけて、義仲うてとて遣はしけるに、かく(=都の争乱)と聞えて尾州熱田の辺に陣をとゞむ。義仲、平氏へ使ひして、上洛あるべしといひつかはせしに、知盛の議によりて義仲に、降参すべしと答へらる。義仲又したがはず。松殿入道殿下(=基房)の異見によりて、とゞめし人々の官を復し、殿下の子師家の〈十二歳〉従二位中納言なるを内大臣とし摂政たらしめ、十二月十日に法皇を出し申せしかば大膳の大夫成忠が宿所六条の西洞院へ幸なりぬ。

 元暦元年正月十日、義仲征夷大将軍を兼ず。

 『東鏡』に云ふ、鎮守府の宣下は、坂上中興以後藤範季〈安元二年〉に至るまで七十度。征夷使は僅かに両度也。桓武の延暦十六年十一月、坂上田村丸。朱雀の天慶三年正月、藤忠文。爾後皇家廿二代二百四十五年。

 『職原抄』に云ふ、征夷は日本武尊に始る。已往東征の人、或は按察使と為り、或は鎮守府将軍と為る。文屋綿丸以来征夷将軍の号有り〈平城と嵯峨と戦ふの日、平城綿丸を以て征夷使と為す〉。

愚按、田村丸・忠文、皆征東将軍と称す。征夷の号久しく以て中絶して、義仲を征夷将軍に任ず。其後、頼朝を之に任じてより爾来連綿たり。按ずるに、征夷の名は日本武より始り、征夷将軍の号、綿丸より始り、爾来、義仲を以て中興と為す

 廿日、東軍(=範頼義経軍)義仲と京師に戦ふ。義仲及び義広敗死す。

按ずるに、義仲、はじめ高倉宮(=以仁王)の令旨を奉りて兵を挙げしに、宮の御事(=敗死)ありしかど、其御子の僧となり給ひしを取立てて、還俗なし参らせ、主となす。又、伯父の義広に頼まれしを、頼朝恨みて私の軍せむとせしに、我が愛子の十三なるを出して中和らぎしなど、君父の義を知れりといふべし。北国度々の戦に打勝ち都に向ひし時も、山僧と故なき軍せんこと然るべからずとて、覚明が策を用ひてすみやかに京に入る。すべて平家の兵をやぶりて都を追ひおとせし事、ことごとく義仲が功也。頼朝の、四年がほど東国を併せ呑んで、みづからの事を営みしが如くには非ず。法皇、天子(=後鳥羽)を択び給ひし日も、おのが主とせし人に党する事もなかりしなど、悉く皆義にあたれりといふべし。たゞ法住寺殿をせめし一事のみ罪ありといへども、それも知康がために讒せられ、法皇すでに御誅罰あるべきにて、手に属せし兵もことごとく馳参りしかば、その憤りに堪へざるが故なり。此事、死を救ふの策にて、君側を掃ふの挙ともいふべし。されば、「大かたは義仲が最後の軍なるべし」とも、又「にくし、その鼓め。打破りて捨てよ」などもいひし也。そののち松殿の仰せにしたがひ、院をも出しまいらせ、闕官の人々をも出せし類、ことわり知らぬ男にはあらず。

頼朝の義仲を討たれし事、さらにその謂(いはれ)なしといふべし。始め私の軍せむとせしも心得られず。そののち、秀衡になされしといふ院宣を、木曾が謀也などいひしも心得ず。此度、兄弟に兵つけてのぼせしも、法住寺殿の事ありしと聞きて其罰を問ひしにはあらず。義仲法住寺殿をやきし時、すでに東軍は熱田にいたれりと見えし。頼朝の心、ひとへにみづからを営むが為にある也。『平家物語』・『盛衰記』等にみえし所も、木曾が田舎人なりし由と、法住寺殿やきしとの事のみ見えて、その余の罪は聞えず。法住寺殿の事は、先に論ぜり。田舎人の礼に習はぬ事、いかでかその功を掩ふべき。これらの記、鎌倉の代にしるせし所なれば、ひとへに頼朝が地を為さむ(=弁護)とせしかど、つひにその辞を得ざりしと見えし。

又、『玉海』に、清原頼業(よりなり)ひそかに兼実に申せしは、「わかき時、信西并びに其子俊憲とむつまじ。法皇、その時御在位の比也。俊憲申せしは、今上は暗主也。治国の量(=力量)あらず。晋の恵帝、八王に挟まれて兵乱やむ事なかりしがごとくなるべき歟」と。はたして其言のごとし。誰か先見の明を感ぜざるべきといひしと也。

按ずるに、此院(=後白河)はじめ今宮と申せし時は、鳥羽院美福門院を愛し給ひて近衛院を位につけ申されしかば、宮をば押し込め置かれき。そののち女院、崇徳をねたみ給ひし故に、思ひの外に此院は即位あり。されど二年ばかりのうちに、保元の乱ありき。其後いくほどなくて、寵任し給ひし信頼がために捕はれ給ひて、平治の乱あり。其後又、二条院と御心よからざりし故に、嫡孫の六条をおろし給はむ料に、清盛を頻りに擢任し給ひ、かれが権を恣にするにおよびて、よからぬ軽薄の輩とはかりて平氏を滅ぼさむとして、つひには両度まで捕はれ給ひ、今又、知康がごとき軽薄の者の讒し申付く旨によりて、義仲が大功を捨てゝ忽に誅し給はむとして、とらはれ給ふ。すべて寵臣・功臣のためにとらはれ給ふ事、前後四ヶ度也。そのゝち、やゝもすれば、頼朝におびやかされ給ひて、遂に天下の権を奪はれ給へり。保元の乱後、しばしがほど善政を行はれしは、皆これ信西がはからひ申せし所也。それも、かれが才略いみじきを知りて任用せられしといふにはあらじ。御乳母の夫なれば、かれが申す旨にまかせられしなるべし。俊憲ひとり帝の非器をしれるのみにもあらず、崇徳院も、文にもあらず武にもあらずと仰せられしよし、『保元物語』にも見えたり。

 義仲やぶれしのち、〈廿二日〉師家の摂政をとゞめて、基通再び摂政・氏長者たり。是又、法皇の御意也。廿九日に東軍京をたち、二月五日の夜、義経三草山の兵をやぶり、七日に一の谷を陥る。

 比ころ法皇、松殿基房に御使ひありて、「去年基通職をやめられし時、右大臣兼実を挙げずして、十二歳の童子〈師家の事〉を摂政とし、朝を軽んじ私をいとなみ、義仲に党して朕が西幸を勧む。朕もし西せば今日あらんや」と仰せられしかば、基房陳ずるに辞なし。平氏摂州に至りし日、勢振ふと聞えて内応の人々多し。一の谷敗ると聞えて、それらの輩、皆おそる。兼実一人、義仲に党せず、平氏に通じ給はざれば、頼朝これを聞きて中原親能(ちかよし)にむかひて、「朝政を正さむには右府(=右大臣)をして当職たらしむべし」といひしを、親能ひそかに中納言雅頼(=源氏)に語る。雅頼又兼実に告げしよし、『玉海』に出づ。

 三月廿七日、頼朝正四位下。秀郷の六位より四位に叙するの例也。四月、頼朝、義仲の子義高を殺す。六月、範頼を三河守に任ず。八月、義経、左衛門少尉・検非違使たり。頼朝不快にて、義経を西海にむかはしめず京師を守らしめ〈これよりさき、頼朝、院に申して義経して平氏を討たしめむとしき〉、範頼をさしむく。九月、義経従五位下に除す。十月、院・内の昇殿をゆるさる。頼朝弥(いよいよ)心よからず。

 文治元年二月〈十六日〉、義経西征〈十七日渡海〉、十八日屋島を陥る。三月廿四日、義経平軍と長州壇浦に戦ひて、之を敗る。先帝海に没し、平氏悉く殲(ほろ)び、西海皆平ぐ。頼朝範頼に命じて留めて九州を鎮め、義経をして還るを徴せ(=求め)しむ。四月廿二日、基通加茂詣あり。法皇御見物あり。

按ずるに、去年十二月十六日にも、基通春日詣あり。時人いはく、兵革打つゞき、神鏡いまだ御帰洛なく、飢饉又加ふるに、かゝる大営をなす事、時をしらずと。

 廿六日、神鏡・神璽入洛。廿七日、頼朝を従二位に除す。『玉海』に、頼朝の賞を議せしめらる。清盛の正三位に叙すは凶例也、頼朝の従三位に叙すは、かろしとて、正四位下より三位を歴(へ)ずして二位になされし也。

 五月、義経、頼朝に使ひして〈亀井三郎〉誓紙を遣はし、因幡守広元に就いて冤を訴へしかど、頼朝答へず。そののち義経、宗盛父子をゐて東行、腰越に至る。鎌倉に入る事をゆるさず。六月、義経、宗盛父子をゐて帰洛〈『盛衰記』・『長門平家物語』には、義経、鎌倉に入りて、たゞ一度頼朝に対面すと。『東鏡』・『平家物語』にはしからず〉。宗盛父子、近江篠原にてきらる。『玉海』に、義経、篠原にありて大蔵卿高階泰経に就いて奏していはく、「彼の父子をこゝにて誅すべし。其首、検非違使に附いて、按検せられむや。たゞし(=ただ)路頭にすつべしや」と。法皇、この事を議せしめらるゝに、兼実は、「官(=位)高し、かつ帝家の外戚たり。使庁に附すべからず」といふ。法皇、頼朝・義経を憚りて、ふたゝび勅問ありしに、兼実、「これを決しがたし」と申されしかば、法皇御心よからず。彼の首を使庁につけて獄門に懸けられき。

 八月〈四日〉、頼朝、佐々木定綱をして近江の兵を具して前備前守行家を討たしむ〈行家、時に西国にあり〉。十四日、義経伊予守を兼じ、院の厩(うまや)別当たり。京師を守護すべきよしを宣下あり〈今日改元たりき。今日小除目とは、『百練抄』に見ゆ。『東鏡』には、十七日の事也と見ゆ〉。此月、法皇、義朝の墓に勅使〈左少弁藤兼忠〉ありて、内大臣正二位を贈らる〈『平家物語』に出づ〉。

 九月、頼朝、梶原源太左衛門尉景季を京都に遣はし、義経を伺はしむ〈九月二日にたちて、十月六日に帰れり〉。義経に命ずるに、行家をうつべしといふを以てす〈此時、義経病して灸治数所。平癒ののち、みづから行家をば追討すべきよしを称す〉。此月、範頼西海より入洛す。鎌倉に帰る〈十月廿日に鎌倉に至る〉。

 十月二日、頼朝、土佐房昌俊に八十三騎をつけて義経を討たしむ。此日、鎌倉をたつ。行程九ヶ日に定めらる。『百練抄』に、十月十七日(?)、今日源二品(=頼朝)追討の宣旨を下さる。延尉義経申し行はる(=進言)と雖も、上皇都て御承引無し。而るに再三之を(=義経が)申せば難治の間、忽ちに公卿僉議有り。左内両府以下、諸卿多く参入す。各申して云ふ、平家・義仲等の時、事叡慮より起らずと雖も、彼等の申請に随ひて件の宣旨を下され了んぬ、今又、此如し。異議有る可からずてへれば、仍(より)て宣下あり。

 今夜子の刻許り、義経宅〈六条堀河〉軍兵四方自り攻寄せ、夜打の企て有り。義経忽ち合戦し、襲来の勇士皆悉く逃散し了んぬ。此間院中騒動し、四門等を閉ざされ了んぬ。義経使ひを進せて云ふ、奇怪の輩皆退散し了んぬ。驚き思食す可らずてへり。件の張本者土佐房と云々。

