『摘々録 断腸亭日乗』

永井荷風の日記



 
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岩波文庫 上

大正六(1917)年 荷風歳卅九

九月二十日。9 昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石国手(=医師)の来診を待つ。そもそもこの陋屋は大石君大久保の家までは路遠く徃(=往)診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんがために借りたるなり。南鄰(=隣り)は区内の富家高島氏の屋敷。北鄰は深雪といふ待合茶屋なり。大石君の忠告によれば下町に仮住居して成るべく電車に乗らずして日常の事足りるやうにしたまへとの事なり。されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀ふのみ。此夜木挽町の陋屋にて独三味線さらひ小説四五枚かきたり。深更腹痛甚しく眠られぬがまゝ陋屋の命名を思ふ。遂に命じて無用庵となす。


大正七(1918)年 荷風歳四十

正月二日。13暁方雨ふりしと覚しく、起出でゝ戸を開くに、庭の樹木には氷柱(つらら)の下りしさま、水晶の珠をつらねたるが如し。午に至つて空晴る。蝋梅(ろうばい)の花を裁り、雑司谷に徃き、先考の墓前に供ふ。音羽の街路泥濘最甚し。夜九穂子来訪。断腸亭屠蘇の用意なければ倶に牛門の旗亭に徃きて春酒を酌む。されど先考の忌日なればさすがに賤妓と戯るゝ心も出でず、早く家に帰る。

大正七年正月七日。14山鳩飛来たりて庭を歩む。毎年厳冬の頃に至るや山鳩必只一羽わが家の庭に来るなり。いつの頃より来り始めしにや。仏蘭西より帰來たりし年の冬われは始めてわが母上の、「今日はかの山鳩一羽来りたればやがて雪になるべしかの山鳩来る日には毎年必雪降り出すなり」と語らるゝを聞きしことあり。されば十年に近き月日を経たり。毎年来たりてとまるべき樹も大方定まりたり。三年前入江子爵に売渡せし門内の地所いと広かりし頃には椋の大木にとまりて人無き折を窺ひ地上に下り来たりて餌をあさりぬ。その後は今の入江家との地境になりし檜の植込深き間にひそみ庭に下り来たりて散り敷く落葉を踏み歩むなり。此の鳩そもそもいづこより飛来れるや。果して十年前の鳩なるや。或は其形のみ同じくして異なれるものなるや知るよしもなし。されどわれは此の鳥の来るを見れば、殊更にさびしき今の身の上、訳もなく唯なつかしき心地して、或時は障子細目に引あけ飽かず打眺めることもあり。或時は暮方の寒き庭に下り立ちて米粒麺麭(パン)の屑など投げ与ふることあれど決して人に馴れず、わが姿を見るや忽(たちまち)羽音鋭く飛去るなり。世の常の鳩には似ず其性偏屈にて群に離れ孤立することを好むものと覚し。何ぞ我が生涯に似たるの甚しきや。

八月八日。17 筆持つに懶(ものう)し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたりしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人々に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。

八月十一日。18 胃に軽痛を覚ゆ。『あめりか物語』を校訂す。晩間啞啞子来りて市中昨夜の状況(=米騒動)を語る。此日夜に至るも風なく炎蒸忍ぶべからず。啞啞子と時事を談じ世間を痛罵し、夜分に至る。涼味少しく樹陰に生じ虫声漸く多し。


大正七年十月一日。築地けいこの帰り桜木に飲む。新冨町の老妓両三名を招ぎ、新島原徃時の事を聞かむと思ひしが、さしたる話もなし。一妓寿美子といへるもの年紀二十二。容姿人を悩殺す。秋霖霏々として歇まざるを幸ひにして遂に一宿す。

十一月十二日。18 吉井俊三といふ人戸川秋骨君の紹介状を携へ面談を請ふ。居宅譲受けの事なり。夕刻永井喜平来る。いよいよ売宅の事を諾す。感慨禁ずべからず。


大正七年十一月廿一日。19 午前薗八節けいこに行く。この日欧洲戦争平定の祝日なりとて、市中甚(はなはだ)雑遝(ざつとう)せり。日比谷公園外にて浅葱色の仕事着きたる職工幾組とも知れず、隊をなし練り行くを見る。労働問題既に切迫し来れるの感甚切なり。過去を顧るに、明治三十年頃東京奠都(てんと)祭当日の賑(にぎはひ)の如き、又近年韓国合併祝賀祭の如き、未だ深く吾国下層社会の生活の変化せし事を推量せしめざりしが、此日日比谷丸の内雑遝の光景は、以前の時代と異り、人をして一種痛切なる感慨を催さしむ。夜竹田書店主人来談。 

十二月七日。20 宮薗千春方にて鳥辺山のけいこをなし、新橋巴家に八重次を訪ふ。其後風邪の由聞知りたれば見舞に行きしなり。八重次とは去年の春頃より情交全く打絶え、その後は唯懇意にて心置きなき友達といふありさまになれり。この方がお互にさつぱりとしていざこざ起らず至極結構なり。日暮家に帰り孤燈の下に独粥啜らむとする時、俄に悪寒を覚え、早く寝に就く。

十二月廿二日。21 築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足指揮して家具書篋を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に徃き、家具を排置す。日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。此妓無毛美開、閨中欷歔すること頗(すこぶる)妙。

十二月三十日。寒気甚し。『草訣弁疑』を臨写す。墨摺りたるついで桜木の老婦に請はれし短冊に、悪筆を揮ふ。来春は未の年なれば、羊の絵を描き

  千歳の翁に似たるあごの髯
   角も羊はまろく収めて

三更寝に就かむとする時、八重福また門を敲く。独居凄涼の生涯も年と共に終りを告ぐるに至らむ歟。是喜ぶべきに似て又悲しむべきなり。


大正八(1919)年 荷風年四十一

正月元旦。23 曇りて寒き日なり。九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り、一片のクロワツサン{三日月形のパン}を食し、昨夜読残の『疑雨集』をよむ。余帰朝後十余年、毎朝焼麺麭と咖啡とを朝飯の代りにせしが、去歳家を売り旅亭に在りし時、珈琲なきを以て、銀座の三浦屋より仏蘭西製のシヨコラムニヱーを取りよせ、蓐中にてこれを啜りしに、其味何となく仏蘭西に在りし時のことを思出さしめたり。仏蘭西人は起出でざる中、寝床にてシヨコラとクロワツサンとを食す。(余クロワツサンは尾張町ヴイエナカツフヱーといふ米人の店にて購ふ。)読書午に至る。桜木の女中二人朝湯の帰り、門口より何ぞ御用はなきやと声をかけて過ぎたり。自働車を命じ、雜司ヶ谷墓参に赴かむとせしが、正月のことゝて自働車出払ひ、人力車も遠路をいとひ多忙と称して来らず。風吹出で寒くなりしかば遂に墓参を止む。夕刻麻布森下町の灸師来りて療治をなす。大雨降り出し南風烈しく、蒸暑き夜となりぬ。八時頃夕餉をなさむとて桜木に至る。芸者皆疲労し居眠りするものあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る。鄰楼頻(しき)りに新春の曲を弾ずるものあり。梅吉節つけせしものなりと云。余この夜故なきに憂愁禁じがたし。王次回が排愁剰有聴歌処。到得聴歌又涙零。の一詩を低唱して、三更家に帰る。風雨一過、星斗森然たり。

正月二日。曇りてさむし。午頃起出で表通の銭湯に入る。午後墓参に赴かむとせしが、悪寒を覚えし故再び臥す。夕刻灸師来る。夜半八重福春着裾模様のまゝにて来り宿す。余始めて此妓を見たりし時には、唯おとなしやかなる女とのみ、別に心づくところもなかりしが、此夜燈火につくづくその風姿を見るに、眼尻口元どこともなく当年の翁家富枩(=松)に似たる処あり。撫肩にて弱々しく見ゆる処凄艷寧富松にまさりたり。早朝八重福帰りし後、枕上頻に旧事を追懐す。睡より覚むれば日既に高し。

正月四日。八重福との情交日を追ふに従つてますます濃なり。多年孤独の身辺、俄に春の来れる心地す。

大正八年正月十六日。24桜木の老婆を招ぎ、妓八重福を落籍し、養女の名義になしたき由相談す。余既に余命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず。家はもとより冨めるにはあらねど、亦全く無一物といふにもあらざる故、去歳弁護士何某を訪ひ、遺産処分のことについて問ふ処ありしに、戸主死亡後、相続人なき時は親族の中血縁戸主に最近きもの家督をつぐ事となる。若し強ひて之を避けむと欲するなれば、生前に養子か養女を定め置くより外になしとの事なり。妓八重福に親兄弟なく、性質も至極温和のやうなれば、わが病を介抱せしむるには適当ならむと、数日前よりその相談に取りかゝりしなり。桜木の老媼窃に女の身元をさぐりしに、思ひもかけぬ喰せ物にて、養女どころか、唯芸者として世話するもいかゞと思はるゝ程の女なりといふ。人は見かけによらぬものと一笑して、この一件はそのまゝ秘密になしたり。

五月廿五日。29 新聞紙連日支那人排日運動の事を報ず。要するに吾政府薩長人武断政治の致す所なり。国家主義の弊害卻て国威を失墜せしめ遂に邦家を危くするに至らずむば幸なり。

大正八年七月朔。30 独逸降伏平和条約調印紀念の祭日なりとやら。工場銀行皆業を休みたり路地裏も家毎に国旗を出したり。日比谷辺にて頻に花火打揚る響聞こゆ。路地の人々皆家を空しくして遊びに出掛けしものと覚しく、四鄰昼の中よりいつに似ず静にて、涼風の簾を動す音のみ耳立ちて聞ゆ。終日糊を煮て押入れの壁を貼りつゝ祭の夜とでも題すべき小品文の腹案をなす。明治廿三年頃憲法発布祭日の追憶より、近くは韓国合併の祝日、また御大典の夜の賑など思ひ出るがまゝにこれを書きつゞらば、余なる一個の逸民と時代一般との対照もおのづから隠約の間に現し来ることを得べし。

八月四日。31 谷崎潤一郎氏来訪。其著『近代情痴集』の序詞を需めらる。雨漸く晴れしが風吹き出で夜に入りあらし模様となる。

十月十五日。薄暮愛宕山に登る。眼下の市街人家の屋根次第に暗くなりて、日の暮れ行くさま、久しく之を望めば自ら一種の情調あり。李商隠がタ陽無限好。只是近黄昏といひしも斯くの如き思ひにや。山上のホテルにて晩餐をなさむと欲せしに、仏蘭西航空団へ貸切となり臨時の客を謝して入れず。已むことをを得ず銀座に至り、風月堂に飲む。枕上エストニヱーの小説 L’Empreinte(=刻印)を読む。

十月十六日。啞々子と三十間堀富貴亭に飯して、木曜会俳席に赴く。数年前富貴亭はわづか一円にて抹茶まで出せしに、今は一人前四円となれり。此夜露重く風冷なり。

十月十七日。天気快晴。終日校正並に執筆。薄暮合引橋河岸通を歩み、銀座に出で食料品を購ひ帰る。

十月十八日。小春の好天気打つゞきぬ。今年程雨少き年は稀なるべし。毎日薄暮水上の景を見むとて明石町の海岸通を歩む。

十月十九日。晴。

大正八年十月二十日。晴。

十月廿一日。ロツチの著 Turquie Agonisanteを読む。欧洲基督教諸国の土耳古に封する侵畧主義の非なるを痛歎したるものなり。午後中洲病院に徃く。

十月廿二日。晴。小品文『花火』を脱稾したれば浄写す。全集第三巻印刷摺の校正漸く終了に近し。

十一月九日。33 春陽堂先日来頻に新著の出版を請ふ。されど築地移居の後筆硯(ひつけん)に親しまず。幸にして浮世絵に関する旧稾あるを思出し、取りまとめて『江戸芸術論』と題し、これを与ふ。午後四谷に往き、曾て家に召使ひたるお房を訪ふ。

十二月六日。寒雨霏々(ひひ)。風月堂に徃き夕餉をなす。老婆おしん世を去つてより余が家遂に良婢を得ず。毎宵風月堂にて晩飯をなすやうになりぬ。葡萄酒の盃片手にしつゝ携帯の書冊を卓上に開き見るや、曾て外遊の時朝夕三度の食を街頭のカツフヱーにてとゞのへたりし頃のこと思返されて、寂しきに堪えざることあり。昨日購ひたるLaurent Vineulといふ作家の『身のあやまち(エラール)』を読む。独身の哲学者を主人公となしたるものにて、篇中の事件徃々身にしみじみと感ぜらるゝ所あり。学者病中下女の不人情なるを憤るあたりの叙事、最も切実の感あり。今日余の憂を慰るもの女にあらず、三味線にあらず、唯仏蘭西の文芸あるのみ。

大正八年七月二十日。31暑さ厳しくなりぬ。屋根上の物干台に出で涼を取る。一目に見下す路地裏のむさくろしさ、いつもながら日本人の生活、何等の秩序もなく懶惰不潔なることを知らしむ。世人は頻に日本現代の生活の危機に瀕する事を力説すれども、此の如き実況を窺見れば、市民の生活は依然として何のしだらもなく唯醜陋なるに過ぎず個人の覚醒せざる事は封建時代のむかしと異るところなきが如し。


大正九(1920)年 荷風年四十有二

五月廿三日。37 この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。

大正九年七月廿七日。銀座松島屋にて老眼鏡を購ふ。『荷風全集』ポイント活字の校正細字のため甚しく視力を費したりと覚ゆ。余が先考の始めて老眼鏡を用ひられしも其年四十二三の時にて、余が茗渓の中学を卒業せし頃なるべし。余は今年四十二歳なるに妻子もなく、放蕩無頼われながら浅間しきかぎりなり。


大正十(1921)年 荷風年四十三

六月二十九日。46 午後雨なきを幸に丸の内に徃き用件をすまし、有楽座に久米秀治を訪ふ。久保田万太郎来合せ、談話興を催す。風月堂に赴くに恰も松莚子細君と共に在り。談笑更に興を添ふ。

九月五日。47 薄暮雨来ること昨日の如し。風月堂にて偶然延寿大夫夫婦に逢ふ。庄司理髪店に立寄り、銀座通に出るに道普請にて泥濘踵に没す。商舗の燈火は黯澹として行人稀なり。余東京の市街近日の状況を見るや、時々何のいはれもなく亡国の悲愁を感ず。

大正十年九月十一日。47 秋の空薄く曇りて見るもの夢の如し。午後百合子訪ひ来りしかば、相携へて風月堂に徃き晩餐をなし、掘割づたひに明石町の海岸を歩む。佃島の夜景銅版画の趣あり。石垣の上にハンケチを敷き手を把り肩を接して語る。冷露雨の如く忽にして衣襟の潤ふを知る。百合子の胸中問はざるも之を察するに難からず。落花流水の趣あり。余は唯後難を慮(おもんぱか)りて悠々として迫まらず。再び手を把つて水辺を歩み、烏森停車場に至りて別れたり。百合子は鶴見の旅亭華山荘に寓する由なり。

十月二日。48 午後富士見町与謝野氏の家にて雑誌『明星』編輯相談会あり。森先生も出席せらる。先生余を見て笑つて言ふ。我家の娘供近頃君の小説を読み江戸趣味に感化せりと。余恐縮して答ふる所を知らず。帰途歌舞伎座に至り初日を看る。深更強震あり。

大正十年十月十八日。 百合子草加一鉢を携へて来る。夕方松莚子(=二代目左団次)より電話あり。百合子と共に風月堂に徃く。松莚子は歌舞伎座出演中、幕間に楽屋を出で風月堂に来りて晩餐をなすなり。百合子と日比谷公園を歩み家に伴ひ帰る。百合子本名は智子と云ふ。洋画の制作には白鳩銀子の名を署す。故陸軍中将田村氏の女にて一たび人に嫁がせしが離婚の後は別に一戸を搆へ好勝手なる生活をなし居れるなり。一時銀座出雲町のナシヨナルといふカツフヱーの女給となりゐたる事もあり。

十一月五日。48 百合子来る。風月堂にて晩餐をなし、有楽座に立寄り相携へて家に帰らむとする時、街上号外売の奔走するを見る。道路の談話を聞くに、原首相東京駅にて刺客の為に害せられしと云ふ。余政治に興味なきを以て一大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず、何らの感動をも催さず。人を殺すものは悪人なり、殺さるゝものは不用意なり。百合子と炉辺にキユイラツソオ一盞(いつさん)を傾けて寝に就く。


大正十一(1922)年 荷風年四十四

正月二日。51 正午南鍋島町風月堂にて食事をなし、タキシ自動車を雑司ヶ谷墓地に走らせ先考の墓を拝す。去年の忌辰(=忌日)には腹痛みて来るを得ず。一昨年は築地に在り車なかりしため家に留りたり。此日久振にて来り見れば墓畔の樹木俄に繁茂したるが如き心地す。大久保売宅の際移植したる蠟梅幸にして枯れず花正に盛なり。此の蠟梅のことは既に『断腸亭襍稾(=雑稿)』の中に識したれば再び言はず。

大正十一年四月二日。54 午後庭に出て再び野菊の根分をなす。晩間銀座に徃くに電車街路斉(ひと)しく田舎者にて雑踏すること甚し。年年桜花の時節に至れば街上田舎漢の隊をなして横行すること今に始まりしにあらず。されど近年田舎漢の上京殊に夥(おびただ)しく、毫(ごう)も都人を恐れず、傍若無人の振舞をなすものあり。日本人と黒奴とは其の繁殖の甚しきこと鼠の如し。米国人の排日思想を抱くも亦宜(むべ)なりといふべき歟 (か)。

七月七日。55 夜半与謝野君電話にて森夫子急病危篤の由を告ぐ。
七月八日。55 早朝団子坂森先生の邸に至る。表玄関には既に受付の設あり。見舞の客陸続たり。余は曾て厩のありし裏門より入るに与謝野沢木小島の諸氏裏庭に面する座敷にあり。病室には家人の外出入せず。見舞の客には先生が竹馬の友賀古翁応接せらる。翁窃に余を招ぎ病室に入ることを許されたり。恐る恐る襖を開きて入るに、先生は仰臥して腰より下の方に夜具をかけ昏々として眠りたまへり。鼾声(かんせい=いびき)唯雷の如し。薄暮雨の晴間を窺ひ家に帰る。

七月九日。55 早朝より団子阪の邸に往く。森先生は午前七時頃遂に纊(こう)を属せらる。悲しい哉。

大正十一年七月十一日。55 玄文社合評会終りて後、小山内兄弟と自働車にて観潮楼に至り、鷗外先生の霊前に通夜す。此夜来るもの凡数十名。その中文壇操觚の士(=文筆業)は僅に一四,五人のみ。

七月十二日。55 朝五時頃、電車の運転するを待ち家に帰る。一睡の後谷中斎場に赴く。此日快晴涼風秋の如し。午後二時半葬儀終る。三河島にて荼毘に付し濹上の禅刹弘福寺に葬ると云。

七月十六日。56 森先生遺族の招待にて上野精養軒に徃く。露台の上より始めて博覧会場の雑沓を眺め得たり。帰途電車満員にて乗るを得ず。歩みて万代橋に至る。

八月九日。56 曇りて風涼し。森夫子の逝かれし日なれば香華を手向けむと向島弘福寺に赴く。門内の花屋にて墳墓を問ふに、墓標は遺骨と共に本堂に安置せられしまゝにて未墓地には移されずといふ。寺僧に請ひ位牌を拝して帰らむとせしが、思直して香華を森先生が先人の墓に供へてせめての心やりとなしぬ。墓地は一坪あまりにて生垣をめぐらし石三基あり。右は森静男之墓。即先生の厳君(=父)なり。中央の石は小さく文字明かならず。左の石は稍新しく森篤次郎墓と刻し、両側に不律兌の三字を刻み添へたり。書体にて察するに先生の筆跡なり。

八月三十日。晴。夜清元秀梅と牛込の田原屋に飲む。▼秀梅酔態妖艶さながら春本中の女師匠なり。毘沙門祠後の待合岡目に往きて復び飲む。秀梅欷歔啼泣(ききよていきふ)する事頻なり。其声半庭の虫語に和す。是亦春本中の光景ならずや。

九月一日。高橋君に招がれて風月堂に徃く。小山内君亦招がる。此夜風なく蒸暑甚し。勉強して『明星』の草稿を作る。

九月十日。仏蘭西書院を訪ひウヱルレヱン全集五巻を購ふ。

大正十一年九月十二日。残暑益甚し。

九月十三日。57夜母上を訪ふ。手づから咖啡を煮て勧めらる。余年漸く老るに従ひ朝夕膝下に伺侍せむことを冀へども、弟威三郎夫婦世に在る間はこの願ひの叶ふべき日は遂に来らざる可し。十一時の鐘鳴るを聞き辞して門を出れば、人家皆戸を鎖し道暗くして犬頻に吠ゆ。満腔の愁情排けがたし。歩みて新宿駅に至る。

大正十一年九月十五日。57 松莚小山内の二子と車を与にして深川万年町心行寺に赴き、鶴屋南北の墓を掃ふ。明治座出勤の俳優作者皆参集す。夜酒井晴次と三田東洋軒に飯す。酒井は徃年先考の門生たりし人なり。

九月十六日。57 残暑猶熾なり。『宣和遺事』を読み了りて『剪燈新話』を繙く。

九月十七日。57昨夜深更より風吹出で俄に寒冷となる。朝太陽堂主人来談。午後雑司ヶ谷墓地を歩み小泉八雲の墓を掃ふ。塋域に椎の老樹在りて墓碑を蔽ふ。碑には右に正覚院殿浄華八雲居士。左に明治三十七年九月二十六日寂。正面には小泉八雲墓と刻す。墓地を横ぎり鬼子母祠に賽し、目白駅より電車に乗り新橋に至るや日既に没し、商舗の燈火燦然たり。風月堂に食して帰る。

九月十八日。曇天。大石国手を訪ふ。

九月二十日。気候激変して華氏七十度の冷気となる。腹痛を感ず。

九月廿一日。雨歇みて風冷なり。

九月廿三日。烟雨終日濛濛たり。

九月廿四日。夜有楽座に徃く。偶然田村百合子に逢ふ。

大正十一年九月二十六日。帝国劇場に露国人の舞蹈を観る。

九月廿七日。夜九時半の汽車にて松莚子の一行と共に京都に徃く。

九月三十日。未明知恩院門前にて野外劇の稽古あり。午後松莚子夫妻と自働車にて大原の古寺三千院及寂光院を訪ふ。沿道の風景絶佳なり。夜京極の明治座を見る。帰途祇園花見小路の津田屋に飲む。

