ホメロス
『イーリアス』全
土井晩翠訳
(新字新かな版)



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これは PD図書室に掲載されている
イーリアス を現行用字による新字新かなに改め(たとえば「斃す」を「倒す」)、
国会図書館の原本、原稿と比べて修正の上、
通読の便宜のため固有名詞をネットにある現行のものになるべく統一し、
適宜(ふりがな)を加え、現代から見て意味不明の箇所を一部変更したものである。


イーリアス:目次
タイトル:イーリアス(Iliad)
著者:ホメーロス(Homer,紀元前九-八世紀)
訳者:土井晩翆(つちいばんすい)1871(明治4)年10月23日 - -1952(昭和27)年10月19日 底本:世界文學選書19『イーリアス』
出版:三笠書房
履歴:昭和25年2月5日印刷,昭和25年2月10日発行

ホメロス著『イーリアス』土井晩翠訳

目次

まえがき  あらすじ他  第一巻  第二巻  第三巻  第四巻  第五巻  第六巻  第七巻  第八巻  第九巻  第十巻  第十一巻  第十二巻  第十三巻  第十四巻  第十五巻  第十六巻  第十七巻  第十八巻  第十九巻  第二十巻  第二十一巻  第二十二巻  第二十三巻  第二十四巻  あとがき

イーリアス: まえがき
イーリアス : あらすじ他


『イーリアス』中に出づる主要な神と人
〔神〕
ゼウス
 (ラテン名ジュピター)=クロニーオーン、クロニオーンまたクロニデース(クロノスの子)、最上の神、天王、クロノスとレアとの子。ポセイドン、ハーデス、ヘラ、デメテル諸神の長兄。しかしてアレス、ヘーパイストス、アポロン、アルテミス、アプロディーテー、ヘルメイアス…諸神の父。また諸英雄(ヘラクレス、サルペドン…)の父。「アイギス(盾の一種)持てる」「雷雲集むる」神、人間の運命を定むる神。

ヘーラー
 (ラテン名ジューノー)ゼウスの妹、またその妃、「牛王の目を持てる」「玉腕白き」「端厳(たんごん)の」女神、アカイア軍を助く。

アポロン
 (ポイボス、アポッローン)(ラテン名アポロー)ゼウスとレートーとの子、アルテミスの兄、トロイア軍を助くる神、「遠矢射る」神、「銀弓の」神。

アレース
 (ラテン名マース)ゼウスの子、殺戮、戦争の神、闘争の神。

アテーネー
 (パラス、アテーナイエー)(ラテン名ミネルバ)智と勇の女神、ゼウスの娘、金甲を鎧いてゼウスの頭中より生るという神話はホメーロス中になし。「藍光の目の」女神。アカイア軍を助く。

ポセイドーン
 (ラテン名ネプテューン)ゼウスの弟、海を司(つかさど)る。

ヘーパイストス
 (ラテン名ヴァルカヌス)ゼウスとヘーラーとの子、跛行神(=足が不自由な神)、工匠の神。

アプロディーテー
 (キュプリス)(ラテン名ヴェーヌス、英語名ヴィーナス)、ゼウスとディオネーとの子、アイネイアスの母神。美と恋愛の神。

ヘルメースあるいはヘルメイアース
 (ラテン名マーキュリー)、アルゲイポンテース(アルゴスを殺す者)の別名あり、使者の役を勤む。

〔人〕

アガメムノーン
 アトレウス(アートレウス)の子=アトレイデース(アートレイデース)、アカイア連合軍の総大将。ミュケーナイ等の領主。

メネラーオス
 同じくアトレウスの子=アトレイデース、前者の弟、もとヘレネーの夫、スパルターの領主。

アキレウス
 (アキッレウス、アキレス)、ペレウス(ペーレウス)の子=ペーレイデース、母は女神テティス、連合軍第一の猛将。

アイアス(アイアース)
 テラモンの子=テラモニデース、第二の猛将。

ディオメーデース
 (ディオメデス)、テューデウスの子=テューデイデース、前者と伯仲の勇将。

イードメネウス
 (イドメネウス、イードメネー)クレタ島の王、槍の名将。ギリシア方。

ネストール
 ネーレウスの子=ネーレイデース、ゲレーニアの領主。思慮に長ずる老将軍、アンティロコスとトラシュメーデースの父

パトロクロス
 メノイティオスの子。アキッレウスの最愛の友、アキッレウスの副将。

オデュッセウス
 (オデュセウス、ラーエルティアデー、ラーエルティアデース)、知謀に富める勇将。

テウクロス
 アイアスの異母弟、テラモンの子=テラモニデース。ギリシア方の弓の名手。

以上ギリシア方(ギ)

プリアモス
 トロイア城主(トロイアの正しき発音はトロイアー)。ヘクトール、パリスらの父。

ヘクトール
 トロイア軍第一の勇将。

パリス(アレクサンドロス)
 ヘレネーを誘拐せる元凶。トロイ方の弓の名手

アイネイアース
 アプロディーテーの子、ヘクトールに次ぐ勇将。

サルペードーン(サルペードン)
 援軍リュキオイ、リュキア族の大将。

グラウコス
 サルペードーンの副将。ヒッポロコスの子

アンテーノール
 トロイアの元老。

ヘカベー
 王妃、ヘクトールらの母。

ヘレネー
 先のメネラーオスの妃、トロイア戦役の主因、無双の麗人。 アンドロマケー
 ヘクトールの妻

以上トロイア方(ト)



イーリアス : 第一巻



 詩神への祈り。題目の略示。アポロンの祭司その娘クリューセーイスのあがないを求めてアガメムノーンに辱めらる。祭司の祈りによりアポロン疫癘をアカイア陣中にわかしむ。予言者カルカスの説明。アガメムノンとアキレウスとの争い。アガメムノン、祭司の娘を返し、その代償としてさきにアキレウスの得たるブリーセーイスを奪う。アキレウス怒り、部下をひきいて水陣にしりぞく。女神テティス、その哀訴を聞き、ゼウスに救いを乞うことを約す。クリューセーイスの解放。神母、オリンポスに登り、ゼウスに哀訴して聞かる。ゼウス約すらく、アキレウスの屈辱をそそぐまではトロイア軍に戦勝を許すべしと。天妃(てんひ)ヘーラーこれを悟りて天王と争う。ヘーパイストスかれらを和解せしむ。


女神[1]よ歌え、アキレウス・ペーレイデース[2]すさまじく
燃やせる瞋恚(いんに)[3]——その果てはアカイア軍[4]におおいなる
災い来し、勇士らの猛(たけ)き魂、冥王[5]に
投じ、彼らのしかばねを野犬野鳥の餌(え)となせし
すごき瞋恚を。かくありてゼウスの神意満たされき。  1-5
アトレイデース[6]、民の王、および英武のアキレウス、
猛り争い別れたる日[7]を吟詠の手はじめに。

[1]詩神ムーサ(複ムーサイ)(=ミューズ)。
[2]ペーレイデースとはペーレウスの子の意。
[3]「瞋恚」は怒りのこと。
[4]正しく言わばアカーイアー。当時はギリシアの名称なし。国民はアカーイオス(複アカーイオイ)またアルゲイオイまたダナオイとも呼ばる。
[5]冥府(=冥土、地獄)の王ハーデースあるいはハデース。いつもペルソーナとして冥府を見る。23-244に初めて冥府となす。
[6]アートレイデース(=アガメムノン)を縮む。アートレイデースはアトレウス(またアートレウス)の子の意。アトレイデースとも他の詩歌には発音す。ホメーロスの原詩においては、必ずアートレイデース。(Brasse's Greek Gradus)
[7]「争い別れたる日」のこのかた「ゼウスの神意満たされき」と解する人々あり。

いずれの神ぞ、争いを二雄の間(あい)に起せしは?
そはレートーとゼウスとの生める子[1]——彼はその祭司
クリューセースを恥じしめしアトレイデースにいきどおり、  1-10
陣に疫癘(えきれい)わかしめぬ。かくて兵士ら滅び去る。
これよりさきにクリュセースそのまな娘を救うべく、
巨多の賠償もたらして、アカイア族の軽船の
陣営さして訪い来り、手に黄金の笏(しゃく)の上、
神アポローンの「スティンマ」[2]を掛けてアカイア全軍に、  15
願えり、特に元帥のアトレイデース兄弟に。

[1]アポッローン。この訳においてはアポッローンをアポローンに縮む。
[2]幣帛(へいはく)の類い。

『アトレイデースおよび他の脛甲(けいこう)かたきアカイオイ[1]、
ウーリュンポス[2]の高きより、神霊、願わく、敵王の
都城の破壊と安らかの帰国を君に恵めかし。
君は愛女を身[3]に返し、そのあがないを受け入れよ。  20
銀弓鳴らすアポローン、ゼウスの御子をかしこみて』

[1]アカイオイはアカイア族。ギリシア人を指す、ホメロスの詩中に「ギリシア」の名なし。
[2]ウーリュンポスあるいはオリンポス、神々の住するところ。
[3]私。

アカイア全軍これを聞き、祭司をあがめ、珍宝の
あがない得べくいっせいに心合わせてうべなえり。
アガメムノーンただひとり怫然としてよろこばず。
不法に祭司追い払い、さらに罵辱(ばじょく)をあびせいう、  25

『老翁!なんじ、水軍のかたえためらうことなかれ。
再びここに推参の姿あらわすことなかれ。
神の金笏「スティンマ」も汝に何の助けなし。
故山を遠く後にしてあなたアルゴス[1]空のもと、
わが舘(たて)のなか、機(はた)に寄り、寝屋に仕えて、老齢の  30
迫らん時の来るまで、なんじの愛女放つまじ。
我を怒らすことなかれ、いま平穏に去りたくば』

[1]アガメムノーンの領土、首府はミュケーナイ。アルゴスはまたギリシア全土の称となることあり。

威嚇の言に老祭司、畏怖を抱きて命により、
黙然として身を返し、怒濤(どとう)[1]とどろく岸に沿い、
離れてやがて老齢の声をしぼりて訴えり、  35
髪美しきレートーの生めるアポローン大神に、

[1]「怒濤」は荒れ狂う大波のこと。

『ああクリュセーを、神聖のキッラを守り、テネドスを 1-37
猛くまつろう銀弓の大神、われをきこしめせ。
スミンテウス[1]よ、御心にかない神殿飾り上げ、
また牛羊(ぎゅうよう)の肥えし肉あぶり捧げしことあらば、  40
われの願いを聞こし召し、悲憤の涙わが頬に
流せしダナオイ族をして君の飛箭(ひせん)[2]を受けしめよ』

[1]小アジアの諸都におけるアポロンの称。おそらく野ネズミをほろぼせる者の意か。アポロンの神殿はトロイアにあった。なお「まつろう」は服従させる、司るの意。
[2]「飛箭」の箭は矢のこと。
切なる願い納受する[1]神ポイボス・アポローン、
包みおおえる胡簶(やなぐい)[2]と白銀の弓肩にして
ウーリュンポスの高根より怒りに燃えて駆けくだり、  45
夜のにわかに寄するごと、すごく駆け来るアポローン。1-46
怒りの神の肩の上、矢は戛然(かつぜん)と鳴りひびき、
やがてアカイア水軍のまともに立ちて鋭き矢、
切って放てば銀弓の弦音すごく鳴りわたり、
ラバの群、はた足速き犬はまさきに倒れ伏し、  1-50
次いで軍兵陸続と射られ滅べば山と積む。
死体を焼ける炎々の火焔おさまるすきもなし。
九日続き陣中に神矢あまねくふりそそぐ。
十日に至りアキレウス、将を評議の席に呼ぶ。
玉腕白きヘーラーの女神、ダナオイ軍兵の  55
ほろび眺めて傷心の思いを彼に吹きこめり。
呼ばれ評議の席に着くその会衆のただなかに、
足神速[3]のアキレウス、身をふり起し陳じいう、

[1]「納受する」は神が願いの実現するときのキーワード。 [2]やなぐいは矢筒、えびら。 [3]アキレウスの常用形容詞。

『アトレイデー[1]よ、われ思う。戦争、疫癘わが軍を
かくも長らく害すとき、死を幸いに逃れども、  60
事ならずしてアカイアの子らは故郷に帰るべし。
さもあれ、祭司に、予言者に、あるいは夢に説く者に、
——夢はゼウスの告げなれば——究(きわ)めめしめずや。いかなれば、
神ポイボス・アポローン、かくもわれらに憤(いきどお)る?
祈祷あるいは犠牲をば怠るゆえにとがむるや?  65
あるいは山羊と小羊の薫ずる匂い納受して
この疫癘をしりぞくや?答えを彼に求めん』と。

[1]アトレイデースの呼格。

かく陳じ終え、座に着けば、続いて皆の前に立つ
占術妙技すぐれたるテストリデース・カルカース。
現在の事、過去の事、未来の事をみな悟り、  70
神ポイボス・アポローン給える予言の能により、
アカイア軍をイリオス[1]の郷(さと)に導きひきいたる、
そのカルカース慇懃(いんぎん)の思いをこめて皆にいう、

[1]イリオス、イーリオスまたイリオン=トロイアー。

『ゼウスの寵児(ちょうじ)アキレウス、君われに問う、いかなれば
銀弓の神アポローン、かくも激しく怒るやと。  75
さらば解くべし、ただ我に誠をこめてまず約せ、
言句ならびに威力にてわれ救うべくまず誓え。
思う、おそらくアルゴスを統べ、アカイアに君臨の
高き位にある者の心わが言激すべし。
下なる者に怒る時、王者の威勢ものすごし。  80
たとえ今日(こんにち)しばらくはその憤激をおさうるも
後日にこれを晴らすまで胸裏に宿る炎々の
瞋恚の炎(ほむら)おさまらず。君よく我を救わんや?』

足神速のアキレウスすなわち答えて彼にいう、
『信頼われに厚くして、神託下るがままに言え。  85
ゼウスのめずるアポローン——これに祈りて神託を
ダナオイ族に君伝う——その神かけてわれ誓う。
われ生命のあるかぎり、我光明を見るかぎり、
わが水軍のかたわらにダナオイ族の一人だも
君に凶暴の手を触れじ。きみアカイアのなかにして  90
至上の権を身に誇るアガメムノーンを名ざすとも』

その言信じ、高名の心眼常に曇りなき
予言者すなわち説きていう、『祈祷犠牲のなおざりを
怒るにあらずアポロンは。祭司侮り、あがないを
受けず、愛女を返さざるアガメムノンに憤り、  95
災難われらにくだしたり。災難さらになお継がむ。
あがない受けず、父のもと、美目の少女返しやり、
神聖の牲(にえ)、クリュセース祭司のもとに送らずば、
疫癘荒るる災いを神アポロンはしりぞけじ。
もしかくなさば和らぎて我の祈りを納受せむ』  1-100

陳じ終わりて座に着けば、つづいて皆の前に立つ
アトレイデース、権勢のアガメムノーン。猛き威も
胸裏は闇に閉ざされて、憤激やるにところなく、
ふたつのまなこ爛々(らんらん)とさながら燃ゆる火のごとく。
瞋恚(しんに)激しく、カルカスをにらみて荒く叫びいう、  105
『常に楽しき事言わず、ただ災いを予言しつ[1]、
常に不祥を占いて、心楽しと思う者。
汝、好事を口にせず、はたまたこれを行わず。
クリューセイスの身に代うるよき賠償を受け取るを
われ許さざるゆえをもて、遠く矢を射るアポロンは  110
ダナオイ族に災いを降すと、将の集まりの
もなかに立ちて陳ずるや?風姿、容貌、女性の技(ぎ)、
我その昔娶りたる夫人クリュタイムネストラ[2]、
これに比べて劣らざる、これに優りて我がめずる
少女は国に携(たずさ)えむ、わが情願のあるところ。  115
さもあれ、その事よしとせば少女を放ち去らしめん。
苦難を軍の逃れ得て安きにつくはわが望み。
今ただいそぎ新たなるつぐない我のため探せ[3]、
アルゴス人のただなかに我のみ戦利失うを
正しとせんや?見ずやいま、我が得し物の他に行くを』  120

[1]この助動詞「つ」は「ためつすがめつ」にある「並列のつ」であろう。
[2]クリュタイムネーストラーを縮む。
[3]この要求は無理ならず。戦利を失うは物質上の損害ならびに名誉の毀損なり(ホメロスの注釈者リーフの説)。

足神速のアキレウスそのとき答えて彼にいう、
『アトレイデーよ、高き名になど貪婪(どんらん)の激しきや?
わが寛大のアカイオイ、いかに補償を与え得ん?
みな知るところ、いずこにも今や戦利の残りなし。
城市を掠(かす)めえたる物、みなことごとく分かたれぬ。  125
今またこれを奪いなば誰か不法ととがめざる?
君甘んじてかの少女、神の御もとに捧ぐべし。
ゼウスの恵み厚くしてトロイア国を破る時、
アカイア軍は三重四重(みえよえ)に君に補償を致すべし』

そのとき答えて権勢のアガメムノーン彼にいう、  130
『汝、英武のアキレウス、汝まことに勇なるも、
我を欺くことなかれ。ごまかしも得じ、説きも得じ。
汝の戦利保つため我わが戦利失うを
甘んずべしと思えるや?少女捨てよと命ずるや?
もし寛大のアカイオイ、わが望むまま平等の  135
戦利を我に与えなば、われうべなわむ。しからずば、
親しく行きてアキレウス、汝あるいはアイアース、
オデュッセウス得しものを奪いてともに帰るべし。
かく我行きて奪う者、彼はおそらく怒らんか。
さはれこの事計るべき時はのちこそ、いまはまず、  140
わが神聖の海の上、黒き一艘(そう)の船浮べ、
すぐれし水夫乗りこませ、なかに犠牲を備えしめ、
頬うるわしきわが少女クリューセーイス乗らしめよ。
首領のひとりともに行き、その一切の指揮をなせ。
イードメネウスかアイアース、はたオデュセウスあるはまた、  145
全軍のなか第一に恐るべきものアキレウス、
行きて犠牲をたてまつり遠矢の神を和らげよ』

足神速のアキレウス、目を怒らして彼にいう、
『ああ、ああ厚顔無恥にして、ひとえに私利を願う者、
アカイア軍中何者か汝の命に従いて、  1-150
汝のために道を行き、汝のために戦わむ?
長槍(ちょうそう)握るトロイアは、何らの害も加えねば、
これに戦闘挑むべく我この郷に来しならず。
その民かつて牛羊をわれにかすめしことあらず。
緑林おおう連山と怒濤とどろく海洋と  155
間にありて隔つれば、あまたの勇士生みいでし
プティアー[1]の地いまだその劫略(こうりゃく)受けしことあらず。
ただに汝とメネラオス、仇(あだ)トロイアに報い得て
喜ばんため、我々は顔は野犬のごとくなる
無恥の汝に従えり。汝この事顧みず、  160
さらに今またアカイオイ、我の労苦に報うべく
我に分かちし戦利をも、汝は奪い去らんとや?
アカイア軍がトロイアの一都市さきに破る時、
汝の戦利多くしてわが得しところ小なりき。
戦闘激しく荒るるとき、わが手もっともよくつとめ、  165
戦闘の利を分かつとき、汝もっとも多くを得。
奮戦苦闘に疲れし身、水軍中に休むべく、
わが得しところ小なるも喜び受けてしりぞきき。
いざ曲頸(きょっけい)[2]の船うかべ、プティアーに向け帰るべし。
故山に向かい帰ること、はるかにまさる、ここにいて  170
恥受けながら汝のために富と利益を増やすより』

[1]アキレウスの領土。
[2]船の船体が横から見て湾曲していることをいう。
アガメムノーン、民の王、そのとき答えて彼にいう、
『逃げよ、心の向くがまま。とく去れ、何ぞためらうや?
我がためここに残るべく汝に願う我ならず。
人々敬い我に聞き、至上のゼウス我を守(も)る。  175
神寵受くる列王のなかにもっとも憎むべき
汝、口論(くろん)と争いと闘い、常にこころざす。
汝もっとも勇なるも、ある神霊の恵みゆえ。
いざいま部下と戦艦をひきいて国に帰り行き、
ミュルミドネス[1]を司(つかさど)れ。我は汝をはばからず、  180
汝の怒り顧みず。汝を脅しさらにいう。
銀弓の神アポロンはクリューセーイス求むれば、
わが船舶と部下をして彼女を返しやらしめん。
しかして[2]汝の陣に行き、汝の得たる紅頬(こうきょう)の 
ブリーセーイス奪い取り、わが威、汝にまされるを  1-185
いたく汝に知らしめん。他の者はたまた畏服(いふく)して、
わが眼前にはばからず肩並ぶるを慎しまむ』

[1]アキレウスの領民(単数ミュルミドーン)。
[2]「しかして」は「そして」の意味
その言聞きてアキレウス悲憤の思い耐えがたく、
胸鬚(むなひげ)荒き胸のうち、心二つに相乱る。
鋭利の剣を抜き放ち、つどえる将を追い払い、  190
つのる不法の驕傲(きょうごう)のアトレイデース殺さんか?
あるは悲憤の情おさえ、自ら我を制せんか?
思いは乱れあいながら、鞘(さや)よりまさに長剣を
抜き放さんとしつる時、天より下るアテーネー。
二人をともにいつくしみ二人をともに顧みる  195
玉腕白きヘーラーの命伝え来るアテーネー。
アキッレウス[1]のあとに立ち、皆には見えず、ただ一人
彼に姿を示現して、その金色の髪をひく。
愕然(がくぜん)としてアキレウス、後を見返りたちまちに、
眼光爛と輝けるアテーネーを認め知り、  1-200
すなわちこれにうち向かい、羽ある言句[2]陳じいう、

[1]アキッレウスまたアキレウス。
[2]言句は羽ありて飛翔すと言わる。これよりして「羽ある言葉」の句あり。あるドイツの麗句集はこれをもって書名となす。

『アイギス[1]持てるゼウスの子、いま何ゆえの降臨か?
アトレイデース荒れ狂うその驕慢の照覧か?
彼その不法をつぐないて程なく命を失わむ。
このこと必ず成るべきを今より君に誓うべし』  205

[1]恐るべき模様を有する盾の一種。

藍光の目のアテーネーすなわち答えて彼にいう、
『汝二人をもろともに愛し、等しく顧みる
玉腕白きヘーラーの命を奉じてわれ来る。
わが厳命をかしこまば、捨てよ汝のいきどおり。
やめよ汝の争いを。手中の剣を抜くなかれ。  210
ただ意のままに言句もて、あくまで彼を恥じしめよ。
我いま汝に宣しいう。わが言必ずのち成らむ。
すなわちいまの屈辱をあがなわんため三倍の
恩賞汝に来るべし。自ら制し我に聞け』

足神速のアキレウス、彼女に答えて陳じいう、  215
『憤懣いかに激しとも、高き二神の厳命を
奉ぜざらめや。奉ずるは賢きわざと我は知る。
神々の命聞くものを、神々嘉(よ)みし冥護(みょうご)得む』
しかく陳じてアキレウス、手を白銀の柄(つか)に留め、
パラスの命に従いて、長剣鞘に収め入る。  220
女神すなわちアイギスを持てるゼウスの殿堂に、
諸神の群にまじるべく、ウーリュンポスに帰り行く。

ペーレイデース引き続きアガメムノーンにいきどおり、
彼に向かいて荒らかにさらに罵辱をあびせいう、

『卑怯の心、鹿に似て醜き眼(まみ)は犬に似る、  1-225
酒に乱るる、ああ汝!汝他ととも戦闘の
ために武装をあえてせず。アカイア勇士もろともに
待ち伏せするをあえてせず。これを恐るる死のごとし。
げにそれよりもアカイアの陣中汝にあらがえる
人の戦利を奪い取るわざこそはるか勝るらめ。  230
貪婪の王、ああ汝、ただ小人に主たるのみ。
アトレイデーよ、さもなくば、今日の非法は最後なり。1-232
さらに汝に神聖の誓いをかけていうを聞け、
誓いはこれこの笏[1]に掛く。——この笏はじめ山上の 1-234
樹木の幹を辞してより再び枝を生じえず。  235
再びその芽、萠え出でず。緑再び染むるなし。
青銅これが皮を剥ぎ、葉を払い去り、かくて今
高きゼウスの命を受け、裁き行なうアカイアの
法吏その手に取るところ。この笏にかけいうを聞け、
アカイア全軍他日われアキッレウスに憧れむ。  240
トロイア勇将ヘクトルの手に全軍の滅ぶ時、
汝いかほど悲しむも、ついに施すすべ無けむ。
そのとき汝アカイアの至剛の者を侮りし
身のあやまちにほぞを噛み、我が身を責むることならん』

[1]この笏はアキレウスの所有ならず、諸頭領共有の物。いま彼の談論に当りて臨時に渡されしもの。

ペーレイデースかく陳じ、黄金の鋲(びょう)ちりばめし  245
笏を大地に投げつけつ、やがておのれの座に帰る。
アトレイデースまた怒る。——そのとき立てり皆の前、
ピュロスの弁者、温厚な言葉いみじきネストール、
蜜より甘き巧妙の言を舌よりわかす者。
彼その昔神聖の郷土ピュロスに生まれ出で  1-250
ともにひとしく育ち来し現世の友は先だちぬ、
先だつ二代[1]見送りていま三代に王たる身。
彼いま皆に慇懃の誠をこめて説きていう、

[1]ヘロドトス2巻142に人間三代は一百年とあり、ネストールは七十歳位ならむ。

『ああ、ああ悲し、アカイヤの族に大難ふり来る。1-254
ダナオイ族のなかにして、智略にすぐれ戦闘に  255
すぐれし二人汝らの争う始末聞き知らば、
敵の大将プリアモスおよびその子ら寿(ことほ)がむ。
他のトロイア人いっせいにまた起すべし大歓喜。
われ汝らに歳まさる。われの諌(いさ)めを聞きいれよ。
いにしえ我は汝らにまさる諸勇士友としき。  260
そのなか誰か軽んじる心を我に抱きしや?
かかる勇士をその後(ご)見ず。今より後(のち)も見ざるべし。
ペイリトオスと、民衆を広く治めしドリュアスと、
エクサディオスとカイネウス、ポリュペーモスは神に似き、
アイゲウスの子テーセウス、ひとしく不死の霊の類[1]、 1-265
彼ら地上の人類のなかにもっとも猛き者。
その敵ひとしく猛なりき。敵は山地のケンタウロス、
半獣半人、末ついに激しく打たれ滅びにき。
我その昔ピュロスより、遠きはるかの故郷より、
招きに応じ来り訪い、彼らに結びまじわりき。  270
しかして自力で戦いき。いまに大地に住めるもの、
誰か彼らを敵として戦う事を得べからん?
その勇者すら諫(いさ)め容(い)れ我の言葉に耳かせり。
汝ら等しくわれに聞け。諫めを容るは良からずや。
アトレイデーよ勇なるも、少女を奪い取るなかれ。  275
これはアカイア全軍が彼に与えし恩賞ぞ。
ペーレイデース、汝また彼と争うことなかれ。
ゼウスの寵を被むりて王笏その手に握る者、
彼と等しき権勢を誰かはほかに授りし?
汝、神母の生めるもの。汝まことに勇なれど、  1-280
かれ大衆に君として権威はるかに優らずや?
アトレイデーよ、憤激をやめよ。我いまあえて乞う、
彼を憎しむことなかれ。存亡危急の戦いに
彼ぞアカイヤ全軍の金城堅き守りなる!』

[1]1-265行は大概の写本に省かる。後世の添加。

アガメムノーンその言に答えてすなわち彼にいう、  285
『おじよ、汝のいうところみなことごとく理に当る。
さはれこの者一切の兵をしのぎて上に立ち、
治めて御して全軍に令を下すをこいねがう。
しかれど一人この事はたえて許さぬ者あらん。
不死の神々よし彼を戦士となすも、これがため、  290
みだりに非法の言吐くを神々彼に許さんや!』

そのとき英武のアキレウス彼をさえぎり答えいう、
『汝の命に従いて汝にすべて譲らむか、
すなわち小人卑怯の名、我また否うことをえじ。
他人にかかる命下せ。我に命ずることなかれ。  295
今よりのちに再びは汝の命をわれ聞かず[1]。
我いま汝にいうところ、これを心に銘じおけ。
いまは少女のゆえをもて我汝らと争わじ、
与えしものを汝らが持ち去るゆえに。しかれども、
このうえ黒き軽船のほとりに我の持つところ、  1-300
わが意に背き一毫も汝らかすめ去るなかれ。
これを犯して人々に悟らせたくば試みよ。
すぐに汝の暗黒の血潮わが手の槍染めむ』

[1]アリスタルコスこの行を省く、諸評家によりて省かるる行は前後しばしばあり。本訳の註解中には一々これを指摘せず。ただ(……)の記号をおりに用いて表示することあるべし。

かくして二人争いの言句おわりて立ちあがり、
かくしてアカイヤ水陣のほとりの会は散じ解け、  305
メノイティオスの子[1]とともに部下の兵たち引きつれて
ペーレイデース、陣営と戦船さして帰り去る。
こなた軽船浮ばせてアトレイデース令下し、1-308
漕ぎ手二十を選びあげ、犠牲とともに紅頬の
クリューセイスを導きて来りて船に移らしむ。  310
親しく船を指揮するは知恵たくましきオデュセウス。
かくて一同いっせいに水路はるかに漕ぎいだす。

[1]メノイティオスの子=パトロクロス。

アトレイデースの命により、こなたアカイヤ全軍に
潔斎式[1]は行われ、一同ひとしく身を清め、
洗いし水を海にすて、岸に集まり牛羊の  315
いみじき牲を銀弓の神アポローンにたてまつる。
煙とともにたなびきて牲の香高く天上に。

[1]おそらく疫癘の際、彼らは喪に服して身を洗浄せず(リーフ)。また哀慟の記号として頭上に塵を撒きしならむ(18-23参考)。

陣中にして兵はかく。しかしてさきにアキレウスを
脅せる怒り引き継げるアガメムノンはいまさらに、
伝令の役つかさどり侍従の職にいそしめる  320
タルテュビオスとさらにまたエウリュバテース[1]†召していう、1-321
『汝ら二人つれだちてペーレイデース・アキレウス
彼の陣より紅頬のブリーセーイス[2]とり来れ。
彼もしこれを与えずば我部下たちを引きつれて、
行きて少女を奪い去り、さらに苦悩を増さしめむ』  325

[1]アガメムノンの伝令エウリュバテースはここだけ。あとはオデュッセウスの伝令の名。
[2]ブリーセーイスとはブリーセウスの娘という意味、本名はヒッポダメイア。

しかく宣して暴戻(ぼうれい)の命を下して送りやる。
やむなく二人うち連れて荒涼とした岸に沿い、
ミュルミドネスの陣営とその船のそば訪い来り、
その陣営と船のそば勇士座せるを眺め見る。
二人の来るを望み見てペーレイデース喜ばず。  330
二人恐れて敬いて将軍の前立てるまま、
一言一句陳じえず。何らの問いも出だしえず。
されど将軍、意に推し二人に向かいて宣しいう、

『来れ二人の伝令者、神々および人の使者。
近くに来れ、われ責めず。ただ汝らを遣わして  335
ブリーセーイス奪い取るアガメムノンを責むるのみ。
パトロクロスよ、連れ来り少女彼らの手に渡し、
去り行かしめよ。しかはあれ、異日苦難の起る時、
兵の破滅を救うべくわれの力を望む時、
そのとき二人わがために証者(あかし)たれかし、慶福の  340
諸神の前に、無常なる諸人の前に、残忍の
王者の前に。見ずや彼、無残の心荒れ狂い、
アカイア人に水軍のほとりに勝ちを来すべく
等しく前後の計りごと巡らすことをあえてせず』

かく陳ずるを聞き取りてパトロクロス[1]は、愛友の  345
言に従い、紅頬のブリーセイスを陣営の
なかより出だし与うれば、アカイア軍に引き返す
二人につれて愁然(しゅうぜん)と少女去り行く。こなたには
アキッレウスただひとり友を離れて、銀浪の
岸うつほとりさん然と涙流して、渺々(びょうびょう)の  1-350
海を眺めて手をあげて慈愛の母にかく祈る、

[1]パトロクロスまたパートロクロス。両様の発音。

『ああわが神母、早逝の運に生まれし我なれば、
ウーリュンポスの高御座(たかみくら)、轟雷(ごうらい)振うわがゼウス、
われに栄光賜(た)ぶべきを、露ばかりだも顧みず。
アトレイデース、権勢のアガメムノンは威に誇り、  355
われの戦利を奪い去り、我に無礼をかく加う』

涙を流し陳ずるを千尋(せんじん)深き波の底、
老いたる父の海神[1]のかたえに神母聞きとりつ、
銀波たちまちかきわけて煙霧のごとく浮び出で、
さん然として涙なる愛児の前に向かい座し、  360
玉手に彼をかい撫でて、すなわち彼に向かいいう、
『愛児なにゆえ悲しむや、何ゆえ心痛むるや?
胸におさめずうち明けよ、ともに親しく知らんため』

[1]のちの神話にネーレウスの名をもって呼ばるる者。

足神速のアキレウス吐息(といき)を荒く母にいう——
『君はすべてをみな知れり、述ぶるも何の効かある?  365
エーエティオンの聖(きよ)き郷、テーベー国に侵し入り、1-366
これをかすめて一切をわが軍ここにもたらしつ、
アカイヤ人らその戦利、よきにかないて分かち取り、
アガメムノンは紅頬のクリューセイスを収め得き。
さはれアポロンの祭司クリューセースは、堅甲(けんこう)の  370
アカイア人の軽船の陣を目ざして訪い来り、
とりこの愛女救うべく巨多のあがない持ち来し、
手に黄金の笏の上、飛箭鋭き大神の
スティンマのせて全軍に、特に二人の元帥の
アトレイデース兄弟に言ねんごろに訴えぬ。  375
そのときすべてアカイヤの軍勢ひとしく声あげて、
祭司をあがめ珍宝のあがない得るをうべなえり。
ひとり倨傲(きょごう)の威をつのるアガメムノンはいきどおり、
不法に祭司しりぞけてさらに罵辱の言加わう。
祭司怒りてしりぞきて祈りを捧ぐ。かくて見よ、  380
アポロン彼を愛すればその訴えを納受しつ、
無残の遠矢射はなてば、アルゴス兵は紛々[1]と
ともにひとしく倒れ伏す。つづきて神の怒りの矢、
さらにアカイア全軍の四方(よも)にくまなくふり注ぐ。
そのとき予言者銀弓の神の御旨を宣(の)り示す。  385
そのとき我は先んじて神意解くべくいさめたり。
されど権威にいや誇るアトレイデースいきどおり、
立ちて威嚇の言を述べ、その言ついに遂げられつ、
かくて少女をまみ光るアカイア人の軽船に
神の供物ともろともにクリューセースに返しやり、  390
今はた伝令わが陣に来りてアカイア全軍の
われに与えし紅頬のブリーセイスを奪い去る。
神母よ君の子を救え。ウーリュンポスの頂きに 
のぼりゼウスに訴えよ、言葉あるいは行ないに
よりてゼウスを君かつて喜ばしめしことあらば。395
しばしば聞けり、わが父の宮殿のなか、誇りかに
君の言えるを——その昔ウーリュンポスの諸神霊、
ヘーラーおよびポセイドーン、パッラス・アテーネーいっせいに
雷雲寄する大神を鉄の鎖(くさり)につけし時、
諸神のなかに君ひとり彼の災い払えりと[2]。  1-400
君はそのおり、天上にブリアレオース、地の上に
勇力父にまさるゆえアイガイオーン[3]の名を呼べる
百の腕ある怪物を、ウーリュンポスの頂きに
いそぎて呼びてクロニオーン・ゼウスの縛(ばく)を解かしめき。
怪物、ゼウスのかたわらに揚々として誇らえば、  405
諸神は畏怖の念に満ち、再び彼に触れざりき。
乞う、いま行きて雷霆の神のまえ座し膝いだき、
むかしを語り訴えよ。神おそらくはトロイアを 1-408
助け、アカイア軍勢を海に舳艫に追いやらむ。1-409
かくして彼ら王のため難儀を受けて悲しまむ。  410
かくしてついにかの王者自らさきにアカイアの
至剛の者を侮りし身のあやまちを悟り得む』 1-412

[1]「紛」は入り乱れること。
[2]この奇怪の神話は他に何らの出所なし。アテーネーとヘーラーとくみしてゼウスに抗す云々は奇怪の甚しきもの。説明し難し(リーフ)。
[3]アイガイオーンは荒るる者を意味す。ある説は彼を海王ポセイドーンの子とし、他はウーラノス(天)とガイア(地)との子とし、またある説はポントスとクラッサとの子とす。

テティスその時潸然と涙そそぎて答えいう、
『あわれ汝をいかなれば不運に生みて育てけむ!
汝の命は短くてついに長きを得べからず。  415
船のほとりに涙なく災いなくてあるべきを、
など宿命のはかなくて、不運すべてに優れるや!
ああ運命の非なるべく汝を宮にかく生めり。
こを雷霆の神の前、聞え上ぐべく、雪積る
ウーリュンポスに赴(おもむ)かん。神の納受のなからめや。  420
そのなか、汝激浪の洗う船中留まりて、
アカイヤ人にいきどおれ。その戦いに加わるな。
昨日ゼウスは清浄のアイティオピア[1]の宴のため、1-423
オーケアノスに出で行きて諸神ひとしく伴えり。
十二の日数過ぎ去らばウーリュンポスに帰り来ん。  425
金銅の戸のかれの宮、そのとき汝のために訪い、
膝を抱きて訴えん。彼の納受は疑わじ』

[1]アイティオプス族は敬信の念に満つ。神々はしばしば行きてその祭りを受く。

陳じおわりて辞し返る。残れる彼は胸のなか
心にそむき奪われし帯麗(うるわ)しき子のゆえに
なお憤悶の情やまず。——同時にかなたオデュセウス  430
浄き犠牲をたずさえてクリューセースを尋ね行く。
一同かくて深き水たたえし湾に入りし時、432
白帆(はくはん)おろし、折りたたみ、黒く塗りたる船に入れ、
いそぎ綱ひき帆柱を倒して枠に支えしめ、
これより櫂(かい)に漕ぎ入りて、湾内に船進ましめ、  435
つづいて皆は停泊の重石沈め、綱つなぐ。
これより皆はいっせいに海岸さしてすすみ行き、
遠矢の神に奉る浄き犠牲をひきいだす。
クリューセーイスまた波を分け来し船を出で来る。
そのとき智あるオデュセウス彼女を引きて祭壇に  440
進め、愛する父の手に渡して彼に陳じいう、

『ああクリュセー[1]よ、王者たるアガメムノーンの令により、
汝の愛女いま返し、さらにダナオイ族のため、
浄き犠牲をアポロンに——さきにアルゴス軍中に
難儀くだせし神明に——捧げて彼をやわらげむ』  445

[1]呼格。

しかく陳じて彼の手に渡せば、祭司喜びて
愛女を受けつ、一同はすぐに堅固な祭壇を
めぐり犠牲を並べつつ、遠矢の神に奉り、
みないっせいに手を浄め、聖麦[1]おのおの手に取りぬ。1-449
そのとき祭司双の手を挙げて高らに祈りいう、  1-450

[1]牲の角の間に、また神壇の上にまくもの。

『ああクリュセーを、神聖のキッラを守り、テネドスを
猛くまつろう銀弓の大神、われを聞し召せ。
神明さきにわが祈り納受ましまし、わが誉れ
高めてさらにアカイアの軍勢いたく悩ませり。
さらに今また新たなる我の祈りを納受して、  455
ダナオイ族の疫癘の苦難を払い去りたまえ』

しかく祈願を捧ぐればアポロンこれを納受しぬ。
祈願終わりて聖麦を牲の頭上にまき散らし、
かくして牲を仰向けて[1]、ほふりてこれが皮を剥ぎ、
つづいて腿(もも)を切り取りて、二重の脂肪にこれ覆い、  460
さらにそのうえ精肉をのせて、かくして老祭司、
焚き木(たきぎ)燃やして焼きあぶり、暗紅色の酒そそぐ。

[1]神々に捧ぐる時は仰向かしめ、冥府の霊に捧ぐる時は下向かしむ。

五叉(ごさ)の肉刺したずさうる若き人々そばに立ち、
ももの肉よく焼けしとき、臓腑をさきに喫しつつ、
残りの肉をことごとく細かに裂きて串に刺し、  465
心をこめて焼きあぶり、終わりて串を取りのけつ、
料理終わりを告ぐる時、酒宴のそなえ整えつ。
かくて一同席に着き、心のままに興じ去り、
飲食なして口腹の欲を満たして飽ける時、
あふるるばかり壺のなか神酒[1]を充たし、まずさきに  470
献酒[2]をなして、若き人あまねく皆に酌(く)ましめぬ。
かくて終日アカイアの子ら讃頌の歌うたい、
飛箭鋭き大神をやわらぐべくも試みぬ。
アポロンこれを耳にして心喜び楽しめり。

[1]この前後不明、諸名家の訳も一致せず。初めに祭司らが飲食し、のちに一般の参加者が飲食せしか?(リーフ)
[2]まず神明に酒を捧げ、盃を地上に傾く。中国語で奠酒。

かくて紅輪(こうりん)[1]沈み去り、暗き夜の影よする時、  475
一同ともに船つなぐ綱のかたえにうちふしつ、
薔薇(そうび)色なす指もてるあけの女神のいずる時、
アカイア軍のおおいなる水陣さして立ちかえる。
これを恵みて銀弓のアポロン追風(おいて)を吹き送る。
かくして皆は帆柱を立てて白き帆高く張る。  480
快風吹きて帆のもなか満たし、波浪は紫を
染めて高らに艫(へさき)切り、鞺々(とうとう)として鳴り響く。
潮(うしお)を蹴りて走る船、かくて海路の旅果す。

[1]「紅輪」は朝日や夕日のこと。

やがてアカイア陣営の広きに帰り着ける時、
兵は黒船陸上に、白洲の上に引き上げつ、  1-485
長き枕木その底に並べて敷きてわざ終わり、
一同おのおの陣営にあるいは船に散じ去る[1]。487
こなた足疾(と)きアキレウス・ペーレイデース、神の子は 488
その軽船のかたわらに座して憤悶おさえ得ず。
勇士集まる席上に、また戦陣のただなかに  490
たえて姿を現わさず、欝々(うつうつ)心むしばみて、
思いむなしく戦闘に、また叫喚(きょうかん)にあこがれぬ。492

[1]432~487はのちの挿入であり、省いて読めとヴィラモヴィッツはいう。

そののち十二、日は移る。そのあけぼのに不滅なる
諸神ゼウスに従いてウーリュンポスの頂きに、
みないっせいに帰り来る。時に愛児の訴えを  495
忘れぬテティス。びょうびょうの波浪をわけて浮び出で、
あけぼの早く天上のウーリュンポスに昇り行き 
見れば、かなたに群神を離れて座せり、連峰の
聳(そび)ゆるなかの絶頂にクロニーオーン、雷の神。
女神すなわち近寄りてその前に座し左手に  1-500
その膝抱き[1]、右の手をのばして彼の顎をなで、
クロニーオーン、神の王ゼウスに祈願述べていう、1-502

[1]相手の膝を抱きそのあごを撫づるは古来ギリシア人一般の嘆願の習い。

『天父ゼウスよ、群神の間にありて我かつて、1-503
君を助けし事あらば、このわが願い容れたまえ。
他よりも早く運命の尽くるわが子を愛でたまえ。  505
アガメムノーン、民の王、今しも彼を侮りて
彼の戦利を奪い去り不法におのがものとしぬ。
ウーリュンポスを統べたまう君、栄光を彼に貸し、
アカイアの民、わが愛児あがめ尊ぶ時来る
そのまえトロイア軍勢に願わく力添えたまえ』  510

雷雲寄する天王はこれに答えず、黙然と
長きにわたり口つぐむ。膝を抱きしテティスいま
さらに迫りて身を寄せて、再び彼に問いていう、
『わが情願を受け納れてうなずきたまえ。しからずば、
しりぞけ給(たま)え。大神は何を恐れむ。しかあらば、  515
諸神のなかにわが誉れ、いとも劣るを悟るべし』

深き吐息に雷雲のクロニオーンは答えいう、
『なんじに迫られ、ヘーラーの憎しみ起し、彼女して 1-518
われを怒らす暴言を吐かしめんこと痛むべし。
彼女は諸神のなかにして今でも常に我を責め、  520
われ救援を戦場のトロイア軍に貸すという。
さはれいま去れ。ヘーラーに見とがめられそ[1]。我に今
求むるところ、心して必ずこれを成らしめん。
望まば垂れんわが頭、これに汝の信を置け。
見よ群神のなかにしてわれの至上のこの証(あか)し。  525
わがこの頭うなだれてうべなうところ、欺かず。
変えるべからず、いたずらに効なきままに過ぎ去らじ』

クロニオーンはしか宣し、うなずき垂るる双の眉。
アンブロシア[2]の香(か)、みなぎれる毛髪かくて、天王の
不死の頭上に波立ちて、震えり巨大のオリンポス[3]。  530

[1]禁止の「そ」。
[2]天上の霊液。
[3]この三行に鼓吹(こすい)せられてギリシア最大の彫刻家ペィディアースはゼウスの像を作れりという(リーフ)。

二神かくして議を終わり別る。テティスは光耀(こうよう)の
ウーリュンポスを辞し去りて、波千尋の底深く、
ゼウスは彼の神殿に。そのとき諸神の中にして
居ながら待てる者あらず、各々その座立ち上がり、
臨御を迎ういっせいに。クロニオーンはかくてその  535
王座につけり。しかれどもヘーラー彼をうかがいて、
老いの海神生みなせる愛女、その足銀光を
放てるテティス、天王と謀りしあとを察し知り、
憤然(ふんぜん)として言荒くクロノスの子[1]を責めていう、

[1]クロノスの子すなわちクロニオーン即ゼウス。

『いずれの神ぞ、狡獪(こうかい)[1]の君もろともにたくらむは?  540
われを疎んじほかにして、常に秘密の計らいを
君は好みて行えり。かくしていまだ温情を
我にほどこし胸のなかうち明けしことあらざりき』

[1]狡獪(こうかい)は狡猾と同じ。

人天すべての父の神、彼女に答えて宣しいう、
『ヘーラー、汝一切のわが計らいを知るをえず。  545
汝天王の妻なれどこの事汝に許されず。
知るべき事はいやさきに天上および人間の
あらゆる者に先立ちて聞く光栄は汝の身。
神々ひとしくほかにしてわれが望める計らいは、
汝もこれを探りえず、汝の問うを許されじ』  1-550

そのとき牛王(ぎゅおう)[1]の目を持てるヘーラー答えて彼にいう、
『天威かしこきクロニデー[2]、おおせ何たる玉音ぞ?
われ究明の度を越して汝を探りしことあらず。
悠然として君ひとり好めるままに計らえり。
今ただ恐る、年老いし海王生める銀色の  555
足のテティスに謀られて、神慮あるいは誤るを。
王座のもとに今朝はやく彼女が御膝を抱だきしを
見たり。思うにアキレウスあがめて、さらにアカイアの
武人を船のかたわらに倒さん約の整うか』

[1]「牛王」は単に牛と同じ。
[2]クロニデース(クロノスの子)の呼格。

雷雲寄するクロニオン、彼女に答えて宣しいう、  1-560
『奇怪の汝、疑いを常に抱きて見逃さぬ、
かち得るところただ単にわれの不興を増すのみぞ。
はては難儀の激しきを汝の上に招くのみ。
かの事よしまたありとせば、我の心にかなえばぞ、
口を閉ざして席に着き、わが命令を重んぜよ。  565
ウーリュンポスの群神の数はた如何(いか)に多くとも、
無敵のわが手打たん時、汝を救うものなけむ』

しか宣すれば牛王(ぎゅうおう)の目あるヘーラー畏怖に満ち、
胸を抑えて黙然と戻りておのが座に着けば、
ゼウスの宮に天上の諸神ひとしく悲しめり。  570
ヘーパイストス、すぐれたる神工(しんこう)、そのとき彼の慈母
玉腕白きヘーラーを慰め皆に陳じいう、

『下界の人のゆえをもて、神明二位の争いて、
天上諸神のただなかに騒ぎ起りて可ならんや。
その事まことに痛むべく、ついに耐うべきものならず。  575
御宴の娯楽絶え果てて、災いこれに代わるべし。
神母自ら悟らんも我はいさめてかく言わむ、
「慈愛の父の大神にせつに和らぎ求めよ」と。
さなくば再び彼怒り諸神の宴を妨げむ。
雷霆飛ばす大神の威力だれかは敵すべき。  580
怒らば天の群神の列座ひとしく倒されむ。
いま願わくは温厚な言葉に彼をやわらげよ。
ただちに聖山一の神われらに慈愛をほどこさん』

しかく陳じて身を起し二柄(にへい)の盃(はい)をとりあげて、
愛する母の手に捧げ、再び言を継ぎていう、  585
『不満は如何に激しくも胸をさすりて耐えおわせ。
君こらしめを被るを、わが目いかでか忍び見む。
憤激わが血あおるとも、威力誰しもおよびなき、
雷霆の神敵として君を助けんこと難し。
むかし助けを心せし我を天の敷居より、  1-590
踵(かかと)によりて引きつかみ投げ飛ばせしは彼のわざ。
終日空を飛ばされて沈む夕陽(ゆうよう)もろともに、
息絶えだえにさかさまに落ち来し郷はレームノス。
シンティーエスの人々の温情により助かりぬ』1-594

かく陳ずるを腕白きヘーラー聞きて微笑みつ、  595
笑みてその子の捧げたる二柄の盃を手にとりぬ。
つづきて天の霊液を諸神おのおの手に取れる
酒盃に注ぎ、殿中をヘーパイストスめぐり行く。
そのあしらいに慶福の諸神ひとしくほほえみつ、
のどけさ尽きぬ笑声は歓喜あふるる宮のなか。  1-600

かくて終日夕陽のくだり沈むにいたるまで、
御宴をつづけ、群神の心に充たぬものもなし。
神アポローンの手に取れる瑶琴(ようきん)の音またひびき、
歌の女神のよどみなき微妙の声もつぎつぎに。
かくて落日光耀の光のなごり消え去れば、  605
諸神各々その宮に着きてやすらい眠るべく、
ヘーパイストス跛行(はこう)神、巧みの技に天上の 1-607
神おのおのに築きたる王殿さして帰り行く。
はた聖山の雷霆の天威かしこきクロニオン、
甘眠来りおそう時、いこい慣れたる床の上  610
登りて眠る——黄金の王座のヘーラーかたわらに[1]。

[1]第一巻中に本詩中のもっとも重大なる配役者(神も人も)が読者の前に現出す。人間中にアガメムノーン、アキレウス、ネストール、パトロクロス、神々中にはゼウス、ヘーラー、アテーネー。第三巻に到ってトロイア側の人と神とが現わる。ヘクトール、パリス、プリアモス、——女神アプロディーテーおよび全局の中心ヘレネー。


イーリアス : 第二巻



 大神ゼウス計りて夢の神をアガメムノンに遣わす。夢の神、王の枕上に立ち、いつわりてトロイア落城の近きを告ぐ。王立ちて諸将軍を召集す。つぎに軍隊を集め、これを試さんために、帰陣を命ず。軍隊の擾乱(じょうらん)。女神アテーネーこれを憂い、来りてオデュッセウスに命じ、その擾乱を鎮せしむ。オデュッセウス諸軍に勧告す。テルシテース罵詈(ばり)の言を放ってアガメムノンを責む。オデュッセウスこれをこらす。また兵士らを励まして戦いを続けしむ。ネストールこれを賛す。犠牲を供え神を祭りて戦勝を祈る。アカイア軍の勢ぞろい。戦役参加の諸将およびその船数。トロイア軍集まる。その勢ぞろい。

諸神ならびに諸将らの終夜の休みよそにして、
クロニーオーン・ゼウスの目、甘き眠り[1]に捕われず。
胸に計略たくらみつ、アキッレウスに栄えあらせ、
アカイア族の船のそば多くを倒さんすべ思う。
思いこらして元帥のアガメムノーンの陣営に  2-5
欺瞞の「夢」を送るべくはかりて自らよしとなし、
すなわち神を呼び出だし、飛翔の言を宣しいう、

[1]第一巻の終わりと矛盾すれど、その矛盾はさまで重大ならず(リーフ)。

『欺瞞の夢よ、アカイアの水軍めがけ飛び行きて、
アトレイデース——元帥のアガメムノーンの営に入り、
まさしく我の命のまま述べよ。戦備を髪長き[1]  2-10
アカイア人に迅速になさしむるべく彼に言え、
「トロイア人の街広き都城この日に陥らむ、
ウーリュンポスの山上の群神いまは争わず、
女神ヘーラーねんごろに願い、諸神の心曲げ、
ために悲惨の運命はトロイア人にかかりぬ」と』  15

[1]アカイア人の長髪はただに飾りのみならず、自由の記号(アリストテレスの『弁論術』一巻九章1367a30、またクセノポンの『ラケダイモン人の国制』十一章三節)。

しか宣すれば夢の神その厳命をかしこみて、
アカイア人の軽船の陣にいそぎて走り来つ、
やがてつづきて元帥のアガメムノーンをおとずれつ、
陣営のなか、かんばしき甘き眠りの王を見つ、
すなわち彼の枕上に立ち、ネストール(大王の  20
尊敬もっとも厚うするネーレウスの子ネストール)
その影[1]取りて夢の神、彼に向かいて宣しいう、

[1]この「影」は姿のこと。光を意味することあり。

『軍馬を御する勇猛のアトレウスの子たる者!
眠るや?汝王者の身、民の信頼あるところ。
心に大事を思う者、あによもすがら眠らめや!  25
いますみやかに我に聞け。遠く離れて思いやる
クロニオーンは憐れみて、我を汝に遣わせり。
その命受けて長髪のアカイア軍に迅速に
戦備せしめよ。街広きトロイア今日ぞ滅ぶべき。
女神ヘーラーねんごろに求め、諸神の意を曲げつ、 30
ウーリュンポスの山上の群神いまは争わず、
苦難はゼウスの手よりしてトロイア人にいま掛かる、
汝心にこれを記せ。甘美さながら蜜に似る
眠りなんじを去らん時、わがいうところ忘るるな』。

しかく陳じて神は去る。のちに王者は胸のなか、  35
成就すべくはあらぬ業、プリアモス守るトロイアを、
その日のうちに奪うべく愚かの心もくろみつ。
トロイアならびにアカイアの民にひとしく叫喚を、
苦難を来す戦争の猛きをゼウス・クロニオン、
心ひそかに計らえる。その計略を悟りえず、  40
眠り覚ませる大王の耳に神秘の声は鳴る。
アトレイデスは身を起し、新たに成れる麗しき
衣をまとい、戦袍(せんぽう)の広きを上にうちはおり、
光沢なめらの双脚にいみじき戦靴穿(うが)[1]ちなし、
銀鋲うてる長剣を肩に斜めに投げ掛けつ、  45
父祖相伝のいかめしき王笏手にし、青銅の
胸甲うがつアカイアの陣中さして出でて行く。

[1]「穿つ」(うがつ)は「掘る」のほかに「身にまとう」の意で使われる。

見よ、いま聖(きよ)きエーオース[1]、ウーリュンポスに向かい行き、
ゼウスならびに群神に光を伝う。こなたには
アトレイデース音声のほがらの諸使に令下し、  2-50
毛髪長きアカイアの兵を集議に招かしむ。
諸使その令を伝うれば人々早く寄せ来る。
かくてすぐれし元老[2]の集議まさきに行わる。 2-53
ピュロスの王者ネストルの船のめぐりに行わる。
かく元老を集め得て大王賢き[3]策をいう、  55

[1]明けの女神。
[2]一般に当時ギリシアの社会は三階級より成れり、王、元老、平民。
[3]反語的か。

『諸友願わく我に聞け。尊き夢の神、夜半(よわ)に
眠りのなかに現われぬ。その風貌はさながらに、
その身の丈に到るまで、みなネストール見るごとし。
わが枕上に立ちどまり、我に向かいて彼はいう、
「軍馬を御する勇猛のアトレウスの子たる者、  60
眠るや、汝王者の身、民の信頼するところ。
心に大事思うもの、あによもすがら眠らんや。
今すみやかにわれに聞け。遠くはなれて思いやる
クロニオーンは憐れみて、われを汝に遣わせり。
その命受けて髪長きアカイア人をすみやかに  65
準備せしめよ、街広きトロイア今日ぞ滅ぶべき。
女神ヘーラーねんごろに求めて皆の意を曲げつ、
ウーリュンポスの聖山の群神いまは争わず、
災いゼウスの手よりしてトロイア人にいま下る。
汝こころにこれを記せ」。しかく陳じて夢の神、  70
飛び去り行きて、甘眠は再び我におとずれず。
さらばアカイア全軍に戦備せしめん、よからずや。
我まず初め全軍を試さむ[1](正し、かくなすは)。
すなわち船を装いて国に帰れと勧めみん。
すなわち諸友、部を分かち、勧めて彼ら引きとめよ』  75

[1]はなはだ当をえず。またのちに諸友が兵を引きとむる事なし。

しかく宣して座に返る。つづきて皆の前に立つ、
ピュロス砂岸の一帯を領しおさむるネストール。
計量密に参列の将に向かいて陳じいう、
『ああアルゴスの諸君、王およびわが友、諸将軍[1]、
いま聞くところ、この夢を他のアカイアが見しとせば、  80
欺瞞となして信頼をこれにおくべき由あらじ。
されども見しはアカイアの至高と自ら誇る者。
いざさはアカイア軍勢につとめて戦備なさしめよ』

[1]ネストールの演説極めて弱し、アリスタルコスはまったくこれを省く。

しかく陳じて集会の席をまさきに辞し去れば、
つづいて王笏もてる者、同じく立ちて全軍の  85
王者の命に従えり。——今、軍勢は寄せ来る。
似たりあたかも岩石のすきより絶えず新しく
陸続としてくり出だす密集無数の蜂の群、
群がり寄せて陽春の花をめぐりて飛び翔けり、
ここにあるいはまたそこに紛々として乱るごと。  90
かく百千の軍勢は兵船ならびに陣営を
出でて隊伍を順々に大海原の岸の上、
集会めがけ押し寄する——なかにゼウスの使いたる
オッサ[1]姿を燦爛(さんらん)と照らして軍を追い進む。
かくして寄する集会の騒ぎ激しく大地ゆる。  95

[1]流言報告等を人化す。

その擾々(じょうじょう)のただなかに立てる九人の伝令使、
朗々の声、軍に呼び、騒ぎを制し、神明の
命を奉ずる列王の宣言聞けと命下す。
かくてようやく座に着きて全軍席を占め終わり、
叫喚やめば、そのなかにアガメムノーン立ちあがる。  2-100
その手に握る王笏はヘーパイストス鋳たるもの。2-101
ヘーパイストスの手よりこを受けしは天王クロニオン。
天王これをアルゴス[1]をほふれる使者のヘルメース、
彼に譲ればヘルメース悍馬(かんば)を御するペロプス[2]に、
ペロプスこれを継がせしは民を治むるアトレウス、  105
そのアトレウス臨終にテュエステースに。また次いで、
アルゴス[3]および列島をこの笏取りて治めよと、
テュエステースはその順にアガメムノーンの手に譲る。
その王笏に身をもたせ王はあまねく兵にいう、

[1]アルゴスは百眼の怪物、しかして都市アルゴスの建設者。ヘルメースはアルゲイボンテースと呼ばる。されどある説によればこの句は「すみやかに走るもの」を意味す。詳細はザイラーのホメロス辞典(E. E.SEILER : Vollständiges Wörterbuch über die Gedichte des Homeros und der Homeriden)を見よ。
[2]系統左のごとし。

                     
           ┌テュエステース─アイギストス
タンタロス―ペロプス│
          │
          │      ┌アガメムノーン
          └アトレウス─│
                 └メネラオス

[3]この場合にアルゴスはギリシア全土の称。

『友よ、ダナオイ諸勇士よ、神アレースの部将らよ。  110
見よ、クロニオン、迷妄の罠にて我を縛せしむ。2-111
イリオン城を覆えし、勝利し国に帰るべく
さきに応護の誓いもてクロニオーンの約せしは、
ひどき欺瞞をたくらめり。多くの兵を失える 
我はむなしくアルゴスに誉れなくして帰るべし。 115
神慮まさしくかかりけり。威霊かしこき天王は
幾多の都市の城壁をすでに地上にうち崩し、
この後つづきて崩すべし。彼の神威は物すごし。
思え、アカイヤ諸民族、この大軍を擁し得て、
ただに無効の戦伐を事とし、数の劣りたる  120
敵軍まえに相向かい何らの功も挙げ得ざる。
このこと子孫聞き知らば、思え、何たる恥辱ぞや。
もしトロイアとアカイアと両軍互いに休戦の、
確かな誓い取りかわし、おのおの勢を数えんか。
トロイア国内一切の族ことごとく寄り来り、  125
われアカイヤ総兵は十人おのおの群をなし、
その群おのおの飲宴の給仕たるべくトロイアの
一人づつを採るとせば、トロイアの数なお足らず。
アカイア人の数ゆうに城内すめるトロイアの
数をしのぐはかくばかり。さもあれ幾多の城市より、  130
長槍ふるう勇士たち来りて、彼の応援に
勢い猛くわれ防ぎ、壮麗堅固のイーリオン、
その城破り砕くべきわれの希望をうち絶やす。
天の照覧するところ星霜九年過ぎ去りて、
今わが船の材は朽(く)ち、縄は腐りぬ。かくてわが  135
故郷に遠く恩愛の妻子淋しく日を送り、
われを待ちつつあるべきを、しかもわが軍遠征の
目途となりし業とおくたやすく成就すべからず。
いざ今われのいうごとく皆いっせいに受け入れよ。
いざいま兵士ら、船に乗り、愛の故郷に帰り去れ。  140
街路の広きトロイアはついに陥落の時あらず』

宣言かくて、そのはじめ集議の席にあらざりし
群集すべての胸のなか、その心肝(しんかん)をかきみだす。
天王ゼウスの黒雲のなかより飛べる東風と
また南風のあおり打つびょうびょうの海イカリオス[1]、  145
その激浪の立つごとく、群衆ひとしく乱れ立つ。
あるいは西風寄り来り勢い猛く飄々(ひょうひょう)と
無辺の麦浪みだす時、穂のいっせいに伏すごとく、
群衆ひとしく乱れ立ち、すなわち歓呼の声を上げ、
水陣めがけ駆け出せば、脚下に塵(ちり)は朦々(もうもう)と  2-150
乱れて空に舞いのぼる。おのおの互いに勇み合い、
船をおろして大海に浮ばしめよとののしりつ、
船渠(せんきょ)[2]むなしく残されて、帰郷を急ぐ叫喚は
天にのぼりぬ、船舶を支えし材は払われぬ。

[1]正しくいわばイーカリオス。ダイダロスの子イーカロス、人工のつばさを付けて天にのぼる、しかして誤りて落下し海に沈む。これよりイーカリア海と呼ばる。バートランド・ラッセル先年"Icarus or the Future of Science"を著し、道義をともなわざる物質文明の没落を諷す。
[2]「船渠」はドックのこと。

そのときヘーラー声あげてアテーナイエー呼ばざれば、  155
その運命の定め超え、彼ら帰国を遂げつらむ。

『アイギス持てるゼウスの子、アトリュートーネー[1]、ああ見ずや!
かくアルゴスの諸軍勢、祖先の宿にあこがれて、
びょうびょうの海うち渡り故郷に帰り去らんとや!
かくして彼らプリアモスまたトロイアに戦勝の  160
誉れならびにアルゴスのヘレネー残し去るべきや?
ああこの女性のゆえを以てアカイア人の幾万は、
遠く故郷をはなれ来てトロイアの地に倒れしを!
なんじいま行け、胸甲のアカイア人を巧辞もて、
とどめよ、船の激浪をおどり進むを押し止めよ』  165

[1]アトリュートーネーは倦まざるもの、制すべからざる者を意味す(リーフ)。アテーネーに対する常用形容句。アートリュートーネー、またはアトリュートーネー(Brasse's GreekGradus)。

藍光の目のアテーネー、その宣命にしたがいて、
ウーリュンポスの頂きを飛ぶがごとくに駆けくだり、
こつ然としてアカイアの軽船の陣訪い来り、
聡明さながら神に似るオデュッセウスの立つを見る。
将軍心に魂にかつ憤りかつ悶え、  170
漕ぎ座あまたの黒船にいまだその手を触れざりき。
藍光の目のアテーネー近寄り来り宣しいう、

『ラーエルティアデー、神の裔(すえ)、知謀に富めるオデュセウ[1]よ、
漕ぎ座あまたの船に乗り、汝らかくも憧憬の
地なる祖先の恩愛の宿をめざして去らんとや?175
汝らかくてプリアモスまたトロイアに戦勝の
誉れならびにアルゴスのヘレネー捨つや?そのために、
アカイア族の幾万は国を離れてトロイアの
さとに逝けるを!いざ立ちて彼らに向かえ、ためらいそ。
なんじ巧みの言により、兵のおのおの押しとめよ。  180
波浪を越してその船のおどり進むをいましめよ』

[1]ともに呼格。オデュセウスはラーエルテースの子すなわちラーエルティアデースなり。

かくと陳ずるアテーネー、その忠言を聞き悟り、
将軍いそぎ駆け出だす。その脱ぎすてし戦袍は
従者(ずさ)イタケーの伝令者エウリュバテース[1]運び行く。
かくて走りて総帥のアガメムノーンの前に行き、  185
相伝不朽(ふきゅう)の王笏[2]を彼より借りてたずさえて、
青銅よろうアカイアの水陣指して駆け出す。
かくして進むオデュセウス、列王あるいは将帥(しょうすい)[3]の
一人に会えば引きとどめ、言句巧みに説きていう、

[1]1-321は同名異人。
[2]2-101以下にいうところの笏。
[3]「将帥」は将軍のこと。

『豪勇の士よ、卑怯者ごとくおののくことなかれ。  190
なんじ自ら腰をすえ他の将卒を座せしめよ。
アトレイデースの秘意いまだ君明らかに悟りえず。
かれ軍の士気試すのみ、やがて彼らをこらしめん。
集議の席に述べしこと、すべての人は聞かざるや。
彼の憤激あるところ、アカイアの子に害あらん。  195
神の寵する大王の怒りまことに恐るべし。
彼の栄光神に出で、神の愛護は彼に垂る』

あるいは卒伍のひくき者ののしり呼ぶに出で会えば、
王笏振ってこれを打ち、おどし叱りて宣しいう、

『友よ、みだりに動かざれ。まさる他人のいうところ、  2-200
聞かずや!汝戦いに適せず力弱くして、
集議あるいは戦闘の場(にわ)に何らの効もなし。
アカイア人の各人がここに統治を行わず。
多数の統治よしとせず。クロニオーンの選び上げ、
他の一切を治せんため、笏と律とを付する者、  205
その者ひとり主たるべし、その者ひとり王たらむ』

かくかれ至上の威をふるい、陣中めぐり令すれば、
兵士らすなわち水陣と陸営とより叫び出で、
集議の席に押し寄する。似たり、高鳴る蒼溟(そうめい)[1]の
狂瀾(きょうらん)[2]、岸の岩うちて怒潮うづまき吠ゆるさま。  210
かくて兵士らことごとくおのおの席に帰り着く。
テルシテース[3]はただ一人なお叫喚の声やめず。
胸に無尽の迷妄の思いたくわえ、列王に
みだりに抗し争いて、首尾整わぬ乱言に、
ただにアルゴス兵士らの笑い起すを喜べる。  215
かれイリオンに寄せ来る軍中もっとも醜悪の
姿持つ者。斜視にして、一脚他より短かかり。
左右の肩はそびえ立ち胸に向かいて迫り来つ、
頭頂光りてまばらなる毛髪これが上に生う。
アキッレウスとオデュセウス、彼の誹謗の的なれば、  2-220
彼をもっとも憎しめり。今はた彼の悪態は
アガメムノンに向かい来る。兵士らこれを顧みて
胸に瞋恚の炎燃え、憤激彼に甚だし。
彼はすなわち大音に叫びて王を責めていう、

[1]「蒼溟」は青い海のこと。
[2]「狂瀾」は荒れ狂う大波のこと。
[3]この人物はまたソポクレースの作『ピロクテーテース』442にあり。彼に関して奇異の伝説あり。すなわち彼はホメーロスの後見人。しかして彼の産を奪えるがゆえに詩人はその不朽の詩において彼に復讐すと。また第二の伝説、カリュドーンのイノシシ狩りにおいて、メレアーグロスは彼を絶崖より落して不具者たらしむ云々。イノシシ狩りは9-543に見る。

『アトレイデーよ!今さらに何の不足ぞ?欲求ぞ?  225
陣営のなか、青銅(からかね)は君に余れり。アカイアの
軍勢敵をほふる時、まさきに君に捧げたる
佳人の数も陣営のなかに不足はあらざらん。
あるいは我かアカイアのほかの勇士に捕われし、
駿馬(しゅんめ)を御するトロイアの子のつぐないに、イリオンの  230
城より取りて来るべき黄金(こがね)を君は欲するや?
はた妙齢の婦女をえて、かたえ人なき密房に
愛にふけるを望めるや?ああ全軍の将として
アカイア族を災厄に導き入れてよからむや!
ああ腑抜け者、恥しらず。男子にあらず女なり。  235
さもあれ我は船に乗り、故郷に去りて、彼をして
トロイアにあと留まりて一人戦利に飽かしめむ。
しからば、我の要あるや、しからざるやを彼知らむ。
彼にまされる豪勇のアキッレウスを辱め、
その得し戦利その手より強奪なして身に収む。  240
さはれ呑気なアキレウス、胸裏に怒りのあともなし。
アトレイデーよ、さもなくば君の非法はいま最後!』2-242

アガメムノーン総帥に、かかる毒舌あびせたる
テルシテースのかたわらに、ただちに寄するオデュセウス。
将軍彼をにらまえて憤然として叫びいう、  245

『テルシタ[1]、汝乱言者。弁はまことに雄なるも、
黙せよ。汝、列王にひとり口論するなかれ。
アトレイデスともろともにトロイア寄せし兵のなか、
汝にまさる卑劣漢われは知らずとあえていう。
汝集会に口開き諸王を誹謗するなかれ。
彼らに無礼いうなかれ、帰郷を語ることなかれ。  2-250
戦役何たる形とる、考量いまだおよびえず。
アカイア族の凱旋の可否はいまだに計られず。
アトレイデース民の王アガメムノンに悪言し
彼にダナオイ諸将軍、献ずるところ多しとて、  255
そのため汝人々の前に誹謗の言放つ、
さはれ汝にいま宣す、宣するところきと成らむ。
今なすごとく乱言を吐くこと汝やまざらば、
我は汝を捕縛して服装すべて剥ぎ取らむ。
汝の恥をおおうとこ上着も下着も剥ぎ取らむ。  260
かくて汝を辱かしめ、鞭に懲らして集会の
席よりかなた軽船の陣に吠え泣き去らしめむ。
我もしこれをよくせずば肩のへ頭いただかじ、
テーレマコス[2]の父と身をこの後またと呼ばざらむ』

[1]呼格。
[2]オデュッセウスの愛児。——長男の名を一種の名誉の称号とすること他に例あり(リーフ)。

しかく宣して彼の肩、背にうちおろす笏の鞭。  265
彼はすなわち身をかがめ、涙激しくあふれ落ち、
見よ、金笏のうちおろす肩は血にしむ傷の跡。
テルシテースはおののきて苦痛激しく、ぼう然と
あたり見回し、流れくる涙ひそかに押し拭う。
兵士らこれを眺めやり、戸惑いあれど快然と  270
笑みておのおのかたわらに座れる者に向かいいう、

『ああオデュセウス、聡明の意見集議の端開き、
あるいは敵と闘いて百千の功たて来る。
されども今し傲慢の彼を集議の座より追い、
アルゴス軍に勲功の至上のものをもたらしぬ。  275
驕慢彼を促して、さらにみだりに罵詈の言、
放ちてまたと列王を侮ることはよくし得じ』

兵はかくいう、こなたには都市の破壊者オデュセウス、
金笏持ちて立ちあがる。そばに女神のアテーネー、
伝令使者の姿取り、沈黙せよと人々に  280
宣(の)る。『アカイオイ、高きものまた低きものいっせいに
彼の言句に耳を貸し、彼の意見を顧慮せよ』と。
将軍すなわちその見(けん)を錬りつつ皆に宣しいう、

『アトレイデーよ、今にしてアカイアの子ら万人の
なかでも君を最大の誹謗のまとになさんとす、  285
駿馬産するアルゴスを立ち出でし時、全軍の
誓い「トロイア堅城の破却ののちの凱旋」と 2-287
等しくともに大王に約せし言を果たさずに。
まさに幼児のなすごとく、あるいは寡婦のわざに似て、
兵士らおのおの懐郷の嘆きに堪えず悲しめり。  290
辛酸いたくなめしのち、誰か帰郷をつとめざる?
一月だにも最愛の妻に、故郷に別れ来て、
激浪および厳冬の嵐に悩む船のなか、
留まる者は寂寞(せきばく)の思いに堪えず悲しまん。
まして春秋九度(ここのたび)、わが軍ここに着きてより、  295
移る。むべなり、兵士らが船のかたわら苛立つは
とがむべからじ。しかれども逗留の日の長くして、
功なくむなしく帰らんは何たる恥辱!いざや友!
しばらく忍び留まりて究め知らんと欲せずや?
占い説きしカルカース、当るやあるいは非なるやを。  2-300

この事[1]われら胸中にみなことごとく銘じ知る、
死の運命を免れし諸将、はたまた証(あかし)たり、
事ただ昨日と見るばかり、アカイア軍はアウリス[1]に
集まり、害をイリオンとプリアモスとに謀る時、
泉のほとり神聖の壇を設けて列神に  305
いみじき犠牲たてまつり、清冽の水ほとばしる
かたえ葉広きプラタンの樹の下、皆の立てる時、
大なる奇跡現われき。大神ゼウスのつかわせる、
背は血紅(くれない)の恐るべき蛇現われて聖壇の
下より這い出で、プラタンの梢(こずえ)めがけてはい上がる。  310

[1]カルカスのアウリスでの占いのこと。

その最上の枝のうえ、広き緑葉繁るかげ、
まだ声立てぬ可憐(かれん)なる子雀(すずめ)八羽ひそみ居つ、
これらを生める母鳥と合わせて九羽を数うるを
木登る悪蛇すすみ寄り、悲鳴の子らを飲み去りぬ。
母鳥しきりに悲鳴して愛児のまわり翔け飛ぶを  315
悪蛇這い寄りそのつばさ無残に巻きてつかまえぬ。
されどその蛇母と子と九羽の鳥みな飲みし時、
蛇つかわしし神霊は奇跡をここにあらわしぬ。
神意微妙のクロニオン、悪蛇を化して石としぬ。
これを眺めし人々は、身じろぎもせずぼうと立つ。  320
牲の祭のなかにして神の降せるこの不思議
起るを見たるカルカース、未来を悟り皆にいう、
「ああ長髪のアカイオイ、何ゆえ黙したたずむや?
クロニオーンはおおいなる奇跡を我に遣わせり、
事の成就は遅くとも、成りて栄光朽ちざらむ。  325
悪蛇はひなとその母と合わせて九羽の鳥飲みぬ、
数は同じき九春秋、戦闘ここに続くべく、
暦数十たび移るとき広き街路のイリオンの
堅城ついに破られて、わが軍の手に落ちぬべし」
しか宣したる彼の言、今はまさしく成らんとす。  330
敵の堅城イーリオンわが手のなかに落つるまで、
陣営ここに張らしめよ、わが堅甲のアカイオイ!』

[1]トロイアに向かう諸軍船の集合点。

その言聞きてアルゴスの兵士ひとしく歓呼しつ、
歓呼の声に水軍のほとりあまねく震動し、
みな英豪のオデュセウス述べしところを賛美しぬ。  335
ゲレーニア騎士ネストール、そのとき皆に宣しいう、

『ああ痛むべし。集会の席に汝らいうところ、
心に軍事とどめざる幼稚の輩にさも似たり。
さきに結びし約束と誓い[1]いずこに今ありや?

[1]ヘレネーの奪取を報復せずばトロイアより帰らずとの誓い。

『会議と男子の計らいと神に捧げし生の酒と  340
信をつなげる握手とはすべて煙と消ゆべきや?2-341
長時にわたり、ここにある皆はむなしくいたずらに
口論にふけり方策のよろしきものを見出(みい)だせず。
アトレイデーよ、先のごと、今も不撓(ふとう)の意気により、
奮戦苦闘のただなかにアルゴス軍に令下せ。  345
全軍のなか一二の徒、説異(こと)にして雷霆の
ゼウスの約の真否まだ知れざる前にアルゴスに
帰らんずる者ありとせば(彼らの願いは成らざらむ)
その意にまかせ、彼をしてその運命に就かしめよ。
聞かずや昔、イリオンに流血破滅を加うべく、  2-350
アルゴス兵らいっせいにその船舶に乗りし時、
神威無上のクロニオン、我の願いを納受しつ、
右手(めて)に電光閃(ひらめ)かし[1]、良き前兆を現わしき。

[1]右に現わるるは吉兆。

『かくなればこそ、イリオンの女子を奪いてかしずかせ、
かのヘレネーの嘆息と悩みを報い終らずば[1]、  355
そのまえ汝ふるさとへ帰郷を急ぐべからざり。
されども国に帰るべき願い切なる者あらば、
漕ぎ座いみじき黒船に彼の手をして触れしめよ。
他に先んじて凶運と死とにその者出で会わむ。
されば大王心してこれよりほかの説を聞け。  360
わがいうところ、いたずらに汝捨つべきものならず。
大王、今わが軍勢を種族部族により分けて、
部族互いに相救い、種族互いに助けよと。
命下る時アカイアの兵みなこれに従わば、
諸将ならびに諸兵士の勇怯(ゆうきょう)なんじ悟り得ん、  365
人々おのおのその族のために戦うものなれば。
また敵城の落ちざるは神意によるや、あるは他に
諸軍の懈怠(けたい)、戦闘の拙によるやをわきまえむ』

[1]すこぶる不明、——このままならばヘレネーの逃亡は暴力によりやむを得ざりしこととなる。アリスタルコスは「ヘレネーの」にあらず「ヘレネーのために国人の」嘆息と解す(リーフ)。

彼に答えて権勢のアガメムノーン宣しいう、
『ああおじ、集議にアカイアの子らをはるかに君しのぐ。  370
ああ今われにクロニオンまたアテーネー、アポロン[1]の
給う参与の十人の君に似るものあらましを。
さらばただちにプリアモス彼の堅城おちいりて
わが軍勢の手のなかに奪われ破壊さるべきを。
さるを天王クロニオン、口論(くろん)と無用の争いに  375
われを投じてこれがため苦難を我にくだらしむ。
ただに少女のゆえをもて、ああ我ならびにアキレウス
口論はげしく戦いつ、しかも我まず怒りしよ。
両者再び一心に結ばば敵のトロイアに
猶予あらせず災いは必ず近く来るべし。  380
さもあれいまは戦闘の備えのために食につけ。
おのおの鋭く槍磨け、おのおの盾を整えよ。
おのおの糧を駿足[2]の群に与えて飽かしめよ。
おのおの戦闘こころして隈なく兵車検し見よ、
夕陽沈み入らんまで奮戦苦闘なさんため。  385
暗夜到りて両軍の勇みを別つことなくば、
またたく隙(すき)も戦闘を中止することあらざらん。
かくしておのおの胸のうえ身おおう盾の革ひもは
汗にまみれむ。長槍をふるう堅腕倦み果てん。
閃めく兵車ひく馬も淋漓(りんり)の汗に苦しまむ。  390
はた曲頸の船のそば、戦いよそに遠ざかり
残りて、わが目に触れん者、彼あに鷙鳥(しちょう)[3]の餌となり
野犬の腹を肥やすべき無残の運をのがれんや?』

[1]切なる祈願の時これら三神の名を呼ぶ、4-288、16-97にも。
[2]「駿足」とは馬のこと。 [3]鷙鳥(しちょう)はワシやタカのこと。
しか宣すればアルゴスの軍いっせいにどよめきぬ。
そをたとうれば、絶壁のほとりの波を南風の  395
襲いて駆りて、そばだてる奇岩(きがん)めがけて打つごとし。
嵐の向きに関わらず、巌(いわお)は常に波ひたる。
兵たちかくて身を起し、陣地のなかに駆け走り、
陣に火煙を吹き上げて糧食ひとしく喫し去り、
やがて応護の神霊に人々おのおの牲を上げ、  2-400
非命の戦死、悪戦の苦悩の救い祈り請う。
アガメムノーン大王は牲に五歳の肥えし牛、2-402
天威至上のクロニオン・ゼウスの前にたてまつり、
式にアカイア族中の宿老将士呼びあつむ。
初め来るはネストール、王イードメネーこれに次ぐ、  405
次ぐは二人のアイアース、同じくあとに続き来る
ディオメーデース、第六は聡明理智のオデュセウス、
さらに大音メネラオス自ら来る。その兄の
胸中の感、悟り得て、招かれなくに来り訪う。
かくて犠牲の牛囲み、聖麦[1]握る人のなか、  410
アガメムノーン、権勢の王は声あげ祈りいう

[1]1-449参照。

『虚空に位し、雲わかす栄光至上のクロニデー[1]!
イリオン城の宮殿を黒煙の中くつがえし、
その城門をことごとく猛火の炎にうちくずし、
勇将ヘクトル胸に着る甲を鋭刃(えいじん)つんざきて、  415
彼のまわりに同僚の一団ひとしく倒れしめ、
ちり噛ましめん。そのまえに神願わくは許さざれ、
光輪[2]西に落ち行くを、大地に闇のふり来るを』

[1]クロニーオーンの呼格。牲を供え神を祭る同様の儀式は詩経大雅の早麓編にあり。「清酒すでに載せ、騂牡(せいぼう)すでに備わり、もって享(きょう)し、もって祀(まつ)り、もって景福を介(まこと)にす」
[2]「光輪」は太陽のこと。

クロニオーンはその祈願いまだ許さず。その牲を
納受なせども、辛労を王に対して増し加う。  420
皆は祈祷を上ぐるのち、やがて聖麦振りまきつ[1]、
犠牲の首を仰向かせ、ほふりてこれの皮を剥ぎ、
つづきてもも肉[2]切り取りて二重の脂肪におおわしめ、
四肢より切りし精肉をさらにその上重ね載せ、
葉を捨てさりし樹の枝を集め燃やしてこれを焼き、  425
ついで臓腑を串にして火上にかざしあぶり焼く。
つぎにもも肉の焼けしのち、臓腑試み喫するのち、
残れるところことごとく細かに裂きて串に刺し、
用意もれなく焼きあぶり、あぶりて火より取り出だし、
かくして準備終わる時、酒宴の席を整えて、  430
人々ともにここに座し、みないっせいに飽き足りぬ。
かくして宴飲了しはて食欲おのおの満てる時、
ゲレーニア騎将ネストール、陣中立ちて宣しいう、

[1]1-449とほぼ同じ。
[2]ももの肉は最上。

『アトレイデーよ、栄光のアガメムノンよ、思い見よ、
言論討議すでに足る。神明命じ皆の手に  435
託せる業を長らくもまたと延引さすべきや?
いざ伝令の使者をして青銅よろうアカイアの
兵、水陣に集むべく声ほがらかに宣らしめよ。
われまたともに連れ立ちてアカイア陣に赴きて
いそぎアレース勇猛のいくさの神を目覚まさむ』  440

その進言に従いてアガメムノーン統帥は、
ただちに音吐(と)朗々の令使[1]に命じ、長髪の
アカイア兵を戦闘にみなことごとく招かしむ。
令使すなわち命伝え、兵迅速につどえ来る。
アトレイデスを取り囲む神寵厚き列王は  445
馳(は)せて隊伍を整うる。なかに藍光の眼を持てる
アトリュートーネー・アテーネー不朽不滅の盾を取る。
盾にこがねの百の房垂れたり。房は精工の
織りはいみじくおのおのの値まさしく百の牛[2]。
この盾取りてアテーネー、アカイア族の陣中を  2-450
縦横激しく駆けめぐり、兵を励まし胸中に
奮戦苦闘の勇ましき思い各々わかしめぬ。
兵こつ然と勇み立ち感じぬ、いくさ甘くして2-453
船に乗じて恩愛の故郷に行くにまされりと。

[1]令使は伝令使を縮む。
[2]6-236にまた「百牛の値」あり。

見よ、山岳の頂きの大森林を焼き立つる  455
猛火荒びて、炎々のほのお遠きに照るごとく、
集まり来る軍勢の武具より燦(さん)と照り返す
光輝は高く空に入り、天に沖(ちゅう)してすさまじき。
たとえば空にとび回る百千万の鳥の群、
ガン、サギ、丹頂、首長き白鵠(はっこく)[1]ひとしく群れ翔けり、  460
広きアジアの草原[2]に、カウストロスの沿岸に
つばさを伸して揚々と、あなたこなたに飛び回り、
嗷々(ごうごう)鳴きており立てば沼沢(しょうたく)ために鳴りひびく
様さながらにアカイアの兵たち陣と海辺より、
スカマンドロスの岸の上、群がり来れば軍勢と  465
軍馬の足のとどろきに大地激しく鳴りとよむ。
かくして春に花と葉と萠えづるごとく百千の
兵士ら並び立ち止まる、スカマンドロスの花の野に。

[1]「白鵠」は白鳥のこと。
[2]このアジアはリディアの一地域。

光うららの春の日の、瓶に牛羊の甘き乳
あふるる頃に、牧童の小屋に粉々飛び回る、  470
無数のハエの密集の群のごとくに、髪長き
アカイア族の軍勢はトロイア軍と相対し、
その覆滅(ふくめつ)を志し平野のなかに立ち並ぶ。
たとえば羊百千の群、牧場に混ずるを、
養い慣るる牧童らたやすく認め知るごとく、  475
諸将おのおのその部下の将兵わかち整えて
戦場さして進ましむ。アガメムノーン[1]、そのなかに
頭と眼とは雷霆の神明ゼウス見るごとし。
腰はアレース、胸もとはポセイドーンのそれに似つ、
百千群がる牧場にすぐれて目だつ牛王の  480
雄々しく列をぬきんずる姿もかくや。陣中に
この日この時百千の勇将中に燦然(さんぜん)と、
アトレイデース、神明の恵みを受けて輝きぬ[2]。483

[1]連合軍の主将として堂々の威を振うアガメムノーン。——本詩のなか他にまたかかる形容なし。
[2]ここから三巻冒頭につながるとヴィラモヴィッツ。

【船のカタログ】ギリシア方

ああオリンポス宮殿のムーサイ[1]今はた我に言え、
汝神明すべてを見すべてを知りて隈あらじ  485
我ただ風聞聞けるのみ。何らも見知ることあらず。
ダナオイ軍勢ひきいたる王侯将帥誰なりや?
アイギス持てるゼウスの子、ウーリュンポスに住む詩神、
イリオンに来し軍勢を我に告ぐるにあらずんば、
我に口舌十あるも、疲れ知らざる声あるも、  490
金銅不壊(ふえ)の意志あるも、かの将兵を名ざすこと、
かの全軍を挙ぐること、あに我いかでよくせんや?
いざ軍船の一切とその将帥をわれ言わん。

[1]歌の女神(英語のミューズ)単数ムーサ、歌神に呼ぶことはこの後時々あり。

ボイオティア族(Boiotoi=ボイオートイ)[1]ひきいるはペーネレオース、レーイトス、2-494
アルケシラオスまたさらにプロトエノルとクロニオス。  2-495
そのあるものはヒュリアー(Hyria)と岩石多きアウリス(Aulis)と、
スコイノス(Schoinus)およびスコーロス(Skolos)、また峰多きエテオノス(Eteonos)、
またテスペイア(Thespeia)、グライアー(Graia)、また原広きミュカレソス(Mykalessus)、2-498
これらを郷に。他はハルマ(Harma)、エイレシオン(Eilesium)とエリュトライ(Erythrai)。
さらに他はまたエレオーン(Eleon)、ヒュレー(Hyle)ならびにペテオーン(Peteon)、  2-500
オーカレアー(Okalea)と堅牢に築きたる都市メデオーン(Medeon)、
エウトレーシス(Eutresis)、コーパイ(Kopai)と鳩の産地のティースベー(Thisbe)。
他はまたさらにコロネイア(Coroneia)、ハリアルトス(Haliartos)の青草地(せいそうち)。
さらに他はまたプラタイア(Plataia)。さらに他の領グリーサス(Glisas)。
さらにその領堅牢にヒュポテーバイ(Hypothebai)を築ける地、  2-505
オンケーストス(Onchestos)、聖なる地、ポセイドーンの美(うま)し森。
さらに他の郷、葡萄の地、アルネー(Arne)およびミーデイア(Mideia)、
聖なるニーサ(Nisa)、極境を占めたる城市アンテドン(Anthedon)。
これらの地より五十艘、兵船来り。船ごとに
ボイオーティア[2]の健児らは乗り込む一百二十人。  2-510

[1]この「船揃い」2-494〜2-877は後世の添加ならむ(リーフ)。評家の意見様々なり。初めにボイオーティアー軍(縮めてボイオティアとす)。
[2]ボイオーティアーは、ここに劈頭にしかももっとも長く説かれしも、のちの巻々におけるその行動は微々たり。またこの船揃い中に録せられたる勇士にしてまったく戦争に加わらざるものあり(リーフ)。

アスプレドーン(Aspledon)、ミニュアイ[1]のオルコメノス(Orchomenos)に住める族。2-511
将はアレース生める二子アスカラポス(ギ)とイアルメノス。2-512
その誕生のゆかり聞け、アゼイオスの子アクトール、
その家(や)にむかし無垢の処女アステュオケーは楼の上
のぼり、軍神アレースとひそかに契り生むところ。  515
三十艘の兵船は彼らをのせてすすみ来ぬ。

[1]ミニュアス人。アルカディアのオルコメノスと区別してこういう。

ポーキス族(Phokees)に将たるはエピストロポス、スケディオス。2-517
二人の父はイーピトス、そのまた父はナウボロス。
彼らの郷はキュパリソス(Cyparissus)、また石多きピュトーン(Pytho)の地、
聖きクリーサ(Krisa)、さらにまたダウリス(Daulis)およびパノペウス(Panopeus)。  520
アネモーレイア(Anemoreia)さらにまたヒュアンポリス(Hyampolis)もその領土。
さらに彼らの住むところ、聖なるケーピソス(Kephisos)の岸。
さらにその領この川の源流に沿うリライア(Lilaia)市。
黒き兵船四十艘、彼らとともにすすみ来ぬ。
二将つとめてポーキスの兵の隊伍を整えて、  525
ボイオーティアーの軍勢の左に接し陣どりぬ。

ロクリス族(Lokroi)に将たるはオイレウスの子アイアース。2-527
テラモニデース・アイアス[1]にその身長をくらぶれば、
はるかに劣り小なるも、槍を取りてはアカイアと
ヘッラス族[2]をしのぐもの、布の胸甲身に着けぬ。  530
ロクリス族の住むところ、キュノス(Kynos)、オポエイス(Opus)、カッリアロス(Calliaros)、2-531
べエッサ(Bessa)およびスカルペー(Skarphe)、さらにいみじきアウゲイアイ(Augeiai)。
ボアグリオス(Boagrius)の川添いに、さらにタルペー(Tarphe)、トロニオン(Thronion)。
彼らの黒き兵船の四十こぞりてアイアスに
付きて聖なるエウボイア島の彼方(おち)よりすすみ来ぬ。  

[1]アキレウスに次げる猛将軍、2-770を見よ。
[2]ギリシア全体の称としてヘッラスを用いるはホメーロスの詩中ひとりこの一行あるのみ。2-683はその一部の地の名。

闘志激しきアバンテス(ギ)、彼らの領はエウボイア(Euboia)。  2-536
カルキス(Chalkis)およびエイレトリア(Eiretria)、ヒスティアイアー(Histiaia)葡萄の地、
ケリントース(Kerinthos)の港町、さらにディオン(Dium)の高き都市。
さらにその領カリュストス(Karystos)。さらにその郷ステュラ(Styra)の地。
エレペーノール(その父はカルコードーン)、アレースを  2-540
祖先となして勇猛のアバンテス族導きぬ。
その足速きアバンテス、髪をうしろに振り乱し[1]、2-542
敵の胸甲くだくべく長槍激しくくり出し、
彼に従い奮闘の勇気激しく続き来ぬ。
黒き兵船四十艘彼につづきていっせいに。  545

[1]うしろに髪を乱す——おそらく頭の前面をそりしか。トラーケー人(トラキア人)は結髪す(4-532)。

堅固美麗に築かれし都市のアテナイ(Athenai)、すぐれたる
エレクテウス[1]の所領の地。ゼウスの女神アテーネー、
豊かな「大地」が生み出でし彼をいにしえ養いき。
しかして彼をアテナイの中の佳麗の殿堂に、
入れしこのかた年めぐり、アテーナイ市の若き子ら、  2-550
牛と羊の牲捧げ、親しくこれを祭りたる[2]。
その民族をひきいるはペテオスの息[3]メネステウス。2-552
普天の下に彼よりも、馬と盾取る勇士とを
巧みに統ぶる者あらじ(ひとり老将ネストール、
年歯彼よりまさる者、彼に競えり)。黒く塗る  555
兵船あげて五十艘、彼に従ういっせいに。

[1]大地より生まれしエレクテウスはアカイア以前の神話。ここに女神アテーネーその殿堂に彼を入ると説くが事実は正反対。アテーネーは後より来れるもの。しかれど両者が同一殿堂に祭られしはすこぶる早き時代よりなり。
[2]「これを祭りたる」ある訳者は「これ」をアテーネーとし、他はこれをエレクテウスとす。
[3]息とは子息のこと。

十二の船をサラミス(Salamis)の地よりアイアース引き来り、
アテナイ人が水陣を据えしかたえに整えぬ[1]。

[1]アイアースのごとき特にすぐれし勇将にただ二行を与うるは怪むべし(リーフ)。

アルゴス(Argos)および城壁を固く備えしティーリュンス(Tiryns)、
深き港湾ふくみたるアシネー(Asine)およびヘルミオネー(Hermione)、 560
トロイゼーン(Troizen)とエーイオナイ(Eiones)、エピダウロス(Epidauros)の葡萄の地、
領する種族。さらにまたアイギナ(Aigina)およびマーセース(Mases)
領する若きアカイオイ。ひきいる将は大音の
ディオメーデース、また次ぎてカパネウス[1]の子ステネロス(ギ)。2-564
祖父はタラオス、王たりしメーキステウス(ギ)父として、  565
勇武さながら神に似るエウリュアロス(ギ)は将の三。2-566
されども高き音声のディオメーデース全隊を
統べたり。黒き八十の船は彼らに付き来る。

[1]テーバイ攻めの七将の一人。

堅固美麗に築かれし都市ミュケーナイ(Mykenai)領となし、
さらに富強のコリントス(Korinthos)、クレオーナイ(Kleonai)の堅固の市、  2-570
オルネイアイ(Orneai)と美しきアライテュレー(Araithyrea)を郷となし、
またシキュオーン(Sikyon)(そのはじめアドラーストス[1]治めし地)、2-572
ヒュペレーシエー(Hyperesia)、険要の地なるゴノエッサ(Gonoessa)、ペレーネー(Pellene)、2-573
領してさらにアイギオン(Aigion)、アイギアロス(Aigialos)の一帯を、
またおおいなるヘリケー(Helike)のほとりを領し占むる者、  2-575
その民族の百の船、ひきいる王は権勢の
アトレイデース・アガメムノーン、精鋭および数のうえ
まさる軍隊従えり。ひきいる彼は燦爛の
黄銅の武具身によろい、勇武秀いでて軍勢の
数はた及ぶものなきを昂然(こうぜん)として誇らえり。  580

[1]テーバイ攻めの七将の一人。のちのアルゴス王。

山岳四方にそびえ立つラケダイモーン(Lacedaimon)、スパルター(Sparta)、
パーリス(Pharis)および鳩多きメッセー(Messe)領し住める者、
ブリュセイアイ(Bryseiai)と秀麗のアウゲイアイ(Augeiai)を郷となし、
アミュクライ(Amyklai)と港町ヘロス(Helos)を領し住める民、
さらにラース(Las)を領となし、オイテュロス(Oitylos)に住める者、  585
その民族の六十の船を王弟——大音の
将メネラオス[1]従えり。軍勢区々に陣取りぬ。
わが勇猛に信を置き、兵を鼓舞して戦闘に
進むる彼は、ヘレネーの逃亡ならびに涕涙(ているい)の
恨み報えん情願は人にまさりて激しかり。  590

[1]メネラーオスを縮む。以下同様。

ピュロス(Pylos)と美なるアレーネー(Arene)、アルペイオス(Alpheios)川貫ける
トリュオン(Thryon)、さらに堅牢のアイピュ(Aipu)の郷に住める者、
キュパリッセイス(Kyparisseeis)、プテレオス(Pteleos)、アムピゲネーア(Amphigneia)、ドーリオン(Dorion)、2-592
さらにヘロス(Helos)に住める者(詩の神むかしこの郷に
トラーケー人タミュリスに会し、その歌ほろぼせり。  2-595
オイカリアーのエウリュトスそのもと辞して帰り来て、2-596
彼は誇れり『アイギスを持てるゼウスのむすめ神
ムーサイよしや歌うとも競いてこれに勝つべし』と。
怒れる女神彼をうち、盲目となし、加うるに、
彼の歌謡を奪い取り、さらに弾琴忘れしむ)、  2-600
これらの族を率いるはゲレーニア[1]騎将ネストール、
兵船九十、いっせいに彼に従いすすみ来ぬ。

[1]ゲレーニアーを略す。

キュレーネー(Kyllene)の高き山、麓(ふもと)の郷のアルカディア(Arcadia)、
アイピュトスの墓のわき、接戦手闘の武士の郷、  2-603
ペネオス(Pheneos)および牧羊地オルコメノス(Orchomenos)に住める族、605
リペー(Rhipe)ならびにストラティエー(Stratie)、また風強きエニスペー(Enispe)、
テゲアー(Tegea)および麗しきマンティネアー(Mantinea)を占むる者、
ステュンペーロス(Stymphelos)領となし、パッラシアー(Parrhasia)に住める者、
その民の船六十をアンカイオスの生むところ 2-609
アガペーノール†将としてひきいぬ。船の一々に  610
戦術特に巧みなるアルカディア人多く乗る。
アガメムノーン統帥は櫂揃いたる黒き船、
かれらに賜い、暗紅(あんこう)の海を走れと下命しぬ。
その船舶を作るべき技に彼らは疎かりき。

ブープラシオン(Bouprasion)と神聖のエーリス(Elis)に住む民の群、2-615
その領の端ヒュルミネー(Hyrmine)、またミュルシノス(Myrsinos)、岩がちの
オーレノス(Olenos)とアレーシオン(Aleision)、なかに含める民の群、2-617
四人の将帥これを統べ、おのおの率ゆ十の船。
その船舶に数多くエペイオイ族乗り込めり。
アクトルの系より出でしアムピマコス(ギ)とタルピオス†、 2-620
かれを生めるはクテアートス(ギ)、これを生めるはエウリュトス†[1]、
二人おのおの将となる。第三将はディオーレス(ギ)、2-622
アマリュンケウスの勇武の子。アウゲイアスの子たる王
アガステネスの生むところ、ポリュクセイノス第四将。

[1]先文2-596は同名別人。

海のあなたにエーリス(Elis)に向かい対する島二つ、 625
ドゥーリキオン(Dulichium)とエキナデス(Echinades)、その民族をひきいるは、
メゲース(ギ)、勇は軍神のアレースに比す。雷霆の 2-627
神の愛するピュレウス[1]の生みたる子息。ピュレウスは 2-628
父に対して憤りドゥーリキオンにしりぞきき。
黒き船舶四十艘付き従えりメゲースに。 2-630

[1]ピュレウスはドゥーリキオンの王で、エーリス王アウゲイアースの子。

ケパレニア(Kephallenes)の勇猛の民をひきいるオデュセウス。2-631
彼らの領はイタケー(Ithaka)と緑葉ふるうネーリトス(Nerithus)、
クロキュレイア(Crocylia)と険要のアイギリプス(Aegilips)。さらにまた
ザキュントス(Zakynthos)を領となし、さらにサモス(Same)を郷となし、
本土ならびに諸々の岸を領とし占むる民。  2-635
智は神に似るオデュセウス、ひきいてこれが将となる。
艫(へさき)に紅の兵船は十二ひとしく彼に付く。

アイトーリア族(Aitoloi、アイトーロイ)率ゆるはアンドライモーン生める息 2-638
トアス、その領プレウロン(Pleuron)、オーレノス(Olenos)またピュレーネー(Pylene)、2-639
海の臨めるカルキス(Chalkis)と岩石多きカリュドーン(Calydon)。 2-640
さきに英武のオイネウスその諸々の子とともに 2-641
この世を去りて、金髪のメレアグロスもまた逝きぬ。
アイトリア族一切を挙げてトアスの指揮仰ぎ、
いまいっせいに従える黒き兵船四十艘。

槍の名将イードメネー、クレーテース(クレタ人)を導けり。  645
彼らの領はクノーソス(Knossos)、城壁堅きゴルテュン(Gortyn)、
リュクトス(Lyktos)およびミレートス(Miletos)、さらに白亜のリュカストス(Lykastos)、2-646
さらに戸数の豊かなるパイストス(Phaistos)またリュティオン(Rhytion)。
その他にさらに百城のクレタ島の地住める族。2-649
ひきいてこれに将たるは槍の名将イードメネー。2-650
メーリオネス(ギ)はこれに副う、神アレースに似たる者。
八十艘の黒き船みないっせいに従えり。

ヘーラクレースの生みたる子トレーポレモス(ギ)、丈高き 2-653
勇将、かなたロドス(Rhodos)より郷土の諸豪従えて
九艘の兵船ひきい来ぬ。彼らは分かる三の郷、  655
リンドス(Lindos)およびイアリュソス(Ialysos)および白亜のカメイロス(Kameiros)。
トレーポレモス、誉れある槍の名将これを統ぶ。
アステュオケイアは彼の母、ヘーラクレース獲たるもの、
神寵うけし勇士らのあまたの都城やぶるのち、
セルレーイス(Selleis)の川の岸、エピュラー(Ephyre)[1]よりし彼女獲き。2-660
トレーポレモス、壮麗の宮殿中に養われ、
長じてヘーラクレースの母方の叔父[2]、老齢の
リキュムニオスを(アレースの裔を)にわかに討ち果し、
長じて多く船造り、兵を集めてびょうびょうの
海に浮べり、力あるヘーラクレスの他の子孫、  665
彼に報復はかれるを恐れて海に浮び去り、
辛苦を経つつ漂零のはてにロドスにたどり来ぬ。
部下の民衆、族により分かれて三の郷開き、
諸神諸人を司る天王これに愛を垂る――
クロニオンは豊饒(ほうじょう)の富を彼らに授けたり。  670

[1]テスプロティアの町
[2]ヘラクレスの母アルクメーネーの弟

ニーレウスまた三艘の等しき船をシュメー(Syme)より、
ニーレウス、母アグライエ、王者カロポス彼の父、
ニーレウス、彼イリオンに寄せしダナオイ族のなか、
ペーレイデース・アキレウス除けば無双の美貌の身、
されども彼は弱くしてただ少数の兵率ゆ。  675

ニーシュロス(Nisyros)またクラパトス(Krapathos)領し、ならびにカソス(Kasos)の地、
エウリュピュロス†[1]の都市コース(Kos)、カリュドナイ(Kalydonai)の群島を
領する族を率いるはペイディッポスとアンティポス†、
二人の父はテッサロス、ヘーラクレスは祖父にして。
三十艘の兵船は彼に従ういっせいに。  2-680

[1]トロイアからの帰途のコースに来たヘラクレスに殺された。

ペラスギア(Pelasgia)のアルゴス(Argos Pelasgicon)を領する族と、アーロス(Alon)に 
居を占むる者、アロペー(Alope)とトラーキス(Trechis)とに住める者、
プティアー(Phthia)および麗しき女性の産地ヘッラス(Hellas)を  2-683
領する族、その称はミュルミドネスとヘレーネス、
またアカイオイ。その船の五十を率ゆアキレウス。  685
されどもこれを戦場に駆るべき将は今あらず。
兵士こぞりて喧騒(けんそう)の戦いいまは心せじ。
髪麗しき妙齢のブリーセーイスもととして
足疾く走るアキレウス怒りて船に留まれり。
苦戦の末にそのむかしリュルネーソスを陥れ、  2-690
テーベー城をうち砕き、セレーピオスの子たる王 2-691
エウエーノス†の二人の子、槍の名将ミュネースと 2-692
エピストロポス[1]うち倒しリュルネーソスに少女得き。
いまは怒りて休らえど程なく立たむアキレウス。

[1]2-517と2-856とに同名異人二人あり。

族ありその郷ピュラケー(Phylake)とデーメーテール[1]の聖地たる 695
花咲き匂うピューラソス(Pyrasus)、羊産するイトーン(Iton)の地、
海に臨めるアントローン(Antron)、緑草深きプテレオン(Pteleon)、
プロテシラオス雄豪の将軍彼ら統べたりき。2-698
されども滅び、黒き土彼を覆えり。その妻は
半ば成りたるピュラケーの館(たて)に残りて頬を裂く。 2-700
アカイア族に先んじて将軍船より飛びおれる、
そのとき彼を殺せしはダルダニアーのとあるもの。
新たの将帥欠かざれど兵みなせつに彼しのぶ。
アレース神の末裔のポダルケースはいま首領。2-704
ピュラコスの子イピクロス牧羊多く持てる者、2-705
ポダルケースを生みなせり。プロテシラオス老練の
武人、すなわちその兄弟。プロテシラオス英豪は
齢(よわ)いも勇もまされりき。亡きを続ぎたる将あれど、
部下の民族、過ぎさりし名将軍をいま思う。
黒き兵船四十艘みないっせいに従えり。  710

[1]農業の女神。

ボイベーイス(Boebeis)の湖に沿えるペライ(Pherae)とボイベー(Boebe)と、
グラピュライ(Glaphyrae)また堅固なるイオルコス(Iolchos)に住めるもの、
その族の船十一をエウメーロス(ギ)はひきい来ぬ。2-713
アドメートスは彼の父、母は美貌のすぐれたる
アルケスティス、ペリアスの息女のなかに秀でたり。  715

メートーネー(Methone)とタウマキアー(Thaumakia)、またその領地メリボイア(Meliboea)、、
さらに険阻のオリゾン(Olizon)を占め従える人々の
その民族の七艘を率いるピロクテーテース。
弓の名将、そのもとに船各々にのりこめる
漕ぎ手は五十弓術にすぐれて奮(ふる)い戦わむ。  720
されど将軍[1]悪霊の水蛇の噛める傷により、
苦悩激しく島のなか、聖なるレームノスのなか、
アカイア人に捨てられて、ひとり淋しくうち伏せり。
さはれ苦悩にうち伏せど船のかたわらアルゴスの
兵士らピロクテーテース勇将ほどなく思い出む。  725
部隊は将を欠かざれど、かの勇豪をなお思う。
あらたに彼らひきいるはメドーン、都城を破壊する 2-726
将オイレウス生める庶子。レーネー彼の母なりき。

[1]この有名の将軍に関してホメーロスはただ如上(じょじょう)を記す。ソポクレースの悲劇「ピロクテーテース」に七艘の船をひきいることを述ぶ。明らかにこの一段より来るなり。

トリッカー(Trikka)また山多きイトーメー(Ithome)またオイカリア(Oechalia)、
オイカリアーのエウリュトスかつて領せしオイカリア、  730
これらを占むる民族をアスクレピオス生める息、
ポダレイリオス、マカーオーンすぐれし二人の医は率ゆ。
三十艘の兵船はこれに従ういっせいに。

オルメニオン(Ormenion)に住める民、ヒュペレイア(Hypereia)の源泉と
アステリオン(Asterium)またティタノス(Titanos)の雪嶺近く住める者、  735
エウアイモーンの秀れし子エウリュピュロスの令を受く。2-736
黒き兵船四十艘彼に従ういっせいに。

民ありその領アルギッサ(Argissa)、ギュルトーネー(Gyrtone)、さらにまた、
オルテー(Orthe)およびエーローネー(Elone)、オロオッソン(Oloosson)の白亜の府。
その民族をひきいるはポリュポイテース(ギ)、武勇の士。2-740
ペイリトオス[1]は彼の父、神霊ゼウス生むところ。2-741
ペイリトオスはその昔長髪乱す怪物[2]を、
ペリオン(Pelion)山よりかり出だし、アイティケス[3](Aethikes)に放ちし日、
ヒッポダメイアと契り得てポリュポイテース生み出でぬ。  
その副将はレオンテウス。かれアレースの裔にして 2-745
父は英武のコローノス、さらにその祖父カイネウス。
黒き兵船四十艘みないっせいに従えり。

[1]ラピタイ族。
[2]怪物はすなわちケンタウロス(1-267)。
[3]ピンダス山地。

キュポス(Kyphos)の地より二十二の船ひきいるはグーネウス†。
エニエーネス(Aenianes)族、また強きペライボイ(Perrhaebi)族従えり。
彼らその居を定めしはドードーナー(Dodona)の冬の郷。2-750
その耕作の労積むはティタレーシオス(Titaresios)の岸の上、
その清き水流れ入りペーネイオス(Peneios)に注げども、
ペーネイオスの銀浪と混ずることはたえてなし、
油のごとくいたずらにその表面を走るのみ。
すごき陰府のステュクスに別れ来りし水なれば。755

テントレドンの子プロトオス、マグネシア(Magnesia)族ひきい来ぬ。
ペーネイオス(Peneios)の流れ、また緑葉ふるうペーリオン(Pelion)、
そのほとりなる民族を率ゆ足疾きプロトオス。
黒き兵船[1]四十艘みないっせいに従えり。

[1]以上列挙するところ、船の数は1186、乗組員の最多は120人、最少は50人、その平均85人とすれば遠征軍の人数は10万人なり(リーフ)。

かくぞダナオイ軍勢をひきいし列王将士の名。 2-760
ムーサ、いまはた我に言え、アトレイデース率い来し
軍中至剛の者は誰(た)そ?至上の軍馬またいずれ?

軍馬のもっともまさるものペーレース[1]の子の二頭なり。
エウメーロスはこれを御す。駆けて飛鳥にさも似たり。2-764
その年齢と背の丈と毛色と両馬相同じ。  765
神銀弓のアポローン、ペーレイエーの牧場に 2-766
畏怖の戦い広ぐべきこの両牝馬(めうま)養えり。
英武無双のアキレウスならびに彼の愛用の
馬もはるかにまされども怒りて陣にしりぞけば、
テラモニデース・アイアースいま人中にすぐれたり。  2-770
波浪を分くる曲頸の船のなかにし横たわる
ペーレイデース沸然と、アガメムノーン大王に
怒り抱けり。その部下はとうとう波うつ岸の上、
円盤長槍投げ飛ばし、あるいは弓矢に興をやる。
軍馬はたまたそれぞれに兵車のそばに立ちどまり、  775
ロートスあるいは沼沢のほとりに生えるセリを噛む。
兵車またよく覆われて部下の諸将の営中に
おさまり立てり。その諸将ペーレイデースを惜み合い、
陣営のうちさすらいてなお戦闘に加わらず。

[1]ペーレースの子はアドメトス、アドメトスの子はエウメーロスなり。2-713参照

かたや大地を焼き払う猛火のごとく進む軍。  780
大地は下に震い鳴る。雷霆の神いきどおり
テュポーンの郷のアリマ(Arima)の地(怪人[1]そこにその床を
構うと人は伝えいう)その地激しく打つごとく、
大軍過ぐる足もとに大地高らに震い鳴る。
大軍かくて歩を速く広野よこぎりすすみ行く。  785

[1]地震の神話的説明。

かなたゼウスの命により、憂いの報をもたらして、
迅速あたかも風に似るイーリス[1]、トロイア軍を訪う。
そこにトロイア満城の老少ともに集まりて、
イリオン城の回廊に評議の席を開きあり。
プリアモス王生める息ポリテースの声をまね、  790
足疾きイーリス近寄りて、かたえにそのとき立ちていう。
(その健脚を頼みとし、トロイア軍の哨として、
老いしアイシューエーテース[2]その墳塋(ふんえい)[3]の高き地に、
アカイア軍勢兵船を出で来る時をうかがいし)、
そのポリテースに身を似せてイーリス、軍のなかにいう——  2-795

[1]使いの女神。
[2]アイシュエテス、古(いにしえ)のトロイア人。
[3]「墳塋」は墳墓のこと。

『ああ老父王、君はいま平和の時におけるごと、
はてなき議論喜べり。されど戦乱いま起る。
われ人間の戦いにしばしば会えり。しかれども
いま寄せ来る軍勢のごときはいまだかつて見ず。
数はさながら深林の緑葉あるいは海の砂。  2-800
我らの城を攻めんため敵は平野をすすみ来る。
ああ英豪のヘクトール、君に忠言特にいう。
プリアモス王の大いなる都市に援軍集まれり。
さはれ四方に分かれ敷く諸人の言語一ならず。
されば各将ひきい来し部下におのおの令下し、  805
おのおの自国の兵士らを整えこれを指揮すべし』

しか陳ずれば、ヘクトール神の言葉を理解して、
ただちに衆議の会を解く。ひとびと走りて武器を取り、
あらゆる城門押し開き、歩兵団また騎兵団、
全軍ひとしく走り出で、騒ぎは激し嗷々(ごうごう)と。  810
都城の前に、平原のなかに離れて丘陵の
高く立つあり。その四方おのおの道は開かるる。
この丘陵を人界に呼ぶ名称はバティエイア(Batieia)。
されども神は足速きミュリーネー[1]の墓と呼ぶ。
トロイアならびに応援[2]の全軍ここに陣取りぬ。  815

[1]フリュギア(Phrygia)を攻めたるアマゾーン(Amazones)軍の一人(3-189)。
[2]応援軍のなかトラーケー人(Traches)、キコネス人(Kikones)、パイオネス人(Paiones)は欧州人、他は亜細亜人。

【トロイ軍のカタログ】

トロイア軍を統ぶるものプリアミデース・ヘクトール、
堅甲光る飛将軍。その最鋭の軍勢は
数はたほかに抜きいでて、長槍ふるい戦えり。

アンキーセース生むところ、アイネイアース勇にして
ダルダニアー(Dardania)の兵[1]率ゆ。アプロディーテー美の女神、2-820
イーダ(Ida)の丘に人間と契りて彼を生まれしむ。
アンテーノールの二人の子、戦術すべて巧みなる
アルケロコス(ト)とアカマース(ト)、彼とならびて将となる。2-823

[1]以下ではダルダノイともいう。

イーダの丘のふもと端、ゼレイア(Zeleia)の地に住める民、
トロイアの族、富み栄えアイセーポス(Aisepos)の水に飲む。2-825
その民族をひきいるはリュカオンの子パンダロス(ト)、 2-826
神アポローン、勇将に親しく弓を授けたり。

アドラステイア(Adrasteia)[1]占むる族、アパイソス(Apaisos)の地占むる族、
またピテュエイア(Pityeia)さらにまたテーレイアー(Tereia)を占むる族、
率いてこれに将たるはアドラーストス†と、胸甲を  2-830
布もて作るアムピオス——ペルコーテー(Percote)のメロプスは 2-831
彼ら二人の父なりき。人にまさりて将来を
占うすべに長ずれば、二児の従軍よしとせず。
されども二人従わず、死の運命に引かれ来ぬ。

[1]ミューシアのこと

ペルコーテーとプラクティオス(Praktios)、そのほとり住み、アビュードス(Abydos)、  2-835
またセーストス(Sestos)さらにまたアリスベー(Arisbe)の地、聖き地を 2-836
占むる民族ひきいるはヒュルタコスの子アーシオス(ト)。  2-837
アリスベーの地貫けるセルレーイス(Selleis)のほとりより、
その軍将を丈高き黒き駿足乗せ来る。

土地豊饒のラーリッサ(Larisa)領して槍に名ある族、  2-840
ペラスゴイ(Pelasgi)の民族をひきいる将はヒッポトオス(ト)。2-841
並び将たりアレースの系、勇猛のピュライオス。
二人の父のレートスはテウタモスの生むところ。

将ペイロオス(ト)とアカマース(ト)、奔流高きわたつ海 2-844
ヘレスポントス(Hellespontos)境するトラーケー族(Thrakes)を並び統ぶ。  2-845

エウペーモス(ト)はキコネス(Kikones)の長槍ふるう民ひきゆ。2-846
神の寵せるケアスの子トロイゼーノス彼の父。

アクシオス(Axios)川の岸辺なる遠きあなたのアミュドーン(Amydon)、
地上に走る至美の水アクシオス川のほとりより、
ピュライクメース、曲弓のパイオネス族(パイオニアーの民族Paiones)(ト)導けり。  2-850

荒き野生のラバ出づるエネティー人[1]の故郷より、
ピュライメネース、勇将はパフラゴネス[2](Paphlagones)(ト)を引き来る。2-852
彼らの領はキュトロース(Kytoros)、さらにその領セーサモス(Sesamos)、
パルテニオス(Parthenios)の川近く、アイギアロス(Aigialus)とクロムナ(Kromna)と、
エリュティーノイ(Erythini)の高原の名高き家に居を占める。  2-855

[1]後のウェネティー族。
[2]パフラゴニア人。

エピストロポス†とオディオス(ト)はハリゾネス族(Halizones)ひきい来る。2-856
銀の産地の遙かなるアリュベー(Alybe)彼らの領とする。

ミューシア族(Mysoi)をひきいしはクロミス†およびエンノモス(ト)。2-858
後者は鳥に占えど死の運命を免れず。
他のトロイアの勇将とともに滅べり。足速き  2-860
アイアキデース[1]流水のなかに彼らをうちとりぬ。

[1]アイアキデースすなわちアキレウス。この名は祖父アイアコスより来る。

ポルキュス(ト)さらにプリュギアの好戦の民(Phryges)導けり。2-862
アスカニアー(Askania)の遠きよりアスカニオス(ト)ともろともに。2-863

湖の精ギュガイエー(Gygaea)がタライメネスに生みなせし、2-864
メストレース(ト)とアンティポス†。トモロス山(Tmolos)のそのふもと 2-865
生まれ育ちしマイオニア(Meiones)族を二人は導けり。

蛮語[1]あやつるカリアー(Kares)の族を率ゆるナステース(ト)。2-867
彼らの領はミレートス(Miletos)、緑葉の山プティーレス(Phthires)、
マイアンドロス(Maeander)の諸川流(せんりゅう)、はたミュカレー(Mykale)の高き峰。
アムピマコス(ト)とナステスは彼らをひきい将たりぬ。  2-870
アムピマコスとナステスの二人の父はノミオーン。
アムピマコスは黄金の少女のごとき鎧(よろい)着ぬ。
愚かや黄金、無残なる破滅を彼に防ぎえず。
流れのなかに足速きアイアキデース彼を討ち、
彼は滅びてアキレウス、かの黄金を獲て去りぬ。  2-875

[1]「蛮語」の句はホメーロス詩中只この一行のみ。

クサントス(Xanthos)川つらぬける遠きリュキアのあなたより、
リュキアー(Lykioi)族を率いしは、サルペードーン(ト)とグラウコス(ト)。 2-877


イーリアス : 第三巻



 両軍の会合。パリスの出陣。メネラーオスを見てパリス恐れて退却す。ヘクトールおおいにパリスを叱る。パリスの弁解ならびに決闘の提案。両軍休戦して決闘を待つ。ヘレネー侍女をつれてトロイアのスカイアー門に現る。プリアモス王の問いに答えてアカイア軍中の諸将を説明。王戦場にすすみ休戦の盟約ならびに祭事を行なう。メネラーオスとパリスとの決闘。パリス負けて逃げ帰る。女神アプロディーテーこれを救う。アガメムノーン盟約の履行を迫る。


おのおの将に従いて兵士ら隊につける時、
トロイア軍は叫喚と喧騒あらくすすみ行く。
群鶴高く雲上に翔けりて鳴くにさも似たり。
厳冬ならびに長雨を避けて鳴き声空に上げ、
オーケアノスの潮流の上に飛翔を続けつつ、  3-5
ピュグマイオイの一族に悲運と死とをもたらして、
暁天(ぎょうてん)高く奮闘を挑む群鶴[1]かくあらむ。
これに反して勇を鼓し相互の救い念じつつ、
アカイア軍は堂々と無言のなかにすすみ行く[2]。3-9
南風吹きて濃霧わき、石を投げうつ距離の外、  3-10
視線くらますばかりなる——そを牧人はいとえども、
賊は夜より喜べる——その霧に似て、もうもうと
すすみ来れる軍勢の脚下激しく塵起る。
かくして彼ら足速く大野横ぎりすすみ行く。

[1]小人(ピグミー)国と群鶴との戦——昔の伝説。
[2]4-429にも同様の記事。

両軍むかいて相すすみ互いに近く迫る時、  15
トロイア軍の先頭に艶冶(えんや)のアレクサンドロス[1] 
現われ出でて、豹皮[2]着るその肩のうえ短弓と
利剣を負いつ、青銅の二条[3]の槍を振り回し、
来りて彼とまのあたり向かい勝敗決すべく、
アルゴス軍中勇猛のすぐれし者に呼び挑む。  20

[1]すなわちパリス——プリアモス王の子、ヘクトルの弟——ヘレネーを奪える元凶。艶冶は美形であること。
[2]豹、獅子、また狼の皮を鎧の上に付けるは当時の習い。夜行の時は特に。10-23にも同様の記事あり。
[3]二条は二本のこと。

アレース神の寵児たる王メネラオス、悠然と
軍のまさきにすすみ来る敵を望見しつる時——
たとえば獅子王[1]、肉に飢え、めぐり会いたる巨大なる
角たくましき大鹿を、あるいは荒き山羊を得て
欣然(きんぜん)としてむさぼりつ、彼のうしろに迫り来る  25
猟の一群、速き犬強き壮士を見ざるごと。
王メネラオスかくばかり、艶冶のアレクサンドロス
来たるを眺め喜びつ、罪あるものを懲らさんと、
武器をたずさえいち早く兵車をおりて地に立てり。

[1]「獅子王」は獅子王のこと。

かく戦陣をまっさきに彼の出でしを望み見て、  30
艶冶のアレクサンドロスがく然として胸打たれ、
死の運命を逃るべく陣中さして逃げ帰る。
たとえば、とある山麓に毒蛇を見出で驚きて、
歩みすばやく飛びしざり、両膝そぞろおののきて、
両頬ともに青ざめて逃ぐる恐怖の人やかく。  35
艶冶のアレクサンドロス、アトレイデース[1]に怖(お)じ恐れ、
味方トロイア軍勢の陣中さして逃げ帰る。
こを眺めたるヘクトール憤然として叱りいう、

[1]弟アトレイデースすなわちメネラオス。

『無残の汝、姿のみ艶美、好色の詐欺の子よ。3-39
兵の目の前、冷笑と侮蔑の的にならんより、 40
汝この世に生まれずば、あるいは女性に会わずして、
逝かばかえって優(まし)ならむ。汝のためにかく願う。
見よ、長髪のアカイオイ、あざみ笑えり、声あげて。
汝の美貌のゆえにより、勇武に長けし闘将と
思いたりしに、ああ無残、汝勇なし力なし。  45
かくありながら大海の波浪を渡る船に乗り、
親しき友ともろともに航し渡りてとつ国の
人とまじわり、ほど遠き異国に住まうその郷の
勇士の夫人艶麗(えんれい)の女性ヘレネー奪いしか。
果ては、汝の老親に、故郷に、民におおいなる  3-50
難儀、敵には嘲りの笑い、汝にただ恥辱。
アレースめずるメネラオス、これに汝は向かい得じ。
知るべし、汝奪いたる美婦の夫を何ものと。
肝脳(かんのう)塵にまみる時、アプロディーテの恵みなる
美貌も髪も絃琴(げんきん)も、汝に何の効あらじ。  3-55
トロイア人は優ならめ。さなくば彼らに来したる
難儀のゆえに、汝とく石の衣[1]を着しならむ』

[1]石に打たれて死せん。

艶美のアレクサンドロスそのとき答えて彼にいう——
『汝の叱責みな正し。ああヘクトールみな正し。
汝の心ああ強し。船造るべく巧妙に  60
巨木つんざく人の手のふるえる手斧(ちょうな)、振るごとに
力いよいよ優りくる斧のごとくに、ああ強し。
げに勇猛の精気こそ常に汝の胸中に。
アプロディーテの恵みたる恩寵[1]さはれ、とがむるな!
諸神たまえる恩寵は捨つべきならず。何びとも、  65
ただにおのれの意思により受くべきものにあらざるを。
今もし汝、戦闘に我の勇むを望まんか。
トロイアならびにアカイアの両軍、さらば対せしめ、
その先頭にアレースの寵児敵王メネラオス 
ならびに我を立たしめよ。ヘレネーおよび財宝を  70
賭(か)けて戦い、勝ちを得て優者たる者その郷に、
彼女ならびに一切の財宝を得て帰るべし。
他の者かくて親睦と固き約定整えて、
我はトロイア豊沃の郷に向かわむ。はた彼は
馬の産地のアルゴスと美人に富めるアカイアに』  75

[1]美貌のこと。

しか陳ずるを耳にして歓喜大なるヘクトール、
トロイア軍の陣中に馳せ、長槍のただなかを
握りて軍をとどむれば、全軍ひとしく静まれり。
そのとき長髪のアカイオイ、彼をめがけて矢を放ち、
あるいは石を投げうちて彼を打たんと騒ぎ立つ。  80
アガメムノーン統帥はされど大音挙げていう、

『やめよ汝らアルゴスとアカイアの子ら、射るなかれ。
堅甲光る[1]ヘクトール、いまわが軍に叫ぶらし』
その言聞きて戦闘をやめて一同たちまちに、
鳴りしずむればヘクトール二軍にひとしく叫びいう、  85

[1]ヘクトールの常用形容句。

『トロイア、アカイア両軍士、われを通じて、争いの
もとたるアレクサンドロス、彼の主張を耳にせよ。
トロイア、アカイア両軍士、汝ら各々いっせいに
大地の上に麗しき汝の武器を横たえよ。
かれと勇武のメネラオス、ヘレネーおよび財宝を  90
賭けて両人相対し、まさに勝敗決すべし。
その戦いに勝ちを得て優者たるもの、その郷に、
彼女ならびに一切の財宝を取り去らむ。
しかして他の者友好と固き盟約整えむ』
しか宣すれば将士らはみな寂然(せきぜん)と鳴りしずむ。  95
そのとき高き音声の王メネラオス皆にいう、

『人々我にも耳をかせ。大なる苦悩わが胸に
迫る。我またアルゴスとトロイア軍の引き分けを
望めり。我の争いと、はたまたアレクサンドロス 
犯せし非行に始まれる二軍の辛労すでに足る。  3-100
死の運命が臨めるは我ら二人のなかいずれ?
その者は逝け。他は早く和らぎ、散じ分るべし。
汝ら地霊と日輪に黒白二頭の羊の子[1]
捧げよ。我も一頭を別にゼウスに捧ぐべし。
またプリアモス老王を呼びて犠牲をほふらせよ。  105
年まだ若き彼の子ら驕慢にして信を欠く——
その僭越のわざによりゼウスの誓い破ること
無からんためぞ——年少の心は常に定らず。
されど長老かかわらば、双方もっとも良しとする
その結末を来すべく前後ひとしく顧みむ』  110

[1]誓約の時にはゼウスと日神(ヘーリオス)と地神(ゲーア)とに牲を捧ぐる古代の習い。

しか宣すれば、トロイアとアカイア軍勢もろともに、
悲惨のいくさ終わるべき希望に満ちて喜べり。
すなわち軍馬を列に留め、おのおの兵車をおりて立ち、
戦具を捨てて地の上に互いに近く横たえつ、
両軍互いに向かい合う、間の距離は大ならず。  115

二人の使者をヘクトール都市に遣わし、すみやかに
小羊二頭求めしめ、プリアモス王招かしむ。
アトレイデースこなたには水陣さして使者として、
タルテュビオスを遣わして、同じく小羊求めしむ。
アガメムノーンの厳命に使者は背くをあえてせず。  120

玉腕白きヘレネーをいまイーリス[1]は訪い来る。
借れる姿はその義妹、アンテーノール[2]の子の夫人、
アンテノリデス・ヘリカオン王の娶れるラオディケー。
プリアモス王生みいでし息女のなかにすぐれし美。
ヘレネー時に宮中に大機(はた)すえて紫の  125
二重の綾[3]を織り出す。図は青銅の鎧着る
アカイア人と馬慣らすトロイア人の戦闘を
写す。彼女のゆえをもてアレースの手のなせしもの。
足疾きイーリス近寄りて、かたえに立ちて陳じいう。——

[1]使いの女神。
[2]アンテーノールはトロイアの有名な老将軍。その子(アンテーノリデス)の名はヘリカーオーン。
[3]二重に身を覆うべき幅の。

『いみじき姫よ、来り見よ。悍馬を御するトロイア人、  130
青銅うがつアカイア人、両者の不思議な光景を。
さきに悲惨の戦いを願い、平野に戦闘の
災禍互いにこうむらせ、涙の雨をまける者、
いまは戦いおさまりて彼らは盾に身をもたせ、
槍を大地に突き立てて鳴りをしずめて休らえり。  135
ただかれアレクサンドロス、アレースめずるメネラオスと、
長槍取りて戦いて君一身を争わむ。
その戦いに勝つ者の妻とし君は呼ばるべし』

さきの夫とふた親と故郷にむかい複雑の
思いを、かくてヘレネーの胸に女神は起こしめぬ。  140
いま純白の垂れ絹に顔面を覆い悄然と、
涙にくれてすみやかに彼女は室を立ち出でつ、
身ひとりならず、かたわらにピトテウスの女(じょ)[1]アイトレー、
明眸の人クリュメネー、二人の侍女をともないて、
かくて進みてスカイアー城門[2]のうえ立ちどまる。  3-145
ここにトロイア諸元老、群がり座せり。プリアモス、
テュモイテース†とパントオス、ラムポスおよびクリュティオス、3-147
アレースの裔ヒケタオーン、さらに二人の智ある者、3-148
ウーカレゴン†と老巧のアンテーノール、城門に。
齢(よわ)いのゆえに戦場の難を避くれど論弁の 3-150
席にいみじき。たとうれば深林のなか、枝高く
声朗らかに秋蟬[3]の歌う姿やかくあらむ。
かかるトロイア諸元老いま塔上に座する者。
その塔のまえヘレネーの来るを眺め見たる時、
声をひそめてつばさある言句互いに陳じいう——  155

[1]「女(じょ)」は娘のこと。
[2]「西門」の意、また「ダルダニア門」ともいう。
[3]プラトーンの『パイドロス』41章に蟬に関する意味深き神話の起原を説く。

『容貌[1]さながらすごきまで不死の女神に髣髴(ほうふつ)[2]の、
かかる女性のゆえにより、むべなり猛きトロイアと
脛甲かたきアカイアと多年の戦禍忍べるは!
さはれ美貌も何かせむ。ああこの女性船に乗り、
故郷に去りて災いを我の子孫に残さざれ!』  160

[1]有名の詩句――ヘレネーの美を想像せしむ。レッシングが『ラオコオン』二十一章(岩波文庫265頁)に弁ずるところ。
[2]「髣髴」はよく似ていること。

彼らしかいう。プリアモスそのとき呼びてヘレネーに 3-161
いう『わが愛児、ここに来てわがかたわらに座を占めよ。
先夫ならびに親戚と親しき友ら望み見よ。
汝に何の罪もなし。アカイアの族、惨澹(さんたん)の  3-164
戦いわれに加えしは、責むべき諸神のせいなりき[1]。  3-165
かなた雄々しき一人の名を今われに知らしめよ。
誰そ?かの目だつアカイア人、威風あたりを払う者。
体躯彼より高きもの他に我は見る。しかれども
けだけき威容、秀麗の姿を彼に比する者、
わが眼まだ見ず。帝王の相をまさしく彼そなう』  170

[1]人間の不幸と迷妄とは神明のせいと信ぜられたり。6-357参照。

女性のなかにすぐれたるヘレネー答えて彼にいう、
『ああ君、我の舅君、恩愛威光を兼ぬそなう
君の御子の跡慕(した)い、わが閨房(けいぼう)[1]を兄弟を
愛児[2]をさらに、年齢の等しき友をうち捨てし、
その時すごき死の苦難われを襲わば良かりしを。 3-175
運命これを許さねば[3]、いまは悲涙に暮れるのみ。
いざいま君の問いたまう事の次第を陳ずべし。
アトレイデース、権勢のアガメムノーン、かれこそは、
すぐれし王者、勇ましき戦士ひとりに兼ぬる者[4]。
ああいにしえは義兄とし仰ぎしものを、無恥のわれ』  180

[1]「閨房」は寝室のこと。
[2]唯一の児ヘルミオーネ。
[3]自殺せんとせしも遂げず。6-345に同様の懺悔(ざんげ)を述ぶ。
[4]アレクサンダー大王の愛誦の句(リーフ)。

老王聞きて嘆称の声を放ちて陳じいう、
『ああ幸多きアトレイデー[1]、神寵厚し、運強し。
汝のもとに従えるアカイア健児多きかな。
葡萄の実るプリュギアー[2]、その地をむかし我訪いて、
駿馬を御するプリュギアの無数の兵を眺め見き。  185
そはオトレウスまた神に似しミュグドーン[3]の持ちしもの。
サンガリオス[4]の流域にそのとき彼ら陣取りぬ。3-187
その応援の将として、われその数に加わりぬ。
むかし勇なるアマゾーン女軍寄せ来し時なりき。3-189
されど彼らもまみ光るアカイア兵に数しかず』  3-190

[1]アトレイデースの呼格。
[2]ホメーロス以後の小プリュギアと混ずべからず。
[3]この二将の妹ヘカベーはプリアモス王の妃。
[4]現サカリス川。

つぎに見たるはオデュセウス。老王すなわち問いていう、
『愛女よさらに我に言え。かなたに見るは何びとぞ。
アトレイデース大王に体躯の丈は劣れども、
眺むるところ双の肩、胸の広さはまさるもの。
彼その武器を豊沃の大地[1]の上に横たえて、  195
その身親しく群衆の列の間を駆け回る。
わが見るところたとうれば、厚き毛を着る雄羊が
白き羊の群わけて悠然として行くごとし』

[1]大地は一切のものを養う。

ゼウスの生める艶麗のヘレネー答えて彼にいう——
『彼は英知に富める人、ラーエルティアデス・オデュセウス、  3-200
イタケー辺土の民族のなかに育てど百千の
策に巧みに、賢明の言をしばしば出すもの』

アンテーノール、賢明の元老すなわち答えいう——
『しかなり、女性、君がいま述ぶる言句ぞまことなる、
いにし日、偉なるオデュセウス、君に関して使者として[1]、  3-205
アレースめずるメネラオスもろともここを訪いし時、
われ両人を客としてわが殿中にもてなしつ、
その性情と賢明の言句をともに学び得き。
彼らトロイア集会の席に連なり立てる時、
ゆゆしき双の肩広くまさりて見えし、メネラオス、210
されどその座に就けるとき威容すぐれし、オデュセウス、
かくて彼らの弁論と討議にすすみ入りし時[2]、
かれメネラオス急速に彼の所懐を披瀝しつ、
そのいうところ少なれど言はすこぶる明快に、
齢いは比して若けれど、多岐に走らず、多弁せず。  215
されどもつぎに聡明の将オデュセウス語る時、
立ちてうつむき双の目をしかと大地に据え付けつ、
手に取る笏を後ろにも前にもたえてゆるがさず、
しかと握れるその挙動、痴人のわざに似たりけり、
「勇には富めど愚かなり」見しものかくも言いつらむ。  220
されど胸より朗々の声ほとばしり、弁論の
言句さながら厳冬の吹雪のごとく出づるとき、
何らの人か巧妙をオデュセウスに競い得む、
いま勇将の姿見てかくあることを怪まず』

[1]戦争の前アカイアの二将来りてヘレネーを取り返し平和の解決を得んとしたり。
[2]アンテーノールは当時和睦を唱う、他はこれに反す(11-123)。

プリアモス王第三にアイアース見て尋ね問う、  225
『見よ彼すぐれ偉なる者。頭と厚き肩ともに
アルゴス軍中ひいでたる、かのアカイヤ人何ものぞ?』

垂れ絹長く裾を引く艶美のヘレネー答えいう、
『彼アイアース、すぐれたるアカイヤ軍の堅き城。
こなた英武のイードメネー、クレーテース[1]の軍中に  230
神のごとく立ち上がり、諸将士彼を取り囲む。
クレタ島より来る時、アレースめずるメネラオス、
わが宮殿のなかにしてしばしば彼をもてなしき。
その他すべてのまみ光るアカイア人を我は見る。
彼らを我はよく知れり。彼らの名をみな語り得む。  235
ただ民族の二将軍いまわがまみは見出だせず。
馬術巧みのカストール、ポリュデウケース、拳闘者
兄弟二人われととも同じ胎より生まれし身。
ラケダイモンの故郷より二人はここに来たらじか?
あるいは波浪つんざける船のへここに来れども、  240
われにもとずく数多き恥辱と汚名恐るれば、
将の争う戦闘の列にまじるを願わじか?』
かくは陳じぬ。しかれども二人はすでに一切を
生める大地に帰り去る、ラケダイモンの故郷にて。