『東鏡』を按ずるに、此時、右大臣兼実の意見殊に理をつくさる。皆是、関東引級(=弁護)の詞也。内大臣基通分明の儀を申されず。左大臣経宗早く宣下致す可きの由申し切れども、帥の中納言経房再三之を傾き申す(=非難)と云々。又按ずるに、『東鏡』記する所、少し異なれり。而れば詳しく下に注す。

 十月十一日・十三日、義経潜かに院参して申す、「行家、関東にそむきて兵を起さむとす。其故は、頼朝かれを誅せんとするよしを聞きて、いかなる故ありて罪なき叔父(=頼朝の叔父、行家)を殺すべきやの旨、鬱陶(=悩ましい)するによりて也。義経これを制すといへども承引なし。又、義経がごときも、平家をほろぼし世を静謐に属せしむ。あに大功といふべからざらんや。しかるに頼朝その功をおもはず、計らひ充つる所の所領ことごとく改変し、剰(あまつさ)へ誅滅のよし結構(=計画)す。其難をのがれんため、行家に同意し訖(をはんぬ)。此上は頼朝追討の官符を賜るべし。敕許なからむには、二人共に自殺すべし」と云々。よく行家が鬱憤をなだむべきよしを仰せ下さる。

 十七日、昌俊、六十余騎にて義経の宅を襲ふ。家人等西河辺に逍遥するの間、無勢(ぶぜい)也。忠信を相具して門をひらき、かけ出て戦ふ。行家うしろより助け来たりて防ぎ戦ふの間、土佐房等退散。義経院参して無為(=無事)のよしを奏す。十八日、昨日義経言上の事議定あるに、当時義経の外、警衛の士なし。もし濫行(らんぎやう)あらんには、誰かこれをふせぐべき。今の難をのがれ給はんため、まづ宣下ありて、追て子細を関東に仰らるべし。頼朝、定めて其憤りなからむ歟のよし、治定(=決定)して宣下。上卿は左大臣経宗たり。

 廿二日に、土佐房やぶれし事、関東に聞こゆ。頼朝、まづ南御堂(=義朝を祀る)の供養を行ひ、廿五日に、勇士等をつかはし、尾張・美濃に至りて足近(あつじや)・洲俣(すのまた)の渡しを両国の住人に守らせ、入洛して義経・行家をうつべしと下知し、廿九日、みづから鎌倉をたち東海・東山・北陸の兵を催促す。『平家物語』・『盛衰記』には、此時範頼を上(のぼ)せんと也。『東鏡』には小山朝政・結城朝光等五十余人を上す。

 十一月一日、駿河国黄瀬河に陣して京都の事をうかゞふ。義経・行家院参して後、西行〈義経九州地頭、行家西国地頭〉。その勢二百騎ばかりといふ。義経・行家、法皇を奉じて西海に赴かんとして畿外諸国の兵を聚(あつ)むれども、皆服さず。故に四国・西海の地頭を請ひしとなり。

 五日に関東より発遣の武士入洛。頼朝忿怒の趣、まづ左大臣経宗に申す。今日、義経河尻(=摂津)に至るの処に、摂津源氏多田蔵人行綱・豊島冠者等戦ひてうちやぶらる。しかれども義経の兵も落ちうせて残るもの多からず。六日、行家・義経の船、大物が浦(=尼崎)にてくつがへる。七日、義経都を出でし事、黄瀬河(=頼朝)に聞こゆ。「今度の事、宣旨といひ庁の下文といひ、逆徒の申請に任せらるゝ事、なに事にか度々の勲功を捨てらるゝや」のよし、頼朝しきりに鬱怒(うつど)す。八日、大和守重弘・一品房昌寛等を都に遣はす。鬱憤のよしを申さるゝ所也。十日鎌倉に還る。十一日、頼朝が鬱怒を聞こし召し驚きて、義経・行家追討の院宣を畿内近国の国司に下さる。

 十五日、大蔵卿泰経の状、鎌倉に至る。「行家・義経の事、偏に天魔の所為たる歟。彼の請ふ所、当時の難を避けんが為、一旦は敕許有るに似たりと雖へども、曾つて叡慮の与する所に非ず」と。頼朝報(こた)へて云ふ、「行家・義経謀反の事、天魔の所為たるの由、仰せ下さるは、甚だ謂はれ無き事に候。天魔は、仏法が為には妨げを成し、人倫に於ては煩ひを致す者也。頼朝、数多の朝敵を降伏せしめ、世務を君に任せ奉らんの忠、何ぞ忽ち反逆に変ずるか。指したる叡慮に非ずして、院宣を下さるる哉。行家と云ひ義経と云ひ、召取らざるの間、諸国衰弊し人民滅亡する歟。仍て日本第一の大天狗は、更(さら)に他者に非ざる歟(=後白河である)」。

按ずるに、頼朝、行家・義経を誅せむとする事、甚だいはれなし。はじめ頼朝鎌倉に入りしより、すでに自家を経営するの志あり。されば東国の豪家を故なく誅滅し、又義広(=志田氏)と戦ひ、義仲をうたむとせしの類、ことごとく皆己に害あらむ事をはかれば也。平氏の暴悪を誅せむよしを称すといへども、兵を挙げて四年が間、一騎をして西せしめず〈富士河の戦も、彼来たれるが故に応ぜしもの也。西征の帥とは見えず〉。東国の郡郷、ほしきまゝに押領して、己に功あるものに割き与ふ。いかでこれを朝憲を重くすといふべき。義仲を討ちしも、彼すでに京に入りて平氏を追ひ落し、朝奨に預りしを憎みしが故也。しかるに義経、その心を得ずして院中に伺候して朝賞に預る。かつその兵を用ゐる間、天下に双(ならび)なかりしかば、もつとも頼朝が忌みおもふ所也。

されば頼朝つねに彼が兵権を奪ひてその勢を孤にして、平氏滅びしのちにこれを推す(=排除)にたやすからむ事をはかれり。頼朝みづから、朝にふたごゝろあるが故に、朝に志あるものを忌めるなり。義経己が弟也といへども、当時すでに朝臣に列して京師の鎮護なり。しかるにこれを輦轂の下(=京都)に襲殺さむとす。これ豈、臣たるものゝしわざならむや。上皇の暗弱なるを利して、行家・義経が事を以て、これをおびやかし参らすに、木曾と平氏をほろぼすの功あるにほこれり。はじめに平氏の兵威を摧きしは義仲が功也。終に平氏を滅ぼせしは義経が功多しといひつべし。義仲を誅せし事は、法住寺殿をせめ参らせし罪をとひしにはあらず、東軍の京に入りし時、たまたま彼が凶悪の日にあひしなり。頼朝、朝の御ために彼を討ちしといふ事は、いつはれる也。

ある人おもへらく、義経終に頼朝にそむきたり、さらば頼朝の彼を誅せむとせし事、ことわりといふべしといふ。しかるにはあらず。義経、はじめより頼朝に二心なし。たゞ頼朝の姦計ある事をしらず。いにしへ、頼光・頼親・頼信がごとく、義家・義綱・義光がごとく、兄弟共に朝の御まもりたるべしとのみおもひて、頼朝の代官として義仲をうち平氏をやぶりし後、京師を守護して、院中に伺候せり。しかるを頼朝不快の気色ありしかば、いかにもして其心をとらむとおもひき。されば、範頼が平氏をやぶる事のかなはざるに及びて、義経、讃岐にむかひし時、渡辺にて風あらく浪高きに、まつさきに船を出す。大蔵卿泰経、これを諫めしに、義経、「殊に存念あり。一陣において命を捨てむとおもふ」といひき。その志、もし此度の軍にかつことを得ずむば、最初に打死すべし。もし勝つ事を得ば、頼朝の心やはらぎなむやと思ひしにあらずや。かくまでに頼朝がために心を尽しぬれど、頼朝さらによしと思ふ心もなく、平氏ほろびし日、すみやかに其兵権を奪ひてめし還す。此のち数通の起請文を以て二心なきよしを申せしかども、さらにゆるさず、終に討手をさし向けたり。此時、義経みづから首刎(はね)て、その年比のこゝろざしを表さむはいざしらず、その余はみづから死を救ふのはかりごとを出さむにはしかじ。義経が院宣を申し請ひし事、やむ事を得ざるに出でたり。その志のごときはあはれむべし。

ある人又おもへらく、義経その志驕りて勇を恃みき。みづからその禍をとれり。かつ加ふるに、景時が讒を以てすといふ。これも又頼朝に党するの説也。範頼が愿(げん)(=謙虚)にして怯なるも、つひに死をまぬがれず。その死せし時、誰か彼を讒せし。おもふに、たゞ頼朝がごときものゝ弟たらむ事、最も難しとこそいふべけれ。


六変

一、鎌倉殿天下の権を分掌するの事

 頼朝十四歳の時、二条院の永暦元年三月豆州に流され、高倉院の治承四年八月、三十四歳にて兵を起し、杉山の戦に利なくして房州に逃る。九月、上総・下総をしたがへ、十月に武蔵を経て鎌倉に入る。

 はじめ頼朝房州にありし時、藤九郎盛長(=安達氏)して千葉介常胤を語らひ(=味方にする)し時、常胤、盛長に就て申せしは、「当時の御居所要害の地にあらず又御曩跡(ごなうせき)にあらず。速やかに相模国鎌倉に出給ふべし」と勧めしによりて、終に鎌倉に住せられしなり〈はじめ頼義東征の日、鶴岡を勧請(くわんじやう)し、義家これを修し、義朝亀ヶ谷(かめがやつ)に住せしかば、曩跡(=先祖の地)とはいひしなり〉。

 かくて(=文治元年)頼朝、行家・義経をうつべしとて黄瀬河まで打出て、そののち鎌倉に帰りし時〈十一月十日に鎌倉に帰る〉、頼朝鎌倉に帰りし時、平時政に兵をつけて入洛せしめ、京を守らしむ十二日の事也、今度は関東の重事たれば、沙汰の始終の趣を思ひ煩はれしに、因幡の前司広元謀り申せしは「世已に澆季(=末の世)にして、梟悪(けうあく)の者尤も時を得たり。天下に反逆の輩あらむ事、更に絶ゆべからず。東海道のうちにはかくてましませば静謐たるべけれど、姦濫定めて他方に起らむ歟。それを鎮めんために毎度東国の兵を発せられん事、人々の煩ひ也、国の費え也。此次手(ついで)をもて諸国の御沙汰を交へ、国衙・庄園ごとに守護・地頭を補せられば、あながちにおそるゝ所あらじ。早く申請給ふべし」といひしかば、頼朝大いに悦びけり。

 十月廿五日、北条時政入洛。此日、又行家・義経を尋ね索むべきよし宣下。廿八日の夜、時政、帥の中納言経房に就いて、補任の諸国平均に、守護、地頭、権門・勢家の庄公を論ぜず、兵粮米段別五升を充て課すべき由を申す。廿九日、はやく申請ふにまかせ御沙汰あるべしと仰せ下さる。廿九日頼朝駅法を定め、権門・勢家の所領を論ぜず、往来の兵粮を課す。十二月六日に、頼朝、行家・義経に同意の廷臣を罪科に処せられるべきよしを申請ひ、又、右大臣兼実に状を献ず。その大略、「はじめ平氏都を落ちしのち、畿内近国の武士の狼藉を停めむため、久経・国平二人の使ひを差し上せて、院宣を賜ひて事を行ふべしと申せしに、彼国々大略沙汰し鎮めしかば、重ねて別の仰をうけて、鎮西・四国に下し遣はす。しかるに義経、九国の地頭を賜り、行家、四国の地頭を賜り、すでに下向の処に、風浪のために従軍ことごとく覆没(=転覆)す。かれらを尋ね求めしむるの間、国々庄々門々戸々山々寺々、定めて狼藉の事候はん歟。今においては、諸国の庄園平均に地頭職を尋ね沙汰すべく候也。これ身の利潤を思ふにあらず、土民もしくは梟悪の意ありて謀叛の輩に値遇(=出会)しもしくは脇々の武士に就いて事を左右によせ(=命に従はず)奇怪をあらはさん歟、その用意なからむには、向後四度計(しどけ)なかるべき歟。たゞし其後、先例限り有る正税已下国役・本家の雑事、もし対捍(たいかん)(=敵対)を致し、もし懈怠を致さば、殊に誡めを加へ、其妨げなく法に任せて沙汰致すべし」と云々。此年、頼朝勇士を撰びて西国二十六国を分監せしむ。十七日、頼朝が請ひによりて、廷臣多く見任(=現任)を解却(=解職)す。

