ギリシア文明史ノート

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 ギリシャ文学の主題は人間であり、神々であつた。神々は人間の生活のなかで不可欠な役割を果たしてゐたからである。ギリシャ文学は、行動する人間を描いた。行動しない人間、複雑に思ひ悩む人間、ハムレットのやうな人間を描かなかつた。(バウラ)

 ギリシャ文学は人間の行動を描いたと言つてよい。

 ギリシャ人が詩の全部門をまとめて言ひ表したい時に使つた言葉は、まつたく意表を突くものである。すなはち、それはソフィアである。これは「知恵」を意味し、「技能」さへも意味する。この言葉は詩ばかりでなく、彫刻や刺繍に至るまで、すべての美術について等しく言はれる。さらにこの言葉は、舵取り、建築家、将軍、料理人の仕事のやうな多様な業にも当てはまる。これらはいづれも単に「知恵」の一種であるばかりでなく、専門的技能の一種でもある。(バウラ)




 
 悲劇といふ見世物は、結局は闘ひを描いた見世物である。それは闘争を描いてゐる。それは行動を描いてゐる。ドラマとはギリシャ語で本来行動といふ意味である。それは英雄の闘ひを描くものである。

 英雄は何のために戦ふのか、それは正しさのためである。そのやうな闘ひを見る必要がある時代となつてゐたのである。神は正しい者の味方であるといふことを証明したいのである。それを証明するのが悲劇の主人公たる英雄である。罪には罰が伴ふことを証明したいのである。

 悲劇は決して人間の死を描くものではない。たしかにシェークスピアの悲劇は人間の弱さ、悲しさ、人間の敗北を描いたものであらう。しかし、ギリシャ悲劇はさうではない。ギリシャ悲劇がもたらすものは悲しみではない。それはむしろ喜びである。悲劇の英雄が運命にたいして挑む闘ひは、前7世紀から前5世紀にかけての、社会的束縛からの解放を求める闘ひにほかならない。悲劇とは闘ひのすすめなのである。未来の調和のためにいま闘へと勧めるのである。




 では、アイスキュロスは『縛られたプロメテウス』で何を言ひたかつたのか? 実はこの作品ではゼウスの不正が繰り返し主張される。ゼウスだけが正義を独占してゐたのである。正義はまだ人間のものではなかつた。独占状態ではすべてが正義となる。自分の意のままに振る舞ふことがゆるされる。しかし、もし正義を人間にも分け与へたら、もはやゼウスは不正をはたらく存在ではなくなり、正義の神となる。(ロイドジョーンズ)。なぜか。

 プロメテウスを罰するゼウスは成り上がり者の僣主として描かれ、人間の友プロメテウスは、忍耐強く率直で不屈の受難者とされてゐる。ゼウスは結局プロメテウスを解放し、力が理性と正義の中で実現されることを示してゐる。これらの劇においてアイスキュロスは、アテナイの新しい活気に満ちた民主制の中に現れてゐた不穏なものを、宇宙といふ舞台に移しかへたのである。

 ペルシャ戦争後のアテナイは権力の味を知り、さらに大きい力を渇望し、その間に、当初の寛容をいくらか失つてゐた。アテナイはやがて、アテナイの意志に従ふことを拒む同盟諸国に対して、力を行使するやうになつたが、それと軌を一にして、テミストクレスやアリステイデスのやうなアテナイの救済者や恩人たちにも矛先を向けた。この人々の自主不偏の態度を怪しんだからである。アイスキュロスはこの事実を知つてゐたが、彼はもつと先まで読み通して、そこから普遍的な問題の生ずることを見抜き、それを劇の主題にしたのである。(バウラ)



 神様は動物にそれぞれ特性を与へていつて、それぞれが生きていけるやうにした。動物に順番に特性を与へていつたところ人間が最後になつてしまい、与へるべき特性もなくなつてしまつた。そこで、プロメテウスが神様のもつてゐる特性である火を使う術を特別に人間に教へた。




 『アガメムノン』の解釈において、神が人間を試すといふことが何度も多くの西洋人によつて言はれてゐるが、はたしてそれは作者の意図であつたらうか。なぜなら、人間が神に試されるといふ考へ方はキリスト教に特有なものだからである。ギリシャ神話の宗教観の中にも同じやうな考へ方が明確に表されてゐる作品があるだろうか。

 絨毯のシーンや、娘を生け贄にすれば船を出させてやるといふ神のお告げや、最初のコロスにも神の誘惑の話があるといふ。だが、本当に娘の生け贄は神の誘惑なのか? もしさうなら、オレステスに対して母親殺しを命ずる神の神託も、神の誘惑ではないのか。




 ギリシャ悲劇はポリスの住民に生き方を教へた。それは自由に生きることを教えた。悲劇詩人の使命は自由人の教師となることであつた。悲劇の英雄が運命に対して挑む闘ひは、神話の世界の言葉で語られてゐるにせよ、前7世紀から前5世紀にかけて、社会的束縛からの解放を求める民衆の闘ひにほかならない。英雄が運命に立ち向かふ闘ひ=悲劇が上演されるやうになつたのは、政治上の平等と社会的正義を求めるアテナイ人の長いもう一つの、闘ひのさなかであつた。

 神話は何も面白い話を提供するために作られたのではなく、学問が生まれる以前に、人間の知性がまだ複雑な問題を把握する能力を手に入れていない段階にあるとき、人々を悩ましてゐた迷いを軽減するためにつくり出されたものである。

 人間が進歩の結果、一般概念を手にいれる時期にいたるまでは、個々の目に見える像にたよつてものを考へるのである。ほとんどのことが原因のわからないままに起きるやうな世界に直面するとき、それを説明するための神話が必要とされたのである。ある一つの経験を別の経験に結び付けて、その間の関連や類似性を思ひ浮かばせるといふ働きをする。

 かうして得られた解決は、まつたく疎遠な現象をさほどかけ離れたものでないやうにすることによつて、それを直視し受け入れることを容易にする。何らかの習慣・儀式のはじまりを説明するために、多くの神話がつくられた。(日本のむかし話はその中に含まれる)。つぎに自然現象を説明するためにも神話がつくられた。




 彫刻が人体を知るといふ大征服に向かつて進んでいく。このやうに生きてゐる人間の肉体がますます確実に表現されることは、きわめて重要である。たゆまぬ熱心さで彫刻が捜し求める人体が、神々の姿とされてゐるだけになおさらである。

 この神々が目に見えないものではなく人間の形をしてゐるといふ考へ方にギリシャ人の特質がある。神は人間と同じやうに考へ、感じ、行動するといふことは、人間もまた神に限り無く近い存在でありうるといふことである。神は何物にも束縛されないゆゑに、人間もさうあることができるはずであり、またさうあらねばならない。ギリシャ人の誇り高さがこんなことにも伺ひ知ることができる。それに対して、クレタ島の住民ミノス王の神は牛の姿をしてゐた。クレタ人はギリシャ人ではなかつたといふことだらう。

 ギリシャ人は神々を人間によつて説明しようとした。ギリシャ人は神々を最も美しい人間の姿によつて表現した。それは青年男子の裸の姿であり、少女が衣をまとつた姿である。単純化と様式化は現実を支配する規則と一致しない。観察される客観的現実から選択すること、それがクラシシズム(古典主義)への道である。(ポナール)



 アルキロコスはタレースと似てゐる。彼はもはやホメロスのやうに事象を神の介入によつて説明しようとはしない。神々を否定はしないが、いちいち神々をもちだすやうなことはしない。とくにタレースは、それまでは神であると考へられてゐた星をはじめて土のかたまりであると考へた。

 タレースなどの新しい宇宙論を組み立てた人たちは、道徳思想や政治思想によつてすでに作り上げられてゐた概念を使用して、都市において勝利して秩序と平和をもたらした秩序と法に関する観念を自然のなかに投影した。だから、自然の説明にまるで人間の個人的な関係で使はれる言葉のやうに思われるエリスとフィリアなどの言葉が使用された。

 しかし、これらは個人的なものではなく既に政治的な議論に現れてゐるものである。ポリスの政治風土のなかでは、エリス、すなはち敵に勝ち他人に対する自己の優越を示したい要求は、フィリア、すなはち共同の精神に従属せねばならない。個人の力は集団の法則に従はねばならない。ソーフロシュネー(節制・中庸の教へ)にしても、ポリスのソーフロシュネーがあり、それはプラトンの『国家論』4章430Dにおいていはれてゐる。

 しかし、中庸の教へはあくまで教へであつて、実際のギリシャ人の心は英雄的な生き方、人間観の伝統を受け継いだものだつた。激烈な野心と無謀な企てに対する傾倒の大きさは、アテナイを破滅に導いたペロポネソス戦争を見れば充分である。人間は誇りのためにのぼせ上がつて隣人の憎しみを招き過大な企てのために破滅する。

 賢者はこの恐ろしさを伝えようと、多くの作品を残した。ソロンもその一人である。




 ソフォクレスの劇のなかのヘラクレスとアイアスは、両者共に英雄であり、その力強さと忍耐力、自尊心と近づきがたさによつて並外れてゐる。両者共に、普通の人間がいだく懸念を無視したために、恐るべき不面目な最期を迎へる。アイアスは神を侮つたために、またヘラクレスは優しくまたあまりに人間すぎる妻をまつたく顧みなかつたために、そうなるのである。


 二人ともに中庸をとなへる人々から非難されるばかりでなく、温かく優しい人間性を慕ふすべての人々から非難される。にもかかわず、彼らは二人とも最後には正しいとされる。アイアスは戦争での気高い働きによつて、ヘラクレスは人類の利益のために英雄的に引き受けた労苦によつて。