[1]地中海中の一大島クレタ島に住める民族(2-649)。

かなた府中に伝令の使者は神への供え物、  245
小羊二頭、また地より来り[1]心を慰むる
酒を壺中(こちゅう)に運び行く。別に他の使者イダイオス、3-247
燦然として光るかめ、また黄金の盃(さかずき)を
手に老王のかたわらに寄りて促し陳じいう、

[1]大地は一切を生ず。

『ラーオメドーンの御子[1]よ立て、かの平原にくだり行き、  3-250
神の供物をほふるべく、馬術巧みのトローエス[2]、
青銅よろうアカイオイ、二軍の首領君を呼ぶ。
やがてアレクサンドロス、アレースめずるメネラオス、
長槍取りてヘレネーの一身賭(と)して戦わむ。
彼女ならびに財宝は勝ちたる者の手に落ちむ。  255
他の者かくて友好と盟約固く結び得て、3-256
我は豊沃トロイアの郷に帰らん。はた彼は
馬の産地のアルゴスと美人に富めるアカイアに』

[1]プリアモスのこと。ラーオメドーンはトロイアの先王、プリアモス、ラムポス…らの父。
[2]トロイア人=トロース、またトローオスその複数はトローエス。

その言聞きて憐れなる老王そぞろおののきつ、
車馬の備えを命ずれば、従者はとみに従えり。  260
プリアモス王、馬車に乗り双の手綱をかいとれば、
アンテーノールかたわらに華麗の台に身を乗せて、
スカイアー門通り過ぎ馬を大野に駆り進む。

かくてトロイア、アカイアの二軍の近く着ける時、
車馬より出でて、豊沃の大地の上におりたちつ、265
トロイアならびにアカイアの両軍のなか進みいる。
アガメムノーン、民の王、そのときただちに身を起す。
また聡明のオデュセウス同じく立てば、伝令使、
神に捧ぐる誓約の牲を集めて、宝瓶(ほうへい)の
なかに神酒[1]を混じ入れ、王たちの手に水そそぐ。  270
アトレイデース長剣の巨大の鞘のかたわらに 
常にたずさう短剣をやがて手中に抜きかざし、
牲の頭を厚く覆う[2]柔毛ざくと切り落とす。
そをトロイアとアカイアの貴人に令使わかちやる[3]。
アトレイデースやがて手を挙げて大事を祈りいう、  275

[1]おそらくトロイア人のもたらせる酒とアカイア人のそれとを混ぜるならむ。
[2]以下でも「覆う」は二音で数えることが多い。
[3]わかたれし毛を人は祈りの前に火に投ず。

『霊山イーダの高きよりまつろう至上のわが天父、
また一切を見渡して一切を聞くヘーリオス[1]、
さらに川流また大地、また偽りの誓言を
誓える者にその死後の罰を冥府に課する者、
諸神願わくあかしたれ、また冥護せよこの誓い。 280
もしかれアレクサンドロスわがメネラオスを殺しなば、
ヘレネーおよび一切の財宝彼の物たらむ。
しかしてわが軍ことごとく海を渡りて辞し去らむ。
されど金髪メネラオス、アレクサンドロス倒しなば、
トロイア人はヘレネーとその財宝を渡すべし。  285
また正当の賠償をアルゴス軍に払うべし。
この事長く将来の子孫によって伝わらむ。
アレクサンドロス倒るるも、プリアモス王および諸子、
いなみてここに約さるる賠償払うを欲せずば、
我は即ちつぐないのためにこの地に留まりて、  290
最後の望み遂ぐるまで戦闘続けやまざらむ』

[1]日の神ヘーリオス。

かく述べ牲の小獣の喉首すごき青銅の
刃はつんざきて地の上にあえぐがままに切り倒す。
無残や青銅生命を体より奪い息絶やす。
かくて瓶(かめ)より金盃に酒を満たして、さらに地に  295
そそぎ、天上常住の不死の諸神に祈りつつ、
トロイアならびにアカイアの両軍おのおの陳じいう、

『至上至大のわが天父、また他の不死の諸神霊、
両軍のなかまっさきに誓いを破り捨てんもの、
彼も子孫も脳髄を今この酒を見るごとく[1]、  3-300
地上にそそげ、その妻は敵の手中に奪われよ』
かく陳ずれど、クロニオン、いまだ願いを納受せず。

[1]「〜を見るごとく」で「〜のように」という意味。
ダルダニデース[1]・プリアモスそのとき彼らに告げていう、
『トロイア人よ、脛甲の良きアカイヤ人よ、ともに聞け
高きイリオン風強きあなたに我はいま帰る。  305
アレースめずるメネラオス、彼と我が子の戦うを
我いま親しく我の目に眺むることを忍びえず。
両者いずれに運命の終わりのすでに定まるや、
ゼウスならびに天上の諸神まさしく知ろしめす』
しかく宣して神に似る老王やがて、小羊の  310
遺骸とともに馬車に乗り、手綱を双の手に繰れば、
アンテーノールかたわらに華麗の台に身を乗せつ、
二人はともにイリオンの都城をさして立ち帰る。

[1]ダルダニデースはダルダノスの裔という意味。ダルダノスはトロイヤの祖。

プリアモスの子ヘクトールおよび英武のオデュセウス、
そのとき現場まず測り、つぎに青銅の兜(かぶと)取り、  315
なかに二条のくじを入れ、これを揺るがし両人の
いずれか先に長槍を投ずべきかを定めんず。
そのとき人々もろともに神に祈りて手を挙げて、
アカイアおよびトロイアの両軍ひとしく陳じいう、

『霊山イーダの高きよりまつろう至上のわが天父、  320
いずれにもあれ両軍にかくなるつらき争いを
起せし者の命を絶ち、冥王の府[1]に入らしめよ。
友好および盟約はわれらの上にあらしめよ』

[1]地獄のこと。

しか陳ずれば大いなる堅甲光るヘクトール、
顔をそむけて甲振ればすぐにパリスのくじ出でぬ。  325
つづいて兵は隊列をなして地上に座を占めつ、
そのかたわらに駿足の軍馬は休む、武具も地に。
艶冶のアレクサンドロス、髪うるわしきヘレネーの
夫、そのとき肩のへに華麗の鎧投げかけつ[1]、
これにつづきて白銀の締めがね具せる脛甲の  330
美なるを左右のすねめぐり固くよろおい終わるのち、
かれの兄弟リュカーオン常に帯びたる青銅の 3-332
胸甲、いみじく彼の身にかなうを借りて胸に着け、
肩のあたりに銀鋲を飾りて美なる青銅の
長剣掛けて、大いなる堅盾(けんじゅん)さらにその上に。  335
つぎにりりしき頭上(とうじょう)に堅甲着れば、その上に
馬尾の冠毛ものすごく勢いたけくふりゆらぐ。
つぎに鋭き長槍をしかとその手に握り持つ。
アレースめずるメネラオスその軍装はまた等し。

[1]軍将の武装の順序。11-18、16-131、19-369、などほぼ同じ。

軍装おのおの両陣のなかに終わりて、トロイアと  340
アカイア勢のただなかに二人の武将いかめしく、
にらみ進めば、トロイアの駿馬を御する兵たちと
脛甲かたきアカイアの兵たち、驚異の目をみはる。
測り定めし場のなかにかくて両雄相近く、
おのおの槍を振りかざし互いに憤怒(ふんぬ)の情に燃ゆ。  345
ただちにアレクサンドロス、まさきに影を長くひく
長槍ひょうと投げ飛ばし、アトレイデースの盾を打つ。
さはれ青銅貫かず、槍の穂先は堅剛の
盾に曲りぬ。引きついで長槍とりてすすみ出で、
アトレイデース・メネラオス祈念を神に捧げいう、  3-350

『天王ゼウス[1]、われをして真先きに我をそこなえる 3-351
これこのアレクサンドロスいま懲らさしめ、わが手もて
彼を倒すを得さしめよ。後世これに鑑みて
主人の尽す歓待に仇報ゆるを恐るべし』

[1]歓待を裏切るものを懲罰する神としてゼウスに呼ぶ(13-624にも)。

しかく宣して影長き大槍振りて投げ飛ばし、  355
プリアミデースの満月に似たる円盾ひょうと打つ。
燦爛光る円盾を堅剛の槍つらぬきつ、
巧み尽せる銅冑(どうちゅう)[1]のただ中さらに刺し通し、
さらにその槍、脇腹に添うて胴衣をつんざきぬ。
そのときアレクサンドロスその身屈めて死を逃る。  360
アトレイデース次ぎてまた銀鋲飾る剣を抜き、
高く振り上げ堅甲の頂きめがけ振りおろす。
されども三つにまた四つに長剣折れて飛び散れば、
アトレイデース大空を仰ぎて嘆じ叫びいう、

[1]「銅冑」は甲冑に同じ。

『ああクロニデー!何神か君に残忍まさらんや!  365
無道のアレクサンドロス討てりとわれの思いしを、
長剣砕け手より落ち、槍またわれの掌中を
離れて飛びて効あらず。ああわが敵は傷つかず』

しかく叫んで飛びかかり、馬尾の冠毛頂ける
堅甲つかみ彼を引きアカイア陣に引き返す。  370
その堅甲をあごの下むすびて刺繍うるわしき
革ひもかれの柔軟ののど首いたく引き締めつ、
かくて捕えて勇将は不朽の誉れ得べかりし。
そをすみやかに認め来てアプロディーテ、ゼウスの子、
猛にほふりし牛王の革にて作るひも断てば、  375
頭はずれし堅甲はアトレイデースの手に残る。
そを脛甲のすぐれたるアカイア軍の陣中を
めざしうち振り投げやれば、親しき友は収め去る。
さらに新たにメネラオスあくまで敵を倒すべく、
鋭槍(えいそう)取りて憤然と走り出づれば敵将を  380
アプロディーテは神力にやすく雲霧のなか隠し、
香(こう)を薫んじてかんばしき閨房のなかつれ来る。
女神かくしてヘレネーを呼ぶべくすすみ、高塔の
なかに多数のトロイアの友の間に彼女見て、
神酒のごとき薫香を放つその衣(きぬ)取りて引き、  385
ラケダイモンに在りし頃、久しく仕え美しき
羊毛彼女のために織り、いたくも彼女に愛されし、
いまは高齢すすみたる老女の姿とり来り、
アプロディーテはヘレネーに向かいてすなわち宣しいう、

『来たれこなたに、パリスいま汝を呼びて帰らしむ。  390
彼いまなかの閨房の美なる臥榻(がとう)[1]に横たわり、
容姿輝き華衣(かえ)を付く。そのさま人と戦闘を
なすべく来るそれならず。舞踏の会に赴くか、
あるいは舞踏を今やめて休らうさまにもさも似たり』

[1]「臥榻」はベッドのこと。

その言聞きてヘレネーは胸裏の思い乱されつ、  395
やがて女神の艶麗の首筋、情を刺激する
胸もとおよび明眸の光を認め知りし時、
がく然として声をあげ、アプロディーテに向かいいう

『ああ非道なり、わが女神!われをあざむく何ゆえぞ?
今また我を遠き地に、プリュギアーまたマイオニアー[1]、  3-400
戸口ゆたかのとある郷――そこに明朗の声[2]はなつ
人間のうち君めずる人ある庭(にわ)に引き行くか?
いまメネラオス、秀麗のパリスに勝ちてその郷に、
無残の我を率ゆべく望むがゆえにまたここに、
君現われて陰険の策謀またもたくらむや?  405
ああ君、神明の域を捨て、進みパリスの前に座せ。
足に再び神聖のウーリュンポスを踏むなかれ。
今より長く彼のそば悲しみ嘆け、彼守れ。
やがてはかれの婦とならむ。あるいは彼の婢とならむ。
そこに臥所(ふしど)を供うべく恥を犯してわれ行かじ。 3-410
行かばトロイア満城の女人こぞりてわれ責めむ。
しかして無限の憂愁を我は心に抱くべし』

[1]リディアの古名。
[2]人間は言語明らかのもの。

アプロディーテは憤り、すなわち答えて宣しいう、
『愚かなる者いましめよ、我を激することなかれ。
われ怒る時汝への愛憎ところを変ゆべきぞ。  415
両軍中に怨恨を生ぜしむべきわが思索
今はた汝恐れずや? 悲惨の最期恐れずや?』

しか宣すればゼウスの子ヘレネー聞きて畏怖をなし、
光り輝く銀色の被衣(かつぎ)[1]に隠れ黙然と
行くをトロイア女性見ず。女神はそこに先立ちぬ。  420

[1]「被衣(かつぎ)」はベールのこと。

かくてパリスの壮麗の館に再び来る時、
従者はすべて急がしく各々おのが業につき、
麗人ひとり広壮の高き屋のした閨房に。
嬌笑(きょうしょう)[1]めずるアプロディテ、彼女のために椅子を取り、
親しくこれを運び来て、それをパリスの前に据う。  425
アイギス持てるゼウスの子ヘレネーこれに身を託し、
目をそむけつつ良人をとがめて彼に陳じいう——

[1]「嬌笑」はなまめかしい笑い。

『君戦場を逃げかえる。そこに初めのわが夫、
英武の彼に倒されて君生命を捨つべきを。
武力に腕に槍術に、アレースめずるメネラオス、430
これにまさると高言をああ君さきに吐きながら、
今またさらにまのあたりアレースめずるメネラオス、
彼に戦い挑むべく行かずや?——ああ否、いま君に
勧む、戦うことなかれ。かれ金髪のメネラオス——
彼を敵とし愚かにも勝負決することなかれ。  435
おそらく彼の長槍にたちまち命を失わむ[1]』

[1]ヘレネーの性格をあらわす——一方に於いて高き義憤あり、しかも他方においては卑しみながらも愛するパリスの安全をおもんばかる。

そのときアレクサンドロスそれに答えて陳じいう、
『妻よ苛酷の言葉もてわれをとがむることなかれ。
神アテーネー助くれば今メネラオス我に勝つ。
我また機会なからめや。われにも神の助けあり。  440
いざ今ともに寝屋に入り愛をあくまで味わわむ。
恋情われを襲うこと今のごときはあらざりき。
ラケダイモンの王土より君を誘いてその昔、
船に乗り行き、クラナエーその島のなか恩愛の
寝所に君と語らいし、その日も今になお如(し)かじ。 445
いま身を襲う恋々の情はそぞろに耐え難し』
しかく陳じて先立てばヘレネーあとに従えり。
やがて美麗の床のうえ二人はともにうち伏しぬ。

[1]「如く」は「若く」とも書き、「及ぶ、匹敵する、勝る」の意。

アトレイデースこなたには艶冶のパリス探すべく、
獅々奮迅(ししふんじん)の勇なして諸軍の間めぐり行く。  3-450
されどトロイア兵たちもその援軍もアレースの
めずる勇将メネラオスにパリスの姿示しえず。
愛するゆえに隠せしにあらず(パリスを見しとても)。
死の運命を見るごとく彼はすべてに憎まれき。
アガメムノーン、民の王、そのとき皆に向かいいう、  3-455

『トロイア、アカイア両軍と、援軍ともにわれに聞け、
アレースめずるメネラオスいま明らかにうち勝てり。
いざアルゴスのヘレネーとその財宝をみな我に
渡せ。しかしてふさわしき賠償われにいま払え。
このこと長く後世の記録の上に伝わらむ』
アトレイデースかく宣しアカイア軍勢みな賛す[2]。 3-460

[2]第三巻はここに終れどメネラオスとパリスとの決闘の仕末は第四巻に到って定まる。なおホメーロスの両作を各二十四歌に分かつははるか後世(アレクサンドリア時代)ならむ(リーフ)。


イーリアス : 第四巻



 オリンポス山上神々の評議。天王クロニオーンはアカイア、トロイア両軍を和せしめんとす。天妃ヘーラーの怒り。クロニオーンの答え。トロイアは天妃の意のまま滅亡せしむべし、しかれども同様に天王は他日天妃の愛する城市をもその意の欲する時は破滅すべしという。天妃の承諾。天王はアテーネーをトロイア軍に遣わし、先の約定を破らしむ。使いの女神はトロイアの将パンダロスに勧め敵王メネラーオスを射て負傷せしむ。その出血を見てアガメムノーン悲しむ。軽傷なることを告げてメネラーオスは兄を慰む。軍医マカーオーンの施薬。アガメムノーンの戦いの準備。陣中を巡り勇者を励まし、怯者を責む。諸将の態度。両軍の形勢。混戦の叙述。アンティロコスの奮戦。エレペーノールの死。ロイコスの死。オデュッセウスの怒り。敵王の庶子を討つ。トロイア勢を励ますアポロン。ディオーレスの死。パイロオスの死。両軍相互の討ち死に。

ここにゼウスを中心にこがねのゆかに座を占めて、4-1
群神評議行える——なかにヘーベー[1]、端麗の
女神かれらにネクタルを捧げめぐれば乾盃の
金の盃ほしながらトロイア国を眺めやる。
そのときすぐにクロニオン、天妃(てんひ)ヘーラーの胸のなか、  4-5
瞋恚を起すつらき言、紆余曲折(うよきょくせつ)に宣しいう、

[1]ゼウスとヘーラーとの娘、宴席に侍する者。

『二位の女神はアカイアの王メネラオス助くめり。
そはアルゴスのヘーラー[1]とアラルコメネーのアテーネー[2]。
されど二神は遠ざかり、ただ傍観を喜べり。
これに反してパリスには、嬌笑めずるアプロディテ、  4-10
絶えずともない、運命の非なるを常に払い除け、
今はた最期覚悟せる彼の一命助けたり。
されどもまさに勝利者はアレースめずるメネラオス。
この終局をいかにせむ、この事われら計らわむ。
さらに新たに残虐の奮戦苦闘起さんか?  15
あるいは平和を両軍のなかにいまさら来さんか?
もし今すべて皆こぞり和議を喜び容るべくば、
プリアモス王領有の都府は豊かに栄え得ん、
またメネラオス、ヘレネーを勝利の家にともなわむ』

[1][2]二神の崇拝はこの二都を中心とす。

しか宣すれば向かい座し、トロイア軍の災いを  4-20
計らい居たるアテーネー、ヘーラーともにつぶやきつ。
アテーナイエー[1]黙然と口を閉ざしてもの言わず、
激しき憤怒身を焼きて父なる神にいきどおる。
されどヘーラー胸中の怒り抑えず叫びいう、

[1]アテーネーまたアテーナイエー。

『ああ恐るべきクロニデー[1]、いま何事のおおせぞや。  25
わが心労と流汗を(疲労のゆえの流汗を)
君いまむなしくなさんとや?プリアモスらの一族を
絶やさんために軍勢を募りし戦馬もみな疲る。
よし、なさばなせ、他の諸神断じてこれを賛しえず』

[1]クロニデース(クロノスの子ゼウス)の呼格。

雷雲寄するクロニオン、怒りて答え陳じいう、  30
『非道の汝、プリアモスならびにその子何ほどの
害を汝に加えしや?汝激しくイリオンの
堅固の都城倒すべく願えるまでに加えしや?
その城門と城壁を崩して汝、生きながら 4-34
プリアモス王および子ら、およびその他のトロイアの  35
民をむさぼり食らう時、汝の怒りいやされむ。
汝の望むままになせ。この争いがこの後に
我と汝の間との難題たることさけるべし。
我また汝に別にいう。汝心に銘じおけ。
我また情願せつにして、汝のめずる民族の  40
住まえる都城破るべく望まん時に、汝わが
怒りとどむることなかれ。任せよ我にその時は。
わが意に反し行なうを今日は汝に許すべし。
日輪および天上の諸星の下に人間の 4-44
住む一切の都府のなか、高き聖なるイリオンを、45
プリアモス王およびその槍よき王の民族を、
我はその他の一切[1]にまさりていたくめで思う。
彼らは我に祭壇を捧げ、供物を怠らず。
神酒犠牲を怠らず。こは神明の受くる礼』

[1]ここではゼウスはトロイを大切な町だと明言する。

そのとき牛王の目を持てるヘーラー答えて彼にいう、  4-50
『あらゆる都城のなかにしてわが最愛のものは三つ。
アルゴス[1]およびスパルター、さらに広野のミュケーナイ。
君の憎悪の的たらばこれらすべてをくつがえせ!
さまたぐためにわれ立たず、破壊を恨むこともなし。54(原訳ヌケ)
よしわれ怒りその破壊禁ぜんとても効あらじ。55
怒るも何の効あらじ。君の力はいやまさる。 
されどもわれの辛労を無効に帰することなかれ。
われは神なり、その元はまさしく君と相同じ。
巧智に富めるクロノスの至上の子とし生(あ)れし我。
彼の子にしてまた君の正妻の名を呼ばるれば、  60
二重に崇(たか)し。君はまた神々すべてをみな率ゆ。
さは当面のこの事についておのおの譲るべし。
君はこの身に、身は君に、しかせば他はみな従わむ。
トロイア、アカイア両軍の戦場中にアテーネー 4-64 
今すみやかに遣わして、試みしめよ、いかにして、 65
トロイア軍がまっさきに誓いにそむき、戦勝の 
アカイア軍を破るべく、その戦端を開かんか』

[1]アルゴスは一般にギリシア国全部を指す。されどこの行のは一都市の名称。

しか宣すれば、クロニオン、人間ならびに神の父、
これに従いアテーネー呼びてただちに陳じいう、
『いま迅速にトロイアとアカイアの軍さして行け。  70
トロイア軍がまっさきに誓いにそむき、戦勝の
アカイア軍をやぶるべくその方法を試みよ』 4-72

しかく宣してアテーネー(もとよりこれを望みたる
女神)を激し励ませばウーリュンポスの高きより、
女神とびおる。たとうればクロノスの子のくだす星、 75
爛々として海人(うみびと)にまた軍隊に凶兆を
なすもの。しかして光芒を四方に遠く放つもの。
神アテーネーこれに似て大地の上に飛びくだり、
両軍のなか現わるる。これを眺めて驚くは
馬術巧みのトローエス、脛甲かたきアカイオイ。  80
おのおのこれを眺め見て近きに隣る者にいう、
『さらに新たに残虐の畏怖の戦い起らんか?
あるいは人の戦いの審判者たるクロニオン、
トロイア、アカイア両軍の間に平和来さんか?』

アカイアおよびトロイアの各人かくぞ陳じたる。  85
いまトロイアの陣中をあまねくめぐるアテーネー、
アンテノルの子ラオドコス†、勇士の姿借り来り、4-87
英武あたかも神に似るパンダロス[1]を探し行き、
そのパンダロス、リュカオンの勇武の子息見出だしぬ。4-89
彼を囲むは盾持てる精悍(せいかん)無比の若き子ら、  90
アイセーポスの流れより彼にともない来る者。
すなわち彼に近寄りて羽ある言句述べていう——

[1]2-826参照。

『リュカーオーンの勇武の子、君いま我に聞くべきぞ。
勁箭(けいせん)[1]飛ばしメネラオス王を射ることよくせずや?
よくせばトロイア全軍の感謝ならびに賞賛を、  95
特にもアレクサンドロス・パリスのそれをかち得べし。
アトレイデース、軍神のアレースめずるメネラオス、
君の飛箭に倒されて火葬の薪(まき)に登る時、
彼らまっさきに莫大の恩賞君に与うべし。
いざ立て、立ちて栄光の敵王目がけ矢を放て。4-100
さはれアポロにまず誓え。「聖なる都ゼレイアに 4-101 
われの帰郷のあかつきに、リュキア生まれの銀弓の
神に初生(はつな)の子羊のすぐれし牲を捧げんと」』

[1]「勁箭」は強い矢のこと。

しかく宣するアテネーに浅慮の彼は従いて、
すぐに光沢うるわしき弓をとりいず[1]。その弓は  105
山羊の角より成れるもの。彼そのむかし岩窟に
待ち伏せしつつ、飛びいでし獣の胸をつらぬきて、
地上にのけに倒れしめ、頭よりいずる右左、
十六束の長さなる二条の角を得たる時、
良工たくみにその角を合わせ整え滑らかに、  110
磨き終わりて黄金の端を上下に付せるもの。
その剛弓を張り終えてこれを地上にさしおけば、
勇武の友らその前に盾を並べて押し隠し、
アレースめずるメネラオス、敵の勇将射る前に、
アレースめずるアカイアの健児の襲うなからしむ。  115
かくしてかれの矢筒より蓋を開きて一条の
新たの羽箭——恐るべき苦痛のもとを取り出し、
弦上ただちに惨酷の飛行の武器をあてがいつ。
聖なる都ゼレイアにおのが帰郷のあかつきに、
清き初生の子羊の牲捧ぐべく銀弓の  120
神アポローン——リュキアーに生まれし神に誓いかけ、
矢と牛王の弦ととも矢筈(やはず)を取りて引きしぼる。
弦は胸もと、鋼鉄の鋭き先は弓端に。
かくて大弓満月のごとくに張りて、射放てば、
弓高らかに鳴りひびき弦は叫んで鋼鉄の  125
矢じりするどき勁箭は、全軍のうえ翔けり飛ぶ。
されど不滅のもろもろの神は汝を、メネラオス、
忘れず。特にゼウスの子、戦利の司(つかさ)アテーネー、
汝の前に身を進め飛箭の害を滅ぜしめ、
安らに眠る小児よりハエを慈愛の母払う  130
さま見るごとく、勇将の身より飛箭をはずれしむ。
女神すなわち腹帯の金の締金(しめがね)、胸甲の
二重の上に合うところ[2]、ここに飛箭の道を向く。
いま惨毒のつらき矢は飛んで、帯のへすすみ来つ、
その精妙に作られし帯をつらぬきおどり入り、 135
同じくともに精妙の胸甲、さらに金属の 
胴衣をうがつ。——その胴衣、矢を防ぐべき身の守り。
至上の守り彼は着る。これをも飛箭貫ぬきて、
いま肉体のそとの端、皮膚を破ればたちまちに、
暗紅色のすごき血は傷口よりし流れ出づ。  140
マエオニアーまたカリアーのとある女性が、染料の
赤きをもって純白の象牙の馬具を色どりつ、
こを室内に陳ずれば多くの騎士は憧憬の
目を光らせど求めえず。ただ帝王の珍宝と
なるのみ。かれの乗る駒の飾り、ならびに御者の栄え。—— 145
かくこそ染むれ、メネラオス、汝流せる紅血(こうけつ)は 
真白き汝のももとすね、さらにくだりて足首を。

[1]レッシングの『ラオコオン』十五章(194頁)・十六章(208頁)にこの一段を評す。
[2]体の上部を覆う鎧、下部を覆う鎧と合するところ。

その暗紅の血の流れ傷より出づるを眺め見て、
アガメムノーン、民の王、がく然としておののけば、
アレースめずるメネラオス、同じくともに身はふるう。 4-150
されどつづいて、付けひも[1]が矢じりとともに体外に 
あるを認めて、メネラオスその沈着を取りもどす。
アガメムノーン、しかれども、その弟の手を取りて、
朋輩もろとも叫喚の声も激しく陳じいう、

[1]矢じりを矢がらに固着せしむる紐なるべし。

『ああわが弟、トロイアと戦わんため陣頭に 155
汝を立たせ誓いしは、汝にとりて死なりしよ。 
トロイア人は神聖の誓いを破り、汝射ぬ。
さはれ誓いと子羊の血と生の酒の献納と
信頼おける握手とはついにむなしきものならず。[1]

[1]2-341参照。

『よしや迅速ならずとも、ウーリュンポスの神霊は  160
遅くも必らず成し遂げむ。彼らは重くつぐなわむ。
かれらの頭、また妻子すべてを挙げてつぐなわむ。
この事いま我明らかにわが胸中に感じ知る。
聖なるイリオン、プリアモスおよび槍よきその王の 
かの族挙げていっせいに滅亡の時来るべし[1]。 4-165
高き玉座に、天上に宿れるゼウス・クロニオン、 
彼らの不実いきどおり、黒暗々のアイギスを
彼らすべてに震わさむ。この事必ず効あらむ。
さはれ、ああわがメネラオス、汝滅びて一生の
運命ここに閉ずべくば、われの苦悩はいかばかり。 170
かくて渇(かわ)けるアルゴスに、責むべき我は帰らんか。 
すぐにアカイア軍勢は祖先の郷にあこがれん。
プリアモスまたトロイアの誇れるままにアルゴスの
ヘレネーここに残し行き、成すべき業は成らずして
トロイアの地に葬られ、汝の骨は地下に朽ち、  175
『かくて無残のトロイアのある者、誉れのメネラオス 
その墓のうえ飛び上がりおどり叫びてかく言わむ、
「ここにむなしくアカイアの軍勢率い来しごとく、
アガメムノンの一切の義憤の果てはかく成らむ。
見よ、善良のメネラオスここに残して、空虚なる 180
船に乗じてなつかしき故郷に彼は去り行けり」 
他日あるものかく言わむ。——大地そのとき身を覆え[2]』4-182

[1]6-449に同じ予言ヘクトールの口に述べらる。
[2]そのときは予は死を願う。

そのとき金髪メネラオス、彼を慰め答えいう、
『悲しむなかれ。アカイアの兵をおどかすことなかれ。
鋭き矢じり、幸いに急所をはずれ、腹帯は 185
表にわれを防ぎ得つ、下に胸甲また胴衣、 
銅工たくみにわがために作りたるもの、身を救う』

そのとき答えて権勢のアガメムノーン彼にいう、 
『ああ友愛のメネラオス、しかあれかしと我念ず[1]。
さはれ負傷を調べ見て、上に良薬貼(ちょう)すべく、  190
つらき苦痛を救うべく、今一人の医を呼ばむ』
しかく宣して伝令のタルテュビオスに向かいいう、 192

[1]「念ず」は「願う」の意味でよく使われる。

『タルテュビオスよ、すみやかにマカオーンここに呼び来れ。 
アスクレピオス——すぐれたる名医の息を呼び来れ。
来りて彼は検すべし。アカイア軍の首領たる、 195
アレースめずるメネラオス、トロイアあるは援軍の 
リュキアの弓に射られたり、彼の栄光わが苦痛』

しか宣すれば伝令使、命を奉じてあやまらず、
青銅よろうアカイアの軍を横切り、すぐれたる
マカーオーンを探しつつ、やがてたたずむ彼を見る。  4-200
彼を囲むは盾持てる健児一団、トリッカーの
地より、良馬の産地より彼に従い来る者。
すなわちそばに近寄りて羽ある言句を陳じいう、
『駆けよアスクレピオスの子、アガメムノーン、君を呼ぶ。
行きてよろしく検すべし。アカイア軍の主領にて 205
アレースめずるメネラオス、トロイアあるは援軍の 
リュキアの弓に射られたり、彼の栄光わが苦痛』

しかく陳じて胸中の彼の心を動かしつ、
アカイア族の大軍の列を二人は過ぎて行く。
かくて金髪メネラオス飛箭に打たれ傷つける  210
地点に着けば、諸々の将軍彼を取り囲む。
すぐれし軍医マカーオーン、妙技は神に似たる者、
真中に立ちて負傷者の帯よりすぐにその矢抜く。
鋭きその矢抜き去れば鋭き矢じりくだけ落つ。
光る腹帯やがて解き、つづいて下の胸甲と、  215
青銅の具を作りなす工人の手になる胴衣
解き、惨毒の矢の射りし傷をくわしく検しおえ、
血を吸い出だし、熟練の医は妙薬をその上に
貼しぬ。むかしケイローン、彼の父めで賜びしもの。
将士らかくて大音の将メネラオスいたわれる、  4-220
そのときかなたトロイアの盾持つ軍勢寄せ来る。4-221
アカイア同じく戦闘を思い再び武具を帯ぶ。
そこに見るべし、英邁のアガメムノーン怠らず、 恐れず、荒ぶ戦闘に対し辟易(へきえき)あえてせず、
栄光得べき戦闘をめがけ激しく苛立つを。  225

戦馬ならびに青銅のいみじき戦車彼は捨つ、
ペイライオスの孫にしてプトレマイオス生める息 
エウリュメドーン(ギ)扈従(こじゅう)して、あえぐ双馬をかたわらに
止むれば、王は命下し、かたえ離れず近く立ち、
諸隊経めぐり指揮の果て、疲労のおりに備えしむ。  230
かくして徒歩(かち)に諸々の部隊を王はめぐり行き、
駿馬を御するアカイオイ勇みはやるを望む時、
そのかたわらに近寄りていたく励まし宣しいう——

『アルゴスの子ら、勇ましき英気たゆむることなかれ。
天父ゼウスは虚偽の士をたえて助くることあらず。 235
まさきに誓い破りすて暴を行なう不義の者、 
鷙鳥彼らのやわらかき肉くらうべし。そのめずる
妻女ならびにいとけなき子らは我らの兵船に
運び去るべし、イーリオン陥落なさん暁(あかつき)に』

これに反して戦闘にためらう者に臨む時、 240
憤怒の言に激しくもアガメムノンは責めていう、 
『ああ、ああ汝アルゴスのおそれたる者、恥じざるや?
なに故かくもぼう然と鹿の子のごとたたずむや?
広き大野を駆け走り疲るる時に立ちどまり、
勇気はたえて胸中に湧かざる子鹿見るごとし。 245
汝らかくもぼう然と立ち戦闘に加わらず。 
クロニオーンが手を伸して救うや否や見んがため、
白波寄する海の岸、わが兵船をひき上げし
ほとりに近くトロイアの軍近付くを待たんとや?』

諸軍諸隊に命令を伝えてかくて巡り行き、4-250
クレーテス人豪勇のイードメネウスを取り囲み、 
軍装しつつあるところ、諸隊を経つつ王は訪う。
イードメネウスは先陣の中に猛猪を見るごとし、
メーリオネスは彼のため後陣を励まし進ましむ。
アガメムノーン、民の王、これを眺めて喜びて、  255
甘美あたかも蜜に似る言にただちに賛しいう、

『駿馬を御するダナオイのすべてにまさり君をわれ、
イードメネウスよ尊べり。戦場ならびに他の役に、
また宴席に尊べり。アルゴス軍の諸頭領、4-259
その盃中に宿老の酌むべき美酒を混ぜる時、 260
他の髪長きアカイアの族は酌むべき分量に 
限りあれども、ただ君に我と等しく充ちあふる
盃つねに前にあり、心のままに酌み得べし。
いざ戦闘にふるい立て、さきに高言せしごとく』

クレーテースをひきいたるイードメネウスは答えいう、  265
『アトレイデーよ、そのむかし約し誓いし時のごと、
君に対してとこしえにわれ忠誠の友たらむ。
他の長髪のアカイオイ、さはれ励ませ迅速に
たたかわんため——盟約を踏みにじりしはトローエス。
未来に彼らを待つものは死と荒廃の二つなり。  270
彼らまさきに約やぶり我らに危害加えたり』

しか陳ずれば喜びてアトレイデスは過ぎ去りつ、
次ぎに隊伍を経めぐりてアイアスのもと訪い来る。
アイアス二人よろおいて、従う歩兵は雲をなす。
山羊を飼う者、展望の高き場(にわ)より海のうえ、  275
ゼピュロス[1]吹きて駆りきたる飛揚の雲を望むとき、
漫々として限りなき、潮をしたに瀝青の
色を深めて寄せる雲すごき颶風(ぐふう)[2]を誘うとき、
牧人ふるいおおのきて洞窟のもと群を駆る——
その雲に似て勇猛の二人アイアス取り囲み、
ゼウスの愛(め)ずる少壮の密集の隊ものすごく、  280
盾と槍とを振りかざし戦場さしてゆるぎいず。

[1]西風。
[2]颶風とは強い風、あるいは台風のこと。

アガメムノーン、権勢の王は眺めて喜びて、
彼らに向かい口開き羽ある飛揚の言をいう、
『青銅よろうアカイアの兵をひきいるアイアンテ[1]、  285
君らに指令の要を見ず(君らを鼓舞する不可なれば)。
君らは兵士ら励まして戦闘激しくつとめしむ。
ああわが天父クロニオンまたアテーネー、アポローン、4-288
かくなる熱意一切の人の胸中存し得ば!
プリアモス王統ぶる都府いま迅速に陥らむ。 290
わが軍勢の手よりして劫略受けむ、荒されむ』 

[1]二人のアイアス、呼格。

しかく宣してその場(にわ)に彼らと別れ他に進む。
つぎに見たるはネストール、ピュロスの首領、朗々の
声を放ちて戦闘に軍を整え進ましむ。
かたえに立つはペラゴーン†、アラストールとクロミオス†、 4-295
王ハイモーン、さらにまたビアース(ギ)、諸民の主たる者。
戦馬兵車を備えたる騎兵まさきに進ましめ、
後陣は勇気凛々(りんりん)のあまたの歩兵、戦いの
防壁として守らしめ、劣れるものを中央に
据えてかくして好まずもやむなく戦闘つとめしむ。  4-300
さらにまさきに命令を騎兵にくだしいましめて
軍馬を制し、隊列のなかに乱入なからしむ、

『誰しも馬術と武勇とに過信をなして他の前に
ひとりトロイア軍勢と戦うことを求むるな。
また何びともしりぞくな。しかせば汝ら弱からむ。  305
さはれ誰しも戦車より敵のそれへとせまるとき、
槍をふるいて突き進め。このことはるかにまさるべし。
まさしくかくもいにしえの勇者は彼の胸中に
かかる思いと心とを具して都城を破りにき』

戦術長くよく知れば老将かくは励ましぬ。  310
これを眺めて喜べるアガメムノーン権勢の
王はすなわち彼に向き羽ある飛揚の言をいう、
『老将軍よ願わくは君の心の望むごと、
双脚君にしなやかに、勇力君に強かれよ。
しか念ずれど老齢は他におけるごと君を打つ。  315
ああ他の誰か代り得て、君少壮の勇ならば!』

ゲレーニア騎将ネストールすなわち答えて彼にいう、
『アトレイデーよ我もまたせつに望めり、その昔
エレウタリオーン[1]倒したるその日のごとくあれかしと。
さはれ諸神[2]は人間にすべてを同時与え得ず。  4-320
ああ少壮の身は昔、――いまは老齢身を襲う。
さはれ我なお騎兵らの列に加わり、忠言と
論弁[3]をもて令すべし。これ老人の分ならむ。
その年齢の若さにて我にまさりて武具を取り
その精力にたよる者、よろしく槍をふるうべし』  325

[1]7-133以下。
[2]13-728、18-328。
[3]2-53。

その言聞きて喜びてアトレイデスは過ぎ去りつ、
ペテオースの子強き騎士メネステウスの立つを見る。
彼を囲むはアテナイの雄叫(おたけ)び高き兵の 群。
そのかたわらに近く立つ聡明知謀のオデュセウス、
ケパレニアーの剛強の群、将軍を囲み立つ。  330
彼らはいまだ軍勢の鬨の声をまだ聞かず。
戦馬を御するトロイアとアカイアの軍もろともに
今かろうじて立ち上がる、その形勢を彼ら見る。
アカイア軍の他の部隊、トロイア軍を敵として
ふるいすすみて戦闘を始むるを待ちたたずめり。  335
アガメムノーン、民の王、これを眺めて叱り責め、
すなわち彼らにうち向かい羽ある飛揚の言をいう、

『ペテオースの子ああ汝ゼウスの愛ずる王の子よ、
ああまた汝策謀に富みて偽り多き者。
汝らなどて離れ立ち、恐れふるいて他を待つや?  340
先鋒中に身を置きて汝らよろしく身を起し、
奮戦苦闘のただなかに勇みて進むべからずや!
アカイア族が宿老のために酒宴を開く時、
その宴席にいやさきに汝二人を余は招く。
そこに汝ら焼肉を好みて食し、蜜に似る  345
甘き芳醇[1]くみ干して、欲するままに常に飽く。
さるを汝に先んじてアカイア軍の十部隊
剣戟(けんげき)取りて戦うを汝ら好みて眺むらん』

[1]酒のこと。

知謀に富めるオデュセウス目を怒らして彼にいう——
『アトレイデーよ何たる語、君の歯端を漏れ出づる?  4-350
軍馬を御するトロイアの兵に対して戦端を[1]
アカイア人の開く時、われ戦闘を捨つるとや?
欲せばあるいは念頭に置かば君眺むべし、
テーレマーコスの父はよく軍馬を御するトロイアの
先鋒めがけ闘うを。むなしその言、風に似て』  355

[1]原文はアレース(軍神)を目覚ます。

彼の怒りを権勢のアガメムノーン認め知り、
さきの言句をうち消して笑みを含みて彼にいう——
『ラーエルティアデー、神の裔、知謀に富めるオデュセウス、
我は過分に君責めず。過分に君に指令せず。
君胸中に温情を蓄うことを我は知る。  360
君の心に思うこと我も同じくまた思う。
いでやこの事この後にわれあがなわん。もしつらき
言句わが口漏るとせば、神明すべてを打ち消さん』

しかく宣してその場(にわ)に彼らと別れ他にすすみ、
テュデウスの子剛勇のディオメーデース、堅牢に  365
組まれ戦馬にひかれたる兵車の上に立つを見る。
そのかたわらに立てる者カパネウスの子ステネロス。
彼らを眺め権勢のアガメムノーン叱り責め、
羽ある飛揚の言放ち彼に向かいて宣しいう、

『軍馬を御する豪勇のテュデウスの子ああ汝、  4-370
何ゆえ恐れおののくや?戦場眺め恐るるや?
汝の父は畏怖知らず、常に親しき同僚に
先んじすすみ戦闘を敵にいどむを喜べり、
その戦場につとむるを眺めし者のいうごとし。
我は彼見ず彼知らず、彼の優秀ひとは説く。  375
彼そのむかし客としてミュケーナイの地ゆきて訪い、
ポリュネイケースもろともに従軍の徒を呼び集め、4-376
(二人そのときテーバイ[1]の聖なる都市と戦えり) 4-378
すぐれし援軍与うべく彼らにせつに乞い求む。
ミュケーナイ人うべないて彼らの求め賛せしも、  380
ゼウスはこれをひるがえし、不吉の兆し現わしぬ。
二人はかくて辞して立ち、行路進めてアソーポス[2]、
高き蘆荻(ろてき)と青草の繁れる川にたどり来ぬ。
そこにアカイア民衆の令を奉じて使者[3]となる
彼テューデウス、カドモスの多くの子らの飲宴を  385
エテオクレース勇将の居館のなかに認め得つ。
馬術巧みのテューデウス彼ただ一人客として、
カドモス族の数多きもなかにありておののかず、
彼らに競技挑みつつ、容易に彼ら一切に
勝ちを制せり。アテーネー女神の助けかしこかり。  390
カドモス族は憤懣にたえず、その帰路うかがいて、4-391
五十の少壮誘い来て密に待ち伏せ陣を敷く。
その五十人ひきいるは二人の勇士、その一は
ハイモニデース・マイオーン、不滅の神に似たる者、
アウトポノスを父とするポリュボンテースまた強し。  395
されどもこれにうち勝ちて無残の運に終らしめ、
神の示験(じげん)をかしこみてただマイオーン一人を
許して国に帰らしめ他をいっせいにうち取りぬ。
アイトーリアのテューデウスかかりき。生める彼の子は
武勇は父に劣れども弁論のうえ彼に勝つ』  4-400

[1]すなわち七門を有する城市、408。
[2]テーバイの南の川
[3]講和の使者

しか宣すれど豪勇のディオメーデース物言わず。
高き王者の叱責を黙然としてかしこみぬ。
されど名誉のカパネウス生める子答えて王にいう——
『事明らかに知りながら、アトレイデースよ、いつわりそ。
我ら父より格段にまされりとする誇りあり。 405
父より少なき軍勢によりていや増す壁のもと、4-406
諸神の示験(じげん)を信じつつ、ゼウスの助けこうむりて、
七つの門のテーバイの都市を我らは攻め取りき[1]。408
しかして父は愚かにも気の錯乱に滅び去る。
されば同じき栄光にわれと父とを置くなかれ[2]』  410

[1]十年後再び攻めてテーバイを取る。
[2]父にまさると自賛す。東洋的ならず。

しかいう彼を豪勇のディオメーデースにらみいう、
『おじよ黙して座に帰り、我の言句を受けいれよ。
脛甲かたきアカイアの子らをいくさに駆り立つる
アガメムノーン総帥をあに我あえてとがめんや?
アカイア軍勢打ち勝ちて聖地イリオン陥いれ、  415
トロイア軍をほろぼさば栄光彼の身にあらむ。
アカイア軍勢敗れなば大哀彼の身にあらむ。
さもあれ我ら両人は身の奮戦を計らわむ[1]』4-418

[1]5-718と同じ。

しかく宣して兵車より大地の上に飛びおりる、
その将軍のうがちなす青銅の武具鳴りひびく。  420
不屈の勇士さえなおもその心肝を冷やすべし。

たとえば海の潮流の鞺鞳として岸の上、
西吹く風に駆られ来て波また波と砕け散り、
初めは沖に高まりてやがて大地にうちつけつ、
怒号激しくさらにまた岬のめぐり、波がしら 425
立てて泡沫飛ぶごとし。——まさにその様見るごとく、 
ダナオイ族の軍団は隊また隊と休みなく、
つづいて戦場さして行き、諸将おのおの令下し、
兵は無言にすすみ行く[1]。かかる多数の軍勢の 4-429
胸裏に声の有り無しを人の疑うばかりにも、  430
黙然として粛々と進む軍勢、身にうがつ
種々の武装は燦爛とあたりに映じかがやけり。

[1]3-9に同様の叙述あり。

これに反してトロイアの軍は豊かな村人の
獣檻(じゅうかん)のなか、数知れぬ牝羊——乳を搾られて、
立つとき子らの声を聞き、絶えずも叫び鳴くごとし。  435
かくトロイアの大軍のなかに叫喚わき乱る。
兵の叫びは一ならず、また唯一の声ならず。
種々の言語は相混じ種々の人種は相まじる。
アレースかなた励ませば、さらにこなたを励ますは
藍光の目のアテーネー。デイモスとフォボス[1]と入りまじる。 4-440
渇(かつ)のはげしき「不和」も立つ。そは人殺すアレースの 4-441
姉妹また友。そのはじめ小さく育てど[2]天上に
いまは頭を支えしめ、足は大地を踏みて立つ。
彼女また群衆横切りて闘争あまねくそのなかに
投じ乱して人々に呻吟苦叫起らしむ。  445

[1]デイモスは畏怖、フォボスは恐慌、逃亡、畏怖、潰走。
[2]争い(エリス)は小なる原因に生じ大なる結果を来す。

かくて彼らは同じ地に着きて合戦始むれば、
獣皮の盾は相うちて長槍および青銅をよろう
勇士の猛勇とかざり鋲[1]ある大盾と、
互いに当たり相打ちて、轟々(ごうごう)の音わき起り、
打たるる者と打つ者の歓呼あるいは叫喚の、4-450
音いっせいにかまびしく紅血地上を流れ行く。
白雪とけて量増せる二条の流れ山くだり、
怒号の水をもろともにその源泉の高きより、
深くくぼめる峡谷に合流なして注ぐ時、
離れて遠き山上に牧童その音聞くごとく、  455
混じ戦う軍勢のなかより音と畏怖と湧く。

[1]盾の外面の中央に隆起す。

タリュシオスの子エケポロス†、トロイア軍の先陣の 4-457
なかにすぐれし勇将を、アンティロコス(ギ)[1]はまず倒す。4-458

[1]ネストールの子、初出。

馬尾の冠毛振りかざす甲のてっぺんうち砕き、
鋭刃すごく骨に入り、その額上を貫けば   460
一命滅び死の闇はたちまち彼の目を覆い、
乱軍中にどうと伏し、塔の倒るを見るごとし。4-462
その倒るるを足取りてエレペーノール(ギ)[1]ひき来る。
カルコードーンの生める息、アバンテス[2]の族の長、
乱戦中より引き出しその軍装を迅速に  465
剥ぎ取るべくと望みたるその労ついにむなしかり。
死体を引ける彼を見て敵の勇将アゲノール(ト)、4-467
槍を飛ばして盾のそばかがめる彼の脇腹の
隙を狙いてうち当てつ、手足の力緩ましむ[3]。

[1]2-540。
[2]2-542。
[3]死すること。

かくして去れる彼の魂。——彼を巡りてトロイアと  470
アカイア二軍、猛烈の技を演じて群狼の
ごとく、人々飛びかかり人々互いに相打てり。

かなたアイアス、テラモーンの子は花やかな若き武者、
アンテミオーンの若き息シモエイシオスをうち取りぬ。
イーダの峰をくだり来しその母むかし、両親に  475
付きて羊群守るべく、来りし時にシモエイス
川のほとりに彼を生み、シモエイシオスと名を呼びぬ。
親より受けし養育の恩を報いるいとまなく、
命薄うしてアイアスの槍に倒され滅び去る。
先鋒中に進み行く彼を、胸のへ右側の  480
乳房に添うてアイアスの鋭槍ひどく刺し通し、
青銅肩を貫けば大地に倒れ塵に伏す。
たとえば広き沼沢の地に白楊(はくよう)の生え出でて、4-483
幹なめらかに、頂きに近く枝葉のしげるもの。
匠(たくみ)はこれを輝ける斧をふるいて切り倒し、  485
作る華麗の馬車のため曲げて車輪となさんとし、
乾燥のため川のべの岸に晒しておくごとし。
かくのごとくに英豪のアイアスの手に倒さるる
シモエイシオス塵に伏す。そのアイアスを目ざしつつ、
プリアミデース・アンティポス(ト)[1]群集中に槍飛ばす。  4-490
狙いはそれてオデュセウス率いたる伴レウコスを、
かばねひきずるままに打つ、鼠蹊(そけい)のほとりちょうと射て。
レウコス†かくて倒れ伏しかばねは彼の手より落つ。
その殺されし供のため憤然としてオデュセウス、
光る兜に身を固め先鋒中にすすみ出で、  495
敵に近付き立ちどまり、あたり見回し、燦爛の
投げ槍飛ばす。——かくと見てトロイア軍はあとしざる。
槍はむなしく飛ばざりき。デーモコオーン†——アビドスの
駿馬産するほとりより呼ばれ来りし一勇士、
プリアモス王うみなせる庶子を鋭刃うちとめぬ。 4-500
供の死滅を憤り、槍もて彼のこめかみを 
撃つ豪勇のオデュセウス。その青銅の槍すごく、
穂先かなたに貫ぬけば暗黒かれの目を覆い、
倒るる時に地はひびき介冑(かいちゅう)[3]彼の上に鳴る。
先鋒ならびにヘクトールかくて後陣にしりぞけば、  505
雄叫びすごきアカイアの兵は死体をひきずりて
なお奮進を続け行く。——これを怒れるアポローン、
ペルガモス[2]より見おろしてトロイア軍に叫びいう、4-508

[1]アンティポス、プリアモスとヘカベーとの子、のちアガメムノーンに殺さる。
[2]トロイア城の頂き。
[3]「介冑」は甲冑に同じ。

『駿馬を御するトロイアの汝ら奮え、アカイアの
軍に敗るな、彼らの身岩石ならず、鉄ならず、 510
肉をつんざく鋭刃に打たれて耐うるものならず、
髪うるわしきテティスの子ペーレイデース戦いを
休み、海辺のほとりにてその憤悶を養えり』

かく城壁の高きより怒りに燃ゆるアポローン(ト)。
こなたアカイア軍勢の弱り見る時、群衆の  515
間をめぐり励ますはトリートゲネーア・アテーネー(ギ)[1]。4-516
アマリュンケウス生みなせるディオーレス(ギ)[2]いま運つきぬ。
鋭き石は踝(くるぶし)のほとり右脛(うけい)を猛に打つ。
イムブラソスの子ペイロオス(ト)、トラーケーの族の長、
アイノスよりし来る者、尖る石もて彼を打つ。  520
無残の石に筋二条ならびに骨を砕かれし
彼は倒れて塵に伏し、天を仰ぎて双の手を
その僚友にさしのべつ、最後の息を引き取れば、
馳せ近くきてペイロオス、槍とりなおし、しかばねの
腹部のもなか突き通す。無残や臓腑ことごとく  525
あふれ地上にひろがりて、暗黒彼の目を閉ざす。
そのペイロオスをさらにまたアイトーリアの将トアス(ギ)[3]、
槍を飛ばしてうちたおし、鋭刃肺を貫けり。
トアスつづきて近寄りて、倒れし敵の胸部より
その大槍を抜き取りつ、さらに鋭利の剣をとり、  530
彼の腹部の中央を切りて生命奪い去る。
されど甲冑剥ぐをえず。髪を結べるトラーケー 4-532
族の同僚長槍を手中に取りて囲み立ち、
身の丈高く勇猛の著名の敵を追い払う。
争いかねて悄然とトアスうしろに引き返す。  4-535
かくて二将(ディオーレスとペイロオス)は並び伏す。エペイオイ族(ギ)青銅を
よろえる者とその敵のトラーケー(ト)の族の長。
これをめぐりて数多く他もまたともに滅び去る。
幸いにして青銅に射られずたえて傷受けず、
戦場中をめぐる者——アトリトーネー・アテーネー  540
その手を取りて導きて猛き飛刃(ひじん)を外らしむる——
かくある者も陣中にありてこの事とがめえじ。
この日トロイア、アカイアの軍勢ともに相並び[4]
ともに地上に倒されて等しく塵のなかに伏す。

[1]トリートニス湖上に生る。
[2]2-622。
[3]2-639。
[4]最後の二行全たく余分。


イーリアス : 第五巻



 女神アテーネー勇将ディオメーデースを励ます。両軍諸将の奮戦。ディオメーデース敵将パンダロスを殺し、さらにアイネイアースを傷つけこれを救わんとする女神を追う。アプロディーテー、馬をアレースに借りオリンポスに逃(のが)る。ディオーネーこれを慰めて傷を治す。アポロン、アイネイアースを救いてペルガモスに帰る。アレース、トロイア軍を励ます。ヘクトールの進撃。ディオメーデースしりぞく。サルペードーンとトレーポレモスの戦い。女神ヘーラーとアテーネー、オリンポスをくだりアカイア軍を助く。ディオメーデース女神に励まされてアレースを討ってこれを傷つく。アレース逃れてオリンポスに登り、ゼウスに訴えて叱らる。負傷の治療。二女神また帰り来る。

見よ今パラス・アテーネー、ディオメーデース、テュデウスの
子に与えたり勇と威を。アルゲイオイ[1]の一切の
なかに抜き出で栄光の誉れを彼の得んがため。
すなわち彼の兜より盾より光炎はなたしめ、
初秋の空に爛々と輝く星[2]を見るごとし。  5-5
その星、海の大潮に浴し衆星しのぎ照る。
かかる光炎頭より肩より彼に輝かし、
彼を促し群衆の繁きが中に押し進む。

[1]アルゴス族=アカイア族。
[2]シリウスすなわち天狼星。

トロイア族のなかにしてダレースの名を呼べるあり。
ヘーパイストスの祭司にて、正しく富みて、生みなせる  5-10
二子ペーゲウス、イダイオス[1]、戦術[2]すべて詳しかり。
二人は列を離れ出でディオメーデースに向かい行く。
彼ら二人は兵車のへ、これは地上に歩を進む。
かくて双方すすみ出で互いに近く来るとき、
まずペーゲウス影長く引く鋭槍を投げ飛ばす。  15
鋭利の穂先(ほさき)敵将の左の肩の上を越し、
彼に当らず。これに次ぎテューデイデースすすみ寄り、
手中の槍を投ずれば、狙い違わず敵の胸、
乳房の間つらぬきて馬より彼をうち落とす。
これを眺めてイダイオス華麗の兵車うち捨てて、  20
すばやく逃れ、兄弟の死体防ぐをあえてせず。
おのれ自らかろうじて死の運命を避けしのみ。
ヘーパイストス、暗影のなかに隠してこを救い、
彼の老父に限りなき悲嘆に沈むなからしむ。
ディオメーデースこなたには捕獲し得たる馬二頭、  25
その同僚の手に渡し水陣のなか送らしむ。
かくダレースの二人の子、その一人は逃れ去り、
兵車のかたえ他は倒る。これを眺めてトロイアの
兵士ら、恐れおののけば、藍光の目のアテーネー、
激しく荒るるアレースの手を取り彼に宣しいう、  5-30

[1]3-247は同名異人でトロイの伝令。
[2]剣に槍に、車戦に歩戦に遠近ともに長ず。

『ああ、ああアレース、人殺し、血にまみれたる壊し屋よ。5-31
トロイアまたはアカイアの、いずれにゼウス栄光を
贈るとしても、戦闘は彼らに任すべからずや?
我らはともにしりぞきて、ゼウスの怒り避くべきぞ』
しかく宣して、荒れ狂うアレース引きて、戦場を  5-35
去らしめ、これを座らしむ、スカマンドロスの岸のうえ。5-36

いまアカイアの軍勢はトロイア軍をうち破り、
将帥おのおの一人の敵をうち取る——いやさきに
ハリゾーノイのオディオス[1]をアガメムノンは射て倒す。
すなわちさきに逃るべくしりぞきかかる敵の背(せな)、  40
左右の肩のただなかを飛槍(ひそう)は射りて胸に入る。
車上よりして敵は落ち、落ちて介冑鳴りひびく。

[1]2-856。

地味豊沃のタルネーを出で来りたるパイストス†、
マイオニア人ボーロスの子をイードメネーはほふり去る。
槍の名将イードメネー、兵車の上にのりかかる  45
敵をねらいて長槍に彼の右肩突き通す。
兵車よりして落つる敵、死の暗黒に覆われぬ。
その軍装をイードメネーひきいる部下は剥ぎとりぬ。

ストロピオスの生むところ、狩猟のすべに巧みなる
スカマンドリオス[1]ほろぼさる、槍の名将メネラオス・  5-50
アトレイデースの鋭刃に。山の深林養える
猛き獣を射るすべを彼に教えしアルテミス、
されど弓矢をもてあそぶ女神も、さきに彼の身の
誇りとなれる弓術もそのとき彼を救いえず。
槍の名将メネラオス・アトレイデスは目の前に  55
逃げ行く彼の背を突けば、肩のあいより胸にかけ、
貫ぬく槍にこらえ得ず、大地の上にうつ伏しに
倒れて滅ぶ。ほろぶとき鎧甲(がいこう)高く鳴りひびく。

[1]ヘクトールの息子もまたこれと同じ名称を有す(6-402)。

さらにこなたにペレクロス(ト)†――ハルモニデース工匠(こうしょう)[1]の
生みたる子息倒されぬ、メーリオネス(ギ)の手によりて。  60
女神パラスに恵まれて、技工すべてに長ぜる身、
パリスひきいし諸々の船を造りしペレクロス。
船は苦難のもとにしてトロイアおよびおのが身に
破滅来せり。神明の戒め彼は知らざりき。
メーリオネスは彼を追い、彼に近付き、長槍を  65
ふるいて彼の右の腰、突けば鋭きその穂先、
貫き通り膀胱のほとり恥骨の下に入り、
うめき叫びて地に伏せば、死の暗黒は彼おおう。

[1]「工匠」は大工のこと。

アンテノルの子ペダイオス(ト)†、メゲースによりほろぼさる。
庶子なりしかど貞淑のテアノー[1]、我が子もろともに、  5-70
その良人の意を迎え思いをこめて育(はぐく)みぬ。
槍の名将メゲースは彼に迫りて鋭刃を
飛ばして首のくぼみ撃つ。歯牙の間をつらぬきて、
舌を無残に槍は切り、その一命をほろぼせば、
冷たき刃先、噛みながらかれ塵中に倒れ伏す。  5-75

[1]テアーノーはアンテーノールの正妻にしてアテーネー殿堂の祭司(6-298)。

スカマンドロスの祭司にて、神のごとくに仰がれし
ドロピオーンの生める息ヒュプセーノール(ト)†勇将は、5-77
エウアイモーン生みなせるエウリュピュロス(ギ)[1]にうち取らる。
エウアイモーンのすぐれし子エウリュピュロスは目の前に
逃げ行く敵を追いかけて、迫り近付き長剣を 80
ふるいて彼の肩を打ち、重きかいなを切り落とす。
鮮血すごく大地染め、死の暗黒と凶暴の
運命彼に迫り来てその両眼を閉じしめぬ。

[1]2-736。

かく猛烈の戦闘に将士らひとしくうみ疲る。
さはれテュデウス生める子[1]は、トロイアあるいはアカイヤの 85
いずれにくみし戦うや、ほとんど弁じ得ぬばかり、
縦横無碍に平原を走り駆け行く。たとうれば 5-87
水量増して荒るる河、あふれて堤(つつみ)崩し去り、
堅く築ける堤防もその奔流を留めえず。
ゼウスの雨の勢いを増してにわかに襲うとき、90
沃野(よくや)の土工またこれを防ぎおさゆること難し。
村の少壮つとめたる工事はすべて破壊さる。
かくのごとくにトロイアの密集諸隊やぶられて、
軍兵とぼしからねどもディオメーデースに抗しえず。
かくて諸隊を目の前に乱し破りて平原を 95
すすめる彼を認めしは、リュカーオーンのすぐれし子[2]、
テューデイデスを的(まと)としてすぐに強弓丸く張り、
馳せ来る彼の右の肩、その胸甲の結節に
激しく飛ばし、射当てたる矢だまはこれをつらぬきつ。
勇将うがつ胸甲はすごき暗紅(あんく)の血に染みぬ。  5-100

[1]ディオメーデース。
[2]パンダロス(4-89)。

リュカーオーンの子これを見て、大音あげて叫びいう、
『立て豪勇のトローエス、駿馬巧みに御する者、
アカイア軍の最勇士射られぬ。我はあえていう、
矢傷に長くかれ耐えじ。リュキアーよりしいそぎ来し
われをアポローン、ゼウスの子、励まし力貸すとせば』  105

かく誇らえり。しかれども、勁箭敵をほろぼさず。
ディオメーデースしりぞきて、戦車戦馬の前に立ち、
カパネウスの子ステネロス呼びてすなわち陳じいう、
『カパネーイアデー[1]、願わくは汝の兵車おり来たれ。
おりて無残の強き矢をわれの肩より抜き捨てよ』  110

[1]呼格。

その言聞きてステネロス、馬よりおりて地にくだり、
かたえに立ちて彼の肩貫く矢じり抜き去れば、
そのしなやかの被服[1]越し、鮮血高くほとばしる。5-113
ディオメーデース大音の勇士そのとき祈りいう、

[1]鎖帷子(かたびら)の類いか。

『アイギス持てるゼウスの子、アトリュートーネー[1]!われに聞け。  115
すごき苦戦のなかにしてわれと父とのかたわらに、
応護[2]を垂れて立ちし君、今もしかせよ、アテーネー!
われに先んじわれを射り、さらに今また我そしり、
再び長く光輪の影は見まじと叫ぶ彼。
許せ、飛ばさんわが槍の射程に入りて滅びんを!』  120

[1]「屈せざるもの、弱らざるもの」の意、アテーネーの名称。
[2]応護は神の加護のこと。

しかく祈願を陳ずればこを納受するアテーネー、
彼の肢体を、両足を、さらに双手を軽くしつ、
かたえに立ちてつばさある言句を彼に宣しいう、

『ディオメーデス[1]よ、勇気出しトロイヤ人に渡り合え。
堅盾ふるうテューデウス持ちしがごとき強烈の  125
威力汝の胸中に、すでに送れり、恐るるな。
我また汝の双眼を覆いし霧を、吹き去りぬ。
かくして汝あきらかに神と人とを弁ずべし。
たとえば汝を試すべくある神ここにおとずれむ。
汝こころをいましめて他の神霊と戦うな。  130
されどゼウスの娘たるアプロディーテー来りなば、
彼女と戦い青銅の刃をもて彼女打て』

[1]ディオメーデースの呼格形。

藍光の目のアテーネーしかく宣して引き去れば、
さらに再び先鋒にテューデイデース加わりつ、
トロイア軍と奮戦の先の思いをいやましに、  135
烈々として三倍の威力を増せり——たとうれば、
野に群羊を飼う牧者、その牧場におどり入る
獅子(しし)に微傷をおわすれど、これを制することをえず、
ただその猛威増すばかり、群羊救うにすべなくて、
ふるいて小屋にすくまれば、可憐の群はおじ恐れ、  140
やがて累々重なりて血は原頭(げんとう)[1]を染むる時、
獣王たけりて牧場を再びおどり飛ぶごとし。
ディオメーデースかく荒れてトロイア軍に馳せ向かう。

[1]野原のほとりという意味だが平原と同義。

その場に彼に打たれしはアステュノオス(ト)†[1]とヒュペイロン†。5-144
一人は彼の長槍に胸のただなかつらぬかれ、  145
他は肩のうえ大刀(だいとう)に鎖骨を掛けて切られ伏し、
かくして首よりまた背より肩は無残につんざかる。
これをあとにしまた向かう、ポリュエイドス[2]とアバス†とに。——
夢を占う老夫子(ふうし)エウリュダマスの二人の子、
その戦場に来るとき父はその夢占わず。  5-150
ディオメーデース勇猛は二人をほふりかつ剥ぎぬ。

[1]15-455のと同名異人。
[2]13-663と同名異人。

この剛勇にパイノプス生める子二人クサントス 5-152
ならびにトオーン(ト)†[1]また打たる。父頽齢(たいれい)に衰えて、5-153
家産を譲り伝うべき他の子をついにもうけえず。
ディオメーデース両人をほふりて魂を奪い去り、  155
ただ慟哭(どうこく)と悲痛とを彼の老父に残すのみ。
父は故郷に帰り来る二児を迎うるをえず。
家産はついに親族の間に分かち配られぬ。

[1]11-422と同名異人。

プリアモス王生める二子エケムモーン†とクロミオス†、5-159
一つ戦車に並び乗り同じくともにほろぼさる。  160
たとえば森に草を食むその牧牛の群れ目がけ、
おどり来りて獅子王が彼らの首をくだくごと、
ディオメーデース戦車より二人の敵をうち落し、
猛威をふるいほろぼしてその戦装を剥ぎ取りて、
部下に命じて生け捕りし馬を陣地に送らしむ。  165
かく先陣を荒らし去る勇将を見てアイネアス[1]、
たちて戦場横切りて飛槍のあいだ通り過ぎ、
探し回りぬ、弓術は神明に似るパンダロス(ト)。
そのパンダロス、リュカオンの勇武の子息、見出だして、
そのかたわらに立ちどまり彼に向かいて陳じいう、  170

[1]トロイアの名将軍、アイネアースまたアイネイアースとも訓む。

『ああパンダロス、いずこにぞ汝の弓は?勁箭は?
はた名声は?何びともここに汝に比せぬ者。
リュキア軍中何びともまさると誇り得ざる者、
いざ今ゼウスに手を挙げて祈りて、彼に矢を飛ばせ。
かれ何者ぞ?皆に勝ち、多くの苦難トロイアに  175
来たし、多くの勇将をすでに地上に倒れしむ。
神にあらずば彼を射よ。犠牲のゆえにトロイアに
怒れる神にあらざれば、——神の怒りは恐るべし』

リュカーオーンのすぐれし子そのとき彼に答えいう、
『青銅よろうトロイアに忠言寄するアイネアス!  180
我いま彼を勇猛のテューデイデースと眺め見る。
その盾により、その兜——冠毛振るうものにより、
その馬により、しか思う。かれ神なりや我知らず。
わがいうごとく人にしてただテュデウスの子なりせば、
神助なくしてかくまでに猛きを得まじ。神明の  185
あるもの彼のそばに立ち、雲霧に彼の肩を覆い、
彼に当りし勁箭を別の道にとそらしめぬ。
まさしく我は一箭(いっせん)を彼に飛ばして右の肩、
その胸甲のつがいより他の端までも射とおしぬ。
彼を冥王の府の底に沈めさりぬとわれ言いき。  190
とある怒りの神明の助けによりて逃れ得ぬ。
我の乗るべき戦いの車も馬も今あらず。
リュカーオーンの殿中に戦車十一うるわしく、
新たに成りてよそおわれ飾りの布地これ覆う。
その各々につながれて二頭の馬は首ならべ、  195
白き大麦裸麦かみつつともに地を踏めり。
父老練のリュカオーンその麗しき殿中に、
門出の我に喃々(なんなん)と幾多のことを説き勧め、
奮戦苦闘のただなかに戦車戦馬に身を乗せて、
トロイア軍に令せよと我に命じき慇懃に。  5-200
されども我は聞かざりき(聞かばはるかによかりしを)。
軍勢密にむらがれば、多量の食を取り慣れし
戦馬おそらくその糧を欠乏せんの懸念より、
かくして我はこれを捨て、徒歩にイリオン訪い来り、
ただ強弓に頼りしよ。いま見る、我に効なきを。  205
まさしく我はメネラオス、ディオメーデース両将を
狙いて矢だま飛ばしめつ。これを傷つけ鮮血を
流さしめしも、いたずらにただその勇を増せしのみ。
われイリオンの堅城にトロイア軍を導きて、
わがヘクトール助くべく立ちしかの日に、凶悪の  210
運命弓を掛け釘の上よりわれに取らしめき。
他日帰りてわが故郷、またわが家妻、またわが屋、
高き樓閣、この目もて親しくまたも見なんとき、
わが知らぬ人、たちまちにわれの頭を切り落とせ、
もしわれ弓を折り砕き炎々燃ゆる火のなかに  215
投ずることをなさずんば。——効なく風のごとき弓』

アイネイアース、トロイアの将軍そのとき答えいう、
『しかいうなかれパンダロス。我々二人かれ目がけ、
戦車戦馬を駆りすすめ、武器をふるいて彼をうち、
彼を試さん。そのまえは局面何の変無けむ。  220
いざ乗れ、われの戦車の上(へ)。乗りて知るべしトロイアの
軍馬[1]の良きを。平原を縦横無碍に駆け走り、
敵を追う時、逃ぐる時、ともに軍馬は飛ぶごとし。
ゼウス再び恩寵をディオメーデースに垂るべくば、
そのとき両馬安らかに我を都城に返すべし。  225
いざいま鞭と輝ける手綱汝の手に握れ。
汝の御する車のへ立ちて我かの強敵を
撃たむ。さなくば汝撃て、われは戦馬を御すべきに』

[1]265以下参照、また20-220。

そのときリュカオンのすぐれし子、彼に向かいて答えいう、
『アイネイアース、手綱とり戦馬御するは汝たれ。  230
ディオメーデスの手を逃れ、しりぞかんとき、その慣れし
主人のもとに迅速に車を両馬引き得べし。
彼ら恐怖し駆け狂い、汝の声の無きがため、
戦場よりし安らかに我を乗せ去ることなくば、
ディオメーデース、英豪のテューデウスの子飛びかかり、  235
我を倒してすぐれたる戦馬捕えて引き去らむ。
されば汝の戦車また戦馬を汝御しすすめ。
向かいて来る強敵を、鋭槍ふるい我受けむ』

しか言い二将、美しく塗りし戦車に身を乗せつ、
熱情燃えて駿足をディオメーデースめがけ駆る。  240
これを眺めてステネロス(ギ)、カパネウスのすぐれし子、
テューデイデスにうち向かい羽ある言句陳じいう、

『テューデイデー[1]よ、我がめずるディオメーデス[1]よ、我は見る。
二人の勇士はかりなき威力をもちて猛然と、
汝に向かいすすみ来て、汝を敵に戦わむ。  245
一人は弓に秀いでたる彼パンダロス、リュカオンの
子とて自ら誇る者。他はアイネアス、彼もまた
アンキーセスの子と誇り、アプロディーテを母という。
いざいま戦車に身をのせてしりぞき去らむ、先鋒の
なかの奮戦いましめよ、おそらく命を失わむ』  5-250

[1]ともに呼格。

しかいう彼をにらみ見てディオメーデスは叱りいう、
『恐怖の言を吐くなかれ。なんじのいさめわれ知らず。
戦闘中にたじろぐは、あるいは震いおののくは、
わが本性のわざならず、われの猛威はなお強し。
われは乗車を喜ばず、今あるままに徒歩にして、  255
向かわむ。パラス・アテーネー許さず、われの戦慄を。
よし一人は逃るとも、彼らの駿馬、両将を
もろとも乗せて陣中に駆け帰ることなかるべし。
我また汝にさらにいう、汝、心に銘じおけ。
垂示(すいじ)かしこきアテーネー、二将をともに倒すべき  260
栄光われに賜ぶべくば、そのとき汝わが馬を
とどめ、手綱を引きしめて戦車の縁[1]につなぎ置け。
しかも必ず忘れずに彼の両馬に飛びかかり、
捕えてこれをアカイアの陣中にまで引き到れ。
声朗々の神ゼウス、ガニュメーデースのつぐないに[2]、  265
父トロースに与えたる馬とまさしく同じ種。5-266
暁光(ぎょうこう)および日輪の下に至良の馬はこれ。
ラーオメドーン[3]の目をかすめ、牝馬をこれに触れしめて、5-268
ひそかに種を盗みしはアンキーセース、民の王。
かくして彼の城中に六頭の駒生まれ出づ。  270
かくて自ら心こめ、中の四頭を養いつ、
恐怖もたらす他の二頭、子のアイネアス求め得ぬ。
今もしこれを捕え得ば、われの誉れは大ならむ』

[1]兵車の前面と側面との添える欄干、柵。
[2]初代トロイア王トロースの美貌の子ガニュメーデースを奪い、そのつぐないに名馬を与う(神話)。
[3]トロースの馬を託されし者、彼はプリアモス王の父。

かくもこれらの事に付き二人互いに陳じいう。
そこにただちに二敵将、駿馬を駆りて迫り来つ、  275
リュカーオーンのすぐれし子まさきに声を放ちいう、
『英豪勇武のああ汝テューデイデース、さきにわが
射りし勁箭、にがき武器、ついに汝を倒しえず。
鋭刃効を奏するや?今わが槍に試みむ』

しかく叫んで影長き大槍ふるい投げとばし、  280
テューデイデースの盾打てば、穂先はこれをつらぬきて、
勢い猛く突きて入り、その胸甲に迫り来る。
これを眺めてパンダロス勇み高らに叫びいう、
『汝腹部を貫ぬかる。その重傷を時長く
こらえは得まじ。栄光を汝はわれに与えたり』  285

ディオメーデース威をふるい、憤然として答えいう、
『汝あやまる、長槍はわれに当らず。のみならず、
汝ら戦いやめざらむ。汝らひとり倒されて
その血を以って勇猛のアレース神を飽かすまで』

しかく叫びて飛ばす槍、槍を導くアテーネー  290
鼻を打たしむ、眼の下に。槍は真白き歯を砕き、
固き青銅さらにまた根本に舌をうち落し、
さらにその穂はあごの端つらぬき外に抜け出でぬ。
戦車を落つるパンダロス、その燦爛の戦装は
戛然(かつぜん)として鳴りひびき、足疾き駒はおののけり。  295
魂と力ともろともに、彼の体より逃れ去る。
そのしかばねを、アカイアの将士奪うを恐れたる
アイネイアース、盾と槍とりて兵車をくだり来つ、5-298
獅子のごとくに身の威力信じ、倒れしなきがらを
めぐり、身の前、長槍と円盾かざし、大音に  5-300
叫喚しつつ、なきがらを奪わん者を倒すべく、
勢い猛くめぐり立つ。テューデイデースこれを見て、
巨大の石を高らかに——今の時代の人間の
二人合して上げがたき石をたやすくただひとり、
振り上げとばし、敵将の臀部に——ももと接合の  305
局所——そはまた髀臼(はいきゅう)と呼ばるるものにうち当てつ。
髀臼くだきさらにまた二条の筋を断ち切りぬ。
その大石に肉裂かれ剥ぎ去られたるアイアネス、
大地に倒れ膝つきて両手わずかに身を支え、
その双眼は迫り来る黒暗々の夜に閉じぬ。  310

かくしてそこに人の王アイネイアース死せんとす。
そをすみやかに認めたるアプロディーテー、ゼウスの子、
(彼の母なり、牧牛のアンキーセイスにこの子生む)
翔けり来りて白き腕のして愛児をかき抱き、
駿馬またがるアカイアのあるもの彼の胸を刺し、  315
彼を倒さん恐れから、槍に対する防ぎとし、
彼のめぐりに輝ける上着広げて覆い去る。
女神かくして戦乱のなかよりその子救い出す。

カパネウス(ギ)の子こなたには、ディオメーデース大音の
将軍さきに令したる約を忘れず。混乱の  320
外に離れて単蹄(たんてい)のおのが両馬を引き出し、
手綱をつよく張り締めて兵車の縁につなぎ止め、
アイネイアース乗せて来し二頭の駿馬、たてがみの 5-323
美麗のものに飛びかかり、これを奪いてアカイアの
陣中に引き、親友のデーイピュロスに(同齢の  5-325
友の間に同心のゆえもて特にめずるもの)
彼に渡して水軍のなかに引かしめ、かくて彼 
輝く手綱ひきしめて強き蹄(ひづめ)の馬を駆り、
兵車飛ばして迅速にディオメーデースのあとを追う。
その勇将は無残なる長槍ふるいキュプリス[1]を  330
追い行く、弱き神と知り。戦闘中に人間に
令する女神アテーネー、あるは城壁うちくだく
猛きエニュオー[2]、あるはそのたぐいにあらずと彼知れり。5-333
群衆中を駆け走り、追い行きこれに迫り来て、
ディオメーデスはまっしぐらその長槍を振り上げて、  335
鋭き穂先き柔軟の玉手のおもてはたと突く。
奉仕の仙女[3]織りなせる微妙の布をつらぬきて、
鋭刃すぐに手掌(たなそこ)の端に当りて肉に入り、
アプロディーテの血を流す。そは透明の清き液、
そは慶福のもろもろの神明の身に宿る液。  340
神明もとより麺包[4]を喫せず、葡萄の酒飲まず。
(ゆえに人間の血にあらず、ゆえに不滅の身と呼ばる)
打たれて女神泣き叫び、地上に愛児ふり落とす。
そを手のなかに収めしは神ポイボス・アポローン(ト)、5-344
暗き雲中隠し去り、駿馬を御するアカイアの  345
なかの一人もその胸を射て倒すことなからしむ。
そのとき勇将高らかにアプロディーテに叫びいう、

[1]アプロディーテー。
[2]アレースにともなう女神。本巻592行にもあり。
[3]「仙女」は妖精のこと。 [4]「麺包」はパンのこと。

『戦闘軍事の間より、しりぞけ、汝ゼウスの子!
かの繊弱の女性らをたぶらかしても足らざるや!
また戦場に身を置かば、これを恐れてふるうこと  5-350
疑いあらじ、遠くよりその乱闘を聞くだにも』

その言ききて狂わしく苦痛激しく去る女神、
そを疾風の足速く救うイーリス、群衆の
外に出だせば、激痛に悩み美麗の肌染めて、
行きてアレース戦場の左[1]にあるを見出だしぬ、  355
雲霧のなかにその槍と二頭の駿馬そばにして。
女神すなわち同胞[2]の親しき神に膝をつき、5-357
倒れて彼に金甲をつけし駿馬を乞い求む、

[1]スカマンドロスの岸上、戦場の左に(5-35~36)。
[2]同胞はここでは兄弟の意味。ホメーロスではアプロディーテーとアレースはゼウスの子で兄弟。
『ああ同胞よ、憐憫を垂れて汝の馬を貸せ。
神の聖座のあるところ、ウーリュンポスに行かんため。  360
負傷の痛み耐えがたし。テューデイデース我を打つ。
ああこの地上の人の子はゼウスとすらも戦わむ』

その言ききてアレースは金甲の馬貸し与う。
女神かくして心痛のその身兵車の上に乗す。
そのかたわらに座をしめてイーリス手中に綱を取り、  365
快鞭(かいべん)馬に加うれば勇みて兵車ひき走り、
たちまち高きオリンポス、神の聖座に到り着く。
そこに疾風の足はやきイーリス戦馬引きとめて、
兵車の外に解き放ち、これに神秘の糧与う。
そのとき神母ディオーネー[1]、アプロディーテを、声あげて  370
膝に倒るをかき抱き、玉手静かに艶麗の
愛児をなでて口開き、これに向かいて宣しいう、

[1]ディオーネーはホメーロスの作中ただ単にアプロディーテーの母神としてのみ記され、局面中何らの行動に加わらず。

『愛児よ、天の何者か汝をかくは痛めたる?
さながら汝公然と例の悪事をなせしごと』。
嬌笑めずるアプロディテ[1]すなわち答えて母にいう、  375
『ディオメーデースわれを打つ、かれテューデウス生める息、
我わが愛児アイネアス——人中もっともめずるもの、
そを戦場の間より救い出でたるゆえをもて。
いま戦闘はトロイアとアカイア族のそれならず。
ダナオイ族は大胆に神々をさえ敵となす』  380

[1]「嬌笑めずる」の意なるピロムメイデースはこの女神の常用形容句。

女神のなかにすぐれたるディオネー答えて諭(さと)しいう、
『こらえよ愛児。悩む時、忍べなんじのつらきわざ。
ウーリュンポスに住める者、多く地上の人間に
次々難儀被りて、かたみに悩み苦しめり。
かくアレースは苦しめり、アローエウスの二人の子  385
エピアルテス†とオートス†がくさりを彼に掛けし時。
固き壷中に捕われし月数かぞう十と三、
二人の継母うるわしきエーエリボイア憐れみて、
ヘルメイアスに訴えて弱れるアレース救わしむ。
もししからずば戦闘に飽きぬアレース弱り果て、  390
無残のくさり身を責めてついに最後を遂げつらむ。
天妃ヘーラー苦しめり、アムピトリュオンの猛き子が[1]、
矢じり三つある矢を射りて彼女の右胸を打ちしとき、
時に殆んど治しがたき苦痛は天妃悩ませり。
冥府の王者ハーデース、同じくともに苦しめり、
アイギス持てるゼウスの子、前と同じき猛き者[2]、 395
ピュロスの死屍(しし)[3]に飛ばす矢に、彼の苦悩を受けし時。
勁箭かれの肩を射て傷に悩めるハーデース、
ゼウスの宮を、おおいなるウーリュンポスをたずね行き、
負傷のゆえにその心、悩乱しつつ堪えやらず。 5-400
そのとき彼にねんごろに苦痛しずむる薬塗り、
癒やせし者は巧妙のパイエーオーン――神のわざ。
ああ強暴の人の子はかくも不敬をあえてして、
ウーリュンポスの神々にその矢放つをはばからず。

[1]ヘーラクレースがヘーラーを傷つけしこと古き神話にありと見ゆ。
[2]ヘーラクレース。
[3]「死屍」は死体のこと。死屍累々の死屍。

『藍光の目のアテーネー、女神いまはたかの者を  405
挙げて汝に向かわしむ、愚かや己が胸中に
ディオメーデスは悟りえず、神と戦う人間は
寿命長きを得べからず、戦争軍旅の間より、
帰らん時にその膝に寄りて甘ゆる子はなしと。
ディオメーデース勇なるも今すべからく思うべし、  410
彼にまされるある神が彼に手向かうことあらむ。
アドラーストスのまな娘、アイギアレイア[1]いたく泣き、5-412
アカイア中の至剛なる若き良人哭(こく)しつつ、
眠る家人を立たしめん。ああ彼の賢婦、英豪の
ディオメデスを失いて哭する時ぞ来たるべき』  415

[1]ディオメーデースの妻。

しかく宣して双の手をのし透明の血を拭い、
これを癒せばたちまちにアプロディーテの苦は軽し。
こを眺めたるアテーネー、天妃ヘーラーもろともに
辛辣胸を刺す言にクロニオーンを激せしむ。
藍光の目のアテーネーまず口開き宣しいう——  420

『ああ父ゼウス、われの今述べん言句を怒らんや?
見よキュプリスは限りなくめずるトロイア族人[1]の、
跡を追うべくアカイアのとある女性[2]を促しつ、
美麗の衣まといたるその女性をばかい撫でて、
その黄金のとめ金におのが細腕傷つけぬ[3]』  425

[1]族人は一族の人間。ここはパリス。
[2]ヘレネーのこと。
[3]ディオメーデースに傷つけられしを反語的にいう。

その言ききて人間と神との父は微笑みつ、
こがねのごとく麗しきアプロディーテを召していう、
『愛児、汝に戦争のつらき仕業は課せられず、
そは勇猛のアレースとアテーネーのみつかさどる、
汝はひとり恩愛の婚儀のすべに身を尽せ』  430

かくして諸神相対しこれらの事を談じ合う。
ディオメーデースこなたにはアイネイアスを追い迫り、
神アポロンの応護の手、彼に伸ばすと知りながら、5-432
偉大な神をいささかも恐れず、敵のアイネアス
ほふりて彼の戦装のいみじきものを剥がんとし、  435
あくまで敵を倒すべく三たび激しく追い迫り、
三たび燦爛の盾振りてアポローン彼を追い返す。
さらに四たびの試みに神のごとくに迫るとき、
銀弓強きアポロンは脅し叱りて叫びいう——

『しりぞけ汝テュデーデー、汝、神に相如く(し)くと  440
思いなはてそ。永遠の不滅の神は地の上に
歩む無常の人間とその本性を一にせず』

その言聞きて二歩三歩ディオメーデスはあとしざり、
遠矢を飛ばすアポローン神の怒りを避け逃る。
その群衆を遠ざかり、アポローン行きて、彼の宮  445
建てるところのペルガモス、聖地に移すアイネアス、
そこにレートーまた弓矢好める女神アルテミス、
秘宮のなかに彼を治し、彼に栄光あらしめぬ。
また銀弓のアポローン、一の幻影作り成し、
アイネイアースおよびその武具にまったく似せしむる、―― 5-450
その幻影を取り囲み、アカイアおよびトロイアの
両軍互いに牛皮(ぎゅうひ)張る円盾あるはその房の
乱るる小盾その胸をおおえるものをうち合えり。

そのとき猛きアレースに向かいアポロン宣しいう、
『ああ、ああアレース、人間の災い、汝。血に染みて[1]  455
城壁くだくああ汝、来たり、かの者豪勇の
ディオメーデスを払わずや?ゼウスにさえも手向かわむ
かれまっさきにキュプリスをうちてその手を傷付けぬ、
しかしてさらに神明のごとくにわれに迫り来ぬ』

[1]このアポロンの言は5-31と同じ。

しかく宣してアポロンは行きて位(くら)いすペルガモス[1]。  5-460
こなたアレスは激励をトロイア軍にほどこして、
トラーケーのアカマース(ト)[2]武将の影に身を似せて、5-462
ゼウスの裔のプリアモス王の子らへと命じいう、

[1]アポロンは戦いを見るべくしばしばペルガモスに座す(4-508)。
[2]2-844。

『ああゼウスより伝われる王プリアモスの子ら汝!
汝の堅き城門の前に戦闘来たるまで、  465
アカイア軍が我が軍を亡ぼすことをうべなうや?
アンキーセース生みなせるアイネイアース、猛き者、
わがヘクトールもろともにわれの尊ぶ猛き者、
倒る。いざ立て紛争のなかより勇士救い出せ!』

しかく宣しておのおのの魂と勇とを鼓舞せしむ。  470
そのとき猛きヘクトルをサルペードン[1]は叱りいう、5-471
『ああヘクトールいずこにぞ、さきに汝の持てる勇?5-472
汝は言えり兄弟と姉妹の夫もろともに、
味方ならびに友軍の力もちいず独力に、
トロイア城を保たんと。さはれいずこに彼らある?  475
獅子の前なる犬のごと彼らふるいてうずくまる。
これに反して友軍に過ぎざる我は戦わむ。
さなり友軍に過ぎぬわれ遠き郷よりここに来ぬ。
リュキアは遠し、クサントス[2]渦巻く流れあるところ、
そこに恩愛の妻と子を残して我はここに来ぬ、  480
はたまた貧者うらやめるあまたの資産残し来ぬ。5-481

『われはリュキアの郷人を励まし進め、自らも
戦闘せつに今望む。しかもアカイヤ軍勢の
かすめて奪い去らんもの、ここに微塵もわれ持たず。
さるを汝は立ちどまり動かず。たえて兵たちに、  485
ふるい起りてその妻女防ぎ守れと指令せず。

『思え、おそらく大網にもれなくかかる魚のごと、
汝ら敵の戦利また餌となることなからずや?
敵は汝の堅城を破壊することなからずや?
このこと汝昼に夜に常に心にいましめよ。  490
汝よろしく遠来の友の将帥に懈怠(けたい)なく
任につくべく乞い求め、しかして誹謗を免れよ』

[1]リュキアの将軍、2-877。
[2]トロイア平野を流るる同名の川(一名スカマンドロス)あり。

サルペードンはしか言えば、慚愧(ざんき)に堪えずヘクトール、
ただちに武具をたずさえて兵車をくだり地に立ちて、
鋭利の槍をふるいつつ、諸隊の間かけめぐり、  495
兵を促し進ましめ、すごき戦乱めざめしむ。 5-496
全軍すなわち引き返しアカイア軍に立ち向かう。
アカイア軍勢また密に列を作りてたじろがず、
髪金色の農の神デーメーテール[1]、強く風
吹くに乗じて穀物と糠(ぬか)とをふるい分かつとき、  5-500
農家の聖きゆかの上、風のもたらす細粉の
積りて白く高まるを見るがごとくに、アカイアの
軍勢白くちりかぶる――トロイア軍の兵車ひく
戦士ふたたびもり返し、戦場中に駆けしむる
軍馬のひづめ空中に蹴上げしちりに白くなる。  505
かくて全軍堅剛の腕の力を押し進む。
さらにあたりに勇猛のアレース、霧を暗うして、
トロイア軍を助け行き、黄金の剣(けん)身に帯ぶる[2] 5-508
アポローンくだせし令を遂ぐ。ダナオイ軍を助けたる
藍光の眼のアテーネー去るを眺めてアポロンは  510
彼に命じてトロイアの軍の勇気を覚まさせき。

[1]オリンポスに住まず、ただ地上にありて農業穀物を司る女神。
[2]この句はひとりアポロンに属す。

銀弓の神またさらに聖殿外にアイネアス、
送り出だして胸中に鋭き英気満たさしむ。
勇将かくて陣中に入れば人々喜べり。
彼の生けるを、さらにまた健やかにして凛々の  515
勇をふるうを喜べり。されど何らの問いをせず、
神アポローンの、アレースの、果てなく荒るる闘争の
神[1]のもよおす他のわざはその糾問(きゅうもん)を控えしむ。

[1]エリス4-441。

アイアス二人、オデュセウス、ディオメーデスはもろともに
ダナオイ兵をいっせいに戦闘中に進むれば、  520
兵は勇みてトロイアの威力ならびに叫喚を
物ともせずに悠然と立てり。——颯々(さつさつ)の呼吸もて
ほがらに吹きて惨憺(さんたん)の陰雲はらう強き風
ボレアスの類ねむる間に、空静穏にかえる時、
連山高き頂きにウーリュンポスのクロニオン、  525
雲をとどめて動かさず。——その雲のごと悠然と
ダナオイ軍勢、トロイアの軍を迎えてたじろがず。
アトレイデース陣中を巡りあまねく令しいう——

『友よ男児の面目に汝の勇気振り起せ。5-529
激しき軍旅のなかにして汝ら互いに恥を知れ。  530
見よ恥を知る人中に死よりも生の数多し。
おそれて逃ぐる者のうえ栄光あらじ、益(やく)あらじ』
しかく宣して槍飛ばしアイネイアスの友にして、
将ペルガソス生める息デーイコオーン†をうち倒す。
彼は勇みて先鋒のなかにまじりて戦えば、  535
プリアモス王生める子のごとくに民に尊ばる。——
その堅盾をひょうと射るアガメムノーンの長き槍、
盾は鋭刃支ええず、槍は激しくつんざきて、
さらに腹帯また下の腹部を突きてうち倒す。
突かれて敵はどうと伏す、鎧甲高くひびかして。  5-540

ダナオイ方の勇将のディオクレエースの二人の子
オルシロコスとクレトンを、アイネイアスはうち倒す。
二人の父は堅牢に築かれし都市ペーライに
住みて家産は豊かなり。ピュロスの原を貫ける
アルペイオスの広き河、河霊の裔は彼の父。  545
河霊[1]は民の王としてオルシロコスを生まれしめ、5-546
オルシロコスは英豪のディオクレエースの父となり、
そのディオクレエスは双生のオルシロコスとクレートン、
よく戦術に通じたる二人の子らの父となる。
二人長じて暗黒に染めし兵船身を託し、5-550
アガメムノーン、メネラオス二将に誉れ加うべく、
良馬の産地イリオンへアカイア軍にともなえり。
死の運命は無残にも二人をここに滅びしむ。
たとえば山の頂きにしげる叢林奥ふかく、
母獣(ぼじゅう)によりて養われ長ぜし荒き獅子二頭、  555
牧牛ならびに肉肥えし群羊ほふり餌食(えじき)とし、
獣檻いたく荒らす後ついに主人の手にかかり、
その青銅の鋭刃に撃たれて倒れ伏すごとし。
二人まさしくこのごとく、アイネイアースの手によりて、
打たれて伏して、おおいなる樅(もみ)の木倒れふすごとし。  560
その倒れしを憐れみてアレースめずるメネラオス、
燦爛光る青銅の鎧うがちて先頭に
すすみて槍をうちふるう――アイネイアスの手によりて
倒れんことを望みたるアレース彼をはげませり。
アンティロコース(英豪のネストールの子)はこれを見て、  565
王の危険を憂慮しつ、その災いにアカイアの
労苦むなしく成るべきを思い、まさきにかけ出づる。
アイネイアスとメネラオス二将互いに相面し、
戦い望み鋭刃の槍をおのおの振りかざす。
アンティロコスはすすみ来て王にまぢかく並び立つ。  570
二人の勇士相並び助けて立つを眺め見て、
アイネイアスは勇猛の将軍ながら引きかえす。
こなたの二将アカイアの陣に二友のなきがらを、
たずさえ帰り同僚に渡しおわりて、またさらに
激しく戦闘つとむべく先鋒中に引き返す。  575

[1]河霊を父とするオルシロコスよりディオクレース生まれ、ディオクレースより祖父と同名のオルシロコス生る。

盾を備うる勇猛のパフラゴニア(ト)の首領たる 5-576
ピュライメネース[1]、アレースに似るもの車上に立つところ、
槍の名将メネラオス・アトレイデースその槍を
飛ばして彼を狙いうち鎖骨に当てて倒れしむ。
アテュムニオス(ト)†の勇武の子ミュドーン、兵車を御する者、 5-580
逃れ去るべく単蹄の馬をあとへと返す時、
アンティロコスは石投げて激しく彼のひじ打てば、
象牙を飾るその手綱、彼の手はなれ塵に落つ。
アンティロコスは飛び掛り、剣(つるぎ)をふるいこめかみを
突けば、堅固の兵車よりうめきを上げてさかさまに、  585
砂塵のなかに倒れ落ち頭と肩を地にうずむ。
砂塵の山は深くして長くさかさに立てる彼、
やがて死体をその双馬蹴りて地上に倒れしむ。
アンティロコスは鞭うちて馬をアカイア陣に駆る。

[1]同名の将(2-852)13-643にまた現わる。ある評者はこの矛盾をもって『イーリアス』が同一作者の手に成るにあらずという一論拠となす。

戦陣中にヘクトールこれを眺めて大声を  590
上げてすすめば、勇猛のトロイア軍勢これにつぐ。
そのまっさきにアレースと並びて進むエニューオー[1]、5-592
女神その手に残忍のキュードイモス[2]をもたらせば、
さらにアレース手のなかに巨大の槍をうちふるい、
前にあるいはまた後に将ヘクトールに添いて行く。  595
雄叫び高き剛勇のディオメーデスはこれを見て、
おののきふるう。たとうれば大平原をたどる者、
海洋さしてすみやかに流るる川の岸に立ち、
泡沫たてて逆巻くを驚き眺め歩を返す。
テューデイデスはこれに似てたじろぎ皆に告げていう、  5-600

[1]戦の女神。5-333参照。
[2]騒ぎを人化する名。

『友よ、勇武のヘクトール、槍に巧みに戦闘に
すぐるる彼を、驚嘆の目もて我らは眺め来ぬ。
ある神明はかたわらにたちて苦難をのがれしむ。
見よ今アレース人間の形をとりて前にあり。
今トロイアの軍勢に面しながらも引き返せ。  605
返せ、甲斐なく神明に対し戦うことなかれ』

かくは陳じぬ。トロイアの軍勢間近く寄せ来り、
戦術長ける二勇将メネステース†とアンキアロス†、
同じ兵車に立ちたるをうちて倒せりヘクトール。
その倒るるを憐れみてテラモニデース・アイアース、  610
近くに寄せて燦爛と光る大槍投げ飛ばし、
アムピーオス†を(セラゴスの子たる)武将を射て倒す。
財に領土に豊かにてパイソスの地に住めるもの。
運命彼を導きてトロイア軍を助けしむ。
テラモニデース・アイアース彼の帯射て影長き  615
槍に下腹部貫ぬけば地響きなしてどうと伏す。
その戦装を剥がんとしアイアースこれに飛びかかる。
トロイア軍はこれを見て燦爛光る投げ槍を
彼に飛ばせば盾の上その幾条はつき刺さる。 かくて死体を足に踏み青銅の槍抜きとれど、  620
倒れし敵の美麗なる戦装さらに双肩の
上より剥ぐをよくしえず、槍の攻撃受けたれば。
猛威にはやる敵軍はその数多く槍ふるい、
勢いすごく迫り来る。将軍さすが勇なるも、
その身長も高くして、その名声も高けれど、  625
これに手向かうことをえず。次第にあとに引きさがる。
両軍かくて烈々の奮戦苦闘にわたり合う。5-627

そのときつらき運命はヘーラクレース生むところ
トレーポレモス(ギ)、勇将をサルペードーン(ト)に向かわしむ。
雷雲寄するクロニオンその子ならびにその孫の、  630
二将[1]互いに近寄りてやがて面して立てる時、
トレーポレモスまずさきに口を開きて陳じいう、
『サルペードーン、リュキアーの参謀、汝戦闘の
すべ知らずしていかなればここに震いてすくまるや?
アイギス持てる天王の裔と汝を呼ぶものは  635
偽れるかな。そのむかしクロニオーンの生みいでし
その諸々の英豪に汝はるかに劣らずや?
されども人のいうごとく豪勇にして獅子王の  5-638
心を持てるわれの父ヘーラクレース偉なるかな。
ラーオメドーンの馬のため彼その昔ここに来つ、  640
ただ六艘の船およびただ僅少の人を率て、
イリオン城を陥れ、これの市街を破壊しぬ。
さるを汝は怯(きょう)にしてひきいる民も弱り果つ。
リュキアーよりしここに来て、さらに今より猛しとも、
思うに汝トロイアに何らの救い与ええず、  645
我に打たれて冥王の関門通り過ぎんのみ』

[1]サルペードーン(2-877)はゼウスの子、トレーポレモス(2-653)はゼウスの子たるヘーラクレースの子。

リュキアー軍の首領たるサルペードンは答えいう、
『トレーポレモス、げにしかり。トロイア領主ラオメドン、
愚なるがゆえにその城は汝の父にほろぼさる。
領主はおのれに功立てし勇士をいたく罵りて、  5-650
馬の恩賞なさざりき、そのため遠く来し彼に[1]。
されど汝にわが手より死と暗黒の運命と
来らん。汝わが槍に倒れて我に名声を
与えん、さらに良馬持つ冥府の王に魂魄(こんぱく)を』

[1]ガニュメーデースを天上に奪い去りしそのつぐないとしてゼウスがトロースに与え、トロースこれをその子ラーオメドーンに与えし馬——ヘーラクレースはラーオメドーンの女を救い、この名馬を賞として受くる約を得、されどその約はたされず。

サルペードンはかく陳じ、トレーポレモスこなたその  655
利刃振り上げ、両将の手より同時に長き槍、
はなれ激しく飛び行きて、サルペードーンは敵の首
真中を打てば、物すごき鋭刃刺して内に入り、
暗黒の夜は双眼を覆いて彼を倒れしむ。
トレーポレモス投げつけし槍、敵将のひだり腰  660
うちて鋭くその穂先つらぬき通り骨に触る。
されど天父の救いあり、彼に死滅を逃れしむ。
神に似るその英豪のサルペードーンを戦いの
場よりその友救い出す。その身に立てる長槍は
ひかれ行く彼なやますを、危急の際に何びとも  665
気づかず。これを腰部より抜き去り彼を地の上に
立たしめんこと思いえず。辛労かくも大なりき。
脛甲かたきアカイアの友、乱戦の場の外に
トレーポレモス運び出す。そを眺めたるオデュセウス、
心肝かたく忍ぶ者さすがにいたく胸動く。  670
そのとき彼は胸中に思いわずらう、まずさきに
雷霆の威のゼウスの子サルペードーンを追うべきか、
あるはリュキアー郷軍(ト)のあまたの命を奪わんか?
されどゼウスの猛き子をその鋭利なる長槍に
倒さんことは英豪のオデュセウスに許されず、  675
リュキアの群にその心向かわしむるはアテーネー。

かくして打たるコイラノス†、アラストール†とクロミオス[1]、5-677
アルカンドロス†、ハリオス†とノエーモーンとプリュタニス†。5-678
リュキアー軍の他を多くオデュセウスは討ちつらむ、
堅甲光るヘクトールこれを認むるなかりせば。680
かくてその身に燦爛の青銅よろい先鋒に 
すすみ来たりてダナオイの軍に恐怖をもたらすを、
サルペードーン、ゼウスの子、喜び悲痛の声に呼ぶ、

『プリアミデーよ、敵人の餌食とわれの倒る身を
捨てることなく今救え。やむを得ずんばのちの日に  685
一命ここになげうたむ。もとより我は本国に、
祖先の郷に立ちかえり、恩愛深きわが妻と、
わが幼弱の子に歓喜与うることはあらざらむ』

かく陳ずるにヘクトール答えず、堅甲ゆるがして、
アカイア族をすみやかに払いしりぞけ、その軍の  690
多数の命を奪うべく勇みおどりてすすみ行く。
しかして勇武神に似るサルペードーンを同僚ら、
ともにいたわり、アイギスをもつ天王のめずる樫[2]の
下に座らせ、その腰に立つ白楊のかたき槍、
槍を親しき剛勇のペラゴーン†引きてぬき去りぬ。  695
そのとき濃霧彼の目を覆いて魂は彼を捨つ。
されど程なく生き返る——北風吹きて、奄々(えんえん)の
呼吸苦しき勇将を再び生に返らしむ。

[1]同名異人5-159。
[2]このぶな樹はスカイア門の前にあり。6-237。

かなたアレース軍神と黄銅よろうヘクトルに
向かい対するアルゴスの軍勢船に帰りえず。  5-700
また奮然とすすみ出で彼と戦うことをえず。
トロイア陣中アレースのあるを悟りてあとしざる。5-702
プリアミデース・ヘクトールおよびアレース軍神に
殺され武具を剥がれたる最初は誰か?最終は?
神に類するテウトラス(ギ)†、馬術すぐるるオレステス†、  705
アイトリア人トレーコス†、オイノマオス†はこれに次ぐ。5-706
オイノピデース・ヘレノス†と輝き光る腹帯の
オレスビオス†はまたつぎに——オレスビオスの住むところ、
ケーフィーシスの湖に隣りて特に豊沃の
ピューレー。これのかたわらにボイオーティアの富民住む。  710

かく猛烈の戦いにアルゴス軍勢数多く
打たるるを見る皓腕(こうわん)[1]の女神ヘーラー、かたわらに
藍光の目のアテーネー立てるに向かい叫びいう、
『アイギス持てる天王の常勝の児よ、ああ見よや!
もし無残なるアレースのかかる凶暴捨ておかば、  715
堅城イリオンほろぼして勇み故郷に帰るべく
メネラーオスに約したるわれの誓いの辞むなし。
いざ立て、ともに猛烈の救いの道を計らわむ』5-718

[1]「皓腕」は腕の白いこと。美人の形容。

宣する旨に藍光の目のアテーネー従えり。
かくてヘーラー端厳(たんごん)の女神——偉大のクロノスの  5-720
子は黄金の頭甲(ずこう)ある戦馬の武装ととのえつ。
侍女ヘーベーはすみやかに鉄の車軸をただ中に、
輻(や)の数八の黄銅の輪を車体にぞすえ付ける。
車輪の縁は不壊の金、そのうえさらに黄銅の
被覆いみじく外縁をなして見る目をおどろかし、  725
銀より成れる両轂(こしき)左右ひとしく回り行く[1]。

[1]輻(や)はスポーク、轂(こしき)はスポークを束ねるハブ。

戦車の床は黄金と白銀のひも編みなして、
しかして二重欄干は前後左右をとり囲む。
車体の先に銀製の轅(ながえ)突き出づ。その端に
美なるこがねの軛(くびき)付け、これにこがねの胸当てし、  730
くびきの下の疾風の足とき馬をヘーラーは
みずから御して、戦闘とその喊声(かんせい)[1]にあこがれぬ。

[1]「喊声」はとっかんの声、ときの声。

アイギス持てる天王のめずる明眸アテーネー、
その多彩なる精妙の衣みずから織り出だし
みずからたくみ成せるもの天父の堂に脱ぎ捨てて、  735
雷霆の神クロニオンもてる被服[1]を身に着けつ、
かくて涙のもといたる荒びの戦具ととのえり。
双の肩のへ投げ掛くる大盾——房を垂るるもの 
すごし。フォボスはその中に至重のくらい保つめり、
エリスはそこに、アルケー(暴力)も、紅血冷やすイオーケー(追撃)も、  740
また恐るべきゴルゴンの怪物すごき頭あり、5-741
アイギスもてる雷霆の神の示せる畏怖の像。
また頭上にアテーネー兜頂く、その上に
二本の角と隆起四つ、百の都城の兵おおう[2]。5-744
かくて親しく燦爛の兵車に女神立ちあがり、  745
重くて固き大槍をその手にとりぬ。槍により
手向かうものをアテーネー奮然としてうち破る。
ヘーラーかくて迅速に駿馬に鞭をうち当てて、
駆れば天上もろもろの門、戛然(かつぜん)と開かるる。
門の司は時の神[3]——オリンポスと上天は  5-750
これに託さる、濃雲(のううん)を開きあるいは閉じるため。
ここを二神はその命に応ずる駿馬駆り去りぬ。

[1]アテーネーが父神の武装を身に付けること8-384にもあり。特殊の恩愛を見るべし。
[2]意味分明ならず。5-739以後この一段に関して学者の意見紛々。
[3]ホーライの数と名とをホメーロスは(ムーサイと同様に)詩中に説くことなし。

諸峰群れ立つオリンポス、その最高の頂きに
諸神と離れ悠然と座せる雷霆クロニオン。
これを眺むるヘーラーは、兵車をそこにひきとどめ、  755
天威かしこきクロノスの子に問いかけて陳んじいう、

『天父ゼウスよ、アレースのかく凶暴に狂えるを
君怒らずや?アカイヤの族の幾何(いくばく)、何びとを
彼は無残に倒せしぞ!悲哀かくして我にあり。
さるをキュプリス、銀弓のアポローンともに狂暴の  760
彼を励まし荒れしめて悠然として喜べり!
天父ゼウスよ、アレースをいたく懲らして戦場の
外に我もし払わむに、君それ我に怒らんか?』

雷雲寄するクロニオンそのとき答え宣しいう、
『彼に対してアテーネー、勝利のわが子を立たしめよ。  765
アレース懲らすすべに慣るわが子たれにもまさるゆえ』
しか宣すれば皓腕のヘーラーこれに従いて、
鞭を駿馬にうち当てる。両馬すなわち飛ぶごとく、
大地と星の空の間、勇みて遠く駆け出す。
岸上高く展望の岬にたちて人とおく  770
葡萄の酒の色わかす海を見渡すはるかまで、
ひづめの音も高らかに女神の双馬遠く馳す。
かくしてトロイア平原にスカマンドロス[1]、シモエイス、
二つの流れ相混じ合するにわに着ける時、
馬をとどめて、戦車より玉腕白きヘーラーは  775
これを放ちてそのめぐり厚く雲霧を覆い敷く。
またシモエイス、馬のためアムブロシア[2]を生ぜしむ。

[1]別名クサントス。
[2]ここにはを意味す。

ともにアルゴス軍勢に力添うべく念切に、
おびえる鳩の行くごとく、そこより二神歩をすすみ、
軍勢中の至剛なる数またもっともまさるもの、 
馬術巧みの豪勇のディオメーデスを取り囲み、780 
生肉食う獅子のごと、あるいは猛くたやすくは
うち勝ちがたき野猪(やちょ)[1]のごと群れいるほとり訪い来り、
玉腕白き端厳の女神ヘーラー(ギ)高らかに、
声黄銅のごとくして、五十の人の声合わす  785
ステントール[2]の剛勇の姿を借りて宣しいう、

[1]イノシシのこと。
[2]この名はこの後『イーリアス』中に現われず。しかも大音の諺となる。アルストテレスの政治学七巻四章「ステントールの声を持たずしては……」(1326b)

『恥じよ汝らアルゴスの卑怯なる者、形のみ
まさる。さきにはアキレウス、軍陣中にありし時、
ダルダニアー[1]の城門の前にトロイア敵軍は
彼の鋭き槍恐れ、おのが姿を見せざりき。 790
見よいま敵はその都城離れて船を前に攻む』
しかく宣して将卒の魂を励まし勇を鼓す。
さらに藍光の眼の女神、テューデイデスを訪い行けば、
兵車駿馬のかたわらに猛き将軍その傷を――
かのパンダロス射りし矢の傷をいやして座を占めつ、  795
その円形の盾むすぶ太き革ひも、その下の
淋漓の汗に悩みつつ、腕疲れたる勇将は、
すなわち紐を解きゆるめ傷の黒血(くろち)をふき拭う。
そのとき女神その馬のくびきに触れて彼にいう、

[1]すなわちスカイアー城門。3-145。

『ああテューデウス生める子はいたくも父に似ざるよな!  5-800
将テューデウス身の丈は短かりしも勇ありき。
むかし身一人テーバイに、使いとなりてカドモスの[1]、5-802
種族の中に行ける時、(われそのときに館中に
彼を酒宴に招かしむ)武勇の示し、競技(きおいわざ) 
彼に対して我はつゆ求めざりしも、例のごと、  805
英武の彼はテーバイの子らにいどみて技競い、
すべてにおいてことごとくその一同にうち勝てり。
(たやすく勝てり、そこにわれ彼に援助をほどこしき。[2])
いまわれ汝のそばに立ち、汝を守りこころより、
敵軍トロイア軍勢と戦うことを命じいう。  810
さはれあまたの戦闘によりて汝の四肢疲る。
あるいは卑怯の恐怖より汝はたえて動きえず。
知るべし汝、勇猛のオイネイデース[3]の子にあらず』

[1]4-376以下参照。
[2]テューデウスおのずからの勇をいま女神は説きつつあれば、この行は矛盾、誤って挿入さる(リーフ)。
[3]オイネウスの子すなわちテューデウス。

ディオメーデース——勇猛のテューデイデスは答えいう、
『アイギス持てる、ゼウスの子、女神よ君をわれは知る。  815
されば進んでいささかも隠さず君にうち明けむ。
卑怯の恐れ、怠慢はわれをおさゆるものならず。
君がくだせる厳命を思い出づるがゆえにのみ。
慶福受くる諸々の神に対する戦いは
すべて許さず、ただ一人アプロディーテが戦場に  820
来らん時は青銅の刃をあげて打つべしと。
その命によりしりぞきてここに留まり、同僚の
アルゴス将士いましめてここに等しく陣せしむ。
アレース(ト)かなた戦場に命を下すを知るがゆえ』

藍光の目のアテーネー女神答えて彼にいう、  825
『ディオメーデース、わがめずるテューデウスの武勇の子、
恐るるなかれアレースを。はたまた諸神の中にして
何者かれにくみするも、我は汝を助くべし。
いざ単蹄の馬を駆り、まずアレースに突きかかれ。
近きに迫り、アレースを、かの荒れ狂う慓悍(ひょうかん)の  830
神、反逆の禍(まがつみ)を討ちてはばかることなかれ。
さきには天妃ヘーラーと我とに彼は約しいう、
アルゴス勢に味方してトロイア軍を打つべしと。
その約忘れ、彼ぞ今トロイア軍の助けする』

しかく宣して兵車より女神手ずからステネロス  835
引きて大地にくだらしむ。勇士ただちにおりたてり。
かわりて女神豪勇のディオメーデースのかたわらに
勇み戦車に乗りたてば、樫の車軸は高らかに
神と人との恐るべき重さのもとに鳴りきしる。
すなわち鞭と手綱とを手にしてパラス・アテーネー、  840
アレースめがけ単蹄の駿馬ただちに駆り進む。
アレースときにペリパー ス(ギ)(オケーシオス†の生むところ)、5-842
アイトーリアの族中にすぐれし巨人の武具を剥ぐ。
血潮に染みて武具剥げるそのアレースに見られじと、
ハーイデース[1]のかの兜、頭によろうアテーネー。  845

[1]冥府の王の名は『目に触れざる者』の意。ハーデースまたハーイデース、ハイデース(Brasse)。

こなたアレース、人間のまがつみの神、英豪の
ディオメーデスを眺め見つ、倒して魂を奪いたる
長身の敵ペリパスを倒れし庭に捨ておきて、
馬術巧みの豪勇のディオメーデースに駆け向かう。
かくして両者間近くに互いに迫り来たる時、  5-850
敵の生命絶やすべき一念せつにアレースは、
くびき手綱のうえ越して黄銅の槍なげ飛ばす。
その槍宙に手につかむ藍光の目のアテーネー。
かくてむなしく飛び来る槍を戦車のそとに投ぐ。
つづいておのが順来る雄叫びすごき豪勇の  5-855
ディオメーデース、黄銅の槍くり出せば、アテーネー
こをアレースの革帯のほとり下腹突き入らす。
勇将かくてアレースに傷を負わして肉やぶり、
槍を手もとにくりもどす。そのとき強きアレースの
叫ぶ音声、たとうれば九千あるいは一万の  860
軍勢ともに同音に戦場中に叫ぶごと。
トロイアおよびアカイアの両軍ひとしくこれを聞き、
恐怖にふるう。アレースの叫喚かくもすごかりき。

天むし暑く風あらび、怒号の中に夜のごと、
雲霧まくろくわき出づる。その様みせてものすごく、  865
ディオメーデース剛勇の将の目の前、アレースは――
荒びの神は雲に乗り、大空高く昇り去る。
かくて諸神の住むところ、ウーリュンポスの頂きに、
早くも着きて、雷霆のクロニオーンのそばに座し、
受けし傷より流れづる浄血示し惨然と、  870
悲憤の念に駆られつつ、羽ある言句を陳じいう、

『天王ゼウス、ああ君はこの凶暴を怒らずや?
われら諸神は人間に恵みを加えほどこして、
好みて相互争いて激しく苦難忍び受く。
狂う無残のかの息女——常に不法をたくらめる——  875
彼女の父たるゆえをもて、我らは君といさかえり。
ウーリュンポスに住める他の不滅の神はことごとく、
君に忠順尽しつつ、その命令に従えり。
言句あるいは業(わざ)により君はかの女をいましめず。
子たるのゆえに君はその狂暴のわざ励ませり[1]。  880
彼女はかくて剛勇のディオメーデースそそのかし、
不死の諸神にさからいて彼に暴威をふるわしむ。
アプロディーテの手首をば彼は真先きにそこないて、
つぎにさながら神のごと我を目がけて襲い来ぬ。
さもあれ我の速き足われを救えり、しからずば、  885
死屍累々のただ中に長く苦しみ受けつらむ。
あるいは彼の鋭刃に打たれ力を失わむ』

[1]ホメーロスの詩中にアテーネー誕生の詳説なし。ゼウスの頭より生る云々は後世の説。

雷雲寄するクロニオンにらみて彼に答えいう、
『わがかたわらに座を占めて嘆くをやめよ、反逆者。
ウーリュンポスに住む神の中にもっとも憎き者、  890
汝は不和を争いをまた戦闘を常に好く。
汝を生めるヘーラーの耐うべからざる屈せざる 5-892
性(さが)を汝は受け継げり、彼女を制すること難し。
おそらく彼女の助言より汝この難受けつらむ。
汝の長く苦しむをさもあれ我は忍び得じ、  895
汝まさしく我の種、ヘーラー我に生みなせり。
忌み恐るべき汝、他の神より生(あ)れしものならば、
ウーラニオーンの子ら[1]よりも低きに疾くに落ちつらむ』5-898

[1]クロノスおよびイーアペトス(8-479)。

しかく宣して命くだしパイエーオーンに治癒せしむ。
すなわち鎮痛の薬もてパイエーオーンはたちまちに  5-900
彼を癒しぬ、畢竟は死すべき質にあらざれば。5-901
たとえば白き乳液にイチジクの汁しぼり入れ、
かき乱す時たちまちにこごりて固体となるごとく、
かく迅速に猛烈のアレース傷をいやされぬ。
ヘーベー彼の身を洗い美麗の衣まとわしむ。  905
すなわち彼は傲然(ごうぜん)とクロニオーンのそばに座す。
さらにアルゴスのヘーラーと守護の神霊アテーネー、
ともにゼウスの宮殿に帰り来れり。人間の
災いのもとアレースの屠殺を絶やし平げて。


イーリアス : 第六巻



 神々去るのち両軍相戦う——アカイア軍の優勢。ヘレノスに説かれてヘクトール城中に帰り母へカベーをして女神アテーネーを祭らしめんとす。グラウコスとディオメーデースとの会見。彼らの父祖の親交。これを思い戦わず、武具を交換して別る。ヘクトール城中に帰る。女神アテーネーに捧げる宝と祈り。ヘクトール、その妻子との会見および告別。パリス武装してヘクトールとともに戦場に進む。

諸神しりぞき[1]、戦闘はトロイアおよびアカイアの
軍勢中に行われ、シモエイスまたクサントス、
両河の間、平原のあなたこなたに黄銅の
槍は互いにふるわれて奮戦まさにいま激し。
テラモニデース・アイアース、アカイア軍の堅き城、  6-5
まさきに立ちてトロイアの陣を破りて、光明を
その僚友にもたらしつ、トラーケーの族中に
至剛のほまれアカマース(ト)[2]、エウソーロスの子をうちぬ。
アイアスすなわち真っ先きに、長き冠毛ふりかざす
その敵将の甲突けば狙いたがわず鋭刃の  6-10
槍は骨まで深く入り、暗黒彼の目を覆う。

[1]この句原文になし。
[2]2-844、5-462。

雄叫び高き剛勇のディオメーデスのうち取るは、
テウトラースの生めるもの、堅き城市のアリスベー[1]
領とし富みてよく人に愛を受けたるアクシュロス†、
その邸宅は街道にのぞみ親しく人を容る。  15
されどもここに何びともその面前に走り来て、
彼の悲惨の運命を救わず。二人命おとす、
彼と従者のカレーシオス†、彼の戦馬を御する者、
二人等しく倒されてともに冥土の底に行く。

[1]2-836。

エウリュアロス(ギ)のうち取るはオペルティオス†とドレーソス†。  20
ついで二将のあとを追う、アイセーポス†とペーダソス†。
二将の母は水の仙アバルバレエー†、そのむかし
ブーコリオーンに二子生みぬ。ブーコリオーンはすぐれたる
ラーオメドーンのはじめの子、ひそかに母の産むところ。
かれ群羊を飼いし時、そこに仙女にちぎり会い、  25
仙女かくして身ごもりてやがて双児の母たりき。
メーキステウス生める子[1]は、今その二人うち倒し、
威力と肢体ほろぼして、さらに肩より武具を剥ぐ。

[1]すなわちエウリュアロス(2-566)
ポリュポイテス(ギ)[1]はつぎにまたアステュアロス†をうち取れば、
ペルコーテーのピデュテス†をオデュッセウスは黄銅の 6-30
槍にて倒し、テウクロスはアレタオーン†をうち取りぬ。
アブレーロス†を槍をもてアンティロコスはうち取りぬ。
アガメムノーン、民の王、王は倒せりエラトス†を、
サトニオエイス清流のほとりに近く、険要の  6-34
ペーダソス市に住む者を。またピュラコス(ト)†の逃げ行くを、  6-35
うちて倒せりレーイトス[2]、メランティオス†をエウリュピュロス。
雄叫び高きメネラオス、アドラストス(ト)[3]を生きながら
捕えり。彼の戦車ひく二頭の馬は平原を、
恐れ狂いて駆け走り、柳の枝にからまりて、
ためにながえの端のうえ戦車を砕き、他の馬が  40
恐れて逃ぐる道の上、ともに城市に向かい去る。
車上の彼は逆さまに振り落されて、地の上に
車輪のほとり塵噛みて伏せば、かたえに迫り来る
手には大身(おおみ)の槍を取るアトレイデース・メネラオス。
その膝いだき声あげてアドラストスは乞い求む、  45

[1]2-740以下。
[2]2-494。
[3]2-830は同名異人。

『アトレイデスよ、わが命助け、賠償を受け入れよ。6-46
富める我が父たくわうる種々の財宝かずしれず。
黄銅ならびに黄金をまた鉄製の具をそなう。
アカイア軍の中にしてわれの生けるを知らん時、
父よろこびて莫大の賠償きみに贈るべし』  6-50

しかく陳じて将軍の胸裏の思い動かせば、
彼はアカイア軽船の中にその捕虜送るべく、
これを従者に付せんとす。その面前にとぶごとく、
アガメムノンは駆けて来て大喝(かつ)なして叫びいう、

『ああ惰弱なるメネラオス、など敵人を憐れむや?  55
トロイア族のおおいなる好意を汝館内に
かつて受けしや?一人だもわれらの手より被らす
無残の破滅避けしめな。まだ胎内にある子すら
のがるべからず。ことごとくみな絶やすべし、一片の
墳墓も跡もトロイアの空にとどめず絶やすべし』  60

アガメムノーンかく述ぶる忠言聞きて弟は、
心を変じ手をのしてアドラーストスを引きつかみ、
投げてあなたにうち飛ばし、倒るる彼の脇腹を
突きて殺して、勇猛のアトレイデスは彼の胸、
踵に踏まい鋭刃の槍を死屍より引き抜きぬ。  65

そのとき高くネストール、アルゴス勢に叫びいう、
『友よ、ダナオイ諸勇士よ、神アレースの従者らよ、
汝らのなか何びとも、戦利の品をあくまでも
水陣むけて運ぶべく、あとにとまりて略奪の
業にいそしむことなかれ。ただ敵人をうち倒せ。  70
のちに静かに平原に彼らの死屍を剥ぎ得べし』
しかく陳じておのおのの意気と勇とをふるわしむ。

そのときトロイア軍勢はアレースめずるアカイアの
軍に追われてイーリオス城内さして逃げんとす。
プリアモスの子ヘレノスはすぐれし占者[1]、かくと見て、  6-75
アイネイアスとヘクトルのかたえにたちてこれにいう、

[1]プリアモス王の子にして占術をよくする者は彼と妹カッサンドラーとのみ。

『アイネイアスよ、ヘクトルよ、戦闘および評定の
席に汝ら誰よりもまさる。汝らトロイアと
リュキアー二族の信頼をもっとも多くおくところ。
汝ら四方をめぐる後ここに留まり、わが軍を  80
城門前に引き止めよ。さらずば逃げて城に入り、
婦女に抱かれてたわむれて敵の嗤笑(ししょう)をまねくべし。
かくてすべての軍隊を励まし勇を鼓するのち、
疲労いとわずもろともにここに留まり、アカイアの
軍に敵して戦わむ。運命われらに迫り来ぬ。  85
ヘクトル、汝は城に入りわれら二人の母に言え。
母は丘のへ祭らるる藍光の目のアテーネー、
女神パラスの殿堂の聖門鍵もて開き入り、
中にトロイア城内の夫人あまねく集むべし。
母はしかして館中にもてる衣裳の数々の  90
中に、最美と最秀と認めもっともめずるもの、
そを雲髻(うんけい)のアテーネー女神の膝[1]に捧ぐべし。
さらに母また誓うべし、トロイア人とその家族
妻子老幼あわれみて、女神計りてイーリオン
そこより猛き敵の将、恐怖をわれらに起す者、   95
ディオメーデスを払いなばその壇上に一歳の
無垢の子牛を十二頭感謝をこめて捧げむと。
テューデイデースは敵中の、わが見るところ最勇士、
恐るべきかな、女神より生(あ)れしと伝うアキレウス、
それにも増して恐るべし。ああ猖獗(しょうけつ)やこの敵士、  6-100
その烈々の剛勇を彼と比すべき者あらず』

[1]座像と見ゆ。衣を女神に捧ぐる模様の彫刻はアテナイ府のパルテノーン殿堂にあり。

しか宣すればヘクトールその同胞の言に聞き、
武具をたずさえ戦車よりひらり大地に飛びくだり、
鋭利の槍を振りまわし諸隊あまねく経めぐりて、
これを励まし猛烈の戦闘に駆け進ましむ。  105
かくして彼ら引き返しアカイア勢に向かい立つ。
アルゴス陣はしりぞきて、その殺戮の手をとどめ、
心に思う、衆星のつらなる天をふり来る
とある神明トロイアを助けてかくもふるわすと。
そのときトロイア軍勢に大音叫ぶヘクトール、  110

『ああ豪勇のトローエス、また遠来の援軍ら、
わが友!汝の勇を鼓し、その面目を恥じしめそ。
われイリオンにおもむきて、しかして評議つかさどる
長老および妻女らに勧め促し、慇懃に
諸神に祈祷ささげしめ、犠牲の誓いなさしめむ』  115

堅甲光るヘクトール、しかく宣して立ち去れば、
いま背に負える彼の盾[1]、隆起の飾り持てるもの、
その縁をなす黒き革、首と踵をみだれ打つ。

[1]盾は枠の上に黒き皮革を張り、上に金属の板を覆う。皮革は金板の外にはみ出で縁をなす。しりぞく時はこの盾を肩に背負う。盾は大にして足に届く。

ヒッポロコスの子グラウコス(ト)[1]、またテュデウスの武勇の子、
おのおの激しく戦闘を望み二陣の前に出づ。  120
かくして二将間(あい)近く互いに迫り寄する時、
雄叫び高き豪勇のディオメーデースまず陳ず、

[1]リュキアの将軍、2-877。

『ああ無常なる人間の中に秀づる君はたそ?
名誉を競う戦場に我は初めて君を見る。
影長くひく鋭鋒(えいほう)の、これこの槍に手向かえば、  125
君はまさしくその勇気凛々として他にまさる。
わが剛勇を敵とする君の父こそ不幸なれ。
さはれ君もし天上を下れる神の一ならば、
われ戦わず。天上の神を敵とし戦わず[1]。
ドリュアスの子のリュクルゴス[2]勇すぐれしも天上の  6-130
神を恐れず敵としてついに寿命は長からず。
聖なるニューサの丘の上ディオニューソスの諸々の
乳母(うば)をいにしえ追いし時、リュクールゴスは無残なる
尖れる棒に追いたてて、彼女らの杖ことごとく
地上に投じ捨てしめぬ。ディオニューソスは怖じふるい、  135
海の潮(うしお)の底くぐる。テティスそのときその胸に 
人のおどしにふるう彼、恐怖の彼を抱き取りき。
リュクールゴスを、悠々の生を送れる神明は
かくして憎み、雷霆のゼウスは彼の目を奪う。
不死の諸神の憎しみに、かくて程なく彼逝けり。  140
われ慶福の神々と戦うことをあえてせず。
されど大地の産物を食う人間の身なりせば、
汝近付け。すみやかに死滅の域に入らんため』

[1]ディオメーデースが神と戦いしこと前の五巻にあり、この段と矛盾す。
[2]それを悲劇にしたのがエウリピデス『バッカイ』。

ヒッポロコスの勇ましき子息、答えて彼にいう、6-144
『ああテュデウスの勇武の子、我の素生をなど問うや?  145
木の緑葉のそれのごと人の素生もまたしかり[1]、6-146
風は樹葉を吹き去りて大地に散らし、森林は
春の新たにめぐる時他をまた芽出し長ぜしむ。
かく人間の世代(せいだい)も時に生まれて時にやむ。
されど多くの人々のよく知るごとく、われの系、  6-150
君もし委細知りたくば、今われ君に陳すべし。
馬匹の産地アルゴス[2]の郷の一都市エピュラーに、
いにしえ住めるシーシュポス・アイオリデース、策略は
人に優りき。まさる者生みたるその子グラウコス、
そのグラウコス比類なきベレロポンテース[3]生みなせり。  155

[1]有名の句。シモニデスいわく、『キオスの人(ホメーロス)の句に云々あり』人生の無常は21-464〜467にも説かる。人間の不幸を嘆ずるは17-445〜447、24-525。
[2]ここはペロポンネソス全部を指す。エピュラーはおそらくコリントス。
[3]本名はヒッポノス、その家族のベレロスを殺せるゆえにベレロポンテースと呼ばる。

『神の恵みにこの勇士、美にして威あり猛からず。
彼に国王プロイトス、危害たくらみ領土より
放ちて外に遣わしぬ。王プロイトス、アルゴスの
中にゼウスの寵によりあまねく部下を服せしむ。
これよりさきに彼の妻艶麗の妻アンテイア†、  160
ひそかに勇士慕えどもベレロポンテース戒めて、
みさお正しく身を守り邪恋の声に耳貸さず。
淫婦怒りてプロイトス夫王に讒訴(ざんそ)し告げていう[1]、
「ああプロイトス、滅び去れ。さなくば我に不義の恋、
迫りし彼の命を絶て。ベレロポンテースとく殺せ」  165
しか陳ずるを耳にして王は激しく憤る。
されども彼を恐るればその殺害をあえてせず。
リュキアの郷に彼をやり、畳む書き板その中に 6-168
彼の殺害命令を記せるもの[2]をもたらして、
岳父[3]のもとに致さしむ、彼の一命絶やすため。  170
かくて諸神に導かれ行きて流れのクサントス、
リュキアの郷に着ける時、その広大の地のあるじ、
リュキアの王は慇懃に勇士を崇め、もてなしつ。
九日つづきて宴開き、九頭の牛を牲にしつ、
あくるあしたに、紅(くれない)の薔薇(そうび)の色の指もてる  175
あけぼのの神エーオース現われし時、彼に問い、
その愛婿(せい)のプロイトス送れる文(ふみ)を求め取り、
これを開きて中にあるすごき命令読める時、
彼に命じてまずさきに打ち勝ちがたきキマイラを、6-179
神の族たるキマイラを敵とし行きて破らしむ。  180
怪物の身は前は獅子、あとはドラゴン、中は山羊、
炎々として物すごき火焔口より吐けるもの。
ベレロポンテース神々の教え奉じて怪物を
倒せるのちに引き続ぎてソリュモイ族と戦えり。
その戦闘は人中の至難のものと彼思う。  185
さらにつづきてアマゾネス、勇武の女軍ほろぼせり。
その凱旋の道待ちて王は新たにたくらみつ。
広き領土のリュキアの地、中に至剛の徒を選び、
待ち伏せせしむ。しかれども彼らは家は帰り来ず。
ベレロポンテース勇ふるい皆ことごとくうち取りぬ。  190
そのとき王は神明の種とし彼を認め知り、
彼を留めて彼の手に愛女を与え、さらにまた
王者の権の一切の半ばを割きて譲り去る。

[1]淫婦の邪恋の物語。ギリシアにおいて他に有名なる者はヒッポリュトスのそれ。エウリピデースこれを悲劇となす。後代にセネカまたさらに後代にラシーヌの作あり。
[2]当時文書の技ありしことを示す。
[3]岳父は妻の父。義父。ここはイオバテース。
『リュキアの族は加うるにすぐれし領土一部割き、
彼に与えり。豊沃の果樹と穀(こく)とのうまし地を。  195
ベレロポンテース勇将の妻は三児を挙げ得たり。
イーサンドロス、ヒッポロコス、ラオダメイアを挙げ得たり。
ラオダメイアにクロニオン雷霆の神契りつつ
黄銅鎧い神に似るサルペードーンを生みなしぬ。
ベレロポンテス、さりながらのちに諸神[1]に憎まれつ、  6-200
心むしばみ悄然と、一人さびしく漂浪の
旅に人目を避け行きぬ、アレーイオンの平原を。

[1]晩年狂う。

『ソリュモイ族の勇士らとイーサンドロスの戦える
時にアレースあらびつつイーサンドロスをほろぼしぬ。
またアルテミス憤りラオダメイアをほろぼしぬ。  6-205
残るは一人ヒッポロコス、彼ぞまさしくわれの父。
我をトロイア戦場に送りてわれを戒めぬ。
常にすべてに立ちまされ、すべての中の至剛たれ。
エピュラーおよび広大のリュキアの郷に生まれ来て、
歴代常にかち得たる祖先の名誉汚すなと。  210
系統および血族のいわれはかくと我誇る』

しか陳ずれば大音のディオメーデース喜悦しつ、
すなわち槍を取りなおし大地の胸に突き立てつ、6-213
睦みの言句、向かい合う将に対して宣しいう、

『さてこそ君は昔より祖先伝来われの友。  215
我の勇祖父オイネウス[1]その舘中にそのむかし、6-216
ベレロポンテースもてなして二十日にわたり宿らしめ、
さらに互いの友愛に美麗の品を取り換えき。
紫染めし燦爛の帯をわが祖父彼の手に、
黄金製の盃をベレロポンテースわが祖父に。  220
その盃は門出の日われ邸中に残しきぬ。
アカイアの軍テーバイに敗れし昔、家を辞し
父テューデウス去れるとき、我幼くて見覚えず。
我いまかなたアルゴスに、主として君を迎うべし、6-224
我リュキアーの地訪わん時、君また我を迎うべし、  225
さらばこれこの戦場に互いの槍を避けしめよ。
神明われに恵み垂れ、わが健脚の及ぶもの、
トロイアおよび援軍の中にうち取る者多し。
同じくアカイア軍勢の多くを君はうち取らむ。
いざいま軍装われと君換うべし、父祖の伝来の  230
友たることを両軍の戦士ひとしく知らんため』

[1]9-533以下にまたオイネウスを説く。彼は息子テューデウスがテーバイに戦死ののち、孫ディオメーデースを育つ。

しかく陳じて戦車[1]より両将等しく飛びおりつ、
互いに手と手握り合い誓言互いに言い換わす。
そのときゼウス・クロニオン、グラウコスの智を奪う[2]、6-234
ディオメーデース勇将と彼は武装を取り換えぬ、  235
百牛の値の黄金を九牛の値ある黄銅に。6-236

[1]6-213に槍を大地につきたつとあり。矛盾。
[2]この奇異なる結末は了解に苦しむ。

こなた英武のヘクトール、西大門[1]と山毛欅(ぶな)の木に 6-237
着けば、トロイア兵士らの夫人息女ら寄せ来り、
子弟と友と良人の消息せつに尋ね問う。
将軍さはれ厳然といましめ、神に祈るべく、  240
災いうれいおびえたる全ての女性に命つたう。
かくて華麗の宮殿に王プリアモス住むところ、6-242
彫琢(ちょうたく)こらす柱廊を備えるほとり到り着く。
そこに磨ける石の部屋、互いに隣り築かるる、
その数五十、元帥の王プリアモス生みなせる  245
諸王子おのおの正妻とともに起き伏しするところ。6-246
さらに同じく国王の息女のために設けられ、
広き中庭隔てたる向かいの側に彫琢の
石にて成れる室十二、王プリアモスの愛婿(あいせい)ら、
その貞淑の妻ともに隣り起きふしするところ。  6-250
そこに慈愛の母夫人、息女の中に艶麗の
誉れの高きラオディケー具し、将軍に向かい来つ、
親しく彼の手をとりて彼に対して陳じいう、

[1]スカイアー(西門の意)。

『我が子何ゆえ戦場の荒びを捨ててここに来し?
荒びて狂うアカイアの軍勢せまり城壁の  255
そばに戦う。かるがゆえ汝の心イリオンの
高き丘のへ神明に祈り上げよと命じけむ。
しばらく休め、甘美なる芳醇我はもたらさむ。
クローニオーンおよび他の諸神にまずは奉り、
つぎに我が子よ、口にして汝の元気とりなおせ。  260
疲れし人に玉盃はすこぶる可なり。汝いま
勇をふるいて同胞[1]を防ぎていたく疲れたり』

[1]ここの「同胞」は兄弟ではなく同国人の意。

堅甲光るヘクトールすなわち答えて陳じいう、
『哀れわが慈母、甘美なる酒をもたらすことなかれ。
おそらく我を弱らしめ、勇と力と捨てしめむ。  265
洗わざる手に黒き酒クロニオーンに捧ぐるを 6-266
われははばかる。雷雲を集むる神に血と塵に
まみる不浄の手を挙げて祈らんことは許されず。
さはあれ君は香料をたずさえ、老いし女性らを
具して藍光の目の女神アテーネーの宮詣ずべし。  270
居館の中にたくわうる最上最美のよき衣、
君のもっともめずる物、そを取り出し、鬢毛(びんもう)の
美なる神霊アテーネーその膝のへに奉れ。
しかして誓え。女神もしトロイアおよび城中の
女性ならびに小児らを憐れみおぼし、テューデウス  275
生める猛将、恐るべき戦将、難儀をかもす者、
彼を聖なるイーリオン城外遠く払うとき、
初歳の牝牛(めうし)十二頭無垢なるものを捧げんと。
いざやわが慈母、アテーネー女神の宮をさして行け。
われはパリスのもとを訪い彼に命ぜん、わが言に  280
彼もし耳を貸すとせば。ああいま大地こつ然と[1]
彼に向かいて開けかし。ウーリュンポスの神かれを
育てて、トロイア、プリアモスならびに諸子の大いなる
呪いとなせり。彼にして冥王の府に落ち行くを、
わが目したしく見るとせば苦き不幸を忘るべし』  285

