丸谷才一は『桜もさよならも日本語』の中の「言葉と文字と精神と」の章で、日本人の言語能力が戦後飛躍的に向上したことが戦後の国語改革のおかげではないことを証明しようとして、それとは別の要因を五つ挙げて見せた。
しかし、彼の議論はいずれも「そうも言える」というたぐいのものであって、いま一つ胸にすとんと落ちるようなものがない。中でも特に分からないのは、彼が明治時代から延々と続いている言文一致運動の功績に言及していないことである。
戦前の分かりにくい美文主義の文体が消え去って、戦後の分かりやすい文体が確立されたのは、この「しゃべるように書けばよい」という運動と無関係ではないはずだ。そしてこの運動と戦後の国語改革とはこれまた無関係ではないはずだ。
さらに、この言文一致運動と国語改革が現実に形をとって実行に移されたのは教育の場であることを見れば、日本人の言語能力が向上したのはひとえに教育機関のおかげだということは率直に認めるしかない。
一方、彼の挙げた理由のうちで、教育の普及を除く他の四つの理由(テレビの普及、社会の都市化、迷信の薄れ、精神の自由)は全て副次的という感を免れない。
それどころか、彼が戦前の国民の国語力の低さを旧憲法下の言論統制のせいにするに及んでは、全く何をか言わんやである。では夏目漱石や芥川の存在はどうなるのか。彼らは国民からまったく浮き上がった存在だったとでもいうのだろうか。
どうやら、彼が戦後の国語改革をあくまでも否定しようとするのは、それが官僚の作ったものであって、しかもそれが憎むべき戦前の日本政府によって作られたものと似ているいうことに起因するらしいのだ。結局は好き嫌いなのである。
あとは、「新仮名づかいで読みづらくなった」とか、「『家路』は『イエジ』なのか『イエヂ』なのかは誰にも分からない」といった極論とイチャモンの連発で、真剣に読み続けるには辛いものになっている。いったい何があったのと聞きたくなるぐらいに、議論が一方的なのだ。
それにしても、日本のトップクラスの人間によるこのような説得力のない文章を読まされると、日本人の国語力はまだまだであるという印象を強くするばかりである。
残念ながら、彼が泉鏡花のルポルタージュに関して言っていることは、丸谷才一本人にもそのまま当てはまると言っていいのではないかと思われる。(2004年1月6日)
清水幾太郎の『論文の書き方』を読むと、口語文というのはかなり早くから普及していたことが分かる。
言文一致運動はすでに幕末から始まっており、第一次大戦後の大正時代には、文学の世界でも口語体が確立していた。朝日新聞の社説が口語体になったは1922年(大正11年)からだが、それ以前からすでに社会面などでは口語体が使われていた。
清水幾太郎が第二次大戦中に発表した『槍騎兵』というコラムの日本語は、現代の散文として立派に通用するものである。そういえば、与謝野晶子の源氏物語の口語訳が出たのは実に明治45年である。
しかし、口語体が普及しても文語体の時代の美文の伝統はそう簡単にはなくならず、形式を離れて人間の経験をそのまま文章に書くという習慣はなかなか拡がらなかったようだ。
大正時代の「綴り方」の教師たちは「あるがままに書こう」と言い続けたけれども、新聞の社説は昭和に入っても相変らず形式的な内容を優先するものにとどまっており、現代の社説のように現実の問題をストレートに書き表すようなことはなかった。
第二次大戦中の新聞の戦況報道が現実に即した内容でなかったのは、必ずしも大本営発表のせいばかりではなかったとも言えるのである。(2004年1月6日)
丸谷才一は『桜もさよならも日本語』の中で「国語改革という国家的愚行を廃棄」しないかぎり「破局はいつの日か、確実に襲ひかかるであらう」と言っている。