 二年三月〈一日〉、頼朝に勅して六十六州総追捕使となし、諸国各地頭職を置かしむ。時政に七ヶ国を賜ひしかど、堅く辞してうけず〈関東知行の国は、相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後等九ヶ国なり〉。十二日〈内大臣〉基通を免じて、右大臣兼実を摂政とし、氏の長者、随身兵仗を賜ひて、牛車を聴さる。此月、時政鎌倉に帰る。武士卅余人を京にとゞめ、〈左馬頭〉藤能保(よしやす)をして京を守らしむ。これより能保の威やゝ盛ん也〈頼朝の姉聟也〉。五月、能保、兵をして行家を和泉国にてうつ。その子光家もうたる。

 三年三月、基通再び随身兵仗を賜る。頼朝、義経は秀衡が許にありと聞きて、使ひをはせて奏す〈これ、秀衡義経をたすけて反逆の由を申せし也〉。かくて庁の下文を奥州に下さる。頼朝又雑色をつかはす。秀衡、異心なきよしを申す。雑色の申す所は、すでに用意(=準備)の事ある歟と云々。又、此事を京に申す。

 十月廿九日、従五位上鎮守府将軍陸奥守藤秀衡、平泉の館に卒す。秀衡、父基衡に継ぎて陸奥・出羽を領する事、三十年。後妻の子泰衡を嫡子とせんとす。錦戸太郎国衡、泰衡と心よからず。秀衡死せんとする時に、泰衡が母をもて国衡が妻とし中なほらせ、泰衡・国衡・泉三郎忠衡・本吉冠者隆衡等に誓はしめ、義経を大将軍として国務せしむべしといひて死すといふ。

 五年閏四月晦日、義経、民部少輔藤基成の衣川の館に自殺す。泰衡、数百騎にて襲ふ。先づ妻をころし〈廿一〉、子をころし〈女子四歳〉て、自殺〈卅一歳〉。五月廿二日申の時、奥州の飛脚来たる。六月十三日、泰衡使ひ新田の冠者高平、義経の首を持ち来たる。義盛・景時、腰越に出むかひて実検す〈黒漆の櫃にいれ酒にひたす〉。観る者皆涙を拭ふと云々。義経死後四十三日。廿四日、泰衡日ごろ義経を隠し置きし科、すでに反逆にすぎたり。これを征すべきよしを下知す。此日、京師より能保が状来たり、奥州追討の事、内々申されし所、沙汰を経らる。「関東の鬱陶黙止がたしといへども、義経すでに討たれぬ。今年太神宮上棟・大仏寺の造営、彼是計会す。追討の事、猶予あるべし」と也。廿五日、猶追討の宣旨を給るべしと申す。廿六日、泰衡、忠衡〈廿三〉を誅す。義経に同意するの間、宣下の旨あるによれり義経死後五十五日。

按ずるに、此年二月、忠衡うたれしといふ。『東鏡』にみえし所は六月廿六日の事也。おもふに、『東鏡』の説しかるべき歟。世に伝ふ、此時義経死なずと。思ふに忠衡がもとにのがれしなるべし。かつ義経すでに自殺して館に火をはなちしともいふ歟。泰衡が献ぜし首、真なるにはあらじ。泰衡も始は義経すでに死しぬとおもひしに、其首を得ざれば、似たるものゝ首きりて酒にひたし、日数歴てのち鎌倉に送れるにや。かくて忠衡が義経を助けて奔らしめしをきゝて討ちしなるべし。頼朝も疑ふ所ありしかば、しきりに泰衡を誅すべしと望み申せし歟。世に伝ふる事のごとくならむには、忠衡が討たれしは、義経の討たれしよりさき百日に近し。忠衡すでに討たれし上は、義経の死ちかきにある事、智者を待たずして明らか也。義経手を束ねて死に就くべき人にあらず。不審の事也。今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。又、夷人飲食に必ずまつるそのいわゆるヲキクルミといふは即ち義経の事にて、義経のちには奥(=蝦夷)へゆきしなどいひ伝へしともいふ也。

 晦日、頼朝、大庭平太景能が故老たるをもて相議していはく。「奥州征伐の事、天聴をうかゞふに今に勅許なく、御家人等をめしあつめし事いかゞあるべき」とありしに、景能すみやかに応じて、「軍中には将軍の令を聞くも天子の詔は聞かずといへり。既に奏聞を経らるゝの上は、あながち勅許を待つにおよぶべからず。かつ泰衡は累代御家人の遺跡をうけつぎしもの也。綸旨を下されずとも誅罰あらむ事、何事かあるべき。集れる兵士,数日を費やす事、却つて人の煩ひ也。早く発向あるべし」といふ。頼朝、大いに悦びて鞍・馬を賜ふ。

 七月十二日、「定めて(=必ず)宣旨を下されん歟。軍士すでに集り日を経るの間、官使を下されんには、遅滞すべし。能保に仰せて彼飛脚して給るべし」と奏して、十九日に出師、八月八日、石那坂にたゝかひ、九日、大木戸をやぶり国衡をうち、連戦皆利を得て、廿一日、平泉を陥り、九月三日、泰衡が首を得たり〈卅五〉。九月九日、陣が岡にて七月十九日に下さるゝ口宣・院宣等至れり。十一月三日、鎌倉に帰る。これより六十六州ことごとく頼朝のつかさどれる所となれり。

 建久元年十月、頼朝上洛。大納言の大将たり。二年十二月、兼実関白となる。

 三年三月、後白河法皇崩ず〈六十七〉。在位三年ののち、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽迄、五朝の間、院中にて政務を聴くこと三十四年。保元の乱後、信頼・清盛・義仲等のためにくるしみ給ひしが、頼朝のために推戴(おしいただか)れて安楽に終り給へり。されど皇威のおとろへ、天下終に武家に帰せし事はこゝに始る。七月、帝(=後鳥羽)、始めて政をみづからす。頼朝を征夷大将軍とす。

 六年二月、頼朝上洛、東大寺供養のため也。政子・頼家同じく入洛。

 七年十一月、兼実上表(=辞表)。内大臣基通関白たり〈三度歟〉。初め、兼実が長女入内して中宮たりしかど、皇子誕生なかりしかば、頼朝の女を入内せしめむとせられき。時に権大納言源通親、帝の乳母三位局〈藤範子〉と通じて、相計かりて己が女(=承明門院、土御門院母)をいれしかば、帝これを愛して頼朝の女入内あらむことをきらひ給ひしかば、ひそかに奏してその事をやむ。承仁(つぐひと)法親王は帝の叔父にて、帝とむつまじく、日々に宮中に入りて丹後局〈栄子〉と密通し給ふ。此丹後局といふは、後白河法皇の寵女にてありしかば、法皇かくれ給ひても宮中の事を専らにして、播磨・備前の国務を領して、新たに大庄をいとなみしを、兼実、頼朝とはかりてこれをとゞめらる。されば兼実を恨みて、承仁、通親と党してけり。帝の遊宴を好みて兼実を憚給ふをみて、隙に乗じてこれに讒し、進奏(=兼実の)の事、頼朝悦びずと称して帝の心をおそれしめ、帝悦びずと称しては頼朝につぐ。兼実が上表を悦びて其職をやめ、基通をすゝめてこれに代らしめたり。猶も兼実を流刑に申しすゝめしかど、帝、罪なければゆるし給はず。されどその詐(いつは)りをばさとり給はず。中宮も兼実の関白をやめられしかば、宮中を出て八条院にうつり、僧正慈円も天台座主をやめられて、承仁法親王をもてこれに代ふ。

 八年七月、頼朝の女死す。はじめて兼実の奏によりて女御の宣ありしに、俄に兼実停職を聞きて遅滞のうちに死しき。頼朝、つまびらかに通親が謀を聞きて、「猶少女あり、来年入洛して女御に備ふべし。且つ、摂関をかへられし事、其沙汰あるべし」といひしかば、人皆これを懼る。

 九年正月〈十一日〉、位を為仁親王(=土御門)に譲る。通親、帝(=後鳥羽)の朝務に倦み宴楽を恣にせむとおもひ給ふをしりて、その女の生みし所をたてゝ権を専らにせむがために、ひそかに勧めまいらせし所也。上皇十九歳、帝四歳。

 土御門院は後鳥羽が第一子、母は承明門院、内大臣通親の女。実は法印能円が女也〈刑部卿範兼が女範子、初め能円が妻にて承明門院をうみ、通親に通じて入内せしめ、能円死してつひに通親が妻たり〉。能円は、法勝寺執行也。八条二位殿の兄。始め後鳥羽を四の宮と申せし日、此能円が養君たりき。関白基通を摂政とす。頼朝、譲位の事を聞きて大いにおどろき、又は疑ふ。

 十月、基通、内舎人随身を賜ふ。基通、蟄居年を経しに、兼実職を罷められしのち又あらはる。皆、通親がはからひ也。これより近衛・九条の両流たがひに摂関たり。此時、基房・師家猶おはしけれども、松殿の流れは衰ふ。

 正治元年正月〈十三日〉、頼朝卒す〈五十三歳〉。『愚管抄』に、頼朝、病中、書を兼実に贈りて、「ことし入洛して朝議を正さんと思ひしに、不幸にしてこゝに至る。命也」といふ。

 頼家、十八歳にてあとをつぎ、〈外祖〉時政これをたすく。四月、高尾の文覚、隠岐の国に流さる。『平家物語』に、後鳥羽院御遊をのみ旨(むね)とせさせおはします。政道は一向、卿の局〈即ち通親が妻、範子なり〉のまゝ也ければ、人の憂ひ嘆きも止まず。呉王、剣客を好みしかば、天下に疵を蒙るものたえず。楚王、細腰を愛せしかば、宮中に餓ゑて死する女多かりき。上の好む事には下はしたがふ習ひなれば、世の危ふき有様を見ては、心ある人の嘆き悲しまぬはなかりけり。中にも二の宮と申すは〈守貞親王、後高倉院也〉、正道を専らとせさせ給ひ、御学問怠らせ給はねば、文覚はおそろしき聖にて、いろふ(=関はる)まじき事のみいろひ給へり。いかにもして此君を位につけ奉らばやと思はれけれども、頼朝のおはしける程は思ひも立たれず。かくて頼朝うせ給ひしかば、文覚、頓て謀叛を起されしが、忽(たちまち)に漏れ聞えて、宿所二条猪熊なる所に官人共数多つけられて、八十に余りて搦め捕りて、終に隠岐国にながされける。都を出るとて、「是程老いの波に立て明日を知らぬ身を、たとへ勅勘なればとて都の辺にも置かずして、はるばる隠岐の国までながされける。毬杖冠者(=後鳥羽天皇)こそ安からね。いか様にも、わが流さるゝ国へ迎へ取らむずる物を」と、おどり上がりおどり上がりてぞ申しける。そののち彼の国へ遷され給ひし(=後鳥羽院)とき、文覚が亡霊あれて(=現れて)、おそろしき事共多かりける。常は御前へ参り、御物語ども申しけるとぞ。維盛の子六代禅師、事に坐して(=連座)誅せらる〈十二にて僧となり、三十余にて死す。〉

