ホメロス
『オヂュッセーア』(オデュッセイア)全
土井晩翠訳
(新字新かな版)



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これは PD図書室に掲載されている
オヂュッセーア を現行用字による新字新かなに改め、
国会図書館の原本、原稿と比べて修正の上、
通読の便宜のため固有名詞を現行のものになるべく統一し、
適宜(ふりがな)や説明を加えたものである。



オヂュッセーア:目次
土井晩翠(1871-1952)訳、ホメロス(Homer,紀元前九-八世紀)著「オヂュッセーア(Odyssey)」。
底本:オヂュッセーア、冨山房、昭和十七年十二月二十八日印刷、昭和十七年十二月三十日発行、昭和十八年八月三十一日再版発行。

ホメロス著『オヂュッセーア』土井晩翠訳
目次
まえがきあらすじ主な登場人物第一巻第二巻第三巻第四巻第五巻第六巻第七巻第八巻第九巻第十巻第十一巻第十二巻第十三巻第十四巻第十五巻第十六巻第十七巻第十八巻第十九巻第二十巻第二十一巻第二十二巻第二十三巻第二十四巻あとがきPoems

巻頭図、一、ホメーロス胸像、二、弾琴のホメーロス、三、ホメーロスの誦読(しょうどく)、挿図、第二巻 求婚者に襲わるるペーネロペイア、第四巻 ペーネロペイアの夢、第六巻 ナウシカの車に従うオデュッセウス、第八巻 デモドーコスの歌吟にオデュッセウス泣く、第九巻 オデュッセウス謀りて怪人に酒を与う、第十巻 キルケーの食卓におけるオデュッセウス、第十三巻 パイアーケス人静かにオデュッセウスを上陸せしむ、第十四巻 オデュッセウスとエウマイオスとの対話、第十七巻 オデュッセウス愛犬を悲しむ、第十八巻 イーロスと決闘せんとするオデュッセウス、第十九巻 エウリュクレイアその主人を発見す、第二十一巻 ペーネロペイア弓を携え行く、第二十二巻 求婚者らをほろぼすオデュッセウス、第二十三巻 オデュッセウスと愛妻、見返し意匠 ホメーロスの歌えるギリシャ図およびトロイア付近図

オヂュッセーア:まえがき


詩聖ホメーロスの作——あるいはホメーロスの史的存在を否定する学者の説によれば多数人の合作——『イーリアス』および『オヂュッセーア』に関して私は一昨年刊行の『イーリアス』訳の序中に卑見を述べた。

アンドルー・ラングはHomer and the Epicの最後に『二大叙事詩はホメーロスと呼ばるる一大詩人に相違なし』と断じた。私は今日この結論を第六感的に肯定する。すなわち両篇は三千余年の昔の大詩人がトロイア戦争およびその他に関する幾多の神話伝説歌謡等を天才の溶炉中に淘汰し集大成したものと思う。一般に時代を画する大作は集大成である、東洋において唐代の杜甫は集大成の模型である。

ホメーロスの両編に後世の添加があったことは明らかである。『イーリアス』第二巻の船師連名、第十巻のドロネーア挿話、第十八巻の海の仙女の連名はその例である。『オヂュッセーア』の第二十四巻も同様とアリスタルコスが断定した。

トロイア戦争がそれだけ史実に確実か、永遠の謎である、が戦争そのもののあったことは間違ない。この戦いの若干部が『イーリアス』の題目である。この戦いの終了後、ギリシャ艦隊が分れ分れに帰港する中、著名の一将軍、イタケー島王オデュッセウス——ラーエルテースの子でペーネロペイアの夫、テーレマコスの父——が漂浪十年の後、微服して国に帰り、不在中狼藉を働いた奸人の一団を倒す物語が『オヂュッセーア』の内容である。

前述のごとく『イーリアス』と同様に『オヂュッセーア』は古来の伝説神話歌謡等の渾然たる集大成である。両編は西欧最美最高の詩として三千年にわたって愛誦され珍重されて今日におよんだ。その翻訳は無数である。その中著名のチャップマンあるいはポープの訳といえども完美ならずといわれる。キングスリィが"The mighty thunder-roll of Homer's verse"と賛美して『ハイペーシヤ』の中に注解を下し、『チャップマンあるいはポープの成しかねたことを試みるのは僣越である。ホメロスを英文に立派に直すことはまったく不可能である、その多くの理由の一は原作中の平々凡々の語も雄大の音調を有するのを英語に直し難いからである。手当り次第に一例を取らばboos megaloio boei[e_]nをgreat ox's hideと直す国語をもって、どうして原作の音律を伝え得ようぞ』と説いた。まして語脈文脈の全然相違する日本語をもってギリシャ原典を韻文化することは至難である。しかし『イーリアス』訳と同様に私は本編のheroic hexameter毎行を七五複行に直し、原典と等しく一万三千余行に訳了した。西欧文化の東漸(とうぜん)以来、ダンテ、シェークスピア、ゲーテ、ユーゴー等の翻訳は無数に刊行されたが、最高のホメーロスの韻文律はまだない。叙事詩は韻文に訳すべしと信ずる私は微力を尽して、ここに陳呉(=さきがけ)の役を勤めた。原典の黄金を瓦礫に変えたことは恐縮の極である。謹んで今日および後世の批判と叱正を仰ぐ。

昭和十七年三月

仙台において 土井晩翠

注:三笠書房版(世界文学選書18,『オデュッセーア』,昭和二十五年一月十五日印刷,昭和二十五年一月二十五日発行)に書かれた、昭和廿四年十二月四日付けの序では、「謹んで今日および後世の批判と叱正を仰ぐ。」の後に、次の文が追加されている。

この度三笠書房より出版するに当り、折り悪しく訳者病床にあり、そのため、校正その他一切を出版社に一任す。他日、万一生き残ったならば更めて訂正することあるべし。

オヂュッセーア:あらすじ


ギリシャの西岸に近いイタケー島の王オデュッセウスが、美人ペーネロペイアと婚して独子テーレマコスを生める間もなく、列王諸侯と共にトロイアに遠征する。十年にわたる戦いの後、トロイア城が陥落して国王プリアモスはじめ将士ことごとくほろび、ギリシャ諸将はそれぞれ凱旋して故郷に帰る。オデュッセウスは部下をひきいて帰国の道にキコーネス族を襲い、初めは勝ったがついに敗れる(第一冒険)。北風彼らを駆り、ギリシャの南端マレーアに運ぶ。そこから直ちに帰国したなら、ペーネロペイアは求婚者にわずらわされず、愛児テーレマコスは十歳の小児であっただろう。しかし暴風が再び、彼らを襲って十日の間海上を漂わせ、十一日目にロートス(草)常食者の郷に着かせる(第二冒険)。つづいて一同は獰猛のキュクロープス族の地に着き、そこで屠殺される従者の仇討にポリュペーモスの隻眼を潰す(第三冒険)。次に風を司るアエオロス王の島に着き、欵待一ヶ月の後出航し、従者の無謀のゆえに難に会う(第四冒険)。数日ののち食人種ライストリュゴネス族の地に着き、襲われて従者の大多数はほろぼされ、残りはただ一隻の船に乗じて逃れる(第五冒険)。逃れて妖姫キルケーの島アイアイエーに着き滞留一年(第六冒険)。次にハイデースの司祭する冥土に行きて種々の亡霊に会う(第七冒険)。次に船をすすめて妙音の妖女セイレーネス(第八冒険)およびスキュッラーとカリュブディスの難(第九冒険)に会う。次にトリイナキエーに着き、飢に迫られ神牛を屠殺した罰として一切の従者と船とがほろぶ(第十冒険)。オデュッセウス唯一人船の破片に身を託して女神カリュプソーの島オーギギエーに着く、女神彼を恋して八年間仙窟に抑留する(第十一冒険)。この間イタケー島においてはトロイア陥落後第六年までは平穏。その後近隣の若き貴族らペーネロペイアに再婚を迫って彼女を苦しめる。

 海上およびその他の冒険二ケ年とオーギギエー島の滞留八ケ年の後、すなわちトロイア陥落の十年後、仙島からオデュッセウスの解放を仙女パルラス・アテーネーが計画する。これを本編の発端としてこれより四十余日にわたる事件、すなわちトロイア遠征の門出から二十年目に最後の行動が叙述せられる。以下日の順序により本編二十四巻の一々に照らし合せて梗概を述べる。(詳細の梗概は各巻の初めに)

第一日(第一巻)オリンポス山上に諸神の会議——女神アテーネーその愛護するオデュッセウスの救を父神ゼウスに願いて聞かれる。アテーネーすなわちイタケーに飛び降り、テーレマコスに勧めて父の消息を探るべくピュロスおよびスパルターに行かしめる。
第二日(第二巻)イタケーの民会の後テーレマコス旅立つ。
第三日(第三巻)テーレマコス旅してピュロスに到り、王者ネストールに面する。王者は彼に勧めてスパルターの王メネラーオスを訪わしめる。
第四日(第三巻404~490)スパルターへの旅行の途次、ペーライに着き一泊。
第五日(第三巻491~497)スパルターに着く。(第四巻1~305)王と王妃とに厚遇される。
第六日(第四巻306以下)メネラーオスの物語。この間イタケーにおいて求婚者らテーレマコスを殺さんと計る。
第七日(第五巻)再びオリンポス山上諸神の集会。ヘルメイアス使いとなりてカリュプソーを訪い、オデュッセウスを解放せしめる。
第八日乃至第十一日(第五巻つづき)オデュッセウス筏(いかだ)を作る。
第十二日乃至第二十八日(第五巻つづき)航海の後パイアーケスの郷を眺む。
第二十九日(第五巻つづき)海神ポセイドーン暴風を起して彼を苦しむ。怒涛の間を泳ぎし後、三ヶ日目に上陸し、林中に眠る。
第三十二日(第六巻)王女ナウシカー彼を救いて王宮に導く。(第七巻)宮中に入り王と王妃とに歓待され、食後カリュプソーを去れる以後の災難を話す。
第三十三日(第八巻)国王人々に命じてオデュッセウスの帰国を計らしめ、晩餐の後、彼の素生を問う。オデュッセウス初めて名乗る。(第九巻)キコーネス、ロートス常食者、キュクロープスの冒険。(第十巻)アイオロス島、ライストリュゴネス、アイアイエーの冒険。(第十一巻)冥府行。(第十二巻)セイレーネス、スキュッラーとカリュブディス、トリナキアー、カリュプソーの冒険を物語る。
第三十四日(第十三巻)多くのせんべつを贈られてオデュッセウス故郷に向かう。
第三十五日(第十三巻つづき)イタケーに着く。護送の人々は彼の眠れるまま岸上に上げて帰り行く。やがてオデュッセウス目を覚まし四辺を眺めしも、イタケーなるを悟らず。女神アテーネー来りて彼を諭し、彼を大歓喜せしむ。(第十四巻)彼は乞食の姿をなして、その旧僕、牧人長エウマイオスを訪い、素生を問われて巧みに作話する。晩餐の後エウマイオスの好意を喜びて就寝する。(第十五巻)この夜アテーネーはラケダイモーンに月余滞留のテーレマコスを訪い、帰国の道に就くべく諭す。
第三十六日(第十五巻のつづき)テーレマコス起床して帰郷の準備をする。メネラーオスとヘレネー彼に餞別する。出立の彼はこの夜ぺーレーに宿る。
第三十七日(第十五巻つづき)ペーレーよりピュロスを経て、テーレマコス故郷に向かう。こなた牧人長エウマイオスはその履歴を乞食に変装したるオデュッセウスに告げる。
第三十八日(第十六巻)エウマイオス朝食の準備をなすところにテーレマコス来り訪う。その命を受けて彼の帰郷の喜びを告ぐるため牧人長はペーネロペイアに行く。そのあとにオデュッセウス愛児に委細を明らかす。エウマイオス帰り来て晩餐を共にす。
第三十九日(第十七巻)テーレマコスその館に行く。オデュッセウスとエウマイオス従う。途中にヤギの牧者メランティオス知らずにオデュッセウスをののしる。愛犬アルゴス旧主人を認む。アンティノオスは知らずにオデュッセウスを侮辱する。ペーネロペイア使者を送りてオデュッセウスを招く。(第十八巻)乞食イーロスとオデュッセウスの決闘およびその他。(第十九巻)オデュッセウス計りて武器を庫中に蔵むる後、ペーネロペイアに面し、素生を問われて巧みに作話する。老媼(ろうおう)エウリュクレイア旧主人を認む。王妃は弓の競技を行なうべしと告ぐ。
第四十日(第二十巻)朝オデュッセウス目覚む。ゼウス吉兆を降す。予言者テオクリュメノス求婚者に災いを告ぐ。(第二十一巻)弓の競技に求婚者みな失敗する。オデュッセウスひとり成功する。(第二十二巻)オデュッセウスまずアンティノオスを射殺し、初めて名乗る。続いて求婚者一同をほろぼし、これと通ずる侍女らを縊らしむ。(第二十三巻)ペーネロペイア呼ばれてのち部屋より出で来り、オデュッセウスに面して立ち、容易に良人たるを信ぜぬ。最後に秘密の寝室の記号をいわれて大歓喜し、二十年目に再会の夫妻互いに抱いて泣き、臥所(ふしど)に入る(345まで)。
第四十一日(第二十三巻346より)オデュッセウス父子従者と共に田園に行きてラーヘルテースを訪わんとす。(第二十四巻)神使ヘルメイアス求婚者の亡霊を冥府に導く。ラーヘルテースの農園に入りてオデュッセウス老父を見る。祝宴を開く。アンティノオスの父復讐を唱え人々をひきいて来り襲い、敗れて死す、女神アテーネー和解を命ず。

オヂュッセーア:主な登場人物


(一)神々と怪物たち

クロニオーン すなわちゼウス、最高の神、クロニーオーンとも発音す。
ポセイドーン(ポセイダーオーン) 海王神、地震の神、オデュッセウスを憎む神。
アテーネー(アテーナイエー) ゼウスの息女、オデュッセウスの守護神。
ヘルメース(ヘルメイアース) 伝令の使神、ゼウスとマイアとの子。アルゲイポンテースとも言う。『アルゴスを殺せる者』の意。
エーオース 曙の神
ヒュペリオーン 日の神、ヘーリオス プローテウス 変化自在の海の仙翁。
カリュプソー オデュッセウスを恋して九年間その仙窟に抑留せし仙女。
キルケー 魔法によりて人を化して獣(けもの)となす女神。
レウコテアー オデュッセウスの難を救える仙女。
ポリュペーモス 一眼の巨大なる怪物、キュクロープス族。
セイレーネス すなわちサイレン。歌によりて人を死に致す妖女。
スキュッラー 妖魔。
カリプデス 妖魔。

(二)人

オデュッセウス 本詩の主人公、イタケー島の王。
ラーエルテース 前者の父。
ペーネロペイア オデュッセウスの妻。
テーレマコス オデュッセウスのひとり子。
メントール オデュッセウスの友。
エウリュクレイア オデュッセウスを育てし忠実の老女。
ペーミオス オデュッセウスの館中に仕える歌謡者。
メドーン オデュッセウスの令使、伝令。 エウマイオス オデュッセウスの忠僕、牧人長、豚飼い、牧夫、牧者。
メランティオス 悪僕。
イーロス 乞食。
ネストール ネーレイデースすなわちネレウスの子、ゲレーニアの老王。
ペイシストラトス 前者の子息。トロイア戦争で死せるアンティロコスの弟
メネラーオス アトレイデースすなわちアトレウスの子、スパルターの国王。ミケーネーの王アガメムノーンの弟
ヘレネー 前者の王妃。トロイアからギリシアに帰っている
アルキノオス パイアーケス族の王。漂流のオデュッセウスを助けてイタケーに送り届ける
アレーテー 前者の王妃。
ナウシカー 王女。
デーモドコス これらに仕える歌謡者。
×    ×    ×    ×    ×

アンティノオス 求婚者中の主要なる者——次に挙ぐるはみなその同志者——エウリュマコス、アムピノモス、アゲラーオス、エウリュアデース、エラトス、ペイサンドロス、クテシッポス、エウリュダマス、アムピメドーン、ポリュボスおよびその他。

付言

『イーリアス』訳におけるごとく、この訳においても、固有名詞は調のために自由に発音するを原則とした。メネラーオスをメネラ⌒オスと縮めしはその一例。一般に⌒は一字を省ける記号(この版では通読の便宜のため固有名詞はなるべく統一し、この記号は省略した)。

オヂュッセーア:第一巻


歌神ミューズへの祈り(1~10)。女神カリュプソーその島中にオデュッセウスを抑留す。ポセイドーンを除くすべての神々彼を憐れむ(11~20)。ポセイドーン不在の時神々の会議。ゼウスはアイギストスの罪と罰とを追想す。アテーネーはオデュッセウスの保護を望む。ゼウスはかの英雄がポリュペーモスの目を潰せるゆえに父なる海神の怒りを招くことを説く。しかして彼を救うべき方法を講ぜんと宣す(21~80)。ヘルメースが諸神の命をカリュプソーに伝えんことをアテーネー主張し、自らイタケーへ行きテーレマコスを励まさんと陳ず(81~95)。メンテース王の姿を取りてアテーネーはイタケーの郷、オデュッセウスの館を訪う。ペーネロペイアに婚を挑む人々館中に集まる。テーレマコスは仮装せる女神を歓待す(96~143)。求婚者らほしいままに宴を催す。テーレマコスは女神に対して父の消息絶えしを嘆く(144~177)。女神はオデュッセウスの健在ならびに将来の帰郷を保証す。テーレマコスは父の帰りて求婚者らを懲らさんことを望む(178~251)。女神アテーネーの勧告。明日集会を催し求婚者らを追うべく、また、テーレマコスはピュロスおよびスパルターを訪いて父の消息を探るべしと。父の死せる場合、父の生ける場合に処すべき道を女神は示す(252~305)。テーレマコスはメンテースの姿を取る女神に感謝す。女神辞して天に昇る。前者はまた求婚者の群に帰る(306~324)。楽人ペーミオスは彼らの前にアカイア軍帰途の災いを歌う。ペーネロペイアこれを聞くに忍びず、哀訴す。テーレマコスは母を促してしりぞかしむ(325~367)。つづいて彼は求婚者らに明日の集会と彼の所念とを告ぐ。アンティノオスの冷笑とテーレマコスの答え(368~398)。エウリュマコスは今去りゆける客について問う。テーレマコスの答え。父を見るべき望みなしを告ぐ(399~420)。歌舞は夕べに到りて止み皆おのおのその家に去り、テーレマコスはその部屋に帰りて伏す(421~444)。


知謀に富める英雄の歌をミューズよ、我に説け。
聖都トロイアほろぼして、彼はそののち漂泊の
旅を続けて、もろもろの都城をながめ俗を知り、
はた海洋の上にして、あまたのまが事しのぎ去り、
おのが生命また部下の帰郷のためにいそしみぬ。1-5
嘆願いとど切ながら彼は従者を救いえず。
狂愚のわざに我と我が寿命を彼ら失えり。
ヒュペリーオーン[1]日輪の神の聖牛ほふりつつ、1-8
食らえば神はいきどおり彼らに帰郷得ざらしむ。
ゼウスの息女[2]願わくは、いずこからなりこれを説け。10

[1]12-339~398参照。日の神ヘーリオスはヒュペリオーンの子(神話)なれども、日の神ヘーリオスをヒュペリオーンと諸詩人は往々に呼ぶ。
[2]歌神ミューズ

ほかの諸将はいっせいに破滅の運をまぬがれて、
戦いおよび海の難、逃れて家に帰りきぬ。
ひとり故郷とその妻に憧れわぶる英雄を、
女神の中に端正な姿いみじきカリュプソー[1]、 1-14
その配偶となさんとし、その洞窟にとめおけり。15
さはれ春秋めぐり行き、やがて諸神の命により、
愛(め)ずる故郷のイタケー[2]に帰来の年のいたる時、
なおも苦難をまぬがれず、親しき友の間にも、
試練続けり。もろもろの神いっせいに憐れめど、
ポセイドーン[3]がただひとり、すぐれし勇士オデュセウス、1-20
故郷に帰り着かんまで、彼に憤怒を続けたり。1-21

[1]本編51行以下。
[2]イタカのイオニア方言。 [3]海の神。

アイティオプス[1]の遠き地をいま海神は訪い来たる、1-22
その辺境に住む民は内に二つの領分かつ。
一は日輪昇るさと、他は夕陽の沈む郷。
彼ら捧ぐる牛羊の牲(にえ)を受くべく訪い来り、25
神喜びて宴につく。他の神々はいっせいに、
ウーリュンポス[2]の山上にゼウスの宮に集まりぬ。
人と神との父ゼウス、そのとき皆に宣し言う、
アガメムノーンの誉れの子オレステースに殺されし
アイギストスを胸中に思いわびつつ、すぐれたる[3] 1-30
彼を忍びて群神に向かいすなわち宣し言う、

[1]地名はアイティオピアー(=エティオピア)、民族名はアイティオプス(複数型はアイティオペス)。
[2]オリンポスの長音形
[2]「風采のすぐれたる」と解すべし、憎むべき奸夫なれども。

『見よ、いかばかり神明を人間の子らとがむるや!
すべての苦難、神よりと彼らは叫ぶ。しかれども、
運命以外災いは、かれ自らの狂よりぞ。
かく運命に逆らいてアイギストスは愚かにも、35
その正妻に通じつつ[1]、アガメムノンを凱旋の 1-36
その日倒せり、恐るべき応報すでに知りながら。
われアルゴス[2]をほふりたる賢き使いヘルメース、1-38
彼に送りて殺害と不義の非行を戒めき。
長じて国に帰り来るオレステースの復讐の 40
あるを思いて、その非行犯すなかれと戒めき。
誠をこめて慇懃に使いはかくと諭せしも、
狂夫は聞かず、一切の罪ことごとく償えり』

[1]3-194および11-409以下参照。
[2]牧人アルゴス、全身に多くの目を有する者。

藍光の目のアテーネーそのとき答えて陳じ言う、
『ああその統御至上なるわれらの天父クロニデー[1]、1-45
かの者まさに刑罰の至当によりて倒れたり。
かかる行為にならう者、同じくかくぞほろぶべき。
さもあれ我の心痛のもとは賢きオデュセウス、
運悪くして長らくも友を離れて悩む者。
いま海洋のただ中の島に捕らわる——鬱蒼(うっそう)と 1-50
樹木の茂る島の中、そこに女神[2]の住めるあり。
その一切の海の底知りて、虚空と大地とを
分つ巨大の諸柱(もろはしら)、高くそびゆる大柱[3]、1-53
手にて支ゆるアトラス[4]の子なり。彼女は、悲しめる 1-54
不幸の勇士抑えとめ、つねに温和の甘言に 55
誘いて媚びて、彼をしてその憧憬の遠き郷、
故郷イタケー忘れしむ。憐れなるかなオデュセウス、
故郷の空に立ち昇る煙をさえも眺むべく、
情念せつに死を思う。ウーリュンポスを統(す)ぶる君、
君いかなれば動かざる?アルゴス水師[5]そば近く、1-60
広きトロイア平原に犠牲捧げしオデュセウス。
君いかなればかくまでも彼に対して不興なる?』

[1]呼格。
[2]カリュプソー。
[3]山を言う。
[4]ホメーロス詩中にその系統は説かれず、アフリカの一高山アトラスはこの名を取る。
[5]ここにてはアカイアと同意義。水師は水軍のこと。

雷雲寄するクロニオーン、彼女に答えて宣し言う、
『ああわが愛女、何たる語汝の歯端[1]漏れ出づる?1-64
我いかにしてオデュセウス——神に似る者忘れ得ん?65
智は一切の人間をしのぎ、天上もろもろの
神に犠牲を捧ぐるは、また余人にもまさるもの。
ただいかにせんポセイドーン絶えずも彼に憤る。
キュクローペス[2]の一族の中にもっとも勝る者、
ポリュペーモス[3]の一つ目をくだきしゆえにいきどおる。1-70
荒涼広き海の領、領を治むるポルキュスの 1-71
息女トオーサ、洞窟にポセイドーンと語らいて、
生める怪物——かれのため海神怒り、英雄を
殺さざれども彼をして長く浮浪の旅続け、
あこがれ慕うその郷にいまだ帰るを得ざらしむ。75
いざ今ともにオデュセウス帰郷の幸(さち)を得んがため、
力合わせて計らわん。ポセイドーンはその怒り
捨てむ。不滅の一切の神に逆らい、ただひとり
味方なくして争うも彼はた何を成し得んや?』

[1]歯の防壁(直訳)。
[2]キュクロープス族。「円眼」の意。海神ポセイドーンの裔。ヘシオドスのテオゴニイ一四四行に「一眼」と明記さる。ただしそこにはウーラノスとガイアの子と称せらる。その郷はシチリアと一般に古代作者は言う。
[3]9-383以下参照。

藍光の目のアテーネーそのとき答えて彼に言う、80
『ああその統御至上なるわれらの天父クロニデー、
慶福充てる神々の嘉(よ)みするところオデュセウス、
賢き勇者、あこがれの故郷に帰り着くべくば、
さらばアルゴスほふりたる使いヘルメイアスをして、
オーギュギアーの島に行き、鬢毛(びんもう)美なるカリュプソ[1]に 1-85
神の決議をすみやかに伝えしむべし、艱難に
耐ゆる勇武のオデュセウスついに故郷に着くべきを。1-87
我はイタケーおとずれて彼の子息を励して、
力をそえて長髪のアカイア人を集めしめ、
求婚の群払わせむ。彼らは絶えず数多き 90
羊群および角曲がり歩みよろめく牛群を——
オデュッセウスの持つものをほしいままにもほふり去る。
さらに我またスパルター、また砂がちのピュロスへと、
かの子導きその父の帰国の報を探らせむ。
かくして彼は人中にその名声をかち得べし』95

[1]カリュプソー、本巻50以下。

しかく宣してアテーネー、アンブロシアの黄金の
美麗の靴をその足に穿(うが)ちぬ。海にまた陸に
風の呼吸のごとく疾(と)く女神を運び行く靴を。
女神はたまた青銅の強き鋭き槍を取る[1]。1-99
その槍重し、おおいなり、固し。かくしてアテーネー 1-100
この槍用い、一切のあらがうものを服せしむ。
ウーリュンポスの高きより女神かくして飛びくだり、
イタケー人のただ中の、勇士の館(たて)の入口に、
その中庭を前にして青銅の槍携えて、
タポスの領主メンテース、その影なしてたちどまる。105
そこに女神の目に映る求婚の群。いくたりか
おのがほふりし牛王[2]の皮、館門の前に布き、
その上に座しおのがじじ棋をたたかわし楽しめり。
館(やかた)の従者(ずさ)と童僕は彼らのために身を労し、
あるいは瓶(びん)に酒と水混んじ、あるいは海綿の 110
気孔多きを手に取りて、卓を清めて客の前[2]、1-111
これを据えつつ、さらにまたあまたの肉をきざむめり。

[1]99〜101行を後世の挿入と諸評家は言う。
[2]牛王は単なる牛のこと。ライオンも同様。 [3]一客一卓にして古代ゲルマン人のごとし(日本も)。

女神来たるをまっさきにテーレマコスは認めたり。
求婚の群を前にして胸にもんもんの情抱き、
心におのが英剛の父をそぞろに忍びやり、115
とある庭より現われて求婚者らを払い得ば、
おのれはたまた名声を保ちて領土治め得む。
しかく念ぜる彼のいま認めえたるはアテーネー。
すなわち急ぎ門の前すすみ、賓客長らくも
戸外に立ちて停るをいたみて、彼のそば近く 120
寄せて右手を握りつつ、青銅の槍うけとりて、
彼に向かいてつばさある言句(げんく)はなちて陳じ言う。

『客よ、安かれ、この家の歓待受けよ、まず食を
取りて、しかしてくつろぎて君の望めるところ言え』

しかく宣して導けば続けりパラス・アテーネー、125
かくして高き館(たち)の中、一間(ひとま)に入りて携えし
槍を巨大の円柱に立てかけ、清く磨かれし
台に据えたる、そのそばに英武すぐれしオデュセウス、
用い慣れたる幾条の長槍ともに立ち並ぶ。
かくして彼を導きて、巧みに織られ美麗なる 130
布を敷きたる椅子の上、寄らせ足台下に据え、
そのかたわらに自らも飾れる椅子に身を寄せて、
求婚の群にかけ離る——無礼の群に交らば、
その喧囂(けんごう)に耐えずして、客はおそらく飲食を
いとわむ、さらに離るれば父の消息学び得む。135
やがて一人の侍女(ひじょ)美なる黄金の瓶携えて、
銀盤の上傾けつ、彼らの両手清めしめ、
続きて清く磨きたる卓をかたえに据え直す。
威儀ある老女、麺包[1]を取りて彼らの前におき、
さらに珍味のもろもろを供え出して飽かしめつ。140
肉切る者は数多く調理の皿を卓上に
並べ捧げて、黄金の杯、客の前に置く。 
給仕は酒をつぎながらしばしば前に現われぬ。

[1]パンのこと。

やがて求婚者の群は現われ来り、順を追い、
椅子にあるいは肘掛けに各々その身を定むれば、145
給仕ら寄せて洗浄の水を彼らの手にそそぎ、
籠に満たせる麺包を家婦[1]は彼らの前供え、
小童酒を杯にあふるるばかり満たさしむ。
かくして皆は備わりし食に向かいて手を伸しぬ。
さはれ飲食終わりつつ口腹おのおの飽ける時、1-150
求婚の群また外に、歌と舞踊の興求め、
せつに望めり、その二つ酒席すべての飾なり。
かくして給仕美麗なる琴をもたらし手渡せば、
やむなく歌うペーミオス、無残の群を前にして
弦を払いて朗々とまず前奏を歌い出づ。155
テーレマコスは藍光の眼(まみ)もつ女神アテーネー、
女神に頭さし寄せてほかに知られず語り合う。

[1]家婦は家政婦、女中頭の意味で使われている。

『いかに客人、わが言を聞きて不興を催すや?
君見るごとく彼の群は歌を楽み琴を愛で、
みだりに人の生計の資をむさぼりて飽き足らず。160
ああその人の白骨は陸のいずれのほとりにか[1] 1-161
雨に朽つらむ。しからずは波浪に洗い流されむ。
もしイタケーに帰りくる彼を、かの群見るとせば、
彼を恐れて逃ぐるため、黄金および絹織の
富にまさりて健脚の早きをせつに願うべし。165
さはれ運命非なるより彼はほろびて一毫の
慰めわれに残されず。大地に住める人、誰れか
彼の帰郷を説かんとも、むなし、その事失わる。
さはれ請う今うち明けて委細を我に物語れ。
君は何びと?いずこより?いずれか故郷?父母は誰そ(たそ)?170
何らの船に乗り来しや?水夫ら君をイタケーに
いかにはこべる?何者と彼ら自ら称せしや?
徒歩にてここに、この郷に君来たるにはあらざらむ。
また真実に物語り、我に正しく知らしめよ。
君はじめての来訪か?あるいはかつて我が父の 175
賓客たりしことありや?この屋訪い来る人絶えず。
父またつねに喜びてしばしば人を訪い行けり』

[1]万葉集の『水漬くかばね、草むすかばね』

藍光の目のアテーネー答えて彼に陳じ言う、
『君問うところ、真実に陳じて君に知らしめむ。
われメンテース、わが父は勇武の名あるアンキアロス。180
櫂(かい)に親しむ子ら多き郷土タポスはわが所領。
言語異なるもろもろの国をめぐりて、テメセーに
銅を求めて、携えし鉄に換うべく航海の
道に水夫ら諸共にわれ今ここに訪い来る。
今わが船は都市遠く広野にのぞむレートロン、185
港に寄れり、ネーイオン緑林茂る丘の下。1-186
はたこの家との交わりは父祖伝来と誇り得む。
君それ行きて老雄のラーエルテス[1]をおとずれて、1-188
彼に親しくこれを問え。わが聞くところ、都市離れ、
田野に隠れ零落の生、営なむと人は言う。190
老婢ひとりにかしずかれ、時に経めぐる葡萄園、
その豊饒の地をたどり、疲労に肢体悩む時、
老女は彼に飲食を与え、いたわり慰むと。
我いまここに来れるは、すでに故郷に君の父
帰ると人に聞けるため——さはれ神命かくあらず。195
わが知るところオデュセウス地上の生を失わず。
渺々(びょうびょう)広き海洋の一点潮の囲む島、
中になお生く。しかれども荒き蛮人彼の意に
反して強いて押しとどめ、国に帰るを得せしめず。
われ今あえて予言せむ。神明これをわが胸に 1-200
銘ぜり。我はこの事の——飛鳥の跡に霊占の
術をよくする身ならねど——必ず成ると信じ知る。

[1]テーレマコスの祖父すなわちオデュッセウスの父。

『故郷を離れ放浪の期(ご)は今すでに長からず。
鉄鎖きびしく彼れの身をとどむることは長からず。
知謀ゆたかの彼はよく帰郷の策を巧むべし。205
さはれ今言え、真実を君今われにうち明けよ。
君ははたしてオデュセウス英武の父の子なるやを。
頭ならびに美しき両眼いみじ、彼に似る。
彼と我とは親密に交わり来ること長し。
そはアルゴスの諸英雄もろとも立ちて海洋を 210
渡り、トロイア目ざしつつ船に乗じて去りし前。
その後我は彼を見ず、彼も同じく我を見ず』

しか陳ずれば聡明のテーレマコスは答え言う、
『客人、われは真実に君にこの事を語るべし。
まさしく彼の子と我をわが母は言う。しかれども 215
我は得知らず。何びともまことの父を知り難し。
その老齢を安らかに領土の中に過し得る
栄えめでたき人の子と、ああわれ生まれ得ましかば!
さはれあらゆる人類の中のもっとも不幸なる
人の子なりと皆は言う。君への答えかくばかり』220

藍光の目のアテーネーそのときさらに彼に言う、
『ペーネロペイアかく君を生みたり。後に誉れなき
子孫の系をこの家に神は必ずあらしめず。
さはれ今言え、真実を願わく我にうち明けよ。
何たる宴ぞ?集会ぞ?今眼前に見るところ、225
君に何らの要ありや?それ招宴か、婚席か?
こは持ち寄りの宴ならず。人々ここに傲然と
この館中に振舞える。その数々の不行儀を、
心ある者眺め見ば不快の感を催さむ』

それに答えて聡明なテーレマコスは陳じ言う、230
『君慇懃にこの事を問い究むればわれ告げむ。
ああその昔英雄のわが父家にありし時、
家は栄えて人々の侮辱を受けしことあらず。
神明今は災いに福を転じてわが父は、
あらゆる人の中にしてその名もっとも世に知れず。235
トロイア軍を敵として同僚ともの打ち死にか、
あるは飽くまで戦いて親しき友の腕の中、
彼れその生を終わりなば、いたくは我は悲しまず。
全アカイアの兵たちは墳墓を彼に築くべく、
かれ光栄を来るべき子孫の上にもたらさむ。240
さはれ怪風吹き去りて彼はむなしく跡を絶ち、
ただ嘆息と悲哀とをわが身の上に残すのみ。
さもあれ今は我ただに彼を悲しむのみならず、
神明さらに新たなる災いここにもたらしぬ。
ドゥーリキオンと森繁るザキュントスまたサメーの地、1-245
その列島を司る諸種の豪族またさらに、
わが岩多きイタケーを領するやから、わが母に
婚を迫りてこの家をみだりに荒らす。母はまた
その憎むべき再婚を拒まず、しかも決し得ず。
かくして彼ら宴飲を続け、わが屋の壊滅を 1-250
来らし、やがて程もなくわが一身をほろぼさむ』

そのとき女神アテーネー憐憫深く答え言う、
『聞くもいたまし、君はげに離るる父を求むべし。
父帰り来ば彼の手は無恥の党類懲らすべし。
今帰りきて前門に彼もし立ちて、盾兜(かぶと) 255
その身を固め、投げ槍の二条を取らば如何ならむ?
メルメロスの子イーロスの領土エピュラー、その地より 1-257
彼わが城にめぐり来て、芳醇くみて楽みし。
そのとき、彼の風貌を初めて見しをわれ思う。
かしこにさきに軽船に乗りて行きたるオデュセウス、260
青銅の矢にまぶるべく人命倒す毒汁を、
求めたれども意を遂げず。神の怒りを怖れたる
イーロスついに恐るべき塗料を彼に拒みたり。
されど我が父かれを愛(め)で彼の望みを遂げしめぬ。
かかる姿にオデュセウス求婚者らにすすみなば、265
党類すぐに倒されてにがき婚儀を味わわむ[1]。1-266
さはれはたして帰り来てこの館中に求婚の
群を懲しめ払わんや?その一切は神明の
御胸の中に横たわる。われ今君を戒めむ。
策をめぐらし党類を追い払うべくつとめよと。270
意あらば君いま我に聞け。われの忠言心せよ。
あすの日アカイア豪族を集議の席に呼び入れよ。
彼らに君の意を語れ。神を君の証とせよ。
しかして家に帰るべくかの党類に押し迫れ。
また君の母再婚を心に願うことあらば、275
家計豊かなその父の家に帰るをよしとせむ。
かくてそのため一族は婚儀整え、めでおもう
息女の上にふさわしく多大の嫁資を備うべし。
さらに我また忠言を君にいたさん、聞くべくば。
長く外出の君の父、その消息を探るべく、280
水夫(かこ)二十人乗組の良き船選び波分けよ。
人界の子の何者か君に知らせむ。さもなくば、
神より出でし風聞[2]を広く伝うる声聞かん。1-283
まずピュロスの地おとずれて、問え英邁(えいまい)のネストール、
次に転じてスパルター訪えかし。アカイア軍勢の 285
最後に郷に帰りたる、かの金髪のメネラオス。
父の生存また帰国確かとそこに聞き知らば、
辛労いかに多くともさらに一年なお忍べ。
これに反して父は逝き、長く現世に背けりと
聞かばすなわち愛好の祖先の郷に立ち帰れ。290
しかして墳塋(ふんえい)かれのため築き、勇士にふさわしく
葬儀豊かに行ないてその後母を他に送れ。
さはれこれらの一切をみなことごとく成就せば、
次に思案をめぐらして、かの党類をこの館の
中にうち取るすべこらせ。彼らあるいは計略の 295
秘密によりて倒さんか、あるいは全くあらわにか?
小児のごとく振舞いそ。君幼年はすでに過ぐ[3]。1-297
あるいは君まだ聞かざるや?オレステースの勇武なる、1-298
その高名の父王を彼に奪いし奸佞(かんねい)の
アイギストスを倒し得て、世の賞賛を博せしを。1-300
うち見るところ君はげに美なり壮なり、望むらく、
勇をふるいて後の世に名声長く残せかし。
われ今かなた停泊の軽船および僚友に
帰らん。われを待ちわびて彼ら不興を感ずらむ。
さはれ君よく意を注ぎわが忠言を心せよ』305

[1]殺されむ。
[2]風説(オッサ)はゼウスあるいは諸神より出づといわる。
[3]テーレマコスは今二十一歳。

それに答えて聡明なテーレマコスは陳じ言う、
『客よ、美(い)しくも好意もて君はこれらの事語る。
父のその子に言うごとし。我は必ず忘るまじ。
さはれ行旅に急ぐともなお休息をここに取り、
湯沐(とうもく)果てて爽かの気力君が身みたす時、310
美なる尊き礼物をわれの紀念に携えて、
欣然として停泊の船へと帰れ。これはこれ
愛好の友なべてその客に捧ぐるならいのみ』

藍光の目のアテーネーすなわち答えて彼に言う、
『行旅を急ぐ我を今君願わくはとどめざれ。315
熱情君を動してわれに与えん礼物は、
我の再び来る時、恵め、故郷に携えむ。
選択良かれ。我もまた君に答礼捧ぐべし』
藍光の目のアテーネーしかく陳じて颯然と、
さながら鳥の飛ぶごとく去りてたちまち跡見えず。1-320
残れる彼の胸の中、勇と力を植えつけて、
父に対する思慕の念増さしむ。彼はさらにまた、
胸に驚異の念満ちて神明にやと、いぶかりぬ。

さて求婚の群の中、神のごとくに彼は入る。
彼らは座してすぐれたる楽人の歌、黙然と 325
聞けり。歌うはアカイアの悲惨の帰軍——トロイアを
しりぞく道にアテーネー・パラスの命じなせる業(わざ)[1]。1-327
そのすぐれたる吟唱をイーカリオスの息女たる
ペーネロペイア、楼上に聞き取り、胸を痛ましめ、
その寝室を立ち出でて高き階段くだり来る。330
くだるは一人のみならず、二人の侍女(じじょ)を従えり。
さて求婚の群の前現われ出でし麗人は、
可憐な頬をうるわしきベールの下に隠しつつ、
穹窿(きゅうりゅう)高き部屋の中、柱によりて立ちとまる。
侍女はおのおの粛然と左右にたてる。そのときに 335
はらはらとして麗人は涙にくれて、すぐれたる
楽人に言う、『ペーミオス、君は幾多の物語、
歌人の褒むる英雄の、また神明のそれを知る。
今その一つ客人の前に吟ぜよ。黙然と
杯をふくみて聞き取らむ。されどもひとりかの歌を 340
吟じて我を苦しめな。わが心肝はくだけんず。
忘れ難かる哀愁は特に不憫の身を襲う。
なつかしきかなわが夫。ヘラスならびにアルゴスに
英武の誉れ高かりし君をいかでか忘れ得ん!』

[1]アテーネーの神殿においてトロイア王女カッサンドラーにロクリスのアイアース無礼を加えたるその罰として。

そのとき母に聡明のテーレマコスは陳じ言う、345
『その性情の駆るがまま、この楽人は妙音を
はなちて人に興を添う。願わくとがめたまわざれ。
歌人は事のもとならず。もとはゼウスぞ。意のままに
麦を食らえるもろ人におのおの運を恵む者。
ダナオイ族の悪運を歌うも彼のとがならず。1-350
あらゆる詩歌の中にして、聴者の耳に最新と
ひびくものこそ最大の賛美、人より博し得め。
乞う心肝を固くして忍びて彼を聞きたまえ。
トロイアよりし凱旋の歓喜の幸を失える、
そはオデュッセウスのみならず。滅びし者は数多し。355
いざ寝室に立ち帰り機(はた)に紡ぎに、ふさわしき
君が務めに就きたまえ。侍女に命じてそのわざを
遂げしめたまえ。弁論は男子すべての領にあり。
特にこの屋の主人たる我のまさきになすところ』

しか陳ずれば驚きて寝室さして帰る母。360
愛児の述ぶる聡恵の言句を胸に銘じつつ、
侍女もろともに楼上の部屋にしりぞき、今さらに
消息絶えし良人を思い、涙にかきくるる。
やがて藍光の目の女神、眠りを彼女の目に注ぐ。
こなた暗影迫りくる部屋の中には、求婚の 365
群れ騒ぎ立ち、麗人の寝屋分かつべく争えり。

そのとき皆に聡明のテーレマコスは叫び言う、
『ああわが母の求婚者、汝ら厚顔無恥の群。
この宴席を楽しむも、かかる騒擾戒めよ。
今聞くごとく、妙音の調べあたかも神明に 370
似つつ吟ずる楽人に、耳を貸さんはよからずや?
さはれ明日集会の席に来りて我に聞け。
そこに汝ら一同にこと明白にわれ言わん。
わが居館よりしりぞきて新たに別の宴開け。
おのれの産に口腹を満たせ。互いに相招け。375
ただし償いなさずして、ただ一人の産をのみ、
むさぼることはさらによく、さらにまさると思いなば、
しかなせ。されど照臨の諸神に我は祈るべし。
ゼウス来りてかかるわざついに罰せん。汝らは
この館中に倒されて、また復讐の時なけむ』380

その言聞きてみな唇を噛みしめて、
テーレマコスの決然と陳ずる声に驚けり。
エウペイテスの子アンティノオス、そのとき答えて彼に言う、

『テーレマコスよ、明らかに神は汝を導きて
かく高声に陳ぜしめ、かく勇敢に語らしむ。385
さはれ汝をクロニオーン、海の囲めるイタケーの
王とせざればよからまし[1]。よし相続の権あるも』1-387

[1]反語なり。次のテーレマコスの答を見るべし。

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、
『アンティノオスよ、わが言に汝不快を感ずるも、
我はゼウスの守護を得て、この島王とならんとす。390
汝は言うや、人の世の中にこの事最悪と?
王者は悪しき者ならず、豪華の館はたちまちに
彼の有たり。万人の崇敬同じく彼に向く。
さはれ老若もろもろのアカイア人の諸領主は、
ほかに数多に波囲むこのイタケーの中にあり。395
わが英剛のオデュセウス死せばいずれか王たらむ。
そのとき我はわがために彼れ英剛のオデュセウス、
戦利に得たるこの館と奴隷の群れの主たるべし』

そのときポリュボス生める息、エウリュマコスは彼に言う、
『テーレマコスよ、アカイアの誰かはたして波囲む 1-400
このイタケーの王たらむ。事神明の胸にあり。
さもあれ汝その産を保ちこの屋の主人たれ。
また何びとも寄せ来り、その暴力に訴えて、
汝の産を奪い得じ。イタケー無人の地ならずば。
さはれにわかの賓客に関し汝にこと問わむ。405
彼いずこより来れりや?いかなる国の住民と
彼ほこれしや?いずこにかその家族ある?郷士ある?
オデュッセウスの帰るべき消息彼やもたらせる?
あるいは私用果たすべく彼この国に来れるや?
飛ぶがごとくに突然に去りて推測すべからず。410
その顔つきをうかがえば彼は卑賤の輩ならず』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、
『エウリュマコスよ、わが父の帰郷の望み絶えはてぬ。
消息何のほとりより来るも信をわれ置かず。
予言者呼びて館中にわが母たずね問うところ、415
神秘の言は今すでにわが念頭に掛り得ず。
かの賓客は父の友、タポスの地よりたずね来ぬ。
アンキアロスは彼の父、彼は名のりぬメンテース。
櫂をあやつる子らの群、タポスの民を司る』
テーレマコスはかく答う、されど心で神と知る。420

いみじき歌と舞踊とに皆はそぞろに興じつつ、
時を過して夕陽の沈むを共に相待てり。
やがて楽しむ皆の前、暗き夕べは寄せ来る。
かくして皆は甘眠を求めおのおの家に去る。

テーレマコスは庭中に設けて彼に作られし 425
高き美麗の一室に——そこより四辺眺むべき
部屋に帰りて床につき、千々の思いに胸満す。
ペイセーノル[1]の子オープスの娘、正しくしとやかな 1-428
エウリュクレイア彼に添い松明照らし先に立つ。
(ラーエルテースそのむかし彼女の若き真盛りに、430
牛の二十の価もて購い来る。館中に
その良き妻とひとしなみ愛でしも、妻に憚れば、
彼女の寝屋には近寄らず。絶えて肌には触れざりき。
テーレマコスを幼齢の折りにはぐくみ一切の
家人にまさり愛でたりし)エウリュクレイア先に立つ。435

[1]ペイセーノールを縮む。

かくして彼は堅牢に作りし部屋の戸を開き、
臥所(ふしど)に就きて柔らかの衣服静かに脱し去り。
すなわちこれを忠順の老女の手へとうち渡す。
老女はこれを慇懃に、たたみて伸して、飾ある
いみじき床のかたわらの、釘の上(へ)これをうち掛けつ。440
かくして老女部屋を出て銀の輪をもて戸を閉ざし、
革ひも引きて閂(かんぬき)をこれに通してしりぞきぬ。
テーレマコスは羊毛の夜着に夜すがら包まれて、
女神パラスの勧めたる航海思いめぐらしぬ。

オヂュッセーア:第二巻


テーレマコスに招集さるるイタケーの住民(1~14)。老雄アイギュプティオス、招集の理由を問う(15~34)。テーレマコスは求婚者の乱暴を説き人々の憐れみを乞う(35~79)。求婚者の一人アンティノオス立ちてペーネロペイアの偽計を責む。いわく「テーレマコスは彼れの母を母の父イーカリオスのもとに返すべし。母は新夫を自ら選むべし。しからば求婚者はこの館を去らん」と(80~128)。テーレマコスはこれを拒み、求婚者の退散を命じ、神々の懲罰を祈る(129-145)。テーレマコスにとりて喜ぶべき吉兆現わる——老翁ハリテルセースは求婚者に勧め生命惜しくば退散せよと言う(146~176)。求婚者の一人エウリュマコスはハリテルセースを叱り、求婚者は何びとをも怖れずと言う(177~207)。父の消息を探るべくテーレマコスは、スパルターとピュロスとに行くべき船を求む(208~223)。メントールはイタケー住民に対してその無関心をとがむ(224~241)。レーオークリトス答えてメントールに言う、「求婚者は何びとをも恐れず。オデュッセウスの帰りをも恐れず。テーレマコスは出発せざるべし」と。すなわち集会を散ず(242~259)。
 テーレマコスは海岸に行きアテーネーの冥助を乞う。女神はメントールの姿にて現われ、準備を命じ、自分は船と船員とを求むべしと約す(260~295)。テーレマコス館に帰る。アンティノオス彼を宴会に誘う。テーレマコスこれを拒む。求婚者の嘲弄(296~336)。テーレマコスは老女エウリュクレイアに準備を命ず(337~360)。老女驚きてこれを諫む。テーレマコスは老女を慰め、母にこの旅行を告げざれと戒め、求婚者の群衆に帰る(361~381)。女神アテーネーはテーレマコスの姿を取りて船員に近づきこれを労う。艤船す。次に求婚者を眠らせ、しかしてメントールの姿を取り来りてテーレマコスを探す(382~404)。テーレマコスの出発——アテーネーに伴われてピュロスへと(405~434)。

指は薔薇(そうび)の色赤き明けの女神の現われに、
ふしど離れて起き上るテーレマコスはさっそうと、
すなわち衣装整えて肩に鋭利の剣を掛け、
その輝ける両足に華麗の靴を穿たしめ、
その面影は神明に髣髴(ほうふつ)として部屋を出で、2-5
直ちに音吐(おんと)朗々の使者に命じて、集会の
席に頭髪長やかのアカイア族を招かしむ。
使者高らかに令伝え、人々早く集まりぬ。
万民かくて一場に共に集まりあえる時、
テーレマコスは青銅の槍を手に取り現われぬ、2-10
身ひとつならず、足速き二頭の犬は彼を追う。
しかして女神アテーネー、聖き威光に彼を覆う。
かくして彼の来たるとき、皆は驚異の目を見張る。
かくして父の椅子につき、古老は彼に席ゆずる。

身は老齢に屈めども、よく百千の事を知る 15
アイギュプティオス老雄は、そのとき民に説きはじむ、
(かれの愛児は神に似るオデュッセウスに伴いて、
駿馬産するイリオンに船に乗じておもむけり。
そは豪勇のアンティポス†、そを獰猛の怪人種[1]、2-19
キュクロープスは洞窟の中にほふりてくらいけり。20
他にまた三児、そのひとりエウリュノモスは求婚の
群にまじれり。他の二人つねに家業にいそしめり。
されども去れる児を忍び[2]、つねに悲嘆にしずむ彼)2-23
いま流涕の目をあげて民に向かいて陳じ言う。

[1]後の九巻にくわし。
[2]殺されしをばいまだ知らず。

『イタケー島に住める者、わが言うことに耳を貸せ。25
さきに英武のオデュセウス船に乗じて去りし後、
この地に絶えて集会もまた評定もあらざりき。
誰そ今我ら集めしは?誰に今その要ありや?
その人はたして青年か、ただしあるいは老年か?
彼れ帰りくる軍勢の消息あるいは耳にすや?30
かくして彼のいやさきに聞けるところを報ずるや?
あるいはほかの公の事を思うや、陳ずるや?
わが見るところ、その者は正し。無用の者ならず。
ゼウス願わく、その胸に思うところを成らしめよ』

その幸先のよき言句テーレマコスは喜びて、35
この上長く座にあるに耐えず、言句を陳べんとす。
すなわち民の前に立つ。その手に笏(しゃく)を与うるは、
ペイセーノール伝令者、よき忠言を致すもの。
かくして彼はいやさきにアイギュプティオス老雄に、

『ああおじ、民を集めたる人は真近し、すぐ知れむ。40
われなり、民を集めしは。われに憂愁迫りくる。
われ帰りくる軍勢の消息いまだ耳にせず。
われまさきに耳にせば、あらわに皆に告げるべし。
またわれほかの公の事を思わず、述べもせず。
ただわが上に、わが家にくだりし二重の災難を 45
述べん。われまず英邁の父失えり。彼れ昔、
汝のうちに君臨し、恩愛父の如かりき。
さらに今またおおいなる災難到り、わが家は
無残に倒れ、わが産はみなことごとく滅ぶべし。
わが郷党の中にして、秀でたる者その子らが 2-50
こぞりて、厭うわが母に婚を求めて相迫る。
母の父なるイカリオス——その意にかない好む者、
選びてこれに、わが母を豊かな嫁資携えて
与うべき者——そのもとに彼ら憚りおとずれず。
しかも連日わが家に絶えず彼らは寄り来り、55
牛と羊と肥え太るヤギをほふりて口腹を
飽かし、意のまま放縦に甘美の酒を飲み干して、
わが屋に貯蔵するところ、大部はために費やさる。
その災いを払うべき英武の父に似たる者
あらず。我らは無念にもこれを払うをよくし得ず。60
彼らは我を柔弱に、勇を欠くとし思うらし。
勇力われに備わらば難をいかでか止めざらむ!
かれらの行為この上に忍ぶべからず。わが家は
無残にほろび去らんとす。汝ら共に恥とせよ。
汝のめぐり近隣に住む人間のやすらぎを、65
心に掛けよ。神明の怒りを恐れ戒めよ。
神は非行をいきどおり罰を報ゆることあらむ。
ウーリュンポスの神ゼウス、また集会を司り、
また集会を解き散らすテミス[1]によりて我は乞う。2-69
止めよ、わが友、我をしてひとり無残の憂愁に 70
任せよ——強きオデュセウスさきに敵意をさしはみ、
アカイア人に災難を加えしことのありとして、
その報いとし今われに汝ら害を施して、
民励まさばいざ知らず。汝ら我の財奪い、
われの資産をそこなうは、かえって我によからまし。75
汝らこれをそこなわば他日報いは来るべし。
市中めぐりて声挙げて我は償い求むべし、
やがて一切ことごとくわれに報いて払われん。
今は汝らわが胸に無限の悲哀起さしむ』

[1]習慣、規定を意味する語、ホメーロスにおいてはゼウスの使者、『イーリアス』20巻5行にもあり。

憤怒はげしく述べ終わり、涙流して手に取れる 80
笏を大地に投げ落とす。民は憐憫胸に充ち、
みなことごとく黙然と口を閉ざしてひとりだに、
テーレマコスを苛酷なる言句を責むる者あらず。

アンティノオスはただひとり答えて彼に陳じ言う、
『テーレマコスよ、高言の汝、何たる言を吐く?85
情に任かせて我々に汝恥辱を加えんず。
汝われらの求婚者とがむべからず。責むべきは
汝の母ぞ、計策を心に思いたくむもの。
アカイア人の心情を彼女巧みに欺(あざむ)きて、
すでに三年、今まさにほどなく四年過ぎんとす。90
みなに希望を抱かしめ、そのおのおのに使いやり、
約しながらも胸中の思いまったく相そむく。
すなわち彼女胸中に策をめぐらしたくらめり。
すなわち部屋におおいなる機を設けて、幅広き
華麗の布を織り出だし、皆に向かいてかく言いき、95
「オデュッセウスはや身まかれば、わが身に婚を求めつつ
迫る汝ら若き人、待てかし、糸をいたずらに、
捨てず、われこの織物を作り終わらんあしたまで。
ラーエルテース老雄に死の運命の迫りこん
そのとき、彼の亡骸(なきがら)を覆わんために織れるもの。2-100
資財豊かに持ちながら覆いなくして伏すとせば
アカイア族のある女性必ず我をとがむべし」
しか言いしかば我々のやさしき心うべなえり。
かくてそれよりおおいなる機を彼女は日々に織り、
しかして夜々に燭光(しょっこう)の下にその機ほどき去り、105
三たび春秋めぐるまで求婚者らをあざむけり。
四たびめぐれる月と日の重なる時にいちにんの
侍女あり、秘密知れる者、ひそかにこれを報ずれば、
行きてはたして華麗なる機をほどくを見出でたり。
露顕のゆえにやむなくも彼女は機を織り上げぬ。110
今かく我ら求婚の群は汝にこれを告ぐ、
汝ならびにアカイアの諸人ひとしく知らんため。
いざ今母に、家を去り、その意に叶い、また父の
しかくなすべく命ずべき人と結婚なさしめよ。
されども彼女なお長く求婚者らを悩めんか?115
豊かに女神アテーネー賜える恵み——繊麗を
極むる物を作るすべ、また優秀の才と芸、
さらに計策——いにしえにありしアカイア女性らの
誰しも持つと聞かぬもの。アルクメーネー[1]、テューロー[2]と 2-119
宝冠美なるミュケーネー[3]共にひとしく持たぬもの—— 2-120
ペーネロペイアひとり持つ。ただ惜しむらくこの技を
正しく用い行わず。神明彼女の胸中に
与うるところ、その性(さが)をなお続けんか、一同は
汝の産を費やさん。げにも彼女はおおいなる
誉れ受くべし。しこうしてそのため汝莫大の 125
産を失い、痛恨を禁じ得ざらむ。思わずや!
彼女好めるアカイアのとある一人と婚すべき。
その前、われら他のわざにあるいはほかに行かざらむ』

[1]ヘーラクレスの母。
[2]サルモネウスの息女、共に(十一巻)冥府においてオデュッセウスに会う。
[3]イナコスの娘。都市ミュケーネーはこの名を受く。

彼にそのとき聡明のテーレマコスは答え言う、
『アンティノオスよ、我を生み我を育てしその人を 130
家より追うは許されじ。わが父あるいは外国に
生きむ、あるいは逝きつらむ。我もし母を去るとせば、
イーカリオスに莫大の償い払うこと難し。
彼より我は災いを受けん。しかして神よりも
同じく受けむ。わが家を去るにのぞみてわが母は、135
世に恐るべき復讐の霊に祈らむ。人々も
我をとがめん。いかでわれ、母を去らむと言い得んや!
羞恥の念を胸中に汝いささか持つとせば[1]、2-138
わが家を去れ、おのが財用いて別に宴を張れ。
汝ら互いにその家にかわるがわるに宴を張れ。140
されども汝咎うけず他の一人の資財ただ
費やすことを良しとなし、まさるとなさばしかくなせ。
費やせ、我は常住の神に向かって訴えん。
ゼウスは他日この行為とがめて罰を加うべし。
かくして汝この家の中にむなしく倒されむ』145

[1]「如上の事を汝不満に思わば」(別訳)。

テーレマコスはかく陳ず、そのとき彼にクロニオーン、
ウーリュンポスの高根より飛び来る二羽のワシ送る。
風の呼吸に吹かれたるその二羽のワシ悠々と、
互いに近く伴いて初め静かにつばさ張る。
されど轟々(ごうごう)声あがる会のただ中近づけば、2-150
羽震わせて旋回し、皆の頭上に来たりては、
死の運命をほのめかし、猛(たけ)き爪もて散々に、
互いの首と頬を裂き、しかして民の家を越し、
都城を越して飄然と右辺をさして飛び去りぬ。
その目親しくこれを見てワシに驚く民衆は、155
恐らくやがて来るべき変事思いて胸騒ぐ。
そのとき皆に老雄のハリテルセースは陳じ言う、2-157
(マストールの子、ただひとり鳥を占い、凶兆を
述ぶるそのすべ同齢の友に遥かにまさる者)

かれいま民に慇懃の思いをこめて陳じ言う、160
『イタケー島に住める者、わが言うことに耳をかせ。
これらの事を求婚の群にことさら我は言う。
彼らに今やおおいなる災い迫る。オデュセウス、
友を去ること遠からず。近きにありて殺害と
死とをすべての求婚の群のへやがて来たさんず。165
しかのみならず明朗のイタケー島に住める他の
多くの者も害受けん。これにさきだち思うべし。
彼らの群を制すべきそのすべいかに。彼らまた
おのれ自ら制すべし。しかせん事は特に良し。
経験積みてよく知れば、我の予言は誤らず。170
アカイオイ軍その昔イリオンさして乗りいだし、
知謀に富めるオデュセウス共に同じく立ちし時、
彼に告げたるわが予言今やまさしく成らんとす。
我は述べたり、災難の多くに会いて同僚を
みなことごとく失いて、人に知られず、ふるさとに 175
二十年めに帰らんと。これらの事は今成らむ』

エウリュマコスはポリボスの子なり、彼今答え言う、
『ああおじ、予言なしたくば家に帰りて子らのため、
しかせよ。後に災難を彼らあるいはまぬがれん。
今この事に関しては我の予言はいやまさる。180
多くの鳥は太陽の光の下に翔(か)けめぐる。
しかもすべては前兆を示すにあらず。オデュセウス、
遠きあなたにほろびたり。汝も彼ともろともに
死せば良かりし!しかあらば、かくなる予言せざりしに。
かれもし恵与なすとせばわが家にこそと期待して、185
テーレマコスの憤激を、なおこの上に増すなかれ。
さはれ汝に今言わん。わが言うところきと成らむ。
多くの古き事知りて、言句によりて汝より
年わかき者そそのかし、その憤激を煽りなば、
まずいや先きにその者にとりて危害は大ならむ。190
(彼は汝の言のため何かをなすは不可ならむ[1])2-191
しかしておじよ、汝にはわれら苦痛を加うべし。
そのため汝心中に悩み苦難は重からむ。
しかしてとりわけ我はまずテーレマコスを諭すべし。
彼はよろしくその母に郷に帰るを命ずべし。195
家の愛女にふさわしく豊かの嫁資を整えて、
彼女のために親戚はそこに婚礼行わむ。
その決定に先だちて、思うに我らアカイアの
子らはうるさき求婚を廃するなけん。何者も
我は恐れず、能弁のテーレマコスも何者ぞ!2-200
おじよ、汝が無益にも述べたる予言いささかも
我らはあえて顧みず。いよいよ汝を憎むのみ。
婚儀につきて人心をペーネロペイアじらす間は、
この家の資財さらにまた乱費されつつ、そのために
神のとがめは下るまじ。われらは日々に麗人を 205
得るべく誓い、相待たむ。しかして婚を許さるる
ほかの女性を得んとして、この家しりぞくことなけむ』

[1]2-191行は後世の挿入。

そのとき彼に聡明のテーレマコスは陳じ言う、
『エウリュマコスよ、素生よき求婚者らよ、いま我は、
これらにつきて汝らにもはや求めず、また言わず。210
神明すべて、アカイアの人々すべてこれを知る。
さはれ二十の船員を具する一つの速き船
我に与えよ。波の上あなたこなたを巡るもの。
スパルターまた砂がちのピュロスに我は行かんとす。
遠き昔に旅立ちし父の消息聞かんため。215
人界の子のあるものは告げん。あるいは消息を
よく告ぐる者、神よりし出づる風評聞き得べし。
父なお生きていつしかは帰国すべしと聞くを得ば、
我は一年なお長く家資の浪費を忍ぶべし。
これに反して、人の世に父はや無しと聞き知らば、220
わがなつかしき累代の祖先の郷に帰りきて、
墳墓を築き、そのうえに礼に叶える盛大の
式をあぐべし。かくて後、母を新夫に与うべし』

しかく陳じて座に着けば、つづきて立てるメントール、
そは英邁のオデュセウス親しみあいしふるき友。2-225
船に乗じて旅立てるそのとき彼に一切を
託し、家政を整えて人々治めさせし者。

彼いま立ちて慇懃の思いをこめて皆に言う、
『イタケー島に住める者、わが言うことに耳を貸せ。
笏を手に取る王侯はもはや愛なく恩情も 230
忘れて治め、胸中に正当な事知らずして、 2-231
邪悪なる業するがよい。われかく言うは、ここの民
先きにおのれを統べ治め、慈愛あたかも父に似し
オデュッセウスのすぐれしをまったく忘れ去ればなり。
素生の高き求婚の群、胸中に奸計(かんけい)を 235
たくらみ荒く振舞うを我はとがむる者ならず。
オデュッセウスは帰らずと陳じて彼ら、この家の
産を荒して生命の危難迫るを顧みず。
我ただほかの民衆を怒る。彼らは黙然と
むなしく座して言句なし。多数のかれら口つぐみ、240
数は少なき求婚の群をとがむることもせず』

[1]反語。

エウエーノール生める息、レイオクリトス答え言う、
『ああ驕慢のメントール、心乱れて述べ立つる
何たる言ぞ!民衆を煽りてわれをとがめしむ。
数多くとも、宴席に我に抗すは難からむ。245
イタケー島にオデュセウス自ら帰り、館中に
素生の高き求婚者宴するを見ていきどおり、
これを追わんと試めど、憧れ長く良人を
待ちこがれたるその妻も、帰郷を喜ぶことなけむ。
多数の身方したがえて戦わんとて、たちまちに 2-250
彼は恥辱の運を得ん。汝の言葉愚かなり。
いざ民衆よ、散じ去り、各々おのがわざに就け。
ハリテルセースとメントール、テーレマコスの父親の
旧友なれば、子のために旅の準備を急がせん。
さはれ思うにかれ長くここイタケーにとどまりて、255
父の消息学ぶべし。旅はおそらく成らざらむ』

しかく陳じてすみやかにこの集会を解き去れば、
民衆すべておのがじし家に帰りて、求婚の
群は再びオデュセウス領する館をさして行く。
テーレマコスはただひとり岸に来りて、白浪(はくろう)に 260
手を洗いつつ、アテーネー女神に祈りあげて言う、
『ああ聞し召せ、わが家にきのう降臨なせる神。
神は長らく家去りし父の消息探るべく、
船に乗じて広大な海を渡れとのたまいき。
さはれアカイア民衆はこれらの事をおしとどむ。265
特に驕傲たぐいなき求婚の群おしとどむ』

しかく祈りて陳ずれば、かたえに女神アテーネー
近づき、影も音声もメントールのごとくして、
彼に向かいてつばさある飛揚の言句宣し言う、

『テーレマコスよ、この後はつたなく怯(きょう)なることなかれ。270
言語ならびに行ないにつねにすぐれしオデュセウス、
その勇猛の心胆を汝その身に受け継がば——
さらば汝の航海はむなしかるまじ、きと成らむ。
されども汝もし彼とペーネロペイアの子ならずば、
汝の願い成るべしと我も期待をかけざりし。275
父とひとしく優れたる子らはこの世に多からず。
多数は父におよび得ず、ただ少数は父しのぐ。
されどこの後いやしくも汝おそれず、拙ならず、
オデュッセウスの才略を汝の胸に宿しなば、
これらのわざを仕遂ぐべき希望汝の上にあり。280
されば愚かの求婚の群の思いと計画を
心に掛くることなかれ。彼らはわるし、知慮足らず。
近きに迫る滅亡とすごき運命、同じ日に、
彼らすべてを倒すべし。彼らは露も悟り得ず。
汝もくろむ航海の実現する日は遠からず。285
汝の父におけるごと我は汝に親しまむ。
汝のために良き船を備え、汝の伴たらむ。
汝は帰り求婚の群としばらくまじわれよ。
旅するために糧食を備えて船に蓄わえよ。
瓶には美酒を満たすべく、人を養う良き麦を 290
革の袋に収むべし。我はただちに民衆の
中より友を選ぶべし。海の囲めるイタケーに
新たなる船古き船その数多し。その中を
くわしく調べ、最良のものを選びてすみやかに、
船員これに乗りこませ、大海原に浮かばせむ』 295

ゼウスの愛女アテーネーかく宣すれば、その言を
テーレマコスは耳にして後いささかもためらわず、
胸に思案を凝らしつつ家に向かいて帰り来る。
素生の高き求婚者、あるいはヤギの皮を剥ぎ、
あるいは庭に豚の肉あぶる光景眺め見る。2-300
アンティノオスは彼を見て笑みを含みて寄せ来り、
すなわちかれの手を取りて彼に向かいて陳じ言う、

『テーレマコスよ、高言し、心を制し得ざる者。
悪しき言句も行ないも汝心に宿さざれ!
先のごとくに飲食をわれらと共になすぞ良き。305
船を、すぐれし船人をアカイア人は準備せむ。
かくして汝すみやかにピュロスの聖地訪い行きて、
そこに汝の英邁の父の消息探り得む』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、
『アンティノオスよ、驕傲の汝の群に交わりて、310
心ならずも宴につき楽しむことは叶うまじ。
わが家の資産莫大にこれまで汝求婚者、
むさぼり尽し足らざるや!これまで我は小なりき。
我いますでに人となり、耳に多くの言を聞き、
よく悟り得て胸中のわれの心は強まれり。315
行きてピュロスに旅するも、あるいは家にとどまるも、
汝がすごき運命に見舞われるべく試みむ。
今われ行かん。わが述べし旅はむなしきものならず。
我は汝の策により船と人とを得べからず。
他の船乗らむ。かくあるを汝好みてたくらめり』320

しかく陳じておのが手をアンティノオスの手より解く。
館の中には求婚の群宴席を整えて、
テーレマコスをあざわらい、嘲弄の言放ち言う。
中の一人若き者傲然として友に言う、

『テーレマコスは我々に死と滅亡をたくらめり。 325
ピュロスあるいはスパルター、そこより彼は応援の
友を集めて仇すべし。彼の熱望ものものし。
あるいは彼は豊沃のエピュラー[1]目がけて旅立ちて、2-328
人命倒す恐るべき毒をそこより持ち帰り、
ひそかにこれを酒瓶に入れて我らをほろぼさむ』330

[1]1-257。

同じく若き驕傲の他の一人は陳じ言う、
『誰か知るべき、彼もまた船に乗じて国を出で、
友を離れて死せんとは!オデュッセウスの逝けるごと。
しからば彼は我々にいたく労苦を増さしめん[1]。2-334
すなわちわれら一切の彼の資産を分かつべし。335
しかして彼の母および新夫に家を与うべし』

[1]反語。

しかく彼らは陳じ合う。テーレマコスはその父の
天井高き部屋に入る。黄金および青銅は
積まれ、箱には衣服満ち、さらに香油もおびただし。
古き甘美の葡萄酒の樽は同じく並びあり。340
水をまじえぬ神聖の芳醇、中に充ちあふる。
労苦を終えてオデュセウス家に帰らん日を待ちて、
芳醇ここに整然と壁に添いつつ並びあり。
錠をおろせし厳重のたたみ戸そこに設けられ、
そこに日夜に監督の一女性あり。周到に 345
心もちいて守る者エウリュクレイア、こは誰ぞ?
ペイセーノールうめる息オープス父に持てる者。

彼女を宝庫に呼び入れてテーレマコスは陳じ言う、
『姥(うば)よ、わがため、もろもろの瓶に良き酒——薄命の
父、英邁のオデュセウス、死と運命をまぬがれて、2-350
帰らん時に捧ぐべく、汝選びて蓄うる
無上の美酒に次がんもの——願わく汝酌(く)み入れよ。
十二の壷に酒充たし、栓もて密に口塞げ。
さらにわがため良き麦を革の袋に満たしめよ。
臼に挽かれし良き麦の二十メトラ[1]を満たしめよ。2-355
これらすべてを整えて他人に語ることなかれ。
夕べに到り楼上の部屋にわが母昇り行き、
静かに床に就かん時、我はこれらを持ち去らん。
我は今よりスパルターならびにピュロス砂がちの
郷を訪い行き、わが父の帰家の消息探らんず』360

[1]何程の量か不明。固体液体ともにメトラを単位としたるらし。

しか陳ずればめずる姥エウリュクレイア愁然と
いたく呻きて、つばさある飛揚の言句陳じ言う、
『ああわが愛児、いかなればかかる思念を胸中に
宿すや?汝この家の独り子、広き天(あめ)の下
旅しいずこに行かんとや?見ずや英武のオデュセウス、365
国を離れて外国の民の間にほろびしを!
しかして汝旅立たば、彼らただちに奸計を
めぐらし、汝ほろぼして家の資財を分かつべし。
さすれば汝動かずに、残りて家を守れかし。
荒き海路をさまよいて苦難を受くることなかれ』370

それに答えて聡明なテーレマコスは陳じ言う、
『うばよ、心を安んぜよ。わがこの決意神による。
さはれこの事わが母に告げざることをまず誓え。
われの旅行に出でてより十一二日(ふつか)過ぐる前。
彼女自ら思い出でてわが旅聞かばいざ知らず。375
我をしのびて流涕に美貌汚すは胸ぐるし』
しか陳ずれば厳粛の誓いを姥は神に立つ。
老女かくして神聖の誓いを果し終わる後、
十二の壷に彼のため甘美の酒を注ぎ入れ、
よく縫われたる革嚢(のう)に挽かれし麦を注ぎ入る。380
テーレマコスは求婚の群にまじりて館に入る。

かなた女神アテーネーさらに新たに思案しつ。
テーレマコスの姿取り都市の四方におとずれて、
説きて諸人のそばに立ち、夕べを待ちて迅速の
船をめざして来るべく促し勧め、また次ぎて 385
ノエーモーンに(プロニオス生めるすぐれし子に)説きて、
船足速き一隻を求む。相手はうべなえり。
日輪沈み、夜の影あらゆる道を覆うとき、
潮(うしお)の上に迅速の船の一隻おろされつ。
あらゆる船具、小船もて運ばれ中に充たされぬ。390
かくて港のいや先きに船は泊まり、いさましき
僚友ともに集まりて女神の声に動かさる。
そのとき女神アテーネーさらに新たに思案しつ。
足をすすめて英邁のオデュッセウスの館に行き、
甘き眠りを求婚の群に注ぎて欺きて、395
酔い疲れたる手中よりその杯を落とさしむ。
かくして彼ら眠るべくおのおの家に帰り去る。
眠りまぶたの上に落ち、もはや席には耐えざりき。
そのとき女神アテーネー、声も姿もメントール、
似せて、美麗に築かれし館より外に、ひとり子の 2-400
テーレマコスを呼び出し、すなわち彼に宣し言う、

『テーレマコスよ、脛甲のかたき僚友今すでに、
櫂のかたえに座を占めて汝のくるを待ち焦る。
遅れためらうことなかれ、いざ迅速にうち立たむ』

しかく宣してまさきに女神パルラス・アテーネー、405
歩みを早くすすむればテーレマコスは後を追う。
かくして行きて波の上浮べる船に着ける時、
頭髪長きアカイアの子らは岸辺にたたずめり。
テーレマコスは凛然(りんぜん)とそのとき皆に宣し言う、

『友よ来りて糧食をはこべ。わが家に一切は 410
すでに整う。わが母はこの事知らず。従者らも
同じく知らず。従者らでこれを知るのは一人のみ』

しかく宣して先頭に立てば僚友あとを追う。
かくて糧食一切を運びて岸に帰り着き、
オデュッセウスのめずる子の命ずるままに船に積む。415
女神パルラス・アテーネーさきだち乗りて船尾(とも)の座に
就けば、続きて船に乗るテーレマコスはそのそばに
同じく座しつ。水夫らは繋げる綱を解き去りて、
みないっせいに乗り込みてその銘々の席に着く。
藍光の目のアテーネーそのとき、船に便りよく 420
いぶき高くも波の上ひびくゼピュロス[1]吹き送る。
テーレマコスは皆に呼び、その手船具を握るべく
命を下せばいっせいに皆ことごとく従えり。
樅の帆柱高らかに起し、横木のうろの中、
据えて立てつつ綱をもてしかと彼らは結び付け、425
よくあざなえる革ひもを引きて白帆を高く張る。

[1]西風

かくて快風白き帆を満たせば、波は鞺鞳(とうとう)と、
激しく高く竜骨をめぐりて叫び、その上を
つんざき走る快船は潮蹴立ててまっしぐら。
船具を黒き船の上整え終わる水夫らは、430
今芳醇を満たしたる杯ともに取り上げて、
とこしえおわす神明に、特に藍光の目の女神、
クロニオーンの愛女へと念じ献酒(けんしゅ)の礼捧ぐ。
船はすすむ、よもすがら、あすの曙光のあくるまで。

オヂュッセーア:第三巻


テーレマコスとメントールの姿をなせる女神アテーネー共にピュロスに上陸、そのときネストール岸にポセイドーンを祭る。宴に招かる(1~66)。食後問答、テーレマコス、父の消息を聞く(67~101)。ネストールはアカイア軍の帰国とアトレイデース兄弟の争いを話す。ただしオデュッセウスの消息を知らず(102~200)。テーレマコスは悪運を嘆ず。ネストールこれを慰む。しかしてアテーネーはテーレマコスが信仰の足らざるをとがむ(201~238)。アガメムノーンの死についてネストール委細に話す。また家郷を長く離るる不利を説きてテーレマコスを諭す。されどまずメネラーオスを訪うことを勧む(239~328)。夜に至り宴席を徹す(329~341)。ネストールは船に帰らんとする彼らをとどむ。アテーネーはあとにテーレマコスを残らしめ、自ら空中に姿を隠す。ネストールは青年に神の冥護を祝し、犠牲を約す(342~384)。宮中に献酒の礼終わる後各人その部屋にしりぞく(385~403)。翌朝ネストールはその子とテーレマコスとをしてアテーネーに牲を献ぜしむ。祭と宴会(404~472)。ネストール車を備え、その子ペイシストラトスをしてテーレマコスを案内せしむ。両青年ピュロスを立ち、翌日の夕べ、ラケダイモーンにつく(473~497)。

オーケアノスのうるわしき水面(みなも)離れて日輪は、
高く青銅の空のぼり[1]、不滅の神を、豊饒の 3-2
大地に宿る人間を照らし、光明燦と射る。
そのとき皆はネーレウスはじめしピュロス、堅牢の
都城に着けり。その岸に住民黒き牛ほふり、3-5
犠牲となして緑髪のポセイドーンにたてまつる。
組は九つ[2]、おのおのの組は数うる五百人、3-7
また組ごとに屠(ほふ)るべく雄牛九頭をひきいたり。

[1]天を青銅の天あるいは鉄の天となす。『イリアース』17-425も。鉄の天は、15-329、17-565。
[2](『イーリアス』2-591以下)ネストールは九市を治め、船九十隻をイーリオンに率ゆ。

臓腑を喫して、腿(もも)の肉あぶりて神に住民の
捧ぐる時に、客人の一行岸に来り着き、3-10
白き帆おろし、おしたたみ、陸に上れば、もろともに
テーレマコスは歩をすすめ、女神パルラス先に立つ。
そのとき藍光の目を持てるアテーネーは彼に言う、

『テーレマコスよ、いささかも今ははにかむことなかれ。
汝の父の白骨はいずこ、何たる運命に 15
彼は会えるや、知らんため汝は海を航し来ぬ。
駿馬を御するネストール、彼に直ちに今すすめ。
いかなる思いその胸に彼宿せるや、探り見よ。
事の真相述ぶるべく、彼自らに祈り乞え。
彼は賢し、偽りを汝に告ぐる者ならず』20

それに答えて聡明なテーレマコスは陳じ言う、
『ああメントール、いかにわれ彼に行くべき?語るべき?
われなおいまだ巧妙の言句に慣れず。しかもまた
年若き者、年長にものたずぬるは恐れあり』

藍光の目のアテーネー女神答えて彼に言う、25
『テーレマコスよ、胸の中、汝自ら悟るべし。
とある神明またさらに教えん。われの見るところ、
汝諸神の意に反し生まれ育ちし者ならず』

しかく宣してアテーネー・パルラス女神すみやかに、
先だち行けば、そのあとにテーレマコスは付きてゆく。30
かくてピュロスの人々の集まり座せる群に着く。
そこに老雄ネストール、その子とともに座を占めぬ。
かれら食事を整えて、肉をあぶりて、肉を刺す。
されど異郷の客を見てかれらひとしく寄せ来り、
その手を取りて慇懃に招きて席に座らしむ。35
老ネストール生みたる子ペイシストラトスいやさきに、3-36
近寄り二者の手を握り、岸の砂上に柔軟の
毛皮の上に、その父とその兄トラシュメーデース、
二人のそばに席設け、酒宴の場所に臨ましめ、
やがて臓腑のそこばくを与えつ。金の杯に 40
美酒をそそぎて慇懃に、アイギス持てるクロニオーン、
その愛女なるアテーネー女神に向かい陳じ言う、

『客よ、地をゆるポセイドーン、おおわだつみの大神に
祈れ。君らはまさしくも神の祭に出で会えり。
法のごとくに献酒礼行ない祈り遂ぐるのち、45
同じく礼を致すべく、芳醇みてる杯を
この若人に君わたせ。思うに彼も神明に
祈り捧げむ、人の子はみないっせいに神もとむ。
彼は若くて年齢はまさにわれのに等しかり。
かかるがゆえにまず君にわれ金杯をたてまつる』3-50

しか陳じつつ芳醇の満てる金杯捧ぐれば、
アテーネーは喜べり。おのれに先に金杯を
捧ぐる彼の聡明を、その正しさを喜べり。
直ちに彼女は海の王ポセイドーンに祈り言う。

『大地を抱くポセイドーン、われらの祈り聞し召し、55
われらの業の完成を願わく拒みたまわざれ。
まず光栄をネストルとその子の上に垂れたまえ。
しかして次にそのほかのピュロスに住める民衆に、
下したまわれ、捧げたる牲に対する恩賞を。
テーレマコスと我とには、黒き船乗りここに来し 60
目的遂げて、安らかの帰郷の恵み垂れたまえ』

しかく祈祷を捧げたる女神自らこれを遂ぐ。
テーレマコスに美麗なる二柄(ふたえ)の杯を与うれば、
オデュッセウスのめずる子は同じく共に祈り上ぐ。
かくて一同皮下(ひか)の肉あぶりて火より遠ざけて、65
おのおの分を分かち取り、盛んに共に宴を張る。
やがて一同口腹の願いおのおの飽ける時、
ゲレーニア騎将ネストールまず人々に陳じ言う。

『異郷の客は何びとか?飲食すでに飽きたれば、
彼らにこれを尋ね問う時は今こそ、しからずや?70
いかに客人いずこより潮路を分けて君や来し?
用事のためか、ただしまた定まる目当てあらずして、
潮の上を漂うや?他郷に害をもたらして、
危険を冒し荒れめぐるかの海賊を見るごとく?』[1]3-74

[1]同様の問をキュクロープスがオデュッセウスになす。(九巻)

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、75
(消息絶えし父につき問うべく、かくて人の世に
誉れを得べく、憐れみて藍光の目のアテーネー、
テーレマコスの胸の中、凛たる勇気植えつけぬ。)
『ああアカイアの誉れなるネーレウスの子、ネストール、
いずこよりぞと君は問う。いでや委細を陳ずべし。80
ネーイオン山[1]仰ぎ見るイタケーよりし、われら来ぬ。3-81
来るはまたく私用なり、公事ならずとあえて言う。
高き誉れのオデュセウス——君ともろともトロイアの
都市ほふるべく戦える——しか人は言う——わが父の
すぐれし、しかも不幸なる消息われは求め来ぬ。85
トロイア軍と戦える勇将、多く痛むべく
倒れ死したる消息を、われ聞き知れり。ただひとり
クロニオーンはわが父の死滅をさえも知らしめず。
いずこに彼はほろべりや?敵に敗れて陸上に
死せりや?あるは海上か?アムピトリテー[2]司る 3-90
潮の中か?何びともこを明らかに語り得ず。
そのため我は今ここに君の御膝のもとに来ぬ。
わが薄命の父の死を君は告ぐるを欲するや?
あるいは君もしいずこにか彼を見つるや?あるはまた
旅の者より聞きつるや?父は不幸に生まれたり。95
遠慮あるいは憐憫の言句をわれに言うなかれ。
君の親しく見たるままその真相をものがたれ。
アカイア軍勢悩みたるトロイア族の郷の中、
言語あるいは行ないによりてわが父オデュセウス、
君を助けしことあらば、乞う今われに物語れ。3-100
ありし昔を思い出でその真相をものがたれ』

[1]1-186。
[2]海の仙女。

ゲレーニア騎将ネストールそのとき答えて彼に言う、
『ああ友、汝われをして思い出でしむ。アカイオイ、
無敵の勇士、トロイアの郷にうけたる苦しみを。
時にあるいはアキレウス先だち暗き海の上、105
船に乗じて漕ぎめぐり、獲物求めしことありき。
時にあるいはプリアモス王の都城のかたわらに
戦いたりき。その庭に倒れし勇士いくばくぞ?
アレース[1]に似しアイアース逝き、アキレウスまた逝けり。
パートロクロス——その知慮は神に似る者また逝けり。110
同じくそこにわが愛児アンティロコス、勇にして
戦いおよび競走にすぐれし者もまた逝けり。
そのほかわれら身に受けし苦難の数はいくばくぞ?
その一切を人界の子の何者か語り得む!
わが剛勇のアカイオイ[2]、そこにうけたる災難を 115
問うべくここに五六年とどまるもついに効なけむ。
その前汝ら倦み果てて故郷をさして帰るべし。
九年にわたりわが軍は種々の謀略めぐらして、
敵の覆滅(ふくめつ)努めしも、クロニオーンは成らしめず。
そこにそのとき誰人(たれびと)もオデュッセウスの聡明に 120
競い得ざりき、一切をしのぎて彼はたくらみぬ。
若き客人、汝もしまことに彼の息ならば、
汝の父は偉なりけり。汝に我は驚けり。
その言うところ髣髴と正しく彼を聞くごとし。
若くてかくも物言うを誰かはたして思い得む!125
その頃つねに英邁のオデュッセウスとわが身とは、
集会あるいは評定の席に意見を一にして、
絶えて争うことあらず。共に計りてアカイアに
至上の成果あれかしと、心くだきてつとめにき。
かくしてついにトロイアの堅城われら攻め落し、130
船に乗じて神命によりて軍勢散れる時、
アカイア族にクロニオーン不幸の帰郷もくろみぬ。
彼ら多くは聡明にあらず、正義のわざなさず。
ゆえに多くは雷霆の神の愛女のアテーネー、
その怒りより悽惨の運に出会えり。藍光の 135
女神は不和を起さしむ、アトレイデース兄弟に。
二人は法に従わず、ただ軽躁に一切の
アカイア族を、夕陽の沈む時刻に呼び集め[3]、3-138
酒に乱れた兵士らが続々寄せて来る時、
二人は立ちて、兵士らを呼び集めたる故を述ぶ。140
まずメネラオス口開き、アカイア軍の一切に、
大海原の波こして郷に帰るを説き勧む。
アガメムノーンはいささかもこれを好まず、アテーネー
女神のすごき憤り和らげんため神聖の
牲捧ぐべく、万民にあとに残るをこいねがう。145
女神はなだめ難かるを悟らざりけり、痴なりけり。
不滅の神は早々に心を変える者ならず。
アトレイデース兄弟はかくして立ちて言あらく、
互いに論じ争えば、アカイア軍はもの凄く
叫び立てりて、全軍の意見二つに分れたり。3-150
かくて夜すがら二派の者互いに怒りいきどおり、
床につきけり。クロニオーン我らの破滅もくろめり。
あくるあしたに一隊は、大海原に船おろし、
帯ゆるやかの女性ら[4]を、宝の中に積みのせぬ。3-154
他の一隊は陸上に残りとどまり、牧童に 155
羊の群の付くごとく、アガメムノーンに従えり。
かくて半ばは船に乗り白帆張れば迅速に
船は走れり。大神は魚群るる海しずめたり。
船テネドスに着ける時、帰郷の思い切にして、
牲を諸神に捧げしも、これを許さずクロニオーン、160
むごき大神またさらにすごき争い起さしむ。
そのとき知謀豊かなるオデュッセウスに伴える
その一隊は、またさらにアトレイデース、民の王、
アガメムノンに合すべく曲頚(きょくけい)の船引きかえす。
されども我は付き来る船をひきいて逃れたり。165
難儀を、神のもくろみを悟り得たれば逃れたり。
ディオメーデースそのともに勧め同じく逃れたり。
また金髪のメネラオスおくれて後を追い来り、
レスボス島に着ける時、われらは評議中なりき。
これより先は岸高きキオスのかみ手すすみゆき、170
プシュリエーの小さき島[5]、左に眺め航せんか?3-171
キオスのしも手風荒きミマスに添いて走らんか?
吉兆(しるし)を乞えば神明は受納ましまし、命ずらく、
「目ざすは沖のエウボイア、海の真中の波わけよ、
かくせばもっとも迅速にゆゆしき難儀避くべし」と。175
やがて一陣颯々(さっさつ)の風吹き起り、鱗族[6]の
群がる海を船速くすすみて、その夜すみやかに
ゲライストス[7]の岸上り、波浪しのぎし恩を謝し、3-178
多くの雄牛の腿の肉ポセイドーンにたてまつる。
その後四日でアルゴスに、馬術巧みの英剛の 180
ディオメーデース[8]ひきいたる船いっせいに帰還しぬ。
我はピュロスに船向けぬ。一たび神の命により、
吹きはじめたる順風はつづきて吹きてやまざりき。
かくして我は、若き子よ、郷に帰りて何事も
知らず。アカイア族人の生死いずれか我知らず。185
されど静かに館中に座して世人の言うところ、
聞きたるままにそのままに包み隠さず語るべし。
世人は言えり、英邁のアキッレウスの生める息[9]、3-188
ミュルミドネスの軍ひきい、無事に故郷に帰れりと。
同じくピロクテーテース、ポイアスの子またさなり。190
イードメネウスは戦場を去りし部衆の一切を、
クレタ島へと連れ帰る。海は一人もそこなわず。
アガメムノーンの運命は離れて汝聞きつらむ。
国に帰りて無残にもアイギストスに殺されぬ。3-194
殺せし彼は罪悪の報い来りて倒れたり。195
胸に奸計たくわえるアイギストスの殺したる
その恩愛の父の仇、討ちはたし得し可憐の子[10]、3-197
かかる子あとに残し得ば死するも恨みあらざらむ。
友よ、わが目の見るところ、雄々しうるわし、後の世に
美名を残し得んがため、汝つとめて勇を鼓せ』3-200

[1]アレースは軍神のこと。 [2]アカイオイはアカイア族のこと。 [3]集会は朝においてするを法とす。
[4]捕虜のトロイア婦女、Vossは「帯うるわしき女性」と訳す。
[5]エーゲ海中レスボスとキオスとの間にあり。
[6]鱗族は魚のこと。 [7]ゲライストスはエウボイア島の南東の岬。
[8]ディオメーデースはアルゴス王。 [9]すなわちネオプトレモス。その行動をオデュッセウス冥府においてアキレウスに語る(十一巻)。
[10]オレステース(1-298また本巻306)。

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、
『ああアカイアの誉れなるネーレウスの子、ネストール、
げにもかの人いみじくも仇を倒しぬ。アカイアの
民は誉れを捧ぐべし。後の世ともに賛すべし。
ああ我にまたかかる勇——神の恵みのあらまほし。205
非道のわざをたくらみて我を侮(あなど)り辱め、
無礼加うる求婚の群を懲らさんその勇気、
かかる恵みを神明は我に授けず。わが父も
われも等しく命薄し。すべてを忍ぶほかあらず』

ゲレーニア騎将ネストールそのとき答えて彼に言う、210
『ああ友、君の物語われに思い出起さしむ。
われ聞くならく、君の家に君を侮る求婚の
群は母堂を目途して、非道のわざをたくらむと。
いま我に言え、甘んじて君は服すや?民衆は
神の声聞き従いて君を憎悪の的とすや!215
誰か知るべき、オデュセウス他日帰りて身ひとつに、
あるいはアカイア族と共、彼らを懲らすことなしと!
藍光の目のアテーネー、アカイア軍がそのむかし
苦難を受けしトロイア府、その敵人のもとにして、
彼に応護を垂れし如、あるいは君を憐れまむ。220
彼をパルラス・アテーネー助けしごとくあきらかに、
他の神明が人々を助けしことをわれ知らず。
かくのごとくにもし女神、君を憐れみ助けなば、
その時こそは無残なる彼らは婚を忘るべし』[1] 3-224

[1]婚礼は問題にあらず。殺さるべし。

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、225
『ああおじ、しかく成るべしと我はいまだし信じ得ず。
君いう所はなはだし。われただ恐る。望めども、
神明これを許すとも、事おそらくは成らざらむ』

そのとき彼に藍光の目のアテーネー宣し言う、
『テーレマコスよ、何たる句汝の歯端漏れいずる!230
神は意あらば離るるもたやすく人を救うべし。
家に帰りて凱旋の日の喜びを見る前に、
多くの苦難受くることわれは望まん、憐れにも
アガメムノーン、その妻とアイギストスの奸計に
倒れしごとく、わが家の炉ばたに命を落とすより。235
さもあらばあれ、物すごき死の運命の襲う時、
神といえどもそのめずる子らを助けて一切に、
ひとしく来る滅亡をふせがん事は叶うまじ』

それに答えて聡明なテーレマコスは陳じ言う、
『ああメントール、悩しきこれらの談話打切らむ。240
もはや父には帰郷なし。不死の神明はやすでに
死滅を、すごき運命を、彼に向かいてもくろめり。
今は別事をネストルに問いて答えをわれ聞かむ。
あらゆる人にたちまさり、彼は正しく賢かり。
われ聞くならく人生の三代彼は長なりと[1]、3-245
わが見るところ不滅なる神にも彼は似たるかな。
ネーレイデース・ネストール、ああ君まことうちあけよ。
アトレイデース権勢のアガメムノーンの死やいかに?
そのときいずこメネラオス?アイギストスの奸計は、
彼は何らの策によりまされる武将倒したる?3-250
王弟そのときアカイアのアルゴス中にあらずして、
他郷にあるに乗じつつ。彼凶行を遂げたりや?』

[1]『イーリアス』1-252参照。

ゲレーニア騎将ネストールそのとき答えて彼に言う、
『若き客人、この事を包まず君に語るべし。
もし金髪のメネラオス、トロイア去りて帰り来て、255
アイギストスの館中に住めるを見なば何事か
起りつらんか?君もまた胸に描きて思い得む。
アイギストスは殺されて死体葬むる者はなく、
都市より遠く郊外に棄てられ、土に伏せる身は、
野犬野鳥につんざかれ、アカイア女性ひとりだも 260
彼のために泣かざらむ。彼の凶行すごかりき。
遠く異郷に居を据えてわれら多くの戦闘に
いそしめる頃、アルゴスの牧野の奥に悠々と、
彼は甘言弄しつつ、アガメムノーンの妻に媚ぶ。
初めはクリュタイムネストラ[1]麗人操固くして、3-265
心正しく身を守り不義の行ない喜ばず。
さらに夫人を守るべくアガメムノーン、トロイアに
行くに臨みて命じたる楽人ひとりそばにあり。
されども彼女天命の定めによりてなびくとき、
無人の島に楽人を奸夫は誘い駆りやりて、270
そこに野鳥の餌食たり獲物たるべく棄て去りぬ。
かくて心を許し合い、夫人を家につれ帰り、
あまたの牛の腿の肉あぶりて神の聖壇に
捧げ、思いも寄らざりし由々しき業を成し遂げて、
彼は錦繡黄金の供物をさらにそこに掛く。275
その頃われらトロイアを去りて、もろとも波わけぬ。
メネラーオスおよび我、互いに睦み友たる身、
アテーナイの地スーニオン、その神聖の崎に着く。
そこにポイボス・アポローンその穏やかの矢をはなち、
メネラーオスの走る船、船の舵(かじ)とるプロンティス、280
(オネートールの生める息、嵐はげしく襲う時、
あらゆる人に立ちまさり、巧みに船のかじとりて
波しのぐもの)射倒してその一命をほろぼしぬ。
かくして王は行く先を急げどそこにとどまりて、
部下を葬り、墳上にその弔祭を営みぬ。285
営み果ててまた船を暗紅色の海の上、
走らせ高きマレイア[2]の麓(ふもと)の崎につける時、3-287
轟雷震うクロニオーン、つらき航路をたくらみて、
怒号はげしき大風のいぶきを起し、
大山のごとく高まる銀浪を激しく湧かし、悩まして 290
皆を二隊にひき分けつ。その一着けりイアルダノス
流るるほとり、キュドネスの族人すめるクレタ島。3-292
(ここに霞める海の上、ゴルテューンの端にして、
波浪の上に滑らかの懸崖高くそびえ立つ。
南風ここに左手の崎パイストスめがけつつ、295
大波駆れば、小さき岩、その大波の邪魔をする)
ここに一隊到りつき、死滅をからく船員は
まぬがれ得たり。しかれども巌(いわお)に船をうちつけて、
怒潮は船をくだきたり。他の一隊の船五隻、
風と潮とに運ばれてアイギュプトス[3]の岸に着く。3-300
かくして彼は糧食と黄金集め、船ととも、
言語異なる民族の間をそぞろさすらえり。
そのころ故郷にアイギストスさきの奸計たくらみて、
アガメムノンをほろぼして、民をおのれに服せしめ、
黄金に富むミュケーネー長く七年治めけり。305
第八年に英剛のオレステースは旅せる地 306
アテーナイより帰り来て、すぐれし父をほろぼせる
アイギストスにあだ報い、無残の悪徒うち倒す。
その復讐の終わるのち、無残の母と奸夫との
ために弔祭行ないて、アルゴス人を宴に呼ぶ。310
その同じ日にメネラオス、雄叫び高き勇将は、
船に多くの宝積み、岸にのぼりて彼を訪う。

[1]クリュタイムネーストラーを縮む。
[2]ラコニアの東南の丘。
[3]アイギュプトスとはエジプトのこと。

『友よ、君また館内に資財を残し、驕慢の
群を残して郷遠く長くさまようことなかれ。
無残の群はおそらくは、君の資財をむさぼりて、315
おのが間に分かつべく、君の旅行もあだならむ。
ただ我、君に勧むるはメネラーオスを訪わんこと。
はるかに遠き異国[1]より彼は近頃帰り来ぬ。
大海原に荒れ狂う嵐一たびその国に 
人の航路をそらしなば、彼は再びその地より 320
帰るを胸に望み得じ。危険に満つる漫々の
海は鳥さえ一年をかけるも渡り得べからず。
水夫ひきいて船に乗り、君今彼のもとに行け、
陸路望まばわれ君に馬と車を備うべし。
わが子は君に伴わん。彼よく君を導かん。325
ラケダイモーン聖郷に、メネラーオスの金髪に。
彼に願いて真実を語らしむるを良しとせむ。
彼は虚言の人ならず彼の心はいとさとし』

[1]エジプト

陳じ終れば日は沈み闇四方より襲い来ぬ。
藍光の目のアテーネー女神そのとき陳じ言う、330
『ああおじ、君はよろしきに叶いてこれら物語る、
いざいま牲の舌を絶ち、酒を混じて[1]海の神 3-332
ポセイドーンとまたほかの神に献酒の礼をなせ。
礼をおわりて眠るべし。眠りの時は近づけり。
日ははや沈み、光明はすでに隠れぬ。諸神への 335
宴に長く留まるはしかるべからず、帰るべし』

[1]飲みよくするために純酒に水を混ず。

ゼウスの神女かく宣し、人々ひとしくこれを聞く。
やがて令使[1]は皆の手に清めの水を濯ぎかけ、
若き従者は満々と酒を壷中に充たしめて、
中より酌みて杯を皆に献酒のため与う。340
かくして皆は牲の舌、火中に投じ酒そそぐ。
その礼おえて意のままに人々酒杯ほせる時、
神に姿は髣髴のテーレマコスとアテーネー、
もろとも辞してうつろなる船に帰るをこいねがう。

[1]伝令使

されどそのときネストール、これをとどめて陳じ言う、345
『ゼウスならびに不滅なる他の神霊よ許さざれ、
汝らわれのもと去りて、はやく波切る軽船に
帰るを神よ許さざれ。衣服乏しく貧しくて,
おのれも客も安らかにかぶりて眠る織物も、
毛布も家に十分にあらぬあるじを去るごとく。3-350
華麗な布と毛布とはわれわが家に備えたり。
わが生命のある限り、オデュッセウスほどの者
生める愛児は甲板の上に眠るを許されず。
この家にわれを継がん者、われの子孫も必ずや、
この家を訪いて来るべき客、慇懃にもてなさむ』355

藍光の目のアテーネー女神答えて彼に言う、
『おじよ、いみじく言われたり。しかあることはげにもよし、
テーレマコスは当然に君の言葉に従わむ。
すなわち君の館中に今宵の夢を結ぶべく、
君もろともに彼行かむ。されども我は停泊の 360
船に帰りて船員を励まし委細語るべし。
彼らの中に年長を誇るはひとり我ばかり。
友誼によりて付き来る他の人々は年若し、
齢(よわい)はまさに英邁のテーレマコスと相等し。
我今去りてうつろなる黒く染めたる船のへに 365
寝ねん。あしたは剛勇のカウコーネスの族訪わむ。
彼らは我に債を負う。そは古くしてその額は
些少にあらず。さはれ君、この訪い来る若人を、
車に乗せて君の子の一人しるべたらしめよ、
しかして恵め足速く力すぐれし良き馬を』370

