知性には限界があると言ったカント



 イギリスの小説家のサマーセット・モームは『要約すると』のなかでカント(Kant1724-1804)のことをこう書いている。

 「カントを読んだとき、わたしは若いころに欣喜した唯物論やそれに伴う生理学的決定論を捨てざるを得なかった。当時カントの説を穴だらけにした反駁を知 らなかったわたしは、彼の哲学に情緒的な満足を見いだしていたのである。例の不可知の『物それ自体』について沈思することには興奮させられたし、人間が 『現象』によって組み立てた世界にわたしは満足していた。それはわたしに、ある種の解放感を与えた」

 いったい哲学書が人に情緒的な満足をもたらしたり、解放感を与えたりするものだろうか。ところが、モームはこの本を読んで感銘を受けたというのだ。

 これがカントの『純粋理性批判』のことだとは、ちょっと信じ難いだろう。我々は、カントの本とは、無味乾燥な硬い文章で訳の分からないことを、しかし理路整然と書いたものだ思いがちである。

 しかし、実際は違うようである。彼の本は、日本の翻訳書からは想像がつかないだろうが、実に痛快な考えに満ちている。しかも、彼は実に熱のこもった文章をつづっている。

 彼は形而上学を救うのは自分しかないという意気込みをもって、この本を書いたのである。

 では、形而上学とはどういう学問か。それは哲学の中で、神の存在とか、死後の世界とか、宇宙の始まりとか、非常に難しい問題を扱う分野である。古来、こ れらの問題に様々な天才たちが挑んできた。例えば古代ギリシャの有名なプラトンもこの問題に答えを出したと信じた一人である。

 しかし、カントは、序論の中で、こうした天才哲学者たちのやり方を手厳しく批判している。それは簡単に言うと、彼らは理性には何が出来るか何が出来ない かをよく確認もせずに、理性を使って闇雲にこうした問題を解こうとした。だから、独りよがりの独断論ばかりにになってしまった、とカントは言うのである。

 そして、カントは、理性にも知性にもそんなことをする能力はないと結論づける。これまでの哲学者は、何でも分析していけば、つまり、理屈をこねていれば、説明ができるという迷信に囚われていたのである。

 実は、人間の能力は理屈だけではない。人間にはもう一つ、感性という重要な能力がある。人間は、この感性の直観というものを使って、新たな概念を見つけ 出してくる。そして、既成概念に新たな概念を付け加えるのである。そうやって、人間は知識の範囲を広げてきたのである。それを彼は総合と呼んだ。

 ところが、プラトンは知性の拠り所が感性であることに気付かなかった。彼は、むしろ感性が知性を邪魔だてしていると考えて、感性の世界を捨て去って、イデアの世界に旅立っていった。しかし、感性という足場を失った知性はどこにも到達できるはずがなかったのだ。

 しかし、そんな難しい問題でなくても、分析の力の限界を教える例はごく身近にある。数学の分野は一見すべてが分析によって出来ているように思われるが実 はそうではない。幾何学は明らかに感性の産物だが、ごく単純な足し算でさえも、分析によって答えを導き出すことはできないのだ。

 カントは7+5=12という足し算を例にあげて説明してみせる。7+5の答えが12であることは、どう理屈をこね回しても出てこない。七と五の和という概念は、あくまで七と五の和でしかなく、そのなかに十二という数字は含まれてはいない。

 分析するということは既存の概念のなかに含まれているものを引き出すことに他ならない。だから、含まれてはいないものを分析によって取り出すことはできないのだ。

 では、十二という答えを人はどうやって手に入れるか。それは感性による直観によって手に入れる。

 感性による直観とは何か。たとえば物の形を見てそれが丸いとか四角いとかを人は一瞬にして理解する。そこにはどんな推論も判断も理屈も入り込む余地がない。それが直観であって、足し算の答えも人は直観よって手に入れるのである。

 これをカントは手の指を折って一つ一つ数えて見せるという説明の仕方をしている。しかし、日本人ならそろばんで説明できる。そろばんを使える人なら、計 算というものが如何にイメージに頼って行われるかをよく知っているだろう。暗算をするときには、頭の中にはいつもそろばんの珠が動いているのだ。

