『日本イデオロギー論』






  ――現代日本に於ける日本主義、
      ファシズム、自由主義思想の批判

これは矢野正人氏が入力されたものを旧かなに変更し、適宜修正したものである。
原本はこちら



 この書物で私は、現代日本の日本主義と自由主義とを、様々の視角から、併し終局に於て唯物論の観点から、検討しようと企てた。この論述に『日本イデオロギー論』といふ名をつけたのは、マルクスが、みづからを真理と主張し又は社会の困難を解決すると自称するドイツに於ける諸思想を批判するに際して、之を『ドイツ・イデオロギー』と呼んだのに傚つたのだが、それだけ云へば私がこの書物に就いて云ひたいと思ふことは一遍に判ると思ふ。無論私は自分の力の足りない点を充分に知つてゐると考へるので、敢へてマルクスの書名を僭する心算ではないのである。


  (「現代日本の思想上の諸問題」と「自由主義哲学と唯物論」の二つは新しく書いたものである。他の論文は『唯物論研究』『歴史科学』『社会評論』『進歩』『読書』『知識』や、『改造』『経済往来』『行動』『文芸』に、一旦載せたものであるが併し之を整理して一貫した秩序を与へたのである。)


 なほ私がひそかに想定してゐる思考上の伏線に就いて、注意を払ふ読者があるならば、左記の書物を参照して貰へば幸いである。特に第二以下のものが直接の役に立つだらうと思ふ。

 一、科学方法論        (一九二九)  (岩波書店)
 二、イデオロギーの論理学  (一九三〇)  (鉄塔書院)
 三、イデオロギー概論      (一九三二)(理想社出版部)
 四、技術の哲学          (一九三三)   (時潮社)
 五、現代哲学講話        (一九三四)   (白揚社)
  (『現代のための哲学』――大畑書店――の改訂版)
                        以 上
  一九三五、六、三〇
                東 京
                   戸 坂  潤


 増補版序文


 再版に際して補足として三つの文章を加へることにした。時局の進展に応じてこれが必要だと思つたからである。――なほ参考として、初版序文に挙げた他に、『思想としての文学』(一九三六、三笠書房)と『科学論』(一九三五、唯物論全書、三笠書房)の二つの拙著をつけ加へておく。
  一九三六、五
                      著 者


 増補版重版序文


 増補版も版を重ねること数回に及んだ。今、特に云ふべき言葉は持たないが、ただ増補版序文の後、本書と連関のある私の著書が四つ程出版されてゐることを、読者に報告しておきたいと思ふ。
 巻末の著書表〔そこには『道徳論』(一九三六、唯物論全書、三笠書房)、『思想と風俗』(一九三六、三笠書房)、『現代日本の思想対立』(一九三六、白揚社)、の四つの著書が追加されてゐる〕を参照されたい。
  一九三七、一
                     著 者


序 論


第一 現代日本の思想上の諸問題
      ――日本主義、自由主義、唯物論


 現代の日本に於いては、凡んどありとあらゆる思想が行なはれてゐる。日本、東洋、欧米の、而も過去から現在にかけてのあれこれの人物に基く思想を取り上げるならば際限がない。曰く二宮尊徳、山鹿素行、曰く孔子、曰くニーチェ、ドストエフスキー、曰くハイデッガー、曰くヤスペルス、曰く何々。かう並べて見ると、かういふ所謂「思想」なるものが如何に無意味に並べられ得るかに驚かされるだらう。だがこの種のあれこれの思想はどれも、実は高々一個の「見解」といつたものにしか過ぎないのであつて、まだそれだけでは社会に於ける一貫した流れとして根を張つた「思想」ではない。――思想とはあれこれの思想家の頭脳の内にだけ横たはるやうなただの観念のことではない。それが一つの社会的勢力として社会的な客観的存在をもち、そして社会の実際問題の解決に参加しようと欲する時、初めて思想といふものが成り立つのである。

 さうした意味に於ける思想として、現代日本に於てまづ第一に挙げられるべきものは、自由主義なのである。世間の或る者は自由主義が昨今転落したと云つてゐる。だが、さういふならば一体最近に転落し得るやうなどういふ自由主義が旺盛を極めてゐたか、と反問しなければならなくなるだらう。少くとも最近、自由主義は世間の意識に少しも積極的に上つてはゐなかつた。大戦以後、自由主義思想が勢力を有つたと見られ得たのは、僅かに吉野作造氏等によるデモクラシー運動位のものだつたが、それもマルクス主義の駸々たる台頭の前には、完全に後退して了つたと見ねばならぬ。それ以後意識的に自由主義思想が高揚したのを吾々は見ないのである。だがそれにも拘らず、自由主義は明治以来の社会常識の基調をなして来てゐるといふ他面の事実を忘れてはならない。

 云ふまでもなく日本に於ける民主主義は決して完全なブルジョア・デモクラシーの形態と実質とを備へたものではなかつた。封建性に由来する官僚的、軍閥的勢力との混淆、妥協によつて、著しく歪められた民主主義でしか夫はなかつた。併しそれが夫なりに、矢張り一個の民主主義を基調としたればこそ民主主義の歪曲でもあり得た、といふ点が今大切である。日本に於ける自由主義の意識は、甚だ不徹底な形に於てであるにも拘らず、吾々の社会常識の基調をなして今日に及んでゐる。ただそれが余りに常識化したものであつたため、それから又、決して常識以上に抜け出なかつたために、特別に「自由主義」として意識的に自覚され強調されるやうな場合が、極めて例外な偶然的な場合と見られるのに他ならない。日本主義が台頭するに当つて、さし当り第一の目の敵としなければならなかつたのは、だから、この普及した社会常識としての自由主義思想だつたのであつて、之は別に、それまで自由主義の思想が特に意識的に旺盛を極めてゐたからではない。で、自由主義は無意識的にしろ近代日本の思想のかくされた基調をなしてゐる。

 自由主義思想は、自由主義の意識は、その本来の淵源を所謂経済的自由主義の内に持つにも拘らず、思想としての直接の源泉は之を政治的デモクラシーの内に持つてゐる。だが自由主義思想は決してデモクラシーといふ観念内容に終始するものではない。それはもつと広範な観念内容を含んでゐるが、そこから、自由主義思想には、ありと凡ゆる内容が取り入れられることが出来る、といふことになつて来るのである。

 一体自由主義が本当に独立した一個の思想として成り立つかどうかが抑々の疑問なのである。と云ふのは、一定の発展展開のメカニズムを有ち、自分と自分に対立するものとの甄(けん)別を通して自らを首尾一貫する処の、生きた論理組織を、自由主義が独自に持てるかどうかが、抑々の疑問なのである。だが仮にさうした自由主義の哲学体系が成り立つたとして、さうした「自由主義」哲学は必ずしも自由主義思想全般の忠実な組織であるとは限らないのである。なぜかと云ふに、自由主義的思想にはありと凡ゆる観念内容が這入り得るのだつたから、仮にその観念内容を理論的な哲学体系にまで組織したとして、果してその体系が、依然として「自由主義」といふ名目に値ひするかどうかが、保証の限りではないからである。つまりそれ程、自由主義思想の観念内容は雑多で自由なのである。

 自由主義思想にぞくする内容の一つには、社会的政治的観念からの自由、とも云ふべきものが含まれてゐる。そこでは専ら文化的自由だけが問題となる。之は今日多くの自由主義者の自由観念の内に見出される処であるが、その一つの場合として、その文化的自由の観念が宗教的意識にまで高揚し、又は深化されるのを見なくてはならぬ。キリスト教的(主にプロテスタント的)神学や仏教的哲学を通つて、自由主義者の哲学は宗教意識へと移行するのを、読者は至る処に見るだらう。今日教養あるインテリゲンチャが宗教観念に到達する道は、多くはここにあるのであつて、この種の宗教意識は、この段階に止まる限り(この段階からもつと進めば別になるが)、自由主義意識の一つの特別な産物なのである。

 この宗教的自由は云ふまでもなく政治的自由からの自由を意味する。現実からの逃避を意味してゐる。処がここに実に、宗教の第一義的な真理が、即ち又その第一の用途が、横たはることは人の知る処だ。社会に於ける現実的な矛盾がもはや自由主義思想のメカニズムでは解決出来なくなつた現在のやうな場合、その血路の一つが(但し唯一の血路ではないが)ここにあるのであつて、矛盾の現実的な解決の代りに、矛盾の観念的な解決が、或ひは矛盾の観念的な無視、解消が、その血路である。現代は、従来国家的又社会的に認定された「既成宗教」や、比較的無教育な大衆の上に寄生する所謂邪宗の他に、インテリゲンチャを目あてとする多少とも哲理的な新興宗教の企業時代だが、一般に自由主義に基くインテリゲンチャの動揺がなければ、かうした企業の目算は決して成り立たない筈であつた。

 処で、この云はば宗教的な自由主義は、一変して、云はば宗教的な絶対主義に転化するのである。自由主義は宗教意識を仲立ちとすることによつて、容易に一種の絶対主義に、而も一種の政治的絶対主義に、移行することが出来るのである。宗教は今や政治的絶対主義に協力し始める。例へば仏教は日本精神の一つの現はれだと解釈され始める。カトリック主義さへが法皇の宗教的権威と日本の絶対君主とを調和させよと主張し始める。日本の絶対君主が一種の宗教的対象を意味することなど、もはや少しも問題ではないかのやうに。――で自由主義の埒外へ一歩でも踏み出した宗教意識は、やがて日本主義の埒内に収容されるのだ、といふことを注目すべきである。

 宗教復興によつて宗教的世界観が、宗教的思想が、最近の日本を支配し始めたやうに云はれてゐる。之が本当の「宗教」的真理運動を意味することが出来るかどうかは別として、とに角さういふ特別な宗教思想が今日の著しい現象だといふことには疑ひはあるまい。だが、これは必ずしも、宗教的思想が独自な思想分野を構成するものだといふことを意味しない。宗教意識は自由主義思想に基くものでなければ、日本主義思想に帰着するものであつたからだ。――思想は社会人の政治的活動と一定連関を持つことによつて初めて思想の資格を得る。もし単なる宗教としての宗教といふものがあるとしたなら、それは何等の思想でもなく、全くの私事に過ぎないだらう。だが無論実際には、単なる宗教としての宗教などといふものは決して存在してゐない。

 自由主義思想が一つの独自な論理を有つことによつて哲学体系にまで組織される時、夫は広く自由主義哲学と呼ばれてよいものになるのであるが(尤もその多くのものはさういふ命名法に満足しないことは判つてゐる)、この哲学体系の根本的な特色は、その方法が多少に拘らず精練された「解釈の哲学」だといふことにある。事物の現実的な秩序に就いて解明する代りに、それに対応する意味の秩序に就いてだけ語るのが、この哲学法の共通な得意な手口なのである。例へば現実の世界では、宇宙は物理的時間の秩序に従つて現在の瞬間にまで至つてゐる。よく云はれることであるが、意識の所有者である人間や(他の生物さへ)がまだ存在しなかつた時にも、すでに地球が存在した、といふことを地質学と天文学とが証明してゐる。処が自由主義的論理に立つ解釈の哲学は、宇宙のかうした現実の秩序(物理的時間)を問題とはしない、その代りに人間と自然との関係を、人間の心理的時間の秩序に於て問題にしたり、或ひは超人間的な又は超宇宙的な従つて又超時間的な秩序(さういふ秩序は意味の世界に於てしかあり得ない)に於て問題にしたりしかしない。現実の世界に就いて語るやうに見せかけて、実際に聞かされるのは、意味の(だから全く観念界にぞくする)世界に就いてでしかない。さういふことが世界の単なる解釈といふことなのである。

 観念論が最も近代的に自由主義的形態を取つたものが、この精巧に仕上げられた解釈哲学に他ならない。露骨な観念論といふ髑髏(どくろ)は、この自由主義といふ偽装によつて、温和なリベラルな肉付きを受けとる。だがそれだけ自由主義が観念論の近代文化化された被服であるといふことが、証拠立てられることになる。

 この解釈哲学といふ哲学のメカニズムは非常に広範な(寧ろ哲学的観念論全般に渡る)適用の範囲を有つてゐる。従つてこれが必ずしも自由主義哲学だけの母胎でないことは後に見る通りだが、併しここから出て来る最も自由主義哲学らしい結論の一つは、文学的自由主義乃至文学主義といふ論理なのである。之は解釈哲学といふ方法の特殊な場合であつて、この解釈方法を、文化的に尤もらしく又進歩的に円滑にさへ見せるために工夫し出されたメカニズムに他ならない。現実に就いてのファンタスティックな表象である処の文学的な表象乃至イメージを利用して、この文学的表象乃至イメージをそのまま哲学的論理的概念にまで仕立てたものが之である。かうすれば現実の秩序に基く現実的な範疇組織(=論理)の代りに、イメージとイメージとをつなぐに適した解釈用の範疇組織(=論理)を結果するのに、何よりも都合がいいからである。

 処で実際問題として、この文学主義は、多く文学的自由主義者である処の日本現在のインテリゲンチャの社会意識にとつて、何より気に入つたアットホームなロジックなのである。だから現在インテリゲンチャが自らインテリゲンチャを論じるに際して知らず知らずに採用する立場はこの文学的自由主義乃至文学主義であらざるを得ない。事実インテリゲンチャ論は現在に於ては何よりもまづ広義の文学者達の一身上の問題として提起されてゐるのであつて、そこからこの種のインテリゲンチャ論がインテリ至上主義に帰しはしないかと疑はれる点も出て来るのであるが、それはとに角、少くとも之が文学主義といふ一種の自由主義哲学に立脚してゐることはこの際特徴的だと考へられる。――だがインテリゲンチャの問題は元来インテリジェンスの問題に集中する。処でインテリジェンスの問題を解くにはもはや自由主義哲学では役立たない。といふのは、一体インテリジェンスの問題に就いて、自由主義的に科学的解決を与へるといふことは、何か意味のある言葉だらうか。――ここでも気づくことだが、自由主義哲学を、科学的理論体系として徹底することは、すでに何かの錯誤を意味してゐるのだ。

 自由主義哲学の最もプロパーな場合は、自由そのものの観念的な解釈に立脚する理論体系である。ここでは経済的、政治的、倫理的自由が、それ自身だけとして問題になることによつて、自由そのものとなり、従つて又自由一般となり、従つて哲学は自由の一般的な理論となる。ここから結果するものは自由一般に関する形式主義的理論でしかない。――形式主義は解釈哲学の必然的な結果の一つであるが、元来形式主義と解釈哲学とは、形而上学=観念論的論理の、二つの著しい特色だと認められてゐる。

 さて処で、自由主義が宗教的意識を産み出すことによつて、やがて絶対主義としての日本主義に通じて行くことを前に見たが、今度は恰もこの現象に平行して、自由主義に於ける解釈哲学といふ方法が、日本主義を産み出す所以を見よう。之を見るならば、日本主義の哲学が実は或る意味に於て自由主義哲学の所産であり、少くとも日本主義哲学への余地を与へたものが自由主義哲学の寛大な方法だつた、といふことに気がつくだらう。

 先に自由主義哲学の方法上の特徴であつた例の解釈哲学が、自由主義に特有な文学主義を産む所以を見たが、之に平行して、今度はこの解釈哲学は文献学主義を産むのである。文学主義が現実に基く哲学的範疇の代りに文学的イメージに基く文学的範疇を採用するといふ解釈方法だつたとすれば、文献学主義は、現実の事物の代りに文書乃至文献の語源学的乃至文義的解釈だけに立脚する。その最も極端な場合は、国語の内からあれこれの言葉を勝手に取り出して来て、之を哲学的な概念にまで仕立てることである。文学主義は表象を概念にまで仕立てたが、文献学主義は言葉を概念にまで仕立てる。処でそれだけならば誰しもかうした「哲学方法」(?)の極度に浅薄なことに気付かぬ者はないのだが、併しこのやり方を古典的な文献に適用すると、その時代の現実に就いて人々が充分歴史科学的な知識を有つてゐない限り、相当の信用を博することも出来なくはない。そこでかうした古典の文献学主義的「解釈」(或ひは寧ろコジツケ)を手頼つて、歴史の文献学主義的な「解釈」を惹き出すことも出来る。今日の日本主義者達による「国史の認識」は殆んど凡てこの種類の方法に基いてゐるのである。

 そしてもつと大事な点は、かうした古典の文献学主義的解釈を以て、現在の現実問題の実際的解決に代へようとする意図なのである。仏典を講釈して現下の労働問題を解決し得ようといつた類の企てが夫なのである。古典が成立した時代に於てしか通用しない範疇を持つて来て、夫を現代に適用すれば、現在の実際的な現実界の持つてゐる現実はどこかへ行つて了つて、その代りに古典的に解釈された意味の世界が展開する。現実の秩序の代りに、意味の秩序を持ち出すのに、恐らくこの位ゐ尤もらしく見えるトリックはないだらう。

 文献学主義は尤も、必ずしもすぐ様日本主義へ行かなければならぬといふ必然性は有たない。元来日本主義といふものが何かが決して一般的に判つてゐるのではないが、少くとも文献学主義から、ギリシア主義やヘブライ主義へ行くことも出来れば、古代支那主義(儒教主義)や古代印度主義(仏教主義)へ行くことも出来る。アカデミーの哲学者やキリスト教神学者、王道主義者や仏教神学者達は、夫々この文献学主義のメカニズムを利用して、現代の事物に就いて口を利いてゐるのである。古典の研究は古典の研究であつて、現代の実際問題の解決ではない。処がこの古典研究を利用して、現在の実際問題を解き得るやうに見せかける手品が、文献学主義だといふのである。――之は現代の資本主義内部から必然的に発生する処の各種の反動主義の国際的原則をなしてゐるのである。

 以上からすぐ様想像出来るやうに、文献学主義は容易に復古主義へ行くことが出来る。復古主義とは、現実の歴史が前方に向つて展開して行くのに、之を観念的に逆転し得たものとして解釈する方法の特殊なもので、古代的範疇を用ゐることによつて、現代社会の現実の姿を歪曲して解釈して見せる手段のことだ。そして忘れてならぬ点は、夫が結果に於て社会の進展の忠実な反映になると自ら称するのが常だといふことである。

 さて文献学主義が愈々日本主義の完全な用具となるのは、之が国史に適用される時なのである。元来漫然と日本主義と呼ばれるものには、無数の種類が含まれてゐる。一般的にムッソリーニ的ファシズムやナチス的ファシズム、社会ファシズムと呼ばれるべきものさへ、今日では日本主義と或る共通の利害に立つてゐると考へられる。又単に一般的な復古主義や精神主義や神秘主義や、又ただの反動主義に過ぎないものも、日本主義的色彩によつて色どられてゐる。アジア主義や王道主義も実は一種の日本主義なのである。だがプロパーな意味での日本主義は「国史」の日本主義的「認識」に立脚してゐるのである。日本精神主義、日本農本主義、更に日本アジア主義(日本はアジアの盟主であるといふ主義)さへが、「国史的」日本主義の内容である。だから結局、一切の日本主義は淘汰され統一されて、絶対主義にまで帰着しなければならず、又現にさうなりつつあるのである。天皇そのものに就いては、論議の限りではないが、絶対主義は処で、全く文献学主義なる解釈哲学方法を国史へ適用したものに他ならない。この主義が日本に於ける積極的な観念論の尖鋭の極致である所以だ。之に較べれば自由主義は、消極的な観念論の単なる安定状態を示してゐるものに他ならぬ。

 と角の議論はあるにしても、日本主義は日本型の一種のファシズムである。さう見ない限り之を国際的な現象の一環として統一的に理解出来ないし、又日本主義に如何に多くヨーロッパのファシズム哲学が利用されてゐるかといふ特殊な事実を説明出来なくなる。色々のニュアンスを持つた全体主義的社会理論(ゲマインシャフト、全体国家等々)は日本主義者が好んで利用するファシズム哲学のメカニズムなのである。だが日本主義はかうした外来思想のメカニズムによつては決して辻褄の合つた合理化を受け取ることは出来ないだらう。唯一の依り処は、国史といふものの、それ自身初めから日本主義的である処の「認識」(?)以外にはあるまい(結論を予め仮定にしておくことは最も具合のいい論法だ)。処でそのために必要な哲学方法は、ヨーロッパ的全体主義の範疇論や何かではなくて、正に例の文献学主義以外のものではなかつたのである。――併し実は、この文献学主義自身は、もはや決して日本にだけ特有なものではない、寧ろドイツの最近の代表的な哲学が露骨な文献学主義なのだが(M・ハイデッガーの如き)。だから、日本主義に於て日本主義として残るものは、日本主義的国史だけであつて、もはや何等の哲学でもない、といふ結果になるのだ。

 例へば自由主義乃至自由主義哲学によつて国史を検討する、といふやうな言葉には殆んど意味がないだらう。日本主義的歴史観に対立するものは、唯物論による、即ち唯物史観による、科学的研究と記述とでしかあり得ない。だからこの点からも判るやうに、日本主義に本当に対立するものは自由主義ではなくて正に唯物論なのである。その証拠には、日本主義の殆んど唯一の「科学的」(?)方法である文献学主義のために余地を与へたものは、他ならぬ自由主義の解釈哲学だつたのである。この意味に於て、自由主義的哲学乃至思想の或るものは、そのままで容易に日本主義哲学に移行することが出来る。日本主義哲学は所謂右翼反動団体的な哲学には限らない、最もリベラルな外貌を具へたモダーン哲学であつても、それがモダーンであり自由主義的であることに基いて、やがて典型的な日本主義哲学となることが出来る。和辻哲郎教授の『人間の学としての倫理学』などがその最もいい例であつて、元来「人間の学」乃至人間学なるものは、今日(可なり悪質な)自由主義哲学の代表物であり、例の文学主義の一体系にぞくするものであつたが、夫が誠に円滑に、日本主義の代表物にまで転化することが出来るのである。――ここに自由主義的哲学と日本主義的哲学との本質的な類縁関係が横たはる。

 高橋里美教授の全体主義の論理は、それだけとして見れば全く自由主義の哲学体系に数へなければならないが、併し全体といふ範疇がナチス的社会理論の不可欠な基礎概念となつてゐることは改めて指摘するまでもないだらう。西田幾多郎博士の「無」の論理も亦、決して一見さう思はれるやうな宗教的神秘的な境地だと云ふことは出来ないが、それにも拘らずこれはその客観的な運命から判断すれば、例のインテリ向きの宗教意識に応へんがために存在してゐるやうにさへ見受けられる。そしてかうした宗教意識が、多少とも社会的な積極性を帯びると、忽ち日本主義のものになるといふ、現実の条件に就いてはすでに述べた。――自由主義はその自由主義らしい論理上の党派的節操の欠乏から、日本主義に赴くことに対して殆んど何等の論理的抵抗力をも用意してゐないやうに見える。自由主義者乃至自由主義的哲学者が日本主義に赴かないのは、論理的な根拠からではなくて、殆んど全く情緒的な或ひは又性格的な根拠からであるに過ぎない。処が彼等が唯物論に赴けないのは、単に情緒的な或ひは又性格的な根拠からだけではなく、又論理的な根拠からでもあるのである。

 普通自由主義は日本主義よりも寧ろまだ唯物論に近い、といふ政治的判断が下されてゐる。だが自由主義が自由主義哲学の体系に関はり合つてゐる限り、それは原則的には唯物論の反対物であつて、寧ろ日本主義への準備に他ならない。にも拘らずなほ、自由主義が唯物論の同伴者めいた役割を持つことが出来ると判断されるのは、自由主義が自由主義としての立場を固執することを止めて、却つてその反対な立場にまで自分の立場を徹底させうるだけの自由な立場を採る時に限る。自由主義は日本主義へ移行するには理論的に自由主義の立場を固執してゐても不可能ではない。だが自由主義が唯物論に移行するためには、自由主義は真に自由主義として、否、もはや自由主義ではないものにまで、自らを徹底しなければならない。この意味に於てだから自由主義は、決して普通考へられるやうに、日本主義と唯物論との公平な中間地帯などではなかつたのである。

 さて初めに私は、自由主義が近代日本の隠然たる社会常識だと云つた。このことは日本が曲りなりにも高度に発達した資本主義国であることから、当然出て来る結論でもある。今日の自由主義、即ちブルジョア・リベラリズムは、云ふまでもなく資本主義に基いたイデオロギーなのだから、これは又資本主義社会の根本常識でもなくてはならない筈だ。従つて自由主義が、発達した資本主義の社会的所産を現在の所与として仮定する限り、さうした所与を無視する他の各種の思想に較べれば、少くとも進歩的だと云はねばならぬ。中世的封建制を思想上の地盤にしてゐる各種の復古思想の反動性と比較すれば、何と云つてもさうなのである。或るカトリック学者は自由主義が今日なぜ一応の社会常識であるかを理解し得ないと云ふのであるが、この常識の是非はとに角として、自由主義乃至プロテスタンティズムの方が、中世的なカトリチスムスなどに較べて、ブルジョア社会の常識に一致するといふことは、今更論証を必要としないことだらう。

 処で日本主義(之が今日一個の復古思想であり又反動思想なのだといふ点に注意を払ふことを怠つてはならぬ)は、この自由主義的ブルジョア社会常識に照せば、著しく非常識な特色を有つてゐる。この非常識さが自由主義者を日本主義的右翼反動思想から、情緒的に又趣味の上から、反発させるに充分なのである。処がそれにも拘らず、事実上は、かうした非常識であるべき日本主義思潮が、今日日本のあまり教養のない大衆の或る層を動かしてゐるといふ現実を、どうすることも出来ない。さうなると之又一つの常識だといふことにならざるを得ないやうに見えるのである。社会に於ける大衆やその世論(?)といふものがどこにあるか、といふ問題にも之は直接連関してゐる。――で、常識といふものの有つてゐるかうした困難を解決するのでなければ、今日の日本主義に対する批判は充分有力にはなれまい。

 実際日本主義は自分がもつてゐるこの一種の常識性(?)をすでに自覚してゐるばかりではなく、今では夫を愈々強調しようとする方針に出て来つつあるやうに見える。日本主義は大衆を啓蒙(!)しなければならぬとさへ叫んでゐる。処が一般に大衆を相手にする啓蒙なるものは、今日の上品なリベラーレン達が決して潔しとしない仕事なのである。解釈哲学者や文学主義者達の多くは、専ら意味の形而上学の建設や自己意識(自意識―自己反省)の琢磨に多忙であつて、社会や大衆などは一杯の紅茶の値さへもないと考へる。これはつまり、如何に自由主義者達が日本主義的啓蒙運動(?)に対して、有力な援助を与へつつあるかといふことを物語つてゐる。

 自由主義者達の日本主義的啓蒙運動に対するこの援助は、云はば日本主義の前哨戦である文化ファシズムとしての文化統制運動となつて、日本主義者の側から感謝の手をさし延べられてゐるのである。今日の多くの自由主義者達が、最近の各種の文化統制運動に対して、殆んど何等の本質的な反発を感じないらしいことは、関係が援助と感謝との間柄だからに他ならない。

 日本主義と自由主義とに対立する第三の思想は、云ふまでもなく唯物論である。日本主義と自由主義との各々に就いて、又その相互の関係に就いて、科学的に批判し得るものは、日本主義でもなければ自由主義でもなくて、正に唯物論でなければならぬだらう。今この点に注目するならば、唯物論の思想としての優越性が、おのづから間接に証明されることになる。――ここに思想といふのは他でもない、実際問題の実地の解決のために、その論理を首尾一貫して展開出来る処の、包括的で統一的な観念のメカニズムのことである。

 私は以上のやうな観点から、日本主義と自由主義との若干の批判を企て、或ひは少くとも批判の原則を指摘しようと目論みたのである。思ふに現在に於ける唯物論の仕事の半ばはここにあるのである。


第一編 日本主義の批判とその原則


第二 「文献学」的哲学の批判
       ――一、文献学の哲学への発達
         二、文献学主義に対する批判の諸原則


 まづ問題の意味を説明しよう。

 現代に於ける唯物論の一つの課題は、世界と精神(文化)とに対する科学的批判である。ここに一つの課題といふ意味は、之だけが現代に於ける唯物論の課題の凡てではないといふことだが、更にここに批判といふのは、批判されるべき対象の現実的な克服に相応する処の理論的克服のことである。理論的な克服だけで事物は決して現実的に克服されるものでないことは明らかだが、逆に理論的な克服なしに実際的な克服を全うすることは実際的に云つて出来ないことだ。世間では往々批判といふものを実証に対立させて、消極的な労作にしか数へない場合が多いが、之は実証主義の安易な知恵に発するものだ。無論又、力量のないくせに眼だけ沃(こ)えた傍観者の批評趣味や、それから所謂批判主義などは、吾々が今必要とするこの批判とは殆んど全く関係がない。

 この批判が、そして科学的批判だといふ意味は、統一的で最も広範な科学的範疇(云ひ直せば哲学的範疇)を使つて事物を分析する処の批判といふことである。統一的で包括的な科学的諸範疇、哲学的諸範疇の組織は、無論厳密に云ふとただ一つしかあつてはならない。一つしかないといふことが客観的で科学的であることの特色の一つでもあるからだ。さういふ唯一性をもつた哲学的範疇組織を今日、唯物論(乃至もつと説明して云へば弁証法的唯物論)と吾々は呼んでゐる。唯物論はかうした唯一の科学的な論理のことなのだ。――この論理が使ふ色々の根本概念は、実際上はどういふ外貌をもつた具体的表象をでも外被として纏ふことが出来る。実際吾々は表象をアナロジーやユーモアやファンタジーやサジェッションに結びつけていつも文学的にもちゐることしか他に道を有たない、さうしなければ実際的の文章にも思想にもならないからだ。だが、それにも拘らず、否それであればこそ、さういふ浮動する文芸的表象、日常的観念の碇となるものが唯物論の範疇と範疇組織とでなければならない。

 処で、唯物論によるかうした科学的批判の一般的な基本的方法は、すでに広く知られてゐる処であるが、問題はこの一般的な方法を、現在の諸事情に即して役に立つやうに具体化することなのである。科学的批判の現在に必要な諸根本命題=諸原則をこの一般方法から導き出しまたは新しく工夫して之に組み入れることなのである。――私の現在の課題は特に、現下の哲学的観念論とそれのありと凡ゆる社会的、文化的適用とに対して、技術的に科学的批判を行ふのに実地に役立つ諸原則を求めることに他ならない。この見透しに従つて私はこれまで、一方ジャーナリズム、日常性、常識などの問題を取り上げたし、他方解釈哲学乃至その一つである文学主義に対してどこから攻撃してかかるべきかといふ吾々の態度をテーマとして来た(三、四、十一、十四、等を見よ)。無論この二つの系統の問題は実は同じ根柢に基いてゐる。そしてまだ残つてゐるテーマは沢山ある。

 文献学(フィロロギー)は文学主義の問題其他と並んで、解釈哲学(世界を専ら解釈して済ます哲学)の問題の特殊な場合の一つとして提出される。つまり文献学主義がここでの問題なのである。或る人は文献学(Philologie)を文学と呼ぶことを提案し、そして所謂文学を文芸と呼ぶべきだと主張してゐるが、この提案は或る尤もな理由を有つてゐる。少くとも、ここから見ても判るやうに、文献学主義の問題が文学主義の問題とごく近親な関係に立つてゐることをまづ記憶しておくのが便利だらう(文学主義に就ては十一、「偽装した近代観念論」を見よ)。

   一

 Philologie(文献学)は世間で通俗的に言語学と訳されてゐる言葉である。併し言語学は必ずしもフィロロギーではないことを注意しなければならぬ。例へばソシュール(Fer. de Saussure, Cours de LinguistiqueGe'ne'rale)によれば、言語の研究はギリシアにおいて文法学としてはじまつたが、それが主にF・A・ヴォルフの学派(十八世紀後半)によつてはじめて、所謂フィロロギーと呼び慣はされるやうになつたに過ぎない。しかもこのフィロロギーは主に古典語と古典語の解釈法に止まつてゐて、まだ活きた言葉の研究ではなかつたので、本当の言語学はこのヴォルフ的な「フィロロギー」をつき抜けて、比較文法学へまで発達し(F.Bopp)、やがて本来の科学的な言語学(それはもはやフィロロギーではなくて Linguistiqueと呼ばれる)の段階に這入つたのだ、と説明されてゐる。でフィロロギーなるものが必ずしも言語学と一致しないばかりではなく、実は言語学が横合ひから之に触れ又は之れを横切り交叉する処の或る一地帯を意味してゐるに他ならない。フィロロギー(文献学)はフィロロギーで、その後言語学とは比較的別なコースを辿つて展開されてゐるやうに見える。つまり例のヴォルフ的な「フィロロギー」は、単に言語が文献学と交叉した地点に他ならなかつたわけで、従つてフィロロギーを特に文献学、更に「文学」とさへ訳す理由があるのである。ヴォルフのこのフィロロギーは更に一般の文芸理論乃至芸術理論とも交叉してゐる(例へばボーザンケトの美学史を見よ―― B. Bosanquet, A History of Aesthetic. Chap.IX)。単なる言語学ではない所以だ。

 吾々は文献学の問題に就いて、所謂言語学自身の問題は之を一応等閑に付してもいいことになるわけだが(事実、言語学は現今の思想の動向に対して直接の影響を有つてゐないから)、併し文献学が言語学的なものから全く独立なものでなく必ずどこかで之と交叉しなければならないといふ点は、どこまでも忘れてならない要所である。つまり文献学の問題は、後にどれ程それが古典や歴史や、又更に哲学自身の問題としてさへ生長しようとも、万一にも言葉の問題を離れてしまつては、もはやどこにも定位を有たなくなるわけで、大まかに云へば、言葉、言語と思想、論理との間から起きる困難が、文献学乃至文献学主義の問題を提起するのである。――事実を云へば文献学的研究と言語学的研究とが殆んど一つに結び付いてゐる場合は決して少なくない。すでに先に云つたヴォルフがその先駆的な一例だが、十九世紀ではW・v・フンボルトが何よりもいい例である。言語の比較研究が彼に於ては直ちに古典芸術の理解や歴史記述の問題に連続するのであるが、それは彼の一種の比較言語学が同時に文献学の意義を有つてゐたからこそ出来たことだ。

 処がフンボルトで見られるやうに、文献学と言語学との連関は普通、言語哲学と呼ばれるものによつて最もよく特色づけられると考へられないでもない。そして言語哲学は一方哲学的な文献学と他方実証的な言語学とに交錯しながら、又それ自身に固有な発展のコースを辿つてゐる。――でヴォルフ的フィロロギーは、言語学と言語哲学とが文献学に於て交叉した点だつたと見てもいいことになるが、文献学自身はこの言語哲学からも割合独立に発展する。それにも拘らずここでも大切なのは文献学が言葉の問題から決して解放されるものでないといふ一つの要点だ。

 文献学としてのフィロロギーは古典特に古典的文書の解読を最初の課題としてゐる。併し事実之は、一方に於ては古典的な造形芸術其他の観照へまで、他方に於ては同時代的な文書及び其他の一般文化的表現の理解へまでその課題を拡大される。文献学が目的を単なる文献の解読に限らず、すぐ様一般的な古典学や同時代的な文化表現の解釈理論へまで拡大されるといふ点は、このフィロロギーの非常に大切な特色なのであつて、そこから文献学が所謂言語学や言語哲学を離れる点が出て来るのであり、従つて又一寸見ると、文献学が言葉の問題の制約から自由になつて、何か独自の哲学的な――普遍的で現在に対して実際的な意味をもつ――方法にでもなるかのやうに思はれても来るのである。文献学が言語学的なフィロロギーから外へ向つて拡大されるプロセスは、大体次のやうなものだ――

 文書を解読するのは、云ふまでもなく単に言葉や文章を理解するためでなく、そこに盛られた思想や観念をかうして理解するためである。処で何でもがさう簡単に徒手空拳で理解出来るものではないので、理解の用具を提供するものが実は言葉や文章そのものだが、古典にぞくしてゐたり外国のものであつたり、又あまりに専門的な術語に基くものであつたりすれば、この理解の用具の使ひ方自身を又理解するための用具が必要となる。かうした理解の用具、技法が解釈なのであつて、理解はいつもこの解釈を通じて行なはれる。フィロロギーはかうした言葉や文章が盛つてゐる思想の解釈の技法を伝承して学問に仕上げたもののことで、狭い意味に於ける「解釈学」(Interpretationswissenschaft ――Hermeneutik)をその哲学的核心としてゐるのである。――なぜ狭い意味に於けるといふかと云へば、この解釈学はまだ言葉(乃至文章)の説明といふ直接目的を離れてゐないからである(その内でも更に最も狭い意味で解釈学といふ言葉を使へば、言葉や文章の文法学的説明が解釈の事になる)。言葉の説明といふ直接目的から離れないこの狭義のフィロロギー=解釈学の立場はA・ベックなどが最も忠実にこれを代表してゐる(A. Boeckh,Enzyklopaedie und Methodologie der philologischen Wissenschaften――ここでは言葉の説明――解釈の仕方が四つに区別されてゐる)。

 処がフィロロギーの哲学的核心が解釈学にあるといふこと、理解といふ独自の人間的認識作用にあるといふことは、この理解対象や解釈学の適用範囲を、もはや文書だけには限定しないことを意味する。況(ま)して古典文書だけに限定しないことを意味する。だから文献学をその哲学的核心について受取ることは、やがて文献学を単に言葉の世界に制限されない一般的な解釈学として、又更に一般的な理解論として(Hermeneutische Theorie,Theorie desVerstehens)受取ることである。――之を極端に推して行けば、やがて文献学は外見からいふと殆んど全く哲学的な(そして無論観念論的な)科学自身と一致することになり、又結局は同じことだが、哲学の方が殆んど全く文献学化されて了ふ、といふ結果になる。かうした哲学的文献学(?)への動きを代表するものが、誰よりも先にシュライエルマッハーなのである。

 シュライエルマッハーは無論ベックに較べて先輩である。だから時間上から云へば、シュライエルマッハーの哲学的解釈はベックの手によつて再び言語学的解釈にまで萎縮したのだとも考へられる。だから文献学といふ科学の勝手な生長から云へばシュライエルマッハーがその最高峰か分水嶺に立つわけだ(但し現代に於ける文献学の哲学的認識への全面的な適用は今見ないとして)。――一体解釈学乃至フィロロギーは、実はギリシア以来存在する。アリストテレスはフィロソフォス(哲学者――知恵を愛する者)はフィロロゴス(文献学者――言葉を愛する者)だとも云つてゐるし、アレキサンドリアにはすでに文献学派と呼ばれるものが存在した。中世を通じて(アヴェロエスや聖トマス其他)、聖書とギリシア哲学古典との解釈学は著名である。だが近世の解釈学の特色は、それが組織的に科学的で、従つて又聖書とかギリシア哲学古典とかいふ特定の古典だけを対象とはしないといふ一般性にある。聖書解釈学を科学的にしたものはSemler であり、之を一般的な解釈技法にまで高めたものは Meier だと云はれるが(Dilthey, Die EntstehungderHermeneutik)、つまり近代文献学の始まりは宗教改革以後だと見なければならぬ(ルターは某大学の図書館でバイブルを探した処、塵にまみれたラテン訳がたつた一冊出て来た。彼は之によつて初めて聖書なるものを手にしたといふ話しである。当時はバイブルを読まなくても立派に神学の教授になれたとさへ云はれる)。そして文献学と哲学とを最も密接に結びつけたものはプロテスタントとしてのシュライエルマッハーであつた(シュライエルマッハーの書物――Akademiereden ueber Hermeneutik. その先駆者としてはアスト―― Fr. Ast, Grundliniender Grammatik. Hermeneutik und Kritik 1808; Der Grundriss derPhilologie 1808. 及び前に述べたヴォルフ―― Fr. A. Wolf, Museum derAltertumswissenschaft. Leitaufsatz)(J. Wach, Das Verstehen 1 参照)。

 だがシュライエルマッハーのフィロロギーが哲学的な深さを持つといふことは、同時に夫が神学的な深さを持つといふことに他ならない(事実彼は哲学者としてよりも神学者として、又宗教的啓蒙家としての方が勝れてゐた)。彼の神学乃至哲学は、無限なものへの思慕によつて裏づけられてゐる。この無限なものへの思慕が、独り中世と云はず又ギリシア古典と云はず、凡そ過ぎ去つた世界への回顧的な思慕にまで行く処が、ドイツ・ロマンティックの落ちつく処なのである。世界の審美的感想と人間的情緒による解釈とが、そこに於ける唯一の「科学的」なものとなる。或る時期のシェリングはその哲学によつて、現実を消去して自由なファンタジーの世界を導き入れたが、この自由なファンタジーの代りに過去の歴史を導き入れるものが、シュライエルマッハーの解釈学の動機だと云つてもいいだらう。――文献学乃至解釈学が哲学と結びつき又は哲学的となる時、その哲学はこのロマン派的、審美的、回顧的、観念的な一種の解釈哲学であつたことを注意しておかなくてはならない。

 シュライエルマッハーの文献学(乃至解釈学)は併し、どれ程それが哲学的であり又哲学化されてゐると云つても、依然として文献学(乃至解釈学)プロパーの線の上に止まつてゐることを忘れてはならぬ。なる程彼によつて文献学乃至解釈学はごく一般的な方法にまで、又可なり深遠とも見える世界観にまでさへ拡大された。がそれはまだあくまで、文献学乃至解釈学プロパーとして拡大されたものであつて、文献学乃至解釈学が、文献学乃至解釈学プロパー以上又は以外のものとして拡大されたのではない。――本当に文献学が哲学化され、或ひは同じことだが、哲学が文献学化されるためには、すでにW・v・フンボルトでも見られたやうに、その前段階として歴史の問題がこのフィロロギー・プロパーの線から独立しなくてはならなかつた。文学が歴史記述又は歴史哲学の問題として、テーマを改めて現はれる時、文献学は哲学へ向つて決定的な飛躍を用意するのである。ここから初めて、理解一般といふものが文献学プロパーや古典学に於ける「理解」から独立化して、やがて一切の人間的認識の本質だと宣布され始めるのである。

 この跳躍の最初の準備は恐らくドロイゼン(J. G. Droysen,Historik)の内にある。彼によれば理解は歴史学的方法の本質だといふことになるのである。処がG・ジンメルの『歴史哲学の諸問題』になると、理解といふこの歴史的認識そのものが、もはや単に歴史学の方法であるに止まらず、やがて一般的な哲学的態度そのものを決定するものとなるのである。これが最も大規模に展開されたものは云ふまでもなくディルタイであつて、彼は一方その精神科学の記述方法を例の解釈学から受取つてゐると共に他方、理解こそ、かうした精神科学の記述を通して表はされるその所謂「生の哲学」の、認識理論の枢軸をなしてゐるものだ。吾々の生活は歴史に於て客観化されて表現される、この表現が本当の精神なのであつて、この精神の把握を通して初めて、吾々は却つて自分自身の生活を知ることが出来る。――表現の解釈こそ生の理解なのだ。哲学は生が歴史の内に表現されたものの解釈を通して生みづからを自己解釈し従つて又自己理解することなのだ、とディルタイは主張する。――かくて歴史に於ける理解といふものを踏み台にして、文献学乃至解釈学は、歴史哲学にまで、又更に哲学そのものの方法にまで、高められる。この際、この文献学乃至解釈学によつて支援される「歴史学」や「生の哲学」が、どういふ素性のものであるかは、今更説明するまでもないことだらう。

 文献学が解釈学=理解論として、その本来の文献学的地盤である言葉の問題から飛躍して哲学と一つになつたのは、ディルタイを以てさし当りの代表者とするのであるが、併しディルタイのこの文献学的哲学は、その実質から云つて精神(文化及び社会)の最も豊富な歴史的記述に他ならないのだから、そして歴史的記述から云へば何と云つても文書の文献学的解釈が中心的な手続きであることに間違ひはないのだから(仮に文献学乃至解釈学が歴史科学の方法にならないまでも)、その点から云へばディルタイの哲学はなほ文献学的、解釈学的な本質のものである権利を、或る限界の内では、実際上持つてゐるわけだ。仮にこの哲学を歴史の原則的な記述に他ならぬものと考へて見るなら、それがフィロロギー的であることに何の不思議も一応ないだらう。その哲学の無意味な点は、夫が単にフィロロギッシュだと考へられる処にあるよりも寧ろ、一応当然文献学的であつてもよいこの哲学も結局解釈哲学につきてゐるといふ処にあるのである。この点を除けば、ディルタイの哲学は実に現実的で健全なので、これは却つて取りも直さずその文献学的な方法のおかげだとさへ云へるかも知れない。――併し文献学的、解釈学的哲学は、いやしくも歴史記述といふ特別な形態を離れる時、その分相応の地盤を失つて、一挙にして昇天して了(しま)はざるを得ない。M・ハイデッガーの解釈学的現象学は丁度さうしたものに相当する。

 ハイデッガーがフッセルルから受け継いだ現象学なるものは、元来が文献学的なものと無縁であつたばかりではなく、その反対物でさへあつた。フッセルルが主にディルタイの生の哲学に対して厳密学としての哲学を主張したことはよく知られてゐる通りだし、現象学の現象といふ観念を直接にフッセルルに伝へたF・ブレンターノの『経験的心理学』そのものも文献学と殆んど何の関係もない。更にブレンターノが現象といふ観念を引き出したA・コントの実証主義こそは批判や解釈なるものをこき下すことを建前とするものに他ならなかつた。近代文献学が主にプロテスタントのものであつて人間的情意の総体やそのオルガニズムを尊重したに対して、カトリック的なフェノメノロギーはさうしたヒューマニズムと縁の近いものではなかつた。そこをハイデッガーはディルタイの解釈学とフッセルルの現象学とを結合したのである。――尤も晩年のディルタイはフッセルルの現象学的分析に可なり動かされてゐたし、F・ブレンターノ自身有力なアリストテレス文献学者でもあつたから、この結びつきが諸般の事情から云つて唐突だなどと云ふのではない。問題はもつと根本的な処に潜んでゐる。

 どういふフェノメノロギーも凡て非歴史的だといふことにまづ注目してかからなければならぬ。ヘーゲルの『精神現象学』であつても、意識発達の段階の叙述ではあつても、書かれてあるのは意識の歴史でもなければまして世界の歴史でもない。それが現代の所謂フェノメノロギーになると愈々ハッキリするのであつて、現象とは現象が現はれては隠れる一定の舞台のことで、その舞台面が意識とか存在とか其他々々と名づけられるのである。だからそれだけから云つても、現象に解釈学や文献学を結合することは、もしその解釈学なり文献学なりが歴史の問題からの由緒の正しさを持つ限り、元来無意味でなければならない。処がまた、現象といふものの意味は、それがいつもその表面に於てしか問題として取り上げられない、といふ処に横たはつてゐる。と云ふのは、現象の背後や裏面を正面から問題にするといふことがそこでは無意味なのである。表面化するといふことが現象するといふことに他ならない。さうだとすれば、例へば事物の背後や内奥に生活の表現を探り、事物の裏から事物の匿された意味を取り出すといつたやうな解釈学や文献学は、現象なるものに対して初めからソリの合はない方法だと云はざるを得えない。表面といふものの厚さを量ることは出来ない相談だからである。

 にも拘らずハイデッガーは解釈学的な現象学を企てようとする。つまりこの意図を客観的に見れば、解釈学乃至文献学からその歴史用の用途を抜き去り、歴史的認識に代はるやうな体系的な、その意味に於て形而上的な(必ずしも所謂形而上学だといふものではない)哲学上の学的構築を齎らさうといふ事になる。文献学乃至解釈学は歴史的には使へないから何か現象的にでも之を使ふ他はない。ドイツ・イデアリスムスの世界観としての(人々はそれを好意的に形而上学と呼んだ)歴史的行き詰まりを打開するには、かうした非歴史的な哲学体系が何より時宜に適したものであつたに相違ない。ナチスの綱領がドイツの小市民を魅惑したと同様に、ドイツの所謂教養ある(?)インテリゲンチャを魅惑したのがこの哲学「体系」であつた。

 処が歴史的用途から解放されたこの解釈学乃至文献学は、云ふまでもなく完全に「哲学」的用途のものにまで昇華する。今やハイデッガーに於ては、文献学乃至解釈学は、そのプロパーな言語学的又歴史学的桎梏から脱して、正に哲学そのものの方法にまで羽化登仙するのである。文献学にとつてこれ以上の名誉は又とあるまい。と同時に、これ程文献学にとつて迷惑な事もないのである。なぜといふに、ここでは文献学はその本来の歴史学的言語学的な実体性を失つて、極めて戯画化されて現はれざるを得なくなるからだ。例へばハイデッガーによれば、距離(Entfernung)とは遠く離れてある(fern)処へ、手を伸ばすなり足を運ぶなりして、その遠さを取り除く(Ent)事によつて、成り立つといふのだ。かうした説明は一応甚だ尤ものやうに見えて案外他愛のないものであり、殆んど一切の言葉が同じ仕方で説明出来ない限り、語源学的な意義さへそこにはないのであつて、之は何等言語学的な説明でさへあり得ないのだ。言葉(ロゴス)が現象への通路だといふが、かういふ調子では、この通路もただ割合に工夫を凝した思ひつきの示唆にしか過ぎない。解釈学の実質がかういふフィロロギーのカリケチュアにまで萎縮したのは、全く解釈学や文献学が自分に固有な歴史学的乃至言語学的エレメントから跳ね出したからで、もしそれ以外になほこの解釈学の実質があるといふなら、それは解釈学的現象学の科学的方法にではなくて、さうした方法が息(そだ)つてゐる処の一つの何か僧侶的な「イデオロギー」にしか過ぎない、といふ事を注目すべきだ(死、不安、其他)。

 で、文献学はかうして哲学化されることによつて却つて戯画化される。逆に哲学は、文献学化することによつて非科学化する。文献学は文献学として無論少しも誤つてはゐない。だが世界の現下のアクチュアリティーは決して文献学の対象ではないのだ。だから、文献学を何か特別な主賓として待遇しなければならないと考へる哲学は、必ず何かこの現実=アクチュアリティーを恐れなければならぬ理由を有つた哲学に違ひない。――そしてアクチュアリティーが問題にならぬ時、どんな「歴史」も意味がないのだ。

 さてハイデッガーの解釈学的現象学は、存在の問題を取り上げる。夫が「存在論」たる所以だが、存在(Sein)は更に人間存在から始めて取り上げられる。そこで問題になるものが現実存在(Existenz)だ。その意味で存在論は「人間学」から始められる。夫は存在の自己解釈であつた。

 人間学(アントロポロギー)の歴史は極めて多岐であり、その言葉の意味さへが様々である。遠く人間知に始まつて人性論、人類学、更に哲学的人類学にまで及んでゐる。だがここで云ふ人間学はさうしたものから区別された人間学のことであつて、この区別を与へるものがとりも直さず解釈学の有る無しにあるのである。だからこの人間学は云はば解釈学的人間学に他ならない(人間学の系統的な批判を私は機会を得て試みたいと思つてゐる)。――だから少くとも、例へば之をL・フォイエルバハの宗教批判のための人間論などと同列に置くことは出来ない。ここで解釈的と呼ばれる所以は、すでに云つたやうに歴史認識から足を洗つたといふ処にあるのだつたから、結局残るものとしては、形而上的な従つて又精々神学的な建築材料しか持ち合はさないからだ。之に直接比較されてよいものはさし当りS・キールケゴールの著作などだらう。――なぜこんなことを云ふかと云へば、日本では曾てはフォイエルバハに結びつけられて、人間学なるもの一般が、何かマルクス主義哲学と関係あるもののやうにして輸入されたからである。云ふまでもなく輸入されたこの人間学は例の解釈学的人間学のことで、唯物論とは凡そ原則的な対立物だつたのだが、にも拘らずかうした人間学が、その素性の曖昧な一般性を利用して、なほわが国の進歩的(?)な自由主義者達に可なりの魅惑を与へてゐるらしい。之は現下の文芸其他に於ける各種のヒューマニズムの素地とさへなるだらう。人間学は今日、あまり素質の高くないインテリの間では一つの合言葉とさへなつてゐる。どんなものにでも人間学といふ言葉をつけられないことはないが、一旦さう名づけて見ると如何にも尤もらしく進歩的(?)に聞えて来るだらう。仏教も人間学として(高神覚昇、益谷文雄、其他の諸氏)、倫理学も就中「人間の学」として(和辻哲郎)現代物らしくなり多少とも「進歩的」なものになる、といふわけである。

 文献学を最も模範的に人間学に適用したものは和辻氏の『人間の学としての倫理学』である(七、を見よ)。否、ただの適用でなくて、云はば文献学からの人間学の演繹だとさへ云つていいだらう。文献学の溶液に存在といふ微粒子を落すと忽ちにして人間学=倫理学の結晶が見る見る発達する。それ程文献学の適用がここでは完全なのだ。それにもつと完全なことには、この人間の学の方はハイデッガーの人間学から、現象学的残滓をすつかりとりのけて、その解釈学(=文献学)を純化したものなのである。――つまり之はもつと純粋なハイデッガーに他ならない。だから吾々は之に対してハイデッガーの文献学主義に就いて云つたことを、もつと純粋に云ひ直せば事は足りる。

   二

 以上は科学として発達して来た文献学を想定した上で、之を解釈学といふ一般的な組織的手続きに直して哲学に適用した場合を、解明して来たのであるが、私の今の目標は寧ろ、さうした組織的手続きとしての文献学の代りに、もつと断片的に従つて又或る意味では常識的に、文献学的なものに頼つて物を考へる場合の社会現象に対してであつて、その意味に於ける文献学の無組織的適用が次の問題だ。現在のわが国では特にこの問題が時事的重大さを持つてゐるのである。

 だがこの現象を一つの社会現象として見れば、一見極めてナンセンスなものから、一見極めて荘重なものにまで及んでゐる。坊間の言論家(為政者や朝野の名士も含めて)の茶番のやうな言動から、ブルジョア・アカデミーの紳士達(教授から副手や学生まで含めて)の高遠真摯な研究に至るまで、この現象は及んでゐる。そしてこの社会現象の哲学的意義になると、坊間の茶番劇だからと云つて、決してアカデミーの悲劇的な身振りに較べて、その重大さが劣るとばかりは云へない。却つて茶番劇であればある程、その科学的批判の原則は複雑で困難だといふのが事実である。実際相手が非科学的な時、之を科学的に批判するほどムツかしいことはあるまい。実はこの困難に打ち勝つためにこそ、私は文献学の問題の必要を痛感するのである。

 尤もこの現象にも罪障の甚だ深いものと割合罪のないものとの区別はある。前に云つた茶番と悲劇との区別に関係なく、別にこの区別がある。例へば和辻氏の倫理学は、その推理過程を殆んど凡て辞典的根拠に置いてゐるが、それが「純粋」解釈学の重大な症状であるにしても、それだけ取つて見れば比較的罪は軽いと云つていいだらう。人々は容易にそこにすぐ様フィロロギーのカリケチュアを気づくだらうからだ。紀平正美氏のやり口でも、その文義的論拠にぞくするものは、同様に思ひ付きのギゴチなさを感じさせるだけで、真剣な問題を惹き起こす類のものではない(例へば「理」=コトワリ=断=分割―ヘーゲルのUr-Teilen)。このカリケチュア自身のカリケチュアは一例を挙げれば木村鷹太郎氏の日本=ギリシア説のやうなものに相当するが、之は併し実は、かの教授達のこの点でのナンセンスを単に高度にして見せたものに過ぎない。このフィロロギー現象と精神病理現象との間にはあまり本質的な距離があるものではない。

 重大なのは、現在のアクチュアリティーに向つて古典を無批判的に適用することの罪である。否、もつと一般的に云へば、文献学的意義しか持たない古典を持ち出し、之に基いた勝手な結論で以て現実の実際問題を解決出来るといふ、故意の又無意識の想定なのである。之も亦、巷間からブルジョア・アカデミーの回廊にまで及ぶ現象である。――例へば権藤翁における南淵書や、神道家の国学古典などが最も良い例で、この古典の古典としての真偽とは関係なく、古典の現在への時事的適用自身が無意味でなければならぬ。紀平、鹿子木、平泉の諸氏やその他多数の国粋主義的ファッショ言論家が、この日本ものの部類にぞくする。東洋もの乃至支那ものでは、西晋一郎氏の「東洋倫理」や漢学者、アジア主義者の言論、印度ものとしては仏教僧侶の時局説法、更に欧米ものとしてはブルジョア・アカデミー哲学者達の半フィロロギー的哲学問題の選択――文献学的に論じて行くうちに夫がいつの間にか問題の実際的解決になるとでも思つてゐるらしいドイツ語フィロローグやギリシア文引用家達の哲学的作文等々、その現象には限りがない。

 かうしたものを一つ一つ部分々々に批判して行くことは無論決して不可能ではない。一々現実界の状態や運動に引きあててそのナンセンスを実証してもいいし、各々の不統一な主張をアブサーディティーにまで追ひ落してもいい。だが困難はかういふデタラメなフィロロギー現象が、限りなく存在し又とめ度なく繰り返すといふ事実にある。吾々は百億といふ数値の〇を一つ一つ書いてゐる煩に耐へないといふので、10nといつたやうなフォーミュラ(公式)を必要とすることになるが、それと同様な必要から、文献学のこの組織的な適用に対する批判の諸公式を、根本命題、原則の形で、今四つ程挙げようと思ふ。

 第一、一般に言葉の説明は事物の説明にならぬ。――この判り切つた命題は実は私の云ひたい事の初めであり又終りでもある。現在使はれてゐる各国乃至各民族の言葉は、当然夫々の現実の事物に対応する観念を云ひ表はす。だがそれにも拘らず言葉と論理との間のギャップはいつも問題として残る。ここで論理といふのは概念が実在に対する対応関係を云ふのであるが、この論理が人類の歴史を通じて発達すればする程、即ち実在に対する概念の対応が具体的になり精細になればなる程、言葉の方はいつも論理に引きずられることになるから、言葉と論理との間のギャップの可能性は増々大きくなる。論理は思想を首尾一貫して貫徹する活きたメカニズムだが、処が言葉も亦社会的に消長する活きた存在で、言葉は言葉でそれ自身の発育と代謝機能とを有つてゐる。言葉の説明、言葉による説明は、夫々の言葉の語源からの変遷を溯ることを普通とするが(もしさうでなければ社会的な統計でもとつて「通念」を算出しなければならなくなる)、さうして溯源の結果発見されるだらう言葉の語源的な意味を採つて、夫によつて事物を説明し、それで現在の言葉による事物の説明の代りにするならば、言葉と論理との間のギャップの可能性は二重に大きくなるわけだ。

 古代の思想のメカニズムでは、言語と論理(古代論理)とは極めて親しい関係に立つてゐる。例へばE・ホフマンの論文(E. Hoffmann,Sprache und die archaischeLogik)によれば、秘儀(ミュステリオン、語るを許さず)――神秘(ミュスティック、語る能はず)――神話(ミュトス、語らんと欲す)=ミュトス(話)――エポス(言葉)――ロゴス(思惟)といふ具合に、言語と論理との親近関係をつけることが出来る。つまり語ることを問題にしてゐる前の系列と、考へることを問題にする後の系列とがミュトスによつて直接に連なつてゐるのである。処が近代の論理はかうした言葉から独立することをこそその使命としてゐる。

 言葉による説明は、だから、説明される事物が発展した社会の所産であればある程、夫を何等か古代的なものにまで歴史の流れを逆行させない限り、事物の説明の態をなさない。文献学主義者は、何等かの意味で古典にまで論拠を溯行させようとしたがる、さうした故意の又無意識の企てを有つのだ。併し――

 第二、古典は実際問題の解決の論拠とはならぬ。一体古典とは何を意味するか(古典と云つても古典主義やギリシア古典と必ずしも関係はない)。自然科学に於ける古典主義に就いては改めて考へなければならないが、少くとも文学、哲学、社会科学の領域に於ける古典は、大体三つの意義と科学的用途とを持つてゐると考へていいやうだ。(一)或る考へ方や経験(実験までも含めていい)の有用な先例又は文献として、(二)歴史的追跡のための事実又は資料として、そして最後に(三)訓練のための用具又は模範として。(一)ならばこの古典が先例又は文献として現在役立つかどうかは古典自身が決める事ではなくて、現在の実際的な事情が決定することである。現に文献を先例として引用しただけでは、一向自分の主張の論拠にはなるまい。文献は論拠として見る限り、すぐに古くなるものだ。(二)ならば資料の使ひ道の決め方は資料自身にあるのではなくて、夫は全く現在の実際的な認識目的に基くことだ。資料それ自身は論拠にはならぬので、誤謬の歴史に資する資料といふものがあるからである。(三)ならば模範は模範であつて少しも論拠ではない。――だからいづれにしても、古典はあくまで参考物の限界を出ないもので、現在の実際問題解決のための論拠を提出する使命をもつものでもないし、又持つてもならない。

 ただ古典の大切な条件の一つとして、それが歴史的に伝承されて今日現在に至つたものだといふ点を忘れてはならぬ。さうでなければ古典ではなくてただ過去の一介の歴史的所産にしか過ぎない。で、この古典が引く伝統の糸は、哲学なら哲学史の、社会科学なら社会科学史の、流れを貫いていつも不断の作用を各時代に及ぼしてゐる。だからして古典は論拠とされてはならぬが、併し又必ず参照されねばならぬものとなる。つまり古典とは実際問題の必要に応じて批判され淘汰、陶冶されて行かなければならないものなのである。

 批判と淘汰、陶冶を用意しないで、その意味で無条件に、古典を何かの用に役立てることは、その言葉が示す通り、文献学主義の根本特色の一つである。古典の引用に当つてもこのテーゼはその通りあてはまる。自分の主張を単に権威づけるために、古典的文章を引用することは、単に馬鹿げた無用なことばかりではなく、現在の問題を古典の時代の問題にまで引きかへす処の反動をさへ意味してゐるのだ。

 普通このやり口を公式主義と一口に云ふのだが、併しさう云ふのは正確でない。公式は実は常に運用されるための公式なのである。公式主義の特色は、既知の公式を使ふことにあるのではなく(公式を使はなければ科学的でない)、却つて、既知の公式を使ふ代りに無用にもワザワザ之を改めて導き出して見せて、そしてそこが解決点ででもあるかのやうに問題を打ち切つて了ふ、といふ処に横たはる。――併し一体公式は古典の意味を持たないか、古典的といふことは普通、均斉のとれた典型的なことだが、之は科学の上では公式に相当しないか、といふ疑問は起きるかも知れない。併しさうではない。典型的といふことは、(三)の模範性に他ならないからである。吾々は之を教育上の目的で使用することは出来ても論証上又は製作上の目的に之を技術的に実地に使用することは出来ない。もし出来るとしたらミケランジェロのデッサンの上に色彩を施すことも完全な絵画の創作となるだらうが、それは無論文学で云へば剽窃に相当するものでしかないだらう。処が公式は単に訓練上だけではなくいつも論証上の又広く制作上の目的に実地に技術的に役立てられるべきもので、古典のやうに過去のどこかに位置する事物ではなく、現在日常的に手回り近くに用意されてある処の観念的な生産用具に他ならないのである。

 古典を何か実際的に直接技術的に役立つ公式か何かのやうに思ひ込むのは、つまり古典を使つて制作をすることと、古典を理想として製作することとを混同するからである。この区別は唯物論的には重大な意味があるが、観照的な解釈家であり審美的な理解者である古典学主義者(さうした特殊の文献学主義者)にとつては、夫はどうでもいいことらしい。彼等は云ふまでもなく古典を実地に技術的に用具として使ふことは出来ない。併し又初めから使はうなどとは思ひもよらないのである。元来さうしたものが古典なのだが、之に反して公式ならば夫が使はれないといふやうなことは許すべからざる不経済だらう。――古典の権威に対する不当な尊重は、文献学主義の一つの宿命である。

 第三、古典的範疇はそのままでは論理をなさぬ。――古典に論拠を求めるといふ誤りは、要するに古典的範疇乃至範疇組織を、現在に於ても論理的に通用するものと認めることに他ならない。ギリシア古典、印度の古典、支那、日本、中世ヨーロッパ、アラビア、其他の古典的文物は、夫々に固有な範疇と範疇組織=論理を持つてゐる。古典的でなくても未開人は未開人固有の範疇論理を有つてゐる。処が之等は今日の吾々の、即ち現代の文明諸国の、国際的に通用する論理とは同じでない。極端な例はレヴィ・ブリュール等の一連の研究によつて示されてゐるが(未開人に於ける特有な集団表象、分有=パルティシパションの論理、先論理)、古代印度人の思考のメカニズムも亦、今日の国際的な論理との間に可なり決定的なギャップを示してゐる。その良い例は因明論理の論証手続きなどだらう(例へば Betty Heimann といふ女史は古代インド的思考の研究を Kant-Studienに時々発表してゐるが、その一つによるとヨーロッパと古代印度ではアナロジーをさへ絶する程異つた思考のメカニズムがあるといふ結果になる)。

 蓋し範疇組織=論理は、それぞれの時代の社会の歴史的条件によつて現実界に対応すべく組み立てられた思考の足場なのだが、この現実界が発展すれば当然この足場も発展せざるを得ない。足場が発展するには、この範疇組織といふ足場の材料となつてゐる各範疇がモディファイされ止揚されることによつて、断えず足場が再構築されて行かなければならぬ。古典的範疇だからと云つて、勝手に持つて来て現実の実際問題を処理するオルガノンとすることは、だから絶対に許されない筈なのである。時代は時代の範疇組織を、論理を有つてゐる。文献学主義は処で、古典の権威に対するその信頼によつて、時代の範疇組織=論理を知らなかつたり、又強ひて認めなかつたりする。だが、古典的範疇はなる程理解はされよう、併し使ふことは出来ない。

 第四、古典的範疇は翻訳され得ねばならぬ。併し翻訳はいつも翻訳に止まる。――狭い意味に於ける翻訳は一つの国語の文章を他の国語の文章で置き換へる事だが、広い意味の翻訳は、一般に文化の紹介を意味してゐる。どれも文献的労作である点で変らない。シュレーゲルのシェークスピア翻訳や、カーライルのゲーテ紹介などはこの二つの意味を兼ね具へたものであつた。正にかうした翻訳こそフィロロギーの使命であり、現在の実際問題解決に対するフィロロギーの唯一の寄与の仕方なのである。――だが翻訳は翻訳であつて原物ではない。未開、古代的、古典的な文書や言葉であつても、又同時代的な同一文化水準の外国語でも、言葉として或る程度まで翻訳は可能でなくてはならぬ(この文学上の翻訳の問題に就いては野上豊一郎氏「翻訳論」――岩波講座『世界文学』の内を見よ。なほフェノメノロギッシェな試論としては L. F. Clauss, Das Verstehen des sprachlichenKunstwerks, 1929 ― Husserls Jahrbuch, Ergaenzungsbandなどがある、尤も之は大したものとは思はれないが)。だが広い意味の翻訳は文化の紹介なのだから、問題はこの種の文学上の翻訳に止まることは出来ない。今何より大事なのは範疇乃至範疇組織の翻訳の問題なのである。

 今日の同時代諸国の間の論理の翻訳は併しあまり問題ではない。なぜなら世界の生産力が或る程度まで発達した結果、生産技術と生産機構とは殆んど全く国際的な共通部面を持つやうになつて来た。そして之が夫々の国の生産関係の尖端をなすのだから、尖端は国際的に出揃つたと云つていい。この生産の尖端に誘導されねばならない理由を有つてゐる夫々の国々の論理機構は又、その尖端を出揃はせるわけで、それに交通運輸機関の著しい発達の必要がこの論理の国際性を日増しに現実的なものにして行きつつある。で、同じものを同じものに翻訳するのは翻訳ではなくて、ただの交換か授受に過ぎない。ヨーロッパ文明が日本で消化し切れなかつたり、日本精神が外国人に判らなかつたりすると考へるのは、論理の翻訳の意義を知らぬもののデマゴギーであつて、さういふ人間に限つて、古代インドや古代支那の論理を平気で現代の日本に使はうとする癖がある、といふことを忘れてはならない。

 実は問題は、古代的、古典的諸論理を現代的論理へ翻訳する場合にあつたのである。例へばインドの原始仏教の文献的内容は、単にそのテキストが国訳されただけでは吾々の理解にとつて不充分なので、更に之を現代的範疇と範疇組織によつて解釈して呉れなければ、原始仏教の文化内容も遂に今日の吾々の文化内容と接続し得ないで終る。単に古典学的興味の対象とはなつても文化的関心の圏内には這入つて来ないだらう。処が例へば之を木村泰賢氏のやうにカント哲学風に解釈して再現すれば初めて多少現代の文化財としての意義が生れて来る。更に之を和辻哲郎氏のやうに現象学的な立場からでも解釈し直せば、すでに吾々にとつて理論的に充分読めるものとなる、といふ次第だ(和辻哲郎氏『原始仏教の実践哲学』参考)。

 だが範疇又は範疇組織=論理を翻訳するといふ事は、AのものをBのものへ移して、Aの生きた生活連関をBに於ける活きた生活連関であるかのやうに作為することに他ならない。Aに於て活きてゐた論理はだから、Bへまで翻訳された上で、なほBに固有な活きた連関を有つことは、決して許されない。今その限りBへ移し植ゑられたこの被翻訳論理は死んでゐる。だから本当の論理ではあり得ない。このAが古代的、古典的論理であり、このBが現在の実際的論理なのである。――だから翻訳は永久に翻訳であつて、遂に原物ではないといふのである。即ち文献学者は、文献学者の資格に於ては、活きた論理を使用する使用者としての哲学者ではあり得ない。フィロロゴスは決してフィロソフォスではない。ここがフィロロギー、文献学の権利の限界をなしてゐるのである。で、この文献学の制限を、無意識に、そして甚だ往々にしては故意に、無視することが、文献学主義=文献学的哲学の根本的な誤謬か、又は最も根深い欺瞞の要点なのである。

 フィロロギー現象=文献学主義は、解釈哲学(世界を単に解釈することによる観念論)の一つの特殊な場合であつた。無論文献学主義の形を採らない解釈哲学は他に多い。解釈哲学が必らずしも解釈学的哲学に限らないことは注目すべきだが、併し文献学的、解釈学的哲学の組織的な又断片的な形態が、今日わが国の至る処に著しく目立つことに着眼することは、各種の日本主義に対する批判にとつて極めて大切だ。


第三 「常識」の分析
      ――二つの社会常識の矛盾対立の解決のために


 文芸の領域では最近、日常性といふ問題が相当話題に上るやうに見受けられる。一部の知識人によると、現在の文芸家の或る者達が尊重する不安といふのも、社会生活の経済的政治的又観念的な不安であるとかないとかいふよりも、何よりも先に、日常生活意識に対する懐疑と攻撃としての不安でなくてはならぬといふのである。さうした不安にこそ、インテリゲンチャの特色と、更に又インテリゲンチャの積極的な自覚さへが宿つてゐると云ふ。日常的なものは、即ち、かうした不安らしいものと対比させられて、一部の文芸家の観念に取り入れられる。

 文学的修辞からすると、日常的といふことは又俗物的なことでもなくてはならぬ。だから日常性は、俗物主義に反対するためにも取り上げられる必要があり、そして改めてハタき落されなくてはならないといふことになる。かうした考へ方は、確かに一種常識的な尤もらしさを持つてゐる。だが、では、日常性といふものはどういふものか、といふことになると、結局それが不安を覚えない俗物さの対応物だといふことに尽きてゐるらしく、人々はそれ以上面倒な商量や考察を敢へてしようとはしないやうだ。日常性が不安を知らぬ俗物さの対応物だといふこの現在の一つの常識は、その素性を糺すと僧侶主義的な生活へ転心(この宗教的な体験の秘密は今日では各種の転向といふ世俗的な奇蹟として実現してゐるが)しない内の空しい堕ちた人間生活のことが日常性のことだとする、ある特定の神学又は哲学から来た民間常識なのであるが、それ以外のそれ以上のことになると、この常識にとつてはどうでもいいらしい。必要なことは却つて俗物的な情熱で以て日常性を俗物さと対置することでしかないらしい。

 処がかうして常識的に日常性を俗物的だとしか見ない態度が、却つてそれ自身ごく日常的なものに他ならないのであつて、従つて又それ自身却つて甚だ俗物的な常識に過ぎないのだが、俗物呼ばはりをするに熱心なこの俗物達にとつては、俗物さ自身のもつさうしたアイロニーやパラドクッスなどはどうでもよい。この常識は何等の愛嬌もユーモアもなしに、日常性をひたすら俗物呼ばはりするのである。日常性といふものにどういふディアレクティッシュな裏の裏があるかにもお構ひなしに。――処が日常性には立派に日常性の原理とも云ふべきものがあつて、それが例へば哲学を俗悪で無意味な形而上論から区別してゐる。それを私は屡々色々の機会に説明したのであるが、日常性を俗物呼ばはりしたくて仕方のないこの常識論は、日常性の今云ふやうな意義に対して全く無感覚な程非常識なのである。

 日常性とか俗物主義とか(その間を「不安」が取りもつのだが)に就いての今日の常識が、すぐ様如何に非常識なものかといふ事実を見れば、一般に常識といふものがどんなに一筋繩では片づかないものかといふことが判る。処で、日常性や俗物主義の場合は、単にこの常識のアイロニー(所謂ロマンティック・アイロニーのことを考へて貰つては困るが)の一例だといふばかりでなく、それ自身常識につらなる一連の諸観念に他ならなかつた。所謂日常性―所謂俗物主義―所謂常識といふ一連の云はばメフィストフェレス的又はサタン的な系列が問題だ。だからこの種の問題は一切、常識に就いての問題に集中するのである。――事実常識は、例へば学問、科学、真理、天才、独創等々を、試み批判する職能を持つてゐる。サタンは試みるもののことであり、メフィストは誘惑するもののことだ。

 常識も亦文芸の世界で多少は話題に上つてゐる。常識的な文芸批評は遂に常識以上に出ないと云へば、さう云ふ当の側が非常識ではないかとやり返される。ここの関係に一種込み入つた矛盾が横たはつてゐることは明らかなのだが、誰もまだあまり注意を払つてゐないやうだ。つまり常識は単に全く常識的にしか掴まれてゐないのである。そして常識に就いて単に常識的な観念しか見当らないのは、何も今日の文芸の世界に限つたことではないのであつて、現在の一般の理論や哲学の世界に於てさへこの事情に変りはないのである。で、必要なのは常識の(もはや常識的ならぬ)分析でなくてはならない。

   一

 常識は常識的に見て、この二つの相矛盾した側面を有たされてゐる。一方に於てそれは、非(又反)科学的、非(又反)哲学的、非(又反)文学的等々の消極的又は否定的な知識を意味してゐる。処が他方に於ては之に反して、却つて一人前の、ノルマルな社会に通用する、実際的な健全で常態な知識のことをそれは意味してゐる。前の意味では常識的であることは恥ずべきことであり、後の意味では常識的であることは誇るに値ひすることだと考へられる。そしてこの二つの相矛盾した意味が、同じ常識といふ観念の内に、どう折り合ひをつけるかといふ段になると、常識自身は一向それを気にしない。常識はこの二つの矛盾したものの常識的対立で満足してゐるのであつて、この段階に止まるものが、常識の常識的概念に他ならない。蓋し常識的な態度は、互ひに相容れない二つのテーゼを平気で並べておいて顧ないといふことを、その特色の一つとする。常識は常識自分自身に対してさへさうなのだ。

 或る意味で文学的科学である哲学は、いつも時代の与へる常識から出発する。だから常識自身に対する哲学的反省も亦、今云つたこの常識的段階から出発するのを常とする。ギリシア古典に於ける「ドクサ」は丁度さう云つた常識に就いての哲学的概念の初歩のもので、真の知識=学問から見れば、それは結果から云つて、凡そ真理の反対物でしかあるまい(プラトンの段階)。だが哲学がこの常識、ドクサの有つアナーキスティックな本質に注目することは、この見解がすでにただの常識的概念を離れ始めることを意味する。ドクサの本質は、その内にいくつもの相矛盾するテーゼが平気に並んでゐるといふことである。この相矛盾する諸テーゼを整頓処理して初めて科学的な知識へも行くことが出来ると考へられる。アリストテレスがディアレクティックをこの種のドクサに於てだけ認めたのは、恰もこの段階の常識概念に相当するのである。ここでも併し、常識は真の知識への一つの足場にはなつても、云ふまでもなく、真の知識の単なる反対物でしかない。蓋しドクサは一方に於て旧来の自然学者の多少との偶然な見解や知識的伝説のことであり、他方に於てはデモクラティックな民衆の自然発生的な通念に他ならない。さうすれば之がギリシアの貴族主義的な知識の依り処となれないことは当然だらう。

 併し、常識といふ言葉(Common sense,Gemeinsinn)そのものが、アリストテレスに於てドクサとは全く系統の違つた観念として提唱されてゐる点は、よく知られてゐる。彼の DeAnimaによれば、一定種類の知覚に対応しては、それを受け取る夫々の感官があるのは云ふまでもないことで、眼は色や光や形を、耳は音を知覚する。だが人間は色や光や形――さうした視覚的なものとなつて現はれる知覚と、音といふやうな聴覚となつて現はれる知覚との相違自身をも亦知つてゐる。単に赤が青でない事を知るだけではなく(それならば視覚だけで判る)、赤や青が音の高底とは全く別な系列にぞくすることを事実吾々は知つてゐる。而もこの相違は何と云つても知覚的に知られるのであつて、別に知覚以外の又は知覚以上の心的能力によつて知られるのではない。さうすると五官が夫々感受する知覚をば、相互に比較出来るやうな、従つて五官に共通した而も五官の外にある何かの共通な感官がなくてはならぬといふことになる。耳でも眼でも舌でも鼻でも皮膚でもない感官が、そこで想定されざるを得ない。かうした共通感官が、後に常識と訳されるものの語源なのである。だが之は無論単なる語源の問題には止まらないのだ。