 二年四月、守成(=順徳帝)を立てて皇太弟と為す。源通親を傅とす。守成の母藤重子、上皇の寵深かりしかば、守成も又鍾愛諸皇子にこゆ。通親、上皇の心をさとりて(=立坊の)勧を成し、其傅となりて、いよいよ権をます。

 建仁二年、兼実薙染。十月、正二位内大臣通親薨ず〈久我〉。『愚管抄』に、通親が妻二位局範子死してのち、承明門院も宮中を退き給ふ。通親、つねに参れり。その(=承明門院)実子にあらざれば、私通せりとも、又人に謀られしともいひき。

 十二月、基通摂政をやめて、左大臣良経代れり。『愚管抄』に、古は、前官の執柄(=摂政経験者)存(=生存)する者少なき也。此比は基房を入道殿下といひ、其子帥家を小殿下といひ、基通を近衛殿下といひ、兼実を九条殿下といひ、良経を当殿下といふ。同時、五殿下あり。未曾有の事也と。

 三年五月、権大納言藤宗頼卒す。其妻は承明門院の母範子が妹にて、卿三位兼子といふ。外戚につきて、上皇につかへて権を専らにす。宗頼、それが勢によりて身を起せり。宗頼死せしのち、妻の兼子いくほどなく上皇に奏して、前太政大臣頼実が妻たらむ事をのぞみけり。頼実、宮中の権を執らむ事をおもひて、悦びてむかへたり。これより頼実、院中の政にあづかる。九月、実朝、将軍に任ず。

 元久元年春の比、北面の士猶少なしとて西面の士をおき、武事をこのみ給ひ、七月、宇治に狩りし給ひ留まり給ふ事数日、みづから御衣を脱ぎて水に嬉(たはむ)れ給ふ〈此比より関東をはかり給ふ御心ありしとぞ〉。

 二年四月、頼実が女麗子を女御とす。これは頼実が前妻藤隆子が生みし所也。そののち兼子を娶りて隆子をば出しき。兼子、麗子を帝の御成長ののち入内せしめむとおもひて、おのれが子ならねどもやしなひたり。頼実すでに相国(=太政大臣)を辞しけるが、ふたゝび朝権を執るべしとおもひ、妻の兼子によりて左大臣に任ぜられん事を上皇にこひけれども、相国たりし人の降りて左大臣たらむ事いはれなしとてゆるし給はず。今春、帝御元服ありて、摂政良経の女を女御に参らせむとす。頼実、兼子をしておのが女の事をひそかに申しければ、麗子入内せり。上皇、良経には、「東宮〈順徳なり〉の即位を待て、その女をば后となさるべし」とて、麗子をば女御になさる。

 建永元年二月、良経、寛弘〈道長〉・寛治〈師通〉の例を追ひ、上巳曲水の宴を行ふべしとす。上皇も臨幸あるべきにて、京極の第を修造し、山をつき木をうゆ。池に水を湛へて巴字の流れを通じ、住吉の松をわかちうつす。三月、摂政太政大臣従一位良経、盗みのためころさる〈三十八歳〉。摂政殿の御事、或は上皇、その鎌倉と親しくし又其才芸を忌みて殺し給ふとも、或は定家、倭歌のおのれに敵し給ふをもつて也とも、菅為長、新古今の序を作らざる事を恨みし故也ともいへど、『愚管抄』によりて見れば、頼実と兼子とが謀より出でし也。上皇はしろしめされしやいなやは、詳ならず。その盗み遂にあらはれざるは、当時、頼実・兼子の威をおそれし故なるべし。されば上皇もきびしく尋ね求め給はざりし也。良経の女入内なかりし事、頼実・兼子夫婦がしわざなる事をいきどほり給ひ、かれらは又上皇の御覚によりて、やゝもすれば摂政殿を傾け申せしより、事起れる也。左大臣家実、摂政。其父前関白内大臣基通、随身兵仗を賜る〈九条の流おとろへて、近衛の流また盛ん也〉。十二月、前太政大臣頼実、随身兵仗を賜はる。

 承元元年二月、僧源空(=法然)讃岐に流され、其弟子安楽・住蓮を誅す。『愚管抄』に、源空が徒、人に勧め念仏を称すれば則ち犯女・食肉を妨げずと云々。四月、前関白従一位太政大臣兼実薨ず。九条殿の祖、後法性寺の関白といひ、又月の輪殿といふ〈六十二歳〉。

 二年、此比より上皇鍛冶を好み給ひ、十三人の番鍛冶を定めらる。みづからもうたせ給ひ、前太政大臣頼実・二位僧都尊長等鎚をうつ。その柄に菊を銘せらる。

 四年十一月、帝(=土御門)位を太弟(=天皇の弟、順徳)に伝ふ〈時に帝十六歳、順徳十四歳なり〉。上皇、東宮を愛し給ひ、家実・頼実とはかりて帝をばおろし奉らる。家実関白たり。上皇を本院とも一の院とも申し、土御門を新院と申す。

 順徳は、後鳥羽が第三子。承久元年正月廿七日夜、源実朝の事(=暗殺)あり〈治承よりこゝに至りて四十年〉。二月、二位殿(=北条政子)、信濃守藤行光を使として、雅成・頼仁二皇弟をえらみて鎌倉の主とすべきよしを申さる。これより先、二位殿上洛の時、二位局兼子〈頼実の妻〉と約し給ひしは、実朝もし子なくば、皇子一人を養ひまいらせて鎌倉の主とせむといひしが故なり。行光、頻りに望み申し、又義時等連署の状を上(たてまつ)りて望みしに、もししからば天下に二君ある也とて、上皇許し給はず。閏月、義時はかりて実朝の後室をして〈坊門内大臣信清の女〉、左大臣道家の季子をして世継とせむことを請はしむ。故中納言能保の妻は頼朝の女兄也。その産みし女子、摂政良経に嫁して道家を産みし也。外戚につきて道家の子は源義朝には外玄孫(=孫の孫)也。六月、敕許あり。六月、三寅丸下向〈頼経なり。時に二歳〉。

 七月、大内(だいだい)(=御所)守護右馬権頭源頼茂頼茂(よりもち)は源三位頼政の孫、その子下野守頼氏、上皇の命にそむきしかば、西面の士に仰せて誅せらる。頼氏いけどられ、頼茂等従類と共に仁寿殿に入りて大内に火をかけて自殺す。朝廷の重器多くやけぬ〈これも上皇、源氏の一族を失はれんため也〉。かくて承久三年の夏におよびて、いはゆる承久の乱起りぬ。




七変

一、北条九代陪臣にて国命を執りし事 皇統分れ并びに摂家五流となる事

 『承久記』に、義時、勅に背きし事の起りは、信州の住人仁科二郎平盛遠(もりとも)が子十四と十五になるを具して熊野に詣でしに、一の院(=後鳥羽院)御参詣の時に御覧じ尋ねられて、二人の童、西面に召仕(つか)はる。盛遠、面目の思ひをなしてこれも同じく参る。義時聞きて、「関東御恩の者(=盛遠)許されなく(=自分の許可なく)院中の奉公心得ざるなり(=承知できない)」とて、関東御恩(=盛遠)の二ヶ所を収む。院宣を下され還しあたふべしとあれど用ひず〈是一条〉。摂州長江・倉橋両庄は、院中に召使はるゝ白拍子(=遊女)亀菊に給りたり。その地頭等、領家(=亀菊)を忽緒(いるかせ)(=ないがしろに)しければ、亀菊憤りければ、改易(=地頭を解任)すべきと仰せ下さる。義時、「地頭職の事、上古にはなかりしを、頼朝、平家追討の賞に申し賜はる。かの追討六ヶ年が間国々の地頭人等父子兄弟郎従等を討たれし勲功によりて分かち与へし所を、させる科なくして、今義時が計らひにて改易せむすべなし」とて、これも用ひず。一の院いよいよ憤り給ひて、国々の兵を事によせて召されしなり。

 『正統記』の論を按ずるに、此乱は盛遠・亀菊が事に起れるにはあらず。頼朝薨ぜし後より関東を滅ぼされむとは、年比御心のうちに思し召しよられしと見えたり。されば自ら武事を習ひ給ひ、西面の侍等を召し加へられ、実朝の代に至りて関東の御呪詛の事ども多かり。『承久記』にも、「当大臣殿(=実朝)の官位をも、除目ごとに望みにも過ぎてなされけり。是は官打(かんうち)(=誉め殺し)にせんためとて、三条白河の橋に関東調伏の堂をたてゝ、最勝四天王院と名付けらる。されば、おとゞ(=実朝)、程なく討たれ給ひしかば、白河の水の恐れもありとて、急ぎこぼたれにけり」などもしるせり。実朝死せし時に、関東の長久を祈れる陰陽師数人、その職を罷められ、且つは二位殿の皇子(=後鳥羽院の)を申し請はれしを、勅許なかりしなど、かねての御志、此比に決しけるとは知られぬ。

 かくて承久三年(1221)四月廿六日、順徳東宮に位を譲る〈時に順徳廿五歳、東宮は四歳。後に九条廃帝(=仲恭天皇)といふ〉『正統記』、承久三年の春の比より上皇思し召したつ事ありければ、俄に譲国し給ふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも一つ御心にせさせ給はん御謀にや。

 関白家実を罷(や)めて、左大臣道家摂政たり。此時、後鳥羽を一の院とも本院とも申し、土御門を中の院と申し、順徳を新院と申す。土御門在位十一年後鳥羽・順徳は、御心を一つにして、関東を追討のことを議せられしに、土御門院は諫め止め給ひしなり。『承久記』には、徳大寺大臣諫止せられし事あり。右大臣公継なるべし。

 かくて一の院、北面能登守秀康(=藤原氏)に仰せて、三浦駿河前司義村が弟、平九郎判官胤義(=三浦氏)、当時大番(=皇居の警護)にて在京せしに仰せ合さる。胤義も義時に心よからねば領掌す。五月〈十四日〉一の院、高陽院(かやゐん)に渡り給ひ。西園寺右大将公経(きんつね)并びに其子中納言実氏を弓場(ゆば)殿に召し籠められ〈関東の親昵の故なり〉、伊賀判官光季を召す〈京都守護にて義時が妻の弟なり〉。参らざりしかば、胤義・秀康等を以てその家を囲み攻む。光季并びに其子寿王冠者光綱〈十四〉戦死。そののち中納言光親(=葉室氏)奉りて諸国へ院宣を下さる。関東へは押松といふ者御使なり。胤義も使ひ下して兄を勧む。押松、足早きを以て撰ばる。秀康が所従なり。同月十九日〈午後〉に両使鎌倉に着く。義村、弟の使を追返して其状を義時に示す。二位殿の御堂(=勝長寿院)の御所にて陰陽道の輩、卜筮(ぼくぜい)あり。関東太平に属すべしとの占あり。諸氏群集ののち、二位殿、秋田城介景盛(=安達氏)して仰せに〈『承久記』には自ら宣ふと〉、「皆心を一つにして承れ、これ最後の言葉なり」とて「京方に参らんとも、また留まりて御方に候て奉公仕らむとも、只今確かに申しきれ」とありしかば、皆々一同に御方たらんよしを領掌せり。此時、頼朝の恩によりて、諸侍昔に変りて(=京勤めで)苦しまざるよしを申されき。此日暮に、義時が宅にて一族并びに老者の会議す。意見とりどりなれど、大略は足柄・箱根の道をふさぎて待軍(まちいくさ)ある可きのよしなりしに、広元入道覚阿(=大江氏)、「群議の趣しかるべけれども、関東の諸士一心ならずむば、関を守り日をわたる事、還て敗北の因ならむ歟。運を天に任せ早く兵を京師に発せらるべし」といふ。義時、此両議を二位殿に申されしに、「西上せざらむには官軍を敗り難かるべし。武蔵の兵を待ちて速やかに上洛せしめよ」とありしかば、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信乃・上野・下野・陸奥・出羽〈十五州歟〉等の兵を徴す。