 だから、例えば7に5を足すとき、7をそろばんの三つの珠で表わし、5を足すときには、7の上の欄の珠を上げて下の欄の珠は二個をそのまま残す、そして 左隣りの下の欄の珠を一つ上げる。これを頭の中でやってみて12という答えを出すのである。もちろん、これを意識せずに一瞬に行う。

 人が日常何かの問題を抱えていて、それに答えを出さねばならない場合、大抵は、問題の中にすでに答えがあるものだ。だから、問題が何かを分析して明確化した段階で、答えが得られることがよくある。

 しかし、問題の中に答えが隠れていない場合がある。足し算がこの例であって、そういう場合には分析だけではだめで、感性の助けを借りるしかないとカントは言うのである。

 こうして、カントは感性の重要さを主張する。しかし、感性といえば人間が直接五感で体験したことだけを意味しそうだが、そうではない。経験に頼らない直観があるとカントはいう。

 経験は多くのことを教えてくれるが、経験による知識には確実性がない。「だいたいそうなる」ということは経験によって分かっても、「必ずそうなる」ということは経験だけによっては分からないからである。

 とくに経験に頼らずに答えを導き出す必要がある数学では「だいたいそうなる」という程度のことではだめなのだ。

 しかし、ヒュームという哲学者は経験に頼らずに総合的判断を導き出すことはできないと言って、形而上学を否定してしまった。しかし、数学にはそれが出来ることを幾何学の存在がすでに証明している。

 どうして形而上学には数学に出来ることが出来ないだろうか。そこでカントは形而上学でも数学と同じことができるかどうかを検証しようとしたのだ。(この『純粋理性批判』という本はそのことをやって見せた本であって、形而上学そのものではない)

 カントは問題を一つの文章に要約している。それは「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能か」という問いである。

 それを彼は個別の学問ごとに考えていく。つまり、「純粋数学はどのようにして可能か」「純粋な自然科学はどのようにして可能か」(ここで純粋とは「経験によらない」という意味である)

 形而上学については、問いを二つに分けている。すなわち、「人間の本質的な傾向としての形而上学はどのようにして可能か」と「学問としての形而上学はどのようにして可能か」。

 そして、数学に対する問いが「超越的感性論」において、自然科学に対する問いが「超越的分析論」、人間の傾向としての形而上学に対する問いが「超越的弁証論」、学問としての形而上学に対する問いが「超越的方法論」において扱われている。

 『純粋理性批判』の目次の実際の章立ては、

┌-1超越的原理論─┬1超越的感性論(数学)
│         │
│         └2超越的論理学─┬1超越的分析論(自然科学)
│                  │
│                  └2超越的弁証論(傾向としての形而上学)
└-2超越的方法論(学問としての形而上学)

となっているが、これは伝統的な哲学書の章立てに従っただけらしい。(なお本によっては「超越的」が「先験的」となっている)

 そして、数学と自然科学は可能だが、これまでの考え方では形而上学は不可能だと結論づける。つまり、神とか霊魂とかは、感性に基づく知性の働きでは解明できないのだ。

 では、どうして数学には経験に頼らない総合的判断が出来てきたのかといえば、それは経験に頼らない直観がもともと人間の感性に備わっているからだと、カントはいう。それがカントが「感性論」の中で扱っている空間と時間である。

 人には知性と感性がある。そして、情報を受け取るのが感性であり、感性が受け取ったものを処理するのが知性である。また、この感性によって受け取るものが現象である。そして、現象によって人間の世界は組み立てられる。

 では、この現象というものを人間の感性は何を基準にして受け取るのか。その受け取り方をきめるものは何か。それが空間と時間だとカントはいうのである。 そして、人間が情報を受け取るために必要なものは、この二つだけで、この二つのものを人間は生まれながらにして持っているという。

 逆に言えば、空間と時間はどこか別の所にあるものではなく、人間自身の中にあるものなのである。だから、例えば時計は時間を視覚化したものにすぎず、時計が時を作っているわけではない。