宣し終わりて藍光の目のアテーネーこつ然と、
ミサゴに変じ飛び去れば、皆がく然と空あおぐ。3-372
その目親しくこれを見し老王そぞろにおどろきて、
テーレマコスの手を取りてすなわち彼に陳じ言う、

『友よ、神明年若き君をかくまで導けば、375
君はおそれて勇なしと我いささかも思い得ず。
ウーリュンポスの神殿に住める諸神の中にして、
彼は正しくゼウスの娘、トリートゲネーア・アテーネー[1] 3-378
アルゴス人の族中に君の尊父をめでしもの。
ああ神、恵み豊かにてわれに誉れを得さしめよ。380
われにならびにわが息に、また恩愛のわが妻に。
我は捧げむ一歳の雌牛、人手にまだ触れず、
ひたい広くてくびき負い引かれしことのあらぬもの。
角に黄金巻きつけて女神にこれを捧ぐべし』
しかく祈りて陳ずるを聞けり、パルラス・アテーネー。385
ゲレーニア騎将ネストールかくて華麗のおのが家に、
その一同をひきいゆく。子らと婿らをひきい行く。
かくして王の壮麗の館に着きたる人々は、
椅子にあるいは肘掛けに列を正して着座しぬ。
そのとき王は皆のため葡萄の美酒の壷開き、390
水混ぜしむ。その酒は十一年を過ぎて後、
家令はじめて口開き、封解きしもの。これを今、
混じて王は地にそそぎ、アイギス持てるクロニオーン、
ゼウスの神女パルラスに心をこめて乞い祈る。
献酒の礼を終わる後、心ゆくまで酒酌める 395
一同おのおのその家に床に就くべく帰り行く。
ゲレーニア騎将ネストールそのときかれの若き客、
オデュッセウスの愛児なるテーレマコスを、柱廊の
下に刻める床のへにやすらわしめつ。かたえには
ペイシストラトスやすましむ。こは館中の諸子の中、3-400
いまだめとらず、将士らをひきいて勇をふるうもの。
王は自ら広壮の館の奥なる一室に、
眠る。夫人は彼のため床を整え添い寝する。

[1]ボイオーティアの河トリトーンのほとりに生る。

薔薇の色の指もてる明けの女神の現われに、
床を離れて立ちあがるゲレーニア騎将ネストール。405
出で来て高き大門の前に設けし石の椅子、3-406
その上王は腰おろす。油に磨き滑らかに
光るばかりの石の椅子。王の父なるネーレウス、
神に等しき評定者、いにしえここに掛けしもの。
かれ運命に制されて、すでに冥王のもとに去り、410
今はゲレーニア・ネストール、アカイア人の守護として、
笏を握りてここに座す。彼のめぐりに子息たち、
部屋を出で来て集まりぬ。ストラティオスとエケプローン、
ペルセウスとアレートス、いみじきトラシュメーデース、
ペイシストラトス第六につづきて到り、もろ共に 415
テーレマコスを導きて彼らのそばに座らしむ。
ゲレーニア騎将ネストールそのとき皆に陳じ言う、
『いざすみやかに愛児らよ、われの願いを成し遂げよ。
諸神の前に我はまず祭りいたさん。アテーネー、
女神はさきに海神の祭りの庭に現われき。420
いざ草原に人をやり雌牛一頭探させよ。
しかしてこれを迅速に牧童ひきて来るべし。
また一人は剛勇のテーレマコスの黒き船
訪いて、水夫ら連れ来れ。ただし二人を残すべし。
また一人は金工のラーエルケースここに呼べ。425
彼は来りて黄金に雌牛の角を飾るべし。
残りの者はもろ共にここに残りて女中らに 
告げるべし、わが壮麗の館のなか宴備うべく、
しかして椅子と薪(まき)材と清水運び来るべく』

[1]この時代の君主は門前に出でて、民衆に話す習慣と見ゆ。4-311に他の例あり。

しか陳ずれば一行はみないそしめり。平野より 430
牛は来れり。剛勇のテーレマコスの水夫らは、
船足速き堅牢の船の中より、金工は
その手の中にその技の器具——鍛冶の器具——金床を、
槌を、微妙に作られて金の細工に使わるる
火箸を取りて訪い来る。牲の祭を受くるため、435
アテーネーはまた来る。ゲレーニア騎将ネストール、
そのとき金を金工に渡せば彼は細工して、
雌牛の角に巻きつけて眺むる女神喜ばす。
ストラティオスとエケプローン、牛の角取り引き来る。
またアレートス部屋を出で花で飾れる瓶の中、440
水をたたえて持ち来り、他の手は麦の籠を取る。
トラシュメーデース戦いをよくする者は、鋭利なる
斧(おの)を手に取り、倒すべく雌牛のそばにじっと立つ。
またペルセウス鉢を取る。そのとき老将ネストール、
式を始めて手を浄め、麦をまきつつ慇懃に、445
女神に祈り頭より毛髪[1]切りて火に投げぬ。3-446
祈りをこめて神聖の麦を人みなまける時、
ネストールの子、勇猛のトラシュメーデース、そばに立ち、
おろす鋭刃牛の首打ちてその筋つんざきて、
その一命をうち絶やす。そのとき声を高らかに、3-450
老ネストールのもろもろの娘と嫁と貞淑の
妻エウリュディケーみな祈る。彼女の父はクリュメース。
地上倒れしその牲を皆して起し支うれば、
ペイシストラトス、兵士らの主将は喉を切りさきぬ。
暗紅の血のほとばしり牲の命の絶えし時[2]、3-455
牲をすぐに解体し、すぐに形のごとくして、
すべての腿を切りおろし、しかして二重の脂もて、
これを包みて、その上に生の肉塊(かい)横たえぬ。
たきぎの上に老王はこれをあぶりて、暗紅の
酒をそそげば、若き子らかたえに五叉(さ)の串を取る。460
かくして腿の焼けし時、みなは臓腑を喫し終えて、
残りの肉を刻みつつ串もてこれをつらぬきて、
これをあぶりぬ、先光る串を両手に握りつつ。

[1]彼の頭よりとする、また牛の頭よりとする、二種の解あり。『イーリアス』3-273は牲の頭の毛を切る。
[2]直訳すれば『生命骨を去れる時』

ネーレウスの子ネストール、その末娘艶麗の
ポリュカステーはねんごろにテーレマコスを浴せしむ。465
湯浴み終ればオリーブの香油を肌にまみらしめ、
下着ならびに華麗なる上衣を彼にまとわしむ。
かくて浴室出で来る彼は風貌神に似て、
すすみて王者ネストール、座せるかたえに身を据えぬ。
みなはあぶりし皮下の肉、串より抜きていっせいに、470
その座に着きて宴開く。すぐれし家僕は黄金の
杯に芳醇みたしつつ、席の間をあしらいぬ。
人々かくて飲食の願いおのおの満てる時、
ゲレーニア騎将ネストールみなに向かいて陳じ言う、

『わが愛児らよ、たてがみの美なる二頭の駿足を 475
車につけよ。われの客テーレマコスの旅のため』

しか陳ずれば人々はその言聞きて従いて、
車の下の足速き両馬の首にくびき付く。
係の女性またために車の中にパンと酒、
また神寵の王者らの好める美味を積みのせぬ。480
テーレマコスは華麗なる車の上に身を乗せぬ。
そのかたわらに兵の将ペイシストラトス、ネストルの
生める子息は、もろともに乗りて手中に鞭を取り、
鞭うち当てて駆り行けば、両馬勇みて平原を
飛ぶがごとくに走り行く。ピュロスの城市あとにして、485
付けたるくびき右左ひねもす強くふるわして。

日輪入りて暗黒はあらゆる街路襲いくる。
そのとき二人ペーライ[1]に——オルティロコスの息にして、3-488
アルペイオスを祖父とする、ディオクレースの家に着く。
ディオクレースは慇懃に宿れる二客もてなしぬ。490

[1]メッセニア州の北東部(?)。

指は薔薇のくれないの明けの女神の出づる時、
二頭の馬にくびき付け、華麗の車に身を乗せて、
響きを返す柱廊と門戸を二人かけだしぬ。
鞭を当つれば喜びて両馬さながら飛ぶごとく、
麦の実れる草原に来りぬ。そこに両人は 495
旅を終わりぬ。かくのごと、駿馬は二人を運び来ぬ。
日輪入りて暗黒はあらゆる街路今おおう。


オヂュッセーア:第四巻


テーレマコスとペイシストラトスの二青年、ラケダイモーンに着ける時メネラーオスはあたかもその子女の二組の結婚式を挙ぐ。客の歓迎(1~67)。テーレマコスは宮殿の壮麗に驚く。王、彼にオデュッセウスに付きて語る。テーレマコス泣く(68~119)。ヘレネー出で来り、テーレマコスを見て勇将の子なるべしと言う。ペイシストラトスしかりと答う。メネラーオスは歓喜してオデュッセウスに対する好意を語る。皆人ともに感激して泣く(120~188)。ペイシストラトスは話を明日に延ばすべしと言う。ヘレネー酒を与え慰む。オデュッセウスの知謀と勇気の物語(189~289)。翌日王はテーレマコスに来訪の目的を聞く。その答え。王はオデュッセウスの運命をいたむ(290~350)。王がプローテウスの娘に救われし話(351~461)。プローテウスは安全の帰国の方法を教う(485~547)。プローテウスはまたオデュッセウスがカリュプソーに抑留さるるを説く。メネラーオスの帰国の話(548~592)。王はテーレマコスをとどむれど聞かず(593~623)。求婚者はテーレマコスの出発を聞き、その帰路を要撃せんとす(624~678)。令使メドーンはこれを知り、ペーネロペイアに告ぐ。彼女悲しみて侍女らを叱る。エウリュクレイアの意見。ペーネロペイアはアテーネーに祈る(675~767)。アンティノオスは二十人を選び船に乗りテーレマコスを待つ(768~786)。女神アテーネー、ペーネロペイアの睡眠中にその妹の姿の幻を送る。幻はテーレマコスの運命を語る(787~841)。求婚者らの待ち伏せ(842~847)。

ラケダイモーン・スパルター、地は低うして谷多き
郷に二人は着ける後、メネラーオスの館を訪う。
訪えばそのとき客人を王は招きて館中に、
その子ならびにその子女の婚賀の宴を開きあり。
子女は勇武のアキレウス生める子息[1]にゆかんとす。4-5
この事さきにトロイアにありし日王は約したり。
神々はたまたこを嘉みし、婚儀をここに成らしめぬ。
すなわち車馬を整えて新夫治むるミュルミドン
暮らせる都市に、その愛女、彼いままさに送らんず。
さらに晩年奴隷より生まれしその子、剛勇の 4-10
メガペンテースの娶るべき、アレクトールの生める子を、
スパルターより王は呼ぶ。アプロディーテー金髪の
女神に姿彷彿のヘルミオネーをそのはじめ
生めるヘレネー、そののちは神に嫡子を恵まれず。

[1]ネオプトレモス

かくして彼ら、光栄のメネラーオスの隣人ら、15
ならびに友は、高き屋の巨館の中に歓楽の
宴に連なる。その中に伶人ひとり竪琴を
弾じ巧みに吟ずれば、踊手二人その歌に
合わせ、酒宴の席の中、身をひるがえし踊り行く。

こなたすぐれしネストルの子息ならびに剛勇の 20
テーレマコスは、車馬ともに館の門前立ちどまる。
そをたちまちに光栄のメネラーオスの忠実の
家臣、内より出で来るエテオーネウス認め得つ。
これを王者に告げんため足を返して内に入り、
すなわち彼のそば近く立ちて羽ある言句言う、25

『ゼウス育てしメネラオス、見よ、客二人ここにあり。
その風貌はおおいなるゼウスの系にさも似たり。
仰せやいかに?駿足を彼らのために解くべきか?
あるいは彼ら去らしめて、他の歓待に任せんか?』

金髪の王メネラーオス憤然として彼に言う、30
『エテオーネウス、ああ汝、ボエートオスの子たる者、
さきには愚昧ならざりき。今はた何の妄言ぞ!
この地に帰り来るまで、これより後は災難の
なきをゼウスに念じつつ、他人の親身なもてなしを、
われら受けしはいくばくぞ!いざ客人の馬を解き、35
彼らを内に招じ入れ、わが宴席に就かしめよ』

しか宣すれば、かれの臣、館を急ぎて走り出で、
他の忠僕に呼びかけて、おのれに付きて来らしむ。
かくて流汗淋漓(りんり)たる馬くびきより解き離し、
馬屋に入れて馬槽(うまぶね)を前に据えつつ、その中に 40
小麦を投じ、その中に白き大麦まぜ入れつ。
車はこれを中庭の白く輝く壁に寄せ、
しかして二客導きて華麗の館に入り来れば、
ゼウス育てし老王の宮に二人は驚けり。
げに光栄のメネラーオス、その屋根高き宮殿は、45
日輪または月輪に似たる光輝にかがやけり。
この光景をその目もて親しく眺め飽ける後、
よく磨かれし浴場に入りて二人は湯浴みしぬ。
侍女は二人を浴せしめ、香油を肌に塗りし後、
柔軟にしてさわりよき肌着上着をまとわしめ、4-50
アトレイデース・メネラオス王のかたえに座らしむ。
やがて美麗の黄金の瓶に浄水もたらして、
一人の侍女は銀盤の上に注ぎて、彼らの手
清めしめつつ、磨かれし卓を彼らの前に据う。
つつましげなる家婦はまた、パンをもたらし卓上に 55
供え、あまたの食品をそえ慇懃にもてなしぬ。
肉切る者は肉類の様々の皿高らかに、
ささげ来りし黄金の杯ともに前に据う。

そのとき金髪メネラオス二人を歓迎しつつ言う、
『いざや客人、食を取り、楽しめ。食の終わる後、60
この世に君ら何びとか、我おもむろに問わんとす。
思うにその名、世に響き、笏を取る者——クロニオーン
ゼウス育てし王公が、君ら生めるにあらざるや?
卑賤の人はかかる子を世に産み出づるすべなけむ』

しかく陳じて目の前に礼をそなえて据えられし、65
あぶれる牛の背の肉を取りて二人の前におく、
二人すなわち手を伸して供えられたる食を取る。
やがて人々飲食の願いおのおの満てる時、
テーレマコスはネストルの子のそば頭近くよせ、
他の人々の聞かぬよう声を潜めて陳じ言う、70

『ペイシストラトス、わが愛ずる心の友よ、眺め見よ。
響きほがらの宮の中、見よ、青銅の輝きを!
また黄金と白銀と象牙琥珀の数々を!
ウーリュンポスのクロニオンその宮殿もかくあらむ。
言に尽せぬ珍宝に、われ驚嘆のほかあらず』 75

漏るるその言みみにしていま金髪のメネラオス、
彼らに向かいつばさある飛揚の言句陳じ言う、
『若き君らよ、さにあらず。人界の子の何者も、
神に競えず。神の宮ならびに宝不朽なり。
人界の子にその富をわれと競わん者あるや、80
はたあらざるや。我いたく苦難を忍び、漂浪の
果てに、宝を船に積み第八年に帰り来ぬ。
我さまよえり、キュプロスに、ポイニキアー[1]に、またさらに 4-83
アイギュプトスに、つぎてまたアイティオピアー、シードーン、
エレムボイ[2]またリビュアーに——そこは子羊角を持つ[3]。4-85
羊はそこに一年に三たびその子を産み出す。
そこには君主もろともに牧人かつて乳酪を
欠かず、同じく肉かかず、甘美の乳は充ちあふる。
そこには羊一年を通じてつねに乳を出す。
これらの国を経めぐりて富を盛んに営々と、90
集め求めしその間、奸人、我の兄をその
奸婦の策に従いてにわかに討ちてほろぼせり。
かくあるゆえに司る資財を我は楽しまず。
君らの父は誰にせよ、父よりこれら聞きつらむ。
われは多大の災難に遭い、また多く珍宝を 95
おさめ豊かに富める家、無残に失いしゆえ。
さはれわずかにわが家産この三分の一保ち、
ここに住むともよからまし、馬の産地のアルゴスを
離れて遠くトロイアに滅べる諸友今あらば!
わが宮中に座を占めて我はしばしば亡友の 4-100
これらすべてをしのび出で悲しみうめき、時として 
わが魂(たましい)の哀愁にふけるを許し、時として——
つらき冷めたき哀愁は長からざれば——嘆き止む。
その哀愁に耽る時、特に偲ぶは彼ひとり。
彼をしのべばそぞろにも睡眠あるは飲食も 105
我につれなし。アカイアの軍中誰かつとめ得て、
オデュッセウスにおよべりや?彼はつとめき、忍びにき。
さはれ苦難はかれの運。しかしてわれは彼のため、
哀痛はげし。彼れ去りてこのかた長し。勇将の
生死いずれをわきまえず。ラーエルテース彼の父、110
ペーネロペイア彼の妻、テーレマコス彼の息、
彼をしのびて嘆くべし。生まれて間なく父去りぬ』

[1]地中海の東および東南の諸地。ポイニキアーはフェニキアのこと。
[2]アラビヤにあり。
[3]熱帯地方には羊の角早く生ず。

しか陳ずれば恩愛の父をしのびて悲しめる 
子はさめざめとまぶたより涙おとして地にそそぎ、
両の手あげて両の目を紫染むる羊毛の 115
衣におおう。かくと見る王金髪のメネラオス、
その胸中に念頭に思いめぐらす。彼をして
父を忍びて身みずから語らしめんか?あるはまた、
おのれまさきに問いかけて事の始終をたずねんか?

かく胸中に念頭に王の思いをこらす時—— 120
黄金の矢のアルテミス女神に似たるヘレネーは、4-121
屋根高くして芳香の薫ずる部屋を出で来る。
アドレステーはそのときに細工巧みの椅子を据え、
アルキュッペーは柔軟の羊毛の布持ち来り、
またビューローは白銀の籠を持ち出づ。こは昔、125
アイギュプトスのテーベーに[1]——そこには富める家多し—— 4-126
アルカンドレー(ポリュボスの夫人)が彼女におくる物。
メネラーオスにそのときに主人与えき、銀製の
浴盤二つ、鼎(かなえ)二個、十タラントの金そえて。
さらに夫人はヘレネーに佳麗の品を恵みけり。130
すなわち彼女の与えしは黄金製の苧環(おだまき)と、
また黄金の縁とりて白銀製の丸き籠。
こを今侍女のビューローは中に紡げる糸満たし、
携え来り、ヘレネーのかたえに据えて、その上に
スミレ色なる羊毛を巻ける苧環横たえぬ。135
麗妃はやがて椅子に座し、その足かるく台に据え、
紅唇すぐにほころびて委細を王にたずね問う。

[1]エジプトの都市中、ホメーロスの歌うところは「百門のテーベー」のみ(『イーリアス』9-381参照)。

『ゼウス育てしメネラオス、われらは知るや、屋の中に
今訪い来る客人は自らいかに名のるやを?
われ真実を言うべきやいなや。語れと魂(こん)命ず。140
無恥なる我のゆえにより、アカイア軍が恐るべき
戦争おこし、トロイアに向かいたる時、オデュセウス
立つに臨みて残したる、あらたに生まれし彼の息、
テーレマコスにこの客は怪しきまでに似たるかな。
彼を眺めてわれはただ驚くばかり。これまでに 145
かかる類似を男子にも女子にもかつてわれは見ず』

そのとき彼女に金髪の王メネラオス答え言う、
『王妃よ、汝見るごとく我もまさしくしか思う。
オデュッセウスの手は足は、その眼光のひらめきは、
頭ならびに毛髪は、まさしく客のそれなりき。4-150
いまオデュッセウスを偲び出で、われの故より不幸なる
彼の苦難やいかほどか、我今ここに物語る。
見よやこの人、まぶたより苦き涙を地にそそぎ、
紫染むる衣もてせわしくその眼おおえるを』

ペイシストラトス、ネストルの息そのときに彼に言う、155
『ゼウス育てしメネラオス・アトレイデース、民の王、
君の親しく言うごとし。オデュッセウスの子なり彼。
されども彼は思慮深し。初めてここに訪い来り、
君の目のまえ喋々の言句を吐くを喜ばず。
神の音声聞くごとく我らは君の声あがむ。160
ゲレーニア騎将ネストールわれを遣わし、この人を
導かしめぬ。彼れせつに親しく君を訪い来り、
助言もしくは応援を君より得べくこいねがう。
父出で行きて残る息、ほかに保護する者なくば、
その館中に数々の難儀受けざることを得ず。165
テーレマコスの父は今家を離れて遠ざかり、
彼の災い防ぐべき他の者民の中になし』

そのとき彼に金髪の王メネラオス答え言う、
『さてこそ!われの故をもてあまたの苦難忍びたる
親しき友のその子息、今わが家を訪い来しな!170
轟雷震うクロニオン、われら二人[1]に、快船に
海を渡りて帰ること許せしならば、アカイアの
他の一切にいやまさり彼を歓迎せしならむ。
しかしてわれの命受くる都城の一つ空となし、
イタケー島を後にして、その財産とその息と、175
その民衆をひきいくる彼をそのあとわが近く
住ましめ、ために館築き、かれの都城とならしつらむ。
かくて親しみ交わりて、死の黒き雲いやはてに
二人を覆い包むまで、世の何ものも、相愛し
相楽しめる我々を離し得ることなかりけむ。180
されど天上妬みあり。彼を不幸の身となして、
彼一人のみふるさとに帰ることを得ざらしむ』

[1]メネラーオスとオデュッセウス

しかく陳じて一同に悲痛の嘆き起さしむ。
そのとき泣けりアルゴスのヘレネー、ゼウス生むところ。
テーレマコスもまた泣けり。アトレイデース・メネラオス 185
泣けり。ネストル生める子も乾けるまみを持たざりき。4-186
すなわち彼は輝ける神エーオースの子[1]が打ちし、4-187
アンティロコス[2]をその胸に思い出したればなり。4-188
彼を思いてつばさある言句すなわち陳じ言う、

[1]メムノーン。エーオースは曙の女神。
[2]ペイシストラトスの兄。『イーリアス』の出来事のあとトロイアで死す。

『メネラーオスよ、常人に君はまされる知恵ありと、190
老ネストール館中に、われら互いに相問いて、
その風評をしつる時、君をしばしばたたえにき。
いま願わくは我に聞け。宴のもなかに哀痛を
致すを我は喜ばず。さはれ曙光はいと近し。
そも人界の子たるもの、死の運命にいたる時、195
これを悲しみ哭するを、われはとがむる者ならず。
ほほ伝わりて地に落つる涙を流し髪を切る、
死者に対する唯一の礼はかくこそあるべけれ。
我また兄を失えり。彼はアルゴス人のうち、
誰にもひけをとらざりき。彼をおそらく君知るや。4-200
我は一度も彼を見ず。されど我聞く、足速き
アンティロコスは戦場にすべての人をしのげりと』

金髪の王メネラオスそのとき答えて彼に言う、
『賢くしかも年長の人の言うべき、果すべき
事をかくまで若き友、君いみじくも述べしかな!205
かかる父より生(あ)れしかば君はかしこく物を言う。
その誕生に結婚に当りてゼウス・クロニオン 
神より恵み受くる者——その裔(すえ)やすく見分けらる。
かくのごとくにネストルに神はたえずも恩寵を
与う。すなわち館中に身は穏やかに老いすすみ、210
しかして子らは聡くして剛勇無比に槍使う。
いざこれまでに流したる涙われら収むべし。
しかしてさらに飲食を思わむ。誰か浄水を
わが手にそそげ。あしたの日、テーレマコスと我が身とは、
早き朝よりもろ共に心おきなく語らわむ』 215

しか陳ずれば光栄のメネラーオスの忠僕の
アスパリオーン水そそぎ、手を一同に清めしむ。
一同かくて手をのして供えられたる食を取る。
ゼウスの生めるヘレネーはさらに新たに思案して、
ただちに皆の酌む酒の中に一種の薬味入る。220
憂いと怒りうち消して難儀を忘れしむるもの、
これを壷中に混ぜるを飲みたる人は、その日には
彼の父母死せりとも泣かず。あるいは人ありて
愛する子らを兄弟を、利剣ふるいて打ち倒す
その惨状を目の前に、親しく見るも茫として 225
泣かず。頬よりはらはらと涙をおとすことあらず。
ゼウスの生めるヘレネーにかかる奇効の良薬を、
トーンの妃ポリュダムナ与えき。妃生まれたる
アイギュプトスの豊饒の土地に薬草おびただし、
混じて良薬たるもあり毒たるものもまた多し。230
ここに住むものみな医なり、あらゆる人に立ちまさり、
その道くわし、彼らみなパイエーオーンの裔なりき。
かくヘレネーは壷の中奇薬を投じ芳醇を
注がしめつつ改めてさらに言句を陳じ言う、

『ゼウス育てしメネラーエ・アトレイデー[1]よ、もろもろの 4-235
貴人の子らよ思い見よ。神は万能——ある時は
幸を時には災いをあなたこなたの人に付す。
いざ今ここに館中に座して再び宴開き、
談話に興を催せよ。時宜に叶いて我いわむ。
猛き心のオデュセウスその辛労やいかなりし?240
その一切を我は今語る能わず、数え得ず。
今ただ述べん、この勇士アカイア軍の悩みたる
トロイアの地に勇敢に行ないたりしあの事を。
すなわち彼はおのが身にむごき鞭あて傷つけて、
奴隷の姿見るごとく肩に襤褸(らんる)を投げかけて、245
広き街路の敵人の都市にひそかに入り込みつ。
アカイア軍のただなかにありし姿に引換えて
またく異なる人間の——乞食の姿に身を似せて、
あわれの姿よそおいてトロイア城に入りこみぬ。
人々これを悟り得ず、我ただ一人わきまえて、4-250
問いを出せば巧弁に彼は答えをまぎらしぬ。
されども彼に湯浴みさせ肌に香油をまみらしめ、
衣服まとわせ、厳重の誓い——すなわちアカイアの
水師の陣に帰る前、トロイア人に彼の身を
暴きたつことなすまじく、その厳重の誓い、われ 255
立つれば、彼はアカイアの企みすべてうち明けぬ。
つづきて彼は青銅の長き刃(やいば)にトロイアの
勇士倒して帰り去り諜報多くもたらしぬ。
あとにトロイア女性らは泣けり、ただわれ喜べり。
すでに変わりしわが心、郷に帰るを念じつつ、260
めずる祖先の郷あとに、我をかの地におもむかせ
我の愛女に、寝室に、その風貌もその知恵も、
何ら欠けることのなき良人にわれ背かせし、
アプロディーテーの与えたるわれの迷妄悲しみぬ。』

[1]呼格。

そのとき彼に金髪のメネラーオスは答え言う、265
『王妃よ、汝いみじくもこれらの事を物語る。
われはこれまで数多き英武の人の意思と知恵、
親しく見たり。さらにまた地上の大部訪い行けり。
されどもいまだわが目もて、やさしくしかも勇ましき 
オデュッセウスのごときをば、眺めしことはあらざりき。 270
例えば一事——トロイアに死と災難をもたらすと
木馬[1]の中にアカイアの諸将もろとも潜みたる、 4-272
そのとき英武オデュセウス忍びて成せしことありき。
ヘレネー汝、そのときにそこに来りき——とある神、
トロイア族に光栄を望める神や遣わせる——275
相貌神のごとくなるデーイポボス[2]をともないき。
三たびわれらの隠れ伏す木馬めぐりて手を触れて、
汝すべてのアルゴスの女性の声を真似ながら、
ダナオイ族の諸将らの名を一々に呼びかけぬ。
テューデイデース、オデュセウスならびに我は、一同の 280
もなかに座して呼びかくる汝の声を耳にしぬ。
我ら二人は立ち上り、跳り出すか、さもなくば
内より答え与うべく、せつに心に念じつつ
焦せるを、ひとりオデュセウス、厳しく抑えとどめたり。
他のアカイアの諸将らはみないっせいに物いわず、285
アンティクロスはただひとり汝の言に答えんと、
念じたりしを、オデュセウス強き手をもてその口を
厳しく抑え、一同のアカイア族を救い得て、
汝を女神アテーネーつれ去るまでは解かざりき』

[1]8-492参照。
[2]プリアモスの子。ヘレネーを差し向けたか。

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、290
『ゼウス育てしメネラオス・アトレイデース、民の王、
聞きていよいよ我つらし。かかる勲功ありながら、
彼の心は鉄ながら、悲しき死滅を遂げりとは!
さはれいざ今ふしどへと我らを導きたまえかし。
甘き眠りにやすらいて楽しく夢を結ばまん』295

しか陳ずればアルゴスのヘレネー侍女に命下し、
柱廊のした床を据え、紫色のうるわしき
しとね敷かしめ、その上に毛布ひろげて、まとうべく
肌にうれしき柔軟の手織をさらに重ねしむ。
侍女は宮室(きゅうしつ)立ち出でて、松明おのおの手にとりて、4-300
床を据うれば、両客を従者(ずさ)慇懃に導きぬ。
かくしてそこに玄関の間のなか二人床につく、
テーレマコスの剛勇とまたネストールのすぐれし子。
しかして高き屋の奥に、メネラーオスはうち伏せば、
女性の中にたぐいなきヘレーネーそばに床につく。305

指は薔薇の色赤き明けの女神の現われに、
雄叫び高きメネラオス、床を離れて立ちあがり、
衣服をまとい鋭利なる剣(つるぎ)を肩の上にかけ、
その輝ける両足に華麗の靴をうがちなし、
相貌さながら神に似て、その宮殿を立ち出でて、310
テーレマコスのそばに座し[1]、彼に向かいて陳じ言う、4-311

[1]3-406参照。

『テーレマコスよ大海の広き波路をうち渡り、
ラケダイモーンわが郷に君来れるは何用か?
公事か私事か明らかに、乞う、君われに聞かしめよ』
しか言う彼に聡明のテーレマコスは答え言う、315

『ゼウス育てしメネラーエ・アトレイデーよ、民の王、
我来れるはわが父の消息君に聞かんため。
われの資財はむさぼられ、豊饒の地はほろぼされ、
あだなすやからわが家に集まり来り、数々の
羊あるいは角まがり蹣跚(まんさん)として歩む牛、320
絶えずもほふる——わが母に婚を求むる無礼の徒。
そのため我は今ここに君の御膝のもとに来ぬ。
わが薄命の父の死を君は告ぐるを欲せんや?
あるいは君もしいずこにか彼を見つるや?あるはまた
旅の者より聞きつるや?父は不幸に生まれたり。325
遠慮あるいは憐憫の言句をわれに言うなかれ。
君の親しく見たるままその真相をものがたれ。
アカイア軍勢悩みたるトロイア族の郷の中、
言語あるいは行ないによりてわが父オデュセウス、
君0を助けしことあらば、乞う今われに物語れ。330
ありし昔を思い出でその真相をものがたれ』

金髪の王メネラオス憤然として彼に言う、
『あら怪しからず。卑怯なる無残の群の求婚者!4-333
はるかすぐれし英雄の床を奪いて寝ねんとや!
例えば雌鹿、勇猛の獅子の宿りに、おのが子を――335
新たに生れ乳を吸うその子をねかし、自らは
草を求めて繁る丘、緑の谷を巡る時、
獅子は空かししわが宿に帰り来たりて、そこに寝し 
子鹿二頭に無残なる死の運命を来たす如、
かくの如くにオデュセウス、彼らに破滅もたらさん。340
ああわが天父クロニオーン、アテーナイエー、アポローン、
堅固の都市のレスボスにピロメレイデスと争いて、
奮然として身を起し、激しく敵を打ち倒し、
アカイア族の一同の歓呼をあびしオデュセウス。
願わく、かくの如くしてかの求婚の群の中、345
現われ出でよオデュセウス。かれらたちまち滅ぶべし。4-346
はた君われに問うところ願うところに答うべし。
それて別事を話すまじ。君を欺くことはせじ。
まことを語る海上の翁[1]の我に言うところ、
一事も君に隠すまじ ――偽り語ること無けむ。4-350

[1]後の4-366行にいうプローテウス。

せつに帰郷を念じたる我を神明もろもろは、
牲を怠る故をもて、アイギュプトスにとどめにき。
げに神明は命令を人の守るを喜べり。
アイギュプトスを前にして大海原の大波の
中に島あり。この島に人はパロスの名を与う。355
島は岸よりほど遠し。追風(おいて)激しくすさぶ時、
乗り出す船は一日を費しここにいたるべし。
ここにすぐれた港あり。そこより人は飲食の
水汲み入れてもろもろの船を沖へと漕ぎ出す。
二十日間、神明はその地にわれをとどめたり。360
海へ向かって吹きながら大海原の大波乱
のりゆく船のもろもろを導く風はあらわれず。
かくして糧の蓄えも人の勇気も尽きんとす。
そのとき我を憐れみて、救いを垂れし一神女 
エードテエーは年老いしわだつみの主、大いなる 365
プローテウス[1]の愛娘——その心情をはげしくも 4-366
われ動かせり。飢えにより胃腸悩みて島の中、
あなたこなたと漂いて、曲れる針に魚を釣る、
従者離れて我ひとり歩める時に近づける
女神はわれのかたわらに立ちてすなわち宣し言う、370

[1]変化自在の海神。

「異郷の人よ、愚かにも汝かくまで智慮欠くや?
あるいは汝甘んじて災い受けて喜ぶや?
かくも長らく島中に閉され、汝逃げるべき
道を求むることをせず、汝の伴らみな弱る」

しかく女神は宣すれば我はすなわち答え言う、375
「いかなる神におわすとも、君に答えを陳ずべし。
我は好みてこの島にとどまるにあらず。しかれども
大空住める神明の不興を我や招きけむ。
神は一切よく知れば、乞う君我に語れかし。
いかなる不死の神明らか抑えて道を塞ぎたる?380
鱗族群るる大海をいかに渡りて帰るべき?」

しか陳ずれば美しき女神ただちに答え言う、
「異郷の人よ、真実を我は汝に宣すべし。
ポセイドーンの臣にして、アイギュプトスに生まれたる
プローテウスは海の仙、誠の心持てる者、385
あらゆる海の深み知り、しばしばここを来り訪う。
我を生めるは彼なりとあまねく世には言い伝う。
何らの策を用いてか、待ち伏せしつつ老仙を
捕え得つらば、故郷へ帰る道筋、道のりを、
鱗族むれる大海をわたる手立てを教ゆべし。390
しかしてさらに汝もし望まば、彼は教ゆべし。
ゼウスの育てし子よ汝、つらき長旅なせる間に、
何たる吉事はた凶事汝の館にありしをや」

しか言う女神の言を聞き、我は答えてかく言えり、
「この老仙を捕うべき道ねがわくは君告げよ。395
おそらく彼は先に見て悟りてわれを逃るべし。
はかなき弱き人の子は神を制すること難し」

しか陳ずればうるわしき女神ただちに答え言う、
「異郷の人よ、真実を我は汝に宣すべし。
日輪のぼり大空の最中(もなか)にすすみいたる時、4-400
偽り言わぬ海中の老いたる仙は波をわけ、
黒き波浪におおわれて西風いぶく息の下、
岸にのぼりて洞窟のうつろの中に横たわる。
海を住居のうるわしき女性の生めるアザラシは、
ひれなす足に海を出で、千尋深き海の香の 405
臭き息吹を吐きなして、仙を囲みて群れ眠る。
曙光あらわれいずる時、我は汝を導きて、
そこに並びて伏さしめむ。汝つとめて漕ぎ座よき
船の中よりすぐれたる三人(みたり)の伴を選ぶべし。
いま老仙の巧み皆あげて汝に示すべし。410
彼はまさきにアザラシの数を数えて経めぐらむ。
五つ五つと数え行き、その一切を見たる後、
羊の中の牧人のごとく真中に眠るべし。
彼の眠りに沈めるを眺むる時にすみやかに、
汝の勇気ふりおこし、汝の威力ふるわせよ。415
もがき狂いて逃れんとする老仙をつかまえよ。
彼は地上の一切の動けるものの姿とり、
あるいは水の、または火の姿をとりて試みむ。
されど厳しく取り押え、力ゆるむることなかれ。
しかして汝そのはじめ、そのいねたる姿見しままの 420
姿をとりて口開き、汝に問いをいだす時、
そのとき汝手を緩め、かの老仙を解きはなち、
問え、神明の何者かかくも汝をしいたぐる、
問え、鱗族のむらがれる海上いかに帰るべき」

宣し終わりてしお乱る海に女神は飛び込めり。425
我はすなわち岸上に引き上げられし船さして、
足をすすむる道すがら、種々の思いに胸みだる。
やがて白波うち寄する海と船とに至り着き、
食事ととのえ終わる時、アンブロシァの夜来る時、
そのときわれら一同は岸の砂上にうち伏しぬ。430
薔薇の赤き指もてる明けの女神のいずる時、
道筋ひろき大海の岸を歩みて、もろもろの
神に祈願を捧げつつ、すべてにわたり信頼を
もっとも多くおき得べき従者三人伴えり。

女神はやがて大海の広き胸中くぐり行き、435
波の下よりアザラシの四頭の皮を持ち来る。
皮は新たに剥ぎしもの。父に対してもくろめる
女神は岸に砂穿ち、床を設けてそこに座し、
待てるそのそばま近くに、われら一同すすみ寄る。
そを一列に伏さしめて各自を皮におおい去る。440
海に育てるアザラシの放つ臭気は耐え難し。
かくしてわれらの待ち伏せはすこぶる辛きわざなりき。
海の獣(けもの)のかたわらに誰かはたして伏すを得ん?
されど我らを憐れみて女神、思案をこらしつつ、
香気微妙のアンブロシァ携え来り、各人の 445
鼻孔の下にまみらして、つらき臭気をうち消しぬ。
忍耐強く朝の間を、かくてわれらは相待てり。
やがて海よりアザラシは群をなしつつ出で来り、
みなことごとく岸のうえ列を作りて横たわる。
真昼となれば老仙は、海より出でてアザラシの 4-450
肥えし姿をうち眺め、めぐり調べて数かぞえ、
われを共々海獣の中に数えて計略の
あるをいささか悟り得ず、同じく岸に横たわる。
かくと見るより一同はおめき叫んで迫り寄り、
腕を伸ばして捕うれば、かれ老獪の手を出だし、455
まずいや先きにたてがみの美なる雄獅子の姿取り、
次には大蛇、やがてヒョウ、次に巨大の豚となり、
次に流るる水となり、緑葉繁る巨樹となる。
されど我らは忍耐の力を鼓して取りおさゆ。

魔法たくみの老仙はついに変化にうみ果てて、460
すなわち羽ある言句もてわれに向かいて問いて言う、
「アトレーウスの子よ、我を待ち伏せしつつ捕うべく
助けし者は何神ぞ?汝何をか求むるや?」

しか宣するに答えつつ、すなわち我は陳じ言う、
「老仙知れり(などかかる言にて君はあざむくや?)465
長らく我はこの島に閉ざされ、籠居(ろうきょ)果てしれず。
悄然として我が心おとろえ行くを君知れり。
いざ君告げよ(神々は事一切をよく知れば)、
神々中の何者か我をとどめてわが帰路を
さまたげなすや?いかにしてわれ海わたり帰るべき?」470

しか陳ずれば老仙はただちに答えわれに言う、
「暗紅色の海わたり、故郷に帰りゆかまくば、
身を船舶に乗する前、汝よろしくクロニオン
またもろもろの神明に捧ぐべかりきうまし牲。
祖先の郷に立ち帰り美麗の館に帰り得て、475
親しき友を眺むべき命は汝に許されず、
神よりくだる大水のアイギュプトスの大川に、
再び行きて大空にすむ神明のもろもろに、
尊き牲を供えずば、かかる運命許されず。
牲そなえなば望むまま神は帰郷を恵むべし」480

老仙述ぶる言を聞き、いたく悩みぬわが心。
また茫々の波わたり、長くてつらき海越えて、
アイギュプトスに帰るべく命ぜる言のつらきかな。
しかはあれども言句もて我は答えて彼に言う、

「君の命ずるごとくして、われこの事を行わむ。485
さはれ今いざ真実にこれらの事を我に言え。
イリオン去れるネストルと我と二人の残し来し
アカイア軍の一切は、船もろともにつつがなく
帰り行きしや?戦いを終わりし後に船の上、
あるいは友の腕の中、悲運に死せし者ありや?」490

しか陳ずれば老仙は直ちにわれに答え言う、
「メネラーオスよ、何ゆえにこれらの事を尋ぬるや?
われの心に思う事、これらを汝知ることは、
よからず。知らば涕涙(ているい)を抑ゆることは難からむ。
滅べる者の数多し、残れる者もまた多し。495
汝もろとも戦える、青銅よろうアカイアの
将軍中のただ二人、旅の間にほろびたり。
大海中のいずこにかとどまる将軍ひとりあり。
長き櫂ある船のそば将アイアース[1]ほろびたり。4-499
先きには彼をポセイドーン、ギューライ島の大いなる 4-500
巌の上に着かしめて海より彼を救いたり。
海の淵より神明の意思にもとりて助かると、
心乱れて驕慢の言句を放つことなくば、
アテーネーは憎みしも、死命を逃れ得つらんに。
その大言を耳にせるポセイドーンはたちまちに、505
その力ある手の中の三叉の矛をとりあげて、
ギューライ島の大岩を打ちて二つにつんざきぬ。
岩の半ばはそのままに、他は大海に陥りぬ。
心乱れてその上に座せるアイアスもろともに。
かくして彼は大潮の狂える深き海の中、510
運ばれ去りて海水を飲みたる後にほろびたり。
汝の兄は端正な女神ヘーラーの救いより、
うつろの船にのりゆきて死の運命をまぬがれぬ。
山岳高きマレーアを目ざして彼はすすみしも、
嵐襲いて、鱗族のむらがるところ大波の 4-515
鞺鞳として吠え叫ぶ大海原に[2]ただよわす。516
されど神明さらにまた風の方向変えし時、519
帰郷の道は安らかに彼ら祖国に着き得たり。520
着きしは国の端にして、テュエステースがそのむかし、517
住みたるところ、今は子のアイギストスの住むところ。518
アガメムノーン歴代の祖先の郷に帰り得て、
歓喜に耐えず思わずも伏して大地をかきいだき、
歓喜あふれてさめざめと熱き涙をふり落とす。
されども彼を看守者は看守台より認めたり。
アイギストスが奸計と二タラントの黄金に、525
誘いてここに置きし者。知らざる隙に王帰り、
勇をふるうを恐れつつ、ここに一年看守しぬ。
彼いま報をもたらして領主の館にすすみ来ぬ。
直ちにすごき奸策をアイギストスはもくろみぬ。
民衆中に屈強の者二十人選び上げ、530
待ち伏せせしめ、さらにまた命じ宴席設けしむ。
アガメムノーン招くべく胸に偽計をおさめたる
奸人かくてもろもろの車馬整えて迎え行き、
かくて破滅を悟らざる王を導き内に入れ、
宴し終わりて倒したり。あたかも牛を牛小屋の 535
ほとりにほふり去るごとし。アガメムノーンの従者らも、
アイギストスの従者らも、みな館中に倒れたり」

[1]ロクリスの将軍。小アイアース。
[2]「大いに悲しみうめく彼を」と解するものあり。このくだり原典の本文二種あり、順序相違す。

しか陳ずるをうち聞ける我の心は張りさけり。
われは砂上に座を占めて悲しみ泣きて、我が心
もはや生くるを、日輪の光を見るを願わざり。540
されど心のゆくばかり悲しみまろび泣ける時、
海の老仙、真実の心もつ者、われに言う、

「メネラーオスよ、いつまでも長く悲しむことなかれ。
悲しみ泣くも甲斐あらず。むしろ急ぎてすみやかに
祖先の国に帰るべくつとめよ。そこに奸賊は 545
生きつつあらむ。さもなくばオレステースは先だちて、
彼を倒して汝ただその葬式に出で会わむ」
その言聞きて我が心、また豊かなる魂は、
悲しみつつも胸中にさらに新たにふるい立つ。
かくして我はつばさある言句を彼に陳じ言う、4-550

「二将の運命いま知りぬ。君第三の名を告げよ。
渺々広き海の中、いまだ滅びず生あるや、
あるは死ねるや、何者ぞ?悲しみながら我聞かむ」
しか陳ずれば老仙はすぐに答えて我に言う、

「ラーエルテスの子なり彼、イタケー島に住める者。555
とある島にてはらはらと涙はげしく泣く彼を
見たり。強いてもカリュプソー、仙女はおのが館中に、
彼を抑えて去らしめず。郷に帰るを得せしめず。
櫂を備うる船あらず。また渺々の大海の
上を渡りて漕ぎすすむ部下また彼に備わらず。560
されども汝大神のめずる金髪メネラオス、
馬の産地のアルゴスに死ぬるは汝の命ならず。
エリューシオン[1]の野の中に、大地の端に、神明は 4-563
汝送らむ。金髪のラダマンテュス住むところ。
人類そこに幸福の生をとこしえ営めり。565
そこに雪なし、陰惨の冬長からず、雨もなし。
オーケアノスは人類の気を爽やかになさんため、
つねに呼吸の調える微風ゼピュロス吹きおくる。
ヘレネーめとる汝をばゼウスの婿と見なすゆえ」

[1]大地の端にあり。冥土ハイデースと反対の方面にあり。ホメロス以後不老不死の仙郷と歌わる。今日パリ府の著名の一地画シャンゼリゼーはこの名のフランス語訳なり。

陳じ終わりて老仙は波浪の下に潜り去る。570
神明に似る部下ともに船をめがけて帰る我、
行くゆく胸は百千の種々の思いにかきみだる。
かくてすすみて岸上に上げたる船に帰り着き、
食事を終えてかんばしき夜のいたる時一同は、
大わだつみの岸の上身をよこたえてうち伏しぬ。575
薔薇の色の指もてる明けの女神の現われに、
まさきに船を神聖の海におろして浮ばしめ、
その整々の船の上、帆柱たてて帆を張りぬ。
乗りこむ水夫一同はみなそれぞれの漕ぎ座占め、
列を正していっせいに櫂に白波をこぎすすむ。580
神よりくだる大水のアイギュプトスの大川に、
船を停めて荘厳の牲神々に奉る。
とこしえいます神々の怒り和らげ解きし後、
アガメムノーンの不滅なる誉れのために墓建てき。
これらのことを成し遂げて、神の恵める順風に 585
吹き送られて、うれしくも祖先の郷に帰り来ぬ。
さもあらばあれわが館にテーレマコスよ、くつろぎて
十一二日過ぐるまで、汝の足をとめよかし。
その後われは快く汝を送り、華麗なる
品を呈せむ。三頭の駿馬ならびに良き車、590
さらに加えん佳麗なる酒杯——これより神々に
献酒せよかし。とこしえに長くわが身を思い出し』

しか陳ずれば聡明のテーレマコスは答え言う、
『メネラーオスよ、長らくはここにわが身をとどめなそ。
君のかたえに一年の長きにわたりとどまるも、595
故郷の思い、恩愛の親の思いも浮かぶまじ。
君の口より打出づる話、かばかり楽しかり。
ただいかにせん、神聖のピュロスにありて同僚は
いたくも我を待ちわびぬ、君は長くとどむれど。
はたまた君の餞別は願わく什器たらしめよ。4-600
われの故郷のイタケーに駿馬引き行く要あらじ。
ここに残さむ。君めでよ、君の領土に広野あり。
中にロートス[1]おびただし、またキュペイロンおびただし。4-603
小麦ならびに裸麦また豊饒に大麦も。
広き平地はイタケーにあらず。牧場またあらず。605
馬の産地に引き換えてまされるヤギの産地なり。
海に臨める島々は馬匹を駆るに便ならず。
また牧場に恵まれず、イタケー島は特にかく』

[1]9-83のロートスと別種。

しか陳ずればメネラオス雄叫び高き王は笑み、
手を伸し彼をかい撫でてすなわち彼に陳んじ言う、610
『よき子、いみじく言いしかな。高貴の種(たね)を現わしぬ。
さらば贈与の品変えむ。我このことをよくすべし。
わが館中に蔵めたる什器の中に、最上に[1] 4-613
華麗に価高きもの、選びて君に進ずべし。
そは巧妙に造られし混酒のうつわ、全部みな 615
銀より成りてその縁は黄金をもて飾るもの。
ヘーパイストスの作にして、むかしシドーンのパイディモス、
われの帰国の道すがらその宮中に寄りし時、
われに贈れるものなりき。君にこを今呈すべし』[2] 4-619

[1]4-613~619は15-113~119と同じ。
[2]このメネラオスのセリフは本来15-80に続くものとされる(和辻哲郎『ホメーロス批判』全集217頁)。
かくのごとくに両人は互いに語り陳じあう。620
すでに客人神に似る王者の宮をさして来ぬ。
彼らは羊引き来りまた旨し酒たずさえり。
また額ぎぬうるわしき彼らの妻は麺包を。
かくして皆は王宮に宴を設けてくつろぎぬ。4-624

こなたは例の求婚者、オデュッセウスの館の前、625
先のごとくに傲然と群がり寄せて、均(なら)したる
庭のおもてに円盤を、槍を投げつつ楽しめり。
彼らの中の頭(かしら)にて勇気もっともまさる者、
アンティノオスと美貌なるエウリュマコスは共に座す。
プロニオスの子ノエーモーン、二人のそばに近寄りて、630
アンティノオスに向かいつつ言句を陳じ問いて言う、

『アンティノオスよ、ピュロスよりテーレマコスの帰り来る
時はいつぞや?何びとかこれを知れりや知らざるや?
わが船に乗り彼れ立てり。その船われはエーリスの
広野に航し渡るべく要あり。そこに十二頭 635
雌馬ならびにまだ慣れぬ忍従つよきラバは群る。
そのラバの中一頭をつれ来てわれは馴らさんず』

その言聞きて驚ける二人は、ネーレウス創始せる
ピュロスに彼の行きたるを思いもかけず、国の中、
羊あるいは豚を飼う人のそばにと思いこむ。640
エウペイテスの生める息アンティノオスはかくて問う、
『我に真実ものがたれ。立ちしはいつぞ?イタケーの
何らすぐれし青年を連れて行きしや?連れたるは
ただ用人と奴隷とか?げに彼れこれをよくし得む。
しかして我の知らんため、真実われにうち明けよ。645
暴力用い、汝より彼は黒船奪いしや?
慇懃の句にほだされて汝好みて与えしや?』

プロニオスの子ノエーモーンそのとき答えて彼に言う、
『我は好みて与えたり。胸に憂いを抱きつつ、
かくある人の乞う時に我ならぬ身は何とせむ?4-650
かかる恵与を拒むこと、いといと難きわざならむ。
我らの中に[1]民衆のあいにもっともすぐれたる 4-652
青年たちが従えり。しかして我はメントール、
あるいは彼に似たる神、船を指揮する様を見き。
驚くべきは次の事。昨朝ここでメントール 655
我は見たるに、同じ頃彼はピュロスに船出しぬ』

[1]「我らに次ぎて」と解するものあり。

陳じ終わりてノエーモーン、父の館へ帰り去る。
残る二人の傲慢の心はいたくいきどおり、
遊戯をやめて座るべく求婚者らに命下す。
エウペイテスの生める息アンティノオスは怫然と、660
そのとき彼らに陳じ言う。しかして彼の黒き胸、
怒りに満ちて両眼は燃ゆる炎を見るごとし、

『あら怪しからず!大いなるわざは不敵に行われ、
テーレマコスは旅立てり。わが成るまじと言いしこと。
多数のわれら侮りて、民の中なる精英を 665
選び集めて小伜は船を浮べて立ち去れり。
やがて後には災いの種となるべし。願わくは
我らにあだをなさん前、力をゼウス絶てよかし。
いざ今我に一隻の船と同志の二十人
与えよ。帰り来るべき彼に対して待ち伏せし、670
イタケーおよび険要のサモス[1]のあいに待ち受けん。
父を求める彼の旅やがて無残に果てんため』

[1]イタケー島の西のケパレニア島のこと。

しか陳ずれば人々は彼を賛してしかせしむ。
かくてただちに一同はオデュッセウスの館に行く。
求婚者らが心中に深く案ぜるたくらみを、675
ペーネロペイア悟りしは、聞きしは、長き後ならず。
令使メドーンは庭の外(と)に立ちて、中にて党類の
もくろむままにその言を親しく耳に聞き取りて、
ペーネロペイアに告ぐるべくその部屋さしてすすみ行く。
敷居をこゆる彼を見て夫人すなわち陳じ言う、680
『令使よ、彼ら求婚者、などて汝を遣わせる?
仕事をやめて一同に酒宴の準備なすべしと、
オデュッセウスの童女らに言を伝えんためなりや?
ああ求婚の言をやめ、また集会をうちすてて、
今日を最後にこの場所にその宴席を閉じれかし!685
ああ汝らは[1]うるさくも、ここに群がり、聡明の 4-686
テーレマコスの所有なる資財を尽す、いくばくぞ!
汝らいわけなかりし日、オデュッセウスのひととなり、
かつておのれの親父(しんぷ)より、耳にすることなかりしか?
彼は不正の言とわざ、民の間になさざりき。690
そも世の常の権威ある王者の習い。ある人を
めで、ある人を忌み憎む。されども彼は一人にも
不正の行為をなせしこと断じてかつてあらざりき。
さるを汝らその心そのわざすでにあらわなり。
むかし受けたる恩愛に感謝の念はつゆもなし』695

[1]求婚者が眼前にあるごとく二人称にて言う。

そのときメドーン聡明の令使は彼女に答え言う、
『ああわが王妃、かかる事最後ならばや良からまし!
されども彼ら求婚者これよりさらにおおいなる
非道のわざをもくろめり。クロニオーンよ、果たさざれ!
テーレマコスを帰途に待ち、利刃に彼を倒すべく 4-700
彼ら企つ。神聖のピュロスならびに聖郷の
ラケダイモーンにその父の消息求め彼ゆけり』

しか陳ずれば、驚愕のあまり王妃は膝ふるい、
心くだけて久しきにわたり、言なく涕涙を、
その両眼にたたえつつ、その玲瓏(れいろう)の声も止む。705
やがて沈黙長きのち言句をのべて答え言う、

『令使よ何の故ありてわが子去りしや?人間に
とりては海の馬として渺々の水渡る船、
乗るべき要はなかりしを——その足速き船の上、
おのが名さえも人中に残らぬことを望みてか?』710

そのときメドーン聡明の令使答えて陳じ言う、
『我は得知らず。ある神が彼を励ましすすめしや?
あるはピュロスにすすむべく彼の心は願いしや?
父の帰郷か薄命のいずれか学び知らんため』

令使はかくと陳じおえ、オデュッセウスの邸を去る。715
胸を張りさく哀愁におおわれ、館にあまたある
椅子の一つに腰掛くる気力も尽きて、精巧の
部屋の敷居に泣き崩れ、ペーネロペイア悲しめば、
これを囲みて宮中にすめるすべての侍女たちは、
老いも若きもいっせいに皆ことごとくむせび泣く。720

その時いたき慟哭の王妃かれらに向かい言う、
『親しき友らわれに聞け。共に生まれて育ちたる
女性にかつてあるまじき、災難我にクロニオーン
与えぬ。さきに獅子に似て、心雄々しくダナオイの
中にあらゆる徳そなえ、ヘラスならびにアルゴスに 725
その勇名のとどろける良人我は失えり。
さらに今また狂風は館の中より我が愛児、
わが知らぬ間に漠然とはるかの旅に吹き去りぬ。
わが子うつろの黒き船めざしてここをたてる時、
あわれ汝ら無情にも、そを明らかに知りながら、730
床より我をめざますを一人も念ぜざりしよな!
我もし彼がこの旅を念ぜる事を知りつらば、
旅の嘆願切なるも彼をとどめて行かしめじ。
さなくば我を館中に死なしめ彼は立ちつらむ。
今すみやかにドリオスを——嫁(とつ)げるおりにわが父の 735
与えし者を、老僕を、繁る樹園を守り手を、
誰そ、すみやかに呼び来れ。ラーエルテースを彼をして
おとずれしめん早急に。彼は委細を陳ずべし。
さらば岳父は胸中に策をやしない出で来り、
悪徒に対し訴えん。神にも似たるオデュセウスの、740
またその父の種をしも、彼らはほろびしめんとす!』

エウリュクレイア、親愛のうばはそのとき陳じ言う、
『あわれ王妃よ、容赦なく我を刃に倒さんか、
あるいは我を許さんか、さはれ我いまうち明けむ。
我は委細をみな知れり。彼が命ぜしそのままに、745
麺包および芳醇を与えり。我は誓いたり、
十一二日過ぐる前、あるいは王妃自らが
彼の出で立ち悟る前、この事漏らすべからずと。
涙流して玉顔を汚さんことのなきがため。
あわれ王妃よ、湯あみして身に清浄の衣(きぬ)まとい、4-750
かしずく侍女ら伴いて楼上さしてのぼりゆき、
アイギス持てるゼウスの娘アテーネーに祈り乞え!
女神はやがて死よりさえ君の愛児を救うべし。
すでに悩める老翁[1]を悩ますなかれ。神々が 4-754
アルケイシオス[2]の子の裔を憎むべしとは思われず。755
必らず中の一人は生きながらえて、高らかの
館ならびに広大の肥沃の土地を領すべし』

[1]ラーエルテース。
[2]ラーエルテースの父。

しかく陳じて両眼の涙王妃に収めしむ。
王妃すなわち湯あみして身に清浄の衣まとい、
かしずく侍女ら伴いて楼上さして上りゆき、760
籠に神聖の麦満たし、アテーネーに祈り言う、

『アイギス持てるゼウスの子、アトリュートーネー、聞こしめせ。
知謀に富めるオデュセウス、この館の中、牛羊(ぎゅうよう)の
肥えたる腿を君のため、さきにあぶりしことあらば、
そをわがために思い出で、救わせたまえわが愛児。765
遠ざけたまえ凶悪のかの憎むべき求婚者』

音声高く祈る言、女神憐れみ聞こしめす。
しかして暗き館の中、騒ぎ乱るる求婚の
群の一人わかき者、傲然として陳じ言う、
『見よ、万人のあこがれの妃(ひ)は婚礼の備えして、770
愛児の死滅の企みを、笑止や、絶えて悟り得ず』
しかく陳じぬ、一同に企みられたる事知らで。

彼らに向かいアンティノオスすなわち言句陳じ言う。
『愚かなる者、戒めよ、倨傲(きょごう)の言句いうなかれ。
おそらく誰か内に入りこれを報ずることあらむ。775
いざ立ちあがり、心中に我らすべてに好ましき
あの企みを、沈黙の中に遂ぐるを得せしめよ』

しかく陳じて精英の二十の伴を選びあぐ。
彼らは立ちて快船と海の岸とに急ぎ行く。
行きてまさきに海水の深きが中に船おろし、780
黒く染めたるその船に帆と帆柱を備えしめ、
型のごとくに革ひもの環の中すべていっせいに、
櫂をたしかに結びつけ、白帆を高く張り広ぐ。
やがて不敵の従者らは彼らに武具を運び来ぬ。
かくて一同乗り込みて深きに船をすすましめ、785
そこに食事をしたためて、待てり夕べの近寄るを。

ペーネロペイアかなたには今楼上の部屋の中、
飲食すべてしりぞけてふしどにひとり横たわり、
思い煩(わずら)う。その愛児の死の運命を逃るるや?
婚を求むる傲慢の群の手中に倒るるや?790
猟の一群ライオンを囲みて襲い来る時、
さすが怖れて猛獣も千々に思いをみだすごと、
思い乱るる王妃にも甘き眠りは襲い来ぬ。
すべての四肢を緩ましめ佳人しずかに眠り行く。

そのとき藍光の眼の女神、さらに新たに思案しつ、795
一の幻影つくり成し、その相貌を一女性、
イープティメーに似せしめぬ。イーカリオスの息女にて、
エウメーロスはその夫、彼はペライの郷に住む。4-798
かくしてこれを神に似るオデュッセウスの邸にやる。
ペーネロペイア悲しみに耐えず嗚咽(おえつ)のはげしきを 4-800
憐れみ、彼女の慟哭とにがき涕涙とむるため。
閂結ぶ革ひもを伝いて影は忍び入り、
ペーネロペイアの枕もと立ちてすなわち陳じ言う、

『ペーネロペイア憐れにも眠るか、心悩まして。
涙流して悲しむか。見よ、慶福の神々は 805
君を見捨てず。君の子は他日必ず帰り来ん。
神にそむきて彼はまだ罪を犯せしことあらず』

夢の戸口に穏やかに睡眠深き、聡明な
ペーネロペイア、言句もて影に向かいて答え言う、
『わが妹よ、なぜここに来れる?ここ離れ 810
遠きほとりに住める君、前はおとずれ稀(まれ)なりき、
胸を心をかき乱すわが哀悼を、数々の
憂いをすべて鎮めよと、君今我に命ずるや?
ああわれさきに獅子に似て心雄々しくダナオイの
中にあらゆる徳そなえ、ヘラスならびにアルゴスに 815
その英名のとどろける尊き夫失えり。
さらに今またわが愛児、船に乗じて旅立ちぬ。
幼き彼は世の苦労、世間の相をよく知らず。
彼に対するわが思い、夫を思うになおまさり、
おののき震い畏怖に満つ。その訪い行ける人の中、820
あるいは海の広き中、何事彼に起らんか?
見よ、数多き敵人は彼の帰郷を待ち受けて、
祖先の土地につかん前、ほろぼすことをたくらめり』

しか言う彼女に朦朧の影は答えて陳じ言う、
『心安かれ、何事もいたく憂うることなかれ。825
彼に女神が付き守る。同じくほかの人々も
祈り擁護を乞うときに、彼らを助くるアテーネー・
女神パラスは哀愁にしずめる君を憐れみて、
ことさらわれを遣わしてこれらのことを報ぜしむ』

影に答えて聡明なペーネロペイア陳じ言う、830
『君もし神の使者ならば、神の音声聞きつらば、
乞う我に言え。わが夫、不幸なる者いずこにか。
今なお生きて日輪の光を眺めつつありや?
あるいは死してハイデース冥王の府にとどまるや?』

そのとき彼女に朦朧の影は答えて陳じ言う。835
『彼は生けりや死したるや?君に向かいて詳細に
我今ここに言い難し。むなしき言句いうは不可』
しかく陳じて門とざす閂伝いすべり出で、
風の呼吸の中に消ゆ。イーカリオスの息女今、
闇夜の中に明らかの夢霊の来り訪える後、840
心の悩み癒されて眠りの床を離れ出づ。
今かなたには求婚者、テーレマコスのものすごき
殺害胸にもくろみて船に乗じて波渡る。
海のもなかに岩がちの小さき島あり。イタケーと
懸崖高きサモスとの間、その名はアステリス。845
中に二つの口開き船に便なる港あり。
アカイア族の一行はここに相手をまちぶせぬ。


オヂュッセーア:第五巻


神々の会議にアテーネーはオデュッセウス父子の救いを進言す(1~20)。ゼウスはヘルメイアスをカリュプソーに遣わしオデュッセウスの解放を命ぜしむ(21~42)。カリュプソーの島地の光景(43~74)。歓待の食事の後、使者は来旨を述べて仙女を悲しましむ(75~147)。仙女はオデュッセウスにやむなく帰国せしむることを述べ誓言をなす(148~191)。ただし危難の来るべきを告ぐ(192~227)。いかだの制作(228~261)。島を離れて十八日を過ぎてパイアーケス人の地に近づく(262~281)。海神ポセイドーン暴風を起して彼を苦しむ(282~332)。仙女レウコテアー彼を憐れみ彼を戒む(333~381)。アテーネー暴風をしずむ。二日間海波に漂い泳ぐオデュッセウス(382~444)。海神に祈り河口に入る(445~464)。上陸、林中に伏す(465~493)。

諸神ならびに人間に、天の光明もたらして、
明けの女神はその夫ティトーノス[1]の床離る。5-2
そのとき諸神集会の席に集まる。そが中に
雷音(らいおん)高きクロニオーン、至上の威力うち振う。

[1]トロイアのラーオメドーンの美貌の子、『イーリアス』11-2。

仙女の宿に捕らわるる勇士をつねに憐れめる 5-5
アテーネー、いま神々にオデュッセウスの難を説く。
『天父ゼウスよ、慶福の他の常在の神々よ、5-7
笏を手に取る王侯はもはややさしく慈悲深く、5-8
民を愛して正しきを行なうことは無用なり。
むしろ常々冷酷に不正のわざをふるまえや!5-10
神にも似たるオデュセウス、父のごとくにやさしくも、
治めし民はひとりだも、彼を思わず何事ぞ!5-12
激しき難儀こうむりて、かれ今とある島の中
ありて、強いてもカリュプソー、仙女はおのが館中に、5-14
彼を抑えて去らしめず、郷に帰るを得せしめず。15
櫂を備うる船あらず。渺々として果しなき
海のおもて[1]を漕ぎ行きて導く水夫またあらず。5-17
さらに今はた悪徒らは、彼の愛児を帰りくる
道に計りて倒さんず。父の消息探るべく
彼はピュロスと神聖のラケダイモーン訪い行ける』20

[1]原語「海の背」

雷雲寄するクロニオーン、それに答えて陳じ言う。
『何たる言句、わが愛児、汝の歯端漏れいずる!
オデュッセウスが帰り来て、彼らをいたく懲らすこと、
汝自ら計画し、しかも汝の決めしこと。
テーレマコスをしかるべく送れ。汝はこをよくす。25
しからば彼は安らかに、祖先の郷に帰るべし。
求婚者らは策やぶれ、船に乗じて帰り来ん』

宣し終わりてその愛児ヘルメイアスを呼びて言う、
『ヘルメイアスよ、常々の神の使いよ。汝いま、
行きて鬢毛うるわしき仙女にわれの決意言え。30
心の猛きオデュセウス、祖先の郷に帰るべし。
神明および人間の導きなくて帰るべし[1]。5-32
強く組まれしいかだ船、乗りて苦難に耐え忍び、
二十日過ぎ、豊沃のスケリエー[2]の地に着きぬべし。
神に類する民族のパイアーケスはそこに住む。35
この民族は心より彼を神とし敬わむ。
しかして彼を船に乗せ、祖先の郷に行かしめん。
しかも青銅黄金と衣服を多く恵むべし。
オデュッセウスはトロイアの戦利の品を受け取りて、
国に事無く帰るとも、かばかり多く取り得まじ。40
かくのごとくに運命は彼に定まる。親しきに
再び会いて、広壮の館と郷とに帰るべし』

[1]この句は後に述ぶる所に反す、「導きありて」にあらずや?
[2]イタケー島の北の現ケルキラ島。パイアーケスはパイアークスの複数形。パイエーケスはイオニア方言。
しか宣すればその命を聞けるアルゲイポンテース[1]。5-43
すぐに華麗な神聖の靴、黄金を鋳(い)りしもの
足に穿ちぬ。迅速に風の呼吸を見るごとく、45
波浪の上を、無辺なる大地の上を運ぶもの。
次に一つの杖を取る。こは意のままに人間の
眼を閉ずるもの。眠りよりまた人間をさますもの。
アルゲイポンテースこの杖を手に携えて飛び来り、
ピーエリエーの空の上、天より下り海に入り、5-50
潮の上を、海の鳥見るがごとくに急ぎ行く。
渺々としてはてしなき淋しき波の上わたり、
厚きつばさを塩水にひたし、魚追う海の鳥、
その鳥に似てヘルメース、潮の上を翔けり行く。
はじめは遠く隔りし島に今着き、紺青の 55
海より陸にかけ上り、足をすすめておおいなる
洞窟。そこは鬢毛の美なる仙女の住むところ、
ここに到りてヘルメース、中に仙女を見出しぬ。
内部の炉には炎々の火炎盛んに燃えたちて、
杉、白檀の木の薫り、焼けゆくままに島中に 60
広く匂えば、織り機(はた)の前をゆききし、黄金の 
梭(ひ)をはしらせて、玲瓏の声に仙女は歌うたう。
洞のめぐりは鬱蒼と繁るハンノキ、ハコヤナギ
またかんばしき糸杉も、同じく共にはえしげる。
長きつばさの鳥たちは、そこにねぐらを営めり。65
すなわちタカとフクロウと、その舌長き海カラス、
大わだつみの波の上、技にいそしむ海の鳥。
またうつろなる洞窟を、めぐりてここに葡萄づる 
盛んにしげり、伸びゆきてその累々の房を垂る。
四つの泉は相並び、互いに隣り、こんこんと 70
清き真水を吐き出し、異なる向きに流れしむ。
またあたりにはスミレ草、またはセロリの柔らかき 5-72
平野は青み、神明もここに来らば眺め見て、
目を驚かし、しかもまた心に歓喜生ずべし。
使いアルゲイポンテース、今ここに立ち驚けり。75
この光景を眺め見て、心に驚異充てるのち、
直ちに彼は洞窟の広き中へと入り来る。
艶なる仙女カリュプソー、面して彼を認め知る。
遠く離れて住めるとも、不死常在の神々は、
互いに共に彼と此、知らざることは絶えてなし。80
ただ英豪のオデュセウス、中に見られず。彼はいま
海の岸のへひとり座し、例のごとくにさめざめと
涙を流し、慟哭と悲嘆に心張り裂けて、
渺々としてはてしなき海を眺めて悲しめり[2]。5-84
艶なる仙女カリュプソー、燦爛(さんらん)として輝ける 85
椅子に珍客座らしめ、ヘルメイアスに問いて言う、
『愛(は)しき、尊きヘルメーア!黄金の杖携えて、
今訪い来る何ゆえぞ?前は光臨稀なりき。
望むところをうち明けよ。成すべしとわが心言う、 
望むところをよくし得ば、しかも成すべき事ならば。90
いざ近寄りてわが手より、君、歓待を受け入れよ』[3] 5-91

[1]「アルゴスを倒せし者」。
[2]158行と同じ。
[3]91行は良き版に省かる。

しかく宣してアンブロシア満たせる卓を、珍客の
前に据えつつ、くれないの神酒に水を相まじう。
使いアルゲイポンテース、勧めのままに飲食を 
とりて、程なく飲食に心を飽かしおわるのち、95
仙女に向かい、つばさある飛揚の言を陳じ言う、

『仙女よ、君は我が来たる故をたずねぬ。真実を
君に委細に陳ずべし。君いま命じたればなり。
ゼウスはここに来たるべく、好まぬ我に令くだす。
誰か好みて渺々のはてなき潮わたるべき?5-100
神に対して百牛の牲をかしこみたてまつる、
その人間の生める都市、ここに一つもあらざるを。
さはれアイギス持てる神ゼウスの意思を他の神は、
侮ることを得べからず。むなしくするを得べからず。
ゼウスは宣す。九年間、トロイア城を攻め囲み、105
第十年にそを破り、国に帰れる人々の
中に、もっとも不幸なるひとり、汝の宿にあり。
彼ら帰郷の道にしてアテーネーを怒らしめ、
ために女神は暴風と激浪起し悩ませり。
他のすぐれたる部下たちは皆ことごとくほろべども、110
かのいちにんを風浪は運びてここに到らしむ。
彼を至急に帰すべく、神は汝に命下す。
友を離れてこの島に死するは彼の運ならず。
さはあらずして、親しきに再び会いて広壮の 
館と郷とに帰るべく、宿命彼に定まれり。』115

しか陳ずれば、カリュプソー、艶なる仙女わななきて、
彼に向かいてつばさある飛揚の言句陳じ言う、
『非道なるかな、ああ諸神!嫉妬何とてかく強き!
女神のたれか、人間とむつみかたらい、恩愛の
契り結べばたちまちにとがめ怒るぞあさましき。120
薔薇の色の指もてる明けの女神がオーリオーン
愛ずれば、やがて安楽に生くる諸神は相妬み、
黄金の座のアルテミス、無垢の女神は、愛人を
オルテュギアーに穏やかの矢をはなちつつ射倒しぬ[1]。5-124
デーメーテール鬢毛の美なる女神がイアシオーン 125
恋して、情にうち負けて、三度鋤かれし畑の上、
やさしく契りこめし時、これを悟りてクロニオーン、
銀色光る霹靂(へきれき)を飛ばして夫を射殺しぬ。
われ人間にむつめるを、ああ神々は妬むとや!
暗紅色の海の上、銀色光るへきれきを 130
飛ばしてゼウス速き船くだけば、ひとり竜骨の
上にまたがる彼の身を、われこそ救い得させたれ。
他のすぐれたる部下たちは皆ことごとくほろべども、
かのいちにんを風浪は運びてここに到らしむ。
我は優しく彼を愛で、彼を養い、さらにまた、135
老いを知らざる不死の身に彼をなさんと説きたりき。
さはれアイギス持てる神ゼウスの意思を他の神は、
侮ることを得べからず、むなしくするを得べからず。
これをゼウスの促して命じしならば、渺々の
海のりこして彼は去れ。さもあれ我は送り得ず。140
櫂を備うる船はなし、大海原の波の上、
彼を導きすすむべき水夫はたまたここになし。
さもあれ彼の安らかに祖先の郷に帰るため、
われ喜びて助言せん、また何事も隠すまじ』

[1]この文句は一般に(3-28のごとく)苦痛なき死を言う…。

使いアルゲイポンテース、そのとき答えて彼に言う、145
『ゼウスの怒り戒めて、かくして彼を去らしめよ。
後に汝にいきどおり罰することのなきがため』

強きアルゲイポンテース、しかく宣して別れ去る。
ゼウスの命を聞ける後、いみじき仙女カリュプソー、
足をすすめて英豪のオデュッセウスを尋ね行き、5-150
岸のへ座せる彼を見る。涙にくれて彼の目は
絶えて乾かず。郷思う悲痛のあまり、一命は
今やほとんどほろびんず。仙女をすでに好まねば。
されど夜には、うつろなる洞窟中に慕いよる
仙女のそばに、やむなくも好まぬながら添い寝して、155
昼にはつねに、岸の上また岩の上、座をしめて、
うめき嘆きて、涕涙に無残に心くだきつつ、
渺々としてはてしなき海を眺めて悲しめり。5-158

そのかたわらに近寄りて、艶なる仙女陳じ言う、
『もはやこの地に、悪運の君よ、悲しみ一命を 160
そこなうなかれ。心より我いま君を去らしめむ。
いざ大木を青銅の斧に倒して、幅広き
いかだを作り、その上に板を張れかし。朦朧と
曇る海のへ、ふるさとにいかだは君を運ぶべし。
我はその中パンと水、またくれないの芳醇を、165
心を満たすものを入れ、君の飢渇をふせぐべし。
さらに衣服をまとわしめ、また順風を吹き送り、
君の故郷に安らかに帰り着くこと得せしめむ。
広き大空司り、われにまさりてもくろみて、
もの成し遂ぐる諸神霊、しかなすことを嘉みしかば』170

しか陳ずればオデュセウス、忍従強き英雄は、
身をわななかし、つばさある言句をのべて答え言う、
『女神よ、何を目論める。われを放つ気あらざらむ。
大わだつみの恐るべき難き淵のへ一片の
いかだにのりて行けと言う。速き船すらその上を、175
ゼウスの風に恵まれて、乗り切ることは難からむ。
我は汝の意にそむき、いかだにこの身託すまじ。
我に対して新たなる危害もくろむこと無しと、
ゆゆしき強き誓言を、汝たつるを欲せずば』

その言ききてカリュプソー、艶なる仙女ほほえみて、180
その手を伸して撫でつつも、答えて彼に陳じ言う、
『君はまことに癖物ぞ。容易ならざる事を知り、
かかる言句を陳ずべく、心の中に計らえり。
君に対して新たなる危害もくろむことなきを、
大地と高き大空と——またもろもろの神にとり、185
すべての中におおいなる、また恐るべき誓いたる——
深く流るるステュクス[1]よ、みな照覧をなせよかし。5-187
同じくかかる要あらば我自らに致すべき
考慮と助言、今君に我は親しく陳ずべし。
我の思案は正しかり。我が胸中の魂は、190
憐憫深きものにして、鉄にて作るものならず』

[1]冥土の河、これにかけていう誓いもっとも恐るべし。

しかく宣してすみやかに艶なる仙女カリュプソー、
まさきに立ちて導けば、その跡つきて彼は行く。
やがてうつろの洞窟に、神と人とは来りつき、
ヘルメイアスが立ち去りし椅子のへ彼は座を占めぬ。195
しかして仙女その前にあらゆる品を——人間の
口になすべき飲食を並べ備えて自らは、
親しく神に髣髴のオデュッセウスの前に座す。
アンブロシアとネクタール侍女はかたえに並び据う。
両者はかくてそなわれる調理の品に手を伸して、5-200
やがて程なく飲食に口腹おのおの満てる時、
艶なる仙女カリュプソーまず口開き陳じ言う、

『ラーエルティアデー[1]、神の種、知謀に富めるオデュセウ[2]よ、5-203
かくすみやかにあこがるる祖先の郷に、君は今
帰り行かんと欲するや?楽しき旅よ、君にあれ。205
さはれ祖先のなつかしき故郷に帰り着かん前、
不幸の運に会うべきを、君もし胸に悟り得ば、
我がかたわらにとどまりて、この洞窟の主となり、
不死の身たるを願うべし。君が日に日にあこがるる
恩愛の妻見ることを、よしいかばかり願うとも。210
風姿容貌彼女よりわれは劣ると思い得ず。
やがて死ぬべき人間の女性、いかでか神々に、
その容貌と風姿とを競い争うことを得む!』

[1][2]共に呼格、前者は「ラーエルテースの子」のそれ。

知謀豊かのオデュセウス答えて彼女に陳じ言う、
『尊き女神わが言をとがむるなかれ。われは知る。215
ペーネロペイア、聡明の妻は人の目見るところ、
風姿容貌、君よりは劣るを我は深く知る。
彼女は死すべき人なるに、君は不死なり不老なり。
しかはあれども、あこがれの祖国の郷に帰るべき、
その喜びの日を見るを、我ねんごろにこいねがう。220
よし、とある神、暗紅の海のもなかに我がいかだ、
破らば破れ、胸中にわれ忍従の心あり。
潮の上に戦場にわれは多くを忍び来ぬ。
多くをすでにつとめ来ぬ。新たの苦難来るもよし』

しかく陳ずる程もなく、夕陽(ゆうよう)入りて闇来る。225
両者すなわち洞窟の奥の深きにすすみ入り、
互いに添いて愛欲の歓喜に耽る、夜もすがら。

薔薇の色の指もてる明けの女神の現れに、
オデュッセウスは迅速に上下の衣服身にまとう。
仙女は美なる銀色の長き透過の薄き衣、5-230
まといて腰のめぐりには、黄金製のうるわしき
宝帯(ほうたい)結び、顔ぎぬのいみじき物を着けつつも、
ラーエルテースの勇ましき子の門出でを計らえり。
すなわち彼に手頃なる青銅製のおおいなる、
両刃鋭き斧与う。しかして斧はオリーブの 235
木にて作りし華麗なる柄を緊密に備えたり。
よく磨かれしちょうなまた続きて彼に与えたる
仙女は彼を導きて、島の端へと足すすむ。
そこにハンノキ、ハコヤナギ、天までとどく松柏(しょうはく)の
巨木乾きてさらされて、切りなば水に浮ぶべし。240
巨木むら立つこの場所を示し終わりてカリュプソー
艶なる仙女、その足をかえして洞に帰り去る。
木を切り倒すオデュセウス、技迅速にすすみゆき、
二十の巨木倒るるを、青銅をもて断ち割りて、
巧みにこれを磨き上げ、準縄(じゅんじょう)あてて直くしぬ。245
艶なる仙女カリュプソー、またもたらせる錐(きり)とりて、
彼はすべての木材に、穴を穿ちて彼と此、
互いに組ませ、かすがいと釘と用いてさしかたむ。
術にくわしき船大工、荷を積む船の胴体を
程よく広き幅にして、作り上ぐるを見るごとし。5-250
さほどの幅にオデュセウス、そのいかだ船作り上ぐ。
しかして彼は甲板を設け、多くの肋骨を
これにとりつけ、上縁(うわべり)の長きを付して成し遂げぬ。
次に作るは一条の帆柱——これに帆桁そえ、
さらにいかだの方向を導くかじを作りあぐ。255
しかして波をふせぐため柳の小枝、全体に
わたりてまとい、船中に多くの材を積みのせぬ[1]。5-257
艶なる仙女カリュプソー、今また布をもたらして、
帆を作らしむ。これもまた彼は巧みに成し終わり、
帆綱、桁綱、帆足綱 みないっせいに整えて、260
ついに梃子(てこ)もて清浄の潮にいかだ浮ばしむ。
四日すぐれば一切のわざことごとく成り終わる。
次の日美なるカリュプソー彼に薫ずる衣着せ、
沐浴(もくよく)せしめ、住み慣れし島より彼を送る時、
暗紅色の葡萄酒を、革の袋に満たしめて、265
他の大なる袋には清水みたして、さらにまた
ほかの袋に食物と豊かの美味を満たしめて、
かくて呼吸の暖かきそよ風徐々に吹き送る。
その風受けてオデュセウス、欣然として帆を張りて、
席に座しつつ巧妙にかじを使いて、夜となれば、270
天の星々仰ぎ見て、ねむりまぶたにおとずれず。
プレイアデース、彼れにあり。遅く没するボオーテスも。
また別名を人呼びて車輪といえる北の星、
ひとつ所をめぐりゆき、オーリオーンの座と対し、
オーケスノスの潮流にひとり沈まぬ大熊座。275
この星つねに左手に見つつ波浪を渡るべく、
艶なる仙女カリュプソー、彼に教えを施しぬ。
日数十七すぐるまま、潮を分くるオデュセウス。
第十八の日となりて、パイアーケスの郷の山、5-279
朦朧として程近くその眼前に現れぬ。280
霧たちこむる波の彼方(おち)、山の姿は盾に似る。

[1]「重みを付くるため」と解するものあり、「臥所として」と解するもあり。

アイティオピアを辞し帰る大地ゆるがすポセイドーン。5-282
ソリュミ[2]の山の遠きより、今波わたるオデュセウス、
眺め認めて憤然と、心おおいにいきどおり、
すなわち頭うち振りておのが心に陳じ言う、285

[1]1-23。
[2]小アジア南西部のリュキアあたりの部族
『奇怪なるかな、神々はオデュッセウスの身につきて、
思慮を変えたり。われ遠くアイティオピアを訪える間に。
パイアーケスの地に近き彼は、そこにて災難の
強き絆を、運命によりてやがてはほどき得む。
さはれ見よ、彼飽きるほど我は艱難与えんず』5-290

しかく宣して三叉矛とりて海神ポセイドーン、
黒雲集め、海みだし、四方の風をことごとく
荒立たしめて、海陸を、共にひとしくものすごき 5-293
雲に覆えり。暗黒の夜は天よりくだり来る。
エウロス[1]、ノトス[2]、また共にあらき呼吸のゼピュロスと、295
天に生まれて激浪を起すボレアス[3]、いっせいに
襲い来れば、オデュセウス膝も心もわななきて、
さすがに強き英豪も胸をみだして嘆じ言う、

[1]東風[2]南風[3]北風

『ああわれまことに不幸なり。最後に来るは何者ぞ?
祖先の郷に着かん前、難儀はげしく海上に 5-300
被るべしと宣したる仙女の言の正しきを、
我今おそる。見よこれら皆ことごとく成らんとす。
かかるむら雲集め来て、ゼウスは広き大空を
覆いてさらに大海を乱す。しかして一切の
はげしき嵐襲い来る。われの死滅は確かなり。305
アトレイデース喜ばせ、広きトロイア平原に、
死せるアカイア諸将等の、幸ははるかに我を越す。
ペーレイデース[1]死せるそば、我にトロイア軍勢が、
青銅の槍投げし時、そのときわれは一身を
棄てて死滅の運命に付随し行かばよかりしを。310
さらば葬儀を営みて友はわが名を挙げつらむ。
無念や。今や運命はわれに悲惨の死を与う』

[1]ペーレウスの子すなわちアキレウス

しかく陳ずる彼の上、大波高く、もの凄く、
襲い来りて、いかだ船はげしく回り転ぜしむ。
いかだ離れて水中に落ちたる彼の手にとりし 315
かじはいずこぞ?帆柱は乱れて狂う咆哮の
嵐に打たれ、真中より二つに折れて倒るれば、
帆布(ほぬの)帆桁はもろともに、遠き沖へと流れ行く。
しかして彼は水の下、長くも深く沈められ、
襲い寄せくる大潮を、はやく逃れて浮び得ず。320
さきに女神の恵みたる衣服は水に便ならず。
程へてついに浮び出で、口よりからき水を吐く。
そのからき水、頭より滝のごとくに流れ落つ。
無残にかくも苦しめど、彼はいかだを忘れ得ず。
潮の中に飛び込みて、追いて取り得つ。その中に 325
再び座して恐るべき死の運命を避けんとす。
流れに添いて大潮は、あなたこなたにそのいかだ、
追いてあたかも秋深く、北風吹きて平原に 328
アザミの房を駆るごとし。房は互いにからみ合う。
かくのごとくに海上に、風はいかだを運び行く。330
南吹く風投げ去りて、北吹く風に運ばしめ、
東吹く風引きわたし、西吹く風に駆らしめて。
そのとき彼を認めたるレウコテアーは、カドモスの
息女くるぶし美しきイーノウ、元は言語ある
人の子、今は海のなか神の光栄分かつ者。335
漂いめぐり艱難を受くる勇将を憐れみて
飛翔のかもめ見るごとく、波浪をわけて上り来て、
多く綱あるいかだのへ座して言句を陳じ言う、

『不幸の者よ、いかなれば大地ゆるがすポセイドーン、
かくも激しくいきどおり汝に苦難の種まくや?340
されども彼は意に任せ、汝を殺すことなけむ。
汝おそらく知慮欠かず。さればわが言うままになせ。
衣服ぬぎ去れ、いかだをばすさぶ嵐に任せ去れ。
手もて泳ぎて陸上に、パイアーケスの郷のへに、
着くをつとめよ。運命はそこを汝の救いとす。345
受けよ、これこの神聖のベール、しかして胸の下
付けよ、しからば艱難と死滅の恐れあらざらむ。
されども汝陸に手を触るるそのとき、このベール
解きてはなちて葡萄酒の色なす波に投げすてよ。
陸よりすてよ。しこうして汝は陸に上り行け』5-350

しかく陳じて神聖のベールを女神かれに付し、
潮さかまく大海にさながらカモメ見るごとく、
潜り沈めば、暗緑の波浪は彼の影隠す。
忍耐強きオデュセウス、そのとき思いめぐらして、
大息しつつ勇猛のおのが心の中に言う、355

『ああ無残なり、このいかだ乗り捨つべしと命ずるや?
おそらく、とある神明は策たくらむにあらざるや?
否々我は従わず。避難はそこにありと言う
陸はわが目の見るところ、遠くかなたに隔れり。
よしよし我は行わむ、わが最善と思うこと。360
組み合わされて木材の離れ去ることなき限り、
いかだの上にとどまりて、苦難を受けて忍ぶべし。
されど大波襲い来ていかだを破りくじく時、
そのときこそは泳ぐべし。他に妙案は思い得ず』

かく胸中に念頭に思いめぐらす折りもあれ、365
大地ゆるがすポセイドーン、轟々としてもの凄く、
逆巻きかかる大波を起して彼を襲い打つ。
風すさまじく吹き荒れて、乾ける殻の堆積[1]を 5-368
襲いて四角八面に紛々として散らすごと、
波浪は長き船材を散らす。その中一材に 370
さながら馬を御するごと、身をうち乗ずるオデュセウス、
カリュプソーより恵まれし衣服をついに脱ぎすてて、
女神賜える神聖のベールを、すぐに胸の下
まとい、両手をさしのべて泳がんために海中に
真逆様に躍り込む。こを眺めたるポセイドーン、375
頭ゆるがし、自らの心の中に陳じ言う、

[1]前の328(比喩)。

『かくもあまたの災難を受けて波浪のただ中に
さまよえ汝!クロニオーン養う民にまじるまで。
これまでとても艱難を不足と汝思うまじ』
しかく宣してたてがみの美なる駿馬を走らして、380
その壮麗の宮殿のあるアイガイ[1]に到り着く。5-381

[1]アカイアの都市。隣れるヘリケーと共に海神を祭る。エウボイアの岸という説もあり(『イーリアス』8-203)。

今やゼウスの息女なるアテーネーは新たなる 5-382
策を案じてもろもろの風の呼吸を抑えとめ、
鳴りを静めて眠らしめ、しかしてひとり迅速の
北吹く風を呼びおこし、ゼウスの裔のオデュセウス、385
死と運命をまぬがれて櫂の友なる民の群、
パイアーケスにまじるまで、行く手の波をくだかしむ[1]。5-387
二日と二夜高まれる潮の中にただよいて、
彼はしばしばものすごき死の暗影の寄るを見ぬ。
髪うるわしき曙の女神つぎの日出でし時、390
風はまったく吹きやみて空は穏和に立ち返る。5-391
そのとき彼は大浪の背に乗りながら、あこがれの
鋭きまみに程ちかく陸地のかげを認めえぬ。
憎める神に悩まされ、長く病の床に伏し、
激しき苦痛身に受けて弱り果てたるとある父、395
そを慶福の神々が救い苦難を払う時、
彼の寿命の全きを子らはいたくも喜ばむ。
陸と森とをオデュセウス眺めてかくも喜びて、
両足使い、陸上に登らんとして泳ぎ行く。
されど岸への隔たりが呼べば聞ゆる程となり、5-400
鞺々(とうとう)として大波の岸うつ音を聞ける時——
乾ける陸にうち寄するすごき大浪轟々と、
くだけて咆えて銀浪の泡はすべてを覆い去り、
船を寄すべき港また波止場一つもあらずして、
ただ突き出づる海岸と岩と暗礁あるばかり——405
かくと眺めてオデュセウス、膝わななかし、勇猛の
心くじけて大息し、嘆じてひとり陳じ言う、

[1]不明、波を鎮むの意か?