 ソフォクレスは英雄の典型を描いた。それは近づきがたい非人情性をもちながらも、一方で信じがたいまでの不屈の精神の持ち主である。アイアスは妻の哀願に耳を貸さない。ヘラクレスは妻の愛情ゆゑの過ちを許さうとしない。しかしながら、アイアスは名誉を失つたために死を決意する勇気をもつてゐる。ヘラクレスは肉体を焼かれる残酷な責め苦に耐へ続ける。

 ソフォクレスは英雄的理想がアテナイにおいてどんな意味をもつてゐたかを劇の形を借りて表現した。彼は英雄的理想の欠陥と限界を見抜き、それを恐ろしいほど迫真的に描写しようとした。しかし同時に、その欠陥と切つても切り離せない気高さは、その欠陥を補つて余りあるといふことをも示してゐる。

 この英雄の姿は国民にとつて見習ふべき鏡であつた。戦場における壮絶な死を恐れない英雄的な人間になることは、すべての市民に求められてゐた。そのことはペリクレスの葬送演説を聞けばわかることである。アイアスやヘラクレスのやうな伝説上の人物が壮烈な恐るべき死を遂げたやうに、アテナイの市民もまた喜んで戦場で死んだのである。戦死は彼らの人生に成功を与へるものであり、最後の試練にあたつて自己の真価を試すために何物にもひるまなかつたことを証明してゐる。

 しかし、名誉を重んずるこの英雄的生き方はわれわれには信じがたい行動となつて現れる。それはサラミス海戦の勝利を導いたテミストクレスとシシリー遠征を率ゐたアルキビアデスが、一旦アテナイから告発されると、かつての敵であるペルシャに寝返つたことである。

 その原型はアキレスの怒りにある。自分の名誉を汚されたと信じるアキレスは戦争から身を引いてしまひ自軍に多大な損害を与へる。名誉を傷つけられたがゆゑに、彼らは祖国の敵を助け祖国に不利益を与へる行動をとつたのである。

 自分の敵を愛するなどといふことではない。そんなこととは無縁である。自分の名誉を汚した者はその瞬間から自分の敵なのである。憎悪は美徳であり復讐は義務なのである。国や団体に対する忠誠よりも自分自身の名誉の方が大切なのである。英雄とは孤高の自己中心的な人物であり、自分個人の満足をもとめて生きかつ死ぬのである。



 古代ギリシャでは家族への忠誠も何よりも重視された。アンティゴネは国法で禁じられた兄弟の遺骸の埋葬を強行した。




 人生と世界を探究しその謎を解明する方法としてのギリシャ悲劇。『オイディプス王』とは「神は無実の者を罰するのか」といふ問ひに対する答へを求める作品である。

 誰であらうと行動する者は行為といふ新しい存在を生み出す。それは行為者のもとを離れると、それを送り出した者には予測のできないやうな仕方で世界において動き続けるのである。

 人間は全知ではないが行動しなければならない。ここに人間の悲劇がある。行為のすべてがわれわれを危険にさらす。オイディプスといふ最高の知性が最大の危険にさらされる。

 囲碁で盤上に石を打つ場合、その石は地を囲ふといふ可能性をもとめてゐるが、同時に取られてしまう危険性をはらんでゐる。しかし、この危険ををかさなければ地は囲へないのである。石は打たなければ取られる心配はないが、さりとて地を囲ふ可能性もない。それと同じやうに人間のあらゆる行動は幸福になることをもとめてゐるが、しかしそれは同時に不幸になるといふ危険性をはらんでゐる。

 人は行動しなければ不幸になることはないが、さりとて幸福になることもない。しかも、碁打ちが石を打たずにいられないのと同じやうに、人間は行動せずにはいられない。そこに人間の悲劇が生まれる。それでも人間は行動しつづけねばならない。『オイディプス王』とはかういふ人間の存在の根本を問うた作品である。

 オイディプスは何もしなければ不幸になることはなかつた。彼は幸福にならうとしたがゆゑに不幸になつたのである。不幸をさけやうとして行動したがゆゑにますます不幸になつた。それは善意にもとづくがゆゑに大きな不幸をもたらした。人間には未来を見通す力がないからである。

 賭けをしなければ金をする心配はない。オイディプスの運命はオイディプスだけのものではない。人間全体のものである。人間の全ての行為には支払ふべき代償がつきまとふ。




 ヘロドトスを読みたまへ。すると諸君はそこに当時知りうるかぎりの世界の全貌を知ることができるだらう。ヒストリーとはギリシャ語では調査探究といふ意味を表すことばであつて、まだ歴史といふ意味ではなかつた。それが歴史といふ意味をもつやうになつたのは、ヘロドトスが『ヒストリー』といふ名の本を書いたからである。

 ヘロドトスの本に書かれてゐることの多くは地理である。「地理は飢ゑから、古代世界全体のおそろしい飢ゑから生まれた」(ボナール)。ヘロドトスの興味の中心は穀物生産地に向けられた。それはスキュティア(ウクライナ)、メソポタミア、北アフリカである。ヘロドトスはたいへん好奇心の旺盛な人だつた。
 
 ボナールが好きなヘロドトスの翻訳者はラルシェ(仏Pierre Henri Larcher18世紀)。

 ヘロドトスははじめて伝承に対する批判的精神を見せて、自分の考へ、自分の意見を歴史書のなかに書いた。旧約聖書も歴史でありその中には多くの会話も含まれており、単なる事実の記録でない点でヘロドトスに先んじてゐるが、作者自身が表に出てくることはなかつた。

 ヘロドトスは自分が報告することを自分で真実だとは思つてゐない。たださう言はれてゐることを記録してゐるだけだといふ箇所が多くある。これは聞いたことで自分でその真偽を確かめてゐないとか。伝承を神聖で犯すべからずと考へることがない。そのかはりに「おそらく」とか「~についてはわたしは知らない」と書く。さうした姿勢から彼は歴史の父といはれた。





 医学はギリシャから始まつた。ルイ・ブルジェ『《ヒポクラテス集典》の医師たちにおける観察と実験』(1953年)

 ホメロスはすでに傷の種類を141もあげてゐる。人体の器官もたくさん知つてゐた。医者といふものの価値も知つてゐた。「一人の医師は数人の人間に値する」(イリアス11巻514)。『イリアス』には呪術的な医療行為はまつたく見られない。ただし、呪文や魔術的な医療の効力を信じることは古典期のギリシャ人の思考に入つてくる。

 『神聖病について』において、てんかんは一般的には神の仕業であると考へられてゐたことが分る。原因不明であるものは神に帰されたのである。しかし、ヒポクラテスはさうは考へず、他の病気と同じやうに原因をもつてゐると考へた。

 『ヒポクラテス集典』はおもに三つの医者のグループの書いたものによつて成り立つてゐる。

 1、素人哲学者でソフィストの影響を強く受けた医事理論家グループ。医学上の現象を説明するのに哲学や信仰・迷信からとつてきた考へ方・概念をあてはめて考へる。たとへば、7といふ数字が人間の生命活動に重要な役割をはたしてゐると言つたりしてゐる。『7ヵ月と8ヵ月の胎児について』(7.456~8 リットレ校訂本)

 2、クニドス学派の医師たち。事実や現象の観察に終始してそこから原因の究明にまで進まないグループ。症状の細かい描写に専念し臨床観察を中心にする臨床医たち。『内科疾患について』『病気について2』。治療法は貧弱で昔からの方法(下痢、嘔吐、乳を飲ませる、焼き切る)に頼るのみである。しかし、聴診をはじめたのは彼らである。彼らは病人のことばを勝手に解釈することをいましめ、哲学的な仮説をしりぞけた。『人体の諸部位について』

3、ヒポクラテス(B.C460年頃の生まれ。デモクリトス、ツキジデスと同じ)とその弟子たち。コス学派。観察にもとづき観察のみから出発し観察の結果を解釈し理解することにひたすら専念した。実証的精神の持ち主たち。(ボナール)

 この3つの分類は、現代の医学に関はるものたちにも当てはまる。健康本を書いて自説を披露したがる医事評論家たち。既存の薬と治療方法に頼りつきりの一般の開業医たち。そして大学病院で医学を研究して新しい治療方法を開拓しようとする学者たち。

 ヒポクラテスの書いたとみられる論文は8編だけである。『空気、水、場所』『予後論』『急性病の養生法について』『流行病1』『流行病2』『格言集(1~4)』『関節について』『骨折について』。

 『古い医術について』は別人のものであるが優れたものである。

 医師の祖先は料理人である。健康をつくり出す料理法をあみだしたことこそ医学の出発点である。料理を学ぶことは医学の初歩を学ぶことでもある。

 ピュシス(自然)とノモス(慣習)の区別はソフィストの常套手段であつた。ヒポクラテスは自分の考察の中にこの区別を取り入れてゐる。

 ヒポクラテスは医学の限界を知つてゐた。この限界は人間の本性と宇宙の本質とによつて定められてゐる。人間といふ小宇宙と自然界といふ大宇宙はたがひに相手をうつす鏡である。彼はたがいに支へあう小宇宙と大宇宙といふ二つの世界が医学の境界線であると同時に治療の手段であると考へた。

 人間の病気が直るのは自然の協力によるのであり、まず何よりも人体組織の働きによる。医学の目的は自然の治癒力に手を貸すことだけである。医学とは人間に生命を付与し生を作り上げてゐる力の法則を知ることであり、それにもとづいて人間を助けることである。

 ここでも、認識はつねに行動と結びついてゐる。これは古典期のギリシャのテーマである。

 ヒポクラテスの書いたものを読むと、とくに倫理的な著作には、医学においては当時すでにヒューマニズムといふものが最高天にまで到達してゐたことがわかる。例へば、彼らは奴隷と市民を決して差別しなかつた。それだけではなく、人間をその職業によつて区別することさへしなかつた。彼らはひたすら患者の利益を追求することを旨とする。