 普通なら、時間とか空間とかいうものは、人間の外に人間とは独立してあるものだと考えるものだろう。しかし、そうではなくて時間と空間の原因は人間の側にあるというのがカントの新しさである。

 そして、これがカントが自ら名付けた有名なコペルニクス的転回である。

 「コペルニクスは、天体の運行を説明するのに、天体が観察者の周りを回っていると考えるとうまく行かないので、天体は動かないものと考えて観察者にその周りを回らせたらうまく行かないか試した」(第二版への序文より)

 そして、「もし我々の直観が対象の特性に一致せねばならないとすると、どうすれば経験によらずに対象について何かを知ることができるか、私には分からな い。しかし、もし(感覚の対象としての)対象の方が我々の直観能力の特性に一致せねばならないとするなら、経験によらずに対象を認識できるかもしれないと わたしは思う」(同上)

 対象の本当の姿を知りたければ、対象に直接出会うこと以外には対象を本当に知る方法はない。それには、どうしても経験が必要になる。しかし、自分が知り たいように知るだけなら、つまり、基準が最初から人間の側にあるなら、直接対象に出会う必要はなく、経験に頼る必要もなくなる。

 その基準が数学の場合は空間と時間だというのである。そして、このように自分の側に基準を置いて知ったものは、どこまでも自分が見たいように見て、知りたいように知ったことに過ぎないのだ。

 最初にあげたモームが言っている「物それ自体」と「現象」の対立は、このことをさしている。この「物それ自体」は原語ではDing an sichであり、そのan sichとはドイツ語で「直接的」であることを意味している。

 言い方を変えれば、人間が見ているものは、見たいように見ているだけのもので、単なる一つの現われ、すなわち現象にすぎない。対象の本当の姿つまり「物それ自体」は人間には見えないし、知ることは出来ないのである。

 実際、空間と時間についての我々の日常的な考え方は、ユークリッド幾何学を含めて、地球や宇宙の規模になると途端に当てはまらなくなってしまう。これは誰でも知っていることである。

 しかし、「神」という概念とこの「現象」という概念ほど激しく矛盾するものはない。何と言っても「神」はすべての原因でなければならない。ところが「現 象」の原因は人間にあるのだ。もし、「神」が人間の知ることが出来る「現象」なら、それはもはや「神」ではなくなってしまうだろう。

 ごく簡単に言えば、こうしてカントは、「神のことは考えることはできても知ることはできない」と結論づけた。そこから彼は「神の存在を否定した哲学者」として、一般に知られるようになったのである。

 そして、神の存在を合理的に証明することは出来ないということを示したこの本は、子供の頃から神の存在に疑いを抱いていた上記のモームにとっては大きな救いとなったというわけである。

 この本が一読に値する本であることに間違いはない。

 しかし、この本が読みにくい本であることは間違いない。カントは自分でも認めているようにかなりの悪文家である。同じことをくどくどと何度も何度も繰り 返して述べ立てる。こう言えばどうだ、ああ言えばどうだ、これでもか、これならどうだ、これでも分からないのか、もう分かるだろうといった調子である。そ うやっているうちに自分で何を言っているか分からなくなってしまっている所もあるという人もいるくらいである。

 カントは哲学者だから、さぞ用語の選択にも厳密だろうと思うかもしれないが、そうではない(注)。言葉足らずの表現もたくさんあって、読者の方で文脈か ら内容を忖度(そんたく)して読んでやる必要がある。だから、これを直訳などしたら訳の分からないものになることは必定だ。

(注)例えば、Grundsatz と Prinzipは厳密に区別されていないようである。それは、「感性論」で空間の原理にはPrinzip、時間の原理にはGrundsatzが使われていることから も分 かる。これを従来のように区別して訳すと、空間については原理だけが、時間については原則だけが語られていることになってしまう。なお参考のために、原理 あるいは原則と訳した個所には、もとのドイツ語を()内に入れて示した。従来道理に訳した方が意味が通り易いかどうか、確認されたい。