しかし、このような大げさな恫喝が出てくるのは、丸谷が自分の主張を実現する手段をもたずに荒野でむなしく叫ぶ旧約聖書の預言者と同様であることを自覚しているからだろう。それはとりもなおさず歴史的仮名遣いの敗北を認めたに等しいといえる。
しかし、この本はこんな予言よりもはるかに有益なことを一つ教えてくれている。それは言葉には「ものそれ自体を写す言葉」と「古典主義的な言葉」の二種類があるということである。
たとえば『太平記』の文章は『平家物語』『源氏物語』『白氏文集』『和漢朗詠集』などの思い出を懐かしむ言葉で書かれている。また『梅暦』の文体は蕉門
から月並みに至る俳諧、浄瑠璃、さらには『古今集』や『伊勢』『源氏』の匂いを常に漂わせる言葉で書かれている。
それに対して、翻訳ものの小説や近代日本の小説類は、ほとんど、歴史がその言葉にもたらす余韻や残響や光沢や余香を拒否した言葉、「まっさらな言葉」、ものそれ自体を写す言語で書かれているというのである。
たとえば志賀直哉の小説が、江戸末期から硯友社にかけての古典主義的な言語の圧倒的な優位と飽和状態と退廃に悩んだあげく、それをきれいに振り捨てて成
立したものであるとすれば、古典主義的言語によって新しい作品を創造するという意識が最高潮に達したのが『新古今』の和歌だというのである。
この指摘は日本の文学史を考える上での重要なヒントを提供するものであり、「表記の論理性」とか「国語全体の構造」や「日本語の全体系」などという言葉
を振りかざして、論理至上主義者・全体主義者と化した丸谷の歴史的仮名遣い優位論とはちがって、はるかに説得力がある。(2004年1月7日)
昭和18年に出版された『明解國語辭典』の復刻版が出たが、その解説に面白いことが書いてある。
歴史的仮名遣いによって文章を書くときの「かな」の使い分けを、丸谷才一著『桜もさよならも日本語』の「歴史的仮名づかいの手引き」に従ってまとめると次のようになる。
複数の「かな」を使い分ける必要のある音は五つある。それはローマ字で表わすと[wa][i][u][e][o]である。それらを表わす「かな」の使い分けの基本は次の二つである。
まず、それぞれの音が文節の最初に来るときは,[わ][い][う][え][お]で書く。次に、それぞれの音が文節の二番目以降に来るときには、[は][ひ][ふ][へ][ほ]で書く。
ただし例外として、文節の最初に来るとき[i][e][o]は[ゐ][ゑ][を]で書く場合がある。また、文節の二番目以降に来るとき[wa]は[わ]
で書く場合があり、[i]は[ゐ]か[い]で書く場合があり、[u]は[う](拗音の[yu])で書く場合があり、[e]は[ゑ]か[え]で書く場合があ
り、[o]は[を]か[ふ]か[う]([ふ]と[う]は直前のかなと組み合わせて母音を[o]の長音に変えることが多い)で書く場合がある。このとき
[お]で書くことはない。
その他に、[zi]は[じ]で書き[zu]は[づ]で書く。ただし例外として、それぞれ[ぢ][ず]で書く場合がある。
どの場合に例外を適用するかは覚えるしかない。とはいっても、例外はこの「手引き」の表によれば300余りあるが、そのほとんどは普通は漢字で書くもの
か現代仮名遣いと同じであるものかのどちらかである。こう見てくると、歴史的仮名遣いで書くのはそれほど難しいことではないようにも思える。(2004年
1月12日)
歴史的仮名遣いを使うためには、[wa][i][u][e][o]と[zi][zu]のかなの使い分けのほかに、用言の活用の未然形(未来の助動詞[う]に続く変化形)を覚える必要がある。
動詞では例えば「買ふ」の未然形は「買は」で「買はう」となる。
形容詞では例えば「よい」(この[い]は[ki]の音便なので例外)の未然形は「よからう」になる。
