基督信徒のなぐさめ



内村鑑三


回顧三十年

 此書今年を以て発行満三十年に達す。大なる光栄である。感謝に堪へない。


 今より三十年前に日本に於て日本人の基督(キリスト)教文学なる者はなかつたと思ふ。若しあつたとすれば、それは欧米基督教文学の翻訳であつた。日本人自身が基督教の事に就て独創の意見を述べんと欲するが如き、僭越の行為である乎(か)の如くに思はれ、敢て此事を為す者はなかつた。

 丁度其頃の事であつた、米国の学校に於て余と同級生たりし米国人某氏が余を京都の寓居に訪うた。彼れは余に問うて曰うた「君は今何を為しつつある乎」と。余は彼に答へて曰うた「著述に従事しつつある」と。彼は更に問うて曰うた「何を翻訳しつつある乎」と。余は答へて曰うた「余は自分の思想を著(あら)はしつつある」と。此答に対して彼は「本当に(インデイード)!」と曰ふより他に辞(ことば)がなかつた。

 誠に当時の米国人(今も猶(なほ)然り)の日本の基督信者に対する態度は大抵如斯(かくのごとき)ものであつた。そして如斯き時に方(あたつ)て、欧米の教師に依らずして、直に日本人自身の信仰的実験又は思想を述べんと欲するが如きは大胆極まる企図(くはだて)であつた。

 然るに余は神の佑助(たすけ)に由り恐る恐る此事を行(や)つて見た。殊に何よりも文学を嫌ひし余のことであれば、美文として何の取るべき所なきは勿論であつた。余はただ心の中に燃(もゆ)る思念(おもひ)に強ひられ止むを得ず筆を執(と)つたのである。


 此事初めて出て第一に之を歓迎して呉れた者は当時の『護教』記者故山路愛山君であつた。君は感興の余り鉄道馬車の内に在りて之を通読したりと云ふ。然し其他に基督教界の名士又は文士にして之を歓迎して呉れた者はなかつた。

 或ひは「困難の問屋(とひや)である」と云ひて冷笑する者もあり、或は「国人に捨てられし時」などと唱へて自分を国家的人物に擬するは片腹痛しと嘲(あざ)ける者もあつた。

 然し余は教会と教職とに問はずして直に人の霊魂に訴へた。而して数万の霊魂は余の霊魂の叫(さけび)に応へて呉れた。

 余の執筆の業は此小著述を以て始つた。余は此著を以て独り基督教文壇に登つた。而して教会並に教職の同情援助は余の身に伴(ともな)はざりしと雖(いへど)も、神の恩恵と平信徒の同情との余に加はりしが故に、余は今日に至るを得たのである。教会の援助同情の信仰的事業の成功に何等の必要なき事は此一事を以ても知らるるのである。

 神は日本人を以て日本国を救ひ給ふと信ずる。神は日本に日本特有の基督教文学を起し給ひし事を感謝する。此書小なりと雖も、外国宣教師の手を離れ、教会の力を藉(から)ずして、直に神に聴(きき)つつ其御言を伝うる率先者の一たりし事を以て光栄とする。

 余はまた茲(ここ)にエベネゼル(助けの石)を立て、サムエルと共に之に記(しる)して曰ふ「ヱホバ茲まで我を助け給へり」と。(撒母耳(サムエル)前書七章十二節)

大正十二年(一九二三年)二月七日
                  東京市外柏木に於て 内村鑑三

自序

 心に慰めを要する苦痛あるなく、身に艱難の迫るなく、平易安逸に世を渡る人にして、神聖なる心霊上の記事を見るも、唯人物批評又は文字解剖の材料を探るにとどまるものは、些少の利益をも此書より得ることなかるべし。


 然(しか)れども信仰と人情とに於ける兄弟姉妹にして、記者と共に心霊の奥殿に於て霊なる神と交はり、悲哀に沈む人霊と同情推察の交換を為さんと欲するものには、此書より多少の利益を得ることならんと信ず。


 此書は著者の自伝にあらず。著者は苦しめる基督信徒を代表し、身を不幸の極点に置き、基督教の原理を以て慰めんことを力(つと)めたるなり。書中引用せる欧文は、必要と認むるものにして原意を害(そこな)はずして翻訳し得るものは、著者の意訳を附したり。然れども訳し得ざるもの、又は訳するの必要なきものは、其の儘に存し置けり、故に欧文を解し得ざる人と雖(いへど)も、此書を読むに於て少しも不利益を感ぜざることを信ず。

                     明治二十六年一月廿八日
                        摂津中津川の辺に於て
                               内村鑑三

改版に附する序

 此書初めて成るや余は勿論先づ第一に之を余の父に送れり(彼は今は主に在りて雑司ヶ谷の墓地に眠る)。彼れ一読して涙を流して余に告げて曰く、此書成りて今や汝は死するとも可なり、後世、或は汝の精神を知る者あらんと。余は又其一本を余の旧友M・Cハリス氏に贈りたり(彼は今や美以教会の監督として朝鮮国に在り)。彼れ一読して余に書送して曰く、此書蓋(けだ)しペンが君の手より落ちて後にまで存せんと。

 斯くて余の父と友とに祝福せられて世に出し此小著は彼等の予期に違(たが)はず、版を摩滅すること二回に及びて、更に又茲に改版を見るに至れり。其文の拙なる、其想の粗なる、取るに足らざる書なりと雖も、而かも其発刊以来十八年後の今日猶(な)ほ需要の絶えざるを見て、余は暫時的ならざる小著を余に供せしの特権に与(あづか)りしを深く神に感謝せざるを得ず。

 願ふ、余の慈父と師友との祈祷空しからずして、此著の更に世の憂苦を除き去るの一助として存せんことを。
                 一九一〇年六月廿三日            
                    東京市外柏木に於て 内村鑑三


第一章 愛するものの失せし時

 我は死に就ては生理学より学べり。之を詩人の哀歌に読めり。之を伝記者の記録に見たり。時には死体を動物学実験室に解剖し、生死の理由を研究せり。時には死と死後の有様に就て、高壇より公衆に向て余の思想を演(の)べたり。

 人の死するを聞くや、或は聖経の章句を引用し、或は英雄の死に際する時の状(さま)を語つて、死者を悲しむ者を慰めんとし、若(も)し余の言(ことば)に依て気力を回復せざるものある時は、余は心窃(こころひそか)に其人の信仰薄きを歎じ、理解の鈍きを責めたり。

 余は知れり、死は生を有するものの避くべからざる事にして、生物界永続の為に必要なるを。且つ思へらく古昔(いにしへ)の英雄或は勇み或は感謝しつつ世を去れり、余も何ぞ均(ひと)しく為す能(あた)はざらんや、殊に宗教の助(たすけ)あり、復活の望(のぞみ)あり、若し余の愛するものの死する時には、余は其枕辺(まくらべ)に立ち、讃美の歌を唱へ、聖書を朗読し、曾(かつ)て彼をしてその父母の安否を問はんが為め一時郷里に帰省せしめんとして、讃美と祈祷とを以て彼の旅立を送りし時、暫時の離別も苦しけれども復(また)遭ふ時の悦(よろこび)を楽しみ、涙を隠し愁苦(いうく)を包み、潔(いさぎ)よく彼の門出を送りし如く、彼の遠逝(えんせい)を送らんのみと。


 嗚呼(ああ)余は死の学理を知れり。又心霊上其価値を悟れり。然れども其深さ、痛さ、悲しさ、苦しさは、其冷たき手が余の愛するものの身に来り、余の連夜熱血を灌(そそ)ぎて捧げし祈祷をも顧みず、余の全心全力を擲(なげう)ち余の命を捨てても彼を救はんとする誠心(まごころ)をも顧みず、無慙(むざん)にも無慈悲にも余の生命(いのち)よりも貴きものを余の手よりもぎ取り去りし時、初めて実感するを得たり。


 生命は愛なれば、愛するものの失せしは余自身の失せしなり。此完全最美なる造花、其幾回(いくたび)となく余の心をして絶大無限の思想界に逍遥せしめし千万の不滅灯を以て照らされたる蒼穹(あおぞら)も、其春来る毎に余に永遠希望の雅歌を歌ひくれし翼(つばさ)を有する森林の親友も、其菊花香(かんば)しき頃巍々(ぎぎ)として高天に聳(そび)え常に余に愛国の情を喚起せし芙蓉(ふよう)の山も、余が愛するものの失せてより、星は光を失ひて夜暗く、鶯は哀歌を奏して心を傷ましめ、富嶽も今は余のものならで、曾て異郷に在りし時、モナドナックの倒扇形(たうせんけい)を見、コトバキシの高きを望みし時、我故郷ならざりしが故にその美と厳とは却(かへつ)て孤独悲哀の情を喚起せし如く、此世は今は異郷と変じ、余は尚(な)ほ今世(こんせい)の人なれども、既に此世に属せざるものとなれり。


 愛するものの死せしより来る苦痛は、僅(わづか)に此世を失ひしに止まらざりき。此世は何時か我等の去るべきものなれば、今之を失ふも三十年の後に失ふも大差なかるべし。

 然れども余の誠心(まごころ)の貫かれざるより、余の満腔(まんかう)の願として溢れ出でし祈祷の聴かれざるより(人間の眼より見れば)、余は懐疑の悪鬼に襲はれ、信仰の立つべき土台を失ひ、之を地に求めて得ず、之を空に探りて当らず、無限の空間余の身も心も置くに処なきに至れり。

 之ぞ無間地獄(むげんぢごく)にして、永遠の刑罰とは此事を云ふならんと思へり。余は基督教を信ぜしを悔いたり。若し余に愛なる神てふ思想なかりせば、此苦痛はなかりしものを。余は人間と生まれしを歎ぜり。若し愛情てふものの余に存せざりしならば、余に此落胆なかりしものを。嗚呼如何にして此傷を癒(いや)すを得んや。


 医師余の容態(ようだい)を見て興奮剤と催眠薬とを勧む。然れども何物か傷める心を治せんや。友人は転地と旅行を勧む。然れども山川今は余の敵なり。哲理的冷眼を以て死を学び、思考を転ぜんとするも得ず、牧師の慰言(いげん)も親友の勧告(すすめ)も今は怨恨(うらみ)を起すのみにして、余は荒熊のごとくになり、「愛するものを余に返せ」と云ふより外はなきに至れり。


 嗚呼余を医する薬はなきか。宇宙間余を復活せしむるの力は存せざるか。万物悉(ことごと)く希望あり、余のみ失望を以て終るべきか。


 時に声あり胸中に聞ゆ。細くして殆ど聴取し難し。尚ほ能く聞かんと欲して心を鎮(しづ)むれば其声なし。然れども悪霊懐疑と失望とを以て余を挫(くじ)かんとする時其声また聞ゆ。曰く

 『生は死より強し。生は無生の土と空気とを変じてアマゾンの森となすが如く、生は無霊の動物体を取りて汝の愛する真実と貞操との現象となせしが如く、生は人より天使を造るものなり。

 『汝の信仰と学術とは未だ茲に達せざるか。此地球が未だ他の惑星と共に星雲として存せし時、又は凝結少しく度を進めて一つの溶解球たりし時、是ぞ億万年の後シャロンの薔薇を生じレバノンの常磐樹(ときはぎ)を繁茂せしむる神の楽園とならんとは、誰か量り知るを得んや。

 『最初の博物学者は蛄蟖(けむし)の変じて蛹(まゆ)と成りしときは、生虫は死せしと思ひしならん。他日美翼を翻(ひるが)へし日光に逍遥する蝶は、曾て地上に匍匐(ほふく)せし醜(みにく)かりしものなりしとは、信ずることの難かりしならん。

 『暗黒時代より自由信仰と代議政体生れ、「三十年戦争」の舞台として殆ど砂漠と成りし独逸(ドイツ)こそ、今は中央欧羅巴(ヨーロッパ)の最強国となりしにあらずや。地球と人類とが年を越ゆる程、生は死に勝ちつつあるにあらずや。

 『然(さ)らば、望と徳とを有し、神と人とに事(つか)へんと己を忘れし汝の愛するものが、今は死体となりしとて何ぞ失望すべけんや、理学も歴史も皆希望を説教しつつあるに、何ぞ汝独り失望教を信ずるや』と。

 "Life mocks the idle hate
  Of his arch-enemy Death,--yea sits himself
  Upon the tyrant's throne,the sepulchre,
  And of the triumphs of his ghostly foe
  Makes his own nourishment." --Bryant

 然り余は信ず、余の救主(すくひぬし)は死より復活し給ひしを。義人を殺して其人死せりと信ぜし猶太人(ユダヤびと)の浅墓さよ。何ぞヒマラヤ山を敲(たた)きて山崩れしと信ぜざる。

 余が愛するものは死せざりしなり。自然は自己の造化を捨てず、神は己の造りしものを軽んずべけんや。彼の体は朽ちしならん、彼の死体を包みし麻の衣は土と化せしならん、然れども彼の心、彼の愛、彼の勇、彼の節ーー嗚呼若し是等も肉と共に消ゆるならば万有は我等に誤謬を説き、聖人は世を欺きしなり。余は如何にして、如何なる体を以て、如何なる処に再び彼を見るやを知らず。唯

  "Love does dream,Faith does trust
   Somehow,somewhere meet we must."
                --Whittier
 愛の夢想を我れ疑はじ
 何様(どう)か何処(どこ)かで相見んと。
               (ホイッチャー)


 然れども彼は死せざるものにして、余は何時か彼と相会することを得ると雖も、彼の死は余に取ては最大不幸なりしに相違なし。神若し神ならば何故に余の祈祷を聴かざりしや。神は自然の法則に勝つ能はざるか。或は祈祷は無益なるものなるか。或は余の祈祷に熱心足らざりしか。或は余の罪深きが故に聞かれざりしか。或は神余を罰せんが為に此不幸を余に降(くだ)せしか。是れ余の聞かんと欲せし所なり。


 細き声また曰く『自然の法則とは神の意なり。雷(いかづち)は彼の声にして嵐は彼の口笛なり。然り、死も亦彼の天使にして、彼が彼の愛するものを彼の膝下に呼ばんとする時、遣(つか)はし給ふ勅使なり』と。


 嗚呼誰か神意と自然の法則とを区別し得るものあらんや。神若し余の愛するものを活かさんと欲せば、自然の法則に依て活かせしのみ。余輩神を信ずるものは之に由て神に謝す。然れども神を信ぜざる者は或は之を医薬の効に帰し、或は衛生の力に帰し、治癒の源(みなもと)なる神を讃美せざるなり。神の何たるを知り、自然の法則の何たるを知らば、神は「自然に負けたり」との言は決して出づべきものにあらず。


 然らば祈る何の要かある。神は祈祷に応じて雨を賜はず、又聖者の祈祷に反して種々の艱苦を下せり。祈らずして神命に従ふに若(し)かず。祈祷の要は何処(いづこ)にありや。


 是れ難問題なり。余は余の愛するものの失せしより後数月間、祈祷を廃したり。祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓ひし余さへも、今は神なき人となり、恨(うらみ)を以て膳に向ひ、涙を以て寝床に就き、祈らぬ人となり了(をは)れり。

 嗚呼神よ恕(ゆる)し給へ。爾(なんぢ)は爾の子供を傷(きづつ)けたり。彼は痛(いたみ)の故に爾に近づく能はざりしなり。爾は彼が祈らざるが故に彼を捨てざりしなり。否、彼が祈りし時に勝りて爾は彼を恵みたり。彼れ祈り得る時は爾の特別の恵みと慰めとを要せず。彼れ祈る能はざる時彼は爾の擁護を要する最も切なり。

 余は慈母が、その子病(やまひ)に臥(ふ)して言語(ことば)に礼を失し易く、小言がましき時に当て、慈愛の情の平常に勝りて、病児を看護するを見たり。

 爾無限の慈母も亦余の痛める時に余を愛すること、余の平常無事の時の比に非ざるなり。余の愛するもの失せて後、余が宇宙の漂流者となりし時、其時こそ爾が爾の無限の愛を余に示し得る時にして、余が爾を捨んとする時、爾は余の迹(あと)を逐(お)ひ、余をして爾を離れ得ざらしむ。


 然り祈祷は無益ならざりしなり。十数年間一日の如く朝も夕も爾に祈りつつありしが故に、今日此思はざるの喜びと慰めとを爾より受くるを得しなり。


 嗚呼父よ、余は爾に感謝す、爾は余の祈祷(いのり)を聴き給へり。爾曾て余に教へて曰く、肉の為に祈る勿れ霊の為に祈れと。而して余は余の愛するものと共に爾に祈るに、この世の幸福を以てせざりしなり。若しその為めに祈りし時は、必ず「若し御心に適(かな)はば」の語を付せり。

 自己の願事(ねぎごと)を聴かば信じ、聴かずば恨むは、是れ偶像に願を掛くるものの為す所にして、基督信者の為すべき事にあらざるなり。嗚呼余は祈祷を廃すべけんや。余は今夕より以前に勝る熱心を以て、同じ祈祷を爾に捧ぐべし。


 時に悪霊余に告げて曰く『汝祈祷の熱心を以て不治の病者を救ひし例を知らざるか、汝の祈祷の聴かれざりしは汝の熱心足らざりしが故なり』と。

 若し然らば余の愛するものの死せしは、余の熱心の足らざりしが故か。然らば彼を死に至らしめし罪は余にあり。余は実に余の愛せしものを殺せしものなり。若し熱心が病者は救ひ得ば、其熱心を有せざる人こそ憐れむべきかな。