[1]4-182。

しか宣すれば母夫人その館中をめざし行き、
侍女らに命じ城内の老いし女性を集めしめ、
しかして香を薫じたる奥にすすめり。もろもろの
千紫万紅身を飾る衣服はそこに数知らず。
美貌のアレクサンドロスひろき海原漕ぎ返し、  290
名家の娘ヘレネーを誘いし同じ道のうえ、
シドーン[1]の地より得たるもの、シドーンの少女織りしもの。
中の一枚とりあげてヘカベーこれをたてまつる。
そは巧妙を極めたる最美最麗、燦(さん)として、
星のごとくに輝きて、すべての下におさめらる。  295
すなわちこれをたずさえて侍女をひきいて宮に行く。
かくして高き丘の上、女神パラスに詣ずれば、
頬美しきテアーノー[2]、アンテノールの妻にして 6-298
父は老将キッセース、トロイア人に選ばれて、
宮の祭司となれる者、彼らのために戸を開く。  6-300
悲しみ叫ぶ女性らは女神に向かい手を挙げつ、
頬うるわしきテアーノー、衣服を取りて鬢毛の
美なる女神のひざの上、献じささげて雷霆の
クロニオーンの大いなる息女に祈り求めいう、

[1]フェニキアの最古の都。
[2]5-70、11-224。

『ああ端厳のアテーネー、尊き女神、わが応護、  305
ディオメーデースの大槍をくじかせたまえ。願わくは
かれスカイアー大門の前に真逆(まさか)に落ちよかし。
トロイアおよび城中の女性小児に哀憐(あいれん)を
賜わば初歳の子牛らの無垢なるものを十二頭、
ただちにここに牲としてこの神殿に捧ぐべし』  310

祈願をかくは陳んずれど、そを納受せずアテーネー。

かく雷霆の神の子に彼らは祈る。かなたには
パリスの華美の邸さして足を進むるヘクトール。
邸はトロイア城中のすぐれし工匠もろともに、
パリス自ら建てしもの。居室と堂と中庭と  315
精美をきわめ高き地に作られ、王者プリアモス
および英武のヘクトール、彼らの邸はみな近し。
神の愛するヘクトール、今この邸にすすみ入り、
十一ペークス長き槍燦爛たるを手に握る。
穂は黄銅の製にして、根元を金の環包む。  320
パリスは部屋の中にして華麗の武具を整えつ、
盾と胸甲、角弓をその手に取りて調べおり、
侍女の間に座を占むるアルゴス生まれのヘレネーは、
これを督(とく)して工芸のいみじき業につとめしむ。
将軍そのときパリスを見、罵辱の言句吐きていう、  325

『奇怪の汝、憤慨(ふんがい)[1]を胸裏に抱くことなかれ。
見よ、兵士らは城壁に、あるいは城市のかたわらに
陸続としてうち死にす。城市のほとり戦闘の
叫喚高く乱るるは汝のゆえぞ。汝また
他の者戦場逃げ去らば必ずこれをののしらん。  330
立たずや、敵の兵燹(へいせん)[2]に都城の滅び焼くる前』

[1]メネラオスと一騎討ちし危きに臨める時トロイア軍は彼を助けざりき(335行)。
[2]「兵燹」は兵火、戦争における火事のこと。
容姿は神のごとくなるパリス答えて彼にいう、
『ああヘクトール、適切の君の叱責われは受く。
さらば答えむ。願わくは心にとどめ、我に聞け。
トロイア軍にいきどおり、うらみ怒りて我ここに  335
座するにあらず。ただ一人悲哀にひたりふけるため[1]。
いま我が妻も温厚の言句によりて励まして
我を戦場に駆らんとす。我またこれを良しと見る、
勝利の運は敵味方互いにめぐるものなれば。
さはれ君待て、軍装を我の整えおわるまで。  340
あるいは先にすすみ行け、つづきて君に追い付かむ』

[1]一騎討ちに失敗せるがゆえに。

堅甲光るヘクトール黙然として答えなし。
そのときヘレネー蜜に似る甘美の言を陳じいう[1]、
『ああ我が義兄、災いの基(もとい)となりて恐るべき
我は犬にも似たる者。——わが母われを産みし時、 6-345
颶風の息吹われを駆り、山上あるいは大海の
うしおの底に行く末を消すべかりしを。さありせば
山海われを葬りて、これらの難儀おこり得じ。
さはれ神明この難をその意に決し遂げしのち、
我なお、民の憤慨と罵詈とを解しその責めを  6-350
感ずるさらに良き人の妻としあれば良かりしを!
あわれこの人その心、堅固にあらず、のちもまた
しからむ。かくて応報をいつしか受けむ、我は知る。
さはれ君いま内に入り、この椅子につけ、わが義兄。
犬にも似たるわれゆえに、パリスのなせる咎(とが)ゆえに、  355
他の一切をうち越して君の心は悩めれば。
ああクロニオン、運命[2]の悪しきを加う。かくありて 6-357
末代遠き人々にわれ醜名(しゅうめい)をうたわれむ』

[1]可憐なる美人の懺悔(3-175参照)。
[2]3-165。

堅甲光るヘクトールそのとき答えて彼にいう、
『ヘレネー、汝、慇懃に我をとどむることなかれ。  360
従い難し。わが心、トロイア勢の応援に、
我を駆り立つ。彼らいま我無きゆえに悲しめり。
励ませ、汝この人を。彼また自ら急ぐべし、
わが城中にあるうちに我に追いつき会すべく。
我いま行きて、我が邸を訪いて家臣と恩愛の  365
妻と可憐の子とを見む。ああわれ知らず、のちにまた
この一身を全うし帰りて彼らに会するや。
あるいは神はアカイアの手中に我を委ねるや』

堅甲光るヘクトール、しかく宣して別れ去り、
建造いみじきその邸に到る。されども邸中に  370
アンドロマケー、腕白き恩愛の妻見出ださず。
妻女は幼児たずさえて、美服まとえる一侍女と
ともに城上(じょじょう)の塔のなか、慟哭しつつ立ちどまる。
すぐれし妻を邸中に見出だし得ざるヘクトール、
戸口に行きて立ち止まり、侍女らに向かい宣しいう。  375
『侍女らよ、汝、真実を委細に我にうち明けよ。
邸中去りて皓腕のアンドロマケー今いずこ?
我の姉妹や訪い行きし?あるは美服の義妹にか?
あるはトロイア女性らが鬢毛美なる恐るべき
女神に祈祷たてまつるパラスの高き殿堂か?』  380

その時とある忠勤の老女答えて彼にいう、
『正しき報告、我に君命じたまえり、ヘクトルよ。
君の姉妹に、あるはまた、美服をまとう義妹らに、
はたトロイアの女性らが鬢毛美なる恐るべき
女神に祈祷たてまつる宮に夫人の足向かず。  385
トロイア軍勢迫られて、敵軍さかんに奮えるを、
聞けるがゆえにイリオンの大塔さして足運び、
さながら狂女見るごとく、いそぎ走りて城壁に
今たたずめり。乳母(めのと)またともに幼児を抱だき行く』

その言聞けるヘクトール、ただちに邸を走り出で、  390
さきに来りし道の上、再び急ぐ足すすめ、
城中過ぎてスカイアー(その大門を駆け出でて
戦場さして進むべき)ほとりに来り着ける時、
彼に会うべく高貴なる[1]アンドロマケは馳せ来る。
森の覆えるプラコスの高地の麓テーベーに  6-395
住みてキリキア民族の主領なりけるエエティオン。6-396
エーエティオンの生みたるはアンドロマケー。トロイアの 6-397
黄銅よろうヘクトール、娶りておのが妻としき。
夫人近寄り来る時、ひとりの侍女は従いて、
胸に幼齢の児を抱く。恩愛の父ヘクトール  6-400
めでいつくしむおさな子は美麗の星にさも似たり。
父ヘクトール命ぜし名、スカマンダリオス[2]、しかれども 6-402
人みな呼べる彼の名はアステュアナクス[3]。その父は
ひとりイリオン守るゆえ。彼いま無言にほほえみて
愛児眺むるかたわらに、アンドロマケー近寄りて、  405
涙を流し彼の手をとりて言句を宣しいう、

[1]結納の豊富なる意。
[2]河神スカマンドロスより?
[3]「防都者」。

『哀れ良人、勇により君は滅びん、幼齢の 6-407
子をも不幸の我が身をも君憐れまず。すみやかに
ああわれ寡婦となりぬべし。アカイア勢はいっせいに
君を襲いて倒すべし。君失わば我むしろ  410
泉下(せんか)に入るを良しとせむ。君その破滅告ぐる時、
我には一の慰藉(いせき)なし。残るは一人幽愁の
闇のみ。あわれ恩愛の父母もろともに我になし。
アキッレウスはわが父を殺しぬ。彼は殷賑(いんしん)の
キリキア族の都なる城門高きテーベーを  415
荒らしつくして我の父エーエティオン[1]をほろぼしぬ。6-416
さはあれ彼ははばかりてその戦装を剥ぎ取らず。
その精巧を尽したる武具もろともに彼を焼き、
そのへに墓をうち立てつ、のちに雷霆クロニオン
生める、山住む仙女らは、めぐりに楡(にれ)の木を植えぬ。  420
はた我ともに殿中に育ちし同胞七人は、
みなことごとく同じ日に冥王の府に落ち行きぬ。
みなことごとく蹣跚(まんさん)[2]と歩む牛群、銀色の
羊児のそばに足速きアキッレウスに殺されぬ。
森のおおえるプラコスを領せし我の母夫人、  425
そをとりこにしアキレウス他の数多き鹵獲(ろかく)とも
ここに連れ来て、そののちに、無量の賠償受け入れて
放ちぬ。されどアルテミス、父の居城に母を射ぬ[3]。6-428
さればヘクトル、君はいま我にとりては父と母、
兄弟を兼ね、しかもなお勇気盛んのわが夫。  430
されば自らわれ愛し、ここ塔中に留まれかし。
愛する者を無残にも孤児また寡婦となすなかれ。
また軍勢をイチジクのほとりに留めよ。そのほとり 6-433
防御薄くて敵の軍、来りてこれを試みき。
三たび最強の敵の軍、来りてこれを試みき、  435
二人のアイアス、高名のイードメネウス、またさらに
アトレイデース、勇猛のディオメーデスを将として。
おそらく誰か神託を悟りてこれを勧めしか?
あるいは彼ら自らの武勇が促がし寄せ来しか?』

[1]21-42は同名異人。
[2]「蹣跚(まんさん)」はよろめくさまをいう。
[3]6-205に他の例。

堅甲光るヘクトール、彼女に答えて陳じいう、  440
『妻よ、この事ことごとく同じく我の胸にあり。
されど怯者のごとくして我もし戦い避くとせば、
トロイア満城男女らは何とか言わむ、恐るべし。
我の心もこれを責む。我は学べり、剛勇に
常に振舞い、トロイアの先鋒中に戦いて、445
祖先の名誉、わが名誉、露だも汚すべからずと。
ああ我は知る、心中にわれ明らかに感じ知る――
日は来たるべし、イーリオン、聖なる都城ほろびの日、
槍に秀でるプリアモス、民衆ともにほろびの日[1]。 6-449
さはれ、近寄るトロイアの苦難[2]、わが母ヘカベーの 6-450
それすら、父王の苦難すら、はた勇猛に戦いて
敵に打たれて塵中に俯伏(ふふく)しなさん同胞の
その苦難すら、汝ほどわれの心を悩まさじ。
黄銅よろうアカイアの一人汝をいましめて、
涙にくるる汝の身、捕え引き去るその苦難。  6-455
かくておそらくアルゴスに主人の命に従いて
布地織らむか、あるはまたメッセーイスかヒュペレーア、
泉の水を担(にな)わんか、つらき運命身をおして。
しかして流涕(りゅうてい)[3]の汝を見、ある者他日かく言わむ、
「彼女の夫はヘクトール、イリオン城の戦いに  460
馬術巧みのトロイアの陣中もっとも猛き者」
かくこそ他日人いわめ。新たの悲哀汝の身
襲わむ、奴隷の境地より救うべき者あらずして。
ああわれ汝の捕われと悲痛の叫び聞かん前、
大地うがちて墳塋の闇なす底に入りたし!』  465

[1]著名の句、4-165と同じ。カルタゴー落城を眺めしスキピオ・アフリカヌスこの句を吟ぜしと言わる。(アッピアノスの『ポエニ戦争』第19章132節)。
[2]父母以上に妻を悲しむ、偽らざる告白か。東洋倫理とのコントラスト。
[3]「流涕」は流涙に同じ。

しかく宣してヘクトール、愛児に向かい手を伸せば、
父を眺めつ、燦爛の甲(こう)に恐れつ。甲の上
馬尾の冠毛おそろしく揺らぐを眺め、恐怖せる
幼き者は泣き出だし、叫喚高く顔そむけ、
華麗の帯をまといたる乳母の胸に身を隠す。  470
これを眺めて恩愛の父と母とはほほえみつ、
すぐに英武のヘクトール頭より甲を取りはづし、
燦爛として輝けるままに地上に据えおきつ、
胸に愛児を抱だき取り、手中に彼をあやしつつ、
クロニーオーンおよび他の諸神に祈願ささげいう、  475

『ゼウスならびに諸々の神霊願わくわれの子を、
我と等しくトロイアの中に著名の者となし、
勇猛の威も等しくてイリオン城を治せしめよ。
しからばわが子戦いのにわより帰り、血と塵に
まみれし鹵獲もたらして母の喜びたらん時、  480
「父にもまさる英豪」と賛して人はたたうべし』

しかく宣して愛妻の手中に愛児抱きとらす。
涙ながらも微笑みて香たきこむる胸の中、
愛児抱だくを眺めつつ、憐憫そぞろ堪え難く、
手を伸し妻をかいなでて慰め語るヘクトール、  485
『不憫の者よ、わがために悲しみ過すことなかれ。
何らの敵も運命に背きて我を倒しえず。
一たび生を受くる後、勇怯問わず、人間の
いかなる者も運命を逃るべからず[1]。ああ思え!
いざいま家に立ち帰り、おのれの業に心せよ。  490
機(はた)と桛(かせ)とに心せよ。しかして侍女に命下し、
おのおの業に就かしめよ。戦いこそはイリオンに
住める男児の身のつとめ、特に中にもわれの分』

[1]12-327。

しかく宣してヘクトール馬尾冠毛の兜とり、
頭にのせぬ。可憐なる妻ははてなき涕涙に  495
潸然(さんぜん)としてあまたたび見送りながら別れ去り、
やがて堅固に築かれし英豪の将ヘクトルの
舘に帰りて数多き侍女に出会いてことごとく
その哀号を挙げしむる。そのとき侍女ら舘の中、
大ヘクトール、その主人生ける間に悲しめり。  6-500
アカイア族の勇猛の手を免れて戦いの
にわより再び帰ることあり得べしとは信ぜねば。

かなたパリスは棟高きその舘中に留まらず、
黄銅製のすぐれたる武装にその身堅めつつ、
その健脚に信をおき、城中過ぎていそぎ行く。  505
そをたとうれば、厩舎にてあくまで糧を食みし駒、
つなげる手綱ふりほどき、平原さしてかけ出す。
それは河流に浴すべく慣れたる駒が揚々と、
高く頭を振り上げつ、肩のめぐりにたてがみを
乱しつ、かくて雄麗の姿をほこり、神速の  510
足を飛ばして牧草の繁れる場(にわ)に行くごとし。
かく丘上のペルガモスくだり、燦爛の武具ひかる
プリアモス王生める子のパリスあたかも日輪の
ごとく輝き、高らかに笑いて速き足すすめ、
ただちに兄のヘクトール、妻と語れるその場より  515
別れ去るとき認め得つ、容姿さながら神に似る
弟アレクサンドロスまず口開き陳じいう、
『わが躊躇(ためら)いの長くして急げる君をとどめしを、
君、乞う許せ。命令のごとくに我は来りえず』

堅甲光るヘクトールそのとき答えて彼にいう、  520
『正しき心持てる者、誰も汝を戦闘の
技に暗しといやしめず。汝まことに勇士なり。
ただ惜むらく怠りて、その意志弱し。そのために
我は悲しむ。トロイアの人の口の端、悪評を
汝の上に聞けるとき、汝のゆえに我悩む。  525
さはれ今立て!この事はこの後われはあがなわん。
黄銅よろうアカイアの軍をトロイア国外に、
駆逐し去りて、掌中に天の永遠(とわ)の神明に
感謝の盃(はい)を捧ぐべく、クロニオーンの恵む時』


イーリアス : 第七巻



 アテーネーとアポロンの二神戦いを終らんがためヘクトールを促し、敵の最勇者に一騎討ちを挑ましむ。アカイアの勇将九人応じて立てる中、くじによってテラモニデース・アイアース選に当る。両雄の勇戦。夜に到りて中止。アガメムノーンの陣に食事の後、ネストール休戦して死体を焼かんとす。また城壁と塹壕(ざんごう)とを設けしむ。トロイアのアンテーノール和議を提出しヘレネーを返さんとす。パリス反対す。翌日プリアモス使いをアカイア陣に送る。談判成らず。両軍死体を葬る。アカイア軍土工を起す。海神ポセイドーン怒る。両軍眠る間雷鳴はげし。

しかく陳じて城門をいそぎて出づるヘクトール、
弟アレクサンドロスこれにともなう。両将は
情念せつに激烈の奮戦苦闘こころざす。
たとえば水夫海上によく磨かれし櫂使い、
波浪の上を長く漕ぎ疲労に四肢の弱るとき、  7-5
神憐れみて順風を望める彼に恵むごと、
しかく二将は待望のトロイア勢に現われぬ。

そのときパリスが打ち取るは、アレーイトオス王[1]の息、7-8
アルネーに住むメネスティオス†、父は巧みに矛使う。
目は牛王のそれに似るピュロメドゥーサは彼の母。  7-10
エーイオネウス黄銅の兜頂くそのへりの
下にその首、鋭刃の槍につらぬくヘクトール。
ヒッポロコスの子グラウコス(ト)[2]、リュキアー軍に主たる者、
乱軍中に槍投げて、デキシアデース・イーピノス†、
速き戦車に飛びのれる彼の肩射て貫ぬけば、  15
まっ逆さまに戦車より地上に落ちて息絶えぬ。

[1]8-137。
[2]6-119。

かく猛烈の戦いにトロイア諸将、アルゴスの
軍を破るを眺めたる藍光の目のアテーネー(ギ)、
ウーリュンポスの頂きをくだり聖なるイリオンに
着きぬ。そのときペルガモス丘上高くアポローン(ト)、  20
女神を眺め、トロイアの戦勝願いくだり来つ、
二神かくして樫の木のかたえ互いに相向かい、
銀弓の神アポローンまず口開き宣しいう、

『クロニーオーン雷霆の神の息女よ、新たなる
何たる思念切にしてウーリュンポスをおり来しや?  25
戦運決しダナオイに勝利を恵むためなりや?
ああ滅び行くトロイアの運命、君は憐れまず。
さはれ君もしうべなわば、――この事はるかに良かるべし――
今日はしばらく両軍の戦争ここにやめしめよ。
後日再び奮闘を始めて、ついにトロイアの  30
滅亡あらむ。この都城破壊し去るは、君および
他の諸々の神明の心にかなうことなれば』

藍光の目のアテーネーそのとき答えて彼にいう、
『しかあらしめよ、遠矢をはるかに飛ばす君——われも
同じ思いにトロイアとアカイア陣のただ中に  35
来りぬ。さはれいかにしてこの戦闘をとどむべき?』

ゼウスの愛子アポローン、そのとき答え陳じいう、
『戦馬を御するヘクトルの勇気をふるい立たしめよ。
彼はダナオイ陣中の勇士に挑み、まのあたり、
戦慄すべき戦いを一人と一人決すべし。  40
黄銅よろうアカイアの軍勢はたまた憤り、
猛きヘクトル敵とする一人の勇士励まさん』

藍光の目のアテーネー、その言聞きてうなずきぬ。
しか計らえる二位の神、その意にかなう計らいを
王プリアモス生める息ヘレノス[1]胸に感知して  45
行きて英武のヘクトール訪いて向かいて陳じいう、
『王プリアモス生める息、智は神に似るヘクトルよ、
君と我とは同じ腹、君いま我に聞くべきか。
トロイアおよびアカイアの軍勢ひとしく座らしめ、
アカイア勢の中にして至剛の者に君いどめ、  7-50
戦慄すべき決闘に来りて我と戦えと。
死の運命はいまだなお君に到らず。しかくわれ
天上不死の神霊の声をまさしく聞き取りぬ』

[1]6-75。

しか陳ずればヘクトール聞きておおいに歓喜しつ、
陣中行きて両腕で槍のもなかを握りしめ、  55
すべての部隊おしとどめ、軍はすなわち地に座しぬ。
黄銅よろう自軍をば、アガメムノンは座せしめぬ。
藍光の目のアテーネー、銀弓の神アポローン、
両軍眺め喜びて、アイギス持てる天王の
聖なる樫の樹の上に、身を猛禽[1]の形にして  60
座せば、トロイア、アカイアの両軍おのおの密集の
部隊をなして地に座しぬ、盾と兜と槍並めて。

[1]神々の変形、14-290などにも。

あらたに起るゼピュロスの気息巨海にかかる時、
下に海潮そのために黒むがごとき様みせて、
アカイアおよびトロイアの両軍ともに平原に  65
座せり。そのときヘクトール、間に立ちて宣しいう、

『われに聞けかし、胸中の心の命を今言わむ。7-67
トロイア勢よ、脛甲の良きアカイアの軍勢よ、
高き位のクロニオン、わが盟約[1]を遂げしめず、
災禍心にたくらみて、そを両軍に課さんとす。  70
やがて汝ら壁高きトロイアの都市奪わんか、
あるいは汝ら水軍のほとりわれらに敗れんか。
全アカイアの軍勢の諸将汝の軍にあり、
その中一人その心わが敵たるを望むもの、
ここに来りてヘクトールわれと勝敗決せずや?  75
今われ宣す。わが言のあかしたれかしクロニオン!
もし黄銅の鋭刃に我を倒さば、わが武具を
剥ぎ取りこれを水軍の中に持ち去れ。しかれども
われの死体は返すべし。かくてトロイア城中の
男女ひとしくわが死屍に火葬の礼を行わむ。  7-80
もしアポローン栄光を我に与えて、われ彼を
打たば、武装[2]を剥ぎ取りて聖イリオンに運び行き、
神銀弓のアポローン祭る祠堂に掲ぐべし。
しかして死体は汝らの陣地の中に返すべし。
さらば長髪アカイアの人みなこれを葬りて、  85
ヘレスポントス[3]広原のほとりに墓を築くべし。7-86
さらば将来生まるべき人のある者船にのり、
暗緑そむる大海を漕ぎめぐりつつ見て言わむ、
「こはいにしえの遠き日の人の墳塋。すぐれたる
彼を栄光のヘクトール戦い勝ちて倒しぬ」と。  90
かくこそ言わめ。かくありて我が名声は滅ぶまじ』

[1]3-256のパリスとメネラオスの休戦条約をさす。4-64~72にてゼウスその条約を破棄させる。なお本編7-67の一段を後世の添加とするはリーフ。またいわくさきに三巻においてメネラオスとパリスとの決闘あり。しかしてトロイア軍の盟約の破壊あり。今また再度の決闘は詩作上一貫の道にあらず。三巻よりも本編は古き作なるべし云々。
[2]鹵獲の武具を神に捧ぐるは古来の習。
[3]広き意味においての。

しか宣すれば黙然と人みなともに鳴り静む。
その挑戦を拒まんは恥辱、受くるは身の危難。
やがて勃然(ぼつぜん)メネラオス身を振り起し、憤慨の
吐息もあらく将士らを罵詈の言句に叱りいう、  95

『ああ嗚呼(ああ)汝ら大言(たいげん)者、汝らいまはアカイアの
男児にあらず、婦女子のみ。ダナオイ族の一人も、
彼ヘクトールに向かわずば何と無上の屈辱ぞ!
ああ、ああ汝ことごとく水と土[1]とに成りはてよ。
汝らまったく誉れなく、みなぼう然とここに座す。  7-100
いざいま彼に向かうべく武装を我は整えむ。
勝敗いずれ、天上のただ神明の胸にあり』

[1]呪詛の意を包む。「むなしく元の水土に帰せよ」この罵詈の言、メネラオスに相応せず。全軍は彼のヘレネーのゆえに悩む。

しかく宣してメネラオス華麗の武具を身に装う。
ああメネラオス!そのときにアカイア諸王立ちあがり、
なんじを止どめ、さらにまたアガメムノーン自らも  105
汝の右の手を取りて汝に叫ぶなかりせば、
汝の命はヘクトルの手中についに落ちつらむ、
トロイア名将ヘクトール、はるかに汝の上にあり。

アガメムノンは叫びいう、『汝狂えり、メネラオス、
その狂何の要もなし、控えよ怒り激しとも、  110
汝にまさる英豪に敵し戦うことなかれ、
プリアミデース・ヘクトール、彼を諸将はみな恐る、
ペーレイデース・アキレウス、はるかに汝にまさる者、
それすら恐るヘクトール、かれに敵することなかれ。
汝いま行き僚友の間(あい)に汝の席占めよ、  115
アカイア軍は敵すべき他の勇将を立たしめむ。
ヘクトルまことに勇にして戦い常に飽かずとも、
すごき兵乱、恐るべき格闘逃れ出でん時、
思うに彼は喜びて疲労の膝を休ませむ[1]』

[1]ヘクトールもその相手との戦いから生還せば幸いならむ。

アガメムノーンかく宣し、その愛弟を説きさとす。  120
理の当然にメネラオス聞けり。そのとき喜びて
彼の肩より戦装を従者らともに解きおろす。
ついで老将ネストール立ちてアカイア軍に呼ぶ、

『ああ、ああ悲し、大哀[1]はアカイア軍にくだり来ぬ。
いかに嘆かんペーレウス、騎馬の老将すぐれたる 125
ミュルミドネスの評定者、また弁論者、そのむかし、
その館中[2]に我に問い、アルゴス軍の血統と
素生を聞きて喜べる。ああいま老雄ペーレウス、
アルゴス勢がヘクトルを恐れふるうを耳にせば、
高く手を挙げ神々に祈り求めん、魂魄の  130
肢体を離れ闇深き冥王の府に落ち行くを。

[1]1-254。
[2]ネストールさきにペーレウスの舘に来りアキレウスを訪いトロイアに向かわしめき。

『ああわが天父クロニオン、またアテーネー、アポローン、
むかしペイアの城壁のほとり、急流ケラドーン、7-133
またイアルダノス[1]岸上にピュロスの族[2]と槍使う
アルカディア族戦いし。そのとき我は若かりき。  135
その日まさきに戦いて勇猛神のごとくなる
エレウタリオン[3]よろいしはアレーイトオスの着し武装。

[1]イアルダノスはセム語起源ヨルダンと同じだが、ここはペロポネソス半島の川。アルカディアはピュロスの隣。
[2]ネストールの族。
[3]矛の勇士アレーイトオスをリュクールゴスは倒してその鎧を奪い、後これをエレウタリオーンに譲る。そのエレウタリオーンをネストールうち取る。

『アレーイトオスは戦争に弓を用いず、長槍を
使わず、一人鉄の矛ふるいて敵の堅陣を
破るがゆえに人々は、帯うるわしき女性まで、  140
矛の勇士と綽名しき。アレーイトオス勇将を 7-141
力によらず計略により、狭隘の道の上、
うち倒せしはリュクルゴス。そこには彼の鉄の矛、
おのが破滅を救いえず。不意に襲うてリュクルゴス、
槍もて腹部貫けば、彼は地上にうち倒る。  145
かくて軍神アレースのたまえる鎧はぎ取りつ、
そののち常に戦乱のにわにその武具身に着けつ、
やがてさしものリュクルゴス[1]、その殿中に老いし時、
エレウタリオーン愛臣にこれを譲りてうがたしむ。

[1]正しき発音はリュクールゴス、6-130のと同名異人。

『これをよろいて傲然とあらゆる勇士に挑みしも、  7-150
勇士らともに怖じふるい、彼に抗するものあらず。
そのとき軍中年齢においてもっとも若かりし、
われ奮然とすすみ出で、かの勇将に手向かえる
戦いの果て、栄光をわれにたまえりアテーネー。
体躯もっとも大にして、勇気もっともすぐれたる  155
彼はわが手に倒されて、大地の上に身を伸しぬ。

『その時のごとわれ若く勇力いまに続き得ば、
堅甲光るヘクトルにたちまち向かい戦わむ。
汝らアカイア全軍の中の至剛と誇るもの、
汝ら立ちてヘクトルと戦うことをあえてせず』  160

老将しかくののしれば勇将九人立ち上がる。
真先きに早く民の王アガメムノンは身を起し、7-162
つぎにテュデウス生みなせるディオメーデース、またつぎに
勇気あくまでたくましき同名二人アイアース、
彼らの後にイードメネー、また彼の友英豪の  165
メーリオネース(ギ)、その勇はアレース神に似たるもの。

エウリュピュロス(ギ)[1]はこれに継ぐ、エウアイモンの生める息。
つづくはトアス(ギ)[2]、その父はアンドライモーン。またつぎに
神明に似るオデュセウス。みなヘクトールと戦わん。
ゲレーニア[3]老将ネストールそのとき彼らに告げていう、  7-170

[1]2-736。
[2]2-639。
[3]ゲレーニアーを縮む。

『何びと選に当るべき?そをくじにより決めしめよ。
良き脛甲のアカイアの全軍彼を喜ばむ、
彼また自ら心中に深く喜悦を感ずべし、
すごき兵乱、恐るべき格闘逃れ出でん時』

しか宣すれば諸将軍おのおのくじに記号付け、  175
アガメムノーン総帥の兜の中にこれを入る。
そのとき皆は高らかにその手を挙げて大空を
仰ぎ、おのおの神明に祈願捧げて陳じいう、
『神願わくはアイアース、ディオメーデース、あるはまた
黄金富めるミケーネの王[1]にこのくじ当てしめよ』 180
みなはかくいう。ゲレーニアの老将兜うち振れば、
くじは兜の外に出づ。まさしくみなの望むもの、
アイアスのそれ。伝令使すなわちこれを手に取りて、
右より始め順々に諸将のもとをめぐり行く。
アカイア陣中他のものはこれを認めず、こをいなむ。  185
かくてあまねく経めぐりて末、アイアース、そのくじに
しるし兜に投じたる勇士のもとに到るとき、
アイアース手をさしのぶる。使者近寄りてそのくじを、
渡せば記号[2]認め得て、将軍こころに歓喜しつ、
足下にこれを地に投じ、皆に向かいて叫びいう、  190

[1]アガメムノーン。
[2]これによらば当時文書のすべあることは明らかならず。6-168と矛盾す。以上はある評家の説なれどこの場合は記号を用いるが正当なり。

『見よや、同僚このくじを!嬉し、まさしく我のもの。
我はまさしく大豪の彼ヘクトルにうち勝たむ。
さはれ今われ戦装を付ける間にわがために、
クロニーオーン雷霆の神に祈願をたてまつれ。
声をな立てそ、トロイアの軍勢これを聞き取らむ、  195
否、公然というもよし、われ何者も恐れねば。
何者あえて勇力に、はた計略に意のままに、
我を敗らむ。サラミスに生まれ育ちしアイアース、
われ甘んじて敗れむや!われ戦術に暗からず』

しか陳ずれば雷霆のクロニオーンに祈りつつ、  7-200
アカイア軍勢天上を仰ぎてかくも叫びいう、

『イーダの峰にまつろえる至上至高のクロニデー!
勝利ならびに栄光をたまえ、われらのアイアスに。
さはれ等しくヘクトルを愛さば、ともに両雄に
たまえ等しき勇力を、たまえ等しき栄光を』  205

しかく将士ら祈るまに黄銅光る鎧着つ、
武具一切を身のめぐり整えおわるアイアース、
さながら巨大のアレースの進むがごとく駆けいだす。
雷霆の神クロニオン、荒き戦い果すべく、
命じ進める諸々の兵士の中に、軍神の  210
進むがごとくアカイアの堅き城壁アイアース、
大身の槍をうちふるい、顔面すごく笑み浮べ、
歩武堂々と軍勢の中より立ちて駆け出づる。——
その勇猛の姿見てアカイア軍は歓喜しつ、
トロイア軍は戦慄の肢体めぐるを禁じえず。  215
ヘクトールなお心臟の鼓動高まる。しかれども
挑戦われより始むれば逃亡するを得べからず。
はた退きて同僚の隊伍の中に混じえず。
近きに迫るアイアース、巨塔に似たる盾を取る——、
牛七頭の皮重ね、さらにその上黄銅を  7-220
張りし大盾、ヒュレーの地[1]住める名匠テュキオスの
精を尽して彼のため作りしところ、燦爛の
光を放つ黄銅は第八層を成せる盾、
その盾胸の前にしてテラモニデース・アイアース、
近く英武のヘクトルに迫り威赫の言放つ、  225

[1]ボイオーティアーの一市(2-500)。

『知れ明らかに、ヘクトール、威は獅子王のごとくして、
敵の軍陣うちくだくアキッレウスをほかになお、
アカイア陣中剛勇の将軍ここに数あるを。
ああアキレウス、彼は今うしおに浮ぶ曲頸の
船中残り、民の王アガメムノンに憤る。  230
汝を敵に戦わん我が同僚は数多し。
立ていま汝、いざわれと戦い、勝負決すべし』

堅甲光るヘクトールそのとき答えて彼にいう、
『神より生れしアイアース・テラモーニオス[1]、衆の将、
戦闘の技覚えなき弱き小児を見るごとく、  235
あるいは女性見るごとく我を侮ることなかれ。
われ戦闘の技を知り、よく殺戮の技を知る、
われ牛革の大盾を右に左にうち振りて、
常勝の威をふるうべく勇み戦う技を知る、
われ迅速の馬の駆る兵車の上の馳駆(ちく)を知る、  240
われ健脚を踏み鳴らすアレース神の舞踏知る。
されどさすがの勇猛の汝を我は待ち伏せの
道には打たず、打つべくばわれ公(おおやけ)に戦わむ』

[1]テラモニデースに等し。

しかく叫びて影長くひく大槍をうち飛ばし、
革七重の恐るべきテラモーンの子の盾に当て、  245
まず貫くは外の端、第八枚の黄銅皮、
鋭き槍は六枚の革つんざきて内に入り、
第七枚に触れてやむ。やがてつづきておのが順、
神より生れしアイアース影長くひく槍飛ばし、
プリアミデース・ヘクトール持つ円盾にうち当てつ、  7-250
その燦爛の大盾を鋭き槍はつらぬきて、
巧み極むる胸甲の裏をかきつつ進み入り、
利刃はさらに脇腹のかたえに被服つんざきぬ。
敵はそのとき身をそばめ死の運命をまぬがれぬ。
ついで両将手を伸して、おのおの槍をぬきとりつ、  255
奮然としてかれとこれ、互いに襲い、生肉を
食らう獅子王見るごとく、荒らべる猪(しし)を見るごとし。
プリアミデスは敵将の盾のもなかを槍あげて、
突けど黄銅貫かず、鋭刃もろく先曲る。
いま奮進のアイアース、敵の盾うち猛然と  260
つらぬき通しヘクトルを勇みながらもよろめかす。
見よ鋭刃は彼の首触れて鮮血ほとばしる。
堅甲光るヘクトールされど戦闘まだやめず。
数歩すさりて道の上その目に触れし巨大なる
黒き岩石たくましき腕に取り上げ振り飛ばし、  265
アイアス持てる七重の盾を目がけて投げつけつ、
盾のもなかの浮彫りを打てば鏘然(しょうぜん)鳴りひびく。
続いてやがておのが順、さらに一層おおいなる
石振り上げるアイアース、怪力こめてうち当てつ、
ひき臼の石見るごとき巨大の打撃盾砕き、  270
盾につぶされ打たれたる敵将の膝傷つけて、
身をあおむきに倒れしむ。アポローンこれを引き起す。
ついで両将剣を取り、互いに迫り近付きて、
打たんずるおり、神々と人との使い、かれとこれ、
トロイアおよび黄銅をよろうアカイア軍勢の  275
中より来るイダイオス(ト)、タルテュビオス(ギ)も細心に、
両使すなわち両将の間に笏をさし入れつ、
忠言慣るるイダイオス、知慮ある使者は宣しいう、

『汝ら二人戦いをやめよ、争うことなかれ。
汝らともに雷霆のクロニオーンのめずる者、  280
汝らともに勇猛の戦士、われらの知るところ。
夜は来れり、その命によりて休むを良しとせむ』

テラモーニオス・アイアースそのとき答えて彼にいう、
『汝の言に答うべく、ヘクトルに言え、イダイオス。
わが軍陣の諸勇士にまず挑みしはヘクトール。  285
彼ははじめに答うべし。かれ従わば従わむ』

堅甲光るヘクトールそのとき答えて彼にいう、
『ああアイアース、神明に長躯と知慮と勇武とを
合わせ恵まれ、アカイアの中に無双の名槍手。
今日の奮戦格闘をこれまでに止め引き分けむ。  290
後日新たにまた汝、敵としわれは戦わむ、
神明二者を相判じ、勝ちをひとりに給うまで。
夜は来れり、その命によりて休むを良しとせむ。
かくして汝水軍のかたえ、アカイア全軍を——
特に汝の朋友とめずる同僚慰めむ。  295
プリアモス王つかさどる、城壁の中われもまた、
帰りトロイア軍勢と長く裾ひく女性らを
喜ばすべし。わがために祈らむ、彼女ら神殿に。
別れに臨み贈答のすぐれし品を換えしめよ。
しかせばアカイア、トロイアの各人やがてかく言わむ、  7-300
「心を砕く憤激によりて彼らは闘えり。
されども後に和らぎて友誼結びて別れたり」』

しかく陳じて銀鋲を打てる長剣、その鞘と
合わせてさらに、精巧の革帯加え与うれば、
こなた勇武のアイアース、紅(こう)燦爛の帯贈る。  305
かくて両将別れ去り、かれはアカイア軍陣に、
これはトロイア僚友の中に。——僚友つつがなく
テラモーニオス・アイアスの勇武の手より免れて、
生きて帰れる彼を見つ、その安全を期せざりし
皆は歓喜の情に満ち、彼を城裏に導きぬ。  310
脛甲かたきアカイアの将士らこなたアイアスを、
勝ちを喜ぶ総帥のアガメムノーンに連れ来る。
アトレイデスの陣営に彼らかくして着ける時[1]
アガメムノーン、民の王、彼らのために雷霆の
クロニオンに牲をして五歳の雄牛奉る[2]。  315
すなわちこれが皮を剥ぎ、これを調理し四肢分かち、
巧みに肉を切り裂きて、串につらぬき火にかざし、
心用いてよくあぶり、あぶりて火より取り出す。
調理の技のおわる時、宴の準備の終わる時、
みなはおのおの食につき、みな平等に飽き足りぬ。  320
されどもひとりアイアスの受けしは背筋長き切れ、
アガメムノーン、民の王、彼の誉れにこを与う。

かくて人々口腹の欲をあくまで満たす後、
ゲレーニア騎将ネストール——評議の席に至上なる——
彼いまさきに忠言を試みんとし立ち上がり、  325
思慮を豊かに慇懃に彼らに向かい陳じいう、

[1]七巻後半の初まり。
[2]2-402。

『アトレイデースおよび他の全アカイアの諸将軍、
見よ長髪のアカイアの兵士ら滅び、鮮血は
スカマンドロス奔流のほとり、アレース軍神に
無残にまかれ、魂魄は冥王の府に沈み去る。  330
さればあしたの暁にアカイア軍を休ましめ、
我いっせいに集まりて牛またロバに、悼むべき
死体をここに運ばしめ、かくしてこれを水陣の
近くに焼かん。しかすれば各々祖国に帰る時、
遺族となれる子息らにその白骨を分かち得む。  335
さらに火葬のにわ近く土を原より集め来て、
全てのために墳塋を、またすみやかにそのそばに、
船舶および軍勢の防ぎに壁を築くべし。7-338
また堅牢の諸々の門を設けて、その中に
戦馬の通る一条の道をおのおの開くべし。  340
壁をめぐりて外傍に塹壕(ざんごう)深くうがつべし。
かくせば軍馬軍勢を外にとどむることを得む。
荒び高ぶるトロイアの戦禍襲うを防ぎ得む』

しか宣すればいっせいに諸将はこれに賛し聞く。
こなたトロイア衆族の会は恐ろし、かまびすし、  7-345
王プリアモスつかさどるイリオン城の門のそば、
アンテーノール思慮深くそのとき皆に宣しいう、
『トローエス[1]またダルダノイ、また援軍も我に聞け。
わが胸中の心肝の命ずるままに我いわむ。
いそぎて立ちてアルゴスのヘレネーおよびその宝、  7-350
アトレイデースに引き渡せ。わが軍いまは誓約を
破りてここに戦えり。その誓約を果さずば、
わがトロイアの陣中に何らの好事望みえず』

[1]トロイア人(複数)。

しかく宣して座に着けば、続いて立てり鬢毛の
美なるヘレネー妻とする美貌のアレクサンドロス、  355
彼に答えて怫然と羽ある言句2陳じいう、

『アンテーノール!君の言、われの喜ぶものならず。
これよりまさる他の言句、君は述ぶべきすべを知る。
いまいうところ真実に述べりとなすや?さもあらば
神明君の分別をさだめし奪い去りつらむ。  360
馬術巧みのトロイアの諸軍に我は今いわむ。
そのまのあたり我いわむ、わが妻敵に返さずと。
さはれかの時アルゴスの地より、わが家にもたらしし
宝は彼に返すべく、さらに我のも付け足さむ』

しかく陳じて座につけば、つづきて立てりトロイアの  7-365
ダルダニデース・プリアモス、聡明神に似たる者、
思慮をこらして慇懃に皆に向かいて陳じいう、
『トローエスまたダルダノイ、また援軍もわれに聞け。
わが胸中の心肝の命ずるままに我いわむ。
例のごとくに城中に帰りて今まず食を取れ。  370
しかして守備を心してその警戒を解くなかれ。
明くるあしたにイダイオス、敵の水軍さして行き、
アガメムノーン、メネラオス二将に面し、いまパリス
陳ずるところ伝うべし。ああかれ戦禍のもといなり。
使者また思慮の言述べん。敵人これに応じ得ば、375
叫喚怒号の戦いをしばらくやめて、戦場の
死体を焼きてその後に、さらに新たに戦わむ。
神は両軍相判じ、勝ち一方に恵むまで』

しか宣すれば、人々は耳傾けて聞き賛じ、
つぎに部隊に相別れ、おのおの夜の食を取る。  380
あくるあしたにイダイオス使いとなりて、ダナオイの
水陣を訪い、アレースに仕うる将士もろともに、
アガメムノーン総帥の船のめぐりに集(い)るを見る。
その集団の中に立ち、使者大音に叫びいう、

『アトレイデースおよび他の全アカイアの諸将軍、  385
聞け。プリアモスおよび他のトロイア諸将、命下し、
われに言わしむ。その言を願わく諸君賛せずや。
言はまさしくパリスの語(彼は禍難のもといなり)。
いにしえアレクサンドロスその船中にトロイアに
持ち帰りたる財宝を(そのまえ死せば良かりしを)  390
みなことごとく返すべく、さらにおのれの財足さむ。
ただ栄光のメネラオス王の正妃は返しえず。
パリスかく言い、トロイアの諸人の諫止(かんし)聞き入れず。
さらにかれらのいうところ伝えて我は陳ずべし。
叫喚怒号の戦いをしばらくやめて、戦場の  395
死体を焼きてやがて後、神は両軍相判じ、
勝ち一方に恵むまで戦うことを欲せずや?』

しか宣すればアカイアの全軍鳴りをしずめ聞く。
中に憤然立ち上がるディオメーデース叫びいう、
『いま何びともパリスより、財宝あるいはヘレネーを  7-400
得ることなかれ。トロイアに破滅の運の迫れるは、
すでに明らか。聡明を欠ける者すらみな知らむ』

しか陳ずればアカイアの全軍ともに声あげて、
賛し、馬術に巧みなるディオメーデースの言に聞く。
アガメムノーンかくと見てイダイオスに向かいいう、  405
『汝自ら、イダイオス、聞けり、アカイア族の言。
彼らの答え、いま聞けり。わが意も、これと相同じ。
さはれ死体に関しては我は火葬を拒むまじ。
生命すでに滅びたる死者に対して何びとも、
火葬によれる迅速の霊の慰藉を拒むまじ。  410
雷霆の神クロニオン、わがこの誓い聞し召せ』

しかく宣して神明に向かいて笏をさし上げぬ。
かなた使いのイダイオス、トロイアさして帰り去る。
トローエスまたダルダノイ、その民ともにいっせいに、
集議の席に座を占めて使者の帰るを待てるとき、  7-415
帰り来れるイダイオス、彼らの中に立ちながら、
もたらし来る使命述ぶ。人々これに従いて、
死体を運び薪材を求むる業の用意しつ。
同じくかなたアカイオイ、いそぎ陣地を立ち出でて、
死体あるいは薪材を運ばんためにいそしみぬ。  420

滉瀁(こうよう)として静かなるおおわだつみ[1]を昇り来る
日輪天に輝きて光大地に触るる時、
トロイア、アカイア両軍はまた原頭に相会す。
血潮にまみれ汚されて、面貌(めんぼう)分かるよしもなき
死屍におのおの水そそぎ、洗いてかくて両軍は  7-425
熱き涙をさん然と流し車上にこれを乗す。
さはれ偉大のプリアモス、号泣するを禁ずれば、
黙々として炎々の火上に死体積みて泣き、
火葬を終えて神聖のイリオンさして帰り行く。
同じくかなたの堅牢の脛甲付けるアカイオイ、  430
心痛めて炎々の火上に死体積み上げつ、
火葬終わりて中広き軍船さして帰り行く。

[1]わだつみとは海のこと。

その夜深更、空おぼろ、暁光いまだ出でぬ前、
火葬のにわのかたわらに立てるすぐれしアカイオイ、
原より土を運び来てそこに一つの共同の  435
墳墓を築き、さらにまたそのかたわらに長壁と
高塔作り、兵船と軍勢ともに防がしめ、
中に堅固に組み立てし諸門を設け、門内に
戦車駆るべき道そなえ、また長壁を取りまきて、
その外端に幅広く水量深くおおいなる  440
塹壕うがち、壕中にあまたの杭(くい)を植えつけぬ。
毛髪長きアカイアの軍勢かくもいそしみぬ。

電光飛ばすクロニオン・ゼウスのかたえ座を占むる
諸神これらのおおいなる作業見おろし驚きぬ。
大地を震うポセイドーンそのときさきに宣しいう、  445

『ああわが天父クロニオーン、果てなき地上人間の
誰かはこののち神明に心を意思を明かさんや?
君は見ざるや?髪長きアカイア族はその船の
前に長壁築き上げ、さらにめぐりに塹壕を
うがちて、しかも神明にいみじき犠牲おこたれり[1]。  7-450
壁の誉れは暁光の広まるほどに大ならむ。
しかして我とアポローン、ラーオメドーンのためにして、7-452
力尽してかの都城築きし声誉忘られむ[2]』

[1]重大の事に当りて神に祈り牲を捧ぐるはいにしえの聖き習い。アカイア人あわただしき際この式を怠る。ここでポセイドンは神の威光の衰えを嘆く。
[2]21-446参照。

雷雲寄するクロニオン慨然(がいぜん)として答えいう、
『ああ大地(おおつち)を震う者、威力の汝何をいう!  455
神々のなか汝より腕力および豪勇の
劣れる者はかの業に恐怖抱くもさもあらむ。
さはれ暁光敷くほどに汝の誉れ大ならむ。
ふるえ、長髪のアカイアの軍勢ここをいっせいに、
船をひきいて打ち上げて彼らの郷に去らん時、  460
そのとき汝かの壁を倒し怒潮に投じ入れ、
広き岸上ことごとく砂塵の山におおい去れ。
かくてアカイア軍勢の壁はあとなく滅ぶべし』

かく天上に神々は言をかわして相謀る。
まなく夕陽沈み去り、アカイア軍の作業成る。  465
かくて陣中牛ほふり軍は夕べの食を取る。
レームノスより船あまた酒積みのせて岸にあり。
エウネーオスの遣わせる、――彼を生めるはイアーソン、
民の王たるイアーソン、ヒュプシピュレー†は彼の母。
アガメムノーンとメネラオス、アトレウス生む両子息、  470
これに醇酒を千メトラ、エウネーオスは贈り来ぬ。
毛髪長きアカイアの諸人、船より酒を買う。
そのあるものは黄銅に、あるいは光る鋼鉄に、
あるいは皮に、あるものは牛に、あるいは捕えたる
奴隷に代えて酒を買い、豊かの宴を用意しつ、  475
かくて夜すがら長髪のアカイア族は楽しめり。
トロイアおよび同盟の軍勢かなたまた同じ。
されど夜すがらクロニオン、その胸中に災難を
たくらみ高く雷(かみ)震う。ために人みな畏怖の色、
その盃を傾けて大地にそそぎ、クロニオン  7-480
神に献酒(かんしゅ)の礼おえて、初めて酒盃(しゅはい)口に触る。
つづきて人々床に就き甘き睡眠味わえり。


イーリアス : 第八巻



 ゼウス諸神に命じて両軍に助力することなからしむ。アテーネーはその命に従えどアカイア軍に忠言せんことを乞う。朝より正午に到り両軍互いに死傷あり。正午を過ぎゼウス黄金の秤(はかり)を取り出し両軍の運命を計る。アカイアの非命決定せらる。アカイア諸将退却。ヘクトール追撃。ヘーラーこれを見て悲しみ、ポセイドーンを促してアカイア軍を助けしめんとするも聞かれず。アガメムノーン憤然として諸将卒を励ます。アカイア諸将の奮戦。射手(しゃしゅ)テウクロスの功名。——ついでヘクトールのために敗られしりぞく。ヘーラーとアテーネーはアカイア軍の退却を悲しむ。しかもヘクトールの死を予言す。両神すすんでアカイア軍を助けんとするを認めてゼウスおおいに怒りイーリスを遣わしてこれをとどむ。夜にいたりて休戦。ヘクトール自軍を激励す。クサントス川とトロイアの都市との間、原上(げんじょう)[1]の夜営とかがり火。

[1]「原上」は平原の上、とくに海辺でないことをいう。

サフラン色の衣着る曙光[1]の女神エーオース、
全地照らせば雷霆のクロニオーンは連峰の
ウーリュンポスの頂きに、諸神の会議[2]催しつ、
親しく言を宣すれば諸神ひとしくこれを聞く、

[1]十一巻十九巻およびその他曙光の神の出現をもって始まる編多し。
[2]4-1参照。

『諸神ならびに諸神女ら、われの宣する言を聞け。  8-5
わが胸の中、心胆の命ずるところ我のべん。
何らの女神も神もまた我の言句に抗すべく 8-7
試みなせそ。いっせいにこれを賛せよ。しかあらば
これらの業を迅速に我は遂ぐるを得べからむ。
汝らのなか誰にてもひとり離れてトロイアに、  8-10
あるいはかなたダナオイに救助を望み行かん者、
ウーリュンポスに帰る時、恥ずべき打撃こうむらむ。
我はそのもの引き捕え、投ぜん、暗きタルタロス[1]、
遠きほとりに、その中に地下最深の淵たたう。
その城門は鉄にして黄銅これが門戸たり。 15
冥府の下のその距離は天と大地の距離に似る。
神威至上の我たるをそのものかくて悟るべし。
あるいは汝ら望みなば、悟らんために試みよ。
黄金製の一条の鎖、天より垂れ下げて、
諸神ならびに諸神女ら、汝らこれに取りすがれ。  20
されど天より地の下にクロニオーンをおろし得じ、
力合わせて努むるも、至高の我をおろし得じ。
されども我もし心きめ鎖引かんとなさまくば[2]、
大地と海と汝らをみないっせいにあげるべし。
ウーリュンポス[3]の頂きに我そのときにその鎖  25
つながばともに汝らは釣られて空に漂わむ。
諸神ならびに人間に我のまさるはかくと知れ』

[1]反抗する者を罰する場所、8-481。
[2]「まくば」は「しようとするなら」
[3]ウーリュンポスは神々の居として天と混同さるることあり、テッサリアにある実際の山なれども

しか宣すれば諸々の神々黙し静まりぬ。
威風するどき宣告を諸神ひとしく驚きぬ。
そのとき彼に藍光の目のアテーネー答えいう、  30

『ああわが天父クロニデー、神々すべての中にして、
君の威力の至高なる、我らすべての知るところ。
されど投げ槍巧みなるダナオイの族、運命の
非なるを満たし滅ぶるは、われの悲しみ泣くところ。
君命じなば戦いに加わることをあえてせじ。  35
されど彼らを益すべき忠言彼らに与えんず。
君の怒りのゆえによる彼らの破滅なきがため』

雷霆かもすクロニオン、笑いを含みて答えいう、
『トリートゲネーア[1]、わが愛女、安かれ。我は真情を
述べるにあらず。のみならず汝に対し我やさし』  40

[1]アテーネーの別名4-516。

しかく宣して黄銅の足、たてがみは黄金に、
迅速さながら飛ぶごとき軍馬に車ひかしめつ、
身に黄金の装い着け、黄金の鞭、精巧を
尽せるものを手に取りて、かくて車上にクロニオン、
鞭を加えて励ませば、勇む双馬は衆星の  45
つらなる天と地の間飛ぶがごとくに駆けり行く。
清泉多くわきいでて野獣群れいるイーダ山、
その一偶のガルガロン[1]、聖なる森と神壇の 8-48
薫ずるところ人間と神との父は駒とどめ、
戦車の外に解き放し、雲霧あたりに振りまきつ、  8-50
その栄光に誇らいて嶺上高く座をしめて
見おろす、トロイア城中とアカイア族の水陣を。

[1]ガルガロンはイーダの最頂、海抜5608フィート。

毛髪長きアカイアの軍勢はやく陣中に、
おのおの糧を喫しおえ、ついで軍装身にまとう。
同じくかなたトロイアの軍、城中に武装しつ、  55
婦女と小児を守るべき要に迫られ、その数は
敵に劣るも奮然と勇み戦闘こころざす。
かくて諸門はいっせいに開かれ、歩兵また騎兵、
みないっせいに駆け出でて動乱四方にわき起る。

両軍かくて相すすみ原上互いに会える時、  60
矛を打ちあい、槍飛ばし、黄銅よろう軍勢の
勇と勇とを闘わし、浮彫高き大盾を
互いに近く迫り寄す。かくて戦乱わき起り、
打たるる者と打つ者と叫喚怒号紛(ふん)として
両軍乱れ闘いて血は戦場を流れ行く。  65

曙光はじめて照りしより日の中天に昇るまで、
飛刃激しく両軍を打ちてかれこれ相たおる。
かくて光輪めぐり行き天の真中を過ぐる時、
クロニオーン、黄金の秤(はかり)[1]取り出しその中に、8-69
駿馬を御するトロイアと黄銅よろうアカイアの  70
運を——すべてに掛かりくる死の運命を投じ入れ、
秤の真中手に取ればアカイア非命の運沈み、
運傾きて惨憺と大地の上に垂れさがり、
これに反してトロイアの運は高くも天のぼる。
やがてイーダの高きより雷霆の神、雄叫びつ、  75
アカイア軍に閃々(せんせん)の電火飛ばせば、これを見て
将はひとしく驚愕に打たれて畏怖に青ざめぬ。
イードメネウスも留まらず、アガメムノーンも、アレースに
仕うる二人アイアースともにとまらず引きのきて、
ゲレーニア騎将ネストール、アカイア軍を守る者、  80
その馬[2]打たれ倒るれば一人留まる、やむをえず。
鬢毛美なるヘレネーの夫のアレクサンドロス、
一矢飛ばしてその馬の頭をたてがみ生ゆるきわ、
正しくぐさと射つらぬき、致命の傷をおわしむる。
矢は脳中に貫ぬけば苦痛にたえずとび上がり、  85
もがき狂いて駆けめぐり戦車戦馬をかき乱す。
と見る老将おどり出で、利剣を抜きて引き革を 
切れば、そのとき猛然と、戦場さしてヘクトール・
プリアミデース剛勇の将軍兵車駆り来る。
かくて老将一命をほとんど滅び去らんとす。  90
そのときこれを目にとむるディオメーデース、大音の
勇将すごく雄叫びて、オデュッセウスを叱りいう、

[1]ゼウスの秤は22-209、19-223参照。
[2]倒されしは所謂脇馬なり。くびきに付けらるる者にあらず、車の側面につながる。

『神より生れしオデュセウス、なんじ知謀に富める者、
軍勢中の卑怯者のごとく汝背をむけて
いずこに逃る?おそらくは背を鋭槍は貫ぬかん。  95
返せ、もろとも強敵を払い老将救うべし』

しか叫べども忍従のオデュッセウスは聞き取らず[1]。
いそぎて馳せてアカイアの水軍中に身をひそむ。
ディオメーデースただ一人残り先鋒の中に入り、
ゲレーニア騎将ネストルの馬前に立ちて声上げて、  8-100
危急の迫る彼を呼び、羽ある言句陳じいう、
『あわれ将軍、激しくも若き戦士は君を攻む。
君の威力は衰えて苦の老齢は身にまとう、
君の従者は弱くして君の戦馬は足おそし。
われの戦車に乗り移れ。トロースの馬、平原を  105
縦横無碍にかけ巡り、進退ともに勇ましく
飛ぶがごときを君は見む、アイネイアスの御せしもの、
無双の駿馬、さきにわれ彼より奪いとりしもの[2]。
君の戦車と戦馬とをわれの従者はいたわらん。
いざわが車馬をトロイアの陣中向けむ。ヘクトール  110
知るべしわれの手の中に鋭槍いかに強きかを』

[1]あるいは「聞き入れず」と解す、しかせば勇将の性質と矛盾す。
[2]5-323。

しか陳ずればゲレーニアの老将これに従えり。
エウリュメドーンとステネロス、二人の従者猛きもの、
心やさしくネストルの戦馬いたわり引きしざる。
かくて両将もろともにディオメーデスの車のる。115
燦然として輝ける手綱を取りてネストール、
馬に鞭あて迅速にヘクトルめがけ迫り来つ、
ディオメーデスはまっしぐら彼に鋭刃投げ飛ばす。
狙いはずれてその槍は戦車の手綱とれる者、
テーバイオイスの生める息エニオペウス†にうち当る。120
車上に立てるその従者、乳のほとりを貫かれ、
兵車の外に逆落ちて馬はあとへと引きしざる。
撃たれし彼はそのままに魂魄去りて地に返る。
これを眺めしヘクトール悲哀に堪えず、しかれども
倒るるままに伏さしめて、さらに新たの勇猛の  125
御者求むれば、程もなく得たるはアールケプトレモス、8-126
猛き勇士はイピトスの子息、たちまち足速き
双馬の車上身を乗せて、新たな御者は左右(そう)の手に
綱をかいとり、ヘクトルのかたえに立ちて任に就く。

そのとき破滅近付きて悲惨の大事わき起り、  130
トロイア軍は小羊のごとく城裏に入りつらん。
されど諸神と人間の父なるゼウスこれを見て、
高く雷音とどろかし、霹靂(へきれき)[1]飛ばし、爛(らん)として、
ディオメーデース乗る馬のその眼前にひらめかし、
炎々として燃え上がる硫黄のほのお舞いおこる。  135
これに驚怖の双の馬、兵車のもとにひれ伏せば、
燦爛の綱その手より緩めてはずすネストール、
恐怖に満ちて慄然とディオメーデースに叫びいう、

[1]「霹靂」はかみなりのこと。

『テューデイデース、単蹄の馬を返して逃げ走れ。
神のまつろう戦勝は汝にあらず。悟らずや?  140
雷霆の神クロニオンいま栄光を敵の手に 8-141
与えり。後日われにまた好まばこれを与えんか?
勇力いかにすぐるるも人界の子は、おおいなる
威力はるかにまさる神ゼウスの旨に抗しえず』

ディオメーデース、大音の勇者答えて彼にいう、  145
『老将軍よ、君はいま正しくこれらの事宣す。
されどしかせば恐るべき悲嘆はわれの胸打たむ。
トロイア族の集会に言わん後の日ヘクトルは、
「われを恐れてその船にテューデイデスは逃れき」と
かれ高らかにかく言わん、そのときわれに地よ開け』[1]  8-150

[1]死すること。

ゲレーニア騎将ネストール、そのとき答えて彼にいう、
『ああテューデウス生める息、汝何をか今いえる?
卑怯無力とヘクトール汝をいつか罵るも、
何かはあらむ。トロイアとダルダニアーの男児また
トロイア女性信ずまじ。女性の夫、屈強の  155
勇士を汝、塵中に倒したることいくばくぞ』

しかく宣して単蹄の馬を返して戦場を
後に逃ぐればトロイアの軍勢ならびにヘクトール、
叫喚激しく槍投げて彼のあと追い迫り来つ、
堅甲光るヘクトール大音あげて彼にいう、160
『テューディーデーよ、駿馬駆るダナオイ勢は光栄の
席に酒肉の饗宴に汝を特に尊びき。
いまは汝を侮らむ。汝女性にいま似たり。
卑怯の少女よ、逃げ走れ。われを敗りてひるまして、
わが城壁をよじのぼり、われらの女性水陣に  165
奪い帰るをよくせんや、そのまえ汝命尽きむ』

ディオメーデースこれを聞き思いは二途に相分る。
馬首を転じてヘクトルに向かい勝敗決せんか、
戦場あとに逃れんか、三たび心に迷う時、
三たびイーダの高きより迅雷ふるうクロニオン、  8-170
トロイア軍に応援のしるし、勝利を報ずれば、
トロイア軍にヘクトール大音あげて叫びいう、
『トロイア勢よ、リュキオイよ、接戦死闘のダルダノイ!  8-173
友よ汝ら勇猛の威力をふるえ、男子たれ!
クロニオーンは喜びて戦勝および栄光を  8-175
われに、敵には敗亡を与えしことを我は知る。
愚かや、彼ら築きたる長壁もろく弱くして、
効なし。さればそのために我の力は阻まれじ。
広き塹壕たやすくもわれの駿馬はとびこさん。
しかして中の空虚なる敵の諸船に到る時、  180
猛威をふるう炎々の火焔を汝ら忘れざれ。
猛火に船を焼きはらい、煙に迷うアルゴスの
軍勢、船のかたわらにわが手親しくほろぼさむ』 8-183

宣しおわりてヘクトールさらにその馬、激しいう、
『クサントスまたポタルゴス、ラムポス(馬)およびアイトーン、
汝ら飼養の恩思え。アンドロマケー、おおいなる
エーエティオンのまなむすめ、すぐれし女性、蜜に似る
甘味の麦をはましめて、さらに汝の願うとき、
おのが夫と誇る我、我に先んじ、芳醇の
酒を汝に飲ましめし飼養の恩をいま払え。  190
いそぎて駆けよ、ネストルの盾をわれいま獲んがため。
盾も取っ手も黄金の、——その名声は天上に
ひびきし盾を獲んがため。さらに巧みに作られし
ディオメーデスの介冑を、ヘーパイストス鋳るがため
労せしものを、勇将の肩より奪い取らんため。  195
これらの二つ奪い得ばアカイア勢は今宵にも
——われは望まむ――迅速に航する船に乗り込まむ』

祈りかくいうヘクトール——かなたに怒る端厳の
ヘーラーその座立ちあがり、ウーリュンポスを揺るがしつ、
すなわち行きてポセイドーン大神のまえ宣しいう、  8-200
『ああ大地をゆする者、遠く威力の及ぶ者、
ダナオイ族[1]の壊滅に汝心を痛めずや?
ヘリケーおよびアイガイ[2]に豊かの供物もたらしし 8-203
彼らを思え。戦勝を彼らのために心せよ。
ダナオイ族に味方するわれら、トロイア軍勢を  205
払い、雷霆のクロニオン神に抗して立たん時、
イーダの峰にただ一人座りて彼は悲しまむ』

[1]ダナオイ=アカイオイ=アカイア族=アルゴス族。
[2]ペロポンネソスの北岸、ポセイドーンを崇拝の二市(2-575)。

大地をゆするポセイドーン、がい然として答えいう、
『ヘーラー何と大胆の言句を汝宣するや!
クロニオーンにほかの神あらがう事をわが心  210
あえて願わず。われらより彼ははるかに強ければ』

二位の神明相向かい、しかく談じぬ。こなたには
塹壕ならびに長壁と船とのあいに挟まれる
大地の上に一斉に、戦馬ならびに盾もてる
兵を閉じこむ、――アレースに似たる勇将ヘクトール 215
プリアミデース栄光を神より受けて、こをなしぬ。
そのときアカイア軍勢を、いそぎて立ちて鼓舞すべく
アガメムノーンを端厳の女神ヘーラー励ましつ、
わずかにアカイア水陣はすごき兵燹免れぬ。

大王すなわち水軍と陣営さしてすすみ行き、220
権威を示すおおいなる紫衣を腕にかいとりつ、
オデュッセウスの黒き船、舷側広き前に立つ。
船は真中に位置を占め、テラモニデース・アイアース、
またアキレウス両将の陣営左右に見渡して、
呼べば彼らに聞かるべし(腕の力と勇気とを  225
信じ、両将その船を左右の端に並べしむ)。
大王かくて朗々の大音放ち叫びいう、

『恥じよ、汝ら、形のみまさる卑怯のアカイオイ、
先の高言いずこぞや?思い出でずや?レームノス[1]
かしこにありて大言し、至剛の者と誇らいつ、  230
角ますぐなる牛王の肉を喫しつつ、芳醇の
あふるる盃を傾けて叫びし声はいずこぞや?
汝ら言えり、戦場に一もて敵の百人に、
さらに二百に当らんと。さるを一人のヘクトルに
敵するをえず。彼はいま猛火にわれの船焼かむ。 235

[1]遠征の途中に上陸せる地。

『ああわが天父クロニオン!人界の王のいずれかを
君はかくまで懲らせしや[1]?かくも誉れを奪えりや?
苦難の運にここに来し漕ぎ座あまたの船の上、
道に壮厳の君の壇過ぐるたびごと、堅城の
トロイア軍の壊滅を祈りて、ために牛王の  240
脂肪美肉を捧げしをいま明らかに我はいう。
ああクロニオン願わくはわれの祈りを受け入れよ!
危難逃れて一命を保つを許せ。トロイアの
軍勢われにうち勝つをああ願わくは許さざれ』

[1]2-111参照。

涙流して陳ずるをクロニオンは憐れみつ、  245
アカイア軍に破滅なく逃るるべきを首肯(しゅこう)しつ。
鳥類の中すぐれたるワシを下せば、猛鳥は
足敏捷の牝鹿の子、可憐のものをその爪に
つかみ舞いおり、壮厳の神壇の前、アカイアの
軍その牲を神明に捧ぐるほとり投げおろす。  8-250
鳥はゼウスのもとよりと見たる軍勢勇み立ち、
トロイア軍をすすみ撃ち、奮闘すべくこころざす。

そのとき接戦つとむべく戦馬を敵に向けなおし、
塹壕おどり越さしめし、諸将の数は多けれど、
テューデイデス[1]をしのげりと誇り得るものあらざりき。  255
ディオメーデスはまっさきに駆けてトロイア一勇士、
プラドモーンの生める息、アゲラーオス(ト)[2]をうちとりぬ。
馬を回して逃るべく、しりぞく敵の背を槍に、
肩と肩との間うち胸貫けば車上より
大地に落つるアゲラオス、黄銅の武具高なりぬ。  260

[1]すなわちディオメーデース。
[2]11-302ヘクトールに殺されしアカイアの将、同名異人あり。

ディオメーデスを追い[1]、次ぎてアガメムノーン、メネラオス、261
またこれに次ぎ勇猛の威勢の二人アイアース、
イードメネウスはまたつぎに、つづきて彼の従者たる
メーリオネース、殺戮のアレース神に似たる者、
エウアイモーンのすぐれし子エウリュピュロスはまた続く、  265
順は九番のテウクロス[2]、弾力強き弓を取り、
テラモーンの子アイアスの盾のうしろに立ち止まる。
そのアイアースその盾を時に少しくもたぐれば、
その隙間よりテウクロス四方眺めて敵陣の
中の一人を狙い射る、敵は倒れて命おとす。  270
足を返してテウクロス、母の陰なる子のごとく、
燦爛光るアイアスの盾のうしろに身を隠す。

[1]この8-261〜265と7-162〜167とを比べ見るべし。
[2]アイアースの異母弟。

彼の矢先にトロイアの陣中倒れし者や誰?
オルシロコス†[1]はまっさきに、これにつづくはオルメノス†[2]、8-274
オペレステース†[3]、ダイトール†、リュコポンテース†、クロミオス(ト)†[4]、 8-275
ポリュアイモーンの生める息アモパオン†、またメラニポス†(ト)、
その諸勇士は順々に彼に射られて地に倒る。
アガメムノーン、民の王、これを眺めつ、トロイアの
堅陣彼の強弓に崩れ乱るを喜悦しつ、
すすみて彼の側に立ち、羽ある言句を宣しいう。  280

[1]5-546は別人。
[2]12-187は別人。
[3]21-210のと別人。
[4]5-159、5-677、17-218のと別人。

『あっぱれ汝テウクロス、覇者テラモーンのいみじき子、
アカイア軍に光明を、汝の父に栄光を
与えんとせば射続けよ。庶子なりしかど館内に
汝の幼児なりし時、彼は汝を愛撫しき。
故郷に遠く離れたる彼の誉れに名をあげよ。
われいま汝に宣すべし。宣するところ、きと成らむ。
アイギス持てるクロニオンまたアテーネー、恵み垂れ、
建造堅きイーリオン都城の破壊許すとき、
我のすぐあと恩賞を汝手中に受け取らむ。
鼎(かなえ)あるいは神速の二等の駿馬、戦車とも、  290
あるいは美人、その寝屋を汝とともに分かつ者』

いみじき若きテウクロスそのとき答え陳じいう、
『威光至上のアトレイデー、自ら励む我の身を
など励ますや?勇力のあらん限りは奮戦を
やめじ。わが軍イリオンをめがけすすみし日よりして、  295
羽箭飛ばして敵人を我はしばしば射倒しつ。
矢じりの長き勁箭をわれは八条射はなちて、
若く勇める敵人の体中深く沈ましむ。
されど我かの狂犬[1]をいまだ射倒すことをえず』

[1]ヘクトール。

しかく宣してヘクトルを倒さん思い胸に燃え、  8-300
彼をめがけて新たなる一矢弦より切り放つ。
その矢当らず。しかれども王プリアモス生める息
ゴルギュティオーン、勇猛の武者の胸をぞ貫ぬける。
カスティアネイラ†、彼の母、その美、女神に似たる者、8-304
アイシュメー[1]より嫁し来るこの麗人は彼生みき。  305
園中咲けるケシの花、その結ぶ実の重きより、
また陽春の露によりうつむく様を見るごとく、
射られし彼は頂ける兜の重みにうなだれぬ。

[1]トラーケーの一市。

さらに一箭(いっせん)テウクロス、ヘクトール射て倒すべき
思いに駆られ奮然と弦音高く切り放つ。  310
されどアポローンその矢先そらして胸を射せしめず。
矢は戦場にいそぎ来るアールケプトレモス[1]の胸、
剛勇の武者ヘクトルの戦車駆るもの、その胸の
乳のほとりをひょうと射る。射られて戦車落ち下る
勇士地上に命おとし、二頭の駿馬あとかえす。  315
御者の落命憐れみて悲痛にたえぬヘクトール、
傷心いとど切ながら、死体をそこにふせるまま
残してさらにかたわらのケブリオネース[2]同胞に 8-318
戦馬のたづな握らしむ、その命彼は応じ聞く。
その燦爛の兵車より大地とびおるヘクトール、  320
大音声に叫びつつ、手に大石を振り上げて、
若き弓手を倒すべく奮然として飛びかかる。
その矢筒より一条の勁箭さらに抜き出し、
その弦上に当たる時、堅甲光るヘクトール、
己をねらい弦をひく弓手の肩の首と胸、  8-325
鎖骨によりて分かたれて致命の急所あるところ、
そこにぎざある大石を投げて激しく敵を撃ち、
筋断ち切れば彼の手は麻痺しつ、彼は膝突きて 8-328
地上に倒れ、剛弓は彼の手はなれ地に落ちぬ。
されど英武のアイアース、倒れし弟眺め見て、  330
走り来りて彼を守り、その大盾に彼を覆う。
しかしてさらに友二人、一はエキオス生める息
メーキステウス(ギ)[3]、また一はアラストール、近寄りて、8-333
激しく呻(うめ)く負傷者を兵船中に運び去る。8-334

[1]8-126。
[2]11-522、16-738。
[3]メーキステウスとアラストールは13-422。同文。

ウーリュンポスのクロニオーン、いままたさらにトロイアの  335
勇を鼓すればふるい立ち、アカイア軍を塹壕に
追いつむ。それの先頭に勇みて進むヘクトール。
足神速の猟の犬、猪(しし)をあるいは獅子王を、
追いつつこれに飛びかかり、腰にあるいはその下肢に
噛みつき、彼の悩めるを見守るごとく、ヘクトール  340
毛髪長きアカイアの軍勢駆りて追い払い、
遅れし者をうち取れば、あわてふためき逃げる敵、
トロイア軍の手にかかり無残の打撃受けながら、
逃げ、塹壕と壕中の杭とを通り過ぎしのち、
アカイア勢は兵船のかたえ止まりて休らいつ、  345
互いにいさめ励まして、さらにその手を高く挙げ、
神明みなに心こめせつに祈願をたてまつる。
こなた勇めるヘクトール、ゴルゴン[4]あるいはアレースの 8-348
顔見るごとく物すごく、たてがみ美なる駿足を
あなたこなたに進むれば、敗れしものを腕白き  8-350
ヘーラー眺め憐れみて、藍光の目の神にいう、

[4]恐ろしき怪物(11-36)。

『ああ無残なり、汝見よ、アイギス持てるゼウスの子!
アカイア軍の滅ぶるをなおこの際に救わずや?
運命悪くつらくしてただ一人の勇猛の
ゆえに彼らは滅びんか。プリアミデース・ヘクトール、  355
あくまで禍害行えり、彼の凶暴忍ばれず』

藍光の目のアテーネー、それに答えて陳じいう、
『アカイア軍の手にかかり、勇気と生といっせいに
滅び、故郷の土のうえ、彼はついには倒るべし。
さはれわが父クロニオン、奇怪の計慮胸にして、  360
つれなく常に剛愎(ごうふく)[1]にわれの努力を妨げつ、
エウリュステウス[2]命じたる苦役に悩む彼の子を 8-362
しばしば助け救いたるわが勲労を顧みず。
天をあおぎて悲しめる子に救援を与うべく、
雷雲寄するクロニオンわれを天より遣わしき、  365
忌み嫌わるるハーデス[3]の城門堅き館に入り、
そこエレボスの暗きより猟犬引きて帰るべく、8-367
主命を彼のうけしとき、今日(こんにち)ある[4]を我知らば、
彼ステュクスの奔流の水をいかでか免れむ。

[1]「剛愎」は強情なこと。 [2]天妃ヘーラー謀りてミュケーナイの王者エウリュステウスにヘーラクレース(ゼウスの子)を服従せしめ、十二の難事を行わしむ(15-640、19-132)。
[3]冥府の王ハーデース。
[4]ゼウスの今の態度。

『テティスの願い納受して父いま我を憎しめり。  370
都城を破るアキレスが誉れを得るを祈願しつ、
彼女、ゼウスの膝抱きその手に彼のあご撫でき。
「藍光の目の愛女よ」とさはれ天父はまた言わむ。
いざいま単蹄の駿足を我らのために引き出せ、
アイギス持てる天王の宮にすすみて戦闘の  375
武装を我は整えむ、しかして我は眺むべし、
プリアミデース・ヘクトール堅甲光るかの勇者、
われら二神の戦場に入るをはたして喜ぶや?
見よ、アカイアの船のそば、トロイア軍の一人[1]は
倒れ、その肉その脂、野犬野鳥を飽かしめむ』  380

[1]ヘクトールの死を予言す。

しか宣すれば皓腕の女神ヘーラー欣然と、
(いみじき女神ヘーラーは偉なるクロノス生むところ)
これにしたがい黄金を装える戦馬ひき出す。
アイギス持てる天王のめずる明眸アテーネー、8-384
その多彩なる精妙の衣、自ら織りいだし、385
自ら巧みなせるもの、父神の堂に脱ぎ捨てつ、
雷霆の神クロニオンもてる胸甲身に帯びつ、
かくて涙のもといなる荒びの戦具ととのえり。
かくて親しく燦爛の兵車に女神立ちあがり、
重くて固き大槍をその手にとりぬ[1](槍により 390
手向かう者をアテーネー奮然としてうち破る)
ヘーラーかくて迅速に駿馬に鞭をうちあてて
駆れば天上もろもろの門、戛然(かつぜん)と開かるる、
門の司は時の神、――オリンポスと上天は
これに託さる、濃雲を開きあるいは閉じるため、  395
そこを二神はその命に応ずる駿馬駆り去りぬ。

[1]二女神の武装の叙述は5-720〜752にもあり。

されどイーダの高きよりクロニオンはこれを見て、
おおいに怒り、黄金の羽あるイーリス呼びていう、
『なんじ、イーリス、疾く行きて後に引かせよ、わが前に
彼ら来たるを押しとめよ、われに抗せば害あらむ。  8-400
いま、我あえて宣しいう、宣するところきと成らむ。
兵車の下に足速き彼らの馬を傷つけむ、
彼らを車下(しゃか)にうちおとし、車輪微塵にくだくべし、
わが轟雷の打つところ、重き負傷に悩むべく、
月と日めぐる十年[1]にわたりて傷は癒えざらむ。  405
われに抗する災いはかくと知るべしアテーネー、
われヘーラーに対しては怒らず、瞋恚もよおさず、
われの計画するところ破るは彼女[2]の習いのみ』

[1]月と日めぐる十年とは満九年の意。九は神聖の数を言わる。三も同様。
[2]5-892、1-518。

しか宣すれば疾風の足ときイーリス令つたえ、
イーダの峰をくだり来てウーリュンポスに翔け向かい、  410
渓谷多きオリュムポスそのいやさきの門の前、
二神に会いて押しとどめ、ゼウスの言を宣しいう、

『いずこに馳すや、ああ汝?胸ぬち[1]何の狂妄ぞ!
クロニデースはアルゴスの救援なんじにおしとどむ。
クロニデースはかくおどす、しかしてその事きと成らむ、  415
兵車の下に足速き汝の馬を傷つけむ、
汝を車下にうちおとし、車輪微塵にくだくべし、
彼の轟雷打つところ、重き負傷に悩むべく、
月と日めぐる十年にわたりその傷癒えざらむ。
彼に抗する災いはかくと知れかしアテーネー、  420
かれヘーラーに対しては怒らず、瞋恚もよおさず、
彼の計画するところ破るは彼女の習いのみ。
さもあれ汝、アテーネー、ああ狂妄の無恥の犬、
クロニオーンに逆いて汝の槍を挙ぐとせば…』

[1]「ぬち」は「のうち」の短縮。

しかく宣して疾風の足ときイーリス帰り去る、  425
そのときヘーラー口開き藍光の目の神にいう、
『ああ無念なり、アイギスを持てるゼウスのまなむすめ、
やむなし、われら人間のゆえにゼウスと争うを
やめむ、彼らのあるものは滅び、あるものながらえむ、
そは運命のあるがまま、クロニオーンの胸の中、  430
トロイアおよびアカイアにほどこすところ定むべし』

しかく宣して単蹄の駿馬あとへとひき返す。
ホーライ[1]その時たてがみの美なる駿馬のもろもろを、
放ちて解きてアムブロシア匂う馬槽(まぶね)の前つなぎ、
燦爛光る壁に寄り、彼らの戦車とどめ据う。  435
二位の女神は黄金の玉座に着きてもろもろの
他の神々に相まじり、惨然として楽しまず。

[1]単数はホーレー(時)、複数の形にては天候の管理者(女性)、またヘーラーの侍女。

そのときイーダの高きよりウーリュンポスの峰さして、
兵車と馬を駆り来り、ゼウスは諸神の会に着く。
大地をゆするポセイドン、そのとき馬を解き放し、  440
兵車を台の上に据え、据えて布蓋にてこれを覆う。
雷音遠く鳴りひびくゼウスそのとき、黄金の
玉座によりておおいなる山を脚下に震わしむ。
ヘーラーおよびアテーネー彼に離れて席を占め、
彼に何らの句も言わず、何らの問いもうち出でず。  445
クロニオーンはしかれども心に推し宣しいう、

『などかく悲哀もよおすや、ヘーラーおよびアテーネー、
汝ら深き怨恨をトロイア軍に向け起し、
これと戦いほろぼすを念じて休むことあらず。
我の力と我の手は抗すべからず、もろもろの  8-450
ウーリュンポスに住める神、われを払うを得べからず。
戦闘およびその来す恐るべきわざ見る前に、
汝ら二神輝ける四肢は恐怖にふるうべし。
我いま汝に宣すべし、宣するところきと成らむ、
雷(かみ)に撃たるる汝らは戦車に乗りてこのにわに——  455
不死の神々集まれるウーリュンポスに帰り得じ』

しか宣すれば[1]、向かい座しトロイア軍のわざわいを 457
計らい居たるアテーネー、ヘーラーともに舌打ちぬ。
黙然として言葉なき藍光の目のアテーネー、
ただ烈々の憤懣をクロニオーンに抱くのみ。  460
されどヘーラー胸中の怒り抑えず叫びいう、
『ああ恐るべきクロニデー、何たる言を宣するや?
君の威力[2]の微ならざる、すでにわれらの知るところ、
ただ運命に恵まれず、滅びんとするダナオイの
可憐の勇士思いやり、われは悲憤を抑ええず。  465
されど厳命下る時、われ戦闘に加わらじ、
君の憤怒のゆえにより、アルゴス勢のことごとく
滅ぶることの無きがため、ただ忠言を与えんず』

[1]457〜562は4-20〜25に同じ。
[2]463〜468は8-32〜37にほぼ同じ。

雷雲寄するクロニオン、それに答えて宣しいう、
『望まば汝あした見む、汝、牛王の目を持てる  470
ヘーラー、汝、強きわれ威力無上のクロニオン、
アルゴス勢をいまよりもなお痛烈に破すべきを。
見よ、勇猛のヘクトール、船のほとりの足速き
アキッレウスの立たんまで、戦闘やむることあらず、
その日船尾のかたわらに彼ら激しく戦わむ、  475
パトロクロスの死のゆえに接戦苦闘すごからむ。
かく運命は定まれり。われは汝の憤激を
心に掛けず、地と海の果てに汝の行かんとも[1]、
イーアペトス[2]とクロノスのやどるそのにわ、そのほとり、8-479
ヒュペリオーンの生める息ヘーリオース[3]の光線も、  480
風もかしこにおとずれず、ただタルタロス[4]四方(よも)にあり。8-481
汝、漂零のはてそこに行かんも我は顧みず、
汝の怒り顧みず、汝無上の無恥のもの』

[1]「地の底海の果てに行きて彼らの助けを求むるとも我は恐れず」の意。
[2]ウーラニオーンの子ら、敗れて地底に住む(5-898)。
[3]ヘーリオス(太陽)。
[4]「タルタロス」は地獄の暗闇。

しか宣すれど皓腕のヘーラー、彼にもの言わず。
やがて燦たる日の光オーケアノスに沈み去り、  485
大地の面に暗黒の夜陰(やいん)の幕を下らしむ。
その夕陽(ゆうよう)の沈めるをトロイア軍は喜ばず、
三たび祈れるアカイアの軍は暗夜(あんや)を歓呼しぬ。

そのとき輝くヘクトール、海を離れて、渦巻ける
川の岸のへ、鮮血にまみれし死体無きところ、  490
率い来りしトロイアの兵の会合うち開く。
将士らすなわち兵車より大地の上にくだり立ち、
ゼウスのめずるヘクトール述ぶる言句に耳を貸す。
彼の手中の長き槍、黄銅の穂は輝きて、
穂先の根元、黄金の輪をめぐらせり。その槍に  495
身をもたせつつヘクトール、トロイア軍に宣しいう、

『ダルダニアーとトロイアの軍勢および諸援軍、
わが言を聞け、アカイアの軍船軍勢ほろぼして、
風すさまじきイリオンに帰陣なすべく我言えり。
されども闇は寄せ来たる、闇は救えり、波荒ぶ  8-500
海の岸のへ、アカイアの軍勢ならびにその船を。

『我また黒き夜(よる)の命奉じてここに休らわむ。
いざ晩食の備えせよ、たてがみ美なる駿足を
兵車よりして解き放ち、馬糧をこれに与うべし。
いますみやかに都城より肥えし牛羊ひき来れ、  505
甘美の酒と麺包を陣営よりし運び来よ、
さらに加えて薪材の多くをここに集め来よ。

『あすの暁光出づるまで、炎々の火をよもすがら、
わが軍陣の前に焚き、光炎、天に入らしめむ。
闇に乗じて長髪のアカイア軍勢、倉皇[1]と  510
びょうびょう広き海上に逃れ去ること得べからず、
また痛みなく静穏に船に乗ること得べからず。
船に乗る時、わが軍の放つ飛箭に投げ槍に、
打たれて敵のあるものは故郷に傷を養わむ。
これを眺めて他の者は馬術巧みのトロイアの  515
軍に対して戦闘を挑むをついにはばからむ。

[1]「倉皇」は「あわてて」の意。

『ゼウスのめずる伝令使、いま城中に触れめぐれ、
神の作れる塔上にわが世の花の少年[1]と、
鬢毛白き老人とあわせてともに寄るべしと、
また繊弱の女性らはおのおの家に炎々の  520
火を燃やしつつ、警戒の備え、怠ることなかれ、
隙に乗ずる敵軍の不意の襲いの無きがため。

[1]ある版には「少年と」の代りに「少女らと」。

『わが剛勇のトロイア軍、わがいうごとく成らしめよ、
わがいうところいまに足る、確かの言句今日に足る、
残るところは明くる朝述ぶべし、トロイア陣中に。  525
望みてわれはクロニオンまた他の神に乞い祈る、
ケーレス神[1]に遣わされ、黒き船のへこの郷に
来りし犬ども、すみやかに追い払うべくいま祈る。528
夜を徹して我軍の警護怠ることなかれ。

[1]死の運命。

『あしたの朝に身を起し黄銅武装ととのえて、  530
アカイアの船ほど近く攻撃強く試みむ。
ディオメーデース、勇猛のテューデイデスは陣地より
城壁かけてヘクトール我をはたして払わむや?
彼をあるいは我倒し血染めの鎧剥ぎえむや?
あすの日彼はその勇をいかにと知らむ、わが襲う  535
槍を迎えて立たん時。さはれ思うに、傷つきて
先鋒中に横たわり、多数の友ももろともに
倒れん、朝日昇る時。かくして我はとこしえに 538
不死と不老の身となりて、藍光の目のアテーネー、
銀弓の神アポローン——神とひとしく誉れ得む、  8-540
アカイア軍に災いの襲い来ること確かなり』

しかく宣するヘクトール、トロイア軍は歓呼しぬ。
かくて汗する駿足をくびきよりして解き放ち、
革ひもにより各々の兵車にこれをつなぎ留め、  545
兵たちやがてすみやかに肥えし牛羊都城より、
もたらし来り、陣屋より甘美の酒と麺包を
運び来りつ、さらにまた薪材多く集め来る。
全軍かくて神明にいみじき牲をたてまつり[1]、
風はその香を天上に平原よりし運びゆく。
さはれいみじき諸神霊、いずれもこれを受け入れず、  8-550
これを望まず、イリオンと、白楊のやり手にふるう
王プリアモス眷族と民をひとしく憎しめり。

[1]548〜552括弧内の数行は如何なる写本にもなし、プラトーンの作と称せらるる「アルキビアデース」二巻の中に引用さる。トロイアの破滅は諸神一切の願いにあらず、ただ一部の神のもこれを願う。ゼウスはトロイアを憎まず、その敬信を嘉みすること4-44以下に見るべし。

全軍かくて功名の念に燃えつつ夜もすがら、8-553
戦場中に休らえり。かがりは光煌々と、
たとえば[1]風なき夜半の空、澄める月球とりかこみ、  555
燦々として衆星の光照り出で、もろもろの
山も岬も渓谷もひとしく影を示すとき、8-557
天上高く限りなく光る衆星あおぎ見て、
牧人あすの晴れ思い、欣然として勇むごと、
かばかり多くトロイアの軍勢もやすかがりの火。  560
船と流れのクサントス、間(あい)、イリオンの城の前、
原上かがりの数は千、そのおのおのに相添いて、
兵員五十、炎々のほのおの前にやすらえり。
白き大麦裸麦噛める軍馬もいっせいに、
兵車の前に並びたち、あすの曙光を待ちつくす。

[1]この比喩は有名のもの。テニスンこれをいみじく訳す。何ゆえ彼はさらに多くを訳さざりしか?マシュー・アーノルドはその論文『ホーマア飜訳について』の中にこの8-553以下を試訳す。ポープは最後を誤訳す。ヴォスの独訳はすこぶる妙。


イーリアス : 第九巻



 アカイア軍の憂怖(ゆうふ)。アガメムノーン退去を説く。ディオメーデースとネストールこれに反対す。塁壁および塹壕の防備。諸将の評議。ネストールの発議。アキレウスを立たしめんとす。アガメムノーン後悔し、彼に莫大の贈与を誓う。使者としてオデュッセウスとアイアースとポイニクスら行く。アキレウスこれを歓待す。オデュッセウス、弁をふるって説く。アキレウスこれを拒む。ポイニクスまた勧めて先例を説く。アイアースも諫(いさ)む。効なし。使者帰り報ず。ディオメーデース、兵を励ます。全軍眠りに入る。

かくトロイアの軍勢は警護に努む。アカイアは
つらき「恐怖」の供にして神の送れる「逃走」の
霊に憑(つ)かれて、最剛の武者も憂愁抑ええず。
鱗族(りんぞく)多きわだつみの水をボレアス、ゼピュロスの、
トラーキア[1]よりわき起る二つの風のこつ然と  9-5
襲いて吹きて乱す時、狂瀾怒濤いっせいに
荒び起りて海草を水の内外(うちと)に散らすごと、
アカイア族の胸中の思い激しく砕かれぬ。
アトレイデース殊更に心憂いにうち沈み、
あなたこなたに歩をすすめ、声朗々の伝令の  9-10
使いに命じ、叫喚を禁じ静かに名を呼びて、
評議の席に諸将軍招き自ら先に立つ。
憂いに満つる席上にアガメムノーン悄然と、
暗き洞より陰惨の泉あふれて断崖を、9-14
流れ落として来るごとく、涙流して立ち上がり、  15
長嘆しつつアルゴスの皆に向かいて陳じいう、

[1]本詩は小亜細亜に成るとの説を唱うる者これらの行を引く。ちなみに鱗族とは魚類のこと。

『ああアカイアを導きて、ここを治むるわが友よ、
クロニーオーン、おおいなるゼウスさきには堅牢の
イリオン城をほろぼして帰陣すべしと約したり。
悪しき欺瞞をたくらみて、かれいまひどく大いなる  9-20
迷いにわれを沈め去り、われに命じて軍勢を
失いし後アルゴスに誉れなくして帰らしむ。
天威かしこきクロニオン、しかあることを喜べり、9-23
ああ彼すでに数多く都城の頭(こうべ)うちくだく、
さらにこの後しかなさむ、無上の威力彼にあり。  25
されば汝ら、我のいま宣するところ聞き入れよ、
船に乗じて恩愛の故郷に向かい逃げ帰れ、
街路の広きトロイアの陷落ついに得べからず』

しか宣すれば黙然と全軍鳴りをおし静め、
無言に長くアカイアの子らいっせいに悲しめり。  30
ほど経て高き音声のディオメーデース陳じいう、

『アトレイデーよ、我はまず評議の席にふさわしく、
君の浅慮の言(げん)責めむ。願わく怒ることなかれ。
さきごろ君は陣中に我を誹謗し罵りぬ[1]。
闘志はあらず勇なしと。しかしてこの事ことごとく、  35
アカイア将軍いっせいに老も若きもみな知れり。
クロニーデースは意地あしく君に二物をほどこさず。
すべてに優り王笏の栄光君に与えしも、
至大の力、豪勇の徳をば君にほどこさず。
いぶかし、君はアカイアの子ら闘志なく勇なしに、  40
君の宣する言のごと、あると思いてやまざるか?
帰国の道につくことをせつに願わば、すみやかに
立ち去れ、道は開けたり。ミュケーナイより従いて、
君に付き来し数多き船は岸辺にみな待てり。
されどその他の長髪のアカイア族はトロイアの  45
城落つるまで残るべし。さらに彼らもいっせいに、9-46
船に乗じて郷めざし遁走なさんことあるも、
われとわが友ステネロス[2]、トロイアの都市奪うまで、
奮戦つづけやまざらむ、神明われとともにあり』49

[1]4-370以下。
[2]2-564参照。ディオメーデースは言行ともに勇まし。

しか宣すればアカイアの兵いっせいに歓呼して、  9-50
悍馬を御する英豪のディオメーデースの言を褒む。
そのとき騎将ネストール列座の中に立ちていう、
『テューデイデーよ、戦闘の中に汝は至剛の身、
また評定の席の上、同輩中の至上たり。
アカイア族の何びとも汝の言を責めざらむ、55
争う事はあらざらむ、されど言論なお足らず。
汝はいまだ年若し、齢いを問わば汝なお
我が最少の子のごとし、しかも理により説くがゆえ、
アカイア族の王侯に堂々の言吐き得たり。
齢いは汝にまされるを誇り得る我いまここに、  60
陳じてすべてうち明けむ、わがいうところ何びとも、
アガメムノーン大王もあえて侮ることなけむ。
恐るべきかな同士討ち[1]、これを好める同輩は
眷属(けんぞく)あらず法あらず炉辺の平和またあらず[2]。
暗黒の夜はいま到る、夜に応じていざともに  65
食事の準備なさしめよ、夜をいましむる各隊は
長壁の外うがたれし塹壕に沿い守備をなせ。
我が少壮にかく勧む、されどこれらの命令は、
アトレイデーよ、君にあり、君は至上の権あれば。
また宿老に饗宴[3]を君備うるを良しとせむ、70
君の陣中蓄うるよき酒多し[4]、アカイアの
船大海を渡り来てトラーキアより持ち来る。
君歓待の力あり、君は多数を統べ治む。
兵士らひとしく評定の席に着く時、その中に
至上の説を吐く者に聞くべし。アカイア全軍は、  75
美なる正しき忠言を要せむ。敵は船近く
煌々としてかがり焚く。誰かはこれを喜ばむ?
わが軍隊をほろぼすも救うもまさに今宵なり』

[1]アキレウスとの調停をほのめかす。
[2]眷属と法と家庭とはいにしえの社会の三大根底。
[3]宴を催してその後協議せんとす。
[4]7-467参照。

しか宣すれば人々は耳傾けてこれに聞き、
警護の隊は武器具して倉皇として走り出づ。  80
率いる者はネストール生みたるトラシュメーデース[1]、9-81
アスカラポスとアレースの豪勇の子のイアルメノス[2]、
メーリオネスとアパレウス[3]、デーイピュロス[4]もまた次ぎて、9-83
クレーオーンの生める息リュコメーデス[5]はまた猛し。9-84
指揮の七将、おのおのに従う者は百人の  9-85
若き勇卒、手の中におのおの槍をたずさえて、
長壁および塹壕のあいだ真中に陣を張り、
炎々かがり焚きながらおのおの食の備えなす。

[1]10-255。14-10。16-321。 17-378、705。
[2]アスカラポスとイアルメノス、2-512。
[3]13-478。
[4]5-325。
[5]12-366、17-345、19-240

アトレイデスは陣中にアカイア軍の数多き
宿老招き、盛大の宴を彼らのため設く、  9-90
備え設けし飲食に諸将おのおの手を伸ばす。
かくておのおの口腹の欲を満たして飽ける時、
さきに至上の忠言を述べし老将ネストール、
いままた皆に先じてすぐれし意見述べんとす。
老将すなわち慇懃の思いをこめて宣しいう、  95

『アトレイデーよ、栄光のアガメムノーン、民の王、
わが言最初君に向き、最後同じく君に向く[1]。
君は最多の兵を統ぶ、笏と権威をクロニオン、
君の手中に託しつつ、全軍のため計らしむ。
さればすべてに抜きいでて君は説くべし、他の説に 9-100
耳を貸すべし、他の良しと思いて進言するところ 
君はなすべし。実行はひとえに君の上にあり。
我いまもっとも良しとする我の意見を陳ずべし、
他の何びともおそらくはこれにまされる説無けむ。
わがこの意見抱けるは一日ならず、さきつ頃  105
雷霆の神生める君、明眸ブリーセーイスを
アキッレウスの陣よりし、彼の憤激顧みず、
奪い来りし時よりぞ、われらの賛せざりしもの。
我もろもろの理によりていさめたりしも君聞かず、
権威に誇り、彼のもと戦利を君は奪い取り、  110
神明さえも尊べるアキッレウスを辱しむ。
甘美の言と珍宝の贈与によりて和らげて、
彼に説く策——いまになお能わば——講ずべからずや?』

[1]この句は神を賛美する時に用いるもの。いまネストールはアガメムノーンがあたかも地上におけるゼウスの代表たるがごとくにいう。

そのとき彼に民の王アガメムノーン答えいう、
『ああおじ、我のあやまちを君は正しく説き得たり、  115
我あやまてり、あやまてり、いまさらこれを否み得じ。
ゼウスのめずる英豪は百千人に相当(あいあた)る、
彼をあがめてアカイアに神は苦難を下したり。
無残の情念われを駆り、われに過失を犯さしむ、
いま莫大の贈与もて願わく彼を和らげむ。  9-120
そのつぐないの珍宝をいま将士らに披露せむ。
まだ火に触れぬ鼎(かなえ)七、十タラントの黄金と、 9-122
光り輝く釜二十、その神速の足により
賞をもうけし屈強の良馬そろえて十二頭、
この単蹄の駿足のわがためさきに獲しほどの、  125
さほどの財を獲なむ者、乏しき人と言わるまじ、
人の望める黄金の財に乏しと言わるまじ。

『さらに手芸にすぐれたる女性七人贈るべし、
そは堅城のレスボスを彼の破りし時にわれ、9-129
自ら選び取りしもの、艶美ひいづるレスボスの  130
これらの少女贈るべし、中に彼[1]より奪えりし
ブリーセーイス加わらむ、さらに誓いて我言わむ、
その閨房にすすみ入り、男女の間、世の常の
習わしなれど慇懃のかたらいなせしことなきを。
即時にこれらもろもろの贈与を彼にととのえむ、  135
しかしてこの後神々の恵みによりて、イーリオン
都城の破滅あらんとき、アカイア軍勢その戦利
分かたん時に、彼来り黄金、黄銅、その船に
満たして、さらにトロイアのすぐれし女性十二人、
かのアルゴスのヘレネーに次ぐもの自ら選ぶべし。  140

[1]アキレウスの名を指さず、ただ彼という。アキレウスはこれに反して「憎むべきアートレイデース」をくり返す。

『しかして異日アルゴス[1]の豊沃の地に帰るとき、
彼を養い子[2]となして、富裕の生に育ちたる
われの末の子最愛のオレステースに劣るなく、
彼をあがめむ。わが館の中に三人(みたり)の息女あり。
クリューソテミス、ラオディケー、イーピアナッサー[3]——その中の  145
一人(いちにん)、彼の望む者、結納なくて[4]彼の父
ペーレウスのもと彼連れよ、そのときわれは何びとも
いまだその女(じょ)に与えざる多量の贈与致すべし。

[1]アカイアのアルゴス(Argos Achaiicon)。
[2]婿。
[3]ギリシア悲劇作中にはこれらの名に相違あり、イピアナッサはイピゲネイアか、しからばアウリスにおけるイピゲネイアの牲の話はホメーロスのまったく知られざりしなり。イピアナッサこの時健在なれば。
[4]嫁の父に資財を呈するは当時の習。

『さらに戸口のにぎわえる七つの都市を贈るべし。
カールダミュレー、緑草のヒレー、エノペー、神聖の  9-150
ペーライおよび茫々(ぼうぼう)の平原広きアンテイア、
風光美なるアイペイア、葡萄に富めるペーダソス、
すべては海に遠からず、砂地のピュロスの端を占む。
その住民は牛羊の多くの群を養えり、
その住民は彼迎え神のごとくに尊ばむ、  155
彼の手にする王笏の下に貢賦(こうふ)は尽きざらむ、
憤怒を解かば彼にわれ以上の贈与致すべし。

『やわらぎ彼にあらしめよ。やわらぎがたく曲げがたき
冥府のあるじハーデス[1]はもっとも人の憎悪たり。
願わく彼の譲らんを、我の王権彼に増し、  160
我の年齢また彼に比して長きを顧みて[2]』

[1]何らの方法をもってしてもハーデースの司配する死を免れず。
[2]ネストールが1-280以下に説くごとし。

ゲレーニア騎将ネストールそのとき答えて彼にいう、
『アトレイデース、栄光のアガメムノーン、民の王、
君の贈与のもろもろはアキッレウスもおとしめじ。
ペーレイデース・アキレウス宿る陣舎にすみやかに、  165
行きて説くべき選良[1]をいざいま奮い立たしめん。

[1]「選良」とは選ばれたすぐれた人間のこと。

『よし、我これを選ぶべし、選ばるるもの命(めい)を聞け、
ゼウスのめずるポイニクス[1]まさきに立ちて導けや、
次は偉大の[2]アイアース、また神に似る[3]オデュセウス、
二人の使いオディオス†とエウリュバテースまた続け。  170
清めの水を持ち来れ[4]、聖き沈黙あらしめよ、
クロニーデスに祈り上げ、その冥護をぞ願うべき』

[1,2,3]使者三人もっとも適当。ポイニクスはアキレウスをその少年の時育つ、アイアースはアキレウスに次ぐ最強の武将、オデュッセウスは能弁にして策謀に富む。
[4]清めの水6-266〜268参照。

しか宣すれば将士らはみな喜びてこれを聞く。
ただちに侍者[1]は皆人の手に水そそぎ清めしむ。
若き給仕は芳醇を溢るるまでにかめ満たし、175
献酒[2]をはたし隊中をめぐりすべてに酌み与う。
献酒の式にはじまりて人々心満てる時、
アガメムノーン大王の陣を使者らは走り出づ。
ゲレーニア騎将ネストールそのとき皆に、また特に
オデュッセウスに目を注ぎ、ペーレイデース英豪の   180
説伏(せっぷく)せつに努むべく種々の訓示をこれに垂る。

[1]原文に「使者」なれども、こはいま行かんとする使いにあらず。
[2]まず神明に酒を捧げ、盃を地上に傾く。

二人はかくてとうとうとひびく波浪の岸に沿い、
アキッレウスの屈強の心たやすく服すべく、
大地を揺するおおいなる神に行く行く祈り上ぐ。
ミュルミドネスの陣営と彼らの船に着ける使者、  185
精美尽して銀製の絃柱(げんちゅう)もてる竪琴[1]の
玲瓏(れいろう)の音(ね)にその王者、心楽しむ姿見る、
エーエティオンをおとしいれ鹵獲(ろかく)の中に選りしもの、
弾じて彼は興じつつ武勇の事蹟歌うめり[2]。

[1]ホメーロスの詩中、軍将にして琴を弾ずるものはアキレウスとパリス(3-55)他に名を挙げられしものなし。
[2]ホメーロス以前叙事詩の存せる一証。

パトロクロスはただひとり黙然としてその前に、  190
アイアキデース吟謡(ぎんよう)を終わるを待ちて向かい座す。
そこに智勇のオデュセウスさきに二人[1]はすすみ入り、
アキッレウスの前にたつ、驚く彼は座より立ち、
手に絃琴をとるままにいそぎ二人に向かい来る、
同じくこれを認めたるパトロクロスも身を起す。  195
足神速のアキレウス、そのとき二人を迎えいう、
『よくぞ!友とし来たるかな、迫る用事は何ものか?
我は怒れどアカイアの中に汝は愛の友』

[1]アイアスとオデュッセウス。

しかく陳じてアキレウス、二人導き中に入り、
紫紺(しこん)いみじき布しける椅子のへ、これを座せしめつ、  9-200
パトロクロスが傍らに立てるに向かいすぐにいう、
『メノイティオスの勇武の子、大いなる瓶(かめ)持ち来り、
中に芳醇満たしめて、盃わたせ、おのおのに。
親しみもっとも深き者いま陣営の中にあり』

しかく宣する愛友にパトロクロスは応じきく。  205
炉火のほとりに大いなる卓を据えたるアキレウス、
羊の背肉、山羊の肉、脂肪のひかり沢々(たくたく)の
豚の肥鮮(ひせん)の豊肉をとりどりこれの上にのせ、
アウトメドーン[1]を手助けに勇士親しく肉を裂き、
薄身に切りて幾条の串につらぬき了(りょう)すれば、  210
メノイティオスの勇武の子、炎々強き火を燃やす。
たき火やがては燃え尽し、勢いややに沈む時、
燠火(おきび)を広く散らし敷き、そのうえ串を据えかざし、
さらに架上に取りなおし、清めの塩をふりかけぬ。9-214

[1]アキレウスの御者。17-429。

かくして調理ことおわり、美味卓上に並ぶとき、  215
パトロクロスは美麗なる籠に麺包もたらして、
これを分かてば、アキレウス同じく肉を衆前に。
かくして彼はオデュセウスまともにおのが座を占めつ、
パトロクロスに命下し諸神に牲を捧げしむ、
友は応じて調し得し真先の肉を火に投ず。  220
かくして皆はその前の美味に向かいて手を伸しつ、
やがて飲食こと終わり食欲おのおの飽ける時、9-221
ポイニクス見てアイアースうなずく、これをオデュセウス
悟り、盃満たしつつアキッレウスを祝しいう、

『さきくあれかし、アキレウス、われら共同の宴欠かず、  225
アガメムノーン、栄光のアトレイデース、その陣に
同じくともにみな欠かず、心を慰する饗宴の
豊かの糧はそなわれり、さはれ飲食今われの
わずらいならず、おおいなる苦難せまるをわれ恐る。
ああアキレウス!君にして奮いたたずばアカイアの  230
櫓櫂(ろかい)いみじく備われる船の存亡計られず。

船のかたえに長壁に近く勇めるトローエス、
遠くよりして呼ばれ来し援軍ともに陣を布き、
諸隊あまねく煌々とかがり火たきて宣すらく、
「敵は防ぐを得べからず、我ら船中攻むべし」と。  235
彼らに向かいクロニオン、吉兆示し[1]、へきれきを
飛ばしめ、かくてヘクトール高言吐きて傲然と、
物すごきまで荒れ狂い、ゼウスを信じ、何びとも
何らの神も尊まず、はげしき猛威身に満てり。
彼は曙光のすみやかの出現せつに乞い祈り、  240
艫(とも)より記号[2]剥ぎとりて船を炎々の火に焼きつ、9-241
煙にむせび逃げ迷うアカイア軍をそのそばに
みなことごとく討つべしと、あくまで誇り叫びいう。

[1]8-141、8-170等。
[2]船尾における突出部。15-717にあるものと同じ。ヘクトールはこれを鹵獲品となさんとするか?

『われはいたくも心中に嘆きて恐る、神明の
計らい、彼のおびやかし成りて、アルゴス、駿足を 245
産する地より遠くここトロイアの地に死すべきを。
トロイア軍の奮戦にいたくも悩むアカイアの
軍勢救う念あらば、よし遅くともふるい立て。
さらずば悲嘆君に来む、一たびすでに遂げられし
災禍の癒し見出だすべき術(すべ)あるなけむ[1]、さればいま  9-250
ダナオイ勢の禍(まがつみ)の日を防ぐべくつとめずや。
ああ友、父のペレウスはプティーアーより君の身を 9-252
アガメムノーンに送りし日[2]、訓戒せつにかく言いき、

[1]「あるなけむ」で「ない」を意味する。「災禍の来りし後は愚者も知る(悟る)」17-32参照。
[2]オデュッセウスはネストールとともにプティアーに行きてアキレウスを誘えり(11-765)。

『「わが子よ、汝にアテーネーおよびヘーラー意ある時、
威力恵まむ、胸中に汝よろしく剛強の  255
心を抑え制すべし、謹慎の徳、ああ思え、
災い醸(かも)す争いを根絶すべく心せよ、
しかせばアカイア老少はひとしく汝をあがむべし」
老翁かくも教訓を垂れしを君は忘れたり。
いざいま心肝わずらわす怒りを捨てよ、アガメムノン、  260
怒り捨つべく君のためいみじき贈与そなえせり。
君もしこれを聞かまくば、アガメムノンが営中に
約し誓いし珍宝の数々ここに語るべし。

『まだ火に触れぬかなえ七、十タラントの黄金と、
光り輝く釜二十、その神速の足により、  265
懸賞得たる屈強の良馬そろえて十二頭、
これらすぐれし駿足のアガメムノーンにえしところ、
さほどの財をえる者は乏しき人と言わるまじ、
人々望む黄金の財に乏しと言わるまじ、
さらに手芸にひいでたる女性七人贈るべし。  270
こは堅城のレスボスを君の破りし時に彼
自ら選び取りしもの、艶美ひいづるレスボスの
これらの少女贈るべし。中に君より奪えりし
ブリーセーイス加わらむ、さらに誓いて彼はいう、
かの閨房にすすみ入り男女の間、世の常の  275
習わし、彼女と慇懃のかたらいなせしことなきを。

『即時にこれらもろもろの贈物君に整えむ。
しかしてこの後神々の恵みによりて、イーリオン
都城の破滅あらむとき、アカイア軍勢その戦利
分かたん時に、君行きて、黄金、黄銅、船中に  280
満たして、さらにトロイアのすぐれし女性二十人、
かのアルゴスのヘレネーに次ぐもの君は選ぶべし。
しかして異日アルゴスの豊沃の地に帰る時、
君を養い子となして、富裕の生に育ちたる
かれの末の子、最愛のオレステースに劣るなく、  285
君をあがめむ、彼の館、中に三人(みたり)の息女あり、
クリューソテミス、ラーオディケー、イーピアナッサー——その中の
一人、君の望む者、結納なくて君が父
ペーレウスのもと君つれむ、そのとき彼は何びとも
いまだ息女に与えざる多くの贈与致すべし。  290

『さらに人口殷賑の都城七つを贈るべし、
カールダミュレー、緑草のヒレー、エノペー、神聖の
ペーライおよび茫々の平原広きアンテイア、
風光美なるアイペイア、葡萄に富めるペーダソス、
すべては海に遠からず、砂地のピュロスの端にあり、  295
その住民は牛羊の多くの群を養えり、
その住民は君迎え神のごとくに尊ばむ。
君の手にする王笏の下に貢賦は尽きざらむ。

『憤怒を解かば君に彼以上の贈与致すべし。
アトレイデースおよびその贈与をいたく憎むとも、  9-300
君願わくは、陣中に悩むすべてのアカイアの
他の軍勢に哀憐を垂れよ、彼らは神明の
ごとくに君を尊べり、その眼前に勲功を
たてよ、近くに寄せ来たるかれヘクトルをうち倒せ、
荒びたけりて彼はいう「戦艦ここに運び来し  305
ダナオイ軍の一人も我に手向かう者なし」と』

足神速のアキレウスそのとき答えて彼にいう、
『ラーエルテースの秀れし子、知謀に富めるオデュセウスよ、
我は心に思うまま、事成るべしと思うまま、
粉飾あらず、明らかに口を開くぞよかるべき、  310
かくせば君らわが前にうるさき言句述べざらむ。
心に一事蓄えて口に別事を述ぶる者、
我はいたくも忌みきらう、冥王の門見るごとし。
いまわが心正当と思う所を陳ずべし、

『アトレイデース・アガメムノーンならびにほかのアカイアの  315
すべてはわれに勧告をなすべからずと我思う。
不断に敵と闘えど常に感謝は払われず、
同じ運命、休らえるはた闘える者にあり、
同じ栄光、卑怯なるはた勇敢の者にあり、
死は一様に、つとめたるはた怠れる者にあり。  320
命を不断の戦いにさらしてために心中に
いたく苦難をうけし後、われに何らの報いなし。
たとえばいまだ飛び得ざるヒナにその餌(え)をあさり来て、
与えて、ただに辛酸を自らなむる母鳥か。
敵と戦いその手から彼らの女性を奪うため、  325
かく我、多く睡眠を知らざる夜を過したり、
かく我、多く流血の無残の日数(ひかず)過したり。
船に乗じて敵人の十二の都城うち破り、9-328
また陸上のトロイアの郷に十一おとしいれ、
その一切の財宝を奪い来りて民の王  330
アガメムノーン、権勢のアトレイデースに与えたり[1]。

[1]レスボス(9-129)テネドス(11-625)テーベー(2-691)ペーダソス(6-35)およびその他。

『彼は陣地のかたわらに悠然として居残りて、
受けて、小量他に分かち自ら多くむさぼりぬ。
その列王と諸将とに分かちし戦利みなともに
誰も手中に失わず。ひとりアカイア軍中に  335
わが得しところ恩愛の女性を彼は奪い去り、
添い寝を彼は楽しまむ。思え、アカイア軍勢は
何らのゆえにトロイアに敵せる?軍を何ゆえに
アトレイデースひきいたる? ヘレネーゆえにあらざるや?
声ほがらかの人類の中に女性を愛するは、  340
アトレイデースあるのみか。情理正しき者はみな
妻女を愛しいたわらむ。我またおなじく慇懃に、
彼女をめでき、戦闘の力によりて得たれども[1]。

[1]この一段もまた英雄時代における正式結婚の婦人に対する愛の証明。

『わが手中よりわが戦利奪いて恥辱与えたる
彼はいかでか我に説き、我を服することを得む。  345
オデュッセウスよ、彼をして君と諸将の力借り、
敵の猛火を船のそば払わんすべを取らしめよ。
我の加わることなくてあまたの業は遂げられぬ、
長壁すでに築かれぬ、めぐりに広き大いなる
堀うがたれぬ、その中に多くの杭は植えられぬ。  9-350
しかもかくして獰猛の敵ヘクトール攻め来るを、
防ぎも得せじ。さきにわれアカイア陣にありしとき、
かれヘクトール城壁を離れ戦闘いどみえず。
ただスカイアー城門と樫の木のそば寄せきたり、
一人でわれと戦いてあやうく命を免れき。  9-355

『されど我いまヘクトール敵とすること好まねば、
ゼウスならびにもろもろの神を明日の日祭るのち、
物満載のわが諸船、水におろさむ。そのときに
望まば、しかしてこの事に君ら意あらば、眺むべし、
暁早くわが諸船、鱗族富めるわだつ海、360
かのヘッレースポントスを渡るを、水夫櫂取るを。

『大地を震うポセイドン良き航海を恵みなば、
第三日に豊沃のプティーアーにぞ帰るべき。
我に多くの資財あり、不幸にここに出で来る
前に故郷に残し来ぬ。更にここより黄金を  365
また黄銅を、うるわしき帯の女性を、鋼鉄を、
我の得し物ことごとく運び去るべし。しかれども
アガメムノンはわれの手に分かちし恩賞いま奪う。

『これらを彼に公然とわが望むまま言え——されば
厚顔常に恥知らずおそらくさらにダナオイの  370
ほかの一人欺くを彼望むとき、アカイアの
他の将士らも怒るべし。犬に等しき顔持つも[1]、
アトレイデスはいまさらに我をまともに眺め得じ、
評議あるいは行動にわれまたかれと共ならず、
われをあざむき怒らせし彼またさらに甘言に  375
あざむくことを得べからず。事すでに足る、いまやいざ
破滅に向かえ、神明は彼より知慮を取り去りぬ。

[1]1-225。

『彼の贈物汚らわし、われに微塵の値なし、
彼の所有の十倍に、はた二十倍、さらにまた
よそより来る財宝に、オルコメノス[1]の領に入る  380
その貢物の数々に、アイギュプトスのテーベー[2]の 9-381
貢物くわえ贈るとも——巨万の富の満ちあふる
テーベー百の門ありてその各々を兵二百、
馬と車とともに過ぐ——これらをわれに贈るとも、
砂と塵との数多き贈与をわれになすとても、385
我を悩めし災いのすべてを払うことなくば、
アガメムノンはわが心たえて説得すべからず。

[1]ミニュアイ(ミニュアス人)の首都、2-511。
[2]エジプトのテーべ(テーブス)は当時全盛、第二十一王朝の都。

『アガメムノーン権勢のアトレーデース生める子を
我めとるまじ、美においてアプロディーテに競うとも、
技芸においてアテーネー・パラス女神の等しとも、  390
我めとるまじ、王をして他のアカイアの族にして
さらに権勢まさる者、適せる者をとらしめよ。
もし神明の加護ありて故郷に我の帰りなば、
われに必ずペレウスは一人の女性選ぶべし。
ヘッラスおよびプティアーの中に多くのアカイアの  395
女性ら、都市を防護する勇士の生める息女あり、
中の一人、われの意に適する者を婦となさむ。
かくて正しき合法の配偶を得て、これととも、
老ペーレウスわれの父得たる資財をうけつぎて、
享楽すべし。その強き情願われの胸に満つ。  9-400
アカイア軍の寄する前、さきに平和の日にありて、
トロイア族の得しというその珍宝の数々も、9-402
はた石がちのピュートー[1]の地の銀弓のアポローン・
ポイボス神の殿堂の中に収まる珍宝も、
わが見るところ生命にたえてまされる物ならず。405

[1]デルフィの古名、『イーリアス』全体中ただ一度ここに名ざさる『オデュッセイア』には二度8-79、11-580。

『肥えたる羊、牛の群これを獲ること難からず、
かなえはたまた銀色の駿馬も求め難からず、
ただ人間のこの呼吸、歯の防壁を出で去らば、
もとに返すを得べからず、捕うることを得べからず。
足銀色の玲瓏のわが母テティス示しいう、  9-410
二重の運命われをわが最期の道に導くと。
トロイア城の壁のした、ここに残りて戦わば、
帰郷の幸は失われ、不朽の名誉得らるべし。
これに反して、わがめずる祖先の郷に帰らんか、
高き栄光失われ、しかも寿命は長うして、  415
死の運命はすみやかにわれに到らん事あらじ。
われまた皆に、船に乗り郷に帰るを勧むべし、
高き堅城イーリオン、その滅亡の期をもはや
汝ら見るを得べからず。轟雷ふるうクロニオーン、
手を伸べこれを援護して、その民ふるい喜べり。  420

『さはれ汝らいま行きてわがアカイアの諸勇士に
その報告をもたらせよ、そは宿老のつとめなり。
彼らの船と船中のアカイア軍を救うべき、
ほかの優れる考案を、その胸中に講ずべく
彼らに告げよ、いまの案効なし、救いこれにより  425
実現するを得べからず、わが憤激は解けざれば。

『さはれ老将ポイニクス、明日(みょうにち)われの船の上
われに従いふるさとに、望まば帰り行かんため、
ここに残りて休み取れ、さはれ強ゆるを我はせず』

しか宣すればこれを聞くみな黙然と口を閉じ、  430
勢い猛に拒みたる彼の言句に驚けり。
馬術巧みのポイニクス老将そのときアカイアの 9-432
水軍いたく悲しみて熱涙そそぎ陳じいう、
『ああ勇壮のアキレウス、憤激汝の身を駆りて[1]、
帰郷の念を胸中に抱き、無残の兵燹を  435
払いて水軍守ること少しも汝望まずば、
ああわが愛児、いかにして汝と離れ我ここに
残るを得んや?その昔馬術巧みのペーレウス、
プティーアーより我とともアガメムノーンに遣わせし
その日汝は若かりき、すべてにつらき戦闘を  440
知らず、評議の席の上、身を抜きんずるすべ知らず、
そも如何にして言論に秀で戦法長ずべき、
これを汝に教うべく、老いたるわれを遣わしき。

[1]9-605までポイニクスの言つづく。

されば愛児よ、汝より離るる事ぞうらめしき、
離れは得せじ、離れなば神明われの老衰を  445
癒し、むかしの青春を返すとよしや約すとも。

ああ青春のその昔、われははじめて麗人の
郷ヘッラスを立ちのきぬ、父の怒りを避くるため、
(オルメノスより生まれたるアミュントールは我の父)。9-449
父は正妻わが母を嫌いて、とある麗人を  9-450
恋えり。悲しむわが母は反間の策先んじて、
その麗人と契るべく我に請願切なりき。
我その言に従いて、しか行えり。そを悟る
父は激しき呪詛の言、放ちてすごき復讐の 9-454
女神[1]に乞えり、「われの膝攀(よ)ずべき者の一人だも  455
かれより生まれ出でざれ」と——その請願を納受せる
深き地底のゼウス[2]またペルセポネイア[3]恐るべし。9-457

[1]エリーニュス(単数)エリニュエス(複数)はここに父の権利の擁護者として説かる。
[2]冥王ハーデース。
[3]冥王ハーデースの妻。

悲憤に耐えず鋭利なる刃(やいば)に父を殺さんと
念ぜるおりに、とある神われを抑えて、わが胸に、
アカイア族の中にして父を殺せる悪名の  460
世間の批判思わしめ、諸人の非難恐れしむ。
かくて怒れる父ととも、同じきやかたに一身を
留めんことは胸中についにまったく忍ばれず。

さはれ親戚僚友はともにひとしくかたわらに
ありて館中残るべく忠言せつに我を止む。  465
すなわちまんさん歩み行き角の曲れる肥えし牛、
脂肪に富める羊また豚をほふりて、炎々の
ヘーパイストス[1]の火の上にかざしてこれをあぶり焼き、
また老人の蓄わうるかめより酒を酌みほして、
かくして九回夜を重ね、我のめぐりにやすらえり。  470
人々かくてかえがえに監視続けて、一方は
防備きびしき中庭の回廊のした、他の方は
わが住む部屋の戸に近き玄関のまえ、煌々の
かがり火絶えず焼きつづく。されど十日目暗黒の
夜来るとき、わが部屋のかたく閉ざせる戸を破り、  475
また中庭の厚き壁、たやすく越して、警戒の
諸人ならびに奉仕せる女性のまみをかすめ去り、
逃れて遠く茫々のヘラスの郷をめぐり行く。

[1]火をつかさどる神。

足とどめしは羊群の満てる肥沃のプティーアー、
その領主たるペーレウス、身を慇懃にもてなして  480
愛でぬ、さながら老齢におよびはじめて儲けたる
唯一(ゆいつ)の子息、ゆたかなる家庭にはぐくむ親のごと。
かくして我に富あたえ、多く庶民を従わす、
かくプティアーの端を占め、ドロプス族[1]を我統べぬ。
しかして汝を心より、ああ神に似るアキレウス、  485
愛でつつ我は育みぬ[2]。汝そのとき他の者と
ともに食事の卓上に着かず、館裏に物食まず、
必ず我の膝の上、座するを汝常としつ、
わが細やかに切りしもの食みて葡萄の美酒すすり、
時に幼稚の身の習い、ふくめるものをわが胸の  490
うえに吐きだし笑止にもわれの衣をうるおしき。

[1]プティアーの西に住む民族。ここよりポイニクスはミュルミドネス五隊の一をひきい来る(16-196)。
[2]11-831によればケンタウロス彼を救う。

汝のためにかくばかり我は労苦のかず積めり。
神明われに生まるべき子を許さずと観じ知り、
アキッレウスよ、我の子と汝を見なし、いつしかは
わがためつらき災難を払わんことを望みてき。  495

ああアキレウス剛愎の心抑えよ、残忍の
思いを胸に満たしめな、徳も力も栄光も
まさる神明、それすらも時には譲ることあらむ。
罪を犯して悔ゆるとき、香を薫じて心より 
祈願をいたし、献酒礼そなえ、脂肪のいけにえを  9-500
捧げて人は神明の心を曲ぐることを得む。

知るべし「祈願」もろもろはクロニオーンの息女なり、9-502
その足なえぎ、その顔はしわび、そのまみ斜視にして、
常に「迷い」の後を追い、すすみ行くべくこころざす[1]。
「迷い」は強し、足速し、速きがゆえに一切を  505
しのぎ大地の面にそい、先んじ駆けて人類に
種々の危害を被らす、「祈願」は後にこれを治す。
クロニオーンの息女らの近寄る時に崇敬を
致さん者は恵まれてその念願は聞かるべし、
これを押しのけ頑強に拒まん者は許されじ。  510
「迷い」に彼の取りつかれ、苦難を受けてあがなうを
息女らすなわちクロニオーン・ゼウスに迫り求むべし。

[1]人の犯す迷妄(アテー)、これを治むるものは神々への祈願(リタイ)。足なえぎ云々は懺悔者の態度を表す。

アキッレウスよ、謹みてクロニオーンの息女らを
敬え、ほかの英豪も心ひとしく伏すところ。
アトレイデスは礼物を贈らず、のちを約さずば、  515
しかして今にその激怒続けて休むなかりせば、
その事いかに緊急に要ありとても、汝また
怒りを捨ててアカイアを救えと我は命ずまじ。
されども彼はいま多く贈与し、のちをまた約し、
しかしてアカイア族中に選び抜きたる、しかもまた  520
アカイア族中親しみのもっとも深き僚友を、
送りて哀訴致さしむ。先の怒りは可なれども、
彼らの言句また使命、汝あなどることなかれ。

われは過ぎにしいにしえの優れし者が、憤激を
起こしてしかも礼物を受けて、かくして忠言に  9-525
従いたりし行動の次第つぶさに聞き知れり。
それいにしえの事にして新たな例にあらぬもの、
思い出でたり、汝らのすべての前に陳ずべし。

クーレーテスと、豪勇のアイトーロイ[1]はその昔、
カリュドーンの都市のそば相戦いて打ち打たる。  530
アイトーロイはうるわしきカリュドーンの都市守り、
クーレーテスはその都市を攻め落さんと焦りたる。

事の起りを尋ぬれば、オイネウス王[2]もろもろの 9-533
神には犠牲捧げしも、黄金の座のアルテミス
女神に対し豊沃の土地の初穂を献ぜねば、  535
クロニオーンの女(じょ)は怒り、災禍をここに被らす。
懈怠あるいは忘却によりて国王あやまてり。
かくして弓に巧みなる女神いかりて、凶暴の
猪(しし)を下して鋭利なる真白き牙を鳴らさしめ、
王の領する豊沃の地をことごとく荒さしむ。  540
あまたの巨木根こそぎに、花も果実も猛獣は
みないっせいに累々と大地の上に倒れしむ。
オイネウス王生める息、メレアーグロスそのときに、9-543
猟人および猟犬を種々の都市より集め来て、
猪(しし)を倒しぬ。おおいなる野獣をさきに僅少の  545
隊制しえず、そこばくの人は殺され骸(から)焼かる。
されども女神、倒されし獣の頭、粗き毛の
皮を争う乱闘を、クーレーテスと豪勇の
アイトーロイの両族の間にさらに生ぜしむ。

[1]2-638参照。クーレーテスはクリオ山に住むアイトリアの原住民。
[2]2-641、6-216

メレアーグロス[1]戦闘を続けし限り、敵軍の  9-550
クーレーテスは不利にして、その軍勢は多けれど、
敗れて都市の城壁の外に留まることをえず。
メレアーグロス、しかれどもそぞろ憤激堪えやらず、
——思慮あるものも憤激によりて胸裏に念乱る——
生みの母なるアルタイア、母に対して憤り、  555
クレオパトラー、艶美なる妻のかたえに身を留む。

[1]メレアーグロスはアイトリア人の王オイネウスの子、母はクーレーテス人の王女。猪(しし)を殺せる後メレアーグロスは母アルタイアの兄弟と争い彼らを殺して母のために呪わる。イーダス(後出)はエウエーノスよりその娘マルペッサを奪う。しかしてアポロンまた彼女を得んとして彼と争う。ゼウス、娘をして選ばしむ。娘はイーダスを選ぶ。イーダスとマルペッサの間に生まれしはクレオパトラーすなわちメレアーグロスの妻。メレアーグロス、母の呪詛を怒り、愛妻のもとに閉じこもる。クレテス軍来りてアイトリアの城を攻めし時も出でて救わず。のち愛妻の諫言によりて初めて立ってこれを救う。

エウエーノスの生み出でしマルペーッサ†は妻の母、
父はイーダス、人界の中にもっとも強きもの、
足麗しき女子のため、神ポイボス・アポローン、
威霊かしこき神明に向かいてかつて弓張りぬ。  560
父と母とはその館にアルキュオネーのあだ名もて
愛女[1]を呼べり。遠矢射る神ポイボス・アポロンが
愛女を奪い去りしとき、悲痛激しき哀号の
アルキュオン[2]のごと、かの母はいたくも嘆き泣きたれば。

[1]すなわちクレオパトラー。
[2]カワセミ(英語halcyon)

その女(じょ)のそばに豪勇のメレアーグロス身を留め、  565
母に激しく憤る。母はおのれの兄弟を
うち倒されし恨みよりおのが愛児を呪詛しつつ、
その手をあげてあまた度(たび)、大地をうちて、ハーデース
冥王および恐るべきペルセポネイア呼びかけつ、
大地に膝をつきながら涙に襟(そで)をうるおして、  570
愛児の死滅乞い求む。そを闇に住むエリニュエス、
無情の心持てる神、エレボスよりし聞き入れぬ。9-572

いますみやかに城門のほとり巨塔は破られて、
騒音激しくわき起り、アイトーロイの諸長老、
神の至上の祭司らを送りて彼に莫大の  575
贈与を約し、現れて救助なすべく乞い求め、
地味豊饒のカリュドーン、中にも特にすぐれし部、
そこに意のまま選ぶべき五十ギオンを——その中の
半ばは葡萄みのる園、半ばは平野、耕作に
適するものを取るべしと、人々かれに約しいう。  580
さらにその父オイネウス老いし騎将も彼に乞い、
彼の宿れる高き屋の居室の敷居すすみ入り、
その堅牢に組まれたる戸をゆるがして哀訴しつ、
同じくともにその姉妹、さきに呪いし母もまた、
その哀憐を求むれど聞かず。同じくもろもろの  585
僚友、みなの中にして親交もっとも厚きもの、
誠あるもの願えども彼の心を曲げ難し。
されどもついにその居室激しく射られ、塔上を
クーレーテス族よじのぼり、兵火はなちて都城焼く。
そのとき美麗の帯まとう妻は嘆きてその夫、  590
メレアーグロスに訴えつ。都城一たび破る時、
来らむ惨禍——その民はほふられ尽し、城塞は
兵燹燃やし、その子らは、また女性らは捕われて、9-593
漂浪の道進むべき無残の姿ものがたる。
かかる惨状耳にしてメレアーグロス猛然と、  595
思いなおして立ち上がり、燦爛の武具身に着けて、
すすみ戦い、災いをアイトーロイより払い去る。
されど約せし数々の贈与はついに果されず、
果されざれど勇将は国の惨禍を払いのく。

されども友よ情念を彼と同じうするなかれ、9-600
神明願わくこの道に君を誘うことなかれ。
わが船舶の焼けん時、救うはすでに遅からむ、
来り礼物いま受けよ。アカイア族は神のごと、
君を崇めむ。礼物の無きにおよびて戦わば、
敵軍いかに破るともかかる栄光得べからず』  9-605

足神速のアキレウス答えてそのとき彼にいう、
『ああポイニクス、敬すべきおじよ。ゼウスのめずる君、
君いうごとき栄光は我に要なし。我思う、
ゼウスはすでに栄光を我にたまえり、船のそば
息ある限り、両膝の動く限りは身にあらむ。  610
いまわれ一事きみにいう、銘ぜよこれを胸のなか、
アトレイデスのため計り、われの心を嘆息と
悲泣(ひきゅう)によりて乱すことやめよ、かの人愛するは
君に似合わず、しかなさば我の憎悪の的たらむ、
悩ます彼を我ととも悩ますことぞ君によき。  615
我と等しく統治せよ、威光の半ば分け受けよ。
他の僚友はわが答え、帰りて述べん。君はここ、
陣に残りて柔らかき床に休らえ。あくる朝
君もろともに計るべし、帰るやあるいは残るやを』

しかく宣して眉あげて、パトロクロスに言葉なく  620
合図をなして老将を床につかしめ、すみやかに
陣営よりし帰るべく他の僚友に思わしむ。
テラモニデース・アイアースそのとき口を開きいう、

『ラーエルテースのすぐれし子、知謀に富めるオデュセウス、
いざ辞し去らむ。言説の目的かかる道により、  625
遂げらるべしと思われず。いま迅速に彼の言、
よし良からずも、待ちわぶるダナオイ族に伝うべし。
ああアキレウス、剛勇のペーレイデース、あくまでも
その胸中に憤懣の思い満たして、無残にも
その同僚の愛情を——船のほとりの一切の  630
他の誰よりも尊べるその友情を顧みず。
ああ無残なりアキレウス!見ずや世の人、兄弟を、
子をほろぼせる敵よりしつぐない納めゆるす時、
その一族のただ中に敵(かたき)は安んじ身を留む、
賠償得たる者はその激しき怒り抑えやむ。  635
神明君の胸のなか少女一人のゆえをもて、
曲げざるつらき心置く、しかしていまは七人の
麗人および諸々の贈与は君に捧げらる[1]、
君、その心和らげよ、また歓待の礼思え。
君の宿れる陣までも我らはここにダナオイの  640
中より来り、アカイアの一族中の誰よりも、
まこと尽して慇懃に君とむつみを乞い願う』

[1]卒直なる武人の句として簡単明瞭、一女子のつぐないに七女子を得て足らざるや?云々。

足神速のアキレウスそのとき答えて彼にいう、
『神より生れしアイアース、テラモーンの子、衆の将、
衷心(ちゅうしん)よりし君のいう言に一理のあるを見る。  645
しかはあれどもアルゴスの衆人中にわれを彼、
アトレイデース無礼にも、さながら一の放浪の
徒たるがごとく恥じしめし時を思えば、憤激は 9-648
わが胸そそる。いざ帰り我の答えを伝え言え。
プリアミデース・ヘクトール、勇をふるいてアルゴスの  9-650
子らを殺しつ、兵燹に船をほろぼし、すすみ来て
ミュルミドネスの陣犯す、その時いまだ到らずば、
われ鮮血を流すべき戦い思うことあらず。
さはれいかほど勇むとも、わが陣営と船のそば
彼ヘクトール、戦いを挑むもわれに止められん』  655

陳じ終ればおのおのは二柄の盃に献酒しつ、
オデュセウスは先にたち、海辺に沿いて帰り去る。
こなたいそぎて僚友と侍女とに命じ、慇懃に
パトロクロスは厚き床、老将のため設けしむ。
命に応じて人々は床を設けつ、羊毛の  660
布と被覆と華麗なる麻布(まふ)とをこれに備うれば、
老人しずかにその中に身を横えて明けを待つ。
アキッレウスは堅固なる陣営の奥、床に就く。
そのかたわらに添い伏すはポルバスの女(じょ)、紅頬(こうきょう)の
ディオメーデー†はそのむかしレスボスよりし連れし者。  665
パトロクロスのかたえには帯うるわしき一女性、
イーピス侍しぬ。エニュエウス†領する高地スキュロス†の
都城落とせるアキレウス捕えて彼に与えし子。

アガメムノーンの陣営にかなた使節の帰る時、
これを迎えて立ち上がる人々おのおの黄金の  670
盃あげてねぎらいつ、アキッレウスの答聞く。
まさきに口を開けるはアガメムノーン、民の王、
『来れ、褒むべきオデュセウス、ああアカイアの誉れたる
君、報じ言え、アキレウス、敵の猛火を払わんと
思うや、あるは憤激をやめず、わが命拒めるや?』  675

忍耐強きオデュセウス、そのとき答えて彼にいう、
『アトレイデース、栄光のアガメムノーン、民の王、
聞け、かの人は憤激をやめず、ますます胸の中
怒りたくわえ、君の威と君の贈答拒み捨て、
アカイア軍と軍船をそもいかにして救うべき、  680
これをアルゴス民衆の間に計れと君にいう。
しかしてさらに脅しいう、あくる曙光ともろともに
漕ぎ座いみじき兵船を海に浮かべて去るべしと。
しかもなおいう、他を勧め、故山に向かい波わけて
帰らしめんと。けだし彼思えり、高きイーリオン、  685
その陷落は望まれず、音声高きクロニオン、
これに応護の手を加え、その民ひとしく勇み立つ、
かくこそ彼は陳じたれ。我に従い行きしもの、
アイアースまた両人の使節[1]つつしみ深きもの、
同じくこれを報ずべし。老ポイニクス彼ひとり、  690
かしこに留まる、アキレウス、彼に勧めて明くる日に
郷に意あらば波わけむ、されど強ゆるをせずという』