 廿一日、重ねて評議す。是は住所を離れ官軍に向ひ、左右なく上洛、思惟あるべき歟の由異議あるが故なり。広元また云く、「上洛定むるののち、日を経るにより異議また起れり。武蔵の兵を待たるる事も猶僻案(=愚考)なり。日を重ねば武蔵の国衆も漸く案じ、定めて変心あるべし。たゞ今夜中、武州一身なりとも鞭を揚げられば、東国の武士、悉く雲の竜に従ふごとくなるべし」といふ。義時も「かくは思ひしか」と。たゞし大夫の属入道善信、宿老にて此ほど老病危急の間籠居(ろうきよ)せるを、二位殿召して仰せ合されしに、「関東の安否、此時に至極(=決定)せり。群議をよくし廻らさるべし。たゞし凡慮(=愚考)の及ぶ所は、兵を発せられんこと、しかるべしと思ふに、日数を経らるゝ事、懈緩(けかい)と申すべし。大将一人、まづ進発あるべき歟」といふ。広元・善信二老文臣輔弼の功あり。義時聞きて、広元・善信が議同じきを悦びて、泰時に下知しければ、泰時、今夜(=その夜)門出して稲瀬河の藤沢左衛門尉清親が家に宿す。

 廿二日、泰時十八騎にてうちたつ。式部丞朝時も北道(=北陸道)の大将にてうちたつ。廿三日、宿老等は上洛に及ばざる由にてとどまる。『承久記』に、親上れば子は留まり、子上れば親留まる、父子兄弟引分け上せ留めらる謀こそ恐ろしけれ。廿五日までに、東国の兵悉く打ちたつ。東海道の大将は相模守時房・武蔵守泰時・足利武蔵前司義氏・三浦駿河前司義村・千葉介胤経〈十万〉、東山道の大将は武田五郎信光・小笠原次郎長清・小山左衛門尉朝長・結城左衛門尉朝光〈五万〉、北陸道の大将は式部丞朝時(=北条氏)・結城七郎朝広・佐々木太郎実信〈四万〉、都合十九万騎なり。廿七日に勅使押松を還す。はじめ鎌倉に至りし時、胤義が使にて事あらはれて尋ねられしかば、葛西が谷に深く隠れゐしを、頓(とゞ)めて尋ね出されて院宣ども焼捨てられ囚はれたりしを、義時召出して、「汝帰り参りて申さむは、義時不義なくして違勅の身に罷り成候上は、とかう申すに及ばず。軍(いくさ)御好(おこのみ)なれば、舎弟時房が子にて候泰時・朝時等を始めて十九万余騎を参らせ候。これらに軍させて御見物あるべし。猶飽き思し召し候はずば、三郎重時・四郎政村これらを先として二十万騎を相具し、義時も急ぎ参らむずるにて候」と申せとて追出せり。此日午時に鎌倉を出て、六月一日午時に賀陽院(=高陽院)へ走りつき、泣々(なくなく)子細を申す。人々興をさませる躰なりしに、一の院、「よしよし物な言ひそ、武士ども上らん後に、義時が首をば取りて進(まゐ)らする者あらむずる」と仰せけり。かくて「宇治・勢多引かるべしや、尾張河(=木曾川)へや向けらるべし」とありしに、「尾張河破れたらむ時こそ、宇治・勢多にて防ぐべし。尾張河には九瀬(=九つの渡し)あれば」とて、官兵を分かち遣はさる。官兵一万七千五百四騎、六日晦日〈『東鏡』には三日〉都をたつ。五日、東軍尾州一宮に於て兵を分かつ。此日山道より向ひし兵に敗られて、大井戸の官兵引き退き、六日、豆戸の官兵敗れて、株川(くひかは)・洲俣・市脇等の官兵潰え走る。八日、秀康等入洛、敗状を奏せしかば、宇治・勢多に兵を向けられ、一の院・中の院・新院等叡山に御幸。此日、鎌倉にて義時が釜殿(かなへどの)に雷震して一人を殺す。義時、懼れて広元を呼びて、「泰時等上洛せば、朝家をかたぶけ奉らむ者なり。しかるに、此怪あること、もし運命のしゞまる(=縮まる)所歟」といふ。広元いふ、「君臣の運命、皆天のつかさどる所なり。今度の次第その是非天の決断を仰ぐべし。怖畏(ふゐ)の限りにあらず。就中、此事関東の佳例(=良い前兆)歟。文治五年(1189)東征の時、雷奥州の陣に震ふ」といふ。卜筮(ぼくぜい)せしめしに、最吉のよし陰陽道皆一同に申す。九日に「山僧等が力にて東軍にあたりがたき」よしを奏せしかば、十日、三院また高陽院に還御。十三日、宇治・勢多合戦。十四日、官兵皆敗る。此時、佐々木四郎左衛門尉信綱子息太郎重綱宇治川の先陣せし事あり。

 十五日、大夫の史国宗(=小槻氏)を勅使にて泰時が陣に向ふ。辰の時、樋口河原にて相逢ふ。泰時馬より下る。従兵五千余のうち院宣読むべき者を尋ねしに、武州の住人藤田三郎を撰出して読ましむ。「今度の合戦叡慮に出でず、謀臣等の申し行ふ所なり。今に於ては申請に任せ宣下せらるべく、洛中に於て狼唳(=非道)に及ぶべからざるの由、東士に下知すべし」てへり。十六日、時房・泰時、六波羅に入る。是れ両六波羅の始なり。凡そ今度の戦、残党多けれども、「疑刑(=疑わしき罪)は軽きに従ふべし」とて死を宥めらるゝ者多し。佐々木中務入道経蓮は院中の謀主たり。兵敗れて鷲尾に在りと聞えて、泰時使して死する事なかれと言ひ遣はす。経蓮「これ、死を勧むる使なり。恥づかしき事なり」とて自殺す。未だ死なざるを輿に乗せ六波羅に来たりしに、泰時、本意に背きし由をいひしかば、眼を見開き心地よげにて死す。

 廿四日・五日に、張本の公卿并びに北面の侍・法師等十一人を渡さる。

 七月六日、一の院を四辻の仙洞より鳥羽殿に移し、一の院、八日に落飾。八日に持明院の宮(=守貞親王)を御即位(=太上天皇に即位)なし申すべきよしにて、九日(=後堀河)践祚。

 先帝は、即位の登壇もなく軍敗れ、外舅摂政家の九条の第へ逃れ給ふ。在位七十七日。日嗣(ひつぎ)(=歴代天皇)には加へ参らせず。元服もなくて十七にて隠れ給ふ。九条廃帝と申しき。

 十三日に一の院は隠岐国へ〈四十二歳〉、廿日には新院は佐渡国へ〈廿五歳〉、廿四日に六条宮は但馬国へ〈後鳥羽第三子政仁親王〉、廿五日、冷泉宮は備前国へ〈第四子頼仁親王〉、閏十月十日、土御門院土佐国へ〈廿九歳〉。一の院六十三にて崩。順徳四十六にて崩。中の院卅七にて崩


『東鏡』を按ずるに、土御門院は叡慮(=自発的に)より起りて忽ち南海に幸あるよしをしるし、土佐国の下に阿波国に移すと分注したり。年代記には、此十月一日に、土佐に向ひ給ひ、閏十月十日に阿波国へ移り給ふとあり。さらば始は土佐と申し定めしが、阿波へ移しまいらせしなるべし。始はたゞそのまゝにましますべしと申せしに、御心より移され給ひしと見えし。年経て阿波へ移り給ひしといふは、いぶかし。

 『正統記』に、扨も其世の乱れを思ふに、誠に末の世には惑ふ心もありぬべく、また下の上を凌ぐ端とも成りぬべし。其謂れをよく弁へらるべき事に侍り。頼朝、勲功は昔より類なき程なれど、偏に天下を掌にせしかば、君として安からず思し召しけるも理なり。況や其蹤絶えて、後室(=未亡人)の尼公・陪臣の義時が世になりぬれば、彼蹤を削りて御心のまゝにせらるべしと云も、一往の謂れなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道の古き姿、やうやう衰へ、後白河の御時、兵革起りて姦臣世を乱る。天下の民、殆ど塗炭に落ちにき。頼朝一臂を振ひて其乱を平らげたり。王室はふるきに帰る迄なかりしかど、九重の塵も鎮り、万民の肩も息(やす)まりぬ。上下堵(と)を安んじ(=安心する)、東より西より其徳に服せしかば、実朝なくなりても叛く者ありとは聞えず。是にまさる程の徳政なくして、いかでたやすく覆るべき。たとひ又うしなはれぬ(=完了の「ぬ」)べくとも、民安からずば上天よも与(くみ)し給はじ。次に王者の軍と云は、咎あるを討して、釁(つみ)なきをばほろぼさず。頼朝、高官に上り、守護の職を給ふ。これ、みな法皇の勅裁也。私にぬすめりとは定めがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権を執りて、人望に背かざりしかば、下に釁ありとはいふべからず。一往の謂ればかりにて追討せられんは、上の御咎とや申べき。謀叛起したる朝敵(=例へば尊氏)の利を得たるには比量(=比較)せられがたし。かゝれば時の至らず天のゆるさぬ事は疑なし。但し下の上を剋するは、きはめたる非道なり。終にはなどか皇化に順はざるべき。先づ誠の徳政を行はれ、朝威をたれ、かれ剋するばかりの道ありて、その上の事とぞ覚え侍る。

謹みて按ずるに、後鳥羽院、天下の君たらせ給ふべき器にあらず。ともに徳政を語るべからず。おもふに初め、後白河の、君を択(え)み給ひしやう、事がら軽々しき御事なり。高倉の御子を立てられんとならば、長を立つる事は定れる事なれば、三宮をや立て給ふべき。治れる代にも幼主を立てられん事は、尤(もつとも)心得(=用心)ある可き事なり。まして乱れの中なれば、一歳も年長じ給ひしをこそ立て給ふべけれ。みづから(=後白河)になつかせ給ひしとて、やがて立てられしは、事の外に帝位を軽く思し食(めし)けるさまなり。且つ以仁親王のみづから(=後白河)の御ために天下の兵を召され、事ならずして討たれさせ給ひし事を思し召されなば、など木曾が宮(=以仁の子)をば立て給はざりし。これは猶御年も長じさせ給ひたるらめ。平家の人々もこの宮立たせ給ふべしと思はれしよし、『平家物語』(=巻八、名虎)にも見えたり。且つはまた、此時東西の帝(=安徳、後鳥羽の二帝)御兄弟にましまして、後鳥羽は殊に御弟なり。御兄に向ひて世を争ひ給ふやうなるも、名正しとはいふべからず。かくその始の正しからざるが故に、その末いかでかは治るべき。

 後堀河は高倉の孫、二の宮守貞の子なり。義時、帝位につけまいらせ、十歳にて即位。御父守貞に尊号(=太上天皇)を上り〈後には後高倉院と申〉、家実を摂政とす〈今までの摂政道家は鎌倉の頼経の父なれど、順徳の舅たればその職をとゞむ〉。貞応二年、太上天皇崩。十月、家実、摂政を辞して関白たり。

