神様のお札で尻を拭いた福沢諭吉




 福沢諭吉(1834-1901)の『学問のすゝめ』を読んだ人は脳天を上からガーンとなぐられたやうなショックを受けるだらう。そして一種の興奮状態に引き込まれてしまふだらう。

 昔『福翁自伝』を読んで、若き日の福沢が神様の名を書いたお札を試しに便所で使つて何とも無かつたと書いているのを読んだときには、すごいやつがゐると思つたものだ。

 福沢少年は藩の殿様の名前を書いた紙切れを踏んだことを兄に咎められて、殿様の頭を踏んだのならまだしも紙に書いたものを踏んで何が悪いのかと疑問を持つた。それで神様の名を書いたお札を人のゐないところで踏んでみた。ところが何ともないので、厠(かはや)に持ち込んだといふのだ。なんと型破りな人間だらう。この話は既存の価値を全て疑つてかかる彼の姿勢を象徴的に表してゐる。

 ところが、彼の頭の中はその行動以上に衝撃的なものであることが『学問のすゝめ』を読むと分かる。

 福沢は神様のお札のやうな形だけで実体として価値のないもの力のないものを『学問のすすめ』で名目とか名分と言つて徹底的に攻撃してゐる。

 たとへば親と子は平等でも対等でもない。子は黙つて親の言ふ通りにしておけば万事うまくいく。この両者の間の名分、すなわち身分の違いや差別はあつてよい。

 しかし、この考へ方を社会に持ち込んではいけないと彼はいふ。なぜなら、これは専制だからである。専制とはお上と国民の関係を親子の間柄に見立てて、お上の方が偉いのであるから国民は黙つてお上の言ふ通りにしておけば万事うまくいくといふ考へ方である。

 専制といふものを説明するのに福沢が使つた譬へ話はおもしろい。

 例へば、会社の社長は社員を子供扱ひにしてただ命令通りにさせるだけで、大切なことは自分ですべてを取り仕切つてゐると、社員は表向き忠実さうにしているが密かに使ひ込みをして駆け落ちをして逃げてしまふのが落ちである。

 これは他人は当てにならないといふことだらうか。そうではないと福沢は言ふ。これは社員を子供扱ひしてはいけないといふことなのである。そして、これこそが政治でいふ専制なのである。

 そして、専制のおかげで日本の社会には建前と本音を使ひ分ける人間がはびこるやうになつたと言つてゐる。表向きは忠義の士のやうな顔をしてゐながら、与へられた役職を使つて賄賂をとりリベートをため込んで、辞める頃には大金を貯め込んでゐるのが当たり前の世の中になつてしまつてゐるといふのだ。

 つまり専制とは百害あつて一利なしなのである。

 本来は、政府と国民とは親子の関係ではなく、他人の関係である。だから両者の間には契約や約束が必要なのである。親子の間のやうに恩恵や慈悲ではなく、約束に基づいて維持される関係なのだ。そしてその契約が法律なのである。

 なぜ親子の関係ではいけないのか。それは力の強い弱いと身分の上下とは関係がないからである。政府は国民より力が強いが、だからといつて政府の方が偉いといふことはないのである。政府と国民は対等なのである。

 男女の間の関係も同じである。男と女は対等であり、政府と国民は対等であり、そもそも人間は貧富の差はあつても平等なのである。それこそが『学問のすゝめ』の冒頭でいはれる「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」といふ意味である。

 だから福沢は、ドメスティックバイオレンスの不当なことを既にこの本の中で主張してゐる。一般社会で人が人のものを奪つたり人を辱めたりすれば罪になるのは当然なのに、家の中で夫が妻を辱めることがどうして許されようかと言ふのだ。

 だから、「女大学」の「嫁いだら夫に従へ」などといふ教へは福沢に言はせれば、もつてのほかなのである。

 ただこのお上と国民は対等であるとする福沢の過激な説は、天皇制に反対するものではないかと言はれて大いに物議を醸し、福沢の身に危険が迫るところまで発展した。それで、福沢は五九樓仙萬といふ名前で新聞に弁明の投書をしなければならなくなつた。

 そこでは君主制であらうと共和制であらうと暴政は暴政であり民主主義は民主主義であると説いて、世上の批判を終息させてゐる。

 しかし、明治の初めにすでにこれほど徹底した民主主義者がゐたことは全くの驚きである。

 民主主義とは国民に主権があるといふことであり、それは、国民は支配される者であるのみならず同時に支配する者でもあるといふことである。つまり民主主義の国では国民は一人で二つの役割を同時に演じなければならない。