『無残なるかなクロニオーン、思いもかけずこの陸地
見るを許して、われかくて入江を渡り終わる時、
この銀浪を逃るべき港は絶えて目に触れず。410
岩壁かれにそそり立つ。これを囲みて咆哮の
潮はあらびそびえたつ。岩石すべて滑らかに、
海水深し。いずこにもわが両足をとどめ得て、
難儀を逃れ出ずるべき地点を見るを得べからず。
おそらく陸にあがらんと欲する我を、大波は 415
捕えて岩にうちつけむ。われの努力は空ならむ。
されどなだらに傾ける海岸あるいは港口、
探らんために激浪を切りて泳ぎを続けなば、
恐るるところ暴風は、さらに新たに鱗族の
群るる海上、嘆息のはげしき我を駆り去らむ。420
あるいは、とある神霊が、アムピトリテー[1]養える 5-421
群の中より妖鯨を我に向かいて駆り出さむ。
大地をゆするポセイドーン、かくまでわれに怒るかな』

[1]女神、海中の生物を司る。3-90、12-60。

かくのごとくに胸中に思いわずらう折りもあれ、
そのとき荒き岸めがけ、大波彼を運びゆく。425
藍光の目のアテーネー、彼に知恵貸すことなくば、
必ず彼は皮膚はがれ、くだけ去りけん彼の骨。
彼はとっさに両手もて巌をつかみ、大波の
過ぎ去る間呻吟の声をはなちてすがりつく。
かくして彼は災いを逃れぬ。されど帰る波、430
またも進みて彼を打ち、沖にはるかにはこび去る。
あたかもイカをその巣より捕えて引きて出だす時、
その吸盤に数多く小石の付着するごとく、
まさしくかくも剛健の彼の手よりし剥がれたる、
皮膚のきれぎれ岩に付き、大波かれを覆い去る。435
そのとき、明眸アテーネー、彼に英知を与えずば、
不幸重なるオデュセウス、命つたなくも逝きつらむ。
波の下から頭出し、陸をめがけて押し寄する
大波避けて、引き込める海岸あるいは港口、
見だす希望をいだきつつ陸眺めつつ泳ぎ行く。440
かくて泳ぎて溶々(ようよう)と清く流るる川口に、
つけるそのとき、無上なる好き場所彼の目に映る。
そこには岩は滑らかに、またよく風を防ぐべし。
流るる川を認め得て彼は念じて祈り言う、

『いかなる神におわすとも、ポセイドーンの脅迫を 445
波の中から逃れ来しわれの祈りをきこし召せ。
漂浪のはて嘆願の身を寄す人は、不滅なる
神の目にさえ尊とかり。われも今また同様に、
汝の流れと膝下に苦難のはてにたどり来ぬ。
憐れみたまえ、我まさに嘆願者として身を寄せぬ』5-450

しか陳ずれば、川の神すぐに流れの波をとめ、
彼の行手を静穏になしつつ、彼を安らかに
河口の岸に救い上ぐ。魂は波浪にくだかれて、
彼は両膝緩めつつ、強き両手を垂れしめぬ。
肢体はすべて腫れ上り、口と鼻より海水は 455
激しく流れ、呼吸なく音声絶ちて昏々と、
激しき疲労襲い来て、彼は死せるがごとく伏す。
されど呼吸を吹き返し胸に正気のめぐる時、
立ちてその身にまといたる女神のベール解き放し、
大海さして走りゆく流れにこれを投ずれば、460
流れ流るる大水は運び返しぬ。すみやかに
女神はこれを手に取りぬ。川より帰るオデュセウス、
蘆荻(ろてき)の中に横たわり、穀(こく)を与うる地を抱き、
大息しつつ勇猛の心の中に陳じ言う、

『ああ我ながら憐れなり。最後はいかになりゆかむ?465
もしも川辺に身をおきて、不安の一夜過しなば、
氷霜白露もろともにわれの肢体を悩まして、
しかも寒風朝早く、河より我を襲い来て、
そのはて弱り疲れたるわれ一命を失わむ。
されど我もし陰暗き森と丘とにのぼりゆき、470
繁き緑の叢林の中に眠らば、我の身に
甘眠来り、寒気から逃れ疲労を癒やすとも、
恐るるところ、猛獣の餌食獲物となりやせむ』

思いわずらう彼は今さらによき道思案して、
森にすすみて、この森を流れに近く四方より 475
見らるる高き地と知りて、同じ場所より生え出でし、
エライエースとピュリエース[1]、二つ薮の下に入る。5-477
湿気を帯べる寒風の力はここに進み来ず。
また輝ける日輪の光もここに通じ来ず。
降雨もここに漏れて来ず。さばかり厚く叢林の 480
枝と枝とは絡み合う。その繁るしたオデュセウス
はい入り、すぐに手を広げ、即座に広き床作る。
見よ落葉は、うずたかく積み重なりてそこにあり。
寒気あくまで強くとも、冬の季節にその下に、
二人あるいは三人を覆うに足りてあまりあり。485
忍耐強きオデュセウス、これを眺めて喜びて、
そのただ中に埋まりて、身に落葉を山と積む。
あたり近くに隣る人、絶えてあらざる野辺の末、
あしたに至り他より火の種を借ることなきがため、
燃えがら黒き灰のした火の一片を留めるごと、490
かく落葉にオデュセウスその身をおおう。アテーネー
そのとき彼の目の上に眠りを注ぐ。すみやかに
疲れしまぶたおおい去り、彼の疲労をいやすため。

[1]果のオリーブと野生オリーブ。


オヂュッセーア:第六巻


パイアーケス族の王者の息女ナウシカーの夢に現わるる女神アテーネー、命じて川に衣服を洗わしむ(1~47)。姫は父の許しを乞うて出て行く(48~70)。従者をつれて川に行き洗浄を終え遊戯す(71~109)。少女らの叫びオデュッセウスを目ざます。彼のためらい。彼の決心(110~136)。少女ら彼の出現に驚きて逃げ去り、姫ひとり残りて彼の哀訴を聞く(137~185)。両者の問答。姫は彼に衣食を与う(186~250)。車に付随して都城に来らしむ。されども城外に残りて世間の口の端にかかることなからしむ。また彼をして王宮を訪い女王の哀憐を起す方法を講ぜしむ(251~315)。勇士は進んで都城付近のアテーネーの聖林に到り女神の助けを祈る(316~331)。

かくしてそこにすぐれたる忍耐強きオデュセウス、
睡魔疲労にうち負けて伏せり。こなたにアテーネー、
パイアーケスの国民とその都城とをさして行く。
これらの民のその昔住みしは広きヒュペレイア。
驕慢にして暴力ははるかにまさり、略奪を 6-5
彼らにつねに施せるキュクローペスに隣りしき。
そこから神に似たる王ナウシトオスは導きて、
麦を食らう人類の境を遠くスケリエー、
ここに移して城壁に都市を囲ませ、家を建て、
神殿築き、耕作の地を人々に相分かつ。6-10
命数つきて彼すでに冥王の府に去り行けば、
神に英知を恵まれるアルキノオスが今は王。
ラーエルテスの生める子の帰郷の策を案じつつ、
藍光の目のアテーネー女神今その館を訪う。
かくして女神壮麗の一つの部屋を訪い来る。15
そこに風姿は神に似る一人の乙女ねむり伏す。
名はナウシカー、英邁のアルキノオスの生める者。
美をカリテース恵みたる二人の侍女は付き添いぬ、
華麗の扉閉ざされて、その戸柱の右左。

風の呼吸のごとくして女神は姫の床のもと、20
急ぎ来りて枕頭に立ちて彼女に陳じ言う。
船に名高きデュマースの息女は姫と同じ年。
姫と親しくむつむ者。その相貌に身をにせて、
藍光の目のアテーネー、姫に向かいて陳じ言う、
『ああナウシカー、母君はなどて懈怠(けだい)の君生みし?25
君の華美なる衣服みなうち棄られてここにあり。
君の婚期は今近し。されば自らうるわしく
装いなすべく、侍女らにも同じく奇麗を備うべし。
かかる事より名声は広く世間に広まらむ。
しからば父も貞淑の母も等しく喜ばむ。6-30
曙光あしたに出づる時、君洗浄の場所に行け。
助けとなりてもろ共に我も行くべし、迅速に
君が備えを終えるため——乙女の時期は長からず。
パイアーケスの上流者、君を望めり。今まさに、
尊き素性はこの郷に同じく君に備われり。 35
明くるあしたにすみやかに父に乞うべし。君のため
ラバと車を備うるを、中に収めてもろもろの
衣帯ならびにうるわしき衣服打ち掛け運ぶべし。
乗車は君に徒歩よりも便宜なるべし。洗浄の
場所はわれらの都城より離れて遠し、さあらずや?』40
しかく宣して藍光の目のアテーネー立ちさりて、
ウーリュンポスに帰り行く。そこに人いう神明の
つねに揺るがぬ宮立てり。これを震わす風あらず。
これをうるおす雨あらず。ここに近づく冬あらず。
雲はあとなく晴朗に、白光空にみち敷けり。45
ここに日に日に慶福の諸神は長く楽しめり。
少女に諭しおえる後アテーネーはそこに行く。

華麗の王座備えたる明けの女神は現われて、
ベールの美なるナウシカー覚ませば、夢に驚ける
姫は宮中さしてゆき、その恩愛の父母に、6-50
委細を報じ告げんとし、そこに二人のあるを見る。
かしずく女性もろともに母は炉辺に近く座し、
暗紅色の糸紡ぐ。パイアーケスの貴族らに
呼ばれて、父は今まさに、その評定の席さして、
館を出でんとしつるおり、愛女来りて彼に会う。55
すなわち近くそばにたち、父に向かいて陳じ言う、
『いとしき父よ、願わくは堅固の輪のある一両の
車を与えたまわずや。華麗の衣服数々は、
汚れしままに重なれば、流れに行きて洗わんず。
君自らも上流にまじり評議にあずかれば、60
身に清浄の衣々(きぬぎぬ)をまとわんことぞふさわしき。
また館中にめで思う五人の子息君にあり。
二人はすでに婚すれど残りは良縁まだあらず。
舞踏の場に行かんとき、彼らは清く洗われし
衣服をまとうを喜ばむ。これらの事をわれ念ず』 65

しか陳ずれど花やかの婚儀につきて恩愛の
父に話すを憚りぬ。父は推して答え言う、
『愛児よ、ラバも他の物も我は汝に拒むまじ。
汝のために家僕らは堅固の輪ある一両の
車そなえむ。高くして上に覆いを付くるもの』70

しかく宣して家僕らに命ず。彼らは命を聞く。
彼らすなわち外に出で、堅固の輪ある一両を——
ラバの引くもの整えて柔和のけものしたに据う。
姫は部屋より燦爛の衣携え出で来り、
しかしてこれを磨かれし車両の中に収め入る。 75
そのとき慈母は箱の中、心をこめしさまざまの
甘美の料理収め入れ、ヤギの皮もて作りたる
袋に酒を注ぎ入る。やがて車上に姫は乗る。
さらに黄金の瓶の中、慈母はオリーブの油入れ、
姫と侍女とに沐浴の後に肌にまみらしむ。80
かくして姫は輝ける手綱と鞭を手に取りて、
ラバにあてつつすすましむ。蹄(ひづめ)の音は戞々(かつかつ)と、
勢い強くラバ駆けて姫と衣装を運び行く。
姫もろともに若干の侍女は同じく乗りすすむ。

しかしてやがてうるわしき川の流れに来りつく、 85
ここに年中洗浄の場所あり、水はこんこんと
たたえ、いかなる汚染をも洗い浄めてあまりあり。
ここに皆は車より二頭のラバを解きはなし、
甘美の草を食ますべく流れ渦巻く川に沿い、
駆りたて行きて、自らは手もて衣服を車中より、 90
取りて流れに持ち来り、ただちにこれを洗浄の
場所に投じて踏みにじり、互いに競いつとめ合い、
あらゆる汚染みな洗い、清め終わりて一列に、
衣服を浜の岸の上広ぐ。そこには陸めがけ、
とうとうとして寄せ来る波浪、水際の石洗う。95
しかしてやがて清流に浴し、香油を肌にぬり、
つづきて川の縁の上、座して食事を整えて、
赫々(かっかく)照らす日によりて衣服の乾き干(ひ)るを待つ。
姫も侍女らもいっせいにその口腹の飽ける時、
頭上のベール脱ぎ捨てて球の遊戯にとりかかり、6-100
玉腕白きナウシカー歌を唱えて先に立つ。

弓矢を好むアルテミス、ターイゲトスの高き峰 6-102
エリュマントスの山の上、さっそうとして馳せめぐり、
猪(しし)を、足とき鹿を追い楽しむ時に、その侍女ら、
アイギス持てるクロニオン生める仙女は林間に 105
ありて、もろとも楽しめば、神母レートーまた嘉みす。
そのとき女神、艶美なる侍女一切にそのかしら、
その顔ゆうに抜き出でて目だつ——正しくそのごとく、
未婚の姫は昂然(こうぜん)と侍女らの中に輝けり。

やがて車にラバを付け、華麗の衣服おしたたみ、110
家路をさしてまさに今姫が立たんとしつる時、
藍光の目のアテーネー、さらに一つの策案ず。
オデュッセウスは目を覚まし、パイアーケスの城中に
彼を導く明眸の王女を眺め見るべしと。
かくして姫は一人の侍女をめざして球を投ぐ。115
球は狙いを誤りて、うずまく水の中に落つ。
これを眺めて高らかに侍女ら叫べばオデュセウス、
驚き覚めておき直り、ひとり心に陳じ言う。
『ああ、ああ何の人間の郷に我いま着きたるや?
彼らはむごく獰猛に心も正しからざるや?120
あるいは彼ら外人に優しく神を恐るるや?
若き女性の叫ぶ声、今わが耳を襲い打つ。
こは山々の高き嶺または川流わき出づる
源泉または緑なる平野に住める仙女らか?
あるいは我は言語ある人の住居に近づくや?125
いざ身を起し試みにわが目親しく探り見ん』

しかく陳じてオデュセウス、その剛強の手を伸して、
木より繁れる葉の枝を、折りて裸の肉身の
恥ずべきほとり覆いつつ、静かに薮を立ち出でて、
勇を頼めるライオンのごとくに足をすすめ行く。130
その獣王は雨風に打たれてまなこ爛々(らんらん)と、
燃えて、あるいは牛の群、羊の群に、時にまた
野生の鹿に向かい行く。飢餓は迫りて彼をして、
堅固の檻(おり)の中にすら餌食求めてすすましむ。
まさしくかくもオデュセウス赤裸の姿顧みず、135
要に迫られ鬢毛の美なる女性の中に入る。
その塩水に汚れたる姿に恐れ驚ける
侍女ら走りて、突き出づる岸の砂場に逃れ去る。
アルキノオスの王女のみ一人とどまる。アテーネー
その胸中に勇を鼓し、恐怖を身より払いのく。 140
王女かくしてまのあたり立てり。そのときオデュセウス
思う。美目の姫の膝抱きて哀訴なさんか?
都城を我に示すべく、我に衣服を与うべく、
離れて立ちて甘美なる言句用いて願わんか?
思案凝らせるオデュセウス、膝を抱かば憤激は 145
姫の心を満たすべし、離れて立ちて甘美なる
言句用いて願うこと、まさりて良しと定め得て、
ただちに彼は巧妙の言句を陳じ姫に言う、

『女神か人かいずれとも、姫に願いを聞え上ぐ。
広き大空しろし召す神のひとりに君まさば、丈と 6-150
姿と麗容と正しく、偉なるクロニオーン
生める尊きアルテミス女神と君をなぞらえん。6-152
さにあらずして地に住める人間中の一ならば、
君を生みたる父母は他より三倍幸ならむ。
同じく君の兄弟も、しか幸ならむ。舞の座に 155
若木に似たる麗人の入るを眺めて、君がため
歓喜あふれてその心つねに熱してやまざらむ。
されど豊かの財により、君を導きその家に
致さん者は、一切の他人をしのぎ幸ならむ。
男女いずれの間にもかかる麗容、われの目は 160
いまだ眺めず。茫然と今驚嘆の外あらず。
げにそのむかし、デーロスにアポッローンの祭壇の
近くに見たる棕櫚の木の若きは君に似たりけり。
多数の兵に伴われ、かしこに昔われ行けり。
その遠征に痛むべき苦難は我に伴いき。165
地上にかかるうるわしき木はいずこにも生じ得ず。
これを眺めて茫然と我の心は驚けり。
正しくかくもああ姫よ、君に驚く我は今、
御膝に触るるを忌み恐る。災難ここに我を駆る。
昨日ぞ我は二十日目に暗紅色の海さりぬ。170
オーギュギアーの島後に。げに昨日まで疾風に、
潮に吹かれ駆られし身、神にこの場に上げられし
我なおここに悩まんか?わが災難はいまだしも
終わるにあらず。神明はまだなお苦難をもたらさん。
ああ憐憫を垂れよ姫。多くの難儀を受けし後、175
我は真先きに君のもと来れり。他にはこの国を、
都市を領する人々の誰をも我は見ず知らず。
乞う姫、都市を案内せよ。またもしここに来る時 
携えつらば、まとうべき襤褸を我に恵めかし。
しかして神は胸中の君の望みを許せかし。 180
願わく、家を、良人を、さらにいみじく仲良きを
神恵めかし。仲良きに妻と夫と相睦み、
家を治むることよりもまさり尊き事あらず。
これは二人の仇敵にとりてはいたき苦悩なり、
友にとりては歓喜なり。彼ら自らこを知らむ』 185

玉腕白きナウシカーそのとき答えて彼に言う
『旅人、君は見るところ下賤にあらず、痴愚ならず。
その意に任せ各々に、悪しき者にも善き身にも、
その幸福をわけ与うウーリュンポスのクロニオーン、
君にこの命授けたり。君はすべてに耐えるべし。 190
我らの都市に領内に君今いたる。身にまとう
衣服を君は欠かざらむ。また不幸なる哀願の
人の受くべき他の品を同じく君は欠かざらむ。
君に都城を示すべし。この民族の名も告げむ。
パイアーケスの民族はこの地この都市領となす。195
アルキノオスは英邁の王者、わが身の父にして、
パイアーケスの権勢と力をおのが手に握る』

しかく陳じて鬢毛の美なる侍女らに叫び言う、
『とどまれ、侍女ら、人を見ていずこに汝逃げ去るや?
敵意抱きてここに来と汝ら彼を思えるや? 6-200
パイアーケスの領内に敵対すべく侵し入る
人間たえて世にあらず、先に生まるることあらず。
不死の神明わが民をつねに憐れみいつくしむ。
波浪乱るる海の中、人を離れて跡遠く、
住めるわれらに他の民はかつて交わることあらず。205
さはれこの人幸薄く漂浪のはてここに来ぬ。
そをいたわるはわがつとめ。貧しい旅客訪い来るは、
ゼウスよりこそ。彼らみなわずかな恵みも喜ばむ。
されば侍女らよ、客人にその口腹を満たしめよ。
風の吹かざる場所えらび、流るる水を浴びしめよ』210

しか陳ずれば少女らは立ち止まりつつ呼びあいて、
風なき場所にオデュセウス導き行きて英邁の
アルキノオスの生み出でし王女の命に従えり。
かくて侍女らはかたわらにそのまとうべき衣服置き、
またオリーブの香ばしき油を金の壷に入れ、215
与えて彼を清流の中にその水浴びしめぬ。
そのとき若き女性らにオデュッセウスは陳じ言う、

『侍女たち、離れ遠ざかれ。我は自ら水浴びて、
両の肩より塩水を洗い落として、芳香の
油をぬらむ。長らくも肌は油を欠きたりき。220
さはれ汝ら前にして流れを浴びじ。鬢毛の
美なる女性のまのあたり、赤裸になるぞおもはゆる』

しか陳ずればみな去りて姫に如上をものがたる。
かなたすぐれしオデュセウス、流れに浴し右左
広き肩よりまた背よりまみれし塩の水洗い、225
同じく彼の頭より海の塩あか払い去り、
かくて全身みな清め肌に香油をまみらしめ、
まだ夫なき若き子の与えし衣、身にまとう。
ゼウスの生めるアテーネー、そのとき彼を一層に
身の丈高く力ある姿たらしめ、頭より 230
ヒアキントスの花に似る巻毛を流れ下らしむ。
ヘーパイストスとアテーネー二神によりて一切の
技教えられ、巧妙に優美の品を作り成す
その名工が、黄金を白銀のうえ被するごと、
しかく女神は英雄の肩に頭に美を注ぐ。235
そのとき彼は立ちあがり、白波寄する岸に座し、
美に壮麗に輝けり。王女はこれを眺め見て、
鬢毛美なる少女等に向かいすなわち陳じ言う、

『侍女らよ、腕の真白なる汝ら我の言うを聞け。
パイアーケスの神聖の地にこの人の来れるは、240
ウーリュンポスに位するすべての神の旨による。
さきには彼はわれの目に美しからず見えたりき。
今はさながら天上に住める神明見るごとし。
ああかかる人ここに住み、我が良人と呼ばること、
我は願わし。この郷は彼の心にかなえかし。245
さはれ侍女らよ客人にその口腹を飽かしめよ』

しか陳ずるをうち聞ける侍女らは王女の命のまま、
オデュッセウスの身近くに飲食設け並ぶれば、
忍耐強きオデュセウス、勇士はこれを一心に
むさぼり取りぬ。長らくもその口腹は飢えたれば。6-250

玉腕白きナウシカーそのとき思いめぐらして、
衣服たたみて華麗なる車の中に収め入れ、
くびきを強きひづめあるロバに付けつつ乗車して、
オデュッセウスにうち向かい、はげましつつも陳じ言う、

『客人、いざや立ち上り都市に赴け。聡明の 255
父の館に導かん。思うにそこに上流の
パイアーケスの人々は君に親しく面すべし。
されど我が言うごとくなせ。君は思慮なき人ならじ。
野辺を耕地を一同にわれらの通り行くあいだ、
侍女らと共にすみやかに君は車輪のロバのあと、260
急ぎて足をはこべかし。われその道を案内せん。
高く城壁めぐらせる都市に程なくいたるべし。
都市の左右に良き港おのおの一つ。しこうして、
都市の入口いと狭し。その両端に反りのある 6-264
船上げられて道に沿う、船のおのおの置場あり。265
ポセイドーンの宮めぐり集会の庭そこにあり。
深く地中に埋められし巨石によりて固められ、
人々そこに黒船の船具すなわち帆と綱具、
調い直し、また櫂の先を削りていそしまむ。
パイアーケスはしかれども弓と矢筒を念とせず。270
思えるものは帆柱と櫂といみじき船とのみ。
彼らはこれに心こめ波浪さかまく海渡る。
ただしわれらの国の中、思い上れる人はあり。
後日彼らはわれ責めん。その口の端ぞ恐ろしき。
この道のへにわれに会う卑しき者はかくいわむ、275
「ナウシカーにつきて行く、かのうるわしく丈高き
人は何もの?いずこにか得られし?やがて夫たらむ。
近きに人は住まざれば、遠く隔たる民族の
さすらい人を船よりし王女いざない来りしか?
あるいはせつに祈られて、とある神明天上を 280
くだり来りて、とこしえに王女の夫となるものか?
王女自ら他の郷に求め夫を得るとせば、
まだましならん。この郷のパイアーケスの上流の
多くは彼女を求むれど王女はこれをあなどりぬ」
かくも人々陳ずべし。誹謗はわれに来るべし。285
その恩愛の父と母、まだ世にあるにその意思に
背き、婚儀の公けの日の来る前、異性らと
交わる女性ありとせば我なおこれをとがむべし。
さらば客人、君はよく我の言句を解すべし。
さらば父よりすみやかに移送帰郷の便を得ん。290
道の近くにアテーネー女神の美なる白楊の
森あり。泉そこにわき、周囲に原野ひろがれり。
かしこに父の領地あり。また豊かなる果園あり。
都市よりそこの隔りは呼べば聞ゆる程にして。
わが一行の都市に着き父の居館にいたるまで、295
君はしばらくそこに座し、時のいたるを待てよかし。
しかしてわれら王宮にはや到れりと思う頃、
パイアーケスの都市に君来りて王者アルキノオス、
わが英邁の父の宮いずこと人に尋ね見よ。
そを知ることは難からず。幼き童児なお君を 6-300
導き得べし。王者たるアルキノオスの住める宮、
造作、これに似る者はパイアーケスの中になし。
その宮さして外園を君はひそかに忍び行き、
ただちに広間通り過ぎ、わが母のもと急ぎ行け。
母は炉辺に近く座し、輝く火炎身を照らし 305
目を驚かす華麗なる真紅の糸を紡ぎつつ、6-306
侍女らを後に従えて、身は円柱によりぬべし。
そこに同じくわが父の椅子はおかれて、その上に[1]、6-308
あたかも神を見るごとく座しつつ彼は杯あげむ。
その父過ぎて両手もてわが母の膝かき抱き、310
君慇懃に母に請え。その郷いかに遠くとも、
いと迅速に喜びの帰還の便を得んがため。
君に対して胸中にわが母好意持つとせば、
君は親しきものに会い、しかして君の堅牢の
居館ならびに父祖の地に帰る望みは豊かなり』 315

[1]「炎のそばに(αὔγῃ)」というテクストあり。

しかく宣して輝ける鞭ふりあげてラバを打つ。
打たれてラバはすみやかに流るる川をあとにして、
足をすすめて迅速に平野に沿いてかけり行く。
徒歩の侍女らとオデュセウス、共に続くを得んがため、
王女は手綱かいとりて程よく鞭をうち当てぬ。320
やがて夕陽沈むときアテーネーの司る
いみじき森に共に着き、オデュッセウスはとまり座し、
直ちに偉なるクロニオーン生める女神に祈り言う、

『アイギスもてるゼウスの子、アトリュートーネー、聞こしめせ。
今こそ我に聞こしめせ。大地をゆするポセイドン(が) 325
まえにこの身を打てる時、君は祈願を聞かざりき。
パイアーケスの歓待と愛とを今ぞ得せしめよ』
その哀願をアテーネー・パルラス女神受け入れぬ。
されどもいまだまのあたり姿は見せず、父神の
弟恐れ憚りぬ。オデュッセウスが父祖の地に 330
帰らんまではポセイドーン激しく彼にいきどおる。


オヂュッセーア:第七巻


王女ナウシカー王城に帰る(1~13)。オデュッセウスまた王城に向かう。女神アテーネー少女に変装して彼を導く(14~38)。城中に入る時、アテーネーは国王・王妃につきて委細を告げ、終わりてその神殿に去る(39~82)。国王の宮殿および宮人の記述(83~112)。庭外の広き果樹園の記(113~132)。オデュッセウス宮中にすすみ、王妃の前にひざまずく(133~145)。彼の哀願——長老ならびに国王の歓待(146~184)。国王、民に告げ、彼の帰国の便宜を計らしむ(185~206)。彼の陳謝(207~225)。余人去る後王と王妃とは親しく勇士と談ず。カリュプソーを去りし後の物語(226~297)。国王との問答(298~334)。臥所に就く(335~347)。

忍耐強きオデュセウス勇将かくも祈る時、
かなた二頭の強きラバ、姫を都城に運びさる。
かくして父の光栄の宮に王女は到り着き、
ラバ門外にとどむれば、さながら神に彷彿の
兄弟ともにその回り、群がり立ちて車輪より、7-5
二頭のラバを解き離し、衣服を内に運び入る。
やがて王女は部屋に入る。そのときエウリュメドゥーサは、
王女のために火をたけり。老いたる侍女はその昔、
アペイラーより奪われて船にてここに来る後、
パイアーケスの王として神のごとくに仰がるる 7-10
アルキノオスに国民が選びて献じたりし者。
彼女は宮に腕白き姫ナウシカー育て上げ、
今またここに火をたきて部屋に食事を整えり。

今オデュッセウス身を起し都城をさして行かんとす。
これを憐れむアテーネー、めぐりに濃霧わきたたす。15
パイアーケスのとあるもの、彼に出会いて嘲弄の、
言句を発し、何びとと怪しむことのなきがため。
かくて華麗の都市の中まさに入らんとしつる時、
藍光の目のアテーネー若き女性の姿とり、
瓶携えて前に立つ。彼女と相見る英豪の 20
オデュッセウスは口開き、彼女に向かい問いて言う、

『ああ若き子よ、汝よく、ここらの民の王者たる
アルキノオスの王宮に我を導き行き得るや?
はるかに遠き異郷より、旅に悩める我ここに
初めて来る。かるが故、この都市あるはこの土地を 25
領する人のいずれをも我はまったく相知らず』

藍光の目のアテーネーそのとき答えて彼に言う、
『ああ旅のおじ、尋ね問うその館、君に示すべし。
とうとき我の父の家と、彼れの館とは相近し。
いざや無言にすすみ行け。我その道のしるべせむ。30
ただ住民の誰をしも見ることなかれ、問うなかれ。
異郷の人を彼らよく忍びて容るることあらず。
見知らぬ地より来るものを歓待すべき道知らず。
彼らは船の迅速の力たのみて漫々の
大海わたる。大地ゆる神はこの事恵みたり。35
船は飛鳥の羽のごと人の思いのごとく疾し』

しかくパルラス・アテーネー宣して先にすみやかに、
導き行けば、オデュセウス女神のあとに付きて行き、
船に名高き国人の都市をかくして過ぐる時、
パイアーケスは気も付かず。鬢毛美なるアテーネー、 40
稜威(いつ)の女神は憐れみて、勇士のめぐりものすごき
濃霧をまきて、国人の目に触るることなからしむ。
行くゆくかくてオデュセウス、驚き見たり整々の
船と港と貴人らの議場とさらに長くして、
高くそびゆる城の壁。壁はその上柵を植う。45
やがて華麗を極めたる王の居館につける時、
藍光の目のアテーネー、オデュッセウスに向かい言う、

『見よ旅のおじ、これこそは示せと君のいいし館。
クロニオーンの育てたる貴人ら中に宴張るを
君は見るべし。中に入り、心に畏怖を抱かざれ。7-50
いずこの地より来るとも、いやしくも人勇あらば、
そのなすわざの一切において必ずまさるもの。
君宮中に入らん時、王妃の前にまずすすめ、
アレーテーなる名によりて王妃は呼ばれ、その父祖は
アルキノオスを——国王を生みたる者と相同じ。55
大地震わすポセイドーン、ナウシトオスをその初め 7-56
生みたり。母は麗容の特にすぐれしペリボイア。
そのペリボイアを末の子とエウリュメドーンは生みなしき。
この勇王は倨傲なる巨人の族を治めしも、
ついにはこれを敵として倒し、自らまたほろぶ。60
ポセイドーンは麗人と契りてその子勇猛の
ナウシトオスを生みなして、パイアーケスに主たらしむ。
ナウシトオスは二子を生む、レークセーノル、アルキノオス。
レークセーノル、男子なき時にポイボス・アポローン
射て宮中に倒れしむ。あとに残るは唯一の 65
娘すなわちアレーテー。アルキノオスはこをめとる。
夫に仕えその家を統ぶる女性の何びとも
かつて受けざる敬愛を彼女に加えて尊べり。
かくて王妃は心よりその子によりて崇められ、
アルキノオスに——国王に——同じく、さらに国民に 70
心よりして崇めらる。民はあたかも神明を
仰ぐがごとく、都市のなか歩く彼女を出迎える。
けだし王妃は聡明の思慮いささかもあやまらず。
好意を抱く人々の、また男性の争いを
解かしむ。君にこの王妃好意を抱くことあらば、75
君は祖国と屋根高き君の居館に帰り着き
しかして君の親族に会わん望みは豊かなり』

藍光の目のアテーネーしかく宣して立ちわかれ、
波浪乱るる海こしてスケリエーの地あとにして、
マラトーンおよび街広きアテーネー市に到り着き、80
よく堅牢に作られしエレクテウス[1]の宮に入る。7-81
しかしてこなたオデュセウス、アルキノオスの華麗なる
宮に到りて黄銅の門に入る前思慮こらす。

[1]大地より生まれし神、『イーリアス』2-547。その宮とはパルテノンのこと。

偉なる国王アルキノオス、その屋根高き宮殿は、
日輪あるは月輪の光のごとく輝けり。85
宮の左右に戸口より奥におよべる黄銅の
壁はキアノス緑なる飾の縁をそなえたり。
またもろもろの黄金の扉は奥を締め閉ざし、
また黄銅の入口に白銀製の柱立ち、
その柱頭は銀にして、戸にとりつけし把手は金、90
門の左右に黄金のまた白銀の犬ら立つ。
ヘーパイストス巧妙のたくみに作り上げしもの、
偉なる国王アルキノオス、その城門を守るべく、
立てる彼らは不死にしてとこしえ老ゆることあらず。
また戸口より奥にかけ左右の壁にうち添いて、95
あまたの椅子は設けられ、椅子は女性の手よりして
巧みの技に織られたる美妙の布に覆われつ。
そのへに座してもろもろのパイアーケスの貴人らは
飲食するを習いとす。彼らの備蓄豊かなり。
また金製の子らの像、よく据えられし台の上、7-100
立ちて、手中に煌々と燃ゆる松火かざしつつ、
夜館中に宴飲を張る賓客を照らすめり。
さらに女性の五十人、この宮中につとめ合う、
そのある者は金色の穀、石臼にひきくだき、
またある者は機を織り、また地に座して糸をくる。105
その手の動きは丈高き木々に震える葉に似たり。
彼らいみじく織る布を伝えオリーブの油垂る。
パイアーケスが速き船波浪の上に御すること、
他の民族にいやまさる。正しくかくもその婦女ら
よく機を織る。アテーネー、いみじき技を学ぶこと 110
彼女らに恵み聡明の心をこれに与えたり。

庭の外には戸に近く四エーカーの広やかの 7-112
果樹園ありて、その四方みな生垣を巡らせり。
そこにあまたの木々高く生々として繁りたつ。
そは累々と重なれるナシとザクロとリンゴ樹と、115
さらに甘美のイチジクと豊かに繁るオリーブ樹。
これらの木々はとこしえに、冬また夏にその果実
落つることなし。ゼピュロスの呼吸に吹かれ、あるものは
新たに実り、あるものは豊かに熟し絶え間なし。
ナシまたナシは連なりて、リンゴとリンゴ重なりて、120
葡萄の房もイチジクも累々として重なれり。
かなたにさらに豊沃の葡萄園あり。その一部
平坦にして暖かに日光うけて乾かさる。
そこに葡萄の房摘みて働き立てる人もあり。
また踏みくだく人もあり。端にはいまだ熟せざる 125
房は花弁を地に払い、あるいは色を深めゆく。
また果樹園の端近く美麗の花壇設けられ、
四季を通じてその中に種々の芳薫咲き匂う。
ここに清流二条あり、一はあまねく園中に
そそぎ、他はまた内庭の端を流れて宮館に 130
向かう。これより都市の民その用水を汲み出だす。
アルキノオスの宮中に諸神の恵みかくありき。

忍耐強くオデュセウスこの場に立ちてうち眺め、
眺めて胸に一切に対する驚異満てる時、
足を速めて城門を過ぎ宮殿の中に入る。135
パイアーケスの貴人たちまた評定者、中にあり。
杯あげて烱眼のヘルメイアスに酒そそぐ。
彼ら眠りを思う時最後に神に酒そそぐ。
忍耐強きオデュセウス、アテーネーの注ぎたる
霧に包まれ、部屋の中直ちに過ぎて、アレーテー 140
王妃ならびにアルキノオス王のまともに到り着く。
王妃の膝にオデュセウス両手掛くればこつぜんと、
不思議の霧は晴れわたり、勇者の姿現われぬ。
見知らぬ者の出現に満場ともに言葉なく、
がく然として眺めやる。オデュッセウスは願い言う。145

『ああアレーテー、神に似るレークセーノル生むところ、
多くの苦難受けし後、われ今ここに君のもと、
夫王ならびに宴飲のこれらの客のもとに来ぬ。
神よ、彼らの生ける間に幸を与えよ。各々は
子に継がしめよその富を、民の捧ぐる栄光を。7-150
さもあれ君に今願う、我の帰郷をすみやかに
計らうことを。友離れ我は長くも苦しめり』

しかく陳じて炉のほとり勇士は低く地に座せり。
しかして皆はことごとく鳴りを静めて口を閉ず。
されどもついにその中に、エケネーオスは口開く、7-155
パイアーケスの民族の中にもっとも年長く、
弁口すぐれ、いにしえの道に精通したるもの。
彼いま皆に慇懃の思いをこめて宣し言う、

『アルキノオスよ、見るごとく異郷の客が炉のほとり、
地に座ること良しとせず。礼に背けり。しかれども 160
皆は黙して物いわず、ひとえに君の命を待つ。
いざ客をして身を起し銀鋲打てる椅子の上、
身を寄らしめよ、しこうして令使に令し、酒を混ぜ、
献酒の礼を雷霆の神の御前になさしめよ、
心をこめて慇懃に祈らば神はつねに聞く。165
しかして家婦は客をして所蔵の食をとらしめよ』

しか陳ずればアルキノオス、強き王者はこれを聞き、
英知に富みて巧なるオデュッセウスの手をとりて
炉よりその身を起さしめ、最愛の息ラーオダマス、
勇気に富める若き子がすぐ隣なる壮麗の 170
椅子に座るを立たしめて、オデュッセウスを座らしむ。

しかして侍女は美麗なる金の瓶子(へいし)に水を入れ、
携え来り、白銀の盤のへ注ぎ、珍客に
その手を洗い清めしめ、終わりてかたえに卓据えぬ。
しかしてパンをしとやかの家婦はもたらし、貯えし 175
あまたの調理もろ共に心尽して卓に載す。
忍耐強きオデュセウス勇将かくて飲み食う。
そのとき家僕にアルキノオス、強き王者は宣し言う。

『ああポントノエ[1]、葡萄酒を器中に混じ、館中に 7-179
座せるすべてに分かてかし。雷霆ふるう大神に 180
酒をそそがん。哀願の切なる者に神は聞く』

[1]ポントノオス(伝令、伝令使、令使の名前)の呼格。

しか宣すればポントノオス、蜜のごとくに甘美なる
酒を混じておのおのの杯に芳醇満たさしむ。
受けたる人は献酒礼終わりて後によく酌みぬ。
そのとき皆にアルキノオス、口を開きて陳じ言う、185

『パイアーケスの首領らよ、評定者らよ、われに聞け、
この胸中のわが心命ずるままに我は言う。
饗宴すでに終えたれば、各々家に行きやすめ。
あしたに我は長老のさらに多くを呼び集め、
客を館中もてなして、いみじき牲を神明に 190
捧げまつりて、その後に彼の帰郷を計らわむ。
我らが送ることにより、わが珍客の苦痛なく、
辛労なくて喜びて、道程いかに遠くとも、
その親愛の郷国に早くも帰りつかんため。
いまだ故郷に着かぬ前、旅程の中にある間、195
彼は難儀を受けざらむ。一旦そこに着かん後、
その誕生の暁につらき厳しき運命の
紡げる織れる一切を彼は必ず受くべけむ。
されども彼が天上を降れる神の一ならば、
これには何か新たなる神の企みあるべけん。7-200
いみじき牲を捧げたる昔も今も神明は、
形を取りて眼前に現われ出でて、人間と
席を同じく共にしてその饗宴を楽しめり。
とある人間ただひとり寂しき道に会う時は、
神は隠れず。わが民は神にその類、相近し。205
キュクローペスもまたしかり、巨人の族もまた同じ』

そのとき彼に聡明のオデュッセウスは答え言う、
『ああアルキノオス、さることを心に思うことなかれ。
われの肢体も風貌も広き天上つかさどる
諸神に似たる者ならず。ただ人間に似たるのみ。210
人間中に君の知る苦難もっとも多き者、
まさにその者、艱難を我と比ぶることを得む。
いわんや我は一層の苦難を述ぶることを得む、
諸神の意により味えるわれの苦難をことごとく。
さはれ苦悩は多くともわれに食事を許せかし。215
げに憎むべき口腹の欲にまさりて浅ましき
ものなし。苦難身に受けて心中いかに悲しむも、
あらがいがたき力もて迫りて食を思わしむ。
かくのごとくに我もまた心に悲哀抱けども、
口腹われに飲食をはげしくつねに促して、220
忍びし苦難ことごとく忘れて口腹満たさしむ。
さはれあした曙に不幸の我を郷国に、
帰らしむべく願わくは、君らいそしめ。われの身に
多難起これど、わが資財・侍女らならびに屋の高き
居館一たび見るを得ば、死するも我にうらみなし』225

しか宣すれば一同はその適切の言を聞き、
すべて賛して珍客の移送のことを計らえり。
かくて献酒の礼終わり思うがままに酌める後、
皆はおのおのその家に休息すべく立ち帰り、
ただ館中にオデュセウス勇将ひとり居残れる。230
かたえに王妃アレーテー、また神に似るアルキノオス、
座せり。侍女らは飲食の器具をひとしく収め去る。
玉腕白きアレーテーまずそのときに口開く。
オデュッセウスの身に着ける上衣下衣の美なるもの、
そは自らが侍女ととも作りしものと認め知る。235
しかして王妃つばさある飛揚の言句のべて言う、
『客人、我はいやさきに君に問わまし、何びとぞ?
いずこの地よりここに来し?衣服を誰か与えたる?
海に漂い来られしと君は言いしにあらざるか?』

智計に富めるオデュセウス答えて彼女に陳じ言う、240
『王妃よ我の災いを委細に語り尽くさんは、
容易にあらず。神明は飽くまで我を悩ませり。
されども君の問うところ、求むるところ陳ずべし。
オーギュギアーと呼べる島、海の遠きに横たわる。
そこに狡猾(こうかい)カリュプソー、鬢毛美なる恐るべき 245
仙女は住めり。アトラスの娘、彼女とは神明の
中の誰しも交らず、また人間も交らず。
さはれゼウスは白光る雷霆をもてわが速き
船を打ちつつ、暗紅の海のもなかにくだき去り、
かくて不幸の身をひとつ仙女の宿に近づけぬ。7-250
他のすぐれたる部下たちは皆ことごとくほろべども、
我はあやつる迅速の竜骨しかと腕にとり、
九日漂い流されぬ。十日目黒き夜の中に、
オーギュギアーに神明はわれを着かしむ。鬢毛の
美にして狡きカリュプソー、仙女はそこにわれを入れ、255
心をこめて歓待し、食を与えて説きて言う、
「長きにわたり老いずして、不滅の寿命受くべし」と。
されどもわれの胸中にやどる心を説き伏せず。
そこに七年引き続き、仙女カリュプソー与えたる
不滅の衣を涙もて潤しわれは日を送る。260
八たび春秋めぐり過ぎ、ゼウスの使者の命により、
あるいは彼女その心意われと自ら変ぜしか、
われを促し郷国に帰らんことを説き勧む。
すなわち固く組み上げしいかだの上に乗らしめて、
パンと甘美の葡萄酒を与えて、われに不滅なる 265
衣まとわせ、暖かき微風起して送り出す。
十七日をかさね経てわれは海上渡り来ぬ。
十八日にこの領にそびゆる山は、朦朧と
姿を現じ始むれば、不幸重ねしわが心
喜びおどる。しかれどもなお艱難は伴えり。270
大地震わすポセイドーンわれに難儀をたくらめり。
すなわちわれに強暴のあらしを起し、ゆく道を
妨げ、海をかき乱す。はげしくうめく我が今
いかだの上にとどまるを、怒涛許さず。暴風は
これを無残にうちくだく。かくしてわれは飛びこみて、275
泳ぎて波を乗り切れば、風と波とはもろともに
われを運びてこの郷に、君の領土に到らしむ。
されどもそこに上陸を試みつらば、激浪は
巨岩の岸に、痛ましき地上にわれを打ちつけむ。
かくと悟りてしりぞきて、泳ぎ返して見出したる 280
川に到りぬ。看るところここ最善の場所にして、
岩石すべて滑らかに、風を防ぐに便りよし。
われはすなわち勇を鼓し、陸にわが足すすむれば、
かんばしき夜は襲い来ぬ。神よりくだる川流を
かくて離れて、叢林の中に伏しつつ、木葉(もくよう)を 285
四囲に寄すれば、果しなき甘眠神はわれに垂る。
そこに心は悲しめど木葉中にうち伏して、
我は眠りぬ。よもすがら、眠りつづけぬ、あしたまで、
また真昼まで。やがて日は沈み、甘眠われを去る。
そのとき我は岸のへに、君の息女にかしずける 290
女性の遊び眺めたり。中の息女は神に似き。
彼女は思慮に事欠かず。われの哀願聞き入れて、
道に出で会う若人の行なうべしと思われぬ
好意をわれに施しぬ。若きはつねに思慮欠くも。
すなわち我に沢山のパンと、輝く葡萄酒を 295
与え、流れに浴せしめ、さらに衣服を恵みたり。
深く悩める我は今これらの事実あえて言う』

そのとき彼にアルキノオス答えてすなわち陳じ言う、
『あわれ客人、侍女と共にわが家に君をつれざりし
われの息女は誤りて、これらの事を正当に 7-300
計り得ざりき。いやさきに君は彼女に求めしに』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『あわれ王者よ、わがために罪なき息女責めなせそ。
侍女らと共に付き来よと彼女は我に命じたり。
されど恐れてまた恥じて、われはその命拒みたり。305
付き来る我を見る時の君の怒りを恐れたり。
地上に宿る人間は猜疑深きを習いとす』

そのとき彼にアルキノオス答えてすなわち陳じ言う、
『あわれ客人、胸中のわれの心は、理由なく
みだりに怒るものならず。すべて適度を良しとせむ。310
ああわがゼウス・クロニオーン、アポローンおよびアテーネー、
われは祈らむ。かかる君——われと思いを共にする
君はこの地にわが息女妻とし、われの婿として、
呼ばれん事を。家と富われ喜びて与うべし、
君もしここにとどまらば。パイアーケスはしかれども 315
いやがる君を押しとめず。ゼウスはこれを喜ばず。
しかして君にあえて告ぐ。君の移送を明日の日と
定めむ。その時いたりなば、からだ横たえあくまでも
君睡れかし。水夫(かこ)たちは波静かなる海漕がむ。
君の故郷に邸宅に、あるいは君の意のままに、320
エウボイアーの遠きよりさらに隔る地にまでも。
わが国人ら金髪のラダマンテュス[1]を導きて、7-322
大地の子たるティテュオース[2]訪わしめし時、かの島を 7-323
眺め、すべての陸の中もっとも遠きものと言う。
彼らはその地おとずれて疲労を知らず、同じ日に 325
またも故郷をめざしつつ帰りの旅を成し遂げぬ。
されば君また心中に知るべし、われの御する船、
そのいみじさを、若者の波をこぎ行く巧みさを』

[1]ゼウスとエウローペーの子(『イーリアス』14-322)。
[2]11-576。

しか陳ずればオデュセウス、よく忍ぶ者喜びて、
神に祈願を捧げつつすなわち言句陳じ言う。7-330

『天父ゼウスよ願わくは、アルキノオスがその言を
みなよく果し得んことを。彼の誉れは万穀を
生ずる地上果てなかれ。われはた帰国得んことを』

かくして二人彼と此、互いに言句陳じ合う。
玉腕白きアレーテー、侍女に命じて柱廊の 335
下に寝床を設けしめ、暗紅色の美麗なる[1]
しとねをそこに敷かしめつ、敷布をのべて、その上に
さらに彼の身被うべき羊毛の手織りととのえぬ。
侍女らはかくて松明を手にかざしつつ部屋を出で、
堅固の寝台いそがしくしつらえ終わり、オデュセウス—— 340
勇士のそばに帰り来て、彼を促し陳じ言う、

[1]4-297~300

『客人いざや身を起し、わがしつらえる床に就け』
しかく陳じぬ。彼にとり寝るは無上に嬉しかり。
かくして勇士オデュセウス、この鳴りひびく柱廊の
下に設けし堅固なる床にその身を横たえぬ。7-345
アルキノオスは高き館その奥深き房に伏す。
かたえに王妃アレーテー、床を整え添い寝する。


オヂュッセーア:第八巻


アルキノオス、集会においてオデュッセウスの帰国を決す(1~45)。パイアーケスの貴人らアルキノオスの館中に酒宴を開く。デーモドコス歌う(46~96)。競技(97~130)エウリュアロス血気にはやりオデュッセウスを嘲弄す(131~164)。オデュッセウス奮然として出場し円盤を投げて人々を驚かす(165~233)。アルキノオス、青年に命じ舞踏をなさしむ(234~265)。デーモドコス、アレースとアプロディーテーの恋およびヘーパイストスの復讐を歌う(266~369)。二青年の球投げ(370~384)。オデュッセウスに人々の宝物贈与。エウリュアロスの陳謝と宝剣の贈与(385~422)。アルキノオス、侍女に命じオデュッセウスを浴せしむ。王妃は箱を持ち出し、人々の贈与の品を収む(423~468)。オデュッセウス伶人をほめ、トロイア城陥落を歌わしむ(469~498)。オデュッセウス懷旧の涙(499~531)。アルキノオス、彼の悲しむを見、漂浪の話を求む(532~586)。

薔薇の色の指もてる明けの女神の現われに、
強き王者のアルキノオス、床を離れて身を起す。
都府の破壊者オデュセウス勇士同じく起きあがる。
強き王者のアルキノオス、船の近くに建てられし
パイアーケスの集会の席に勇士をひきい行く。8-5
二人そこに着ける後、互いに近く磨かれし
石のへ座しぬ。しこうして女神パルラス・アテーネー、
アルキノオスの伝令の姿を取りて城中を
あまねく巡り、オデュセウス勇士の帰国もくろみて、
頭領たちのそばに立ち彼らに向かい陳じ言う、8-10

『パイアーケスの首領らよ、評定者らよ、いざや立て、
会議の庭におもむきてかの珍客につきて聞け。
海を渡りて賢明のアルキノオスの宮中に
到れる客はその姿不死の神明見るごとし』

しかく陳じて各々の勇と心を引きたたす。15
かくてたちまち集会の席は、続々寄せ来る
人々により満されぬ。ラーエルテスの生める子を、
聡明の子を眺めたるみな驚けり。アテーネー
かれの頭に肩のへに神にも似たる威容そえ、
うち見るところ身長と体躯を共に増さしめぬ。20
かくして彼は堂々と威容整え、一切の
パイアーケスに崇められ、パイアーケスが彼に課す
種々の競技に堂々と勝利するべく見えしめぬ。
人々かくて集まりて共に一つになれる時、
アルキノオスは口開き皆に向かいて陳じ言う。25

『パイアーケスの諸頭領、また評定者われに聞け。
わが胸中にあるところ心の命をわれ述べむ。
彼れ東方の人なりや?はた西方の人なりや?
何びとなりや?我が知らぬ漂浪の客訪い来る。
彼は護送をうながして、我に確約乞い祈る。30
わが従来の例により彼の護送を急がせむ。
わが館さして来る者、何びとにまれ、長き時、
ここにとどまり、むなしくも移送求めて泣かざりし。
初航海の黒き船、いざ波の上浮ばせよ。
しかしてわれの国内の五十二人の若き者、35
これまでつねにその技量すぐれし者を選び出せ。
しかしすべて一切の櫂を漕ぎ座に付くる後、
船より出でてわが館に来り、いそいで夕食を
すませるがよい。われはよく豊かに皆にふるまわん。
若き人らにわが命はかくぞ。しかして笏持てる 40
他の首領らは華麗なるわが宮中に訪い来れ、
かの珍客を館中に共に歓待なさんため。
誰しも拒むことなかれ。また神聖の歌い手の
デーモドコスを呼び来れ。彼はすぐれて吟唱を
神に授かり、興ずれば歌いて人をたのします』45

しかく陳じて先頭に行けば笏持つ諸頭領
つづけり。使者は神聖の歌人のもとを訪いに行く。
また選ばれし五十二のわかき人々、国王の
命を奉じて鞺鞳と高鳴る海の岸に行く。
かくして船に海岸に到れる時に、一同は 8-50
その黒き船広大な大海原に引きおろし、
黒き船のへ帆柱を立てて帆を張り、革製の 
紐を漕ぎ座に結び付け、すべての櫂を整えつ。
すべてを型のごとくして白帆高く張りひろげ、
波上に船をつなぎ止め、すべてを終えて、アルキノオス 55
秀いで賢き国王の居館をさしてすすみ行く。
その柱廊と中庭と部屋にひとしく、この国の
老いたる者と若き者、みないっせいに群がりぬ。

彼らのためにアルキノオスほふりし羊十二頭、
牙(きば)のましろき八頭の豚、また歩み蹣跚の  60
二頭の雄牛。皮を剥ぎ調理し、宴の備えさす。

令使その時そば近くいみじき歌手を導きぬ。
ミューズは彼をいつくしみ、禍福ひとしくわけ与う。
すなわち彼の目を奪い、彼に微妙の歌与う。 彼のかたえにポントノオス、酒宴の客のただ中に、65
銀鋲うてる椅子を据え、巨柱にこれを支えしめ、
また玲瓏の音立つる琴を頭上のとめ釘に、
掛けてつりさげ、手をのしてこれに触るべく指し示す。
さらに令使は伶人のそばに卓据え籠をおき、
また意のままに飲ますべく葡萄の美酒の杯を添う。70
一同やがて目の前におかれし美味に手を伸しぬ。
かくておのおの口腹の欲を飽くまで満たす時、
ミューズはめずる伶人を促し、高き勇将の
あと歌わしむ。そのほまれ大空高くひびくもの。
ペーレイデース・アキレウス、オデュッセウスと争える[1] 8-75
ことを歌えり。そのむかし諸神の宴のただ中に、
両雄荒く口論しぬ。アカイア軍の両雄の
その争いを民の王アガメムノーン喜べり。
神の託宣たずぬべく王、神聖のピュートー[2]の 8-79
宮の敷居を越えし時、アポローンかくと予言しき。80
高きゼウスの旨によりそのときすでにトロイアと、
アカイアのあい大いなる苦難の渦ははじまりぬ。

[1]トロイア戦争の進行についてアガメムノーンが神託を祈りし時、神答えていわく、アカイア軍中の二名将争いを起さばトロイアを敗るべしと。その後宴会の時アキレウスはトロイアは勇戦により敗らるべしと言い、オデュッセウスは計略によるべしと言いて争う。
[2]デルポイのこと。

これらの事を微妙なる伶人うたう。オデュセウス
そのとき強き手を伸ばし暗紅色のおおいなる
上衣を引きて頭上におおい、華麗の顔隠す。85
眉毛の下の涕涙をパイアーケスに恥じるため。
されどいみじき伶人のその吟誦を終える時、
涙拭いて頭より被りし上衣取り去りて、
二つ把手ある杯を取りて諸神に酒そそぐ。
伶人またも歌うとき、パイアーケスの諸頭領、90
歌の言葉を喜びて、彼を促し立つる時、
オデュッセウスはその頭おおい隠してうごめきぬ。
その流涕を一切の他の客たちは認め得ず、
王アルキノオスただひとり彼のかたえに座を占めて、
これを認めつ悟り得つ。激しきうめき耳にして、95
ただちに王者アルキノオス、櫂を愛する友に言う、

『パイアーケスの諸頭領、また評定者われに聞け。
ひとしく皆に分たれし、宴は今はや満ち足れり。
豊かの宴に伴える弦歌はたまた満ち足れり。
いざ今立ちて外に出ですべての競技試みむ。8-100
わが客人がその郷に帰らん時にその友に、
告げんがために、拳闘に相撲に速き駆け足に、
また跳躍に、いかばかり我らが他国をしのぐやを』

しかく陳じて先頭にすすめばみなは従えり。
音玲瓏の竪琴をとめ釘の上つるし掛け、105
デーモドコスの手を取りて令使は館を立ち出でて、
パイアーケスの諸頭領、競技見るべくすすみたる
その同じ道踏み行きて、かの伶人を導けり。
かくして彼ら集会の庭に到れば、百千の
群は続きぬ。高貴なる青年あまた身を起す。110
アクロネオース身を起す。オーキュアロスとエラトレウス、8-111
ナウテウスまたプリュムネウス、アンキアロスとエレトメウス、
プローレウスまたポンテウス、アナベーシネオスまたトオーン、
ポリュネーオスの息にして、テクトニデース祖父とする
アンピアロスら身を起す。またアレースに似たるもの、115
ナウボリデース・エウリュアロス立てり。いみじき風彩は
ラーオダマスのその次ぎに全パイアケスしのぐもの。
無双の王者アルキノオス生める三人ハリオスと、
ラーオダマスと、神に似るクリュトネーオスみな立てり。

[1]「泳ぐ者の意」、他もみな海に縁ある語。

徒歩競走をまっさきにみな一同に試みぬ。120
その出発のはじめより、全速力で飛び出だし、
みな一同は平原に塵を蹴立てて走り行く。
中にもっともすぐれしは、クリュトネーオス無双なり。
他を離すこと、畑のうえ二頭のラバの鋤かん程[1]。8-124
さほどの距離を抜きんじて、後れし相手しのぎ勝つ。125
人々次に闘争のはげしき角力試みつ。
エウリュアロスはこの技にすぐれし勇士らうち破る。
アンピアロスは跳躍の技にて次の勝を得て、
エラトレウスは円盤の投げの競技に他をしのぐ。
アルキノオスのすぐれし子ラーオダマスは拳闘に。130
競技にかくも人々の心おのおのたのしめり。
アルキノオスの子息なるラーオダマスは次に言う、
『友よ彼の客、とある技学びて知るや?試みに
問わずや。かれの体格はあしきにあらず。眺め見よ。
腿をこむらを両腕をその強剛の首筋を、135
そのおおいなる勇力を。若き勇気は見るところ、
彼は欠かさず。ただ種々の悩みによりてくじかれぬ。
人間いかに強くとも海は力をうちくじく。
海にまさりてくじくもの他にあるまじくわれ思う』

[1]一日に鋤く程の距離か。

エウリュアロスはこれを聞き、彼に答えて陳じ言う、140
『ラーオダマスよ、いみじくも正しく君は説けるかな。
いざ客に行き、しか述べて彼に挑戦試みよ』

アルキノオスのすぐれし子、その言聞きて立ち上り、
皆のもなかにすすみ行き、オデュッセウスに向かい言う、
『ああ珍客よ、ある技を学びしならば、君もまた 145
試みること良からずや?学べる君と我は見る。
その生命のある限り、手足をもって成し遂ぐる
わざにまさりておおいなる誉れは絶えてあらざらむ。
いざ試みよ、辛労を君の胸より取り払え。
帰郷の旅は長らくは延引されず。はやすでに 8-150
船は波のへおろされて水夫の用意整えぬ』

知謀豊かのオデュセウス答えて彼に陳じ言う、
『ラーオダマスよ、何故に我をあざけり、かく言うや?
競技に越して憂愁はわれの心の中にあり。
これまでわれはさまざまの艱難うけて苦しめり。155
今汝らの集会に座して、故郷にあこがれて、
国王および民衆に求めて祈るわれ見ずや?』

エウリュアロスは侮りて彼に向かいて陳じ言う、
『異郷の客よ、世の中に競技は広く行わる。
これを学べる人々に我は汝を比ぶまじ。160
むしろ漕ぎ座の多き船、あなたこなたに乗りまわし、
商事営む水夫らの頭となりて、商品に
心を配り、強欲に利益を求めあさるもの、
これらの輩にたぐうべし。競技学べる者に似ず』

知謀に富めるオデュセウス、目を怒らして彼に言う、165
『汝何者!乱言を吐きて愚かの者に似る。
げにも諸神は人の子にすべての長所得さしめず。
美貌を知謀を能弁を誰かひとりに兼ね得べき?
ある一人は風彩においては劣る、しかれども
巧妙の言、神は貸す。かくしてみなは喜びて 170
彼を仰げば、欣然と蜜のごとくに甘美なる
言句を陳じ、集会の席に耳目をおどろかす。
道行く時に人々は神のごとくに彼を見る。
またある人はその風姿さながら神を見るごとし、
されども彼の言句には優雅なるもの絶えてなし。 175
汝もさなり、風彩は輝くばかり、神もまた
これを補うことを得ず。されど心は愚かなり。
汝みだりに乱言を吐き、胸中のわが心、
かくもはげしく激せしむ。われは汝の言うごとく、
競技を知らぬ者ならず。わが青春にわが腕に 180
たよりし頃は、その道に一位のほまれかち得たり。
今うらむらく災難と憂いによりてわれ弱る。
げに戦場に海上に経たる苦難はいくばくぞ!
さはれかくまで悩めどもわれは競技を試みむ。
汝の述ぶる乱言はわれの心を激せしむ』185

しかし陳じて外套をまとえるままに飛び出し、
厚き巨大の円盤[1]を、パイアーケスが競うとき 8-187
用いるよりは重量のはるかにまさるものを取る。
こを振り回し、強剛の手よりはるかに投げとばす。
盤[1]はうなりて飛び行きぬ。飛び行く下に、長き櫂 8-190
使い航海巧みなるパイアーケスはいっせいに、
地上にかがみうずくまる。盤は飛び行き従来の
すべての記録うち越しぬ。そのときパラス・アテーネー、
人の姿をとり来り、印を置きて彼に言う、
『ああ客人よ、盲目の人も手探り明らかに、195
これこの印認むべし。ほかにまぎるることあらず。
はるかに他より抜き出でぬ。競技に対し信を置け。
パイアーケスの何びともこれに届かず、飛びこさず』

[1]円盤投げはのち特にスパルタに行わる。初めは石にて作られ、のち鉄錫等に。
[2]原文は「石」。

知謀豊かのオデュセウスその言聞きて喜べり。
群集中に好意ある友を認めて喜べり。8-200
かくして勇士、気も軽くパイアーケスに向かい言う、
『若き人々飛ばし見よ。かしこに——我はまた後に、
等しき距離に、さらにまた一層はるか飛ばし得む。
心と意気と促さば、誰人にまれ、ここに来て、
別の競技をなさしめよ——汝ら我を怒らせり——205
拳闘、角力、駆け走り、いずれを問わず試みよ。
ラーオダマスを別にして、国人すべて試みよ。
かれは今わが主人たり。誰れか主人と争わむ?
他国にありて客となり、厚き歓待うけながら、
主人に対しいやしくも競技を挑む者あらば、210
そは思慮たらぬうつけ者、やがてすべてを失わむ。
主人を除き何びともわれは拒まず、侮らず、
むしろ親しく知り合いて、試みんことわが願い。
世間の人のなす技のいずれも我は拙ならず。
よく磨かれし円弓をわれは扱うことを知る。215
同僚われのかたわらに近く並びて、敵人を
目がけて強き矢飛ばすとき、その敵軍の群がりに
我はまさきに矢をはなち、その一人に射当つべし。
わがアカイオイ、トロイアの戦場中に射たる時、
ピロクテーテース[1]ただひとり、弓勢われをしのぎたり。8-220
彼を除けば、麦を食い地上にすめる一切の
他の人間にまされるを、あえて自ら我は言う。
ただし昔の諸英雄——ヘーラクレースあるはまた、
オイカリアーのエウリュトス、これらと競うことをせず。8-224
彼ら弓技に打ち誇り、神明とさえ争えり。225
かの大いなるエウリュトス、この故をもて早く死し、
家中に長寿うけざりき。アポローン彼にいきどおり、
弓技挑みし故をもて、彼れの一命ほろぼせり。
われまた槍を他の人の矢さえ到らぬ距離に投ぐ。
ただ競走はパイアケスわれにまさらむ人あるを、230
われは恐れり。船中にしばしば食にとぼしくて、
われ激浪のただ中にいたくはげしく悩まされ、
かくしてために無残にも手足緩みて力なし』

[1]アカイアの弓の名将。『イーリアス』2-718。
[2]同2-730。

しか陳ずれば、人々は黙然として言葉なし。
王アルキノオスただひとり答えて彼に陳じ言う、235
『客人——君の言うところわれらの耳に悪しからず。
競争の場にそばに立ち、君に無礼の言吐ける
かの一人にいきどおり、言句正しくいうすべを
悟れる者に君の勇、誹謗すること許さじと、
君は望めり、一身に備わる勇を見すべしと。240
さはれ今わが言を聞け、国に帰りて館の中、
君、恩愛の妻と子と並びて宴を張らん時、
われらの長所思い出で、他の勇士らに説かんため。
遠き祖先の昔よりゼウスが断えず連綿と、
この国人に与えたる長所を君の説かんため。245
相撲にまたは拳闘にわれらすぐれし者ならず、
さはれ我らはよく走る。また、よく船を乗りまわす。
われらのつねに愛ずる者、饗宴、弦歌、また舞踊、
衣服の着換え、温浴とまた柔らかき寝屋とあり。
パイアーケスの舞踊者のすぐれし者よ、いざや立て、8-250
踊れ。しからば客人は故郷に帰りつかん時、
親しき友に語るべし、航海および競走に、
舞踊ならびに吟唱にわが国人の秀づるを。
誰そ今行きて、わが館の中に必ずありぬべき、
音玲瓏の竪琴をデーモドコスに運び来よ』255

神の姿に髣髴の王アルキノオスしかく言う、
令使は立ちて王宮の中より琴を持ちきたす。
民の中より挙げられて場所の整理を司る
監督九人いっせいに今立ち上り、舞踊場の
地面をならし平らげて、それの区画を取り広ぐ。260
令使はそばに近づきて、デーモドコスに玲瓏の
音する琴を与うれば、場裏まなかに彼は行く。
彼をめぐりて花やげる舞踊たくみの少年ら、
足に清らの踊り場の床を踏みつつ舞いおどる。
オデュッセウスはその足の動き眺めて驚けり。265

今伶人は琴を弾き、アプロディーテー王冠の
美なる女神とアレースの恋をいみじく歌い出づ[1]。8-267
ヘーパイストスの館の中、二神ひそかにかたらえり。
神は女神に数々の贈与をなして主人たる
ヘーパイストスの寝屋汚す。そのかたらいを先に見し 270
使者ヘーリオス急ぎ行き、彼に委細をもらし告ぐ。
心悩ます消息をヘーパイストス耳にして、
鍛冶場に来り、物すごき計略思いめぐらしつ。
彼ら身動きさせぬため、鉄敷の上おおいなる、
金床すえて断ちがたき、ゆるましがたき鎖鋳ぬ。275
かくアレースにいきどおり、その罠つくり終えし時、
彼のふしどのあるところその寝室に足運び、
床足めぐり幾重にも、鎖うちかけ、さらにまた
いく条となく、天井の高き上より蜘蛛の巣の
細きがごときくさり垂る。そを何者も、慶福の 280
神明さえも見るを得ず。巧み極めてつくられき。
かくして床をめぐらして罠をあまねく張れるのち、
地上あらゆる郷のうち、彼のもっとも愛で思う
都市レームノス、堅牢に築ける場所を訪う真似す。
いま黄金の武具よろうアレース、見る目鋭くて、285
ヘーパイストス巧みなる神工、遠く去るを見て、
ヘーパイストス巧みなる神工の館訪い来る。
宝冠美なるキュテーラ[2]の愛を求めて訪い来る。8-288
威力の猛きクロニオーン、父なる神の宮居より、
女神は今し帰り来て座しぬ。そのときアレースは、290
内に入り来て手を握り、名を呼び彼女に陳じ言う、
『恋しき君よ、寝屋に行き、うれしき夢を結ばまし。
ヘーパイストス、今家にあらず。野蛮の言句吐く
シンティエス人のレームノス郷を目ざして立ちさりぬ』 8-294
アプロディーテーその言を聞きて合歓楽みに、295
共に連れ立ち、床のへに添いふしなしぬ。しかれども、
ヘーパイストス巧みたる鎖そのときくだり来て、
彼らは四肢を動かすも上げるも共に得べからず。
しかも今更逃走のすべはあらずと悟り得ぬ。
レームノスの地着ける前、足を返せる跛行(はこう)神 8-300
ヘーパイストス、そのときに神ヘーリオス彼がため
看守し、報せをもたらせば、彼らに近く迫り来ぬ。
心悩みておのが家にヘーパイストス帰り来て、
激しき憤怒身をやきて、部屋の戸口に立ちどまり、
声すさまじく高らかに諸神に向かい叫び言う、305

[1]366行までつづく。
[2]アプロディーテー。
[3]『イーリアス』1-594。

『父のゼウスよ、もろもろの常住不死の神々よ、
来りて、ここに笑うべく、しかも許せぬわざを見よ。
われの跛行の故をもて、アプロディーテー、ゼウスの子、
つねにわが身を侮りて、不義のアレースめでおもう。
彼は美にして足直し、されども我は生まれ得て、310
不具なり。しかもその責めは他に探すべき要あらず。
ただただ父と母とのみ。われ生まれずば良かりしを!
さはれ乞う、見よ。わが寝屋に入りて二神が愛欲に
ふけらんずるを。われの目は見るに忍びず、悩むのみ。
さはれ愛欲強しとも、ここに彼らは一瞬も 315
横たわること叶うまじ。すぐに直ちに同床の
望み捨つべし。しかれども無恥の息女をめとるべく
われの贈れる結納のその一切をことごとく、
われにその父返さずば、罠と鎖は解かるまじ。
彼女まことに美なれども情を抑ゆるすべ知らず』320

しか陳ずれば黄銅の家に諸神は群がりぬ。
大地を抱くポセイドーン来れり。また足速き
ヘルメイアスと、遠矢射る神アポローンまた来る。
女神らさはれ憚りて各々宮に居残りぬ。
恩賜豊かの神明はかくて戸口にたたずみて、325
ヘーパイストス行えるこの巧妙の策を見て、
慶福長き神明は笑い崩れてはてしらず。
中に各々相隣る神は互いに告げて言う、

『不義の行ない遂げがたし。遅きは疾きに追いつかむ。
ヘーパイストス遅けれど、ウーリュンポスを家とする 330
諸神の中の速き者アレース神を捕えたり。
跛行なれども術をもて不義の償い払わせむ』

かくのごとくに郡神は互いに語り陳じあう。
ゼウスの寵児アポローン、ヘルメイアスに問いて言う、
『ゼウスの子なるヘルメーア[1]、恩賜豊かの使者汝、8-335
固き鉄鎖に縛られてアプロディーテーもろともに
ふしどの上に寝ぬること、いかに汝は欲するや?』

[1]呼格。

使いアルゲイポンテース、彼に向かいて答え言う、
『遠矢を放つアポローン、その事われに起これかし。
アプロディーテー金髪のかたえに床に伏すを得ば、8-340
三倍強き解けがたき、鉄鎖縛るも不可ならじ、
汝等諸神、女神らと共に見るともいとうまじ』[1]

[1]好笑——土佐の高知の播磨屋橋に女犯の罰として美人お馬と共に若き僧がさらしの刑を受けたる時、これを見たる行人は「お馬と共ならばさらしも可」と言いしとぞ。

しか陳ずれば天上の不死の神明みな笑う。
ポセイドーンはただひとり笑わず。技の名工の
ヘーパイストスにアレースを許さんことを乞い願い、345
すなわち彼につばさある飛揚の言句陳じ言う、

『願わく彼を解き放て。われは約せむ。命のまま、
彼れ神明を前にしてまさしく科料払うこと』

技術たくみの跛行神、答えて彼に陳じ言う、
『大地を抱くポセイドーン、この事われに求めざれ。8-350
悪徒のために保証する、その事すでに悪からむ。
科料と鉄鎖まぬがれてアレース逃れ去らん時、
我いかにして神明の前に汝を縛り得ん?』

大地を抱くポセイドーンそのとき答えて彼に言う、
『ヘーパイストスよ、アレースが科料正しく償わず、355
逃亡なさばその科料我は汝に払うべし』

技術巧みの跛行神、答えて彼に陳じ言う、
『汝が言に背くこと有り得べからず。良かるまじ』

ヘーパイストスかく陳じ固き鎖を解き放つ、
その堅牢の鎖より解きはなたれし二位の神、360
直ちに起きて走り去る。トラキアーに彼は行き、
こなた嬌笑めずる神、キュプロス島の中にある
パポスに行けり。祭壇はそこに薫りて森深し。
そこにかしずくカリテスら女神に湯浴みなさしめて、
天上不死の神明の用いる香油まみらして、365
目を驚かす壮麗の衣服肌にまとわしむ。
しか巧妙の伶人は歌えり。聞きてオデュセウス、
その胸中に喜べり。長きオールを使い慣れ、
航海の術すぐれたるパイアーケスも喜べり。

そのとき国王アルキノオス、ラーオダマスとハリオスに 370
命じ、もろとも踊らしむ。二人に競う者あらず。
技術すぐれしポリュボスが二人のために作りたる
真紅美麗の球を手に各々彼ら取りてより、
一人は後ろに身を曲げてこれを真直に天に投げ、
一人は地より飛び上り、足は地上に帰り来て、375
着くに先だち欣然とたやすく球をつかみ取る。
真すぐに高く球投げるすべを試み終わるのち、
王子二人は手より手に球投げかわし、豊沃の
大地の上に舞いおどる。わかき人々場中に、
立ちて喝采はてしなく、轟々として騒ぎ立つ。380
そのとき勇士オデュセウス、アルキノオスに向かい言う、
『民の間にいとしるき、ああ権勢のアルキノオス、
舞踊の子らのいみじきを君は誇れり。その言は
正しかりけり。眺め見て我驚嘆のほかあらず』

しか陳ずれば喜べる強き尊きアルキノオス、385
櫂の友なる国の人パイアーケスに向かい言う、
『パイアーケスの諸頭領また評定者われに聞け、
わが見るところ、わが客は英知まことにいちじるし。
いざ友愛の贈り物、ふさわしき物呈せずや!
すぐれし領主十二人、民の間に長として、390
ここ司る。次ぎて我第十三に位せり。
彼らおのおの外套とよく洗われし下着とを、
一タラントの黄金にそえてこの場に持ち来れ。
ただちに我がその全てまとめて客に手渡さむ。
客は心に喜びてわが宴席に就きぬべし。 395
エウリュアロスは言句もて、また贈与もて客人の
意をやわらげよ。先きに彼述べし言句は不可なりき』
しか陳ずれば領主らはこれに賛して令下し、
各々使者を家にやり、贈与の品をもたらしむ。

エウリュアロスはそのときに答えて彼に陳じ言う。8-400
『民の間にほまれあるああ権勢のアルキノオス、
君の命ずるごとくして客の心を和らげむ。
彼に一振り黄銅の剣贈らむ。柄(つか)は銀、
新たに切りし象牙もて作りし鞘の包むもの、
こを贈るべし。彼にとり価(あたい)卑しきものならず』405

しかく陳じて客の手に銀鋲うてる剣与え、
飛揚の羽をそなえたる言句を彼に陳じ言う、
『ああ珍客よ安かれや!粗暴の言句わが口を
漏れなば風はすみやかに、これを遠きに吹き払え。
神明、君に愛妻を見るべく許せ、郷国に 410
帰るを許せ。友離れ、君は長くも苦しめり』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『友よ汝も安かれよ。神は慶福与うべし。
われをなだむる慇懃の言句に添うる贈り物、
後に到りてこの剣おしみ悲しむことなかれ』415

しかく陳じて肩の上、銀鋲うてる剣を掛く。
日は沈みたり。高貴なる贈与の品を彼のため、
アルキノオスの宮殿に諸令使共に持ち来す。
すぐれし王者アルキノオス生める子息ら受取りて、
貴き母のかたわらにこれらの宝ならべおく。420
強き尊きアルキノオス、彼らひきいて先立てば、
皆いっせいに内に入り、高き椅子のへ座を占めぬ。
そのとき王者アルキノオス、王妃に向かい宣し言う、

『あらゆる中の最美なる箱を王妃よ持ち来れ。
しかして中に清らかの上着下着を入れよかし。425
また彼のため大釜を火に暖めて湯を沸かせ。
浴しおわりて珍客がパイアーケスの貴人らの、
持ち来らせる一切の贈与並ぶを見んがため。
また饗宴を楽しみて、わが伶人を聞かんため。
われまた彼にうるわしき金の杯与うべし。430
かくせば彼はおおいなるゼウスあるいは他の神に
献酒の礼をいたす時、とこしえ我をしのぶべし』

しか陳ずればアレーテー、侍女らに命じ、迅速に
巨大の鼎、烈々の火炎の上に据えしめぬ。
侍女らは命に従いて鼎を据えて水を入れ、435
あまたの薪(たきぎ)もたらして燃やして熱く湯を沸かす。
猛火鼎を取り巻きて水は次第に沸き出す。
かなたに王妃アレーテー華麗の箱を宝庫より、
客のためにと取り出だし、パイアーケスのもたらせる
衣服黄金さまざまの宝を中に収め入る。440
王妃はさらにその中に上着下着をそえ加え、
客に向かいてつばさある飛揚の言句陳じ言う、
『客よ、自らこの箱の蓋を調べてひもかけよ。
黒き船のへ柔らかき眠りに君の入らん時、
道にあるいは人ありて君を欺くことあらむ』445

忍耐強きオデュセウス勇将これを打聞きて、
ただちに箱の蓋を閉じ、先きに貴きキルケー[1]が、
彼に教えし法による秘密のひもをかけ結ぶ。
やがて老女は出で来り誘いて彼を浴室に
導き浴をとらしめぬ。その温浴を眺め見て 8-450
彼は心に喜べり。鬢毛美なるカリュプソー
仙女の館を出でし後かかる歓待あらざりき。
館にありては神明のごとくに彼は遇されき。
侍女らは客を浴せしめ、香油を彼の肌にぬり、
華麗の上着また下着その身の上にまとわしむ。455
かくして彼は浴室を出でて芳醇酌みあえる
人の間に加わりぬ。その道筋にナウシカー、
美貌を神の恵む者、部屋の柱によりて立ち、
その目の前を通りゆくオデュッセウスに驚きて、
すなわち飛揚のつばさある言句を彼に陳じ言う、460

[1]第十巻参照。

『客よ安かれ。やがての日、祖先の国にあらん時、
君それ我を思い出でよ。真先きに君を救いたり』

知謀豊かのオデュセウス答えて彼に陳じ言う、
『ああナウシカー、おおいなるアルキノオスの生むところ。
女神ヘーラー妻とする轟雷高きクロニオーン、465
願わく我にわが郷に帰る喜びあらしめよ。
かしこにありてとこしえにさながら神を見るごとく、
君に祈願を捧ぐべし。君はわが命救いたり』

しかく陳じて国の王アルキノオスのそばに座す。
給仕らまさに一同に食を分かちて酒混ず[1]、8-470
やがて令使は人々のひとしく崇めとうとべる
デーモドコスを——伶人を導き、そばに入り来り、
酒宴の客のただ中に、高き柱によらしめぬ。
知謀に富めるオデュセウス、多量に残るししの肉、
牙真白なる猪の背の脂肪豊かに富めるもの、 8-475
その一片を切り取りて、令使に向かい宣し言う、

[1]水をまぜて味を程よくす。

『令使よ、これを持ち行きてデーモドコスに食ましめよ。
我は憂いに沈めども彼に祝いの言寄せむ。
地上における人間のみなが捧ぐる愛と敬、
そを伶人は身に受ける。女神ミューズは伶人の 480
種属をいたく愛でおもい、彼らに歌を教えたり』

令使すなわち命により肉携えてすぐれたる
デーモドコスの手に渡す。受けて伶人喜べり。
一同かくて眼前におかれし美味に手を伸しぬ。
されど人々飲食を取りておのおの飽ける時、485
知謀に富めるオデュセウス、デーモドコスに向かい言う、
『デーモドコスよ、一切にまさりて我は君あがむ。
ゼウスの息女ミューズまたアポロン君に教えしか?
アカイア軍の運命とアカイア軍の行動と、
その成功と受難とをいみじく君は述べ歌う。490
自らこれを見しごとく、あるいは他より聞くごとく。
さはれ題目今変えよ。アテーネーともろともに 8-492
木馬作れるエペイオス。その演目を今歌え。
知謀に富めるオデュセウス、木馬に戦士満たしめて、
計りてこれをイリオンに入れて都城をほろぼしき。495
君もし、これをいみじくもわれに向かいて歌い得ば、
ただちに我は一切の人にあまねく宣すべし、
好意を君に抱く神、君に聖歌を与えぬと』

しか陳ずれば、伶人は神の鼓吹を被りて、
歌いぬ。むかしアカイオイ、その陣営を焼き払い、8-500
漕ぎ座よろしき船に乗り、海に航して別れ去り、
残れるものは英剛のオデュッセウスともろともに、
木馬にひそみ、トロイアの堅城外に身をおきぬ。
トロイア軍は知らずして木馬を城に引き入れぬ。
その城中に立てる時、かたえに座して論じあう 505
人たちすぐに決し得ず。意見は三つに別れたり。
その一は言う剣戟(けんげき)を取りて木馬を打ちくだけ。
さらに二は言う懸崖の下に木馬を突き落とせ。
第三は言う神明を和らぐ供物たらしめよ。
その三の説行われ、運命ついに窮りぬ。510
トロイア軍の滅亡を案じつとむるアカイオイ、
そのアカイアの勇将らひそみ隠るるおおいなる
木馬を城に入れし時、死の運命は定りぬ。
伶人つぎてまた歌う。隠れ伏したる木馬より、
あらわれ出でしアカイアの勇士都城を奪いしを。515
彼ら各々それぞれに高き城市を掠(かす)め去る、
中にさながらアレースに似たる英剛オデュセウス、
メネラーオスともろともにデーイポボスの館襲い、8-518
勇将そこに猛烈を極め戦い、その果てに 
女神パルラス・アテーネー助けし故に打ち勝ちぬ。520

[1]プリアモス王とヘカベーより生まれし子、ヘレネーを返すことに反対したる者。

誉れすぐれし伶人はしかく歌えり。オデュセウス
心くだけてまぶたより涙流して頬ぬらす。
それはあたかも、子供らと都城を無残な破滅より、
防ぎ戦い民の前、都城の前に倒れたる
勇士をいたむ妻のよう。今臨終の息を引く 525
その最愛の良人に、身をなげかけて慟哭の
声高らかに嘆くとき、無情の敵はうしろより、
可憐な妻の背を肩を槍もて撃ちて捕え去り、
苦難憂愁はてしなき奴隷たるべく追いて行く。
その無残なる運命に哀れ紅ほほしおれ行く。530
まさしくかくもオデュセウス涙流して悲しめり。
そそげる涙、しかれども、人はひとしく認め得ず。
ひとり勇士のかたわらに座せる国王アルキノオス
知りて、はげしき慟哭の声を親しく耳にして、
櫂を愛する国人のパイアーケスに向かい言う、535
『パイアーケスの諸頭領また評定者われに聞け。
デーモドコスに玲瓏の音(ね)の竪琴をやめしめよ。
漏れなく皆がこの歌をききて楽しむものならず。
宴はじまりて神聖の伶人歌いはじめたる、
そのとき以来珍客は慟哭尽きることあらず。540
思う、まさしく大いなる悲哀は彼の胸閉ざす。
主人も客もいっせいにともにひとしく楽しむは、
ましなるべきを。さらば今伶人歌をやめよかし。
崇めとうとぶ珍客のためにすべてはなされたり。
護送もしかり、心こめ贈る品々またしかり。545
少しなりとも心ある人にとりては、客人も
また嘆願をなす者もみな兄弟と相等し。
されば客人たくらみて隠すをやめよ。一切を
わが問う事をことごとくうち明くることもっとも良し。
君の名は何?われに言え。父と母とに、城中に 8-550
隣に近く住む者に呼ばるる君の名は何か?
卑しき者も貴きも、人間の中ひとりだに、
名のなき者は絶えてなし。おのおの生を受くる時、
彼を生みたる父と母、彼に一つの名を与う。
君の故郷と住民と都市とを我に今告げよ。555
知あり魂あるわが船はそこに導き着きぬべし。
パイアーケスに水先を導く者は絶えてなし。
他の一切の船もてる櫂また一つ彼になし。
われらの船は人間の思いと情をみな知れり。
また人間の住む都市も、みのり豊かの野も知れり。 560
しかしてさらに雲と霧おおいかくせるわだつみの
その深き淵すみやかに乗り過ぐ。しかもその船に
破損あるいは沈没を恐るる憂い絶えてなし。
さはれ父ナウシトオスに聞きしことあり。ある時に
彼は言いけり、ポセイドーン怒りをわれらに催せり。565
すべての人を安らかに送るがゆえに怒れりと。
パイアーケスの人々の堅く作れる船舶が、
護送の道を帰るとき、暗き海のへ海の神
こをくだくべし。大山をもてわが都城覆いつつ。
老父はしかく述べたりき。神ははたしてしかなすや、570
しかなさざるや、一切はみな神明の命のまま。
さはれ客人偽らず、隠すことなく我に言え。
いずこに君はさまよいし?いかなる国に君ゆきし?
国民および堅牢に築ける都市をものがたれ。
あるいは彼ら荒くして正義を絶えて知らざるや、575
あるいは客にねんごろに、神を恐れてつつしむや?
君また告げよ。いかなればアカイア、トロイア両軍の
その運命を聞ける時、君かくまでも悲しめる?
その城塞を神々は造りて、民の滅亡を[1] 8-579
紡ぐ——子孫の聞き得べき詩の題目となさんため。580
イリオン城を前にして君の親族倒れしか?
息女の夫、妻の親、彼らは血族の者に次ぎ
恩愛特に深き者、すぐれし者も倒れしか?
あるは賢く勇にして親しき者も倒れしか?
げに聡明の才ありて我に親しみ睦む者、585
そは兄弟に比ぶるも、いささか劣らざればなり』

[1]著名の句。


オヂュッセーア:第九巻


アルキノオス王に答えてオデュッセウス素性を明らかす(1~38)。しかしてイーリオンを去る後の冒険を物語る。第一の冒険はキコネス族の郷土に上陸して土民と戦いて敗北したるそれ(39~66)。暴風吹きて南に漂わす(67~81)。第二の冒険、ロートス食う民族の郷におけるもの(82~104)。第三の冒険、キュクローペスとの戦い。第一日、近くの島に上陸しヤギを猟す(105~169)。第二日、十二人の伴をひきいてオデュッセウス進んで怪人ポリュペーモスの洞窟にいたる。怪人の残虐。伴の二人を殺して食う(170~306)。第三日、怪人再び伴の二人を殺して食う。復讐のたくらみ。夕べまた二人の伴殺さる。オデュッセウス酒を勧めて怪人を酔わしめ、その目(一目の怪人の)を潰す(307~435)。第四日、計をめぐらしてオデュッセウス六人の伴と共に逃る。逃るる時に盲目となれる怪人を嘲笑す。怪人怒りてポセイドーンに復讐を祈る。一行はヤギの島に帰る(436~559)。第五日、航海を続く(560~566)。

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『万民中に誉れある、ああ権勢のアルキノオス。
声はさながら神のごと髣髴たりし伶人の、
すぐれし歌を耳にする——それはた何の歓喜ぞや!
客人ともに楽しみて、部屋にひとしく整然と、9-5
座して飲宴催して、伶人の歌みみにして、
卓には珍味相並び、給仕は美なる芳醇を、
壷より酌みて経めぐりて、客おのおのの杯に
注ぐ。かくして陶然と客ことごとく楽しめる。
こは人生の最大の歓喜と我はたたうべし。9-10
この事われの胸中に最美のことと感ぜらる。
しかるにわれの艱難を問うべく君の心向く。
その果て、我は一層に悲しみ涙催さむ。
真先きに何を説くべきか?何を最後に陳ずべき?
天上住める神われに苦悩を多く与えたり。15
真先きにわれの名を告げて君に知らせむ。後の日に
つらき運命逃れ得て、はるかに遠きわが館に
住みて暮らせど君のため主人となりて迎うため。
知謀に富むと人々に知られし我ぞオデュセウス、
ラーエルテスを父として誉れは天にひびくもの。20
潮に浮ぶ明朗のイタケー島は我が故郷。
緑葉ふるうネーリトン山はその中いちじるし。9-22
互いにめぐり相近く隣れる島は何々ぞ?
ドゥーリキオンとサーメーと深林おおうザキュントス。
わがイタケーは日没の方[1]に、陸地にいと近し。9-25
他は曙と白日に向かい、はなれて横たわる。 9-26
岩根けわしき島なれど、地は少年をよく育つ。
我の故郷にいやまさり、なつかしきもの他にあらず。
艶なる仙女カリュプソー、我を夫となさんとし、
我を捕らえてうつろなる洞窟中にとめたりき。30
アイアイエー[3]のキルケーも巧みに計り、館中に 9-31
我を夫となさんとし、とどめ願いてやまざりき。
されどもわれの胸中の情うごかすを得ざりけり。
親を離れて遥かなる異郷の中に、高楼に、
生活いかに楽しとも、人にとりてはその郷と 35
親とにまさり、なつかしくうれしきものはあらざらむ。
いざイーリオン立ち出でし我にゼウスの加えたる[4] 9-37
辛苦に満つる漂浪の次第を君に語るべし。
イリオン去りし一同は風に吹かれてイスマロス[5]、9-39
キコネス族[6]の地につきて、かすめて民を打ち倒し、9-40
都市より婦女と財宝を多く奪いて、兵士らに
等しく分ち取らしめぬ。足らざる者はなかりけり。
足迅速にこの郷を去り行くべしと、一同に
そのときわれは命ぜしも、愚にして彼ら命きかず。
葡萄の美酒を傾けて彼らは海の岸のうえ、45
多くの羊、まんさんの歩みの雌牛うちほふる。
とある間にキコネスは行きて隣れる同族に、
数多くして勇武なる友に叫べり。その友は
陸地に住みて車上より敵うつことに巧妙に、
時に応じてまた徒歩に戦うことをよく知りぬ。9-50
季節に応じ萌えいずる花のごとくに葉のごとく、
朝に群がり敵は寄す。そのときゼウス悪運を
下してために不幸なるわが軍勢は苦しめり。
船の近くに戦闘は激しく荒れて、彼と此
勢い猛く黄銅の槍を互いに投げ飛ばす。55
朝より始め、神聖の日のたけなわ来るまで、敵軍の
数はまされど追い返し、わが軍岸にとどまれり。
されど日輪西空に傾く頃は、キコネスは
勝ちて、わが軍アカイアの軍を散々打ち敗る。
脛甲かたき同僚の倒るる者は、船ごとに 60
六を数えて、残るもの死をまぬがれて逃げ去りぬ。
親しき伴を失いて我ら悲痛を耐えざれど、
死の運命を逃れ得て喜び船をすすめたり。
三たび不幸の友の名を——キコネス族に敗られて、
地上についに倒れたる友を——呼べども答えなし。65
かくして我ら均衡の船を前へとすすめたり。
雲を集むるクロニオーンそのときわれの船目がけ、
ものすさまじく吹き狂う北風おこし、いっせいに 9-67
陸と水とを雲に覆う。夜は天よりくだり来ぬ。
船は波浪にただよいて傾けるまま走り行き、70
嵐はすごく帆を打ちて三つまた四つに引き裂きぬ。
破滅恐れて一同は帆を船中に引きおろし、
櫂を用いて早々に船を陸地にこぎよせぬ。
疲労ならびに艱難にいたく心を悩まして、
そこに一同二日二夜(にや)続き岸上横たわる。75
鬢毛美なる明けの神、第三日を送る時、
また帆柱を立て直し、白帆を上げて船上に
座し、順風を受けながら、舵手(だしゅ)船を進めしむ。
かくて何らの害うけず祖先の国につくべきを、
マレイア岬[7]巡る時、波は潮は北風は 9-80
キュテーラ[8]あとに遠ざけて、沖にわが船ただよわす。9-81
鱗族むれる海の上、九日続きすさまじき 9-82
あらし我らをただよわす。次の十日目ロートス[9]を 9-83
食らう習いの民族の郷[10]にわが船到り着く。9-84
そこに岸のへ打ち上り、飲料水を汲みとりて、85
しかして船を前にして一同いそぎ食を取る。
飲食終わり、一同の口腹すべて飽ける時、
われは従者を遣わして探り知らしむ。この郷に
何の種類の民族の住みつつ生を営むや?
二人の従者選び抜き、これにひとりの令使付し、90
送ればすぐに一同はロートス食らう民に行く。
ロートス食らう民族は、われの従者を殺さんと
あえて計らず。ただこれにロートス取りて食らわしむ。
味甘くして蜜に似るロートス取りて食みし者、
彼は報告もたらして帰り来るをはや厭い、95
奇異なる食の民族の間に残りとどまりて、
ロートス取りて郷国に帰る願いを忘れ果つ。
我は叱りて泣き叫ぶ彼らを引きて連れかえり、
うつろの船の甲板に漕ぎ座のもとに縛り付け、
親しきほかの従者らに、速く波切る船の上、9-100
急ぎて乗れと命下す。ロートス食らいそのために、
祖先の郷に帰ること忘れんとする憂いより。
直ちにみなは船に乗り整然として相並び、
各々漕ぎ座占めながら、櫂もて波浪うちて行く。

[1]西方。
[2]東南。
[3]アイギア海中の島。
[4]以下数巻にわたる冒険談の発端。
[5]トラキアの一都市、酒の名産地。
[6]第一冒険。キコネス族は『イーリアス』2-846に名ざさる。
[7]3-287。
[8]マレイア岬の南西の島。
[9]蓮の一種、テニスンの『ロートス食う者』あり。青年時代の傑作。このロートスは4-603のロートスと別種なり。
[10]地中海の西部アフリカのリビアの岸らし。

悲哀を胸に抱きつつ一同船をこぎすすめ、9-105
気は傲慢に無法なるキュクローペスのすめる地に 9-106
着けり。彼らは不滅なる天の諸神に寄り頼み、
手もて樹木を植えつけず、たえて働くことをせず。
さもあれ蒔かず、鋤かざるに、小麦大麦、累々の
房を生ずる葡萄づる——これらすべては豊饒に 110
生じ来りておおいなるゼウスの雨に育てらる。
評議の会はここになし。また定れる法もなし。
これらの民は高山の峰のへ、つねに空洞の
岩窟中に起き伏して、おのおの妻と子に対し、
無上の権をうちふるい、また他の民を顧みず。115

キュクローペスの郷の岸、岸を去ること遠からず 
また近からず、これに添い一つ小さき島があり[1]。9-117
その草木の繁る島、中に野生のヤギ多し。
人の歩みて近づきて追い散らすこと絶えてなし。
山の頂きかけめぐり、森のほとりに辛労を 120
積む猟人の一人だに足踏み入れしこともなし。
ここに家畜の影も見ず、また耕作の地もあらず。
蒔かるることは絶えてなし、鋤かるることもまたあらず、
また人間の跡を見ず、ヤギの鳴き声ひびくのみ。
へさきを赤く染めし船、キュクローペスのもとになし。125
漕ぎ座よろしき船つくる工匠もとよりここになし。
(船はあまねく人間の住める都城を訪い行きて、
人の求むるものを取る——これらのために数多き
人と人とは船に乗りおおわだつみの波渡る)
かくてこの島堅固なる彼らの郷となすを得ず。130
さはれこの島あしからず。時に応じて一切を
産み出す。波の洗う岸、岸に添いたる草原は
柔らかにしてうるおいて葡萄の蔓はつねに栄ゆ。
耕すことはたやすくて、時に応じて豊かなる
みのり収むることを得む、地味はすこぶる肥えたれば。135
この地一つの泊り良き港をそなう。綱つけて
いかり投ずる要あらず。大綱結ぶまでもなし。137
船乗り入れて岸にあげ、水夫の心望むまで、
順風そよぎいたるまで、長くとどまることを得む。
港の端に、洞窟の下より清くわき出でて、140
泉流れて、あたりには白楊の木ぞ生えしげる。
われらはここに乗り入りぬ。ある神ここに暗黒の
夜の間に導きぬ。光明たえてあらざりき。
船をめぐりて霧深く、黒暗々の雲おおい、
天上高く照る月は絶えて光を現わさず。145
漕ぎ座よろしき諸船はかくて岸上のりあげぬ。
そのまえ誰も目をあげて島を認むることを得ず。
岸をめがけて、激浪の寄せ来る影も眺め得ず。
船を岸上(がんじょう)のり揚げて、かくてすべての帆をおろし、
みなは一同船を出で渚の上におりたちて、9-150
寝ねて一夜の夢結ぶ、あすの曙光を待ちながら。

[1]ラケイア意味不明、「小」か「長」か。

指は薔薇のくれないの明けの女神の出でし時、
驚異のまみを見張りつつ一同島をさまよえり。
アイギス持てるゼウスの子、仙女われら一同の
食事の糧に山々に群がるヤギを追い出せば、155
弓矢ならびに柄の長き投げ槍あまた一同は
船より取りて、三隊に分れて狩りを早急に
はじむ。そのとき豊なる獲物を神は恵みたり。
われに従う船十二、十二の船の各々に
九頭のヤギは分かたれぬ。わが船ひとり十を得ぬ。160
かくて終日夕陽のまったく沈みはつるまで、
座して多量の肉食らい、甘美の酒を酌みほしぬ。
船中いまだ酒尽きず、その貯えは多かりき。
かの神聖のキコネスの住める都城を陥いれ、
水夫おのおの壷の中、豊かの量を酌みとりき。165
しかしてわれら眼前のキュクローペスの地を眺め、
煙を眺め、人間と小羊たちの声ききぬ。
やがて日輪しずみ去り、黒暗々の夜となれば、
鞺鞳として波よする岸のへわれら伏して寝ぬ。
指は薔薇のくれないの明けの女神の出でし時、170
我は人々呼び集め、これに向かいて陳じ言う、
「親しき伴ら、汝らはしばらくここに残れかし。
われはわが船わが従者ひきい、これらの人のもと
行きてたずねて探り見む。彼ら何らの質なりや?
彼らはたして暴慢の荒き非道の者なりや?175
あるは他郷の人をめで神を恐れて慎むや?」

しかく陳じて船に乗り、同じくわれの従者らを
乗り込ましめて、令くだし、つなぎの綱をほどかしむ。9-178
一同かくて船に乗り、漕ぎ座につきて整然と
並び、櫂もてわだつみの波浪を切りてすすみ行く。180
ほど遠からぬその土地につきたる時に目をあげて、
渚に近く陸上に桂の木々に覆われし
高き洞窟見出しぬ。その洞窟のただ中に、
羊の群とヤギの群、夜を過すめり。あたりには
中庭ありて地の中に深く埋めし種々の石、185
長き松の木、高く葉の繁りし樫に囲まれぬ。
そこに巨大の怪物に似たる一人寝起きせり。
ほかに伴なく身ひとりに羊の群を飼える彼れ、
他の一切に交らず、離れ、非道のわざをなす。
目を驚かすばかりなる巨大の姿眺むれば、190
麦を食らう人に似ず、他の丘陵とかけ離れ、
ひとりそびゆる高山のしげれる嶺にさも似たり。
そのとき我は愛で思う伴侶にそこに岸のうえ、
船のかたえにとどまりて船守るべく命下し、
我は自ら勝れたる十二の伴を選び出し、195
すすみて黒き芳純の酒を充たせる革袋を
携え行きぬ。その酒はエウアンテース生める息、
その住む都はイスマロス[2]、神アポロンの祭司なる 9-198
マローンが我に賜びしもの。神の緑の聖林に
住めるがゆえに彼およびその妻と子をわれ守(も)りぬ。9-200
守れるがゆえにくさぐさのいみじき贈(ぞう)をわれになし、
精練なせる黄金の七タラントを、さらにまた、
またく銀より鋳りなせる壷をめぐみつ。またさらに
彼は十二のアンフォラ、中に純なる芳醇を
満たして我に贈与しぬ。その芳醇はその家の 205
従者も侍女もみな知らず。ただ彼および恩愛の
妻と一人の老女のみ、その芳醇を味えり。
彼らあえて蜜に似るこの芳醇を酌まん時、
主人は壷に二十倍水を混じてこを与う。
しかも壷よりかんばしきいみじき薫りたちのぼる。210
これを味わうことをせず欲を止むるはつらきもの。
こを満たしたるおおいなる革の袋を携えて、
さらに包みて食物をたずさう。けだしわが心
思えり。力たくまましく荒べるものに出であわむ。
法も正義もわきまえぬ手荒き者に出で会わむ。215

[1]137行と矛盾す。
[2]本巻39。

やがて一同すみやかに洞窟さして到り着く、
巨人は中にあらずして牧場に家畜飼い居たり。
その洞窟の中入ればすべては見る目驚かす。
簀の子の上は乾酪[1]に充ちて、檻には小羊と
小ヤギとあまた群れ居つつ各々類に分たれぬ。220
老いし家畜と若きもの、さらに新たに生まれたる
小さき者はそれぞれに各々群れをなしいたり。
すべての容器、鉢と皿、しぼりとられし乳に満つ。
かくと眺めし従者らは我に勧めむ、乾酪を
そこばく収め帰るべく。しかして次にすみやかに、225
檻より小ヤギ、小羊を奪いて駆りて迅速の
船に収めて漫々の海路を渡り行くべしと。
されども我は聞かざりき(聞かばまことに良かりしを)。
我は巨人を見んとしき。歓待いかに、見んとしき。
さもあれ彼の出現はわれの従者につらかりき。230

[1]チーズ。

しかしてそこに火を燃やし、神に犠牲をたてまつり、
われら自ら若干の乾酪喫して、洞中に
座しつつ彼を待ち設く。やがて巨人は食物の
調理のために乾きたる樹木携え帰り来て、
洞の戸口に投げつけてすごき音響起さしむ。235
恐るる我ら一同は洞の奥へと逃げて行く。
そのおおいなる窟内に脂肪に富める家畜らを、
乳しぼるべき家畜らを彼は駆り入れ、戸の口の
外に雄ヤギと雄羊を、すべての雄を残らしめ、
次に一つのおおいなる巌をもたげ戸を閉じぬ。240
その岩重く堅固なる四輪車二十合わすとも、
大地よりしてかかる岩おこすはかたきわざならむ。
かくある程の大岩を彼は戸口に据え置きぬ。
やがて座を占め、鳴くヤギと羊の乳をしぼり取り、
すべてを型のごとくして子ヤギを母のもとにやる。245
やがて真白き乳汁の半ばを彼は凝り固め、
編みたる籠のただ中に積み重ねつつ収め入れ、
他の半ばをば鉢に入れ、おのが飲料たらしめて、
さらに同じく夕ぐれのおのれの用と供え置く。
かくて勤めてせわしげに巨人はわざを終わる時、9-250
わが一行を認め得て言句を陳じ、問いて言う。

「異郷の汝何ものぞ?波渡り来る、いずこより?
用事のために来れるか?命をかけて漫々の
潮をわけて経めぐりて、他郷の人に災難を
来たす海賊見るごとく、冒険しつつさまようか?」255

しかく陳じていやさらにとどろき渡る音響に、
巨大の顔に恐じ怖るわれらの心くだけしむ。
しかはあれども口開き答えて我は彼に言う、

「われらはすべてアカイオイ、かのトロイアに別れ来て、
あらゆる風におお海の上に吹かれて、わが故郷 260
めざし、果てなく漫々の八潮路我らさまよえり。
おそらくゼウス・クロニオーンかく一切を計らえり。
普天の下に誉れあるアガメムノーン、光栄の
アトレイデースもろともに我戦いを行えり。
彼は雄都を陥いれ、種々の種族をほろぼせり。265
しかして我は今ここに君の膝下にたまさかに
来る。願わく歓待の誠を尽せ。さもなくも
異郷の人にふさわしき恵み施せ我が上に。
秀いづる勇者願わくは神を尊べ。われここに
嘆願者たり。クロニオーン・ゼウスはつねに嘆願の 9-270
人に憐憫加えつつ異郷の者に保護を垂る」

しか陳ずれば残忍の心の彼は答え言う、
「異郷の汝、愚かなり。遠き郷より来しならむ。
神を恐れてその罰を避けよと汝われに言う。
キュクローペスはアイギスを持てるゼウスを憚らず。275
また神々を憚らず。我の力はいやまさる。
心の命にあらずんば、ゼウスの憎しみ避けんため
汝を、または従者らを惜しみて許すことなけむ。
さもあれ我の知らんため告げよ。来りていずこにか
汝の船を停めたる?遠きはてにか近きにか?」 280
我を試してかく言えり。されど多くを知れるわれ、
彼の思念を悟り得て言葉巧みに答え言う、

「大地を震うポセイドーン、岬にわれの船を寄せ、
君の郷土の端にある岩にこれを打ちつけて、
破りくだきぬ。海上を吹く風これを引き去りぬ。285
我とこれらの従者のみ、すごき破滅をのがえ得ぬ」

しか陳ずれど残忍の心の彼は答えせず。
身を振り起し、従者らに恐るべき手をさしのべて、
二人を捕え、地の上に子犬のごとく投げつけぬ。
くだけし脳は無残にもあふれ大地をうるおしぬ。290
彼はかくしてしかばねの四肢をくだきて夕食に、
山に育ちしライオンのごとくむさぼり食い尽し、
臓腑も肉も髄満てる骨一片も余さずに。
その無残なるわざを見て、ゼウスに向かい手を挙げて、
泣きて祈れる一同は、みな絶望に気も滅入る。295
キュクロープスは人間の肉を食いて巨大なる
胃腑に満たしめ、まじりなき乳汁さらにのみ下し、
家畜の間に身をのして洞窟中に伏し眠る。
そのとき我は勇ましく胸に計略めぐらしぬ。
近きに迫り、鋭利なる剣を腰より引き抜きて、9-300
手もて探りて、隔膜が肝臓おおうそのほとり、
胸刺すべしと、しかれども思い直してしかなさず。
しかせばそこに恐るべき最期をわれら遂げつらむ。
高き戸口に怪物の据えたる重き大岩を、
われらの手もて除くことついに成し得るわざならず。305
呻吟しつつ神聖のあしたをかくてわれら待つ。

薔薇の色の指もてる明けの女神の出づる時、
型のごとくに一切をなしつつ彼は火を起し、
家畜よりして乳搾り、子ヤギを母のもとにやる。
かくてせわしくそのわざを怪物果し遂ぐる後、310
朝の食事に無残にも従者二人をまたほふる。
食事終えれば大岩を、その戸口よりやすやすと、
除き家畜を洞窟の外へ駆り出し、しかる後、
矢筒に蓋をなすごとく重き大岩もとに据う。
肥えし家畜を山のへに、キュクロープスが擾々(じょうじょう)と 315
駆り行くあとに残されて、我は胸裏にものすごき
策をめぐらし、アテーネー我に誉れを与うれば
あだ報わむと、怪物にかく計らうを良しと見ぬ。
キュクロープスの檻の中、オリーブの木の緑なる
幹あり、それが乾く時、用いるために切りしもの。320
大海わたる大船の——二十の櫂を備えたる——
黒く染めたる運送の船の大なる帆柱に
巨大の幹はその長さ比ぶべからむ。見るところ
長さならびにその太さ、まさしくかかる程なりき。
幹に近寄り我はその一オルギュイア[1]断ち切りて、325
従者のそばにこれを置き、命じてこれを削らしむ。
彼らは樹皮を滑らかに削れば、我は近寄りて、
端を鋭く尖らしめ、火中に焼きて鋭くし、
洞窟中のおちこちに高く積もれる家畜らの
糞土の下にひそやかに隠して見るを得ざらしむ。330
甘眠彼を襲う時、誰そ勇を鼓しわれと共、
怪物の目にこの杭を打ち込むべきや?くじ引きて
定むることを従者らにわれは命じぬ。幸いに
わが選ばんと望みたる四人にくじは引かれたり。
しかして我は五番目に同じくくじに定めらる。335
夕べとなれば怪物は美毛の家畜駆り帰る。
しかして何を思いしか?あるいは神の命よりか?
キュクロープスはすみやかに、肥えし家畜の一切を
広き洞裏に駆り入れて、戸外に一も残すなし。
やがて戸口におおいなる巌をおこし引きすえて、340
腰をおろして、鳴くヤギと羊の乳を順々に、
型のごとくに搾り取り、子ヤギを母の下にやる。
慣れ来しわざをすみやかに怪物かくもなし終わる。
終わりて彼はわが従者二人をほふり食となす。
そのとき我は暗紅の酒を盛りたる木鉢とり、9-345
キュクロープスに近づきてすなわち彼に向かい言う、

[1]1尋、1.8メートル

「キュクロープスよ、人肉を食らえる後に酒を飲め。
飲みて知るべし、我が船はかかる芳醇おさむるを。
汝が我を憐れみて郷に返すを望みつつ、
神酒をわれはもたらせり。されど汝の強暴は 9-350
忍ぶべからず。この後に、無法の者よ、何びとも
汝を訪わじ。かくばかり汝はあらく振舞えり」

しか陳ずれば怪物は受けて甘美の酒を飲み、
心おおいに喜びて再びこれを所望しぬ。
「与えよ、さらに心よく。しかして我にすみやかに、355
汝よ名告れ、しかなさば、汝の好む贈与せむ。
キュクロープスに豊かなる地はおおいなる葡萄の果
与え、しかして大神の雨はこの果を熟せしむ。
されどこの酒げにいみじ、アンブロシアか?ネクタルか?」

その言聞きて輝ける美酒を二たびまた三たび、360
われ怪物に与うれば、愚かに彼は飲みほしぬ。
キュクロープスの心今もうろうとして、酒のため
乱るる時に、温和なる言句を我は陳じ言う、
「キュクロープスよ、汝問う誉れのわが名いざ告げむ。
しからば汝、約によりわれに贈与を忘れざれ。365
『誰もなし』とぞわれ名のる。われの父母また一切の 
友ことごとく残りなく『誰もなし』とぞわが名言う」

しか陳ずれば残忍の心の彼は答え言う、
「他の従者らを食い尽し、我は汝を、『誰もなし』、
最後にとりてくらうべし。これこそ我の贈与なれ」 9-370

しかく陳じてのけざまに仰向き、はたと地に倒れ、
そのたくましき首曲げて伏せば、眠りは——一切を
制するものは——襲い来つ。眠りの中に酔いしれて、
嘔吐はげしく酒と肉彼の喉より噴き出だす。
そのとき我は熱灰の積れる中に杭を入れ、375
これを熱して、従者らを励まし勇を鼓せしめて、
ただ一人だも驚怖して逃げ去ることのなからしむ。
はじめ緑のオリーブの木の杭やがて熱灰に、
焼けて盛んに灼々(しゃくしゃく)と輝き照れば、火中より
こを取り出し、怪物に近く迫れり。従者らは 380
まわりに立てり。とある神勇気はげしくふきこめり。
皆はすなわち先尖るオリーブの杭、手に取りて、
キュクロープスの一つ目に刺せば、上手に立てる我、9-383
はげしく杭をねぢ回す。人あり錐(きり)に船板を
穿てる時に、下手なる従者ら左右(そう)に革ひもを、385
引きつつこれを動かせば、錐はたえずもめぐり行く。
まさしくかくも焼け尖る杭、怪物の目の中に
回れば、熱き棒杭をめぐりはげしく血は流る。
かくて熱火は怪物のまぶたと眉をことごとく、
焦がし尽せば眼球もはぜりひびきて潰れたり。390
さながら鍛冶が大いなる斧をちょうなを、寒冷の
水に投じて沸々とひびかせ鍛え練るごとし。
(けだしかくして鋼鉄の強き力ぞ産みなさる)
かくも彼れの目オリーブの杭の回りに音を出す。
物すごきまで高らかに彼は叫べり、あたりなる 395
巌は鳴れり。驚怖して我ら下がれり。怪物は
かの鮮血にまみれたる杭をまみより抜き取れり。
かくて苦痛に狂いたる彼はこの杭投げ棄てて、
風吹きすさぶ高台の洞窟おのが宿とする、
キュクローペスの同族に、大音あげて呼ばわりぬ。9-400
その音声を耳にして彼らおのおの四方より
寄せて戸口に群れ立ちて苦悩の故を問いて言う、

「ポリュペーモスよ、神聖な夜にかくまで声揚げて、
わが甘眠を妨ぐる。そのもと何の悩みぞや?
誰そ人間のある者が強いても家畜駆り去るや?405
誰そ計略に暴力に汝を倒しほろぼすや?」

