土井晩翠訳『イーリアス』あとがき



イーリアス:あとがき

ホメーロスの原典を読むこと、ましてこれを韻文化すること、——これは私が大学卒業前後にはまったく思いがけぬことであった。

その頃、故男爵神田乃武先生からラテン語を三ヶ年正科として教えて頂いた。ある日課程の終った後、ギリシア語学習の望みを先生に申上げたところ「よしたまえ、どうせ物にならぬから」とあっさり諭されて悄然と退却したものであった。その後この大それた考えは一切うち捨てた。当時東京にあった唯一の帝国大学の図書館に一部のホメーロス原典が無かったと思う。

大学卒業二ヶ年の後、第二高等学校に奉職した。ある日先師粟野教授を訪問して所蔵の諸書を閲覧すると、中にパリのアシェット会社刊行のシーザーの『ゴール戦争記』、原文に二重訳(直訳と飜訳)を添えたものがあった。その付録の広告で、ホメーロスに関する同様のものがあることを知った。それで「イーリアス」の第一冊(第一巻——第四巻)を試みにアシェット社から取り寄せて見た。そしてギリシア文法初歩をひらきながら、初めて「女神よ、歌え……」の劈頭(へきとう)を解するを得た。回顧すれば五十年の昔である。

ローマの"Delenda est Cartago"の老カトーは八十歳になって初めてギリシア語を学んだ。これを想起して、今からでも遅くはないとまた野心を起し、この困難な語学をやらうと思い直した。が中々はかどらぬ。少年時代のしなやかな頭脳ではない。「どうせ物にならぬから」神田先生の言をしみじみ味った。『イーリアス』訳完成の今も語学としては物になって居らぬ。

その後二年、同郷(仙台)同町の志賀潔君(当時すでに赤痢菌発見の幸運児)が北里研究所からドイツ留学に旅立つことになった。「洋行」という二字は当時非常に魅力を持ったものだ。そこで父に願って二高の教授職をやめて志賀君と同じ船(後に日露戦役で撃沈された常陸丸)で渡欧した。(『東海遊子吟』にその門出を詠じた)。在外三ヶ年半、この間にちょいちょいホメーロスの本文若干種またホメーロスに関する文学書を手当り次第集めた。英国の南岸ボーンマス(Bournemouth)に病養の際、一日古本屋でアンドルー・ラングの『ホーマーとエピック』、またラテン訳を添えた原典等を求めた。「ホーマーに関するものが欲しい」と言うと、店の主人がびっくりしたような顔付きで、『日本人がホーマーを読むというのか、我々が孔子の原本を読むというようなものだ』と叫んだ事を思い出す。

ドイツに移ってライプツィヒ滞在中(日露戦争開端の号外をここで聞いた)、他の若干の善いものと同時に求めたギリシア文法一覧(パラダイム)の余白に、「我に幸いするものはギリシア語か、我に災いするものはまたギリシア語か」と書いたのをいま見出して多少の感慨である。

日露戦争結末近く帰朝して再び第二高等学校に奉職、「怪しげな英語教師」として奉職すること三十余年(新潮社刊行、近代詩人全集第二巻、一頁の自伝中に述ぶる通り)、この間に時々閑を盗み、前述のごとく大学時代には思いもかけなかった『イーリアス』の韻文訳をおっかなびっくり試みた。そして第一次世界戦争の勃発直前、大正三年の中央公論春季号に、『イーリアス』第一巻の三百四十九行以下後半訳を寄稿した。この春季号をいま出して見て、また多少の感慨、爾来二十六年の歳月が夢のやうに過ぎたのである。

ホメーロスの近代欧州諸国語の訳は何百種あるか分らぬ。英国博物館の書庫には比較的多数のホメーロス文学があると思う。同書庫最新のカタログ(全部の予約価一万円以上)はいまだ『ホーマー』に到らぬ。十九世紀終りに近く刊行の旧カタログは上野の国立図書館にある。