 国民主権について、福沢は国民を家元であると言ひ、政府をその名代であると言ふ。一旦政府に任せた役割分担を国民は破るべきではない。そしてそれが法を守るといふことなのだ。

 この考へ方からすれば、政府は国民が雇つてゐるのであるから、その政府の役人に給料を払つてやるのは当たり前で、それに不満を言ふべきでない。

 例へばわずかの金で政府から警察といふ安全を買ふのであるから安いものだ。世の中に多くの買物があるが、くだらない無駄遣ひに比べたら、これほど効率のいい買物はないと福沢は言ふ。

 民主国家では支配者があつてそれとは別に被支配者があるのではない。それに対して、専制国家では主役は支配者となつた人間だけで、それ以外の人間は脇役であり召使いであり客でしかない。

 そしてそのやうな国は独立国家として弱いと福沢は言ふのだ。

 その典型的な例として、福沢は桶狭間の戦ひを例に引く。桶狭間の戦ひでは今川義元一人の首が織田の軍勢に討ち取られると、その途端に今川の民衆は戦ひをやめて今川の国は崩壊してしまふ。

 それに対して、普仏戦争ではナポレオン三世の身柄がプロシヤに生け捕りにされても、国民はフランスを捨ててしまふこともなければ、フランスといふ国が崩壊するといふこともなかつた。それは今川の民衆はその国の客だつたが、フランスの国民は国の主人だからである。

 また、赤穂浪士の討入りも福沢の眼から見れば決して義挙ではなく、愚挙でしかない。

 敵討ちなどといふものは個人で行なふ裁判に他ならないのであつて、独立国の一員として恥づべきものだ。そもそも浅野内匠頭は吉良上野介に無礼な目に会はされた時点で、裁判に訴へておれば仇討ちなどする必要はなかつたのだ。

 内匠頭の刃傷事件に対する幕府の裁決が不満ならば、それを裁判に訴へればよかつたのである。一人が訴へ出て殺されても四十七人が次々と訴へ出れば、いつかは正当な裁判を受けることが出来たはずだ。そして、それでこそ真つ当な国民としての姿勢であり、法を重視する人間の態度である。それをせずにただ怒りにまかせて暴力に訴へるのは犯罪者のすることであると。

 言はれてみれば当然ではあるが、このやうな考へ方は現在の日本人にそれほど浸透したものとは言へない。国民の多くは相変らず自分は国のお客さんであつて国の主人であると思つてゐないからである。

 このやうな福沢の考へ方の出発点は、子供の頃から彼の心に深く染みついてゐた門閥に対する不満である。門閥とは家来の家に生まれついた者は死ぬまで家来であり、上役の家に生まれついた者は能力がなくても上役になるといふ理不尽な制度であつて、それは封建制度そのものである。

 これに対する反発から生まれた平等といふ考へ方は、この『学問のすゝめ』といふ本の基本であり、最も強く主張されてゐる考へ方である。

 この本は第一編だけを読むと、勉強すれば誰でも出世できるから勉強しようと言つて学問を勧めてゐる本であるかのやうに見えるが決してさうではない。

 ところで、この本の主張には当時の日本を取り巻く世界情勢が大きく影響してゐた。当時の日本は外国によつて独立を脅かされてゐた。実際、中国やインドは欧米の植民地となつてしまつてゐた。日本もうかうかしてゐると同じやうになつてしまふ恐れがあつた。

 だから、この危機感のもとに暮らす福沢の心には、この日本の独立を保つにはどうすべきかといふ思ひが強くあつて、それに対する福沢の答へが私(わたくし)の独立を打ち立てることだつた。

 それは民間が力をもつて国民の一人一人が独立した力を持たねばならないといふことである。個人が寄り集まつて成立するのが国家の独立だから、そのためにはまづ個人の独立が必要だといふのだ。そして、そのためには学問が必要だといふのである。つまり、日本国の独立を維持するための学問の勧めなのである。

 そして、個人の独立は私立の事業を広めることによつて可能になると福沢は考へた。

 文明の力といふものは政府がやつてゐるやうに単に鉄道を引いたり議事堂を建てたりすることによつて高まるのではない。むしろ、さうした道具を使ひこなす独立した人間をまず民間が造らなければならない。そのために彼は学問を振興し、自ら学校を作つた。それが慶応義塾である。

 福沢の考へ方は相対主義である。だから絶対的な価値を認めない。老子と荘子は孔子と孟子から見れば異端だが、老子と荘子から見れば孔子と孟子もまた異端だと彼はいふ。

 この本は明治の始めに書かれたものではあるが、平成の今にして決して古びた印象を与へない。今読んでも新しい内容を持つており、今の我々の価値感に対してさへも挑戦的である。

