土井晩翠訳『イーリアス』まえがき


西欧詩界の王座にギリシアの詩があり、ギリシア詩界の王座にホメーロスの二大詩、『イーリアス』と『オデュッセイア』がある。この二大叙事詩はギリシア詩歌全体の源泉であり、典型であり、したがってギリシア詩歌を源泉とし、典型とする西欧諸国の詩歌一切の根本であり、詩経と楚辞とが支那歴代詩賦一切の根本であるのに酷似する。ある時代には忘れられたこともあるが、概して今に至るまで、文運時運の消長を通じ、三千年の長きにわたってホメーロスは西欧の慰藉であり、好尚である。「向後一千年の未来時代に、なお確かに読まるるものはバイブルとホメーロス」とは十九世紀後半の碩学ルナンの断言であった。最近の独仏戦争において幸いに破壊を免れたパリのルーブル美術館所蔵、アングルの1827年の大作『オメール(ホメーロス)の神化』は、王座により、詩神に月桂冠を授けらるる詩聖を西欧諸国歴代の詩傑文豪が瞻仰(せんぎょう)する画面である。

『ギリシアの天才』の巻頭に述ぶるジョン・チャップマンの言を借りて言えば、近代最高のシェークスピアが忘らるるとも、ホメーロスは決して忘れられぬ。後者は歴史の中流に浮かび、前者は一の渦流(かりゅう)中に浮ぶ。詩を好む者、詩を説く者は(東洋は別として)誰よりも先にホメーロスに向かわねばならぬ。

プラトーン、アリストテレスおよびその他が著書中にホメーロスをあるいは論評しあるいは引用した時代、アレクサンダー大王が黄金の箱におさめて『イーリアス』を陣中に携えた時代、——その頃のギリシアは二大詩の作家としてのホメーロスの史的実在に何らの疑いをいれなかった。七つの都市がその生誕地たる光栄を論争した。その伝記は八種あったが、そのなかの一、ヘーロドトスの作と称するものは、詩聖の誕生を西暦紀元前(B.C.)830年とする。他の説くところは年代が互いに相違して、最古はB.C.1159年、最新はB.C.685年とする。二大詩は別々の人の作と主唱する者、いわゆる分離論者(コーリゾンテス Χωρίζοντες)が現れたのはギリシア文学の末期、B.C.170年頃アレクサンドリア時代においてである。(易の十翼は孔子の作たることを司馬遷が史記に明記して以来一千余年ののち、欧陽脩が初めて否定したようなものである)。その先頭に立った者はクセノーンという学者であった。当時のアレクサンドリアの図書館長アリスタルコスはこれに反対して古来の伝説を肯定した。これより先、B.C.6世紀にアテナイの独裁君主ペイシストラトスは、従来ただ口伝によって流布した二大詩を書物にした。次にゼノドトス(B.C.325年生まれ)という学者(第一回のアレクサンドリア図書館長)は、同館中の材料を集めて初めてホメーロスの定本を作った。

クセノンとアリスタルコス以来、歴代続いて否定あるいは肯定の論争が尽きない。ローマのセネカ(ネロ皇帝の侍従、のちに彼に殺された大儒)は、「かかる論争をするには人生は短か過ぎる」(『人生の短さについて』13.2)と冷語した。

今日現存する『イーリアス』最古の写本は、西暦紀元(A.D.)十世紀のもの、アリスタルコス以下諸学者の註解を付して最も貴重なもので、イタリア・ヴェニスのマルコ図書館に珍蔵さるる。1788年(フランス大革命勃発の前年。日本の天明8年)この写本がヴィロアソン(Villoison)という学者の手によってヴェニスに刊行された(その一本を幸いに私は所蔵している)。これがホメーロスに関する近代の研究と論争の土台となった。すなわち1795年刊行の有名なフリードリッヒ・ヴォルフの『ホメーロス序説』はヴィロアソン刊行の『イーリアス』を精細に研究考査した結果である。彼の結論によれば、二大作は別々の人の作、その各々も一詩人の作ではない、従来の諸作の集合である。爾来、昔からの論争がもろもろの専門家によって繰返されて今日に到った。ベルリン大学のヴィラモヴィツ・メーレンドルフ教授(1848~1931)は、ギリシア文学研究の一大権威であるが、『ホメーロス研究』(1884)等においてヴォルフの説に賛成した。アンドリュー・ラングは『ホーマーと叙事詩』(1893)および『ホーマーの世界』(1910)において、J.W.マッケイル(オックスフォード大学における詩学教授)は『ギリシア詩講議』(1926)において、C.M.バウラ(同大学講師)は『古代ギリシア文学』(家庭大学叢書第167巻、1933)において、ヴォルフの説を否定した。以上はただ一二の例を挙げたに過ぎぬ。時代の趨勢によって、否定説肯定説かわるがわるに行われ、新時代ごとに新学説が起って将来長く究尽する所を知らないであろう。