[1]オディオスとエウリュバテース。

しか報ずれば全軍は黙然として鳴り静め、
アキッレウスの猛烈の言句を聞きて驚けり。
長きにわたり口つぐみ、心悩ますアカイアの 695
陣中、やがて大音のディオメーデース立ちていう、
『アトレイデース、栄光のアガメムノーン、民の王。
アキッレウスに哀願を致して、君がはかりなき
贈与を約し誓いしは、よからざりけり。さなきだに
おごれる彼に一層の驕慢、君は増さしめぬ。  9-700
さはれ帰るも留まるも彼に任せよ。いつの日か
その胸中の勇猛の心促し立たんとき、
神明彼を駆らむとき、彼は再び戦わむ。
いざいま我のいうところ、全軍聞きて受け入れよ。
酒と食とを口腹にみたして後に床につき、  705
英気養え。酒と食、そは勇気なり、力なり。
薔薇のあかき指もてる美なるあけぼの出づるとき、
陣地の前にすみやかに軍馬軍勢整えて、
これを励ませ、先鋒の中に将らも、ああ奮え』

しか陳ずれば諸将軍、みないっせいに歓呼しつ、710
悍馬を御する勇猛のディオメーデースの言を褒む。
かくておのおの献酒礼終わりて陣に引き帰り、
ふしどにその身横えて眠りの神の恵み受く。713


イーリアス : 第十巻



 深夜アガメムノーン憂いて立ち弟メネラーオスとともに陣中を巡り諸将軍を呼び覚ます。ネストール進言し、偵察をなすべく諸将に計る。ディオメーデースおよびオデュッセウス選に当りて進む。トロイアの偵察ドローンを捕う。その白状。これにより両将すすんでトロイア軍の援軍トラーケー軍を襲い、十二将を倒し、最後にその王レーソスを殺し、馬を奪いて凱旋す。本編は『ドローン物語』と称せらる。ある評家は後世の追加なりという。

他のアカイアの諸将軍、おのおの船のかたわらに[1]
甘き眠りに襲われて夢路に入りぬ、よもすがら。
されど胸中さまざまに思いわずらう民の王、
アガメムノンは温柔(おんじゅう)の熟睡ついに取るをえず。
鬢毛美なるヘーラーの夫、天王クロニオン、10-5
電火を飛ばす、大雷雨あるい雹霰(はくせん)あるは雪——
雪は粉々乱れ飛び原野を覆う、その時に、
もの恐しき戦闘の巨大のあぎと開きつつ[2]、
電火を飛ばす時のごと、アガメムノーン胸中に、
心肝深き底よりししばしばうめき、身をもだゆ[3]。  10-10
ひとみ放ちてトロイアの原上彼は眺めやり、
イリオン城を前にして燃ゆる数千のかがり火に、
また吹奏の笛の音、人の騒ぎに驚きつ、
つぎにアカイア軍勢とその兵船を見渡しつ、
その根元より頭上の毛髪あまた掻きむしり[4]、 10-15
高きにいます雷霆の神に祈りてうめき泣く。

[1]この本編の初まりは二巻の初めを模したるものとリーフはいう(集合論者リーフは『イーリアス』を構成する諸編の作成の時代を三段に区別す)。
[2]両軍の戦陣相対するを野獣の口にたとえしならむ、19-313、20-359にも見ゆ。
[3]電火のしばしば飛ぶごとくしばしばうめく。比喩はただこれのみ。
[4]18-27。

王はそのとき胸中のこの計画を良しと見る——
ネーレウスの子ネストール、人中もっともまさる者、
これを訪い行き、もろともにダナオイ族の一切の
苦難を払う方略を講ぜんことを良しと見る。  20
すなわちむくと身を起し胸のめぐりに武具を着け、
輝く双の足の下、美麗の軍靴をうがつのち、
大なる獅子のとび色[1]の毛皮——足まで垂るるもの——10-23
肩のまわりに投げかけて鋭利の槍を手に取りぬ。

[1]茶褐色。

甘眠同じくそのまぶたおとずれかねしメネラオス、  25
アガメムノンの弟は、彼のためとて大海の
波浪を渡り、トロイアに来り、激しき戦闘を
思うアルゴス軍勢の災禍おそれて胸痛む。
すなわちさきにまだらなる豹(ひょう)の毛皮に肩覆い、
つぎに燦爛光射る黄銅製の兜取り、  30
頭上にこれをいただきて、その剛強の手に槍を
握り、その兄(アルゴスの民のすべてに命下し
神のごとくに敬さるる)兄覚ますべく走り行く。
船尾のかたえ華麗なる武具を肩のへ投げ掛けし
兄——大王を見出だして、その到着を喜ばる。  35
雄叫び高きメネラオス、まず口開き陳じいう、
『君、何がゆえ黄銅の兜を付ける?トロイアの
軍探るべく同僚の一人覚まさんためなるや?
暗黒の夜にただ一人ふるいすすみて敵軍の
偵察あえてなすべしと君に約さん者ありや?  40
さる者無きを我恐る、あらば無双の勇ならむ』

アガメムノーン権勢の王者、すなわち答えいう、
『神の育つるメネラオス!アルゴス勢と水軍を
防ぎて救う方策の急務は、我と汝とに
いまこそ到れ、天王の神慮変ると我は見る。  45
神は心をヘクトルの供物の上に注ぐめり、
神の愛するヘクトール、さもあれ神の子にあらず、
女神の子にもあらぬもの、アカイア軍に加えたる
かかる災禍を一日に、何者かつて身一つに
起せるありや、我は見ず、人の語るを我聞かず。  10-50
大難われに加えたる彼の武功は末遠く
はるかに遠くアルゴスの民の憂いの種たらむ。
さはれ水軍さして行き、呼べ勇猛のアイアース、
イードメネウスをともに呼べ。我はすすみてネストール
勇将訪いて、彼をしてふるいて立ちて警護隊、  55
強き部隊を訪わしめて、これらに令をなさしめむ、
彼らはいたく勇将に服して命に従えり。
その子[1]警護の将として、イードメネウスの伴侶たる
メーリオネス(ギ)と相並ぶ、二人は任を我に受く』

[1]ネストールの子トラシュメーデース(9-81、10-255、14-10)。

そのとき大音メネラオス、答えて彼に陳じいう、  60
『君の言句は何事を我に託すや、命ずるや?
かなたに彼らもろともに留まり君を待つべきか?
あるいは令を下し終え、走りて君に帰らんか?』

アガメムノーン、民の王、そのとき答えて彼にいう、
『かなたに留まれ、往復の中におそらく共々に  65
相見失うことあらむ、軍旅の間に道多し、
行く道すがら声上げて兵よび覚ませ。おのおのに
その父の名と家系とを[1]、また誉れある称号を
呼びて励ませ。汝また心に誇ることなかれ、
我ら二人は辛労を尽さむ、神は艱難の  70
重きを我に負わしめぬ、わが誕生の初めより[2]』

[1]父の名を呼ぶはその名誉のため。
[2]9-23参照、神意に服従せざるをえずの意あり。

しかく宣して命令を下し、王弟去らしめつ、
自ら立ちてネストール将軍めがけすすみ行き、
陣営ならびに黒船のそば柔らかな床の上、
休める将を見出だしぬ。あたりにあるは種々の武具、  75
盾と二条の大槍と燦爛光る銅甲と、
種々に飾れる革帯はまたかたわらに横たわる。
そは流血の戦闘に軍勢ひきい進むべく
鎧わんときに帯ぶるもの。老齢かれを屈せしめず。
老将そのとき肘立てて身をふり起し頭上げ、  80
アトレイデース近寄るに向かいて声をはなちいう、

『汝、何者?皆人の眠れるときにただ一人、
暗夜のなかに船舶の間、軍営さまようは?
汝はラバを探せるや、あるはひとりの僚友か?
語れ、無言に近寄りそ、何らの要ぞ我に言え』  85

アガメムノーン、民の王、そのとき答えて彼にいう、
『ネーレウスの子ネストール、アカイア軍の栄光の
汝、認めむ明らかに、アガメムノーンわれ来る。
胸に呼吸のある限り、両膝動き利く限り、
たえず、ゼウスは他の人に優りて我を労せしむ。  90
いま甘眠はわれの目を訪わず。戦闘、アカイアの
災難われを憂いしめ、かくていま我さまよえり。
ダナオイ族を思うゆえ、われの憂怖ははなはだし、
心は安きことをえず、揺蕩(たゆたい)しつつ胸のなか
おどりてやまず、堅甲を帯ぶるわが四肢みなふるう。  95
君また眠りとるをえず、心に思うことあらば、
ここより去りて警護へとともに行かずや?おそらくは
激務に弱り睡眠に襲われ、まったくその任を
彼ら忘るるなしとせず、いざいま行きて検し見む、
敵は近くに陣を張る、誰か知るべき真夜中に  10-100
なおかつ彼ら戦闘を起さんことのあるべきを』

ゲレーニア騎将ネストールそのとき答えて彼にいう、
『誉れ至上のアトレイデー・アガメムノーン、民の王、
思うに高き神明は、敵の勇将ヘクトール
その胸中に望むもの、すべてを許すことなけむ。  105
思う、英武のアキレウス、その心より物すごき
憤怒を捨つることあらば敵将いたく悩むべし。
いま、われ君のあとを追い、さらに他将を覚ますべし。
槍の名将、勇猛のテューデイデース、オデュセウス、
また足速きアイアース[1]、またピュレウスの英武の子[2]。110
しかして我はまた望む、あるもの行きて、神に似る
アイアース、またすぐれたるイードメネウスを呼ぶことを、
彼らの船はほかよりも遠く離れて近からず。
さはれいま、我メネラオスとがめむ、よしや親しくて
敬すべけれど咎むべし(よし君これを怒るとも)、115
見よ、彼眠りむさぼりてただ君ひとり労せしむ。
彼すべからく列将をめぐりてせつに懇願の
労を取るべし、襲い来る危急はついに忍ばれず』

[1]オイレウスの子たる(小)アイアース(2-527)。
[2]メゲース(2-627)。

アガメムノーン、民の王、そのとき彼に答えいう、
『おじよ、他の時、かの者のとがめを君に勧むべし、  120
彼は無能の者ならず、また怠慢の徒にあらず、
我の所業に目を注ぎ、我を仰ぎて我の命
待つため、時には緩慢にふるまい労苦あえてせず。
されどもいまは我よりも先んじ覚めてわれ訪えり。
君の求めし諸将軍呼ぶべく彼を我やりぬ。  125
いざいま行かむ、哨兵(しょうへい)の中諸門の前にして
彼らに会わむ、かのにわに我集合を命じたり』

ゲレーニア騎将ネストールそのとき答えて彼にいう、
『さあらば彼が令くだし励ます時に、アルゴスの
軍勢中の何びとも怒るまじ、また背くまじ』  130
しかく陳じてその胸のめぐり胴衣をまとい着け、
華美の戦靴を輝けるその双脚にうがちつつ、
広き二重の紫の衣——その上をやわらかき
わた毛の厚く覆うもの——はおりてしかと締めとめぬ。
老将かくて黄銅の穂先つけたる槍を手に  135
取り、黄銅の胸甲のアカイア軍の船に行く。
ゲレーニア騎将ネストールまさきに覚ますオデュセウス、
聡明さながら神に似るそのオデュセウス、眠りより
覚まして叫ぶ音声はただちに彼の胸に入る。
すなわち陣営の外に出で二人に向かい陳じいう、  140
『何ゆえ君らただ二人、アムブロシアの夜のもなか、
軍陣すぎて船舶のほとりさまよう?危機何か?』

ゲレーニア騎将ネストールすなわち答えて彼にいう、
『ラーエルテースの生める君、知謀に富めるオデュセウス、
怒りをやめよ、おおいなる憂いアカイア軍にあり。145
我に付き来よ、他の者を覚まし、評議をこらすべし、
逃走あるいは戦闘のいずれか、いまの急務なる』

策謀富めるオデュセウスその陣営の中に入り、
種々に飾れる大盾を肩に投げかけともに行き、
テューデイデース、剛勇のディオメーデース休らえる  10-150
もとに来りて、陣営の外に見出でぬ。その部下は
あたりに眠り、その盾は頭の下に、その槍は
地に柄を植えてすぐに立ち、鋭刃遠く輝きて、
クロニオーンの電光に似たり。首領の将軍は、
野牛の皮を敷き広げ、そのうえ眠り、燦爛の  155
華麗の布は熟睡の彼の頭の下にあり。
ゲレーニア騎将ネストールそばに近寄り呼びさまし、
その足あげて彼に触れ、彼を起して叱りいう、

『テューデイデース、とく起きよ。などよもすがら眠り去る?
知らずや、原上高き場にトロイア軍勢陣を張り、  10-160
わが水陣に近くして、間(あい)寸尺の地あるのみ』

しか叫ばれて将軍はすぐに床より立ち上がり、
羽ある言句陳じつつ、彼に向かいて答えいう、
『おじよ、何たる健剛ぞ、うまず労務に常に就く、
アカイア族の中にして君より齢(よわ)い若きもの、  165
軍営あまねく経めぐりて、諸将おのおの呼びさます
任務につかんものなきや?ああおじ、君ぞ無双なる』

ゲレーニア騎将ネストールすなわち答えて彼にいう、
『しかなり、友よ、君の言みなことごとく理にかなう。
すぐれし子らは我にあり、多数の部下もわれにあり、  170
中のいずれか経めぐりて諸将を覚ますことを得む、
さはれ危急の運命はアカイア軍にいま迫る。
ものすさまじき敗滅か、あるいは生か、アカイアは
まさに鋭利のかみそりの薄刃(うすば)の上に立つごとし。
いざいま行きて足速きアイアース、またピュレウスの  175
子[1]を呼び覚ませ、君わかし、わが老齢を憐れまむ』

[1]メゲース。

聞きて勇将おおいなる獅子王の皮、その足に
垂るるを取りて肩にかけ、また長槍を手に取りぬ、
かくして彼は出で行きて部下を起してつれ来る。
将士らかくて哨兵のつどえる群に到るとき、  180
見る、集団の諸隊長甘眠あえてむさぼらず、
すべて目ざめて凛然(りんぜん)と武具たずさえて並びあり。
たとえば山中の森過ぎて来たる猛獣ほゆる時、
おりのかたえに羊らを守る犬たち安からず、
猛獣めぐり、いっせいに番者番犬ごうごうと、  185
乱れ騒ぎて睡眠は全く彼らに失わる。
かく陰惨のよもすがら警護の任に当るもの、
そのまぶたより甘眠は逃げて、その目は平原に
常に向かいて、トロイアの進撃いかに、うかがえり。
老将軍はかくと見て心喜び口開き、  190
すなわちこれを励まして羽ある言句宣しいう、

『さなり、愛児ら、しか守れ。睡魔誰をも襲わざれ、
さらば災難のがれ得て敵の歓喜はあらざらむ』

しかく宣して塹壕を越せば、評議に呼ばれたる
アカイア族の諸将軍ひとしく彼の後を追う。  195
同じくともに進めるはメーリオネース、さらにまた
ネーストールのすぐれし子、評議のゆえに呼ばれたり。

[1]トラシュメーデース(9-81、10-255、14-10)。

かくして彼ら塹壕を過ぎて、大地の一隅に
座せり。そこには戦没のむごき死体の影とめず。
そこより猛きヘクトルは、夜の暗黒来たるゆえ、  10-200
アルゴス族を敗るのちその陣営にしりぞけり。

そこに人々座を占めて互いに語り談じ合う、
ゲレーニア騎将ネストールまず口開き宣しいう、

『わが同僚よ、汝らの中に一人勇猛の
意気に駆られてトロイアの陣中犯すもの無きや?  205
おそらく彼は敵軍の中にさまようとある者
捕えるを得む、おそらくはトロイア陣中何事を
計るや、それの消息を漏れ聞くを得む、都城から
離れ我らの船のそば残らんずるや、あるはまた
アカイア軍を破る後、城塁さして帰らんや。  210
これらを彼の探り得て安らかに帰り来なんとき、
普天のしたの大いなる栄光彼のものたらむ、
すぐれし恩賞また彼に授けらるべし、水軍に
命令下す諸将軍、その各々は小羊に
乳を与うる黒色の羊を彼に与うべし[1]、215
これに比すべし宝なし、しかして彼はとこしえに
宴席、食事一切にひとしく我と共ならむ』

[1]かかる恩賞は勇将たるものに相応せず。おそらく他所にあるべきを誤ってここに入れしか(リーフ)。

しか宣すれば人々は黙然として静まれる。
その中にして大音のディオメーデース陳じいう、
『ああわが老将ネストール、われの心とわれの意気、  220
われを促し手近なる敵のトロイア陣中に
行かしむ。されど一人のわれに伴う者あらば、
わが熱情はさらに増し、さらに武勇の技あらむ。
二人もろとも行くとせば、なかの一人ほかよりも
先んじ功をなし遂ぐる道を弁ぜん。さもなくて  225
ただ一人の行かんとき思慮遅くして策浅し』

しか陳ずれば諸勇士はディオメーデースに次がんとす。
アレース神に従えるアイアス二人、またついで
メーリオネース(ギ)、またついでネーストールの勇武の子[1]、
槍の名将メネラオス・アトレイデース、みな望む、  10-230
また忍耐のオデュセウス、常に胸裏に熱情を
宿す将軍、トロイアの軍中さして行かんとす。
アガメムノーン、民の王、そのとき皆の前にいう、
『ああテュデウスの勇武の子ディオメーデース、わが心
愛するところ、ここにある諸将の中に供として、235
望むがままに選びとれ、多くの勇士そを望む。
心の中にはばかりて至剛の者をはぶかんは
要なし、素生の尊きに、また権勢の大なるに
その目惹かれてはばかりて、劣れる者を取るなかれ』

[1]トラシュメーデース。

しかいう彼は金髪のメネラーオスのため憂う。  240
それに対して大音のディオメーデースさらにいう、
『自ら供を選ぶべく汝ら我に命ぜんか?
さらば取るべしオデュセウス、聡明、神に似たる者、
千辛万苦迫るとき彼の心と勇気とは、
優にぬきんづ、アテーネー女神は彼をいつくしむ。  245
彼もし我とともならば、猛火をさえも逃れえて、
二人は帰り来るをえむ、かれ策謀にすぐれたり』

忍耐強きオデュセウス、神に似る者答えいう、
『テューデイデーよ、あまりにも我を賛することなかれ、
とがむるなかれ、いうところ、アルゴス族はすでに知る。  10-250
さはれ夜はいまふけ行きてあけぼの来たる遠からず。
天の衆星すすみ行き、夜の長さの三の二は
すでに過ぎたり。三の一、今ただわずか残るのみ』

しかく二人は語り合い、すごき武装に身を包む。
そのときトラシュメーデース、勇武の将は、取り出でし  10-255
両刃の剣を盾とともディオメーデースに貸し与う。
(彼はその剣船中に残し来たれり)さらにまた
カタイティクス[1]とよばれたる兜、角なく冠毛の
なきをかぶらす、牛皮より成りて若人守るもの。
メーリオネスは弓と剣またやなぐいを聡明の  260
オデュセウスに備えしめ、革の兜を頭上に
頂かしめぬ、その裏に強き革ひも多く敷き、
表に銀を見るごとき真白き猪(しし)の牙多く、
あなたこなたに熟練の妙技をもって緊密に
植付けられつ、内側に裏うちされし厚き布。265
アウトリュコス[2]はそのむかし、オルメノスの子アミュントル[3]
住める堅固の館やぶり、エレオーン城よりこの兜
スカンデイア[4]に奪い来て、これをその後キュテーラの
アンピダマスに譲り去り、アンピダマスは歓待の
礼にモロスに、モロスまたおのが子メーリオネースに、  270
かくしてついにオデュセウスこれを頭上に頂きぬ。

[1]ギリシア文学全部の中にこの語ここにただ一つあるのみ(リーフ)。
[2]オデュセウスの母はアンティクレーア、そのの父はアウトリュコス。
[3]ポイニクスの父、9-449。
[4]キュテーラ島の港町。
二将かくして堅牢の武装を具して立ち上がり、
あとにアカイア諸将軍残して足をすすめ行く。
その道近く右側に一羽の鷺を、アテーネー 
女神パラスぞ遣わせる。夜の暗黒その影を  275
目には見せねど鳴く声を二将は耳に聞きとりて、
喜び勇むオデュセウス、女神に向かい祈りいう、

『アイギス持てる天王の息女、わが言聞こしめせ、
あらゆる辛苦の中にして我にくみして、いずこにも
われを顧みたまう君、いまこそ特に愛でたまえ、280
トロイア軍のわずらいとなる赫々の戦果あげ、
櫂を備うる船舶に無事にて帰参しめたまえ』

ディオメーデース、大音の将軍同じく祈り上ぐ、
『アトリュートーネー、ゼウスの子、我の祈りも聞きたまえ、
父テューデウスその昔、アカイア族の使者となり、  285
テーバイ城に赴ける時[1]のごとくにともにあれ。
そのとき黄銅の甲着けしアカイア軍をアソポスに
残して父は親しみの言を伝えぬテーバイに、
されど帰郷の道の上[2]、目は藍光のアテーネー、
君の救援あおぎ得て、勇武無双のわざ遂げき。  290
今そのごとく傍らに立ちて我が身を守りたまえ。
捧げまつらむ、牲として初歳の子牛、その額
広く豊かに、その首にくびきをいまだ付けぬもの、
捧げまつらむ、その角に光る黄金(こがね)の箔つけて』
しか念ずるをアテーネー神女パラスは納受しぬ。  295

[1]4-378、5-802。
[2]4-391。

かく二将軍おおいなる女神に祈り願うのち、
さながら二頭の獅子のごと暗黒の夜の空の下、
殺傷死体ただ中に、流血武具のあいだ行く。

こなた英武のヘクトルもまたトロイア勇将の
眠り許さず、トロイアの首領将軍もろもろの  10-300
すぐれし者のある限り、みなことごとく呼び集め、
集めし席に巧みなる謀略述べて陳じいう、
『誰(た)そ、今われのいうところ、わがため約し成しとげて、
多大の恩賞得るものぞ?豊かの報いあるべきを。
敵の兵船、先のごと、いまも敵軍守れりや?  305
わが軍勢に破られて疲労によりて力尽き、
ただ逃亡を心して護衛をなさん念なきや?
そをアカイアの軽船の水陣中に近付きて、
うかがい探り栄光をかち得なん者、その者に
われ与うべし一輌の戦車ならびに一対の  310
駿馬、その首高きもの、すなわちアカイア水陣の
かたえもっともまさるもの、われは勇士に与うべし』

しか陳ずるを耳にして、黙然として静まれる
トロイア軍の中にして一人ドローンと呼べる者、
父はすぐれし伝令使エウメーデース、黄金に  315
富み黄銅に富める者、かたち悪しきも足速し、
姉妹五人の中にしてただ一人の男子たる 
彼いまトロイア軍勢とヘクトールとに向かいいう、

『ああヘクトール、わが心わが猛き意気促して、
敵の軽船、陣近くその動静を探らしむ。  320
されどそのまえ笏上げて、願わく我のため誓え、
駿馬ならびに黄銅の飾を付けるかの戦車、
ペーレイデースを乗するもの、必ず我にたぶべしと。
我また君に無効なる偵察なさず、いたずらに
君の望みを裏切らず、敵陣中を経めぐりて  325
アガメムノーンの船につき探らん、そこに諸将軍
逃亡あるいは戦闘の評議をこらしつつあらむ』

その言聞きてヘクトール手に笏とりて誓いいう、
『ヘーラーの夫、へきれきを飛ばす天王、あかしたれ、
他のトロイアの何びともかの駿馬には乗るをえず、  330
我あえていう、汝のみ栄光常に持つべしと』

しかく宣して励まして、むなしかるべき誓いする。
聞きてドローンはすみやかに曲弓(きょくきゅう)肩のうえに負い、
灰白色の狼(おおかみ)の皮をこうむり、頭上には
いたちの皮の頭巾つけ、鋭利の投げやり手に取りて、  335
隊を離れて敵軍を目ざしすすみぬ、しかれども
これに近付き探り得て、その報告をヘクトルに
もたらし帰る命ならず。馬と人との群集を
あとに残して奮然と途上に走り進むかれ、
オデュセウスは見出だして、ディオメーデースに向かいいう、  340

『ディオメーデーよ、かの者は敵の陣より出で来る、
わが水軍の偵察のためか、あるいは戦場に
倒れし死体剥ぐためか、いずれか我はわきまえず。
ともあれ原上まず彼を少しく前に進ましめ、
その後われら飛び出だし、ただちに彼を捕うべし。  345
もし彼の足速くして我ら二人をしのぎ得ば、
敵の軍から遠ざけてわが水軍に追いつめよ、
槍をふるいて彼を追え、敵城さして逃げしめな』

しかく談じて二勇将、道のかたわら散らばれる
死体の間に身を隠す、敵は知らずに馳せて行く。  10-350
されどもラバのすく畝(うね)の長さの程に、敵の距離
なりしそのとき(重き鋤、深き土壌に駆り進む
業においては、牛よりもラバはまされり)そのときに、
二人は追いて駆け出す、足音聞きて止まる敵、
心に思う、「トロイアの陣よりわれを呼び返す  355
友は来れり。ヘクトール新たに令を下せり」と。
されど投げ槍とどく距離、あるはそれよりなお近く
迫りし時に敵と知り、駆け足速く逃げ出せば、
二将ひとしく迅速におどりすすみてこれを追う。
たとえば鋭利の牙もてる狩に慣れたる犬二頭、  360
林の中に吠え叫び、逃げゆく牝鹿、逃げ走る
うさぎを追いて猛然と隙をあらせず飛びかかる、
まさしくかくもオデュセウス、テューデイデースもろともに、
敵の陣よりさえぎりて勢い猛に彼を追う。
水陣さして逃げ走り、哨兵団のただ中に  365
まさにドローンの入らん時、黄銅よろうアカイアの
一人も彼に先んじて、敵を討てりと誇ること
無からんために、アテーネー、テューデイデースに力貸す。
テューデイデース槍を手にはしりて敵に叫びいう、
『止まれ。さらずば槍飛ばむ。わが手の下す物すごき  370
破滅を汝長らくはのがるること得べからず』

しかく宣して槍飛ばし、わざと狙いを外し打つ、
鋭利の穂先、右の肩越して大地に突きささる。
かくと眺めて足止むる敵は肢体を震わして
言句どもりぬ——口中に歯と歯ときしる音きこゆ。  375
恐怖のゆえに青ざめる彼に二将はあえぎつつ、
来り近付き手を捕う。ドローンは涙ながしいう、
『我を生け捕れ、自(おの)ずから我つぐなわむ。わが家の
中にあまたの黄銅とまた黄金と磨かれし
鋼鉄とあり。わが生きてアカイア軍の船中に  380
ありとし聞かば、わが父は賠償巨多に払うべし』

知謀に富めるオデュセウス答えて彼に宣しいう、
『意を安んぜよ、胸中に死滅を思うことなかれ、
いざいま我にうち明けよ、委細正しく我に言え、
他の人々の眠る時、この暗黒の夜を犯し、385
隊を離れて身一つにわが陣向かい、いずこ行く?
戦闘の場に倒れたる死体を剥がんためなりや?
あるいは汝をヘクトール、視察のためにわが陣に
遣わしたるや?あるはまた汝、勇に駆られしや?』

そのとき肢体おののけるドローン答えて彼にいう、  390
『苦難に向けてヘクトール我の心を惑わしぬ、
アキッレウスの単蹄の駿馬、ならびに黄銅を
飾りし戦車与うべく、我に約してヘクトール、
我に命じて暗黒の夜を犯して敵陣に
近く迫りて探らしむ、アカイア軍の軽船は  395
先と等しくいまもなお堅く敵軍守れりや、
あるいはわれの軍勢にすでに激しく破られて、
ただ逃亡を念ずるや、疲労にすでに力尽き
夜の警護を怠るや、われに命じて探らしむ』

知謀に富めるオデュセウス、笑みを含みて彼にいう、  10-400
『げにも汝は莫大の恩賞念じたりしよな!
アキッレウスの駿馬とは!不死の女神の生みいでし 10-402
アキッレウスをほかにして、死の運命の人界の
何者あえてこれを御し、これを制することを得む!
さはれ委細をうち明けてまさしく我に知らしめよ、  405
使命をうけて来る時、諸軍の首領ヘクトルと
汝いずこに別れしや?いずこぞ彼の武器と馬?
他のトロイアの哨兵と陣営のさま、はたいかに?
さらに彼らの談じ合う思念やいかに?都城から
離れ我らの船のそば、そこに残るを欲するや?  410
あるは我らに勝てるのち、引きて都城に帰らんや?』

エウメーデース生める息ドローン答えて彼にいう、
『これらの事を詳細にまさしく君に語るべし。
評議の員に含まれる諸将とともにヘクトール、
聖イーロスの墓[1]のそば、そとの騒ぎに遠ざかり、  10-415
評議を凝らす——はた君の問える哨兵われ説かむ、
特に軍隊守るもの、警護の任に当るもの
あらず。トロイア兵たちの篝(かがり)を焚けるおのおのは、
要に応じて睡眠を省き、互いに戒めて
互いに守る、諸々の国より来る援軍は  420
眠る、警護をトロイアの隊に託してみな眠る、
彼らの子らも妻女らもかたえに近くあらざれば』

[1]イーロスはトロースの子、ラーオメドーンの父、イーリオンを創設せる者、イーロスの墓は11-166、371にも説かる。

知謀に富めるオデュセウス、再び敵に問いていう、
『その援軍の眠れるは馬術巧みのトロイアの
軍隊中にまじりてか、あるいは別か、われに言え』  425

エウメーデースの生める息、ドローン答えて彼にいう、
『これらの事を詳細にまさしく君に語るべし。
海に向かいて陣するはカリアーの族およびパイオニア[1]、
その郷の軍、またさらにカウコーネスとレレゲス[2]と 10-429
ペラスゴイ族[3]、さらにまたテュムブレ[4]側にはリュキア族  10-430
またミュシア族、さらにまたプリュギア族[5]とマイオニア族[6]。

[1]2-867、2-850。
[2]ここに初めて記さるる名。
[3]2-841。
[4]Thymbre、平原の名。
[5]2-862。
[6]2-865。

『さはれこれらの詳細を君何ゆえに我に問う?
君、それトロイア軍中にすすみ入らんと欲するか?
新たに来り陣頭にトラーケーの族宿る、434
エーイオネウス生める息、王レーソスはこを率ゆ、  435
王の駿馬を我見たり、華麗を極め、丈高し、
色は雪よりなお[1]白し、飛ぶこと風にさも似たり。
彼の戦車は黄金とまた白銀と相飾る、
さらに彼また身に付ける目を驚かす荘麗の
黄金製の鎧見よ、不死の神々ならずして  440
人界の子の何者かこれを帯ぶるに適せんや?
さもあれ速く漕ぎ走る船に我が身を運び行け、
あるいはここに厳重の鎖によりてわれ縛れ、
かくして君らすすみ行き、はたして我のいうところ、
正しかりしや、しからずや、自ら試すことを得む』  445

[1]白馬は往時もっとも尊ばれたり。

ディオメーデスは憤然とにらみて彼に宣しいう、
『ドローンよ、汝、良き事をわれに忠言したりとも、
一たび我の手に落ちぬ、のがるるべしと思わざれ。
いまもし汝を解き許し、汝を放ちやるとせば、
他日再びアカイアの軽船さして寄せ来り、  10-450
あるいは我を偵察し、あるいはわれと戦わむ。
いまもし我の手に掛り汝命を失わば、
この後またとアカイアの災禍の種とならざらむ』

しかいう彼のあごに手をのして悲しみ訴うる
ドローンに猛に飛びかかり、鋭利の剣(つるぎ)ふりあげて、  455
首のもなかに切り付けつ、二条の筋を断ち去れば、
物いう彼の首落ちて塵埃(じんあい)中に横たわる。
そのとき二将、ドローンの頭上の革の冠(かむり)剥ぎ、
また狼の皮衣、弓と槍とを奪い取る、
かくて戦利を司どるパラス女神にオデュセウス、  460
これらの物を捧げつつ祈願をこめて陳じいう、

『喜びたまえ、ああ女神、これらの物を——オリンポス
諸神の中にまっさきに君に我呼ぶ。いざやいま
トラーケーの陣営と駿馬にわれを向けたまえ』

しかく宣して手を伸して戦利を高くかたわらの  465
柳に掛けて目じるしに、繁れる枝と葦の葉を
集めてこれが上にのせ、夜の暗黒おかしつつ、
帰り来ん時、誤りて見失うことなからしむ。
二将かくして歩をすすめ、流血およびもろもろの
武具踏みわけてすみやかにトラーケーの陣に着く。  470
その軍勢は勤労に疲れ弱りてみな眠り、
武器はかたえに整然と三列なして地の上に
ならべられあり、おのおのにまた一対の軍馬沿う。
王レーソスは戦陣の真中に眠る、その駿馬
手綱によりて並びつつ戦車の端に繋がれぬ。  475
そをまず見たるオデュセウス、ディオメーデースに示しいう、
『ディオメーデーよ、ほふりたるドローンのわれに話せしは、
まさしくこれこの将帥とまさしくこれこの駿馬なり。
いざいま汝旺盛の勇気呼び出せ、武器持ちて 
ためらうなかれ、この駿馬いますみやかに解き放せ、  480
あるいは汝敵を打て、われは駿馬を引き去らむ』

しかく彼いう——そのときに藍光の目のアテーネー、10-482
ディオメーデースに力添う。勇士すなわち切りまわり、
切られし者の叫喚はすごし、大地は血に赤し。
山羊か羊か可憐なる家畜の群れの主なきを、  485
そを襲い来て獅子王の勢い猛くとびかかる
さまもかくこそ、敵団をテューデイデース襲いうち、
倒せる勇士十二人、——知謀に富めるオデュセウス、
その同僚の剣により打たれし死体足とりて
引きずり去りて押しのくる、かくせば彼の捕えくる 490
たてがみ振るう敵の馬安らに過ぎむ、数々の 
死体を踏みて驚きて、おののきふるうことなけむ、
馬は死体にまだ慣れず[1]、知謀豊かのオデュセウス。

[1]434にいうごとくトラーケーは新来の軍、いまだ戦わず。

さらに敵王レーソスをテューデイデース襲いうつ、
蜜のごとくに甘美なる命失い息絶ゆる  495
第十三の牲は王、その夢枕「凶死」立つ、
この夜パラスの策によりオイネイデースの子息[1]立つ。

[1]オイネイデース=テューデウス=ディオメーデースの父。

こなた倦まざるオデュセウス単蹄の馬たち解き放し、
手綱によりて結びつけ、戦車の上におかれたる
美麗の鞭を手の中に取るを忘れつ、弓あげて  10-500
馬をうちつつ陣営の外に駆り出し進ましめ、
口笛吹きて剛勇のディオメーデスに合図なす。
されども彼はなお残り、なお一層の勇を鼓し、
華麗の武具の横たわる兵車奪いてながえとり
引き帰らんか、高く背に担いて運び帰らんか、505
トラーケーの軍勢のさらに多くをほふらんか、
これらを胸にさまざまに思える時に、アテーネー 
来りて近く側にたちディオメーデースに向かいいう、

『強きテュデウス生める子よ、水陣さして帰るべく
思えいまこそ、——さもなくば敗れて逃ぐることあらむ、510
おそらくトロイア軍勢をほかのある神めざまさむ』

女神の言に従いて彼はただちに馬に乗り、
馬を弓あげ鞭うてるオデュセウスともろともに、
飛ぶがごとくにアカイアの軽船さして馳せ帰る。
さはれ銀弓のアポローン彼の監視を怠らず、10-515
テューデイデースにアテーネー付きまとえるを眺め見て、
心にこれを憤り、行きてトロイア軍勢の
中にすすみてヒッポコオーン†——トラーケーの将おこす、
レーソス王の勇ましき一族すなわち眠りより
さめて、駿馬の立ちたりし場(にわ)のむなしく荒るるを見、  520
また恐るべき殺戮の中に最後のあえぎなす
人を眺めて驚きて、いそぎて友を呼びおこす。
騒動いたくそのときに、むらがり来るトロイアの
中に起りて、敵将の二人し遂げし驚愕の
業に彼らは目を張りぬ、二人は船へ立ち去りぬ。  525

さきにヘクトル遣わしし諜者ほふりしその場(にわ)に
二人かくして来る時、ゼウスのめずるオデュセウス
駿馬止むれば、剛勇のテューデイデースおりたちて、
血にまみれたる戦利品オデュセウスの手に渡し、
再び乗りて馬に鞭、あてて勇みて走らしむ、  530
[やがて陣地に帰り来て、心くつろぐ二将軍。]
音をまさきにネストール耳に聞きとり叫びいう、

『あわれ同僚、アルゴスの将帥および号令者、
わがいうところ誤りか、まことか?心われに告ぐ。
奔馬の速き足の音[1]、われの耳底を襲いうつ。  535
願わくはかれオデュセウス、ディオメーデースもろともに、
単蹄の馬、敵地より奪いてここに乗りくるを。
さもあれ、せつにわれ恐る、トロイア人の手によりて、
わがアルゴスの二勇将あるいは苦難受けたるか』

[1]暴君ネロがローマを落ち、追い来る騎兵の馬蹄の音を聞き、この句を吟じて最期を遂げた。

その言未だやまぬ中、二将はすでにすすみ入り、  540
馬よりくだり土に立つ、みな喜びて手をのべて、
これを迎えて蜜のごと、甘美の言にねぎらえり、
ゲレーニア騎将ネストールそのとき先に問いていう、

『ああ、たたうべきオデュセウス、わがアカイアのおおいなる
誉れ。いま言え、いかにしてこれらの駿馬とらえたる?  545
トロイア軍を侵してか?あるいは神の賜物か?
驚くべくも太陽の光に似たるこの駿馬。
我はトロイア軍勢と常に戦い、老ゆれども
船のほとりにむなしくも残り留まることあらず、
されどもいまに到るまでかかる良馬をたえて見ず。  10-550
思うに汝にいで会いし、ある神明の恵みしか?
雷雲寄するクロニオーンまたその息女、藍光の
目の輝けるアテーネー、汝二人をいつくしむ』

知謀に富めるオデュセウスそのとき答えて彼にいう、
『ああネーレウスの子ネストール、アカイア軍の誉れなる  555
君は知るべし、とある神、好まばこれら駿足に
まさるものすら給うべし、神の力はおおいなり。
されども君のいうところ、新たに到る駿足は、
トラーケー族もちしもの、その頭領を剛勇の
ディオメーデースうちとりぬ、部下の十二をもろともに、  560
われらはさらに船近く第十三をうちとりぬ、
そは諜者なり、わが軍を探らんためにヘクトール、
またトロイアの諸将軍ここに派遣し来る者』

しかく宣して揚々と、塹壕こして単蹄の
馬を駆り入る、アカイアの友喜びてあとを追う。  565
テューデイデース堅牢の陣にかくして入りしとき、
よく編まれたる手綱もて兵は厩舎にこを繋ぐ。
そこにさながら蜜に似る甘美の小麦噛みながら、
ディオメーデースの足速き軍馬は立ちて相並ぶ。
またドローンより剥ぎとりし武具を船尾にオデュセウス  570
掛けて、犠牲をアテーネー女神にあぐる備えとす。
かくて二将は海に入り、波浪を浴びて淋漓たる
汗を腿より頭より腰より洗い落し去る。
かくして波は両将の肌より淋漓わきいでし
汗をまったく洗い去り、気を爽やかになせるとき、  575
二人はさらに浴室に入りて潮水洗い捨て、
香油を肌にまみらして、かくて酒宴の席に就き[1]、
蜜のごとくに甘美なる酒のあふるる宝瓶を
傾け来り、アテーネー女神に捧げ奉る。

[1]9-90、9-221によればオデュッセウスはこの夜三度酒宴の席につく。


イーリアス : 第十一巻



 ゼウス謀りて暁に「争い」の女神をアカイア軍に遣わし勇気を鼓す。アガメムノンの進撃。トロイア軍また進む。昼に到りてアカイア軍優勢となる。アガメムノンふるって敵の諸将を殺す。ゼウス、使者イリスをヘクトールに遣わし、アガメムノンの勇戦の間は進むなかれ、その負傷してしりぞく時に追撃せよと命ず。はたして神命のごとし。アガメムノンしりぞく。同じく勇将ディオメデスしりぞく。オデュッセウス、敵に包囲さる。アイアスこれを救う。アカイアの軍医マカオンらまた負傷す。老将ネストール彼を助けて帰陣す。アキレウス、その友パトロクロスをネストールに遣わしてマカオンらの安否を問わしむ。ネストール、よくパトロクロスに説き、アキレウスの救いを暗示す。パトロクロス、帰途にエウリュピュロスを助け、アカイア軍の窮状を聞く。


不滅の神と人間に天の光明分かつべく、
ティートーノス[1]のかたわらの床より起てりエーオース[2]、
そのときゼウス、戦争の兆しを手中たずさうる
女神エリス[3]をアカイアの水陣さして進ましむ。
テラモニデース・アイアースおよび勇武のアキレウス、  11-5
腕の力と勇気とに信頼あつく、その船を
陣の左右の両端にともにひき上げ据えたりき、
二将の陣の中央にくらい占むるはオデュセウス、
そのおおいなる黒船の上に女神は立ち止まる。
かくて左右に響くべく女神は高き音声に  11-10
叫び、アカイア軍勢のそのおのおのの胸の中、
勇気を鼓して休みなく奮闘苦戦つとめしめ、
みなこつ然と勇み立ち感じぬ、いくさ甘くして[4]
船に乗じて恩愛の故郷に去るにまされるを。

[1]ラーオメドーンの子、その美貌を恋いて、明けの女神、天上に奪い去り夫君となす。
[2]明けの女神。
[3]「不和」の女神、戦争のしるしとはおそらくアイギスならむ。
[4]2-453〜454のくり返し。

アトレイデース大呼してアルゴス軍に戦装を  15
命じ、自ら燦爛の黄銅の武具身にまとう。
まず双脚に美麗なる脛甲あてて、白銀の
留金をもてしかと締め、これにつづきてその胸の 11-18
めぐり美麗の胸甲をまといぬ、むかしキニュラース[1]
客を尊ぶ礼としてアガメムノーンに寄せしもの。  20
アカイア軍勢船に乗り、トロイアさしてすすみ漕ぐ
そのかしましき風評の、キプロス島に伝わるを
聞き、大王の歓心を得んと欲して寄せしもの。
その胸甲の線条は十は真黒き鋼鉄と、
十二はひかる黄金と、二十は錫と相まじる、  25
左右おのおの首に向き走る三条藍色の
蛇あり、[2]虹にさも似たり、虹は天王クロニオン、
言あざやけき人間にしるしとなして雲に掛く。
大王さらに肩の上、柄(え)にはあまたの黄金の
鋲燦爛と光る剣、投げ掛く、鞘は白銀を  30
材とし、幾多黄金の締輪によりて飾られぬ。
さらに手をとる堅牢の美なる大盾身を覆う、
巧み凝らしてそのまわり青銅十の輪は走り、
二十の錫の円形の白き隆起はその面に、
しかしてそれの中央に鋼鉄黒き隆起あり。35
盾の上部にゴルゴン[3]はその凶暴の眼を張りて
すごくにらまえ、かたわらにデイモスとフォボス[4]ともななえり。11-37
盾の付帯は銀の製、上に藍色の蛇うねる、
その蛇伸ばす一つ首、首より三つの頭出で、
互いにまとい解けがたく絡み合うさま物すごし。  40
四つの隆起を頂きに具うる兜[5]、その上に
馬尾の冠毛すさまじく揺らぐを王は頂きつ。
さらに手にするおおいなる二条の槍は青銅の
穂先鋭く爛々と光はなちて空高く
のぼる。そのときアテーネー、ヘーラーともにミケーネの  45
王を崇めて殷々(いんいん)のへきれき遠くとどろかす[6]。

[1]キプロスの富める王。
[2]17-550。
[3]恐るべき怪物(8-348、5-741)。
[4]4-440
[5]5-744。
[6]雷はただゼウスの力なるを思えばこの行は怪むべし(リーフ)。

そのとき諸将おのおのは御者に命じてその馬を、
整然として塹壕のほとりにとどめ抑えしめ、
自らすすみ青銅の武具をうがちて堂々と、
まさきにすすみ喚声をまだ薄闇の空に上ぐ。  11-50
かくて戦士は塹壕のほとりに並び、騎士隊に
先んじすすみ、やや後れ騎兵の群れは続き行く[1]。
クロニオーンはその中に激しき騒ぎわかしめて、
天より雨をくれないの血潮に染めてくだらしめ、11-54
勇士を多く闇深き冥王の府に投げんとす。  55

[1]極めてあいまい、解すべからず(リーフ)。

かなたトロイア軍勢は丘の高所に陣を占む[1]、
その中心はヘクトール、また勇剛の[2]ポリュダマス、
トロイア軍に神のごと崇められたるアイネアス、
アンテーノールの三たりの子ポリュボスおよびアゲーノル、11-59
不滅の神に髣髴のまだ年わかきアカマース。  11-60
先頭中にヘクトール円き大盾手にとりぬ、
凶星光り爛として雲より出でてたちまちに[3]
また暗澹の雲に入る、その様かくやヘクトール、
先陣中に現われてやがてただちにその姿
後陣(ごじん)にかえり令下す、身は青銅を鎧おいて、  65
アイギス持てる天王の飛電(ひでん)のごとく輝けり。

[1]10-160。
[2]またプーリュダマスともいう。トロイアの名将、初出。父はパントオス(12-60)。
[3]シリウス(天狼星)か、22-28等に見ゆ。

富める土豪の畑の上、農夫は群れて畝に添い、
互いに向かい合いながら、小麦大麦刈りゆけば、
紛々として地に落つる穂のうづ高く積るごと、
トロイアおよびアカイアの軍勢互いにすすみゆき、  70
殺戮互いに行ないて卑怯の逃げを思うなく、
互いに屈せず奮然と餓狼(がろう)のごとく突き進む。
これを眺めて喜ぶはエリス、呻吟嘆息の
もといをおこす「不和の神」、群神中にただひとり
戦場にあり、他の神は離れてここに遠ざかり、  75
ウーリュンポスの連峰の上に華麗の宮殿を
営むところ、その中に悠然として座を占めつ。

雷雲寄するクロニオン、トロイア軍の栄光を
加えんとするゆえをもて、神々ひとしくかれを責む。
天王これを省みず。離れて奥にただひとり、  80
他の群神に遠ざかりその栄光に誇らいて、
トロイア城とアカイアの水軍、さらに青銅の
輝き、さらに討つ者と討たるる者を眺めやる。

あけぼのかけて、さらに日の昇るにつれて、両陣に
飛箭投げ槍ふり注ぎ、軍勢互いに相倒る。  85
真昼に到り、山上の森林中に杣人(そまびと)が
食の準備にかかる頃——おおいなる樹を切り倒し、
左右の腕は弱りはて、倦怠いたくその胸を
おそい、食欲満たすべき美味の願いの起るころ、
ダナオイ軍勢勇を鼓し敵軍たけくうち破り、  90
隊伍横ぎり同僚をいさめ励ます。その先に
アガメムノーンふるい馳せ、敵の一将ビアノール†、
つづきてかれの兵車駆るオイーレウス†を討ちとりぬ。
車台をおりてオイレウス、勢いたけくまっこうに
まぢかく立つを、鋭利なる槍を伸ばして面を突く、  95
青銅重きその兜、敵の鋭刃支ええず、
兜ならびに額骨(がくこつ)を貫く槍の鋭刃は
頭脳無残にくだき去り、たけき戦士を打ち倒す。
アガメムノーン、民の王、かくて二人の胸甲を
剥ぎ去り、白きその胸を露わすままに捨てさりて、11-100
さらに進んでアンティポス[1]、イーソス†、二敵にうちむかう。
プリアモス王生める二子、嫡子と庶子と相並び、
一つ戦車に身を託し、庶子は手綱を取りさばき、
武勇すぐれしアンティポスその側にたつ。その昔、
イーダの丘に羊飼う二人を襲いアキレウス、  105
柳の枝もて縛りつけ賠償とりて放ちにき。
アトレイデース、剛勇のアガメムノーン、槍をもて
イーソスの胸——乳の上つらぬき、さらに剣を抜き、
アンティポース[2]の耳のわきうちて車外に倒れしめ、
すぐに手早く華麗なる武具剥ぎとりぬ。そのむかし  110
足神速のアキレウス、イーダの地より捕え来し
二人を王は軽船のほとりに眺め知りしなり。

[1]4-490に出づ。ただし2-865は同名異人。
[2]アンティポスまたアンティポース。原文には語の位置に従い音を伸縮す。他所においても同様。

足疾き牝鹿生める子ら、可憐の群のすむところ、
そこに獅子王襲い来て、これを無残の牙にかけ、
ほふり尽くして脆弱(ぜいじゃく)の若き呼吸を絶やすとき、115
近く牝鹿は立ちながらこれを救うに力なし、
救う力の無きのみか、驚怖の念に四肢ふるい、
獅子王の難逃れんと、淋漓の汗に飛ぶごとく
走りて駆けて、森林の茂みの間逃げて行く、
まさしくかくもトロイアの中にひとりも僚友を  120
救う者なく、ことごとくアカイア軍を避けて逃ぐ。

アンティマコス(ト)の二人の子ペイサンドロス、ヒポロコス、11-122
二人に王はいま向かう、アンティマコスはパリスより 11-123
黄金珍宝うけ入れて、特につとめて金髪の
メネラーオスにヘレネーを返すをとどめたりし者、 125
その二子ともに俊足の馬を駆りつつ、もろともに
一つ戦車の上に立つ、これを目がけて獅子のごと、
アガメムノーン猛然と勢いすごく近寄れば、
二人は恐れふためきて華麗の手綱とり落し、
涙流して膝つきて車上に哭し陳じいう、
『アトレイデーよ、生捕りてわれの賠償受けいれよ、
アンティマコスはその家に、精錬したる青銅と、
黄金および鋼鉄をあまた豊かに貯えり、
そを莫大に取り出だし父はつぐない致すべし、
アカイア軍の船中にわが生存を知らん時』  135

涙流して温厚な言葉にかくと陳ずれば、
これに答えて残酷にアトレイデスは叫びいう、
『汝ら、まさに不敵なるアンティマコスの生める子か?
神にひとしきオデュセウスもろともさきに使者[1]として、
トロイア陣にメネラオス、行けるそのおりそのにわに  140
彼を殺してアカイアに帰らしめなと主張せし
彼の子なるか?さらばいま、父の非法の報い取れ』

[1]3-205両将トロイアに使いしヘレネーの引渡しを求めしおりのこと。

しかく宣して槍のべて胸をつらぬき車上より、
ペイサンドロス突き落し、地上に仰ぎ倒れしむ。11-144
つづいて剣をふりあげてヒッポロコスの手向かうを
うちて両腕切り落し、首打ち落し、地の上に
倒し、さながら臼のごと、戦場中にまろばしむ。
二人はそこに捨て置きて、もっとも多き諸部隊の
乱るる場(にわ)におどり入る、アカイア軍勢もろともに。
かくて歩兵は逃走の敵の歩兵を追いまくり、  11-150
騎兵は刀槍(とうそう)ふりかざし敵の騎兵をほろぼせば、
人馬の足はとどろきて、もうもうの塵、地上より
昇り立たしむ、その中にアガメムノーン奮然と
すすみ続けて敵をうち、アカイア軍を励ましむ。
猛火のほのお、しげり立つ林の上にかかる時、  155
風は四方にその火焔あまねくあおり運ぶとき、
火の猛勢にうち負けて地上に樹木倒るごと、
かく逃竄(とうざん)の敵軍の首は地に落つ、剛勇の
アトレイデースの眼前に――逃げ行く馬は戦場に
滅べる主公悼みつつむなしき戦車ひき返す、  160
勇士は倒れ地の上に伏して再び起き出でず、
いま恩愛の妻よりもむしろ鷙鳥を喜ばす。

ゼウスはかなたヘクトルを矢より塵より逃れしめ、11-163
殺戮流血喧騒の場より去らしむ、こなたには
アトレイデース敵を追い、ダナオイ勢を鼓舞し行く。  165
トロイア軍は倉皇とダルダニデース・イーロスの 11-166
墳墓[1]のほとり平原のもなかイチジク立つところ 
過ぎて走りて城中にしりぞかんとす、そのあとを
アトレイデース鮮血に手をまみらして叫び追う。
されど城門スカイアーまた樫の木にいたるとき、  170
トロイア軍は立ちどまり、両軍互いに相対す。
後れし敵は平原を倉皇として逃げて行く、
それは牝牛のむらがりを夜半に獅子王襲い来て、
逃ぐにも似たり、恐るべき死はその中の一頭を
捕う、獣王その首を鋭き牙にまずくだき、  175
やがてしたたる鮮血をすすり臓腑を食い尽す、
まさしくかくも豪勇のアガメムノーン追い迫り、
最尾の敵を打ちはたし、残りの者は逃げ走る。
かく槍上げて奮然とアトレイデース追い打てば、
打たるる敵は紛々と馬より前後倒れ落つ。  180
かくて都城と城壁にアガメムノーン迫る時、
人間ならびに神々の父[2]は天上おり来り、
泉ゆたかにわきいずるイーダの峰に座を占めて、11-183
手に閃々の電光を握り、つばさは黄金の
イーリス呼びて励まして彼の使命に走らしむ、  185

[1]10-415。6-433
[2]ゼウスは身親しく戦場に出づることなし、イーダにおりて戦場を眺むるのみ。

『イーリス、汝神速に行きヘクトル[1]にかく述べよ。——
アガメムノーン敵の将、先陣中に戦いて
トロイア軍をうち敗る、——そを見るうちは、ヘクトール、
身をしりぞけて加わらず、ただ軍勢に令下し、
激戦猛に敵軍に向かいてふるい立たしめよ。  190
されど敵王槍をうけ、あるは飛箭に傷つきて、
戦車にその身乗せんとき、われヘクトルに勇力を
与えて敵を打たしめむ。かくして彼は漕ぎ座よき
アカイア船に近よらむ、日は沈むべし夜は寄せむ』

[1]11-163以下参照。

しか宣すれば疾風の足のイーリスかしこみて、195
イーダ連峰はせくだりたちまち到るイーリオン、
そこに双馬と兵車との上に立ちたるヘクトール、
プリアモス王生みいでし英武の将を見出だしつ、
足神速のイーリスはすなわち向かいて陳じいう、

『プリアミデース・ヘクトール、聡明神に似たる者、11-200
聞け、天王クロニオンわれを遣わし、かく宣す。
アガメムノーン、敵の王、先陣中に戦いて、
トロイア軍をうち破る——これを汝の見るうちは、
身をしりぞけて加わらず、ただ将兵に令下し、
激戦、猛に敵軍に向かいてふるい立たしめよ。  205
されど敵王槍を受け、あるいは飛箭に傷つきて、
戦車にその身乗せんとき、神は汝に勇力を
与えて敵を討たしめむ。かくして汝漕ぎ座よき
アカイア船に近寄らむ、日は沈むべし夜は寄せむ』

しかく陳じて神速のイーリス立ちさりぬ、  210
そのとき武具をヘクトール取りて地上におりたちつ、
鋭利の槍をうちふるい隊伍の間駆けめぐり、
戦闘すべく励ましぬ、かくて激戦また起る。
かくてトロイア軍勢はまた盛り返し向かい来つ、
こなたアカイア軍勢はその陣営に兵加う。  215
かくて両軍相対し奮戦またも始まりぬ、
その先頭に他をしのぎアガメムノーンまたふるう。

ウーリュンポスの宮殿に住めるムーサイ[1]いま告げよ。
アガメムノーンにまっさきに向かい来るは誰なりや、
トロイア軍の一人か、援軍中のあるものか?  220
そはイピダマス、その父はアンテーノール——勇にして
魁偉(かいい)なるもの、育ちしは羊に富めるトラーキア、
幼き時に母方の祖父キッセース——紅頬(こうきょう)の
佳人テアノー[2]生める祖父、その屋に彼を養えり、
歳月移り、青春の盛りとなりし彼の身を、  225
なおそのもとに引き留め、愛女[3]を与え配偶の
契りを結ぶ間もあらず、アカイア軍の遠征を
聞きて閨房たち離れ、十二の船をひきい行く。
されどその船ことごとくペルコーテー[4]にとどめおき、
上陸なして徒歩にしてイリオン城に向かい来ぬ、  230
アガメムノーン、民の王、アトレイデースに向かえるは
彼なり。かくて左右より両将迫り近付けば、
アトレイデスはその狙いあやまり、槍はそれて飛ぶ、
されどこなたにイピダマス、敵の胸甲、その下の
帯をまともに突きあてつ、勇を頼みて槍を押す、  235
されども槍は精巧に組まれし帯を貫かず、
穂先は銀の壁に触れ鉛のごとくうち曲がる。
そのとき権威おおいなるアガメムノーン、獅子王の
ごとく荒びてその槍を相手の手からねじり取り、
さらに利剣に敵の首切りてその四肢緩ましむ。  240
敵はかくして青銅の眠り[5]に入りて倒れ伏す、
憐れなるかな、友邦を救うがために恩愛の
妻に別れてここに逝く、妻に贈与の数多き
その感謝をばまだ受けず、先きに与えし百の牛、
また牧場より千頭の山羊と子羊約したり。  245
そのとき彼を剥ぎとりて、アトレイデース華麗なる
その軍装を運び去り、アカイア陣に引き返す。

[1]詩神(複数)。
[2]5-70、6-298以下。テアノーはアンテーノールの妻、イーピダマースほかの母、アテーネー殿堂の祭司。
[3]テアノーの妹すなわち叔母に当るもの。叔母と婚せる例はディオメーデース、5-412参照。
[4]2-835、6-30。
[5]利刃に討たれて亡ぶをいう。この句をヴェルギリウスは直訳てferreus somnus(Aen.十巻七四五)という。

軍中特に抜んづるほまれのコオーンかくと見る、11-248
アンテーノルの長子、彼、その弟の倒れしを
悼み、はげしき哀痛にその双眼は覆われつ。11-250
すなわち槍をたずさえてアガメムノーンの目を盗み、
斜めにすすみ迫り来て、その肘のした前膊(ぜんぱく)の
もなかを討ちて、輝ける鋭刃すぐに刺し入れば、
アガメムノーン、民の王、さすが慄然うちふるう。
されど戦闘、攻撃をあくまでやめず、猛然と  255
颶風のごとく槍とりて、コオーン目がけて飛びかかる。
コオーンは弟イピダマス、同じき父の子の死体、
その足ひきて諸勇士に呼ばわりながらいそぎ行く、
ひき行く彼を隆起ある円盾のした槍に突き、
アガメムノンは青銅の利刃に四肢を緩ましめ、  260
さらに近寄りその首をイピダマスのへ切り落とす。
アンテーノールの二人の子、かくしてともに運命を
アガメムノーンの手にゆだね、冥王の府に沈み入る。

こなたは王者堂々と敵の陣中かけめぐり、
槍と剣(つるぎ)と巨大なる石くれ用い戦える、  265
その間に熱き鮮血は、彼の傷よりあふれ出づ。
されどその傷乾き来て流血やめば、猛烈の
苦痛は強きアカイアのアトレイデースを悩ましむ。
そをたとうればヘーラーの娘や、助産司(つかさ)どる
エイレイテュイア[6]放てる矢、にがき鋭き悩みの矢、 11-270
産褥中の女性らを射るにも似たり、おおいなる
苦悩は王者、勇猛のアトレイデースを襲いくる。
苦悩をついにこらええず、戦車の中におどり入る
アガメムノンは声あげて、御者に命じてダナオイの 
水陣さして走らしめ、さらに味方に叫びいう、275

『ああアルゴスの諸頭領、諸将つとめて海洋を
わたるわれらの戦艦を攻むる敵軍よく防げ。
計略密のクロニオン、我に許さず、トロイアの
軍に対して日暮まであくまでふるい闘うを』

[6]助産の女神。19-119にも出づ(複数)。

しか宣すれば、水陣をさしてたてがみ麗しき 280
双馬に鞭を当てる御者、馬は勇みて飛ぶごとく
駆けつ、泡沫その胸に、下は塵埃まみらして
弱れる王を戦乱のちまた離れてのせて行く。

そのとき、勇将ヘクトルはアガメムノンがしりぞくを
認め、トロイア、リュキアーの両軍よびて叫びいう、  11-285
『トロイア軍よ、リュキアーよ、ダルダノイよ、勇ましく  
すすみ戦え、猛烈の威力いまこそ呼び起せ。
至剛の敵はしりぞけり、クロニオーンはわれにいま
給うすぐれし栄光を。いざ単蹄の馬を駆り、
勇武の敵にうち向かい、偉なる功名身に立てよ』  290

しかく宣しておのおのの意志と勇気を呼びおこす。
とある猟人牙白き犬の一群はげまして、
荒き野獣に獅子王に向くるがごとく、まがつみの
神アレースに髣髴とプリアミデース・ヘクトール、
トロイア軍を励ましてアカイア勢に向かわしめ、  295
身は功名の念に燃え、先鋒中をかけめぐり、
乱軍のなかすすみ入る。高き天より吹きおろし、
緑の海波かきみだす颶風のごとくすさまじく、
ゼウス誉れを与えたるプリアミデース・ヘクトール、
まさきに誰をほろぼせる、誰を最後にうち取れる?  11-300

さきに打ちしはアサイオス†[1]、アウトノオス†とオピテース†、301
クリュティデース・ドロプス(ギ)†とオペルティオス(ギ)†とアゲラオス(ギ)†、11-302
アイシュムノス†とオーロス†と勇武ひいづるヒッポノース†、303
これらダナオイ将軍をプリアミデスはうち取りて、
つぎに雑兵また倒す——南風寄せし雲の群、  305
そを西風の咆哮(ほうこう)のあらしの呼吸乱すとき、
大海原の潮(しお)巻きて泡沫高く中空に、
風のいぶきに紛々と乱れ吹かれて飛ぶごとく、
あまたの頭ヘクトルに打たれひとしく滅び去る。

[1]301~303これらのアカイア諸軍の名は前後に記されず。

ディオメーデース猛将にそのとき智勇のオデュセウス、  310
呼ばわることの無かりせば破滅と大事わき起り、
アカイア勢は倉皇と軍船中に逃げつらむ。
『テューデイデーよ、何事のあればぞ我ら勇猛の
威力忘れし?ああふるえ、わがそばに立て!ヘクトール
我が軍船を奪いなば、何とわれらの恥辱ぞや!』  315

しかいう彼に勇猛のディオメーデース答えいう、
『我はよろしくなお耐えて踏み留まらむ。しかれども
その効けだし小ならむ。雷雲寄するクロニオーン、
我よりむしろトロイアに勝ち与うるを喜べり』  319

しかく陳じて馬上よりテュムブライオス†[1]敵将の  320
左の胸を槍に刺し落とせば、こなたオデュセウス、
その従僕のモリオーン†[2]、容姿すぐれし者殺し、
戦闘またとなし得ざる彼らの死体後にして、
二将進んで敵軍を乱す、たとえば勇猛の
勢い鼓せる猪(しし)二頭、猟犬の群襲うごと。 325
かく引き返しトロイアを討てばアカイア軍勢は、
ヘクトールの手を逃れ得て安堵の呼吸喜べり。

[1,2]テュムブライオスとモリオーン、前後になし。

二将はつぎに一両の戦車を襲い、すぐれたる
二人の勇士うち取りぬ、ペルコーテーのメロプス[1]の
子らうちとりぬ、占術に長ぜる父は流血の  330
戦場さして行かざれと子らいましめぬ、しかれども
その命きかず、暗黒の死の運命に導かる。
ディオメーデース英豪の槍の名将彼ら討ち、
魂と生とを奪い去り華麗の武具を剥ぎとりぬ。
ヒュペイロコス[2]†とヒッポダモス†二人倒すはオデュセウス。  335

[1]二人はアドラストースとアムピオス。2-830~831。
[2]673のヒュペイロコスは別人。

そのときイーダの高きよりクロニオンは見おろして、
かれとこれとに戦いを均衡せしむ。かくありて
両軍互いに相打ちつ、テューデイデース槍あげて、
パイオーン生める勇将[1]の腹をつらぬきうち倒す。
救いの乗馬近からず、従者はこれを遠ざけぬ、  340
アガストポロス(ト)思慮足らず、勇に任せて走り出で
先鋒中に戦いてついに一命失えり。

[1]アガストポロス。

そをすみやかにヘクトール隊列中に眺め見て
叫び二将に向かい来る、トロイア勢を引き連れて。
彼を眺めて大音のディオメーデースおののきて、  345
かたわらに立つオデュセウス彼に向かいてやおらいう、
『見よ、勇猛のヘクトール、憎むべきもの駆け来る。
いざ足固め立ちどまり、勇気を鼓して防御せむ』

しかく陳じて影長く引く投げ槍を振りかざし、
頭狙いてあやまたず、飛ばして敵のこうむれる  11-350
堅固の兜射当てれど、その青銅をかするのみ、
はだえに触れずけし飛びぬ。神ポイボース・アポローン
たまえる三重の堅甲は青銅の槍はね返す。
されど遠のくヘクトール、いそぎて群れに身を混じ、
膝つき伏してそのままに大地に強き手を突けば、  355
暗黒の夜襲い来てその両眼をおおい去る。

テューデイデース先鋒を離れて遠く、彼の射し
槍の大地につきささる地上に向かい進むまに、
我に返りしヘクトール、兵車の上に身をのせて、
群衆中に駆け入りて、黒き運命避け得たり。  360
槍たずさえて飛びかかるディオメーデース叫びいう、

『犬め[1]、再び逃れしよ、苦難は近く来りしに
またしてもいまアポローン汝の命を救いたり、
槍とぶにわに進む時、汝は彼に祈るよな。
のちに再び会わむ時、我は汝を倒すべし、  365
もし神霊のとある者、我に冥護を貸すべくば。
いまは他の敵、わが前に現わるるもの追い打たむ』

[1]アキレウスの口にこれらの句また述べらる(20-449以下)。かかる著名の文句を異なる二人に述べしむるは性格描写として叙事詩人にふさわしからず(リーフ)。

しか言い、槍に巧みなるパイオーンの子剥ぎかかる。
そのとき鬢毛うるわしきヘレネーの夫トロイアの
パリスは弓を勇猛のディオメーデスに向けて引き、  370
国の元老ダルダノスその子イーロス——イーロスの 11-371
墳墓のめぐり円柱の一つにその身よりかかる。
こなた武勇のトロイアのアガストポロスよろいたる
光る胸甲また肩におおいし盾と兜とを
ディオメーデース奪う時、パリス円弓高く張り、  375
ひょうと放てる一の矢は無効にあらず、飛び行きて
敵の右足(うそく)の甲を射り、つらぬき通し地に立ちぬ。11-377
そのときアレクサンドロス欣然として高らかに
笑い、隠れし所よりおどり出だして叫びいう、
『汝まさしく射られたり、わが矢むなしく飛ばざりき。  380
汝の腹の下部を射て、生命絶やし得ましかば!
さらばトロイア軍勢は災い逃れくつろがむ、
獅子を恐るる山羊のごと、彼ら汝を恐れたり』

そのときつゆも恐れなくディオメーデース答えいう、
『ああ高言の射手、汝、少女に秋波注ぐもの[1]、  385
武器をたずさえ、まのあたり我の威力をためし見ば、
汝の弓と矢数とは汝の用をなさざらむ[2]。
我が足の甲射たりとて汝むなしく誇りいう。
何かはあらむ、一女性あるいは無知の一小児
射たるがごとし、臆病の賤しき者の矢は鈍し。  390
われの鋭く放つ矢はこれに異なり、いささかも
当らば人は凄惨(せいさん)の死をまぬがるることをえず。
妻たるものは悲しみてその両頬を傷つけむ、11-393
その子ら孤児の身とならむ、彼は大地を赤く染め
くさらむ、そばに女性より多く野鳥は集まらむ』  395

[1]3-39のヘクトールがパリスを罵る句参照。
[2]武装完全の勇士が弓手を侮ること、ギリシア史に伝統的。

しかいう彼のかたわらに槍の名将オデュセウス、
来りて前にひかえ立つ、後ろの彼は地に座して、
足よりその矢抜き去れば、激しき苦悩身をおそう。
かくて戦車にとびのりて御者に命じて軍船を
さして後陣に帰らしむ、彼の苦痛はおおいなり。  11-400

槍の名将オデュセウスかくて留まるただひとり、
アカイア勢は畏怖抱き、かたえに残るものあらず、
彼は嘆きて勇猛のその魂に向かいいう、

『ああ我、何をか今なさむ?敵を恐れて逃げ去らば
その災いは大ならむ、敵に身ひとつ捕わるは  405
一層つらし、クロニオン、わが僚友を脅しさる。
さはれわが魂何ゆえにこれらを我に談ずるや?
卑怯の者は戦場を逃れむ。されど戦闘の
中にその勇しめすもの、彼はよろしく勇敢に
留まるべきぞ。討たるるも、はた敵人にうち勝つも』  410

これらの思念その魂の中に動きてめぐるまに、
盾たずさうるトロイアの軍勢、近く襲い来て、
その恐るべき災いの種と見なして攻め囲む。
たとえば森の繁みより真白き牙をとぎすまし、
猪(しし)の現れ出づる時、若き猟人、猟犬の  415
群いっせいに勇みたち彼を囲みて襲いくる、
猪(しし)はその牙噛み鳴らす音もすさまじ、しかれども
群れはあくまでしりぞかず勇をふるいて待ち受ける、
かくトロイアの軍勢に攻め囲まるるオデュセウス、
神の寵児は奮然とおどり、鋭き槍ふるい、  420
その肩打ちてまっさきに勇将デーイオピテース†
傷つけ、次いでエンノモス†[1]、トオーン†[2]の二将うちはたし、11-422

[1]2-858のエンノモスは別人。
[2]5-153のトオーンは別人。

次いでその槍さしのべてケルシダマス†[1]が戦馬より
おりるそのとき、隆起ある円盾の下、へそ突けば、
その手大地をつかみつつ塵埃中に倒れ伏す。  425
これらを捨ててなおすすみヒッパソス[2]の子カロプス(ト)†を——
高き素生のソーコス(ト)の実兄、槍に突き倒す。

[1]ケルシダマスは前後になし。
[2]13-411に他のヒッパソスありまた17-348にも同名の人あり。

こを救うべく駆け出づる神に等しきソーコスは、11-428
近くにすすみ足とどめ敵に向かいて陳じいう、

『計略および策動に飽かず、名高きオデュセウス、  430
今日(こんにち)汝、ヒパソスの二人の子らをうち倒し、
その軍装を奪えりと高言せんか、しからずば
わが槍先に貫かれその一命を失わむ』

しかく叫びてオデュセウス持てる円盾うち目がけ、
飛ばす激しき投げ槍は輝く盾をつらぬきて、  435
その精妙に作られし胸甲中にすすみ入り、
脇腹よりし肉をさく、されどもパラス・アテーネー、11-437
利刃すすみて勇将の臓腑に入るを防ぎとむ。
急所を槍の外せしを知りて勇めるオデュセウス、
あとにしざりてソーコスに向かいて高く叫びいう、  440

『不幸なるもの、ああ汝、大難すぐに到るべし、
げにも汝はトロイアの戦いわれにとどめたり、
されど我いう、殺害と黒き運命いまの日に
汝襲わむ、わが槍に倒れて汝栄光を
われに与えむ、魂魄は馬に名高き冥王に』  445

しか陳ずればソーコスは逃げてうしろに引き返す。
逃げ行く彼の背をめがけ左右の肩のただ中を、
槍を飛ばして胸かけてうち貫けば、ソーコスは
大地にどうと倒れ落つ、そを見て誇るオデュセウス、

『馬術に長けて勇ましきヒッパソスの子ソーコスよ、  11-450
最期の非命すすみ来て襲うを汝逃れえず。
不幸なるもの、ああ汝、その臨終に父と母[1]、
汝のまみを閉ざしえず、腐肉をくらふもろもろの
野鳥集まり飛びまわり、汝のむくろ食い裂かむ、
されども我は逝かんときアカイア人に祭られむ』 455

[1]臨終に目を閉ざすは両親の、また特に義務なりき。

しかく宣して勇ましきソーコスの槍鋭きを、
肌と盾より——隆起ある盾より抜けるオデュセウス、
槍抜かるれば血はあふれ勇士の心悩ましむ。
勇士の流す血を見たるトロイア勢はそのときに、
互いに呼びかけ合いながら、みないっせいに寄せ来る。  460
そのときあとにオデュセウス歩み転じて、同僚に
声ある限り高らかに三たびつづきて呼び叫ぶ、
叫びを三たび耳にするアレースめずるメネラオス、
ただちにそばにアイアスの立つに向かいて陳じいう、

『テラモニデース、衆の将、ゼウスの裔のアイアスよ、  465
われは知者のオデュセウス、叫ぶその声聞き得たり。
声はさながらいうごとし、乱戦の中ただ一人
切り離されて、トロイアの軍勢襲い来れると。
いざ敵陣に赴かむ、彼の救援よからずや!
我いま恐る、勇なるも敵陣中に彼ひとり  470
災い受けむ、おおいなる悲哀は湧かむ我が陣に』

しかく陳じて駆け出せばつづく勇武のアイアース。
見ればゼウスの寵児たるオデュッセウスを敵勢は
ぐるり取り巻く。たとうれば猟人放つ矢に射られ、
角たくましき大鹿の傷つき走る山の上、  475
茶褐色なる山犬の襲うに似たり、猟人を
避けて逃げ行く大鹿は、血の暖かく膝動く
その間は走る、しかれども矢傷についに弱るとき、
山犬の群れ山林にこを噛み倒す、しかれども
運命ここに一頭の獅子を引き出す、これを見て  480
恐るる山犬にげ去りて、大鹿獅子の餌となる。
かく数多き剛勇のトロイア勢は、計略に
富みかつ猛きオデュセウス攻めて囲めり、しかれども
槍をふるいて勇将は黒き運命避けんとす。
その時さながら塔に似る巨大の盾をたずさえて、  485
かたえに来るアイアスに、トロイア軍は逃げ惑う。
雄豪の将メネラオスそのとき敵の陣外へ、
その手を引きて友救う、御者は戦車を寄せ来る。
その時すすみてアイアース、トロイア軍を襲いうち、
プリアモス王生める庶子ドリュクロス†またパンドコス†、  490
リュサンドロス†とピューラソス†、またピュラルテス†をうち倒す[1]。

[1]これらの名前後になし。別人ピュラルテスは16-696にあり。

たとえばゼウスの雨により、水量増せる一条の
河、平原に山腹を急流なしてあふれ来つ、
乾ける樫ともみの木の数百を流し、さらにまた
泥土塵埃大海に運び去るにもさも似たり[1]。  495
かく輝けるアイアース、人馬を砕き敵軍を
乱し原上追いまくる。——これをこなたのヘクトール、
いまだ悟らず、全軍の左にありて戦えり。11-497
スカマンドロス岸の上、敵はゲレーニア・ネストール、
また剛勇のイードメネ。あまた首級の紛々と 
落つるほとりに戦えり、めぐる叫喚ものすごし。  11-500

その中にしてヘクトール、戦車の上に槍ふるい
若き戦士の隊列を荒して偉功(いこう)立て続く。
鬢毛美なるヘレネーの夫アレクサンドロス、
その三又の矢じりある矢にマカーオン勇将の  505
右の肩射て奮戦をとどむることの無かりせば、
アカイア軍はその道をしりぞくことのあらざらむ。
勇気凛たる将士らは彼の一身憂慮しつ、
形勢転じ敵のため彼の死ぬるを避けんとす。
かくてただちにイードメネー、ゲレーニア騎将に向かいいう、  510

[1]勇将を洪水に比するは5-87にもあり。

『ネーレウスの子ネストール、アカイア軍の誉れ君、
戦車に乗りて、マカオーン同じくともに引き具して、  512
疾く単蹄の馬駆りて軍船さして帰り去れ。
矢を抜くを知り微妙なる良薬傷に塗るを知り、
医療のすべにまさる者、ほかの多数にたぐうべし』  515

しか陳ずればゲレーニアの老ネストールうべないて、
戦車にすぐに身を乗せつ、すぐれし軍医マカーオン、 11-517
アスクレピオス生める息、同じくともにうち乗りて、
鞭を双馬に加うれば、飛ぶがごとくに軍船を
さして駆け出す、またそこに帰るを軍馬喜べり。  520

その時他方トロイアの軍追わるるを眺め見て、
戦車御しつつヘクトルに、ケブリオネース陳じいう、11-522
『ここに我らは、ヘクトール、苦難を生める戦場の
端にダナオイ兵たちと戦ううちに、トロイアの
他の軍勢は人馬とも紛々として追われいく。  525
テラモニデース・アイアース味方を破る、われは知る、
かれ肩の上おおいなる盾をかざせり。いざやいま
戦車、戦馬を駆り行かむ。行かむかなたに、他にまさり 
騎兵と歩兵いっせいに殺し合いつつ猛烈の
苦闘をなして、叫喚のたえずわきでるかの庭に』  530

しかく宣してたてがみの美なる双馬を、音高き
快鞭ふるい駆りすすむ。音に勇みて駆けいずる
馬はアカイア、トロイアの両陣さして迅速に、
戦車引きつつ、倒れたる死体を盾を踏みにじる。11-534
車軸の下は鮮血にまみれ、座席の周囲なる  535
柵また、まわる車輪より、また馬蹄より上ぐる血の
しぶきにまみる。ヘクトールかくて望みて敵軍の
中に突き入り突き返し、縦横無碍にダナオイの
軍を乱せり、その槍をやすむる隙はしばしのみ。
槍と剣と巨大なる石くれ取りて敵軍の  540
中をつらぬきヘクトール、かく勇猛に荒べども、
テラモニデース・アイアスと戦うことをあえてせず。
(優れるものに手向かうをゼウスは彼に喜ばず。[1])

[1]この一行いずれの写本にもなし。

そのときゼウス、アイアスに驚怖の念を起さしむ。
勇士驚き立ち止まり、やがて七牛の皮張りし  545
盾をかつぎて敵陣を見わたしながら逃れ行き、
あとをしばしば振りかえる、獣の徐々に去るごとし。
犬の一群、農夫らと力合わして、牛小屋に 11-548
寄する茶色の獅子王を払うもかくや?農夫らは
夜すがら寝ねず見守りて、脂肪に富める牧牛を  11-550
取るを許さず、貪婪の獣は餌にあこがれて 
勢い猛く襲えどもついにその意を遂げがたし、
勇武の手より放たれる投げ槍および炎々の
松明かれに飛び来れば、あらびながらもたじろぎつ、
やがて曙光の到るとき恨み抱きて遠く去る[1]。  555

[1]548〜555。この比喩はまた17-657以下メネラオスの上に用いらる。

かくアイアース、トロイアの軍勢あとに怏々(おうおう)と、
心ならずもアカイアの船を憂いて引き返す。
またたとうれば鈍きロバ、農場近くよせ来り、
小児ら棒の折るるまで打てど叩けど顧みず、
これをしのぎて悠々と侵し入りつつ、蓄える  560
穀をあくまでむさぼりて、後に初めて弱き子の
棒に追われて悠々とその場(にわ)あとに去るごとし。
かく剛勇のトロイアの軍勢、および集まれる
種々の援軍槍飛ばし、テラモニデース・アイアスの
巨大の盾を射りつつも、みないっせいに追い進む。  565
そのとき、おのが勇猛の意気を思いてふりかえり、
悍馬を御するトロイアの軍の襲うをアイアース、
防ぎとどめつ、やがてまた足めぐらして去りながら、
わが軽船に向かい来る敵ことごとく押しとどめ、
トロイアおよびアカイアの両軍間に立ちながら、  570
ふるい戦う。勇敢な敵手の放つ投げ槍は、
あるいは飛んでアイアスの巨大の盾につきささり、
あるいは彼の身に立つを望みながらも、道半ば
落ちて大地に突きたちて、白き肌には触れもえず。

かく投げ槍にアイアース悩むをエウアイモーンの子、  575
エウリュピュロス(ギ)は認め知り、来りて彼のそば近く
立ちつつ、勇士輝けるその長槍をくりいだし、
パウシオスの子、民の王、アピサオーン(ト)を突き伏せつ、11-578
横隔膜のすぐの下、肝臟つきてうち倒す。
エウリュピュロスは走り出で敵の肩より武具を剥ぐ。  580
アピサーオーンの戦装を剥ぎとる彼を認めしは、
美麗のアレクサンドロス、彼はただちに弓を張り、
エウリュピュロスに一の矢をとばして、右のももを射る、
葦にて作るその矢柄折れてそのもも悩ましむ。
エウリュピュロスは同勢の中にしりぞき、死をのがれ、  585
鋭く声を張りあげてダナオイ勢に叫びいう、

『ああアルゴスの諸頭領また諸将軍、われの友、
足をめぐらし踏みとまれ、災い防げアイアスの。
見よかれ敵の投げ槍に悩めり、彼が悲惨なる
戦場よりし逃るるを思い得がたし、ああ奮え、  590
テラモニデース・アイアスをめぐり汝ら踏みとまれ』

傷うけながら勇猛のエウリュピュロスはかく叫ぶ、
将士らすなわちそのそばに近付き来り、その盾を
肩にかざしてその槍を持ち上げながら立ちとまる、
そこに再びアイアース帰れば兵の前に立つ。  595
かくして彼ら炎々の火焔のごとく戦えり。11-596

かなた淋漓の汗流すネーレウスの馬、ネストルを、
また民の王マカーオーンを戦場よりし運び来る。  598
そのとき足は神速のペーレイデース・アキレウス、
巨大の船のかたわらに立ちつつこれを眺め得て、  11-600
アカイア軍の敗走とその難局を認め知り、
すぐに船より声あげてその親愛のおのが友、
パトロクロスに呼ばわれば、こを陣営の中に聞き、
外に勇士は出で来る、彼の苦難のもとはこれ。

メノイティオスの勇武の子まず口開き問いていう、  605
『アキッレウスよ、何のため我に呼びたる?用はなぞ?』
足神速のアキレウス、彼に向かいて宣しいう、
『わが心肝のめずるもの、すぐれしメノイティアデーよ、
アカイア族は、案ずるに、われの膝下に願い来む、
ついに耐うるを得ざるべき危難彼らに迫り来ぬ。  610
ゼウスのめずる友よ、いざ行きて尋ねよネストルに、
戦場よりし連れ来る負傷の勇士誰なりや、
あとより我の見るところ、アスクレピオス生める息 613
マカーオーンにぞ彼は似る、されど面貌われは見ず、
いそぎにいそぎ双の馬、わが眼前を過ぎ行けり』  615

しか宣すればその言にパトロクロスは従いて、
アカイア軍の陣営と船とを出でて走り行く。
かなたネストル、陣営に供もろともに着ける時、
戦車を出でて豊沃の大地の上におりたちぬ。
エウリュメドーンは老将の御者——いま彼は戦車より  620
双馬を解きぬ。解きし後、波浪の岸にたたずみて、
吹き来る風に胸甲の汗を両将乾かしつ、
やがて陣舎の中に入り、休みの床に身を伸せば、
ヘカメーデー[1]はそのために酒を混じぬ、鬢毛の
美なる麗人、おおいなるアルシノオスの生むところ、 11-625
テネドス城[2]をアキレウス、かすめし時に老将の
功を思いて、将士らの選びて分かち与えたる
麗人そのとき磨かれし麗しき卓、緑色の
足あるものをまずさきに二人の前に引き出し、
青銅製の籠をその上におきつつ、酒によき  630
葱と新たの蜂蜜と聖なる麦[3]の粉とを入る。

[1]後14-6にまた出づ。
[2]1-37、9-328。
[3]神の恵める聖き麦(9-214)。
そばの金鋲ちりばめし華美の酒盃[1]は老将の
家よりたずさえ来るもの、四つの把手のおのおのに、
黄金製の二羽の鳩、餌(え)をついばめる彫刻の
美なる物なる盃は下に二つの足そなう。  635
この盃の満つるとき卓よりこれを動かすは、
老ネストール除くほか、誰も難しとするところ。
姿神女に髣髴の麗人、中に混成し、
作る飲料——青銅のおろしによりて乾酪を
おろししものと白き粉を、プラムノス山産したる  640
酒に混(こん)ぜる飲料を二人に勧め飲みほさす。
二人はこれを飲み終えていたく悩める渇を去り、
互いに談話かわしつつ心くつろぐ折りもあれ、
戸口の前に神に似るパトロクロスは訪い来る。
これを認めて輝ける椅子より立てる老将は、  645
彼の手をとり内に入れ席に着くべく説き勧む。
これを拒みて口開きパトロクロスは陳じいう、

[1]ミュケーナイにてシュリーマンの発掘せる黄金の盃すこぶるこの叙述に似る。乾酪はチーズのこと。

『神の養う尊栄のおじよ、座すべきいとまなし、
勧むるなかれ、戦いの庭より君のつれ来る 
負傷の彼は誰なりや、問うべくわれを遣わせる  11-650
かれ敬すべし恐るべし[1]、われマカーオーンを認めたり。  651
こを報ずべくわれはいまアキッレウスに帰り行く。
神の養う尊栄のおじよ、まさしく君知らむ、
かれ恐るべし、ともすれば彼は罪なきものを責む』

[1]最愛の友のこの句はアキレウスの威望を卜(ぼく=推測)すべし。

ゲレーニア騎将ネストールそのとき答えて彼にいう、  655
『アカイア戦将これまでに多く傷つく、何ゆえに、
いまに及びてアキレウス、とくに憐れむ。かれ知らず、
陣営中に懊悩(おうのう)の起るを、――とくに秀でたる
諸将ら槍に矢に打たれ、兵船中に休らうを。
テューデウスの子おおいなるディオメーデース傷つけり、  660
槍の名将オデュセウス、槍に傷つく、総帥の
アガメムノーンまたしかり、エウリュピュロスはももに矢を
受けたり、さらに弦上を離れし飛箭この友を
射たるを我は戦場の中より救いここにあり。
されど英武のアキレウス、ダノオイ勢を憐れまず。  665
かれ岸上の速き船、アルゴス勢が防げども、
敵の兵火に焼かるるを、またわが将士順々に
討たれ滅ぶを待たんとや?ああわが力いにしえの 668
ありし日われの柔靭(じゅうじん)の肢体におけるごとからず。669

『ああ我むかしエーリスの住者とわれの族のあい[1]、  670
家畜を奪い戦いのありし日のごと、わかくして 671
勇力堅くあらましを。かの時われは剛勇の
ヒュペイロコスの子イテュモネー[2]、エーリス人をうち倒し、673
つぐない取りぬ——先陣の間にありて牧牛を
守れる彼は、わが手より投げし鋭槍身に受けて、  675
大地に落ちつ、その部下の農民恐れ逃げ散りぬ。676
かくして敵の原上にかすめし獲物おびただし、677
牝牛の数は五十頭、羊の数もまた等し、678
また数ひとし豚の群、山羊また同じ数なりき、679
栗毛の馬は百五十、しかもすべてはみな牝馬、  680
ともなう子馬また多し。これらを挙げて奪い取り、681
夜に乗じてことごとくネーレウスの市ピューロスに 682
駆りて帰りぬ、若くしてわれ戦場に立ちながら 683
巨大の鹵獲得たりしを、いたく嘉みしぬネーレウス。684
次の日、曙光出づる時、伝令使らは朗々と  685
声あげ、さきにエーリスに害をうけたる人々を 686
集む、かくしてピューロスの首領ら来り、略奪の 687
品を分かてり。先きの日にピュロス戸口とぼしくて 688
弱りて、いたくエーリスの民に迫害うけたりき。689

[1]11-670以下11-761に到るまでネストールの青年時代の回顧。エーリス(住民エーレイオイ、その古名はエペイオイ)はペロポンネソスの中にあり、その北部にエペイオイ住み、その南部にアカイア族住みてネストールの領土たり。この一段は後世の添加なるべしとある評家はいう。
[2]イテュモネーはイテュモネウスのフランス読み。

『ヘーラクレース[1]そのむかしあらび我がさと侵し入り、  11-690
わが族中の優秀の多くの者をほろぼせり、691
わが剛勇のネーレウスその子数うる十二人、692
その中ひとり我のこし、他はことごとくほろぼさる。693
黄銅よろうエーリスの一族これをうかがいて、694
心勇みて陵辱を加えしところ、いま報う。  695

[1]ヘーラクレースはギリシアの国民的英雄にあらず。ホメーロス中には西部ギリシアの不法なる圧制者として記さる。

『いまネーレウス、一群の牧牛および数多き 696
羊を選び三百にあわせて牧の人を取る、697
エーリス族に被りし彼の被害は大なりき、698
競馬に勝てる四駿馬、兵車もともに奪われき。699
鼎(かなえ)を賭して競走に送りし馬をエーリスの  11-700
アウゲイアス王奪いとり、御者を放りて憤激の 701
涙にくれて去らしめし。——その凶行と凶戻(きょうれい)の 702
言語思いて、いきどおる老翁かくて莫大の 703
賠償とりて身に収め、残れるところことごとく 704
諸人に与え、恨みなくおのおの分を収めしむ。  705

『かくして皆は一切の獲物を分かち、村の中、706
諸神に牲を捧げたる、その第三日に敵軍は、707
数を尽して早急に単蹄の馬駆り来り、
侵し来れる、その中にモリオネ二人兄弟[1]は、11-709
年若くして勇戦に耐えねどともに武具取りぬ。  710
砂地のピュロスの境なるアルペイオスの岸の上、
高き丘のへ村ありてトリュオエッサ[2]の名を呼べる、
その覆滅を心して、敵軍これを攻め囲む。713

[1]ヘラクレスに射殺されるクテアトスとエウリュトス、母はモリオネー。23-639
[2]トリュオエッサ、一名トリュオン、2-592。

『その敵軍が平原をまったく通り過ぎし時、714
ウーリュンポスの高きより使いとなりてアテーネー、  715
夜を犯して走り来て、われに武装を促しつ、
ピュロスの中に勇戦を念ずるものを呼び集む。
われの武装はネーレウス許さず、馬をおし隠し、
軍事につきて何事も汝は知らずと父はいう。
されど馬なく徒歩ながらわれは騎将にまじわりて、 720
神アテーネー導けば功名ことにすぐれたり。721

『海にただちに注ぐ川ミニュアスの名を呼びて、722
アレーネーにしほど近し、ここにピュロスの騎兵隊、723
着きて曙光の聖き待ち、歩兵の隊も群れ来る。724
そこよりいそぎ一切の武装ととのえ真昼ころ、  725
アルペイオスの神聖の流れの岸にすすみ来つ、726
すぐれし牲を大能のクロニオーンにたてまつり、727
アルペイオスの河霊またポセイドーンに一頭の 11-728
雄牛おのおの、藍光の目の女神には若牝牛、
捧げて、かくて陣中に隊にわたりて食を取り、  730
おのおの武装そのままにその神聖の川の岸 731
沿いて眠りぬ。かなたには勇気盛りのエペイオイ、
すでに覆滅企てて都邑(とゆう)を囲み陣取りぬ、733
されどそのまえアレースのおおいなる業あらわれぬ、734
大地の上に燦爛の日の出づる時わが軍は、  735
ゼウスならびにアテーネー拝し戦地にすすみ出づ。736

『ピュロスの軍とエペイオイかくて鋒刃(ほうじん)まじえたる、737
その真っ先きに敵将のムーリオスをば我殺し 738
その単蹄の馬奪う、アウゲイアスの婿にして、739
王の長女に生まれたるアガメーデーは彼の妻、  740
大地産する薬草を知る金髪の一女性。741
近くより来る敵将をわれ黄銅の槍をもて、742
打てば塵ぬち倒れ伏す、その兵車のへ飛び乗りて、743
先鋒中に加わりて我は進めり、エペイオイ、744
武勇すぐれて駿馬の隊ひきいし将[1]の倒されて  11-745
大地に伏すを見て恐れ、あなたこなたに逃げ走る。746

[1]ムーリオス。

『追い行く我は暗黒のあらしのごとく駆りすすみ、747
奪える兵車数五十、そのおのおのに乗る二人 748
わが鋭槍に討たれ地に落ちて歯をもて塵を噛む。749
さらに我またアクトルの裔のモリオネ若き二子[1]、  11-750
討つべかりしを、遠近(おちこち)に威力振うて地をゆする 751
彼らの父[2]は救いとり、みなぎる霧に包み去る。752
そのときゼウスおおいなる勝ちを恵みて、ピュロス軍、753
広き平野を駆りすすみ馬前に敵を追いはらい、754
軍をほろぼし華麗なる武装を剥ぎて集めとり、 755
ブープラシオン[4]、麦の土地、オーレノス[5]の岩の土地、11-756
アレーシオンの名を呼べる岡あるところ進みうつ。
そのほとりよりアテーネーわが軍勢を追いかえす。
最後の敵をわれ討ちしブープラシオン、その地より
アカイア軍はその馬をピュロスにかえし神の中  760
特にゼウスを賛美しぬ、人の中にはネストールを。761

[1]クテアトスとエウリュトス
[2]ポセイドーン(13-207)。この神は一般に勇士の父として現わる。
[3]アカイアに隣る(2-615)。
[4]2-615。

『かくその昔戦場にわれはすぐれき。しかれども
ただアキレウス、剛勇のほまれを一人いまに受く。
見よわが軍の滅ぶ時、彼は哀悼切ならむ。
ああ友、君をそのむかしプティーアーより総帥の  11-765
アガメムノーンに送るときメノイティオスは戒めき、
われもろともにオデュセウス、その時ともに部屋にいて、
彼が汝を戒しめしその一切を耳にしき。
彼の巨館にペーレウス[1]、豊沃の郷アカイアの
四方より客を呼びしかば、われら二人も客なりき。  770

[1]9-252。

『その時汝またありき、メノイティオスまたアキレウス、11-771
同じくありき、ペーレウス、戦車を御する老将は、
庭の中にて牛のもも肥えたる肉を雷霆の
ゼウスのために焼きあぶり、手に黄金の盃を
取りて、きらめく芳醇を火焔の上にふりまきき。  775
そのとき肉を汝ら[1]は調理し立てり、しこうして
我ら戸口に近寄るを見て驚けるアキレウス、
すすみ来りて手を取りて内に導き座を備え、
客をもてなす諸々の美味をわが前据えたりき。

[1]パトロクロスとアキレウス。

『しかして食に飲料に口腹おのおの飽ける時、  780
我まずさきに口開き、ともに従軍勧むれば、
汝二人は喜べり、二翁も警告切なりき。
すなわち老いしペーレウス、「常にまされよ他のものに、
劣るなかれ」と慇懃にアキッレウスを戒めき、
また、アクトール生める息メノイティオスは戒めて、  785
汝に言えり、「ああわが児、アキッレウスは汝より
素生は高し、年齢は汝優れり、勇は彼。
汝よろしく知恵の言、陳じて彼を諫(いさ)むべし、
また命ずべし、その言に従い彼は益を得む」
老翁かくは教えしを汝はこれを忘れたり、 790
されどいまなお剛勇のアキッレウスに陳じ見よ。
誰か知るべき、神明の助けによりて彼の意を
汝動かし能わずと、友の忠言常に良し。

『彼もしとある神託を恐れ避くるか、あるはまた、 11-794
ゼウスの言を彼の母、彼に伝えしことあらば、  11-795
なお少くも汝をば彼送れかし、しこうして
ミュルミドネスともろともに、おそらく汝ダナオイの
光明たらむ、さらにまた、彼その華麗の軍装を
貸して汝を戦場に立たしめよかし。トロイアの
軍勢彼と誤りて戦いやめん、アカイアの  11-800
疲れし諸勇士くつろがむ、戦闘しばし暇(ひま)あらむ。
あるは新手の汝らは、わが陣営と船のそば、
疲れし敵をたやすくも彼の都城に払い得む』

しかく陳じてネストール、彼のこころを動かせば、
水陣過ぎて走り出で、アキッレウスのもとかえる。  805
かくして知謀神に似るオデュセウスの船のそば、
パトロクロスは馳せ来る、そこに彼らの集会あり、
審判の席またありて、諸神の壇も設けらる。
そこに鋭き矢をももに受けてびっこをひきつつも、
戦場よりし逃がれ来しエウリュピュロスは彼に会う。  810

エウアイモーンの勇武の子、肩と頭は淋漓たる
汗にまみれつ、いたわしき傷口よりはだくだくと、
黒き血潮の流るれど勇気はいまだ衰えず。
メノイティオスの勇武の子、これを眺めて憐憫に
堪えず、呻きてつばさある言句を彼に陳じいう、  815

『ああ無残なり、ダノオイの諸王ならびに諸将軍、
友を郷土を離れ来てここトロイアの空の下、
汝ら白き脂肪もて野犬の口を飽かしめむ。
神の養う英豪のエウリュピュロスよ、われに言え、
アカイア軍は恐るべき将ヘクトール支うるや、  820
あるいは彼の槍の下みなことごとく滅びんや』

矢傷に悩む豪勇のエウリュピュロスは答えいう、
『パートロクロス[1]、神の裔、アカイア軍はいますでに
防御の手なし、黒船をさしてしりぞき逃がるべし。
先きに至剛の誉れ得し諸将こぞりて、トロイアの  825
鋭き槍に矢に打たれ、みな船中に横たわり
立たず、しかして敵軍の勇はますます激しかり。
さはれ乞う、いま黒船の中に導き我救え、
ももをうがてる矢を抜きて湯をもて黒き血をぬぐえ、
しかして傷に有効の良き軟膏をまみれかし、  830
ケンタウロス中すぐれたるケイローン[2]よりし学び得て、11-831
汝にさきにアキレウス伝えしものと人はいう。
ポダレイリオス、マカーオン、二人の医師の中一人、  11-833
思うに彼は傷うけてその陣中に横たわり、
その身自らすぐれたる医師を求めて悩むべく、  835
他は平原に戦いてトロイア軍を支うべし』

[1]パートロクロスおよびパトロクロス両様に発音せらる。
[2]ケイローンはアキレウスを教う(4-219)。

メノイティオスの勇武の子すなわち答えて彼にいう、
『この事いかに成り行かん?われら何をかいまなさむ?
アカイア軍の守りたるゲレーニア騎将ネストール、
下せる令を剛勇のアキッレウスに伝うべく  840
われ道にあり。しかれども悩める汝を捨ておかじ』

しかく陳じて頭領[1]を胸に抱きて、陣中に
運び来れば、その従者認めて牛の皮を敷く、
その皮の上、横にして、剣(つるぎ)を抜きて鋭き矢
ももより断ちて、流出の黒き血潮をあつき湯に  11-845
ぬぐいつ、やがてその上に、にがき草根、苦しみを 11-846
とどむるものをほどこせば、エウリュピュロスの一切の 847
苦悩は去りぬ、傷口は乾きぬ、血潮とどまりぬ。

[1]エウリュピュロス。


イーリアス : 第十二巻



 アカイア軍の塁壁後年に到りて破滅すること。アカイア軍退却。プーリュダマスの言を容れ、ヘクトール、騎兵を車上よりくだらしめ、五隊に分かれて徒歩にて進撃す。アーシオス、その隊をひきいて水軍の塁壁の左門(120行)に向かう——二勇将(ポリュポイテースとレオンティウス)これを守る。凶鳥トロイア軍に現わる。プーリュダマスこれを見てヘクトールを諫めれども聞かず。アカイア軍に向って大神、暴風を起す。ヘクトール壁を襲う。二人のアイアース兵を励ます。トロイアの援軍サルペードーンおよびグラウコス進撃。テラモーンの諸子これを防ぐ。グラウコス負傷してしりぞく。サルペードーン胸壁を破る——ヘクトール大石を投じ門を破る——トロイア軍の侵入。

メノイティオスの勇武の子、かく陣営の中にして、
エウリュピュロスの矢の傷をいたわる。——かなたトロイアと
アカイア両軍戦闘をつづく。はたまた塹壕と
その上側の塁壁はダナオイ勢を末長く
守るにたえず――塁壁は高くも立ちて、そのめぐり  12-5
塹壕広くめぐらして、中に多くの軽船と
あまたの戦利安らかに保たんために築かれき。
されど不滅の神々に犠牲捧ぐることなくて[1]、
神意にそむき営まれ、長くさかえんよしあらず。

[1]彼らは神に犠牲を捧ぐることを怠る(7-450)。

アキッレウスの憤激と将ヘクトールの生命の  12-10
続かんかぎり、プリアモス王の都城の破られず
立ちたる限り、アカイアの巨大の塁は固かりき。
されどそののちトロイアの勇将すべて死せる時、
またアルゴスの諸将軍、あるは殺され、あるは生き、
第十年にイリオンの堅城ついにおちいりて、  15
アカイア軍勢船に乗り故郷に帰り去りし時、16
ポセイドーンとアポロンはともに塁壁崩すべく、17
高きイーダをくだり来て大海そそぐ諸川流、18
カレーソスまたレーソスと、ヘプタポロスとロディオスと、19
グレーニコスと神聖のアイセーポスとシモエイス、20
スカマンドロス、諸々の川の威力をうちつける、 21
――その岸のうえ牛皮張る多くの盾と兜とは 22
半ば神なる英雄の群もろともに地にまみる[1]——23
これらの川を向き変えて神ポイボス・アポローン、24
九日つづきて塁壁に注げば、さらにクロニオン、  25
疾く大海に流すべく絶えず豪雨をくだらしむ。
さらに地をゆるポセイドーン三叉(さんさ)の矛を手にとりて、
まさきにすすみ、アカイアの軍勢固く据えたりし
その木石の根底を波浪に流し塁壁を
払えるのちに、澎湃(ほうはい)のヘレスポントス大波は  30
岸ことごとく平げて、また一面の砂としつ、31
かくて再びもろもろの川を、その前美しく 32
流れ慣れたる川床に、再び戻りかえらしむ。33

[1]「半ば神なる英雄」この句はホメーロス中ただここにのみ、後代に至りて広く用いられる。以上の理由によりこれらの段は後世の添加なりと主張する評家あり。

ポセイドーンとアポロンは後の日かくぞ振舞える、34
いまは戦争叫喚の荒らびは壁をとりかこみ、35
打たれて塔のもろもろの棟木(むなぎ)は高く鳴りわたる。
クロニオーンの鞭により打たるるアルゴス軍勢は、
その軽船のかたわらに追われ来りてうずくまり、
激しき畏怖のもといたる将ヘクトールに向かいえず、
そのヘクトールいまもまた颶風のごとく荒れ狂う。  40
たとえば獅子王あるは猪(しし)、勇に誇りて一群の
狩人および猟犬を前にその身をめぐらせば、
人々さながら壁のごと隊を組みつつ相向かい、
激しく早く手中より投げ槍飛ばす、しかれども
野獣の心猛くして恐れず怖じず荒れ狂い、  45
(その勇ついに生命をほろぼすもととなりぬべし)12-46
かくてしばしば身を転じ隊の勇気を試みて、
ふるいおどりて入るところ、隊は恐れてあとしざる。
かくヘクトール、隊中をすすみながらに同僚を
励まし敵の塹壕を渡り行くべく説き勧む。  12-50

されども彼の足速き駿馬むなしく岸の上、
その外端に立ち止まり、ただ高らかにいななきて 52
広き塹壕恐れつつ、あえて進まず、一躍に
その堀越すを得べからず、渡ることまたやすからず、
堀の両側懸崖は迫るがごとくそびえ立ち、  55
上にアカイア軍勢の植えし鋭き杭繁く、
群がりたちて敵人の侵入いたく防ぐめり。
車輪を引ける馬にしてたやすく越えんものあらず、58
されども徒歩の分隊は勇みてこれを遂げんとす。

そのとき猛きヘクトルにプーリュダマスは陳じいう、  12-60
『ヘクトルおよびトロイアと援軍率いる諸将軍、
駿足駆りてこの堀を越えんとするは愚かなり、
堀を越すことやすからず、鋭き杭はその中に、
植えられ、しかもアカイアの塁壁ますぐにそびえたつ、
騎兵たるものくだり行き戦う事を得べからず、  65
ところは狭し、おそらくは害受くること多からむ。
高きにいます轟雷のクロニオーン憤り、
わが仇(あだ)倒し、トロイアの軍に助けを心せば、68
アカイア勢はアルゴスの故郷はなれて誉れなく
ここに滅びむ、その事の早くも成るをわれ願う。  70
されども彼ら盛り返し、我ら船より払われて、
彼のうがちし塹壕の中におちいることあらば、
再びふるうアカイアの軍を逃れて、わが城に
帰り敗報伝うべき一人もなきをわれ恐る。
いざいまわれの忠言を皆ことごとく受け入れよ、  75
従者に命じわが馬を堀のほとりに留めしめ、
我らは徒歩に軍装を整え、ともにヘクトルの
あといっせいに追い行かむ。破滅のきずなアカイアの
軍にまとい付くべくば、我らにあらがうことなけむ』

プーリュダマスの述べし言、賛しうべなうヘクトール、  12-80
ただちに戦車とびおりて武装整え地に立てり。12-81
そのときほかのトロイアの軍勢、猛きヘクトルを
眺め同じくためらわず戦車を捨てておりたてり、
かくておのおのその御者に命じ、順よく塹壕の
ほとりに馬をとどめしめ、兵士らすなわち相わかれ、  85
さらに五隊に軍勢をととのえ、かくて堂々と
進みおのおの命令を下す武将のあとにつく。

ヘクトルおよび豪勇のプーリュダマスのひきいたる
第一隊は兵の数、もっとも多く勇すぐれ、
塁壁破り船の前、戦う念も他にまさる。  12-90
ケブリオネス[1]は第三の将たり、ケブリオネースより
劣れるものをヘクトルは戦車にそばにとまらしむ。

[1]ヘクトールの御者(8-318、11-522)なれど参戦す。

パリスならびにアルカトオス[1]、アゲーノール[2]は第二隊、12-93
第三隊はプリアモス王の生みたる二人の子
デーイポボスとヘレノス[3]と、さらに将たりアーシオス[4]、12-95
ヒュルタコスの子アーシオス、セルレーイスの流れ入る
アリスベー[5]よりトビ色の駿馬に乗りて来るもの。

[1]アルカトオス。アイシュエテスの子、ヒッポダメイアの夫。(13-428)。
[2]アゲーノールはアンテーノールの子。(4-467、11-59)。
[3]デーイポボス、勇将の一人(13-156)。ヘレノスは6-75。
[4]アーシオスは2-837。
[5]アリスベーは2-836。

アンキーセース生むところアイネイアスは第四隊
ひきいつ、ともに将たるはアンテーノールの二人の子、
アルケロコスとアカマース[1]、ともに戦術すぐれたり。12-100
最後の隊はほまれある援軍、これをひきいるは
サルペードーン、供としてアステロパイオス[2]、グラウコス、
選べり。二将彼に次ぎ勇武もっともまされりと
その眼に映る、しかれども主将すべてにいやまさる。

[1]アルケロコスとアカマースは2-823。
[2]21-140。

かくて軍勢いっせいに牛皮を張れる盾用い、105
身を守(も)り、いそぎダナオイの軍勢めがけふるい行き、
心に思う、敵軍は支えず、船を攻むべしと。

かくトロイアの軍勢と誉れとどろく援軍は、
常に過失犯さざるプーリュダマスの言を容る。
ヒュルタキデース・アーシオス(ト)、一の部隊をひきいたる  12-110
彼ただ一人その戦馬ならびに御者を堀のそば、
残すことなくいっせいにひきいて敵の船せまる。
愚かなるかな、凶運を逃れて敵の船よりし、
風すさまじきイリオンの都城をさして揚々と、
戦車戦馬を引きかえす誉れ得べきにあらざりき。  115
その事あるに先だちてデウカリオーンのすぐれし子
イードメネウスの槍により彼を非運はとらえたり[1]。

[1]13-384以下で起こる。

事の始末をたずぬれば、アカイア勢が平野より、
戦馬戦車を引き返す陣地の左翼めあてとし、
彼[1]は戦馬と戦車駆りすすみて敵の陣門に、  120
到れば、長き閂(かんぬき)は引かれず、その戸とざされず、
戦場よりし船めがけ逃れ来らん同僚を、
救わんために陣門は広く開きて残されぬ。

[1]アーシオス。

そこに勇みて馬を駆る、部下も叫喚ものすごく、
これにつづきて攻め寄せて、思う「アカイア軍勢は  12-125
留まり支うるをえず、水陣さして退くべし」と、
愚かなるかな、門の前、見ずやたたずむ二勇士を、
ラピタイ族の槍使う英豪の子ら、その一は
ペイリトオス[1]の生める息ポリュポイテース(ギ)[2]、他の者は
レオンテウス(ギ)[3]の名を呼びて、殺戮好むアレースに  130
比すべし、二人高らかの門の戸口にすくとたつ。

[1]2-741。
[2]2-740以下。
[3]2-745。

たとえば樹梢高らかに空にひいりて山上に、
屹然(きつぜん)としてそびえ立ち、おおいなる根を広く張り、
日々に雄々しく雨風をしのぐ大柏見るごとし。
かくて二人はその腕と勇気を頼み、押し寄する  12-135
敵アーシオス待ち受けて一歩もあとにしりぞかず。
敵は牛皮を張りし盾高くかざして堅牢の
塁壁めがけ叫喚の声かしましく攻め来る。
ひきいるものはアーシオス(ト)、イアメノスまたオレステス[1]、
アーシオスの子アダマース(ト)、トオーン(ト)[2]ならびにオイノマス[3]。  12-140

[1]イアメノスとオレステースはこのあとレオンテウスに殺さる。12-193
[2]5-153と11-422は別人。
[3]正しく言わばオイノマオス、5-706は別人。

こなた二将はそのはじめ塁壁のなか声あげて、
船ふせぐべく堅甲のアカイア軍勢励ましき。
されどトロイア軍勢がここに向かいて殺到し、
味方の勢は叫喚を発し逃げんとするを見て、
二将すなわち出で来り陣門のまえ戦えり。  145
二頭の猪(しし)が山の中荒れて、狩人猟犬の
むれ奮然と襲えるに抗し、左右(そう)より向かい来て、
あたりの樹木押し倒し根元よりしてうち砕き、
牙かみ鳴らし狂いつつ、ついには群の人々の
放つ矢だまに倒されてその生命を失える―― 12-150
まさにそのごと両将は、光る胸甲敵人の
打撃を受けてひびくまで、味方の勢が壁上に
立つを頼みに、わが力猛きを信じ戦えり。
おのが命と陣営と船とを守り防ぐため、
アカイア軍は壁の上その堅牢の塔により、  155
石投げ落とす。たとうれば暗澹としてすごき雲、12-156
雲を駆り行き荒ぶ風、風は激しく吹きまくり、
雪は粉々舞いおりて、大地の上にふるごとし。
かくしてかなたアカイアの、こなたトロイア軍勢の
手より投ぜる飛道具、巨大の石のくだり来て、  12-160
激しく打てば兜鳴り隆起の高き盾ひびく。

ヒュルタキデース・アーシオス(ト)その時うめき、両のもも
激しくうちて憤然と声はりあげて叫びいう、
『天父ゼウス[1]よ、君もまた忌むべき虚偽をかくばかり
好むものかな。わが威力、わが堅剛の手に向かい、  165
アカイア勢はかくばかり、こらえ防ぐと思いきや?
険しき道に巣を作る体(たい)しなやかの熊蜂か、
あるは蜜蜂いそがしく、狩りする群に奮然と、
抗して、常に誤らずその子を守り防ぐため、
その宿めぐり紛々と、乱れ翔けるを見るごとし。  170
わずか二人に過ぎざれど、討つかあるいは討たるるか、
最後の時の到るまで彼ら陣門立ち去らず』

[1]神を人間がとがむること。3-164。

しか叫べどもクロニオンその神意をば動かさず、
神が栄光授くるはただヘクトール一人のみ。

他の者同じく他の門のほとりに立ちて戦えり、  175
我もし神の身なりともこれらすべてを述べ難し。
見よ石造りの壁に沿い、いたるところに猛火燃ゆ、
苦しみながらアルゴスの軍はやむなくその船を
守る、しかしてダナオイをその戦闘の庭の上、
助くることを願いたる諸神ひとしく悲しめり。  180

しかして奮戦力闘にラピタイ二将つとめたり、
ペイリトオスの生める息ポリュポイテース(ギ)勇ふるい、
槍を飛ばしてダーマソス[1]着る青銅の兜うつ、
兜は槍を防ぎえず鋭き穂先突き入りて、
彼の頭骨(とうこつ)つんざけば脳髄うちに飛び散りぬ。  185
勇にはやりしダーマソスかくて無残に滅び去り、
ピュローン[1]ならびにオルメノス[1]同じく次いで倒れたり。12-187

[1]ダーマソスとピュローンは前後になし。8-274に他のオルメノスあり。

レオンテウス(ギ)はアレースに似たる勇将、槍飛ばし
アンティマコス(ト)の生める息ヒッポコマス†を射て倒し、
さらに鞘より鋭利なる剣(つるぎ)を燦(さん)と抜き放ち、  190
群がる敵を通り越し、アンティパテース[1]にまっさきに、
近付き寄りて討ちとめて、どうと地上に切り倒す。
つづきて[1]メノーン、イアメノス、オレステースを順々に 12-193
レオンテウスは勇を鼓し大地の上に切り倒す。

[1]アンティパテースとメノーン他に見えず。

しかして彼ら身につけし輝く武具を剥ぎとれる、  195
その間にかなたヘクトルとプーリュダマスに続きたる
トロイア壮士、その数ももっとも多く、その勇気
もっともすぐれ、塁壁を破りて船を焼かんずる
思念もっとも強き者、堀のへ立ちてためらえり。
ゆえは塹壕渡るべく念ぜる時にこつ然と、  12-200
高く空飛ぶ荒ワシは陣の左方をかすめ来つ[1]、
爪に血紅(ちべに)のおおいなる蛇をつかめり、その蛇は
なお生き、もがき、抵抗を捨てず忘れず、身をかえし、
捕えるワシの首のそば激しく胸に噛みつけば、
猛鳥さすが苦しみに耐えず獲物を打ち捨てて  205
大地の上に、軍隊のむらがる中にふりおとし、
声高らかに鳴き叫び嵐に乗りて飛び去りぬ。
トロイア勢は足元にもがくへび見てアイギスを
持てるゼウスの徴(しるし)とし、畏怖にうたれて立ちどまる。

[1]左方に現わるるを凶兆とす。2-353。

そのとき勇武のヘクトルにプーリュダマスは寄りていう、  210
『ああヘクトール、集会の席に忠言吐く我を
汝は常に責め叱る。げに民衆のとある者、
評議あるいは軍略に汝に反し述ぶること、
ふさわしからず、すべからく汝の威信高めんと
努むべからむ、しかれどもいま最善の策述べん。  215
すすみダナオイ軍勢と船を争うことなかれ。
トロイア軍勢この堀を越すべく念じたりし時、
この鳥来る、これにより思うに結果かくあらむ。
高く空とぶ荒ワシは軍の左方をかすめ来ぬ、
爪につかむは巨大なるくれない色のすごき蛇、  220
なお生けるもの、しかれども巣に到る前、地に落し、
たずさえ帰りひな鳥に与うる望みむなしかり。
かくのごとくにアカイアの陣門ならびに塁壁を、
力をこめてうち砕き、敵を激しく敗るとも、
同じく道を整然と船より帰り得べからず、  225
水軍守るアカイアの青銅の刃にトロイヤの
多数の味方殺されて見捨てることになりぬべし。
神のしるしを聡明の心の中によく悟り、
占うものはかく解かむ、民はその耳傾けむ』

堅甲光るヘクトール、彼をにらみて叱りいう、  230
『プーリュダマスよ、汝いう言はわが耳喜ばず、
これよりまさる良き言句、汝は述ぶるすべ知れり。
されども汝、心よりかかる言説吐くとせば、
まさしく天の神明は汝の知恵をほろぼせり。
汝はわれに轟雷のクロニオーン約したる、  235
しかもうなずき、うべないし教示を忘れしめんとし、
しかして、つばさ大いなる鳥に服従せよという。
そを我あえて省みず、つゆ念頭に掛くるなし、
右方に飛びてあけぼのと光輪めがけ翔けるとも、
左方に向きて暗澹の夜の領へと進むとも、  240
何かはあらむ。我はただ人間ならびに神々の
王たる高きクロニオンくだす戒め守るべし、
祖国のための戦いは、まさに無上の良ききざし[1]、12-243
何ゆえ汝、戦いと闘争、せつに恐るるや?
我らの軍がことごとくアルゴス軍の船回り、  245
討死にすとも、汝のみ死すべき恐怖あらざらむ、
汝の心、戦いに剛健ならず勇ならず。
されども戦地はなるるか、あるは他人を言句もて、
誘い戦い避けしめば、許さぬわれの長槍は、
鋭く討ちてたちまちに汝の命を絶やすべし』  12-250

[1]この名句は古人の賞嘆するところ、アリストテレスの弁論術二巻二十一章(1395a10)。プルタルコスのピュロス伝二十九章に引用。VOSSの訳"Ein Wahrzeichen nur gilt, das Vaterlandzuerretten"

しかく陳じて先頭に進めば、兵は囂々(ごうごう)と
叫喚あげて後を追う。そのときゼウス・クロニオン、
イーダの山の高きより颶風一陣吹き送り、
船をめがけてまっこうに砂塵を飛ばし、アカイアの
軍を悩まし、ヘクトルとトロイア軍のほまれ増す。  255
神のしるしとわが威力信じてたのむトローエス[1]、
アカイア勢の塁壁を勇み進んでくだかんず。
すなわち塔の笠石[2]をくずし、胸壁押し倒し、
アカイア軍がそのはじめ塔の固めに地の中に、
据えし支えの巨材をばかなてこ用いこじあげて、  260
はずして、かくてアカイアの塁壁くだきおおせんず、
されどダナオイ軍勢はその場をたえて立ちのかず。
牛皮の盾[3]に胸壁をあくまで固く防御しつ、
壁に向かいて寄せ来る敵に激しく石を投ぐ。

[1]トロイア人(トロース)の複数。
[2]原語『クロッサイ(κρόσσαι)』明らかならず。
[3]原語は単に『牛皮をもって』。あるいは盾ならず牛皮をもって間隙をおおわんとするか?されど盾を単に牛皮と呼ぶこと稀ならず。

ここに二人のアイアース、塔に沿いつつ令下し、  265
至る所にアカイアの軍の力を振わしめ、
畏怖し全く戦場をしりぞく者を見る時は、
あるは優しくあるはまた叱咤(しった)によりて戒めぬ。

『わが戦友よ、アルゴスの軍中抜きんじ出づる者、
あるいは力中等の者、また劣る者、  270
(戦いの場に万人はみな平等に作られず)
いずれの者もことごとくその任あるを汝知る、
この叱責を聞ける者、けっして船に逃るるな。
進め、進みておのおのは友を励ませ、クロニオン、
空に電光飛ばす者、敵の攻撃うち払い、  275
これを都城に返すべく我らに恩寵たまわらむ』

しかく叫んで両将はアカイア軍を奮わしむ。
石はいま降る、たとうれば雪の大地に降るごとし、
考量深きクロニオン厳冬の日に白雪を、
あたかも彼の矢のごとく風をしずめて紛々と、  280
人間の世に降らすとき、高き山々高き崎、
草生う平野、農民の畑いっせいに覆う時、
また大海の岸の上、港の上にくだす時、
かくしてひとり波浪のみ、そのうえ襲いくる雪を
溶かして影を隠すとき、——クロニオーンの手よりして  285
天地一つに包むまで、かくふり来たる雪のごと——
敵と味方の両軍は互いに石を投げかわし、
トロイア軍はアカイアに、アカイア軍はトロイアに、
投げて飛ばして塁壁のまわり喧騒おびただし。

そのときゼウス、その愛児サルペードーン(ト)をアルゴスの  290
軍に、さながら牧牛の中に獅子王荒るるごと、
向かわすことのなかりせば、トロイア軍とヘクトール、
敵の陣門また巨材破りくだくは不可ならむ。
見よ、勇将の振りかざす丸き大盾いみじきを、
鍛錬なせる青銅の華麗の盾は、良工の  295
作りしところ、円面(えんめん)のめぐりを走る黄金の
すじに牛皮の幾層を縫いて固めてなりしもの。
この盾まえに捧げもち、さらに二条の槍ふるい、
サルペードンは深山に長く飢えたる獅子のごと、
ふるい進めり——その獅子は猛き心に促され、  12-300
守り堅固の羊檻を襲いて家畜ほふるべく、
すすみ侵して、その場(にわ)に槍を具したる牧人と、
番する犬ともろともに群を守るを見出だすも、
一の試みなさずして場を追わるるを肯(がえ)んぜず、
おどりかかりて、一頭を噛むかあるいは牧人の  305
すばやき手より飛ばさるる槍にうたれて倒るべし。
かく敵営をおそい討ちその胸壁を崩すべく、
サルペードーンの勇猛の心は彼を促して、
ヒッポロコスの子グラウコス、友を励まし叫びいう、

『ああグラウコス、いかなれば我ら二人はリュキアーに、  310
民に優れる席順とまた食膳と芳醇を
受くるや?民は何ゆえに神のごとくにあがむるや?
さらに我らはクサントス、流れに沿いてうるわしき、
果樹の畑また麦の畑、広き荘園領となす。
さらばリュキアの軍勢の先鋒中に身を置きて、  315
燃ゆるがごとき戦闘に面することぞふさわしき。
さらば胸甲まといたるリュキアー人はかく言わむ、——
「肥えたる羊、食となし、蜜のごとくに甘美なる
酒傾けてリュキアーを治むる彼ら諸統領、
げにも卑しき者ならず。見よ、勇力もまた優り、  320
リュキアー軍の先鋒に立ちてかくまで戦うを」
ああ友よ、いま我らこの戦闘の場を逃れいで、
とこしえ常に不老の身、不滅の者となるべくば、
我は再び先鋒のあいに戦うことなけむ、
誉れを得べき戦場に君を進めることなけむ。  325
さはれ死滅の運命は無数、われらを取り囲む、
いかなる者もこれを避け、これを逃るを得べからず。12-327
しからば行かむ、栄光を他に与うるや我取るや[1]』

[1]これまた古人の賞嘆の句、Demosthenesの『冠について』97節、Ciceroのフィリッピカ第十の十章20節、VirgiliusのAeneis十巻四六七行以下に引用さる。

しか陳ずればグラウコス、背かず絶えて脇向かず、
ともにリュキアの大部隊ひきいて猛に攻めかかる。  330
おのが持ち場に敵将が破滅を来し攻め寄るを、
ペテオースより生まれたるメネステウス(ギ)[1]は見て震い、
恐れ、アカイア軍勢の塔[2]を見回し、将軍の
たれか味方の災いを防ぎ救うを乞い求む。
やがて二人のアイアース、いくさ倦まざるもの認む、  335
新たに陣を出て来るテウクロス[3]またそば近し。

[1]2-552。
[2]壁全部をいう。
[3]ヘクトールに傷つけられて陣にしりぞく。8-334。

されど大声発するも彼らの耳に入り難し、
喧騒もっともはなはだし、打たるる盾と兜との、
ひびき、はたまた関門をうつ音、高くそらに入る。
そは閉ざされし関門を囲みて前に立てる者、  340
勇をふるいて打ちやぶり内に入らんとするがゆえ。
ただちに彼は使者としてトオーテースを走らしむ、

『トオーテースよ、疾く走り、行きてアイアス呼び来れ、
あるいはむしろ両将を、さらばもっとも可なるべし、
いますみやかにこの場(にわ)にすごき壊滅起らんず。  345
過ぎしこのかた恐るべき闘争中にその威力
猛きリュキアの二将軍、ここに向かいて迫り来る。
されどかなたも戦闘の労に将士ら関わらば、
せめても一人テラモーン生める豪雄アイアース
来れ、しかしてテウクロス弓の名将彼に継げ』  12-350

しか陳ずるを聞ける使者、命に少しも逆らわず、
走り、青銅身によろうアカイア軍の壁めがけ、
行きアイアース立てるそば近付き寄りて叫びいう、

『青銅よろうアカイアの将軍、二人アイアース、
聞け。ペテオース生める息、メネステウスは乞い求む。  355
かなたに行きて戦闘にしばしなりとも面せよと。
叶わば二人もろともに——さらばもっとも可なるべし。
今すみやかにかの場(にわ)にすごき壊滅起らんず。
過ぎしこのかた恐るべき闘争中にその威力
猛きリュキアの二将軍、かなたに向かい迫り来る。  360
されどここにも戦闘の労に将士ら関わらば、
せめても一人テラモーン生める豪雄アイアース
行け、しこうしてテウクロス、弓の名将彼に継げ』

しか陳ずれば大いなるテラモニデース・アイアース
うべない、すぐにオイレウス生める子息に叫びいう、  365
『汝ならびに力あるリュコメーデス[1]はここに立ち、12-366
ふるって敵に向かうべく、ダナオイ軍を戒めよ、
我はかなたにすすみ行きその戦局に面すべし、
しかして援助果てる後、疾くこの庭に帰り来ん』

[1]9-84。

しかく陳じてすすみ行くテラモニデース・アイアース、  370
父は同じき弟のテウクロスまたともに行く、
その曲弓をたずさえてまたパンディオーン[1]ともに行き、
塁壁のなか通り過ぎメネステウスの守る塔、
——形勢まさに迫りたる部隊に到り眺むれば、
敵はさながら暗澹の颶風のごとく胸壁を  375
登りつつあり、勇猛のリュキアの主領諸将軍。
かくて戦闘、相乱れ叫喚激しくわき起る。

[1]前後にこの名なし。

テラモニデース・アイアースまさきにうちて倒せしは、
サルペードンのともなえる、名はエピクレース[1]強き武者、
塁の中にて胸壁の真上にありし鋸歯(きょし)状の、  380
巨大の岩を振り飛ばし倒せり。岩は人間の
誰しも両のかいなもて(盛りの年の勇あるも)
支うることを得ざるもの、そを高らかに持ち上げて、
投げ飛ばしたるアイアース、四つの角(つの)ある兜打ち、
エピクレースの頭骨を砕けば、彼は潜水者  385
見るがごとくに、塁壁の上より落ちて息絶えぬ。
高き壁上矢を飛ばし、ヒッポロコスの子グラウコス(ト) 
すすみ来たるを、あらわなる腕に射たるはテウクロス、12-388
かくして彼の戦闘の力砕けば、悄然と
ひそかに壁を飛びおりる、その射られしをアカイアの  390
者に見られて、高言を吐かれんことのなきがため。
かくグラウコスしりぞくを悟るやいなや、悲しみは
サルペードンを襲い来る。されどもたえて戦いを
忘れず槍の一突きに、テストールの生める息 
アルクマオーン†つらぬきつ、たぐれば槍に引かれきて、  395
敵はうつぶし青銅のきららの鎧高鳴りぬ。
サルペードンはさらにまたその剛強の腕伸して、
胸壁つかみ、もみ砕き引けば塁壁土崩れ
上部あらわに露出して侵し入るべき口開く。
そのとき彼にアイアース、またテウクロスいっせいに、  12-400
向かい来りて敵将の胸を覆える大盾の、
輝くひもに矢を射当つ、されどもゼウスその愛児
船のほとりに倒るるを惜み、彼より凶命を
そらしむ。つぎてアイアースおどりかかりて盾を突く、
突きて穂先は入らねども、勇める彼をよろめかす。  405
かくして彼は胸壁を前に少しくあとしざる、
されど全くはしりぞかず、なお栄光に望みかけ、
身をひるがえし、勇猛のリュキアー軍に叫びいう、

[1]他にこの名現われず。

『リュキアー軍よ、いかなれば汝の勇を緩めるや?
我はかばかり勇なるも、ただ身一つに如何にして  410
塁を破りてアカイアの陣地に到る道開けむ?
いざ立て、われにつき来れ、人多かれば功まさる』

リュキアー軍はその言を聞き叱責に怖じ恐れ、
厳命下す王の身をめぐりますます迫り行く。
これに向かいてアカイアの軍はこなたに塁中に  415
その隊勢(たいぜい)を増し加う、大事は起る目の前に。
かくてリュキアの軍勢はダナオイ勢の塁破り 
その水軍に進むべき道を開くを得べからず。
また槍ふるうアカイアの勢は一たび迫り来し 
リュキアー軍を塁の外、追い払うこと得べからず。420

境を示す石のそば測りの竿(さお)をたずさえて、
その共同の地所に立ち、争う二人狭隘の
区域にありてかれとこれ、おのおの分を得んとする
その様かくか、両軍は塁をおのおの相分かち、
その塁の上戦いて、互いの胸に牛皮張る  425
盾を、小盾を、円形の巨大の盾を打ちつける。

かくて戦闘相つづき、無残の刃(やいば)、ある者の
うしろを見せてしりぞける露出の背なを傷つけつ、
あるいは盾をつらぬきてまともに敵の肢体打つ。
胸壁ならびに塔の上到るところにトロイアと  430
アカイア軍の双方の流す紅血ものすごし、
されどアカイア軍勢を追いしりぞけることをえず。
そをたとうれば細心の女性が左右の皿の上、12-433
分銅および羊毛をのせて秤をひとしくし、
これを紡ぎて子らのため些少の賃を得るごとし、  435
かく戦える両軍の勢力まさに相等し。
やがて勝利の栄光をクロニオーンはヘクトルに、
プリアモス王生める子に、与えて塁をまっさきに
越えしむ。彼は高らかにトロイア軍に叫びいう、

『馬術たくみのトロイアのわが軍勢よ、いざ進め。  440
アカイア軍の塁破れ、船を猛火に焼き払え』
しかく陳じて励ませば軍勢これを耳にして、
猛然として塁めがけ一団なして迫り行き、
鋭き槍を手にとりて塁上高く駆けのぼる。

そのとき下部は厚くして上部は尖る石一つ、  445
城門のまえ横たわる、そをヘクトール抱だき上ぐ——
いまあるごとき人間の力、もっとも強きもの、
二人合して地上よりかなてこ用い車のへ、
たやすくこれが乗せがたし。されどヘクトルただひとり、
クロニオーンの助けよりこを軽々と抱き上ぐ。  12-450
たとえばとある牧羊者、やすく羊毛一房を
片手に取りてその重み少しのわずらいなさぬごと、
かくヘクトール大石を抱だきおこして腕にとり、
厳重堅固の備えあるその関門の戸の前に
運び来りぬ。関門は二重の扉高く張り、  455
二条の横木、一条のかんぬき、内にこを固む。
その前迫り立ちどまり、投げの威力を増すがため、
しかと両足踏ん張りて、まともに巨石投げ飛ばし、
門を固むる蝶番(ちょうつがい)左右二つを砕き去る。
石はおのれの重みにて内に落ち入り、関門は  460
高鳴り、横木支ええず、石に打たれて堅剛の
扉左右に飛び散りぬ。かくて勇めるヘクトール、
顔はにわかの夜(よ)のごとく[1]、その黄銅の装いは
燦爛として、その手には二条の槍をたずさえて、
おどりすすみて内に入る。神を除きて何びとも  465
彼に手向かうことをえず、その眼光は火のごとく、
軍隊中に振り向きて塁を越すべくトロイアの
諸軍に高く呼ばわれば、彼の指令を兵は聞き、
そのあるものは壁を越し、他のあるものは堅牢の
門をくぐりて流れ入る、ダナオイ勢は支ええず、  12-470
水陣さして逃げ走り喧騒絶えずわき起る。

[1]1-46(アポロンのごとし)。


イーリアス : 第十三巻



 船のほとりの戦い。ポセイドーンはアカイア軍の敗亡を憐れみ、行きてその陣中に現われ、カルカースの姿を借りて全軍を励ます。両雄アイアース、勇をふるいてヘクトールをしりぞく。その他諸将の奮戦。左陣においてイードメネウス、メーリオネス、アンティロコス、メネラーオスらはアイネイアース、デーイポボス、ヘレノス、パリスと戦う。プーリュダマスの忠言により、ヘクトールは諸将を集めていっせいに追撃す。戦い益々激し。

トロイア軍とヘクトルをアカイア軍の船のそば、
導き来るクロニオン[1]、絶えず努力と艱難を
彼らに課しつ、自らはその爛々の二つの眼
回して、あなたトラーキア馬飼う族と、接戦の
ミューシア族と、すぐれたるヒッペーモルゴイ住める郷、  13-5
馬乳飲む者、さらにまたまさしき義民アビオイの
国々遠く見渡して、またくトロイア顧みず。
心に思う、神々の中のいずれもトロイアに
またダナオイに応援のために行く者あるまじと[2]。

[1]イーダ山上に座して(11-183〜)。
[2]8-7。

大地を震うポセイドーンされど監視を怠らず、  13-10
サーモス・トラーイキアーの緑埋(うず)むる高き峰[1]、13-11
その頂きに座せる神、驚きながら戦争と
苦闘を眺む、その場よりイーダーならびにイリオンの
都城ならびにアカイアの船望むべし。大海を
出で来たる神かく座して、トロイア軍に破らるる  15
アカイア軍を憐れみて、いたくゼウスにいきどおる。

[1]エーゲ海中の島。サモトラキ島

ただちに彼は高峻の山よりくだり、その足を[1]
急に運べば、欝蒼の森もそびゆる山々も、
ポセイドーンの大いなる不滅の足の下に揺る。
三たび進める大またぎ、四たびに着くは終わりなる  20
アイガイ[2]。そこにわだつみの波浪の底に黄金の
光輝き永劫に朽ちざる宮ぞ築かるる。
ここに来りて青銅の足ある駿馬——黄金の[3]
たてがみありて迅速に飛ぶを兵車につなぎつけ、
身に黄金の鎧着て手に精巧に作られし  25
金の鞭とり、悠然と車台に乗りてまっしぐら、
潮(うしお)の上を乗り行けば、海の百妖、洞窟の
中より出でて、君王を認めて波におどり舞う。
波浪もともに喜びて道を開けば神速に、
馬はさながら飛ぶごとく青銅車輪うるおわず。  30
神を運びてアカイアの陣地めがけてすすみ行く。

[1]ウェルギリウスの『アイネイス』5-817以下はこの一段をまねる。
[2]アカイアの一市(8-203)か、エウボイアのそばの島か、エウボイアの岸上の市か、古来の註解者未決。
[3]ボアローの名訳あるよし。

テネドスおよびイムブロス、その険要のあいにして、13-32
おおわだつみの淵の下、広き洞窟あるところ。
大地を震うポセイドーン、駆りし駿馬を止まらしめ、
兵車よりして解き離し、アムブロシアの食物を  35
投げ与えつつ、その足を黄金のかせ、堅牢に
解き得ぬ枷につなぎとめ、ここに再び自らの
帰り来るまで留まらしめ、かくてアカイア陣に行く。

かなたトロイア軍勢は一隊となり炎々の
炎のごとく、吹きまくる嵐のごとく、叫喚の  40
声を挙げつつ猛然と、プリアモスの子ヘクトルに
つづきアカイア兵船を奪い、勇士ら倒さんと、
望む。おりしも大海を出で来りたるポセイドーン、
大地を抱きまた震う神はアカイア軍勢を
励ます、声と姿とはカルカース[1]のごとくして、  45
すでに猛威のさかんなる同名二人アイアース、
二将に叫ぶ、『アイアース、汝らアカイア軍勢を 
救わん、勇を振り起し卑怯の逃を思わずば。
一隊なして塁壁を越せるトロイア軍勢の
勇猛の腕、我は他の部署においては恐怖せず、  13-50
脛甲かたきアカイアの軍はこぞりてみな支う。
我ただいたく恐るるはここなり、苦難来るべし、
ゼウスの息[2]とたかぶれるプリアミデース・ヘクトール、
士卒に令し勇猛の威勢さながら火のごとし。
されどある神、汝らの胸に勇気を吹き入れむ、  55
かくて汝ら勇猛に支え、なおかつ同僚を
戒め、敵の奮戦を船足速き水軍の
外に払わむ、オリュムポス主神は敵を助くるも』

[1]占術に長ぜるもの(1-169)。
[2]ゼウスに愛され守られる者。後153また18-293等。

しかく宣して、大地ゆり大地を包むポセイドーン、
その笏あげて両将に触れて勇気を満たさしむ、  60
かくて二人のアイアース手足ひとしく軽く敏(と)し。
かくてたとえば千尋の高き険しき岩山の
上よりさっと落し来て、平野の空に鳥を追う
つばさするどき若タカの勢い猛く翔くるごと、
大地を震うポセイドーン二人を離れ駆け去りぬ。  65
これを真先きに認めたるオイレウスの子アイアース、
すぐにテラモーン生みいでし他のアイアースに向かいいう、

『見よアイアース!とある神、ウーリュンポスをくだり来て、
占者の姿とりながら船の近くの戦いを
命じぬ。(鳥のふるまいを解く[1]カルカース、彼ならず、  70
駆け去る彼の後ろ影、我はたやすく認めたり、
足の動きを認めたり、神認むるは難からず)
いま胸中にわが心、奮戦苦闘果すべく
いたく奮いて勇みたち、激しくおどり静まらず。
下の双脚また上の両腕ひとしくみな勇む』  75