 この共通感官は、無論五官(外官)ではあり得ない。アリストテレスによれば之は多分脳髄のどこかに位置する器官だと想像される。だが吾々はそのやうな感官の位置に就いては問題を感覚生理学か解剖学に一任することにしよう。哲学的テルミノロギーとしては、感官は一種の心的性能の意味にまで抽象されるのを常とする。さうした生理解剖学的定位から抽象されたものとしてこの共通感官を見るならば、今云つた定位問題とは一応無関係に、之を外官に対する内官と考へることが出来るやうになる。無論外官とか内官とかいふ哲学上の常識観念は、相当限定の困難なものだが、少くとも外官が常識的に云つても肉体上明らかな定位を持つてゐるのに較べれば、内官の方は、決してそんなに容易に肉体的器具と一致させることの出来ないやうに見える理由があるだらう。内官といふ観念がだから既に、哲学的な抽象概念を意図したものと云はねばならぬ。と云ふのは内官に就いては、もはや感覚器官を意味する官といふ規定が相応しくなくなるからである。そこで之を内感と呼んでもいいと考へられるやうになつて来るのである(この時内官に対比される外官も亦外感と書かれるに値して来る)。

 さう考へると、感官がやがて感覚を意味して来る理由も亦おのづから理解出来るだらう。感官は元来感覚――哲学では知覚心理学からの訂正にも拘らずこの言葉に意味を認めていいのだが――を受けとる器官だつたのだから、感官は感覚ではない筈だつたのだが、今云つた理由によつて、感官と感覚とが同じ観念になる理由が生じて来たのである。――さてそこで今の共通感官も亦やがて共通感覚にまで、その意味を転化して来るのである。センスやジンやサンスといふ外国語は事実この転化をよく示してゐるので、単に感覚を意味するだけでなくて、それが意味といふ言葉や核心といふ言葉をさへ意味するやうになるのを注意すべきだ。

 だからアリストテレスの共通感官は、やがて共通感覚といふ意味を受けとるやうになる。この時内感といふ文字の意味が初めて明瞭となるばかりではなく、その内感がやがて内部知覚といふ概念でも置き換へられ得る所以が明らかとなる。内感即ちやがて内部知覚は、之を少し心理学的内省によつて分析して見れば、内部知覚と云つた方が内容が限定されて問題がより具体的になるからだ。

 共通感覚といふ古典的な規定を内感又は内部知覚といふ主に近世哲学的な規定で尽せるかどうかには、疑問の余地があるだらうが、それは内感又は内部知覚といふ規定そのものに色々の決め方がある以上やむを得ないことだらう。だが共通感覚が何かしら内部的な感覚と考へられねばならぬといふ一般的な点だけが今大事なのであつて、それがなければ、共通感覚がなぜ後世の常識の概念の先駆として之に連なるかが、全く理解出来ないだらう。之が、ただ言葉が共通だといふだけなら全く偶然なことに過ぎなくて、今茲に問題にするに足りないわけだ。共通感覚が内部的だといふ点で以て初めて、アリストテレスの共通感官(コイネー・アイステーシス)は、近世の例へば常識学派の哲学による常識に、連絡してゐるのである。

 古典的なこの共通感官の観念と、近世的な常識の観念との間には、スコラ哲学の一般感官(之が即ち又内部的感覚の問題に帰着するのだが)が仲介の労を取つてゐる。だが一足飛びに常識学派の場合に来た方が吾々の話しが簡潔になる。

   二

 常識学派はイギリスのスコットランド学派のことに他ならないが、今特に問題になるのはトマス・リード(Th. Reid ―1710―96)の場合に就いてである。普通彼はイギリス経験論(その代表的な源泉はジョン・ロック)に反対して立つたと考へられてゐる。ロックが人間の心を白紙の如きものになぞらえたことから、イギリスに於ては、心理学では連想心理学が、認識論では各種の主観主義的懐疑論が、結果する。この前提と帰結とに反対することが、なる程リードの主な原因であつたやうに見える。彼はシャフツベリ卿やハッチスンから来る審美的倫理的な疑ふべからざる直覚の権威を、人間の心一般の問題にまで徹底させるべく、経験主義に対立したのだといふことに間違ひはない。だがリードは決して大陸のラショナリストが直観主義者であつた(例へばデカルト)やうな意味で、反経験論的な直覚主義者であつたのではない。彼が直覚主義に赴いたのは、却つて正にイギリス風の経験主義の一つの必然的な帰結としてであつて、単に所謂経験論的な経験(外的経験)が、内的経験にまでおきかへられた処の、云はば内的経験論乃至は内的経験主義に他ならないといふことを注意しておかなくてはならぬ。ここで相変らず大事な根拠として挙げられるものは、経験主義風の「事実」であつて、ただその事実が内的な事実でなければ本当の事実とは考へられないといふまでなのである。

 外部的経験は、彼によれば、客観的な各人に共通なスタンダードを有つ処の認識を与へることが出来ぬ、とも考へられよう。もしだからそれだけが唯一の認識の源泉だとすると、ヒュームの場合のやうに、客観的な実在界の因果的連鎖をさへ疑はなければならなくなる。つまり外部的経験では事実は必ずしも事実としての経験の名に値ひする権威を振へない事になる。この経験の権威を護るためにはだから、認識の根拠を内部的経験に、内部知覚に、直観に、求めなくてはならぬ。そこで人間の心は初めて、疑ふことの出来ない事実にぶつかる、と云ふのである。

 処がこの人間の心の内部で吾々がぶつかる内的事実は、それが事実である以上、もはやそれ以上の合理的な根拠を必要としないし、又必要としない筈のものでなくてはならぬ。なぜなら事実はそれ自身自らの根拠だからこそ事実の名に値ひするわけなのだ。デカルトの表象(観念)が真である場合は、明晰にして判明だといふ合理的根拠が、この表象の唯一の直接的な根拠即ち直観となつてゐたが、リードに於てはさうした合理主義的根拠の代りに、経験主義的な事実が口を利くといふことになる。

 合理主義的ではなくて経験主義的なこの直覚は、この直接な内的事実は、だから事実といふものに固有な如何にも事実に相応はしい経験的な所与性を持つてゐる。と云ふのは、この直覚内容の多様が、雑多な幾つかの内容物が、事実の名によつて、単に経験的に、即ち合理論的な根拠なしに、「事実真理的」に結びつけられて与へられてゐるのである。だからこの直観は決して単一な直観ではなくて、一定の具体的内容に分割され得る処の、その意味に於てはアーティキュレーション(分節、音述)を持つた処の、テーゼ、命題でなくてはならぬのは尤もだらう。而もこの命題は事実といふものの権威によつて組み立てられてゐる限り、之を合理的に分解することは不可能なのだから、その命題の内部の凝結力は絶対的でなくてはならぬ。即ちこの命題は固定した処の――まるで合理主義によるアプリオリのやうに――不動の命題、公理の性質を持たざるを得ない。云はばこの諸命題は人間が実際生活に於て下す一切の判断の元素や単位のやうなもので、判断はいつも之をそのまま使ふ他はなく、苟くも之を分解しそれ以上の要素に還元することの出来ないものなのだ。それにも拘らず、この元素的な単位が、本当は雑合物なのだから、之は正に公理の値ひするのである。

 さて公理とは自明なもののことである。それは直覚的に自明でなければならない筈だ。判断が使ふ人間的悟性=理解力はかうした直覚的明白さを持つた公理を唯一の根拠とするわけであるが、客観的世界が存在することやそこに因果関係が行なはれるといふやうな公理を、人間の悟性は本能的に承認するものなのだ、とリードは云ふのである。処でリードによれば、かうした直覚の事実としての公理を本能的に承認することが常識の健全な職能であり、またこの公理の内容がこの健全なる人間悟性の、即ち常識の、夫々の内容となるのである。常識とはつまり審美的、倫理的、宗教的、又理論的な出来上つた一定不変の諸テーゼを、夫々公理として、即ち普遍的に通用するものとして承認し、認識をここから出発させようといふ、その態度と意識内容とのことだといふことになる。

 常識(健全な人間的悟性)のかうした権能は、専ら夫が外部的経験によるものではなくて内的経験のものだつたといふ処から発生したわけであつた。ここにアリストテレスの共通感官と、リード風の(一般にスコットランド学派の)共通感覚=常識との、言葉の上だけではない連絡があつたのである。――云ふまでもなくアリストテレスに於ては、共通感覚が共通するのは五官乃至五官が受け取る五つ乃至それ以上の知覚(感覚)の間に於てであつた。之に反してリードの共通感覚=常識が共通するのは、社会における各個人の間に於てである。ここでは例へば各個人と云つても実は或る意味での平均人と云つたやうなものが必要となつて来る。共通といふ意味が、だから両者の間で一向共通でないではないかと云ふかも知れない。

 だがリードの主著(Inquiry into the Human Mind on the Principles of CommonSense)が、人間の外部的諸感官の問題から出発してゐることは多少の注意に値する。と云ふのは、五官に共通する感官によつて、実は初めて人間の意識的統一が成り立つわけだが、この人間的、個人的統一がなければ、社会に於ける個人間に共通するといふ常識なる統一も成り立たないのは云ふまでもないし、それから又逆に、常識といふものが初めて、他面に於て個人々々の意識の統一を齎すものだといふ事実も見逃してはならないからである。一人の個人の意識の統一を齎すものは、一方個人心理的に云へばコイネー・アイステーシスであると共に、その同じ関係が、個人を社会心理的に見ると、所謂常識となるのである。個人意識の統一といふ点から見れば、だからアリストテレス的共通感官の概念と、リード的常識の概念との、実質的な連絡がハッキリするわけだ。

 常識のリード的概念が実はイギリス風の経験論をその踏台として有ち、経験論の直覚主義的な変容とも見ることが出来る所以はすでに述べた。シャフツベリ卿やハッチスンは云ふまでもなくケンブリッジ・プラトニスト風に、多少ともプラトン的乃至はプロティノス的であつて、その動機から云へば経験論の反対者として現はれる外貌を有つてはいるが、それがリードによつて、単に審美的乃至倫理的宗教的なものから、知的判断にまで一般化され拡大されるに及んで、遂に常識といふそれ自身極めて経験的で日常的な概念にまで到達したのである。大陸風の合理主義とハッキリ対立する点に於て、この概念の経験論的本質は疑ふ余地はあるまい。一切の人間が、総平均人としての社会の各個人が、その日常の経験によつて、何が美であり醜であり、何が善であり悪であり、何が真理であり虚偽であるかといふことを、理窟なしに、無条件に、直覚的本能的に、判定出来るといふことが、この常識の職能に他ならない。凡ての人が経験的に客観界の実在を信じるのが常識になつてゐるが、リードは単にこの日常経験の根拠を、人間の心に予め横たはる内的直観に求めたに過ぎなかつたのである。

   三

 だが誰が考へても、このリード的な常識の観念には多くの弱点が含まれてゐる。第十一定のテーゼの形をなしたドグマが公理として常識の内容になるといふ説明は極めて無理だと云はねばなるまい。と云ふのは、さうすれば常識とは、その内容から云つて(その全体の態度のことは後回しにして)、単に社会の各人に平均的に通用する客観性を持つだけではなく、それが何か人間の悟性=理解力に固有な、それと共に永久不変なものだと仮定されてゐるわけになるからである。合理主義は人間の悟性なり理性なりの永久不変さを仮定するにしても、それは悟性や理性といふ一般的な活動態度に就いてさう仮定するまでであつて、さうした悟性や理性によつて規定される内容自身までが一定不変なものだとは主張しない。寧ろさうした悟性乃至理性の内容は、悟性乃至理性自身の判断力によつて合理的に訂正され進歩せしめられると考へられる。処がリード的常識に於ては、常識(即ち悟性内容―悟性公理)は決して進歩すべきものではあり得ないので、謂はば常に変らず保守的なものでなくてはならない。リードの常識概念は、つまり、当時のイギリス的常識を、而も或る一定の社会層に行なはれた一部の常識を、固定化永久化し、又普遍化したものに過ぎないといふことが想像される。

 当時のイギリスは一方に於て政治的反動期であつて、アイルランド其他の新教徒の新教復興運動を眼の前に見てゐるのであるが、他方に於てフランスの大革命のジャコバン党の活動に直面してゐる。代表的な保守家である晩年のエドマンド・バーク(ホイッグの巨頭)がフランス・ブルジョアジーのこの新興形態に対して取つた反啓蒙的な反動的態度は有名であるが、リードはバークの完全な同時代者であるばかりではない。バークはまた、そのシャフツベリ卿系の美学思想に立つて、永久不変な美的感情の単位を想定した点で、スコットランド学派の闘士の一人に数へられてゐる。スコットランド学派、常識学派は、イギリス風の経験論に立ちながら、その経験論自身に対立するやうに見える処のやや尚古的な思潮に立つものであつて、イギリス・ブルジョアジーの発達の上に発生したイギリス的現実を尊重する一種独特な貴族主義的イデオロギーの上に立脚すると見ていいだらう。

 バークは一種の社会契約論者に数へられるが、ホッブスの社会契約説は云ふまでもなく個人主義に、その意味では却つて一種デモクラティックな原理に立つてゐるとさへ云ふことが出来よう。現実家であり歴史的伝統を重視するバークも亦、凡ゆる形式の政治に於ていつも人民が支配者なのだと云つてゐる。だから彼は一種のデモクラットと見えないでもない。フランス大革命に対する彼の激しい反感は、彼の自由主義から来る倫理的反発に由来してゐる。だが彼は又旧ホイッグ党党是の無条件な信奉者であり、民衆的な衡平の反対者なのであつた。だから云はば彼は極めてイギリス貴族風に保守的なデモクラットだつたと云つてもいいかも知れない。――処でこのイデオロギーはリードの常識概念の内に、相当鮮かに反映されていはしないかと考へられる。彼によれば、常識といふこの元来デモクラティックな観念が、直ちにそれ自身イギリス貴族風の固定感覚を意味して来て、旧来変らぬ保守的な永久法則の意味を有たされたわけであつた。ここで常識として強調されたものは、要するに社会的には革命的行動(ジャコバン党の)に対して、観念的には尖鋭な懐疑主義(ヒュームの――之が進歩的であらうと反動的であらうと)に対して、即ちさうした実際上の又観念上の破壊的な又は突進的な動きに対して、守勢と保守との役割を負はされてゐる処のものに他ならない。

 常識が一般に問題ではなくて、常識をさういふ風に役立てることが問題だつたのだから、この「常識」は、単に当時のイギリス風に経験論的なそしてイギリス風にデモクラティックな「常識」の反映であつたばかりではなく、その内でも特殊に保守的な貴族層の常識によつて承認を与へられた常識に過ぎなかつた、と云はねばならぬ。リード達のスコットランド学派が、ケンブリッジ・プラトニスト達(カッドウォース其他)の後裔であることは無意味ではない。この常識によつて想定される平均人とは、謂はば貴族を模範としなければならぬ一般民衆のことになるだらう。――リード的「常識」は単に、かうした幾層かの制限によつて初めて限定され得る常識に過ぎなかつたのである。

 この常識概念は、当時のイギリス貴族層の独特なイデオロギーを動機としてゐるから、常識の有つ積極的な貴族的役割ばかりが注目されて、却つて常識の消極的な云はば庶民的性質の方が殆んど完全に無視されて了つてゐることは、驚くに値しない。平民的常識が遂に常識に止まつてそれ以上のものになれないといふ制限も、又常識はいつもお互ひに撞着するものだといふ性質も、ここでは頭から問題にしてゐない。凡てはこの貴族的常識によつて根本的に最高の形式で統一的に解決出来ると仮定する。だからこの哲学的な常識概念は、常識に対して今日の吾々が持つてゐる常識的概念にさへ及ばない程、単純で一本調子なのである。之が第三の欠点である。――初めに云つた常識の弁証的本質は、この結局は経験論的な、経験主義的な、即ち又現象主義的なイギリス風の仕方によつて、完全に見落されて了つてゐる。処が常識は今日の常識から云つてさへ、もう少しは込み入つた矛盾を蔵してゐるものだつた。

   四

 相当純粋なブルジョア的常識に興味を有つたものは、却つてドイツ産の「世界市民」カントだつたと云つてもいいだらう。事実彼は優れた常識家として有名であるし、彼の哲学の歴史上の大きさの一つも亦、「このブルジョア的常識」の哲学であつた処にあるだらう。彼自身トマス・リードの例の常識説にも触れてゐるが、その際すでに、実は当然なことではあるが、常識の例のお互ひに撞着する本性に注意してゐる。だがそれよりも大事な点はカントの人間理性乃至人間悟性と呼んだものが、取りも直さず啓蒙期ブルジョア・イデオロギーによる人間常識の能力のややドイツ化された観念に他ならなかつたといふことである。カントの「純粋理性」批判は「ブルジョア的常識」の批判だつたと見ることが出来る。なぜなら彼の問題は、人間悟性(理性)のどこまでが健全であり、どこから先が不健全な矛盾を暴露するかにあつたのであり、前者の場合(それが「分析論」だ)の健全な悟性が即ち常識のことに他ならず、後者の場合が之に反して「弁証法」と呼ばれたわけだからである。

 さう考へて見ると、感性の「先天的直観」や理性の先験的「範疇」や、その結合と見做される先験的「根本命題」(公理)やが、例へば因果律に就いても判るやうに、リードの常識による直観的肯定を、如何に現象学的(?)に分析したものであるかに気付くだらう。カントの所謂形式主義は、この点から見れば、リード的な貴族主義的内容の常識の制限を破つて、之をブルジョア的な常識にまで一般化する企てと一致させることが出来る。彼はヒュームの懐疑論に対して、常識学派風の常識の独断(公理、ドグマ)の代りに、常識の批判を置いた。

 カントによるブルジョア的常識の批判は、理性批判をするもの自身がその同じ理性だと云はれてゐるやうに、それ自身一種の(ドイツ的な)ブルジョア的常識に従つてゐると云はなくてはならぬ。だがブルジョア的常識のこのブルジョア的常識による批判は、ブルジョア的常識の「自己批判」として、やがてブルジョア的常識の限界の極めてきはどい処にまで追つて行つてゐる。と云ふのは、カントが自分で弁証法と呼んでゐるものがそのきはどさを見せてゐる当のものであつて、例へば二律背反などは、正しく常識のもつお互ひの間の撞着性を、論理学的に云ひ現はしたものに他ならない。ここで示されてゐるものは、ブルジョア的常識が、良い意味でも悪い意味でも、弁証法的な一種の喰ひ違ひを持つたものだといふ認識なのだ。――ヘーゲルにまで来て弁証法が学的思惟の方法として積極的に立ち現はれれば、もはやこのブルジョア的常識――学的思惟に対する非科学的思考としての――は退場するものであつて、そこには常識に対立した弁証法だけが残される。だがさうだからと云つて、常識の一切の問題がそこで消えて了ふのではない。現に、弁証法的な思考は、今日の吾々にとつて、一種のもはやブルジョア的ではない処の常識となつてをり、又はならねばならないからである。

 常識の二律背反や弁証性は、単に二つの常識的命題が矛盾するといふ場合につきない。カントの見たのはそれだけであつたが、本当は、その他に、常識そのものが、常識であるが故に真理だと考へられると共に、同時に又、常識であるが故に真理でないと考へられてゐる、といふ二律背反こそ、常識の根本的な弁証性だつたのである。そしてここには非常に複雑したものが匿されてゐるのだ。

 この矛盾を解く手段として、もう一遍リード的常識の一つの性質を思ひ出して見なくてはならぬ。リードの常識は一定の独断的テーゼとして現はれた根本命題(公理)だつたから、その限りそれは実は個々の常識内容を意味してゐる。一つ一つの常識的な主張を含んだ命題が、常識といふものの実質だと考へられてゐる。処が他方に於て、かうした個々の常識内容は人間の健全な理性に具はる云はば本能のやうな必然性によつてヴァリディティー(validity)を与へられてゐるのだつたから、個々の常識内容の他に、この個々の常識内容を常識内容たらしめる処の形式が、さうした常識的態度が、常識のもう一つの契機でなくてはならぬ。故にここでは、さし当り、個々の常識内容と之を成り立たせてゐる常識形式とが区別される。この二つのものは常識に於ける内容と形式とに相当する。だが併し、単に何にでもある内容と形式との関係だけではない。実際、吾々が今は常識的に考へてゐる常識といふものに就いて、この個々の常識(テーゼの形をもつ)といふ内容と、常識といふ形式とは、対立した或ひは喰ひ違つてさへいる処の、一つの関係におかれてゐるからである。この二つの区別をもつと展開して見よう。

 軍部が今日のやうな自信を有つことの出来なかつた大戦直後の頃、或る私の知つてゐる将校が私に云ふのに「軍人に常識がないといふ非難があるので上部から常識涵養のために法律や経済の勉強を勧められてゐるが、一体さういふ知識が不足してゐることが軍人の非常識とか没常識とかいふことの意味なのだらうか。どんなに知識を所有しても非常識は非常識であつて、そのままでは常識の涵養にならぬやうに思ふが」と云ふのであつた。なる程法律や経済や政治といふ社会科学的な知識を有たなければ人間は必ず非常識になるには相違なく、又この知識を有てば常識の涵養の条件の一つが具はることも間違ひではないが、或る一定の意味に於ては、さうした常識の獲得は必ずしも常識そのものを高めることにはならぬ。

 もし常識といふものを個々の知識やその総和と考へるならば、知識の獲得はそれだけ常識内容の量的な増加になるわけだが、それによつては必ずしも人間的見識の水準が高まるとは限らない。常識といふ水準に人間が謂はば質的に高まり接近することは、量的な常識内容の増加とは一応独立なのである。知識と見識といふものが直ちに一つにならぬことは、誰しも知つてゐることで、知識のただの総和が見識なのではない。

 尤も知識が豊富ならばおのづから見識も高まるといふのが事実であり、そして知識といふものをよく考へて見ると、特に社会科学的知識などに於て明らかであるやうに、それ自身一種の見識に基き、或ひはそれ自身で一個の見識の意味をもつのだが、それにしても、ただの知識や知識の総和が見識とはならぬ。一寸考へると、知識の総和的平均が人間的見識のやうに見えるかも知れないが、併しこの平均といふことが決して簡単なことではない。内容としての常識(個々の中庸の知識乃至その総和)と、水準としての常識(知識の総和平均と想像されるもの)との関係は、丁度、事象の個々の場合々々とその集団的、統計的な場合との関係に似てゐるが、この二つの場合の間に何かの実質的な連絡があることが明らかであるにも拘らず、二つは一応夫々独立した立場に立つてゐる。一つの場合に就いて云はれることは、そのままでは他の立場に之を移し植ゑることが出来ない。凡ての場合を単に平均するといふことは、実はそれだけでも既に、個別的なものの立場から平均的、水準的なものの立場を独立させることを意味してゐる。丁度それと同じやうに、個々の知識内容としての常識から独立に、水準としての常識が区別されねばならぬ。

 水準としての常識、常識水準としての常識は、常識の内にでなければ見出せないやうな、常識の独自性を示してゐる。常識が常識として、他のものに還元されずに問題にされ得るのは、だから内容としての常識ではなくてこの水準としての常識に就いてでしかない。内容的常識はよく考へて見ると実は本当の常識ではなかつたので、つまり個々の知識やその総和に過ぎない。だから実は、之をそのまま平均しても、生じるものは常識(常識水準)ではなくて、要するに知識水準にしか過ぎないだらう。さうした知識水準は、組織的な知識に就いては学術的水準にまで発展するもので、更に総合的な知識に就いては文化水準にまで発展するものだらう。だがまだ夫は一向常識水準とはならぬ処のものだ。

 今一般に常識なるものを、かうした知識水準、学術水準、文化水準によつて測定するとすれば、即ち常識なるものをそれ自身の標尺で量らずに、知識、学術、文化等々の尺度に照して量るとすれば、それは常識なるものの有つ独自性を、常識なるものを知識、学術、文化等々なるものから区別してゐるその当の独自性を、無視することになるわけだから、常識といふ概念は実は初めから否定されてかかつてゐるに外ならない。その当然な結果としては、常識なるものが知識、学術、文化等々なるものに還元されて了つた上で問題にされるから、常識なるものはいつも知識、学術、文化等々以下のものであり、従つて、不完全な未熟な知識、学術、文化等々にしか過ぎぬといふことにならざるを得ない。常識が自分自身の原理を有たないと仮定されてゐるから、常識とは一般にそれ自身最も低いもののことを意味することになるわけで、常識以下のものは何物も存しないといふことが同語反覆的に自明なこととなる。

 常識を常識内容とする結果が之だが、之は常識の知識中心主義的乃至学術中心主義的な、アカデミシャン式な概念に他ならない。事実近頃のわが国のアカデミシャン達によれば、常識とは常にかうしたネガティヴなものでしかないので、例へば科学や芸術を卑俗化し通俗化したものが常識のことだと彼等は考へてゐる。――だが一方、水準としての常識、常識水準に常識の本体があることを注目するならば、この常識の概念は完全に改められねばならぬだらう。之によつて示されるものは、常識がそれ自身の尺度を有つことであり、それ自身一個の水準を意味するといふことであつた。常識は独自な(知識水準其他とは独立した)ノルムを意味する。処でこのノルムに従へば、一切の他のものはこのノルムに一致する点に於て、常識それ自身の右に出ることの出来ないのは当然だ。だからここでは常識が最高であつて、常識以上のものはあり得ないこととなるのである。

 常識が一方に於て常識であるが故に常に真理でないと考へられると共に、他方に於ては又却つて常識であるが故に常に真理だと考へられるといふ、かの矛盾、二律背反は、或ひは寧ろ常識のこのパラロギスムス(誤謬推理)は、かうした内容を有つてゐたのである。つまり、常識の独自性、常識固有の原理を承認すれば、この弁証性が解けるのであつた。

   五

 常識が非難されるのは、それが独創性を欠いてゐるといふこと、その意味で単に平均的な凡庸に止まつてゐるといふことである。即ちこの際、一定の知識なら知識は、社会的な平均によつて与へられた一定の常識的水準を有つてゐて(常識水準のことではない)、それ以下の場合は問題外として、その水準以上に抜けないことが、常識といふもののネガティヴな宿命だと云つて非難される。世間では殆んど凡てさういふ意味に従つて、常識以下とか常識的とか常識以上とか云つてゐる。そしてこの常識以上の知識水準に達したといふのが独創性のことなのである。知識は云ふまでもなく、いつも独創的でなくてはならぬ。独創的でない処の即ち常識的な知識(それが例の常識内容だが)は、いつも不完全な未熟な知識のことをしか意味しない。社会の平均人に比較して知識が劣つてゐないといふことは、無論知識のこの不完全さ未熟さの弁解にはならぬ。

 だが、知識が独創的であるとないとに拘らず、さうしたものとは一応独立に、常識水準の尺度が、云はば常識自身が、独創的であるかないかの問題さへが、存在する。水準としてのこの常識であつても、それが社会人の見識の平均値だといふ端初的性質は無論無視出来ない。処がさう見てゐる限り、知識の平均値としての常識的水準(常識内容)とこの常識水準とは別なものではないやうに見える。併し少し考へて見れば判ることだが、本当に単に平均値的だといふだけでは、如何に常識といふ言葉に愛着を有つものでも、それが評価のノルムや標尺になれるとは考へ得られないだらう。で、社会人の見識の平均値と見えながら実はそれ以上のものでなくてはならぬといふのが、この常識水準なるものの内に見出される新しい矛盾なのだ。

 今この矛盾を解くためには、この平均値といふ観念の謎を解く必要がある。と云ふのは、この平均値を正直に単純に社会に於ける各個人の量質的な総和平均のことだと考へてゐては之は解けない。それが平均値であるが故に(どういふ根拠だか判らないが)おのづから標準的なものであり、又理想的なものだといふのでなくてはならない。リード的常識の常識的態度は恰も、之を健全といふ標準又は理想で以て云ひ表はしたのであつた(bon sensといふ常識概念も亦、かうした標準又は理想をひそかに想定してゐる)。健全とは無論、病気と健康との総平均などではなくて、各人の健康状態の標準であり又理想のことなのである。それにも拘らず健全さは人間健康のノルマルな常態だと考へられる。この間の消息は、健康の保持(不健康疲労物質の新陳代謝と健康恢復)といふものが伝へてゐる。即ちたえず健康を引き上げ健康さを発達させることが、人間の平均的な従つてノルマルで通常の健康状態と考へられるわけである。

 常識も亦、いつも常識といふ活きた社会人の見識をば、引き上げ発達させることによつて初めて自らを保持出来るのであり、そしてこの常識水準の保持がノルマルな常態なのであり、このノルマルな常態は更に、社会人の総平均値をいつも自分まで高めるべき動的イニシエーションとして現はれるのである。そこで初めて、平均値的なものが、おのづからノルマル(ノルム的標尺的)なものとなるのである。で、常識水準に於て平均値的なものと考へられたものは、実はただの平均値ではなくて、この平均値自身を常に高めつつ働く処のソリシテーション(促動)のことだつたのである。

 だから常識水準とはその時その時に与へられた社会人の見識の平均値のことではなくて、却つて、この平均値を高めるべき目標、理想線を意味してゐる。この理想線の方眼紙上の位置は不定であり、或ひはその位置を問題にすることは不可能なので、平均値のあるところ常にその近くにこの常識水準が力の場のやうな作用を持つて横たはつてゐるのである。本当の常識はそれ自身いつも低下し消散し死滅して行く或る活きものだが、これを常に刺戟して活きて行かせ保持発達させるものが、この常識水準といふ言葉の意味でなくてはならぬ。丁度真理とは真理を保持し高めるもののことであるやうに、常識とは常識を保持し高めるもののことだ。

 本当の常識、常識水準は、社会人の見識の単なる平均ではなく、又況して社会人の知識の中庸のことでもなかつたから、所謂世論と云つたやうなものとは可なりの距りを有つてゐる。世論が大衆の政治的見識の平均値(実は多数者の共通した限りの政治的見識)と見做される限りさうである。世論は一般に、多数決の原理によつて理解されてゐる。だが多数の原理も亦、多数者の権利を肯定する根拠となると同様に之を否定する根拠ともなる。多数原理を正直に受け取る限り、多数者の権利を之から惹き出すためには、理論的にはコンベンションに、行動としては単なる多数の存在といふ以上の行為、暴力に訴へなければならぬ。或る時代のギリシアの議会に於ては、声の最も高くて大きい者が多数を意味した。で、世論といふこの近世ブルジョアジーのデモクラティックな観念を、かうした哲学的困難から救ふためには、世論に於ける多数決の問題を「常識水準」に於ける平均値に準じて考へ直されなければならぬだらう(常識をリードの常識に結びつけて分析し得たやうに、世論―― Opinion, Meinung ――をギリシアの例のドクサに結びつけることも出来る)。

 だが実は常識水準そのものが、政治的な性質のものだといふことを注意しなければならぬ。吾々は既に之を単なる知識(やがて学術、文化)から区別された意味に於て見識と呼んで来たが、社会人の見識とは、単に個人の知的意志の統一を意味するばかりではなく、その各個人が社会に於て(物質的生産を媒介として)相互の関係に這入ることからくる社会を通つた知的意志の統一を意味してゐる。かうした社会的な政治的な統一の、社会的、政治的平均値を引き上げ発展させるものが例の常識水準であつた。だから常識水準はいつも政治的な根本特色を有つてゐる。世論とは恐らく、このそれ自身政治的な常識の、特に狭義に於て政治的な場合のことだらう。

 更に又常識に連なるものは通俗化乃至大衆化であるが、之等も亦普通ルーズに考へられてゐる処とは異つて、平均値や多数決の問題によつては解決出来ぬものである。大衆化といふことは、事物を多数者の平均値に近づけることではなくて、多数者たるべきものを事物にまで近づかしめる通路を提供することなのだが、そのためには人々は大衆にまで、多衆にまで、組織されねばならぬ。大衆化といふことはだから大衆への組織といふことを措いて正確な意味を持つことは出来ないだらう。今は常識水準の常識保持発展力がこの大衆組織化に相応するわけである。そして通俗化とは、かうした大衆化以外に正当な観念内容を有つものではない。もし持つとすればそれは例の悪い常識(知識水準に照された常識内容)を混入してゐるからに過ぎない。

 今まで述べて来たやうに、常識が一応端初的には社会人の多数の見識の平均値と関係があるにしても、又更に事実上の現象として一見した限りでは多数者の平均的な凡庸な見識のことにすぎぬにしても、この多数とか平均とかいふものが吟味を必要としたのであつて、その結果、常識は、常態としての水準常識は、本当を云ふと多数や平均そのものではなくて、却つて之等のものを引き上げ押し上げデベロップさせる理想線のやうなものであつた。であるから、常識は結局に於て多数者のものでもなく平均値的なものでもなくて、却つて或る種の少数者だけが事実上このノルムに接近(?)出来るのであり、又却つてこの平均値を抜け出る処にこそ恰も卓越した常識が横たはると考へられる、といふ事実が説明され得るのである。

 仮に本当に常識が平均値的なものに過ぎないならば、社会に於ける各個人の常識をもう一遍平均することは全く無意味な筈だが、処が実際は卓越した常識とはさうした平均値的常識を遙かに抜いてゐるが故にこそ卓越してゐるのである。そして卓越した常識家(例のエドマンド・バークやカント更にはヘーゲルやマルクスまでも之に数へることが出来ようと思ふが)は決して多数ではない。――尤も知識内容が例の内容的常識といふ常識的水準に止まつてゐる意味での「常識家」は世の中に必ずしも少くはない。だが之とても決して、絶対的に多数ではないので、従つて実際には平均値的な知識人よりも稍々高い知識水準を有つてゐるかも知れぬ。それにティピカルに平均的な人間といふものさへさう沢山はゐないのが事実だ。

   六

 かくて常識は平均値的なものや多数性から来る端初的な概念規定から、遂に解放される。この手続きを踏まずに、而も強ひて常識に独自の原理を認めようとして、ブルジョア民主主義的な常識概念は、平均性や多数性を常識の固有原理らしいものと考へるが、それは常識の原則を確立する所以ではない。常識の固有原則は、このやうなブルジョア民主主義的な(そしてそこでは社会人の抽象的な同一性、平等が機械論的に設定されてゐる)常識概念からは決して出て来ない。

 かうした数量的な平均性や多数性の規定を脱して常識の規定はどこへ行くのかと云ふと、それは最初に触れた日常性の原理と呼ばれてよいものに帰着するのである。尤も世間では俗物も超俗物も、日常性といふものを、平均的な多数者である世間の俗物の、原則を失つた生活状態のものだといふ風に考へてゐるらしいが、日常性をさういふ数量的な規定で片づけ得ると考へてゐることが、それ自身俗悪な常識的な知恵でしかない。日常性の原理とはそんなことからは独立に、実際性(Actuality)の原理のことだつたのである(之はドイツ語では現実― Wirklichkeit―と呼ばれる。act=wirken)。日常性の原理の分析そのものが又可なり面倒だと思ふが、それに就いては私は屡々出来るだけ機会を利用して説明をして来た(拙著『現代哲学講話』本全集第三巻所収参照)。

 今最も簡単に実際性の原理を思ひ浮べるには、新聞なるものの日常的な機能を反省して見ればいいだらう。誰が一体新聞紙の機能の内に、アカデミーの研究室で行はれるやうな機能を求めるものがあらう。又単なる研究家や学究や篤学者が新聞に書いたり雑誌を編集したり出来るとは誰も考へない。アカデミックな機能に対立する新聞のこのジャーナリスティックな機能こそ日常性の原理の最も手近かな証拠になる。ジャーナリズムとは、言葉通り、日々の実際生活に立脚した主義のことであり、だから日常性の原理に立つことなのである。云ふまでもなく、之は学究的俗悪さの代表者であるアカデミック・フールが想像も及ばない原理かも知れぬ。

 そして最後に、クリティシズム(批判、批評)は他ならぬこのジャーナリズムの、日常性の原理に立つた、一機能なのである。一般に事物の批判乃至批評はいつも、常識水準(この社会的政治的標尺)に準じて行はれるのだ。で、今にして云へば、常識とは社会上の単なる共通感覚ではなかつたので、社会的な(従つて歴史的になる)日常感覚のことだつたのである。之は人間の歴史的な社会的な本能のやうなもので、人間生活に於ける知能の一形態だつたのである。

 だが重ねて云ふが、この人間の日常感覚、常識(水準としての常識)は、単に社会的平均物でもなければ、又社会的共通物でもなかつた。之はノルム、水準であつた。だから之は反ノルムに対立してゐるのである。そしてこの反ノルム自身が皮肉にもノルムの名を僭称してゐるのである。常識のメフィスト自身が、そこでこのカイザーとゲーゲン・カイザーとの間に処して一働きしなければならない。常識水準は階級的対立に従つて分裂対立する。知識―科学に階級性(階級的対立)があつたやうに、そして、知識―科学の論理が階級的党派性の首尾一貫に他ならなかつたやうに、常識にも亦階級性、階級的対立が、そして階級的党派性の首尾一貫が存する。さうして知識―科学について「論理」と呼ばれたものがここで「常識」水準と呼ばれた水準に相当するのであつた。

 そこで今二つの常識水準が対立してゐるとして、この対立(いづれも水準としてのノルマリティーを主張して譲らない)はどこから導かれどう解決されるか。ここで例の常識内容と常識水準との関係が又々参考に値ひする。今卓越した常識水準に較べて、低劣な方の常識水準が、往々より常識的で尤もらしい通念となるといふ事実を注意しよう。つまりこれは低劣な方の常識水準が、社会人の常識的な知識水準に一層適応したものを持ち勝ちだといふ証拠などである。すると水準のこの低い方は、例の常識内容と呼ばれた知識の常識的水準と混同した分量だけ、それだけ卓越した高い常識水準から劣るのだ、といふことが判る。一体知識が完全に常識的水準(常識水準のことではない)に止まつてゐる限り、少くとも、之に対比される常識水準の方にも卓越さを期待出来ないのは当然だが(尤も逆に知識が常識的水準を抜けてもそれだけでは常識水準の確立にはならなかつたが)、低劣な常識水準は、いつもその前提として、常識的水準又はそれ以下の知識内容を条件にしてゐる。これはつまり、知識の欠乏が非常識を結果する、といふ知れ切つた関係に帰するものなのである。

 常識に今日ブルジョア的常識水準と無産者的常識水準とがあることは、それ自身日常経験として明らかであるばかりではなく、ジャーナリズムにブルジョア・ジャーナリズムとプロレタリア・ジャーナリズムとの対立がある事からも明らかだ。これは大衆化の概念に就いても、世論といふ概念に就いても実証される。処が例へばブルジョア的大衆化は何かと云へば、つまり卑俗化、俗流化のことでしかない。大衆化のブルジョア的概念が、それ以外の分析をなし得ないのであり、従つて又元来大衆化といふ概念によつて一般的に期待された目標に到着するには、解くべき困難があまりに手に負へないのである。今日大衆化といふイデー(分析の結果を期待される観念)が無産者的にしか分析され得ないのは周知の事実である。

 世論も亦之と同じであつて、このブルジョア民主主義的観念は、ブルジョア的概念としては全く行きづまつて了つてゐると云はねばならぬ。世論は今日ブルジョア的プブリクムともいふべき社会の一隅からブスブス起こる私語であるか、それでなければ統制的官衙の石段を粛々として降つて来る「声」かなのである。――常識はもはや今日地上のどこにも見当らぬ。常識は「地下室」などに押し込められて了つて、常識の息の根は圧しつぶされて了ひさうに見える。而もさうしたことが今日の日本主義などに於ける「常識」! なのだ。

 さて、私が分析によつて得た結果は、水準としての常識、常識水準といふ規定なのである。この規定を必要に応じてハッキリさせることによつて、常識なるもののもつ困難が、その矛盾、二律背反、弁証性が、解決され止揚されるだらうといふのである。常識に普通な相反する二つのテーゼの雑居、常識そのものの否定と肯定、常識に於ける平均性と卓越さ、常識といふノルムの階級的対立、等々がこの困難であつた。

 だが、と読者の何人かはキット云ふだらうと思ふ、今時常識の分析などをして、それが実際問題と何の関係があるのかと。併し常識そのものはとに角として、常識の独自的原理の問題に注目することは、今日、唯物論の基石の一つを据ゑることなのだ。なぜと云ふに、常識に於て見出される日常性の原理、実際性の原理こそ、大衆の思想を、解釈哲学から、その意味での形而上学から、又その意味での観念論から、防衛するための原理に他ならなかつたからである。


第四 啓蒙論
      ――現代に於ける啓蒙の意義と必要とに就いて


   一

 啓蒙(Aufklaerung)といふ観念は現在二つのものに区別されてゐる。一つは文化史上に於ける啓蒙期の所謂「啓蒙」であり、一つは今日一般世間で啓蒙といふ日常語を以て云ひ表はす処の夫である。二つのものの間には無論根本的な連関があるのだが、併し歴史上の「啓蒙」は、一面に於て、この言葉のある限り永久に残るだらう処の普遍的な規定を有つてゐると共に、他面その時代の共通な特定の歴史的制限をも持つてゐる。従つて之は、現在の啓蒙と決して一つではありえない。で、この二つのものの間を、歴史的に且つ又理論的に媒介することが、さし当つての目的である。

 啓蒙といふ観念の正確な又は細かい内容はとに角として、少くとも今日世間の大多数の人達は、この言葉が大体何を意味するかを予め知つてゐるだらうと思ふ。といふのは、何人も必要のない処のものは容易に直覚出来にくいもので、そこから無用に煩雑な衒学的な分析も出て来ないとは限らないのだが、併し之とは反対に、必要のある処では、事物は最も速かに直覚的に理解されることが出来るものなのだ。で、もし今日、啓蒙といふ言葉を日常的に理解出来ないといふ人があるとしたなら、その人は必ず今日啓蒙の必要を感じないで済ませる処の或る特別な事情の下にある人に相違ない。さういふ人は、啓蒙に就いて全く利益を感じない人か、又は逆に積極的に之から損害を蒙るだらうと考へてゐる人か、でなくてはならぬ。日本の昨今程に啓蒙といふものの必要な時代は、明治になつてからも全く久しぶりだと云はざるを得ない。啓蒙の必要を昨今切実に感じてゐる人は、啓蒙といふ言葉の大体の意味を、すでに日常的に理解してゐるだらう。吾々は結局、この日常観念を土壌として、分析の結果この日常観念の土に還れば、これからの目的を果すことになる。

 今日わが国で啓蒙と訳されるドイツ語、アウフクレールングは恐らく英語のエンライトゥンメント――文明――からの訳ではないかと思ふ。処でエンライトゥンされアウフクレーレンされるものは、例へば闇とか妖雲とかいふものでなければなるまい。歴史上では、それは封建的な残存機構から自然生的に発生した不合理な(アウフクレールング自身から見て不合理な)観念、イデオロギーのことだつたのである。無論ここで文明と云ひアウフクレールングといふのは、社会の経済的又技術的な機構の発達のことであるよりも、寧ろ主に社会に於ける文化的観念の発達を意味するのである。例へばドイツはイギリス特に又フランスに較べてこの文明乃至啓蒙が著しく後れてゐた。一種の啓蒙思潮の代表者でもあるカントは処が、フリートリヒ大王下のプロイセンを目して、啓蒙された時代ではないが啓蒙されつつある時代だと呼んでゐる。イギリス、フランスに較べて、生産様式と文化意識とが著しく後れてゐた当時のドイツにしてからが、すでに「啓蒙されつつある」時代だつたといふのだが、このことはよく考へて見ると、この啓蒙されるべきものが当時の封建的残存機構から全く自然生的に生じた闇であり妖雲であつたことを意味しなければなるまい。日本がプロイセンの憲法に則つて憲法を制定したと云はれる(今日迄の多くの権威ある法学者や歴史家の間ではこの点科学的常識になつてゐる)のも亦、日本の極めて長い封建制から自然生的に生じた観念的残存物に対するアウフクレールングとしてだつたと考へられる。

 之は大体、歴史上に於ける所謂「啓蒙」の系列にぞくするもののことだが、処が今日必要な啓蒙、従つて今日の意味での啓蒙は、少くとも一つの根本的な条件に就いて、之とは全く違つた新しい種類のものだ、といふ点を注目しなければならぬ。今日の啓蒙が打ち払ふべき妖雲は、今日でも事実上濃厚に残つてゐる日本の封建的基礎条件から、自然生的に生じた妖雲では決してない。この闇はこの日本的封建制の基礎条件を目的的に採用することによつて、意識的に(「認識する」ことによつて又国民としての「自覚」によつて)導き入れられようとしてゐる処の闇なのである。尤もいつの時代にも完全な闇はあり得ないので、闇とは実は薄明りのことなのだが、同じ薄明りでも、歴史上の所謂啓蒙期の「啓蒙」は、「啓蒙されつつある処の」黎明だつたが、現今の薄明りは蒙昧化されつつある黄昏にも類するだらう。或は日明を蔽ふ触魔の翳(かげ)であるかも知れない。之だけ見ても今日の啓蒙の性能と機能とにおのづから新しい従来とは異つたものがなくてはならぬ理由が判る。まして今日の啓蒙は、単に封建制から自生的乃至意識的に導き出された観念に光をあてなければならぬばかりではなく、歴史上の所謂「啓蒙」を産んだ資本制自身に基く観念そのものにも亦、その強い光を当てねばならぬ。かうして今日の啓蒙の意義は、歴史上の所謂啓蒙に較べて、一方に於ては愈々規定が一般化されると同時に、他方に於ては愈々夫が限定されて来るのである。

 だが、仮に私が之まで云つて来たことに反対でなくても、又啓蒙の今云つた今日に於ける意義を一応認めなくはないにしても、なほこの問題に大して興味を持てない、といふ種類の識者が、日本のインテリゲンチャの内には決して尠くない。吾々はさういふ事実を見逃せない。「啓蒙も好いだらう。併し啓蒙よりも遙かに大切なものが吾々の手元には沢山ある。例へば研究、反省、自己不安等々が何より吾々には大事で、抑々ひとを啓蒙するなどは後回はしにしたらばどうか」と云つた具合に、この種のインテリはまづ私達自身を「啓蒙」しようと企てるのである。――無論それもいいだらう。だがさうやつて研究し反省し或ひは自己不安することによつて諸君は何を導き入れるか。例へば全体性、体験、ゲマインシャフトなどといふ「哲学的」に尤もらしい諸範疇の強調は、殆んど総てかうした謙譲な研究家や反省家や不安家自身の口から洩れたものに他ならないのだ。之は現代的神秘主義、現代的蒙昧主義の、衒学的な基礎工事に他ならないのである。抽象的に考へれば、なる程部分主義よりは全体主義が良いし、体験無視より体験尊重が正しいし、ゲゼルシャフトよりもゲマインシャフトの方が人間関係として勝つてゐるに決つてゐる。だがそれは形式的に云つてのことで、その内容に合理的な啓蒙されたものが這入るか、それとも神秘的な蒙昧が這入るかによつて、百日の説法も屁一つとなるだらう。啓蒙活動の必要を感じない者には何等の自己啓蒙さへもない、といふのが、今日吾々の置かれてゐる事情なのである。

 さて歴史上の啓蒙期的啓蒙は、先ず第一に自由主義として現はれ、又自由主義をその第一の規定とする。一体歴史上の啓蒙といふのは、云はば文化史上の一時期乃至一範疇であつて、決してすぐ様政治的範疇とは考へられないし、まして経済上の範疇ではあり得ない。従つてここに自由主義と云ふのも、無論経済上の自由主義(自由契約、自由売買、自由競争)でもなければ、又元来を云ふと政治上の自由主義(議会主義、立憲主義、デモクラシー)でもなくて、正に文化的自由主義とも呼ばれるべきものでなくてはならぬ。

 だがそれにも拘らず、この文化上の自由主義(その意味は段々説明して行く)は無論経済的乃至政治的自由主義から蒸溜されたものに他ならないのであつて、事実ジョン・ロックに於ては、政治上の自由主義に基いて初めて、啓蒙期的啓蒙の哲学組織が創始されたと見られてゐる。近世ブルジョア社会に於ける個人の経済上のリベラリズムがそれの物質的根柢であることは今更述べるまでもないが、ただこの経済上のリベラリズムに相当する自由の観念が、文化的な性質を受け取るためには、個人の企業や商行為や契約や労働やの自由の観念の代りに、同じ個人の自由であつても、多少とも文化的な側面にぞくする方の自由にまで、即ち、個人の悟性や意欲やの権威の確立にまで、蒸溜されねばならない。この時初めて、この自由は政治的自由の観念へも完全に移行することが出来る。処でロックはこの内でも又特にその文化的なモメントをば、悟性即ち、人間悟性(今の処之を理性と云つてもいい)の内に、求めようとするのである。で、今や個人の経済的、政治的、又更に文化的自由は、人間悟性の権威の名の下に一所に集中されることになる。人間悟性の前には、人間悟性自身を他にして、何等の権威もない。教会、貴族、国王其他もこのブルジョアの活きた悟性を前にして、何の絶対性をも誇り得ない。

 この悟性乃至理性は云ふまでもなく、フランス啓蒙家達の信条となつた処のもので、悟性乃至理性こそフランスの市民の自由を(平等や友愛と共に)保証する文化的権威に他ならなかつた。処がドイツではカントが、この悟性乃至理性の権威をば、恰も悟性乃至理性自身の自由=自律の内に求めることを創案する。自由は茲で単なる経済的、政治的自由として受け容れられずに、悟性乃至理性の自己自由として、正に文化的自由にまで蒸溜されて受け容れられる。自由主義はカントによつて、このプロシア的世界市民の頭脳によつて、文化的自由主義にまで「哲学化」される。政治的行動の自由の代りに、哲学的思弁の自由が、社会に於ける自由の代りに、観念に於ける自由が、この時以来ドイツ古典観念論の中心課題として導き入れられたのである。啓蒙はかうして第一に文化的自由主義に帰着する。

 カント自身の啓蒙の観念が、最もよくこの消息を物語つてゐる。「啓蒙とは何かの問題に答へる」といふ有名な文章で、彼は啓蒙に就いて定義を下してまづ云つてゐる。「啓蒙とは理性が自業自得で陥つてゐる未丁年状態から解放されることだ」と。理性が自分自身成熟する自由を持つてゐるにも拘らず、なほ未丁年状態に止まつてゐるのは全く理性自身の責任だといふのである。ドイツ資本主義の後れた発育が理性を未丁年状態に引き留めた責任者などとは決して考へられてゐない。次第に啓蒙されつつあるドイツはカントによると、フリートリヒ二世の文化的経綸のおかげであつて、ドイツ統一によるドイツ資本制化のために、ドイツ諸公に対する大王にとつて必要な進歩政策の結果だつた、などとも考へられてゐない。そして特に注意すべきは、カントが啓蒙による理性の自由活動を専ら文化人の文化人に対する文化活動に限つてゐることだ。市民的職業や地位に就いて理性をどんなに自由に使つても、それは一向啓蒙活動でないばかりでなく、フリートリヒの治下に於ては一個のバーバリズムででもあるかのやうにさへ考へてゐるらしい。カントの啓蒙に於ける自由主義の契機が、いかに文化的自由主義に限られてゐるかが、これで判るだらう。

 啓蒙に於ける自由主義の契機をかうやつて蒸溜して見せた点では、カントは最も代表的な啓蒙思想家であると云つてもいいが、併し実はカントこそ却つて、ドイツに於ける啓蒙批判家、啓蒙脱却者であつた。一体彼の啓蒙に対して下した例の定義そのものが、ドイツは云ふまでもなく、当時のヨーロッパ、イギリスに於ける事実上の啓蒙現象を云ひ表はしたものでは決してなかつた。夫は寧ろ云はば啓蒙の理想を、啓蒙の永久に変らぬ普遍的な主義を、つかみ出さうとしたものに外ならない。カントの眼の前には有名な啓蒙哲学者モーゼス・メンデルスゾーンがあるし、カントの先生にはドイツ啓蒙哲学の組織者クリスチャン・ヴォルフが控へてゐる。そして世間にはあり余る程の「通俗哲学」が横行してゐる。カントは実にかうした常識的な諸現象の批判をこそその使命としたのだつた。

 イギリス啓蒙思想の哲学的(世界観的、論理的)根柢は無論経験論である。之に対してフランスの夫は他に対して最も特徴あるものを挙げれば唯物論(ブルジョア的形而上学的唯物論)であつた。ドイツ啓蒙哲学=ヴォルフ学派の哲学の根柢は処で「悟性の哲学」だつた。吾々は今やドイツ・アウフクレールングを少くともここまで遡つて、その第二の規定をこの悟性の哲学に、その合理主義に見出すことが出来るだらう。と云ふのは、歴史上の所謂啓蒙の第二の規定が、その矛盾律中心主義の哲学組織(ヴォルフで初めて伝統的なドイツ哲学の例の「体系」が出来上つた)にあるといふのだ。

 併しこの第二の規定は実は、ドイツ・アウフクレールングでは単に最も極端なドイツ式な形で現はれたと云ふまでで、広くフランスの唯物論にも共通な一つの論理機構に他ならない。矛盾律、その裏をかへせば同一律だが、この矛盾律を思考の最後の又は殆んど唯一の根拠とし、思想の枢軸とすることは、つまり機械論=機械主義の論理を採用することの宣言を意味する以外の何ものでもない。所謂経験論も、所謂フランス唯物論も、この機械論に於てドイツ啓蒙的合理主義と全く一つなのである。だからこの三つのものは、夫が経験論であるにも拘らず、又唯物論であるに拘らず、それから又合理主義であるにも拘らず、斉しく形而上学的と呼ばれる理由を有つてゐるのである。結局、啓蒙のこの第二の規定は、その形而上学としての特色をコンデンスして云ひ表はしたものに過ぎなかつたのだ。

 そこで今二つの規定を与へたこの歴史上の所謂「啓蒙」と、現在に意味を有つ啓蒙との、連関が次の問題だが、それには前者から後者への必然的な歴史の動きを見ればよいわけである。処が、啓蒙といふこの文化的範疇は、それが文化的であつて経済的範疇でも政治的範疇でもなかつただけに、さうした範疇を実際に際して用ゐる必要を感じなかつたドイツ古典哲学の内を特に選んで、発育と変遷と脱化とを経なければならぬ理由があつたのである。すでにその批判を通して啓蒙を脱却しようと企てた最初の思想家はカントだつたと云つたが、恰もその消息が、原則的な形としては、カントの理性批判=弁証法の見解となつて現はれる。

 カントの弁証法(それは理性の使用法の誤りから起る理性の各種の矛盾に就いての理論を意味する)は、彼の哲学組織に於て外見上消極的な否定的な役割をしか果してゐないが、それがフィヒテ、シェリングを通じて、ヘーゲルになると、論理そのものの根本的な積極的な本性に帰せられる処にまで展開される。夫をここで改めて述べる必要はないだらう。今ただ大切な点は、カントに於てやや曖昧であつた悟性と理性との区別又は対立が、ヘーゲルに至つて初めてハッキリしたといふことだ。ヘーゲルはカントの理性を、まだ依然として悟性の段階に止まるものと見て、之を形而上学乃至機械論の代表者と見立て、之に本当の理性のディアレクティクを対立させたが、恰も之は、カントが批判し脱却しようと力めた啓蒙主義の特有な合理主義、矛盾律中心主義に対する判然とした批判を意味してゐる。即ち歴史上の所謂啓蒙の第二規定の方は、ヘーゲルに至つて、初めて徹底的に止揚されたわけだ。

 論理的な機構だけを見てゐる限りこの結果のもつ具体的な意義は判りにくいが、実際はこの結果は、歴史に関する認識について所謂アウフクレールングが免れ得ない不吉な宿命と関係があるのである。少くともドイツ・アウフクレールングはその悟性の立脚点からして歴史の観念に注意を払ふことの尠ないのが特徴をなしてゐる。カントはドイツ風の歴史哲学の先駆者の一人であり、又宇宙進化論の創設者でさへあるが、それにも拘らずその歴史観即ち又社会観は、歴史に独特な所謂非合理性(普通さう呼ばれるが之は信用出来ない言葉だ)の意義を十分認めることが出来なかつた。ヘーゲルによると、之は悟性の形而上学の立場に立つからだ、といふことに帰着するのである。だから理性の弁証法の立場に立つヘーゲルは、全く歴史的だといふことになる。

 処が人も知る通り、ヘーゲルの歴史観自身が又、所謂歴史の非合理性の認識に於て根本的な致命的欠陥を暴露する。それはやや本筋を離れた横合ひから、後期のシェリングによつて指摘されたが、つまりヘーゲルの理性の弁証法による歴史、理念の発展が現実の歴史の必然性だといふ思想は、結局歴史の合理主義的観念化に過ぎなかつた。今や理性そのものが更に批判され脱却されねばならぬ。処がヘーゲルに於ける理性の特色は、何より先に自分自らを知るといふ理性の根源的な自律、自由にあつた。之はカントが啓蒙に就いて要求した、例の第一の規定そのものを、即ち文化的自由の観念を、単に最も哲学的に整頓して云ひ表はしたものに過ぎない。だから、ヘーゲルの理性の逆立ちが立て直され、夫が物質(哲学的範疇としての物質)によつて置きかへられる時、啓蒙期的啓蒙の例の第一規定から来る文化的自由主義の制限は、完全に踏み越えられることになる。そこに唯物論があつたのである。

 で、歴史上の所謂「啓蒙」の二つの規定から来る啓蒙の二つの制限(悟性の哲学と理性の哲学)(即ち形而上学と絶対的観念論)を踏み越えて、啓蒙といふものの本当に自由なそして本当に合理的な意義を、現在、歴史的に惹き出すなら、その内容は結局、弁証法的唯物論だつたといふことになる。――読者は或ひは、私が初めから啓蒙といふ名目の外見の下にただ一般的な哲学史を辿つて見せたに過ぎないのではないか、と云ふかも知れない。併しそれはさうではないので、かうすることによつてこそ初めて、今日必要な「啓蒙」といふものの最も合理的で一般的な現実の観念を歴史的に導き出せるわけだ。

 例へば今日必要であらう処の啓蒙を、漫然と表象するならば、恐らくリベラリズム(而も文化活動でのリベラリズムだから文化的自由主義)などが最初に思ひ浮びはしないかと思ふ。併しその機能上の問題は別として、少くとも今日の啓蒙と啓蒙の概念との機構内容から云ふ限り、リベラリズムでは啓蒙の規定としては、今日すでに間に合はないのである。そのことは今説明したばかりの点である。カントが曾て啓蒙を説明したやうなやり方――理性の自由な使用――では、吾々は今日自分自身をさへ啓蒙出来ない、さういふやうな時代に来てゐるといふのである。一体昨今「理性」程蒙昧なものはなく、「自由」程不自由なものはない。或る民族の歴史を認識するには他の諸民族には一つも判らないやうな自覚=理性が必要であるらしいし、国民の自由を伸展防衛するためには国民自身が極度に自由を奪はれねばならぬらしい。進歩的なフリートリヒ治下のプロイセンならば、理性を自由に使用することも出来たらう。反動下の今日では、理性を自由に使用すること自身が只では出来ないのだ。

 以上は啓蒙乃至啓蒙概念の内容機構に就いてであるが、その活動機能になると、即ち啓蒙は今日どういふ活動形態を取るべきかといふことになると、又新しい問題に這入る。元来啓蒙活動は少くとも一種の大衆化、常識化、ジャーナリズム活動、批判活動なわけだから、この活動形態はごく大切な問題でなくてはならぬ。別の機会に譲らう。

   二

 一、を補足するために、もう一遍之を反覆しよう。

 最近文壇ではロマンティシズムの叫び声が高い。之はリアリズムに対比してさう呼ばれてゐるのである。処がこの言葉によつて云ひ表はされる内容は科学的に云つて、決してまだ判然としたものではない。人によつては、ドイツ・ロマンティシズムの諸規定を以て之の輪郭を規定しようとする。なる程文学史乃至は広く文化史の上に於てロマンティシズムと呼ばれた運動を最も特徴的に代表するものはドイツ・ロマンティクであり、ここに於ては独り文学に限らず広く哲学、経済学にまでその運動が貫かれてゐる。そこで今日の日本の文学者達が考へたり云つたりしてゐる所謂ロマンティシズムをドイツ・ロマンティシズムの諸規定で規定することは、この歴史上の特定な運動と、現在の或る一定の、併しその規定を今現に模索しつつある処の運動とを、直接に接合させ又は混同することであつて、決して歴史的な見方ではあり得ない。と共に又、ロマンティシズムといふ言葉が少くとも一方に於て、或る特定の時期に於ける歴史的一運動の名であつたといふ処から、この言葉を現在に就いて使ふ時の使ひ方を、もつと慎重にしなければならないだらう。

 之と略同じことは啓蒙(アウフクレールング)といふ観念に就いても云はれるのである。一体啓蒙とは所謂啓蒙期(イギリス、ヨーロッパの十七八世紀)が有つてゐた一つの政治的又は文化的理想の名であつて、従つてそれは特定の歴史的な定型を有つた言葉なのである。現にアウフクレールングはクラシシズムとロマンティシズムとに対立した処の一つの文化理想であつた。現今はロマンティシズムをリアリズムといふ一つの創作方法に対比するのだが、歴史上のロマンティシズムは何よりも先にクラシシズムに対立したといふことを忘れることは、その際危険である。処でこの歴史的ロマンティシズム、そして又同じく歴史的なクラシシズム、に対立するものが歴史的な「啓蒙」運動の特色をなしてゐた。――処が現在吾々が啓蒙と云ふ場合、必ずしもさうした啓蒙期的啓蒙を意味するのでないことは云ふまでもない。現にアウフクレールングの時代は過ぎて文化史上ではクラシシズムやロマンティシズムがすぐその後に之に代はつたと考へられる。さうした過ぎ去つた意味では、啓蒙が今日吾々の社会の進歩的な課題になれないことは、云はなくても判つてゐる。今日必要な啓蒙は、云ふまでもなく例の歴史的な啓蒙期的「啓蒙」と全く別なものである筈はないが、それにも拘らず、之から区別された、もつと一般的な、或ひはもつと個別な、啓蒙でなくてはならぬ。

 歴史上のロマンティシズムと雖も、例へば無限への憧憬とか自我の世界的拡大とかいふ、すでにもはや歴史的一時期の特色にだけは限られない規定をそれから導き出せるし、同じくクラシシズムでも形相的な類型的な均斉と云つたやうな規定を抽出出来るが、それと同じに、啓蒙も亦、所謂啓蒙期的啓蒙から或る一般的なものとして抽出されることが出来る。それがすぐ様現下の必要な啓蒙の意味をなすとは限らないが、少くとも之を抜きにしては、之を手頼りにしなければ、必要な啓蒙問題の科学的な解決が望めないことは確かだ。

 福沢諭吉は日本が之まで産んだ所の最大な啓蒙家であつたといつてもいい。そして明治の前半は又文化史的に規定すれば云はば日本に於ける啓蒙期に相当するだらう。併しこの時期はヨーロッパに於てはすでに所謂啓蒙期が遠く過ぎ去つた時代なのである。だから日本の啓蒙期といふ観念も、福沢翁が啓蒙家だつたといふ意味も、すでに所謂「啓蒙」以上或ひは以外の何物かを意味してゐる。ではそれが、にも拘らずどういふ理由で依然啓蒙の名に価したか。少くとも啓蒙期的啓蒙の有つてゐる幾つかの主な規定がそこに反覆されてゐるからである。では一体今日必要と思はれる啓蒙は、どういふ規定を持つのか。福沢式或はアウフクレールング的啓蒙とどこまで同じでどこから違ふか、又違はねばならぬか、さういふ問題には今まであまり世間では答へてゐないのではないかと思ふ。否一体啓蒙といふ運動乃至観念さへが、どういふ意義によつて今日必要であるかに就いて、あまり世間では多く説いてゐないやうに見受けられる。

 私はすでに常識といふものを問題にして見たのであるが、常識はすでに今日の文壇などで多少は問題になつてゐる。処がこの常識といふ観念も亦一方に於て或る歴史的な特定な意味を有つてゐるので、所謂常識学派の「常識」を参照しないでは科学的に分析出来ないものなのだが、この常識学派なるもの自身が実は、もつと広く之を文化史的に云ひ表はせば、所謂アウフクレールング(特にイギリス啓蒙期)の哲学学派の一つに他ならない。だからこの関係から辿つて行つても、常識が問題になる処、必ず啓蒙も亦問題にならなければならぬ。フランスの行動主義文学者達などはすべてこの啓蒙といふ問題に相当実質的な関心を寄せてゐるのではないかと思ふ。――同じことは、もつと具体的にハッキリした場合を通じて、即ち唯物論の問題を通じて、今日のテーマとならざるを得ないやうに出来てゐる。すでにフランス唯物論はアウフクレールングの最も代表的な運動の形の一つであつた。啓蒙活動といふものを抜きにしてフランス唯物論を取り上げるならば、之ほど興味の乏しい意味の判り兼ねる思想はないかも知れない。この筋を辿つて行けば、今日唯物論が問題になる処、必ず又啓蒙が問題にならなければならぬだらう。――併し何もこのやうな思想史的文化史的な連関を辿らなくても、今日の唯物論にとつて啓蒙程重大な科学的使命はない、といふことは、何より直接に感得出来る筈のものだと思ふ。唯物論は学者達のただの学説ではない。それは真理でなくてはならぬ。と云ふのは、大衆が之を理解し身につけねばならぬ。科学乃至文化の大衆化、普及、教育等々の問題は実は啓蒙問題に帰着するのである。

 尤も今日の日本のやうな文化的バーバリズムが横行する時代でないとすれば、或ひは啓蒙といふ言葉も大して必要ではないかも知れない。処が今日では一切の文化がその合理性を、その自由を、その現実性(唯物論性)を、失はせられようとしてゐる。処で後に見るやうに、この合理性や自由や唯物論性こそ、啓蒙なるものの特徴の内に横たはらねばならぬものだつた。

 私は啓蒙の問題を多少詳細に考へて見たいと思つてゐるのだが、夫は別に機会を得た上でなくては出来ぬ。今はただごく簡単にこの問題のスケッチをするに止めよう。

 所謂啓蒙期に於ける啓蒙活動は、オランダとイングランドとから起きたと考へられる。尤もその前駆的段階はルネサンスと宗教改革との内に横たはつてゐたと云はれるのであるが、本来の啓蒙期は十七世紀、特にイギリスのジョン・ロックに始まると見られる(実を云へばアウフクレールングの理想に含まれる観念の内にはフランシス・ベーコンにまで遡るものを見出すのだが)。ロックの所謂政治的リベラリズム、之はH・ラスキ等の表現を借りれば、経済的リベラリズムに基くものだが、この自由主義は云ふまでもなく個人の行動の自由に集中される。経済的、政治的、道徳的自由、行動と意志との個人的自由が、ロックによつて初めて強調されたことはよく知られてゐる処である。之が当時の封建的残存物、絶対王権、カトリック教権の打倒を要求した近代ブルジョアジーの最も代表的な政治的イデオロギーであつたことは云ふまでもないが、今必要なのは特に、このイデオロギーがロックの手によつて個人の知的自由、理性乃至悟性の自由といふものによつて根柢を与へられたといふ点なのである。彼の『人間悟性論』は単に観念が経験から生み出されるといふ経験論を主張するだけではなく、同時に悟性こそが人間の、即ち又個人の、核心をなすものだといふ想定に立脚してゐるのである。彼はそこでこの悟性=理性の内に、個人の政治的自由の根拠を見出さうとする。なぜなら個人の悟性こそ自由でなければならないからだ。悟性の自由をおいて他に何等の権威も、根本的に云ふと、あり得ないと考へられる。

 ロックに於て、一つに結びつけられてゐるこの悟性(乃至理性)と個人的自由こそ、アウフクレールングのまづ第一の規定となる。この規定に沿うて、イギリスの宗教哲学も亦、理神論(理性宗教)の形を取るし(そしてここから一種の唯物論者――トーランドなども出て来る)、やがてはヒュームの人間性論の課題も掲げられるのである。スコットランドの常識学派も亦、この悟性の健全さに認識の客観性の根拠を求めた。イギリスのモーラル・サイエンスがこの一貫した人間悟性の線に沿うて展開したことは有名である。フランスに於てはヴォルテールも亦理性の健全さを認識の根拠に数へてゐる。ただし彼によつては個人的自由は却つてこの健全な人間理性によつて否定されるべきものではあるのだが。

 ドイツの啓蒙期哲学に於ては、この悟性と自由との関係が特別な形で正面に押し出された。その最も代表的なものはカントに於ける啓蒙的な部分であつて、一方に於て悟性と理性との区別が用意されることによつて、この二つのものの外面的な制限と、同時に又この二つのものの内面的な自由(自律)とが、初めて体系的に浮き出して来る。啓蒙とはカントにとつては理性の自律に他ならない。彼はだから「啓蒙とは何ぞやに答へる」の論文で(この問題はモーゼス・メンデルスゾーンも亦取り上げてゐたさうだが)、それは「人間が自業自得の未成年から卒業することだ」といふ有名な定義を下してゐる。自業自得といふのは理性的な人間が自分自身に就いて責任を有つこと、即ち彼の悟性が自由であることを想定して初めて意味のあることだ。カントは「人間が自分自身の悟性を言論に於て又文章に於て公的に自由に駆使する企て、さうした決心と勇気とがアウフクレールングだ」と云つてゐる。

 だがこの悟性乃至理性とそれの自由乃至自律とが、それだけでアウフクレールングの規定として決して充分でないことは、一方理性が単に世界を解釈する精神となつたり、他方自由が意志の自由や人間の神に対比しての宗教的自由などになつて行く経過を注意すればすぐ判ることで、一方アウフクレールングの悟性乃至理性はあくまで一種の合理主義のものでなければならず、他方アウフクレールングの自由はあくまで政治的自由であることを失つてはならぬ。で、ここからアウフクレールングの二つの規定が更に導き出される。一つは合理主義、もう一つは政治的変革の理想。

 啓蒙期的合理主義はドイツ・アウフクレールングの特徴をなしてゐる。その代表的なものはクリスチャン・ヴォルフであるが、彼はライプニツの思想の一半である所謂合理主義を徹底し、そして又之を合理化した。と云ふのは、ヴォルフは、一方に於てはライプニツの事実真理の問題(それが歴史の問題の原理として役立つ)を殆んど無視して、その永久真理の問題を哲学の中心に齎らしたと共に、他方に於て、かうした永久真理的哲学を組織立てて学校式に整備した点に於て、之を合理化したのであつた。――フランス啓蒙運動の代表者ヴォルテールは「歴史哲学」といふ言葉を造つた人だとも云はれてゐる通り、ヘルダーからカントに至る、そして更に唯物史観にさへ至る種類の科学的歴史観の先駆者の一人であるが、ヴォルフに於ては歴史の問題は歴史の問題として殆んど全く忘れられる。彼は形式論理学的矛盾律(夫は同時に同一律をも意味する)を唯一のオルガノンとする処の機械論(即ち形式論理主義的悟性主義)を徹底するのである。

 機械論の徹底は決してヴォルフ乃至ドイツ・アウフクレールングだけの特色ではない。それは広く啓蒙期イギリス、ヨーロッパの国際的な論理であつて、この論理に実質的な地盤を提供した代表者はニュートンであつた。なる程彼の立場はライプニツの場合と同じく、デカルトの機械論に対比して云へばダイナミズムであつて、ただの機械論ではない。そのことは、彼の微分の観念が之を物語つてゐる。にも拘らず、広義のメヘヤニスムスを脱してゐない。ニュートンは当時の国際的な技術水準を理論的に体現した人物であつて、当時の主としてイングランドの生産力の学者的表現に他ならないのだが、ニュートンに対する関心は、広くフランス啓蒙家達に共通なものであつた。例へばフォントネル、モペルテュイ、ヴォルテール等がさうだが、この点無論ドイツ啓蒙家と雖も変りがない。オイラー、ランベルト、カント等が如何に問題の多くをニュートンに負うてゐるかを注目すれば足りるだらう。カントが第一批判で問題にした半ばの課題は、ニュートン物理学の客観性を哲学的に解明し又批判することであつた。カントになればニュートンの批判なのであるから、それだけ機械論(=形式論理)の批判を含むわけだが(ニュートン批判はゲーテやヘーゲルになつて著しくなる)、従つてそれだけニュートン主義はアウフクレールングの特色を示すことになる。この啓蒙的合理主義はヴォルフの無矛盾律原理に於て典型的に現はれる。

 処でヴォルフは、この啓蒙哲学を初めて体系的に講壇的に整備した点に於ても、有名な合理主義者であつた。彼によつて或ひは少なくとも彼の学派によつて、今日のドイツ講壇哲学の用語と通念の多くが確定されたのであり、云ふまでもなくカントは直接にヴォルフ哲学からその用語と問題との示唆を得てゐる(例へばオントロギーといふ言葉はヴォルフによつて決定されたのだし、フェノメノロギーといふ言葉はランベルトの認識論に於て初めて使はれたやうに思はれる。ランベルトはヴォルフ学派の有力者である)。

 併し啓蒙哲学がかうして講壇哲学として整備されたといふことは、何か喰ひ違つてゐるやうに見えるかも知れないが、実はこの科学的厳密さはアウフクレールングの哲学に於てはヴォルフ学派を殆んど唯一の例外とするのである。ただそれが例外的に厳密科学的な思想体系であつたにも拘らず、恐らくドイツ的に後れた生産機構のおかげで、従つて政治的自由や理性乃至悟性の政治的実践への活用から絶縁して専ら講壇化された結果であらう、ヴォルフの厳密哲学は遂に折衷哲学を出なかつた。その結果、ドイツではこの哲学が悪く通俗化されて所謂「通俗哲学」を産むに至つたのである。ここにドイツ啓蒙主義の俗悪な一面が露出したと云はざるを得ない。併し例へばフランス啓蒙主義に於ては、一方に於てこの運動の国際的連帯(丁度フランスの諸革命がさうだつたやうに)にも拘らず、同時に国語乃至俗語の自由な駆使によつて言葉通り啓蒙的な役割が果されてゐることを忘れてはならぬ。多くのフランス啓蒙家(その内には沢山の唯物論者や又所謂フランス・イデオローグをも含む)は単に哲学的な著述家であるばかりではなく、文学的、演劇的、作家であり批評家、評論家であつた。彼等は決して折衷家ではなかつたにも拘らず、云はばエンサイクロペディストだつたのである。当時のフランスは評論雑誌と書斎とサロンとの時代であつた。フランスの所謂「アンシークロペディー」と并(なら)んで、之を改版した模造百科辞典が少なからず造られた時代であつたのである。

 さて最後に、啓蒙主義の自由の規定から来る社会変革の問題が残つてゐる。云ふまでもなくフランスに於ては啓蒙運動のこの中心的な目的は一応立派に実現された。否、本当をいふと、フランス的啓蒙主義の自由の観念は、それは平等や友愛と並ぶが、フランス革命のイデオロギーが啓蒙主義の思想体系に織り込まれたものに他ならなかつた。フランスの啓蒙主義は全く政治的な実質を具へてゐたと云はねばならぬ。之に反してドイツ・アウフクレールングは、一般に、人間を理性によつて教育する理想だと云はれるやうに、単に文化的な文人的な理想にまで落される。ドイツの啓蒙主義は全く単なる文化史上の一エポックをしか意味しない。それは単に文化史上のクラシシズムやロマンティシズムの先行期に他ならぬ。カントはこの点を非常にハッキリと云ひ現はしてゐる。啓蒙とは悟性の公共的な使用のことであつて、悟性の私的使用のことではない。私的とここに云ふのは、例へば官吏が官吏として命を奉じて行なふブルジョア市民的な世俗的行動のことであるが、啓蒙は之に反して専ら「公衆」即ち「読者層」を対手にして、その意味に於て公共的に文書を通じて、学者として振舞ふことだといふのである。ここにのみ人性の進歩が齎らされるのであつて、革命を通じてではなく「徐々に」変革が行なはれるやうになるだらうと云ふのである。カントは「啓蒙時代(啓蒙された時代ではなく啓蒙して行く時代)はフリートリヒの世紀」だと結んでゐる。

 啓蒙として最も特色のあるのはフランスのものとドイツのものだが、その二つの間に之だけの相違がある。にも拘らず両者共通なものはその機械論(メカニズム)だといふことが、今まで云つて来たことで結論されるだらうと思ふ。明らかに之は歴史の一時期としての啓蒙期に於ける啓蒙の特色であつた。その後の世界の政治的文化的発展は、この啓蒙期的機械論を如何にして脱却するかの工夫だつたとも云ふことが出来るが、それがディアレクティーク(実は唯物論)にまで行かなければ脱却出来ないことは、歴史的にも論理的にも、今日では証明済みの事柄だらう。――で、今日必要な啓蒙は、云はば弁証法的啓蒙でなければならぬだらう。弁証法によつて初めて又、折衷や通俗哲学に堕さない科学的な文化総合の目的も、確実に保証され得るだらう。かうした文化総合のない処では、どのやうな啓蒙も大衆化も、まして政治的な活動も、根のない草と択ぶ処はあるまい。ここで初めて新しい時代のエンサイクロペディストといふものの意味も内容を得るだらう。

 エンサイクロペディストと唯物論者とがフランス啓蒙期に於て一つであつたといふ関係は、今日でも少しも変らないだらう。ただその唯物論が、機械論を脱却したといふ現在の論理学的条件が、今日の啓蒙の新しい内容を決定するのである。本当の合理性と自由とがここで初めて実際的な問題になれるのだ。



第五 文化の科学的批判
      ――特に国粋主義の批判のためのプラン


 具体的な現実物が、夫々自分の特殊性乃至独自性を持つてゐることは当り前である。日本といふ国家、民族、人類(?)が経済上、政治上、文化上、世界の他の諸国家、諸民族、諸人種に対して、又世界の総体に対して、特殊性乃至独自性を持つてゐることは、当り前である。便宜上この特殊性乃至独自性を、日本的現実と呼ぶことにしよう。――尤も日本的現実と云へば、すぐ様亜細亜的現実とか東洋的現実とかいふものが連関して来るが、この連関に就いては別の機会にする。