 また『誓約』のなかで「治療の際であれそれ以外のときであれ他人の生活について見聞きしたことで、決して洩らしてならぬことは口外すべきでないと考へ沈黙を守ります」と、プライバシーを守ることの重要性を認識してゐる。

 「国籍、人種、党派、社会階層への顧慮が、私の義務と患者の間に介在することを許しません。私に委ねられた者の秘密を守ります」等々、今日の医師の誓約はほとんどヒポクラテスの時代にまでさかのぼる。

 医学こそは、古典期のギリシャで生まれたヒューマニズムを最もよく示すものである。




 アリストファネスの喜劇は、現実社会の問題や人々の願いを解決するための奇想天外な方法を示す劇である。

 『平和』『女の平和』はペロポネソス戦争に疲れた国民の心を反映してゐる。『平和』では、文字通り平和の神様を捜し求めて天国に旅立つ男の話である。『女の平和』はセックス・ストライキといふ手段によつて、男たちに戦争をやめさせようとする話である。

 『鳥』はもはやどうにもならない現実に別れを告げて、別の世界、一つのユートピアを作らうといふ夢物語である。その夢を鳥に託して、鳥の国を地上と天国の中間の空中に作るのである。この鳥まみれの世界は、ヒッチコックの『鳥』の原型でもある。

 『蜂』と『騎士』は、もつと直接に現実社会を批判する。前者では、訴訟狂ひの世の中(まさに現代のアメリカと同じ)を批判し、後者は国民に追従し貪欲の限りをつくす政治家=弁論家の姿を、現実の政治家クレオンを舞台に登場人物としてあげて批判する。

 『福の神』の発想は『平和』にちかいものである。現実の富の分配の不公平の原因を福の神が盲目であることに帰してゐる。ゼウスはこの神を盲目にしてしまつたのだ。そこで、裕福にすべき正しい人間、正直な人間がだれかわからず、そのために正直者が損をする社会になつてしまつた。そこで、この福の神の目を治療しようじやないかといふのがこの劇の筋である。この劇は、この時代のアテナイが深刻な貧困問題に悩んでゐたことを示してゐる。

 アリストファネスが『雲』で描いたのは、まさしく世間の人達の目に写つたソクラテスであり、『雲』はこのソクラテスを代表とするソフィストを批判した作品である。ここではソクラテスは無神論者であり、詭弁を使つて弱論を強弁する術を若者たちに教へて、若者を堕落させるものとして描かれてゐる。これはこの劇の上演された24年後にソクラテスがアテナイ市から告発されたときの罪状そのものである。




 プラトンの対話篇に描かれたソクラテスの姿は、現実に存在したソクラテスそのものであり、全てが実際に行はれたソクラテスの対話を正確に記録したものであると考へる学者たちと、その反対に全ては作り話であると考へる学者たちの二種類がゐる。

 前者の代表はバーネットとテイラーであり、後者の代表はジゴン(O.Gigon)およびマガレス・ヴィレナ(Villena?)である。

 ソクラテスはその死によつて最も大きな衝撃を人々に与へ、今日も与へ続けてゐる。

 ソクラテスは、科学は人間を救ふことはできないといふことにすでに気付いてゐた。彼は若いときに科学の勉強に没頭したが、科学からは人間はいかに生きるべきかといふ問題に対する答えを見つけることはできなかつた。そこでソクラテスの向かつたのは今では哲学といふ名で呼ばれてゐるものだつた。

 しかし、その中身は道徳といふ名前で呼ぶのがふさはしいやうなものである。人間にとつて一番大切なことはよりよく生きることであるとか、知つてゐるといふことはそれを実行できるといふことであるとか、不正を受ける人のほうが不正を加える人よりも幸福だなど、彼は多くの格言を残した。

 科学は人間を救へるだらうか。科学によつてもたらされたものはすべて戦争の道具に使はれ、人を殺すために使はれるようになつた。人間は科学によつては決して幸福にはなれなかつた。人間を幸福にするのは、科学がつくりだしたものではなく人間自身でしかないのである。




 ある日ソクラテスの幼友達の一人が、ソクラテスより賢い人間がこの世にゐるかどうか、アボロンの神託に伺ひをたてた。それに対するアポロンの答へは「ソクラテスより賢い人は誰一人ゐない」といふものだつた。

 ソクラテスは驚いた。彼は自分の知つてゐることは、自分は何も知らないといふことだけだと思つてゐたからである。神託が嘘をつくはずがないとは思つてゐたものの、彼はそれを証明しないではゐられなかつた。神託の正しさを確かめるために、彼は定評のある賢者たちを一人残らず試してまわった。

 かうしてソクラテスは30年にわたつて、アテナイをはじめギリシャ全土の最も輝かしい精神の持ち主たちとの対話を続けた。さうして分かつたことは、ソクラテス以外の人たちは誰一人として自分自身の無知を、つまり自分は何も知らないといふことを知つてゐるものはゐないといふことだつた。

 ソクラテスはアテナイ人を既成観念への盲目的な隷従から解放して、きびしく検討された真実への自発的な奉仕に参加させようとしたのである。猿真似や強制によつてのみ考へて行動する幼稚さから抜け出させ、理性にもとづいて行動できる人間、すなはち法や権力(あるいは自らつくり出した神々や迷信)を恐れるからではなく、幸福とは徳であるといふ確かな知識を備へ、それゆゑに徳を実践できる大人に育てたいと思つたのである。




 エウリピデスはこれまでの悲劇の知らない領域を見つけだした。彼は人生に介入する神の役割を否定はしない。彼は人間のうちに潜み、意思の惨めな弱さのために人間を滅ぼす人間の情念や情熱にスポットをあて、そこから人間の姿を浮かび上がらせた。つまり、人間の心の中の悲劇、われわれを駆り立てしばしば討ち滅ぼす情念の悲劇を実現したのだ。そして、これこそがルネサンス以降のヨーロッパ文学の重要なテーマとなつたのである。

 アイスキュロスやソフォクレスの悲劇では、外側から脅かす神々が主人公に襲ひかかつた。それは神と人間の悲劇であつた。しかし、エウリピデスは、われわれの一番身近にありながらも最も謎とされてゐるもの、すなはち人間の心の奥底に悲劇の舞台をすゑた。爆弾は天から降つてくるのではなく、人間の心そのものが爆弾なのである。(ボナール)

 したがつて、エウリピデスの劇を進行させるものは、もはやソフォクレスのように偶然や神々ではなく、人間の情念であり人間の心である。

 エウリピデスの悲劇の登場人物は名前だけは英雄であるが、その中身は普通のありふれた人間、優柔不断で情に流されやすく意見がすぐに変つてしまい、しかも協調性はなく自分勝手な人間である。

 エウリピデスはラシーヌを通じて近代さらに現代の文学に直接つながつてゐる。古代末期の人々はエウリピデスに心酔した。ソフォクレスやアイスキュロスの作品がたつた7編しか残つてゐないのに対して、彼の作品が19編も残つてゐるのはそのせゐである。



 エウリピデスの『ヘカベ』では、金と一緒に預かつたプリアモスの息子ボリュドーロスを金欲しさに殺した男が、その子の母親のヘカベに対して息子は無事だと嘘をつく。ところが、息子の死体が海岸に打ち寄せられてその嘘はばれてしまう。この話はフランス映画『太陽がいつぱい』を思ひ出させる。




 人間だけが自然から隔絶して生きてゐる。ここに人間のすべての不幸がある。事実、人間はこの一体化した偉大な世界の外に知と呼ばれる隔絶した世界をつくり出した。その知は狂気にほかならない。それは神との断絶だからである。エウリピデスはその作品において何度かこの狂気の神秘にふれ、これをつねに断絶として描いてゐる。ここで彼の目に狂気と映るのは、自然の中に現われる神から切り離された人生全体である。

 だから人間は知を棄てるべきだ。ある不思議な詩句がいふやうに「知(το σοφον)は知(σοφια)ではない」のだから。ここで一つ注目すべきことがある。ギリシャ語では最初のほうのτο σοφον―人間が知と呼ぶもの―は中性形、つまり非常に学問的で、知に人工的な性質を付与する言葉である。一方、人間が批判的精神を棄てたときに見出す知を意味するσοφιαは女性形で、古くから一般に用ゐられた言葉であり、生き生きとした実り豊かな知を表すのに適してゐる。

 だから、人間は自分の考へだけに閉じ籠もつてはならない。神を崇める行列に自分の魂を加えるべきだ、と詩人は言ふ。(ボナール)





 エウリピデスは問題を解決せず問題そのものをそのまま提示した。神話はそのための道具として利用した。彼はアイスキュロス以上に、ソフォクレスにくらべてさえも、救いやうのない悲劇的見方に取りつかれた。彼は劇化した不幸や不正に対して、何の慰めも、何の希望も見出せなかつたからである。人生のひび割れは人間の本性から生ずる。それを神々のなす業であると理由づけることは難しい。エウリピデスはこのことを示すために神話を手段として使つた。彼が何を言はんとしてゐるのかは、たいていの場合不明瞭である。




 三人の詩人がエレクトラの神話を使つて劇を作つた。アイスキュロスは『コエフォロイ(供養する女)』でオレステスが復讐を遂げ、そののち復讐の女神に悩まされる様子を描いた。母親殺しが彼の心をひどく動揺させ、ほとんど理性を失はせるほどのものであつたことを、神話を使つて示してゐる。

 ソフォクレスの『エレクトラ』において復讐の女神が関係するのは、アガメムノンの復讐を果たす関係で言及されるだけであり、オレステスは復讐の女神に悩まされたりはしない。この劇の関心は復讐と処罰にある。アガメムノンの殺害のやうな恐るべき犯罪が行はれた場合には、息子が自分の母親を殺すといふもう一つの犯罪によつてしか癒されないことを物語つてゐる。