 元仁元年六月、義時死す〈六十二〉。泰時家を継ぐ。これよりのち武家の事は下に見えたれば略す。

 嘉禄元年七月、二位の尼薨ず〈六十九〉。二年、頼経将軍宣下。

 安貞二年十二月、近衛家実関白を罷めて、九条前摂政道家関白たり。寛喜三年七月、道家、其嫡子左大臣教実に関白をゆづる。十月、土御門院崩ず〈卅七〉。

 貞永元年十一月、譲位〈廿二〉。在位十一年。

 四条は後堀河の子。母は道家の女、藻壁門院なり。二歳にて即位。教実、摂政たり〈道家は帝の外祖にて、鎌倉の頼経にも父なり。摂政殿もその子なり。西園寺前相国公経はその舅なり。朝権皆此人にあり〉。

 天福元年、近衛前摂政基通薨ず〈七十四〉。文暦元年五月、廃帝崩ず〈十七〉。八月、後堀河崩ず〈廿三歳〉。嘉禎元年三月、摂政教実薨ず〈廿六歳〉。今の九条の祖、道家ふたゝび摂政たり。三年二月、道家、その壻近衛左大臣兼経に摂政をゆづる。延応元年(1239)二月、後鳥羽崩ず〈六十〉。仁治三年(1242)正月、帝崩ず〈十二〉。泉湧寺に葬る〈此事のはじめなり〉。在位十年。

 後嵯峨院は、土御門院が第二子。母は宰相中将通宗の女なり。承久の乱に二歳なるを、土御門の大納言源通方、外戚の親にて養ひまいらす。十八歳の御時、通方もかくれければ、祖母の承明門院の許におはします。四条俄に崩じて御子も御連枝もなし。順徳院いまだ佐渡にましまし、其御子忠成京にまします。道家の外孫なれば、これを立て申さむとて、関東へ議せられしに、泰時、秋田城介義景して此帝(=後嵯峨)を立てまいらす。城介、「若し京着以前忠成たゝせ給はゞ、いかゞすべきや」といひしに、「汝を遣はす上は何の憚かある。たゞ下ろして土御門院の御子を立て参らせよ」といひしかば、城介急ぎ入洛して、承明門院の御所に参りて泰時が宗を申す。順徳の母修明門院も道家も大いに驚きしかど力及ばず。同月廿日践祚〈廿三歳〉。左大臣良実関白となる〈道家が二子〉。二条殿の祖なり。

 『正統記』に、泰時はからひ申て、此君をすゑ奉る。誠に天命也、正理也。土御門院、御兄(=順徳院の)にて御心ばへもおだしく孝行も深く聞えさせ給しかば、天照太神の冥慮に代てはからひ申けるも理也。大方、泰時心正しく政すなほにして、人をはぐゝみ、物におごらず、公家の御事を重くし、本所の煩ひを止めしかば、風の前に塵なくして、天の下則ち静まりき。かくて年代を重ねし事、偏に泰時が力とぞ申伝ふめる。陪臣として久しく権を執る事は、和漢両朝に先例なし。其主たりし頼朝すら二世をば過ぎず。義時いかなる果報にか、はからざる家業を始めて、兵馬の権を執りしためし希なる事にや。されど殊なる才徳は聞えず、又大名(=名誉)の下にほこる心や有けむ、中二とせばかりぞありし、身罷りしかど、彼泰時相続て徳政を先とし法式をかたくす。己が分をはかるのみならず、親族并びにあらゆる武士迄も戒めて、高官位を望む者なかりき。其政、つゐでのまゝに衰へ、終に亡ぬるは、天命の終る姿なり。七代迄たもてるこそ彼が余薫なれば、恨る所なしと云ひつべし。凡そ保元・平治より此かたのみだりがはしきに、頼朝と云人もなく、泰時と云者なからましかば、日本国の人民いかゞなりなまし。此いはれをよくしらぬ人は、故もなく皇威の衰へ、武備のかちにけると思へるは過ちなり。泰時が昔を思ふには、よく誠ある所有りけむかし。子孫はさほどの心あらじなれど、堅くしける法のまゝに行ひければ、及ばずながら世をも累ねしにこそ。遠からぬ事どもなれば、近代の得失を見て将来の鑑誡とせらるべきなり。

 此年(1242)六月十五日、泰時卒す〈六十〉。経時、孫にて継ぐ。寛元元年(1243)六月、中宮の皇子誕生。西園寺右大臣実氏、外祖の勢を得て、道家・良実父子と共に朝政を執る〈西園寺の家を起されし事、これよりなり〉。

 二年(1244)四月、頼経、その子頼嗣に将軍をゆづる。在職十八年〈廿七〉。頼嗣六歳なり。四年(1246)正月、譲位(=後嵯峨)〈廿七歳〉。在位四年。

 後深草は後嵯峨の第二子。母は西園寺太政大臣実氏の女、大宮院殿なり。即位の時四歳。上皇の御政務なり。関白良実、父の道家と不快によりて職を罷められて、其弟左大臣実経摂政たり。是一条殿の祖なり。三月(1246)、経時病によりて、執権を弟時頼にゆづり、閏四月卒す。七月頼経帰洛。宝治元年(1247)正月、実経罷められて近衛兼経また摂政たり。建長四年(1252)〈二月〉、時頼、重時を使して上皇の一の宮宗尊親王を迎ふ。これ前将軍頼経京にて世を乱らむとの企てあるよし聞えしによりてなり。此月、道家薨ず〈六十一〉。此人、頼経の父なれば、うせ給ひし事関東の計らひにやといふ説あり。二条家の説には、道家北条を恨み世を乱らんとせしを、良実常に諫められしかば、父子むつまじからざりしといふ。四月、宗尊親王下向〈十三とも十一とも〉。同月、頼嗣帰洛〈十三歳、治世八年〉。十月、近衛兼経摂政を辞し、其弟左大臣兼平摂政たり。これ鷹司殿の祖なり。はじめ道家の長子教実、九条殿を相続し、二子良実、二条殿といひ、三子実経、一条殿といふ。今また、近衛分れて鷹司となる。これより五摂家と称す。執柄家の権を分かたむため、時頼かく計らひしなるべし。此後は、摂政の事を論ずるに及ばねば、略し畢ぬ。その故は藤氏の権、これよりつひに衰へしが故なり。

按ずるに、良房・基経が相業(=太政大臣職)議すべからず。社稷の臣と謂ひつべきなり。然りと雖も、光孝・宇多の君たる、菅公・広相(=橘)が臣たる、猶其権を奪はんと欲す。蓋し是、微を防ぎ、漸を杜ぢるの深計遠慮なり。忠平が純臣たりし外、実頼が後、柄臣九世、皆是外戚の威を恃みて朝廷の権を弄ぶ。後三条其権を抑ふるは、英明の主と謂ひつべきなり。院中政衰へ、兵革屢起りしに及びて、藤氏の大臣、その危(あやふき)を救ひ顛(たふる)を扶けし者一人もなし。保元の乱に忠通、朝家にあり。その弟頼長と不和なるが故なりと雖も、その職に恥ぢずと謂ふべし。平治に基実関白たると雖も、十六の童子、論ずるに足らず。平氏西奔の日、基通駕に従はずして還る。法皇の恩寵を思ふが故なりと雖も、身すでに朝廷の大臣たり。いかで棒首鼠竄(そざん)(=こそこそ逃回る)して生を苟(いやし)くもすべき。義仲が法皇を幽せし日、基房その間に弥縫して泰甚(=危機)を去りし。済時(=世を救ふ)の才無きにもあらず。頼朝が守護と地頭を請ひしに、兼実これを執奏(=奏上)す。遠見深識なしと謂ふべし。承久の乱に家実才策なくして、また新帝の摂政となる。その恥ぢなき事五代(=中国)の臣のごとし。そのゝち後醍醐南狩(なんしゆ)(=南へ逃れた事)の日に至りて、常忠、最初に南に来たれり。大臣の義に恥ぢず。これらの外、北朝に留まり仕へし輩、与に君臣の大義を語るべからず。

そもそもいはゆる摂政関白は人臣の表率(=手本)たり。然るにかく忠なく義なき輩、累世その職に任じて、たゞみづからその望族門地にほこる。恥なきの甚だしきといふべし。王室の衰へし事、たゞ名行のやぶれによれりと、北畠准后のいひけん事まことにしかり。

 帝位十三年にて、正元元年十一月、譲位(=後深草)〈時に十七歳〉。

 亀山院は後嵯峨の第三子とも第六子ともいふ。『紹運図(ぜううんづ)』によれば、第四子なり。後深草院の同母弟なり。十一歳にて践祚。弘長三年十一月、時頼卒〈三十七〉。これよりさき後深草の建長七年十一月、三十歳の時入道して長時に職をゆづれり。文永九年二月、後嵯峨崩ず〈五十三〉。院中にて政をしろしめす事廿余年なり。文永十一年正月、譲位(=亀山)〈廿六歳〉。

 後宇多は亀山が第二の子、後嵯峨とり養ひ、文永五年八月に太子に立つ〈二歳〉。十一年正月受禅〈八歳〉。此時、後深草を本院といひ、亀山を新院といふ。亀山、院中にて政を聴き給ふ。十月、本院の子煕仁(ひろひと)〈伏見院の御事〉を東宮に立つ〈十一歳、帝よりは二歳の兄といふ〉。

 『正統記』に、亀山院(=後深草ではなく)を継体(=次に政を聴く位)と思し召しおきてけるにや、后腹(=亀山の皇后)に皇子生れ給しを後嵯峨とり養ひまして、いつしか太子に立て給ぬ〈後宇多なり〉。後深草の御子も先立ちて生れ給ひしかども、引き越されましにき〈伏見の御事〉。後嵯峨かくれ給ひて後〈文永九年崩〉、兄弟(=後深草と亀山)の御あはひに争はせ給ふことありければ〈思ふに院中御政務の事歟〉、関東より〈時宗歟〉、母儀大宮院(=両院の母)に尋ね申けるに、先院の〈後嵯峨御事〉御素意は当今に〈亀山御事〉まします由を仰つかはされければ事定りて、禁中にて政務せさせ給ふ〈亀山、此時天子にてみづから政をきゝ給ひしなり〉。後嵯峨、継体をば亀山と思食定めければ、後深草の御流れいかゞと覚えしを〈此ころ本院は御出家の御こゝろざしありしといふ〉、亀山、弟順の義を思食けるにや。伏見院を御猶子にして東宮にすゑ給ふ。

按ずるに、「伏見院を東宮に立てられしは、時房の計らひにてありしなり。本院悦び給ひ、新院の御心も解けて、本院と御中良くなりしかば、大宮殿も悦び給ふ。此のちは譲位・即位・立坊、みな関東の計らひなり」、といふ説あり。いかゞあるべき。『正統記』の説の如くにてしかるべき歟。時宗が計らひにて東宮にて東宮に立てられたらんには、本院は悦び給ふとも、新院の御心には悦び給ふべからず。また、按ずるに、後嵯峨いかなる御事によりて、継体をば亀山と思し定めける歟。これ後深草は不孝にましまし、亀山は御愛子にて有りし故にや。これより此両流相争ひ給ひて、つゐに天下南北に分れて、亀山の皇統つひに絶えたり。よからぬ御事にや。また按、関東より申す旨も有りしかば亀山弟順の義を思し召し寄りたりしも知らず。