 例へば雑誌『思想』(一九三四年五月)は「日本精神」の特集号を出した。之は恐らく今云つた「日本的現実」を主題とした特集といふ意味だらう。併しこの日本的現実がなぜ特に日本「精神」でなければならないのか。――もし精神といふのがエッセンス乃至本質といふ意味ならば別に問題はないかも知れない。その場合にはその事物を活かしその事物に生命を与へてゐるものが、何によらず精神と呼ばれるわけだから、精神は生命といふ程度の意味で「キリスト教の精神(ジェニー)」とか「ギリシア精神」とか「資本主義の精神」とかと云はれてゐる。だがこの際にすでに疑問なのは、事物のエッセンス乃至本質を習慣的に精神と命名することによつて、いつの間にか知らず知らずに、精神主義を混入させてはゐないかといふことだ。単に文飾の上でならいいが文飾から論理にまでこの精神といふ言葉を本気になつて持ち込めば、それはすでに精神主義の論理となる。事物の本質は精神だといふ哲学的観念論になるのである。

 所謂「キリスト教」としてのキリスト教は元来精神的なものといふことになつてゐるのだから、その本質が精神(ジェニー)だといふのはまだいいかも知れないが、すでに「ギリシア精神(ジェニー)」といふやうなものになると、大分特別な哲学的仮定を暗示してゐる。ギリシアに於ける奴隷制度も亦、かかるギリシア「精神」の一部分に属さなくてはならなくなるが、それで果して構はないだらうか。資本主義の精神がM・ヴェーバーに於てのやうにカルヴァン主義などであるなら、資本主義はプロテスタントの信仰から生じた所産にされて了ふかも知れない。で、ここまで来れば「精神」といふ命名法も決して容易ならぬ意義を持つてゐることが判るだらう。

 日本的現実を特に日本精神と呼ぶことは、即ち日本的現実を特に日本精神といふものにまで抽象することは、日本に関して私かに精神主義を混入してゐることの症状と見ることが出来る。この雑誌の特集号は諸文化領域に於ける「日本的なるもの」の検出をねらつてゐるらしいので、問題は一般に経済的又政治的な領域ではないのだから、この日本的なるものが特に日本精神と呼ばれるのも一応いいかも知れないが、併しそれならば特に之が所謂日本精神主義の立場に立つのでない所以を、即ち日本精神主義のハッキリした批判を、強調しないと、「日本精神」といふ命名自身の意味が甚だ疑はしいものとなるだらう。処が日本的なるもの乃至日本精神の検出に参じ、又は単に日本の特殊事情に関する限りの論文は沢山載つてゐるにも拘らず、日本精神主義乃至之に通じる諸日本主義の批判は、殆んど、平野義太郎氏の「明治中期における国粋主義の台頭、その社会的意義」の一篇だけと云つてもいい。――日本的なものを問題にしながら、或ひは日本精神を問題にしながら、日本精神主義の方はあまり問題にならないといふこの態度は、その態度自身に日本精神主義が知らず知らず混入してゐることの有力な症状である。 ――日本の代表的な思想雑誌の一つに於けるこの一例は意味の深いものだ。

 尤も日本的なものの検出、日本の特殊事情の強調、と云つても二つの全く相反した動機と興味とから問題になることが出来るわけで、日本的なものに特殊な興味を示すことが、それだけでは決して保守的でも反動的でもなく、却つて具体的に進歩的であることを意味すべき場合があるのはあまりに判りきつたことだらう。だがさうだからと云つて、自分の動機を識別することなしに単純に、日本的なものに特殊な力点を置くといふことが、保守的でも反動的でもなく却つてザハリッヒで忠実な研究態度又は認識態度だ、といふことにならぬ。

 「日本的なるもの」が、他のものの説明原理として担ぎ上げられる場合と、夫が他の諸原理によつて説明されるべき具体的課題として提出される場合とでは、条件は全く相反してゐるのである。各種の「アジア的現実」主義者や、一国社会主義者達から始めて、メートル法強制反対派の論拠に至るまで、この日本的なるものが、説明されるべき具体的事実としてではなく、それを以て説明を始めるべき抽象的原理として、意識されてゐる。国際的なものの具体的な一環としての日本的なものではなくて、国際的なものに先行する抽象的な対立物としての日本的なものが、ここでは原理となつてゐるのである。――日本的なるものの強調が、保守的乃至反動的であるか、それとも具体的に進歩的であるのかは、夫が国際的なものとどういふ関係に置かれてゐるかを見ることによつて一般的に判別出来る。この点が大事な点なのだ。

 日本的現実を以て、国際的現実から孤立独立した一つの所与と見做し、さうすることによつて之を一つの原理にまで抽象昇華させるものが、今日の最も代表的な社会ファシスト乃至転向ファシストの論理上のトリックであるなら、この日本的現実の実体を日本精神にまで抽象して見せるものが国粋ファシストの共通な手法である。今日の日本国粋ファシスト哲学は、まづ第一に「日本精神主義」に帰着するのである。だから私は例へば例の『思想』の特集号の内容と表題とを社会ファシストや国粋ファシストとの連想に於て、気にしたわけである。
 日本の所謂ファシズムがその原理と名乗る処の「日本的現実」乃至「日本精神」は併し、まだ系統的に批判されてゐない。だが之は今日の理論家の最も切実な課題の代表的なものなのである。私は暇を得てその一部分だけでも手をつけて見たいと思ふのだが(六、参照)、いまはその心掛けの一端として、一般にかうしたイデオロギー現象の批判方法の要点だけを簡単に定式化しておきたいと考へる。

 所謂内在的又内部的批判が批判にならないことは云ふまでもあるまい。例へば文芸作品に就いて云つても、作家の主観的な(之は往々主体的といふ言葉でゴマ化されるが)内部的イデーを穿鑿するに止まるならば、恐らく同情や反感、理解や注文、にはなつても批判にはならぬ。ましてそのイデーを表現する技法の説明に至つては、「作家」の楽屋にぞくする問題であつて一般観客の前面に押し出すべき代物ではないのである。批評はこの意味でそれが客観的であり科学的であるためには、元来外部的なものだと考へる必要さへあるのだ。

 処で客観的批評や科学的批評といふとすぐ様人々は社会的批評に思ひ当る。ミリュー理論的批評が社会学的批判としてもすでに不充分なことは今日では誰にも徹底してゐるが、社会的批判(実は社会学的批判)になると、まだ仲々信用があるのである。フリーチェの芸術社会学やカルバートンの社会学的批評などがこの例で、今日でも大いに教へる処のあるのは疑へない事実であらう。それから社会と云へば無論歴史社会なのだから、特に社会から歴史を捨象して了ふ特別な立場に立たない限り、社会的(社会学的)批判は同時に、一応の意味に於ける歴史的乃至歴史学的批判を含むと考へてもいい。この歴史的観点が独得の形で発達したものの例は、ディルタイの解釈学的な批評方法だらう。だが「社会学」的批判や「解釈学」的批判は、それがイデオロギー理論とどれ程共通なもの又は接近したものを持つてゐるとしても、結局イデオロギー理論――社会科学的文化理論――ではない。吾々はイデオロギー理論の観点に立つて、即ち文化をイデオロギーとして社会科学的に批判する立場に立つて、今云つた内部的批評と外部的批評とを改めて対峙させて見る必要がある。

 予め明らかなことは、内部的といふ形容詞が本質的といふ意味を云ひ表はさねばならぬ限りは、批評も亦内部的批評でなければならぬことだ。従つて、所謂外部的(外面的、皮相的)批評も、この内部的批評と何かの仕方で必然的に結合統一されることによつて、初めて批評となることが出来るわけである。だからつまり、内部的なものと外部的なものとが統一される処に社会科学的批判の機能がある筈だ、と一応云ふことが出来る。だが、この関係は具体的に分析すると、決してさう簡単に判り切つたことではないのだ。

 社会科学はイデオロギー内容を歴史的社会的に分析する。即ち現在存在しつつあるイデオロギー現象が少くとも現在の如何なる生産関係によつて制約され又対応せしめられてゐるか、更に之が少くとも現在の如何なる法制的政治的与件を通つて制約せしめられてゐるかが、まづ第一に分析される。帝国主義化した独占資本による社会支配が、階級的必要によつて生じた絶対主義を媒介することによつて、又更に封建的残滓を基底として急速に萌(きざ)された資本主義乃至それの高度化された段階を表現する各種の立法、行政、司法とを通路として、今日の日本の国粋ファシズムと又夫に相応する社会ファシズムとが成立してゐるといふ次第である。

 処で第二に、無論現在のかかる生産関係の事情、法制関係、政治事情は、夫々に於て又相互の連関に於て、過去からの歴史的な継起と発展との連鎖を引きずつてゐる。現在のかうした経済的政治的条件は、過去の歴史的なものの結論を総括することによつて、本当に機能的になつてゐるわけだから、ファシズムならファシズムといふイデオロギーがかうして物質的又社会的な客観情勢によつて制約され又之に対応せしめられるといふことは、さうした客観的情勢の歴史的な運動の機構によつて発展せしめられたといふ、因果的な「制約」や「対応」を説明してゐなくてはならぬことは当然だ。だからこの際イデオロギーは、この客観的情勢の運動機構によつて、その歴史的発生とその歴史的推移とを説明されるのである。イデオロギー理論の機能はこの限り、その発生と推移との説明の内に存する。――この説明を通じて初めてイデオロギーはその特色づけをも受け取ることが出来るのであつて、そのイデオロギーが現在に於て、或ひは他の時代に於て、どの程度に有力であるかあつたか又あるだらうか、とか、今日のそのイデオロギーが過去の或る時期の夫に対してどのやうな対比と区別とをなしてゐるかといふ特徴づけが、ここで初めて行はれる。――そして更にこの特徴づけを通じて現在に於けるイデオロギーの内容と現勢とが一見殆んど最後的に説明されるのである(例へば平野義太郎氏の自由主義に対する又国粋主義に対する説明――『日本資本主義社会の機構』などがこの場合の「説明」の好模範だと考へる)。

 だが、イデオロギーの発生と発展との説明や特徴づけは、つまる処事物の説明であつてまだ事物の批判ではない。無論「説明」を遂行して行く間には、自然と批判又は批判的観点が這入つて来たり想定されたりしなければならないのではあるが、この「説明」の内には「批判」が意識化された範型を得てゐるとはまだ云ふことが出来ない。要するにこの説明の段階に於ては、高々イデオロギーの内部的内容――批判の対象はここにあるのだ――が外部的な歴史的社会の客観情勢に対応せしめられるだけであつて、この外部的なものとイデオロギーの内部的内容とがイデオロギー的具体性を以て結合されるには至らない。つまり之では、単なる外部的批判に過ぎなかつたわけである。

 任意の或るイデオロギー(一定の思想、理論、主張)が、どういふ社会的機構分子と、どういふ歴史的必然関係とに、原因し制約され対応するにしても、そのイデオロギー内容が広く承認されてゐるかどうかとか、流行るか流行らないかとか、更にまたどの程度の真実性、真理を持つてゐるかとか、本当か嘘かとかいふ点になると、即ちさうしたイデオロギー内容の通用性、信用度、説得力、納得可能性の問題になると、以上の発生の説明の段階に止まる限り解決出来ない。現実乃至真実の客観的構造を如何に――歪めて或ひは相当正しく――反映するかといふ論理学的乃至認識論的な内部的説明になると、以上のやうな単なる歴史的社会的発生の「外部的」説明では、与へられない。

 この歴史的社会的発生(制約と対応とに於ける因果関係)の説明に止まつて、之を意識して計画的に、今云つた論理学的乃至認識論的な説明にまで結びつけない限り、それはまだ何等の唯物史観でも社会科学でもないので、知識社会学や文化社会学といふやうなブルジョア「社会学」の原則に止まつてゐるに他ならない。どんなにそれが「階級的」観念を強調しようとも、原則上の欠陥を蔽ふことは出来ない。――イデオロギーの批判の問題はこの外部的なものの帰結としてこの内部的なものを如何に取り上げるかにかかつてゐる。この問題が解けなければイデオロギーの批判にならぬばかりではなくて又その十分な説明にもならないのだが、併し又歪曲や誤謬の指摘だけでは批判としても不十分なのであつて、同時にその歪曲や誤謬の発生の説明を与へ得るのでなければ本当の批判にもならぬ、といふ点も同様に大切だ。説明(外部的)と批判(内部的)とは夫々の要求から云つて、両者の交互関係に於て初めて自分を満足させることが出来る。

 この交互関係を具体的に意識してゐないと、なぜ存在の必然性から価値の通用性が出て来ることが出来るか、などといふカント主義的な愚問を真面目に提出されるわけで、哲学のレーニン的段階として有名な論理と歴史の原則的な交渉は、当然イデオロギー――之はどれでも「論理」を有つてゐるものだ――の「批判」にもそのまま適用されねばならない筈だ。デボーリン主義に於ける方法論主義の欠陥は云ふまでもなく承認されねばならないが、さうした方法論主義的誤謬が発生したのは、イデオロギーの論理学的「批判」の課題にせき立てられたことを動機としてゐるわけであつて、デボーリン主義の否定によつて、デボーリン主義的方法論主義へまで道を誤つた「批判」といふ課題自身の意義を没し去つてはならぬ。論理学や認識論は、吾々が現に眼の前に見てゐるイデオロギーに対する科学的批判の武器として役立つ処に、その実践的な意義があるのだ。かうした「批判」と「論理学」との直接不離の関係はレーニンの『唯物論と経験批判論』で模範的に見て取れるのであつて、所謂党派性の問題も之に中心を置くのでなければ、匍匐的にしか把握されないだらう。

 (念のために云つておくが、ここで云ふ「論理」を科学にだけ限られたものと考へてはならぬ。芸術的であらうと倫理的であらうと、凡そ文化価値的なものが一般的に論理的なのである)。

 さてイデオロギーの客観的与件による制約、対応の「説明」を進めて行くと、それはおのづからそのイデオロギーの論理的真偽の問題に関する「批判」へ這入つて行くのである。

 まづイデオロギーがイデオロギーである所以として、時代的な、階級的な、セクト的な、又個人的な生活利害によつて、そのイデオロギーの真理対虚偽の関係が編成されてゐることが発見される。人間生活に於ける一定共通の生活利害を代表するものとして、歴史的社会的諸構造分子(階級、身分、国家、地方性等々)が分析されるが、かうした歴史社会的諸構造分子の各々の立脚点から、歴史的社会全体の、又は客観的自然の、「客観的現実」が、主体的に(主体の能動的実践を媒介として)又主観的に部分的に、反映、模写される。その反映、模写され方に於ける制限と歪曲性(鏡で云へば面積乃至対物距離とその凸凹率)が、イデオロギーの「批判」されるべきイデオロギー性に他ならない。

 実は之は、歴史的社会全体に於ける、又客観的自然に対する、歴史的社会的構成分子の各個部分が占める、云はば客観的な存在上の構造関係が、そのままで論理学的な「イデオロギー性」に映つてゐるわけで、一定のイデオロギーの歴史社会的な発生、制約、対応の関係が、そのままそのイデオロギーの論理的イデオロギー性、即ち真理対虚偽の編成となつてゐるのである。ここから判るやうに、「説明」がやがて「批判」に移行するのである。蓋しこの段階では、誤謬の発生とそれが誤謬たる所以とが説明され得る。之はただの因果的な説明ではなくて、すでに論理的な説明なのである。――だがまだ論理的な論証ではない。

 イデオロギーが客観的現実による被制約者、対応物、因果的所産であるばかりではなく、そのことによつて更に又、夫の反映物、模写物であることを今強調したわけだが、この被制約物で且つ反映物である処のイデオロギーは、今云つた客観的現実とは一応独立な自分自身の発展法則を含んでゐる。この独自の発展法則によつて、イデオロギー現象自身とその論理的機能自身とが、再び一部分の客観的現実の内容となつて、所謂客観的現実の客観的運動法則に参画するのである。で、イデオロギーのイデオロギーとしてのこの独自の運動法則を云ひ表はす論理的な歴史社会的必然性(普通にはやや不充分であるが系譜と呼ばれてゐる)が今度は問題だ。ここではイデオロギーのイデオロギー性(誤謬関係)の発生と根拠との説明ばかりではなく、そのイデオロギーのイデオロギー的諸特徴を系譜的に淵源交錯させることによつて、この説明を論理学的に要約しコンデンスすることが出来る。かうやつて論理学的にコンデンスされ要約されたものの極致が論証といふものだが(論理とは事物を要約しコンデンスし又節約する処の機能だ。論理の一般性、普遍性はそのために必要なのである)、ここではこの論証が純粋の論証の形を取らずになほ歴史的社会的(系譜学的)な説明の形で与へられる。現代に於ける諸イデオロギーの誤謬乃至真実は、古典的な誤謬乃至真実にまで淵源せしめられ、この系譜的説明によつて間接にその誤謬乃至真実の誤謬乃至真実たる所以、イデオロギー性、が論証される。「古典」はイデオロギーの問題に於て、このやうな役割を有つてゐる。例へばマルクス・エンゲルス・レーニン等々からの引用も、一切この古典の意味に於てしか許されないのである(二、参照)。

 「外部的」批判から出発して到達する最も「内部的」な批判は、イデオロギーの内容の論証に関はる。之は或る一定のイデオロギーの論理的根拠に対する反駁や論拠の提出のことであるが、この際今まで述べて来た批判の三つの段階に相当する三つの相が区別される。即ち、第一には、現実の事実と主張された事実との対質(客観的現実とイデオロギーとの対応、制約の関係に相当する)、第二には、現実とそれに対応する論理的体系との対比による体系の批判(之は客観的現実の反映物、模写物としてのイデオロギー性の説明に相当する)、第三には、範疇使用方法の批判(之は系譜的説明の形で与へられた間接論証に相当する)。かうやつて一定のイデオロギーのイデオロギー性、真偽関係が、第三者(社会の大衆、身方及び中立者)と論敵とに対して、論理的説得を与へられる。之が論証としての内部的批判である。

 だが前にも云つたやうに、単なる論証としての論証と云つたやうな、全く「内部的」な批判は、事実上決して十分な論理的論証力と説得力を有つことが出来ない。必要なのはこの内部的な批判が、外部的な批判(イデオロギー発生の説明、イデオロギー性発生の説明、イデオロギー性の系譜的論証)の総決算として初めて現はれたものでなければならぬといふ点だ。事実、誤謬を指摘し、誤謬である所以を論証しても、その誤謬が何故生じなければならなかつたかの「説明」をつけ加へない限り、説明力も納得力もないのであつて、同情の無い批判は、決して痛い批判ではあり得ない。この意味に於て最も具体的な批判こそ、初めて最も実際的な効果があるわけで、かうして初めて批判されるべきものが、事実上批判し去られることになるのである。批判の課題はいつでも、誤謬に満ち充ちたものが、なぜ広く通用してゐるか、といふ形で出て来る。この矛盾を実地に解消するには、ただの「説明」でもただの「批判」でも役に立たない。説明を批判にまで展開し、それから批判を説明にまで跡づけなければ、批判にも説明にもならない。

 この社会科学的(歴史的―社会的―論理的)批判の工作に際しては、多分の人間知乃至心理学が必要であることは見落してはならぬ点である。元来批判には客観の現実に由来するユーモアやアイロニーがどうしても必要になつて来る。これ等のものは云はば弁証法の文学的把握だからだ。マルクスの特有な表現技術は、批判の方法の上から云つても大きい意味を有つてゐる。それに、内部的には批判に耐へないやうな論理的にナンセンスなものが、外部的に云へば批判の大きな対象だといふのが、事実上の皮肉な多くの現象だらう。意味を有つてゐるが故に批判されるべきものばかりではなく、意味がないが故に批判されるべきものが寧ろ多いのである。現代に於ける各種のファシズム・イデオロギー乃至反動イデオロギーがその好い例であるが、ここでも内部と外部とを貫いた批判が益々必要である所以が明らかだらうと思ふ。

 最後に、特に国粋主義イデオロギーの批判に就いて、一つの注意を書き加へておかねばならぬ。すでに今、範疇使用方法の最後の段階として、挙げておいたが、日本主義的イデオロギーの批判に於ては、特にこの段階が重大な役割と意義とを有つてゐる。なぜなら日本主義的イデオロギー程、範疇論的に云つて薄弱な観念体系はないからである。薄弱な点の第一は、日本主義が好んで用ゐる諸範疇(日本、国民、民族精神、農業、神ながらの道、神、天皇、その他都合の良い一切のものの雑然)が、一見日本大衆の日常生活に直接結び付いてゐるやうに見えて、実は何等日常の実際生活と親和、類縁関係がない、といふことだ。農産物や養蚕や家畜は人為淘汰に関する農業技術を抜きにしてはそれ自身不可能な存在だし、又工業技術を離れて今日の農村生活を生活することは出来ない。産業技術を抜きにして産業生活が不可能なことを知らない者はない筈だ。処が例へば日本型の農本主義者は殆んど凡て農本主義的反技術主義のイデオローグなのである。日本精神主義や亜細亜主義の使徒達も、反技術主義に於ては完全に一致してゐる。実際行動の連関から云へばとに角、少くともイデオロギーの上から云へば、反技術主義は反唯物論の旗の下に、全世界のファッショ的反動の共同動作となつて現はれてゐるのである。

 この反技術主義が、凡そ実際の技術的生活とは全く離れた反技術主義的範疇を選ばせるのであつて、ファシズムの哲学が永久に単なる観念物としてのイデオロギーを出でない所以であり、又日本主義的イデオロギーが単なる文学的フラーゼオロギーに止まつてゐる所以でもある。

 だがこの反技術主義は何も国粋主義乃至広義のファシズムのイデオロギーには限らない。今日の多かれ少なかれファッショ化した資本主義的乃至半封建的ブルジョア哲学の共通の最後の切札が之だ。――日本の国粋主義イデオロギーの範疇使用法に於ける弱点は、寧ろその古代主義(Archaismus)とでも云ふべきものの内に横たはる。国粋的な体系を建設するためには、現代の国際的な(普通外来欧米思想と呼ばれる)範疇では都合が悪いので、わざわざ古代的範疇が持ち出される。国学的範疇や絶対主義的範疇が之である。処がこの古代主義は往々脱線して凡そ国粋とは関係の遠い云はば国粋的外来思想への復帰をさへ結果する。漢学的、支那仏教的、原始仏教―バラモン的範疇をさへかつぎ出さうとするのである。

 かうした範疇上の古代主義の特徴は、その好む古代的範疇が、今日の実際生活に於て使用される範疇と、何等論理上の共軛関係、翻訳可能の関係に立つてゐないといふことだ。もうすでに老い込んで了つて、単に文献学的にしか意味を有つてゐない範疇のために、目抜きの大道で示威的な芸当をやらうといふのである。世界史的にも国際的にも兌換不能な紙幣を以て強力的に取引きをさせようといふのである。――かうした弱点は範疇論的に批判され得る又されねばならぬ部分をなすのである。

 例へば、今日実際多くの文献的研究が往々かうした範疇の古代主義に結びつく点を注意すべきである。仏教や儒教や国学は大いに文献学的に研究される必要があるだらう。それは丁度文芸は一般に文芸復興されねばならぬと一対である。だが、仏教的哲学概論や儒教的倫理学や国学的法律学がそれから出て来るとすれば、それは文献学の分を超えたものと云はねばならぬ。――尤も所謂解釈学(之は文献学を野心的に命名したものなのだ)によると、文献学的な範疇と現実的な範疇との論理学上の区別は、奇麗にどこへか解釈し去られて了ふのであるが。

 文化の科学的批判は、大体右のやうなプランに従つて遂行されるべきだらう。尤もかうした組織的批判は決してさう容易に実行出来るものとは考へられないので、その一部分の遂行だけでも決して無益ではない。一部分だけでも科学的になれば、あとは常識といふものが不完全ながらも一応相当甘くやつて行けるかも知れない。この点に於ても、これは吾々のごく実際的なプランである。


第六 ニッポン・イデオロギー
     ――日本精神主義、日本農本主義、日本アジア主義


   一

 日本主義、東洋主義乃至アジア主義、其他々々と呼ばれる取り止めのない一つの感情のやうなものが、現在の日本の生活を支配してゐるやうに見える。そしてこの感情によつて裏づけられてゐる社会行動は至る処吾々の眼に余つてゐる。而もさうした種類の社会行動は何か極めて意味の重大なものであるかのやうに、巨細となくこの世の中では報道されてゐる。

 この感情に併しどれだけの根拠があるか、或ひは寧ろこの感情がどれ程無根拠なものであるかは、之から見て行かうとする当の問題であるが、とに角かうした感情が漲溢してゐるか或は漲溢してゐるやうに信じられてゐることは、一つの著しい事実であつて、この事実は政治的な意義から云へば、即ちこの事実が政治上想定されねばならず又は利用もされ得るだらうといふ点から云へば、極めて重大性を帯びたものであることは、今更ここに断る迄もないことだ。

 だが、元来、感情や感情に基く社会行動は、要するに感情の資格と機能との外へ出ないので、さうした感情や行動がどれ程漲溢してゐる事実があらうと、その理性的価値が豊富だといふことには決してならないので、従つて、この事実は論理的な意義から云へば、その重大さが至極乏しいものだと云ふことを妨げない。

 吾々が良い批評家であるためには、例へば人物が問題ならば、前途有望な人物に限つて批評の対象に取り上げるべきで、ヤクザな人物は特に意識的にネグレクトするだけの徳義を心得てゐなくてはならない筈だが、併しこのことにも一定の限度のあることで、どれ程クダラない人間でも、それが偶然的にか又は外部からの必然性によつてか、一時にしろとに角何か相当の社会的影響力を有つ危険性がある時には、愚劣であつても時には遺憾ながら相手にしなければならない。

 で、日本主義、東洋主義乃至アジア主義等々の殆んど凡てのものは、進まないながら、吾々の批評の対象として取り上げられるのである。それは如何にも尤らしく意味ありさうなポーズを示す。処が実はその内容に這入つて見ると殆んど全くのガラクタで充ちてゐるのである。日本に限らず現在の社会に於けるこの切実で愚劣な大きな悲喜劇のト書きを暴露するのは、吾々にとつて、極めてツマラない併し又極めて重大な義務にもなるのだ。

 併しかうした国粋主義(又はもつと忠実に説明すれば国粋拡張主義)の勢力は最近の日本に於て初めて盛んになつたのではない。幕末の国学運動から系統を引いてゐるこのイデオロギーは、明治初年から二十年代にかけてまづ第一に「欧化主義」に対する反対運動の形で著しく現はれた。次にそれは日清日露の役を著しい契機として台頭した初期の無産者運動に対して、その反動イデオロギーとして眼ざましい生長を新にする。それから第三に世界大戦を境として起こつたデモクラシー運動に対する反感として潜行的に可なり根強く発育したものである。それが世界危機の一環としての日本資本主義の危機に際会して、満州事変や上海事変の喇叭の音と共に、今は津々浦々にまでその作用を丹念に響き渡らせたものに他ならない。で、かう跡づけて考へて見ると、国粋主義の横行は実は却つて「国粋」の危機を物語るインデックスに他ならないわけで、国粋主義なるものは即ち自分自身を裏切ることをその本質とするもののことに他ならない。一般に之が反動イデオロギーの「宿命」なのである*。

  * この一節に就いては坂本三善氏の簡潔なスケッチがある(「日本主義思想の露漲」――『唯物論研究』一九三四年四月号)。


 だが日本主義、東洋主義乃至アジア主義、其他々々の「ニッポン」イデオロギーが(ニホンと読むのは危険思想ださうだ)大量的に生産され、夫が言論界や文学や科学の世界にまで浸み渡り始めたのは、確かにこの二三年来である。ドイツに於けるヒトラー独裁の確立、オーストリアに於ける国粋運動、ムッソリーニのオーストリアに対する働きかけ、アメリカ独自のローズヴェルト産業国家統制、それから満州国建国と皇帝の登極、そしてわが愛する大日本帝国に於ける陸続として断えない国粋強力諸運動。かうした国際的一般情勢の下に立つことによつて初めて、日本は最近特に国粋的に扇情的になつたわけであつた。無論わが権威ある国粋主義運動をかうインターナショナルに並べることは、一部の国粋主義者の気に入らないだらうが(「日本主義は西洋のとは違つてファシズムではない」と云はれてゐる)、併し一部の人間の気に入るやうにばかりは事実は出来てゐないのである。

   二

 さて、現在の日本は全く行き詰つてゐる、と世間では云つてゐる。実業家や一派の自由主義者達はかういふ流言に賛同しないかも知れないが、どこかで行き詰つてゐるから色々の愛国強力運動も発生するのだらうし、又仮にさうでなくとも色々の愛国強力運動が発生すること自身が少くとも日本の行き詰りに他なるまい。ではその原因はどこにあるのか。この非常時といふ言葉は、この頃呪文としての効験を失つて来たといふことを別にしても、この行き詰りを解釈する言葉としては実は之は甚だ都合が悪い。なぜなら、どういふことが非常時といふことかと尋ねて見れば、他ならぬ非常時の絶叫自身が非常時の原因だつたといふことが判るからである。

 日本の日本主義者達にとつては併し、事物の客観的な原因を理論的に穿鑿するといふやうなことはどうでもいい。いつでも説明は、俗耳に入り易い尤もらしささへ持つてゐればいいのである。例へば、この行き詰りは「日本精神の本質をはつきり把握しない」ことから来る、と彼等は主張するのである(高須芳次郎氏「日本精神の構成要素」――『経済往来』一九三四年三月号)。時の総理も議会で之と同じことを言つてゐるから、この考へ方の尤もらしさは相当信用して好いかも知れないが、併し一方首相は貴族院ではその言葉尻の説明を要求されてゐた。だがとに角、日本の危機は日本精神の本質をはつきり把握しないことにその原因があるといふのである。――中国では支那精神の本質をハッキリ把握することに気付く者がゐなかつたために、中共問題や上海暴動が起きて了つた、といふわけになる。

 ではこの日本精神の本質とは何か。高須氏によると日本精神の「構成要素」は、「生命創造主義的」なことや、「中正不偏」なことや、「輳合調和に長ずる」ことや、「積極的に進取膨脹を旨とする」ことや、「明朗」なことや、「道の実行実践に重きを置く」ことや、凡そ想像し得る一切の善いものを網羅してゐる。だが善いには善いとして、之は少し変ではないだらうか。生命創造主義的といふのはどういふ規定なのか判らないが、哲学で例を取ればベルグソンの形而上学は間違なくこの名に値ひするし、中正不偏はイギリス精神としての政治常識だし、輳合調和の精神ではドイツの学術書などが模範的だし、積極的な進取膨脹と明朗とは、夫々アメリカの建艦計画とヤンキーガールとが最も得意とする処である。それから、道の実行実践に重きを置くのは云ふまでもなくソヴェート・ロシア精神ではないか。日本精神がかういふ外国精神から「構成」されてゐるとすれば遺憾に耐へない。

 高須氏はそこで、「画竜点睛」のために、「日本国体に就いての自覚」を持ち出す。なぜ之が一等先に出て来なかつたかが残念である。併し国体にしろ何にしろ、自覚するといふことは強制的に承認させたり、ペテンにかけて思ひ込ませたりすることではあるまい。日本の国体を自覚するには日本の本当の歴史の科学的な認識による他はないだらう。で、高須氏達日本主義者は、どういふ「日本主義的」な特別な歴史方法論を有つてゐるのであるか。その点をもう少し世間に、或ひは世界に施して惇(もと)らぬやうに示す義務があるだらう。

 処で「無我愛」の信心家伊藤証信氏は、どういふ動機からか判らないが、「日本精神の真髄」といふ論文を書いた(雑誌『雄弁』)。一体日本精神は恐らく日本といふ一個の「我」にぞくするものなのだが、無我愛とこの日本の我愛とがどう結び付くのかと見ると、「日本精神」とは「真に日本の国を愛し、国民主義と国際主義との一致の道によつて個人的にも国家的にも益々日本を本当のよい国に生長発展せしめるために命懸けで努力する生きた精神である」といふのである。之は氏自らそこで云つてゐる通り、日本人にだけしか行はれない道などではなくて、アメリカ人はアメリカ人で、ロシア人はロシア人で行ふだらう「普遍な道」であると云ふ他はない。なる程「無我愛」から云へば当然さう云はなければならぬだらう。併し一体、無我愛の立場からどういふ必要があつてわざわざ日本精神などといふテーマを取り上げる気になつたか、吾々に判らないのはその点である。日本が世界を征服して了つた暁には日本精神=即=無我愛となるといふ縁起ででもあるのか。

 併し、日本は決して世界を征服するのではないらしい。現に学習院教授紀平正美博士によると、日本精神とは「他人と合同調和」する精神から流れ出たものだといふのである(「日本精神に関する一考察」)。今日では、一頃列強と呼ばれたブルジョア諸国が支那分割を夢みた場合のやうな植民政策は実行不能になつたから、他人を「合同」したのでは決して「調和」が保たれないといふことが世界の外交常識になつてゐる。だからこの言葉は決して日本の世界征服を意味するものではあり得ない。「和平」を愛する国民が日本国民だとも博士はこの書物で云つてゐる。それに西洋人の他人に対する態度は take andgive(とりやり)であるが、日本人のは「やりとり」ださうである。即ち伊藤証信氏流に云ふと、日本国民が如何に無我愛的であるかが、この点からも伺ひ知ることが出来るわけだ。日本民族の隣人愛、即ち隣国愛は、支那満州帝国に対するその友誼から見ても、もはや疑ひのない処である。

 博士は処でかういふ日本人の「日本精神」をどういふものと規定してゐるのか。それは他ならぬ前に出てゐる例の「日本国民としての自覚」――我は日本人なり!!――だといふのである(博士著『日本精神』)。「日本国民精神」は「定義を以て其れを定めることは出来ない」――「三千年の歴史をその内容とする所のものをさう簡単に定められるものではない筈だ」(「一考察」)。全くその通りである。併しこの三千年(?)の歴史はどういふ風に研究されるべきかが先にも問題だつたのだ。不敏な吾々は今日に至つてもまだ紀平式ヘーゲル(?)歴史哲学の真諦を理解出来ないのが遺憾だが、それはとにかくとして、三千年(?)の本当の歴史を科学的に書いて示して呉れないと、恐らく今の世間は、つい「三千年の歴史」を「簡単に定」めて了ふことにもなるだらう。

 金鶏学院安岡正篤氏の言葉は日本歴史の認識に就いて一種の暗示を与へるやうに見える。「日本民族精神の本領は三種の神器にいみじくも表徴せられたやうに、清く明るき鏡の心より発する知恵の光を磨き、勇猛に正義の剣を振ひ、穆(ぼく)たる玉の如き徳を含んで、遂に神人合一、十万世界を全身とする努力になければならぬ」(『日本精神の研究』)。この心境描写は極めて美文的で従つて抽象的であり、従つて又、この日本主義が国粋的新官僚から最もよく親まれ易い理由は判るが、歴史のリアリティーをかうした昔風な心境談に還元して了ふことが、古来事実日本民族の精神かとも思はれる。だが要するに之は歴史ではなくて道徳的教訓か美文学に他ならないし、道徳的教訓や美文学にしても極めて原始的な夫に過ぎないのが遺憾である。

 事実、幼稚な文学は道徳律と別なものではないので、神話が正に夫であつた。安岡氏によると、三種の神器は知徳勇を表徴するものであつて、日本国土はただの自然的地理的土壌ではなく、国生みの神の眼から生れた「大八州」なのだから、「天皇種族」と兄弟の関係に立つのだと云つた種類の説明が与へられる。かうなるとどうも、例の日本精神的な歴史認識の方法は、取りも直さず「神話的方法」だつたと云ふ他はなくなり、日本精神は永久に神話的段階に止まるべきもののやうに受け取られる。さうすると日本精神といふのは進歩や発達をしないもので、進歩や発達の敵だといふ結論にも到着しさうである。

 以上のやうな次第で、「日本国民としての自覚」といふものは、その実行の段になると、今の処仲々条件が具はつてゐないので、実は容易なものでないといふことだけが判つた。が、日本精神を理解するのにもう少し科学的な近道がありさうである。鹿子木員信教授は夫を「新日本主義」と名づけてゐる(『新日本主義と歴史哲学』)。教授はまづ第一に日本精神の成立が不可能でないことを証明する。博士は精神の「心ざし」を個性と考へてゐるが、この個性=心ざしなるものは、空間的相違、気候風土、地理的差異等々によつて程度の差を生じ、特殊具体的な構成を作つたものであり、それが国土によつて異る国民精神の発展様式の特殊性となるのである。だから日本には日本国民精神といふ特殊性をもつたものが出来るわけだといふのである。全くその通りで、日本国民が苟くも精神を持つてゐる限り、「日本国民精神」が存在するといふことは、証明するまでもなく自明な理ではないかと思ふ。

 日本国民精神が発生し得ることは判つたとして、問題はその日本国民がどういふものかといふことだつたのだ。処で博士は「新日本主義」的歴史哲学によつて之を明らかにしようとする。博士は研究の結果を次のやうな要点に纏めてゐる、自然の世界は「できごと」の世界であり、歴史の世界は「でかしごと」の世界である。この「でかしごと」の世界といふのは行の、主体の、個性の、心の世界である。だから歴史は「主体(精神)=行=心の上に立つて認識されねばならぬ」といふのである。之で見ると「新日本主義」的歴史哲学とは、西洋の「唯心史観(?)」とあまり別なものでないらしい。西洋風だといふことが新日本主義の「新」たなる所以であるやうだ。そして Geschehen の代りに「できごと」、Tat とか Tatsacheの代りに「でかしごと」といふ「やまとことば」を使ふ点が、新日本主義の「日本主義」たる所以だらう。

 併しこの唯心史観は甚だ不統一な唯心史観で、例の大切な個性即ち日本国民精神自身は、空間、気候、風土、地理などの物質的なものの相違によつて構成を得る、といふことになつてゐるから、折角の「でかしごと」も「できごと」から決定されてゐるものであるらしく、西洋ではかういふ歴史哲学をば、「新日本主義」と呼ぶ代りに「地理的唯物論」と呼んでゐるのである。

 処で意外なことには、どういふ理由からか判らないが、西洋の地理的唯物論にさへ遠くはないこの新日本主義に立つ「日本国民精神」は、突如、「大君の辺にこそ死なめ」といふ意気で上代以来天皇を主君として績(つむ)ぎ営んで来た生活の原理であつて、この生活のモットーは「義は即ち君臣、情は即ち父子」といふ支那の文人の好みさうな対句にあるといふ。かくて新日本主義は愈々「新」日本主義としての面目を明らかにするわけである。

   三

 以上「日本精神」に味到した人達の見解に接して見たが、少くとも今までに判つたことは、何が日本精神であるかといふことではなくて、日本精神主義なるものが、如何に理論的実質に於て空疎で雑然としたものかといふことである。で、日本精神といふ問題も日本精神主義といふ形のものからは殆んど何の解答を与へられさうもないといふことが判つたのである。文部省下に国民精神文化研究所が出来ても、『日本精神文化』といふ雑誌が出ても、又日本精神協会といふものがあつてその機関紙『日本精神』が刊行されても、さうした日本精神主義による日本精神の解明は当分まづ絶望と見なくてはならないだらう。日本精神主義といふのはだから、声だけで正体のない Bauchredner(腹話術師) のやうなもののやうである。

 そこで日本精神は、もう少し別な方向から、もつと精神主義的にでなく(?)解明される途はないか。例へば日本農本主義がそこにある。

 愛郷塾主橘好三郎氏の『農村学』は日本の経済政治社会制度の特色に就いて説明してゐる、「日本国民社会の国質」は「農村国質」なのであると(一七七頁)。といふのは、日本は「資本主義国」や何かでなくて正に農村国質だといふのである。「一体マルクスなどは農業と工業とが本質的に別だといふことを知らない。地上の存在物には生物と無生物とがあるのだが、生物を対象とする農業を、無生物をその対象とする工業と同一の立場から取り扱はうとすることが抑々根本的な誤りだ。工業は相手が死んだ「物質」だから機械的に処理することが出来る質のものだが、植物や畜禽を相手にする農業の生産活動では、何より精神的な要素が大切だ」といふのである。

 だから氏によると、農業では、機械化といふことは革命を意味するのではなくて寧ろ破壊をさへ意味するだらう。「耕耘は機械で出来ても、苗を植ゑる機械はあるまい。マルクスの考へた大農主義は、農業そのものに対する無知から来るので(マルクスはロンドンやパリにゐたが農村に住んだことがない)、イギリスに於ける大農の発達なども、市場競争によつて小農が駆逐されたから発生したまでであつて、農業の機械化のお蔭などではない」と云ふのである。

 「特に日本では、日本人は米食でなければならず、そして米作は水田に限るから、トラクターなどを農場に入れることは出来ないので、この点からだけ云つても日本の農業は絶対に機械化し得ない」といふのである。だから日本に於ては「農業の大農経営」は起こり得ず「小農が却つて勢力を得てゐる」といふことがその「現実」だといふのである(日本の官製の国粋紹介映画を見たソヴェートの住民達が田植ゑのシーンになると突然哄笑し始めたので、日本の当局は甚だしく狼狽したといふ現実がある)。

 そしてここから、「資本主義病態下に於て最も決定的致命的な破壊の鉄槌を下さるるものは工業ではない」、「賃労働者でもない」、「それは農村であり且つ農民である。故に資本主義的破壊から全国民社会経済組織と全社会を解放せんと欲するならば何より先に農村社会を救はねばならんのである」(四三頁)、といふ農村学の「根本主張」が出て来る。――都市社会は知的結合だが、農村社会は霊的結合ださうで、崇祖の情や自然崇拝や庶物崇拝が農村の大切な特色だといふことである。土と自然とを尊ぶところの「土の哲学」に立つ「厚生主義社会」こそ日本の現実が向つて進むべき理想でなければならぬといふことになる(二四〇頁)。

 かうやつて折角日本の経済的政治的「現実」から出発したこの農村学の農本主義も、遂に例の「精神的」な日本精神主義の一変種だつたに過ぎないといふことが判る。農業がなぜ、一つの原理となつて日本農本主義を産む程に偉いかといふと、外でもない、元来「日本的」な農業とか農村とかが、元来「非日本的」な商工業や都会に較べて、いみじくも「精神的」だつたからであつた。農業や農村に関するあとの説明はただのそのための口実と弁解とに過ぎないやうだ。

 橘氏の農本主義が、言葉通り農村学的であつたに対して、権藤成卿氏のものになると、「制度学的」になる。氏によると日本の特異な点は、まづ夫が「社稷躰統」の国だといふ処に存する(『自治民範』)。といふのは、社は土地神主の謂で、稷は高粱を意味するので、かうした社稷の崇拝が、即ち土穀崇拝が、日本のまづ第一の特質をなしてゐるらしい。だから「農は天下の大本」だといふのである。

 そこでかういふ農本的社会である日本では、又農本的制度が発生しなければならぬ。権藤氏によると、元来風俗は恒例へ、恒例は礼儀へ、礼儀は制度律令へ、進化漸化するのであるが、かうした道徳的成俗は自然を以て本としなければならぬ。「飲食男女は人の常性なり、死亡貧苦は人の常艱なり。其性を遂げ其艱を去るは皆自然の符なれば、励めざるも之に赴き、刑せざるも之を黽(つと)め」るといふ具合に、自然に「天下」は治まるものだといふのである。処が恰も日本は元来がかうした自然的成俗に則つた国柄であつて、自治主義こそ日本の最後の特色だといふことになる。処で農は天下の大本だつたのだから、自治主義は専ら農村自治に帰着するわけだ。最近の内閣の農村政策から云へば、農村は自力更生すべきであらう。

 だが一つ注意しておかなくてはならぬ点がある。この農本主義的自治主義に立つ「制度学」が、他の日本主義の一群のものとは異つて、必ずしも絶対制主義でないといふことだ。宇多天皇は藤原基経に向つて「卿者社稷之臣、非朕之臣」と仰せられたさうだが、之こそ自治主義の真髄であつて、之に較べると、国家主義の如きは公益と私益との衝突を免れぬものだといふ。現在の日本に於て最も普及してゐる日本主義は、例へば治安維持法を厳罰主義に「改正」しようと欲するやうな官僚政治的日本主義であるのだが、権藤氏によると、さういふ官治主義こそは日本の成俗をなす自治主義を害ふことこの上もない当のものなのだ。今日の日本の行きづまりは、直接には何よりも明治維新以降の官僚主義の責任に帰すものだと、氏は考へてゐる。で、さうだとすると『自治民範』は今日の時勢に於けるファッショ風景には一寸ソリの合はない本になるわけで、氏が夙に自分の思想に対する抑圧を覚悟したと云はれるのは、よく自らを知る明があつたわけである。

 氏の思想は併し、無論何等の危険思想や悪思想でもないのである。彼の政治的スローガンは「社稷の典例」に返り、「民家の共存組織」を「恢興」せよ、といふことだが、では社会主義なのかそれとも共産主義なのか(彼によるとマルクスは社会主義者であつて共産主義者ではない)、それとも又他の何かの政治方針を採るのかといふことになると、氏はどの民俗も「其民俗国情に随ふの外なしと云ふのみである」(五一八頁)。だからこそ右翼団体の被告の一人などから、権藤は食へない男だと思つたなどと批評されるのである。――危険思想でもなく悪思想でもないだけではない、実は之こそ寧ろ極めて有益な良思想なのである。といふのは、彼によれば「実は今日は法律制度の改革よりも、もつと更に一層切実な急務が、人心の改革(レフォルメーション)に存する。人心さへ緊張してゐれば、どんな悪法悪制も或る程度まで善導出来るのだから、地主も小作もその点を反省して、例へば強力による実行手段などは排斥せねばならぬ。大事なのは成俗の「漸化」である」と云ふのである。

 権藤氏の制度学的農本主義によつて、日本の特色、従つて日本精神の特色も亦、以上のやうに描かれるが、それにも拘らず、之は必ずしも例の日本精神主義ではないといふことに注目しなければならぬ。「人心の改革」で成俗を漸化させようといふ観念論も、必ずしも之まで見て来た人達の「日本精神」主義と一つにはならない。――併しこのことは大局から見ると少しも良い徴候ではないやうである。なる程権藤その人は制度学者で、国粋的範疇でしかものを考へない人だが、殆んど同じやうな目的を遂行するために、もし哲学的範疇を一応でも心得てゐる国粋的な倫理学者や国粋国史家が現はれたとしたならば、彼等の手によつて、問題は再び「日本精神」主義にまで引き戻されるだらう*。権藤氏が日本精神主義の特色を前景に押し出さないのは、偶々精神(Geist)といふ今日日本で最も調法がられてゐるドイツ哲学の範疇を、心得なかつた迄だ。

  * 東大倫理学教授和辻哲郎博士(「町人根性」、「日本精神史」、「国民道徳」、「倫理学」等々がそのテーマ)、広島文理科大学教授西晋一郎博士(「国民道徳」、「忠孝論」等々がそのテーマ)、東大国史科教授(朱光会員)平泉澄博士(「建武中興」、「ドイツ精神」等々がそのテーマ)等の国粋倫理道徳学者、現代式国学者達は、改めて之を批判する必要があると考へる。


   四

 で、日本精神主義哲学から云つても、又日本農本主義哲学から云つても、日本の特質は、それが他の国家乃至民族に較べて、勝れて精神的だといふ処にあるといふことになるらしい。凡ての日本主義が、恐らくこの日本精神主義に一応は帰着せしめられることが出来るだらう。だがそれにも拘らず、日本精神(之が日本の本質な筈だつた)が何であるかは、合理的に科学的に、遂に説明されてゐない。それはその筈で、元来日本精神なるものは、或ひは「日本」なるもの自身さへが、日本主義にとつては、説明されるべき対象ではなくて、却つて夫によつて何かを相当勝手に説明するための、方法乃至原理に他ならないからである。

 処が、「日本」といふ宇宙に於ける地理的歴史的社会的な具体的一存在を勝手に持つて来て、之が何か哲学の原理になれると考へることが、元来少し常識で考へて見ても変なことで、もしこれが「金星主義」や「水仙主義」とでも云つたやうな哲学(?)ならば、誰も初めから真面目に相手にはしなかつただらう。

 だが日本主義は何等の内容もないと考へられると同時に、それと反対にどんな内容でも勝手にそれに押し込むことも出来るわけで、蓑田胸喜氏などは、この間の消息に就いて、実に適切に説明を下してゐる。「神ながらのみちは、古今東西の教といふ教、学といふ学の一切、仏教儒教基督教また希臘哲学より近代西欧科学、更にデモクラシー、マルキシズム、ファシズム、国家社会主義等をも、凡て既に原理的にそのうちに融化解消してゐるのである」(「国家社会主義に対する精神科学的批判」――『経済往来』三四年三月号)。この恐るべき原理「日本」に就いて、蓑田氏は決して冗談を云つてゐるのではない。只単に氏の日本主義が多少頭と好みとのデリカシーを節約してゐるに過ぎない。

 だから又こんなにも無限に豊富な内容を有つことの出来る日本主義は、実は到底一種類や二種類の哲学原理では片づかないわけで、日本主義と云つても、原理上、無限の種類が出て来る心配があるが、夫が杞憂でないことは、綾川武治氏が慨嘆してゐることでも知ることが出来よう。「吾人の念頭を強く打つものは……何が故に、日本を本位とする同主義の上に立ちながら、この余りに多き分裂が繰り返され来たつたか、である」(「純正日本主義運動と国家社会主義」――『経済往来』三四年三月号)。貨幣経済に於ける金本位さへマチマチになるこの世界だから、日本本位の思想が兌換され得ようなどといふことは、希望する方が無理ではないだらうか。で、遂に松永材教授などは「日本主義の学の内容は将来に於て組織さるべきものであるから、吾等は今ここで述べるだけの資格も材料も持たぬ」(『日本主義哲学概論』)といふ懐疑論に逢着してゐる。

 だが日本主義は幸にして決してただの日本主義に停滞してはゐない。日本主義は東洋主義又は亜細亜主義にまで発展する。尤も之はただのアジア主義ではなくて、日本主義の発展としてのアジア主義、云はば日本アジア主義なのである。

 アジア主義は亜細亜的現実から出発することを得意とするやうに見える。アジア主義者でなかつたリットン卿は、遂にアジア的現実を認識することが出来なかつた。之に反して、その政党解消哲学の具体的な現実的綱要を少しも示すことのない松岡洋右全権が、多分アジア主義者であるお蔭で、アジア的現実に就いて少しも認識不足に陥らない。

 五・一五事件まで東亜経済調査局の理事長であつた大川周明博士は、東洋と西洋とを決定的な対立物として取り上げる。両者の対立がなかつたならば人類の歴史は成り立たなかつたと云ふらしい。「言葉の真個の意味に於ける世界史とは東西両洋の対立、抗争統一の歴史に外ならぬ」(『亜細亜、欧羅巴、日本』)。処が、「従来『白人』のヨーロッパによつて支配されて来たアジアにとつて、ヨーロッパ大戦以来、『復興の瑞兆』が現はれ始めた。今後は愈々アジアが支配する世界が来るのだ」といふのである。「その証拠にはエジプト、支那、印度、安南などの反ヨーロッパ的叛乱を見るがいい」と博士はいふのである。

 処でこれ等アジア的叛乱様式に限つて、なる程「その表面に現はるるところは政治的乃至経済的である」が、併し「其の奥深く流るるところのものは、実は徹底的に精神的である」といふことが何より大切だ(六七頁)。なぜアジア的叛乱様式が精神的かと云へば、原因は極めて簡単で、「目覚めたる亜細亜の魂の要求に発してゐるから」ださうである。――で、之で判つたことは、例の東洋西洋の対立に於て、西洋の方は政治的経済的活動しかやれないのに反して、東洋は精神的な霊による活動をするといふ対立である。西洋は物質主義(唯物論=牛飲馬食主義)だが東洋は精神主義だといふわけである。之が東洋の「現実」である。

 「茲に於て満州問題を見ますると、権益問題とか、或ひは生命線問題とか簡単に唯物論のみで考へて行くことは大なる過であることを十分承知してをらねばなりませぬ。……然らば我々は満州問題を如何に見るべきかと申しまするに、西欧辺より輸入せられた支那民族の堕落せる唯物論思想が(張学良の阿片のことだらうか?――引用者注)、遂に日本の民族精神、国民道徳を発火点にまで冒涜したのに基因いたします」と荒木貞夫大将は、そこで念のために弁解してゐる(『全日本国民に告ぐ』)。なぜなら、満州は日本の生命線だの、南洋の委任統治諸島は日本の「海の生命線」だのといふ、甚だ「唯物論」的な宣伝が一頃軍部自身によつて行はれたからである。――無論満州は西洋ではなくて東洋だから、満州事変は「皇道精神の宣布」や「国徳の発揚」や「王道楽土の建設」などといふ、霊による精神的事変であつた。

 青年将校の変革理論の淵源である北一輝氏は古く(大正八年)上海で、すでに、「支那印度七億ノ同胞ハ我ガ扶導擁護ヲ外ニシテ自立ノ途ナシ。……コノ余儀ナキ明日ヲ憂ヒ、彼ノ悽惨タル隣邦ヲ悲ム者、如何ゾ直訳社会主義者流ノ巾掴的平和論ニ安ンズルヲ得ベキ」云々(『日本改造法案大綱』)と喝破してゐる。この物騒な大アジア主義は併し他方に於て極めて義侠的な道徳と、教訓的な使命とを帯びてゐることによつて、正にアジア的、東洋的即ち精神的なのである。「……亜細亜連盟ノ義旗ヲ翻シテ真個到来スベキ世界連邦ノ牛耳ヲ把リ、以テ四海同胞皆是仏子ノ天道ヲ宣布シテ東西ニソノ範ヲ垂ルベシ。」

 さて、アジアが精神的であり、従つてアジア主義が精神主義的であることは、全くアジア主義が日本精神主義の拡大であつたからに他ならない。それが日本アジア主義たる所以である。だが日本は云ふ迄もなくアジア全体ではないのだから、ではどういふ風にして日本精神主義を日本アジア主義にまで拡大するのであるか。問題の解決は至極簡単である。日本自身を東洋にまで、アジアにまで、拡大すればいい。日本は東洋、アジアの盟主となり、さうすることによつて或る種の世界征服に着手する、それがわが大アジア主義といふ戦略であり哲学なのである。もはやこれまで来れば併し、精神に基いたこのアジア主義が、その発動に際してどういふ物質的なエネルギー形態を採らうと問題ではなくなる。

 経済学士野副重次氏によるとツラン民族なるものがあつて、夫はツングース、蒙古人、トルコタタール、フィン、ウゲリヤ、サモエードのことで、準ツラン民族とは北支那人、ブルガン族を含み、ツラン系人種の祖国はアジア、中央アジア、スカンジナビア等を含む殆んど全ユーラシア大陸に渡つてゐるさうである(『汎ツラニズムと経済ブロック』)。そして汎ツラニズムといふのは、わがツラン人を圧迫してゐる白人に対して、ツラン民族が団結してその祖国を奪回することを指すものである。氏によると日清、日露、満州事変などは、どれもスラブ民族に対するツラニズムの宣戦に他ならなかつたさうである。――和辻哲郎博士はかつて日清、日露役が日本民族精神の発揚運動であつたといふ説を出したが、野副氏の見識に較べると、之は一段とスケールが小さく着眼点が低かつたと云はざるを得ない。

 日本アジア主義が日本精神主義の侵略的拡大として、アジア精神主義だといふことは判つたとして、では之と日本農本主義との関係はどうなるか。アジア主義によれば、アジアの現実こそ農本主義的だといふ結論になるらしい。

 「東洋主義」者口田康信氏(『新東洋建設論』)によると、東洋には家族制度を初めとして、甚だ強く父家長的な社会関係が残つてゐる。例へば親作と小(子)作といつたやうな恩義的関係、即ちF・テニエスの云ふやうなゲマインシャフト的社会形態が有力だが、そこで適当なものは社会主義ではなくて「共同主義」であつて、之は経済的には協同組合又は協力運動(合作運動)として、政治的には自治として、文化的には精神主義として、現はれるといふ(三五頁)。

 社会主義は個人主義の成熟を俟つて後に発生するものださうで、処が「東洋は個人主義が未だ成熟せず、多分に非個人主義的風格を止めてゐる」から、到底社会主義に一足飛びに移ることが出来ないが、併し、最も非個人主義的風格を止めてゐる東洋の未熟な農民は「非常に楽に共同主義へ衣更へ出来る」といふわけである。橘氏の農民解放や権藤氏の農民自治に并行して、ここでは村落共同体が提唱されるのである。

 なる程東洋、アジアは、所謂アジア的生産様式を多分に今だに持つてゐる――その父家長制や半封建隷農制――といふことは明白な事実だらう。この現実を抜きにしては東洋の経済も政治も文化も、その運動様式を理解出来ない。だが所謂アジア的生産様式は何もアジアにだけ特有なものでもなければ、東洋、アジア自身の生産様式そのものだといふわけでもない。現在のアジアに於ける生産様式といふことがアジア的生産様式の意味でもなければ、まして現在のアジアに於ける生産様式がいつまでもアジア的生産様式に止まつてゐなければならぬといふことにもならぬ。

 処が口田氏によると、このアジア的生産様式は東洋に於ける固定的生産様式ででもあるやうに見える。だが何故さうある必要があるのか。それは単にこの東洋主義者、アジア主義者が、橘氏の『農村学』に出て来る「完全全体国民」とか「調和国民社会」とかいふものの外国種に相当するO・シュパン式な「全体」の哲学が好きで、特に農村に於ける「合作運動」といふやうなゲマインシャフトに無条件に好意を持つてゐるからに過ぎない。――なぜ併しかうしたヨーロッパのファシズム哲学にも紛らはしいものによつてさへ理解されねばならぬ「合作運動」が、そんなに気に入るのかと云ふと、ただ一つ合作運動が「資本主義を否定するが同時にマルキシズムをも否定する」処の「王道」に則るものだつたからに他ならない(百五五頁)。――ここに凡てのアジア主義の、凡ての日本主義の、「魂」とそして「魂胆」とが横たはつてゐたのである。

 最後に一言。――
 どういふ精神主義の体系が出来ようと、どういふ農本主義が組織化されようと、それは、ファッショ政治諸団体の殆んど無意味なヴァラエティーと同じく、吾々にとつて大局から見てどうでもいいことである。ただ一切の本当の思想や文化は、最も広範な意味に於て世界的に翻訳され得るものでなくてはならぬ。といふのは、どこの国のどこの民族とも、範疇の上での移行の可能性を有つてゐる思想や文化でなければ、本物ではない。丁度本物の文学が「世界文学」でなければならぬのと同じに、或る民族や或る国民にしか理解されないやうに出来てゐる哲学や理論は、例外なくニセ物である。ましてその国民その民族自身にとつてすら眼鼻の付いてゐないやうな思想文化は、思想や文化ではなくて完全なバルバライに他ならない(この点に就いて、二、五、を見よ)。

  (更に各種の「国家社会主義」、「一国社会主義」等々を取り上げる必要がある。そして全体を経済的な地盤から説明しなければ本当でない。ここでは単に手近かな資料を分類して見た迄である)。


第七 日本倫理学と人間学
      ――和辻倫理学の社会的意義を分析する


 東大教授和辻哲郎博士の著『人間の学としての倫理学』といふ本の名前は、和辻教授の倫理学と倫理思想と、更に又教授の文化理論乃至歴史理論の一端とを、甚だ正確に云ひ現はしてゐる。私は今この本の紹介又は批評をしようといふのでもなく、又和辻教授の思想内容を一般的に検討しようとするものでもない。ただこのやうな新しい立場から「学術的」体系として築き上げられようとしてゐる「倫理学」が、それ自身に於て、又現在の日本の諸事情との連関に於て、どういふ意義を持つてゐるかを、その理論自身の内部から、併し簡単に、指摘しておきたいのである。

 と云ふのは、この倫理学は従来の倫理学教授や修身徳育専門の先生達が、書いたり考へたりする、学術的な或ひはデマゴギッシュな道徳論とは異つて、その学術的水準が相当高いものであり、従つてそれだけオリジナルな思索に基くものであると共に、現在の日本に於ける反動勢力が要求してゐる処の相当高水準の反動文化のために恐らく一つの基礎を置くことになるだらうからだ。多分この種の「倫理学」の讃美者や受売人は方々に、アカデミックな研究室に、又は俗悪な半「学術」雑誌の内に、多いことだらう。更にこの倫理学の模倣者は、今後多分続々と輩出することだらう。さういふ当りを持つべき本であり又思想で之はあるのだ。西晋一郎教授に『東洋倫理』があるが、之がそれ自身東洋的な(?)語調や引用を有ち、そのロジックさへが東洋的であるやうに見えるのに較べれば、和辻教授の方はずつと世界的で又国際的だが、併し二つのものが目指してゐる客観的用途と意義とは、あまり別のものではない。ただ和辻氏の多少モダーン味のある倫理説の方が、西氏のに較べて、日本的乃至東洋的な倫理思想の優越を世界に向つてひけらかすのに、却つて一層有利かも知れないまでである。

 和辻氏の新しい立場に立つ倫理学は、無論一つのモダーンな哲学方法を用ゐる。この方法の検討はあと回しにするとして、少くとも最も手近かな特色だけは、まづ初めから問題にせざるを得ない。氏の倫理学では平つたく云つて了へば、倫理上の言葉の文義的又は語義的解釈を手懸りとして「学術的」分析が始められるのである。倫理とは何かと云へば、「倫」といふ語は何か、「理」といふ言葉は何か、それら二つが「倫理」と熟する時どうなるかが、学術的分析の手懸りである。「人間」に就いても「存在」に就いても、この文義的語義的解釈が欠くことの出来ない唯一の通路をなしてゐる。

 だがこの文義的解釈なるものを吾々は軽々しく信用してはいけない、と同時に、又軽々しく無視し度外視することもいけない。ここには実にこの種の哲学的方法の殆んど凡ての徴候が端的に現はれてゐるからである。多少実証的な又は理論的な頭脳を有つた人間ならば誰しも、言葉の説明が言葉の云ひ表はす事物自身の説明にならないものだ、位ゐのことを知らぬ筈はない。事実、さういふ意味での文義的解釈は、お経の文句を講釈して社会問題の解説に代へることが出来ると考へる職業的説教家又は僧侶などに、気に入る位ゐのものだらう。この程度のものは実はまだ文義的解釈ですらないのである。

 文義的解釈の本当の権利は、解釈学(ヘルメノエティーク)の内から発生する。と云ふのは、解釈学によると、一定の文書は之を書き残した個人、民族、時代等々(階級はあまり問題にされない習慣のやうだ)の、観念(イデー)なり精神なり体験なり生活なりを表現してゐるもので、この客観的な手記された又は刻印、印刷された文字を通してこの表現のプロセスを逆に手ぐることによつて、その背後にある個人、民族、時代等々の観念、精神、体験、生活等々のもつ歴史的意義が解釈出来ようといふのである。無論この解釈学は、歴史的資料の占有の問題や歴史的記述の問題にからんで、歴史学的方法の科学的一要素をなすものであるが、少くとも最もこの方法が信頼出来る場合は、古文書の読解の場合だらう。だからこの学問は主としてバイブルの解釈のために、それから近世ではギリシア古典の研究のために、組織的なものへと発達して来たのである。即ちここでは、問題が古文書のテキストであるから、この問題の解決は当然文義的、文献学的であるべきであり、又あらざるを得ないのだ。

 問題は併し、古文書テキストのこの文義的解釈から出発する所の解釈学が、歴史学的方法に於ける科学的要素の一つであるに止まらず、却つてその支配的な要素となる時にあるのであり、更に又かうやつて権限を拡大されたこの解釈学が、今や歴史記述一般の課題をさへ離れて、いつの間にか哲学そのものに於ける解釈学的方法にまで深化され、例へば今の場合のやうに倫理学の学術的手続きの背景をさへなすやうになる時である。この時一体言葉の文義的解釈はどういふ権限を有つだらうかが、疑問なのだ。

 独り和辻氏に限らず、何人も、吾々も、言葉がただの人工的或ひは自然的又は天賦の言葉でないことを知つてゐる。言葉には民族の、国民の、(階級も必要なのだ)、地方の、人間社会の歴史が、言葉の内に現はれ得る限りに於て、現はれてゐる。だから言葉を見ることはそれだけその言葉を産んだ人間生活を見ることになる。だが果して夫が充分な手懸りとなるに足るだけの生活の表現であるかどうか、その点が疑問なのである。

 氏によると言葉は併し人間生活に取つて最も根本的な特徴をなしてゐる。言葉はギリシア、印度、支那を通じて人間と動物とを区別する標識になつてゐる。だから之は最も根本的な人間の特色を示すもののやうだ。して見ると事物の文義的解釈は、その事物が人間社会のものである限り、最も根本的な分析への手懸りとなるといふことに、何の不思議もないといふことになりさうである。

 解釈学的方法そのものの根本的な弱点乃至トリックに就いては後に触れるとして、かうした場合の文義的解釈に対する不信用は、恐らく夫が何かの証明力、説明力を持つかのやうに説かれたり又受け取られたりするからだらう。無論、日本語や支那語で「倫理」といふ言葉を造り得ても、その倫理といふ言葉の分析の結果は、倫理といふ事物関係そのものが亦さうであることの証明になるものではない。ましてさうした倫理関係が一等「倫理的」(もはや日本語としてではなくて国際的な訳語としての)なものでなければならぬ、といふ証拠になどはならぬ。文義的解釈が物を云ふ範囲は、倫理なら倫理といふ関係――和辻氏は之を人と人との行為的連関のことと見る――を解明する一つの引例として、直観的な象徴として、倫理といふ言葉の分析を行ふ場合に限る。これは倫理なる関係そのものの証明でもなければ一定の手続きを踏んだ説明でもない。なぜならそこには理論上のギャップがおかれてあるからだ。そしてこの理論上のギャップを、直観的な尤もらしさを以て埋めるものが、所謂「解釈」なるものの理論上の意義だつたのである。

 で、つまり解釈といふものの権利を科学的理論の全面に就いて承認する限り、即ち解釈学的方法を倫理学に於ても認める限り、倫理や人間や存在といふものの文義的解釈から倫理学が始まるといふことに、苦情をつけることは、一寸出来ないだらう。――この倫理学は元来、何物をも証明又は説明しようとするものではない。単に吾々日本国民の生活を解釈する、多分ジャスティファイする、ためのものなのだ。之に同感なものは益々同感するだらうが、之に反対なものは益々反対せざるを得なくなるまでで、倫理学的な即ち科学的な、道徳、風習、社会機構、其他一切の人間社会にぞくするものの批判などは、この倫理学では問題ではない。――思ふにこの種の倫理学は批判する処の倫理学ではなくて、却つて専ら批判されるべき倫理学なのだらう。

 だが一つの非常に大切な点が残つてゐる。言葉による文義的解釈である以上、解釈される事物はいつも国語の制約下に立たされる。「倫理」も「人間」も「存在」も皆日本語としての夫であつて、従つて之によつて解釈される倫理そのもの、人間そのもの、存在そのものは、単に日本に於ける夫等であるだけではなく、正に日本のを基準にした夫等のものでなければならなくなる。なぜなら倫理や人間や存在は一面国際的に理解出来るものなのだが、この国際的なものと日本的なものとの折り合ひになれば、この文義的解釈は云ふまでもなく日本的なるものをその中心的位置に持つて来ないわけには行かない。その結果、例へば「倫理」といふ国語によつてしか表はせないものを更に又「倫理」といふ国語の文義的解釈によつて解釈するなら、倫理といふ日本語ばかりではなく、倫理そのものの日本性を、同義反覆的に結論するのが、そのノルマルなロジックになるだらう。かうやつて国語的文義解釈を手頼りにすることは、いつの間にか「日本倫理」や「東洋倫理」を結果するのである。云ふまでもなく日本倫理とは「倫理は夫が日本的である場合に一等優れたものだ」といふことを仮定し同時に又結論する処の倫理説なのだが、この点和辻氏の「学術」的なモダーン倫理学も、例の広島大学の人格者西博士の陶然たる「東洋倫理」と、別な本質のものではない。

 さて和辻氏によると、倫理は人倫の理である。人倫は人と人との、個人と個人との、行為的連関である。或ひは、初め個人があつて夫が集つて連関をなしたのではなく、初めから個人の代りに共同体があつて、それが却つて初めて個人と個人との間に人倫的連関を有つのだと見るべきだ、といふのである。で、日本語にかういふ倫理といふ言葉がある通り、それからでも判るやうに、日本の社会は元来共同体的だといふのである。日本の社会が何故共同体的になつてゐるか、又何故共同体と考へる他に途がないか、といふやうな、さういふ説明や証明はこの「解釈」の外であつた。必要なのは言葉によつて思ひ当る、思ひつく現象の領域だけだ。それから、この日本的共同体社会生活が、世界中の社会の(人類の倫理の)模範であるかのやうな感じを、アトモスフェアーを、興奮を、つくり出すことだ。ここでは結局、世界に冠たる無比の国体、に似たやうなものが必要なのである。

 で、倫理とは人倫の理、即ち「人間」の理である。処が人間といふ日本語が和辻氏によると、非常に都合のいい持つて来いの言葉であつて、之は辞書によると、元来が人間(人)と人間(人)との「間」を、「中」を、関係を、連関を、働き合ひを、ふるまいを、示すものであつたのが、後世誤つて(?)個人を指すやうになつたといふのである。西洋の社会学者達は、社会と個人とを分ち対立させ、その上でこの二つをどう結合しようかと苦心してゐるが、吾々の云ふ「人間」とは一方に於て個人と個人との連関を抑々成立させる処の社会関係を意味するのであつて、それが後に個人の意味に転化したのは併し決してただの誤りや間違ひではなく、却つて社会的連関に於ける本当の個人の意味を之によつて伝へるものだ。即ち人間といふ関係そのものは、一方に於て社会関係を他方に於て個人的存在を、「弁証法的に統一」して同時に云ひ表はすやうな高度の哲学的結論に一致した極めて優れた言葉だつたのである。無論西洋にはさういふ言葉はない、さういふ生活がないからだ。併しなぜさういふ生活がないか、即ち西洋ではなぜ個人主義が支配的なのか。だがさういふことは抑々「倫理学」の、「人倫」の問題の、外だ、「解釈学」の関はり知る処ではない。

 だから人間といふものは「世間」或ひは「世の中」といふ言葉でその一面を非常によく云ひ表はされてゐる。但し之も文義的に解釈せられるべきもので、不壊の真理から流転界に堕しつつもなほ之を抜け出ようとする境地を指して仏典では「世」と云つてゐる。かうした俗間に堕することが「世間」「世の中」の意味だ。で、「人々が社会を世間、世の中として把握したときには、同時に社会の空間的、時間的性格、従つて風土的、歴史的性格を共に把握してゐたといふことが出来る。」日本語の世間乃至世の中ほど、社会の真理を云ひ表はしたものはないといふわけである。このやうに、凡て日本語の云ひ表はす処は、不思議にも大抵最高の真理なのだ。この不可思議の手品のカラクリについては、併し、同語反覆にすぎぬものとして、さき程説明したばかりである。

 人間とはかうした世間性(社会性)と人間の個人性との両側面を統一する言葉いや事物であつて、その内に横たはる秩序、道が、所謂人倫の理即ち倫理に他ならぬ。之が人間存在の根柢である。――だが存在とは一体何か。併し存在は物質か精神かといふのではない。存在は和辻氏によると元来人間を意味する言葉なのだ。それを知るには併し「存在」といふ言葉自身の意味を見ればよい。存在といふ言葉は云ふまでもなく「ある」といふ意味を表はす。だが、「ある」にも「である」と「がある」との区別があるが、支那では、「有」で以て「がある」に当ててゐる。無論この際、「である」よりもこの支那的な「がある」の方が「ある」の根本に触れてゐるのであつて、之がオントロギー(存在論)が「有論」と云はれる所以なのである。そこで氏によると「有る」は「有つ」から来るのであつて、さういふ風に有の根柢にはいつも人間関係が潜んでゐるといふことが見出される。「有る」処のものは人間の「所有」に外ならぬ。

 「ある」→「がある」→「有る」→「有つ」が人間の所有に帰着するならば、人間自身があるのはどういふあり方か。人間が人間自身を有つといふことが人間の「ある」であつて、これが「存在」といふ言葉だといふのである。処で「存」といふ字の方は、人間の主体による時間的把握に関係してゐるが(「存じています」、「存続」、「危急存亡の秋」等)、「在」の方は人間主体が空間的に一定の場所を占めることを意味してゐる(「在宅」、「在郷軍人」、「不在地主」等)。即ち「存」とは人間存在が自覚的であることを、「在」とは人間存在が社会的であることを意味するわけで、「存在」といふことはそれ自身取りも直さず「人間」の存在そのものでしかない。人間以外のものの存在は、この存在からの譬喩か派生物ででもあらう。

 で、かうして倫理の文義的解釈をしたのであるが、かうした「『人間』の学」が即ち「倫理学」だといふのである。尤も人間の学と云つても、所謂アントロポロギーのことではない。なぜと云ふに、西洋の所謂アントロポロギーは、人間を単に個人として抽象して考へるから、例へばM・ハイデッガーの場合のやうに、仮に人の自覚的存在を論じるにしても、人の社会的人間的連関を見落して了ふから、到底「人間」の学ではあり得ない。まして個人の身心関係を論じるやうな自然科学的「人類学」や形而上学的な「哲学的人間学」(実は「哲学的人類学」なのだが)は、「人間」の学ではあり得ない。人間は個人であると共に個人的存在を超越した共同体的人間存在なのだ。だから個人にとつては、ここから所謂道徳上のゾルレンも発生するのだ、といふ風に考へられる。――かうした倫理学のプランは色々と工夫され得るだらう。だが重点は、かうした本当の倫理、従つて本当の倫理学はどうも日本或は精々古代支那に於てしか見出されず、又成立し得ないといふことになるらしい点だ。蓋し日本倫理は模範的倫理である。この倫理学の本は専らこれを示すために書かれてゐるのである。決して単に日本に於ける倫理の解明でもなければ、吾々現代の日本人のためにその倫理と道徳とを批判するために書かれたのでもない。

 処がこの模範的な日本倫理は、決して珍奇なものでもなければ変なものでもない。実は之こそ却つて西洋倫理(?)の殆んど一切の優れた倫理論者の根本思想だつたのだ。ただそれが彼等に於ては夫々の不充分さを脱しなかつたために、判然とした「人間の学」としての日本倫理にまで上昇出来なかつた迄で、西洋倫理と対比し或ひは之と接続させることによつて、日本人間学は模範的な人間の学に、即ち模範的人類の学に、即ち世界人類に倫理的模範を示してやる学に、なるのである。つまり日本人は模範的な人類だといふことが結論になるわけなのだ。――アリストテレスの「ポリティケー」、カントの「アントロポロギー」、コーエンの「純粋意志の倫理学」、ヘーゲルのジットリッヒカイトの概念、フォイエルバハの「アントロポロギー」、マルクスの「人間存在」が、夫々日本倫理学の、不充分な先駆者として挙げられる。――マルクスを換骨奪胎することによつて、マルクス主義的なものから日本的なものへ直線的に走るのは、今日では、何も日本倫理学に限らず、又和辻哲郎教授の思想態度には限らない社会現象だ。

 重ねて云ふが、和辻氏の倫理学は、氏のその他の一切の業績もさうである通り(風土史観、日本精神史、原始仏教、国史等々の研究)、その対象の民族的特殊性を強調し、又特に日本的乃至東洋的特殊性を強調解説することにあるのだが、それにも拘らずその研究方法或ひは考察態度は、いつも欧州哲学の支配的潮流に基いてゐる。『原始仏教の実践哲学』に於ては、当時の日本の大多数の仏教学者が、ヨーロッパ的方法としては高々カントの批判主義などの段階に止まつてゐるのに対して、「現象学」的見地を導き入れたから、仏教の独自な哲学的現代文化的解説を与へることに可なり成功したやうに見受けられる。之は当時の平凡な職業的僧侶教授たちの到底企て及ばなかつた処であつたらしい(但し宇井伯寿教授は例外だつたが)。この倫理学も亦、その対象が前から云つてゐる通り日本の倫理であり、或ひは寧ろ日本主義倫理であるのだが、併しその方法は日本では一見モダーンに見えるヨーロッパ的「解釈学」に基いてゐた。これが他の教育家風や儒学者風の倫理学に較べて、著しく現代的文化性を有つ所以だ。と同時にここに吾々が警戒しなければならぬワナがあるのである。

 一体和辻氏の一般的な哲学上の方法は、一見極めて天才的に警抜に見えるが、他方また甚だ思ひつきが多くてご都合主義に充ちたものであることを容易に気づくだらう。だから氏独自の哲学的分析法と見えるものも、多分に雑多な挾雑物から醸造されてゐるので、それは必ずしもまだ本当に独自なユニックな純粋性を持つてゐない。現にこの倫理学も、多分に西田哲学の援用と利用とがあり、而もそれが必ずしも西田哲学そのものの本質を深め又は具体化する底のものには見えないので、西田哲学からの便宜的な借りものをしか人々はここに見ないだらう。別に氏自身明らかに云つてゐるのではないが、氏のこの倫理学に於ける方法に就いては、直接には後輩三木清氏等の「人間学」に教唆される処も少くないやうだ。この点が併しもつとオリジナルにはM・ハイデッガーに負ふものであることは云ふまでもない。

 氏は明らかにハイデッガーの解釈学的現象学に負ふ処が最も多いことを告げてゐる。特に「人間」とか「世の中」とか「存在」とかいふ言葉の分析と問題の捉へ方とは、全くハイデッガーのものの考へ直しであり、アナロジカルな拡張に他ならぬことが一見明らかだ。ハイデッガーがドイツ語やギリシア語や又ラテン語に就いてやつたことを、和辻氏は日本語や漢文やパーリ語に就いて拡張して行つたに過ぎないとも云へる。――だが、その結果はもはや必ずしもハイデッガーの所謂解釈学的現象学の根本テーゼに忠実であることは出来ない。出来ない筈で、もしそれが出来るやうだつたら、つまりこの倫理学は何かカトリック主義的な、或ひはゲルマン的な、或ひはヒトラー主義的な、倫理学になるだらうが、決してこの非常時的日本の日本倫理学にはなれまい。日本倫理学を提供するといふ社会的需要から云つても、ハイデッガー的根本テーゼのいくつかは、日本型にまで批判改造されなければならぬ義理がある。