[1]鳥の動きを見て占う。

テラモーン生めるアイアースそのとき答えて友にいう、
『まさに同じく剛勇のわが手は槍を振うべく
勇み、わが意気またふるい、固き双脚軽くして
駆けいでんとす、たとえ身はひとりたりとも、勇猛に
狂う敵将ヘクトール迎えて雌雄決せんず』  80

しかく互いに陳じ合う両将、胸に神霊の
注げる思い、戦闘の思いに勇み喜べり。
時を同じく軽船のほとり後陣に留まりて
気を養えるアカイアの軍を励ますポセイドーン。
彼らの四肢は痛わしき苦闘によりて弱りはて、  85
トロイア軍のいっせいに勢い猛く塁壁を
昇り来るを眺めやり、胸に悲痛の念満たす。
かくて敵軍おかし入る姿を眺め、さん然と
涙を垂れて、身の破滅免れえずと感じたる
アカイア勢をポセイドーン、訪いて勇気を振わしむ。  13-90

初めに訪いて励ますはテウクロスまたレーイトス、
ペーネレオスと勇猛のトアスならびにデイピュロス[1]、
また音声の大いなるメーリオネス(ギ)を、さらにまた、
アンティロコスを励まして羽ある言句宣しいう、

[1]レーイトスとペーネレオースはボイオーティアーの将軍、2-494。トアスはアイトリア人の将(2-639)、デーイピュロスは9-83に出づ。

『恥じよ!汝らアカイアの小児、汝ら戦いて  95
わが水陣を防ぐべく我は信頼かけたりき、
汝らつらき戦闘を恐れて逃ぐることあらば、
トロイア軍の戦勝の日はまさしくも明けしなり。
あわれ何たる驚異なる、いまわがまみに映ずるは!
忌まわしきかな、かかることあり得べしとは思いきや!  13-100
我らの船にトロイアの軍勢かくも寄せんとは!
おそれて道に逃げ迷い、闘うすべを知らなくに、
果ては無残に林中に虎豹(こひょう)あるいは狼の
餌食となれる鹿の群、さきにはこれに似たる敵、
トロイア軍はまっこうにアカイア軍の勇力に  105
手向かうすべを知らざりき、防ぎ得ざりき、しばしだも。

『さるを今はた総帥(そうすい)の過失[1]、ならびに士卒らの
懈怠のゆえに、都城より離れて彼ら水軍の
ほとりに荒び、わが軍はかれに逆らいわが船を
守らんとせず、いたずらにここに無残にほろぼさる。  110
アトレイデース、権勢のアガメムノーン、英豪の
かれ足速きアキレウス・ペーレイデスを恥かしめ、
そのため招く災いのもとたる責めは免れず。

『しかはあれども戦闘を捨つるは我らの分ならず、
互いの怒り捨てるべし、勇士の心癒えやすし、  115
軍中もっともすぐれたる汝ら猛き剛勇の
意気なげうちてよからむや?ほかの卑怯の輩(ともがら)の
恐れ戦場引き去るを我はとがめず争わず。
ただ軍中の勇士たる汝らにむけ憤る、
ああ汝らは弱き者、間なく懈怠の罪により、  120
さらに大なる災いを来さん、いざや各々の
胸の恥辱と憤激を満たせ、大事は起らんず。
雄叫び高きヘクトール勇をふるいて水軍の
そばに戦い、関門を長き横木を破りたり』

[1]アガメムノーンがアキレウスを怒らせしこと。

大地を包むポセイドーンかくアカイアを励ませり。  125
かくて二人のアイアスをめぐりて、強き陣列は
悍然(かんぜん)として踏みとまる。アレース彼らを侮らじ、
兵を励ますアテネーもまた侮らじ、軍中の
勇気もっとも優るもの立ちてトロイア軍勢と
ヘクトル待ちて、槍と槍、盾と盾とは相迫る。  130
兜と兜、人と人、盾と盾とは相迫り、
戦士頭を揺るがせば、光る兜の頂きの
馬尾の冠毛ゆらめきて、かれとこれとは相ふれつ[1]、
槍は激しく勇敢の手にふるわれて相まじり、
アカイア勢は戦いの念を燃やして待ち受けり。  135

[1]原文131〜133は16-214〜216にまた出づ、古代に有名なりし句。本詩の最上のスタイルを代表するものと称せらる。

トロイア軍は密集の隊を作りて、ヘクトール
その先頭にたけりたつ。たとえば大雨、勢いを
添うる急流あふれ出で、険しき山根うち崩し、
頂き高く大石を緩めて坂を落とすとき、
道にあるものみな砕け、森はその下鳴りひびく、  140
その石おどりひるがえり、落ちて平野に下るとき、
なお勢いは残れども止まりてついに転びえず。
かくそのはじめヘクトールおどし進みて殺戮を
加え、アカイア陣営と船と岸とにおしせまる。
されども進み密集の敵の部隊に会えるとき、  145
激しく打たれ立ち止まる。そのときアカイア軍勢は
利剣をふるい、双刃の槍をふるいて追い払う。
追い払わるるヘクトール、思わず引きてめくるめき、
大音あげてトロイアの軍勢よびて叫びいう、

『トロイア、リュキアー諸軍勢、接戦強きダルダノイ、  13-150
こらえよ。敵は壁のごとその隊勢を整えて
密に組むとも、また長く我を支うることを得じ。
ヘーラーの夫、雷霆のゼウス、諸神の主たるもの、153
力を貸さば、わが槍に追われて彼らしりぞかむ』
しかく宣して各々の勇と意気とを呼び起す。  155

プリアモス王生める息デーイポボスは勇猛の 13-156
思いを鼓して円形の盾をその前ふりかざし、
これにその身を覆い守り、足神速にすすみ行く。
メーリオネス(ギ)はこれを見て輝く槍を投げ飛ばし、
牛皮のつつむ円盾に狙い違わずうち当てる、  160
されどもこれを貫かず、鋭く長き槍はその
根元において穂は砕く。デーイポボスは剛勇の 162
メーリオネスの突く槍を恐るるあまり、牛皮もて
包める盾を腕伸ばし胸より隔て身を覆う。
かなた英武の敵将は、勝利と槍を失いし  165
その失敗に憤り、足を回して隊に入り、
さきに陣中残し来し巨大の槍を手に取りに、
やがて陣舎とアカイアの船へといそぎ立ちかえる。

他の将兵は戦いて不断の叫びわき起る。
テラモニデース・テウクロス奮い、牧馬の群れ多き、  13-170
メントール†の子――勇猛のイムブリオース(ト)討ち取りぬ。
アカイア軍の寄せし前、ペーダイオンに住める者、
プリアモス王生める庶子メーデシカステー彼の妻、
アカイア軍勢船ひきい郷に上陸したる後、
イリオン城に入り来りトロイア中に名を上げつ、  175
プリアモス王、子のごとく愛して宮にとめし者。
テラモニデース・テウクロス、長槍ふるい耳の下、
彼をつらぬきその槍を引けば大地に倒れ伏す。
山頂高く四方より仰ぎ見るべき高木(こうぼく)の
幹を青銅の斧切りてその葉地上に散るごとし、  180
彼は倒れて青銅の磨ける武具は鳴りひびく。
武具を剥ぐべくテウクロス勢い猛く駆け出す、
駆けだす彼をヘクトール、めがけ輝く槍飛ばす。
そを認めたるテウクロス、避けてあやうく逃れ得つ、
槍は戦地に立ち向かうアムピマコス(ギ)の胸を射る。  185
老アクトルの生める息クテアートスを父とする 13-186
彼、ヘクトールの槍うけて地に伏し武具は高鳴りぬ。
そのとき馳せてヘクトール、勇武のアムピマコスより
その額上を覆いたる兜を奪い剥がんとす。
その駆けいずるヘクトルを、輝く槍にアイアース、  190
狙いて撃てど、堅牢の青銅武具に守らるる
かの身に入らず、大盾のおもての隆起うちあてぬ。
これにおそれてヘクトール、敵と味方の二勇士の
かばねをあとに引き返し、アカイア軍が取り収む。

アテーナイ人ひきいたるメネステウスとスティキオス、  13-195
アムピマコス(ギ)のなきがらをアカイア陣に運びさる。
さらに二人のアイアスはイムブリオス(ト)を勇ましく、
運ぶ、たとえば獅子二頭、鋭き牙の犬の群 
守れる山羊を奪い取り、繁れる薮のただ中に
ふくみて、頭高らかに振りあげ運びさるごとし。  13-200
かく青銅をよろおえる二人の猛きアイアース、
高くかばねを引き上げて武装を剥ぎつ、さらにまた
オイリアデース[1]その友のアムピマコスのゆえにより 
怒りて、敵[2]のやわらかき首より頭切り落し、
投ぐればあなたヘクトルの脚下に塵にまみれ落つ。  205

[1]オイレウスの子なる小アイアース。
[2]イムブリオス。

この恐るべき戦闘に倒れし末裔[1]憐れみて、
大地を震うポセイドーンいたく心に憤り、13-207
ダナオイ族の励ましに、アカイア軍の陣営と
船へと向かい、トロイアの軍の災いもくろめる――

[1]アムピマコスのこと。186のクテアートスはポセイドーンの子と称せられ、クテアートスの子はアムピマコス。

その行く道に出であうは槍の名将イードメネー(ギ)、  13-210
鋭き青銅その膝を撃てる一人の彼の友[1]
戦場あとに帰れるに、別れて来るイードメネー。
仲間に負われ来りたる負傷の友を医に託し、
身は戦場に向かうべく念じていそぎ陣に行く。
彼に向かいてポセイドーン、威力大地を震う者、  215
アンドライモーン生める息トアス(ギ)の声をまねていう、
(トアスの領はプレウロン[2]、また険要のカリュドーン、
アイトーロイを統べ治め、神のごとくに崇めらる)

[1]無名氏。イードメネウスは武装していないことは235,241。
[2]2-639。

『クレーテースを導けるイードメネウスよ、いずこにぞ、
トロイア軍に加えたるアカイア軍のおどかしは[1]?』  220

[1]2-287、トロイアをほろぼさずば国に帰らずの誓いなど。

クレーテースを導けるイードメネウスは答えいう、
『トアスよ、我の見るところ、アカイア軍中誰人(たれびと)も
とがむべからず、ことごとくみな戦闘のすべを知る。
卑怯の恐れ抱くもの一人もなし、一人も
懈怠のゆえに戦いを避けむとはせず、しかれども  225
アルゴス遠くこの郷に、アカイア軍の誉れなく
滅びんことは、最高のクロニオーンの意志と見ゆ。
さはれトアスよ、その昔汝は強く勇あふれ、
怯ゆる者のある時はこれを励まし諭したり、
汝いまなお変わらずに、いまなお兵を戒めよ』  230

大地を震うポセイドーン、そのとき答えて彼にいう、
『イードメネウスよ、今日の日に戦闘捨てておのずから 
逃げさる者は、トロイアを去りて、望めるその郷に
帰ることなく、この土地に野犬の餌(えば)となれよかし。
いざいま、汝武器を取り、われに従えすみやかに、  235
ただの二人に過ぎざるも、おそらく軍を救い得む。
弱き者だも結ぶとき、集まる力大ならむ、
しかも我らは勇猛の敵と戦う道を知る』

しかく宣して人間の戦闘中に神は入る。
かなた堅固に建てられし陣営中にイードメネー、  240
行きて華麗の鎧つけ二条の槍をたずさえて、241
電火のごとく——たとうればウーリュンポスの高きより、
雷霆の威のクロニオン、放ちて人に驚愕の
念を来らす爛々の電火のごとく——すすみ行く、
馳せ行くときに胸めぐる彼の青銅[1]輝けり。  245
行きて陣舎に遠からず、青銅の槍求むべく 
帰り来れる副将のメーリオネスに道にあう。
勇気盛りのイードメネー、彼に向かいて陳じいう、

[1]胸甲。

『メーリオネース、モロスの子、最愛の者、足速き
汝何ゆえ乱戦と苦闘を捨ててここに来し?  13-250
傷を負いしや?鋭き矢あるは汝を悩ますや?
あるいは、とある使命帯び、われを訪うべく来りしや?
我は陣舎に留まるを好まず出でて戦わむ』

メーリオネース、思慮深き勇士答えて彼にいう、
『青銅よろうクレーテス族を導くイードメネー、  255
陣中君の残したる槍もしあらば取らんため、 
戦場よりし帰り来ぬ。さきに我が手に取りし槍、
無残や折れぬ[1]、高慢のデーイポボスの盾打ちて』

[1]162。

クレーテス王イードメネー、彼に答えて陳じいう、
『わが陣営の輝ける壁に立てかけ残したる  260
槍を望まば汝取れ、一条あるは二十条、
トロイア戦士ほろぼしてわれの分捕りしたる槍。
敵の戦士とあい隔て闘うことを我はせず、
ゆえにわれには槍多し、おもて隆起の盾多し、
燦爛光る胸甲と頭甲の数もまた多し』  265

メーリオネース思慮深き勇士すなわち答えいう、
『我も同じく陣中にまたわが黒き船中に、
トロイア兵をかすめたる武具は数あり。いかにせん、
身近にあらず、取りがたし。勇猛の意気忘れりと
われは思わず、戦闘の荒び湧く時わが軍の  270
先鋒中にまじわりて誉れの庭にわれは立つ、
青銅よろうアカイアの他の将士らはたやすくは
戦う我を知らざらん、さもあれ君はよく知らむ』

クレーテス王イードメネーそのとき答えて彼にいう、
『われは汝の勇を知る、弁明何の要あらむ。  275
船のかたわら最上に優れしわれら選ばれて、
待ち伏せの陣つくるとき(人の勇気のもっともよく
知らるるところ)、怯の者、勇気の者は一様に
露見なすべし。怯ゆるは顔貌種々に色を変え、
静かに心悠々とその胸中に宿りえず。  280
膝おののかし両足を折りて大地に横たわり、
つらき運命あらかじめ感じて、ために胸中の
鼓動激しく、口中に歯と歯とうちて音いだす。
勇なるものは顔色を変えず、一たび待ち伏せの
隊に入るとき何事も彼の戦慄起しえず、  285
ただすみやかに物すごき戦闘場裏に入るを乞う、
汝の腕と力とを誰しもそこにとがむまじ。
闘う汝、遠くよりあるいは汝近くより、
討たれん時は、敵の武具、汝の首を後ろより
あるいは汝の背の上を傷つけることあらざらむ、  290
先鋒隊に加わりて進む汝の胸部また
腹部を打たむ。さはれいま、痴人のごとくかかる言、
述ぶるをやめむ、おそらくはある者いたくとがむべし、13-293
いざ陣中に赴きて鋭利の槍を取り来たれ』

しか陳ずればすみやかに、メーリオネスは陣営に  295
入り青銅の槍を取り、アレースのごと神速に、
イードメネウスのあとを追い勇戦念じすすみ行く。
たとえばアレース「人間の災い」、戦地に行くごとし、
愛児フォボスは彼につぐ、勇敢にして強き者、
人界いかに勇なるも彼を逃れぬものあらじ。  13-300
二霊かくしてトラーケー出でて戦装整えて、
エピュロイおよび剛勇のプレギュアイ族[1]めがけ行き、
両軍ともに助けずに、ただ一方に勝ち与う。
メーリオネスとイードメネー両将まさしくそのごとく、
青銅鎧い輝きて戦陣さしてすすみ行く。  305
メーリオネスはそのときにまず口開き陳じいう、

[1]エピュロイとプレギュアイはどちらもテッサリアの部族。しばしば交戦した。

『デウカリオーン生める息[1]、いずこの隊に君入るや?
全軍中の右なるか、あるいはそれの中央か、
あるいはむしろ左にか?毛髪美なるアカイアの
軍勢そこに他に増して援助求むることはげし』  310

[1]すなわちイードメネウス、下文451以下を見よ。

クレーテス王イードメネー、すなわち答えて彼にいう、
『見よ、兵船の中央にほかの防御の勇士あり、
同名二人のアイアース、さらにアカイア軍中の
無双の弓手テウクロス、彼また歩戦に巧みなり。
プリアミデース・ヘクトールいかにその威を振うとも、  315
勇気いかほどまさるとも、彼らのために追わるべし。
敵将いかにはげむとも、彼らの武力、恐るべき
腕に勝ち得て、わが船を焼くはまことに難からむ、
雷霆の神クロニオーン、船足速き水軍に
自ら炬火(きょか)[1]の猛炎を投ずとすればいざ知らず。  320
死の運命を身に負いて、デーメーテルの恵みなる[2]
穀を食とし、剣戟に巨石に打てば傷を負う
人界の子のいずれにも、テラモニデース・アイアース、
譲らず。一騎相打たば、わが勇猛のアキレウス・
ペーレイデスにも譲るまじ、ただ健脚はおよびえず。  325
いざいま向かえ軍陣の左方に——間なく知り得べし、326
われ与うるや栄光を他に、他は我に与うるや?』

[1]「炬火(きょか)」は松明のこと。
[2]穀物の神。

しか陳ずれば神速のアレース神に髣髴の
メーリオネスは命うけし陣門さして走り出づ。
かくて猛威は炎々のほのおのごときイードメネー、  330
従者とともに精巧の武具を付けるを眺め見て、
トロイア軍は隊中にいましめながら寄せ来り、
かくてアカイア水軍のほとり乱闘わき起る。
塵埃厚く道を覆うその日、疾風の吹きまくり、
颶風となりてもうもうの砂塵の雲を空高く  335
上ぐる姿もかくあらむ。トロイア、アカイア両軍の
勇士は同じ一点に会し、鋭利の青銅の
刃をふるい相打ちて心は燃えて火のごとし。
かくて破滅を生み来る戦い荒れて両軍の
ふるう長槍相乱る。群がり寄する勇士らの  340
輝く兜、新しく磨けるよろい、燦爛の
盾よりかえす青銅の光に、目と目みなくらむ。
この乱戦のありさまを親しくその目眺めやり、
苦悩感ぜず喜べる人はいたくもむごからむ[1]。
さはれクロノス生みいでし二神[2]おのおの思慮異に、  345
つらき苦悩を、戦える勇士の上に相醸(かも)す。

[1]戦場の惨、四巻の終わり参照。
[2]ゼウスとポセイドーン。

ゼウスはトロイア軍勢とヘクトールとの勝ち求め、
アキッレウスに栄光を帰せんとするも、アカイアの
全軍挙げてイリオンの前に滅ぶを喜ばず、
テティスと彼の勇敢な愛児の誉れただ念ず。  13-350
またひそやかに大海の波浪を分けて出て来る
ポセイドーンはアカイアの陣を訪い来て励ましつ、
トロイア軍に負けたるを怒り、ゼウスに憤る。
二位の神霊その系とその種と同じ、しかれども
長子と生まれしクロニオーン、その智は特にすぐれたり。  355
ポセイドーンはこれがため、あらわの救助さし控え、
ただ人間の姿とり秘密に常に励ませり。
かくして二神両軍に、代わる代わるに奮闘と
勝負半ばの戦いのもつれを与う、そのもつれ
解くこと難し、絶ち難し、人の両膝わななかす。  360

頭髪半ば白けれど槍の名将イードメネー、
アカイア軍に呼ばわりてトロイア軍を追い払い、
カベーソスより戦場の誉れ求めて先つころ、
ここに訪い来し一武将オトリュオネウス(ト)うち果す。
王プリアモス生めるなかカッサンドラー最美なり、  13-365
そを礼物を具せずして娶るを望み彼はいう、
「アカイア軍をトロイアの地より払いて功立てむ」[1]、
誓言聞けるプリアモス、愛女を許し与うると
その約束に信を置き、揚々として戦場に
すすみ出づるをイードメネー、狙い輝く燦爛の  370
槍を飛ばせば、身に帯べるその青銅の胸甲は
防ぎ守らず、鋭刃は腹の最中につき刺さり、
どうと倒れぬ。これを見て勇士勇みて叫びいう、

[1]サウルの娘を得べく百人のペリシテ人を殺さんとのダビデの約を思わしむ。

『オトリュオネウス、汝もしダルダニデース・プリアモス
王に約せる一切を遂げ果し得ば、一切の  13-375
人にまさりてわれ褒めむ、彼は愛女を許したり。
われまた同じ事柄を約してしかも果すべし、
しかして汝われととも富み栄えたるイリオンを
攻めほろぼさば、最美なるアトレイデースの女(じょ)をここに、
アルゴスよりし誘い来て、必ずわれは与うべし。  380
いざわが後につき来れ、波浪をわたる船の上
婚儀につきて談ずべし、我ら貧しき友ならず[1]』

[1]嘲弄的反語。

しかく宣してイードメネー、乱軍中に敵の足
引きつつ帰る、その敵の救助に来たるアーシオス(ト)[1]、13-384
馬に先んじ歩行(かち)に立つ、近くに御者の引きし馬、  13-385
馬の呼吸は肩に触る、しかして彼は心中に
イードメネウスを打たんとす、されども勇士先んじて 
槍を飛ばしてあごの下、喉を射当てて貫けり。
敵は倒れぬ——山上にきこり新たに砥がれたる
斧ふりあげて船材となるべく倒す巨大なる  390
樫のごとくに、白楊のごとくに、あるは松柏の
ごとくに倒れ、身を延(の)して馬と兵車のあいに伏し、
歯を噛みならし鮮血に染めたる塵を手につかむ。
これを眺めて彼の御者ぼう然としてその心
またく失い、敵の手を免れ出づべくその馬を  395
引きも帰さずたたずめる。そを槍飛ばし狙いたる
アンティロコスはまさしくもその胴体のただ中を
射れば、青銅きたえたる胸甲彼を守りえず、
巧みに組める車台より、うめきて落ちて地に伏せり。
彼の駿馬をネストール生める勇将[2]すみやかに  13-400
トロイア勢の間よりアカイア軍に奪い引く。

[1]2-837、12-95。
[2]アンティロコス。

デーイポボス(ト)はアーシオスせつに痛みて、そば近く
イードメネウスに狙い寄り、輝く槍を投げ飛ばす。
その青銅の投げ槍を、イードメネウスは眼ざとくも
認めて避けて、たずさえしその円き盾——牛王の  405
皮と輝く青銅をもとにし作り、さらにまた
二条の把手[1]を備えたる——盾をかざして一身を
またく覆えば、青銅の槍はその上飛び過ぎて、
盾のへりをぞかすめたる、盾は鏘然音たてつ。
されども強き手よりして放ちし槍はあだならず、  410
ヒッパソスの子、衆の将、ヒュプセノール(ギ)[2]の隔膜の
下、肝臟を貫ぬかれ、ただちに膝を緩むるを、
デーイポボス(ト)は眺め見て傲然として叫びいう、

『復讐なしにアーシオス逝けるにあらず、冥王の
城門固く恐るべき宮を訪うとも、われ彼に  13-415
言わむ、心に喜べと、一人の供をわれ付せり』

[1]二条の把手とは盾の裏面に縦横おのおの一本の把手、十字形をなすもの。
[2]同名の人5-77にあり。

しか陳ずればアカイアの軍勢、彼の高言に、
悲しみ怒り、なかんずくアンティロコスの俠勇(きょうゆう)の
心いたく悩ましめ、友捨ておかず走り出で、
これを守りて盾の下覆い隠せば、ひきつぎて  420
親しき彼の友二人、一はエキオス生むところ、
メーキステウス(ギ)、他は神に似たる美麗のアラストール[1]、13-422
呻く同僚助けあげ軍船さして引きかえす。

[1]4-295、8-333と同文。

イードメネウスはすぐれたる勇気をつゆも緩まさず、
トロイア勢のあるものを倒すか、あるはアカイアの  425
破滅防ぎて自らの死するを念じ怠らず。
アイシュエテスの愛する子、クロニーオーン養える
勇士、その名はアルカトオス——アンキーセースの婿にして 13-428
ヒッポダメイアは彼の妻。家庭において恩愛の  429
父と母とが心よりいたくも愛でし長女(うえむすめ)。  13-430
容姿も技も心情も同じ齢いの友だちに、
優れたるゆえ、トロイアの都城のうちにその武勇
人にすぐれしアルカトオス、娶りて彼の妻としき。

いまポセイドン、輝ける彼の双眼くらましつ[1]、
またその四肢を鈍らしてイードメネウスに打たれしむ。  435
彼は後陣にしりぞくをなしえず敵を避けもえず、
柱のごとく、繁りたる巨木のごとくゆるぎなく
立てるを、勇士イードメネー、槍を飛ばして胸を射り、
彼のうがてる青銅の胸甲ぐさと貫けり。
さきには身より傷害を防ぎし鎧いまもろく、  440
鋭利の槍に砕かれて破るる音はものすごし。
どうと倒れて伏せる敵、敵の心臟つらぬきて、
それの最後の鼓動にて端のゆらげる長き槍、
そもまたしばし、猛烈の槍の力は収まりぬ[2]。

[1]同様にアポロン神はパトロクロスを打たれしむ(16-787以下)。
[2]直訳すれば「アレースの力収まる」。

大音声にイードメネーそのとき誇りて叫びいう、  445
『一に対して三を討つわが胆力のいみじきを[1]、
高言みだりに吐く汝、デーイポボスよ、認むるや?

[1]一は味方のヒュプセノール、三はオトリュオネウス、アーシオス、アルカトオス。

『無残の汝、いまわれに面して立ちて見て、悟れ、
何たるゼウスの裔としてわれいまここに来たるやを。
天王さきにクレタ島領するミーノース生みいでぬ[1]、  13-450
ミーノース次ぎに剛勇のデウカリオーン生みいでぬ、 13-451
デウカリオーンは広大のクレタ島にて数多き 
民を領するわれ生めり。われいま船をひきい来て、
汝と父とトロイアの民に苦難をもたらせり』

[1]ミーノースはゼウスがエウローペーと契りて生む者(14-322)。

しか陳ずれば胸中にデーイポボスは二筋に  455
思う、あるいはしりぞきてトロイア勢のあるものに
救い乞わむか、あるはまたただ一身につとめんか?
思案ののちに、勇猛のアイネイアス[1]を求むるを
良しと決してしりぞきて、後尾の中に彼を見つ、
勇は諸人にまされども、王プリアモスは崇敬を[2]  460
致さぬ故に、老王に対して常に憤る 
彼のかたえに走り来て、羽ある言句陳じいう、

[1]アイネイアースまたアイネアス。
[2]トロイア王家の分派相互の間の嫉妬、20-178〜186参照。

『アイネイアース、トロイアの参謀、汝縁戚の
不幸思わばいま来り、汝の義兄[1]救い出せ、
我につき来て救い出せ。アルカトオスはそのむかし、  465
若き汝をその家に義兄の縁に養えり、
槍の名将イードメネーいまし彼をぞ倒したる』

[1]アルカトオス、アンキーセースの婿。

その言聞きて胸中に勇気をふるい起したる
アイネイアース、猛然とイードメネウスに向かい行く。
されど勇将イードメネー、小児のごとく畏怖知らず、  470
屹然として立ち止まる。たとえば猪(しし)が山の上、
おのが威力に寄り頼み、荒れたる道に寄せ来る
民の喧騒待つごとし、猪(しし)は背の毛を逆立てて、
双の眼(まなこ)は火のごとく、牙を磨きて、猟人と
猟犬の群払うべく、猛然として勇み立つ。  475
槍の名将イードメネーかく戦闘に巧みなる
アイネイアース寄せくるを迎え一歩もしりぞかず。
されども猛き同僚を、——アスカラポス(ギ)とアパレウス、  13-478
メーリオネスとデイピュロス(ギ)、アンティロコース——もろもろの
勇士を呼びて励まして羽ある言句叫びいう、  13- 480

『来れ同僚!孤独なるわれを助けよ、足速き
アイネイアース襲い来る、われの恐るる敵の将、
かれ戦闘に勇にして人をほふるは数知れず、
かれはまさしく青春の、至大の威力身に備う。
心とともに年齢も等しかりせば、我か彼、  485
いずれか高き功名の誉れを運び去るべきに』

しか陳ずれば全軍は同じ思いを胸にして、
おのおの肩に盾あてて彼のめぐりに近く立つ、
アイネイアースまたかなた、その同僚を戒めつ、
デーイポボスとパリスとを眺めつ、さらに神に似る  490
アゲーノールら、もろともにトロイア軍の首領たる
諸将に呼べば、全軍は従い来る——牧場を
出で雄羊のあとにつき群羊水に進むとき、
牧人そぞろ胸中に喜悦の情のわくごとく、
アイネイアース全軍のつづき来るを喜べり。  495

かくてトロイア軍勢はアルカトオスの身をめぐり
近く、長槍手に取りて進めば、すごく胸の上、
青銅鳴りて、彼と此、両軍互いに相狙う。
中にもしるき二勇将、ともにアレース軍神に
比すべし。こなたアイネアス、あなた名将イードメネー、  13-500
互いに敵をほふるべくすごき槍もて向かい合う。
アイネイアースまっさきにイードメネウスを狙い打つ、
それをまともに認め得て青銅の槍、彼は避く。
アイネイアース投げし槍、その剛勇の手よりして、13-504
むなしく飛びてその穂先ゆらぎ大地に突きささる。13-505
こなた名将イードメネー、オイノマオス(ト)[1]の腹部撃ち、
その胸甲を貫けば槍は臓腑をえぐり出す、
敵は砂塵の中に伏し双手に土をかいつかむ。

[1]12-140。

イードメネウスは影長くひく槍、敵の死体より
奪うを得たり、しかれども他の精巧の軍装を  510
彼の肩よりかすめえず、敵の射撃は物すごし、
心焦るも双脚の骨筋(ほねすじ)いまは硬からず、
走りておのが槍を取りまた敵の槍避くること
難し、ふるいて接戦に死の運命を防げども、
戦場あとにすみやかに退くことはやすからず。  515

かくして徐々に立ち去るを憎怨(にくしみ)常に抱きたる
デーイポボス(ト)はうかがいて、輝く槍を投げ飛ばす、
されども狙い誤りて、槍はアレースめずる息
アスカラポス(ギ)の身に当り、激しき穂先その肩を 13-519
つらぬき刺せば塵の中倒れて土をつかみ伏す。  520
猛威あたかも火に似たるアレースいまだ戦場の
乱れの中にその愛子倒れ伏せるを悟りえず、
クロニオーンの計らいによりてとめられ、オリンポス
至上の峰に黄金の雲に包まれ座に着けり、
戦場離れ遠ざかる諸神もともにいっせいに。  525

アスカラポス(ギ)をただ中にこなた両軍相乱る。
アスカラポスの頭よりデーイポボス(ト)は輝ける
兜を奪う——かくと見てメーリオネス(ギ)は迅速の
アレースのごと走り出で槍を飛ばして腕を打つ、
打たれて手より頭鎧(とうがい)は、大地に落ちて鳴りひびく。  530
メーリオネスはさらにまたタカのごとくに飛びかかり、
鋭き槍を敵将の腕の端より抜き去りて、
すばやく返し友軍のあいだにまじる。ポリテス(ト)は
そのとき、腕に同胞[1]の腰をかかえて轟々の
戦場そとに引き出し、後陣の彼の足速き  535
駿馬のもとにつれ来る。御者と戦車ともろともに、
後陣に彼を待ちし馬、傷に悩みていたわしく
激しくうめくその主人[1]、乗せてトロイア城中を
さして駆け行く、鮮紅の血潮の流れあふるまま。

[1]デーイポボスを指す。ポリテースとともにプリアモスの子で二人は兄弟。

他の軍勢は戦いを続け雄叫び鳴りやまず。  13-540
カレートール†(ギ)の生める息アパレウスの向かえるに、
アイネイアース飛びかかり、鋭き槍に喉を突く、
突かれて頭傾きて倒れて盾と兜とは
これにつづきつ、息絶やす死滅は彼をおおい去る。

トオーン(ト)その背を向けし時、アンティロコス(ギ)は認め得て、  545
走りかかりてこれを討ち、背筋全部に添い走り、
首におよべる脈管を勢い猛くたち切りぬ、
勢い猛くたち切れば敵は砂塵にあおむきて
倒れ、双手をかたわらのその同僚にむけのばす。
アンティロコスは飛びかかり、あまねく四方見わたして  13-550
敵の肩より武具を剥ぐ。トロイア軍勢迫り来て
囲みて、彼の巨大なる華麗の盾を四方より
打てどもこれをつらぬきて、アンティロコスの身に害を
加うるをえず。ポセイドン大地を震う神霊は
乱射の中に、ネストール生める愛児を覆い守る。  555
アンティロコスは勇にして敵を逃るることあらず、
これに面して鋭槍を勢い猛く振りまわし、
絶えずつとめて、敵人をめがけて槍を投げ飛ばし、
あるいは近く飛びかかり接戦するを心掛く。

かく乱軍のただ中に、勇める彼にアーシオス(ト)の  13-560
生めるアダマス[1]飛びかかり、鋭き槍に大盾の
もなかを打ちぬ。しかれども毛髪黒きポセイドン、
彼の生命いとしみて鋭き槍を無効とす。
かくして槍の一半(いっぱん)はアンティロコスの盾の中、
燻(くす)べし杭を植うるごと[2]、他部は地上に横たわる。  565

[1]12-140。
[2]腐敗を防ぐため杭の末端をくすべて地に植う。

敵[1]は運命逃るべく友の間に引き返す、
返すを追うて槍飛ばすメーリオネスはあやまやらず、
へそと恥骨のあいにして、特にアレース不運なる
人に対して残忍の力を振うそのあたり、
まさしくここに鋭槍の狙い貫く、突かれたる  570
敵は屈みて鋭刃に寄りつつもがく。たとうれば、
牧人山の中にして厳しく縄につなぎつつ
ひき行く屠牛見るごとし。傷つけられし敵将は
かくこそもがけ、そもしばし、メーリオネスは迫り来て
槍ぬきとれば暗黒は彼の双眼おおいさる。  575

[1]アダマース。

こなたヘレノス[1]近寄りてデーイピュロス(ギ)のこめかみを、
トラーケーの大いなる剣(つるぎ)に切りて[2]、頭鎧を
くだく。頭鎧つんざかれ地上に落ちてころがるを、
とあるアカイア一戦士(いちせんし)足もとよりし拾い取る。
闇夜はかくて薄命の将の両眼おおいさる。  580

[1]6-75。
[2]トラーケーは大刀を産す。

これを眺めて悲しめるアトレイデース、大音の
将メネラオス、大股に鋭槍ふるい敵の将
ヘレノスめがけ脅しより、将は剛弓高く張る。
両将かくて相向かう、これは鋭き投げ槍を
飛ばさんとしつ、かれはまた弦上の矢をはなたんず。  585
プリアミデース敵将を狙いてかれのかたく張る
胸甲めがけ矢を飛ばす、されど勁箭はねかえる。
たとえば広き穀倉の床のへ振う大いなる
箕より黒豆白豆の鋭き風にあおがれて、
農夫の強き力より紛々として飛ぶごとし。  590
かく栄光のメネラオスうがつ胸甲貫かず、
鋭き飛箭はね返り離れて遠く飛び行きぬ。
そのとき大音のメネラオス・アトレイデース槍飛ばし、
磨ける弓を手に握る敵将の手に射あつれば、
青銅の穂はつらぬきて手より弓へと刺し通る。  595
敵は運命のがるべく、あとに返して友軍の
間に混じ、射られたる槍を垂れたる手もてひく。
その槍、手より勇猛のアゲーノール(ト)[1]は引き抜きて、
羊毛撚(よ)りし皮ひもの包帯かけていたわりぬ。
石を投げうつための紐、従者たずさえ来るもの。  13-600

[1]アンテーノールの子(12-93)。

ペイサンドロス(ト)[1]そのときに敵メネラオス、栄光の 13-601
将に向かえり、災いの非運は彼を導きて、
メネラーオスよ、君のため乱戦中に倒れしむ。

[1]同名の別人はアガメムノーンに殺さる(11-122)。

両将互いに相迫り近寄るときに、メネラオス・
アトレイデース誤りてその槍、敵をはずれたり、  605
ペイサンドロスは、栄光の敵メネラオスもてる盾、
撃てども固き青銅をつらぬき通すことをえず。
巨大の盾は受け止めて、槍の穂先をうちくだく。
されども敵は心中に勝ちを望みて喜べり。
アトレイデースその柄(つか)に銀鋲うてる長剣を  610
抜きて振り上げまっしぐらペイサンドロスを襲いうつ、
敵は磨けるオリーブの長き柄つけて青銅を 13-612
鍛えし斧[1]を盾の下取りて、互いに相向かう。

[1]斧あるいは矛はホメーロス詩中の諸将用いること稀。(後者は7-141に見ゆ)アカイア軍はまったく用いず。

敵は狙いてうちゆらぐ冠毛のした頭鎧の
てっぺん打てば、メネラオス走りかかりて敵将の  615
鼻梁(びりょう)のはしをまっこうに骨うちくだく、砕かれて
血にまみれつつ、眼球はその足もとの地に落ちて、
砂塵にまみれ、敵将は倒れてついに地に伏しぬ、
その胸かれは踏みつけて武具を奪いて誇りいう、

『汝かくして駿馬駆るアカイア勢の水陣を  620
去らむ、汝ら、喊声に飽かざるトロイア倨傲の徒!
汝ら無残、犬の群、汝ら我に加えたる
無礼と恥辱いくばくぞ、汝らゼウス・クロニオン、
世の歓待を司る神の雷霆すさまじき 13-624
怒りをおじず。他日かれ汝の都城破るべし[1]。  625

[1]メネラオスのゼウスに対する祈りを参照らすべし(3-351以下=メネラオスのパリス歓待とその裏切りの報い)。

『汝らむかしわが妻の厚き歓待受けしとき、
彼女ならびにその資財非法に奪い立ちさりき、
しかしていまは海岸を渡るわれらの兵船に、
猛火を放ち焼き払いアカイア勢をほふらんず。
汝らいかに勇むともついに戦場追わるべし。  630
ああわが天父クロニオン、その智あらゆる人天に
まさると言わる、しかれどもこれらはすべて君のせい、
君いま非法の国人を——トロイア人をかくまでも、
めでんとするや[1]?ああ彼ら心は常に不義にして、
しかも戦乱闘争の騒ぎに常に飽き足らず。  635
人はあらゆるものをめず、あるいは眠り、または愛、
または歌謡のいみじきを、または舞踊のたえなるを、
戦いよりもこれらをば好みて人は飽かんとす、
ひとりトロイア一族は常に戦闘飽き足らず』

[1]悪事をなすも天罰をこうむらざるは何ゆえか、東西千古の疑問。ホメーロスはこれをただゼウスのせいに帰す。従来アイスキュロスはこれを運命(アナンケー)に帰す。
しかく陳じて剛勇の将メネラオス敵将の  640
身より血染めの武具を剥ぎ、そを同僚の手に渡し、
さらに進んで先鋒の隊伍の中に加わりぬ。

そのとき彼を襲いしはピュライメネース王の息 13-643
ハルパリオーン†、戦いを願いて父のあとにつき、
トロイア訪いし彼ついに帰国の運に恵まれず、  645
アトレイデースたずさうる盾のもなかに近寄りて、
打てども硬き青銅をつらぬき通すことをえず。
死の運命を逃るべく敵の刃を恐れつつ、
あたり見回ししりぞきて友の間に身をかくす。
逃げ行く彼に矢を飛ばすメーリオネス(ギ)はあやまたず、  13-650
右の腰部をつらぬきて、鋭き矢じり、骨の下、
その膀胱をつらぬきて彼を地上に倒れしむ。
そこにさながら虫のごと、その身をのして愛友の
手に抱かれて、いやはての呼吸を彼は引きとりぬ、
暗紅色の血の流れすごく大地をうるおして。  655
その介抱は勇猛のパフラゴニアの郷の友、
悲哀に沈み、しかばねを車に乗せて神聖の
イリオン城に持ち返る、涙にくれてその中に
父[1]はともなう、死せる子の復讐ついに遂げられず。13-659

[1]父ピュライメネースは5-576以下において戦死、これらの矛盾は後世の挿入ならむ。

されどもパリス、死者のため心の憤怒はなはだし、  13-660
パフラゴニアにそのむかし彼に歓待受けたれば、
ために怒りて鋭き矢、弦上つよく射て飛ばす。
エウケーノール†(ギ)(その父は予言巧みのポリュイドス[1]、13-663
富みて勇ありコリントの郷を住居となせる者)、
非命をついに逃れずと悟りて船に乗り来る。  13-665

[1]同名の別人5-148。

ゆえは老いたるポリュイドスしばしば彼に陳じいう、
「悪しき病を身に受けてその邸中に身まかるか、
もしくはアカイア水軍のそばにトロイア軍勢に
殺さるべし」と。かくてかれ心の悩み逃がるべく、
アカイア人の刑罰と悪しき病魔をともに避く。  670
その耳のもと、あごの下パリスに射られ、その生気、
彼の肢体を離れさり、暗黒彼を覆いさる。

かくて両軍炎々のほのおのごとく戦えり。
ゼウスの愛児ヘクトール、彼の軍勢水陣の
左において[1]アカイアの軍に破れしことをまだ、  675
聞きえず知らず。大地揺り大地を抱くポセイドーン、
アカイア軍を励まして威力をこれに加うれば、
アカイア勢は栄光を得んとす。ときにヘクトール、
先に盾持つ密集の敵の軍陣うち破り、
その城門と塁壁を飛び越え入りし方になお  680
立てり。そこにはアイアース、プロテシラオス(故)、乗りて来し
軍船、白き激浪の寄する岸のへ相ならぶ、
あたり築ける塁壁はもっとも低し、しかれども
軍馬軍勢もろともに勇気もっともはなはだし。

[1]326参照。

ボイオートイ[1]とその被服長き民族イアオネス[2]、  13-685
またロクロイとプティオイ、誉れの高きエペイオイ、
懸命に、船襲い来る敵将防ぐ。しかれども
猛威さながら火のごときヘクトールをば払いえず。

[1]2-494。
[2]すなわちイオニア人——「被服長き」は戦装にあらず。ロクロイはロクリス勢、プティオイはプティアー勢。

アテナイ人の軍中の精華ひきいて将たるは、
ペテオースの子メネステウス、同じくこれに続けるは  13-690
ペイダス†、ビアース(ギ)、スティキオス。エペイオイ軍ひきいるは
ピュレウス生めるメゲースとアムピオーン†とドラキオス†[1]。
プティオイ族をひきいるはメドーンならびにポダルケース[2]、

[1]ペイダスは前後他に現われず。アムピオーンとドラキオスもまたしかり。
[2]ポダルケースは2-704。メドーンは2-726。

オイレウスの庶子にして、(小)アイアースを兄とする
メドーンはさきにその父の娶れる継母のエリオーピス――13-695
継母の兄弟討てるため、ピュラケーの地に移りにき[1]。13-697

[1]13-694~697(原訳は4行を3行に訳している)は15-333~336と同じ。

ポダルケースはイピクロス・ピュラキデース[1]の生めるもの、
ポダルケースとメドーンとの両将船を防ぎつつ
プティオイ軍の先に立つ、ボイオートイともろともに。13-700

[1]ピュラコスの子。

オイレウスの子アイアース、テラモーンの子アイアース、
互いに近く相接し、たえて離るることあらず。
たとえば黒き牛二頭ひとしく勇気ふりおこし、
頑丈の鋤引くごとし。力をこめてあえぎつつ、
引けば獣の角の端、汗は淋漓と流れ出で、 705
畝(うね)を踏み行く両牛を分かつはひとり磨かれし 
くびきあるのみ[1]、かくありて鋤は耕地の端に着く。
かく二勇将、かれとこれ、互いに接し位置を占む。

[1]牛は首によらず角によりて連結せらる(リーフ註)。

さはあれ多き勇猛の兵士らともにテラモーン
生める勇者にしたがいて、汗と疲労に彼の膝、  710
そぞろに弱りはつる時、彼より受けて盾をとる。
ロクロイ族は剛勇のオイリアデース[1]にともなわず、
ゆえは歩兵の戦いに彼らの心安んぜず、
冠毛しげき青銅の兜を持たず、円形の
盾また持たず、白楊の柄ある長槍たずさえず、 715
ひとり羊の毛をよりし投石紐と剛弓に 
たよりて遠くイリオンにともない来り、その武具を
用いて後にしばしばもトロイア陣を破りたり。
かくしてかたや精妙の武具を用いて先陣に、
トロイアおよび青銅をうがつヘクトル敵となし、  720
こなた後陣に身を隠し、矢と石飛ばし敵陣を
乱せばトロイア軍勢はすでに戦い疲れたり。

[1]オイリアデースとはオイレウスの子の意、すなわち小アイアース。

かくてトロイア軍勢は、兵船ならびに陣営を
捨ててしりぞき、風荒きイリオンさして帰らんず。
そのとき強きヘクトルにプーリュダマスは寄りていう、  13-725
『ああヘクトール、忠言に君はたやすく耳貸さず。
神の恵みのゆえをもて戦功ひとにまさる君、
君またひとを知に於いて凌がんことを念ずるや?13-728
あらゆる能を一身に備えんことは得べからず[1]。

[1]4-320。

『ある一人に神々は戦う技を、また他には  730
舞踊の技を、また他には琴と歌とを授けたり、
また他の胸に轟雷のクロニオーンは知慮深き
心をおけり、これにより多数の人は利を受けむ。
皆を救わんかかる人、もっとも知慮の徳を知る。
我いま君に最善と思うところを陳ずべし、  735
君をめぐりて戦闘の輪は火のごとく燃え立てり、
敵の塁壁越せる後、わが勇猛のトロイ勢、
あるいは武具をたずさえて休み、あるいは敵船の
ほとり、多数を敵として寡勢ながらに戦えり。
君いま足を回らして、ここに至剛の者を呼べ。  740
しかしてつぎにいっせいに討議凝らさん。神々の
助けによりて敵軍に勝つべくあらば敵の船、
漕ぎ座数ある船めがけ勢い猛く襲わんか、
あるは傷害受けぬ前、敵船あとに帰らむか。
恐るるところ、先きの害[1]敵軍われに報うべし。  745
彼らの船のそばにいま戦い飽かぬ一戦士[2]
残れり、しかも戦いを思い捨てたるものならず』

[1]八巻におけるアカイアの敗北。
[2]アキレウス。
プーリュダマスはかく陳じ、ヘクトルこれを受け入れつ、
ただちに彼は武具を取り、大地に戦車おりたちて、
飛揚の羽ある言句もて友に向かいて陳じいう、  13-750
『プーリュダマスよ、諸々の勇将ここに引きとめよ。
われまず行きて戦場につとめ、しかして号令を
みなに下して、しかる後またこの庭に帰り来ん』

しかく陳じて、白雪の山のごとくに駆けいだし[1]、
叫喚あらくトロイアとその友邦の陣、過ぎ行きぬ。  13-755

[1]非常に高き山のごとくの意か。この比喩は前後に見えず、4-462「塔のごとく倒る」の句あり。

パントオスの子勇猛のプーリュダマスの立つところ、
将士らともにヘクトルの声聞くときに馳せ来る。
彼は進んで先鋒の中に同僚探しゆく、
デーイポボスを、剛勇の王ヘレノスを、アーシオスの
息アダマースを、さらにまたヒュルタコスの子アーシオスを、 13-760
彼は探せど見当らず、傷害うけず、助かりし
友はいまなし、ある者はアカイア勢の手に滅び、
アカイア軍の水陣のほとりに近く横たわり、
またある者は塁壁の中に射られて、傷つきぬ。

その悲惨なる戦場の左の端にヘクトルは、  765
見出だし得たり、鬢毛の美なる女性のヘレネーの
夫のパリス、その友を鼓舞し戦い勧むるを。
すなわち近くすすみ来て彼は叱りて叫びいう、
『無残のパリス!姿のみ美にして婦女に惑溺し[1]、
欺瞞に慣るる、ああ汝、デーイポボスはいずこぞや、  13-770
勇将ヘレノスいずこにぞ、アーシオスの子アダマスは、
ヒュルタコスの子アシオスは、オトリュオネウースはたいずこ?
高きイリオン崩るべし、汝もまさに滅ぶべし』

[1]3-39。

姿は神に似るパリス、答えて彼に陳じいう、
『咎なきものをとがめんと念ずる汝、ヘクトール、  775
先はともあれ、戦場を今に逃るる我ならず、
卑怯の者とわが母はわれを産みしにあらざりき。
船のめぐりに戦闘をなすべく汝、わが軍を
激せし以来ここに立ち、ダナオイ勢を敵として
たゆまずわれら戦えり、汝の探す戦友は  780
討たれぬ。ひとりヘレノスと(彼は勇将)その友の
デーイポボスは長槍に手は射られしも死をのがれ、
クロニオーンの助け得て、この戦場を立ちさりぬ。
雄志の汝、進むべく命ずるところ、軍勢を
導け、われら勇を鼓し、汝のあとに従わむ。  785
思うに武力足るとせば、われら勇気を失わず。
武力を越せる戦闘は勇める者もよくしえず』

しかく陳じて同胞の心をパリスやわらげつ、788
かくして彼ら混戦と苦闘の荒き中に行く、
ケブリオネースと勇猛のプーリュダマスとパルケース、  790
オルタイオス†と神に似るポリュペーテース†、パールミュス†、
アスカニオスと、ヒッポティオーン†生めるモリュスの立つほとり、
かれら前の日、交替にアスカニアー[1]の豊沃の
郷より来る——クロニオンいま戦場に励ましむ。
これら勇士の進むこと、すごき颶風の吹くごとし、  795
クロニオーンの轟雷によりて颶風は平原を
襲い、転じて海洋に入りて擾乱起こすとき、
とどろき渡る海洋の泡立つうしお高まりて、
あふれ流るる銀浪は、前に後ろにわき起る、
かくもトロイア軍勢は前と後ろと相迫り、  13-800
燦爛光る青銅を鎧い主将のあとを追う。

プリアミデース・ヘクトールこれをひきいて、人類の
禍害アレース見るごとく、円き大盾、牛王の
皮はりつめて青銅を上に延したるものを手に
取りて、輝く頭鎧はそのこめかみのうえ揺らぐ。  805
四方にわたり敵陣の前を徒歩にて駆け進み、
盾をかまえて押し寄せて、退かんや否や試みる、
されどアカイア軍勢の心ひるますことをえず。
闊歩し来るアイアースまさきに彼に挑みいう、

[1]2-863。

『奇怪の汝、いざ寄せよ。などかく汝アルゴスの  810
軍勢おどす?わが将士つゆも未熟の徒にあらず、
アカイア勢はただゼウスくだせし鞭に弱るのみ。
まさしく汝心中にわれの軍船破るべく
念ず、されどもすみやかに我が手はこれを防ぐべし。
むしろこれより先んじて汝の都城——人口の  815
豊かなるものわれの手に奪い取られん、荒されむ。
われは汝にいま告げむ、時は迫ると——クロニオン
およびその他の神々に汝逃げつつ祈る時、
平野をかけて塵立つる軍馬なんじをイリオンに
運び去ることタカよりも早くと汝祈る時』  820

しかアイアース叫ぶとき、右手の方に現わるる
蒼旻(そうびん)[1]高く翔けるワシ、アカイア兵士その祥(しょう)に
勇みて叫ぶ声高し。答えてヘクトル彼にいう、

[1]「蒼旻」は青空のこと。

『ああ大言のアイアース、汝何たる饒舌ぞ!
われは願わくとこしえのアイギス持てるクロニオン、13-825
その愛児たれ。また天妃ヘーラーをわが母として、
アテーナイエー、アポローンと同じ栄光恵まれん。
かくてアカイア全軍にこの日苦難来るべし、828
しかして汝わが長き槍に向かうをあえてせば、829
乱軍中に殺されむ、槍は汝のやわらかき  830
肌つんざかむ、船のそば倒れて伏せる汝その
肉と脂をトロイアの犬と鳥との餌(え)となさむ』

しかく陳じて先頭に立てば、その友いっせいに
叫喚すごく続き来て、士卒高らに後に呼ぶ。
こなたアルゴス軍勢は同じく叫び、勇猛の  13-835
気を失わず、寄せ来るトロイア軍の勇士待つ。
その両軍の鬨(とき)の声、天にゼウスの宮に入る。13-837


イーリアス : 第十四巻



 マカーオーンを看病しつつあるネストール出でて戦況を見る。負傷の諸将アガメムノーン、ディオメーデース、オデュッセウスと語る。アガメムノーンは退却すべしと説く。オデュッセウスこれを駁す。ディオメーデースの忠言に従い、諸将進んで全軍を励ます。ポセイドーンはアガメムノーンを励ます。女神ヘーラー謀りてゼウスを眠らしむ。ポセイドーン先頭に立ちアカイア軍を進ましむ。アイアース大石を投げてヘクトールを気絶せしむ。トロイア軍退却。アカイア諸将の戦功。

酒盃挙ぐれどネストール[1]、かの喊声を耳にして、
アスクレピオス生める子に、羽ある言句陳じいう、
『思え、すぐれしマカーオーン、このこといかに成り行かん?
血気の子らの喊声は船のかたえに高まりぬ。
さはれ汝はここに座し輝く酒盃傾けよ。  14-5
やがて鬢毛うるわしきヘカメーデーは温浴を、14-6
汝のために備うべく、凝血洗い清むべし、
われはいそぎて展望の場(にわ)に現状眺むべし』

[1]負傷のマカーオーンをネストールはその陣中につれ帰る(11-517以下)。

しかく陳じてその子息、馬を御するに巧みなる
トラシュメデス(ギ)[1]の陣中に残せる盾を手に取りぬ、  14-10
そは青銅に輝ける精妙の武器、かれの子は
代わりて父の盾とりき。老将はたまた青銅の
鋭き槍を手に握り、陣外出でて眺むれば、
無残やアカイア軍勢は敗れ、トロイア軍勢は
勝ちに勇みて追い来り、アカイア塁壁うち破る。  15

[1]トラシュメーデース、9-81。

暗澹として蒼溟のうねり高まり、漠然と
やがて吹き来ん疾風の道告ぐる時、海の波
いまだ左右のいずれにも向かい巻き立つことあらず、
やがてゼウスの手よりして疾風つよく襲うべし。
かくのごとくに老将は胸裏二つの筋道を  20
決しかねつつたたずめり。駿馬を御するダナオイの
戦陣めがけ急がんか、アガメムノーンに向かわんか、
思いわずらう果てにまずアトレイデース訪い行くを
良しと判じぬ。かなたには両軍互いに相当り、
つらき青銅鳴りひびき、刀刃(とうじん)または両刃の  25
槍を用いてかれとこれ、紛々としてほふり合う。

ゼウスのめずる列王は船より出でてネストルに
会えり、鋭利の青銅に傷つけられし諸将軍、
テューデイデース、オデュセウス、アガメムノーン。船団は
戦場はなれ、波さわぐ渚の近くに上げられき、  30
諸王の船はまっさきに列[1]をなしつつ陸の上、
最後の船の端近く[2]塁壁長く作られき。

[1]海にもっとも近きの意か、岸上に船を引き上げしことは1-485。
[2]7-338。

砂岸狭きにあらざれど、船一切をことごとく
並ぶるをえず、軍勢は所狭しとひしめけり、
かくして彼ら幾列に船を引き上げ、海岸の 35
広き入江をことごとく満たす、岬のふもとまで。
かくして諸王、隊を組み槍を杖つき、もろともに
難戦苦闘見渡して胸を痛めて悲しめり。
そこに老将ネストール訪いて、アカイア列王の
胸裏の思いくじけしむ[1]。アトレイデース、民の王、  40
そのとき飛揚のつばさある言句を彼に陳じいう、

[1]意味不明(リーフ)。ネストール負傷せずして来る。何ゆえ諸将は肝をつぶせるや。

『ネーレウスの子ネストール、アカイア軍の誉れある
君、何ゆえに人間の禍害——戦場あとにして
ここに来れる?われ恐る、かれ勇猛のヘクトール、
さきにトロイア陣中に述べてわれらをおどしたる[1]  45

[1]8-183、8-528。

『その言ついに成るべきを、われらの船を焼き払い、
われらの軍をほろぼして、後イリオンに帰らむと。
ああ彼の言、今にして程なくまさに遂げられむ。
痛ましいかな、脛甲のかたきアカイア諸軍勢、
アキッレウスともろともにわれに向かいていきどおり、14-50
船尾のかたえ戦うを念ぜず、彼ら胸中に』

ゲレーニア騎将ネストールそのとき答えて彼にいう、
『さなり、まことに君がいうことは成るべし、眼の前に、
轟雷高きクロニオーン、彼すらこれを変えがたし。
わが軍勢とわが船に対し不落の防陣(ぼうじん)と  55
信頼厚くおきたりし塁壁ついに崩されぬ。
敵の軍勢わが船のそばに不撓(ふとう)の戦いを、
続けて休むことあらず。またいかばかり探るとも、
いずれの側にアカイアの将士敗られ追わるるや、
わきまえがたし。紛々とほふられ喊声天に入る。  60
されど思念の甲斐あらば、局面いかに動くべき、
こを今ともに計るべし。されど渦中に加わるを
われは勧めず、傷負いし将は奮闘なしがたし』

アガメムノーン、民の王、彼に向かいて答えいう、
『ああネストール、わが軍は船尾のほとり戦いて、  65
しかして堅き塁壁もまた塹壕も効あらず。
そはダナオイ諸軍勢つとめて作り、胸中に
わが軍勢とわが船の防御たるべく望むもの。
我は思うに、クロニオンここにわれらのアカイオイ、
アルゴス遠くこの郷にむなしく死ねと計らえり。  70
さきに大神よろこびてわが軍勢を助けたり、
わが知るところ、彼はいま敵にほまれを神のごと
与えて我の健剛の腕と力をしばりたり。
やむなし、されば今われの言に全軍耳を貸せ。
海のま近く陸上にあげ据えられし諸々の  75
船をこぞりて今もとの海波の中に返し入れ、
これに重みの石を付け、波浪の上に浮かしめよ。
「夜」の神聖の幕たれてトロイア軍が戦いを
やすまん時に、すべて他の船、水上におろすべし。
夜間なりとも災いを逃るることは恥ならず、80
滅ぶるよりは災いを逃れ避くるを良しとせむ』

計略富めるオデュセウス、奮然にらみて彼にいう、
『アトレイデーよ、何たる語、君の歯端を漏れ出でし?
無残なるかな、ああ汝、汝はほかの卑怯なる
隊率ゆべし、我が軍の主たるべからず——我が軍の  85
少年および老年のすべてに、高きクロニオーン
最後の一人死するまで、奮戦苦闘つとめしむ。
汝はかくも広街(がい)のトロイア都城去らんとや?
そのためわれら忍びたる辛苦の量はいくばくぞ?
黙せよ、ほかのアカイアにかかる言句をきかしめな、  90
正しき言を語るべく胸に英知を持つ者は——
しかして汝アルゴスに王たるごとく、王冠を
頂き軍に服従を命ずる者は、何びとも
かかる言句の歯端より逃れいずるを許すまじ。
我はまったく汝いま述べし計慮を良しとせず、  95
戦争喊声盛んなる中に、われらの兵船を
海におろせと汝いう、しかせばすでに優勝の
勢い誇るトロイアはいよよ思いのままならむ、
しかして破滅敗亡の運命われらに下るべし。
ゆえはアカイア軍勢は、兵船波に浮ぶとき、  14-100
その戦いを続くまじ、四方を眺めて逃るべし。
汝の計慮の成る果ては、かかる災難生み出でむ』

アガメムノーン、民の王、そのとき答えて彼にいう、
『ああオデュセウス、痛烈の叱りをもってわが心、
汝は刺せり。しかれどもアカイア軍勢、意を曲げて、  105
おのおの海にその船をおろせとあえて我言わず。
老少いずれは我問わず、すぐれし計慮抱くもの、
請うすみやかに現われよ、われ喜びて耳貸さむ』

ディオメーデース、大音の勇士そのとき皆にいう、
『その者まさに前にあり[1]、長く求むる要あらず、  110
汝らおのおの喜びて我の言葉に耳を貸し、
軍中もっとも若しとて我を侮ることなくば。
素生は卑しからざるを我は汝にあえていう、
父はテュデウス、テーバイの異郷の土の覆う者[2]。
すぐれし三子そのむかし生める遠祖はポルテウス[3]†、14-115
彼らの郷はプレウローン、また険要のカリュドーン、
長アグリオス、次ぎメラス、三は騎将オイネウス、
そはわが父を生める者、勇名もっとも高かりき、  
彼は故郷に、わが父は諸所の漂浪長きのち、
ゼウスと諸神の命のまま来てアルゴスの地に住みぬ。  120
アドラーストスの娘らの一人を彼は妻として、
資産豊かに居を定め、あたりに麦の畑広く、
また果樹多き地を領し、さらに群がる牧羊を
飼いたる彼は槍とればアカイア族をしのぎけり。

[1]自己を指していう。
[2]死して異郷に葬らる。
[3]アポロドーロスではポルターオン。

『わがいうところ誤りか、汝らすべて聞きつらむ。  125
されば素性は賤しかる卑怯の者とおとしめて、
わが忠実にいうところ軽んじ笑うことなけむ。

『いざ戦場に向かうべし、傷は負えどもやむをえず、
されどかしこに行かんのち、戦いなさず飛ぶ武器を
避けん、さらずばある者は傷また傷を重ぬべし。  130
しかして、これまで心中に怒りを抱き立ち離れ
戦わざりし人々を勧め戦地に行かしめむ』

しか陳ずれば彼の言聞きて諸王従えり。
かくして彼ら動き出で、アガメムノーンこを率ゆ。

大地を震うポセイドンその警戒を怠らず、  135
一老人の姿取り諸将とともに歩を進め、
アガメムノーン、民の王、アトレイデースの右の手を
取りて励まし、つばさある言句を彼に陳じいう、

『アトレイデーよ、今しがたアキッレウスの無残なる
心は胸裏に喜べり、アカイア軍の敗亡と  140
死滅を眺め喜べり、ああ彼微塵の知慮もなし。
見よ彼やがて滅ぶべし、神霊彼を倒すべし。
さはれ汝に慶福の諸神は怒るところなし、
トロイア軍の将帥と首領はやがて広原の
塵を巻き上げ、陣営と船あとにしてイリオンの  145
城へ逃れるその姿、やがては汝眺むべし』

しかく陳じて平原を走りながらにポセイドーン、
高らに叫ぶ。たとうれば九千あるいは十千の
将士、戦地にアレースの列に加わり叫ぶごと、
かかる喊声胸よりし叫び出だせりポセイドーン、  14-150
かくしてアカイア軍勢のその各々の心中に、
激しき威力増し加え、不撓のいくさ励ましむ。

いま黄金の王座もつ女神ヘーラー高らかに、
ウーリュンポスの頂きにたちて見おろし、たちまちに
功名来す戦場に彼女の兄弟、しかもまた  155
彼女の義弟[1]のポセイドーン奮うを眺め喜びつ、

[1]ヘーラーとともにクロノスを父とするポセイドーンはゼウスの弟、しかしてゼウスはヘーラーの夫、ゆえにポセイドーンはまたヘーラーの義弟。

さらに清泉豊かなるイーダの峰の絶頂に
クロニオーンの座せる見て心に深く憎しめり。
そのとき牛王の目を持てるヘーラー思いめぐらして、
アイギス持てる大神の心あざむく道きわめ、  160
やがてすぐれし計略と自ら思うものを得つ、
すなわち容姿整えて行きてイーダの峰を訪い、
クロニオーンの情欲をそそり、かくして閨房に
もろとも入りて、歓会(かんかい)の果てにいみじき甘眠を
彼のまぶたにそそぐべく、彼の聡明覆うべしと。  165

女神かくして部屋に入る、部屋は彼の子、神工の
ヘパイストスは母のため作りたるもの、秘密なる
かんぬき用い固めたるその戸、他神は犯しえず。
ヘーラーかくて部屋に入りその燦爛の戸を閉ざし、
まずアムブロシアふりかけてその艶麗の肢体より  170
汚れを清め、やわらかく芳薫強き香油もて
はだえを塗りぬ、その薫りクロニオーンの青銅の
戸を備えたる宮の中、ゆらがば余香天上に、
いみじく敷かむ下界にも、なごりの薫り伝わらむ。
かく香油もて艶麗の身を塗り終わり、手を上げて、175
その神聖の頭より、長く流れて垂れさがり、
薫りあふるる鬢毛を梳(くしけず)りつつ編み上げつ、
つぎに女神はアムブロシア匂う衣を身にまとう、
そは精妙にアテネーが縫いて刺繍を添えしもの、
そを胸の上、黄金の襟どめ用い着けしのち、  180
百の房ある艶麗の帯をまといて腰につけ、
さらに左右の耳の下、三つの玉ある宝環(かん)を
垂るれば、照らす燦爛の光あたりにかがやけり。
輝く女神さらにまた華麗の面帕(おおい)、日輪の
ごとくにひかる物をとり、いみじく顔を覆わしめ、  185
つぎに同じく光ある足に美麗の靴うがつ。
かくして女神荘厳のすべてをもって身を飾り、
その室(しつ)いでて神々の群れの中よりただひとり、
アプロディーテは招きつつ、彼女に向かいて陳じいう、

『わが子よ、われの乞うところ、汝はわれに応ずるや  190
あるいは汝わが言に背くや?汝はトロイアを
救うに反し、アカイアを我の救うに腹立てて』

アプロディーテー、艶麗の女神答えて陳じいう、
『ああ、おおいなるクロノスのむすめ、ヘーラー、端厳の
女神、陳ぜよ君の旨、その旨われは遂げしめむ、195
我にしかする能あらば、また遂げ得べき事ならば』

そのとき女神、端厳のヘーラー謀りて陳じいう、
『与えよ我に情欲と愛との秘術——いっさいの
神霊および人間を汝の制し来たる物。
ゆえは我いま万物を育つる大地の果てに行き、  14-200
諸神を生めるおおいなるオーケアノスとテーテュスを[1]
訪わんと欲す。クロノスを大地の下に、海浪の
揺るぎの下に、クロニオン投げし昔にかの二神、
レアー[2]の手よりわれを取りその宮中に育くみき。
我いま訪いてはてしなき彼らの争い止めんとす、205
瞋恚を胸に蓄えて互いに離れ、恩愛の
寝屋を分かちて、抱擁を彼ら長くも忘れたり。
甘言をもて説き勧め、再び寝屋をともにして、
互いに熱き抱擁の昔に彼ら返し得ば、
我はうれしきよき友と、彼らに長く仰がれむ』  210

[1]ホメーロスによれば(ヘシオドスの説と異る)神々はみなオーケアノスとテーテュスとより生る(アキレウスの母神テティスと混ずべからず)。ヘシオドスによればオーケアノスはウラノスとガイアの子にしてその妻たり妹たるテーテュスとともに三千の河流を生む。
[2]レアーはクロノスの妹および妻——ゼウス、ヘーラー、ポセイドーン、みなその生むところ。

嬌笑めずる艶麗のアプロディーテは答えいう、
『君の御言に背くこと、然るべからず、叶うまじ。
天威かしこきクロニオーン、御腕に君を抱きたまう』

しかく陳じて腰[1]のへの宝帯解きぬ、精巧を
極めたるもの、その中に種々の魅惑のこもるもの、215
ここに恋あり、そこに媚、燃ゆるがごとき情熱と、
また恩愛の戯(たわむ)れと——賢者も心迷うもの。
その宝帯を手渡してアプロディーテは陳じいう、

[1]原文は「胸」。

『あらゆる秘法こもりたるこの精巧の帯取りて、
君の御肌に付けたまえ。君の心に願うもの、  220
遂ぐることなくいたずらに帰り来たまうことあらじ』

しか陳ずれば、牛王の眼のヘーラーはほほえみぬ、
笑める女神の端麗の肌に宝帯まとわりぬ。 

アプロディーテー艶麗の女神その家さして去り、
ヘーラー高きオリンポスあとにいそぎて飛びくだり、 225
ピーエリアー[1]とうるわしきエーマティアーを通り過ぎ、
トラーケーの騎兵らの領する雪の山の上、
その絶頂の峰こして足は大地に触るるなく、
アトスくだりて激浪のとどろく海に、また継ぎて
勇武あたかも神に似るトアース[2]の領レームノス、14-230
着きて眠りの霊に会う、そは死の霊と同じ胞(はら)。14-231

[1]マケドニアの南部にあり。
[2]ヒュプシピュレー(7-469)の父。

すなわち彼の手をとりて彼に向かいて陳じいう、 
『眠りの霊よ、一切の神と人との主たるもの、
汝はさきにわが言を聞けり、願わくは今も聞け、
すなわちわれの一生を通じて感謝を捧ぐべし。 235
ゼウスのかたえ恩愛の寝屋に我が身の伏さんのち、
ただちに彼の眉の下、輝くまみを眠らせよ。
報いとしては黄金の不壊の玉座を贈るべし、
双脚固きわが愛児ヘーパイストス、精妙に
作らんところ。その下にまた足台を備うべし、  240
食事の際に汝その輝く足をおかんため』

甘き眠りの霊それに答えてすなわち陳じいう、
『ああ、おおいなるクロノスの生めるヘーラー、わが女神、
永遠不死の神々の他のいずれをもわが力、
眠らし得べし、おおいなるオーケアノスの流れさえ、  245
その流れこそ一切を生めるものなれ。しかれども
クロニーオーン・ゼウスには近寄ることを得べからず。
またかれしかく命ぜずば眠らすことを得べからず。
クロニオーンの勇ましき愛児[1]、トロイアほろぼして
イリオンあとに波の上去りしかの時、われいたく  14-250
君の下せる命のゆえ、懲らされたりき、苦しみき。
アイギス持てる天王に我は甘美の気を注ぎ、
彼の心をくらましき。そのとき君はかれの子[2]に 14-253
苦難たくらみ、大海のおもに暴風吹きおこし、
友より遠く人口の多きコース[3]に駆りさりき。  255

[1]ヘーラクレースがトロイアを破りしこと5-638以下。
[2]ヘーラクレース。
[3]コス島。

覚めたる後にクロニオーンいたく怒りて、宮殿の
ほとりに諸神ふりとばし、特に我が身を追い求め、
天上遠く追い払い、海に投げんと激したる――
そのとき神と人間を治むる「夜の神」のもと、
われ逃げ来り救われき。足疾き夜に嫌わるを  260
恐れるゆえにクロニオーン・ゼウス怒りを抑えたり。
なすまじきわざ今君は再び我に命じたり』

そのとき牛王の目を持てるヘーラー答えて彼にいう、
『眠りの霊よ、何ゆえにこれらを思いわずらうや?
ヘーラクレース我が子ゆえ怒れるごとく、轟雷の  265
クロニオーンはトロイアに救援貸すと思えるや?[1]
我は汝に妙齢の天女のひとり与うべし、
汝の常にあこがれしパーシテエーを与うべし[2]、 268
彼女は汝と婚すべく汝の妻と呼ばるべし』

[1]クロニーオーン心ならずもトロイアに応援するなり。第一巻以来いうごとし。
[2]268は大概の版に省かる。

しか陳ずれば喜べる眠りの霊は答えいう、  270
『しからば誓え、スティクス[1]の犯すべからぬ水により、
片手をもって豊沃の大地に、ほかの手をもって
輝き光る海に触れ誓え、しからばクロノスと
ともに深きにある諸神、我らの間の証たらむ、
君いまわれに妙齢の天女のひとり与うべし、  275
我が身の常に憧れしパーシテエーを賜ぶべしと』

[1]冥府の川。

玉腕白きヘーラーはそのときつゆもためらわず、
願いのままに誓いつつ、ティーターン族[1]の名を持ちて、
タルタロス[2]の下にある諸神を呼べり、おごそかに。

[1]英語タイタンズ、ドイツ語=ティターネン。
[2]冥府。

ヘーラーかくておごそかの誓いを果す。しかる後、  280
二霊はともにレームノス、イムブロス二都あとにして  14-281
霧に包まれすみやかにその行程を進め行く。
先に海より登り来て着きしレクトン経たるのち
荒き野獣を生むところ泉豊かのイーダ中、
歩を進むれば足の下巨大の林みな震う。  285
ゼウスの目(まみ)に写る前、眠りの霊は丈け長き
もみの木のぼり身をひそむ、イーダの山に生じたる
もっとも高きその巨木、雲霧つらぬき天にいる。
そのもみ茂る枝のあい、声れいろうの山鳥の
姿をとりて身をひそむ。神の間にその鳥は、  14-290
カルキスといい、人間に呼ばるるその名キュミンディス[1]。

[1]夜たかのこと。

ヘーラーかくてすみやかにたかきイーダの頂きの
ガルガロン[1]に近寄るを、雷雲寄するクロニオンは、
眺むる時に、そのむかし親の眼かすめ、閨房の
中に隠れて恩愛の恋の戯れせしごとく、  295
激しき情火、思慮深き彼の心をそそらしむ。
すなわち女神の前に立ち、ゼウスは彼女に陳じいう、
『ウーリュンポスをくだり来てヘーラー何を望めるや?
汝の常に乗り慣るる馬も車も我は見ず』

[1]ガルガロンにゼウスの殿堂あり。8-48参照。

そのとき女神、端厳のヘーラー謀りて彼にいう、  14-300
『われは万物養える大地の端を訪いに行く、
またもろもろの神生めるオーケアノスとテーテュスを、
彼らはむかしその館に我をはぐくみ養えり、
我いま彼ら訪い行きて果てなき敵視解かんとす。
長きにわたり争いて彼ら心に憤り、  305
その閨房と抱擁を互いに離ち別れたり。
また堅固なる陸の上、また風浪の海の上、
わが駆る馬は清泉のイーダの山の下に立つ。
ウーリュンポスをわれここにくだり来るは君のため、
われ一言を述べずして、オーケアノスの激流の  310
深きやどりを訪い行かば、君の怒りは恐るべし』

雷雲寄するクロニオーンそのとき答えて彼にいう、
『ヘーラー汝、かれのもと訪うは今とし限るまじ、
いざ柔らかの床の上、燃ゆる思いを晴らすべし。
女神あるいは人界の女性に向かう情念は、  315
かばかりわれに迫り来て胸を充たせし事あらず、
知謀あたかも神に似しペイリトオスを生めるもの、317
イクシーオーンの愛妻[1]を我かくまでは愛でざりき、
アクリシオスの娘たる足うるわしきダナエーも、
(勇士すべてにすぐれたるペルセウス[2]はその息子)  14-320
高き誉れのポイニクスその娘にてわがために
ラダマンテュスとミノス王を生みたる彼女[3]もかばかりは、14-322
ヘーラクレース生みいでしアルクメネーもかく恋いじ、
また人間の喜びのディオーニュソス[4]を生みいでし
かの艶麗のセメレーも我かくまでも愛でざりき、  325
デーメーテール鬢毛の美なる女王も、栄光の
女神レートーまたさなり、さらにさきにも汝をも、
情念燃ゆる今のごと、かく恋したることあらず』[5] 327

[1]愛妻の名はホメーロス詩中に見えず、神話によればその名はディーアー(リーフ)。
[2]海魔を殺しアンドロメダを救う。
[3]エウローペー。他の伝ではアゲーノールの娘となっている。
[4]6-132、ディオーニュソスは詩的発音、所謂バッカス。
[5]317〜327をアレクサンドリアの評家はしりぞけたり。

そのときヘーラー端厳の女神謀りて彼にいう、
『天威かしこきクロニデー、何たる言を宣するや?  330
高きイーダの峰の上、あらゆる事のあらわなる。
そこに恩愛の床の中、君は伏さんとおぼすとや?
常住不壊の神明のあるものわれら眠る見て、
行きてあらゆる神々にこれを告げなば何とせむ?
その恩愛の床を出で、再び君の宮殿に、  335
到らんことはかなうまじ。何たる恥辱!耐えがたし。
されども君の御心は強いてもしかく望まんか、
かれに室あり、君の御子ヘーパイストス、君のため
作りて、これに堅牢の戸を備えたる室かれに、
かしこに行きて語らわむ、君はふしどを求むれば』  340

雷雲寄するクロニオーンそのとき答えて彼にいう、
『ヘーラー、汝この事を人間あるは神明の
見るを恐るることなかれ、われは汝を黄金の
雲に包まむ。ヘーリオス[1]眼光他より鋭くも、
これをつらぬき、我々の姿うかがうことを得じ』  345

[1]「ヘーリオス」は太陽神。

しかく宣してクロニオーン、女神を腕に抱き取れば、
大地は下に聖くして新たの草花生ぜしむ、
露を帯びたるロートスと番紅花(サフラン)および風信子(ヒヤシンス)、
厚くてしかもやわらかに地上離れて神支う。
そこに二神は添い伏して、黄金の雲美しく  14-350
これを覆えば、燦爛と輝く露ぞふり来る。

ガルガロンの頂きに眠りと恋に制せられ、
腕に女神を抱きつつ、クロニーオーンかく眠る。
甘き眠りの霊かくてアカイア軍の水陣に、
大地を抱きまた震う神に使命を伝え行き、  355
すなわちこれに近付きて飛揚の羽ある言句いう、
『ダナオイ族に、ポセイドーン、今し勇みて力貸せ、
しばしなりとも栄光を加えよ、ゼウス眠る中。
甘美の眠りかれの上われは注げり、さらにまた
ヘーラー彼を恩愛の床に迷わし休ましむ』  360

眠りの霊はかく陳じ、ダナオイ勢の救援を
ポセイドーンに励まして、誉れの群に飛び去りぬ。
ただちに神は先鋒の中に飛び出し叫びいう、
『アルゴスの子よ、見過ごすや、プリアミデース・ヘクトール、
勝ちを制して船奪い功名たてて喜ぶを?  365
ペーレイデース憤り船にとまりて出でざれば、
まさしく事の成るべきを彼は陳じて誇らえり。
されどもわれらいっせいに相互のあいに力貸し、
ふるわばさまでアキレウス・ペーレイデスを要とせじ、
いざいま我の命のまま全軍こぞりふるい立て!  370
戦陣中に最上の、また最大の盾かつげ、
光輝く青銅の甲に頭を守らせよ、
手に最長の槍をとれ、ふるって進め、われ先に
立ちて汝を導かん、思うに敵将ヘクトール・
プリアミデース、勇むとも長く留まることあらじ。  375
勇猛なるも肩のうえ覆える盾の小さき者、
これを劣れる人に貸し、おのれ大なる盾を取れ』

しか陳ずれば将士らはたやすく聞きて従えり、
しかして傷を負いたれど列王立ちて列つくる、
テューデイデース、オデュセウス、アトレイデース民の王、  380
みな戦陣の中を行き戦闘の武器取り換えつ、
勇者はまさる武器を取り、劣れる者は劣れるを。
かく輝ける青銅に身をよろいたる諸将卒、
その先頭に身をおきて、大地を震うポセイドーン、
その強き手のふりかざす鋭き剣は恐るべく、  385
さながら電火飛ぶごとし、これに対して何びとも
戦場中に立つをえず、驚怖はそれを妨げむ。

されどもかなたヘクトルはトロイア勢を整えり、388
かく黒髪のポセイドーン、また栄光のヘクトール、
彼はアカイア軍勢に、これはトロイア軍勢に、  390
力を貸して戦いの気運あくまで熟せしむ。

そのときアカイア水軍[1]とその陣営に大海は
波打ちよせつ、両勢は喊声高く相うてり。
北吹く風の恐るべき呼吸によりて、蒼溟の 394
淵より駆られ岸上に寄する波浪もかく吠えず、  395
渓谷深く炎々のほのおを上げて森林を
猛火激しく焼き払うその轟(とどろき)もまたしかず、
樫の巨木の頂きに高らに叫ぶ疾風の
怒り狂える咆哮の極みの音もまたしかず、
トロイア、アカイア両軍の将士互いに相襲い、14-400
戦う時に物すごくあぐる怒号の雄叫びに。

[1]詩的転回——単純にして効果大なり。394以下は後世の挿入か。

先に誉れのヘクトルは槍を飛ばして、アイアース
まともに向くを狙いうつ、狙い外れずしかれども、
二条の胸綬、盾の帯、また銀鋲をちりばめし
剣の帯と、胸の上重なるところうち当たる、 405
当たれど肉を傷つけず。これを眺めてヘクトール、
飛ばせし槍の効なきに怒りながらもしりぞきて、
死の運命を逃るべく隊伍の中に身をひそむ。

しりぞく彼を勇剛のテラモニデース・アイアース、
船の支えとなる石の、勇士戦う足もとに  410
ころがる石の一つとり、高らにあげて、ヘクトルの
かざせる盾の縁の上、首もと近く胸うちて、
独楽(こま)のごとくに転々と巨大の肢体まわらしむ。

クロニオーンの雷撃に樫の大木根こそぎに
倒れ、そこより硫黄(いおう)の香(か)、ものすさまじくわき起り、  415
かたえに立ちて見る者の心肝ためにおじふるう。
(雷雲寄するクロニオーン、その電撃ぞ恐ろしき)
かく剛勇のヘクトールどうと倒れて塵に伏し、
槍は離れて手より落ち、盾また次ぎて頭鎧と
ともに地に落ち、燦爛の青銅の武具高鳴りぬ。  420
そのときアカイア軍勢は高く叫びて寄せ来り、
彼をひきずり去らんとし、激しくはやく槍を投ぐ。
されど誰しも投げ槍にまた突く槍に敵将の
身を傷つけることをえず、救いの諸将集まれり、
プーリュダマスと勇将のアゲーノールとアイネアス、  425
リュキアー軍をひきいたるサルペードーン、グラウコス、
その他の勇士ひとりだも彼を思わぬものあらず、
彼を覆いて円形の盾をおのおの突き出す。
諸友はたまた腕に抱き戦場よりし運び出し、
後陣にありて待ちわぶる軍馬ならびに美しく  430
飾れる兵車、また御者のかたえに彼を連れ来り、
激しく呻く将軍を乗せて都城に帰らしむ。

かくしてかれら永遠のクロニオーンの生み出でし
渦巻く流れクサントス清き岸のへ着ける時、
兵車よりして地の上に彼をおろして水そそぐ。  435
すなわち呼吸ふきかえし眼(まなこ)を開き天仰ぎ、
膝をつきつつ暗黒の血をものすごく吐き出し、
やがて再び地に倒れ、目は暗黒の夜の中に
覆われさりて、こうむりし打撃に魂をめいらしむ。

こなたアカイア軍勢は将ヘクトール去るを見て、  440
ますます勇を振りおこし、トロイア軍に攻めかかる。
中にはるかに抜きんじてオイレウスの子アイアスは、
鋭き槍を振りあげて突けり敵将サトニオス†。
水の仙女と契りつつ彼を生めるはエーノプス(ト)†、
サトニオエイス[1]岸の上、牛を飼いたるエーノプス。  445
槍の名将アイアース、近く迫りて敵将の
その脇腹を貫けば仰ぎ倒るる、そのめぐり
トロイアおよびアカイアの両軍激しく相打てり。
倒れし友を救うべく同じく槍に秀でたる
プーリュダマスは寄せ来る、パントーオスの生める彼、  14-450
槍を飛ばして、右肩にアレーイリュコス†生める息 14-451
プロトエノル(ギ)[2]を狙い打つ、打たれて彼は地に伏せば、
プーリュダマスは傲然と大音あげて叫びいう、
『パントーオスの武勇の子、その剛強の手よりして、
槍むなしくは飛ばざるを見よや、アカイア軍勢の  455
一人これを身に受けぬ、思うに彼は杖として、
これに身を寄せハーデース[3]住める冥府におり行かむ』

[1]6-34。
[2]ボイオティアの将、2-495。
[3]冥府の王。

しか叫びたる高言を聞きてアカイア軍勢に
悲哀起りて、なかんずくテラモニデース・アイアスは
そばに倒れし友を見て、いたく心を悩ましめ、  460
しりぞく敵にすみやかに彼は輝く槍とばす。
されどもこれをはずし得てプーリュダマスは片側に
とびて死命を免れつ、アンテーノール生みいでし
アルケロコス(ト)[1]は神明の旨より槍を身に受けぬ。
槍の突きしは脊柱の至上の局部——彼の首、  465
頭につなぎ合う所——槍は二条の筋を切る。
彼の頭と口と鼻、かくしてすねとひざとより
はるかに先きに地に落ちて塵埃中に横たわる。

[1]12-100。

そのとき勇むアイアース、プーリュダマスに叫びいう、
『プーリュダマスよ、思い見よ。プロトエノル(ギ)の報いとし、  470
この者ここに倒さるに値せざるや?思い見よ、
わが見るところ卑賤なる素生にあらずこの将士、
馬術すぐれし老将のアンテーノール生める子か、
あるいは彼の同胞か、容姿すこぶる彼に似る』

実は知れどもしか陳じ、トロイア軍を嘆かしむ、475
その倒れたる同胞の近きに寄れるアカマース(ト)[1]、
かばねの足をひかんずるボイオティアーのプロマコス(ギ)を
槍に倒して大音に傲然として叫びいう、

[1]アルケロコスの同胞、プロマコスは初めて現わる。

『弓勢(ゆんぜい)荒るるアカイアの軍よ、汝ら脅喝に
飽かず、辛苦と不幸とはひとり我らのものならず、  480
汝らともにいっせいに同じく討たれ滅ぶべし。
見ずや汝のプロマコス、わが鋭刃にほろぼされ
眠るを。われの同胞の血の復讐は遠からず
かならず成らむ。さればこそ人は祈らむ、その仇を
返す族人その家のあとに残りて留まるを』  485

その高言に悲しめるアカイア勢の中にして、
特に心を痛めたるペーネレオース(ギ)、すぐれたる
勇将立ちて奮然とアカマスめがけ突きかかる、
アカマス逃げて鋭刃はイリオネウス[1](ト)†をうち倒す、
トロイア族の中にして神ヘルメスは特にめで、  490
牛羊多く富ましめしポルバス[2]†の息——唯一の
子息と彼の妻生みしイリオネウスをうち倒す、
額の真下つんざきてむごく突き入る鋭刃は、
眼窩のそとに眼球を飛び出でしめつ、頭蓋の
裏に通れば手を伸して彼は地上に倒れ伏す。  495

[1][2]イリオネウスおよびポルバス前後になし。

ペーネレオース(ギ)またつぎに鋭利の剣(つるぎ)抜き放ち、
首を目がけてうちおろし、兜とともにその頭
切りて地上にまろばしむ、しかも長槍また抜けず、
眼を貫ぬけるそのままに頭を高く手にとりて、
トロイア勢に示しつつ傲然として叫びいう、  14-500

『トロイア勢よ、すぐれたるイリオネウスの父母(ちちはは)に
わがため告げよ、失せし子をその宮中に悲しめと。
同じく我らのプロマコス——アレゲーノルを父とする
彼をその妻喜びて迎え得ざらむ、トロイアを
あとに航してアカイアの壮士故郷に帰る時』  505
しかいう言に敵軍のすべては震いおののきつ、
各々あたり見回して破滅逃るるすべ思う。

ウーリュンポスを家とする歌の女神ら乞う告げよ、
大地を震うポセイドン戦況一たび変えしのち、
アカイア軍の中にして誰かまさきに敵人の  510
武具を剥ぎしや?アイアース・テラモニデースそれなりき。
ギュルティアデース・ヒュルティオス†、ミュシアの将を彼うてり。14-512
アンティロコスはパルケースまたメルメロス†を剥ぎ取りぬ。
メーリオネスはヒッポティオーン†およびモリュスを打ち取りぬ。
テウクロスは討つ、敵の将ペリペーテース†、プロトオン†。14-515
アトレイデースこれに次ぎ、ヒュペレーノール敵将の 14-516
腹部を突きて倒れしむ。その槍突きてものすごく、
臓腑を外にあふれしむ、受けたる重き傷口を
逃れて魂はいそぎ去り、暗黒彼の目を閉じぬ。
されどもっとも数多く敵をうちしはアイアース・  520
オイレウスの子、何びともかく迅速に敵打たず、
クロニオーンのおどかしに逃げ行く群れの後追いて。14-522


イーリアス : 第十五巻



 ゼウス目を覚まして戦況を眺め、ヘーラーを叱り責め、イーリスを遣わしてポセイドーンをしりぞかしめ、アポロンに命じてヘクトールを助けしむ。ヘクトール負傷より回復し、アポロンの援助により進んでアカイア軍を討ち、敵の退却を追い、塹壕と塁壁とを越す。パトロクロスこの戦況をエウリュピュロスの陣営において眺め、いそぎアキレウスを説服せんとす。アカイア軍は前線の船泊りよりしりぞく。テラモニデース、甲板に立ちヘクトールが焼かんとするプロテシラオスの船を防ぐ。

杭と塹壕過ぎ越えて、トロイア軍は倉皇と
逃れ走りつ、ダナオイの軍勢の手に粉々と
討たれて、戦車待つところ[1]帰り来りて陣を整えつ、
恐怖に満ちて蒼然と面色変えて立てるとき、
黄金の座のヘーラーのかたえ、イーダの峰の上、  15-5
目を覚したるクロニオン、立ちて二軍のさまを見る。
トロイア軍は破られて逃れ、そのあと追い攻むる
アカイア勢をポセイドーン励まし進む。こなたには
地上に伏せるヘクトール、その僚友に囲まれて
呻吟の声たえだえに気を失いて血を吐けり、 15-10
彼を討てるはアカイアの軍中弱き者ならず。
彼を眺めて人天の父クロニオンは憐れみつ、
目を怒らしてヘーラーに向かいすなわち宣しいう、

[1]トロイア軍はさきに塹壕の前に戦車を残してすすみ来れり(12-81以下)。

『ヘーラー、汝、狡獪(こうかい)の策をろうして勇猛の
将ヘクトルをしりぞけて、トロイア軍を敗れしむ。  15
憎き汝の奸計の報いの果てはいやさきに
汝に来ずと誰かいう、われは汝を鞭うたむ。
思い出でずや、高きより吊られし汝両足に
鉄床(かなとこ)垂れて、黄金の固き鎖は汝の手[1]、
解くべからずに縛りしを。そのとき汝雲中に  20
懸かりて、諸神これがためウーリュンポスに悲しみき、
近寄り汝救うべく彼らの力あだなりき。
わが手のつかみ取りし者、天より遠く地の上に
投げ落されて気は絶えぬ。されども依然わが心[2]、
ヘーラクレースめで思い悲しむ苦悩解けざりき[3]。  25

[1]かかる刑罰当時に行われき、『オデュッセイア』22-173に牧人メランティウスかく苦しめらる。
[2]1-590。
[3]14-253以下。

『かのとき汝、風の神ボレアースより助力得て、
嵐を起し、奸計をたくみて荒るる海の上、15-27
わが子を放ちコースなる戸口豊かの地にやりぬ。
我はそこより救い出し、牧馬に富めるアルゴスの
郷に、再び辛労を尽せる後にもたらせり。  30
汝このこと思い出で奸計またと企むな。
ふざけ並びに閨房のたくみ汝を救い得じ。
諸神はなれて閨房に汝は我をあざむけり』

しか宣すれば牛王の目のヘーラーはおののきつ、
すなわち飛揚のつばさある言句を彼に陳じいう、35
『ああわがためにあかしたれ、大地ならびに宏大の
上天および地の底の流れステュクス――神々に
とりてもっとも恐るべきまた大いなるあかしの語――
また神聖の君の頭、またわれわれの合歓の
閨房――これに偽りの誓いは掛けず――あかしたれ、  40
大地を震うポセイドーン、わが命により、トロイアの
軍勢ならびにヘクトルを害せしならず、その敵を
助けしならず。おそらくは自らすすみかくなせり、
船のかたえに悩みたるアカイア勢をあわれみて。
さもあれ彼に忠言を我は致さん、雷雲を  45
集むる君の命令に、服することを勧むべし』

しか陳ずれば人天の父なる神はほほえみつ[1]、
すなわち飛揚の言句もて彼女に向かい宣しいう、
『汝、牛王の目を持てるヘーラー、こののち群神の
席に臨みて心想[2]をわれと同じうするとせば、  15-50
かのポセイドン、その願いかほど我に反するも、
ただちに念をひるがえし、われと汝に従わむ。
汝まことに偽らず正しく所念述ぶとせば、
いま群神の集りの中に訪い行き、イーリスを、
また銀弓のアポローンを、呼びてこなたに来たらせよ[3]。  55

[1]甘言を聞きてゼウス喜ぶ(1-595 以下)。
[2]心想は考えと同義。
[3]54〜77、ゼウスの言によりて戦局の未来を述ぶ。

『青銅よろうアカイアの陣にイーリス使いして、
大地を震う海の王ポセイドーンにまのあたり、
戦いやめてその家に帰らんことを命ずべし。
しかしてポイボス・アポローン、彼はヘクトル促して、
また戦場に進ましめ、勇気を彼に吹き込みて、 60
今そのこころ悩ませる苦痛を忘れ去らしめん。
かくしてアカイア軍勢に怯懦の心起こさしめ、
再びこれを破るべし、敵は逃れてなだれ落ち、15-63
ペーレイデース・アキレウス領する船にしりぞかむ。
パートロクロス、彼の友かくて出づべし、しかれども  65
サルペードーン(ト)わが愛児および諸将を討てる後、
イリオン前にヘクトルに討たれん、ついでアキレウス、
仇を報いて栄光の将ヘクトルを殺すべし。
そのとき以来陣地より、わが意によりてトロイアの
軍の退却ひき続き、ついにアカイア軍勢は、  70
アテーネーの助けより、堅城トロイアほろぼさむ。[1]

[1]木馬の計略によりてトロイアをほろぼす(『オデュッセイア』の4-272等)。

『されどそのとき到るまで我は怒りを続くべく、
ダナオイ族に他の神の救援たえて許すまじ、
やがてペレウス生める子の念願成らむ、はじめわれ
約して頭うなだれて諾せしごとし、かの時に  75
都城を破る剛勇のアキッレウスを栄(は)やすべく、
神母テティスはわが膝にすがり情願切なりき[1]』 15-77

[1]1-500以下。

しか宣すれば腕白き女神ヘーラーかしこみて、
ウーリュンポスの頂きをさしてイーダの山を出づ。
たとえば諸国経めぐりて、その胸中に「かの郷に、  80
行きたし」などと、またその他さらに多くの情願を
抱ける人の想念の、自由に速く飛ぶごとく、
かく迅速に端厳のヘーラーその歩を進めつつ、
ウーリュンポスの頂きに着きてゼウスの宮の中、
ともにつどえる群神の円居(まどい)に近く寄り来たる、  85
来たるを眺め群神は盃とりて相迎う。
されどヘーラー顧みず、ひとりテミス[1]の手よりして 15-87
盃とりぬ。紅頬(こうきょう)の若き女神はいやさきに、
立ちて向かいてつばさある言句を彼女に陳じいう、

[1]ゼウスに仕うる女神の一。

『何らのゆえの来臨ぞ?ヘーラー、御心病むと見ゆ。90
君の夫のクロニオン、君をおそらく脅せしか?』

玉腕白き端厳のヘーラーそれに答えて陳じいう、
『女神テミスよ、その事をことさら我にいうなかれ、
彼の心の驕傲をまた剛愎を汝知る。
いま堂上に群神の宴(えん)を始めよ。クロニオン  95
何と不祥の行ない[1]を宣し述べりや、不滅なる
諸神集まるなかにして、汝親しく学びえむ。
いま喜びて宴席につくとも、諸神また諸人
ひとりもわれの言聞かば心喜ぶことなけむ』

[1]逆らう神に罰を加えること。

しかく陳じて端厳のヘーラーおのが座につけば、  15-100
クロニオーンの宮中に諸神ひとしく悲しめり。
その紅唇はほほえめど女神の黒き眉の上、
額は晴れず憤然と皆に向かいて陳じいう、
『ゼウスに対し思慮浅く怒るわれらは愚かなり、
言葉あるいは力もて迫りて彼のなすところ、  105
妨害せむと念ずれど、見よ見よ彼は遠ざかり、
たえてわれらを顧みず、神々すべての中にして
威力と勇気明らかにおのれ無上と誇らえり、
いかなる苦難下すとも各々これを耐え忍べ。
思うに今しアレースに彼は災いくわえたり、  110
見よ戦場にアレースの、威力激しきアレースの
最愛の子と呼べるものアスカラポス[1](ギ)は倒れたり』

[1]13-519。

そのときアレース平手もて、そのたくましき両のもも
激しくうちて、愁嘆の声を放ちて皆にいう、
『ウーリュンポスに住める友、われをとがむることなかれ、  115
愛児の仇をむくうべくアカイア水軍襲いうち、
ゼウスの雷火身を砕き、血と塵埃にまみれたる
戦死の群に加わるは、われの運命ならんとも』

しかく陳じて「逃走」と「恐怖」[1]に命じ、戦いの
よそおい馬に備えしめ、身に燦爛の鎧着る。  120
やがて未曾有の大いなる憤怒瞋恚(しんに)は、恐るべき
クロニオーンの手よりして諸神の上に落ちんとす。
されど藍光のまみ光るアテーナイエー、群神の
悩みをうれい座より立ち、堂の戸口を過ぎ行きて、
アレース神の頭より肩より盾と兜とを、  125
また青銅の大槍をその剛強の手より取り、
荒るるアレース戒めて叱りて彼に陳じいう、

[1]デイモスとポボス、人化していう。4-440、11-37。

『狂える汝、分別を失い、われを忘るるや、
聞くべき耳を持たざるや、恥と知慮とを捨てたるや?
クロニーオーン・ゼウスよりただいま帰り来りたる  130
玉腕白きヘーラーの言を汝聞かざるや?
汝多くの災難をうけたる後にやむをえず、
悲しみながら帰り来て、ウーリュンポスのこの庭に、
われらすべての神明に苦難こうむらしめんとや?
見よクロニオーン、トロイアとアカイア捨ててすみやかに、  135
ウーリュンポスに神々をいたく騒がせ悩まして、
罪あるものも罪なきもみな順々に懲らすべし。
されば汝に我勧む、子ゆえの怒りうち捨てよ。138
腕に威力に汝の子しのげる者も殺されぬ、
後にもやがて殺されん、汝よろしく思い見よ、  140
あらゆる人の子らをみな守るはやすき事ならず[1]』

[1]神より出づる人の子を救うは神の所為(16-433以下)。されど神もまた運命によりて決定せる死をば救うこと能わず(8-69以下)。

しかく陳じて荒れ狂うアレース席に戻らしむ。
ヘーラーやがてアポロンを堂の中より呼び出し、
また神々の使いたるイーリスともに呼び出し、
飛揚の羽ある言句もてこれに向かいて陳じいう、  145
『汝ら二神にクロニオン、よくする限り迅速に
イーダに来よと命下す。行きてまともに会わん時、
彼が二神に令すべきその一切を怠りそ』

宣しおわりて端厳のヘーラー帰り、おのが座に
着けば二神は立ち上がり、いそぎて道をすすみ行く。  15-150
泉豊かに猛獣の宿るイーダに彼ら来て、
雷音高きクロニオン、ガルガロンの頂きに
座せるを眺む、香雲は彼をめぐりてたなびけり。
二神すなわち雷雲を寄するゼウスの目のあたり、
立てば、眺めてクロニオン心に深く喜べり、  155
天妃くだせし命令を彼らただちに聞きたれば。
すなわちさきにイーリスに向かい言句を宣しいう、

『速きイーリス、とく走り、ポセイドーンに一切の
使命伝えよ、いささかも誤り述ぶることなかれ。
戦闘攻伐うち捨てて、去りて諸神の集まりに  160
合(がっ)せよ。あるいは洋々の波浪の中に行けと言え。
彼もし我に従わず、命を侮ることあらば、
よろしく彼の胸中に思わしむべし、いかばかり
強くも、われの攻撃をしのぎて耐ゆること難し、
我は宣せん、わが威力彼にまさりて、さらにまた  165
長子と我の生まれしを、しかるを彼は神々の
恐るる我に劣らずと胸裏にいうをはばからず』

しか宣すれば疾風の足のイーリス命を聞き、
イーダをくだり神聖のイリオンさしていそぎ行く。
たとえば雪と雹霰(はくせん)と雲より出でて、れいろうの  15-170
空より生(あ)れし北風の呼吸に駆られ飛ぶごとく、
しかくイーリス迅速に勇みて馳せてすすみ来つ、
近くに寄りて地を震うポセイドーンに向かいいう、

『ああ大地(おおつち)を抱くもの、汝、鬢毛黒き神、
アイギス持てるゼウスより、我は使命を持ち来る。  175
戦闘攻伐うち捨てて、去りて諸神の集まりに
合せよ、あるいは洋々の波浪に入れと彼の命。
彼の言に従わずこれを侮ることあらば、
彼は自らここに来て汝を敵に猛烈の
戦いなさむ。しかもかれ汝にこれを避くべしと  180
戒む。彼はその威力汝に勝つと宣し言い、
しかも長子の権誇る。しかるを汝神々の
恐るる彼に劣らずと心中思うをはばからず』

そのとき大地を震う神、おおいに怒り彼にいう、
『無残なるかな、強くとも彼の高言はなはだし、  185
位いは彼に劣らざる我を威力に押さんとや?
クロノス、レアー父母としてわれら同胞の神三位(さんみ)、
ゼウスと我と地の底の冥府のつかさハーデース、
一切三つに分かたれて各々おのが領得たり。
くじを引く時とこしえの居住となして、漫々の  190
海をわれ得つ、暗黒の領を得たるはハーデース、
ゼウスは高く雲上に広き天界受け得たり、
されど大地と広大のウーリュンポスは共有に。
かくあるゆえにゼウスの意、われは奉ずることをせず。
彼いかばかり強くとも第三領に甘んぜよ。  195
さながら我を怯(きょう)として手を上げおどすことなかれ。
彼の子息ら息女らを荒びの言におどすこと、
彼にとりては優ならむ、彼の生みたるものなれば、
彼の命ずる一切にやむなく彼ら従わむ』

そのとき疾風の足速きイーリス答えて彼にいう、  15-200
『ああ大地(おおつち)を抱くもの、汝、鬢毛黒き神。
この不屈なる粗暴なる言をゼウスに述べよとや、
あるいは改め変ぜんか?知者の心は改まる。
汝知れりや、エリニュエス常に長子にともなうを[1]』

[1]特に家庭の神聖を守りて秩序を保つ者、不正に対し復讐する者(9-454〜457)。

大地を震うポセイドーン彼女に答えて陳じいう、  205
『女神イーリス、いま汝述べたる言句正しかり、
使いたる者適切の言を述ぶるはげにいみじ。
されど等しき分を持ち同じき命をうくる者、
これを瞋恚の言句もて叱りののしる者あらば、
われの心と魂にひどき苦痛は襲い来む。  210
さもあれいまは憤悶を抑えてわれは譲るべし、
ただし一事をいま述べてこれを威嚇の言とせむ、
戦利を分かつアテーネー、天妃ヘーラー、ヘルメース、
ヘーパイストスおよびわれ——その一切を侮りて、
イリオン城の要害を彼もし許し破壊せず、  215
アカイア軍に莫大の力貸すことなかりせば、
知るべし彼と我のあい不尽の怒り燃え出でん』

しかく宣して大地ゆる神はアカイア軍勢を
去り海浪に沈み去る、アカイア軍勢みな嘆く。

雷雲寄するクロニオーン、そのときアポローン呼びていう、  220
『行けやポイボスわが愛児、青銅よろうヘクトルの 15-221
もとへ。大地を抱きまた震わす神は今しがた、
われの激しき憤怒避け、波浪の中にしりぞけり。
さもなかりせば、クロノスとともに地底の闇に住む
他のもろもろの神々は、われらの戦い聞きつらむ。  225
彼この事の起るまえ怒りながらもわが腕に
屈(く)せしはよろし、彼のためまたわがために共によし、
ゆえはこの事ありとせば苦闘の汗は流されむ。
さはれ汝は房飾るアイギスとりてすすみ行き、
これを激しくうちふりてアカイア軍をおびやかせ。  230
遠矢の汝、栄光の将ヘクトールよく守り、
偉なる力を彼に貸せ、船とヘレースポントスを
指して逃れて、アカイアの軍勢そこに到るまで。
そののち所為(しょい)と言句とをわれ計らわん、アカイアの
軍勢がまた辛労を終えて休らい得んがため』  235

しか宣すればアポローン、父の命令かしこみて、
羽禽(うきん)[1]の中にいと早きつばさをもてる若タカの
鳩追うごとくすみやかに、イーダの丘を翔けくだる。
くだりて見ればヘクトール・プリアミデース座につきて、
また平原に身を伏さず、生気めぐりて、かたわらに  240
その僚友を認め得つ、呻吟、流汗すでにやむ、
アイギスもてるクロニオーン計りて生に返らしむ。
そのとき遠矢のアポローンかたえによりて宣しいう、

[1]「羽禽」とは鳥類のこと。

『プリアミデース・ヘクトール、など人々と相離れ、
弱りてここに留まるや、何たる苦難来たれるや?』  245
堅甲光るヘクトール呼吸弱りて彼にいう、
『神々の中すぐれたる君、誰なればしか問える?
君は知らずや、アカイアの船のかたえにアイアスは、
我その友をほふる時、大石なげてわが胸を
激しく撃ちて、奮闘のわれの力を留めたり。  15-250
我は思いき、今日この日わが生命を吐き去りて、
死人の群を、ハーデスの領を親しく見るべしと』

飛箭鋭きアポローン、そのとき再び彼にいう、
『勇め今こそ、クロニオン汝に添いて助くべく、254
イーダの峰の高きより黄金の剣(けん)身に帯ぶる[1]  255
われアポローンを遣わせり。われはさきにも汝が身
守り救えり、イーリオン汝の堅き 城ともに。
いざ立て奮え、兵車駆る多くの御者を励まして、
敵の軍船まっこうに足疾き軍馬駆けしめよ。
われ先頭にすすみ行き、兵車のために道開き、  260
アカイア軍の諸勇士を討ちて敗走なさしめむ』

[1]5-508。

しかく宣して勇将に偉大の力吹きこみぬ。
かくて[1]たとえば厩中(きゅうちゅう)に食をあくまで食みおえる
駿馬たづなをふりほどき、平野の上を駆け走り、
清く流るる川流にその身をひたし、揚々と  265
勇みて頭高く上げ、肩にたてがみさっそうと
なびかせ流し、壮麗のおのが姿にほこらいつ、
牝馬のむるる牧場に勢い猛く馳するごと、
かくアポローンの声ききて勢い猛くヘクトール、
膝と足とを早めつつ、御者を励まし進ましむ。  270
たとえば角のたくましき鹿をあるいは山羊を追い、
猟犬の群、猟人の群、いっせいに進むとき、
峨々たるいわお、繁る森、けもの救いて隠れしめ、
これを探りて見出だすこと、ついに彼らの運ならず、
囂々として叫びあう彼らの前に金毛の  275
獅子現われて、勇みたる一群払いのくるごと、
ダナオイ軍勢一団となりて利剣を、両刃(もろは)ある
槍を振るいて敵軍を追いつつ進む眼前に、
プリアミデース・ヘクトールその陣中にあるを見つ、
恐怖に満ちて足のした勇気まったく沈みさる。  280

[1]6-506以下。

アンドライモーン(ギ)生める息、アイトーロイの族の中、
槍を飛ばすに秀でたる、また接戦にすぐれたる——
討議の席にわかき子ら競える時にアカイアの
会中もっともすぐれたるトアースそのときみなの前、
立ちて慇懃の思いこめ、口を開きて陳じいう、  285

『無残なるかなおおいなる驚異ぞわれの眼に映る、
ああ彼再び立ち上がる、死の運命をのがれたる
彼ヘクトール、わが軍のおのおの心望みしは、
テラモニデース・アイアスの手により彼の滅べるを。
いま神明のとある者再び救いたすけたる  290
かれヘクトール、数多くアカイア兵をほろぼせり、
思うに再びかくなさむ。轟音高きクロニオーン、
助くることのなかりせば、かく先頭に勇むまじ。
さはれいまわれいうごとく汝ら聞きて命守れ、
われ軍勢に命下し陣地をさして去らしめむ、  295
されど陣中剛勇と称するものは立ちとまれ、
かくてまさきにまのあたり、槍を振うてヘクトルを
攻めて退却なさしめん、よしいかばかり勇むとも
彼は心にダナオイの群れに入るをはばからん』

しか陳ずれば人々はかしこみ聞きて従えり。  15-300
かくアイアースのかたわらに、イードメネウスのかたわらに、
メーリオネスとテウクロス、アレースに似るメゲースの
かたわらにある人々は、勇士を呼びて陣勢を
張りて、トロイア軍勢とヘクトールとを待ち迎え、
他の軍勢はアカイアの水陣さしてしりぞけり。  305

そのときトロイア軍勢は密集なして寄せ来る、
導く者はヘクトール、堂々として大股ぎ、
さらに先んじアポローン・ポィボス、雲に肩包み、
房ある盾の燦爛を手にす、それまた神工の
ヘーパイストス、敵敗るゼウスのために作るもの、  310
こをたずさえてアポロンは軍の真先きにすすみ行く。

こなたアカイア軍勢も密集なして相迎う。
喊声二陣に相起り、矢は弦上をはなれ飛び、
剛勇の手に投げられし槍のあるもの、戦闘に
勇む壮士の身をうがち、さらに多くは肉体に  315
触るるそのまえ道に落ち、肉に飽かんとあせれども、
その甲斐あらず、いたずらに大地の中に突きささる。
神ポイボス・アポローン盾動かさず保つ間は、
かれこれ二軍飛刃にて互いに壮士倒れしむ、
されどまともにダナオイの軍勢にらみ大音に、  320
叫びて盾をふるうとき、彼らの心胸中に
乱れて震いおののきてその勇猛の意気忘る。
たとえば牛の一群を、あるは羊の群集を、
その牧人のあらぬ時、黒夜の闇に突然と、
猛獣二頭襲い来て、騒がし散らし追うごとく、  325
かく紛々とアカイアの軍勢勇を失いて 326
走る、アポロン恐惶をかれらに起し、トロイアの
軍に、勇将ヘクトルに勝利の誉れ与えたり[1]。327

[1]原訳は326~327行の2行を3行に訳している。
かくて両軍乱れ合い、両軍互いに相殺す。328
ヘクトール手に倒せしは、アルケシラオス、スティキオス、329
一は青銅の鎧着るボイオーティアの族の長、  330
一は武勇にすぐれたるメネステウスのめずる友、
メドーンならびにイーアソスをアイネイアスは討ち倒す、

メドーン[1]は勇士オイレウスうみなせる庶子、アイアスの 15-333
弟——父の娶りたるおのが継母の兄弟を、
エリオーピスの兄弟を——殺せしゆえに故郷より、  335
離れて遠くピュラケーの郷に移りて住める者。336

[1]15-333〜336は13-694〜697と同じ内容、同じ詩句。

またイーアソスは将としてブーコリデース・スペーロス†
生める子息と呼ばわれてアテナイ人をひきいたり。
プーリュダマス(ト)の倒せしはメーキステウス、エキオス†を
討ち取る者はポリテース、アゲーノール(ト)はクロニオス、  340
パリスは打てりデーイオコス†、先鋒中に逃げ行くを
肩の根射れば青銅の矢じりは彼を貫けり。

かくして彼ら死体より武具を剥ぎとる——かなたには
アカイア軍勢逃げ走り、塹壕および塞柵(そくさく)に
身を投じつつ、迫られてその塁壁にしりぞけば、  345
大音あげてヘクトール、トロイア勢に叫びいう、

『急げ汝ら船さして、捨てよ血染のものの具を、
船より離れ遠ざかり立つものあるを認めえば、
その場に彼の誅滅(ちゅうめつ)[1]をわれ計らわん。その者に
その親戚の男女らは火葬の礼を致すまじ。  15-350
イリオン城の前にして群犬彼の肉食まむ』

[1]「誅滅」は命令に背く者を殺すこと。

しかく陳じて腕ふるい、長鞭(ながむち)馬をかりたてて、
トロイア勢を陣中に呼びはげませば、いっせいに
等しく叫び、戦馬駆り戦車進めて轟々の
騒ぎを起す。その先に進むポイボス・アポローン、  355
堅脚あげて塹壕の堤たやすく踏み破り、
こを水中に投げ入れて広き道路を作りあぐ。
壮士力を試すため腕をふるいて投げる槍、
空を飛び行き地に落つる距離と等しく長き道、
その道過ぎて密集の隊伍進めば、アポロンは  360
まさきに立ちて燦爛の盾をかざしてアカイアの
城壁やすく打ち崩す。たとえば海の岸の上、
嬉々(きき)とし遊ぶ少年のその戯れに、砂山を
作りてのちに堆積を手にて足にて崩すごと、
かく銀弓のアポローン[1]、汝アカイア軍勢の  365
努力の効果うち砕き、これをおどして走らしむ。

[1]原文はここに二人称を用い、『アポローンよ、君は』。

かくして船のかたわらに来り留まるアカイオイ、
互いに呼びて励まして、おのおの高く双の手を
伸ばし、すべての神々にその救援を祈願する、
そのなか特にアカイアの守りゲレーニア・ネストール、  370
星張りつめる天上にその手をあげて祈りいう、

『ああわが天父クロニオーン、穀を産するアルゴスの
あるもの君に牛羊の肥えたるももを焼き捧げ、
帰郷の祈り念ぜしを、君うなずきて納受せる——
そをいまおぼし、災難を、ウーリュンポスに住める君、  375
払い、トロイア軍勢の手よりわれらを救護せよ』

ネーレイデース[1]老将の祈りてしかく陳ずるを、
クロニオーンは納受して雷音[2]遠くとどろかす。

[1]ネーレウスの子すなわちネストール。
[2]雷は時には凶兆、時には善兆(8-133参照)。

アイギス持てるクロニオーン鳴らす轟雷耳にして、
トロイア軍はなお強くアカイア軍に攻めかかる。  380
びょうびょうとしてはてしなき海上さして高きより、
颶風激しく吹きおろし、銀浪怒濤かりたてて、
漂う船の甲板を襲いてこれをひたすごと、
トロイア軍は大音をあげて塁壁おどり越し、
中に戦車を駆り入れて両刃の槍をくり出だし、  385
短兵急[1]に敵艦の船首に近く戦えば、
アカイア勢は黒船の船上高くよじのぼり、
甲板上に、水戦[2]のために備えて青銅を
先につけたる長き矛とりてふるいて戦えり。

[1]「短兵急に」はだしぬけにということ。
[2]「水戦」は海戦のこと。
これよりさきに船離れトロイア、アカイア二軍勢、  390
壁のほとりに戦える、その間(ま)にかなた親しめる
エウリュピュロスの陣の中、パトロクロスは座を占めて、
言句をもって慰めつ、彼のうけたる傷の上、
つらき苦悩を救うべく良薬塗りてかしずけり[1]。

[1]11-846。

されど今はた塁壁をのぼるトロイア軍勢と、  395
叫喚上げて逃げ走るアカイア軍を見たる時、
思わず起る呻吟の声もろともに平手もて、
両のももうち愁然と友に向かいて陳じいう、

『エウリュピュロスよ、要あれど我は汝のかたわらに  
いまは留まること難し、見よや大事の迫れるを。  15-400
従者、汝をいたわらむ、我はただちにいそぎ行き、
ペーレイデース・アキレウス訪いて戦い励むべし。
天佑あらばわがいさめ、彼の心をおこすこと
なしと誰かは断ずべき、友のいさめは力あり』

しかく陳じてその足に任せて彼はすすみ行く、  405
かなたアカイア軍勢はトロイア勢を防げども、
数は劣れる敵軍を船より払うことをえず。
トロイア勢もダナオイの陣を破りて陣営を
水軍のなか攻め入るをよくせず。これをたとうれば[1]、
藍光の眼のアテーネー教ゆるゆえに一切の  410
技に巧みの工匠の、その手用うる準縄(じゅんじょう)[2]は、
船作るべき木材をまさに二つに分かつごと、
二軍のあいの勝敗の運はまさしく相等し、
かくて攻防相続き船のほとりに戦えり。

[1]同様の比喩は、12-433。
[2]「準縄」は墨縄のこと。
中にほまれのアイアスに向かい来るはヘクトール、  415
同じ一つの船のそば二将争い、一方は
敵を払いて兵燹に船を焼きうちするをえず。
他もまた敵に神明の救いあるゆえ追うをえず。
やがてほまれのアイアース、船をめがけて松火を
投ぜんとするカレートル(ト)†、クリュティオス[1]の子に槍を、  15-420
飛ばして胸を貫けば、松火落し地に倒る。

[1]プリアモスの弟(3-147)。

黒船のまえ塵の中、従兄弟(じゅうけいてい)の倒るるを、
悼めるまみに眺めやる将、栄光のヘクトール、
大音あげてトロイアとリュキアー軍に叫びいう、

『接戦猛きトローエス、ダルダノイまたリュキアーの  15-425
汝ら、これこの急迫のときに逃げ去ることなかれ、
汝ら救え、倒れたるカレートールを、敵の船
居並ぶなかに倒れたるその武具敵は剥がんとす』

しかく陳じて燦爛の槍をアイアースめがけ打つ、
狙い違えり、しかれどもマストール†の子リュコプロン†、  430
キュテーラ[1]よりの彼の臣、(キュテーラの地にある人を
殺し主公のもと住みし)かれアイアースのかたわらに
立てるを撃ちて、ヘクトールその青銅の利き槍に、
耳のへ、頭つらぬけば、船尾を落ちてあおむきに、
大地の上に塵の中、倒れて四肢は緩みたり。  435
これを眺めてアイアース戦慄しつつ弟に向きてすなわち陳じいう、

[1]ラコニア(スパルタ)の南岸に近き島。

『ああテウクロス、我々の親しき供は倒れたり、
マストリデース倒れたり、キュテーラよりし訪い来り、
われらとともに住めるとき、親のごとくにめでしかれ、
彼を英武のヘクトール殺せり。いずこ汝の矢?  440
はたポイボース・アポロンの与えし汝の弓いずこ?』

しか陳ずればうべないて走り来りてそばに立ち、
張りし強弓、手の中に取りて勁箭たくわうる
やなぐいそばに、すみやかにトロイア勢をめがけ射る。
しかして射たりクレイトス(ト)†、ペイセーノール†生める子を、  15-445
パントーオスの勇武の子プーリュダマスは彼の友。
射られし前にクレイトス手綱をとりてその戦車、
駆りてもっとも戦闘の激しきほとり馳せ向かい、
ヘクトルおよび軍勢の意を満たしめき、しかれども
災い到り、救援を念ずるものも防ぎえず、  15-450
見よかれ首に惨毒の飛箭を受けて兵車より、
身をひるがえし倒るれば、馬は主なき車引き、
迷い駆くるを、すみやかにプーリュダマスは認め得て、
まさきに来り引きとめて、プロティアオーンの生める息
アステュノオス(ト)†[1]に引き渡し、厳しく命じ目をとめて、  15-455
これをおのれのそば近く従わしめつ、自らは
足を返して先鋒の勇士の中に混じ入る。

[1]同名の別人ディオメーデースに殺さる(5-144)。

テウクロスいま第二の矢、青銅よろうヘクトルを
狙えり、勇む敵将を射りて生命奪い得ば、
船のかたえの奮闘をとこしえ彼に絶たしめむ。  460
されどゼウス聡明の思慮は忘れず、ヘクトルを
防ぎ守りてテラモーンの子の功名を奪い去る、
見よテウクロス精巧の弓を張る時、クロニオン
その弦ふつと断ち切りて、矢じり鋭き勁箭は、
それてけし飛び、手中より剛弓落ちぬ、かくと見て、  465
戦慄しつつテウクロス、兄に向かいて陳じいう、

『無残なるかな、とある神わが戦争のはからいを
みなうち砕き、剛弓を我の腕より奪い去り、
新たに撚りし弦[1]断ちぬ。今日朝早く心して
絶えず勁箭射とばすに耐ゆべく強く張りしもの』  470

[1]前にも弦の断ちしことあり(8-328)。

そのときテラモーン生める息、大アイアース答えいう、
『ああわが弟よ、アカイアの軍に悪意を抱く神、
汝の弓と矢をくじく。弓箭(きゅうせん)さらば打ち捨てよ、
長槍汝の手にとりて盾を汝の肩にとり、
トロイア軍と戦いて他の兵たちを駆り立てよ。  475
敵軍われらに勝てるとも、わが備えある戦艦を
あに敵やすく奪わんや!いざ戦闘の念ふるえ』

しか陳ずればテウクロス、弓箭陣の中に捨て、
肩のめぐりにおおいなる四重の盾[1]をうちかざし、
駿馬の髪を飾りたる兜を彼のおおいなる  480
頭の上にいただけば冠毛凛とうち振う、
かくして彼は青銅の穂先するどき長槍を
手にして、いそぎすみやかに兄のかたえに来り立つ。

かなたに勇むヘクトール、敵の弓箭効なきを
見て、トロイアとリュキアーの二軍に大音あげていう、  15-485
『接戦猛きトローエスまたダルダノイ、リュキアーの
わが僚友よ、ああふるえ。勇み進んで中広き  
敵の戦船襲い打て。わが目親しくいま見たり、
ある敵将の弓と矢をクロニオーンのくじきしを。
ゼウス勝利の栄光を与うるときに、勇士らの  490
冥護まことに明らけし、同じく神の冥護なく、
くじかるる者またしるし、見よいまゼウス、アルゴスの
軍勢いたく弱らしめ、我に応護を加うるを。
いざ密集の隊なして敵の兵船襲いうて、
刀槍あるいは矢に打たれ死の運命に会わん者、  495
甘んじ死せよ。国のため死するは何と光栄ぞ![2]
あとに残れる恩愛の彼の妻子とその家と、
その所領とはいっさいの害受くることたえてなし、
敵の軍勢船に乗り故郷をさして去らん時』

[1]革四枚を重ねたる。
[2]494~496と同様の奨励12-243。

しかく陳じて各々の意気と勇とを励ましむ。  15-500
かなた同じくアイアース、その僚友に叫びいう、
『アカイア勢よ、恥を知れ。道は明らか、討ち死にか、
あるはおのれの救援と船より敵の駆逐のみ。
堅甲光るヘクトールわれらの船を奪うとき、
汝ら徒歩にその国に帰り得べしと期し得るや?  505
船を焼くべく雄叫(おたけ)びて、その軍勢を高らかに
かれヘクトルは励ますを、汝ら耳に聞かざるや?
舞踊にあらず戦場に、彼は将士を励ませり。
われにとりては、猛烈の腕をふるいて接戦に
進むべきのみ。このほかにまさる方なし計りなし。  510
かくむなしくも船のそば、劣れる敵に襲われて、
長く苦戦と乱闘におちいるよりは、ひとときに
死か生存か運命を決せんことぞまさるべき』

しかく陳じて各々の意気と勇とを励ましむ。
ペリメーデース生むところポーキスの族ひきいたる  515
スケディオス(ギ)[1]いまヘクトルに打たる。されどもアイアスは、
歩兵ひきいるラオダマス(ト)†、アンテーノールの子を倒す。
キュレーネーのオートス†(ギ)を、将ピュレウスの子[2]の友を、
エペイオイ勢ひきいるを、プーリュダマスはうち倒す。

[1]同名の別人は17-306にあり。
[2]メゲース(ギ)。

これを認めしメゲースは近寄り来り襲いしも、  520
プーリュダマスは身をかわし逃れぬ、ゆえはアポローン、
パントーオスの生める子を先鋒中に死なしめず。
さはれメゲースその槍にクロイスモス(ト)†の胸突きて、
どうと地上に倒れしめ、その武具身より剥ぎかかる。
剥ぐメゲースをいま襲う槍にすぐれしドロプス(ト)[1]は、  525
勇猛もっともはなはだし、ラーオメドーンの孫にして、
父はラムポス、軍中に勇武のほまれ高き者、
ピュレイデース・メゲースの盾の真中を鋭槍に
近寄り彼は貫けど固き胸甲身を救う、
身に着け慣るる金属の固き胸甲そのむかし、  530
セルレーイスの岸の上、エピュラー[2]よりし父は得ぬ、
エウペーテース、その土地の君主は彼[3]を客として、
戦闘中に強敵を防ぐ守りに与えたる、
この武具いまやかれの子[4]の身より破滅をそらしめぬ。

[1]11-302は別人。
[2]2-660。
[3]ドロプスの父ピュレウス。
[4]メゲース。

ついでメゲース鋭利なる槍をくり出し、敵将[1]の  535
冠毛ゆらぐ青銅の頭甲の高き穹窿(きゅうりゅう)を
突きて、そこより冠毛を払い落とせば、新らしく
真紅の色に染め上げし飾りは塵にまみれ去る。
かくして敵と戦いて勝利の望み抱くとき、
彼[2]に救いを与うべく来る勇武のメネラオス、  540
槍を手にしてひそやかに、かたえに立ちてうしろより、
敵の肩射る、猛然と投げ飛ばしたるその槍に
胸を無残に貫かれ倒れ地上にうつぶしの 
敵に二将は迫り来て、肩より彼の青銅の
武具を剥ぐめり。ヘクトールかなたすべての同族に、  545
殊にまさきにメラニポス――ヒケタオーン[3]の勇猛の 15-546
子を呼び叱る、これまではペルコーテーの郷にして、
敵来ぬ中に足遅き牛群彼はやしなえり、
されどアカイア軍勢が船に乗じて来る時、
イリオン城に帰り来てトロイア勢のなか秀いづ、  15-550
プリアモス王その舘にやどりし子のごとあしらえり、
彼を叱りてヘクトール、羽ある言句陳じいう、

[1]ドロプス。 [2]メゲース。 [3]プリアモスの弟、3-148。

『ああ思い見よ、メラニポス、かかる怠慢よからんや!
汝の心は倒れたる同族を見て痛まずや、
見ざるや、敵はドロプスの武装剥がんと努むるを。  555
いざ立て、もはや遠くよりアルゴス勢と相打たじ、
やがて彼らを殺すべし、あるいは彼ら険要の
イリオン城をくつがえしその城民をほろぼさむ』

しかく陳じて先に立つ、神に似る将彼につぐ。
テラモニデース・アイアース、かなたアルゴス軍勢を  560
いましめていう、『ああ勇士、心に恥を忘るるな、
荒び争い戦いの中に互いに相恥じよ、
恥ある者の助かるは死するに比して数多し、
逃げ去る者の間より勝ちも誉れも起りえず[1]』

[1]5-529以下同様の言様をもってメネラオス味方を励ます。

しか陳ずれば、自らも敵を防ぐに勇みたる  565
兵はその言胸にして、すなわち青銅の垣をもて
船を守れり、クロニオンこれにトロイア勢を向く。
アンティロコス(ギ)にそのときに呼ぶ大音のメネラオス、
『アンティロコスよ、アカイアの中にもっともわかきもの、15-569
もっとも足の速きもの、勇気もっとも強きもの。  570
願わくすすみトロイアのとある勇将うち倒せ』

しかく陳じて励ましておのれはあとに引き返す、
言われし彼は先鋒の中より抜けてすすみ出で、
あたり見回わし爛々の槍を投げつく、その前に
トロイア勢はあとしざる、槍はむなしく飛ばざりき、  575
すなわち猛きメラニッポス(ト)——ヒケタオーンの生める子の
来たるを撃ちて乳のそば、胸を無残に貫けば、
どうと地上にうち倒れ暗黒、彼の目を覆う。
巣を飛び出す若鹿を、狙い正しく狩人の
射りて四足を緩ましめ、地に倒すとき狩り犬の  580
勢い猛くとびかかる。その様見せて、メラニッポス、
汝の上に剛勇のアンティロコスは飛びかかり、
汝の武具を剥がんとす。これを認めてヘクトール、
乱軍中を走り過ぎ、まともに彼に向かい来る。
勇はあれどもその面(おも)にアンティロコスは向かいえず。  585
荒き野獣が、牛群を守りする犬と牧人を
殺し、無残に荒れ尽し、狩りの一群寄せぬ間に、
すばやく逃るあとやかく、アンティロコスは引き返す。
ネストリデース引き返す後を慕いてヘクトルと
トロイア軍もいっせいに喊声高く槍飛ばす、 590
されど味方の陣に着き、向きなおりつつ立ちとまる。

こなたトロイア軍勢はさながら荒るる獅子のごと、
アカイア軍の船襲い[1]、ゼウスの令を果さんず。
神はトロイア軍勢に盛んに勇気起さしめ、
アルゴス勢を滅入らしめ、その栄光を奪い去る。  595
プリアミデース・ヘクトルにかくしてゼウスは栄光を
加えなんとす、かくありてへさき尖りし船の上、
炎々として燃えさかる猛火をかけて、僭越の
テティス[2]の祈り成らしめむ。知慮を回らすクロニオーン、
燃え出す船の猛炎を眺めんとしてかく待てり。15-600
かくある後に船よりのトロイア勢の退却を
命じ、新たにダナオイの軍に栄光与えんず。

[1]上文254。
[2]1-408と1-502。

かかる計慮にアカイアの船に向かいてクロニオン、
すでに自ら勇みたるプリアミデース・ヘクトルを
駆れば、あたかも槍ふるうアレースまたは、深林を  605
炎々として焼き払う猛火のごとく荒れ狂う。
見よ口角に泡を吹き、双の眼(まなこ)は爛々と
その恐ろしき眉の下燃えて戦うヘクトルの
頭甲を飾る冠毛はすごく額上うちふるう。
ゆえは天よりクロニオン自ら彼に助け貸し、  610
多勢の勇士ある中にただ彼ひとりヘクトールに
誉れあらしむ、故はまた、彼の生命長からず、
アキッレウスに討たるべきその運命のまがつ日を、
すでにパルラス・アテーネー、彼に対して急がしむ。

彼いま敵の軍隊の威勢もっとも盛んなる、  615
武装もっともすぐれたるものを求めて、猛然と
進めり。されど勇めども敵陣破ることをえず、
隊列つくり屹然と敵は留まる、たとうれば、
鋭き風の迅速の道に当りてたじろがず、
澎湃(ほうはい)として押し寄する波濤(はとう)の怒りものとせず、  620
大海原の岸の上ますぐに立てる大岩か。
かくトロイアの襲撃に耐えて、アカイア軍勢は
逃げず。されどもヘクトール火焔のごとく敵陣に
迫れば、アカイア軍勢は心恐怖に砕かれぬ。
たとえば暗雲低く垂れ、あらし起りて奔流の  625
勢い猛く襲う船、船は一面泡沫に
おおわれ、風は咆哮の声すさまじく真っ向に、
白帆を打てば、生と死とただ一髪の隔りの
水夫の群のいっせいにおののきふるう有様か。
おののく軍をヘクトール襲う、あたかも獰猛の  630
獅子王、沼に沿う牧(まき)に、無数の牛の草食むを
襲うがごとし。牧人は可憐の群が猛獣の
餌食となるを救いえず。ただ漫然と群の先、
群の最後に沿いて行く。されども獅子は中央に
おどりかかりてたちまちに一頭の牛うちころし、  635
むさぼり食う、これに怖じ群いっせいに逃げ出す。
かくヘクトルとゼウスとに追われ、アカイア勢は逃ぐ。

されどヘクトル打ち取るはミュケーナイ人ただひとり、
ペリペーテース(コプレウス生みたる勇士)、そのむかし
エウリュステウスの命によりヘーラクレース訪いし者。  15-640
父は劣れる質ながら子は優良の材にして、
文武に秀いで、健脚に、また戦争のすべに長け、
知慮においてもミュケーナイ一族中に秀でたる——
かれ戦勝の栄光をいまヘクトルの手に譲る。
歩みをあとに返すとき足まで届く彼の盾、  645
槍の防御にかつぐ物、ペリペーテース誤りて
これにつまずき仰むきに地に倒るれば、倒れたる
勇士の兜ものすごく、そのこめかみのほとり鳴る。
ただちにこれをヘクトール、認め走りて近寄りて、
槍もて敵の胸を突き、その同僚のかたわらに  15-650
これをほふりぬ、同僚は哀悼いたく切なるも、
勇猛の将ヘクトルを恐るるゆえに救いえず。

かくして彼らしりぞきて水陣中にたてこもり、
その外端の船守る。されど敵軍追い来れば、
アカイア勢はやむをえず、その先頭の船離れ、  655
一団なして陣営のかたえに敵を待ちうけつ、
さすがに恥を知るがゆえ、また敗滅の恐れより、
その陣中を散り去らず、絶えず互いに呼びかわす。

アカイア軍の守りたるゲレーニア騎将ネストール、659
特に将士の各々に父祖の名を呼び哀訴する、660
『ああわが友ら、男児たれ、兵の目の前汝らの
心に恥を忘るるな、おのおの胸に思いでよ、
その恩愛の妻を子を家産をさらにふた親を、
そのあるものは生けりとも、他のあるものは逝けりとも、
われはこの場に不在なる彼らのためにあえて乞う、665
勇をふるいて敵防げ、おそれて逃ぐることなかれ』

しかく陳じておのおのの意気と威力を励ませば、
藍光の眼のアテーネー、皆の眼(まなこ)を覆いたる 668
不思議の雲霧払いさる、光明かくて燦然と、
兵船の上、戦場の上をひとしく照らすとき、  670
彼らは見たり、大音の将ヘクトルをその部下を、
部下のあるもの陣勢のあとに控えて戦わず、
あるもの船のかたわらに勇をふるいて戦えり[1]。673

[1]659~673は後世の添え加えたること疑いなし(リーフ)。

いま剛勇のアイアース、他のアカイアの軍勢が
離れて陣をとるところ、そこに残るを喜ばず。675
数艘の船の甲板を、あなたこなたに大股に
歩み、金環つなぎたる長さ二十二ペークスの
おおいなる矛——海戦に用いるものを手に握る。

乗馬のすべを巧妙になす人、あまた駿足の
うちより四頭選び取り、これを御しつつさっそうと、  680
平野を過ぎて、大いなる都をさして駆けいだす、
その駆け過ぐる道の上、これを眺むる群衆の
男女ひとしく驚ける、彼は巧みに、過たず
馬より馬に飛び移り、飛び返りつつ駆けて行く[1]。

[1]ホメーロスの時代に曲馬の芸ありしを見る。

まさしくかくもアイアース、船より船に大またぎ、  685
甲板上に乗り移り、船と陣営救うべく、
ダナオイ勢を励まして、物すさまじく呼び叫ぶ、
声はひびけり天上に。かなたは敵のヘクトール、
青銅よろうトロイアの、隊列中に留まらず。
流れの岸に餌(え)をあさる羽禽の群に——首長き  690
白鳥あるは丹頂に、雁鷺(がんろ)[1]に——荒き金色の
ワシ猛然と飛びかかり、襲う姿もかくあらむ、
黒きへさきの船めがけ、猛然としてヘクトール、
ただちに迫る。後ろよりそのおおいなる[2]手をあげて、
彼を進むるクロニオン、全軍ひとしく励まさる。  695

[1]雁鷺、ここはガチョウのこと。
[2]形容的と見るべし。

かくて再び船のそば起る戦闘ものすごし、
両軍互いに向かう時、彼らさながら倦怠と
疲労を知らぬものに似て、さばかり荒く戦えり。
その戦闘に当る時、彼らの念はかくありき——
アカイア勢は思えらく、危難逃れず滅ぶべし、  15-700
トロイア軍の各将士その胸中に望むらく、
アカイア軍の船を焼き、その勇将を討つべしと、
両軍しかく念じつつ互いに向かい陣を張る。

海上はやく走る船、プロテシラオス(ギ)[1]乗せ来り、
トロイアの地につきしもの、されど故郷に勇将を  705
乗せ帰さざる速き船、その艫(とも)つかむヘクトール、
その船めぐりアカイアとトロイア勢と密接の
戦いなして相討てり、もはや離れて戦わず。
羽箭ならびに投げ槍の飛来をいまは待ちもえず、
両軍心を一にして近く互いに相向かい、  710
鋭利の斧[2]と手斧(ちょうな)とを握り、あるいは長き剣、
あるは両刃の槍とりて勢い猛く戦えり。
黒く巻かれし柄(つか)持てる長剣利刃数多く、
ふるい戦う勇士らの手より肩より落されて、
黒き大地に横たわる、淋漓流るる血はすごく。  715
かなた勇めるヘクトール、一たび船を占めしのち、
艫(とも)の飾り[3]を手にとりてはなたず皆に叫びいう、15-717

[1]2-698以下、彼はもっとも早く上陸せるゆえ船も最先端にひき上げらる。
[2]13-612。
[3]船尾の突出部――飾となす(9-241参照)。

『持ちこよ、猛火!ともにまた喊声あげよいっせいに、
いまクロニオーンわが軍にむくい勝利の日を与う。
神に背きてここに来て、わが長老の卑怯より、  720
災難われに与えたる船を取るべき日を与う。
わが長老は敵軍の船尾のかたえ戦闘を
励まんとするわれをとめ、また将卒を抑えたり。
見よ雷霆のクロニオン、さきにはわれをあざむけど、
いまはわが軍励まして自ら我に令下す』  725

しか陳ずれば全軍はいよいよ激しく敵襲う。
こなた英武のアイアース、さすがこらえず、投げ槍に
いたく襲われ、敗滅を覚悟しながら、七尺[1]の
高き舷橋わたり去り、船の甲板しりぞきぬ。
やがて勇将踏みとまり槍をふるいていつまでも、  730
船に猛火を掛けんずるトロイア勢を防ぎとめ、
ものすごきまで高らかの声を放ちて叫びいう、

[1]原語ヘプタポデーン。

『ああわが友ら、アカイアの勇士、アレース神(かみ)の臣、
友らふるって男児たれ、激しき苦闘心せよ。
いうや汝ら、背面に別の救いの軍ありと?  735
あるいは破滅すくうべくさらに堅固の壁ありと?
否、否、壁をめぐらせる城市、われらを守るべく
戦機新たに転ずべき力ある者そばになし、
今わが立つは青銅をよろうトロイア軍の土地、
海ただわれらの背後なり、祖先の郷は道遠し、  740
救いわれらの腕にあり、鈍き戦事のなかならず』

