土井晩翠訳で読むと楽しいホメロス

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 わたしが高校時代に駅前の本屋で最初にホメロス (前8世紀頃)の『イリアス』(呉茂一訳)を棚からとって開いたときには、こんな本はとても読めないと思ってすぐに棚に返したものだ。ところが、大学でギリシア語を読むようになってからその翻訳を読むと、これがとてもおもしろくて、何度も繰り返して読むようになった。で、これを大学の友人におもしろいと言って見せると、「これは何だ。何という日本語だ。とても読めたもんじゃない」と、わたしの高校時代と同じ反応を見せて、すぐにつき返した。意味を知ってから読めば、呉茂一の訳は名訳なのだが、日本語だけでは読めないものだったのだ。いまでは松平千明氏の訳が出ているが、ギリシア語を知らない人の感想はどうだろう。

 ホメロスの『イリアス』の魅力は例えば24巻の冒頭によく表れている。引用してみよう。

 競技は終わり、兵士たちはちりぢりに速い船に帰って行き、食事をとって快い眠りにつこうとする。しかしアキレスは愛する友を思っては泣きつづけ、すべてを手なずける眠りさえよせつけなかった。彼はパトロクロスの男らしさと雄々しい力を惜しんでは身を展転とするのだった。二人でともになしとげた業、ともに受けた難儀、戦士たちの合戦、苦しい船旅を思いおこしては涙をいっぱい流し、横向きに寝るかと思うとあおむけになり、またうつぶせになってみたりしたが、つと立ちあがり、苦悩で気も狂わんばかりに渚をさまよい歩くのだった。潮のうえから岬へと曙光がさしはじめるのに気づくと、彼は戦車に速い馬をつなぎ、ヘクトールのむくろを戦車のうしろに縛りつけて引いていき、パトロクスの塚のまわりを三度、引きまわした。それから陣屋に戻って身を休めるのだった。ヘクトールは砂埃のなかに寝させたまま放っておいた。(『イリアス』24巻冒頭。アンドレ・ボナール『ギリシア文明史1』人文書院より。この本は注釈は駄目だが田中千春氏の和訳はなかなか良い出来である)

 この一節からは、戦いあり、友情あり、憎しみあり、悲しみあり、さらには自然の美しさありと、普通の文学作品に見られる、いや現代のテレビドラマに見られるのと同じ要素を見出すことのできる、とっても素敵な物語である。

 物語は10年にわたるトロイ戦争の内の50日間の出来事を描いている。あらすじをまとめると次のようになる。

 アキレスがアガメムノンに侮辱されて激怒して、身方のアカイア人(ギリシア人のこと)に敗北をもたらすために、一切の戦いから身を退いてしまうところから、この物語は始まる。

 第一の勇者を欠いたギリシア軍はトロイ勢に敗北を重ねる。そこでアキレスの親友のパトロクロスがアキレスの鎧を着て、戦場に出てアキレスの代わりに戦う。それによってギリシャ方は劣勢を挽回するが、パトロクロスはトロイの第一の勇者ヘクトールに殺されてしまう。

 その知らせを聞いたアキレスの悲しみ方は一通りではない。そして、この悲しみがヘクトールに対する怒りとなって、アキレスは再び戦場に立つ決心をする。そしてヘクトールを殺して親友の仇をとるが、それでもなお悲しみはおさまることがない。

 葬儀の後に催された競技会のあともアキレスは一人悲しみ続けて、ヘクトールの遺体を引き摺って自分の悲しみを遺体にぶつける。その様子を描いたのが上のくだりである。

 この後トロイの王でヘクトールの父親のプリアモスが大金と引き換えに息子の遺体を引き取りにアキレスのもとを訪れる。アキレスはプリアモスの嘆願を聞き入れて遺体を引き渡す。そして二人は同じ人間として悲しみを分かち合う。最後にヘクトールの葬儀が行なわれて物語は終わる。

 この作品の中で最も感動的な場面の一つは、アキレスにパトロクロスの死が伝えられるところである。ここを呉茂一氏の翻訳で引用してみよう。

 アキレウスが胸の中、心の底で兎や角と思案するうち、その中にも誇りも高いネストールの息子がすぐ身近にやって来、熱い涙を注ぎながら、痛ましいその報せを伝えていうよう、

