人は死んで星になると信じたキケロ


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 キケロ ( Cicero 前106-前43 )は古代ローマの元老で政治家だったが、本職は弁護士だった。ところが彼はたくさんの哲学書を残している。だから、キケロは哲学者だったのかというと全然そんなことはない。彼の哲学書はすべて自分が勉強して得た知識を本にまとめたものである。それは哲学を紹介した書物であって独創性はない。

 しかし、懐疑派でアカデメイア派の彼には彼なりの考え方があって、独断派のストア派やエピクロス派など哲学の諸説を会話の形で紹介しながら批判している。

 (だから、カントやニーチェの哲学書に出てくる独断論と懐疑論も、キケロを読むとその違いが分かるようになる。とくに、 『アカデメイア派の哲学 第二巻』(ルクルス)に詳しい。そこではまずルクルスが独断派の哲学を延々と擁護し、次にキケロが懐疑派の哲学を延々と擁護するという流れになっている)

 古代ローマのエリートの一人であったキケロはギリシャ語が読めた。ギリシャに行って勉強もした。そして、そのギリシャ語の力を使ってギリシャ語の本を読んだ。そうやって、当時の最高の教養を身に付けた(当時のローマ人にとってギリシャ語とは、現代の日本人にとっての英語のようなものである)。その中に哲学も入っていた。いや、むしろ哲学は当時の最高の教養だった。

 ところが、当時のローマ文化はまだ未熟で、文学もまだ始まったばかりだった。彼が、作品の中で引用するローマ文学は、今では作品が残っていないエンニウスという作家のものばかりと言ってよく、あとはギリシャ文学の翻訳ばかりである。また、哲学書といっても当時はギリシャ語のものしかなかった。そこでキケロはローマ人に初めて母国語であるラテン語で哲学を広めようとした。そして当時ローマにはなかった哲学をギリシャから輸入しようとした。それを彼は膨大な本にして残した。しかも、それを紀元前45年と44年のたった二年間にやってのけたのである。

 キケロは前45年に最愛の娘を失っていた。またカエサルによる独裁政治が始まっており、政界には共和派である彼の出る幕は無くなっていた。この悲しみと失望感をいやすために書いたのがこれらの哲学書だった。いわばこれらの哲学書は、自分自身のために書いた幸福論と言っていい。このキケロの数ある哲学書の中でも一番具体的に分かりやすく書いてあるのが、ここで紹介した 『トゥスクルムの別荘での対話』 である。

 この本は、話の進行がQ&A形式で書かれており、一般の人がよくする質問に答える形になっている。(原文には区別は無いが、この訳では、甲が質問をして乙が答えることにした)哲学書といってもキケロのものは、これにしろ、有名な『義務について』にしろ、どれもあっさりとくだけた調子で書かれており、厳格さを追求するいわゆる論文調とは違っている。

 この本の言わんとするところは、死は恐れる必要が無い。苦痛は必ず耐えることが出来る。悲しみは必ずいやされる。道徳的に正しい生き方をしていれば、人は必ず幸福になれる、ということである。とかく抽象的になりがちなこれらの話を様々な実例でかみ砕いて教えてくれる。

 第一巻のなかでは、人は死ぬと星に成るという極めてロマンチックな考えを、哲学の立場から厳密に立証してみせるところが圧巻である。当時の哲学では、流れ星は人の魂が肉体から抜け出て飛び出していくところなのである。

 この本を読めばプラトンを読まなくていい。プラトンに書いてあることが分かってしまう。そういう便利さをしっかりそなえている。彼はこれまでの弁論活動で若き日にギリシャから学んだ哲学を心の糧としてきたが、今度は、逆にこれまでに身に付けた弁論術を使って哲学の諸説を論じるのである。

 これはつまるところ、人間賛歌なのである。人間とはかくもすばらしきものである。人生はすばらしい。その全てがすばらしい。死さえもすばらしい。痛みさえも・・・。

 ただ一つ、無神論者の多い日本人にとって理解しにくいのは、彼が究極の答え、全ての問いの答えとして神を出してくることであろう。人間のすばらしさは神に由来するという言葉は、神の存在を信じない人間には、意味不明であろう。また、現代の唯物論的な世界観の中で、つまり、すべてのことは物によって説明できるという世界観のもとでは、これは詩的表現でしかない。

 ところで、これを書いている男キケロは人生の全てを失ったと思っている男である。彼は人生に絶望している。その男が自分に向かって繰り返し、繰り返し、死は恐ろしいものではない、死は不幸な出来事ではない、死は良いことなのだ、死は人を幸福にしてくれるものなのだと、言い続けるのである。

 彼は、これを書いた次の年に政敵によって殺される。自分が殺されることを彼は知っていたのである。

 ところで、キケロはプラトンを敬愛していた。だから彼は、プラトンの作品をラテン語に翻訳したりしている。その一部はこの 『トゥスクルムの別荘での対話』 にも入っている。この本を読めばプラトンは読まなくてもいいというのは、そういう意味である。この作品を読むことによってプラトンの素晴らしさをも知ることが出来るのである。

 たとえば、プラトンにはつぎのような素晴らしい文章があるが、それを原作を読んでも分からなかったわたしのような人でも、この作品を通じて理解することが出来る。

 「永久に動いているものは永久の存在である。しかし、ほかのものを動かしたりほかのものに動かされたりしているものは、その動きをやめるときに、必然的に生きることをやめる。ただ自分自身を動かしているものだけは、けっして動くことをやめない。自分が自分自身によって見捨てられることはないからである。それどころか、自分自身を動かしているものは、動いているほかのものの動力源となったり、ほかのものの動きの始まりとなるのである」

 プラトンとはこんな文章を書く人なのである。まさに名文である。感動的ですらある。そして、この名文の意味は、このキケロの文章の中に入ることで、凡人のわれわれにも親しみやすいものになっている。これだけでも、死の直前のキケロの努力は意味があったと言える。この翻訳を作ったわたしにとっての最大の収穫は、おそらくこのプラトンの素晴らしさを教えられたことだろうと思う。

 なお、この翻訳にあたって、Loeb叢書の英訳とTusculum叢書の独訳を参考にした。

 キケロの和訳の市販書で読みやすいものとしては、『老年の豊かさについて』(八木誠一・八木綾子訳 法蔵館)が推薦できる。この本に含まれている人名の解説をちゃんと参考にして本文を読めば、誰でも最後まで読み通すことが出来ると思う。

 この本は、老年についての本と言うよりは、老年になっても活躍したギリシャ・ローマの偉人たちを紹介した本ということができる。けっして表題から想像されるような辛気くさい内容の本ではない。むしろ訳者が巻末に付けた『わたしの老年論』のほうが、まさに老年論らしくうっとうしい内容となっている。

 この本で語り手のカトーを通じてキケロが展開している議論自体は、上に紹介したものとほとんど同じであまり目新しいものはない。しかし、そこで挙げられている個々の偉人たちのエピソードの後ろに隠れているすばらしい物語を知っていれば、とても楽しく読める本である。 「人名・地名解説」がもっと詳しければと悔やまれる。

 なお、岩波文庫の『義務について』(泉井久之助訳)は、とても流暢な日本語に訳されているが、どういう意味かわからない文章も多い。また、同じ岩波書店から出ている『キケロー選集』第9巻(6400円!)にも『義務について』(高橋宏幸訳)と『老年論』(中務哲朗訳)が入っているが、私見では日本語のレベルも訳の正確さも泉井氏の訳よりはかなりレベルが下がる。いずれも一般の読者にはおすすめしない。


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