形容動詞では例えば「静かだ」の未然形は「静かだらう」になる。
助動詞では丁寧の「ます」の未然形は「ませう」になり、
過去・完了の「た」の未然形は「たらう」になり、
打消の「ない」希望の「たい」(これらの[い]も[si]の音便なので例外)の未然形は「なからう」「たからう」になり、
希望の「たがる」の未然形は「たがらう」になり、
断定の「だ」の未然形は「だらう」になり、
断定の「です」の未然形は「でせう」になり、
様態の「さうだ」比況の「やうだ」(これらの[う]は例外)の未然形は「さうだらう」「やうだらう」になる。(2004年1月12日)
福沢諭吉の『学問のすすめ』の初版が復刻されているが、そこでは変体仮名が使われており我々にはとても読みづらいものである。変体仮名が廃止されたのは
やっと明治33年(1900年)のことだった。それまでは歴史的仮名遣いよりもはるかに複雑な仮名が使われていたのである。
そして、変体仮名が廃止された年から小学校ではそれまで多かった落第生の数が減って、卒業する生徒の数が急に増えだしたというのだ。
この出来事は、戦後に国民の国語力が増大したことは現代仮名遣いの採用とは関係がないという主張にとって、極めて不利なものである。
変体仮名を残すことは日本の仮名の歴史を伝える上で重要だった。それは歴史的仮名遣いについても言えることである。しかし、同じ音を表わす仮名は少ない
方が学びやすいことも事実である。仮名の数を減らすことによって国語が勉強しやすくなったことに間違いはない。
口語文に歴史的仮名遣いを使うことの現実的なメリットは古文の勉強に便利なことぐらいだろう。国の政策として現代仮名遣いを採用したことは妥当なことだったと言わざるを得ない。(2004年1月13日)
近くの図書館に戦前の『広辞林』(1936年刊)があるので書庫から出してもらつた。金沢庄三郎編といふやつである。それを引いてみて一番驚いた
のは、ひらがなの「し」ではなく「志」に近い形の仮名が使はれてゐることだ。これはいはゆる変体仮名で、そんなものがまだこの時代にも生き残つてゐたの
だ。
そして、これこそが仮名遣ひであるから、現代仮名遣ひは仮名遣ひではないことになる。それは音の規則でしかないからである。歴史的仮名遣ひだけが仮名遣ひの名に値する。
したがつて、「歴史的仮名づかいの手引き」(丸谷才一著『桜もさよならも日本語』)が文節の中での音の位置によつて仮名の使ひ分けが可能であるかの
やうに教へているのは間違ひである。どの仮名を使ふかは単語ごとに覚えるしかないのである。だからこその仮名遣ひである。
「愛」は「あい」と書き「藍」は「あゐ」と書き「相」は「あひ」と書くのは、それぞれが意味の異なる別の言葉だからである。
では、なぜ仮名でかう書き分ける必要があるかといふと、それは昔は漢字を使はずに「愛」を「あい」と書き「藍」を「あゐ」と書き「相」を「あひ」と書いたからである。さういふ文化があつたのである。
しかし、われわれは最早これらの言葉を仮名で書きはしない。漢字で書く。だから、この仮名の区別はわれわれには無用である。(2004年1月19日)
『私の國語教室』を福田恆存は「第一章第二章と讀み終へたら、續く第三章以下はとばして、最後の第六章を讀んでください」と書いてゐる。私はその
とほりにしたが、一番おもしろかつたのはその読みとばして欲しいといつてゐる部分、とくに第三章の「歴史的かなづかひ習得法」だつた。
第一章は「『現代かなづかひ』の不合理」を、第二章は「歴史的かなづかひの原理」を、最後の第六章では「國語問題の背景」を論じている。