ポリュペーモスは洞窟の中よりそれに答え言う、
「暴力ならず計略にわれ倒すもの『誰もなし』」

彼ら答えてつばさある言句を彼に陳じ言う、
「孤独の汝倒すもの『誰もなし』とや。おおいなる 410
ゼウスの下す病苦をば逃るることは叶うまじ。
よろしく汝、父の神ポセイドーンに祈れかし」

しかく陳じて去り行けり。我は心に喜べり。
わが名ならびに巧みなる計略彼を欺けり。
キュクロープスはうめき泣き、苦痛に悩み両手もて、415
手探り行きて戸口よりかの大岩を取りのけて、
しかしてそこに自らは腰おろしつつ手を伸ばし、
羊と共に戸口より逃るる者を捕えんず。
さほどに我を思慮なしと彼は心に願いけむ。
さもあれ我は思案しぬ。至上の策は何なりや?420
従者ならびに一身の死を免がるる法いかに?
かく思案して一切の策と略とをたくらみぬ。
命のためにたくらみぬ。危難間近く寄せ来れば。
やがて至上の謀略は次のごとしと思われぬ。
よく肥え太り、旋毛(せんもう)の厚き美麗のおおいなる 425
雄羊あまたここにあり。スミレ色なる毛は厚し。
またよくあざなえる小枝あり。非道振舞う怪物の
キュクロープスがその上につねに伏すもの。これをもて
三頭ずつに雄羊を音を潜めて繋ぐべし。
中の一匹一人を運び左右は守り行かむ。430
かくのごとくに三頭の羊一人を運ぶべし。
しかして我は群羊の中にもっともすぐれたる
その一頭を選び取り、せん毛厚き胸の下、
身を横たえて堅忍の心を固め両腕の
力をこめて美しきその羊毛をつかむべし。435
かくて悲痛の思いもて明けの女神を待ちわびぬ。

薔薇の色の指持てる明けの女神のいずる時、
そのとき雄の群羊は牧場さして出で行きつ。
残れる雌は搾らざる張り切る乳房もてあまし、
檻のほとりに鳴きて立つ。かなた主(あるじ)は痛ましく、440
悩みながらも戸の口にますぐに立ちて、出て行ける
その群羊の背をさする。愚かに彼は悟り得ず、
その群羊の毛の深き胸に従者のとりつくを。
群の最後に出でてゆく雄羊——彼はせん毛の
厚きを着けて、計略をたくらむ我を運び行く。445
そのとき力たくましきポリュペーモス、それの背を
撫でつつ言えり「何ゆえに汝、最後に洞窟を
出づるや?前は群羊の後を追うことなかりしを。
いつもまさきに大股に足をすすめて牧草の
柔軟の花汝噛み、いつもまさきに渓流の 9-450
岸のへ汝すすみ着き、いつもまさきに夕ぐれに
檻に帰るを望みてき。しかるを今は最後なり。
汝主人の目のために悲しむならむ。『誰もなし』
彼の悪しき者、みじめなる友と計りて酔わしめて
わが目を焼けり。悪しき者いまだ死滅を免かれず。455
我と等しく感じ得て汝有言の者となり、
いずこに彼は、わが憤怒避け隠るるや語り得ば、
かれの脳漿くだかれて、洞窟中に地の上に
あなたこなたに広がらむ。取るに足らざる『誰もなし』
彼の加えし災難を我はかくして軽くせむ」460

しかく陳じて群羊を彼は戸外に出だしやる。
その洞窟と檻とより少しくすすみ行けるわれ、
まさきに我は雄羊を離れ、従者を次に解く。
かくして皆は足長き脂肪に富める群羊を、
あなたこなたに急がしく駆り立てついに船に着く。465
死滅逃れし一同を親しき友ら眺め得て
喜び、しかも逃れざる他を声あげて悲しめり。
されども我は号泣を部下に許さず、眉ひそめ、
これを止どめてすみやかに令を下してせん毛の
美なる群羊駆り入れて、船を波上に浮ばしむ。470
部下はかくしてすみやかに乗りて漕ぎ座に身を据えて、
列を正していっせいに櫂動かして波を切る。
かくて呼ばわる音声(おんじょう)の届く距離までいたる時、
そのとき我は嘲弄をキュクロープスにはなち言う——

「キュクロープスよ、うつろなる洞裏に汝暴力を 475
ふるいて、弱き人の伴、食らうべきにはあらざりき。
無残の汝、訪い来る客を汝の家の中、
ほふり食らい憚らず。その凶行の報い、今
いたく汝に加えたり、ゼウスならびに外の神」

しか陳ずれば怪物はさらに一層怒り増し、480
巨大の山の頂きの巌をくだきわれに向け、
へさき緑の我が船のまともに近く投げ飛ばす。
手に取るかじの端近くおよばざること僅かなり。
その落ち来る岩のため海の大波たちさわぎ、
海の大潮巻き返し、陸上さしてすみやかに 485
漂う船を運びさり、岸辺に近く迫らしむ。
そのとき我は両の手に長き棹取り、岸辺より
沖へと船を押しやりて、頭を振りて合図して、
従者に命じ励まして危険の位置を逃るべく
櫂に就かしむ。一同はすなわち屈み漕ぎすすむ。490
波浪を漕ぎて先よりも二倍の距離にいたる時、
キュクロープスに我は呼ぶ。これを周囲の従者らは、
とどめて我に柔らかき言を述べつつ諫(いさ)め言う、

「ああ無謀なり、なぜに野蛮の者を怒らすや?
彼は巨岩を海に投げ、わが船陸に戻らしぬ。495
かしこに我ら一命を失うべしと思えりき。
彼れもし君の叫喚を、あるは言葉を聞くとせば、
鋭き巨岩投げ飛ばしわれの頭脳とわが船の
木材共にくだくべし。かくもはげしく彼は投ぐ」

しか陳ずれど勇猛の我の心を諫め得ず。9-500
我は憤怒の心もてさらに再び呼ばわりぬ、
「キュクロープスよ、何者か汝のまみを恐ろしく
潰せる?これを人間の誰か汝に問うとせば、
答えよ。それはオデュセウス、都市の破壊者、イタケーを
領としそこに住める者、ラーエルテスはその父と」505

しか陳ずれば怪物はうめきてわれに答え言う、
「ああ、ああ悲し。いにしえの予言まさしく今当る。
ここに住みたる丈高きいみじき占者、彼の名は 
エウリュミデース・テーレモス、予言の道にいみじくて、
キュクローペスの族中に予言なしつつ年老いぬ。510
後にこれらの事すべて成らむと我に彼告げき。
オデュッセウスの手によりてわれの視覚は去るべしと。
されども我はおおいなる美なる人間、堂々の
威力振るいて来るべきを、つねに心に期待しき。
図らざりけり[1]、丈低く卑しく力弱き者、515
酒もて我を陥れ、かくしてわが目ほろぼしぬ。9-516
さはれこなたにオデュセウス来れ、贈遺を致すべし。
汝に帰国恵むべく地をゆる神に祈るべし。
我は彼の子、彼はわが父なりと宣し言う。
意あらば彼はわれのまみ癒さん。彼をほかにして、520
不死の神明、人間のいずれもこれをよくし得ず」

[1]思いもよらず

しか陳ずるに答えつつわれは言句を叫び言う、
「汝の魂を生命を滅ぼし去りて、冥王の
宿に汝を送ることまさしく叶い得ましかば!
まさしく大地ゆる神も汝のまみを癒し得ず」525

しか陳ずれば、星ひかり天に両手をさしのして、
ポセイドーンの大神に彼は祈りて叫び言う、
「ああ髪黒きポセイドン[1]、地を抱く神、きこしめせ。9-528
我もし君の息ならば、君もし我の父ならば、
さらば、都城を破壊する彼れオデュッセウス——イタケーに 530
住めるラーエルテースの子——故郷に返すことなかれ。
されど親しき者に会い、祖先の郷に、堅牢に
作りし家に帰るべき、運命彼にありとせば、
あらゆる従者失いて悲惨の姿取りながら、
他人の船に乗り遅く帰りて家に難受けよ」535

[1]暗き海の支配者。

祈りてしかく陳ずれば髪黒き神きこしめす。
彼は再びいやましの大いなる岩かきあげて、
巨大の力うち込めて振りてはるかに投げ飛ばし、
へさき緑の我が船のうしろに近く落ちしめぬ。
手に取るかじの端近くおよばざること僅かなり。540
その落ち来る岩のため海ははげしく波騒ぎ、
潮は先に船を駆り、あなたの岸に迫らしむ。

かくして船は島に着く。そこに残せし漕ぎ座良き
あまたの船は相接し並び泊れり。従者らは
我らを待ちて悲しみて、船をめぐりて座して泣く。545
わが船ここに着ける時、これを砂上に引き揚げて、
我ら一同わだつみの波うつ岸におり立ちて、
キュクロープスの群羊を船よりやがて引き出し、
これを分かちて何びとも分を失うなからしむ。
されど群羊分かつ時、かの雄羊をことさらに 9-550
脛甲かたき従者らは我に与えり。岸の上、
これをほふりて雲寄するクロニデースに——一切を
治むる神に——牲として、その腿焼けり。しかれども
ゼウスはこれを顧みず。すべての漕ぎ座良き船の、
親しきわれの従者らのほろびんことを計らえり。555

かくて夕陽沈むまで終日われら岸に座し、
多量の肉と甘美なる酒を用いて宴を張る。
やがて日輪沈み去り暗黒来り襲う時、
みなは一同わだつみの波うつ岸に横たわる。

薔薇の色の指持てる明けの女神の現われに、560
われは従者を呼び起し、令を下していっせいに、
彼らを船に乗りこませ、繋げる綱をほどかしむ。
彼らすなわちすみやかに船に乗り入り、椅子につき
列を正していっせいに櫂もて波浪うちて行く。
かくてここより漕ぎ去りぬ、親しき友を失いて、565
悲しみながら、さりながら死を逃れしを喜びて。


オヂュッセーア:第十巻


オデュッセウス物語の続き、第四の冒険——一行は風の神アイオロスの島に着き、一か月そこに歓待され、発するにのぞみ、風を封じ込めし革袋を与えられる(1~21)。イタケーの故郷近くに来れる時、オデュッセウスの疲れて眠るに乗じ、従者らは革袋中何の宝ありやを知らんとして封を破る。ために逆風再びアイオロス島に吹き返す(22~55)。アイオロス怒りて一行を追い払う(56~79)。七日を経て第五の冒険——食人種の郷に着き、多くの従者殺されて巨人の食となる(80~124)。第六の冒険——オデュッセウスの船は逃れて妖女キルケーの住むアイアイエー島に着く(125~136)。島に上陸し三日の間酒食を取りて休む(137~185)。四日目に一半の従者ら探険に出でキルケーの館に到り、魔薬を与えられて化して獣となる。オデュッセウスはこの報に接し行きて道に神使ヘルメイアスに会い、その恵める霊薬を携えて、キルケーを屈服せしむ(186~399)。他の従者らも誘われてキルケーの館に来る。一同ここに一か年滞留(400~468)。オデュッセウス帰郷を乞う。キルケー彼を促して冥王の府に赴かしむ(469~574)。

アイオリエーの名を負える島に一同やがて着く。10-1
諸神のめずるアイオロス・ヒッポタデース[1]ここに住む。10-2
その浮島[2]のめぐりには堅牢無比の黄銅の 10-3
壁を巡らし、滑らかの岩石高くそびえ立つ。
かれの宮中生まれたる子女は合わせて十二人。10-5
息女は六人、花やかの子息同じくまた六人。
彼は息子に妻として六人の息女与えたり。
めずる父親母親のうれしきそばにとこしえに、
彼らは宴す。その左右に無量の美味は満ちあふる。
宮に終日肉の香といみじき笛の音と満つ。10-10
夜に到ればラグの上、また彫刻を施せる
いみじき床の上にして彼らは妻と共に伏す。
彼らの都市と華麗なる宮に一同やがて着く。
ここにひとつきアイオロスわれをもてなし、種々の事、
イーリオンまたアルゴスの船と帰郷をたずね聞く。15
我はすなわち順々に委細をすべて話し説く。
しかして彼にわが旅行、われの帰郷を慇懃に
願えば、彼は何事も拒まず、これが備えして、
齢九歳の牛の皮剥ぎて作りし皮袋、
中にすべての颯々の風の呼吸を入れし物、20
われに与えぬ。クロニオーン、彼をば風の差配とし、
その意のままに風を止め、風を起すを得せしめき。
すなわち彼は船中に風の袋を銀製の
輝くひもに繋ぎとめ、風漏るることなからしめ、
ひとり我らと我船を運ばんために、ゼピュロスの 25
風の呼吸を起こさしむ。されども事は成らざりき。
悲し、われらの狂愚より我らほとほと破滅しぬ。
日夜重ぬる九度(ここのたび)、船は整々漕ぎすすみ、
十日になれば程近く祖先の国は眼前に 
現われ、岸に火を燃やす人の姿も眺むべし。30
そのとき甘き睡眠は疲れし我を襲い来ぬ。
祖先の郷に迅速に着かんがために、我は手に
かじを取りつつ従者らの誰にも任せざりし故。
その従者らは彼と此互いに言葉交わしつつ、
言えり、黄金白銀をヒッポタデース、広量の 35
アイオロスより恵まれて我わが家にもたらすと。
かくて従者のあるものは隣れる者に陳じ言う、
「ああ、うらやまし、わが主人。いずこいかなる地に行くも
彼はあらゆる人間に愛され、しかも尊ばる。
彼は華麗の宝物を戦果となしてトロイアの 40
地よりたずさう。しこうして同じ旅をなしながら、
我は空手に一物も取らず、故郷に立ち帰る。
しかも今またアイオロス、好意を持ちて彼にこの
贈遺をなして喜ばす。いざこの贈遺しらべ見む。
黄金および白銀は革袋中にいくばくぞ?」45

[1]ヒッポテースの子。
[2]アポローンの小島デロスまた浮島といわる。ヘロドトース2-156はエジプトにあるアポローン崇拝の浮島につきて述ぶ。

しかく陳じぬ、よこしまの思念彼らに打ち勝ちぬ。
皮の袋は開かれぬ。あらゆる風は吹き立ちぬ。
あらび狂える疾風は、泣ける彼らを襲いつつ
故郷を後にすみやかに、潮の上に吹き去りぬ。
我は驚き目を覚まし、おのが思慮ある胸に問う。10-50
船より落ちて海中にこの一命を棄つべきや?
あるいは黙し生存の人のあいにや留まるべき?
やがて決して耐え忍びとどまり、かしら覆いつつ、
わが船中に横たわる。悪風、船を駆り立てて、
アイオーロスの島に着く。従者は共にうめき泣く。55

かくて一同陸上におりたち、井より水を汲み、
船のかたえにすみやかに従者彼らの食を取る。
かくて一同飲食を終われる後に我は立ち、
使者とひとりの従者とを伴いつつも、アイオロス
住む荘厳の館さして行きて眺めぬ、その王者 60
その恩愛の妻と子と共に食事を催すを。
すなわち入りて入口の柱に近く敷居のへ
座しぬ。彼らは驚けり。しかして我に問いて言う、
「オデュッセウスよ、いかにして来れる。とある悪しき神
悩ましつるや?慇懃に我は汝を送りきに。65
故郷の館に、好む地に、汝の帰り着かんため」

しかく彼らは陳ずれば、心痛めて我答う、
「不良の従者さらにまた悪しき睡眠のろわしく、
我を害せり。そを癒せ。君らはこれを能くすべし」

しかく陳じて柔らかき言句をもちてみなに乞う、70
されどもだれもみな黙す。父は答えて我に言う

「人中もっとも忌まわしき汝、とく去れわが島を。
めでたき天の神明のもろもろに憎まるる
人を憐れみ送りやる——この事我に許されず、
去れ、不滅なる神明に疎まれ帰り来たるゆえ」75

しかく陳じて、呻吟の激しき我を追い払う。
そこより心苦しめて一同船をすすめ行く。
狂愚のゆえにやむなくも悩みて櫂をはたらかし、
いたく疲れぬ。吹き送る順風ついに現われず。

六たび日夜を重ね来て海を渡りて七日めに、10-80
ラモスの高き都市に着く。テーレピュロス[1]にたどり着く。10-81
ライストリューゴネスの族、この都市治む。この郷に
群を駆るもの、帰るもの牧夫互いに呼び答う。
眠らぬものはこの郷に二重の賃を儲くべし。
牛を飼う賃、銀色の羊飼う賃儲くべし。85
夜と昼との往来は互いに近く相迫る。10-86

[1]ある説はこれを形容詞となし、「城門互いに離るる」と解す、すなわち広大なる都市の意に。ある説は固有名詞となす(シチリアの北西岸の都市)
[2]夜半の太陽の郷(白夜)についての漠然たる知識より来ると見ゆ。

ここの港はいみじくてこれをめぐりて右左、
険しき巌そびえ立ち、岬をなして彼と此、
互いに向かい波の上突き出でつつも、港口
狭からしめぬ。この場所に今一同は来り着き、90
港の中に両端の曲れる船をつなぎ止む。
うつろの港、その中に船は接して繋がれぬ。
港の中は波立たず、大波小波跡がなく、
見渡す限り海面は煌燿(こうよう)として静かなり。
されども我はただひとり、港の外に黒き船、95
陸地の端に停らしめ、綱もて岩につなぎ付け、
けわしき巌——展望のよろしき上によじ登り、
見ればそこより人間と家畜のわざは跡もなし。
ただ煙のみ大地より上るをわれは眺め見る。
ここに地上に食を取り住むは何らの人類か?10-100
これを知るべく従者らの中より二人選び出し、
さらに一人の伝令の使いをそえて送りやる。
岸におりたつ三人のすすむ平らの道の上、
高き山より木材を都市にもたらす車馬通う。
やがてすすみて都市の前、水汲み女子と相見たり。105
ライストリューゴ·ネスの一、アンティパテスの娘なり。
アルタキエーの名を呼べる清き泉にくだり行き、
そこより水を妙齢の処女は都に運ぶめり。
そのかたわらに近く立ち言句はなちて処女に問う、
「ここの庶民に令下すその国王は何ものぞ?」110
問われて彼女は父王の館の高き屋指し示す。
一同やがて壮麗の館に入り来ておおいなる
王妃あたかも山の嶺見るがごときに恐じ怖る。
王妃そのときすみやかに集会の座よりその夫 
アンティパテスを呼び出せば、無残の破滅たくらみて、115
直ちに従者一人を捕えほふりて食となす。
二人はやがてかろうじて逃れて船に帰り着く。
夫王すなわち大音に呼べば都城の四方より、
無数にライス·トリュゴネス、その声聞きて寄せ来る。
姿は人に似もやらず、怪物見るにさも似たり。120
彼らは重き大石を岩壁よりし離し取り、
投げればすぐに船のそば、すごき音響わき起る。
打ち殺さるる叫喚と打ちくだかるる船の音。
死体を彼ら魚の如、刺して運びて食となす。
海中深き湾の中彼ら屠殺を行える。125
その間に我は鋭利なる剣を腰より引き抜きて、
へさき緑のわが船を繋げる綱を切りはなち、
すぐに従者を励まして危険の地より逃るべく、
力をこめて櫂取れと令を下せば従いつ。
無残の死滅恐れつつ波浪を切りて船すすめ、130
高くそびゆる岩壁をあとに海へと乗り出す。
しかくまぬがれ喜べど残りの船はみなほろぶ。
親しき友を失いて胸は悲痛に満つれども、10-133
死滅をのがれ喜びて一同船を漕ぎすすめ、
アイアイエーの島に着く。人語あやつる恐るべき 10-135
女神キルケー、鬢毛の美なる女神はここに住む。

アイエーテース無残なる者の妹、彼と此、
共に生めるは人間を照らすヘーリオス、しこうして
母はペルセー、ペルセーをオーケアノスは生み出でき。
船停むべき湾内に、船より出でて岸のへに、140
無言の中にわれら着く。とある神霊導けり。
疲労ならびに哀痛にいたく心を悩まして、
岸にのぼりて二夜二日砂上にわれら横たわる。
鬢毛美なる曙の神第三日をもたらせば、
我はすなわち鋭利なる剣と槍とを携えて、145
船のそばより足すすめ、良き展望の地にのぼる。
人のわざ見て人の声聞かんがためによじ登る。
高く険しき展望の場にのぼりて立てる我、148
見わたすかなた、繁き森、林のしげみつらぬきて、
煙のぼりぬ、キルケーの館より、広き大地より。10-150
その立ち昇る煙見て、行きてしかして探ること、
しかるべきやと胸の中われは思案にかきくれぬ。
思案にくれてやがてかく行なうことを良しと見ぬ。
すなわち船に、わだつみの岸に、帰りて従者らに
食を与えてしかるのち探りに人を出すことを。155
かくしてわれは漂える船の近くに帰り着く。
その時とある神明は淋しき我を憐れみて、
角いかめしき一頭の大鹿道に送り出す。
森の繁みをわけ出でて、水を飲むべく、日輪の
猛威にいたく弱りつつ、渓流さしてくだり来る、160
そのくだり来る大鹿の背中のもなかをわれは射ぬ。
飛ばす鋭き黄銅の槍にその背を貫かれ、
うめきて鹿は塵中に伏して、魂身を去りぬ。
そのとき巨獣踏まえつつ、傷口よりし黄銅の
鋭き槍を抜き取りて、これを地上に横たえて、165
しかして木々の小枝また柳の枝を折りとりて、
これをよくない、一尋の長さの縄を編み上げて、
これを用いて恐ろしく大なる鹿の足しばり、
しばりてこれを首に掛け、槍を杖つき辛うじて、
黒き船へと運び行く。片手にこれを肩の上 170
支うることは難かりき、さばかり鹿は大なりき。
かくて巨獣を船の前どうとおろして、柔らかき
言句をもって部下たちを励まし我は陳じ言う、

「親しき友よ、いかばかり心悲嘆に満つるとも、
運命の日のいたる前、冥王の府に入るなかれ。175
飲食いまだ船の中こと欠かざれば、今ふるえ、
食事を思え。飢餓のため衰え弱ることなかれ」

しか陳ずればすみやかに一同われに従えり。
彼らすなわちわだつみの岸の近くにすすみ来て、
そこに投げられ横たわる鹿の巨大に驚きて、180
驚異のまみを張りしのち、我に返れる一同は、
水をそそぎて手を洗い、美々しき食事整えり。
かくて夕陽しずむまで、多量の肉と甘美なる
酒を用いて宴開き終日岸の上に座す。
やがて日輪しずみさり暗黒四方に寄するとき、185
鞺々として波寄する岸のへ伏して横たわる。
薔薇の色の指もてる明けの女神の出でし時、
我は評議の席設け、みなに向かいて陳じ言う、

「事情まことに悪くとも我の言句に耳を貸せ。
友よ、われらは今知らず、西はいずこぞ、ひんがしは[1]? 10-190
光明照らす太陽の沈むやいずこ?現わるる
ほとりやいずこ?しかれども何らの策の残れるや?
そを迅速に思慮すべし。我に取りては策あらず。
険しき高き展望の地上に我はよじのぼり、
島を眺めり。そのあたり無限の波浪広がれり。195
島は低くも横たわる。中に一条立つ煙、
繁れる森と林とのあなたに我眼認めたり」

[1]東西を知らずとはいかなる郷土にあるやを知らずの意なるべし。

しか陳ずれば一同の心、胸裏にくだけ去る。
彼らはライストリュゴネス、アンティパテスのなせしわざ、
また人食らう獰猛のキュクロープスを思い出で、10-200
いたくうめきてはらはらと淋漓の涙ふりおとす。
さはれ彼らの号泣も何らの益をもたらさず。

そのとき我は脛甲の良き従者らを二分して、
その両隊のおのおのに一人の首領あい定む。
我自らは一隊を、エウリュロコスは他を率ゆ。205
しかしてくじを黄銅の兜の中に迅速に、
振ればすなわち勇猛のエウリュロコスのくじ出でぬ。
出で行く彼ともろともに、二十二人の従者らは
慟哭しつつすすみ行く。残れる者も共に泣く。
一行やがて開けたる渓谷中にキルケーの 210
館——滑らかに磨かれし石より成れる館を見る。
そのかたわらに深山の狼および獅子群れぬ。
女神がさきに薬剤を与えて魅して馴らすもの。
その猛獣は入り来る人を襲うをあえてせず。
甘えて媚びておおいなる尾毛を振りて跳ねおどる。215
主人宴より帰る時、これを迎えて飼い犬の
尾を振るごとし(喜べる物を主人はもたらせば)。
かくのごとくに獅子および鋭き爪の狼は、
尾を振る。されど猛獣に彼らはすべて恐じ怖る。
かくて鬢毛うるわしきかのキルケーの戸の外に 220
彼らたたずみ、家の中いみじき機(はた)を前にして、
歩みながらもうるわしく女神の歌う声を聞く。
神明の織りなす布はいみじ、うるわし、かがやかし。
そのとき主将ポリテース——我のもっとも愛で思い、
とうとぶ従者——言句もて伴に向かいて陳じ言う、225

「友よ聞かずや?戸の中にいみじき機を前にして、
歩みながらにうるわしく女神あるいはある女性、
床ふるうまで歌うなり。いざすみやかに音なわむ」

しか陳ずれば従いて伴は大声あげて呼ぶ。
ただちに女神現われて光る華麗の戸を開き、230
招けばみなは思慮なくて付きて戸内にすすみ行く。
エウリュロコスは奸計を推してひとり立ちとどまる。
椅子にあるいは高椅子に女神はみなを座らしめ、
乾酪、麦粉、黄なる蜜、プラムノス産[1]の葡萄酒を、10-234
混じ作れる飲料の中にすこぶる恐るべき 235
毒を注ぎて取る者に帰郷の念を忘れしむ。
人々受けて飲みほせば、ただちに杖を振り上げて、
女神かれらの身を打ちて豚いる檻に閉じこめぬ。
頭と声と荒き毛と姿、まったく豚にして、
前に同じく変らぬはひとり彼らの心のみ。240
泣きつつ檻に捕らわるる伴に、キルケー投げ与う
食は土の上(へ)まろび這う、豚の食とし慣るる物。
すなわちブナとカシの実とまた山グミの木の果なり。

[1]プラムノス山(サモス島の西のイカリア島)の産(一説)『イーリアス」11-640。

その痛むべき運命の友の消息もたらして、
エウリュロコスはすみやかに黒くぬりたる船に着く。245
されど激しき悲しみに心打たれて彼は今、
せつに願うも一言も述べ得ず。涙両眼に
あふれ、痛める胸中にただ慟哭を思うのみ。
これを眺めて驚ける人々かれに問える時、
我に返りて僚友のつらき破滅をのべて言う、10-250

「ああ誉れあるオデュセウス、君の命ずるごとくして、
森の間をすすみ行き、開けし谷の中にして、
磨ける石に作られし華麗の館をわれら見き。
中に女神か、はた女人、おおいなる機まえにして、
歩みながらにいみじくも歌えり。われら呼ばわれり。255
直ちに彼女現われて輝く扉うち開き、
招けば皆は思慮なくて、ひとしく付きて内に入る。
我ただひとり奸計を推して外に立ちとどまる。
群がり内に消え去れる者たちまたと一人だも、
現われ出でず。時長くし座して待てども現われず」260

その言聞きて肩の上、銀鋲打てる黄銅の
おおいなる剣投げかけて、さらに弓矢を身に帯びて、
われ立ち上り、命下し、同じき道を伴せしむ。
されども彼は我が膝を両手に抱だき伏して乞い、
泣きて飛揚のつばさある言句を我に陳じ言う、265
「ああ君、ゼウス育てし子、好まぬ我を行かしめな。
残せやここに。我は知る、君も再び帰り得じ。
他を連れ帰ることを得ず。むしろ残れる者ととも、
はやく逃げ行け。災いの運命かくてまぬがれむ」

しかく陳ずる彼にわれ言句陳じて答え言う、270
「黒くぬりたる中広き船に、この場にとどまりて、
エウリュロコスよ、飲食をなしつつ汝残れかし。
されども我は出で行かん。強き運命我にあり」

しかく陳じてわが船を、海を離れて出でて行く。
されども聖き渓谷を通り過ぎ、魔女キルケーの 275
おおいなる館訪わんとし、足をすすむる道の上、
黄金の杖携えてヘルメイアスは我に会う。
出で会う神は青春の若き人士の姿する。
口の辺りに初めての柔毛(にこげ)を見たる若盛り。
かくして彼はわが手取り、我に向かいて陳じ言う、280

「未知の山道とおり過ぎ、いずこに汝、身ひとつに、
不幸の者よ、行かんずる?汝の伴はキルケーの
館の中にて豚のごと豚の檻にぞ捕えらる。
そを救うべく来れるや?思うに汝自らも
帰るを得まじ。他と共に同じくそこにとどまらむ。285
されども我は災いを解きて汝を救うべし。
この薬草のいみじきを取り、キルケーの館に行け。
これぞ汝の頭より悪しき運命払うべき。
われキルケーの奸策をすべて汝に示すべし。
彼女は汝に飲料を備えて中に毒入れむ。290
されどもかくて汝をば魅する能わじ。しかするを
われの与うる妙薬は許さず。委細今告げむ。
長き杖振りキルケーが、まさに汝を打たんずる
そのとき、汝鋭利なる剣を腰より抜きはなち、
殺を念ずるごとくして、キルケー目がけ突きかかれ。295
さすれば彼女は驚怖して寝屋に汝を誘うべし。
そのとき女神横たわる寝屋を分かつを拒まざれ。
さすれば彼女は伴を解き、汝をつとめてもてなさむ。
さもあれ彼女に神明に誓い立てよと命ずべし、
この上さらに災難を汝に対し計らずと。 10-300
さなくば武具を剥ぎ取られ汝微弱の者たらむ」

しかくアルゲイポンテース[1]、陳じて地より薬草を 10-302
抜きて与えて、我にその奇しき特性のり示す。
その根は黒し。しかれどもその花、乳のごとくなり。
神々これにモーリュの名与う。死すべき人間は 305
これを掘ることやすからず。神は一切みなよくす。

[1]すなわちヘルメイアス。

ヘルメイアスは木々しげる島より立ちて、おおいなる
ウーリュンポスに向かい去る。しかして我はキルケーの
館に向かえり。道すがら種々に心を苦しめて。
やがて鬢毛うるわしき女神の門の外に立ち、310
立ちつつそこに呼ばわれば、女神は我の声を聞く。311
直ちに外に現わるる女神輝く戸を開き、312
我を招けば、胸中に憂いながらも付きて行く。313
入ればすなわち麗しく巧みいみじく銀鋲を 314a
飾れる高き椅子の上、われを座らせ、慇懃に、314b
わが両足の台を据え、しかして後にたくらみて、315
光る黄金の杯の中混成の汁満たし、316
さらにひそかに恐るべき毒を投じて飲ましめぬ。
我はすなわちこれを受け飲めども絶えて害されず。
そのとき魔女は杖あげてわれを打ちつつ叫び言う、

「いざ今なんじ獣檻(じゅうかん)に行きて他と共そこに伏せ」320
その言聞きて奮然と我は鋭利の剣を抜き、
殺を念ずるごとくしてキルケー目がけ突きかかる。
そのとき彼女は高らかに叫びて我の下に伏し、
わが膝抱だき悲しみて、われに羽ある言句言う、

「ああ君誰そや?いずこより?都市と親とはいずこぞや?325
恐るべき毒飲みながら害受けざるぞいぶかしき。
この毒飲みて、白き歯の防壁通り行かしめし
人間にして、この毒に耐え得る者は絶えてなし。
されど魔力に耐え得たる心は君の胸にあり。
オデュッセウスか、君はそも?黄金の杖たずさうる 330
使いアルゲイポンテース、かつて話しき。軽船に
トロイアよりし帰り来て、君は我身を訪うべしと。
いざ今鞘にその剣(つるぎ)おさめよ。君と我と共、
わが柔らかき寝屋に入り休まむ。床を共にして、
愛にひたりて快く契り、睦みて語らわむ」335

しかく陳じぬ、そのときに我は答えて彼に言う、
「キルケー、汝いかにしてわが温情を求むるや?
汝は我の従者らをこの館中に豚と化し、
しかしてさらに奸計を我に対してもくろみて、
寝屋にすすみて柔らかき床に上れといざなうは、340
我の武装を剥ぎとりて微弱の者となさんため。
汝の寝屋に入らんこと我は断じてがえんぜず。
新たにさらに奸計を我にたくらむことなしと、
女神よ、汝おごそかの誓いをなすにあらずんば」

「しか陳ずればすみやかに、女神は命に従いて 345
誓う。かくしておごそかの誓言宣し終わる後、
我はすなわちキルケーの華美を極むる寝屋に入る。
かかる間に部屋部屋に四人の侍女はいそがしく
つとめ働く。館中につねにかしずく女性たち、
彼らはすべて泉より、森より、さらに大海に 10-350
走り流るる神聖の川より、生まれ出でし者。
侍女の一人は紫の華麗の布を椅子の上、
かけて覆いてその下に、麻の布切れ広げ敷く。
第二の侍女は、椅子の前、白銀製の数々の
卓を据えつつ、その上に黄金製の籠をおく。355
侍女の第三、白銀の壷の中にて蜜に似る
甘美の酒に水をまぜ、黄金杯をまた配る。
第四は水を汲み来り、鼎の下に炎々の
火炎おこして、沸々と中に熱湯たぎらしむ。
かくて輝く黄銅の鼎の中に沸きたる湯、360
浴槽中に汲みとりて程よく水を混じ入れ、
中にわが身をひたらしめ、頭を洗い、肩清め、
わが心肝を弱らせし疲労を身より払い去る。
洗い終わりて浴槽を出づれば、やがて滑らかの
香油を四肢にまみらして、上衣下衣をまとわしめ、365
いみじき技工施せる、銀鋲打てる華麗なる
椅子に、わが身をよらしめて、さらに足台下に据う。
続いてさらに一人の侍女、黄金の壷の中、
手洗う水を持ち来り、銀盤の上わがために
傾け、かくて磨かれし卓は近くに据えられぬ。370
そのとき家事を司る老女はパンと数々の
珍味をあまた貯蔵よりもたらし来り卓にのせ、
我に勧めぬ。しかれども、そこには我の気は向かず。
心はここにあらずして、危険を予感し座につけり。

かくわれ座して食物にわが手伸ばさず、おおいなる 375
悲哀に沈む。かくと見る女神キルケー近寄りて、
かたえに立ちてつばさある飛揚の言句我に言う、

「ああオデュッセウス、いかなればかくも声なき人の如、
座して心を悩まして手を飲食に伸ばさざる?
あるいはほかの計略を君や疑う?何事も 380
恐るるなかれ。おごそかの誓いを君のため立てぬ」

しかく陳じぬ、そのときに答えて我は彼に言う、
「思えキルケー、いやしくも正しき人はいかにして、
親しきおのが僚友を解きて親しく眼前に
見るに先だち、飲食にその手を伸ばすことを得ん!385
汝まことに情ありてわれに飲食うながさば、 わがめで思う僚友を解きてこの目に見せしめよ」

しか陳ずればキルケーはその手に杖をとりあげて、
館より外に走り出で、豚を収むる檻の戸を
開き、九歳の豚の相そなえるものを駆り出だす。390
彼ら面して相立てばその各々の前に来て、
仙女は先と変りたる奇異の薬を施しぬ。
さきにゆゆしきキルケーの与えし悪しき薬にて、
生じしめたる荒き毛は伴の四肢より剥げ落ちぬ。
しかして皆はこつ然とまた人間の姿とり、395
先よりさらに美しく若く身の丈高くなる。
そのとき皆はわれを見て各々わが手握りしめ、
歓喜に満ちていっせいにおめき叫べば、洋々の
音、館中に鳴りわたり、女神もために情動く。
女神の中にすぐれたる彼女は近く立ちて言う、10-400
「ラーエルテース父として知謀に富めるオデュセウス、
ゼウスの裔(すえ)の君よいざ、船と岸とをさして行き、
すべての前にまっさきに船陸上に引き上げよ。
次に貨物と一切の船具おさめよ洞の中。
しかして親しき従者連れ、ここに再び戻れかし」405

しか陳ずれば勇猛の我の心はうべなえり。
かくして我は速き船ならびに岸をさして行き、
そこに親しきわが従者、船のかたえにさめざめと、
はげしく涙ふりおとし、悲哀にくるる姿見る。
牧場に草を食み飽きて小屋に群がり帰り来る 410
母牛迎えてそのめぐり喜び勇み跳ね躍る
子牛は、もはや檻の中とどまることをあえてせず、
母を囲みて咆え叫び、めぐり走るもかくやらむ。
従者ひとしく眼を見張り、我を眺めてさめざめと
涙流して、わがそばに群がり寄せぬ。嬉しがる 415
彼らの心、さながらに生まれ育ちしイタケーの
けわしき国に、生国に、祖先の郷に着くごとし。
うめき叫びて従者らは羽ある言句陳じ言う、

「神の育てしオデュセウス、君の帰りの嬉しさよ。
うれし、さながらイタケーの故郷に帰り着くごとし。420
さはれ我らの僚友の死滅やいかに、物語れ」

そのとき、我は温和なる言句用いて陳じ言う、
「すべての中にまっさきに船陸上に引き上げよ。
次に貨物と一切の船具を洞に取り入れよ。
しかして汝らことごとく急ぎて我に付き来れ。 425
行きて見るべし神聖のかのキルケーの家の中、
食事にふける僚友を。彼らの備蓄豊かなり」
しか陳ずればすみやかに従者らわれの言に聞く。
エウリュロコスはただひとり聞かず。僚友戒めて、
彼らに向かいつばさある飛揚の言句陳じ言う、430

「不幸の我らいずこにか行かんとするや?いかなれば、
かのキルケーの館中に行くべく難儀求むるや?
妖姫は人を豚と化し、狼と化し獅子と化し、
強いて迫りて大いなるその宮殿を守らしむ。
わが僚友が軽率のオデュッセウスともろともに 435
かの洞窟に行きし時、キュクロープスも閉じ込めて、
思慮なき彼のゆえにより、わが僚友はほろびにき」

その言聞きていきどおる我は胸裏に思案しぬ、
わが長剣を逞しき腰より抜きて振りかざし、
よしや血縁近しとも、彼の頭を切り落とし、440
大地にこれを投ぜんか?案ずる時に従者らは、
かわるがわるに温厚の言句用いて諫め言う、

「神より生まれしオデュセウス、もしも我らに命じなば、
彼をばここに船のそば残して船を守らせむ。
さはれ我らをキルケーの館に導き行けよかし」445

しかく陳じて岸辺より、船より伴は立ち上がる。
エウリュロコスも中広き船のかたえにとどまらず、
もろとも立てり、恐るべき我のとがめを恐るれば。

かかる間にキルケーはその館中に心こめ、
わが従者らを浴せしめ、肌に香油をまみらしめ、10-450
その身のめぐり柔軟の上衣下衣をまとわしめ、
館に宴を開かしむ。来る僚友これを見る。
共に互いに彼と此認め、一切ことごとく
悟れる時に泣く声は、あまねく館に鳴りひびく。

そのとき女神近寄りてかたえに立ちて宣し言う、455
「ラーエルテース生める息、知謀にとめるオデュセウス、
もはやさばかり慟哭の涙を流すことなかれ。
鱗族むれるわだつみの上の苦悩やいかばかり、
また陸上に敵人の迫害いかに、我は知る。
さはれいざ今汝らは食事を取りて酒を飲め。 460
もとの元気がその胸に戻りくるまで。その昔 けわしき故郷イタケーを初めて起ちし時のごと。
今や汝ら元気なく失意のはてにしょげかえる。
苦難に満ちし漂泊を思い出だして、喜びに
汝の心満たされず。さばかり苦悩なめたれば」465

しか陳ずれば勇猛のわれらの心したがえり。
かくしてここに一年をまたく過してやすらいて、
日に日に肉を喫し飽き、甘美の酒を味えり。
かくして四季はめぐりゆき、月また月は移り去り、
昼長き日の来るまで、またく一年過ぎされば、470
そのとき我の親愛の従者はわれを呼びて言う、

「いみじき君よ、困難を逃れ助かり、堅牢に
築ける家に立ちかえり、祖先の郷を望むこと、
もし命ならば、今こそは、君も祖国を思えかし」

しか陳ずれば勇猛のわれの心は従えり。475
かくて夕陽沈むまで、多量の肉と甘美なる
酒を用いて宴開き、終日そこに座を占めて、
やがて日輪沈み去り、四方に闇のよする時、
わが従者らは暗影の部屋のほとりに眠り伏す。

されども我はキルケーの華美のふしどにうちのぼり、480
膝にすがりて乞い願う。女神はわれの声を聞く。
我は彼女に打向かい、飛揚の言句陳じ言う、
「ああキルケーよ、先の日に我を故郷に送るべく、
なしたる約を今果せ。我の心は今急ぐ。
従者の心またさなり。彼らは我を悩まして、485
君の不在の隙を見て、われを囲みて哀訴せり」

しか陳ずれば美麗なる女神答えて我に言う、
「ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス、
もはやわが屋に意に反し、汝とどまることなかれ。10-489
さはれ最初にまた一度さらに旅行に起ち出でて、490
冥府の王者ハイデース、その妃のペルセ·ポネイアの
宮をおとずれ、テーバイのテイレシアース、盲目の
占者の霊に尋ぬべし。彼の知性は確かなり。
ペルセポネイアただ彼に、死したる後も知あるべく
恵みを与う。他の死者はただ影として翔けるのみ」495

しか陳ずるを耳にしてわれの心はうちくだけ、
ふしどの上に座して泣き、この世に残りながらえて、
また日輪の光明を見るべき願いあらざりき。
されど転々反側と号泣すでに満てる時、
我はすなわち言句もて答えて彼に陳じ言う、10-500

「ああキルケーよ、その旅に導く者は誰ありや?
黒き船乗り何びともハイデース住む宮訪わず」

しか陳ずれば美麗なる女神ただちに答え言う、
「ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス、
導く者を求めつつ思いわずらうことなかれ。505
ただ帆柱をうち立てて白き帆を張り、船中に
座せよ。しからばボレアス[1]の呼吸汝を運ぶべし。10-507
オーケアノスを船の上過ぎてあなたに着かんとき、
そこに平らの岸のうえ高き白楊、みのらざる
楊柳(ようりゅう)——ペルセ·ポネイアの聖林、汝見なんとき、510
オーケアノスの水深き岸に汝の船あげて、
汝自らハイデース住む陰湿の宮を訪え。
そこアケローンに流れ入るピュリプレゲトーンまたさらに、
スチュクス川の枝流なるコーキュトスあり、巌あり。
とどろきわたる川二つ流れ落ち合う所あり。10-515
そこに勇士よ、近寄りてそのとき我の命のまま、
縦と横とは一ピュゴン[2]長さの穴を穿てかし。
しかしてそこに亡霊に捧げんために、まっさきに
乳と蜜との混液を、次に甘美の葡萄酒を、
さらに三たび目、清水をそそぎ、そのうえ麦粉まき、520
体を具せざる亡霊にせつに祈りて誓い言え。
郷イタケーに着かん時、まだ子を生まぬ一頭の
すぐれし雌牛、またさらに美味のいけにえ捧げんと。
テイレシアスにはまた特に全身黒き雄羊を——
群の中なる最上を——ほふりて牲となすべしと。525
かくてすぐれし亡霊の群に祈りをなせる後、
雄羊および色黒き雌羊とりて牲とせよ。
それらの頭エレボス[3]に向けよ。汝はふりかえり、
流るる水に顔向けよ。そのときそこに一群の、
今は世になき亡霊の数々寄せて来るべし。530
そのとき汝従者らを励ましこれに命ずべし。
むごき刃にほふられてそこに伏したる羊らの、
皮を剥ぎ去り、火に焼きて、おおいなる神ハイデース、
また恐るべきその妻のペルセポネイア祭るべく。
次に汝は鋭利なる剣を腰より抜きはなち、535
そこに座すべし。汝まだテイレシアスに聞かぬ前、
群るる亡霊紅血に近寄ることのなきがため。

そこにただちに予言者は、汝のまえに来るべし。
彼は汝に旅のこと、行きまた帰る道程を、
鱗族群るるわだつみの上の航路を示すべし」 540

[1]北風。
[2]50センチ。
[3]暗き死の谷(『イーリアス』8-367など)。

しかく陳ずる程もなく黄金の座の明けの神
現わる。仙女そのときに我に上衣と下衣とを
与えて体を覆わしむ。女神は銀の裾長き、
織のいみじき壮麗の衣装を穿ち、腰の上
黄金帯をまといつつ、頭上に被衣(かずき)いただけり。545
我は諸室を通り過ぎ、やさしき言に伴を呼び、
かわるがわるに各々の前に立ちつつ陳じ言う、

「友よ、あまりに甘眠をむさぼり過ごすことなかれ。
いざや行くべし。端正なキルケーわれを促せり」
しか陳ずれば勇猛の彼らの心従えり。10-550
さはれ一人も欠けずして共にすすむにあらざりき。
エルペーノール、その中の齢もっとも若き者、
あまり戦さに強からず知性も確かならぬ者、
友を離れて神聖の女神キルケーの館の中、
酒を過せる酩酊に涼を求めてやすらえり。555
ざわめき動く僚友の音と騒ぎを耳にして、
さめてにわかに飛び上り、長きはしごのあるところ、
行きてくだるを心中に彼は忘れて逆さまに、
高き屋根より地の上にどうと落ち来て、首の骨
いたくくだきて倒れ伏し、魂冥王の府に沈む。560

かなたその道すすみ行く従者に向かい我は言う、
「愛ずる祖先の郷さして行くと汝ら思うらむ。
キルケーわれに示せしは別の道なり。ハイデース、
また恐るべき彼の妻ペルセポネアー住むところ、
テイレシアース、テーバイの占者の霊に問わん道」565
しか陳ずれば、胸中に彼らの心うちくだけ、10-566
立てるその場に座して泣き、その頭髪をかきむしる。
されど彼らの慟哭は何らの益をもたらさず。

悲哀にくれてはらはらと涙流してわが船に、
また岸のへにわが足をすすめし時にこなたには、570
キルケー行きて見られずに我らを先に追い越して
雄牛雌羊黒きをば、黒船のそばつなぎ置く。
神はいずこに行かんとも、神意に反しまみあげて、
神を見ること、何びとも絶えてよくすることならず。574


オヂュッセーア:第十一巻


アイアイエーの島を立ち出でしオデュッセウスはキンメリア人の郷に着き、キルケーの命ずるごとく牲を献ず(1~50)。エルペーノールの霊まっさきに現わる。オデュッセウスは母の亡霊を見る(51~83)。テイレシアスは彼が故郷に帰るべきを、また途中の災厄を示す(84~137)。母の霊との問答(138~224)。将軍首領らの妻女の亡霊陸続として出で来る(225~332)。以上の物語の継続をアルキノオスまた客たちはオデュッセウスに求む(333~376)。物語の続き——アガメムノーン冥府に現われ悲運に倒れしを説く(377~466)。オデュッセウスとアキレウスの問答(467~540)。アイアースの霊現わる(541~567)。ミーノース、オーリオンらの霊現わる(568~600)。ヘーラクレースの幻影(601~624)。帰船(625~640)。

大海原の岸のうえ揚げたる船に着ける時、11-1
われらまさきに神聖の波にその船引きおろし、
黒くぬりたるその船に帆と帆柱をとりつけて、
群羊引きて中に入れ、かくして伴は悲しみて、
はらはらとして涕涙にくれつつ船に乗り込みぬ。11-5
そのとき声は玲瓏の鬢毛美なる恐るべき
女神キルケーわがために、へさき緑の船の帆を
満たす順風、たより良き助けの風を吹きおくる。
かくて直ちに一切の船具を揃え整えて、
われら一同座せる船、風と舵手とは導けり。11-10
わだつみわたる船の帆は張り広げらる日一日(ひとひ)。
やがて日輪沈みゆき、海路は闇に閉ざされぬ。
やがてわが船、水深きオーケアノスの端に着く。
霧と雲とに覆われてキンメリオイ[1]の民族は、11-14
ここにその都市築き上げ、ここにその生いとなめり。15
日輪高く天上をさして輝きのぼるとき、
あるは天より地をさして日輪くだり来るとき、
その煌々の光もて照らすことの絶えてなし。
ただ陰惨の暗き夜、不幸の民の上を覆う。
ここに到りて船とどめ、岸のへ揚げて群羊を 20
引き出だしつつ一同はオーケアノスの川に添い、
足をすすめてキルケーのさきに示せし場所[2]に着く。11-22
わが従者たちペリメデス、エウリュロコスはいけにえを
押さえ保てば、鋭利なる剣を腰より我は抜き、
縦横共に一ピュゴン、穴を穿ちてその中に、25
亡者すべてに供うべく、乳と蜜との混液を、
次に甘美の葡萄酒を、さらに三度目清水を、
注ぎ入れつつ、その上に白き麦の粉まき散らす。
体を具せざる亡霊にかくして我は祈り乞う。
我イタケーに着かん時、まだ子を生まぬ一頭の 30
すぐれし雌牛、またさらに美味のいけにえ捧ぐべし。
テイレシアス[3]にまたさらに全身黒き雄羊を——11-32
群の中なる最上を——ほふりて牲となすべしと。
かくて誓いと祈りとをなして亡者の群に乞い、
終わりて羊引き出し、穴に臨みて喉切れば、35
暗紅色の血は流る。今は世になき亡霊の
群そのときにエレボスを出でて続々寄せ来る。11-37
若き男性また女性、悩み続けし老齢者、
新たの悲哀感じたる優にやさしき少女たち、
穂先鋭き槍により突かれて逝ける勇士たち、40
紅血染むる武具帯びて戦場中に死せる者、
これらの亡者四方より、穴の辺りに啾々(しゅうしゅう)の
声をはなちて寄せ来る。我は恐怖に青ざめぬ。
そのとき我は従者らを励ましこれに令下し、
むごき利刃にほふられてそこに伏したる群羊の 45
皮を剥ぎ去りあぶり焼き、おおいなる神ハイデース、
またものすごき彼の妻ペルセポネイア祭るべく、
告げて自ら鋭利なる剣を腰より抜きはなち、
テイレシアスに話す前、体を具せざる亡霊が、
寄せて血潮に近づくを防がんためにそこに座す。11-50
エルペーノール[4]、船員の霊はまさきに出で来る。11-51
広き大地の胸の中、彼はいまだに埋められず。
哀悼まだし、埋葬もまだし、多難にせまられて、
彼の死体はキルケーの館のもなかに残されぬ。
彼を眺めて胸中に我は憐れみ、はらはらと 55
涙流してつばさある言句を彼に陳じ言う、
「エルペーノール、いかにして暗き郷より出でて来し?
黒き船にてわれ来しに、徒歩にて汝先だてり」。

[1]ホメーロスにおける詩的想像の民。所は冥府の入口の北に、オーケアノスに臨み、大地の西にあり。つねに雲霧に覆わる。
[2]10-515。
[3]予言者、前巻に述べられる。
[4]十巻の終に彼の屋上より落ちて死せる一段あり。

しか陳ずれば呻吟の声をはなちて彼は言う、
「ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス!60
身を害せしは神明のあしき運命、また大酒。
われキルケーの館の中、眠りに落ちて知らざりき。
長きはしごをくだり来て帰りの道を踏むべきを、
屋根より下に逆さまに落ちて、わが首脊椎の
節よりくだけ魂は、冥王の地に沈みたり。65
国に残りてここにいぬ人々にかけわれは乞う。
君の夫人と、そのむかし幼き君を育てたる
君の父、またひとり子のテーレマコスにかけて乞う。
我すでに知る、君は今ハイデース住む宿去りて、
アイアイエーの島めがけ、堅牢の船すすむべし。70
そこに到らば、わが主人、願わく我を思い出よ。
埋葬されず哀悼を受けざる我をあとにして、
その地を離れ去るなかれ。神の怒りを忘れざれ。
わが携えし武具ともに我の死体を荼毗(だび)に付し、
白波寄する岸の上、この薄命の友のため、75
塚を築きて来るべき後の世のため記念せよ。
かく我がために成しおえて櫂を墓のへ打ち立てよ。
生きし昨日は僚友と共に用いしわが櫂を」。

しかく陳ずる亡霊に答えて我は陳じ言う、
「ああ薄命の若き友、これらの事を皆なさん」。80
かく生と死の伴、我ら悲痛の言句相交え、
座しぬ。利剣を手に取りて我は血潮に臨みつつ、
わが僚友の幻影は多くの言句陳じつつ。

次に出でしは今はなき母の亡霊、おおいなる
アウトリュコス[1]の息女たるアンティクレイア。そのむかし 11-85
われイリオンに向かう時、なお世にありし我の慈母、
眺めて我は涕涙を流して彼女を憐れみぬ。
さはれ哀痛切ながら、テイレシアスに問わん前、
彼女血潮に近寄るを、無情ながらも許し得ず。

[1]19-395。

やがて続きてテーバイのテイレシアース、黄金の 90
笏を手に取り、現われて我を認めて陳じ言う、
「ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス、
悪運の友、いかなれば日の光明をあとにして、
ここに来りて亡霊を、楽しからざる郷を訪う?
さはれ穴よりあとに引き、利剣を鞘に収めずや。95
血潮すすりて真実を汝に我の告げんため[1]」。11-96

[1]亡霊血を啜れば言語を発することを得(153行およびその他)。

その言聞きて身を引きて銀鋲かざる利(と)き剣、
もとの鞘へと収むれば、暗紅色の血をすすり
尊き占者、つばさある言句を我に陳じ言う、

「ああ誉れあるオデュセウス、楽しき帰国求むるな。11-100
とある神明妨げむ。思うに大地震う者、
これを汝に許すまじ。彼は汝にいきどおる。
彼の愛児を盲目となせる汝にいきどおる。
濃藍染むる海逃れ、トリナキアー[1]の島の上、11-104
まさきに汝堅牢の船を渚に引き揚げて、105
一切を見て一切を聞く神明のヘーリオス、
その神明の養える牛と羊を見なん時、
おのれの心、従者らの心を、抑え制し得ば、
苦難受くともしかもなお故郷に帰ることを得ん。
かの牛羊をそこなわず、帰路にひたすらいそしまば、110
苦難受くるもイタケーの故郷に帰ることを得ん。
これに反してそこなわば従者も船もみな破滅、
我この事を予言せん。汝はよしや逃るとも、
他人の船に身を託し、伴一切を失いて、
無残の姿に帰り着き、家に難儀を認むべし。115
そは驕傲の人の群、汝の産をむさぼりて、
汝の妻に求婚の礼物もちて来る者。
されども汝帰る時、彼らの暴を懲らすべし。
かくて汝の館中に、計略により、あるはまた、
利刃によりて求婚のこれらの群をほろぼさば、120
そのとき汝旅に出で、いみじき櫂を携えよ。
やがて着くべき郷の民、彼らは海の知識なし。
彼らは喫する食物に塩を混ずることあらず。
舳艫(じくろ)を暗きくれないに染むる船舶絶えて見ず。
船に対して羽翼(うよく)たるいみじき櫂をつゆ知らず。125
見逃すことのあるまじき顕著のきざし今告げむ。
ほかの旅人道のへに会いて汝の櫂を見て、
おおしき肩に担うもの籾振うべき箕といわむ。
いみじき櫂をそのときに汝大地に植え立てよ。
ポセイダーオーン大神に、そのとき汝よく選び、130
雄牛雄羊雄の豚、すぐれし牲を奉れ。
しかして家にいたる時、広き大空しろしめす
不滅の神のもろもろに、各々順に従いて、
牲をほふりて奉れ。はるかに海に遠ざかる
汝の上に臨終はついに来らむ、穏かに 135
傾き尽きし老齢に。しかして領に住む民は、
幸福ならむ。我はかく真実すべて説き示す」

[1]12-127。

しか陳ずればつばさある言句に我は答え言う、
「テイレシエーよ、まさしくも神々かくは定めたり。
さはれ願わく真実にいま次のこと説き示せ。140
今は世になきわが母の亡霊ここに我は見る。
霊は黙して血に近く座して、しかしておのが子を
顔を合して見んとせず。言句かわすをあえてせず。
君よ教えよ。いかにして母はその子を認むべき?」

しか陳ずればそのときにただちに彼は答え言う、145
「汝の胸に銘ずべきわれの言句はいとやすし。
今は世になき亡霊の誰しも、汝血のそばに
寄るを許さば、その者は真を汝に語るべし。
寄るを拒まばその者はあとにむなしく帰るべし」

しかく予言を述べ終えてテイレシアスの霊魂は、11-150
冥府の王者ハイデースやどる宮居に帰り行く。
我は地上に座して待つ。やがてわが母すすみ来て、
暗紅色の血を飲みて直ちに我を認め得て、
悲哀の声につばさある言句を我に陳じ言う、

「なお生きながら陰惨の闇にわが子よ、いかにして 155
来れる?ここを見ることは生ける者にはやすからず。
おおいなる川、恐るべき流れ、生死の間(あい)にあり。
オーケアノスはまず先に。これを徒歩にて渡ること、
叶うべからず、堅牢の船をもつことなかりせば。
船と従者ともろともに漂泊長く時を経て、160
トロイアあとに今ここに汝来るや。イタケーに
いまだ行かずや。館の中汝の妻をまだ見ずや。」

しか陳ずるに答えつつ我はすなわち彼に言う、
「ああわが母よ、テーバイのテイレシアスの霊魂に
問うべく、我はハイデスの冥府に来る要ありき。165
これまでいまだアカイアに我近寄らず。わが郷に
まだ踏み入らず、とこしえに苦難忍びて漂えり、
アガメムノーンに伴いて駿馬産するイリオンに、
トロイア軍と戦いをなすべく起ちしその日より。
さはれああ母、真実にこのこと我に説き示せ。170
長く悲しみもたらせる死により汝倒れしは、
何たる命か?倒れしはあるいは長き病患か?
あるいは弓手アルテミス、柔軟の矢に倒れしか[1]? 11-173
郷に残せるわが父をわが子を次に我に言え、
彼らに我の王権は保たれありや?ただしまた、175
我帰らずと宣しいい、他人に奪い取られしや?
またわが妻のことを言え、考えやいかに意志いかに?
妻は子ととも一切を固く守りてとどまるや?
アカイア族の優秀のある者彼女をめとれるや?」

[1]本巻198。

しか陳ずれば端正な母はただちに答え言う、180
「汝の家にいみじくも、よく忍耐の心もて、
汝の妻は今残る。さはれ嘆きの夜と昼、
はらはらとして涙して暮らす彼女に去り来る。
次に汝の王権はいまだ他人に奪われず、
テーレマコスは平穏に領地治めておおやけの 185
宴に連なる、連なるは法を行なう者の身に
ふさわし、彼をみな招く。汝の父は田園の
中に残りて都市に来ず、彼には夜を過すべき[1] 11-188
寝台あらず、夜着あらず、華麗のしとねまたあらず、
冬には彼は奴隷らと同じく庭に、炉のほとり、190
塵埃のなか横たわり、身には襤褸をまとうのみ。
しかして夏と豊饒の季節来たる時、彼のため
葡萄の畑の一隅に、四方(よも)より散りて落ち来る、
その木葉をもとにして、低き寝床は設けらる、
そこに悲しく横たわり、汝の帰郷待ちわぶる、195
彼に老齢押し寄せて、胸に悲嘆を満たさしむ。
されども我は世を辞して死の運命に随えり、
狙い正しき弓の神[2]来りて、彼女の柔軟の 11-198
矢をはなちつつ館中に、われを倒すにあらざりき、
また悼むべき衰弱に四肢より命を奪い去る 11-200
その病患の襲い来て、われを倒すにあらざりき、
ああ誉れあるオデュセウス、やさしき汝思い出で、
あこがれ慕う傷心に我の甘美の命尽きぬ」

[1]老人の境遇あまりに悲惨解すべからず。
[2]女神アルテミス(5-123)(本巻173)。静穏に死せることをかく言う。

その言聞きて胸中に我は願いぬ、今はなき
わが恩愛の母の霊、今この腕に抱かんと。205
三たびかくして抱くべく願いすすみて飛びかかる、
三たび彼女はわが手より影また夢を見るごとく、
飛び去る。かくておおいなる悲哀は我の胸満たす、
かくして我はつばさある飛揚の言句陳じ言う、

「冥王の府にありながら、互いに腕を投げかけて、210
共に悲しき号泣に、抱かんと願い走り寄る
我を愛児をいかなれば、あわれわが母待たざるや?
ペルセポネイアあるはまた、我のはげしく慟哭を
尽すを念じたくらみて、我にこの影遣わすや?」

しか陳ずれば端正な母は直ちに答え言う、215
「ああ一切の人間の中にもっとも不幸なる
わが子、汝をゼウスの娘ペルセポネイアあざむかず。
一たび現世棄つる時、人はみなこの制を受く。
一命つきて霊魂の白き骨より別るれば、
肉と骨とは筋によりはや結ばれず。炎々と 220
はげしく燃ゆるすごき火の猛威によりてほろびさる。
そのとき魂は飄々と風のごとくに飛び回る。
今すみやかに光明に向かいて急げ。忘るるな、
これらすべてを、のちの時汝の妻に告げんため」

母とその子とかくかたる。かなた冥王のすごき妻 225
ペルセポネイア遣わせる、あまたの女性寄せ来る。
現世の中にすぐれたる人の妻、またそのむすめ、
暗紅色の血をめがけ、四方よりして群れ来る。
その各々にあい続き、問いただすべく願いつつ、
我は心に最上と念ずることを行ないて、230
刀身長き利き剣、われの腰より抜きはなち、
亡霊どもにいっせいに血潮すするを戒めぬ。
かくしてかれら相次ぎて、かわるがわるに寄せ来り、
各々おのが系統を述べぬ。すべてに我問いぬ。

素性尊きテューローはまさきに我の前に立つ[1]。11-235
自らとなう、すぐれたるサルモーネウスの息女ぞと。
彼女の夫はクレテウス、王アイオロス[2]生める息。
むかしは彼女、神聖のエニーペウス[3]を——一切の 11-238
川流(せんりゅう)中にすぐれたる清く流るる河の霊——
恋してこれの岸の上しばしば足を運びにき。240
大地を囲み震う神[4]、河霊の姿身に仮りて、11-241
渦巻き走る大川の口にて彼女に添い寝しぬ。
そのとき暗き大潮が、山のごとくにおしよせて、
渦巻き上り、この神を女性と共に隠し去る。
しかして神は処女の帯解きて眠りを注ぎ込む。245
愛の抱擁とげし後、神はしずかに立ち上り、
彼女の手を取り慇懃に羽ある言句陳じ言う、

[1]235~332行は、冥府に出で来る女性の群。
[2]風の神ではなく、テッサリア王。
[3]エリスにある川、あるいはテッサリアにあるとも言う。
[4]ポセイドーン。

「女性よ、我の抱擁を喜べ。年のめぐる時、
汝すぐれし子ら産まむ。不死の神明寝ぬる床、
見よ、徒(あだ)ならず。心してはぐくめ、汝それらの子。11-250
家に今行き、口閉ざし、わが名を人に言うなかれ。
汝に告げむ、我こそは大地ふるわすポセイドーン」

しかく陳じて波騒ぐ大わだつみにもぐり入る。
彼女はらみてペリアース[1]またネーレウス二児を生む。11-254
二人生い立ち、おおいなるゼウスの強き臣となる。255
イオールコスの広き地に住みて、家畜にペリアース
富みたり。さらに砂深きピュロスに住めりネーレウス。
女性の中にすぐれたるテューロー、のちに嫁ぎたる
クレーテウスに三児生む。アイソーン、ペレース、アミュタオーン。

[1]2-120(?)。

アンティオペーを次に見る。彼女の父はアソーポス。260
ゼウスの腕に抱かれて寝ねしと彼女誇り言う。
アムピオーン、ゼートスの二児はかくして生まれたり、
二人初めてテーバイの七つの門ある都市を建て、
都市の回りに壁を建つ。もし壁なくばテーバイの
広き領土に住みがたし。勇気はいかに強くとも。265

アルクメネーを次に見る、アムピトリュオンはその夫。
ゼウスの腕に身を任せ、その抱擁に生みし子は、
ヘーラクレース、勇にして獅子の心をもてる者。
心おごれるクレオンの生みたる息女メガラーを 
次に見る。アムピトリュオンの子[1]が彼女を妻とする。11-270
オイディポデース生める母エピカステー[2]を次に見る。11-271
心にそれと知らずして彼女はおのが子と契り、
無残の罪を犯したる。その子はおのが父殺し、
母を娶れり。この事を神明不意に民に告ぐ。
しかれど彼は神明のすごき意思より、テーバイに 275
苦難を忍び、カドモスの都をなおも治めにき。
彼女悲痛に耐えずして、高き梁(はり)より輪縄垂れ、
くびれて死して、ハイデース冥府の王の堅固なる
門をくぐりて、息子には母たるものの復讐の
女神の課せる大いなる難儀をあとに残し去る。280

[1]ヘーラクレースなり、ゼウスの子ともいわれ、アムピトリュオーンの子ともいわる。
[2]すなわちイオカステ、その悲劇はソポクレースの大作。

次に見たるはクローリス。その艶麗の姿見て、
無量の宝ネーレウス贈りておのが妻としき。
イアソスの息——ミニュアイのオルコメノスを治めたる 
アムピーオン[1]の末の子にこの麗人は生まれ出で、
ピュロスを女王として治め、夫にあまたの子を生みぬ。285
ネストールまたクロミオス、ペリクリュメノス、すぐれし子、
さらに加えてペーローを、人も驚く剛勇の
女性をうみぬ。近隣の人々妻に求むれど、
父ネーレウスうべなわず。イーピクロスの飼える牛、
ひたいは広く角曲がる群、扱うにに難き群、290
ピュラケーよりし駆る者にただ与うべし。この事を
すぐれし占者[2]企てぬ。されども神のすごき命、11-292
厳しき鉄鎖、牧羊の子らは占者をいましめぬ。
やがて日は行き月替り、めぐりめぐりて年満ちて、
季節再び帰る時、イーピクロスはかの占者 295
許して解けり、一切の予言[3]を彼になさしめて。11-296
かくしてゼウス、おおいなる神の念慮は果されぬ。
テュンダレオスめとりたるレーダー次に我は見る、11-298
猛き心の二人の子、彼女は夫のために生む、
馬術たくみのカストール、また拳闘にすぐれたる 11-300
ポリュデウケース。その二人生けるを大地が覆い去る。
ゼウスの厚き恩寵を地下にありても身に受けて、
かわるがわるに、一日は長らえ、次の日は死して、
受くる光栄、神明のそれにも彼ら等しかり。

[1]テーバイのアンピオーンとは別人。母は(後文326)クリュメネー即クローリスの祖母。
[2]メラムプースと言う。その兄弟がペーローを恋せるゆえに、代わりて企てしなり。
[3]イーピクロスに子のなき故を占わせしなり。
[4]いわゆるレダ、白鳥の姿をとれるゼウスに抱擁されしもの(後世の神話)。アガメムノーンの奸婦クリュタイムネーストラーはテュンダレオスとレーダーとの息女。

アローエウスのめとりたるイーピメデイア次に見る。305
ポセイドーンの抱擁を彼女自ら誇り言う。
生まれし二児はもろともに受けたる寿命長からず。
オートス、神に等しくて、エピアルテースほまれあり。
豊かの大地はぐくみし二人もっとも偉なるもの、
また美なるもの(光栄のオーリオーンをほかにして)。310
年歯わずかに九歳にて身の幅広し九ピュゴン、
しかも身の丈彼と此、共にひとしく九オルギュイア。
ウーリュンポスの神々を敵に、はげしき闘争を、
荒び狂える戦闘をなすべく二人おたけびて、
オリンポースの嶺の上、オッサを、さらにその上に、315
樹木しげれるペーリオン重ねて天にのぼらんず。
もし青春に逹し得ば、二人はこれを遂げつらむ。
されど鬢毛うるわしレートー生めるゼウスの子[1]、11-318
二人を撃てり。こめかみにいまだ和毛(にこげ)の生えぬ前、
あごひげ未だうらわかき彼らの顔に生えぬ前。320

[1]アポローン。

パイドラー[1]またプロクリス[2]、さらに無慈悲なミーノース[3]の 11-321
生みたる娘、艶麗のアリアドネーを次に見ぬ。
クレタ島よりテーセウス、アテーナイ府の丘の上、
彼女を連れんとせしも得ず。ディオニューソスの言を聞き、11-324
ディアー島にアルテミス、艶女をさきにほろぼしぬ。325

[1]テーセウスの妻——義子ヒッポリトスに邪恋の美人。
[2]アテーネー王エレクテウスの息女、その良人ケパロスを棄つ。後に良人に誤りて殺さる。
[3]下文568。
[4]ディオニューソスは嫉妬して彼女を讒言せしならん。

続きてわれは眺め見る、マイラ[1]ならびにクリュメネー[2]、11-326
また憎むべきエリピュレー[3]、夫を金に換えし者。11-327
されどわが見し英雄の妻たちおよび娘らの
すべてをここに名指しして語ることを得べからず。
神聖の夜はその前に過ぎ去りぬべし。今は我 330
眠るべき時、船にゆき親しき従者もろともに、
あるいはここに。我が帰国、神と君とは計らわむ』

[1]ゼウスに愛され、ロクロスを生む、ロクロスはアムピオーンおよびゼートスと共にテーバイ城を築ける者。
[2]ミニュアースの娘、ピュラコスの夫人、イーピクロスの母と後世エウスタティウスは言う。またオルコメノスの王イアソス(上文283)の夫人なりとの説あり。
[3]15-244、アムピアラーオスの妻。アプロディーテーより伝わる金の首輪に迷い、良人を裏切りてほろぼしむ。後その子のために復讐さる。

しか陳ずれば影くらき殿中、皆は黙然と 11-333
口を閉ざして、魅せられしごとくに耳を傾けぬ。
玉腕白きアレーテー、そのとき皆に陳じ言う、335
『パイアーケスの国人ら、彼の姿は、身の丈は、
またすぐれたる精神は、いかに汝に訴えし。
彼はわが客、しかれども共に汝にとりて客。
彼に贈遺の要あれば、急ぎて彼を立たしめな。
汝ら惜しむことなかれ、多くの宝、神明の 340
助けによりて汝らの館に飽くまで充ち足れり』

パイアーケスの国人の中にもっとも高齢の、
エケネーオスはそのときに、皆に向かいて陳じ言う、
『的を外れず理に適ういみじき言句、聡明の
女王の口に述べられぬ。我らはこれに従わむ。345
さはれ言行決するはアルキノオスのなすところ』

アルキノオスはそのときに答えて彼に陳じ言う、
『我ながらえて櫂の友、パイアーケスに命令を
伝うる限り、この言は必ず果し遂げられむ。
さはれ願わく、賓客は、いかに帰郷を急ぐとも、11-350
忍びてここに明日までは残らんことを、一切の
贈遺の品の揃うまで。彼を送るは各々の、
つとめ——中にもこの館のあるじたる身のわがつとめ』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『ああ一切の民の中、権威すぐれしアルキノエ[1]、11-355
君もしここに一年もわが滞留を命じつつ、
我が送還を計りつつ、贈与豊かになすとせば、
我喜びて従わむ。手中に満つる珍宝を
祖先の郷にもたらして、帰り着くこそましならめ。
しかせば我のイタケーの帰郷眺むる島民は、360
さらに一層尊敬と愛とを我に加うべし』

[1]呼格。

アルキノオスはそのときに答えて彼に陳じ言う、
『ああオデュッセウス、君を見て法螺空言の輩(ともがら)と
疑うことは無用なり。黒き大地はかかる者、
虚偽を語らう痴れ者を、あまねく四方に育つれど、365
誰しもかかる空言を見破ることはやすからず。
君に美麗の言句あり。また善良の心あり。
君は伶人見るごとく、巧みに事を物語る。
アルゴス人らともろともに受けし辛苦を物語る。
いざ今我に明らかにこれらの事を物語れ。370
君もろともにイリオンに、すすみてそこに運命の
破滅に会いし英雄のたれかを、君は見ざりしか?
言う方もなく夜は長し。いまだ殿中眠るべき
時は到らず。願わくは驚異の的の業を説け。
君の辛苦を殿中に委細に説くをあえてせば、375
しからば我は神聖の曙までも座し聞かむ』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『ああ一切の民の中、権威すぐれしアルキノエ、
物語りする時はあり、また眠るべき時はあり。
君もし話聞きたくば我は拒まず語るべし。380
さらに一層先よりも悲惨の事を。後の日に
到り無残に殺されしわが同僚の運命を。
彼らはすごきトロイアの叫喚あとに逃れさり、
家に帰りて憎むべき奸婦のために殺されき。

ペルセポネイア、神聖の冥府の王妃、数多き 385
女性の魂をおちこちに去り散らしめしそのあとに、
アトレイデース、悲しめるアガメムノーンの亡霊は、
来れり。彼のかたわらに、彼もろともに帰る後、388
アイギストスの殿中に倒れし者は群がれり。
暗紅色の血をすする彼は直ちに我認め、390
激して泣きてはらはらと涙そそぎて両の腕、
我に向かいて突き出だし、われに触れんと願うめり。
されどいにしえ強靱の彼の肢体に宿れりし
強き力と勢いは、今はや彼に残されず。
彼を眺めて泣ける我、胸に憐憫充たしめて、395
彼に向かいてつばさある飛揚の言句陳じ言う、
「アトレイデース権勢のアガメムノーン、民の王、
長く悲しみもたらせる死の運命のいずれぞや、
君倒せるは?船のうえ激しき風の猛烈の
呼吸を荒く呼びだして、ポセイドンが倒せしや?11-400
あるは陸のへ牛羊のすぐれし群を襲う時、
あるは都城と女性らを掠めんための戦いに
荒べる時に、敵の手にかかりて君は倒れしや?」

しかく陳ずる我に彼ただちに答え陳じ言う、
「ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス、 405
激しき風の猛烈の呼吸を荒く呼びだして
ポセイドーンが船のへのわれを倒しにあらざりき。
また陸上に敵の者われ殺せしにあらざりき。
わが奸悪の妻と共、我に死滅をたくらみて、11-409
さながら人が飼槽(かいおけ)のそばに雄牛をほふるごと、410
アイギストスは宴席に無残に我を倒したり。
かくて無残の死を遂げし我をめぐりて陸続と、
わが従者らも殺されぬ。勢い強く富める人、
婚賀の宴か会食か、大饗宴を開く時、
牙は真白の豚の群、ほふる様こそかくあらむ。415
これまで君はあまたたび、あるいはただに身一人の、
あるいは群れる戦いに、人の殺害見しならむ。
しかはあれども酒瓶と豊かに盛れる食卓の
そば、宴席に倒れ伏し、流血床にみなぎれる
かかる惨状眺め得ば君は無上にうめくべし。420
王プリアモス生める女子カッサンドラー[1]を、わがそばに 11-421
毒婦クリュタイムネーストラー倒しし時の叫喚は、
悲しき極みの声なりき。床に倒れて横たわる
われ臨終に手を伸して剣に触れしもあだなりき。
毒婦は我を棄てて去り、冥王の府に今向かう 425
我がため手もてわがまぶたまた我口を閉じざりき。
かかる奸計胸中にたくらむ女性——これよりも
まさりてさらに恐るべく憎むべきもの世にあらず。
毒婦は我の、正当の夫の死滅企てて、
まさしくかかる奸計をその胸中にめぐらしぬ。430
ああわれ家に帰る時、歓喜あふれてわが子らと、
わが家僕らを見んとしき。彼女無上の背逆を
犯し、身の上、一切の後に来るべき女性らの
上、またさらに貞淑の女性の上に恥与う」

[1]アガメムノーンが、トロイアより捕虜として愛人として携え帰りし者。アイスキュロスはこの一段を敷衍して大悲劇『アガメムノーン』を作る。

しか陳ずればつばさある言句に我は答え言う、435
「無残なるかな雷霆のゼウス、女性の策用い
アトレーウスの後裔をつとに憎みて悩ませり。
多くの者はヘレネーのゆえにほろびて、不在なる
君にクリュタイムネーストラーその奸計をたくらみぬ」

しか陳ずればつばさある言句に彼は答え言う、440
「されば女性に君もまた心を許すことなかれ。
身の知るところ一切をみなうち明くることなかれ。
そのあるものを言うはよし、そのある者は隠すべし。
さもあれ君は、オデュセウス、夫人のための害なけむ。
イーカリオスの息女たるペーネロペイア思慮深く、445
いたく賢く胸中に豊かに英知たくわえり。
戦場さしてわれわれの立ちしそのとき、うらわかき
新婦の彼女、乳房もていわけなき子をはぐくみぬ。
今やその子は民衆の多くの前に幸いに
その座を占めん。帰り来る父は親しく彼を見ん。11-450
しかして彼はその父を礼にかないて抱くべし。
さはれ親しく目をあげて、飽かず愛児を眺むるを、
わが妻われに得さしめず。そのまえ我をほろぼせり。
今われ一事君に言う。銘ぜよこれを胸の中。
故郷に帰り着かんとき、人に知られずひそやかに、455
船を岸のへ打ち上げよ。女性に信をおくなかれ。
さはれ今いざ、真実にこの事われに物がたれ。
生けるわが子の消息を君はあるいは聞きたりや?
オルコメスノスに今ありや?あるいは砂地のピュロスにか?
メネラーオスのそば近くスパルターにか、広大の?460
オレステースは陸上に今なお生をたもつなり」

しか陳ずればそのときに我は答えて彼に言う、
「アゲメムノーン、なぜ我にこれらの事を問う?
彼の生死を我知らず。むなしき言をいうは悪し」

かくして二人相向かい悲壮の言句かわしつつ、465
はらはらとして涕涙を流しながらもたたずめり。
やがて諸霊は近寄りぬ。ぺ−レイデース・アキレウス、
パートロクロスまた次ぎてアンティロコスとアイアース。
そのアイアース風彩と体躯すぐれてダナオイの
すべての将に立ちまさる(アキッレウスをほかにして)。470
足神速のアキレウスその霊我を認め知り、
慟哭しつつつばさある飛揚の言句我に言う、

「ラーエルテース生める息、知謀豊かのオデュセウス
すごし、今はた胸中にいかなる大事もくろむや?
そもいかにしてハイデース冥王の府にくだり来し?475
今は世になき人の影、知覚なきもの住む郷に」

しか陳ずれば、そのときに我は答えて彼に言う、
「ああアキレウス、アカイアの中にもっともまさる者、
テイレシアースに問わんため、我は来れり。岩多き
わがイタケーにいかにして帰るべきかを問わんため。480
いまだに我はアカイアに着かず。祖先のわが郷に
足を印せず。災難につねに悩めり。しかれども
ああアキレウス、誰人も君にまさりて幸ならず。11-483
生ける時は神のごとアルゴス人はことごとく
君を崇めき。死して今ここ冥王の府にありて、485
死者の間に威を振う。死を泣くなかれアキレウス」

しか陳ずればそのときに直ちに彼は答え言う、
「ああ誉れあるオデュセウス、我の死滅を慰めな!
今は世になき亡霊の群治めるも何かせむ!
むしろ資産の多からぬ貧しき者の僕[1]となり、490
これに仕えて農園に勤むることぞまさるべき。
さはれ今わが誉れある子息につきて我に問え、
彼れ戦陣に加わるや?頭領[2]たるを勉むるや? 11-493
また我が父のペーレウス、彼の消息知らば言え。
ミュルミドネスの民衆に彼なお誉れ保てりや?
老齢彼の手を足を弱むるゆえに、ヘッラスの、11-496
またプティアー[3]の民衆は、彼を軽んじ侮るや?
むかしトロイア平原に敵の勇士らうち倒し、
アルゴス人を防ぎたる我今そこに日輪の
光の下にわが父を助くることを得べからず。11-500
むかしのままの我にして、しばしなりとも父の屋に
行かば、威力と剛勇の手とは彼らをひるません。
彼らは父をたしなめてその光栄を奪わんず」

[1]家に属することのない最下層の無産階級(θής)。 [2]原語プロモス、また「先鋒」の意あり。
[3]ミュルミドネスの住める二都市。

しか陳ずればそのときに我は答えて彼に言う、
「げに優れたるペーレウス、その消息を我知らず。505
さもあれ君の愛児たるネオプトレモス、彼につき、
命のまにまに一切をすべてまことに語るべし。
脛甲かたきアカイオイ、その陣中に均衡の、
船のへ彼をスキュロス[1]の島よりわれは導きぬ。11-509
トロイア城を前にして評議の席を開く時、510
まさきに彼は口切りて絶えて誤ることあらず、
彼にまさるはただ我と神にも似たるネストール。
二軍トロイア平原に利刃互いに振るう時、
彼は必ず陣中に残りとどまることあらず。
つねにまさきに駆け出して勇気誰にも譲るなし。515
多くの敵をものすごき乱軍中に打てる彼。
アルゴス人の同僚を守りて彼の倒したる
敵を一々名指すこと、また述ぶること叶うまじ。
されども彼が黄銅の利刃に打てるものの中、
テーレポスの子、剛勇のエウリュピュロスはすぐれたり。520
女性が受けし贈与よりケーテイオイ族もろともに[2] 11-521
打たれし彼の風貌はただメムノーン[3]に譲るのみ。
またエペイオスの作りたる木馬[4]の中に、アルゴスの 11-523
勇士ら忍び入りし時、この潜伏の戸の口の
開閉ともにわが任に全てを委ねられし時、525
なかに潜めるアルゴスの諸将ならびに諸元帥、
目より涙を拭いつつ、ともにその膝震わしぬ。
君の愛児はただひとり、われの親しく見しところ、
秀麗の肌青ざめず、涙が頬を伝うるを
拭うことなく凛然と、利剣の柄(つか)と黄銅の 530
槍を握りて、木馬より躍り出ずるをあまたたび
我に願えり、トロイアに被害はげしく加うべく。
そのトロイアの高き城わが手についに落ちし時、
彼は戦利の豊かなる配分うけて船のへに、
つつがなき身をのせゆけり。彼は鋭き黄銅に 535
打たれず、あるは接戦に傷つかざりき。かかること
戦場中にまぬがれず、アレース荒れて狂おえば」

[1]エーゲ海中の島。ネオプトレモスの生誕地とストラボーン(ギリシアの地理学者)は言う。
[2]テーレポスの妻アスティオケーがプリアモス王よりうけたる宝のゆえにケーテイオイ族はトロイア軍に参加してほろぶ。
[3]4-187参照。 [4]トロイア城陥落の原因。

しか陳ずれば足速きアキッレウスの亡霊は、
子の優秀を聞き終えて、大またぎにぞ帰り行く、
アスポデロスの花におう広野を渡り欣然と。540
今は世になき亡霊の数々泣きてわがそばに、
そのとき立ちて愛でおもう人の消息たずね問う。
テラモニデース・アイアース、彼れの霊のみただひとり、
離れて立ちて近寄らず、われの勝利を憤る。
神母テティスの供えたるアキッレウスの武具に付き、545
水師のそばの訴えに彼を敗りて我勝てり。
判ぜしものはトロイアの子らとパルラス・アテーネー。
かかる争い、訟えに、われ勝つべきにあらざりき。
武具の争い元となり、大地は彼を覆い去る[1]。 11-549
ペーレイデースほかにして、他の一切のダナオイに 11-550
わざも姿もすぐれたる将を大地は覆い去る。
そのとき彼に蜜に似る甘美の言句我は言う、

[1]争いに敗れたる彼は自殺せり。

「ああアイアース、すぐれたるテラモニデース、死してなお
かの忌わしき武具のため我に対する憤り、
忘れんとにはあらざるか?アルゴス人に神々は 555
苦難加えて、彼らには堅城たりし君死せり。
アキッレウスの英剛に対するごとくアカイオイ、
絶えずも君の死を思う。苦難のもとはほかならず、
ただクロニオーン勇猛のダナオイ軍を忌み嫌い、
これに苦難をもたらして無残に君を亡びしむ。560
いざ今ここへ、ああ勇士、猛き心をやわらげて、
言句互いに慇懃に語り合わんはよからずや?」

しか陳ずれど答えなく、去りてもろもろエレボスに
住める亡霊——今は世になき群集の中に入る。
怒れどなおも我と彼、言葉交わすも可なるべし。565
されども我の胸中の心はほかの亡霊を——11-566
今は世になき群集を見るべくせつにこいねがう。

次に見たるはミーノース[1]、ゼウスの高き栄えの子、11-568
黄金の笏手にとりて座して亡者の裁きする。
城門広きハイデースその殿中のおちこちに、570
座してあるいはたたずみて、彼ら王者の裁き受く。

[1]ゼウスとエウローペーとの子。ゼウス白牛の姿を取り、佳人エウローペーを乗せてクレタ島に行き、ミーノースとラダマンテュスとを生む。

次に見たるはオーリオーン、巨大の姿、生ける時
淋しき山にほふりたる、そのもろもろの獣群を、
アスポデロスの花匂う広原渡りて駆りて行く。
手には黄銅の太き棒、折れずくだけぬものを取る。575

次に見たるはティテュオース、彼はガイアのほまれの子、11-576
大地の上に横たわり九ペレトラの広さ覆う。
二羽のはげワシ右左座して臓腑に食い入りて、
その肝臓をつんざけり。彼は手をもて追うを得ず。
花さき匂うパノペウス過ぎてピュートー目ざし行く 580
ゼウスの妻のレートーを奪わんとせる罰を受く。

次に見たるはタンタロス[1]、はげしく苦難うくる者、11-582
湖水の中に立てる身のあごまで水はひたし来る。
その水中に立ちながら渇きに悩みて飲むを得ず。
老いの身かがめその水を飲まんと望むたびごとに、585
水は地中に吸われ消え、彼がたたずむ足の下、
黒き大地は現われぬ。ある神これを乾かせり。
彼の頭上に丈高き木々の緑の葉は繁り、
実は累々と相結ぶ、梨とザクロとリンゴの木、
さらに甘美のいちじくといや繁りゆくオリーブ樹。590
これを目がけてすすみより、老いの手伸してその果実、
取らんとすれば風寄せて雲間にこれを吹き飛ばす。

[1]諸神より愛せられ、増長して非行を犯せし者。

次に見たるはシーシュポス[1]、いたく苦難に悩む者。11-593
両手を伸して巨大なる岩を高きに運ぶ者。
彼は両手に力こめ、その両足をふんばりて、595
巨岩を高き頂きに押しやる。されど頂きに
まさに着かんとする時に、とある力は押し戻す。
無情の岩は展転と麓をさして落ち下る。
かくて新たに彼はまたその労はじめ、淋漓たる
汗は四肢より流れ落ち、湯気は頭より立ちのぼる。11-600

[1]アイオロスとアレーテー(?)の子と称せらるコリントスの建設者。策に富む。神の秘密を漏せるゆえに罰せらる。

続きて威風堂々のヘーラクレスの幻影を
見たり。かの身は不滅なる神の間になおありて、
宴に列なり、黄金の靴のヘーラー大いなる
ゼウスと共に生むところ、くるぶし美なるへーべーを
妻となすなり。その彼をめぐりて死者の霊魂は、605
おびえ飛び交う鳥のごと騒げり。彼は弓を手に、
矢を弦上にはさみつついま放たんとするごとく、
あたりをにらんで物凄く闇夜のごとくたたずめり。
また物凄き胸の帯、黄金製の彼の帯、
目を驚かす巧妙のたくみの技は施さる。610
そこに荒熊、荒き猪、爛々の目のライオンに、
さらに加えて争いと人の殺りく描かれる。
技工いみじくかかる帯すでに一たび作れりし
人は再びかかる物作らざること望ましき。

ただちに彼は目を上げてわれを認めて、はらはらと 615
涙流してつばさある言句をわれに陳じ言う、
「ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス、
ああ不幸なり。君もまた、我その昔太陽の
光のもとに負いしごと、悪しき運命肩に負う。
クロニオーンの子と生まれ、われ莫大の災難に 620
あえり。はるかに劣る者[1]、我を駆使してその命を 11-621
聞かしむ。かくて困難の労苦[2]に我はしたがえり。11-622
ある時われを遣わして、これよりさらに難き業
なしと心に思いつつ、ここより犬[3]を引かしめぬ。
その犬われはハイデース領土の外に引きだしぬ。625
導きたるはヘルメース、また青き 目のアテーネー」

[1]ミケーネーの王エウリュステウス(『イーリアス』19-124)。
[2]後世これをヘーラクレスの十二の労と言う。
[3]ケルベロス

しかく陳じてハイデース住める館に帰り行く。
されども後に悠然と我は残りて、ほろびたる
そのいにしえの英雄のたれか来るを待ちわびぬ。
かくて望めるいにしえのペイリトオスとテーセウス、630
すなわち神の誉れの子眺むることを得たるべし。11-631
されどもこれに先立ちてすごき亡霊声あげて、
集まり来れば、蒼白の恐怖は我の身をおそう。
ペルセポネイア冥王の妃、中より恐るべき、
かのゴルゴーン[1]、怪物の首を送らばいかにせむ。11-635

[1]この怪物を見るものは恐れて石と化す。

そこでただちに船のもと帰りて従者に命下し、
みないっせいに乗りこませ、繋げる綱をほどかしむ。
従者すなわち乗り入りてともに漕ぎ座に腰おろす。
櫂を漕ぐのち、順風の吹くに乗じてわが船は、
オーケアノスの川流の潮(しお)に引かれてすすみ行く。640


オヂュッセーア:第十二巻


一行はアイアイエーに着き、まずエレペーノールを葬る。女神キルケー旅の前途を示す(1~141)。妖女セイレーンの島における第八冒険(142~200)。スキュッラーおよびカリュブディスに対する第九冒険(201~259)。トリナキアー島における第十冒険(260~338)。従者ら飢えに迫られ、神牛を殺してその肉を食う(339~398)。海上の暴風に襲われ従者ことごとくほろび、オデュッセウス唯一人九日漂流の後オーギュギアーに着く(399~453)。

『オーケアノスの川流をあとに見なせる我船は、
大海原の渺々の波浪をしのぎ渡り来て、
アイアイエーの島に着く。明けの女神の舞の庭、
またその宮のあるところ、また日輪のいずる郷。
ここに到りて一同は砂上に船を引上げて、12-5
中より出でて、波寄する渚の上におりたちて、
ほどなくここに身をふせてあすの曙光のいずる待つ。

薔薇の色の指もてる明けの女神の出でし時、
我は従者をキルケーの宮に遣わし、先の日に
無残に死せる若き友エルペーノールの死屍求め、10
運び帰りて木を切りて、遠く突きでし岬のへ、
悲しみながら火葬して、涙はげしくふりおとす。
かくて死体と生前に用いし武具を焼ける後、
塚を築きてその上に用意の墓標もたらして、
同じく墓の頂に型良き櫂をうち立てぬ。15

みなはおのおのこの事にいそしむ。かなたキルケーは、
ハイデースより一行の帰り来るを感じ知り、
すぐに身なりを整えて訪い来ぬ。侍女は麺包と
多量の食と暗紅のかがやく酒を持ち来たす。
そのとき女神一同のもなかに立ちて陳じ言う、20

「汝まことに不敵なり。生きて冥府にくだるとは!
すべての人はただ一度死するに、汝二度死すや?
いざ食を取り、酒を酌め。ここにこの日の終わるまで。
しかしてやがて燦々と明けの女神の出づる時、
汝よろしく帆を上げよ。われは海路を示すべし。25
陸上または海上に悪しき思念に誘われて
汝ら苦難なきがため、我一切をみな説かむ」

しか陳ずれば勇猛の心のわれら従えり。
かくて夕陽沈むまで、終日ここに座を占めて、
多量の食と芳醇の酒の宴を楽しめり。30
夕陽沈み暗黒の夜の四方に寄する時、
皆はすなわち船つなぐ綱のほとりに横たわる。
我の親しき同僚を離れ、キルケーわが手取り、
去りて砂上に座らしめ、自ら近く横たわり、
我に委細を尋ぬれば、よきに適いて我答う。35
そのとき我に端正な女神向かいて宣し言う

「その一切はかく成れば、いざ今我の言を聞け。
我が言のちに神明の助けによりて思い出でむ。12-38
セイレーネス[1]にまずさきに汝行くべし。寄り来る 12-39
人一切をことごとく誘い惑わす魔女の群。40
何びとにまれ知らずして、セイレーネスに近寄りて
その声音を聞かん者、彼は故郷に帰り行き
迎えて囲む妻と子の喜ぶ顔を眺め得ず。
セイレーネスは青々(せいせい)の野に座し、歌を
朗々と吟じて彼を迷わさむ。岸のへ側に累々の 45
死人の骨はうずたかし。皮膚は縮みてこれにつく。
そのそば汝漕ぎ逃げよ。しかして先に従者らの
耳に蜜蝋こねて入れ、汝のほかに誰にしも
妖女の声を聞かしめな。汝自ら聞きたくば、
部下に命じて帆柱のもとに汝を縛らせよ。12-50
真すぐ立てる身の手足、しかと柱にくくらせよ。
かくして汝喜びてセイレーネスの声聞かむ。
縄を解くべく従者らに汝の命じ乞わん時、
彼らはいよよ厳重に汝を縄に縛るべし。
かくて従者らこの場所を波浪をわけて進むべし。55
その後取らむ道いかに?我は汝に明らかに
示すは難し。汝よく心に計り決すべし。
道二つあり。各々を我は委細に示すべし。
その一方は大岩がそそりたつなり。その上に
アムピトリテー[2]、黒き眼の女神は波を寄せくだく。12-60
これらの岩に神明はプランクタイ[3]の名を与う。12-61
これらを越すは得べからず。羽あるものも、大神に
アンブローシアを運び行く弱き鳩らも越すを得ず。
それらの一羽なめらかの巌はつねに捕え去る。
そのとき、天父補いてほかの一羽を送るめり。65
ここに来れる人間の船はここより逃れ得ず。
逆巻く波浪、炎々のほのおの嵐もろともに、
船の破片と水夫らの死体ころがしもてあそぶ。
波浪を渡る船のうち、ただ一つのみここ過ぎぬ。
アイエーテスをたち出でしアルゴー[4]ひとり誉れ得ぬ。12-70
打ちつけられて大岩に滅ぶべかりしその船を、
イアーソーンを愛でおもう女神ヘーラー導けり。
道の他方は懸崖が二つ向かえり。その一つ、
険しき嶺は大空に高くそびえて、暗き雲
これを覆いて消え去らず。夏にあるいは収穫の 75
秋にも晴れた大空は嶺のまわりに現われず。
これを登りて頂に立つこと人のよくなせず。
二十の手足持つとても、ついによくする事ならず。
巌は極めて滑らかに磨き上げしにさも似たり。
この懸崖のただ中に洞窟ありてほの暗く、80
西に向かえり、エレボスに。その方角に、誉れある
オデュッセウスよ、汝そのうつろの船をすすむべし。
力いかほど強くとも人は過ぎ行く船に立ち、
一矢飛ばして洞窟に逹することを得べからず。
ここに住めるはスキュッラー。その咆ゆる声ものすごし。85
声は新たに生まれたる子犬のそれにさも似たり。
さはれ妖女の相好は、げにも恐ろし。何びとも
これを眺めて喜ばず。神といえども喜ばず。
すごき怪物、奇怪なる足は十二を数うべし。
すこぶる長き首は六。そのおのおのに恐るべき 90
頭、つづきて、口のなか歯は三層に緊密に、
隙なく並び、陰惨の黒き死滅を含むめり。
腰より下の半身を洞窟内に潜めたる
妖女、頭を恐るべき淵より外に突きいだし、
ここに獲物を探すめり。イルカ、アザラシさらにまた 95
巨大の獣——いずこにか捕えて餌となさんもの。
その幾万を咆哮のアムピトリテーはぐくめり。
害を受けずに船の上ここ逃れしと誇り得る
水夫はいまだかつてなし。そのおのおのの首のばし、
へさき緑の船よりし一人ずつを魔女さらう。12-100

[1]すなわち妖女サイレンなり。ホメロスにはその数二、後世の詩作には三、しかしてポルキュスの息女と称す。
[2]後世彼女をポセイドーンの妻と称す。ホメロスにありては単に海の女神とのみ。
[3]さまようの意。
[4]後のギリシャの詩題となれる船。金羊毛を探し行けるもの。トロイア戦より一代以前なり。

他の懸崖は他方より低きを汝眺むべし。
二つは近し両崖の間、射る矢は届くべし。
緑葉繁るおおいなるイチジクの木は上にあり。
この岩のしたカリュブディス黒き潮水吸いこめり。
一日三度吐き出し、同じく三度おそろしく 105
吸い込む。彼の吸わんとき汝その場にあるなかれ。
あらば汝を危難よりポセイドーンも救い得ず。
むしろ真近くスキュラーの懸崖沿いて、すみやかに
汝の船をすすめ去れ。船の水員六人を
失うことは全体をみな失うにまさらずや!」 110

しか陳ずれば答えつつ我はすなわち陳じ言う、
「女神願わく告り示せ、真実われに告り示せ。
我いかにして恐るべきカリュブディスを避けのがれ、
さらにスキュラーの魔の手より我の従者を守るべき?」

しか陳ずればうるわしき女神答えて我に言う、115
「不敵なるかな。汝また戦争苦難求むるや?
汝は不死の神明に従うことをよくせずや?
魔女スキュッラー恐るべし。彼女不死なり、不滅なり。
不滅のすごき悪女なり。敵とすること得べからず。
彼女防ぐを得べからず。逃るることぞ至上なる。120
巌のそばに武装して汝とどまる事あらば、
恐るるところ、かの妖魔前と等しき数々の
頭出だして、数々の等しき従者取り去らむ。
されば努めて船すすめ、クラタイイスに呼び叫べ。
人の災いたるべしと、彼女生みたりスキュッラー。125
母は妖魔を戒めて汝を襲わしめざらん。

トリナキアー[1]の島次に、汝見るべし。その中に 12-127
ヘーリオスの牛の群、羊の群は養わる。
七つ数うる牛の群、羊の群もまた等し。
群おのおのは五十頭、彼らは絶えて子を生まず。130
彼らは絶えて死を知らず。二女神これを養えり。
ヒュペリオーン・ヘーリオス父とし、ネアイラ母とする
鬢毛美なるパエトゥーサ[1]とランペティエー[2]が養えり。12-133
いみじき母は二仙女を生みて育てて、里離れ
トリナキアーの島遠く送りてそこに住まわしめ、135
父なる神の愛で思う牛と羊を護らしむ。
汝帰国を願いつつそれらに害を加えずば、
よし災難に苦しむもイタケーの地に帰り得ん。
害を加うる事あらば、我は予言す、人と船
ともに等しくほろぶべし。汝一人は逃るるも、140
従者失い惨憺の姿に遅く帰るべし」

[1]シチリア島の古名。『三叉 トリーナクス』(海神ポセイドーンの鋒)より来る。
[1]「光る者」。
[2]「輝く者」。

しかく陳ずる程もなく、黄金の座の明けの神
現わる。かくてキルケーは島の奥へと別れ去り、
我はわが船さして行き、眠れる従者よびおこし、
命じて船に乗りこませ、繋げる綱をほどかしむ。145
ただちに皆は乗り入りて、漕ぎ座の上に整然と
列を正して身を据えて櫂に波浪をかきわけぬ。
そのとき声は玲瓏の鬢毛美なる恐るべき
女神キルケーわがために、へさき緑の船の帆を
満たす順風、たより良き助けの風を吹きおくる。12-150
かくて直ちに一切の船具を揃え整えて、
われら一同座せる船、風と舵手とは導けり。
そのとき我は従者らに心痛めて陳じ言う、

「美麗の女神キルケーは我に予言を宣したり、
ただ一二人そを知るは、友よよろしきことならず。12-155
汝らこれを知りたうえ、我らは死より逃れんか、
あるいはともに滅ぶべく、われは委細を語るべし。
女神まさきに命じたり。セイレーネスのふしぎなる
その音声と花におう彼らの野とを避くべしと。
我ただ一人その声を耳にすべしと。しかれども 160
汝ら我を帆柱のもとに厳しくいましめよ。
動けずそこに立てるよう、縛り、柱に縄結べ。
縄を解くべく汝らに我の命じて願う時、
汝らいよよ厳重に縄もて我を縛るべし」

しかく陳じて従者らに我は委細をものがたる。165
その間にわれの堅牢の船を順風吹きやれば、12-166
船足速くすみやかにセイレーネスの島に着く。
着けばわが船送り来し風はただちにおさまりぬ。12-168
風おさまりて海静か。神は波浪を眠らしむ。
従者はやがて身を起し、白帆をおろしおしたたみ、170
これをうつろの船の中収め、漕ぎ座に身を据えて、
磨ける樅の櫂使い、潮を白くかきわけぬ。
そのとき我は黄銅の鋭き刃もておおいなる
蝋の円盤細やかに、切りて指もてこれをこね、
ヒュペリオーン・ヘーリオス放てる熱き光線と、175
力こめたる指により、蝋はほどなく柔らかに
成れば、こをもて順々に我は従者の耳を閉ず。
彼らは我の帆柱のもとに真直ぐに立てる身の、
手足もろともいっせいに縛り、柱に縄結び、
しかして後に座につきて櫂に白浪切りすすむ。180
その迅速にすすむ船、呼ばば聞ゆる隔たりに
近づき寄るを、神怪のセイレーネスは見逃さず
口を開きて朗々の歌を高らに吟じ言う、