大正十一年十月一日。午後知恩院楼門にて野外劇の催あり。劇は松葉子の信長なり。観客数万人に及び演技は雑沓のため中止の已むなきに至らむとせしが、辛じて定刻に終るを得たり。此夕大谷竹次郎俳優文人一同を祇園の万亭に招ぎ盛宴を張る。

十月二日。秋雨霏ゝ。終日ホテルに在り。夜松莚子に招がれて伊勢長に飲み、更に又先斗町の某亭に飲む。

十月三日。午後南座初日。夜清潭子と木屋町の西村屋に飲む。月下鴨水東山の眺望可憐を極む。

十月四日。午後吉井君と島原の角屋に飲む。夜九時半の汽車にて帰京の途に
つく。此夜月またよし。

十月五日。朝十時新橋に着す。初めて市中コレラ病流行の由を知る。

十月六日。風冷なり。午後母上来訪はる。夜に至り雨。

十月七日。此夜仲秋月なし。

十月九日。夜九時半の汽車にて再び京都に徃く。

十月十日。東山ミヤコホテルに投宿す。夜新京極松竹活動写真館にて知恩院楼門演劇の写真を見る。

十月十一日。南禅寺境内を歩む。夜松莚君及其一座の俳優と四条河原の酒亭千茂登に飲む。

大正十一年十月十二日。松莚子夫婦と自働車を与にして洛外の醍醐寺を訪ふ。堂舎の古雅、林泉の幽邃(ゆうすい)、倶に塵寰(じんかん=俗世間)の物ならず。

十月十三日。夜、清元秀梅大阪の実家に用事ありて昨夜東京を出発し唯今京都の停車場に下車したりとて余が旅館に電話をかけ来る。京極の翁屋といふ牛肉屋に飯し三条通の旅亭に憩ふ。深更▼秀梅寝乱れ髪のまゝにて大阪に赴きぬ。

大正十一年十月十四日。微雨。鹿ケ谷法然院及銀閣寺を訪ふ。夜祇園練舞場にみやび会踊さらひを観る。帰途荒次郎長十郎と玉川屋に一酌す。旅館に帰れば夜五更を過ぎ東天既に明かなり。

十月十五日。南禅寺後丘の瀑布を見る。

十月十六日。東山に登り将軍塚の茶亭に憩ひ、横臥読書黄昏に至る。夜玉川屋に一酌す。

十月十七日。朝南禅寺後丘の松林を歩む。夜十時半の汽車に乗る。

十月十八日。正午の頃新橋に着するに秋雨霏々たり。

十月十九日。雨歇む。松莚子神戸興行先より書を寄す。清元秀梅既に帰りて東京に在り。▼烏森の某亭に飲む。

十月二十日。留守中諸方へ下女雇入を依頼し置きしが遂に来るべき様子もなし。自炊の不便を避けんとて近鄰の山形ホテルに宿泊す。

大正十一年十月廿一日。晴。成島柳北の『京猫一斑』を読む。

十月廿三日。庭の菊ひらく。

十月廿四日。曇天。山形ホテルを引払ひて偏奇館に帰る。夜半雨声頻なり。眠ること能はず。

十月廿六日。『京都紀行』を草す。

十月廿八日。日々天気晴朗。

大正十一年十月廿九日。タゴルの詩集 La Fugitive を読む。内田魯庵翁に旧著『腕くらべ』を贈る。

十月卅一日。午後深川公園より浅野セメント工場の裏手を歩み、此頃開放せられし岩崎男爵別邸の庭園に憩ひ、薄暮に至るを俟(ま)ち明治座前の八新に徃く。松莚子招飲の約ありたればなり。帰途半輪の月明なり。

十一月一日。春陽堂店員来り雨瀟瀟再販三百部の検印を請ふ。夜、雨。

十一月二日。 快晴。松莚君に招がれて風月堂に徃ぐ。帰途富士見町与謝野君の邸を訪ふ。森先生全集刊行の事につき、編集委員を定むべき由。同君より電話ありたればなり。会するもの与謝野寛、小島政二郎,平野万里、吉田増蔵、及書肆中塚某なり。今回先生全集出版の事につきては余甚意に満たざる所あれども、与謝野氏主として力を尽さるゝのみならず、先生の未亡人も亦頻に出版の速ならむことを望まるゝ由なれば、余は唯沈黙して諸家の為すがまゝに任ずるのみなり。

十一月三日。明治座初日。松莚君令閨腕時計を恵贈せらる。帰宅の後戯画に駄句を題して郵送し、以て謝礼に代ふ。

  手枕の頬に冷たき時計かな
  置炬燵まず時計からはづしけり
  手を分つ夜寒の門や腕時計 

大正十一年十一月四日。『京都紀行』を改題して『十年振』となし中央公論に寄す。

十一月五日。58 天気快晴。四十雀(しじふから)群をなして庭樹に囀る。いよいよ冬となりたる心地す。

十一月六日。58 晴。

十一月七日。58 晴。

大正十一年十一月八日。58 午後雨降る。夜晴れて月あり。

十一月九日。58正午七草会例会。夜築地精養軒にて与謝野君発起人となり、都下諸新聞の文芸記者を招ぎ、晩餐の馳走をなし、森先生全集刊行の事を告ぐ。賀古先生、入沢博士も出席せらる。帰途小山内薫、鈴木春浦の二子と銀座を歩み、偶然近松秋江、長田幹彦の二子に逢ふ。一同清新軒に入りて小憩す。夜十一時頃電車を下りて霊南阪を登らむとするに、近巷騒然、失火の警鐘を鳴す。猛火汐見阪の彼方に当り炎々天を焦す。道路の人に問ふに愛宕町三番地東洋印刷会社火を失すと云ふ。

十一月十日。薄暮驟雨。須臾にして晴る。

大正十一年十一月十一日。俄に寒し。初めて暖炉に火を置く。正午華氏五十度なり与謝野氏『明星』の原稾を催促すること頻なれば、已むことを得ず随筆数枚を草して責を塞ぐ。

十一月十三日。松莚君電話にて、明治座出勤午後三時過なればとて、風月堂に招がる。徃きて午餐を与にす。帰途日蔭町村幸書房を訪ひ、烏森の某亭にて清元秀梅に逢ふ。

十一月十四日。微恙(びよう=軽病)あり。窗(=窓)前山茶花満開なり。

十一月十五日。京橋鴻ノ巣にて森先生全集編纂委員会あり。来る者森潤三郎、与謝野寛、平野万里、鈴木春浦、小山内薫、吉田増蔵、山田孝雄、浜野知三郎、及書商中塚某、余を加へて十人なり。帰途小山内君この日をかぎり松竹社と関係を断ち、以後筆硯に親しむべき由を語らる。深更雨声あり。

十一月十六日。寒雨霏々。菊花凋落。

十一月十八日。国民図書会社中塚氏の依頼により鷗外全集刊行の次第を記し、与謝野氏を介して時事新報に寄す。

大正十一年十一月十九日。祇園玉川家より蕪千枚漬を送り来る。午後木村錦花氏来り、余が旧作『秋のわかれ』一幕を来月帝国劇場松莚子一座出勤の中幕に出したしといふ。かの戯曲はもと紙上の劇として作りしものなれば舞台には上しがたかるべし。されど強いて辞するにも及ばざれば、万事を錦花氏に一任す。

十一月廿一日。晴れて寒し。午後風月堂より松莚子と共に松竹社築地の事務所に赴き、松葉米斎の二君に会ひ、拙作脚本上演に関して打合せをなす。松竹事務所新築後日を経ず、室内火の気を断ち寒気忍びがたし。米斎君と銀座ライオン茶店に入り火酒一盞(せん)を命じ、始めて暖を取る。夜帝国劇場懸賞脚本審査のことにつき同劇場楽屋に徃く。

十一月廿二日。晴れて風寒し。清元秀梅と牛込の中河に飲む。

十一月廿三日。午後一時明治座松莚子の部屋にて『秋のわかれ』の読合をなす。演技指導者には松葉子をたのむ事となす。帰途電気掛岩村生と風月堂にて晩餐を喫す。

十一月廿四日。 午後明治座楽屋にて稽古前日の如し。

十一月廿六日。細雨糠の如し。午後明治座に赴く。銀座通人形町いづれも道路沼の如し。夜北風烈しく弦月枯木の間に現はる。燈下執筆深更に至る。

十一月廿七日。清元会に徃く。寒月皎々たり。

大正十一年十一月廿八日。正午帝国劇場にて『秋のわかれ』稽古あり。帰途松莚子と共に風月堂に至りて夕食を喫す。

十一月三十日。午後帝国劇場稽古。帰途松莚子と風月堂に飯す。夜微雨。

十二月初二。東京会舘にて帝国劇場懸賞募集脚本審査会開かる。出席者巖谷小波、伊原青青園、中村春雨、岡本綺堂、小山内薫、中内蝶二、及帝国劇場の部員一同なり。会散じて後東京会舘楼上の各室を巡覧す。料理屋と貸席を兼たるものにて装飾極めて俗悪なり。現代人の嗜好を代表したるものと謂ふ可し。開業してわづかに両三日を経たるのみなるに、此夜既に結婚の披露らしきもの二組程もありたり。帰途寒月明なり。日比谷公園の落葉を踏んで帰る。

大正十一年十二月三日。わが誕生の日なり。母上自製の西洋菓子を携へ来り訪はる。風出で寒気漸く甚しからむとす。懸賞応募脚本を閲読して夜半に至る。

十二月四日。今日より近鄰の山形ホテル食堂にて夕餉をなす事となしたり。内田魯庵翁其新著『貘談』一巻を寄贈せらる。

十二月五日。例年の如く松莚君居邸の午餐に招がる。大彦翁小山内氏も亦来る。花壇の鶏頭霜に爛(ただ)れて淋しげに立ちすくみたるさま、是亦去年の此日見たる所に異らず。帰途小川町の仏蘭西書院に立寄る。これも亦去年の如し。

十二月六日。夜啞々子を招ぎ倶に帝国劇場懸賞脚本の検閲をなす。二更の後啞々子の帰るを送り寒月を踏んで葵橋に至る。

十二月七日。午後散策。日暮霊南阪を登るに淡烟蒼茫として氷川の森を蔽ふ。山形ホテルにて晩餐をなし家に帰りて直に筆を執る。

十二月八日。松莚子に招かれて風月堂に昼餐をなす。晴れてあたゝかなり。

十二月九日。雑誌『女性』の経営者中山某、小山内君と余を丸の内工業倶楽部楼上の食堂に招ぎ昼餐を馳走せらる。夜啞々子の来るを待ち懸賞脚本の検閲をなす。

十二月十日。毎日天気よく風なし。夜帝国劇場に徃き、それより清元秀梅を訪ひ烏森に飲む。

十二月十一日。寒気日に日に甚し。夜啞々子来り余に代りて懸賞脚本の閲読をなす。

十二月十四日。東仲通末広にて七草会例会あり。出席者松葉、清潭、錦花、大伍、吉井、及余の六人なり。夜松莚子と東京会館食堂にて晩餐をなす。

大正十一年十二月十六日。帝国劇場懸賞募集脚本の閲読漸く終るを得たり。歌舞伎劇の脚本には見るに足るべきもの一篇もなし。現代劇脚本中にて僅に二三篇を択び得たるのみ。夜松莚子に招がれて風月堂に飯す。荒次郎、長十郎、小半次、左喜之助も来る。一同歳晩の銀座通を歩む。

十二月十七日。夜清元秀梅と烏森の某亭に逢ふ。秀梅は嘗て梅吉の内弟子なりしが、何かわけありし由にて其後は麻布我善坊の清元延三都といふ女師匠の許にて修業をなし、その札下の師匠となれるなり。去年の暮ふと飯倉電車通にて
逢ひ立話せしが縁となりて、其後は折々わが家にも来るやうになりたり。今年の夏頃は牛込麹町辺の待合に度々連行きぬ。其後しばらく電話もかけ来らざれば如何せしかと思居たりしに、今月のはじめ又尋ね来れり。清元の事を音楽とか芸術とか言ひて議論する一種の新しき女なり。父は大阪の商人なる由。

十二月十八日。晩間東京会舘にて帝国劇場募集脚本審査会議あり。始て坪内博士に紹介せらる。博士は余が先考とは同郷の諠みもあり。共に大久保余丁町に住まはれしが、余は今日まで謦欬(けいがい)に接するの機なかりしなり。風貌永阪石埭(せきたい)翁に似たり。会議終りて後有楽座の久米氏に誘はれ、小山内氏と共に新橋博品館楼上の珈琲店に飲む。暫くにして市川猿之助来る。余猿之助と面接することを好まざれば席を立つて去る。此夜寒気稍忍易し。

十二月十九日。快晴。本月に入りて一日も雨なし。

十二月二十日。晩食前散歩。赤阪見付を過ぎし時、一群の鴻雁高く鳴きつれて薄暮の空を過ぐ。近年雁声を聞くこと罕(まれ)なれば、路頭に杖と停めて其影を見送ること暫くなり。

十二月廿二日。銀座第百銀行に徃く。尾張町角にて新橋の妓鈴尾に逢ふ。鈴尾の曰く先日さる宴席にて外務省の御親類のお方にお目にかゝりしところ先生とは久しくお逢申さぬ故、其中どこか好き処にてお話致したしと言ひ居られたりと。是余の従兄素川子のことなるべし。十年あまり相見ざるなり。独素川子のみにはあらず、余は親類のものとは大正三年の秋以来故ありて、道にて逢ふことあるも、避けて顔を見られぬやうになし居れるなり。

大正十一年十二月廿三日。冬の日窗を照して暖なり。終日机に凭る。啞々子書を寄す。晩食の後清元秀梅と銀座を歩む。

十二月廿六日。七草会々員及松莚子門下の俳優一同と風月堂に会飲す。風静にして暖なり。

十二月廿七日。清元秀梅と神楽坂の田原屋に飲み、待合梅本に徃き、秀梅の知りたる妓千助といふを招ぐ。此夜また暖なり。

十二月廿八日。松莚子に招がれて神田明神境内の開化楼に徃く。川尻、岡、小山内の三子亦招がる。この日雨あり。十二月に入りて始ての雨なり。

十二月廿九日。午後微雨。『雑録耳無草』執筆。夜、半輪の月明に、風静にして冷なり。▼秀梅と逢ふ。

大正十一年十二月卅一日。58午後松莚子細君門弟両三名を伴ひ。永坂の更級にて年越蕎麦を喫したる帰途なりとて、草廬を訪はる。自働車にて浅草公園御国座に徃き、清潭秀葉二子の新昨狂言を観る。日暮劇場を出で仲店裏の牛肉店に入り黄金製の鍋にて肉を煮る。俗気もこゝに至れば滑稽にて罪なし。一同曲馬を看て後広小路のカツフヱーアメリカンといふ洋食屋に憩ふ。以前松田とて人の知りたる料理屋の跡なり。鄰室に松崎天民異様の風俗をなしたる女等と酒を飲み居たり。バンタライ社とかいふ地獄宿(=私娼窟)の女なるべしと云ふ。松莚子は雷門より自働車にて去る。余は清潭、錦花、長十郎、荒次郎等、一同と電車にて銀座に出で、台湾茶店に憩ふ。此夜暖気春の如く街上散歩の男女踵を接す。資生堂角にて偶然田村百合子に逢ふ。岩村和雄わが廬に来りて宿す。


大正十二(1923)年 荷風年四十五

正月元旦。60睡を貪つて正午に至る。山形ほてるに赴き昼餐を食し、帰り来つて炉辺にヂットの詩『ワルテル』を再読す。日暮るゝや寒月忽皎々たり。晩餐の卓上葡萄酒数盃を傾く。風は寒けれど月のあかるさに、酔歩葵橋に至り電車にて松筵子を其邸に訪ふ。門弟相集り酒宴方に酣(たけなは)なり。十一時過莚升荒次郎の二優と自働車を与にして帰る。

正月二日。60 烈風暁に及ぶ。午に近く起出で顔を洗はむとするに、水道の水凍りゐたり。新に小説の稿を起さむとて黙想凝思徒に半日を費す。月明前夜の如し。

正月五日。水道の水今朝は凍らず。雑誌『女性』の草稿をつくりし後、四谷の妓家に徃きお房と飲む。

正月六日。机上の水仙花開く。

正月七日。松筵子風邪のため劇場欠勤の由新聞に見えたり。

正月八日。台湾喫茶店女給仕人百合子といへるもの、浅草公園に徃きたしと言ひければ哺時自働車にて公園に赴き、活動写真館帝国館に入り、仲店にて食事をなし、安来節を看、広小路のアメリカンに憩ひタキシ自働車にて四谷愛住町なる女の家まで送り、麻布に帰る。方に夜半三更なり。此日の事元より偶然の興に過ぎざれど、他日笑草の種にもならむと、一切の費を記すれば、乗合自働車徃道一円。活動小屋木戸銭一円五拾銭づゝ。食事五円。自働車帰途五円。百合子へ祝儀五円。其他総計拾八円ばかりなり。予二十歳の頃、始めて吉原に遊びし頃の事を追憶すれば物価の騰貴驚くの外なし。

大正十二年正月十日。松筵子の病を訪ふ。寒風凛洌。厨房の水昼の中より凍りたり。

正月十二日。銀座台湾亭にて啞々葵山(きざん)の二子と飲む。南風吹つゞきて心地悪しきほどの暖気なり。市中雪解にて泥濘歩むべからず。

正月十四日。雨ふる。冬の洋服を新調す。

正月十五日。雨。微恙あり。

正月十七日。厨房の水道鉄管氷結のため破裂す。電話にて水道工事課へ修繕をたのみしに、市中水道の破裂多く人夫間に合はず両三日は如何ともなし難しとの事なり。

正月十九日。風労未癒えず。枕上フローベルの語録を読む。

正月二十日。午後雪を催せしが夜に至り風吹起りて晴る。宵の中より水悉く凍る。病床読書。

正月廿一日。風南に転じ寒稍寛なり。久保田万手紙にて三田東光閣といふ書肆、三田樷書と稱する小説書類を刊行するに付、其の第一巻に予が『二人妻』を出したき由、問合せ来れり。午後女優小林延子年賀に来る。夜清元秀梅来る。

正月廿三日。早朝大石国手の許に電話をかけ病況を報じ調薬を請ふ。

正月廿四日。微雨雪となりしが須臾にして歇む。

正月廿六日。60 仏蘭西書院去年の秋注文の書冊を送り来る。伊太利亜歌劇此夜より十日間丸の内にて興行の由。病後寒気を恐れて行かず。秀梅来る。

正月廿八日。61 帝国劇場に『トスカ』を聴く。

正月三十日。正午松筵子と風月堂に食す。大石国手を訪ひしが不在なり。

正月卅一日。61 帝国劇場に『トラヰヤタ』を聴く。風なく夜寒からず。

二月一日。61 月明なり。帝国劇場に『フォースト』を聴く。廊下にて巖谷三一に逢ふ。枕上仏蘭西作曲家モリス・ラヴヱルの評伝を読む。

二月四日。帝国劇場聴歌の帰途生田葵山永井建子の両氏と日比谷のカツフヱーに飲む。

二月五日。微恙あり。

大正十二年二月六日。曇りて寒し。

二月七日。朝まだきより雪降り出し夜に入るも歇まず。

二月八日。雪ふりつゞきたり。屋根の上に二尺ほどもつもる。薄暮に歇む。

二月十日。心地平生の如くならず。昼の中は熱なけれど夜深二時頃より悪寒甚しく、暁明に至りて去る。瘧(おこり)なるべし。

二月十一日。机に凭りて筆取らむとせしが、眩暈(めまい)をおぼえて已む。

二月十二日。森先生全集第四巻出版。是第一回目の配本なり。

二月十三日。日々晴れて暖なり。

二月十四日。東伏見宮御葬儀の由にて、市兵衛町表通衣冠の人を載せたる自働車頻に来往するを見る。枕上鷗外先生全集第四巻を通読す。

二月十五日。病未癒えず。深更雨。

二月十六日。終日大雨。

二月十七日。曇りて寒し。雑誌『女性』のために短編小説を草す。夜高橋君電話にて鎌倉より帰宅の由を告ぐ。枕上レニヱーの小説『ペーシユレス』を読む。

二月十八日。松筵子と風月堂に会す。

二月十九日。午後大石君を訪ふ。

大正十二年二月二十日。昨夜枕上雨声を聴いて眠りしが、今朝起出るにいつか雪となれり。炉辺児島博士の支那文学考第二巻韻文考を読む。

二月廿一日。午頃より雨に交りて雪また降る。街路忽沼の如し。

二月廿二日。松筵子と倶に帝国劇場に徃く。

二月廿三日。池田大伍子と倶に松筵子の邸に招がる。夜暖なること四月の如し。

二月廿六日。帝国ホテルにて与謝野寛誕辰五十年の祝宴あり。

二月廿八日。春寒くして梅花未開かず。秀梅に逢ふ。

三月五日。ラヂウムの治療を試みんがため日本橋高砂町阿部病院に赴く。診察所にて芸者風の美人を見る。多年余の小説を愛読せりとて彼方より親し気に話しかくるなり。年は三十に近かるべし。深川冨岡門前に生れたる由にて深川真砂座などの古き狂言、洲崎の燈籠、仁和加の事など語りつゞけぬ。阿部病院を出で本郷座に赴く。寒風吹起りて砂塵を巻く。此二三日夕刻に至るや必風吹出でゝ寒くなるなり。松筵出演の中幕を見て帰る。

三月六日。晴れて風寒し。

三月七日。帝国ホテルにて鷗外全集編纂会開かる。世話人はいつも与謝野氏なり。出席者桑木文学博士、入沢小金井の両医学博士、吉田増蔵、浜野知三郎、山田孝雄、森潤三郎、小山内薫、江南文三、平野万里、与謝野寛、鈴木春浦、其他なり。帰途小山内氏と築地の幸楽に一酌す。春寒料峭(りようしよう)たり。