「辛いことです、気象も烈しいペーレウスの子よ、大変悲しい報せを耳にお入れしようとは。それがけっして起らなかったら宜(よ)いのに。パトロクロスが死んだのです、してその屍(むくろ)を的(まと)にみな戦さをしてます、武装を剥がれて、――その鎧は燦めく兜のヘクトールが持っているのです。」

 こう言えば、黒々とした悲嘆の雲が彼をつつむや、すなわち両方の手に煤けた色の灰を掴んで、頭上から振り注いで、清らか面(おも)わを汚し、神仙の香に匂やかな襯衣(はだぎ)も、黒い竈(かまど)の灰に塗(まみ)れるその身さえ砂塵の中に、巨きい体軀(からだ)を大様に延べ横えて倒れ臥した、己(おの)が手に髪を乱してかきむしりつつ(十八巻15〜27行)。


 こんな調子だが、ここは感涙ものである。

 しかし、ここで感動するには、この物語をここまで読んでくる必要がある。もし、最初に挙げたような日本語のホメロスの全訳があれば良いのだが、実はそんなものは存在しない。残念ながらここで紹介した翻訳はこれだけしかないのだ。ホメロスの和訳の全訳はいろいろあるのだが、残念ながらこれほど読みやすくはない。普通に楽しく読めるものは、子供向きに書き直したものしかない(たとえば岩波書店から出ているのピカードの『ホメーロスのイーリアス物語』がある)。『オデュッセイア』の場合も同様で、高津春繁氏訳の『オデュッセイア』(筑摩)はこなれた訳だが、日本語がとても古い。ゼウスが女神アテネのことを「姫」と呼ぶのだ。松平千秋の新しい岩波文庫版にも「姫」が出てくる。

 大人向きのものは、原作にはどんなギリシャ語の単語が使われているかを伝えることに熱心なものばかりである。しかもそうやってギリシア語の単語に対応する日本語の単語を一つ一つくっつけて直訳していくので、全体の意味としては間違っているということがしばしば起こる。しかし、学者が訳すとどうしてもそうなってしまうらしい。(一例を挙げると、上の「曙光がさしはじめるのに気づくと」の個所は岩波文庫では「曙の光を見逃すことはなく」と原文の単語の通りに直訳されているが、そのために「必ず曙の光を見て」つまりアキレスがいつも朝まで眠れずにいたという真の意味を表現しそこねている。この「見逃さない」は昔の呉茂一、田中秀央の訳も犯している過ちである)

 しかし、全訳ではなく必要な部分だけをかい摘んで日本語の物語にしてあるものとしては、『世界神話伝説体系』(名著普及会)の中の『ギリシア・ローマの神話伝説(Ⅲ)』が図書館などにあってなかなか読みやすい。またブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』(岩波文庫)の中にもかなり詳しい要約がある。

 また、英訳なら沢山あって、その中にはかなり分かりやすいものが存在する。どうしてこれらの英訳から日本語に訳してくれないのかと思うほどである。ギリシア語から訳すにしても、せめて自分の訳をすぐれた英訳と読み合わせて、間違いを訂正することぐらいはしてもらいたいものだ。(上に挙げた過ちもこの過程で訂正されたはずである。なぜなら他の英訳は全てこのような間違いを免れているから)

 しかし、とにかくホメロスの作品は、最初にあげた文章に垣間見れるように、読んでおもしろく、感動的な作品である。ペンギンから出ている訳ならそれが分かる。有名なロバート・フィッツジェラルドの訳もあるが日本人には難しい。もちろんドイツ語やフランス語の訳でもよい。日本で手に入る程度のものなら、そこまで来る段階で選別されているので、悪いものはないはずである。逆に、日本語の訳の場合は、数がないので選別も何もなく世に出てくるので、良いものがない道理だ。(もちろんペンギンの英訳でもあまり良くないものも中にはある。例えばタキトスの『歴史』など)



 と、ここまで日本語にはホメロスのよい翻訳のないことを嘆いたのであるが、その後、日本にはホメロスの素晴らしい翻訳が昔から存在することを発見した。それは大正から昭和にかけて活躍した詩人である土井晩翠の訳である。