 逆に言へば、日本人の価値観は明治の初めからそれほど変つてはゐないし、福沢のいふ方向にはあまり進んでゐないといふことでもある。

 例へば、今の政府が民間に出来るものは民間にと言つてしきりに民営化を進めてゐる。しかし、民営化といひ民間活力の導入といひ、それは福沢がとつくの昔に言つてゐたことなのだ。

 以上のやうに、この本は読む前と読んだ後ではこの世の中を見る目が変つてしまふと言えるやうな本である。しかしこの本を自分で読むことは今の日本人には容易なことではない。

 岩波文庫はこの本を何とか読んでもらひたいと、文語文であるにも関らず、旧仮名を新仮名にしたしまつたほどだ。しかし、新仮名で読めるなら旧仮名でも読めるはずなのだ。というのは、文語文の読みにくさはそんなものでは解消しないからである。

 むしろ、この本の文語を困難と考へずに『学問のすゝめ』のもつ言葉の面白さと捉へて、それを楽しんでしまはうとするのがよい。

 もともと日本語の漢字かな交じり文は、漢文の読み下し文から発達したものである。そのかなの部分は本来は漢文の横に付けられた送りがなであるからカタカナだつた。

 したがつて、明治時代の人たちは漢字かな交じり文ではカタカナを使つていたし、『学問のすゝめ』の原稿もカタカナで書かれた。六法全書の刑法はカタカナで書かれているが、それはこの伝統の名残である。昔は正式の文書はカタカナだつた。

 また漢文の送りがなだから、明治の文章は送りがなが非常に短い。例へば「明に」だけで「あきらかに」と読んだりする。

 一方、福沢自身、若い頃は漢文をものすごく勉強してゐて漢文、特に儒学の先生になれるほどだつたから、『学問のすゝめ』の中にも、漢文の教養が顔をのぞかせたりする。

 例へば、杜甫『蜀相』の「師(いくさ)に出でて未だ捷(か)たず身先づ死す、長く英雄をして涙を襟に満たしむ」といふ諸葛亮の無念を悼む詩をパロディーにして、下男が「使に出でゝ未だ返らず身先づ死す、長く英雄をして涙を襟に満たしむ可し」と書けてしまふのである。

 (それだけでなく、「文明の器物」ではなく「文明の精神」をまづ輸入すべきだといふ福沢の主張は、外見より中身が大切といふ孟子の考え方によく似てゐるし、たくみに比喩を使つた明快な議論の進め方も孟子そつくりである)

 福沢の書いた文章はそのやうな文章であつて、これを読めば漢文の勉強が出来てしまふのである。もつとも福沢が文章は当時としてはとても分かりやすいもので、その組み立てに使つた言葉はほぼ次のものに限られてゐる。

「畢竟・必竟」「固(もと)より」「抑(そもそ)も」「蓋(けだ)し」「苟(いやしく)も」「豈(あに)」「仮令(たとひ)」「加之(しかのみならず)」「是(これ)を譬(たと)へば」「勿論(もちろん)」「恰(あたか)も」「且(かつ)」「或(あるい)は」「則・即・乃(すなは)ち」「然(しか)も」「故(ゆゑ)に」「而(しかう)して」「と雖(いへど)も」「然りと雖ども」

「以(もつ)て」「由(よつ)て」「就(つい)て」

「漸(やうや)く」「頓(とみ)に」「俄・遽(にはか)に」「僅(わづか)かに」「稍(や)や」「聊(いささ)か」「頗(すこぶ)る」「自(おのづ・みづ)から」「所謂(いはゆる)」「徒(いたづら)に」

「一度(ひとたび)~すれば」「随(したがつ)て~随(したがつ)て」「啻(ただ)に~のみならず」「~に当(あたり)て」「試(こころ)みに見よ」「愈(いよいよ)~愈」