この第一章で展開される現代かなづかひ批判は非常に説得力がある。その理詰めの議論は、もつともだと頷かせるだけの整合性がある。それに比べれば、第二章の歴史的かなづかひ擁護論には、第一章ほどの完璧さがない。
仮名づかひは音ではなく語によつて決まると言つて始めた議論は、表音は表意を志向するといふ議論になり、そこに現象論と本質論の区別が加はり、語の自律
性といふ言葉が出てきて、語義の差ではなく失はれた音韻の差であるともいひ、常識論が出てくるかと思ふと、最後は表音と表意の二元論だといふ。これではと
ても分かりやすい議論とは言えない。
最後の第六章は要するに日本の国語政策に対する批判であり、言語学的見地から興味深いことがないわけではない。
それらに対して、第三章は内容的には丸谷才一著『桜もさよならも日本語』の「歴史的仮名づかいの手引き」を詳しくしたやうなものだが、歴史的仮名遣ひの例外となる言葉を語の成り立ちから説明してゐるところが格別におもしろい。
たとへば、単語の語中か語尾に「う」が登場するのは全部広い意味でのウ音便で出来てゐるといふことがわかる。
「かうして」が「かくして」なのはすぐに分る。しかし、「かうばしい」が「かぐはしい」からであり、「かうぢ(麹)」が「かびたち」から、「かうべ(神
戸)」が「かみべ」、「かうもり」が「かはもり」から来てゐるのを知ることは大きな喜びである。さらに、そこからまた「く」だけでなく「ぐ」も「び」も
「み」も「は」も全部「う」に変つてしまつたことが分るのもおもしろい。
次に「さうして」は「さ・して」の「さ」を延ばしたもの、「やうやう」は「やや」が延びたもの、「やうか(八日)」は「や(八)か」の延びたものだといふことがわかる。
さらに「けふ(今日)」は古くは「こ(此)ひ(日)」であり、「きのふ」は「きし(来し)ひ(日)」から来てゐることもわかる。
また「を」には小さいとか若いとかいふ意味がある。だから「をとこ」は元々は若い子といふ意味なのだ。また、「をつと(夫)」は「をひと」でこれも元は若い人、「をんな」は「をおみな」で若い女だつた。
かういふ語源の話にはクイズ的雑学的興味がつきないものがあり、どんどん読んでしまう。ほかにも挙げると、「をさめる」の「をさ」は長であり、「をさな
い」はそれが無いといふ意味なのだ。また「ついたち(一日)」は「月立ち」で月初めだといふことになる。「めづらしい」は「めづ(愛)らしい」のだ。
この章では、語源のおもしろさだけでなく、さらに日本語の言葉といふものが実に柔軟に音を変へていくものであることがよく分かる。
その次の第四章の「國語音韻の變化」は、教科書的な記述で退屈させられる。福田はこれを次の章で批判するために書いてゐるからつまらないのは仕方がない。
「國語音韻の特質」と題した第五章こそは、この本の中でわれわれが歴史的仮名遣ひを是非とも使はねばならないことを、最も強くアピールしてゐる部分である。
ここで言はれてゐることの要点は、日本語の音は現象として非常に不安定で変はりやすいものなのに、そのやうな言語を表すのに、現代仮名遣ひのやうな固定的で直接的な仮名遣ひはふさはしくないといふことである。
それに対して、歴史的仮名遣ひの例へば「は」行の表記は、音のストレートさを緩和する役割を担つてゐる。
例へば、「おもう(思)」や「くう(食)」と書かずに歴史的仮名遣ひによつて「おもふ(思)」や「くふ(食)」と書くことによつて、これらの言葉の語尾
が実際に発音されるときの曖昧さがよく表はされるのである。われわれは母音の「う」を語尾や語中では明確に「う」と発音しないものなのだ。
そして、この「ふ」によつて表はされた曖昧さが、言語表現にソフトさと上品さを与へてゐる。それに対して「う」と書けば、まるで母音がそしてこの表現が裸のままに現はれてゐるやうに感じられるのだ。