 ホメロスは詩であって、リズムに乗って歌われるものである。『イリアス』と『オデッセイ』の一行はHeroic Hexameterと言って、ダクテル(—∪∪)とスポンデー(— —)、長短短と長長の6つの脚韻から成っている。長は短の二倍に当るので、短の1シラブルを1単位とすれば、各行は24単位になる。これを日本語の七五七五に訳せば、同じ24音になる。つまり、日本語の1行はホメロスの詩の1行と音数が同じになるのだ。

 そのこと気づいた土井晩翠は、ホメロスの一行を日本語に一行に翻訳するという離れ業を思いつき、それを全編にわたってやってのけたのである。

 つまり、彼はホメロスの詩を日本語で再現しようとしたのだ。そのさいホメロスの使った詩の工夫もそのまま活用して再現している。ホメロスは韻律にギリシア語を当てはめるために、単語を伸ばしたり縮めたりしている。たとえば、オリュンポスはそのままではうまく行かないのでウーリュンポスとし、ボリュダマスという人名はプールダマスとし、またゼウスについても韻律に合わせるために、クロニデース(クロノスの子)と言ったりクローニオーンと言ったりしているが、それをそのまま再現したのである。

 こうして彼はホメロスの6脚の韻律の調子を日本語の五七調に移し直した。

 そこで実際に彼の翻訳を見てみると、例えば、『イーリアス』の13巻22行以下はこのようになる(七五、七五と読点をいれた)。

  ここに来りて青銅の、足ある駿馬——黄金の
  たてがみありて迅速に、飛ぶを兵車につなぎつけ、
  身に黄金の鎧着て、手に精巧に作られし  
  金の鞭とり悠然と、車台に乗りてまっしぐら、
  潮の上を乗り行けば、海の百妖、洞窟の
  中より出でて君王を、認めて波に躍り舞う


詩人の技とはこれである。言葉が躍動している。

 また、『イーリアス』11巻300行以下はこうなる(ここでは読点は意味の切れ目である)。

  馬術たくみのカストール、また拳闘にすぐれたる
  ポリュデウケース、その二人生けるを大地覆い去る。
  ゼウスの厚き恩寵を地下にありても身に受けて、
  かわるがわるに、一日は永らえ、次の日は死して、
  受くる光栄、神明のそれにも彼ら等しかり。


これである。言葉がきらきらと光っている。言葉を韻律に乗せることの楽しみは、言葉の意味だけでなく、そこに輝きをもたらすことなのである。そして、ホメロスのギリシア語の詩行は燦爛たる輝きを持っていると言われるが、その輝きを土井晩翠は日本語で再現してみせたのである。

 また、韻律に合わせるために使われている枕詞や決まり文句は散文にそのまま訳してしまうとまどろっこしくなるばかりだが、その枕詞が土井晩翠の韻文訳ではそのまま訳されることで生き生きとしてくる。

 ところが、この土井晩翠の翻訳は戦前に、当時の日本語で作られたものである。したがって、いわゆる旧字旧かなで書かれており、また戦前の日本語の用字用語が使われている。

 そのせいで、現代の日本人には非常に読みにくいものになってしまっている。特に難解で複雑な漢字を多用していることは大きな障害となって、現代人にはこの訳詩の輝きを見出しにくいものになっている。いわば日本語がほこりをかぶってしまっているのだ。

 そこで、これを現代の用語、現代の漢字と仮名遣いに直して、現代では馴染みのない熟語を現代のものに置き換えて、この詩の本来の輝きを取り戻せないないかと試みたのが、当サイトの新字新かな版である。

 日本には言葉を五七調で組み立てて楽しむ詩の伝統が俳句短歌のなかで生き続けている。その詩を読む喜びを、日本で詩人として初めて文化勲章を受賞した土井晩翠のホメロスの翻訳でぜひとも味わってもらいたい。

  土井晩翠訳『イーリアス』全(新字新かな版)

  土井晩翠訳『オヂュッセーア』全(新字新かな版)


 以下は私が試みた各一巻だけの現代語訳へのリンクである。ご笑覧あれ。

『イリアス』第一巻
『オデッセー』第一巻

2022.12.2414 Tomokazu Hanafusa
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