 余は余の信仰の足らざるを知る。然れども余は余の熱心のあらん限り祈りたり。而して聴かれざりしなり。若し尚ほ余の熱心の足らざるを以て余を責むるものあらば、余は余の運命に安んずるより他に途なきなり。


 嗚呼神よ、爾は我等の有せざるものを我等より要求し給はざるなり。余は余の有するだけの熱心を以て祈れり。而して爾は余の愛するものを取去れり。父よ、余は信ず、我等の願ふ事を聴かれしに依りて爾を信ずるは易し、聴かれざるに依りて尚ほ一層爾に近づくは難し。

 後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなり。若し我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならんか、爾は必ず我の祈繭を聴かれしならん。


 嗚呼感謝す、嗚呼感謝す、爾は余の此大試練に堪ふべきを知りたればこそ余の願を聴き給はざりしなれ。余の熱心の足らざるが故にあらずして、却て余の熱心(爾の恵みに因(よ)りて得し)の足るが故に、余に此苦痛ありしなり。嗚呼余は幸福なるものならずや。


 愛なる父よ、余は信ず爾は我等を罰せん為めに艱難を下し給はざる事を。罰なる語は、爾の如何なる者なるかを知る者の字典の中に存すべき語にあらざるなり。

 罰は法律上の語にして、基督教てふ律法(おきて)以上の教に於ては用もなき意味もなき名詞なり。若し強ひて此語を存せんとならば、「暗く見ゆる神の恵」なる定義を附して存すべきなり。刑罰なる語を以て爾に愛せらるるものを屢々威嚇する爾の教役者をして、再び爾の聖書を探らしめ、彼等の誤謬を改めしめよ。


 然れども余に一事忍ぶべからざるものあり。彼は何故に不幸にして短命なりしか。彼の如き純白なる心霊を有しながら、彼の如く全く自己を忘れて彼の愛するものの為めに尽しながら、彼に一日も心痛なきの日なく、此世に眼開(めひらい)てより眼を閉ぢしまで、不幸艱難打続き、而して後彼れ自身は非常の苦痛を以て余を終れり。此解すべからざる事実の中に如何なる深義の存するか、余は知らんと欲するなり。


 聖書に云はずや、地は神を敬するもの為に造られたりと(ヨブ記十五章十九節)。然るに此最も神を慕ひし者は、最もわづかに此世を楽んで去れり。

 ブラヂル国の砂中に埋もる大金剛石は誰の為めに造られしや。無辜を虐げ真理を蔑視する女帝、女王の頭を飾る為めにか。或は安逸以て貴重なる生命を消費し、春は花に遊び秋は月に戲れ、此の神聖なる神の工場(God'Task-garden)を以て一つの遊戯場と見做す懶惰男女の指頭と襟とに光沢を加へん為にか。

 東台の桜、亀井戸の藤は、黄白(=お金)の為めに身を汚し天使の形に悪鬼の靈を注入せし妖怪の所有物なるか。誰(た)が為めに富岳は年々荘厳なる白冠を戴(いただ)くや。誰が為めに富士川の銀線は其麓を縫ふや。

 最も清きもの最も愛すべきものには、朝より夕まで、月満ちてより月欠くるまで、彼の視線は一小屋の壁に限られ、聴くべきものとては彼の援助(たすけ)を乞ふ痛めるものの声あるのみ。嗚呼造化は此最良最美の地球を悪魔と其子供とに譲与せしか。


 此深遠なる疑問に対し答ふる所二個あるのみ。即ち神なるものは存在せざるなり。又は此地球に勝る世界の、義人の為めに備へらるるあるなり。

 而して若し神なしとせば真理なし。真理なしとせば宇宙を支ふる法則なし。法則なしとせば我も宇宙も存在すべきの理なし。故に我自身の存在する限りは、此天此地の我目前(めのまへ)に存する限りは、余は神なしと信ずる能はず。

 故に理論は余をして、已むを得ず未来存在を信ぜざるを得ざらしむ。若し神はブラヂルの金剛石、ボゴタの靑玉(せいぎよく)、オフルの黄金を以て懶惰貪慾不義を粧(よそほ)ひ給ふならば、勤勉無私貞節を飾る其石其金は如何なるものぞ。

 コーノイル、オルロー(共に大金剛石の名)の宝石を以て冠(かんむり)を編み、ペルシャの真珠百千を以て襟飾(えりかざり)となし、ウラルの白銀、オルマッヅの金を打つて腕輪となして彼を飾るも神は尚ほ足らずとなし、別に我等の知らざる結晶体を造り、金に優る鉱物を製し、彼を粧ひつあるならん。

 然り此地は美にして其富は大なり。然れども佞人(ねいじん)も之を手にするを得べきものなれば、決して無窮の価値を有するものにあらず。我の欲する所のものは悪人の得る能はざるもの、楽しみ得ざるものなり。義人の妝飾(かざり)は「髪を辮(あ)み金を掛けまた衣を着るが如き外面の妝飾(かざり)に非ず、ただ心の内の隠れたる人すなはち壊(くつ)ることなき柔和恬静(おだやか)なる靈」なり。


 余は了解せり宇宙の此隠語を。此美麗なる造化は我等が之を得ん為めに造られしにあらずして、之を捨てんが為めに造られしなり。否、人若し之を得んと欲せば先づ之を捨てざるべからず(マタイ伝十六章廿五節)。誠に実に此世は試錬の場所なり。

 我等意志の深底より世と世のすべてを捨去りて後初めて我等の心霊も独立し、世も我等のものとなるなり。死にて活き、捨てて得る。基督教のパラドックス(逆説)とは此事を云ふなり。

 余の愛するものは生涯の目的を達せしものなり。彼の宇宙は小なりき。然れども其小宇宙は彼を靈化し、彼を最大宇宙に導くの階段となれり。然り神は此地を神を敬するものの為めに造り給ひしなり。


 余の失ひしものを思ふ毎に、余をして常に断腸後悔殆ど堪ふる能はざらしむるものあり。彼が世に存せし間余は彼の愛に慣れ、時には不興を以て彼の微笑に報い、彼の真意を解せずして彼の余に対する苦慮を増加し、時には彼を呵斥(かせき)し、甚しきに至りては彼の病中余の援助を乞ふに当てーー仮令(たとひ)数月間の看護の為めに余の身も精神(こころ)も疲れたるにもせよーー 荒らかなる言語(ことば)を以て彼に答へ彼の乞に応ぜざりし事ありたり。

 彼は渾(すべ)て柔和に渾て忠実なるに、我は幾度か冷酷にして不実なりき。之を思ひて余は地に恥ぢ天に恥ぢ、報ゆべきの彼は失せ、宥(ゆるし)を乞ふの人はなく、余は悔い能はざるの後悔に苦しめられ、無間地獄の火の中に我と我身を責め立てたり。


 一日余は彼の墓に至り、塵を払ひ花を手向け、最高(いとたか)きものに祈らんとするや、細き声ありーー天よりの声か彼の声か余は知らずーー余に語つて曰く

 『汝何故に汝の愛するものの為めに泣くや。汝尚ほ彼に報ゆるの時をも機(をり)をも有せり。彼の汝に尽せしは汝より報(むくい)を得んが為めにあらず。汝をして内に顧みざらしめ、汝の全心全力を以て汝の神と国とに尽さしめんが為めなり。

 『汝若し我に報いんとならば此国此民に事(つか)へよ。かの家なくして路頭に迷ふ老婦は我なり。我に尽さんと欲せば彼女に尽せ。かの貧に迫(せ)められて身を恥辱の中に沈むる可憐の少女は我なり。我に報いんとならば彼女を救へ。かの我の如く早く父母に別れ憂苦頼るべきなき児女は我なり。汝彼女を慰むるは我を慰むるなり。

 『汝の悲歎後悔は無益なり。早く汝の家に帰り、心志を磨き信仰に進み、愛と善との業(わざ)を為し、霊の王国に来る時は夥多(あまた)の勝利の分捕物(ぶんどりもの)を以て我主と我とを悦ばせよ』と。


 嗚呼如何なる声ぞ。曾てパマカスなる人が妻ポーリナを失ひし時、聖ジェロームが彼を慰めん為めに「他の良人(をつと)は彼等の妻の墓を飾るに菫菜草(すみれさう)と薔薇花(ばらのはな)とを以てするなれど、我がパマカスはポーリナの聖なる遺骨を湿(うるほ)すに慈善の乳香を以てすべし」と書き送りしは、蓋し余が余の愛するものの墓に於て心に聞きし声と均しきものならん。

 よし今日よりは以前に勝る愛心を以て余を憐むべきものを助けん。余の愛するものは肉身に於ても失せざるなり。余は尚ほ彼を看護し彼に報ゆるを得るなり。此国此民は、余の愛するものの為めに余に取ては一層愛すべきものとなれり。


 一婦人の為めに心思を奪はれ残余の生涯を悲哀の中に送るは、情は情なるべけれども、是れ真正の勇気にあらざるなり。基督教は情性を過敏ならしむるが故に、悲哀を感ぜしむる亦従て強し。然れども真理は過敏の情性を錬り、無限の苦痛の中より無限の勇気を生む者なり。

 アナ・ハセルトン女の死は、宣教師ジャドソンをして益々勇敢忠実ならしめたり。メリー・モファト女の死は、探検家リビングストンをして暗黒大陸に進入する事益々深からしめたり。詩人シルレルの所謂

 Der starke ist mächtigsten allein.
  勇者は独り立つ時最も強し。

との言は蓋し此の意に外ならじ。若し愛なる神の在(いま)して勇者を一層勇ならしめんとならば、其愛する者をもぎ取るに勝れる方法はなかるべし。


 余は余の愛するものの失せしに由(より)て国をも宇宙をもーー時には殆ど神をもーー失ひたり。然れども再び之を回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と荘厳とを加へ、神には一層近きを覚えたり。余の愛する者の肉体は失せて彼の心は余の心と合せり。何ぞ思はん真正の合一は却て彼が失せし後にありしとは。


 然り余は万を得て一つを失はず。神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり。万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。


 余の得し所之に止まらず、余は天国と縁を結べり。余は天国てふ親戚を得たり。余も亦何時か此涙の郷(さと)を去り、余の勤務(つとめ)を終へて後永き眠に就かん時、余は未知の異郷に赴くにあらざれば、彼が曾て此世に存せし時、彼に会して余の労苦を語り終日の疲労(つかれ)を忘れんと、業務も其苦(く)と辛(しん)とを失ひ、喜悦(よろこび)を以て家に急ぎしが如く、残余の此世の戦闘(たたかひ)も相見ん時を楽みに能く戦ひ終へし後、心嬉しく逝かんのみ。


第二章 国人に捨てられし時

 愛国は人の至誠なり。我の父母妻子を愛する、強ひられて之を為すにあらず、愛せざるを得ざればなり。普通の感能を具(そな)へしものにして、誰か己に生を与へし国土を愛せざるものあらんや。

 鳥獣尚ほ且つ其棲家(すみか)を忘れず、況(いはん)や人に於てをや。曾てユダヤの愛国者はバビロン河の辺(ほとり)に坐し、故国のシオンを思ひいでて、涙を流して謡(うた)うて曰へり、

  ヱルサレムよ、もし我れ汝を忘れなば、
  我が右の手にその巧(たくみ)を忘れしめよ。
  もし我れ汝をおもひいでず、
  もし我れヱルサレムをわがすべての歓喜(よろこび)の
   極(きわみ)となさずば、
  わが舌を腭(あぎ=上あご)につかしめよ。
             (詩篇百三十七篇)

 是れ愛国なり、他にあらず。此の真情は我が靈に附着するものなり。否、我が靈の一部分にして、我の外より学び得たるものにあらざるなり。


「如何にして愛国心を養成すべきや」とは余輩が屢々耳にする問題なり、曰く国民的文学を教ふべし、曰く国歌を唱へしむべしと。然れども人若し普通の発達を為せば彼に心情の開発するが如く、彼の体躯の成長するが如く、愛国心も亦自然と発達するものなり。

 義務として愛国を高調するの国民は愛国心を失ひつつある国民なり。考を称する子は孝子にあらざるなり。愛国の空言喧(かまびす)しくして愛国の実其跡を絶つに至る。余は国を愛する人となりて、愛国を論ずるものとならざらんことを望むものなり。


 故に余は日本国を愛すと云ひて、決て自ら余の徳を賞讃するにあらずして、一人並の人間として余の真情を表白するなり。

 余は米国が日本に勝りて富を有し、技芸の盛なるを知る。然れども余は富と技芸との故を以て、余が日本に与へし愛心を米国に与ふること能はざるなり。英国の政治、伊国の美術、独逸の学芸、仏蘭西(ふらんす)の法律が余をして日本人たるを嫌悪せしめし事は未だ嘗てあらざるなり。

 コトパキシの高きは芙蓉の高きに勝ると雖も、後者が余の胸中に喚起する感情の百分の一だも余は前者の為に発する能はざるなり。否、コトパキシを見て却て芙蓉を思ひ、ミシシピを渡つて石狩利根を想ふ。是れ真情なり。決して余一人の感にあらず。普通一人並の日本男子にして、此感なきものは一人もあるべからざるなり。


 然れども若し愛国が真情なれば、真理と真理の神を愛するも亦真情なり。而して完全なる社会に於ては、二者は決して撞着(どうちやく)するものにあらず。国の為めに神を愛し神の為めに国を愛し、国民挙(こぞ)つて神聖なる愛国者となり得るなり。

 斯くの如き社会に於て、人若し国に捨てられしならば、即ち神に捨てられしなり。其時こそ実に人民の声は神の声にして(Vox populi est vox dei)、国に捨てられしとて、天にも地にも訴ふべき人も神も存せざるなり。


 然(さ)れども世には真正愛国者にして、国人に捨てられしもの其人に乏しからず。イエスキリスト其一なり。ソクラテス其二なり。シピオ・アフリカナス其三なり。ダンテ・アリギエーリ其四なり。而して公平なる歴史家が裁判を下すに当て、是等人士の場合に於ては、罪を国民に帰して捨てられしものの無罪を宣告せり。


 余は現在の余自身を以て不完全なるものと認むると同時に、亦今日の社会を以て完全なるものと認むる能はざるなり。而して余の国人に捨てられしは、其罪或は余にあらん。余の不注意なりし其一なり。余の過激なりしは其二ならん。余の心中名誉心の尚ほ未だ跡を絶たざるあり、慾心も時には其威を逞(たくま)しうするあり。余の此不幸に陥りしは或は是等の為ならん。

 嗚呼今之を言ひて何かせん。斯く記すさへも余が隠に余自身を弁護しつつあるなりと、余の愚を笑ふ者あらん。今は余の口を閉づべき時なり。而して感謝すべきは余は默止し居るを得ることなり。然れども普通の情としては忍ぶべからず。

 余は余の国人を後楯となし、力めて友を外国人の中に求めざりき。余は日本狂と称せられて却て大に悦びたり。然るに今や此頼みし頼みし国人に捨てられて、余は帰るに故山なく、需(もと)むるに朋友なきに至れり。斯くあると知りしならば、友を外国に需め置きしものを。斯くあると知りしならば、余は余の国を高めんが為めに強く外国を譏(そし)らざりしものを。

 余の位置は、可憐の婦女子がその頼みに頼みし良人に貞操(みさを)を立てんが為め頻りに良人を頌揚したる後、或る些少の誤解より此最愛の良人に離縁されし時の如く、天(あめ)の下には身を隠すに家なく、他人に顔を会はせ得ず、孤独寂寥(せきれう)言はん方なきに至れり。


 此時に当つて、嗚呼神よ、爾は余の隠家(かくれが)となれり。余に枕する場所なきに至つて、余は爾の懐に入れり。地に足の立つべき処なきに至つて、我全心は天を逍遙するに至れり。周囲の暗黒は天体を窺(うかが)ふに方(あたつ)て必要なるが如く、「第三の天」に登り、永遠の慈悲に接せんと欲せば、先づ下界の交際より遮断せらるるに若(し)かず。国人は余を捨てて余は霊界に受けられたり。


 此土(このど)の善美なるは今日まで余の眼を睧(くら)ませり。如何にして其富源を開かんか、如何なる国民教育の方針を採らんか、如何なる政策を以て海外に当らんか、其世界に負ふ義務と天職とは如何、ペリクレス時代の雅典(アテン)、メヂチのフローレンス、エリザベス女王の英国、フレデリック大王の普魯西(プロシア)は交々(こもごも)余の眼中に浮び、我国をして之に象(かたど)らしめんか彼に俲(なら)はしめんかと、寝ても醒めても余の思念は此国土より離れざりしなり。

 真(まこと)にや古昔(いにしへ)のギリシャ人は現世を以て最上の楽園と信じ、彼等の思想は現世以外に出でしこと稀なりしとは。余も余の国を以て満足し、此国に勝る世界とては詩人の夢想に読みしかど、又牧師の説教に聞きしかど、余が心中には実在せざりしなり。