今日の讀賣新聞の夕刊のコラムに「高峰秀子さんは、そのころ喪服がもっともにあう女優さんだといわれていたから」(竹内洋「サクラチル」)といふ文章をたまたま見かけたが、この「にあう」を読むと歴史的仮名遣ひの「にあふ」の値打ちが分るやうな気がする。
この文章の中の「にあう」がわたしにはとても露骨な感じがするのである。いやらしささへ感じられるのだ。高峰秀子をおとしめてさえいる。ここはやはり
「にあふ」でなくては困るのだ。これでやつと服を着たやうな感じがする。これが福田のいふ言葉の語中や語尾における「あ」行文字に対する抵抗感だらうか。
これは歴史的仮名遣ひを実際に使つてみないと分からないかもしれない。しかし、一旦この「は」行の優雅さに気付いてみると、歴史的仮名遣ひはやめる気がしなくなるほどの魅力がある。
この優雅さは日本語の音の曖昧さを許容する優雅さではあるが、もちろん古典文学とのつながりを、紫式部とのつながりを自分の使ふ言葉の中に保持する優雅
さでもある。そして、この歴史的仮名遣ひの優雅さ曖昧さこそは、日本語の発音の柔軟性にとつて必要な柔軟性なのである。
現代仮名遣ひといふものは、そのやうな曖昧さ柔軟性を奪はれ、表記としての余裕を取り去つた非常に硬直したものであり、幽玄を重んじる日本文化には似つかはしくない表記法であると言へる。さういふことを、音韻学的に厳密に論じたのがこの第五章である。
誰でも現代仮名遣ひのインチキにはうすうすは感じてゐるはずだ。そして、それに代はるべきものが歴史的仮名遣ひであることも知つてゐる人は多いだらう。
そのやうな人たちに歴史的仮名遣ひの魅力を教へて、歴史的仮名遣ひが実践に値することを教へてくれるのがこの本である。(2004年1月21日)
築島裕の『歴史的仮名遣い』(中公新書)は、正しい仮名遣ひを求めて日本人が鎌倉時代の昔から払つてきた努力の跡を学問的にたどつた本である。
正しい仮名遣ひの探求を最初に始めたのは藤原定家であり、彼の説が権威として尊重され広く使はれるやうになる。その後、定家の間違ひに気づく人も現れる
が、それをはつきりと修正したのが江戸時代の契沖だつた。例へばそれまで「ゆへ(故)」と書かれてゐたのを「ゆゑ」と訂正したのが契沖である。
しかし、この探求はその後もたゆみなく続けられた。例へば「候」の正しい仮名遣ひが「さうらふ」であることが見つかつたのは昭和15年のことだつた。
その間、正しい仮名遣ひを探し求めねばならないといふ意識はどの時代においても変ることなく受け継がれた。われわれは「お」を使ふべきか「を」を使ふべきか「づ」を使ふべきか「ず」を使ふべきか等々について、ずつと考へてきたのである。
ところが、第二次大戦後の日本はこの千年以上に亘つて営々として積み重ねてきた努力をあつさり捨ててしまう。そして、正しさはどこか別のところにあると
思ふことをやめて、今が正しいのだと思ふことにした。それが現代仮名遣ひである。さういふことがこの本からはよく分る。
現代仮名遣ひの採用は戦後の日本国民の数ある思考停止の一つだつたのである。
ところで、この本は国語学史を仮名遣ひの面からまとめた教科書であり、書き方も築島が昔書いた『国語学史』(東京大学出版。用語の説明が前
後したり、同じことが繰り返されたりして読みにくい本である)とよく似ており、内容的にも重複する部分が多いので退屈することは否定できない。(2004
年1月23日)
歴史的仮名遣ひで文章を書くやうになると、古文の勉強が古文の勉強ではなくなつてくる。それはもはや過去の遺物や遺産を相手にしてゐるのではなく、実に身近なものに接してゐると感じられるのだ。
もちろん、文語と口語では用言の活用が違ふ。しかし、かなの使い方は同じだから、古語を調べるときにはそれと同時に、自分が使ふ単語が例へば「お」なのか「ほ」なのかを確認することにもなる。