「アカ−イオイの誉れなる、音に名高きオデュセウス、
来れ。汝の船とめて、わが音声に耳を貸せ。185
わが口いずる歌の声、甘美は蜜に似たるもの。
そを聞かずして黒船に過ぎ行く者はかつてなし。
聞きたる者は楽しみて思慮を深めて去り行けり。
我らは知れり、トロイアとアカイア二軍、トロイアの
平野の上に神明のたくみによりて苦しむを。 190
我らは知れり、豊饒の大地に起る一切を」

美妙の声を張り上げてかく陳ずれば我が心、
なおも聞くべく憧れて、縄を解くべく従者らに
眉を動かし命ずれど、きかずに櫂に精を出す。
ペリメーデース、エウリュロコス二人ただちに立ち上り、195
さらに多くの縄とりて厳しくわれを縛りつく。
やがて一同この場所をあとに次第に遠ざかり、
セイレーネスの歌と声、はや聞くべくもあらざれば、
直ちにわれの親愛の従者は、我の封じたる
蝋を耳より抜き出だし、またわが縄を取り去りぬ。 12-200
妖女の島を去りて後、次に直ちに大波と
水煙立つを見たる我、また轟々の音を聞く。
そのとき従者恐れ怖じ手よりすべての櫂飛びて
渦巻く水の中に落つ。漕ぐもの誰もあらずして、
かくてその場にそのままに、船はとまりてすすみ得ず。205
そのとき我は船中をあまねく過ぎて従者らを
励まし、あまき言句もてその一々に告げて言う、

「親しき友よ、災難に今まで我ら無知ならず。
キュクロープスが凶暴の力用いて洞窟に、
捕えし時に比ぶれば、今の危難は大ならず。210
我の勇気と分別と策とによりて彼の時は、
免がれ得たり。この度も後日記念の種ならむ。
いざ勇ふるえ。わが言のごとくに汝みな服せ。
汝漕ぎ座に身を据えて、櫂を用いて大海の
波をつんざけ。おそらくはゼウス憐れみ、われをして 215
今ふりかかる運命を逃るることを得せしめむ。
かじ取り!汝わが命をききて胸裏に忘るるな。
汝うつろの我が船のかじを手に取る。戒めて
かの煙より波浪より、離れて船を遠ざけよ。
しかして岩に近く行け。油断をなさば、行く道を 220
船誤りてそのために我ら危難に陥いらむ」

しか陳ずればすみやかに彼らはわれの言を聞く。
されども我は敵せざるスキュッラーの禍は話し得ず、
話さば皆は恐怖して櫂に波浪を切るをやめ、
避けて逃れて船底にその身を隠すことあらむ。225
我はそのときキルケーのかたき命令うち忘れ、
(彼女きびしく戒めて武装をわれに禁ぜしを)
凛々しき武具に身を固め、手には二条の
おおいなる槍を携え、奮然とへさきにすすみ、甲板に
立ちてそこにて、従者らを破滅さすべきスキュッラー 230
岩の妖怪出で来るをまさきに見んと待ち構う。
されどもこれを認め得ず。雲霧に暗き岩に向け、
あなたこなたと見張る目は甲斐なくついに倦み疲る。

かくて悲嘆にくれながら船は海峡すすみ行く。12-234
スキュッラーその一方に、他方にすごきカリュブディス。235
海の潮水もの凄く吸う神怪のカリュブディス。
しかして彼の吐く時は烈火にかけし釜の如、
水沸々とわき上り、紛々として渦巻きて、
泡沫高く双方の岩の頂さして降る。
そのうえ海の塩からき水吸う時は、わだつみは 240
深きにかけて渦巻ける姿現わし、岩石を
めぐりて凄く咆え叫び、下には黒き砂なして
大地現わる。かくと見て従者恐怖に青ざめぬ。
それを眺めて恐怖して、死滅を思うその間(あい)に、
見よスキュッラー、従者らの中のもっとも力あり 245
勇気ある者六人を船より捕え奪い去る。
まみを返してわが早き船と従者を眺むれば、
彼らの足と手と共に空中高く舞い上がる。
そのとき従者高らかに叫び、救助を求めつつ、
これを最後に声搾り悲嘆のあまりわが名呼ぶ。12-250
例えば長き鈎竿をとりて釣り人岬にて、
ちさき鱗族捕うべくあざむく餌をさきづけし
野飼の牛の角の端[1]、海の深みに投じ入れ、12-253
かくて捕えしもがく魚、陸にひらりと釣りあぐる——
その様見せて従者らはもがきて岩に上げられぬ。255
そこに妖魔の門口に食わるる彼ら泣き叫び、
最後、ほろびのもがきよりわれにその手をさしのぶる。
海路あまねく経めぐりて受けし苦難の中にして、
その光景はわが目もて見たる悲惨の極なりき。

[1]不明、竿端に牛角製一片を付くるか。

かくして我ら恐るべきスキュッラーまたカリュブディス 260
逃れて次に神明のいみじき島に着かんとす。
ヒュペリオーン・ヘーリオス神の領せる数多き
羊の群と牛の群、ひたいの広き群ここに。
黒き船中海上にありても我は早すでに、
帰りて小屋に収まれる牛と羊の鳴き声を 265
聞き得て、かくてテーバイのテイレシアース、盲目の 12-266
予言者述べし戒めと、アイアイエーのキルケーの
のべし言句を思い出づ。二者はひとしくヘーリオス、
人喜ばす神明の島を避けよと戒めき。
心痛めてそのときに我は従者に陳じ言う、270

「危難に汝悩めども従者よ我に耳を貸せ。
人喜ばすヘーリオス、神の島をば避くべしと、272
厳しく我に命じたるアイアイエーのキルケーと
テイレシアス予言者の言を汝に今告げむ。
そこにもっとも恐るべき災難我を待つと言う。275
さればかの島触れずして黒きわが船こぎ通せ」

しか陳ずれば従者らの心くだけて悲しめり。
エウリュロコスはそのときに憎き言句に答え言う、
「君は強かり、オデュセウス。力すぐれてその手足、
絶えて疲れず、全躯みな固き鉄より成れりけり。280
君は労苦に悩まされ眠り求むる従者らの、
岸にのぼるを肯んぜず。海の囲める島の中、
君は美々しき飲食の調理をなすを得せしめず。
雲霧に暗き波の上、島を離れて遠ざかり、
早く寄せ来る夜の下にさすらうべしと令し言う!285
船もろもろを破るもの、つらき嵐は暗黒の
夜より生まる。卒然と嵐のあらび襲う時、
不滅の神の意に反き、船をはげしくうちくだく。
ノトスあるいはゼピュロスの怒号をあげて来る時、
誰か果たしてものすごき死滅の運を逃れ得ん?290
いざ暗黒の夜の威に屈して、岸に停泊の
船のかたえに甘美なる夕の食事をそなうべし。
あしたは早く船に乗り渺々の海渡るべし」

エウリュロコスはかく陳じ、伴は等しくみな賛す。
そのとき我はとある神、われに向かいて災難を 295
巧らむことを認め知り、彼に向かいて陳じ言う、

「エウリュロコスよ汝らは孤独の我に押し迫る。
さらば汝らいっせいに固き誓いを我になせ。
誓え、雌牛の群または羊の群に会わん時、
汝らの中一人も悪しき狂愚の思いより、12-300
牛をあるいは羊をも屠殺することあるまじく、
不死のキルケー与えたる食を甘んじ取るべしと」

しか陳ずれば、命のまま従者直ちに誓い立つ。
かくて一同厳重に立てし誓いを終わるのち、
着きたる島の中広き港に入りて船とどむ。305
甘美の泉そばにあり。一同かくて陸上に
降りたち、やがて心こめ食の調理に取りかかる。
食事終わりて口腹の欲に一同飽ける時、
船より妖魔スキュッラーさらい食らいし友の上、
すずろに思いはらはらと涙流して悲しめり。310
その悲しめる同僚にやがて甘美の眠り来ぬ。
夜半を過ぎて夜は進み星の次第に沈む頃、12-312
雲を集むる神ゼウス、激しき風を、恐るべき
嵐を起し、雲をもて大地と海をいっせいに
おおいかくせば、暗黒の夜は天より襲い来ぬ。12-315
薔薇の色の指もてる明けの女神はやがて出づ。
そのとき船を引き上げてうつろの洞の中に容る。
そこに仙女の舞の園また休らいの椅子を見る。
我はすなわち一同を集めてこれに陳じ言う、

「友よ、船中食らうべく飲むべき糧は多くあり。12-320
されば汝ら戒めて雌牛に触るることなかれ。
触るれば苦難測られず。牛と羊は恐るべき 
神ヘーリオス——一切に臨みて照らす神のもの」

しか陳ずれば一同の猛き心もうべなえり。
そののちノトス一月にわたりて絶えて吹きやまず。325
吹くはエウロス、ノトスのみ、他の一切の風吹かず。
食物および赤き酒、欠かざる限り、従者らは
命惜しめば戒めて牛にその手を触れざりき。
されど船中、一切の食ことごとく尽きし時、
かくてやむなくわが従者、曲る針もて鱗族を、330
鳥を——あるいはそば近く来れるものを捕うべく、
飢にその腹苦しめば、あなたこなたを巡る時、
そのとき我はただひとり皆と離れて島めぐる。
いずれの神か帰郷への道を示せと祈るため。
皆と離れておちこちと島をめぐりて、荒ぶ風 335
吹きこぬ場所にたどり来て、水に両手を清めつつ、
ウーリュンポスの一切の神に祈願を奉る。
神はそのとき甘美なる眠りをわれの目に注ぐ。
その間にかなた同僚をエウリュロコスはそそのかす、12-339

「苦難になんじ苦しむも、わが同僚よ、我に聞け。340
何らの形とるにせよ、人にとりては死は憎し。
されどもっとも忌むべきは飢餓によりての死なるべし。
いざや我らはヘーリオス神の至上の牛捕え、
広き大空ろしめす神に犠牲を捧ぐべし。
祖先の郷に、イタケーにいつしか帰り着くときは、345
ヒュペリオーン・ヘーリオス神に直ちに殿堂を
作りてそこに数多きすぐれし牲を捧ぐべし。
角ますぐなる牛のため神は怒りてわが船を
ほろぼさんとし、ほかの神同じくこれに賛せんか、
しからば海に一とびに入りて命を失わん。12-350
淋しき島におもむろに朽ち果つるよりまさらずや?」

エウリュロコスはかく陳じ、伴は等しくみな賛す、
かくて彼らはヘーリオス神の至上の牛捕う。
へさき緑の我が船を隔つることは遠からず、
広きひたいのうるわしき雌牛の群は草食めり。355
捕えし牛のかたわらに彼らは立ちて神明に
祈る。そのとき船の中白き大麦あらざれば、
高くそびゆる樫の木の葉を摘みとりてこれに換ゆ。
祈り終わりて一同は牛をほふりて皮を剥ぎ、
まず腿の肉切り取りて、これを二重の脂肪もて、360
包みてさらにその上に他の生肉を打ちのせぬ。
火炎に焼くる牲の上そそぐべき酒あらざれば、
清水をもてこれに換え、臓腑すべてを火にあぶる。
腿肉まったく焼き終わり、臓腑を口にしつる後、
残りの肉を切りきざみ、串もてこれをつらぬきぬ。365
そのとき我のまぶたより甘き眠りは逃げ去りぬ。
しかして我は身を起し船と岸とに帰り行く。
されど真近く均衡の船のほとりに到る時、
焼けし脂肪の好き薫り、我のほとりに漂えり。
そのとき我は慟哭の声をはなちて神に言う、370

「天父ゼウスよ、幸多き他の常住の神々よ、
無残に我を眠らして我の破滅を来たせしな!
我の不在にわが従者、非道のわざを行えり!」

ヒュペリオーンにそのときに、使いとなりて裾長き
ランペティエーはすみやかに、牛の屠殺を告げ来る。375
神は怒りてそのときに諸神の中に立ちて言う、

「天父ゼウスよ、幸多き他の常住の神々よ。
ラーエルテース生める息、オデュッセウスの従者らを
罰せよ。彼ら傲然と我の雌牛をほふりたり。
ああわがめずるその雌牛、天上さして昇る時、380
天上くだり地に帰る時に等しくめずる者。
牛に対して正当の償いわれに払わずば、
われは冥府にくだり行き死者の間に輝かむ」

雲を集むる神ゼウス彼に答えて宣し言う、
「へーリエ[1]汝不滅なる神の間に、豊沃の 12-385
大地に休む人類の間に照りて輝けや!
これら罪ある者の船、われはかがやく雷霆を
飛ばしてこれを暗紅の海のもなかにくだくべし」
鬢毛美なるカリュプソー、我に告げしはこれなりき。
これを女神は使いたるヘルメイアスに聞くと言う。390

[1]呼格。

その時我は身を起し、船と岸とに帰り着き、
その一々の前に立ち従者はげしく叱りしも、
何らの効もあらざりき。雌牛はすでにほふられぬ。
ただちに神は従者らにすごき凶兆現わせり。
剥がれし皮は這いめぐり、串に刺したる肉はみな 395
あぶれる者も生なるも、牛のごとくに咆え叫ぶ。

そのあと過ぎし日は六日(むいか)。六日にわたりわが従者
捕え来たりし神の牛、すぐれし牛の肉食みぬ。
しかしてゼウス・クロニオーン次に七日をもたらせる
その時さしも荒れたりし嵐は跡をおさめたり。12-400
ただちに我ら船に乗り、立てし柱に白き帆を
張りたる後に漫々の大海原に乗り出しぬ。
かの島あとに去りし後、陸土の影は一もなし。
ただ漫々の大海と空のみつねに前にあり。
そのときゼウス・クロニオーンわが中広き船の上、405
黒き叢雲かからしむ。海も暗みぬ雲の下。
船走りゆく程もなく、こつ然として襲い来る
ゼピュロス、怒号ものすごく嵐となりて吹きすさぶ。
嵐の力すさまじく、二条の帆綱吹きちぎれ、
帆柱後に倒れ落ち、すべての船具いっせいに、410
みな船底に落ちて行く。そのとき倒れ落ち来たる 
柱無残や船尾(とも)の上、舵手の頭をうちくだく。
頭骨すべて破れたる彼は、あたかも潜水の
人のごとくにデッキより落ちて魂身を離る。
そのときゼウス轟雷を起して凄くへきれきを 415
飛ばせば、これに打たれる船全体は震動し、
硫黄の煙みなぎりて従者船よりみな落ちぬ。
こうして黒き船のそば落ちて怒涛に運ばれて、
カモメのごとく浮き沈む。神は帰国の道を断つ。
残れる我は船の上、足を運べる程もなく、420
大波寄せて船板を竜骨よりし引き剥がし、
裸となれる竜骨を潮は運びて帆柱を 
もぎ取る。これに牛皮にて作りし綱は掛けられき。
その綱をもて竜骨と柱を共にしばり付け、
これに座しつつ物すごき嵐にわれは駆られ行く。425

今やゼピュロス咆哮のあらしの呼吸収むれば、
ノトスは速く寄せ来り、かの物すごきカリュブディス
さして再び戻らしめ、われの心をいたましむ。
夜すがら波に運ばれて朝日の光いずる時、
スキュッラー住む懸崖と、かの恐るべきカリュブディス 430
妖魔のもとにわれ着きぬ。魔は潮水をのみ下す。
そのとき我は飛び上り、かのイチジクの大木に
すがり、さながら蝙蝠(こうもり)を見るがごとくに垂れさがる。
しかとわが足支うべき木に登るべき足場なし。
木の根は遠く下にあり、枝は高らに空高く、435
長くも太く繁り合い、カリュブディス住む淵おおう。
かくしてしかとイチジクの木にすがりつつ、竜骨と
柱妖魔に吐かるるを待てばやがては現われぬ。
裁き求むる若人の種々の争い裁き終え、
広場を起ちて夕暮れの食事に人が向かう頃、440
かかる時刻に船材はカリュブディスより現われぬ。
かくと眺めて手と足をすがれる木より引き離し、
その船材のそば近く海のもなかに飛び入りて、
やがてその上身を託し手もて波浪を漕ぎすすむ。
こを人天の父ゼウス、スキュッラーには見せしめず。445
もし見せしめば恐るべき死滅を我は逃れ得じ。

九日続き波の上運ばれしのち十日の夜、12-448
鬢毛美なるカリュプソー住むオーギュギアーの島のへに
諸神は我を運び来ぬ。人語あやつる恐るべき、
女神はそこに慇懃に我を迎えていたわりぬ。12-450
こを語るべき要あらじ。昨日君と王妃とに
こを殿上にのべたりき。一たびすでに明瞭に
述べたるものをまたさらに語らんことはいとうべし』


オヂュッセーア:第十三巻


パイアーケスの一同オデュッセウスに餞別として品々を贈遺す(1~17)。勇士の出発(18~62)。イタケーに着く(63~92)。上陸す(93~124)。パイアーケス人帰航の道にポセイドーンに罰せらる(125~184)。アテーネー、牧童に扮してオデュッセウスに現われ、彼の今故郷にあることを告ぐ(185~286)。女神身を現わして彼に次ぎて取るべき道を示す(287~440)。


しか陳ずればほの暗き殿中座せる一同は、
魅せられたるがごとくして黙然として声もなし。
王アルキノオスそのときに答えて彼に陳じ言う、

『ああオデュッセウス黄銅の敷居を持てる高き屋に
君は訪い来ぬ。しかあれば、いたく難儀に悩みしも、13-5
思うに、帰る道すがら迷いただようことあらじ[1]。13-6
さらにこの我が殿中につねに輝くもてなしの
葡萄酒酌みて、伶人の歌にその耳傾ける
友一同に戒めの一言我は陳ずべし。
客に捧ぐる衣服類みな磨かれし箱の中、13-10
収められあり。精巧の黄金の器もまたその他、
パイアーケスの貴人らのもたらし来る餞別(はなむけ)も。
さらに各々おおいなる三足鼎と水盤を、
客に贈らむ。償いは民衆よりし集め来ん[2]。13-14
おのれ報いを受けずして他に施すはつらければ』 15

[1]わが護送のゆえに。
[2]客に多量に贈遺する時は庶民より弁ぜしむ(19-197)。

アルキノオスの述ぶる言、喜び皆は受け入れて、
やがて眠りに入らんとて、おのおの家に帰り行く。
薔薇の色の指持ちてあした生まるる明けの神
出づれば皆は黄銅の器を携えて船に行く。
しかして強きアルキノオス、浄き王者は船めぐり、20
船をすすむる人々の故障となるを戒めて、
漕ぎ座の下に人々の贈れる器物取り収む。
人々かくて王の館また訪い来り宴を張る。
そのとき強きアルキノオス彼らのためにクロニオーン、
雲を集める雷霆のゼウスに牲を奉る。25
かくて腿肉焼きし後、美々しき宴に人々の
楽しむ中に、神聖のデーモドコスは——一同の
共にあがむる伶人は——歌えり。されどオデュセウス、
光輝く日輪にしばしば頭めぐらして、
西に沈むをこいねがう、帰郷の念は切なれば。30
畑にある者、赤色の二頭の牛に堅固なる
鋤を終日引かしめて夕べになれば食思う。
夕べの食に急がせて彼に嬉しく日輪の
光沈めば膝節は疲れながらも帰り行く。 まさしくかくも落日はオデュッセウスにうれしかり。35
にわかに彼は櫂めずるパイアーケスの一同に、
アルキノオスにまた特に、口を開きて陳じ言う、

『ああ権勢のアルキノエ[1]、庶民に高く臨む君、13-38
献酒をなしてつつがなく我を送りて、幸あれや!
心に念じ願うもの、護送ならびに良き贈与、40
今ことごとくなされたり。天上の神願わくは、
こを幸せとなせよかし。また願わくは帰家の上、
妻の貞淑、朋友のうれしき無事を見んことを。
ここに残れる一同の正しき妻と子孫とに、
幸あらしめよ。神明はその一同に繁栄を 45
恵め。しかして郷のうち災難絶えてなかれかし』

[13-38]呼格。

しか陳ずれば人々は喜び賛し、珍客の
言句正しき故をもて、彼の護送を促せり。
そのとき強きアルキノオス彼の家臣に向かい言う、

『ポントノオスよ強烈の酒に程よく水まぜて、13-50
わが殿中の皆々にくばれ。かくして一同は
ゼウスに祈り、珍客を彼の故郷に導かむ』

しか陳ずればポントノオス、蜜のごとくに甘美なる
酒を薄めて、一同の前に立ちつつ配り行く。
皆はすなわちその席におのおの立ちて、天上の 55
神に向かいて酒そそぐ。そのとき立てるオデュセウス、
二つ把手ある杯を王妃の手のへ捧げつつ、
速き飛揚のつばさある言句を彼に陳じ言う、
『王妃よ、さらば!末長くめでたく栄えおわしませ!
あらゆる衆生襲い来る死と老齢の来んまでは。60
我は故郷に向かうべし。君は子孫と臣民と、
アルキノオスともろともにこの殿中に栄えませ!』

しかく陳じてオデュセウス、勇士は館を離れ行く。
王アルキノオス、一人の家臣を彼に伴わせ、
大わだつみの岸のそば船のへ彼を送らしむ。65
しかして王妃アレーテー三人の侍女を伴わす。
その第一は清浄に洗いし上衣また胴着、
次に第二は堅牢に作りたる箱、第三は
さらに続きて麺包と赤き葡萄酒運び行く。
かくして侍女らわだつみの岸のへ船に到り着く。70
そこにすぐれし水夫らは、これらすべての飲食の
品をただちに受けとりて、うつろの船に収め入る。
うつろの船の甲板にへさきにやがて人々は、
ラグと布とをうち広げ眠りの床を設くれば、
オデュッセウスは乗り込みてそこに静かに横たわる。75
穴ある石につなぎたる船の大綱、水夫らは
そのとき解きて整然と漕ぎ座の上に身を据えて、
身をそり返し櫂先に海の潮をかきわけぬ。
そのときこなたオデュセウス、甘美の眠り穏かに
彼のまぶたに落ち来れば、死せるがごとく横たわる。80
四頭の雄馬首ならべ、繋がるままにまっしぐら、
乱打の鞭にいっせいに踊り上りて飛ぶごとく、
平野の上を駆けり行き、早くも道の端につく。
まさしくかくも船の船尾(とも)おどりてすすみ行く後に、
とどろきわたる大海の黒き潮は乱れ立つ。85
かくして船は安らかに絶えず走れば、一切の
羽族の中にいと速きタカも船足追うを得じ。
かくして船はすみやかに海の波浪をかきわけて、
中に聡明神に似る一人の勇士のせて行く。
彼はさきには人間の戦い、海の激浪を 90
しのぎ渡りて無量なる苦難親しく嘗めし者。
その一切を忘れたる彼の眠りは静かなり。

あした生まるる曙の女神の光を先触れて、
いずる明星燦爛を極むる影の昇る時、
そのとき海をわたり来し船は島にぞ近づける。95
ここイタケーの郷の中、老いし海神ポルキュス[1]の 13-96
名を持つ港一つあり。港の先に突き出づる
二つ岬の絶壁は高く、内にはなだらなり。
岬の外はすさまじく風に激浪狂えども、
岬の中は静かなり。乗り入る船は投錨の 13-100
地点に着きて、繋がずも静かにそこに泊るべし。
港の奥にオリーブ樹立ちて緑葉繁りあう。
その木に近くほの暗き洞窟一ついといみじ。
ネーイアデスと呼ばれたる仙女の群[2]の住むところ。13-104
洞の中には酒の壷また両手ある瓶を見る。105
石にて刻み作るもの。蜂またここに蜜作る。
またおおいなる石造の機(はた)も同じく中にあり、
ここに仙女は暗紅の目を驚かす布を織る。
ここに絶えずもわき出づる泉またあり。さらにまた
洞に二つの門ありて、北向くものは人間も 110
入るべし。南向くものは、神聖にして人間の
入るを許さず、不滅なる神明ひとりここを過ぐ。

[1]1-71。ヘシオドスの『神統記』256~271にはポルキュスをゴルゴーンの父となす。
[2]泉流、河川、湖沼等の守護者。

前よりここを知る彼ら、船を港に漕ぎ入りぬ、
しかして船は岸の上、その全長の半ばまで、
彼ら漕ぎ手の漕ぐままに勢い強く乗り上げぬ。115
良き木材に作られし船より、やがて陸上に、
おりたつ彼ら、オデュセウスおおう輝くラグと布、
彼もろともにうつろなる船より陸に引き上げて、
安眠まさにたけなわの彼を砂上に横たえぬ。
パイアーケスの貴人らが、アテーネーの助け受け 120
帰国の彼に与えたる品々次に引き上げて、
彼らこれらをオリーブの根元の近く、道よりは
離れしほとりさしおきぬ。オデュッセウスの覚める前、
通りがかりの者により掠めらるるのなきがため。
かくて故郷に彼ら去る。こなた大地を震う神、125
聡明あたかも神に似るオデュッセウスをその初め、
おどせし言句思い出で、ゼウスの意見問いて言う、13-127

[1]1-21。5-290。

『今より後は、ああゼウス、我は不滅の神明の
間に尊敬失わむ。パイアーケス族、我の裔[1]。13-129
彼ら朽つべき人間は、我の尊敬はや棄てぬ。130
我は宣せり、オデュセウス多くの危難受けしのち 
故郷に帰り行くべしと。君はまさきにうべないて、
彼の帰国を約すゆえ、我はそれまで奪い得ず。
彼らは彼をイタケーに眠れるままに船の上、
海を渡りて導きて運び、無量の贈り物、135
黄銅、黄金、莫大の布地のたぐい恵みたり。
トロイアよりしオデュセウス、戦果の一部わかたれて、
無事に故郷に帰るともかばかり多く携えじ』

[1]7-56。

雲を集むるクロニオーン答えて彼に宣し言う、
『威力盛んに地を震う汝何たる言を言う!140
神は汝を侮らず。高く貴く、年歯また、
すぐるる者に軽蔑を加うることはやすからず。
もし人間のある者が力を頼み威をふるい、
敬を汝に致さずば後に復讐なし得べし。
汝の願うごとくなせ、心の好むままになせ』145

大地を震うポセイドーン答えて彼に宣し言う、
『君の宣する言のまま、我はすぐにもなしつらむ。
さはれ黒雲よする君、君の怒りをわれ恐る。
いざや今我護送より帰るパイアーケスの船、
美麗の船を霧こむる海路の上にくだかんず[1]!13-150
かくせば彼ら戒めて人の護送を廃すべし。
我また彼の住む都市を大なる山に覆うべし』

[1]8-565以下参照。

黒雲よするクロニオーン答えて彼に宣し言う、
『我の心に最上と思わるるもの我述べん。
パイアーケスの市民らが都城に立ちて、その帰航  155
眺むる船を、陸近く汝は打ちて、そのままの
形の岩に化せしめよ。あらゆる者は驚かん。
しかして彼ら住める都市大なる山に覆わせよ』

その言聞きてポセイドーン、大地ゆるがし震う神、
パイアーケスの住める郷スケリエーの地めざし来て、 160
待つ間ほどなく、かの船は大海原をすみやかに
渡り、間近くすすみ来る。これに近づくポセイドーン、
その剛強の平手もて、激しく打ちてこつ然と、
石に化せしめ、水中に根ざさせ、やがて遠のきぬ。
その櫂長く航海の術のもっとも巧みなる 165
パイアーケスは今隣る友を顧み眺めつつ、 
やがて互いにつばさある飛揚の言句交じえ言う、
『ああら不思議や!何者か船足速く帰り来し
船を波のへとどめたる?今まで現に見たる船!』

しかく陳じぬ、しかれどもそれの由縁はみな知らず。 170
そのとき王者アルキノオス、みなに向かいて陳じ言う。
『無残なるかな!わが父がいにしえ我に宣したる、
予言まさしく今成りぬ。あらゆる人を安らかに
送るがゆえにポセイドーン海の大神怒らんと 
彼は言いけり、佳麗なる船護送より帰る時、175
霧たちこむる海の上、海の大神ほろぼさむ。
しかして我の都城をば大山をもておおうべしと。
老父はしかく述べたりき。これらの事は今成りぬ、
いざ今我の言うところ、みないっせいに聞き入れよ。
もしとある者この後に、われの都城に来るとせば、 180
彼の護送をなすなかれ。ポセイドーンに牲として、
牛十二頭たてまつれ。あるいは彼は憐れみて、
われの都城をおおいなる山もて覆うことなけむ』

しか陳ずれば人々は恐れて牲の備えなす。
パイアーケスのもろもろの頭領および評定者、 185
かくして壇をめぐり立ち、ポセイドーンの海王に、
祈祷捧げぬ。こなたには目ざむる勇士オデュセウス、
祖先の郷に寝ねしかど、長き不在の故をもて
いまだにこれを悟り得ず。ゼウスの神女アテーネー・
パラスは霧をみなぎらす。女神願えり、求婚の 190
群の犯せる一切の罪を戒め懲らす前、
妻も市民も友人も彼を知ることなかるべく、
人目逃るる彼によく一切すべて説くべしと。
かくしてここの一切を島の主人は認め得ず。
長き道筋、上陸の便なる港、さらにまた、 195
高き巌も青々(せいせい)の樹木もすべて認め得ず。
かくして彼は身を起し、立ちて祖先の郷を見る。
しかして彼は嘆声をはなち、両手をふり上げて、
腿を打ちつつ愁然と飛揚の言句陳じ言う、

『ああ、ああ何の人間の郷に我いま着きたるや?13-200
彼ら野蛮か?傲慢か?まったく正義知らざるか?
あるいは人に慇懃に、神を恐れてかしこむや?
これらの宝いずこにか運び去るべき?はた我は
いずれに向かん?あのままにパイアーケスの国もとに
あるべかりしを。しかあれば、とあるすぐれし国王の 205
郷に到りて、彼はよく我を故郷に送りしに。
これらの宝いずこにかおさめ去らんや?我知らず。
ここに残すは不可ならむ。他人はこれを取り去らむ。
パイアーケスのもろもろの首領ならびに評定者、
彼らは賢こからざりき。また正しくもあらざりき。 210
彼らは我をイタケーに導くべしと宣しつつ、
これをば遂げず、他の郷に我を導き来りしな!
ああ哀願を聞き入れて諸人を見張り、怠るを
とがむるゼウス、願わくはパイアーケスを懲さんを。
さはれ今我この宝数え調べむ。送り来し、215
彼らあるいは中広き船に収めて去りたるか?』

しかく陳じて華麗なる三足鼎を、水盤を、
金の容器を、うるわしき布地すべてを数うれば、
みなことごとく備われり。されども彼は鞺々の
波浪の岸を愁然と、おのが領土と知らずして、 220
泣きつつ巡る。そのそばに近く、来れるアテーネー。
羊を飼える青春の子の相好を取る女神。
美妙の姿、王侯の子らのそれにも似通いて、
肩に二重の精巧の上着をまとい、輝ける
その両足は靴穿ち、手に一条の槍を取る。 225
これを眺むるオデュセウス、欣然として近く寄り、
彼に向かいてつばさある飛揚の言句陳じ言う、

『ああ君、我は真っ先きにこの地に君を眺め得ぬ。
君に幸あれ、我にまた悪しき思いをよも持たじ。
救えこれらの品々を。救え我身を。神明に 230
対するごとく乞う我は君の御膝の下にあり。
しかして我の知らんため、まことを我に告げて言え。
ここはいずこぞ?何国(なんごく)ぞ?いかなる民やここに住む?
沖より遠く眺むべき島国なりや。豊沃の
とある陸土の岸にして海に向かいて傾くや?』235

藍光の目のアテーネー彼に向かいて答え言う、
『あわれ客人、この郷を君もし我に問うとせば、
賢しとせじ。さもなくば、遠き果てより訪い来しか?
さほど無名の郷ならず。多くの人はこれを知る。
曙光ならびに日輪の方に住む者これを知る。240
同じく暗き西国の方に住む者また知れり。
げにこの郷は険しくて馬を駆るには便ならず。
領土広きにあらざれど、さほど不毛の郷ならず。
中に穀物おびただし、葡萄の房もよく実る。
雨露の恵みはとこしえに郷の豊饒もたらせり。 245
ヤギと牛とを飼うに良し。あらゆる樹木ここに生ゆ。
つねに枯れざる滔々(とうとう)の泉随所にまた湧けり。
客人されば、イタケーの名はトロイアになお聞ゆ。
はるかに遠くアカイアを隔つといえるトロイアに』

その言聞きて喜べる忍従強きオデッセウス。13-250
アイギス持てるゼウスの子、女神パルラス・アテーネー、
告げたるごとく、身は現に故郷にあるを喜びて、
女神に向かいつばさある飛揚の言句陳じ言う。
ただしまことを述べ説かず。計策種々に胸中に
思いめぐらしあらぬ事、かくして彼は陳じ言う、255

『げにイタケーの名は遠く、海のあなたの領広き 13-256
クレタ島にてわれ聞けり。しかして宝携えて、
我今ここの地につけり。等しき宝、子に残し、
かしこを我は逃れたり。イードメネウスの愛ずる息、
オルティロコス[1]の健脚を倒せるゆえに逃れたり。13-260
クレタ島にて健脚にあまたの勇士しのぐ彼、
トロイア城にわが受けし獲物を彼は奪うべく
念じぬ。我はそのために陸に勇士の戦いに、
海に風波の争いにいたくも苦難うけしなり。
我また彼の父親にトロイアの地に慇懃に、265
仕えることをなさずして他の群集をひきいたり。
我は一人の伴を率いて路傍に近く身を潜め、
野より帰れる彼をわが鋭利の槍にうち取りぬ。
黒き闇夜は天おおい、誰しも我を認めねば、
我はすなわち人知れず彼の生命断ち切りぬ。270
かくして彼を黄銅の鋭き利刃倒す後、
我は直ちに任侠のポイニケース[2]の船のもと、 13-272
向かい願いて、わが獲たる戦利の品に喜ばせ、
ピュロスあるいはエーリスにエペイオイ族司る
神聖の地にわれの身を護送なすべく計らしむ。275
されど暴風吹きあれて目ざす方よりやむなくも、
ほかに漂う一同は身を欺くにあらざりき。
そこよりさらにさまよいて夜間にここに進み来て、
努めて船を湾中に漕ぎ入れ、飢えは迫れども
疲労のあまり一同は食を思うのいとまなく、280
船より出でて岸の上にまずいっせいに横たわる。
そのとき甘き睡眠はわが一身を襲い来ぬ。
彼らうつろの船の外に宝すべてを取り出でて、
砂上に伏せるわれのそば並べつ据えつ、かくて後、
殷賑(いんしん)きわむシドーンの都府をめざして船に乗り、285
立ち去り行きぬ。残されし我は悲嘆に暮るるのみ』

[1]この名は3-488にあれどここにてはまったく仮構の人名。
[2]フェニキア人、航海術に長ぜる富豪の民族と当時称せらる。

しか陳ずれば微笑める藍光の目のアテーネー、
玉手をあげて彼を撫で、やがてたちまち丈長く、
手工すぐるる麗人の姿を取りて前に立ち、
かくて飛揚の羽速き言句を彼に宣し言う、290

『汝に会いて、オデュセウス、嘘にてしのぎ得るものは、
まさに巧みの詐欺師たらん。神にもこれは難からむ。
詐術たくらみ飽くことを知らざる汝、不敵なり。
ここに祖先の郷にして汝はいまだ虚偽やめず、
虚言をやめず、心より汝はこれを喜べり。295
さはれ今いざかかる言もはや言うまじ。計策に、
我も汝もみなまさる。汝は思慮と言句とに、
人間中に秀づれば、我また神の一切の
中に知謀の名は高し。汝は知らず、我こそは
ゼウスの神女アテーネー・パラスぞ!さきに一切の 13-300
苦難の際に汝の身防ぎ守りて、近き頃、
パイアーケスの人々に汝を愛さしめたりき。
我今ここに来れるは汝と共に議せんため。
パイアーケスの貴人らが我の意見と思慮により、
去るに望んで贈りたる汝の宝隠すため。305
家に帰りて災厄を忍び耐うべき運命を
さらに汝に告ぐるため。汝飽くまでこを忍べ。
ここに故郷に漂泊の後に着けりと一切の
男女に汝言うなかれ。人の無礼を飽くまでも、
汝忍びて、口閉ざし、あらゆる苦難身に受けよ』 310

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『難かり、女神、人間の聡明いかにまさるとも、
まみえて君を認むるは。あらゆる姿君は取る。
我はよく知る、その昔、アカイア軍勢トロイアに、
奮戦苦闘したる時、君よく我を恵みしを。315
されどその後プリアモス住める堅城陥れ、
帰国の船にアカイオイ、乗れるを神の散らしたる、
そのとき以来ああ女神、我は君見ず。わが危難
防がんために我が船に君乗りしこと認め得ず。
くだけし心、胸中につねに抱きて悄然と 320
われさまよえり。その後に神は苦難を解き去れり。
パイアーケスの富裕なる民の間に言句もて、
君は我身を励まして自ら都市に導けり。
ゼウスにかけて今君に膝つき祈る。眺むるに
明朗の島イタケーはここと思えず。おそらくは 325
別の地点に我あらむ。我の心を惑わして 
かく宣しつつ、いたずらに女神は我をあざけらむ。
乞う真実をものがたれ、祖先の郷にわれ来しや?』

藍光の目のアテーネー女神答えて彼に言う、
『かかる念慮はとこしえに汝の胸にやどるめり。330
されば悲境にあらん時、我は汝を捨ておけじ。
汝まことに弁口に長じ、聡くて知慮深し。
別人ならば漂浪の旅より郷に帰り来て、
欣然として恩愛の妻子と家に出会うべし。
されど汝はしかなさず。汝の妻を試す前、335
尋ね問うこと早しとす。不憫の妻は家にあり。
悲しき夜と悲しき日、連綿としてはてしなく、
つねに尽きせぬ涕涙は汝の妻の上を過ぐ。
我はもとより疑わず、心の中によく知れり、
すべての従者失いて汝故郷に帰ること。340
されども我はポセイドーン、父の弟、海王と
争うことを良しとせず。彼は愛児の眼を汝
潰せしゆえに、胸中に汝を怒る念満てり。
さはれ、今立てイタケーを汝の信のため見せん。
海の老王ポルキュスの港はここぞ。その端に、345
オリーブの木の緑の葉しげりて立つを眺むべし。
その木に近く仄暗き洞窟一つ、いといみじ。
ネーイアデスと呼ばれたる仙女の群の住むところ。
広き洞窟、その中に汝しばしば、その昔、
すぐれし牲を仙女らに捧げたる場所そこにあり。13-350
かなたに立つはネーリトン[1]、繁る樹木の覆う山』


[1]9-22

しかく宣してアテーネー霧を払えば、現わるる
大地を眺め喜べる忍耐強きオデュセウス。
おのれの国を認め得て、口を土壌に触れしめて、
立ちて両手をさしあげて、すぐに仙女に祈り言う、355
『ゼウスの息女、仙女団、ネーイアデスよ、生きてわれ
諸仙を見んと思いきや?いざ今われの慇懃の
祈りを容れよ。ゼウスの女、戦利もたらすアテーネー、
我が一命を擁護して我が子を成人なさしめば、
昔のごとく数々の供物を我は献ずべし』360

藍光の目のアテーネー女神すなわち彼に言う、
『信ぜよ、汝、胸中にこれらを懸念するなかれ。
いざすみやかに神秘なる洞裏に深くこの宝、
収め入るべし。安らかに汝のために蔵されん。
その後共に最善の策をもろとも計らわむ』365

しかく宣してアテーネー、暗き洞窟すすみ入り、
宝おさむる場所さぐる。こなたに近くオデュセウス、
黄金の器具、黄銅の品また華美の衣類等、
パイアーケスに贈られし種々の珍宝、運び来て、
程よくこれを収むれば、アイギス持てるゼウスの女、370
女神パルラス・アテーネー戸口にしかと石を据う。

やがて両者は神聖のオリーブの木の下に座し、
かの傲慢の求婚の群の死滅を計りあう。
藍光の目のアテーネーまず口を開き宣し言う、

『ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス、375
思いめぐらせ、無残なる求婚者らを懲らす法。
三年にわたり汝の家、わがもの顔に放縦に
彼らは荒し、貞節の汝の妻を追い求め、
財を贈れり。不憫なる彼女はつねに良人の
帰りを待ちて悲しめど、つねに彼らに約束と 380
希望を与えて使いして、しかも心は他を思う』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『女神よ我に一切を、君もし告ぐることなくば、
アトレイデース・アガメムノン、その悲惨なる運命と
同じく、我は殿中に無残にほろび失せつらむ。385
いざ奸賊を懲らすべき策を願わく君計れ。
トロイア城の胸壁をくだきし時のごとくして、
我に勇気を鼓吹して、女神よ、我のそばに立て。
ああ藍光の目の女神、心をこめてわがそばに
君立つとせば、三百の人いっせいに敵として 390
われ戦わむ、荘厳の君の助けを力にて』

藍光の目のアテーネー答えて彼に宣し言う、
『さなり汝のかたわらに我はあるべし、
いつにてもこれらの事をなさん時、我は汝を忘るまじ。
汝の産を貪ぼれるかの憎むべき求婚者、395
そのあるものは脳髄と血とに大地を汚すべし。
いざ汝をば、人々にそれとわからぬ者とせむ。
そのしなやかの肢体より、美麗の皮膚を枯れしめむ。
そのかしらより金色の髪ことごとく去らしめむ。
見て人々のいとうべき襤褸汝にまとわせむ。13-400
いまは汝の美麗の目、これを曇らせ霞ましむ。
しかせば汝、求婚のすべての群に、館中に
汝残せる妻と子に、醜き姿示すべし。
汝真先きに足向けて豚を養う者を訪え。
彼は汝に好意あり。汝のために豚を飼い、405
汝の子息、貞淑のペーネロペイアめで思う。
家畜のそばに彼あるを汝見るべし。その群は
アレトゥーサーの泉流のほとりコラクス[1]岩のそば、13-408
好む樫の実、黒き水、その意のままに飲み食う。
かくして群は便々(べんべん)と脂肪豊かに肥え太る。410
かしこに汝とどまりて座して委細を彼に問え。
その間も我は麗人のすむスパルター訪い行きて、
テーレマコスを、オデュッセウ[2]、汝の息を呼び出さむ。13-413
ラケダイモーン広き郷、メネラーオスの住む所、
かれ訪い行けり。生か死か、父の消息知るがため』415

[1]昔の原住者(カラスの意)、野獣を狩りし時誤りて岩に触れて死す。母アレトゥーサー、悲しみ縊首す。この岩は彼の名に呼ばる。
[2]呼格。

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『女神よ、すべて知りながら、なにとて彼に告げざりし?
波浪の上にただよいて、艱苦飽くまでわが愛児
受くべきためか?その間(あい)に家産を人がむさぼるに!』

藍光の目のアテーネー答えて彼に宣し言う、420
『汝さまでに胸中に彼の懸念をなすなかれ。
かしこに行きてすぐれたる光栄彼の得るがため、
我は親しく遣わせり。彼に何らの苦労なし。
メネラーオスの宮の中、すべてに足りてやすらえり。
故郷に帰りつかん前、彼の殺害もくろみて、425
若者あまた黒船に乗りて彼をば待ち構う。
さはれこの事きと成らじ。汝の産をむさぼれる
かの求婚の者たちは、その前地下に沈むべし』

しかく宣してアテーネー、杖取りあげて彼に触れ、
そのしなやかの肢体より美麗の皮膚を枯れしめて、430
その頭より金色の髪ことごとく去らしめて、
老いたる人の皮膚をもて彼の肢体を覆い去る。
彼の今まで美麗なる両の目霞み曇らせて、
裂け破れたる、不潔なる煙にくもるぼろぎぬを、
上着に彼にまとわしむ。さらにその上鹿の皮——435
足疾く走る鹿の皮——大なるものをまとわしむ。
しかしてほかに一条の杖と、おちこち破れたる
きたなき一の背嚢(はいのう)を与う、結びの縄ともに。

この謀計をなしおえて神と人とは別れ去る。
オデュッセウスの子のために、ラケダイモーンに神は行く。440


オヂュッセーア:第十四巻


オデュッセウス来りて牧者エウマイオスを訪う(1~28)。牧者彼を歓迎す(29~71)。食事の間牧者は求婚者の傲慢を訴え、主人の落命を嘆く(72~147)。主人の帰るべきをオデュッセウス説く、されど牧者はこれまで度々来訪者に欺かれたるがゆえに容易に信ぜず。またテーレマコスの運命に関しての心配を述ぶ(148~190)。牧者に問われてオデュッセウス長き作り話を語り、あまり遅からずにイタケーの領主帰るべしとの風聞を述ぶ(191~359)。牧者これを信ぜず(360~408)。牧童ら帰り来り、共に晩餐を取る(409~456)。夜寒く、オデュッセウス物語をなし、外套を借らんとす(457~506)。牧者彼に外套を与う。他の牧童ら眠り、エウマイオスひとり出でて警戒す(507~533)。

港を立ちてオデュセウス、荒れたる道をすすみ行き、
林地を上り丘陵の高きを過ぎて、アテーネー
説きたるところ、牧人の宿訪い来たる——先きにかれ
得たる奴隷に立ちまさり、主人の産を守る者。
その牧人は戸の口に座したり。ここの農園は 14-5
四方はるかに見はるかす高所にありて眺め良し。
広きこの場に巡らせる垣は牧人手をくだし、
旅に主人の出でし時、ラーエルテース老翁と
妃にあえて告げずして、家畜のために建てしもの。
その材料は遠くより引き来たる石、いばらの木 14-10
上に頂き、外面(そとも)には互いに近く数多く、
樫の木切りて作りたる杭おちこちに植えられき。
また農園の内側に、家畜をやどす小屋として、
互いに近く相隣る十二の小屋は設けらる、
その各々に五十頭、子を産みいずる雌の豚、15
地に転ぶ豚収めらる。雄はその柵外にあり。
雄ははるかに少なかり。かの傲慢の求婚者、
むさぼり食いて減じたり。命を受けたる牧人は
脂肪に富める最上のものを送るを習とす。
かくして残る雄の群、三百六十今数う。20
これら家畜を日に夜に守る四頭の猛き犬。
豚を養う牧人の長はこれらのしつけせり。
戸口に座して彼は今牛皮たち切り、両足に
まとわん靴を作りおり、他の三人はそれぞれに、
あなたこなたに豚の群追いつつ行けり。彼はまた 25
残る第四の牧人を都城に送り、一頭の
豚を駆りたて、傲慢の求婚者らに到らしむ。
彼らはこれを牲として、肉を食いて飽かんとす。
オデュッセウスを今不意に猛き犬らは眺め見て、
ぎんぎんとして吠えかかる。そのとき聡きオデュセウス、30
手中の杖を投げ棄てて、大地の上に身をかがむ。
あわやおのれの農園に彼は難儀に会わんとす。
されど牧人すみやかに手中の皮をなげすてて、
戸口(とぐち)を出でて走り来て、足を運びて犬を追い、
犬を叱りておちこちに小石の雨に追いはらい、35
それと知らずに、その主人迎えて彼は陳じ言う。

『ああおじ危なかりしよな。犬に突然噛みつかれ、
激しく害を被らば、咎めは我に致されむ。
さはれ諸神は我に他の痛み悲しみ与えたり。
主人は神に似たる人。彼を哭して我ここに 40
ありて、むなしく他のために肥えたる家畜養えり。
ああ無残なりわが主人。彼もし今も生ありて、
目に日輪を見るとせば、食を求めてさまよいて、
異国の人の都市のなか迷い行くらむ悲しさや。
さはれ老人、身に付きてわが小屋のなか入り来れ。45
汝の心、麺包と酒とに満ちて足らん時、
告げよ、どこより来りしや?何たる難儀忍びしや?』

しかく陳じて小屋さしてやさしき牧者先に入り、
彼を招きて座につかせ、柴木を厚く下に敷き、
野生のヤギの毛の深き、おのがしとねの幅広き 14-50
皮その上に敷きひろぐ。これを眺めてオデュセウス、
彼の歓迎切なるを喜び彼に陳じ言う、

『ゼウスは君に、不滅なる他の神明ともろともに、
望める物を与うべし。君はけなげに歓待す』

その時牧人エウマイエ[1]、汝答えてかく言えり、14-55
『君よりさらに劣る客、来たるもこれを侮るは、
我の不正とするところ。客は富めるも貧しきも、
すべてゼウスのもとより来。わが饗応は小なれど
心こもれり。小なるは若き主人のもとにして、
恐れを抱く従僕にとりての習い、是非もなし。60
先の主人の帰郷をば、悲し、諸神はさまたげり。
ああ慇懃に我を愛で、心やさしきわが主人。
彼はおのれに勤勉に働く者に与うべき
すべてを我に得せしめん。すなわち家宅また耕地、
また配偶を得せしめん。われの勤めるこの業の 65
成れるごとくに、働ける者のわざ神成らしめば。
ああわが主人帰り来て老いなば我に恩寵を
恵むべかりし。しかれども彼はほろべり。ヘレネー[2]の 14-68
族人失せよ。そのためにほろべる者はいくばくぞ!
アガメムノーンの名のために主人は起ちき。イリオンを、70
馬の産地を目ざしつつ、トロイア軍を打たんため』

[1]呼格。原文は二人称に言う、『牧人エウマイオスよ汝はそのとき答えていえり』口調のためならむ。後にもしばしばあり。
[2]トロイ戦争のもとたる美人ヘレネー。

しかく陳じてすみやかに上着の帯を引き締めて、
足を運びてくさぐさの豚群る小屋にすすみ入り、
中より二頭をとりいだし彼と此とをもろともに、
ほふりて切りて串に刺し、烈火の上にかざしつつ、75
あぶり終わりて串のまま、熱き調理を携えて、
オデュッセウスの前におき、白き粉(こ)上にふりまきて、
蜜のごとくに甘美なる酒を蔦木(つたき)の杯の 14-78
中に程よく水を和し、向かい座しつつ勧め言う、

[1]上流者は金銀の杯を用い、農民らは木杯を用いしなり。テオクリトスの牧歌一の二七参照。

『いざや客人この肉を、われ従僕の捧ぐるを 80
喫せよ。美肉の肥えたるは求婚者らの取るところ。
彼らは天の懲罰を思わず、絶えて慈悲知らず。
不滅の神は人間の不正のわざを喜ばず。
ひとり正義を、人間の正しきわざを喜べり。
世には無残のやからあり、我意(がい)に任せて他の領を 85
侵す。しかして略奪をゼウスのこれに許す時、
船を満たして揚々と故郷をさして帰り去る。
されど恐怖は物凄く彼らの胸の中に寄す。
さもあれここの求婚者知るところあり。とある神
われの主人の無残なる死をささやけり。そのゆえに 90
彼らは婚を正しくは求めず、おのが家に行かず、
悠々としてわが資財むさぼり、惜しむところなし。
見よゼウスより生まれ来るその日その日に宵々に、
牲をほふりて祭ること、ただに一二に止まらず。
葡萄の美酒を傲然と汲み出し飲みて果て知らず。95
主人の産は果てしらず。本土あるいはイタケーの
島に住える豪族の誰しもかかるおおいなる
富をば持たず。二十人彼らの産を集むるも
絶えておよばず。試みにいまわれ君に数うべし。
本土[1]に牛の群十二、羊の数もまた等し。14-100
豚の群また同じ数、ヤギの小屋また相等し。
主人の家僕[2]とよそ人はもろともこれを養えり。14-102
島[3]の端には十一のヤギの群あり。草食める 14-103
そのおおいなる群をよく、すぐれし牧夫養えり。
これらの人の各々は肥えたるヤギの群の中、105
姿もっとも良きものを、日日求婚の徒に送る。
しかして我は豚の群、心尽して養いて、
その最上を選び取り、かの求婚の徒に送る』

[1]103行のイタケー島と相対して言う、20-185~188、ピロイティオス本土より家畜を携え来る。
[2]特殊の意において(雇い人と相対し)
[3]イタケー。

エウマイオスはかく陳ず。黙々としてオデュセウス、
酒肉とりつつ求婚の徒をこらしめの策案ず。110
飲食飽きて口腹の願いのすでに終わる時、
飲みし酒杯を、牧人はさらに満たして客人に
与う。そを受け欣然と心喜ぶオデュセウス。
彼に向かいてつばさある飛揚の言句陳じ言う、

『哀れわが友。何者ぞ、君言うごとく、いみじくも 115
富みて秀でて、財をもて君を買いたるその人は?
アガメムノーンの名のために彼は死せりと君は言う。
誰そ彼?我はおそらくはかかる勇士に会いつらむ。
我よく彼の消息を伝え得べきか、クロニオン
また他の不死の神々は知りたまう。われ漂浪の客ゆえに』120

豚を養う牧人の長は答えて彼に言う、
『彼の消息もたらして、ここに訪い来る流浪人
中に、主人の妻と子を納得せしめ得るは無し。
流浪の者はひたすらにただ歓待を願うのみ。
真実述ぶる心なく、ただに虚言を喋々す。125
すなわち彼ら漂浪のはてにイタケー訪い来り、
わが奥方に打向かい真実ならぬことを言う。
彼女は彼らもてなして尋問種々になしながら、
あわれ涕涙はらはらと彼女のまみに流れ落つ。
良人よそにほろぶ時、泣くは女性の習いのみ。130
誰かが君にまとうべき衣服を恵み得さす時、
老人、君もすみやかに一つの話作り得む。
ああわが主人はや死して、野犬野鳥はその皮を
肉を骨より裂きつらむ。魂彼を去りつらむ。
あるいは彼は海中に魚の餌となり、白骨は 135
さびしき岸にさらされて、むなしく砂に埋もれんか?
あわれ異郷に彼死して、あとに残れる一切の
友に、中にもわれの身に悲嘆おこせり。いずこにか
かかるやさしき他の主人求めんとして得らるべき!
父と母とのわが故郷——恩愛の親、我を生み、140
我を育てしわが故郷——そこに行くとも求め得じ。
故郷に帰り父母を親しくわれの両眼に
見るべき願い切ながら、これを慕いて悲しむは、
今ここになきオデュセウス悲しみ慕う程ならず。
あわれ客人!ここになき彼を名指すは恐れあり。145
彼はいたくも我を愛で、心に思いわずらえり。
今は遠きにへだたるも、我は友とし彼を呼ぶ』

忍耐強きオデュセウス、彼に答えて陳じ言う、
『君は一切みな拒み、主人はもはや帰らずと
断じて我の言きかず。いかに疑念の深きかな!14-150
我はみだりに物いわず。誓いを立てて宣すべし、
オデュッセウスは帰らむと。帰り来りてその家に
彼の入る時、吉報の報い直ちに我にあれ。
すなわち我に華麗なる上着下着をまとわせよ。
これらは我に要あれど前にはあえて我受けず。155
貧に屈していつわりを言う者多し。かかる者、
あたかも我は冥王の門のごとくに忌みきらう。
神明中にいや高きゼウスまさきに証したれ、
わが訪い来る英邁のオデュッセウスのかまどまた
証したれかし。一切はわが言うごとく成りぬべし。160
月のうちにオデュセウスこの地に帰り来るべし。
かの月沈みこの月の上れる時にオデュセウス、
この家に帰り来るべし。しかしてここに彼の妻、
彼の愛児に凌辱を加うる者を懲らすべし』

そのとき、汝エウマイエ[1]、彼に答えてかくいえり、14-165
『われ吉報のこの報い、君に対して払うまじ。
オデュッセウスはその家に帰るべからず。さはれ今、
飲むべし、心やすらかに他事を話して。この事は
忘れむ。けだし人ありてわれの主人を語る時、
我の心は胸中にそぞろ悲嘆に耐えがたし。170
誓いの言はうち捨てん。さはれ願わくオデュセウス、
帰り来よかし。我と共ペーネロペイア、老翁の
ラーエルテース望むまま、テーレマコスももろともに。
テーレマコスを——オデュセウス生める愛児をわれ嘆く。
諸神は彼を育くみて新芽のごとく長ぜしむ。14-175
我思えらく、人なかにありて心身もろともに、
テーレマコスはその父に露いささかも劣らずと。
さるをある神さもなくば、ある人、彼の聡明の
心害しぬ。そのゆえに父の消息探るべく、
彼はピュロスの神聖の郷に行きたり。その帰路に、180
求婚の群待ち伏せし、アルケイシオス[2]、英雄の 14-181
族をむなしくイタケーの島より絶やし去らんとす。
彼逃がるるか捕らわるか、ただ天命にまかすべし。
クロニオーンおおいなる手をのべ彼を救えかし。
いざや老人、今君の悲哀を我にものがたれ。185
われに真実うち明けて我に委細を知らしめよ。
君は何者?いずこより?親と故郷はいずこにぞ?
何たる船に乗り来しや?水夫はいかにイタケーに
君を導き来りしや?彼らそもそも何者ぞ?
徒歩にて君がこの郷に来しとは我は思い得ず』190

[1]呼格。
[2]オデュッセウスの祖先。

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『よしよし、我は一切の事実を君に語るべし。
ここなる小屋の内にして心静かに宴すべく、
我ら二人に甘き酒、食物ともにいつまでも
足らば、しかして他の者はその勤労に従わば、195
しからば神の意によりてわれの悩める一切を、
われの胸裏の悲しみを語りつづけて一年に
わたるも、語り尽す事たやすきわざにあらざらむ。
広き島なるクレタ島[1]、その地に我は生まれたり。 14-199
父はその地の富める者、その正妻の生み出でし 14-200
子ら数多くその館に養われたり。わが母は
買われし妾。しかれども父ヒュラキデス・カストール、
他の嫡出の子のごとく等しくわれを重んじき。
彼れの子たるを唱うるはわが光栄となすところ。
クレター島の族のなか彼をあたかも神の如、205
民は崇めき、繁栄と富とほまれの子らのため。
さもあれ彼を冥王の館に無常の運命は
携え行けば、剛胆の残れる子らはくじ引きて、
父の資産を相分かち、各々これを領し取り、
われに極めて僅少の産を与えて家を添う。210
われ勇にして敵避けず。人々我を侮らず。
かくして、とある豪族の息女を迎えて妻としき。
今は老齢身に迫りすべての威力あともなし。
されども君は刈株を目に見て先の収穫を
推し測るべし。あくまでも我は難儀を身に受けぬ。215
アレースおよびアテーネー、我に敵陣破るべき
勇と威力を恵みたり。敵に破滅を来すべく、
勇士の群を待ち伏せの道にやるべく選ぶ時、
そのときつねに勇猛のわれの心は死を知らず。
はるかに人に先んじて鋭利の槍に敵人を、220
われは倒せり。健脚に追われて彼ら倒れたり。
われ戦陣にかくありき。われ耕耘のわざ好かず。
家政おさめて良き子らを養うことを喜ばず。
つねにおのれの喜ぶは櫂を用いる船のわざ、
さらに戦闘、磨かれし投げ槍および鋭き矢。225
これを恐るる敵人にとりてまことにつらきもの。
これらの物の愛好をわが胸中に神植えき。
我は我なり、人は人、好めるものはみな変る。
トロイア人をアカイアの健児攻めしに先だちて、
九度まで我は従者らをひきいて船の足速く、230
異国の民にすすみ行き、得たりし物は多かりき。
そのなか我の意のままに選び取りしが、また後に
多くの物をくじ引きて、家はにわかに富を増し、
そのため我をクレタ島郷人恐れ敬いき。
されど轟雷クロニオーン、多くの勇士倒したる 235
かの憎むべき遠征を、思い計りてきめし時、
船イリオンに導くを、イードメネウスの剛勇と
我とに民は求めたり。そのとき我らごうごうの
厳しき声に迫られて拒まん道はあらざりき。

[1]13-256以下参照。

そこにアカイア軍勢は九年にわたり戦いて、240
第十年にプリアモス王の都城をほろぼして、
船のへ郷に帰るとき、神の怒りに散り去りぬ。
しかして我の災いを知慮あるゼウスたくらめり。
家に帰りて愛児らのまた正妻の再会を、
また財宝を楽しめる。そは一月の間のみ。245
神にすかされわが心、アイギュプトス[1]に航行を 14-246
望める勇士もろともに、船の艤装を促せり。
九隻の船は艤装され、乗員とみに集れり。
わが忠実の従者らは六日にわたり宴を張る。
これに多くの聖き物、われは与えて、神明に 14-250
牲をし捧げ、一同の宴に豊かに備えしむ。
七日目広きクレタ島あとに見なして船に乗る。
颯々としてボレアスの順風強くふき送り、
船やすらかにすすみ行き、流れを下るごとくなり。
船一隻も害受けず、みな安らかにつつがなく、255
一同座して順風と舵手に任せて乗りすすむ。
アイギュプトスの溶々の清き流れに、五日目に
着きたる我ら曲頸の船を岸辺に繋ぎとむ。14-258
そのとき我は忠実の従者に命じ、とどまりて
船守らしめ、さらにまた斥候隊を遣わして、260
陸に上りて展望に便なる地点求めしむ。
されども彼ら貪欲の情に駆られて暴力を
ふるい、直ちに豊沃のアイギュプトスの地をあらし、
多くの女性、柔弱の小児の輩をかすめ取り、
無残に男子うちほふる。その報すぐに都市に入る。265
報に接して人々は曙光かがやき出づる時
すすみ来りて、草原に歩兵と騎兵、剣戟の
きらめき満てり。そのときに雷を喜ぶクロニオーン、
われの部隊に恐慌を起さしむれば、一人も
敵の目の前とどまらず。災難よもに迫り来ぬ。270
敵は多数を鋭利なる武器を用いてほろぼして、
あるいは捕え引き去りて、強いて労務に服せしむ。
しかしてゼウスわが胸に一つの思案起らしむ。
今し思えば我そこに、アイギュプトスに、滅亡の
運命負わば良かりけむ——災い今も身を襲う。275
直ちにわれは精巧の兜、頭より取りはずし、
盾を肩よりひきおろし、手中の槍を投げ棄てて、
馬上の敵の王の目の前にひれふし膝抱き
哀(あい)を乞うれば、憐れみて敵王我を救いとり、
車台の上にはらはらと泣きたる我を座さしめて、280
館に向かえり。敵兵は激しく我にいきどおり、
わが殺害を念じつつ槍ふりあげて寄せ来る。
されども王はしりぞけぬ。異郷の客を擁護して
悪業憎むクロニオーン、ゼウスの怒り恐るれば。

[1]河名ならびに国名。

かくして我は七か年アイギュプトスの地にとまり、285
その国人に交わりて施与をうけつつ富を得き。
やがて光陰推し移り第八年の来る時、
ポイニキアーのとある者、さきに多くの災いを
人に加えし悪しき者、いたく奸智にたけし者、
来りて我を説き伏せてポイニキアーに到らしむ。290
その故郷には彼の産、彼の宅あり。その場所に
彼ともろとも、その歳の暮れ果つるまでとどまりぬ。
月また月と推し移り、日は日に次ぎて代わり行き、
一年はやくめぐり来て、季節ふたたび巡る時、
リビアー行きの船の上、彼は我身を乗らしめぬ。295
悪しき企計は我をして共に船荷を督(とく)せしめ、
しかして後に我を売りその償金を得んとしき。
疑念ありしも止むを得ず、我船上に伴えり。
船ははげしく飄々と吹く順風に送られて、
クレタ島過ぎ沖を行く。そのときゼウス一同に 14-300
破滅たくらみ、クレタ島過ぎたる後に陸の影、
まったく消えて渺々の海と空のみ見ゆる時、
すごき黒雲、クロニオーン湧かし来りて行く船の
上に覆えば、大海の表もために暗み行く。
轟雷起すクロニオーン、そのとき凄くへきれきを、305
飛ばして、船を真っ向に打てば全体ゆり動き、
硫黄の煙充ち満ちぬ。舷側こして海中に
落ち入る部下はいっせいにかもめのごとく船めぐり、
怒涛に巻かれ運ばれぬ。神は帰国の道奪う。
悲痛に心悩みたる我の手中にクロニオーン、310
そのときへさき緑なる船の折れたる帆柱の
巨大のものを授けつつ、危難再び脱れしむ。
これにすがりてすさまじき嵐に吹かれ運ばれぬ。
九日かくて吹かれ行く我を十日目暗黒の
夜に逆まく大潮はテスプロートイ[1]の郷に寄す。14-315
テスプロートイに君臨のペイドーン王はねんごろに、
償いなくて我を容る。彼の愛児はたまさかに、
寒と疲労に悩みたる我を見出し手をかして、
助け起して、その父の館に我身を導きぬ[2]。14-319
しかして王はわが肌に上着下着をまとわしむ。320
オデュッセウスの消息をここに初めて我聞けり。
王は語りき、その国に帰らん彼を慇懃に
あしらいたりと。また彼の集めし宝を我見たり。
そは黄銅と黄金とたくみ妙(たえ)なる鉄の器具。
子孫十代相つぎてこれを用いて余りある、325
かほどの宝、王宮に集めらるるを我見たり。
王また言いき、緑葉の高く繁れる樫の中、
ゼウスの声を聞かんため、ドードーナー[3]に行きたりと。14-328
長く別れしイタケーの富裕の郷に公然に、
あるはひそかに帰るべき、神の教えを知らんため。330
王は宮中酒そそぎ、誓いをなしてかく言いき、
「船は波上におろされぬ。愛ずる祖先の故郷に
かれ送るべく従者らはすでに備えを整う」と。
されども王は先んじて我を送れり。国人の
ある船、麦の産地なるドゥーリキオンに行かんとす。335
そこの王者はアカストス。我をそのもとねんごろに、
護送なすべき命うけし部下は心に奸計を
思えり。かくて我はまた難儀を再び受けんとす。
かくて陸より程遠く船、海上をはしる時、
直ちに彼ら我の身を奴隷にせんとたくらめり。340
すなわち我の身につけし上着下着を剥ぎとりて、
襤褸の衣服、破れたる下着をわれにまとわしむ。
無残の姿、哀れにもまさに君の目見るごとし。
夕べに到りイタケーの耕地に船は到りつく。
そのとき彼ら漕ぎ座良き船のへ我を、よくなえる 345
縄にきびしく縛(いまし)めつ。やがて一同おりたちて、
波浪よせくる岸の上、急ぎ夕べの食を取る。
されど、諸神はすらすらと我の縛め解きほどく。
そのとき我は襤褸もておのが頭をおし隠し、
磨けるかじを伝わりて下りて波に胸ひたし、14-350
両手をのして水を切り、岸に向かいて泳ぎだし、
かくて極めて迅速に彼らを離れ水離れ、
陸に上れば緑葉のしげれる木々の林あり。
ここにひそみて横たわる。彼らは高く叫喚を
上げておちこち行き来しぬ。されども我を見出し得ず。355
探索ついに効なしと悟りてあとに引き返し、
船に乗り入る。もろもろの神はかくしてやすやすと、
我を隠して、またつぎに我を導き賢明の
人の耕地に到らしむ。生きるはわれの定めなり』

[1]エペイロス(ギリシア本土北西部のイピロス)の全海岸および内陸に住める者。後にはエペイロスの中央にある三区中の一のみを領とす。
[2]息子の導く時は客人歓待の道を行なう。3-36参照。
[3]当時テスプロートイの領内にありと見ゆ。『イーリアス』16-233にドードーナーを司るゼウスに祈る言句あり。

エウマイオスよ、そのときに汝答えてかくいえり、360
『客人げにも不幸なり。君は苦難と漂浪の
委細をわれにうち明けて我の心を動かせり。
されどまことと思われず。オデュッセウスの消息の
この事信をおきがたし。かかる身にしてなぜに
かく喋々と虚言する?主人帰るや帰らずや、 365
我明らかにこれを知る。彼はすべての神明に
憎まる。彼をトロイアに、見よ、神明は死なしめず。
また戦争の終わるのち、友の手中に死なしめず。
しかせばすべてアカイオイ彼に墳墓を残すべし。
しかして彼はおおいなる誉れ、子孫に残すべし。370
嵐の精は誉れなく彼を遠くに吹き去れり。
しかして我は人々と離れて豚のそばにあり。
ある消息のいたる時、ペーネロペイア、聡明の
女主もし我を呼ばわれば、やむなく町におもむかむ。
その消息を言う者に人はすべての事を問う。375
久しく去りて帰らざる主人を嘆くともがらも、
彼の資産を平然とむさぼり食うともがらも。
アイトーロス[1]のとある者いつわり我をあざむきし 14-378。
その日このかた、一切の尋問我は喜ばず。
人を殺せるとがにより、彼は四方を逃げまわり、380
ついに我が家を訪いこしを我慇懃にもてなせり。
クレタ島にてオデュセウス、イードメネウスともろともに、
破れし船を繕うを見たりと彼は偽りき。
また偽りき、財宝をもたらし従者もろともに、
夏か秋かにわが主人故郷に帰りくるべしと。385
悲しみ多く老いし君、君を神明わがもとに
送れり。あえて偽りてわれ喜ばすことなかれ。
君を敬いもてなすは、これを求めるためならず。
客を擁護の神恐れ、君を憐れむためにこそ』

[1]イタケーの東にあり。

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、390
『飽くまで物を信ぜざる心は君の胸にあり。
われ誓言を用いるも君を納得させがたし。
いざやしからば約すべし。ウーリュンポスを家とする
高き諸神よ、両人の間に後に証したれ。
君の主人がこの家に帰り来らば、そのときに、395
上着下着をわが肌にまとわせ、われを導きて
ドゥーリキオンに行かしめよ。そこは我の希望なり。
我が言うところ誤りて主人はここに帰らずば、
奴隷を用い、懸崖の上より我を突きおとせ。
しからばほかの乞食らは虚言を吐くを恐るべし』14-400

エウマイオスはそのときに答えて彼に陳じ言う、
『ああ客人よ、先に我が屋のなか君を招き入れ、
歓待致し、しかるのち君を殺して生命を
奪わば、我は今すぐに、またこの後も末遠く、
世間にありて名声と有徳の誉れかち得べし[1]。14-405
しかして心穏かにクロニオーンに祈り得む[2]。14-406
さはれ夜食の時いたる。今すみやかに小屋の中、
仲間の者ら帰れかし。美味の夜食を整えん』

[1]反語。
[2]悪人は穏かに神に祈るを得ず。

かくのごとくに両人は互いに語り陳じあう。
豚の群また牧人らやがてかたえに帰り来て、410
中に休らい眠るべく獣を小屋に駆り収む。
駆られて中に群がれる豚はごうごう鳴き叫ぶ。
そのとき心慇懃のあるじ仲間に命じ言う、
『遠き国よりたずね来しわが客のためほふるべく、
すぐれし豚を引き来れ。われらも共に益を得む。415
白き牙ある豚のため長らくわれら苦労せり。
わが労力の成るところ、他は平然と食らい去る』

しかく陳じて青銅のつらき斧もてたきぎ割る。
仲間は年は五歳なる肥えたる豚を引き来り、
炉辺に近く立たしめぬ。あるじは神を尊びて、420
心用いて手はじめに、白き牙あるその豚の
頭の粗毛切り取りて、これを火中に投じ入れ、
彼らの主人オデュセウスつつがなくしてその家に、
帰らんことを一切の不滅の神に祈り上げ、
切り残したる樫の木の一棒あげて豚を打ち、425
その生命を断ち去れば、伴は喉切り毛焼きして、
直ちに牲を切り開く。すべて四肢より初穂とて、
はじめに切りて生肉をあぶらぎりたる脂身の
中に包みて大麦の粉をふりかけ火に投ず。
伴は残りをこまやかに切りて串もてつらぬきて、430
心をこめてこれを焼き、焼きて串より抜き出し、
料理台のへさしおけば、あるじの牧者その前に、
よく公平を心して、肉分かつべく身を起す。
しかして彼は平等に七つにわけて相くばり、
一を仙女とヘルメース、マイアーの子[1]に奉り、14-435
祈祷ささげてその残りみな仲間らに相分かち、
オデュセウスには牙白き豚の背筋の長きもの[2]、14-437
与えて彼を敬いて彼の心を喜ばす。
知謀に富めるオデュセウス彼に向かいて陳じ言う、

[1]マイアはヘルメースの母。
[2]8-475参照。

『エウマイオスよ、かかる身に誉れの肉を与えたる 440
君は願わくクロニオーン、我もろともに愛でよかし』

エウマイオスはそのときに答えて彼に陳じ言う、
『尊き客よいざ喫せよ。今眼前にあるものを
楽しみ受けよ。神明はある物与え、ある物を
許さず。すべて意のままに、彼は一切みなよくす』445

しかく陳じて初穂肉、不滅の神に奉り、
美酒をそそぎて杯を都城破壊のオデュセウス、
勇士に渡し、自らはその食膳のそばに座す。
メサウリオスは麺包を配る。彼こそ牧人が、
その故郷よりオデュセウス立ちたる後に得たる者、14-450
おのれの財を引き出し、タポス[1]の地より買いし者。14-451
ラーエルテース老雄も女主人もあずからず。
やがて一同眼前におかれし食に手をのばす。
かくて一同飲食の願いおのおの満てる時、
メサウリオスは卓上の残れるものを始末しぬ。455
口腹充ちて人々は彼らの床に行かんとす。

[1]イタケーの北にあり。そこの住民の一部は海賊にしてまた、商売をよくす。15-427および16-425参照。

月なく暗き夜到り、クロニオーンよもすがら、
雨を降らして、雨運ぶゼピュロス強く吹きすさぶ。
そのとき主人、牧人を試さんために口開く。
好意もつ彼その上着脱ぎておのれに与うるや?460
あるいは誰か従者らの一人にこれを命ずるや?

『エウマイオスよ牧人のすべてよ、我の言を聞け。
自慢の言を我のべむ。飲酒は人を痴ならしめ、
さとき者をも歌わしめ、また朗らかに笑わしめ、
あるいはこれを促して舞わしめ、口に言うまじき 465
言句を彼に放たしむ。酒今我をそそのかす。
かくして我は口切りぬ。はや何事も隠すまじ。
ああわれ年は若うして、むかしトロイア草原に、
伏兵仕立て導ける時のごとくに猛(たけ)からば!
率いし将はオデュセウス、アトレイデース・メネラオス、470
その両雄に誘われて、我第三の将たりき。
一同やがてトロイアとその高壁に着ける時、
城の周囲の繁き薮、葦と沼とのかたわらに、
鳴りを鎮めて武具の下、身をひそやかに横たえぬ。
北風寒く吹き落とし、夜すさまじく襲い来ぬ。475
さらに空より雪ふりて霜の結ぶを見るごとし[1]。14-476
寒し、しかして一同の盾は氷に覆われぬ。
他の一同は肌の上、外套および下衣着て、
盾に両肩おおわせて心静かに眠り行く。
しかるに我は立つ時に、風邪の恐れあるまじと、480
思慮浅くして外套を友の手元に残し来つ[2]。14-481
盾を携え、輝ける肌着を着けてすすみ来ぬ。
更けゆく夜の第三時、星の傾き沈む時、
オデュッセウスがかたわらに居ぬるを肘に突きながら、
彼に向かいて我いえり。彼は直ちにそを聞けり。485

[1]「雪が霜に似る」とは奇異の言句。
[2]冬の節に外套を着けずとは実際にあるまじきこと。

「ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス、
生者の中にもはや我残るべからず。衣服なき
我を寒気は倒すべし。ある神我をあざむきて
下着のみにて立たしめぬ。助かる道はよもあらじ」

謀議ならびに戦争に共にすぐれしオデュセウス、490
われの愁訴をうち聞きて胸に奇計を産み出し、
かそけき低き声をもて、我にひそかに陳じ言う、
「黙せよ。ほかのアカイオイ、われらの言を聞かぬため」

しかして彼はその肘に頭支えて皆に呼ぶ、
「諸友よ、我の言を聞け。我は尊き夢見たり。495
あまりに遠く船離れ我ら来れり。誰人か、
走りて行きて民の王アトレイデースに願い言え。
船よりさらに軍勢の多くをここに送るべく」

しか陳ずればすみやかにアンドレイモーン生める息[1]、14-499
トアスすなわち身を起し、紫染むる外套を、14-500
捨てて水陣めがけ馳す。彼の残せる衣服着て、
我はしずかに横たわる。程なく曙光現われぬ。
そのいにしえの時のごと、我若うして強からば!
しからば小屋の牧人の誰か一人勇者への
親愛ならびに敬に依り、われに衣服を与うらむ。505
されど彼らは身に襤褸まとえる我を侮れり』

[1]『イーリアス』2-638参照。

エウマイオスよ、そのときに汝答えてかくいえり、
『ああ老人よ、いみじくも君はこれらを物語る。
述ぶる言句は正しくて法に外るるところなし。 かかれば君は欠かざらむ、衣服ならびにほかの物。 510
ここに来りて哀訴する不幸の人の得べき物。
あしたにならば肌えより君は襤褸を払うべし。
ここに肌を覆うべき衣服、着替えの下着など、
数多からず。各人はただ一着を持てるのみ。
オデュッセウスの愛ずる息、テーレマコスの帰る時、515
彼は親しく一切の衣服を君に与うべし。
しかして君の好むまま望む所に送るべし』

しかく陳じて身を起す牧人やがて客のため、
炉辺に近く床を敷き、羊とヤギの皮に覆う。
オデュッセウスはそこに伏す。伏したる彼に幅広き 520
厚き被覆を牧人は掛けぬ。嵐の荒るる時、
これに備うる着替えとし常に座右における物。

かくしてそこにオデュセウス、伏せばかたえに年若き
牧人ともに打伏しぬ。エウマイオスはただ一人、
豚を離れてこの部屋に床設くるを喜ばず。525
身支度なして外に出づ。オデュッセウスはこれを見て、
主人の留守にその産をいたわる彼を喜べり。
彼はまさきに剛強の肩のへ利剣投げかけて、
すこぶる厚き外套を風しのぐべく身に着けて、
よく飼われたるヤギ剥ぎて得たる毛皮を携えて、530
さらに犬らと悪漢を払わんために槍を取り、
北風よけて空洞にその牙白き豚の群、
眠るところにもろともに伏すべく彼は出でてゆく。


オヂュッセーア:第十五巻


女神アテーネー、スパルターに行き、テーレマコスに帰国を促す(1~42)。別れの日メネラーオスと王妃ヘレネーとの餞別と送行(43~142)。テーレマコスとペイシストラトスが出発する時、ゼウス前兆を示す。ヘレネーこれを解説す(143~181)。テーレマコスはペイシストラトスとピュロスに別る(182~219)。女神に牲を献ずるテーレマコスのもとに逃亡者来り、テオクリュメノスと名のり、救助を求む。これを許して共に乗船し、イタケーにつく(220~300)。オデュッセウスと牧人の問答(301~339)。牧人はラーエルテースの消息を語る。また自己の経歴を語る(340~492)。テーレマコス、その部下ペイライオスに命じてテオクリュメノスを案内せしむ(493~524)。ゼウス吉兆を示す(525~538)。テーレマコス歩してエウマイオスを訪う(539~557)。

そのときパルラス・アテーネー、ラケダイモーン広き郷[1] 15-1
目ざして立てり。オデュセウス産めるすぐれし若人に、
帰郷の念を促して彼を旅路に起たすため。
テーレマコスと、ネストルの生める良き子[2]をアテーネー、15-4
メネラーオスの宮殿の柱廊に伏すを見出しぬ。15-5
ネストールの子は穏やかな眠りに夢は静かなり。
テーレマコスを甘美なる眠りは絶えて捕え得ず。
父を思いて夜もすがら彼は目さえて眠られず。
藍光の目のアテーネーそばに来りて彼に言う、

[1]4-624、ラケダイモーンにおけるテーレマコスの段に続く。
[2]ペイシストラトス。

『テーレマコスよ、家離れ漂う事を戒めよ。15-10
あとに汝の産残り、また知るごとき傲慢の
人残りあり。憎むべき彼らは産を奪いとり、
あるは互いにこを分かつ。汝の旅は無用なり。
音声高きメネラオス王をとくとく促して、
汝を旅に立たしめよ、慈母を館中見るがため。15
エウリュマコスと婚すべく彼女の父と兄弟は
彼女に勧む。しこうしてエウリュマコスは他をしのぐ
贈与もたらし、婚資また今増し加う。さらにまた、
彼女汝の意にそむき産を家より持ち出さむ。
女性は胸に何思う?汝親しくこれを知る。20
婚する者のその家を、女性は富ますこと願う。
しかして昔めでたりし亡夫を、先の子供らを
思い出して悲しみて、尋ぬることは絶えてなし。
されば汝はとく帰り、家婦の忠なるもの選び、
汝の家の一切の資産をこれに託すべし。25
やがて神明良き妻を汝のために見出さん。
我また他事を宣すべし。汝心に銘じおけ。
かの求婚の首領らのある者、家に帰り来る
汝を途中——イタケーと土地岩多きサモスとの
はざ間の海に待ち伏せて、倒さんとして議を凝らす[1]。15-30
さはれこの事きと成らじ。これに先んじ貪欲の
かの求婚の党類は大地の下に埋められむ。
さはれ汝は堅牢の船を諸島に近づけず、
夜中ひたすら漕ぎすすめ。汝を守り擁護する
とある神明うしろより、よく順風を送るべし。35
かくて真先きのイタケーの岸に安けく着かん時、
船とすべての従者らを汝都に送るべし。
されど汝はまっさきに豚の牧人行きて訪え。
彼は汝のため牧し、つねに好意を抱くなり。
そこに一夜を過すべし。しかして彼を使者として、40
都に送り聡明のペーネロペイア母人(ははびと)に
報ぜよ、汝つつがなくピュロスの地より帰りぬと』

[1]四巻の終わりに説くごとし。

しかく宣してアテーネー、ウーリュンポスに向かい去る。
あとに残れる若き人、踵を触れてネストルの
子の甘睡をさまさしめ、彼に向かいて陳じ言う、45
『ペイシストラトス、ネストルの子息、いざ立ち、単蹄の
馬を駆り来て旅のため、早く車につけよかし』
ペイシストラトス、ネストルの子息答えて彼に言う、

『テーレマコスよ、いかばかり、我ら旅行を急ぐとも、
暗き夜中に駆るを得ず。間なく曙光は現われむ。15-50
槍の名将メネラオス・アトレイデース、数々の
贈与の品をもたらして、これを車上に載するまで、
また慇懃の言葉もてわれらの離別送るまで、
待て。歓待を示したる——客を愛する主人をば、
客たる者はとこしえに、心にとどめて忘るまじ』55

しかく陳ずる程もなく、黄金の座の明けの神
現わる。やがてメネラオス、鬢毛美なるヘレネーの
かたえのふしど立ち出でて、二人のそばに寄り来る。
オデュッセウスの愛ずる息これを認めてすみやかに、
いみじく光る衣服身にまといて、さらにおおいなる 60
マントを強き両肩の上に投げかけ、室外に
出で、寄り来るメネラオス主人の前に立ちて言う、
オデュッセウスの愛ずる息テーレマコスは立ちて言う、

『アトレイデース・メネラオス、神の育てし民の王、
今願わくは我をしてめずる故郷に去らしめよ。65
我の心は恋々と家に帰るを望むなり』

音声高きメネラオス彼に答えて陳じ言う、
『テーレマコスよ、帰家の念切なる君を我ここに
長くとどむる心なし。あまりに客を愛するも、
あまりに客を憎しむも、共に等しく歓待の 70
誠をいたす道ならず、ただ中庸をよしとなす。
起たんとするの心なき客を促し起たしむる、
あるいは帰家を念ずるを抑ゆる、共に不可ならむ。
残らん客は愛すべし、去らんとするは送るべし。
さはれ美麗の贈り物携え来り車のへ、75
わが載するまで待ちて目に眺めよ。さらに館中に
我は食事を備うべく、侍女らに命を下すべし。
食を終わりてその後に広く大地を旅するは、
主人にとりて誉れなり、客にとりては利益なり。15-79

汝ヘラスとアルゴスの郷の旅行を喜ばば、15-80
我は汝に伴なわむ。馬をくびきにつなぎ付け、
異郷の都市に導かむ。そこに彼らはむなしくは
われら去らせず、そこばくの贈遺われらに致すべし。
あるいは細工巧みなる黄銅製の三脚の
鼎か、または大釜か、二頭のラバか、金杯か』85

彼に対して聡明のテーレマコスは答え言う、
『アトレイデース・メネラオス、神の育てし民の王、
我は故郷に帰るべき願い切なり。起ちし時、
あとに我が産治むべき監視の者をおかざりき。
恐るるところ、わが父を探す我まず倒れんか?90
あるはいみじき珍宝の家より奪い去られんか?』

音声高きメネラオス・アトレイデースこれを聞き、
すぐに王妃にまた侍女に、貯えおける食物を
用い殿中盛んなる宴を張るべく令下す。
ボエートオスの生める息エテオーネウスふしどいで、95
彼の近くに出で来る。彼のすみかは遠からず。
音声高きメネラオス、彼に命じて火を起し、
肉あぶらしむ。その命に背かず彼は従えり。
王者はやがて香薫るその宝蔵にくだり行く。
身ひとつならず、ヘレネーとメガペンテース伴えり。15-100
かくて数多の珍宝を蔵むる場所にいたるとき、
アトレイデース・メネラオス二柄の酒杯とりあげて、
メガペンテース——めずる子に、白銀をもて作りたる
混酒の鉢を運ばしむ。ヘレネー、箱のそばに立つ。
中に彼女の織りなせる刺繍いみじき衣装あり。105
女性の中にすぐれたるヘレネーこれの間より、
刺繍もっともうるわしく、幅ももっともおおいなる——
底に最後に秘められて星のごとくに光るもの、
取り出で共に部屋を過ぎ、テーレマコスのそばに来ぬ。
そのとき彼に金髪のメネラーオスは陳じ言う、110

『テーレマコスよ、胸中に君望むまま、願わくは、
女神ヘーラー妻とする轟雷高きクロニオーン、
君に帰郷を恵めかし。わが館中にある宝、15-113
中にもっとも華美にして貴きものを進ずべし。
ヘーパイストス作りたる混酒のうつわ、全部みな 115
銀より成りてその縁は黄金をもちて飾るもの 
我進ずべし。こをむかしシドーン王者パイディモス、117
その館中にわれを泊め、去るに臨みて慇懃に
われに贈れり。いざこれをわれ今君に譲るべし』119

[1]113~119は4-613~619と同じ。

しかく陳じてメネラオス・アトレイデース、客の手の 120
中に二柄の酒杯おく。メガペンテース猛き子は、
白銀製の混酒の器、かがやく物をもたらして、
同じく客の前におく。かたえに立てる頬あかき
ヘレネー衣装携えて彼に向かいて陳じ言う、

『若きいとし子、我もまた君にこの品進ずべし。125
ヘレネーの手の思い出に、君のうれしき成婚の
その日、花嫁着れよかし。そのときまでは母人(ははびと)の
家にこの品あずくべし。さらばぞ。今は喜びて 
祖先の郷に、堅牢に築ける家に帰れかし』

しかく陳じて客の手に渡せば受けて喜べり。130
ペイシストラトスまたさらに受けて車上の箱の中、
これらの品を収め入れ、眺めて心驚けり。
髪うるわしきメネラオス彼らを内に導きて、
主客それぞれ椅子によりまた高椅子によりて座す。
清めの水を黄金の美麗の瓶にもたらして、135
侍女は彼らの手洗いに銀盤上に傾けて、
終わりてそばに磨かれし一つの卓を据えおきぬ。
そのとき礼儀しとやかの家婦は麺包もたらして、
客の口腹充たすべく卓に多くの食を載す。
ボエートオスの生める子は肉をきざみて相分かち、140
メネラーオスの生める子は暗紅色の酒そそぐ。
一同かくて手をのして供えられたる食を取る。
やがて一同飲食を終わり口腹飽ける時、
テーレマコスとネストルのすぐれし子息もろともに、
二頭の馬にくびき着け、華美の車上に身を乗せて、145
館門および反響の前廊過ぎて駆け出だす。
アトレイデース金髪のメネラーオスはあとを追い、
献酒終わりて起たすべく、黄金製の杯に、
蜜のごとくに甘美なる酒を満たして右手(めて)に持ち、
馬前に立ちて慇懃に別れの言句のべて言う、15-150

『さきくあれかし若き子ら。民の王たるネストルに
わが慇懃の言致せ。アカイア軍勢トロイアに
戦いし時、彼れ我に父のごとくに振舞えり』

そのときかれに聡明のテーレマコスは答え言う、
『ゼウス育てしメネラオス!君言うごとくかの人に[1]、15-155
着く時委細陳ずべし。ああイタケーに帰る時、
オデュッセウスにその館の中に告ぐるを得ましかば!
あらゆる友誼うくる後、君のもとより帰り来て、
あまた貴き珍宝をここへもたらし帰りぬと』

[1]ネストール。

しかく陳ずる若人の右手に一羽の鳥飛べり[1]、15-160
飼い馴らされし農園の大なるガチョウ真白きを、
爪につかめるワシなりき。男女の群は声あげて
追い行く。鳥は群集のかたわら近く飛び来り、
乗馬の前をかすめさり右に翔けりぬ。眼前に
これを眺めて人々の胸に歓喜はわき出でぬ。165
ペイシストラトス、ネストルの生める子息は口切りぬ、

[1]後文525行にも。

『ゼウス育てしメネラオス、民の王者よ。思い見よ。
この前兆は誰のため、君か我らの二人にか?』

アレース愛ずるメネラオス、その言聞きて思案しぬ。
熟慮の末にしかるべき答えをいかに与うべき?170
そのとき裳裾長く引くヘレネー先に陳じ言う、

『われに聞けかし、予言せん。われの心に神明の
あるものこれを吹き込めり。予言必ず成りぬべし。
ワシはその子と住むところ、深き山より出で来り、
農園場に飼われたるガチョウをかくも捕えたり。175
かくのごとくにオデュセウス、苦難を忍び、漂浪の
果てに故郷に帰り来て、復讐なさむ。おそらくは
彼今すでに帰り来て敵に災いたくらまむ』

それに答えて聡明なテーレマコスは陳じ言う、
『ああヘーラーを妻とするゼウスはしかくなせよかし。180
しからば君[1]をわれ郷に神のごとくに仰ぐべし』

[1]ヘレネーを指す。
陳じ終わりて別れ去る二人は馬に鞭うてば、
馬は平野へ城中を過ぎて勇みて駆け走る。
背に負うくびき震わして終日長く駆け走る。

やがて日輪沈み去り、闇はあらゆる道を覆う。185
そのとき二人ペーライに、ディオクレース[1]の郷に着く。15-186
アルペイオスの孫にして、オルティロコスは彼の父。
そこに一夜を過したる二人を領主もてなしぬ。

[1]15-185~188と3-487~490は同じ。

薔薇の色の指もてる明けの女神のいずる時、
二人は馬にくびきかけ、華美の車の上に乗り、190
館門および反響の前廊すぎて駆け出し、
鞭を当つれば揚々と両馬勇みて駆け走る。
かくて二人はすみやかに高きピュロスの都市につく。
テーレマコスはそのときにネストルの子に向かい言う、

『ネストリデー[1]よ、願わくは我の願いを聞き入れて 15-195
行え。われら父親の友誼によりて、とこしえに
友と互いに相誇る。さらに年齢また等し。
しかもこの旅一層にわが親好を募らしむ。
神の寵児よ、願わくは、船より外に誘わざれ。
君の老父は歓待を望みて、強いて好まざる 15-200
我を殿中とどむべし。我は帰郷をただ急ぐ』

[1]ネストリデース(ネストールの子)の呼格。

しか陳ずれば胸中にネストリデース思案しぬ。
いかに約して正当に彼の願いを果すべき?
思案のはてにかくなすをよろしと彼は悟り得て、
すなわち馬を疾き船に、白浪寄する岸に向け、205
車上にのせし珍宝を——メネラーオスの与えたる 
衣服ならびに黄金を出して船の中に入れ、
しかして友を促して羽ある言句(ごんく)陳じ言う、

『われわが家に帰りつき老父に委細語る前、
急ぎて船に乗込みて従者(ずさ)一同に令下せ。 210
我よく我の胸中に事明らかにわきまえり。
父の気性は激しくて、むなしく君を去らしめず。
自らここに足むけて君を誘わん。おそらくは、
むなしく素手に帰るまじ、怒りは激しかりぬべし』

しかく陳じてたてがみの美なる両馬を走らして、215
ピュロスの都市に、すみやかにおのが居館に到りつく。
テーレマコスはこなたにて従者促がし命じ言う、

『友よ船具を整えよ。このわが黒き船中に
我ら一同のりこみて海路の旅にすすむべし』

しか陳ずるを耳にして一同これに従いて、220
直ちに船に乗り入れて漕ぎ座に着けりいっせいに。
テーレマコスはいそしみてアテネ女神に船尾(とも)のそば
祈り捧げて牲まつる。そのとき彼のかたわらに、
人を殺してアルゴスを逃れ来りし遠来の
予言者ひとり近づけり。彼の先祖はメラムプース。15-225
先祖は昔群羊に富めるピュロスに住居して、
富裕の生を営みて巨大の館を構えたり。
その後彼はネーレウス心猛くて声名の 15-228
高き者避け、国を去り異郷の空の客となる。
そのネーレウス一年のすべてにわたり彼の産、230
押え奪いき。その間王ピュラコス[3]の館中に 15-231
彼は厳しき投獄の難に悲惨の日を経たり。
そはネーレウス生める女[4]のためなり。さらに恐るべき 15-233
懲罰の神エリニュエス彼の心を迷わせり。
されどもついに運命を逃れ、ピュロスにピュラケーの 235
地より、高らかに鳴き叫ぶその牛群を駆り来り、
かのネーレウス振舞いし非行に対しあだ報い、
少女[5]をおのが兄弟[6]の家に導き婦たらしむ。15-238
しかして彼はアルゴスに——駿馬の郷に移り行き、
そこに民衆治めつつその運命に従えり。240
しかしてそこに婦をめとり、高き館を営みぬ。

[1]11-292の「すぐれし占者」はメラムプース。
[2]11-281行参照、ネーレウスに娘あり、ペーローと言う。ピュラケーより牛群を奪い来るべき者にこれを与えんと宣す。メラムプースその兄弟ビアースのため彼女を得んとしてピュラケーに行き、失敗して監禁さる。一年にしてこれを脱して志を遂ぐ。
[3]ピュラケーの王。
[4]ペーロー。
[5]ペーロー。
[6]ビアース。

アンティパテース、マンティオス二人の健児生まれたり。
アンティパテース勇猛のオイクレース生みなしぬ、
オイクレースの生みたるはアンピアラオス。盾もてる
ゼウスならびにアポロンがあらゆる愛を注ぎたる 245
民の指導者。しかれども彼老齢に逹し得ず。
妻[1]の受けたる賄賂より彼れテーバイに倒れたり。15-247
アルクマイオンさらにまたアムピロコスは彼の二児。
またマンティオスの生みたるはポリュペイデース、クレイトス。
黄金の座の明けの神、美貌のゆえにクレイトス[2] 15-250
奪いて、彼を天上の諸神の間に住まわしむ。
ポリュペイデースをアポローン、アンピアラオスの死せる後、
人の子のなか抜き出でて至上の予言者たらしめり。
父に対していきどおるポリュペイデース、国を去り、
ヒュペレーシエー[3]に住居して、すべての人に予言しき。15-255
今し来るは彼の息。テオクリュメノスはその名なり。15-256
テーレマコスの前に立ち、黒く染めたる船のそば 
献酒なしつつ神明に祈り捧ぐる彼を見て、
すなわち飛揚のつばさある言句を彼に陳じ言う、

[1]妻はエリピュレー。11-327参照。
[2]同様にラーオメドーンの子、ティートーノスも奪わる(5-1)。オーリオーンもしかり(5-121~)。
[3]『イーリアス』2-573参照。

『ああ君、ここに神明に牲を捧ぐる君を見て、260
われ君に乞う。神明と牲とに掛けて、さらにまた
君と従者の命とに掛けて我乞う。願わくは、
真実われにうち明けて、隠すことなく我に言え。
君は誰ぞや?いずこより?親と都市とはいずこにぞ?』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、265
『客よ、このこと真実に我今君に語るべし。
われイタケーの郷の産、父は名に負うオデュセウス。
さはれむごくも彼は今、悲惨の最後遂げつらむ。
そのため我は従者らと黒く染めたる船ひきい、
昔別れし我が父の消息求めここに来ぬ』270

テオクリュメノス、神力を備えし者は答え言う、
『しかり、我また同族の人を殺して郷を逃げ、
ここに来れり。彼の友また兄弟の数多く、
馬の産地のアルゴスに、アカイア人に威を振う。
彼らの手より逃れ出で、死の運命をまぬがれて、275
ここに来れり。民族の間に漂うわれの運。
逃れ来りて君に乞う。この船中にわれを置き、
敵手に渡すことなかれ。思うに彼ら我を追う』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、
『しか請願の君をわれ船よりあえてしりぞけず。280
我につきこよ。かしこにて一切を以てもてなさむ』

しかく陳じて青銅の槍を彼より受けとりて、
これを両端反りのある船の甲板上におく。15-283
大海原を行く船に彼は自ら乗り入りて、15-284
船尾(とも)のほとりに座を占めて、やがておのれのかたわらに、285
テオクリュメノス座らしむ。伴はともづな解き放す。
テーレマコスはそのときに彼の従者ら励まして、
船具の準備命ずれば、皆すみやかにこれを聞く。
すなわち樅の帆柱を起し、うつろの受け口の
中におしたて、前縄を用いてしかと支えしめ、290
牛の皮革をなえる縄引きて白帆を張り上げぬ。
藍光の目のアテーネー、そのとき空に飄々と、
激しく早く吹きすさぶ順風送り船すすめ、
早く走りて漫々の潮の上を渡らしむ。
船は過ぎ行くクルノイと清き流れのカルキス[1]を。15-295

[1]共にエーリス地方の川。

日輪沈み、暗黒は海一面を覆い去る。
ゼウスの風にあおがれて船はペアイに近付きて、
エペイオイ族司る聖きエーリス過ぎ行きぬ。
死を逃るるか捕らわるか、いずれと思いわずらいて、
テーレマコスは山岳のけわしき諸島[1]めざし行く。15-300

[1]「もろもろの影出没の島めざす」と言う説もあり。

こなたに二人小屋の中、オデュッセウスと牧人と、
夕食取れば、もろともに自余の牧者もまた食す。
飲食終わり口腹の欲をおのおの去れる後、
オデュッセウスは試しみる。牧人真に慇懃に、
我をもてなしその小屋にいるを望むや、都市さして 305
去るべく我を促がすや、試して彼に陳じ言う、

『エウマイオスよ、またほかの牧人たちよ、我に聞け。
あすの夜明けに都市さして出で起たんことわが願い。
我は君らのわずらいとならざらんため乞食せむ。
願わく我に助言せよ。しかして我を案内する 310
良き導きの人恵め。すなわち都市にたどり行き、
一杯の酒、一片の食を求めてさまよわむ。
しかして行きて神に似るオデュッセウスの館を訪い、
ペーネロペイア、聡明の妃(きさき)に委細ものがたり、
威勢に誇る求婚の群の間にまじるべし。315
無量の食を持てる群、我に食事を与えんか。
彼ら心に願うこと、我何なりと務むべし。
いま君に言う、心してよくわが言に耳を貸せ。
すべての人の働きに美と誉れとを貸し与う、
ヘルメイアース[1]、天上の使者の恵みのゆえにより、15-320
火を炎々と起すこと、乾けるたきぎつくること、
肉を切ること、あぶること、あるいは酒をそそぐこと、
すべての奉仕、下の者上に致さんその務め、
奉仕においては何びとも我と競うをあえてせじ』

[1]19-396参照。ヘルメイアスはまた偽計を人に教え、また24-9に亡霊を導く。

その時牧人エウマイエ、汝怒りてかく言えり、325
『あわれ客人、何ゆえにかかる思いを胸中に
宿せる?もしも求婚の彼らの群に入るとせば、
かしこに君はほろぶべし。君は破滅を求むるや?
彼らの非法驕慢は鉄の天まで行きおよぶ[1]。15-329
彼ら用いる従僕はまったく君の類ならず。330
みな一様に年若く、華美の服装肌のへに
まといて、つねに頭髪は香油に光り、秀麗の
容顔もてる輩(やから)のみ。その磨かれし食卓に、
麺包およびさまざまの珍味と美酒は満ちあふる。
さればかしこに行かずして、君はこの場に留まれかし。335
我に、仲間の誰しもに、君わずらいの種ならず。
オデュッセウスのめずる息、帰り来らばそのときに、
彼は肌にまとうべく君に衣服を恵むべし。
しかして君の意のままに好む地方に送るべし』