 ソフォクレスは母親殺しは神々の命令であると主張する。この劇には、不正が世界の整然たる調和を乱したなら、いかに厳しい手段に訴へても調和を回復しなけれければならないといふ信念がこめられている。しかも最後には怨恨は平和裡に償はれ、神々の恵みが人間のもとに戻ると考へてゐるのである。

 それに対して、エウリピデスは反対の立場をとつてゐる。オレステスはアポロンの命令に従つて母親を殺すのであるが、苦悩を覚えるばかりで、神に裏切られたと感じるほどである。このやうな状態に解決はなく、この劇は徒労と挫折といふ真に悲劇的な感じをわれわれに与へる。この感じは、オレステスがなほ生き続けることによつてますます痛ましいものとなる。(バウラ)



 ソフォクレスの悲劇『アンティゴネー』はクレオンの出した国法に反して、兄の遺体の埋葬をした。しかし、アンティゴネーが反抗した法は、真の意味での法ではなかつた。それは僣主の気まぐれな布告であつた。死者の埋葬を禁じることによつて、僣主クレオンの法は神の法に反抗してゐたのである。

 彼の布告には尊重すべき正当性も価値もない。彼の行動は、政治的権力を持つ個人の気まぐれに法を委ねることなく成文化することが重要であることを示す一つの例にすぎない。その神々の法をどのように人間に適用すべきかを決定するのが民会でありアテナイ市民の役割だとペリクレスは言つた。(バウラ)



 『コロノスのオイディプス』が書かれたのは、紀元前406年で、アテナイに終わりが迫り、スパルタとの長期にわたる争ひが敗北に終はることが見えてゐた時期である。

 ソフォクレスは郷土の神話に主題をとつた。それはアテナイに近いコロノスで、半神として地下に住まひ、先頃の戦争のおりにアテナイを助けたと信じられてゐたオイディプスに捧げる祭式である。この劇は、アテナイを見守る見えざる神の臨在といふ観念によつて形成される劇である。(バウラ)



 神話は明晰で想像力に訴へる力を持つから、単なる歴史ではわれわれの心を動かすことのできない場合でも、しばしば感銘を与へてくれる。



 悲劇の主な役割の一つは、人間と神のかかわり、人間同士の関係についての問題を具体的な形で表現することであつた。(ラインハルト)



 『オイディプス王』の中で、ソフォクレスは天賦の力を持つ立派な人物が、自分は何も誤りを犯してゐないのに、忌まはしい屈辱を受け恐ろしい破滅に陥るといふ問題を扱つてゐる。

 この問題には解決がないこと、神々は権力と地位のはらむ危険を人間に警告しようと欲するがゆゑに、偉大な者を挫折させるといふことを、ソフォクレスは確かに暗示してゐるが、この暗示は結末まで保留されてゐて、劇の中ではほんのわずかの役割しか持つてゐない。(バウラ)



 半人半馬のケンタウロスは、人間の心のなかにいまだに巣くつてゐる獣性を象徴してゐる。ヘラクレスの難業は、人が自己の力を最大限に発揮しようとするときに、耐えなければならない苦難を表現するものである。

                                



 ツキジデスの価値が認められたのは、ようやく19世紀になつてからであつた。19世紀に歴史を一つの科学としてみる観方が生まれたが、それを最初に実行に移したのがツキジデスだとされたのである。実証的歴史学の創始にあたつて、ツキジデスはその手本として崇められ、客観的な歴史を最初に書いた人物として、象徴的な地位を与へられた。

 しかし、現代では歴史を客観的に書くといふことが不可能であること、絶対的な客観性などといふものはない、とくに自分の生きた時代の歴史や戦争の歴史を書く場合には不可能であるといふことが知られてゐる。

 ツキジデスは単に偉大な歴史家であつただけでなく、まず何よりも偉大な芸術家であつた。(コンフォード)。

 彼は『ペロポネソス戦争史(邦訳名『戦史』)』を、三幕のドラマの形で著した。彼は対話といふものに非常に興味をもつた。じじつ、この戦争はドラマであつた。歴史家はこのことを戦争の続行中に見抜いてゐた。(ボナール)

 このドラマの主要人物は五人(ニキアス、クレオン、ペリクレス、アルキビアデスのアテナイ人と、スパルタ人ブラシダスか、シラクサ人ヘルモクラテス)であり、それ以上はいない。

 彼はポリス間の戦争を、多数の人物の複雑な対立葛藤を伴うシェークスピア劇のやうに扱つたのではなく、当然予想されるやうに、古典悲劇の構成の技法で扱つた。ここでは、四、五人の個々の人間(その四人はアテナイ人)が完全にこのドラマの意味を映し出してゐる。もちろん、印象深い筆致で描き出された表現に富む大衆の姿は別にしてのことである。(ボナール)




 ツキジデスは、つねに二つのものを併置して考へそして書いた。彼はすべてを対称的な構造で表すが、変化を与へ読者の注意をひくためだけに「非対称的」要素を取り入れる。かうして二つの対置の冗長さに活を入れる。要するに、ツキジデスは弁証法的に考へて書くのである。

 ツキジデスの語るものは戦争の歴史だけではない。われわれにとつて最も重要なもの、パン、自由、栄光の獲得と喪失が、緊張した対話の中で問はれるのである。ときどきこの緊張が解け、大理石のごとき重みと輝きをもつた言葉に変はることがある。

 その代表的な例がぺリクレスの次の言葉である。「幸福は自由のなかにあり、自由は勇気のなかにあると肝に銘じて、諸君は戦争の危険にけつして怯んではならない(ツキジデス2.43)」(ボナール)



 ツキジデスの歴史のもう一つ重要な面は、医学においては自然法則の認識によつて自然界に働きかける力を得たように、歴史学においては歴史の法則を見つけだして後世の政治家に役立ててもらはうとしたことである。



 彼は出来事のなかに神の手をみることはなかつた。その点でヘロドトスと違つてゐる。ヘロドトスはギリシャの勝利を神の意思だと信じた。しかし、キリスト教のやうな単一の宗教的な権威といふやうなものもなかつた。そのため、すべての歴史的事実を神の意思によると説明することはなかつた。

 その意味で、ツキジデスは歴史を学問の地位にまで高めたはじめての歴史家である。ヘロドトスと違つてツキジデスの歴史のなかには不思議が現象の記述がまつたく見られない。ヘロドトスの場合は、神が事件に介入することすらいとはなかつた。しかし、それでは事件を解明したことにはならない。それでは学問にはならないのである。

 ツキジデスがもし無神論者であるとすれば、それはあらゆる科学者が無神論者であるのと同じ意味においてさうなのである。科学者は事態の説明に神を持ち出すことはできないからである。したがつて、彼は自分の歴史の基礎に、「歴史の法則は原則として人間の理性の法則に合致する」といふ合理主義的な仮説をおいた。

 その意味で彼は、アナクサゴラス、レウキッポス(デモクリトスの師)、デモクリトス、ヒポクラテスと同時代人だつたのである。合理的な基盤の上にたつ人間に役立つ学問を、彼らはめざしたといふ点で一致する。(ボナール)




 ツキジデスは、当時の超自然的な力が依然として支配的であつた歴史の領域に、厳密な意味での科学―自然科学と医学―の方法と精神を導入したのである。それはソクラテスが倫理を科学にしようとしたのと一致する試みである。歴史を有用な学問として打ち立てることは、歴史上の成功と失敗の主因が人間の本性のなかにあると認めることである。そして、歴史とはツキジデスにとつて生存欲の戦ひであつた。(ボナール)


 ポリスにとつて生きることはつねに新たな試練によつてその力を試すことである。アルキビアデスの言ふように「ポリスは安逸のなかでは存立しえない」。

 ポリスとは個人の利の間に成立する契約の場である。ゆゑに、ツキジデスの弁論家たちは、国家の危機にさいして国家の利と個人の利は同じであること、個人の安楽、個人の生命自体が、国家の繁栄するときにはその恩恵にあずかる一方で、国家の没落とともに滅びさることを証明しようとする。

 国家も個人とおなじく、所有し存続することを求めるのである。これがツキジデスの言ふ歴史の法則である。そしてここから生まれる混沌に秩序をもたらすものが知性の力なのである。そしてこの知性は偉大な指導者のなかにやどつてゐる。しかし、そこに至つた時点で、この民主制が末期に至つてゐたことがわかる。ツキジデスの歴史はアテナイ民主制の失敗の原因を探るものと言えるのである。(ボナール)



 ギリシャの歴史家の独創的な点は、東洋の歴史記述の特徴を持つていないことである。東洋、エジプトやメソポミア、ペルシャ、旧約聖書の歴史記述の内容は、王家の家系図、王の碑文,年代記などであり、王家の正当性、とくに宗教的な正当性を主張することを目的とする傾向がある。

 ヘロドトスやツキジデスの劇のやうな対話が見られることはない。ギリシャ人のものは、宗教面や王家の血筋による権威づけがない。個人的な意見が入つてくる。知らないことを知らないといふのも新しい。この結果、記述の正しさに信頼感が出てくる。蓋然性があるかどうか、本当かどうかを検討しようとする点も新しい。また、条件が異なれば違つた展開があり得たかどうかにまで考へを広げる。

 これは、歴史記述に選択といふ要素が入り込むことを認めてゐることになる。(K.ドーバー)



 ツキジデスも超自然的な力が介入することを認めた。それはテュケー(偶然)である。偶然的な力は非合理的要素であり、無視できないものであることを知つてゐた。

 ツキジデスの歴史を読むとまるで『オイディプス王』を読んでゐるような気がしてくる。悲劇の構成を持つてゐるのである。中心となる事件の直前のところから始めるが、それが終はると事件そのものを物語るまへに、それ以前のいきさつを語つてみせる(50年史)。