 余が国人に捨てられしより後は然らず。余の実業論は何の用かある。誰か奸賊の富国策を聴かんや。余の教育上の主義経験は何かある。誰か子弟を不忠の臣に委ぬるものあらんや。余は此土に在つて此土のものにあらず。此土に関する余の意見は地中に埋没せられて、余は目もなき口もなき無用人間となり果てたり。


 地に属するものが余の眼より隠されし時、初めて天のものが見え始まりぬ。人生終局の目的とは如何、罪人(つみびと)が其罪を洗ひ去るの途ありや、如何にして純清に達し得べきか、是等の問題は今は余の全心を奪ひ去れり。

 而して眼を挙げて天上を望めば、栄光の王は神の右に坐して、ソクラテス、パウロ、クロムウェルの輩、数知れぬ程御位(みくらゐ)の周囲に坐するあり。

 荊棘(いばら)の冠を戴きながら十字架に上りしイエスキリスト、来世存在を論じつつ従容として毒を飲みしソクラテス、異郷ラベナに放逐されしダンテ、其他夥多の英霊は今は余の親友となり、詩人リヒテルと共に天の使に導かれつつ、球より球まで、星より星まで、心霊界の広大を探り、此地に決して咲かざる花、此土に未だ見ざる宝玉、聞かざる音楽、味はざる美味・・・余は実に思はぬ国に入りぬ。


 実に此経験は余に取りては世界文学の良き註解となれり。ヱレミヤの慨歌は今は註解書に依らずして明白(あきらか)に了解するを得たり。追放の作と見做してのみダンテの『ディビナ・コメヂヤ』は解し得らるるなり。

 殊にキリスト彼自身の言行録に至りては、国人に捨てられざるものの争(いか)で其広さ其深さを採り得べけんや。然り余は余の国人に捨てられしより世界人(Weltmann)と成りたり。曾て余はホリョーク山頂に於て、宇宙学者フンボルトが自筆を以て名を記せるを見たり、曰く、

  Alexander von Humboldt,
    In Deutschlad geboren,
    Ein Bürger der Welt
    独逸国に生れたる世界の市民
  アレキサンデル・フォン・フンボルト


 嗚呼余も亦今は世界の市民なり。生を此土に受けしにより、此土の外に国なしと思ひし狭隘なる思想は、今は全く消失せて、小なきながらも世界の市民、宇宙の人と成るを得しは、余が余の国人に捨てられし目出度(めでたき)結果なり。


 然らば宇宙人となりしに由り余は余の国を忘れしか。嗚呼神よ、若し我れ日本国を忘れなば、我が右の手にその巧(たく)みを忘れしめよ。若し子たるものがその母を忘れ得るならば、余は余の国を我れ得るなり。無理に離縁状を渡されし婦(をんな)は其夫を慕ふこと益々切なるが如く、余も亦捨てられし後は余の国を慕ふこと益々切なり。

 朝(あした)は送るに良人なく、夕(ゆふべ)は迎ふるに恋人なく、今は孤独の身となりて、斉(ととの)ふべきの家もなく、閑暇勝ちにて余所事に心を使ひ得るにもせよ、朝な夕なに他の女子が其の良人を労(いた)はるを見て、我れ独り良人と共にありし昔を忘るべけんや。嗚呼神よ、我が良人をして恙(つが)なからしめよ。彼の行路をして安からしめよ。

 今我れは彼に従ひて真心を尽す能はずとも、若し我が祈祷にして彼を保護するの力あらば、此賎婦の祈祷を受けて彼の歩行(あゆみ)を導きたまへ。尚又此身にして彼の為めに要せらるるならば、何時なりとも爾の御意(みこころ)に任せ、彼の為めに之を使用し給へ。此身は爾のものにして、爾の為めに彼に与へしものなり。我に属せざる此命は、彼の為めにとならば何時なりとも捧ぐべしとは、我の既に爾の前に誓ひし処なり。

 然れども神よ、若し御意ならば我をして再び我夫の家に帰らしめよ。勿論我は爾を捨てて我夫に帰る能はず。是れ爾に対して罪なるのみならず、亦我夫に対して不貞なればなり。爾のしろしめす如く我夫に天地の正気の鍾(あつ)まるあり、その壮大なること富岳のごとく、其香ばしきこと万朶(ばんだ)の桜の如く、其秀(しう)其芳(はう)万国与(とも)に儔(たぐひ)し難し。

 我れいかでか此夫を欺くべけんや。彼の正気は時に鬱屈することありと雖も、明徳再び光を放つ時は、宇宙に存する渾ての善なるもの渾ての美なるものは、彼の認むる所となるなり。偽善諂媚(てんび)は彼の最も嫌悪する所なり。

 我は彼の威厳を立てんが為めに我の良心に従はざるを得ず。唯願ふ神よ、若し彼に誤解あらば爾の聖霊の力に依りて之を氷解せよ。若し彼に迷信の存するあらば爾の光を以て之を排除せよ。而して我れ再び彼に帰し、彼れ再び我と和し、旧時の団欒を回復し、我も亦彼の一臂(いつぴ=片腕)となり、彼をして旭日の登るが如く、勇者の眠りより醒むるが如く、此歴史上危急の時に方つて世界最大国民たらしむるの一助たらんことを。

 余は知る、誤解の為めに別れし夫妻の再び旧(もと)の縁に復するや、其情愛の濃(こま)やかなる前日の比にあらざる事を。余も亦此国に入れられ、此国も亦其誤解を認むるに至らば、其時こそ余の国を思ふの情は実に昔日に百倍する時ならん。


 嗚呼余は良人を捨てざるべし。孤独彼を思ふの切なるより余の身も心も消え行けど、此操(みさを)をば破るまじ。よし余は和解の来るまで此浮世にはながらへ得ずとも、何時か良人が余の心の深底を悟る時もあらん。貞婦の心の一念よりして彼の改むる時もあらん。最後(をはり)まで忍ぶものは福(さいはひ)なり。余も亦余の神の助にて何をか忍び得ざらんや。


第三章 基督教会に捨てられし時

注意 茲に用ふる基督教会並に基督信者なる語は、普通世に称する教会並に信者を謂ふものにして、何れが真何れが偽なるかは、全能なる神のみ知り給ふなり。

 人は集合動物(gregariousanimal)なり。単独は彼の性にあらず。白鷺の如く独り曠野に巣を結び、痛烈なる悲声、聞くものをして戦慄せしむる動物あり。飜魚(まんぼう)の如く大洋中箇々に棲息し、唯寂寥を破らん為めにか空に向て飛揚を試むる奇魚あり。又は狸の如く好んで日光を避け、古木の下或は陰鬱なる岩下の間に小穴を穿ち、生れて生んで死する動物あり。

 然れども人は水産上国家の大富源なる鰊(にしん)、鱈、鯖魚の如く、南米の糞山(ふんざん)を作る海鳥の如く、又ロッキー山を攀(よ)ぢ登る山羊の如き集合動物あり。実に古人の言ひしが如く、単独を歓ぶ人は神にあらざれば野獣なり。


 余はこの不信国に生れ、余の父母兄弟国人が嫌悪せる耶蘇(ヤソ)教に入れり。余の初て此教を聴きし頃は全国の信徒二千に満たず、殊に教会は互に相離れ居たれば、此新来の宗教を信ずるものは実に寂々寥々たりき。

 然れども一たびその大道を耳にしてより、これを以て自己を救ひ国を救ふ唯一の道と信じたれば、社会に嫌悪せらるるにも関せず、余の親戚の反対するをも意とせず、幾多の旧時の習慣と情実とを破りて新宗教に入りしことなれば、寂寞の情は以前に倍せしと同時に、又同信者に対する親愛の情は実に骨肉も啻(ただ)ならざりき。

 当時余は思へらく、基督教会なるものは地上の天国にして、其内に猜疑憎悪の少しも存する事なく、未信者社会に於ては万事に懸念し、心の存せざる事を言ひ、存する事を言はざるも、此新社会に於ては全教会員が皆心霊に於ける兄弟姉妹なれば、骨肉にも語り得ぬ事を自由に語るを得、若し余に失策あるとも誰も余の本心を疑ふものはなきことと確信し、其安心喜楽は実に筆紙に尽し得ぬ程にてありき。


 嗚呼なつかしきかな余の生まれ出でし北地僻幽(へきいう)の教会よ。朝に夕に信徒相会し、木曜日の夜半の祈祷会、土曜日の山上の集会、日曜終日の談話、祈祷、聖書研究、偶々(たまたま)会員病むものあれば信徒交々不眠の看護をなし、旅立を送る時、送らるる時、祈祷と讃美と聖書とは我等の口と心とを離れし暇は殆どなかりき。

 偶々外(ほか)より基督信徒の来るあれば我等は旧友に会せしが如く、敵地に在つて味方に会せしが如く、打悦びて之を迎へたり。基督信徒にして悪人ありとは、我等の思はんとするも思ふこと能はざる所なりき。


 然れども此小児的の観念は、遠からずして破砕せられたり。余は基督教会は善人のみの団体にあらざるを悟らざるを得ざるに至れり。余は教会内に於ても気を許すべからざるを知るに至れり。加之(しかのみならず)余の最も秘蔵の意見も、高潔の思想も、勇壮の行為も、余をして基督教会に嫌悪せらるる者たらしむるに至れり。


 余は基督教の必要なる本義として、左の大個条を信ぜり。即ち

  主たる爾の神を拝し惟之にのみ事ふべし。
                 (出埃及記(しゆつエジプトき)二十章三ー五節、申命記十章二十節、マタイ伝四章十節)

 而して余は神と真理とを知る唯一の途としては、使徒パウロの語にして、ルーテルが彼の信仰の城壁と頼み、プロテスタント教会の基礎となりし左の聖語に依れり。即ち

  兄弟よ、我れ汝等に示す、我が曾て汝等に伝へし所の福音は人より出づるにあらず、蓋しわれ之を人より受けず亦教へられず、惟イエスキリストの黙示に由りて受けたればなり。
                  (ガラテア書一章十一、十二節)

 之等の確信が余の心中に起りたればこそ、余は意を決して余の祖先伝来の習慣と宗教とを脱して、新宗教に入りしなれ。余は心霊の自由を得んが為に基督教に帰依せり。僧侶神官を捨てしは、他種の僧侶輩に束縛せられんが為めにあらざりしなり。


 宇宙の神を以て余の真の父と尊(たふと)み、彼自身よりの黙示を以て真理の標準と信じ、己の一身を処するに於ても、余の国に尽さんとするに方つても、基督教会に対する余の立場に於ても、余は悉く此標準に依りて行はん事を努めたり。

 然るに余の智能の発達するに従ひ、余の経験の積むと共に、余の信仰の進むと同時に、余の思想並に行為に於て屢々かの基督教先達者、この神学博士と意見を全く同うするを得ざるに至れり。

 或は余の一身を処する上に於て、忠実なる一信徒より忠告を蒙るあり。曰く「君の行為は聖書の明白なる教訓に反せり、君宜しく改むべし」と。親愛なる友人の忠告として余は二度三度己に省みたり。然れども沈思黙考に加ふるに祈祷と聖書研究の結果を以てし、而して後友人の忠告必しも真理ならずと信ずる時は、已むを得ず自己の意志に従ひたり。

 友人は余を信ずるを以て敢て余の彼が言に従はざるを忿(いか)らずと雖も、余を愛せざる兄弟姉妹(?)の眼より見れば、余は聖書の教訓に逆らひしもの、キリストより後戻りせしもの、特殊の天恵を放棄せしものとなるに至れり。


 余の神学上の思想に就ても、余の伝道上の方針に就ても、余の教育上の主義に就ても、余は余の真理と信ずる所を固守するが為めに、或は有名博識なる神学者に遠ざけられ、或は基督教会内に於て非常の人望を有する高徳者より無神論者として擯斥(ひんせき)せられ、終には教会全体より危険なる異端者、聖書を蔑(ないがしろ)にする不敬人、ユニテリアン(悪しき意味にて)、ヒクサイト、狂人、名誉の跡を逐ふ野心家、教会の狼等の名称を付せられ、余の信仰と行為を責められるるに止まらずして、余の意志も本心も悉く過酷の批評を蒙るに至れり。


 嗚呼余は大悪人ならずや。余は人も我も博識と認めたる神学者に異端者と定められたり。余は実に異端者にあらざるか。余に先んずる十数年以前より基督教を信じ、而も欧米大家の信用を博し、全教会の頭梁として仰がるる某高徳家は余を無神論者となりと云へり。余は実に無神論者にあらざるか。

 名を宗教社会に轟かし、印度に支那に日本に福音を伝ふる事十数年、而も博士の号二三を有する老練なる某宣教師は、余をユニテリアンなりと呼べり。余は実に救主の贖罪を信ぜず自己の善行にのみ頼むユニテリアンならざるか。

 伝道医師として有名なる某教師は、余は狂人なりとの診断を下せり。余は実に知覚の狂ひしものなるか。

 教会全体は危険人物として余を遠ざけたり。余は実に悪鬼の使者として緬羊(めんやう)の皮を被(かうむ)りながら、神の教会を荒らすために世に産出されし有害物なるか。

 余を悪人視するものは万人にして、弁護するものは己一人なり。万人の証拠と一人の確信の何れが重きや。然らば余は基督信者にはあらざりしなり。余は自己を欺きつつありしものにして、余の真性は悪鬼なりしなり。何ぞ今日よりは基督信徒たるの名を全く脱して普通世人の生涯に帰らざる。

 否、之に止まらずして、余の今日迄基督教のために尽せし信実と熱心とを以て、余を敵視する基督教会を攻撃せざる。何ぞ余の敵(あだ)の神に祈るを得んや。何ぞ余の敵の聖書を尊敬し研究するを得んや。余はユニテリアンなり。無神論者なり。偽善者なり。神の教会に属すべからざるものなり。狼なり。狂人なり。よし今より後はヒューム、ボーリンブローク、ギボン、インガーソルの輩を学び、一刀を基督教の上に試みばや。


 此時に方つて余の信仰は実に風前の灯火(ともしび)の如きものになりき。余は信仰堕落の極点に達せんとせり。憤怨は余をして信仰上の自殺を行はしめんとせり。余の同情は今は無神論者の上にありき。

 余はジョン・スチュアト・ミルの死を聞いて神に感謝せし某監督の無情を怒れり。トマス・ペーンの臨終の状態を指摘して意気揚々たりし神学者の暴慢を憤(いきどほ)れり。

 嗚呼幾許の無神論者は基督教会自身の製出になるや。余は曾て聞けり、無病の人を清潔なる臥床(ねどこ)の上に置き、而して汝は危険なる病に罹れる患者なれば今は病床の上にあるなりと側(かたはら)より絶えず彼に告ぐれば、無病健全の人も直(ただち)に真正の病人となると。人をして神より遠ざからしめ、神の教会を攻撃するに至らしむるものは、悪鬼と其子供とに限らざるなり。


 然れども神よ、我が救主よ、爾は此危険より余を救ひ給へり。人、聖書を以て余を攻むる時、之を防禦するに足る武器は聖書なり。教会と神学者は余を捨つるも、余の未だ聖書を捨つる能はざるは余が未だ爾に捨てられざる徴候なり。

 余は爾の僕(しもべ)ルーテルが「我れの福音なり」と言ひて縋(すが)りし加拉太(ガレテヤ)書に行かん。而して彼が平易なる独逸語を以て著(あらは)せし其の註解書を読まん。「今よりのち誰も我を擾(わづら)はす勿(なか)れ、蓋(そ)はわれ身にイエスの印記(しるし)を佩(お)びたれば也」と(六章十七節)。

 嗚呼何たる快ぞ。余も亦不充分ながらもイエスの名を世人の前に表白せしにあらずや。余も亦余の罪より遁(のが)れんが為めに、イエスの十字架にすがるにあらずや。

 余の信者なると不信者なるとは他人の批評如何に由るにあらずして、余にイエスの印記あるとなきとに由るなり。「義人は信仰に依て生くべし」(三章十一節)と。然り余は今は自己の善行に依らずして、十字架上に現れたる神の小羊の贖罪に頼めり。此信仰こそ余が神の子供たる証拠なれ。

 キリストを十字架に釘(つ)けし者は悉く悪人、無神論者なりしか。彼の弟子を迫害しながら、神に尽しつつありと信ぜしものもありしにあらずや。

 ヨブの友等はヨブの不幸艱難を以て彼の悪人たるの証拠となせり。然れども神は彼の三人の友に勝りてヨブを愛し給ひしにあらずや。人をして衆人の誹毀(ひき=悪口)に対し自己の尊厳と独立とを維持せしむるに於て、無比の力を有するものは聖書なり。聖書は孤独者の楯、弱者の城壁、誤解人物の休所(やすみどころ)なり。之に依てのみ、余は法王にも、大監督にも、神学博士にも、牧師にも、宣教師にも抗する事を得るなり。

 余は聖書を捨てざるべし。他の人は彼等に抗せん為めに聖書を捨て、聖書を攻撃せり。余は余の弱きを知れば聖書なる鉄壁の後に隠れ、余を無神論者と呼ぶもの、余を狼と称するものと戦はんのみ。何ぞ此堅城を彼等に譲り、野外、防禦なきの地に立ちて、彼等の無情、浅薄、狭量、固執の矢に此身を曝(さら)すべけんや。

  With one voice, O world,though thou deniest,
   Stand thou on that side-for on this I am !
   世人の同音一斉に我を拒むとも
  彼等は彼方(かなた)に立て、我れ独り此方(こなた)に立たん。