 カントは一度書いた文章を何度も書き直すのだが、分かりやすくするために挿入したところが、前後の文章とぴったり適合していなくて、よけいに分かりにくくなっているところもある。だから、コンマでつないだ長い文章は、挿入部分を無視して読む方が分かりやすかったりする。

 第一版では「総合(Synthesis)」といっていたくせに、第二版で 書き換えた部分ではそれを「結合(Verbindung)」と言ったりもしている。こういうのはしょっちゅうで慣れるしかない。ところが硬い翻訳書になる と、いやそれはカントが意図してやったことに違いないと、別々の物を指してるかのように訳してしまう。だから、よけいに意味が分からなくなる。

 同じ名詞に、中性形と女性形のものがあるのはドイツ語ではよくあるが、それを区別なく使ったりもする。また、ある名詞を中性形で使っておいて、それを女性形の代名詞で受けたりもする。

 同じ事を同じ言葉で何度も表現しないという古代から続く美文の原則はカントにもあてはまるのである。

 カントは、自分よりあとの人たちに望むことは、自分の学説を分かりやすく説明してくれることだけだと言っている。わたしの学説は完璧だから、心配なのは理解されないことだけだと言うのである。しかし、この要請に応えた翻訳は日本にはまだ現れていない。

 英訳では、かなり意訳して分かり易くなっているものがある。Meiklejohnの訳と、それを下敷きにして訳し直したNorman Kemp Smithのものである。特に、後者は、カントの悪文を改善しながら訳している。

 日本の翻訳書でいちばん読みやすいのは岩波文庫の篠田秀雄のものであろう。この訳はどうやら間違いが多いようだが、気軽に読めるという長所がある。とはいっても、中身が分かっている人にとっての話だ。

 理想社から出ている「カント全集」のなかの原祐のものは、ほとんど機械翻訳と言えるもので、原文にどんなドイツ語が書いてあるかが、単数複数まで分かる ようになっている。したがって、ドイツ語が読めない人には理解不可能なものである。また、実際、カントを必要とする人は一般大衆ではないことは、本人も 言っていることなのでそれでよいのかもしれない。

 それでも、日本語で読みたい人は、河出書房新社から出ている高峯一愚の訳を試すとよい。これはかなり普通の日本語になっている。関係代名詞の処理もス ムーズに行っている。その次によいのが、天野貞祐の訳であろう。しかし、いずれも絶版になっているから図書館で借りるか古本屋で探すしかない。

 いっぽう、岩波書店の新しい「カント全集」の中の「純粋理性批判」の訳は、原文のわかりにくさ曖昧さをそのまま日本語に反映した訳となっている。この本は、本文の校訂と注釈が詳しい。その面での利用に限るのが賢明だろう。

 色んな翻訳書を見ていると、カントのこの本はまだまだ研究者たちにとって、よく分からない書物だということが分かる。訳者によって、また、英訳と日本語 訳とで、訳し方が違うところがいくらもあるからである。この本の翻訳一つとっても、進歩の道筋をまっすぐ歩いているというよりは、カントが嘆いた形而上学 同様、手探り状態が続いているようだ。

 ところで、この本の中には純粋であるとか先天的であるとかいう言葉がしきりに繰り返して登場する。これは原文では、ラテン語でa priori(アプリオリ)と言い表されている。しかしこれは、先天的な才能などという言い方にでてくるのとは違って、「経験に依らずに」と言う意味で、極めて科学的な意味を持っている。

 経験に依らないと言うことは、現代科学においても重要な考え方である。何かの研究をコンピュータを使って「経験に依らずに」数学的に行うというようなことは、日常茶飯事である。

 この考え方を、哲学の分野に持ち込んだという意味で『純粋理性批判』は画期的な書物なのである。

注: この本の中に頻繁に登場する「Vorstellung(表象)」 「vorstellen(表象する)」という言葉は、心の中に思い描くことである。ただし、「表象」という言葉は一般には使われない意味不明の言葉なの で、わたしの訳の中では、「心の中にとらえる」「心の中にとらえたもの」という感じで訳されている。


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