 また、ポテダイアを失つたペロポネソス同盟の会議におけるアテナイ人の発言はアイロニーに満ちたものである。「スパルタ人たちよ、戦争は偶然の要素に大きく左右されることを忘れてはならない。戦争は長引けば長引くほど、偶然によつて状況が動かされるやうになつてくる」。

 また開戦前にアテナイ民衆をまへにして、いみじみくもペリクレスは「わたしが恐れるのは敵の作戦ではない。わたしが最も恐れるのは、むしろわれわれの側の思ひ違い(ハマルティア)である」そして、まさにアテナイは偶然と思ひ違いによつて敗れていくのである。

 また、アテナイ人はペルシャ戦争における自分の果たした功績の大きさを自慢する。オイディプスがテイレシアスに対して、自分の能力の高さを自慢する場面に似てゐる。

 事件の推移、話の運びが神話にそつくりであることがある。バウサニアスの伝令としてペルシャ方に行くことになつた男が、これまでの伝令が帰つてこないことに疑問を持つて密書を開封すると、自分を殺すやうにといふ指令が書かれてあるのを発見するくだりなども、有名な多くの神話と同じである。



 ツキジデス2巻4章の、逃げるテーバイ人が守り手のない門を開けるために、女が斧を与へたといふくだりは、リビウスのサビニー人の町にローマ人が入るくだりに似てゐる。

 アテナイを偉大にしたものは冒険心であると、ペリクレスは言つた。(2巻43)これはアメリカのフロンティア・スピリッツに匹敵する。アテナイ人にとつてのフロンティアは地中海だつた。アメリカ人もアテナイ人の場合も、そのフロンティア精神が知の領域に対して同じやうな役割を果たして、彼らは新たな領域を開拓していつた。



 2巻43「η εναντια μεταβολη 運命の逆転」は、戦場で命を失うことを指してゐる。


 ツキジデスは民主派に好意的ではない。本人はむしろ寡頭派に属してゐた。その影響は戦史の記述に出てゐるはずである。奴隷に対して好意的な見方をしてゐたとも考へられない。奴隷を解放して戦力にすることに好感を持つてゐたのではなからう。奴隷を軽蔑してゐたのではないか。

 ケルキュラの内乱で奴隷の大部分が民主派についたといふ事実の記載はどう読むべきか。彼らは正しいことをしたといつてゐるのか、馬鹿なことをしたと言つてゐるのか。

 大胆な戦術をとるのはつねに民主派の連中であつて、スパルタ側の兵士たちは決して敵を深追ひしたり不利を予想される戦ひをしかけたりしない。その結果、味方を見殺しにしてしまうことも間々生じたが、気にとめていない様子である。これはアテナイ側とはまつたく異なつた対応である。それをツキジデスはどう見てゐたのか。

 ツキジデスが想定してゐた読者はだれか。民主派を名乗る連中のやり方の無茶苦茶ぶりを忘れずに記述してゐるやうにみえる。民主派の連中にとつて騙しは日常茶飯事だ。

 おそらくツキジデスはどちらの味方でもなかつた。戦争が起こつたときの人間の行動、人間性の変化そのものを描かうとしたと見るのが適当だらう。ツキジデスに党派性を見るものは、3巻84の記述の意味づけができない。

 ツキジデスは要するに哲学をしてゐるのだ。そして哲学をすることもまた、ギリシャ人の間では珍しいことではなかつた。この記述が無かつたら、戦史は単なる殺しあひの記録にすぎないものとなつたことだらう。それほどにもたくさんの戦ひとスキャンダラスな行動の記録が収められてゐる。英雄たちですらその例外ではない。

 権力を手にするためにはどんなことでもする、そんな風潮がギリシャ世界、特にアテナイに広まつてゐた。それは悲劇『アンティゴネ』のなかでも同様で、クレオンはポリュネウケスの遺体の埋葬を禁じるといふ人倫にもとるスキャンダラスな行為に出た。(ただし、クレオンは権力を得たのちにそれを行なつたのであり、権力を得るためにさうしたのでない)作者ソフォクレスはそれを批判的に扱ひ、劇の結末にクレオンの破滅を置いた。では、ツキジデスのなかにも埋葬を禁じた例はあるのかないのか。



 ツキジデスを読んでゐると、悲劇に出てくる状況が実は同時代のものであることがよくわかる。嘆願者として神殿にかけこむことは日常茶飯事であつた。また命ごひをする者は、アイアスの妻テクメッサが人から受けた恩義を忘れてはいけないと言つたのと同じやうなことを言ふ。

 無駄に時間をつかふ行動の典型として、略奪をしてまわることが3巻80に出てゐるが、テウクロスがアイアスのもとから離れてゐるのも同じく略奪行為をしてゐるためであつた。

 不法な殺人を犯した者のために町に呪ひがかかるといふのも、特別な事態ではない。戦争で勝つた方は人道にもとるあらゆる行動に出た。敵であつたものは容赦なく皆殺しにしてしまう。神殿に嘆願者としてすがりついてゐる者もお構いなしに殺した。とくに民主派がさうするやうすが描かれてゐる。

 人倫の法が無視される様子が戦史の中にはこれでもかといふふうに描かれてゐる。騙しは民主派の英雄テミストクレスにはじまつて、あらゆる勇者がこれをおこなひ人を殺した。戦争になると人間は残虐の限りをつくすやうになつてしまう。それは人間の生まれもつた性であるとツキジデスは言つてゐる。(3巻82)

 ツキジデスは戦争を引き起こし継続させる要素は、憎しみであると思つていた。数々のインチキ、裏切り行為、騙しが、憎しみを増大させていつた様子を克明に描ゐた。

 自由と解放はアテナイとスパルタの両者が戦争をする口実として使われた。

 ツキジデスはホメロスの伝統に従つて、発言、会話を戦争の記録のなかに挟み込み続けた。しかしその他の部分は全てこまごまとした戦ひの記録である。それは、作戦、その失敗、行進、裏切り、密告、交渉、攻城、陣形、戦いの経過、死亡者の記録である。

 アテナイ・スパルタ双方ともに自分たちは侵略者ではなく相手が侵略者であると言ひたて、自分たちは防衛のための戦争をしてゐるのだと言ふ。



 大岡昇平が『レイテ戦記』を書いたのは亡くなつた兵隊の霊を慰めるためだといふ。日本文学はすべからく鎮魂の文学といへる。つまり、ギリシャ文学とは全くちがふ目的で書かれてゐるのである。それは運命と闘う文学ではない。運命と闘つて敗れた者たちを慰めようとする文学である。『オイディプス王』は運命に敗れたオイディプスを慰める文学ではない。大岡の文学は運命に敗れた兵隊を慰める文学である。大岡にとつて戦争は運命であつた。




 デモステネス(『刑事コジャック』に登場する太つちよの刑事を演じた役者の名前もデモステネスである。ギリシャ系だらう)は、アテネの民主制を守るために闘つた。マケドニアのフィリッポスの権謀術数と一人で闘つた。

 フィリッポスは「黄金を積んだラバを一頭中に入れることができれば、落とせぬ都はない」と豪語した。彼は交渉を果てしなく引き延ばし続ける方法を心得てゐた。その交渉中につぎつぎと都市を落としていくのである。(ボナール)

 約束はいくらでも与へるがこれを守るつもりは毛頭ない。肝心なものを得るために些細な譲歩をすることは心得てゐるが、しかもこの譲歩を他人に肩代わりさせてしまう。

 彼は忍耐強く、徐々に一つの状況をつくり出していく。そし時間をかけて機が熟するのを待つて、熟した実を突然力づくで摘みとるのである。表面は平和を維持しながら戦争するのが上手いのである。

 戦争といふ機械仕掛けのうちでも最も重要で危険なものは平和である。それこそが帝国主義者の常套手段なのである。フィリッポスはアテナイの生命線がトラキアとダーダネルス海峡であることを知つてゐた。最初にここを彼は攻撃したのだ。しかし、アテナイに対しては決して宣戦布告をすることがなかつた。平和を彼は戦争の手段に使つたのである。(ボナール)

 そして、デモステネスはみごとに敗れ去つた。その弁論は、マケドニアに対抗するやうアテナイ市民を鼓舞するものである。しかし、アテナイ人はもはや政治には興味がなかつた。参政権すらいらないと言ふやうになつてゐた。彼らはただ「パンと見世物」だけを要求した。(現代の多くの日本人と同じく、自分の個人としての安楽さへ得られたら政治などどうでもよかつた)。

 政治は政治家に任せておけばよいといふ考へ方が広がつた。直接民主制のアテネにとつてはこれは致命的なことであつた。アテナイ民主政治は終焉のときを迎えてゐたのだ。彼の努力は一切実を結ばなかつた。彼は隷属よりも死を選んで、最後には自害した。





 プラトンにとつて文学は嘘であつた。ゆゑに彼の創造した国家からは文学は追放された。しかるにプラトンもまた文学者であつた、詩人であつた。この矛盾のためにプラトンは理解しがたいものになつてしまつた。

 彼はソフィストの時代に生きた。ソフィストは言ふ「人間は不平等に生まれついてゐる。倫理道徳は弱者が強者を抑へるために捏造したものにすぎない。それゆゑ、最も理にかなつた政治形態は貴族制である」。これを聞いて貴族出身のプラトンは大いに喜び、耳をかたむけた。

 しかしそこにソクラテスが現れた。伯父のカルミデスは美少年であつた。ソクラテスはその美しさに感嘆の声をあげた。しかし同時に一つ条件をつけた。「これにほんのわづかのことが加はればよいのだ」と。それは「何ですか」「それは魂の美だよ」。