 弘安四年正月、蒙古の寇の事あり。十年十月、譲位(=後宇多)〈廿一歳〉。在位十三年。

 伏見院は、後深草院が第二子。十一歳にて東宮に立ち、廿三歳にて受禅。後深草院、院中にて御政務あり。此時、太上皇三人あり。後深草を一の院とも本院ともいひ、亀山をば中の院といひ、後宇多を新院といふ。二年(=正応)(1289)四月、帝が第一子胤仁〈後伏見の御事〉東宮に立つ。

 『正統記』に、亀山弟順の義を思食けるにや、此君を〈伏見院の御事〉御猶子として東宮にすゑ給ふ。其後、御心もゆかずあしざまなる事さへ出来て(=後宇多譲位)、践祚(=伏見)ありき。東宮にさへ此天皇の御子ゐ給ひき。関東の輩も〈貞時・宣時(のぶとき)をさすなるべし〉亀山の正統をうけ給へる事(=亀山が正統であること)は知り侍りしかど、近比となりて世を疑はしく(=大覚寺統の謀反)思召ければにや、両皇の〈後深草・亀山〉御流をかはるがはるすゑ申さんと相計らひけるとなむ。

 『異本太平記』に、故院(=後嵯峨)の叡旨、さらに御嫡流本院(=後深草)の御子孫登極(=即位)の事を止め申され、中の院(=亀山)の御一流をのみ将来皇統たる可しとは定め申されけり。武家も年来は此の如くに存じ定め奉りき。されば中の院の御禅位(=譲位)もやがて新院(=後宇多)受継ぎ給ひける。是に依りて本院の方は既に皇位の御競望(けいばう)を断ぜられ、御愁吟を含み、むなしく年月をのみ過されおはしけり。爰(ここ)に弘安の末つかた、持明院殿より、故院の叡思、御正嫡の当流を棄損申され後代の御登極を止申さるゝ御素意にあらざる所見宸翰(しんかん)(=天子の手紙)の御遺状等を、内々関東へ遣はされて愁ひ仰せられしかば、其時、武家承り披(ひら)きけるにより、やがて正応登極の御事をば〈正応は伏見の年号〉持明院殿に執し申しけり。

按ずるに、「後宇多譲位の時、纔か廿一歳なれば、亀山院も残り多く思し召し、主上も本意ならねども、後深草の本院待ちかね給ふべしと関東より奏し申せば、御心のまゝならず譲位ありける」といふ説あり。『異本太平記』にいはゆる、弘安の末に持明院殿関東へ仰せ遣はされしなど見えしは、『正統記』にいはゆる、「そのゝち御心もゆかず、あしざまなる事さへ出で来て、伏見院践祚ありき」、といひし事なるべし。これよりさき、後嵯峨の崩後に、後深草・亀山兄弟御争ひの時に、大宮院殿(=二人の母)の仰せられし処によれば、亀山一流継体たるべしと。今また、持明院殿の仰せられし処によれば、後嵯峨の叡思しかるにあらず。関東の輩いかにとも申し定めがたきによりて、さらば両皇の御流れをかはるがはるすゑ申さむと相はかりしなるべし。たゞし、持明院殿より関東へ遣はされし後嵯峨の御遺状、崩後十数年のゝちに出でしなど心得られず。関東の輩もいぶかしき事にも思ひしなるべけれど、世を疑はしく思ひしほどなれば、「しかるべき事(=好都合なこと)の出来し」と思ひて、さらば両皇の御流れをかはるがはるすゑ申さむと申し定めしなるべし。

 此年(1289)九月、鎌倉の将軍惟康、俄に上洛して〈後嵯峨第一の子宗尊より二代迄、関東の君たりき〉、後深草〈本院なり〉の御子、帝(=伏見)の御弟久明親王を鎌倉へ迎へて君とす〈此時、天子も鎌倉殿も皆後深草の御子なり。鎌倉執権は貞時・宣時等なり〉。三年三月、中の院〈亀山〉・新院〈後宇多〉告文(かうもん)を関東へ遣はさる。

 三月四日に、紫宸殿の獅子・狛犬中より割れたり。人皆怪しみしに、十日の事なるに、天いまだ明けざるに、甲斐源氏の末〈『保歴間記』には小笠原の一族と見ゆ〉、浅原八郎為頼といふ者、禁闕(=宮中)を侵す事あり(=亀山・後宇多の謀反)。

 『増鏡』に、九日、右衛門の陣より武士三四人馬に乗ながら、九重の中へ馳入りて、上に昇りて、女嬬(にようじゆ)(=雑用の女)が局の口に立て、「やゝ」と云ふ物を見上たれば、丈高き恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に緋縅の鎧着て、「帝はいづくに御よる(=寝る)ぞ」と問ふ。「夜の御殿に」といらふれば、「いづくぞ」と又問ふ。「南殿より東北の隅」と教れば、南さまへ歩み行く間に、女嬬内より参て、権大納言の典侍殿・新内侍殿などに語る。上は、中宮の御方に渡らせ給ひければ、対の屋へ忍びて逃げさせ給ひ、春日殿へ女房のやうにて入らせ給ふ。春宮をば中宮の御方の按察殿抱き参らせて、常盤井殿へかちにて逃ぐ。此男からうじて夜の御殿へ尋ね参りたれども、大方人も無し。中宮の御方の侍の長景政と言ふ者、名乗り参りて戦ふ。かく程に、二条京極の篝(=篝屋備後の守)五十余騎にて馳参りてときをつくるに、合する声僅かに聞こえければ、心安くて内に参る。御殿共の格子引かなぐりて乱れ入るに叶はじと思ひて、夜の御殿の御茵(おしとね)の上にて自害しぬ。太郎なりける男は、南殿の御帳の内にて自害しぬ。弟の十九になりけるは、大床子の縁の下に伏して、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが数多して搦めんとすれば、叶はで自害するとて腹をば皆繰り出して手にぞ持たりける。其儘ながら何れも六波羅へかき続けて出だしけり。此事、次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に、三条の宰相中将実盛も召し捕られぬ。三条の家に伝はりて鯰尾(なまづを)とかや云ふ刀にて、彼浅原自害したるなど云ふ事ども出来て、中の院も〈亀山〉知ろし召したるなど言ふ聞こえ有りて、心憂くいみじきやうに云あつかふ。中宮の御兄権大夫公衡、一の院の〈後深草〉御前にて、「此の事は禅林寺殿の〈亀山〉御心合はせたるなるべし。さてなだらかにもおはしまさば、勝る事や出でこん。院〈亀山〉を先づ六波羅に移し奉らるべき事にこそ」など、彼承久の例も引出でつべく申給へば、「いかでかさまではあらむ。実ならぬ事をも人はよく言ひなすもの也。故院のなき御影にもおぼさん事こそいみじけれ」と涙ぐみて宣ふを、心弱くおはします哉と見奉りて、猶内よりの仰せなどきびしき事ども聞ゆれば、中の院も新院も思し驚く。いとあわたゞしき様になりぬれば、いかゞはせんとて、知ろし召さぬ由誓たる御消息など、東へ遣はされてのちぞ事鎮まりにける。さて長月の初つかた、中の院は御ぐしおろさせ給ふ。

按ずるに、此時、中の院鎌倉へうつし申すべしなどいふ事もありしにや、称名寺(=鎌倉)の山かげに亀山殿御座ありしあと也などいふ所あり。その御儲のために御所造られんなどいひし事もありしにや。

 九月、中の院御落飾〈四十一〉。禅林寺殿といふ。今の南禅寺は院の皇居なり。永仁六年、譲位(=伏見)〈三十四〉。持明院殿とも申すなり。在位十一年。

 後伏見は、伏見の第一子。十一歳にて受禅。此時、後深草・亀山・後宇多・伏見上皇四人まします。八月、後宇多の第一子〈後二条〉を東宮に立つ〈帝の再従兄弟、十四歳になり給ふ〉。在位三年にて、正安三年正月、鎌倉より隠岐前司時清・山城前司行貞上洛して降ろしまいらせ、東宮へ御位をゆづらる〈十四歳〉。

按ずるに、此時、鎌倉の執権は貞時なり。

 後二条は、後宇多が第一の子。十七歳にて受禅。八月、伏見が第二子を〈花園の御事〉東宮に立つ〈五歳〉。亀山法皇と後宇多上皇と院中にて御政務。伏見・後伏見の御代には参り仕ふる人も希なりしに、またうつりかはれり。在位六年余にて、徳治三年八月崩ず〈廿四〉。

 花園は伏見院が第二子。十二歳にて即位。伏見上皇、院中にて御政務あり。九月、後宇多法皇が第二子〈後醍醐院〉を東宮にたつ〈廿一〉。『正統記』に、儲君の定ありしに、後二条の一の御子邦良親王居(すゑ)給べきかと聞えしに、思し召す故有りとて、此親王を太子に立て給ふ。彼一の御子幼くましませば、御子(=後醍醐の)の儀にて(=邦良に天皇の位を)伝させ給べし。若し、邦良親王早世の御事あらば、此(=後醍醐)御末(=子孫)継体たるべしとぞしるし置かせましましける。

按ずるに、亀山法皇、邦良幼年にまします故関東に仰せられ定められし也。

 在位十一年にて、文保二年二月、東宮にゆづらる。此時、帝は廿二歳、東宮は三十二歳になり給へば、後宇多法皇をはじめ、その方さまの人待ちかね申さるべき由にて、関東より計らひ申せしとぞ〈高時が世の初めなり〉

 後醍醐は、後宇多が第二子、三十二歳にて受禅にて、後宇多法皇院中にて政務たり。三月、後二条の子邦良親王を東宮に立つ。元亨(げんかう)二年(1322)の夏、法皇より大納言藤定房を御使にて、「政を当今(=後醍醐)に任せられ、閑居あるべし」と関東へ仰せ遣はさる。武家異議なかりしかば、大覚寺殿へうつり給ひぬ。正中元年六月、後宇多法皇崩ず〈五十八〉。九月、土岐頼員(ときよりかず)・多治見国長等、帝の密詔を受けて鎌倉を謀るのよし聞えて、六波羅より兵を遣はしてこれを討つ。二年五月、日野中納言資朝・日野右少弁俊基とらはれて東行す。帝の近臣にて密勅を受けしよし聞えしによりてなり。七月、万里(まで)小路大納言宣房をして告文を高時に給はる。資朝、佐渡へ流され、俊基は許されて帰り、朝廷無事になりたり。

按ずるに、高倉院厳島御幸の時、清盛入道誓紙を給はるよしをいい伝ふ。これは入道逆威(=暴威)を恣にして強い申したるなり。そのゝち、亀山・後宇多、関東へ告文を給りしは、浅原が事により、世の浮説を仰せ開(=申し開)かれんために、万乗の尊を屈して陪臣に向ひて誓はせ給ふ。こゝに至りて、王威地に堕ちたり。此たび後醍醐また告文を下されしこと、しばらく関東の疑ひを解かしめて、御宿意を果されん為の叡謀によれりともいはむ歟。されど帝徳の御累(わづらひ)とぞ申すべき。

 嘉暦元年(1326)三月、東宮邦良薨ず〈廿四〉。七月、後伏見上皇が第一子〈光厳院の御事〉を東宮に立つ〈十四〉。帝の御子は多かりしかど、東宮立坊は関東よりの計らひなれば、御心に任せられず。