三月八日。細雨烟の如し。

大正十二年三月九日。昼餉の後筆を秉らむとする時突然新演芸記者の訪問を受け、感興散逸して復筆を秉ること能はず。市中を散歩す。夜平沢哲雄其妻を伴ひ来訪す。

三月十日。鷗外全集第二回配本到着。夜帝国劇場に徃く。偶然野口米次郎及夫人の逢ふ。小山内君作息子一幕を見て帰る。

三月十二日。春雨歇まず。終日机に凭る。

三月十三日。松筵君と風月堂に昼餐を食す。風冷なり。

三月十五日。春雨晩晴。泥濘の路を歩み高輪楽天居句会に徃く。

三月十七日。快晴。新橋の妓鈴乃に逢ふ。

大正十二年三月十八日。南風頭痛を催さしむ。日暮俄に雨。

三月十九日。春雨烟の如し。草稾用罫紙を摺る。レニヱーの小説 La double Maitresse を読む。

三月二十日。春陰。

三月廿一日。松筵君に招がれて風月堂に飯す。

三月廿二日。帝国劇場を観る。深夜雨。

三月廿三日。九穂山人と南佐柄木町に飲む。春風冷なり。

大正十二年三月廿四日。61三年来飼馴らしたる青き鸚哥(いんこ)を籠のまゝ初瀬浪子の家に送る。余近日西京(=京都)に遊ばむとするに付、小禽の始末をいかゞせむと思ひ煩ひゐたりしに、ふと芝居にて波子に逢ひ、其家には既に文鳥かなりやなど飼へりとの事に、予が鸚哥を贈りしなり。正午酒井晴次君来談。山形ホテルにて食事を与にす。

三月廿六日。松筵君と共に羽衣会の舞踊を観る。拙劣にて興味索然たり。

三月廿七日。夜九時半の列車にて京都に向かふ。車中クロオデルの東亜紀行を読む。

三月廿八日。午前十時過京都駅に着し東山ミヤコホテルに投宿す。此日暖気五月の如し。祇園の桜花忽開くを見る。夜島原に遊ぶ。

三月廿九日。午後より雨。気候再び寒冷となる。夜玉川屋に飲む。

三月卅日。終日散歩。夜九時半の汽車にて東帰の途に就く。

三月卅一日。朝十時新橋に着す。風月堂にて食事をなし家に帰る。門前の瑞香(=じんちようげ)依然として馥郁たり。

四月一日。東京の桜花は未開かず。風烈し。夜松筵子に招かれて風月堂に飯す。

四月二日。晴天旬余。風強く塵烟雲の如し。市兵衛町表通の老桜三分通花ひらく。▼午後四谷のお房来りて書斎寝室を掃除す。夜随筆『耳無草』を草す。

四月三日。夜有楽座に徃き小山内君に逢ふ。風冷なり。

四月五日。風俄に寒く夜に入りて雨雪に変ず。

大正十二年四月七日。雨歇みしが空晴れず風冷なり。富士見町に徃き賤妓鶴代と九段の花を見る。

大正十二年四月八日。夕刻驟雨。

四月九日。午後外国語学校教授山内義雄氏と共に、故上田博士令嬢瑠璃子を扶けて、雉子橋外仏国大使館に至り、大使クローデル氏に謁す。瑠璃子博士の詩集を大使に贈呈す。

四月十一日。快晴。正午松筵子に招かれ大伍清潭の二子と風月堂に徃く。夜に至り雨ふる。

四月十二日。雨午後に晴る。

四月十四日。正午東仲通り末広にて七草会例会あり。出席者松筵、紫紅、大伍、錦花、及余の五人に過ぎず。会散じて後紫紅大伍両君と電車通を歩み高島屋呉服店内陳列の絵画を一覧し、南伝馬町四辻の相互館の屋上に茶を喫す。春日駘蕩、品海の眺望甚佳し。晩餐の後有楽座に花柳踊さらひを観る。久米秀治と弥生に一酌して帰る。

四月十五日。晴天。風猶寒し。今年花開きてより気候順調ならず。

四月十六日。俄に暑くなりぬ。九穂子と清新軒に飲む。

四月十七日。夕方より風吹き出で大雨となる。枕上露伴子の『潮待草』を読む。

四月十八日。日の光夏らしくなれり。正午松莚子と風月堂に食す。風吹出でしが雨にはならず。銀座より芝公園を歩みて帰る。

四月二十日。晴れしが風猶冷なり。本年の春ほど気候不順なる時節は罕なるべし。宿痾よからず。深更雨。

四月廿一日。正午風月堂に招かれ松莚子細君及門下の俳優と昼餐を倶にす。曇りて風寒し。春陽堂店員来りて全集第二巻第五版四百九拾部の検印を乞ふ。

大正十二年四月廿二日。露伴先生の随筆『讕言長語』を一読せむと春陽堂に注文せしが、二十余年ほどむかしの出版なれば品切なりといふに、是非なく神田神保町通の古本屋を尋ね歩みしが獲る所なし。銀座風月堂に飯して帰る。『耳無草』執筆。

四月廿三日。午前草花の種を蒔く。夜中州河岸の平沢氏を訪ふ。

大正十二年四月廿四日。午後散歩。三越呉服店にて洋傘靴足袋を買ふ。実はプラトン社より商品切手を贈られしが故なり。風寒く日暮雨となる。四月末の気候とは思はれず、暖炉に火を焚く。

四月廿五日。雨ふる。夜有楽座にて常磐津文字兵衛さらひあり。

四月廿六日。清元会。

四月廿七日。午後神田の古書肆を見歩き仏蘭西書院に立寄り新着の小説二三冊を求む。

四月廿八日。掃庭半日。ヱミル・ファゲヱの『読書論』をよむ。薄暮細雨糠の如く風竹淅瀝たり。『耳無草』第五回脱稿。

四月廿九日。夜松莚子の家に招がる。大伍、清潭、吉井、小山内の諸氏亦招がる。

四月三十日。曇りて風冷なり。庭の雑草を除く。夕(ゆうべ)根本氏来談。

五月一日。痔を患ひ午前谷泉氏の病院に徃く。

五月二日。朝台所にて牛乳をあたゝめ居たりしに、頻に表の呼鈴を鳴して案内を請ふものあり。戸を開くに洋服を着たる見知らぬ男、浅草田島町の金貸小室梅次郎といふ者より依頼されたる用件ありとて名刺を出し面談を請ふ。書斎に導くに其男直に折革包より一片の証書を示し、返済の期限は既に過ぎたり、いつ頃返済の見込なるやと言ふ。証書を見るに債務者の姓名は余と同じなれど、筆跡は全く別人なり。書面の原籍を見て考るに余と同姓同名にて海軍造船所技師を勤むる人なるが如し。余何故に之を知るやといへば、先年逗子の別荘売却の折、横須賀の登記所にて海軍技師をつとむる人にて余と同姓同名のものあるを知り、不思議の思をなしたる事あればなり。余審にこの事を語り人ちがひなる由を告げむとは思ひしかど、相手の態度甚無礼なれば翻弄するも一興なりと思ひ、此の証書に付きては少しく仔細あれば返金の如何は即答しがたしとて、押問答の末日を定めて再会する事となしたり。余と同名の人は旧幕府瓦解の当時若年寄をつとめし永井玄番頭の家を継ぎし人なり。かつて上野桜木町に邸宅ありしが今はいかゞなりしや。

大正十二年五月三日。61雨終日小止もなく降りつゞきたり。庭中の新緑仔細に看れば樹木によりて各趣を異にす。百日紅の若葉は金鶏鳥の羽毛の如く、柿の若葉は楓と同じく浅き緑の色いふばかりなく軟なり。石榴の若芽は百日紅と相似たり。どうだんの若葉は楓に同じく、其の花の純白なるは梅花梔子(くちなし)花の如し。かなめの若葉は磨きたる銅の如くに輝きたり。椎樫の若芽は葦の穂に似たり。午後『一葉全集』の中『たけくらべ』『濁江』の二篇を読む。

五月五日。62 夜帝国劇場に提琴の名手クライスラの演奏を聴く。生田葵山と電車を同くして帰る。

大正十二年五月六日。62 立夏。曇りて夕暮れより雨ふる。毎日筆を把れども感興来らず。ミユツセが『世紀の児の告白』を読む。深更地震。

五月七日。62雨もよひの空なり。風呂場の窓にまつはりし郁子(むべ)の蔓を解きて軒の棚に結ぶ。大正九年の五月この家に引き移りし時、植木屋福次郎郁子一株を持来りてこゝに植えしが、三年を過ぎたる今日、棚既に狭きばかりに生い繁りぬ。小なる花あまた咲きたれば今年は実をも結ぶべし。

五月八日。終日雨歇まず。

五月九日。浜町阿部病院に徃きラヂウム治療の後、毎夕新聞社に啞々子を訪ふ。その後健康次第に頽廃せしものゝ如く顔色憔悴し、歩行も難儀らしく、散歩に誘ひしが辞して其家に帰れり。

五月十日。午後三菱銀行に徃き、帝国劇場に立寄る。昼夜とも女優劇の興行なり。日出子小春の二女優と日比谷公園を歩み薄暮家に帰る。

五月十一日。内幸町国民図書会社へ車夫を差出し鷗外先生全集第四巻四月及五月刊行の分二冊を受取り来らしむ。図書会社は毎月製本出来次第配達する由なれど、我が家女中も留守番もなきため、配達の店員空しく立帰ること屢なりといふ。午後散歩。夜鷗外全集第七巻収載『能久親王事跡』を読む。深夜雨声あり。風呂をたきて浴す。

五月十二日。夜鷗外全集第七巻所載の『西周伝』を読む。山形ホテル食堂にて夕餉をなし今井谷を歩む。谷町通西側の人家取払ひとなり道路広くなれり。電車やがて通ずるやうになる由なり。

大正十二年五月十三日。麦藁帽子を購ふ。

五月十四日。築地酔仙亭にて七草会あり。出席者、綺堂、大伍、松莚、錦花、清潭、及余の六人なり。風湿気を含みて冷なること梅雨中の如し。夕刻腹痛を覚ゆ。

五月十五日。昨日の如く曇りて風冷なり。浜町阿部病院に徃きラヂウム治療の後、深川辺を散歩せむと新大橋を渡りしが、風甚冷湿なれば永代橋より電車に乗り、銀座にて夕餉をなして家に帰る。此日午前邦枝完二来訪。夜ヱストニヱーの小説 L'Appel de la Route を読む。

五月十六日。午後金沢市今村次七君来り訪はる。米国留学の旧事を語り合ひて日の暮るゝを忘る。山形ホテル食堂にて晩餐を倶にす。雨ふり出して寒冷冬の如し。

五月十七日。62曇りて寒し。午後東光閣書房主人来談。夜森先生の『渋江抽斎伝』を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものゝ如し。叙事細密、気魄雄勁なるのみに非らず、文致高達蒼古にして一字一句含蓄の妙あり。言文一致の文体もこゝに至つて品致自ら具備し、始めて古文と頡頑(けつかう)することを得べし。

五月十八日。62 快晴。気候順調となる。玄関の軒裏より羽蟻おびたゞしく湧き出づ。

五月十九日。62晴れて風爽なり。午後某雑誌記者の来訪に接したれば、家に在るや再びいかなる者の訪ひ来るやも知れずと思ひ、行くべき当もなく門を出でたり。日比谷より本所猿江町行の電車に乗り小名木川に出で、水に沿ふて中川の岸に至らむとす。日既に暮れ雨また来らむとす。踵を回して再び猿江裏町に出で、銀座にて夕餉を食し家に帰る。大正二三年のころ、五ツ目より中川逆井の辺まで歩みし時の光景に比すれば、葛飾の水郷も今は新開の町つゞきとなり、蒹葭(=アシ)の間に葭雀の鳴くを聞かず。たまたま路人の大声に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ。

大正十二年五月二十日。63昨日の散策に興を催せしのみならず、鷗外先生の『抽斎伝』をよみ本所旧津軽藩邸付近の町を歩みたくなりしかば、此日風ありしかど午後より家を出づ。津軽藩邸の跡は今寿座といふ小芝居の在るあたりなり。総武鉄道高架線の下になりて汚き小家の立つゞくのみなり。緑町四丁目羅漢寺の小さき石門を過ぎたれば、一時この寺に移されたる旧五ツ目羅漢寺の事を問はむとせしが、寺僧不在にて得るところなし。江戸名所の五百羅漢は五ツ目より明治二十年頃にこの緑町に移されしが、後にまた目黒に移されたり。是予の知るところ也。

大正十二年五月廿一日。63 風歇み蒸暑くなりて雨ふり出しぬ。深更に至りていよいよ降りまさりぬ。

五月廿二日。日本橋通高島屋呉服店三階にて松方幸次郎所蔵浮世絵展覧会あり。欧洲大乱の際松方氏巴里にて有名なる版画蒐集家 Vever 氏より譲受しものなりしと云。会場にて野口米次郎、市川三升、小村欣一に会ふ。細雨歇まず街路沼の如し。

五月廿三日。雨ふりつゞきて心地爽かならず。机に凭れしが筆進ま頭痛岑々(じんじん)然たり。哺時中洲の平沢氏を訪ふ。

五月廿四日。両三年来神経衰弱症漸次昂進の傾あり。本年に至り読書創作意の如くならず。夜々眠り得ず。大石国手の許に使を遣し薬を求む。午後雨の晴間を窺ひ庭のどうだん黄楊(つげ)の木などの刈込をなす。夜四谷の妓家にお房を訪ひ帰途四谷見付より赤阪離宮の外墻に沿へる小路を歩みて青山に出で電車に乗る。曇りし空に半輪の月を見たり。

五月廿五日。昨夜大石君調剤の催眠薬を服用して枕に就きしが更に効験なし。松本泰端書を寄す。堀口大学シヤールルイフィリツプの翻訳小説集を贈来る。昼餉の後神田神保町古書陳列売立の会に徃く。

五月廿六日。午後小包郵便にて昨日購ひし書冊到着したれば直に開きて見る。其中に講談速記雑誌『百花園』二百五六十冊あり。初号は明治二十二年の発行なり。下谷の祖母晩年病床にてこの雑誌を読み居られしことを思浮べ、なつかしきあまりに購ひたるなり。清親芳年等の挿絵の中には見覚あるものも尠からず。燈下『耳無草』を草す。僅二三枚にて歇む。

五月廿七日。松莚子夫婦と風月堂にて昼餉をなし、再び高島屋呉服店に至り、陳列の浮世絵を観る。中村歌右衛門に逢ふ。松莚子は本郷座小雀会を見に行かれしが、予は中途にて別れ、上野に出で、新開の駒込神明町を見歩き、大塚にて鉄道院電車に乗りかへ、品川停車場より歩みて家に帰る。日既に暮る。夜海保漁村の『漁村文話』を読む。

五月廿八日。黄昏驟雨。

五月廿九日。終日家に在り。風呂場を掃除す。

大正十二年五月三十日。神田錦町南明倶楽部に浮世絵売立会あり。品物には割合に良きもの多かりしが来会者至つて少し。此日曇りて風涼しく歩むによければ、神田橋より二重橋外に出で、愛宕山に登りて憩ひ、日暮家に帰る。初更雨烈しく降り出しぬ。

五月三十一日。陰晴定りなく時々雨あり。三菱銀行より日本橋に出で大石君を訪ふ。夜また雨。

六月朔。松莚大伍の両子と風月堂にて晩餐をなし、銀座を歩みて京橋鴻の巣酒亭に憩ふ。主人奥田氏現代文士画家の墨帖数冊を示さる。帰途大伍子と再び銀座を歩む。

六月二日。正午酒井晴次来訪。

六月三日。明治座初日。大伍君作『月佳夏夜話』三幕を観むとて夕餉の後車を倩つて徃く。帰途岡本綺堂、池田大伍、木村錦花、池尻清潭の諸家と偶然電車を同じくす。款話道の遠きを忘る。河原崎長十郎と桜田門にて電車を降り、歩みて家に帰る。夜静にして薫風嫋々(でうでう)たり。

六月四日。夕餉の後六本木通を散歩し、古本屋にて沢田東江の『春宴帖』一巻を獲たり。余東江の書風を好み、時々臨写す。墨帖の刊刻せられしもの今大抵蒐集し得たり。昨夜より今朝にかけ地震ふこと五六回なり。

六月五日。63快晴。庭の松に毛虫多くつきたり。五月中雨多く晴たる日稀なりしがためなるべし。此日庭樹に鵯四五羽飛来りて啼く。鵯は冬来りて春去るものなるに、今頃来るは気候年々甚しく不順の故ならむか歟。一昨年は蜩(ひぐらし)の蝉に先立ちて鳴きしことあり。冬至の頃鶯の鳴きし事もあり。

六月六日。64 晴。四谷のお房来る。

六月七日。園丁来りて庭樹の刈込をなす。夜谷町の古本屋を見歩きしが、獲るところなし。

六月八日。64北白川宮御葬儀の当日なりとて劇場休業す。松莚子門弟を従へ箱根に遊ぶ。電話にて同行を勧められしが、昨日より右の眼に物貰ひ出来て痛みあり。辞して徃かず。朝より眼を洗ふこと屢なり。読書に堪えざるを以て、午後杖を江東に曳く。深川高橋より行徳通の石油発動船に乗り、中川を横り、西船堀の岸に上り放水路の坡上(=土手)を歩む。西岸には工場立続きたれど東岸には緑樹鬱蒼茅舎の散在するを見る。廬萩深き処行々子(よしきり)の声騒然たり。船堀橋を渡り小松川城東鉄道停車場に至る時雨に逢ふ。今日見たりし放水路堤防の風景は恰も二十年前の墨堤に似たり。近郊の繁華寔(まこと)に驚くべし。

大正十二年六月十日。午後シヤトオブリアンの抜萃集を携へ、渋谷より電車にて玉川双子の渡に至り、沙上に横臥して読書黄昏に至る。夜雨あり。執筆深更に及ぶ。名古屋の人安藤次郎氏、也有、暁台、士朗、三家追善紀念会出品目録を送り来る。

六月十一日。曇りて風冷なり。清元秀梅来る。山内秋生郵書を以て啞々子の病甚軽からざる由を報じ来る。

六月十二日。正午酒井晴次君来談。山形ホテルにて食事をなし、相携へて東大久保村西向天神祠畔の寓居に啞々子の病を問ふ。甚しく気管支を害し、肺炎を起せしなりと云ふ。専心摂生に力めなば恢復の望未全く絶えたりとも言ひがたきやうなり。されど衰弱甚しく見るからに傷ましきさまなり。細君はさして心配の様子なきやうなるは如何なる故歟。夕陽枕頭に映じ来る頃再見を約して去る。帰途旧宅断腸亭の門前を過ぎ、谷町通善慶寺の墓地に入り平秩東作の墓を掃はむと欲せしが、それらしきものを見ず。東作の建てたる其父母の墓と、又稲毛屋次郎右衛門と刻したる二墓あり。寺僧不在なりしを以て過去帳をも見ること能はざりき。

六月十三日。雨ふる。

六月十四日。正午七草会新大橋際平田といふ待合に開かる。出席する者綺堂、大伍、松莚、紫紅、鬼太郎、錦花、清潭、吉井、城戸、及予の十人なり。帰路大伍子と新大橋より川船にて永代橋に至り、越前堀を歩み、鉄砲洲稲荷の境内を過ぎ、明石町に出づ。築地にて大伍子と別れ家に帰る。

六月十五日。夜若松屋にて新演芸合評会あり。大伍子新作夏の夜話三幕を合評す。梅雨の空墨を流せしが如し。帰途幸にして雨に逢はず。

六月十六日。市川三升に招がれ築地の錦楽に飲む。

六月十七日。雨ふる。『漁村文話』を読む。黄昏雨晴れたれば谷町を歩み、西花園にて葡萄の盆栽を購ふ。▼四谷に徃きお房を見る。

大正十二年六月十八日。64 雨ふる。市兵衛町二丁目丹波谷といふ窪地に中村芳五郎といふ門札を出せし家あり。囲者素人の女を世話する由兼ねてより聞きゐたれば、或人の名刺を示して案内を請ひしに、四十ばかりなる品好き主婦取次に出で二階に導き、女の写真など見せ、其れより一時間ばかりにして一人の女を連れ来れり。年は二十四五。髪はハイカラにて顔立は女優音羽兼子によく似て、身体は稍小づくりなり。秋田生れの由にて言語雅馴ならず。灯ともし頃まで遊びて祝儀は拾円なり。この女のはなしに此の家の主婦はもと仙台の或女学校の教師なりし由。今は定る夫なく娘は女子大学に通ひ、男の子は早稲田の中学生なりとの事なり。

六月十九日。霖雨初めて霽る。過日錦楽にて三升子より依頼されたる骨董店三登茂開業の引札を草す。是日生田葵山新築の家に移りたる由、葉書を寄す。

六月二十日。雨ふる。二葉亭四迷の小説『平凡』を読む。秀梅来る。

六月廿一日。市川三升三登茂の主人を伴ひ来り訪はる。午後信託会社に酒井君を訪ふ。帰途雨。虎の門理髪店にて空の晴るるを待ち薄暮家に帰る。

六月廿二日。風雨一過。夜に入つて雲散じ月出づ。丹波谷に遊ぶ。

六月廿三日。新聞紙諸河の出水を報ず。

六月廿四日。酒井君余の鰥居(かんきよ=独居)を憫み、牛込にて其世話する女と其妹を伴ひ来り、家を掃除し、寝具を日に曝し、半日はたらきて去る。夕餉の後、狸穴町を散歩し、家に帰るや直に執筆。夜半に及ぶ。

六月廿五日。65 二葉亭の『浮雲』、『其面影』の諸作を再読す。

六月廿六日。65 晴れて風涼し。松莚子来り訪はる。

大正十二年六月廿七日。65 午後母上来り訪はる。夕方より雨。

六月廿八日。65 松莚子邸(=に)小集。月佳し。

六月廿九日。65 『毅堂集』を読む。

六月三十日。松莚子に招かれて風月堂に飲む。

七月朔。淫雨。風邪にて臥牀に在り。『駿台雑話』を読む。

七月二日。晴。

七月三日。午後清元秀梅と青山墓地を歩む。雨に逢ひ四谷荒木町の茶亭に憩ふ。夜電燈消滅、夜半一時に至りて初めて点ずるを得たり。

七月四日。積雨始めて霽る。四鄰物洗ふ水の音終日絶えず。

七月五日。日暮風雨。▼丹波谷の女を見る。

七月六日。昼の中雨歇みしが夕刻よりまた降り出しぬ。

七月七日。65曇りて風涼し。午後電車にて柳島に至り、京成電車に乗り換へ市川に遊ぶ。帰途人力車を雇ひ江戸川堤を下り小松川橋に至る。途上老車夫と語るに先年大田南岳の家に出入せし由にて、南岳市川にて溺死の時のことなども能く知りゐたり。小松川橋を渡り、放水路堤防にて車を下り、日暮銀座に飯して家に帰る。