 そのカルミデスはソクラテスに知とは何かと問はれて答へられなかつた。友情について問はれたリュシスも答へられなかつた。軍人ラケスは勇気について問はれ答へられなかつた。最高の学者ヒッピアスは美について尋ねられて答へられなかつた。大哲学者プロタゴラスと大弁論家ゴルギアスは修辞学について答えられなかつた。(ボナール)




 プラトンの第7書簡はアテナイ陥落後のクリティアスらの三〇人政府に対して抱いた希望を反省する内容になつてゐる。それは三〇人政府の当時の様子を伝へるものである。民主派は腐敗・堕落してゐるとプラトンには思へた。ソクラテスはクリティアスらの仲間だといはれて民主派の標的になつた。ソクラテス=プラトンの師を殺した民主制をプラトンは憎んだ。

 プラトンは観念論だつた。目に見えないものこそ、真の現実であると捉へてゐた。目に見える世界で起こつたソクラテスの死は到底受け入れられないことだつた。ソクラテスは生きてゐなければならない。プラトンはその作品のなかでソクラテスに語り続けさせた。

 正義の人ソクラテスの姿は「ソクラテスの対話篇」と呼ばれる初期の対話篇の最後の作品である『ゴルギアス』で完全な姿をとつて現れてゐる。不正な民主制のもとでは死を選ぶしかない正義の人の姿が現れてゐる。『ゴルギアス』とは、狂つた民主制アテアイに対する知性の側からの挑戦状である。アテナイの不正をあばく書なのである。

 「不正を被る者は、不正を働く者よりも幸ひである」とソクラテスは言つた。(ボナール)



 プラトンは神秘主義をとつた。彼はオルフェウス信仰とピュタゴラス学派の哲学の影響を受けてゐた。『ゴルギアス』には、シラクサの僣主ディオニソス一世の暴君ぶりも描かれてゐる。『国家』においてプラトンはアテナイ民主制の歴史的失敗をデモステネスやツキジデズと同じく、彼なりのやり方ではあるが確認した。『国家』はアテナイ民主制に対する死亡証明書である。(ボナール)



 プラトンは自らが愛する感覚の世界の存在を否定する。この世界に対するはじめの熱烈な愛情にも関はらず、この世界は存在しないと断じた。感覚は誤謬しかもたらさない。真実は感覚ではとらへられない。イデアの世界こそ真実の世界である。現実はこのイデアの世界を映す影にすぎない。

 このプラトンの現実否定の姿勢とオデッセイの現世を謳歌する姿勢との違いは著しい。ギリシャ世界は終焉にさしかかつてゐたのだらうか。

 死者の国のアキレスは黄泉の国に下つてきたオデッセイに言つた。「死者の国の王となるくらいなら、いつそ貧しい農民の作男として現世で暮らしたい」。地上の現世が最も価値ある世界だと言つたのである。

 しかるに、プラトンは現実の肉体は魂の墓場であるといふ。魂がまづあつて、それが肉体に一時的に宿つてゐるのが現世の暮らしであるといふ。そして肉体が滅びても、魂は永遠に生き続けるといふ。かうした考へ方はキリスト教にも受け継がれて今日にも広まつてゐる。それどころか、プラトンの理想国はキリスト教のつくつた国に実現されてゐる。教団の組織はプラトンの『国家』に手本を求めて作られた。

 ソクラテスは言つた。「哲学とはいかに死ぬかを学ぶことだ」。人間は肉体の牢獄に閉じ込められてゐるかぎり、真の知恵を手に入れることはできない。肉体のもたらす欲望こそはすべての諸悪の根源である。(ボナール)

 たとへば戦争は肉体の欲望を満たすためにおこる。所有欲といふものは、肉体がなければありえない。財貨を求めて人は戦争をする。奴隷のやうに人は肉体のいひなりにならざるをえない。人は死んでこそはじめて、肉体から離れて魂が自由を獲得する。

 『パイドン』には肉体と感覚の世界に対する侮蔑に満ちた文章が見られる。これはこれまでのギリシャ文学にはなかつたものである。ここに新しいギリシャ精神をみることができる。

 しかし、古典的ギリシャの世界はもう終わつた。ここから「心の清き者は幸ひである。彼は神を見るであらう」といふ聖書の世界にいたるまでは一歩である。であるから、この世と肉体とおさらばできるときこそ最もめでたい瞬間なのだ。ソクラテスはそしてプラトンはさう信じようとした。これは悲しむべき世界観であらう。これは現実の世界に満たされないものを感じる人間の言葉であらう。

 プラトンは今はなきアトランティス大陸の物語をクリティアスにさせてゐる。

 プラトンは人間社会の起源についてプロタゴラスが作つたといふ神話を語つて、社会が野蛮な状態から出発したことを語り、人類の進歩にとつて法がいかなる意味を持つてゐるかを示してゐる。





 アウグスチヌスはヘレニズムとヘブライズムの融合の生きた姿といふことができる。『告白』のなかでアウグスチヌスはプラトンを読み、そこで言はれてゐることを聖書のなかに再発見したと言つてゐる。彼はプラトンの知識をもとにしてカトリック教会の教義を形成した。

 パスカルは言ふ「プラトンはキリスト教を準備するために存在した」。(ボナール)





 アリストテレスの仕事のなかで他のなによりも彼が愛着をもち、彼の人生において何よりも大きな場所をしめてゐたのは生物の研究である。生物学に関する研究論文は残存する全集の三分の一にあたる。彼の『動物誌』は495種類の動物に関する事実の宝庫である。

 『魂について』は『生命と生命の基本的機能あるいはその根源について』と言ひ換へることができる。決して霊魂のことについて語つた論文ではない。生物一般についての考察である。(ボナール)

 「自然の作品には偶然性はなく、そこには目的性が極めて強く支配してゐる。その組成と生成の目的こそが美を生み出すのである」(『動物の部分について』645A8~30)

 彼は各生物各器官が自然によつて、ある目的ある特別の意図をもつて造られたと考へる。これが彼のいふ目的性である。自然には意図があるといふのである。この意図を発見することこそ、この世の美を日々再発見することである。(ボナール)

 『自然学』198B18~30には雨にかんする正確な記述がある。「ゼウスが雨を降らせるのは穀物を成長させるためではなく、必然的な原因によつてゐる。すなはち、上昇した水蒸気は必ず冷却される。冷却された水蒸気は必ず水になつて落ちてくるのである」デモクリトスでさへかくも巧みに言ふことはできなかつた。(ボナール)



 アリストテレスは、動物は地面から遠ざかるにしたがつて多くの知性をもつやうになつてゐるといふ。つまり、動物はまず地面を這い、次に四足で体を支へて、最後に二本の足だけで地面と接触する。

 『動物の部分について』には、知性の低下と生命の地面への接近に関するおもしろい文がある。すなはち、二足動物から四足動物へさらに無足動物へと下つていき、最後には、人間の身体の各部位の順序が逆さになつて、動物は感覚を失つて植物になる。(J.M.ルブロン『生命の哲学者アリストテレス』)

 つまり、養分の摂取の器官である根は、人間の直立姿勢とは正反対に下に置かれ、植物のいわゆる「頭」は土のなかに埋まつてしまうのだ。かうして感覚の喪失とともに知性の完全な消滅がおこる。(ボナール)

 「この方向に少しづつ進み、生命源を下にもつようになり、ついに頭の部分は不動で無感覚になる。すなはち、上部が下、下部が上になつて植物となるのだ。事実、植物では根が口と頭の役目をはたしてゐるのであり、種は正反対の部位、すなはち上方の枝の先端部にできてゐる」(『動物の部分について』686b32以下)

 「人間は上手にできてゐないばかりか、他のどの動物よりも劣つてゐると言ふ人たちがゐる。すなはち、人間は裸足で裸であるうへ、身を守る武器ももたないからだと言ふのである。

 「しかし、彼らの主張は正しくない。事実、他の動物は身を守る手段を一つしかもたず、これを他のものと取り替へることもできない。眠るときも何をするときも、たえずいはば履物をはいてゐなけばならず、身をおほふよろいを脱ぐことも、偶然与へられた一つの武器を取り替へることもできない。

 「一方、人間には身を守る手段が多数あり、これをいつでも取り替へることもできる。また、どんな武器であれ望みのものを望むときにもつことができる。手は爪にも蹄にも角にもなれば、槍、剣、その他あらゆる武器・道具にもなるからである。手はなんでも掴んだり持つたりできるので何にでもなれるのてある」(『動物の部分について』687a23以下)

 彼がたくさんの事実を集めたのは、これらを比較してそのなかの法則を発見しようと試み、自然について考へるためであつた。アリストテレスの生物学の独創性は、集めた事実をたえず比較したことである。たとへば、魚のうろこは鳥の羽、四足類の毛にあたると考へた。

 アリストテレスは消化器官を中心にあらゆる動物を再構成して、それを図式化してゐる。最も完全な有血動物(脊椎動物)は、垂直の線であらはされる。上から下へ、口、食道、胃、腸、排泄器官の順にならんでゐる。軟体動物では不完全な円が直線のかはりにくる。排泄器官が口の近くにあるのだ。植物では、すでに見たとほり、直線ではあるが上下がさかさまになつた直線である。 (ボナール)



 クジラやイルカを魚とは別の分類にしたのはアリストテレスが最初である。

 彼は、にわとりの卵のくわしい観察をして、卵が鳥になる段階をくわしく検証してゐる。たとえは、卵のなかの黄身は栄養分でしかなく、鳥のからだになるのは白身の部分であること、白身のなかの赤い点は発育の4日目に現れるが、それは心臓であることを知つてゐる。

 生命とは、われわれの存在の最後の基盤、原初的な根本である。それは、欲望によつて繁殖し、飢えを感じ、飢えを満たして存続するために他を殺すものなのである。(日常的に植物や動物を殺し、ひどくなると人間をも殺して自己の存続をはかる)。