 ハイデッガー的解釈学的現象学の根本的な特色の一つは、氏によると、彼が問題を存在(Sein)から始めたといふことにあるらしい。といふのは、ハイデッガーではこの存在をつかむ通路として初めて人間的存在が、自覚的存在が、Daseinが、問題となる。だから云はば彼がここでいふ「人間学」「人間の存在学」は、存在論(オントロギー)の単なる方法乃至手段の意味をもつだけであつて、実はこの哲学の主題となつてゐるのではない。これが和辻倫理学と異る第一の点だ。

 だが併し問題が違ふだけなら、苦情を持ち込むことは出来ない義理だが、大事なことは、その結果として、そこでは存在が本来人間的なものである点を充分に想定しつくしてゐないといふ根本欠陥である。和辻氏によると「存在」といふ日本語は実は、人間の行為的連関そのものを意味する筈のものであつて、而もこれこそが「存在」の世界に冠たる優れた概念でなければならないのだが、もしさうだとすると、仮に存在の問題から、それへの通路としての人間の問題にまで行くにしても、その存在といふ概念と共に、その人間といふ概念も亦、ハイデッガーのもののやうであつてはならぬ。存在を充分に人間と関係づけることに思ひ及ばなかつたハイデッガーは、実は人間といふ社会的歴史的(風土的!)な人間共同体ではなくて、その代りに単なる「人」が、個人が、彼の存在への通路として取り上げられる。だから彼の「人」の存在に於て見出される時間性も、実は人間の歴史性ではなく、又彼の「人」にも本当は何等の社会性(風土性!)はあり得ない。彼が「世の中にある」(In-der-Welt-Sein, Mit-Sein等々)といふものも「人々」と云ふものも、つまりは個人的な人の存在に関はつてゐるので、本当の人間存在の規定にはなつてゐない。之が第一の欠陥だといふのである。

 人間(実は「人」)の存在をかうした個人的存在(?)と考へることは、ハイデッガーの解釈学的現象学が意識(自覚)をその学的分析の地盤とすることに照応してゐる。事実、意識、自覚を通路とすればこそ、ハイデッガーの哲学法は一種の(解釈学的な)現象学の名に値するわけで、ヴォルフ学派(ランベルト)以来、カントに於てもヘーゲルに於ても、フッセルルに於ても、現象学(フェノメノロギー)とはいつも個人的意識の面に関はるもののことである。だがハイデッガーの現象学はただの「純粋」な現象学ではない。解釈学を導入した、或ひは解釈学的にモディファイされた現象学なのである。W・ディルタイは歴史の解釈記述の方法として表現の解釈といふ途を選んだのだが、この表現はディルタイに於ては生の、体験の、その意味では一種の意識の、表現を意味した。ここではディルタイは、著しく心理学的なものからの制約を脱してゐない。この生哲学風のディルタイ的解釈が、学的厳密を誇るフッセルルの現象学と結びついて、云はばハイデッガーの解釈学的現象学となつたのだから、この方法の現象学的、意識論的、或る意味では心理学的でさへある特色は、決定的なものだ。

 処で和辻氏の批評によると、解釈学と現象学とが、このやうな形で結びつくといふことが一体やや無理なのである。解釈といふのは、表現を通してその背後にある個人なり民族なり時代なりの人間生活を追溯し再経験することでなければならないのだが、かうした表現の背後にあるものと、現象学に於ける現象といふものとが、到底一致出来ない要求を有つてゐる。なぜなら現象学でいふ現象とは、本体や本質が現象した処の現象ではなく(現象学は現象の背後にさういふものを想定することを科学的に拒む)、事物をその現象だけに就いて分析するための場面のことであり、そこでは事物そのものがそのありのままの姿を顕はす(現象する)のである。だから正確にいふと、現象に就いては表現といふ言葉はトンチンカンになるわけだ、といふのである。――で氏によると、人間の学としての倫理学の哲学方法は、ハイデッガー式解釈学の現象学的な現象主義を清算して、純然たる解釈学にまで行かなくてはいけない、といふのだ。

 そこで吾々に云はせると、この点必ずしも不賛成ではない。一体フェノメノロギー(現象学)の現象といふ言葉は、直接にはF・ブレンターノの「実験的立場による心理学」から来るのであるが、ブレンターノの哲学的立場は一種の実証主義に他ならない。彼はA・コントの「現象」といふ言葉を心理学に採用したのだ。だから、現象学そのものが現象主義で経験主義で、現象の表面を匍匐する現実主義の云はばカトリック的形態に過ぎない。之によつて、倫理であらうと人間であらうと存在であらうと、凡そ事物の真相や意義(意味)などが掴めないのは、常識的に云つても明らかなことだ。かういふ現象面を匍匐することによつて、事物を解釈しようといふことは、元来無理な企てだつたとも云へるだらう。

 ハイデッガーの方法に就いての問題は右につきないが、今はその処ではない。だが一体和辻氏の解釈学が、果して現象学乃至解釈学的現象学に較べて、どこかに根本的な優越性があるだらうか。解釈学的方法そのものが、一種の、より複雑ではあるが併しより内訌した、現象主義であり反本質主義なのである。

 「人倫とか人間とか存在とかいふ言葉は、すでに云つたやうに一つの表現だ。而も人間を動物界から区別する根本的な表現であり、又之によつて事物の分析が始められる意味ではロゴス的な通路としての根本表現だ」とこの倫理学は見てゐる。だが一体表現といふものの理論上の価値が抑々吾々にとつて疑問なのである。表現は生活の表現だが、生活がどういふ風な現実的な物質的プロセスを通つてこの表現物にまで生産され結果したかといふ、さうした歴史的社会の物質的根柢に触れた因果の説明はこの場合少しも問題にされない。表現は単に一定の生活背景に対応する(対応は物理的な因果や交互作用ではなくて云はば数学的なつき合はせ―― Zuordnung(割り当て)――にしかすぎぬ)処の意味を持てばよい。この意味を解釈することが、表現といふ概念を哲学のシステムに持ち込むことの目的だつたのである。事物のレアールな物的関係ではなくて、事物の「意味」だけの観念的なつき合はせが、「表現」に於て許される唯一の問題なのだ。

 なる程現象学的な現象主義では、事物のもつ意義さへが、意味さへが、解釈出来なかつた。併し氏に於て見られる解釈学に於ても、事物の物質的な現実のレアールな意味は、決して解釈されない。解釈されるものは云はば数学的とも云ふべき審美的な詩的な象徴的だとさへ云つていい表現の意味だけだ。表現とは大まかに極言すれば、要するに事物関係そのものに代行する非現実的なシムボルなのだ。で、さういふ点から云つて解釈学も亦、一つの立派な現象主義或ひは現象学でさへあるので、ただ所謂現象学の方が「事物そのものに肉迫する」ことをモットーとするのに反して、解釈学の方は却つて、事物そのものの代りに事物の非現実的なシムボルを求めるのだから、それだけ所謂現象学よりもより以上に現象学的で現象主義的だとさへ云へるに他ならぬ。

 なる程解釈学的倫理学は、歴史的社会の物質的生産関係を決して無視しないとはいふ。無論夫を無視しては人間の解釈といふ招牌(看板)に佯りがあることになるだらう。だがその際生産関係はどういふ意味の下にこの倫理学の取り上げる処になるかといふと、あくまで人間存在の表現としてであるに過ぎない。人間存在が物質的生産関係を通じて因果し又交互作用した結果が倫理であるといふのではなくて、さうした物的基礎の構造連関の代りに、観念的な意味の構造連関が取り出され、さういふ一種の社会的象徴として、歴史社会の物質的基底がとり上げられるに過ぎない。貨幣に於て社会の人間関係が表はされてゐるといふのは、その表現する現実的な物的過程そのものがこの貨幣といふ一種独特な商品を産み出したといふ因果関係を指すのだが、解釈学的表現として之を分析するならば、多分、階級対立が次第に必然的に尖鋭化して行く資本主義社会を得る代りに、恰も和辻倫理学が発見した「人間存在」といふものでも得るだらう。ここに解釈学的方法の現実上のナンセンスが横たはる。

 資本主義的階級社会の代りに、極めて一般的な又抽象的な「人間存在」を齎すやうに出来てゐる処のこの解釈学的方法は、歴史社会の現象の表面を審美的にかすめて行く方法のことだが、その結果は必ず或る意味に於ける「倫理主義」に行かざるを得ない。と云ふのは、一切の歴史的社会的現象が、その基礎構造や上部構造などの区別を予め払拭した一様に扁平な諸事象として、一つの概念に包摂され投げ込まれることになるが、その時「人間」といふ概念が最高の類概念となるのである。そしてこの人間とはそれ自身既に一般化され抽象化されたものの筈だから、全く人間的なもので、即ち人倫学的なものであるのだから、一切の歴史的社会的現象は倫理現象に還元される他ないのである。――和辻倫理学がかうした倫理至上主義を取るのは、決して問題が倫理であるからではない。寧ろ、歴史的社会の現実的物質的機構の分析から出発することを意識的に避けようとする解釈学の唯一の必然的な結果なのであつて、さういふものが「人間の学」の、即ち広義に於て今日の日本の自由主義者や転向理論家が愛用する「人間学」の、根本特色なのだ。倫理主義は必ずしも倫理学だけのものではない。一切の経済学も政治学も社会学も行かうとすればいつでも行くことの出来る、而も「科学的」に行くことの出来る、境地なのである。

 で、かうした一切の人間学主義――それは必ず何かの形の倫理主義に到着する――が、今日日本に於て最も確実らしい実を結んだ解釈学だといふことを示すものが、和辻氏のこの倫理学だらう。解釈学がどのやうな意味に於て形而上学であり、又その意味に於ける形而上学がどのやうに積極的に観念論であるか、といふ点に就いては十一に述べた。――問題は今、かうした人間学、倫理主義的解釈学が、いかに日本主義的なものであるかといふ点だ。ドイツに於てはヒトラー主義へ、日本に於ては日本主義倫理学へ、之が解釈学に潜んでゐる自由主義(?)といふものなのである。つまり和辻式倫理学は、自由主義哲学が如何にして必然的に日本主義哲学になるかといふことの証明の努力に他ならぬ。

  (倫理の問題に関して和辻氏にはなほ他に『国民道徳』の労作がある。其他、原始仏教、国史、日本精神史の研究、いくつかの風土論や「日本精神」といふ短文、を参照しなければならぬ。――なほ之を西教授の『東洋倫理』ともつと詳しく比較出来たら面白いと思ふ。)


第八 復古現象の分析
      ――家族主義のアナロジーに就いて


 便宜上、話を廃娼運動から初めよう。内務省は一九三五年の四月を期して全国的に公娼廃止を断行することに決定したと伝へられる(実は四月には断行されなかつたが)。すでにこれまでに、秋田、長崎、群馬、埼玉の各県では、公娼廃止即ち遊郭廃止が実行されてゐる。前年警視庁では公娼制度に固有な禁足制度を撤廃し、同時に自由廃業の実質的な自由を多少とも尊重する方針を取つたが、之は内務省の今の方針の先触れをなすもので、天下の大勢がどうやら廃娼の必然性に帰着したやうに見えることは、否定出来ない事実だ。全国の公娼五万三千人の身柄の(形式的に止まらざるを得ないにしても)自由のために、そして全国五百三十の遊郭の不幸のために、それから又三百年の国粋的伝統(?)の愛惜のために、之は記憶されるべき大勢なのである。

 この大勢と当局の方針とを早くも察した楼主達は、貸座敷業から料理屋にまで転業することを欲してゐる。尤も当業者の商売が不振でなければ決してかういふ当局の方針も発生しないのだが。例へば洲崎の百三十の楼主達は警視庁にその嘆願運動をしたと云はれてゐる。云ふまでもなく楼主自身から見ての営業不振が唯一の動機であつて大勢を察した察しないといふ問題ではないのだが、併し天下の大勢なるものは、いつもさうした物質的根拠以外に依つては成り立たない。

 そこで廃娼運動の中心勢力であつた「廃娼連盟」は三四年末を以て解散し、それに代はつて直ちに「純潔郭清会」が組織されて、新しい運動に這入つたのであるが、処がここに一つの問題が発生したのである。

 元来廃娼運動は、云ふまでもなくその本来の立場から云へば、社会に於ける公私一切の売笑制度の撤廃乃至撲滅を窮極目的とするものであるが、さういふことは社会組織そのものの問題に帰することであつて、単なる売笑廃止問題としては片づかない。で、今日まで廃娼運動が目標として来た直接の目的は、婦女子児童売買乃至一般に人身売買と、それに当然伴はなければならぬ人身抑留とを、国家が法的に保護の責に任じるといふ、所謂文明国では非常に珍らしい公娼制度につきてゐる。之は日本に於ける軽工業婦人労働者の場合と好一対な日本の「特殊事情」に基く労働条件乃至収取条件をなすもので、日本がかねがね国際連盟に於てその日本的現実を強調することを忘れなかつた日本固有なものの一つであつた。ただ軽工業婦人労働者の場合には、日本産業の技術的発達とか、日本労働者の優秀な技能とか、それから之は後に大事であるが、日本労働者の家族的家庭的美点とか、として説明されたものが、公娼の場合に就いては却つて国辱として指弾されざるを得ないのだ。廃娼運動はこの国辱的公娼の廃止に於てだけ成功を収めようとしてゐるのである。だからそこには、必ずしも国辱的ではないが併し無産者の恥辱であることには一向変りのない処の、私娼の問題がまだ残されてゐる。

 問題は、この私娼問題をキッカケとして、起きる。といふのは、六十七議会の終る頃になつて、衆議院では娼妓取締法案なるものが提出されたのである。之は実は廃娼反対、公娼制度強化を内容とするもので、衆議院の過半数である二百七十名の選良の連署を以て提出されたといふから注目に値ひする。廃娼法案が夫まで幾回となく提出されて未だかつて真面目に討論されたことさへない日本の衆議院だから、この存娼委員会では、存娼派の方が云ふまでもなく圧倒的に多数であらざるを得ない。廃娼派が、廃娼は天下の世論だと云へば、多数派の存娼派は、衆議院の過半数の提案の方が天下の世論ではないかと嘯(うそぶ)くのである。衆議院が天下の世論を如何に立派に代表してゐるかがこの例で実に見事に判るのだが、それはそれとして、この娼妓愛好家達の主な表面の論拠は、廃娼の結果として私娼が跋扈して風紀衛生上甚だ弊害がある、といふ点にある。

 私は今私娼論にまで立ち入ることは出来ないが、併し注目すべきことは、これよりしばらく前、二千名の全国貸座敷業者が、やはり同じ趣旨に帰着する処の存娼大会を持つたといふ事実である。処がその発表された宣言が今何より大切なのである。

 曰く「西洋文明に心酔せる為政者識者が、徒らに国法無視の私娼を奨励して、国法に準じ家族制度を尊重して永き歴史を有する貸座敷業者を圧迫することは、将来救ひ難き禍根を淳風美俗のわが国家社会に残すものとして絶対反対する」といふのである。之は決して楼主達の与太気焔ではない。全く彼等の生活の叫びなのだ。そればかりではない。例の娼妓愛好家の議員達の云ひたくて流石に云ひ切れなかつた一点を、極めて率直に勇敢に云つて退けたものに他ならないのだ。私は議員達の大半が楼主達に買収されたとは到底考へ得ない。それから実を云ふとまさかそんなに愛娼家揃ひだとも思はない。するとつまり彼等天下の選良達は、公娼制度がわが日本の「家族制度」と「淳風美俗」とかから離れることの出来ないものであり、いやしくも之を疑ふ者は之即ち「西洋文明」の唯物思想(?)に他ならぬ、と私かに信じてゐるものと見做す他はあるまい。なぜなら私娼が公娼に較べて風紀衛生上弊害があるといふやうな主張は全く架空の想像に過ぎないことで、内務省あたりから事務官でも欧米に派遣した上でなければ決らぬことだからだ。

 つまり公娼制度の必要は、わが国三百年来の、否三千年来の、淳風美俗たる家族制度から結論される一結論だといふわけである。処がこの滑稽な哲学は、案外一部識者の手近かな常識と縁遠いものではないのではないかと私は思ふ。無論かうした馬鹿げた常識(?)は、そのものとしては取るに足りないが、併しかうした馬鹿げた気分の動きが、案外思はぬ処で、民族精神の或る一つの秘密を告げてゐるといふことが大切である。

 公娼制度の問題は大にしてはその本質に於て無産者農民の桎梏の問題だが、之とつらなる家族制度の方は、抑々日本民族生活の本質なのだと今日主張されてゐる。だから例の貸座敷業者の亭主達は、決して馬鹿に出来ない民族主義的社会理論の一端を本能的につかんでゐるわけなのである。その成否はとに角として、存娼運動は、現在日本に於ける、復古観念の単に最も色情的な一表現に他ならないのだ。

 処で現在、日本の家族制度ほど現実社会の或る種の解釈表現に便宜を提供してゐるものはない。すでに公娼制度の支持一つにも夫は決して無効ではなかつた。また単に低労賃や労働力拘置のための有力な観念的支持であるだけでもない。広く失業問題そのものに就いてさへ、家族制度は問題の困難を緩和するために存在するやうに見えるのである。と云ふのは。日本に於ける実際上の失業者の幾十パーセントかは、家庭といふ既就職の単位の内に吸収されることによつて、失業者の官僚的な数値を観念的に激減させる役割を果してゐるからである。さう考へて来ると、全く、家族制度こそ日本の社会の本質だといふ見解の真理が初めてよく判る。ではその肝心な日本家族制度は最近どうなりつつあるか。

 東京市統計課の調査によれば、市内八十個の小学校六年生児童の家族二万の統計の結果明らかになつた処によると、その家庭の九割までが両親とその子供だけからなつてゐる純然たる単一家族であつて、祖父母や伯父母が同居してゐるものは全体の約一割に過ぎないといふのである。之は一方に於て結婚、独立、其他によつて家族成員の別居が盛んであることを示すもので、即ちそれだけ日本古来の家族制度が崩壊し、事実上「個人主義」化して行きつつあることを物語る。と共に他方に於ては、東京の家庭の多くのものが地方の家族成員の出稼ぎの移民のものであることをも示してゐる。現に警視庁の一九三五年度の戸口調査によると、東京市の人口は前年に比して約十八万五千人を増してゐるが、その三分の二は地方からの上京者なのである。従つてここから判るやうに、この統計に現はれた東京に於ける家族制度の崩壊、所謂個人主義化は、同時に又農村乃至地方に於ける家族制度の崩壊、所謂個人主義化をも意味してゐるわけである。東京に単一家族の戸数が出来ただけそれだけ、農村乃至地方に於ては残留者による単一家族戸数が発生するわけである。かうやつて全国を通じて(この際決して都市と農村との原則的な区別などを要しない)、その緩急は別としても、とに角日本的家族制度の崩壊が天下の大勢だといふことは、実は今更統計を俟つまでもない事実である。

 だがこの家族制度を、現実の社会の或る種の解釈表現に際して利用しようとする現在の家族主義者達(之は今日の日本主義者達の大部分に各種の形で一貫して現はれてゐる)は、この制度の崩壊を頭つから認めないか、又は認めるとすれば、悪むべき個人主義としてしか認めないのであつて、いづれにしても彼等は家族制度に、日本の、又は彼等自身の、最後の期待と希望とをつなぐことに変りはない。失業問題、貧困問題はこの家族制度といふ理想によつて、観念的にその困難を緩和されるのである。――処が現実的には、家族制度の崩壊といふこの事実によつて、家族の成員は失業者又は失業可能性の所有者に加はるべく、家族(家庭)と家族制度との外へ押し出されるのである。

 現に婦人の就職(従つて又婦人の失業)が之であつて、婦人達は家族制度に安住する家庭生活の崩壊といふ犠牲を払ふことによつて、初めてその独立を得ることになつてゐる。ここで独立といふのは、経済的な独立(就職)か、身分に於ては独立だが経済的には非独立(失業)か、の謂ひなのだが。東京で出勤、通学其他のために毎日外出する百五十万人弱の中、五十二万人近くが婦人なのである。――で少くとも娼妓の独立が家族制度を破壊するだらうと心配された以上に合理的に、一般婦人の独立が日本の家族制度の崩壊に照応してゐることが、ここから証明出来るわけである。現代女性は日本古来の彼女達の家族制度から脱却し始めた。之は家族主義者達(それには各種のものがあつたが)が決して安心出来ない不吉な徴しである。

 処で例へば、女子教育家として有名な東京府立第一高女の校長市川源三氏は、その公民科教科書『現代女性読本』に於て、新しい良妻賢母主義、即ち妻の身分上の独立に基く良妻賢母主義を提唱した。処が、それが果せる哉、多分にもれず家族主義的現代常識の所有者の集りである府会で問題になつたといふ事件がある。府ではこの本を学校で使ふことを禁じたり、削除か発禁にしようとしたのである。府会議員の常識によると、個人主義が中心になつてゐる市川氏の思想には、教育上不穏な個処が少なくないといふのださうだ。

 さて併し、かうした反個人主義としての家族制度を持ち出す人達の観念や行動原理は、決してただの趣味の愚劣さや教養の低級さだけに帰せられるのではない。即ちあり振れた単なる保守的反動の意識とだけ云つては済まされない。「之は現在に於ける積極的な復古現象に帰せられるものであり、又復古現象の典型でさへあるのだ」といふ点が一般的な関係から云つて大切だつたのである。一体個人主義と家族制度(家族主義)とを対立させること自身が、現在の日本の社会常識に於ける一つの注目すべきナンセンスであるが、云ふまでもなく之によつて彼等は、資本主義と資本主義に先行した封建制度との対立を示す心算なのである。だが現に今日の日本の資本主義は決してもはや純然たる個人主義などではなくて、却つてその反対物である色々の意味に於ける統制主義にまで著しく移行しつつある。個人主義は単に、独占資本主義以前の前期資本主義の意識に過ぎなかつたことは勿論だ。従つて特にこの前期資本主義的な個人主義をもつて来て之と家族制度とを対立させること自身がすでに、前期資本主義をば更に溯つて、日本の長期の封建制時代にまで積極的に復古しようといふ意図を示すものだつたのである。今日の発達した独占資本制の資本制としての本質を曖昧にし、逆に反資本主義であるかのやうな幻想を之に与へることが、かうすることによつて初めて、容易になるのは今更云ふまでもない。

 尤も単に復古現象と云つても、いつも夫が反動現象だとは限らない。ことに歴史の時間の流れに於て、本当に古へに復るやうな復古などはあり得よう筈がない。だから、所謂復古現象は必ず何かの観念的なイズムかイデオロギーとしてしかあり得ないので、さうした表面的な意識や口実が何であらうと、之によつて実際的に合理的見透しのついた社会の前進が齎されるならば、夫はその限り結局進歩的な本質を持つと一応云つてもいいだらう。明治維新の所謂「王政復古」も或る限度まではさう見ていいし、ヨーロッパの古典復興も亦さうだつた。処が今日のわが家族制度主義(さうした漫然たる意識)は、現に日々に崩壊しつつある所謂家族制度を眼の前にし、而も合理的な社会科学的認識のオーソリティーを向うへ回して、資本主義を一種の統制主義の名の下に維持し続けようといふための口実なのであり、それが漫然とした内容であるだけに、愈々卑俗な形で受け容れられ易いやうに出来てゐる口実なのである。

 だが、かう云つただけでは、家族主義が反動的復古現象であることは理解出来ても、それがこの反動的復古現象の典型的なものだといふことは、まだ判らない。徳川時代的な郭制度の維持や同じく徳川時代に発達し切つた女大学的良妻賢母主義が、なぜ現代の復古主義の代表者であり得るのか、といふだらう。併し家族制度は云ふまでもなく単に家族乃至家庭の問題ではなくて、社会又は国家そのものに関する問題なのである。又は、家族制度は社会制度や国家組織そのものではないが、家族制度に止まり又家族制度へ帰へるといふ家族主義は、取りも直さず社会又は国家そのものの組織に就いて物を云はうとする主義なのである。

 「今仮に例の市川校長の新良妻賢母主義その他に現はれた個人主義を、国家の問題に就いて求めれば、取りも直さず例の自由主義的国家論となるのだ」といふことの意味に、今注意を払はなければならない。そこでこそ、国家乃至社会が、民族又は国民の名の下に、一つの家族に譬喩されることによつて、この自由主義的国家論、国家説が排撃され得ることになるわけである。或ひはもう少し厳密に云ふと、社会が国家として、そして国家が民族として、そして更に民族が部族や氏族として、そして遂に之等凡てのものが家族として、譬喩されることによつて、この国家論は排撃され得ることになるのである。この排撃運動の意識に於ては、社会乃至国家の現実が家族の譬喩となり、更にこの家族の譬喩自身が再び国家の一現実となつてゐる点を見ねばならぬ。家族主義が復古現象の典型である所以は、ここに最も著しく現はれてゐるだらう。

 併し、現代日本の社会意識を見えかくれに一貫してゐるこの家族主義に於て、復古現象の典型となつてゐる処のものは、実はもはや単なる復古主義と云つては充分ではなくなる。それは正に原始化主義となつてゐるのである。尤もブルジョアジーの文明意識に照応する社会契約説さへが、その最も有名なそして他ならぬ日本の国家観念に対して最も決定的な影響を与へたルソーに於ては、一種の原始主義と結合してゐないではないが、復古主義の典型としての原始化主義は、この自然法や自然主義の原始主義とは異つて、もつと一定の歴史的な観念内容を、その欠くことの出来ない条件としてゐる。それであればこそ之はまづ第一に復古主義だつたのである。処が今は、この復古主義が、その歴史的な性質にも拘らず、原始化主義にまで極端化されるのだ。なぜ極端かといふと、その極点を一歩踏み越えると、もうそこには人間文化の歴史の代りに、自然人の未開や野蛮が横たはつてゐるからである。

 現代家族主義が原始化主義である特色は、まづ第一に論理的な場面に就いて現はれる。家族制度を個人主義に対立させる日本のイデオローグ達は、今日往々にして、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトといふ舶来の区別を持ち出すのであるが、それによると西洋の社会は個人主義的なゲゼルシャフトであるに反して、日本の社会に限つて、家族制的民族主義によるゲマインシャフトだといふのである。すると、さういふ家族制の社会心理は、正に親心や親子の情と云つた肉身的なセンチメントが無条件に支配する処となるのは必然だ。センチメンタルな思想やセンセーショナルな行動がそこで眼立つて行なはれるのも、ここから見て決して無理ではあるまい。処でかうした社会心理を動かす論理は、結局神秘主義以外のものではあり得ない。神秘主義は一方に於て非合理主義、反理性主義であると共に、他方に於て奪魂(エクスタシス)的で即肉的な体験だらう(「肚」の哲学などを見よ)。之こそ論理機能の原始化であり、論理的分析力の云はば家族主義化でなくてはならぬ。

 家族にあつては例へば二心二体である二人の成員は、一心同体であつたり一心二体であつたりする。その気持は分析説明の限りではないのであつて、全く直覚的に、直接に、さうでなくてはならぬ。違つた二つのものが直接に直観的に一つと考へられるのは、全く象徴や譬喩の論理なのだが、恰も家族主義の論理は社会を家族によつて譬喩するものに他ならなかつた。この譬喩は天皇制的「象徴」と共に、論議すべからざる、ことあげせぬ、論理の最も実際的な適用であつた。家族主義は譬喩からの政治的所産であるが、この譬喩が又家族主義的原始化からの論理的所産なのである。

 さて第二に、神秘主義は一般に、心理的には宗教的情緒を必ず伴ふものだ。処でこの家族主義的原始化に照応する神秘主義は、その内でも特に、原始的な宗教的情緒を結果する。原始的な宗教情緒といふのは、氏族的宗教の情緒に相当するといふことであつて、即ち家族的な限りの民族宗教の情緒のことを云ふのである。問題はここから、現代日本の家族主義に於ける原始化主義が、単に論理的でなくて社会的な場合にまで現はれてゐる点に来る。事実、家族主義的、氏族主義的、民族主義的な敬神思想は、日本の社会に於ける政治的対象に他ならない。家族主義的神秘主義から来る宗教情緒は、もはや単なる個人の私事に帰着する情緒ではなくて、社会の家族主義的宗教制度に帰着しなくてはならないのである。

 この宗教的情緒と宗教制度とになつて現はれる家族主義的宗教は、原始化主義的宗教であり、即ち一種の原始宗教であつたが、そのことから当然、之は一種のトーテミズムともなつて現はれる。トーテミズムが一定の祖先崇拝と禁厭神聖物の存在とを仮定することは、多数の社会学者達の実証的な研究が示してゐる通りである。更に又之は一種のアニミズムともなつて現はれる。天地の生成化育は草木の生命霊魂と共に、農業中心主義と結びついた場合のアニミズムの信仰対照だと見ることが出来よう。――かうやつて、家族主義は、家庭から始めて国家に及び遂に天地の広きに施して悖(もと)らぬものとなるのである。

 偉人の神社化も、かうした家族主義的原始化宗教の一つの副現象と見る時、初めて其意味の具体性が判つて来る。この種の一連の現象に較べるならば、建国祭に鉄兜の子供の行列があつたり、鎌倉仏教の復興が叫ばれたり、女学校の英語が廃止になりさうだつたり、紋付袴が流行つたりすることは、抑々極めて末端の社会現象に過ぎないといふことが判るだらう。

 民族主義、精神主義、神道主義、其他と呼ばれる代表的な諸日本主義の本質は、この家族主義といふ復古主義の代表者の内にあるのだが、この復古現象の特色であつた原始化は併し、実はその原始化の理想にも拘らず、日本の最も発達した近代的資本主義が自分自身のために産み出した処の、一つの近代化に他ならぬ、といふことを忘れてはならぬ。いつの場合でもさうだが、現代化の意図が、歴史的反省、回顧、「認識」の名の下に、窮極に於ては却つて実は非歴史的、反歴史的な原始化の形をとつて現はれざるを得ないといふことが、反動的な復古現象の特徴をなしてゐる。近代性が即ち原始化だといふ復古主義のこの矛盾は、一見歴史的であることを誇称することによつて却つて歴史を無視するといふ矛盾になつて現はれる。伝統主義はやがて伝統自身の破壊となつて現はれざるを得ない。国民の文化の伝統は、現に国粋化されることよつて一つ一つ破壊されて行かざるを得なくなる。之が復古主義的反動にとつて必然的な矛盾なのである。

 復古主義的反動のもつ矛盾の発生原因は併しかうだ。丁度資本主義といふ一つの歴史的段階が、資本主義自身を超歴史的な範疇と考へさせ、之を却つて無限の過去にまで遡及させるやうに、それの現段階的に特殊な一場合として、復古主義が或る政治的必要に逼られる歴史的段階に立つてから初めて創案した「古来」といふ逆歴史的な範疇を、或る任意の(人によつてはマチマチだ)有限な過去にまで遡及される、といふことに含まれてゐる喰ひ違ひから、この矛盾は発生するのである。例へば復古主義の典拠である記紀自身の成立が(それは国史の権威家によれば西暦七世紀頃に書き残されたものである)、かうした関係を含む広義の「復古主義」に立つてゐるといふことを、復古の論理のために、復古の方法のために、記憶しなければならぬだらう。明治の憲法制定とこれに結びついた一派の今日に至るまでの常識による国家観念も亦、元来かうした広義の「復古主義」の所産であつたが、この点、現在の反動的な復古主義に就いても、決して別ではない。

 復古主義の反動の秘密は、社会の現実上の現代化をば、観念的に原始化するといふ、この時間の構造から見た喰ひ違ひにあるのだから、反動的な復古現象はいつも、単なるイデオロギー(思想、感情)又はその発露としてか、又は社会事物のイデオロギッシュな観念的解釈としてか、又は社会事物のイデオロギッシュな側面にだけ関するものとしてか、しか現はれない今日、復古的反動家の大多数が、フラーゼオローグであつたり、又イデオロギッシュな観念論者であつたりする著しい特色は、決してその運動の未熟その他の一種の偶然によるのではない。現実の領域に於ては現代的資本主義の維持強化、併し観念の領域にぞくするものに就いては原始化主義、といふのが今日の復古的反動の根本条件をなしてゐる。哲学、文芸、道徳、法律、政治に於ける家族主義的復古主義は現に今日の日本を風靡してゐる。併し未だかつて、生産技術や自然科学の、又技術的生産機構の、原始化が実現されたのを見ない。

 現代日本の復古現象が、色々の形態のショーヴィニズムに連関してゐることは、人々の見てゐる通りだが、この帝国主義の現代的な現実上の要求と、この復古現象といふ原始化的な観念上の要求とを、離れることの出来ないもののやうに対応させて考へさせるカラクリは亦、他ならぬ家族制度主義の思想である。


第九 文化統制の本質
      ――現代日本の文化統制の諸々相を分析する


 今日云ふ処の各種の「統制」は云ふまでもなく政治的統制を意味する。と云ふのは、例へば資本主義的経営機構は純経済的な一種の統制を必然的に産み出す。生産商品の画一化、標準化、コンヴェーヤーシステム其他による能率増進、などといふ所謂産業合理化が之である。併しかうした純経済的な統制(尤もそれから大いに政治的社会的又文化的な結論が沢山出て来るのであるが)は、今日統制とは呼ばれてゐない。さういふ意味で、統制といふ限りいつも政治的統制のことなのである。国家を単位又は基準とする支配手段としての一切の統制が所謂統制なのである。処が又仮に国家を単位又は基準とする一種の統制だと云つても、例へば日満ブロックや日支協定となれば、もはやそれは統制といふ観念には這入り切らないものを持つて来る。――で、統制といふ機構が、単に政治的な単に支配者の支配機構にぞくするものに止まらず、特にそれが一国主義的な支配様式の法治的表現に他ならない、といふことをまづ注意しておかなければならぬ。

 日本の資本主義は、今はすでに定説になつてゐる通り、官僚的、軍義的な条件の下に、云はば上方からの圧力によつて過急に育成されたものであり、従つて初めから夫は、ある程度の統制――政府の干渉――に服して来たものであるが、併しこの上方からの統制が、社会の最も独自性に乏しいと考へられる部面である文化領域に向つて、一等早く又有効に、作用し始めなければならなかつたことは、能く知られてゐる。イデオロギーを統制することは、支配者政府の統制一般の役割を、一等手短かに、又一等顕著に、印象づける見本のやうなものなのである。

 かうやつて日本で最初に宣揚されたものは、教育統制の大指針であつた。処が前に云つた通り、統制は常に一国主義的な支配様式に照応するものであつたのだから、教育統制も亦当然、日本一国の特殊性、万古無比の歴史といふものの構成を離れて成立することが出来ない。ここに吾々は、日本に於ける統制(経済的又文化的)の典型の一半を見出すのである。人も知るやうに、教育の統制は日本に於ては極めて厳正であつて、中でも小学校(乃至中学校)は模範的な統制演習場となつてゐる。教育の権威は、論語でもなければ仏典でもなければソクラテスの理想でもない。ましてルソーやペスタロッチでもあり得ない。さうした普遍人間的な文化的権威の代りに、一国主義的な法治的な権威を帯びた一つの暴力的に構成されたイデーが重圧を加へてゐるのを見なければならぬ。之が日本に於ける教育統制の元来の本質であり、又日本に於ける統制一般の典型の一般なのである。――今日の所謂「文芸統制」の淵源は実に茲に存するのである。

 ここで同時に気づくことは、統制といふこの政治的な観念が、他の世界で統制と考へられるものから実際上異つてゐる或る特色だらう。一体統制といふ観念は、政治上の観念としても、決して今日日本で云つてゐるやうな積極的な押しつけがましい本性のものではない。それは自由なイニシャティヴ、自由活動等々に対立するものだが、さうした自由の積極的な諸活動に就いて、之をそのまま、何等之に積極的に手を加へることをせずに、或る一定方向に誘導することが、元来「統制」の意味なのである。その意味から云ふ限り、統制とは、或る一定の自由を積極的に否定したり、又はそれと積極的に対立することなどではなくて、単に同格の諸自由が並存してゐる場合に限つて、その内どれか目的に適つたもの一つだけに優先権を与へるといふ、ごく消極的な作用をしか持たないのが本来なのである。哲学上の観念としては、かうした統制は「構成」から区別されてゐる。代表的な場合はカントの「統制的原理」であるとか、ハンス・ドリーシュが生命の原理と考へたエンテレヒーのもつ統制などが之である。この点一般的に云へば政治の通念としても少しも別ではない。――処がそれが、例の教育統制に就いて見られるやうに、日本に於ける統制は元来著しく積極的であり又構成的なのである。国史の「国史」的(一国史的)認識は、教育統制の宣布と同時にほぼ完全に構成されて了つたと見ていいが、それが取りも直さず教育統制の稀に見る積極的な構成内容となつてゐるものに他ならない。

 教育統制はやがて初等教育から段々上部教育にまで網を拡げて来た。すでに中等学校の検定教科書はやがて国定教科書によつて置きかへられようとしてゐる。高等学校や専門学校では国定教授細目が決定されてゐる。大学令が改革されたことによつて、帝大及び帝大以外の各官公私立大学の講義内容と講義目的とは事実上又は名目上決定されてゐる。尤も特に小学校でない限り、少くとも大学や専門学校では、この教育統制は決して積極的で構成的ではなく、本来の統制の観念にやや一致しないのではないか、といふ風にも考へられるかも知れない。併し既に高等学校には視学制度が敷かれたことをまづ注意しなければならぬ。之は云はば補助督学官であるが、併し従来の督学官の補助ではなくて全く高等視学に他ならない。大学ではさうではなからうと云ふかも知れぬが、自由を称する各官立大学に於て、天皇機関説を講じる教授講師は、その講義を停止又は訂正することを余儀なくされてゐる。之はすでに狭義の教育統制よりも寧ろ学術統制とか言論統制とかにぞくする問題かも知れぬが、とに角大学教育の統制といふ問題に就いては見逃せない現象なのである。

 教育者自身に対する統制は仮に上級学校や大学へ行けば意義が薄くなるとしても、被教育者に対する教育統制(そしてこれこそ統制の目的なのだ)となれば、関係は全く逆だらう。学生生徒に対する学生生徒自身の、又大学乃至学校当局、又官憲による、又市民社会そのものによる、教育統制は、今日有名な現象だ。学生生徒自身が教育統制をやるのは変だと思はれるかも知れないが、併し前に云つた通り、統制は実は統制でなくて或る種の構成だつたのだから、右翼学生団などは国家の暗黙の承認の中にかうした自治的(?)「統制」の機関を構成してゐるわけになるのである。

 普通の学校、大学の教育統制に限らず、三五年四月から始まる青年学校から始めて、各種農村塾、青年団、在郷在営軍人団、各種宗教団等一切のものが、直接間接に教育統制の分担者であることは断るまでもない。蓋し広義の教育界は、統制の模範実施所に他ならないのである。

 処で学術統制の問題になると、一つの困難が之に加はつて来る。なる程教育に於ても教育の理想の名の下に、一つの真理が掲げられねばならなかつた。処がその理想、その真理が、他ならぬ統制意図自身によつて、容易に構成され得たものであつた。忠良なる臣民と国家に枢要なる人物の養成は、統制的教育の理想であり得た。併し学術の世界では必ずしもさう簡単に行かない。なぜなら、学術上の真理を、或る何等かの統制意図によつて構成することは、名目上から云つても実際上から云つても、決して容易ではないからである。

 無論、本来の意味に於ける自由の積極性に対する消極的対策としての統制は、どのやうな場合にでも実行出来ることだ。学術の場合に就いて云へば、例へばある種の研究には研究資金を交付して特に之を奨励するとか、研究施設を国庫によつて補助するとか、其他凡ゆる方法の優先権の付与や不平等待遇によつて、消極的な統制はやらうと思へばいつでも出来る。だがそれだけではまだ教育統制が積極的で構成的であつたやうな意味では、学術統制にはならない。ナチ・ドイツのやうに仮に学者や技術家の生活を妨害し得たにしても、それだけで学術上の真理が統制的に構成されたのだとは、外部の公明な識者は誰も考へない。――尤も事実上の問題としては、何が本当に学術上の真理かは決して決定され終らないから、前に云つた教育統制の効果を利用することによつて、学術上の真理を構成的に統制出来たやうな外観を呈することも不可能ではないのだが、併し外観と外観ならぬものとの区別がこの際には要点で、正にそこに学術上の真理の核心があるのだと人々は事実考へてゐるのだから、困難は依然として残るわけだ。

 処がこの学術統制さへが、今日の日本で可能になりつつあるやうに一見見受けられる。その一例は天皇機関説の問題であつて、日本の現在生きてゐる代表的な憲法学者の大多数が之まで承認し、かつ又日本の知能分子の大部分にとつては国民常識とさへなつてゐるやうに見受けたこの学説が、その真理であるかないかを、国務大臣の行政判断によつて決定して貰ふといふ外見を呈することになつて来たからである。無論国務大臣は学説の真偽を判定する資格も機関も持ち合はさないから、さうした目的を持つて事に臨んでゐるのではなく、全く行政上の一問題としてこの事件を決裁しようとしてゐるのであるが、併しそれが又とりも直さず、直ちに学説の真偽の決定と同じ内容を持つ結果になるといふ点が、学術統制たる特色に他ならない。

 政府当局は天皇機関説に対立するやうな学説を立てる意志はないと云つてゐるらしい。政府としては軍部団でもない限り、云ふまでもなくさういふことが出来る筈のものではない。だが、ある一定の具体的な形を取つた学説を否定し又はそれを誤謬と認定することは、学術上では、直ちに一つの反対学説の構成を意味してゐるといふ点を、見落してはならぬ。ここでも亦だから学術統制は極めて構成的であらざるを得ないのである。――学術の構成的な統制の好い例は、「日本精神文化研究所」が課せられた活動に如くものはない。だが、云ふまでもなくここから発表する「研究」は決して真面目に学界や言論界や読者界の話柄とはなつてゐないやうに見受けられる。学術上の真理が統制的に構成され難いことは、ここでも実証出来ることだ。

 尤も学術統制、学術の統制的構成が、曲りなりにも外見上又現象上可能なのは、学術の内でも主として社会科学、歴史科学、乃至精神科学、哲学に就いてである。処でこの種の学術の特色は、それが一方に於いて学究的であると同時に、又夫が言論的な性質をも必然に伴はなければならぬといふことにある。かうして評論的、又本来の意味でのジャーナル的、批判的な学術の統制は、だから最も受け取り易い接近路として、言論統制の形で以て現はれて来る。機関説問題などは元来が純学術上の学説問題であり、又あるべきであつたのを(そのブルジョア的、官僚的、軍部的、支配主体の内部に潜んでゐる経緯はとに角として)、この学術を統制する必要から特に言論統制の問題にまで「政治化」されたものだつたのである。

 内容がアカデミックであらうと又ジャーナリスティックであらうと言論は凡てジャーナリズムの形式に従ふ(尤もジャーナリズムは所謂言論だけを含むのではないが)。そこでこの言論の統制は、言論ジャーナリズムの統制として、旧くから合法的な言論統制機構を用意してゐる。出版法、新聞紙法、税関、其他による検閲制度が、之であるが、併して之を法曹的に理解する限りでは、この統制は単なる本来の「統制」にすぎないのであつて、まだ例の構成的な所謂統制にまで行かない場合にしか相当しない。尤もこの合法的な機構の合法的な運用であつても、事実上は決して合法的に決定されただけの言論統制ではないので、却つて一定の統制目的を具象化した言論構成なのだが(各種転向手記などがその著しい例だ――一国社会主義のイデオロギーなどもそのやうに統制的に構成された)、併しもつと純粋に合法的な手段で、而も積極的な構成的な言論統制が立案されつつあることを、大分前から耳にしてゐる。例へば軍部や外務省が胆入りで、国内の二大通信社である連合と電通とを合弁することによつて(そして之は事実上は政府が電通を買収することを意味するさうだ)、ニュース源、特に満州、中国、ソヴェート連邦に関するニュース源の統制、統一、作製、構成を目論んだり、或ひは新聞総局の建立が計画されたりしてゐたのを耳にする。この点ラジオは全く国家の統制的構成下にあるのであるが、新聞紙がどこまでこの構成的統制の餌となるかは、少くとも今の処では疑問だらう。この点雑誌、パンフレットの類も大同小異と云はねばならぬ。言論の積極的な構成的な統制は少くとも当分充分な意味では不可能に近いだらうし、又それが当然なことなのだ。なぜといふに、ここでは、仮にただの名目上のものに過ぎないとしても、依然として言論の自由といふ観念がいつでも人々へ疑問を提出するからである。――だが言論の積極的な構成的な統制にでも行かない限り、言論統制の最後の本来の目的は到達され得ない、といふ真理に変りはないのである。

 所謂「統制」は、事物のただの統制ではなくて、却つて事物の構成を意味すると云つたが、一定事物を眼の前にして改めて事物を構成する以上、実は夫は更に、反対物、対立物の構成でなくてはならない。国論統一といふやうな言論統制の一規定があるが、之も云ふまでもなく、国論を統制して統一することでもなければ、まして国論を単一化することでもなくて、国論に於ける二大対立物の対立を組織化することに他ならない。即ち対立的な「国論」(対立した国論などといふのはコントラディクティオ・イン・アドエクトーだが)の積極的な構成のことに他ならないのである。

 所謂統制が積極的な対立的な構成でなくてはならぬ証拠は、文芸統制に於て一等よく見て取られる。曾て内務省警保局で(但し局長個人の名義に於てではあつたが)、文壇各派の作家を糾合して「日本文芸院」の創立を計画したことは、当時有名だつた。この計画に追随して第二流、第三流の小「文芸院」運動が、右翼作家(?)の間に続々として起きた。処がこの計画は今日に至るまで蒸し返されつつも遂に実現を見ずに終つてゐる。かうしたファッショ的文芸統制運動に対して、最も有力な対抗運動を巻き起こすべき筈であつた学芸自由同盟などは、殆んど何等の業績も残さずに今日では有名無実なものに帰して了つたが、この点日本文芸院側の計画もあまり差違はなかつたやうに見える。処が最近警保局は、著作権法実施に備へるために著作権審査会の構成の目論み、その機会を借りて、同審査会の外郭団体として「日本文化委員会」乃至「日本文化院」の設立を企ててゐると伝へられてゐる。処でこの一連の綿々たる計画が、文芸統制の対立的で構成的な性質をよく云ひ表はしてゐるのである。

 警保局の意図は、各種の文芸領域に就いて、まづ夫々の文化団体を組織せしめ、それを打つて一丸にしたものを日本文化院と云つたものにしようとしたのである。日本文化院は文化の最高指導機関となるわけである。だから例へば小説を書くにしても、作家は作家団を通じて国家の創作最高指導機関たるこの文化院の指示を受けるといふことになるのである。云ふまでもなく併し文学的真理と国家的現実とは一致するとは限らぬ。そこにこの文芸統制のボロが出るのであるが、併し今大切な点は、文芸統制が実は文芸的対立の積極的構成に他ならぬといふことであつて、単なる統制としての文芸統制はこの際殆んど無意味でさへあるだらう、といふことである。

 だから結論されることは、もし文芸統制なるものがあるとすれば、或ひはもしさうしたものが実施されるとしたら、それはもはや文芸の統制ではなくて或る一定の文芸的対立物の産出を意味しなければならぬといふことである。従つて「統制」の暁に現はれる現象は、実は文芸の統一、単一化ではなくて、却つて正に国内に於ける二群の文芸陣の対立そのものに他ならぬ、といふことである。そして之が、独り文芸に限らず、一般に今日云はれる処の「統制」の本質なのである(帝国美術院の改革問題の本質もここに根ざしてゐる)。――例の明治初年来の教育統制などは、今日のこの所謂統制観念への発達を模範的に準備工作したものに相当するといつていいだらう。

 国内に於ける文芸のこの対立的構成(それを世間では単純にも統制と呼んでゐるが)は、対外的にも亦文芸の対立的構成となつて現はれる。「国際文化振興会」の意図はそこにあるので、之は一寸想像されるやうに、ただの日本文化の紹介や文化の国際的交換を目的にしてゐるのではない。実は国内文化の「統制」によつて生じる文化的対立を、対外的乃至国際的な観点に立つことによつて、抹消し単一化しようとする処の、間接な併し遠大な日本の対国際的文化統制計画に他ならない。尤も「国際文化振興会」の当事者自身が主観的にどういふ意図を持つてゐるかは、第二の問題なのだが、併し満州事変リットン報告書の主リットン卿が委員長となつてロンドンで開催される「支那美術大展覧会」に、日本の国法を出品するなどに及ばぬと云つてゐる辺から見ると、当事者自身の或る者は、この国際文化振興会の哲学的意義を案外客観的に捉へてゐるやうにも思はれないではない。

 元来所謂「統制」といふ観念程曖昧に理解され巧みに利用されてゐるものはない。それといふのは、その統制は実は統制の正反対物である「構成」に他ならず、又統一の正反対物である「対立化」に他ならないからだ。そして、この統制なる言葉の低級なデマゴギーとしての特色が、文芸の統制に至つてその絶頂に達するのである。


第十 日本主義の帰趨
      ――ファシズムから皇道主義まで


 日本主義とは、ファシズムの或る一定特殊場合に発生した一つの観念形態のことである。尤もこの主義は厳密に云ふと必ずしも観念物に就いてに限つて見受けられるものではなく、経済機構乃至社会の物質的土壌にまで観念の作用が浸潤する限り、この物質的な社会機構の或るものにもその特徴を押し与へてゐるものではあるが、併し本来から云つて、日本主義は勝義に於て観念であり、而も之が云ふまでもなく社会の物質的な一定条件から発生するにも拘らずその物質的な基礎を客観的には反映してゐない。だから、観念形態といふ意味に於ても又不幸な観念といふ意味に於ても、之は極めて著しくイデオロギッシュな根本性質を初めから持つてゐる。つまり之は「日本イデオロギー」なのである。今この日本主義の諸条件とその行きつく到達点とを簡単に分析して見たい。

 独占資本主義が帝国主義化した場合、この帝国主義の矛盾を対内的には強権によつて蔽ひ、かつ対外的には強力的に解決出来るやうに見せかけるために、小市民層に該当する広範な中間層が或る国内並びに国際的な政治事情によつて社会意識の動揺を受けたのを利用する政治機構が、取りも直さずファシズムであつて、無産者の独裁に対してもブルジョアジーの露骨な支配に対しても情緒的に信念を失つた中間層が情緒的に自分自身の利害だと幻想する処のものを利用して、終局に於て大金融資本主義の延長といふ成果を収めるのに成功しさうに見える比較的有利な手段が之なのである。

 かうしたファシズムの政治的社会的又経済的な一般的方針はとに角として、日本主義的ファシズムに就いては、ファシズムの帝国主義的な本質から出て来ることの出来る一つの性質を今特に注意する必要があるだらう。それは漠然と軍国主義乃至軍国意識と呼ばれてもよいものであつて、帝国主義が帝国主義戦争を呼び起こさねばならぬ場合には、可なりの必然性を以て発生する一種の社会意識なのである。尤も一般的な社会意識として見れば、軍国意識は必ずしも帝国主義的なものに限らないが、逆に帝国主義のある処、即ち又帝国主義戦争の可能性が現実性を有つ場合(所謂必然性とはかういふことだ)、いつも可なりの必然性を以て帝国主義的意識が発生する。処で今は特に之が、更にファシズム的な特色を持つた場合が問題なのである。

 尤もファッショ軍国意識は今は必ずしも珍しくない世界的現象の一つだが、日本主義では之が更に、日本の特殊な特権的職業団である軍部の存在と夫の意識とによつて限定された云はば侵略的軍国意識となつて現はれてゐる。日本主義の一つの異彩ある規定としてのこの特有な軍国意識は、帝国主義的、ファシズム的、そして更に軍部的な排外主義なのだ。之は日本ファシズムの要約としての日本主義にとつて、決定的な特色をなすものなのである。

 世間の人の知つてゐる通り、軍閥乃至軍部団は、単なる社会層、社会群、職業団ではなくて、統帥権から由来する一切の政治的特権を事実上持つてゐる一つの大きい勢力であることを忘れてはならぬ。尤もここで軍部団と呼ぶのは、当然なことだが、経済的自由としての社会身分を保証する意味での職業的軍人達のことを云ふのであつて、社会に於ける経済生活の上から云つて(命令系統の上から云つてでなく)、一切の非職業的兵および将校自身の下級幹部とをば、所謂「軍人」から除いた残りのものを指してゐる。この軍部団を、統帥関係から来る先に云つた特権は論外として、ただの市民的社会層として見れば、形式上にも又相当の程度に実質的にも、色々の意味に於ける身分保証を与へられた軍官的官僚団であつて、その大部分は経済的条件から見て中間層の最上部以外には出ない。官吏群が一種の中間層であるとすれば、軍部団に就いても同様のことが言はれねばならぬ。――で、一般にファシズムが中間層の意識によつて支持されるものとすれば、日本主義がこの軍部団のほぼ画一的に養成された或る一定意識によつて支持されるといふことは、本質的な意味のあることだ。

 だが無論日本主義的軍国意識を支持する主体であるこの軍部団は、今日の日本に於て決して偶然に存在するのではない。軍部の発生は、或ひは寧ろ軍部の創立は、国外資本主義からの圧迫に対抗するために必然にされた明治維新の、避けることの出来ない一つの結果であつて、そこから日本主義のこの軍国的な本質がもつ処の必然性も理解されなくてはならぬ。それだけではなく、この軍部団の成立は、日本兵制の沿革から見ても亦、極めて必然的なものとされてゐるのであつて、現在の挙国皆兵の根拠は遠く日本古来の兵制へ王政復古したものに他ならないと見られてゐるのである。ここに又、この軍部的軍国意識が日本主義の一本質とならねばならぬ遠い必然性があるのだ。

 ただ私はすでに、所謂軍部団を、軍官的官僚団と一応見ることによつて、之を一般の「軍人」なるものの内から区別する根拠を示しておいたのだが、従つて事実上の兵制から云つて挙国皆兵であることが、必ずしも挙国皆軍部団といふことにならぬのは、云ふまでもない。兵制から云へば凡ての国民は軍人であるが、社会身分としての職業関係から云へば、無論凡ての国民が「軍人」なのではない。併しそれが挙国皆兵の理想によつて混一させられてゐるのである。

 かうした制度上の理想と市民社会の現実との間の一種の喰ひ違ひは、歴史的に云ふと、軍部団と中世乃至近世の武士階級との特別なつながりとなつて幻想され易いといふ事情を産むわけで、つまり軍部団は近代的な(世襲的でない)新武士団だといふ風に事実考へられ易い。だから日本古来の武士道、そしてそれは徳川時代に最高の緊張に達したが、その武士道は現代の優れた武人達の血肉が受け継ぐ処だと見られてゐるだらう。

 挙国皆兵であるにも拘らず、軍部団といふ特殊の軍団乃至軍人団が存在し、それが武士階級や武士道と何等かの直接関係を連想させる、といふことによつて、観念上から云つてもすでに、この軍部団が主体となつてゐる例の軍国意識は、何かの封建的な意識でなければならない理由を有つてゐる。外国人が古くから盛んに讃美し(それが珍しく日本的なもの即ち広義の日本主義のものであつたからだ)、そしてこの頃では又特に日本人自身の方が力を入れて強調してゐる所謂武士道は、云ふまでもなく日本民族(それとも日本国民?)全体の理想なのだらうが、併し夫は挙国皆兵の兵制の理想以外からは決して来ない。この兵制の理想以外の何等かの社会的現実が少しでも之に混入すれば、忽ち武士道は封建的な社会層イデオロギーとなつて了ふのである。

 軍部団が指揮すべき挙国皆兵としての国民では、勿論農民が圧倒的に多数を占めてゐる。だからこの軍国意識が現実性を持ち有効に発動するためには、それは最も信頼すべき地盤を農民層に見出さなくてはならない。挙国皆兵である以上当然さうならざるを得ない。と同時に挙国皆兵は兵制の理想であつて、社会の経済的配分関係とは同じでなかつたのだから、ここで農民層と云つても、夫は農民社会(夫が農村と呼ばれてゐるものだ)に於ける経済的な分類分化は問題ではないので、つまり農村といふ社会秩序の下に立つ農民一般のことなのである。処でこの農村(山村、漁村も同様)といふ社会秩序の維持に於て最も中堅的で、模範的で、従つて農村を適宜に代表するものは、各種の中農層又は農村中間層に他ならない。中農層乃至農村中間層こそ、だから皆兵国民の代表的なものだといふことになる。日本主義的軍国意識の主体であつた軍部団が期待する本当の社会的地盤はここにあるのだ。

 さて農村中間層乃至中農層が、日本主義的軍国意識が期待する処の社会的地盤であることは、丁度軍部団自身が日本主義的軍国意識の主体であつたのに照応して、一般にファシズムが中間層の意識だといふことの、特殊に限定された場合に他ならない。――処で、農村中間層乃至中農層は、一般に、現下の農業生産機構に或る程度まで信頼出来る分子であり、或ひはさういふ分子をこそ農村の中堅分子と呼ぶのだから、いふまでもなく彼等の生活意識は農業主義に一応安住するわけであるが、今この意識を他種の意識に対立させたり、之を国史的に権利づけたりすれば、その結果が所謂農本主義となる。処で特に、問題が日本民族乃至日本国民の歴史に関係するのだから、この農本主義は、特に封建的な生産様式の根幹をなす農業生産を原則とする処の封建主義へと志向せざるを得ないのである。

 かうしてここでは市民社会の現実に即して、問題は封建主義に帰着するのである。先に、日本主義的軍国意識は、軍部団の武士階級意識を通じて観念的に封建制の意識に落着したが、ここでは夫が、農村といふ地盤の現実のコースを通つて、再び封建制の意識に到達する。併しここで云ふ封建制意識の大事な規定は、つまり兵農一如といふことなのである。

 封建制度と云つても併し、日本のものは夫がハッキリした形を取つたと見做され得る時代から数へても、非常に古く又長く、そして政治的に甚だ多くの色々異つた時代を経て来てゐる。だから一般に日本で封建制意識と考へられるものは、実は一応もつと漫然とした復古主義のことだといふことに注目する必要がある。復古主義は時代によつて多少異つた規定と、それから非常に異つた意味とを有つてゐるのだが、今日の復古主義がどういふ終局的な限定を事実復古主義者達によつて与へられてゐるか、それから吾々が夫にどういふ意味を発見するかは後にして、とに角漫然とした復古意識が今まづ問題である。で、さうした復古主義はつまり封建制への意識の延長であり、夫のあまり明晰でないシノニムに他ならないと云ふのである。

 現に今日復古主義の色々ある内で、吾々から見て(復古主義者自身から見ればさうでないと考へられようとも)根本的で又特徴的なのは、家族主義の強調だが、実は家族制度こそ、封建制が最も完備してゐたとも考へられる徳川時代に、社会秩序の動かすべからざる要石にまで発達したものであつて、従つて家族主義といふ主張は、この最も堅固になつた徳川期封建制下の家族制度にまづ何より先に照応しなければならぬ筈のものなのだ。誰も家族主義の歴史的根拠を平安朝の家族制度などに求めようとはしないだらう。ここから見ても復古主義は封建的意識の漠然とした延長がシノニムだといふことが判る。

 処が元来日本主義といふイデオロギーを産んだこの高度に発達した独占資本主義下の現代から、資本主義一般とは著しい差異を有つてゐる過去の封建制へ向つて志向するといふ、この方向がとりも直さず漠然として復古主義なのだから、かうした封建制への意識、復古主義は、つまり社会の原始化の方向を追ふことに他ならない。尤も物質的な必然性があつて現在の高度の資本制にまで発達した社会を、実際に現実的に原始化することは絶対に不可能なのだが、併し少くとも観念的な、イデオロギーの領域では、さういふ原始化主義は一応勝手に可能なことだし、又之と直接関係のあることだが、少くとも物質的な現実界の事物に就いても、さういふことを主観的に観念的に欲することは一応勝手なのだから、その意味で、そしてただその意味でだけ、原始化といふ言葉が許される(復古主義も封建制主義も皆かうした観念運動として初めて意味があつた)。例へば物質的生産技術を原始化即ち非技術化すことは現実には不可能だが、併し少くとも観念的に之を欲する主義は一応勝手に可能なのであつて、所謂反技術主義といふ国際的に起こりつつある一つの文明観があると共に、之へ直接連関して唯物論の打倒、反唯物論の主義も亦観念的には常に可能なのである。

 之は一般的に考へた封建制への意識、漠然たる復古主義、一般的な原始主義に就いてであるが、前に云つたやうに、日本主義の軍閥的な契機が帰着した処の封建制主義の要点は、その兵農一致(挙国皆兵と農本主義)にあつたのだ。処が兵制として職業的武人が存在しないことも、又主として農業を生活の圧倒的な中心とすることも、極めて一般的に云つて原始社会の共通特色だといふことを思ひ起こす必要があるだらう。さうして見ると、かういふ風に要点だけを抽出した意味での封建主義から見て行つても、夫は直接に、復古主義などを通らなくても一足飛びに、最も一般的な原始化に連なることが判る。で、かうして結局、封建制主義は原始化主義に帰着する。初め独占資本制、帝国主義、軍国主義、軍閥主義は封建制主義に帰着することを述べたが、夫が今度は原始化主義に帰するのであつた。

 併しまだ大切な点が取り除けられてゐる。復古現象は今まで単に漠然とした復古主義でしかなかつた。さうしたものでは今日の発達した(?)日本主義のピボットにはならぬ。一体、原始化といふものをもう少し吟味してかからなくてはいけない。

 と云ふのは、社会の原始化と云つても、ここで云ふのは社会原始化の主張し又は欲する処の一つの観念の運動、主義に過ぎなかつたといふ点が、もう一遍大切なのだ。之は観念に於ける原始化運動なのだから、その当然な同伴現象として、観念自身の原始化を現実的に結果するのが唯一の所得なわけである。そしてかうした観念の原始化又は原始観念の支配は、論理的又社会的な意識が、自然にか或ひは人工的にか、著しく遅れた社会層の特色であるのは、改めて云ふまでもないのだが、丁度さうした社会層は、今日では農村民と軍部団とにその代表者を見出してゐる。前者は已むを得ない交通の不完全から、後者は意識的な目的教育の結果として、さうなつてゐるのが現在の否定出来ない事実だらう。処で今大切なのは、かうした意識の原始化が、更に社会的意識の動揺の甚だしい小市民層に相応する中間層一般をも捉へずにはおかない、といふ点だ。

 小市民的中間層に於ける意識の原始化は、反技術主義、反機械主義、反唯物思想(?)、反理性主義、其他の名の下に、精神主義となつて現はれるのである。意識の宗教的ゴマ化しや神秘主義や、治療や禍福吉凶に結びついた信心や、凡そさうした原始的な認識作用の近代的な形態が、今日の小市民的中間層の意識の動揺を捉へる。神秘主義は元来中間層の、そして中間層に主にその社会層を持つてゐる平和的インテリゲンチャの、日本主義的ファシズム下に於ける、社会意識なのである。

 普通、精神主義は軍部団のイデオロギーだと考へられるかも知れないが(農村の方に就いては農村精神の作興はあまり有望ではないと考へられてゐるやうだ)、併し元来軍部団は純然たる精神主義であることは出来ない理由を有つてゐる。機械化部隊を顧慮しない戦闘精神などはあり得ないからだ。精神主義は中間層市民の現状下の原始的な自然常識なのだ。だがそれが特に日本主義の資格に於て精練されるためには、軍部団の強力なもう一つの「常識」に俟つのである。精神主義はそこでもはや単なる任意の精神主義ではあり得なくなつて(例へばヨーロッパ式の精神主義や仏教的儒教的な精神主義では不可くなつて)、正に復古主義とならねばならぬ。併しこのことは又、復古主義がこの普遍的で世界的な一規範である市民常識としての精神主義を通過することによつて、之まで述べた漠然たる復古主義であることを已めて、ハッキリと限定された精神主義、日本精神主義として、一つの政治観念にまで市民的常識への発達を遂げる、といふことを意味する。皇道精神が之なのだ。

 政治観念はどういふ時でも市民常識に基かずには成り立たない。従つて軍部団にだけ特有な農兵一如への復古主義は、それだけではまだ政治観念となる資格がない。処が又小市民的中間層に特有な精神主義は、それだけでは物理的支配強力を予想してゐない。二つが云はば軍市合体することによつて、復古主義に於ける日本主義は、ファシズム的政治権力の意志表示となることが出来る。皇道主義こそだから、日本主義の窮極の帰一点であり、結着点なのである。之は、私が今まで分析しながら触れて来た一切の規定を、最後に統一総合した総結論なのである。

 さて残された仕事は、この皇道主義(皇道そのものではなくその主義だといふことを特に注意せよ!)といふ日本主義イデオロギーのエッセンスが、如何に現下のファシズム政治思想とその政治機構とに役立てられるか、又ファシズムが照応してゐる処の現下の資本制機構にどう役立てられるかを、今まで述べて来たとは逆のコースを取つて、解明することだが、夫は省略する。


第二編 自由主義の批判とその原則


第十一 偽装した近代的観念論
      ――「解釈の哲学」を批判するための原理に就いて


 現代に於て「観念論」といふ言葉は市民文化の側からも、必ずしも愛好されてはゐない。往々無雑作に、あれは観念論だ、これは観念論的だと云ひ勝ちだが、そしてその言葉には或る一定の隠れた体系的な含蓄があるのであつて、この含蓄の一部を洗ひ出すのが今のこの仕事の一部分になるのだが、併しさう批評された当の人間達には、この言葉は必ずしも痛くピンと来るとは限らない。「私の又は彼の思想は決して観念論ではない。観念論に敵対することこそこの哲学ではないか。それを事もあらうに、観念論だとか何とか云ひ放つことは、観念論がどういふものかも、私の又彼の思想の要点がどこにあるかも、つき込んで知らないことを証拠立ててゐるに他ならない」とさう彼等は云ふかも知れないのである。

 なる程彼等によると、観念論とはイデア主義であるか、又はイデアール主義(理想主義)であるかだ。と云ふ意味は、形象を完備した浮き彫りのやうな事物の有様だけを本当の存在と考へたり、或ひは与へられた眼前の現実に対して天下り式の理想を課して、この現実と理想との絶対的な深淵を当為(ゾルレン)を以て埋め得ると考へたりすることが、観念論だといふのである。或る意味では全くその通りに違ひない。ただ問題は、彼等自身が果してその敵視する観念論そのものの密偵でないかどうかといふことだ。観念論と云へばすぐ様ソクラテスやプラトンを、又下つてはカントを、思ひ浮べるわけだらうが、かうしたものに反対するといふことが、併しそれだけで、観念論の反対者であることの証拠になるものではない。

 一切の道徳的権威を打倒し、価値を倒壊させようと企てたからと云つて、ニーチェは観念論の敵だと云ふのだらうか。社会主義的進歩の理想を信用しない後年のドストエフスキーが観念論の本当の敵であるのか(唯物論に就いては後に)。この頃「不安」の哲学者として事新しく改めてわが国に紹介されたシェストーフによれば、観念論こそ(唯物論と共に!)本来の哲学の、即ち悲劇、無の哲学の、仇敵だといふのだ。現代の神学の新しい一派は神学をロマン派的観念論から護らねばならぬと考へる。日本固有の思想家として国粋的乃至東洋的な照明を投げかけられてゐる西田哲学も、ブルジョア哲学(之はブルジョアジー固有の哲学と云ふよりも現在のブルジョア社会の一定の必要に応へんための哲学のことをいふ)の自己批判(?)といふことの国際的な現象から云つて、例外をなすものではない。観念論はつまりは有の哲学に過ぎぬのであつて、無の哲学でないから駄目だといふのである。之は同時に少なからぬ西田哲学応用家の口吻でもあるのだ。観念論は葬られねばならぬ、無論、唯物論と共にであるが!