[1]17-565にも天は鉄より成ると言う。青天の輝きは金属より成ると思われしなり。あるいは神の住所として堅牢不変なるがゆえにかく称せしならむ。

忍耐強きオデュセウス答えて彼に陳じ言う、340
『エウマイオスよ、君をわれ愛ずるがごとくゼウスまた 
同じく愛でよ。漂浪と苦難の我を救う君。
げに人にとり漂浪の難ほどつらきものあらず。
げに口腹のあさましさ。そのため人はその心
悩まし、かくて漂浪と難儀と悲哀身にまとう。345
君今我をとどまらせ、彼を待つべく諫むれば、
オデュッセウスの父と母今いかならむ、われに言え。
父老境の入口にたちにき、彼の去りし時。
二人は今も日輪の光の下になお生くや、
あるいは死して冥王の宮居にすでに行きつるや?』15-350

あるじの牧者そのときに答えて彼に陳じ言う、
『客人、われは真実に委細を君に語るべし。
ラーエルテース今も生く。さはれその屋の中にして、
魂(こん)肢体より離るるをゼウスにつねに乞い願う。
家を離れし彼の子をあまりにいたく嘆く彼。355
さらに嘆くは貞淑のその妻のうえ。妻死して、
悲痛の極に、彼は今時ならなくに衰えぬ。
妻もすぐれし子の上を、悲しむあまり無残なる
最期を遂げぬ。願わくは、ここに住まわり我を愛で、
我に良きわざいたす者、かくのごとくに逝くなかれ。360
悲しみつつも彼女なおこの世に在りしその間、
彼女のことを尋ぬるを我喜びとなしたりき。
彼女うみたる末娘、裳裾の長きクティメネー[1]、
すぐれし少女を、もろともに彼女はわれを育くみて、
我に対するその愛は娘に対する愛に似き。365
かくして二人青春の花やぐ年となりし時、
無量の財を受納して、サメーの人の花嫁と
愛女は成しぬ。しこうして我には華美の服装を
与え、足には靴はかせ、かくして我を田園に
送りぬ。げにも母夫人、心よりしてわれ愛でき。370
今はこれらを失えり。されど不滅の神明は、
わがなすわざを栄えしむ。我今これに安んじて、
これより食らいかつ飲みて、なお客人に分かつを得。
されども今の女主よりは、うれしき言句、行ないの
消息聞かず。かの館に、かの憎むべき求婚者、375
大なる不幸くだり来る。従僕たちは女主の前、
言句を述べて意を迎え彼女の要をたずね聞き、
食らいかつ飲み、さらにまた、おのが心に喜べる
ものを貰いて、その家にもたらすことを懐かしむ』

[1]オデュッセウスの妹になる。

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、380
『ああ牧人よ、若くして祖先の郷と両親を、
あとに残していかばかり君漂泊の道踏める!
いざ今我に真実にこれらの委細うち明けよ。
君の父また母人の住まいし所、道広き
都城は敵の手にかかり破れてついにほろびしや?385
あるいはひとり牛羊を牧せし君を敵人は、
襲いて捕え、船に乗せ、ここの主人の館に来て、
君を売りしや。しかるべき身の代彼は払いしや?』

豚を養う牧人の長は答えて彼に言う、
『客よこれらを慇懃に君は尋ねて我に問う。390
黙して耳を傾けて、楽しめ。座して酒をのめ。
この頃夜はいと長し。眠らんとせばそれも良し。
話を聞きて楽しむもまた良し。君は時ならず
ふしどに伏せる要はなし。眠り過ぎればよかるまじ。
他の者のうち心肝が眠り命じる者たちは、395
小屋を離れて眠るべし。曙光と共に起き出でて、
食を終わりてご主人の家畜の豚のあとを追え。
されども我ら両人は飲みて食いて小屋の中、
うけし昔の災いをかわるがわるに思い出で、
楽しまんとす。災難の多きに悩み、漂泊の 15-400
長きに耐えし人にとり、後には悲哀また楽し。
君はこれらをたずね問う。これらを君に今告げむ。
オルテュギアーの上にして、シュリエーの名を呼べる島[1]、15-403
日輪足を返す郷、君は聞けりや?その島の
人口さまで多からず。されども地味は豊沃に、405
牧草多く、羊群に葡萄に麦にみな富めり。
飢饉(ききん)はここにおとずれず。不幸の民を悩ませる
悪しき疫癘、この郷を襲い来ること絶えてなし。
されども都市の中にして人々ついに老ゆる時、
銀弓の神アポローン、これに伴うアルテミス、410
共に来りて穏やかに矢を射てこれを倒れしむ[2]。15-411
島に二つの都市ありて、間にすべてを相分つ。
二つの都市をその昔オルメノスの子、われの父、
不滅の神に似たる人クテーシオスは治めてき。

[1]不明。キュクラーデス中のシロス島と言う説あれど本文中述ぶる航海の方向に一致せず。
[2]老境に至りて静かに死するを得せしむ(18-203、20-61)。

海を渡るに巧みなるポイニケースは、狡猾の 415
国人、ここにその昔、美麗の品を黒船に
積みて来りぬ。同国の一人の女性そのときに、
わが家に住めり。丈高く美にして手工巧みなり。
こを狡猾のかのやから誘いてついに陥しいる。
すなわち初めうつろなる船のかたえに衣洗う 420
彼女と或る者、愛欲の床に契りぬ。かかる事
脆き女性を、行ないの固きものをも惑わさむ。
やがて彼女は何びとか、いずこの者かと彼は聞く。
そのときすぐに屋根高き父の館を説き示し、
彼女はいえり、「シードーン[1]、黄銅に富む郷の産、15-425
我かく誇る。富み盛るアリュバースこそ我の父。
憎きタポスの海賊ら、我の野辺より帰る時、15-427
襲い捕えてこの郷に、ここに主人の館の前、
導き来り我売りぬ。主人は良き値払いたり」

[1]フェニキアの都。

彼女ひそかに契りたるその者答え陳じ言う、430
「汝再び父母の高き館を、両親を、
親しく眺め見るがため、国に帰るを願わずや?
彼らは今もながらえて富みて栄ゆと人は言う」

そのとき女性口開き彼に答えて陳じ言う、
「汝ら水夫、つつがなく我を故郷に送るべく、435
固き誓いをなすとせば、我は汝の言聞かむ」

しか陳ずれば一同は言われしごとく誓いしぬ。
やがて一同誓いつつ、その証言を終えし時、
女性はさらに一同に向かい答えて陳じ言う、
「黙せよ、暫し。汝らの中の誰しも道の上、440
泉のほとり我に会い、我と相見て口開き、
言句を述ぶることなかれ。おそらく誰かご主人の
家に到りて報ずべし。しからば彼は疑いて、
我を厳しく縛めて、汝の破滅計らわむ。
胸に言葉を封じおけ。急ぎて旅の品を買い、445
やがて船中もろもろの貨物の満ちて足れる時、
そのとき我にすみやかに彼の館にたよりせよ。
わが手につかみ得る限り、われ黄金を持ち行かむ。
渡海の賃を、さらにまた、我は汝に与うべし。
富める主人の館の中、我かれの子にかしずけり。15-450
怜悧のこの子、我ととも折りに戸外に駆けり出で、
彼を船のへつれ行かむ。言語異なる外国に、
つれ行き売らば莫大の価を汝もうけ得ん」

しかく陳じて華麗なる館に彼女は帰り行く。
滞在ここに一年の長きにわたり、中広き 455
船に貨物の数々を彼らはやがて集め入る。
かくして国に帰るべく船に貨物の満てる時、
彼女にたより致すべき使者を彼らは遣わせり。
琥珀の玉と点綴(てんてい)の金の首輪を携えて、
この狡猾の使者来り、わが父の家に入り来る。460
この珍宝に、館の中、侍女らならびに端正な
母も手を触れ、驚嘆のまみに眺めて払うべき
価を付しぬ。そのときに彼女に使者は黙然と 
頭を垂れて合図して、やがて船へと帰り去る。
その後我の手を取りて彼女は家を出でて行く。465
出で行く時に、入口に、父を囲みて飲宴を
なしたる人の杯と卓と彼女の目に触れぬ。
皆は飲宴おえて後、集議の席に出で行けり。
彼女直ちに杯を三個盗みて胸に入れ、
出で行くあとを思慮なくて我追いゆけるあさましさ!470
やがて日輪沈み去り、闇はすべての道覆う。
足を早めて誉れある港に着きてそこに見る
ポイニキアーの人々の海路を速く渡る船。
間なく一同乗りこみて大海原の旅を行く。
我ら二人も伴なりき。ゼウスは風を吹き送る。475
六日六夜おし通し、絶えず一同海わたる。
第七日をクロニオーン・ゼウスもたらし来る時、
弓矢を好むアルテミス、彼女を射れば船底に、
海のカモメのごとくして、彼女はどうと落ちて死す。
こをアザラシと鱗族の餌食たるべく人々は 480
海に投じぬ。そのあとに残れる我は悲しめり。
風と波とは一同をイタケー島にもたらしぬ。
ラーエルテースその産を出して我を買い取りぬ。
かくして我はこの郷をわが両眼に眺め見き』

神の裔なるオデュセウス答えて彼に陳じ言う、485
『エウマイオスよ、心中に忍びこらえし災難の
委細を述べて、君は我が心をいたく痛めしむ。
さはれゼウスは災いと共に幸をも施せり。
多くに忍び耐えし後、君はやさしき人の家に
着きしならずや?心して彼は衣食を欠かしめず。490
楽しき生を今君は送れり。されど数々の
人間の都市経たる後、我さまよいてここに来ぬ』

かくのごとくに両人は互いに語り陳じあい、
やがて眠りに入りしかど、ただ暫しのみ、長からず。
黄金の座の明けの神ほどなく出でぬ。かなたには 495
テーレマコスの従者たち、岸に近づき帆を巻きて、15-496
はやく帆柱横たえて櫂もて船を停泊の
場所にすすめて、その錨(いかり)おろして縄を結び付く。
やがて波よる岸のへに皆は船よりおり立ちて、
食事を備え、暗紅の酒を混じて宴を張る。15-500
やがて一同飲食の願いおのおの充てる時、
皆に向かいて聡明のテーレマコスは陳じ言う、

『汝一同今都市に黒く染めたる船をやれ。
その間に我は野に行きて牧者の群をたずぬべく、
我の農園見たる後、夕べ都に下るべし。505
そのあくる朝、航海の賃を汝に払うべし。
肉と甘美の酒をもて良き饗宴を備うべし』

テオクリメノス、相好は神に似る者、彼に言う、
『いとしき友よ、いずこ指し我行くべきか?岩多き
このイタケーの豪族のいずれをさして行くべきか?510
君の母人、君の館めざしてすぐに行くべきか?』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、
『他のおりならば我が館を訪うべく君に求むべし。
客の歓待備われり。されども今は不便なり。
我とどまりてここにあり。しかして母も訪い来る 515
君に会うまじ。屋の中に母はしばしば求婚の
群の目の前現われず。ただ楼上に布を織る。
我今君にある人を示さん。彼を訪いて見よ、
そはポリュボスの生める息エウリュマコスぞ。名のしるき
彼をあたかも神のごと、イタケー人は眺め見る。520
彼はもっとも高貴なり。もっとも切にわが母と
婚し、しかしてわが父の誉れを継ぐをこいねがう。
さはれ婚儀に先だちて、災い彼らに来らずや?
天上やどるクロニオーン・オリンピオスはこれを知る』

しかく陳ずる彼の右手、上に一羽の鳥飛べり。15-525
タカなり。ポイボス・アポローン遣わす速き使いなり。
爪に一羽の鳩つかみ、これをつんざき、紛々と
テーレマコスと船の間、地にその羽毛くだらしむ。
テオクリュメノスそのときに従者離れて彼を呼び、
親しく彼の手をとりて彼に向かいて陳じ言う、530

『テーレマコスよ君の右手、神なくしては鳥飛ばず。
われまのあたりこれを見て善兆なりと信じ知る。
イタケー人の中にして、君にまさりて高貴なる
家系はあらず。とこしえに君の力はおおいなり』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、535
『客よ、陳ずる君の言成らば何たる喜びぞ!
しからば直ぐにわが手より、歓待および種々の品、
君は受くべし。出会う人皆君の事ことほがむ』

つづきて彼は信頼の、ペイライオスに向かい言う、
『クリュティーオスの生める息、ペイライオスよ、ピュロスまで 15-540
行ける群中、汝よくもっとも我の命聞けり。
今この客を導きて汝の家に帰り行き、
心をこめて持て成して崇めよ、我のいたるまで』

そのとき槍の名手たるペイライオスは答え言う、
『テーレマコスよ、この場所に君の滞在長くとも、545
われ珍客をねぎらわむ。彼は歓待欠かざらむ』

しかく陳じて彼れ船に乗りて、従者に命下し、
彼らに船に乗り入りて繋げる綱をほどかしむ。
直ちに皆は乗り入れて、漕ぎ座のもとに身を据えぬ。
テーレマコスは両足に華麗の靴を結び着け、15-550
黄銅の穂の鋭きを付けたる強き大槍を、
甲板よりし取り出す。皆は大綱解き放つ。
オデュッセウスのめずる息テーレマコスの命のまま、
皆は都城をめがけつつ、潮をわけて船すすむ。
テーレマコスの両足は急ぎの彼を運び行き、555
かの農園に到らしむ。そこに無数の豚の群、
その群のなか忠実な、かの牧人は眠り伏す。


オヂュッセーア:第十六巻


テーレマコス来訪しエウマイオスとオデュッセウスと共に朝食す(1~54)。オデュッセウスをおのが館中に連れ行くことをテーレマコスは憚かる。しかして館中の状勢を語り、エウマイオスを母のもとに遣わす(55~153)。テーレマコスその父を認む(154~320)。アンティノオス再びテーレマコスの殺害を計る。アムピノモスこれをとどむ(321~408)。アンティノオスの害意と忘恩とをペーネロペイア責め叱る(409~451)。

オデュッセウスと良き牧夫、二人は共に小屋の中、
曙光出づれば朝食の準備にかかり、火を起し、
他の牧夫らを豚の群ひきいて外に出で行かす。
テーレマコスは近づけり。吠ゆる習いの番犬ら、
彼を迎えて尾を振りて吠えず。そのときオデュセウス、16-5
犬の戯れるを認め得て、また足音を耳にして、
すぐに羽ある言句もてエウマイオスに陳じ言う、

『エウマイオスよ、今ここに友かあるいは知り合いの
ある人、君に来るべし。見よ、番犬は吠ゆるなく、
尾を振り彼にたわむれる。また足音を我は聞く』16-10

そのまだ言い終らざるうちに、見よ、彼のめずる子は、
来り戸口の前に立つ。牧夫驚き身を起こし、
葡萄の酒に水を割る鉢、手中より取り落とし、
あわてふためき早々と、主人のそばに出で来り、
彼の頭に、うるわしき二つのまみに、両の手に、15
かわるがわるに口づけて、滂沱の涙ふりおとす。16-16
遠き郷より十年の年月過ぎて帰りくる
遅き生まれのひとり子を——そのためいたく苦労せし
愛児を迎え喜びて胸に抱き取る父やかく?
やさしき牧夫、神に似るテーレマコスに取りすがり、20
死より逃れしものの如、彼の肢体に口づけて、
声あげ泣きて、つばさある飛揚の言句陳じ言う、

『ああ我にとり光たるテーレマコスよ帰りしな!
ピュロスをさして船出せし後また見むと思いきや!
いざ内に入り、遠くより新たに帰り来りたる 25
君を親しく眺め見る歓喜を我に得さしめよ。
君は牧夫に農園に訪れること多からず。
つねに都にとどまれり。かの求婚の憎むべき
群を親しく眺むるを君の心は喜べり』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、30
『おじよ、しかせむ。ここに我汝めがけて訪い来る。
まみに親しく眺め見て、汝に報せ聞かんため。
母人なおもわが家に残るや?あるはある人に
すでに婚姻遂げたりや?オデュッセウスの寝し床は、
夜具を剥がれて蜘蛛の巣に包まれ、部屋に残れるや?』35

豚を養う牧人の長は答えて彼に言う、
『さなり彼女は飽くまでも忍耐強き心もて
君の館に今もあり。悲しき夜と悲しき日、
つねに尽きせぬ涕涙は彼女の上を過ぐるなり』

しかく陳じて黄銅の槍を彼より受けとれば、40
テーレマコスは内に入り、石の敷居を横ぎりぬ。
父オデュッセウス席を立ち、入り来る彼に椅子譲る。
テーレマコスはこれを見て彼を押しとめ陳じ言う、
『ああ、客人よ、そのままに座せよ。我らは小屋の中、
別に座席を設くべし。設くる人はここにあり』45

しか陳ずればオデュセウス、戻りて前の席に着く。
彼の子のため牧人は緑の小枝敷ける上、
皮広ぐれば、その上にテーレマコスは座を占めぬ。
やがて牧人前の日に喫し余せる焼肉を、
鉢に盛りつつ珍客の二人の前に置き据えて、16-50
またせわしなく麺包を充たせる籠を前に置き、
蜜のごとくに甘美なる酒を木蔦の鉢の中、
水を混じて、自らはオデュッセウスの前に座す。
かくして皆は手をのして、前におかれし食を取る。
やがて一同飲食の願いおのおの充てる時、55
テーレマコスは忠実の牧者に向かい問いて言う、

『おじよ、この客いずこより、水夫らいかにイタケーに
かれ導ける?水夫らはいずこの者と名乗りしや?
客は徒歩にてこの郷に来れることはよもあらじ』

その時牧人エウマイエ、汝答えてかく言えり、60
『若君、われは一切の委細を君に陳ずべし。
広き島なるクレタ島、その産なりと彼は言う。
言う、人間の種々の都市、巡りめぐりておちこちを、
天上不死の神明の命ずるままにさまようと。
テスプロートイ民族の船を逃れてわがもとに、65
この農園に来る彼、今われ君に渡すべし。
君の意のまま彼になせ。救いを乞うと彼は言う』

彼に向かいて聡明のテーレマコスは陳じ言う、
『エイマイオスよ、かくまでも苦痛の言句吐きしよな。
我いかにしてこの客をわが家の中に迎うべき?70
我は弱齢、わが腕に信頼、いまだ置き難く、
故なく我に無礼するともがら懲らすことを得ず。
わが母人(ははびと)も胸中に二つの思想相乱る。
夫のふしど、人々の意見重んじ、我が家に、
われもろともにとどまりて家政を治め行くべきか、75
あるいはアカイア人中の高貴なるもの、婚求め
財を豊かに贈る者、これに伴い去るべきか?
それはさておき、この客は汝のもとに訪い来る。
我はかの身にまとうべき華麗の衣服与うべし。
両刃の剣与うべし。穿たん靴を与うべし。80
彼の心に望むまま、いずこへなりと送るべし。
汝望まば農園にとどめもてなせ、それも良し。
汝ならびに一同の産を減らすはつらからむ。
我は衣服と食物のすべてをここに送るべし。
かの求婚の憎むべき群にこの人混ずるは、85
忍びがたかり。あまりにも彼ら倨傲の習いあり。
さぞかし客をあざけりて我の心を痛ましめむ。
多数の人を前にして事を遂ぐるは、勇猛の
人にとりてもやすからず。多数は力まさるなり』

忍耐強きオデュセウス、彼に向かいて陳じ言う、90
『あわれ我が友、一言を述ぶるを我に許せかし。
君今述ぶる言を聞き、心くだくるばかりなり。
かの憎むべき求婚の群は、やさしき君の意に
背きて、強いて凶暴のわざを館に振舞うと。
君は自ら甘んじて彼らの制に従うや、 95
あるいは神の声により人々君を憎めりや?
争いいたく荒ぶ時、兄弟こそはたのもしき。
しかるを君は兄弟に対して恨み含めるや?
我この魂に青雲の力を備え得ましかば、
我オデュッセウスの子なりせば、あるいはまさに彼ならば 16-100
(流転の末にここにまた帰る希望は彼にあり)、
ラーエルテース生める息オデュッセウスの館に行き、
かの憎むべき凶暴の群をいたくも懲らすべし。
我もしこれをよくせずば、直ちにわれの頭断て!
数を頼みてもし彼ら、一人の我にうち勝たば、105
そも良し。われは館中に討ち果されて、
一命を失うことに甘んぜん。家の賓客さいなまれ、
侍女ら無残にうるわしき館の中を引きずられ、
美酒はむなしく酌み干され、食は果てなくむさぼられ、
凶行終わる時しらず。かかる乱暴狼藉を 110
生きてわが目に見んよりは、我は一死に甘んぜん』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、
『客よ、この事真実に君に対して語るべし。
われに対して憎しみを民抱くこと絶えてなし、
戦いいたく荒ぶ時、頼みとすべき兄弟に 115
対し、不満を抱くこと我身の上にたえてなし。
クロニオーンはわが家にただ一人子を賜うなり。
アルケイシオスの、ひとり子はラーエルテース、彼もまた[1] 16-118
オデュッセウスを唯一の男子と生めり。オデュセウス
ひとり子の我生みしかど、うれしむ間なく旅立ちぬ。120
そのため憎き数知れぬ敵人館の中にあり[2]。16-121
ここらの島を司る彼らすぐれし豪族ら、
ドゥーリキオンとサメーとに、あるいは森におおわるる
ザキュントスまた岩多きイタケー島に威をふるい、
わが母人に婚求め、わが家の資財むなしくす。125
その忌わしき求婚を母は拒まず。またこれの
始末つけるをあえてせず。かくして彼ら我家を
むさぼりつくし、さらにまたわが身をさえも倒さんず。
さはれこの事一切は神の胸のへ横たわる。
おじよ、汝はすみやかにペーネロペイア訪い行きて、130
われ安全にピュロスより帰り来ると告げていえ。
今われここに残るべし。ただ母にのみ告げて後、
汝この地に帰りこよ。他のアカイアの誰にしも
言う事なかれ。災いを我に多数はたくらめり』

[1]系図左のごとし。
アルケイシオス-ラーエルテース-オデュッセウス
母系はアウトリュコス-アンティクレーア-オデュッセウス
[2]1-245以下、彼らの名は二十二巻にあり。

その時牧人エウマイエ、汝答えてかく言えり、135
『君言うままに一切を我ことごとく了解す。
さはれ願わく真実にいま次のこと説き示せ。
同じ道行き、不幸なるラーエルテース老翁に
同じくこれを告ぐべきか?オデュッセウスを嘆けども、
これまで彼は農業の監督なして、館中に 140
気の向く時は従僕と共に飲みかつ食いたりき。
されども君がピュロスさし旅立ち出でしこのかたは、
人の噂はかくも言う。前のごとくに飲食を
彼取らずして、農業の監督すでに棄て去りて、
骨のまわりの肉落ちて、ただ悲しみて座するのみ』145

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、
『そは一層に痛むべし。さはれ、しばらく捨ておかむ。
あらゆる事が人間の願いどおりに成るべくば、
さらばまさきにわが父の帰郷を我は求むべし。
報じ終らば立ち帰れ、祖父を探して野の中を 16-150
彷徨いめぐることなかれ。ただ我が母に告げて言え、
「事迅速にひそやかに侍女のひとりを祖父のもと、
使いとなして遣わせ」と。彼女委細を報ずべし』

しかく陳じて促せば、牧人やがて靴を取り、
その両足に結びつけ、都をさして立ち出づる。155
農園あとに別れ行く姿認めてアテーネー、
身の丈高くうるわしく、さらにいみじき手芸ある 
女性の姿よそおいて、近くかたえに寄せ来り、
小屋の戸口の前にたち、オデュッセウスに現われぬ。
テーレマコスは眼前の女神を見得ず、気も付かず 160
(諸神は人の一切に姿現わすことあらず)。
オデュッセウスと犬は見つ。犬らは見ても鳴き吠えず、
恐れて低くうめきつつ小屋のあなたにしりぞきぬ。
そのとき女神眉を垂れ合図をなせば、オデュセウス、
かの農園のおおいなる壁より外へ部屋を出で、165
女神の前にたたずめば、彼に宣しぬアテーネー、

『ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス、
今こそ汝おのが子に語りて隠すことなかれ。
かの憎むべき求婚の群に、死滅と災いを
たくらみ、華美の都市さして行かんがためぞ。我もまた 170
戦う思い切なれば、汝を遠く離るまじ』

しかく宣して黄金の杖もて触るるアテーネー、
しかして清く洗われし上衣下衣を、逞ましき
胸のめぐりにまとわしめ、身の丈および青春の
気を増さしめぬ。肌の色かくてにわかに浅黒く、175
頬はふくらみ、黒きひげあごのめぐりに生い出でぬ。
かくなし終わりアテーネーあなたに去れば、オデュセウス、
足を返して小屋に入る。彼の愛児は驚きて、
神ならずやと恐懼して、あらぬほとりに眼をそらし、
飛揚のつばさそなえたる言句を彼に陳じ言う、180

『客人、前と相違して君今我の前に立つ。
衣服も元のものならず。肌も前とは異なれり。
広き天上家とするその神明の一ならむ。
恩寵我に垂れよかし。いみじき牲と黄金の
飾りの品を捧ぐべし。我に不吉なあらしめそ』185

忍耐強きオデュセウス答えて彼に陳じ言う、
『神にはあらず。など我を不滅の神になぞらうや?
汝の父ぞ。わがために汝無量の災いを 
受けていたくも悲しめり、人の暴威に身を屈して』

しかく陳じて子に口を触れつつ勇士、頬伝い 190
これまで抑えとどめたる熱き涙を地に落とす。
しか言う彼を中々におのれの父と信ぜざる
テーレマコスは口開き彼に向かいて陳じ言う、
『客人、君はわれの父オデュセウスにはよもあらじ。
とある神明欺きて、われの悲痛を増さんとす。195
神明来り意のままに若き姿をまた時に、
老いの姿をたやすくも与えざりせば、人の子は
いかでかかくも意のままに姿を変えることを得ん!
さきには襤褸身にまとい老いたる姿、今は君
天上高く知ろし召す神そのままの姿なり』16-200

知謀に富めるオデュセウス答えて彼に陳じ言う、
『テーレマコスよ、恩愛の父を故郷に迎え得て、
はなはだしくも怪しみて驚くことのあるべきや。
他のオデュッセウスこの郷に帰り来たれるよしもなし。
われは彼なり。艱難の多くをしのぎ、漂浪の 205
はてに二十の春秋を過ぎて故郷に帰り来ぬ。
戦利もたらすアテーネー女神の力かくは成す。
望むがままによくすれば、我をかくこそ変ゆるなれ。
すなわち時にこつじきに我を似せしめ、また時に
美服をまとう青春の盛りの子らに似せしむる。210
天上高く知ろし召す諸神にとりてたやすかり、
人間の子を光栄となすも卑賤となすもまた』

しかく陳じて座につけば、テーレマコスははや悟り、
父にすがりて滂沱たる涙はげしく振り落とす。
今や二人に号泣の思いはげしくわき起る。215
まだ飛びかけぬ雛鳥を農民巣より奪う時、
さすがに猛き荒ワシも、その爪曲がる荒タカも、
いたく鳴くべし。それよりもはげしく二人泣き叫ぶ。
かくのごとくにはらはらと涙二人の頬伝う。
かくして泣ける両人の上に日輪おりつらむ。220
テーレマコスはその時に突然おのが父に言う、

『何たる船に水夫らはここイタケーにわが愛ずる
父を導き来りしや?彼何者と自称せる?
徒歩にてここに来れるを我は断じて思い得ず』

忍耐強きオデュセウス、そのとき答えて彼に言う、225
『愛児よ、我は真実にこれを汝に語るべし。
パイアーケスは航海にすぐれ、彼らを訪い来る
人を故郷に送りやる。彼らは我を導けり。
船足速き船中に眠れる我を海越して、
ここイタケーに連れ来り、青銅、黄金、織りなせる 230
衣服、いみじき種々の品、彼らは我に与えたり。
これらは神の意思により今洞窟におさめあり。
女神パルラス・アテーネー、その勧めより我ここに
来り、無残の敵人をほふらんために思案せん。
かの求婚の群の数、知らせよ。委細物語れ。235
何たる類ぞ?数いかに?我よくこれを知らんため。
かくして我は思慮深き胸裏にとくと計らわむ。
他の同勢の助けなく我々ただの二人にて
彼らに向かいすすまんか?援助を他より求めんか?』

テーレマコスは思慮深く父に向かいて陳じ言う、240
『あわれ父上、剛健の腕と豊かの知謀とに、
秀いづる君の名声を、我はとくより聞き知れり。
さはれ今君言うところ、あまりに我を驚かす。
強き多数を敵としてただ二人にて勝ち得んや!
かの求婚の人の数、十、二十にはとどまらず。245
はるかに多し。今すぐに数えて君に知らしめむ。
ドゥーリキオンにすぐれたる青春の子ら五十二は、
寄せて来りて六人の従僕これに伴えり。
またサメーより求婚の二十四人は寄せ来る。
ザキュントスよりアカイアの二十人また訪い来る。16-250
さらに我が郷イタケーの貴人こぞりて十二人。
伝令メドーンこれに添い、さらに微妙の伶人と、
肉の調理に巧みなる二人の家僕は伴えり。
これらすべてを館中に、敵にまわして戦わば、
かの暴虐を懲らすべきわざは破滅の種ならむ。255
むしろ好意をもたらしてわれら二人を助くべき
その者君は胸中に思い出でずや?試みよ』

忍耐強きオデュセウスその子に向かい陳じ言う、
『我は汝に示すべし。心をこめて我に聞け。
天父ゼウスとアテーネー、二神の助け足らざるや? 260
あるいは他に救援を求むべしとや、汝言う?』

そのとき、彼に思慮深きテーレマコスは答え言う、
『君今名ざす二位の神、げにも無上の助けなり。
天上高く雲の中、座をしむれども人間の
すべてに、不死の神明に、彼らひとしく命下す』265

忍耐強きオデュセウス答えて彼に陳じ言う、
『求婚者らと我々のあいにいくさの勝敗を
わが館中に決める時、彼ら二神は長らくも、
その激戦をよそにして離れて立てることなけむ。
さはれ汝は暁のめざむる時に家に行き、270
かの傲慢の求婚の群の間に混じ入れ。
老いし不幸の乞食(こつじき)の姿を取れる我の身を——
汝の父を城中に牧夫は後に導かむ。
われ館中にあなどられ、不法に苦難受くるとも、
汝心を胸中にしづめてこれを忍ぶべし。275
わが足つかみ館中を引きずり、門におよぶとも、
われに何かを投げるとも、汝眺めてこらうべし。
さはれ甘美の言句もて諫め、無思慮のふるまいを
制止するべく努め説け。されど彼らは聞かざらむ。
けだし彼らの宿命の災いすでに近づけり。280
われまた他事を示すべし。汝心に銘じおけ。
知謀豊かのアテーネー、我に思案を恵む時、
こうべを曲げて合図せん。そのとき汝認め得て、
わが館中にある限り武器[1]一切をことごとく、16-284
収めてこれを屋根高き宝庫の奥に引き移せ。285
しかして武器を求婚の群もし求め物言わば、
汝よろしく甘言を用いてかくも騙すべし、
「トロイアさしてオデュセウス門出の時の面影を、
今はこれらの武器留めず。火炎の息吹きくすぼらし、
汚しぬ。ゆえに我これを煙よりして遠ざけぬ。290
なおこの他にクロニオーン、大事を我に思わしむ。
おそらく酒に酔い痴れて、汝ら不和を引き起こし、
互いに傷を被むらし、かくて酒宴と求婚を
汚さんことのなからずや?鉄はおのずと人さそう」
されど汝と我とには、二振りの剣と投げ槍の 295
二条を、さらに牛皮張る盾の二枚をのこしおけ。
進んで敵を打たんため。しかして次にアテーネー・
女神パラスと聡明のゼウス彼らを欺かむ。
我また一事示すべし。汝心に銘じおけ。
汝まことにわが子にて、我の血筋を受くとせば、16-300
われオデュッセウス今ここにあるを誰にも言うなかれ。
ラーエルテース、愛すべき牧人、家僕いずれにも、
ペーネロペイア母にすら、断じてこれを言うなかれ。
我と汝とただ二人、侍女らの心探るべし。
家僕の中のあるものを同じく調べ試すべし。305
その中たれが心より我らをあがめ恐るるや、
誰かまったく省みず、すぐれし汝をあなどるや?』

[1]これらは広間の壁に掛けらる。槍に対しては特殊の入れ物が広間の巨柱にあり。

そのとき彼の誉れあるテーレマコスは答え言う、
『ああ父上よ、後にしてわれの心の何ものか、
君は知るべし。脆弱の思いはわれに取り憑かず。310
さもあれ君の企みは、我らに共に益ありと
信じ得がたし。新たなる考慮を君にこい願う。
農場めぐり各々を調ぶる時は莫大の
時を要さむ。その間求婚者らは悠々と、
我らの産をむさぼりて少しも惜しむことなけむ。315
侍女らの中のある者は君を侮どる。あるものは
罪なし。これを調べるはわれも素より賛すべし。
わが農場に農夫らを調べることは我は今、
望まず。捨てて、この事を後日に譲り残すべし。
アイギス持てる天上のゼウスの兆し君知らば』320

しかく彼らはかかる事陳じ互いに語り合う。
テーレマコスと従者らをさきにピュロスに乗せ行きし
かの堅牢の船は今イタケーさして漕ぎ帰る。
一同かくて深き水たたえし湾に入りし時、
黒く染めたる船を今、彼らは陸に引き上げぬ。325
いそしむ従者らそのときに船具はずして運び去る。
直ちに彼ら美麗なる品を豪族クリュティオス[1]、16-327
そのもと運び、また使者をオデュッセウスの邸にやる。
テーレマコスは野に残り、船は都市へすすむべく 330
従者に命を下せると、子細つぶさに聡明の 
ペーネロペイアに告ぐるため。慈母はおそらく胸中に
憂怖(ゆうふ)抱きてはらはらと涙を垂るることあらむ。
その使者および忠実の牧者は同じ消息を、
共に母公にもたらしてひとつの場所に出で会えり。
すなわち二人荘厳の王者の館に着ける時、335
使者は侍女らの中に立ち、口を開きて陳じ言う。

[1]15-540、ペイライオスの父。

『女王よ、君のいとしめる御子(おんこ)はすでに帰り来ぬ』
ペーネロペイアのそば近く、また牧人はたたずみて、
テーレマコスの命のまま、子細を彼に物語り、
王子の言いし事すべて繰り返すのち辞して去り、340
広間と庭をあとにして、豚の群へと立ちかえる。

求婚者らは胸中に悩みてしかも驚けり。16-342
やがて彼らは館を出で、その中庭の大いなる
壁過ぎ抜けて門前にみないっせいに座を占めぬ。
エウリュマコスはポリュボスの生める子、彼はまず陳ず、345

『ああわが諸友!おおいなるわざを、旅を不敵にも、
テーレマコスは成し遂げぬ。成し遂ぐまじと思いしを。
いざ最上の黒き船、波浪の中に引きおろし、
漕ぎ手を中に充たしめよ。同志の群にすみやかに、
家に帰れと迅速に使命を伝え行かんため』16-350

その言いまだ終えざるに、アムピノモスはその場より、
振り向き、ふかき湾内に船の浮かぶを眺め見つ。
水夫は白き帆をたたみ、櫂を手にして漕ぎ進む。
彼は盛んに笑いつつ、その同僚に叫び言う、

『使命を早く伝うべき要ははやなし。見よ彼ら 355
帰り来れり。とある神これを彼らに告げつらむ。
あるいは船を認めしも、彼に追いつき得ざりけむ』

しかく陳じぬ。人々は立ちて波浪の岸に行く。
かくて彼らは陸のへに直ちに黒き船を上げ、
いそしむ従者らそのときに船具はずして運び去る。360
しかして同志は群がりて集会の場に到り着き、
同志以外は老若を問わず、場裏に入らしめず。
エウペイテスの生める息アンティノオスは口を切る、

『奇怪なるかな。神々は彼の危難を救いたり。
代わる代わるに斥候は、風に打たるる懸崖の 365
上に日に日に座を取りぬ。日輪沈み去る後は、
夜陸上に居眠らず。足迅速の船に乗り、
波浪を切りて神聖の明けの女神を待ちわびぬ、
捕えてこれをほふるべくテーレマコスを待ち伏せて。
しかるに彼を神明のあるもの家に導けり。370
さはれ我らはここにしてテーレマコスに無残なる
破滅の道を企まむ。彼の遁走なかれかし。
彼の生命あるかぎり、われらのわざは成らざらむ。
彼は英知に策略に共に等しく秀でたり。
庶民も我に親愛を寄せ来ることはあらざらむ。375
いざ起て、彼が集会の席にアカイア民衆を
集むる前に。われ思う、彼は断じてためらわず、
憤怒はげしく民衆の前に立ちつつ語るべし、
われらが彼の恐るべき破滅企て遂げざるを。
民衆これを耳にせば我らの非行とがむべし。380
かくて彼らは災難を加え、祖先の故郷より、
我らを追いてやむなくも他の民族に行かしめむ。
しからば、都市を離れたる道にあるいは草原に、
先手を取りて彼倒せ。彼の資産と財宝は、
我ら一同取り収め、よきに叶いて分つべく、385
家屋は母に、また母と婚する者に持たしめむ。
もしこの言句汝らの意に満たざれば、もし汝
彼のながらえ、父祖の産受け継ぐことをよしとせば、
しからばここに集まりて彼の資産を意のままに
むさぼることのなかれかし。かくて各々その屋より、390
婚儀の品をもたらして求婚すべし。最多なる
資財ならびに運命を持つ者ついに婚し得む』

しか陳ずれば一同は黙然として言葉なし。
やがて彼らに口開き、アムピノモスは陳じ言う、
(アレートスの子ニーソスはこの高貴なる子を生めり。395
麦の豊かな草青きドゥーリキオンのかなたより、
かれ求婚の群率ゆ。ペーネロペイア特にその
言句好めり。善良の気質を彼のもてるため)
彼いま皆に慇懃の心をこめて陳じ言う、

『テーレマコスを殺すこと、諸友よ、我はいささかも 16-400
好まず。すべて王族の裔を殺すは恐るべし。
汝らこれにさきだちて諸神の意思を尋ぬべし。
天父ゼウスの神託が、しかする事を命ぜんか、
しからば彼を殺すべく、また他に勧め、しかさせむ。
諸神もしこを許さずば、控うることを勧むべし』405
アムピノモスはしか陳ず。その言みなはうべなえり。
つづいて皆は身を起し、オデュッセウスの館に行き、
中にすすみて高椅子の磨ける上に座を占めぬ。

ペーネロペイア思慮深くそのとき一事思いつき、
かの暴戻を極めたる求婚の徒の前に出づ。410
おのが愛児をほろぼさむその計画を館中に
知れるゆえ。これ聞き取りし伝令メドーン告げたりき。
王妃は侍女を従えて広間をさして出で来る。
かくして彼ら求婚の群の目の前いたる時、
王妃は固く築かれし部屋の柱の側面に、415
沿いて頬のへ輝ける美なるベールをつけて立ち、
アンティノオスを叱り責め、彼の名呼びて陳じ言う、

『アンティノオスよ、傲慢の者よ、悪事を計る者。
汝を人はイタケーの同齢者中、第一に
思慮も言句も良しと言う。されど汝はしかあらず。420
狂者よ、汝何ゆえにテーレマコスの死と非運
たくらむ?ゼウス見守れる祈願の人を何ゆえに
汝あなどる[1]?悪と悪、施し合うは善からずや!
汝知らずや?その昔、汝の父が民衆を
恐れてここに逃げ来しを。彼はタポスの海賊に 16-425
組て、われらに親しめるテスプロートイ民族を
いたく害せる故をもて、彼らの怒り強かりき。
彼らは彼を打ち殺し、その心臓を打ちくだき、
多量の資産、意のままに奪い取らんとたくらみき。
されどそのときオデュセウス焦せる彼らを抑えにき。430
しかるに汝恩人の家を荒らして償わず。
彼の夫人に心寄せ、彼の愛児を打たんとす。
ああ今汝その悪をやめよ。同志を戒めよ』

[1]9-270参照。

そのときポリュボス生める息エウリュマコスは答え言う、
『イーカリオスの息女なるペーネロペイア、聡き君、435
我を信じてこの事を心に思いわずらうな。
我生命のある限り、地上に光見る限り、
テーレマコスに、君の子に手を触るるものあらざらむ。
昔にあらず今あらずまた行末もあらざらむ。
我はかく言う。言うところ必ず果しとげられむ。440
もしかかる者ありとせば、その黒き血はわが槍の
穂先めぐりて流るべし。都城破壊のオデュセウス、
しばしばおのが膝のへに我を座せしめ、我の手に
あぶれる肉を、わが口に赤き葡萄酒与えたり。
テーレマコスはこのゆえにあらゆる人の中にして、445
わが最愛者。求婚の群より来る滅亡を
絶えて恐るる要あらず。神より来れば避け難し』

しか慰めてしかもなお彼の破滅の備えしぬ。16-448
王妃はやがて輝ける楼上さして上り行き、
恋しき夫オデュセウスおもいて泣けり。藍光の 16-450
目のアテーネー程もなく甘眠彼女の目に注ぐ。

夕べに到りオデュセウス親子のもとに忠実の
牧人帰り来る時、二人夕餉の備えして、
今年生まれの豚の子をほふれり。時にアテーネー、
ラーエルテース生める子のかたえに近く立ちよりて、455
その杖をもてオデュセウス打ちて再び老となし、
卑しき衣服彼の身の回りにつけぬ。牧人が
彼を認めて、胸中にこのこと秘めて守り得ず、
ペーネロペイアに走り行き報ずることを恐るれば。

テーレマコスは牧人にまず口開き陳じ言う、460
『ああ忠実のエウマイエ、帰り来しよな。都市の中、16-461
うわさはいかに?傲慢の求婚者らは待ち伏せの
場所よりすでに帰れるや、なおわが帰路を狙えるや?』

その時牧人エウマイエ、汝答えてかく言えり、
『かかる事ども都市のなか探り問うこと念頭に 465
われ置かざりき。ただ早く使命を遂げてまたここに
帰り来たらん事をのみ、われの心は命じたり。
君の同僚遣わせし、かの足速き伝令に
われは会いたり。まっさきに彼は王妃にこと伝う。
他にわれ一事知り得たり。親しくわが目眺め見て、470
へルマイオスの丘のそば、都城見おろす道のうえ、
過ぎてそのときわれは見ぬ。足迅速の
一隻の船湾中に入り来るを。中に多数の人乗りぬ。
盾と両刃の槍もまたその船中に多かりき。
例の者ぞと推したり。確かの事は言いがたし』475
しか陳ずれば、剛健のテーレマコスは微笑みて、
目をあげ父を顧みて、牧夫よりして目をそらす。

やがて一同その労を終わり食事を整えて、
宴を設けておのおのの心に充たぬ所なし。
されど一同飲食の願いを払いのけし後、480
ふしどを思い、睡眠の恵む賜物受け取りぬ。


オヂュッセーア:第十七巻


乞食の姿せるオデュッセウスを城市に導くべくエウマイオスに命じ終わりてテーレマコスまずそこに行く(1~27)。愛児を迎えてペーネロペイア大歓喜し、伴えるテオクリュメノスを歓迎す(28~165)。求婚者ら食事の準備。同時にエウマイオスとオデュッセウス城市に向かう途上牧者メランティオスにののしらる(166~253)。館前の広場に入りたるオデュッセウスその愛犬アルゴスを見る(254~327)。乞食につきてアンティノオスとエウマイオスとの対話(328~404)。オデュッセウスをアンティノオスののしり辱む(405~491)。ペーネロペイア使いを遣わしてオデュッセウスを招く(492~588)。エウマイオスは暇(いとま)を乞いて牧場に帰る(589~606)。

薔薇の色の指持てる明けの女神の現れに、
オデュッセウスの愛児なるテーレマコスは、両足の
下に美麗の靴を着け、その剛健の手に叶う
強き長槍携えて、まさに都城に行かんとし、
彼に従う忠実の牧夫に向かい陳じ言う、17-5
『母にこの身を示すべく、おじよ我いま都市さして
行かんと欲す。その目もて親しく我を見る前は、
思うに母は悲しみに耐えず、声あげはらはらと
涙流して止まざらむ。汝に下す命はかく—
不幸の客を導きて都市におもむき、彼をして、17-10
そこに食物乞わしめよ。情あるものは一片の
麺包および一杯の酒を与えん。我は身に
憂い抱けば一切の人を養うこと難し。
客もし痛くこの言に怒れど彼に益ならず。
我はただただ真実をここに隠さず述ぶるのみ』15

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『ああ友、ここに留まるをわれの心も喜ばず。
食を乞う者、田野にて求むるよりも、都市にあり
求むることはまさるべし。情ある者は施さむ。
我今すでに、田園にとどまりすべて一切を 20
主人の命に従いて、行なうほどの年ならず。
さらば君行け。命により、この人我を導かむ、
たき火に我の温まり日差しの熱くなりし後。
我の衣服はあまりにも破れぬ。朝の寒冷は
身を害すべし。行く先の都市は遠しと君ら言う』25

しか陳ずれば農園を、テーレマコスはすみやかに、
過ぎて急ぎて求婚の群に災いたくみつつ、
やがて堅固に作られしおのれの家に到り着き、
手にする槍をおおいなる柱に寄せて立て掛けて、
石の敷居を踏み越えてその館中にすすみ入る。30

エウリュクレイア、彼のうば、巧み刻める椅子の上、
皮を敷きつつありし者、まさきに彼を認め得て、
泣きてただちに馳せ来る。オデュッセウスに仕えたる
侍女らひとしくいっせいに彼のめぐりに集まりて、
彼を抱きてその肩とそのかしらとに口を触る。35
やがてその部屋出で来るペーネロペイア、その姿
アルテミス[1]また黄金のアプロディーテーさながらに、17-37
胸に愛児をかき抱き、うれし涙をはらはらと、
流して彼の両の目と頭に口を触れつつも、
高らに叫び、つばさある言句を陳じ彼に言う、40

[1]女神アルテミスは清浄の処女神(18-202)。麗容にして身長高し(6-152)。ヘレネーはアルテミスに比せらる(4-121)。ナウシカアーも同じ(6-102)。

『よくこそ帰り来たりしよ。テーレマコスよ、わが光。
父の消息求むべく、わが意に反き、ひそやかに
ピュロスに汝立てる後、再び見んと思いきや!
汝の見たるものにつき、我に委細を告げよかし』

テーレマコスは思慮深く、それに答えて陳じ言う、45
『母よ、我いま恐るべき死滅のがれて帰り来ぬ。
われに慟哭おこさざれ。われの心を乱さざれ。
君は浴して清浄の衣をおのが身にまとい、
かしずく女子ら伴いて楼上高く上り行き、
天王ゼウスが報復のわざを正しく果しなば、17-50
傷なき牛の大牲を奉るべく神明に
誓え。その間に集会の庭を訪い行き、我はかの
客を呼ぶべし。ピュロスより伴いここに来し者を[1]。
我はいみじき同僚ともろとも彼を先立たせ、
ペイライオスに命じたり。その屋に招き、心こめ、55
わが帰るまで慇懃に彼をもてなし崇めよと』

[1]テオクリュメノス、15-225。

しか陳ずれば言葉なくペーネロペイア立上り、
浴して後に清浄の衣をおのが身にまとい、
天王ゼウス報復のわざを正しく果しなば、
傷なき牛の大牲を捧ぐべしとの誓いたつ。60

こなた大槍、手にとりてテーレマコスは館を出づ、
足神速の犬二匹、彼に伴い駆け出でぬ。
そのとき彼にアテーネー、神聖の美を注ぎ掛く。
かくして来る彼を見て皆いっせいに驚きぬ。
彼のめぐりに傲慢の求婚の群寄せ来り、65
口に甘言陳じつつ心に危害たくらみぬ。
その数多き一団をテーレマコスはほかにして 
行き、メントール[1]座せるそば、ハリテルセース、またさらに 17-68
アンティポス†[2]らの座せるそば、昔よりみな父の友 17-69
並ぶほとりに座を取れば、各人彼に問いたずぬ。70
そのとき槍の名手たるペイライオスは近寄りて、
都市を過ぎ来て集会の庭にかの客導けば、
客を長くはうち棄てぬテーレマコスは近く寄る。
ペイライオスはまず先に彼に向かいて陳じ言う、

[1]2-225。
[2]オデュッセウスの伴で同名の人は怪物に食わる(2-19)。アイギュプティオス(2-15)の間違いか。

『テーレマコスよ、わが家に侍女らを早く行かしめよ。75
メネラーオスが与えたる贈遺を君に返すべし』

テーレマコスの思慮深き、すなわち答えて彼に言う、
『ペイライオスよ、この事の成行きいかに、我知らず。
わが館中に傲慢の求婚の群ひそやかに、
われを殺して父の産おのおの分かち取るならば、80
かの贈遺をば誰よりも君の取るこそわが願い。
彼らに対し死と非運、われ幸いに計り得ば、
君喜びて、喜べる我に贈与を運び来よ』

しかく陳じて不幸なる客をその家に案内する。
やがて彼らは堅牢に築ける[1]家にいたる時、17-85
その外套を脱ぎ捨てて椅子、高椅子の上に掛け、
よく磨かれし浴場に行きておのおの浴を取る。
その一同を浴せしめ、侍女らはこれにオリーブの
油まみらし、柔軟の上衣肌衣を着せしむ。
かくして彼ら浴場を出でておのおの椅子による。90
侍女らの一人黄金の華麗の瓶に水を入れ、
携え来り銀盤の上に傾け、人々に
手を洗わしめ、かたわらに磨ける卓子寄せ来る。
そのとき家婦はしとやかに、携え出でし麺包を
卓子にのせて、貯えし種々の調理の品を添う。95
そのとき王妃まのあたり、館の柱のそば近く、
椅子にその身をもたせつつ、静かに細き糸を繰る。
人々やがて手をのして前におかれし食を取る。
しかしてやがて飲食の欲をおのおの満たす時、
ペーネロペイア、聡明の王妃は彼に陳じ言う、17-100

[1]直訳すれば『よく住居さるる』

『テーレマコスよ、楼上に我は上りて床の上、
身を横たえむ。その床はつねにそそげる涕涙に
うるおい今は憂愁の場所なり、さきにオデュセウス、
アトレイデースもろともにイリオンさして立ちしより。
しかるに汝、この館に求婚者らが来る前に、105
父の帰郷の消息の委細をわれにうち明けず』

テーレマコスの思慮深き、答えて母に陳じ言う、
『これらにつきて真実を、母よ、委細に語るべし。
ピュロスならびに民衆の王ネストール訪れり。
彼は我らを高き屋の中へ招きて慇懃に110
心をこめて歓待す。長き不在の歳月の
後に帰れる愛ずる子を、父のもてなす如かりき。
彼は誉れの子供らと共々我を気遣いぬ。
父勇猛のオデュセウス、生けるやあるは亡べりや、
地上の誰も告げざれば、絶えて知らずと彼いえり。115
されど駿馬と堅牢の車輪を仕立て我を乗せ、
槍の名将メネラオス・アトレイデースに遣わしぬ。
そこに着してアルゴスのヘレネー見たり。彼女ゆえ
神はアカイア、トロイアの民を等しく悩ましむ。
音声(おんじょう)高きメネラオス、直ちに我に問いて言う、120
ラケダイモンの広き郷、何たる要に訪い来しと。
そのとき我は一切の真実彼にものがたる。
そをうち聞けるメネラオス、答えて我に叫び言う、

「奇怪なるかな卑怯なる奴め。おのれを顧みず[1]、
力まされる英雄のふしどにおのれ伏さんとや!17-125
例えをいわば母鹿が、生まれて間なく乳離れぬ 
子鹿二頭を、勇猛のライオンやどる洞の中
寝かし、谷間を、木々しげる丘をめぐりて草を食む。
その間に彼女の洞窟に、猛きライオン帰り来て、
子鹿二頭に物すごき死の運命をもたらさん。130
まさしくかくもオデュセウス、彼らの死滅もたらさん。
ああ、ああゼウス、アテーネーまたポイボス・アポローン、
さきに堅固に築かれしレスボス島の中にして、
ピロメレイデス相手とし、彼は争い闘いて、
激しくこれをうち倒し、アカイア人の喝采を 135
博せしごとく、オデュセウス求婚者らに向かいなば、
彼らの寿命短くて、苦き婚姻味わわむ。
汝が我に問い尋ね、答えを願う一切に
つきては、我は真実を離れて言わんすべ知らず。
我は汝に偽らず。されども海のまことなる  140
老翁述べし一切は包み隠さず、今告げむ。17-141

[1]124~41は4-333~50と同じ。

彼は語りぬ、オデュセウス孤島にいたく悩めるを
見ぬと。仙女のカリュプソー、その館中に彼の意に、
反して彼を押しとどめ、彼は故郷に帰り得ず。
大海原を乗りこして、彼を故郷に送るべく、145
櫂を揃える船あらず、船をすすむる伴あらず」。
槍の名将メネラオス・アトレイデースかく告げぬ。
これらを我は果たし終え帰りぬ。不死の神明は
順風与えすみやかに我を祖先の地につけぬ』

しかく陳じて愛深き母の心胆ゆるがしぬ。17-150
テオクリュメノス、風采は神に似る者つぎて言う、
『ラーエルテース生める息オデュッセウスにかしずける
尊き王妃、わが言を聞けかし。彼はよく知らず。
我はまことに予言して何をも隠すことなけむ。
諸神の中にクロニオンまず証したれ、歓待の 155
この食卓も、我が訪えるオデュッセウスのこの炉火(ろか)も、
証したれかし、オデュセウスすでに祖先の地にありと。
彼は座してか、歩きてか、かの求婚のともがらの
不法あまねく探りつつ、彼らの危害たくらめり。
漕ぎ座よろしく船のへに座して我かく飛ぶ鳥に 160
占い得たり、占いてテーレマコスにこを告げぬ』

ペーネロペイア聡明の王妃は彼に答え言う、
『あわれ客人、君のいう言句の成るぞ願わしき。
成らばただちに君は見む、わが歓待を、数々の
贈与を——さらば君に会う人々君をことほがむ』165

しかく彼らはかかること陳じ互いに語りあう。
求婚者らはその間、オデュッセウスの館の前、
先のごとくに傲然と群がり寄せて、ならしたる
庭のおもてに円盤を、槍を投げつつ楽しめり。
夕べの食事の来る時、四方の野より羊群が 170
牧夫に追われ帰る時、そのときメドーン伝令の
使いのひとり、求婚の群にもっとも喜ばれ、
その宴席にはべる者、皆に向かいて陳じ言う、

『若き君たち、遊戯もて君らの心楽しめり。
さらば館中入り来れ。われは食事を供うべし。175
取るべき時に晩餐を取るはまったくあしからず』

しか陳ずるに従いて、立ちあがりつつ皆は行く。
一同やがて堅牢のやかたに来り着ける時、
その外套をぬぎ捨てて椅子、高椅子の上におく。
かくて彼らはおおいなる数多の羊、肥えしヤギ、180
同じく脂肪豊かなる豚と雌牛をうちほふり、
食を供えり。その間、オデュッセウスと忠実の
牧夫は、野より都市さして行くべく足を急がしむ。
豚を養う牧人の頭、そのとき陳じ言う。

『あわれ客人、君は今日都市に行くべく乞い願う。185
まさに主人が、我に命下せしごとく。しかれども
この農園を守るべく君の残るはわが願い。
されど主人は恐るべしまた崇むべし。のちにして、
彼は叱らむ。一切の主人のとがめ身につらし。
いざ立て、行かむ。白日はすでに傾く。程もなく、190
夕べとなりて寒冷はいたくわれらを悩まさむ』

知謀豊かのオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『君言うままに一切を我ことごとく了解す。
いざいま行かむ。道中は君わがために案内せよ。
さはれ切られし枝にして身を支うべきものあらば、195
我に与えよ。行く道は滑りやすしと汝言う』

しかく陳じてオデュセウス肩のめぐりに破れたる——
見るめ怪しき旅袋——下げ紐のあるものを掛く。
エウマイオスは彼にいま心に叶う杖与う。
かくて二人は出で行ける。後に残りて番犬と 17-200
従僕共に農園を守りぬ。彼はその主人——
老いし乞食に髣髴と杖にすがりて身のめぐり、
みじめの襤褸まとえるを——都市に向かいて導けり。
かくして二人もろともにつらき険しき[1]道たどり、17-204
都市に近づき、清水のさらさらとして湧きいずる 205
泉のそばに来り着く。市民ここより水汲めり。
(イタコスおよびネーリトスまたポリュクトル、この泉 17-207
昔構えき)。白楊は水に育ちて鬱々の
林をなして円形に囲み、上なる巌より、
水あざやかに落ち下る。岩の上なる祭壇は 210
仙女の群に捧げられ、旅行く人は牲ささぐ。

[1]パイパロエサン(意不明)。
[2]イタケーのいにしえの三雄。プテレラーオスの三児と称せらる。第一よりイタケーの名、第二よりネーリトン山の名来る。

メランティオス[1]はドリオスの子なり。彼いま求婚の 17-212
人々のため食として大なるヤギをひき来り、
ここに彼らを見出せり。二人の牧者伴えり。
ここに彼らを見出した彼、凶暴の言を吐き、215
口汚くもののしりてオデュッセウスを激せしむ。

[1]あるいはメレンテウス、18-321のメラントーはドリオスの娘。

『笑止千万!悪しき者、悪しき者をぞ導ける。
まことにつねに神霊は類と類とを一つにす。
憐れの牧者、汝今この大食いのこの乞食、
人迷惑な宴席の邪魔者いずこに導くや?220
彼は柱のそばに立ち、肩擦り寄せて乞うものは、
太刀、水盤ならずして、ただ食物の残りのみ。
この者我の有たらば、農場の番、獣檻の
掃除、子ヤギの飼い草の運びを我は命ずべし。
しからば彼はうすき乳飲みてその腿太らせむ。225
されども彼は悪しきわざ学びて、あえて正業に
務むることを喜ばず。食を民衆の間に乞い、
乞いて求めて、飽くことを知らぬ口腹養えり。
汝に我はあえて言う。わが言うところきとならむ。
神に類するオデュセウスその邸宅に彼行かば、230
頭のめぐり人々の手に投げうたる足台は、
あなたこなたに倒さるる彼の肋骨破るべし』17-232

しかく陳じて過ぎながら、狂愚の彼は足飛ばし、
オデュッセウスの腰を蹴る。されど道より押しのけず。
勇士しずかに悠然と立ちとどまりて思案しぬ。235
急ぎすすみて杖ふりて彼の一命絶やさんか、
あるいは彼をつかみ上げ、大地に頭を打たせむか?
思案の末に耐え忍び、心制しぬ。しかれども
牧夫は彼をののしりて手を挙げ高く祈り言う、
『泉の仙女[1]、ゼウスの子ああ聞こし召せ。オデュセウス、17-240
かつて御前に子羊の子ヤギの腿を焼きあぶり、
脂肪に包み捧げたるその事あらば、わが祈願
成らしめたまえ、神明に引かれて彼の帰らんを。
悪しき牧人、羊群をほろぼしつつも都市の中、
つねにめぐりて誇りつつ常におごりて言うところ、245
その大言の一切を彼はそのときくだくべし』

[1]13-104。

ヤギを導く牧の人メランティオスは叫び言う、
『奇怪なるかな何たる語、犬の唇漏れいずる!
彼をこの後イタケーを離れて遠く黒船に、
乗せて他郷に送りやり、売りて多くの財を得む。17-250
テーレマコスを銀弓の神アポローン、館の中、
今日倒せかし。あるはまた求婚の群彼を打て。
国を離れしオデュセウス、彼も帰郷の望み尽く』

しかく陳じて足遅き二人をそこに後にして、
メランティオスはすみやかに行きて主人の館に行き、255
行きてただちに内に入り、求婚者らのそばに座す、
彼のもっとも親しめるエウリュマコスのまのあたり。
給仕の群はそこばくの食物彼に運び来る。
また麺包をしとやかの家婦はもたらし食せしむ。
その後やがてオデュセウス、また忠実の牧人は、260
着きてあたりに並び立つ。そこに竪琴ならす音、
彼らに聞ゆ。ペーミオスいま吟唱を始めたり。
オデュッセウスは牧人の手をとり彼に陳じ言う、

『エウマイオスよ、こはまさにオデュッセウスの美なる館。
他に宮殿は多くとも、たやすく認め得らるべし。265
屋根また屋根は相続く。また中庭は胸壁と
塀とによりて飾られて門はよく閉じ二重なり。
力をもってこを犯し押し入ることは難からむ。
今館中に人々は宴を開くを我は知る。
肉の香りは立ちのぼり、また竪琴の音聞ゆ。270
琴は酒宴の伴として神明はじめ作りたり』

その時牧人エウマイエ、汝答えてかく言えり、
『君はたやすくよく知れり。他の事物にもみなさとし。
いざ今思い計るべし。これからいかになし行かん。
君いま先に堅牢のこの館の中すすみ行き、275
かの求婚の一団にまじり、我が身は残らんか。
あるいは、ここにとどまるを望まば、我がまず行かむ。
されども長くためらいそ。ある者君を戸の外に、
認めて打たん、追いやらむ。君よくこれを思案せよ』

忍耐強きオデュセウス、それに答えて陳じ言う、280
『君言うままに一切を我ことごとく了解す。
さはれ君まず先に行け、われはこの場に留まらむ。
打たれあるいは突かれたるつらき経験身に多し。
われの心は強固なり。戦場または海上に
悩みしことはいくばくぞ!こたびも数に加わらむ。285
ただ口腹のあさましき欲をば隠すよしもなし。
忌むべき欲は人界に災い来すいくばくぞ!
漕ぎ座良き船このために、敵に災い致すべく、
艤装されつつ渺々の広き大海渡り行く』

しかく彼らはかかること陳じ互いに語りあう。290
そのとき伏せる犬ありて頭を耳をもたげ上ぐ。
忍耐強きオデュセウス、むかし飼いたる、しかれども、
愛撫の暇(いとま)なかりける、犬アルゴスはこれなりき。17-293
トロイアさしてその主人起ちたる後に若人は、
この犬駆りて、野のヤギをウサギを鹿を追わしめき。295
今は主人のあらざれば、うち捨てられて門前に、
ラバと牛との獣糞の山なすばかり堆高く
積れる中に横たわる。その堆積を運び行き、
オデュッセウスのしもべらは彼の農園肥やすらし。
無残や、かくてアルゴスはノミに責められ横たわる。17-300
されども主人オデュセウス近くに立つを認め得て、
可憐な犬は尾を振りて、二つの耳を垂れ下げぬ。
されども弱りはてし犬、主人のそばに近寄るは
叶わず。主人隔りてこれを眺めて涕涙を、
エウマイオスの目を逃れ、拭いて不意に彼に問う、305

[1]名は「速き」を意味す。

『エウマイオスよ、獣糞の中に伏したるこの犬は、
目を驚かす美麗なり。さもあれ我は知り難し。
美麗のほかに迅速の走りを犬はなし得るや?
あるはこの犬、世の人がその食卓のそばにおき、
飾りとなりて愛撫するその畜類の一なりや?』310

その時牧人エウマイエ、汝答えてかく言えり、
『故郷を離れみまかりし人に飼われき、この犬は。
犬の姿もその術(すべ)も、トロイアさしてオデュセウス、
この犬残し出でたちし、その時ありしままならば、
犬の速さと力とを眺めて君は驚かむ。315
叢林深き茂みより、犬は野獣を駆り出して、
絶えて逃せしことあらず。野獣の道をよく知れり。
今は無残や病み伏せり。主人は国を隔てたる
遠きに死せり。怠慢の侍女らは犬をいたわらず。
また家僕らは、その主人すでに支配をやむる時、320
正しきわざを行なうを、もはや心に喜ばず。
人が奴隷になる時は、雷鳴高くとどろかす
クロニオーンその者の徳の半ばを奪い去る』

しかく陳じて堅牢に構える館にすすみ入り、
広間を過ぎて驕慢の求婚者らのそばに行く。325
しかしてこなたアルゴスを死の運命は捕え去る。
オデュッセウスを二十年過ぎて眺めし程もなく。

神の姿に髣髴のテーレマコスは、牧人の
すすみ来たるをまっさきに眺めて彼に合図して、
そばに呼び寄す。寄せられて彼は四方を見わたして、330
かたえに一つ椅子を見る。そは館中に食を取る
求婚者らに品分くる調理の人の座る椅子。
牧人これを運び行き、テーレマコスの目の前に
据えて自らこれに座す。侍者は料理をもたらして、
彼に与えて麺包をさらに籠より取りて出す。335

つづきて直ぐにオデュセウスいま館中にすすみ入り、
足取り重く杖に寄り、見る目憐れの老齢の
乞食に似せぬ。無残なる襤褸は彼の身を包む。
しかして彼は門の内、白楊の木の敷居のへ、
工匠むかし墨縄(すみなわ)にあてて真直に精巧に、340
削り磨きし糸杉の柱にもたれ寄りかかる。
テーレマコスはこれを見て、そばに牧人呼び寄せて、
美なる籠より麺包の大塊(たいかい)取りて、両手もて
抱くばかりに量多き食をそえつつ陳じ言う、

『これらの食をあの客に携え与えてさらに言え。345
隈なく行きて求婚の群に近づき求めよと。
物の乏しき人に取り、恥はまったく無用なり』

しか陳ずれば、その言句聞きて牧人立ちて行き、
彼のかたえに留まりて飛揚の言句陳じ言う。
『テーレマコスは、客人よ、君にこれらの物与え、17-350
隈なく行きて求婚の群に近づき乞えと言う。
貧しく物を乞う人に恥は無用と彼は言う』

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『天父ゼウスよ、願わくは、テーレマコスに果報あれ。
彼が胸裏に願うものみなことごとく彼に成れ!』355

しかく陳じて両手あげ、施物を受けて、足下(あしした)に
おける不潔の袋のへ載せつつ、かなた伶人が
館の中にて吟唱を続くる間、口にしつ。
やがてその食終わる時、玲瓏の歌また終わり、
求婚者らは館の中どよめき騒ぐ。アテーネー 360
そのとき近くオデュセウス、ラーエルテースの子のそばに
たたずみ、彼を動かして求婚者より麺包の
屑を乞わしめ、これにより正と不正を見わけしむ。
さはれ女神は誰一人危難を救うを念とせず。
かくして彼は各人に求むるために、右手より 365
始め、すすみて手をのばす、乞食に慣れし様見せて。
人々彼を憐れみて施しながら怪しみて、
いずこよりして来たりしや、はた何者とたずね合う。
そのときヤギの牧者たるメランティオスは皆に言う、

『高き王妃の求婚者、われに聞けかし、この客に 370
つきては。彼をわれの目はさきに親しく眺めたり。
エウマイオスは——豚飼いは彼を導き到らしむ。
さはれ素性はいずこにか、その事我はよく知らず』

アンティノオスはその言を聞き、豚飼いを叱り言う、
『音に聞えし牧人の汝、何ゆえこの者を、375
都市に導き来りしか?他の放浪者、宴席の
のろい、うるさき乞食の徒、われらに足るにあらざるや?
ここに群がり集まりて主人の財を浪費する
彼らを気にも掛けずして、さらに汝は彼呼ぶや』

その時牧人エウマイエ、汝答えてかく言えり、380
『高貴の汝アンティノオス、汝はひどきことを言う、
誰か好みてよそに行き、みだりに客を求めんや?
もしその人が公に奉仕の者にあらざれば、
予言者、あるは疾病を治療する者、木の匠、
あるいは歌い楽します良き伶人にあらざれば。385
これらは広き大地のへ特にあまねく招かれん。
誰か乞食を呼び寄せておのがわずらい来たすべき!
求婚の徒の中にして、オデュッセウスの従者(ずさ)にとり、
汝もっとも無情なり、特にも我に無情なり。
さもあれ我は顧みず。ペーネロペイア、聡明の 390
王妃、はたまた神に似るテーレマコスの生ける間は』

彼に向かいて思慮深きテーレマコスは陳じ言う、
『黙せよ、彼に喋々の言を弄して答うるな。
アンティノオスは苛酷なる言句によりて怒らすを
常におのれの習いとし、人にも勧めしかせしむ』395

しかして次にふりかえりアンティノオスに陳じ言う、
『アンティノオスよ、子を父の思うがごとく、汝よく
我を顧み、凶暴の言句を吐きて、わが館の
中より客を追えと言う。神よこの事成らしめな!
客に与えよ、物取りて。我は惜しまず。しか命ず。17-400
これらにつきてわが母を恐るるなかれ。神に似る
オデュッセウスの館中の何らの家僕も恐るるな。
されども汝胸中にかかる思いを宿すなく、
自ら多くむさぼりて他に与うるを喜ばず』

アンティノオスはそのときに答えて彼に陳じ言う、405
『テーレマコスよ、高言の汝、何たる言を吐く?
もし求婚者いっせいに我なすごとく彼に向け、
恵み与えば、三か月彼はこの家に来たるまじ』 17-408

[1]下文にいうごとく「恵み」とは足台を投げつけること。

しかく陳じて食卓の下におかれし足台を、
とりて示しぬ、宴席にかれの両足受くるもの。410
他の人々はみな恵み、彼の袋に麺包と
肉を充たせば、オデュセウス、敷居のほとりすみやかに
行きて、アカイア民衆の施すところ喫せんとす。
アンティノオスのかたわらに、さはれ、とどまり彼に言う、

『与えよ、君はアカイアの中に卑しき者ならず。415
うち見るところ高貴なり。またく王者のごとくなり。
他人にまさり麺包の多くを、されば君我に
与うべからむ。君の名をさらば世上にたたうべし。
我も昔は幸多く、富みて華美なる家に住み、
我を訪い来る放浪の群にしばしば施しき。420
彼ら何者いずこより漂い来しか問わざりき。
われに童僕多かりき。また生活の糧にして
富豪の称を来すもの、我は無数に貯えき。
されどもゼウス・クロニオーン(かくも大神望みたり)
四方を荒らしさまよえる海賊ともに旅長く、425
アイギュプトスにわれ送り、われの破滅を来らしむ。
アイギュプトスの川のうえ、両端曲る船とめし[1] 427
我はそのとき、信頼のもっとも厚き従者らに
命じて、そこにとどまりて船の数々守らしめ、
また偵察をなすがため、他を観測の地に送る。430
しかるに彼らその欲に駆られて暴威うちふるい、
アイギュプトスの国民の豊けき田野たちまちに、
荒らし犯して女性らと小さき子らを奪いとり、
また男子らをほふり去る。その風聞はたちまちに
都市にひびきぬ。こを聞きし国人曙光もろともに 435
すすみ来りぬ。草原は歩兵、騎兵と黄銅の
利刃の光充ち満ちぬ。轟雷めずるクロニオーン、
わが従者らを無残にも逃走せしめ、敵前に
とどまることを得せしめず。災禍はよもに広がりぬ。
敵は利刃をひらめかし我らの多数ほろぼして、440
残れるすべて捕え去り、迫り苦役に就かしめぬ。
我をば彼らその客に、キュプロス島に君臨の
ドメートールに(イーアソス生みたる息に)与えたり。
そのキュプロスをわれ逃れ苦難の果てにここに来ぬ』

[1]17-427~41は14-258~72と同じ。

アンティノオスはそのときに答えて彼に陳じ言う、445
『宴席にこのわずらいを、呪いを我に送りしは、
何たる神ぞ?わが卓を去りて真中に汝立て。
アイギュプトスとキュプロスの苦難[1]をそこにさけるため。17-448
汝何たる不敵なるまた厚顔の乞食ぞや!
かわるがわるに人々をめぐれば彼ら愚かにも、17-450
施し与う。わが物にあらねば何ら節約も
躊躇もあらじ。各々の前に豊かに物はあり』

[1]先きに経験したるごとき。

思案に富めるオデュセウス、しりぞきながら彼に言う、
『笑止や!君は風貌は美なれど心なかりけり。
他人の卓に座しながら、麺包とりて与うるを 455
欲せず。ここに目の前に物は豊かに横たわる。
おのれの家にある時は塩一粒も与うまじ』

アンティノオスはその言を聞きて一層怒り増し、
彼をにらみて憤然と飛揚の言句陳じ言う、
『汝誹謗の言吐けり。汝よろしく覚悟せよ。460
この殿中をつつがなく汝しりぞくことを得じ』

しかく陳じて足台を彼に投げつつ右の肩、
背の一端をはたと打つ。されども彼は泰然と
巌のごとく立ちどまり、つゆよろめかず。黙然と
しずかに頭ゆるがして、胸に復讐たくらみつ。465
やがて戸口に立ち帰り、座して満ちたる背嚢を
しずかに下し、求婚の群に向かいて陳じ言う、

『王妃、誉れのいみじきに、婚を求むる諸人(もろびと)よ、
我に聞けかし。胸中の心の声を我述べん。
おのれの資産、牛の群、白き羊の群守り、470
防ぎてために戦いて人はあるいは打たるるも、
心にさまで苦痛なし。心はさまで悲しまず。
されども我はあさましき——人に災い持ち来す——
この口腹の欲のため、アンティノオスに打たれたり。
されど諸神と復讐の女神、乞食を憐れまば、475
アンティノオスに成婚に先んじ死滅来るべし』

彼に答えてアンティノオス、エウペイテスの子は陳ず、
『座して静かに食を取れ。客よ、さなくば他所に去れ。
汝の言にいきどおる若き人々、手を足を
取りて殿中引きずりて、汝の皮膚を剥ぎ取らむ』480

しか陳ずれば一同は、アンティノオスに猛然と
怒りを起し、その中の若き一人叫び言う、

『アンティノオスよ、不幸なる流浪の彼を無残にも
汝打てるは悪しかりき。もし神ならば何とせむ。
諸神は時に遠くより訪い来る客に身を似せて、485
種々の姿を装いて人間の都市経めぐりて、
あまねく人の正しきや邪まなりや、みそなわす』

しか陳ずれどアンティノオスその忠言に耳貸さず。
テーレマコスはその父の打たれしを見て胸中に、
いたく嘆けどまぶたより涙大地に落ちしめず、490
無言に頭ゆるがして胸に復讐たくらみぬ。

ペーネロペイア聡明の王妃は客が殿中に
打たれしを聞き、取り囲む侍女の間に陳じ言う、
『汝をしかくアポローン、すぐれし弓手、打てよかし!』
そのとき家政司るエウリュノメーは答え言う、495

『ああ願わくは誤らず、われらの祈願成れよかし、
しからば群の一人だも明けの光明眺め得じ』

ペーネロペイア聡明の王妃はそれに答え言う、
『姥(うば)よ、彼らはすべて敵、すべて悪事をたくらめり。
アンティノオスはなかんずく黒き運命見るごとし、17-500
憐れの孤客殿中をめぐりさまよい、施しを
あまねく皆に求めたり。窮乏彼を促せば。
他の一切の人々は与えて袋満たせしに、
アンティノオスは足台を投げつけ右の肩うちぬ』

その奥部屋に座を占めて、王妃はかくも一群の 505
侍女に語りぬ。オデュセウス王者こなたに食取りぬ。
やがて王妃は忠実の牧者を呼びて彼に言う、

『ああ忠実のエウマイエ、かの客人をわがもとに
来らしめずや。迎え得て我は親しく物問わん。
オデュッセウスの英豪のその消息を彼聞くや?510
あるいは見しや?漂浪の長き者とし彼は見ゆ』

その時牧人エウマイエ、汝答えてかく言えり、
『願わく王妃よ君のため求婚者らは黙せかし。
彼の陳ずる言により君の心は魅せられむ。
船を逃れてまっさきに我を訪い来し客人は、515
三日と三晩引き続き、わが小屋の中留まりて、
その艱難の物語いまだに話し終えざりき。
神に学びて美妙なる歌を諸民に聞かしむる、
その伶人を打眺め、人は飽かずも恍惚と
なりて、耳傾くる願いは終わる時あらず。520
かくも彼我が屋の中にわれを恍惚たらしめぬ。
彼は陳ぜり。昔よりオデュッセウスの友なりと。
ミノスの一族住むところクレタ島こそその郷と。
その郷離れ、おちこちと漂泊しつつ、艱難を
忍びてここに到りぬと。彼は言うめり。また陳ず、525
オデュッセウスの噂聞く。テスプロートイ豊沃の
郷に、近くに生き延びて、郷に宝物運ばんと』

ペーネロペイア聡明の王妃は彼に答え言う、
『かの客人をここに呼べ、我に親しく語るため。
求婚者らは戸の口に、あるいはここに家(や)の中に、530
座して遊戯をなすもよし。彼らの心楽しめり。
彼らの資産麺包と甘美の酒はその家に、
奪われずして横たわり、家僕らこれを喫すのみ。
彼らは日々にわが家に、群集なして寄せ来り、
牛羊および肥え太るヤギを捕えてうちほふり、535
宴を催し芳醇の輝く酒杯酌みほして、
絶えて憚ることあらず。わが屋の産は荒されぬ。
わが屋の産を守るべきオデュッセウスのごとき人
今なし。さはれオデュセウス祖先の郷に帰り来ば
ただちに彼は子と共に彼らの暴に報ゆべし』540

テーレマコスはその言を聞きてはげしくくしゃみ[1]して、
驚くばかり殿中に反響せしむ。これを見て
ペーネロペイアうち笑い、エウマイオスに陳じ言う、

[1]前兆。

『わがため行きて客人をここに目の前つれ来れ。
見ずや、我子はわが言を聞きて高らにくしゃみしぬ。545
かかれば彼ら求婚の群のすべてにあやまたず
死は来るべし。誰一人死を逃るるを得べからず。
我また別に言うところ、汝心によくとめよ。
客人すべて真実を告ぐと我もし知る時は、
彼に華麗の服装を、上着下着を得さすべし』17-550

しか陳ずるを聞きおえて牧人すぐに足すすめ、
来りて彼のそばに立ち、羽ある言句陳じ言う、
『ペーネロペイアわが王妃、テーレマコスを生める者、
君を呼ぶなり。旅のおじ、彼女はいたく悩みつつ、
その良人の消息を聞くべくせつにこいねがう。555
君一切の真実を語ると彼女知らん時、
君が特にも求め乞う上着下着を与うべし。
しかして君は遍歴を民の間に試みて、
食を求めて飽き得べし。心ある者施さむ』

忍耐強きオデュセウス、彼にそのとき答え言う、560
『エウマイオスよすみやかに、イーカリオスの息女たる
ペーネロペイア、聡明の王妃にわれは真実を
告ぐべし。我はかの人をよく知り艱苦を共にせり。
さもあれ我は残虐の求婚者らの群恐る。
彼らの暴と驕慢は、上(かみ)鋼鉄の天に入る。17-565
何らの害も施さず殿中過ぎて行く我を、
かの者打ちて無法にもいたく苦痛を嘗めしめぬ。
テーレマコスも何びともこの凶暴をおしとめず。
されば日輪沈むまで、よしや思いに耐えずとも、
その室内に残るべくペーネロペイアに君願え。570
やがてそのとき良人の帰郷に付きて問わしめよ。
炉辺に近く座を占めて我は語らむ。君も知る、
いとむさくるしわが衣。まさきに君に乞いたれば』

しかく陳ぜるその言句聞きて牧人立ちかえり、
敷居の上を越ゆる時ペーネロペイア彼に言う、575

『汝は客を連れてこず。かの漂浪者何の意ぞ?
彼ははげしくある者に恐怖抱くや、あるは彼
この屋の中にはにかむや。恥は乞食に便ならず』

その時牧人エウマイエ、汝答えてかく言えり、
『彼は正しく物を言う。思いあがれる暴虐の 580
群の無礼を避くるため、誰しもしかく思うべし。
君日輪の沈むまで、部屋に残れと彼は言う。
王妃よ、やがてそのときに君ただひとり客人に
面して彼の言を聞き、彼に語るぞ良かるべき』

ペーネロペイア、聡明の王妃答えて彼に言う、585
『この客人は痴者ならず。事の成り行きよくしりぬ[1]。17-586
彼らのごとく驕傲に悪をたくらむ痴れ者を
人界の中いずこにも他にまた見るを得べからず』

[1]二つの読み方あり。他は『何者なりや知らねどもこの客人は痴者ならず』

王妃はしかく陳じ言う。良き牧人は一切を
話し終わりて辞し去りて、かの求婚の群に入る。590
しかしてほかの何者も聞き得ざるよう、その頭
テーレマコスの近づけて、羽ある言句陳じ言う、

『若君、我は去り行きて豚と農園守るべし。
そは君の産、我の産。ここのすべては君守れ。
身の安全をいやさきに計れ。心を戒めて 595
難儀を避けよ。求婚の群は悪事をたくらめり。
我らに災禍いたる前、ゼウスよ彼ら倒せかし』

彼にそのとき聡明のテーレマコスは答え言う、
『おじよ、まことにしかくあれ。食し終わりて汝行け。
しかしてあした、良き牲をもたらしここに帰りこよ。17-600
ここのすべてを神明と我もろともに守るべし』

しか陳ずれば牧人は磨ける椅子にまた座して、
酒肉をとりて思うまま口腹充たし終わる後、
酒宴の客に充ち満てる広間と庭をあとにして、
豚の群へと帰り行く。客は舞踊と歌謡とに 605
興じぬ。すでに日は沈み夕べの時刻は襲い来ぬ。


オヂュッセーア:第十八巻


オデュッセウスと乞食イーロスとの決闘(1~117)。アムピノモスに対し乞食に扮せるオデュッセウスの警告(118~157)。ペーネロペイア、求婚者の面前に現わる(158~205)。客の虐待さるを座視せるがためテーレマコス母に叱らる(206~242)。ペーネロペイア巧みに求婚者より婚資を求む(243~303)。館中第一夜を過すオデュッセウス、炉火の世話をなすべく女中らに語る。その一人メラントー彼をののしる(304~345)。エウリュマコスはオデュッセウスをののしり、足台を投げ付く。アムピノモスはテーレマコスと相談し客を退散せしむ(346~428)。

ここに一人乞食(こつじき)を職とする者いで来る。
彼はあまねくイタケーの街路巡りて食を乞い、
飲食つねに飽かずしてその健啖に名を知らる。
そと見は体躯大なれど彼は勇なし力なし。
アルナイオスはその名なり。生まれし時に彼の母、18-5
しかく名づけぬ。しかれども若き人らはイーロスと 18-6
あだ名を呼べり。命により走り使いをなすがため[1]。
彼いま来り。この屋よりオデュッセウスを追わんとし、
ののしりとがめ、つばさある言句を彼に陳じ言う、

[1]おそらく神の使いイーリスの名より来れるならむ。イーリスは『イーリアス』2-787およびその他に出づ。

『うせよ老ぼれ、戸口より。さなくば汝足取りて 18-10
引きずらるべし。引きずれと我に命じて人々の
目配せするに気付かずや?さもあれ我はこれを恥ず。
口論やがて腕力に移らぬ前にとく失せよ』

知謀に富めるオデュセウス、彼をにらみて答え言う、
『しれもの、汝何を言う!我は汝をそこなわず。15
またののしらず。量多く汝受くるも羨まず。
ここの敷居は両人を容るべし。汝他の施与を
嫉む要なし。汝また我と等しく漂浪の
ともがらならむ。神明は人に好運与うべし。
拳をあげて挑まざれ。あまり挑まば老いたるも、 20
我は怒りて血潮もて汝の胸と唇を
血塗らむ。さらば明日の日は我は静かに楽しまむ。
ラーエルテースの生むところ、オデュッセウスのこの家に
汝再びつつがなく帰り来るとは思われず』

流浪イーロスそのときに憤然として陳じ言う、25
『無残やな、この痴れ者よ。厨(くりや)の老女見るごとく、
いかに喋々することか!右に左に打ちすえて、
穀物あらす豚の牙見るがごとくに、歯のすべて
汝のあごより抜きとりて、これを地上に散らすべし。
覚悟はよいか!ここにいる皆が我らの戦いを 30
眺めんために。いかにして若きに汝敵せんや?』

高き戸の前、磨かれし敷居の上に両人は、
かくのごときに憤然とはげしく強く争えり。
その争いを力あるアンティノオスは眺め見て、
さも楽しげにうち笑い、求婚者らに陳じ言う、35

『ああわが友よ、かかる事、かつて起りし事あらず。
今神明はこの家にかかる娯楽をもたらしぬ。
かの客人とイーロスは互いに怒り争いて、
拳を挙げて打たんとす。闘わしめよすみやかに』

しか陳ずれば一同はうち笑いつつ立ちあがり、40
襤褸まとえる両人の乞食のそばに群がりぬ。
そのとき、皆にアンティノオス、エウペイテスの子は陳ず、

『求婚者らよ、我に聞け。我今一事述べんとす。
ヤギの胃袋若干は、脂肪と血とになか満ちて、
われらの宴に備うべく今ぞ火上に横たわる。45
二人の中のいずれとも勝ちて優者とならんもの、
その者をして好むまま一つを選び取らしめよ。
その者つねにいつまでもわれらの宴に加わらむ。
ほかの乞食は内に入り物乞いなすを得べからず』

アンティノオスはかく陳じ、一同これに賛しいる。18-50
知謀に富めるオデュセウス、そのときたくらみ皆に言う。

『老いたるしかも辛労に弱れる者はいかにして、
敵し得べきや若者に。彼の打撃に打たれよと、
さはれ無残の口腹の欲はわが身をそそのかす。
さはれ一同厳重の誓いを立てて我に言え。55
誰しも流浪のイーロスをひいきのあまり、手をあげて
我を無法に打ちすえて、彼に勝たすることせじと』

しか陳ずればその言のごとくに皆は誓い言う。
かくて一同厳重の誓いを宣し終わるとき、
神に恵まれ力あるテーレマコスは陳じ言う、60

『客よ、雄々しき胸中の心、この者負かすべく、
君を促すことあらば、アカイア人の誰一人
恐るるなかれ。このうちで君打つものは皆が敵。
我こそ君の主人なれ。見よ、聡明の友二人、
アンティノオスはこを賛す。エウリュマコスはこを賛す』65

しか陳ずれば一同はこれを賛しぬ。オデュセウス
腰のめぐりに破れ衣(ぎぬ)帯とし、美なる逞しき
腿現わせば、広き肩、またおおいなる両の腕、
またその胸は露出しぬ。しかしてさらにアテーネー、
近くに立ちて、民衆の牧者の四肢を偉ならしむ。70
かくと眺むる求婚の群はいたくも驚きて、
各々そばに立つ者に向かい互いに陳じ言う、

『自ら招く災難に間なくイーロス面すべし。
かほどの腿を老人は襤褸の外に現わせり』

かくは陳じぬ。こなたにはイーロス胸をわななかす。75
従僕たちは無理強いに恐怖の彼に帯せしめ、
引き出し来れば彼の肉、四肢のめぐりにうち震う。
アンティノオスはこれを見て叱りて彼に向かい言う、

『汝無残の大言者(たいげんしゃ)、身にふり積る災難に
弱り果てたる老人の前におののき、かくばかり 80
恐るるならば、永らえる効なし。生まれ来ねば良し。
我は汝に宣すべし。わが言う所きと成らむ。
いたく汝をうち負かし、彼れ優勝の者たらば、
我は汝を黒船の中に投げ込み、はるかなる
本土に、王者エケトス[1]のもとに送らむ。残虐の 18-85
彼は汝の鼻と耳、無残の刃もてうち落とし[2]、18-86
汝の陰部切り取りて、犬に与えて噛ましめん』

[1]悪虐の君主としてエペイロスのほとりに著名なりしと言う。
[2]この刑罰は22-475以下メランティオスに加えらる。

しか陳ずれば、いや増しの戦慄彼の四肢襲う。
皆はすなわち中央に彼を引き行く。両人は、
拳を挙げぬ。オデュセウス忍耐強き雄豪は 90
思いわずらう。魂の離るるまでに打つべきか、
あるは打撃を軽くして地上に倒れ伏させんか?
思案凝らして末ついに定めぬ、打撃軽くせむ。
しかせばアカイア群集の誰しも彼に気付くまじ。
両者はやがて拳あげ、イーロス敵の右の肩 95
打てば、こなたは耳の下狙いて敵の首を打ち、
骨をくだかば紅血をすぐに口より吐き出し、
うめきてどうと塵埃の中に倒れて歯と足を、
大地に打てり。かくと見て求婚者らは手をあげて、
死なんばかりに声あげて笑えり。こなたオデュセウス、18-100
足をつかみて戸口より引きずり出し、中庭に
行き、柱廊の門に着き、離して敵を中庭の
壁にもたらせ、イーロスの手中に杖を握らしめ、
声ふり上げてつばさある言句を彼に陳じ言う、

『豚と犬とを脅すべく、ここに汝は座を占めよ。105
無残の身をも顧みず、乞食(こつじき)および客人に
偉ぶるなかれ。しかなさばさらに大難来るべし』

しかく陳じて両肩の上に、醜く破れたる
背嚢およびつり縄を投げかけ、行きてすみやかに
先の敷居に立ち帰り、再びそこに腰おろす。110

そのとき皆は楽しげに中へと入りて彼に言う、
『ゼウスならびに不滅なる他の神明のもろもろは、
客よ、汝に最上の願い、心に望むもの
与えん。汝国中の彼の物乞い止めさせり。
飽くこと知らぬ痴れ者を、我ら本土に——一切の 115
人を痛むる残虐の王エケトス——に送るべし』

しか陳ずればオデュセウス、幸先良きと喜びぬ。
脂肪と血とを充たしたるかの大いなる胃袋を、
アンティノオスは彼に据え、アムピノモスは籠よりし、
二塊のパンを取り上げて同じく彼のそばに置き、120
また黄金の杯を挙げて祝して陳じ言う、
『客よ、老爺(ろうや)よ、めでたかれ。後にはやがて幸運は
君に来らむ。数々の難儀に今は悩めども』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『アムピノモスよ、聡明の人とし君は我に見ゆ。125
君の父またしかありき。その高名を我聞きぬ。
ドゥーリキオンのニーソスは武勇すぐれて富みたりと。
その父の子と呼ばれたる君慇懃の人と見ゆ。
さらば一言陳ずべし。心をこめて我に聞け。
大地の上に呼吸して動くすべての者の中、130
人間よりも脆きもの大地はぐくむ事あらず。
諸神の手より幸をうけ四肢軽やかに動く間は、
未来にわたり災難を絶えて受けじと人思う。
さはれ不滅の神明の手より災い来る時、
ただ忍耐の思い以て心ならずもこれを受く。135
地上に住める人間の心は、常に推移する
人間および神明の父の持たらす日のごとし。
我も昔は人の世に幸を受くべき者なりき。
さはれ血気と腕力に任せて父の威光借り、
また兄弟を頼みとし、不法のわざは多かりき。140
いやしくも人たるものは不法のわざをなすなかれ。
ただ黙然と神明の賜うところを享受せよ。
我は今見る求婚の群が不法をたくらみて、
人の資産を浪費して、無礼を妻に加うるを。
我あえて言う。かの人は、親しき友と故郷とを、145
長く離るることあらず。彼ははなはだ程近し。
さはれ君をば、神明よ、家に導け。オデュセウス
祖先の郷に帰る時、彼の眼の前立つなかれ。
その家に彼のいたる時、流血なくて求婚の
群と彼との別るるは、よもあるまじと我思う』18-150

しかく陳じて献酒して、甘美の酒を飲みほして、
人をひきいる彼の手に金の酒杯を置き返す。
彼は悲哀を抱きつつ、頭を垂れて悄然と、
難儀を胸に感じつつ、広間をすぎて引き返す。
されど運命逃れ得ず。テーレマコスの手と槍に、155
最期遂ぐべく、アテーネーかの一身をいましめぬ。
かくして彼は立ち帰り、さきに離れし椅子に座す。

そのとき藍光の目の女神、イーカリオスの息女たる
ペーネロペイア聡明の妃の胸に念を容る。
かの求婚の群の前、現れ出でて、その心 160
乱して、かくて先よりもさらに一層主人より、
また子息より尊敬を儲くべしとの念を容る。
王妃すなわち意味もなく笑みて老女に陳じ言う、

『エウリュノメーよ、我が心今にはじめて、求婚の
群に姿を現わすを望む。彼らは憎けれど。165
さらにわが子のためとなる言句を彼に陳ずべし。
かの驕慢の求婚の群に混ずるなかれとぞ。
彼ら甘言述ぶれども陰に悪事をたくらめり』

そのとき家政司るエウリュノメーは答え言う、
『これらすべてをよろしきに叶いて君はのたまえり。170
いざ今行きて、述べたまえ。いみじき御子(みこ)に包まずに。
さはれまさきに身を洗い、御顔に香油ぬりたまえ。
涙にぬるる頬をもて、出で行きたまうことなかれ。
止むことなしに、とこしえに嘆き沈むはよかるまじ。
不滅の神に君祈り、御子の成長望めりし 175
願いは成りて、彼は今あごにひげこそ生え出ずれ』

ペーネロペイア聡明の王妃答えて彼に言う、
『身を洗うべく、わが顔に香油ぬるべく、慇懃に
エウリュノメーよ、やさしくも我に勧むることなかれ。
うつろの船に身を乗せて良人去りしその日より、 180
ウーリュンポスを司る神はわが美をほろぼせり。
アウトノエーとその友のヒッポダメーアの両人に、
来りて我のかたわらに広間に立てと命じ言え。
男子の中に身ひとりに行くは中々おもはゆし』

しか陳ずれば部屋を過ぎ、老女は行きて両人の 185
女性に使命もたらして命じてここに来らしむ。

藍光の目のアテーネー、さらに一事をまた念じ、
イーカリオスのうめる子に甘美の眠りうちそそぐ。
かくて王妃は椅子に寄り、眠り関節みな緩む。
眠れる彼女にすぐれたる女神、求婚の人々を 190
驚かすべく天上の不滅の恵み授けつつ、
まさきに美なる面立ちをアンブロシアもて化粧しぬ。
そは宝冠の美しき女神キュテレア[1]、カーリス[2]の 18-193
華美の舞踊の庭さして行く時、肌に付くるもの。
王妃をさらに丈高くまた逞しく見えしめて、195
新たに切りし象牙にもまさりて白くよそおいつ。
かく成し終えてアテーネーいみじき女神立ち去りぬ。
そのとき部屋を出で来たる玉腕白き侍女二人、
さざめきながら近寄りぬ。王妃はやがて眠りより
覚めて、玉手に美しき頬をなでつつ陳じ言う、18-200

[1]即アプロディーテー。
[2]その侍女(英語グレース)。

『甘き眠りは幾重にも悩める我を補えしな!
同じく甘き死の眠り、かの清浄のアルテミス、18-202
賜わば我によかりしを[1]。さらば心に悲しみて、18-203
あらゆる徳をそなえたるわが良人を嘆きつつ、
命弱らすことなけむ。かれアカイア人にすぐれけり』 205

[1]20-61にも同じく。

しかく陳じて輝ける楼上よりしくだり来ぬ。
身一人ならず、侍女二人王妃もろともくだり来ぬ。
女性の中にすぐれたる王妃はかくて、求婚の
群に近づき、堅牢の館の柱に添いて立つ。
輝くベール艶麗の頭の前にかざしつつ。210
二人の侍女は心こめ右と左に添いて立つ。
これを眺めて一同の膝はわななき、愛欲に
心奪われ、麗人のかたえに伏すを乞い祈る。
テーレマコスに打向かい、王妃そのとき陳じ言う、

『テーレマコスよ、汝いま心と思念固からず。215
若かりし日は今よりも汝かしこく振舞いき。
今や長じて青春の域に到りて、外国の
人も汝の身の丈を、また秀麗の面影を
眺め、富貴の家の子と称えん時に、いかにぞや!
テーレマコスよ、汝いま心と思念固からず。220
何と無残の行ないがこれらの部屋に起りしぞ!
かの客人のかくまでの虐待汝見過すや!
我らの保護を頼みつつ、わが屋の中に座せる客、
かかる無残の虐待を受けて悩まば何とする?
さらば汝は人中に恥と侮蔑を被らむ』225

それに答えて聡明なテーレマコスは陳じ言う、
『あわれ母上、その怒り我は恨みに思うまじ。
しかはあれども我心無知にはあらず。善悪の
すべてを我はわきまえり(先は幼稚の身なりしが。)
されど賢く一切を我はたくらむ事を得ず。230
あれやこれやと一同は非道を胸にたくらみて、
我の回りでさまたげる。しかして我は救助なし。
イーロス、客と闘いて、その結末は求婚の
群の望めるごとからず。客の力はまさりたり。
天父ゼウスとアテーネーまたアポローン恵めかし、235
願わく彼ら求婚者、わが館中に打ち敗れ、
あるいは外の中庭にあるいはここの館中に、
みなことごとく頭垂れ、かのイーロスのごとくして、
四肢ことごとく緩まんを。見よ、彼れ庭の門の前、
座して頭(こうべ)をうなだれて、酔いたる者にさも似たり。240
彼は足にて立つを得ず。膝のゆるめば、思うまま
その屋に帰ることも得ず。望む所に行くも得ず』

かくも二人はかかる事互いに語り陳じ合う。
エウリュマコスはその後にペーネロペイアに向かい言う、
『イーカリオスの息女たるペーネロペイア、聡き君。245
君をすべてのアカイオイ、イアソス領すアルゴスに 18-246
見なば、明日より求婚の群は一層数増して、
君の館にて宴張らむ。姿も丈もすぐれたる
心も、すべて一切の女性を君はしのぐなり』

[1]むかしアルゴスに君臨の王、11-283のイアソスは彼なるべし。

そのとき彼に聡明のペーネロペイア答え言う、18-250
『エウリュマコスよ、わが持てし姿と身との秀麗は、
イリオンさしてアカイオイ船出し、共にオデュセウス 
わが良人の去れる時、不滅の神がほろぼしぬ。
彼もしここに帰り来てわが生涯を見守らば、
わが名声は先よりもさらにいみじく大ならむ。255
さもあれ今はわれ悲し、ある神我に災いす。
思えばむかし我が夫、祖先の国を出でし時、
わが右の手の先取りて、我に向かいて言いたりき、
「妻よ、トロイア敵地より、脛甲かたきアカイオイ、
みないっせいに無事にして帰るべしとは思われず。260
人は言うなり。トロイアの民は勇武のいくさ人、
彼らは槍をよく飛ばし、しかして強く弓を張り、
また俊足の馬を御し、かくして彼らすみやかに
激しきすごき戦いの勝負の運をさだめんと。
知らず、神々かしこより我を返すや。さはなくて 265
捕らわれ我はとどまるや。その故留守を心せよ。
我の遠きにあらん時、父と母とを慇懃に
いたわれ。ありし日のごとく、いななおいっそうに。
あごひげ生えて青春の齢とわが子成るを見ば、
そのとき汝家を去り、望める者と婚すべし」 270
良人かくは述べたりき。その事すべて今成らむ。
忌むべき婚儀、呪われしわが身の上に来る時、
そは暗黒の夜なるべし。ゼウスはわれの幸奪う。
はげしき悲痛いま我の胸を襲えり。何事ぞ、
汝らのこの求婚は正しき型に従わず。275
そも富む者の息女たるいみじき者に、慇懃に
婚を求めて、しかも他の同志の群と競うとき、
これらの人は肥えし牛、肥えし羊を引き来り、
こを花嫁の宴のため供え豊かの財贈る。
彼は他人の飲食を償いなしにむさぼらず』280

しか陳ずれば、オデュセウス、よく忍ぶ者喜べり。
一同よりし贈り物、王妃求めて、その美なる
言句に彼ら欺きて、心に他事をもくろめば。

エウペイテスの生める息アンティノオスは答え言う、
『イーカリオスの息女たるペーネロペイア、聡き君。285
求婚者らの誰なりと、ここに贈遺をもたらさば、
君は受くべし。その贈遺拒むは絶えて良かるまじ。
求婚者らの勝利者が、君と婚せんその前は、
我ら一同わが領に帰らじ、他にも赴かじ』

アンティノオスはかく陳じ、よく一同の意に叶う。290
かくて各人使者をやり家より宝もたらしむ。
アンティノオスは華麗なる刺繍の衣もたらしむ。
おおいなるもの、黄金の締め金十二これに付き、
いみじき形に曲げられし留め金ここに備えらる。
エウリュマコスは首飾り、日輪のごと輝ける——295
琥珀の玉を連ねたる黄金製をもたらしむ。
エウリュダマスは一両の耳の輪、三つの珠をもて
飾りたる物もたらしむ。優美の光かがやけり。
ポリュクトールの生める息ペイサンドロス、その屋より
その従僕に装飾の美なる首輪をもたらしむ。18-300
かく求婚の人々は華麗の品をもたらしむ。
ペーネロペイアそのときに楼上さして登り行く。
侍女らはこれに伴いて華麗の品を運び行く。
しかしてこなた一同は、舞踊と歌のいみじきに、
心を向けて楽みて残りぬ。夕べいたるまで。305
暗き夕べは楽しめる彼らのうえにやがて来ぬ。
闇照らすべく一同は、三つの火鉢を館中に
設けて、中に乾ける木、長くさらされよく乾き、
新たに斧に割られたるたき木を積みて、さらにまた
松明これに差し入れぬ。オデュッセウスに仕えたる 310
侍女らはこれを順々に燃やす。彼らにオデュセウス、
知謀に富める英雄は、ゼウスの裔は陳じ言う、