 時に悪霊余に告げて曰く『汝未だ若年、経験積まず、学修まらず。何ぞ汝の身を先達、老練家の指揮に任せざる。自己の言行を以て最良なるものと見做すは平凡人のなす処にして、汝が他人の言を容れざるは是れ汝が高慢不遜なるの証拠なり。汝は自己を以て最も才智ある、最も学識ある、最も経験あるものと為すや』と。


 余は余の無学無智なるを知る。又大監督、神学博士の盛名決して軽んずべからざるを知る。然れども余の無学なるが故に余の身も、信仰も、働きも是等高名の人の手に任すべしとならば、余は未だ自己を支配する能はざる者なり。余にして若し是と彼とを分別するの力なきならば、余は誰に由て身を処せんや。

 見よ彼等余の不遜を責むるものも、又相互に説を異にするにあらずや。監督教会は自己の教会を称して TheChurch(唯一の教会)と云ひ、一方には羅馬(ローマ)教会の擅行(せんかう)を非難しながら、他方には他の新教徒に附するに分離者(Dissenters)とか非国教徒(Nonconformists)とか聞き悪(にく)き名称を以てするに非ずや。

 余は組合派の教師が余が最も尊信するメソヂスト派の教師を罵詈するを耳にせり。ユニテリアンはオルソドックスの迷信を嗤(わら)ひ、後者は前者の不遜異端を責むるにあらずや。

 其他長老派の固陋なる、浸礼派の独尊なる、或は「クリスチャン」派とか、新ヱルサレム派とか、ブラダレン派とか、各々其特殊の教義を揚言し、自派を賞讃して他派を蔑視するにあらずや。

 博識才能、何ぞ一派の専有物ならんや。余にして若し自ら自己の信仰を定むる能はずとならば、余は果して何れの派に己を投ずべきか。カーヂナル・マニングが天主教会(=カトリック)の高僧なりしが故に余は法王の命に従ふべきか。監督ヒーバー、ヂーン・スタンレーが英国監督派なりしが故に余は監督教会に属するべきか。ジャドソンが浸礼教会の人なりしが故に余は「バプチスト」たるべきか。リビングストンが長老教会の人なりしが故に余も亦彼と教派を同うすべきか。

 若し人物を以て余の教会上の位置を定むべしとならば、余はユニテリアンたるべきなり。何となれば、余の最も尊敬するチャニング、ガリソン、ローエルの如き人はユニテリアン教に属したればなり。

 余はクェーカーたるべきなり。何となればジョージ・フォクス、ウィリヤム・ペン、スチーベン・クレレット、ウィスター・モリス等の人々はクェーカー派に属したればなり。

 余は普通基督教徒が論ずるに足らざるものと見做す所の小教派の中にも、靄然(あいぜん)たる君子、淑徳の貴婦人を目撃したり。悪魔よ、汝の説教を休(や)めよ。若し余にして善悪を区別し、之を選び彼を捨つるの力を有せざりせば、余は他人の奴隷となるべきものなり。

 心霊の貴重なるはその自立の性にあり。我れ最(い)と小さきものなりと雖も、亦全能者と直接の交通を為し得るものなり。神は法王、監督、牧師、神学者輩の手を経ずして直接に余を教へ給ふなり。

  嗚呼真理なる神よ、願くは余をして永久の愛に於て爾と一ならしめよ。余は時々多くの事物に関して読み且つ聞くに倦(う)めり。余の欲する処、望む処は悉く爾に於て存するなり。総(すべ)ての博士等をして黙せしめよ。万物をして爾の前に静かならしめよ。而して爾のみ余に語れよ。
(トマス・アー・ケムビス)


 他人の忠告決して軽んずべきにあらず。人は自身の面(かほ)を見る能はざる如く、社会に於ける己の位置をも能く見る事能はざるべし。一切万事我意(がい)を押通さんとするは、傲慢頑愚(がわんぐ)の徴にして、我等の宜しく注意すべき事なり。さればとて自己の意見を以て悉く信憑すべからざるものと断念するは、また薄志弱行の徴候なり。茲に博士モヅレーの言を聞け。

  "It is not partiality to self aloneupon which the idea is founded that you see your own cause best. Thereis an element of reason in this idea;your judgment even appeals toyou,that you must grasp most completely yourself what is so near toyou,what so intimately relates to you;what by your situation you havehad a power of searching into."--Mozley's Sermon on "War".

  人は殊更に能くその申分を判別し得べしとの観念は、必しも自己に対する偏頗心にのみ因るにあらずして、公平なる理由の其中(そのうち)に存するあり。吾人の理性に訴ふるも、吾人は吾人に接近せる、吾人に緻密なる関係を有せる、吾人の位置よりして自由に探求し得る事物に就ては、吾人自ら最も善く是れを会得(えとく)し得べきは明かなり。
(「戦争」と題する説教中博士モヅレーの語)


 余は日本人なり。故に日本国と日本人とに関しては、余は英国の碩学よりも米国の博士よりも、より完全なる知識を有するものにして、此国と此民とを教化せんとするに方つては、余は彼等に勝りて確実なる思想を有する事は当然たるなり。

 余はアイヌ人の国に至れば、余のアイヌ人に勝る学識を有する故を以て、アイヌ人に関するアイヌ人の思想を軽んぜざるなり。余は小径を山中に求むる時は、余の地理天文に達し居るの故を以て樵夫(せうふ)の指揮を軽視(みくだ)さざるなり。

 余の国と国人とに関して余が外国人の説を悉く容れざるは、必しも余の傲慢なるが故にあらず。日本は余の生国(しやうこく)にして余の全身は此国土に繋がるものなれば、余の此国に対する感情の他国人のそれに勝るは当然なり。

 利害の大関係ある余の自国に関する余の観念は、他国人の此国に対する観念よりも健全にして確実なりと信ずるは、決して自身を賞揚するの甚しきものと云ふべからざるなり。

 又余の一身の処分に就ても、余は余自身の事に関しては最大最良の専門学者なり。神の靈ならでは神のことを知るものなし。余の靈のみ能く余のことを知るなり。余の神に対する信仰また然り。余に最も近く且余の最も知り易きものは神なり。哲学者ライプニッツ曰く。

  吾人の心霊以外のものにして吾人の直接に之れを識認し得るものは神のみ。吾人が感能を以て知り得る外物はただ間接にのみ能く之れを認め得べし。


 余は余の神を知るに於ては、プロテスタント教徒全体が羅馬法王の取次を要せざるが如く、監督又は「デヤコ」又は牧師又は執事の取次を要せざるなり。


 反対論者曰く、若し君の説の如くならば教会の用何処(いづこ)にか存する、人は一箇人として立つ能はざればこそ教会の必要あるに非ずやと。浅薄なる議論なり。見ずや同様なる議論を以て、天主教会は過去千五百年間他の基督教徒を責めつつあるにあらずや。同様なる議論を以てアルビゼンス教徒は殺戮せられ、セルビタスは焼殺せられしにあらずや。

 教会なるものは神の子供の集合体にして、無私、公平、仁愛、慈悲の凝結する所なり。真正の信徒ありて教会あるなり。教会ありて信徒あるにあらず。信徒は自然に教会を造るものなり。恰も同じ幹より養汁(やうじふ)を吸収しつつある枝葉は一植物たるが如し。

 人は真理を知るの力を有し、直に神のインスピレーションに接するを得るものなりとは、余が基督教の根本原理として信ずる処なり。真理は真理の証明者なり。教会必しも真理の証明者に非ざるなり。教会は真理を学ぶに於て善良なる助なるべけれども、真理は教会外に於ても学び得べきものなり。

  "The destruction of the theory of theinfallibility of Bible has benn one of the means by which we have bennprevented from resting in the external and mechanical,and driven towhat terrifies us at first as the intangibility and vagueness of theSpirit."--Rev.J.Llewellyn Davies,in the Fortnightly Review,reprinted inthe Library Magazine of March,1888.

  聖書無誤謬説の破壊は、我等をして外形的並に器械的の基礎を捨てしめ、手にて触るる能はざるもの、定義を付する能はざるものとして我等が初め恐怖せし聖霊の土台に頼らざるを得ざらしむるものなり。
                  (リューエリン・デビス教師の語)

 教会無誤謬説も聖書無誤謬説と同じく、中古時代の陳腐に属せる遺物として、二十世紀の人心より棄却すべきものなり。


 是れ理論なり、然れども世は未だ理論の世にあらざるなり。愛憎は理論的にあらず、人は服従を愛して抵抗を憎むものなり。仮令余は理論上確実なるにもせよ。余の先輩と説を同うせず其指揮に従はざれば、余は其保護の下に置かれざるは決して怪むべきにあらざるなり。余は教会に捨てられたり。余は余の現世の楽園と頼みし教会より勘当せられたり。


 嗚呼神よ、此試煉にして余の未だ充分に爾を知らざる時に来りしならば、余は全く爾の手より離れしならん。然れども爾は余に堪ふる能はざるの試煉を降さず。教会は余が自立し得る時に方つて余を捨てたり。教会が我を捨てし時に爾は我を取り挙げたり。余の愛するもの去つて余は益々爾に近く、国人に捨てられて余は爾の懐に入り、教会に捨てられて余は爾の心を知れり。


 教会が余を捨てざりし前は、余は教育外の人を見る実に不公平なりき。余は思へらく基督教外に善人なしと。余は未信徒を以て神の子供と称すべからざるものと思へり。

 然るに教会が余を冷遇し、其教師信徒が余の本心をさへ疑ひし時、教会外の人にして却て余の真意を諒察するものありしを見て、余は天父の慈悲の尚ほ多量に未信者社会に存するを悟れり。又教会外に立ちて教会を見る時は、神意の教導に由て歩む仁人君子の集合体と思はるるも、一度其内に入りて見れば猜疑、偽善、佞奸(ねいかん)の存するなきにあらざるを知る。

 尖塔天を指して高く、風琴楽を奏して幽(かすか)なる処のみ、神の教会にあらざるを知れり。孝子家計の貧を補(おぎな)はんが為めに寒夜に物を鬻(ひさ)ぐ処、是れ神の教会ならずや。貞婦良人の病を苦慮し、東天未だ白まざる前に社壇に願を罩(こ)むる処、是れ神の教会ならずや。人あり世の誤解する所となり攻撃四方に起る時、友人ありて独り立つて彼を弁ずる処、是れ神の教会ならずや。

 嗚呼神の教会を以て白壁又は赤瓦の内に存するものと思ひし余の愚さよ。神の教会は宇宙の広きが如く広く、善人の多きが如く多し。余は教会に捨てられたり、而して余は宇宙の教会に入会せり。余は教会に捨てられて初めて寛容の美徳を了知するを得たり。

 余が小心翼々として神と国とに事へんとする時に当つて、余の神学上の説の異なるより教会は余の本心と意志とに疑念を懐き、終に余を悪人と見るに至れり。


 嗚呼余は余が他人に審判(さば)きしが如く審判かれたり(マタイ伝七章一、二節)。余も亦教会にありし間(うち)は、余の教会外の人を議するに方つてかくなせしなり。基督教を信ぜざるが故に、未信者は皆信用すべからざる者なり、法王に頼むが故に天主教徒は汚穢なる豕児(ぶたのこ)(ルーテルの語)なり、露国宣教師に教化されし希臘(ギリシア)教徒は国賊なり、監督教会は英国が世界を略奪せんが為の機関にして、其信徒は黄白の為めに使役されるる探偵なり、長老教会は野心家の集合所なり、メソヂスト教会は不用人物の巣窟なり、クェーカー派は偽善の結晶体なり、ユニテリアン派は偶像教に勝る異端なりと。

 若し某氏の宗教事業の盛なるを聞けば曰く、彼れ世人に諂(へつら)ふが故に彼の教会に聴衆多しと。某氏の学校の隆盛を聞けば曰く、彼れ高貴に媚ぶるが故に成功したりと。

 然れども教会に捨てられてより余の眼は開き、余の推察の情は頓に増加せり。所信を異にしても人は善人たるを得べしとの大真理を余は此時に於て初て学び得たり。真理は余一人の有にあらずして、宇宙に存在する凡ての善人の有たることを知れり。

 心の奥底より天主教徒たる人を余は想像し得るに至れり。良心の充分の許可を得てユニテリアンたり得ることを余は疑はざるに至れり。余は初めて世界に宗教の多き理由と、同一宗教内に宗派の多く存在する理由とを解せり。

 真理は富士山の壮大なるが如く大なり。一方より其全体を見る能はざるなり。駿河より見る人は云ふ、富士山の形は斯くなりと。甲斐より見る人は云ふ、斯くなりと。相模より見る人は云ふ、斯くなりと。駿河の人は甲斐の人に向て、汝の富士は偽りの富士なりと云ふべけんや。若し自ら甲斐に行きて之を望めば、甲州人の言の無理ならざるを知るべし。

 人間の力弱きこと真理の無限無窮なる事とを知る人は、思想の為めに他人を迫害せざるなり。全能の神のみ真理の全体を会得し得るものなり。他人を議する人は己を神と同一視するものにして、傲慢でふ悪魔の捕虜(とりこ)となりしものなり。

 己れ人に施されんとする事を亦人にも其如く施せよ。余は無神論者にあらざれど余は無神論者と視られたり。余はユニテリアンならざるにユニテリアンとして遠ざけられたり。余を迫害せしものは、余の境遇と教育と遺伝とを知らざるが故に、余の思想を解する能はずして、余が彼等と同説を維持せざるが故に余を異端となし、悪人となせり。

 余は今より後、余と説を異にする人を見るに然(し)かせざるべし。欧米人が日本人の思想を悉く解し能はざるが如く、日本人も亦欧米人の思想を全く解すること難かるべし。然り寛容は基督教の美徳なり。寛容ならざるものは基督信徒にあらざるなり。


 教会に捨てられしものは余一人にあらざるなり。

  会堂にありし者是れを聞きて天に憤り、起ちてイエスを邑(まち)の外に出し投下(なげおろ)さんとて、其邑の建ちたる崖にまで曳き往けり。
                     (ルカ伝四章廿八、廿九節)

 キリストに依て眼を開かれしものも、教会より放逐せられたり。

  彼等答へて曰ひけるは、爾は尽(ことごと)く罪孽(つみ)に生れし者なるに反つて我済(われら)を教ふるか。遂に彼を逐ひ出せり。彼等が逐ひ出ししことを聞き、イエス尋ねて之に遇ひ曰(い)ひけるは、爾神の子を信ずるか。答へて曰ひけるは、主よ彼として我が信ずべき者は誰なるや。イエス曰ひけるは、爾すでに彼を見る、今なんぢと言ふ者はそれなり。主よ我信ずといひて彼を拝せり。
                   (ヨハネ伝九章卅四ー卅八節)

 ルーテルも放逐せられたり。ロージャ・ウィリアムスも放逐せられたり。リビングストンが直接伝道を止めて地理学探検に従事せしが故に、英国伝道会社の宣教師たるを辞せざるを得ざるに至りし如く、又かの支那に於ける米国宣教師クロセット氏が普通宣教師と異なる方法を採り、北京の窮民救助に従事せしに因て、終に本国よりの補給を絶たれ、支那海に於て貧困の中に下等船室内に於て死せしが如く、或は師父ダミエンが生命を抛(なげう)つてモロカイ島の癩病患者を救助し、死して後、彼の声明天下に轟きしや、米国の宣教師にして神学博士なる某が、一書を著して此殉教者生前の名誉を破毀せんとせしが如く、教会に捨てられ、信者に讒謗され、悪人視せらるる者は、決して余一人にあらざるなり。

  世ににくまるるは われのみならず、
  イエスは我よりも いたくせめらる。


 然れども嗚呼神よ、直(ちよく)は全く余に存して曲(きよく)は悉く余を捨てし教会にありとは、余の断じて信ぜざる所なり。余に欠点の多きは爾のしろしめす如くにして、余の言行の不完全なるは余の充分に爾の前に白状する所なり。

 故に余は余を捨てし教会を恨まざるなり。其内に仁人君子の存するありて、その爾の為に尽せし功績の決して鮮少ならざることは、余の充分に識認する所なり。其内に偽善、圧制、卑陋の多少横行するにもせよ、之れ爾の御名を奉ずる教会なれば我何ぞ之を敵視するに忍びんや。

 余の心、余の祈祷は常に其上にあるなり。余はリベラル(寛大)なりと称する人が、自己の如くリベラルならざる人を目して迷信と呼び、狭隘と称して批難するを見たり。願くは神よ、余に真正のリベラルなる心を与へて、余を放逐せし教会に対しても寛容なるを得しめよ。


 余は無教会となりたり。人の手にて造られし教会は、余を今や之を有するなし。余を慰むる讃美の声なし。余の為めに祝福を祈る牧師なし。然らば余は神を拝し神に近(ちかづ)く為の礼拝堂を有せざるか。

 かの西山に登り、広原沃野を眼下に望み、俗界の上に立つこと千仞、独り無限と交通する時、軟風背後の松樹に讃歌を弾じ、頭上の鷲鷹(しうよう)両翼を伸ばして天上の祝福を垂るるあり。夕陽将に没せんとし、東山のむらさき、西雲のくれなゐ、共に流氷鏡面に映ずる時、独り堤上を歩みながら失せにし聖者と靈交を結ぶに際し、ベサイダの岩頭、サン・マルコの高壇、余に無声の説教を聴かしむるあり。激浪岸を打つて高く、砂礫白泡と共に往来する所、ベスホーレンの凱歌、ダンバーの砲声、共に余の勇気を鼓舞するあり。然り余は無教会にはあらざるなり。


 然れども余も社交的の人間として、時には、人為の礼拝堂に集ひ衆と共に神を讃め共に祈るの快を欲せざるにあらず。教会の危険物たる余は、起ちて余の所感を述べ他を勧むるの自由なければ、余は窃かに座を会堂の一隅灯光暗き処に占め、心に衆と共に歌ひ、心に衆と共に祈らん。

 異端の巨魁たる余は、公然高壇の上に起ち粛然福音を宣べ伝ふるの特権を有せざれば、余は鰥寡(くわんくわ)孤独憂へに沈むもの、或は貧困縷衣(るい)にして人目を憚るもの、或は罪に恥ぢて暗処に神の赦免(ゆるし)を求むるものの許に訪ひ、ナザレのイエスの貧と孤独と恩恵とを語らん。

 嗚呼神よ、余は教会を去りても爾を去る能はざるなり。教会に捨てらるるは不幸は不幸なるべけれども爾に捨てられざれば足る。願くは教会に捨てられしの故を以て余をして爾を離れざらしめよ。


第四章 事業に失敗せし時

 基督教は人を真面目になすものなり。青年之に由て已に老成人の思想あり。少女之に由て已に老媼の注意あり。そは基督教は人をして物の実を求めしめて、その影を軽んぜしむるものなればなり。小説の嗜読、芝居の見物は、変じて歴史の攻究、社会の観察となり、野望的の功名心は変じて沈着なる事実の計画となり、自己尊大の念は公益増進の志望と変じ、「如何にして此国と此神とに事へんか」との問題に就て、日も夜も沈思するに至る。

   "When I was yet child, no childish play
   To me was pleasing;all my mind was set
   Serius to learn and know,and thence to do
   What might be public good; myself I thought
   Born to that end"
              --Milton,Paradaise Regained.