 元徳二年(1330)四月朔日、中原章房、盗(ぬすびと)のために殺さる。『常楽記』には、大判官章房とあり。

 『異本太平記』に、章房、清水寺に詣でて下向の時、西の大門にて八幡をふし拝みしに、小雨降りけるに蓑笠にはゞき(=脚絆)したるもの一人、後を過ぎると見えしが、太刀を抜きて章房が首をうちおとして坂を下り行く。下人四五人、「あれや」とて主の持たせし太刀を抜きて逐ひしかど、後ろ影だに見えずなりたり。この章房は、中家一流の棟梁、法曹一道の碩儒(=碩学)、しかも四朝に仕へて一家の世誉を得たり。殊に当代無双の恩沢に浴し、夙夜無二の拝趨(=参上)を致し、すべて釐務(りむ)の断獄(=断罪)、朝儀の裁断、君臣の顧問を得しかば、皇家の輔弼たりしに、かゝる殃災(あうさい)の出来し事、朝の愁嘆、道の衰微なり。子息章兼・章信等、嫌疑をたゞし仇敵を索(もと)むるに、いかにしてか聞出だしけむ、東山の雲居寺の南の門の東南の川の岸の上に一宇あり。瀬尾兵衛太郎并びに同郷房といふものなり。名誉の悪党かくれなき者なり。しかるに彼らが殺害疑なしときゝ定めければ、章兼は折ふし病床に伏して行向はず。舎弟章信、庁の下部(しもべ)十四五人・郎従下人三十余人具して、白墺(しろあを)(=狩衣)に着籠(=鎖帷子)に帯剣し、小八葉の車にて、未明に彼の在所へぞ寄せたりける。是非なく彼屋を取巻き、屋の内を探しけるに、人一人も見えず。また本人他行(=外出)の家とも見えず。ぬり籠まで打破り、板敷の下まで探しけれども人一人もなし。力無く帰らむとする処に、心早きもの走り返りて、薦(こも)天上構へたるを見上げたるに、人の衣装のつま少し見えければ、まづ長刀にて天上をはね破るに、人こそ隠れ居たりけれ。すでに見付けられぬと思ひて、太刀ぬきて男一人おどり下らんとしける処を、下ろしもたてず長刀にて股わきを刺す。刺されながら飛下りけるを、寄せ合はせて搦めむとしけれども、名誉の手きゝなれば、手負ひ足たゝねども、散々に切りはらひて、寄りつくべくもあらざりしを、郎従一人後ろより太刀取り直し小脇を刺す。刺されてひるむ所を、庁の下部彦武といふもの組伏す。此男はじめの勢にも似ず、事の外に弱りければ、やがて押へて首を取る。此章房は一道(ひとみち)の儒宗(=儒学者)、当職(=現職)の廷尉(=検非違使)として義を正し利を断りければ、もし検断(=刑事)訴訟の由来によりて、みだりに鬱憤をいだき、怨念を結ぶ人やありけむ。または、旦暮の拝趨叡賞、他に異なれば、もし権をそねみ禄を奪はんとにやありけむ。本人も親昵(=親戚)もかねて宿敵を覚らねば、傍輩等倫(=同僚)の怨望一端もなかりき。しかるに彼災害、万人の疑ひ浅からず。爰に退きて子細を尋ぬるに、此章房は無二の拝趨年積り、恐らくは匡弼(きやうひつ)の器たりしかば恩寵も浅からざりしに付きて、これは叡旨をも重くし公儀をも背くまじき者と思し召され、年来の叡念をある時あらはされて、関東征伐の事を仰せ出だされしに、章房身を顧みず、義を貽(のこ)さず真実の諫言を奉りければ、不直梟悪(けうあく)をさしはさみ偏頗(=反逆)漏脱(=密告)の事あるべき器にあらざれども、叡慮に一味(=参加)し奉らざりし事を深く怖れ給ひて、近臣成輔朝臣(=平氏)に仰せ談ぜられしかば、かの名誉の悪党に縁をさぐり禄を与へて、窃かに章房をうかゞはせければにや、果して此事を達せり。されば彼が横死も、天下大変の端として朝議より出けると、後こそ粗(あらあら)聞えけれ。

按ずるに、これらの事によりて帝の御心を観るに、帝業つひに全からざりし事むべなり。

 此月、帝、東大寺・興福寺・延暦寺へ行幸。かの僧徒を語らひ関東を謀り給ふ。五月、僧円観・文観・忠円等とらはれて東行流刑。日野資朝佐渡にて殺され、七月、俊基ふたゝび関東に召しよせられて殺さる。

 元弘元年八月、関東の使二人上洛。これ帝并びに尊雲法親王(=護良親王)を流し参らせむ為なり。帝、笠置に行幸。九月、笠置陥り帝蒙塵。路にて捕はれて六波羅に入り給ひぬ。在位十三年。時に四十九歳。

 光厳院、元弘元年(1331)十月御即位〈十九〉。後二条の孫、邦良の子康仁を東宮とす。

按ずるに、亀山の御のちにて後醍醐かくましませしに、後二条の御孫を東宮と計らひ申しけるは、武家なほ義の厚きとや云はまし。

 明くれば正慶元年三月、後醍醐隠岐へ遷幸。

 此帝在位纔に二年にて、正慶二年の三月北条滅びて〈八代にて百五十四年〉、後醍醐重祚たり。


八変 

一、後醍醐復位の事

 後醍醐、元弘三年〈すなはち正慶二年なり〉六月、皇位を復し給ひ、その明年を建武と号す。建武二年の八月、源尊氏叛し、三年の八月、尊氏、光厳の御弟光明院をたてゝ共主とす。十月に後醍醐、尊氏が軍門に降り給ひて叡山を御下りありしを、花山院に捕へまいらす。

九変

一、南北分立の事

 その十二月に吉野へ奔り給ひき。これより吉野殿を南朝といひ、武家の共主を北朝と申せしなり。されば後醍醐重祚ののちは、天下の一統三年にだに満たずして南北に分れしなり。そののち後醍醐帝、吉野殿にましますこと四年にして、延元四年〈北朝にては暦応二年〉八月十六日に崩じ給ふ〈御とし五十三〉。後村上院、位を継がせ給ひて在位三十三年。建徳二年〈北朝にては後光厳の応安四年、義満将軍の時なり〉三月、崩じ給ひぬ〈四十三〉。後亀山院即位ましまし、在位十九年にて、北朝後小松院の明徳三年閏十月、南北御和睦にて、ありし世の如く持明院殿と大覚寺殿とかはるがはる御治世あるべしとて、南帝御入洛にて大覚寺殿に入らせ給ひ、三種の神器を北朝へ渡されき〈南北分立五十六年〉。義満将軍の代の比ほひにてありき。此のち、またかねてのあらまし(=約束)に違ひて、大覚寺殿の御流れ代をしろしめされざりしかば、南方の人々憤りて軍起りしかど、南軍終に利なくて、後花園院の長禄二年(1458)六月、後亀山の御子南帝高福院殿、討たれ給ひしかば、こゝにて南帝の皇統は絶えしなり〈明徳三年より、こゝに至りて六十七年なり。前後合はせて南朝百廿余年がほどなり〉。

按ずるに、さても後醍醐不徳にておはしけれども、北条が代の亡ぶべき時にあはせ給ひしかば、暫しがほどは中興の業を起させ給ひしかど、やがてまた天下乱れて、つひに南山に逃れ給ひき。されどまさしく万乗の尊位を践(=実践)ませ給ひし御事にて、三種の神器を御身に従へさせ給ひしかば、時の関白近衛左大臣経忠をはじめて〈光明院御代のはじめ、建武四年四月なり〉、忠をも存し義をも知れる朝臣、多くは南朝に赴き仕へられき〈北朝にては、経忠の従弟前内府基嗣を関白とす。これ今の近衛殿の祖〉。武家の輩も又かくぞありける。されば足利殿の代となりても、なほ従ひ参らせぬ国々猶多かりき〈後亀山の始、南朝の御領、河内・大和・和泉・紀伊・伊賀・伊勢・志摩・飛騨・信濃・上野・越後・伊予・備前・石見・長門・越中・肥後・日向・大隅・薩摩等二十州におよぶ〉。しかれども終に運祚(=天子の運命)の開けさせ給ふ事なかりし事は、皆これ創業の御不徳によりて、天の与みし給はぬに由ればなるべし。

北朝は、たゞ足利殿の、君に叛き参らせられて、臣として天下を争ひ給ふ事をさすが心の内に恐れ給ひ、かつはその戦に毎度利なかりしに由りて、すゝめ申す者どもありしかば、やがて光明院殿を君として、南北両帝の御争ひの如くには取りはかられしなり。されば心ある人々は北朝に仕ふることをば恥づかしきことに思ひし。『太平記』等の物語にも、持明院殿は大果報(=幸福者)の人にて、将軍より天子を給らせ給ひしなど、世の人いひもてはやしけると見えたり。さらば北朝は、全く足利殿のみづからのために立て置き参らせられし所にて、まさしき皇統とも申しがたければ、或は偽主・偽朝なども、その代には言ひしとぞ見えたる。

そのかみ鎌倉殿天下の事を行はれしかど、猶王朝の命(=命令)は及ぶ所もありき。義時が代に廃立を恣になしけるより、陪臣として国命をつかさどりしかど、さすがいにしへの姿世に残りしかば、後醍醐の兵起させ給ひし時に及びて、猶王命に応ずるもの多かりき。そののち南山に逃れ給ひしのちも、なほ六十余州が内三分が一つは、天下に王まします事を知りき。南朝すでに亡び給ひしのちは、天下の人皇家ある事を知らず。豊臣の太閤の代のはじめ、皇家の威を仮りまいらせて、天下を掌にすべしと思ひて、事ごとに勅詔を称せられしかど、誰かはそれに応ぜしものある。その中、かれになびき従ひし者どもは、たゞその兵力を恐れしが故なり。さらに皇威に服せしにはあらず。かく王家の衰へ給ひし事のよしを按ずるに、はじめ文徳の幼子をもて儲位にたて給ひしより起りて、終には院中の御政務に及びて、其威権を合はせて武家に仮(=貸)しあたへさせ給ひしに、事なりぬ。さらば一日二日に万機ありといふ事(=大事な事が一日の事で決まつてしまふこと)、もつともよく心得らるべき事にや。

    (『読史余論』上、終り)


 このテキストは岩波書店刊『日本思想大系35新井白石』(1975年7月4日第1刷)を主とし、岩波文庫『讀史餘論』を従として入力したものである。いずれのテキストにも誤植があるので適宜修正した。原文は送りがなが少なく、ひらがな表記が多いので、適宜自分の解釈に従つて、送りがなを増やし、ひらがなを漢字に変へた。仮名づかひは歴史的仮名づかひに改めた。

 『読史余論』上には現代語訳がないが、中と下は中央公論社刊『日本の名著15新井白石』の現代語訳がある。ただし、白石引用の歴史書の翻訳は、芝蘭堂の翻訳の方が正しい場合があるので参照の事。また、 中央公論社刊『日本の名著9』の『神皇正統記』の現代語訳は白石引用文の訳として、『愚管抄』の現代語訳は白石が扱つた事件の多くを別角度で書いたものとして、どちらも有用で読みやすい。


なほ日本思想大系本『読史余論』上における明らかな誤植は以下の通り。(数字はページ数 行数。「後」は後ろから数えた行数)

 185 7 <二変>此時 → <二変><此時
 193 頭注 九年時平薨 道具 → 道真  天慶五年七月 道長 → 道真
 197 1 兼家、女 → 兼家女、
    7 詔叡山 → 詔叡山
 202 8 帝の娣 → 帝の姨
 204 頭注 系図 後冷泉天皇の母は禎子内親王 → 後冷泉天皇の母は藤原嬉子
 206 頭注 前斎院 皇女娼子 → 皇女娟子
 208 1 ぎのあした → つぎのあした
 222 7 頭注 瞽膄 → 瞽瞍
 225 後3 御乳母の別当 → 御乳母の子別当
 226 後7 心さか → 心さかし
 235 5 讒に七千 → 纔に七千

※誤字脱字間違いに気づいた方は是非教えて下さい。

2005.5  Tomokazu Hanafusa / メール




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