 資本主義のこの国際的な動揺期に当つて、特に或る特定の観念論だけを、観念論全般の代表者として処刑するといふ思ひつきは、云ふまでもなく今日の位置に置かれたブルジョア哲学(その意味は前に述べた)に取つては、極めて賢明な護身法だと云はねばならぬ。「観念論」は亡びよ、だが例へばニーチェは政治家の腕に、ドストエフスキーは文学者の良心に、そしてシェストーフ(否キールケゴールからマルティン・ハイデッガーに至る一味)は哲学者の脳裏に、生きのび、そればかりではなく復興されねばならぬ、といふことだ。かくてブルジョア哲学の不利な負債や足手纏ひは、この犠牲のおかげで片づけられ又は清算される。特に、一九〇五年以後十年間のロシアにも相当するだらうわが国の現在の事情の下にあつては、この処置は単にブルジョア哲学の護身術であるばかりではなく、又その養生法と延命術でさへあるかも知れぬ。――で、この時は恰も、『唯物論と経験批判論』がもう一遍書かれなければならぬ時なのだ。

 暗号は戦況の進展と共に変更される。攻勢に於ても守勢に於ても、観念論はその符号を変更する。今や観念論の抜け殻が特に大きく観念論と銘打たれて投げ出される。これに牽制される者は蝉の代りに蝉の抜け殻を拾ひ上げる。蝉はその時すでに他の樹に止つて鳴いてゐるのである。近代的観念論は好んで偽装する習慣を持つてゐる。だから唯物論も仲々並大抵ではないのだ。

 処でその観念論なるものは、この蝉と蝉の抜け殻とは(蝉の抜け殻でも矢張り蝉のものだ)、一体何か。ソクラテスでも又カントでも、其他一切の「観念論」乃至「理想主義」の大を以てしても量り切れない、洪水のやうなこのブルジョアジーの観念上の奢侈品は、何をその本性としてゐるか。――物質よりも観念の方が先にあり又先である、といふのが観念論の根本的な特徴だと普通云はれてゐる。だが、この言葉は、内容が極めて豊富で含蓄に富み過ぎてゐるだけに、言葉として却つて貧弱な言葉だと云はねばならぬやうだ。吾々が之を実際的に活用して見ない限りは、全く無意味な言葉であるかも知れない。

 少くとも一定類型の観念論を眼の前に持つて来てこの言葉をあてはめるのでなければ、この言葉は何の役にも立たない。尤も仮に、バークリ的観念論、カント的観念論、マッハ的観念論、等々といふ諸類型を持つて来るだけではこの言葉が一応活かされて適用されても、それだけではまだこの言葉自身の発展は起こらない。問題は、物質の代りに観念から出発するといふこの観念論一般を、最も特徴的に代表するやうな、観念論の何かもつと積極的な規定をここから掴み出すことにある。かういふ規定を使つて初めて、例の言葉も今日実際的に活用出来るやうになる。

 今云つたやうな意味で、観念論の第一の積極的規定が、形而上学の内に見出されるといふことは、すでに広く承認されてゐる一つの知識である。観念論の弱点はその形而上学にあり、之に反して唯物論こそは反形而上学的だ、といふのである。尤も或る種のマルクス反駁家は、唯物論であるマルクス主義哲学こそは、まさに形而上学的なのであつて、そこにこそ之の致命的な欠陥があるのだ、と云つてゐる。マルクス主義の物質万能主義(?)は物質の古い形而上学に過ぎないし、現象の背後に労働価値とか歴史の必然性とか自由の王国とかを求めるのも亦非科学的で形而上学的だといふのである。要するに認識論的でも実証論的でもないから、形而上学だと云ふのである。だがこのブルジョア哲学的範疇としての「形而上学」は、無論今の吾々の問題にはならぬ。――唯物論の範疇に従へば、形而上学とは機械論的な思惟方法以外の何物でもなかつた。と云ふのは、事物をその連関的な運動に於て掴へることを知らず、個々別々に切り離されたものにまで固定して考へる処の思考法を、夫は意味するのであつた。

 だが観念論の形而上学としてのこの規定も実は、現在吾々が眼の前に見てゐる諸種の事情に就いて云へば、まだ実際的ではない。一体この規定は、主としてカントを批判するためにヘーゲルが使つた処のものに始まるので、無論この規定を適用するのに徹底的でありさへしたら、ヘーゲル自身も、その「観念論」の故に(だがかう云つては説明するものとされるものとが本末顛倒になることに注目!)形而上学的になつて了ふわけなのだが、それだからと云つてこの規定の云ひ表はし方そのものが徹底的だといふことにはなるまい。現在のブルジョア哲学に於ては、例の「観念論」が評判が悪いと殆んど同じ根拠から、「形而上学」も亦、必ずしも愛好されてゐるとは限らない。メタフィジークが哲学と同じ言葉として慣用されてゐる国(例へばフランス)は別として、日本などで自分の哲学を形而上学と呼んで欲しいと思つてゐる哲学者は決して多くはない。彼等の観念論の本質がその形而上学にあるにも拘らず、彼等は「形而上学」を拒むに吝かではないのだ。

 而も、かうした匿された形而上学は、必ずしもみづから機械論に立つてゐることを標榜しないのは云ふまでもなく、却つて機械論の断罪者としてさへ現はれるのがその大部分であつて、W・ジェームズやベルグソンによれば、バラバラな固定物処ではなく、流動こそが事物の本性だといふことになつてゐる。二十四時間の長篇ジョイスの『ユリシーズ物語り』は、およそ機械論などといふものとは縁の遠い現実そのものの「リアリズム」だと、「文学的」リアリスト達は讃美する。更に又、現代の匿された形而上学の内には、進んで弁証法を包括し或ひは弁証法に立脚すると考へてゐるものさへあるのである。(観念論的)弁証法は古来から今日に至るまで曾て絶えたことがないとさへ云へるばかりではなく、今日に至つて愈々本当の(神学的な!)弁証法に到着したのだと、一種の覆面形而上学者は誇つてゐる。

 そこで私は、以前、色々の機会に、形而上学といふもののも少し別な規定を必要とすることを述べたのを思ひ出さねばならぬ。それによると、現代の形而上学は、推しなべて――機械論的であらうと弁証法を僭するものであらうと――解釈の哲学に他ならぬのである。現代ブルジョア哲学の勝れたものも愚劣なものも、その殆んど凡てが解釈の哲学であることによつて正に形而上学であり、さういふ意味の形而上学であることによつて、特に積極的に観念論の名に値ひする、と考へられる。云ふまでもなく形而上学(従つて又観念論)をかう規定することは、唯物論の歴史に於ては決して新しい着想や落想ではない。人も知る通り、資本論に於けるマルクスの有名な短い言葉の内に、すでに之は約束されてゐたものなのだ。

 で、観念論の第二の積極的な規定として、吾々は解釈哲学を挙げることが出来るだらう。もしこの規定を利用しないとすると、今日のブルジョア哲学が、どの点に於てその観念論振りを積極的に発揮し又露出してゐるかを、吾々は遂に適切に指摘出来ずに終りはしないかと恐れる。

 解釈といふ以上、夫は無論事実の解釈のことである。事実がない処に、どんな意味の解釈もあらう筈はない。と共に、解釈を伴はず解釈を俟つことのない如何なる事実も無い、といふことも亦本当だ。過去の歴史上の事実ならば、解釈の如何によつて事実であるとも事実でないとも決定されようが、例へば実験上の事実に就いて、解釈の余地がどこにあるか、と云ふかも知れない。自分自身が直き直きにぶつかつた事実のどこが解釈に依つてゐるかと云ふだらう。けれどもさう云ふならば、純粋な事実としての事実といふものは実はどこにもないことになるので、あるものは恐らく単なる孤立した印象か何かでしかないことになる。事実といふことは、さういふ意味では、事実と解釈されたもののことに他ならない。解釈のないところには事実も亦あり得ない。

 だから、問題が哲学などになれば況してさうであつて、どんな哲学でも、解釈に依らず又解釈を通らずに、事物を取り扱ふことが出来る筈はない。さういふ意味では一切の哲学が解釈の哲学だと云つても云ひ過ぎではないのだ。元来事実の解釈といふことは、事実が持つてゐる意味の解釈のことであり、そして、事実はいつでも一定の意味を有つことによつて初めて事実といふ資格を得るものだから(さうではない事実は無意味な事実だ)、事物間の表面からは一寸見えない連関を暴き、隠された統一を掴み出すべき哲学が、事実の有つだらう意味の在りかをつきとめるために、特にその解釈の力に於て勝れてゐなければならぬのは、寧ろ当然だらう。

 だが実は、この解釈自身に、事実の持つてゐる意味のこの解釈自身の内に、問題が横たはつてゐるのである。事実は云はば、自分自身を活かし発展させて行くためにこそ意味を有つわけであつて、従つて事実のもつ意味とは、専ら事実自身の活路と発展のコースとを指すものに他ならない。で、この場合大事なことには、夫々の事実の持つてゐる夫々の意味は、あくまで夫々の事実自身に対して責を負うてゐるのであつて、従つて事実は自分の有つ意味を一旦通つて自分自身に帰着することによつて、初めて事実として安定を得ることが出来るわけだ。意味は事実そのものに戻つて来るべく、元の事実に向つて責を果すべくあるのだ。だから事実の解釈はいつも、事実を実際的に処理し、之を現実的に変革するために、又さうした目標の下に、下される他はない筈なのである。現実の事物の実際的処理は、いつも事物の有つ意味の最も卓越した解釈を想定してゐる。

 処が他ならぬ「解釈の哲学」は、この解釈の機能そのものに於て躓くものなのである。ここでは解釈はこの本来の役割から脱線し、事実の実際的処置といふ解釈元来の必要と動機とを忘れて、専ら解釈としての解釈として展開する。と云ふのは、事実の有つてゐる意味が、もはや事実の意味であることを止めて、単なる意味だけとなり、かくて意味が事実に代行し、現実の事実は却つて意味によつて創造された事実とさへなる。かうした「意味」は意味の元来の母胎であつた現実の事実自身の、活路や発展コースであることからは独立に、専ら意味自身の相互の連絡だけに手頼つて、意味の世界を築き上げることが出来るやうになる、といふことを注意しなくてはならぬ。或る「意味」と他の「意味」とが連絡するのは、夫々の母胎である夫々の事実間の連絡を手頼りにしてであるべき筈だつたのに、ここでは意味と意味とが、極めて、奔放に、天才的(?)に、短絡して了ふ。かうやつて現実の代りに「意味の世界」が出現する。現実界はわづかに、この「意味の世界」にあて篏まる限りに於て、意味の御都合に従つて、取り上げられ解釈されるだけである。――之が解釈哲学に於ける所謂「解釈」のメカニズムなのだ。ここで天才的(?)想像力や警抜や着想や洞察と見えるものは、実は狂奔観念や安直な観念連合や、又安易で皮相な推論でしかなかつたのである。

 かうした繊細な弱点も、ごく卑俗な形のものは誰でも容易に気がつくことだ。近年日本に於ても自殺者は非常に殖えて来たやうであるが、そのどれもが、新聞記事によると甚だ穿つた解釈を与へられてゐる。哲学に凝つたといふのは古いからまだしもとして、最も斬新なのには、父親が共産党に加はつてゐたために娘が自殺した、といふやうな種類の解釈もある。蓋し新聞にとつては事実そのものはどうでもいいので、記事が記事として独立な意味を有てさへしたらいいのだ。――併し、この弱点も哲学といふ甲兜の内に隠れると、取りも直さず解釈の哲学になるので、さうなるとこの弱点も容易にボロを出さうとはしなくなる。一方そこには荘重な名辞と厳めしい語調がある。而も、時々断片的に、読者や聴衆が持ち合はせた出来合ひの知恵に接触するものがあつて、それが彼等を感動させ、甘やかし、なだめすかす。分解や論証や質疑の代りに、単に次から次へとタッチがありタップがある。これが解釈哲学の極めて意味のある風味の特色の一つであるが、併し之によつて、現実の事物に対する実際的処置は、恍惚裏に時としては又涙の裏に、斥けられて了ふのである。世界を「解釈」するといふことは、拱手して世界を征服するといふことは、確かに楽しい仕事に相違はない。たとひそのために涙と共に糧を食ひ、眠れぬ床に臥しても、この仕事は専ら楽しい仕事だ。

 「生の哲学」と呼ばれるものの多くがこの解釈哲学であることは、今更注意するまでもないだらう。解釈とは、生の哲学によると、生の自己解釈に外ならないが、生(その科学的な意義が抑々問題なのだ!)が自らを解釈するといふ自己感応のおかげで、意味が、事実から独立した純然たる意味の世界として、描き出される。この生の哲学が更に、特に所謂「歴史哲学」や「解釈学的現象学」と不離の関係にあることも、茲に喋々する必要はあるまい。この二つのものが、如何に解釈学の方法に準じた哲学であるか、又更にこの二つが如何に文献学(解釈学は夫の方法なのだ)的特色と臭味とさへを持つてゐるかが、それを充分に物語つてゐる。――大事な点はここでも依然として、解釈哲学の本質が意識的無意識的に事物の現実的な処置を回避しようとすることにある、といふ点である。

 解釈の哲学は、哲学の名の下に、実際問題を回避する処のものである。時事的茶飯事には何の哲学的意味もない、入用なのは実際問題とは独立な原則の問題の他ではない、といふのである。実際問題は、この原則問題を時に臨んで応用すればよく、この応用を予め用意してかかることなどは無用の配慮だ、と考へる。例へば社会は、私と汝との倫理的意味関係に基いて発展され得る意味のものであつて、その社会が共産主義のものにならうとファシズムへ向はうと、夫は政治上の実際問題ではあつても、少しも哲学上の問題ではない、といふわけだ。――解釈の哲学が抽象的なのは、夫が事物を一般的なスケールに於て論じるからではなく、まして夫がムズかしい言葉を使ふからなどではなくて、実は、意味を事実から、原則を実際問題から、抽象するからであり、現実の事実と実際関係とを視界から捨象して了ふからである。

 さて今云つたこの抽象性こそが、正に今日の形而上学の特色をなしてゐることを見るべきだ。今日の形而上学のナンセンスとユーモアは、之によつては実際問題が少しも哲学的に決定出来ないといふ処にあるのである。今日のアカデミックな又ペダンティックな哲学が、学校教師のやうに生気なく誠意なく見えるのは、このナンセンスがその原因の大きな一つになつてゐる。そしてこの形而上学が現在最も有力な最も普及した観念論の形式だつたのである。

 現実の世界に於ける実際問題を計画的に回避するためには、この解釈哲学=形而上学=観念論は、甚だ屡々、実証科学乃至自然科学と絶縁するか、少くとも之に関はり合はない方が賢明だと考へる。「歴史哲学者」達は、歴史的なものが、即ち彼等に従へば「哲学的」なものが、如何に自然科学的なものから別であるかを、専ら強調することを忘れなかつた。歴史と自然との間に共通し併し発展する本質を見ようとする企ては、歴史を知らぬ者のことであり、人間的文化に盲目の者のことだと云はぬばかりに。更に「解釈学」的哲学者に来ると、実証科学や自然科学は哲学にとつて全く何の意義をも持たないことになる。哲学の科学性、即ちその客観性(そこから実証的特色と実地的な特徴とが出て来る)は、解釈学的哲学では少しも問題ではない。哲学とは全く別な全く関係のないそれ自身の秩序を持つてゐる。世間的な俗物はとに角として、本来的生活者としての人間的存在は、エキジステンツは、一体実証的な世俗の知恵と何の関はりがあらう、とM・ハイデッガーの一派はいふのだ。

 かうした僧侶階級的な反科学主義(尤も科学主義――ル・ダンテクなどが代表する――は決して尊重するに値しないが)は、実際問題を回避しようとする高尚な行ない澄ました解釈哲学の、必然的な結論なのであつて、ただ初めはカントや(ヘーゲルでも実はまださうだ)下つて新カント派の手によつてゐる間は、それ程正直に本音を吐かずにゐたものが、ブルジョア社会がその矛盾を自然科学のせいにまで転嫁しようとし始めた近年に至つて、初めて真向からその正体を現はして来た迄なのである。

 だがわが解釈の形而上学は科学特に又自然科学のどの点に向つて刃向つて来るかと云へば、それは実は何も科学の合理主義や又科学の先天的制限や、又その非人間的な枯淡さが本当に気に入らないのではなくて、実は科学の実際上立脚してゐる処の物質的生産技術の要求が、わが解釈の内容にまで手を伸ばしはしないかを恐れてゐるのである。物質的生産技術が実際的に実行され実地に運用される筈のものであることは、到底解釈学的にも言ひくるめることの出来ない事実だから、之は世界の「解釈」にとつて、甚だ厄介な代物と云はざるを得ないだらう。だから実は反技術主義(尤も技術主義は少しも尊重されるべき主義ではない)こそ解釈形而上学に於ける例の反科学主義の真髄だつた。恰も近年、資本主義の諸矛盾の責任は、ブルジョアジーによつて、その技術の自発的な行きづまりにまで転嫁される。解釈の哲学が召し出されるのはこの時を措いてあらう筈はない。

 処で、注意すべきは、解釈哲学=形而上学も、とも角一つの纏まつた哲学であるためには、一定の範疇体系を組織して持つてゐなくてはならぬといふことだ。だが無論之は、世界を専ら解釈するためにだけ役立つやうな範疇であり範疇組織でなくてはならぬ筈であつた。そこで世界解釈のための論理の最も古典的で典型的なものは、ユダヤ教、キリスト教的世界創造説の右に出るものはない。創造説は、世界の秩序を、あます処なく組み立て、残る処なく解釈する。その出来始めとその後のコースとその出来終りとを説明出来るならば、事物の「解釈」はそれ以上の完備を望むことは出来ない筈だ。世界は神の善意志によつて、計画的に創設され計画的に歴史発展をし、そして最後の審判の日が来ると神の世界計画は実現し終る。かうして現実の世界が実際に嘗めて来た貴重な時間上の自然的秩序は、寛大な天帝が濫費する恩寵の秩序で以て置きかへられる。この転心した新秩序の上に、解釈の形而上学の範疇星座が分布されるのである。

 私は嘗てこの種の範疇を神学的範疇と名づけた。元来が他の世界秩序に基いてゐるこの範疇を、現実の実際世界の秩序の維持に使はうとしても役立たう筈はないので、その意味から云つてこの神学的範疇は、実際性、実地性、実証性を、即ち地上に於ける検証を、持つことは出来ない。物質的生産技術によつて秩序づけられてゐる現世の俗界ではテスト出来ない範疇が之だ。だから私は之を曾て非技術的範疇だとも云つたことがある(拙著『技術の哲学』本全集第一巻所収)。解釈の哲学は、神学的範疇に立つてゐる、と云つて一応今迄のことを纏めておかう。

 之まで云つて来たことは、併し、私が今まで何遍も繰り返して云つて来たことに他ならぬ。処が最近、わが国に於て、この解釈の形而上学が一種独特な形態を取りつつあることを注意しなければならなくなつた。その結果今や、観念論の第三の積極的規定を掴み出す必要に迫られる。この第三の積極的規定を取り出して見ると、之によつて、観念論の例の第二の規定(解釈哲学として)が、第一の規定(形而上学として)さへもが、却つて明らかに定義されるやうに思はれるのである。

 まづ手近かにある一つの現象を注目しよう。この一年あまり以来、マルクス主義の陣営は遽(にわ)かに後退したと云はれてゐる。それがどういふ意味であるかを、私は必ずしも理解してゐないのであるが、とに角一頃至る処に充ち充ちてゐたマルクス主義のファンや好意ある野次馬が、世間から最近著しく整理されたのは事実だ。そして特に文学の世界に於て、この現象が人目を惹くやうに見えることは、今の話の筋から云つて、興味あることなのである。今ではマルクス主義に立つ文化団体は残らず解散して了つたが、そして之は必ずしもマルクス主義的文化運動が消えたことを意味し得ないのは云はなくても判つてゐることだが、特に文学の世界に於て、文化団体の解散が著しい荒波を立てたことを誰しも知つてゐるし又現に見てゐるだらう。左翼の文学運動は今ではいくつかの編集中枢に分散し、時によつては左翼文学運動とは何の意識的な連りさへもない文学分子と、混淆してゐる。或る者は文芸復興の名の下に、何物よりも先に、文学それ自体の発展が焦眉の急だと云つて、文学の党派的首尾一貫性をまで犠牲にしても、プロレタリア文学の従来の桎梏を打ち倒さねばならぬと主張する。無論文芸復興の名を借りると借りないとに区別なく、反マルクス主義的文学者や純芸術派的文学者は、得意になつて、或ひは皮肉の腹いせの心算で、この新しい現象を歓迎してゐる。

 マルクス主義的文学者にとつてはとに角、其の他の文学者達にとつて、この現象が事実上一つの文学至上主義を意味してゐることは、マルクス主義的文学者のもつと怠らない注意を喚起していい事実だと思ふが、とに角文学の世界(尤もさういふ別な世界があると思ふのは私の又は人々の誤りだが)が、日本の現状の多分に漏れず、文学なりにマルクス主義に対する反動の態勢にあることは根本的な傾向なのであつて、恰もこの文学至上主義が今日この傾向の最も著しい特色をなしてゐるだらう。なぜなら、従来マルクス主義文学理論の根本テーゼであつた文学と政治との結合が、之によつて殆んど完全に解き放されたかのやうに、大抵の「文学者」達は考へてゐるらしいからだ。

 処が他方、文学に於ける評論が、文芸評論が、近年甚しく「哲学化」したといふ事実をもう一つ注意すべきである。云ふまでもなく之は、一つには之まで私が述べて来た例の様々な偽装に手頼つたブルジョア観念論哲学一般の復興(?)に依るものであり、一つには唯物史観に立脚した科学的文芸批評が、例の文学と政治との関係の問題から、左翼的作家自身からさへ一種の不満を買つたからで、この二つの契機によつて、ブルジョア観念哲学的な文芸評論が、続出することになつたのである。

 そこで、第一に文学に於けるこの文学至上主義と、第二に文学に於けるこの哲学化とから、第三に哲学そのものの「文学」化が発生するのである。云ふ迄もなく哲学と文学とは、その本当の意義に於ては特別に不離な関係にある筈のものなのだから、文学(文芸評論)が哲学化しようと、哲学が文学化しようと、初めから当然なことで、珍しくもなければ況して悪いことでも何でもないのだが、併し今の場合、哲学が文学化したといふのは、取りも直さず哲学が文学至上主義化したことでなければならぬことになるのである。

 だが、文学に於てこそ文学至上主義といふ言葉の意味もなり立つが、関係は同じでも、哲学に就いて云ふ限り文学至上主義といふ言葉は恐らく無意味だらう。言葉が無意味なだけではない、さう云つては哲学のこの文学化の本質を暴くことが出来なくなる。実はこの現象は寧ろ哲学の哲学至上主義と云つた方がいい位ゐかも知れないが、今はこの哲学至上主義自身を何か他の言葉で説明するためにこそ、文学の文学至上主義を引き合ひに出したわけであつた。――哲学は文学でないから文学至上主義になる懼(おそ)れは元来あるまい。その代り、現在のブルジョア観念論=形而上学=解釈哲学が陥る新しい変貌は、哲学に於ける文学主義と名づける必要があると思ふ。文学主義こそ観念論の第三の積極的な規定だ、といふのである。

 哲学は仮にそれがどんなに文学主義的であらうと(尤も文学主義の意味は今から説明するのだが)、とに角哲学の体裁を具へてゐる以上は、何かの範疇組織を使つて物を云ふ他に途を持つてゐない。処が文学主義哲学とはその範疇が特に文学的範疇である処のものを云ふのである。だが、文学的範疇といふのは一体どういふ意味か。

 文学が言葉の乗具に頼るものである限り、文学は概念を俟つて初めて成り立つ。尤も概念と云へば、感覚を欠いた抽象的な観念の輪郭に過ぎないと考へる向きもあるかも知れないが、それはこの言葉を単純に俗悪に使つたまでで、理論的な用語としては全く取るに足らない迷信だ。そこで文学に於けるこの諸概念の中、比較的重大であり機動力に富み他の諸概念の結節点に当るやうなものが、根本概念即ち範疇なのだ。だが文学に出て来て文学の内に用ゐられてゐるからと云つて、その範疇がすぐ様文学的範疇だと考へてはいけない。

 哲学、科学其他一切の理論の内に現はれる範疇、さうした云はば哲学的乃至科学的、理論的範疇と、文学に於ける範疇と結局別のものであつてはならぬことは、少し考へて見れば絶対的に自明なことだらう。なぜなら、もし範疇の性質そのものが原則的に別なのなら、一体どうやつて文学と哲学との間に、一定の密接な連絡や対応や一致や共通性等々が存在し得るのか。よく聞くことだが、二つの事物の間に原則的な連絡、対応、一致、共通性等々が欠けてゐる時、二つの事物は範疇的に異るとも云はれてゐるのだ。

 だから文学の内に現はれる諸範疇は、別に普通と変つた範疇でも何でもなくて、哲学や科学が基いてゐるその同じ世界観から、一様に誕生して来た普通の範疇、哲学的乃至科学的範疇のシーリースのうちにぞくするものなのだ。なる程或る範疇は主として文学のもので、他の範疇は主に哲学にぞくする、といふことはいくらでもあるだらう。又同じ言葉によつて呼ばれてゐる一範疇も、科学の世界と哲学の世界とでは別な変容を持つことも出来るだらう。さういふ意味での文学的範疇ならば、さういふ意味での哲学的乃至科学的範疇からは異つてゐると云つても好い。だが問題は、個々一つ一つの範疇が、どの世界にはあつてどの世界にはない、とか何とかいふ事柄にあるのではなくて、一定の組織秩序を持つた範疇体系に、さういくつもの種類があつては困るといふ論理上の要求にあるのだつた。

 科学や哲学は一種の範疇のシーリースを有つてをり、文学は之に対して、このシーリースとは種類の違つた別な範疇のシーリースを持つてゐるといふことは、論理的に云つて、範疇の一般論から云つて、あつてはならない約束なのだ。この約束を無視して、哲学的乃至科学的範疇秩序とは別な、従つて之とは範疇的に、原則的に、異つた、文学にだけ固有だと信じられさうな範疇秩序を想定し、又は不用意に使ふならば、それが文学的範疇(文学主義的範疇)といふものになるのである。

 文学的範疇秩序の弊は、それが往々、不幸にも哲学的な――普通の――範疇と同じ名前を沢山含んでゐるといふ、甚だ紛わしい事情のために大層悪質になるのである。リアリティーと云ひ現実と云ひ、真理と云ひ誠実といふが、どれも哲学的範疇であると同時に、現に或る種の文学者によつて「文学主義」的範疇として濫用されてゐるのが、現在の事実だ。もし人があつて、私の所謂文学的範疇は実は哲学的範疇と結局同じものであつて、而も文学の方が夫を多少とも弾性に富んだフレクシブルなものとしてより繊細に把握するのに、哲学の方はより判然と普遍性の下に併し粗大にしか把握出来ないのに過ぎないのだ、と云ふなら、さういふ哲学なり文学なりが、とりも直さず文学的範疇で考へられたり書かれたりしてゐる当のもので、さういふものを批判することこそが吾々の今の目的だつたのだ。

 だが、なぜ文学的範疇が往々――文学主義者によつて――愛好され、而もなぜそれの方法上の弊が容易に気づかれないか、を説明しない限り、文学的範疇の意義は実は掴めまい。関係は、文学が科学的乃至哲学的表象を用ゐる代りに、当然なことだが、文学的表象を用ゐる、といふ処に横たはる。本当の場合を云へば、文学も哲学乃至科学も、それが使ふ範疇は、根本概念は、結局に於て同一組織にぞくするものなのだが、併しこの諸概念に直覚的な形態を与へる段になると、即ちその概念に対応する表象――感覚的観念――を求める手法に来ると、文学的表象はもはや哲学的乃至科学的表象と決して同じではないし、又あつてはならない。つまり哲学は哲学的範疇を哲学的表象を借りて使用するのだが、之に反して文学は、この同じ哲学的範疇を使用するのに、是非とも文学的表象を借りなければならないわけだ。

 処が表象と概念とが、論理的な訓練の足りない普通の通俗常識から云へば、つまり同じものにされて了つてゐるやうに、大抵の場合文学的表象と文学に於ける範疇とが一緒にされてゐるのは必ずしも無理からぬ弊害だ。文学には文学独特の諸表象が、感覚的諸観念がある。文学者は一応は単にこの感覚的諸観念、諸表象を駆使するだけで、立派に仕事が出来るだらう。だが、文学を多少とも批評し評論しようとすれば、文学者と雖も諸表象、諸観念を貫いてこれを組み立ててゐる見えない鉄筋の枠を、文学の内から探し出さなくてはならなくなる。その時は恰も、文学に於ける諸概念を、範疇を、求める時なのである。併し一般に云つて、文学至上主義に移り行くべき物質的根拠を有つてゐる今日の一種の文学者達は、この点に来ると直ちにその哲学的な訓練の不足を暴露する。と云ふのは、文学に於ける概念のメカニズムをば文学的表象を通して掘り当てる他ないのは当然だが、その故に文学に於ける諸範疇が、文学的表象になぞらえられてしか工夫出来ないやうになるのだ。文学者はその得意の文学的表象を手頼りにして、独自に文学上の諸概念、諸範疇を(表象をではない)構築する権利を有つやうに空想する。さうやつて「文学的」範疇秩序が築き上げられるのである。文学至上主義の文学者は、哲学者になる時、文学主義者とならざるを得ない。

 文学的表象と文学に於ける範疇、概念(況んや文学的範疇)とを区別したが、そして文学に於ける範疇乃至概念に私は哲学上の興味の重点を置いたが、無論文学自身の立場から云つて文学的表象のもつ文学的価値の大きいことを見逃さうと云ふのではない。ここではすぐ様、文学の創作方法の、更に又文学に於ける世界観の、問題が結びついてゐるからだ。それだけではなく、文学作品上に出現する多くの不朽な性格の独創は、之亦決して概念や範疇の関はり得る問題ではなくて、正に文学的表象の貴重な所産の一つでなくてはならぬ。哲学的には範疇組織が文学の生きた側面だが、それと同様に、それに対応して、ハムレットやドン・キホーテ、バザロフやカルメン其の他等々の性格の創造が、文学的に云つて文学的表象の価値だ。――私は嘗て、概念と性格とを結合しようとする論理学的な試みをやつて見たことがあつたが、そこには今述べたやうな次第によつて或る無理があつたのであり、而もややもすれば文学的範疇の沼地に引きずり込まれる危険がなくはなかつた(拙著『イデオロギーの論理学』前出の最初の章参照)。

 文学主義的範疇は、今日の文学者の多くの文学至上主義者達がその文学活動に於て私かに信頼してゐる論理的根拠であるが、この根拠は文学者の文芸評論と来ると、もつとハッキリ日向にさらけ出される。文学的表象の発達した卓越した文学者も、少し筋の通つた評論を企てる時には全く愚にもつかぬ評論家に堕するといふ事実は、決して珍しくないが、夫は多分ここに原因の主なるものを持つてゐるのだらう。――だが、話は文学のことではない、問題は哲学自身、かうした文学的範疇に立脚してゐる場合が、わが国のブルジョア文化社会に於ては甚だ著しいといふことにある。この点が特に見易くなるのは、ここでも亦、さうしたブルジョア観念論哲学者達の或る者が、文芸評論を試みようとする時であつて、事実又さうした哲学は元来、文芸評論向きに出来てゐるといふ処に、「文学的」な良さと弱みとを有つてゐるのだ。この種の文学主義哲学が実証科学に対して、生産技術のイデオロギーに対する役割に就いて、一般に合理的理論に対して、どういふ態度を取つてゐるか、また取るわけがどこにあるかは、読者に一任していいだらう。

 哲学的意識或ひは又生活意識は、一方文学的意識となつて現はれると共に、他方政治的意識となつても現はれるものだ、といふことをもう一つ注意しなくてはならぬ。そこで文学主義が文学意識となつて現はれたものが文学至上主義であつたに対応して、文学主義の政治的表現は、文学的自由主義と呼ばれていいだらう。文学的リベラリズムに就いては十五に述べるが、最近文壇でも注目に値ひするテーマになりかけてゐるやうだ。之は元来、政治上の哲学的範疇である自由主義が、専ら文学意識によつて支へられる他に歴史的に云つても社会的に云つてもその物質的根拠を有たない結果、いつの間には文学的範疇で以つて置き換へられた、といふ日本に著しい一現象を云ひ表はす言葉なのである。だから今日の日本の可なり多くの文学者が一種の(即ち実は「文学的」な)自由主義者であり、そして今日の日本の自由主義が政治の世界に於てではなく狭義の文学の世界に於てその支柱を見出さねばならぬといふ現状は、今日の日本の代表的な自由主義が主に文学的範疇としてしか受け容れられてゐないといふ関係を物語つてゐるのである。実際今日、自由主義を文学的範疇によつてでも理解しない限り、夫が世間で進歩といふ表象と何か不離な関係におかれてゐるかのやうに云ひ振らされたり思ひ做されてゐたりする理由を、到底理解出来ないだらう。

 文学的範疇に立つて物を云ふことは、事実一見して非常に奇麗なことである。だが夫は結局生活の一つの美人画に過ぎないのだ。文学的範疇によつて世界を解釈することは、その解釈を一等安易にし滑かなものにする。解釈哲学として、だから文学主義哲学程、目的に適つた形態はないのである。単なる神学的範疇であつては、到底この種の、云はば「人間学的」な魅力を持つことが出来なかつただらう。だからここに解釈哲学は特に神から人間に眼を転じて文学主義にまで前進し、自らを有利に展開しようとするわけである。これによつて、現実の(この現実といふ言葉が又不幸にして最もよく文学主義者に気に入るのだが)、哲学的範疇による本当の現実の、実際問題を、原理にまで回避し、例へば実際世界の見透しや計画や必然性や自由は、人間学的「情念」にまで、そして現実界の矛盾は人間的「不安」にまで還元され、之と取り換へられるのだ。――恐らくこれ程蠱惑的な形而上学は、之まで無かつたとさへ云つていいだらう。だが又之ほどシニカルでモラル(実はモーラリティー)の欠乏した形而上学も珍らしいだらう(文学者が「モラル」といふのは実際界のモーラリティーとは異つて元来が文学主義的概念に過ぎないのだ)。モラルの本家としては、最近アンドレ・ジードの呼び声を聞くことが多いが、このモラリストのジードは、一方夙くから仏領南阿の奴隷制に於ける資本主義的機構に、その「文学的良心」を痛く衝かれたといふことだ。彼が所謂転向を伝へられるのは、彼のモラリズムが、すでに完全な文学主義的形而上学として踏み止まることが出来ずに、実際的なモーラリティーに呼びかけねばならなくなつたことを、告げてゐるのかも知れない。

 第一に形而上学、第二に解釈哲学、第三に文学主義哲学、この三つのものが順次に重なり合つて、少くとも現在の日本に於ける「近代的観念論」の積極的に偽装した標本として、吾々の眼の前に与へられてゐる。


第十二 「無の論理」は論理であるか
      ――西田哲学の方法について


 私は拙著『現代哲学講話』(前出)の内で、田辺博士の哲学に就いて所見を述べたが、それは所謂京都学派の発展としての「田辺哲学」の成立を祝福するのが主眼だつたから、田辺哲学と西田哲学との相違をハッキリさせることは省略した。併し田辺哲学が成立したといふことは即ち、田辺博士の哲学がもはや所謂西田哲学とは異つた別なものになつたといふことだから、当然二つの哲学の相違点が問題となるべき筈だつたのである。で、さういふ関係から云つても、西田哲学を取り上げねばならない順序にあるのである。

 尤も『思想』の時評担当者高山岩男氏は、すでに、読者にとつて相当親切な西田哲学の部分的解説を与へてゐるし(七年十二月号)、最近ではまた纏まつた「西田哲学」の入門書をさへ書いた。だがそれはあまり批評的な観点に立つたものではなかつたから、本来の意味に於て西田哲学を特色づけるといふ視角は、殆んど全く放擲されてゐるやうに思ふ。処で博士の『無の自覚的限定』といふ最近の論文集は、博士自身の言葉によつても、博士の研究体系に一段落をつけたもののやうである。西田哲学の特色づけを試みるには充分に好い時期ではないかと考へる(それにはもう少し主観的な動機もなくはない。私は曾て某雑誌に「京都学派の哲学」(本全集第三巻所収)といふ題で、すでに西田哲学の外部的な特色づけを試みたことがある。簡単で粗雑なものであつたし雑誌も雑誌だつたから、学界(?)では問題にもしなかつたらうが、夫を敷衍して見たいといふ心持ちからでもあるのだ)。

 割合主観的な必要や動機はさることながら、吾々は何かの客観的で現実的な必要なしに、問題を取り上げてはならないのだ。それでは一体、西田哲学がなぜ今日特に取り上げられねばならないか。当然考慮しなければならぬ色々の条件を抜きにして、西田哲学が今日のわが国又は世界を通じて最も目立たしい有力な思索――グリューベライ(Gruebelei)――の産物だから、といふだけではまだ充分な理由にならない。――昨今のやうにありとあらゆる形態のファシズム・イデオロギーが白昼横行してゐる世の中である。放送局、新聞社、雑誌社等々が身を以て、与太とかインチキとかいふ、哲学者が耳にするのも恥じるだらうやうな言葉の意味をば、毎日飽かずに体現して見せて呉れる世の中である。それで哲学者は敢然として「真理」のために奮起するのかと思へば決してさうではない。彼等は或ひは意識的に、或ひは無意識的にファシズム・イデオロギーを支持してゐる、或ひは支持する結果になつてゐるのである。なぜなら、ファシズムの当面の敵、正反対物は何であるか、この反対物に対して、哲学者達はどういふ見解と態度とを取つてゐるか、それを見ればこの点は判るだらう。要するに哲学者はブルジョア・イデオローグなのである。――さてそこで、このブルジョア・イデオロギーの精髄としてのブルジョア哲学、そのブルジョア哲学のわが国に於ける代表者が、今日では他でもない西田哲学そのものであることが愈々明白になつて来た、とさう私は考へる。之が西田哲学を取り上げねばならぬと考へる一般的な理由である。

 だがすでに実は茲に、疑問の第一歩があるのである。哲学にブルジョア哲学とかプロレタリア哲学などといふ階級性はないし、又あつてはならない、といふやうな苦情は今は問題外としよう。さういふ反対者には左翼の教科書の一つ二つを読んで貰つてからにする。吾々にはそれよりも西田哲学が果して単なるブルジョア哲学プロパーであるのか、それともブルジョア哲学の衣粧をつけた他のもの(例へば封建的イデオロギーやファシズム・イデオロギー等)であるのかが、問題となるかも知れない。

 さういふ嫌疑には充分の根拠があるやうに見える。多くの西田哲学信奉者は、この哲学をわが国独特の独創哲学だと考へてゐる。といふ意味は、西田哲学は正に東洋的なものだといふのである。或る人は之を禅に結びつけることさへ試みてゐる(尤もヘーゲルさへ禅に結び付けられた場合があるのだが)。一般に汎神論が、超越神論其他に対して、東洋的なものだといふことになつてゐる処から、之を汎神論的だとして説明することも出来るだらう。さういふ意味で之はその本質に於て欧州的なものではなく、従つてその限り、例へば左右田哲学などに較べて判る通り、封建的な本質を持つてゐる、とさう考へられさうである。なる程西田博士が吾々近代人に較べて多分に東洋的(仏教的、儒教的)な従つて又封建文化的な教養を有つてゐるといふことも事実だし、分けても封建的伝統の強い地方で思索の端緒を始めたといふ事実から想像して見ても(但しこの想像はあまり当つてゐないやうであるが)、さういふ色彩は一層強まりさうに考へられるが、それだけではまだ、単に東洋的、封建的な要素が多分に取り入れられてゐるといふことにはなつても、決して夫が西田哲学の代表的な特色として登場することにはならない。

 汎神論は云ふまでもないが、西田哲学に於いて東洋的従つて封建的に見えるだらう処の神秘主義や宗教思想も、決して封建的といふ意味で東洋的なのではなくて、例へばプロティノスが東方的でありアウグスティヌスがヘブライ的だといふ意味でしか東洋的ではあるまい。さういふ東洋的なものは今日の欧州ブルジョア哲学自身が欠くことの出来ない要素なのである。神秘主義は却つてゲルマン思想でさへあり、そして今の場合の宗教思想と云はれるべきものも之と結合して初めて、西田哲学の内容になることが出来るのである。――それに第一、西田哲学に於ける所謂神秘的なるものや所謂宗教的なものは、実は或る正当な意味では決して所謂神秘主義のものでもなく又所謂宗教思想のものでもない。西田哲学の方法は――そして方法にこそ哲学の実際的な代表性格が出るのである、――さうした神秘主義や宗教思想やに立つのではなくて、却つてさうしたものを、従つてそれ以外のそれに反対なものさへ(例へば合理主義や批判主義や形而上学)、ジャスティファイする仕方の内に存する。この方法が例の「無」の立場に立つてゐると云つても、それは今云つた意味での神秘主義だといふことにはならず、又何か宗教的な解決だと云ふことにもならぬ。無に宗教的な意味を投入しようとすることから、僧侶や牧師が西田哲学と自分達との間に何か本質上の関係がありさうに考へるのであるが、関係のあるのは西田哲学に於ける宗教的要素であつて素より宗教的方法(さういふものは無論あり得ない筈だ)ではない。――西田哲学が東洋的であり従つて封建的だといふ主張は不充分にしかなり立たない。

 ファシズム・イデオロギーとはどういふ関係にあるか。近来弁証法の問題を取り上げるやうになつて以来、西田哲学は弁証法的神学に近づいたと云はれてゐる。処で一方この新しい神学はナチス乃至一般にファシズムのイデオロギーと現実問題に於て一致すると云はれてゐる。さうするとどうやら西田哲学はファシズム・イデオロギーにぞくしさうに見える。だが之も、比較的回り道をしない限り、決して直接には成り立たない主張だらう。第一に西田哲学が、弁証法的神学そのものではないことは云ふまでもないし、第二に仮に西田哲学で取り扱はれる弁証法が弁証法的神学のものと殆んど同一のものであつたにしろ、後に見るやうに、西田哲学の方法はつまる処決して何等かの弁証法ではないので、却つて弁証法を説明する処の或る他の一つの方法でしかないのである。――西田哲学が場合によつてはファシズム・イデオロギーと結び付くことがないとは云はない。それがファシズム的効果を有たないとは云はない。それが封建的効果を場合によつては持たないとも限らないと同じである。だが本質はそこにあるのではない。

 なほさう云つても疑問が残るかも知れない。実際問題として、今日の進歩的な意識をもつたインテリゲンチャは、もはや西田哲学に昔程の興味を有つてゐない、この頃の哲学の進歩的な学生で西田哲学を多少とも念を入れて読んでゐる者がどの位ゐるだらうか。その意味で夫はもはや近代的な尖端的な哲学ではない、新しい層では西田哲学は流行らない。これが、封建的で、従つて又それに関係してファッショ的でもあるやうなイデオロギーにぞくする証拠ではないか、と云ふかも知れない。併し実はさうではない、この現象は単に、西田哲学がアカデミー哲学であつてジャーナリスティクな哲学ではなく、又なくなりつつある、といふことを示してゐるに過ぎないのである。曾て西田哲学は或る意味でジャーナリスティクな哲学であつた(その頃は併し理論的ジャーナリズムのアカデミーからの独立は極めて初歩の段階にあつたが)、それ故それが流行つたのである。処が最近ではブルジョア哲学は一般にジャーナリスティクな進歩的なアッピールを失つて、アカデミズムの塔の内に追ひ込まれて了つた。ブルジョア哲学はアカデミー哲学としてか、又はアカデミーの俗流化した哲学としてしか、生存出来なくなつた、西田哲学も亦その例にもれない。だから、西田哲学が封建的でファッショ的でさへありさうに見える現象は、実は夫がアカデミーの哲学でしかなくなりつつあることを示すものであり、即ち取りも直さず、西田哲学が、外でもないブルジョア社会にプロパーな哲学であることをここでも証拠立ててゐるのである。

 で、西田哲学が真のブルジョア哲学だとして、そのブルジョア哲学たる所以は、積極的にどこにあるか。それは西田哲学的方法にあるわけであつたが、方法はそれが使はれる認識目的から見て決められねばならぬ。さういふやり口が今問題になる方法のことである。

 西田哲学の方法、方法が使はれる認識目的から見たやり口、夫は、近来確立された結果から見ると、神秘的、宗教的形而上学的、等々の一切の臭味にも拘らず、意外にもロマンティークのものではないかと考へる。といふ意味は、実在に関する諸根本概念――諸範疇――を、思考に於て如何に組織し秩序づけるかに認識目的があるのであり、さうした世界の解釈がそのやり口なのである。さういふやり口――世界を範疇組織として解釈しようとする企て――は全くフィヒテに始まるものであり(彼に於て初めて実在即哲学といふ意味体系の概念が実現された)、シェリングを通つてヘーゲルに終るのであつて、恰もそれはドイツ浪漫派哲学の発生から終焉までの過程に他ならぬ(ドイツ観念論をドイツ・ロマンティーク哲学と見る限り、その最初の代表者がフィヒテであつたのである)。――西田哲学はかういふ認識目的を、最も純粋な最も自覚された形にまで、徹底させたのである。この「徹底」に西田哲学の今の場合の固有性があるのだが、とに角一つの徹底段階であつたヘーゲルに於てのやうに、西田哲学が、一切の哲学体系を分解し再構成出来る見透しがつきさうに見えるのは、このロマンティーク的な範疇世界体系組織といふ認識目的から来る、当然な現象なのである。

 だから之はブルジョア哲学の云はば正統的発展であつて(この点は例へばハイデッガーなどのカトリック主義的と呼ばれてゐるブルジョア哲学と比較して見ればよく判る)、それが又今日のわが国のアカデミー哲学の正統を形造りつつある所以でもある。だからこそ吾々にとつて、西田哲学が問題にならねばならないと云ふのである。

 さてそこで、簡単に、西田哲学の方法の固有な特色を明らかにしよう。西田哲学の方法にとつての第一のそして終局の問題は、如何にして存在なるものを考へ得るかである、と云つていい。ここですでに注意しなければならないのは、存在が何であるか――例へば物質であるか精神であるかそれとも両者の合一未分のものであるか等々――ではなくて、どう考へたならば存在といふものを考へることが出来るかが問題なのである。存在自身ではなくて存在といふ範疇が、存在といふ概念が、如何にして成り立つかである。ここは根本的に大事な点である。

 近代哲学の考へ方では、主観と客観との対立から出発して存在を考へて行くが(そして田辺哲学は結局かういふ出発の仕方の後仕末をつけようとしたものだが)、西田哲学はもつとヘーゲル的であり、或ひはもつとアリストテレス的であると云つていい。といふのは、存在を判断に於ける限定の関係から把握しようとするのである。さうすれば存在に考へられるものは凡て一般者の自己限定でなければならない。判断に於ける限定は判断的一般者の自己限定だつたのである。一般に、在ると考へられるものはこの種の一般者に於てあるものであり、場所に於てあるものなのである。だが判断的一般者がどれ程自己限定をして行つても、遂に個物(個体)には到着出来ない。なぜなら個物は逆に一般者を、云はば個物の環境を、限定出来ねばならぬ(動く、働く)筈だから。で、個物が考へられるためには(そして個物は実は今の場合、後に個人的自己と考へられるものの水先案内者に他ならぬ)、この判断的一般者では不足であつて、それが新しい一般者にまで超え、之によつて裏づけられてなければならぬ。さういふ一般者が自覚的一般者であり、その自己限定として初めて個物といふものの意味が考へられる。同様にして更に行為的一般者(ノエシス的)乃至表現的一般者(ノエマ的)の自己限定が考へられる。処で、上にある一般者は底にある一般者の自己限定と考へられるわけであるが、それでは、最後の底にある一般者は何の一般者の限定であるか。最後の一般者と雖も一般者と考へられ得る以上限定されたものであり、ある処のものである。それは最後の有である。だがさういふ有の一般者が限定である限り、之を限定するものが考へられねばならぬ。処でそれは最後の有より一枚彼岸にあるのだから、もはや有ではあり得ない。底には何もない、何も無くて而も限定しなければならぬから、無にして限定する無の自己限定が考へられなければならない。場所とは無の場所だつたのである。

 無にして限定するといふことが実は自覚といふことの、意識といふことの、意義である。で、ここで問題は、主観と客観との関係に接近するのであるが、自覚、意識は一方に於て無の限定であり、他方に於て併しながらそれであるが故に初めて有(存在)であることが出来たのだから、同時に二つの面を直接に重ねて持つてゐるわけで、前者を西田哲学はノエシス面、後者をノエマ面と呼び慣はしてゐる。かういふフッセルルの現象学から借りた術語は全く、自覚――この観念―― を視野の真中に置かなければ無意味なものであることを忘れてはならぬ。

 従つて、一切の存在の諸範疇は、「無の自覚的限定」として、組織づけられ体系づけられねばならぬことになる。之が実質から云つて西田哲学の体系となるべきものであり、そしてさういふ表題をもつ例の論文集が西田哲学の仕事の一くぎりとなる所以だつたのである。

 従来の哲学の大抵のものは、何かの片手落ちや無理をして来てゐるのであるが、西田哲学は相反する凡ゆる哲学的要求を素直に受け入れ、夫々の間の撞着、矛盾を、結び付き得ない筈のものを、あり態に暴露する。そこで博士は考へる「結び付き得ないものは結び付き得ない筈のものである(例へば主観と客観、未来と過去、歴史とイデア等々)。それが永久に結びつかないことこそそれの本性なのだ。だがそれは事実としては結び付いてゐるのであつて、ただどうしてもその結び付きが考へ得られないといふ困難に陥つてゐるにすぎない。それは考へ方が悪いのだ。と云ふのは存在を在るもの、有から出発して考へるからで、有の論理を以て考へようとするからである。例のノエマ面に即してしか存在を考へないからである」とさう博士は考へる。そこでかの無にして限定するものを考へることが必要になつて来るのである。「存在は無の限定として、無から出発して考へられねばならぬ。さうしなければ一般に凡そ存在なるものは考へられぬ。救ふべからざる矛盾に陥つて了ふ他はない」と。有の論理の代りに必要なのは「無の論理」である。――無とはだから全く方法(機関)上のものであつて、之を何か形而上学的なものと考へてはならぬ。形而上学的に考へることは之をノエマ的に考へることであり、即ち之を一種の有と考へることであり(有に対立する無は矢張り何か在る処の有に過ぎない)、それは結局無ではないものを考へることとなるだらう。

 この無といふ論理的な用具は併し、決して何か神秘主義的な Grund(例へば Ungrund)と云つたやうなものではないので、吾々の自覚、意識の事実に於て、その直接な拠り処と出所とを有つてゐる。無の論理は他でもない「自覚的論理」だつたのである。

 西田哲学の方法のさし当つての要点が大体かうであるとして、吾々は今、その「無の論理」「自覚的論理」の本性をもう少し検討しなければならぬ。そのために、西田哲学が弁証法と考へるものが、どういふ本性であるかを見よう。

 西田哲学によると、従来の哲学が考へて来た弁証法はどれも本当のものではなかつた。なぜならそこでは、矛盾といふことが充分に把握され得ないやうな仕方でしか之が取り上げられなかつたからである。「従来、矛盾は何かノエマ的に成り立つかのやうに仮定されてゐたのであるが、ノエマ的につかまれ得るものは単なる変化や対立や反対ではあつても、本当の矛盾ではあり得ない。何故なら矛盾はいつも内部的矛盾であるべきであつて、さういふ内部的対立はノエシスの側に於てしか成り立たない筈だからである。観念論的弁証法でも唯物弁証法でも、何かノエマ的に観念とか物質とかいふ有(存在)を置いて、そこで弁証法が成り立つと見てゐるのであるが、さういふ有の論理では弁証法的矛盾は考へられない。本当の弁証法は、有が直ちに無に裏づけられてゐる。生即死、死即生といふ点にしか考へ得られないのだ。無の論理によつてしか弁証法は考へられない」とさう云ふのである。弁証法は自覚に依つてしか考へられないといふのである。

 処で吾々に云はせれば、「ここでいふ弁証法、自覚の弁証法なるものは、要するに弁証法の自覚でしかない。吾々にとつては弁証法を先ず第一に存在の根本法則と考へなければならぬ理由があり、そして存在と存在の意識とをあくまで区別する必要があるのだが、従つて、弁証法そのものと弁証法の意識(自覚)とを区別することがあくまで必要なのであるが、西田哲学で問題になるのは、弁証法の自覚、意識でしかなくて、弁証法それ自身ではない」といふのである。即ち弁証法なるものは如何にして意識され得るか――考へ得られるか――といふ弁証法の意味(それは無論意識、観念されたものである)だけが問題であつて、弁証法それ自身は問題になれない。弁証法といふものの意味が成立する場所はなる程意識、自覚――それは要するに無によつて裏づけられる――だらう。だがそのことは弁証法そのものの成立する場所が意識や自覚だといふことにはならない筈ではないか。

 無の論理に於てこそ(自覚の)弁証法が初めて理解され得るといふのだから、この論理は弁証法的論理でなければならないやうに見えるだらう。併しここでは実は、弁証法なるものの意味、意義が解明されてゐるだけであつて、本当は決して弁証法が使はれてゐるのではない。無の論理で取扱つた結果が弁証法なるものの意味、意義を持つて来るまでであつて、何も弁証法的論理によつて、弁証法的に取扱はれるのではない。無の論理は弁証法的に考へる論理ではなくて、弁証法といふものの意味が如何にして考へられるかを解釈する処の論理なのである。だから実際、不連続の連続とか非合理の合理性とかいふものも、弁証法的に考へることを意味するどころではなく、却つて超弁証法的な一種の神秘的な方法によつてゐることを示すに過ぎぬと云はざるを得ない(それが所謂神秘主義と異る点は、無といふ論理的用具の使ひ方にあるにすぎない)。

 「弁証法をノエシス的に考へると称して、無の論理を採用する以上、即ち云はば無の弁証法を採用する以上、当然、有の、存在の弁証法は拒否されざるを得ない。従つて存在を取扱ふためには弁証法的論理(有の弁証法)は役立たないわけで、取りも直さず「無の論理」(無の弁証法)しか残らない」といふことは尤もではないか。「無の論理」(方法)は、夫が盛んに弁証法を云々するので一見弁証法的論理方法であるかのやうに見えるが、実は他でもない弁証法論理(方法)の排撃そのものでしかない。――之が西田哲学の無の論理による処の「弁証法」の歪曲された解釈なのである。

 すでに今、無の論理が宿命的な関係を持つてゐる処の弁証法に就いて、特有の仕方で見出されたやうに、一般に無の論理は、事物そのものを処理する代りに、事実のもつ意味を処理するのである。本当は、事物そのものを処理しない限り事物のもつ充分な意味の処理も出来ないわけだが、ここでは事物そのものからは独立に、事物の意味だけが問題とされる。ここでの問題はいつも、事物がどうやつたらば「考へ得られる」かである。事物が実際にどうあるかではない、どういふ「意味」を持つたものがその事物の名に値ひするかである。社会や歴史や自然がどうあるかではなくて、社会や歴史や自然といふ概念がどういふ意義を有つたものであるか、意味の範疇体系に於てどういふ位置を占めるか、が問題である。で、例へば社会は我と汝との関係といふ意味をしか有たないのである。試みに『無の自覚的限定』の内から、何々と「考へられる」とか、何々の「意義を有する」とか、何々と「いふ如きもの」とかいふ言葉を拾ひ出して見るなら、それがどれ程莫大な数に上るかに読者は驚くに違ひない。無の論理は事物の「論理的意義」だけを問題とするのである(かういふ「意味」的方法のカリケチュアを読者は西田学派的美学の内に見出すことが出来るだらう―― 植田寿蔵氏)。

 かうした意味解釈のためだけの論理としてならば、なる程無の論理程徹底した方法はないだらう。有の論理はそれが如何に観念論的なものであらうとも、とにかく観念と云つたやうな有、存在そのものを取扱ふことを免れない。意味だけを、意義だけを、取り扱ふためには全く、無の論理に勝るものは又とあるまい。――厳密にかうした、世界の解釈に止まろうと欲する無の論理こそは、最も徹底した純正形而上学、観念論である。それは無の論理が「形而上学」でもなく、又「観念論」でないからこそ、却つて正にさうなのである。田辺哲学は自ら称する如く観念論乃至即物主義であり、従つて又自らも称する如く形而上学である。だがそれ故に却つて、それが「観念論的」で「形而上学」である点に徹底を欠いてゐる。之はなほ有の論理に立つてゐるからである。之を無の論理にまで徹底するのが西田哲学であつた。――吾々は処で考へる「論理は元来存在の論理でなければならぬ。といふことは弁証法的論理でなければならぬといふことである。ヘーゲル哲学や田辺哲学は之を非唯物論的な論理でなければならぬと考へたのだが、西田哲学は之を、思ひ切つて逆さまにして、無的論理にする。だが唯物弁証法的論理こそ本当に唯一の存在の論理であり、従つて又本当の論理なのである。――で、無の論理は論理ではない。なぜなら、それは存在そのものを考へることは出来ないのであつて、ただ存在の「論理的意義」だけをしか考へ得ないのだから」

 さて最後に、存在をば無の場所に於ける一般者の自己限定として考へるこの「無の論理」から見れば、思弁的、宗教的、道徳的深刻を以て鳴つてゐる西田哲学は、意外にも、至極陰影明朗な、芸術的な、人本的でヘドニッシュでさへある処の、特色を示すといふことに気づかねばならぬ。元来西田博士が世界に就いて有つてゐるイメージはさういふ種類のものではなかつただらうか。事実を云へば、恐らくかうした特色が、西田哲学をあれ程有名にし又あれ程人気を集めたと考へる他はない。さうでなければあんな難解な哲学が、あれ程多数の素人のファンを有つ筈はあるまい。西田博士といふ詩人の描く意味の影像は、その要点々々が或る時代の世人の日常的感能とよく合致して行つたので、さういふ読者はスッカリ有頂天になつて了つたのである。さういふ読者とは併し何であつたか。暫く前迄わが国を風靡してゐたロマン的な読者なのである。この種類の読者にあつては、意味の深長さは賞嘆に値ひしても、客観的現実事物の物質的必然性は一向心を動かすに足りないものである。だからかういふ読者を大向とする西田哲学はロマンティークのものだと云つたのである。尤も最近の西田哲学はロマン派的、美学的な外的色彩をやや失つたやうに見えるが、それは却つてロマン派的、美学的な方法――意味影像の世界の組織立て方――が確立されたからであつて、そしてそれが取りも直さず左右田博士によつて「西田哲学」と呼び始められたものだつたのである。――かつて田辺博士は西田哲学をゴチックの伽藍にたとへたが、ロマンティークの末勢が中世の闇の中に後退して行つた点でも考へない限りこの形容は賛成出来ない。西田哲学はさういふ封建的な持ち味のものではない。それはもはや尖端的ではなくなつた処の、併し云はばモダーンな哲学なのである。

 西田哲学がブルジョア哲学である所以の特色、それから、従つて又それが有つ弱点と考へられる点、を大体述べた。それは本質上ロマン派的な哲学であつた。――だが、このロマン派的方法による西田哲学も、他の一切の形態のブルジョア哲学の例にもれず、その神秘主義的、宗教的、形而上学的な要素の故に形而上学的、宗教的、神秘主義的な効果を有つことが出来、従つてそこからも亦重ねて、「形而上学的」で「観念論的」な世界像のために奉仕することが出来るといふ、もう一つの点を見落してはならない。西田哲学の凡ゆる部分が「形而上学序説」の意味を有つことが出来るのである(岩波講座『哲学』第十四回配本参照)。で、西田哲学はブルジョアジーにとつて全く有難い精神的供物でなければなるまい。

 重ねて云ふが、西田哲学は決して封建的なゴチック的な方法によるものではない。寧ろ近代的な浪漫的な本質のものだ。現代文化人の文化的意識を裏づけるに、これ程適切なものを見ない。現代人の近代資本主義的教養は、この哲学の内に、自分の文化的自由意識の代弁者を見出す。そこで之は文化的自由主義(経済的、政治的自由主義に対する)の哲学の代表者となるわけである。ここに西田哲学の人気があるのだ。尤もここから、反動的な「宗教復興」などのための拠り処を引き出すことも、西田博士自身の、又人々の、自由にぞくするのだが。


第十三 「全体」の魔術
      ――高橋里美教授の哲学法


 私は「『無の論理』は論理であるか」で以て、西田哲学の特色づけを行つた。西田哲学がアカデミカルかジャーナリスティックかといふやうなことをムキになつて喋つてゐる人もいるが、問題はそんな処にあつたのではない。博士の「無」の立場からは、多分哲学的な諸問題、諸関係の意義の解釈は出来るだらうが、哲学的であらうとなからうと、現実の問題は、実際問題は、かういふ形而上学的な解釈の立場と方法とでは解決出来るものではない、といふことが要点だつたのである。

 西田幾多郎博士の「無」の立場乃至方法と対比出来るのは云はば有の立場乃至方法で、今日わが国でこれを代表するものは田辺博士である。田辺博士はその「絶対弁証法」(即ちReal-Ideal-Dialektik)によつて所謂観念論的弁証法(ヘーゲル)と唯物弁証法(マルクス主義)との総合に到達出来ると考へる。この田辺哲学の特色づけの一端も亦、私はかつて拙著『現代哲学講話』(前出)で触れて見たことがある。

 処で、弁証法と云へば、観念論的であらうと唯物論的であらうと、更に又絶対的なものであらうと、とに角それは運動、過程の立場に立つてゐる。事物や世界や意識をその動態に於て把握しようとすればこそ、一般に弁証法といふ方法が必要になるわけだからである。併し更に、一般的に云つて、なぜ存在(有)を運動、過程として把握する必要があるかといふことが、非常に重大な決定的な点であつて、実は存在を現実的に、実際問題として解決するためには、是非ともこの道を選ばなければならぬ必要があるのである。ただ単に立場として最も完全であるからとか、方法として最も苦情に乏しいからとかいふ、主観的な観念的理由からではなくて、存在を実際的に処理するために、このことが云はば物質的に必要になるのである。

 処が机の上や研究室の内では、実際問題と「原理的」な問題とは、苦もなく分離されることが尊重すべき習慣になつてゐる。「実際問題は云はば『応用哲学』に一任すれば良いので、応用哲学とは純粋哲学が用意した原理をただ応用した哲学のことに他ならないのだから、まづ第一に原理の研究さへしておけば、実際問題へのその応用は必要とあれば何時でも可能である」と「哲学者」達は考へる。無論かうした主張や或ひは一種の自己弁解に徹底した哲学者達は、永久にさうした実際問題、「応用問題」を真面目に取り上げる日は来ないといふことを自分自身知つてゐるのだから、可能だといふことは現実的には不可能だといふことに他ならないのだが。で、かうした原理哲学(原理を検討しない哲学はないが原理しか研究し得ない哲学のこと)にとつては、実際問題は実は実際問題ではなく、単に原理問題の一種、その応用に他ならない。彼等によれば実は寧ろ実際問題と原理問題との区別はないので、原理問題さへ片づけばそれで以て実際問題に対する処方も亦出て来るといふオプティミズムが根本をなしてゐるのである。だからこそ、原理的なこの哲学は本当の実際問題をば永久に問題の圏外に追放して了ふのである。

 ここでは可能の問題と現実の問題とが混同される。その結果実際問題としては、可能の問題と現実の問題とは永久に切り離されて了ふ。存在の把握の仕方を考察するに際して、だから、現実上の必要を標準とする代りに、可能的な諸可能性の内から、任意にその立場や方法やの詮衡が行はれる。存在(有)を何も運動や過程の立場から取り上げねばならぬ必要性は、可能性の上では、どこにもないではないか(なる程その通りで、之は現実の問題から云つて必要なのであつて、可能的問題としては多分その必要はないだらう)、それよりも寧ろ、運動や過程をさへ含む処の、併し全運動や全過程を越えた処の、静止した全体が少くとも可能性上可能であり、而もこの方が、可能的な立場の内で、従つて又可能的方法の内で、最も完全な苦情のないものではないか。少くともさう考へることは可能性上不可能ではないではないか。――もしかういふ可能性を主張する哲学の代表的なものを、今日のわが国のブルジョア哲学界に求めるならば、東北帝大の高橋里美教授の哲学がそこに待つてゐる。

 世間では高橋教授の哲学は殆んど流行してゐない。そして高橋教授の名は必ずしも喧伝されてはゐない。高橋教授は西田博士や田辺博士やに較べれば印刷にした原稿の紙数は比較にならない程少ない(尤も他の哲学の教授に較べたら必ずしも少なくはない。殆んど何のアルバイトも示さない哲学者さへわが国では一人前に生活してゐる)。併し教授は確かに西田、田辺の両氏に並べられていい哲学者であることを注目しなければならぬと思ふ。――教授が最も卓越した点は、その分析の執拗さと可なりの鋭さ、現象学者に見られるやうなザッヘへの忠実さ、妥協に対する潔癖と徹底癖等々で、事物をゴマ化さないといふ点で、形式的には相当信頼すべき科学性を示してゐる。さういふ根拠から云つても吾々は教授の哲学を批評する気になるのである。

 併し或る意味に於て、教授の哲学を批評することは、今の処不可能であるとも云ふことが出来る。といふのは高橋氏の哲学の特色はその論文集『全体の立場』で大体見当はつくのであるが、その序文によると、この論文集に出てゐる体系的全体といふものの立場は、すでに現在の氏の立場ではなくなつてゐるらしく、「体系そのものを含む純一なる全体性としての全体性」と云つて説明されてゐる絶対無の立場こそ、氏が現在立つてゐると称してゐる立場だからである。普通の有限者の立場とこの絶対無の立場との中間に位ゐする立場が、この書物の内容なのだから、そこでは絶対無の立場は必らずしも吾々にハッキリとは判らないわけである。教授は、現在立つてゐるさういふ立場の詳しい説明をここでは与へてゐないし、又特にその立場から何かの問題を解決して見せてもゐないからだ。そしてこの論文集の他に、教授の書いたものは「認識論」、「時間論」(何れも岩波講座『哲学』の内)及び「フッセルルの現象学」があるだけで、而も今の最後の立場を知るには、どれもあまり適切ではない。

 で、吾々は『全体の立場』(岩波書店・昭和七年)に出てゐる氏の考へ方を批評する他なく、之を通じて見当のつく現在の氏の考へ方に及ぶ他はあるまい。

 この書物の名が示す通り、最も重大視されそして最も頼みにされてゐるものは「全体」といふ概念である。氏に於ては之は一つの原理にまで高められる(「全体性の原理」)(七頁)。一体ある概念が或る哲学に於て原理の位置にまで高められる場合は、その原理が論理の性質を有つ時であつて、西田哲学の無は「無の論理」にまで展開するのであつたが、ここでは全体が、「全体―部分」の論理を展開するものと見ていい。即ち事物は可能―実現とか、矛盾―総合とか、無―有とか色々な論理、思考のメカニズムを使つて哲学的に処理されて来たが、さうしたものに代はる思考のメカニズムとして、全体対部分といふ根本的な連関が氏によつて選ばれるのである。氏によれば之こそが初めて「具体的全体的方法」(十一頁)だといふのである。

 なる程誰も事物を考へるのに、わざわざ部分的に考へる者はゐないだらう、考へるからには「全体の立場」に立つてゐると思はないものは恐らく一人もないだらう。それは丁度誰だつて抽象的に考へたり不純に考へたりしてゐると思つてゐるものはないのと全く同じで、その限り、具体の立場や純粋の立場と云つた処でそれだけでは何物をも意味しないが、夫と同じにただ「全体の立場」と云つても何物を意味するものでもないだらう。だが氏のいふ「全体の立場」なるものは、かういふ当然な併し無論不可欠な一般的要請のことだけではなくて、之が特殊な形で全体―部分といふ論理にまで精製された場合を指すのだ。だから氏の「全体の立場」に、全体といふ言葉が付いてゐるからと云つて、本当にそれが全体的であるのかどうか、さし当り保証の限りではない。人間主義が決して人間的であるとは限らないやうに、全体といふ言葉に、予め読者も高橋氏自身も、決して迷はされてはならないのである。

 そこで全体―部分の論理は論理として使用に耐へ得るものかどうかといふ、根本問題に来るのだが、氏自身の告白によると、どうもこの根本がまだ疑問のないものではないらしい。一体、全体は無論部分を含むのだが、ではなぜ部分は全体から区別されねばならないか。本当に部分を含み切つてゐるから、全体だけでいいのでそれから区別された部分といふものは、論理的に少し変なものになりはしないか。この質問は氏によると決して物数奇な動機から来るのではなく、極めて根本的な「恐るべき問ひ」なのだが、それがまだ解決されてゐないのださうである。

 家の全体の内には例へば部屋といふ部分が含まれてゐるといふことは、空間的には問題のないことだが、空間的にしか通用性を保証されてゐないこの全体―部分の連関を、論理にまで一般化するのだから、当然疑問は起きる筈ではないか。ここへ Nebeneinander(Nacheinanderに対して)といふ範疇を援用して来ても事態は一向有望にはならぬ。氏は「恐るべき問ひ」や「恐るべき疑問」と云つて、哲学青年や明治時代の人生哲学者を捉へさうな興奮にかられる場面を処々で見せるが、「全体」といふ言葉も、「ヘンカイパン(hen kaipan)」といふ言葉から連想されるドイツ文学的興奮を催すので、或ひはそこから、教授はその全体―部分の論理の興奮根拠を得てゐるのではないかと、気を回はしていけないだらうか。――本当に全体であるためには、何でもかでも一遍に這入るものを考へなくてはならぬ。処が事物の関係には矛盾があり排除があるのが少くとも事実であつて見れば、相矛盾したものも相排除するものも一緒に仲良く之に這入らねばならぬ。即ち例へば全体主義自身は、部分主義と云つたやうなもの迄も含まなくてはならぬ。高橋哲学は反高橋哲学をも含まなければ高橋哲学にはならぬといふことになる。すると所謂「全体の立場」といふ一つの立場は実は高橋哲学ではあり得ないといふことにさへなる。

 現実に於て人々が立脚する立場、立脚点はいつも相対的全体に止まつてゐるのだから、「全体の立場」も実は絶対的には全体的な立場でなくてもいいのだといふなら、本当に全体的な立場とは要するに、相対的な立場の進歩や発展といふ過程の揚句初めて出て来るわけで、この過程性を抜きにしては本当の全体性を云々することは出来ない筈だらう。「全体性といふ範疇なり原理なりが、それ自身弁証法的なものなので、即ち弁証法的論理にかけて初めて使用出来るやうになるものなので、それ自身だけで、部分や何かを相手にして、独立に論理となることは出来ない」といふことが之で判るだらう。この点を見失ふから、全体と部分との関係が、全体―部分―論理から云つて「恐るべき問ひ」になつて現はれて来るので、実は全体と部分との関係は正に弁証法的論理の一使用に他ならないのだ。

 氏の考へはH・コーエンの考へ方によつて琢磨され、之を批判することによつて之を踏み越えて来てゐるが、そこで、コーエンの例の根源なるものは教授によれば本当の原理ではないといふのである。コーエンの根源はコーエンの汎方法主義によれば、方法が始まる始元(Anfang)であつたが、高橋氏によれば原理(Anfang=Prinzip=Principia=Anfangsgrund)は端初にばかりあるのではなくて、端初にすでに含まれてゐる全体の中になくてはならぬといふのである。AからBへの発展はだから又BからAへの発展と独立ではないので、凡ての過程(運動、変化、発展等々)はその意味で「可逆的」だといふのである。そしてA→BとB→Aの双方を含む全体が必要になつて来て、それは又当然静止の性質を有つて来なくてはならぬ筈だといふのである(七五頁以下)。

 「全体は静止である。無論運動を排除した意味での静止ではなく、運動と静止とを一緒にブチ込んで而もこの方にだけ――部分的に――肩を持つ静止である。それが全体的な所以である」といふ。よろしい、まあさうしておかう。併し自由主義のやうに寛大なこの静止に立脚点を求めることによつて、実際に存在してゐる運動や静止はどうなるのか。それは矢張り前の通りの運動と静止とだらう。では何の為めに、わざわざそのやうなパンドラの手箱に入れて見る必要があつたのか(教授によれば出すといふことは入れるといふことである)。「原理の学」である哲学がそれを必要とするのか。では哲学といふものは例の原理問題を取り扱ひたいばつかりに、現実のA→Bといふ運動も、解釈上のB→Aといふ観念的運動も、何でもいいただ一緒にさへすればいいのであるか。さうしないと現実の運動A→B自身さへが理解出来ないと氏は云ふらしい。全体の立場に立つて初めて個性も本当の個性として理解出来ると。なる程さうである。だが、現実の運動A→Bが、観念的運動B→Aと並べられることによつて実際には何の得をするのであるか。精々が現実の秩序にぞくするA→Bが、解釈の秩序にぞくするB→Aと並置されることによつて、現実性の原理を去勢されて可能性の原理にまで還元されるのが落ちだらう。この際得をするのは、与へられた現実の問題、運動A→Bではなくて、勝手に静止の方が好きで、さういふ好みの我を張ることだけが仕事であるやうに見える全体性の原理自身でしかない。

 運動と静止とは、教授が愛好する高次の静止の立場に於て救はれるのではない。この運動自身と静止自身との何かの(吾々は之を弁証法的だと云ふのだが)連関によつて救はれるのである。その連関が即ち静止ではないか?と、否その連関は今も云つた通り何も静止である必要はなくて、正に他ならぬ静止と運動との連関なのだ。高次の静止と高次の運動との連関を考へるなら、夫がこの与へられた静止とこの与へられた運動との連関自身と一つなのだ。一体初めから静止の立場を仮定しなければ、何もさう幾つもの静止を(運動は無論)考へる必要はなかつただらう。1といふ数字の好きな人は、5=5×1=5×1×1……といふやうに、いくらでも1を付けてもいいが、5といふ数はそれによつて決して殖えはしない。まして、5の後から1を掛けたからと云つて、5が1になるものではない。――問題は現実に働くものや動くものや個物や何かの解釈にあつてはならぬ。解釈はかういふ事物の実際的処理のための単なるオペレーターに過ぎない。結果として出す時にはそれは消去されてゐることが必要だ。如何に意味を有つた(Sinnhaftな)事物でも、事物が意味を有つてゐるのであつて、意味が事物になつてゐるのではない。意味の解釈で以て事物の処理に置き換へては困る。

 併しどうしても哲学である以上かうした「全体的」な「静止」の立場が必要だといふなら、教授がそれほど哲学体系を好きだといふ点を吾々の問題にしよう。氏は方法を体系から峻別し、方法主義に対して体系主義ともいふべきものを固持する。無論この体系は静止した体系でなくてはならぬから(開放的体系や動的体系はナンセンスだ)、さつき見た連関によつて、過程としての方法をも含んでゐるので、全体主義には矛盾などはしない。高橋氏は前に述べた通り、今日では体系的全体といふ合言葉では満足してゐないので、絶対無としての全体性にまでつき進んでゐるのだから、今更吾々が体系を問題にしてもあまり適切でないと思はれるかも知れないが、併しこの絶対無は不思議にも愈々益々色々のものを含んでゐる(Sein)ものなので、無論体系的全体だつて夫に這入つてゐるものだし、それに、氏の体系主義と同様に、否更にそれ以上に、実際問題を処理すべき「方法」の産出に於て不毛なのだから、この最後の点を見るためには、氏の愛好する「体系」をその「絶対無」の身代りにするのは、寧ろ当方の側の譲歩でもあるだらう。

 併しよく考へて見ると、体系を愛好する人は当然体系を造るべき筈である。その良い例はヘーゲルである。体系ばかりを愛好しない人でさへ体系は造る。処が高橋氏は之まであまり体系は造らないらしい。体系の代りに体系主義といふ立場が強調されるに過ぎない。だが氏が要求してゐる処の、即ち又やがて氏自身が造り上げるだらう処の、体系の見取り図は、ある一点に於て、決定的に決つてゐるやうだ。体系とは例の全体をその内部組織から説明する言葉に他ならないが、この全体は「体験」の全体であり、そして「意識せられる限りのもの」がその内で「存在の権利と能力」とを持つ処の全体なのである(九八頁)。即ちここに観念の体系しか出来上る心配はないといふことが殆んど決定的に確実ではないか。かういふ観念だけの体系が、何かの意味で観念論的にならないといふことは、全く想像出来ないことである。まだ併し氏の体系は出来てゐない。立場があるだけだ。哲学概論は出来てゐるが哲学はまだ出来てゐない。だからどういふ形の観念論になるかは予断出来ないが、少くともその立場がどういふ風に観念論的であるかは、例の「静止」の魔術によつて凡ての現実的なものを、パンドラの手箱の内へ仕舞ひ込んで、可能性の呪(まじなひ)を結んだことで判つてゐる筈だらう。だから恐らく体系としては、「静止」の「形而上学」と云ふべきものが出来上ることだらう。そして吾々がそれに反対しても賛成しても、どの道吾々はその全体の立場に呑み込まれて了はなければならぬ宿命を持つてゐるらしい。このレヴィヤサンは全く、この頃の国家権力のやうに万能で貪欲である。

 もし高橋氏がこの「全体の立場」の論理を社会の問題にでも持ち込むならば、アブソリュティズムの哲学的基礎づけなどとして、正に恐るべき社会哲学が発生するかも知れない。体験の全体といふやうな観念も、国民性とか民族とかいふ観念と結び付くのは多分困難ではないだらう。併し学的に慎重で良心的な氏は、決してそのやうな山師のやうな企ては有たない。氏が専ら哲学的に興味を有つてゐるのは、例の立場の問題や、意識と時間との問題や数学や物理学の問題やであつて、社会の諸問題はなぜだか殆んど哲学――純正原理哲学――には値ひしないとでも考へてゐるやうである。私の見た処では、連続の問題に関して、断絶の理論(弁証法)は「過激派」の「革命理論」に通じると云ひ、之に反して連続の理論(体系的全体は連続的だ)はもつと穏和な社会理論に対応しさうだと云つてゐる個処が、一つ二つあるだけである。――「全体」の哲学体系とは、一切の存在の体系ではなくてどうも「意識」の体系のことであるらしい。

 高橋氏の「全体」なるものが「静止」した「意識」(「体験」)の「体系」であるといふ処から、当然重大問題とならねばならぬのは弁証法の問題である。そして之に対する氏の態度も、想像するに困難ではないだらう。併し氏は例の唯物弁証法(西田博士や田辺博士が如何にして之を克服しようかと骨を折つてゐる代物)に就いてはあまり興味はないと見えて、問題になるのはヘーゲルの弁証法だけである。恐らく、ヘーゲルの弁証法もマルクス主義の夫も、過程の弁証法を脱却してゐない点で同断だといふので、「哲学者」であるヘーゲルだけが特に選にあづかつたのだらう。

 ヘーゲルの弁証法の根本問題に対しては、精緻なこの教授の頭脳は非常に示唆に富んだ分析を与へてゐる。一般に弁証法にとつては端初=始元は根本問題だが、氏はヘーゲルの始元に於て「始元の弁証法」と、之から区別される「内容的弁証法」ともいふべきものとの、関係を取り上げる(尤もこの二つの言葉は無論氏が造つたのではない)。「ヘーゲルが純有(reinesSein)を直接的であり且つ抽象的であると云ふ時、この二つの弁証法が混同されてゐる」といふのである。即ち、「本当に直接的なものは無媒介な直接性を持つ筈なのに、それを更に抽象的だと考へることによつて、媒介された直接性にして了つてゐるのであつて、抽象的なものは抽象作用を媒介するのでなければ抽象的とさへ呼ぶ理由がないからである」と云ふのである。

 普通ヘーゲルの弁証法の真意は、哲学的始元が有つ始元の弁証法を斥け、事物自身のもつ内容的弁証法を採るにあると考へられてゐるが、高橋教授によれば、「この内容的弁証法によるのでは、何故純有が無に対立しそして二つが統一され得ねばならぬかが一元的には理解出来ず、之を理解するにはこの純有と無とを同じく抽象的なものと考へねばならなくする筈の『抽象作用』を根本に置く必要が生じる」といふのである。「この抽象作用が本当の第一の始元であつて、之が第二の始元として自己を限定したのが、所謂始元として選ばれた純有に外ならぬ」と教授は主張する。之によると純有は全く抽象作用といふ意識なり観念(イデー)なりの所産としての範疇なわけで、ヘーゲルが不徹底にも、何か之に先立つやうな本当に直接的な有を考へたことが、その弁証法へ神秘性とパラドックスとの外観を与へてゐるといふことになる。即ちヘーゲルは寧ろ、その内容の弁証法の根柢に本当の始元の(抽象作用)の弁証法を置くべきだつたといふのである。

 「抽象といふ媒介作用によつて、抽象的なそして媒介的に直接な「始元」たる純有を結果するのだとすれば、純有はもはや始元でないのは云ふ迄もないが、この抽象作用に相当するカテゴリーは寧ろ成でなくてはならぬ。成こそだから本当の始元で、有と無は之から媒介分化されたものにすぎない。そしてこの成が恰も例の『全体』に相当する」といふのである。もしかう考へればヘーゲルの「有の弁証法」を「成の弁証法」として一元的に理解出来るといふのである。

 処で、前にも云つておいた通り、全体は運動と静止とを含むに拘らず、結局静止の方に肩を有つたのだが、ここではこの全体たる成は有と無とを含むに拘らず、無の方に肩を持つ。この無はただの無ではなくて根源無だ。で、この場合、弁証法は「無の弁証法」と名づけられる(二八七頁)。之は有の弁証法と無の弁証法との「全体」であつて之こそ弁証法の真理だらうと、教授は希望を示してゐる。ここでは凡てのものが受け入れられ(「全弁証法」)(三〇二頁)、凡てのものが体系づけられる(「体系の弁証法」)(三〇五頁)。だがその結果どうなるか。矛盾は体系的な全体に於てそのまま統一される、ばかりではない、例の根源無から、連続的漸次的に、有が成り又発展して来る。だからここでは、矛盾ばかりが弁証法の本質ではなくて、無限な差違性も亦その本質にぞくする、といふのである。一体体系そのものが連続的でなければ全体的ではあり得ないと考へられてゐる。

 だが教授によればかうした「体系の弁証法」はあくまで弁証法的運動ではない。なぜなら運動と云つたやうな「過程性の見地」を超越しなければ、全体ではなく又体系でもないからである。かうした運動などはここでは完全に「止揚」されて了つてゐる。処が止揚は普通の弁証法では一つの過程に他ならないのを、高橋氏は独特な「止揚」の仕方を知つてゐるのである。即ち例のパンドラの手箱に仕舞ひ込むことが本当の止揚だといふのである。――之で弁証法は高橋教授の手によつて、完全に弁証法ではなくなつて了つた。かの「無の弁証法」とは実は「弁証法の無」だつたのである。運動の弁証法が実際問題の現実的な解決上必要だと思つて、高橋教授に弁証法の取り扱ひ方を尋ねると、どうもさういふ実際問題は、問題自身が間違つてゐるらしいといふことを教へられたわけである。

 要点は、ヘーゲルの純有が如何にして直接的であり得て、従つて何故に無に対して無媒介的に対立し、そして又それが如何にして媒介されるか、といふことの説明にあつた。氏は之を抽象作用といふ観念的な手段を用ゐて観念の内部で統一して了つた。観念の間の統一としては全く結構だと云つて良い。だが、有といふのは、あるといふことは、実は何かの客観物があるといふことを離れては、その最も大切な使用の場合を失つて了ふといふ点に、もつと気をつけなければいけないだらう。有の始元は、或ひは有が始元であるといふことは、高橋氏の哲学によるやうな抽象作用とか体験の全体とかいふ観念に於ける操作から来るのではなくて、もつとハッキリした吾々の日常の経験によれば、吾々が住んでゐるこの世界が存在してゐるといふ処から来るのである。有は観念のおかげで始元であるのではなく、その根柢に於ては、云はば物質のおかげで始元になるのだ。一体この場合、観念の弁証法と雖も、観念と物質との関係を、即ち物質が観念を外界に於て超越し、而も観念が他ならぬこの超越した物質を把握しなければならぬ、といふ悲劇にあるので、それを観念の抽象作用で片づけて了つては、解決ではなくてブチ毀しに他ならないではないか。尤も之も観念の名誉のためだと云ふなら、もはや致し方のないことであるが。

 ブルジョア哲学が観念論である以上は、一方に於て、夫が唯心論的な体系を立てるからばかりではなく、他方に於て、その必要から形而上学的な範疇――論理――方法を使はうとするといふ処に見出される。この一般的な事情は高橋教授の「体験の全体」と「全体と部分」といふ特殊な二つの言葉の内によく現はれてゐる。思ふに体験といふ概念は、現代に於ける観念論が観念を云ひ現はすために最も工夫を致した処のものであり、又全体と部分といふ連関は現代に於ける形而上学的論理(各種の形式論理学)の新しい一つの着眼点である(吾々はフッセルルの分析を知つてゐる)。云はば高橋教授は現在、マルクス主義の洗礼によつて広く世間の問題になつてゐる弁証法に対抗するために、この体験の全体―部分の論理を固執してゐると見ることが出来るだらう。

 尤も教授は古くからの思索家で、之は一朝一夕で出来上つた「立場」ではなく、教授の思索生活の初めからその脳裏を往来してゐた観点だつたやうだが、併しそれにも拘らず「全体」への要求は極めて直接的であるだけに原始的な未開な要求だとも云へなくはない。かういふ原始的な要求は、その形式を他のものに代へない限り、決してそのままでは満されないのが普通だが、それが教授に於ては、依然として同じ「全体」といふ形式の下に、そのまま発達して来たものであるらしい。云はば之は原始的なまま発達した文明のやうなもので、教授が私かに東洋的(恐らく又日本的)な思考を愛好してゐるらしいのも、ここから見ると決して無理ではないやうだ。――精細な教授の頭脳は最後に、併し思想に富んでゐるとは思へない。思想的な見解を示す時は、有態に云つて吾々に高々老哲学ファンや宗教青年やを思はせるに過ぎない。特色の乏しい自由主義者である教授の階級性などに就いて語ることは、恐らく針小棒大の憾みがあるだらう。教授の「全体」哲学の方法はパンドラのやうに寛大な自由主義だ。だが、この「全体」の哲学が、今日国際的に存在してゐるファシストの社会理論乃至社会哲学(「全体国家」説)にとつても、決して無用な哲学でないことは、注目に値ひする。哲学の本質は、哲学といふ抽象的な世界自身に於てよりも、却つて夫が色々の実際問題に応用又は利用された場合、客観的に明らかになるものである。


第十四 反動期に於ける文学と哲学
      ――文学主義の錯覚に就いて


 韻を踏み平仄(ひょうそく)をつけ旋律に従つてものを云ふのが詩であるか。更に、特別な言葉を尊重しシンタックスを変へ行をさへ変更することが詩の資格であるか。多分之は韻文ではあつても必ずしも詩の本来の意味ではないだらう。同様に、単に特に「文学」といふ名を持つたものだけが本来の文学なのではない。それは丁度哲学といふ名のついたものだけが哲学ではないのと少しも異らないのである。

 それだけではなく、所謂哲学と名づけられたものだけを哲学だと考へてゐる者が、実は少しも哲学自身の必要を感じてゐるものではないのと同じやうに、所謂文学といふ伝統的な或ひは寧ろ習慣的な一定形式だけを文学だと思ひ込んでゐる者は、殆んど全く文学自身の必要を感じてゐるものではないのである。そこで作家や批評家は、所謂「文学」の背後或ひは根柢から、生活とか意欲とかの問題を取り上げ、ここにこそ本来の文学の源泉が横たはる、といふのである。之を一歩進めれば、文学的と考へられてゐる一定の形象(形式)を以て具象的に現はれる処の作品なるものが普通は文学の実体だといふことになつてゐるにも拘らず、実はさうでなくて、文学の実質は実は出来上つたこの作品にではなくその作品の背景をなす今云つた生活や意欲にこそあるのだ、といふ風に考へられてくる。

 この点哲学も全く同様である。現に認識論や形而上学(之等の言葉がここでどういふ意味に使はれるのかに就いて私は今責任を負はうとは思はないが)を蛇蝎のやうに悪む一種の文学者も、自分が哲学を有つてゐないとも考へなければ、又他の文学者の内に哲学を見出すことを恥だとも無礼だとも思はない。そして例へば哲学は理論ではなくて世界観だといふのである。事実、哲学の実質は一つ一つの哲学的作品としての論文や著述にあるのではなくして、哲学者の思想そのものにあるわけだ。