大正十二年七月八日。65 午前愛宕下谷氏の病院に徃く。待合室にて偶然新聞紙を見るに、有島武郎波多野秋子と軽井沢の別荘にて自殺せし記事あり。一驚を喫す。夜松莚君及細君と有楽座に徃き藤蔭会踊さらひを看る。

七月九日。65 風雨午後に歇む。森先生の小祥忌なり。墓参の帰途明星社の同人酒亭雲水に会して晩餐をなす。賀古小金井の両先生、千葉掬香氏も来会せられたり。

七月十日。66 『伊沢蘭軒伝』を熟読す。夜秀梅を訪ふ。

七月十一日。66 正午酒井晴次来談。午後速達郵便にて井上啞々子逝去の報来る。夕餉を食して後東大久保の家に赴く。既に霊柩に納めたる後なり。吊辞を述べ焼香して帰る。電車にて西村渚山人に逢ふ。

七月十二日。66 午後井上君宅にて告別式執行せらる。葬儀は家人のみにてなす由なり。晩間風月堂に徃きて松莚子に逢ふ。明朝出発。静岡岐阜より伊勢路を興行し月末帰京の由。

七月十三日。時々驟雨。午後浅利鶴雄帝国劇場用事にて来談。

七月十四日。早朝腹痛甚しく下痢を催す。使を中州病院に走らせ薬を求む。午後下痢少しく歇む。

七月十五日。梅雨既にあけたれど淫雨猶晴れず。鄰家の人傘さしかけ、雨ふる戸口に盂蘭盆の迎火を焚く。情趣却つて晴夜にまさるものあり。

七月十六日。雨やまず。書窗冥々。洞窟の中に坐するが如し。紫陽花満開なり。

七月十七日。曇りて蒸暑し。終日伊沢蘭軒の伝を読む。晩食の後丸の内の劇場に徃き女優と談笑す。帰宅の後再び蘭軒の伝を読み暁三時に至る。雨中早くも鶏鳴を聴く。

七月十八日。今日も終日蘭軒の伝を読む。

七月十九日。始めて快晴の天気となる。植木屋福次郎来り庭を掃ふ。夜深驟雨。

大正十二年七月二十日。山本一郎氏の端書を得たり。予二十五歳初めて亜米利加に渡航せし時、山本氏がタコマの家に寄寓し、一年を送りたり。山本氏はその頃既に四十を越え、横浜古谷商店の米国支店顧問役なりき。本年日本に帰り鎌倉に卜居したりと云。雨歇み俄に暑し。

七月廿一日。いよいよ暑し。夜秀梅を訪ふ。

七月廿二日。浅利生来訪。夜有楽座に徃く。

七月廿三日。風あり。暑気稍忍び易し。

七月廿四日。

七月廿五日。『伊沢蘭軒』読了。

七月廿六日。帝国劇場女優二三人と丸の内東洋軒に晩餐をなす。この夜炎蒸甚し。浅利生と南佐柄木町弥生に小憩し、鈴乃峯龍の二妓と自働車にて上野公園を一周して家に帰る。

七月廿七日。66 小庭の樹木年々繁茂し、今年は書窗炎天の日中も猶暗きを覚るほどになりぬ。毅堂鷲津先生の事跡を考證せんと欲す。

七月廿八日。松莚子昨夕帰京。今夕風月堂に相逢ふ。銀座通納涼の人踵を接す。炎熱堪ふべからず。家に帰れば庭樹の梢に月あり。清風竹林より来り、虫声秋の如し。

七月廿九日。午後遠雷殷々。驟雨来らむとして来らず。炎蒸最甚し。

七月三十日。午睡わずかに苦熱を忘る。燈下『梧窗漫筆』を読む。

大正十二年八月朔。夜帝国劇場に徃く。狂言は河合井伊一座の壮士芝居なり。暑気甚しければ廊下にて涼を納め狂言は見ず。長崎小山内の両氏と弥生に飲む。新橋の妓じつ子とかいへるもの、過日有島武郎と情死せし秋子の夫に同情し、近日結婚する由。妓輩の談によれば、じつ子は先年英国皇族来朝の際、その枕席に侍し莫大の金を獲たり。之を持参金となし秋子の良人と結婚せば必世に名を知らるべしとて、名を売りたき一心にて結婚を思立ちしなりとぞ。果して然らば当世の人情ほど奇々怪々なるはなし。

八月二日。芝浦の酒楼いけすにて木曜会酒宴の催ある由聞きしが、時節柄魚類を口にする事を欲せざれば行かず。此日終日涼風あり。夜『梧窗漫筆』を読む。

八月三日。66 微恙あり。読書興なし。

八月四日。66 風ありて涼し。鷲津先生事跡考証のため『春濤詩鈔』『東京才人絶句』を読む。

八月六日。66 午後遠雷の響きを聞き驟雨を待ちしが来らず。七月二十日頃より雨なく、庭の土乾きて瓦の如くになれり。窗前の百日紅夾竹桃いづれも花をつけず。

八月七日。炎暑前日の如し。晩餐の後谷町通を散歩し、古本屋の店頭にてふと『文章大鑑』なる一書を把つて見る。書中余の文を採録すること二三篇に及ぶ。是今日まで予の知らざりし所なり。此書大正五年再版とあり、書肆は本郷追分町三十番土屋書店、編修名義人は鷲尾義直とあり。▼奸商のなす所憎むべきなり。

八月八日。立秋なり。蔵書を曝す。

八月九日。平沢生来る。山形ホテルにて晩餐をともにす。夜に入るも風なく炎蒸甚し。『五山堂詩話』を読む。

八月十日。晩間風歇み電光物すごし。初更雨来る。

八月十一日。夜驟雨雷鳴。秀梅を訪ふ。

八月十二日。岩村数雄浅利鶴男来訪。

大正十二年八月十三日。夜神田今川小路松雲堂を訪ひ、天保以降梓行の詩文集若干を購ふ。

八月十四日。67 秋暑益甚し。勉強して筆を把る。夜大沼枕山の詩鈔を繙く。

八月十五日。67 鷲津貞二郎の返書を得たり。

八月十六日。67 晩風俄に冷なり。

八月十七日。67 雑誌『女性』原稿執筆。夜秀梅を訪ふ。

八月十九日。67 曇りて涼し。午後谷中瑞輪寺の赴き、枕山の墓を展す。天龍寺とは墓地裏合せなれば、毅堂先生の室佐藤氏の墓を掃ひ、更に天王寺墓地に至り鷲津先生及外祖母の墓を拝し、日暮家に帰る。

八月二十日。終日『星巌集』を読む。晩間酒井来談。

八月廿一日。午前三番町二七不動祠後岩渓裳川先生の寓居を訪ひ、『春濤詩鈔』のことにつきて教を乞ふ。

八月廿二日。午後驟雨雷鳴。夕餉の後過日谷中瑞輪寺にて聞合せたる大沼氏の遺族を下六番町に訪ふ。

大正十二年八月廿三日。腹痛下痢。

八月廿六日。午前下谷区役所に赴き大沼氏の戸籍を閲覧す。午後堀口大学氏来訪。晩間大久保村母上来り訪はる。

八月廿七日。夕刻驟雨。

八月廿八日。松莚子と風月堂に会す。初更雷雨。秀梅を訪ふ。

八月廿九日。午前下谷竹町なる鷲津伯父を訪ひ追懐の談を聴く。毅堂枕山二先生事績考証の資料畧取揃ひ得たり。

八月三十日。午後川尻清潭氏河合演劇脚本選評の謝礼参拾円を持参せらる。夕刻松莚子に招がれ風月堂に徃き、其家人門弟と会食す。浅倉書店より猪飼敬所の『読礼肆考』、小原鉄心の遺稿を送り来る。

八月三十一日。終日鷲津先生事績考証の資料を整理す。晩餐の後始めて考証の稾を起す。深更に至り大雨灑(そそぎ)来る。二百十日近ければ風雨を虞れて夢亦安からず。

九月朔。67曶爽(こつそう=早朝)雨歇みしが風猶烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。日将に午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に坐し『嚶鳴(あうめい)館遺草』を読みゐたりしが架上の書帙頭上に落来るに驚き、立つて窗を開く。門外塵烟濛々殆咫尺を弁ぜず。児女雞犬の声頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。予も亦徐(おもむろ)に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ表の戸を排(ひら)いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に椅りておそるおそる吾家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の戸も落ちず。稍安堵の思をなす。昼餉をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動歇まざるを以て内に入ること能はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の鄰地にて熄む。吾廬を去ること僅に一町ほどなり。

九月二日。68 昨夜は長十郎と庭上に月を眺め暁の来るを待ちたり。長十郎は老母を扶け赤阪一木なる権十郎の家に行きぬ。予は一睡の後氷川を過ぎ権十郎を訪ひ、夕餉の馳走になり、九時頃家に帰り樹下に露宿す。地震ふこと幾回なるを知らず。

九月三日。68 微雨。白昼処々に放火するものありとて人心恟々(きようきよう)たり。各戸人を出し交代して警備をなす。梨尾君来りて安否を問はる。

大正十二年九月四日。68曶爽家を出で青山権田原を過ぎ西大久保に母上を訪ふ。近巷平安無事常日の如し。下谷鷲津氏の一家上野博覧会自治館跡の建物に避難すと聞き、徒歩して上野公園に赴き、処ゝ尋歩みしが見当らず、空しく大久保に戻りし時は夜も九時過ぎなり。疲労して一宿す。この日初めて威三郎の妻を見る。▼威三郎とは大正三年以後義絶の間柄なれば、其妻子と言語を交る事は予の甚快しとなさゞる所なれど、非常の際なれば已む事を得ざりしなり。

九月五日。午後鷲津牧師大久保に来る。谷中三崎に避難したりといふ。相見て無事を賀す。晩間大久保を辞し、四谷荒木町の妓窩を過ぎ、阿房の家に憩ひ甘酒を飲む。塩町郵便局裏木原といふ女の家を訪ひ、夕餉を食し、九時家に帰る。途中雨に値(あ)ふ。

九月六日。疲労して家を出る力なし。横臥して小原鉄心の『亦奇録』を読む。

九月七日。昼夜猶軽震あり。

九月八日。午後平沢生来訪。

九月九日。午前小山内吉井両君太陽堂番頭根本氏と相携へ見舞に来る。小山内君西洋探検家の如き軽装をなし、片腕に東京日々新聞記者と書きたる白布を結びたり。午後平沢夫婦来訪。つゞいて浅利生来り、松莚子滝野川の避難先より野方村に移りし由を告ぐ。此日地震数回。夜驟雨あり。

大正十二年九月十日。昨夜中洲の平沢夫婦三河台内田信哉の邸内に赴きたり。早朝徃きて訪ふ。雨中相携へて東大久保に避難せる今村といふ婦人を訪ふ。平沢の知人にて美人なり。電車昨日より山の手の処々運転を開始す。不在中市川莚升河原崎長十郎来訪。

九月十一日。雨晴る。平沢今村の二家偏奇館に滞留することゝなる。

九月十二日。窗外の胡枝(はぎ)花開き初む。

九月十三日。大久保より使の者来り下谷の伯父母大久保に来り宿せる由を告ぐ。

九月十四日。早朝大久保に赴き鷲津伯父母を問安す。夕刻家に帰る。

九月十五日。時々驟雨。余震猶歇まず。

大正十二年九月十六日。午後松莚子細君を伴ひ来り訪はる。野方村新居の近鄰秋色賞すべきものありとて頻に来遊を勧めらる。松莚君このたびの震災にて多年蒐集に力めたる稀書絵画のたぐひ、悉く灰燼になせし由。されど元気依然として溌剌たるは大いに慶賀すべし。

九月十七日。両三日前より麻布谷町通風呂屋開業せり。今村令嬢平沢生と倶に行きて浴す。心気頗爽快を覚ゆ。

九月十八日。69災後心何となくおちつかず、庭を歩むこともなかりしが、今朝始めて箒を取りて雨後の落ち葉を掃ふ。郁子からみたる窗の下を見るに、毛虫の糞おびたゞしく落ちたり。郁子には毛虫のつくこと稀なるに今年はいかなる故にや怪しむべき事なり。正午再び今村令嬢と谷町の銭湯に徃く。

九月十九日。69 旦暮新寒脉々たり。萩の花咲きこぼれ、紅蜀葵の花漸く尽きむとす。虫声喞々(しゆくしゆく)。閑庭既に災後凄惨の気味なし。『湖山楼詩鈔』を読む。

九月二十日。午前河原崎権十郎、同長十郎、川尻清潭、相携へて来り訪はる。午後驟雨あり。小野湖山の『火後憶得詩』を読む。門前の椿に毛虫つきたるを見、竹竿の先に燭火を点じて焼く。

九月廿一日。午後酒井晴次来談。夜雨霏霏たり。

九月廿二日。雨後俄に冷なり。十月末の如し。感冒を虞れ冬の洋服を着る。月あきらかなり。

大正十二年九月廿三日。朝今村お栄と谷町の風呂屋に赴く。途上偶然平岡画伯に邂逅す。其一家皆健勝なりといふ。午後菅茶山が筆のすさみを読む。曇りて風寒し。少しく腹痛あり。夜電燈点火せず。平沢夫婦今村母子一同と湯殿の前なる四畳半の一室に集り、膝を接して暗き燈火の下に雑談す。窗外風雨の声頻なり。今村お栄は今年二十五歳なりといふ。実父は故ありて家を別にし房州に在り、実母は芸者にてお栄を生みし頃既に行衛不明なりし由。お栄は父方の祖母に引取られ虎の門の女学館に学び、一たび貿易商に嫁し子まで設けしが、離婚して再び祖母の家に帰りて今日に至りしなり。其間に書家高林五峯俳優河合の妾になりゐたる事もありと平沢生の談なり。祖母は多年木挽町一丁目万安の裏に住み、近鄰に貸家多く持ち安楽に暮しゐたりしが、此の度の災火にて家作は一軒残らず烏有となり、行末心細き様子なり。お栄はもともと芸者の児にて下町に住みたれば言語風俗も芸者そのまゝなり。此夜薄暗き蠟燭の光に其姿は日頃にまさりて妖艶に見え、江戸風の瓜実顔に後れ毛のたれかゝりしさま、錦絵ならば国貞か栄泉の画美人といふところなり。お栄この月十日頃、平沢生と共にわが家に来りてより朝夕食事を共にし、折々地震の来る毎に手を把り扶けて庭に出るなど、俄に美しき妹か、又はわかき恋人をかくまひしが如き心地せられ、野心漸く勃然たり。ヱドモン・ジヤルーの小説Incertaineの記事も思合されてこの後のなりゆき測り難し。

大正十二年九月廿四日。昨来の風雨終日歇まず。寒冷初冬の如し。夜のふくるに従ひ風雨いよいよ烈しくなりぬ。偏奇館屋瓦崩れ落ちたる後、修葺(しゆうふく)未十分ならず。雨漏甚し。

九月廿五日。昨夜の風雨にて庭のプラタン樹一株倒れたり。その他別に被害なし。正午岩村数雄来る。松莚子門弟一座の者に衣食の道を得せしめんがため、近日関西に引移る由。岩村生の語るところなり。此日一天拭ふが如く日光清澄なり。夜に入り月光また清奇(せいき)水の如し。暦を見るに八月十五夜なり。災後偶然この良夜に遇ふ。感慨なき能はず。

九月廿六日。本月十七八日頃の新聞紙に、予が名儀にて老母死去の広告文ありし由、弔辞を寄せらるゝ人尠からず。推察するに是予と同姓同名なる上野桜木町の永井氏の誤なるべし。本年五月同名異人とは知らずして、浅草の高利貸予が家に三百代言を差向けたることもあり。諺にも二度あることは三度ありといへば、此の次はいかなる事の起来るや知るべからず。此日快晴日色夏の如し。午後食料品を購はむとて渋谷道玄阪を歩み、其の辺の待合に憩ひて一酌す。既望(=十六日)の月昼の如し。地震昼夜にわたりて四五回あり。

大正十二年九月廿七日。心身疲労を覚え、終日睡眠を催す。読書に堪えざれば近巷を散歩し、丹波谷の中村を訪ふ。私娼の周旋屋なり。此夜月また佳し。

九月廿八日。震災見舞状を寄せられし人々に返書を郵送す。

九月廿九日。中野なる松莚子が僑居(=仮住ひ)を訪はむと家を出でしが電車雑沓して乗ること能はず。新宿より空しく帰る。

九月三十日。曇りて午後より小雨ふる。植木屋福次郎来りて災後荒蕪の庭を掃ひ、倒れし樹木を起したり。夜豪雨。枕上柳里恭の『雲萍漫筆』を読む。

十月朔。災禍ありてより早くも一個月は過ぎたり。予が家に宿泊せる平沢夫婦朝より外出せしかば、家の内静かになりて笑語の声なく、始めて草廬に在るが如き心地するを得たり。そもそも平沢夫婦の者とはさして親しき交あるに非らず。数年前木曜会席上にて初めて相識りしなり。其後折々訪来りて頻に予が文才を称揚し、短冊の揮毫を請ひなどせしが、遂に此方よりは頼みもせぬに良き夫人をお世話したしなど言出だせしこともありき。大地震の後一週間ばかり過ぎたりし時、夫婦の者交る交る来り是非にも予が家の厄介になりたしといふ。情(すげ)なくも断りかね承諾せしに、即日車に家財道具を積み載せ、下女に曳かせ、飼犬までもつれ来れり。夫平沢は二十八歳の由、三井物産会社に通勤し居れど、志は印度美術の研究に在りと豪語せり。女は今年三十三とやら。本所にて名ある呉服店の女の由。中洲河岸に家を借り挿花の師匠をなし居たるなり。現代の雑誌文学にかぶれたる新しき女にて、知名の文士画家または華族実業家の門に出入することを此上もなき栄誉となせり。色黒くでぶでぶしたる醜婦にて、年下の夫を奴僕の如く使役するさま▼醜猥殆ど見るに堪えず▲。曽我の家の茶番狂言などには適切なるモデルなり。凡そ女房の尻に敷かるゝ男の例は世上に多けれど、此の平沢の如きは盖(けだし)稀なるべく、珍中の珍愚中の愚と謂ふべし。近年若き学生など年上の醜婦に取入り其の歓心を得ることを喜ぶもの多くなりし由は予も屢耳にせし所なり。されど其の最醜劣なる実例を目睹するに至つては、流石の予も唯驚歎するのみにて言ふべき言葉もなし。

大正十二年十月二日。午後赤坂麹町の焼跡を巡見し、市ヶ谷より神楽坂に至る。馴染の一酒亭に登り妓を招ぎて一酌す。勘定は前払ひにて、妓は不断着のまゝにて髪も撫付けず、三味線も遠慮してひかず、枕席に侍する事を専とす。山の手の芸者の本領災後に至つていよいよ時に適したり。日暮驟雨。

大正十二年十月三日。69 快晴始めて百舌の鳴くを聞く。午後丸の内三菱銀行に赴かむて日比谷公園を過ぐ。林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。公園を出るに爆裂弾にて警視庁及近傍焼残の建物を取壊中徃来留(とめ)となれり。数寄屋橋に出で濠に沿ふて鍛冶橋を渡る。到る処糞尿の臭気甚しく支那街の如し。帰途銀座に出で烏森を過ぎ、愛宕下より江戸見阪を登る。阪上に立つて来路を顧れば一望唯渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑(こくど)亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさゞる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。

十月四日。70 快晴。平沢生と丸の内東洋軒にて昼餉を食す。初更強震あり。

十月五日。70 曇天。深夜微雨。

十月六日。70 秋霖霏ゝ。腹痛を虞れ懐炉を抱く。

十月七日。70 雨歇まず風声粛条たり。燈下『拙堂文話』を読む。

十月八日。70雨纔に歇む。午後下六番町楠氏方に養はるゝ大沼嘉年刀自を訪ひ、災前借来りし大沼家過去帳写を返璧す。刀自は枕山先生の女、芳樹と号し詩を善くす。年六十三になられし由。この度の震災にも別条なく平生の如く立働きて居られたり。旧時の教育を受けたる婦人の性行は到底当今新婦人の及ぶべき所にあらず。日暮雨。夜に入つて風声淅々(=微か)たり。

大正十二年十月九日。曇りて風なし。午後日ケ窪より麻布古川橋に出で網代町の芸者町を過ぐ。此辺一帯にもとは塵芥捨場にて、埋立地なれば、酒楼妓家或は傾き或は崩れたるもの尠からず。大工左官頻に修復をいそげる中に、妓は粉飾して三々五々相携へて弘めをなせり。偶然曾て富士見町にて見知りたる女二三人に逢ふ。いづれも火災に羅り此地に移りて稼ぐといふ。毎日十四五人づゝおひろめ有りとの事なり。

十月十日。くもりて時々小雨あり。

大正十二年十月十一日。午後お栄を伴ひ丸の内の三菱銀行に赴き、帰途新富町なるお栄が家の焼跡を見歩き、築地より電車にて帰る。

十月十二日。風雨終夜窗を撲つ。屋漏甚しく船中に坐するの思あり。

十月十三日。再びお栄を伴ひ三菱銀行に赴く。馬場先門外より八重洲町大通、露店櫛比(しつぴ=びつしり並ぶ)し、野菜牛肉を売る。帰途東洋軒にて偶然松本錦升子に逢ふ。子の老父藤間勘翁は安政の大地震に逢ひたる経験あれば、此の度は未(いまだ)火の起らざる中早くも人力車に夜具と米味噌とを積み、浜町の家を出で二重橋外に来りしに、僅に一組の家族の避難せるのみにて、勘翁は第二着の避難者なりしと。錦升子の談なり。錦升子此日米国兵卒の着用するが如き黄色の洋服を着たり。大阪にて購ひしもの、上下一着其価九円なりしと云ふ。