『久しく家を離れたる主オデュッセウス、その侍女ら、
汝ら立ちて内に入り、行きて王妃のかたわらに、
糸を紡ぎつ羊毛を梳(す)きつつ、そこにとどまりて、315
淋しかるべき貞淑の王妃の心慰めよ。
その間に我は皆人のために灯火を心せむ。
美なる玉座の明けの神出づるまで宴つづくとも、
我は弱らむことあらじ。我は忍耐強きゆえ』

しか陳ずるを聞く侍女ら顔見合してうち笑う。320
頬うるわしきメラントー、無礼に彼を辱む。18-321
もとドリオスの子なりしも、ペーネロペイア育くみて、
息女のごとくいつくしみ、望める玩具与えてき。
ペーネロペイアの悲しみを、さはれ彼女は気にとめず。
エウリュマコスに情交を通じて彼に添寝しぬ。325
そのとき彼女罵詈(ばり)の言、オデュッセウスに述べて言う、

『みじめの客よ、無残にも汝の心乱れたり。
汝は鍛冶場あるは他の人の集まる庭に行き、
そこに眠るをあえてせず、ここに喋々ものを言い、
貴人のあいに胆太く述べて憚るところなし。330
かかる無用の言吐くは酔いて心の狂えばや?
あるいは酔いにあらずして心はつねに乱るるや?
乞食イーロス負かしたるゆえに汝は高ぶるや?
汝よろしく戒めよ。イーロスよりもまさる者、
すぐに現われ、剛強の手もて汝の頭打ち、335
血にまみれたる汝の身、館より外に追うべきを』

知謀に富めるオデュセウス、これをにらみて答え言う、
『無恥の汝の言う所、我はかなたにすみやかに
テーレマコスに行き告げむ。汝の四肢はくだかれむ』

しかく陳じて女性らを叱りて脅すオデュセウス。340
その言うところ実なるを知りて恐れて女性らは、
各々膝をわななかし広間を過ぎてしりぞきぬ。
残れる彼は灯明(とうみょう)を燃やし、火鉢のかたわらに
立ちて一同見渡して、黙然として胸の中、
思いたくらむ。その事はやがて成るべきものなりき。345
しかはあれどもオデュセウスその胸の内なお強き
悲憤の思いを起こすため、求婚者らは無礼なる
言控ゆるをアテーネー女神によりて許されず。
エウリュマコスはポリュボスの生みたる子息、彼は今
オデュッセウスを恥かしめ、皆に哄笑起さしむ、18-350

『我に聞けかし、すぐれたる王妃に婚を願う友。
胸の中なる我が心、命ずるところ我述べん。
オデュッセウスのこの館に、かの者来しは神の意思。
禿げたる彼の頭より、見よ、光明の輝くを。
毛髪かれの頭上に痕跡さえもとどめ得ず』 355

しかく陳じて彼はまたオデュッセウスに向かい言う、
『離れて遠き農園に、客よ、汝を連れ行かば、
好みて汝働くや?(豊かな賃は払われむ)
壁の材料集むるや。大なる樹木植うべきや。
しからばそこに一年を通してパンを与うべし。360
身には衣服をまとわせむ。足には靴を備うべし。
しかはあれども悪習に染みたる汝、正業に
就くを好まず。万人をめぐりてこれに食を乞い、
つねに飽かざる口腹を満たさんことを願うめり』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、365
『エウリュマコスよ、願わくは長き春日の節にして、
草刈るわざに両人の間(あい)に競走起れかし。
我は程よく曲りたる鋭き鎌を手に取らむ。
君も同じくかかる物取れかし。かくて草刈りを
夕闇襲い来るまで飲食絶ちて試みむ。370
また牛追い競技をするもよし。二頭あれかし、大にして
その色赤く年齢と力彼れ此れ異ならず、
よく草食みて肥えし牛、力飽くまで強き牛、
また土壌鋤よくとおる四ギュオンの畑あれば、
そのとき汝まっすぐに畝を切り行く我を見む。375
もしクロニオンいずこにか今日戦闘の激しきを
起さば、盾と槍二条また頭上にかぶるべき
純銅製の良き兜われに持たせよ、しかる時、
我のいさみて先鋒の中に加わる影を見む。
しからば我の口腹の欲をののしることなけむ。380
君は甚だ傲慢に心甚だ無情なり。
ただ少数の勝れざる友の間にまじるため、
君はおのれを力ある大なる者とうぬぼれり。
さもあれもしもオデュセウス、祖先の郷に帰り来(こ)ば、
今はすこぶる広き門、門口過ぎて早々に 385 
戸口に逃ぐる君の身に、たちまち狭くなりぬべし』

しか陳ずれば憤然とエウリュマコスはいきどおり、
すごくにらみてつばさある飛揚の言句彼に言う、
『ああ無礼者、すみやかに汝に害を加うべし。
貴人のあいに喋々と汝は述べて憚らず。390
かかる無用の言吐くは酔いて心の狂えばか?
あるいは酔いにあらずして心はつねに乱るるや?
乞食イーロス負かしたるゆえに汝は高ぶるや?』

しかく叫びて足台をつかむを見たるオデュセウス、
ドゥーリキオンに生まれたるアムピノモスの膝近く、395
身を潜ませば、足台は酌みとる者の右の手を
打ちぬ。瓶子はかんからと地上に落ちて響き立て、
打たれし者はうめきつつ、仰向けざまに塵に伏す。
求婚者らは薄暗き広間の中に騒ぎ立ち、
中の一人かたわらに立ちたる者に向かい言う、18-400

『ここイタケーに来る前、かの流浪者は他の郷に
死ねば良かりき。しかならばかかる騒擾起るまじ。
乞食のために我々は争い騒ぐ。饗宴の
楽しみもはやなかるべし。卑しき事が幅利かす』

そのとき強く正しかるテーレマコスは皆に言う、405
『無残の伴ら狂いしか。飲食その度過ごせしを 
隠すべからず。ある神はしかく汝ら動かしぬ。
宴は終われり。いざ家に帰り、心の命のまま、
静かに寝ねよ。何びとも我はここより追い出さず』

しか陳ずれば一同は共に唇噛みながら、410
かく大胆に述べたてしテーレマコスに驚けり。
アムピノモスはそのときに皆に向かいて陳じ言う、
(アレートスの子ニーソスのすぐれし息と彼生まる)

『友よ正しく言説を彼は述べたり。何びとも
怒りて彼に驕傲の言句報ゆることなかれ。415
また訪い来る客人を、またオデュッセウス、英雄の
館に宿れる一切のしもべを虐待するなかれ。
いざ各々の杯に酌みとる者よ、酒そそげ。
献酒をおえて各々が家に帰りて寝ねんため。
かの客人はこの館に、テーレマコスの歓待に 420
任せて我ら辞し去らむ。この館さして彼は来ぬ』

しかく陳ずるその言句、皆一同を喜ばす。
ドゥーリキオンに生まれたる伝令の人ムーリオス、
アムピノモスの従者、今壷中の酒に水をまぜ、
かわるがわるに各人の前に立ちつつ、酌み分けつ。425
皆は諸神に献酒して、やがて甘美の酒を酌む。
かく献酒して願うまま、甘美の酒を酌める後、
皆は各々その家に眠り伏すべく帰り行く。


オヂュッセーア:第十九巻


オデュッセウス計りて武器を庫中に収む(1~53)。ペーネロペイア現われ出づ。侍女メラントー悪言を吐き、オデュッセウスをののしりてペーネロペイアに叱らる(53~99)。素生を問われてオデュッセウス巧みに作話し、我はクレタ島人にしてかつてオデュッセウスを歓待したりと言う(100~202)。ペーネロペイアこれを聞き、良人を思慕して泣く。オデュッセウスこれを慰め、遠からず良人の帰るべきを告ぐ(203~307)。王妃心より客を歓待し、老媼(ろうおう)に命じ、客の足を洗わしむ(308~385)。老媼、客の足の傷跡を見て主人たるを悟る(386~504)。ペーネロペイア、夢を告げて客にその意義を問い、客これに答う(505~558)。王妃は弓の競技を行なうべしと告ぐ、客これを賛す(559~604)。

あとに英武のオデュセウス広間に残り、求婚の
群の殺害、アテーネー女神と共にたくらみて、
テーレマコスに打向かい羽ある言句陳じ言う、

『テーレマコスよ、一切の武器ことごとく取り収め 
入れよ。しかして求婚の群、そを求め問わんとき、19-5
汝温和の言句もて、欺きすかし述べて言え、
「煙を避けて収めたり。イリオンさしてオデュセウス、
立ちしその日に残したる武具は面影今留めず。
火炎の息吹き襲い来てみなことごとくくすぼりぬ。
さらに大事を神明はわが胸中に注ぎたり。19-10
恐るるところ、酒の酔い、喧嘩起して汝らは、
互いに害しそこないて、求婚および宴会を
汚しもやせむ。おのずから鉄こそ人を引き付くれ」』

しか陳ずれば、その父にテーレマコスは従いて、
エウリュクレイア、彼の姥(うば)、呼び出しこれに向かい言う、15
『うばよ、わがため女性らをその部屋部屋に閉じこめよ。
われその間、わが父の武具を庫中におさむべし。
父あらざればなかなかに省みられず館中に
煙によりてくすぼりぬ。憐れや我は幼児たり。
火炎の息吹き来ぬ場所に、我今これをおさむべし』20

エウリュクレイア、親愛のうばはそのとき陳じ言う、
『あわれ、若君今にしてこの家を思いこの産を 
守らんために、分別を起し給うは良きことぞ。
さはれ灯明かざすべき女性に部屋を出ることを
君は許さず。何びとか代わりて君に伴わむ?』25

それに答えて聡明のテーレマコスは陳じ言う、
『そはこの客ぞ。いやしくもわれに食物得るとせば、
よし遠きより来たるとも彼の徒食は許されず』

しかく陳ずるその言句、むなしく風に飛ばざりき。
命に従い堅牢の部屋を彼女はみな閉ざす。30
かくて二人は立ち上り、オデュッセウスと誉れある
テーレマコスは、浮彫の盾と兜と鋭刃の
槍を運べば、その前に女神パルラス・アテーネー、
黄金の燭(しょく)携えて、華麗の光照りかざす。
かくと眺めてその父にテーレマコスは陳じ言う、35
『ああ今我が目見るところ、父よ何たる驚異ぞや!
館の壁また華麗なる柱のほとり、樅の木の[1] 19-37
梁(むね)また高き円柱のすべて我が目の見るところ、
あたかも燃ゆる火のごとく燦爛として輝けり。
まさしく天の神明のある者ここの内にあり』 40

[1]これらの構造明らかならず。古き注釈者は壁に添う柱と柱との間の飾りなるべしと言う。

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『黙せよ。心抑えとめ、我へと問いをなすなかれ。
ウーリュンポスを司るその神明の道ぞこれ。
さはれ汝は今休め。我のみここにとどまりて、
汝の母と侍女たちの心をなおも動かさむ。45
母は泣きつつ一々の子細を我にたずぬべし』

テーレマコスはその言を聞きて広間通り過ぎ、
炎々燃ゆる松明のもとに部屋へとすすみ行く。
甘き眠りの襲うとき眠り慣れたるその部屋に。
しかして行きて床に就き、あすの曙光を待ちわびぬ。19-50
あとに英武のオデュセウス、広間に残り、求婚の
群の殺害、アテーネー女神と共にたくらみぬ。
ペーネロペイア聡明の王妃、楼より今くだる。
姿は似たりアルテミス、アプロディーテーまたかくや。
侍女らすなわち炉に近く、王妃の使い慣れし椅子 55
据えぬ。象牙と白銀を飾りたるもの。工人の
イクマリオスがその昔足おく台を一部とし、
作りたるもの。その上に羊の毛皮敷かれあり。
ペーネロペイア、聡明の王妃はそこに今座しぬ。
玉腕白きもろもろの侍女ら部屋より出で来り、60
広間に残る麺包を、卓子をさらに驕傲の
人々酌みし杯を、みなことごとく払い除け、
火炉の灰燼投げ棄てて、さらに新たに
その中に薪材高く積み上げて火光火熱を発せしむ。
そのとき侍女のメラントー、オデュッセウスをまたとがむ、19-65

[1]18-321にメラントーの罵詈あり。

『客よ今なお館の中めぐりてここによもすがら、
人をなやまし、女性らに対し看守をなさんとや?
無残の者よ、館を出で、外に汝の食を取れ。
さらずば汝、松明を投げつけられて逃るべし』

知謀に富めるオデュセウス、彼女にらみて答え言う、70
『無礼の女、何ゆえに怒りて我に迫り来る?
そは汚れし身、襤褸着け、あまねく人を経めぐりて
食を求むるためなるか?我やむを得ずかくはなす。
流浪し食を乞う者はかくあることを習いとす。
我も昔は人中にありて富裕の家に住み、75
我に来れる流浪者は何者にまれ、その願い
何事にまれ、彼によくしばしば我は施しき。
無数の家僕われ持ちき。これあるために暮しよく、
富者と呼ばわる一切の資材ひとしくわれ持ちき。
されどもこれをクロニオーン、その意によりてほろぼせり。80
女よ汝戒めよ。女性の中にすぐれたる
美貌もいつかことごとくほろびん時のあるべきぞ。
汝のあるじ怫然と汝に対し憤る
時あるべきぞ。オデュセウス帰らん時のあるべきぞ。
希望は尽きず。しかもかれ死して故郷に帰らずも、85
アポッローンの恵みより、テーレマコスをかれ生めり。19-86
その屋の中に、よこしまのわざなす女性ひとりだも、
彼を逃るる事を得ず。彼は幼稚の身にあらず』

[1]14-175、諸神は彼を育つ。

しか陳ずれば聡明のペーネロペイアこれを聞き、
侍女メラントーとがめつつ、怒りてこれに叫び言う、90

『恥なき雌犬、胆太し。汝非道を行なうを
我あに知らず過さんや?償うべきぞ命もて。
わが口よりし聞ける故、汝まさしく知りぬべし、
わが良人の消息をわが館中に、かの客に
問わんとするを。わが心かくも激しく悩むなり』95

エウリュノメーを、家婦を呼び、王妃は次に陳じ言う、
『椅子と羊の毛皮とをエウリュノメーよ、持ち来れ。
かの客そこに座を占めて我に親しく語るべく、
また我が言を聞きぬべし。われ今かれに問わんとす』

しか陳ずればすみやかに、磨ける椅子をもたらして、19-100
家婦は据えつつその上に羊の毛皮うち覆う。
知謀に富めるオデュセウス、やがてしずかに座につけば、
彼に向かいて聡明のペーネロペイア、口を切る、

『客よまさきに口切りて我いま君に問わんとす。
君は何者、いずこより、いずこに郷と親とある?』105

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う。
『あわれ王妃よ、広大の地の上住める何びとも
君をとがむることあらず。誉れは天にとどろけり。
多数の強き人を御し、正義を支え守る者、
正しき王者、神明を恐るる者の誉れまた、110
かくこそあらめ。彼のため黒き大地は豊饒に、
大麦小麦産みいだし、樹木は果物実らしめ、
羊は絶えず子をはらみ、海は魚類をもち来す。
みな善政のゆえにこそ。そのもと民はみな栄ゆ。
さればこの屋の中にして我には別の事を問え。115
われの種族を問うなかれ。われの故郷を問うなかれ。
思い出せばわが心、さらにいっそう憂愁に
満たさるべきを。悲しみの多きこの身ぞ。さらにまた
他人の家に身を置きて、泣き悲しむは良しとせず。
果てなく絶えず悲しむは正しき事と思われず。120
おそら侍女らのある者は、あるいは王妃自らも、
我をとがめて酒のため乱れて泣くと思うべし』

ペーネロペイア聡明の王妃答えて彼に言う、
『見ずや客人、わが持てし姿と身との秀麗は[1]、
イリオンさしてアカイオイ船出し、共にオデュセウス 125
わが良人の去れる時、不滅の神がほろぼしぬ。
彼もしここに帰り来てわが生涯を見守らば、
わが名声は先よりもさらにいみじく大ならむ。
さもあれ我は今悲し。ある神われに災いす。
ドゥーリキオンと、森繁るザキュントス、またサメーらの 130
諸島領する貴人らと、また明朗のイタケーの
あなたこなたに住める者、彼らは共にいっせいに
いとえる我に婚求め、わが屋の産を尽すなり。
そのため我は外国の客を、物乞う人々を、
また公けに奉仕する使いの者[2]を省みず、19-135
ただオデュッセウス恋いわびて、そぞろ心をいためしむ。
彼らは婚を押し迫る。我は計略たくらみぬ。
神はまさきにわが胸に機織ることを吹き込みぬ。
かくして我は館中に、大機据えて織りそめぬ。19-139
その糸細く幅広し。われは直ちに皆に言う。140

[1]19-124~129は18-251~256と同じ。
[2]会を招集し、また、祭りを司るもの。

「ああわが若き求婚者、オデュッセウスははや逝けり。
迫りて婚を求むとも、しばらく忍べ、この衣
織りなすまでは―この糸はわれにむなしく滅びざれ―
ラーエルテース老雄の白布これなり。広く手を
のばす死霊の使い来て、彼を倒さんときのそれ。145
多くの資財ありながら、覆いなくして逝くとせば、
アカイア女子のあるものは必ず我をとがむべし」

[1]19-141~147は24-131~137、2-96~102と同じ。

しか陳ずれば、驕傲の彼らの心うべなえり。
かくして我は昼のうち、かの大機を織りなして、
夜に到ればそば近き灯火の下に解き去りぬ。19-150
三年かくてアカイアの彼らを逃れ欺きぬ。
やがてたちまち時すすみ、日はまた移り、満ち欠くる。
月まためぐり、いつしかと四度の年の来る時、
われを裏切る憎むべき侍女の手引きに襲い来て、
彼らはわれの秘密知り、いたくも我をののしりぬ。155
かくして我はやむを得ず、心に背き織り遂げぬ。
今はた我は成婚を逃るるを得ず。他の策を 19-157
また考うることを得ず。婚を勧めて両親は
しきりに迫る。しこうしてわが子は知りて、財宝を
ほろぼす者にいきどおる。わが子はすでに人となり、160
ゼウスによりて誉れある家を治むる力足る。
さもあれ君の素生またその郷国を我に言え。
樫よりまたは巌より生まれし君によもあらじ』19-163

[1]人は木石より生まるという神話がこの問いのもとをなすと古き注釈者が唱う。されど必ずしも神話を引くにおよばず。当然の詩的文句なり。ただしヘシオドスの『労働と日々」144行に猛き戦死を固き樹木(トネリコ)より生まると書く。アポロニオスの『アルゴナウティカ』4-1641以下に同様の事を歌う(ウイーダッシのオデュッセイア訳の注)。

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『ラーエルテース生める息、オデュッセウスのおん妃、165
尊き君は我が素性たずぬることをやめざるや?
さらば告ぐべし。これにより、今あるよりもいっそうの
悲しみ我は催さむ。我のごとくに長らくも
故郷を去りて、人間の多くの都市をさまよいて、
苦悩を受くる人にとり、こは定まれる習いのみ。170
されども我は君が問い尋ぬるところ陳ずべし。
暗紅色の海の中、国ありその名クレタ島[1]。19-172
地味豊かにてうるわしく、四辺は水に囲まれて、
無数の民の住む所。中に九十の都市含む。
言語はここに一ならず、互いに混ず。アカイオイ 175
ここに住むなり。剛勇のクレーテス族[2]。さらにまた 19-176
キュドネース族[3]、ドーリスとペラスゴイ族また住めり。19-177
中の大都市クノッソス、王者ミノース統べ治む。
九年の間[4]おおいなるゼウスの言葉聞きし者。19-179
彼は我が父剛勇のデウカリオーンの父なりき。180
デウカリオーン我を生み、イードメネウスをまた生めり。
イードメネウスは船に乗り、アトレイデースもろともに[5]、19-182
イリオーンさして出で立ちぬ。誉れの我が名アイトーン。
われは末の子。わが兄はまさりてさらに賢(さか)しかり。
オデュッセウスをわが郷に迎えてわれは贈与しき、185
けだしトロイア目がけたるその船、嵐吹き去りて、
マレイア過ぎて漂わし、クレタ島へと導けば、
荒き港の一地点アムニーソスに船入りて、
エイレイテュイアの洞窟のほとりにあらし避け得たり。19-189
愛と敬とを捧げたる親しき友と宣しつつ、190
ただちに彼は都市に来てイードメネウスを尋ね問う。
されどもすでに曲頚の船に乗じて、イーリオン
めざして、兄の起ちてより十か十一、日は過ぎぬ。
われは代わりてわが家にこの珍客を導きて、
貯蔵の品の数尽し、心をこめてもてなしつ。195
さらに伴い来りたるその一行の仲間には、
庶民の貯蔵[7]もたらして麦粉を与え、輝ける 19-197
葡萄の美酒といけにえの牛とを与え、喜ばす。
これらすぐれしアカイオイここにとどまる十二日。
怒るある神起したる荒き北風吹きすさび、19-200
彼らを船に閉じこめて岸に登るを得せしめず。
十三日目風やみて一同海に乗り出しぬ』

[1]14-199以下と比すべし。
[2]原住民、他は移住民。
[3]3-292。
[4]九歳の時にと解するものあり。
[5]『イーリアス』2-645。
[6]『イーリアス』に数度説かるる助産の女神。
[7]13-14参照。

作り話をかく陳じ事実のごとく思わしむ。
聞ける王妃ははらはらと涙流してくずおれぬ[1]。19-204
高根の上にゼピュロスの息吹き散らして凍る雪、205
春に至りてエウロスのいぶきについに溶け去れば、
ために河流は滔々と水かさ増して陸ひたす。
かくのごとくに艶麗の頬を涙にうるおして、
その良人の目の前にあるを悟らず慕い泣く、
王妃眺めてオデュセウス、心にこれを憐れみぬ。210
さはれその目はきっとして、角また鉄の髣髴と、
まぶたの中におののかず、つとめて涙おしかくす。
涙にくるる慟哭を王妃飽くまで尽すのち、
さらに再び口開き彼に向かいて陳じ言う、

[1]原文「顔が溶く」。

『はたして君の言うごとく、君はまことにかしこにて、215
すぐれし従者もろともに、わが良人を館中に
もてなしたりや?我は今、尋問君に致すべし。
我に言えかし。良人はいかなる衣服まといしや、
彼はいかなる人なりし、従者はたまた如何なりし?』

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、220
『王妃よ、長き歳月を隔て、昔を説くことは
難し。かの人かしこより別れを告げて旅立ちて、
我の故郷を去りしより、このかたここに二十年。
心に浮び出づるまま、さはれ今我陳ずべし。
すぐれし勇者オデュセウス、身にまといしは紫の 225
毛皮の上衣二重にて、二つ溝ある黄金の
ペロネー[1]つけぬ。その上に巧みの彫りは施さる。19-227
前の足もて猟犬はまだらの子鹿とりおさえ、
もがける牲に食い付ける。そを黄金に刻みたる
匠に人は驚けり。生物二つ、その一は 230
子鹿を捕え首を絞め、他は逃れんと足もがく。
さらにその身に輝ける下衣まとうを我見たり。
乾ける葱の皮に似る光沢もてるその衣。
しかも極めて柔軟に、日輪に似て輝けり。
多くの女性彼を見てみな驚嘆の目を張りぬ。235
さらに一事を加うれば、願わく心に留めよかし。
我は得知らず。オデュセウス家にてかくも装えりや、
速く波切る船のへに友人これを与えしや、
異郷の人の与えしや?多くの人にオデュセウス、
崇められけり。アカイヤの中に比類は稀なれば。 240
我また彼に青銅の剣(つるぎ)、二重の紫の
華麗の上衣、縁とれる下衣揃えて進じつつ、
漕ぎ座よろしき船のへに礼を尽して送りたり。
彼はいささか年上の伝令一人伴ないき。
彼はいかなる者なりし、これを我いま陳ずべし。245
両肩円し、色黒し、毛髪縮れたりし彼、
エウリュパテスの名を呼びぬ。すべての伴に立ちまさり、
心かなえば、オデュセウス、特に彼をば愛でたりき』

[1]襟留め胸飾り。

しかく陳じて慟哭の思い王妃に起さしむ。
オデュッセウスの陳じたる確かの証拠認め得て、19-250
涙にくるる慟哭を王妃飽くまで尽すのち、
彼に答えてつばさある飛揚の言句陳じ言う、

『ああ客人よ、これまでは君憐憫の的なりき。
今より後は館中に愛されかつは敬されむ。
君の語りしかの衣服、わが身自ら取り出でて、255
畳みて彼に与えたり。さらに飾りとなるために、
光輝く襟留めをこれに付けたり。しかはあれ、
めずる祖先のこの郷に彼を迎うることあらじ。
運命悪しくオデュセウス、うつろの船に身を乗せて、
名状かたき災いのイリオンさして旅立ちぬ』 260

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『ラーエルテース生める息オデュッセウスのおん妃、
良人思い泣くあまり、美貌を汚すことなかれ。
心をやぶることなかれ。さもあれ我はとがむまじ。
婚を結びて契りこめ、愛児を生める女性らが、265
その良人を失いて泣くは世の常、その夫
神に類すといわれたるオデュッセウスに異なるも。
さはれ王妃よ、嘆きやめ我の言葉に耳を貸せ。
我は真実うち明けて隠すことなく君に言う。
近頃我はオデュセウスつつがなくして富裕なる 270
テスプロートイ民族の間(あい)にありきと聞きおよぶ。
しかして彼はもろもろの民の間に、数多き
美麗の宝集めたり。されども彼はそのめずる 19-273
従者ならびにその船を、トリナキアーの島去りて、
暗紅色の海のへに失い去れり。神聖の 275
牛をほふりてクロニオーン、またヘーリオスを怒らせば、
従者らすべていっせいに怒涛の中にほろび去り、
怒涛はひとりオデュセウス、船の破片に乗らしめて、
血統神に近かしりパイアーケスの国の岸、
着かしむ。そこにその民は神のごとくにオデュセウス、280
崇めて多く贈遺なし、無難に彼をその国に
送らんとしき。その郷に彼は残るを望みしも。
多くの土地を経めぐりて、諸所に宝を集むるは、
さらにいっそうよろしきに叶うとついに思案しぬ。
かくのごとくにオデュセウス、世の人間に立ちまさり、285
知謀すこぶる深ければ彼と競わむ者あらず。
テスプロートイ民族の王者、その名はペイドーン[1]、19-287
かくは陳じぬ。その王者その宮中に献酒して、
我に誓えり、オデュセウスめずる故郷に送るため、
船を浮べて従者らの準備まったく整うと。290
しかるに彼に先だちて我送りしは、麦多き
ドゥーリキオンに国人の船行くことになればなり。
そのとき王はオデュセウス集めし宝、我に見す。
王の宮中集まれる宝は無数、ある人の
子々孫々の十代を支え養うことを得む。295
王またいえり、オデュセウス、ドードーナーに行きたりと。
長らく離れ遠ざかる祖先の国に公然と 
行くべき、あるは、ひそやかに帰るべきやを、クロニオーン・
ゼウスの告ぐる神託を樫の巨樹より聞かんため[2]。19-299
かくのごとくに無事にして彼はすこぶる近き間に 19-300
帰り来らん。その友と祖先の郷に長らくは、
遠く離るることなけむ。君に誓言陳ずべし。
神明中にいや高きゼウスまさきに証したれ、
わが訪い来る英邁のオデュッセウスのかまどまた
証したれかし。一切はわが言うごとく成りぬべし。305
古き月去り新らしき月あらわれてオデュセウス、
必ずここに帰るべし、あるいはこの日この時に[3]』19-307

[1]14-321参照。
[2]社前の老樹に神の囁きを聞く。
[3]「今年中あるいは今月中」と解するもあり。

ペーネロペイア聡明の王妃そのとき彼に言う、
『ああ客人よ、願わくは成就せよかしその予言!
そのとき君はすみやかに多くの贈遺歓待を 310
我より受けて会う者に幸ある人といわるべし。
されども我はかく思う。かくのごとくに事成らむ。
オデュッセウスはその家に帰らじ。君は身の護送
得ることなけむ。この家にオデュッセウスがそのむかし 
敬せる客を迎え入れ、あるいはこれを送りたる 315
跡にならいて、しかすべき主人のなきをいかにせむ。
さはれ女中ら、珍客の足を洗いて彼のため
寝台しつらい、その上に上着と毛布用意せよ。
彼温たまりくつろがせ、黄金の座の明けの神
現われ出でて、朝早く彼を浴させ香油塗れ。320
かくして彼は我が家にテーレマコスのそばに座し、
食事思わむ。求婚の群のあるもの、我が客の
心悩ますことあらば、災い受けむ。いかばかり
強く怒るも、彼のわざここにはもはや成らざらむ。
あわれ客人、君をして汚れし肌に襤褸着け、325
この食卓に就かしめば、英知に思慮に他の女子を、
われはしのぐと、いかにして君は判ずることを得む。
この世に人の生命を受くる期間は長からず。
人もし心むごくして、むごき行ない振る舞わば、
その生ける間は人々は彼の不幸を祈るべく、330
その逝く後は人々は彼に嘲弄加うべし。
人もし心正しくて正しきわざを行わば、
そのかんばしき名声は、他人によりて遠近に
世上に広く伝わりて、尊き人と呼ばるべし』

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、335
『ラーエルテース生める息オデュッセウスのおん妃、
長きかじある船に乗り、かのクレタ島、雪積る
山々あとに波分けし、その日このかた良き床と、
華美のしとねは我にとり、むしろ忌むべき物となる。
夜すがら眠りならずして汚れし床に横たわり、340
黄金の座の明けの神、待ちわびしこと幾夜かは。
我は今宵もそのごとく床にその身を横たえむ。
他人に足を洗わすを我の心は喜ばず。
この館中に侍女として君に仕える女性らの
中に誰しもわが膝に触るるを我は喜ばず。345
しかはあれども慇懃に誠をいたすある老女、
心にかつて我がごとく苦難忍びし者あらば、
その者こそはわが膝に触るるを我は拒むまじ』

ペーネロペイア聡明の王妃答えて彼に言う、
『いみじき客よ、遠くよりわが家訪いて尋ね来し 19-350
客人中に、君に似て賢き者はあらざりき。
君はまことに賢明に正しき事を述ぶるかな。
我に一人の老女あり。彼女すこぶる誠なり。
今は不幸のかの人が産まれしときに、その手もて
取り上げたるは彼女なり、育てあげしも彼女なり。355
老いては力なしと言え、君の御足を洗うべし。
エウリュクレイア、老練の汝、今立ち珍客を——
汝の君と同年の人を——洗えや。オデュセウス
その足今はかくならむ。その手同じくかくならむ。
難儀によりて人間は早くぞいたく老い枯るる』360

しか陳ずれば老夫人手もておもてを覆いつつ、
熱き涙をはらはらと垂れて嘆きてうめき言う、
『あわれ若君、悲しくも君に致さむすべあらず[1]。19-363
神を恐るる君をしもゼウスは特に憎めるよ。
人間中の何者も、君と等しく轟雷の 365
神に肥えたる腿肉を焼きて、すぐれしいけにえを
捧げし者はなかりしに。君は静かな老齢を
祈り、はたまた光栄の子を育つることを祈りしに。
さるを今はたクロニオーン、君に帰国の日を奪う。
異郷の人の輝ける館に若君[2]いたる時、19-370
ああ客人よ、恥知らぬ女性ら君をあざけりて
笑うがごとく、彼もまたかしこの女性笑うべし。
彼らの無礼嘲弄の数々君は避くるため、
彼らに足を洗わせず。イーカリオスの息女たる
ペーネロペイアわが女主の命喜びて我は聞く。375
ペーネロペイア女主のため、また君のため胸中に
種々の思いにくれながら、君の足をぞ洗うべき。
さはれ一言わが述ぶる所を君よ耳にせよ。
種々の客人漂浪のはてにこの家をおとずれぬ。
しかはあれどもこれまでに声に姿にまた足に、380
オデュッセウスに似たること君のごときはあらざりき』

[1]二人称にしてオデュッセウスに呼びかけて言う、
[2]以下「若君」を三人称に言う。

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『さなり老婦よ、我々の二人を共に目にとめし
すべての人はしかく言う。げにもいみじく相似ると、
まさしく汝かしこくも今はた我に言うごとし』385

しか陳ずれば彼の足洗わんために、輝ける
銅盤とりて、その中に老婦は水をなみなみと
充たし、熱湯加え入る。その間にこなたオデュセウス、
炉辺遠のき、すみやかに暗きに向かい座を占めぬ。
彼は心中すばやくも思えり。老婦触るる時、390
足の傷跡認めなば、すべては露顕なすべしと。
やがて老婦は近寄りて、主人と知らず彼の足
洗い、たちまち傷跡を認めぬ。猪(しし)の白き牙
傷つけしもの。その昔アウトリュコスとその子らを 19-394
パルナッソスに訪える時——アウトリュコスは母[1]の父、19-395
神ヘルメイアース与えたる偽計欺瞞に長ぜし身、19-396
子ヤギならびに子羊の腿肉焼きてその神に
奉るため喜びて、その神彼に伴えり。
アウトリュコスはイタケーの富裕の家に訪い来り、
かれの息女の今まさに産み落としたる子を眺む、19-400
エウリュクレイア取り上げて、食事の後に、その膝に
赤子を置きて、つばさある飛揚の言句彼に言う、

[1]アンティクレイア(11-85)。

『アウトリュコスよ、今君の息女うみたるいとし子に
その名親しく選べかし。祈りによりて子は生(あ)れぬ』

アウトリュコスはそのときに答えて皆に陳じ言う、405
『嬢よ婿御よ、彼にいま我の選べる名を付けよ。
物を育つる豊沃の大地の上の数々の
男女に対しいきどおり、我今ここに旅し来ぬ。
さればこの子はオデュセウス、怒りの人と呼ばるべし。19-409
長ずる後に母方のパルナッソスのおおいなる 410
館に来たらば、そこにある資財を分けて慇懃に
彼に贈らむ。喜びて彼は故郷に帰るべし』

[1]動詞ὀδύσσομαιは「怒る」なり。

かかりしゆえにオデュセウス、いみじき贈与受けに行く。
アウトリュコスとその子らは来れる客を喜びて、
その手をとりて慇懃の言句を述べて相迎う。415
アムピテエーは彼の祖母、オデュッセウスを抱きかかえ、
かれの頭とうるわしき二つのまみに口触れぬ。
アウトリュコスは誉れある子らに命じて、饗応の
備えなさしむ。その命に応じて子らは立ちあがる。
かくてただちに一同は五歳の雄牛引き来り、420
ほふりてこれの皮を剥ぎ、これをこしらえ、これを解き、
巧みにこれを切りきざみ、これを串もてつらぬきて、
心をこめて焼きあぶり、そを一同に分け与う。
かくて終日夕陽の沈み入るまで、一同は
楽しく宴を続けつつ、心に飽かぬ者あらず。425
かくて夕日は沈み去り、闇の四方より寄するとき、
寝床の上に横たわり、眠りの神の恵み受く。

薔薇色なす指もてる明けの女神のいずる時、
アウトリュコスの子息らは、犬をひきいて狩猟にと
出で立つ。これに剛勇のオデュッセウスは伴えり。430
パルナッソスの森深き険しき山を、一同は
よじて登りて、すみやかに風吹く嶺にたどりつく。
満々として流れなすオーケアノスのあなたより、19-433
今や朝日は燦(さん)として大地の上に光射る。
狩猟の群は林間にすすむ、その前先んじて、435
犬は匂い嗅ぎながら駆くれば、これにおくれじと、
アウトリュコスの子ら続く。これらと共にオデュセウス
影長く引く槍とりて、すぐ猟犬のあとにつく。
そこにそのとき叢林の中に巨大の猪伏しぬ、
その叢林は繁くして、しめれる風は吹き入らず。440
燦爛として輝ける日の光さえ貫かず。
ふりくる雨もしみ入らず。しかく繁きにさらにまた、
木々より落ちてうずたかく木の葉はここにふりつもる。
騒然として駆け来る人と犬との足の音。
その足音に襲われて、巣より飛び出す荒き猪。445
頭の粗毛逆立てて、眼を爛々と輝かし、
まともに皆の前に立つ。そのとき猛きオデュセウス、
力をこめて長槍を高く振りあげ、まっさきに
撃たんと焦りすすみよる。これに先んじ荒き猪、
斜めに彼に飛びかかり、猛き牙もてその膝を 19-450
噛みつつ肉をえぐり去る。されども骨を貫かず。
そのとき猛きオデュセウス、獣の右の肩狙い、
突けば輝く槍の先、裏かくまでに刺し通す。
猪はうめきて地に倒れ魂(たましい)体をぬけ出でぬ。
アウトリュコスの親愛の子らは死体を始末して、455
勇武あたかも神に似るオデュッセウスの負いし傷、
心をこめて包み上げ、呪文[1]を誦(ず)して黒き血を 19-457
止めつ。かくて一同は父の館へと帰り行く。
アウトリュコスはその子らと力合わせて膝の傷、
まったく癒やし、数々の華麗の贈遺はなむけし、460
勇み旅立つ客人を好意尽して慇懃に
イタケーさして相送る。父と母とは喜びて、
帰郷の愛児相迎え、事の委細を、子の受けし
傷の子細を尋ね問う。アウトリュコスの子らと共、
パルナッソスにおもむきて、狩りせる時に荒き猪、465
白き牙もて噛みつきし子細を愛児ものがたる。
いま足とりて拭う時、エウリュクレイアその傷を
認め、悟りてがく然と、思わず足を手離せば、
足は卒然盤中に落ちて銅器は鳴りひびく。
盤はただちに一方に傾き水はくつがえる。470
同じ刹那(せつな)に喜びと悲しみ寄せて老婦人、
涙は両の目にあふれ、言わんとすれど声むせぶ。
すなわち手にてあごに触れ[2]、オデュッセウスに向かい言う。19-473

[1]呪文によりて苦痛負傷を癒やすは古来ギリシャの習慣なりき。
[2]『イーリアス』一巻、クロニオーンのあごにテティス手を触れて懇願す。

『さてこそ、君はオデュセウス。いとし昔の若き君、
さきには我は知らざりき。君の身すべて触れざれば』475

しかく陳じて目をかえし、ペーネロペイア眺めやり、
その良人の今館の中にいますと告げんとす。
されど王妃は見返すを得ず。また悟ることを得ず。
アテーネーはその心ほかにむけしむ。オデュセウス
ただちに右の手を伸して老女の喉をつかみ締め、480
左の手もて身に近く彼女を寄せて陳じ言う、

『うばよ、何ゆえわが破滅願うや?汝その胸に
われを育てぬ。いま我は多くの苦難経たるのち、
二十年目になつかしき祖先の郷に帰り来ぬ。
汝の胸に神告げて、汝は我を見出せり。485
他の館中の誰人も悟らざるよう口閉じよ。
さらずば汝にしかと言う。わが言う所成るべきぞ。
かの驕傲の求婚の群を、神もしわがために
倒さば、ほかの館中の侍女らを我のほふる時、
汝の身をも許すまじ。われを育てしうばながら』490

エウリュクレイア、聡明の乳母答えて彼に言う、
『何たる言句わが殿の歯の防壁を漏れいずる?
君は知るべし我心固くてたわむことなきを。
我いま固き石の如、鉄のごとくに身を持たむ。
しかして一事君に告ぐ。心にこれを忘れざれ。495
かの驕傲の求婚の群を、神もし君のため
倒さば、我は館中の侍女らにつきて語るべし。
いずれぞ君を侮るは、いずれぞ清く罪なきは?』

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『うばよ、何ゆえこれを言う?この事まったく無用なり。19-500
我は一切みな悟る。また各々をよく弁ず。
すべてを神に委ねつつ、汝よろしく黙すべし』

しか陳ずれば老婦人、館中すぎて足すすめ、
洗いの水を持ち来す。先のはこぼれ、くつがえる。
かくて主人の足洗い、これにオリーブの油ぬる。505
終わりて暖を取るがため、炉火の近くにオデュセウス、
椅子を引き寄せてこれに座し、襤褸の膝の傷を覆う。
ペーネロペイア聡明の王妃そのとき彼に言う、

『客人、我はある小事、君に問うべくこいねがう。
思念煩悶(はんもん)絶えずとも、甘美の眠り来たるべき 510
人に対して、楽しかる休みの時はやがて来ん。
されども神は果しなき苦悩を我にもたらしぬ。
日中我は悲しみの涙流せど、我がわざと 
侍女らのそれに気を配り楽しみ見出すこともあり。
されども夜の襲う時、すべての人の眠る頃、515
ふしどの上に横たわる我を、しげくも群がれる
鋭き悩み襲い来て、はげしくわれを悲します。
パンダレオスのまな娘[1]、オリーブ色のうぐいすが、19-518
厳寒去りて陽春の新たにめぐり来る時、
繁る樹木の枝のへに身を宿らして玲瓏の 520
調べ変えつつ、嬌声にいみじき歌を歌いつつ、
めずるその子のイテュロスを——ゼートス王に儲けたる
子を——過ちて青銅の刃(は)もて殺しし子を嘆く。
まさしくかくもわが心あれかこれかと揺れ動く。19-524
夫の寝屋と人々の与論の声を敬いて、525
われの資財を家僕らを高き屋のあるわが館を、
固く守りて子とともに長くこの場に残らんか?
無量の財を館中にもたらし来り成婚を
望むアカイア貴人中、すぐれし者に嫁がんか?
わが子はさきに幼くて心弱くて、良人の 530
館をわれ去り他に行くを受け入れざりき。しかれども、
すでに長じて青春の齢となりし彼は今、
前とまったく相反し、わが立ち去るをこいねがい、
アカイアの人その資産荒らし尽くすをいきどおる。
さはれ君今わが夢を聞きて、その意義我に解け。535
われは夢見し。家のそばガチョウ二十羽、水槽の
中より小麦ついばみぬ。我これを見て楽しめり。
くちばし曲がる大ワシはその時さっと山くだり、
ガチョウのすべて首くだき、ほふり殺して晴朗の
天に再び舞いもどる。ガチョウは館にちらばりぬ。540
夢の中にてはらはらと涙流してわれは泣き、
髪うるわしきアカイアの女性らそばに集まりて、
ガチョウをワシの殺ししを同じく共に痛み泣く。
直ちに高き屋の上にワシは再び翔け来り、
声は人間そのままに我の嘆きをとめて言う、545
「喜べ、誉れ世に広きイーカリオスの愛娘(まなむすめ)、
こは夢ならず成りぬべき良き幻にほかならず。
ガチョウは彼ら求婚者、我はさきには猛きワシ、
いまは汝の夫なり。帰り来りて驕傲の
かの求婚の群の上つらき運命もたらさむ」19-550
しか陳ずれば甘美なる眠りはわれを離れたり。
あたり見回し家のそば、先のごとくに水槽の
中より小麦ついばめるガチョウをわが目眺めたり』

[1]愛娘が転生してうぐいすとなる。
[2]この比喩は心動きて嘆くというに過ぎず。

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『王妃よ、いかにその夢を別の意味にて解くべきや?555
ワシの姿はオデュセウス、いかにその事成るべきを
告げしならずや!求婚のすべての群に滅亡は
迫りぬ。中にひとりさえ死の運命をまぬがれじ』

ペーネロペイア、聡明の王妃答えて彼に言う、
『客よ、我が身はかく観ず。夢はまことに解きがたし。560
夢中に見たる一切は世のことごとく成るとせず。
影のごとくに朦朧の夢の門口二つあり。
中の一つは角をもて、他は象牙もて作られぬ。
象牙の門を通り過ぎ来れる夢の一切は、
人を欺くものにして成らざる事を持ち来す。565
磨ける角の門を過ぎ、そとに出で来る一切の
夢の示現は遂げられて、すべての人の目に映る。
わが見し夢は角の門過ぎ来しものと思われず。
もしさもあらば我にとり、我が子にとりて大歓喜。
我いま一事君に言う。心にこれをよく記せ。570
オデュッセウスの館よりわが別るべき憎き日の
曙まさに今来る。我は競技を設くべし。
夫はさきに館中に船の竜骨台に似る、
十二の斧を一列に、縦に並べし事ありき。
斧におのおの穴明けり。離れて矢射り一列の 575
穴を通せと求婚の群にその技(ぎ)を競わせむ。
群のある者剛弓の弦を手中にやすく張り、
十二の斧の穴すべてみなことごとく射通さば、
彼に我が身は付き行かむ。資財に富みて華麗なる
むかし嫁ぎしこの館を見捨てて彼に付き行かむ。580
この館あわれ夢のなか行末遠くしのばれむ』

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『ラーエルテース生める息オデュッセウスのおん妃、
館の中なるその競技もはやためらうことなかれ。
思案に富めるオデュセウス、その前ここにいたるべし。585
競技に彼ら剛弓をその手に取りて弦を張り、
十二の斧を射通せる、その前彼はいたるべし』

ペーネロペイア聡明の王妃答えて彼に言う、
『客よ、君もし館中に我がかたわらに座を占めて、
われ喜ばすことあらば、眠りは我の目に落ちじ。590
されども人はとこしえに眠りを欠くを得べからず、
物生み出す大地のへ、すべての者にいっせいに
不死の神明、定れる運命分かち与えたり。
今はた我は楼上に上り、ふしどに自らを
横たえぬべし。その寝屋はオデュッセウスが憎むべき、595
言に尽せぬイーリオン見るべく立ちしその日より、
われの涙にそぼぬれて今は嘆きの場所となる。
我はかしこに休むべし。君はこの場に寝ねよかし。
しとねを床に敷き広げ、あるいは寝台据えさせて』

しかく陳じて華麗なる楼上さして上り行く。19-600
身ひとつならずそのあとに、侍女は従いのぼり行く。
侍女もろともに楼上にのぼりし王妃、その夫
オデュッセウスを恋いて泣く。されどもやがてアテーネー、
女神は彼女のまぶたのへ甘美の眠りくだらしむ。


オヂュッセーア:第二十巻


思案にくれて眠れざるオデュッセウスは女神アテーネーに慰められてついに眠る(1~55)。ペーネロペイアは女神アルテミスに祈り、死して結婚をまぬがれんことを求む(56~90)。オデュッセウス目覚む。ゼウス吉兆を示す(91~121)。老媼エウリュクレイア、テーレマコスに客人の様子を告ぐ。その後侍女らに宴会の準備を命ず(122~159)。三人の牧夫エウマイオス、メランティオス、ピロイティオス、家畜を引き来り、各々オデュッセウスと語る(160~239)。求婚者らテーレマコスの殺害を控ゆ(240~246)。食事。テーレマコスは客を侮るなかれと警告す(247~278)。クテシッポス侮りてオデュッセウスに牛の足を投げ付く。テーレマコスこれをとがむ(279~319)。テーレマコスを人々あざける。予言者テオクリュメノス彼らに災いの近づくを語れど皆は冷笑して宴を続く(320~386)。

かくて英武のオデュセウス、身を前廊に横たえて、
まだ鞣(なめ)さざる牛の皮、地上に広げ、その上に
アカイア人のほふりたる羊の毛皮多く布く。
エウリュノメーは横たわる彼に外套投げかけぬ。
オデュッセウスはそこに伏し、心の中に求婚の 20-5
群に殺害たくらみて、まぶたを閉じず。そのときに
侍女らは部屋を出で来る。求婚者らと慇懃を
通ぜる侍女ら喜々として笑い興じて出で来る。
これを眺めて胸中に彼の心は騒ぎ立つ。
彼は心に魂に深く思案をうち凝らす。20-10
猛然として襲い打ちその侍女らを倒さんか、
これを最後に今宵のみあの驕傲の求婚の
群に添い寝を許さんか、思い乱れて胸は吠ゆ。
見知らぬ人の影を見て、かよわき子らをかばいつつ、
母性の犬が戦いを念じて彼に吠ゆる如、15
侍女らの悪事いきどおる勇士の胸はたぎりたつ。
やがて胸打ち気をしずめ、おのが心を叱り言う、

『忍びこらえよ、わが心。これよりまさる屈辱を
汝忍べり。その昔、不敵に荒びわが伴を
キュクロープスが食いし時、汝忍びて知略もて、20
死を覚悟せる一同を洞より外に引き出せり』

しかく陳じて胸中の心を彼は叱りとむ。
心はかくて従順に緩まず絶えず耐え忍ぶ。
されども彼は転々とあなたこなたに寝返りぬ。
熱火盛んにおこし立て、脂肪と血とを充たしたる 25
胃の腑をこれにかざしつつ、あなたこなたとひるがえし、
そのすみやかに焼かるるを願える人を見るごとし。
かくのごとくにオデュセウスあなたこなたと身を返し、
思い案じぬ。いかにして恥なき群を懲らすべき?
敵は多にして我は一。そのとき近くアテーネー 30
女神天よりくだり来て、女人の姿よそおいて、
その枕頭に近く立ち、口を開きて彼に言う、

『人間みなの中にして運命もっとも非なる者、
など眠らざる?この家は汝のものぞ。妻と子は
ここにあらずや。すぐれし子、誰もうらやみ願うもの』35

思案に富めるオデュセウスそれに答えて陳じ言う、
『これらの事をわが女神、君は正しく語り言う。
さはれ胸裏にわが心いたくも思いわずらえり。
恥なきこれら求婚の群を身一ついかにして
懲し得べきか?一団となりて彼らは内にあり。40
それにも増さる一大事われの心を悩ませり。
ゼウスと君の助け得て無残のやから倒すとも、
我いかにして逃れ得ん。君願わくはよく計れ』

そのとき藍光の眼の女神答えて彼に陳じ言う、
『信なき者よ、何事ぞ!朽つべき脆き人の身の 45
弱く英知の少きを、なおある者は頼みとす。
我は神なり。一切の災禍の中に飽くまでも
我は汝を守るべし。われ明らかにあえて言う。
死すべき脆き人間の五十群がり囲み来て、
我ら両者を倒すべく焦るも何か恐るべき。20-50
彼らを破りさらにその肥ゆる牛羊奪うべし。
さはれ汝は今眠れ。夜すがら眠り成らざれば、
疲労を来す恐れあり。やがて危難は逃るべし』

しかく陳じて甘眠を彼のまぶたの上そそぎ、
ウーリュンポスの空さして優れし女神立ち帰る。55
四肢を緩むる甘眠に同じく心緩まされ、
オデュッセウスの眠る間に聡き王妃は目を覚まし、
その柔らかき床の上、座してそぞろに涙垂る。
されど飽くまで涙垂れ、心ようやく軽き時、
ペーネロペイア、慇懃にアルテミス呼び祈り言う、60

『ああアルテミス、いや高き女神、ゼウスのまなむすめ、20-61
ああ願わくは一矢にて、君わが胸を射通して、62
すぐに我が生奪わんを。あるは願わく荒き風、
我をさらいて霧深き道々過ぎて吹き飛ばし、
オーケアノスの輪をなして流るる中に投げよかし[1]、20-65
パンダレオスの娘らを大風の吹き去りしごと。
その両親は神明にほふられ、彼ら館中に、20-67
淋しく孤児と残されき[2]。そを乾酪と甘美なる
蜜と酒とに艶麗のアプロディーテーはぐくみぬ。
さらにヘーラー、一切の婦女にまされる美と知とを 70
彼らに与え、アルテミス女神はさらに身の丈を、
さらに加えてアテーネー手工の道を授けたり。
雷(らい)を喜ぶクロニオンを、訪いて彼らの婚姻の
成就乞うべく、おおいなるウーリュンポスに、艶麗の
アプロディーテー今すすむ。ゼウスはすべて一切の 75
朽ちて死すべき人間の好運非運みな知れり。
その留守の間に少女らを嵐の精はかきさらい、
復讐の精、憎むべきエリニュエスらに仕えしむ。
ウーリュンポスに住める神、我をほろぼせ、そのごとく。
あるは鬢毛うるわしき神アルテミス、我を射よ[3]。20-80
さらば心にオデュセウス描き、忌むべき地下にさえ 
行くべし。かくて陋劣の人らの心慰めじ。
昼間は絶えずその心痛めて泣くも、宵々に
眠りよくせば、人はよく難儀を忍ぶことを得む。
眠りの霊のくだり来て人のまぶたを包む時、85
霊はあらゆる一切の禍福をすべて忘れしむ。
しかれど我に神明は不吉な夢を遣わせり。
昨夜の夢に良人に似る者われのそばに伏す。
姿正しく軍勢をひきいて立ちし彼のまま。
夢にはあらず真実と思いて我は喜びき』90

[1]冥府の入口として。
[2]ゼウスの神殿に犯せる罪のゆえに殺され、しかして孤児となれる娘らを諸神憐れむ。
[3]62と重複。

陳じ終れば黄金の座の明けの神現われぬ。
王妃の嘆きむせぶ音を聞けり、英武のオデュセウス。
そのとき彼は心中に、王妃は我を認め知り、
あたかもおのが枕頭に立てるがごとく思いやる。
かくして彼は立ち上り、身を覆いたる外套と、95
毛布を集め、室内の椅子になげかけ、室外に
牛皮運びて地にひろげ、ゼウスに手上げ祈り言う、

『ああわが天父クロニオーン、諸神この身を苦しめて、
のちに海越え山越えて我を故郷にもたらすを
嘉みせしならば、館中に目覚める誰か一人の 20-100
めでたき言句、館外にさらにゼウスのしるしあれ』

祈りてしかく陳ずれば、明知のゼウスこれを聞き、
ウーリュンポスの雲深き上より電火ひらめかし、
殷々(いんいん)の雷(らい)とどろかし、オデュッセウスを喜ばす。
さらに粉ひく一女性、王者の臼のあるところ、105
間近き家の室外に、嬉しき予言今叫ぶ。
十二の女性、人間を養う小麦大麦を、
臼に挽きつつ粉となし、常にいそしみ働けり。
ほかの女性は挽き終わり、眠りに入りぬ。しかれども
一人もっとも弱きゆえ、まだ挽き終わることを得ず、110
しばし休みて言うところ、主人に取りてしるしなり。

『人間および神明の父なるゼウス、星ひかる
天より高く殷々の雷声君はとどろかす。
しかも雲なし。ある人にこは君示すしるしなり。
不憫の我のいう言葉、神願わくは成らしめよ。115
まさにこの日を最後とし、オデュッセウスの館の中、
求婚の群、歓楽の彼らの宴を開けかし。
麦挽く我を心憂く疲らせ四肢を弱らせる
彼らは今日を最後とし、ここにその宴開けかし』

しかく陳ずるその予言、クロニオーンの雷ともに 120
オデュッセウスは喜べり。復讐なると思うゆえ。
オデュッセウスの華麗なる館に今はた他の侍女ら、
集まり寄りて炎々の火を炉の上にたきおこす。
そのとき風姿神に似るテーレマコスは床離れ、
衣服をまとい、肩の上鋭利の剣投げかけて、125
つや良き足に華麗なる靴を穿ちて、青銅の
鋭き穂先そなえたる大身の槍を手に握り、
行きて戸口に立ちとまり、エウリュクレイア呼びて言う、

『うばよ、汝ら客人にふしどと食を供せしや?
あるいは彼は歓待を受けず伏せるにあらざるや?130
賢しけれどもわが母の習いはつねにかくありき。
分別欠きて、人間の中の良からぬともがらを
いたく敬い、良き者をしりぞけ去りて尊ばず』

エウリュクレイア聡明の老婦答えて彼に言う、
『おん母君にとがはなし。君いたずらにとがめざれ。135
かの客人は座につきて、思うがままに酒酌みぬ。
「食事はいかに」、尋ぬれば、そは要なしと答えにき。
しかして客が睡眠とふしどに心寄せし時、
彼女は侍女に命下し、ためにふしどを設けしむ。
されども客は不幸なるまた悲惨なる者として、140
寝台(ねだい)の上に毛せんの下に眠るを喜ばず。
まだなめされぬ牛の革、および羊の革の上、
身を前廊に横たえぬ。我らはこれに覆いたり』

しか陳ずるを聞き終えてテーレマコスは槍を手に、
広間を過ぎて出でて行き、足疾き二人従えて、145
脛甲かたきアカイオイ合議の庭にすすみ行く。
ペイセーノールうめる息オープス父に持てる者
エウリュクレイアそのときに侍女らに向かい呼びて言う、

『集れ侍女ら、あるものは広間を掃きて水をまけ。
またあるものは精巧に作れる椅子に紫の 20-150
覆いを掛けよ。あるものは海綿をもて卓拭い、
壷と二柄の杯のいみじきものを清めよや。
またあるものは清水を求めて泉さして行き、
そこより汲みてすみやかに、急ぎてここに帰り来よ。
求婚の群この館に長らく見えぬことあらじ。155
近きにやがていたるべし。今日はすなわち祭の日[1]』 20-156

[1]新月祭、月の初め新月の時アポローンを祭る。

しか陳ずれば女人らはその命聞きて従えり。
その二十人暗き水たたえる泉さして行き、
他は居残りて館中にかいがいしくもいそしめり。
求婚者らの従僕はやがて入り来て熟練の 160
腕をふるいてたきぎ切る。女中ら水を汲み来る。
エウマイオスは一切の群の中にてすぐれたる
豚三頭を伴いて、彼らのあとを追い来り、
内に入りつつ後庭にはなちて餌を食ましめて、
やがてやさしき言句もてオデュッセウスに問いて言う、165

『いかに客人、求婚の彼らは君を崇めしか?
あるいは先のごとくして恥辱を君に与えしか?』

思案に富めるオデュセウスそれに答えて陳じ言う、

『エウマイオスよ、願わくは、神々いたく懲らせかし。
他人の館に傲然と非行たくらみ、恥知らぬ
これら無残のともがらの非礼とがめよ、神々は』170

かくのごとくにかかる事二人互いに陳じ合う。
二人のそばに今近くメランティオスは入り来る。
ヤギの牧人、彼は今二人の従者伴いて、
群の中なる良きヤギを宴の備えに引き来る。175
これらを響く前廊の下につなぎて彼はまた
オデュッセウスに打向かい罵詈の言句を吐きて言う、

『他郷の者よ、汝なお食を求めてこの館の
中をさまよい、わずらいを起すや。外に去らざるや?
汝と我とおのおのの拳の力知らん前、180
別るることはなかるべし。汝非道に食を乞う。
知らずや汝アカイアの人の宴席他にもあり』

思案に富めるオデュセウス、しか陳ずるに答えせず。
ただ黙然と頭振り、胸に復讐たくらみぬ。

そこに牧夫の首領たるピロイティオスは第三に、185
肥えたる雌ヤギ、若雌牛、求婚者へと引き来る。
渡船を願う人々の願いを容るる渡し守、
船に乗せつつあなたより[1]ひきい来りしこの家畜、20-188
こを鳴りひびく前廊の柱にしかと繋ぎとめ、
豚の牧者に近寄りて彼に向かいて問いて言う、190
『誰そかの客は?この館の中に新たに来りたる
彼は何者?何びとの種(たね)と自ら唱うるや?
かれの血族いずこにぞ?祖先の郷はいずこにぞ?
幸なき者よ、その姿王者によくも似たるかな。
されども諸神むごくして、王者にさえも災難を 195
加え、流浪のともがらを悩ますことを常とせり』

しかく陳じて近寄りて右手を伸べて相迎え、
オデュッセウスにつばさある飛揚の言句陳じ言う、

[1]イタケー島のあなたの本土より(14-100以下)。

『君に幸あれ、旅のおじ。今は不幸に悩むとも、
来らん明日は願わくは君幸いの身たれかし。20-200
天父ゼウスよ、汝よりまさりてむごき神あらず[1]。20-201
汝自ら生み出でし人間[2]、汝憐れまず。20-202
災難および痛ましき苦悩にこれを陥る。
我君のこと見しときに、オデュッセウスを思い出し
汗が吹き出し涕涙に目は溢れたり。かくのごと 205
彼は襤褸を身にまとい、世に漂浪を続くらむ。
それも永らえ日輪の光を今も見るかぎり。
もしさもあらで既になく、冥府の王の館に今、
オデュッセウスのありとせば、悲しからずや。我若く
ケパレーニアにありしとき、彼は牛群飼わしめき。20-210
今や無数に牛は増ゆ。ひたいの広きこの家畜、
これをかほどに増やすこと他の人間は叶うまじ。
しかるを食となさんため駆り来よかしと人は言う。
しかして館に居残れる子息を露もいたわらず、
諸神のくだす復讐を恐れず、長く家離る 215
主人の産をおのおのに分けんと彼ら志す。
今胸中にわが心、これらにつきて様々に
思いわずらう。主人の子、棄てて異郷に逃げ走り、
群羊引きて外国の人の住む地に到ること、
誰かはこれを良しとせむ。しかはあれども居残りて、220
他人のために群を飼い、心悩むはなお悪し。
されど事態は忍ばれず、やむなく去りて力ある
王者のもとに走らんと、とくの昔に念じにき。
されど不幸のわが主人いまなおしのぶ。どこよりか、
現われ出でて求婚の群を館より追えかしと』225

[1]人間はややもすれば神々をとがむ(1-32)。
[2]王侯貴人はゼウスの子と称えらる(4-63)。
[20-210]サメー島。

思案に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『牛飼う者よ、悪しき者愚かの者に君は似ず。
英知の心、君持つとわれ明らかに感じ知る。
ゆえにうち明け、厳粛の誓いを立てて君に告ぐ。
証したれかし、神明の第一ゼウス、歓待の 230
卓子はたまたわが前のオデュッセウスのかの囲炉裏。
君なおここに残るうち、オデュッセウスは帰り来む。
望まば君は目を挙げてまさに親しく眺むべし、
ここに今はた威を振う求婚者らの殺害を』

牛飼う者はそのときに答えて彼に陳じ言う、235
『ああ君がいうこの言葉、クロニオーン成らしめよ。
そのときこそは君知らめ、我の力をわが腕を』
同じく共に、神明にエウマイオスは聡明の
オデュッセウスがその館に帰り来るを乞い祈る、

かくのごとくにかかる事彼ら互いに陳じ合う。240
テーレマコスの殺害をその間にこなた求婚の
群たくらみぬ。たくらめる皆の左に空高く[1] 20-242
かよわき鳩をつかみたる荒ワシ一羽飛び来る。
アムピノモスはこれを見て皆に向かいて陳じ言う、

[1]右ならば吉兆、左ならば凶兆(15-525)。

『テーレマコスの殺害のわが計画は成らざらむ。245
その計画をうち棄てて、むしろ酒宴を事とせむ』

アムピノモスはかく陳じ、その言みなはうべなえり。
一同やがて神に似るオデュッセウスの館に来て、
その外套を脱ぎ棄てて椅子・高椅子の上にかけ、
大なる羊肥えしヤギ、それらをやがてうちほふり、20-250
脂肪の厚き豚および雌牛をさらにうちほふり、
その内臓を火にあぶり、皆に分かちて、葡萄酒を
壷に注ぎて水混ず。また牧人は杯を[1] 20-253
配り、牧夫の頭(かしら)なるピロイティオスは佳麗なる
籠よりパンを取り出し、メランティオスは酒をつぐ。255
皆は面前据えられし食に向かいて手を伸しぬ。

[1]女中が給仕をなさず牧人がなすは奇異の風習。

テーレマコスは策案じ、オデュッセウスを堅牢の
館の中にて石造の敷居に近く座らしめ、
前に粗末な腰掛と小さき卓を供えつつ、
焼きし臓腑のわけまえを置き、黄金の杯に 260
酒をそそぎてつばさある言句を彼に陳じ言う、

『ここに静かに人々の間(あい)に座しつつ酒を酌め。
君に加えん求婚の群の侮り、またあらび、
われ君のため防ぐべし。ここ公けの館ならず。
オデュッセウスの館にして、わがため彼は設けたり。265
さはれ汝ら、求婚者、無礼の言と暴行を
謹しめ。喧嘩騒動の起らん事のなきために』

しか陳ずれば一同はその唇に歯を噛みて、
かくも激しき言句吐くテーレマコスに驚けり。
エウペイテスの生める息アンティノオスは皆に言う、270

『テーレマコスの言うところ、つらくも汝アカイオイ
忍びていれよ。我々をおびやかしつつ彼は言う。
我らの願いクロニオーン、許さざりけり。さもなくば
彼の能弁この館にとくにも封じ終えつらむ』
アンティノオスのしか言うをテーレマコスは顧みず。275

いま伝令は市を過ぎ、祭礼の聖きいけにえを
引きぬ。しかして髪長きアカイア人ら、銀弓の
アポッローンの陰深き森林中に集まりぬ。

求婚者らは皮下の肉焼きて串より引き抜きて、
これを各々相分かち、美々しき宴をここに張る。280
給仕の者は自らの受けたる分と等しきを、
オデュッセウスのそばに置く。しかなすことは神聖の
オデュッセウスの愛児なるテーレマコスの命による。

しかはあれどもオデュセウス胸にいっそうなお強く
悲憤の思い入るがため、求婚の群無礼なる 285
言控ゆるをなかなかに許さざりけりアテーネー。
今求婚の群の中つねに不法に振舞いて、
クテシッポスの名を呼びてサメーに住める一人あり。
量り知れざるその資財頼みとなしてこの男、
長き不在のオデュセウスの王妃に婚を求めたり。290
彼はそのとき驕慢の求婚者らに向かい言う。

『貴き汝、求婚者、わがいう言に耳を貸せ。
この客人ははやすでに法(かた)のごとくに平等の
分を受けたり。いやしくもテーレマコスの館さして、294
来れる客を侮るは正しかるまじ、良かるまじ[1]。295
いざ我もまた客人に物を贈らむ。彼もまた、
オデュッセウスの館に住む風呂場の侍女ら、あるは他の
しもべにおのれの分として物を贈るを得んがため』

[1]299以下に照らし合わせて嘲弄の反語なるを知るべし。

しかく陳じてかたわらの籠の中より牛の足、20-299
逞ましき手に取り上げて投げつく。これをオデュセウス、 20-300
頭かわしてのがれ得て、その胸中にものすごく
苦く笑えり。投げし足、堅固の壁を打ちて落つ。
テーレマコスはかくと見てクテシッポスを叱り言う、

『クテシッポスよ、客人を打たざりしこと中々に
汝の魂のために良し。客人足を避け得たり。305
さらずば我は鋭利なる槍に汝の胴突かむ。
汝の父は婚礼の宴の代わりに葬礼の
営みなさむ。館の中不法のわざを示さざれ。
さきには我は若かりき。我は長じて一切の
良き事および悪しき事、今ことごとく弁じ知る。310
我らの羊ほふらるる、我らの美酒の酌み干さる、
我らの食の尽くさるる、すべて眺めて忍びたり。
難かりしかな、身一人に多くの人を抑ゆるは。
もはや我身を敵として不法の事をなすなかれ。
されど汝ら利刃もて我を討たんと欲するか?315
そも良しわれの願いなり。絶えず不法のわざ眺め、
わが客人をしいたげて、わが華麗なる館中に
侍女を無残に引き摺るを見るは何たる恨みぞや。
こを見るよりは一命を失わんことはるか良し』

しか陳ずれば一同はみな黙然と口つむぐ。320
そのとき皆にアゲラオス(ダマストールの子)は陳ず、
『友よ、正しき言説を彼は述べたり。何びとも
怒りて彼に驕傲の言句報ゆることなかれ。
また訪い来る客人を、またオデュッセウス英豪の
館に仕える一切のしもべを虐待するなかれ。325
テーレマコスと母人に、我ねんごろに一言を
述べん。願わく両人は心にこれを受け入れよ。
さきには二人胸中に、オデュッセウスのつつがなく
祖先の郷にその館に帰り来るを期したりき。
もしオデュッセウス誤らず必ず帰り来るとせば、330
しからば王妃館中にとどまり、迫る求婚の
群拒みしはうべならむ。誰かはこれをとがめしか。
されども今や明らかに彼の帰郷の望みなし。
いざ今君の母人のかたえに座して説きて言え。
財のもっとも豊かなる高貴の者に嫁ぐべしと。335
しからば君は意のままに飲食なして相続の
産喜びて治むべく、母は他の家治むべし』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、
『ああアゲラエ[1]よ、我は今ゼウスに掛けて、わが父の 20-339
苦難にかけてあえて言う(死するも、あるは、さまようも、340
彼イタケーを遠ざかる)。母の婚儀を伸ばすまじ。
望める者と婚すべく我は勧めて莫大の
嫁資を贈らむ。しかれども望まぬ母をやかたより、
無理から追うははばかれり。神よこの事成らしめな!』

[1]呼格。

テーレマコスはかく陳ず。そのとき女神アテーネー、345
求婚者らにとめがたき笑い起させ、その心
乱しぬ。彼ら別人のあごもて笑うごとくして、
血潮に染める肉食い、しかもそのまみいっせいに 20-348
涙を満たし、その心慟哭いたく催せり[1]。
テオクリュメノス[2]、神に似る予言者すなわち陳じ言う、20-350

[1]ほろびの前兆として他の文学民族物語にもよくあり。
[2]15-256。

『無残!何たる災いを汝ら受くる!汝らの
頭(こうべ)も顔も両膝も夜(よ)の暗黒に巻き込まる。
悲嘆の音は物すごし[1]。頬は涙にうるおえり。20-353
華麗の壁と棟木とは血潮にまみれ、もの凄し。
入口および広庭は、闇の下なるエレボスに 355
くだる幽鬼の群に満ち、天上高き日輪は
光隠して、惨憺の暗雲四方(よも)に垂れこめぬ』

[1]直訳「嘆きは燃やさる」。

しか陳ずれど一同は楽しく喜々とうち笑う、
エウリュマコスはポリュボスの生める子、彼は陳じ言う、
『新たにここに他郷より来れる客[1]の気は狂う。20-360
いざ若人らすみやかに、館より彼を引き出だし、
集議の庭に行かしめよ。ここらを彼は夜と見る』

[1]テオクリュメノス。

テオクリュメノス神に似る予言者答えて彼に言う、
『エウリュマコスよ、導きの人与うべく我乞わず。
我に二つのまみと耳、二つの足は備われり。365
さまで卑しく作られぬ心は胸の裡にあり。
これらと共に室外にわれ出で行かむ。汝らに
危難来たるを我は知る。オデュッセウスの館の中、
みだりに人を侮りて、不法のわざをたくらめる
この求婚の一団の一人も危難逃るまじ』 370

しかく陳じて堅牢に築ける館を出でて行き、
ペイライオスを訪い来り、心をこめて持てなさる。
求婚の群一同はこなた互いに目くばせし、
この客人ら[1]あざけりて、テーレマコスを挑発す。
若き倨傲のある一人すなわち彼に陳じ言う、375

[1]テオクリュメノスと乞食の姿せるオデュッセウス。

『テーレマコスよ、君の客よりも劣れる客はなし。
何たる客ぞ、君持てるこの漂浪の乞食人!
食と酒とを乞いながら彼は何らのわざ知らず。
何らの武技を心得ず。ただに地上の重荷のみ。
また他の客は笑止にも予言せんとて立ちあがる。380
君いま我の言を聞け。はるかによろし、しかするは。
漕ぎ座を多く備えたる船にかれらをのらしめて、
シチリア人のもとにやれ、さるべき値えらるべし』20-383

求婚者らのかかる言、テーレマコスは顧みず。
黙して父を眺めやり、恥なきこれら求婚の 385
群に父の手くだるべきそのとき待ちて耐え忍ぶ。
イーカリオスの生むところ、ペーネロペイア、聡明の
王妃は皆に相対し、華麗の椅子を据えて座し、
館の中なる人々の各々述ぶる言を聞く。
多くの牲をほふりたる彼らは笑い興じつつ、390
さも喜々として楽みて豊かの宴の備えなす。
されど女神と勇士とが、力合わせてまさに今
開かんとする宴よりも、さらにまさりて痛ましき 
宴はなかりき。その宴は彼らの悪の報いなり[1]。20-394

[1]「悪業を先に彼らはたくめる故」


オヂュッセーア:第二十一巻


女神に鼓吹されたるペーネロペイア、庫中よりオデュッセウスの剛弓を取り出す。これを見てエウマイオスとピロイティオスの二人、主人を思い出して泣く。アンティノオスこれを叱る(1~100)。テーレマコスは皆に宣し、弓の競技の準備をなし、自ら弓を張らんとしてよくせず(101~139)。アンティノオスとエウリュマコスとの外の求婚者またよくせず(140~187)。オデュッセウス、二人のしもべの忠実さを見て、彼らに一切を告げ、彼らを歓ばしめ、命令を下す(188~244)。エウリュマコスもまた弓を張り得ず。アンティノオスは競技を明日に延期すべしと言う(245~286)。オデュッセウス弓を試みんと願う。人々これを怒れどもテーレマコスはこれを許す。しかして侍女らを奥にしりぞかしむ(289~358)。エウリュマコス、剛弓をオデュッセウスに渡す。勇士弓を張りて十二の的を穿つ(359~423)。テーレマコス、武装して父のかたわらに立つ(424~434)。


イーカリオスのまなむすめペーネロペイアの胸中に、
藍光の目のアテーネー一つの策を案ぜしむ。
オデュッセウスの館にある弓と輝く鉄の斧、
競技の材を殺戮の初めとなして、求婚の
群の目の前おくべしと。王妃すなわち階上の 21-5
部屋に登りて、青銅の曲れる華奢の鍵[1]を取る。21-6
象牙の柄あるその鍵を王妃手中に携えて、
かしずく侍女ともろともに奥の端なる庫に入る。
そこに主人の集めたる種々の宝物おさめらる。
青銅および黄金と技巧いみじき鉄の器具、21-10
さらに曲れる剛弓とこれに沿えたる矢筒あり。
矢筒の中に呻吟を来す鋭き矢は多し。
エウリュトスの子、神明にさながら似たるイーピトス、
ラケダイモーンにその昔会いたる者の贈り物。
オルティロコス[2]の家の中、メッセーネーにてその昔、21-15
二人互いに相会えり。オデュッセウスはこの郷の、
すべての民の払うべき補償求めてここに来ぬ。
メッセーネー人そのむかし羊三百、牧者とも
イタケーよりしかすめ取り、船のへこれを持ち去りぬ。
そのときわかきオデュセウス、父親およびもろもろの 20
他の長老に送られて使いとなりて遠く来ぬ。
イーピトス[3]また失える馬を求めてここに来ぬ。21-22
そは雌のラバの十二頭、まだ乳離れぬ子も共に。
のちにこれらは彼の身に死と悲運とをもたらしぬ。
すぐれしわざに長じたるヘーラクレース、ゼウスの子、25
倨傲の息(そく)をイーピトス訪い来し時のことなりき。
ヘーラクレースその家に迎えし客を殺したり。
無残の者は神明の怒りをあえて顧みず、
供えし卓を顧みず[4]、ついにその客ほろぼして、21-29
硬きひづめのその雌馬その館中にとどめたり。30
オデュッセウスにイーピトス、その頃弓を与えたり。
父エウリュトス常日頃携えなれしこの弓を、
その高き屋に臨終の時にその子に譲りたり。
報いとなしてオデュセウス、鋭利の剣と長槍を
与え、友誼のいとぐちとなせしもついに宴席に 35
相見る機会失いぬ。これに先んじゼウスの子、
かの剛弓を与えたるエウリュトスの子イーピトス、
神に似る者ほろぼせり。黒き船のへ戦場に
すすみし時にオデュセウス、身にこの弓を携えず。
親しき友の記念とてこの弓、家に残されぬ。40
イタケーにてはオデュセウスつねに手中に携えき。

[1]弓をおさむる庫の鍵。
[2]3-488。
[3]失われたる馬は父エウリュトスの有。これをアウトリュコス奪えり。イーピトスこれを回復せんとして来り、ヘーラクレースに会う。
[4]客に供せし卓は神聖なり。

女性の中にすぐれたるペーネロペイア、いま蔵に
到りて樫の敷居踏む。そは木工がその昔、
巧みに削り差し金にあてて真直にしたるもの。
彼はそのうえ柱立て、磨き光れる戸を立てぬ。45
王妃は今や革ひもを戸の把手より疾くゆるめ、
その鍵穴に鍵を入れ、探り正しくめぐらして、
戸の閂をはね返す。戸は牧場に草はめる
牛のごとくにうなり立つ。かくして鍵に弾かれて、
華麗の扉鳴りひびき、王妃の前に開かれぬ。21-50
王妃そのとき高床にすすむ。そこには箱あまた 
並びて、中にかんばしく匂う衣服を収めたり。
箱の中にて手を伸して輝く鞘に包まるる
弓を王妃は支えたる掛け釘よりし取りはずす。
王妃はそこに座を占めて、膝のへこれをうちのせつ、55
激しく泣きて良人の弓を鞘より取り出す。
涙にくるる慟哭に胸の飽くまで満つる時、
曲れる弓と矢筒とを、(矢筒の中に呻吟を
来す鋭き矢を入れて)すべて手中に携えて、
広間をさして求婚の群集れる場所に行く。60
随う侍女ら運ぶ箱、中に主人の貯えし
青銅および黒金の武具の数々収めらる。
女性の中にすぐれたるペーネロペイア、求婚の
群に面して立ちとどまり、堅固の館の円柱に
よりて、輝く顔ぎぬにその艶麗の頬おおう。65
左右おのおの忠実の一人の侍女はかしずけり。
ただちに彼女求婚の群に向かいて陳じ言う、

『思いあがれる求婚の群よ、わがいう言を聞け。
主人の長く不在なる隙に乗じて、汝らは
絶えずここにて飲み食い、このわが館をわずらわす。70
しかも何らの口実を汝らつくることを得ず、
ただただ我と成婚の願い強しと弁じ言う。
いざいま来れ求婚者、わが一身は賭けと見ゆ。
汝らの前おおいなるオデュッセウスの弓置かむ。
その手の中にいとやすく弓に弦張り、十二個の 75
ならべる斧を矢を飛ばし射とおさん者、その者の
あとを我追い、嫁ぎ来しこの館あとに去りぬべし。
資財あくまで豊かなる華麗のこの屋別るるも、
我はのちの日、夢になお思い出して忘るまじ』

しかく陳じて忠実のエウマイオスに牧人に 80
命じて、弓と輝ける鉄斧(てつふ)を前に供えしむ。
エウマイオスは泣きながら、これを受けとり前に据う。
またかなたより他の牧者[1]主人の弓を認め得て、21-83
泣けり。そのとき憤然とアンティノオスは叱り言う、

[1]牛飼いピロイティオス。

『愚かの野人何事ぞ。ただに目先のこと思う 85
哀れの二人、いかなれば淑女の思い乱すべく、
みだりに泣きてやまざるや?見よ、さなきだに良人を
失うゆえにその心悲哀にくれてうち沈む。
汝ら黙し座に就きて食らえ。あるいは門口を
出でて他所にて泣き叫べ。求婚者らに決定の 90
競いとなしてその弓はこの場に残せ。われ思う、
この彫琢の大弓はたやすく人に張らるまじ。
ここに集まる一同の中に、英武のオデュセウス
見るがごときはあらざらむ。わが目親しく彼を見き。
今も我なお思い出づ。かの時我は若かりき』95

しかく陳じて胸中の彼は心に期したりき、
かの剛弓に弦を張り、鉄斧の列を射るべしと。
笑止や彼はまっさきにオデュッセウスの射放てる
やじり味う者なりき。さきには彼は館中に
勇士侮り辱め、また同僚をいざなえり。21-100

そのとき強き清浄のテーレマコスは皆に言う、
『ああ、見よゼウス・クロニオーン、我を愚かな者にせり。
賢こけれどもわが母は今明らかに宣し言う。
新たな人に伴いて慣れしこの館去るべしと。
そを聞き我はほほえみて愚かの心喜べり。105
求婚者らよ、いざや立て。賭けたる賞は一淑女。
かかる女性はアカイアの全土の中にまたありや?
アルゴスあるはミケーネーまた神聖のピュロスにも?
さらにこの島イタケーに、暗き本土のあなたにも?
汝らすでにこれを知る。我の褒むるは無用なり。110
汝ら今や口実を設けて回避するなかれ。
あまりに長く弓張りを伸ばしそ、成果我は見ん。
およばずながら我もまた、この弓張りを試みむ。
もしわれ弓に弦を張り、鉄斧十二を射通さば、
新たの人に伴いてわが母館を捨て去るも、115
われ嘆くまじ。ただ一人淋しくあとに残るとも、
すぐれし父の取り慣れしすぐれし武具を使い得む』

しかく陳じてその背より真紅の上衣ぬぎすてて、
真直に立ちて鋭利なる剣を肩より取りはずし、
十二の斧を据えるため一条長き溝穿ち、120
尺度にあてて真直にし、かくして斧を並べつつ、
あたりの土を踏み固む。かつて学びしことなくて、
かく整然と据えたるを皆は眺めて驚けり。
やがてすすみて敷居のへ立ちてぞ弓を試みる。
三たび張るべく念をこめ弓を震わす。しかれども 125
三たび力は緩み去る、努めて弦を張りおえて
鉄斧の十二射通さん望みはいとど切ながら。
四たび新たに勇を鼓し、まさに張らんとしたる時、
オデュッセウスは頭振り、彼の切望おしとどむ。
そのとき強き清浄のテーレマコスは皆に言う、130

『無念や!後に到りても我は怯なる弱き者。
あるいは今は若くして、ある人我にいきどおり、
襲わん時に防ぐべきわが腕力にたより得ず。
いざや汝ら、我よりも強き力を持てる者、
来りて弓を試みよ。競技の終わり告げんため』135

しかく陳じて手に取りし弓を放して地におろし、
組み合わされて磨かれし門の扉にたてかけつ。
その華麗なる弓端(ゆみはず)に速き飛行の矢を寄せて、
帰りてさきに占めたりし椅子に再び身をもたす。

エウペイテスの生める息、アンティノオスは皆に言う、140
『同僚すべて順により、右回りにて立ち上れ。
酒つぐ者の注ぎ初(そ)むる場より順々立ち上れ』

アンティノオスの言うところ、皆いっせいにうべなえり。
そのとき先に立ちたるはオイノプスより生まれたる
レイオーデース占い者。酒を混ずる瓶のそば、145
部屋のもっとも奥深くつねにその座を占むる者。
彼のみひとり邪を憎み、求婚者らにいきどおる。
まさきに彼は手に弓と速き飛行の矢を握り、
行きて敷居の上に立ち、まずその弓を試みぬ。
されどもこれを張るを得ず。慣れざるもろき彼の手は、21-150
弓を曲げんとして弱り、求婚者らに陳じ言う、

『ああ同僚よ、弓弦(ゆみづる)を我は張り得ず。ほかの人
試みよかし。この弓は貴人の群の多くより、
魂と命を奪うべし。日に日にここに群がりて、
我ら一同心こめ、獲得せんとするものを 155
得ずにむなしく生くるより、死するはむしろまさらずや!
オデュッセウスの王妃たるペーネロペイアめとらんと、
望みてせつにこいねがう人の今なおありぬべし。
その者弓を試みて、やがて成果を見ざる時、
彼はよろしくアカイアの美服まとえる他の女性 160
めとりて財を贈るべし。こなた王妃は莫大の
宝携え運命を帯びくる者と婚すべし』

しかく陳じて手に取りし弓を放して地におろし、
組み合わされて磨かれし門の扉に立てかけつ、
その華麗なる弓端に速き飛行の矢を寄せつ、165
帰りてさきに占めたりし椅子に再び身をもたす。
アンティノオスはこれを聞き憤然として叱り言う、

『レイオーデス[1]よ、何たる語汝の歯端[2]漏れいづる!21-168
汝何たる脅かしぞ。聞きてわが胸いきどおる。
汝は弓を引くを得ず。その故汝あえて言う、170
弓は貴人の多くより魂と命を取るべしと。
勇ある者は弓と矢をよく扱わん。しかれども
かかる勇士に育つべく母は汝を生まざりき。
されどもほかの求婚者勇ある者はすぐ引かむ』

[1]呼格。
[2](歯の防壁を)汝の唇(deinen Lippen)を(フォッス)

しかく陳じてメランティォス[1]牧人呼びて命じ言う、21-175
『急ぎて汝部屋中に、メランティオスよ火をおこせ。
火のかたわらに大椅子をもたらせ。毛皮うちかけて、
しかして内に貯うる脂肪の巨塊もち来せ。
若き貴人ら暖めて脂肪とかして弓[2]にぬり、21-179
かくして弓を試みん。競技の終わり告げんため』180

[1]調のためかく発音す。
[2]弓は角(つの)製。後文395より知るべし。

しか陳ずればすみやかにメランティオスは火をおこし、
火のかたわらにもたらして椅子に毛皮をうちかけて、
しかして内に貯うる脂肪の巨塊とり出す。
そを暖めて若き群、弓を試む。しかれども
力あまりに弱くしてこれを張り得る者あらず。185
されども中の二頭領、力もっともまさる者、
アンティノオスと神に似るエウリュマコスはあきらめず。

オデュッセウスのしもべにて、牛を飼う者また豚を
飼う者二人もろともにそのとき館を立ち出づる。
そのあと追いてオデュセウス、同じく館を出で行きて、190
一同やがて門外に庭より外に出でし時、
声をはなちて穏やかに二人の伴に向かい言う、
『牛を飼う者また豚を飼う者、我は物いわん、
あるいは黙しやむべきか?心は命ず物いえと。
汝何たる者なればオデュッセウスを助くるや。195
かれ突然にある神に引かれて帰り来るべくば、
オデュッセウスを助くるや?求婚者らを助くるや?
心ならびに魂の命ずるままにわれに言え』

牛を飼う者[1]そのときに答えて彼に叫び言う、21-199
『ああ、わが天父クロニオーン、これこの願い成れよかし、21-200
かの人帰り来れかし。ある神かれを連れよかし。
しからば汝わが力、わが手のわざを悟るべし』

[1]ピロイティオス。

エウマイオスも諸々の神に同じく祈願しぬ、
オデュッセウスのつつがなく故郷に帰り得んことを。
そのとき彼は両人の心まことに忠なるを 205
認め、ただちに答えつつ彼らに向かい陳じ言う、
『見よ!我こそはまさにかれ。多くの苦難なめし後、
春秋二十過ぐる後、我は故郷に帰り来ぬ。
あらゆるしもべの中にして我はいま知る。わが帰郷
望むは汝二人のみ。汝二人をほかにして、210
我の帰郷を神明に祈れる者を見ず聞かず。
いざ汝らに来るべきまことの事実明かすべし。
かの驕傲の群をわれ神助によりて倒し得ば、
そのとき我は汝らに妻と資産を得さすべし。
またわがそばに汝らの家作るべし。やがて後、215
テーレマコスの兄弟と友と汝を見なすべし。
いざ今来れ、明らかの証拠汝に示さんず。
汝心によく悟り、われを信頼するがため。
見よ、この傷を。その昔、アウトリュコスの子らととも、
パルナッソスに行きし時、猪(しし)の牙より受けし傷[1]』21-220

[1]19-394以下の物語

しかく陳じて大いなる傷の跡より襤褸(ぼろ)を剥ぐ。
二人はこれをうち眺め、すべて委細を悟り得て、
涙流して聡明のオデュッセウスに腕のばし、
彼を抱きてその頭その両肩に口づけぬ。
オデュッセウスも両人の頭と手とに口づけぬ。225
かくして泣ける三人の上に日輪おりつらむ。
されど気付けるオデュセウス二人を抑え告げて言う、

『涕涙および慟哭をやめよ。ある者館内を
出でて我らを認め知り、内に報ずる恐れあり。
館に今入れ、相次ぎて。さはれ一時に入るは不可。230
我はまさきに、その後に汝らつづけ。合図せむ。
かの驕傲の求婚の群はこぞりていっせいに、
弓と矢筒を我の手に渡すを絶えて許すまじ。
されども汝、忠実のエウマイオスよ、館中を
過ぎてかの弓もたらして、わが手に渡せ。しこうして 235
女性らに告げ、堅固なる館の扉を閉じしめよ。
女性の中のとある者、我らの庭にわきおこる
人の呻吟騒音を聞くことあるも、門外に
女性はすすむことなかれ。黙して内に仕事なせ。
しかして汝忠実のピロイティオスよ、中庭の 240
門を閉ざして鍵をもて封じ、すばやく縄かけよ』

しかく陳じて堅固なる居館をさして立ち帰り、
さきに占めたる椅子の上再びその身いこわしむ。
またオデュセウス剛勇のしもべ二人も内に入る。

エウリュマコスはその間弓を手にとり、炎々の 245
火にかざしつつ、おちこちと返しぬ。されど彼もまた、
弦を張り得ず。驕慢のこころ激しくうめき泣き、
憤然として一同に声をはなちて叫び言う、

『無念なるかな、わが心、悩む身のため皆のため。
悩みはいかにつらくとも、そは婚姻の故ならず。21-250
海の囲めるイタケーに、またもろもろの他の都市に、
鬢毛美なるアカイアの女性はつねにおびただし。
ただこの弓を張るを得ず。力において剛勇の
オデュッセウスにかくばかり劣るとすれば、来るべき
子孫の耳に聞くところ、我ら何たる恥辱ぞや!』255

エウペイテスの生める息、アンティノオスは答え言う、
『エウリュマコスよ、さにあらず。汝自らよく知りぬ。
アポッローンの神聖の祭[1]きょうしも国中に 21-258
行わるるを。何びとか弓を張るべき?静粛に
弓は置くべし。また斧はすべてそのまま立ておかむ。260
ラーエルテース生める息オデュッセウスの館に来て、
これを奪いて去らん者、あり得べしとは思われず。
酒つぐ者に神のため、まず杯を充たしめよ。
さらば我らは献酒して曲れる弓を放つべし。
あしたとならばヤギ飼えるメランティオスに命下し、265
群の中なる最上のヤギをこの場に引かしめん。
弓の誉れのアポローン神に腿肉たてまつり、
そののち弓を試みん。競技の終わり告げんため』

[1]新月祭、アポッローンの祭の日。

アンティノオスはかく陳じ、その言みなはうべなえり。
従僕やがて皆の手に清めの水をそそぎかけ、270
若き給仕ら飲料を混酒の壷に満たし入る。
かくして神にまず捧げ、やがてすべてに酌み回る。
献酒おわりて一同は心ゆくまで酌みほしぬ。
皆にそのときオデュセウス、策たくらみて陳じ言う、

『高き王妃に求婚の人々われの言を聞け。275
胸の内なるわが心命ずるままに我いわむ。
エウリュマコスと神に似るアンティノオスはなかんずく
我こいねがう。いみじくも彼は正しくのべて言う、
「弓の試み休むべく、すべてを神に委ぬべし。
神はあしたにその好む人に力を賜ぶべし」と。280
いざ今我に磨かれし弓を手渡せ。もろともに
腕の力を試し見む。しなやかなりし四肢のうち、
いにしえ我に備わりし力は今もなおありや?
漂浪および欠乏によりて力は尽きたりや?』

しか陳ずるを耳にして皆の憤激はなはだし。285
よく磨かれし弓の弦、彼もし張らば何とせむ!
アンティノオスは憤然と叫びて彼を叱り言う、

『無残!異郷の汝いま微塵も理性備わらず。
我ら貴人もろともに汝静かに宴し得て、
足らずや?汝飲食を欠かず。われらのいう言句 290
会話を汝聞かざるや?汝のほかに外国の
客も乞食もひとりだにわれらの言句聞くを得ず。
蜜のごとくに甘くして、その度を過ごし飲む者を、
そこなう酒はまさにいま無残に汝をそこなえり。
酒はいにしえラピタイの国を訪い来しケンタウロス・ 295
エウリュティオーン[1]すぐれしを、ペイリトオスの殿中に  21-296
害せり。彼は酒により、おのが心をそこないて、
ペイリトオスの館のなか狂いて不法行えり。
これを怒れる勇士たち、彼を襲いて鋭利なる
刃(やいば)に彼の耳と鼻そぎ落としつつ、戸口より 21-300
前廊過ぎて引きずりぬ。彼は狂える心もて、
その災難を受けながら悄然として去り行けり。
ケンタウロスと人間とかくしてついに戦えり。
酒に乱れてまずさきに彼が不幸のたね撒きぬ。
強いても汝弓張らばかくのごとくに大難は 305
来り、国中ひとりだも汝に対し友情を
寄せ来たるまじ。すみやかに我らは黒き船の上、
汝を乗せてエケトス[2]に、あらゆる人をそこなえる 21-308
王者のもとに送るべし。そこより汝述がれ得ず。
むしろ静かにここに飲め。若き者とな争いそ』310

[1]奇怪なるケンタウロス族の一人。酒に酔い、招かれし宴席において花嫁に無礼を加えて殺さる。ペイリトオスは『イーリアス』1-263に見ゆ。
[2]18-85。

ペーネロペイア聡明の王妃そのとき彼に言う、
『アンティノオスよ、いやしくもテーレマコスの家訪える
その客人をさえぎるは、道理に合わず不可ならむ。
その剛強の手と力頼みとなして、すぐれたる
オデュッセウスの大弓をかの客人が張るとせば、315
彼はその屋に我を具し妻とすべしと思えるや?
その胸中にかかる事いかでか彼は望むべき!
汝らの中ひとりだにこれを心中悲しみて、
ここに宴することなかれ。ふさわしからず汝らに』

それにポリュボス生める息エウリュマコスは答え言う、320
『イーカリオスの息女なるペーネロペイア、聡き君、
かの者君を娶ること相応しからず、思い得ず。
さはれ我らは後の日の男女の評を忌み恐る。
アカイア族の中にして劣れる者は評せんか、
「卑しき者がすぐれたる人の后をめとらんと 325
望めり。されど誰人もかの弓ついに張るを得ず。
そのときひとり漂浪の乞食来りてやすやすと
かの弓張れり。並べたる十二の鉄斧射通せり」
かくぞ彼らは語るべき。何と我らの恥辱ぞや!』

ペーネロペイア聡明の王妃答えて彼に言う、330
『エウリュマコスよ、思い見よ。尊き人の家の産、
非道に食らい尽す者、民の間に好評を
得がたし。さるを汝らはただこの一事恥とすや?
見よ、客人は身は 高く体格げにもいみじかり。
高貴の系のある人を父とし彼はたたえ言う。335
いざとく彼に磨かれし弓を与えよ、結果見む。
かくいま我は陳じ言う、わが言うところきと成らむ。
アポロン、彼に光栄を与えて彼が弓張らば、
上衣下衣と華麗なる衣を彼に着さすべし、
犬と人とを防ぐべき鋭利の槍を与うべし、340
両刃の剣を与うべし、足に穿たん靴をまた。
しかして彼をその心望むところに送るべし』

それに答えて聡明のテーレマコスは陳じ言う、
『さなり母人、アカイアの誰にもまさり、意のままに
与えあるいは拒むべく弓の権利は我にあり。345
岩石多きイタケーを、駿馬産するエーリスに
向きあう諸島を[1]、司る貴人らこれをいかにせむ。21-347
今われ弓を持ち去れと、かの客人に命ずとも、
我が意に反し、力もてこれを制することを得ず。
母人、部屋に立ち帰り、織機および糸巻の 21-350
相応(ふさ)えるわざに心寄せ、侍女に命じてその勤め
なさしめたまえ。はた弓はすべて男子の司り、
特にも我の司り。家の主権は我にあり』

[1]サメー、ドゥーリキオン、ザキュントス等。

しか陳ずれば驚きて王妃は部屋に立ち帰り、
愛児の言葉胸中に深くも思いめぐらして、355
かしずく侍女らもろともに楼上さして上り行き、
オデュッセウスをしのび泣く。やがてパルラス・アテーネー、
甘き眠りの霊をして彼女のまぶたおおわしむ』

いま忠実の牧人は曲れる弓を取りて立つ。
かくと眺めて求婚の群は館中わめきたち、360
中にひとりの驕傲の若人彼に叫び言う、
『曲れる弓をいずこにか運ぶや。汝、無残なる
牧者、心の狂えるや?アポローンおよびもろもろの
神明我に恵む時、汝養う足速き
犬は汝を里遠く豚のかたえに噛み裂かむ』365

しか陳ずれば牧人は皆のひとしく館中に
激しく叫ぶ声に恐じ、弓をその場にさしおきぬ。

されどその時こなたよりテーレマコスは嚇し言う、
『おじよ、その弓運び行け。皆に従う悪しからむ。
恐れよ、我は若くとも汝を追いて農園に 370
到り石もて打つべきぞ。われの力はおおいなり。
ああ願わくはここにある求婚者らのすべてより、
かくのごとくに腕力にまさらましかば!しかあらば
我は直ちにすさまじく、そのある者をこの館の
外に別れて去らしめむ。かれ奸計をもくろめり』375

しか陳ずれば求婚の群いっせいに楽しげに、
テーレマコスをあざ笑い、彼に対する憤激を
緩めぬ。かなた牧人は館中過ぎて運び行き、
オデュッセウスのかたわらに立ちてその手に弓ささぐ。
テーレマコスはそのときにエウリュクレイア呼びて言う、380

『エウリュクレイア、さときうば、テーレマコスはかく命ず。
館の堅固に作られし扉きびしく閉ざすべし。
もしとあるもの館中の人の呻吟喧騒を
聞くことあらば、戒めて室外いずることなかれ。
ただただ内にとどまりて黙してわざにいそしめと』385

しか陳ずれば答うべき老女言葉につばさなく[1]、21-386
館の堅固に作られし扉きびしく閉じ終わる。

[1]黙すの意。

ピロイティオスは館外に黙然として躍り出で、
堅固に塀を巡らせる庭の諸門をみな閉ざす。
そこにたまたま前廊に船具の綱ぞ横たわる。390
パピルス草をないしもの。彼はこをもて厳重に
扉を締めて内に入り、さきに座りし椅子に寄り、
オデュッセウスを眺めやる。勇士はまさに弓を手に、
あなたこなたにうち返し、おのれ家郷を離れたる
その間に虫は弓の先食わざりしやと調べ見る。395
これを眺めて求婚のある者隣る者に言う、

『見よ見よ、彼はさかしらに委細に弓を調べ見る。
思うにこれに似たる弓、彼はその家にたくわうる?
あるいこれに似るものを作らんずるや?災難に
慣れし浮浪の彼はいま手中に弓をうち返す』21-400

群の中なる驕傲の若人一人陳じ言う、
『彼は首尾よくかの弓にかの弦張るをえるほどの、 21-402
かく大いなる慰みをかれ得んことをわれ祈る[1]』

[1]反語「失敗せよかし」(うまくいったらお慰みだね)の意。

求婚の群かく陳ず。思案に富めるオデュセウス、
そのとき弓を手にとりて委細にとくと調べ見て、405
竪琴および吟唱に慣れたる人が、新しき
琴柱(ことじ)の上に、両端によくなわれたる琴糸を
しかと固めて結びつつ、容易に弦を張るごとく、
力用いずすみやかにかの大弓に弦(つる)張りて、
右手をのべてそうそうと弦を鳴らしてためし見る[1]。21-410
弦は美妙の音に歌い、あたかもつばめ鳴くごとし。
かくと眺むる求婚の群、がく然とおおいなる
悲哀に打たれ色を変ゆ。ゼウスは高く雷ふるい、
しるし送ればオデュセウス忍耐強き英雄は、
測り知られぬクロノスの子[2]の吉兆を喜べり。21-415
かくして彼は食卓の上にあらわに横たわる
はやき一矢の矢を取りぬ。他はうつろなるやなぐいに
収まる。これを求婚の群は間もなく味わわむ。
弓に取りたる矢をつがえ、弦と矢はずを引きしぼり、
椅子に座れるそのままに狙い定めて矢をはなつ。420
飛ぶ矢まさしく立ち並ぶ斧の真先の穴をうち、
続きてすべていっせいに穿ち通して青銅の
やじりあなたに飛び行けば、テーレマコスに叫び言う、

[1]「琵琶行」-「大弦嘈々」。
[2]ゼウスの神意深くして測られず。

『テーレマコスよ、この客は汝の館に幸いに
汝の恥とならざりき。我は狙いをあやまたず。425
弓張る事もはやかりき。求婚の群侮りて
われを責めしはあやまてり。我の力は確かなり。
今や時なり。日中にわが求婚の貴人らに
夕食備えてしかる後、吟唱および竪琴に 21-429
興を添うべし。饗宴に飾り加うる者はこれ』430

[1]日中に求婚者らをほふるべしの意。

しかく陳じて眉ひそめ、合図をなせば神に似る
オデュッセウスのめずる息、テーレマコスは鋭利なる
剣を肩のへなげかけて、手に長槍を携えて、
輝く武具に身を固め、父の近くにきと立ちぬ。