 一般に文学と哲学との根本的な交渉は以上のやうな関係に基いて理解される。文学作品の、小説なら小説、詩なら詩といふ、単に作品形式だけを取つて見れば、この言葉が示す通り全く形式的なものに過ぎないので、そこには仮に文学的手法の有つ内容はあつたとしても、無論夫だけでは何の思想もあり得ない。で、さういふ文学(?)は哲学とは全く独立な存在となる。又単に哲学的仮説と哲学的メカニズムとだけならば、そこには何の思想――文学的なもの――もあり得ない。さうした哲学は文学とは無関係な筈である。――処が実際には、さういふ夫々独立した哲学や文学などはありはしない、否、ありはしない筈だ。もしあつたとしたら、夫は哲学や文学のカリケチュアでなくてはならぬ。特にこの点を強調しておきたい。

 読者は私が何のためにこんな判り切つたことを云ひ始めたのかと不思議がるだらう。その説明はやがて与へられることになると思ふが、とに角、文学と哲学とのこの割くことの出来ない結びつきによつて、初めて姿を現はすものが批評(評論)だといふことを、それより先に注意してかからうと思ふ。批評家乃至評論家は、無論資格の上から云つて作家ではない。彼は作品を書かないのだから、もし文学と云ふものの実質が、さつき云つた時出て来たやうに、作品形式自身の内になどあるのだとすれば、彼は文学者ではあり得ない。だから、作品或ひは作家に追随する以外に、批評家の「文学的」能力はないとさへ云ひ出す作家や批評家も少なくない。

 処がこの同じ批評家も文学作品の読者に向つては(否大事なことは文学作品を読まない読者に向つてもだ)、欠くことの出来ぬ文学の紹介者であつて、立派に文学者の資格を有つた人間なのである。それだけではない、批評家は作家自身に向つてさへ制作の指導と助言と要求とを加へるものでなければならぬといふわけである。彼自身は実際には作品を制作しないのだが、それにも拘らず他人の制作の過程や結果に容喙(ようかい)すると期待され得る以上、彼が文学者の資格でものを云ふことを期待されてゐることは明らかだ(私は曾てこれを批評家による「可能的制作」といふ稍々漠然とした観念で云ひ表はしたことがある)。批評家といふものの資格のかうした矛盾を解くためには、是非とも文学の実質を(従つて又哲学に就いても同様だが)文学作品そのものの内ではなく、その外に求めなくてはならなくなる。即ち文学と哲学との交渉圏に於て初めて、批評といふものが現はれて来るわけである。文学と哲学とが批評を媒介にして結合してゐるのである。

 之から真直に出て来る結論は、批評自身が、文学の批評であらうと哲学の批評であらうと(又は実は何の批評であらうと)、同時に文学であり又哲学でなければならぬ、といふことである。夫が創作でもなく論文でなくてもだ。評論家は独特な意味に於て、文学者であり且つ哲学者でなければならぬ。仮に彼が作家でもなく哲学科の教授でなくてもだ。処が文学にピンからキリまであると共に、哲学にもピンからキリまであるので、批評の実質も亦二重にピンからキリまである。どういふ評論が一体批評の名に値ひするかは、かうした一般論では無論決まるものではない。

 さて現在日本に於て行はれてゐる批評乃至評論はどういふ性質のものであるか。即ち現在の日本に於ける文学と哲学との関係はどういふ状態におかれてゐるか。だがもう一遍改めて注意を繰り返したい点は、批評自身が単に文学であるばかりではなく又同時に哲学だつたといふことである。批評が文芸評論の資格に於ては文学制作作品と無関係である筈がないと同じに、哲学は評論の資格に於ては、哲学の理論体系と無関係ではあり得ない筈だ。もしあつたとしたら、少くとも夫は哲学的評論ではない処の文学的評論なわけだから、本当の評論ではあり得なかつた筈である。さういふ評論は文学と哲学とを媒介すべく存在するのではなく、実は逆に文学と哲学とを絶縁して夫々を独立絶対化するためにだけ存在するのだ。文学と哲学とをカリケチュアするものは正にこの評論だといふことになる。

 処で、一体現在の日本に於ては、文芸評論と名のつくものは非常に多く、又もつと極端に云へば文芸評論でない批評は殆んど無いとさへ云つていい位ゐだが、併しこの場合の所謂文芸批評といふ意味は甚だ常識的なものであつて、単に文芸に関する批評といふことに過ぎない。之をすぐ様文芸に対する文学的即ち哲学的批評のことだと思つてはならないのである。たとひ、この頃流行る哲学的衣裳を纏つて現はれる文芸談であつても、哲学的即ち又文学的であるかないかは、衣裳の問題ではなくて実質の問題だといふことを、私はさつきから云つてゐるのである。

 そこでその際、文芸に関する批評だけが本当の批評といふものであるかのやうに、文学者によつて考へられてゐるらしいのは、一体どういふ心算なのか。文学的であり又哲学的である筈だつた批評が、なぜ文芸(即ち文学者の好きな所謂「文学」)にだけその笑顔を向けて、哲学の方に向つては特に冷淡なのか。例へば思想――哲学――の最も切実な内容の一つである近代科学に関して、この所謂批評はなぜか極めて冷淡なのが常である。科学に関する哲学的即ち又文学的批評といふものは、所謂文芸批評とは何の因縁もないもので、場合によつてはさういふ科学批評などは成り立たない。従つて唯一の批評は所謂文芸批評につきる、とでも「文芸評論家」は考へてゐるらしい。

 今日の日本の科学者が一般に批評(本当の又偽物の)の機能に就いて著しく無知であり、特に自然科学者がこの点に就いて特別に固陋であり、之に反して日本の文学者が之に就いて必要を越えて悪く神経質である以上、批評といふものが文学者から受けてゐるかうした均衡の保てない得手勝手な偏頗な待遇も無理からぬことで、それに科学と文学とではその存在条件が異つてゐるのだから、今云つた現象には或る限度までの必然性もあるのだが、併し文学的即ち又哲学的な筈であつた批評にとつては、かうした事情は少しも弁解になるものではない(近来、文学と科学との実質的な関係を省察する二、三の人達によつて、科学批評――必ずしも科学的批評のことではない――の問題が取り上げられ始めた。尤も之は自然科学の所謂専門家達の極端な反感を買ふことによつてしか研究を進められない現状なのだが)。

 批評とは取りも直さず文芸批評のことだといふ迷信は、云ふまでもなく文学者達の世界観の一種の世間見ずと独りよがりとから発生する(そして科学者は之に対して消極的な相槌を打つ)。彼等は批評といふ巨象の特に円滑な皮膚の部分だけを「文学的」に撫でまはして、ここから彼等だけに必要なそして彼等以外には必要ではないかも知れない処の、一種の批評の観念を得る。それが「文芸批評」としての批評となるのである。実際現在見られる「文芸批評」の大半は拡大された文壇時評に他ならないだらう。尤も批評といふ以上、元来が時事的なものでその限り時評でないものには決して批評の資格はないといふことをも、批評の社会的なジャーナリスティックな機能に因んで説明しなければならないのだが、併し問題は夫が時評的である点にあるのではなくて文壇の時評だといふ処にあるのである。といふのは、文学者の特有な世界観が一種均衡を失した得手勝手なものになり勝ちなのは、他ならぬ、彼が実際にか可能性としてか、とにかく、結局類型の決つた文壇人としての社会生活を送らうと欲してゐることに原因するのだからである。そこでは文学は常に「文学」の内部に於て、即ち多少の出入りはあるとしても大体文壇の周りを回つて、評論される。やがては文学だけではなく一切のものがここから「文学的」に批評される。で、例へば文学を「文学」外から批評するなどといふことは、身の毛のよ立つ冒涜なのだ。

 文芸批評が殆んど唯一の批評だと信じてゐるこの文壇人達(今日の日本の文学者達)の多くは、この際更にもう一つの利己的な錯覚を有つ癖があるやうに見える。批評(彼等によれば)即ち又文芸批評は、専ら作家の活動のためにその存在理由を有つてゐるものだといふのがこの錯覚である。単に作家自身だけではなく、作家と共に「文学者」にぞくする文芸批評家も、亦尊重することを忘れない処の錯覚が之である(例の「批評不能」論争がその好い証拠だ)。

 之と全く同じい錯覚が非常に多くの自然科学者に就いても見られることは、日頃興味のある文化風景に数へることが出来るだらう。或る有名な物理学者は、哲学者(吾々の場合には批評家になるわけだが)は科学に色々と注文をつけたがるが、科学者は忙しいから之を嗤つてやる暇さへなからうと云つてゐる。文学者達は、批評家が作家に対して能力を持つてゐるかゐないかを少くとも未解決の問題として提出しなければならなかつたが、この自然科学者によると、批評家がさうした能力を有つてはならないことはあまりに当然で問題にする暇さへないのである。

 批評といふものを把握し損ふと、文学や自然科学(無論哲学も)がどんなにカリケチュアとなつて現はれるものであるかを、注意すべきだ。自然科学者によれば、批評家などは専門家の仕事に口を挿んではならぬと云ふ。文学者達によると、批評家は作家の作品に口を挿むべきであるのに、夫が出来ないから駄目だと云ふのである。では一体批評家はどうなるのか。劇画になるのは、文学者や自然科学者ばかりではなくて、批評家も又おかげで道伴れになるわけである。

 文芸批評といふものは作家のためにあり、批評といふものは文芸批評のためにある、と信じてゐる多くの文学者達は、時とすると生活までが文学のために存在してゐるかのやうな倒錯症に陥らないとも限らない。文学が即ち生活であるといふやうなフラーゼが、比較的不用意に吐き出されるのは、恐るべきことだと云はねばなるまい。文学にも前に云つたやうにピンからキリまであるので、一体この際それが、哲学や科学(処がこの二つにもピンからキリまであるのだ)とどう連絡がついてゐるのか、或ひはゐないのか、が問題である。それに一体その生活とは何のことか。文学的生活ならば、文学的であつてそれ以外のものではあり得ないのは無論当然だが、それだから一般に文学が生活だ、といふことになるのであるか。

 現代日本のかうした文学主義は併し芸術至上主義や審美主義とは大分本質を異にしてゐる。このことは注目に値する。芸術至上主義は寧ろ芸術乃至「文学」を意識的に生活から独立させて之を生活の上に君臨させることであつたが、現代の文学主義は之に反して全生活を挙げてそのまま文学と意識的に一致せしめることにある。審美主義は単に感情が知性や意志に対して優位を占めてゐるといふ主張以上のものではない。だからそれだけでは必ずしも今日の文学主義になるとは限らない。

 なる程文芸批評の正統的伝統に於ては特にこの芸術至上主義は嘗て重大な位置を占めたことがあるだらう。だが今日の文学主義は云ふまでもなくこの伝統の直系として現はれて来てゐるのではない。それより「深刻」なより「真実」な内容があるといふのであつて、場合によつては一見、却つて非審美的に見えたり芸術否定の形態を取つたりさへし兼ねない。それはもはや単なる悪魔主義ではなくてもつと真面目な云はば悪党主義であつたり、「文学」の形態を取らずに寧ろ「哲学」や神学の形を取つたりして現はれる。

 だがかういふ現代の文学主義は決して不用意に世の中へ出て来たのではない。之には見えざる手の深い意図が潜んでゐる。問題は矢張り批評の歴史に、特に又批評の最近の歴史に関はつてゐるのである。読者はここで最近の所謂「文芸復興」のことを思ひ出して欲しい。

 無論文芸はいつも復興されねばならぬ。もし文芸を抑圧する最後の桎梏が政治ならば、現代の政治を倒して文芸はギリシアの昔に倣はねばなるまい。最近の所謂「文芸復興」がどういふ権威を倒し、どういふ古典に帰り、又はそこから出発し直すのであつたかを知らないが、少くとも復興されるべきであつたものは科学や生産技術を含めての文芸乃至文化ではなくて、単に文学としての「文芸」でしかなかつたことは、吾々の話の筋から云つて、興味のあることだと云はねばならぬ。

 文学が「文芸」として復興されねばならぬ。その言葉に対しては誰しも反対する理由を有たないだらう。併し何故同様に、或ひは同時に、科学も復興される必要がなかつたのか。ブルジョアジーの固有な思考に基く機械論的な近代自然科学は、要所要所に於て殆んど全く行きづまつてゐると云はれてゐるが、之は日本の「文学」などとは比較にならぬ国際的な大問題だらう。それに自然科学のこの危機から復興されたものは、科学自身ではなくて宗教と神学と形而上学と神秘思想と等々であつたのである。処が文芸復興の旗の下に馳せ参ずるやうに見えた評論家の或る者達は、復興されるべき文芸の内に、「文学」は無論として、何よりも先に宗教と神学と形而上学と等々を数へることを忘れなかつた。一時駸々(しんしん)として動き始めるかと見えた「文芸」復興から、取り残されるやうに見えたのは、何故か独り科学だけだつたのだ。否、単にこの運動に取り残されただけではない、「文学」と宗教と神学等々の復興によつて打ち倒された旧権威こそ科学だといふことであるらしい。

 吾々は併しレオナルド・ダ・ヴィンチを慰めようとは少しも思はない。彼が「私は運河を掘ることも知つてゐれば城を築くことも研究してゐる」と云つたやうなあまりにも非文学的な自己推薦をしてゐるからである。問題はなぜ最近かうした一群の文学主義が台頭して来たかである。なぜ「文芸」としての文芸が、「文学」としての文学が頓に復興して来たかである。それは最近の批評が(批評精神がと云つてもいいだらう)一部分のその「哲学」的乃至「文学」的な衣裳にも拘らず、実は却つて全く非哲学的となり、従つて又非文学的になつて了つた結果に他ならぬ。批評がかういふ風に自己分解すれば、そこから文学乃至哲学のカリケチュアしか発生しないことを私はすでに云つたのだが、文学主義こそ文学の最も妥当なカリケチュアでなくてはなるまい。元来戯画といふものはアクセントだけを抽象して強調したものに他ならないのだから。

 日本に於て真に哲学的又文学的な批評の機能が確立され始めたのは、大戦以後マルクス主義哲学がインテリ層を支配し始めた時からであつた。哲学的文学的批評のこの機能は、一方に於ては科学的批評(科学批評ではない)他方に於ては社会的批評として、特色づけられた。この二つの機能を結合すること――そこにマルクス主義哲学の一般的な本質があるのだ――がこの際新しく確立された批評の価値だつたのである。なぜなら之によつて初めて哲学と文学とは正面から媒介され、科学的認識と文学的表象との連絡が日本文学始まつて以来初めて全面的につけられる運命だつたからである。例の政治と文学との関係はそこで初めて問題になる理由があつた。恐らく之には多くの弊害が伴つたことだらう。その結果「文学」は、ガリレイの科学が法王の前で抑圧されたやうに、この「批評」の前で抑圧の辱しめを受けなければならなかつたかも知れぬ。

 だが夫は弊害であつて物の本質ではない。その証拠と云へば、この結果は、決して批評が哲学的文学的であり過ぎたためではなくて、却つて次に云ふやうに、批評がまだ充分に哲学的文学的に発達してゐなかつた処からこそ生じたものなのだつた。だからこの事情はこの折角の批評が自己分解しなければならない根拠などになる筈はなかつたのである。処が、今では事実、この批評がガラリと崩壊して了つたやうに少くとも外見上は見えてゐる。そしてそこに例の文学主義だ。愛する文学のためには、党派性なども問題ではなくて、眼の前に横たはるものは一色の文学の煙幕だけだ。かうなると、この文学は生活のためにあるのではなくて、生活がこの文学のためにあるのだといふことを、読者は大体それぞれ納得しないだらうか。

 尤もこの文学主義でも、今まで無かつたものがいきなり現はれたのではない。日本のブルジョア文学の伝統は文学的自由主義と呼ばれていいものだと思ふが、之は云ふまでもなく、政治上の自由主義を根拠にして意識された文学意識ではなくて、却つて「文学」意識を根拠にして意識された自由主義なのであるから、之を文学的自由主義と呼ぶよりも寧ろ自由主義的文学主義と呼んだ方が当つてゐるので、その通り、元来文学主義なるものは日本のブルジョア文学の前からの伝統にぞくするものなのだ。それにマルクス主義的作家や文学理論家の内にも、かうしたブルジョア自由主義的文学主義の素地を有つたものは極めて多かつたと見なければならぬ。そこで進歩的な動向の退潮期に這入ると、忽ちにしてその地金を現はしたのがこの文学主義運動なのだ。そこでは純文芸的なものも自由主義的なものも左翼的なものも、苟くも「文学」的である限り一様に共通で和解し得るものとなる。そして之によつて「文学」は進歩するといふのである。――「文学」の進歩がそのまま拡大されて全般の進歩になるとでも考へ兼ねまじい処が、文学主義の文学主義たる所以である。

 現代日本の文化現象に於ける文学主義運動は、陰に陽に、色々様々のニュアンスを以て、大衆の一定層に普及してゐる。小商人、小ブル低級インテリにはファシズムを、之に対して小ブル高級インテリには文学主義を、といふのがマルスの神の配当計画なのである。今日の所謂「自由主義」や夫に基く進歩主義(?)の最も著しい共通特色がこの文学主義であつて、之がこの頃お得意のニッポン型ファシズムと、客観的意義に於て殆んど全く同一の放列を敷いてゐるものだといふことを頭から信じようとしないのは、之又文学主義者の独特な迷信の一つだ。

 この色々の文学主義の内最も特色のある一つの場合を、最後に注意しておかう。それは他でもない、批評のこの自己分解期に当つて、こともあらうに、却つて夫を批評の高揚期だとして自覚する、文学主義的錯覚である。ここでは文学と哲学とが実はスッカリバラバラになつて了つてゐるのだが、それを一方恰も、文学評論が発達して遂に哲学化したかのやうに思ひ込んでゐる一つの現象があるのである。さういふ側面に於て最近反動期に這入ると同時に、著しく文芸評論家の数が殖えたと同時に、又著しく「哲学」臭い又は「哲学」的な文芸批評が殖えて来たのを見ることが出来る。だがこの種の哲学が如何に困つた哲学であるかは、それが実は単に「文学」の衒学的でアカデミックな延長に過ぎない点を見れば判るだらう(例は沢山あるが曾て私はこの点について小林秀雄氏について書いたことがある)。

 だが「文学」がそのままスクスクと哲学(?)にまで延長出来るためには、他方、「哲学」の「文学」化といふ対応現象が与つて力があるのである。ヨーロッパ特にドイツのブルジョア哲学(現在のブルジョア社会に適応した哲学のことだ)が実証科学と自分の科学性とを断念して以来、その哲学の範疇は日常的な検証の地盤から浮き上つて了つて、他に範疇整頓の標準を失つて了つた。そこで頼りになる唯一のものが、神学や心理学や人間学其他々々の名称の下に、実は文学的範疇(又は文学主義的範疇)と呼んで然るべきものだけとなつたのである。哲学的範疇は文学的範疇で置きかへられた(文学が範疇を使ふ場合には、哲学的範疇を文学的表象によつて駆使するのであつて、決して之を文学主義的範疇で置きかへるのではない)。そしてそこから「哲学」的文芸評論や「文学」的「哲学」が続々として発生する。

 例へば現実といふ一つの範疇を取らう。之は元来哲学的範疇としては(そして夫だけが本当の範疇だが)歴史的社会的な、即ち経済的政治的観念的文化的な存在の他の何物でもない。それが文学的範疇によると、現実といふ言葉をただ洞然と反覆してゐるのは論外として、精一杯の処、高々ドストエフスキー式現実でしかない。不安といふ妙な範疇も、社会的不安や根拠ある不安から、シェストーフ的無根の不安などに徙されて了ふ。之が文学主義的範疇のトリックで、今日形而上学は、かうした範疇に最後の逃避行を企てる他に道が断たれたことをハッキリ自覚してゐる。いやでも夫が文学主義に左袒しなければならない所以だ。

 現在の文芸評論の賑々しさやその哲学らしいものとの合体は、全く、「文学」が哲学を(従つて又文学を)僭奪しようと企てる所の、可なり露骨な反動行為であることを、読者は怠らず注意しなくてはならぬと私は考へる。而もこの企てが、他ならぬ文学的自由主義といふ意識の下に行はれたのであつた。


第十五 「文学的自由主義」の特質
      ――「自由主義者」の進歩性と反動性


 自由主義を文字の上から解釈することは、最も馬鹿げた解釈であるが、自由主義が流行してゐる今日では、之が案外、多くの自由主義者達のひそかな拠り処であるやうに見える。といふのは、自由主義とは取りも直さず自由を主義とすることであつて、従つて不自由主義の反対なのだから、何れにしても悪からう筈のないものだ、といふ考へ方が夫である。

 勿論誰もこんな他愛のない理由を、有態に理由に挙げて物を云つてゐる者はゐないが、つきつめると、それ以外の根拠のない場合が、可なり多いのではないかと思ふ。特に観念論的な哲学者は自由といふドイツ観念論の中心問題を無条件に尊敬してゐるのだし、文学者は高踏派的な又放浪的な又逃避的な自由を愛好してゐるから、それだけで自由主義の味方をするに充分だと考へ勝ちである。

 だが大事なことは、自由といふ観念が、哲学から産まれたものでもなければ文学から出て来たものでもないといふ点である。自由と云へば哲学者はすぐ「意志の自由」を考へるが、それは実践と云へばすぐ人間の倫理的行為だと考へて了ふのと同じに、哲学者の知識から来る迷信であるし、それに大抵の文学者は一体自由などといふものをハッキリと考へたことさへあるかどうか、私には疑はしいのだが、元来それは至極尤もな現象なのであつて、彼等は自由といふものの知識に就いては知つてゐたり感じたり考へたりはするが、自由といふものの実際的な必要は、一向感じてゐないで物を云つてゐるからなのだ。元来、自由の必要は哲学者や文学者が感じるよりも先に、企業家や政治家が感じて来たものなのだ。哲学的又文学的な自由の観念は経済的又政治的自由の観念の、云はば出しがらだつたからである。

 で、自由主義が、云ふまでもないことなのだが、「経済的自由主義」として発生し、それがすぐ様政治上の自由主義となつたといふことが歴史上の事実であつて、社会主義や其他の政治哲学の場合を他にすれば、一体哲学上の又は文学上の自由主義などといふものは、いつ始まつたのか私には判らない。今日迄の処、自由主義哲学といふものがまだ出来上つてゐないと見た方が、事実を強ひない見方だらうと思ふ。だが自由主義の哲学などといふものは今後も恐らく決して成り立つことの出来ないもので、その理由は後に判る。

 自由主義はだから経済的な又政治的な範疇であつて、元来哲学者的又文学者的範疇ではなかつたのであるが、それが現在の日本などでは、自由主義と云へば、政治上の自由の問題などとは無関係に、哲学者的に文学者的に常識界で通用してゐる。今日では自由主義といふ常識的用語は、もはや政治的範疇ではなくて文学的範疇になつてゐるのである。云はば文化的自由主義が自由主義の唯一の故郷となつてゐる。

 この点に注目しないと、現在の日本に於ける所謂「自由主義」又は所謂「自由主義者」に就いて、適切な断定を下すことは出来ないだらう。自由主義を政治上の問題としてばかり見てゐて、之を文学的イデオロギーの問題として見ないとすると、少くとも今日の自由主義者の心事を暴露することは出来ない。

 共産主義の勢力が退きファシズムの勢力さへが峠を越えて、世の中は自由主義の世界になつたと一時云はれた。けれども、ブルジョア政党政治の必要が強調されたり、議会政治の悪化が説き始められたりするやうなブルジョア政治上の行動乃至思想の動きは、ブルジョア民主主義の動きではあつても、それだけで自由主義の動きだといふことにはならぬ。民主主義はブルジョア的政治的自由のための全くの政治的又は政治観的範疇に属する運動で、従つて時によつては小ブル、プロレタリア、農民の政治イデオロギーともなるものだが、之に反して自由主義の方は最近では、小ブル、インテリ、ブルジョアの文化的イデオロギーに属するもので、彼等のブルジョア的政治的自由に対してさへ、夫は必ずしも関係があるとは限らないのである。

 だからこの現象を見て政治上の自由主義が復興したといふ風には云へないのであつて、その意味では、政治上では、自由主義は一向華々しくなどはなつてゐないと云ふべきなのである。今日復興しさうに見えてゐるものはブルジョア民主主義又は夫のマガイものであつて、必ずしも政治上の自由主義ではないのだ。

 自由主義の内で今日復興しつつあるものは、寧ろ文学的自由主義である。そしてここに日本の今日の自由主義の代表的なものの本質が横たはつてゐるのである。吾々はこの自由主義の台頭をば、現在に於ける広い意味での「文芸復興」の内に見て取ることが出来る。文学者用の「文学」の内に限られた今日の所謂「文芸復興」(この名称は少し思ひ上つた結果ウッカリつけたもので本当は「純文学復興」といふことに過ぎない)を始めとして、結局はここに本部を置く処の、「哲学復興」や宗教復興や、其他一切の復興音頭が、案外「自由主義」の実質的な内容になつてゐるのだから、大体今日の自由主義は要するに文学的自由主義だ、といふのである。で、それであればこそ、元来が政治的動向に対しては興味も持たず又見識も持たない多くの文学的又準文学者イデオローグが、この自由主義といふ「言葉」に、あんなに好意を寄せてゐるのだ。

 文化と自然との本当に文学的な又哲学的なリアリティーに対するセンスを持たない「文学者」や「哲学者」で、さりとて又意識的に反動の陣営に投じるだけの悪趣味を有つ気にならぬ者達が、その人間的感官を初めてノビノビさせることの出来る唯一のエレメントが、自由主義の名を以て天降つて来たのだから、誰しも自由主義者であり又自由主義者であつたことを、喜ばない者はないといふわけになる。

 自由主義の進歩性と反動性とに就いては、沢山の人々が説明を与へてゐる。私は今之を、特に自由主義者の心事を中心として分析して見ようと思ふ。自由主義をば自由主義者の意識から分析しようとすることは、今日のこの自由主義に対しては非常に相応はしいことで、なぜさうかといふことは、述べて行く内に判る。

 まづ第一に、自由主義は個人主義である、といふ平凡な命題から出発することにしよう。即ち自由主義者は個人主義者であるといふことになる。処が個人主義者といふ言葉はどういふ勝手な意味にでも使へるわけで、今日の自由主義者に於てはこの個人主義者がどういふ意味での個人主義者かといふことを決めなくてはならぬ。プチ・ブル乃至ブルジョア層出身である教養もあり「人格の陶冶」も経てゐる今日の自由主義者達は、決して経済上の排他主義者ではないし又ある必要もないが、更に道徳上の利己主義者でさへ、一応の意味では、ないのである。時によつては至極社交的でさへある処の今日の自由主義者は、貴族的な独尊主義者でない場合の方が却つて多いだらう。

 今日の自由主義者の個人主義は実は、彼の文学上の又哲学上の観点の内に最も純粋に現はれるのである。彼は事物を個人を中心にして考へる。社会であらうと歴史であらうと自然であらうと、又そこに行なはれる一切の価値評価に就いてであらうと、個人といふ存在が判定の立脚点になる。公平で理解に富んだ自由主義者は、併し個人を決して自分のことに限りはしない。自分でも他人でもいい、個人でさへあつて其他の超個人的な客観的事物でさへなかつたらいいのである。

 だがこの命題も亦至極陳腐なものだ。問題は、個人を事物判定の立脚点とするといふことの、その内容自身が何かといふことに進まなければならぬ。そこで自由主義者は個人をその人格として把握するのを通則とする。人格と云つても自由主義者に云はせると倫理道徳風な概念であつてはならないので、個人のロゴスからパトス迄を含み、イデオロギーからパトロギー、フィジオグノミーや「性格学」にまでも連なる「人間学」的な範疇としての人格が、今の場合問題となるのである。

 かうした人間は併し自然や歴史や社会から説明されるのではなくて、逆に、自然や歴史や社会が、この人間から説明されねばならぬ。さうした方がより文学的に忠実でより哲学的に深刻だと、自由主義者達は考へる。――で今日の(文学的)自由主義は殆んど凡て人間学主義だといふ事実を注意するがいい(曾て「人格主義」といふものがあつたが、夫はこの人間学主義の前派であつたと見ていいだらう)。所謂「文芸復興」の文士達によると、人間学主義に立脚して腰をすゑることが文芸(?)の「復興」だといふことになるらしい。人間を研究するからと云つて、人間学主義に立たねばならぬといふ考へ方は、自由を欲するから自由主義に立たねばならぬといふのと同じに、少し滑稽な推論ではないかと思ふ。

 処が一般に人間通を以て任じてゐる文学的自由主義者達は、人間といふ言葉が好きであり、故に又人間学といふ言葉が好きであり、それ故に又人間学主義ともいふべきものが好きだといふ結論になるらしい。この推論は論理学的には兎に角、人間学的には甚だ尤もである。吾々はここに自由主義者的論理の人間学的なおめでたさの一例に出合はすのである。

 だが人間学主義が個人主義に他ならなかつたといふ点を、もう一遍思ひ出して見る必要がある。といふのは、この点から云ふと、自由主義者にとつては個人と個人とのアトミスティク(ばらばら)な結合が、実際問題に際しては口を利き始めるといふ、一つの「人間学」的な観察を下さなければならないのである。自由主義者が超党派的だといふのは、単に之だけの理由から云ふのであつて、個人主義者である自由主義者は、個人を内部的に結合するやうな何物をも許すことが出来ない。個人が内部的なものの凡てで、之を更に結合するやうなものは全く外部的なものでしかないと考へる。だから党派などは全く外部的なもので従つて個人にとつては第二義以下のものであらざるを得ない。自由主義者は「人間」を個別的に判定する。さうしないで仮に党派的になど判定すると、それは外部的な作為的な判定になるといふのである。之が彼等の「公平」と呼ぶ処のものだ。

 だが他方文学的自由主義者は、経済上の自由主義や政治的自由主義とはあまり関係がないので、従つて、彼等の「公平」は機会均等や「人間平等」の興味とは別であらざるを得ない。だから彼等の個人主義は実は、個人の完全なアトミスティクに止まることは出来ないのであつて、おのづから人間と人間との或る特別な結合様式を必要とするやうになる。この個人主義はここに再び、先の人間学主義の必要を感じて来るのであつて、この人間と人間との結合様式として人間学的なものが採用されるのである。人間と人間との云はば「パトス」的な結合がそこに取り上げられる。かうやつて、この自由主義者によれば、人間は或る一定の人間達だけと、一定の結合関係に這入るのである。それはどういふことかといふと、人間学的趣味判断の上から、好きな人間同士が、一つの社会結合をするのである。処で吾々はかうした社会結合を、セクトと呼ばねばならぬだらう。

 なる程自由主義者は超党派的である(この超党派性が実は一つの立派な党派性だといふ陳腐な真理は論外として)。彼等によれば個人と個人とを連ねる客観的な、外部的(彼等によれば)な標準はないからである。だが彼等は超党派的であるが故に、却つてセクト的なのである。なぜなら、彼等相互の間を連ねるものは主観的な、内部的(彼等に言はせれば)なもの以外にはあつてならないのだから。

 さて人間と人間とを結ぶ客観的な標準がない時、本当の意味での政治はあり得ない。個人主義者である今日の文学的自由主義者が、一般に政治に対して興味と好意とを持たないといふことはここから来てゐる。だが彼等が政治を潔しとしない理由には、実はもう少し深刻な根拠があるといふことを注意しなくてはならない。

 文学的自由主義者によると、人間と人間とを結ぶ政治と云つたやうなものには、主観的な根拠しかあり得ない筈であつた。何故なら、人間と人間とを結ぶ客観的な関係は第一義的に実在的ではあり得ないといふのだつたから。さうすると彼等によれば、政治といふのは人間的な(或ひは人間学的な?)カケヒキや策動の心事以外の何物をも意味し得ないことになる。彼等はかうした人間的心事を、少くとも自分の場合に就いて云へば、客観化し対象化し、即ち暴露するのが嫌だから、従つて当然、自由主義者は政治が嫌ひになり、或ひは政治を嫌ふ義務を感じるといふことにもなるのである。

 だが元来がセクト的傾向のある文学的自由主義者は、必要に応じては、例の心事的な主体的な意味での政治をそのセクト的傾向に結びつける必要を感じなくてはならぬ。そして実際、それは極めて容易に出来ることなのだ。その時文学的自由主義者は最も理想的な真正のセクト主義者として立ち現はれることが極めて容易になる。セクト主義者の政治はいつも併し、機会主義(オッポチュニズム)であつて、さういふオッポチュニズム以外に、文学的自由主義者は「政治」的なものを知らないのである。

 セクト的傾向を固有してゐる文学的自由主義者は、超党派的であり、その意味で党派性(Partisanship)を持たないのであるが、併し党派性に就いて、もつとハッキリ要点をつかまへておくことが必要である。自由主義者に固有なオッポチュニズム(Opportunism=便宜主義)といふのは、第一にはその理論の首尾一貫性を欠いてゐるといふことに他ならないが、処が理論に於て党派性といふのは少くとも理論のこの首尾一貫性を有つことそのものでなくてはならぬ。さうした「論理」を有つことが理論の党派性の大事な契機の一つなのだ。理論や論理と云つても併し、思想や言論にばかり限られた問題ではないので、却つて行動にこそさういつた理論や論理が支配的なので、理論の党派性と云へばすぐ様行動の党派性が問題なのだが、オッポチュニストである(文学的)自由主義者は、その行動に於てオッポチュニストであるが故に、その理論に於て無論理であらざるを得ないのだ。彼等の「超党派性」といふのは、だから、実は彼等の「無論理」を意味するに他ならない。

 党派性を有つことが出来ず、従つて論理を有つことの出来ない自由主義者は、どれ程哲学的言辞を弄しても根柢的な意味での「哲学」を持つことは出来ない。そして源生的な哲学のない処に文学だつて出来るかどうか疑はしい。で、(文学的乃至哲学的)自由主義者から例へば自由主義的哲学とでも云ふやうな哲学を期待する人があるならば、その人は自分が哲学に就いて何等本当の必要を感じてゐないといふことをそこに告白してゐるものに過ぎないだらう。哲学を持たない社会主義者や、哲学の必要を本当に感じてゐない社会主義者は、容易に変節するのだが、不断の便宜主義者に他ならぬオッポチュニスト自由主義者になると、哲学を持ちたくても持つことが出来ないといふことにもなるのである。

 処で自由主義者の進歩性と反動性といふことになるが、もし所謂「文芸復興」を一時のシグナルとする今日の日本の広範な範囲の文学的自由主義者達の存在を忘れないなら、自由主義者の進歩性ほど怪しげなものはないといふことが判らうと思ふ。ある立場なり或る人物なりが、進歩的であるかないかは、之を空に論じることは殆んど無意味なのであつて、何かクリティカルな条件の下に置いて之を考へて見なければならないのだが、丁度今日の文化情勢がさういふ時に臨んでゐるわけで、文学的自由主義者が文化の復興?(何からの復興といふのかをハッキリ考へて見るといいが)の名の下に、本当は何に興味を有つてゐるかを、吾々は監視してゐなくてはならない。文芸は復興=復古されるのだ、決して開拓され創造されるとは、彼等も云つてはゐないのだ。

 文学的自由主義者が進歩的に見えるのは、その文化復興主義を他にすれば、単にファシズムや封建意識に対する「反感」(それ以外のものではない)から来るのである。だが之は、彼等が一体から云つて党派的なものである政治が嫌ひだといふ、一般的な理由から由来するに過ぎぬのであつて、現に彼等はプロレタリアの抑圧などに対してなら、ファシズムに対する以上に、「進歩的」(!)な役割を演じつつあるといふ、数限りない事実を参考にしなくてはならない。――結果は凡て、(文学的乃至哲学的)自由主義者の如何にも文学者風な又「哲学者」風な「無論理」から来るのだ。


第十六 インテリ意識とインテリ階級説
      ――所謂「知識階級論」に対して


 日本の文壇や論壇では、最近、またまたインテリゲンチャ(俗に知識階級と呼ばれるがこの呼び方が不都合であることは今更断る迄もない)が、問題として取り上げられるやうになつた。之はインテリ問題が、インテリ自身にとつて、繰り返し繰り返し問題にならなければならないやうな根本問題で、云はば永遠な宿命的な問題だとも云へるといふ理由からばかりでは決してない。寧ろ、どんなにこの問題が根本的で宿命的なものだとしても、ただの繰り返しやただの蒸し返しでは、意味がないわけだし、又さういふ無意味な現象が起きる可能性があるとも考へられない。どういふ理由で、今は、又ぞろインテリゲンチャが問題になつたかを、まづつきとめてかからなければ、凡そインテリゲンチャ問題なるものは話しにならぬ。

 曾て以前にインテリゲンチャが問題になつた際には、事情はインテリ自身にとつて可なり悲観的であらざるを得なかつた。インテリが自分自身に対する懐疑、不満が、又自卑さへが、この問題の心理的動機であつたやうに見える。元来知識人は、知識上の或は知能上の(知識と知能とは必ずしも一致しない)優越を自負する自然的傾向を持つてゐるから、彼等の最も自然発生的な直覚によると、社会は先ず第一に知識人と非知識人とに色分けされると考へられ勝ちであるが、その際、知識上の又は知能上の優越が、社会に於ける支配関係に結びついて、支配者階級とやや同じ利益となつてからんで来る場合には、この知識上又は知能上の優越は、ほぼそのまま社会的地位に於ける特権を意味してくる。処で一方、知識も知能も、対立を越えた普遍的な通用性と普遍性を承認され得る価値とをもつてゐるものだから、今のこの特権はそれ自身、一つの超越的な従つて特権的な社会階級を意味するやうに、おのづからなり勝ちなのである。「知識階級」といふ、社会科学的に云へば非科学的な俗流概念が、往々用ゐられがちなのもこの消息を物語つてゐるわけで、ここから、又極めて自然に、知識階級の知識上又知能上の、従つて又何かの形での社会支配上の特権が、知識人の一種の自己迷信となり勝ちなのだが、之が知識人の云はば先天的な例の自負となるものだつたのである。――処がこの自負がどうやら怪しくなつた、といふのが、この前インテリゲンチャの問題が問題にされた時の動機であつた。

 知識人として又知能人として自負するインテリは必ず、非知識人乃至非知能者である俗衆に対する一種の指導者としての支配権に、自信を持つてゐる。仮に俗間の支配権は金持ちや政治家の手にあつても、精神上の、又は文芸乃至科学上の、要するに文化上の支配権だけは、自分のものである他はないといふ安心が、インテリをいつも幸福にするのである。――所が、社会科学の新鮮な教義が教へた処によると、社会の新しい指導者はもはや決して彼等インテリゲンチャではなくて正にプロレタリアでなければならぬ。否、単に俗間的な指導者ばかりではなく、政治的意見やそれから又文化的な支配権までが、悉くプロレタリアの手中に置かれるべきものだといふことが、逸早く、他ならぬインテリ自身の、学び知り又教へさへする処となつたのである。

 自負する処の大きいものが、自負を裏切られた場合、その事情を過大に評価するのは無理からぬことだ。自負はすぐ様、それだけの自卑にまで転化するのは極めて自然だらう。でここで、インテリにつきものとも云はれる甚だ深刻な(?)苦悩が初めて始まつたわけである(今日某々の文芸評論家達は今だに事新しいインテリの「苦悩」に悩んでゐるらしく見えるが、之は全くこの旧インテリ狼狽期への遺伝的なアタビスムス(Atavism)、祖先帰りの意味を持つてゐるのだ)。そこで当時の甚だ多くの最も代表的な悪質インテリ達は、歴史的役割に於ける自らの無能をば、本来ならば批判し矯正し又利用さへすべき筈の処を、その代りに、寧ろ之を極めて安易に受け容れ皮相に覚え込み、やがて甚だしいのになると、一種の得意の種にまでさへすりかへて了つた。青白きインテリの嘆きはここから実は一種のインテリ宣言の意味をさへ持つやうになつて来た。つまり不幸な人間は、その不幸といふ点に就いて、幸福な人間よりも特権的だといふわけである。

 いかにも之はインテリゲンチャの消極的な弱点だけを特権的に誇張したもので、そして他ならぬこの自己誇張癖などこそインテリの最悪な馬鹿々々しさに他ならないのだが、あくまで彼等が、この自負にしろ自卑にしろとも角凡ゆる場合自己誇張癖をば、清算する意思のなかつた又現にない処を見ると、彼等は実は自らを嘆きながらも自らの嘆きを捨てるに忍びない処の、ネガティヴではあるが併し相変らずも一種悪質な自負に充ち充ちたインテリに止まつてゐるのであり、また止まることに自己満足を見出してゐたと云はねばならなかつた。そんなに苦しくてまたクダラないものならばサッサとインテリなんかから足を洗ふやうに力めればいいではないかと云はれれば、彼等は一等先に、何よりもインテリの受けまじい侮辱を、ここに人一倍早く感じる性なのだ。

 かうしたナンセンスな悪質インテリの他に、無論もう少し真面目なインテリ自覚者がないではなかつた。彼等は自卑や侮辱や失望を感じる代りに、一種の新しい、もつとそれこそ「知能的」な、自負や期待を有つことが出来た。その言葉にどれだけの嘘と実際からの乖離とがあつたにしても、とに角無産者の側につき、無産者の利害関係の下に進むべきだといふ彼等の当時の言葉の中には、例の悪質インテリの矛盾のない自己合理化などに較べて、遙かに真理があつたのである。当時私の若い友達などには、自分のアカデミッシャンらしい生活を整理するために、学生時代に高い金を出して買ひ集めた専門書を、わざわざ売り飛ばして気勢をあげたものもゐたが、之などは必ずしも絶望したインテリの自暴自棄からだとは云へないと思はれた。

 だがここに一つの本質的な問題へのヒッカカリが存する。まづ、先に云つた「知識階級」といふ俗流的概念が問はず語りに語る処をもう一遍注意しなければならない。インテリは実は自分を、その常識的な直覚に於ては何とはなし一種の「階級であるかのやうなもの」として、自覚してゐたといふ点が、今大事だ。無産者階級でもなければブルジョア階級でもない。なぜなら自分達は教育があつてそして政治家や実業家よりもズット文化的だ。だからこの二つの階級に対立する何物かで自分達はあるのだ、とさう考へるのは一応彼等として無理ではない。この観点は、彼等が逸早く吸収した社会科学的知識にも拘らず、或ひは却つてこの知識を利用することによつて、知らず知らず敷衍さへされたと見ることが出来る。なぜなら「自分達は大体小市民にぞくしてゐる」今さう考へることは、インテリが自分の歴史的役割に於ける無能さを、中間性を、或ひは逆に超越性や優越性を、誇張するに何よりも有効だが、そのことはやがて、インテリゲンチャを何か一つの階級であるかのやうになぞらえて、知識階級と呼ぶのに、何かの根拠を提供するやうに見えるからである。かうやつてインテリゲンチャを「知識階級」と俗称する無意識な意図が育つてくるわけで、之によつてインテリゲンチャが、言葉の上では何と云はうと、自分が社会の歴史的運動に於ける何か一種の原動力であるかのやうな己惚れを知らず知らずの中にさらけ出すのである。

 無論、知識階級はどのやうな意味でも社会科学的範疇としての「階級」ではない。ブルジョア社会学ならば、社会関係を平気に平面的に群別する癖があるから、さういふ群別を意味する限りで一種の社会階級とも云へないのではないが、それはブルジョア社会学が、却つてかうした俗流常識の水準に止まつてゐることを示すもので、それだけ科学的に無価値だといふことを告げてゐるに過ぎない。――で、インテリゲンチャが科学的な云ひ表はし方から云つて決して社会階級などではなく、従つて「知識階級」といふ俗流常識語がいかに不当であるかといふことは、判り切つた誰でも知つてゐる点なのだが、処が案外この点が必要な具体性に於てはインテリ自身の頭に(インテリジェンスに)之まで這入つてゐなかつたし、又今でも這入つてゐないのである。この点が問題の要点だ。

 一体インテリが自分はインテリ集団にぞくするといふ一種の集団意識(それがやがて階級としての自覚を産む所以を私は最初に述べた)に立つて、予め自負を感じ、そしてその自負が失はれれば、自卑にかられ、自卑しながら自卑そのものを自負の材料にせずにはゐられないといふ心根からは、インテリゲンチャを飽くまで一種の優先的な歴史的役割を独占した社会原動力として見ようとする欲望以外の何ものも出て来ない。悪質インテリにあつては、インテリ問題はいつでも、インテリジェンス(知能)の問題から取り上げられる代りに、つまりインテリ階級の問題として取り上げられる結果になる。だから、尤も之は必ずしも悪質インテリの場合に限らないが、インテリゲンチャが何かプチ・ブル社会層と同じものであるかのやうな混乱が、さうした俗流化された社会科学的語呂が、生じて来るのである。丁度日本ではファシズムといふとすぐ様何か封建的なものだと考へられ易いのと、之は同じ俗流的な語呂なのだ。

 だがインテリを、何のかのと云つてもつまりは知識階級と見做すといふやり方は、必ずしも悪質インテリにとつてだけの仮定ではない。インテリゲンチャの積極面を強調し、無産者への移行、無産者との共同を説いた、科学的に多少の意味を持つた以前の「インテリ論者」達さへも、いつも問題をば、吾々インテリは資本家に与すべきか無産者に与すべきか、それとも又独立独歩すべきであるか、といふやうな問題として提出したのである。恰もインテリといふ社会階級構造上の或る単位があつて、之が歴史的投票をどこへ向つて遂行すべきか、といふ問題ででもあるやうに。この際実はインテリは自然と、何かキャスティングヴォートでも握るかのやうに内々仮定されてゐるのである。インテリの弱小と無力と非独立性とを強調することは、少数派の少数さを強調するといふだけのごく自明な所作に過ぎないのであつて、之はこの少数派が多数派間の対立を利用して之をリードしようといふ無意識な意図をば、必ずしも妨げるものではなかつた。インテリといふものの第一規定を、夫が何より先に何かの一定社会層だといふ点にだけ求めようとする限り、どうしてもさうならざるを得ないのである。

 なる程インテリ論者自身は大抵の場合インテリで、之を「自分」の問題として提出するのだから、従つて之をインテリ層といふ社会的主体の問題として押し出すのも、一応さし閊(つか)へないやうだが、併し実はもつと切実な主体の問題は、インテリの場合に於ては、その知能(インテリジェンス)の問題の中にあるのであつて、インテリが一まづ一つの社会層であるかのやうな仮象を取り得るのも全く、この知能を標識とする限定以外に限定の原理がないのだが、この点に気をつければ、インテリ自身にとつてインテリ問題の一身上の又社会上の立て方が、まづ第一に、自分達の集団的なインテリジェンスを如何に用ゐるべきか、といふことでなければならぬことが当然判る筈だ。

 社会的観点から自分の知能の向上も利用も考へて見たこともない悪質インテリ(彼等はつまりインテリジェンスそのものが悪質なのだ)が、インテリの青白さを嘆くことによつて、その知能自身の著しい低下、低能化を招いたといふ事実は論外としても、知能上の特殊技能を自ら無視する先に例としてあげた単純なアンチ・アカデミッシャンや、自分達インテリはどつちの階級にぞくすべきかを論じた以前のインテリ論者達は、社会に於ける集団的インテリジェンスの問題と、社会階級の問題とを、一緒くたに、同列に並べて了つてゐるのである。

 本当はまづ第一に社会階級の対立が問題の地盤である。資本制社会はいつも資本家階級と無産者階級との対立からなつてゐる。之は公式だ。公式だから一遍々々証明しなくてもいい代りには、一遍々々思ひ出さなければいけないテーゼなのである(この点世間によくある「公式主義」反対家に一言注意しておきたい。諸君は云はば三角の公式を使ひたがらないから、本当は一々エレメンタリーな証明から始めなければならないので、三角の公式自身を一々証明してかからなければならない筈になるが、それは又却つて立派な一種の公式主義になるわけなので、結局諸君はエレメンタリーなものの証明もしなければ、発達したテーゼの証明も科学的にはなし兼ねるといふことになるのだ)。さてこの公式の上に立つて(それを忘れた上で、ではない)、知能所存者である一群のインテリゲントは、いかなる階級的役割を有つてゐるかを問題にすべきである。かうすれば一体インテリゲンチャ一般なるものがどの階級にぞくすべきかとか、中立であり得るか、とかいふやうな迂濶な抽象的な問題提出の様式は消えてなくなるので、ブルジョアジーの陣営に於てはインテリゲンチャのインテリジェンスはどのやうな役割を有つか、これに反して無産者内のインテリゲンチャのインテリジェンスはどのやうな役割を課せられてゐるか、といふやうに、一歩進んだそして一層明白で容易な問題の解決へと臨むことが出来るわけだ。

 さて、今日の、新階級に於けるインテリ問題、最近復興されたインテリ問題は、旧インテリ問題期のものに較べて、一部分についてはやや楽観的な事情がその動機をなしてゐる。一般的退潮(之は少くともその輪郭から云つて他ならぬ無産者の現実勢力情態の退行だといふことを公式として覚えておくことが必要だ)のおかげで、例へば「文学」は政治から、政治的監視から開放され、ある種の文学者達がホットしたといふ楽観状態が、再びインテリ問題を検討して見ようといふ気になるまでに、インテリを勇気づけたのである。だからたとひ今日インテリの「苦悩」を説教する文学評論家の或る者でも、「不安」に「身を構へ」てゐるらしい転向評論家の一種でも、全体との連関に於ては決して悲観的ではない。以前とは異つて、彼等の「苦悩」は一種純真に誇らしい貴い苦悩とされ、彼等の「不安」は却つて不安主義といふ確信でさへあるのを見るべきだ。

 インテリの自信を標榜するにしても、インテリの昔ながらの懐疑を標榜するにしても、とに角彼等が、インテリゲンチャの主体性のもつ積極性を問題としたことが、新インテリ論期の一つの進歩(?)少くとも新しい特色だと云つていい。その意味に於て彼等は「知識人の復活」とも云ふし、不安こそ人生永久の面目で、インテリこそこの不安中の存在だと、いふやうなことも云ひ出す。知識人が果して知能を持つてゐるかどうかを、実は現在私は根本的な疑問の一つに数へてゐるし、又不安がインテリの本性だとか又は人間存在の根柢に根ざすものだとかいふことも嘘で、単に悪質インテリの一変種が好むモノローグにすぎないのだ。

 が、それはさておき、インテリの主体性のもつ積極性が問題だと云つても、何もインテリの社会上に於ける身勝手が喋々と問題になつていいといふことではないのだ。インテリの主体性と云ふからにはいつもまづインテリの集団的に見られたインテリジェンスから問題になるのでなくてはいけなかつたのである。而もインテリジェンスが問題だと云つても、知能階級至上主義やそれに基く技能至上主義、又超然的アカデミズムへ行つていいといふわけではないのだ。インテリの主体性とその積極性の問題を追及すると称して、かうした一種のインテリ階級説――「インテリ至上主義」「文学主義」等々――に陥つて行くならば(曰く「知識人の復活」曰く「不安」曰く「専門化」としてかうしたインテリ階級が「行動」し始める!)、本質に於て、この折角の新しいインテリ論も旧いインテリ論の蒸し返しに過ぎないのであり、而もただの蒸し返しではなくてそのインテリらしいインテリ主義(インテリ階級説)の悪質さと愚劣さとの強調、発展に他ならなくなるだらう。私はかうした現象を一般的に「転向主義」と定義したいと思ふものである。

 インテリゲンチャの主体的で積極的な問題は、無産階級に於けるインテリジェンスの役割を客観的な出発点として、初めて論じられ得るものでなければならないのだ。之が今日の一切の進歩的インテリの、インテリ意識にもならなくてはならぬ。それ以外のインテリ論は凡て転向的逸脱である。


第十七 インテリゲンチャ論に対する疑問
      ――現代のインテリゲンチャ論は問題の提出方を誤つてゐないか


   一

 インテリゲンチャの問題は最近多くの社会評論家や文芸評論家によつて論じられてゐて、一見、これ以上、問題の新しい提起の余地は無ささうに見える。だが実はさうではない。インテリゲンチャ問題の問題の提起の仕方そのものに吾々は可なりの疑問を挿まねばならない。

 人も知つてゐる通り、数年前までのマルクス主義思想の全盛期に於て行はれたインテリゲンチャ論は、大体から云つて、資本主義社会に於ける階級対立に処して、インテリが如何に無力であるか或ひは自分が無力であることをインテリは如何に自覚すべきであるか、といふ消極的な観点から取り上げられた。そして之が当時、一種の「マルクス主義的」な常識とさへなつて世間に普及したやうに見える。

 インテリの立場から見れば云はば悲観的とも云ふべきこのインテリ論の、問題提出の仕方は、云ふまでもなく一定の情勢上の必然がその動機をなしてゐた。と云ふのは、わが国又はわが国に類するやうな資本制上の後進国に於ては、進歩的な社会意識又は社会運動は、まづ初めに主として社会に於ける知能分子(インテリゲンチャをさう訳すのが一等適切ではないかと思ふ)を先覚者として、従つてその限り指導者として、発達するといふ表面現象を呈する。さうでなくても、知能分子は一般的に云つて社会の指導的メンバーだ、といふそれ自身では一応当然な想定が自他共に許されてゐるのだから、この際インテリのマルクス主義的な進歩的意識は、ややもすればこのインテリ指導主義と結びついて、元来マルクス主義の根本的な観点であつたプロレタリア的立場をさへ、知らず識らずに稀薄にしがちとなるだらう。かうしたあり得べき偏向にそなへるために、自然と、当時、インテリ悲観説が議論の表面に浮び出て、それが強調されねばならなかつたのである。

 事実他方に於て、世間ではインテリの各種の独裁論が(?)存在し、之が凡そ反プロレタリア的な思想上又政治上のテーゼを導き出しつつあつたのを見れば、この戒心は決して行き過ぎではなかつた。――併し、かうした戒心を厳にするといふことは、無論、インテリの無条件な又は完全な無力を認めることではなかつた筈で、之は実は単にインテリに対して、却つてインテリ固有に制限された社会的活動性を指示するために過ぎなかつたのである。この消極的インテリ論の口裏には、だから、本当を云ふと、かうした限定されたインテリの能動性に就いての却つて積極的な観点からの主張が、匿されてゐたのである。だが常識は、決して事物の裏を見ることを知らない。その意味でのユーモアを解しない俗物なのである。インテリと呼ばれながらも、一向に知能(之は一種の人類的本能にも数へられよう)の発達してゐない分子は、馬鹿正直にも、インテリの無条件な悲観説の信奉者となり、そのコーラス隊をまで造り上げて了つたのである。そして何より恐るべきは、かうしたインテリ悲観論が、わが国では、何かマルクス主義のテーゼの一つでもあるやうに和讃されたことだ。

 そこで、今度、世間的に云つてマルクス主義の「流行」が衰へ始めると、それと一緒にこのインテリ悲観説も亦衰へ始めなければならなかつたわけであり、一連の所謂転向現象(その本質をここで論ずることの出来ないのが残念だが)に応じて、本来のインテリ楽観説ともいふべきものが復興して来たのである。悲観説がマルクス主義的だといふ常識から云へば、この楽観説は非マルクス主義的乃至は反マルクス主義的だといふ風に通念されることは、常識上尤もらしい無理のないことだらう。社会現象の表面を跳躍したり匍匐したりするこの皮相な常識的な見方からすれば、さうした粗雑な既成常識からすれば、さう見えることも亦已むを得ないことだらう。

 だが、インテリ「悲観」説が一向マルクス主義の真理でない限りは、インテリ「楽観」説が非乃至反マルクス主義的だといふ常識も亦真理ではあり得ない。悲観説と楽観説といふこの対立した二つの仮象となつて現はれたものの真理は、本質は、この二つの現象の対立と交代とを通じて、おのづから歴史的に顕現する筈である。そこにこそ初めて本当にマルクス主義的なインテリ理論が展開されることになる。

 現代インテリゲンチャのマルクス主義的問題は、現在、インテリゲンチャの積極性はどこに求められるべきか、である。社会の知能分子が単に消極的だといふ「マルクス主義的」ドクトリンは今ではすでに清算されてをり、又は速かに清算されて然るべきものにぞくする。だが、之を清算するやうに見せてゐる非乃至反マルクス主義的な「インテリ積極説」は又、このインテリゲンチャの本当の積極性を決して指摘してゐるものではない。で、インテリゲンチャの真の積極性は現在どこにあるかといふのが、吾々の現在の問題の提出形式でなくてはならぬのだ。

   二

 普通インテリゲンチャを知識階級と訳してゐるのだが、その訳語が適切であるかないかはとに角として、少くともこの訳語は、わが国のインテリ問題提出の仕方が誤つてゐることの一つの症状として、興味のあるものである。インテリゲンチャを知識階級と訳すからと云つて、之が社会科学的な範疇としての、社会の生産機構に直接対応する社会的結合としての、ブルジョアジーやプロレタリアートと同じ意味に於ける「階級」だといふことにはならないことを、今は知らない者はゐないと云つていい。それにも拘らず知識階級といふ言葉は、問はず語りに、インテリゲンチャをこの「階級」に類推されるやうな何かの意味での階級だと想定することを、事実物語つてゐる。この点を根本的に注目する必要が現在あるのである。

 マルクス主義的範疇としての二つの「階級」である資本家、地主と無産者、農民とは、又夫々四つ乃至二つづつ二つの社会層をなしてゐる。社会層といふものは他方社会身分といふ意味を持つやうになり、再転して社会に於ける職業的定位をも意味するやうになるものだが、之は云ふまでもなく、社会階級そのものではない。さてこの二つの社会層の中間層として小市民なる範疇があるのであるが、小市民層とは、或る人が云ふやうに小生産者のことなどには限らないので、社会層としてのブルジョアジー(乃至地主)とプロレタリアート(乃至農民)との間の中間層の特徴そのものを云ひ表はすための言葉なのである。そして或る人達によると、インテリゲンチャも亦、かうした小市民層又は中間層にぞくするものだといふのである。

 なる程社会層なるものは社会階級ではなかつた。だが、それにも拘らず社会学的に云ふと(社会科学ではさうではなかつたのだが)、社会層も亦一つの社会階級に他ならない。社会の基本的な生産関係から観点を導かずに、与へられた社会現象から勝手に観点を導く処の「社会学」的見地は、社会の表面に現象してゐる階級層を、例へば社会的身分や生活程度や職業やを、すぐ様社会階級として記載することに躊躇しない。かうなると所謂「知識階級」といふ言葉の問題は、ただの言葉の使ひ方ではなくて観点上の本質に触れて来るのだ。インテリゲンチャが仮にこの中間層だとしても、之を知識階級と呼ぶことは、だから一つの社会学的症状にほかならないのである。

 だが言葉の問題は一応どうでもよい。それよりも一体、インテリゲンチャは本当にさうした中間層にぞくする一つの社会層なのか、どうか。或る人はそれは、立派に一つの、而も新しく発見された、中間層だといふのである(大森義太郎氏の如き)。サラリーマンといふ眼に余る程大衆的な中間層があるではないか。之が「現代」のインテリゲンチャでなくて何か、といふのである。サラリーマンといふこの社会現象論的範疇が、社会層の問題として現実上どう限定されてゐるものかは一向判らないのだが(常識では中以下の銀行会社員や精々小官吏などを意味してゐるやうだが「社会科学」的にはどういふものか聞きたいと思つてゐる)、多分、「知識的労働」に従事してゐる人間とでもいふ風に、言葉の上では、説明出来るのだらう。だが知識的労働者といつた処で、実際的には依然として何のことか判らぬ。銀行の窓口で現金を取り扱つてゐる月給取りが知識的労働者ならば、エンジンの故障を直し直し運転しなければならないバスの運転手(之だつて大衆的に存在するのだ)も亦知識的労働者ではないか。サラリーマンを更に月給取りと訳してゐるやうだが、運転手は日給だからサラリーマン即ち知識労働者でないといふわけか。これでは年俸をもらう官吏はサラリーマンではないといふことになるだらう(小官吏だつて大衆的に存在するのだ)。

 知識労働者とかサラリーマンとかいふこの常識的な言葉がすでに分析的に云ふと社会層としては可なりのナンセンスになるのだが、更にかうしたものが現代のインテリゲンチャの代表者だといふのは、一体何を根拠にして云へることか。専門学校や大学を出てゐるからといふなら、一体所謂「知識階級職業紹介所」で学校出の大衆的な失業者を、ごくわづか、而も日雇ひに周旋してゐるのはどうしたわけか。インテリゲンチャがサラリーマンを以て代表者としてゐるといふ妙説は、多分インテリゲンチャ層(さういふ層があると仮定して)を一つの社会上の職業定位と見做したことから来るのではないかと思ふが、それならインテリの失業者などはインテリ層に這入る資格がなくなつて了ふ。私の推察では、この妙説は寧ろ評論雑誌の所謂読者層からでも考へついたものではないかと思ふが如何。併し読者層となると、サラリーマンとか知的労働者とかいふ社会層らしいものとは、大分違つた意味での「層」なのだが。さういふ読者層を発見したのはタルドといふ「社会学者」だつたが、インテリゲンチャをサラリーマンに於て発見したのも、さうした社会学者的功績に数へることに吾々は吝かではない。

 つまり、サラリーマンといふ常識的範疇がすでに社会層を現はす言葉として充分に分析的でない上に、サラリーマンはサラリーマンであり、多分は何かの職業的又は身分的な社会層らしいもののことであつて、それはインテリゲンチャといふものと本来別個な系統の社会規定にぞくし、従つて話しの筋がまるで違ふものなのだ。これをインテリの代表者として「発見」し得るためには、初めからインテリゲンチャそのものを何かさうした職業的又は身分的な社会層と考へておかなくてはならない。即ちインテリゲンチャなるものがさうした社会層の一つに他ならぬと仮定するから、社会現象上手近かに気づくサラリーマンといふ社会層らしいものへ結びつけたくなり、又結び付ける他に考へが働かなくなるのである。だから之によつてインテリゲンチャが社会層だといふ説は少しも実証されたのではなくて、単に自家反覆して見せてゐるに過ぎないのだ。

 併しなぜかうした問題のトンチンカンな取り違へを敢へてしてまで、インテリを一つの根本的な社会層と仮定したくなるかといふと、つまり、社会学的な現象主義から云へば、インテリゲンチャはとに角知識階級でなくてはならなかつたからなのである。同じ見地で考へ出せるだらうが、不良少年を社会学的に通算総括した「不良階級」、自殺者の集団層(?)である「自殺者階級」其他等々でもいいかも知れない。

 そして大事なことは、かうしたインテリ社会層説は結局一種のインテリ「階級」説自身(この誰でも誤りだと知つてゐる)に通じるといふ点だ。社会学的現象主義は今日、全く社会科学的な本質観をぬりつぶすために存在してゐる。そこでは事物は社会の生産関係を観点として取り上げられずに、高々社会に於ける職業的身分的な「懐ろ」関係か何かから取り上げられる。唯物史観の代りにポケット史観に類するものが発生する。恐らく之がサラリーマン・イデオロギーででもあらうか。

 さてかうしたサラリーマン主義的インテリ論、社会学的現象主義的インテリ論は、当然なことながら、インテリゲンチャの本当の積極性を理解することが出来ない。誰が一体今日、サラリーマンに知能の積極性を期待するものがあらう。

   三

 社会学現象主義的インテリ論と並び行なはれてゐるものは、文化主義的インテリ論である。ここではサラリーマンの代りに、もう少し知能上の或る意味の水準の高いらしい文学者、作家、評論家などを、インテリの代表者と考へてゐる。そして彼等に於てその知能上の自信が最近著しく増大し、又形式的な形態にせよこの自信の行動的発露が見られるといふ処から、一般にインテリゲンチャの積極性乃至能動性なる問題の解決を、この種の知識分子の内に求めるのである。この立場からしては、インテリゲンチャは必ずしもインテリ層とか、インテリ階級とか考へられてはゐないらしい。もつと個人的な、或ひは個人主義的な、その意味で内部的な立場から、インテリゲンチャは、例へば「知識人」と考へられる。知識人独特の立場の積極性が、能動性が、ここでは専らテーマとして取り上げられるのである。

 だがここにも根本的な疑問は数々あるのである。第一にインテリ(知識人)独特の立場から来る積極性、能動性と云つても、何もそれはインテリだけの世界での積極性、能動性であるのではあるまい。もしさうならば、それはインテリの独りよがりかインテリ劇場の楽屋の出来ごとであつて、一向客観的な意義を持たないばかりではなく、知識人の主観自身にとつてすら極めて意味の乏しいものにならなくてはならぬ。だからインテリの能動性、積極性と云ふのは、終局に於ては、知識人の主体を通つて、社会の客観的関係にまで一定の影響を及ぼすもののことでなくてはならぬ(それが具体的にどんな影響を与へることかといふ点をこのインテリ論者達はまだ考へる順序に来てゐないらしいが)。インテリの能動性、積極性はだから、インテリの対社会的なそれでなければならないのだ。処でこの対社会的な能動性乃至積極性がインテリ独特のものだとする処から、現に一種の語弊が生じつつあるのが見受けられる。

 と云ふのは、インテリが社会に向つて、どういふ具体的な形の積極性、能動性を有つべきかといふことが一向限定されてゐなくて、ごく呑気に一般的抽象的に止つてゐる結果、インテリの積極性、能動性のもつといふ独特さもまた一向具体的に限定されないのであり、従つて、インテリの一般的抽象的な対社会的独特さとして、例のインテリの対社会的指導性と云つたやうなインテリ至上主義に通じるものを持つて来るのであり、之が一歩誤れば実際にそれへ通じて了ふのである。さうした意味に於てインテリの独特性だつたものはインテリの対社会的独立性となり、即ちインテリの社会層、社会階級からの超越性となり、やがてそれは又インテリの社会支配の観念にまで変質し得るものを得て来る。之は必ずしも杞憂ではないと思ふ。

 で、もし万一さういふ結果になるなら(今日まだそこまで行つてゐないとすればまだこの動きが具体的に充分展開されてゐないからに過ぎない)、インテリを公平な不偏不党の中間的第三階級と考へる最も原始的なインテリ階級説に帰着することになるだらう。――仮に今もしさういふ仮定を置いて見ると、インテリが特に不安の能力を有つてゐるとか、懐疑の精神に富んでゐるとか、といふ現在の俗間の定説もおのづから理解されるわけで、つまりインテリは公平な第三者としての、ブルジョアにも不満でありプロレタリアにも満足しない、有望な一階級だといふ処から、之は当然来なければならない結論だつたのである。

 インテリを社会現象に於ける客観的な平均的な存在と見るのが――サラリーマン説の如き――、インテリ社会階級説に帰着するばかりではなく、その逆に、インテリを主体的に又更に寡頭的に個人々々を集めた集合概念と見てさへ、正にそれ故に却つてインテリ階級説に陥落する弊害を持つのである。

 そればかりではない、第二に、インテリの代表者を文学者、作家、評論家などに求めることは、文筆上の活動が何よりも人間のインテリジェンスの基準になるものだといふ仮定に他ならない。ブルジョア社会でいふ所謂文化――之は文明から区別されてゐる――又は教養といふものが人間知能の本質だといふ仮説が之である。かうしたブルジョア・イデオロギーによる知能の観念は、実は中世的な又は封建的な、僧侶階級の知能独占期から発してゐるものなのである。文筆上の知的労作は、物質的生産に於ける知的労作よりも、知能(インテリジェンス)上高級だといふことは、全く、僧侶主義が近世的な形で、文学の姿を取つて現はれたものに過ぎない。インテリゲンチャの能動性、積極性が少数の文学者の中に見出されるといふことを理由としたのでは、インテリゲンチャの積極性の問題乃至インテリゲンチャの問題を、文学的インテリを中心として解決する権利は、どこからも生じて来ない。

 この文化主義的又は文学主義的なインテリ論は併し、例の社会学的インテリ論と本質上の一致を有つてゐることに注目することが大事だ。文化主義や文学主義の根本欠陥の一つは、社会に於ける文化現象又は文学的信念が、単にいきなりさういふものとして発生したのでもなければ、単にそれだけとして横たはつてゐるのでもなくて、その背景に社会の物質的生産機構が横たはつてゐるのだといふことを、さうした公式の実際上の意義を、全く注意しないといふ点に横たはる。この点から云つて文化主義乃至文学主義は、一種の(文化主義的又は文学主義的な)社会現象主義なのである。社会学的インテリ論の現象主義と較べれば、社会現象に対する現象主義的観点に於て、全く共通の本質を有つものだといふことが判るだらう。

   四

 インテリゲンチャは凡ゆる社会階級に跨り、又は分散してゐる。吾々はさうした分散した知能分子をインテリゲンチャといふ集合名詞を以て呼ぶのである。だから事実インテリゲンチャはその所有する知能の質と水準とに応じてマチマチな雑多な分子の集合観念で以て云ひ表はされる。之を分析するにはそれ故、どの知能分子群を中心として出発点とするかといふことが、他の場合には見られない程、重大性を帯びてゐるのである。吾々は無論、社会学的又は文学主義的な現象主義的観念の代りに、社会科学的な観点から始めなくてはならぬ。

 問題はいつも社会に於ける物質的生産関係から出発するのである。ここで知能分子となるものは、サラリーマンでもなければ文士でもない。正に生産技術者でなければならないだらう。この生産技術家が基本的なインテリゲンチャなので、そこでは知能とは、人間の生産生活に直接結び付いてゐる処の技術的乃至は技能的知能のことでなくてはならぬ。インテリジェンスなるものは、テーヌさへさう見てゐるやうに、人間の感覚に直接連なる感能なのだ(インテリジェンス又はインテレクトが、感覚から独立した心的能力だといふ考へは、ブルジョア的又はスコラ的認識論の迷信である)。例へば労働者が自分の社会階級上の利害関係を本能的に又分析的に感受することが本来のインテリジェンスでなければならぬ。学校教育やただの知識や学殖がインテリジェンスでないと同じやうに、文学者の非リアリスティックな認識や、サラリーマンの浮動的な感能は、別に特にインテリジェンスではないのだ。インテリジェンスとは云はば人間の実践的認識に於ける本能的有能性のことだと云つてもいいだらう。それは人間の生産生活から離れては内容と意味とを失ふ心的能力なのだ。社会群、社会層、社会階級、並びに家庭的個人的又社会的な条件の下に、さうした知能能力を準備されたものが、所謂インテリと呼ばれる知能分子なのだが、それの具体的な主体はどこに見出されるべきかと云へば、まづ第一には生産技術家に於てでなければならぬといふのである。

 この生産技術家を中心として初めて、吾々のインテリゲンチャ概念は次第に、一般の科学者、芸術家、政治家、一般被教育者等々にまで、組織的に秩序立つて拡大されることが出来る。この際注意すべきは、かうしたインテリゲンチャがまづ初めに、社会に於ける身分、生活程度、生活様式、職業、社会層、社会階級等々とは別の相位に於て把握されねばならぬといふことだ。さうしておいて後から、社会身分や職業や社会層、社会階級、其他任意のものに、之を結びつけて、任意のセクションを作つて分析されねばならないのであり、又分析出来るのでもある。

 では一体、日本に於けるインテリゲンチャの代表者であるその技術インテリが、どこに積極的、能動性を示してゐるかと尋ねられるかも知れない。だが少くとも今日の生産技術家は文学者などに較べて遙かに多くインテリとしての知能の自信を有つてゐるといふ事実に注意を喚起しよう。寧ろインテリ至上主義に帰着するだらう本尊は、ズット前から日本の技術家乃至科学者の意識なのである。彼等は一方に於て、日本の資本主義的矛盾の一つの結果である処のブルジョア制下の生産技術の矛盾に当面しながら、他方跛行的にも、昨今の軍需産業の人工的扇揚の下にその知能上の有能性を益々自覚しつつあるやうにさへ見える。ただ、彼等はイデオロギーを統一的に持つことが少く、又持つてゐても之を発表する機会と意図とに乏しいから(併しこの条件が又却つて彼等のインテリ的自信と一致するのだ)、自分ではインテリの積極性や能動性を口やかましくは喋らないだけだ。

 技術インテリの能動性、積極性は、云ふまでもなく今は、資本主義の制約の下で初めて保証されてゐる。従つてその結果、意識の上では、之は資本主義的イデオロギーによつて支持されさへしてゐるのである。だがこの点も亦文学者のインテリ的自信と別なものではない。――問題はこの資本制下に於けるインテリの能動性、積極性を、如何にして資本制から独立させるかにある(資本制的階級対立から独立させるのではない)。文学者に於けるインテリ的能動性、積極性に於ても亦、問題はそこにあつた筈である(もしさうでなければもう一遍根本的に批判し直す必要があるが)。だから問題は更に、まづ第一に資本制下に於ける生産技術家の有能性を如何にして資本制から独立させるかに存するのである。

 吾々は文学者やサラリーマンの知能などを中心としてソシアリスティックな建設の基本的な契機を期待し得るとは信じない。そしてこの建設に於ける技術的インテリゲンチャの積極的な能動的な役割と、それに課せられた社会支配組織上の限界とが、一般に(又独り日本に限らず)インテリゲンチャ、社会に於ける知能分子の積極性と消極性とになるのである。

 マルクス主義的インテリゲンチャ論に於ては、社会の基礎的構造である生産機構から云つて、初めからインテリのかうした積極性と消極性との本質が横たはつてゐたのであるが、それが日本に於ては数次のインテリ論を通じて、否定又は肯定の仮象として夫々現象したのであつた。この諸現象間の矛盾を解決することによつて、その本質がおのづから顕現するわけだが、それが最近のインテリ論現象の裏にある客観的な意味でなくてはならぬ。

   
第十八 インテリゲンチャ論と技術論
      ――技術論の再検討を提案する


 ブルジョア社会的な考へ方によると、技術の問題は先ず第一に「技術と経済」といふやうな形の問題として提出されるのを常とする。ここでいふのは、主に工業、農業、其他の産業技術のことであり、従つて多くは工業経済、農業経済などがこの「技術と経済」問題の内容になるのだが、併しややもすると、之に一種の商業技術乃至は経営学上の技術が結びつけられる。技術といふ概念をこのやうに押し拡げるやり方を更に拡張して行けば、立法技術、行政技術、其他へまでも連なるわけで、更には創作技術其他までも持ち出されるかも知れない。処がこの素朴な仕方に於ては云ふまでもなく、かうした各種の諸「技術」の間の何の一定した体統関係も殆んど全く与へられてゐないのであつて、そこでは技術といふ言葉が偶々甚だ世間並みに通俗的に使はれてゐるおかげで、起こり得べき疑問がわづかに封じられてゐるに過ぎないのだ。

 之は技術といふ社会的範疇が、哲学的に充分に社会的範疇の資格に於て整理されてゐないことに原因してゐる。元来技術といふのは、それ自身ごく重大な哲学的範疇の一つなので、世間でもこの点は暗黙の裏に理解してゐるから、従つて却つて技術といふ範疇は終局的には既に何かお互ひに判つたものであるかのやうに仮定されてゐるのであり、そしてそこから社会の経済機構に就いてまでも、今云つたやうな極めてルーズな言葉の使ひ方で行なはれてゐるわけである。

 そこで第二に技術は、独り経済機構又は之に直接連なる限りの社会部面に就いてだけではなく、それ自身だけで何か一つの独自なテーマであるやうなものとして、ブルジョア哲学乃至ブルジョア世界観の根本問題の一つとして、取り上げられることが極めて多い。特に最近の世界情勢のやうに、経済的、政治的、文化的なクリシスに臨むと、この問題の根本的な重大さが、しきりに注目されるやうになる。技術の哲学や之に連関する文明論的技術論が、今日ではおのづから特別な役割を買つて出てくるのである。処がこの場合の技術といふ概念そのものが、まだ全く、科学的に云つて甚だ掴み難い形のままに残されてゐる。恐らくここでこそ技術といふ範疇が最も広範に又最も根本的な点から把握されねばならぬ筈なのだが、実は却つて、結局は単なる常識観念としての技術を、わづかに学殖的に荘厳にしたやうなものが、この「哲学」的な技術概念に他ならない。

 処で、唯物論全般にとつて、技術こそ最も決定的な要点に触れた基本問題の一つであるが、最近日本で多少の展開を見せた唯物論的な技術論は、今までに少くとも二つの要点を解明したといふ功績を持つと見ていいだらう。第一は、広範な包括的な意味に於けるこの技術といふ哲学的範疇を、その一般性にも拘らず、基本的な部分から二次的な部分への階層的な体統として、分解し且つ総合したといふ点である。技術一般なるものは、物質的生産技術を基本的な線として、それから分枝組織として具体化されなければならぬといふ、一見極めて判り切つた処の、併し実は従来のブルジョア的通念からはあまりその意味を注目されなかつた処の、関係がここで初めてハッキリさせられたといふのが、この第一の要点なのである。

 第二の功績は、さうした技術と、技能、技法、乃至手法との区別を指摘した点に横たはる。プロパーな意味に於ける技術(物質的生産技術)は社会の客観的で物質的な基底のことであつて、この技術に関はり合う処の労働主体の一つの特性である技能乃至それからの延長物と考へられる技法又は手法からは、一応は予め厳密に区別されねばならぬ、といふ点がこれなのである。

 だがこのプロパーな意味に於ける、厳密なる意味に於ける、本来的な技術、技術そのもの、が何であるかに就いては、まだ必ずしも唯物論的に充分な解明が与へられてゐるとは考へられない。

 この第二の点に就いて記憶されてよいものは相川春喜氏の一論稿「最近に於ける技術論争の要点」(『社会学評論』創刊号)である。氏はここで、従来唯物論の側から提出され又討論された技術論を一応氏の見透しの下に整理したのであるが、その内、かつて私の発表した意見(『技術の哲学』(前出)参照)に対する根本的な批判が一脈貫いてゐたやうにも考へられる。私の所説に見られる観念論的な足りなさや錯誤に就いては、私は氏の意見に同意する他はないと思ふ。で、その点から云つて私自身、今云つた氏の論稿の価値を相当高く評価出来るのである。だがそれにも拘らず私は、氏の積極的な見解そのものに対しては相当根本的な疑問を今だに解消することが出来ない。