十月十四日。夜微雨。『拙堂文話』を読む。

十月十五日。積雨午後に至つて霽る。丹波谷の地獄宿中村を訪ふ。

十月十六日。70災後市中の光景を見むとて日比谷より乗合自働車に乗り、銀座日本橋の大通を過ぎ、上野広小路に至る。浅草観音堂の屋根広小路より見ゆ。銀座京橋辺より鉄砲洲泊舩の帆柱もよく見えたり。池ノ端にて神代君に逢ふ。精養県に一茶す。神代君は曾て慶應義塾図書館々員たり。集書家として知られたる人なり。此の度の災禍にて安田氏が松の家文庫また小林氏が駒形文庫等の書画烏有となりし事を語りて悵然たり。弥生岡に日影の稍傾きそめし頃広小路に出でゝ別れ、自働車にて帰宅す。燈下堀口大学氏『青春の焰』の序を草す。深夜雨を聞く。

十月十七日。鷲津家の祖幽林翁の事を問はむが為、尾張国丹羽郡なる鷲津順光翁のもとに書簡を送る。午後青山より四谷に出で赤阪を横ぎりて帰宅す。此日天気快晴。高樹町の辺楓樹少しく霜に染むを見たり。本年の寒去年に比して早きを知るべし。

十月十八日。快晴。午後中野村に徃き松莚子の僑居を訪ふ。家に在らず。留守居の門弟市川莚八及び莚若の実父某と談話し、日の没せざる中急ぎて中野駅に至る。汽車幸に雑沓せず。

大正十二年十月十九日。災前堀口氏より依頼せられし序文を浄書して郵送す。

十月二十日。午後河原崎長十郎来り訪ふ。松莚子今朝上野を出発、北陸道を巡り京都に赴くといふ。夜に入り半輪の月明なるに、時々驟雨来る。

十月廿一日。晴れて蒸暑し。午後書斎を掃ひ、硝子戸を拭ふ。燈下『拙堂文話』を読む。

十月廿二日。小春の好天打つゞきたり。黄花馥郁。

十月廿三日。日暮六本木市三阪商家より失火。四五軒焼けたり。

十月廿四日。鄰家の柿葉霜に染み山茶花開く。晩風蕭条。

十月廿五日。曇りて風寒し。この日平沢夫婦吾家を去りて下總
市川に移る。

十月廿六日。平沢去りて家の内静になりたれば、書斎の塵を掃ひ、
書架を整理す。

大正十二年十月廿七日。今村お栄祖母と共に吾家を去り、目白下落合村に移居す

十月廿八日。久米秀治帝国劇場用務を帯び近日洋行の由。送別の宴を神楽阪上の川鉄に設く。世話人久保田万。来会するもの水上、小島、宇野、及余なり。。

十月廿九日。瓦師来り屋根の修復す。見積書を見るに参百弐拾円なり。午後お栄を訪ふ。

十月三十日。南風吹きて暖なり。午後お栄来る。

十月三十一日。暴暖昨日よりも更に甚し。歩めば汗流るゝばかりなり。初更霞町に火事あり。人々火事といへば狼狽すること少女の如し。近巷弥次馬にて雑沓す。

十一月朔。71風烈しく空曇りて暖気初夏の如し。夜高輪楽天居に木曜会句会あり。参集するもの湖山、葵山、渚山、野圃、夾日、三一、兎生等なり。苦吟中驟雨来る。小波先生震災の記念とて、被害の巷より採拾せし物を示さる。神田聖堂の銅瓦の破片赤阪離宮外墻の屋根瓦、浅草寺境内地蔵堂に在りし地蔵尊の首等なり。地蔵の首は避難民の糞尿うづたかき中より採取せられしなりと云ふ。先生好事の風懐、災後の人心殺伐たるの時一層敬服すべきなり。深夜強震あり。

十一月二日。71 日色晩夏の如し。気候甚順調ならず。春陽堂支配人林氏来りて拙著全集紙型焼失したれば近日再び排印に取掛りたしといふ。

大正十二年十一月五日。払暁強震。午後丹波谷の中村を訪ふ。震災後私娼大繁昌の由。


大正十三(1924)年 荷風年四十六

九月十五日。税務署より大正十二年分所得金額四千壱百八拾円との通知状来る。空曇りて風冷なり。午後永代橋を渡り八幡宮境内災後の光景を見歩き、木塲を過ぎ、洲崎遊郭を歩む。鉄の大門焼残りて在り。門柱に花迎喜気皆知笑。鳥識歓心亦解語。の文字も明に読まれたれば其背面を見るに、録唐王摩詰句。嗚寉(=鶴)老人。明治四十一年十二月建とありたり。遊郭の左右以前は海なりしところ、今は埋立地に工場建ち、煤煙雲の如し。木材の置場遠く砂村の方につゞきたり。台湾檜株式会社などかきたる榜示杭ところどころに立ち、埋立地の堤防セメントにて築かれたるが一直線に限りなく延長したり。電車にて家に帰れば日既に昏く。雨亦来る。

大正十三年十一月十六日。78 日曜日。快晴。都下の新聞紙一斉に大書して難波大助死刑のことを報ず。大助は客歳(かくさい=去年)虎之門にて摂政の宮を狙撃せんとして捕へられたる書生なり。大逆極悪の罪人なりと悪むものあれど、さして悪むにも及ばず、又驚くにも当らずべし。▼皇帝を弑するもの欧洲にてはめづらしからず。▲現代日本人の生活は大小となく欧洲文明皮相の摸倣にあらざるはなし。大助が犯罪も亦摸倣の一端のみ。洋装婦人のダンスと何の択ぶところあらんや。
▼〔欄外朱書〕難波大助死刑大助ハ社会主義者ニアラズ摂政宮演習ノ時某所ノ旅館ニテ大助ガ許嫁ノ女ヲ枕席(=摂政宮ノ)ニ侍(ハベ)ラセタルヲ無念ニ思ヒ復讐ヲ思立チシナリト云フ

十二月十三日。79 午後風なければ落葉を焚く。夜母上の安否を問ふ。母上の許には威三郎の幼児二人あり。行儀悪しく育てたると見え、母と予と対坐する傍に走り来り、椅子に攀(よ)ぢ、茶をくつがえし、菓子を奪ひ、予に向つて早く帰れなどゝ面罵す。世に悪童は多しといへども大久保の子供の如きは未曾て見ざる所なり。威三郎夫婦は野猿の如き悪児二人を年老いたる母上に託して、朝鮮の某処に居住せるなり。是人の親たる務を尽さず、又子たるものゝ道にも反けるものと謂ふべし。威三郎は曾て余の妓を納(い)れて妻となせしを憎み、爾来十余年義絶して今日に及べり。此夜悪童の暴行喧騒に堪えず、母上とは長く語ること能はず、初更辤して帰る。吾家の戸を推して内に入れば闃(げき)として音なく、机上に孤燈の熒熒(けいけい)たるを見るのみ。余は妻子なき身の幸なるを喜ばずんばあらず。枕上『柳湾漁唱』第三集を読んで眠る。


大正十四(1925)年 荷風年四十七

正月十五日。81 午前兜町片岡といふ仲買に店を訪ひ、主人に面会して東京電燈会社の株百株ほどを買ふ。去年三菱銀行の貯金壱万円を越へたれば利殖のため株を買ふことになしたるなり。仲売片岡は磊落なる相場師肌の男にて、余の小説を愛読せり。曾て築地僑居のこと相識りしなり。夜木曜会新年句会。

大正十四年十月八日。87 今日も空晴れず。折々雨ふる。午後食料品を購はむと溜池に出でたる帰途、その辺の喫茶店に憩ひしに、曾て築地の路地に住みしころ洗湯にて懇意になりし自働車運転手に会ふ。此の男のはなしに霊岸島新川の河岸に荒川といふ表札出せし家あり。隠(かくれ)売女(ばいた)の周旋屋なり。赤坂見附対翠館といふ旅亭の裏鄰に中村といふ花の師匠あり。又芝白金三光町大正館といふ寄席の裏にも島崎といふ宿あり。娘二人ありていづれも客を取る。姊娘は年廿二三。跛者なる上に片手も自由ならざる身なれど客をあやなすこと壮健の女にまさりたり。以前芝田村町に居たりしが地震後今の処に移りしなり。されど近頃市中は取締りきびしき故鶴見の新開町に銘酒屋を出す筈なり。鶴見には亀戸向島浅草辺より移り来れるもの多し。又赤阪新町の路地に野谷といふ女あり。年は三十あまりなれど二十四五にも見ゆる若づくりにて、下女も使はず一人住ひをなし、自由に客を引込むなり。祝儀を過分に取らすれば▼閨中の秘戯をも窺ひ見せしむるといふ。以上運転手の談話を聞くがまゝにしるす。

十月廿四日。90 晡時(ほじ=夕方)太陽堂の中山豊三訪ひ来り、プラトン社発行の雑誌に従前の如く寄稿せられたしとて、頻(しきり)に礼金のことを語り、余の固辤するをも聴かず、懐中より金五百円一封を出して机上に置き去れり。近来書賈(しよこ=出版社)及雑誌発行者の文人に向つて其文を求むる態度を見るに、恰大工の棟梁の材木屋に徃きて材木を注文するが如し。そもそも斯くの如き悪風の生じ来りしは独(ひとり)書賈の礼儀を知らざるに因るのみならず、当世の文人自らその体面を重ぜず、膝を商估(しようこ)の前に屈して射利を専一となせるに基くなり。されば中山の為す所も敢て咎(とが)むべきにあらず。悪(にく)むべきは菊池寛の如き売文専業の徒のなす所なり。

十二月五日 93 曇りて風暖なり。庭を掃きゐたりし時紙屑買入来りし故、押入の中に投込み置きし寄贈雑誌の類を売払ひぬ。予平生雑誌を手にすることを好まざれば、毎月郵送し来る『中央公論』『解放』『女性』『新小説』『文藝春秋』等、幾多の寄贈雑誌は受取るや否や、押入の中に投込むなり。予時人の為す所を見るに、新聞雑誌の閲覧には時間を空費して悔る所なきものゝ如し。されど雑誌より得る所の知識果して何ぞや。予は雑誌閲覧の時間を以て、古今を問はず学者のまとまりたる著書を熟読することゝなせり。『中央公論』の増大号の如きものを通読する時間を以てせば、『史記』『通鑑』の如き浩瀚なる史籍をよむことも亦容易なるべし。昼餉して後雨はらはらと降り来たりしが、須臾にして歇みたれば、西大久保村に母上を訪ふ。夏の頃をより消息なければ、如何と案じゐたりしが此日取次の女中御隠居様は御不在とのことに、其の恙なきを知り、安堵して再び新大久保の停車場に歩みを運びぬ。この一筋道の両側には徃年植木屋多くあり。名高き躑躅園もありしなり。今は見るかげもなき新開町となり蓄音機の音騒然たるのみ。

大正十四年十二月六日。93 快晴の空風もなく暖なりしかど、今日は日曜日なるを以て終日門を出でず。▼日曜日には電車街衢(がいく)倶に雑遝するいこと平日より甚しきのみならず、洋装の女の厚化粧したる姿など、目に見て快からぬもの多ければなり。夜ひそかに氷川町なるかのお浪といへる怪しき女を訪ふ。いつもの如くさまざまなる話の中に今宵もめづらしきことを聞きたり。さる処の後家、年は四十ばかりなるが、男の子の教育費に差閊へしより、二十ばかりになれる其長女と相談の上、一夜の春を鬻がしめむとて、日頃お浪が親しく徃来する結婚媒介所に連れ行きしに、其折来合せたる客、若き娘よりは後家と聞き手はその方が面白かるべし、諺にも四十女の泣きづめとやら行きづめとやらいふ事もあれば、是非にも今宵は母親の方を買つて見たしと無理な注文に、媒介所の婆もせむ方なく、物は相談なりとて母親を別室に招ぎ、同じく金のためにすることなれば、母親みづから客の望むがまゝになりたまへ、行末ある娘御を堕落させんよりはましなるべしと、馴れたる家業の言葉たくみに説きすゝめて、遂に納得させしかば、其夜はさり気なく娘を先に立返らせ、後家一人居残りて情を売りしに、後家はそれより男ほしさのあまり三日に上げず媒介所に来りて世話をたのむやうになりしと云ふ。仏蘭西自然派の社会劇『ママン・コンブリ』など想起さるゝはなしなり。


大正十五(1926)年 荷風年四十又八

正月初二。101 先考の忌辰なれば早朝書斎の塵を掃ひ、壁上に掛けたる小影(=写真)の前に香を焚き、花缾に新しき花をさし添へたり。先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。これも今は亡き人の数に入りし叔父大島氏訪ね来られ、款語(かんご)して立帰られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、その枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとして両の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり。予はこの時家に在らず。数日前より狎妓(かふぎ=贔屓の芸妓)八重次を伴ひ箱根塔之沢に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝帰宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、「障子細目に引きあけて」と云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて帰ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ。予は日頃箱根の如き流行の湯治場に遊ぶことは、当世の紳士らしく思はれて好むところにあらざりしが、その年にかぎり偶然湯治に赴きしいはれいかにと言へば、予その年の秋正妻を迎へたれば、心の中八重次にはすまぬと思ひゐたるを以て、歳暮学校の休暇を幸、八重次を慰めんとて予は一日先立つて塔之沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり。予は家の凶変を夢にだも知らず、灯ともし頃に至りて雪いよいよ烈しく降りしきるほどに、三十日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。世には父子親友死別の境には虫の知らせと云ふこともありと聞きしに、平生不孝の身にはこの日虫の知らせだも無かりしこそいよいよ罪深き次第なれ。かくて夜もふけ初めし頃、頻に戸口を敲く者あり。八重次の家は山城河岸中央新聞社の裏に在り、下女一人のみにて抱(かかへ=雇人)はなかりしかば、八重次長襦袢にて半纏引掛け下女より先に起出で、どなたと恐る恐る問ふ。森田なりと答る声、平家建の借家なれば、わが枕元まで能く聞えたり。是文士森田草平なり。草平子の細君は八重次と同じく藤間勘翁の門弟なりし故、草平子早くより八重次と相識りしなり。此の夜草平子酔ひて電車に乗りおくれ、電車帰宅すること能はざれば、是非ともとめて貰ひたしと言ひたる由なり。後日に至り当夜の仔細を聞きしに、予の正妻を迎へしころより草平子折々事に托して八重次の家に訪来りしと云ふ。かくて夜のあくれば其の年の除日(=みそか)なれば、是非にも帰るべしと既にその仕度せし時、籾山(もみやま)庭後君の許より電話かゝり、「昨日夕方より尊大人(そんたいじん)御急病なりとて、尊邸より頻に貴下の行衛(ゆくえ)を問合せ来るにより、内々にて鳥渡(ちよつと)お知らせ申す」との事なり。予はこの電話を聞くと共に、胸轟き出して容易に止まず。心中窃に父上は既に事きれたるに相違なし。予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと、覚悟を極めて家に帰りね。母上わが姿を見、涙ながらに「父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。まだ帰らざるやと。度々問ひたまひしぞや」と告げられたり。予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり。鷲津氏を継ぎたる弟貞二郎は常州水戸の勤先より、此夜大久保の家に来りぬ。末弟威三郎は独逸留学中なりき。こゝに曾て先考の学僕なりし小川新太朗とて、其時は海軍機関少監となりゐたりし人、横須賀軍港より上京し、予が外泊の不始末を聞き、帯剣にて予を刺殺さんとまで奮激したりし由なり。尤この海軍士官酒乱の上甚好色にて、予が家の学僕たりし頃たりし頃下女を孕ませしこと二三名に及べり。相識の前夜も台所にて大酔し、下女の意に従はざるを憤りて殴打せしことなどあり。今は何処に居住せるにや。先考易簀の後予とは全く音信なし。扨先考は昏睡より寤めざること三昼夜、正月二日の暁もまだ明けやらぬ頃、遂に世を去りたまへり。来春閣に殯(かりもがり)すること二昼夜。五日の朝十時神田美土代町基督青年会館にて邪蘇教の式を以て葬式を執行し、雑司ヶ谷墓地に葬りぬ。先考は耶蘇教徒にてはあらざりしかど、平生仏僧を悪み、常に家人に向つて予が葬式は宣教師に依頼すべし。それも横浜あたりの外国宣教師に依頼するがよし。耶蘇教には年会法事の如き煩累なければ、多忙の世には之に如くものなしなど語られし事ありしかば、その如くになしたるなり。尤母上は久しき以前より耶蘇教に帰依し、予が弟鷲津氏は早くより宣教師となり、神学に造詣あり。先考の墓誌は永阪石埭(せきたい)翁撰したまへり。葬儀万端は郵舩会社の重役春田源之亟(げんのじよう)氏斡旋せられき。郵舩会社より葬式料金参千円。遺族に壱万円を贈り来りしも皆春田氏の尽力によれるなり。尾州家よりは金五千円下されしやに記憶すれど確ならず。当時の事思返せば、猶記すべきもの多けれど、徒に紙を費すのみなればやむ。此日朝より風ありしが晴れて暖なり。午後生田葵山巌谷三一両君来訪。談笑中文士細田氏来りて面談を求められしが、未知の操觚者には成るべく面談を避くるが故病と称して会はず。晡下虎の門にて三一葵山の二子に別れ、桜川町の女を訪ふ。夜半家に帰る。

大正十五年正月十二日。107 曇りて風なく薄き日影折々窗に映ず。やがて雪にやならむかと思はるゝ空模様なり。晡時(ほじ)桜川町の女訪ひ来りし故、喜び迎へて笑語する中、食時になりしかば、倶に山形ホテルに赴き晩餐をなし、再び書斎に伴来りて打語らふほどに、長き冬の夜は早くにも二更を過ぎたり。明日はわが方より訪ひ行きて夕餉を倶にすべしと約して別れぬ。この女の事はいかに放蕩無頼なるわが身にもさすがに省みて心耻かしきわけ多ければ、今までは筆にすることを躊躇ひしなり。されど相逢ふこと殆毎夜に及び、情緒纏綿として俄に離れがたき形勢となりたれば、包まず事の次第を記して、後日の一噱(いつきやく)に資す。女の名はお富といふ。父は年既に七十を越えたり。一時下ノ関に工場を所有し、頗豪奢を極めたりし由。今や零落し芝桜川町の路地に僦居し、老妻に賄をさせて二階貸をなせるなり。娘お富は未の年にて今年三十二なれど二十七、八に見ゆ。十八の時或人に嫁し、子まで設けしが不縁となり、其後次第に身を持崩し、果ては自ら好んで私娼となり、築地辺の待合などへ出入する中、大地震の際憲政会の壮士福田某に欺かれ、一年ばかり同棲しゐたりしが、去年の二月頃辛じて其家を逃れ出で、父の許に帰りてゐたりしかど、衣服化籹の費に乏しきまゝ、一時身をおとせし濁江(にごりえ)の淵瀬はよく知るものから、再び私娼の周旋宿あちこちと渡り歩く中、行くりなく予と相知るに至りしなり。この女父が豪奢を極めし頃不自由なく生立ちし故、様子気質ともどもに浅間しき濁江の女とは見えざるも、あながちわが慾目(=ひいき目)にはあらざるべし。痩立の背はすらりとして柳の如く、目はぱつちりとして鈴張りしやうなり。鼻筋見事に通りし色白の細面、何となく凄艷なるさま、予が若かりし頃巴里の巷にて折々見たりし女に似たり。先年新富町にて見たりし妓お澄に似て一段品好くしたる面立なり。予の今日まで狎れ暱(した)しみし女の中にては、お澄とこのお冨の面ざしほど気に入りたるはなきぞかし。八重次は美人なりとの噂もありしかど、越後の女なれば江戸風の意気なるところに乏しく、白鳩銀子は今様の豊艶なる美人なりしかど、肩いかりて姿は肥大に過ぎたるを憾となせり。一昨年震災後、家に召使ひしお栄といふも人々美形なりといひしが、表情に乏しく人形を見るが如き心地したり。然るにお冨は年既に三十を越え、久しく淪落の淵に沈みて、其容色将に衰へむとす風情、不健全なる頽唐の詩趣をよろこぶ予が目には、ダーム・オー・カメリヤ(=椿姫)もかくやと思はるゝなり。去年十二月のはじめに初めて逢ひしその日より情交忽膠の如く、こなたより訪はぬ日は必かなたより訪ひ来りて、これと語り合ふべき話もなきに、唯長き冬の夜のふけやすきを恨むさま、宛(さなが)ら二十前後の恋仲にも似たりと思へば、さすがに心耻しく顔のあからむ心地するなり。人間いくつになりても色慾は断ちがたきものなりと、つくづくわれながら呆れ果てたり。

大正十五年正月廿二日。108正午お冨の帰るを送り、虎の門より三菱銀行に赴き、二時頃独り家に帰る。書斎睡房を掃除して後沐浴すれば、日は忽暮れかゝりぬ。老媼の運来る夕餉を食し、燈下また旧稿を刪訂す。この日寒気凛冽。水道午頃まで凍りたり。四鄰寂として声なく、夜は沈々(しんしん)として年の如し。炉上湯のたぎる音雨の来るが如く、燈火熒然(けいぜん)平日よりも光明らかなるが如し。一昨日購来りし缾裏(=花瓶)の薔薇、花既に開き尽して、薫香書斎に満ちたり。筆を擱きて静に咖啡(コーヒー)を瀹(に)る。たまたま室の片隅に置きたる書篋の蓋を見るに、曾て戲(たはむれ)に揮毫せし王次回が独居の七律あり。その中の語に、花影一缾香一榻(いつとう)。不妨清絶是孤眠。といへるを見て、予が今夜孤坐の情懐、亦全く斯くの如くなるを覚えたり。予数年前築地移居の頃には、折々鰥居(かんきよ)の寂しさに堪えざることありしが、震災の頃よりは年も漸く老来りし故にや、卻て孤眠の清絶なるを喜ぶやうになりぬ。その頃家に蓄へし小星お栄に暇やりしも、孤眠の清絶を喜びしが故に外ならず。家に妻妾を蓄る時は、家内に強烈なる化粧品の臭気ただよひわたりて、缾中の花香も更に馥郁たらず。階砌には糸屑髪の毛など落ち散りて、草廬の清趣全く破却せらる。是忍ぶべからざる所なり。然りと雖も淫慾もまた全く排除すること能はず。是亦人生楽事の一なればなり。独居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の楽しみも亦容易に廃すべからず。勉学もおもしろく、放蕩も亦愉快なりとは、さてさて楽しみ多きに過ぎたるわが身ならずや。蜀山人が『擁書慢筆』の叙に、清人石龐天の語を引き、人生に三楽あり、一には読書、二には好色、三には飲酒、是外は落落として都て是無き処。といひしもことわりなり。