「爰(ここ)に」「此(これ)と彼(かれ)と」「~に似(に)たり」「遑(いとま)あらず」「喧(やかま)し」「~は姑(しばら)く擱(さしお)き」

 福沢はこれらの漢文の決まり文句を巧みに使ひながら自分の考へを展開していくのだ。

 もう一つ面白いのは、明治の人である福沢の漢字の使用法が我々とは大幅に異なつていることだ。

 例へば

 「全て」は「都て」と書き、
 「元より」は「固より」と書く。
 「例へば」は「譬へば」と書く。
 「言へども」は「雖も」と書く。 
 「苦しめる」は「窘しめる」と書く。
 「原因」は「源因」と書く。
 「憂ふ」は「患ふ」と書く。
 「悖(もと)る」は「戻る」と書く。
 「殊更に」は「故さらに」と書く。
 「ひたすら」は「只管」と書く。
 「とても」は「迚も」と書く。
 「逃(のがる)る」は「遁るゝ」と書く。
 「暇(いとま)」は「遑」と書く。
 「名る」と書いて「名付くる」と読む。
 「数ふる」と書かずに「計(かぞふ)る」と書く。
 「長所」か書かずに「所長」と書く。
 「見聞」と書かずに「聞見」と書く。
 「最近」と書かずに「輓近(ばんきん)」「方近(はうこん)」と書く。
 「理由」と書かずに「由縁(ゆえん)」「所以(ゆゑん)」と書く。
 「趣旨」と書かずに「趣意」と書く。
 「自然に」と書かずに「天然に」と書く。
 「全く」や「全然」と書かずに「悉皆(しつかい)」と書く。
 「全体」と書かずに「前後」と書く。
 「その上」と書かずに「且(かつ)」と書く。
 「稍(やや)」と「漸(やうや)く」を「次第に、徐々に」の意味で使う。
 「ますます」「おのおの」「いよいよ」などは「益々」「各々」「愈々」ではなく「益」「各」「愈」の一字ですませる。
 「この」は「此」と漢字書きされることが多い。
 「その」は必ず「其」である。
 「これ」は「之」か「是」。
 「また」は「又」「亦」の二種類あり、主に文頭では「又」が文中では「亦」が使はれる。
 「ない」(否定)は「非(あら)ず」が使はれる。
 「言ふ」はほとんど「云ふ」を使ふ。
 「なほ」は「尚」と「猶」の二つが使ひ分けられる。
 「異なる」は「殊なる」と書く。
 「拡る」で「おしひろめる」と読む。
 「くく」と読む「区々」が、「まちまち」とか「些細な」といふ意味でよく出てくる
 「さまたげ」が「妨げ」としてよく出てくる。 
 「なきに非ず」「ざる可らず」「~ざるをえず」などの二重否定が頻発するが、これらは強い肯定である。
 「余輩」「余」は福沢が自分のこと指して使ふ。「我輩」は「我々」の意味で使はれる。
 「社友」は慶応の学者と社員のこと。
 「べし」は「可し」と書くのだが、この「可し」や「可(べか)らず」が文章の終はりにしきりに出てくる。しかもそれが可能・推量・当然・命令のどれであるかは文脈から読み取る必要がある。
 「逞(たくま)しうする」が「有効にする」「実現する」といふ意味でしきりに使はれる。
 「深切(しんせつ)」が「切実」といふ意味でよく使はれる。「親切」と同じ意味のこともある。
 「刺衝(ししよう)」といふ言葉が「批判」といふ意味でよく使はれる。
 「実験」は「実見」と言ふ意味で使はれる。

 英語の文脈がそのまま表れてゐることもよくあつて、「~であるか~」といふ文章もよく出てくる。これは英語のORを日本語で表したものである。この「か」はORを意識した場合には「歟」か「乎」と漢字で書かれる。
 
 専門用語も今の漢字とはだいぶ異なる。「権利」といふ表現はなく、おそらくそれを表してゐるのは「権理」である。また「法則」と言はずに「定則」といふ。

 かうして明治の言葉の豊かさ優雅さ面白さを楽しみながら、『学問のすゝめ』を私のページ(ふりがな付き)で一通り読み終へたならば、福沢の主著である『文明論之概略』はもうかなり容易に読めるはずである。

 そして『文明論之概略』を実際に読めば、たとへば、福沢の有名な言葉である「多事争論」が単なる言論の自由を言つたものでなく、中国対日本における日本優位論の文脈の中で出てきた言葉であることが分る。

 また「古今の通論を聞くに、我邦を金甌無欠(きんおうむけつ)万国に絶すと称して意気揚々たるが如し。其(その)万国に絶するとは唯皇統の連綿たるを自負するもの乎(か)。皇統をして連綿たらしむるは難(かた)きに非ず。北条、足利の如き不忠者にても尚(なほ)よく之を連綿たらしめたり」

 つまり、日本の国体の価値は皇室の継続にあるのではなく日本の独立の存続にある、なんていふ文章が読めたりする。天皇がゐても国の独立が失はれたら元も子もないといふのが福沢の意見らしいのだ。

 このやうに『文明論之概略』といふ本も、言ひたい事をかなりはつきりと書いた痛快な書物であるらしいことが分る。この本は、『学問のすゝめ』に続いて、是非とも読まざる可らざる書物である。


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