 人の事業心を喚起するものは基督教なり。事業と宗教とは自(おのづか)ら其性質を異にするものなりとの観念は、普通人間の抱懐する所なり。事業とは活溌なる運動を意味するものして、宗教とは静粛隠遁を意味するものなるが如し。余輩未だ曾て仏教の熱心家にして、教理のために大事業を企てし人あるを聞かず。釈氏の理想的の人物は、決して事業家にあらざりしなり。然れども基督教は世の事業を重んずるのみならず、之を信ずるものをして能く大事業家たるの聖望を起さしむ。

 カーライルの所謂 peasant-saint(農聖人)、即ち手に鋤を取りながら心に宇宙の大真理を蓄ふる人、是れ基督教の理想的人物にして、キリスト亦彼自身も僻村ナザレの一小工なりしなり。


 余も亦基督信徒となりしより、芝居も寄席も競馬も悉く旧来の味を失ひ、独り事業てふ念は頻(しきり)に胸中に勃興して殆ど禁ずる能はざるに至れり。

 或は蘇(=スコットランド)のリビングストンを学び、彼が「利慾の為めに商人の通過し得る処、何ぞキリストの愛に励まさるる宣教師の通過し得ざる理あらんや」と云ひつつ阿弗利加大陸を横断せしに俲(なら)ひ、我も亦新宗教の感動の下に南洋又は北海無人の邦土を探求せんか。

 或は独のシュワルツ(Christian FriedrichSchwartz)を学び、未開国の教導師となり、仁愛の基礎の上に其国是を定めんか。或は英のウィリアム・ペンを学び、荒蕪を開き蛮民を化し、純然たる君子国を深林広野の中に建立せんか。或は米のピーボデーを学び、貧より起りて百万の富を積み、孤を養ひ、寡を慰め、以て大慈善の功績を挙げんか。

 言ふを休めよ、基督教に世の快楽なしと。此希望、此計画ーー嗚呼実に余は余の生涯の短きを歎ぜり。事業、事業、国のための事業、神のための事業ーー嗚呼世に快と称するものの中、何物か此快楽に優るものあらんや。


 余は嘗て思へらく、自己のために富貴たらんことを祈るは罪なり、神は必ず斯くの如き祈祷を受け給はざるべし。名誉を得んがための祈祷も亦然り、然れども他を益せんがために祈ることは神の最も歓び給ふ所にして、かかる祈祷は必ず聴かれ、その事業は必ず成功するに至らんと。

 依て万事を打捨てて余の神聖なる希望を充たさん事を努めたり。勿論基督信徒として、余は世に媚び高貴に諂(おもね)り以て余の目的を達すべきにあらず。余の頼むべきは神なり、正義なり。

  或は車を頼み或は馬を頼みとする者あり、されど我等はわが神ヱホバの名をとなへん。
                                           (詩篇二十章七節)


 此時は実に余に取り最も多望なる、最も愉快なる時なりき。余の前途に妨害なるものなく、余の心中に失敗なる文字の存するなし。余は宇宙の神を信じ万人の為に大事業を遂げんと欲す。成功必然なり。神在(いま)す間は余の事業の成功せざる理由あるなし。

 見よ、世の事業家の失敗するは、自己のために計りて栄光の神を信ぜざるに由る。余は然らず。余の事業は公益のため、神のためなり。若し余にして失敗するならば神は存せざるなり、真理は誤謬なり。


 然るに余の愛する読者よ、余は失敗せり。数年間の企画と祈祷とは画餅に帰せり。而して余の失敗より来りし害は余一人の身に止まらずして、余の庇保(ひほ)の下(もと)にある忠実なる妻、勤勉なる母の上にも来れり。

 余は世間の嘲弄を蒙れり。友人は余の不注意を責め、余の敵は余の不幸を快とせり。悪霊此機に乗じ余に耳語(じご)して曰く、

 『汝無智のものよ、方便は事業成功の秘訣なるを知らざるか。精神のみを以て事業を為し遂げ得べしと一途(いちづ)に思ひし稚(をさ)な心の憐れさよ。某大事業家を身よ、彼は学校を起すに方つて広く世の賛成を仰ぎ、少しは良心に恥づる所あるとも、数万の後進を益する事と思へば、意を曲げ膝を屈し以て莫大の資金を募(つの)り得しにあらずや。

 『摂理は常に強大なる軍隊と共にありとのナポレオン第一世の語は、実に事業家の標語たるべきものなり。見よ、某牧師は常に正義公道の利益を説くと雖も、彼れ自ら会堂を新築し教理を伝播せんとするや、必ず世の方法を取るにあらずや。

 『正義公道とは天使の国に於ては実際に行なはるべけれども、此人間世界に於ては多少の方略を混合するにあらざれば、決して行はるべきものにあらず。汝今日より少しく大人(おとな)らしくなれ。真理と云ひ愛国と云ふが如き事を重んずる勿れ。然らずは、汝自身失敗に失敗を重ぬるのみならず、罪なき汝の父母妻子も亦、汝と共に悲哀の中に一生を送らざるを得ず。

 『且又汝の益せんとする公衆も、汝の方法を改むるにあらざれば汝より益を得る事なし。汝何ぞ国のため、汝の愛する妻子のために忍ばざる。神は汝より無理の要求を為さず。方略は今の世の必要物なり。方略と虚言とは自ら異る処あり。汝解せしや否や』と。


 嗚呼誰か此巧みなる論鋒に敵するものあらんや。事実は確実なる結論なり。余は経験に依て正義公道の無効力なるを知れり。悪霊の説諭これ天よりの声ならずや。我等は経験に依てのみ事物の真相を知るを得るなり。

 而して経験は余の希望に反せり。過而勿憚改(あやまつてあらたむるにはばかるなかれ)。何ぞ公平なる学者として、勇気ある男子として、今日までの迷信を脱し、国のために神のため少しく方略を利用して、前日の失敗を償はざる。


 時に声あり内より聞ゆ。其調子の深遠なる、永遠より響き来るが如し。其威力ある、宇宙の主宰者の声なるが如し。余の全身を震動せしめて曰く『正義は正義なり』と。而して後粛然たり。


 嗚呼如何にすべきや。誰か此声に抗するものあらんや。然らば斃(たふ)るるとも正義を守れとの謂か。嗚呼余は悟れり余の神よ、正義は事業より大なるものなり。否、正義は大事業にして、正義を守るに勝さる大事業あるなし。

 人生の目的は事業にあらざるなり。事業は正義に達するの途にして、正義は事業の侍女(こそもと)(handmaid)にあらざるなり。教会も学校も政治も殖産も、正義を学び之に達する為めの道具なり。現世に於ける事業の目的は事業其者の為めにあらずして、之に従事するものの之に由りて得る経験、鍛錬、堪忍、愛心にあるなり。

 基督教は事業よりも精神を貴ぶものなり。そは精神は死後永遠まで存するものにして、事業は現世と共に消滅するものなればなり。支那宣教師某四十年間伝道に従事して一人の信徒を得ず、然れども喜悦以て世を逝(さ)れり。彼は得し処なかりしや。

 否。師父ザビエーは東洋に於て百万人以上に洗礼を施したりと雖も、恐くは現世より得し真結果に至つては此無名の一宣教師に及ばざりしならん。嗚呼事業よ、事業よ、幾許の偽善と、卑劣手段と、嫉妬と、争闘とは汝の名に依(より)て惹起(ひきおこ)されしよ。


 嗚呼然るか。然らば余の失敗せしは必しも余の罪にあらず。亦神の余を見捨て給ひし証拠にもあらず。亦余の奮励、余の祈祷の無益なるを示す者にも非ざるなり。

 然り、若し正義が事業の目的ならば、正義を発表するに於て、正義を維持するに於て最も力ありし事業こそ、最も成功せし事業なれ。基督教の主義より云へば正義是れ成功と云ふ。正義を守る、是れ成功せしなり。正義より戻る、又正義より脱する(仮令少しなりとも)、之を失敗と云ふ。

 大廈(たいか)空に聳えて高く、千百の青年其内に集りて隆盛を極むるの学校事業、必しも成功せし事業にあらざるなり。其資金の性質、其設立者の精神は、其成功不成功の標準なり。

 仁政之れを成功せる政治と云ふ。所謂政治家の術を学び、是と和し彼と戦ひ、是に媚び彼と絶つが如きは、如何に外面上の国威を装ふにもせよ、これ失敗せる政治なり。

 義人は信仰に依りて生くべし。兵器軍艦増加せし故に成功せりと信ずる政治家、教場美にして生徒多きが故に成功せりと信ずる教育家、宏壮なる教会の建築竣(を)へしを以て成功せりと信ずる牧師、帳面上洗礼を受けしものの増加せしを以て伝道事業の成功せしと信ずる宣教師──是等は皆肉眼を以て歩むものにして、信仰に依て生くるものにあらざるなり。

 彼等は玩弄物を玩(もてあそ)ぶ小児なり、木石を拝する偶像信者なり、黄金の堆積を楽む守銭奴なり、而して基督信者にはあらざるなり。聖アウガスチン曰く「大人の遊戯之を事業と云ふ」と。嗚呼余も亦余の事業を見ること小児の玩弄物を見るが如くなりき。余は是に於て、初てキリストの野の試誘(こころみ)の註解を得たり。馬太伝四章に曰く、

  さてイエス聖霊により導かれ悪魔に試みられん為に野に往けり。四十日四十夜食ふことをせず後うゑたり。試むるもの彼に来たりて曰ひけるは、爾もし神の子ならば命じて此石をパンと為よ。

  イエス答へけるは、人はパンのみにて生くるものにあらず唯神の口より出づる凡(すべて)の言(ことば)に因ると録(しる)されたり。是に於て悪魔彼を聖(きよ)き京(みやこ)に携へゆき殿(みや)の頂上(いただき)に立たせて曰ひけるは、爾もし神の子ならば己が身を下へ投げよ、蓋(そは)なんぢが為に神その使等(つかひたち)に命ぜん、彼等手にて支へ爾が足の石に触れざるやうすべしと録(しる)されたり。

  イエス彼に曰ひけるは、主たる爾の神を試むべからずと亦録(しる) せり。悪魔また彼を最(いと)高き山に携へゆき、世界の諸国と、その栄華とを見せて、爾もし俯伏(ひれふ) して我を拝せば、此等を悉くなんぢに与ふべしと曰ふ。

  イエス彼に曰ひけるは、サタンよ退け、主たる爾の神を拝しただ之にのみ事(つか)ふべしと録(しる)されたり。終に悪魔かれを離れ、天使たち来り事ふ。
                         (一節ー十一節)


 キリストすでに齢(とし)三十に達し、内に省み外に学び、終(つひ)に世の大救主たるを自覚するに至れり。彼の再従兄(またいとこ)バプテスマのヨハネも亦彼に此天職あるを認め、神の小羊として彼を公衆に紹介せり。天の父も亦彼の自覚とヨハネの所信とを確かめん為めに、聖霊を鳩の如く降(くだ)して彼の上にやどらせたり。

 然れども如何にして此世を救はんか、是れキリストを野に往かしめし問題なりき。(馬可(マルコ)伝一章十二節「往かしめし」は英語の driveth 希臘語の ek-ballei「強ひて逐ひやる」の意なり)。


 彼れ餓ゑたり。而して後、世界億千万の民の食足らずして饑餓に苦しむを推察せり。キリスト思へらく『我は慈善家となりて貧民を救はん。我に土石を変じてパンとなすの力あり。億万の空腹立所(たちどころ)に充たし得べし』と。

 然(さ)れども聖霊彼に告げて曰く『饑餓を救ふは一時の慈善なり。爾の救世事業は永遠にまで達すべきものなれば、億万斤のパンと雖も決して之を為し得べきに在らず。神の口より出づる凡ての言(ことば)こそ真正のパンなれ。爾の天職は世の所謂慈善事業にあらざるなり』と。


 慈善家たるの念を断ち、彼一日聖殿(みや)の頂上(いただき)に登り、眼下に万人の群集するを見し時、悪霊再び彼に耳語して曰く『爾は爾の思想を是等の民に伝へんと欲す。然れども爾はナザレの一平民にして、誰も爾の才能と真価値とを知るものなし。故に爾先づ己が身を下に投げよ。さらば衆人爾の技倆に驚き、爾に注目するに至らん。民の名望一たび爾に集らば彼等を感化すること掌(たなごころ)を反すよりも易し』と。

 然れども天よりの声は曰く『真理は虚喝(きよかつ)手段を以て伝へ得べきものにあらず。民の名声に頼つて彼等を教化せんとす、是れ神を試み己を欺くなり。方便は救世術としては全く無価値なり』と。


 キリストは慈善家たらざるべし。彼は方便を使用し民の耳目を驚かして世を救はざるべし。然れども彼れ一日高き山に登り、眼下に都府村落の散布せるを見、国土を神の楽園と為し得べきを思ひしや、彼の胸中に浮びし救世の大方策は、彼れ大政治家となりて社会改良を遂げんとするにありき。

 彼れ思へらく、我に世界を統御するの才能あり、我れ一挙して羅馬人を放逐し、神の特殊の選択にかかる猶太民族を率ゐ、世界を化して一大共和国となし、仁を施し民を撫育し、以て真正の地上の天国を建立せんと。

 然るに彼の良心は此高尚なる希望をも彼に許さざりき。社会改良事業は正義堂々、主義一歩も譲らざるものの為し遂げ得べきものにあらず。必ず彼に伏し是を拝し、円転滑脱の政策を取らざるを得ず。

 然り我は主義にのみ頼り救世の事業を実行せんのみ。サタンよ退け、汝の巧言を以て我を擾(みだ)す勿れ。我は目前の救助は為し得ずとも、我は国人の知る所とならずして幽陰の中に世を終るとも、我の事業は事物の上に現はれずとも、我は我の神を拝しただ之にのみ事へんと。

 キリストの決心茲に於て定まり、生涯の行路彼に指示せられたれば、悪魔は彼を説伏するに由なくして、終に彼を去り、天使来りて彼に事へたり。


 キリストの方向ここに定まりて、彼の生涯は実にこの決定の如くなりき。彼は衆人の饑餓を充たし得ざりしのみならず、彼の死せんとするや、彼の母をさへ其弟子に依託せざるを得ざるに至れり。

 天下の名望は一として彼に帰するなく、彼は悪人として、神を瀆(けが)すものとして、刑罰に処せられたり。彼は一の教会、一の学校を建つることなく、事業として見るべきものは僅に十二三人の弟子養成のみなりき。

 然れども此人こそ世界の救主にして、神の独子、人類の王にあらずや。実に然り、霊魂を有する人類には事業に勝る事業あるなり。世の事業を以て汲々たる信者は、宜しく事業上に於けるキリストの失敗に注目せざるべからず。


 若しキリストにして慈善家たりしならば如何。ジョージ・ピーボデー(George Peabody)に勝り、スチーブン・ジラード(Stephen Girard)に勝り、百千万の貧民孤児は彼の救助に与りしならん。

 然れども、彼が曾て「ヤコブの井戸の清水を飲むものはまた渇かん」とサマリヤの婦人に教へしが如く、彼が曾て五千人を一時に養ひし時多くの人はパンを得んがために彼の跡に附き従ひしが如く、永遠かわくことなき水、永遠餓うることなきパンを彼は此世に与へ得ざりしならん。世には貧民に衣食を給するに勝る大慈善あり。エマソン曰く、