しかく陳じて鋭利なる槍をふるいて敵を討つ。
将ヘクトールの命により猛火を船に掛けんとし、
すすみ来れるトロイアの兵を英武のアイアース、
待ち受け長き槍伸して、防ぎてやまず。かくしつつ、  745
船のかたえの接戦に敵の十二を傷つけぬ。


イーリアス : 第十六巻



 パトロクロス戦況を報じ、アキレウスの武装を借りて進撃するを乞う。アキレウス、これを諾し、部下を率いて進ましむ。両軍の諸将の奮戦。パトロクロス、勇を鼓してトロイアの諸将をほふる。サルペードーン、これを迎えて力戦し、ついにパトロクロスの飛げ槍に射られて死す。彼の死体をめぐりて両軍の争い。神々はサルペードーンの死体を救い、故郷リュキアーに送る。パトロクロス、なお進んでトロイアの城壁に迫る。神アポロン、これをしりぞく。ヘクトール、神に鼓吹せられケブリオネースとともに進む。パトロクロス、石を投じてケブリオネースを倒す。トロイアの若き将軍エウポルボス、槍を飛ばしてパトロクロスに当て、さらにヘクトールまた同じく槍を飛ばし、急所を射てこれを倒す。パトロクロスの臨終の言。ヘクトール進んでアウトメドーンを追う。

かくて両軍漕ぎ座よき[1]船をめぐりて戦えり、
パトロクロスはいま行きてアキッレウスのもとを訪い、
泫然(げんぜん)として涙垂る、たとえば暗き泉より、[2]
ほとばしり出で山崖(さんがい)を下る濁流見るごとし。
足神速のアキレウス、これを眺めて憐れみつ、16-5
すなわち彼にうち向かい飛揚の羽ある言句いう、

[1]原語εὔσελμος。Voss訳はschön gebordete, Lang訳はWell-timbered,Murray訳はWell-benched。
[2]同様の形容は9-14。

『パトロクロスよ、いかなれば泣涕(きゅうてい)さまで激しきや?
幼き少女その母のあとを追い行き、急げるを 16-8
妨げ袖を引きとめてその抱擁を乞い願い、
願い成るまで涕涙の目もて見上ぐるごとくなる[1]——  16-10
パトロクロスよ、汝いま悲哀の涙とどまらず。
ミュルミドネスに、我がもとに、もたらす何の報告か?
あるはプティアー故郷より聞き得し何の消息か?
アークトールの生みたる子メノイティウス[2]は健在に、
アイアキデース・ペーレウス同じく郷に生くという、15
二人もし世を去るとせば、われらの悲哀大ならむ。
もしくはさきの専横のためにアルゴス軍勢が、
船のかたえに倒るるを思いて汝悲しむや?
つつまず胸をうち明けよ、我らひとしく知らんため』

[1]この種の比喩を下文259、17-4、17-570、21-257、23-760にも見るべし。
[2]パトロクロスの父メノイティウスはペーレウスのもとにあり(11-771)。

そのとき長き大息にパトロクロスは答えいう、  20
『アカイア中の至剛なる、ペーレウスの子アキレウス、
怒りを除け、おおいなる危難われらのうえ迫る!
陣中さきに勇猛のすぐれし諸将、見ずや、いま
射られ突かれていっせいに、わが船中に横たわる、
ディオメーデース、剛勇のテューデイデース射られたり、  25
オデュッセウスまた突かれたり、アガメムノンまた同じ、
エウリュピュロスは腰のそば、飛箭によりて射られたり。
しかして治療のすべまさる医士らは傷を救うべく、
彼らのそばにいそしめり。されど汝は曲げがたし!
汝の胸の憤り、われの心に入るなかれ。  30
アルゴス軍にふりかかるこの災難を払わずば、
のちの子孫は汝より何の利益をえるとせむ。

『無情の汝、いま見ればペーレウスは父ならず、
テティスは母にあらざりき、これに反して、波荒き
海と険しき大岩は苛酷の汝生みしなり。  35
汝胸裏に神託を恐れてこれを避くとせば、
あるいは汝の端厳の母より神語(しんご)[1]聞くとせば、
やむなし。されどすみやかにわれ立たしめよ、われにまた
ミュルミドネスの勢を付せ、ダナオイ勢を救うべし。
さはれわが肩よろうべく汝の武装われに貸せ、  40
われを汝と誤らばトロイア軍ははばかりて、
戦いやめむ、アカイアの武勇の子らは疲弊より
休らい得べし、戦場の休みはよしや短くも。
しかして船と陣営をあとに都城に、疲れたる
敵を、たやすくわが新手、疲れぬ軍は払うべし』  45

[1]「神語」は神託のこと。同様にパトロクロスに対してネストールいう(11-794)。

しかく陳じて求めしは愚かなりけり、自らに
死の運命と大難を願いしものと知らざりき。
足神速のアキレウス大息しつつ彼にいう、
『ああ無残なり、神の裔、パートロクロス、何をいう!
われ耳にする神明の暗示は我を悩まさず、  16-50
端厳の母また我に、ゼウスの言[1]をことづてず。
ただ、とある者権勢に誇りておのが同輩を
あざむき、彼の戦勝の報いをかすめ奪うとき、
おそるべくして耐えがたき悲哀はわれの胸襲う。
胸に災い受けたれば、大なる悲哀われにあり。55
アカイア軍が戦利とし我に選べるかの少女、
敵の堅城うち破り、わが槍先に得しものを、
アトレイデース権勢のアガメムノンがわが手より、
われ誉れなきよそ者の子なるがごとく奪い去る[2]。

[1]われを悲しますべき言を。
[2]9-648。

『さはれこれみな過ぎしこと、心の中に限りなく、  60
怒りは満たすべきならず。ただ我さきに念じたり、
戦いおよび喊声のわが兵船を襲う時、
そのとき来るに先んじて、わが憤激を捨つまじと。
いざ栄光のわが武装、なんじの肩のうえ鎧え、
ミュルミドネスの勇卒を戦場さしてくり出せ、  65
トロイア勢の黒き雲、勢いすごく船の上
襲いてかかり、わが軍はただ陸上の一小地
残して岸に踏みとまり、トロイア勢は全力を
あげて勝利を信じつつ猛然として寄せ来る。

『ゆえは彼らの間近くに輝くわれの頭鎧の  70
おもて眺めず。権勢のアガメムノーン慇懃の
計らい我に加うれば、いま戦える敵逃げて
堀を死体にうずむべし。いまや陣地に敵迫る、
テューデイデース剛勇のディオメーデース、その槍は
ダナオイ軍を救うべくその手の中に強からず、  75
その憎むべき口開きアトレイデース叫ぶ声、
われ耳にせず。ただひとりトロイア軍を戒むる
凶暴の敵ヘクトール叫ぶ声のみ鳴り響き、
アカイア軍にうち勝ちて、かれら平野に主(あるじ)たり。

『いざ兵船の災いを、パトロクロスよ、払うべく  80
激しく攻めよ、しからずば敵は猛火に船を焼き、
わが軍勢のなつかしき国に帰るを妨げむ。
わがいうところ、その要を汝の胸に銘じ聞け、
すなわちアカイア勢の前、汝わがため栄光と
名誉かち得よ、しかあらば彼らはわれに紅頬(こうきょう)の  85
少女を返し、すぐれたる礼物さらに加うべし。

『さはれ船より敵軍を払わば帰れ。轟雷の 87
クロニーオーン栄光を汝に許すことあるも、
我さしおきてトロイアの勇士と汝、身一つに
戦うことを求むるな、わが面目は害されむ。  90
また敵勢を討ち倒し、乱戦苦闘喜びて、
イリオン城のまのあたりわが軍勢を進むるな。
おそらく不滅の神一位、ウーリュンポスをくだり来む、
飛箭鋭きアポローン特に彼らをいつくしむ。
さればアカイア兵船の安寧果たし得なんとき、  95
しりぞき帰り、原上の戦事をほかの手に託せ。

『ああわが天父クロニオン、アテーナイエー、アポローン—— 16-97
願わく、トロイア、アカイアの二軍のうちの一人も、
死をまぬがるる事なかれ。ただ我二人災難を
逃れ、聖なるイリオンの高塔破り得んことを![1]』 16-100

[1]味方も我に無情なりとアキレウスは思う。この四行(97-100)に対してリーフのイリアッド版第2巻163頁に長き説明あり。アリスタルコスはこの4行をとがむ。その説に近来の諸評家はみな賛成す。

しかく二人は相向かい、これらの事を語りあう。
かなた英武のアイアース、もはや支うることをえず、
ゼウスの意志と槍飛ばすトロイア勢の猛撃に、
悩める勇士、額上に輝く兜絶え間なく、
打たれてひびく音すごし。見よ精巧の頬当てを  105
紛々として打つ槍を、さらに左の彼の肩、
絶えず多彩の盾しかと支うるゆえに疲れ果つ、
しかも敵軍槍をもて迫りて彼を払いえず。
彼は次第にその呼吸迫るを感じ、淋漓たる
汗は四肢より流れ落ち、ただ束の間の回復の  110
機会はあらず。四方より苦難つづいてわき来る。

ウーリュンポスにましませる歌の神々、乞う告げよ、
猛火はじめてアカイアの船にかかりし様いかに。

アイアスめがけヘクトール迫り来たりて、おおいなる
利剣ふるいて敵の槍、穂先に近き軸もとを  115
切って落とせば、アイアース・テラモーンの子の手の中に、
残るはひとり無効なる柄のみ——その手を離れ行く
鋭き穂先き青銅は、大地に落ちて鳴りひびく。
こは神明のなす業と畏怖の思いにアイアース、
感じそぞろに身はふるう。轟雷高きクロニオン、  120
彼の軍器をうち砕き、トロイア軍に勝ち与う、
しかく感じて槍の雨避けぬ。こなたにトローエス、
猛火を船に打ちかけて瞬くうちに炎々の
ほのお起せば艫(とも)めぐり火は荒れ狂う——かくと見て
アキッレウスはももをうち、パトロクロスに呼びかける。  125

『パートロクロス、神の裔、すぐれし騎将、ああ急げ!
はや我は見る、船のそば敵の火焔の狂えるを!
おそらく船はほろぼされ、我に帰郷の道なけむ!
いそぎわが武具身に帯びよ、われ軍勢を集むべし』

しか陳ずれば軍装をパトロクロスは身にまとう、  130
すなわち双の健脚に、白銀製の留金を 16-131
よくあしらえる壮麗の脛甲まさきにまとい付け、
つづきて広き胸めぐり、色彩つよく輝ける
胸甲まとう――足速きアイアキデース[1]貸せし物。
つぎに銀鋲飾りたる――刃は青銅――の長剣を  135
肩に投げかけ、そのうえに巨大の固き盾を負い、
その頭上(ずじょう)には精妙のたくみになれる大かぶと、
馬尾の冠毛、頂きを飾りてすごくゆらめけり。

[1]すなわちアキレウス。

つぎに二条の長き槍、手にふさわしきものを取る。
ただ剛勇のアキレウス使う大槍、重くして  140
堅固なるもの手に取らず、アカイア軍の中にして、
アキッレウスを除きては、これを使える者はなし、
こは勇将ら倒すべくケイローン[1]よりし彼の父 16-143
譲られしもの、ペーリオン峰の白楊、柄を作る。16-144

[1]4-219。

戦馬御すべく彼[1]はいまアウトメドーンに令下す、  145
アキッレウスの剛勇に次ぎて敬う彼の友、
乱戦中に彼の令、奉じもっとも誠なり。
アウトメドーンは命を聞き戦車につなぐ二駿足、
風とひとしく飛び駆くるバリオスおよびクサントス、16-149
オーケアノスの岸近く草噛むときにハルピュイア[2] 16-150
(名はポダルゲー)生む双馬、風の王なるゼピュロスに。
さらに二頭のかたわらに並べてつなぐペーダソス[3]、16-152
エーエティオン[4]の都市破りアキッレウスのかすめたる、
こは尋常の種なれど天馬に並び競うべし。

[1]パトロクロス。
[2]嵐を人化せる者、天馬と訳すべきか。
[3]16-468。
[4]1-366。

ミュルミドネスの各部隊あまねく巡るアキレウス、  155
皆に命じて陣中に武装なさしむ、軍団は
たとえばすごき猛勢をその胸中にたくわうる
狼の群れ見るごとし。角たくましき大鹿を
山道のうえ打ち殺し、むさぼり食い鮮血に
牙を染めつつ群がりて、こんこんとしてわきいずる  160
渓流求め、陰惨の水を痩(や)せたる舌をもて、
吸いつつ、すごき鮮血を吐きいだしつつ、勇猛の
気は胸中にみなぎりて腹をあくまで満たしむる、
その群狼を見るごとくミュルミドネスの諸将らは、
アキッレウスの剛勇の副将[1]めぐり集まれり。  165
その陣勢の中に立つ足神速のアキレウス、
戦馬ならびに盾かつぐ将卒ひとしく励ましむ。

[1]パトロクロス。

神の寵児のアキレウス・ペーレイデース故郷より、
トロイアめがけ率い来し速き兵船数五十、
船おのおのに五十人、心一つに漕ぎ座占む。  170
これらの勢を令すべく、彼は信頼おくところ、
五人の将の名を挙げて、身は最高の指揮をとる。
第一隊に将たるは胸甲華美のメネスティオス(ギ)、
神より出でし河の神スペルケイオス彼の父、16-174
ペーレウスの女(じょ)うるわしきポリュドーラーは彼の母。  175
スペルケイオス力ある神と契りし彼女をば、
ペリエーレースの生める息ボーロス、のちに莫大の
資財を具して、妻としてメネスティオスの義父となる。

エウドーロス(ギ)は勇にして第二の隊の将となる。
ポリュメーレーは彼の母、美なる舞姫、ピューラスを 16-180
父とするもの——そのむかし、黄金の矢をたずさうる
神アルテミス司どる歌舞の群ぬち、艶麗の
女性かいまみ恋したる猛きアルゲイポンテース・
ヘルメイアスは慇懃に、ただちに彼女の樓上に
登りひそかに語らいき。かくて生まれしすぐれし子、  185
エウドーロスは勇にして戦闘中に足速し。
エイレイテュイア[1]分娩を司どる神、光明に
彼をさまして、太陽の影を小児の見たる時、
アクトールの子勇猛のエケクレーオス、莫大の
財を与えておのが家に小児の母[2]を連れ去りぬ。  190
子を老祖父のピューラスは、はぐくみ育て、心して
恩愛あつく慇懃にわが子のごとくあしらえり。

[1]分娩を司どる女神(11-270)。
[2]ポリュメーレー。

第三隊に剛勇のペイサンドロス†(ギ)[1]将となる。
マイマロスの子、槍の手はアキッレウスに伴なえる
パートロクロスほかにして、ミュルミドネスの衆しのぐ。  195
馬術巧みのポイニクス(ギ)[2]老将第四の隊ひきゆ。16-196
ラエルケスの子すぐれたるアルキメドーン(ギ)は第五隊。16-197
かく軍勢の将さだめ、まさしく部署を整えて、
ペーレイデース・アキレウス言句激しく宣しいう、

[1]同名のトロイヤ方の人、11-122、13-601等。
[2]9-432。

『わが憤激のありし時、ミュルミドネスよ、軽快の  16-200
船のかたえにトロイアの軍に汝ら吐きたりし
威嚇の言を忘るるな、汝ら我を責めたりき、
「ペーレウスの子むごきかな、胆汁をもて君の母、
君育てしや?船のそば厭える部下を抑えとむ。
波浪つんざく船に乗り、むしろ故郷に立ち去らむ、  205
不吉な怒りかくまでも君の心を領すれば」
しばしばかくも汝らは集議の席に述べたりき、
汝らかくも求めたる戦いまさにいま来る、
勇ある者はトロイアの敵に激しく討ちかかれ』

しかく宣しておのおのの勇気盛んに奮わしむ。  210
主将の言にもろもろの部隊いよいよ迫りあう。
風の暴威を防ぐべく密に組みたる石をもて、
巨屋の壁を工人の築くがごとく緊密に
兜と兜、人と人、盾と盾とは相迫り、16-214
戦士頭を揺るがせば光る兜の頂きの  16-215
馬尾の冠毛ゆらめきて、かれとこれとは相ふれつ。
かばかり将士相まじり密集しつつ並び立つ、
その全隊の先に立つ二人の勇士意は一つ、
ミュルミドネスをひきいつつ、パトロクロスとよろいたる
アウトメドーン、奮然と進めり。こなたアキレウス、  220
その陣営に立ち帰り、美なる精巧の櫃(ひつ)[1]のふた、
開きぬ、櫃は銀色の足のテティスが船中に
彼に備えておけるもの、中に豊かに充たせるは、
下着ならびに風防ぐ外套および布の類。

[1]「櫃」は大型の箱のこと。

中にまた見る精巧の盃(さかずき)、ほかの何びとも  225
これより美酒をくまぬもの、また何びともこれにより、
ゼウスのほかの神のまえ、献酒の礼をなさぬもの。
櫃よりこれを取り出だし、まず硫黄もて浄めたる 16-228
ペーレイデース、つぎにまた清き流れにこを洗い、
つぎにおのれの手を洗い、盃(はい)に葡萄の美酒満たし、  230
陣のもなかに立ち上がり、天を仰ぎて芳醇を 16-231
地に傾けて祈り乞う、雷霆の神きこしめす。

『天王ゼウス[1]! 厳冬のドードーナーをまつろいて、16-233
ペラスゴイ族守る神、地に伏し足を洗わざる
祭司セルロイかしずきて、あなたに遠く住める神!  235
すでにさきにはわが祈り求むるところ聞こし召し[2]、
我が身を上げてアカイアの軍に災い加えたり。
いまは新たのわが祈願再びこれを聞きたまえ。
われ自らは留まりて水軍のそば控うべく、
しかして友を戦いに、ミュルミドネスの陣勢と  240
ともに送らむ。栄光を彼に雷霆の神よ貸し、
彼の胸中雄心を充たしめたまえ、——ヘクトール
かくして知らん、わが友のひとり戦事に勇なりや、
あるいはわれの戦闘にともに並びて進む時、
そのときにのみ剛強の彼のかいなのすごきやを。  245
しかして船より叫喚の敵の軍勢払うのち、
つつがなくして我がもとに、かれその武具と接戦の
勇士らひきい、軽船の陣地に帰りえんことを』

[1]オリュンピアならず、ドードーナーを鎮するゼウスに祈る。アキレウスはドードーナー市を含むテッサリアの人。
[2]1-409、1-503。

祈りてしかく陳ずるを聞ける明知のクロニオーン、
天上の父その言の一部を許し他を拒み、  16-250
敵の襲撃船のそばパトロクロスの払わんを
許せど、彼のつつがなく陣に帰るはうべなわず。

献酒の礼を行ないて祈りを終えてアキレウス、
その陣中に立ち帰り、櫃に宝器をおさめ入れ、
再び出でて陣営の前にたたずみ、トロイアと  255
アカイア二軍恐るべく戦い合うを見なんとす。

武装整え剛勇のパトロクロスに付き来たる
軍勢、かくて勇み立ち、トロイア勢にうちかかる。
ただちに軍は散兵の線に広がる、たとうれば、259
路傍に巣くう熊蜂を悪しき習いの少年が、  260
常に無残に怒らして刺激を続け、そのはてに
あまねく皆に災いを来たらし、とある旅人が、
それとは知らず、その道を過ぎておもわず触るるとき、
勇気に満てる蜂の群、奮然として飛び出だし、
その巣の中にこもりたる幼き者を防ぐごと。  265
まさしくかかる勇を鼓し、ミュルミドネスは奮然と、
その水陣を立ち出でて、上ぐる喊声果てしらず。

パトロクロスは大音にその友軍に呼びていう、
『ミュルミドネスよ、英剛のアキッレウスの友軍よ、
ああわが友よ、男児たれ!激しき勇を忘るるな!  270
船のほとりのアカイアの中の至上のアキレウス、
猛き武将の頭たる彼に栄光与えずや。
アカイア中の至上者を尊まざりしあやまちを、
アトレイデース、権勢のアガメムノーンに知らせずや!』

しかく陳じて友軍の意気を力を奮わしむ、  275
かくて全軍いっせいにトロイア勢に打ちかかる、
そのアカイアの叫喚に船はすごくも鳴りひびく。

かなたトロイア軍勢は、輝く武具を装える
メノイティオスの剛勇の子息、ならびにその将士
眺めし時に一同の心騒ぎて隊乱れ、  280
思えり、船のかたわらの足神速のアキレウス、
さきの怒りをなげうちて新たに軍と結べりと、
かくて破滅をのがるべく、おのおの四方をかえり見る。

パトロクロスはまっさきに輝く槍を投げ飛ばし、
プロテシラオス乗りし船、黒き船尾のかたわらに  285
敵の軍勢群がれるそのただ中に投げ飛ばし、
おおいなる川アクシオス流るるほとりアミュドンの
郷より、騎馬のパイオネス勢をひきいし剛勇の、
ピュライクメース(ト)[1]の右の肩打てば、うめきて塵の中、
あおのけ様にうちたおる。戦事すぐれしその首領、  290
パトロクロスに打たるるをパイオネス勢うち眺め、
恐怖抱きていっせいに算を乱して逃げ走る。

かくして彼は船のそば敵を払いて炎々の
ほのおを消しぬ、軍船は半ば焼かれて岸にあり。
トロイア軍は紛々と乱れて逃れ、ダナオイは  295
船中指して殺到し高き喧騒わき起こる。
いまたとうればへきれきを飛ばす天王クロニオーン、
厚き雲霧を大山(たいざん)の頂きよりし払うとき、
丘陵および高き峰また渓谷もいっせいに[2]、
現われ出でて仰ぎ見る大空広く開くごと、  16-300
船より敵の兵燹をダナオイ軍勢払い得て、
しばしくつろぐ、しかれども戦い全くやみはせず。
ゆえはトロイア軍勢は黒き船より背をむけて、
アカイア軍の奮戦の前に全くはしりぞかず、
やむなく船を離るるも、なお抵抗を試みる。  305

[1]2-850。
[2]8-557と同じ。

いま乱戦のただ中に将帥(しょうすい)中の人と人、
互いに打てり、まっさきにメノイティオスの勇武の子、
その青銅の槍飛ばし、逃れんとする敵の将、
アレーイリュコス(ト)†[1]のももをうち、つらぬき通る鋭刃に  310
骨を激しくつんざけば大地の上にうつぶしぬ。
アレースに似しメネラオス、トアース(ト)[2]の胸の露わなる、
盾のおおわぬ胸を打ち、彼の肢体をゆるましむ。
ピュレイデース[3]は敵の将アムピクロス(ト)†のつき来るを、
認めてこれに先んじて、すねの起端を、筋肉の
もっともあつき部を打ちぬ。槍の穂先きに筋肉は  315
つんざかれつつ、暗黒は彼の両眼おおい去る。

[1]14-451は別人。
[2]2-639は別人。
[3]ピュレウスの子=メゲース。

ゲレーニア騎将ネストール生める二人の子のひとり、
アンティロコス(ギ)は槍をもてアテュムニオス(ト)†[1]の腹部刺し、
その眼前に倒れしむ。兄を打たれていきどおる
マーリス(ト)†近く迫り来て、死体の前にふみとまり、  320
アンティロコスを打たんとす。トラシュメーデース(ギ)これを見て、16-321
先を制してうちかかり、狙い違わずたちまちに
その肩打てば、槍の先鋭く入りて根本より、
腕をもぎとり、さらにまた骨を無残につんざけば、
どうと倒れて地に伏して闇は両眼覆い去る。  325
アミソーダロス†[2]生める二児、サルペードーンの友にして、
槍を飛ばすに巧みなる兄弟二人かくのごと、
敵の二人の兄弟に打たれ冥府の闇に入る、
父は人類に災いの、怪物キマイラ養えり[3]。

[1]5-580のアテュムニオスは別人。
[2]ある説によればリュキア族の王、前後にその名なし。
[3]6-179。

オイレウスの子アイアース、ふるいすすみて生きながら、  330
クレオブロス(ト)†[1]、乱軍の中に悩むをひき捕え、
やがて利剣をひき抜きてその首うちて倒れしむ。
熱き血潮は刀身をまったく濡らし、ものすごき
死滅ならびに恐るべき運命かれの目をおおう。

[1]前後になし。

ペーネレオス(ギ)[1]にうち向かう敵将リュコーン(ト)、槍をもて  335
おのおの狙いあやまちて利刃むなしく飛び去れば、336
さらに互いに剣を取り向かえり、リュコーンそのときに 337
冠毛ゆらぐ敵将の甲の頂き打ち下ろす[2]、338
利剣は柄(つか)のもとにして折れとぶ——彼を耳の下、339
ペーネレオース、切りさげて落とす首(こうべ)は一枚の  340
皮にわずかに支えられ、肢体は土に倒れ伏す。

[1]2-494。
[2]書籍版はこの行ヌケ。原稿より補う。

メーリオネス(ギ)は殺急の足に、敵将アカマス(ト)を
追いて、兵車に乗るところ、狙い違わず右の肩
討てば、大地にうち倒れ闇は両眼おおいさる。

イードメネウス(ギ)は残忍の青銅をもてエリュマス(ト)[1]の  345
口突き刺せば鋭利なる槍は頭脳の下を過ぎ、
つらぬき通り白き骨、勢い猛くつんざきつ、
歯はくだけ飛び、両眼は無残にあかき血を満たし、
張りし口より鼻孔より、こんこんとして鮮血を
吐き出しながら倒れふし、死の暗雲におおわれぬ。  16-350

[1]下文16-415は別人か。

これらダナオイ将帥はおのおの敵の一人討つ。
たとえば牧人怠りて群山上に散れる時、
群の中なる小羊を、あるは小山羊を貪食の
狼襲い打つごとし。好餌認めて猛然と
迫り来りて悪獣は、可憐の群を奪い去る。  355
かくもダナオイ軍勢はトロイアめがけ打ちかかる。
勇を忘れし敵軍はただ逃走をこころざす。
テラモーニオス・アイアース常に念じて青銅を
よろうヘクトール討たんとす。されど戦事に巧みなる
敵は牛皮の盾をもて、その大なる肩おおい、  360
飛箭の音に投げ槍の響きに耳を傾けつ、
勝利の運は敵軍に向かうを悟り知りながら、
なおかく後に踏みとまりその戦友を救わんず。

ゼウスあらしを起すとき、ウーリュンポスの高きより、
晴れし日ののち暗き雲、天に沖(ちゅう)して昇るごと、  365
船よりトロイア軍勢は叫喚高く逃げ走る、
彼ら塹壕しりぞくに隊伍整うことをえず。
将ヘクトールを武具ともに足神速の馬は引き、
後に残れるトローエスやむなく堀にさえぎらる、
その堀のなか駿足の多くの戦馬、将帥の  370
兵車のながえうち砕き兵車を後に残し去る。

パトロクロスは敵を追い、アカイア勢を励まして、
トロイア軍を討たんとす。敵は隊伍を破られて、
叫喚および畏怖をもてその道満たし、塵埃の
あらしは高く雲に入る、しかして船と陣営を  375
あとに都城をめざしつつ、単蹄の馬駆けて行く。
敵軍もっとも数多く乱ると彼の見るところ、
パトロクロスは声あげて戦馬駆くればその下に、
敵は地上に倒れ伏し、兵車砕けてくつがえる。
かくて神よりペーレウス受けし恩寵、不死の馬[1]、  380
飛ぶがごとくに塹壕をその神速の足に越す、
その馬進め、ヘクトルをパトロクロスは打たんとし、
心しきりに励めども、敵も駿馬を駆りて逃ぐ。

[1]バリオスおよびクサントス。16-149。

集議の席を暴威もて、審判まげつ、正道を
捨てて、諸神の復讐を物ともせざる民のうえ、
怒りを向けてクロニオン、豪雨激しく注ぐ時、385
秋の一日、惨憺のあらし大地を襲いうち、
すべての河流、洪水をなして走れば、丘陵は
怒りの波に崩されつ、水は滔々(とうとう)おおいなる
響きをもって、源泉の山よりすごき大海に  390
その奔流を下し行き、人の労作、田園の
富いっせいにくだき去る——まさしくかかるおおいなる
叫びをもって、トロイアの馬いっせいにいななけり。

パトロクロスは敵軍のはじめの隊伍やぶる時、
さらに彼らを駆り立てて船をめざして走らしめ、  395
都城に向かい逃れんとするを許さず、水軍と
河流と高き城壁のあいにおしつめ、その中に
おどりすすみてほろぼして、死せる味方の仇を討つ。

かくて真先きにプロノオス(ト)†、盾の隙よりあらわせる
胸を輝く槍に刺し、彼の肢体を緩ましむ、  16-400
敵は大地にどうと伏す。エーノプス(ト)†の子テストール(ト)†、
つづいて彼にほろぼさる、光る車台に居すくまる
敵は恐怖に気は滅入り、ぼう然として双手より
手綱落とせる時まさに、かれ迫り来て槍をもて、
右のあご刺しつらぬきて歯牙ことごとくつんざきぬ、  405
かくて車台のへりの上、槍もて彼をひき来り、
たとえば岸の岩の上座せる漁翁が神聖の[1]
魚を釣糸、青銅の輝く針に釣り上げて、
海より陸に移すごと、輝く槍に車台より
地にうつぶして倒れしむ、倒れて彼は息絶えぬ。  410

[1]水に住む者として怪神ポセイドーンに属するゆえに神聖という。

つぎに馳せくる敵の将エリューラオス(ト)†の頭蓋の
もなかに石をうち当てる。固き兜をこうぶれる
頭二つに砕かれて敵は地上にうつぶして、
生を奪えるものすごき死の運命は彼をおおう。
アンポテロス†とエリュマスと、エパルテース†にひきつぎて、 16-415
ダマストールの生める息トレーポレモス†、エキオス†と、
ピューリス†、イペウス†、エウイッポス†、アルゲアスの子ポリュメロス†
次から次へ豊饒の大地の上にうち倒る。

メノイティウスの勇武の子パトロクロスの手の下に、
帯なき胸衣身につける僚友かくも倒るるを、  420
サルペードンは眺め見てリュキアー軍を叱りいう、

『恥じよ、リュキアー軍勢ら!いずこに逃ぐる!ああ奮え!
われかの敵に向かうべし、勝ちに誇れる彼は誰そ?
多くの勇士うち倒し、トロイア軍に災いを
かくも来たせる彼は誰そ、向かいてその名聞きとらん』  425

しかく陳じて兵車より武具を手にして地におりる、
パトロクロスはかくと見て同じく車台飛びおりる。
くちばし曲り爪猛き二羽の荒ワシ憤然と、
高き岩のへ物すごく叫び戦うさま見せて、
喊声たかく敵味方二将たがいにわたりあう。  430

計略深きクロノスの子たるゼウスはこれを見て、
これを憐れみ、その天妃また同胞[1]のヘーラーに
向かいて語る『ああ無残!人間のなか最愛の 16-433
サルペードンは敵の将パトロクロスに倒されむ。
思い乱るる胸の中われいま二つの道念ず、  435
涙のたねの戦場のそとに救いてやすらかに、
彼を富裕のリュキアーの故郷に運びさるべきか、
パトロクロスの手のしたにやむなく彼を倒さんか』 438

[1]ヘーラーはゼウスの妃ならびに妹。

そのとき牛王の眼をもてるヘーラー答えて宣しいう、
『天威かしこきクロニデー、いま何事のおおせぞや?  440
長き前より運命の定められたる一人を、
不祥の死より救うべく君は新たに念ずとや?
しかせよ、ほかの神々は君に賛することあらじ。
われいま一事君にいう、銘ぜよ君そを胸の中、
サルペードンを生きながら彼の故郷に遣わさば、  445
思え、おそらくほかの神、また戦乱のちまたより
離れて遠く、その愛児送らんことを望むべし、
君に向ひて恐るべき瞋恚を起す神々の 
多くの子らは戦えり、プリアモス守る城のそば。

『君もし彼をいつくしみ心に彼を憐れまば、  16-450
乱戦中に彼をしてメノイティオスの勇武の子、
パトロクロスの手の下に打たれ最期を遂げしめよ、
その霊魂と生命とともに勇士を去らんとき、
死の神[1]および甘美なる眠りの神に令下し、454
彼を運びておおいなるリュキアーの地に行かしめよ、  455
そこに同胞親友は柱を立てて墓設け、456
彼をうずめむ、しかするは死者に対する礼にこそ』

[1]「死」は「眠り」、14-231。

しか宣すれば人天の父クロニオンこれを聞き、
やがて地上に血の雨をそそぎ愛児をあがめしむ[1]。
程なく彼はリュキアーの故郷を遠く隔てたる  460
ここ豊沃のトロイアに、パトロクロスの手に死なむ。

[1]11-54参照。血の雨は殺戮が起きることを示す。

敵と味方の二勇将かくて互いに迫るとき、
メノティオスの勇武の子パトロクロスは槍飛ばし、
トラシュメーロス(ト)†、その主将サルペードーンの勇猛の
臣下の腹の下部を射て彼の肢体をゆるましむ。  465

サルペードンはこれに次ぎ、輝く槍を投げ飛ばし、
打てど狙いを誤りぬ、されどその槍敵将の
馬ペーダソス[1]右の肩打てば激しくいななきて、16-468
倒れて塵の中に伏し、叫びながらに息絶えぬ。
かくして副馬(ふくば)、引き綱をひくもの塵に伏したれば、  470
残りの両馬相はなれ、軛(くびき)きしりて綱もつる。
アウトメドーン、槍術に巧みの勇士、かくと見て、
そのたくましき腰の下、鋒刃(ほうじん)長き剣を抜き、
走り来たりてためらわず副馬の綱を切り放つ、
かくして両馬立ちなおり、もとのごとくに手綱張る。  475

[1]16-152

かくして二将、ものすごき苦闘にまたも渡り合う、
サルペードンはまたしても、その燦爛の槍をもて、
狙い誤り、鋭刃はパトロクロスの左肩
かすめ落つれど、青銅をかざし馳せ寄る敵の将
パトロクロスの手中より放つ飛槍は誤らず、  480
隔膜および心臟の触れ合うほとりうち当たる。
巨船の材を作るべく磨きあげたる斧を上げ、
山の間に工人の群、樫の木を白楊を、
はた長松(ちょうしょう)を切り倒す、まさしくかくも馬の前、
兵車の前に身をのして、サルペードンは倒れ伏し、485
苦悩に高くうめきつつ血潮に染むる塵つかむ。

まんさんとして歩む群、中にすぐれし褐色の[1]
牛を獅子王襲い来て、無残にほふり殺す時、
牛は悲鳴の声あげて噛まるるままに死するごと、
パトロクロスの手に死する援軍リュキアの猛将は、  490
最後の励み声上げてその僚友に叫びいう、

[1]487以下この比喩の複雑は後人の添加か。

『ああグラウコス、人中の戦士、今こそ覚悟せよ、
槍をふるいて戦いて恐怖を知らぬ勇士たれ!
すごき戦闘心せよ、ふるいて進め、ためらうな!
まさきに四方馳せめぐり、サルペードーンの骸(から)のため、  495
苦闘なすべくリュキアーの諸将に呼びて立たしめよ、
次ぎに自ら槍取りて奮い戦え、われのため!
船をめぐりて戦いてわれ倒るとき、アカイアの
敵わが武具を剥ぐとせば、こののち我は永遠に
汝に対しとこしえに誹謗恥辱のたねたらむ。  16-500
ああ立て!奮え、一切のわが軍勢を立たしめよ!』

陳じ終れる勇将のまみを鼻孔を、いたわしき
死の暗影はおおい去る。その胸のうえ足すえて[1]
槍をからより抜きとれば臓腑つづいてあふれ出で、
かくして魂と鋭刃をともにひとしく引き抜きぬ。  505
ミュルミドネスの軍勢は、主公の兵車うち捨てて 
逃れんとしていななける敵の軍馬をおさえとむ。

[1]主語はパトロクロスである。

友の最後の音声をききて悲しむグラウコス、
救助をはたし得ざるためいたく心を悩ましつ、
さらにその手に腕つかみ力をこめて傷おさゆ、  510
城壁さして走るとき、敵の副将テウクロス
友軍救い、矢を飛ばし、彼の腕射て傷つけぬ[1]。
そのとき彼[2]は銀弓の神アポローンに祈りいう、

[1]12-388。
[2]グラウコス。

『神、きこしめせ、リュキアー[1]の豊饒の地におわすとも、
またトロイアにおわすとも、到るところに人間の  515
悩み聞くべき力ある神みそなわせ、わが悩み。
われこのつらき傷を負い、腕のめぐりは猛烈の
苦痛によりて悩まさる、流るる血潮とどめんと
すれど止まらず、わが肩は傷ゆえ重く耐えがたし、
しかとわが槍とりがたし、さらに進んで敵軍と  520
ふるい戦うことをえず。ゼウスの子なる最勇の
サルペードンは討ち死にし、大神これを憐れまず、
されども君はわが負える重傷(おもきず)いやし、激烈の
苦悩やわらげ、新たなる力を我に貸したまえ、
さらばリュキアー軍勢に呼びて戦い励まさん、  525
われもみずから、殺されし友を守りて戦わむ』

[1]アポロンはリュキアー族の神(4-101)。

祈りてしかく陳ずるを神アポロンは納受して、
ただちに苦痛和らげて[1]、重き傷よりあふれくる
黒き血潮を乾かしつ、心に勇気吹き込めば、
これを感ずるグラウコス、かくすみやかにアポロンが  530
彼の祈りを聞きたるを知りて心に歓喜満ち、
立ちて四方を駆けめぐり、リュキアー諸将励まして、
サルペードーンのなきがらをめぐり戦わしめんとす。

[1]神々はすみやかに傷を癒やす(5-901)。

しかしてのちにトロイアの陣にはげしく馳せ来り、
パントーオスの生める息プーリュダマスとアゲノール、  535
アイネイアスと青銅をよろうヘクトル訪い来り、
かたえに立ちて口開き飛揚の羽ある言をいう、
『ああヘクトール、援軍を汝まったく忘れたり、
汝のためになつかしき故郷を友をあとにして、
命を捨つる軍勢の助けを汝心せず。  540
見ずや、リュキアー軍勢をひきい力と正義とに
よりて彼らを治めたるサルペードーンはいま死せり。
見よ、青銅のアレース[1]はパトロクロスの槍により、
彼を死せしむ。いま彼のかたえに立ちて勇ふるえ!
ミュルミドネスはおそらくは彼の武装を剥ぎとりて、  545
彼に恥辱を加うべし。船のかたえに槍をもて、
わが軍さきに倒したるダナオイ勢の復讐に』

[1]ここのアレースは単に戦闘を意味す。

しか陳ずればトローエス、耐ゆべからざる強烈の
悲哀に打たる。彼らにはサルペードーンは外来の
勇士なれども、この都市の固き防備を引きうけて、  16-550
多数を具してその中に奮闘もっともつとめたり。
今や彼らは勇を鼓しダナオイ勢に向かい行く、
その先頭にヘクトール、サルペードーンのために起つ。
かなたアカイア軍勢をパトロクロスは励ましつ、
真先きに二人のアイアース、すでにみずから勇めるを  555
励ましていう『アイアース、さきに戦士の中にして
すぐれし汝勇ふるえ!さらに一層勇ふるえ!
アカイア軍の塁壁にまさきに入りし敵の将 
サルペードンは倒れたり、いざいま行きてなきがらに、
恥辱与えて軍装を彼の肩より剥ぎ取らむ、  560
なきがら守る友軍をわが鋭刃にうち取らむ』

その言きける両将はすでにみずから励み合う。
かくて両軍かれとこれ、おのおの隊伍整うる 
リュキアー軍とトローエス、ミュルミドネスとアカイオイ、
叫喚すごくその武具を高らに鳴らし、倒れたる  565
サルペードーンのなきがらをめぐり互いに渡り合う。
逝ける愛児のかたわらに戦闘いたく荒るるため、
そのときゼウス、戦場の激しき上に夜を広ぐ。

トロイア軍はまっさきにアカイア勢を追いまくる、
ミュルミドネスの陣中におそれぬ一人まず倒る、  570
アガクレースの生める息、エペイゲウス(ギ)†はそのむかし
ブーデイオンの豊かなる都市に君臨したる者。
その勇ましき同族を殺せるゆえに逃げ来り、
助け求めてペーレウス、また銀色の光ある
足のテティスによりすがり、その命によりトロイアと  575
戦うために、勇猛のアキッレウスに付ける者。
死体剥がんとする彼を狙い、誉れのヘクトール、
頭(かしら)に石を投じ当つ、固き兜におおわれし
頭二つに砕かれて、勇士は骸(から)のかたわらに、
地にうつぶしにうち倒れ、死の暗影に覆われぬ。  580

かく僚友の倒れしをパトロクロスは悲しみて、
憤然として先鋒を過ぎて、さながら猛きタカ、
羽音するどく小ガラスをまたムクドリを追うごとく、
友を痛みて騎馬の将、パトロクロスよ、汝いま[1] 584
リュキアーおよびトロイアの軍に向かいてうちかかる。  585

[1]三人称より二人称への変化まれなるが前にもあり。

かくて勇将石飛ばしイタイメネスの生める息、
ステネラオス(ト)†の首に当て、その筋肉をつんざけり。
敵の先鋒、誉れあるヘクトルともにあとしざる。
競技の場にも戦場の生死争う境にも、
力をこめて投げうてる壮士の長き槍の身の、  590
飛び行く距離に等しかる、さほどの道をトロイアの
軍はアカイア軍勢に追われてあとにしりぞけり。

されどまさきにグラウコス(ト)、盾持つリュキアー軍勢の
主将、かえしてカルコンの生める勇将バテュクレス(ギ)†
討ちぬ。ヘラス[1]の郷に住み、その財力と資産とは  595
ミュルミドネスの首たる者、あと追い来り迫る時、
不意に返してグラウコス、その長槍をさしのべて、
狙い違わず敵将の胸のもなかを貫けば、
どうと大地に倒れ伏す。かく勇将の倒るるを、
眺めてアカイア軍勢は悲しみ、トロイア軍勢は  16-600
いたく喜び、一団となりて来たりてそばにたつ、

[1]ヘラスはテッサリアの町。

アカイア軍勢もその勇を忘れず、ふるい立ち向かう。
メーリオネス(ギ)はそのときにオネートールの生める息 
ラーオゴノス(ト)†[1]を討ちとりぬ。父はイーダのクロノスの 16-604
子の祭司にて、民により神のごとくに崇めらる。  605
あごと耳との下うたれ倒れしかれの肢体より、
魂魄早く立ち離れ、すごき暗黒彼を覆う。

[1]同名の別人20-461にあり。

アイネイアスはそのときに青銅の槍投げとばし、
盾をかざしてすすみ来るメーリオネスを打たんとす。
されど勇将これを見てその青銅の槍を避け、  610
前にかがめば頭越し飛べる長槍その背後、
落ちて大地をぐさと刺し、槍身しばしうち振るい、
やがて程なく恐るべきアレース[1]の威はしずまりぬ。
[アイネイアース剛勇の手よりむなしく投げられて、
狙いはずれて長槍は大地の中につきささる][2] 615
アイネイアースそのときに憤然として叫びいう、
『わが槍汝を貫かば、メーリオネスよ、すみやかに 617
舞踏のすべに長じたる汝の息をとどめしを。[3]』

[1]槍をいう。
[2]この二行後人の添加。13-504、13-505と同じ
[3]冷笑の句、歩武堂々の反対。

そのとき槍の名手たるメーリオネスは答えいう、
『汝まことに勇なるも、ああアイネイア[1]、すすみ来て 620
汝に向かう一切の敵の威力をしずめるは、
難かるべきぞ、汝また死ぬべき者と生まれたり。
汝まことに勇ありてその腕力にたよるとも、
われ青銅の鋭きを投げて汝を討つとせば、
我に栄光、冥王に魂魄、汝譲るべし』  625

[1]呼格。

しか陳ずるをいましめてパトロクロスは叱りいう、
『メーリオネー[1]よ、剛勇の汝何たる饒舌ぞ!
思え、罵辱の言によりトロイア勢は死体より
あとにさがらず、そのまえに地に倒るもの多からむ。
戦時の決は腕力に、言句のそれは評定に、  630
されば無用の弁捨てよ、ただ奮闘を心せよ』

[1]呼格。

しかく陳じて先にたち、勇将つづきあとを追う。
谷間に繁る森の中、きこりの群の丁々(ちょうちょう)の
ひびき起れば、反響は遠くあなたに湧くごとく、
刀剣および両刃(りょうじん)の槍を用いて両軍の  635
戦うときに、大地より、彼らうち合う盾の音、
青銅および牛皮張る盾の轟音わき起る。

サルペードーンの死体いま、頭(かしら)よりかけ足先に
いたり全身ことごとく武器に射られて、鮮血に、
塵にまみれて、さきによく知りたる友も認めえず。  640
さはれそのそば両軍は群がり寄する——たとうれば、
のどかな春の農園にしぼりし乳の満つる桶(おけ)、
あふれ流れてそのめぐり、ハエの一群寄するごと、
かく両軍は死屍めがけ群がり寄せぬ。クロニオン
さはれ輝く双眼を戦場よりし他に向けず、  645
すごき光景見おろして胸に思案を回らしつ、
パトロクロスの殺害につきて考慮をくりかえす、——
無残に死せる勇猛のサルペードーンのからの上、
その場去らせず彼をまた高き誉れのヘクトルの
飛刃によりて打ち倒し、肩より武具を剥ぐべきか?  16-650
あるいはさらに兵を討ちその功名を増すべきか?

思案のはてにクロニオン、かく意をきめてよしとなす、――
アキッレウスの勇猛の副将さらに勇を鼓し、
都城をさしてトロイアの軍勢ならびにその首領、
青銅よろうヘクトルを走らせ[1]、兵を討つべしと。  655
かくして神にまっさきに恐怖の念を注がれし
将ヘクトール、飛び乗りし兵車を駆りて逃げながら、
ゼウスの秤[2]悟り知り、トロイア軍を返さしむ。

[1]「走る」は逃げるの意でしばしば使われる。
[2]聖き秤、8-69。ここはただ「ゼウスの意」。

そのとき強きリュキアーの軍は同じく支ええず、
その心臟をくだかれて死体の群のなか伏せる  660
主将をあとに、いっせいにみな逃げいだす、クロニオン
激しきいくさ促せば、多数はそばにかく倒る。
アカシア軍は、倒れたるサルペードーンの肩よりし 光り輝く青銅の武具剥ぎ取りて、供の手に
パトロクロスは引き渡し、軍船さして運ばせる。  665

その時かなた雷雲の神はアポロン呼びていう、
『行け、ポイボース[1]、わが愛児、飛箭、飛槍の間より、16-667
サルペードーンを引き出し、黒き血潮をぬぐい去り、
さらに遠くに運び行き、流るる水に洗浄し、
アムブロシアをまみらしてアムブロシアのきぬ着せよ。  670
しかしてかれを神速の運搬者たる双生児、
「眠り」と「死」[2]とにいっせいに故郷ににない去らしめよ、
彼らは広きリュキアーの豊かの郷に、すみやかに
行かん、しかして盟友と同胞彼を葬りて、
墓と柱を打ち建てむ[3]。死者に対する礼はかく』  675

[1]15-221、アポロンはもっともゼウスに愛さる。しかして常にその命を奉ず。アテーネーももっとも愛さるれども時に反抗す。
[2]上文454。
[3]上文456。

しか宣すればアポロンは父なる神の命を聞き、
イーダの連山おりたちて、すごき戦場訪い来り、
すぐに飛刃の間よりサルペードンを引きいだし、
これを遠くに運び去り、流るる水に洗浄し、
アムブロシアをまみらして、アムブロシアのきぬ着せつ、  680
しかして彼を神速の運搬者なる双生児、
「眠り」と「死」とにいっせいに故郷に運び行かしめぬ、
彼らは広きリュキアーの豊かの郷ににない去る。

アウトメドーンと戦馬とをパトロクロスは励まして、
トロイア、リュキアー軍勢を追いしその果て、災難を  685
ついに招けり。アキレウス先に命ぜしいましめ[1]を
守らば、あしき運命と黒き死滅を免れしを。
さはれゼウスの考量[2]は人のそれよりいや強し。16-688
(彼は勇士を恐れしめ、その戦勝をたやすくも
奪い、しかしてまたつぎに彼を戦裡に駆り進む)  690
パトロクロスの胸の中かくいま彼は勇を鼓す。
そのとき誰をまっさきに、誰を最後に、汝の手、
パトロクロスよ[3]、討ちたるや?運命みずから尽きながら[4]。

[1]先文87。
[2]17-176、18-328。
[3]先文584。
[4]直訳すれば「神々汝を死に呼ぶ時」。

アドラーストス(ト)†[1]、アウトノス†[1]、またエケクロス†[1]、メーガスの
生みたる子息ペリモス†とエピストール†とメラニポス†、  695
これらまさきに、エラソス†とまたムーリオス†[1]、ピュラルテス†[1]、16-696
同じく討ちぬ、残るものただ逃走を願うのみ。

[1]アドラーストス以下[1]を記せるものに同名異人あり。他は初めて出づる人名。メラニポスは15-546とは同名異人。

そのときポイボス・アポローン、イリオン堅き城壁に
立ちて苦難を彼の上たくらみ、トロイア軍勢を
助けることのなかりせば、鋭刃ふるい荒れ回る  16-700
パトロクロスの手によりて、トロイア城は落ちつらん。
三たび壁上突角にパトロクロスはよじのぼり、
三たびポイボス・アポロンはゆゆしき神の手を伸して、
燦爛の盾うちたたき勢いたけく追い払う。
四たび猛将奮然と鬼神のごとく進むとき、  705
すごく叫びてアポロンは羽ある言句宣しいう、

『しりぞけ、汝、神の裔、パトロクロスよ、豪勇の
トロイア都城、槍とりて落とすは汝の命ならず。
汝の勇にいやまさるアキッレウスもよくしえず』

しか銀弓のアポローン叫ぶ怒りを恐れ避け、  710
パトロクロスは悄然とはるかにあとに引き返す。

単蹄の馬(ば)をスカイアー門に留むるヘクトール、
心に念ず、乱戦の中に再び駆るべきか、
軍に命じて城壁の中に集まらしむべきか?
念ずる彼のかたわらに、来たるポイボス・アポローン、  715
デュマスの子息、ヘカベーの同胞、しかも年若く、
勇気に満てるアーシオス[1]、悍馬を御するヘクトルの
母方の叔父、しこうしてサンガリオス[2]の岸近き
プリュギアーに住める者、その風貌を身に借りて、
ゼウスの寵児、銀弓のアポロン、彼に呼びていう、720

[1]ヒュルタコスの子に同名別人(2-837)。
[2]3-187。

『ああ栄光のヘクトール、など戦場をしりぞくや?
なかれ、ああわれ汝よりまさらましかば!劣る我、
しかもただちに戦場を去るは汝の恥ならん!
立て、単蹄の馬駆りてパトロクロスにうちかかれ!
彼に勝ち得ばアポロンは栄光汝に与うべし』  725

しかく宣して人間の闘争の場に神は入る、
そのとき誉れのヘクトール、ケブリオネースに命くだし、
戦馬を駆りて戦場に駆けしむ。かなたアポローン、
軍勢むれたつ中に入り、アルゴス勢の陣中に
騒擾(そうじょう)起しヘクトルとトロイア勢に栄(は)え与う。  730
そのとき勇むヘクトール、他の敵勢に目をかけず、
討たず、ひとえにその駿馬パトロクロスに向けて駆る。

パトロクロスは兵車より大地の上におりたちて、
左の手には槍を取り、右には白く輝ける
角ばる巨石——剛健のこぶしにしかと握りしめ、  735
力をこめて投げ飛ばす。石は狙える敵将を
はずしたれどもむなしくは地上に落ちず、ヘクトルの
御者の額に——手綱とるケブリオネースのまっこうに、16-738
鋭き石は飛び当る。かれ敵王の庶腹(しょふく)の子、
石はまゆげを右左(みぎひだり)ひとしく砕き、その骨も  740
支えず、かくて右左両眼落ちて足もとに、
塵土(じんど)の中にうずもれつ、彼はさながら潜水夫
見るがごとくに、車上より落ちて魂魄身を去りぬ。

そのとき汝あざけりてパトロクロスよ、かく言いき、
『不憫なるかな、軽き身に水をくぐるに似たる者、  745
さなり、魚類の豊かなる海の上にて彼あらば、
波荒るるとも船を出で、飛びてくぐりて牡蠣もとめ、
多くの人を飽かしめむ。見よ彼かくも身も軽く、
戦車くだりて大地のへ、まっさかさまに倒れたり。
げに水くぐるもの多くトロイア軍の中にあり[1]。』 16-750

[1]上文617に同様の嘲笑の句あり。

しかく陳じて剛勇のケブリオネースの死屍めがけ、
獅子のごとくにふるい行く。獅子は牧場を荒らすのち、
胸を撃たれて、おのが勇すぐれるゆえに命おとす。
パトロクロスよ、汝かくケブリオネースにうちかかる。
かなた大地にヘクトール、兵車よりしておりて立つ。  755
ケブリオネースの骸(から)のゆえ、二将さながら飢えはてし
二頭の獅子が、奮迅の勇をふるいて山頂に、
うち殺したる鹿の餌を争うごとくたたかえり。
ケブリオネースのからのゆえ、メノイティオスの勇武の子、
パトロクロスと、栄光の将ヘクトール、おのおのの  760
肉を無残の刃(やいば)もて打ちくだくべく奪い合う。
からの頭をヘクトルは固くつかみてはなつなく、
パトロクロスはその足を同じくとれば、トロイアと
ダナオイ両軍加わりて激しき戦闘わき起る。

エウロス、ノトス[1]二種の風たがいに競い吹きまくり、
深山(みやま)の谷のしげき森、橅(ぶな)と白楊、なめらかの  765 
皮の山グミいっせいに揺るとき、樹々はすさまじく、
叫びて吠えて、おおいなる枝と枝とをうち て、
くだきて折りて、轟々の爆音起すさまやかく、
トロイア・アカイア両軍は互いの上にうちかかり、  770
討ちてほふりて敵味方つらき逃走こころせず。
ケブリオネースのからめぐり、鋭き槍と弦上を
はなれ飛び来る勁箭は、大地のうえにつき刺さり、
あたりに立ちて戦える猛士らの盾、おおいなる
石にうたれて相くだく、されども死者は戦馬駆る  775
すべを忘れて、悠然とうずまく塵の中に伏す。

[1]東風と南風。

日輪高く[1]中天にかがやくまでは、両軍の
飛刃激しくかれとこれ、おのおの討ちて兵滅ぶ。
されど光輪傾きて、牛のくびきを解くころに
到れば、アカイア軍勢は運命しのぎ、勝ちを得て、  780
ケブリオネースを乱刃の外に、トロイア軍勢の
叫びのそとに奪いさり、肩の軍装剥ぎとりぬ。

[1]11-84以下参照。

パトロクロスはこれに次ぎ敵軍めがけ三度まで、
高く叫んでアレースの進むがごとく打ちかかる、
三たび進んで敵軍の九人倒せる勇将は、  785
鬼神のごとくいま四たび奮然として進むとき、
パトロクロスよ、生命の最期、汝に現われぬ。16-787

ゆえは汝に乱戦の中にポイボス・アポロンは
向かえり、されど混乱の中に汝は認めえず、
厚き雲霧におおわれて恐るべき神ちかよりて、790
背後に立ちて、彼の背と広き左右の両肩(もろがた)を、
手のひらあげてはたと打つ、打たれて彼は目くるめく、
ついでポイボス・アポロンは彼の頭甲をうち落とす、
冠毛飾るその頭甲、馬蹄に蹴られころがりて、
音響たてつ、冠毛は鮮血および塵埃に  795
むごくまみれぬ。これまでは冠毛飾るこの兜、
鮮血および塵埃にまみるることは許されず、
神にも似たる英雄児——アキッレウスの麗しき
額と頭まもりにき。今やゼウスはヘクトルの
頭にこれをいただかす、彼の運命せまり来ぬ[1]。  16-800

[1]ヘクトールはパトロクロスを倒し、その着(ちゃく)せるアキレウスの兜を奪いてしばらくこれを頭上にいただけど、やがてアキレウスに殺さるべし。

パトロクロスの長き槍、重くて硬くたくましく、
青銅の穂のすごき武器、その手の中にぽきと折れ、
房をつけたる大盾は肩より革帯ともに落ち、
ゼウスの愛子アポローン、彼の胸甲ほどき去る。
かくして彼はぼう然と心くらみて驚きて、  805
さすがの肢体ゆるみはてたたずむ時に、うしろより
近付き双の肩のあい、鋭き槍を飛ばし射る
ダルダニアーの一勇士、パントーオス[1]の生める息、
エウポルボス(ト)[2]は槍術に騎馬に疾駆(しっく)に同齢の 16-808
朋輩ひとしくしのぐもの、はじめてここに戦闘の  810
修業に兵車率(い)て来り、二十の騎者を討ちし者、
パトロクロスよ、まっさきに彼は汝に槍とばし、
打てど汝を制しえず、投げし鋭槍引き抜きて、
倉皇としてしりぞきつ、いまはその身を防ぐべき
武装を欠ける敵将に、向き得で陣中ひそみ去る。  815
パトロクロスは神明の打撃と槍に負かされて、
死命避くべく僚友のあいに同じくしりぞけり。

[1]3-147。
[2]17-6に、また17-45以下においてメネラオスに殺さる。ピタゴラスはアルゴスにおけるヘーラーの殿堂に掛けられしエウポルボスのむかしの盾を取りおろして勇将の魂は我に下れりと主張す(オウィディウスの『変身物語』15-161)。

鋭刃うけて傷つきて、パートロクロス剛勇の
将もやむなくしりぞくを、見たる敵将ヘクトール、
陣列すぎて迫り来て、長き鋭槍なげ飛ばし、  820
彼の腹部の下の端、利刃に刺して貫けば、
どうと音して地に倒れ、アカイア勢をいためしむ。
たとえば山の頂きにとぼしき泉わくところ、
ともにその水飲まんとし、競い争いたたかいて、
その奮迅の力より獅子王ついに荒き猪(しし)[1]、  16-825
息絶えだえの猛獣を全く負かすもかくあらむ。
プリアミデース・ヘクトール、近く迫りて槍をもて、
メノイティオスの勇武の子、多勢をうちし猛将の
息の根とめて揚々と誇りて飛揚の言句いう、

[1]印度マーラッタ地方の諺に『二虎の間に一猪水を飲む』。この獣は時に極めて強暴。

『パトロクロスよ、わが都城取るべく、汝念じたり、  830
自由を奪い、トロイアの女性を汝、船にのせ、
祖先の国に運ぶべくまさに思えり、愚かなり。
われヘクトルの神速の馬は女性を守るべく、
戦地に走り、また我は勇むトロイア陣中に、
槍にすぐれて彼女らの悲惨の運命払うべし。  835
されど汝はここに死し、鷙鳥の腹を肥すべし。
無残なるかな、ああ汝、アキッレウスは勇なるも、
汝救わず、居残りて汝立つ時いいつらむ、
「パトロクロスよ、騎馬の将、鮮血染むるヘクトルの
胸衣を彼の肢体より剥ぎとるまでは、汝この  840
わが水営に帰ること断じてなかれ」まさしくも
彼いいつらん、愚かにも汝その言容れつらん』

パトロクロスよ、そのときに汝の言句かくばかり、
『誇れ、ヘクトルいまの間に!たやすく我をくじきたる
かれクロニオン[1]、アポローン、汝に勝ちを与えたり。  845
われの肩より軍装を奪い去りしはかれなりき。

[1]クロニオーンはここに運命を代表す。

『汝のたぐい二十人、我に向かいて戦うも、
わが長槍にうち負けてここに倒れんことごとく。
されどもつらき運命とレートーの子と人中の
エウポルボスはわれを打つ、汝は最後に打ちしのみ。  16-850
我また汝にあえていう、汝こころに銘じおけ、
汝の余命長からず、すでに汝のそば近く、
死と凶暴の運命と立てり、汝は無双なる
アイアキデース・アキレウス、彼に打たれて倒るべし[1]』 16-854

[1]臨終の人は特殊の予言力を持つと一般に信ぜられたり。

しかく陳ずる勇将を死の暗影は覆い去る、  16-855
肢体はなれて彼の魂、非命を嘆じいたみつつ、
青春および剛勇を捨て冥王のもとに飛ぶ。
息を引き取る敵将にかくと叫びぬヘクトール、

『パトロクロスよ、何ゆえに我に非命を予言する?
誰か知るべき、アキレウス、鬢毛美なるテティスの子、  16-860
わが鋭槍に貫かれ、まさきに死することなしと』

しかく陳じて敵将のかばねを踏みて、その傷の
口より抜ける青銅の槍もてかばねくつがえし、
すぐにその槍たずさえてアウトメドーンを追いて行く、
アキッレウスの勇猛の家臣を討たん念強く。  865
されども不死の疾き駿馬——諸神の恵み、ペーレウス
うけたる駿馬、足速く彼を救いて駆け行けり。

イーリアス : 第十七巻



 パトロクロスの死体を争う両軍の奮戦。メネラーオス特にふるい、エウポルボスを倒す。ヘクトールはアウトメドーンの追撃をやめ、パトロクロスの武装を剥ぐ。クロニオーン、これを眺めて彼の最期の近付くを嘆ず。新たに武装を具せるヘクトール、また進んでパトロクロスの死体を奪わんとす。アカイア諸将これを防ぎ、両軍互いに死傷あり。パトロクロスの死を悲んで二頭の駿馬流涕す。アウトメドーンこれを戦場に駆る。ヘクトールとアイネイアースこれを捕えんとするもよくせず。アイアースの奮戦。メネラーオス陣中をめぐりてアンティロコスを求め、彼に面して悲報をアキレウスに伝えしむ。メーリオネスとメネラーオス戦場よりパトロクロスの死体を運び去らんとす。アイアース二人迫り来るトロイア軍を防ぐ。

アレースめずるメネラオス、乱軍中にトロイアの
手によりついに倒れたるパトロクロスを認め得つ、
身に燦爛の青銅を鎧い先峰の陣を過ぎ、
彼の死体に近付きぬ。母性の愛を知らざりし[1] 17-4
牝牛はじめて子を産みて、やさしき声に鳴きながら 17-5
かばうがごとく、金髪の将メネラオス、鋭刃の 17-6
槍を、全面みな丸き盾を、死体の前かざし、
来たりて侵す敵軍を討つべくたけく念じ立つ。

[1]この比喩に似るもの16-8。

パントオスの子[1]、槍術に巧みなる者またこなた、
パトロクロスの倒れしを認め近くに迫り来て、17-10
アレースめずるメネラオス立てるに向かい叫びいう、
『アトレイデース・メネラオス、神の育てし民の王、
帰れ、死体をはなれ去れ、血染めの武具を捨てて行け。
トロイアまたは誉れある援軍中の何びとも、
われより先に戦場にパトロクロスを撃たざりき、  15
トロイア勢の中にしてまさる誉れはわれのもの、
妨げなさば汝撃ち甘美のいのち奪うべし』

[1]エウポルボス(ト)。

その大言にメネラオスおおいに怒り叫びいう、
『ああわが天父クロニオン、過度の高言聞きぐるし、
豹の荒びも及ぶまじ、獅子のあらびも叶うまじ。  20
その胸のなか猛然と力に誇りものすごく、
怒り狂える猪(しし)[1]もまた、パントオスの子ら、白楊の
槍を使える傲慢の彼らの荒びに劣るべし!
ヒュペレーノール[2]、騎馬の将、誇りて我をあなどりて
アカイア中の卑怯者とわれをあざむき戦いし、  25
そのとき彼の青春の血気はついにむなしくて
ほろべり。思う、彼の足、彼を運びて恩愛の
妻と父母との喜びに故郷に帰り去らしめず。

[1]猪(しし)の強暴16-825参照。エウポルボス、ヒュペレーノール、プーリュダマス、三将みなパントオスの子。
[2]14-516参照。
『汝いまもし手向かわば、これと同じく汝の威
われくだくべし。しかれども汝に教う、しりぞきて  30
陣中に行け、わが前に残り留まることなかれ。
さらずば災禍来るべし、来たりし後は愚者も知る[1]』17-32

[1]9-250。

しか陳ずれど聞き入れず、敵は答えて彼にいう、
『神の育てしメネラオス、わが同胞をほふりたる
汝は彼の落命をあがなうべきぞ。高言の  35
汝は彼の妻をして、新婚の屋に薄命の
寡婦たらしめつ[1]、ふた親に尽きせぬ涙流さしむ!
されど汝を討ち倒し、頭と武具をたずさえて、
パントーオスと端厳のプロンティス[2]との手の中に、
捧げん時ぞ哀愁の彼らの恨み晴らされむ。  40
汝と我の争いは勝利敗北いずれとも、
間なく決せむ、いたずらにためらうことはあらざらむ』

[1]新婚の夫婦は親の邸内に新たに屋を築きて住むむかしの習い。印度において今日なおしかりという。
[2]パントオスの妻。ヒュペレーノールの母。

しかく陳じて円き盾めがけて槍を突き出だす、
槍は青銅つらぬかず、穂先は曲る堅牢の
大盾のなか。これにつぎアトレイデース・メネラオス、  17-45
槍ひっさげておどり出でクロニオーンに祈り上げ、
しりぞかんずる敵ののど、その下部ぐさと突きさして[1]、
その剛強の手に任せ、勢いたけく押しすすみ、
鋭利の穂先、柔軟の首をますぐに貫けば、
地ひびきうちて倒れ伏し、鎧はうえに高く鳴り、  17-50
金糸銀糸に巻き上げし美麗の髪は——髣髴と
天女のそれに似たる髪——無残みだれて血にひたる。

[1]本は一行ヌケ。原稿より補う。

泉ゆたかにあふれわく静けき郷に人ありて、
勢い強きオリーブの若木——緑の栄え行くを、
植え育つれば四方より光風和風[1]吹き来り、  55
おくる息吹に枝ゆれて、ましろき花は咲きあふる、
されど烈風こつ然と勢い強く襲い来て、
そを根こそぎに吹き倒し大地の上に倒れしむ[2]。
アトレイデース・メネラオスあたかもかかるありさまに、
エウポルボスをうち倒しその戦装を剥ぎかかる。  60

[1]「光風和風」は春風のこと。 [2]4-483下の比喩に似る。

たとえば山の若き獅子、その強暴の威をたのみ、
草食む牧のむれのなか、すぐれし牝牛引きとらえ、
まずその首を恐るべき牙にくだきつ、ひきつぎて
その身つんざき、鮮血と臓腑あくまで食らうとき、
彼をめぐりて番犬と牧場まもる人の群、  65
遠く離れて大声に叫びながらも、猛獣を
恐るるゆえに、まのあたり近づくことをあえてせず。
まさしくかくも栄光のメネラーオスにまのあたり、
せまる勇気を胸のなか宿しえるものたえてなし。

かくしてまさにメネラオス、パントーオスの子の鎧、  70
美麗の武装やすやすと奪い去るべきそのときに、
これを惜みてアポローン、足神速のアレースに
似るヘクトール立たしめつ、キコネス[1]族のかしらたる
メンテースに姿似せ、彼に向かいて叫びいう、
『ああヘクトール、汝いまアキッレウスの馬を追う、  75
されど汝は得べからず[2]、不死の神母の生むところ、
アイアキデースほかにして、人間の子の何ものも、
かの俊足を制しえず、その背の上に乗るをえず。
思いを転じ、かなた見よ。アレースに似るメネラオス、
パトロクロスのかたわらに、トロイア陣中最勇の  80
エウポルボスをうちとりて彼の猛威をほろぼしぬ』

[1]2-846。
[2]10-402。

宣し終わりてアポローンまた戦場の中に去る。
その言きけるヘクトール悲哀の闇に胸くもり、
戦陣四方に見渡してただちに認む、一人は
華麗の武具をはぎとるを、他の一人は地のうえに  85
むざんに伏して鮮血は傷口よりし流るるを。
かくと見るより輝ける青銅よろい、先鋒の
なかに駆け入り、消ゆるなきヘーパイストスの火のごとく、
ふるいて上ぐる叫喚はアトレイデスの耳に入る、
叫びを聞きて呻きつつ勇将胸のなかにいう、  90

『われ進退を如何にせむ?ここに美麗の武具を捨て、
わが雪辱のため死せるパトロクロスを捨て去らば、
これを眺むるダナオイの軍勢われにいかるべし。
恥を恐れて単独に、ヘクトルおよびトロイアの
軍を敵とし戦わば、多数の包囲身にうけむ、  95
堅甲光るヘクトールここに多勢を引き来る。
さはれ何ゆえわが心これらの事を我にいう?
神意を蔑(なみ)し、神々の寵する者を敵として、
戦う時はたちまちに、激しき苦難迫るべし。
いまヘクトール神々の意によりわれと戦えば、  17-100
われ逃るるもこれを見てダナオイ勢はとがむまじ。
音声高きアイアース、彼をわれもし見出ださば、
彼もろともに引き返しまた奮闘をこころざし、
神の心に抗してもアキッレウスの眼前に、
パトロクロスを運び来て苦難軽むることを得ん』  105

かくその胸に心胆に勇士思いをこらすまに、
トロイア群勢迫り来て、さきを駆くるはヘクトール、
かくと眺めてメネラオス、死体を捨てて引き返し、
返しながらもいくたびもあとふりかえる。たとうれば
番犬および番人の槍と叫びに、農園を  110
追われて返す獅子王の、さすがの猛き胸ふるえ、
心ならずも悄然と牧場あとにのくごとし。
かく金髪のメネラオス、パトロクロスを捨てて去る。

されど陣中帰り着き、足をとどめて八方に
その目を配り、剛勇のテラモニデース・アイアース  115
いずこと探し、たちまちにに陣の左方[1]に彼を見る。
銀弓の神アポロンに恐怖の念を満たされし
部下を励まし、戦場に赴かしむる彼を見る。
すなわちいそぎ駆け来たり、かたえに立ちて彼にいう、

[1]ヘクトールの戦うところ、11-498。

『ああわがめずるアイアース!パトロクロスのなきがらの  120
ために急がん、剥がれしもアキッレウスの眼前に
おそらく運び行くを得む。武具はヘクトール剥ぎ去りぬ』
しかく陳じてアイアスの勇猛心をふるわしむ。
かくして彼は金髪の将メネラオスもろともに
さきを駆け行く——かなたにはパトロクロスの武具剥ぎて、  125
死体ひき行くヘクトール、肩より首を切り放ち、
これを餌としてトロイアの野犬の群に与えんず。
かくと眺むるアイアース、巨大の盾をうちかざし、
近づき寄れば、ヘクトールしりぞきかえし陣中に
入りて兵車に身をのせつ、うばいし美なる戦装を  130
部下に命じて城中に運び、誉れを上げんとす。

メノイティオスの子[1]のめぐり、巨大の盾をアイアース
かざして立てり、たとうれば深林中に子らを具し、
猟夫に会える獅子王か?獅子はその子を覆い守り、
そのおおいなる威に誇り、すごきまゆげを垂れさげて、  135
その眼を覆う——かくのごと、テラモニデース・アイアース、
おしくも逝ける勇猛のパトロクロスのから守る。
アレースめずるメネラオス・アトレイデスはその胸に、
深き悲哀をいだきつつ、そのかたわらに立ちどまる。

[1]パトロクロス。

ヒッポロコスの子グラウコス(ト)[1]、リュキアー軍をひきいたる 140
勇士、そのときヘクトルをにらみ、激しく叱りいう、
『ああヘクトール、見るところ、姿は凛々し、勇は欠く!
戦場逃げて栄光を全うせんと欲するや?
トロイア領に生まれたる土民ばかりともろともに、
汝、都城と塁壁を防ぐべきすべ考えよ!  145
リュキアー軍[2]の何びともこれよりのちは城のため、146
ダナオイ勢と戦わじ、絶えずも敵と奮闘を
つとむる者に、見るところ、何らの感謝払われず!
客と友とを身に兼ねしサルペードーンをアカイアの
餌(え)とし戦利とならしめし[3]、むざんの汝いかにして  17-150
彼より弱き軍将を混戦中に救うべき!

[1]6-144~211にグラウコスの系統。
[2]146~153、リュキアの将軍は特に勇に誇る。サルペードーンがヘクトールに述べし言(5-472)参照。
[3]サルペードーンの死体は救われしを(16-667以下)グラウコスは知らず。

『生ける間はトロイアと汝とのため尽したる
彼のからより犬のむれ払うを汝あえてせず!153
ゆえにリュキアー軍勢の人々われに従わば、
われら故郷に帰るべし、破滅のがれずイーリオン! 155

『祖国のために敵をうち艱苦をしのぶ勇士らを、
鼓舞する鋭気、剛強の不屈の鋭気、トロイアの
軍勢中に今あらば、この頽勢を盛りかえし、
パトロクロスのなきがらをイリオン城に運ぶべし。
かく敵将のなきがらを戦場よりし奪い来て、  160
王プリアモスいただける都城のなかに納めえば
敵はただちにこれに代え、サルペードーンの華麗なる
武具返すべく、彼の身もイリオン城に戻し得む。

『船をめぐりてアカイアの最勇猛のアキレウス、
その友うたれほろびたり、多くの勇士たおれたり。  165
しかるに汝勇猛の将アイアスのまのあたり、
乱軍中に向かい見て手向かうことをあえてせず、
彼の武勇のまさるため彼と戦うことをせず!』

しか陳ずるをにらまえて堅甲光るヘクトール、
『ああグラウコス、さかしきに汝何たる暴言ぞ?  170
地味豊沃のリュキアーに住えるものの一切に、
優りてなんじ聡明の質ありとしも思えるを、
かかる乱言みみにして汝をとがめざるをえず。
われ剛勇のアイアスを支えがたしと汝いう。
われ陣前の戦いを戦馬の音をものとせず、  175
アイギス持てるゼウスの意、さはれ至上の力あり、 17-176
勇気に満てる戦将を走らし、勝ちをたちまちに、
奪い、あるいは時としてまた戦いに駆り進む[1]。
さはれ今わがかたわらに立ち奮戦を眺め見よ、
はたして汝いうごとく、我は終日怯なりや?  180
パトロクロスの死のために猛威を鼓して寄せ来たる
ダナオイ勢の幾人を迎えてこれをやぶらんや?』

[1]17-176~178は16-688~690と同じ

しかく陳じて大音を上げてトロイア勢に呼ぶ――
『接戦つよきトローエスまたリュキオイとダルダノイ!  17-184
男児たれかし、勇猛の意気をあくまでふり起せ、  185
わが手に討ちし、剛勇のパトロクロスを剥ぎとりし、
アキッレウスの華麗なる鎧我が身に付けるまで』

しかく陳じて戦場を、堅甲光るヘクトール、
去りて走りてすみやかに、距離遠からぬその部隊——
アキッレウスの華麗なる武具を都城に運び行く、 190
そのあと追いて、神速の歩みをもって近付きつ、
憂苦をかもす戦場を離れて武装改めつ、
これまで着けし甲冑をトロイア勢の手に託し、
イリオン城に運ばしめ、パトロクロスにアキレスの
貸せし美妙の武具を着る——天の神々その父に  195
恵みたるもの——老齢にいたりて父はこの武具を
子に譲りたり、しかれども子はこれを着て老いざりき[1]。

[1]若くして逝けり。

雷雲寄するクロニオーン、かなたよりして神聖の
アキッレウスの武具を身にうがてる彼を眺め見つ、
すなわち頭ゆるがして自ら胸に宣しいう、  17-200

『無残なるかな、ああ汝、いま眼前に迫りくる
最期を汝つゆ知らず、皆の恐るる英剛の
勇士の武装——霊妙の武具をおのれの身にうがつ、
アキッレウスの勇猛のしかもやさしき友を討ち、 204
彼の肩より頭より無残に武具を剥ぎ取りて。  205
さはれ我いま大いなる力なんじに加うべし、
戦場かえる汝よりアキッレウスの美なる武具、
アンドロマケー受くることたえてあらざるつぐないに[1]』

[1]ヘクトール戦場に倒れてその妻彼を城中に迎うることをえず。

しかく宣してクロニオン黒き眉垂れうなずきて、
武具、ヘクトルにかなわしむ。さらにアレース勇猛の  210
神霊彼に加われば、威力と猛気その四肢に
あくまで満てるヘクトール、雄叫び高くふん然と、
誉れの高き援軍の中にすすみて、アキレウス・
ペーレイデスの燦爛の武具をうがてる姿見せ、
陣中あまねく経めぐりて、説きて各将励ましむ。  17-215
メストレースとグラウコス、テルシロコスと将メドーン[1]、17-216
デイセーノール†、ヒッポトオス、アステロパイオス励ましむ。217
さらにポルキュス、クロミオス、さらに占者のエンノモス[2]、  17-218
これらすべてを励まして、飛揚の羽ある言句いう、

[1]みな同盟軍(ト)の将、このなか初めてここに名指さるる者デイセーノール。
[2]2-858、ミューシアの将。

『ああ国隣る同盟の将士ら、われの言を聞け、  220
ただ軍勢の数のため、欠員のため汝らを、
その各々の都城よりここに呼びしにあらざりき。
ただ汝らがこころよく戦い好むアカイアの
手より、トロイア女性らと子らを救わんためにこそ。
これらの事を胸にして、我わが民のもてる物、  225
糧食ともに汝らの力を増さんために徴(め)す。
されば汝ら敵軍に向かい、あるいは身を捨てよ、
あるいは生きよ、これはこれみな戦いの習いのみ。
パトロクロスのなきがらを、悍馬を御するトロイアの
軍勢中に引かん者、また剛勇のアイアスを  17-230
破らん者は、われととも戦利の半ば分け取らむ、
しかして彼の栄光はまさに我のにたぐうべし』

しか陳ずれば将士らは敵軍めがけ槍あげて、
激しく迫り、アイアース・テラモニデースの脚下より、
パトロクロスのしかばねをひきとらんとす、愚かなり。  235
迫り来れる敵あまたここにうち取るアイアース、
音声高きメネラオス王に向かいて叫びいう、

『ああ我がめずるメネラオス、神の寵児よ、戦いの
庭よりあとにかえすべき希望はすでに我になし。
いまトロイアの犬の群、野鳥の群に餌(え)たるべき 
パトロクロスのなきがらを憂うるよりも、わが頭、240
汝の頭、災いにかかるをむしろ我うれう。
見よ戦いの黒き雲、将ヘクトール迫り来る、
しかして我に恐るべき破滅の運は近寄りぬ。
さはれすぐれし同僚に叫べ、あるもの聞きとらむ』 245

しか陳ずれば大音の将メネラオスうべないつ、
とどろく声を張りあげてアカイア軍に叫びいう、
『友よ、アカイア陣中の将よ、司令よ、いやしくも、
アガメムノンとメネラオス、これに陪(ばい)して民の酒[1]
酌む者、――誉れ光栄をクロノスの子より受けし者、  17-250
汝らおのおの軍勢を率いる者よ、われに聞け、
われ汝らのおのおのを見分くることを得べからず、
いま戦いの炎々のほのお激しく荒れ狂う、
さらば自ら進み行き、パトロクロスがトロイアの
野犬の餌(えば)となることを、汝らおのおの恥とせよ』  255

[1]4-259参照。

しか陳ずれば足速きオイレウスの子アイアース、
聞きてまさきに戦場に彼に会うべく走り出で、
イードメネウスはこれに次ぐ、メーリオネースその副手、
恐るべき神アレースに似たる勇将またつづく。
その他かれらのあとに付き、ふるい戦うアカイアの  17-260
その軍勢を誰かよくおのが力に名指し得ん。

かなたトロイア軍勢はヘクトール先に寄せ来る。
神より出づる大川の河口において、奔流に
さからい、海の大いなる波浪怒りて叫ぶとき、
これにのぞめる高き岸みないっせいに鳴りひびきく。  265
まさしくかかる叫喚にトロイア勢は寄せ来る。

かなたアカイア軍勢は青銅の盾身にかざし、
パトロクロスのから守る。その両軍の輝ける
頭甲(ずこう)のうえを濃雲に厚く覆えるクロニオン。
さきにこの世にありし時、アイアキデースに仕えたる  17-270
パトロクロスを轟雷の神はけっして忌まざりき、
今その死体トロイアの犬の餌食となることを、
嫌えるゆえに同僚を励ましこれを防がしむ。

瞳かがやくアカイアの軍まずやぶれ、死屍すてて
恐れてあとに引き返す、されどトロイア軍勢は  275
勇めど敵の一人もその槍ふるい倒しえず、
ただかの死体ひき去りぬ、アカイア軍はしりぞくも
ただしばしのみ、すみやかに彼らを立たすアイアース。
その風貌もその勇もペーレイデース・アキレウス
除けばアカイア全軍のすべての上に臨む者[1]、  17-280
彼いま立ちて先鋒の中に進めり。その猛威、
たとえば山の猟犬と猟人の群れやすやすと、
叢林中をめぐり経て、追い散らし行く猪(しし)のごと、
テラモニデース剛勇の誉れの高きアイアース、
トロイア軍の隊列を縦横無碍に追いまくる、  285
パトロクロスのしかばねを囲み戦い奪いとり、
イリオン城に功名を上げんずるもの追いまくる。

[1]2-770参照。

ヒッポトオス(ト)はその一人、ペラスゴイ人レートスの
生みたる勇士。乱戦の中につとめて、皮ひもに
死体の足の首しばり、ひきずり去りてトロイアの  17-290
諸軍ならびにヘクトルの感賞得んと望みたる——
彼にたちまち難起り、友は望めど救いえず。
テラモニデース戦陣の間を馳せて飛びかかり、
近くによりて青銅の彼の兜を槍に突く。
冠毛ゆらぐその頭甲、利刃激しく剛勇の  295
腕の力にくりだせし槍にむごくもつんざかれ、
鮮血染むる脳髄は槍の身伝え、傷口の
外にあふれつ、たちまちに勇士の力衰えて、
パトロクロスの足を地にその手中より取り落し、
かばねのそばにうつぶしに、地味豊かなるラーリッサ[1]、  17-300
故郷はるかにうち倒る。かくして彼は勇猛の
テラモニデースの手に討たれ、ほろびし命短くて、
その養育の厚き恩、親に報ゆることをえず。

[1]2-840。

こなたヘクトル、燦爛の槍を飛ばしてアイアスを
ねらえど、これを認めえてその青銅の鋭刃を  305
勇将避けつ、その槍はイーピトスの子スケディオス[1]―― 17-306
ポーキスの族――その中の武勇もっともまさる者――
パノペーウスの名勝地[2]占めて民衆統ぶる者――
彼の鎖骨のただ中の下をつらぬき、青銅の
穂先激しくすすみ入り、肩のうしろに貫けば、  310
地ひびきうちて倒れたる、彼の武装は高鳴りぬ。

[1]2-517。
[2]パノペウス、2-520

またかなたなるアイアスはパイノプスの子剛勇の
将ポルキュスの腹部うつ、ヒッポトオスを庇いたる   17-313
彼の胸甲つらぬきて、鋭刃臓腑つんざけば、
どうと倒れて塵中に伏して双手に土つかむ。  315
かくと見るよりヘクトール、先鋒ともにあとに引く。
アカイア軍は声あげてヒッポトオスとポルキュスの
死体をうばい引きずりて、肩より武装剥ぎとりぬ。17-318

アレースめずるアカイアの勇士にかくも払われて、
怖気(おじけ)のつしきトローエス、イリオン城に退かんとし、  17-320
アルゴス勢は勇を鼓し、ゼウスの旨にさからいて、
勝利の誉れかち得んず。されどポイボス・アポローン、
アイネイアスを励まして、エーピュティデス[1]の姿とる、
孝の一念その胸を領して老いに到るまで
父に仕えし伝令者、ペリーパース(ト)の姿とり、  325
かくてポイボス・アポロンは彼に向かいて宣しいう、

[1]エーピュティデスはエーピュトスの子すなわちペリパース、アイトリア人の将軍に同名人あり。(5-842)

『アイネイアスよ、いかにして、ある神明の意に背き、
わがイリオンの堅城を防ぎ得べきか?我さきに
眺めしごとく、あるものは勇と威により、その国を、
よしや神意にもとるとも、防がんとして戦えり。17-330
さはれゼウスはダナオイの勝ちよりむしろわが軍の
勝ちを喜ぶ。しかれども戦い避けて汝逃ぐ』
アイネイアスはその言を聞き、銀弓のアポロンを
親しく認め、ヘクトルに大音あげて叫びいう、

『ああヘクトール、また汝トロイアおよび援軍の  335
将よ、恥辱ぞ、アレースのめずるアカイア軍勢に
追われおそれて倉皇とイリオンさしてのがるるは!
いま神霊のとある者、我にあらわれ宣しいう、
「神慮無上のクロニオンわれの戦い助けん」と。
さればダナオイ軍勢に向かえ、彼らに水陣に  17-340
パトロクロスのなきがらをたやすく引くをゆるさざれ!』

しかく陳じて先鋒のはるかに前に出でて立つ。
部隊再び盛り返し、アカイア軍にうち向かう。
アイネイアスは槍のべてレイオークリトス†[1]傷つけぬ、
彼、アリスバス生むところ、リュコメーデス(ギ)の強き友。  17-345
倒るる時に剛勇のリュコメーデスは憐れみて、
近きに寄せて燦爛の槍を飛ばしてアピサオン(ト)†[2]――
ヒッパソスの子——民衆をひきいる者の隔膜の 17-348
下、肝臟を突きあてて膝ゆるましむ、討たれしは、
パイオニアー(ト)[3]の地味肥えし郷より来り、戦場に  17-350
アステロパイオス(ト)[4]ほかにして勇武もっともまさる者。17-351
その倒るるを憐れめるアステロパイオスぼつ然と、
勇をふるいて走り寄り、ダナオイ軍勢破らんと
思えどむなし、地に伏せるパトロクロスのからのうえ、
人々ひとしく盾かざしその長槍をくり出す。  355

[1]前後になし。
[2]11-578は別人。
[3]2-850。
[4]上文217。
ゆえは軍勢経めぐりてアイアスかたく令くだし、
「死体を捨てて後方に誰しもかえすことなかれ、
他の同勢に先んじてすすみ戦うことなかれ、
パトロクロスのそば去らず、これをめぐりて戦え」と、
かく勇猛のアイアスは令を下せり。大地いま  17-360
鮮血流れ、かなたにはトロイアおよび応援の
勢、こなたにはダナオイの兵士ひとしく陸続と
倒れ、紅血流さずに戦うことはあらざりき。
さはれ地上に倒るるはむしろ少なし、乱戦の
中に互いに凄惨の死を逃るべく念じあう。  365

かくて両軍炎々のほのおのごとく戦えり。
彼らの目には天上の日月ともに光なし、
パトロクロスの死屍めぐる、敵と味方のすぐれたる
将は、蹴立つる塵埃の闇にまったく覆われつ。
他のトロイアと脛甲の良きアカイアの軍勢は、  17-370
晴天のもと悠然と相争いつ、日輪の
つよき光に照らされて、地上ならびに山上に
かかる雲霧の影を見ず、かつ戦いてかつ休み、
うなりを生じ飛び来る乱刃避けてかれとこれ、
間をへだつ。しかれども真中にありて剛勇の  375
すぐるる者は戦いと闇とに悩み、青銅の
利刃のために弱りはつ。さはれかなたに大剛の
パトロクロスの倒れしをトラシュメーデス(ギ)まだ知らず 17-378
アンティロコス(ギ)もまだ知らず。すなわち思う、なお生きて
身を先鋒の中に伍しトロイア軍と戦うと。380
二将かくして同僚の死と退却をふせぐべく、
かなたに別に戦えり、黒き船より戦場に、
彼ら促し立たしめし老ネストルの命のまま。

かくて終日ものすごき戦闘あらび休みなく、
アキッレウスの遣わせるその副将のしかばねを 385
めぐり戦うトロイアの軍勢およびアカイアの
軍の膝節、足の先、腕(かいな)も眼(まみ)もいっせいに
みなことごとく疲れはて、淋漓の汗に悩まさる。
脂肪の湿(しめ)る大いなる雄牛の皮を伸ばすべく、
一家のあるじ一群の僕(ぼく)[1]に渡すを、うけとりて 390
円陣つくり立ちながら力こめつつ引き延ばす、
かくして湿気すみやかに外にはみ出し、これととも、
脂肪は肉にしみ入りて、かくして皮は伸ばされん。
狭き地上に立ちながら、かくのごとくに両軍は、
互いに死体引き合いつ、トロイア軍はイリオンに、395
アカイア勢は水陣に、運び去るべく胸中に、
せつに念じて猛烈の争いかくはわき起る。

[1]「僕」は召使いのこと。

いくさ励ますアレースといくさ眺むるアテーネー、
こころ激しく怒れども敵を互いにとがめえず。
パトロクロスのなきがらをめぐりてこの日クロニオン、17-400
人馬のかかる苦しみを起せり、しかも英剛の
アキッレウスはいまだなおパトロクロスの死を知らず。
軽き船より遠ざかり、トロイア城の塁壁の
下に彼らの戦えば、彼死せりとは思いえず。
かれ生命を全うし敵の城門近付きて、405
やがて帰らんことを待ち、パトロクロスが身ひとりに、
あるいはともに敵城を取ることあえて思念せず[1]。17-407
雷雲寄するクロニオン、神の心のあるところ、
ひそかにさきにテティスよりしばしば彼は聞き知りぬ。
されど神母は最大の不幸をかつてうち明けず、17-410
他の一切にまさりたる至上の愛の友の死を。

[1]アキッレウスがトロイアの城の前に倒るることを神母テティスはさきにいう(9-410以下)。

かなた両軍鋭刃の槍をふるいて休みなく、
死体めぐりて戦いて荒く互いにほふり合う。
青銅よろうアカイアの軍の一人叫びいう、
『ああわが友よ、中広き船にしりぞき返ること、415
恥なり!むしろ黒き土ここにわがため口開け!
その運命におちいるはむしろ我らに優ならむ、
都城をさしてこの死体、ひきずり行きて栄光を
得るを、トロイア軍勢に許さんよりは優ならむ』

しかしてかなた剛勇のトロイア勢の一人いう、420
『ああわが友よ、ここにこの死体めぐりてわが同士、
ほろび果つべき命とせば、しりぞくなかれ誰ひとり!』
とある一人かく陳じ、皆の勇気を励ましむ。
両軍かくぞ戦える。荒れたる空をつらぬきて
うち合うすごき音響は青銅色の天に入る。425

その戦場を離れたる二頭の馬は涙垂る[1]、
アキッレウスの御せし者[2]、敵ヘクトールの手にかかり、
パトロクロスが塵中に倒れ死せるを知れるため。
ディオーレースのすぐれし子アウトメドーンは疾き鞭を 17-429
しばしばこれに加うれど、あるいは蜜の甘き言、430
あるいは脅す荒き言、かわるがわるに陳ずれど、
ヘレスポントス岸の上、水軍さしてしりぞくを、
またアカイアの戦場に進むを両馬悦ばず、
世に無き人のあと残すその墳塋の上にたつ
円き柱を見るごとく、動かずそこに立ち止まる。435

[1]一切を生かす詩人の空想はこの双馬をして単に泣かしむるのみならず、19-406において人語を発せしむ。
[2]「御せし者」とは御者のこと、ここではパトロクロス。
かく悄然と、華麗なる兵車を付けて立ちどまり、
頭大地に近づけてパトロクロスの死をいたむ。
悲嘆の両馬さん然と、熱き涙をまぶたより
地上に流し、身につけるくびきの左右垂れさがる
そのうるわしきたてがみは塵に無残にまみれ行く。440
悲しむ両馬見おろして、憐れもよおすクロニオン、
頭ゆるがし我とわが胸中ひとり宣しいう、

『ああ不憫なり、などてわれ不老不死なる汝らを、
人界の王ペーレウス、死すべき者に与えけむ。
そは不幸なる人類とともに悲しみ泣くためか。445
大地の上に気を吸いて動く生類一切の
中、人間にいやまして不幸なる者われ知らず[1]。

[1]人間の不幸は同様に『オデュッセイア』7-130以下に説かる、人世の変遷は本詩6-146に。
『プリアミデース・ヘクトルは、さはれ汝の華麗なる
兵車に乗るを得べからず、このことわれは許しえず、
アキッレウスの武具を得し誇りに彼は足らざるか。 17-450

『汝の足に心中に威力をわれは加うべし、
アウトメドーンを救い出し、戦場あとに汝らは
水陣中にかえすべし、しかも我なおトロイアの
軍に誉れを加うべし、漕ぎ座よろしき兵船に
到り、夕陽沈みさり、聖き暗影きたるまで』 455

しかく宣して勇猛の力を馬に吹きこめば、
まみれし塵を地の上にたてがみ振るい払いさり、
トロイア・アカイア両軍の中に兵車を駆り進む。
馬の背後に乗車するアウトメドーンは、その友を
悲しみながら戦いて、ガチョウに向かうワシのごと、460
トロイア軍にかけ向かい、時にあるいはあとしざり、
あるいは敵の隊列を力たやすく追い払う。

さもあれ敵を散らせども討ち取ることは難かりき、
聖き車台にただひとり立ちてひとしく槍ふるい、
ひとしく速き馬を駆る——このこと彼は遂げがたし。465
されど間もなく彼の友アルキメドン[1]はこれを見る、
ハイモニデース・ラエルケス勇士の息は近づきて、
アウトメドーンにうしろより声を放ちて叫びいう、

[1]16-197。

『アウトメドーンよ、神霊のいずれぞ汝の智を奪い、
汝の胸にいたずらに無用の策をいれたるは?470
先鋒中にただひとりトロイア軍と戦える
汝知らずや?友倒れ、アキッレウスの軍装を
奪える敵のヘクトール、肩のへ帯びて誇らうを』

ディオーレスの子勇猛のアウトメドーンは答えいう、475
『アルキメドーンよ、アカイアの中の何者この不死の
馬の進退制しえて汝にたぐう者あらん、
その思慮神に劣らざるパトロクロスは今はなし。
死と運命ともろともに彼をとらえて今はなし。
汝いま取れ疾き鞭と輝く手綱手の中に、
われは車台をおり立ちて敵に向かいて戦わん』480

しか陳ずれば、戦場を走る兵車に飛びのりつ、
アルキメドーンはすみやかに鞭と手綱を手にとりて、
アウトメドーンは車よりくだる——そを見るヘクトール、
アイネイアースかたわらに立てるに向かい説きていう、

『アイネイアース、青銅をよろうトロイア軍勢の 485
謀主(ぼうしゅ)よ、見ずや、足速きアキッレウスの双の馬、
つたなき御者に駆られ来ていま戦場にあらわるを。
汝同じく念とせば、かの俊足を願わくは、
われは奪わん。もろともに力を合わせ進む時、
われに対してまのあたり彼ら戦い得ざるべし』 490

しか陳ずれば命をきくアンキーセースの勇武の子、
ともに肩のへ堅牢の乾ける牛皮、青銅を
厚くのべたるものをつけ、二将驀地(ばくち)につき駆くる。
あとに従うクロミオス、また秀麗のアレートス
二人とともに駆けいでて敵の二将をうち倒し、495
昂然として首あぐる双の駿馬を奪わんず。
愚かなるかな流血の災いなくて引き返し、
アウトメドーンを逃ること彼らの命にあらざりき。

天父ゼウスに祈祷あげ胸に勇気を満たしめて、
アウトメドーンは心友のアルキメドーンに向かいいう、17-500
『アルキメドーンよ、双の馬われより離すことなかれ、
彼らの呼吸われの背の上にあれかし、われ思う、
プリアミデース・ヘクトール、たてがみ美なるこの双馬——
アキッレウスのものに乗り、われら二人を打ち倒し、
わが軍勢を走らすか、あるは自ら先鋒の 505
中に戦い討ち死ぬか、勇気それまでやまざらん』

ついで二人のアイアスとメネラオスとに叫びいう、
『アカイア軍の主将たる汝二人のアイアース、
またメネラオス、その骸(から)をめぐる戦い、敵軍の
隊伍散らすは諸々の他の勇将に任かし去れ、510
生けるわれらを滅亡の運より汝、乞う、救え。
トロイア軍の最勇のアイネイアスとヘクトール、
乱陣過ぎてこなたより勢い猛く襲い来る、
さはれ、これらの成敗はただ神霊の膝にあり[1]、
われまた槍を飛ばすべし、すべてはゼウスの命のまま』515

[1]文句は曖昧なれども意味は明らかに「神明の処置」——神の座像の前に物を捧ぐるより来るか。

しかく陳じて影長くひく槍ふりて投げ飛ばし、
アレートス(ト)の手かざしたる円き大盾はたと打つ。
盾は長槍とどめえず青銅突きて肉に入り、
護身の帯をつんざきて下の腹部にさし通る。
たとえば強く若き者、鋭き斧をふりかざし、520
野に立つ牛の角のもと、うちて無残に筋肉を
つんざき去れば、よろめきて大地にどうと倒れ伏す、
そのありさまにアレートスよろめき仰(あお)に倒れ伏す。
鋭き槍は内蔵に立ちてふるいて四肢ゆるむ。

アウトメドーン(ギ)にヘクトルはかがやく槍を投げとばす、525
されどまともにこれを見て彼は青銅の槍避けつ、
前にその身をかがめたる、その上飛びて長き槍、
うしろの土につきささる。刺されてしばしその根本、
ふるい動きてやがてのち激しき力おさまりぬ。

ついで双方相せまり剣ぬかんずるおりもあれ、530
友に呼ばれて乱軍のあいをいそぎて駆け来る
二人の猛きアイアスはあらぶる双方引き分くる。
これを恐れて後方に再び返すトロイアの
アイネイアスとヘクトールまた神に似るクロミオス、
あとに地上にアレートス討たれしままに捨てて去る。535
アレースに似て足速きアウトメドーンはその武具を
死体よりして奪いとり、欣然として叫びいう、

『パトロクロスの死をいたむ恨みいささか晴らしたり、
いま討ちとりし敵将はさまでの勇士ならずとも』
しかく陳じて鮮血に染みし武装をとりあげて、540
兵車の中に収め入れ、牛をほふれる獅子のごと、
両手両足血にまみれ車台の上におどり立つ。

パトロクロスのからめぐり、激しく強く痛むべき
戦いまたもわき起る。心を変えてダナオイを
励まさんずるクロニオンその命うけてアテーネー、  545
天上あとにくだり来てここに争いわきたたす。

地上に人の労作をとどめ、家畜を悲します
その厳冬のつらき節、もしくはすごき戦闘の
前兆としてクロニオン、高き雲のへ紫の
虹、人類に示すごと、紫の雲身を覆い、  17-550
アカイア軍におり来る女神かれらを励ましむ。
まさきに女神アテーネー、かたえに近くメネラオス・
アトレイデース、勇猛の将の立てるを顧みて、
彼を励まし、疲れざる音声および外貌に、
将ポイニクスまねつつも羽ある言句陳じいう、555

『ああメネラオス、すぐれたるアキッレウスのめでし友、
彼をトロイの壁の下、犬の一群噛みさけば、
恥辱と慚愧とこしえに汝の上にあるべきぞ、
いざ勇猛の気を鼓して励ませ、友をいっせいに』

音声高きメネラオスすなわち答えて陳じいう、560
『ああポイニクス、老齢の尊きおじよ、願わくは
神アテーネー、力貸し飛刃の猛威防がんを!
パトロクロスの落命をわれねんごろに悲しめば、
彼の死体を守(も)り防ぐ願いはあつし、しかれども、
プリアミデース・ヘクトルは猛威さながら火のごとし、565
ゼウス誉れを与うれば彼の殺傷果て知れず』

しか陳ずれば藍光の目のアテーネー喜べり、
あらゆる神の中にしてまさきに祈りうけたれば。
かくして女神将軍の肩と膝とに力添え、
その胸中に蚊蚋(ぶんぜい)[1]の持てる不屈の勇加う、17-570
虫はしばしば人間の肌より追われ払われて、
なお執拗に噛み続け、甘き人間の血をば吸う、
かかる勇気を胸中に女神によりて満たされて、
パトロクロスの骸(から)守り、燦爛の槍投げとばす。

[1]蚊蚋は蚊のこと。

いまトロイアの族の中エーエティオン[1]の生める息、 575
富みて勇あるポデースをその最愛の友として、
また宴飲の客として、ヘクトルいたく重んじぬ。
ポデースいまし戦場をいそぎ逃げんとしつる時、
金髪ひかるメネラオス、彼の革帯射て当てつ、
青銅の槍つらぬきて地ひびきうちて倒れしめ、580
そのしかばねを敵(かたき)より奪いて陣にひき来る。

[1]アンドロマケの父(6-397)ともリュカオンを身請けした人(21-42)とも別人

そのとき近くヘクトルのかたえに立ちてアポローン、
アビュドスの地を郷として彼にもっとも親しめる
アーシオスの子パイノプス[1]、その相(そう)仮りて励ましつ、
銀弓の神アポローンすなわち彼に宣しいう、585

[1]5-152。

『ああヘクトール、アカイアの他の何びとが汝をば
いま恐るべき?――さきごろは弱将(じゃくしょう)たりしメネラオス、
彼より汝は逃げ去るや?見よ身一つにメネラオス、
かのしかばねを奪い去り、さらに汝の友を討つ、
エーエティオンの生める息、先駆に勇むポデースを』

その言聞きてヘクトール、悲哀の雲に覆われつ、590
光る青銅身に着けて先鋒中に現わるる、
そのとき、房の飾りある輝く盾をクロニオン
手にして、厚き黒雲にイーダの峰を包ましめ、
電火を飛ばし、雷音をとどろかしめて盾にぎり、595
トロイア軍に勝ち与え、アカイア軍を恐れしむ。

ペーネレオース(ギ)[1]はまず走る、かれはボイオーティアの人
プーリュダマスが近きより射たる鋭槍彼を射る、
敵におもてをさらしつつ立ちたる彼の肩の先、
かすり行きたる敵の槍、彼を傷つけ骨に触る。17-600
アレクトリュオーン、勇将の生みたる子息レーイトス[2]、
彼の手首をヘクトールうちて戦いえざらしむ、
槍を手にしてトロイアとまた争うを胸中に、
望み得ざると諦めてあたり見回し彼は去る、
そのレーイトス追い迫る将ヘクトールの胸甲の 605
乳のあたりを狙いつつ、イードメネウスは槍とばす、
されど長槍柄は砕けトロイア軍は声上ぐる。

[1][2]2-494。

デウカリオーン[1]の生める息イードメネウスは兵車乗り
立つを狙えるヘクトール、鋭槍少しく狙いそれ、
メーリオネースの部下にして兵車を御するコイラノス[2] 17-610
うてり、戸口の豊かなるリュクトス[3]よりし来る者、
(イードメネウスは海上にうかべる船を去りし時
徒歩にて来り、トロイアに功名得さすべかりしを、
いそぎて御者のコイラノス駿馬とばしてかけ来り、
彼を救いて恐るべき運命の手をのがれしめ、615
ために自ら敵将の手により命を失えり。)
そのあごのした耳のもとするどく射たるヘクトール、
槍は歯の根をうち砕き舌のまなかをつんざけば、
車台の下にどうと落ち、手綱は垂れて地に触れぬ。
そを身を曲げて大地よりメーリオネスはとりあげつ、620
イードメネウスに声あげて羽ある言句陳じいう、
『鞭を加えて馬を駆り、船をめざしていそぎ行け。
勝利はすでにアカイアにあらずと汝悟るべし』

[1]13-451。
[2]5-677は同名別人。
[3]2-646。

イードメネウスはこれを聞き、たてがみ美なる馬を駆り、
恐怖の念を胸中に充たしながらに船に去る。625

確かの勝ちをトロイアに、クロニオーンは与えしを、
今や悟れるメネラオス、また剛勇のアイアース。
すなわち皆にアイアース・テラモニデース陳じいう、

『ああ無残なり、トロイアに助けを天父クロニオン
貸すを今はた悟るべし、思慮浅はかの人の子も。630
勇気の有無に関わらず、かの軍勢の投げ飛ばす
槍ことごとくみな当る、ゼウスすべてを導けり。
しかも我らのはなつもの、ただに地上に落つるのみ。

『さはれ今われ最上の策を心にめぐららさむ、
パトロクロスの死屍をひき、身を全うし帰り得て、635
親しき友を喜ばすその道いかに、極め見ん。
友はこなたを見渡していたく悩みて思うべし、
将ヘクトルの強暴の威力をわれら支え得ず、
その剛勇の手に駆られ陣地になだれおつべしと。

『アキッレウスにすみやかに、これらの報をいたすべき 640
使いは無きや?われ思う、彼は悲痛のおとずれを、
パトロクロスの落命の報をいまだに耳にせじ。
されどアカイア軍中にかかる使いを見だしえず、
煙塵(えんじん)暗く軍勢を戦馬をともに覆い去る。
ああわが天父クロニオン、わが軍勢の闇払え!645
空吹き晴らし、その目もて親しく見るを得せしめよ。
神慮のままに光明のなかにわれらを死なしめよ』

涙流して陳ずるをクロニオーンは憐れみつ、
ただちに霧を吹き払い暗雲とおく散ぜしむ、
かく燦爛と日は出でて戦場広く照りわたる。17-650
音声高きメネラオス王にアイアス叫びいう、
『ネーストールの生める息アンティロコス[1]はなお生くや?
ゼウスの愛児メネラオス、汝目を張り探し見よ、
あらば勧めてすみやかにアキッレウスを訪わしめよ、
告ぐべし彼の最愛の友は滅びていまなしと』 655

[1]アキッレウスの友、足速し(15-569)。

しか陳ずれば大音の将メネラオス従いて、
出で行く、これをたとうれば[1]牧場守る人と犬 17-657
防げる獅子がうみ疲れ、野よりあなたに去るごとし、
彼らよすがら見張りして、肥えたる牛に猛獣の
襲い来たるを妨げつ、飢えたる獅子は勇めども、660
その意を遂げず、投げ槍は強き腕よりはなたれつ、
獅子の恐るる松火は猛炎吐きて飛び来る、
かくして獅子はすすみえず、やがて曙光の照らす時、
憤然として逃げ帰る——あたかもかかるさま見せて、664
音声高きメネラオス、パトロクロスの骸(から)あとに、 665
アカイア勢は散々に敗れて、からを敵軍の
餌(え)と捨つべきを憂いつつ、心ならずも去り行けり。
行くに臨みてアイアスとメーリオネスに呼びていう、

[1]同じ比喩11-548以下。

『アカイア軍の首領たる汝二人のアイアース、
メーリオネースまた汝、忘るるなかれ薄命の 17-670
パートロクロス、生ける間[1]はやさしかりけり皆ひとに。
無残なるかないまは死と暗き運命彼をおおう』

[1]彼の友情しばしば記さる。先文204、19-287、21-96。

しかく陳じて金髪のメーネラオース出で行きつ、
ワシのごとくに八方にその目を配る——人はいう、
ワシは空飛ぶ鳥類の中にもっとも目は強し、675
足疾きウサギ、叢林の繁みにその身ひそむとも、
高きに翔けて認め知り、羽音鋭く落しきて、
彼を襲いてすみやかに捕えて息の根をとどむ。
ゼウスの寵児メネラオス、かくも汝の光る目は、
ネストールの子、なお生きてあるや否やを知らんとし、680
多くの同志むらがれる中をあまねく見渡して、
たちまち認む、全軍の左端にありて勇将は、
その同僚を励まして戦場めがけ進むるを。
近きに寄せて金髪の将メネラオス彼にいう、

『アンティロコスよ、ここに来よ、ゼウスの寵児ああ汝、685
世にあるまじき災難の報を新たに聞かんため!
思うにすでに汝の眼、親しく眺め知りつらん、
神はアカイア軍勢に破滅を、敵に栄光の
勝ち与えしを——ダナオイのすぐれし将は倒れたり、
パトロクロスは倒れたり、ああわが軍の大悲哀!690
さもあれ汝すみやかに馳せ、アカイアの船に行き、
アキッレウスに言告げよ、「願わく、彼は迅速に、 裸のからを引きとらん、武具はヘクトル剥ぎ取りぬ」』

しかく陳ずる彼の言、アンティロコスはがく然と、
聞きてしばらく哀悼の言葉もあらず、涕涙は 695
二つの目よりさん然と流れて声はふさがりぬ。
しかありながら、メネラオスくだせる命を怠らず、
かたえに立ちて単蹄の馬を御しつるラオドコス†(ギ)[1]、
親しき友にその武具をあたえていそぎ駆けいだす。
ペーレイデース・アキレウス訪いて悲報を伝うべく、17-700
涙ながらに戦場をあとに勇将かけいだす。

[1]4-87、アンテーノールの子に同名の人あり。

アンティロコスの出で行けるあとに弱れるその同志、
いで行くかれにあこがるるピュロスの同志——その隊を
ゼウスの寵児メネラオス、汝はあえて助くるを
念ぜず、されどその隊にトラシュメーデス送りやり、17-705
その身はまたも英剛のパトロクロスのからのそば、
走り帰りてアイアスのかたえに立ちて叫びいう、

『彼を我いま軽船の陣に遣わし、足速き
アキッレウスを訪わしめぬ。さもあれ我の見るところ、
アキッレウスはヘクトルをいたく怒れど来るまじ、710
武装を欠ける彼いかでトロイア勢に向かい得む?
さはれ今われ最上の策を心に回らさむ。
死屍を奪いてひき帰り、トロイア軍の騒ぎより、
われら自ら安全に死の運命を避くる策』

テラモニデース・アイアース偉大の将は答えいう、715
『ああ栄光のメネラオス、なんじの言句すべてよし、
メーリオネスと汝いま、いそぎ死体をとりあげて、
戦場のそと運び行け、あとに残りて我二人、
心も一つ名も一つ、勇を奮いて英剛の
将ヘクトルとトロイアの軍に向って戦わむ、720
さきにも二人相寄りて激しく苦闘行えり』

しか陳ずれば他の二人、地より死体を高らかに、
勢い猛くかつぎあぐ、死体をあぐるアカイアの
将を眺めてトロイアのおめき叫べる軍勢は、
猟する人の目の前に、負傷の猪(しし)に飛びかかる 725
犬の一群見るごとく、猛然としてつきかくる。
猪を裂くべくしばらくは猛然として駆くる群、 されど力に誇らいてあと引き返す猛獣の
ふりむく時はしりぞきて、恐れ四方に逃げ散ず。
まさしくかくもトロイ勢、隊を作りてしばらくは、730
剣(つるぎ)あるいは両刃(りょうば)ある槍をふるいて追い進む。
されど二人のアイアースこれに向って振り返り、
立ちとどまれば、人々は色を失いおののきつ、
前に進んで死屍のため戦わんずる者もなし。

かくして二人戦場をあとに死体を水陣に 735
運ぶにつれて、戦いは激しく荒ぶ、たとうれば、
不意に襲いて立ち並ぶ人家をかすめ、炎々の
ほのおを上ぐる火のごとく、火光の中に散々に
家は焼け落ち、吠え叫ぶあらしはさらに荒び増す。
かくもしりぞく敵軍を追いてトロイア軍勢の 740
戦馬と戦士恐るべき騒ぎおさまる時もなし。

高き山より険阻なる坂をくだりて全身の
力をラバはふり起こし、船造るべき大木を、
あるは棟木をはこぶ時、流るる汗と疲労とに
可憐の家畜悩むごと、精を尽して二勇士は 745
死体をにないしりぞけり。そのあと防ぐアイアース、
トロイア勢を食いとむる、そをたとうれば、平原に
広くわたれる堅牢の堤、怒潮を防ぐさま、
滔々(とうとう)としてみなぎりて勢い猛く寄する水、
これを抑えて荒れしめず、破壊の力くじきつつ、17-750
行くべき道に漫々の流れを走り行かしむる——
まさしくかくもトロイアの軍勢とむるアイアース、
されどもあとを追い来たる中にすぐれし二勇将、17-753
アンキーセース生める息アイネイアースとヘクトール。

小さき鳥に滅亡をもたらすタカの近づくを、755
ムクドリまたはカシドリの一群認め、ものすごき
叫びを上げて逃ぐるさま、アカイア勢はいっせいに、
アイネイアース、ヘクトール二将来るを眺め見て、
叫びをあげてしりぞきて戦い忘れ逃げ帰る。
かくて逃るるダナオイの美なる戦具は数知れず 760
塹壕めぐり散らばりぬ、戦いやまむ時知れず。


イーリアス : 第十八巻



 アンティロコス戦場より帰りてパトロクロスの死をアキレウスに告ぐ。アキレウスの慟哭。その声海底に達す。神母テティス彼を慰むるため海中の仙女団をひきいて来る。アキレウスの復讐の念。彼の兵具を作ることを神母はヘーパイストスに願わんという。仙女らを海に返し自らオリンポスにのぼる。パトロクロスの死体をめぐりて両軍の奮戦。ヘクトールとアイアースの戦い。天妃ヘーラー、使いとしてイーリスをアキレウスに送る。イーリス来りアキレウスを陣頭に進ましむ。塹壕の上に立ちアキレウス大音声を発してトロイア軍を威嚇す。トロイア軍恐怖してパトロクロスの死体をアカイア軍に奪い返さる。日没に到り両軍互いにしりぞく。トロイア軍退陣して評議の席を開く。プーリュダマスの忠言。ヘクトールの反対。パトロクロスのしかばねを抱きてアキレウスの慟哭。天上におけるゼウスとヘーラーの問答。テティス行きて神工ヘーパイストスを訪う。神工夫妻の歓迎。神母の依頼を受けてアキレウスのために諸種の武具を作る神工の妙技。まず盾を作る。盾の表に鋳らるる自然の景と人間の行為との多種多様。盾のあとに介冑と兜と脛甲を作る。すべての完成。テティスこれをたずさえてオリンポスをくだる。

かくて両軍炎々のほのおのごとく戦えり[1]。
時に使命に足速くアンティロコスは、アキレウス
舳艫(じくろ)直(すぐ)なる[2]船の前、立てるを訪えば惨然と、
将軍すでに成りはてし凶変[3]胸に感じ知り、
大息しつつ英豪の心にひとり嘆じいう[4]、18-5

[1]11-596と同じ。新らたのエピソードの初めをしるす。
[2]直訳は「直ぐの角(つの)ある」。
[3]親しきパトロクロスの死。
[4]心の中の思い。

『ああ長髪のアカイオイ[1]、平原走る畏怖の色、
水軍さして倉皇としりぞき帰る、何事ぞ?
我の悲しむ災難をおそらく諸神果せしや?
神母[2]はさきにこの事を我に啓示し告げたりき、
我なお生をたもつ中、ミュルミドネス[3]の最勇士、18-10
トロイア人の手にかかり、日の光明を見捨てんと、
メノイティオスの勇武の子[4]、ああかれついに滅べりや?
敵の猛火を払い去り、陣地に帰れ、豪勇の
ヘクトールとな戦いそ——しかわれ彼に命ぜしを』

[1]アカイオイはアカイア族。ギリシア人を指す、ホメロスの詩中に「ギリシア」の名なし。
[2]アキレウスの神母テティス——ここに述ぶるところは17-410と矛盾す。
[3]彼らの種属の称。
[4]パトロクロス。

かくも胸裏にわずらいて思いに悩むアキレウス、15
そのかたわらに走り来て英名しるきネストル[1]の
子は熱涙を流しつつ彼に凶変告げていう、
『ああ無残なり! 勇ましきペーレイデース[2]、大哀(たいあい)の
おとずれ今こそ君聞かん、世にあるまじき災いや!
パトロクロス[3]は殺されて、鎧はヘクトル奪い去り、20
かれの赤裸のしかばねを両軍いまし争えり』

[1]「ネストール」を音調のため縮む。
[2]ペーレウスの子アキレウス。
[3]パトロクロス、パートロクロス、パトロークロス…音調のために種々に変化す(Brasse's Greek Gradus)

しか陳ずれば英雄を悲哀の黒き雲おおう。
見よ、かれ双の手を伸して余燼(よじん)の黒き灰[1]つかみ、18-23
頭の上に振りかけてその秀麗の面汚し[2]、
灰塵さらにうるわしき衣の上にまみれつく。18-25
長躯いまはた大いなる幅を満たして地に倒れ、
我とわが手に頭髪を将軍そぞろに掻きむしる[3]。18-27
パトロクロスとアキレウス[4]ともに捕えてはべらしし 18-28
侍女いっせいに悲しみて叫び、激しく陣営の
門走り出で、勇猛のアキッレウスのかたわらに、30
寄りてひとしく胸うちて、おのおの膝をふるわしむ。
アンティロコスは自らも涙ながらもいましめて、
悲嘆のあまり鋭刃に喉(のんど)を裂かんおそれより、
英武無双のアキレウス・ペーレイデースの手をおさゆ。

[1]陣営の戸外に立てど神壇おそらく戸の前にありて香火を焼きしならむ。
[2]旧約聖書ヨブ記——大苦悩の時、ヨブは塵をかぶる。
[3]10-15、22-77、22-406。
[4]アキレウス、アキッレウス両用。

かくものすごく嘆くかれ、そを千尋の波の底、35
老いたる父[1]のかたわらにその座を占むる端厳の
神母[2]聞きとり誘われて、ともにひとしくむせび泣く。
その蒼溟の底に住む仙女の群はそのめぐり、
集まり寄りぬ、グラウケー[3]、ターレイア、はたキュモドケー、
ネーサイエーとスペイオー、トエー、美目[4]のハリーエー、40
キュモトエーまた続き来るリムノーレイア、アクタイエ、
さらにメリテー、イアイラー、アムピトエーとアガウエー、
ドートーおよびプロートー、ペルーサおよびデュナメネー、
デクサメネーに続き来るカッリアネイラ、アムピノメー、
ドーリス及びパノペーと高き誉れのガラテイア、 45
ネーメルテースさらにまたアプセウデース、カリアナサ、
つづきてさらにクリュメネー、ヤネイラおよびイアナッサ、
オーレイテュイア、マイラーと髪美しきアマテイア、
その他、波浪の底に住む水の仙女ら群がりて、
銀光照らす洞窟にみないっせいに胸うちて、18-50
悲しみ泣けり、そのときにテティスまず声あげていう、

[1]海王ネーレウス。
[2]テティス。
[3]39~48の仙女の名、ヘシオドスの『神統記』243行以下にある中より選ばれしものならん。後の添加なるべし。
[4]直訳は『牛の目ある』。

『ネーレーイデス[1]、われに聞け、ああわが姉妹、汝らの
各々すべてわが胸の悲哀いかにと思い見よ。
あわれ薄幸!英雄の母たる我の運命や!
たえて責むべきあと見ざる英武のわが子産み出でて、55
勇者の中のすぐれたる(若木のごとく生い立てる)
彼を沃土の野に立てる樹木のごとくはぐくみつ、
やがて曲頸の船の上、トロイア族の戦いに、
イリオンさして遣わしき、――ああペーレウスの家の中、
再び帰りくる彼を迎うる時はあらざらむ。60
生の脈拍ある限り、日の光明を見る限り、
かれその苦悩まぬがれじ、われ近よりて救い得じ[2]。
さはれいま行き、めずる子にあいてたださむ、戦闘の
にわを離るる彼にして何の苦難に苦しむや?』

[1]海王ネーレウスの子ら。
[2]神々も運命を曲ぐるをえず。

しかく宣して洞窟を出でつつ共にいっせいに、65
ネーレーイデスともないて涙ながらに波を分け、
すすみてかくて豊沃のトロイの郷の岸の上、
行列なして登り来ぬ、ミュルミドネスの数多き
兵船ひかれ、アキレウス将をめぐりて並ぶにわ。
悲慟激しき彼のそば、端厳の母近く寄り、70
ともに流涕激しくて、愛児の頭(かしら)かき抱き、
いたく悲しみ、彼にかく羽ある言句[1]述べていう、

[1]羽翼を有するものと言葉を形容す。

『愛児!何たる涙ぞや、何の心の哀傷ぞ?
陳ぜよ、隠すことなかれ、さきに汝が手を上げて
祈り求めし情願[1]は成りしならずや?神々の 75
計らいありてアカイアの子らは汝の無きがゆえ、
陣地のかたえ破られて、かくまで恥を受けたれば』

[1]総帥アガメムノーンが辱めしゆえにアキレウス怒りてしりぞきアカイア軍の敗北を望めり。1-11参照。

足神速のアキレウス、泣きて叫びて答えいう、
『慈母よ、まことに我がためにウーリュンポス[1]の神これを
成しぬ、恵みぬ、しかはあれ、パトロクロス、恩愛の 80
友はほろべり、一切の友にまさりてめでし友、
われの頭を見るごとく愛せし友は殺されぬ!
彼を倒してヘクトール、目を驚かす荘麗の
よろい奪えり、ペーレウス[2]、神の恵みと受けしもの、 
神そのむかし人間の妻とし君をなせし時。85
――波浪を宿の神明の間に君は留まりて、
ペーレウスただ人界の女性を娶るべかりしを――
さもあれいまは大いなる悲哀は君の胸にあり。
君の愛児は倒るべし、故郷に帰る彼の身を
君は再び見ざるべし、われまた生を続くべき 90
情願あらず、人界に残りとどまる事あらず、
わが槍によりヘクトールまず三寸の息たえて、
パトロクロスの無残なる戦死つぐなうことなくば』

[1]オリュムポス、またウーリュンポス。
[2]鎧はアキレウスがパトロクロスに貸せしもの。すなわち前者の父ペーレウスがその妻テティスを娶りし時、海神ネーレウスより受けしもの。

涙流して端厳のテティスすなわち答えいう、
『愛児よ、汝いうごとく、汝の寿命長からず、95
死の運命はヘクトルのそれにつづきてそなえらる』

足神速のアキレウス、がい然として答えいう、
『非命に逝ける愛友を救わん事の叶わねば[1]、
願わく、ただちにわれ死せむ——友は故郷を遠ざかり、
その逆運を防ぐべき、わが救助なく倒されぬ。18-100
愛ずる祖先の故郷へと帰るにあらず、しかもなお、
パトロクロスを救いえず、敵の勇将ヘクトール、
その手に逝けるいくばくの他の将卒を救いえず、
用なく地上のわずらいと、陣地のそばに身をおきて、
青銅よろうアカイアの中に無双の勇者の名、105
受くるもよしな[2]、(評定の席にはまさるものあれど)。

[1]しばしば古代の著書に引用さるるもの。プラトーの『アポロギア』三十八節など。
[2]「よしな」は「由(よし)なし」の略で「無意味である」の意。

『いざ、神々の争いもまた人間の争いも[1]
うせよ、深慮の人々を分離せしむる憤り、
流るる蜜の甘きにもはるかにまさり[2]、あらびては、
猛火のごとく人間の胸に燃えたつ憤り、110
うせよ。大王アガメムノン、我をさばかり怒らせき。
苦悩は激しかりしとも、過ぎたるものを過ぎしめよ、
胸のうちなる心霊をただ運命に屈(く)せしめよ。
いざいま行きて、愛友を倒しし敵将ヘクトール
ほふり、つづきてわが生を捨てむ、ゼウスと諸々の 18-115
天の神霊いっせいに、この事成るを望む時。

[1]戦いは宇宙の第一義と説けるギリシア哲人ヘラクレイトスはこの句を責む——アリストテレスの倫理学にこれを説くよし。
[2]樹より滴る野生の蜜=旧約聖書サムエル記上十四章二十六節参照。

『天王ゼウス・クロニオーン、その最愛の子と誇る
ヘーラクレース、偉なりしも、ついに死命を免れず。
運命およびヘーラーのすごき怒りに倒されき[1]。
かくまた我に運命の同じき物の来るべくば、120
倒れてついに地に伏さむ。いまは栄光かち得まし。

[1]8-362、14-250、15-27、19-119。

『ダルダニアーとトロイアの胸柔らか[1]の女性らの
一人(いちにん)、双の手を伸して、紅潮さむる頬の上、18-123
涙をぬぐう慟哭のもとを我まずなしとげむ[2]。
知るべし彼ら、戦闘の休みはすでに我に足る、125
君は愛ゆえ戦いをとめざれ、命に従わじ』

[1]βαθυκόλπων「深き胸の」「深き襞ある胸衣の」、VossはSchwellenden Busensと訳す。
[2]ヘクトールを殺し、アンドロマケーを哭せしむること。

足は銀色玲瓏の女神[1]答えて彼にいう、
『わが子、まことにしかなりき。厄におちいる同輩を、
破滅無残の境より、解くをいみじとせざらめや?
さはれ汝の美しき武具、青銅の燦爛の 130
鎧、トロイア人の手にわたり、今その肩の上、
堅甲光るヘクトール着けて誇らう——さはれ見よ、
彼の歓喜は長からず、死の運命は近寄りぬ。
今ただ汝戦闘の中にな入りそ。このにわに
親しく汝まのあたり我が再来を見なんまで——135
ヘーパイストス神工[2]のもとより美麗の武具を率(い)て、
あしたの空に昇る日とともに我またおとずれむ』

[1]「銀色の足ある」——テティスの常用形容句。
[2]ラテン名はウォルカヌス、鍛冶の神、跛足(びっこ)なり。

しかく陳じて身を転じ、愛児を去りて海岸の
波浪に浮ぶ姉妹(あねいもと)、水の仙女に宣しいう、
『汝ら去りて大海の深き胸ぬちくぐり行き、140
波浪のあるじ、老齢のわが父のもとおとずれて、
この一切を物語れ、ウーリュンポス[1]の頂きに、
ヘーパイストス神工のもとをわれ訪い、燦爛の
武具を武勇のわれの子に、つくるや否やたずね見む』

[1]オリンポス、またウーリュンポス、神々の住める山。

しか宣すれば仙女らは海潮ただちにくぐり行く。145
足銀色の玲瓏のテティス、すなわち荘麗の
武具を愛児に具せんため、ウーリュンポスにすすみ行く。
ウーリュンポスに双の足彼女を運ぶその間、
殺戮無残のヘクトルの手をまぬがれて、水陣に、
ヘレースポント海峡に、叫喚高くアカイオイ 18-150
着きぬ。されども堅甲のアカイア軍も、倒れたる
パトロクロスのしかばねを、激しき敵の飛箭より
救いも得せじ、トロイアの軍勢軍馬いっせいに、
猛火のごときヘクトールともに死体を襲いうつ。

三たび栄光のヘクトール死体の双の足取りて、  155
奪い去るべく、憤然とトロイア人に呼ばわりつ、
三たび勇猛の威をふるうアイアス二人[1]いっせいに、
死屍より彼を追い払う、されども勇むヘクトール、
時に乱軍のただ中に突き入り、時に大音に
おめき叫びて、ひとあしもたえて後ろにしりぞかず。  160

[1]同名二人のアイアース。

たとえば原に牧の子ら、ほのおのごとき獅子王の
飢え激しきを、しかばねの餌(えば)より払い得ざるごと、
勇を奮えるアイアスの二人かくして死体より、
プリアミデース[1]・ヘクトルを追いしりぞくること難し。
かくして敵は奪い去り、無比の誉れを得なんとす、  165
そのとき疾風の足速く、ゼウスと諸神の目をかすめ、
ウーリュンポスをくだり来て、ペーレイデース・アキレウス、
彼に軍装せしむべく、天妃ヘーラーの命帯ぶる
イーリス[2]彼のそばに立ち羽ある言句陳じいう、

[1]トロイア王プリアモスの子。
[2]ゼウス、ヘーラーらの使者。

『立て、アキレウス、一切の人中もっとも猛き者、170
パトロクロスのなきがらを救え、——そのため水軍の
かたえ戦い荒れ狂い、両軍ひとしくかれとこれ、
討ちつ討たれつ争えり、これはかばねをかえすため、
かれトロイアの軍勢は風すさまじきイーリオン、
都城に骸(から)を奪うため、中に栄光のヘクトール、175
せつに望みをこれにかけ、いみじき首を切り落し、
頭(かしら)を高く城門の杭に掛けんとこころざす。
立て、いま、休みすでに足る——パトロクロスのからにして、
かれトロイアの群犬の戯弄(ぎろう)[1]となるを恐れずや?
かばねつゆだも汚るれば、なんじ何たる恥辱ぞや!』 180

[1]「戯弄」は「おもちゃ」の意。

足神速のアキレウス、すなわち答えて彼にいう。
『ああイーリスよ、我に君送りしものは誰なりや?』
答えて疾風の足速きイーリス示して彼にいう、
『ゼウスの天妃、端厳のヘーラーわれを遣わせり。
高き天位のクロニオンまた白雪のオリンポス 185
峰に住まえる諸々の神霊ともにこを知らず』

足神速のアキレウス、彼女に答えて陳じいう、
『我いかにして戦闘のにわに入るべき?わが鎧、
敵は奪えり、わが神母われに命じて出陣を
禁ぜり、彼女の再来をわが眼親しく見なんまで、190
ヘーパイストスの手もとより武具もたらすと約したり。
そをほかにしてすぐれたる武具を借るべき者しらず、
テラモーンの子アイアスの盾ただ一つあるばかり、
さはれ彼いま先鋒の間にありて槍ふるい、
パトロクロスのしかばねを守るがために戦えり』195

そのとき疾風の足速きイーリス答えて彼にいう、
『美なる汝の鎧いま敵手にあるを我も知る、
ただ塹壕のそばに行き、トロイア人に身を示せ、
トロイア軍勢おそらくは汝を恐れ、戦いを
やめん、かくしてアカイアの疲労の勇士休らわむ、18-200
かくして荒るる戦闘の休息しばし有り得べし』

しかく宣して疾風の早きイーリス立ち去れば、
ゼウスの寵児アキレウス、こなたにすくと身を起す、
その剛健の肩のうえ、房あるアイギス投げかけて、
頭のめぐり黄金の雲を広ぐるアテーネー、205
女神かくして燦爛のほおのを彼に燃え立たす。

たとえば遠き離れ島、その城中に狼煙(ろうえん)の
天に沖(ちゅう)して入るところ、敵軍四方を取り囲み、
城兵終日(ひねもす)討ち出でて奮戦苦闘なるところ、
太陽やがて落ち行けば数団の火焔燃えわたり、210
火光閃めき炎々とひいりて天に映る時、
四周の隣里望み見て災禍をここに救うべく、
計略おのおの回らして船に乗じて寄するごと、

しかく英武のアキレウス頭(とう)よりひかり空に射る、
すなわち防壁の外に出で、塹壕のうえ立ちとまり、215
神母の命をかしこみてアカイア軍に加わらず 
立ちて叫べば、遠くより妙音ふるいトロイアの
陣いっせいにゆらしむる藍光の目[1]のアテーネー。
かくて、都城を四方より囲める敵の吹き鳴らす
サリピンクス[2]の朗々の響きのごとく、叫喚の 220
アイアキデース[3]呼ばわれる音声高く雲に入る。

[1]「藍光の目の」アテーネーの常用形容。
[2]喇叭(ラッパ)の一種。
[3]アイアキデース、ペーレイデスともにアキレウスの別名。

アイアキデース呼ばわれるその朗々の声聞きて、
敵軍怖じて騒ぎ立ち、たてがみ長き一群の
戦馬ひとしく災いを感じて、兵車ひき返し、
車上の敵は、勇猛のペーレイデスの頭上に、225
藍光の目のアテーネー点じ燃せる光炎の
不尽の霊火望み見て、心に畏怖を充たしめぬ。

三たび塹壕のうえに立ち叫ぶ英武のアキレウス、
三たびおののくトロイアとその豪勇の諸援軍、
中に勇士の十二人、おのが兵車のかたわらに、230
おのれの槍に貫かれ亡べり、こなたアカイアの
軍勢勇み、乱戦のうちより救い引き出し
パトロクロスのなきがらを床(とこ)にかきのせ、一団の
親友泣きてかたわらに立てり、そのなかアキレウス、
鋭刃いたくつんざける――柩(ひつぎ)の上に横たわる 235
友を眺めてさん然と熱き涙に添いて行く。
さきに兵車と戦馬とを具して、荒べる戦いに
遣わせし友、生還の姿ふたたび迎ええず。

そのとき牛王の目[1]を持てるヘーラー、強いて日輪を、
大わだつみの波の彼方(おち)、疲れぬながら沈ましむ、240
紅輪かくて落ち行けば、奮戦苦闘の悩みより、
勇武の将士アカイアの軍勢しばし休らえり。

[1]「牛の目をもつ」ヘーラーの常用形容。

こなたトロイア諸軍勢、奮戦苦闘のあらびより
しりぞき帰り、兵車より足疾き馬を解き放し、
食を思うにいとま無く、すぐに評議の席に入る。245
一人もあえて座に着かず、ますぐに立ちて評定の
席を開きぬ、――アキレウス長き勇武の戦いを
休みし後の出現に、トロイア軍勢怖じふるう。

そのとき智あるポリュダマス[1]、パントオスの子、将来と
過去とをひとり悟るもの、ヘークトールの友にして、18-250
同じき宵(よい)に生まれいで、友は長槍のすべにより 
名あるがごとく、弁口のたくみに秀いで名あるもの、
彼いま皆に慇懃の思いをこめて陳じいう、

[1]ポリュダマスまたプーリュダマス、好参謀、12-60参照。

『わが同志らよ、よく思え、我は勧めん、汝らが 18-254
都城に引くを、原上に、船のかたえに曙の 255
到るをあえて待つなかれ、われら城壁去る遠し。
アガメムノーン元帥に彼の怒りし昨日まで、
彼らアカイア軍勢と戦うことはやすかりき、
敵の兵船われの手に奪い取るべく楽みて、
その水陣のかたわらにわれ安んじてやすらいき。260

『さはれ足疾きアキレウス、かれ今われの畏怖の的、
その凶暴の一念は、トロイアおよびアカイアの
二軍互いに相対し威武を比ぶる原上に 留まることを肯んぜず進み、都城と女性とを
挙げてひとしくかすめ去る、その戦いをかれ念ず。 265

『わが言ききて城内に帰れ、このこと理に当る、
いま清浄の夜の影、アキッレウスの戦いを
とどむ、されども鋭刃をその手に取りてあすの朝、
ここに我が軍おそうとき、彼の武勇はすごからむ、
幸いにして逃がる者、聖都トロイに帰りえむ、 270
されど多くのわが軍は犬と鳥との餌とならむ、
ああその不祥のおとずれは願わく耳に入るなかれ。

『心に忌むも、わが言に汝ら聞きて従わば、
こよい集まる城中に我ら力を養わむ、
かくして塔を、城門を、これにかないてふさわしく 275
磨き光りて大なる扉は城を守るべし。
かくしてあした朝はやく身に青銅をよろおいて、
城壁のうえ並み立たむ、そのとき彼ら水陣の
中よりすすみ出で来り、攻めん者こそ咎あらめ。
城のめぐりを駆け走る首たくましき駿足を、 280
疲らし果てて、水陣をさして再びしりぞかむ。
城壁のなか犯し入る思いを彼はいだき得じ、
城をほろぼし得べからず、野犬の餌(えば)とまずならむ』

堅甲光るヘクトール眼をいからして彼にいう、
『ああポリュダマス、いささかも汝の言句意に満たず、 285
城中帰りいたずらに閉じこもるべく汝いう。
城壁中にこもることいまだ汝に足らざるや?
いにしえよりしプリアモス領する都城、黄金に 18-288
満ち[1]、青銅に満つること、世人あまねく口にいう。
されどもゼウス・クロニオン怒りしゆえにその宝、290
諸々(もろもろ)の家離れ去り、プリュギアーまたうるわしき
マイオニアーの人々の手に買い取られ散じ尽く。

[1]6-46、6-242、9-402およびその他にプリアモスの富をいう。

『今はた計慮ふかき神クロニオーンは水陣の 18-293
そばに栄光われに貸し、アカイア軍を岸上に
閉じこむるとき、愚かにもかかる助言をわが民に 295
告げざれ、トロイア一人(いちにん)も聞かず、我また許すまじ。
いまわれ親しくいうところ、汝らすべて身にいれよ。
いま戦陣の中にして汝らおのおの食を取れ、
夜の警備を心しておのおの怠ることなかれ、
トロイアの族その家におさむるものをいとしまば、18-300
これを集めて民衆に与えて糧の足しとなせ、
敵のアカイア軍勢に与うるよりもまさらずや。

『いざ紅輪のあさぼらけ、身に青銅をよろおいて、
敵の兵船まぢかくに猛き戦さを起こすべし。
しかしてもしもアキレウス、戦い望み兵船の 305
かたえに立たば、災いは彼にあるべし、我いかで
彼を恐れて戦場を逃るべきかは!まのあたり
立たむ、勝利は彼の手に、もしくは我にあるもよし、
アレースみなに平らなり、打たんずるもの打ちとらむ』

しかヘクトール陳ずれば、トロイア軍勢おろかにも 310
賛じ叫べり、アテーネー彼らの心くらませり、
将ヘクトールあやりて計るを彼らほめたたえ、
英知の言を宣したるプーリュダマス[1]を喜ばず。