 相川氏によれば技術とは、人間社会の物質的生産力の一定の発展段階に於ける社会的労働の物質的手段の体系以外の何ものでもあつてはならない。つまり主として労働手段の体制が技術だといふのである。技術といふ観念をかういふものとして限定するのが、唯一の唯物論的態度だといふのである。事実、氏の技術的概念の凡ての規定は皆ここから出発し又は凡てここへ集中する。――恐らく世間では普通、一方技能や技法をも含めて、他方非物質的生産技術をも含めて、漫然と技術の名をつけるだらう。世間では決してかうした労働手段の体制(機械、道具、工場、交通施設等)だけで技術になるとは考へてゐない。多分常識は、かうした労働手段の体制自身ではなくて、夫に基く処の何ものかを技術といふイデーで云ひ表はしてゐるだらう(ここでイデーといふのは、分析の結果が一定に予想されてゐる観念のことだが)。だから相川氏は、「労働手段の体制」なるものを、他の単語で云ひ表はす代りに正に「技術」といふ日常語を以つて云ひ表はすためには、一方に於てこの言葉の常識的な意味内容が取りも直さず非科学的である所以を説明する責を取らねばならず、他方に於て氏自身のこの科学的用語によつてこの常識を説得し反省を強ひ得るものを用意し得るのでなければならぬ。もしこの手続きを抜きにするならば、技術に就いての規定は却つて、よくブルジョア科学などで愛用される「定義」のやうなものに終るのであつて、単に「労働手段の体制」を「技術」といふ学術語(?)で以て人工的に定義したに過ぎなくなるだらう。そしてさういふ場合の常として、技術なら技術といふテルミノロギーは、全く機械的に勝手に持ちまはられるだけで、そこから何等の真理ある発展も期待出来ないだらう。

 相川氏による例の技術の定義は、マルクスの書いたものの内から選ばれてあるかのやうに想像される。私はまだその個処を発見しないし、又それを引用した他の人の文章も今記憶に残つてゐないので、果してさうかどうかは全く想像の範囲を出ないのである。――併しとに角相川氏が引用してゐる限りでは、この定義に相当するマルクスの個処は直接には挙げられてゐない。

 氏がここで専ら論拠としてゐる文献はマルクスの「テヒノロギー」の説明の個処に他ならない。氏は云つてゐる、「技術が労働手段の体制であるか否かに尚(なほ)も疑義をもつものは、マルクスのこの命題(これはレーニンの『カール・マルクス』で唯物史観の解説のために前面に押出されてゐる)の再吟味から出発すべきである」と。そしてマルクスの次の二つの命題をこの文章の前と後に引用する。第一(前の方)、「テヒノロギーは、自然に対する人間の能動的な関係、云ひかへればその生活の直接生産過程を、従つて又その社会的生産諸関係と夫に基く精神的諸観念の形成過程を解明するものである」(『資本論』第一巻、エンゲルス民衆版三八九頁)。――第二(後の方)、「テヒノロギーの批判的歴史――社会人間の生産的諸器官の、夫々特殊な社会組織の物質的基礎の形成史」(訳文相川)。――レーニンは之を前面に押し出したといふのである。

 そこで相川氏は次のやうに結論する、「テヒノロギーの研究対象たる技術そのものとは、要するに、『夫々特殊な』、つまり一定の歴史的発展形態に一定の、『社会の物質的基礎』である、『生産諸器官』=生産諸手段、就中労働手段に外ならない」そしてマルクスが他の個処で「一定の社会の技術的基礎」と云つてゐるものと、この「社会的物質的基礎」とは同一内容を示すものだといふのである。

 だがすぐ判るやうに、この結論は、もし出て来るとすれば精々マルクスのこの第二のテーゼだけからしか出て来ないもので、第一のテーゼからは却つてこの結論と正反対な結論が出て来る筈だ。と云ふのは、テヒノロギーは「自然に対する人間の能動的な関係」(「生産の直接生産過程」)を対象とする。従つて又「社会的生産諸関係と夫に基く精神的諸観念の形成過程」を対象とするといふのだから、ここからすれば相川氏が求める技術そのものは今挙げたこの「 」の内のものでなければならぬわけだ。「人間が自然に対する能動的関係」や、それに基く限り生産諸関係のみならず精神的諸観念までの形成過程がなぜ「労働手段の体制」と考へられねばならぬのだらうか。寧ろこれは、技術なるものが労働手段の体制などとは制限されてゐないことを、マルクスがわざわざ説明してゐるかのやうにしか受け取れまい。そして注意すべきは、マルクスがそのすぐ後を続けて「かかる物質的基礎を閑却するとき、宗教史さへも無批判なものになつて了ふ」と云つて、各々の場合に於ける実際生活の事情からその天国化された諸形態を展開することが、唯一の物質的で従つて科学的な方法だと述べてゐることだ。即ち少くともここでマルクスが「物質的基礎」とか「物質的」とか云つてゐることは、相川氏が推論したやうな労働手段や何かを意味するのではなくて、単に一般的に唯物史観の出発点を指示してゐるに過ぎないのだ。

 それから、第二のテーゼからの推論も甚だ論拠薄弱だと云はねばならぬ。「社会人間の生産的諸器官」がマルクスによつて「社会組織の物質的基礎」と等置されてゐるからと云つて、この二つのものを交叉させて「労働手段」を導き出すといふことはテキストの読み方として可なり危険である。なぜなら一体社会人間の生産的諸器官といふのが、「植物及び動物の生活のための生産器具としての器官」からのアナロジーであつたのだが、もしこのアナロジーを単なる外面的な相似によるアナロジーに取れば、夫は単に前に述べた「自然に対する人間(乃至動植物)の能動的な関係」を、器官といふ物質のもつ能動的機能によつて暗示したものに過ぎないだらう(生産器具としての器官だから労働手段を暗示するのだと云ふかも知れないが、マルクスは、単なる受動的な認識器官などとしての器官ではなくて能動的な生産器官だと云ひたいに過ぎない)。それから又、このアナロジーがもしもつと本質的なものであるなら、第一に社会人間の生産的諸器官(=社会の物質的基礎)なるものは、単なる労働手段体制などではなくて、もつと器官らしく器官の特色を有つた(器官には神経も筋肉もあるのだ)処の何等かの物質的基礎を云ひ表はさうとしてゐるに相違ない。夫をマルクスは更にハッキリと云はうとして、他の個処で「技術的基礎」といふ風に(吾々から見れば)同語反覆の形で説明したものと見受けられる。それだけではなく、仮に技術を動植物乃至社会人間の生産器官に本質的になぞらえたとすれば、夫はつまり、技術が単に客観主義的に(又は機械論的にでさへある)労働手段の体制などとして定義的に限定されつくせないものだといふことを示してゐるのであつて、生物の器官にこそ恐らく技術なるものの歴史的起源がある、と考へられてゐるのかも知れない。さうなれば、ここで用ゐられた生物的器官といふアナロジーの意味は、器官といふ「労働手段体制」であると同時に、感覚運動的機能の主体ででもあることを指示してゐなくてはならぬわけだ。

 だからいづれにしても、マルクスの例の二つのテーゼからは、相川氏の求める「労働手段の体制」といふ技術の定義は出て来ないばかりではなく、少し考へて見ると、寧ろさうした機械論的定義を否定するやうな結論の方がより自然に、よりレーズバールに、受け取れる。尤も私は何もマルクスの言葉にあるからとかないからとか云つて、さうした文献学的な文義解釈をする心算はないのだが、少くとも相川氏がマルクスの引用から惹き出した結論に関する限り、見解は寧ろ氏とは逆の方向に傾くといふ点だけを云ひたかつたのだ。

 無論相川氏はマルクスの言葉を唯一の論拠としてゐるのではない。氏自身の考へ方の体系から云つて、技術をああ考へる必然性があるやうにも見受けられる。だが、人々の体系の上の必然性が必ずしも客観的な必然性でないことは云ふまでもない。常識を批判し克服する代りに、常識と殆んど全くかけ離れたテルミノロギー、而も言葉だけは常識に於ても共通なテルミノロギーを使ふのでは、科学的に云つてもあまり尤もだとは云へなくはないだらうか。なる程常識の主張は少しも尊重する必要はないかも知れないが、併し常識を救つてやるのでなければ科学的な分析にはならぬし、第一社会的な大衆性をさへ有てないだらう。

 尤もかういふ風に考へられないでもあるまい。一体技術といふ言葉が通俗語で、之をそのまま科学的に仕上げることは不適当だから、之とは全く独立して改めて科学的な技術概念を必要とするのであり、之を便宜上仮に技術と呼んでおくことにするといふ風に。だが夫ならば云はば「技術的なもの」とか技術的基礎とか云つた方がいいだらうが、併しそれにしても、それが労働手段の体制だといふことには、言葉の上であまりにギャップがあり過ぎるので、何のために術語の選択の労を取つたのかが判らなくなる。つまり労働手段の体制は労働手段の体制でいいので、之を無理に技術といふ言葉やその変容で説明しなくても常識的にも立派に判ることなのだ。無論労働手段の体制なるものと技術なるものとが全く無関係ならば誰も又相川氏も、二つをアイデンティファイする気になる筈はないので、二つの間に何かの必然的な結びつきのあることは確かなのだが、如何に緊密な結び付きがあつても、二つのものが一つだといふことにはならぬ。特に、もつと実質的な連関から、この二つのものの等置そのものが抑々の問題である時に。

 実際を云へば、恐らく技術といふ俗語はそのままでは科学的な範疇とはならないものだらう。之に代はる処の、そしてこの通俗観念の有つてゐる困難を分析した結果必要になる幾つかの技術論に属する諸範疇が必要となるだらう。その一つの範疇として、即ち技術現象の一つの契機として、「労働手段の体制」といふ範疇は多分絶対に必要である。だがこの範疇は他の契機を云ひ表はす範疇から孤立しては無意味になり、範疇としての用途を失ふ。ではどういふ範疇が想像されるかと云へば、この労働手段の体制によつていひ表はされ或ひは測定される処の、社会の技術水準といふやうなものが是非必要になるだらう。そして世間で普通技術と呼んでゐるものは、主としてこの技術水準といふ範疇を以て指示される一つの契機ではないかと想像する。尤も今はこの技術水準といふ概念を想像に止めておく他はないのだが。

 勿論技術水準といふものを想定しても、之自身は別に特別な可視的形態を具へてゐないだらう。さういふ意味では例へば労働手段と云つたやうなものの持つ物質性は有たない。だがそれは丁度、社会に於ける生産力が物質的であると全く同様に、矢張り物質的であらざるを得ないだらう。技術水準は労働手段乃至その体制に較べて、遙かに高度の社会的抽象体であり、それだけ又より抽象的な社会機構観念に属する。だが之によつて、所謂労働手段の体制と、それに対応する筈の労働力の属性としての技能とが、初めて実際的に結合されるのであり、従つて又、所謂労働手段体制と労働力技能とが観念的にも之によつて初めて統一されるのであり、従つて又所謂生産技術の内に技能を編成して考へようとする常識的要求をも之で以て充たすことが出来るのである。

 技術水準は労働手段体制からの社会的抽象体で、労働手段体制自身によつて云はば量られるものだが、処が技能は却つてこの社会的な技術水準に照して量られるのである。一定の社会に於ける労働手段体制に一定の労働力技能が対応すると云つても、夫は単にさうに相違ないといふ結果を一口にさう云ひ表はして了つたまでで、実際には技能と労働手段体制との間に絶えざる交互作用が実在するのであつて、例へば技能の社会的平均水準(技能水準)を標準にしなければトラクターの運転台の設計一つ出来はしない。処がこの技能水準を客観的な形に直して量つて見せる尺度が社会の技術水準なのである。

 労働手段と技能との間の実際的な交互作用は、いつもこの技術水準といふ云はば一種の技術的等価物に換算されることによつて初めて行なはれる。

 マルクスは技術と技術学(テヒノロギー)を殆んど同義に使つてゐるやうに見える場合もあるが、両者は科学的には区別されねばならぬ。尤も、技術に関する学問が必ずしも技術学だとは云へないのであり、従つて技術学の対象がすぐ様技術だとばかりも云へないので、技術に関する研究は必ずしもテヒノロギーではなく、例へば経済学でもあるし社会学でもあるかも知れない。それからマルクスは『経済学批判序説』で、各々の生産部門の生産の研究をテヒノロギーと呼んで、之を生産一般乃至一般的生産の研究としての経済学から区別してもいる(相川氏がマルクスの「テヒノロギー」の説明から、その対象として「技術」の規定を推論したこと自身が、だからすでに問題だつたのだ)。――で、技術学を所謂技術から区別するとして、技術学とはどういふものであるか。ここで技術水準といふ範疇が役に立つのである。

 技術学はすでに云つたやうに技術に関する単なる学でない。実は技術(さういふものを仮定して)に関する技術組織(手練、技能的知能及び知識)なのである。従つて之は主として労働手段乃至その体制に関する技術組織であらざるを得ないわけである。処で技術学の発達といふものは何を意味するかといふと、それは実質上、イデオロギーとしては技術家一般の主体的技能水準の上昇であり、客観的には取りも直さず社会的な技術水準の上昇することに他ならないだらう。技術家の水準が、客観的に見れば社会の技術水準のことであればこそ、世間では無雑作に技術学を技術と同じ意味に用ゐる理由もあるのであつて、ここからも吾々は、所謂技術なるものの主なる契機を、常識はこの技術水準の内に期待してゐる、といふ論拠を見ることが出来る。

 で、労働手段体制と労働力技能とを実地に媒介する社会的な技術等価物は、この技術水準の如きものであつて、この社会的等価物に基いて技術の広範な統一的な階層的体統も初めて成り立つことが出来る。この種の社会的抽象体を云ひ表はすやうな技術範疇を用ゐないとすると、技術に関する哲学や世界観や文化理論は、ピンからキリまでのナンセンスになるわけであつて、マルクスが宗教批判もテヒノロギーの見地に立つて行なはれる必要があると云つてゐることなども、あまりピンと来ない指針になつて了ふわけだ。――技術問題と文化理論との関係は主に技術の発達と人類の進歩との関係を問題にする処に横たはるが、労働手段と労働力技能とがまだ自然的にさへ分離しないやうな人類の原始時代に於ては、マルクスが譬喩的に云つてもゐたやうに、生産器具としての器官の機能がこの技術水準のことであつた。そこでは恐らく人類の生物的知能の発達度がすぐ様この技術水準に他ならなかつただらう。技術水準は、労働水準と労働力技能とのかうした原始的な未分期から、今日の発達した社会組織の内に「技術そのもの」の標準的な契機として、且つ又依然として人類社会の発達の基本的尺度として、伝はつて来てゐるものと見ることが出来る。技術が社会の物質的基礎だといふことは、技術水準のかうしたスタンダード性を想定すればその内容が掴めるわけで、さうしないと労働手段とか機械とか道具とかの体系などを考へざるを得なくなる。之は言葉通り機械論への一歩なのだ。

 技術を「労働手段の体制」と想定してかかるのは、無論相川氏一人の場合だけではない。寧ろ今では唯物論者の多くがこの想定に一応信頼してゐるやうに見受けられる。処がこの信頼は容赦なく唯物論的に再検討されるに値すると私は考へる。之はその試論の一つである。技術水準に就いての私の私見は今の処ただの想像又は仮説の程度を出ないが、併し技術に就いての従来の唯物論的(?)の定義に対して、唯物論的な疑問を回避することは到底出来ないやうに思はれる。読者諸氏はこの点、どう判断されるだらうか。

 この疑問を提出するに際して、実は直接の動機となつたものに最後に触れておかねばならぬ。最近文壇や論壇を通じて問題になつてゐるインテリゲンチャ論が、実は今云つた疑問に連関があると考へるからである。

 現在のインテリゲンチャ諸論の内には二つの欠陥が見出されると思はれる。第一は、インテリゲンチャ問題をその主体性の問題に於て即ちインテリのインテリジェンス(知能)の問題として捉へずに、往々にして単なる社会層の問題として捉へようとする傾向である。処が実は今日のインテリゲンチャの進歩的な課題は、インテリゲンチャが、自分の主体的なインテリジェンスを如何に進歩的に役立てようか、といふ処に現に横たはつてゐるのであり、又そこに横たはつてゐなくてはならなかつたのである。

 第二の欠陥は、インテリのこのインテリジェンスをば技術の問題と切り離して、勝手に文学的な又は哲学的な知識人の問題から分析を出発させ勝ちだといふ点にある。人間の知能、インテリジェンスは、社会的人間が自然に対する能動的活動として行ふ社会生活から発生し又夫によつて条件づけられたものなのだから、一般にインテリジェンスをこの技術から切り離して独立に取り扱ふことは、元来唯物論の原則を無視してかかることに他ならない。之は知能の甚だ不用意な観念論的な概念なのである。かう云つた判り切つた点が、意外にも今日の進歩的なインテリ論者の視界の焦点にあまりハッキリ這入つてゐないのではないかと考へる。之がハッキリしない限り、インテリゲンチャの主体性であるインテリジェンスの問題は殆んど無内容なものになつて了ふか、或ひはさうでなければ例へば「インテリの能動精神」と云つたやうな歪んだ形の問題として、甚だ不幸な運命の下に、提案されることになつて了ふのだ。

 処で、このインテリジェンスは云ふまでもなく労働力技能の一つに他ならない。だからこのインテリゲンチャ問題は、このインテリジェンスといふ労働力技能と、技術そのものとの関係として提出されることになるわけだ。処がこの技術そのものが何か、それと技能との技術としての実地的な連関はどうか、といふことが判らない限り、問題は解けない。少くとも技術が労働手段の体制だなどと考へてゐては、インテリジェンスの問題、従つてインテリゲンチャ論の問題は、見落されるか、それともブチこはしになる他はないだらう。敢へて技術を社会に於ける技術水準といふ如きもので云ひ表はさうと試みて見た理由がここにあつたのである。

 インテリゲンチャの問題が唯物論の立場に立たない限り正当に解決出来ないといふことが、ここから最後的な結論を得るだらうと思ふ。インテリゲンチャ論は、往々考へられ易いやうに、自由主義者の自由主義的な問題としては、決して解けないのだ。


第十九 自由主義哲学と唯物論
      ――自由主義哲学の二つの範型に対して


 博士五来素川氏は或る新聞で、日本主義の本当の敵は唯物論だと云つてゐる。この日本主義なるものがどういふものであるかが、直ちには明らかでない以上に、ここで云ふ唯物論なるものが、どういふものを指すのかは不明である。だが第一日本主義は現代社会に於ける行動現象としてはとに角、理論的な価値から言へば、決して本当の理論的独立性を有つてゐるとは云へない。之は何と云つても一人立ちの出来ない理論であるやうに見受けられる。その証拠には之に少し世間一般に適用するやうな妥当性を与へようとすれば、忽ちあれこれの外来哲学を持つて来てその裏づけにしなければならなくなる。かういふ人工的な技巧哲学が、一種の卑俗哲学以外のものとして発達したためしは甚だ少いのだ。処が唯物論は之に反して、従来から伝統的にも一個の独立な包括的な組織を持つた理論体系なのである。だからこの唯物論とこの日本主義とを対等に並べて、一方が他方の本当の敵であるとかないとか云ふのは、少くとも理論上の標準から云ふ限りでは跛行のそしりを免れない。

 曾て某評論雑誌で、現代思想の各派を並べて紹介してゐるのを見ると、ハイデッガーやシェーラーやヤスペルスと並べて、さうした現在の海のものとも山のものともつかぬ群生諸思想と同格に、唯物論が並置されてゐるので、苦笑を禁じることが出来なかつた。歴史上の比重を無視して、偶々目の前に現はれた昨日今日の現象を比較することは、往々滑稽な価値評価を結果するものだ。かうした判断の与太であることは、つまり判断の客観的公正を欠いてゐることから来るので、さういふ意味での主観的な独りよがりな見解ほど、醜いものはない。

 現代に於ける唯物論をシェーラーやヤスペルスの落想哲学と並置するのに較べれば、之を現代の日本主義と並置する方が、まだしもコクのある真面目な見解なのである。先にも云つた通り、日本主義は理論的には一人立ちの出来ない内容のものだが(尤も無理論的な理論?としてならいつでも勝手に独立出来るが)、併し社会に於ける実際勢力から判断すれば、唯物論は恐らく日本主義哲学の有力な論敵だといふのが真理だらう。で、唯物論に取つても亦、日本主義の哲学は決して相容れない論敵なのである。日本主義哲学は、自分自身は何と云はうと、日本ファシズムの哲学なのである。処で唯物論は一般にファシズム哲学を終局の論敵として持つてゐるからである。

 昨今の日本の社会状勢は特に自由主義の問題に世間の注意を一時集中したやうに見える。自由主義は転落した、と世間の編集ジャーナリスト達は叫んでゐる。だが最近まで、転落するやうな自由主義が一体どこにあつたか。今まであつたのはなけなしの自由でしかなく、単にそれが今日改めて圧迫され始めたといふのが正直な有態の事実に過ぎぬ。そのために自由の意識は、さうした自由主義への関心は、却つて刺激され、或ひは或る部面に於ては振ひ立つたとさへ言ふことが出来る。転落したにせよ、或ひは又却つて燃え上つたにせよ、とに角この程度のものが、少くとも最近の(所謂マルクス主義全盛期?以後の)自由主義の実勢力だつたのである。実は今更転落でもなければ高揚でもないのである。

 だがとに角、元来唯物論の論敵であつた処の日本主義哲学に対して、初めて之と敵対関係にあるといふことの意味を現実的な形で覚らねばならなくなつたのが、この自由主義だといふことを、ハッキリと銘記しなければならない。さういふことは誰知らぬ者もない判り切つたことのやうだが、併しこの観点は、少くとも自由主義者によつては行くべき処まで押しつめられてはゐないのである。と言ふのは、自由主義は少くとも日本ファシズムに対抗するためには、唯物論と共同の理論的利害に沿ふ他に、足場はないのである。現下の事情は、唯物論か日本主義か、のエントヴェーダー・オーダーなのだ。自由主義が自由主義として独自の論拠を持つためにも、自由主義の足場は唯物論の内に求められなくてはならぬ。

 処が言ふまでもなく自由主義者は、さういふ勧告には、習慣的に、又情緒的に、同意することを欲しない。自由主義には自由主義独特の独立な哲学がある、と自由主義者達は想定し又は主張する。そこで吾々は、この自由主義哲学なるものを批判し克服する必要を有つこととなる。さうしなければ、自由主義そのものを活かすことが出来ないからだ。自由主義は、自由主義の「哲学」をすてない限り、日本主義を批判し克服することは出来ない、といふことを、之から見ようと思ふ。

 自由主義乃至自由主義哲学と云つても、之は現在極めて様々な異つた意味で使はれてゐる言葉である。単に自由を愛好する主義(?)のことでもあるし、「反ファッショ」の感情のことでもある。更に「反マルクス」の口実でさへ往々それはあるのだ。だがかういふ卑俗な観念を一々対手にしてゐては限りがない。まづ必要なのはリベラリズムに少くとも三つの部分又は部面があるといふ点だ。自由主義は云ふまでもなく最初経済的自由主義として発生した。重商主義に立つ国家的干渉に対して、重農派及びその後の正統派経済学による国家干渉排斥が、この自由主義の出発であつた。この自由貿易と自由競争との経済政策理論としての経済的自由主義は、やがて政治的自由主義を産み、又は之に対応したものであつた。市民の社会身分としての自由と平等と、それに基く特定の政治観念であるデモクラシー(ブルジョア民主主義)とが、この政治的自由主義の内容をなしてゐる。

 だがかうした経済的、政治的自由主義から、或ひは之に基いて、或ひは之に対応すべく、第三の自由主義の部面が発生する。便宜上之を文化的自由主義と呼ぶことにしよう。経済的乃至政治的意識の代りに、もつと一般的に又はもつと上層意識に於て、文化的意識なるものを考へることが出来るだらうが、この文化的意識に於ける、或ひはこの特有な文化意識に基いた社会活動である処の文化的行動に於ける自由主義が、文化的自由主義の意味なのである。この自由主義部面はすでに多くの人が之を注目してゐる。或ひは「文学に於ける自由主義」(青野季吉氏)とか、或ひは「精神的な自由主義」(大森義太郎氏)とか、云はれてゐる。但しこの二つの例では、その内容に就いて他の自由主義部面との比較があまり与へられてゐないばかりでなく、前者がこの自由主義部面を甚だ尊重するに反して、後者は之を一顧にも値しないかのやうに軽視してゐるのであるが。――併しとに角この文化的自由主義といふ自由主義の部面は、今日特に意味を有つらしいことが、多くの人々によつて想定されてゐると言つてよい。

 この三つの部分乃至部面は夫々の間に一応の独立性を持つてゐる。統制経済の方針が必ずしもそれだけでは議会政治や政党政治といふやうな政治上の自由主義と直ちには矛盾しないやうに、政治的自由主義の「転落」は却つて文化的自由主義の意識の高揚をさへ招くといふやうな、部分的現象を見落してはならぬ。政治的自由主義の転落(実は之はマルクス主義的文化理論の一時的退潮と同じ原因に基くのだが)によつて、却つて特有な自由主義的文化意識が「復興」され又台頭したと見ることも出来る。文学に於ける能動精神、不安主義、ロマン派、各種のヒューマニズム等々がその例だ。

 で、仮に経済的、政治的自由主義が転落しても、夫とは一応独立に文化的自由主義は一時的にしろ繁栄することが出来るのである。だから、もし一般的に自由主義なるものを何でもいい守り立てる必要があるとすれば、経済的、政治的な自由主義の大勢が不利である場合、当然文化的自由主義が、自由主義なるもの一般の最後の拠り処とならざるを得ないわけである。現在、自由主義一般の積極性を他ならぬこの文化的自由主義の内に求める文化人は決して少なくない(青野季吉氏の如き)。そして漫然とその感情に於て自由主義的である処の特色のない多くのリベラーレンは、経済上の自由主義的見解や政治上の民主主義的意志はなくても、この文化的自由主義を私かに信じてゐるのだと云つていい。さう考へて見ると、文化的自由主義こそ、現在に於て新しく積極性を有つに至つた有力な自由主義の形態だとも云ふことが出来さうである。

 この文化的自由主義から一種の特別な自由主義哲学が出て来るのであるが、それを見る前にもう一つ注意しておかなくてはならぬのは、「自由主義」といふ範疇(根本概念)が有つてゐる二つの種類である。一体社会現象を指し示す各範疇には、大抵の場合、歴史上の一定形象を示す場合と、超歴史的な一般的形象を示す場合とが、同じ言葉で同時に云ひ現はされてゐる。浪漫主義は例へばドイツ文化史上、古典主義の後を受けた一定時代の一定運動を指すと共に、一般に凡ゆる時代の反リアリスティックな運動をも意味してゐる。啓蒙運動に就いても亦同様に云ふことが出来る。自由主義もその例にもれないのであつて、夫は歴史的範疇としては十七、八世紀のブルジョアジー台頭期の経済的政治的及び文化的イデオロギーであつたが、それが、さうした歴史上特定の制限を持つたイデオロギーとしてではなく、もつと一般的に超歴史的な普遍人間的範疇として(長谷川如是閑氏はそれを道徳的範疇と呼んでゐる)、通用するといふ他の一面を見落すことは出来ない。歴史的範疇としての自由主義は、云ふまでもなく資本主義文化の所産としてのブルジョア・イデオロギーの他のものではあり得ないが、この道徳的範疇としての自由主義になると、もはやさういふ一定の階級性、一定のイデオロギー性格から自由になつたと考へられる。かうした道徳的範疇としての自由主義は、だから必要に応じては任意の都合の良い内容規定を之に挿入することが出来さうだといふ、至極便宜な形を取り得るわけだ。一般的に何でもいい自由主義を信奉するリベラーレンにとつて、だから自由主義の最後の、或ひは最近の、段階として、この道徳的範疇としての自由主義が、その血路を提供するのは、甚だ尤もだと言はねばならぬ。

 そこで今必要な点は、この道徳的範疇としての「自由主義」なるものが、例の前に云つておいた文化的自由主義の、直接の裏づけとして援用される、といふ一つの事実なのである。云ひ換へれば文化的自由主義に最後の信頼を置く自由主義者は、自分のこの信頼の根拠として、この自由主義こそこの道徳的範疇としての自由主義に立つものだと考へられる点を利用するのである。つまり文化的自由主義が権威があるのは、それが道徳的(普遍人間的)自由主義に他ならぬからだ、といふ論拠になるのである。もしこの論拠が正当なものならば、文化的自由主義こそ、リベラリズムの最後の最高の形態でなければならなくなる。

 だがここには一つの微細な錯誤が潜んでゐる。そしてそれが大きな誤謬を産むのである。文化的自由主義が如何に文化的であり、従つて超経済的、超政治的であり、即ちその意味に於て如何に非現実的なリベラリズムだとしても、そのことは何も、この文化的自由主義が超歴史的な所謂道徳的な範疇としての自由主義だといふこととは一つでない。自由主義の一部分乃至一部面に他ならなかつた文化的自由主義を、自由主義全体に及ぶ道徳的範疇としての自由主義と同じに考へることは、無論許されない筈だ。無理にさう考へるためには、道徳的範疇としての自由主義なるものを、特に道徳的自由主義とでも呼ぶべきものにまで変更しなければならぬ。さういふ道徳的自由主義ならば多分文化的自由主義と同じである他はないだらう。だがさうすれば、さういふ道徳的自由主義は、歴史的範疇としての自由主義なるものの有つてゐる歴史的制限から自由だつたといふ、あの道徳的範疇としての自由主義の有つ「自由」をば、もはや保証されてはゐないのだ。

 この論法で行くと、仮に文化的自由主義が今日成立するとすれば、それが同時に道徳的範疇としての自由主義といふ少くともその妥当性を否定出来ないものと一つであるといふ論拠から、この文化的自由主義の成立は自由主義一般の成立を告げるものだといふこととなり、かくて経済的自由主義も政治的自由主義も、却つてこの文化的自由主義を根拠にして初めて成立出来るといふことになる。即ち経済的、政治的自由主義は、何か道徳的根拠によつてその成立を権威づけられることになる。そして例へば政治的自由主義の反対者などは、不道徳だといふ理由によつて非難されねばならなくなる。――だがそれだけではない。この文化的リベラーレンは又、往々にして、政治的(又経済的)自由主義(乃至自由)などを問題にすることなく、単にこの文化的リベラリズムを固持することだけによつて、一般的にリベラリストであるといふ権利を獲得出来るかのやうに思ひ始める。政治上の自由などは本当はどうでもいい、大事なのは吾々の逞ましい自意識だ、などと、さういふ風に文学者の文化的リベラーレンは主張し出すのである。

 文化的自由主義の弊は、それが自分の自由主義としての一般性を装ふために、道徳的範疇としての自由主義なるものを利用して、之を道徳的自由主義にまで植ゑかへることである。文化的自由主義は、道徳的自由主義に変質する。それはもはやただの文化に於ける自由主義ではなくて文化主義的自由主義にまで居直る。之は広義の文学者の意識に於て往々見受けられる形跡だから、私はかつて之を文学的乃至哲学的自由主義と呼んだ(十一、十五参考)。

 さてかうして、自由主義の「文学的」な哲学体系が初めて成立する。文化的自由主義は自由主義の一部面乃至一部分の名に過ぎなかつた。処がこの一部面一部分が独立を宣言し、自由主義全体の統一運動を始める時、それは自由主義全般に対する一つの主義、一つの哲学的態度を意味することになる。ここに初めて「自由主義の哲学」(但しその一半の場合で他の場合は後で書くが)が発生する。ここでは哲学的範疇の代りに文学的な範疇が使はれる(これに就いては既にこの書物で説明した――十一)。それが文学主義的な自由主義哲学たる所以である。例へば今日の文芸的評論に於ける各種の人間主義が私かにこの自由主義哲学に基いてゐるのであつて、もしこの自由主義哲学から政治的な帰結を惹き出せるとしたら、その政治的結論は推して知るべしなのである。読者は多分この哲学が転向文学者の一部のものの支柱となつてゐることを発見するだらう。

 注意すべきはこの文学主義的自由主義の哲学が、決して所謂文学にだけ限られて使はれてゐる思想体系ではない、といふことだ。寧ろ却つて、今日のブルジョア哲学の主なものの多くこそ、この自由主義的文学のメカニズムが潜んでゐることに注目しなければならぬ。例へば西田哲学は或る何等かの自由主義を読者に感じさせるだらう。もしさうだとすれば、その自由主義とは取りも直さずこの文学主義的自由主義(即ち又道徳主義的自由主義)なのであり、だからこそこの哲学は一種の自由主義哲学だといふことになるのである。この意味に於て自由主義哲学に属するものが、今日の日本のブルジョア哲学に於て如何に多いかといふことは、甚だ興味のある点である。一見政治的自由主義とは何等の関係もない各種の教養ある哲学は、このやうにして多くは矢張り自由主義の哲学に帰着するのである。

 このタイプの自由主義哲学者が、この教養に基く政治常識に於て多少とも合理的であり進歩性を有つてゐるに拘らず、又理論的に云つてマルクス主義的文化史の思想史上の比重を尊重し之に同情を示すことを一応の義務と考へてゐるにも拘らず、例外なく唯物論の敵対者であることは、決して偶然ではない。なぜならこのタイプの自由主義哲学は、結局文化的自由主義の埒内だけに終始しようと決心してゐたからである。生産力や権力といふ社会の根柢にある物質的諸力とはこの自由主義は何の関係もひつかかりもないのだつた。唯物論はこの哲学にとつて元来不用だつたのである。処でこの自由主義哲学者を、そこから唯物論に対する敵対にまで移行させるには、一寸したいやがらせだけで充分なのである。以上の点は、文化的インテリの代表者とも見做し得る文学者の意識に就いても、少しも変つた処はない。

 さて以上は、文化的自由主義を地盤として発生する自由主義哲学の場合であつたが、次に経済的乃至政治的自由主義を地盤として発生する別のタイプの自由主義哲学に就いて考へよう。

 一体文学的自由主義哲学は、一見何等の自由主義を説いてゐるとは見えないのが恒だが、それはつまりこれが充分な意味での自由主義哲学でなかつたことを物語つてゐる。元来経済的乃至政治的自由主義を飛び越して、いきなり文化的自由主義に立て籠つた結果出て来る自由主義が、充分な意味での自由主義哲学を齎らさないことは寧ろ当然だらう。本格的な、或ひは正札通りの、自由主義哲学は、経済的、政治的自由主義を地盤として出発を始めなければならぬ。さうすれば文化的自由主義もおのづからその領野に取り入れられることになるだらう。

 この第二のタイプの自由主義哲学は今日の日本では決して多いとは考へられない。だがそれの最も著しい形は河合栄治郎教授の努力の間に現はれてゐる。努力と云つた意味は、教授自身の従来の意見によると、自由主義の哲学はまだ充分に成立してゐないのであつて、それを成立させるべく今現に努力しつつあるのがこの河合教授達だからである(「改革原理としての思想体系」、『中央公論』一九三五年五月号、其他)。

 河合教授によれば、云ふまでもなくリベラリズムは資本主義の発生に基いて生じたイデオロギーなのである。だが、その初めに於てさうだつたといふことは、いつまでもさうだといふことを意味しない。一般に、又特にマルクス主義者達は、自由主義が資本制的制限を有つてゐるから到底社会改良主義以上には出ることの出来ないものだと速断するが、それは早計も甚だしい。「現段階の自由主義は社会改良主義より逸脱して社会主義にまで自己を発展させてゐる」のだ、と教授は注意を促すのである。ここで社会主義といふのは云ふまでもなく資本主義の対立物のことを指すのであるが、処が日本やドイツのやうな特殊の国情に於ては、現存社会秩序の原理は単純に資本主義乃至その意味に於けるブルジョア・リベラリズムではない。封建主義の残存物が極めて多いことがその特色をなしてゐる。だから教授によれば、日本の現段階の自由主義は、同時に資本主義と封建主義とを敵として持つてゐるのである。封建主義に対しては所謂リベラリズムを、そして資本主義に対しては社会主義を、対立させねばならぬ。このリベラリズムと社会主義との有機的統一、体系的結合こそが、現段階の自由主義だ、といふのである。

 自由主義は社会主義だといふ。ではどういふ社会主義なのか。教授によれば、現段階の自由主義(=社会主義)は理想主義に帰着するのである。処でマルクス主義は理想主義ではない。ないどころではなく理想主義の反対物だといふ意味に於て、即ち教授の想定によると「理想」を否定するといふ意味に於て、唯物論であつた。だから少くともこの社会主義はマルクス主義の反対物でなくてはならぬ。――封建主義に反対し、資本主義に反対し、更に共産主義(マルクス主義)に反対するこの現段階式自由主義は、一体どこへ行くのだらうか。

 処で河合教授は現段階式自由主義を理想主義だと説明するには、自由主義の歴史が根拠を提供してゐるのである。教授によれば自由主義は自然法から功利主義を経て遂に現段階に於て理想主義に到達したといふのである。――だが理想主義的自由主義は、恐らくトーマス・ヒル・グリーンの倫理学的自由主義を範型とするだらう。このカント化された非アングロ・サクソン的倫理学者グリーンは河合教授の詳しく研究する処であるが、十九世紀の八十年代に死んだ人だから、非常時日本の現段階的自由主義の範型として適切であるかどうかを私は知らない。が、とに角経済学上の自由主義者であり又議会主義者でもある処の河合教授が、著しく倫理的な観点からかうした自由主義を照して見せるといふことを、覚えておかねばならぬ。

 河合教授の自由主義即ち理想主義とは、個人人格の云はば社会的成長を目的とする主義のことである。無論社会に於ては自分一人が人格を成長させることは出来ないし、又それはよろしくないことだ。「公共のためを思ひ」「不幸なる同胞」に同情を寄せたり何かすることによつて世間の皆々の人格の成長を欲することが、取りも直さず自分自身の人格の社会的成長になるのである。かういふ理想を有つことを云ひ表はすこの理想主義は、だから第一に「道徳哲学」でなければならず、そこから又この道徳の実現のための多少具体的内容を意味する「社会哲学」とならねばならぬ。即ちこの自由主義的社会哲学、否社会哲学的自由主義によれば、政治的には国家主義反対や議会主義、経済的には資本主義による強制からの自由(旧いブルジョア・リベラリズムは国家による強制からの自由であつたが)、などがそのドクトリンとなる。

 で、教授の自由主義が理想主義であるのは、人格の自由な成長といふ道徳的理想(グリーンはその『プロレゴメナ』に於て極めて詳しく之を分析してゐる)を持つからこそ、理想主義であつたに他ならない。この自由主義は倫理主義だつたのである。この点から云ふと、この折角の経済学的政治学的自由主義哲学も、例の先に云つた文学者や文化哲学者の道徳主義的自由主義と何の変る処もないのである。実際倫理主義は今日の一般のブルジョア哲学の共通な一つのトリックにぞくする。彼等によれば政治や経済といふ社会機構は、倫理道徳の理想や当為に還元される。そしてそこから「社会哲学」や「政治哲学」や「経済哲学」のあるものやが、発生する。云はばかうだ。一切の国民が軍人に還元される(挙国皆兵)。そしてそこから将官や佐官の「軍人」が「国民」を代表する。だが之は果して真面目な論理だらうか。

 「倫理」主義が一つのトリックであると全く同じ構造に於て、「理想」主義も亦一つのトリックである。もし理想を有つことが理想主義なら、マルクスこそ最もシッカリした理想主義者であつたらう。にも拘らず彼は理想主義(又の訳語は観念論)の代りに唯物論を採用した。なぜといふに彼の社会主義的理想(それは人間の本当の自由にあつたことを忘れてはならぬ――『ドイツ・イデオロギー』を見よ)といふ観念の上の目的を達するための物質的な実際手段が、唯物論的認識と夫から出て来る方針とだつたからだ。マルクスは河合教授や小泉信三教授や其他ありと凡ゆる倫理学者や哲学者が心配するやうに、事物の必然的法則の認識と行動の実践的方針とを、理論的に混同したものでもなければ、又別々に考へなければならなかつたのでもない。現実が論理に、事実が価値に、転化することこそ唯物論によるディアレクティックなのである。と云ふのは、元来論理関係乃至価値関係なるものは、現実乃至事実が人類の経験によつて原理にまで要約されたものなのだ。この点を忘れるならば、今日現に行なはれてゐる一切の文化の科学的批判などは完全に理解出来ない筈だ。――処でマルクスに於ては唯物論的手段と理想的な目的とは別々なものでもなければ又単純に一つのものでもない。であればこそこの手段が目的の手段として実地に役立つといふ資格を得てくる。処が河合教授の理想主義によると、目的が理想だから手段も亦理想でなければならぬらしい。例へば自由を得るための手段は又自由な「議会主義」でなければならない。ブルジョアジーの所謂議会主義といふ手段に依らないとなぜ手段一般が不自由になるのかが吾々には判らないが、とに角目的と手段とを私かに混同するのがこの「理想主義」のトリックなのである。

 教授はマルクス主義が、物質的手段を目的であるかのやうに考へて目的と手段とを混同してゐるから、マルクス主義に反対しなければならぬと云ふのであるが、この混同こそ却つて教授等の「理想」主義者の代表的な特徴なのである。理想主義が意味を有ち得るのは、単に倫理的な態度、さういふ人間的情緒、さういふ心構へ(清沢洌氏は自由主義をかうした「心構へ」と考へる)としてだけであつて、哲学体系となればそれは他ならぬ観念論の体系のことだ。観念論が一般に哲学体系としてどういふ根本欠陥を持つてゐるかは屡々述べたが、かうした理想主義のトリックが取りも直さず今の場合のその適例なのである。

 仮にいつも真理、真理と云つてゐる人間がいるとする。真理を説明するにも真理、真理を擁護するにも真理だ。さうするとさういふ人間は人から真理主義者といふ綽名を頂戴するに相違ない。つまりこの真理主義が即ち真理でないといふ認定を与へられるのである。「理想」主義や、「自由」主義を、さうした綽名にしないことが、理想そのものと自由そのものとのために必要だらう。理想と自由との信用を落させるものが他ならぬ「理想」主義者であり「自由」主義者である河合教授でなければ幸いである。マルクス主義者も亦言論、集会、結社、議会、身体、其他一切の(河合教授の所謂「形式的」及び「実質的」)自由を、人間的理想としての自由といふ目的のための、手段としてあくまで之を尊重する。だが自由といふ目的を設定し更に又この特定の自由行為を手段として尊重することが、すぐ様自由「主義」だと考へるのは、ただ「自由主義者」だけなのだ。――自由といふ道徳的倫理的情緒や直覚が、すぐ様自由主義といふ哲学的理論となるといふ保証は、一体どこにあるのだらうか。情緒が体系へ一気呵成に移り行くかも知れないといふ人間的危険について、最も慎重である習慣を持つてゐるものが、唯物論だつたのである。

 で、もし自由を愛好するといふことから(唯物論者は恐らく誰よりこの自由を愛求しその妨害を誰よりも憎悪するが)、自由主義といふ独自な哲学体系がすぐ様約束されるとしたならば、靴屋は靴哲学を、床屋は頭髪哲学を有つことにならう。――豊かな情緒の自由主義は哲学組織とならうとする時、忽ち平板な貧寒な理論となる。と云ふことは、自由主義そのものが、決して本当の自由主義の正当なイメージでなかつたことを証拠立ててゐる。河合教授が自由主義哲学の未成立を憤慨しなければならないのは、決して教授の偶然な不幸ではないのだ。

 自由主義の所謂「転落」に就いて最も興味を感じてゐるものは云ふまでもなく唯物論ではなくて日本主義である。処がこれまで、日本主義の側からする自由主義の多少とも理論的な批判は、甚だ少ないやうだ。藤沢親雄氏の「自由主義を論ず」(『社会政策時報』一九三五年五、六月)などが多分最も注目すべきものだらう。

 だが藤沢氏はその専門である政治学に因んで、眼中には政治的自由主義しかないのである。氏によると、今日政治的自由主義はすでにその役割を終へた、といふのである。法治主義たる自由主義的国家理論は、国家を社会から出来るだけ引き離し、国家なるものから出来るだけ社会的倫理的な意義を差し引いて、わづかに法治的行政行為の機能だけを国家の側に残さうといふ一貫した企てである。社会の倫理的(又しても日本主義者までが倫理的!)権威は、かかる自由主義的国家の与り知つたことではない。――処が併し、ヨーロッパに於ても、かうした法治主義的自由主義が今やその役割を終へ、その代りに、之を包含して立ち現はれたものが、全体国家の観念だ、と氏は警告する。なぜ全体国家かと云ふと、そこでは社会全体が即ち国家であり、各社会人が又国家の一員としての資格に於て初めて人間なのだからである。国家の機能は社会の凡ゆる内容に滲徹する。社会人の個人的私事などはもはや許されない、といふことになるらしい。

 かくて全体国家は、国家本来の(?)社会的権威を取りもどす。処でこの権威なるものは決してただの権力のことではない。元来自由主義者は権力しか知らない。だからこの権力が欠如してゐることを「自由」だと考へることしか知らない(全く河合教授などはさうだ)。処が氏によると、そんな自由はただの消極的自由のことでしかない。本当の積極的な自由は、かうした権力と相容れないどころではなく、寧ろかうした権力と結びついてゐるものなのだと言ふ。かうした積極的自由と権力とが結びついたものを含むものこそ、例の権威だといふのである。

 藤沢氏はここでナチ・ドイツの国家学者(カール・シュミット達)を紹介し又は模倣してゐるのである。で、つまり「われ等の指導者ヒトラー」のことを思ひ出せば、この権威とか権力とか積極的自由とかといふものの得体が知れるのだ。――処がヒトラーはまだ決して日本人である藤沢親雄氏の権威の概念を満足させない。国家の本当の権威は伝統と血統との上の必然性を必要とする。その意味に於て日本帝国こそこの権威ある全体国家の模範だといふことになるのである。

 それから後は、殆んど凡ての日本主義者に特有な語源学的、文献学的な駄洒落に帰着する。ただ傾聴すべき唯一の点は、機関説が自由主義乃至左翼の国家理論であり、之に反して主権説は右翼の国家理論であるが、日本主義こそ中道を行く偏倚せざる国家理論だといふことだけだ。

 自由主義はマルクス主義と同じ本質のものだといふことになるのだから、唯物論は今や自由主義のために大いに弁護しなければならぬ破目に陥つたわけだが、唯物論は何よりも、民族の歴史の「科学的」研究を以て、即ち唯物論的、史的唯物論による日本歴史の研究を以て、之に答へなければならないだらう。そして歴史の唯物論的分析にかけては、矢張り自由主義よりも唯物論の方が本格的ではないだらうかと思ふのである。つまり自由主義を最も根柢的に擁護するものは、自由主義ではなくて唯物論だ、といふことになる。尤もこの際、自由主義者の主観的な情緒がこの結論に対してどう反応するかといふことは、保証の限りではないのだが。


結論


第二十 現代日本の思想界と思想家
      ――思想の資格に於ける唯物論の優越性に就いて


 思想界を右翼、中堅、左翼といふ風に区分することは今日の常識になつてゐる。世間では即ち各種のファシストの思想、各種のリベラリストの思想、各種のマルクシストの思想、といふ具合に区別しようといふのである。処がこの常識は極めて皮相な社会通念に基いてゐるので、例へば同じくマルクシストと云つても、その本質から云ふと社会ファシストに数へられるものが非常に多いし、又自由主義者に近いものも少くない。同様に自由主義者の内でも亦、時には実質上の自由主義者の資格を持つてゐるものもなくはないが、その大部分は煎じつめると社会ファシスト乃至ファシストに他ならぬ。だからマルクシストとかリベラリストとか、それから又ファシストとかいふ区別は、一応の便宜上の区別としてはとも角、それ以外にあまり根本的な意味のあるものではないやうに見えるのである。少くとも、ファシズムにも反対だしマルクス主義にも反対だから、自由主義を採る、と云つたやうな見当づけほど馬鹿げた常識はないのだ。

 云ふまでもなく、ファシズム、リベラリズム、マルクシズムの分類は、現在の社会の階級対立の関係から客観的に導き出されたイデオロギーの類別なのだから、終局に於ては之は無論無視してならない原則にぞくしてゐるが、この終局的な尺度がなければ、今日の思想界に就いては多分一言も口を挿むことは出来ないからだ。だが、何がファシズムで何がリベラリズムか、又何がマルクス主義かといふことになると、世間の通念や又イデオローグ達の見解の間に、単に要点の上での一致がないばかりではなく、お互ひに根本的に倒錯した理解さへが行なはれてゐるのが、直接の事実だ。例へば日本の今日のファシスト達は自分達の思想を往々にしてファシズムに対する反対説だと唱へ出すし、自由主義者は自由主義をば、却つて自由を追求することからの自由によつて理解しようとさへしてゐる。さうして見ると、自由主義は実質に於て自由主義反対だといふ結果になるのである。自称「マルクス主義者」達はマルクス主義を攻撃することによつて、わづかにマルクス主義者であることが出来るといふ具合だ。

 このやうな錯綜と倒錯とは、ファシズム、リベラリズム、マルクス主義といふやうな社会的な一客観現象としてのイデオロギーの区別によつては到底問題が尽くされず、ファシスト、リベラリスト、マルクシストといふイデオローグの主体的な条件の下にしかこの問題を取り上げてはならない、といふことを示してゐる。つまり之は、思想界は思想家の思想を中心にして出来上るものだといふ、判り切つた関係に他ならないのだ。思想家自身が自分の思想に就いて懐く主観的な見解と、その思想の客観的な意味との喰ひ違ひが、この錯綜と倒錯とを産むのである。そこで世間の例の分類常識は、時とすると思想家の主観的な自己評価の側についたり、或ひは又時とすると思想家の思想の客観的意義の側についたりするので、混乱し動揺せざるを得ないのである。

 世間の常識で、単純であれはマルクシストだ、あれはファシストだと云ふのは、その限りでは、極端に云へばあれは政友会だ、あれは民政党だ、といふやうなもので、所謂レッテルは外から貼つたものなのだから、あまり真面目に気にかけるべき問題ではない。ただここに意味のある点は、無論、イデオロギーを政治的に分類することによつてその社会現象としての特徴をハッキリさせようといふ企てにあつたのである。なる程思想をイデオロギーとして社会的連関の下に捉へるには、之を政治的イデオロギーから切り離して問題にすることは絶対に許されない。だが、さうかと云つて、このイデオロギーの政治的性格自身が、それの最も著しいが併し結局はごく直接に手近かにある手取り早い一特徴に過ぎないのだ、といふ点を見落してはならぬ。諸イデオロギーの本当に根本的な特徴は、もつと奥の方にあるのであつて、単にそれが必然的に夫々の一定の政治的イデオロギーにまで、直接に或ひは又間接に、帰属され得べきだ、と云ふに過ぎないのである。だから、之を政治的イデオロギーに帰属させた結果だけを見れば、それだけでは一向そのイデオロギーのイデオロギーとしての特色が浮び出ない場合が少くない。或る種の哲学的イデオロギーや、又特に自然科学的イデオロギーなどは、その好い例なのである。ファシズムの物理学と云つて見た処で、又自由主義的数学と云つて見た処で、夫だけでは殆んど無意味な特徴づけに終るだらう。イデオロギーとしての思想を単に右翼、中堅、左翼と云つたやうな「社会学」的社会常識で片づけ得ない所以が之なのだ。だからかういふやり方では、思想界の分布図など書けるものではない。なぜなら具体的に各思想家をその分布図に入れて見る段になると、単にハミ出してうまく行かぬだけではなく(ハミ出すのは仕方のないことだ)、恐ろしく見当違ひな藪にらみな展望になるだらうからだ。

 で、私は右翼、中堅、左翼、乃至ファシズム、リベラリズム、マルクシズムと云つたやうな社会学的思想界分布図の代りに、もう少し合理的に内容に立ち入つた分布図を使はなければならない。云はばもつと哲学的な分布図を必要とするのである。思想と云へば世界観と思想方法との結合のことだが、之が本来観念論と唯物論に分類されて来てゐることは、今更云ふまでもない。処で実は之こそが、今日の思想界の社会的分布図を与へるのに、一等役立つだらう当のものに他ならぬ。

 観念論と唯物論との対立と云ふと、世間のスレッカラシな常識は、又か、といふだらう。処が世間では一向この二つのものとその対比との現代に於ける意義を理解しないどころでなく、この二つの言葉そのものの意味をさへ決して実際的な形で掴んではゐないのだ。それだけではなく、観念論的な哲学概論によつては勿論のこと、唯物論的な哲学教程によつてさへも、この観念を実際的な現下の社会的意義の下に充分捉へてゐるとは云へぬかも知れない。具体的な点は段々見て行くとして、少くとも観念論と唯物論とが、単に世界観であるばかりではなく、之と連関して同時に論理であるといふことを、世間はあまり知つてもゐないし考へてもゐない。之はつまり、思想といふものをただの観念か何かと考へてゐる常識に由来することだが、思想といふのはただ或る観念を所有したり之を振り回したりすることではなく、実際をよく見ると判るやうに、或る観念を推し進めて行くことによつて之を使ふことをいふのだ。思想とは観念成長の組織機構を意味するのである。この組織が広く論理と呼ばれるものであつて、そこに思想の貞操とか貫徹性とか徹底性とか党派性とかいふものも横たはる。ヘーゲルなどは之を「推論」といふ言葉で云ひ表はした。そしてこの論理の用具が範疇組織といふものなのである。――で、思想はかうして世界観から始めて範疇組織までを含まなければ成り立たないのがその実際だ。もし思想家といふものがあるなら、夫は思想のかうした組み立てを身につけた者のことで、ただの観念を所有することなら子供でも狂人でも出来るだらう。観念論とか唯物論とかいふ思想のこの原型はだから、ただの世界観なのではなくて同時に論理だつたのだ。友松円諦氏だつたか(尤も独り彼に限らないが)、観念論か唯物論か、などといふ問題はただの閑つぶしの「戯論」に過ぎないと云つて問題を回避しようとしてゐるが、彼等の思想家としての無資格は、かういふ点に最もよく現はれてゐる。観念論と唯物論との対比は、単に思想乃至思想界の分布図を与へるばかりではなく、この対比に就いての自覚は、思想家自身の思想家としての資格を決定することにもなる。無論思想家としての資格のない思想家といふものも、社会的に思想家として存在してゐるといふ事実は、後に見る通りだが。

 特に唯物論と云ふと世間では最近特別に妙な観念を有つものが多い。唯物的なものであるとか唯物思想であるとかいふのであるが、一体それが何を意味するのか、云つてゐる人間自身全く判つてはゐないらしい。かうした理論無用の思想的暴力団式見解は、無論真面目に相手になれないものだが、併し之が案外世間の一部の人間の常識に一致してゐるやうに見える。現在の日本では貴族院や衆議院でもかういふ見解が立派に通用する、それ程立派な観念なのである。

 日本に於ける現代の唯物論は弁証法的唯物論と呼ばれてゐる。この思想は公平な哲学史的考察に従へば、実は世界の哲学史の現代的要約に他ならない。所謂観念論の諸課題(例へば主体の問題、個人、意識、自由其他の問題)は、之によつてこそ批判的に解決され又は解決され得べきものなのであるが、処でこの肝心の弁証法的唯物論自身が今日様々な形で歪曲されて理解されてゐる。

 第一はこの唯物論を客観主義だと考へる見解である。唯物論は主体の問題を主体の問題としては取り上げないもののことだと考へる。大森義太郎氏などがインテリゲンチャの問題をインテリゲンチャの主体的条件(インテリジェンス)の問題として取り上げずに、専ら「客観的」な社会層や社会階級の問題としてしか取り上げないのは、かうした客観主義の一例に過ぎないが、之は唯物論とさへ云へば、人間の精神を石か水のやうな物体と考へる思想だと思つてゐる卑俗な常識とあまり相距るものではない。元来今日の唯物論は社会的にはプロレタリアートと農民とに帰属すべき思想であるのだが、今の例では、多分に、サラリーマン層乃至現在の広義に於ける学生層(所謂評論雑誌の読者層)或ひは又官僚群に帰する「唯物論」が見受けられるわけである。向坂逸郎氏などのこの点の見解は之と似たもののやうだ。唯物論もかうなると、もはや思想と云ふよりもサラリーマンならサラリーマンの云はば社会的趣味に他ならない。

 唯物論の客観主義化の場合は他に限りなくあるが、それはとに角として、今度は反対物として、唯物論の主観主義化を考へて見ると、之も亦ごくありふれた思想現象なのである。その内で最も特徴のあるのは弁証法的唯物論を史的唯物論と考へる、唯物史観主義だらう。之によつてマルクス主義は一つの歴史哲学にまで転向させられる。三木清氏はこの点で最も功績(?)のあつた人で、彼が嘗て影響を与へた多数の学生や学者の内には、この唯物的歴史哲学を通じて初めて、自分の観念論的傾向と唯物論との妥協を企て得た者が少なくなかつた。私などもその一人であつたし、岡邦雄氏などもさうだつたが、今では二人とも奇麗にさうした哲学青年的態度は捨てて了つた積りである。船山信一氏など最も鮮かにこの哲学趣味を脱却した人で、彼の思想の包括性や伸縮性や実際さは兎に角として、今ではまづ唯物論の優等生になつたと見ていい。今日の三木氏の立場に接近してゐる少数の文学青年達は問題にならない種類のものだが、それにも拘らず三木氏の過去から今日に至るまでの影響に相応するものは、色々の形で意外な処に現はれてゐる。田辺元博士は自然弁証法なるものの本来の意義を承認しない唯物論理解者の一人であるが、之も亦史的唯物論主義に対する博士の特別な同情と無関係なものではない。無論田辺博士は元来少しも唯物論者ではないのだが。で、かうした唯物史観主義が、日本の「教養ある」小市民層の哲学趣味や文芸趣味に投じることによつて繁栄してゐるアカデミックに卑俗な夫々の唯物論(?)であることは、すぐ判るだらう。

 唯物論の歪曲は一慨に云つて了へば取りも直さずそれだけ観念論なのだから、之は観念論の項に譲らなければならないが、併し今一つの例外な場合を注意しておかなくてはならぬ。弁証法的唯物論は云はばプロレタリア唯物論であるが、之は一面に於てはフランスのブルジョア唯物論からの発展だと見做される点を有つてゐる。今日の日本でさういふブルジョア唯物論を代表する殆んど唯一の、而も非常に著名な人物は長谷川如是閑氏だらう。日本に於けるブルジョア唯物論は、かつて、啓蒙哲学としては福沢諭吉氏によつて、フランス唯物論としては中江兆民氏によつて、ドイツ唯物論としては加藤弘之氏によつて代表されたが、第一のものは日本ブルジョアジーの日常処生訓として解消して了ひ、第二のものは幸徳秋水氏や大杉栄氏のアナーキズムを通つて現在では思想上の支配力を失つて了ひ(これは新居格氏などに記念品として残つてゐる)、第三のものは最近亡くなつた石川千代松博士で家系が断たれたやうに見える。如是閑氏だけが今日、割合総合的なそしてよくこなれたイギリス風のブルジョア唯物論者として残つてゐるのである。

 氏の思想態度は極めて「唯物論的」である、と云ふのは氏は実証的な常識以外に何等の哲学をも認めないのである。彼の思考組織がそのものとして取り出されることを氏は好まない。さうした哲学が、論理が、嫌ひであるやうに見える。その癖氏の思想のやり口には一定の顕著な組織があるのであつて、それが一貫した特色として誰の眼にも一眼見て判るやうに出来てゐる。ただその論理組織を自覚的に展開することが、何等か観念的な態度に堕するものと信じ切つてゐるのである。氏の唯物論が弁証法の実際上の有用性を認めず従つて弁証法的唯物論に移らない理論的な根拠はここに横たはる。――如是閑氏の唯物論は決して唯物論の歪曲ではない。寧ろ未発展な唯物論がそのまま爛熟したものに他ならぬ。処がその唯物論の未発展といふ処から、実は色々の観念論的な動揺が出て来るのであつて、氏がファシストのレッテルを貼られるのもそこから出て来るのだ。ブルジョア・リベラリズム(敢へてブルジョア・デモクラシーとは云はぬ)の思想の運命は、今日どれもこの道を選ぶ他はないやうだが、この運命に組織的な思想根拠を与へた唯一の思想家が如是閑氏に他ならぬ。

 例へば河合栄治郎博士は自由主義の哲学を提唱してゐる。併し唯物論と観念論との対立を抜きにして、いきなり自由主義といふ経済的乃至政治的文化的イデオロギー(河合氏のは経済的イデオロギーに由来するものだが)を原則として哲学を築かうなどといふのは、丁度靴屋の哲学を考案したり床屋の哲学を工夫したりするやうなものだ。之では観念は出来ても思想にはならぬ。自由主義哲学が今日の日本に未だに事実上存在しないのは、決して偶然ではない。――それから同じくリベラリストと云つても馬場恒吾氏や清沢洌氏は、世界観的背景と論理組織とがハッキリしてゐないから、充分な意味で思想家に数へることは出来ないやうだ。

 では本当に唯物論的な思想家はどんな人かといふと、厳密に云へば夫が極端に少ないのである。単に本当に弁証法的唯物論を身につけた人が少ないからばかりではなく、さうした唯物論者で、ただの学者や専門家に止まらずに思想家の域にまで到達してゐる人が、甚だ稀だからである。だが之は決して無理からぬことで、唯物論的世界観を唯物論的組織に従つて、具体的に分析し包括的に統一して、之を唯物論的思想体系にまで形象化すことは、観念論の場合とは違つて、そんなに容易に出来ることではない。なる程多少とも唯物論的な社会科学者は非常に多い。例へば平野義太郎、山田盛太郎、小林良正、山田勝次郎、大塚金之助、服部之総、羽仁五郎、それから猪俣津南雄、土屋喬雄、向坂逸郎、有沢広巳、石浜知行、佐々弘雄、大森義太郎、其他の諸氏を数へることが出来る。多少とも唯物論的な哲学者や文学理論家は併し、もはやあまり沢山はゐない。高々哲学では三枝博音、岡邦雄、船山信一、永田広志、秋沢修二、本多謙三、其他。文学では(蔵原惟人、宮本顕治)森山啓、窪川鶴次郎、中条百合子、青野季吉、其他の諸氏である。自然科学者数学者になると多少とも唯物論的な人物はごく稀になる。わづかに小倉金之助博士や再び岡邦雄氏其他を数へることが出来るだけだ。而も以上あげた人の内でも、どこまで果して本当に唯物論者の名に値ひするかが、夫々の人物に就いてすでに問題だらうし、それだけではなくただの学者や専門家では、まだ思想家とは云はれないのは前に云つた通りで、夫は丁度ただのジャーナリストや批評家が思想家でないのと同じなのである。――唯物論的になればなる程、思想家としての資格が厳重になるのである。

 だがそれにも拘らず唯物論は今日最も包括的で統一的な客観的な世界観であり、又最も実際的な組織的な論理であるといふ点を、見落してはならない。実は今日の唯物論は、初めから「思想」としての根本特色を最もよく具へてゐる思想なのである。現在吾々はこの唯物論に拠るのでなければ現実的で統一的で組織的な思想を、科学的な批判能力を、有つことが出来ない。と共に多少とも唯物論的な今挙げた人物は、殆んど例外なく、一種の評論家、批評家、ジャーナリスト、エンサイクロペディストであることによつて、一般の思想家の水準を抜き得る一応の思想家だと云つてもいい。ただ、思想家=科学的批判家としての資格を、非常に厳重にすることが出来る程に、唯物論そのものが他に較べて思想の資格に於て進んでゐると考へられるのである。世間の卑俗な常識をさへ無視してかかれば、唯物論が今後の唯一の思想源だといふことが、ハッキリ呑み込めるだらうと思ふ。

 その証拠として、所謂観念論(自らは観念論と称さなくてもよいし又観念論反対と号しても構はないが)の各種のタイプを、その思想としての資格に於て検査して見よう。万華鏡のやうに、多彩な眼まぐるしい光景の内に、殆んど思想と称するに足るものがないのを読者は見るだらう。

 日本の一等独創的で一等卓抜な思想家として、世間は西田幾多郎博士を推すだらう。なる程最も卓越した頭脳とか深刻な思索力とかいふものを問題にするならば、或ひは博士を少くとも第一級に推さねばならぬだらう。併し吾々は今英雄伝を問題にしてゐるのでもなければ素質の心理学を問題にしてゐるのでもない。問題は博士の思想、哲学にあるのであつて、思想は頭脳と一つではないのだ。西田哲学はなる程極めて独自なものであり、哲学史上哲学法の一つのエポックをなすものでもあらうが、そのことは必ずしも西田哲学の思想としての卓越を示すものではない。現に西田哲学が社会に就いてどういふ見解を示してゐるかをまづ見れば、このことは一等よく判ると思ふ。我と汝といふものの関係が西田哲学による社会理論の終局の鍵であるが、一般に歴史的な社会がかういふ個人的乃至倫理的人類愛的な合言葉で解明されるといふやうな思想は、それが誤つてゐるかゐないかは別としても、決して優れた思想ではあるまい。まして之によつて現在の社会の特色、矛盾、動向に就いて説をなすことは、全く出来ない相談でなくてはならぬ。その意味で西田哲学は社会思想を殆んど全く欠いてゐるとさへ云はねばならぬ。

 西田哲学の思想的卓越さを讃美する多くのファンは、博士の文章の処々に現はれるやうな常識的な人間的真理に随喜するに過ぎないのであつて、西田哲学の根本的な要点には殆んど触れないのが普通だ。又東洋的神秘思想とおぼしいものをここに見出すからと云つて野狐禅めいた思ひ入れをやる読者も之と同じことだ。西田哲学の本質は実はその所謂「無の論理」にあつたのである。だから西田学派はまづこの無の論理を使つて見ることによつて、西田論理が思想の形成に有効であるかどうかを実地に判定して見るべきだらう。処で田辺元博士は之を使つて見た殆んど最初の人ではないかと思ふ。博士は現実の階級国家の背後に国家の理念を想定すべく、この無の論理を用ゐてゐる。つまり現実の有的国家を無的国家によつて裏うちされたものと見做すことによつて、社会乃至国家の理想的な意義が、現実との矛盾なしに、合理的に解釈出来ようといふのである。

 なる程現実の社会を解釈するのに、無としての社会理念といふ無色透明なメジウムを通してやるのだから、現実はそのまま現実として再現されるに相違はなからう。だが現実的にはただそれでお終ひであつて、之によつて現実が現実的にどう変るのでもない。ただ現実が理念によつて裏打ちされたと解釈されただけに過ぎないのである。かういふものこそが解釈の哲学、世界を単に解釈する処の哲学のことであつて、無の論理はこの解釈哲学の世界解釈(それが即ち観念論的に考へられた「思想」といふものだが)の恐らく一等徹底した論理組織なのである。現実の世界を現実的に処理変更するに相応しい肝心な思想のアクチュアリティーは抜きにして、単にこのアクチュアリティーをつつむイデーの、意味の秩序を打ち立てるのが、この形而上学の特色をなしてゐる。

 今日の観念論は一般に形而上学と呼ばれるが、夫は今云つたやうな点で具体的な内容を示すわけで、つまり地上の秩序の代りに天上の秩序で間に合はせる思想のメカニズムのことだから、之を一般的に神学的な思想と名づけていいだらう。西田哲学が弁証法的神学(之は初め同志社大学の神学科あたりで紹介してから今日のアカデミックな宗教復興、キリスト教神学復興の枢軸をなしてゐる)に結びついて行つたり、田辺哲学が菩薩に合致しようとしたりするのも偶然ではない。――一体西田哲学型の一般的解釈哲学(後に云ふ特殊な形の解釈哲学に較べて一般的な)は主にリベラリストによつて支持されてゐるのであるが、かうした神学主義まで行けば客観的な社会的価値から云つて、もはや決してただのリベラリズムの哲学ではなくなつて来る。

 無の論理に立つ解釈哲学(観念論思想)は、無といふ言葉が示してゐる通り、その論理に特別なメカニズムは含まれてゐないが、処で解釈哲学はその論理に色々のメカニズムを内容として挿入することが出来る。その一つの場合を文学主義と呼びたいと私は思つてゐる。その意味は哲学がその根本的な点に於て文学化されるといふ現象のことであり、従つて又、一般に思想そのものが、科学的な批判能力の代りに、文学的なモノローグにまで上ずり萎(しぼ)んで了ふ場合を指すのである。

 云ふまでもなく思想はただの所謂哲学や、又論理の骨組みのやうなものではない。ただの科学的知識の集成などでもない。その意味に於ては思想はいつでも文学的な表象を伴ふ文学的な表現として現はれる。さうであればこそ、吾々は単に科学や哲学に於てばかりではなく、寧ろ却つて文芸の内にこそ、思想の具体的な姿を見出すとも考へるのだ。併しもう一遍云はなければならないが、思想とはただの観念のことではない。観念の表現された文学なら文学といふものが、すぐ様思想の表現物とはならぬ。思想には思想らしくメカニズムが必要なので、之を欠いた文学は取りも直さず思想のない文学に他ならない。処で文学はいつでもそれが表現する思想内容を、文学的な具体的な表象の結合で以て云ひ表はす。それは当り前のことで、良いことでも悪いことでもないが、併しこの際注意すべき点は、表象は必ずしも概念ではないといふことだ。即ち文学的表象を借りるからと云つて、その概念までが文学的だといふことにはならぬ。概念(論理は諸根本概念の機能組織だ)はあくまで科学的乃至哲学的――実際的で客観的――である必要があるのであつて、単にそれの表象に限つて、少くとも文学の場合には文学的になることが許されるのに他ならない。処が今日の観念論、形而上学、解釈哲学の一派は、科学的乃至哲学的な根本概念組織――それが唯物論だ――を思想のメカニズムとする代りに、文学的表象を媒介とすることによつて、文学的な根本概念組織を論理として持ち出して来る。さうすることによつて初めて、思想を唯物論から救ひ出すことが出来ると考へるのである。

 その好い例は例のシェストーフなどであつて、シェストーフ選訳の監修者である最近の三木清氏達による不安の思想などは、思想の文学主義化された典型だらう。ニーチェの訳も出つつあるが、ニーチェと云ひキールケゴールと云ひ、その思想の特色は文学主義的哲学のカラクリにあることを注意しなければならぬ。問題は決して思想の表現や文体が文学的に洗練されてゐるだけではないのだ。而も思想が文学主義化されれば化される程、世間の卑俗な常識は之を愈々思想らしいものだと考へたがるのだから、困りものである。

 観念論のこの思想現象は、文学の世界では文学至上主義に結びついて行くし、社会理論としてはインテリ至上主義に結びついて行く。必ずしも三木氏やシェストーフやに同情してはゐない小林秀雄氏なども(之はブルジョア文芸評論家の内の「哲学者」の一人であるが)文学主義的な理論で物を云はざるを得ないのがその致命的な欠陥だらう。――それから社会現象から云ふと、この文学主義は一連の文学者達の転向現象と本質的な連りがあることを見逃すわけには行かぬ。政治的社会的行動に於ける所謂転向はとに角として、唯物論的文芸意識そのものの転向による根本的な変質は、文学主義のメカニズムを意識的無意識的に利用したものに他ならない。

 文学主義は元来、文学的リベラリズムの一つの場合に相当する。元来日本の近代文学は封建的モーラリティーに対する観念的な批判の役割に従つて、一般にリベラリズムを本流としてゐるので、特別な例外でない限り、文芸家の多くの者はリベラリストに数へられる。豊島与志雄、広津和郎、菊池寛、杉山平助の諸氏は多分最も意識的なリベラリストであるらしい。不安文学の一派も、又之が多少積極的になつた能動主義の一派も、云ふまでもなく自由主義者にぞくしてゐる。而もこの自由主義の意味そのものが文学的なのであつて、政治行動上の自由主義(それは必然的にデモクラシーの追及にまで行く筈だが)からは決定的に仕切られてゐる自由主義でなくてはならないのだ。政治上の自由主義としてもここでは全く超政治的な文学的概念としての自由主義でしかない。――処でかうした文学的自由主義は、一見意外にもファシズムに通じる道を有つてゐる。所謂能動精神にその危険があることは今日殆んど凡ての人から戒告されてゐる点だが、不安文学なども、その良心や人間性を通してすでにモラール的宗教に到達してゐる。そして一切の意味に於ける宗教の現在に於ける役割は、客観的に云ふと、実はもはや決して自由主義ではないのだ。

 解釈哲学の以上二つの典型は、その終局的な客観的効果は別として、その直接の関心から云ふと、主に文化的インテリゲンチャのインテリジェンスに訴へようとする処に成り立つてゐる。而もこの思想典型の内容が小市民層の関心に基くものであるために、社会的現実からの逃避か又は夫への不到達として現はれざるを得ない。ただ西田哲学型の解釈哲学は比較的理論的なインテリジェンスの所有者に、之に反して文学主義型の解釈哲学は比較的情緒的なインテリジェンスの所有者に、愛好されるといふ区別はあるが。

 処でもう一つの解釈哲学は之を文献学主義と呼びたいと思ふ。一般に言語学的又は古典学的な知識を以て、断片的に或ひは組織的に、現在の実際問題に対する解決の論拠を構成しようとするやり方が之であつて、日本のアカデミー哲学の殆んど大部分のものは、ドイツ語文献学か、ギリシア語文献学かを哲学的思想の検討と混同したものに他ならない。無論かういふ「哲学」は何等の思想の名にも値ひしないだらう。併し文献学主義が覗ふ処は実はもつと実際的な必要に揺り動かされてゐる場面なのである。日本帝国の歴史的現実(?)と或る種の都合の良い思想とを結びつけるのに必要なのが、実はこの文献学主義なのだ。

 独り国学のものに限らず広く儒教、仏教の古典の文献学的解釈に基いて、現代日本に於ける思想文物を批判し又は確立しようといふのがその目的である。日本の資本主義の物質的機構は、かうした東洋的な古典の内容をなす歴史的範疇と全く絶縁されてゐるにも拘らず、却つてその故に、この古典が日本資本主義の観念的機構にとつて必要となつて来る。普通の条件ならば日本資本主義の上に立つべき一定の精神機構は、とりも直さず西洋思想、外来思想、唯物思想として、駆除されることになるから、日本思想乃至東洋思想、精神文明等々――それは現代とは全く歴史的範疇の異つた時期の所産である古典からしか惹き出せない――のための位置が空くわけなのである。日本精神主義、農本主義、大亜細亜主義のイデオローグ達のフラーゼオロギーは、皆この文献学主義の拙劣な運用に他ならない。憲法の解釈も今後この手口で行くことになるだらう。――この類型にぞくするもので、これ程露骨で拙劣でない文献学主義は和辻哲郎博士や西晋一郎博士の倫理学だらう。後者は学究的な形に於ける全くの文献学主義者であるに反して、前者はそれが解釈学(ヘルメノエティク)にまで蒸溜され、そして更に夫が人間学にまで移行してゐるので、一寸見るとそこには文献学主義は気づかれずに済むかも知れない。寧ろ前に云つた文学主義の一亜種にさへ夫は近いやうにも見える。だがこのことはすぐ見るやうに他に意味があるのだ。

 文献学主義の観念論はその大部分が真性日本ファシズム思想に帰着する。といふのは政教一致の社稷宗教、日本民族の国家的選民宗教の復興に帰着するのである。で、もし日本民族が人類の模範的なものであるなら、この日本文献学主義は必然的に日本人間学になるべき筈ではないか。之が和辻博士の「人間学」としての日本倫理学だつたのである。

 併し最もラディカルな解釈哲学=観念論思想は、もはや世界の解釈をさへ脱却する。そればかりではない、観念論であることをさへ止めるやうに見えるのである。と云ふのは一身上の肉体的実践主義となつて現はれるのである。頭よりも肚を、知識よりも人物を、理論よりも信念を、絶対的に上に置くことから、思想は柔道や剣道や禅のやうに道場に於て鍛錬すべきものとなる。そして之が実践だといふのである。だから政治的活動も直接行動の形を取ることにならざるを得ない。――処でこの観念論は云はば全くの小乗宗教に帰着する。問題は肉体なのだ。だから生老病死が一切の問題なのである。で、仏教復興や各種の邪教(?)や民間治療、それから之と離れることの出来ない禍福観と各種の骨相学(骨相学はナチス・ドイツなどでは重大な哲学の一部門になつてゐる)、この観念論的ガラクタは問答無用式ファシズム思想のサンチョ・パンザに他ならないのである。――そして真性日本ファシズムの発生する社会的地盤は、別に茲に今更説明を必要としないだらう。

 さて、今まで見て来た処によつて、今日有力な観念論思想の主なるものが、思想の資格に於て如何に望み少ないものかといふことが判ると思ふ。尤もすでに今日では勢力を失つて了つた思想をも数へれば、観念論はまだまだいくつもの類型を有つてゐるし、そればかりではなく、多少異つた類別の方針も立てなくてはなるまい。例へば新カント主義の思想家として哲学の桑木厳翼博士や物理学の石原純博士など、を忘れてはならない。そしてこの二人ともが可なりハッキリした自由主義者であることも注目しなければならない。だが、かうした自由主義は今は、思想家個人としてはとに角、思想界の流れとしては、決して有力でないのが事実だ。

 併し最後に一つの問題が残る。思想は云ふまでもなく思想家の思想だから、思想家個人の思想に特色さへあつたら、たとへ何かの思想流を代表するものでなくても、之を有力な一思想と見るべきではないか、と云はれるかも知れない。併し事実上さういふことはあり得ないのである。本当に代表的な思想家は、その思想の内に何か思想的な客観的メカニズムがあつて、他の幾人かが必ず之を用ゐることから、おのづから一つの思想流をなすものなのだ。例へば両方とも故人ではあるが、左右田喜一郎博士の下には左右田学派の思想とも云ふべきものがなり立つたが、福田徳三博士の影響下に果して福田学派の思想といふものが出来ただらうか。私はかういふ点から見て、思想家と思想家でないものとの形式的な区別をつけることが出来ると思ふ。河上肇博士は普通の意味では決して独創的な所謂思想家ではないが、マルクス主義を代表することによつて多くの思想上の弟子を産んだことは周知の通りだ。博士はマルクス主義的思想家の代表的な一人であることを失はない。