  人もし我に衣食を給するも、我は何時か之に対して充分なる報(むくい)を為さざるべからず(直接間接に)。我れ受けて後之に依て富まず、亦貧ならず。唯知識上並に道徳上の補助のみ万全の利益なり。

 加之(しかのみならず)、若しキリストにして慈善家たりしならば、彼の慈善は彼一代に止(とど)まつて万世に至らざりしならん。

 見ずや彼の愛に励まされて、幾多の慈善家が彼の信徒の中に起りしを。ジョン・ハワード、サラ・マーチン、エリザベス・フライ等の監獄改良事業は、全く彼等のキリストに対する報恩心より発せしものにあらずや。ウィリアム・ウィルバフォース(WilliamWilberforce)並にシャフツベリー侯の慈善事業も亦然り。著者曾て米国に在りて、基督教国に於ける慈善事業の盛なる、実に東洋仏教国に於て予想だもする能はざる所なるを見たり。

 救霊上善行に価値を置かずして、善行を励ますに最も力ありしものは基督教なり。比較上現世は殆ど顧みるに足らざるものと見做して、現世を救ひ之れを進歩せしめしに於て最も功ありしものは基督教なり。キリスト若し慈善家たりしならば、彼の慈善事業は知るべきのみ。


 キリスト若し名望方便を利用して民を教化せしならば如何。基督教は永遠まで人霊を救ふの潜勢力を有する宗教たり得ずして、仏教の今日あるが如く早く既に衰退時代に入りしならん。方便必ずしも明白なる虚偽にはあらず。然れどもキリストの「否な否な、然り然り」の大教理は、方便てふものの効用を全く否定したり。

 基督信者にして名望家に依て教理を伝へんとするもの、学識爵位を以て下民の尊敬を基督教に索(つな)がんとするもの、会堂の壮大を以て信徒を増加せんとするものは、皆キリストの第二の誘惑に陥りしものにして、方便を利用する浅薄なる仏教信徒と大差あるなし。

 キリスト方便を斥(しりぞ)けて彼の信者たるものに真率と正直の真価値を示せり。然るに彼の信者にしてその事業の速成を願ひ、塔の頂上より身を投ずる愚と不敬とを学ぶものあるは、実に歎ずべきにあらずや。


 キリスト若し大政治家たりしならば如何。彼はシーザアに勝りシャーレマンに勝り、時の羅馬帝国を統一し、奴隷を廃し、税則を定め、堯舜の世、アウガスタスの黄金時代に勝る楽園国を地上に建てしならん。然れどもこれ此世に於ては、彼の「否な否な、然り然り」の直道を以て実行し得べきものにあらず。

 かのピートル大帝は巨人なり、然れども誰か彼を以て君子仁人となすものあらんや。フレデリック大王も亦絶世の建国者なり、然れども誰か彼を以て人類の模範として仰ぐものあらんや。キリストは万世に至るまで此世を救ふべきものなれば、彼は政治家たるべからざりしなり。


 想ひ見る、十八世紀の終に方つて仏蘭西に内乱の起るや、王室は人民の多数と共に天主教を奉じ、加ふるにギース家の挙(こぞ)つて之を賛助するあるを以て、新教徒則ちヒューゲノー党の苦戦止む時なく、前者に富と権力あり、後者に精神と熱心あり、此時に方つてヒューゲノー党の依て以て頼みとせし唯一の人物は、ナバールの大公ヘンリーなりき。

 彼れ年若くして武勇に富み、而も仏王ルイ九世の正胤にして、王位を践むべき充分の權利と資格とを有せり。然れども彼れプロテスタント教徒たるが故に此栄位に達するを得ず、僅かに微弱なる反対党の大将となり、屢々忠実なる彼の小軍隊を以て敵の大軍を苦しめたり。

 彼は彼の党を愛し、彼れ亦彼の党に愛せられたり。然るに一日彼れ心中に思へらく『我れ此党を率ゐて全国に抗し、戦乱止む時なく、国民塗炭に苦しむ茲に十数年。我の忠実なる兵卒にして、我の為めに屍(かばね)を戦場に曝せしもの其幾千なるを知らず。我れ何ぞ永く此悲劇を見るに忍びんや。我若し一歩を譲らば、我の血統、我の名望、必ず我をして仏国を統一せしむるに至らん。其時こそ我はヒューゲノー党に信仰の自由を与へ、旧新両教徒を和合せしめ、仏国をして富強幸福なる国となし得べし。我何ぞ我国のため、我忠愛なる士卒のために忍ばざらんや』と。歴史家は言ふ、仏国百年の計は実にヘンリーのこの決断にかかれりと。


 嗚呼かれは此誘惑に打負けたり。彼は仏国のため士卒のために一歩を譲り、天主教徒の請求を容れ、ヒューゲノー党を脱し、羅馬法王に対して罪の懺悔を為し、終に仏王として承認せられるに至れり。

 彼の退譲は彼の胸算に違はざる結果を生じ、彼の王位は鞏固となり、国内平穏に帰し民皆堵(と)を安ぜり。彼は忠実なるヒューゲノー党を忘れず、ナントの布令(Edict of Nantes)に依りて信仰自由を天下に令し、新教徒をして政治上殆ど旧教徒と異なる処なからしめたり。

 彼の治世は仏国の中興として見るべきものなり。殖産事業の進歩、財政の整頓、外国に対する勢威、共にヘンリー王の事蹟として文明諸国の賞讃する処となれり。然れども彼の仏国のために尽せしは惟一時の治安策なりき。

 かれ死するや、リシェリヤ、マザリンの下に仏国は威光を欧洲に耀かせしも、これ皆外貌の虚飾にして、内には止(とど)むべからざる腐敗を醸しつつありしを如何。ルイ十四世に至つては、此虚飾と頽勢其極に達し、ルイ十五世は黄金珠玉に包まれながら、淫縦汚穢の世に終れり。而してルイ十六世の代に至りては遂に仏国革命起り、其慘憺たる光景は人の皆知る所なり。

 ヘンリーは一時を救はんとして毒を千載に流せり。嗚呼若し彼にしてキリストの如く悪魔の巧言を斥けしならば、仏国二百年の争闘流血を避け得しものを。ヘンリーは仏国を愛して之を愛せざりしなり。


 仏の大王ヘンリーに対して、英の無冠王クロムウェルあり。彼も亦権力が精神と相争ふのときに生れ、身を民権自由に委ね、英国民の全世界に対する天職を認め、十七世紀の初めに方つてキリストの王国を地上に来らせんとの大理想を実行せんとせり。

 百難起りて彼の進路を妨ぐと雖も、かれの確信は毫も動くことなく、終に不充分ながら、英国を化して公義と平等とに基(もとゐ)する共和国となすに至れり。

 然れども英国民は未だ悉く彼れ無冠王の大理想を有せず、彼の心霊的の政治は肉慾的の普通社会を歓ばさず、反対終に四方に起り、彼はただ独り白殿(ホワイトホール)に天の父のみを友とするに至れり。

 然れども彼の理想と信仰とは確乎として動かず、彼は彼の事業の永続すべからざるを知ると雖も、尚ほ彼の最初の理想に向つて進み、内乱再起の徴あるをも顧みず、勝算全く絶えしにも関せず、終生主義を貫徹して死せり。

 彼が世を去るや彼の政府は直に転覆され、彼の屍は発(あば)かれ、彼の名は賤しめられ、彼の事業は一つとして跡を留めざるが如きに至れり。世はチャーレス第二世の柔弱、淫縦、腐敗の世となり、バトラル、ドライデン、クラレンドンの如き狐狸の輩寵遇を受け、人にハムプデンもベーンも無冠王も曾て地上の空気を呼吸せし事なきやの感を起こさしめたり。

 小人は皆云へり、清党(ピユリタン)の事業は全く失敗せりと。然れども無冠王死して三十年、彼の石碑に未だ青苔(せいたい)だも生ぜざる時に、スチュアート家は全く跡を絶つに至り、爾来真理と自由とが地球回転の度数と共に増進するや、無冠王の理想は徐々に実成されつつあり。

 クロムウェルありしが故に、英国は十八世紀の革命なかりしなり。仏王ヘンリーの退譲は仏国民一百年間の堕落と流血とを招き、クロムウェルありしが故に英国民は他欧洲国民に先だつ百年、既に健全なる憲法的自由を有せり。クロムウェルは実に英国を愛せし人なり。


 楠正成の湊川に於ける戦死は、決して権助(ごんすけ)の縊死にあらざりしなり(福沢先生明治初年頃の批評=『学問のすすめ』忠君の死と手代の死を同一視した)。

 南朝は彼の戦死に由て再び起つ能はざるに至れり。彼の事業は失敗せり。然れども彼れ死して後五百歳、徳川時代の末期に至て、蒲生君平、高山彦九郎の輩をして皇室の衰頽を歎ぜしめ勤王の大義を天下に唱へしめしに於て、最も力ありしものは忠臣楠氏の事蹟にあらずして何ぞや。

 ボヘミヤのフッス将に焼殺されんとするや、大声叫んで曰く「我れ死する後千百のフッス起らん」と。一楠氏死して明治の維新に百千の楠公起れり。楠公は実に七度人間に生れて国賊を滅せり。楠公は失敗せざりしなり。


 キリストの十字架上の恥辱は、実に永遠にまで亙る基督教勝利の原動力なり。キリストの失敗は実に基督教の成功なりしなり。


 然らば余も失敗せしとて何ぞ落胆すべき。何ぞ失敗せしを感謝せざる。義の為めに失敗せしものは、義の王国の土台石となりしものなり。これ後進者成功の為めに貯へられたる潜勢力なり。

 我等は後世の為めに善力(Power for Good)を貯蓄しつつあるなり。余は先祖の功に依り安逸放肆に歩む貴族とならんよりは、功を子孫に遺す殉義者とならんことを欲す。


 然らば余は余の事業に失敗せしにより絶望家となり、事業家たるの念を断ちしや。


 否然らざるなり。余は今は真正の事業家となりしなり。事業とは形体的のものなりとの迷信全く排除せられてより、余は動かすべからざる土台の上に余の事業を建設し始めたり。余の事業の敗られしは、敗るべからざる事業に余の着手せんが為めなり。(ヘブル書十二章廿七節)


 事業は精神の花なり、果なり。精神より自然に発生せざる事業は、事業にして事業にあらざるなり。汝等まづ神の国と其義とを求めよ、然らば事業も亦自然に汝等より出で来るべし。



第五章 貧に迫りし時


 四百四病のその中に貧ほどつらきものはなし。心は花であらばあれ、深山(みやま)がくれのやつれ衣(ぎ)に誰か思を起こすべき。人間万事金の世の中。金は力なり、権力なり。金のみは我等に市民権を与ふ。金なければ学も徳も、人を一市民となすを得ず。此開明を以て称せらるる十九世紀に於ても亦、金なき人は人にして人にあらざるなり。


 我が栄えし時に友人ありしも、我れ貧に迫りてより我は友なきに至れり。我れ窮せざりし時に我に信用ありしも、我が財嚢(ざいのう)の空しくなると同時に我が言は信ぜられざるに至れり。われ友を訪ふも彼れ我を見るを好まず、我れ彼に援助(たすけ)を乞へば嫌悪を以て我に対(こた)ふ。我と共に祈りしもの、我と共に神と国とに事へんと誓ひしもの、我を兄弟と呼びしもの、今は我の貧なるが故に我とは別世界の人となれり。

  落ぶれて袖になみだのかかる時
      人のこころの奥ぞしらるる


 汝貧に迫るまで友を信ずる勿れ。世の友人は我等の影の如し。彼等は我等が日光に歩む間は我等と共なれども、暗所に至れば我等を離るるものなり。貧より来たる苦痛の中に、世の友人に冷遇さるる是れ悲歎の第一とす。


 我の貧、我れ独り之を忍ぶを得ん。然れども我に依て衣食する我の母、我の妻も、我が貧なるが故に貧を感ぜり。我は我と境遇を同うせる古人の伝を読み以て我が貧を慰め得と雖も、彼等は如何にして此鬱を散ずるを得べしや。貧より来る苦痛の中に、我父母妻子の貧困を見る是れ悲歎の第二とす。


 我は食を求めざるべからず。彼処(かしこ)に到り此處(ここ)を訪(と)ひ、業にあり就かんと欲する時、我貧なるが故に彼より要求さるる条件多くして、我の受くべき報酬は少く、我は売人(うりて)にして彼は買人(かひて)なれば値段を定むる権は全く彼にあり。我不平を唱へて彼の要求を拒めば、我は唯我が父母妻子と共に餓死するのみ。若し餓死する者は我一人ならば、我は我が意を張りて我が膝を屈せざるものを。

 然れども今の我は我一人の我にあらず、我を生みしものの為め、我に淑徳を立つるものの為め、我は我の尊敬せざる人にも服従せざる得ず。貧より来る苦痛の中に、食の為めに他人に腰をかがめざるを得ざる是れ悲歎の第三なり。


 富足りて徳足るとは、真理には非ずとするとも確実なる経験なり。奢侈は勿論不徳なり。我れ富みたればとて驕らざるべし。然れども滋養ある食物、清潔なる衣服は、自尊の精神を維持する上に於て少なからざる力を有すものなり。

 我の最も嫌悪する卑陋(ひろう)なる思想は、貧と共に我が胸中を襲ひ、我をして外部の敵と戦ふと同時に内患に備ふるが為めに常に多端ならしむ。貧より来る苦痛の中に、心に卑陋なる思想の湧出する是れ悲歎の第四なり。


 貧は我をして他人を羨(うらや)ましめ、我を卑屈ならしむると同時に、又我を無愛想なる者(misanthropist)となすものなり。我は集会の場所を忌み、我は交際を避けんと欲す。我が心は益々冷薄頑固となり、靄然(あいぜん)たる君子の風、温雅なる淑女の様は我れ得んと欲して得る能はず。貧は我を社会より放逐(はうちく)するものなり。貧より来る苦痛の中に、寂寞(せきばく)孤独の念を生ずる是れ悲歎の第五なり。


 貧は貧を生ずるものなり。持つものには加へられ、持たざるものは既に持つものをも取去る。俗に所謂貧すれば鈍するとの言は、心理学上の事実にして亦経済学上の原理なり。富者益々富めば貧者は愈々(いよいよ)貧なり。貧より来る苦痛の中に、この絶望に沈む、この無限の堕落を感ずる是れ悲歎の第六なり。



 嗚呼われ如何にしてこの内外の攻撃に当らんか。貧は此身に附くものなれば、此身を殺さば貧は絶ゆるなるべし。自殺は羅馬の賢人カトー、シセロ等の許せし所、貧てふ無限の苦痛より遁(のが)れんが為めには自殺は唯一の方法ならずや。"He that dieth payeth all hisdebts"(死者は悉く負債を返還す)。我の社会に負ふ処、我の他人に負ふ所、我に之を返却し得るの見込みなし。我は死してのみ能く此負債より脱するを得るにあらずや。

 言ふを休めよ、汝美食美服に飽く者よ、かの一円に満たざる借銭のために、身を水中に投ぜし小婦は痴愚にして発狂せしなりと。彼女は世に己の貧を訴ふるの無益なるを知り、その純白なる小さき心は他人に義理を欠くに忍びずして、彼女は終に茲に至りしなり。

  "In she plunged boldly,
     No matter how coldly
     The rough river ran--
     Picture it -- think of it,
     Dissolute Man!" --Thomas Hood.