[1]プーリュダマス、すなわちポリュダマス、音調のため原典に自由に用う。

かくて食事を陣中に取りぬ、しかしてこなたには、
アカイア軍勢よもすがらパトロクロスを悲しめり。315
ペーレイデースまっさきに逝きたる友の胸のうえ、18-316
その剛強の手を伸して、涙激しくさん然と
悲しみ泣けり、たとうればあごひげ長き獅子王の
愛児の群を繁りたる森より人の奪うとき、
時におくれて帰り来ていたく悲しみ猛然と、320
憤怒の情に耐えやらず、彼らの跡を探るべく、
谷のほとりを駆けめぐり、狂いめぐるもかくあらむ。
ミュルミドネスの中にして哀号激しアキレウス、

『ああ無残なり、われかの日メノイティオスを——勇将を、
彼の館の中にして、慰めし言(こと)いまむなし、18-325
トロイア城をおとしいれ、分かてる戦利もたらして、
オポスの郷[1]に栄光の彼の子連れんと約せしも。
さもあれゼウス、人間の祈願すべて受けいれず、18-328
ここトロイアの郷の土、彼と我との紅血を
染めん運命定まりぬ——駿馬を御するペーレウス、330
その城中に帰り来る我を迎うること無けむ、
神母テティスもまたさなり、我この郷に命終えん。

『パトロクロスよ、かくありて汝のあとを追うがゆえ、
汝を討てる豪雄の将ヘクトルの首と武器、
ここにたずさえ帰るまでわれ葬礼を行わず、335
死体を焼かん火の前に、トロイア陣中すぐれたる
十二の首をはね落し、無念の思い晴らすべし。18-337
そのときまでは曲頸のわが兵船のかたわらに
休らえ、そばに夜も日も、ダルダニアーとトロイアの 
胸柔らかの女性らが涙そそぎて悲しまん——
言あざやけき[2]人間の富裕の都市をおとしいれ、
我が長槍と力とによりて求めし女性らが』 340

[1]メノイティオス父子はもとロクリス(2-531)のオポス に住めり、後プティアーに移る(11-765)。
[2]Mέροπος(禽獣と異り言語明瞭の意)

しかく陳じて勇猛のペーレイデース、人々に
命じ、火焔のかたわらに巨大のかなえそなえしめ、
パトロクロスのしかばねの汚れし血潮清めしむ。345
かくて人々燃えあがる火焔の上にかなえ据え、
水を満たして炎々のたきぎを下に投げ入れぬ、
火焔かなえをうち囲み満たせる水を沸かし立つ。
かくて輝く青銅の中に熱湯わけるとき、
紅血染めししかばねを洗いて上にあぶら塗り、18-350
さらに九年の長き経し芳香傷にほどこしぬ。
かくして床に骸(から)を乗せ、その頭より足にかけ、
柔軟の布こうぶらせ、うえに雪白(せっぱく)の布おおい、
よすがら長く勇猛のアキッレウスのかたわらに、
ミュルミドネスの諸将卒、パトロクロスを悲しめり。355

そのときゼウス、妹の神妃ヘーラーに向かいいう、
『ああ牛王の目を持てるヘーラー、汝足速き
アキッレウスを起たしめて、ついに素懐[1]をとげ得たり、
鬢毛長きアカイアの民ぞ汝の子なるべき』

[1] 「素懐」は日ごろの願いのこと。18-168、18-184参照。

そのとき牛王の眼をもてるヘーラー答えて彼にいう、360
『天威かしこきクロニデー[1]、仰せ何たる言句ぞや?
死すべくしかも神明の知を備えざる人の子も、
これらのわざを他に対しにあえて加うることをえん。
素生によりて、さらにまた天のすべての神々を
治むる君の妻として、女神すべての長なりと 365
自ら誇る我、いかで意のままふるまい得ざらんや!
怒りのゆえにトロイアに危害を加え得ざらめや!』

[1]クロニデース=クロニオーン=クロノスの子=ゼウス。クロニデーは呼格。

二位の神明かくばかり互いに言句相まじう。
しかしてかなた銀色の足のテティスはたずね行く、
ヘーパイストスの青銅の不壊(ふえ)の神殿[1]燦爛と 370
光りてほかをしのぐもの、跛行者自ら建てしもの。
そこにふいごの前にして汗を流して働ける
彼いしずえの堅牢のその宮殿の壁のそば、
据うべき二十おおいなるかなえ作るにいそがわし。
その各々の足の下、金の車輪を彼は付す、375
かくて見る目を驚かし、かなえ自らゆるぎ出で、
神の評議の席に行き、しかして後に帰るをう。
工おおかたは遂げられて、ひとりかなえの精妙の
耳のみ残る、このために彼いま鋲(びょう)を鋳(い)つつあり。

[1]諸神の殿堂とともにオリンポスにあり。(1-607)

その功妙のたくみもて働く彼に、玲瓏の 380
銀色の足うるわしきテティス近づきおとずるる、
そのとき名工の誉れある跛行の神の妻にして、
光る面紗(めんしゃ)[1]のうるわしきカーリス[2]すなわち認め得つ、
すすみ迎えて手をとりて思いをこめて陳じいう、

[1]「面紗」はベールのこと。
[2]美の神。

『ああ厳(いつく)しく誉れあるテティス、ころもの長きひき、385
まれの玉歩(ぎょくほ)[1]をここに曲げ、おとずれ来る何ゆえか?
いざ身につづき内に入り、わが歓迎の宴につけ』

[1]「玉歩」は高貴な訪問をいう。

しかく陳じて天上の女神の中にすぐれたる 
あるじはテティス導きて、銀鋲うてる荘麗の
玉座の上に座らしめ、下に足台すえおきて、390
ヘーパイストス、誉れある神工を呼び叫びいう、

『ヘーパイストス、いざここに、テティス来りて君を待つ』
ヘーパイストス、誉れある跛行の神匠(しんしょう)答えいう、

『ああ誉れある端厳(たんごん)の女神わが屋の中にあり、
びっこのゆえにおのが子を隠さんとせしヘーラーの[1] 395
願いによりて落されて、苦難の激しかりし我、
救いし女神ここにあり。エウリュノメーは潮流を かえす海神[2]生める姫、エウリュノメーとテティスとの
胸そのときに受けざらば、わが心痛やいかなりし。
九年(きゅうねん)の間そのそばで居を空洞の中に据え、18-400
首の飾りと腕の輪と胸また耳の飾りとの
たくみ数々鋳たる我、外は泡立つ海神の
無限のうしおほうはいと高鳴り渡り、神々の
また人間の何者もたえてこの場を知らざりき、
知るは我が身を救いたるエウリュノメーとテティスのみ。405

[1]この神話と別に、ゼウスがヘーパイストスを天上よりレームノス島に投げ落したる神話は1-560以下参照。
[2]この海神はオーケアノス。

『テティスいまわれ訪い来る、一命の恩、鬢毛の
美なる女神にまさにわれ報えん時はいま到る。
いざ今、なんじ歓迎の宴を女神の前いたせ、
我いま行きて諸々の器具をふいごを収むべし』

しかく陳じて鉄床を立ちて、すすけし[1]巨躯起し、410
びっこをひけど神工の痩せたる足はいと速し。
かくてふいごを猛火より遠ざけ離し、手にとりて
つとめし器具をことごとく白銀製の櫃(ひつ)に入れ、
やがて海綿とりあげて顔面ならびに双の手を、
またたくましき首筋を、剛毛あつき胸をふき、415
しかして上衣身にまとい、手に太やかの杖にぎり、
びっこをひきて出で来る、彼を助けて命ある
少女に似たる金製の群像あとに働けり。
かれらはこころ知解して中に声あり力あり、
しかして不死の神々の霊妙のわざ学び知り、420
主人の神のかたわらにつとめり、こなた神工は
来たり、テティスの座に近く、輝く椅子に身をよせつ、
すなわち彼女の手を取りて思いをこめて陳じいう、

『ああ我がめずる端厳(たんごん)のテティス、ころもを長くひき、
ここおとずれる何ゆえか?先は来臨まれなりき、 425
君の心をうち明けよ。われの力のおよび得ば、
またその事の成るべくば、成し遂げんことわが願い』

[1]αἴητονは意味不明、Vossはrussige(すすけた),Murrayはpantingと訳す。

そのときテティス、さん然と涙を垂れて答えいう、
『ヘーパイストスよ、思い見よ、ウーリュンポスの頂きの
女神の中の何ものか、クロニーオーン・ゼウスより、430
我ただ一人こうむりしごとき苦難を受けたるや?[1]
海の女神の群の中、彼は我が身を選び取り、
人界の子のペーレウス・アイアキデースに嫁せしめき。
心ならずもかしずけるかれ老齢の悩みより
居城の中に弱り伏す。しかも他の難また我に、—— 435
ひとりの男児かれ我に生ませ、すぐれし英雄と
はぐくましめて、しげり行く若木のごとく長ぜしむ、437
ひろき沃土に立てる樹のごとくに彼を長ぜしめ、
トロイア勢に向かうべくイーリオンにと、曲頸の
船に乗じて行かしめし、彼を再びその郷に、440
ペーレウス住む城中に、迎うることはあらざらむ。

[1]ヘーラーに養育の恩を負いしテティスはゼウスに背きしことあり、天王これを怒り、人間に嫁せしむ云々の神話。

『かれ生命のある限り、目に光明を見る限り、
絶えず苦しむ、われ行きて彼を助くること難し。443
アカイア諸軍、賞として彼に少女を与えしを、
アガメムノンは威に誇り、彼の手よりし奪い取る。445
彼は少女のゆえによりいたく悩めり、かなたには、
アカイア軍をトロイ勢、船のあたりに閉じこめて、
外に出づるを得せしめず、しかしてアルゴス諸長老、
彼に願いて数々のすぐれし贈与かぞえあぐ。
されども彼はすすみ出で苦難はらうをうべなわず、18-450
パトロクロスに自らの武具を与えてうがたしめ、
あまたの戦士ひき具して戦場さして進ましむ、
かれら終日スカイアー門のほとりに戦えり。

『神アポローン、先鋒の中に敵軍悩ませる
パトロクロスを——勇将を倒し、誉れをヘクトルに 455
与うることの無かりせば、その日トロイア落ちつらむ。
我そのゆえにいま来り汝の膝の前に請う、
わが薄命の子に盾と兜ならびに胸甲と、
脚部を守る武具付せる脛甲、なんじ賜(た)ぶべぎや?
彼の戦装、トロイアの敵に討たれし親友の 460
身より剥がれて奪われて、彼いま土に伏して泣く』

そのとき跛行のすぐれたる神工答えて陳じいう、
『心安かれ、そのために胸を痛むることなかれ、
危急の運の迫る時、無残の凶死遠ざけて、
彼の一命守るべく我願わくは心せむ、465
すなわち彼にすぐれたる戦装我は整えむ、
これを眺むる人界の子はことごとく驚かん』

しかく宣して神工はテティスを去りてすすみ行き、
猛火にふいごさしむけてその働きをはじめしむ。
すべてのふいごいっせいに熔炉二十の上に吹き、470
炎々として燃えあがる火焔のあらし立たしめつ、
ヘーパイストス望むまま、またそのわざの進むまま、
時につとめて時にやむ神工たすけ働けり。
かくして彼は炎々の火中に強き青銅と、
錫と貴き黄金と銀とを投じ、また次ぎて、475
その台上に巨大なるかなとこ据えつ、一方の
手に堅剛のつちをとり、火箸をほかの手に握る。

まさきに彼はおおいなる堅牢の盾鋳つくりつ、
美妙のたくみほどこして燦爛としてかがやける
三重(さんじゅう)のへり、一条の銀のつり紐これに付す。480
層五重より成れる盾、盾のおもてに神工は
その霊妙のたくみより種々の意匠をほどこせり。

盾のおもて[1]に鋳作るは緑の天と海洋と、
大地と倦まぬ日輪と、団々[2]欠けぬ月輪と、
天を飾りて連なれる無数の高き星宿[3]と、485
プレイアデース[4]、ヒュアデース[5]、さらに堂々のオリオーン。
さらに車輪の異名呼ぶ大熊星の座ぞ高き、
同じところをめぐり行き、オーリオーンを眺め見て、
オーケアノスの潮流に彼のみ浸(ひた)ることあらず。

[1]ここより本巻の終まで盾の意匠の詳説、まず大地日月星を彫る(一)。
[2]「団々」は丸いこと。
[3]「星宿」は星座のこと。
[4,5]ともに牡牛座中の星群。

盾のおもてにさらに鋳る人界の子の都市二つ[1]、490
美麗なるもの、その一は婚礼および賀宴の場、
松火(たいまつ)かざし華やげる新婦のむれを人々は、
部屋より誘いそとに連れ、婚賀の歌を唱え出づ。
若き子の群、青春の血をおどらして舞いめぐる、
その中起る喨喨(りょうりょう)の笛のひびきと琴のおと、495
女性はあまた戸の前に立ちて驚異の目を見張る。
またかなたには集会の広場に民群れり、
争議おこれり、殺されし人の賠償、題として、
甲乙二人争えり、賠償すでに済みたりと、
民に向かいて甲は述べ、そはいまだしと乙はいい、18-500
判者の前に争いを両者もろとも終えんとし、
民は双方いずれかを賛するままに叫び呼び、
そを伝令はとりしずむ、かなた聖なる一団に、
老いし判者のおのおのは彫琢されし石の上、
座して音声朗々の伝令の笏手に握り、505
かわるがわるに立ち上がり、その判定を宣(の)り示す。
その判定を巧妙に宣する者に与うべく、
席のもなかに黄金の両タラントおかれあり。

[1]平和の場面(二)。

ほかの都市にはさんらんの武装うがちて攻めかこみ[1]、
二種の思考を胸にして、二軍の勇士陣かまう。510
一は都城を破らんを念じ、他はまた城中の
資財を挙げて、その半ば分けてこれらと和せんとす。
されど城兵従わず、待ち伏せすべく武装しつ、
その城壁と恩愛の妻と幼き小児らを、
齢(よわ)いかたむく衰残(すいざん)の輩に託して守らしめ、515
立ちて進めば、アレースと藍光の眼のアテーネー、
黄金の身に黄金の衣まといてさきに行く。
武具たずさうる荘厳の華麗の姿、天上の
神にかないていちじるし、民の体躯は小なりき。
待ち伏せするに良しと見る場(にわ)に城兵やがて着き、520
牛羊来り水を飼う川のほとりに、燦爛の
青銅の武具よろおいて、おのおの隠れたむろしつ、
しかして列と隔りて、二人の兵は偵察の
任に当りて、牛羊の群の来るを待ちわびぬ。
すぐに牛羊むらがり来、二人の牧者これにつぎ、525
敵の計略思わねば笛を弄(ろう)して楽しめり。
軍勢かくとうかがいて走りかかりてたちまちに、
牛の群また雪白の羊の群を打ちほふり、
ひきい来たりし牧人をともにひとしく打ちとりぬ。
囲める軍は評定のにわに座しつつ、牛羊の 530
ほとりに湧くる騒擾の声を耳にし、駿足の
軍馬に乗りて早々(そうそう)と馳せてこの場に寄せ来たる。
彼らはかくて川流の岸のへ立ちて戦いつ、
青銅の槍くりだして両軍互いに相うてり。
中に『争い』『騒ぎ』あり、すごき『運命』またありて[2]、535
あるは傷負いなお生くる、あるはいまだに傷負わぬ
者をつかみつ、あるはまた死者の足ひき陣を過ぐ。
その『運命』は肩の上、人の血に染むきぬまとう、
あたかも生ける人に似て三霊互いに相まじり、
互いにうちて戦いて互いに死屍をひき合えり。540

[1]戦いの場面(三)。
[2]4-440。

盾のおもてにやわらかの耕土の姿また鋳らる、
すき返すこと三度なる豊かの畑に農民は、
牛馬を駆りておちこちにくびきを転じ進ましむ。
くびきを転じ進ましめ耕地の端に達すれば[1]、
人あらわれて蜜に似る甘美の酒の一盃を、545
各自の手中受け取らす、受けたる者は身を返し、
圃畦(ほけい)[2]にすすみ、またかなた耕地の端に着かんとす。
盾の地板は金なれど、鋳られし耕地黒くして、
鋳る妙工の巧みよりまことの物を見るごとし。

[1]耕地の姿(四)。
[2]「圃畦」は畑のうねのこと。

つぎに鋳たるは収穫の野のおも[1]、ここに鋭利なる 18-550
大鎌とりて、労働の群は収穫いそがわし。
無数の瑞穂(みずほ)、あるものはいま畝(うね)に添い地の上に、
刈られて落ちつ、あるものはまた縄により束ねらる。
束ぬる者は三人(みたり)あり、並びて立てばうしろには、
年若き子ら穂を集め、腕に抱えて休みなく 555
彼らに運ぶ、しこうして主人はひとり黙然と、
その畝に立ち杖を取り、心の中に喜べり。
またかなたには童僕は木陰の下に食のため、
ほふれる牛を調理してせわしくつとめ、女性らは、
あまたの麦を振りまきて農夫の食事ととのえぬ。560

[1]収穫の場面(五)。「収穫の野のおも」はβαθυλήιονによる。

盾のおもてにまたつぎに金をもて鋳る葡萄園[1]、
葡萄の房は充ち満ちて実はみな黒く熟したり、
葡萄の蔓の這いわたる棚の支柱は銀に成り、
周囲は深き溝流れ、錫もてつくる垣たてり。
ただ一条の道ありてこの場に通じ、これにより、565
働く者は園内に入りて葡萄の房を刈る。
若き女性と若人は柔和の思い胸にして、
編める籠ぬち熟したる果実をともに運び行く、
その群の中一人の小児美妙の琴とりて、
美妙の曲を奏しつつ、その晴朗の声あげて、18-570
葡萄の歌を吟ずれば、人々同じくこれに和し、
大地を足に踏み鳴らし、歌いつ呼びつすすみ行く。

[1]葡萄園と酒の醸造の場面(六)。

盾のおもてにつぎに見る[1]、角はますぐの一群の
牝牛、あるもの黄金にあるもの錫に鋳り出さる、
鳴き声高く牛舎より引き出されて牧場に、575
出づる道のべ潺湲(せんかん)[2]の流れの岸に葦なびく。
また黄金に鋳られたる牧人四人牛をおい、
さらに九匹の足速き犬の一群従えり。
そこに二頭の恐るべき獅子王、群の前列を
おかし捕ゆる一雄牛、牛は高らに吠え叫び、580
ひかれて行けば犬の群、牧人ともにこれを追う。
いま獅子王は大いなる牛噛み倒し皮を剥ぎ、
内臓および黒き血のあふれいずるをむさぼりぬ、
牧人おえど甲斐あらず、ただ足速き犬に呼ぶ、
されど獅子をば噛み得ざる群は恐れてこれを避け、585
あたり囲みてぎんぎん[3]の声あぐるのみ、近付かず。

[1]牧牛と獅子(七)。
[2]「潺湲(せんかん)」は水のさらさら流れる様。
[3]『猛犬狺々(ぎんぎん)……』(宋玉『九弁』)。

つぎに跛行の神工の盾のおもてに鋳るところ[1]、
一の美麗の谷の中、白き羊の群れ遊ぶ
広き牧場、さらにまた小屋[2]と羊舎と園庭と。

[1]牧場と羊舎(八)。
[2]原文は「屋根のある(κατηρεφέας)小屋」、屋根の無き小屋はなし、くどきことかくのごとし、ただ調のため也。

つぎに跛行の神匠は盾にあらわす舞踊の場[1]、 590
ダイダーロスがそのむかしクノーソスなる広き地に、
鬢毛美なるアリアドネー彼女に作りしそれに似る。
ここに少年うちつれて、嫁資豊かな少女らと
手と手親しく取り合いて、楽しくともに舞い踊る。
舞の群ぬち少女らは華麗の衣(きぬ)を身にまとい、595
また少年は精巧に織られし光る上衣着る、
さらに少女ら冠のいみじきものを頂きつ、
また少年は白銀の帯、黄金の剣を帯ぶ。
たとえて言わば、陶工が手の中取れる回転の
ろくろをためす時に似て、慣れたる足にすみやかに、18-600
列を作りてかれとこれ、互いに向かいすすみ合う。
多数の群は楽しみてこの一団を取り囲み、
さらにその中すぐれたる歌謡者、絃を弾じつつ
吟じ、しかしてその歌のはじまる時に、軽妙の
二人のわざ師、群衆のもなかにありてはねおどる。605

[1]舞踊の場面(九)。

かく堅牢に作られし盾の外輪(そとわ)に、神工は
鋳りぬ、潮流わきかえるオーケアノスの偉なる影[1]。
かく堅牢の大盾を神工作りはてて後、
火焔にまさり輝やける胸甲彼のため作り、
またその額(ひたい)おおうべき精巧華美の甲作り、610
黄金製の冠毛をさらにその上飾り付け、
また屈伸の自在なる錫の脛甲作り終ゆ。

[1]オーケアノスは世界全体を囲む流れと考えらる。

ほまれの神匠一切の武具をかくして作り終え、
アキッレウスの母にもてたずさえ来たり捧ぐれば、
ヘーパイストスの宮居(みやい)より神母さながらタカのごと、
燦爛(さんらん)の武具たずさえてウーリュンポスを飛びくだる。


イーリアス : 第十九巻



 神工ヘーパイストスの作れる武具をたずさえ、神母テティス来りてアキレウスを訪い、またパトロクロスの死体の腐爛を防止す。アキレウス陣を出でて集会の席にのぞみ、アトレイデースと和睦す。アガメムノーンおのが過失をみなの前に認め、さきに約したる賠償を出し、アキレウスの従者にこれをその陣中に運び去らしむ。オデュッセウスの勧めをいれて将士らみな食を取る。アキレウスひとり飲食を欲せず。麗人ブリーセーイス、陣に帰りてパトロクロスを哭す。アテーネー、ゼウスの命を奉じ、来りてアムブロシアをアキレウスの胸中に注ぎ、飢渇(きかつ)のわずらいなからしむ。アキレウスの出陣。駿馬クサントス、女神ヘーラーの恵みにより、人語を発しアキレウスの運命を予告す。アキレウスこれを顧みず戦車を駆り進む。


サフラン色の被衣(かつぎ)着て、神と人とに光明を[1]
与うるためにエーオース、オーケアノスの波わける、
おりしもテティス、神工の恵みたずさえ船を訪う。
訪える神母はその愛児、パトロクロスのかたわらに
伏して号慟[2]切なるを認む、同僚またともに 19-5
あたりに泣けり、端厳の神女そのとき近寄りて、
彼の手を取り、つばさある言句を陳じ彼にいう、

[1]8-1以下。
[2]「号慟」は「慟哭」に同じ。

『愛児よ、悲哀切なるも、彼を伏すまま打ちすてよ、
その初めより神明の意により彼は討たれたり、
いざ人界の子がいまだ肩に担いしことのなき、19-10
華麗の鎧収めとれ、ヘーパイストスの贈り物』

しかく言句を宣しつつ、アキッレウスの目の前に、
精美の武具を並ぶれば、みな錚々(そうそう)と鳴り響く。
ミュルミドネスの諸勇士は、驚怖にうたれ一人も
これをまともに眺めえず、されど英武のアキレウス、15
これを眺めて憤然とさらに勇気をふり起こし、
まぶたの下の双眼は火焔のごとく輝きつ、
神の恵みの燦爛の武具を手に取り喜べり。
精美の武具を恍惚とながめ終わりてアキレウス、
ただちに母につばさある飛翔の言句陳じいう、20

『慈愛の母よ、この武具を神はたまえり、まさしくも
こは天上の作ならむ、人間これを作りえず、
我いま行きて甲冑を着けん、されども我恐る、
アオバエの群、勇猛のメノティオスの子の傷に——
鋭刃裂きし傷に入り、虫をわかしてしかばねを 25
汚さんことを、我いたく恐れ悲しむ、(生命は
逃れ去りたり)全身を死はいたわしく腐らせむ』

足玲瓏の銀色のテティス答えて彼にいう、
『愛するわが子、この事を胸に憂うることなかれ、
うち死にしたる勇将の死体を噛まむアオバエの、30
むごき一群追い去るを我は必ずつとむべし。
パトロクロスのしかばねは一年ここに残るとも、
絶えず姿を変ゆるなく、かえりて今にまさるべし。
汝は行きて集会にアカイア勇士呼び集め、
アガメムノーン元帥に対する憤怒やわらげて、35
戦闘のためすみやかに武装ととのえ勇を鼓せ』

しかく言句を宣しつつ、彼に激しき勇加え、
パトロクロスの鼻孔より、アムブロシア、また血紅(くれない)の
霊液注ぎ、その死体腐敗することなからしむ。

やがて英武のアキレウス、怒濤の岸をすすみ行き、40
大音声に叫びつつアカイア勇将呼び起す。
呼ばれてかくて兵船のたむろの中に住める者、
また舵取りて兵船の先にその座を占むる者、
また水陣の中にあり、人に糧食配る者、
これらの兵はいっせいに——戦場長くしりぞきし 45
アキッレウスの出でたれば——勇み集会(しゅうえ)の席につく。
そのとき二将、アレースに仕うる二将、槍を杖に、
傷なおいたく悩むため跛行なしつつ出で来る[1]、
テューデイデース勇将と、知恵神に似るオデュセウス、
二将はかくて前列の中に加わり座を占めぬ。19-50

[1]11-377、11-437。

最後に来しは傷帯べるアガメムノーン、混戦の
中に青銅の槍をもてアンテーノール生める子に——
コオーン[1]に——突かれ傷つきしアガメムノーン、民の王。
かくてアカイア諸軍勢みないっせいに集まれば、
足迅速のアキレウス彼らの中に立ちていう、55

[1]11-248。

『アトレイデーよ、過ぎにし日、少女のゆえに君と我、
いたく心を苦しめて憤怒激しく争いし、
そのとき和解ありつらば二人のために良かりしを。
リュルネーソス[1]をおとしいれ少女わが手に奪いし日、
船のへ矢もてアルテミス[2]彼女倒さば良かりしに。60
さらばアカイア軍勢はわれの憤怒のゆえにより、
敵に打たれてほろぼされ塵を噛むことなかりけむ。
ヘクトルおよびトロイアにとりてこのこと幸なりき、
君と我との争いをわが民長く忘るまじ。

[1]2-690。
[2]アルテミスは矢を放ってたちまち人(女性)を倒す。アルテミスの矢で死ぬとは単に死ぬことと同義(6-205、6-428、21-484)。男性はアポロンの矢。

『さはれ苦痛に関わらず、運命により胸中の 65
我ら思いを制し得て、過ぎたることを過ぎしめよ。
我いま憤怒しずむべし、執念深くとこしえに
恨み抱くはわれに不可。いざすみやかに戦いに、
毛髪長きアカイアの軍勢君は立たしめよ、
しかせば我はまのあたり、行きてトロイア軍勢に 70
向かい、彼らが我が船のほとり残るや試しみむ。
思うにあらき戦いを、わが鋭槍をまぬがれて、
帰りて膝を曲ぐること彼らの多数喜ばむ』

しか陳ずれば堅牢の脛甲付けるアカイアの
軍勢いたく、アキレウス怒りやめしを喜べり。75
そのとき皆のただ中に進むことなく、民の王、
アガメムノンは悠然と、座せる場(にわ)より陳じいう[1]、

[1]アガメンノンが真中に立たざるは負傷のゆえか、あるいは近くアキレウスに聞かせんためか、この句評家に種々の説あり、VOSSは「席より立ちて、しかれども集団中に進まずして」と訳す。

『友よ、アカイア勇将よ、神アレースの随従よ、
立ちて陳ずる者によく耳傾けよ。妨げを
なすことなかれ、妨げは慣るる者にもつらからむ。80
人々激しく騒ぐ時、誰かはよくも聞くを得む、
よく言うを得む、朗々の声あるものも乱されむ。
アキッレウスに弁解を我は致さむ、アカイアの
将士らひとしくわが言を聞きておのおの悟れかし。
アカイア人はこれまでもしばしばかかる言陳じ、 85
われをとがめき、しかれども罪あるものは我ならず、
罪あるものはゼウスなり、またモイラ[1]なり、闇に住む
エリニュエスなり、わが魂を——アキッレウスの得たる者、
我の奪いしかの時に——集議の席にくらませり。
われ何事をなしたりや? すべてを成すはある女神、90
すなわちゼウスの端厳の息女——すべてをあざむける
すごき『アテー』[2]ぞ、その足は軽捷(けいしょう)にして地にふれず、
ただ人間の頭(こうべ)のへ歩みて彼女は人間に 
害を加えつ、ある者の魂を繋縛(けばく)し喜べり。

[1]運命、時には好運、時には悪運、エリニュエスは9-454と9-572参照。
[2]9-502「罪」(アテー)と「祈」(リタイ)参照。

『人間および神々の中の至上と言わるれど、95
ゼウスもかつて彼女より欺かれたり、ヘーラーは
女性の身にて(その力[1]借りて)巧みに欺けり。
そは堅城のテーバイにアルクメーネーいままさに
ヘーラクレース勇猛の男子産まんとしつる時[2]。

[1]「その力」とはアテーの力のこと。
[2]95~133、他のエピックよりの挿入なるべし、この場合にふさわしからず。

『そのときゼウス揚々と諸神の中に宣しいう、19-100
「ああ一切の神々と女神もろともわれに聞け、
エイレイテュイア[1]——誕生を司るもの——光明の
中に一人(ひとり)を今日挙げん、血統われを本とせる
人界の子の中にして、かれ一切を率ゆべし」105
計略たくむ端厳のヘーラーそのとき彼にいう、
「君おそらくはいつわらむ、その言うところ遂げざらむ、
ウーリュンポスを統べる君、いま誓言を立てて言え、
君をもとなる血統の人間の子の中にして、
この日女性の胎内を出で来たる者、かれまさに、110
他の一切の隣人をみなことごとく統ぶべしと」
しか陳ずればクロニオン・ゼウス偽計を悟りえず、
固き誓言宣し述べ、次ぎていたくも欺かる。

[1]11-270。

『ウーリュンポスの高嶺よりかくてヘーラー飛びくだり、
ペルセウスの子ステネロス娶れる淑女[1]住むところ、 115、
女神は知りてアルゴスのアカイア城市さして来つ。
彼女そのときに胎中に愛児宿して七ヶ月、
産期満たねど、ヘーラーは光の前にその子挙げ、
エイレイテュイアさえぎりて、アルクメーネーの産とどめ[2]、19-119
かくして行きてクロニオン・ゼウスの前に陳じいう、120
「輝く電火飛ばす君、われ一言を陳ずべし、
アルゴス族を治むべき誉れの人は生(あ)れいでぬ、
ペルセーイアデス・ステネロス生みたるその子、君の系、123
エウリュステウス、アルゴスを司る事不可ならず」

[1]ニーキッペ。
[2]ゼウス
  │
ペルセウス
  │
  ├───────────┬─────────────┐
  │        │         │
ステロネス   アルカイオス   エレクトリオン
  │        │         │
エウリュステウス アムピトリュオン─┬─アルクメーネー
                  │  
                ヘーラクレース

『しか陳ずれば、おおいなる哀愁いたく胸うちて、125
怒り激しきクロニオン、すなわち毛髪輝ける
アテーの頭かいつかみ、すべてをかくも欺ける
アテー、再び星光る天界ならびにオリンポス、
訪うべからずと、荘厳の誓いを固く宣し告げ、
宣し終わりて手の中に彼女握りつ、星光る 130
天よりはるか投げおとし、下界の中にくだらしむ。
エウリュステウスの命をうけ、いやしき労にいそしめる
愛児[1]見るたびクロニオン常にアテーを憎しめり。133

[1]ヘーラクレース。

『かくまた我も、大いなる堅甲光るヘクトルが
わが水陣のかたわらにアルゴス軍を打てる時、135
はじめ我が身を欺きしアテーを忘れ得ざりけり。136
さもあれ我はあやまてり、ゼウスはわれを欺けり、
かかればいまは和らぎて君[1]に賠償おくるべし。
乞う、戦闘に身を起し我が将兵を立たしめよ。
さきに英武のオデュセウス親しく君の陣に行き、140
約せしところ一切の贈与を君に致すべし[2]。
君に意あらば、戦いの情念いかに激しくも、
しばらく残れ、わが家臣、船より品をもたらさむ、
心にかなう珍宝をおくるをかくて君は見む』

[1]アキレウス。
[2]9-120以下。

足神速のアキレウスすなわち答えて彼にいう、145
『アトレイデーよ、栄光のアガメムノーン、民の王、
望まば君はまさしくも約せる品を与うるを
うべし、あるいは控ゆるを。いまは我ただすみやかに
戦闘念ず、ここにしてただ空言に耽けること、
猶予すること不可ならむ、偉なる事業はまだ成らず、19-150
やがて見るべし、先頭に立ちてトロイア軍勢を
青銅の槍うちふるうアキッレウスのほろぼすを。
かくまた汝ら敵軍と戦うことを心せよ』

知謀に富めるオデュセウスすなわち答えて彼にいう、
『ああ英武のアキレウス、汝まことに勇なるも、155
食を取らずにわが軍を、敵と戦いなさんため、
進むるなかれイリオンに。二軍ひとたび向かう時、
しかして神がおのおのに燃ゆる勇気を鼓する時、
わが見るところ戦争の時期は短きものならず。
いざ兵船の中にして食と酒とをみたすべく、160
アカイア軍に令下せ、勇も力もこれよりぞ、
夕陽入るにいたるまで、終日たえて食物を
取ることなくば、いかにして敵と戦うことを得む。

『心の中に戦闘の激しさ人は望むとも、
彼の筋骨おのずから疲労を感じ弱るべし、165
飢えと渇(かつ)とは迫り来て歩むに膝は悩むべし。
これに反して、酒に飽き食に等しく飽き足りて、
終日敵の軍勢に向かい力をふるう者、
彼の胸中勇猛の気は衰えず、双の膝
戦場あとに帰るまで、たえて疲るる事あらず。170

『いざ群集を解き散じ、食そなうべく令下せ。
アガメムノーン、民の王、アトレイデース、集会の
席のもなかに約したる品を運ばむ、アカイアの
全軍親しくこれを見む、君また心喜ばむ。
またアルゴスの軍中に立ちて誓言彼述べむ、175
世間の習い、両性の間に常にあるごとく、
ブリーセイスの床の上、いまだのぼりしことなしと、
しかせば君の胸中に心おのずとしずまらむ。
しかして王は陣中に豊かの宴をもよおして、
君の心を和らげむ、君の求めはみな満たむ。180
アトレイデーよ、いまの後、他にも一層正しかれ、
己れまさきに他に対し非法をなさば己れより
すすみ和睦を求むべし。このこと王の恥ならず』

アガメムノーン、民の王、すなわち答えて彼にいう、
『知謀に富めるオデュセウス、われ喜びて君に聞く、185
君説くところ詳細にみなことごとく理にかなう。
われの心の命のまま、これらの事を誓うべし、
神明のまえ偽りの誓いはなさず、アキレウス、
戦志さこそは激しくも、しばらくとまりここに待て、
将士ら同じくまた残れ、約せる贈与陣よりし 190
来らしむべし、しこうして固き誓いを結ぶべし。

『オデュッセウスよ、われ君に願い、しかしてまた命ず。
アカイア族中すぐれたる青春の子ら選び取り、
我の船より、さきにわが約せるままに大量の
贈与の品を取らしめよ、また女性らを連れ来れ。195
しかしてアカイア軍中に、タルテュビオス[1]よ、牲として、
ゼウスならびに日の神に猪(しし)ささぐべく備えせよ』

[1]1-321参照。

足神速のアキレウスすなわち答え彼にいう、
『アトレイデーよ、栄光のアガメムノーン、民の王、
これらの事をつとむるにすぐれる時はのちにあり 19-200
そは戦いの終わり告げ、しかして我の胸中の、
憤怒今より和らぎてその激しさを減らす時。
プリアミデース・ヘクトルに、ゼウス栄光与えたる、
その時、彼の倒したる諸友裂かれて地に伏せり。
さるを汝ら饗宴に人を招くや? 我はただ、 205
わがアカイアの青年ら、食とらずして戦いて、
恥辱を報い終わる後、光輪沈みくだる時、
美々しく宴を快くそなうることを命ずべし。
その時いまだ到らねば、これに先んじわがのどに、
飲食ともに入るを得ず、見よ青銅のつんざける 210
彼の死体は、陣営の中に倒れて、戸の方に
その顔を向け、かたわらに僚友ひとしく悲しめり[1]。
我はそのため胸中に酒食思わず、思うもの
ただ殺戮と流血と敵の激しき悲泣のみ』

[1]死人が顔を戸口に向くる習いはローマ人中にもあり、足を戸口に向け、と訳せる者あるは誤りか。

知謀に富めるオデュセウスそのとき答えて彼にいう、215
『ああアキレウス、アカイアの中に勇武のすぐれたる
ペーレイデース、槍とらば汝まことに我よりも
まさる、されども光輪の影まずわれの身を照らし、
世を見しことの多ければ、知恵は汝に我まさる。
されば汝の心よくわが忠言を受入れよ。220

『激しく荒ぶ戦闘に早くも人は飽き足らむ。
鋭刃広く地の上に多くの犠牲切り倒す、
されど戦闘さばく神、クロニーオーン、権衡(けんこう)[1]を 19-223
傾けむ時収穫は思いのほかに小ならむ[2]。
アカイア勇士食断ちて死者を悼むは不可ならむ、 225
戦い死する者の数極めて多く、日々続く、
いずれの時か人はよくその辛労を休み得む?
されば一日哀弔(あいちょう)[3]を致せるのちに、峻厳の
心を持ちて、戦没のわが同僚を埋むべし、
また悲惨なる戦いに免がれ生を保つ者、230
彼は酒食を念頭におくべし、かくて将来に
かたき青銅身に着けて、絶えずも敵の軍勢に、
向かい戦うことを得む。われまた言わん、軍中の
誰しも二度の忠言を待ちて留まることなかれ!
われらの船のかたわらにたじろぎ留まる者の身に、235
災いあらむ、わが軍はむしろ群がり、いっせいに
駿馬を御するトロイアの軍に向って戦わむ』

[1]「権衡」は均衡に同じ。
[2]鹵獲の少きをいうか。
[3]「哀弔」はとむらいのこと。

しかく陳じて立ち上がる、伴う者はすぐれたる
ネストルの子ら、さらにまた、ピュレウスの息メゲースと、
メーリオネースまたトアス、クレーオーンの子リュコメデス、19-240
また伴うはメラニポス(ギ)、うち連れ立ちて元帥の
陣に入り来る間もあらず、言のごとくに業は成り、
船よりもたらし来るもの[1]、七つのかなえ、約のまま、
燦爛として光る釜、その数二十、引き来る
駿馬合わせて十二頭、技芸すぐれし七人の 245
女性、つづいて第八はブリーセイスのやさ姿、
秤(はかり)にかけてオデュセウス、十タラントの黄金を
たずさえ行けば、アカイアの青年同じく品々を
もたらし来り、集会の席のもなかにこれをおく。

[1]9-122、以下参照。

アガメムノンは身を起す、そのかたわらに朗々の 19-250
声、神に似るタルテュビオス、手に一頭の猪(しし)押さう。
アトレイデースおおいなる剣(つるぎ)の鞘のかたわらに
帯べる短刀引き抜きて、猪(しし)の頭の一房の
剛毛さくと切り落し、双手を挙げて神明に
祈りこらせば、アカイアの全軍ひとしく声おさめ、255
みな蕭然(しょうぜん)と元帥に耳傾けて座に並ぶ。
そのとき、王は大空を仰ぎ、祈祷を捧げいう、

『神々すべての頭(かしら)たる至上のゼウス初めとし、
日輪、大地、およびかの世上偽盟の罪悪を
犯せる者に地の底に罰を加うるエリニュエス、 19-260
我があかしたれ、妙齢のブーリセイスに我触れず、
彼女とふしどをともにせず、何らの害もほどこさず、
わが陣営の中によく彼女みさおを保てりと。
このわが誓い偽らば、偽誓の者に加うべき
災難すべてことごとく神明われに下せかし』 265

陳じ終わりて猪(しし)の首、無残の刃(やいば)切り落とす、
タルテュビオスはこを取りて、白波おどるわだつみの、
千尋深き淵めがけ、魚の餌食と投げ飛ばす。
ついで勇武のアルゴスの軍中にいうアキレウス、

『天王ゼウス、人間に君は激しき困惑を 270
下す、さなくばわが胸にアガメムノーン、民の王、
怒る心を起させず、強いても我に逆らいて、
少女奪わず、まさしくも天王さきにアカイアの
軍、滅亡の災いを受くるをよしと見たまえり。
さはれ、軍いま食を取れ、やがて戦闘はじむべし』 275

しかく陳じてアキレウスただちに集会(しゅうえ)解き去りぬ。
人みなすなわち散じ去り、各々彼の船に行く。
ミュルミドネスの諸勇卒、つとめて種々の宝物を
運びてともに、英剛のアキッレウスの船に行き、
これらを彼の陣中におろし、女性を座に着かせ、 280
馬匹を駆りて従者らはおのが馬群に混ぜしむ。

されどさながら金髮のアプロディーテに髣髴の、
ブリーセイスは、鋭刃にパトロクロスの裂かれしを、
見て慟哭の声をあげ、かたえに倒れ手を伸(の)して、
胸といみじき首筋と顔貌(おもて)をいたく掻きむしり[1]、 285
女神の姿見るごとき麗人悲しみ泣きていう、

[1]婦人の慟哭2-700、11-393。

『パトロクロスよ、優しくもわが心痛を憐れみし[1]、 19-287
君なお命ありしとき、われ陣営を別れゆき、
今し帰れば、人々の頭領――君はすでに逝く。
かくして苦難相つづき我が身を襲うかなしさや!290
恩愛の父母許したるわれの良人、青銅の
刃に裂かれ倒れしをさきには見たり都府[2]の前。 19-291
わが慈母生める三人の愛の兄弟、まがつみの
その日ひとしく薄命の最期とげしをまた見たり。
足神速のアキレウス、我が良人を討ち倒し、295
ミュネースの都市破りたる、そのとき君はわが泣くを
ゆるさず、我を英剛のアキッレウスの妻となし、
船に乗じてプティアーに帰りてそこに大礼を、
ミュルミドネスの族中に挙げんとわれにのたまひき。
優にやさしき君の死を我はいかでか泣きやまむ!』19-300

[1]パトロクロスの優しさ(17-670)。
[2]リュルネーソス(2-690)。ミュネースはその王でブリーセーイスの夫

涙流して陳ずれば、かたえの女性一同に、
パトロクロスを陽に泣き[1]、心におのが難を泣く。
いまアカイアの諸長老アキッレウスのかたわらに、
集まり食を勧むれば、拒みて慟哭しつついう、

[1]18-28~29。

『愛するわれの同僚のいづれかわれの命めい聞かば、 305
われは求めん、口腹の好みによりてわが心
慰むべしというなかれ、大哀われの身を襲う、
夕陽沈む時まではまだまだ酒食われ取らず』

しかく陳じてアキレウス、友の諸将を去らしめぬ、
残るは二人のアトレイダ[1]、および英武のオデュセウス、310
イードメネウスとネストール、老齢の御者ポイニクス、
これら等しく、慟哭の切なる友を慰めぬ。
されども荒るる血戦の口に入らずば慰まず。19-313
パトロクロスを思い出で慟哭しつつ叫びいう、

[1]複数。

『薄命の君、一切の中に至愛のわれの友、315
駿馬を御するトロイアに、アカイア軍勢悲惨なる
戦闘激しく挑みし日、心をこめて迅速に、
わが陣中に豊かなる食を君こそ備えたれ。
しかしていまは鋭刃に裂かれて君は横たわる、
君を悼めば陣中に備える酒食取ることを 320
わが情とどむ、君の死にまさる災難われ知らず。

『妖婦ヘレネー元をなし、異郷の空にトロイアと 
戦うその子思いわび、プティアーの地におそらくは 
今さん然と悲しみの涙そそがんわれの父、
その父死すと聞かんとも、ネオプトレモスわが愛児、19-325
スキュロスの地に育てられ、いま安からむ秀麗の 
かれ死したりと聞かんとも、我はかほどに嘆くまじ。

『さきにはひとり胸中に我の心は念ずらく、
馬の産地のアルゴスを、隔ててここにトロイアに、
我ただ一人倒るべし、されども君はプティエーに 330
帰りて黒き船のうえ、我が子をかなたスキュロスの
郷より呼びて、彼の目にわが一切の財宝を、
われの有する奴隷らを、わが高屋を示せとぞ。
ゆえは、思うにペーレウス、その頃すでに生命を
またく捨つべし、さもなくば余命短く老齢は 335
彼を襲いて悩まして、常に悲報を期しながら、
ついにはこの身アキレウス——おのが愛児の死を聞かむ』

涙流して陳ずれば、ともに等しくもろもろの
長老おのおのその家に残せし者を思い泣く。
その泣くを見てクロニオン彼らをいたく憐れみつ、340
ただちに羽ある言句もてアテーナイエに向かいいう、

『ああわが愛児、剛勇の男子を汝見捨てたり。
汝の心いささかもアキッレウスを思わずや?
へさきますぐの船のそば、見よ彼座して、滅びたる
その愛友を思い泣く。他の同僚はみな去りて 345
その宴席に赴けり、彼ただひとり酒食断つ。
汝いま行きネクタルと、アムブロシアの芳醺(ほうくん)[1]を、
彼の胸裏につぎ入れよ、しからば飢えに苦しまじ』

[1]「芳醺」は芳醇に同じ。

しかく宣して、もとよりも望める女神呼び立たす。
女神すなわち羽広く声の鋭きワシのごと、19-350
虚空横切り天上をくだる。そのときアカイアの
軍勢ともにすみやかにその陣中に身をよろう。
女神すなわちネクタルとアムブロシアの芳香を、
アキッレウスの胸の中注ぎて弱るなからしめ、
かくて至上の力ある天父の宮に帰り行く。355

しかして軍勢速き船離れて岸に広がりぬ。
虚空に湧けるボレアスのいぶきに吹かれ紛々と、
天よりくだる雪片の乱れて飛びて舞うごとく[1]、
かく燦爛と輝ける無数の兜、水陣の
外に運ばる、浮彫の無数の盾も、青銅を 360
厚く重ねし胸甲も、固き長柄の大槍も。
その閃光は空を射り、大地はともに青銅の
光のもとに微笑みつ、軍勢進む足もとに
響きは起る、その中に、よろう英武のアキレウス、
(歯ぎしり強く、爛々と光る双眼、たとうれば[2]、365
炎々燃ゆる火の光、憤怒はげしく迫り来て
思いに耐えず、トロイアの軍に怒りて、神工の
ヘーパイストス鋳造りて贈れるものを身にまとう) 368

[1]12-156、15-170等参照。
[2]365~368後世の添加としてアレクサンドリヤの学者等の捨てたるもの。

まず初めには双脛(そうけい)をめぐりて美なる脛甲を、19-369
銀の締金備えたるその脛甲を、その次ぎに、370
胸のめぐりに堅牢の青銅製の胸よろひ、
肩のめぐりに、細やかに銀鋲うちし壮麗の
青銅の剣、これにつぎ取る堅牢の大盾の、
光は強く輝きて満ちたる月を見るごとし。
たとえば海の水夫らの、台風おこり、やむをえず、375
友を離れて魚群るる海上遠く去るときに、
火焔、あなたの荒涼のほとり、山上燃え上がり
光現われ出づる時、水夫のまみに映るごと、
かく精巧を尽したるアキッレウスの壮麗の
盾の光は空に入る。しかして照りて星に似る 380
堅固の兜取りなおし、頭の上にいただけば、
上の冠毛ゆらめける、その黄金の冠毛は、
ヘーパイストスが甲頂のめぐりに厚く着けしもの。

そのとき猛きアキレウス、武具よく彼に適するや、
強き肢節はしなやかに、動くやいかに検すれば、385
さながら羽翼生ゆるごとわが勇将をおどらしむ。
つづきて彼はその父の伝えし槍を架台より
抜き取る、重き堅牢の大槍[1]——ほかのアカイアの
誰しもふるい得べからず、ふるうはひとりアキレウス、
彼の父にとケイローン与えたるもの、諸勇士を 390
討たんがためにペーリオン山にその柄を切りしもの。

[1]16-143。

アウトメドーンとアルキモス[1]、つぎにくびきに戦馬付け、19-392
その胸めぐり、革帯を美々しくまとい、くつばみを
しかと噛ましめ、堅牢に組める車台に、その手綱
きびしく結び、乗り入るる戦車に立ちて、手の中に 395
アウトメドーンは輝ける使い慣れたる鞭を取る。
彼のうしろにアキレウス、まとう鎧に輝きて、
ヒュペリオーン[2]の燦爛の姿のごとく立ち上がり、
父乗り慣れし駿足にものすさまじく叫びいう、

[1]16-197のアルキメドーンを縮めし名(24-474参照)。
[2]ヒュペリオーンはここでは太陽と同義。

『ああポダルゲー生むところ、しるき誉れのクサントス、19-400
およびバリオス心せよ、わが戦いをやめん後、
ダナオイ陣に安らかに、騎乗のわれを引き返せ、
パトロクロスを見るごとく戦死の我を捨てなせそ』

そのとき疾風の足はやきクサントスただ愁然と、
くびきによりて首を垂れ、くびきの輪より垂れさがる 405
たてがみ長く地に触れて、答えて彼に陳じいう、 19-406
(玉腕白きヘーラーの女神言葉を馬に貸す)
『ああ英剛のアキレウス、我いま君を救うべし、
さはれ大難近づけり。責めあるものは我ならず、
あるおおいなる神[1]およびつらき運命しからしむ。19-410
わが怠慢と遅緩(ちかん)とによりてトロイア軍勢は
パトロクロスの肩よりし彼の武装を剥がざりき、
鬢毛美なるレートーの生める一位の高き神[2]、
先鋒中に彼を討ち、将ヘクトルの名を成せり。
神速無比と人のいうゼピュロスの息(いき)もろともに、415
速く翔けむはわが願い、さはれ運命君が身に
すでに定まる、ああ君は神と人との手に死なむ[3]。19-417』

[1]アポロンを暗に指す。
[2]すなわちアポロン。
[3]神はアポロン、人はアレクサンドロス。

陳じ終ればその声をエリニュエース[1]はおし留む。
足神速のアキレウスいたく怒りて彼にいう、
『ああクサントス、あらかじめ、など死を告ぐる?益もなし。19-420
我よく知んぬ、恩愛の父と母より遠ざかり、
ここに死すべき運命を、——さはれあくまで戦いて、
トロイア軍をやぶるべきその時まではとどまらず』
しかく叫びて先鋒に単蹄の馬駆り進む。

[1]9-454参考、自然の秩序を守る者。


イーリアス : 第二十巻



 ゼウスは令を下して諸神を集め、おのおのその欲するままトロイアの軍を助けしむ。雷(かみ)鳴り地震い、冥王も地底に恐れふるう。アポロンはアイネイアースを励ましてアキレウスに向かわしむ。両将の相互威嚇の言句。アイネイアース、父祖の系図を説く。両将の激戦。アイネイアース敗れてしりぞきポセイドーンに救わる。ヘクトールつづきてアキレウスに向かわんとするをアポロン押しとどむ。アキレウス前後つづきてトロイア諸将を倒す。ヘクトール再び進んでアキレウスに向かい敗れてしりぞく。アキレウス、単騎進んで敵軍を破る。

戦闘飽かぬ剛勇のアキッレウスをただ中に、
アカイア軍は曲頸の船のかたえに陣を布き、
かなたトロイア軍勢は対して高き平原に。

そのときゼウス連峰のウーリュンポスの高きより、
テミス[1]に命じ群神を衆議の席に呼び集む、20-5
女神四方をかけめぐり皆をゼウスの宮に呼ぶ。
オーケアノスを別にして川の諸神はことごとく、
陰うるわしき深林と、清き泉と、草青き
野を、逍遥の一切の仙女もろともつどい来つ、
雷雲寄する天王の宮殿の中すすみ入り、20-10
ヘーパイストス[2]優秀のたくみによりて、彼の父 
ゼウスのために作りたる回廊の中、座に着けり。

[1]15-87。
[2]1-607。

かく天王の宮の中、群神よれば、ポセイドン
地を震うもの彼もまた女神の命に従いて、
波浪を出でて来り座し、ゼウスの神意問いていう、15
『ああ轟雷を飛ばす君、などまた神の集まりぞ?
トロイアおよびアカイアに関し何らの計らいか?
二軍の間、戦闘と抗争いたく燃え上がる』

雷雲寄するクロニオンすなわち答えて彼にいう、
『大地ゆるもの、汝わが胸の計らい、群神を 20
集むるゆえを悟るべし、その滅亡の際になお、
我人界の子を思う。されどもここに座を占めて、20-22
ウーリュンポスの高きより我は眺めて楽しまん、
されば汝ら意のままに、トロイアあるいはアカイアの
陣に進みて、いずれにか汝ら威勢を貸し添えよ。25
ペーレイデース、トロイアに一人向かいて戦わば、
足神速の勇将をしばしも防ぐものあらじ[1]。
さきには彼を見しばかり、なお全軍はどよめきぬ、
かれ愛友を失いて痛恨胸をみたすとき、
運命とどめさえぎるも、イリオン城を崩すべし』30

[1]神々の干渉なくばの意。

しかく宣してクロニオン激しきいくさ起さしむ。
群神すなわち意のままにおのおの戦場さして行く、
アカイア軍の兵船にゆくはヘーラー(ギ)、アテーネー(ギ)、
同じくともにポセイドン(ギ)、大地をめぐり震うもの、
巧みの知計、身を飾り奉仕つとむるヘルメース、35
さらに彼らとともに行く、ヘーパイストス(ギ)、英剛の
気を負えるもの、蹌踉(そうろう)[1]と跛行の足をひきて行く。
トロイア勢に向かえるは頭甲光るアレース(ト)と、
鬢毛長きアポローン(ト)、弓矢を好むアルテミス(ト)、
レートー(ト)およびクサントス(ト)、嬌笑めずるアプロディテ(ト)。40

[1]「蹌踉(そうろう)」はよろめくさま。

これまで諸神人界にかかわりなくて遠のける
時しも、アカイア軍勢は、そのアキレウス戦闘の
労より長く休らいて出でしがゆえに勇みたち、
しかしてトロイア軍勢は足神速のアキレウス、
身に燦爛の鎧つけ、勇猛あたかもアレースに 45
髣髴として出づるを見、四肢わななかし恐れたり。
いまオリンポス山上の群神来り人界に
加わる時に、煽動(せんどう)のエリスあらびて立ちあがる。
見よ、壁の外、塹壕のかたえ、あるいはとうとうと
波うつ岸に、大声に叫ぶは女神アテーネー。20-50
かなた都城のかしらより、時にシモエイス川に沿う
カリコロネー[1]を駆けながら、トロイア軍に雄たけぶは、
猛きアレース、咆哮の烈風荒るるにさも似たり。

[1]カッリコローネー、美しい丘という意味

かく天上の群神は二軍の兵をはげまして、
戦わしめつ、おのれまた等しく猛く戦えり。55
群神および人間の父なるゼウス・クロニオン、
上に激しく雷(らい)おこし、下にはともにポセイドン
大地山岳ゆるがしめ、かくて泉流豊かなる
イーダの山の麓より、トロイア都城丘陵と、
アカイア軍の兵船と、みないっせいにゆらめきぬ。60
しかして冥府司るアイドーネウス[1]地の底に、
恐怖に打たれ王座より立ちて、叫喚[2]声高し、
大地ふるわすポセイドン、大地をあばき、惨憺の
冥府の姿——神さえも恐るるものを、人間と
神との前にあらわすを憂い、叫喚声高し。65

[1]ハーデースに同じ(詩的延長)。
[2]本の「うごめく」は意味不明。原文は「さけぶ」。

かくて群神戦闘の荒び起せば、比類なき
巨大の響きわき起り、ポセイドーン(ギ)に逆いて、
鋭き飛箭たずさえて立つはポイボス・アポローン(ト)、
アレース(ト)武神に向かえるは、藍光の目のアテーネー(ギ)、
ヘーラー(ギ)めがけ向かえるは、飛箭鋭きアポロン(ト)の 70
妹にして黄金の弓を手にとるアルテミス(ト)、
レートー(ト)めがけ迎えるは強き応護のヘルメース(ギ)、
ヘーパイストス(ギ)に向かえるは、淵をたたうる川の神、
天上の名はクサントス(ト)、スカマンドロスと人は呼ぶ。

かく天上の諸々の神挑み合う、こなたには[1]、20-75
プリアミデース・ヘクトルを一人めざしてアキレウス、
心の声の命により、彼を倒して鮮血を 
神アレースに捧ぐべく、乱軍中にすすみ入る。
されどポイボス・アポローン、アイネイアスを励まして、
アキッレウスにむかうべく彼に勇気を注ぎ入る、 80
すなわち神はリュカオーン・プリアミデース[2]の声をまね、
かくてアポロン、ゼウスの子、彼に向かいて陳じいう、

[1]20-75~20-352、アイネイアースとアキレウスの戦い、——この枝話しは本来の原詩以外のものにして行文も着想もよろしからず、後世の挿入なりとリーフはいう。しかもリーフは164以下の比喩をホメーロス詩中の獅子談中もっとも完全なるものと賛す。
[2]3-332。

『トロイア軍の参謀のアイネイアース、先つ頃、
盃あげてトロイアの諸将に誇り、アキレウス・
ペーレイデスに向くべしと大言吐けり、今いかに?』85

アイネイアスはそのときに答えて彼に陳じいう、
『プリアミデーよ、勇猛のペーレイデース・アキレウス、
これと戦い好まざる我に何とて強いて説く?
足神速のアキレウス、彼に初めて今日この日
向かうにあらず、むかし彼わが牛羊の群れ襲い、90
リュルネーソスとペーダソス荒したるときイーダより、
槍をふるいて我を攻め我を敗りぬ、クロニオン
そのとき我の身を救い、四肢と勇とをはげましぬ。
さなくば彼の手に死なむ、彼を助けしアテーネー、
彼を導き戦勝の誉れを与え、青銅の 95
槍をふるいてトロイアとレレゲスの民うたしめき。
人界の子の何者かアキッレウスに敵し得む!
とある神明かたわらに彼の災い払い捨つ、
しかしてさらに彼の槍、ますぐに飛びて敵人の
身を刺さずんばとどまらず、もし平等に戦闘の 20-100
運を分かたん神あらば、たやすくわれは敗るまじ、
一身すべて青銅と彼誇るとも甲斐あらじ』

ゼウスの愛子アポローンすなわち答えて彼にいう、
『勇士よ、汝また立ちて、祈りを高き神霊に
捧げよ、汝を生みたるはアプロディーテと人はいう、105
アキッレウスを生みし神、位は彼女の下にあり、
汝の母はゼウスの子、彼のは老いし海神の
子なり。すすみて青銅の鋭き槍をくり出だせ、
彼の威喝(いかつ)にあざむかれ恐れて引きて可ならむや!』

しかく陳じて統率の将に猛威をふき込めば、110
光る青銅よろおいて先鋒すぎてすすみ行く。
かくアキレウス目ざしつつ、戦士の群れを駆け抜ける
アンキーセースの勇武の子[1]、これを認めし玉腕の
ヘーラーすなわち友ら呼び、これに向かいて宣しいう、

[1]アイネイアース。

『ポセイドンまたアテーネー、事の成り行きいかならむ?115
汝ら二神おのおのの胸にこの事思い見よ、
アキッレウスを目がけつつ、光る青銅の兜着て、
アイネイアースすすみ来ぬ、アポロン彼を励ませり。
何かはあらむ、いま彼をその陣中に返すべし、
あるいは誰かそのわきに立ちて威力の猛なるを 120
ペーレイデスの身に与え、勇気ほかよりすぐれしめ、
かくて悟れる彼をして「偉なる神霊、身をまもる、
さきにトロイア軍勢に力を貸して戦闘と
混乱の難そらしたる神は劣る」と知らしめむ。

『ウーリュンポスの高きよりくだり戦う我々は、125
今日アキレウス敵陣の中に災いなき願う、
神母勇士を生みし時、運命すでに定めたる
その一切をアキレウス、後にその身に受けるとも。
神明の声この事[1]を彼に告げずば、敵対の
神を見ん時、勇猛の彼も恐れむ、神霊の 130
姿あらわしいずる時、人間の目は耐えがたし』

[1]ヘーラーたちの神々がアキレウスを守っていること。

大地を震うポセイドーン、彼女に答えて宣しいう、
『ヘーラー、さまで理を離れ怒るをやめよ、君に似ず。
我らの力まさるとて諸神互いに相対し、
互いに戦い挑み合う、そはわが好むことならず、135
むしろここより立ち離れ行き高山の上に座し、
休みてひとり戦いを人界の子にゆだぬべし。
ただもしアレース、アポローン戦闘中に身を投じ、
アキッレウスを妨げてその戦いを留めんか、
すなわちすぐに戦いのあらび彼らを取りまかむ、140
して運命の定めより我が勇猛の威に負けて、
彼ら敗れてすみやかにウーリュンポスの頂きに、
しりぞき返し他の神の群集中に加わらむ』

しかく陳じてさきに立ち、みどりの髪のポセイドン、
英雄ヘーラクレースの広き塁壁さしてくる。145
(高き塁壁、彼がためトロイア人とアテーネー、 築きたるもの、波洗う岸を離れて平原に、
海の妖怪追い来たる、その時ひそむ場(にわ)として) 
そこに来りてポセイドン、他の神々とともに座し、
双の肩のへ深き雲おおいつつみて見え分かず[1]、20-150
かなた別の一団はアポローンおよび都市破る
アレースのそば集まりてカリコロネーの山に座す。
かくて両陣立ち分かれ、計略こらし座につきて、
まだ戦闘のはげしさに進むを避けつためらえり、
されどもゼウス・クロニオン高きにありて令下す[2]。155

[1]「見え分く」は「はっきり見える」の意。
[2]20-23~20-25行。戦闘に加わって好きな方に味方しろという命令。

今や平野は一面に戦士戦馬に充ち満ちて、
青銅光り、両軍のひとしく進む足の下、
大地とどろく、そが中に他より優れし二勇将、
戦闘猛く志し、時を同じく駆けいずる、
アンキーセスの子勇猛のアイネイアースとアキレウス。160
アイネイアースまっさきに大喝なしてすすみ出で、
その堅牢の甲の上、冠毛すごく振り立てつ、
大盾、胸の前につけ、手に青銅の槍ふるう。
しかして英武のアキレウス、猛威さながら獅子王の
荒るるがごとく向かい来る、獅子は全村こぞり来て、165
打たんとするも悠然と人を侮り道を行く、
されども勇む若人が槍を飛ばして当てる時、
憤然として物すごく口を開きて泡を噛み、
猛然として奮迅の威勢はげしく吠え叫び、
左右に強き尾を振りて脇と腰とをうち払い、170
群がる人をまっこうにおどり掛かりて打たんとし、
双眼燃えて火のごとく、狂えるごとくすすみ来る、
敵をほふるや前列の中に討たるや顧みず。
まさしくかくもアキレウス、凛然として勇を鼓し、
敵の猛将トロイアのアイネイアースめざし行く。175
二人の勇士近寄りて互いに向かい立てる時、
足神速のアキレウス飛揚の言句まず陳ず、

『アイネイアスよ、かく遠く隊を離れてすすみ来て、20-178
我に向かうは何ゆえぞ?王プリアモスのごとくして、
馬群ひきいるトロイアの族の統率、念として[1]、180
汝来りて戦うや?さもあれ汝勝てりとも、
王プリアモスそのために汝に主権与うまじ。
子ら彼にあり、彼の意は固し、謹慎また深し[2]。
あるいは我をほろぼさばトロイア人は賞として、
果園と耕土——すぐれたる沃地汝のために割き、185
与うることを念とすや?思うに汝得べからず。

[1]「念とする」は「願いとする」の意。
[2]「謹慎また深し」は「軽率ではない」の意。
『さきには我の鋭槍を恐れて汝逃げ去りき。
思い出でずや、その昔イーダの山に牛群を
汝ひとりに飼いし時、我はすばやく追いたるを?
あと見返らず飛ぶごとく汝逃げ足速かりき。190
リュルネーソスに逃げ込める汝を追うてその都城、
ゼウスならびにアテネーの助くるゆえにおとしいれ、
中にこもれる女性らを捕え、自由を剥ぎ取りき、
されどゼウスと諸々の神々汝を救いたり。
いまは汝の望むまま神の助けは来たるまじ、195
我は汝にいま命ず、ここしりぞきて隊列の
中に加われ、またわれに向かい戦うことなかれ、
災い来たるを待つなかれ、事成るのちに愚者は知る』

アイネイアスはそのときに答えて彼に叫びいう、
『ペーレイデース、言句もて、さながら小児見るごとく 20-200
われを脅かす事なかれ、汝はこれを望みえず。
我また罵辱嘲弄(ちょうろう)の言句を陳ぶることを得ん。
生死の[1]運の人間のいにしえ述べし言により、
我と汝ともろともに系統ならびに親を知る、
汝は我の親を見ず、我も汝の親を見ず。205

[1]「生死の」は「死すべき」の意。以下同じ。

『世人は言えり、汝かの誉れの勇士ペーレウス、
また鬢毛の麗しき女神テティスを親とすと、
しかして我は英雄のアンキーセースを父とすと
いわる、またいう、わが母はウーリュンポスのアプロディテ、
その神々のいずれかはその恩愛の子をこの日、210
失うべきぞ、空言を費す後に相別れ、
双方ともに戦場をしりぞくことはよもあらじ。

『汝好まば我のいま述ぶるところを耳にして、
わが系統を学び知れ、人のひとしく聞くところ、
雷雲寄するクロニオンまさきに生めるダルダノス[1]、215
ダルダニアーをうち建てぬ、そのとき聖きイーリオス[2]、
言あざやけき人の都市、いまだ平野に立たざりき、
泉流多きイーダ山、麓(ふもと)に民は集まりき。
そのダルダノス生みたるはエリクトニオス[3]、王として、
生死の運の人間の中にもっとも富みし者、20-220
彼の領する沼沢の地に草はめる三千の
牝馬は嬉々と喜びてめずる子馬をともなえり。

[1]ダルダノスに関していにしえの史家詩人らのいうところ互いに相違あり。
[2]後世の詩人中ダルダニアーとイーリオスとを同一視するものあり。
[3]ダルダノス
  │
エリクトニオス
  │
トロース
  │
  ├─────────┬──────┐
  │         │      │
ガニュメーデース  アッサラコス  イーロス
            │      │
          カピュス   ラーオメドーン(236)
            │
          アンキーセース
            │
          アイネイアース

『草食む牝馬、その中のあるものを恋うボレアース[1]、
たてがみ黒き馬の形、現じてこれと交(まじ)われり、
種を宿せる牝馬らはついに子を生む十二頭。225
穀を産する豊沃の地上をこれらおどるとき、
実りし麦の頂きの高きを飛びて傷つけず、
あるいは彼ら海洋のうしおの上におどるとき、
白く砕ける激浪のかしらをしのぎ飛びこせり。

[1]風の神。これらの馬の系統については16-149参照。

『エリクトニオス生める息トロース、彼はトロイアを 230
治めてこれが王となり、生みたる三児みなまさる、
アッサラコスとイーロスと、さらに容貌神に似る
ガニュメーデース、人界の中にもっとも美なるもの、
その秀麗のゆえにより、長く天上住まうべく、
諸神は彼をつれ去りて酒をゼウスに捧げしむ。235

『はたイーロスの生みたるはラーオメドーン[1]、すぐれし子、20-236
ラーオメドーン生みたるはティートーノスまたプリアモス、
ラムポスおよびクリュティオス、さらに勇武のヒケタオーン、20-238
アッサラコスの子はカピュス、アンキーセースはカピュスの子、
アンキーセース、我を生み、プリアモス王、ヘクトルを 240
生めり。種族と血統は、我の誇りとするところ。

[1]イーロス
  │
ラーオメドーン
  │
  ├──────┬─────┬─────┬────┐
  │      │     │     │    │
ヒケタオーン クリュティオス ラムポス プリアモス ティートーノス
                     │
                   ヘクトール

『クロニオーンは一切の主たるがゆえに意のままに、
時には人に力添え、時にあるいはそを減ず。
さはれ敵対混戦のもなかにありて、かかる事
喃々するも愚かなり、小児のごとし、はややめむ[1]。245
罵辱の言を述ぶること我も汝も難からじ[2]、246
その量多く百の櫂こぐ大船に余るべし。
人間の舌なめらかに、中にあらゆる言説を
含む、言語のおおいなる領は随所に眺むべし。
汝の口にいうところ、汝は他より耳にせむ。20-250

[1]13-293参照。
[2]246~255の十行はおそらく後世の添加。

『さはれ汝と我と今かかる言語の争いを、
交わして何の甲斐あらむ、まさに女性に似たるべし、
心悩ます争論に怒る女性は足進め、
道の真中に相向かい、憤怒の情に駆らるれば、
まことの事も偽りも喃々しつつ他をとがむ。255
青銅とりて目の当たり戦う前に恐喝の
言葉をもって汝わが勇を払うを得べからず。
いざすみやかに槍ふるい互いに技量試し見む』

しかく陳じて、恐るべき盾をめがけて、堅牢の
槍を飛ばせば、その穂先その大盾に鳴りひびく。260
さすがにふるうアキレウス、その剛健の腕のして、
前に大盾突きいだす、けだし思えり、勇猛の
アイネイアスの投げし槍、たやすく盾をうがたんと、
神霊恵む精巧の武器は生死の人の子の
力によりて挫かれず、たえて破るる事なきを、265
愚かに彼は胸の中、心の中に悟りえず。
アイネイアース勇将の影長くひく大槍は、
盾を破らず、その二層うがてどあとに三層は
残る、誉れの神工は五層重ねて鍛えあぐ[1]。
表にあるは青銅の二層、裏には錫二層、270
その中央の黄金の一層、さすが猛将の
投げし鋭きその槍の力を防ぎとどめたり。

[1]盾は五層の皮革より成る。金属は外面の飾りのみ。要するにこの数行はまったく盾を誤解するもの——後世の添加なること疑いなし。リーフの註解詳悉(しょうしつ)に説明す。

次いで英武のアキレウス、影長くひく槍飛ばし、
アイネイアスの持てる盾、円き大盾うち当てる、
当てるは盾の端のへり、青銅薄く覆われて、275
さらにその上また薄き牛皮覆うを、ペーリオン[1]
山に切りたる大槍はつらぬき、盾は高鳴りぬ。
アイネイアスは怖じ恐れ、その身を屈め腕を
伸し、身よりはなして盾支う、その身を守る円盾の、
二層を通しつらぬける槍は彼の背うちこして、280
大地に刺さる。鋭刃をアイネイアスはのがれ得て、20-281
立ち停りつつ、おおいなる憂愁、双の眼を満たし、
かたえに槍の立つを見て恐る。ただちにアキレウス、
勇気激しく物すごく、大喝しつつ剣を抜き、
走りて彼にうちかかる、アイネイアスはそのときに、285
巨大の石を——今の世に二人揃いて上げがたき
巨大の石を、やすやすと手に取りこれをうち振りぬ。
すすみ来れる敵将のかぶと、あるいは先に死を
防ぎし盾を、勇将は石を投じて打たんとし、
アキッレウスは剣をもて敵の息の根止めんとす。290
そのとき地を揺るポセイドーン[2]早くもこれを認め得つ、
ただちに不死の神々の群に向かいて宣しいう、

[1]16-144。
[2]ポセイドーンはさきにトロイアに敵する神、いまアイネイアスに同情す。アポロンに対する反感から、また運命の欲するところを成さしめんために。

『ああわが憂い——剛勇のアイネイアスはすみやかに、
アキッレウスに敗られて、冥王の府に下るべし、
愚かなるかな、矢を飛ばす神アポローンにかれ聞けり、295
しかして神は滅亡の災い救うことなけむ。
無残なるかな、罪なくてただに他人の罪のため、
などかれ苦難受くべきや?見よ、彼つねにおおいなる
天上住める神々に、すぐれし牲を供うるを。
いざいま行きて死滅より彼を救わむ。アキレウス、20-300
彼を倒さば恐らくはクロニデースは怒るべし。
見よ、運命の定めあり、彼は死滅を免れむ——20-302
生死の運の女性らに、生ませし彼の一切の
子らにまさりて、クロニオーン愛するところダルダノス、
その裔かくて血族を断ちて滅ぶることなけむ。305
クロニオーンは今すでにプリアモス王の族憎む[1]、
アイネイアスは勇にしてトロイア族を治むべし[2]、
彼らの子孫、引きつづき生まれんものも治むべし』

[1]トロイア軍が誓いを破りたるためか。されど4-44以下ゼウスはトロイア族を憎まず。
[2]この予言は所謂『ホメロス賛歌』中アプロディーテーの賛197以下にも述べらる。ウェルギリウスの『アイネイス』三巻九四~九八にも。

そのとき牛王の眼をもてるヘーラー答えて彼にいう、
『大地を震う汝いま心に思え、危難より、310
アイネイアース救うやを、あるは勇将捨て去りて、
アキッレウスの手に打たれ滅ぶるままに任すやを。
われ藍光のまみ光るアテーナイエーもろともに、
不滅の神の群の前、誓いしばしば宣したり、
トロイア族の災いを逃るをたえて許さずと、315
勢い猛きアカイアの子らその都市を焼きたてて、
トロイア全部炎々の猛火のために滅ぶ時』

大地を震うポセイドーンその言ききて立ち上がり、
戦場のなか槍刃の響きのなかをすすみ行き、
アイネイアスとアキレウス二将の立てるにわに着く。320
しかしてすぐにアキレウス・ペーレイデースの目の前に、
神は雲霧を巻き散らし、アイネイアース勇将の
盾より敵の青銅の穂先鋭き槍を抜く[1]。
アキッレウスの足の前、抜きたる槍を神はおき、
アイネイアスを大地より空のへ高く引き上ぐる。20-325
かくして神の手によりて、アイネイアスはもろもろの
勇士の列を、もろもろの戦馬の列を飛びこして、
戦闘激しく荒れ狂う庭のこなたの端に着く、
カウコーネス[2]の諸軍勢そこに戦装整えり。

[1]20-281と矛盾す。
[2]10-429。この民族は第二巻のトロイア応援軍中になし。

大地を震うポセイドーン、彼のかたえに近付きて、330
すなわち飛揚のつばさある言句を彼に陳じいう、
『ああアイネイア、神々のたれぞ、汝を欺きて、
アキッレウスに向かわせし?剛勇無双アキレウス、
遠く汝をしのぎ得て、神の恩寵またまさる。
彼に再び会わん時、避けてしりぞけ。しからずば、335
その定命(じょうみょう)に先んじて汝冥王のもと行かむ[1]。
しかして他日アキレウス、死の運命に会わん時、
そのとき汝安んじて先鋒中に駆け得べし、
アカイア軍の何びとも汝を殺し得ざるゆえ』

[1]上文20-302参照。

しかく一切明らかに陳じて彼を離れ行き、340
ただちにつぎに暗雲をアキッレウスの眼より去る。
暗雲散じ、アキレウスその眼をあげて眺め見て、
大息なして豪勇の心に向かい陳じいう、

『ああわが双の眼に写るこれ、そも何の奇怪ぞや!
わが槍ここに横たわる、しかして一命絶たんとし、345
この鋭刃を飛ばしたる当の敵いまあともなし。
アイネイアース、彼もまた、同じく不死の神明の
愛児、さもあれ我思う、彼の誇りは空語のみ。
彼は逃げたり、胸の中、再びわれに敵すべき
念はあるまじ、今まさに死を免れて喜べり。20-350
いざ戦闘を喜べるダナオイ族に令下し、
他のトロイアの軍勢に向かいてこれと戦わむ』 20-352

しかく陳じて陣中にすすみて皆に叫びいう、
『ああ豪勇のアカイオイ、トロイア軍を離るるな、
おのおの敵と相対し、闘志はげしくふり起せ。355
我の勇気は大なれど、かかる大軍追払い、
その一切を敵として戦うことはやすからず、
不死の神たるアレースも、はたアテーネー、彼女また、
かかる苦戦の難局をいかに励むも凌ぎ得じ、20-359
さはれ我よくなす限り、わが手わが足わが勇を 360
奮わん、われは一寸もあえて緩むること無けむ、
われ敵軍を貫かむ、トロイア軍の中にして、
わが鋭槍に近付きて喜ぶものはよもあらじ』

しかく陳じて全軍を戒む。こなたヘクトール、
アキッレウスに自らの向かうを宣し叫びいう、365

『ああ勇猛のトローエス、アキッレウスを恐るるな、
言句をもって我もまた神と戦うことを得む、
槍をもっては叶うまじ、神ははるかにいや強し。
アキッレウスもその言をみなことごとく成すをえず、
あること成すを得たりとも他は半ばにて捨てさらん。370
我いまかれに向かうべし。彼の手猛火に似たりとも、
さなり猛火に似たりとも、力は鉄に似たりとも』

しかく陳じて励ませば、トロイア軍は敵の前、
槍をかざしていっせいに進んで雄叫びわき起る。
そのときポイボス・アポローン来てヘクトールに宣しいう、375

『ああヘクトール、先陣にアキッレウスと戦うな、
迎えよ、彼を軍勢の中、混戦のただ中に、
さらずば彼の飛ばす槍あるは利剣に傷つかむ』

しかく宣する神の声聞くヘクトール慄然と、
震い怖じいて、軍勢の隊伍の中に混じ入る。380
猛威をふるうアキレウス、雄叫びすごく、トロイアの
軍を襲うてまっさきに、イピティオーン†をうち倒す。
しばしば都城破りたるオトリュンテウスは彼の父、
仙女ネーイス彼の母、彼は多数の民の長、
雪を頂くトモーロス、麓のヒュデー彼の郷、385
憤然としてすすみ来る彼の頭のただ中を、
アキッレウスは槍飛ばし、射当て二つにうちくだく。
どうと大地に倒れ伏す彼へと叫ぶアキレウス、

『オトリュンテイデー、勇猛の汝、大地に横たわる、
ここに汝の命尽きぬ、ギューガイエーの湖[1]の 390
岸は汝の生まれし場、父祖の荘園あるところ、
魚族に富めるヒュッロスと渦のヘルモスほど近し』

[1]2-864。

しかく誇りて陳じいう、かくて敵の目闇に閉ず。
彼の死体をアカイアの戦馬、車輪に先陣の
中に砕けり、これに次ぎアキッレウスはうち倒す、395
アンテーノールの生みし者デーモレオーン†[1]、勇武の子、
その黄銅の頬当てを具せる兜をつらぬきて、
こめかみ打てば黄銅は槍を支えず、鋭刃は
つらぬき通り骨くだき、内の頭脳はことごとく
微塵となりて、アキレウス敵の猛威を抑え止む。20-400
しかしてつぎに兵車よりくだり、目前逃げゆける
ヒッポダマス[2]に槍投げて、背筋つらぬき地に倒す。
敵は最後の息吐きて呻き、あたかもヘリケー[3]の
神の祭壇めざしつつ、ポセイドーンの喜びに、
若き人々ひきて行く牛の呻きを見るごとし、405
しかく呻きて敵将の猛き魂魄身を離る、
つづいて彼は槍ふるいポリュドーロスに向かい行く。20-407
王プリアモス生みたる子、年歯もっとも若ければ、
父王はおのが最愛のこの子進んで戦うを
許さず、さらに競走にすべてをしのぎ勝ちし彼、410
いま若年のあやまちに、足の速さを示すべく、
先鋒中を駆けめぐり、ついに一命ほろぼしぬ。
足神速のアキレウス馳せ行く彼の背の真中、
飛刃激しく打ち当てて、金の締金、革帯を
とどめ二重に胸甲の重なるほとりつらぬきつ、415
穂先鋭く投げ槍はへそのほとりに突きいずる、
討たれし敵は膝折りて、呻き激しく暗黒に
目は覆われつ、はみいずる臓腑をいだき地に伏しぬ。

[1]前後になし。
[2]前後になし。
[3]アカイアにあり。ポセイドーン崇拝の本拠。8-203。

臓腑を抱き地に伏せるポリュドーロスを、愛弟を、
見たる将軍ヘクトール、悲哀に堪えず、双眼は 420
愁いの霧に覆われつ、離れて遠くたゆたうに
もはや忍びず、憤然と鋭き槍をうちふるい、
猛火のごとくアキレウスめがけ驀地(ばくち)に馳せ出づる、
これを眺めてアキレウスおどり上がりて喝(かつ)しいう、

『来れり、われの心情をもっともいたく悩ませる 425
かれ——わが愛でし僚友を倒したる者、戦闘の
庭を双方、彼と我、逃るることをもはやせじ』

しかく陳じてヘクトールに目を怒らして叫びいう、
『近寄れ、汝すみやかに死滅の運に会わんため』

堅甲光るヘクトール恐れず答えて彼にいう、430
『ペーレイデース!言句もてさながら小児のごとくして[1]、
われを脅かすことなかれ、われも同じく惨毒の
言句を放つすべを知る、侮辱の言を吐くを知る。
我また汝の勇を知り、我の劣るをよく悟る[2]、
さもあれ勇は劣るとも汝に槍を投げ飛ばし、435
汝の命を奪わんか否か、そのこと神明の
手中に残る、わが槍の穂先まことに鋭利なり』

[1]上文20-200~20-202にあり。
[2]かかる文句を敵将に述ぶることいぶかし。

しかく陳じて大槍をふるい飛ばせば、アテーネー、
軽きいぶきに鋭刃を払い、英武のアキレウス、
打つを得させじ、あと返る槍は将軍ヘクトルの 440
足もと近く地に落ちぬ。つづきて敵を倒すべく
激しく念じ、憤然と叫喚すごくアキレウス、
勢い猛く飛び出せば、敵をポイボス・アポローン(ト)
神力ふるい、たやすくも救いて雲に隠れしむ。
三たび英武のアキレウス、その青銅の槍あげて、445
鋭き足にすすみより、三たび濃霧の中を打つ、
四たびつづきて神霊の荒るるがごとくすすみつつ、
声を励まし物すごく羽ある言句陳じいう、

『汝今また、憎き犬、死を逃れたり、災いは 20-449
間近くそばに来たれるも、今も汝が投げ槍の  20-450
響きのなかに祈る神アポロン汝を救いたり。
されどこの後われにまた神の助けの有らん時、
汝に向かい戦いて汝の命を奪わんず。
いまは他の敵わが前に現わるるもの追い打たむ』

しかく叫んでドリュオプス†打てる投げ槍、その首の 455
真中通れば、足もとに倒れて伏せり、そを捨てて、
ピレートールの生みたる子デームーコス†の膝撃ちて、
槍につらぬき逃げ走る彼をとどめつ。引きつづき、
かざす大刀ふりあげてその生命の根をとどむ、
つづきて襲いうち取るはビアース(ト)の二子、車上なる 460
ラーオゴノス†とダルダノス†[1]——槍を飛ばしてかれをうち、
剣をふるいてこれをうち、ともに地上に倒れしむ。

[1]16-604に他のラーオゴノスあり、ダルダノスは前後になし。

アラストールの生みたる子トロース†[1]をまたうち倒す、20-463
等しき年歯顧みてわが一命を助けよと、
彼は近付く敵将の膝を抱だきて哀れ乞う、465
哀訴もとよりむなしきを愚かや彼は悟りえず、
敵は柔和の性ならず、温情知らず、勇猛の
気に満ちあふる。手をのべて膝を抱きて哀願を
致すもついに効あらず、敵の利剣は肝臟を
砕けば臓腑あふれいで、流れ出でたる黒き血は、470
胸を満たして、暗黒は一命尽きし彼の目を
覆えり。つぎにムーリオス(ト)[2]†近くにあるを槍飛ばし、
耳より耳に青銅の穂先するどくつらぬきて、
これを倒しつ。またつぎにアゲーノールの生みたる子 
エケクロス†打ち、長剣にこうべのまなか打ちくだく、475
刀身すべて血に熱く、一命ここに尽き果てし
彼の双眼、暗き死とすごき非運におおい去る。

[1]上文230、231に他のトロースあり。
[2]16-696は別人。

デウカリオーン(ト)†[1]は次の牲、肘の筋肉合うところ、
その腕を打つ青銅のアキッレウスの槍すごし、
彼はむなしく腕を垂れ、死の運命を覚悟して、480
敵の迫るを迎え待つ、敵は利剣をうちふるい、
兜のままにその頭打って落とせば背骨より、
脊髄あふれほとばしり、骸(から)は大地に倒れ伏す。

[1]トロイアのデウカリオーン前後になし。

ペイロオス[1]の生みたる子リグモス†——郷は豊沃の
土地トラーキア——こを目がけ、アキッレウスは迫り寄り、485
槍を飛ばして胴を打ち、青銅腹をつらぬきて、
兵車の下に倒れしめ、さらにつづいて彼の御者、
アレーイトオス[2]の背を槍に打ちて同じく兵車より
大地に落ちて倒れしむ、戦馬はために荒れ狂う。

[1]2-844のペイロオスと同人。リグモスは前後になし。
[2]7-8のと別人。

たとえば日でる山脈の、深き谷間に荒れ狂う 490
猛火の力炎々と、深き林を焼き払い、
風は四方にその火焔吹きまき飛ばす様やかく。
アキッレウスは槍ふるい、神のごとくに猛然と、
ほふらる敵を追い討ちて、大地に黒き血は流る。
たとえばひたい広き牛、くびきを付けて農場の 495
床に小麦を踏み行けば、高らに吠ゆる牛の下、
紛々として白き穀(こく)、踏まれて殻(から)を去るごとく、
アキッレウスの進め駆る単蹄の馬足上げて、
敵の死体を盾を踏み[1]、しかして車軸ことごとく、
車台をめぐる縁ととも、馬蹄ならびに輪金より 20-500
飛び散るすごき鮮血に、みないっせいに染められぬ。
かくして勇むアキレウス・ペーレイデース、功名の
情念せつに剛勇の手を血に染めて荒れ狂う。

[1]11-534以下と同じ。


イーリアス : 第二十一巻



 クサントスの岸上にアキレウスの奮戦。トロイア軍の一部は城中に逃げ、一部は河上に逃ぐ。後者をアキレウス剣をふるって討ち、また十二人の敵の少年を捕う。リュカオンおよびアステロパイオスの死。クサントス(=スカマンドロス)の河霊怒りて激浪を上げて勇将を苦しむ。ポセイドーンとアテーネー来りて彼を慰む。されど河霊は怒りをやめず、シモエイスの河霊を呼び再びアキレウスに迫る。ヘーラーこれを見てヘーパイストスに命じ、猛火を起して平野を焼き、河流を枯渇せしむ。天上において諸神互いに相打つ。アテーネーはアレースを破る。ポセイドーンに激せらるるもアポロン戦わず。アルテミスはヘーラーに悩まさる。プリアモス王、命じて城門を開き、逃れ来る味方を入らしむ。追撃し来るアキレウスはアゲーノールに迫る。アポロンこれを救う。

水うるわしきクサントス、クロニオーンの生むところ、
流れ渦巻くクサントス、その岸さしてトロイアの
軍到る時、アキレウスこれを散らして、一隊を
都城の方の平原の上に追い打つ、前の日に[1]、
アカイア軍がヘクトルに追われ恐れて逃げし庭、 21-5
トロイア勢は逃げ走りここに群がる、そのまえに
ヘーラー霧を敷き散らし道をさえぎる、他の隊は
深き大河(おおかわ)、銀浪の渦巻く中に追われ入り、
騒音高く落ちこみつ、深き流れは吠え叫び、
岸のめぐりは轟々の音ものすごく鳴りひびき、21-10
叫喚高く敵の軍、泳ぎて波に巻かれ去る。

[1]17-753以下。

たとえば猛き火に追われ、流れに向かい逃るべく
イナゴの一群飛び翔くる、しかして火焔炎々と、
激しく襲い焼き立てて、虫は流れに落つるごと、
流れ渦巻くクサントス、その喧騒の大水は、15
アキッレウスの手よりして人と馬とに満たされぬ。

ゼウスの寵児アキレウス、岸のかたわら楊柳(ようりゅう)の
幹にその槍立てかけて、ただ一刀を手に握り、
神のごとくに勇猛の業たくらみて切りまくる、
四角八面切りまくるその鋭刃につんざかれ、20
すごき叫喚わき起り、流るる川は血に赤し。

たとえば魚群おおいなるイルカに追われ逃げ泳ぎ、
捕うるものをみな食らう敵を恐れて、停泊に
良き港湾の隅にある洞を充たすを見るごとく、
かくトロイアの軍勢は、流れ渦巻く大川の 25
険しき岸に身を隠す。しかしてすでに殺戮に
その手を倦めるアキレウス、流れの外に、生きながら
パトロクロスの牲として捕う少年十二人[1]、
子鹿のごとくおののけるその一群を引き出だし、
彼ら自らしなやかの被服[2]のめぐりまといたる 30
革ひも奪い[3]、背の上に彼らの双手しばりつけ、
兵船さして送るべく、その僚友に渡すのち、
また殺戮の念に燃え、陣頭さしておどり出づ。

[1]18-337に十二人のトロイア少年を牲とするをアキレウスは誓う。
[2]鎖かたびらの類か(5-113)。
[3]捕虜を縛るため用意せるものと見ゆ(評家エウスタティウスの説)。

そのとき彼の会いたるは、ダルダニデース・プリアモス
生みたる愛児リュカーオン[1]、水より逃れ出でしもの、21-35
これよりさきにアキレウス、夜に乗じて襲い入り、
捕えて父の果園より荒くも奪い取りし者、
車輪のへりを作るべく鋭き刃、イチジクの
枝に加えし彼の上、不意の苦難はくだりけり。
しかして船にのせ行きて彼を売りしはレームノス、40
堅き都城のあるところ。イアソン[2]の子は買い取りき、
そこより彼を莫大にエーエティオン[3]はあがなえり。21-42
(彼の故郷はイムブロス)そこよりさらにアリスベーに
送られし彼、逃がれ出で祖先の家に帰り来ぬ。

[1]リュキアーの将軍に同名別人あり(2-826)。
[2]イアーソーンの子はエウネーオス(7-468)。
[3]テーベーの君主に同名別人あり(6-416)。

レームノスより帰り来て、友と語りて楽しめる 45
日数十一、その次の第十二日、運命の
神は可憐の子をまたも、アキッレウスの手に渡し、
勇将彼を、好まざる冥王のもと送らんず。
足神速のアキレウス、いさめるまみに見るところ、
彼は赤裸に兜なく盾なく、さらに槍もなし、21-50
すべてこれらを地の上に彼ことごとく投げ捨てぬ、
汗は川より逃れ来し彼を弱らせ、両膝は
疲労に悩む——これを見てペーレイデース怒りいう、

『何たる奇怪!今われのまみに親しく映るもの!
かの勇猛のトロイアの軍勢われ討ちしもの、55
陰霧の闇の郷を出で再びここに現われむ、
見よ秀麗のレームノス郷に売られし彼はいま、
不幸の運をまぬがれてここに来れり、海岸の
白波(はくは)は衆をさまたぐも彼を留むることあらず。
さはれ今はたわが槍の鋭刃彼も味わわむ、60
しかせば我は胸中に観じ、しかして悟るべし、
同じく彼がかなたより帰るや、あるは、生の本、
大地は彼を留むるや、他の勇将になすごとく』

しかく念じてアキレウス立てば、恐怖を抱く敵、
近くに来り彼の膝ふれんとしつつあくまでも、65
無残の死滅暗黒の運命逃れ去らんとす。
そのときかなた英剛のアキッレウスは大槍を
高く振りあげ打たんとし[1]、こなたリュカオンその下を
くぐり身を屈(く)し膝に触る、その背を越して飛べる槍、
人の血肉あくまでも求めながらも地に刺さる。70
そのとき彼は片手もて哀願しつつ膝に触れ、
また他の手もて鋭刃の槍を抑えてはなたせず[2]、
かくて飛揚のつばさある言句を陳じ彼にいう、

[1]先文17には槍を岸の樹に立てかくとあり、かかる矛盾あるいは略文に関して古えのある評家は喋々す。
[2]槍は地に刺さる、他の槍か?(17)。

『ああアキレウス、哀願を聞きて憐れみわれ許せ、
神の寵児よ、われの身は君の嘆願者、そのむかし 75
デーメーテルの穀物を君のもとにて味わいき。
そは果樹園の中にわれ捕えて父と友とより、
離して遠くレームノス聖なる郷にひき行きて、
われを売りし日——百頭の牛は我が身の代(しろ)なりき。
しかして我いま三倍を与えてこの身あがなわむ、80
多くの苦難受けし後、われイリオンに着きてより、
今に到りて十二日、しかも今なお非なる命、
君の手中に我を置く、ゼウスは我を憎しみて、
再び君に我与う、ラーオトエーはわれの母、21-84
われを短命の子と生めり、母の老父はアルテース、21-85
サトニオエイス河に沿う地勢の高きペーダソス、
領とし、猛きレレゲース族をひきいるアルテース。
彼の愛女をプリアモス、他の女性らとともに取る、
これより生(あ)れし二人の子、われらを君は打たんとす、
ポリュドーロスを先鋒の歩兵の中に君打てり[1]、90
鋭き槍に君打ちし彼はまさしく神に似る、
しかしてここに災いは我に及ばむ、われは知る、
ある神霊の駆りしわれ、君の手中を逃れずと。
さはれ他のこと我言わむ、これを銘ぜよ、胸の中、
我をば殺すことなかれ、優しきしかも勇猛の 95
君の愛友殺したるヘクトールとは母は別』 21-96

[1]20-407。

プリアモスの子リュカオンは、かくのごとくに言句もて
哀れ求めぬ、しかれども答えははげし、無情の句——

『愚かなる者、あがないを言うことなかれ、説くなかれ、
パトロクロスが災いをまだ受けざりし昨日まで、21-100
トロイア人の生命を許すをわれは喜べり、
しかして彼ら生きながら捕え、多数をわれ売りぬ、
されどもいまはイリオンの前に、わが手に神々の
投ずるものは一として、死をまぬがるるものあらじ、
トロイア人はみなしかり、プリアモスの子なおさらに。105
友よ、汝もまた死せよ。何ゆえ汝かく泣くや?
汝にはるか優れたるパトロクロスもまた死せり[1]。
汝見ざるや、さらにわが体躯の美なる大なるを?
すぐれし勇士父とする、われは女神の生むところ、
しかも死滅と非命とは我にもついに来らんず。110
そはあけぼのか、たそがれか、はた日中か、われ知らず、
あるもの我に手向かいて鋭槍飛ばしわれ討たむ、
あるいは弦を離れ来る勁箭われの命絶たむ』[2]

[1]「パトロクロスもまた死せり」アレクサンダー大王に対して、哲学者カリステネースこの句を大王に誦(しょう)せりという(プルターク英雄伝『アレクサンドロス』54)。
[2]ヘクトールを倒せる後日パリス彼を射て殺す。

しか陳ずれば、リュカオンの心も膝もわななきつ、
覚悟極めて槍はなち、両手をのして地の上に 115
座れば、やがてアキレウス、鋭利の剣を抜き放ち、
首筋めがけて切りおろす、両刃の剣切り入りて、
無残に裂けば、うつぶしに大地の上に身を伸して、
彼は倒れつ、暗黒の血潮流れて地を染めぬ。
その足取りてしかばねをアキッレウスは水に投げ、120
勝ちに誇りてつばさある言句放ちて叫びいう、

『魚類の中に水中に汝休らえ。傷口の
血を意のままに水族は嘗(な)むべし。しかして恩愛の
母は汝を床に乗せ、泣き悲しむを得べからず、
スカマンドロス渦巻きて大海原に引き去らむ、125
うしおの中におどる魚、暗き波浪をくぐり行き、
リュカオン汝の白き肉求めてこれを餌とせむ。
亡べ、汝ら逃げ走るそのあと追いてわれ荒ぶ、
ついに聖なるイーリオン我らの手中に帰するまで。
美麗の流れ、銀浪の渦巻く川も汝らの 130
助けとならず、牲としてあまたの牛を捧げしも、
また渦巻きに単蹄の馬生きながら沈めしも[1]。
汝らかくも運命の非なるによりて滅ぶべし、
パトロクロスの落命と、われの不在に船のそば、
汝加えしアカイアの軍の死傷のつぐないに』135

[1]11-728参照、——ペルシヤ人は馬を川に牲として投ぜり(ヘロドトス四巻六一[スキュティア人は馬肉を煮て川神への犠牲とした]、七巻一一三)。パルティア人はユーフラテス川に馬を牲とせり(タキトゥスの年代記六巻三七)。

しか陳ずれば、河(=クサントス(ト))の霊、心にすごく憤り、
アキッレウスの勇猛の働き抑え、トロイアの
軍の破滅を救うべく思いめぐらす胸の中。
そのとき長く影をひく槍ひっさげてアキレウス、
ペーレゴーンの生みたる子アステロパイオス[1]倒すべく、21-140
念じて猛く突きかかる(ペーレゴーンはアクシオス
河の霊の子、その母はアケサメノスの息女らの
中の長たるペリボイア、彼女と契れり河の霊)。
いまアキレウス突きかかる敵は川より駆けあがり、
二条の槍を手に握る、しかして河霊クサントス、145
彼の心に勇を添う、河霊は猛きアキレウス
流れの中に若き子らむごく討てるをいきどおる。
かくて両将うち向かい、近寄る時に、足速き
アキッレウスはまず口を開きて敵に叫びいう、

[1]パイオネスの将軍アステロパイオス(17-351)。

『美(い)しくもわれに手向かえる汝の種族何ものか?21-150
わが勇猛に手向かうは、みな薄命の人の子ぞ』

ペーレゴーンのすぐれし子、答えて彼に陳じいう、
『汝、勇武のアキレウス、などわが素性問い正す?
遠く離るる豊沃のパイオニアー[1]はわが故郷、
長槍ふるうパイオネス族[2]をひきいてイーリオン、155
この地に我の着きてより第十一の日は明けぬ。
我の祖先はアクシオス、その大水の河の霊、
(大地に添いて清き波送る流れのアクシオス)
槍の名将ペーレゴン、彼の子にしてわれの父、
人はしかいう、さはれ今、アキッレウスよ、戦わむ』160

[1]パイオネス族は弓手とあり。
[2]2-850、17-350。

しかく脅せばアキレウス、高らにかざすペーリオン
山より取りしとねりこの大槍——こなた左右(そう)の手に、
ひとしく槍をふりあぐるアステロパイオス勇将の、21-163
その一条は盾に当つ、されどもこれを貫かず、
神の給える黄金の層は鋭刃さえぎりぬ、165
他の一条はアキレウス勇士の右の腕かすめ、
腕より黒き血は流る、しかして槍は彼を過ぎ、
肉に飽かんと念ずれど、むなしく土に突き刺さる。

つぎに英武のアキレウス、その鋭利なる槍かざし、
アステロパイオス倒すべく勢い荒く投げ飛ばす、170
しかもその槍狙いそれ、高き堤に突き当り、
槍身なかば隠れつつ、土中に深く突き刺さる。
ペーレイデースついでまた腰より利剣抜きかざし、
激しく敵にすすみ行く、敵は剛強の手をのして、
アキッレウスの長槍を岸より抜くを得べからず。175
抜くべく猛に念じつつ三たびその槍握り揺る、
しかして三たび効あらず、四たび試み、勇将の
投げし長槍おし曲げて、折らんとしつる折もあれ、
近く迫りてアキレウス剣(つるぎ)をあげて彼を打つ。
腹部のもなか臍(へそ)のそば、打てば臓腑はことごとく 180
あふれ地上に広がりて、闇は喘(あえ)げる彼の目を
おおえり、かくてアキレウス彼の胸のへ足加え、
武装剥ぎ取り、揚々と大言放ち陳じいう、21-183

『かく横たわれ、おおいなる河霊の裔と生まるるも、
クロニーオーン天王の子らと戦うこと難し。185
広く流るる大川の霊より出づと汝いう、
さもあれ我はクロニオーン・ゼウスの裔と身を誇る。
我を生めるは数多きミュルミドネスを司どる
アイアコスの子ペーレウス、そのアイアコス、神の裔。
しかしてゼウス、大海に流るる川の霊よりも 190
まさる、さばかりゼウスの子、河霊の子にぞいやまさる。
汝のかたえ大いなる川流るるも、汝の身
助くるをえず、クロニオン・ゼウスはついに敵あらず、
アケローイオス[1]の大いなる力も彼に並びえず、
潮流深くわき返るオーケアノスの大威力、195
川ことごとく流れ出で、海ことごとく湧くところ、
あらゆる泉、底深き井水ひとしく出づるもと、
彼なお偉なるクロニオン天上高くふるう時、
その恐るべき轟雷に、そのへきれきにおののけり』

[1]アイトリアとアカルナニアの間を流るるヘラスの大河。ギリシア人はすこぶるこれを崇む。後代の文学には川の人化また水の人化として用いらる。

しかく陳じて堤よりその青銅の槍を抜く、21-200
敵の一命断てるかれ、死体をそこにうち捨てつ、
砂場に伏して濁りたる波にむなしく浸らしむ。
その殻(から)目がけ寄せ来る鰻の群は、もろもろの
魚類とともに腎臓のほとり脂肪を噛み食らう[1]、
パイオネス軍、冠毛をふるうをついで彼は打つ、205
アキッレウスの手にかかり利剣によりてその主将、
戦軍中に滅べるを、諸将は眺めおののきて、
渦巻く川の岸に沿い走るを彼は追いて打つ。
テルシロコスとミュドーンまたアステュピュロス†をすすみ打つ[2]、
またムネーソス†、トラシオス†、オペレステース†、アイニオス†、21-210
そのほかあまたパイオネス、彼に打たれて死なんとす、
そのとき深き水の霊、彼に怒りて渦巻ける
水の底より人間の姿をとりて叫びいう、

[1]鰻を魚と認めず。
[2]テルシロコスは17-216に既出。ミュドーンは5-580のとは別人、アステュピュロス以下みな前後になし、オペレステースは8-275のとは別人。

『ああアキレウス、人間の業にあまりて不敬なす
汝の荒び、神々は汝に常に力貸す。215
トロイア軍の敗滅をゼウス汝に許しなば、
我より出でて平原の上に無残のわざをなせ、
いみじき我の川流は死体に満ちて、あふるれば、
我は聖なる大海に水を運ぶを得べからず。
汝、無残に人を討つ、その凶暴をいまやめよ。220
ああ勇猛のアキレウス汝は我を驚かす!』

足神速のアキレウス答えてすなわち彼にいう、
『スカマンドロス、天王の愛児、汝の命のまま、
成るべし。されど城中にトロイア軍を追い払い、
敵ヘクトルと相向かい、彼と我との勝敗を 225
決する前は、驕傲の彼らを殺すことやめず』

しかく陳じて敵軍を神のごとくに襲い討つ、
そのとき、河の渦巻ける霊はアポローン呼びていう、

『ああ銀弓のアポローン、クロニオーンの命令を
汝守らず——夕陽のしずかに入りて、豊沃の 230
大地を夜の暗き影、覆わんまでは、汝よく
トロイア軍を助けよと、ゼウスは厳に命ぜずや![1]』

[1]ゼウスは神々にその好むまま両軍中の一方を助くべしと命ず(20-22~25)。

しかく陳じぬ、こなたには槍の名将アキレウス、
流れの中に険崖を飛びおる、川はおどり立ち、
狂える流れ巻き立てて、アキッレウスの倒したる 235
多くの死体その中に群がるものを押し流し、
波浪の響き、轟々と吠ゆる巨牛を見るごとく、
死体を岸に打ち上げつ、さらに渦巻く深淵の
中に、美麗の川底に、生者を救い押し隠す。
さらに逆立つ奔流は、アキッレウスを攻め囲み、240
激しく襲い、盾をうち進めば、彼の双脚は
支うるをえず、手にしかと、岸より崩れ落ち来る
巨大の楡の樹をつかむ、巨木は根よりうち倒れ、
堤崩して繁り合う枝に美麗の水塞ぐ、
巨幹はかくて大川にさながら橋をかけわたす、245
さすが恐るるアキレウス、深き水よりおどり出で、
足神速に平原の上に走りて逃げんとす。
されどそのとき大いなる河流の神は休みなく、
黒ずむ波の頭立て、アキッレウスを追いすすみ、
その勇猛の業とめて味方の厄を払わんず。21-250

ペーレイデースそのときに遠のく距離は、投げ槍の
飛び行く長さ——鳥類の中に速さも猛しさも
まさる黒ワシ、猟の鳥、飛ぶがごとくにアキレウス、
猛然としておどり飛び、その胸のうえ鏘然と、
青銅すごく高鳴りて水逃がれ行く彼のあと、255
スカマンドロス轟々と波音高く追い駆くる。
たとえをとらば、源流の暗き淵より水を引き、21-257
田圃ならびに緑園の中に流れをそそぐ人、
手に鍬にぎり溝渠より砂礫をさらい捨つる時、
傾斜の岸をそうそうと音して水は走りゆき、260
あらゆる土砂を押し流し、流れの足は導きの、
人をしのぎて先んじて、走り行くさま見るごとし。
かくのごとくに奔流の水は絶えずも、足速き
アキッレウスに追いつけり、神は人よりまさるなり。

足疾く馳する剛勇のアキッレウスは踏みとまり、265
天を領する神々のすべてが挙げてことごとく
彼を追わんとすや否や、見極めんとしはげむたび、
その度ごとにゼウスより流れ出でたる大川は、
彼の肩のへ襲い打つ、しかして彼が心中に
悩みながらもその足を運べば、川は奔流の 21-270
勢いあらく彼の膝うちて脚下の砂洗う。
そのとき高く天仰ぎペーレイデース嘆じいう、

『ああクロニオーン、神々のいずれか我を憐れみて
この水難を救わずや?後はすべてに我耐えむ。
天上やどる神々の中にもっとも我にとり、275
罪あるものは我の母――虚言に我を迷わしめ、
胸甲よろうトロイアの軍勢守る塁の下、
アポローン飛ばす矢によりて、わが逝くべきを告げたりき[1]。
ここの至剛のヘクトール我を倒さばよからまし、
さらば勇士は他の勇士討ちて戦装剥ぎとらん、280
さるを運命われに非に、大河の中に封ぜられ、
無残の最後遂げんとす、急流わたる牧童が、
あらき風雨に襲われて溺るるさまを見るごとく』

[1]17-407はかく明らかには告げず、漠然として説くのみ。トロイア城の下で死ぬはずが、この川で死ぬとは母に騙されたとする嘆き。アポロンの矢で死ぬとは単に死ぬことを意味する(24-758参照)。女性の場合はアルテミスの矢で死ぬというのは既述。

陳ずる彼にすみやかに、ポセイドーンとアテーネー、
近付き来り人間の姿を取りてそばに立ち、285
その手に彼の手をとりて言句を述べて慰めつ。
大地を震うポセイドーンまず口開き宣しいう、

『ペーレイデース、あまりにも恐れて騒ぐことなかれ、
クロニオーンの許可により、二位の神霊ここに来て、
汝を助く、見よ、われと藍光の目のアテーネー、290
河流によりて倒るべき非命汝に下されず、
河霊ほどなく静まらむ、汝親しくこれを見む、
さはれ服せば忠言をわれら汝に与えんず、
汝逃るるトロイアの軍勢追いて、イーリオン
城壁中に押し込むるまえに、過酷ないくさより 295
手を退くなかれ、ヘクトルを倒さば汝水陣に
立ち帰るべし、栄光をわれら汝に与えんず』

しかく宣して二位の神、天上さして立ち帰る、
その神霊の励ましに勇将奮い立ち上がり、
平野にのぼる、――一面の大水そこに満ちあふれ、21-300
逝ける諸勇士身に帯べる美麗の武具はしかばねと、
ともに無残に漂えり、流れをしのぐアキレウス、
やがてその膝水面をおどり上がれば、奔流も
彼をとどめず、アテーネー威力を彼に貸し与う。
スカマンドロスしかれども怒りをやめず、いやましに、305
アキッレウスに憤り、さらに高らに奔流を
激しく蹴上げ、シモエイス[1]呼びて叫びて彼にいう、

[1]合流する川の霊。

『汝とともに、弟よ、この人間の威を止めむ、
さらずば彼はすみやかにイリオン城を破るべし、
しかしてトロイア軍勢は戦地に跡をとめざらむ。310
いざ迅速に救援に来り、源泉あふれ来る
水に汝の量満たし、急流すべて励まして、
高く波浪を逆立てよ、しかして樹木岩石の
騒音あらく起らしめ、おのれ自ら神々に
等しと誇り勝ち誇るこの猛将を食い止めよ。315
かれの勇力、秀麗の姿きらめく戦装も
かれを救わず、深淵の底に泥土に覆われて、
武具は沈まむ、我はまた砂利を盛んに運び来て、
勇士を底に葬りて、上に砂泥を積み上げむ、
しかしてアカイア軍勢は彼の遺骨を集め得じ、320
かばねの上に泥濘を我は深くも積らせむ。
かくておのずと彼のため記念の印たてられむ、
アカイア人はまた別に墳墓を築く要なけむ』

しかく陳じて猛然と荒びすすみて、アキレウス
めがけて攻めつ、泡沫と血と死体とを乱しつつ、325
神より生(あ)れし大川は暗紅色の波すごく、
逆巻き立てて剛勇のペーレイデース押し流す。
されどヘーラー、おおいなる川流深く渦巻きて、
アキッレウスを溺らすを憂い、叫喚高くあげ、
ただちに彼の愛児たるヘーパイストス呼びていう、330

『立てや、跛行のわが愛児。渦巻き流るクサントス、
まさに汝の好敵手、わが見るところ誤らじ、
いざ迅速に救援に行きて猛火を立たしめよ。
我はた行きて、ゼピュロスと足神速のノトスとの
はげしき呼吸、海洋の沖より誘い吹かしめむ、335
彼らはすごき猛炎を運び来りて、トロイアの
軍勢ならびにその武装焼くべし、汝岸に沿い、
樹木を焼きて、クサントス河を火中に追い払え、
彼の甘言また威嚇、汝の耳に入るなかれ、
われ叫喚をあげむ前、汝の怒りとどむるな、340
叫喚聞かば猛炎の荒びそのとき静むべし』

ヘーラーしかく宣すれば、ヘーパイストス持ち来す
不思議の神火(しんか)、まっさきに平野に燃えて、累々と
伏せるしかばね、アキレウス倒せしものを焼き尽す、
平野はかくてみな乾き、輝く川の水とまる。345
たとえば秋のボレアース、さきに洪水襲い来し
耕地を不意に乾かして、農夫の歓喜増すごとし、
かくて平野はことごとく乾きて猛火もろもろの
死体を焼きつ、神はいま、川に火焔をさしむける。
楡と御柳(ぎょりゅう)と楊柳と今ことごとく燃え上がる、21-350
ロートス、蘆荻(ろてき)、キュペイロン、川の美麗の水に沿い、
豊かに生じ並ぶもの、等しくともに焼かれ去る、
さらに渦流(かりゅう)に舞いおどる鰻、ならびにもろもろの
魚は、策謀巧みなるヘパイストスが息吹き出す
その猛炎に、ことごとく呼吸苦しく悩まさる。355
巨川同じくまた焼かれ、神に向かいて叫びいう、

『ヘパイストスよ、神々の誰も汝に向かいえず、
猛火によりて焼き倒す汝と我は戦わず。
戦いやめよ、アキレウス勇将すぐにトロイアの
都城を攻略するも良し、われ戦いに加わらじ』360

猛火に焼かれ、かく叫び美麗の流れ沸き返る。
たとえをとらば、乾燥のたきぎをたきて烈々の
火焔さかんに釜つつみ、よく飼われたる肥えし豚、
煮られて脂肪とけ流れ、四方にあふれ出づるごと、
美麗の河は火に焼かれ、水は盛んに沸き上がり、365
前に進まず留まりて、ヘーパイストス、計略に
すぐれし神の力より、出づる呼吸に悩まさる。
かくして河はヘーラーに哀訴捧げて叫びいう、

『ヘーラー、などて汝の子、他を捨てひとりわが流れ、
悩ますことを努むるや?汝の前にわが罪は、370
トロイア軍を援護する神々よりも重からず。
さはれ汝の命ならば、その応援をとどむべし、
彼も同じくまたやめよ、さらに我また誓うべし、
トロイア軍に禍(まがつみ)の日の来たるをば妨げず、
アレースめずるアカイアの軍に焼かれてトロイアの 375
全部ひとしく猛炎の力に滅び去らんとも』
しか陳ずるを耳にして、玉腕白きヘーラーは、
ヘーパイストス——めずる子——に向かいただちに宣しいう、

『ヘーパイストス、栄光のわが子、とどまれ、人間の
ためにかくまで、他の神を悩ますことはよかるまじ』380

しか宣するに従いて、ヘーパイストス神秘なる
火を収むれば、大川は再び清き水流す。
かくクサントス憤激を抑え、二神の争いは
終わりぬ、心怒れどもヘーラー彼らを戒めぬ、
されども別の争いは、激しく荒く他の神の 385
間に起り、抗敵の思いかれらの胸あおる。

喧騒高く相向かう神に大地はとどろきつ、
サルピンクス[1]の音をもて大空高く鳴り渡る。
ウーリュンポスに座を占むるクロニオーンこれを聞き、
諸神互いに戦うを見て欣然とほほえめり。390
間なく彼らは相向かう、そのまっさきに、盾くだく
神アレースは青銅の槍を手にして、藍光の
目のアテネーを襲い討ち、罵言の言句をあびせいう、

[1]サルピンクスはラッパのこと。

『犬とハエとに似たる者、汝何ゆえ凶暴の
勇に駆られて神々をまた闘争に誘えるや?395
テューデイデース、勇猛のディオメーデスを励まして
我を討たしめ、燦爛の槍を手にしてまっこうに
我を襲いて、わが肢体破らしめしを忘れしや?
かの時汝なせし仇(あだ)、この日汝に報うべし』

しかく陳じて殺戮を好むアレース、おおいなる 21-400
槍を飛ばして盾を打つ、そは天王の轟雷を
物ともせざる恐るべき大盾、房を着けしもの。
あとにしりぞくアテーネー、地に横たわる巌々(がんがん)の
黒き大石、そのむかし土地の境の標(ひょう)として、
据えられしもの、手にとりて投げて勇武のアレースの 405
首打ち四肢を緩ましむ。七ペレトラの地をおおい、
倒れし彼は頭髪を塵にまみらしうつ伏して、
鎧あたりに高鳴るを、笑うパルラス・アテーネー、
勝ちに誇りてつばさある言句を彼に宣しいう、

『愚かなる者、汝まだ我の汝にまされるを 410
悟りえずして、いたずらに我の力にあらがえる!
アカイア軍を捨てさりて、汝倨傲のトロイアの
軍を救うを憤り、苦難を汝の身の上に
加える母[1]の呪咀の言、汝いまこそ充たすべく』

[1]母とはヘーラーのこと。

しかく宣して爛々の目を他の方に転じ去る、21-415
気を失いて呻吟の声しきりなるアレースの
手を、そのときにアプロディテ[1]、ゼウスの息女、引きて去る。
そを玉腕の真白なる女神ヘーラー見たる時、
ただちに女神アテーネー・パルラス呼びて宣しいう、

[1]5-357、アレースの車をアプロディーテーが借りて逃る。

『アイギス持てるゼウスの子、アトリュートーネー、汝見よ、420
犬とハエとに似たるもの、彼女アレスを戦場の
中より救い混乱の列を過ぎ行く、汝追え!』

しか陳ずればアテーネー、勇みて跡を追いすすみ、
アプロディーテに飛びかかり、強き手をもて胸を打つ、
打たれて膝を折り伏して、恐怖に心おののきつ。425
かくてアレースもろともに大地の上に横たわる、
勝ちに誇りてアテーネー羽ある言句陳じいう、

『トロイア軍に味方して、胸甲よろうアカイアの
軍と戦う者はみな、いまアレースを救うべく
来りて我に手向かえるアプロディーテを見るごとく、430
勇気鋭く強しとも、かくのごとしと覚悟せよ、
堅き都城のイーリオン、とくの昔にうち崩し、
ヘーラーともに我は疾くやむべかりしを戦いを』

しか宣すれば玉腕のヘーラー聞きて微笑めり。[1]
さらにかなたにポセイドーン、神アポローンに向かいいう、435

[1]この一行多くの版に省かる。

『ああポイボース・アポローン、などてわれらはためらうや?[1]
他は今すでに始めたり、戦わずしてオリュムポス——
ゼウスの宮にしりぞくは、無上の恥辱——思わずや?
始めよ、汝年若し、我始むるは不可ならむ、

[1]ポセイドン(ギ)がアポロン(ト)に挑戦しているのである。

齢いにおいて、知において、我は汝の上を超す。440
汝愚にして思慮足らず、汝はすでに忘れたり、
諸神の中にただわれら二神[1]ゼウスの命により、
来たりてここにイリオンのほとりにいたく悩みしを、
ラーオメドーン高慢のあるじの下に一年を
期限となして報酬を定めて命を奉ぜしを。445

『我はそのとき大いなる美麗の壁をトロイアの 21-446
都市のめぐりに営みて、難攻不落のものとなし、
汝はイーダの山の上、森繁くして谷深き
ほとりに飼えり、角曲がりまんさんとして歩む牛。
かくて楽しき四季移り、被用の期日満ちし時、21-450
ラーオメドーン、暴戻のあるじ、すべての給料を
非法に奪い、さらにまた、われらを脅し追い払う。
彼はわれらの手を足をともに縛りて奴隷とし、
離れて遠き海上の島に売らんとおびやかし、
青銅をもて我々の耳を切るべく壮語しき。455
約して彼の払わざる報酬のため憤り、
われらはかくて胸中に不快を満たし帰り来ぬ。
しかして汝いま彼の民に好意をほどこせり、
しかして汝高慢のトロイア族が恩愛の
妻子とともに滅ぶるを、われらとともに試みず』460

[1]7-452。

そのとき遠矢のアポローン答えて彼に陳じいう、
『汝大地を震う神、われ人間の群れのため、
汝を敵に戦わば我は賢(さか)しと言わるまじ、
微々たる彼ら草木の葉にも似るかな[1]、大地より 21-464
生ずる果物、食として育ち行きつつ栄ゆるも、465
やがてむなしく滅び去る。さはれ我らはすみやかに、
戦闘やめむ、闘争は彼らのなすに任すべし』

[1]6-146~149。

しかく言句を陳じつつ、父の弟、敵として
戦うことを恐るれば、あとへと返すアポローン。
されど猛獣駆り使う彼の妹アルテミス、470
猟する女神争いて、罵辱の言句吐きていう、

『矢を射る汝逃れ去り、ポセイドーンに一切の
勝利を譲り、あるまじき栄光彼に与うるや?
さらば何ゆえ、おろか者、無用の弓をたずさうる?
ポセイドーンに相向かい戦うべしと、神々の 475
群れのもなかに昨日まで汝誇れり、今にして
ゼウスの宮にかく誇る汝を我は聞かざらむ』

しか陳ずれど銀弓のアポロン彼女にもの言わず、
されどゼウスの端厳の神妃ヘーラーいきどおり、
罵辱の言もてアルテミス、矢を射る神を叱りいう、480

『恥無き牝犬、いかなれば我に対して争うを
汝願うや?弓あるも武力によりて真っ向に
いかでか我に敵し得む!雌獅子と汝をクロニオン、 
ただに女人の間(あい)にのみ、なして殺戮意にまかす[1]。21-484
すぐれる者にいさましく敵するよりは山あいに、485
野鹿ならびに猛獣をほふることこそましならめ。
さもあれ汝、戦いを望まば来れ、われの威に
向かい来る時、いかばかり我のまさるや悟るべし』

[1]アルテミスの矢は女性を死なせる。19-60の注[2]参照。

しかく陳じて左手(さしゅ)をのべ、彼女の両の手首(たなくび)を
つかみ、同じく右手(めて)のべ、肩より弓矢ひきたぐり、490
輾然(てんぜん)として笑いつつ、その弓矢もて、身をかわす
彼女の耳端(みみは)うちたたく、矢はすみやかに地に落ちぬ。
打たれて女神泣きながら、かがみて逃る、たとうれば、
タカに追われて洞窟の奥の深きに逃げかくれ、
死の運命を逃れたる可憐の鳩を見るごとし、495
彼女は弓矢、地に残し、涙流して逃げ走る。
そのときアルゲイポンテース[1]、使者はレートー(ト)に向かいいう、

[1]アルゴスをほふるの意すなわちヘルメイアスまたはヘルメース(ギ)。

『レートー、汝に戦いを我は挑まず、雷雲を
集むるゼウス天王の妃(ひ)[1]と争うはあぶなかり、
激しき武力勝ちを得て、われを汝は破れりと 21-500
いざいま汝神々の群れの間に誇れかし』

[1]レートー、アルテミスの母。

しか陳ずればレートーは渦巻く塵のただ中に
乱れて落ちし彎弓(わんきゅう)と矢とをひとしく拾い上ぐ。
かくして女神その弓矢とりて愛女の後を追う、
ウーリュンポスの青銅のゼウスの宮に帰り着き、505
わかき女神はさん然と、涙を垂れて父神の
膝にすがりて、アムブロシア薫ずる衣ふるわせば、
笑い含みてクロニオン彼女を抱きて問いていう、

『いずれの神か、正(まさ)なくも、かくは汝をしいたげし?
あたかも皆の面前に過失犯せる者のごと』510

冠(かむり)美麗のアルテミス答えて彼に陳じいう、
『君の妻なる腕白きヘーラー我をさいなめり、
諸神のあいの争いと不和とは彼女のなすところ』

しかく互いに天上の諸神言句を陳じ合う、
かなたポイボス・アポロンはその堅牢の都市の壁、515
その運命に先んじて正しくその日敵軍に
破壊さるるを恐れつつ、聖イリオンの中に入る。
他の常住の神々はウーリュンポスをさして行き、
そのある者は憤り、またあるものは誇らいて、
雷雲寄する天王の周囲に座せり。かなたには 520
トロイア軍と単蹄の馬とを殺すアキレウス。
都城焼かれてその煙もうもうとして天に入り、
神の怒りにあおられて、すべての者に艱難を、
多くの者に憂愁を、来たす姿を見るごとく、
トロイア軍にアキレウス艱難憂苦こうむらす。525

そのとき、老いしプリアモス、神の作れる塔の上、
立ちて巨大のアキレウス認めぬ、見よや、恐怖せる
トロイア軍は散々に破れ防御の力なし、
大息なして老王は壁より地上くだり来つ、
壁のめぐりのいさましき守衛励まし呼びていう、530

『汝ら広く城門を明け放しおけ、逃げ帰る
軍勢なかに入らんまで、間近く迫り襲うもの、
彼はまさしくアキレウス、おそらく苦難起るべし。
城裏に皆の収りて初めて息をつかん時、
汝ら固く緊密に左右の扉閉じ返せ、535
かれ凶暴の敵の将、中に入ること恐るべし』

しか陳ずればかんぬきをはずして皆は門ひらく、
門ひらかれて光明を来す。かなたにアポローン、
トロイア軍の敗滅を防がんために駆けいだす。
渇きに悩みて塵あびて、軍は都城と塁壁を 540
目ざし平野を逃げはしる、そのあと慕うアキレウス、
槍をふるいて猛然と追い打つ、彼は束の間も
勇を緩めず功名の念は激しく胸に満つ。

かくしてアカイア軍勢はトロイア城を取らんとす、
されどポイボス・アポローン、アンテーノール生みたる子、545
武勇にすぐれ力あるアゲーノール(ト)[1]を励ませり。
すなわち彼の胸中に勇気を満たし、自らは
かたえに立ちてぶなの木に身をもたせつつ、運命の
つらき打撃を防がんず、濃雲、神の身を隠す。
都城を破るアキレウス見たるトロイア勇将[2]は、21-550
敵の迫るを待ちながら立ちて心肝悩ましつ、
大息しつつ、剛強の心の中に念じいう、

[1]4-467。
[2]アゲーノール。

『ああ進退を如何にせむ? 軍の恐れて紛々と 21-553
逃げ去るほとり、我もまたアキッレウスを逃れんか、
彼は我にも追いつきて、手向かい得ざる身を討たん。555
あるいは軍のアキレウス・ペーレイデースに追わるるを、
捨てて別路に足運び、城壁遠くイリオンの
平野の上を駆け走り、かくして後に高き丘、
イーダに入りて林藪(りんそう)の中に終日身をひそめ、
夕べ静かに来たる時、渓流中に身をひたし、560
汗を洗いてしかる後、イリオン城に帰らんか?
さはれ何ゆえわが心かかる思念をめぐらすや?
都城離れて平原を我の走るを彼認め、
その迅速の足飛ばし追いつくことの無かれかし。
追い付かれなば運命と死とを逃るることをえず、565
かれ一切の人類に優りて勇は比類なし。
あるは都城のかたわらに彼と面して立つとせば……
さなり、鋭き青銅に彼の肢体は傷つかむ、
彼も生命ただ一つ不死にあらずと人は説く、
ただ栄光をクロニオーン・ゼウスは彼に儲けしむ』570

しかく陳じて決然とアキッレウスを待てる彼、
強き心は胸中に奮闘念じ、はやり立つ。
たとえば猟の人目がけ、深き藪より猛然と、
現われ出づる豹に似る、豹の心は何ものも
あえて恐れず、猟犬のほゆる叫びも物とせず、575
猟師まさきに矢を飛ばし、槍をふるいて彼を討ち、
利刃に彼を貫くも、あえてひるまず迫り来て
闘い、あるは倒るまで猛気を捨つることあらず、
アンテーノール生みたる子、アゲーノールはかくのごと、
アキッレウスを試す前、しりぞくことをあえてせず。580
すなわち円き大盾を前にかざして、青銅の
槍もて敵を狙いつつ、大音あげて叫びいう、

『汝、誉れのアキレウス、まさしくこの日勇猛の
トロイア族の城塁の破滅を汝望めるよ!
愚かなるかな、トロイアのほとり多くの難あらむ。585
その城門に勇猛の多数の軍は、恩愛の
親と妻子の目のあたり、この神聖のイーリオン
防がん、ここに災難に汝は会わむ、アキレウス、
汝、まことに勇猛のすぐれし将士なるべきも』

しかく陳じて剛強の手より鋭槍投げ飛ばす、590
しかして敵の膝の下、脛部をうちて誤らず。
新たに成りし錫製の脛甲(けいこう)ために物すごく、
鏘然として鳴りひびく、されど鋭刃はね返り、
打たれしものを貫かず、神の恩恵かれ守る。
つづきて進むアキレウス、アゲーノールを——神に似る 595
勇士をめがく、しかれどもアポロンかれに栄光を
許さず、勇士引きとりて濃霧の中に隠れしめ、
つづきてこれを戦闘の場より静かにしりぞかす。

策をめぐらすアポローン、アキッレウスをトロイアの
軍より離し、目前にアゲーノールの姿とり、21-600
たたずみ立てば、神速の足を運びて迫り来つ、
やがて豊沃の野に添いて、あとより追えば、アポローン、
少しく彼に先立ちてスカマンドロス渦巻ける
流れに向かい駆け走り、巧みに策を回らして、
彼を誘いて迅速に追いつくことを望ましむ。605
かなた残りのトロイアの軍勢逃げてむらがりて、
城内帰り喜べり、彼らは城に充ち満ちぬ。
逃れしものは誰なりや?たそ戦場に倒れたる?
これを知るべく城壁の外に立ちつつ、同僚を
待たんずるものたえてなし、ただ早急に城内に 610
その足により膝により助かりしもの流れ入る。


イーリアス : 第二十二巻



 アポロンに欺かれてこれを追うアキレウス、悟りて歩みを転じてヘクトールに向かう。ヘクトールは城中に入らず、ただ一人城外に立って敵将を待つ。両親城壁より声を放って城中に入るべく彼に勧むれど聞かず。アキレウス来り迫る。その威容に驚怖して三度城の周囲を逃れ去る。ゼウス黄金の秤を取り出し、両将の運命を掛く。ヘクトールの非運決定す。アテーネー謀りてヘクトールの弟の姿を取り、彼を励ましてアキレウスに向かわしむ。決戦。ヘクトールついにアキレウスに討たれて死す。その死体の足に革ひもを通じ、兵車に結びてアキレウスは平原を駆る。城上よりこれを眺めてプリアモス王、ヘカベー、アンドロマケーの慟哭。

かくして皆はおそれたる子鹿のごとく、城中に
逃れ帰りて汗拭い、身を胸壁にもたせつつ、
冷水飲みて渇(かつ)いやす、しかしてかなたアカイオイ
肩のへ盾をかざしつつ塁壁近く寄せ来る。
しかしてすごき運命は、イリオンの前、スカイアー 22-5
城門の前、ヘクトルを留めて内に入らしめず。
そのときポイボス・アポローン、アキッレウスに宣しいう、

『ああアキレウス、いかなれば汝、人間の分として、
不死の神たる我をかく速き足にて追い来るや?
汝は我を神なりと認めず、やまず荒れ狂う。22-10
激しく破り城中に逃れしめたるトロイアの
軍を汝はうち捨てて、こなたに向かい来りしな。
汝は我を殺しえず、死滅の運は我になし』

足神速のアキレウスいたく怒りて彼にいう、
『遠矢の汝、一切の神々よりもすごき者、15
敵城離れこの庭に我をさそえり、さもなくば、
イリオン城に入らん前、多くは土を噛みつらむ。
汝は我に大いなる栄光奪い、たやすくも
敵を救えり、ゆくさきの我の復讐ものとせず、
ああ我これをよくし得ば、汝にあだを報えんを』22-20

しかく陳じて功名の念に燃えつつ、さっそうと
敵城さして駆けいだす、賭けに勝ちたる駿足が、
車を引きて平原を勇みおどりて駆けるごと、
かく迅速にアキレウス足と膝とを運び行く。

しかして彼が燦爛(さんらん)と輝き平野馳せ来るを、25
まさきに王者プリアモスその目をあげて認め得つ、
秋としなれば大空に夜の影ぬち、衆星の
間にありて爛々(らんらん)の光を放つ一巨星[1]。22-28
オーリオーンの犬と名を人間の世に歌われて、
光輝もっとも強きもの、また凶変のしるしとて、30
激しき熱を不幸なる人類中に運ぶもの、
その星のごと駆け来る彼の胸甲輝けり。

[1]シリウス。支那人はこれを天狼星と呼ぶ。オーリオーンはもと猟人の名、今日の天文学上一の星座の名、隣の星座中にシリウスあり。

これを眺むる老王はいたく呻きて高らかに、
双手をあげて頭うち、また高らかに声あげて、
彼の愛児に呼び叫ぶ、そのヘクトール門外に 35
アキッレウスと戦うを激しく念じたたずめり、
両手のばして老王は声をしぼりて呼びていう、

『ああわが愛子ヘクトール、皆を離れてただ一人、
かの敵将を待つなかれ、しかせば汝すみやかに、
アキッレウスの手に死なむ、彼の勇武はいやまさる、40
無残なる者、願わくは我と等しく神々が
彼を愛して好まんを[1]、しからば犬と鷙鳥(しちょう)とは、
倒れし彼の肉食みて我の悲嘆は解けさらむ、
多くのわれのすぐれし子、我より彼は奪い去り、
彼らを殺し、また遠き島のあなたに売り去りぬ。45

[1]皮肉である。

『今またトロイア軍勢は都城の中に帰れども、
ポリュドーロスとリュカオーン[1]、二人の愛児我は見ず、
女性の中にすぐれたるラーオトエーの生める者。
敵軍中にもし彼ら生きつつあらば、青銅と
黄金をもてあがなわむ、わが家これに豊かなり、22-50
老いし誉れのアルテース[2]、これを愛女に分かちたり。

[1]ポリュドーロスは20-407。リュカオンは21-35。
[2]ラーオトエーの父、21-85

『さはれ彼らはすでに死し、冥王のもと行きたらば、
彼らを生めるわが妻と我の悲嘆は大いなり、
されども民の悲しみはアキッレウスの手に汝
滅ぶることのなかりせば長引くことはあらざらん。55
愛児よ、汝城塁の中に帰りてトロイアの
男女を救え、恐るべきアキッレウスに、大いなる
誉れ与えて、貴重なる一命絶やすことなかれ。
さらに憐れめ、余命なきわれを、運命薄くして
不幸の者を——クロニオン、われ老境に臨む時、60
つらき非運に死なしめむ、多くの苦難継ぎ到り、
多くの子息殺されつ、多くの息女奪われつ[1]、
わが宮殿はかすめられ、まだ物言えぬ幼児らは、
激しく狂う戦乱の中に大地に投ぜられ、
子らの妻子はアカイアの凶暴の子に奪われむ。65
しかして我を敵人が鋭利の刃もて切り殺し、
あるは飛槍にうち倒し、魂を体より離す時、
肉食む犬は前門のほとりに、われのなきがらを
食い裂くならむ、その犬はわれ宮中の食卓の
下に飼いつつ、わが門を守らせしもの、われの血を 70
飲みてあらびて門のまえ伏さん。——年齢若き者、
鋭利の刃つんざきて戦場中に倒るとも、
彼にすべては悪からず、死するも恨みなかるべし、
されど老翁殺されて、白きかしらと白きひげ、
赤裸のかばね、群れ犬の牙に恥辱をこうむらば、75
不幸な人の世に起る無上の恥にあらざるや!』

[1]亡国の婦人らの運命の描写、6-455、9-593参照。

老王しかく叫びつつ、手もて頭の白髪を 22-77
無残につかみ引き抜けり[1]、ヘクトル、さはれ従わず。
そのとき母はさん然と涙にくれて身を起し、
右手に胸をかき開き[2]、左に乳房引き出し、80
涙流してつばさある言句を彼に叫びいう、

[1]10-15。
[2]古ゲルマニア人の間にも女性が胸を開き勇士を励ます習いありき(タキトゥスの『ゲルマニア』第一部八節)。

『ああわが愛児、ヘクトール、これを眺めてわれの身を
哀れと思え、この乳房吸いて汝の喜びし
昔をしのべ、ああ愛児、かの敵将を防ぐべく、
城壁内に帰り来よ、まさきに彼に手向かうな。85
ああかれ無残の敵の将、汝かの手に討たれなば、
愛児よ、我は床のへに汝を泣くを得べからず、
富める汝の妻も然(しか)、我ら二人を遠く去り、
アカイア軍の船のそば、犬は汝を噛み裂かん』

老いし二人は泣きながら、かく言つくし、彼らの子 90
諫め止めれど、ヘクトールついに心を動かさず、
迫り来れる魁偉なるペーレイデース待ちて立つ。
たとえば山の洞窟に近付く人を狙う蛇、
毒草食みてものすごく[1]、怒りに満ちて爛々の
眼をかがやかし、洞内にとぐろを巻きて待つごとし、95
かくヘクトール烈々の勇気に満ちてしりぞかず、
輝く盾を城壁のその突角にたてかけて、
太き吐息に、がい然とその胸中に陳じいう[2]、

[1]毒草を食いて蛇は毒を有すと古人は信じたり(アイリアノス『動物奇譚集』六ノ四)。
[2]アゲーノールの独り言参照、21-553以下。

『ああ何とせむ!城門の中に我もしいま入らば、
プーリュダマスはまっさきに我をとがめむ、剛勇の 22-100
アキッレウスの立ちし時、夜に乗じて城中に、
トロイア軍を引くべしと彼はそのとき説きたりき[1]。
されども我は聞かざりき、聞かばはるかによかりしを。
わが執拗のゆえにより多くの兵を失える
今われトロイア軍勢と裾長くひく女性らを 105
恐る、われより劣る者、他日あるいはかく言わむ、
「力頼みてヘクトール多くの兵を失えり」
かくは述ぶらむ。さらばいまアキッレウスと戦いて、
彼を倒して帰る事、あるいは城の前にして、
彼に打たれて、栄光の死を遂ぐること優(まし)ならむ。110

あるは今より隆起ある盾をわれ捨て、堅牢の
兜を捨てて城壁に槍を立てかけ、身のまわり
武装なくして剛勇のアキッレウスのもとに行き、
彼に約さむ、争いのもといとなれるヘレネーを、
さらにパリスが船のへにたずさえ来りトロイアの 115
城中収め取りしもの、彼女の富をことごとく、
アトレイデースに返すべく、さらに加えてこの都市に
隠せし富をアカイアの民に等しく分かたんと、
しかして次に長老によりて誓いをトロイアに
誓わしむべし、何物も隠さず、すべて一切を 120
美なる都城におさむるを出だし二つに分かたんと。

さはれ何ゆえわが心かかる思いを念ずるや?
否、否、行きて訴えを彼になすまじ、我を彼
憐れまず、また重んぜず、弱き女性を見るごとく
武具ことごとく捨て去りて防備なき身をほふるべし。125
否、否、いまは彼ととも談じ合うべき時ならず、
巨木の下に岩陰に、若き男女の喃々と、
語らうごとく、我はいま彼と談ずる時ならず。
会戦こそは優ならめ、やがて知るべし、クロニオン、
我と彼とのいずれにか勝ちの栄光与うるを』130