オヂュッセーア:第二十二巻


オデュッセウス第一矢をはなちてアンティノオスを射殺し、初めて皆にその身を現わす(1~41)。エウリュマコスの弁解と哀願(42~68)。戦い始まる。エウリュマコスとアムピノモスの死(69~94)。テーレマコス、武庫より武器を出す(95~115)。エウマイオス、敵の逃げ道を閉ず。メランティオス、隙を狙い、求婚者のために盾と槍とを武庫より出す(116~146)。再び狙い寄るメランティオスの捕縛(147~199)。アテーネーの助けにより槍戦幸いに終わる(200~329)。伶人およびメドーン罪なしとて宥さる(330~380)。死屍の搬出、館中の掃除のあと、罪ある女中ら殺さる。メランティオスまた殺さる(381~477)。硫黄をもって館中を浄むるオデュッセウス、のち館より来る親しき侍女らと語る(478~501)。

破れし襤褸脱ぎ棄てて知謀に富めるオデュセウス、
矢数満たせるやなぐいと弓とを取りて、おおいなる
敷居の上に立ち上り、その足もとに飛行疾き
矢をばら撒きて、求婚の群に向かいて叫び言う、

『見るや汝ら!ものすごきこれこの競技終わりたり。22-5
さはれこれまで何びともかつて射当てし事のなき
的あり。われはこれを射てアポッローンの誉れ得む』

しかく陳じてアンティノオス目がけてすごき矢を飛ばす。
折りしも彼は二つ柄の黄金製の美麗なる
大杯(おおさかずき)を手にとりて美酒を酌むべく口もとに 10
まさに挙げたり。念頭に死滅の思い露もなく。
さなり、誰かは求婚の群の中にて思い見し?
多数の中にただひとり、勇力いかに強くとも、
アンティノオスに陰惨の黒き運命来たらすと。
されども彼の喉目がけ、オデュッセウスの射放つ矢、15
やじり鋭く柔軟の首をつらぬき射通しぬ。
射られてどうと倒れたる彼は手中の杯を
落としぬ。やがてこんこんと凄く流るる紅血を
鼻孔よりしていだす彼。かたえの卓を足伸して
蹴りて倒して、あぶりたる肉と麺包一切の 20
品鮮血にまみれしむ。倒れし彼を眺め見て、
求婚の徒ら館中に異常の騒ぎ引き起し、
あわてふためき高椅子をおりて飛び出し、堅牢に
作れる壁にうち沿いて、あなたこなたに目を配る。
されど取るべき大槍も盾もひとしく見当らず。25
彼ら怒号の声上げてオデュッセウスをとがめ言う、

『客人、汝、人を射て災い招く。もはや他の
競技をなすを得べからず。汝の破滅たしかなり。
イタケー中の若人の至上の者を殺したる
汝ここにて荒ワシの餌食となりて倒るべし』30

しかく陳ずる人々は思えり、客は意思ありて
射しにあらずと。愚かなる彼らはいまだ悟り得ず、
破滅の綱は一同の上にまさしくかかれるを。
知謀に富めるオデュセウス眺めて皆に叫び言う、
『犬畜生ら、汝らは、トロイアよりの我が帰国 35
なしと思いて、わが家の産を尽せり。汝らは
我に仕える女性らを力に任せ犯したり。
我の生けるを知らずして王妃に婚を求めたり。
汝ら高く天上を治むる神を尊ばず。
今より後に来るべき人の怒りを省みず。40
破滅の綱は汝らの上に正しく今かかる』

しか陳ずれば蒼白の恐怖は皆の身を襲う。
破滅をいかに逃るべき、各々あたり見回しぬ。
エウリュマコスはただ一人彼に答えて陳じ言う、

『君はまことにこの郷に帰り来れるオデュセウス、45
わがイタケーの君ならば、アカイア人の館中の
わざ、田園の悪しきわざ咎むるところみな正し。
さはれ非行のもとたりしアンティノオスは今すでに
かなたに倒れ横たわる。彼はこれらを行えり。
彼はただただ婚姻を求め願いしのみならず、22-50
むしろ別事を——クロニオーン許さぬ事をもくろめり。
戸口(ここう)豊かのイタケーの首領たるべくもくろめり。
待ち伏せ設け君の子を暗殺すべくもくろめり。
されども彼は運命によりて今はた倒れたり。
われ君の民われ許せ。のちに国中経めぐりて 55
集めて、君の館中の飲食すべて償わむ。
牛二十頭償いとなして各人もたらさむ。
しかして君の意のままに青銅および黄金を
献ぜん。これに先だてる君の怒りはとがめ得じ』

知謀に富めるオデュセウス彼をにらみて叫び言う、60
『エウリュマコスよ、祖先より伝えて汝家の中、
所有のすべて、また他より取りて加うるものすべて、
われに贈るも、求婚の群ことごとくその不義を
償わん前、殺戮のわが腕とむることを得ず。
汝の前にあるものはわれと戦う一事のみ。65
あるは死滅の運命を避け得るものは逃るべし。
されど思うにものすごき破滅逃るる者あらじ』

しか陳ずれば一同の膝と心と緩み去る。
二度目に口を聞きたるエウリュマコスは皆に言う、

『ああ同僚よ、この者はその剛強の手をとめじ。70
彼は磨ける大弓と矢筒をすでに手にとれば、
我らをすべて倒すまで、敷居に立ちて恐るべき
羽矢飛ばしてやまざらむ。いざ戦闘を心せよ。
利剣を振るえ。早き死をもたらす矢弾防ぐべく、
卓をかざして盾とせよ。彼に向かいていっせいに 75
力合わせてうちかかれ。おそらく彼を敷居より
門より払い追うを得む。かくて市中に走り出で、
急を告ぐべし。その間、彼は最後の矢を射らむ』

しかく陳じて青銅の両刃の利剣抜きはなち、
敵に向かいてまっしぐら、猛然として物凄く 80
叫びすすみぬ。剛勇のオデュッセウスはその刹那、
羽矢飛ばして彼の胸、乳房のほとりひょうと射り、
肝臓ぐさと貫けば、エウリュマコスは手中より
剣を落として卓の上、床のへばたり倒れ伏し、
あえぎもがきて、二つ柄の酒杯ならびに一切の 85
美味を床のへまき散らし、ひたい大地にうちつけて、
心乱れて両足を伸して椅子を蹴倒して、
やがて程なく朦朧の霧に両眼覆われぬ。

アムピノモスはそのときに、鋭利の剣を抜きかざし、
オデュッセウスの英剛を目がけ、進んで突きかかり、90
部屋より外に追わんとす。されども彼に先んじて、
テーレマコスはうしろより、青銅の穂の槍飛ばし、
二つの肩のもなか突き、胸を通して貫けば、
地響きなしてどうと伏し、ひたい大地に打つけぬ。
アムピノモスを貫ける槍をそのままそこに捨て、95
テーレマコスは馳せ戻る。刺し貫ける長き槍、
引き抜く彼を敵人の一人あるいは剣に討ち、
あるいは前に屈むとき襲わんことを恐るれば。
かくて走りてすみやかにその恩愛の父のそば、
近くに立ちてつばさある飛揚の言句陳じ言う、22-100

『父君、我はいま君に盾と長槍二筋と、
よくこめかみに適すべき青銅製のかぶととを、
持ち来すべし。我もまた武装なすべし。牛豚を
飼える二人もしかすべし。武装することましなれば』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、105
『急ぎ走りて持ち来せ。孤独の我を敵人ら、
門より払い得ざるため、弓もてその間防ぐべし』

しか陳ずればその命にテーレマコスは従いて、
いみじき武具をたくわうる倉庫目がけて走り行き、
四面の盾と八張の弓と、冠毛飾りたる 110
青銅製のかぶと四個、合わせてはやく取り出し、
飛ぶがごとくにすみやかに父にもたらし、着(ちゃく)せしめ、
つぎてまさきに青銅の武具をおのれの身にまとう。
二人のしもべ同様に美々しくよろい身を固め、
計略密にぬかりなきオデュッセウスのそばに立つ。115

防ぎてその身守るべき矢のある限りオデュセウス、
狙い定めて求婚の群を一々館中に、
倒せば彼ら陸続とうち重りて地に伏しぬ。
されども飛行速き矢は今ことごとく射尽さる。
そのとき彼は身を返し、光り輝く壁に添い、120
堅固の館の戸柱に寄せて剛弓立てかけて、
四重の革の大盾に左右の肩を覆わしめ[1]、22-122
凛たる威風ものすごく頭上ゆらめく冠毛を、
付けたるかぶと、精巧に作りしものを頂きて、
穂は青銅のおおいなる二条の槍を手に取りぬ。125
堅固になりし壁に添い、裏門一つそこにあり。
美々しく建てし宮館の高き敷居のかたわらに、
通路にいたる戸口あり。畳戸しかとこを閉ざす[2]。22-128
ここに真近く立ちながら看守なすべく忠実の
家僕に命じきオデュセウス、ここの通路はただ一つ。130

[1]盾は手に取らずやはり鎧のごとく身につく。『イーリアス』12-396を見るべし。
[2]この一段不明。

そのとき伴に声あげてアゲラーオスは叫び言う、

『わが同僚よ、たそ一人裏門出でて人々に
告げずや。早く警報を起さしむるぞ急務なる。
その頃までに彼の者は最後の矢だね尽すべし』

彼に答えてヤギ飼えるメランティオスは叫び言う。135
『ゼウスの愛児アゲラーエ、その事絶えて叶うまじ。22-136
かの中庭の良き戸口あまりに近し[2]、口狭し。22-137
勇ある者はただひとりそこに多数をしりぞけむ。
さはれ今われ走り行き、君に武装を倉庫より
持ち来たすべし。オデュセウスならびに彼の光栄の 140
子息まさしくほかならず、かしこに武具を置きつらむ』

[1]呼格。
[2]オデュッセウスに。

しかく陳じてメランティオス、ヤギ飼うおのこ走り出で、
段をのぼりて堅牢の館の倉庫にすすみ入り、
盾の十二をまた槍の同じき数を、冠毛を
つけしかぶとの同数を、そこよりすぐに取り出し、145
運び帰りて求婚の群のすべてに手渡しぬ。
かくて一同すみやかに武具を穿ちて大槍を、
手に手に振るう。これを見て容易ならずと感じ知り、
さすがに猛きオデュセウス、心と膝とわななきて、
テーレマコスにうち向かい、羽ある言句陳じ言う、22-150

『テーレマコスよ、館内の侍女の一人あるはまた、
メランティオスか、我々に凄く戦い挑むらし』

彼に答えて聡明のテーレマコスは陳じ言う、
『ああ、ああ父君、我こそはその過ちを犯したれ。
他の何びとも咎あらず。かの緊密の蔵の戸を 155
開けるままに去りたるを、目ざとく敵に悟られぬ。
いざ忠実のエウマイエ、急いで蔵の戸を閉じよ。
侍女の一人かくせしや?あるいは思うメランティオス、
ドリオス生めるかの狡奴(こうど)しかなしたるや調べ見よ』

かくのごとくにかかること二人互いに陳じ言う。160
かなた再びヤギ飼えるメランティオスは、華麗なる
武具を取るべく蔵に入る。こを認めたる忠実の
牧者直ちに近寄りて、オデュッセウスに陳じ言う、

『ラーエルテース生める息、知謀に富めるオデュセウス。
見よ見よ、我ら疑いしかの者、憎き邪魔の者。165
再び蔵にすすみ入る。君明らかに我に言え。
力は彼にまさる我、彼を捕えて殺さんか?
あるいは君の館の中、彼の犯せし数々の
無道のわざを懲らすため、生かしてここに引くべきか?』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて宣し言う、170
『テーレマコスともろともに、かの驕慢の求婚の
群いかばかり荒ぶとも、この館中に抑うべし。
汝ら二人疾く行きて彼の手足をとりしばり、
倉庫の中に打ち倒し、扉きびしくうち固め、
ただちに奴の一身を縄目きびしくしばりつけ、175
高き棟木に届くまで、柱に彼をつり上げよ。
しかせば彼はながらえて厳しき苦痛味わわむ』

しか陳ずれば両僕は聞きて直ちに従いて、
内に潜める彼の目を逃れて蔵に忍び入る。
メランティオスは蔵の奥すすみて武具を探すめり。180
柱に沿いて右左二人ひそかに立ちて待つ。
ヤギ飼うおのこメランティオスやがて敷居を越え来り、
その片手には華麗なるかぶとを、他にはおおいなる
盾をたずさう(古びたるその盾かびて汚れたり。
ラーエルテース、剛勇の若き昔に帯びし物。185
今は庫中に収められ、革の縫目はゆるみたり)。
出で来る彼に飛びかかり、捕らえて彼の頭髪を
つかみ引きずり内に入れ、恐るる彼を地に倒し、
荒き縄もて両足を両手に曲げて、後方に
その背の上に縛りつけ——ラーエルテース生める息、190
忍耐強きオデュセウス命ぜしごとく縛りつつ、
かくして彼の全身を縄目きびしく縛りあげ、
高き棟木に届くまで柱に彼をつり上げつ。
その時牧人エウマイエ、汝あざけりかく言えり、

『メランティオスよ、よもすがら、飽くまでここに看守せよ。195
汝にまさにふさわしきこの柔軟の床に寝よ。
オーケアノスの大水をいずる黄金の座の女神、
やがて汝は見逃さじ。時はまさしく求婚の
群に食事を備うべくヤギをかの屋に引く頃ぞ』

かくして彼は恐るべくいましめられて残されぬ。22-200
かくして二人武具を着け、輝く扉閉ざす後、
計略密にぬかりなきオデュッセウスのもとに行く。
息巻き猛き敵味方、面して立てり、敷居のへ。
こなたは四人、部屋の中かなたは多数みな強し。
そのとき女神アテーネー、ゼウスの愛女近寄りぬ。205
相好および音声(おんじょう)はさながら似たりメントール。
見て喜べるオデュセウスそれに向かいて陳じ言う、

『ああメントール、わが破滅救え。良き事尽したる
汝の友を思い出でよ。われらの齢また同じ』

人を鼓舞するアテーネー来たると推しかく言いぬ。210
同じくかなた求婚の群かしましく声をあぐ。
ダマストールの生める息、アゲラーオスはまず叱る、

『ああメントール、戒めよ。オデュッセウスに誘われて、
我と戦うことなかれ。彼を助くることなかれ。
見よ見よ、我ら一同の願い必ず成るべきぞ。215
これら無残の父と子を、我ら一同倒す後、
この館中に汝今たくらむ事の報いとし、
汝同じく殺されむ。汝命を失わむ。
われ青銅の武器を取り汝の命を絶やす後、
汝の資財——内なるもあるいは野外にあるものも 220
奪いて、これをオデュセウス持てる資財と混ずべし。
汝の子女ら館中にながらう事を許すまじ。
汝の妻がイタケーの都市を逃るを許すまじ』

しか陳ずればアテーネー、心おおいにいきどおり、
怒りの言句叫びつつ、オデュッセウスを叱り言う、225

『ああオデュセウス、汝いま勇気と力失えり。
玉腕白きヘレネーの故より九年長らくも、
トロイア人と戦いて、あまたの敵を乱軍の
戦場中にうち取りて、あるいは奇計たくらみて、
街路の広きイーリオン落とせし汝今いかに!230
おのれの館と領土とに帰り来りて汝いま、
敵に対して勇なしと自ら思い悲しむや?
いざここに来てわがそばに立ちて我がわざ眺め見よ。
多数の敵にうち向かい、汝の先の恩恵を
今ぞ報ゆるメントール、アルキモスの子なすわざを』235

しかく陳じぬアテーネー。しかしていまだオデュセウスと、
テーレマコスに十分の勝利授けず。父と子の
勇気と力ためすべく、念を凝らせるアテーネー。
煙に暗き館中の棟木にやがて飛びあがる
女神はすぐに身を変じ、燕となりてそこに座す[1]。22-240

[1]1-320、3-372。

ダマストールの生める息アゲラーオスともろともに、
エウリュノモスは一同を励ます。アムピメドーンまた、
同じくデーモプトレモス、ペイサンドロス、さらにまた
ポリュクトールの生める息ポリュボス——これら一同の
中にもっとも猛き者、命のために戦えり。245
他ははやすでに剛弓と矢弾によりて倒れたり。
アゲラーオスはそのときに伴に向かいて叫び言う、

『ああ同僚よ、彼はいま恐るべき手を収むべし。
高言吐きてメントールはや出で行きて彼らのみ
あとに残され、まっさきの戸口に立ちて戦えり。22-250
汝らすべていっせいに大槍飛ばすことなかれ。
中の六人まっさきに飛ばせ。あるいはクロニオーン、
オデュッセウスを傷つけて、我らに誉れ与えんか?
もしよく彼を倒し得ば、他は顧みる要あらず』

しかく陳ずる言を聞き、一同やがて猛然と 255
槍を飛ばせり。しかれども効あらしめずアテーネー。
槍のあるもの堅牢に築ける館の柱打ち、
またあるものは緊密に閉ざせる扉、あるものは
青銅重きやじりもて、むなしく壁につきささる。
かくて彼らの投げ飛ばす鋭き槍を逃れ避け、 260
忍耐強きオデュセウス、従者に向かい叫び言う、

『ああ同僚よ、汝らに我いま命ず。求婚の
群に向かいて槍飛ばせ。彼らはさきに犯したる
罪に加えて、さらにまた我らを討つを志す』

しかく陳じて同僚と共に鋭き槍飛ばし、265
狙いてデーモプトレモス射て倒したるオデュセウス、
エウリュアデース倒したるテーレマコスに、相次ぎて
エウマイオスはエラトスを、ペイサンドロスを牛飼いが
倒せば、彼らいっせいにうつぶし床にかみつきぬ。
残りの敵はしりぞきて部屋の奥へと潜み去る。270
こなたは急ぎ飛び出し、死屍より槍を引き抜きぬ。

やがて再び盛り返し、敵は一同猛然と
槍を飛ばしぬ。しかれども効あらしめずアテーネー。
槍のあるもの堅牢に築ける館の柱打ち、
またあるものは緊密に閉ざせる扉、ある物は 275
青銅重きやじりもて、むなしく壁につきささる。
アムピメドーンは槍投げてテーレマコスの手首(たなくび)を
かすめぬ。つらき青銅は皮膚のおもてを傷つけぬ。
クテシッポスの大槍はエウマイオスの盾の上、
肩をかすめて飛びこして、やがて大地の上に落つ。280
そのとき聡きオデュセウス、鋭き槍を同僚と
ともに飛ばして、求婚の群れをめがけて狙い射る。
都城破壊のオデュセウス、エウリュダマスを打ち倒し、
アムピメドーンをテレマコス、エウマイオスはポリュボスを 
打てり。しかして牛飼える彼はうち取るクテシッポス。285
その胸射りて傲然と彼に向かいて叫び言う、

『ポリュテルセース生める子の汝みだりにののしりぬ。
さもあれもはや愚かにも高言放つことなかれ。
言句を神に託せずや。神ははるかにいやまさる。
わが英剛のオデュセウス、館をめぐりて乞える時、290
汝は彼に牛の足投げたり。報い今かくぞ』22-291

[1]20-299。

角の曲れる牛飼える彼はかく言う。オデュセウス、
ダマストールの子に近く大槍飛ばし打ち当てぬ。
エウエーノール生める息、レイオクリトスの脇腹を、
テーレマコスは狙い射り、裏かくまでに貫けば、295
がばと倒れてうつぶして、ひたい大地に打ちつけぬ。
折りしも女神アテーネー、見る目もすごきアイギス[1]を 22-297
館中高くうちかざし、皆の心をおびえしむ。
皆はあたかも昼長き春の季節に、騒然と
牛の一群、とび掛るあぶに襲われ逃ぐるごと、22-300
あわてふためき館中をみないっせいに逃げ走る。
くちばし曲がり爪曲がる荒ワシ山を舞い下り、
小鳥の群を猛然と襲えば、群は平原に
沿いて雲より遠く下ひくく飛びつつ逃げて行く。
逃げ行く群を猛鳥(もうちょう)は襲いほふれば防ぎなく、305
ついに逃るる者あらず。眺むる目には楽しかり。
かくのごとくに求婚の群館中を逃げ行くを、
四角八面襲い討つ。討たれてうめく一同の
頭裂かれて淋漓たる紅血床にみなぎりぬ。

[1]『イーリアス』の5-738以下詳説。

レイオーデースそのときに走り来りてオデュセウス、310
その膝抱き哀願の言句陳じて彼に言う、

『オデュッセウスよ、願わくは我を憐れめ。侮どるな。
我は言語に行ないに、この館中の女性らを
絶えて犯ししことあらず。他の求婚の群の中、
かくなすものを我むしろ諫むることにつとめたり。315
されども彼ら我が言を用いず。悪しき手を引かず。
かくしてついに凶行の報いを彼らかち得たり。
かれらの中の占者たるわれ罪なくて逝くべきか!
過ぎし昨日の善行に感謝はついにあらざるか!』

知謀に富めるオデュセウス、目を怒らして答え言う、320
『彼らの中の占者ぞと、汝自ら称うるや?
さらばしばしば館中に汝は祈り言いつらむ。
ここに故郷にわが帰着、うれしきことのあらざれと。
王妃汝につれそいて汝に子らを生むべしと。
つらき死滅をいかにして汝逃るることを得ん!』325

しかく叫びて剛強の手に取り上げし利き剣、
アゲラーオスが倒されて大地に棄てし利き剣、
こを振りかざし敵の首まなか狙いて切りおろす。
切られて叫ぶ彼の首落ちて塵中転げゆく。

テルピアデース・ペーミオス、伶人強いて迫られて、330
かの求婚の群のそば、歌いし者は死を逃れ、
後門近く、洋々の調べいみじき竪琴を
手にして立ちて、両様に思いを胸にめぐらしぬ。
館逃れ出でおおいなるクロニオーンの堅固なる
祭壇——そこにその昔、ラーエルティアデー・オデュセウス、335
あぶりて神に牛の腿捧げし場所に座すべきか、
急ぎ走りてオデュセウスの膝を抱きて乞うべきか?
思案凝らして末ついに、彼は定めぬ。オデュセウス、
ラーエルテース生める子の膝を抱きて乞うべしと。
かくして彼は竪琴を、銀鋲うてる椅子および 340
酒を混ずる大瓶の間(あい)に地上に横たえて、
急ぎ走りてオデュセウスの膝を抱きて慇懃に、
哀しみ告げてつばさある飛揚の言句陳じ言う、

『オデュッセウスよ、願わくは我を憐れめ、侮るな。
神明および人間の前に吟ずる伶人を 345
殺さば、後におおいなる悲哀は君におよぶべし。
我は独学、師を持たず。あらゆる歌を神明は、
わが胸中に吹き込めば、神と君とに歌い得む。
かくあるゆえにわが喉を切らんと思うことなかれ。
しかして君の愛児たるテーレマコスは陳ずべし。22-350
われこの館におとずれて、酒宴の後に求婚の
群に我が歌いしは、願いにあらず、意にあらず。
我にまされる強力の多数に駆られ、しかせしを』

しか陳ずるを力あるテーレマコスは耳にして、
近くたたずむその父に向かい、直ちに陳じ言う、355
『彼は罪なし。青銅の刃に彼を討つなかれ。
さらにメドーンを——館中にいとけなかりし我の身を
守りししもべ許すべし。ピロイティオスか、豚飼いの
エウマイオスか、今すでに彼を殺せしことなくば、
あるいは彼は館中に雄叫ぶ君に会わざれば』360

しか陳ずるを怜悧なるしもべのメドーン耳にしぬ。
彼は新たに剥がれたる雄牛の皮に身を包み、
高椅子の下うずくまり、死の運命を逃れ得き。
雄牛の皮を脱ぎ捨てて、椅子の下より飛び出でし 
しもべのメドーンはすばやくもテーレマコスの膝いだき、365
哀願しつつつばさある飛揚の言句陳じ言う、

『ああ君、我はここにあり。君は打たざれ。父君に
また告げよかし。彼の産尽くして君を愚かにも、
敬わざりし求婚の群いきどおる余波として、
利き青銅の刃もて我が一命を絶たざれと』370

知謀に富めるオデュセウス、ほほえみ彼に陳じ言う、
『憂うるなかれ、わが愛児。すでに汝を助けたり。
かくして汝、心中に悟り、他にまた説き得べし。
善の行為は悪よりもはるかにまさりすぐるるを。
いざいま汝、館内を去りて出で行き、中庭に 375
屠殺の庭を遠ざかり、座せ、伶人ともろともに。
我はなすべき我がわざをこの館中に終わるべし』

しか陳ずれば両人は館中辞して出でて行き、
偉なるゼウスの祭壇のかたえに座して、おちこちを
眺め、戦々恐々と、絶えず一命危ぶみぬ。380

はたまたこなたオデュセウスあまねく部屋を見わたしぬ。
敵のある者運命を逃れて潜みおらずやと。
されど眺めぬ、一同がみなことごとく倒れ伏し、
血潮と塵にまみるるを。例えば漁夫が灰色の
海よりその目細やかの漁網に引きて、屈曲の 385
渚のうえに打ち上ぐる魚群に似たり。鱗族は
群れて砂上に横たわり、波浪を恋うる程もなく、
やがて煌々日は照らし、その生命を奪い去る。
かくのごとくに求婚の群重なりて横たわる。

知謀に富めるオデュセウス、テーレマコスに向かい言う、390
『テーレマコスよ、いざ行きてエウリュクレイア、忠実の
うば連れ来れ。胸中に思う所を語るべし』

しか陳ずれば恩愛の父の言葉に従いて、
テーレマコスは戸をたたき、エウリュクレイア呼びて言う、
『わが屋の中に一切の侍女をひきいる老婦人 395
エウリュクレイア、身を起し、ここに来よかし。わが父は
汝を呼べり。胸中の彼の思いを告ぐるため』

しか陳ずれば老婦人、言語羽なく黙然と、
華麗に住めるその部屋の扉開きて現われて
すすめば、これを導きてテーレマコスは先に行く。22-400
老女は入りて、オデュセウス、死体のそばに鮮血に
まみれて立つを眺め見る。野飼いの牛を噛み殺し、
むさぼり尽しライオンが現われ来るを見るごとし。
その獣王の胸および左右の頬は、殺されし
無残の牲の暗紅の血潮に染みて物凄し。405
かくのごとくにオデュセウス、鮮血あびて物凄し[1]。22-406
言句にあまる血の流れ、死体のすごさ眺め見て、
さばかり猛き戦いのありしを思う老婦人、
思わず声を立てんずる。そをいましむるオデュセウス、
彼女に向かいつばさある飛揚の言句陳じ言う、410

[1]「・・足と上なる手とが血にまみる」(直訳)。足と手ばかりにあらざるべし。

『老女よ、ただに胸中に喜べ。叫ぶことなかれ。
殺害されし人々に向かい誇るは聖(きよ)からず。
かれらをおのが悪業と神の命とはほろぼせり。
良き者あるは悪しき者、地上に住める人間の 22-414
彼らを訪いて来し時に、彼らは絶えて敬わず。415
かかる非道の報いより彼ら無残の死を遂げぬ。
さはれ、いざいま館中の女性につきてわれに言え。
我侮りし者は誰そ、罪なき者はまた誰そや?』

エウリュクレイア、親愛のうばはそのとき陳じ言う、
『育てし殿よ[1]、一切の真実我は陳ずべし。22-420
君の館中奉仕する女性はすべて五十人。
あるいは羊毛けづるべく、あるいは侍女の役すべく。
我は彼らの一切になすべきわざを教えたり。
彼らの中の十二人、邪道に足をふみ入れて、
われを崇めず。さらにまたペーネロペイア尊ばず。425
テーレマコスの成人はいまだ日浅し。母君は
彼にこれらの女性らを指揮することを止どむなり。
さはれ我いま荘厳の楼上さして上り行き、
王妃にいわむ。ある神は彼女に眠り与えたり』

[1]直訳すれば「わが子よ」、もし「若君」と訳さばテーレマコスと誤るべし。

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、430
『王妃をいまだ起さざれ。先に非行を企てし、
女性らここに来るべく、汝まずいま行きていえ』

しか陳ずれば老婦人、女中に彼の命伝え、
ここに促がし来すべく館中、過ぎて出でて行く。
しかして彼は今こなた、テーレマコスと牛飼と、435
豚飼う者を呼び集め、羽ある言句陳じ言う、

『まず女中らの手を借りて死体を外に運び去れ、
次に華麗の高椅子と卓の汚れをことごとく、
海綿および水をもて洗い流して清むべし。
しかして館をことごとく整え元に返すのち、440
固く築けるこの館の外に女中ら引き立てて、
トロス[1]と庭の良き塀の間(あい)の空地に連れて行き、22-442
長剣抜きて切り倒せ。彼らの命奪うまで、
しかして彼らひそやかにかの求婚の群と共、
語らい合いし快楽のアプロディーテー[2]忘るまで。22-445

[1]あずまや?不明。
[2]「恋愛」の抽象語を恋愛の女神に代う。「アレース」を武勇に換うるごとし。

しかく陳ずる程もなく女中らすべて一団に、
慟哭しつつはらはらと涙流して入り来る。
彼ら真先きに倒されし死骸すべてを運び行き、
良き塀のある中庭の柱廊のもと下ろし据え、
死骸互いにもたせ合う。親しくこれをオデュセウス 22-450
令し迫りぬ。迫られて女中ら死屍を運ぶ後、
次に華麗の高椅子と卓の汚れをことごとく、
海綿および水をもて洗い流してうち清む。
テーレマコスと牛飼とエウマイオスはもろともに、
造営美なる館の土間、巧みに鋤をかきならす。455
そのかき屑を女中らは戸外に運び捨てさりぬ。
彼らは館をことごとく整え、元に返すのち、
固く築ける館の外、女中らすべて引きたてて、
トロスと庭の良き塀の間(あい)の空地に連れて行き、
のがれ出づべきすべのなき手狭の場所に閉じこめぬ。460
そのとき、皆に聡明のテーレマコスは陳じ言う、

『我の頭に我が母の頭に誹謗こうむらせ、
求婚者らと共に寝しこれら恥なき女性らの
命(いのち)を絶つに潔(いさぎよ)き利剣いかでか用うべき!』

しかく陳じて彼は今、へさき緑の船の綱 465
とりて大なる円柱に結び、トロス[1]に投げかけて、22-466
高くつりあげ、何びとも足地に触るを得ざらしむ。
つばさの長きツグミまた鳩がねぐらに急ぐ時、
藪のしげみに張られたる鳥網にかかり、痛ましき、
最後の床に可憐なるその一命を絶つごとく、470
女性ら共にいっせいに並ぶる頭、そのめぐり、
輪なわまといて悲惨なる最後彼らに遂げしめぬ。
足揺るがしてもだえしも、ただ寸時(すんじ)のみ長からず。

[1]442。

戸口、中庭うち過ぎてメランティオスを引きて来し 
者らはすごき刃もて彼の耳鼻切り落とし、475
さらに陰部を切り取りて直ちに犬に食らわしめ、
怒りのあまり両足と両手を共に切り落とす。
続きておのが両足と両手を水に洗い去り、
オデュッセウスの館に来ぬ。わざは終わりぬ、遂げられぬ。
そのとき主人いとしめるエウリュクレイア呼びて言う、480

『うばよ、汚れを払うべき硫黄もたらせ。わが館を 22-481
清めんために我に火をもたらせ。汝さらにまた、
ペーネロペイア侍女と共ここに来れと命じ言え、
また館中の一切の女性らここに呼び来れ』

[1]『イーリアス』16-228、硫黄をもって杯を清む。

エウリュクレイア、親愛のうばはそのとき陳じ言う、485
『育てし殿よ、これらをば君はけなげにのたまえり。
さはれおん身にまとうべく上衣下衣を今君に
われもたらさむ。襤褸もて広き両肩覆いつつ、
この館中に立つなかれ。とがの種となりぬべし』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、490
『何より先に館中に我にまず火を持ち来せ』

しか陳ずれば、忠実のエウリュクレイア従いて、
火と硫黄とをもたらしぬ。オデュッセウスはこれをもて、
広間を館を中庭をみなことごとく浄め得ぬ。

老女はやがて華麗なるオデュッセウスの館過ぎて、495
行きて侍女ら[1]に命伝え、促し、来りすすましむ。22-496
侍女らはやがて松火を手に携えて出で来り、
オデュッセウスを取り囲み、喜び迎え、かき抱き、
彼の頭に、両肩に、両手に触れて、口つけて、
その慇懃の情漏らす。侍女らすべてを認め得し 22-500
主人を、泣きて喜ばむ甘美の願いうちおそう。

[1]前文415、罪なき者。


オヂュッセーア:第二十三巻


エウリュクレイア行きて王妃に主人の帰着を報ず(1~84)。王妃促され、出で来りて主人に面すれどもいまだ信ぜず(85~116)。その間オデュッセウスは館中の殺害の報、外に漏れざるよう、計りて人々に歌舞せしむ(117~151)。オデュッセウス浴して華麗なる衣をまといて王妃に面す。王妃は確かな証を得て初めて十分に信じ大歓喜す(152~230)。両人の歓話。テイレシアスの予言の話(231~288)。歓会の後オデュッセウス十年の漂浪を物語る(289~343)。臥所を離れてオデュッセウス、老父を農園に訪わんとてテーレマコスらと共に出発(344~372)。

そのとき、老女嬉々として笑いさざめき、楼上る。
良人まさに館中にありと王妃に告ぐるため。
膝はすばやく動けども足はしばしばつまずきて、
行きて王妃の枕もと立ちてすなわち陳じ言う、

『ペーネロペイア、いとし子よ、起き出でたまえ。長らくも 23-5
つねに憧れ望みたるその事まみに見んがため。
遅かりしかど、この館にオデュッセウスは帰り来ぬ。
館を悩まし、産尽し、テーレマコスをしいたげし
かの驕傲の求婚の群を彼いま倒したり』

ペーネロペイア、聡明の王妃答えて彼に言う、10
『うばよ、汝を神々は狂わしめたり。神々は
すぐれて聡きともがらを愚物に変じ、さらにまた、
思慮なきものを分別の道にすすむる力あり。
さきには思慮の固かりし汝を彼らそこなえり。
何ゆえ汝乱言を吐きて、悲哀に閉ざさるる 15
われをかくまで愚弄する?何ゆえ我を捕えつつ、
まぶたおおえる甘眠を破りて我を目覚すや?
言に尽せぬ忌わしのイリオンさして、オデュセウス
起てるこのかた、我いまだかかる甘眠なかりけり。
いざ今汝楼くだり女性の部屋に帰り去れ。20
我に仕える女中らの中のある者、かかること
来りて告げて、眠りより我おどろかし覚しなば、
我はただちに荒らかに叱りて部屋に帰るべく
命ぜしならむ。汝をば老いに免じてしかなさず』

エウリュクレイア、親愛のうばはそのとき陳じ言う、25
『いとしの君を我いかで愚弄なすべき!さにあらず。
オデュッセウスはまさしくもわれ言うごとく内にあり。
彼らがさきに館中に辱めたる客は彼。
テーレマコスは早くよりかれ館中にあるを知る。
されども彼は、細心に父の計略隠しにき。30
かの驕傲のともがらの非道を懲らし得んがため』

しか陳ずれば喜びて王妃は床を飛び離れ、
うばを抱きてはらはらと両のまみより涙垂れ、
うばに向かいてつばさある飛揚の言句陳じ言う、
『いとしのうばよ、我に今まことをうち明け語れかし。35
まさに汝の言うごとく良人帰り来しならば、
ただ身一人にいかにして、恥なき彼ら求婚の
群にその手を加え得し?彼らはつねに多数なり』

エウリュクレイア、親愛のうばはそのとき陳じ言う、
『我は見ざりき、問わざりき、ただ殺されしともがらの 40
うめきを聞きて、堅牢に築ける家の奥深く、
戸の緊密に閉さるる中に恐れて座しいたり。
テーレマコスは——君の子は——やがて来りてわれ呼びぬ。
オデュッセウスの命により、我を呼ぶべく彼は来ぬ。
呼ばれて行きて、オデュセウス死屍の間に立つを見ぬ。45
獅子のごとくに鮮血にまみれて立つを我は見ぬ。
彼らは固き床の上、彼をめぐりて倒れ伏し、
重なり合いて横たわる。君もし見なば喜ばむ。
死体はすべて中庭の門のほとりに集められ、
彼は華麗の館内を硫黄を用い、火を起し、23-50
清め、しかしてまた君を呼ぶべく我を遣わしぬ。
いざ今我に付き来れ。君二人とも数々の
苦難忍べり。今こそは心歓喜に入るべけれ。
長きにわたり願われしこと、今すでに遂げられぬ。
主人は家につつがなく帰り来りて君および 55
君の愛児を眺めたり。無礼に彼をしいたげし
求婚の群一切をかれ館中にほろぼせり』

ペーネロペイア聡明の王妃答えて彼に言う、
『うばよ慎め、嬉々としてさざめき誇ることなかれ。
汝知るべし。館中に彼の歓迎いかばかり、60
中にも我と我子との喜びいかに、汝知る。
さもあれ汝言う所、まことの言と思われず。
かの求婚のともがらの驕慢および悪行を
怒りて不死の神明のあるものこれをほろぼせり。
地上に住める人間の善き者あるは悪しき者、23-65
彼らを訪いて来し時に彼らは絶えて敬わず。
悪行ゆえに災いを彼らは受けぬ。オデュセウス
さはれ帰郷を失えり、彼自らもはや逝けり』

[1]22-414~415。

エウリュクレイア、親愛のうばはそのとき陳じ言う、
『歯の防壁を漏れいずる何たる言ぞ!いとし子よ、70
炉(いろり)のそばに良人の今ましますを知らずして、
帰りこずとは何事ぞ!疑いつねに深き君!
さらば、いざ他の明らかの証拠を君に語るべし。
真白き牙に猛き猪(い)が彼を噛みたる傷跡を。
主人の足を洗う時、我明らかにこれを見て、75
君に告げんと願えりき。されども彼は大智もて、
その手を上げて我の口、塞ぎて言を抑えたり。
いざ付き来れ。一命を賭けつつ我は誓うべし。
我もし君を欺かば、われを無残に殺せかし』

ペーネロペイア、聡明の王妃それに答えて陳じ言う、80
『うばよ、いかほど賢くも常住不死の神明の
深き心を探ること、汝の身には叶うまじ。
さはれ、ともかく今行きて愛児に会いて求婚の
群の死体を眺むべし。殺せる人を眺むべし』

しかく陳じて高楼をおりくる王妃、心中に 85
種々に思えり。良人に離れて物を問うべきか?
かたえに立ちて彼の手と頭に口を付くべきか?
やがて館中すすみ入り、石の敷居を通り過ぎ、
オデュッセウスと相向かい、照らす火光(かこう)のただ中に、
こなたの壁に添いて座し、夫はかなた巨大なる 90
柱の前に見下して座しぬ。親しくまみに見て、
すぐれし王妃何事か言い出すやを期待しぬ。
されども彼女驚愕に打たれて座して物いわず。
時には彼の面影をまことに眺め認めしも、
時には襤褸まといたる彼を信ずることを得ず。95
テーレマコスはかくと見て母を叱りて叫び言う、

『あわれ母人無情なり。心なにとてかく硬き?
何ゆえ父に離るるや?何ゆえ彼のそばに座し、
口を開きて問わざるや。あらゆる事を聞かざるや?
多くの難儀身にうけて春秋めぐる二十たび、23-100
かくして郷に良人の帰り来る時、かたくなに
心固めて近よらぬかかる女性は他にありや?
あわれ母人、石よりも硬きは君の心なり』

ペーネロペイア、聡明の王妃それに答えて陳じ言う。
『愛児よ、我は胸中の心にいたく驚けり。105
我は物言うことを得ず。また問い正すことを得ず。
まともに彼の面影を眺むるを得ず。ふるさとに
帰り来りしオデュセウス、はたして真に彼ならば、
我ら互いにさらによく知るすべあらむ。他の人に
知られず。ただに二人のみ知れる一つの証拠あり』 23-110

[1]下文188前後にいうところ。

忍耐強きオデュセウス、その言聞きて微笑みて、
テーレマコスにすみやかに羽ある言句陳じ言う、

『テーレマコスよ館中に我をためすを母人に、
許せ。しからばすみやかに確かに母は悟るべし。
垢(あか)にまみれて見ぐるしき襤褸をわれのまとうため、115
彼女は我を侮りて我を主人と認め得ず。
それはさておき、最善の道をいまはた極むべし。
民衆中の一人を、ある他の者が殺す時、
その一人のあだ報う友はすこぶるとぼしくも、
殺せる者は親戚と祖国をあとに逃るべし。120
いわんや我はイタケーの青年中の最優者、
都市の柱石殺したり。これに関して熟慮せよ』

彼に答えて聡明のテーレマコスは陳じ言う、
『熟慮は父よ、君の任。人々は言う、君よりも
まされる智慮は世になしと。死して朽つべき人間の 125
中の誰しも智において君に競うを得べからず。
情念せつにわれ今は君にしたがい進むべし。
我あえて言う、凛々の勇気いささか身に欠かず』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『しからば我は最善と思うところを陳ずべし。130
まさきに汝湯浴みして華麗の衣、身に着けよ。
また館中の女性らに美服まとえと命じ言え。
手の玲瓏の竪琴をとりて尊き伶人は、
興味豊かに舞い踊る人々一同率ゆべし。
しからば道を通る者、あるいは近く住める者、135
外よりこれを聞き取りて婚儀の宴を思うべし。
しからば我に農園の樹木の繁み訪わん前、
かの求婚のともがらの屠殺の報は都市中に、
広く伝わることなけむ。かしこに行きてもろともに、
何たる策をクロニオーン恵むや?思いめぐらさむ』140

しかく陳ずるその言句聞きて一同従いて、
まさきに湯浴み、身を浄め華麗の衣まとうれば、
女性ら共に身を飾る。手に玲瓏の竪琴を
取る神聖の伶人は彼らの胸に甘美なる
歌の願いを、おもしろき舞の願いを起さしむ。145
やがて舞踊の男子らと帯うるわしき女性らの
足ふみならす響きより、巨大の館はどよめきぬ。
そのどよめきを館の外、聞きたる者は陳じ言う、

『さては多数の言い寄りし王妃は遂に婚せしな!
無残なるかな、契り来しその良人の帰るまで、23-150
操を通し、その館を守り保つをあえてせず』

事の真相知らざりしあるものかくは陳じ言う。
その間に家事の司なるエウリュノメーは、館中に
オデュッセウスを浴せしめ、身にオリーブの油ぬり、
華美の外衣と下着とを肌の回りにまとわしむ。155
しかして女神アテーネー、彼の頭に美を注ぎ、
前よりさらに丈高く、また逞しく見えしめつて、
ヒュアキントスの花のごと巻毛豊かに垂れしめぬ。
女神パルラス・アテーネー、ヘーパイストスもろともに
あらゆる技巧授けたるすぐれし匠、白銀の 160
上に黄金引きのばし、いみじき作を成すごとく、
彼の頭と両肩に優美の影は投げられぬ。
かくて浴場出で来る姿は神を見るごとく、
前に座したる高椅子に再び寄りて欣然と、
妻にまともに相向かい、羽ある言句陳じ言う、165

『奇怪なるかな、オリンポス住む神々は一切の
女性を越して冷酷の心汝に与えたり。
多くの難儀身に受けて春秋回る二十たび、
かくして郷に良人の帰りくる時、かたくなに
心固めて近よらぬ、かかる女性は他にありや!170
うばよ、わがため床を敷け。我その上に休らわん。
ああこの女性、胸中の心鉄より成れりけり』

ペーネロペイア聡明の王妃答えて彼に言う、
『怪しき君よ、いささかも我は君をし重く見ず。
また軽んぜず、驚かず。君もし真に彼ならば、175
イタケーよりし船出せし君の御姿よく知れり。
そはともかくも、親愛のエウリュクレイア、彼のため 
床を敷けかし、堅牢の彼の作れる室の外(と)に。
そこにしつらう床の上、羊毛および輝ける
華麗の布を、もろもろの夜具を残らず備えせよ』180

その良人を試すべく、しか陳ずればオデュセウス、
憤然として聡明の妻に向かいて叫び言う、

『女よ、汝かくまでも無情の言句吐きしよな!
我が床よそに移せるは何者なりや?神来り、
その意のままにたやすくもこれを移すにあらずんば。185
しかすることは熟練の人にとりても難からむ。
死して朽つべき人間の誰しも、若く強くとも、
これを動かすことを得ず。よく作られし床のへに、
大なる記号施さる。しかなしたるはまさにわれ。
柱のごとく巨大なる幹を有せるオリーブ樹、190
緑葉繁く中庭の中に挺々(えんえん)そばだちき。
これをめぐりて寝室を、石を並べて築き建て、
仕上げて上に堅牢の屋根をふきつつ、さらにまた、
よく緊密に組み上げし扉をこれに付け足しぬ。
しかして次にオリーブの緑葉しげる枝を切り、195
青銅の斧根元まで樹幹の皮をはぎ去りて、
巧みにこれを滑らかに削り、尺度をおしあてて、
床の柱と直くして、錐を用いて穴穿ち、
はじめはかくのごとくして、ついにふしどを作り上げ、
象牙と銀と黄金を用いてこれの飾りとし、23-200
紅紫(こうし)かがやく牛王の革ひもこれに伸し張りぬ。
汝に示す証はかく。しかはあれども我知らず、
かの床今もそのままに、ありやあるいは何びとか、
すでにかの木の幹切りて別所に移し去りたりや』

オデュッセウスの陳じたる確かの証拠認めたる 205
王妃、そのときその場所に膝と心とくずおれて、
涙流して駆け寄りて、両のかいなを良人の
首に投げ掛け、その口を頭に付けて叫び言う、
『ああオデュッセウス、他の事に人中もっとも賢かる 
君いま怒ることなかれ。我ら二人の添い遂げて、210
若き盛りを楽しみて、やがてもろとも老境に
入るをねためる神々は、これらの苦難もたらせり。
初めに君を見たる時かくのごとくに喜びて、
迎えざりしを今さらに君願わくは怒らざれ。
我を訪い来る人間のある者、甘き言句もて 215
あざむくことを恐れつつ、胸の中なるわが心、
つねに震えり。悪行をたくらむ者の多ければ。
クロニオーンの生みなせるアルゴス生まれのヘレネーも、23-218
他日再びその郷に、武勇ひいでるアカイアの
子らに連れられ、帰るべき運命知らば、外国の 220
人[2]のかたえに愛欲の床に就くことなからまし。
恥ずべき行為犯すべく、ある神[3]彼女いざなえり。23-222
我ら二人の悲しみのもととなりし狂盲の
思いを、彼女そのはじめその胸中にもたざりき。224
さはれ君今わが寝屋の記号委細に物語る。225
他の何びともこの秘密かつて眺めしことあらず。
こを知る者は君と我、さらに一人の侍女ばかり。
嫁ぎし時にわが父がわれに与えし一女性、
そはアクトール生みしもの、寝屋の扉を守るもの。
今こそ硬きわが心君の御言にくずおれる』230

[1]以下224行までアリスタルコスは省く。前後に関係なし、無用なり。
[2]パリス。
[3]アプロディーテー。

しか陳ずれば慟哭の思い今更いや増さる 
彼は、うれしき聡明の妻を抱きて涙垂る。
狂える風と大波に吹き乱さるる堅牢の
船を怒りのポセイドーン、大海原にくだく時、
からくも波浪逃れたるただ少数の船人は、235
身に塩垢をまみらして泳ぎて岸につくを得て、
九死の中に一生をかち得て岸に上る時、
欣然として陸上の姿眺めてよろこべる。
まさしくかくも良人をペーネロペイア眺め得て、
よろこび、首のまわりより玉の腕(かいな)を離し得ず。240
よろこび泣ける両人の上に、薔薇(そうび)の色の指
持てる女神は出でつらむ。されど明眸アテーネー、
計りて長き「夜」の旅とどめ、同じく黄金の
椅子の女神を水深きオーケアノスの岸の上、
とどめ光を人界に持ち来すべき俊足の 245
ラムポスおよびパエトーン[1]、両馬御すを得ざらしむ。23-246

[1]「光る者」と「照らす者」。

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『妻よ、すべての争いの結果いまだし近づかず。
後に無量の苦難あり。つらくて多し。しかれども、
その一切をことごとく成し終わること我の任。23-250
友をともなう我が帰国求めてむかし冥王の
宮に親しく下りたる、その日にわれに慇懃に
テイレシアスの亡霊が述べし予言はかくありき[1]。23-253
それはさておき、今はいざ、寝屋に行くべし。愛妻よ、
そこに寝ねつつ甘美なる眠りの郷に入らんため』255

[1]11-119または下文267
ペーネロペイア、聡明の王妃答えて彼に言う、
『ふしどは君の望むまま、たちまち設け得らるべし。
神明すでに君をして祖先の郷に、堅牢に
築ける館に、つつがなく帰り来たるを得さしめぬ。
さもあれ神が告げ示し、君が心に銘じたる 260
その難題を聞かまほし。後にいたりて聞くもよし。
さもあれ今にすみやかに聞き得ることは悪しからず』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『いぶかしきかな、いかなれば汝はせつに我をして
これらの事を述べしむる。汝の心、わが心 265
うれしき事にあらねども、さはれ包まず語るべし。
テイレシアスの亡霊はわれに命じき、櫂を手に
とりてあまねく人間の作れる都市を巡り行き、
かくして末に、海洋を見たることなく食物に
塩を混(こん)ぜぬ不思議なる人種の郷に行くべしと。270
これらの民はくれないに頬を染めたる船知らず、
船のつばさと称うべき扱いやすき櫂知らず。
彼また我に明らかの徴しを述べき。今告げむ。
彼は命じぬ。我が旅に他の旅人に出で会いて、
わが逞ましき肩のうえ箕(み)を担えりと言わん時、275
そのとき櫂を地の上に植えて、しかしてポセイドーン、
海を領する大神に、雄羊雄牛さらにまた、
雌いどむ家猪、牲として捧げまつりてしかる後、
祖先の郷に立ち返り、広き大空領とする
そのもろもろの神明に順に従い、神聖の 280
牲をよろしく捧げよと。しからば海を遠ざかり、
絶えて苦痛を伴わぬ死は来るべし、老境に
静かに沈むわが上に。我をめぐりて民衆は
栄え富むべし。かかる事みな成るべしと彼言いき』

ペーネロペイア聡明の王妃答えて彼に言う、285
『神明、君に先よりもまさる老境来たらさば、
しからば難儀逃るべき君の望みは豊かなり』

かくのごとくに両人は互いに語り陳じあう。
エウリュノメーと老いしうば、火光輝く松火の
した柔らかき夜具の床、二人のためにしつらえぬ。290
かくて急ぎて床のべて、老いし女性はその部屋に
しりぞき帰り、自らもふしどの上に横たわる。
エウリュノメーは寝屋の侍女。今松火を手に持ちて、
オデュッセウスと王妃とを、設けし床に導きぬ。
床に導き終わるのち侍女また部屋にしりぞけば、295
慣れし昔の寝室に二人楽しくすすみ入る[1]。23-296
テーレマコスと牛飼とエウマイオスは、舞い踊る
足をとどめて、女性らに同じく舞をとどめしめ、
夜陰の闇の迫り来る広間の中に横たわる。

[1]古代アレクサンドリアの学者たちは『オデュッセイア』の本来のおわりはここであるとしている。

こなた二人は歓会の愛に飽くまで浸る後、23-300
尽きせぬ話あい語り、融々として楽しめり[1]。23-301
女性の中にすぐれたる王妃は語る。館中に
忍び耐えしを、求婚の無残の群を眺めしを、
王妃を種にかの群は牛羊多くほふりしを、
またそのゆえに貯蔵せる瓶より美酒の酌まれしを。305
ゼウスの裔のオデュセウス、勇士は語る。いくばくの
災難人にこうむらせ、同じくおのれ辛労の
数々嘗めしいにしえを。王妃は聞きて楽しみて、
あらゆる話おわるまで、まぶたに「眠り」くだり来ず。
話し始まるいやさきは、キコネス族を討ちしこと[2]。23-310
次にロートス常食の豊かの郷に入りしこと[3]。23-311
キュクローペスのなせるわざ、無残におのが勇ましき[4] 23-312
部下を食らえる報いとし、いたくかたきを取りしこと。
次の話はアイオロス訪いしことども[5]。迎えられ、23-314
送られたれど彼になお運命いまだ生還を 315
許さず。またも襲い来し嵐はいたく悲しめる
彼を鱗族群がれる海上運び去りし事。
その次ぎライストリュゴネス[6]、その民族の都なる 23-318
テーレピュロスに到りしに、彼らは船と堅甲の
部下を倒して、オデュセウス一人わずかに逃げしこと。320
次には妖女キルケーのたくらみ深き物語[7]。23-321
次には漕ぎ座あまたある船に乗じて冥王の[8] 23-322
小暗き宮にすすみ入り、テイレシアース、テーバイの
霊に物問い、またそこに逝ける昔の友に会い、
幼き昔いつくしみ愛せし母に会いしこと。325
これに続きてさらにまたセイレーネス[9]の玲瓏の 23-326
歌をききたる物語。動ける巌、恐るべき[10] 23-327
カリュブディスとスキュッラー、害を受けずに人間の
逃れしためしなき場所に到れる話。ヘーリオス[11] 23-329
その神牛を部下の者ほふれるゆえに、天上の 330
クロニーオーンへきれきを飛ばし、一同ことごとく
倒しほろぼし、彼ひとり死をまぬがれし物語。
オーギュギアーの島の上次に着きしに、カリュプソー[12]、23-333
あるじの仙女空洞の中に養い、引きとどめ、
彼を夫となさんとし、長く久しくとこしえに、335
不老不滅の身たるべく甘言のべて誘いしも、
帰郷念ずる胸中の彼の心に触れざりき。
話は続く。難を経てパイアーケスの国につく[13]。23-338
彼を国人慇懃に神のごとくに尊びて、
青銅、黄金、数々の衣服を贈り、船仕立て、340
彼を祖先のなつかしき故郷に帰り来らしむ。
これを最後の言として話は終わり、甘美なる
眠り襲いて四肢ゆるめ胸のわずらい解き放つ。

[1]左伝隠公元年。
[2]9-39以下。
[3]9-82以下。
[4]9-105以下。
[5]10-1以下。
[6]10-80以下。
[7]10-133以下。
[8]11-1以下。
[9]12-164以下。
[10]12-234以下。
[11]12-320以下。
[12]12-448以下。
[13]5-279以下、六巻、七巻、八巻。

藍光の目のアテーネー、そのとき一事思い立つ。
その寝室の楽しみと眠りにすでに満ち足ると、345
オデュッセウスを思う時、女神ただちに黄金の
高き座による明けの神、オーケアノスのあなたより
起し来りて、光明を世に伝えしむ。オデュセウス
今柔らかき床離れ王妃に向かい陳じ言う、

『妻よ我らは十分の試練をすでに味わいぬ。23-350
汝がここに留まりて、苦難に満ちし我が帰郷
思いて悩むその間、ゼウスならびに他の神は、
帰郷の思い切なりし我を苦難に捕えたり。
されども長き憧憬の寝屋に伴なる今日よりは、
汝つとめてわが家の産に心を向けよかし。355
かの驕慢の求婚の群は羊をほふりたり。
さほどを我は略奪によりおぎなわむ。アカイアの
民またわれに施してわが獣檻を満たすべし。
さはれ我いま木々繁るわが農園におもむきて、
わがためいたく悲しめる尊き父にまみゆべし。360
汝の怜悧認むれど別れに臨み言いおかむ。
わが館中にほふりたるかの憎むべき求婚者、
彼らにつきて風評は朝日と共に広まらむ。
侍女を伴い楼上に登りて汝動かざれ。
誰にも出会うことなかれ。誰にも物を問うなかれ』365

しかく陳じて華麗なる武具両肩の上につけ、
テーレマコスと牛飼とエウマイオスを呼び起し、
すべてに命じ手の中に各々利器を握らしむ。
一同やがて命を聞き、青銅をもて武装して、
門を開きて出でて行く。オデュッセウスは導けり。370
地上にすでに光明は臨めり。されどアテーネー、
彼らを闇に隠しつつ急ぎ都市より連れ出しぬ。


オヂュッセーア:第二十四巻


神使ヘルメース求婚者らの亡霊を冥府に導く(1~14)。そこに先に行けるアキレウスらの霊あり。アキレウスとアガメムノーンの問答(15~98)。求婚者らの亡霊の一アムピメドーンとアガメムノーンの問答(99~204)。ラーエルテースの農園を訪いてオデュッセウスひそかに老父の挙動を見、やがて進んで彼に語る。されどいまだ身を明かさず(205~279)。老父の悲哀とオデュッセウスの作り話(280~314)。老父の慟哭を見るに耐えず、ついに身を明かす。老父の狂喜(315~349)。祝宴(350~386)。老僕ドリオス、諸息子をつれて宴席に入り来る(387~412)。求婚者らの殺害の報せ市中に広まる(413~421)。アンティノオスの父エウペイテス、市民に復讐を叫ぶ(423~438)。メドーンおよびハリテルセースこれに反対す(439~462)。されどエウペイテス、多数をひきいて進撃す。女神アテーネーの助けによりてラーエルテース、槍を飛ばして彼を倒す(463~528)。女神両軍に和解を命ず(529~548)。

キュルレーネー[1]のヘルメース、今求婚の群の魂(たま) 24-1
呼びぞ起せる。彼は手に黄金製の華麗なる
杖を握りて、これをもて思うがままに、人の目に
触れて眠らせ、時にまた眠れる者を目覚めしむ。
こをもて起し駆り行けば、悲鳴をあげて群は行く。24-5
暗き神秘の洞の奥、連なり懸る蝙蝠の
中の一匹巌より落つれば、彼らうめき鳴き、
高きに飛びて羽ばたきて互いに接し寄るごとく、
魂は一同うめきつつ行けば導くヘルメース。
これを助けて陰惨の小暗き道を通り行く。24-10
オーケアノスの流れ過ぎ、またレウカスの岩を過ぎ、
ヘーリオスの門を過ぎ、また「夢」の国過ぎ行けば、
アスポーデロス咲き匂う野辺にほどなく来り着く。
この世を去れる者の影、霊魂ここを宿となす』

[1]ヘルメイアス神の生まれし所、アルカディアの山。

着きて彼らは見出しぬ[1]、ペーレイデース・アキレウス、24-15
パートロクロス、すぐれたるアンティロコスの魂を。
さらにまた見るアイアース。彼の体躯と相好は、
アキッレウスをほかにしてダナオイ中の最たりき。
アキッレウスを取り囲み諸霊すべては群がりぬ。
アガメムノーン、権勢のアトレイデースの霊魂は、20
アイギストスの家の中、彼もろともに殺されし
諸人の魂を伴いて、嘆きながらに近寄りぬ。
アキッレウスの亡霊は彼に向かいてまず語る。

[1]20~98行までは15行「見出しぬ」の前にありしこと。

『アガメムノーンよ、轟雷のクロニオーンは一切の
人にまさりてとこしえに君をめずとぞひと言いき。25
アカイア勢の悩みたるかのトロイアの郷にして、
勇士多数に号令を君の下せる故をもて。
さはれまさきに君の上、死の運命は襲い来ぬ。
生きとし生ける者はみなその運命を逃れねど。
ああトロイアの中にして王者の栄えうけし君、30
栄えの中に運命と死とに出会わばよかりしを。
さらばすべてのアカイオイ、君に墳墓を築くべく、
君は子孫に後世に光栄つたえ得たりけむ。
さはれ無残の死によりて逝くべき君の運なりき』

アガメムノーンの霊魂は答えて彼に陳じ言う、35
『幸なり汝[1]、神に似るペーレイデース・アキレウス。24-36
アルゴス遠く離れ来てトロイアの地に逝ける者、
トロイア、アカイア両軍の勇士汝のしかばねを
争い、ために倒れたり。汝砂塵のうずまきの
中に偉大な身をさらし、軍馬忘れて打伏しぬ。40
終日われら戦えり。嵐起してクロニオン
戦い止むるなかりせば、戦いおわるなかりけむ。
やがて汝のしかばねを戦場よりし船の上、
運びて台に横たえて、香油と湯とに美麗なる
肌を清めて、そのめぐり熱き涙をはらはらと 45
ダナオイ諸人ふり落とし、その毛髪を切り取りぬ。
悲報を聞きてわだつみの底より、神母一団の
海の仙女を従えて現われ出でて、叫喚は
すごく波上にとどろけば、アカイア軍はおじふるい、
足わななかし駆け出し、みな船中に行かんとす。24-50
されどもこれをネストール、智は最上と評せられ、
ふりにし事の数々を知れる者こそとどめたれ。
その慇懃の心より皆に向かいて彼は言う、

[1]11-483前後。

「とどまれ汝アカイオイ、逃るるなかれ若き子ら、
海の底より不滅なる仙女のむれを伴いて、55
アキッレウスのしかばねを見るべく、神母来るなり[1]」 24-56

[1]『イーリアス』18-37前後、神母テティス仙女の群を伴いて、パトロクロスを哭せるアキレウスを訪う。

『しか陳ずれば剛勇のアカイア軍は畏怖をやむ。
海の老翁父とする仙女ら汝取り囲み、
いたく嘆きて不滅なる霊衣汝にまとわしむ。
さらに九名のミューズ[1]らは音玲瓏の声あげて、24-60
互いに歌い悲しめり[2]。アルゴス人の中にして 24-61
涙を垂れぬ者あらじ。歌神の力かくありき。
日夜重ぬる十と七。死して朽つべき人間も、
天上不死の神明も共に汝を悲しめり。
十八日目炎々のほのお、汝の骸(から)を焼き、65
肥えし羊と角曲がる牛の多数はかたわらに
ほふらる。かくて神明の衣と香油、甘き蜜、
包みてぬりて骸焼ける火炎のめぐり、アカイアの 
歩兵と騎兵、数多き勇士各々よろいつつ、
その行進を始むれば、轟音高くわき起る。70
ヘーパイストスの炎々の火炎汝を焼きおえし
その曙に、アキレウスよ、汝の白き骨集め、
神母与えし黄金の瓶中これを一同は、
純酒香油の中に漬く。ディオニューソスがその昔
与えたる瓶、神工のヘーパイストスの作と言う。75
この宝瓶(ほうへい)の中にこそ汝の骨は収まるれ。
メノイティオスの生める息パトロクロスの骨ともに。
(アンティロコスの骨は別。パトロクロスを除きては、
彼を汝は一切の友にまさりてめでたりき)。
彼らのためにアカイアの槍にすぐれし軍勢は、80
ヘレースポントス海峡に臨み、突き出す丘の上、
ひとつの墳墓、壮麗の大なるものを築きあぐ。
いま生ける者また後に来らん者の一切が、
海上遠くかなたより眺むることを得んがため。
やがてそののち諸神より汝の母は佳麗なる 85
品を求めて、アカイアの勇士競技の場所に置く。
しばしば汝英雄の葬儀の席にありつらむ。
とある王者の死せる時、その弔礼に武装して、
若き人々勇ましく技を競うを見しならむ。
さはれ汝の名のために、足は銀色[3]麗しき 24-90
神母テティスのもたらせるこれら華麗の賭物を 
見ば驚かむ。かくまでに神は汝を愛でたりき。
かくのごとくに汝よく死後にもその名失わず。
つねにすべての人界に誉れあるべし、アキレウス。
されど我には戦いの終わりて、何の喜びぞ?95
われの帰国にクロニオン、アイギストスの手のもとに、
憎き奸婦の手の下に、無残の破滅たくらめり』

[1]ミューズはホメーロス作中ただここにのみ九名とのべらる。
[2]その名はヘシオドスの『神統記』76行に初めて挙げらる。
[3]ホメロス詩中「銀色の足」と歌わるるはテティスのみ。後世の詩人はアプロディーテーにもこの句を用う。

かくのごとくにかかること彼ら互いに陳じ合う。
そのときアルゲイポンテース、オデュッセウスに殺されし
求婚者らの魂ひきい、彼らのそばに近寄りぬ[1]。24-100
これを眺めて驚ける二霊急ぎてすすみ来て、
アトレイデース権勢のアガメムノーン、その魂は
むかしイタケー訪いし時、迎えて彼をもてなせし
メラネウスの子、栄えありしアムピメドーンと認め得て、br> アガメムノーンの霊はまず彼に向かいて陳じ言う、105

[1]第15行。

『何事ありて地の底にアムピメドーンよ、くだり来し。
齢等しき選り抜きの群と我見る。都市の中、
すぐれる者を選るとせば、かく選るほかは不可ならむ。
荒き嵐と大波を起して荒ぶ海の上、
船の中なる汝らをポセイドーンが倒せしか?110
あるは汝ら陸上に牛をあるいは繊毛の
美なる羊を奪う時、あるいは都市と婦女子らを
奪わん時に、敵人が汝を害し倒せしか?
委細を我に語れかし。我は汝の客なりき。
イリオンさして漕ぎ座良き船のへ共にすすむべく 115
オデュッセウスに説かんとし、メネラーオスともろともに、
汝の家を訪いし我、汝はすでに忘れしか?
まったく一月過ぎし後、初めて海を渡り得き。
都市の破壊者オデュセウス、説き伏すことは難かりき』

アムピメドーンの亡霊はそのとき答えて彼に言う、120
『アトレイデース権勢のアガメムノーン、民の王、
ゼウス育てし君が言うこれらの事をみな覚ゆ。
我また君に一切を委細くわしく語るべし。
我らの破滅の痛ましき最後を君に語るべし。
長き不在のオデュセウスの妃に我ら言い寄りぬ。125
彼女はいとえる結婚を拒まず、されど成し遂げず。
死滅と暗き運命をわれらに向かいたくらみて、
一つの奇策たくましくその胸中に思念して、24-128
その室内におおいなる織機を立てて、幅広き
糸細やかの布を織り、すぐに我らに陳じ言う、130

「我に言い寄る若人ら、オデュッセウスは身まかれば、
汝ら婚をあせるとも、われこの機を終えるまで、
忍びこらえよ。この糸のむなしくなるぞ我に憂き。
ラーエルテース老雄の白布今こそ我は織れ。
死の物すごき運命はやがて彼を捕うべし。135
多くの資財ありながら、覆いなくして棺中に
入らば、アカイア女性らはいたくも我をののしらむ」

しか陳ずれば誇りかのわれらの心従えり。
かくして部屋に日中は大いなる機織りつづけ、
夜に到れば松火を燃せる下にこをほどき、 140
求婚者らを三年にわたりたくみにあざむけり。
光陰は矢のごとくして、かくて月逝き日はめぐり、
四たび春秋返り来て、季節次第にすすむ時、
侍女のある者、明らかに知る者これを知らせ来ぬ。
かくて華麗の機ほどく王妃を襲いとがむれば、145
王妃はついにやむをえず、心ならずも織り果てぬ[1]。24-146
大いなるはた織り果し、これを洗えば日月の
光のごとく輝ける布を我らに示したる 
その時とある悪しき神、オデュッセウスを導きて、
豚飼う者の住むところ、故郷の端に到らしむ。24-150
そこに同じく英剛のオデュッセウスのめずる息、
砂地ピュロスより黒船に乗りて来りて再会し、
共に我々求婚の群の滅亡たくらみて、
やがて華麗の都市に来ぬ。オデュッセウスは後にして、
先に立ちたるその愛児テーレマコスは導けり。155
肌に襤褸をまといつつ、杖にすがりて頼りなく、
弱りはてたる老齢の乞食の姿よそおえる
オデュッセウスを、館中に牧場の従者は引き入れぬ。
館中不意に現われし彼を我らの群の中、
誰しも認め知るを得ず。長老はたまた認め得ず。160
罵詈の言句をあびせかけ、あるいは物を投げつけぬ。
おのれの館の中にしてかくののしられ打たるるを、
堅固不抜の心もてしばらく彼は耐え忍ぶ。
やがてアイギスたずさうるゼウスの意思に動かされ、
華麗の武器を広間からテーレマコスともろともに、165
持ち去り蔵の中に入れ、閂しかとしめ閉ざす。
次に奇計をたくらみて妻に命じて剛弓と
鉄の斧とを求婚の群の目の前ならべおき、
不運な我らに競技させ、我らを殺す始めとす。
我らの中の何びともこの凄まじき剛弓の 170
弦張ることをよくし得ず。我らはいたく弱かりき。
オデュッセウスの手の中にその剛弓の来る時、
我らすべてはいっせいに叫び叱りぬ。いかばかり
望むも言を弄するも弓をば彼に与えじと。
テーレマコスは唯一人、彼を励まし促しぬ。175
知謀に富めるオデュセウス、そのとき弓を手に取りて、
たやすく弓の弦を張り、斧の輪十二射通して、
身をふり起しすすみ行き、敷居に立ちて矢を撒いて
見まわしながら矢を飛ばし、アンティノオスをまず射りつ。
つづきて我ら一同をまともに狙い、恐るべき 180
矢弾放てば一同は重なり合いて倒れたり。
そのとき知りぬ、神明のある者、彼を助けしを。
彼ら荒びて館中を縦横無碍に駆けめぐり、
いたるところにうちほふる。すごき叫喚わき起り、
首は次々切られ落ち、紅血床にあふれたり。185
アガメムノンよ、一同はかくのごとくにほろび去り、
オデュッセウスの館中に死屍は捨てられ横たわる。
我らの友はそれぞれの館中にあり、こを知らず。
暗紅の血をしかばねの傷口よりし洗い去り、
死者に対する礼として、台に横たえ泣くべきを』190

[1]24-128~24-146は19-139~19-156に同じ。

アガメムノンの亡霊は答えて彼に陳じ言う、
『めでたかりけりオデュセウス、ラーエルテース生める息、
けなげに汝おおいなる勇もて妻をかち得たり。
イーカリオスの息女たるペーネロペイア貞操の
心はいかに高きかな。若く嫁ぎし良人を 195
つねに忘れぬ尊さよ。彼の誉れはとこしえに
ほろびず。人の世の中に不滅の神は作るべし、
ペーネロペイア、良妻のために感謝の歌と詩を。
テュンダレオスのうめる娘[1]はこれと異なり、奸計を 24-199
企らみ、若く嫁ぎたるその良人をほろぼして、24-200
いまいましくも人界に歌われぬべし。一切の
女性の上に、良きにさえ、彼女は恥辱もたらせり』

[1]クリュタイムネーストラー。

地底に深く冥王の領する郷の中にして、
立ちてこれらの事どもを両者互いに陳じ合う。

オデュッセウスの一行は都市を離れて早く着く[1]、24-205
ラーエルテース所有せる、美なる農園。その昔
ラーエルテース辛労を積みたる末に得しところ。
真中に彼の居宅あり。これをめぐりて数多く
小屋は並べり。彼のため誠尽して働ける
家僕らここに食を取り、ここに休らい、ここに座す。210
シチリア[2]生まれの一老女またここにあり、都市離れ 24-211
その農園に住居する老いし主人にかしずけり。
そのとき伴と愛児とにオデュッセウスは陳じ言う、

[1]二十三巻の終よりここに続く。
[2]奴隷の売買盛んなりし都市と見ゆ。20-383参照。

『この堅牢の家の中に汝は入りてすみやかに、
ひるげのために最上の豚一頭を料理せよ。215
その間に行きて我が父を我は試さむ。父はよく
その老眼を見開きて、はたして我を認むるや?
あまりに長く離れたる我を見知るをよくするや?』

しかく陳じて身に着けし武具を彼らに手渡しぬ。
彼らはやがて家の中に急ぎて入りぬ。オデュセウス 220
父試すべく累々の房をつけたる葡萄園、
広き果樹園訪い行けど、そこにドリオス見当らず。
家僕の一人もその子らも絶えて影なし。一同は
葡萄の園の垣とする石集むべく出で行けり。
しかして老いしドリオスはその一行を導けり。225
かくて見たるは父ひとり葡萄の園の中に立ち、
植木のまわり地を掘るを。彼はみじめの、つぎはぎの
汚れし肌着身にまとい、すねにはいばら防ぐため、
また継ぎはぎの牛皮のすね当てまとい、さらにまた
とげ立つことのなきがため手袋つけて、頭上には、230
ヤギ皮製の帽冠り、胸に憂いを満たしめぬ。
胸に憂いを満たしつつ老いの齢に弱りたる
父を眺めて、英剛の忍耐強きオデュセウス、
高くそびゆる梨の木の下にたちつつ涙しぬ。
そのとき彼は胸の中、心の中に思案しぬ。235
父を抱きて口を触れ、祖先の郷に帰り来し、
その転末を詳細に一々彼に告ぐべきか?
あるいは先に試すべく一々彼に問うべきか?
思案の果てはかくなりき。すなわち父を試すため、
心にもなき嘲弄の言句用いること良しと。240
しかく念じて英剛のオデュッセウスは近寄りて、
頭を垂れて木のめぐり大地を掘れる父のそば、
近くに立ちて誉れある子息は彼に陳じ言う、
『あわれ老人、果樹園の整理につきて中々に、
君の手腕は拙ならず。木もイチジクも、累々の 245
葡萄も梨もオリーブも畑もひとしくいっせいに
この農園の中にして、君の注意を受くと見ゆ。
さはれ一事を我述べん。君願わくは怒らざれ。
うち見るところ慇懃の配慮は君に致されず。
君老齢に弱りはて、汚れて身には悪衣着る。24-250
怠惰のゆえに主人よりむげにされるにあらざらむ。
わが見る所、容貌に体躯に君はいささかも
奴隷の身とは思われず。王者の相を伝えたり。
食を終わりて湯あみして、後やわらかき床に入る、
かかる種類の人と見ゆ。こは老人の受くる分。255
いざ今我に真実に委細を君よ告げよかし。
君はいかなる人の従者?ただ農園を管理すや?
しかして事の真実を示して我に知らしめよ?
わが見るここはイタケーか?ここを訪い来し道の上
はからず会いしかの者はしか言う。彼は聡からず。260
むかし相見しある客は今なお生きて世にありや、
あるいは今は世を辞して冥王の府に宿れりや、
このこと彼に問いしかど、彼は一々明らかに
答うることをあえてせず。また我が言に耳貸さず。
我いま君に明らかに告ぐべし。耳を傾けよ。265
いにしえ我はわが愛ずる祖先の郷に、わが家を
訪いしある客もてなしき。ほかの何たる遠来の
客も彼ほど我が家の歓待うけしことあらず。
彼は自らイタケーの生まれとほこり、その父は
アルケイシオス生むところラーエルテースなりと言う。270
彼を我が家に招き入れ、貯蔵は我に多ければ、
心尽して慇懃に彼をもてなし、親しみき。
良きに叶いて歓待の礼物彼に施しき。
七タラントのよく鋳れる黄金彼に施しき。
花の模様の浮彫の白銀の壷施しき。275
一重のひだの外套と布を各々十二枚[1]、
華麗の上着また下着これも各々十二枚、
これらのほかに精妙の術に通ずる妙齢の——
彼自らの選びたる女性を四人施しき』

[1]『イーリアス』24-230以下と同じ。

老いたる父ははらはらと涙流して答え言う、280
『客よ、まさしく君は今問い尋ねたる郷にあり。
されど不正の、驕慢の人々今はあるじたり。
君莫大に与えたる礼物ついにむなしかり。
もし君彼のイタケーに生けるをたずね来しならば、
かれ慇懃の誠こめ、礼物報い、君去るを 285
送り、尽さむ、歓待を始めし者に致す道。
さはれいざ今明らかに真実われに告げて言え、
彼を、不幸の客人を、わが子を——わが子なりしもの——
君慇懃にもてなしてその後ここに幾年(とせ)ぞ?
不運な彼はその友を、祖先の国を遠ざかり、290
今はたさらに海中に魚の餌食か、陸上に
野獣野鳥の餌たるべし。彼を生みたる父と母、
我らは彼に葬礼の衣まとわせ泣くを得ず。
ペーネロペイア聡くして、嫁資多なりし彼の妻、
棺(ひつぎ)の上に横たわる彼を哭して、しかるべく 295
死者に対する礼として、その目を閉ずることを得ず。
しかして我に真実を語りて委細知らしめよ。
君は何びと?いずこより?親と都市とはいずこぞや?
君を、すぐれし同行を、ここに乗せ来し速き船、
いずこにありや?あるはまた君は他人の船の上 24-300
乗りたる客か?その船は君をおろして去りたるか』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『これらをすべて明らかに君に向かいて陳ずべし、
アリュバース[1]より我来る。華麗の館そこにあり。 24-304
ポリュペーモンは我の祖父、アペイダースは我の父、305
エペーリトスと我呼ばる。シカニアー[2]より神明の 24-306
あるもの我をさまよわせ。やむなくここに到らしむ。
乗り来し船は都市近く、ここ農園のそばにあり。
運命非なるオデュセウス、訪い来し我の郷離れ、
立ち去りしより春秋は五たび帰りめぐり来ぬ。310
されども彼の立てる時、奇瑞(きずい)の鳥は右側に 
飛びたり。これを喜びて我は、同じく喜べる
彼を送りて別れたり。二人そのとき望みにき。
他日親しく交わりて良き礼物を替わさんと』

[1]単に造語、以下の祖父と父とおのれとの名またしかり。
[2]後世ローマの詩人はこれをシチリア全土となす。ホメロス作中ここにただ一回挙げらる。おそらく漠然たるもの。

しか陳ずればおおいなる悲哀の雲に覆わるる 315
父は両手をさしのべて、灰燼つかみ[1]白髪の 24-316
頭の上にふりかけて、うめき嘆きて絶間なし。
かくと眺むるオデュセウス、そぞろに心動かして、
強き鋭き興奮は、いたく鼻孔を襲い来て、
躍りて父をかき抱き、唇触れて叫び言う。320

[1]『イーリアス』18-23、パトロクロスを哭してアキレウスかくのごとく嘆く。

『父君!我ぞ、まさに我、正しく君の問える子ぞ!
正しくここに二十年、初めて国に帰り来ぬ。
悲哀ならびに流涕の嘆きに沈むことなかれ。
委細を君に陳ずべし。ただし急ぐを要とせむ。
われ館中に求婚の群ことごとくほふり去り、325
彼らの無残の凶行と憎き無礼に報いたり』

ラーエルテースそのときに答えて彼に陳じ言う、
『汝はたしてオデュセウス、我の子にして今ここに、
帰りしならば証いかに。我の信じるためにいえ』

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、330
『さらばまさきに傷跡を親しく君の目もて見よ。
パルナッソスの山のうえ行きたる我を荒き猪が、
白き牙もて噛みしあと。母の父たる親愛の
アウトリュコスに君と母われを送りき。その昔
祖父がわが家に来し時に、約せる宝得んがため。335
さらに我また整序さる樹園の木々を語るべし。
我に賜いしその木々を。幼き我は園中を
わたりて、君の後を追い、あなたこなたを経めぐりて、
一々君に尋ぬれば、一々君は名を告げき。
十三本の梨の木とさらに十本りんごの木、340
イチジクさらに四十本君は与えき。葡萄の木、
その五十列与うべく君は約しき。それぞれの
時に応じて実るもの。ゼウスの季節、天よりし
降れば、すべて累々と蔓のたわわに垂るるもの』

しかく陳じて明らかにオデュッセウスの挙げし証、345
そを認めたる老齢の膝も心もくずおれぬ。
めずる子息を両腕に抱だきて、息も絶えんずる
老いたる父を、忍耐の強き勇将引き寄せぬ。
息を返して胸中に彼の心の帰る時、
父は再びつばさある言句を述べて答え言う、24-350

『ああわが天父クロニオーン!無残のわざを求婚者
償いなさば、神明はウーリュンポスにおわします。
さはれ我いま胸中にいたくわずらう。イタケーの
すべての敵がすみやかに寄せ来ることを。また使者を
ケパレーニアのもろもろの都市に向かいてやることを』355

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う、
『心安かれ、胸中に思いわずらうことなかれ。
樹園に近きかの家に君もろともに行かまほし。
テーレマコスを、牛飼を、さらに豚飼先にやり、
食事の備えすみやかになすべく我は命じたり』360

しかく陳じて華麗なる館[1]に向かいてすすみ行く。
その堅牢に作られし館に両人いたるとき、
テーレマコスは牛飼と豚飼二人もろともに、
肉切り分かち、暗紅の酒を薄めて待ちおりぬ。

[1]父の家

シチリア生まれの老女いまラーエルテースを館中に 365
沐浴せしめ、オリーブの油を彼の肌にぬり、
華麗の衣まとわしむ。そのとき女神アテーネー、
近きに立ちて民衆の司の四肢を大になし、
前よりさらに丈高く勢い強く、見えしめぬ。
かくて浴場出で来る、姿あたかも不滅なる 370
神明に似る父を見て、彼の愛児は驚きて、
彼に向かいてつばさある飛揚の言句陳じ言う、

『あわれ父君、常住の神明のなかある者は、
君の姿と身の丈を前よりまして見えしめぬ』

ラーエルテース賢明の父は答えて彼に言う、375
『ああわが天父クロニオーンまたアテーネー、アポローン、
ケパレーニアの王として、本土の岸に堅牢に、
築ける砦ネーリコス[1]取りし昔の我のごと、24-378
あらましかばと今念ず。さらば昨日館の中、
肩に鎧いて、かたわらに立ちて、彼らを、求婚の 380
群を敗りて館中に、彼ら多くの両膝を
ゆるめしならむ。汝見て心に歓喜満ちつらむ』

[1]ネリコスは、レウカディア(サンタモーラ)島中の都市レウカスの古名といにしえの学者は言う。レウカスの名はイーカリオスの子レウカディオス(ペーネロペイアの兄弟)より来れるならむ。

かくのごとくにかかる事二人互いに陳じ合う。383
しかしてこなた人々は労を終わりて、饗宴の
備えをなして、整然と種々の椅子のへ身を寄せて、385
一同やがて食物に各々その手うち伸ばす。
そのとき老爺ドリオスは、野外の労に疲れたる
子らをひきいて部屋に入る。子らを養い、高齢の
ために弱れる老人を心をこめて慇懃に
いたわる老女、シチリアの彼女、彼らを呼び来る。390
オデュッセウスを眺め見て彼らはすぐに認め得て、
広間の内に驚きて立てり。そのときオデュセウス、
温和の言句用いつつ彼に向かいて陳じ言う、

『おじよ、食事の席に就け。驚くなかれ。我々は
手を食物に伸ばすべく念じながらも、汝らの 395
この宴席に入りくるを望みて長く相待てり』

しか陳ずればドリオスは両手をのしてすみやかに、
オデュッセウスのそばに行き、その手首(たなくび)に口を触れ、
彼に向かいてつばさある飛揚の言句陳じ言う、
『あわれわが君、憧れてしかも望みを掛けかねし 24-400
我らに君は、神明の導きありて帰り来ぬ。
祝え、喜べ、限りなく神明幸を賜うべし。
さはれ君いま明らかに陳じて我に知らしめよ?
ペーネロペイア聡明の王妃はすでに知りたるや、
君の帰りを。あるはまたわれら使いを馳すべきや?』405

知謀に富めるオデュセウス、それに答えて陳じ言う
『おじよ、王妃ははや知れり。汝労することなかれ』

しかく陳じて磨かれし椅子に再びよりかかる。
その誉れあるオデュセウスめぐり、同じくドリオスの
子らは祝いの言のべて彼の両手に取りすがり、410
そののち父のドリオスの側に順よく座を占めぬ。
かくして彼ら館中に宴を開きて忙がわし。

かなた、すばやき使いたる「オッサ」[1]市中を駆けめぐり、24-413
求婚者らの凄まじき死と運命を伝え行く。
人々これを耳にして四方より馳せて寄せ来り、415
泣きてうめきてオデュセウスの館の表に群がりて、
館より死体ひきだして各々これを葬りぬ。
ほかの都市より来し者の死屍は各々船人に
託して速き船のへに、これを故郷に送らしむ。
かくて人々集会の場所に憂いておもむきぬ。420
その集会の場所の中、皆ことごとく寄せし時、
エウペイテスは身を起し皆に向かいて陳じ言う。
オデュッセウスがまっさきに射て倒したるその愛児、
アンティノオスを悲しめる思いは胸を苦しめて、
涙流して愁然と皆に向かいて陳じ言う、425

[1]噂、評判の人化。

『友よ、アカイア一同にかの者凶事たくらみぬ。
彼は船のへすぐれたる多数の伴をひきい行き、
その諸船(もろふね)を失えり。伴一同を失えり。
ケパレーニアのすぐれしを彼は帰りてほろぼせり。
ピュロスあるいはエペイオイ領する美なるエーリスに 430
急ぎて彼の行かん前、ああわが友らふるい立て。
立たずば長く将来にわたりて汚名残るべし。
子息あるいは兄弟を殺せる者を倒さずば、
後世子孫聞くところ、何と我らの恥辱ぞや!
しからば我に生命はもはや楽しき物ならず。435
むしろただちに世を辞して死者の間に交わらむ。
いざ立て彼に先んじて、海を渡りて逃ぐる前』

泣きつつしかく陳ずれば、アカイア諸人憐れみぬ。
そのときメドーン、清浄の伶人ともに眠り覚め、
オデュッセウスの館中にすすみ来りて人々の 440
もなかに立てば、一同はみな驚愕の目を見張る。
そのときメドーン聡明の思慮を抱だきて皆に言う、

『わが言を聞け、イタケーの人々。神助あらずして、
オデュッセウスはかのわざを企てたるにあらざりき。
我は親しく神を見き。オデュッセウスのかたわらに 445
近く立てるを。その姿髣髴たりきメントルに。
彼は不滅の神としてオデュッセウスの目の前に、
現われ彼を励まして、また求婚の群を追い、
館中荒れて雄叫べば、彼ら重なり倒れたり』

しか陳ずれば蒼白の恐怖かれらを捕えたり、24-450
そのとき皆に老雄のハリテルセース陳じ言う。24-451
かれマストールを父として未来と過去をひとり知る。
彼いま皆に慇懃の思いをこめて陳じ言う、

[1]2-157および17-68。

『我に聞けかし、イタケーの人々われの言うところ。
汝らの子の愚かなるわざとどむべく諭したる、 455
我と庶民の司なるメントールの言聞かざりし、
そのともがらの非行より、これ等の事は起りたり。
彼ら不法に奇怪なるわざを犯して、王者たる
人の資産を浪費して、その王妃には無礼なる
恥辱を加え、良人は帰らずとこそ宣したれ。460
汝ら今はわが命に従い、われの言を聞け。
行くことなかれ。おそらくは難儀自ら招くべし』

しか陳ずれど、人々のなかば以上は叫喚を
あげて館に押しよせぬ。残りはそこにとどまりぬ。
ハリテルセースに従わず、エウペイテスの言を聞く 465
彼らは急ぎ騒然と、武器を取るべく駆け出す。
青銅光る武具を身にやがて一同帯ぶる後、
陸続としして群らがりて広き都城の前に立つ。
エウペイテスは愚かにもその一同の指揮をなし、
愛児の仇を討つと言う。されども生きて帰るべき 470
運命彼にあらざりき。そこにほろぶは彼の命。
そのときパラス・アテーネー、父のゼウスに向かい言う、

『ああわが天父、クロニデー!諸神の中に首たる者、
いかなる思慮を胸中に宿すや?問える我に言え。
戦いおよび恐るべき争い、君はなおさらに 475
起さんずるや。親しみを両者の間に企つや』

雷雲寄するクロニオーン、それに答えて宣し言う、
『愛女よ、汝何ゆえにかかる事ども尋ね問う?
オデュッセウスが帰り来て、彼らに仇を報ゆるは、
汝自らめぐらししその計略にあらざるや?480
汝の願うままになせ。されど我にも策はあり。
オデュッセウスは求婚の群に復讐遂げたれば、
彼が生涯王者たれと彼ら厳に誓うべし。。
子息あるいは兄弟の破滅の恨み忘るべく、
我ら彼らに強いるべし。かれら互いに相睦み、485
先のごとくに平穏に富に溢れて暮らすべし』

しかく宣して既にして逸れる女神アテーネーを
起せば、彼女欣然とウーリュンポスを駆けくだる。
こなた一同意に叶う美味を飽くまで取りし時、
知謀に富めるオデュセウス、まず口開き陳じ言う、490
『誰そ今出でて物見せよ。彼らは近く寄せざるや?』

しか陳ずればドリオスの一子は彼の命奉じ、
出でて戸口の前に立ち、近く彼らの寄るを見て、
オデュッセウスにすみやかに羽ある言句陳じ言う、

『彼ら近きに寄せ来る。いざすみやかに武装せむ』 495
しか陳ずれば一同はふるいて立ちて武装して、
オデュッセウスのかたわらに、四人ならびにドリオスの
六人の子ら相並ぶ。ラーエルテース、ドリオスの
二人、頭は白けれどやむなく共に武具を帯ぶ。
かくて輝く青銅に厳しくよろい終わる後、24-500
門を開きて切って出づ、オデュッセウスは先頭に。

そのとき女神アテーネー、声も姿もメントルに
髣髴として現われて、彼らのそばに近く立つ。
知謀に富めるオデュセウス、これを眺めて喜びて、
テーレマコスに、めずる子に向かいただちに陳じ言う、505

『テーレマコスよ、戦場に勇士の力ためさるる。
そこに汝は今立ちてまさしく観じ思うべし。
祖先の家に汚れの名いささか来すべからずと。
力に勇に我が祖先普天の下にすぐれしぞ』

そのとき彼に聡明のテーレマコスは答え言う、510
『さなり父上、今君の仰せのままに勇を鼓し、
あえて祖先の尊き名われ汚すまじご覧あれ』

しか陳ずるを耳にしてラーエルテース喜びて、
叫びぬ『我にきょうこの日何たる幸(さち)ぞ、あら嬉し。
わが子わが孫相並び勇を互いに相競う』 515

そのとき彼に藍光の目のアテーネー近く立ち、
呼びぬ『われらの友の中、我のもっとも親しめる
ラーエルテスよ、藍光のまみの女神とゼウスとに
祈り、ただちに影長く引く大槍を投げ飛ばせ』

しかく宣して精力を彼に吹きこむアテーネー。520
そのとき彼はおおいなるゼウスの息女呼び祈り、
影長く引く大槍を直ちにひょうと投げ飛ばし、
エウペイテスの青銅の頬当ておびるその兜、
打てば兜は防ぎ得ず、鋭刃顔を貫けば、
どうと地上に倒れ落ち、鎧は上に高鳴りぬ。525
オデュッセウスは誉れある彼の愛児ともろともに、
両刃の槍と剣もて、敵の先鋒襲い打ち、
将に彼らをほろぼして、帰れぬものとなさんとす。
そのとき皆に、アイギスを持てるゼウスのまなむすめ、
アテーナイエー声あげて抑え止めて叫び言う、530

『やめよ悲惨の戦いを。イタケー人ら、流血の
災いなくてすみやかに汝よろしく分けるべし』

アテーナイエーしか呼べば、女神の声を耳にして、
一同畏怖に襲われて、恐るる者の一切の
手より利刃はことごとく大地の上にはなれ落ち、535
命惜しさに一同は都城に向けて足返す。
忍耐強きオデュセウスそのとき凄く雄叫びて、
空飛ぶワシを見るごとく勢い猛く追い迫る。
そのとき電火へきれきをクロニーオーン投げ下し、
そのまなむすめ藍光のまみの女神の前おとす。540
藍光の目のアテーネー、オデュッセウスに宣し言う、

『知謀に富めるオデュセウス、ラーエルテース生める息、
汝控えよ。悲惨なるこの戦いを争いを 
やめよ。さなくばクロニオーン・ゼウス汝に怒るべし』

アテーナイエーかくいえば勇士喜び従えり。545
形に声にメントール、彼に正しく髣髴の
アイギス持てるゼウスの子、女神パルラス・アテーネー、
未来のために双方に固き誓いを結ばしむ。


オヂュッセーア:あとがき


冨山房の『読書界』昭和十六年七月号の中に、私は『ホメロスの研究と翫賞』と題して一短編を書いた。『イーリアス』訳のまえがき・あとがきと多少重複するが、今これを増補してあとがきに代える。

『イーリアス』と『オヂュセーア』は現代に伝わった西欧最古最秀の詩であり、一般西欧詩文の源泉であり、典型である。これは誰しも周知のことである。この二作を標準としない史詩は西欧にはこれまでなかったであろう。

(一)アポローニウス(略BC二九五-二一五)はホメロスを手本として、金羊毛を探し行ける海上の冒険話『アルゴナウティカ』四巻を書いた、(二)ローマのウェルギリウス(BC七〇-一九)はホメロスとアポローニウスを手本にしてローマ建国の英雄を十二巻の『アイネイス』に歌った。(三)セネカの甥ルーカヌス(AD三九-六五)はシーザーとポムペイとの戦いを『ファルサリア』に歌った。西欧近代になると(四)キリスト教徒と回教徒との戦いを『エルサレムの解放』に歌ったタッソー。(五)『狂えるオルランド』に中世武勇談を説いたアリオスト。(六)アダム、イヴの楽園追放を歌ったミルトン、(七)バスコダガマの海上冒険を歌ったカモンイス。(八)『メシアス』を書いたクロプシュトック。(九)『アンリアード』を書いたヴォルテールがある。これらの大詩人はみなホメロスと呼ばるる太陽を中心とした遊星であり、その赫々たる光を自体に反映して種々の軌道を思い思いに回転している。

"The glory that was Greece"(光栄そのものたるギリシャ)——これはエドガア・アラン・ポーの十四歳の時の名句である、『国民中に精神的老人なし』といわれたギリシャ——世界文明史に不朽の功績を残したギリシャ——その最上の精華はホメロスである。

ギリシャ文化の極盛時代には詩聖ホメロスの作として二編に疑を抱く者はなかった。プラトーは『イオーン』編において、ソクラテスの口から、ホメロスを詩人中の最高者最神聖者と賛せしめ、『レパブリカ』第十巻にはまたギリシャの最賢者をして『少年時代よりホメロスを崇拝し、今なお彼を語る時、言語は唇頭に震う』と言わしめている。アリストテレスは少年時代のアレクサンダー大王の師として彼にホメロスを愛誦せしめた。大王が珠玉を鏤(ちりば)めた黄金の筐に『イーリアス』を入れてつねに陣中に携えたことは著名の史実である。雄図を抱いてインド遠征の帰途、バビロンにおいて熱病のため青春の盛り三十二歳で崩御した大王の臨終に、侍医カリステネースは『イーリアス』第二十一巻一〇七行『パトロクロスもまた死せり』を誦(ず)したと言う。『イーリアス』第三巻一七九行『秀いづる王者、勇ましき戦士、一人に兼ぬる者』は大王の愛誦の句であったと伝えられる。

ギリシャ最大の彫刻家フェイディアスはオリンピア神殿に収むべきクロニーオーン(ジュピター)を彫む時、

『クロニーオーンしか宣し、うなずき垂れぬ両の眉、アンブロシアの香みなぎれる毛髪かくて天王の不死の頭上に波だちて震えり巨大のオリンポス』

(『イーリアス』第一巻五二八-五三〇)の三行に鼓吹された。ローマの名将スキピオがBC一四六カルタゴの滅亡を無量の感慨に眺め、他日ローマも同様の運命に会わんと観じ、

『日は来るべしイーリオン、聖なる都城ほろびの日、槍に秀いづるプリアモス、民衆ともにほろびの日』

(同第六巻四四八-九)を微吟(びぎん)した(アッピアンのカルタゴ戦争史百三十二章)

多少の詩才を有した暴君ネロが運窮ってローマを落ち行き、追い来る騎兵の馬蹄の音を聞いた時、

『奔馬の速き足の音、我の耳底を襲いうつ』

(同第十巻五三五行)を吟じて最期を遂げた。大シーザーの暗殺の報に接してローマに駆けつけたオクタビウス(後のアウグスツス)は慨然として、

『非運に逝ける愛友を救わんことの叶わねば、願わく、すぐに我死なん……』

(同第十八巻九八-九九)を口吟した。

ローマの改革党の名士ティベリウス・グラッカスが殺された時(BC一三三)、反対党のスキピオ(前述)は

『かかる行為に傚う者、同じくかくぞほろぶべき』

(オヂュッセーア第一巻四七行)を誦(ず)した。

『思うに彼も神明に祈り捧げむ、人の子はみないっせいに神もとむ』

(オヂュッセーア第三巻四八行)は宗教改革者メランヒトンの愛誦の句であった。

人生観、運命観等宗教道徳に付いての名句は『オヂュッセーア』におびただしい。千辛万苦をしのぎ、神明に祈りを捧げた偉人が、天佑によりて素懐(そかい)を遂げたことが朗々吟誦すべき妙詞をもって歌われている。

『イーリアス』訳の序中にも述べたが、ホメロスはいつどこで生まれたか、二大詩は彼の作か否か——これらに関する議論は果しがない、しかし一般の読者にとっては、ある所にある時に西欧最大の詩が作られたというだけで充分である。英文の読める方は『ブリタニカ』の「ホメロス」の項を手初めに読まれるがよろしい。

アレクサンドリア時代前後から世に現われたホメロスに関する文献はいわゆる汗牛充棟どころではない、漢魏六朝以来二千余年にわたる経書研究の累積はこれに髣髴たるものであろう、ウィルヘルム・エンゲルマンのBibliotheca Scriptorum Classicorum中Homerusの項を見ると、亡羊の嘆を発せざるを得ない。十九世紀後半以来ドイツ諸大学に提出されたギリシア、ローマの古典に関する学位論文はみな印刷されてあるがその目録(一八九四年および一八九九年グスターフ・フォック社刊行)を見るとSeriptores Graecaeに関するものが九千四百六十七編、その中ホメロスに関するものが九百九十六編ある。いかに徹底的系統的に調べるドイツ学者でもこれを読破した者はあるまい。私はただこれほどホメロス研究が累積されてあることをいうばかりである。一般読者はかかる事に没頭するにおよばぬ。まずいながらもこの訳を繰返して、アレクサンダー、スキピオ、アウグスツスのごとく千古の妙編を身読するがよろしい。

ギリシャのアルファベットも知らなかった二十歳頃、私はポープの英詩を読んで驚嘆したことを今思出す。ポープは殆んど独学的で、ろくにギリシャ語を読めなかったらしい、(『オヂュッセーア』訳の半分は二人の助手FentonとBroomeとが成した)、しかしその絶大の韻文作成の天才によって(甚しい誤謬と添加と省略とに関らず)絶好の読みもの「ポープのホメロス」を作りあげた、おそらく一般に英国のホメロス読者はポープによるものが多数であろう。ポープはこの訳の完成のお陰で一生座食するだけの原稿料ならびに「当代第一」の名声をかち得た。これが今より二百余年前である、(『イーリアス』の一巻-四巻を刊行したのは一七一五年)その頃でも英国の富が莫大であった事が推察される。

その英国を今日我々は東洋より駆逐して着々成功を収めつつある、オーストラリヤ、ニュージーランド、タスマニアも皇国の領土となる事はおそらく遠くはあるまい。三百年前のスペインのごとく英国の運命は九天直下しつつある。むかし大史家マコーレーはいつかはロンドンも廃墟たらんと嘆じた。元の首相ボールドウィンは、英国もいつかはむなしく史上の名となること昔のギリシャ、ローマと同様であろう、しかし人文史上に多少の貢献を成したといわるれば、英国の存在は無意義ではない、かく考えて我々は今日に努力すると述べた。個人の生滅は大海の浮漚(ふおう)のごとし、帝国の興廃は波浪の起伏に似たりとバイロンが『ドンジュアン』第十五歌の終わりに歌った。ギリシャほろびて二千余年、しかもその精華ホメロスは永遠に生きる。(この跋文中固有名詞は普通の発音をとった)

昭和十七年三月二十五日

仙台において 土井晩翠
注:三笠書房版(世界文学選書18,『オデュッセーア』,昭和二十五年一月十五日印刷,昭和二十五年一月二十五日発行)に書かれた、昭和廿四年十二月四日付けの跋では、「その英国を今日我々は……我々は今日に努力すると述べた。」が削除されている。



オヂュッセーア:Poems


None like Homer hath the World ensphered,
Earth, seas, and heaven, fix'd in his verse,and moving;
Whom al times' wisest men have held unpeer'd.

——Chapman.

High on the first the mighty Homer shone,
Eternal adamant compos'd his throne.

——Pope.

The great Maeonian, sire of tuneful song,
And prototype of all that soar'd sublime.

——Shenstone.

Twice is almighty Homer far above
Troy and her towers,Olympus and his Jove.
First, when the god-led Priam bends before
Him sprung from Thetis,dark with Hector's gore;
Asecond time, when both alike have held,
And Agamemnon speaks among the dead.

——Landor.

Homer ist die abgespielte Wahrheit einer uralten Gegenwart.

——Goethe.

Trois mille ans ont passé sur la cendre d'Homère,
Et depuis trois mille ans Homère respecté
Est jeune encore de gloire et d'immortalité.

——Marie-JosephChénier.


HOMEROS
原題 ODYSSEIA

国立国会図書館デジタルコレクション『オヂュッセーア』(ホーマー著、土井晩翠訳、出版者富山房、出版年月日昭和18)は こちら




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