 然り、若し宇宙の大真理として、自殺は神に対し己れに対しての大罪なりとの教訓の存せざりしならば、貧の病を療治するために我も亦この手段を取りしものを。

 されども嗚呼我神よ、爾の恵は我れ死せずして我を此苦痛より免れ得しむ。爾に依てのみ貧者も自尊心を維持し得べく、卑陋ならずして高尚なるを得るなり。

 基督教は貧者を慰むるに、仏教の所謂「万物皆空」なる魔睡的の教義を以てするものに非ず。基督教は世をあきらめしめずして世に勝たするものなり。富めると貧なるとは前世の定(さだめ)にあらずして、今世に於ける個人的の境遇なり。貧は身体の疾病と同じく、之を治する能はずんば喜んで忍ぶべきものなり。

 我れの貧なる、若し我の怠惰放蕩より出でしものならば、我は今より勤勉節倹を事とし浪費せし富を回復すべきなり。天は自ら助くるものを助く。如何なる放蕩児と雖も、如何なる惰(なま)け者と雖も、一度飜(ひるがへ)りて宇宙の大動に従ひ、手足を労し額(ひたひ)に汗せば、天は彼をも見捨てざるなり。

 貧は運命にあらざれば、我等手を束(つか)ねて之に甘んずべきにあらず。働けよ、働けよ。正直なる仕事は如何に下等なる仕事なりと雖も、決して之を軽んずる勿れ。何をも為さざるは罪を為しつつあるなり(Doing nothing is doing ill)。

 人を欺き人を殺すのみが罪にあらざるなり。懶惰(らんだ)も亦罪なり。時を殺すも罪なり。富は祈祷のみに依て来らず。働くは祈るなり(Laborare est orare)。身と心とを神に任せて熱心に働きて見よ。神も宇宙も汝を助け、汝の労力は実るべし。


 然れども世には正義の為めの貧なるものなきにあらず。ロバート・サウジー曰く「一人の邪魔者の常に我身に附き纏(まと)ふあり、其名を称して正直と云ふ」と。永久の富は正直に由らざるべからずと雖も、正直は富に導くの捷径にはあらず。

 世に清貧なる者のあることは、疑ふべからざる事実なり。或は良心の命を重んじ世俗に従はざるが故に、時の社会より放逐せらるるあり。或は直言直行我の傭主(やとひぬし)を怒らし、我の業を奪ひ取らるるあり。或は我思想の此世の思想と齟齬(そご)するが故に、我に衣食を得るの途塞(ふさ)がるあり。

 或は貧家に生れて貧なるあり。或は不時の商業上の失敗に遭ひ、或は天災に罹りて貧に陥るあり。即ち自己以外に原因する貧ありて、黽勉(びんべん=精励)も注意も以て之を取り去る能はざるの場合あり。

 斯くの如くにして貧の我身に迫るあらば、我は勇気と信仰とを以て之を忍ばんのみ。而して基督教は此忍耐を我れに与ふるに於て、無上の力を有するものなり。


 一、汝貧する時に先づ世に貧者の多きを思ふべし。日本国民四千万人中、壱ヶ年三百円以上の収入ある者は僅に十三万人に過ぎず。即ち戸数百毎に、壱ヶ月二十五万円以上の収入ある家は僅に一戸半を数ふ。百軒の中九十八軒は、壱ヶ月二十五万円以下の収入あるのみ。

 而して来年の計を為し貯蓄を有するもの幾許かある。来月に備ふる貯蓄を有せざる家何ぞ多きや。人類の過半数は軒端(のきば)に餌を求むる雀の如く、山野に食を探る熊の如く、今日は今日を以て足れりとなし、今日得しものは今日消費し、明日は明日に任せ、日に日に世渡りするものなり。

 汝の運命は人類大多数の運命なり。肥馬(ひば)に跨(またが)る貴公子を以て普通人間と思ふ勿れ。彼一人安閑として世を渡り、綺羅を飾り、美味に飽かん為めには、数千の貧者は汗を流して労働しつつあるなり。

 貧は常にして富は稀なり。汝は普通の人にして彼貴公子は例外の人なり。一人にして忍び能はざるの困難も、万人共に之を忍べば忍び易し。汝は人類の大多数と共に饑餓を感じつつあるなり。


 二、古代の英雄にして、智に於ても徳に於ても遥かに汝に勝さりしものが、汝の貧に勝さる貧苦を受けし事を思へ。哲学上、神学上、信仰上、功績上、人類の首(かしら)と承認せらるる使徒パウロ、四十年間無私の労働の後に彼の所有に属せしものとては、外衣一枚と古書数巻とのみなりしを思へ(テモテ後書四章十三節)。

 古哲ソクラテスが日に二斤のパンと、雅典城の背後に湧出する清水とを以て満足したりしを思へ。「之を文天祥の土窖(どかう)に比すれば我が舎は即ち玉堂金屋なり。塵垢(ぢんこう)の爪に盈(み)つる、蟻虱(ぎしつ)の膚を侵すも、未だ我正気(せいき)に敵するに足らず」と勇みつつ、幽廬(いうろ)の中に沈吟せし藤田東湖を思へ。

 「道義胆(きも)を貫き、忠義骨髄に填(み)ち、直に須(すべから)く死生の間に談笑すべし」と、悠然として饑餓に対せし蘇軾を思へ。ヱレミヤを思へ。ダニエルを思へ。和漢洋の歴史何れなりとも汝の意に任せて渉猟し見よ。貧苦に於ける汝の友人は多きこと蒼天の星の如し。


 三、イエスキリストの貧を思へ。彼は貧家に生れ、口碑の伝ふる所に由れば十八歳にして父の一家を支へしとなり。「狐は穴あり、空の鳥は巣あり、されど人の子の枕する処だもなし」とはキリスト地上の生涯なりき。

 僕(しもべ)はその主人に優る能はず。汝の貧困キリストの貧困にまさるや。彼は貧者の友なりき。「貧しきものは福(さいはひ)なり」(ルカ伝六章十二節)との言は彼の口より出でしものなり。貧ならざればキリストを悟り難し。


 四、富必しも富ならざるを知れ。富とは心の満足を云ふなり。百万円の慾を有する人には五拾万円の富は貧なり。拾円の慾を有する人には弐拾円は富なり。富に二途あり。富を増すにあり。慾を減ずるにあり。汝今は富を増す能はず、然らば汝の慾を減ぜよ。

 カーライル謂へるあり、曰く「単数も零にて除すれば無限なり(1/0=∞)、故に汝の慾心を引下げて世界の王となれ」と。余は五拾万弗(ドル)の富を有する貴婦人が、貧を懼(おそ)れて縊死せるを聞けり。金満家の内幕は決して平和と喜悦とに充つるものに非ず。神の子の如き義侠、天使の如き淑徳は、寧ろ貧家に多くして富家に尠(すくな)し。

 我等は貧にして巨人たるを得るなり。神が汝に与へし貧てふ好機会を利用して、汝の徳を高め、汝の家を清めよ。愉快なるホームを造るに風琴の備附、下男下婢の雇入を要せず。若し富を得るの目的は快楽にありとならば、快楽は富なしにも得らるるなり。"My mind to me a kingdomis"(心ぞ我の王国なれ)。我は貧にして富むことを得るなり。


 五、汝今衣食を得るに困(くるし)む。然らば汝も空の鳥、野の百合花の如くなりて、汝の運命を天に任せよ。

  この故に我なんぢらに告げん、生命(いのち)の為めに何を食ひ何を飲み、また身体の為めに何を衣(き)んと憂慮(おもひわづら)ふこと勿れ。生命は糧(かて)より優り身体は衣(ころも)よりも優れるものならずや。なんぢら天空(そら)の鳥を見よ、稼(まく)ことなく穡(かる)ことを為さず倉に蓄ふることなし。然るに爾曹(なんぢら)の天の父は之を養ひ給へり。爾曹之れよりも大いに勝(すぐ)るるものならずや。

  爾曹のうち誰か能くおもひ煩(わづら)ひて其の生命を寸陰も延べ得んや。また何故に衣のことを思ひわづらふや。野の百合花(ゆり)は如何にして長(そだ)つかを思へ、労(つと)めず紡(つむ)がざるなり。われ爾曹に告げん、ソロモンの栄華の極の時だにも其の裝(よそほ)ひこの花の一に及ばざりき。神は今日野にありて明日炉に投げ入れらるる草をも、如比(かく)よそはせ給へば、況(まし)て爾曹をや。

  嗚呼信仰うすきものよ。さらば何を食ひ何を飲み、何を衣(き)んとおもひわづらふ勿れ。之れみな異邦人の求むるものなり。爾曹の天の父は凡てこれ等のものの必需(なくてならぬ)ことを知りたまへり。爾曹先づ神の国と其義(ただしき)とを求めよ、さらば此等のもの皆はなんぢらに加へらるべし。是故に明日のことを憂慮(おもひわづら)ふなかれ。明日は明日の事を思ひわづらへ。一日の苦労は一日にて足れり。(マタイ伝六章廿五ー卅四節)


 或仏教家此章句を評して曰く、基督教は人を怠惰ならしむるものなりと。然り基督教は多くの仏教徒の今日為すが如く、済世(さいせい=人民救済)を怠りつつ自己の蓄財に汲々たるを奨励せざるなり。基督教は雀の朝より夕迄忙しきが如くに人をして働かしむるものなり。基督教は富の為めに人の思慮するを許さず。

 勿論世に称する基督信徒必しも皆、空の鳥、野の百合花の如くにあらず。或者は蟻の如く取つても取つても溜めつつあり。或者は狐の如く取りしものは皆隠し置き、何時用ふるとも知らず、唯取るを以て快楽となしつつあり。然れども是れ基督教の本旨にあらざるなり。汝若し玻璃(はり)温屋の内にナザレのイエスの弟子ありと聞くとも、汝の心を傷ましむる勿れ。


 哲学者カント云へるあり、曰く「宇宙の法則を以て汝の言行とせよ」と。空の鳥、野の百合花は、此法則に従ひ居ればこそ何を食ひ何を飲み何を衣んとて思ひ煩はざるなれ。

 社会は生存競争のみを以て維持するものにあらざるなり。人は食ふ為めにのみ此世に来りしにあらざるなり。此地球は神の工場なれば、働くものに衣食あるは当然なり。工場の職人は、衣食の事のみを思ひ煩ひてはその職を尽し得ざるなり。我も亦此宇宙に生を有し、宇宙の一小部分なれば、我若し天与の位置を守らば宇宙は必ず我を養ふべし。エマソン曰く、

  "If the single man plant himself indomitably on his instincts,and there abide,the huge world will come round to him."
                                                                   --The American Scholor.
  人若しその本能の示すところに拠り、其上に屹立(きつりつ)せば、大世界は来りて彼を補翼(ほよく)すべし。


 衣食のために思考の殆ど全部を消費する十九世紀の社会も人も、決してキリストの理想にあらざるなり。


 六、故に汝餓死の怖れを抱く勿れ。餓死の恐怖は人生の快楽の大部分を消滅しつつあるなり。ナポレオン大帝言へるあり「食ひ過ぎて死する者は食ひ足らずして死するものよりも多し」と。人口稠密(ちうみつ)なる我国に於てすら、餓死するものとては実に寥々(れうれう)たるにあらずや。

 天の人を恵む実に大なり。毎年八百万石余の米穀は有害無益なる酒類に変化せらるるに関せず、労力の大部分は宴会とやら装飾とやら遊戯的の事物に消費せらるるに関せず、我等の食糧は尚ほ足り過ぎて毎年夥多(くわた)の胃病患者を出すにあらずや。

 世に最も稀なるものは餓死なり。明治廿二年の統計表に依れば、全国に於て途上発病又は饑餓にて死せしものは僅々(きんきん)千四百七十二人なりき(消化器病にて死せしものは二十万五千余人なり)。汝真理の神を拝しその命令に従はんと努むるものが、争(いか)でか餓死し得べけんや。ダビデ歌うて曰く、

  我れむかし年わかくて今老いたれど、義者のすてられ或はその裔(すゑ)の糧(かて)乞ひあるくを見しことなし。
(詩篇三十七篇二十五節)

と。余は善人の貧するを聞けり、然れども未だ神を畏るるものの餓死せしを聞かず。餓死するの恐怖を捨てよ。汝信仰薄きものよ。


 七、汝心を鎮めて良き日の来るを待て。変り易きは世の習(ならひ)なり。而して幸福なるものに取ては千代も八千代も変らぬ世こそ望ましけれども、不幸なるものに取ては変り行く世の中ほど楽しきものはあらざるなり。

 我の貧は永久まで続くべきにあらず。世の風潮の変り来つて「我等の時代」とならん時は、我の飢渇より脱する時なり。

 神は此世の富に勝る心の富を我に賜ふが故に、我れ終生貧なるものとも忍び得べし。地は善人の為めに造られしものなれば、我れ若し善と義を慕ふこと切ならば、神は必ず我に地の善き物をも与へ給ふべし。

 我の今日貧なるは我心の為めにして、われが世の物に優りて神と神の真理とを愛せんがためなり。信仰の鍛錬既に足り、肉慾既に減殺せられ、我れ既に富貴に負くる憂(うれひ)なきに至つて、神は世の宝を我に授け給ふなるべし。

 世に最も憫笑(びんせう)すべきものは、富を有して之を使用し能はざる人なり。富は神聖なり、故に神聖なる人のみ之を使用し得るなり。我れ貧して「人不惟以餅生(ひとはただべいをもつていきず)」を知れり。若し富の我に来るあらば、我は富を以て得る能はざる宝を得んがために之を使用すべし。我の貧なる、是れ我の富まんとするの前兆にあらずや。


 八、我に世の知らざる食物あり(ヨハネ伝四章三十二節)。我に永遠(かぎりなく)渇く事なき水あり(同十四節)。人の栄誉として、彼は最高(いとたか)きもの即ち神を以てするにあらざれば満足する能はざるなり(ビクトル・ユーゴの語)。

 而して我は此最上の食物と飲料(のみもの)とを有す。我は実に足れるものにあらずや。如何なる珍味と雖も純白なる良心に勝るものあらんや。罪より赦されし安心、神を友として持ちし快楽、永遠の希望、聖徒の交際(まじはり)・・・。

 我は世の富めるものに問はん、君の錦衣(きんい)、君の荘屋、君の膳の物、君のホーム(若しホームなるものを君も有するならば)は此高尚、無害、健全なる快楽を君に与ふるや否や。

 医師は言はずや、快楽を以て食すれば麁食(そしよく)も体を養ふべけれども、心痛は消化を害し、滋養品も其効を奏する少しと。真理は心の食物なるのみならず、亦身体の食物なり。

 我の滋養は天より来るなり。浩然の気は誠に実(まこと)に不死の薬なり。貧しきものよ、悦べ、天国は汝のものなればなり。


第六章 不治の病に罹りし時

 身体髪膚我之を父母に受く。鉄石の心臓、鋼鉄の筋肉、我は神の像(かたち)と精神とを以て世に出でたり。我にアダムの不死の体格なかりしにもせよ、我にアポロの完全均斉なる身体なかりしにもせよ、我の父母より授かりし体は今日我の有するが如き体にはあらざりき。我に永生にまで至るの肉体なかりしも、我は能く百年の労働と快楽とに堪ふる靈の器(うつは)を有せり。

 仰いでは千仞(せんじん)の谷を攀登(よぢのぼ)るべし。伏しては双手を以て蒼海を渡るべし。鷲の如き視力能く天涯を洞察し得べし。虎のごとき聴神経能く小枝を払ふ軟風を判別し得べし。我の胃は消化し能はざる食物あるなく、我の肺は万丈の頂巓(ちやうてん)にあるも我に疲労を感ぜしめず。我醒むる時は英気我に溢れて快を絶呼せしめ、我の床に就くや熟睡直に来て無感覚なること丸太の如し。山を抜くの力、世を蓋ふの気、我は之を有せり。而して今之を有せざるなり。


 然るに今や此快楽世界も、病める我に取りては一の用あるなし。存在は苦痛の種にして、我の死を望むは労働者が夜の来るのを待つが如し。梅花は芳香を放つも我に益なし。鶯は麗歌を奏するも我に感なし。身を立て道を行ひ名を後世に遺すの希望は今は全く我にあるなく、心を尽し力を尽して国と人とを救ふの快楽も今は我の有にあらず。

 詩人ゲーテ曰く Unnütz sein ist Todt sein(不用となるは死せるなり)と。我はいま世に不用なるのみならず、我の存在は却て世を悩ますなり。我れ若し他を救ひ得ずば、我れは他人を煩はさじ。

 嗚呼恵ある神よ、一日も早く我をして此世を終らしめよ。我れ今爾より望む所他にあるなし。死は我に取りては最上の賜物なり。

  如何なれば艱難(なやみ)に居る者に光を賜ひ
  心苦む者に生命(いのち)を賜ひしや。
  斯かるものは死を望むなれども来らず。
  これをもとむるは蔵(かく)れたる宝を掘るよりも甚(はなは)だし。
  もし墳墓(はか)を尋ねて獲ば、
  大いに喜び楽むなり。
  其道かくれ神に取籠(とりこめ)られをる人に、
  如何なれば光明(ひかり)を賜ふや。


 顧(かへりみ)れば過(すぎ)にし年の我の生涯、我の失敗、我れ之を思へば後悔殆ど堪ふべからざるものあり。嗚呼、夜の来らざりし間に我は我が仕事を終へざりしを悔ゆ。我の過去は砂漠なり。無益に浪費せし年月、思慮なく放棄せし機会、犯せし罪、為さざりし善ーー我の痛みは肉体のみに止まらざるなり。


 シオンの戦は酣(たけなは)なるに、我は用なき兵(つはもの)なれば、独り内に坐して汗馬の東西に走るを見、矢叫(やたけび)の声、太鼓の音をただ遠方に聞くに過ぎず。我に世に立つの望み絶えたり。又未来に持ち行くべき善行なし。神は斯くの如き不用人間を要し給はず。嗚呼実につまらなき一生にあらずや。


 我れ絶望に沈まんとする時、永遠の希望は又我を力づくるなり。キリストは希望の無尽蔵なるが如し。彼に依てのみ枯木(こぼく)も再び芽を出すべく、砂漠も花を生じ得べし。預言者エゼキエルの見し枯れたる骨の蘇生は(以西結書三十七章)我等の目撃する事実なり。


 不治の病に罹りし時の失望は二つなり。即ち、我は再び快復し能はざるべしと、また我は今は廃人なれば世に用なきものとなれりと。


 一、汝如何にして汝の病の不治なるを知るや。名医既に汝に不治の宣告を申渡したるが故に汝は不治と決せしか。されども汝は不治と称せし病の全癒せし例の多くあるを知らざるや。

 十九世紀の医学は人間と云ふ奇蹟的小天地を悉く究め尽せしものと思ふや。近来の医学の進歩は実に驚くべし。然れども医者は造物主に非ざるなり。時計師のみ能く悉く時計の構造を知る。神のみ能く悉くの汝の体を知るなり。