しかし詩として二大詩を見る一般読者は、如上の論争をまったく度外視して差し支えがない。昔のギリシア人がこれを朗吟した伶人(ラプソーディスト)に恍惚と聞き入ったその態度を取って十分である。ただし次の事を忘れてはならぬ。二大詩は彼に先だてる前人の多くの作を材料として集大成したもの、言語が発達し成熟したあかつきに、技巧を尽くして完成した非口語体の芸術的作品である。十九世紀のロマンティック評論がこれを(芸術に対して)素朴な自然的作品と称えたのは全然の誤りであった。

『イーリアス』の背景は十年にわたるトロイア戦争(トロイ戦争)である。少年時代トロイア戦争物語に興味を感じたハインリヒ・シュリーマンが、1870年、小アジアのヒサルリクに古跡を発掘して以来、考古学的研究はその歩みを進めた。その結果、ホメーロスを欧州文明の曙光と観じた十九世紀のギリシア史専門家、グラッドストーン、フリーマン等の説が根柢から覆えった。トロイア戦争を遡ること一千余年の遠い昔に、エーゲ文明は高度の発達を遂げ、そしてその後種々の国家の盛衰存亡が続いたことが明らかになった。

トロイア戦争はどれだけ史的確実性があるか。考古学、言語学、比較神話学および史学の厳密な見地から、いまだ容易に決定されない。「歴史家の歴史」は古来の伝説として、トロイアの落城を仮にB.C.1084年としている。トロイア民族およびギリシア民族の起源およびその関係、さらに遡ってエーゲ海を舞台としたクレータ文化、これにつづくミケーネ文化、またその次の(ホメーロスの歌える)英雄時代文化、さらにこれに次ぐドーリア族進入(B.C.1100年頃)以来の新文化、これらに関する学究的論争は(ホメーロス問題と同様に)将来長きにわたって続くだろうが、この序編において言及する必要はない。

『オデュッセイア』も同様であるが、『イーリアス』の一行一行はいわゆるHeroic Hexameter、ダクテル(—∪∪)とスポンデー(——)すなわち長短短と長長との交錯の六脚から成る。長は短の二倍に当る。短の一シラブルを一単位とすれば、各行は二十四単位である。日本の七、五調は十二音、倍にすると二十四音、私はこの七、五、七、五(私の青年時代の作『万里長城歌』のごとき)を一行として原詩の一行に対し、原詩と同じ行数一万五千余行に訳了した。二十巻の万葉集全部の二倍の長さである。『オデュッセイア』は一万三千余行である。

「神聖のホメーロスも時には居眠りす」という昔のラテンの諺があった。この居眠りの部分は、おそらく後世の添加であろう。一万五千余行全体がことごとく精金美玉ではあり得ない。カーライルのシェークスピア論に「彼の作は窓戸(そうこ=窓)の如し、これによって内部の面影がのぞける。が、比較的にいわば、彼の作は粗漏であり、不完である。ただ所々に完全美妙の文句——光輝燦爛として、天火(てんか=雷)の降るがごときものがある。しかしこの光輝はその周囲の光らざるを感ぜしむる」といった。ホメーロスにもある点において同様の事がいわれよう。しかし詩中の優秀な部分はホメーロス研究の大家リーフの評のごとく、人界にあり得べき最上最高最美最麗の詩である。「才気の大、筆力の高、天風、海濤(かいとう=大波)、金鐘、大鏞(だいよう=釣り鐘)もよくその到るところに擬することなし」とは杜甫に対する沈徳潜の評であるが、移して詩聖ホメーロスに適用すべきであろう。

欧州近代の諸国語によるホメーロス飜訳の困難はマシュー・アーノルドの所論の通り、まして文脈語脈の全然無関係なる日本詩に訳することは非常の難事である。されど西欧文学東漸(とうぜん)以来、明治大正昭和の三代を経てホメーロスの韻文完訳がまだ一度も世に現われぬのは日本文学の名誉ではない。委細は跋文に譲るが、私は分を計らず、微力を尽してこの難事に当った。原作の面目を幾分なりと髣髴せしめ得るなら望外の幸いである。

この度三笠書房より出版するに当り、おり悪しく訳者病床にあり。そのため校正その他一切を出版社に一任す。他日、万一生き残ったならば、更めて訂正することあるべし。

 昭和24年12月4日

仙台において 土井晩翆





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