七月五日。113 東南の風烈しく雲散じて雨歇む。午後杖履(ぢやうり)逍遥。九段を過ぐ。いつの頃より工事を起したるにや、阪道一帯の傾斜を緩かにせんとて、偕行社燈明台の辺より馬場の入口へかけて、数丈あまりも地面を掘り下げたり。経費は夥しきものなるべし。電車の未開通せざりし頃、この阪の麓には立ン坊とて車の後押しをなして銭を乞ふ者あり。小林清親が描ける名所絵に『雨中九段燈明台』の図あり。当時の光景今は唯この図によりて知るを得るのみ。


昭和二(1927)年 荷風年四十九

四月十八日 143 よく晴れたり、午前執筆、午後掃庭、竹田玩古洞来訪、日暮銀座太牙に赴きて飯す、邦枝子この頃艶福あり倉皇として市村座に赴く。余日高子と太牙に留り初更の後家に帰る、此夕号外売台湾銀行閉店の事を報ず、三月以来銀行の破産する者甚多し、余が現住せる宅地の所有者は広部銀行なるが是も去月閉店せるなり。生田葵山君村井銀行へ貯金ある由の処此銀行も既に破産せりと云ふ、

昭和二年七月九日 147 晴れて風涼し。午前扇面揮毫、午後銀座太牙に立寄り、自働車にて濹上弘福寺に赴き森先生の墓を掃ふ、是日先生の忌日なり、墓前に手向けたる花に大なる名刺さがりてありし故之を見るに慶應義塾大学部教授文化学院教授与謝野寛とあり、先師の恩を忘れず真心より其墓を拝せむとならば人知れず香華を手向け置くも可なるべし、肩書付の名刺を附け置くは売名の心去らざるが故なり、老狐の奸策さてもさても悪むべきなり。是日人足数名墓地内の墓を掘り石を運びゐたり、柩の板とおぼしき腐りたる板を運ぶもあり、大きなる瓶を掘り出さんとするもあり、泥土の悪臭堪えがたきばかりなり、森先生の墓石にもなにやら番号を附けたればやがて他所に移さるゝならん歟、墓地の周囲には芸者家待合櫛比し三囲(みめぐり)稲荷のほとりまで延長したり、花川戸より三囲に渡る橋は未成らず、駒形には粗末なる鉄の釣橋出来上りたり、帰途自働車にて麹坊の湘南舎に上り、妓を招ぎて晩餐を食し一浴して家に帰る、

七月二十四日 148 細雨霏々たり、昨日の炎暑に比して今日は肌寒きこと晩秋の如し、寒暖計を見るに正午華氏七十八度を示したり、何となく心地爽快ならず、臥牀に伏して『恕軒遺稿』を読む、薄暮起出で山形ホテルにて食事をなすに、心地少し快くなりしかば、銀座太牙に赴き見るに葵山君既に在りて余の来るを待てり、歌舞伎座狂言方蟹助福蔵の二人高島屋門弟咲枩と共に来り会す、帰途電車の中にてたまたま鄰席の乗客『東京日々新聞』の夕刊紙を携へ読めるを窺ひ見るに、小説家芥川龍之介自殺の記事あり、神経衰弱症に罹り毒薬を服せしと云ふ、行年三十六歳なりと云ふ。余芥川氏とは交無し、曾て震災前新富座の桟敷にて偶然席を同じくせしことあるのみ、さればその為人(ひととなり)は言ふに及ばず自殺の因縁も知ること能はざるなり、余は唯ひそかに余が三十六七歳の比のことを追想しよくも今日まで無事に生きのびしものよと不思議なる心地せざるを得ざるなり、家に帰り一浴汗を洗ひて直に枕に就きぬ、雨猶歇まず、お久(=太牙の女給)が身の上の事につきて思ひわづらふ中いつか眠りに落ちたり。

九月十七日 150 陰晴定まらず、本郷菊坂の古書肆井上より樺山石梁の詩文集を郵送し来る、夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す、お歌年二十一になれるといふ、容貌十人並とは言ひがたし、十五六の時身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり、新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはづす事なし、昔より下町の女によく見らるゝ世帯持の上手なる女なるが如し、余既に老いたれば今は囲者置くべき必要もさして無かりしかど、当人頻に芸者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわづか五百円に満たざる程なるを幸ひ返済してやりしなり、カツフヱーの女給仕人と芸者とを比較するに芸者の方まだしも其心掛まじめなるものあり、如何なる理由にや同じ泥水家業なれど、両者の差別は之を譬ふれば新派の壮士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし、

昭和二年十月八日 156 雨。春陽堂黄物持参す。正午女給お久また来りて是非とも金五百円入用なりと居ずはりて去らず。折から此日も邦枝君来合せたれば代りてさまざま言ひ聴かせしかど暴言を吐きふてくされたる様子、宛然切られお富の如し。已むことを得ざる故警察署へ願出づ可しといふに及び漸く気勢挫けて立去りたり。今まで心づかざりしかど実に恐るべき毒婦なり。世人カツフヱーの女給を恐るゝ者多きは誠に宜なりと謂ふ可し。余今日まで自家の閲歴に徴して何程の事あらむと侮りゐたりしが、世評の当れるを知り慚愧にに堪えず。凡て自家の経験を誇りて之を恃むは誤りのもとなり。慎む可し慎む可し。

十月十三日 157 市ヶ谷見附内一口坂に間借をなしゐたるお歌、昨日西ノ久保八幡町壺屋といふ菓子屋の裏に引移りし筈なれば、早朝に赴きて訪ふ。間取建具すべて古めきたるさま新築の貸家よりもおちつきありてよし。癸亥(きがい)の震災に火事は壺屋より四五軒先仙石家屋敷の崖下にてとまりたるなり。されば壺屋裏の貸家には今日となりては昔めきたる下町風の小家の名残ともいふべきものなり。震災前までは築地浜町辺には数寄屋好みの隠宅風の裏屋ところどころに残りゐたりしが今は既になし。偶然かくの如き小家を借り得てこゝに廿歳を越したるばかりの女を囲ふ(=壺中庵)。是また老後の逸興といふべし。午後平井弁護士来談。

十一月十一日 160 晴れ渡りて風無し、午後日高氏来談、終日執筆、夕餉の後壺中庵(=お歌)を訪ふ。空曇りて暴(にはか)に暖し、雨にやならむと気遣はれしが暖風を幸ひお歌を伴ひ虎の門より自働車に乗り酉の市に赴く、車は丸の内を抜け小伝馬町を過ぎ新堀端より菊屋橋に出ず、入谷町のあたりにて通行留なり、新開の電車道を歩むこと二三町、大鳥神社の幟(のぼり)高張挑灯(てうちん)を見る、此の辺の地曾て浅草の裏田圃にて東方には郭の裏手を望み西の方には根岸入谷の燈火を樹間に見たりし処なり、今は蓑輪行の電車道となれり、桑滄の感禁ずべからず、鷲神社に賽せんとせしが群集潮の如く境内に入ること能はず、中途より路地を迂回して廓内揚屋町に入り、群集に押されて大門に出でたれば千束町を歩み浅草公園に出でぬ、途次猿之助の宅址を過ぐ、今猶閑地となれり、銘酒屋の立ち続きし路地は尽く芸者家町となる、是浅草組合新見番に属するものなりといふ、仲店の玩具店伊勢勘にて熊手を購ひ雷門にて自働車に乗らむとする時驟雨沛然として灑ぎ来れり、群集狼狽芋を洗ふが如し、壺中庵に帰れば正に十一時なり、茶を喫して家に帰る、陰雲既に四散し明月皎々として昼の如し、


昭和三(1928)年 荷風年五十

二月五日 170雪もよいの空なり、日高氏の書を得たれば直に返書をしたゝめて送る、薄暮お歌夕餉の惣菜を携へ来ること毎夜の如し、此の女芸者せしものには似ず正直にて深切なり、去年の秋より余つらつらその性行を視るに心より満足して余に事へむとするものゝ如し、女といふものは実に不思議なものなり、お歌年はまだ二十を二ツ三ツ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり、むかしは斯くの如き妾気質の女も珍しき事にてはあらざりしならむ、されど近世に至り反抗思想の普及してより、東京と称する民権主義の都会に、かくの如きむかし風なる女の猶残存せるは実に意想外の事なり、絶えて無くして僅に有るものと謂ふべし、余曾て遊びざかりの頃、若き女の年寄りたる旦那一人を後生大事に浮気一つせずおとなしく暮しゐるを見る時は、是利欲のために二度とはなき青春の月日を無駄にして惜しむ事を知らざる馬鹿な女なりと、甚しく之を卑しみたり、然れども今日にいたりてよくよく思へば一概にさうとも言ひ難き所あるが如し、かゝる女は生来気心弱く意地張り少く、人中に出でゝさまざまなる辛き日を見むよりは生涯日かげの身にてよければ情深き人をたよりて唯安らかに穏なる日を送らむことを望むなり、生まれながらにして進取の精神なく奮闘の意気なく自然に忍辱の悟りを開きゐたるなり、是文化の爛熟せる国ならでは見られぬものなり、されば西洋にても紐育市俄古あたりには斯くの如き女は絶えて少く、巴里に在ては屢之を見るべし、余既に老境に及び芸術上の野心も全く消え失せし折柄、且はまたわが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者多きを見、心ひそかに慨嘆する折柄、こゝに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし、人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし、

昭和三年四月十日 178春雨霏々たり、無産党員上原某面会強要のことにつき万一の備をなさむとて、電話にて平井弁護士を招ぐ、平石今日は浦和にて用事ありてこれより停車場に赴かむとする処なりとの事に、明日を待ちて面談せむことを約す、余窃に思ふに、この度無産党員のわが家に来襲せしは過般改造社春陽堂両店より受取りたる一円本印税巨額に達したるを探知し、脅迫して之を強奪せむと欲するものなるべし、事件は猶甚しく切迫せざるを以て未警察署には訴出でざるなり、縦へ訴出づるも今日は警察署は果して能く此等不逞結社の暴行を制圧すべき力あるや否や疑なきを得ず、震災後わが現代の社会を見るに其の表面のみ纔に小康を保つに過ぎず、政府の威信は政党政治のために全く地に堕ち、公明正大の言論は曾て行はれたることなく暴行常に勝利を博するなり、当今の世は幕府瓦解の時代と殆ど異ることなきが如し、乱世に在つて身を全くするは名心を棄て跡を晦ますより外に道なし、戊辰の変に当り鴻儒息軒先生は市中を捨てゝ郊外の農家にかくれ、成嶌柳北は未帰商(=士族が商人になること)の許を幕府より得ること能はざりし時毎夜本邸に帰らず巧に其の所在をくらましたり、余の如きは一介の戯作者に過ぎずその身分その地位前賢と比較すべきものにあらざるや言ふを俟たず、然るにたまたま売文の資を得るや兇悪なる結社の党人日々来つて之を奪ひ去らんとす、世道人心の敗頽は幕府衰亡の際より更に一層甚しきものありと謂ふべきなり、余は既にこの度の事起ざる以前より世の有様を見て文筆を棄てむと決心し居れるなり、幸にお歌三番町に引移り待合を開店せむとす、これ余が隠家には最適したる処なるべし、晡時家を出でお歌を訪ふ、夕餉の膳に近鄰の仕出屋山本といふ家より烏賊と独活(うど)の甘煮鮪のぬたを取寄す、山の手の物としてはその味賞すべし、十一時家に帰る、雨歇みしかど空猶墨の如し、

五月六日180 晴れて風あり、秋海棠の芽生を移植す、夕餉の後毎夜の如く三番町に徃く、帳場に小久といふ妓来りて客を待ちゐたり、小久いつぞや二七不動尊境内の稲荷に願懸をなし折鶴千羽奉納せし時のことを語る、初五百ほどわけなく折りしが残り五百一夜の中に折りつゞけし時両手もつかれ果て眼は泣張らしたるやうになりしと、又浅草伝法院の境内に御狸さまといふがあり、之に願懸すればむかしの馴染客に逢ふこと誠に不思議なりと語れり、新聞紙は日々共産党員の撿挙の事件を報道する時、待合の帳場に来りて妓女が願懸のはなしを聞けば、この身は忽然天保のむかしに在るが如き心地とはなるなり、曾て浮世絵を蒐集しまた浄瑠璃を語りなどして娯しみとなせしも其の心はしばしなりとも現代の空気を放れ過去の世に逍遥せん事を冀ひしがためなりき、今日年五十に達して猶売色の巷を忘るゝこと能はざるも亦これが為なり、▼敢て好色のためのみにはあらずと云

昭和三年六月廿六日 183昨夜より雨また降り出して終日晴れず、今年の黴雨ほど雨多きは罕なり、星嵓(せいがん)が『苦霖行』の一篇もおのづから思出さる、晡下お歌髪結の帰りなりとて来る、黄昏招れて松莚子の家に徃く、主人俗事に累せられて未帰宅せず、岡池田吉井の三子既に来りて在り、川尻君おくれて来る、是夕客間の床には朱羅管江(あけらかんこう)が枇杷の図に、「いぶかしや枇杷てふ木には実のなりてさてその後に花のさくかと」といふ自賛の歌かきたる一幅あるを見たり、漸くにして主人帰り来る、是日夕刻より主人は松竹社の社員某々を伴ひ立正愛国社とやら称する無頼漢の一団と会見せしなりと云ふ、其次第を聞くに、彼の無頼漢の一団は松莚子がこの度魯西亜労農政府の招聘に応じ其首都に赴き演技をなすは皇国の恥辱にして、且又共産党の悪風に感染する虞あれば子の外遊を阻止すべしとて、其が居邸の近辺にて大演舌会を催し散会後居邸を襲ふべき由申出で、たびたび無頼漢を子の家及松竹社等へ派遣したり、こゝに於て松竹社にては社員向山某その他の者を警視庁外務省等に出頭せしめ、同時に暴力団愛国者に向つても直接に掛合をなさしめたり、其結果是日夕刻に及び双方会見をなし、松莚子は暴力団愛国社の社員名簿にその名を記入する事、松竹合名社は興行の度々無料観劇券を無頼漢に贈り、且又拾万円の寄附金をなす事など無法なる要求をなすに至りしと云ふ、但しこれは表向の要求にて内実は拾万円の百分の一位にて程なく落着する見込みなりと、事情にあかるき人は高をくゝり居れりと云ふ、扨又この事につきて警視庁をはじめ錦町警察署及新聞社等の様子を見るに、暴力団の巨魁とは隠然聯絡あり、新聞紙は黙然として何等の言論もなさず、警察署は徒に刑事を派遣して無用の質問をなすのみにして、悪人に対しては一向取締をなすべき様子もなしと云、名を忠君愛国に借りて掠奪を専業となす結社今の世には甚多し、而して其巨魁某々等の如き梟雄(きようゆう)を目して憂国の志士となすもの亦世間に尠からず、今の世は実に乱世と云ふべし、尚亦この度松莚君出遊につきては小山内君演技監督者となり同行すべき筈なりしに、遽に病と称して固辞せしかば松莚君始め皆々当惑し、池田君に懇請して遂に同君の承諾を得たりとの事なり、池田君の義気感ずべし、小山内君は何故出発間際に至りて責任を免れんとせしにや殆推測すること能はず、 

十二月二日 188 空どんよりくもりて風絶えたり、午前十時頃飛行機の響盛に起り児童のよろこび叫ぶ声聞こゆ、窗を開きて見るに飛行機は西北の方より或は五機或は三機或は七機各雁列をなし、前後相ついて吾家の真上を過ぎ東南を指して去る、抑飛行機は近時西洋人の発明せしものなるを、わが日本人忽其が製造の法と操縦の術とを学び、頗得意の色をなせり。自働車自転車の如きも亦然り、日本人の得意となす所は他国の人が苦心惨憺の余発明せし所の物を窃取して恬然として愧ぢざる所に在り。其の剽疾勁捷(ひようしつけいしよう)なるは洵(まこと)に驚くべし。開国以来六十年一物の創造発明する所なきも亦一驚に値すと謂ふべきなり。薄暮お歌本日の『都新聞』一葉を携来り、昨夜歌舞伎座初日の記事を示す、愛国党の無頼漢数名桟敷より印刷物を塲内に撒き演技の障害をなし警察に引渡されたり、印刷物は松莚子一座の俳優が魯西亜に赴きたることを攻撃したるものなりと云ふ、又無頼漢は新聞紙に蛇二三十匹を包み腰掛の下に隠置き、之を桟敷より花道へ投げつけるつもりの所それに及ばざる中捕へられしなりと云ふ、是夜初更雨となる、

昭和三年十二月六日189 風なく晴れて暖きこと春の如し、窗外の山茶花十月半頃より花開き今猶尽きず、午に近き頃起出でゝ病室の塵を掃ふ、牀下(しやうか)の凝塵柳絮(りうじよ)の如し、晡下お歌髪結の帰なりとて来る、又新聞紙を示す、満紙唯共産党々員捕縛の記事のみ、慶応義塾の書生も撿挙せられたりと云ふ、論語に曰く古者民有三疾、今也或是之亡也、古之狂也肆、今之狂也蕩、古之矜也廉、今之矜也忿戻、古之愚也直、今之愚也詐而已矣、余は当今の学生の忿戻(ふんれい=乱暴)にして詐(=あざむくこと)なるを憎むなり、  


昭和四(1929)年 荷風年五十有一

昭和四年二月十一日 195晴れて風寒し、午前中洲に徃く、脚気及梅毒の注射をなす、途次車にて丸の内を過るに青年団の行列内幸町辺より馬塲先門までつゞきたり、先達らしき男或は日本魂或は忠君愛国など書きたる布片を襷がけになしたり、是日紀元節なれば二重橋外に練り出して宮城を排するものなるべし、近年此の種類の示威運動大に流行す、外見は国家主義旺盛を極るが如くに思はるゝなれど実は卻て邦家の基礎日に日に日に危くなれることを示すものなるべし、何事に限らず外見を飾りて殊更気勢を張るやうになりては事は既に末なり、然れども今の世に身を処するには何事に限らず忠君愛国を唱へ置くに如かず、梅毒治療剤の広告にも愛国の文字は大書せられたり、帰途銀座に飯し牛込を過ぎて帰る、

三月廿七日 195 細雨糠の如し、雨中の梅花更に佳なり。大窪詩仏の年譜を編む、晡時中洲に徃く、帰途人形町にて偶然お歌に会ふ、市川団次郎待合の勘定百円ばかりを支払はざるにより、催促のため弁護士を伴ひ明治座楽屋に赴きし帰りなりと云ふ、銀座通藻波に飯す、春雨夜に入りて猶歇まず、風また加はる、お歌自働車を倩うて帰る、是日偶然『文藝春秋』と称する雑誌を見る、余の事に関する記事あり、余の名声と富貴とを羨み陋劣なる文字を連ねて人身攻撃をなせるものなり、『文藝春秋』は菊池寛の編輯するものなれば彼の記事も思ふに菊池寛の執筆せしものなるべし、

四月初五 196 昨夜酒館太牙にて聞きたる事をこゝに追記す、酒館の女給仕人美人投票の催ありて両三日前投票〆切となれり、投票は麦酒一壜を以て一票となしたれば、一票を投ずるに金六拾銭を要するなり、菊池寛某女のために百五拾票を投ぜし故麦酒百五拾壜を購ひ、投票〆切の翌日これを自働車に積み其家に持帰りしと云ふ。是にて田舎者の本性を露したり。

昭和四年五月廿二日 197陰晴定りなし、午下中洲に徃き晡時三番町に立寄る、日の暮るゝを待ちお歌を伴ひ牛込の一酒亭に登りて夕餉をなす、妓を招ぐに若吉といふもの来る、妓の雑談に、昨日早稲田大学野球負けたるためやけ酒を飲むお客多く昨夜は此頃の不景気に似ず案外いそがしかりしとの事なり、又小説家三上於莵吉先生も昨夜は何とやら云ふ待合にお出でありウイスキイ一罎ほど空にして狂人の如くになり酒席に侍する芸者は誰彼の分かちもなく引とらへ無理やりにウイスキイを飲ませて荒れ狂ひたりと、尚亦妓のはなしによれば、三上先生は五日も十日も流連(=居続け)し気が向く時は茶ぶ台の上にて原稿を書く、一行廿五円になるから安心して居ろと芸者女中等に向ひて豪語する由なり、当世の文士は待合にて女供に向ひ憚る処なく身分職業を打明けるのみならず原稾料の多寡までかくさずに語りて喜ぶものと見えたり、十年前までは斯の如きことは決して無し、予の三田に関係せし頃には折々その当時新進の文士等と共に酒亭に登りしことありしかど、芸者に向つて原稿料の事を口にするが如きものは決して無かりしなり、年々人心の野卑になり行くこと驚くの外はなし、現代の人間の中文士画工及政治家の心中野卑なること最甚しきが如し、芸者や女給女中などは文士議員等に比較すれば遥に品格も好く義理人情をも解するものと謂ふ可し、▼予は久しく文壇の人と交遊せざるを以てかくまでに文士の一般に堕落せりとは心つかず、独り菊池寛山本有三等をのみ下等なる者と思ひ居たりしが、この夜始て予が見解の謬れるを知りぬ、

九月十九日 202世間近頃に至り俄に都下のカツフヱー及舞踏塲の弊害を論ずるもの多し、警視庁にてはわざわざ徃復端書を世間知名の人の許に郵送しカツフヱー取締に関する意見を問ふ、これは当世流の人気取りの策畧なるべしと雖実に愚劣の至りなり、数年来カツフヱー及舞踏塲の繁昌するは世人久しく芸娼妓に厭き西洋風の売女を要求しゐたる結果なり、独々一(どどいつ)や二上(にあが)り新内すたれてヰオロン入りの門附唄(かどつけうた)流行するを見ても世間の風潮は推知せらるべし、女給踊子などの新に出で来りしがために淫風俄に熾(さかん)となりしが如く思ふは謬りなるべし、日本人は何事に限らず少しく目新しきものゝ盛になり行くを見れば忽恐怖の念を抱く、島国根性今以て失せやらぬものと見えたり、今日の時勢を見るに女給踊子の害の如きはたとへこれ有りとなすも恐るゝに足らず、恐るべきは政治家の廉恥心なきことなり、社会公益の事に名を托して私慾を逞しくする偽善の行動最恐るべし、男子変節の害に比すれば女給踊子の密に淫を売るが如きは言ふに足らず、カツフヱーの舞踏塲取締のことにつきては余は別に意見あれどこゝには贅せず、是日残暑烈しく夜に至り十七夜の月鏡の如し、