[1]18-254以下。

しかく思いて待つ彼に迫り来れるアキレウス、
軍神アレース見るごとく、兜はげしく揺るがして、
右手に高くペリオンのすごき大槍ふりかざし、
よろう青銅輝きて、炎々燃ゆる火の光、
あるは瞳々(とうとう)のぼり来る朝日の光見るごとし。135
かくと眺めしヘクトール、恐怖に満ちてそのにわに、
あえて止まらず早々と城門あとに逃げ出す。
そを神速の足飛ばし、追いかけ走るアキレウス、
そをたとうれば鳥類の中にもっとも速きもの、
深山(みやま)のタカがさっそうと、おののく鳩を打つごとし。140
鳩は斜めに身をかわす、タカは鋭き声あげて、
あくまでこれを捕うべく絶えず激しく飛びかかる、
まさしくかくもアキレウス激しく走る、かなたには、
トロイア城の壁の下、恐れて駆くるヘクトール、
二将かくして哨戒の地点、ならびに風揺らぐ 145
イチジク[1]過ぎて、壁の下、車道に沿いて駆け走り、
スカマンドロス渦巻けるその源泉にこんこんと、
水うるわしく二筋にあふれるほとり来り着く。
泉の一つ熱き水、流れのほとり湯気立ちて、
炎々燃ゆるたきぎより煙の立つを見るごとし、22-150
ほかの泉は盛夏にも流れ極めて冷やかに、
雹霰(はくせん)または白雪にまた寒氷(かんぴょう)に触るごとし。
この泉流のそばにまた石に組まれし洗浄の
広き庭あり、そのむかしアカイア人の寄せざりし
平和の時に、トロイアの士人の妻と、佳麗なる 155
息女と来り、光沢の衣この場に洗いたり。
この庭過ぎて一は逃げ、他は後ろよりこれを追う、
逃げ行くかれの剛勇にさらにまさりて勇猛の
これは激しく追い迫る、世の競走の賭けとなる
牛皮あるいはいけにえを彼ら望まず、賭くるもの、160
駿馬を御するヘクトール、その名将の命のみ。
賭けを得るべく単蹄の駿馬激しく終局の
地点——そこには戦没の人の記念にすぐれたる
懸賞[2]——かなえあるは女子置かるるところ、——めぐり飛ぶ、
まさしくかくも両勇士イリオン城を三たびまで[3]、165
飛ぶがごとくに駆けめぐる、すべての神はこを眺む。
そのとき、人と神の父、まさきに彼らに宣しいう、

[1]6-433。
[2]神の祭礼に競技をなすことは、ホメーロス以後のギリシア風俗。
[3]紫宸殿をめぐりて源義平(アキレウス)と平重盛(ヘクトール)との駆馳(くち)に似たり。

『ああ無残なり!我はいま愛する者が城壁の
まわりに追われ行くを見る、憐れなるかなヘクトール!
彼は多くの牛のももあぶりてわれに捧げたり、170
あるはイーダの連峰の上、また時に城中の
もっとも高き壇の上、——彼を勇武のアキレウス、
足を飛ばしてプリアモス王の都城をめぐり追う。
汝ら諸神、いま計れ[1]、計慮誤ることなかれ、
彼の死滅を救わむか? あるいは惜しき勇将を、175
ペーレイデース・アキレスの手をいま借りて倒さんか?』

[1]16-433~438参照。

藍光の眼のアテーネーそのとき答えて彼にいう、
『雷火を飛ばし雲わかす君、いま何の仰せぞや? 
運命すでに定まれる彼を、生死の人の子を、
恐怖の死より今もなお、君救わんと宣するや? 180
なしたくばなせ、一切の他の神々は喜ばず』

雷雲寄するクロニオーン彼女に答えて陳じいう、
『トリトゲネーア、わが愛女、心安かれ、定まれる
心よりして我言わず、汝にわれは辛からず、
汝の胸に思うまま行え、何ぞためらうや?』185
しか宣すれば、アテーネー――既にこの事望みたる
女神、勇みてさっそうと、ウーリュンポスを飛びくだる。

かなた足疾きアキレウス、絶えずヘクトル追い走る。
たとえば山に狩りの犬、こもれる巣より鹿の子を、
駆り立て、谷を林藪を過ぎて激しく追うごとし、190
可憐の子鹿おじふるい、繁みの内に隠るれど、
足跡したい絶間なく追い来る犬は探り出す、
かくのごとくにヘクトール、アキッレウスを逃れえず。
堅固の構え、壁の下、ダルダニアーの子らの門、
壁の上より矢を飛ばし助くる者のあるべきと、195
望みてここにまっしぐら、彼は駆けんと幾度も
あせるも、敵はさえぎりて彼に先んじ、平原の
方へと彼を追いまくり、身は城壁に近く馳す。
夢にて人は逃げ走る者に追いつくことをえず、
また逃ぐる者、追い来たる人を逃がるることをえず、22-200
かく一方は達しえず、他方ひとしく逃れえず。
これまでいかにヘクトール死の運命をまぬがれし、
神ポイボス・アポローンこれを最後と近付きて、
勇気を鼓舞し迅速の膝を励ますことなくば? 
いま剛勇のアキレウス、頭を曲げて兵士らに 205
合図なしつつ、ヘクトルに飛刃を放つなからしむ、
他が功名を先きに得て、かれ次なるを恐るれば。
かくして二人いま、四たび泉のほとり来り着く、
そのときゼウス黄金の秤取り出し[1]、皿の中、22-209
二つ死滅の運命のおもりを置けり。その一は 210
アキッレウスの、他は敵の将ヘクトールの持てる運、
秤のもなか手にとりて計れば、垂るるヘクトルの
運は冥王のもとに行く。アポローンついに彼を捨つ。
藍光の目のアテーネーそのとき来り近付きて
アキッレウスを励まして羽ある言句陳じいう、215

[1]8-69~72。

『ゼウスの愛児、栄光のアキッレウスよ、我々は
今こそ望む、戦闘に飽くこと知らぬヘクトルを 217
倒し、アカイア水軍に偉大の誉れ運ぶべし。 218
彼は今こそ我らの手逃るることを許されず、
飛箭鋭きアポローン、アイギス持てる天王の 220
前にひれ伏し哀願に力こむるも甲斐あらじ。
さもあれ汝立ち止まり休らえ、我は走り行き、
彼に勧めむ、まのあたり汝に向かい戦えと』

しかく宣するアテーネー、勇将喜びこれを聞き、
青銅の穂の大槍に身をもたせつつ立ち止まる。225
そをあとにしてアテーネー、敵将めがけ走り来つ、
デーイポボス(ト)[1]の身体と高き音声、そのままに
似せてかたえに近寄りて、羽ある言句陳じいう、

[1]彼の音声13-413参照。

『ああわが家兄、足速きアキッレウスは君を攻め、
飛ぶがごとくにイリオンの都城めぐりて君を追う、230
いざ今ともに立ちどまり、彼を迎えて戦わむ』

堅甲光るおおいなる将ヘクトール答えいう、
『デーイポボスよ、汝をば、プリアモス王ヘカベーの
両親生める兄弟の中にもっとも我めでき、
いまは一層胸の中、我は汝を尊ばむ、235
事の危急を眺め得て、あえてわがため城壁の
外にけなげに来たれるよ、他はみな中にとどまるに』

目は藍光のアテーネー、彼をあざむき答えいう、
『家兄よ、げにもわが父とわが恩愛の母および
あたりの諸友、わが膝をかわるがわるにかき抱き、240
出づるなかれと戒めき、さほどに彼ら怖じふるう、
しかはあれども、わが心いたく悲哀に満たされき。
いざいま勇気振り起し、まともに彼と戦わむ、
槍を惜まず戦わむ、かくて知るべしアキレウス、
汝の槍に倒るるか、あるは我らをうち倒し、245
血潮に染むる戦装をその水陣に持ち去るか?』

しかく陳じてアテーネー彼をあざむき先に立つ。
かくして近くかれとこれ、両将互いに相すすむ。
堅甲光るヘクトールまさきに口を開きいう、

『ペーレイデース、先のごと我は汝にいま怖じず。22-250
三たびイーリオンおおいなる都城の周りわれ走り、
襲う汝を待たざりき。されどもいまはわが心、
討つもあるいは討たるるも汝に向かい立てという。
さはれ諸神をもろともに仰がむ、彼ら最上の
あかしたるべし、諸々の誓約彼ら守るべし。255
もしもゼウスの寵により、汝に勝ちて生命を
奪わば、我は汝の身、無残に害すことをせず。
ただ荘麗の武具を剥ぎ、終わりて死体をアカイアの
軍の手もとに渡すべし。汝同じくこれをなせ』

足神速のアキレウス目を怒らして彼にいう、260
『忘れぬ恨み、ヘクトール、誓約あえていうなかれ、
獅子と人との間には固き約束あるをえず、
狼および小羊の間同じき心なし、
彼らは常にあい互いただ傷害の思念のみ、
かくのごとくに戦闘に飽かざる武神アレースを、265
紅血をもて飽かす前、汝と我の間には、
愛の協定あるをえず、誓約たえてあるをえず。
あらゆる勇気振り起せ、今こそ汝投げ槍を
巧みに使う勇猛の戦士とおのが身を示せ。
逃るる道はすでになし、わが槍によりアテーネー・ 270
パラス汝をほろぼさむ、今こそ汝つぐなわめ、
荒びて槍に倒したるわが僚友の悲しみを』

しかく陳じて影長き大槍振りて投げ飛ばす、
これをまともにしかと見て、巧みに避けしヘクトール、
身をかがむればその上を青銅の槍飛び過ぎて、275
大地に刺さる、こを抜きてひそかにパラス・アテーネー、
ヘクトルの目に触れずしてアキッレウスの手に渡す。
そのときヘクトル剛勇のアキッレウスに向かいいう、

『ああ神に似るアキレウス、汝誤る、ゼウスより
わが運命をまだ聞かず、むなしく言を弄ぶ、280
汝巧みに喋々し、われを欺き、われをして、
汝を恐れ勇と意気忘れしめんと念ずるや?
汝は槍に、逃れ行く我が身の背をばよも刺さじ、
勇気あふるるわが胸を刺せ、神々の寵あらば。
いざいま汝青銅のわが鋭槍に心せよ、285
汝の肢体願わくはまともに受けよわが飛刃、
しからばトロイア軍勢にこの戦いはやすからむ、
その最大の禍難たる汝生命失いて』

しかく陳じて影長き大槍振りて投げ飛ばし、
アキッレウスの大盾のもなかをうちて誤らず、290
されども盾を貫かず、槍はこれよりけし飛びぬ。
その手中よりいたずらに飛べるを怒るヘクトール、
他の鋭槍を持たざれば、頭を垂れてたたずみつ。
デーイポボスに、盾白き[1]勇士に高く呼びかけて、
求む一条長き槍、されども彼は早見えず、295
はじめて悟るヘクトール大息しつつ叫びいう、

[1]錫をもって盾の表を覆う。

『ああ無残なり、もろもろの神々われを死に呼べり、
デーイポボスは勇を鼓し、かたえにありと思いしに、
さならず、城の中にあり、我を謀れりアテーネー。
恐るべき死はいま前にわれを去ること遠からず、22-300
逃るることは得べからず、とくの先よりクロニオーン、
また矢を飛ばすアポローン、これを望めり、一たびは
われを愛して守りしも、——いま運命は迫り来ぬ。
されどむなしく誉れなく生を終らん我ならず、
すぐれし業をなし遂げて未来にわが名ひびかせむ』305

堅甲光るヘクトールしかく陳じて、腰の上
掛けし鋭きおおいなる剣をさっと抜きかざし、
勇を奮うて飛びかかる——大空翔くる荒ワシが、
黒き雲より平原に勢い猛く舞いくだり、
あるは可憐の小羊を、あるはおそれし子うさぎを、310
襲うがごとく、ヘクトール鋭刃かざし飛びかかる。
同じく進むアキレウス、激しき勇気その胸を
満たし、華麗の精巧の大盾かざし胸の上
覆いて、四つの隆起[1]ある輝く兜ゆるがせば、
ヘーパイストス神工がそのてっぺんに植えしもの、315
燦爛としてうるわしき金の冠毛うちふるう。
夕やみ寄する天の上、群がる星の中にして、
宵の明星——天上の中のもっとも美なるもの、
光るがごとく、アキレウス右手にふるう鋭刃の
槍ひらめかし、剛勇の将ヘクトール倒すべく、320
その壮麗の身の中に隙あるところうち狙う。
されど全身ことごとく、パトロクロスをほろぼして
奪い取りたる青銅の美麗の武具におおわれつ、
露出はひとり咽喉部、そこに鎖骨は頸部より
肩を分かちて、生命の滅びもっとも疾きところ、325
そこを目がけてアキレウス、激しく飛ばす大槍の、
ねらい違わず鋭刃は敵の頸部を貫けり。
ただ青銅の重き槍、喉笛はずれ、ヘクトルに
なおも言句を吐かすべき一縷の望みなお残る。
そのとき伏せる敵将にアキッレウスは誇り呼ぶ、330

[1]5-744。

『パトロクロスの武具奪い、安しと汝思いしか?[1]
わが遠ざかるゆえをもて、畏怖知らざりしヘクトール、
愚かなるかな、船のそば、彼と離れて彼よりも
大いなるもの、我ありき、今や汝をうち倒し、
彼の恨みを復さんず。汝の死体辱しめて、335
犬と鷙鳥は噛み裂かむ、彼をば友は葬らむ』

[1]16-860
堅甲光るヘクトール息絶えだえに答えいう、
『汝の命に、また膝に、また両親にかけて請う、
船のかたえに、アカイアの犬に我が身を裂かしめな、
わが父および端厳の母が、汝に払うべき 340
青銅および黄金を豊かに汝受け入れて、
我の死体をイリオンに返せ、故郷に、トロイアの
男女ひとしく清浄の炎に我を焼かんため』

足神速のアキレウス目を怒らして彼にいう、
『わが膝にかけ両親にかけて哀願するなかれ、345
汝与えし災いを思いて怒るわが心、
われに勧めん、生きながらきざみて汝の肉食めと[1]!22-347
汝の頭噛みくだく犬を防がん人あらじ、
否、否、十倍二十倍増して賠償もたらすも、
否、否、さらにおおいなる約をなすともうべなわず、22-350
ダルダニデース・プリアモス、その等量の黄金に、
汝の死体あがなうを命ずるとてもうべなわず、
汝を生める恩愛の母は、床のへ乗せらるる
汝を嘆くことをえず。犬と鷙鳥は噛み裂かむ』

[1]4-34。

堅甲光るヘクトールいまわの際に彼にいう[1]、22-355
『ああわれ汝をよく観(かん)ず、汝に請うは不可なりき、
汝の心固くして曲ぐべくあらじ、鉄に似る。
さはれ恐れよ、神々の怒り汝にくだるべし[2]、
汝いかほど勇なるも、パリスとポイボス・アポローン[3]、
スカイアーの城門のわきに汝を討ち取らむ』360

[1]パトロクロスの最期の言、参照(16-854)。
[2]遺体の埋葬を怠ることは神の怒りを招くと。
[3]アキレスの死の予言。19-410および19-417。

しかく陳ずる彼をいま、死の暗黒はおおい去り、  22-361
その運命を泣きながら、青春および剛勇を 
あとに残して体はなれ、魂は冥王のもとに行く、
死体に向かい剛勇のアキッレウスは叫びいう、

『滅べ、我また運命を受けむ[1]、まさしくクロニオン、365
およびその他の諸神霊わが臨終を望む時』

[1]18-115。

しかく陳じて死体よりその青銅の槍を抜き、
かたえにこれを捨て置きて、敵の肩より血まみれの
武具を剥ぎ取る、しこうして他のアカイアのわかき子ら、
あたりを囲み、ヘクトルの体躯ならびに雄麗の 370
姿を検し[1]、近寄りておのおの死屍を傷つけつ[2]、
おのおのこれを見守りて隣れる者に陳じいう、

[1]ペルシヤ戦争にペルシヤ将軍の死体をギリシア軍が検してその体躯の大と美とを賛せしことヘロドトスの歴史(九巻二五)にみゆ。
[2]死屍を傷つけるは同僚がヘクトールに殺されしに報ゆるならむ。

『見よ、ヘクトール触るるべく今ははるかに柔らかぞ、
先きに猛火にわが船を焼かんとしつる時よりも』

しかく陳じて近寄りて彼らおのおの死屍を打つ。375
足神速のアキレウス勇士は武具を剥ぎ終わり、
アカイア軍の中に立ち彼らに向かい陳じいう、

『ああわが友ら、アカイアの諸将ならびに統率者、
他の一切の人しのぎ、災い多く行える
この人間をほろぼすを、神々われに許したり、380
いざいま立ちて軍勢をひきいて都城攻め寄せむ、
トロイア軍は何らの意いまや抱くか知らんため、
この者すでに死したれば、高き都市を捨つべきや、
あるはヘクトル亡べるも、なお残らんと念ずるや。

さはれ何ゆえわが心、かかる思念を生ずるや、385
パトロクロスの死体いま船のかたえに横たわり、
まだ哀哭と弔祭を受けず、わが生ある限り、
わが両足の行くかぎり、我はかの人忘られず、
冥王のもと逝ける者、そを人々は忘るとも、
われはそこにも懐しきわが同僚を思い出でむ。390
いざいま行かん、アカイアの若き人々、高らかに
凱歌うたいて船のもと、このなきがら[1]をたずさえよ。
トロイア人士いっせいに神のごとくに崇めたる
将ヘクトルをうち倒し、偉大の功を成し得たり』

[1]ヘクトルの死体である。217-18参照。

しかく陳じてヘクトルを辱かしむべき策案じ、395
そのきびすよりくるぶしに左右の足に穴うがち、
ここに牛皮の強きひもつらぬき通し、その端を
兵車につなぎ、頭をば無残に地上に引きずらせ、
輝く武具を積み入れて、かくて車台の上に乗り、
鞭を当つれば揚々と飛ぶがごとくに両馬馳す。22-400
死体ひかるる地上よりかくてうずまく砂けむり、
黒髪乱れ、先(せん)までは美麗の頭、塵埃に
まみれ汚れぬ、クロニオンかく仇敵にヘクトルを、
彼の祖先の郷のうえ辱かしむるを許容しぬ。

かく塵埃にその頭まみれ汚るる無残なる 405
姿眺めて、恩愛の母は白髪かきむしり、22-406
美なる面帕(かおぎぬ)うち捨てて声をしぼりて泣き叫ぶ。
しかして彼の恩愛の父も悲痛の声放ち、
全市ひとしく哀悼と慟哭の声満ちわたる。
高きイリオンことごとく猛火に焼かれ、高樓の 22-410
上より下に至るまで、みな滅び去る時やかく。
聖イリオンの城門を出でんとあせり悲しめる
王プリアモスとどむべく、ほとほと民は苦しめり。
その各々の名を呼びて、塵土の中に這いながら
いたくも泣ける老王は、哀願しつつ叫びいう、415

『留むるなかれ、わが友ら。懸念まことにさりながら、
我が身一つに城を出で、アカイア軍を訪わしめよ。
行きて無残の凶行の彼に哀訴を試みむ、
あるいは彼は老齢をあがめ白髪憐れみて、
我に聞かんか、彼もまた父ありすなわちペーレウス、420
彼を生み出で養いて、トロイア族の災いと
ならしめ、特に一切にまさりて我を嘆かしむ、
栄ゆるわが子幾人を彼は無残に倒せしか!
さはれ彼らの一切を悲しみながら、ヘクトール
ただ一人ほど我泣かじ、彼を慕いて冥王の 425
もとに行きたし、ああわが子、我に抱かれ死すべきを!
さらばすぐれし子を生める母と我とはもろともに、
心ゆくまで哀悼の涙をそそぎ得べかりき』

泣きつつ、かくぞプリアモス、人々同じくまた泣けり。22-429
ついでヘカベー、トロイアの女性の中にまず哭す。430

『ああわが愛児、汝逝く、我いかにして恐るべき
災い忍び生くべきや!全都にわたり日に夜に、
われの誇りのああ汝、神のごとくに、トロイアの
男女は皆の救いたる汝仰げり、生あらば
皆に対しておおいなる誉れなりきを、今にして、435
無残なるかな、運命と死とは汝を捕えたり』

母は泣きつつかく陳ず、しかはあれどもヘクトルの
妻は何をもまだ知らず、いかなる人も使者として、
いまヘクトール城外にあるを如実(じょじつ)に知らせ来ず、
高き館(やかた)の奥深く、機(はた)を設けて紫の 440
二重の衣織りなして、種々の刺繍をほどこしつ。
鬢毛美なる侍女を呼び、やかたの中におおいなる
かなえを据えて火をたきて、戦場よりしヘクトルの
帰らん時の沐浴(もくよく)の備えなさしむ、無残なり、
沐浴すでに用あらず、目は藍光のアテーネー、445
アキッレウスの手によりて彼を討ちしをまだ知らず。
さはれ慟哭哀痛の声はひびけり塔の上、
聞きて思わず膝ふるい梭(かい)[1]を地上に取り落し、
鬢毛美なるうるわしき侍女に向かいて陳じいう、

[1]「梭」は機織りの道具。杼(ひ)。シャトル。

『付き来よ、汝の中二人、いま何事の起りしや?22-450
われの尊む姑(しゅうとめ)の声いま聞ゆ、自らの
胸裏、心は口までもおどり、わが膝いましびる、
プリアモス王生める子ら、彼らに危害迫るらし。
かかる事をばわが耳よ、聞かざれ、さはれ我恐る、
かれ神に似るアキレウス、わが剛勇のヘクトルを 455
ひとり城よりかけへだて平野の上に追いまくり、
その一身を領したる激しき勇をいますでに[1]
滅ぼしたるにあらざるや?——ああわが夫、群衆の
中に残らず、勇気では人に負けじと先駆けり』

[1]6-407、12-46。

しかく陳じて鼓動する胸を抑えて、屋形より 460
狂せるごとく走りいず、二人の侍女は従えり。
かくして彼ら塔上の群衆中に着ける時、
壁上立ちて目を放ち、城のかたえに良人の
ひきずられ行く姿見る、足疾き駿馬無情にも、
アカイア軍の水陣に勇士の骸(から)をひきて行く。465
かくと認めし双眼を暗黒の夜はおおい去り、
可憐の夫人、のけざまに倒れて息は絶えかかる。
かくて彼女の頭より華麗の飾りほどけ落ち、
額の上の天巻も、髪を束ぬる綱も解け、
顔面をおおう布も落つ、アプロディーテの贈り物、470
その贈りしはヘクトール、エーエティオンのやかたより
婚資豊かに与えつつ、彼女娶りて連れ来し日。
いま倒れたるそのめぐり、夫の姉妹、兄弟の
妻女もろとも集まりて、息絶えだえの身を抱く。
息吹き返し胸中に心ふたたび覚めし時、475
激しくうめき、トロイアの女性の中に陳じいう、

『ああヘクトール、わが夫、われは薄命、君と我
同じき運に生まれたり。君トロイアのプリアモス
王のやかたに、我はまたプラコスの下、森繁る
テーべー城[1]に。エーエティオン、幼き我を館(たて)の中、 480
不幸の我をはぐくみき。ああ生まれずば良かりしを!
ああ君いまや闇の底、冥府の神の宿に行き、
われをやかたに、無残なる嘆きの中に寡婦として
あとに残せり。またわが子——ともに不幸の君と我
生みたるわが子、あどけなくいまだ幼き子にすぎず、485
ああヘクトール!君死して彼に何らの助けなし、
彼また君を助けえず[2]。彼アカイアの戦いを 487
逃れ得るとも、その後に嘆きと悩みいたるべし、
彼の領土を他のものは非道に奪いかすむべし。

[1]6-395、1-366。
[2]487~499は後世の加筆なるべしとてアリスタルコスは捨つ。

孤児となる日に一切の友ことごとく失わる、490
彼の頭は低く垂れ、彼の頬のへ涙垂る、
困れる時にその父の昔の友に訪い行きて、
哀を求めて裾をひき、上着をひくも甲斐なけむ、
憐れむ友のある者は小さき盃差し出して、
彼の唇しめらすも、彼の喉をばうるおさじ。495
またふた親を持つ者は手を挙げ彼を打ちながら、
その食事より彼を追い、罵辱の言句浴びすべし、
「立ち去れ、汝、我が家に招かれるべき父はなし」
かくて涕涙潛(さん)として寡婦なる母に帰り来ん。499
アステュアナクス、ああわが子!昔は父の膝の上、22-500
ひとり羊の脂ぎる肉と髄とを口にしつ、
しかして眠り襲うとき遊戯を捨てて寝屋に入り、
めのとの腕に抱だかれて、心しずかに喜びに
満ち、柔軟の床の上、夢路たどりし、ああわが子。
恩愛の父失いて今はた彼は悩むべし、505
アステュアナクス[1]とトロイアの人々汝の名を呼べり。

[1]「城を守る者」6-402。

ああヘクトールひとり君、トロイの城門守りたり、
今はうごめくウジ虫は、親を離れてアカイアの
船のかたえに、犬食らい飽きし赤裸の君噛まむ。
女性の手にて作られし美なるいみじき衣(ころも)いま、510
やかたの中にむなしくも帰り来たらぬ君を待つ。
されどこれらをことごとく猛火にかざしわれ焼かむ、
君にとりては用あらず、この上君は身を据えじ、
トロイア男女の目の前にこを焼き捨てん、君の名に』
涕涙せつにかく呼べば、すべての女性また泣けり。515



イーリアス : 第二十三巻



 ミュルミドネス軍団とともに、アキレウスはパトロクロスの死体を哭す。葬礼の宴を設く。疲れて眠るアキレウスの夢に、パトロクロスの霊現われて親しくともに語り、アキレウスの死ののち遺骨をともに一器に納めよと請う。朝に到りアガメムノーン諸軍に命じて火葬のために伐木せしむ。かくて縦横百尺の火葬台を設け、パトロクロスのしかばねを乗せ、多くの牲とともにこれを焼く。ボレアス、ゼピュロス二位の風の神、祈りに応じ来りてほのおを盛んならしむ。翌日遺骨を壺に納めて陣中にもたらす、墳墓の位置を定む。葬儀の礼として種々の競技を行なう。兵車競技、拳闘、相撲、徒走、競走、槍、投盤、弓、投げ槍。

彼らかくして城中に悲しみ泣けり、こなたには[1]、
アカイア軍は水陣に、ヘレスポントス[2]さして来つ、
兵は散じて陣を解き、各々おのが船に行く。
ミュルミドネスを、しかれども、アキッレウスは散らしめず、
すなわち彼の勇猛の部下に向かいて陳じいう、23-5

[1]ドイツ第二の詩豪シラーは本巻を過度に賛す、「この編を読みて人は生き甲斐あり」云々。
[2]7-86。

『ミュルミドネスの諸勇士よ、友よ、駿馬を御する者、
まだ兵車より単蹄の軍馬をはずすことなかれ、
軍馬ならびに兵車率て、近きに寄りて滅びたる
パトロクロスを弔わむ、死者に対する報いなり。
心ゆくまで哀悼を致し終らば[1]、その後に 23-10
軍馬を解きて、しこうしてここに食事をともにせむ』

[1]「慟哭は悲を癒やす」——アイスキュロス。

しかく陳じて哀号をなせば人々また哭す。
すなわち三たび死屍めぐり、たてがみ美なる馬を駆る、
しかしてテティス、人々に悲哀の念を起こさしむ。
かくして岸の砂原も、兵の武装も涕泣の 15
涙にぬれつ、敵にとり恐怖の的の英雄を
悲しむ中に、先きに立つペーレイデース、強き手を[1]
その亡友の胸にのせ、慟哭しつつ叫びいう、

[1]18-316。

『パトロクロスよ、冥王の宿においても歓喜せよ。23-19
さきに汝に約したる事一切を今なさむ[1]。 20
ここに引かれしヘクトール、犬に与えて噛ますべく、23-21
トロイア族の美麗なる小児こぞりて十二人、
首を火葬の壇の前、はねて汝を弔わむ』

[1]18-325。

しかく陳じて剛勇の将ヘクトルのしかばねの
恥辱を案じ、亡友の死屍のかたえに、塵中に 25 
うつ伏さしめぬ。——しこうして部下らおのおの青銅の
輝く鎧脱ぎ捨てて、いななく戦馬解き放つ、
かくして兵は足速きアキッレウスの船のそば、
寄ればそのまえ豊かなる葬礼の宴備えらる。
むごき刃にほふらるる多くの牛は悲鳴あげ、30
多くの羊なき叫び、山羊また牙の真白なる
家豚(いのこ)、脂肪に富めるもの、ともにひとしく炎々の
ヘーパイストスの火の上に、調理のためにあぶられつ、
遺体のあたり杯を満たすばかりに血は流る。

やがてアカイア諸将らは、その首領たるアキレウス、35
友を悼みの痛恨にひたるを、強いて説き勧め、
彼を導き民の王アガメムノーンに到らしむ。
アガメムノーンの陣営に皆人やがて着ける時、
ただちに音吐朗々の伝令の徒に命下し、
巨大のかなえ据え付けて、熱湯わかし剛勇の 40
アキッレウスを促してその血痕を清めしむ。
されども彼はあくまでもこれを否みて誓いいう、

『あらゆる神の中にして至上至高のクロニオーン、
彼に誓いて我はいう、パトロクロスを浄火もて
焼きて、勇士の記念建て、わが髪切るに先立ちて、45
わが頭上の血痕を洗いさること許されず、
われ人界にある間、かかる悲哀はまたあらじ。
さもあれいまは葬礼の宴に就くべし、しこうして
アガメムノーン、民の王、明くるあしたに皆人に
命じたきぎを取らしめよ、しかしてすべて闇深き 23-50
冥府に沈む勇将に、供うべきもの整えよ。
かくしてほのお炎々と死体を焼きてその姿
消すべし、かくて人々は戦場さして向かうべし』

しか陳ずれば将士らはその言聞きて従えり。
かくて人々意を尽し、食事を備え、平等の 55
分をおのおの分かち得て、おのおの心飽き足れり。
かくて人々飲食の願いを満たし飽ける時、
おのおの立ちて陣営の中に帰りて床に就く。
ミュルミドネスの軍勢の中に足疾きアキレウス、
激しく呻きあえぎつつ、高鳴る海の岸の上、60
岸を洗える潮流の浄めし庭に横たわる。
風吹きあらぶイリオンへ向けてヘクトル追い行きて、
強き肢体も疲るれば、やがて甘美のやわらかき
眠りの霊はおとずれて、胸より悲哀ふりほどく。
そのとき彼に臨み来るパトロクロスの幽魂は、65
身の丈および麗しき双の目、さらに音声も、
衣服もすべてことごとく、ありし昔のままにして、
友の頭のうえ近く立ちてすなわち陳じいう、

『汝は眠る、アキレウス、汝は我を忘れしや?
生ける間は忘れねど死すれば汝忘るるや? 70
冥王の門過ぎんため、葬れ我をすみやかに。
命亡べるもろもろの霊は我が身を追いのけて、
しかして我に河[1]を過ぎ、ともに混じるをうべなわず。

[1]冥土の河、ただしいずれの河か、ホメーロス詩中には明らかならず。後の詩人によればステュクス。

かくて冥府の大いなる門のほとりにわれ迷う。
いざ我に貸せ汝の手、われの涙の願いなり、75
浄火一たび身を焼かばわれ冥王のもと去らじ。
他の僚友を別にして、汝とともに計略を、
講ぜんことはもはやなし、わが生まれより一身に
定まり来る運命は、むごくもわれをほろぼせり。
しかして汝アキレウス、神に等しき汝また、80
トロイア城の壁の下、死すべき運は定まれり。
我また一事君に乞う、君願わくはこれを聞け、
我の遺骨をアキレウス、汝のそれと分かたざれ。
骰子(さいころ)遊びに憤り、心ならずも誤りて、
アンピダマス†の子をわれの殺せし昔、復讐を 85
メノイティオスは怖じ恐れ、幼き我をオポエスの
故郷をあとに連れ出し、汝の家に託したり。
そのとき騎将ペーレウス、汝の父は慇懃に、
我を養いはぐくみて、臣下となして同じ家に
汝と我を住ましめき、死後も同じく住ましめよ、90
神母汝に与えたる一つの容器、黄金の
壺に願わく我々の骨はもろとも収まらむ』

足神速のアキレウスそのとき答えて彼にいう、
『最愛の友、何ゆえにここに来りて、一々に
この事なせと命ずるや?これらの事はことごとく、95
汝のために行ないて汝の命に従わむ。
さはれいっそうわがそばに近付き来れ、願わくは
しばしなりとも抱き合い、悲痛の思い飽かすべし』

しかく陳じてアキレウス、両のかいなを伸ぶれども、
触れえず、霊はかすかなる悲鳴をあげて地の下に、23-100
煙のごとく消え去りぬ、驚き覚めるアキレウス、
左右の両手を相うちて悲痛の声を放ちいう、

『痛ましきかな、げに人は冥府の王の宿にすら、
魂あり、影あり、しかれども生気は全くそこになし[1]。
ああ薄命のわれの友、パトロクロスの幽魂は、105
泣きて呻きてよもすがら、われのかたえに近付きて、
云々(しかじか)の事なせという、影は不思議に生けるまま』

[1]死者についてのホメーロス時代の観念。

しかく陳じて人々に悲泣の念を起さしむ。
いま薔薇色の指持てるあけぼの出でて、無残なる
死体を嘆く兵てらす。アガメムノーン、民の王、110
そのとき四方の陣屋より人とラバとを励まして、
木を運ばしむ。しこうしてメーリオネース、剛勇の
イードメネウスの部将たるかれ先きに立ち導けり。
皆はすなわち伐木の鋭利の斧を手に握り、
またよく撚りし縄を取り、ラバを先立てすすみ行く。115
かくして上りまた下り、あるいは斜めあるは横、
行きて泉流豊かなるイーダの峰に到り着き、
いそぎてすぐに鋭刃の青銅とりて、巨大なる
樹木を打てば、おおいなる音響たてて地に倒る、
アカイア勢は引きつづき、これを断ち切りラバの背の 120
上に乗すれば、一列はひづめ大地を蹴りながら、
繁き林藪うがちつつ、平野に向かいいそぎ行く。
イードメネウスの部将たるメーリオネスは命ずれば、
幹を倒せる人々も、おのおの割木背に負えり。
運び来りて岸の上、アキッレウスが友のため125
身のため墓ときめし場に、材を兵士ら置きならぶ。

かくて兵士ら四方より多量の材を集め来て、
ここに身を座しやすらえり。アキッレウスはそのときに、
ミュルミドネスの勇士らに命を下して、青銅の
鎧着けしめ、おのおのの兵車に馬を繋がしむ、130
兵はいそぎて立ち上がり、しかして武装整えり。
車台に乗るは戦闘の勇士ならびに車馬の伴、
騎士は先立ち、その後に無数の歩兵したがいて、
パトロクロスのなきがらを同僚まなかに担い行く。
彼らはさらに毛髪をおのおの切りてしかばねの 135
上に覆えり[1]。アキレウス、後ろにつきてその頭、
手に触れ泣きて、愛友を冥土の旅に送り行く。

[1]古代の一般の習い。

かくして先きにアキレウス定めし庭に到り着き、
死体をおろし、すみやかに山のごとくにたきぎ積む。
足神速のアキレウスそのとき一事また案じ、140
火葬のにわを離れ立ち、スペルケイオス[1]神のため
さきに育てて長うせし黄金色の髪を切り、
暗緑そむる海眺め、がい然として叫びいう、
『ああスペルケー、むなしかり、君に我が父ペーレウス
立てし誓いは——懐しき故郷にわれの帰る時、145
わが金髪を君に切り、聖なる牲をたてまつり、
さらに五十の雄羊を、君の神苑——香煙の
かおれる壇にほど近き流れに投じ捧げんと、
われの老父は誓いしも、君はその意を成らしめず。
我は祖先のなつかしき故郷に帰る命ならず、23-150
パトロクロスにわが髪を与えたずさえ行かしめむ』

[1]16-174。

しかく陳じて愛友の手に金髪を握らしめ、
眺むる人に哀悼の念をそぞろに起さしむ。
哭する人を夕陽の落ち行く光、照らすとき、
アキッレウスは近付きてアガメムノーンに向かいいう、155
『アトレイデーよ、アカイアの族はもっとも君の言
つつしみ仰ぐ。人々はのちに飽くまで泣くもよし、
されどもいまは葬礼の場より彼らを去らしめよ、
食事の備えなさしめよ、故人に愛の深かりし
我らでここは行わむ、諸将はともに残れかし』160
アガメムノーン、民の王、彼の陳ずる言を聞き、
ただちに皆を解き散じ、おのおの船に帰らしむ。
葬儀の任に当るもの、あとに残りて薪材を
集め、縦横百尺の火葬の台を築き上げ、
心に悲哀満ちながら、その頂上に死体おく。165
しかして火葬の台の前、脂肪に満てる群羊と、
角は曲りて足歪む牛をほふりて皮を剥ぎ、
肉を調理す。その脂肪アキッレウスは取り出し、
友の死体の身を包み、あたりに牲を積み重ね、
さらにその上蜂蜜を油を盛れる壺二つ、170
傾け注ぎ、慟哭を続けながらも、首高き
四頭の馬をすみやかに火葬の薪の上に載す。
九頭の犬を食堂にパトロクロスはともないき。
中の二頭の喉切りて同じく上に彼は置き、
また牲として捕えたるトロイア族のすぐれたる 175
子ら十二人、青銅にむごくほふりて積み重ね、
かくして狂う炎々の猛火の炎あらびしむ。
そのとき彼は慟哭の声を放ちて友を呼ぶ、

『冥府の闇に宿るとも、パトロクロスよ、歓喜せよ[1]。
さきに汝に約したるすべてをすでになし遂げぬ。180
トロイア族のすぐれたる子ら十二人みなすべて、
汝とともに火に焼けむ、プリアミデース・ヘクトルは、
これに反して火に焼かず、犬に与えて噛ましめむ。』 23-183

[1]23-19。

しかく罵り叫びしも、犬は死体に近付かず、
ゼウスの女神アプロディテ、これを守りて夜も日も、 185
犬を遠ざけ、アムブロシア薔薇の香油まみらして、
アキッレウスがひきながら死体を裂くを得せしめず。
さらにポイボス・アポローン、平野の上に黒雲を、
天より彼のため広げ、死体の占むるすべての地、
みな覆いさり、日輪の威力のためにいち早く、190
肢体ならびに筋肉の萎縮すること無からしむ。

パトロクロスの火葬壇、しかはあれどもよく燃えず、
足神速のアキレウス再び一の策あんじ、
すなわち薪(まき)を立ち離れ、ゼピュロスおよびボレアース、
風の二霊に祈祷上げ、すぐれし供物捧ぐべく 195
誓いて、金の杯にあまたの献酒行ないて、
すぐに死体の燃え上がり、薪材早く焼けんため、
その来訪を乞い求む。イーリスただちにその祈り
聞きて、いそぎて使者として、風の二霊を訪い来る。
いぶき激しきゼピュロスの館に二霊はそのときに、23-200
つどい宴を開きおり、石の戸口にイーリスの
足を止むるを、目をあげて眺めてともにいっせいに、
座を立ちあがり、各々はおのれのもとに彼女呼ぶ。
されどイーリス座に着くを拒みてすなわち陳じいう、

『とどまるをえず、我はいまオーケアノスの潮流に、205
アイティオピア[1]の郷に行く、人みなそこに神々に
犠牲を捧ぐ、我もまた同じくこれにあずからむ。
さはれゼピュロス、ボレアース、汝来るをアキレウス、
せつに祈りて豊かなる供物約せり、願わくは
汝ら猛炎煽り立て、アカイア人の悲しめる 210
パトロクロスの埋葬の薪(まき)を激しく燃えしめよ』

[1]1-423。

しかく陳じてイーリスは別れて去れば、颯々の
音も激しく群ら雲を駆りつつ二霊たちあがり、
ただちに海の上来り、いぶけば潮(うしお)ほうはいと
嵐の下にわき上がる、やがてトロイア豊沃(ほうよく)の 215
郷に、火葬の壇上に、吹けば神火は吠え叫ぶ、
二霊かくしてよもすがら荒れに荒れつつ壇上の
炎をあおる、しこうして足神速のアキレウス、
またよもすがら黄金のかめに葡萄の美酒たたえ、
二柄の盃に酌みとりて注ぎて大地潤しつ、220
パトロクロスの薄命の魂呼べり、たとうれば
華燭新たの若き人、にわかに死してふた親を
泣かしめ、遺骸焼く父の愁傷禁じ得ざるごと、
まさしくかくもアキレウスその親友の骨を焼き、
火葬のにわをめぐり行き、時々慟哭の声放つ。225

地に光明を告ぐるべく、明けの明星あらわれつ、
サフラン色の衣着るあけぼの波を渡る時、
激しく薪を焼きたてし猛火はついにしずまりて、
風の二霊はその郷に、トラーケーの海の上、
今はと共に立ち帰り、海ほうはいの波わかす。230
ペーレイデースこなたには、火葬の壇を遠ざかり、
疲労のあまり横たわる、甘眠彼の目をとざす。
されど人々群がりてアトレイデースうち囲み、
おこす騒ぎと雑音は突然彼を目ざましむ、
すなわち彼は身を起し皆に向かいて陳じいう、235

『アトレイデースおよび他のアカイア族の諸頭領、
まず暗紅の酒を以て、猛炎つよく襲いたる、
火葬の薪をしずめ消せ、しかして次ぎに心して、
メノイティオスの生める息、パトロクロスのもろもろの、
骨を子細に選り分けよ、認め知ること難からず、 240
薪のもなかに彼伏せり、その他の人馬もろともに、
離れて端に横たわり、雑然として火に焼かる。
脂肪二重につつませて、彼の遺骨を黄金の
壺におさめよ、冥界の郷に我また行かんまで。23-244
いま作るべき墳塋をあまりに大にするなかれ、245
程よく建てよ、のちの時、汝らこれを高くして、
大なるものとなすあらん、漕ぎ座あまたの船の中、
我より後にながらえるアカイアの民、汝らが』

足神速のアキレウス、しか陳ずればみなは聞き、
まず暗紅の酒そそぎ、猛炎つよく襲いたる 23-250
火葬の余燼しずむれば、あとに積るは厚き灰。
涙を垂れて将士らはやさしき友の白骨を、
脂肪二重に包みつつ、おさむ黄金(こがね)の壺の中、
しかしてこれを陣営の中にもたらし絹におおう、
しかしてつぎに墳塋の位置を画してその基礎を、255
火葬の壇のそばに据え、ただちに上に土を積む。

かくて墳塋積み上げて去らんとするを、アキレウス、
そこに留めて、盛んなる集会の席に座らしめ、
船より種々の賞品を——かなえを釜を取りに来る[1]。
あまたの馬をまたラバを、首たくましき大牛を、260
衣帯いみじき女性らを、また燦爛の鉄(くろがね)を。

[1]葬儀の礼としてこれより八種の競技始まる。第一は兵車競走。

まず、いやさきに彼は懸く、兵車競いの賞の品。
第一等は工芸にすぐれし女性、加うるに
二十二メトラの大きさの耳輪を付せる大かなえ、
つぎに二等の賞として定むるところ、六歳の 23-265
牝馬いまだに慣れずして胎(はら)に子馬を宿すもの、
次ぎ三等に対しては、四メトラ測る大きさの
まだ火に触れぬ釜一つ、銀色燦と光るもの、23-268
つぎに四等の賞として定む、黄金(こがね)の二タラント、
次に五等に二柄壺、いまだ火焔に触れぬもの。 270
かくして立ちてアカイアの皆に向かいて陳じいう、

『アトレイデース、および他の脛甲かたきアカイアの
友よ、場裏に騎士待ちてこれらの賞は横たわる。
他の戦将のためにこの競技をわれら行わば、
我一等の賞を得てわが陣営に持ち去らむ。275
汝ら知らむ、わが御する双馬すぐれていみじきを、
彼ら不死なり、わが父にポセイドーンがそのむかし
与えたるもの、わが父は我に彼らを伝えたり。
さもあれ我も単蹄の双馬も共に動くまじ。
彼らを御せしすぐれたる、しかもやさしき勇将は 280
滅べり、彼はたびたびも清き水もて洗う後、
双馬の長きたてがみにいみじき香油そそぎしよ。
その勇将を悲しみて髪を地上に垂れつつも、
見よや、可憐のわが双馬、悄然としてたたずむを。
さはれ汝らアカイアの中の誰しも、その馬と 285
その兵車とを頼む者、いざ競争の準備せよ』

しかく陳ずるアキレウス、聞きて騎士らは寄せ来る、
エウメーロス[1]は民の王、アドメートスのめずる息、288
馬術すぐれし彼は今、はるかまさきに立ち上がる。
テューデイデース、剛勇のディオメーデースこれに次ぎ、290
アイネイアス[2]より奪いたるトロイア双馬御して立つ、
(主公の彼を救いしは銀弓の神アポローン)
アトレイデース・メネラオス金髪の将また続く、
ゼウスの裔の勇将は二頭の駿馬御して立つ、
アガメムノーンのアイテーと、おのれ有するポダルゴス、295
アガメムノーンにアイテーを、エケポーロスは与えたり、
アンキーセース(ギ)[3]の子たるかれ、イリオンさして付き来るを
好まず、国に留まるを願うがゆえに与えたり、
ゼウスに巨富を恵まれてシキュオーンの地に彼は住む、
牝馬アイテーおおいなる歓喜に満ちてはやり立つ。23-300
アンティロコスは第四番、たてがみ美なる馬を御す、
ネストールのすぐれし子、父は高貴の性にして、
そのまた父はネーレウス、ピュロスの産の駿足は、
兵車を彼のために引く、思慮に長ぜる彼のそば、
父は来りて慇懃にさらに教えをこめていう、305

[1]2-713、2-764。
[2]5-298、5-323。アポロンに救われしは、5-344、5-432
[3]アイネイアースの父と同名別人。

『アンティロコス[1]、汝をば若き時よりポセイドーン、
ゼウスもろとも寵愛し、種々の馬術を教授せり。
しかれば我が今さらに汝をさとす要あらず、
汝まったく終点をめぐり駆くべきすべを知る、
されど汝の馬遅し。難儀あるいは起らんか。310
彼らの馬はみな速し。されども彼ら駿足を
御すべき技は、わが愛児、汝にまさることあらず。
いざ立て、愛児、しこうして種々の計慮を胸の中
めぐらせ、懸けし恩賞を失うことの無きがため、
腕力よりも技により樵夫(きこり)はるかに相まさる、315
船こぐ者も技により、風に悩める快船を、
暗紅色の海の上、進め走らすすべを知る、
同じく戦車御する者、巧みによりて他をしのぐ。
されど戦馬と戦車とをひとえに信じ頼む者、
思慮なくあなたこなたへと、長きにわたり馳せらして、320
競技に馬の駆け行くを正しく御する道知らず。
これに反して智あるもの、御するその馬遅しとも、
終点常に目に入れて、それの近くを駆け走る、
また初めより牛皮にて作れる手綱手にとりて、
馬を御しつつ怠らず、先だち駆くる相手見る。325

[1]348までこの教訓は続く。ある評家いわくまったく無用。後世の拙き加筆。

いま明瞭の目じるしを汝に告げむ、心せよ、
かなた地上に一尋(ひろ)の乾ける樹幹立つを見よ[1]、
檞かもしくは松柏か、雨に朽ちずにそびえ立つ、
白き二つの石はその右と左の両側に
道の合わさる中にあり、競馬の道はそのめぐり。330
おそらく昔、滅びたるある人間の記念碑か、
あるいは過ぎし人々の決めし競馬の目標か、
いま足速きアキレウスこれを周回点となす。

[1]以下すこぶる曖昧。

汝かしこに進む時、そこに戦車を近く駆れ、
しかして車台の上にして双馬の中の左へと、335
少しく汝の身を寄せよ、しかして高く叱咤して、
右手の馬を駆り進め、しかして手綱緩うせよ。
つぎに左の馬をして、かの目標に迫らしめ、
車輪のこしきそのへりに触るると見ゆるほどまでも、
疾く駆けしめよ、しかれども石に触るるを戒めよ、340
おそらく馬と戦車とを傷つけ砕くことあらむ。
しからば勝利他に帰して汝恥辱を被らむ。
されば愛児よ、心せよ、警戒怠ることなかれ。
もし転回に競争者しのぎて駆くることを得ば、
汝に誰も追い付かじ、言わんや汝をしのがんや、345
よし後ろよりアリーオーン[1]、神の裔なる駿足を——
アドラーストス[2]の駿足を——人は駆るとも、あるはまた、
ここに飼われてすぐれたるラーオメドーン[3]の馬駆るも』348

[1]アリーオーンは後代テーバイの神話に著名の馬。
[2]2-572。
[3]5-266、5-268。

ネーレウスの子ネストール、その子に種々の忠言を
かくのごとくに陳じおえ、やがておのれの座に帰る。23-350

たてがみ美なる馬を御すメーリオネスは第五番。
五人、車台に身を乗せて、くじを兜の中に入る、
これをうちふるアキレウス、その時さきに出でたるは、
アンティロコスのくじにして、エウメーロスのそれは次、
次は槍術巧みなるアトレイデース・メネラオス、355
メーリオネスはまた次いで彼の戦車を進めんず、
テューデイデース、皆人にすぐれたる者、最後なり。
かくして五将一線に並ぶ、そのときアキレウス、
はるかあなたの平原のうえの目標示しつつ、
父の御者たるポイニクスすぐれし勇士遣わして、360
この競走を監せしめ、報告誤りなからしむ。

そのとき五将いっせいに馬に向かいて鞭加え、
激しくうちて高らかに勢い猛く叱咤しつ、
馬どもすなわちすみやかに水軍のもとたち離れ、
平野に沿いて駆け走る、その胸もとに蹴上げたる 365
塵埃乱れ、もうもうと雲とあらしを見るごとし、
しかして馬のたてがみは風の呼吸に流れ飛ぶ。
戦車時には豊沃の大地の面をかすめ去り、
時には高く飛び上がる、しかしてこれを御する者、
車台に立ちて心臟の鼓動激しく優勝を、370
おのおの念じ、その馬をおのおのいたく励ませり、
馬のおのおの塵埃を立てて、平野の上を飛ぶ。

かくして全馬足速く平野の端に着きて後、
再びもとに波白き海原さして帰る時、
彼らの長所現われて力の限り駆け走る。375
エウメーロスの駆る駿馬そのときまさき駆け来る。
これにつづきて飛び来るディオメーデース御する馬、
トロイア産の駿足は極めて近く迫り来て、
前の戦車に乗らんずるごとくに見えて、その呼吸
エウメーロスの背および、広き双肩かすめ吹く、380
見よ、追い来たるその双馬、頭は彼の身に触るる、
しかして彼に追い付くかあるいは彼を越さんとす。
そのときポイボス・アポローン[1]、テューデイデースに憤り、
彼の手中の輝ける鞭を彼より奪い去る。
怒る勇将さん然と涙流して眺め見る、385
相手の牝馬いや速く駆くるに反し、おのが馬
駆るべき鞭の無きままにその進行の遅々たるを。
かく勇将をあざむける神ポイボス・アポローン。
これを認めてアテーネー[2]、いそぎ勇将追い行きて、
その鞭彼の手に与え、彼の駿馬の勇を鼓す。390
さらに女神は憤然とエウメーロスのあとを追い
双馬のくびきうちくだく、かくして馬は右左、
道より狂いおどり駆け、ながえくだけて地に落ちぬ。
しかして車輪のかたわらにその車台より落されて、
彼自らは肘と口またその耳をすりむきつ、395
まゆげにかけてその額、傷を負いつつ、双の眼に
無念の涙あふれ来て、ほがらの声もとどまりぬ。
テューデイデースその時にあらゆる者に先んじて、
道を転じて単蹄の馬をすすめぬ——アテーネー
馬に勇気を鼓吹(こすい)して勇者に誉れ与えたり。23-400
つぎに進むは金髪のアトレイデース・メネラオス。
アンティロコスはこれを見て御し行く馬に叫びいう、

[1]アポロンかつてエウメーロスの父アドメートスの牧夫としてこの馬の世話をせり(2-766)。
[2]アテーネーとくにディオメーデースを恵む(5-855、10-482)。

『進め、汝ら、全力を尽せ、汝の足を伸せ、
テューデイデース乗る馬に競えとあえて我言わず、
目は藍光のアテーネー、勇者の馬に力貸し、405
速く駆けしめ、栄光を彼らの主に与えたり。
アトレイデース乗る馬に、さはれ追いつけ、すみやかに、
後るるなかれ、アイテーは牝馬ならずや!汝らは
優れるものを、何ゆえに後れて恥を受くべきぞ?
いま汝らに告げんとす、告ぐる所はきと成らむ。410
いま怠慢のゆえをもて劣れる賞を取るあらば、
民衆統ぶるネストルに汝再び用なけむ、
彼は鋭き青銅をとりて汝らほふるべし。
いざいま続け、全力を尽くし、相手のあとを追え、
我は計略めぐらして巧みに狭き道に入り、415
彼を追い越す事をせん、この事必ず我なさむ』

しか陳ずれば双の馬、主公の威喝恐れつつ、
激しく走る、しかれども間なくたちまち勇猛の 
アンティロコスは目前に、窪める狭き道を見る、
冬の雨水とうとうと集まり寄せて道崩し、420
あたりをすべて押しくぼめ、深き低地となすところ、
他と衝突のうれい避け、そこに向かえりメネラオス。
されどたくらむネストルの子は単蹄の双馬駆り、
いささか脇にそれながら道を離れて彼を追う[1]。
アトレイデスは見て恐れアンティロコスに叫びいう、425

[1]この二行不明(リーフ)。

『アンティロコスよ、思慮なくも駆くるな、馬の足とめよ、
この道狭し、すぐ汝広き道にて乗り越さむ、
我の兵車にうちあてて、共に損なうことなかれ』

しかく陳ぜり、しかれどもアンティロコスはその言を
聞かざるまねし、鞭あげていよいよ双馬駆り進む、430
力を試す屈強の青年腕を高く上げ
投げる円板遠く飛ぶ、その距離ほどに先んじて、
双馬すすめば、そのあとをアトレイデースの馬は馳す、
彼はつとめてその馬を進むることを差し控う、
道路の上にかれとこれ、単蹄の馬うち当り、435
いみじき兵車くつがえし、ために勝利を期しながら、
二人おのおの地に落ちて塵にまみるる恐れより。

いま金髪のメネラオス叱りて彼に叫びいう、
『アンティロコスよ、汝ほど奸智に富める者あらず。
汝をさきにアカイアの諸人褒めしは誤まれり。440
かく行なうも誓言[1]をのべずば汝賞を得じ』

[1]奸策をなさずとの誓い(23-581~23-585)。

しかく陳じてその馬を励まし彼らに叫びいう、
『汝ら止まることなかれ、心悩むも緩めるな、
相手の足と膝ととも、疲労は汝のそれよりも
早かるべきぞ、青春の力を彼ら失えば』445

しか陳ずれば双の馬、主公の威喝恐れつつ、
ら 激しく駆けて競争の相手にすぐに近付けり。

平野の上を塵上げて、飛ぶがごとくに駆け来る
馬群眺めて、アカイアの諸人集会の庭に座す。
そこを離れて高き丘、四方を眺むるところより、23-450
まさきに馬を認めしはクレーテス王イードメネー。
まだ遠けれど大音に馬を励ます声を聞き、
その誰たるを認め知る、また見る、さきに馳せ来る
駿馬は赤し、ただ一の白き斑点丸くして、
さながら月に似たるもの、その額上にいちじるし。455
かくと認めて立ち上がり、アカイア族に向かいいう、

『ああアカイアのもろもろの頭領および将帥よ。
我のみ馬を認むるや?汝らいまだ認めずや?
さきにはすぐれ先頭を駆けし牝馬は、平原の
上、いずくにか傷つける、我が見るところいま先きを 460
駆くるは別の馬にして、別の勇将これを御す、
さきには彼ら目標をまわり駆くるをわれ見たり。
されどもいまは何処にも見えず、トロイア平原を
わが目あまねく見回すも、彼らを見るを得べからず[1]。
御者は手綱を取り落し、馬をただしく目標の 465
まわりに駆るを得ざりしか?転回するを得ざりしか?
思うに彼は車台より地に落ち車輪破れしか?
しかして馬は荒れ狂い、道より外にそれたりや?
されど汝ら立ち上がりともに眺めよ、われはよく
見分くるをえず、ただ思う、まさきに駆けり来る者、470
アイトーリアの族にして、アカイア軍を司どる
ディオメーデース——剛勇のテューデイデースなるべきを』

[1]以上三行大概の版に除かる。

しかいう彼をアイアース・オイレーオス[1]はそしりいう、
『イードメネウスよ、饒舌はまだなお早し。平原の
広きを遠くかなたより馬はおどりて駆け来る、475
アカイア族の中にして汝は若き者ならず、
汝のもてる双眼はよく明快に見るをえず、
されども常に饒舌に汝はふける、饒舌は
汝なすべき事ならず、まされる者はほかにあり。
さきに先頭駆けし馬、今もまさきに駆け来る、480
エウメーロスのそれにして手綱を取りて彼は駆る』

[1]勇将らの口論まったく小児の争いのごとし、好笑。

クレーテス王憤り、答えて彼に叫びいう、
『誹謗にもっともすぐれたるアイアン[1]、汝アカイアの
中に他のことみな劣る、汝の心むごきかな。
いざ今ここに三脚のかなえもしくは釜を賭け、485
アガメムノーン元帥をともに判者といただかむ、
いずれの馬が先きなるや、汝敗れて悟るべし』

[1]アイアースの呼格。

オイレーオスのアイアースその言聞きていきどおり、
ただちに立ちて激烈の言句に彼に答えんず、
かくして二人争いを高めんずるを見て取れる 490
ペーレイデース・アキレウス、自ら立ちて陳じいう、

『アイアンおよびイードメネー、汝らつらき言句もて、
応答するを早止めよ、ふさわしからず汝らに、
他の者かかる事なさば汝らまさに怒るべし。
集会の場に身を据えて、汝ら、来る馬を見よ、495
勝ちを競いてすみやかに馬群この場に来たらんず。
来らん時に汝らはおのおの知らむ。アカイアの
馬群の中に何者か、一着あるいは二着かを』

しかく陳ずる間もあらず、テューデイデース近付けり、
絶えず鞭を振り上げて、進むる双馬すみやかに、23-500
空におどりて飛ぶごとく、平野の上を走り来る。
しかして絶えず塵埃はもうもうとして御者を打つ、
しかして錫と黄金に覆い飾れるその兵車、
足神速の馬引きて進めば、めぐる双輪は、
平野の軽き塵埃の上に殆どその跡を 505
残し留めず、かくばかり飛ぶがごとくにいそぎ駆く。
ディオメーデース集会の中かく着けり、淋漓たる
汗は双馬の首と胸流れて地上ふりそそぐ。
勇士すなわち輝ける兵車をおりて地に立ちて、
鞭をくびきに立て掛けぬ。そのとき彼の身にかわり、510
賭けの褒美の一等を、すなわち女子を、取っ手ある
かなえを受けるステネロス、ただちにこれを家臣らに
運び去らしめ、自らは疲れし双馬解き放つ。

つづきて馬を駆り来たるネーレウスの孫、計略に
よりメネラオスしのぎたるアンティロコスはいま着けり、515
しかしてすぐにメネラオス迫りて馬を駆り来たる。
その間隔は小にして、たとえば兵車引きながら、
主人を乗せて平原を走れる馬と輪との距離、
馬の尻毛の末端は車輪の縁に相触れて、
大平原をさっそうと勇める駿馬かけて行く、520
かけ行く馬と車輪との間の幅は短かかり、
アンティロコスにメネラオス後れし距離はかくばかり。
初め後れし間隔は、ほうり投げたる円板の
距離にも等し、しかれどもたてがみ美なるアイテーは、
アガメムノーンの貸しし馬、奮いて彼に追いつけり。525
もし競争の行程がこれよりさらに長ければ、
アンティロコスをしのぎ得て勝負の争い無からまし。
イードメネウスの家臣たるメーリオネスは槍投げの
距離ほどおくれ、メネラオスすぐれし王のあとに着く、
たてがみ美なる彼の馬、足はすこぶる速からず、530
彼も競技にその兵車駆るべき技量他に劣る。
アドメートスのすぐれたる子[1]は総体のいや末に、
美麗の兵車引きつつも双馬を前に駆り来たる。
足神速のアキレウス眺めて彼を憐れみつ、
アカイア人の群れの中、立ちて飛揚の言句いう、535

[1]エウメーロス。

『最優の者しんがりに、その単蹄の馬を駆る、
第二の賞をふさわしく彼に我らは与うべし、
第一等は勇猛のテューデイデース取るべかり』

しかく陳ずる彼の言、人々等しく良しとなす。
アカイア諸人賛すれば馬をば彼に与えんず[2]。540
アンティロコスはそのときに憤然として立ち上がり、
ペーレイデース・アキレスの前にまさしく叫びいう、

[2]23-265行にいう所。

『ああアキレウス、汝その言を遂げなば、わが心
いたく怒らむ。汝いままさにすぐれし勇将の、
兵車も馬も壊れしをいたく憐れみ顧みて、545
まさにわが賞奪わんず、彼はよろしく神明に
祈るべかりき、しかなさば馬を最後に駆らざらむ。
汝心に彼を愛で、しかして彼を憐れまば、
汝の営に黄金と青銅および羊群と、
捕虜の女性と単蹄の馬のもろもろ数多し、23-550
これの中より取り出でて優れし賞を、やがてのち
彼に与えよ、アカイアの友、喜ばば今すぐに。
我は牝馬(ひんば)を譲るまじ、そのため腕の力もて
我と争い戦うを望まんものは現われよ』

しか陳ずればアキレウス勇将そぞろ微笑みつ、555
親しきゆえに愛友のアンティロコスを喜びて、
すなわち飛揚の言句もて彼に答えて陳じいう、

『アンティロコスよ、汝もしエウメーロスに我が営の
中より賞を与うるを、望まば我はしかなさむ。
アステロパイオス[1]うち倒し取りし青銅の胸甲を 560
彼に与えん、輝ける錫の装飾その上に
ほどこされあり、かれにとり、このもの貴き賞ならむ』

[1]21-140、21-183。

しかく陳じてその家臣アウトメドーンに令下し、
営より武具を運ばしむ、すなわち行きて運び来て、
エウメーロスの手に渡す、勇士喜びこれを受く。565

つづきて皆の面前に、アンティロコスに憤る
王メネラオス立ち上がる、彼の手中に伝令の
使いは笏を握らしめ[1]、アカイア軍に沈黙を
命ず、そのとき神に似るアトレイデース陳じいう、

[1]1-234。

『アンティロコスよ、昨日まで賢かりしに汝いま 570
何をかなせる?劣等の汝の馬を前に出し、
われのを阻み、わが名誉汝はかくも汚れしむ。
いざアカイアの諸頭領また諸将軍、公平に
われら二人に審判を下せ、わたくしあるなかれ、
アカイア軍のあるものにかく言わしむる事なかれ、575
「アンティロコスを虚言もて王メネラオスあざむきて、
賞与の馬を引き去りぬ、彼が競技に御せし馬 
いたく劣れるものなれど、力と優にまさるゆえ」
いざいま我は宣すべし、しかして思う、アカイアの
他の何びとも咎むまじ、我がいうところ誤らず。580
アンティロコスよ、ここに来て、世の習わしのあるがまま、
馬と兵車の前に立ち、さきに用いて駆りたてし
柔軟の鞭手にとりて、ゼウスの裔の汝いま
馬に触れつつ大地ゆるポセイドーンに誓い言え、
故意にたくらみ我が兵車さまたげしことなしと言え』585

彼に答えて聡明のアンティロコスは陳じいう、
『許せ、わが王メネラオス、我ははるかに汝より
若し、年歯に剛勇に汝は我を遠く越す、
年歯の若き人の子の過ちいかに、汝知る、
彼の心は短慮にて、彼のもつ知恵深からず。590
汝怒りをやわらげよ、わが得し馬を快く――
あるいは別にわがもとにさらに良き物あるべきを、 汝望まば喜びてただちに我は捧げんず、
ゼウスのめずる汝から常に憎まれ、しこうして
不敬の罪を神々に犯すことより優ならむ』 595

しかく陳じてすぐれたる老ネストール生める子は、
牝馬引き来てメネラオス王に渡せば喜べり、
秋収穫の平原に波寄る麦の穂の並び、
朝露光る成熟の喜び得たる時のごと、
まさしく汝、メネラオス、その胸中に喜びて、23-600
すなわち飛揚の言句もて彼に答えて陳じいう、

『アンティロコスよ、憤激をさきにはわれは起せしも、
いまは汝に譲るべし。軽卒ならず狂ならぬ
汝この日は賢慮なく、血気に駆られ誤れり。
この後再び先輩をあざむき犯すことなかれ。605
アカイア族の他の者は我の怒りをやわらげじ[1]、
されど汝は剛勇の汝の父と兄弟と、
ともに同じく我がためにいたくつとめて悩みたり。
かかるがゆえに我はいま汝の乞いに従わむ、
しかして我のかち得べき馬を与えん、人々は 610
かくして知らむ我が心、おごらず苛酷ならざるを』

[1]この戦争はメネラオスの王妃ヘレネーを原因とするがゆえに。

しかく陳じてその馬をアンティロコスの同僚の 23-612
ノエーモーン[1]に引かしめて、輝く釜の賞を受く[2]。
メーリオネスは第四次に、馬を駆り来て黄金の
両タラントの賞を受く、後に残れる第五賞、615
二柄の壺をアキレスは、アカイア族の集団の
前にたずさえ、ネストルに与えて彼に陳じいう、

[1]5-678
[2]三等の賞品。23-268

『おじよ、いざこの品受けよ、パトロクロスの埋葬の
記念にこれを蓄えよ、アカイア陣中また彼を
見ることのなけむ、われ君にかくして賞の品捧ぐ。620
君は再び拳闘にまたは相撲に争わじ、
また投げ槍に加わらじ、競う走りもなさざらむ[1]。
つらき老齢痛むべく君の肢体を弱らしむ』
しかく陳じて賞の品渡せば彼は喜びて、
これを受けつつ翼(つばさ)ある飛揚(ひよう)の言句述べていう、625

[1]以下四球技(投げ槍の代りに円盤投のことあり)および兵車競争を合しての五つをホメーロス時代のペンタートロンという、以下の三競技は後の添加。

『わが子、汝のいうところみなことごとく理に当る、
わが双脚は早すでに堅固にあらず、わが腕は
左右の肩より敏捷に昔のごとく動きえず。
ああわれ若く我が力昔のごとくあらましを、
エペイオイ族そのむかしブープラシオン[1]にその主公 630
アマリュンケウス葬りて、王子ら賞を懸けし時、
エペイオイまたピュロス族、さらに、はたまた剛勇の
アイトーリアの族の中、我に如(し)く者あらざりき。
クリュイトメーデス[2](エーノプス†生める勇士)を拳闘に、
プレウローンの勇士たるアンカイオス[3]を相撲にて、635
また優れたるイピクロス[4]、彼をば徒(かち)の競争に、
ポリュドーロス[5]とピュレウス[6]をみな投げ槍にうち破り、
ひとり兵車の競争にあくまで勝ちを争える 
アクトール生める二子[7]のため、数の力にわれ負けぬ、23-639
至上の賞を懸けしゆえ彼らあくまで争えり、640
彼らはともに双生児、一は激しく馬を御し、
他はその鞭を振りあげて、激しく馬を叱咤しき。
昔は我はかくありき、いま妙齢の子らをして、
かかる行為をなさしめよ、我はやむなく老齢に
屈っすべからむ、いにしえは諸豪の中にすぐれし身。645
いざいま行きて競技もて汝の友の葬礼を
おこなえ、我は心より歓喜に満ちてこの品を
受けむ、汝はとこしえに我が友情を胸にとめ、
敬を忘れず、アカイアの陣中われにふさわしき。
その報酬に神々は汝に寵をたまうべし』 23-650

[1]11-756。
[2]前後になし。
[3]2-609とは別人。
[4]2-705。
[5]20-407別人。
[6]2-628。
[7]モリオネ兄弟、クテアトスとエウリュトス、11-709。

ネーレイデースしか陳じ、賛する言辞ことごとく
アキッレウスは聞ける後、アカイア陣をさして行き、
さらに激しき拳闘の競技[1]の上に賞を懸く。
すなわち彼はたくましき一頭のラバ引き来り、
集会の庭につなぎ留む、慣らすに難き六歳の 655
ラバなり、さらに敗者には彼は二柄の盃を
供え、アカイア衆の前、立ちて彼らに宣しいう、
『アトレイデーよ、またほかの脛甲かたきアカイアの
友よ、われ今この賞のために二人の剛勇の
友に、ふるいて拳闘をなすを勧めむ。アポローン 660
勝ちを与えてアカイアの人みな認めたらん者、
彼はすぐれしこのラバをその陣営に引きて行け、
敗れん者はその分に二柄の盃を受けよかし』

[1]競技第二は拳闘、699まで。

しか陳ずればたちまちに、拳闘のすべすぐれたる
パノペウスの子エペイオス、強き魁偉の勇士立ち、665
すぐれしラバに手を触れて皆に向かいて叫びいう、

『二柄の盃を受けん者ここに現われ出でよかし、
アカイア軍の何びとも拳をもって勝ちを占め、
ラバを引き去ることなけむ、我このすべに優れたり。
われ戦場に拙きをもって汝ら足らざるや、 670
すべての業に長ずるは人のよくする事ならず。
我いまここにいうところ必ず成さむ、わが敵の
肉をまったくわれ破り、彼の骨みなくだくべし。
泣くべき彼の親族は相集まりてここに待て、
わが手によりて破られし死屍を引き取り去らんため』675

しか陳ずれば将士らはみな黙然と静まりぬ。
エウリュアロス[1]はただ一人敵対すべく立ち上がる、
メーキステウス生める息、祖父はタラオス、王者の身。23-678
彼[2]その昔テーバイにオイディポデース[3]弔いの
式に来りてカドモスのすべての子らにうち勝ちぬ[4]。680
テューデイデース槍術に巧みの勇士、言句もて
彼を励まし、彼の身に勝利あれとて念じ立ち、
まさきに帯をまとわしめ、つづきてさらに牧場の
牛の皮もて作りたる革ひも彼の手に与う。
二人の勇士帯締めて競技の場に入り来り、685
猛然立ちて相向かいその剛力の手をあげて
相打つ、かくて物すごく拳と拳たたきあい、
またすさまじく歯ぎしりの音は響きて、淋漓たる
汗は四肢より流れ落つ、今や勇なるエペイオス、
隙をうかがう敵の頬、激しく打てばこらええず、690
よろめく足をとどめえず、どうと大地に倒れ伏す。
たとえていわば、北風の波紋の下に魚おどり、
海草まとう浅瀬のへ、落ちて再び黒き波、
これを覆える様やかく、打たれし敵は倒れ伏す。
そのとき強きエペイオス、敵に手をかけ立たしめば、 695
敵の友らは群がりて競技の場より連れいだす、
黒き血を吐き足をひき頭かたえに垂れしまま、
気を失える彼をかく友の間に伏せしめて、
友は進みて懸けられし二柄の盃を取りに来る。

[1]2-566。
[2]メーキステウス。
[3]すなわちオイディプス、ソポクレス大悲劇の主人公。
[4]カドモスの子らはテーバイの古住民。

ペーレイデースすぐにまた猛き相撲の技[1]のため、23-700
ダナオイ勢の眼前に三たび賞品持ち来る。
勝たん者には炎々の火にかざすべき大かなえ、
アカイア人は評しいう、値は牛の十二頭、
負けん者には工芸に巧みの女性、その値 
牛四頭に当るもの、ともに場裏に引き出さる。705
ペーレイデース立ち上がり皆に向かいて叫びいう、

『この競争に意あるもの、乞うすみやかに出で来たれ』
声に応じて現わるるテラモニデース・アイアース、
またオデュセウス、敏くして深く知謀に富める者。
二勇士かくて帯を締め、ともに場裏にすすみ入り、710
その剛強の手をふるい勢い猛く絡みあう、
そをたとうれば、すぐれたる匠(たくみ)が風を防ぐため、
二条の棟木、宏壮の館のかしらに組むごとし。
かくしてふるう双の腕、その力争に二勇士の
背中激しくきしり合い、汗は淋漓と流れ落つ、715
かくて両者の肩および脇腹に添い、紅血の
幾多のすじぞわきあがる、しかして二人懸けられし
かなえ得るべく奮然と長く激しく争えり。
かくして敵をオデュセウス足をすくいて倒しえず、
はたアイアースよくしえず、敵の力は強かりき。720

脛甲かたきアカイアの人々長くこを眺め、
倦めるそのとき、アイアース・テラモニデース叫びいう、
『ラーエルティアデー、神の裔、知謀に富めるオデュセウス、
われをもたげよ、さもなくば我が汝を——一切は、
神の意のまま』しか述べてもたげしかども、オデュセウス、725
技を忘れず、うしろより敵の膝蹴り足くじき、
仰向けざまに倒れしめ、しかして敵の胸の上、
オデュセウスまたうち倒る、皆は眺めて驚けり。
次にすぐれしオデュセウス剛力奮い試みて、
地より少しく動かせど敵をもたげることをえず。730
膝と膝とが絡み合う両勇ついに地に倒れ、
重なり伏してその四肢はみな塵埃に汚れたり。

三たび勇士ら立ち上がり、また相撲(すま)わんとしたる時、
アキッレウスは身を起し、これをとどめて陳じいう、
『もはや努むることなかれ、努力に悩むことなかれ。735
勝ちは二人にともにあり、等しき賞を領受して、
去れかし、ほかのアカイアの将士ら別に争わむ』
しか陳ずれば両勇士聞きてたやすく従いつ、
四肢より塵を払い去り、脱ぎし衣を身にまとう。

[1]競技第三は相撲、739まで。

次ぎてただちにアキレウス、足疾き者に賞を懸く[1]。740
そは銀製のかめにして美妙の細工、六メトラ
容るべし、地上ほかにまたかかる華麗の物あらず、
手の工芸に秀でたるシドーンの人の作にして、
フェニキア人がそのむかし大海の上持ち来り、
港に上げて豪族のトアス[2]に献じ、しこうして、745
プリアモスの子リュカオンのつぐないとして、その孫の、
イアーソーン[3]の生める息エウネーオスは、英豪の
パトロクロスに譲りしを、いまアキレウス取り出でて、
賞とし、足の速力のすぐれし者に与えんず。
脂肪に富める大牛は第二の者に、しかうして 23-750
最後の者に黄金の半タラントは約されぬ。
将軍立ちてアカイアの軍に向かいて陳じいう、

[1]競技第四は徒競争。797まで。
[2]14-230。
[3]イアーソーンはトアスの娘ヒュプシピュレーの婿。
『この競争を試みる意のあるものは出で来れ』
しか陳ずればたちまちにオイレウスの子アイアース、
知謀に富めるオデュセウス、つぎてネストール生める息、755
足の速さに他をしのぐアンティロコスは立ち上がる。
三人かくて立ち並び、アキッレウスは決勝の
点を示して競走の路程を定む。そのときに
オイリアデースまっさきに駆け、その後にオデュセウス、
近く迫りぬ——近きこと帯麗しき一女性、 23-760
横棒手に引き、縦糸に沿いて糸巻走らする
そのとき彼女の胸元に、機(はた)の横棒まぢかくに
来たるがごとし。オデュセウスしかく迫りて、先きの者
蹴立てし塵の静まるに先んじ跡を追い走り、
飛ぶがごとくに駆け行けば、激しき呼吸、その敵の 765
頭に吹けり、かくと見るアカイア兵士らことごとく、
勝ちを求めて極力に走る勇士に呼び叫ぶ。
最後の道を進む時、藍光の眼のアテーネー
女神に向かい、オデュセウス心に念じ祈りいう、770

『女神よ、祈願きこしめし足に力を添えたまえ』
しかく祈ればアテーネー・パルラスこれを納受しつ、
彼の両足両手ともひとしく軽く動かしむ。
かくして賞をかち得べく三勇ともに駆くる時、
駆けてつまずくアイアース——女神は彼を妨げぬ、775
足とく走るアキレウス、パトロクロスのためにして
ほふりし牛の糞尿のちらばる中にどうと伏し、
鼻孔も口も牛どもの糞尿により充たされぬ。
かくてすぐれしオデュセウス第一着のゆえをもて、
宝瓶とれば、アイアース第二の賞の牛を得つ、
かくて糞尿吐きながら、手にたくましき牛の角 780
握りて、かくてアカイアの軍に向かいて陳じいう、
『遺憾なるかなアテーネー、母のごとくにオデュセウス
そのそば常に近く立ち、これを助くるアテーネー、
我の走りを妨げぬ』。聞きて人々みな笑う。
アンティロコスはまた次ぎて最後の賞を運び去り、785
微笑なしつつアカイアの軍に向かいて陳じいう、

『すでに汝ら知るところ、我なお言わむ、今もなお
年齢高き人の上、神は誉れを降すなり。
見よ、アイアース我よりも長ずるところただわずか、
これに反してオデュセウス、先きの時代の長者たり、790
血気盛んな老人と人は言うめり、アキレウス
除かば誰か競走に彼をしのぎて勝ち得んや』

しかく陳じて足速きアキッレウスをほめたたう。
ペーレイデースそのときに答えて彼に陳じいう、
『アンティロコスよ、むなしくは、汝の世辞は放たれじ、795
見よ、半タラントの黄金を汝の賞に増し加う』

しかく陳じて彼の手に渡せば受けて喜べり。
ペーレイデースまた次ぎて場裏にさらに持ち来す、
影長くひく大槍[1]と盾と鎧を——先(せん)の日に
サルペードンをうち倒しパトロクロスの剥げる物。23-800
すなわち立ちてアカイアの軍に向かいて陳じいう、

[1]競技第五は槍の試合。825まで以下明らかに後の添加、特に槍の仕合いのごときもっとも奇怪なり。

『これらの賞を衆人の見る目の前に競うべく、
武装ととのえ青銅を手にして二人、アカイアの
中のもっとも強き者、互いに腕を試みよ。
いずれにもあれ、先んじて敵の武装をつらぬきて、805
肢体傷つけ血を流し敵の急所に触れん者、
彼に与えんこの剣、銀鋲打てる美なる物、
アステロパイオス帯びしもの、わが手彼より剥ぎしもの[1]、
こはトラーキア郷の産。ほかは両人共にせよ、
また彼らには陣中に美なる食事を備うべし』810

[1]21-163。

しか陳ずればアイアース・テラモニデース飛び出し、
ディオメーデース、剛勇のテューデイデースも飛び出す。
兵の群がる左右よりかくして二人武装しつ、
庭の真中におどり入る。闘志激しく物すごく
にらまえ合うて入るを見て、アカイア兵士らおののきぬ。815
かくて両雄相迫り互いに近く寄する時、
三たび襲撃試みて三たび近付き飛びかかる。
敵のかざせる大盾を激しく打てるアイアース、
守る胸甲固ければ彼の肢体を傷つけず。
テューデイデースはまた次ぎに光る飛刃の矛先に 820
敵のかざせる大盾のかげにその首打たんとす。
アカイア将士らこれを見てアイアースの身を危ぶみつ、
戦い止めて、しこうして等しき賞を分かたんず。
いまアキレウスおおいなる剣と鞘と精巧の
革帯ともにもたらしてテューデイデースの手に授く。825

ペーレイデースやがてまた鋳鉄の球[1]賞に懸く、
エーエティオーン[2]その昔、力奮ふるいて投げしもの、
足疾く走るアキレウス、彼を殺して奪い取り、
その他の宝もろともに、その船中に運びたる 
彼いま立ちて、アカイアの軍に向かいて陳じいう、830

[1]競技第六は投盤849まで。
[2]アンドロマケーの父6-416。

『この競走に意あるもの、現われ出でて試みよ。
勝ちを得ん者、豊沃の農園いかに遠くとも、
五(いつ)たび歳のめぐる中、豊かに鉄を用い得む、
彼に仕うる牧童もまた農民も彼の許(もと)、
訪いて求めて事欠かじ、彼は必ず与うべし』835

しか陳ずれば健闘のポリュポイテース[1]立ち上がる、
また神に似る豪勇のレオンテウス、またさらに、
テラモーンの子アイアース、またすぐれたるエペイオス、
みな一線に相並ぶ。まず勇ましきエペイオス、
振り回しつつ球を投ぐ、アカイア将士らみな笑う。840
レオンテウスはアレースの末裔、二番に投げとばす、
テラモーニオス・アイアースその剛強の腕あげて、
第三番に投げ飛ばし、先きの二人のしるし超す、
されど最後に健闘のポリュポイテース球を取り、
とある牧童、群羊を飼うもの、杖を投げる時、845
杖はその群飛びこしてめぐりてあなた落つるごと、
その距離ほどに他をしのぎ投ぐれば皆は歓呼しぬ。
ポリュポイテースの家臣らはすなわち立ちてアキレウス
懸けたる賞を領し得てその船中に運び去る。

[1]2-740以下。

つぎに弓射る者[1]のため暗緑の鉄、賞に懸け、23-850
両刃の斧と片刃とをおのおの十個取り出し、
しかしてはるか砂の上、引き上げられし黒船の
柱を的とうち定め、そこに可憐の鳩一羽、
細き糸もて足つなぎこれを射るべく命下す、
『いずれにもあれ、矢を放ち可憐の鳩を打たん者、855
彼は双刃の十の斧取り陣営に運び去れ、
鳩に射当てず、ただ糸を射たらんものは負けとして、
十の片刃の斧を得て、その陣営にたずさえよ』

[1]競技第七は弓、883まで。これもまた笑うべし。弓の競技は『アイネイス』五巻にウェルギリウスも述ぶ。されどこの場面におけるごとき不合理を避く。

しか陳ずれば立ちあがる武勇の王子テウクロス、
イードメネウスの家臣たるメーリオネスはまた立てり。860
かくして二人青銅の兜にくじを投げ入れて、
振り揺るがせばテウクロス先に当たりていやすぐに、
弓勢強く切り放つ、されど初生の子羊の
すぐれし牲を捧ぐるを神アポローンに誓せず。
アポローンかくて許さねば、ついに鳩をば射当てえず、865
ただその足のま近くにつなぎしひもに射当てれば、
鋭き矢じりたちまちにひも断ち切りつ、はなたれし
可憐の鳩は空に舞い、切られし紐は地に垂れぬ。
これを眺めてアカイアの民いっせいに歓呼しぬ。
メーリオネースそのときに勇みて弓を奪い取り[1]、870
テウクロス射るその間もすでにその手に矢を持てる
彼はただちに祈願して、新たに生れし子羊の
すぐれし牲を捧ぐべく神アポローンに誓い立つ、
かくして高き空のうえ可憐の鳩をうかがいて
高く翔け舞う鳥の羽の、下の真中に射当てたる、875
その矢はもとに落ち来り、メーリオネスの足もとに
近く大地につきささる。射られし鳩は、そのへさき
真黒の船の帆柱に降りてその首垂れさげつ、
しかして厚き両翼はともにひとしく垂れさがる。
かくて生命すみやかに鳥のむくろをのがれ去り、880
鳥は柱の下に落ち、眺める皆は驚けり。
メーリオネースことごとく十の双刃の斧を取り、
片刃の斧をテウクロスその船中に運び去る。

[1]かかる折り、弓はただ一張り。

ペーレイデースまた次ぎにさらに場裏に持ち来す
影長くひく投げ槍[1]と、牛一頭の値ある 885
かなえを——いまだ火に掛けず、花の浮彫せるものを。
槍を投げるに巧みなる勇者、こなたに権勢の
アトレイデース、かなたにはメーリオネース立ち上がる。
足疾き勇武のアキレウスその時彼らに陳じいう、
『アトレイデーよ、一切に君のまさるをわれら知る、890
その権勢に、槍投げるすべに、すべてにうち勝つを、
いざこの賞をたずさえて君の船中帰り去れ、
しかして君の心もし賛せば槍を豪勇の
メーリオネスに与えずや、まさしくわれの望みなり』
しか陳ずれば権勢のアガメムノーンうべなえり、 895
メーリオネスは青銅の槍を受けたり、その家臣
タルテュビオスにかの賞をアガメムノンは授けたり。

[1]競技第八は投げ槍、897まで。


イーリアス : 第二十四巻



 眠れぬ夜明けアキレウス立ちて、パトロクロスの墓のめぐりに、ヘクトールのしかばねをひきずる。神々これを見て評議す。ゼウスは使いを遣わし、アキレウスに諭し、賠償を容れ、ヘクトールのしかばねを返せと命ず。同時にプリアモスに賠償を命ず。王妃ヘカベーのいさめを聞かず王プリアモス進んでアキレウスの陣営に行く。ヘルメイアスこれを守る。陣営に着きて老王の哀訴。アキレウスこれを聞き、十一日間の休戦を約す。しかばねを車に乗せてプリアモス王トロイアに帰る。ヘクトールの妻アンドロマケー、母ヘカベー、およびヘレネーの慟哭。ヘクトールの葬式。

集会いまや解け散じ、将士らおのおのその船に
別れて去りて、食欲をまた甘眠を満すべく
願えり。されどアキレウス・ペーレイデースただひとり、
親しき友を思い出で悲しみ泣けば、一切を
制する眠り寄せて来ず。あなたこなたに寝返りて、24-5
パトロクロスの凛々しさとその勇力を忍び泣き、
波浪の上の艱難を、また陸上の戦いを、
ともに分かちて努めたるそのいにしえをしのび出で、
さん然としてために泣く涕涙ながくとどまらず。
時にあるいは脇に伏し、時にあるいはあおむきつ、24-10
時にあるいはうつ伏しつ、ついにはやがて身を起し、
思いに暮れて大海の岸辺に添いてめぐり行く。
さはれ海のへ岸の上照らす曙光に心付き、
戦車の下に駿足の二頭の馬をならばしめ、
車台のあとにヘクトルの死体ひくべく結び付け、15
メノイティオスの逝ける子[1]の墓のめぐりを三たび引き、
終わりて死体うつぶしに塵埃中に残しつつ、
陣にしりぞき休らえり。しかしてポイボス・アポローン、
死屍よりすべて傷跡を除き、逝きたる英雄に
憐憫くわえ、黄金のアイギス[2]をもて全体を 20
守りて、敵にひきずられ害受けることなからしむ。

[1]パトロクロス。
[2]神聖の盾。

怒りにまかせヘクトルをかく辱しむアキレウス、
これを眺むる天上の諸神ヘクトル憐れみて、
ヘルメイアスを促して死体を盗ましめんとす。
こをもろもろの神々はみな賛すれど、ヘーラーと、25
ポセイドーンと、藍光のまみもつ女神アテーネー 
賛せず、聖きイリオンとプリアモスとトロイアの
民をパリスの咎のため、先のごとくになお憎む、
パリスの牧場訪える時、彼は女神らはずかしめ[1]、
不義の歓楽得させたるアプロディーテを尊べり。30
さはれ数えて十二回曙光の返るあかつきに、
神ポイボス・アポロンは諸神に向かい宣しいう、

[1]『イーリアス』に歌わるるこの戦争のもととなる事件——これは詩中に他に説かれず。後の詩人の説くところ次のごとし。女神テティスの婚礼の宴に神々おのおの招かる。ひとり争いの女神エリス招かれず。これを怒りて復讐のため、宴席に『最美の者へ』と書せる黄金の林檎を投ず。ヘーラー、アテーネー、アプロディーテーおのおのこれをわが物と主張す。ゼウスは三女神に令しイーダ山に牧羊せるパリス(アレクサンドロス)に審判を乞わしむ。パリスはアプロディーテーを最美と判じて他の二女神を辱しむ。以来二女神はあくまでもパリスとトロイアとを憎む。「不義の歓楽得させたる」とはアプロディーテーの誘いによりてパリスがヘレネーと通じたること、すなわちトロイア戦争の起源。王子パリスが牧人となれる理由は(後人の神話)次のごとし。彼の母、夢にトロイアはパリスのゆえに滅ぶべしと見たるゆえに恐れて山中に捨つ、牧人ら拾いて彼を養育す云々(アポロドーロス著『ギリシア神話』III.12.5およびその他)。

『諸神、汝らむごくして災いくだし、ヘクトルが、
さきに精美の肉あぶり捧げたりしを省みず、
息絶えし後いまになお彼の救護を念とせず、35
その恩愛の妻と子と母と父とにまた民に、
彼眺めるを得せしめず。しかくせしめば慇懃に
彼らは早く浄火もてその葬礼を営まむ。
諸神よ、さはれ汝らはアキッレウスに力貸す。
彼の胸中正しかる思念はあらず、恩愛の 40
魂は宿らず、獅子に似てただ凶暴の思いのみ。
獅子は勇気と凶暴を頼みとなして、その食を
求めるために人間の家畜に向かいすすみ行く、
かくのごとくにアキレウス憐憫の情失いて、
廉恥をしらず——人間に利害もたらす情しらず。45
そもそも人は最愛の者を——たとえば同胞の
兄弟あるは恩愛の子らを失うことあらむ、
されど悼みて泣かんのちついには情を制すべし。
『運命』かかる忍耐を人の心の中に置く。
しかるを彼はヘクトルの尊き魂を奪うのち、24-50
死体を馬にひかしめて親しき友の墳塋を
めぐり行くなり。こは彼の誉れにあらず、利にあらず。
いかにまさるも神々の怒りに触れて可ならむや!
彼は狂いて知覚なき敵の死体を辱しむ[1]』

[1]アリストテレスの弁論術二巻三(1380b30)にこの行を引く、「怒りの原因たる者が知覚なきに到らば賢者はその怒りを抑ゆべし」云々。

玉腕白きヘーラーはそのとき怒りて彼にいう、55
『ああ白銀の弓の神、アキッレウスとヘクトルを、
汝ひとしく褒むとせば、汝の言句なお正し。
ただの人間ヘクトール、女性の胸に育てらる、
アキッレウスは女神の子、われは女神を養いて、
育ててついに妻として王ペーレウスに仕えしむ。60
いたく諸神に愛でられし彼の婚儀の席のうえ、
諸神ひとしくつらなれる中に汝も琴を手に、
加わりながら、悪人の友たり汝、実あらず』

雷雲寄するクロニオーンそのとき彼女に宣しいう、
『ヘーラー、汝、神々に対して怒ることなかれ。65
彼ら二人の栄光は同一ならず、しかれども
イーリオン中、他に優りヘクトルもっとも愛すべし。
われにしかなり、ゆえは彼つねに供物を怠らず、
その祭壇はわがために祝祭欠かず、また献酒、
燔肉(はんにく)の礼怠らず、これらの栄をわれは受く。70
されど勇なるヘクトルを盗まんことはなさざらむ、
アキッレウスに知られずにこの事なすを得べからず。
彼の神母は夜も日もひとしく彼の前近し。
今われ望む、とある神、テティスをここに呼び来れ、
われは女神を諭すべし、アキッレウスが敵王の 75
もたらす宝受納してその子の死体返すため』

しか宣すれば、疾風に似たるイーリス使いとし、
去りてサモス[1]と険崖のイムブロスとの間なる  24-78
暗き潮(うしお)に飛び込めば、騒然として波みだる。
雄牛の角の先につく鉛の重り[2]、貪欲の 80
魚に死命をもたらして沈み行くさま見るごとく、
千尋(せんじん)深き波の下、使いイーリスもぐり行き、
神母テティスを広やかの洞窟中に見出だしぬ。
海の仙女ら群がりてともに座れるただ中に、
故郷離れてトロイアの沃土に死なん運命を—— 85
すぐれたる子の運命を、神母は泣きて悲しめり。
そのそば近く疾風の速きイーリス立ちていう、

[1]13-11、サモトラキ島。
[2]『オデュッセイア』12-251以下に同様の比喩。

『テティス立たずや、クロニオン永遠の知者汝呼ぶ』
足銀色の玲瓏のテティス答えて彼にいう、

『おおいなる神、何ゆえに来れと我に命ずるや?90
神にまじるをわれ恐る、われの心に悩みあり、
さはれ行くべし、大神の述べん言句は空ならず』

しかく陳じて神聖の女神は黒きベールとる、
これにまさりていやさらに黒き衣はあらざらむ。
かくして足は疾風の速きイーリス導きて、95
進む行方に漫々の潮は分る右左。
やがて岸上登り来てそれより高く天に飛び、
四方を遠く眺めやるクロニオーンを見出だせり、
彼をめぐりて慶福の不死の神々並び座す。
ゼウスのそばにテティスいま座れば、席をアテーネー 24-100
譲り、ヘーラー黄金の盃与え、慰めの
言句を述べぬ。——飲み終えて盃もとに納むれば、
人間ならびに神々の父はすなわち宣しいう、

『テティスよ、汝、胸の中、言に述べ得ぬ憂愁を
抱きウーリュンポスに来ぬ、我も親しくこれを知る、105
汝をここに呼び寄せしそのゆえ我はいま告げむ。
九日続きヘクトルの死体ならびに、アキレウス、
都城を破る勇将につきて諸神は争えり。
あるもの死体盗むべくアルゲイポンテスそそのかす。
されども我は栄光をアキッレウスに与えんず[1]。110
愛と敬とを末長く我は汝にいたすべし。
いま陣中にすみやかに行きて汝の子に告げよ、
告げよ、彼なお荒れ狂いその曲頸の船のそば、
なおヘクトール留め置く、そのゆえをもて神々の
すべては怒る、特にわれほかにまさりて憤る。115
彼もし我をはばからば、将ヘクトルの死屍返せ。
しかして我はイーリスをプリアモスへと遣わさむ。
アカイア陣に赴きて愛児の死体求むべく、
アキッレウスにその心やわらぐ宝贈るべく』

[1]しかばねをあがなうべきプリアモスの贈与——これなくばアキレウスの面目立たず。

しか宣すれば銀色の足のテティスは命奉じ、120
ウーリュンポスの頂きの高きを早く飛びくだり、
愛児の陣に来り着き、そこに勇将悲しみて
声をあげつつ泣くを見る、そのかたえには諸々の
親しき家臣いそがしく、朝の食事を整えつ、
羊一頭ほふられて陣営中に横たわる。125
そのとき彼に端厳の神母近より座を占めて、
手もて撫でつつ名を呼びて言句を彼に陳じいう、

『我が子いつまで悲しみて身を苦しめてかくまでも、
ひとり心をむしばむや?食事あるいは甘眠を
汝心に思わずや、女性と愛を契ること、130
またよろしからずや、長らくは汝は生きず、無残にも
死と物すごき運命とともに汝に近寄れり。
今すみやかに我に聞け、ゼウスぞ我を遣わせる。
怒り狂いて曲頸の船のかたえにヘクトール
留めて汝返さねば、すべての神はいきどおる、135
しかしてほかの一切にまさりてゼウスいきどおる。
やめよ、死体を返し去り、その賠償を受け入れよ』

足迅速のアキレウス聞きて神母に答えいう、
『ここに来れかし、クロニオン誠にこれを命じなば——
かれ賠償もたらして死体を運び去るべけれ』 140
あまたの船のただ中にテティスならびにアキレウス、
しかく飛揚のつばさある言句互いに相まじう。
かなたイリオンめざすべくイーリス送るクロニオーン、

『ウーリュンポスを後にして、イーリス、汝すみやかに
聖イリオンに赴きて王プリアモスに宣し言え、145
彼の愛児のあがないにアカイアの船おとずれて、
アキッレウスを和らぐる賠償かれに致すべし。
トロイア軍の何びとも彼にともなうことなかれ。
ただ老年の使い[1]のみ伴い、ラバと軽輪の
車引くべし、しこうして、かれ、剛勇のアキレウス 24-150
殺せる死体、かなたよりイリオン城に運ぶべし。
死滅あるいは他の恐怖、彼の心に無かれかし、
彼を導く役としてアルゲイポンテス与うべし、
すなわち彼を導きてアキッレウスにつれ行かむ。
アキッレウスの陣営に一たび彼を導かば、 155
勇士は彼を殺すまじ、また他を抑え制すべし、
彼は愚ならず、思慮欠かず、断じて悪き者ならず[2]。
彼に哀憐乞う者を心を尽しいたわらむ』

[1]イダイオス。
[2]愚と無思慮と悪意とは人をして残虐を行わしむ——ある『イーリアス』の評論家の言(リーフ)。

しか宣すれば、疾風の足疾き使いイーリスは、
起ちておとずるイーリオン、悲嘆に満つる城の中、160
父プリアモスうち囲むあまたの子息ことごとく、
涙に衣うるおせり、老いたる王はその真中、
被覆まったく身を包み、苦悶のあまりころがりて、
われとはなしに手をつかみ投げし汚物の数々に、
首また頭無残にもいたくまみれてむさくろし。165
しかして彼の数多き娘と嫁はいっせいに、
アカイア軍の手に倒れ地上に死体いまさらす
あまたの勇士思い出でて、涙流して悲しめり。
そのときゼウス遣わせるイーリス、王の前にたち、
恐れて手足おののける王を柔和の声に呼ぶ、170

『ダルダニデース・プリアモス、心安んじ、恐れざれ。
われ災いを告ぐるためここに汝をおとずれず、
好意もたらし来たるわれ、ゼウスはわれを遣わせり。
遠く離れて彼はよく汝を守り憐れめり。
その大神はかく命ず、アキッレウスを飽かすべく、175
あまたの宝たずさえて、子のヘクトールあがなえと。
トロイア軍の何びとも同じくともに行くなかれ、
ただ老年の使いのみ汝に付きてラバを引き、
軽車ひくべし、しこうしてかれ英豪のアキレウス 
殺せる汝の子の死体、イーリオン城に運ぶべし。180
死滅あるいは他の恐怖、汝の胸に無かれかし、
汝導く役としてアルゲイポンテース伴ならむ、
彼は汝を導きてアキッレウスにつれ行かむ。
アキッレウスの陣営に一たび汝到る時、
彼は汝を殺すまじ、また他を抑え制すべし、185
彼は愚ならず、思慮欠かず、断じて悪しき者ならず、
彼に哀憐乞う者を心尽していたわらむ』
しかく陳じて疾風の足のイーリス別れ去る。

王はすなわちラバのひく軽車ととのえ、その上に
一つの籠を乗するべく、もろもろの子に命くだす。190
しかして彼は屋の高き木の香匂える部屋に入る、
部屋には種々の珍宝の目を驚かす数多し。
しかして彼はヘカベーを、彼の王妃を呼びていう、

『不憫の王妃、我に聞け、アカイアの船おとずれて、
アキッレウスに物贈り愛児の死体求めよと、195
ウーリュンポスの高きより神の使いは来たりいう。
さもあれ汝、胸の中思うところをわれにいえ、
アカイア勢のおおいなる陣をめがけて船のへに、
我の勇気は我を駆り、我に命じて進ましむ』
しか陳ずれば驚きて声を震わせ妃は叫ぶ、24-200

『悲しや、君の気は乱る。さきに異邦の人々も、
またわが部下も賛したる君の誉れの思慮いずこ?
君の多くの勇猛の子らを殺せる敵将の、
そのまのあたり身ひとりに、アカイア勢の水陣を
君訪わんとや?しかあらば君の心は鉄ならむ。205
ああ不信なるむごき敵、彼もし親しく君を目に、
眺め検することあらば、君を憐れむことあらじ、
君を敬することあらじ。否、否、むしろ城中に
座しつつわが子哀まむ、彼をこの世に生みいでし
その日につらき運命の絆は彼の身をつなぎ、210
親を離れて足速き野犬の口を充たすべく、
かの凶敵に倒れしむ。ああわれ敵の心肝を
噛み取ることを得ましかば[1]、——さらばわが子の復讐を
まさしくなすを得べからむ。彼の殺せしわが愛児、
たえて怯懦の跡あらず、恐れを知らず、退却を 215
知らず、雄々しくトロイアの男女のために戦えり』

[1]22-347参照。

しか陳ずればプリアモス、神の姿の王はいう、
『我の行かんと念ずるをとどむるなかれ、城中に
不吉の言を吐くなかれ、汝はわれをいさめえず。
地上に生きる人間のある者、我に命じなば、220
すなわち僧侶、卜占者、あるは巫女(みこと)の言ならば、
これを虚言と観じ去り、われその言を受けざらむ、
されども耳に聞きたるは女神の言葉、目に見しは
女神の姿、いざ行かむ、胸甲よろうアカイアの
水軍のそば倒るべき運命われにありとせば、225
われ甘受せん。——アキレウスわれを打てかし、わが腕に
愛児を抱き慟哭の涙を流し果てんのち』

しかく陳じてもろもろの櫃(ひつ)の美麗のふた開く。
かくて内より取り出す華美の礼服十二枚、
単衣(ひとえ)の衣十二枚、毛せんの数また同じ、230
華麗の上着、また下着、数はいずれもみな同じ。
さらに数えて黄金の十タラントを取り出し、
さらに輝く三脚のかなえ二つと四つの鉢、
また目を驚かす精巧の盃一つ、その昔、
トラーケーに客の時贈られしもの、宮中に 235
惜み留むることをせず、ただその愛児あがないの
念にせわしく、老王は柱廊よりし一切の
トロイア人を追い払い、罵辱の言を浴びせいう。

『さがれ、汝ら無礼者、厭うべきもの、ここに来て、
われ煩わすことなかれ、汝ら家に慟哭の 240
種なからずや。クロニオンわが最上の子を奪い、
我に悲哀を与えたる、その災いは足らざるや。
やがて汝ら悟るべし、一旦彼の逝けるのち、
アカイア人は汝らをさらにたやすく滅ぼさむ。
ああわが都城破られてかすみ去られん、——その姿 245
わが目親しく見る前に、我は冥土におり行かむ』

しかく陳じて笏(しゃく)振りて衆を脅せば、老王に
追われて衆は散じ去る。あとに残れるその子らに
王は叱りて命下す、ヘレノス、パリス、アガトーン†、
アンティポノス†とパムモーン†、音声高きポリテース、24-250
デーイポボスとヒッポトオス†、ディオス†、すぐれし勇武の子、
九人の子らに呼ばわりて老王かくは命くだす、

『急げ汝ら不肖の子、無残のやから、汝らは
水軍のそばヘクトルに代りて死ねばよかりしを。
ああ我いたく不幸の身、広きトロイア領の中、255
すぐれし子らを生みたるも、いま一人(いちにん)もながらえず。
神にも似たるメーストル†[1]、車戦巧みのトロイロス†[1]、
また人中の神たりしヘクトル——彼は人間の
生みたる者と見えざりき、まさしく神に似たりけり。
アレースこれらをことごとく滅ぼす、あとに残るもの、260
無残のやから、よく踊り、虚言を吐きて、同族の
手より彼らの群羊と山羊とをかすめ奪う者。
汝ら、いそぎ我がために馬車を整え、その中に
これらの品を積みのせて、われの行くべき備えせよ』

[1]この二人はトロイア戦争以前に逝く。

しか陳ずれば老王の言を恐れて、もろもろの 265
子ら軽輪のよき車、新たに成りてうるわしき[1] 24-266
ラバ用の馬車ひき出だし、上に一つの籠を乗す。
彼らは次いで掛けくぎに掛かるくびきをとりおろす、
ラバの引くべきそのくびき——つげのくびきにつまみあり、
手綱のための輪をそなう。——くびきもろとも九ペーギの 270
手綱を彼らもたらして、よく磨かれし梶棒の
先に結びて、しこうして輪を留釘にはめ合わす。
しかして三度右左、綱をつまみにくくりつけ、
さらにそのあと梶棒に結びて下に端を折る[2]。24-274
しかして彼らヘクトルの頭(こうべ)に代える珍宝の 275
あがない多く取りいだし、よく磨かれし車のへ
積みつ、ひづめの強きラバ、王プリアモスそのむかし 
ミューシア[3]族に贈られしラバをくびきの下に据う。24-278
美なる厩(うまや)にプリアモス養い来たる馬二頭、
かれら今また老王のためにくびきの下に据う。280
伝令[4]ならびにプリアモス、賢き思念胸にして
高き館の庭の中その両馬車を御して立つ。

[1]24-266~24-274馬具のくわしき図入の説明。リーフの『イリアッド』第二巻付録623頁以下にあり。うるさきによりて省く。
[2]不明。
[3]2-858。
[4]イダイオス。

そのとき心安からぬヘカベーそばに寄り来り、
その右の手に蜜に似る酒をたたえし黄金の
盃もちて、門出でに献酒の礼を果すべく 285
両馬のかたえ立ちながら口を開きて陳じいう、

『ああ君しばし留まりてゼウスに神酒奉り、
敵陣よりし、つつがなき帰参を祈れ、わが心
好まざれども、水陣にあくまで君は行かんとす。
雷雲寄するクロニオーン、イーダにありてトロイアを 290
みなことごとくみそなわす、その大神にああ祈れ、
空とぶ使い、群鳥の威力まさりて大神の
もっともめずるワシをして、君の右辺に飛ばしむる
その吉兆を祈れかし、親しくこれを眺め得ば、
これを信じて喜びてダナオイ軍を訪い得べし。295
広く目を張るクロニオン、もしこを聞かず飛ぶ使い
あらわすなくば、アルゴスの水陣さして行かんずる
君の情願はげしとも、我はあくまでおしとめむ』

神に似る王プリアモス、彼女に答えて陳じいう、
『妃よ、汝いうところ、我いまあえてそむくまじ、24-300
ゼウスに両手さしあげて哀憐(あいれん)乞うは悪からず』

しかく陳じて老王は、侍女の一人に清浄の
水をその手にそそぐべく、命を下せば、鉢とかめ
ともに左右の手[1]に取りて、王のかたえに近く立つ。
洗い終わりて王妃より盃うけて皆の前、305
真中に立ちて滴々と酒をそそぎて老王は[2]、
天を仰ぎて声上げてクロニオーンにかく祈る。

[1]両手のこと。
[1]16-231。

『ああ大いなる栄光の天王、イーダを知ろしめす、
アキッレウスを訪うわれに彼の憐れみ受けしめよ、
空とぶ使い、群鳥に威力まさりて天王の 310
もっともめずるワシをして吉兆(しるし)となりてわが右に、
現ずることを得せしめよ。わが目親しくこれを見て、
これを信じてダナオイの水陣さして行かんため』

祈りてしかく陳ずればクロニオーンは聞き取りて、
ただちにワシを遣わしぬ、しるしもっとも確かなる——315
猟(りょう)に巧みの黒き鳥、人界の名はペルクノン、
高くそびゆる厳重の富豪の館その戸口、
広く左右に張るごとく飛び来る鳥の大つばさ、
つばさは張りて城上の空を翔けつつ、群衆の
右手の方に現わるる、衆人親しくこれを見て、320
歓喜に満ちて各々の心楽しく晴れわたる。

車台の上に老王はその時いそぎ身を乗せて、
玄関および鳴りわたる柱廊よりし外に出づ。
ラバは四輪の車ひき前に進むを、イダイオス、
賢き御者は駆り立てつ、この後ろより老王が、325
鞭をふるいて城中を過ぎて進むる馬は行く。
そのとき友はいっせいにつづきて彼に従いて、
彼のあたかも死地に入る思いをなして悲しめり。
かくして皆は城外にくだりてやがて平原に
到れる後に、王の子ら、女婿(じょせい)らともに引き返し、330
イリオンさして帰り来る。広く目を張るクロニオーン、
老翁二人[1]平原の上を進むを見逃さず。
憐憫垂れてその愛子ヘルメイアスに向かいいう、

[1]プリアモスとイダイオス

『ヘルメイアスよ、人間に伴うことを、汝よく好み、
好める者に耳を貸す。さらばいま行き、アカイアの 335
水陣さしてプリアモス王を導け。ダナオイの 
陣営中の誰一人、彼を見、彼を認むるを
得せしむなかれ、すすみ行きアキッレウスに到る前』

令に従い立ちあがる使いアルゲイポンテース、24-339
ただちに彼は足のした靴をむすびぬ、——黄金の 340
神聖の靴、これにより風のごとくに迅速に、
波浪の上を、はてしなき大地の上を翔けるもの——
続いて彼は杖を取る、その意のままに、ある者の まぶたを閉ざし、時にまた眠れるものを起こすもの——
強きアルゲイポンテース、これを手にして飛び行きて[1]、24-345
ただちにヘレスポントスに、またトロイアに到り着き、
あごに柔毛(にこげ)の生えそめて影青春の美しき、
王子の姿現わして彼方に向かいすすみ行く。

[1]24-339~24-345は『オデュッセイア』5-43~5-49にまた出づ。

かなたイーロス王の墓[1]過ぎたる時に二老翁、
ラバと駿馬を引きとめて流れの水を飲ましむる、24-350
おりしも闇は蒼然と大地の上に寄せ来る。
そのとき伝令イダイオス、ヘルメイアスのそば近く
立てるを認め、プリアモス王に向かいて陳じいう、

[1]10-415。

『ダルダニデース、かなた見よ、いま警戒の要起る、
我見るところ、とある者、すぐに我らを失なわむ。355
いざ馬駆りて逃げ去らむ、さらずば彼の膝いだき、
彼の憐憫、恩情を言ねんごろに求むべし』

しか陳ずれば老王の心乱れて畏怖強く、
毛髪ために逆だちて肢体そぞろにわななきつ、
ぼう然として立ち止まる。そのそば近く寄り来たる 360
ヘルメイアスは、老王の手を取り彼に尋ね問う、

『おじよ、いずこにこのラバと駿馬を君は導くや?
夜(よ)はたけなわにかんばしく、眠りに人の沈む時、
君恐れずや勇猛のアカイア族は敵愾(てきがい)の
思い激しく物すごく、ここらに近く群がるを。365
彼らの一人、暗黒の夜のもなかに珍宝の
かかる多量をたずさうる君見出ださば何とせむ。
君若からず、陪従(ばいじゅう)の人もまた老ゆ、とある者
すすみ来りて襲う時、防御まことに難からむ。
されども我は君の身に害を加えず、むしろ他の 370
害を防がん、君のため、君は愛する父に似る』

神の姿のプリアモス老王答えて彼にいう、
『はしき若人、げにさなり、まことに君のいうごとし、
とある神明手をのべて我のごときをなお守り、
君のごときの良き伴侶、我の途上に得さしめぬ。375
いみじや君は壮麗の肢体と容姿備わりて、
さらに英知は胸の中、幸いなるかな君の親』

使いアルゲイポンテースすなわち答えて彼にいう、
『おじよ、しかなり、正しくも君はこれらの事をいう。
さはれ今また一切をまことに我にうちあけよ。380
あまた貴き財宝を身に安らかに保つため、
異郷の民のもとさして君いま運び去らんずや?
あるは君の子、すぐれたる勇将すでに逝きたれば、
恐れてここを——神聖のイリオン城を去り行くや?
アカイア軍の戦いに彼は無双の勇なりき』385

神の姿のプリアモス老王答えて彼にいう、
『はしき若人、君はたそ?君を生めるは何びとか?
わが薄命の子の最期、君はけなげに我にいう』
使いアルゲイポンテースすなわち答えて彼にいう、

『我を試して君は問う、将ヘクトルにつきて問う、390
我はしばしばこの目もて、親しく彼を栄光の
戦闘中に眺め見き、水陣近く追い詰めて、
利(と)き黄銅の刃もて、アカイア勢を討つを見き。
アガメムノーンに憤るアキッレウスが戦いを
許さぬゆえにかたわらに立ちて眺めて驚きき。395
ミュルミドネスの族にしてポリュクトールの子たる我、
アキッレウスの部下として同じ船にてここに来ぬ。
父は豊かに家は富み、君のごとくにいまは老ゆ、
我を除きて六子あり、我はすなわち第七子、
彼らと共にくじ引きてわれ従軍の命を得つ、24-400
船を離れて平原にいま我来たる。眼の速き
アカイア軍は暁に城外かけて闘わむ、
彼らは座して耐えきれず、アカイア軍の頭領は、
戦争待ちてあこがるる軍を抑ゆること難し』

神の姿のプリアモス老王すなわち彼にいう、405
『君はまことににアキレウス・ペーレイデースの部下ならば、
われ君に乞う、まったくの真実われにうち明けよ、
船のかたえにわが子いま横たわれるや?アキレウス、
彼の死体をつんざきて犬の食欲充たせしや?』
使いアルゲイポンテースすなわち答えて彼にいう、410

『おじよ、心を安んぜよ、鷙鳥も犬も、いまだなお
食わず、彼は陣の中、アキレウスの船近く、
前のごとくに横たわる。曙光の彼を照らすこと 
十有二回、しかれども皮膚は腐らず、アレースの
牲(にえ)と倒れし人々を食らうウジまたさいなまず。415
あけぼのごとに親友の墓のめぐりをアキレウス、
彼の死体を無残にもひきずり、兵車駆り飛ばす、
されども彼をそこなわず、来りて君は眺むべし、
かれ清浄に横たわり、血はことごとくぬぐわれて、
いずれの部にも汚れなし。敵人あまた切りこみし 420
その傷口は癒されて、痕跡見るを得べからず。
かく神々は心よりいたく汝の子を愛でつ、
すでに逝けるも英雄を念頭よりし捨て去らず』

しか陳ずれば喜べる老王答えて彼にいう、
『ああ若人よ、神々にさるべき物を献ずるは、425
まさしくよろし、われの子は生ける間はオリンポス
領する神を宮中にたえて忘れしことあらず、
それゆえ神は運命の非なるも彼を思い出づ。
いざこの美なる盃を受けよ、感謝のわが手より、
しかしてわれを保護しつつ導け、神ともろともに、430
かくして我は到るべし、アキッレウスの陣営に』

使いアルゲイポンテースそのとき答えて彼にいう、
『おじよ、年齢若き身を君は試すも、われ聞かず、
アキッレウスに知られずに物を受けよと君はいう、
彼おそるべしわが心、彼から奪うを敢てせず、435
しかせば後日災難の身にかかるべし。さはれいま
ねんごろにわれ導かむ、名にし負うアルゴスまでも、
あるいは船にまた陸に心をこめて伴わむ、
導く我をあなどりて君と戦う者なけむ』

ヘルメイアスはしか陳じ、兵車と馬に飛びのりて、440
その手の中にすみやかに鞭を握りて手綱取り、
しかしてラバと駿馬とに強き威力を吹きこみぬ。
かくして彼ら水陣の塁壁および塹壕に
着けるそのとき、守兵らはすでに食事をなしおえぬ。
その目に眠り注ぎたる使いアルゲイポンテース、445
つづきてすぐにかんぬきを抜きて、しかして門ひらき、
プリアモス王また宝、車乗のままに引き入れつ、
やがてつづきてアキレウス宿る屋高き陣に入る。
ミュルミドネスが王のため巨木の幹を切り倒し、
築きて上に、沼沢に刈りて集めしやわらかき 24-450
蘆荻(ろてき)をもって屋をふけるその陣営に忍び入る。
部下はまたその王のため広庭(ひろにわ)設け、そのまわり
繁く並べてくいを植う。しかしてモミのかんぬきは
関門とざす、閉ざす時三人(みたり)の力要すべし、
この大いなるかんぬきを抜き去る時もまた同じ、455
されども只にひとりにてアキッレウスはこをよくす。
そのとき老いし王のため、ヘルメイアスは門開き、
アキッレウスのそば近く貴重の宝もたらしつ、
馬よりやがて地の上にくだりて彼に陳じいう、

『おじよ、我こそ不死の神、ヘルメイアスぞ、来たれるは。460
クロニオーンの命によりわれは汝を導けり。
我いまあとに返すべし、アキッレウスの眼の前に
われは行くまじ、天上の不滅の神を明らかに、
かく人間がもてなすは、けだし良きにはあらざらむ。
いざいま汝なかに入り、アキッレウスの膝いだき、465
彼の父また鬢毛の美なる母また彼の子の
名を呼び彼に訴えよ、彼の心は動くべし』

しかく陳じておおいなるウーリュンポスをめざしつつ、
ヘルメイアスは立ち去りぬ。そのとき地上に車より
プリアモス王おりたちて老イダイオス残しつつ、470
ラバと駿馬を守らしめ、自らすぐにアキレウス、
クロニオーンのめずる者、住めるところにすすみ来つ、
彼を見だしぬ、その部下ら離れて座して、ただ二人、
アウトメドーンと、アレースのめずる豪雄アルキモス[1]、24-474
かたえに侍せり、彼はいま酒食そなえし盃盤を 475
離れしばかり、食卓はのけられずしてそこにあり。
王プリアモス部下の目を逃れて側により来り、
アキッレウスの膝を手に抱きて、彼のもろもろの
子らをほふりし無残なる恐るべき手に口を触る。
むごき『アテー』にとらわれて人をあやめて、ふるさとを 480
追い払われて他の国に来り、富豪の家の中、
身を現わせばこれを見て人はぼう然驚かむ、
かくのごとくにアキレウス敵王を見て驚けり、
二人の侍者も驚きて互いに目と目見合しぬ。

[1]19-392。

王プリアモスそのときに嘆願しつつ陳じいう、485
『ああ神に似るアキレウス、汝の父を思い出でよ、
我と同じく老齢の悲惨の門に彼も立つ、
彼の近くに住める者彼に迫りて苦しめむ、
しかして死より苦闘より救わむ者はあらざらむ。
されども彼はその愛児汝生けると聞き知りて、 490
その胸中に喜ばむ、しかしてさらにトロイアを
後に帰らん汝待ち日々に希望を抱くべし。
さもあれ我は不幸なり、広きトロイにすぐれたる
多くの子らを生みたるも、いま一人もながらえず。
アカイア勢の寄せし時、わが子はすべて五十人[1]、495
中の十九はわが妻の一つ胎より生まれ出で、
残るすべては宮中の侍女らわがため生みいでぬ。
彼らの多数アレースのために打たれて滅び去る。
しかして我の最愛の彼、——一切をイリオンを
防げる彼は——国のため奮える彼は——ヘクトルは、24-500
ついに汝の手に倒る。彼をあがない返すべく、
無量の宝たずさえてわれアカイアの船を訪う。
ああアキレウス、神明をかしこめ、我に憐れみ
垂れよ、汝の父思え、われはもっとも不幸の身、
地上に住める何びとも受けざる非運われは受け、505
愛児ほふれる敵の手にわが唇を触れんとす』

[1]プリアモス王の諸々の子息の館につき6-246以下参照。王の寵妃中、名をホメーロスの詩中に現わすものはカスティアネイラ8-304とラーオトエー21-84。

しかく陳じてアキレスに父への悲哀起さしむ。
そのとき王に穏やかに手を触れ彼をおしのけて、
かれとこれとはともに泣く、王は勇将ヘクトルを、
アキッレウスの足もとに転げまわりて思い出で、510
激しく泣けば、アキレウス・ペーレイデースは父のため、
パトロクロスのために泣き、哀慟(あいどう)[1]高く屋にひびく。
その哀慟を尽したるペーレイデース・アキレウス、
胸より身より哀悼の思いの散じ行ける時[2]、
ただちに座より立ち上がり、手に老王を引き起し、515
真白き彼のこうべまた真白きひげを憐れみて、
すなわち飛揚のつばさある言句を彼に陳じいう、

[1]「哀慟」は悲しんで泣き叫ぶこと。
[2]この一行無用、後世の添加と古来批評家がいう(リーフ)。

『ああ君、まことに不幸なり、受けし災難いくばくぞ!
多くの子らを勇将をほふれる我の眼のあたり、
アカイア軍の水陣に、君いかにして来訪の 520
強き決意をなし得たる? 君の心は鉄なりき。
いざ身を起し席に着け、苦悩まことに激しとも、
悲哀をともに胸中に君も我が身も静むべし、
何らの益も慟哭の激しき中にあらざれば。
けだし神明かくのごと、苦難の生を送るべく、24-525
われら不幸の人間に命ぜり、神は憂いなし。
二つの壺はクロニオン・ゼウスの館におかれあり、
一つは福を他は厄を充たす[1]、ゼウスが人間に
与うるところ、——雷霆の神こを混じ与うれば、
人は時には災いに、時には福に出で会わむ。530
災いのみを受くる者ただ陵辱にさらされむ、
つらき飢饉は神聖の大地の上にかれ追わむ、
神と人とに侮られ彼は四方にさまよわむ。
して神明はペレウスに誕生以来すぐれたる
恵み与えき、かくありて彼はゆたかに幸多く、535
あらゆる人に立ちまさり、ミュルミドネスの首領たり。
しかして神は人間の彼に女神をめとらしむ、
されどある神、災いを彼に加えり、彼のあと、
その宮中に君臨の子孫はたえてあらざらむ。
その唯一の子たる我、若く逝くべく、老齢の 540
彼にかしずくことをえず、故郷を去りてトロイアに
来たり、汝を子息らを我はかくまで悩ませり。
おじよ、汝もいにしえは幸(さち)なりしよし我ら聞く[2]。
王のマカルの領したる海のかなたのレスボスの
全島、ならびにプリュギアー、ヘレスポントスことごとく 545
子らの力に富により汝統べりと我ら聞く。
されど天上すめる神、その後災いくだらしめ、
かくて都城に殺戮と戦争つねに絶ゆるなし。
忍べ、果てなく胸中に悲しみ嘆くことなかれ、
愛児を如何に悲しむも何らの益もあらざらむ、24-550
彼を再び生かしえず、その前ほかの難あらむ』

[1]プラトーンの『国家』2巻379Dに引用さる。ピンダロスのピュティアンオーズ(ピュティオニカイ)3巻81には福の壺一つ、災いの壺二つとあり。後の詩人が歌えるパンドラの箱の観念はここらより来るならむ(リーフ)。
[2]18-288以下参照。

神の姿のプリアモス答えて彼に陳じいう、
『葬られずにヘクトール、陣営のなか伏せる間は、
神の寵児よ、我をまだ座に着かしむることなかれ、
いそぎて彼を引き渡せ、わが眼親しくこれを見む、555
わがもたらせる賠償の多くの宝、身に受けて、
なんじ故郷に帰れかし、我を許せしそのあとに
[光り輝く日輪の姿を見るをえせしめよ]』
足疾くはしるアキレウスにらみて彼に陳じいう、

『おじよ、この上怒らすな、我は汝にヘクトルを 560
引き渡すべし、わだつみの老いたる神の生むところ、
わが母テティス、神命をうけて使いしわれに来ぬ。
しかしておじよ、心中に我は悟れり、明らかに、
わがアカイアの水陣に、ある神なんじ導けり、
いかに若きも人間はわが陣営を侵しえず、565
われの守衛の厳重の目を逃れえず、おおいなる
わが関門のかんぬきをたやすく抜くを得べからず。
さればこのうえ哀痛に沈めるわれのこの心
激するなかれ、嘆願の汝を我は陣営の
中に許さで、神々の命に背かん恐れあり』570

しか陳ずればプリアモスおそれて命に従えり。
ペーレイデース門さして獅子のごとくに飛び出だす。
身一人ならず彼ととも二人の家臣また続く。
アウトメドーンとアルキモス——家臣の中に将軍は、
パトロクロスの逝ける後二人を特に尊べり。575
ラバと駿馬をくびきより二人はやがて解き放し、
老いたる王の伝令の使いを内に導きて、
席に着かしめ、しこうして将ヘクトルのなきがらに
代る無数の財宝を、車の外に取り出し、
ただに二枚の上衣また他に精巧の一枚の 580
下着を残し、帰る時死体をこれに覆わしむ。
アキッレウスは老王の見ざるところになきがらを
もたらし、侍婢に命くだし洗いて香油まみらしむ。
死体を見なば老王は悲嘆のあまりその怒り
激しくために敵将を激せん、かくてアキレウス、585
彼を殺して天王の命に背くを免れじ。
かくて侍婢らはしかばねを洗い香油をまみらして、
下着ならびに華麗なる上衣をこれに着せし後、
アキッレウスは床のへに手ずからこれをかきのせつ、
やがて家臣はこを担い磨ける馬車の上に乗す。590
将軍やがて声をあげ呻きて友の霊に呼ぶ、

『パトロクロスよ、ヘクトルを父老王に渡せるを、
冥府にありて聞かんとき、我に怒りをなすなかれ[1]、
彼のもたらす賠償はふさわしからぬ物ならず、
汝に対しふさわしき分を我また分かつべし』 595
しかく陳じてアキレウスその陣営に立ち帰り、
しかして壁に添いながら先に立ちたる華麗なる
その席の上、身を据えて王プリアモスに向かいいう、

[1]アキレウスはヘクトールの死体を犬に与えんと約したり。23-21および23-183。

『おじよ、汝の願い容れ、汝の息は返されて、
かなた車上に横たわる、明くるあしたに引き帰り、24-600
親しく汝かれを見む、いまは飲食思うべし。
娘六人、青春の男子六人かれとこれ、
合わせて十二ことごとくその宮中に死したるも、
鬢毛美なるニオベー[1]はなお飲食を求めたり。
頬うるわしきレートーにおのれを比して誇らえる 605
ニオベー言えり、レートーはただに二人の子を生めり、
我の生めるは数多し――その高言に憤り、
銀弓の神アポローン、射る矢鋭きアルテミス、
二神は立ちて憤然と十二の子女をほろぼしぬ。
魂魄去りし十二人、九日つづきて地に伏して、610
これを葬る者あらず、近寄る者をクロニオン、
石と変じぬ、十日目に諸神かれらを葬りぬ。
涙流して悲しめるニオベー食をなお思う。
シピュロスの郷、荒涼の山の岩陰、そこにして、
アケロイオスの川ほとり踊り狂える仙女たち、615
休みの床をおくという、そこに今なおニオベーは、
石に化しつつ神明の下せる難を耐え忍ぶ。
尊きおじよ、われらまた同じく食を思うべし。
終わりてのちにイリオンに死体たずさえ帰るのち、
なんじ愛児を哭すべし、涙そのとき多からむ』620

[1]タンタロスの娘。父と等しく神々とまじわることを得。この特権を濫用して高言を吐き、子女を失う。

しかく陳じて足速きアキッレウスは身を起し、
白き羊をほふり去る、二人の供は皮を剥ぎ、
調理巧みに肉を切り、串につらぬき丁寧に、
心をこめて火にあぶり、あぶりて肉を引き抜きつ、
アウトメドーンは食卓の上、おのおのに雅麗なる 625
籠に入れたるパンくばり、アキッレウスは肉くばり、
かくて一同手を伸してその眼前の美味を取る。
飲食終えて口腹の願いおのおの満てる時、
ダルダニデース・プリアモス、神にも似たる相好の
アキッレウスの麗容を驚きの目に眺めやる、630
アキッレウスも、敵の王ダルダニデースのすぐれたる
顔を眺めて、今さらにその声聞きて驚けり。
両者互いに相眺め、おのおの心満てる時、
神の姿のプリアモスまず口開き陳じいう、

『神の寵児よ、すみやかに我を臥榻(がとう)に就かしめよ、635
心しずかにやすらいて甘き眠りに入らんため。
わが子汝の手に倒れ、その一命の尽きし後、
まぶたの下に我は目を閉ざせしことはかつてなく、
わが広庭の地の上に塵にまみれて転々し、
呻き叫んでとこしえに無量の悲嘆つづけたり。640
今にはじめてわれ食を取りて芳醇わが喉を
くだりぬ。前は一片の肉をもわれは味わず』

しか陳ずればアキレウス、侍婢と部下とに令下し、
柱廊の下、床を据え、色紫の華麗なる
しとねを敷きて毛せんをその上に掛け、またつぎに 645
これらの上にやわらかき毛布をさらに重ねしむ。
彼女ら命に従いて、松火もちて部屋を出で、
いそぎつとめて迅速に二つの床をしつらえぬ。
そのとき足疾きアキレウス半ばたわむれ陳じいう、

『おじよ危うし、この部屋のそとに汝の床につけ、24-650
常にかたえに我ととも軍議を計るアカイアの
一人(いちにん)意見をもたらして、あるいはここに来るあらむ。
かかる一人暗黒の夜のなか汝みとめ得て、
ただちに民の王者たるアガメムノーンに報ぜんか。
さらば死体の解放の延引(えんいん)あるいは起るべし。655
さはれ今言え、真実を正しく我にうち明けよ。
将ヘクトルの葬礼を営む日数いくばくぞ?
その終わるまでわれ休み、またわれ民をおさゆべし』

神の姿のプリアモス老王答えて彼にいう、
『アキッレウスよ、そのごとくわれを恵みて、我をして 660
わがヘクトルの葬礼を行わしめば嬉しかり。
きみ知るごとく城中にわれら囲まる、木材を
取るべき山はほど遠し、トロイア人はみな恐る。
九日われらはヘクトルをわが宮中に哭すべし、
十日目かれを葬りて葬礼の宴設くべし、665
あくる日墓を彼のため築かむ、これを成し終えて、
第十二日戦いをもし要あらば始むべし』

かれに足疾きアキレウス勇将答えて陳じいう、
『プリアモス王、汝いま言えるがごとくしかあらむ、
汝の言える日の間、われ戦いを禁ずべし』 670

しかく陳じて老王に心の恐れあらせじと、
その右の手のたなくびをアキッレウスは手に取りぬ。
かくして王者プリアモスその伝令の使者ととも、
思慮をいだきて部屋のそと、柱廊のなか、床に就き、
アキッレウスは堅牢のその陣営の奥深く 675
ねむり、かたえに紅頬のブリーセーイスまたねむる。

馬上たたかう人々もまた神々もよもすがら、
甘き眠りに襲われて静かに休む、そをほかに
人を助くる神明のヘルメイアスは目を閉じず、
厳しき守備の目を逃れ、王プリアモス、アカイアの 680
水陣如何(いか)に退くべきや、策を心に巡らして、
すなわち王の枕もと立ちつつ彼に陳じいう、

『アキッレウスに許されて、危難の思い全くなく、
おじよ、汝は敵陣のもなかにかくも眠るかな。
いまや汝は莫大の宝に愛児あがなえり。685
されど汝のここなるをアガメムノーン、敵の王、
アトレイデース聞き知らば、アカイア軍勢皆知らば、
汝の子らは三倍の賠償払う要あらむ』

聞きて恐れる老王はまた伝令を呼びさます。
ヘルメイアスはそのためにラバと駿馬にくびき掛く、690
かくて急ぎて陣中を過ぎるを誰もみとめえず。

清き流れのクサントス、不死のゼウスの生み出でし
渦巻く流れクサントス、その岸の上来たる時、
ヘルメイアスはおおいなるウーリュンポスへ別れ去り、
サフラン色の衣つけ、明けの女神は地を照らす。695
彼らは呻き泣き叫び、城中さして馬を駆る、
ラバは死体をひき乗せて。——されど城中何びとも、
帯うるわしき女性らの誰しもいまだこを知らず。
カッサンドラー[1]ただ一人、アプロディーテに似たるもの、
ペルガモスの塔のぼり、車台の上に立つ父を、24-700
また伝令の声高き使者を認めつ、さらにまた、
車上の台にヘクトルのしかばね伏すを認め得つ、
すなわち声をあげ泣きてイリオン市民に叫びいう、

[1]13-365。

『ああトロイアの男女たち、出でよ、ヘクトル見るべきぞ、
その生ける時戦場をあとに帰るを喜びき、705
彼は城中一切の民に歓喜の種なりき』

その声聞きて城中に男女一人も居残らず、
耐ゆるに難き大いなる悲哀は民をみな襲う。
ひと群がりて門のそば死体引き来る王かこみ、
まさきに彼の愛妻と彼の慈母とはもろともに、710
車めざして走り来て死屍の頭に手をふれつ、
狂うがごとく髪むしり、皆は泣きつつそばに立つ。
しかして皆は門の前、流涕せつにヘクトルを
哭し、夕陽沈むまでひねもすここに残らんず、
されど老王車上より皆に向かいて叫びいう、715

『ラバを駆るため道開け、わが宮中になきがらを 
おさめん後に、あくまでも汝ら彼がために泣け』

その言ききて皆は去り、兵車のために道開く。
かくて死体を壮麗の館のもなかにもたらして、
これを組まれし台にのせ哀歌はじめる一群の 720
歌手をかたえに座らしむ、すなわち彼ら哀痛の
声を放てば、そをめぐる女性らすべてむせび泣く[1]。
アンドロマケー、腕白き妻はそのときヘクトルの
頭双手にかき抱き、まず慟哭の声をあぐ。

[1]ヘクトールの死を知りし時の悲泣22-429以下参照。

『ああわが夫、若うして世を去り我を屋の中に 725
寡婦と残しぬ、なんじの子、なんじと我と薄命の
親を持ちたる小さき者、その成長は頼まれず、
これに先んじわが都城その基礎までも崩されむ。
都城を守り端厳の女性を守り、物言わぬ
小児を守る汝いま国を防ぎて倒れたり。730
彼らはやがて船のうえ遠くあなたに運ばれむ、
我またこれと供ならむ。わが子よ、汝また我に
付きて、異郷にむごき主の命のまにまに働きて
恥辱のわざや営まむ、あるはアカイア軍勢の
あるもの汝を手に取りて、塔より下に投げ飛ばし、735
無残の最後遂げしめむ、おそらく彼の兄弟を、
あるいは父をまたは子をわがヘクトール倒ししか?
彼らの多数ヘクトルのために塵土を噛みて死す。
汝の父は戦場において優しき人ならず、
そのため皆は城中にわたりて彼を悲しめり。740
ああヘクトルよ、ふた親に無量の悲嘆負わしめぬ、
さらに我にはなかんずく果てなき恨み残されむ、
ああ君死して臨終の床より我に手を伸さず、
知慮の一言また述べず、述べなば我は昼も夜も、
これを思うて流涕の悲しみ尽きること無けむ』745

しか陳ずれば女性らは聞きてそぞろに悲しめり。
母のヘカベーこれに次ぎ悲嘆はげしく叫びいう、

『ああヘクトール、子らの中われのもっとも愛でし者、
わがため汝生ける時、汝は神に愛されき、
死の運命にある時も神は汝をいたわりき。24-750
我の他の子をアキレウス、捕うる時は、荒れ狂う
波のあなたの国々に——あるいはサモス、時にまた、
イムブロスまた香煙のレームノスにし売りたりき。24-753
されども長き青銅の刃(やいば)、汝を討てる時、
汝がさきに倒したるパトロクロスの墳塋の 755
めぐりを彼はひきずりぬ、されども死者を起しえず、
汝いまはた宮中に静かに伏して、うるわしく 
全く新たに倒されて死せるに似たり、銀弓の 24-758
アポローン彼の矢を飛ばし、射てほろぼせる者に似る』

泣きて陳ずる母の言、はてなき呻きひき起す。760
三人(みたり)め皆の哀号をヘレネー立ちていざなえり、

『義兄義弟の中にしてもっとも愛でしヘクトール、
パリスぞわれの夫たる、姿は神に似たるもの、
彼トロイアにわれ連れぬ、そのまえ死せばよかりしを[1]。
故郷を去りてここに来し、このかた過ぎし年の数、765
今年はまさに春秋の二十かさねし[2]うたてさや。
されどもついに君よりし悪口罵詈の声聞かず、
もし宮中に何びとか——あるいは義兄また義妹、
わが良人の姉妹また義兄らの妻あるは義母、
(舅の君は優しくて、まことの父に似たりけり[3]) 770
われを叱れば君はそをとがめ、言葉にいさめつつ、
その温情と温言によりて彼らを諭したり。
さればいまわれ苦しみて君と我とのために泣く、
広きトロイア城中に我に優しき者はまた
見るを得がたし、すべてみな人は我が身を忌みきらう』 775

[1]良人のパリスもヘクトールほど我を保護せずの意を含むか。
[2]いにしえの評家の説、初めの十年は遠征の準備に費やさる云々。アキレウスの子ネオプトレモスは(19-325)成長せる一青年なるを思えば二十の春秋云々は不穏当ならず。これが事実ならばヘレネーの齢いは四十前後ならざるべからず。スパルタを亡命せる時にすでに一子あり。
[3]スカイアー城門の上におけるプリアモスのやさしさ。3-161以下参照。

しか嘆ずればこれを聞き無数の群れはまた嘆く。
そのとき老王プリアモス皆に向かいて叫びいう、

『トロイア人よ、燃料を都城に運べ——アカイアの
待ち伏せあるを恐れるな。アキッレウスが海辺より
われの帰るを送る時、十二日目のあけぼのの 780
光の前は我々を攻めずと固く誓いたり』

その言きける人々は牛とラバとにくびき付け、
車引かして城門の前にただちに集まりつ、
九日つづいて莫大の燃料城にもたらしぬ。
人に光明たずさうるあけぼの十たび明ける時、785
涙流して剛勇の将ヘクトルを運び来て、
人々高く積み上げる焚き木にのせて火をかけぬ。

薔薇(そうび)の色の指もてるあけぼのまたも明けし時、
皆は来りてヘクトルを焼ける浄火を取り囲み、
(相集まりて一団をなしてあたりを取り囲み、) 790
まず暗紅の酒を以て、さきに猛炎襲いたる
火葬の薪をうち消しつ、つづきて友と兄弟と
力をともに白骨を拾い集めつ、惨然と
泣ける涙はおのおのの頬を伝えて果てあらず。
集めし骨を黄金の壺に納めて、柔軟の 795
紫染むる絹をもてこれを包みて、うがたれし
墓のただ中おきすえつ、つづきて皆は数多き
大いなる石その上に、厚く積み上げ、かくて後、
いそぎて土をもりあげて塚を築きてそのめぐり、
守備の群れおく、アカイアの来り襲うを警(いまし)めて。24-800
塚を築きてたち帰り、さらに再び集まりて、
ゼウスのめずるプリアモス、トロイア王の宮殿の
中に弔慰の盛んなる美なる宴飲もよおしぬ。
駿馬を御するヘクトルの葬礼かくぞ営まる。(大尾)


イーリアス:跋(あとがき)
HOMEROS
原題 ILIAS

国立国会図書館デジタルコレクション『イーリアス』(ホーマー著、土井晩翠訳、出版者富山房、出版年月日昭15)は こちら

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