 私は今云つたやうな意味に於て例へば杉森孝次郎氏を世間の云ふ処に倣つて思想家に数へることに躊躇する。なる程氏は多数の崇拝者を持つてゐる。併し崇拝者の数を云ふなら、恐らく徳富蘇峰氏(之は思想家ではなくてただの歴史家かさうでなければ多少デマゴギッシュな文筆家に過ぎない)の方が多いだらう。つまり杉森氏は優れたイデオローグ=言論家で修辞家ではあるがメカニズムを有つた思想家ではないやうだ。室伏高信氏はどうかといふことになるが、氏も亦実は所謂ジャーナリストとしての文明批評家、或ひは寧ろ文明紹介者ではあるが、思想家ではない。なぜなら氏の魅力は決してその思想の首尾貫徹にあるのではなくて、却つて外部から来る諸思想の新陳代謝にあるからだ。故土田杏村氏も亦この意味に於て決して思想家ではなかつた。

 思想家といふ言葉の意味は尤も、自由に決めていいだらう。併し問題はどういふ思想家が、凡そ思想といふものの建前から云つて、待望されるか、といふことだ。その意味での思想家は、ただの学者や専門家でもなければ、言論家や趣味人、文筆家や美文家、記者的ジャーナリストやエッセイストでもあり得ない。思想のブローカーでもなければ固定観念の所有者のことでもない。――思想家は世界の科学的な批判家とでもいふものだらう。で、さういふ意味での思想家は殆んど全く観念論の陣営の内には見つからないのである。世間の常識はさう聞いて不審に思ふかも知れないが、それは別に不思議なことではない。元来唯物論こそが、科学的批判の武器、即ち思想の武器なのだからである。処がその唯物論の内からさへ思想家らしい思想家、イニシャティブを取る点にオリジナルな思想家はまだあまり出てゐないと云つてもいい位ゐなのである。だがこの現状は、唯物論の道が険阻であることをこそ示せ、唯物論の思想としての資格を揺り動かすものではない。夫が現実的であり実際的である限り、思想の道はいつも険阻である。





補足


第一 現下に於ける進歩と反動との意義


   一

 明治初年の新思想を象徴する合言葉は「文明開化」であつた。試みに手当り次第に例を挙げて見ると、明治初年には『文明開化』『開化の入口』『開化自慢』『開化問答』『文明開化評林』『文明田舎問答』『開化本論』『日本開化詩』等々の著述や編纂物が出版されてゐる。之は『明治文化全集』の文明開化論からもうかがへることだし、宮武外骨の『文明開化』といふ本からも知ることが出来る。今にして思ふのだが、思想の合言葉として、之ほど勢を得て愛用されたものは、近代日本にその比を見ないだらう。

 思想を象徴する合言葉と云つたが、その際思想と考へられるものは、当然なことながら、単に思考や思惟のことではない。所謂思考や思惟(かういふものを抽象して取り扱ふのが従来哲学の類ひだと考へられてゐる)は、それ自身何かもつと具象的なものの抽象的な一結果に他ならないので、大まかに制度文物風俗等々と呼ばれるものからの抽象物なのである。具象的な思想とは、だから実は、この制度文物風俗等々に基き、之をその極めて重大な内容実質としてゐるもののことだ。加藤祐一の『文明開化』(明治六年)の最初を見ると、散髪や洋服や帽子や靴、住居から肉食の議論に至るまで載つてゐるのだが、かうした風俗などこそ思想の最も具象的な形態で、思想が極めて日常的な生活意識となつてゐる場合が風俗なのである。趣味や習慣さへが、社会機構の変動が割合安定を得てゐる場合には、単に個人的なヴァラエティーに過ぎなくて何等の思想的価値を持たないやうに見えるに拘らず、それが一旦社会の変動期になると、強靭な思想的粘着力や圧力となつて現はれて来る。思想は一般にここまで行かなければ、本当に生きてゐる思想ではない。最後にこの点に触れようと思ふので、あらかじめかう云つておくのである。

 さて明治初年の文明開化に比較出来るものは、恐らく今日の「進歩」といふ思想の象徴だらう。無論所謂文明開化時代にも向上進歩といふやうな言葉もなくはなかつたのだが、併し夫は今日ほどの活用は持たなかつたし、又今日ほどの理解で以てこの言葉が必要とされたのでもなかつた。一体文明開化といふ言葉は文化と略称される処のもので、この明治初年的略称が、後にヨーロッパ大戦前後を一期として生じた「文化」意識を云ひ表はすために、転用されたのだが、すでに阿部次郎等に於て見られるやうに、この近代的な「文化」の観念は、元来個人主義的人格説に立脚したものなのであり、それが大戦前後の社会化の動向に作用されて多少とも社会観的な意義を受け取り、そして最後に社会の歴史的な一活動としての今日吾々が使つてゐる文化の観念にまで一般化されたのだが、併しこの言葉は、日本ではドイツ・アカデミー観念論の文化哲学的臭味を今日でもまだ完全には脱却してゐない。――が、この文化の方はとに角として、その元になる文明開化の方は、その言葉が示す通り、全く啓蒙期的な観念だと云はざるを得ない。と云ふのは啓蒙といふ言葉(之は主にドイツ語のアウフクレールングに相当する)自身が文明開化の意味であるからだけではなく、人性を照らし明らかにするといふこの文明開化なる規定の内には、必ずしも歴史的な観点が注意深く織り込まれてはゐないからである(啓蒙といふ合言葉も亦明治初年には愛用された)。処が進歩になると、明らかに、元来歴史的な観点に立つ概念だと云はざるを得ない。

 文明開化は啓蒙期的合理主義のモットーであつたが、進歩は、敢へて歴史主義とは云はないが、歴史的運動の把握の上に立つ一つのモットーなのだ。前者は封建制の打倒乃至各種のその変革としてのブルジョアジー台頭の思想を(少くとも日本的に)特徴づけるものであり、後者は之に反して、資本制打倒乃至各種のその変革としての新興勢力による思想を特徴づける。言葉の意味から云へば文明開化にしろ進歩にしろ、等しく明治初年の日本の思想運動にも大戦後の日本の思想運動にも使つて使へない言葉ではないが、歴史的転形の必然そのものを特に自覚せざるを得ない現代の思想運動にとつては、特別に進歩といふ歴史的観念を必要とするわけなのだ。

 だがそれはいいとして、進歩といふ合言葉をフンダンに使つてゐるうちに、一切の合言葉がさうであるが、いつとはなしに之は内容の空疎なものとならないでもない。初めは、仮に明確な輪郭と内容とを意識せしめる底の観念ではなくても、その新鮮さそのものだけですでに十分に人々を納得させ得るだけの真理のあつたものでも、時間が経つに従つて猫も杓子も口癖にするやうになると、もう初めの新鮮味から来る真実さは失はれる。現にしばらく前には文化といふ合言葉が夫だつた。文化生活や文化住宅はまだ良いとして、文化猿股、文化何々の類になれば、もはや言語を絶するものになる。進歩といふ観念は今日まだそこまでは漫画化されてゐないが、併し、社会的存在としては可なりのロクでなしでも、口には進歩を唱へ又みづからを進歩的だと説明してゐる者なら沢山いるだらう。そこで世間の心ある人達の或る者は、抑々進歩とは何であるかといふ反省をし始めなければならなくなるのである。一方恰も之と平行して日本の動きが最近どうも進歩的でなくなりその反対なものになつて来たといふ感触(之は単に感触であつてまだ本当の認識ではない)から、今日は丁度さうした進歩観念の検討期に這入つたやうに思はれるのだ。

 それに、合言葉といふものは極めて際どいものだ。例へば挙国一致といふと、敵も味方も挙国一致が合言葉になる。何つちが本当の挙国一致かと云つて挙国一致較べを始める。さういふやうな仕組みでファシスト達は自分達こそ進歩的だと云ひ始める。日本の運命を遠く大陸に開拓することは進取の気象に適つたといふ意味では進歩的だらうし、資本制の美点を傷けるブルジョア達(地主も含める)や政党政治家を芟除(さんじょ)することも一つの進歩前進だらう。この意味では確かにマルクス主義は進歩的ではなく、ない処でなく正に反動的なものでなくてはならぬ。マルクス主義の時代は去つた、自由主義もまた終つた、と叫ぶ、市街や農村に於ける常識的文明観は、さういふ気持ちに終始するのである。――ただの鯨波の声ならば、敵も味方も同じスローガンで結構なわけだ。そこで空疎になつた合言葉としての進歩は、今では誰にでも利用され得る観念になりつつある。現にさういふ危険に現在は臨んでゐるのだ。

   二

 一体進歩といふ概念に就いては、歴史哲学的にも色々と苦情がこれまでないのではない。進歩といふのは何か一定の目標・目的物を想定した上で、それに近づくことでなければならぬと考へられるのが普通だが、して見ると、この概念は歴史の目的論的仮定の上でしか意味のないものになるだらう。そしてもし歴史の目的論が何かの理由で理論的に困難であつたり成立出来なかつたりするならば、同時に進歩の観念も決して科学的ではあり得ないといふことになるのである。

 「歴史の動きを進歩と見るのは、非科学的な歴史認識であり、実際の歴史の動きの内に神学的な仮定や(神の世界計画図の実現の如き)倫理的評価(人格の完成や善への到達の如き)を押し込む前科学的な歴史学に他ならない」といふ考へである。――なる程この意味に於ける進歩といふ観念は結局に於て倫理的な(従つて理論的な領域外の)もので、ヘーゲルなども進歩(意識の進歩)を主として道徳に於ける進歩と考へてゐるのだが、この倫理的な評価を歴史記述の中に持ち込むことは、確かにその認識の客観性を全く見失ふことだ。歴史を倫理的に説明するのではなくて、逆に倫理をも歴史的に説明せねばならぬ処のマルクス主義理論(今の場合史的唯物論)にとつては、だからこの意味に於ける進歩といふ観念ほど、不埒なものはないといふことになる。

 「マルクス主義は人格的自由や理想を、即ちさうした倫理的なものを、その唯物論から理論的には導き得ないものだ」といふのが、日本の多くのマルクス主義批判者の常習的な誹謗の手口であるが、それは勿論途方もない見当違ひだ。元来如何なる理想主義者や観念論者が、自由や理想や倫理的価値やを、証明し又は説明し得たか。彼等はさうした或る事実を、単に彼等一流の上ずつた概念使用法で彼等の趣味に適つたやうな言葉に解釈して見せるだけだ。彼等と雖もこの事実の存立を仮定するだけで、この事実の証明も説明もこれまで只の一度もしてゐない。この倫理的なものの事実の認定(但し一流の仕方による)以外に、如何なる証明も説明も与へられたのを哲学史上私は知らない。だから何か唯物論にだけこの証明や説明の責があるかのやうに云ふのは全く素人だましといふ他ない。だが唯物論は社会的歴史的な存在の構成から、如何にして特定の倫理的な価値関係が因果的に発生するかを立派に説明する処のものだ。ただ観念論者のやうに、例へば自由は如何にして可能なりやといふやうな証明(?)をして見せやうなどといふ空約束をしないだけの正直さをもつにすぎぬ。処で、もしこの種のマルクス主義批判者の云ふやうだとすると、進歩といふ概念は、それが何か倫理的な評価を意味する限り、決してマルクス主義のものであることは出来ない筈で、もし万一マルクス主義の内にさうしたものが含まれてゐるならば、それは不徹底にも理想主義を許容したマルクス主義であり、即ち世界観として統一を欠いた唯物論でしかない、といふことになる。即ち、進歩を語り得るものは、理想主義以外にはない、といふことになるのである。この種の理想主義は自由主義と名乗つたり(河合栄治郎)、日本主義になつたりする(鹿子木員信其他)。ここからすると、日本主義や自由主義こそ、進歩的だといふわけだ。

 進歩といふ観念のかうした理想主義的困難(?)を避けるために、今日の歴史哲学者は発展(開展・展化・発達・進化)といふ概念を奨励してゐる。ディルタイなどによると、歴史には発展はあるが進歩を考へてはならぬといふ。之で一応例の困難は回避出来たやうに思はれるかも知れない。併し事実は、困難が一層輪をかけて困難になつて来るだけだ。なぜなら発展といふ概念は、与へられた糸巻きの糸が漸次にほぐれて行くといふやうな意味であつて、進歩にとつて前方に目標としてあつたものが、発展に於ては出発の最初から横たはつてゐるといふわけだ。ゴールだつたものをスタートにしたまでで、事情は一向改善されはしない。進歩が目的論的でいけないならば、発展といふ有機体説的概念もやはり目的論的であることを忘れてはならぬ。違ひは単にその目的論が内的か外的かといふことで、歴史が内的に云つても目的論的であつてはならないなら、内的目的論だつて歴史にとつては矢張り外的なものだ。

 処でかういふブルジョア哲学で常識になつてゐる進歩や発展の観念を、その困難から救ひ出したのは、他ならぬマルクス主義による進歩(それに関連しての発展)といふ観念なのである。今日、日常何の気もなく使つてゐるこの言葉には、前に云つたブルジョア哲学的常識の破片の他に、この新しいマルクス主義的観念の断片が混淆してゐることは勿論であるが、この後の方の要求こそが、この日常語の唯一の科学的な部分だ。

 ブルジョア歴史哲学による進歩や発展の観念は、根本に於て譬喩(ひゆ)の性質を持つてゐるが、マルクス主義による進歩の譬喩は譬喩としてももつと巧みに出来てゐる。それによると、歴史の車輪を前方に向つて、即ち之まで転つて来た方向に基いて(必ずしも一直線ではないが)転ばすことが進歩だといふのである。そして之を逆に転ばさうと試みることが反動だといふのである。これは誰でも知つてゐる譬喩だが、この譬喩の科学的なうまさを今一寸説明しよう。

 ブルジョア哲学常識による進歩の観念によると、現状の事物が目標乃至目的物へ向つて進んで行かねばならないことになつてゐた。目的に向つて歩いて行くのだが、これは譬へば磁極が磁石を引つ張るやうに、又地球が物体を引くやうに、一種の「遠隔作用」を仮定してゐる表象だ。物理現象の遠隔作用ならば今日では充分に合理的に説明される可能性が示されてゐるが(場の理論)、歴史理論や社会理論に於て遠隔作用に類するものは、現実の現状と未来又は理想の状態との間の歴史的因果必然に就いての不可知を意味するに他ならぬわけだから、つまり之はこの遠隔距離を、観念論で埋めるといふことに他ならぬ。――処が之に反して車輪の転回の場合には、目標からの引力などとは関係なく、車輪が地についてゐるその瞬間々々の方向切線に沿つた押す力か圧力か(之は大衆や客観的事情の力だ)だけを問題にすればよい。車輪は初めから回転してゐるのであつて、車輪の次々の部分が順次に地上に実現して行くのである。理想や目的は、それ自身としては与へられてゐないので、専ら車輪の順次の部分の云はば積分として事情の進展に応じて実現可能を約束されるにすぎない。歴史の軌道はかくして描かれる。車輪は地について転ずるものである。之に反して自由落下物体は虚空を飛ぶものだ。歴史の認識に於ける唯物論的方法と観念論的方法とが、この譬喩によつて、よく対比されてはゐないか。

 発展の説についても車輪説は巧みである。例の糸巻き説であると、糸巻きの心棒といふものが永久に、発展が終るまで、いつまでも絶対的な始源になつて残らねばならないわけで、歴史はどんなに発展してもつまりはこの糸巻きの圏外へは出られない仕組みになつてゐる。之だと発展といふことは実はやがてそつくり元に還ることに他ならないので、アリアドネーの糸巻きがこの説の秘密をよく物語つてゐる。つまりテーセウスは初めから元の処へ帰る心算でアリアドネーから貰つた糸巻きの糸を発展させたに他ならなかつたのだ。之が非常時日本のラビリンスだと、この発展は往々にして復古主義にもなるわけであり、支那大陸への発展は肇国(てうこく)の初めに還ることだといふことにもなるわけだ。――処が之に反して、車輪自身は糸巻きと違つて回転と共に本当に進んで行く。では進み去つた後には何も残らないか。轍が残る、歴史が残る。之は復古的な「歴史」ではなくて、正に進歩的な発展的歴史だらう。だが進歩や発展には、さうした広義に於ける変化には、何か変化しないコンスタントなものがなくては論理的に困るだらうと云ふかも知れない。車輪そのものがこのコンスタントだと考へればいいのである。実際、現実とはこの車輪のやうなものではないのか。

 進歩(乃至発展)に就いてのマルクス主義的譬喩を見れば(之にレーニンの螺旋説を参照してもいい)、マルクス達がいかに優れた文学的象徴の所有者であつたかが判るが、無論この場合の譬喩はただの譬喩ではなくて、この概念の科学的規定を最も簡単に納得させるための譬喩である。ここからマルクス主義的な意味に於ける進歩や発展が、どのやうな意味に於て目的や理想をも設定し得るかといふことが、見当がつくだらう。つまり、目的としての目的(目的論)や理想としての理想(理想主義=ユートピア=観念論)なしに、而も進歩や発展を、目的や理想をも、科学的に唯物論的に、車輪のやうに地について、現実的に、解明出来るのだ。

 併し、そんな事は大抵のブルジョア哲学(?)だつて之まで充分工夫して考へてゐることだ、といふかも知れない。その通りで、マルクス主義の進歩理論と云つてもそんなに突飛な別世界のものではない。だがどの哲学がこれ程判りよく、而も的確に、進歩の意味を説明し得ただらうか。西田哲学(之はブルジョア哲学の方法として最も進歩発達したものだ)的に云つても、有的目的・有的理想・有的イデー(ヘーゲルの如き)の代りに、無的目的・無的理想・無的イデーといふ如きものにでも頼らない限り、この関係の実際は説明出来ないだらう。処が吾々にとつて現実に必要なのは、さういふ無的進歩や何かではなくて、正に現実の有的進歩なのだ。何かの無的進歩ともいふべきものがあるとして、それと無的反動(一種の自由主義者達の反動性?)との間には、云はば無的区別しか実際にはないだらうことを、私は恐れる。

   三

 だが歴史の車輪を転じ進めることが進歩であると云つても、云ふまでもなくさういふ形式的な規定では、実際問題に就いては形而上学的な規定と大して択ぶ処はない。問題はその車輪が何かといふことだ。歴史といふ車両の車輪が問題なので、この車両自身がブルジョアの乗用車であるか、プロレタリア無産者の荷車か貨車であるかが第一に問題だが、併しそのためにはそのどの部分が本当に車輪の車両なのかが大問題なのである。それはかういふ意味だ。――

 今日良い意味に於て最も常識的になつてゐる進歩の観念は、一般にプロレタリアの利益に沿うてゐるといふことを意味してゐる。プロレタリアは国際的に自分自身の政党を有つてゐるが、この政党にぞくし又之と共に進むことが、その意味に於て進歩的だと考へられてゐる。同伴者的コースを辿るものでもこの限り進歩的だと考へられてゐる。云ふまでもなく之は、プロレタリアの階級が歴史の進歩発展を齎すといふ役割の唯一の担ひ手だといふ根本理論に基くわけで、この階級主観の政治的任務を基準にして、今日広くさう断定されてゐるのである。

 これはこれでいいのであるが、併し他方、この進歩といふ観念が常識的観念として充分に通用し得るためには、世間の人間銘々が自分自身に就いて感じるだらう何らか増しなものプラスのものを夫が意味せねばならぬといふ要求をも、この観念は満足させねばならぬので、さういふ点に今特に注意を払はなくてはならぬ。厳正な意味でのプロレタリアにぞくさない多くの世間人(農民・小市民・其他)がなほこのプロレタリア的進歩性の観念を自分自身の常識用語として採用する気になるためにも、それが結局に於て自分自身のプラスとなるといふ結果を感じ取り得ることが必要だ。かうして進歩性とは、常識観念としては、何と云つても一つの価値的評語であり倫理的な観念に帰せられてゐるといふことが、事実上の心理なのだ。そしてここからこの観念の各種の分裂・動揺が発生する。そこで世間の常識は、一体進歩とは何ぞや、と改めて問ひ始める次第だつたのである。

 ここに関係してまづ大衆といふ概念がある。之とプロレタリアとの関係は、プロレタリアこそ大衆であるとか、世間の人間一般はまだ大衆ではないとか、といふ具合に機械的につき合はされるべきものではなくて、二つは正に組織的に結合されねばならぬのだが、併し普通の大衆的常識ではさうした組織的関係の理解は一般に欠けてゐるのであつて、大衆は単に多数者の集合か平均のやうなものだと考へられてゐる。そこで、例のプロレタリア的進歩性は、果して吾々世間に普通存在してゐる大衆にとつての、大衆的な進歩性であるのかどうか、といふ疑問が、当然起きて来るのだ。この疑問が結局理論的には理由のないものであつても、之が起きるだらうといふ事情の現実そのものは、計算に入れて考へられなくてはならないのだ。

 そこでブルジョア社会学の持つてゐる一種の魅力は、一般にその極めて常識的な見地にあるといふことを思ひ出さう。と云ふのは、社会は常識的には、極めて現象的にあれこれの最も手近かな事象によつて特徴づけられたものだが、社会を専らさういふ常識の立場から(但しアカデミックに)観察するのが、ブルジョア社会学の悪質な強みなのである。社会学なるものは今日の日本などでは、理論的には社会科学の敵ではない点好く知られてゐるが、併し意外な処に、経済学や政治学や法律学に又抑々社会の通念的常識自身に、之は執拗にこびりついてゐるのである。――処で大衆といふ概念も亦、社会常識としては全くこの社会学的な見地に帰着するもので、そして恰もこの社会学的常識ともいふべき大衆の観念が、事実大衆自身の観念になり彼等大衆の自己意識になつてゐるのだ。そこでかのプロレタリア的進歩性はこの大衆にとつて果して大衆的進歩性であるかどうか、即ち大衆の福利の増進と云つたやうなものと夫は本当に一致するのかどうか、といふ疑問を大衆の常識は懐き始める理由があるのである。

 今や進歩性はこの所謂「大衆」の、所謂「社会」の、所謂世間の、何等かの意味での好況・プラス・一般に関係づけて考へられる。この大衆にとつて良いと思はれる社会現象の特徴が、やがてこの大衆にとつては社会の進歩性となるのである。日本は満州進出以来、少しは良くなつたと、この大衆は考へる。「内地で食へなくなつたら満州へ行けばよい。満州には職がある(?)。軍事的勢力の緊張によつて広義に於ける軍需工業の景気がよくなり、少くとも部分的には仕事も殖え労賃も増した。農村にさへも農村工業化が可能になりさうだ」等々が所謂大衆常識による現下の社会認識であるやうだ(無論かうした常識はブルジョアジー、各種軍人・政治家・ジャーナリスト・学校社会教育家達が製造して与へるものが大部分だが)。だからかうした現状を招いた勢力、簡単に云つて了へば「日本ファシズムは、進歩的だ。少くとも日本の困難を解決し、近い未来への希望の可能性を造り出した。日本を発展させるものは之だ」といふことになるのである。

 この大衆の卑俗常識を利用し、又之を助長しつつあるものが、今日の日本の治者層であることは云ふまでもない。処が社会学的な常識によると、「社会の階級的区別は、要するに学校にA組とB組とがあるやうな意味でのクラスの区別でしかない。階級の対立などは精々全く偶然な出来ごとで、市民社会の本質でも何でもない。だから社会はA組とB組との総和であり(対立ではなくて和だ)、大衆は治者と被治者との公平な総和だ。治者と被治者とを加へたのが大衆だから、大衆は両方の協調であるわけだが、同時に、どつちが支配するかといふことも決つてゐるわけだ。被治者が支配をする道理はないからである」――かくて進歩性と階級的対立とはまるで無関係なものとなり、進歩は挙国一致の進歩(又は人類の進歩)になつて了ふのだ。

 治者と被治者との対立はなくて、治者の支配しかないのだから、現象の表面に出て来るものは無論治者だけだ。そこで今進歩には何か対立物が要るといふことを思ひ出して、何とか対立物らしいものをこの社会の内に発見しようとすると、この大衆の眼には治者同志の対立しか写らぬ。既成政党の没落とか、新官僚の台頭とか議会政治の衰亡とか、自由主義の行きづまりとか、重臣ブロックの排撃とか、機関説による政府攻撃とか、統制派のブルジョア化に対する行動とか、さうしたものが大きな唯一の対立になつて見える。そしてここに見られる各種形態のファシズムの動きこそが、対立の必然に基いてその相手方を克服する処から、進歩的だといふことになる。――例へば軍部や官僚の日本主義や挙国一致主義によつて粛正選挙が行はれたおかげで、無産党は初めて進出出来る、日本主義には進歩的な本質がある、否進歩的な日本主義を支持すべきだ、と云ひ出す無産者代表さへ少くないのだ。この偽似的対立に基く進歩の観念と、一つ前に云つた挙国一致的進歩の観念とは、その本質を等しくするものだ。

 右翼労働団体の大衆の内に没入して之を進歩的なものに組織するといふことと、単に右翼団体と提携したり之を支持したりすることとは、同じ統一戦線的実践でも全く別のことで、それはプロレタリア的組織から見た大衆と、社会学的な意味に於ける大衆との違ひに一致するのだが、社会学的常識を利用しやがて又みづから之を信仰する処の社会理論家・社会実践家にとつては、さういふ区別などは専ら邪魔になるばかりだと見える。

   四

 だがかういふ妙な進歩の観念が横行してゐるのも、例のプロレタリア的進歩性といふ常識に多少の責任があるのである。と云ふのはこの良い意味に於ける常識観念は、進歩性といふものを専らプロレタリアといふ階級主観に結びつけて考へようとするのだつたが、進歩的であるとか反動的であるとかいふ区別を、さうした階級主観だけで決めてしまはうとすると、社会の平均的な主観ともいふべき大衆といふやうなものが混入して来るので、之が今日の世間的常識ではまだうまく整理されてゐない処から、その混乱が進歩性といふものにまでも持ち込まれるのであつた。で、進歩性といふ規定は、当然なことながら、さういふ主観論的な規定からもう一歩根柢へ這入つて、他ならぬ生産力の発展から規定されなければならなかつたのである。

 つまり社会に於ける生産力を発展させる形式を助長することか、又は特に生産力の桎梏としての形式を打破することが、進歩的なことであり、之に反するものが反動的なことだ、といふよく知られた規定なのである。之は云はば進歩の経済機構的な規定なので、進歩の政治的又文化的な規定ほど道徳常識に訴へる処が少ないから、常識ではあまり前面へ持ち出されないまでで、実は進歩に就いての常識の所有者は誰しも一応は心得てゐることに他ならない。

 だがかう云つてもなほ進歩を政治的に規定し過ぎてゐるかも知れない。と云ふのは生産力の発展形式を助長するにしても、生産力の桎梏形式を打破するにしても、さういふ政治的活動が結果し又目的とする処は、実を云ふと要するに社会に於ける生産力の発展そのものなのである。生産力は自然的・自生的にも目的意識的にも発展するのであるが、この生産力の発展を助長し、又はそれを結果する行為や現象が、進歩的だといふことになる。

 ここまで来て気のつくことは、この意味に於ける進歩の根柢には、他ならぬ発展といふ規定が横たはつてゐるといふことであつて、而もこの発展は単に質的な例の糸巻き式展開ではなく、何等か量的な増加に立脚してゐるといふことなのである。生産力の増進乃至蓄積といふ一応数量的な規定にまで、今や進歩といふ政治的文化的又倫理的でさへある処の質のこの所有者は、帰着するのである。生産力の増加はつまり生産性を高めることに他ならないわけで、ここで数量的乃至量的と云つたものはやがて直ちに質的な規定に転ずるものに他ならぬのだが、とに角進歩といふやうな文化的な又は文学的な観念を、かういふ数量的な規定(それは併しいつも質的規定に転化せざるを得ない)にまで辿つて行けるといふことは、大切だ。なぜならかうして初めて、進歩といふ観念は科学的概念になるのだから。

 尤も何も生産力の量質的な規定だけが進歩の科学的規定だといふのではない。たださういふ規定を充分自覚的に想定した上での、プロレタリア階級的・政治的、文化的又道徳的(又文学的)な進歩の概念が、初めて科学的な概念になる、といふのである。

 処でかうやつて進歩といふ概念に就いて云はば駄目を押して見て判ることは、この簡単な観念そのものの中に、実はいくつもの関節が含まれてゐたといふ点だ。つまり、単純に生産力の関係から云つて一応進歩的と規定されることでも、階級的政治的には典型的な反動に他ならぬ場合も極めて多く(例へば日本による満州や支那の資本主義化)、階級的政治的に一応進歩的に見えるものも、文化的道徳的には反動的な規定を有つ場合も少くない(例へば文化運動に於ける公式的政治主義の如き)。特に例へば自由主義など、プロレタリア階級に関はる政治的見解としては、その反ファッショ的特色にも拘らず、直接に反動的な意義を持つてゐるので、之は自由主義的政党を実際に造つて見れば、現実的にプロレタリア的政党自身の発展を妨げるだらうことから、証明されるだらう。処が之に反して、この同じ(?)自由主義も、文化的道徳的な形態に於ては(私は夫を文化的自由主義と呼ばうと思ふが)、その或るものは(皆が皆までさうではない)、それが文化的道徳的関心に止まつて政治的な具体化を得ない限度に於て、充分進歩的であり得るだらう。かうした事実(之は実例のある事実だ)は、進歩といふ観念が変哲もない一本調子なものではなくて、いくつものフレキシブルな関節を有つてゐるといふことから、初めて説明出来ることだ。

 だが今云つたことをよく考へて見ると、進歩といふものが、無条件に絶対的な進歩であるのではなくて、それ自身の内に反動への転化の可能性を蔵してゐる生き物だといふ、リアリティーに就いてだつたが、試みに之を逆にすれば、所謂反動にも何等か進歩性への可能性といふ契機が含まれてはゐないかが問題になりさうだ。だがそれはスコラ的な思弁にすぎない。反動は進歩の一契機としてしかないのであつて、進歩が反動の一契機としてあるのではない。歴史はそれ自身進歩だからだ。凡ての反動は、悪を欲して遂に善をしかなし得ないメフィストにしか過ぎない。問題はいつもメフィストが、反動が、なげかけるのだが、それを解くものは反動性ではなくいつも進歩性の側だ。進歩の観念自身がいつもさうしたオプティミズムを要請してゐるのである。――進歩でも反動でもなく(進歩の外観を装はない反動はない)、却つて進歩そのものを懐疑するものの反動性に就いては、併し別に論じるべきだ。

   五

 進歩そのものが社会的に何であるかを中心にして見て来たが、逆に、現在のこの社会そのものの進歩性に就いて、まだ重大な問題が残つてゐる。現在の日本はマルクス主義の退潮期であり、日本ファシズムの発達期であり、その意味に於て現下の日本の社会は反動期にあると云はれてゐる。之は一応の意味に於ては正にその通りだ。仮にこの反動期が進歩の取消しではなくて単に進歩への回り道であるにしても、現在が反動期といふ全体的特色を持つてゐることは、否定出来ない事実である。

 だがマルクス主義が退潮したといふことは本当は何を意味してゐるのか。それはマルクス主義的政党及び組合の勢力の破壊と、それを囲む文化的政治活動組織の破壊とを本来意味する筈なのだが、併し世間の実際の気持から云へば、之に加へて、或ひは寧ろ之よりも手近かに、一般にマルクス主義的風潮の流行が衰へたといふことなのである。左翼思想犯人はブルジョア新聞紙上ではもはや何等の英雄でもなくなつて、泥棒やギャングの類ひとして待遇され始める(今日の英雄は右翼団体的乃至日本主義的連中だ)。これは新聞が世間のその日その日の常識を反映したものであると共に、新聞が世間をさういふ風に教育してゐるといふことでもあるが、おかげでシンパも減つたらうが、マルクス主義の野次馬も減つたのである。マルクス主義が反省の時期に這入つたことが、所謂反動期の意味である。

 マルクス主義は誤つてはゐなかつたか、といふ形の反省ではなしに(さういふタイプの転向者も決して少くはないが、夫はマルクス主義としては問題の圏外にぞくする)、マルクス主義理論を如何にして基本的な教養によつて精錬し之に実用的なフレクシビリティーを与へるか、といふ反省の時期に這入つたのである。政治的進歩性のモメントは退潮したが、それに基く流行の下火によつて、それだけ文化的道徳的な課題としての進歩性が強化されて来たといふのがこの際大切な要点なのだ。

 今日こそマルクス主義理論は常識化され日常化され、その意味に於て道徳化され気質化される時であり、又現にさうなりつつある時期なのである。その意味に於て初めて、夫が思想化しつつある時代だとさへ云つてもいいのである。今やこの機会を利用してマルクス主義は、又唯物論は、大衆のモラルとなり大衆の気分となり、やがては大衆の風俗とさへなるやうに、地道に大衆の身辺に浸潤する時期なのである。「進歩」が生きた思想にまで化すためには、現下の事情は却つて欠くべからざる条件なのだ。之は将来のための見えない力となるものだ。と共に、今日こそマルクス主義理論が、理論として可能な限りに於て、専心に研鑽され整備されるべき時期なのである。又事実さうした理論上の問題やトラブルを、丁度一九〇五年以降のロシアの反動期がさうだつたやうに、現在の日本は吾々に沢山なげかけてゐるのを読者は知つてゐるだらう。云はば、現在はマルクス主義の文学と哲学との時代だ。無論之は決してただの反動期やただのマイナスではない。歴史の進歩はころんでもただは起きない。

 労働組合運動及び政治運動に就いては私は今述べることは出来ない。インテリゲンチャにとつての課題については、一つの必然的な結論がある。進歩性の今日のこの文化的道徳的形態は、あたかも進歩性のインテリゲンチャ的形態に他ならない。進歩的活動は今日インテリジェンスの活動に俟つ比重が著しく多くなつて来た。それを吾々は見て来たわけだが、ここにインテリゲンチャの今日の所謂反動期に於ける役割に就いての、一般的な見透しがあるだらう。――徒らに反動期や退潮期を論じるべきではない。又徒らにインテリの動揺や困惑や絶望やを説きたることは無意味であるばかりでなく誤謬だ。この時期故に不安になつたり動揺したりするインテリは、抑々自分のインテリジェンス・このインテリの特有機能について、何等の社会的自覚を持たない者で、つまり彼等はサラリーマンや学生や何かにはぞくしても、範疇としてのインテリゲンチャにぞくするものではない。さういふ「インテリ」にかかはり合つてゐる限り、「進歩的インテリゲンチャ」といふ観念は遂に成立しないだらうと私は思ふ。反動期こそ、幸か不幸か、インテリの特有な進歩性が動員されねばならず又動員され得る処の一つの時期だ。


第二 大衆の再考察



 映画は大衆的な芸術だと云はれる。或ひは又股旅物やチャンバラは大衆文学だと云はれる。処でここに云ふ大衆なるものの意味をつきつめて見ると、一見計り知ることの出来ないやうな奥まつた諸現実が、伏在してゐることを知ることが出来るのである。単に極めて多数の世間人の嗜好に投じるとか、その関心を呼び起こすものだとかいふ、さうした多数の原理では説明し切れないものを吾々はそこに見出さざるを得ない。現に少くとも、世間の多数人は、単に多数であるだけではなく、経済的には比較的又絶体的に貧困な無産者であるし、政治的には無力な被治者であるといふことが、社会の現実の事実だ。而も偶々多数者が無産者で被治者であるのではなくて、この社会に於ては、云はば多数者であるが故に無産者で被治者であるのと同時に、無産者であり被治者であるが故に多数者であるのである。で、ここに大衆に就いて、二様の、或ひは寧ろ二段階の、観念が発生する。一つは大衆を単に社会の多数者と見る観念であり、一つは之を更に経済上の無産者乃至政治上の被治者として、見抜く処の観念である。前者は云はば社会学的(敢へて社会科学的とは云はぬ)概念であり、後者は社会科学的概念だと云つて区別することが出来るだらう。

 普通映画の大衆性とか大衆文学とか云ふのはこの社会学的概念の方で、之に反してプロレタリア文学の大衆性とか大衆的利害とか云ふ場合はこの社会科学的概念の方を指すやうである。――処がこの基本的な区別をめぐつて、色々のニュアンスのある大衆概念が成り立つてゐることを忘れてはならぬ。まづ第一に大衆をモッブ(愚衆)と考へる常識的な考へ方が存する。尤もモッブといふ呼び方は、社会に於ける総大衆といふ一種の想像された実態を指すことから始まるわけではなく、実は、或る時或る場所で、自然的に又は一定の人為的作為に基いて自然的に成立する処の、不規則無訓練無秩序の所謂群衆といふ個々の現象を指すことに始まるのであつて、群集がその心理と行動とに於て、軽躁であり原始人に類し付和雷同性に富んでゐる等々といふ事実を、モッブといふ言葉で云ひ現はしたのであるが、そこから、社会に於ける多数大衆も亦、恐らく夫を集合させればかかるモッブ性を持つた群集でしかあり得ないだらうといふ規定に立つて、大衆即ち愚衆といふ観念を惹き出すわけなのだ。かくて愚衆なるものは大衆の社会学的概念の一代表である。

 この愚衆的大衆の特色は今も云つたやうに、結局その無組織性に存する。だが之は決して、愚衆の各個人が他人から自由で独立で勝手に振舞ふといふことではない。却つて雷同性こそこの群衆心理の何よりの特徴だとされてゐる。で、つまり愚衆各個人は自由独立といふやうな積極的個人性を持たないことが、さういふ意味に於て消極的な人格しか持たないことが、この無組織といふことなのだ。この無組織は自由勝手な個人を原理とする個人主義や個人主義的絶対自由主義を意味する無政府主義などとは、正反対なものにぞくする(所謂自由主義は可及最大の自由を求める)。従つて愚衆の観念は一種の貴族主義的賢者の観念に対立させられる。貴族主義にも色々あつて、寡頭政治的貴族主義もあれば階級身分の標榜から来る夫もあれば、趣味に於ける貴族主義もある。ここで云ふのはまづ第一に、技能や精神力に於て抜群なものを尊重する処の精神的貴族主義なのである。そして一切の貴族主義は要するに、この精神的貴族主義にその合理的根拠名目を求めようとするものだ。

 この精神的貴族主義、即ち「賤民」に対する貴族の評価は、多くの文学的乃至倫理的貴族主義となつて、経済的・政治的・社会的・文化的・貴族主義の外被をまとふことなしにも現はれてくる。古くはストイック派其の他の倫理や降つてはショーペンハウアーやニーチェの哲学、ロマン派的天才概念や各種のエゴイズムやエゴティズムなどが夫だ。文芸作品の主人公にもかかる形の貴族の典型は極めて多い(例へばトゥルゲーネフのバザロフ、スタンダールのジュリアン・ソレルなどがそのやや近代的なタイプだ)。処がこの文学的乃至倫理的・精神的貴族主義、即ち大衆のこの形に於ける賤民視・愚衆視は、実はやがて一切の経済的・政治的・社会的・文化的愚衆の概念をば産み出す処の、精神上の淵源となつてゐる。例へばニラ的形態の所謂ブレントラストは実は単なる技能上のブレントラストではなくて、経済的貴族たる金融資本家の夫であるし、政治的貴族としては重臣其他のものがあり、社会的貴族としては位階勲等の主体などがその例である。文化的貴族としては国家の学殖ある番頭達が存する。そして之等のものが凡て、愚衆・賤民としての大衆に精神的貴族として対立せしめられるのである。

 選ばれたる民の観念は必ずしも民族宗教に固有なものではなく、殆んど凡ての祖国信念につきものだ。祖国愛が祖国文化への愛となつたり(東夷西戎南蛮北狄や外来思想や外国文明の観念の類)、夫が祖国の使命となつたりする時(世界文化の指導者や東亜の盟主の観念の類)、いつもこの選民的貴族主義が現はれる。だが夫は今は省かう。今何より注意すべきは選良(Elite)乃至盟主(Duce)の観念である。エリート乃至デゥチェは一方に於て精神的貴族であると共に、同時に他方文化的・社会的・政治的・経済的貴族であることを意味する。その政治的表現は(広義に於ける)所謂ファシズムの政治哲学の第一原理をなすものであつて、「党主」ムッソリーニや「指導者」ヒトラーといふ原理(!)が夫れだ(一般にファッショ哲学では固有名詞が自称原理になり得る。例へば「日本主義」の如き。処が例へばアメリカニズムは他人がつけたニック・ネームに他ならない)。尤も、所謂ファシズムに於ては(一切の形態の限定づきのファシズムに於ては別だが)、かかるファッショ的最高貴族は人格的個性のイニシャティヴを有つてゐるので、まだ完全な神秘的神聖味を有つまでには至つてゐない。その権威はまだ全知全能性を有たないのである(帝政ロシアのツァールやローマ教皇も之が個人的意志の積極性をもつ限り、やはり神聖な全知全能性を欠いてゐる)。

 指導者とは無論大衆の指導者だ。と云ふのは大衆はこのファシスト的最高貴族によつて初めて秩序と組織とを与へられる。大衆に秩序と組織とを与へるこの指導者は、だから一見大衆のためのものであり大衆自身のものであるかのやうに取られ得る可能性を有つてゐる。実際この可能性があつてこそ初めて、大衆は指導者の下に組織され得たし又得るのである。だから例へば中世的大衆はこの意味に於ける組織は持つてゐない。大衆に地盤をもつかのやうに、或ひは大衆の組織化であるかのやうに、見えることが、ファシズムを単なる強力絶対政治から区別する一つの特徴なのである。――だが、ここにいつも一つの錯覚が横たはつてゐる。指導者の概念は、無組織な大衆の概念に対立してこそ初めて成立するのであつた。この大衆が自分の内に組織を有ち得るのも、だから、却つてそれが初めから終りまで愚衆であり賤民であるからにこそ他ならぬ。つまり大衆は自分自身で組織を持つのではなく(夫が自分自身で組織をもつなら無組織な大衆としての愚衆ではないはずだが)、如何に大衆が自発的に組織的行動をやつたにしても、その自発性そのものが或る注文による自発性であれば、到底自分自身のものと云ふことは出来ない筈だ。

 かくて盟主や選良に対立させられたファシスト的大衆の観念は、例の社会学的大衆概念の、今日最も活動してゐる現代的形態なのである。現に最近のドイツでは、国民の九割八分何がしの多数と云ふことが、かかる大衆の唯一の実質なのだ。

 大衆に自分自身による組織性を認めないことが、所謂ファシズムによる大衆概念の特徴であるが、その意味に於てこの大衆はそれ自身に於ける合理性を認められてゐない。血液や信念や肚や人物の類だけが、凡そかうした大衆の内に見出される一切のヒューマニティーでなければならない。――大衆にとに角一応の合理性を認めるためには、大衆のヒューマニティーをその悟性(Understanding)の内に見出さなければならぬだらう。近世イギリスの人間論はこの人間悟性論を中心として発達した。之はやがて近代自由主義とデモクラシーとの哲学的原理となつたものだ。フランス大ブルジョアジーのモットーたる自由平等がこの悟性(レーゾン)に由来することは断るまでもないだらう。この悟性を原則として大衆の個々人は自由に計算し自由に意見を発表し又討論し、そして世論を構成し得るものだと想定された。ここに大衆はその無組織性を一応脱却して、とも角一種の合理性・組織性を獲得するのである。

 だがそれにも拘らず、ここには依然として多数原理が大衆の概念を支へてゐる。一人が一票を意味することによつて、大衆はかかる票数の総和として観念される。大衆はここでも依然として、単なる多数に他ならず、ただ夫が単に機械的な合理性しか持たぬ乏しい組織を獲得したに過ぎぬ。……各段階の制限選挙(対普通選挙)のもつ質的な効果も実はこの数量の機械性を適宜に利用した結果だと云はねばならぬ。

 比較的小選挙区に於ける定員制の弊、比例代表制の必要など、得点数と当選数とが平行しないといふ矛盾に基くのだが、夫は、ここでの大衆がもつ機械的組織がこの資本制支配社会に於て現実に受け取る処の矛盾に他ならない。だからこのデモクラシー的大衆概念も亦、結局例のファッショ的愚衆の観念と同じく、それがあくまで単に多数原理に基く限り、社会学的なものを出ない。

 デモクラシー的大衆の観念は、その各個人の悟性の啓蒙を想定した上でなければなり立たないのであるが、実際問題としては、最大多数の大衆が最もよく啓蒙されるといふわけではないから、前に触れた愚衆乃至モッブの性質が、ここにもまだ残つてゐることを見落すべきではない。ファシズムは従来のデモクラシー乃至自由主義に支配されてゐた大衆の内から、その愚衆的乃至モッブ的残滓を誇張すると同時に、事実之を愚衆乃至モッブとして利用したのであるが、デモクラシー乃至自由主義は之に反して、この愚衆性乃至モッブ性の漸次的な減退に希望をつなぐものだ。之が自由主義の用語として(他の場合の用語としては別だが)進歩の概念である。にも拘らずこの残滓の事実は何人も承認しなければならぬ処だらう。

 デモクラシー的大衆の愚衆振りは、その被デマゴギー性とでも云ふべき処に現はれる。大衆各個人にとつての啓蒙作用の不足、即ち悟性の未熟は、彼等が自分の実際的な日常利害とは別な利害観念乃至興味を有つといふことに現はれる。彼等の観念が充分に現実的でなく物質的根柢を離れてゐる処に、彼等の妄動の可能性があるのであるが、之を政治的に支配者が強調し利用することが所謂デマゴギーなのである。この被デマゴギー性が、このデモクラシー的自由主義的な大衆観念の把握に際して欠くことの出来ないものだといふ点を、予め力説しておく必要があるのである。

 処が云ふまでもなく大衆の日常の現実的利害は、或る時間を経るに従つて、人によつては早く又遅く、やがて大衆の利害観念を訂正しないわけには行かない。之は自由主義者が往々考へるやうに大衆の悟性が進歩したからではなくて、逆に現実の関係が発展して夫と観念との関係が訂正された結果であり、其結果が偶々大衆の所謂進歩といふことなのだが、とに角、之によつてデマゴギーは一つ一つ効力を失つて行くことになる。デマゴギーはもはや大衆支配者にとつて有効でなくなる。なぜなら支配者はデマゴギーの意識的な発布者としての責を取らねばならなくなるから。――之は当然な事で判り切つたことだが、併しここからデマゴギーに新しい機能が与へられ始める。と云ふのは支配者は自分みづから発するデマゴギーに対する大衆からの批判そのものを、逆に却つてデマゴギーと呼び返すことに考へつくからなのである。かくて流言蜚語とその取締りとが支配階級の一大方針となる。大衆は今や、デマゴギーに動かされないと見ると、逆にデマゴギーの流布者と見立てられる。

 だが流言蜚語すると想定されたこの大衆は、実はもはや例の被デマゴギー性をもつ妄動する愚衆やモッブではあり得なかつたわけだ。なぜなら支配階級の発布するデマゴギーに対する、大衆側の批判こそこの所謂流言蜚語だつたからである。だから之は実を云へば流言蜚語ではなかつたので、夫が流言蜚語だ、といふデマゴギーが新しく支配階級から発布されたといふことに他ならない。で、かうして事実上、大衆はその一通りの被デマゴギー性の残滓にも拘らず、大体に於て、悟性的な政治的見解を持てるものだと想定する理由が、デモクラシー乃至自由主義の側にあるわけなのだ。少くとも大衆は真理に近いものを語ることが出来る、といふのである。

 今回一九三九年の総選挙の事例はこの点を裏書きするやうに見える。所謂非常時の呼び声にも拘らず、社会の一般通念では一応非常時主義に反対するものと考へられてゐる無産派の議員が、その絶体数を問はないとすれば、たしかに眼立つて進出した。之に反して日本主義的代議士候補者は一二の例外を除いて悉く失敗した。之はデモクラシー的大衆の悟性を物語るものだ、と考へられる。悟性による被説得力が大衆の内に発育しつつあるとも考へられるのである。或る者は之を政治教育の成功の結果だと云ひ、又或る者は之を新官僚的粛正選挙のおかげだと云ふ。慥かに一応さうであるに相違ないだらう。

 だが、之だけの現象を基礎にして、機械的概念であるこの大衆を買ひ被ることは、甚だ危険なことだ。第一この大衆は、所謂無産政党なるものの新官僚や軍部的色彩所有者との結合を、想像して見ることも知らないのである。今日の無産政党そのものが社会ファシスト的(一種の国家社会主義的)用意のあることを、覚つてはゐない。すでにそれが明らかである時に依然として之を覚らないとすれば、さうした大衆は、このデモクラシー的に表現される限りの大衆は、或ひは半永久的に之を覚る機会を有たないかも知れない。つまり之は結局に於て、決定的な時期に、ファシスト的デマゴギーに引きまはされる大衆に他ならぬと云はねばならぬかも知れないのだ。だから無産政党が真に無産政党に止る限り(往々日本主義者までが無産派と呼ばれることもあるのを忘れてはならない)、デモクラシー的大衆は決して無産派の限りない進出を齎らすものではないだらう。――この大衆は単に旧い政友会的民政党的デマゴギー、乃至新しすぎる日本主義政党的デマゴギーを信用しなかつただけで、その充されない政治的意見のエーヤ・ポケットを、新しい「無産派」の主張で以て、偶々埋めて見たまでで、之がデマゴギーであるなしはさし当り関与する処ではなく、従つてファシスト的デマゴギーも、もしそれが単に無産派的ならいつでも之に代はつて採用されることが出来るに相違ないからである。

 以上は単に実際からの一例に過ぎないが、これだけでも、デモクラシー的大衆の機械的な組織性が、自分自身による組織として見れば如何に脆いもので又如何に限度の狭いものであるかが、例証されるだらうと思ふ。単なる議会政治主義や(名目にすぎぬファシスト的デモクラシー?から実感に基く自由主義的デモクラシーまでを入れて)又やがて社会民主主義に於ける、大衆なるものの意味が之だ。そしてこの合法的な議会政治主義が、如何に合法的にファシズムそのものを齎したか、又社会民主主義がファシスト政権の確立に如何に絶大不可欠な要因であつたかは、イタリア・ドイツ・其他の国の歴史的前例で判断することが出来る。――社会学的大衆概念、単なる多数原理に基く大衆の概念の不充分さの現実的な意味は、ここに明らかだらう。

 そこで次に社会科学的な大衆概念はどうかといふことになる。之は単に多数なのではなくて、無産者であり被支配者であるが故に多数であり、又逆に多数であるが故に無産者で被支配者だつたのである。この多数といふ量は、経済的政治的又社会的文化的な質を有つてゐる。この質とは大衆そのものの自分自身による組織の力のことに他ならない。ここに初めて大衆の凡ゆる意味に於ける積極性・自発性が横たはる。なぜなら大衆はここで初めて、自分自身で自分を組織する社会人群の謂であり得るからだ。――で、この意味での大衆は同時に大衆組織の他ではない。大衆は単にのべて一様な機械的な多数でもなければ、まして無組織なケオスたるモッブの類でもない、夫は組織だ。みづからによる組織のない処に大衆はない。

 だがさうは云つても、すでに組織されたものだけが大衆だと云ふのではない。それならば大衆は、多数のただの一部分乃至一小部分になつて了つて、大衆どころではなく一宗派に終つて了はざるを得ない。事実かうした大衆の概念が、一頃往々にして社会科学の門に潜入した。極めて意識の高いプロレタリアのやうなものだけが大衆だと云はぬばかりの大衆の観念が、なくはなかつた。併し云ふまでもなく未組織大衆も亦大衆である。否日本の現状に於ては未組織(組合的には云ふまでもなく又頭脳的にも)な大衆こそ大多数なのである。――で、大衆の組織とはすでに組織され終つた大衆ではなくて、一部分組織され、他の(恐らく大)部分はまだ組織されないが併しやがて組織されるべき方針におかれてゐる場合の、無産者的被支配者の全多数のことであり、従つて又おのづから社会全員の内での大多数のことでなくてはならぬ。――この組織とは、もう一遍云ふが、社会の多数が同時に無産者であり被治者であるといふことを介して、初めて可能になる組織のことだ。この組織があつて初めて大衆は大衆となる。

 併しここで注意すべきは、この大衆と雖も決して、単なる多数、といふ規定を失つてゐるものではない、といふ点である。といふのは、大衆文学の読者大衆と雖も、映画の観衆大衆と雖も、かうした大衆の、かうした組織の、問題外ではないといふのだ。だから又、ファシズムの大衆化といふ、吾々の最後の概念からすれば明らかに不当と云ふ他ないやうな現象も亦、厳然たる可能性を有つた事実であることを忘れてはならないのである。ファシズムが大衆的地盤から発生しなかつたやうな国に於ても、だからファシズムの大衆化といふ点、少しも例外ではないわけだ。――と同時に大衆の議会的活動、ブルジョア・デモクラシー活動も亦、だから大衆の今日欠くことの出来ぬ活動の規定の一つなのである。議会に於けるデモクラシー的(社会学的)多数が、社会に於ける社会科学的大衆と、直接の連関があるといふ単なる一個の事実を、決して軽んじることは出来ぬと云ふのである。

 すでに組織され終つた部分が、大衆の極小部分であつても、その組織の進行が方針に沿うて進みつつある場合には、之は明らかに活きた大衆組織であり、そこに大衆への道が、大衆性が、横たはる。少数者が大衆性を有ち得るのは大衆のこの機構によるのである。之がファシスト的少数者(指導者其他)と根本的に別であることは云ふまでもないので、例へばイタリアのファシスト党が多数の地方諸団体(之がファッショの初めの意味だが)から順次に総合されて来たにも拘らず、ファシスト政治支配が成り立つた暁には、すでに無産者的被支配者的多数の組織を極力妨げる一切の手段を採用しなければならぬのを見れば、この間の消息は明らかだ。

 大衆が、多数であると共に多数以上のものであり、そこから一見多数の規定に反するやうな色々の規定が出て来ることが出来るといふことが、今日とにかく大衆といふ観念を曖昧な困難なものにしてゐる。大衆はある場合には(それが支配にとつて必要な場合には)慥かに愚昧だらう。又或る場合には(大衆がみづからを支配するやうになつても)大衆は平均すれば他ならぬ平均値の卑俗なものであることを免れないだらう。だがその総てに拘らず、大衆がみづからの支配者となる時、即ち大衆が大衆自身のものとなる時、大衆は新しい価値の尺度だ。――大衆なるもののパラドックスは歴史的にしか現実には解けないが、それの分析的な観念上の解決の一端を私は簡単に試みたのである。


第三 自由主義・ファシズム・社会主義



 今日の日本の社会思想と云へば、自由主義とファシズムと社会主義との三つである。之を単なる思想としてみれば、自由主義・日本主義・唯物論の三つだと云つてもいい。併しこのいづれもが夫々単に思想であるばかりでなく、又社会的存在であり社会的動きであるのは云ふまでもない。と云ふのは、之等の思想はどれも多少とも形をなした思想体系を有つと共に、それが発生する階級的乃至社会層的地盤に基くものであるが、この地盤に基いてこの思想体系とその社会的運動とを担ふ担ひ手としての社会階級乃至層があるのである。で、このどの社会思想も、その思想体系・運動様式・社会的地盤・主体(思想乃至運動を担ふ担ひ手)との四つの主な点から観察されねばならぬ。

   一

 便宜上、自由主義を、その思想体系の動機をなす処の各種の源泉によつて分類することから始めよう。尤も厳密な意味に於ける思想体系をもつてゐるやうな自由主義は、その場合が、特に日本などでは極めて少ないのだが、併し一応は形成可能な限りの体系までも持たないやうな思想はどこにもない筈だ。自由主義の体系は略三つの源泉から理論的に動機づけられてゐると考へられる。

 歴史上最も古く理論的動機となつたものは経済上のレーセ・フェールである。之は広く知られてゐる通り、近世資本主義社会に於ける個人の自由の観念に裏づけられてゐるものであるが、この点一般に自由主義の共通な裏づけであつて、ここだけの特色ではない。今の場合の特色は、この人間的自由が資本的経済人としての人間的行動の自由(企業・交易・それから取引契約の自由)がその中心となつてゐるといふことだ。だから之を一般の用語を借りて「経済的自由主義」と呼んでおかう。之は上昇期に於ける資本主義の一般的な特徴をなすもので、この根本精神は資本主義と共に生き永らへるものではあるが、元来半封建的な官僚の支配を条件として発達して来た日本の社会では、この自由主義も決して充分には発揚されなかつた。処が之は日本だけに限らぬのは勿論だが、独占資本主義の時代に這入ると共に、各人の資本家的自由は、資本家の内でも特殊に少数な寡頭大資本家だけの自由にまで、或ひは寧ろ資本家自身の一身的自由の代りに資本そのものの自由にまで、変質して来た。今や資本主義そのものが、その経済的自由の精神を保ちながら、而も現実の形に於てはこの自由の社会的制限として、統制経済を導き入れて来た。近年この点は日本に於ても特に著しいことは人の知る通りだ。

 之は決して資本主義の廃棄や又実はその改良でさへなくて、資本主義そのものの本質の強調に他ならないのだが、それにも拘らず今日のこの資本主義に於ては、この経済的自由主義が、その元来のままの形では通用しなくなつたのは事実である。で、今日の日本では経済的自由主義は思想としては殆んど全く無力になつたと見ていい。ただ統制経済と自由経済との撞着は増々著しくなつて行くので、小商人層の商権擁護や反組運動やデパート襲撃、等々といふやうな運動となつて現はれてゐる(世間では又統制経済に対する自由経済反対を、敢へてファシズム反対といふ処にまで結びつける。そして之を自由主義と呼ばないのでもない。だがこの種の経済的自由主義は、何と苦しい「自由主義」ではないか)。併しこの運動は遂に天下の客観的大衆に抗することは出来ないのだから、将来への展望を有たないので、少数の小市民の無体系な同情や商工省的政策以外に、思想としての体裁を、体系を、持つことが出来ない。経済的自由主義は思想としては過去のものだ。

 第二は「政治的自由主義」である。之は元来経済的自由主義の直接な政治的結論だつたのだが、結論は前提とは可なり独立に動くやうになるものである。政治的自由主義は大体、民主主義(ブルジョア・デモクラシー)のことだと云つていい。大体といふのは、デモクラシーの方は台頭期のブルジョアジーの政治的イデーであるとすれば、自由主義の方は主として資本主義の没落期や又は大きな抵抗に遭遇した場合の、受動的な政治的自由主義を指すことが往々だからである。今日日本で普通考へられてゐる所謂「自由主義」は、だから、必ずしもデモクラシーのことではなくて(さういふ積極的な政治的自由主義ならば現下の日本の社会主義も亦、自分に必要な一段階と認めるだらう)、主にこの消極的な政治的自由主義のことに他ならないのである。いづれも政治的自由主義ではあるが、これがかうした積極面と消極面との二面をもつてゐるので、それだけでもこの自由主義に対する進歩的な処置には多くの問題が含まれて来るわけだ。

 現下の政治的自由主義が主にこの消極面のものであることから、今日の自由主義の一つの著しい特色が導かれてゐる。と云ふのは、今日の自由主義者の大多数は、かつての多少は積極的な攻勢をもつて来た伝統にぞくするブルジョア(又地主を含めて)政党自身に身をおく者ではなくて、之から比較的独立した言論家に過ぎないといふ点に注意する必要があるだらう。馬場恒吾、清沢洌、長谷川如是閑、更に尾崎咢堂さへが、さうだ。そしてこの特色は更に、この自由主義が殆んど何等の思想体系としては現はれずに、主として自由主義的気分として現はれてゐるといふ、もう一つの特色ともなつてゐる。如是閑の如き思想家は体系を持つてゐるが、その体系は自由主義を体系づけたのではなく、何か他のもの(ブルジョア唯物論?)の体系に他ならないのだ。如是閑が自由主義者と呼ばれたのは(今は必ずしもさうは呼ばれぬかもしれぬが)、正に読者が氏から受け取る気分からさう命名されたがためだ。

 ここで異彩を放つてゐるのは河合栄治郎だらう。氏は日本に於ける自由主義体系家の殆んど唯一のものだ。氏の体系の理論的動機づけは寧ろ理想主義的・倫理的な源泉のもので、その点次に述べようと思ふ第三のリベラリズムにぞくするが、併しそれであるが故に正に氏の政治的自由主義は珍しくも思想体系を持つてゐるのである。氏は例の経済的自由主義(氏によると第一期自由主義)を採らず、却つてこの自由の社会主義的統制を提唱する。夫が第三期の自由主義としての社会主義だといふ。だがこの自由主義的社会主義(?)は、日本に於ては殆んど何等の政治的活動とも結び付いてゐないやうだ。之は事実上、右翼社会民主主義(恐らく社会大衆党の一部)と近いものだらうが、この大学教授の思想体系とさうした運動や運動の主体との関係は事実あまりないらしい。――この点前に云つた気分的自由主義と社会的には大した変つた存在ではない。尤も気分的自由主義は、もつと極端で、かうした政治的活動からさへの自由(政党其他からの自由)のことであるかのやうにも見えるのである。

 だが気分的自由主義の何よりの強みは、社会の一部の常識を代表してゐるといふことだ。さういふ限りの一種の大衆性を有つてゐるといふことである。それが気分的であるのはつまりこの一種の大衆的常識を忠実に反映してゐるからだらう。そしてこの常識は明らかに小市民の一部のものの所有であり、主に言論能力を有つた中間層の一部の政治常識に照応してゐるものだ。気分的自由主義者の大多数が、新聞記者出身であるのは決して偶然ではない。かつて自由民権時代に封建的な支配の残滓と命がけに闘争したのは新聞記者の内に多かつたのである。

 処が、より広範な政治常識、普通選挙の今日殆んど一切の平均値的な政治意識の所有者の常識、に相応するものは、この言論的自由主義ではなくて、この言論を中心とするかのやうに見えて併し皮肉にも夫とは何の実質的な関係もない処の現在の議会政治的デモクラシー(「立憲主義」)なのである。之もたしかに政治的自由主義でないのではない。自由主義が立憲的議会制度といふ政治制度を意味する限りはさうだ。独裁制に対する議会制度が、俗に自由主義だと考へられてゐる。

 併し今日の日本の議会制度は、まだ議会制度としても事実上可なりの程度にまでファッショ化されてゐることに平行して、この制度そのものが政治的自由主義とは殆んど独立なものに転化して了つてゐる。政府や官僚や軍閥が議会やブルジョア政党の自由主義を抑制してゐるばかりではなく、大事なことには、議会やブルジョア政党そのものが、議会制度の名目と、又実際には或る程度までの実質とにも拘らず、さういふ政治形式とは独立に、自由主義ではなくて他のものになつてゐる。之は云はば議会制度を採用した処の一種のファシズムなのである。ファシズムを独裁制といふ政治形式だけから考へることは許されないので、政治形式としての独裁制を取らない処のファシズムは、イギリスにもアメリカにもフランスにもあるのだ。

 にも拘らず現下の日本では、この立憲的ファシズム全般をなほ「自由主義」のものだと考へてゐる。そこに大きな錯誤があるのだ。自由主義の本質の認識を迷はせる通俗的な原因の大きな一つは之だ。のみならず、この立憲的ファシズムが部分的に現はす自由主義的な擬態も亦、人を迷はせるものだ。と云ふのは、このファシズムが特に直接行動的乃至ミリタリスティックな日本ファシズムに対立する場合に発生する現象のことであつて、重臣ブロックや政府による機関説排撃の擬態や蔵相の健全財政や統制派やの背後に見られる一種の「自由主義」が夫だ。之は元来何等実質をもつ自由主義ではないのだが、随時に起きる抵抗物の影のやうに副作用的で随伴的なものであるのだが、世間ではその後ろに、何か実質のある自由主義が控へてゐると幻想するのである。無論之は到底、自由主義としては捉へ得ないものなのだが。――一般に今日の自由主義は資本制胎動期のデモクラシーとは異つて、小市民の、而も多少とも知的能力に富んだ小市民層の、イデオロギーなのだが、現在の所謂「デモクラシー」の方は、自由主義とは異つて、露骨に、地主・ブルジョアのイデオロギーなのである。而も夫が、零細農の存在と又それのプロレタリアへの転化とを基本条件とする日本の資本制の特殊性に基いて、中農・小商人・其他の利害意識と連絡をつけることによつて、一種のファシズム・イデオロギーとなるのである。

 現在の自由主義の第三の理論的動機は、文化上の自由である。之を仮に「文化的自由主義」と呼ばう。之は文化の進歩発達、ヒューマニティーの発揚、人格の完成、等々の内に、自由の最後の哲学的根拠を見出す。これは文化的インテリゲンチャに特有なイデオロギーであつて、彼等の手によつて思想体系を与へられ、彼等の利害を代表し、彼等の手によつて運動の形に移される。転向文学から純文学、通俗文学(菊池・久米の如き)を含む文学動向(大衆文学は別だ)は、今日何と云つても有力な社会的運動だが(同人雑誌の数を見よ)、この文学こそは今日の文化的自由主義の牙城である。そして之に平行し得る各種のブルジョア観念論哲学(西田哲学・人間学主義・其他)がまたそれだ。ニーチェやキールケゴールやハイデッガーも日本では、ファシズム哲学としてではなくて、正に文化的自由主義の哲学として受け取られてゐるのを注意すべきだ。

 だが日本の文化的自由主義は、文化的ではあるが決して自由主義としては貫徹してゐないと云はねばならぬ。と云ふのは、夫と政治的自由主義との間に現在何も関係がないのは別としても、この文化的自由はそれ自身の政治的追求とさへ何等の関係もないのだ。この点フランスに於ける進歩的自由主義文学者の動きとはその揆を一にしてゐない。日本の文化的自由主義は、著しく文学主義的だ。行動主義は遂にこの限界を出なかつたし、学芸自由同盟はまだ眠つてゐる。

 さて例の立憲的ファシズムは無論論外だが、例の気分的自由主義、体系的自由主義、又この文化的自由主義は、唯一の科学的な社会主義であるマルクス主義に対して、夫々、気分的に、思想体系的に、又文学的に、反対し又はギャップを感じてゐる。之等のものの進歩性の測定は、今日の社会主義の実際問題の一つであるのだが、進歩の観点から云つて原則上一等有望なのは文化的自由主義だらう。夫が政治的自由主義でない限り政治上の科学的(唯物論的)社会主義と直接に撞着する必然性をもつてゐないからだ。次に有望なのは気分的自由主義だ。之は政治的自由主義ではあるが、気分は原則的には尊重されるべきものではないから、大した困難はない。一等有望でないのは体系的自由主義で、科学的社会主義にとつては問題が同じ社会主義といふ身近かにあるので、却つて直接に撞着するものを持つてゐるのだ。この点キリスト教社会主義や無政府主義もさうだらう。だが、この自由主義はマルクシズムに取つては、無政府主義やキリスト教社会主義以上に、社会的運動としては微力なので、之は今の処、さし当り大した問題とはならない。無論この自由主義に対する批判を以て、自由主義全般の、又は自由主義の実質の、社会主義的批判だなどと考へてはならぬ。

   二

 今日の所謂「デモクラシー」=立憲議会制の所謂自由主義なるものの本質が、一種の(立憲的)ファシズムに他ならぬことはすでに述べた。之はブルジョア的地主的政党もが担ひ手である処の一種のファシズムだが、併し彼等が地盤とする処は必ずしもブルジョアジー自身でも地主自身でもない。必ずしもと云ふのは、一般にファシズムは独占・金融資本の必然的な社会的政治的体制なのであつて、現実的には、大ブルジョアジー自身(従つて又大地主自身)の利害を代表するものであり、その限り地主ブルジョアをその地盤とするのではあるが、併し一般にファシズムに特有な一性質として、この現実的な地盤がその観念上の地盤とは社会層を異にしてゐるのだ。それでこの一種の政党的ファシズムは、普通選挙に見られるやうに、平均的な(政治的知能に於ても平均的な)中間層の利害を代表するかのやうに、中間層自身によつて考へられてゐる処のものなのである。否、中間層は自分の政治的利害をその経済的利害と全く別に考へてゐるほど、この政治的利害といふ政党政治的結果を実は信用してゐないので、そこで一種他動的な普通選挙的通念を通じて、無意識に、この政党即ちこの政党ファシズムを、支持したり又はそのファンになつたりさへするのである。

 政友会は周知の通りより多く地主的政党であり、民政党はより多く資本家的政党であるが、その現実的な地盤を異にするに相応して、この観念的な地盤をも亦異にしてをり、前者は農業人口中間層(即ち所謂「農村」)の、後者は商工業人口中間層(即ち所謂「商工業者」)の観念を選挙母胎にしてゐる。従つてそれだけファシズムとしての外貌に相違はあるのだが、夫は事実大した相違ではない。例へば一方が国体明徴(尤も之はもつと他のファシスト層からの借りものだが)・積極財政(之も実は虎の威を借る狐だ)と行けば、他方は国防・財政・産業の三全主義と行くだけの差だ(一九三六年二月中旬の事情)。

 第二のファシスト層は官僚乃至新官僚である。新官僚は岡田内閣以来特にやかましくなつた存在だが、併し之は単に日本の官僚自身の元来の特色が非常時的に強調されたまでで、官僚の本質以外に新官僚があるのではないから、今日官僚と新官僚とを原則的に区別することは無意味だらう。日本の官僚は(軍官は後に云ふとして)封建的乃至半封建的な勢力とブルジョアジーとの漸進的一致の線に沿つて発達して来たもので、今日之が純正ブルジョアジーに対する半封建的分子として頭を再び擡げて来たことが、所謂新官僚といふことであり、夫が官僚的ファシズムの政策に他ならない。政党的ファシズムは形式的には(普通選挙的に)、下からのファシズムの体裁をもつわけだが、この政党自身が社会の支配的上層の出身だから、之は実は云はば上層からのファシズムと云ふべきだらう。之に対して、官僚ファシズムは上部からのファシズムとでも云ふべきものだ。――無論之も立憲的ファシズムの一種である。ただ政党的ファシズムと区別され、更に又之に対立する点は、政党的ファシズムが立憲議会制を、社会的に形式化形骸化したに対して、官僚的ファシズムは之を更に法制局的に脱脂しようと企てる点にあるのである(この対立によつて例へば内閣審議会・選挙粛正・司法権のファッショ化等々が発生する。――そしてこれに対しても亦微弱な「自由主義」が叫ばれる!)。

 政党的ファシズムは中間層の利害を代表するかのやうに(それは言葉の上では日本帝国の利害となる)見せかけながら、実は政党自身の、即ち地主・ブルジョア自身の利害を代表することを大いに自覚してゐる。処が官僚は、職業団体ではあつても利益団体ではない処の、国家の公然たる使用人だから、官僚的ファシズムはその担ひ手自身の利害としては直接には自覚されない(高級官吏とブルジョアとの事実上の連絡は問題外として)。そこに官僚的ファシズムの一種の道義的自信が、一種の大義名分振りが存するのである。――だがこの大義名分にも拘らず、その大義名分道徳の体系は、ここでは極めて貧弱だ。単に個人々々の思ひつきで、或ひは農本主義とか(後藤内相)或ひは「邦人主義」とか(松本学)を唱へるだけで、事実一向にまとまりがない。政党政治家も亦、彼等が地主・ブルジョアの代弁者であるにも拘らず、一向思想的に纏まつた雄弁家ではない。現にその合言葉一つ見ても、大抵借り物なのだ(前にあげた例の他に、「明朗」とか「挙国一致」とか等々の他愛もないフラーゼ)。

 ミリタリー・ファシズムになると、この大義名分的思想の原則は極めてハッキリしてゐる。軍部少壮分子の内には北一輝其他の政治思想体系などが行なはれるが、さういふ理論的体系は大義名分思想には必要でなかつた。ここではただ忠君愛国の四字に凡ての思想は集約される。だが軍部のイデオロギーがここまで集約されるには随分色々の経歴を有つてゐる。かつては農村主義(都市反対主義)や国家統制経済主義や、甚だしいのはヘラクレイトス式「闘ひの哲学」まで持ち出された。だが夫はいづれも国防至上の精神からであつた。今では、かつての高橋蔵相の予算閣議に於ける声明に対する陸軍の反駁文に見られるやうに、大事なのは何より国防であつて、農村問題や統制経済といふやうな財政産業の問題は之を基礎とした内閣の責任であつて軍部の知つたことではないといふ処にまでこのイデオロギーは発達して来たのである。

 このミリタリー・ファシズムのイデオロギーは各種軍人(主に現役在郷の将校)を担ひ手とするものであるが、その一応の職業的利害は別として、この社会層自身の真の利害を代表するものではない。このイデオロギーの観念的地盤は農村都市の平均的人口の可なりの部分を占めてをり、在郷軍人・青年団・青年学校生・其他だけでも莫大な人口数に上るが、無論この分子の利害を直接に代表したものでないことも明らかである。――そしてこの思想の運動形態に就いては今は多くを語る必要がないほど知れ渡つてゐる。

 軍部の非常時的動きを動機として群生したものは、右翼国粋反動団体的ファシズムである。五・一五事件直後、この種のファッショ団体は急激に増加した。之は初め従来の国粋反動団体の延長として発生した観があるのであり、従つて、本質的にも綱領上でも又メンバーの身上から云つても封建的な勢力を基礎としてゐたし又いるが、それにも拘らず、極めて多数の団体は、資本主義(或ひは寧ろ資本家)打倒の綱領をかかげた処の、国家社会主義の形をもつてゐたことは忘れられてはならぬ。だから之は明らかに立派なファッショ(但し後に述べるやうな日本型の)だつたのだ。ファシズムの国際的共通性は、初め資本主義打倒のスローガンをかかげて科学的社会主義に対する反対勢力を結成し、やがて次第にこのスローガンをぼやかし、遂に全く反対な効果を有つスローガンにすりかへることだ。――で、このファシズムは日本の特殊形式のファシズムの内でも、比較的イタリヤやドイツのファシズム典型に近いものであつて、その社会的結束や私兵的活動や、又非立憲的直接行動やが、それを特徴的に物語つてゐる(少壮将校らの内にも一時はかかる諸活動のハッキリした徴候が見られた。例へば議会制度に対する極度の反感・命令系統の混乱など)。之は従つて、一応下からのファシズムなのだ。尤も理論的に精密に云へば、本当の意味に於けるファシズムは、決して本当に「下から」のものではあり得ないのだが。

 日本的ファシズムのイデオロギーを一時一等華か(?)に展開したのは、右翼国粋反動的ファシズムであつた。それにも拘らず、初めこのイデオロギーは、その一つ一つを取つて見ても理論的に一向体系的真実を持つたものでもなく、まして全体を統一した世界観の構造などは持つてゐなかつた。精神主義、農本主義、日本国民主義、アジア主義、東洋主義、正道主義、其他其他に分裂して帰する処を知らなかつた。処がこの勢力が外見上多少下火になると共に、各種ファッショ団体の整理統一と併行して、やがてそのイデオロギー自身の統一化が齎された。夫は皇道主義を経て遂に国体明徴主義にまで帰着したのである。之をシグナルとしてファッショ団体の統一と思想原則とが略々形をなした。だが併し、ここまで帰着して見ると、之はもはやただの一つの言葉でしかないのであつて、何等の体系的思想でもないといふわけである。この点でミリタリー・ファシズム・イデオロギーと全く似合ひの夫婦となつたわけだ。ただ吾々はこの際と雖も右翼思想団体のこの統一運動と平行して生じた処の、右翼愛国主義的労働組合の発達を見逃してはならぬ。日本産業労働クラブや総連合の動きがその例だ。

 一体ファシズムは現実的地盤と観念的地盤とが喰ひ違つてゐて、従つてそのイデオロギーは特別に観念的であり即ち又特にイデオロギッシュなのだが(もつと正当にはデマゴギッシュと云つた方がいいかも知れない)、処がそのイデオロギー自身が他の意味で凡そイデオロギーの資格を欠いてゐる。思想として現に何等の筋の通つたシステムを持てないのである。

 (最後に、前にも触れたが、世間では単に統制経済を指してファシズムと呼ばないではないが、云ふまでもなく之はファシズムの政治的にはごく微弱な特色でしかない。経済的には夫が如何に金融・独占資本と直接関係があるにしてもだ。)

 さて、以上述べたやうなものが、今日の日本ファシズムの各様相であるが、では日本的ファシズムとは如何なる特色を有つたファシズムか(夫が一種のファシズムであることに就いては、もはや問題はないと考へていいと思ふ)。――日本に固有な封建的残存勢力(之には無数の重大内容が含まれてゐる)を基礎条件とすることによつて初めてその上にファシズムの一般的条件を打ち立て得た処のファシズム、或ひは、この封建的勢力がファシズムの形勢を取つた処のもの、といふ風に概括出来るだらう。之で今まで述べて来た日本ファシズムの各様相の共通な特色が指摘出来ると思ふ。無論この日本ファシズムの一般的な分析をここで企てる余裕はない。だが之こそ、社会科学にとつて明日からでも取りかからねばならぬ最大の実際的課題なのだ。この課題が前に云つた自由主義の進歩性の検討といふ課題と直接に連絡してゐることは、述べるまでもない。つまりそこに、自由主義とファシズムとの現実的な関係があるのだ。そしてこの関係づけにこそ、今日の日本の科学的社会主義の、何より実践的な課題があるのだ。反ファッショ共同戦線、乃至戦線統一の問題がそれで、労働運動に於ても文化運動に於ても、この政治的な課題は少しづつ社会主義的に解決されて行きつつあると見るのが、最近のこの所謂反動期に於ける一種の進歩性に就いての理解ではないかと思ふ。

 今日は反動期だと云ふ。マルクス主義も自由主義さへも退潮した。日本はファシズムの世の中であり、又ファシズムへの道が唯一の残された方向だ、などとも云はれる。だが夫は全く皮相で卑俗な通念だ。社会主義はかういふ機会を利用してこそ、思想運動としての深度・身近さ・大衆化の素地を養ふのだ。この素地を俟つて、社会主義の政治的出発はいくど新たにされてもいいのである。


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底本:「戸坂潤全集 第二巻」勁草書房
   1966(昭和41)年2月15日第1刷発行
   1970(昭和45)年9月10日第7刷発行
入力:矢野正人
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2006.1 Tomokazu Hanafusa / メール

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