昭和四年十月十八日 203 天気牢晴(らうせい)、晡時中州に徃き帰途銀座の太牙楼に憩ふ、楼内寂然として酔を買ふ者なく婦女卓に凭りて仮睡せり、今秋内閣更迭以来官吏会社員の月俸は減少し禁奢の訓令普達せられしのみならず、酒肆舞蹈塲の取締厳格となりしため銀座始め市内の酒舗はいづれも景况落莫たり、本年は揃ひの衣装もつくらぬ由なり、昭和現代の世はさながら天保新政の江戸を見るが如く官権万能にして人民の柔順なること驚くに堪えたり、時勢の如何を論ぜず節約勤検の令はもとより可なり、然れども婦女服飾の如きは盖し末端の甚しきものにて国家富強の直に基因する所は其他に在り。何ぞや、国民の気概と政治家の良心とに在り、此夜明月昼の如し、

十月廿八日 204 曇りて風なし、午下中洲に徃く、丸の内にて偶然邦枝氏に逢ふ、晩間微雨三番町に飯して帰る、此日人の噂を聞くに、河原崎長十郎共産党の学生と一座を組織し、一昨廿六日本郷座にて芝居開演せし処、直に其筋より禁止せられしかば昨夜は別の狂言を上場せしかど、是も同じく共産主義宣伝の芝居なれば看客熱狂して不穏の言語を放ち、その為拘引せられしものあるに至りしと云、尤看客は学生及職工のみなりしと云、▼河原崎長十郎はもともと高島屋一座の歌舞伎役者なれど技芸甚拙劣にて、去年歌舞伎座にて羽左衛門勧進帳の弁慶をつとめし時、長十郎山伏になりしが弁慶が踊の邪魔になりて困りたる由、羽左衛門その部屋に長十郎を呼びつけて度々小言をいひたる程なり、されば長十郎も此のまゝにては出世の望なきものと考へたるもの歟、既に数年前より長髪の学生と提携して新劇団を組織し、其の座頭になり、歌舞伎座興行千秋楽の折々新劇の開演をなし、銀座辺のカツフヱーを飲みまはりて切符を売り歩きたり、〔以下岩波文庫版では省略〕固より教育なき役者の事なれば共産主義の何たるかを理解し得べき学力とてあるべき筈もなし、されど生来利発にて世才に乏しからず、平生共産党員と交を結びゐるにも係らず余の如き保守主義の文士にも随分如才なく世辞をつかひ、時々は教を受けたしとて煙草の進物など持ち来りしことあり、主義の如何を問はず巧にこれを利用して己の名を売らむとするは独長十郎のみにはあらず、是当代の青年一般の通弊なり、彼等の軽薄不義なるは共産党者より之を見るも宜しく其面上に唾すべきものなり、長十郎が現在の女房は両三年前まで新橋にてかせぎゐたる芸者なり、長十郎よりは余程の年上なり、木場辺の材木問屋の世話になりゐたりしが、長十郎無頼漢にたのみて莫大なる手切金を取り、其家に連込みし悪事の報は覿面にて、女房はその後病み勝ちの身となり長十郎外泊する時は嫉妬して忽狂乱の体となる、是にはさすがの長十郎も当惑し居れる由なり、役者の身にて情婦の旦那をゆすり手切金を取るとは言語道断の悪人なり、


昭和五(1930)年 荷風年五十二

二月十四日 208 番街の小星昨夜突然待合を売払ひ再び左褄取る身になりたしと申出でいろいろ利害を説き諭せども聴かざる様子なれば、今朝家に招ぎて熟談する所あり、余去年秋以来情欲殆消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみなれば女の言ふところも推察すれば決して無理ならず、余一時はこの女こそわがために死水を取ってくれるものならめと思込みて力にせしが、それもはかなき夢なりき、唐詩に万事傷心在目前(万事心を傷むること目前に在り)、一身憔伜対花眠(一身憔悴して花に対して眠る)、黄金用尽教歌舞(黄金用ひ尽して歌舞を教へ)、留与他人楽少年(他人に留与して少年を楽します)、といへるもの当に余が今日の悲しみを言尽したり、曾て野口寧斎先生この詩を講じて次の如くに言へるもの、其著『三体詩評釈』に在り、
 楽天年老いて風疾を得、妾を放たんとす、樊素(はんそ=白楽天の寵妾)なるもの有り、惨然として涙下りて去るに忍びず、楽天も亦悠然として対する能はず、しかも終に情を忘るゝ能はず、是亦一箇の一身憔伜対花眠の人にあらずや、顧况(=唐の詩人)に宜城が琴客を放つの詩あり、序に曰く、琴客ハ宜城の愛妾なり、宜城老を請(うけ)て、愛妾出でゝ嫁す、人の慾を禁じて耳目の娯みを私せざるは達者なりと、是亦一箇の留与他人楽少年の人にあらずや、近清ノ李雍凞道(きだう)を学びて歌姫を散遣(さんけん)す、王西樵(せう)責るに詩を以てして云く、聴歌曾入忘憂界(聴歌して曾て入る忘憂の界)、(忽ちに枯禅の戒に縛らるる応[べ]からず)、未是香山与病縁(未だ是れ香山ならず病と縁あらず)、何妨樊子同春在(何ぞ妨げん樊子と春を同じうして在るを)、安石携妓自不凡(安石妓を携へて自ら凡ならず)、処仲開閤終無頼(処仲閤を開けども終に無頼なり)、誰為公画此策者(誰ぞ公の為に此の策を画する者は)、狂奴恨不鞭其背(狂奴恨むらくは其の背を鞭たざるを)、其辞令に嫺(みやびやか)なるや殆其至論なるを思はしむ、漁洋亦云ふ、万種心情消未尽(万種の心情消えて未だ尽きず)、忍辞駱馬遣楊枝(忍[つと]めて駱馬を辞して楊枝を遣る)と、意(おも)ふに万事傷心在目前を悟了するに暇あらざりしならんのみ、
余満腔の愁思を遣るに詩を以てせむと欲するも詩を作ること能はず、僅に古人の作を抄録して自ら慰むるのみ、此日晴れて風寒からず、午下中洲に徃き牛門の妓家を過訪して帰る、明月皎々たり、


昭和六(1931)年 荷風年五十有三

十月廿八日、天気牢晴、終日読書、晩間杏花子招飲の約に赴かむとて、歩みて霊南阪上に至る、明月大倉氏邸中の樹上に現はる、銀座日比谷辺の燈火亦燦然たり、阪下より自働車を倩ひ駿台に徃く、岡君既に在り、池田君ついで来る、川尻君は東京劇塲稽古監督のため来らず、座上の談話にて守田勘弥病甚しき由を知る、夜半池田君と自働車を倶にして帰る、露重く冷気甚し、十一月末頃の寒さなり、

昭和六年十一月十日233 好晴、暖気初夏の如し、書架の洋書を整理す、晩食の後銀座を歩み冬物を購ひ酒肆太訝に一酌す、数名の壮士あり卓を囲んで大声に時事を論ず、窃に聞くに、頃日陸軍将校の一団首相若槻某を脅迫し、ナポレオンの顰みに倣ひクーデタを断行せむとして果さず(=十月事件)、来春紀元節を期して再挙を謀ると云ふ、今秋満州事変起りて以来此の如き不穏の風説到処に盛なり、真相の如何は固より知難し、然れどもつらつら思ふに、今日吾国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは盖武断政治を措きて他に道なし、今の世に於て武断専制の政治は永続すべきものにあらず、されど旧弊を一掃し人心を覚醒せしむるには大に効果あるべし

十一月廿七日 234 晴、午後中洲に徃く、帰途新大橋を渡り電車にて小名木川に至り、砂町埋立地を歩む、四顧曠茫たり、中川の岸まで歩まむとせしが、城東電車線路を踰(こえ)る頃日は早く暮れ、埋立地は行けども猶尽きず、道行く人の影も絶えたり、折々空しき荷馬車を曳きて帰来るものに逢ふ、遠く曠野のはづれに洲崎遊郭とおぼしき燈火を目あてに、溝渠に沿ひたる道を辿り、漸くにして市内電車の線路に出でたり、豊住町とやら云へる停留塲より電車に乗る、洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し、永代橋を渡り日本橋白木屋前にて電車を下る、蓄音機の響四方に起り行人雑遝するさま、之を砂町曠原の夜に比較すれば別天地に来りしが如し、白木屋店頭に群集雑踏す、立寄りて見るに満州出征軍人野営の状(さま)を活人形につくりたるなり、時に号外売声をからして街上を疾走す、天津居留地および錦洲城内戦闘の事を報ずるなり、銀座に至り風月堂にて夕食をなし酒肆太訝に小憩す、清潭子某友矢土某と共に来るに逢ひ、誘はれて更に南鍋町交詢社階下の酒肆に飲む、酔客女給等紙にてつくりし帽子を戴き蓄音機の響につれて俗歌を謡ふ、此店開業三年の祝ひをなし景品を酔客に贈るなりと云ふ、喧噪長く居るに堪えず、清潭子と分れて家に帰る、十年前亡友啞々子と相携へて深川のはづれを散歩し、日暮れて銀座に来り牛肉屋にて一酌せし頃を思起すに、時勢の変遷につれ余の身も又別人の如き心地するなり、生きながらへて恥多しとは誠に吾身のことなるべし、


昭和七(1932)年 荷風年五十四

一月十五日、239 快晴、午後笄阜(けいふ)子来訪、哺時中洲に徃く、帰途乗合汽船にて千住大橋に至り、歩みて荒川放水路の長橋を渡る、日既に暮れて宵の明星熒々として水心に浮ぶを見る、半輪の月また中天に懸りたり、橋際に松勢館といふ寄席あり、木戸口に市川新三郎尾上何某などかきし幟を立て、下足番の男鉢巻をなし印絆纏をきて通行人を呼び招ぐさま、二三十年前市中の寄席を思起さしむ、橋上を過る乗合自働車に乗り南千住三輪の新道路を経て、浅草公園西側より田原町に出づ、市内電車にて銀座に来りオリンピヤ洋食店に飯し、太訝に少憩して家に帰る、

  千住晩歩即興
 蒲焼の行燈くらし枯柳
 はだか火に大根白き夜店かな
 渡場におりる小道や冬の草
 水涸れて桟橋なかき渡し哉
 街道のくひ物店や冬の月

昭和七年一月廿二日、241 快晴、暖気春の如し、午後中洲に徃く、去冬より中洲に赴く日には、その帰途夕飯の頃まで処定めず散策することになしたれば、今日は清洲橋の袂より南千住行の乗合自働車に乗りぬ、浅草橋駒形を過ぎ田原町辺より千束町に出て吉原大門を過ぐ、日本堤は取除かれて平坦なる道路となれり、小塚原の石地蔵は依然としてもとの処に在り、こゝにて金町通の乗合自動車に乗替へ、千住大橋を渡り旧街道を東に折れ堤に沿ひて堀切橋に至る、枯蘆の景色を見むとて放水路の堤上を歩み行くに、日は早くも暮れて黄昏の月中空に輝き出たり、陰暦十二月の十五夜なるべし、枯蘆の茂り稍まばらなる間の水たまりに、円き月の影盃を浮べたるが如くうつりしさま絵にもかゝれぬ眺めなり、四木橋の影近く見ゆるあたりより堤を下れば寺島町の陋巷なり、道のほとりに昭和道玉の井近道とかきたる立札あり、歩み行くこと半時間ばかり、大通を中にしてその左右の小路は悉く売笑婦の住める処なり、小路の間に飲食店化粧品売る小店などあり、売笑婦の家はむかし浅草公園裏に在りし時の状況と更に変るところなし、立寄りて女のはなしをを聞くに、玉の井の盛場は第一区より第五区まであり、第一区は意気向の女多く、二区三区には女優風のおとなし向が多し、祝儀はいづれも一二円なりといふ、路地を出るに商店つゞきたる道曲り曲りて程なく東武鉄道の停留場に達せり、電車より昇降する人甚多し、江東の新開町にて玉の井最繁華となりと見ゆ、雷門より市内電車にて銀座に至れば夜は既に八時なり、オリンピク洋食店に入るに、偶然番街のお歌の丸髷の女連と共に来れるに逢ふ、食事して後別れて酒館太訝に立寄るに、清潭翁市川八百蔵と共に在るを見る、十一時過家に帰る、空俄にくもりて雨となりぬ、

二月十一日 242雪もよひの空暗く風寒し、早朝より花火の響きこえ、ラデオの唱歌騒然たるは紀元節なればなるべし。〔以下十二行半抹消、二行半切取。以下行間補〕去秋満洲事変起りてより世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯ぶること益々甚しくなれるが如し道路の言を聞くに去秋満蒙事件世界の問題となりし時東京朝日新聞社の報道に関して先鞭を『日々新聞』につけられしを憤り営業上の対抗策として軍国主義の鼓吹には甚冷淡なる態度を示しゐたりし処陸軍省にては大に之を悪(にく)み全国在郷軍人に命じて『朝日新聞』の購読を禁止し又資本家と相謀り暗に同社の財源をおびやかしたり之がため同社は陸軍部内の有力者を星ヶ丘の旗亭に招飲して謝罪をなし出征軍人慰問義捐金として金拾万円を寄附し翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りし事ありしと云この事若し真なりとせば言論の自由は存在せざるなり且又陸軍省の行動は正に脅嚇取材の罪を犯すものと謂ふ可し

昭和七年三月四日 244晴天、風暖なり、晡時中洲病院に徃き診察を乞ふ、ヴィタミンの注射をなす、病後の衰弱を治するに効ありと云ふ、帰途日本橋丸善に立寄りオリンピアに晩餐を食す、銀座通商店街の硝子戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し、蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す、時に満街の燈火一斉に輝きはじめ全市挙(こぞ)つて戦捷の光栄に酔はむとするものゝ如し、思ふに吾国は永久に言論学芸の楽土には在らず、吾国民は今日に至るも猶徃古の如く一番槍の功名を競ひ死を顧ざる特種の気風を有す、亦奇なりと謂ふべし、尾張町四辻にて偶然尾谷文子といふ女に逢ふ、大正十五年の夏折々赤阪の茶屋に招ぎし女(=私娼)なり、

三月五日、244 快晴、春風嫋々たり、表通には自働車の音絶間なく、遠く砲声のきこゆるに係らず、庭の鶯早朝より午頃まで鳴きつゞけたり、都会の鶯は自ら物の響に馴れたりと見ゆ、午後お歌来り、悪家主中野光嘉より去年十二月初かたり取られし家賃五百円の中半額だけ取返したりとて現金を示す、此金は病気見舞として其儘お歌に贈りぬ、晡時西銀座五丁目の路地に住める某女(=私娼文子)を訪ひ用談をすまし、風月堂に徃き独晩餐をなす、給仕人の持来る夕刊新聞を見るに、今朝十一時頃実業家団琢磨三井合名会社表入口にて銃殺せられし記事あり、短銃にて後より肺を打ち抜かれしと云ふ、下手人は常州水戸の人なる由、過日前大蔵大臣井上準を殺したる者も同じく水戸の者なる由、元来水戸の人の殺気を好むは安政年間桜田事変ありてよりめづらしからぬ事なり、利と害とは何事にも必相伴ふものなり、昭和の今日に至りて水戸の人の依然として殺気を好むは、之を要するに水戸儒学の余弊なるべし、桜田事変のことを義挙だの快挙だのとあまりほめそやさぬがよし、脚本検閲の役人は鼠小僧の如き義賊の狂言は、見物人に盗心を起さしむる虞ありとて、徃々その興行を許可せざる事あり、此の後は赤穂義士、桜田事変の如き暗殺を仕組みたる芝居も、其筋にては興行を禁止するがよかるべし、盗賊の害は小なり、暗殺の害は盗賊の比にはあらず、▼但し甘糟大尉が震災の時大杉栄と其妻及幼女を殺したるが如きは、余いまだ其是非を知らず、▲この夕、帰途尾張町タイガア裏通を通り過るに洗湯の鄰家五六軒焼けたり、昨夜深更失火せしなりと云ふ、家にかへりて後燈火三島政行の遺稿『葛西志』を読む、

昭和七年三月十日。247晴また陰。昨来春寒料稍(りようしよう)たり。病来書斎の塵を掃はざれば、朝食の後書架机上を整理するに早くも午となりぬ。読書黄昏に及ぶ。銀座に徃き於倫比克(オリンピア)に晩食をなす。数年前までは町に徃きて食事をなすこともさまで面倒ならず。時には外遊のむかしを回想して葡萄酒の盃を重ねしこともありしが、五十四歳の今日となりては、牛肉も咀嚼するに骨が折れ、又料理の献立表を見るにも老眼鏡をかけ直すなど、煩しき事多く、寧家に在りて燈下に悄然麦飯を食ふことを欲するなり。されど医師の忠告是非なければ、今は薬を服する心にて洋食をくらふなり。此夕銀座通平日よりも賑にて、三田の学生断髪の女子を伴ひ酔歩するもの尠からず。是陸軍記念祭の当日なるが故なりと云ふ。近年種々なる祭日増加したれば殆記憶するに遑あらず。二月十一日は紀元節の外更に建国祭と称するもの出来たるが如き其一例なり。此等の新祭日はいづれも殊更に国家の権威を人民に示さんがために挙行せらるゝやの嫌あり。我国家の何たるかは今更祭日を増加してこれを示すにも及ばざるべし。若し時勢に応じて之をなすものならんか、是さながら月刊雑誌の折々表紙の絵を変じて人目をひくに異らず、数十年の後には三百六十五日悉く祭日となさゞるべからざるに至るべし。

四月九日。251花ひらきて後風却て冷なり。終日困臥。日暮に及ぶ。笄阜君来り訪はる。三田文学に余についての批評を寄稿せしと云ふ。夜銀座に徃きて飯す。露店の玩具屋は軍人まがひの服装をなし、軍人の人形をはじめ飛行機戦車水雷艇の如き兵器の玩具を売る。蓄音機販売店にては去年来軍歌を奏すること毎夜の如し。今に至るも人猶飽かずして之を聴く。余つらつら徃時を追憶するに、日清戦争以来大抵十年毎に戦争あり。即明治三十三年の義和団事変、明治卅七八年の征露戦争、大正九年の尼港事変の後は此度の満州上海の戦争なり。而して此度の戦争の人気を呼び集めたることは征露の役よりも却て盛なるが如し。軍隊の凱旋を迎る有様などは宛然祭礼の賑に異らず。今や日本全国挙つて戦捷の光栄に酔へるが如し。世の風説をきくに日本の陸軍は満州より進んで蒙古までをわが物となし露西亜を威圧する計略なりと云ふ。武力を張りて其極度に達したる暁独逸帝国の覆轍を踏まざれば幸なるべし。百戦百勝は善の善なる者に非らず、戦ずして人の兵を屈するは善の善なる者とは孫子の金言なり。此の兵法の奥義は中華人能く心得てゐるやうなり。

昭和七年四月十四日。252わかき時読みたる書を再び繙く時、思ひも掛けぬ興味を覚えてやまざることあり。又はさほどに面白しとも思はず、昔はいかにして此の如き書を面白しと思ひたるかなど怪しむ事もあるなり。ピヱールロッチの著作『お菊さん』を読みたりしは、米国に在りし時なれば、指折り数れば三十年の昔なり。又『お梅が晩年の春』といふをよみしも三田の大学に通勤せし頃なればこれさへ二十年のむかしなり。此頃『お菊さん』の一書を再読するに、日本現代の風俗習慣殆亜米利加風になりたれば、篇中の記事叙景によりて明治年間の生活を追想して感概おのづから窮りなし。大雨降りそゝぐ夜人力車の幌の内に肩をすぼめ、暗夜の町を行く情景の如き、今の世には既に亡きことなり。車夫の遠き道を休まずに疾走する有様をしるしたる一章は、余をして明治年間吉原洲崎などの遊郭に遊びし頃の事を思出さしめたり。深夜行燈の光薄暗き一間の天井を鼠の走り騒ぐ音。昼夜のわかちなく庭に虫の鳴しきる声。暑き夏の日団扇つかふ静なる音。女供の煙管にて竹筒の灰吹叩く鋭き響。これ等の物音は日本に来りて始めて聞かるべき固有なる生活の響なり。然れどもそは二十年のむかしにして今この固有なる響は再び聞くこと能はざるなり。余はロッチの書をよみて新橋の芸者さへそのむかしは巻烟草を客の面前にて喫するものは少く、皆それぞれ好みの煙草入煙管を帯の間にはさみゐたる事など今更の如くに思ひ返しぬ。ロッチは日本の気候風土、及び日本古来よりの生活には言葉には云ひ得ざる一種の哀愁あり、又一種恐怖すべき暗惨なるものありとなしたり。是ロッチの官覚のおのづから斯くの如く感じたる所にして、余が明治四十一年の秋六年ぶりにて日本に帰りし時感じたる所と全く一致するものなり。余が六年ぶりにて日本を見たりし時の感想は、『監獄署の裏』の一篇にしるしたり。『冷笑』の中「夜の三味線」「都に降る雪」の二章も、余が官覚の最鋭敏なりし時、日本の都会を見て感じたる所を憚る所なく記述せしなり。ロッチの『お菊さん』『お梅さん』及『日本の秋』の三書は、明治時代の日本を知らむとするには最必要なる資料なり。因(ちなみ)に言ふ。天井裏にて鼠の騒ぐ音の物すごき事は日本のみならず、土耳古の都も同じきものと見え、ロッチはつぶさにその事を記し、鼠はトルコの語にてはSetchen(セチヤン)と発音することをも記たり。此夜銀座の酒館にて葵山撫象の二子に逢ふ。撫象子は四月七日海外漫遊を終りて帰京せられしなり。巴里の空濠は既に埋立てられて跡なき事。安料理屋にて葡萄酒を無料にて出す事は止められし事。また紐育ハドソン河に大橋かゝりし事ブロンクス公園のあたりも繁華なる市街になりしことなど聞知りぬ。