十数年前何かの文学雑誌で『オデュッセイア』英訳は既刊二十五種あることを読んだ。『イーリアス』のはその二倍もあるだろう。序文の中にも書いた通り、マシュー・アーノルドは『ホーマー飜訳論』において完美の訳は不可能と断じた。英国の大詩人ポープのも、またキーツを鼓吹したチャップマンのも、クーパーのも完美でないと断じた。

ハインリッヒ・ヴォスのドイツ訳は有名である。「ルターは聖経を訳し、君はホメールを訳して、ともにドイツ国民に最大の恩恵を与えた。優秀の物を自国語で読めぬなら、その民族は野蛮であり、優秀の物をわが物と眺めることが出来ぬ」、ヘーゲルはこの言を送って訳者を称揚した。「ヴォスの恐ろしい(ウンゲホイレ)計画(ホメーロス訳)は時たつに従い、戸々一本を蔵すべしと世人の考うる一種の聖典となろう」これはウィランドの賛辞であった。しかしその短所を摘発したものもある。ゲオルグ・フィンスラーの『近代におけるホメール』中に詳説してある。

序文にもいう通り、文脈語脈のまったく無関係な日本韻文に、しかも原典と等しい行数に本編を訳すということは無上の難事である。弱い肩の上に負い切れぬこの荷物の下に絶望の声を放って、二十四巻の中僅か四五編を訳したまま中絶すること十余年。我ながら余りにも意気地が無かった。今更慚愧至極である。

昭和七年、八年とつづいて最愛の長女照子(二十七歳)と唯一の男子英一(二十五歳)が死んだ。こういうと親馬鹿と笑わるるのは請け合いだが、二人はともにトビが生んだタカであった。その両児がもう現世では会えぬ、わが残生は前途黒暗々であった。が彼らの霊が、時々夜の夢に現われ、「父さん、しっかり!私どものやるべき仕事の幾分を代ってやって下さい。祈ってお助けしますよ」この声に励まされ、二児が生存中であった十年のむかし、『野口英世頌』の末段に「地上における愛の極み、やさしき子らの祈りより力を得つつとりし筆」と書いた通り、多年中絶のホメーロス訳を取り上げた。そして三十余年勤続した第二高等学校から引退して時間の余裕を得たので、あまりにも重いこの荷を再び担ぎ上げて、よろめく足を踏みしめながら、徐々に歩みを進めて今度やっと完成を告げた。まるで夢のような心地である。

孝廉のゆえに封建時代、仙台藩主から恩賞を賜わった私の曾祖父(養賢堂学頭、大槻格次編、仙台孝義録所掲)は弘化四年(西暦一八四七年)逝去したが、その配たる享年九十一歳の私の曾祖母は、和歌にくわしくて、少年時代の私を教えてくれた。十八歳でその父を失った祖父は神仏の尊信に極めて熱心であった。父は挙芳の号で俳句と和歌とをたしなんだ。幼年時代に父から八犬伝、太閤記等をお伽噺に聞かされ、また少年時代に日本外史、四書五経の素読を教えられたのが、私の文学趣味の根柢をなした。少年時代仙台の立町小学校の修身教科書にあった宋の范質の句「遅々澗畔松、欝々含晩翆」(ちちたるかんぱんのまつ、うつうつとしてばんすいをふくむ)は私の雅号の出所である。

この『イーリアス』訳の完成に当りて今更ながらいにしえ、北欧のユグドラシル樹の比喩を思う。万有成立の生命樹ユグドラシル、過去、現在、未来を兼ね、已に成れるもの、いま成るもの、後に成るものの一切である。なすという動詞の無窮変化である。今日のわが述ぶる言語、わが書く文章は、原人が初めて言葉を発した以来の一切の人に負う。厳密にいって、われのものと称すべきは一もあることがない。襟を正してしばし瞑目の後、我に返りてこの跋文を結ぶ。

 昭和二十四年十二月四日     仙台にて

土井晩翆


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