 人間にも植物にも命がある。そこにまづアリストテレスは着目する。それがアリストテレスのおもしろいところである。例えば「愛情は生命にとつて不可欠な感情である。この感情は人間だけでなく鳥にもその他の大部分の動物にもある。それは同じ種の相互のあひだに、とりわけとくに人間におほくみられる」(『ニコマコス倫理学』1155A4-20:1097B34では植物もまた人間と同じく生きてゐることをわざわざ指摘してゐる)

 この意味で動物は人間の準備段階である。そのことは人間の幼児を見ればよい。(ボナール)

 「動物も、従順と獰猛、柔和と強情、勇敢と臆病、不安と大胆、剛毅と卑劣、また知的聡明さをもつてゐる。これは人間と動物が肉体的に類似してゐることと同じである」(『動物誌』588a15以下)



 ムュージアムの語源となつたムーセイオンは、本来は大学といふ意味である。この言葉はピュタゴラス学派にさかのぼる。この学派はムーサ(美術・文学・学芸の神。英語ではミューズ)に対する信仰を科学研究の基礎においた。

 そして学校のことをムーセイオンとよんだ。それはアリストテレス、テオフラストス、デメトリオスと受け継がれていつた。それは学者と生徒の集まり、すなはち今日でいふ総合大学のことである。とくにアレクサンドリア(エジプトの北岸)にデメトリウスによつて開かれたムーセイオンは有名な学者たちを集めた。例えば、ユークリッド(エウクレイデス)、アルキメデスがさうである。

 アリストテレスは『政治学』を書くにあたつて、158のポリスの政治体制を調査したが、もちろん一人でやつたのではなく、ムーセイオンすなはち大学のたくさんの学者が共同でおこなつたことである。彼らはみんな論文にまとめたが、そのうちの一つがアリストテレスによつて書かれた『アテナイ人の国制』だつた。他の157の論文は失われてしまつた。(ボナール)




 地球は球形をしており、一日に一回自転をして、一年に一回太陽の周りをまわる。これらの事実を発見したのはギリシャのサモス島出身のアリスタルコス(前310年~前230年)である。彼もアレクサンドリアの学者であつた。ただし、これは彼一人の発見ではなく、それまでに様々な試行錯誤があつた。

 前6世紀にはすでに地球が球形をしてゐること、地球の自転・公転をピタゴラス学派は知つてゐた。前4世紀末、ヘラクレイデスはすでに太陽のまわりを水星と金星がまわつてゐることを知つてゐた。そしてアリスタルコスに至つて、はつきりと「地球は他の惑星と同じく太陽のまわりを回転する惑星であり、この回転を一年で終へる」と言ふやうになつたのである。

 1539年の『天体の回転について』でこれとおなじ説を唱へたのがコベルニクスであるが、その本の中で、はつきりとアリスタルコスの名をあげて、地動説を発見したのは自分の独創でないことを明示してゐる。これは近代科学が古代の科学を再生したものであり、そこから出発してゐることをよく物語つてゐる。(ボナール)



 最初の時計を作つたアナクシマンドロス(前610年~547年)は、地球から星々・月・太陽までの距離の比を、地球の直径の9倍・19倍・27倍とした。彼は人間が魚から進化したものだといふ考へをすでに表明してゐる。星図も書いてゐる。最初に「自然について」という書物を書いたのは彼とフェレキュデス(Pherecydes)であると言はれてゐる。



 すでにアナクサゴラスは前5世紀に太陽は燃える石であり、月は土でできてゐると言つたが、このおかげでアテナイの法廷で彼は不敬罪で有罪の判決を受けた。なぜか。星といふものは神であり、地球は死すべき人間の住む汚れたところであるからであり、一方で、地球は万物の中心でなければならないとする人間の自尊心がある。といふわけで、地動説はずつと長い間受け入れられなかつた。

 現代でも占星術(星占ひ)を信じるのは、星が神であつて人間の運命を決めると信じられてゐるからである。星占ひは前3世紀に非常にはやつた。ストア哲学では星は崇拝の対象になつた。

 テュコ・ブラーエといふ16世紀の有名な天文学者(1546年~1601年)でさへもコペルニクスの説に反対して、地球を宇宙の中心にすゑて、他の惑星を太陽のまわりで回転させる一方で、太陽を地球のまわりに回転させた。これは古代の誤謬に戻つたにすぎない。

 事実、天動説と地球不動説は古代末期にも支配的であつた。プトレマイオスがその代表者だつた。カトリック教会はこの二つの説を19世紀(正確には1822年)まで捨てなかつた。天文学は古代ギリシャ人によつて始められたが、ローマ人の関心事とはならず、ルネサンスに再び見出されるまで天文学者は一人もいなかつた。(ボナール)




 地理学者には前4世紀にピュテアスがゐる。彼ははじめてマルセーユからヨーロッパの西側を船に乗つて北上して、イギリスからフィンランドまで航海して、各地の風習を書き留めた。

 彼は、フィンランドでは夏には夜が2、3時間で昼が21、2時間続くことを知つてゐた。また緯度・経度の計算を正確におこなつており、潮の満ち引きと月の関係を知つてゐた。しかし、ローマ人に彼の知識は受け継がれることなく、彼が切り開いた行路を再発見するのもまたルネサンスの時代をまたねばならない。

 またヴァスコ・ダ・ガマの開いた季節風モンスーンに乗つたインド航路はプトレマイオス一世の時代にすでにヒッパロスによつて発見されてゐた。キュジコスのエウドクソス(前2世紀)も同じ航路を開拓した。

 地理学者エラトステネスは地球の全周の長さを計算して4万50キロだと言つた。これはほとんど正確だつた。これより正確な数字を出した人が現れたのは14世紀のことである。トロイヤ戦争の年代を前1180年と正確にはじき出したも彼である。ユリウス歴を発明したのもエラトステネスであつた。それを実施したのがユリウスであつた。

 ねじを発明したのはアルキメデスであつた。(ボナール)




 アポロニオスの詩『アルゴナウティカ(アルゴ号の冒険)』はロマン的な場面で最もすぐれてゐる。彼の語る情熱の物語からロマン的な香りがたちのぼる。感情や事件がこのうえなく明るい面を見せると同時に底無しの暗闇をのぞかせる。彼は、メデア(メデイア)の人物とその恋の冒険の中に、一人の少女、子供のやうに無邪気な無垢の魂とそれに襲ひかかる激しい情熱といふ対比を鋭敏に感じとることができた。

 この恋愛物語の最初の場面において、イアソンの姿を見たとたんに恋に陥るメデアのロマン的な一目惚れはこの強烈な対比を示す。最も賢く初なこの少女が最も激しい情熱の魔力に捉へられる。そして、たちまちこの感情と魔力に全身全霊を委ねる。のちに異国の人にをしみなく自分を与へるように。

 しかし同時に、彼女は一瞬ごとに自分を取り戻す、いや取り戻さうと試みる。ロマン主義とは、人間の心の中でたえず引き起こされ、つぎつぎに交錯する無数の情熱の対比の上に築かれる。メデアが生と死のあひだで思ひ巡らせる場面(3巻780以降)は、まさに完璧なロマン主義によつて仕上げられてゐる。この点からみて、この詩はギリシャ文学の中に類例のない独特な作品となつてゐる。(ボナール)




 ミーモスとは、対話で日常生活の場面を再現する写実的作品のことである。作者はテオクリトスやヘンロダスである。

 テオクリトスにおいて、とけあつた自然と愛の詩が読者に提供するものは、もはやかつてのやうに生き方や死に方(必要とあれば雄々しい死に方)ではなく、生からの逃避、甘美な忘却への逃避である。

 「詩は人間にとつて、口当りのよい甘い薬、だが見つけるのは容易ではない」(『牧歌』第11歌3-4)とテオクリトスは言ふ。「甘美」といふ言葉は、金の糸のやうに彼の作品を端から端まで貫いてゐる。詩はもはや生との闘ひをもたらすのではなく、夢、生からの休息、生への郷愁、生のすばらいし忘却、生に代はる夢を与へるのである。(ボナール)



 これまでのギリシャ文学の第一目的は、人々に力をかして現状の世界のなかに生き、この世界を直視し変革するのを可能にさせることであつた。人間の性質には向上心があるがそれには危険がつきものである。その危険を拒否する文学は逃避の文学である。

 ヘロンダスのミモスは、わざと人間の低俗さを選び、あらゆる階層の人々の狭量さ、愚行、みみつちさ、悪徳を、戯画化することなく写実的に描く。

 ギリシャの小説は紀元後間もなく現れる。それより先に生まれた叙事詩や叙情詩や劇詩は、すでにはるか以前にそれぞれの行程を走り終へてゐた。雄弁術は修辞学に堕してしまつた。最後の詩人たちは、地理学、医学、博物学を詩にしたり、エピグラム(寸鉄詩)を練つたりしてゐた。

 この黄昏のやうな時代にあつて、哲学だけがいくらか生彩を放つてゐた。しかし、時代の先端をいくジャンルを次の世界に残さずに眠りに就くことを望まぬかのやうに、古代ギリシャは小説を生み出した。

 小説は突然隆盛の時代を迎へ、無数に作り出された。紀元2世紀頃のことである。『ダフニスとクロエ』と呼ばれるロンゴスの牧人物語はさらに下つて紀元5世紀のものと思われる。主題はアレクサンドリア期の恋愛詩から、背景は探検家たちの半ば空想的な物語から、その調子は、当時の詭弁術(低俗な感情分析で恋愛といふ主題を説明するのに長けてゐた)から借りるといふ具合で、ギリシャ小説は寄せ集めの半端ものからできており、大抵の場合凡作の域を出なかつた。

