『王妃マルゴ』の訳本について
『王妃マルゴ』の最初の方の、話が一段落つく区切りのところに、次のような意味の文章が出てくる。この箇所の河出文庫の訳と文芸春秋社から出ている訳を比べると、それぞれの訳のレベルがよく分かると思う。
「実際、以上のような未来の知識と、以上のように人間の心を読む能力が、この宴の特権的な出席者たちに備わっていたなら、彼らは悲しむべき人間の歴史が伝えるもののうちでも、最も興味深いこの見世物をきっと楽しむことができたろう。しかしながら、前者は幸いにして人間には欠けているし、後者は残念ながら神様だけがもっているものである」
原文は次のようなものである。フランス語としてはそれほど難しいものではないので、フランス語の心得のある人は辞書をもってきて読んでみられるとよい。
En effet, avec cette connaissannce de l'avenir qui manque heureusement
auz hommes, avec cette faculté de lire dans les coeurs qui n'appartient
malheureusement qu'à Dieu, l'observateur privilégié auquel il eût été
donné d'assister à cette fète, eût joui certainement du plus curieux
spectacle que fournissent les annales de la triste comédie humaine.
これを河出文庫版は次のように訳している。
「実際、一般の人々には幸いにして欠けている未来への見通しと、不幸にして神にしか属さない、心を読み取ることのできる能力とでもって、今宵の祝宴に列席することを許されていた特権的な観客は、悲しむべき人間喜劇のあれこれの歴史が伝えるうちでももっとも奇異な一幕を確かに楽しんでいたのである。」(20頁)
この訳では、なぜか cette connaissannce と cette faculte の cette
が訳されていない。このcetteは作者がここまで描いてきた内容を指していると思われるのだが、この訳者は関係詞のquiと一体として英語のthose
whoのようなものとして処理したのであろう。
また、神との対照物である人間
(homme)が、ここでは特権的な観客である貴族との対照物として「一般の人々」と訳されている。さらに、接続法大過去による仮定表現も無視されて、実際とは逆の意味になってしまっている。
文芸春秋社版の訳はこの仮定表現をちゃんと訳している。
「事実、もしこの宴に出席を許された特権的な観察者が、未来を見通すという、凡人には幸いなことにも欠けている力を与えられ、人の心の中を読み取るという、不幸にも神にのみ属する能力を賦与されていたとするならば、おそらくは、悲しい人間喜劇の年代記のうちでももっとも奇妙な光景を眺めて楽しむことができたにちがいない」(32頁)
しかし、この訳では、どういうわけかhommeを「凡人」と訳している。また、この訳でも上述の cette
が訳されていない。作品全体の中の話の区切りとしてのこの文章の役割に気づけば、この cette
が特定の内容を指すものであることは、容易に理解できると思われる。
さらに、この翻訳者は、この直後の文章で、「この (cet)
観察者」という訳語を使っている。これでは、すぐ前の「特権的な観察者」を指していると考えざるを得ない。しかし、ここからは、民衆の話になっているからこの観察者は民衆を指すはずである。つまり、この
cet は小説の冒頭で言及された民衆をさしており、「あの観察者」と訳すべきだったのだ。(cet
は文脈によって「これ」とも「あれ」とも訳さないといけない厄介な言葉である)
要するに、ここで話が転換して視点が貴族から民衆に移るのである。ここまでは宮殿の中に入ることの許された特権階級の観察者について語られ、ここからあとは宮殿の外にいるしかなかった観察者=民衆について語られるのである(ただし、この民衆の部分を河出文庫版は訳していない!!)。
この個所の訳だけを見ても、文芸春秋社版の訳は図書館で借りるだけにしておくのが賢明なレベルであり、河出文庫版は失礼ながら買うのはおろか借りるのさえもお勧めできないレベルのものだと言えるのではあるまいか。