また、歴史的仮名遣ひは文語文であらうと口語文であらうと同じだから、口語文で歴史的仮名遣ひを使ひ慣れてゐると古語辞典で引きたい単語にすぐにたどりつけるやうになる。
かうなつてくると古語辞典はもはや古語辞典ではなく、現代語辞典の一部になつてくる。実際、古語辞典に出てゐる単語は現在でも使われてゐることが多いし、またもう使はれなくなつた意味の隣に現在でも使はれてゐる意味が掲載されてゐる。
だから、歴史的仮名遣ひを使ふ者にとつて、古語辞典を引くことは現実に使ふ単語を調べることになる。古文に親しむのにこれ以上の方法があるだらうか。(2004年1月27日)
最近、私は歴史的仮名遣ひを使つてゐるが、正しく書けてゐるかどうかを確かめる方法の一つに、心配な言葉を文語で言ひ直してみるといふのがある。
たとへば「聞いて」は文語では「聞きて」だから「聞ひて」ではないとわかる。また「絶える」は「絶ゆ」だから「絶へる」ではないが、「耐へる」は「耐ふ」だから「耐へる」でいいのだ。
かうして文語にかへながら読んでいくと、口語はけつして文語と別物ではなく、文語を言ひやすくしたものに過ぎないことが分る。口語のほとんどは音便といつて、発音上の便宜から音を変へるか、音を省略してできたものなのである。
だから、逆に自分の書いた口語の文章を文語にしてみることも出来さうに思へてくる。
そして、かうなると益々古文が身近なものになつていき、古典の世界との隔たりが小さくなつてくる。だから、日本文化を愛する者なら、歴史的仮名遣ひを使はないではゐられないだらうと思へてくるのである。(2004年1月29日)
私は最近歴史的仮名遣ひで文章を書くやうにしてゐるが、この仮名遣ひを使ふと、気持ちに余裕が生まれてきて、何か自分が豊かな人間になつたやうな気がしてくる。
正しい仮名遣ひをするといふ点から言へば、夏目漱石さへもよく間違ひ、藤原定家も間違つてゐたのだから、人の間違ひにそんなに目くじらを立てることはないといふ気持ちになる。
一方、この仮名遣ひをを使つてゐると、現代文が古文の延長上にあることを実感できるから、自分が過去の日本の最高の文化とつながつてゐることを実感できる。すると、古語辞典が宝の山に見えてくる。
歴史的仮名遣ひで書くといふことは、現実には場合によつて「う」を「ふ」に、「い」を「ゐ」に、「え」を「へ」か「ゑ」に、「だろう」を「だらう」に、「ような」を「やうな」にする、その程度のことだ。
ところが、それだけのことなのに、何か心に余裕が生まれるのが不思議だ。何か得をしたやうな気になるのだ。歴史的仮名遣ひには、不思議な効果がある。(2004年2月8日)
歴史的仮名遣ひをパソコンで入力するのは、現代仮名遣ひよりも楽である。
これは「かな入力」と「ローマ字入力」のどちらにも当てはまるが、特にかな入力の場合は、歴史的仮名遣ひでは小文字のかなを入力する必要がなくなるのでメリットが大きい。
現代仮名遣ひで「かな入力」する場合は、特に小文字の「つ」に手こずるし、小指でシフトキーを押しながら一番向かうの段にある「や」「ゆ」「よ」を打つのも大変だが、歴史的仮名遣ひではその必要がなくなるのである。
ただし、「かな入力」の場合「ゑ」と「ゐ」はキーがないので、「え」と「い」を入力して変換するしかない。
ローマ字入力では、現代仮名遣ひで入力して歴史的仮名遣ひに変換する辞書を使ふのが手つ取り早い。
この際、現代仮名遣ひに出てくる否定以外の「ず(ZU)」は「づ(DU)」で入力すると楽だ。現代仮名遣ひの「ず」は歴史的仮名遣ひはたいてい「づ」だからである。そして、これで左手の小指を使ふ割合が大幅に減らせるのだ。(2004年2月16日)