 筋はごく平凡で、決まりきつたやうに障害に出会う恋と冒険の絡み合ひである。愛し合ふ若い男女がゐて、それぞれ際立つて美しく忠実で貞節である。だが父親の反対で二人の仲は裂かれる。妬む者、裏切る者が二人を狙ふ。

 偶然がわが物顔をして筋書きのなかにのさばり、二人の行く手に数々の障害を置く。だが、最後には恋と美徳があらゆる試練に勝つて報はれる。意地悪な偶然は突然やさしくなり、恋人同士を結び合はせ、悪人を罰する。悪人も改心すれば罰を免れる。

 これらの話には善良な悪人がいつぱい現れる。そして、きわめて教訓的に万事目出度し目出度しで終はる。

 このシナリオに、ありとあらゆる荒唐無稽な作り話が雑然と附け加へられる。金持ちで名門の両親の子であることが危機一髪といふところで判明する大勢の捨て子。見捨てられ海に投げ込まれたり、生き埋めにされたりするが最後には必ず戻つてくる恋人。悪虐な王、腹黒い魔法使い、海賊などの無数の登場人物。美青年の主人公にしつこくまつはる中年女、主人をさらつて行つた船を泳いで追跡する献身的な老僕。さらに、登場人物でも作者でも難儀に会ふと必ず現れて助けてくれる安物の神託や夢。それに異国情緒に満ちた背景。(ボナール)



 『ダフニスとクロエ』は他のギリシャの小説のやうに、主人公が広い世界を駆け巡るといふことはない。この少年少女たちは岩によぢのぼつたり山羊を引き下ろしたり、興奮して角を突き合ふ牡羊を追つたりするが、いかなる旅もしない。

 『ダフニスとクロエ』の自然は、平和でやさしく恵み深い自然、人間と人間の幻想に合はせられ、人間の苦しみを暖かく受け入れ、人間の歓びにほほゑむ自然である。
 
 それはアリストファネスの自然(光と音と匂ひに満ち、輝く鋤で大地が掘り起こされ、村が堆肥やローズマリーや新酒の匂ひを放ち、女の胸が野で走るとき風によつてあらはになり、生け垣に小鳥がさへづり、蝉が陽光に浮かされて叫ぶ自然)でもなく、

 ヘシオドスの荒々しく気難しい自然(彼は根つからの農夫で、大地には汗の代価として受け取る収穫のほかに愛すべきものを見出さない)でもなく、

 ホメロスの自然(惨めな人間の苦しみに無頓着で、人間の祈りを聞く耳も持たず、その魅惑のなかに人間を引き入れるのも、単に彼を意のままに操るためにすぎない静穏で厳しい自然)でもない。

 これはダフニスとクロエの甘美な恋の物語である。これは当時の性教育の役割もかねてゐた。オーセールの偉大な司教アミヨのすばらしい仏語の翻訳がある。(ボナール)

 『ダフニスとクロエ』はレスボス島のはなしである。その中にはレスボス島の二つの町ミュティレネとメテュムナが別々の国として戦争を起こす話があるが、ここから当時はまだ都市国家の時代だつたことがわかる。このような小さな島にも沢山の都市国家があつたのである。




 エピクロスの師はデモクリトスである。彼の擁護者ルクレティウスはデモクリトスとエピクロスの考へ・思想を『物の本質について』の中で伝へた。エピクロスの作品としては書簡が3通、『主要教説』(80の格言集)と断片だけである。

 彼はその悲惨な時代において、来世における幸福ではなく、この世での幸福を唱えた。彼は膀胱結石に生涯悩まされつづけた病人だつた。アテナイにやつてきたのは35才(前306年夏)の時だつた。

 彼はプラトンのイデア論を、誤つた世界観に基づく空論とみなした。ドストエフスキーの言ふ「地の糧の旗」を掲げた人である。

 ルクレティウスの『物の本質について』(1・101)にTantum religio potuit suaderemalorumといふ有名な詩句がある。「宗教には人間にこんな忌まはしい悪事をさせる力があつたのだ」エピクロスは、人が宗教によつて、神に対する恐れによつて不幸になるのを批判し、神を恐れることはないと主張した。彼によれば人類の恐怖は、死への恐怖と神への恐怖の二つである。

 「物体が存在することは、感覚自体が万人のまへで証明しており、知覚できないものについては感覚に従つて理性によつて判断されなければならない」(エピクロス『ヘロドトスにあてた書簡』39)

 ルクレティウスの『物の本質について』(1・149~60)に「何も神の力によつて無から生じることはない」といふ詩句がある。これと正反対の位置に立つのがプラトンである。プラトンは物質界の存在を否定し、感覚の明かす世界を非存在と断じた。

 エピクロスにとつて、われわれの主張が明かすこの世界、否定できない証拠をもつてわれわれの眼前に開かれる色と運動の世界、この世界はまさに存在するのである。

 この世界には原子とその運動と空虚しか存在しない。われわれの見る事物、生物、またきわめて微細な原子からなるため目に見えないもののすべてがそこから生じるのである。

 魂は確かに存在する。しかし、その存在は束の間であり、本性を掴めば歓喜に満ちたものとなるこの世のあらゆる生物と同じく、安らかに解体すべく定められてゐる。

 太陽や地球や惑星や、生命をもつわれわれの世界は、宇宙の中の多数の世界の一つにすぎない。これらの世界の隙間に神々は住んでゐるのだ。神々もまた物質であるが、至福であり完全な存在である。この至福な神々はわれわれには干渉しない。われわれに害を加へることはないのだ。

 「神々は全くわれわれを必要としない。そしてわれわれの善行で神々の恩恵をつかむことはできない」(エピクロス『メノイケウスにあてた書簡』124『主要教説』1)魂の不滅が事実でないことは、肉体が生まれる前に魂の存在が事実でないのと同じである。

 新しい欲望は充足させるより放つておくほうがはるかに簡単だ。人為的な欲望をたえず追ひ求めるのは狂人のなせるわざである。生きる手段ではなく生きることを求めるべきだ。人生は生きてゐる今日この日のためこの日この瞬間のためにある。

 空想を糧として生きることをやめよう。人間の生の目的は歓喜である。苦しみを取り除くことである。「すべての前の始めと根本は胃袋の快楽である」(エピクロス断片B59)。意識には物質的な条件が伴ふのである。エピクロスの展開した文明史の絵図をルクレティウスが残した。

 エピクロスの思想は友情においてその頂点に達する。キケロもエピクロスの信奉者であつた。(『最善と最悪について』1・18) 最後の弟子はオイノランダのディオゲネス(後4世紀)であつた。その後、モンテーニュ、ガッサンディ、エルヴエシウス、アナトール・フランス、カール・マルクスなどの後継者を得た。ちなみにマルクスが最初に出版した書物はエピキュロスの師匠であるデモクリトスに関するものだつた。

 エピクロスの4つの薬。テトラファルマコンとは、神々は恐れるに足らず、死は恐れるに足らず、人は苦しみに耐え得、人は幸福に達し得るである。

 ソクラテス・プラトン・アリストテレス・ストア哲学は禁欲的で、キリスト教に利用され、また受け継がれた。(ボナール)




 農業は一つの科学である。自然には決まりごとがある。植物は一年周期で実を実らせる。だがどうやつてさうなつてゐるかはよく観察しなければわからない。さうなつてゐるのだと思ふだけでは、それを利用できない。
 
 リンゴの木が増えるのはリンゴの実が地面に落ちて芽を出すからである。それは人間や鳥が食べるだけのものではないといふことは、よく観察してゐなければわからない。そしてさういふ観察がなければ農業は始まらなかつた。

 米ができても、それを全部食べてしまつては次の年の米を作ることはできない。そのためにで残しておく。だが、それはその米を蒔けば何倍にも増えるといふことを知つてゐるからである。これを最初に発見した人は自由なものの考へ方のできた人である。沼地に毎年生える米を見て、便利なものだと思つて食べるだけでなく、その中にある法則を見つけだして活用するのが科学なのだ。

 農業を発明したのは女だといふ。しかし、いつたん発見されたものでも、これはかういふものなんだ、世の中とはかういふものなのだ式の考へ方を身につけてしまうと、それは習慣の奴隷になつてしまう。

 自由な精神は常に観察する心をもつてゐる。現代の農家でも政府の保護から自立してやつてゐる農家は米を作るのにも自分なりの工夫をしてゐる。売り方も工夫してゐる。

 自由は観察のなかにある。自分の目に映る物を、これはかういふものなのだと割り切つてしまはずに、どのやうになつてゐるのか観察してみる。そして観察によつて知ること、それが自立した知識、自由のたまものである。

 不思議な現象を超自然的に説明するのは、原始人のやり方である。超自然的な説明を受け入れるといふことは、自由を失ふことである。それは何物かに支配されることである。そして観察は実験にむかふ。

 幾何学は、航海術と神殿の建設のためにギリシャ人によつて考案された物である。また、人間もまた自然の一部であり、一定の法則に支配されてゐるといふ事実に対する観察からはじまつた科学こそが医学である。そして普遍性にはじめて踏み込んだのがギリシャ人だつた。




主に参考および引用・要約した文献は:アンドレ・ボナール著『ギリシャ文明史』(人文書院)である。

参照元のない文もボナールか以下のいづれかかそれ以外から知りえたことをまとめたものである。

ヴェルナン著『ギリシャ思想の起源』(みすず書房)
ロイドジョーンズ著『ゼウスの正義』(岩波書店)
ガスリー著『ギリシャ人の人間観』(白水社)
ロイドジョーンズ編『ギリシア人』(岩波書店)
ドッズ著『ギリシャ人と非理性』(みすず書房)
バウラ著『ギリシャ人の経験』(みすず書房)
K.ドーヴァー『わたしたちのギリシア人』(青土社)
HDF.Kitto: The Greeks(Penguin Books)




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