 生気は天地に充ち満ちて、常に腐敗と分解とを止めつつあり。医師悉く我を捨てなば我は医師の医師なる天地の造主に行かん。彼に人智の及ばざる治療法と薬品とあり。生命は彼より来るものなれば、我は直に生命の泉に到つて飲まん。


 医学の進歩と同時に人類が医学を過信するに至り、医学の及ばざるを以て人力も神力も及ばざる処と見做すに至りしは、実に人類の大損失と云はざるべからず。我等勿論旧記に載するが如き奇蹟的治癒の今日尚(なほ)存することを信ぜず。

 屋根より落ちて骨を挫(くじ)きし時、医師に行かずして祈祷に頼るは愚なり。不信仰なり。神は熱病を癒さんが為めに、キナイン剤を我等に与へ給へり。人これあるを知りて之を用ひざるは愚なり。外科手術を受くるに当り、コロロホルム剤は天賜の魔睡剤なれば、感謝して之を受くべきなり。

 然れども我等病める時に悉く医者と薬品とに頼るは、我等の為すべからざることなり。我等病重き時は庸医(ようい=藪医者)を去つて名医に行くが如く、名医も尚我等を医す能ざる時は神なる最上の医師に至るなり。庸医が我の病は不治なりと診断する時に我は絶望に沈むべきや。否然らず。名医の診断が庸医の診断の全く誤謬なるを示すことあるが如く、全能の神より見給ふ時は、不治と称せらるる汝の病も亦治し難きの病にはあらざるべし。


 世に信仰治療法なるものあり、即ち医薬を用ひず全く衛生と祈祷とに由りて病を治する法を云ふ。我等は或一派の信仰治療者の云ふが如く、医師は悪鬼の使者にして薬品は悪魔の供する毒物なりと云はず。然れども信仰は難病治療法として莫大の実効ある事を疑はず。

 勿論我等の称する信仰治療法なるものは、かの偶像崇拝者が医薬を軽んじて神仏に祈願し、或は靈水を飲むの類を云ふにあらず。信仰治療法は身体を自然の造主とその法則とに任せ、怡然(いぜん=欣然)として心に安んじ、宇宙に存在する霊気をして我の身体を平常体に復さしむるにあり。

 是れ迷信にあらずして学術的真理なり。殊に医師の称する不治の病に罹るに至ては、唯此治療法の頼るべきあるのみ。我は我病を治せんがための方便として信仰せず。これ真正の信仰にあらざればなり。斯くの如きの信仰治療法は無益なり。然れども我れ信ぜざるを得ざれば信ずるなり。

 見よ下等動物の傷痍(きず)を医すに於て、自然療法の如何に速(すみや)かにして実効多きを。清浄なる空気に勝る強壮剤あるなく、水晶の如き清水に勝る解熱剤あるなし。殊に平安なる精神は最上の回復剤なるを知るべし。常識に依る信仰治療法は、病体を試験物視する医師の治療法に優る数等なるを知れ。


 二、汝廃人となりたればとて絶望せんとす。嗚呼然らば汝の宗教も亦、多数の基督信徒並に異教信徒の宗教と同じく事業教なり。汝も亦人類の大多数と共に、事業を以て汝の最大目的となすものなり。

 事業は人間の最大快楽なり。然れども此快楽を得る能はずとて失望落胆するは、汝が未だ事業に優る快楽あるを知らざるに由るなり。基督教は他の宗教に勝りて事業を奨励すると雖も、其目的は事業にあらざるなり。

 キリストは汝が大事業家たらんが為に、十字架上に汝の為に生命(いのち)を捨てしに非ず。彼の目的は汝の靈魂を救はんとするにあり。若し世の快楽が汝を神に帰らしむるの妨害となるならば、神は此快楽をも汝より取り去り給ふべし。

 神は汝の身体と事業とに勝りて汝の靈魂を愛し給ふなり。汝の事業に若し汝の心を神より遠ざくるあれば、神は此事業てふ誘惑を汝より取除け給ふなり。人は偶像を崇拝するのみならず、又自己の事業を崇拝するものなり。

  なんぢは祭物(そなへもの)をこのみ給はず。
  若し然らずは我れこれをささげん。
  神のもとめたまふ祭物は砕けたる靈魂(たましひ)なり。
  神よ汝は砕けたる悔いし心を藐(かろ=軽)しめ給ふまじ。


 事業とは我等が神にささぐる感謝の献(ささ)げ物なり。然れども神は事業に勝る献げ物を我等より要求し給ふなり。是れ即ち砕けたる心、小児の如き心、有の儘の心なり。

 汝今事業を神にささぐる能はず、故に汝の心をささげよ。神の汝を病ましむる多分此為めならん。汝はベタニヤのマルタの心を以てキリストに事へんと欲し「供給(もてなし)のこと多くして心いりみだれ」(ルカ伝十章四十節)たるなるべし。故に神は汝にマリヤの心を与へんが為めに汝をして働き得ざらしめたり。

  手にものもたで 十字架にすがる

とは汝の常の歌ひし処にて、其深遠なる意義を知らんが為めに、汝は今働くこと能はざるものとなれり。

  我のこの世につかはされしは、
  わが意を世に張るためならで、
  神の恵をうけんため、
  その聖旨(みむね)をば遂げんためなり。

  なみだの谷や笑(えみ)の園、
  かなしみは来ん喜びと、
  よろこび受けんふたつとも、
  神のみこころならばこそ。

  勇者のたけき力をも、
  教師のもゆる雄弁も、
  われ望まぬにあらねども、
  みむねの儘にあるには如かじ。

  弱き此身はいかにして、
  その務めをば果つべきや、
  われは知らねど神はしる、
  神に頼(よ)る身の無益(むやく)ならぬを。

  小なるつとめ小ならず、
  世を蓋(おほ)ふとても大ならず、
  小はわが意をなすにあり、
  大はみむねに頼るにあり。

  わが手を取れよわが神よ、
  我行くみちを導けよ、
  われの目的(めあて)は聖旨(みむね)をば、
  為すか忍ぶにあるなれば。


 三、汝手足(しゆそく)を労する能はず、故に世に為す事なしと言ふか。汝高壇に立ちて説教する能はず、故に福音を他に伝ふる能はずと言ふか。汝筆を執つて汝の意見を発表する能はず、故に汝は世を感化するの力を有せずと言ふか。汝病床にあるが故に汝の此世に存するは無用なりと言ふか。

 嗚呼然らば汝は、戦場に出でざる兵卒は無用なりと言ふなり。山奥に咲く蘭は無用なりと言ふなり。海底に生茂(おひしげ)る珊瑚は無用なりと言ふなり。かの岩間に咲く蓮馨花(さくらさう)は、人に見えざるがゆゑに紅衣を以て身を装はざるか。年々歳々人知れずして香(かう)を砂漠の風に放ち、色を無覚の岩石に寄する花何ぞ多きや。

 神は人目の達せざる病床の中に、神に依て靈化されたる天使の形を隠し置き給ふなり。静粛なる汝の温顔に現はるる忍耐より来る汝の微笑は、千百の説教に勝りて力あるものなり。凹みたる汝の眼中に浮ぶ推察の涙一滴は、万人の同情に勝る貴きものなり。痩せとがりたる汝の手を以て握手せらるる時は、天使の愛を我等が感受する時なり。

 われ未だ我が眼を以て天使を見しことなし。然れども我の愛せしものが病床にありし時、大理石の如き容貌、鈴虫の音(ね)の如き声、朝露の如き涙ーー彼れ若し天使にあらざれば何を以て天使を描かんや。

 我は斯くの如きものが終生病より起つ能はずして我が傍にあるとも、決して苦痛を感ぜざるべし。彼は日々我の慰藉(ゐしや)なり。我を清め、我を高め、我をして天使が我を守るの感あらしむるものなり。汝若し天使を拝せんとならば、往きて病に臥する貞淑の婦人を見よ。彼は今生に於て、既に靈化して天使となりしものなり。


 四、汝また快楽を有せずと言ふ勿れ。汝の愛するものの汝と共にあり、是れ大なる快楽ならずや。汝の病弱と忍耐とは、汝の強壮なる時に勝りて汝を愛らしきものとなせり。

 愛せらるるは今は汝の特権なり。汝力なきものとして愛せられよ。愛せらるるを拒むは汝他を悩ますなり。汝の愛するものは汝の愛せられんことを望むなり。世に病者の存する理由は 世に愛せらるるもののあらんが為めならん。

 人は弱きものを愛して 自己の強きを感ずるものなり。我は愛せらるるよりも愛することを欲す。汝我の為めに我に愛せられよ。而して我が汝を愛するに依て汝より受くる所の、喜悦と感謝とを以て汝の快楽とせよ。


 汝若し尚ほ普通の感覚を有するあれば、無限の快楽の尚ほ未だ汝と共に存するあり。山野にさまよひ自然と交通して自然の神と交はるは、今汝の能はざる所、紳士淑女と一堂に集(つど)ひ思想を交換し事業を画するは、今汝の及ばざる所なり。

 然れども若し汝にして四十八文字を解するを得ば、聖書なる世界文学の汝と共に存するあり、以て汝を励まし汝を泣かしむべし。以て汝の為めに恋歌(れんか)を供し(ソロモンの雅歌)、汝の為めに軍談を述ぶべし(約書亜(ヨシユア)記土師記等)。或は貞操美談あり(路得(ルツ)記)。慷慨歌あり(耶利米亜(エレミア)記等)。汝の渾ての感情に訴へ、喜怒哀楽の情かはるがはる起り、汝をして少しも倦怠する事なからしむ。汝聖書を楽読せよ。


 然れども若し読書は汝の堪ふる所にあらずとならば、他に快楽の尚ほ汝の為めに備へらるるあり。即ち心を鎮(しづ)めて神の摂理を思ひ見よ。神は人を造り彼に罪を犯すの自由を与へて、又彼を救ふの術を設け給へり。救済の目的として此世界と汝の一生とを考へ見よ。如何なる脚本か之に勝るの悲劇喜劇を載する者あらんや。摂理の戯曲(Romance of Provdence)を読むものは、パウロと共に絶叫せざるを得ず。

  あゝ神の智と識の富は深いかな。その法度(さだめ)は測り難く、其踪跡(みち)は索(たづ)ね難し。孰(たれ)か主の心を知りし。孰か彼とともに議することを為せしや。孰か先づかれに施(あた)へて其の報(むくい)を受けんや。そは万物(よろづのもの)は彼より出で、かれに倚(よ)り、かれに帰ればなり。願くは世々栄(ほまれ)神にあれ。アーメン(羅馬書十一章三十三節ー卅六節)

  僧アンソニー曾て書を盲人某に送つて曰く、君願くは肉眼の視力欠乏の故を以て君の心を苦しむ勿れ。これ蝿も蚊も有するものなればなり。ただ喜べよ、君は天使の有する眼を有するが故に神を視るを得、神の光を受くべければなり。

と。動物的の汝は病めり。然れども天使的の汝は健全なるを得たり。汝動物的の快楽を去り、天使的の快楽を取れよ。


 又病むものは汝一人ならざるを知れ。人類は一秒時間に一人づつの割合を以て、呼吸(いき)を引き取りつつあるを思へ。一ヶ年に八十万人づづ日本人は墓に葬らるるを知れ。全国にある四万人以上の医師は、平均一日五人以上の患者を診察しつつあるを覚えよ。しかのみならず少しも病を感ぜざる人とては、千人中一人もあらざるを知れ。

 実に人類全体は病みつつあるなり。人類はアダムの罪に由て死刑を宣告されしもなり(如何なる神学上の学説よりみるも)。而して第二のアダムより靈の賜物を得しもののみ、真正の生命を有するものなり。
汝は人類全体と共に病みつつあるなり。汝の苦痛に依て、心霊を有する世界人民十六億人の苦痛を想ひ見よ。


 汝を哺育(ほいく)せし汝の母も、汝の如き苦痛を忍んで眠れり。汝よりも齡(よはひ)少なき汝の妹も、能くその両親の言を聞き分けて、つぶやく事なくして目を閉じたり。汝独り忍び得ざるの理あらんや。

 神はその独子(ひとりご)をして人間の受くべき最大の苦痛を受けしめ給へり。神は愛する程その子を苦しめ給ふが如し。汝の苦しめらるるは、汝が神に愛せらるるの証なり。忍びて試誘(こころみ)を受くる者は福(さいはひ)なり。蓋(そ)はこころみを経て善(よし)とせらるる時は生命の冕(かんむり)を受くべければなり。この冕は主おのれを愛するものに約束し給ひし所のものなり。(ヤコブ書一章十二節)


 来らんとする来世の観念は汝を慰むるや否やを知らず。今之を汝に説く、却て汝を傷ましむることあらんを恐る。然れども世界の大偉人、大聖人の希望と慰めとは、多くは来世存在の信仰にありき。

 ソクラテスは霊魂不滅に就て論究しつつ死せり。老牧師ロビンソン、医師より病危篤を宣告を受くるや、彼の友人に告げて曰く、「死とは斯くも平易なる者なるか」と。スウェーデンボルグ将(まさ)に死せんとするや、友人彼の心中の様を問ふ。彼答へて曰く「幼時老母の家を訪はんとする時の喜悦(よろこび)あり」と。

 ビクトル・ユーゴは仏国の詩人にして小説家なり。彼の鉄筆は欧洲を震動せしめ、彼の筆誅に罹りし高慢なる宗教家と政治家は、彼を虚無党と称し、無神論者と見做したり。彼れ歳八十にして尚ほ壮年の希望あり。一日彼の未来存在に関する信仰を表白して曰く、

  余は余に未来の生命の存するを感ず。余は切り倒されたる林の木の如し。新鮮なる萌芽は愈々強く愈々活溌に、断株(きりかぶ)より発生するを見る。余は天上に向つて登りつつあるを知る。日光は余の頭上を輝(てら)せり。地は今尚ほ其養汁を以て余を養へども、天は余の未だ識らざる世界(天国)の光線を以て余を輝せり。

  人は言ふ、靈魂とは存せざるものにして唯体力の結果なりと。然らば何故に余の体力の衰ふると同時に、余の靈魂は益々光輝を加ふるや。厳冬余の頭上に宿るに、余の心は永久の春の如し。・・・我れ我生涯の終りに近づくに及んで、他界の美音の益々明瞭に我が耳に達するを覚ゆ。其の声は驚くべくして又単純なり。雅歌の如くにして歴史様の事実なり。

  余は半百年間散文に、詩文に、歴史に、哲学に、戯曲に、落首に余の思想を発表したり。而して尚ほ余の心に存する千分の一をだも言ひ尽くさざるを知る。余は墓に入る時、余は一日の業を終へたりと言ふと雖も、余の一生を終へたりと言ふ能はず。余の仕事は明朝また再び始まらんとす。墓とは道路の行詰りにあらずして、他界に達する通り道なり、曙に至る昧爽(あけぐち=夜明け)なり。


  余は此世に存する間は働くなり。此世は余の本国なればなり。余の事実は始めかけたり。余の築かんとする塔は、漸く其土台石の据附けを終へたり。其竣工は永久の仕事なり。余が永遠を渇望するは余が限りなき生を有する証拠なり。

と。此人にして此言あり。霊魂不滅は基督教の教義のみにあらざるなり。


 メソヂスト派の始祖ジョン・ウェスレー死する前日、彼れ友人に向ひ数回繰返して曰く「何よりも善き事は神我等と共に在(いま)す事なり」と。神は万物の靈たる人間の有するものの中にて最も善なる、最も貴きものなり。神は財産に勝り、身体の健康に勝り、妻子に勝りたる我等の所有物なり。

 富は盗まるるの懼(おそれ)と浪費さるるの心配あり。国も教会も友人も我を捨てん。事業は我を高ぶらしめ、此肉体も亦我は之を失はざるを得ず。然れども永遠より永遠に至るまで我の所有し得べきものは神なり。人の尊き、彼は最(い)と高き神より以下のものを以て満足する能はざるなり。

  そは或は死、或は生、或は天使、あるひは執政(つかさ)、あるひは有能(ちからあるもの)、あるひは今ある者、あるひは後あらん者、或は高き或は深き、また他の受造者(つくられしもの)は、我儕(われら)を我主イエスキリストに頼(よ)れる神の愛より絶(はな)らすること能はざるものなるを我は信ぜり。(羅馬書八章末)

  汝神を有す、又何をか要せん。


 不治の病怖るるに足らず。快復の望尚ほ存するあり。之に耐ふるの慰めと快楽とあり。生命(いのち)に勝る宝と希望(のぞみ)とを汝の有するあり。又病中の天職あるなり。汝は絶望すべきにあらざるなり。

(明治二十六年二月)

誤字脱字に気づいた方は是非教へて下さい。

2007.2 Tomokazu Hanafusa / メール

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これはネット上にあるテキストを集めて、残りの部分を、現代日本文學全集51福澤諭吉・内村鑑三・岡倉天心集(筑摩書房刊 昭和三十三年八月五日発行)をもとにして、新字旧かなで入力して作成したものである。本文中、ヰヱホヲの小文字はィェォで表はした。読みやすさのために改行を適宜に加へたが、二段改行の部分が本文の改行である。なほ岩波文庫のテキストと異なる点が間々存在する。

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