昭和七年四月廿三日。254一昨々夜銀座太訝楼にて人を殺したる男は下谷辺に住居する夜店地割人の親方にて俗にテキ屋と呼ぶ者なる由。昨日捕縛せられし由。新聞紙は太訝楼より口留金を贈りし故詳細なる事は記載せず、唯怪我人ありし事を記したるのみなりと云ふ。以上の事は昨夜電車の中にて乗客の語るところを立聞したるなり。近年銀座界隈にてつまらなき喧嘩のため人の殺されし事再三に及べり。余が耳にせし所によれば、二三年前黒猫酒肆の入口徃来にて白昼匕首にて刺殺されしものあり。又銀座裏通書籍おろし売北隆館の店頭にて荷づくりをなしゐたる店員の無頼漢の喧嘩を仲裁せむとして一人の店員は鼻をそがれ、一人は急処を刺されて即死せしことあり。其他麦酒壜にて頭を打割られし噂は数かぎりなき程なり。いづれも原因はつまらなき其場の言争ひより起りて徒に血を流し生命を失ふなり。斯くの如き事はむかしより今に至るまで日常絶えざるはなしにて更に奇となすに足らざるなり。血を見る事を好むは日本人の特性なるべし。繁華の町に在ては酒楼の喧嘩となり、田舎に在ては博徒の出入、請負師土方の喧嘩となる。されば戦争に臨みて日本人の勇猛なる事野獣の如くなるも亦更に奇となすに及ばす。此度上海の戦争にて勇名を轟かせし兵士尠からざるは盖当然の事と謂ふべし。何事にも利害は相半するものなり。戦争に強ければ銀座の血まぶれ喧嘩は免れざる事と知るべし。

十月初二。薄曇の空風絶えて蒸暑し。再び法師蝉の声を聞く。銀座にて夕飯を食し人形町を散歩し、帰途西銀座万茶に立寄りて見るに神代坂泉二君猶在り。夜もふけ渡りたる銀座通を歩み芝口より車に乗りて帰る。虫の声雨の如し。

昭和七年五月十五日。257 晴れていよいよ暑くなりぬ。晡下銀座に徃きて夕飯を食す。日曜日なれば街上の賑ひ一層盛なる折から号外売の声俄に聞出しぬ。五時半頃陸海軍の士官五六名首相官邸に乱入し犬養を射殺せしと云ふ。警視庁及政友会本部にも同刻に軍人乱入したる由。初更の頃家に帰るに市兵衛町表通横町の角々に巡査刑事二三名づつ佇み、東久邇宮邸門前には七八名立ち居たり。如何なるわけあるにや。近年頻に暗殺の行はるゝこと維新前後の時に劣らず。然れども兇漢は大抵政党の壮士又は血気の書生等にして、今回の如く軍人の共謀によりしものは、明治十二年竹橋騒動以後曾て見ざりし珍事なり。或人曰く今回軍人の兇行は伊太利亜国に行はるゝフワシズムの摸倣なり。我国現代の社会的事件は大小となく西洋模倣に因らざるはなし。伊国フアシズムの真似事の如き毫も怪しむに足らずと。或人又曰く。暗殺は我国民古来の特技にして摸倣にあらず。〔此間一行弱切取。以下行間補〕徃古日本武尊の女子に扮して敵軍の猛将クマソ〔以上補〕を刺したる事を見れば、暗殺は支那思想侵入に先立ちて既に行はれたるを知るべしと。この説或は正しかるべし。

九月十六日。260 鄰家の人このごろ新にラヂオを引きたりと見え、早朝より体操及楽隊の響聞出し、眠を妨ぐること甚し。たまたま耳を傾けて聞くに、放送局員の天気予報をなすに、北東の風或は南東の風或は愚図ツイタ天気などいふ語を用ゆ。是頗奇怪なり。吾等従来北東南東などの語を知らず、東北東南と言馴れたるなり。またグヅツイタ天気といふは如何なる意なるや。愚図々々してゐるといふ語はあれど、愚図ついてゐるといふ事は曾て聞かざる所なり。この頃の天気の如き、陰晴更に定りなく風と共に村雲空を蔽ひかゝれば雨はらはらと濺来りて忽にして歇む、此のやうなる天気を愚図ついた天気と云ふにや。いかにも下品にて耳ざわり悪しき俗語なり。気象台の報告の如きものは正確にして醇良なる語を用ひざる可からず。此日風雨終日歇まず。晡下最甚し。銀座に徃き食事をなし蠣殻町の叶屋を訪ふ。深夜に至り雨勢稍衰へ風また歇む。

昭和七年十月初三。263溽暑夏六月の如く驟雨屢来る。夜銀座に飯す。夕刊の新聞紙を見るに府下の町村東京市へ合併の記事および満州外交問題の記事紙面をうづむ。余窃に思ふに英国は世界到る処に領地を有す。然るに今日我国が満州占領の野心あるを喜ばざるは奇怪の至といふべきなり。〔此間二行弱切取 =然りと雖日本人の為す処も亦正しからず。二十年前日本人は既に朝鮮を其領地となし今日更に満洲を併呑せむとするは隴(ろう)を得て蜀を望むものなり。名を仁義に仮〕り平和に托するは偽善の甚しきものなり。弱肉は畢竟強者の食たるに過ぎず。国家は国家として悪をなさざれば立つこと難く一個人は一個人として罪悪をなさゞれば生存する事能はざるなり。之を思へば人生は悲しむべきものなり。然れどもつらつら天地間の物象を観るに弱者の肉必しも強者の食ならず。猫と鼠とは同じき家に在りと雖鼠は常に能く繁殖して尽きざるなり。深山幽谷には鷹あり鷲あれども燕雀は猶能く嬉戯する事を得るなり。都会の喧噪に馴れ電線に群棲し人家の残飯に腹を満すは雀の能くする所にして猛鳥の学ぶ事能はざる所なり。猛鳥にして一たび深山を出でゝ人里に来らば忽餌なきに至るべく燕雀は人家の軒に潜んで始て安全なる事を得るなり。天地間の生物は各其処を得て始めて安泰なり。弱者必しも強者の食ならず。


昭和八(1933)年 荷風年五十又五

十月廿五日。281小春の好き日なり。終日困臥為す事なし。燈刻起出でゝ顔を洗ひ、晩飯を食せむとて銀座に徃く。久振にて二丁目オリンピクに入る。半年前の雑遝に比すれば頗落莫の感あり。食後いつもの如く喫茶店きゆうぺるに抵(いた)る。山田歌川の二子在り。二子に就いて近年流行する俗謡の盛衰を問ふ。大に益を得たり。生田葵山子来り一老人を紹介す。月刊雑誌銀座の主筆西村酔香氏なり。銀座を題となす俳句又は雑文を需めらる。喫茶店の主人{道明氏}所蔵の諸家短冊折帖を示さる。披見るに子規竹冷漱石小波諸老の墨蹟あり。十一時頃葵山子去り高橋{邦太}杉本の二子来る。十二時閉店の時を待ち、諸子と共に芝口の佃茂に徃く。サロンハルの三女{すみ鈴ゆたか}は既に来りて二階にゐたり。笑語尽きず。この夜もまた二時となる。疲労甚し。

  流行唄の盛衰
 昭和三四年 君恋し
 昭和四年  東京行進曲
       上陸第一歩
       麗人の歌
       道頓堀よ
 昭和五年詳ならず
 昭和六年 銀座の柳〔朱書〕四月頃から流行
      大磯心中
      酒は涙か
      影をしたひて
 昭和七年中最流行のもの
      岡を越えて スキーの唄
      涙の渡鳥
      大東京行進曲
 昭和八年 島のむすめ 〔朱書〕正月より
      踊子の唄
      ほんとにさうなら〔朱書〕五月頃より
      丸ノ内音頭〔朱書〕七月頃より
      東京音頭

蓄音機売店には流行唄及民謡に関する出版物数多あり。又『婦人公論』某号の附録もあり。いづれも作家の名並に歌詞を載すと云ふ。
〔昭和七年の欄外朱書〕玩具ヨウヨウ流行
〔昭和八年の欄外朱書〕暮春ノ頃ヨリコリントゲーム(=パチンコ)流行


昭和九(1934)年 荷風年五十六

二月初三。295 朝八時頃目覚めて窓外を見るに雪ふりしきりて、窓にちかき椎の木の枝雪の重さにたはみて折れむとす。竹青木の如きは皆地に伏したり。午に至りて雪歇み空次第に霽る。晡時兜町なる片岡商店に至り番頭永田氏に面会し、余が定期預金の全額を株券に替ふべき事を委託す。盖し平価切下の災厄に処せむと欲するなり。片岡方を去るに日猶暮れず。空は青々と晴れわたりたれば、乗合自働車(=バス)にて浅草に至り観音堂に賽して後、また乗合にて千住に徃き大橋の欄干に倚りて河上の雪景を見る。時に日は既に没し、暮雲連山の如く棚曳きわたり、黄昏の微光屋上の雪に映じて紫色を呈す。橋上及び人家の窓には燈火早くも輝き出したれど、空と水面との明さに対岸の屋根は却て暗く、その上につもりし雪さへ次第に黒く見ゆるやうになりぬ。夕雲の連りわたるさま見る見る中に変り行くを眺めやる時、ふと雲の切目より思ひもかけぬ富士の影を認め得たり。北斎が描きし三十六景の中にも千住の図あれど、余は大橋の上より富士を見しは始めてなれば、珍しき心地して手帳取出し橋の灯をたよりに見たる処を描きぬ。歩みて中組の停留塲より乗合自働車に乗り雷門に至り松喜牛肉店に飯す。銀座に来りて喫茶店きゆぺるに憩ふ。竹下山田桶田万本酒泉の諸子来り会す。岡氏の旧著を竹下氏より借覧せむ事を約す。例のごとく酒泉氏と共に汁粉を食してかへる。此夜節分寒気甚し。

昭和九年二月廿三日。300 晴。北風寒し。終日ビリイの著『現代仏蘭西文学史』をよむ。燈刻尾張町に徃き不二あいす店にて飯しきゆうぺるを過ぎて帰る。

  当世青年男女の用語
 どうかと思ふね
 わしやアつらいヨ
 参つたヨ
 相当のもんだ 相当にうるさい奴だ
 のしちやう
 雰囲気に酔つた
 バツクを離れて自分だけとして考へる
 わし顔まけした
 腐つた あいつ腐つてゐたヨ
 憂鬱だヨ
 転向
 清算する 過去を清算する
 しけてゐる
 ダンチだ
 タイアツプ

昭和九年十一月六日。314晴れてむし暑し。午後兜町仲買片岡氏を訪ふ。増税問題起りてより人心恟々、前途暗淡として方針を定め難しと云ふ。余窃に思ふに、今回の増税は天保改革の時幕府が蔵宿及用達の富商に上納金を命じ、亦江戸近郊に在りし幕府旗本の采地(=領地)を返上せしめんとしたる政策に似たり。天保の改革は其半にして挫折したり。今回〔此間約九字抹消。以下行間補〕軍部の為すところ〔以上補〕果して能く成功すべきや否や。余は寺門静軒為永春水等の轍を蹈んで筆禍を蒙ることなきを冀ふのみ。歩みて土州橋なる大石病院に至り、滋養注射をなし、水天宮裏の鼎亭に小憩し、銀座風月堂にて夕餉を食す。私立大学の制服着たる苦学生銀座通の角々に立ちて奥羽飢饉救助義捐金の募集をなす。之を避けて裏通を歩み京橋より電車に乗りて帰る。


昭和十(1935)年 荷風散人年五十又七

七月廿五日。325 くもりてまた俄に涼し。気候不順なること驚くべし。薄暮尾張町竹葉亭に飯す。飯後きゆうぺる茶店に憩ふ。偶然ラヂオの放送鷗外先生の作『山椒大夫』を浪花節につくり替へたるものを演奏するを耳にす。作者は大阪の脚本家大森癡雪なりと云ふ。鷗外先生は生前薩摩琵琶師のために『長宗我部□□』の一曲を草せられしことあり。されど浪花節は宴席に於てもこれを聴くこと好まず、屢其の曲節の野卑にして不愉快なることを語られたることあり。浪花節語り雲右衛門大に世に持囃されし頃のことなり。今日浪花節は国粋芸術などゝ称せられ軍人及愛国者に愛好せらるゝと雖三四十年前までは東京にてはデロリン左衛門と呼び最下等なる大道芸に過ぎず、座敷にて聴くものにては非ざりしない。梅坊主のかつぽれよりも更に下品なる芸とされしなり。現代の日本人は芸術の種類にはおのづから上品下品の差別あることを知らず。三味線ひきて唱ひまた語るものは皆一様のものと思へるが如し。河東節一中節も浪花節と同じく其趣味風致に於て差別なきものとなすなるべし。今夜鷗外先生地下にありてラヂオの浪花節をきゝ如何なる感慨に打たれ給ふや。

昭和十年八月十二日。326 陰。涼味九月も半過ぎの天気の如し。曝書半日。夜銀座裏通りのきゆぺるに徃く。空庵大和田五叟の諸氏に逢ふ。
 この日朝陸軍省内に刃傷あり。殺されたるは軍務局長永田少将殺したるは中佐某なりと云ふ。逗子葉山より帰京したる人の話に麻布三聯隊の兵士二百人ばかり機関銃を携へ葉山御用邸を護り飛行機も六七台来りし由。刃傷沙汰ありてより一時間を出でず。初めの程は人々何事なるを知らざりしと云ふ。

八月十六日 雨ふりつゞきたれど空あかるく風なし。終日書篋を整理す。六時頃銀座尾張町に至り竹葉に入らむとする時空俄に晴れ虹あざやかに三越の建物を隔てゝ東の空に現はるゝを見たり。行人皆傘をつぼめ佇立ちてこれを見て喜ぶ。食事して後直に烏森の待合芳中に徃きて待つ間もなく美代子渡辺生来る。談笑する中おかみさん入り来り、この頃出入りする私娼の中に一人年三十ばかりの小づくりにて男好きのする女あり。生活に困つてゐるわけではなく道楽にて私娼になりたるものの由。目の縁黒ずみ着物の着こなししだらなく見るからにすきさうな女なりと云ふに、忽ち淫心動き其女を呼んで貰ひぬ。築地の明石町アパートに住める由にて待つこと半時間ばかり、おかみさんの連れ来るを見ればどこやらににて一度見たことのあるやうな女なり。女の方でも何やら不思議さうな面持するも無理ならず、暫くして心づけば昭和四年十月の頃中洲病院よりの帰り道、中の橋より水天宮の四辻に至る徃来にて歩みながらふと何心なく言葉を交へ、其儘自働車にのせて神楽坂の待合に連れ行きしことありし其女なり。{断腸亭日乗九冊目十月十四日の記にしるす}指を屈すれば七年前のことなり。其時には後難をおそれて番地姓名も言はずまた女の住所も問はずして別れたるなり。此夜の再会はまことに小説よりも奇なる心地したり。

昭和十年十月廿九日。晴れて好き日なり。今春以来腹候甚佳ならず。午後土州橋の病院に赴き厚木医学士の診察を請ふ。厚木氏は故大石君の門人なり。この度論文を呈出し博士の学位を授けられたりと云ふ。風静なれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。午後五時を過ぎたるばかりなるに暮霞既に糢糊たり。水上に大なる汽舩の泛べるを人に問へば大島通ひの新造船にて四千五百トンなりと云ふ。河岸通りに聳る三菱倉庫の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかゞなりしやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。境内は広く掃除も行きとゞきたり。堂は二棟あり。大なる堂には田宮神社の額をかけ見影石の鳥居には於岩稲荷の額あり。昭和九年十一月建之亀戸町松田定一と刻したるは如何なる人ならむ。小なる堂の軒には白狐堂の額をかけ前なる鳥居には明治三十年一月吉日田岡栄造建之と刻したり。大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向ひの貸家にたしか荒川とやら言ひし淫売宿あり。わかき後家人妻など多き時は七八人も集りゐたることもありき。今日も猶このあたりの貸家には囲者らしきもの多く住めるがごとし。於岩稲荷の裏手に新築の小祠あり。通行の子供に問ふに金比羅をまつれるものなりと云ふ。祠前の横町を燈火明るき方へ歩み行けば越前堀二丁目の電車停留場に出づ。銀座に赴き銀座食堂に夕餉を食し、茶店久辺留に立寄りしが、今宵は慶応義塾野球勝負の後にて泥酔せる学生の出入多ければ一茶して後家にかへる。川尻清潭君よりたのまれし歌舞伎俳優芸談筆記集の序を草す。
〔欄外朱書〕有喜世新聞明治十二年十二月中ノ紙上に左ノ如キ広告アリ 当社曩(さき)ニ類焼ニ罹リ再建之地所狭小ニ付本月十七日越前堀一丁目四番地へ引移候ニ付此段信仰之諸君ヘ広告ス 四谷左門町四十九番地田宮稲荷社々務所


昭和十一(1936)年 荷風散人年五十八

一月廿二日。341 山鳩一羽西向の窓に茂りし椎の木立の殊に小暗き葉かげを求め、朝の中より昼過るころまで動かず作りしものゝ如く枝にとまりたり。こは今日初めて心づきしにはあらず、いつの頃よりとも知らず厳寒の空曇りし日に限り折節見るところなり。大久保余丁町の庭にも年々寒さはげしき日一羽の鳩の来りしことはたしか二十年前の日記にしるし置きたり。二十年前のわが身はまことに寂しきものなりけり。されど其のころには鷗外先生も未簀(さく)を易へたまはず、日々来往する友には庭後啞々子あり、雑誌つくりて文字を弄ぶたのしみも猶失はれざりき。二十年後の今日は時勢も変り語るべき友もなくなり老と病との日々身に迫るをおぼゆるのみ。此日薄く晴れて後空くもりしが夜に至りて星影冴えたり。銀座三越に行き食料品を購ひ茶店久辺留に立寄ればいつもの諸氏在り。諧語に時の移るを忘れ例の如く夜半家にかへる。

昭和十一年一月三十日。342晴れて風烈し。去冬召使ひたる下女政江西洋洗濯屋朝日新聞其他自分用にて購ひたる酒屋のものなど其勘定を支払はず行方不明となりしため朝の中より台処へ勘定を取りに来るもの三四人あり。其中呉服屋もあり。政江といふ女わが家に殆二ヶ月程居たりしが暇取りて去る時余に向ひては定めの給料以外別にゆすりがましき事を言はず。水仕事に用ゆるゴムの手袋と白き割烹着とを忘れ行きしほどなれば、金銭の慾なく唯しだらなく怠惰なる女なるが如し。貸したものも催促せぬ代り借りたものも忘れて返さぬといふやうなる万事無責任なる行をなすものは女のみならず智識ある男子にも随分多く見る所なり。西洋人には少く支那人にも少く、これは日本人特徴の一ツなるべし。つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし。

  一 鈴木かつ {柳橋芸者にて余と知り合ひになりて後間もなく請負師の妾となり、向島曳舟通に囲はれ居たり、明治四十一年のころ}
  二 蔵田よし {浜町不動産新道の私娼明治四十二年の正月より十一月頃まで馴染めたり、大蔵省官吏の女}
  三 吉野こう {新橋新翁家富松明治四十二年夏より翌年九月頃までこの女は事は余が随筆『冬の蠅』に書きたればこゝに贅せず}
  四 内田八重 {新橋巴家八重次明治四十三年十月より大正四年まで、一時手を切り大正九年頃半年ばかり焼棒杭、大正十一年頃より全く関係なし新潟すし屋の女}
  五 米田みよ {新橋花家(成田家か不明)の抱、芸名失念せり、大正四年十二月晦日五百円にて親元身受、実父日本橋亀島町大工なり、大正五年正月より八月まで浅草代地河岸にと三ヶ月ばかりにて手を切る、震災後玉の井に店を出さし由}
  六 中村ふさ {初神楽坂照武蔵の抱、芸名失念せり、大正五年十二月晦日三百円にて親元身受をなす一時新富町亀大黒方へあづけ置き大正六年中大久保の家にて召使たり、大正七年中四谷花武蔵へあづけ置く、大正八年中築地二丁目三十番地の家にて女中代りに召使ひたり、大正九年以後実姉と共に四谷にて中花武蔵といふ芸者家をいとなみ居りしがいつの頃にや発狂し松沢病院にて死亡せりと云ふ。余之を聞きしは昭和六年頃なり、実父洋服仕立師}
  七 野中 直 {大正十四年中赤坂新町に囲置きたる女初神田錦町に住める私娼なり、茅か崎農家の女}
  八 今村 栄 {新富町金貸富吉某の見寄の女、虎門女学校卒業生なりと云ふ、一時書家高林五峯の妾といふ、大正十二年震災後十月より翌年十一月まで麻布の家に置きたり、当時二十五歳}
 十三 関根うた {麹町富士見町河岸家抱鈴龍、昭和二年九月壱千円にて身受、飯倉八幡町に囲ひ置きたる後昭和三年四月頃より富士見町にて待合幾代といふ店と出させやりたり、昭和六年手を切る、日記に詳なればこゝにしるさず、実父上野桜木町々会事務員}
 十二 清元秀梅 {初清元梅吉弟子、大正十一年頃折々出会ひたる女なり、本名失念大坂商人の女}
 十一 白鳩銀子 {本名田村智子大正九年頃折々出会ふ陸軍中将田村□□の三女}
 十五 黒沢きみ {本名中山しん、市内諸処の待合に出入する私娼、昭和八年暮より九年中毎月五千円にて三四回出会ひ居たり明治四十二年生砲兵工廠職工の女}
 十六 渡辺美代 {本名不明、渋谷宮下町に住み夫婦二人づれにて待合に来り秘戯を見せる、昭和九年暮より十年秋まで毎月五十円をやり折折出会ひたる女なり、年二十四}
     此外臨時のもの挙ぐるに遑あらず、
〔欄外墨書〕  九 大竹とみ {大正十四年暮より翌年七月迄江戸見坂下に囲ひ置きたる私娼}
〔欄外墨書〕  十 吉田ひさ {銀座タイガ女給大正十五年中}
〔欄外墨書〕 十四 山路さん子{神楽坂新見番芸妓さん子本名失念す昭和五年八月壱千円にて身受同年十二月四谷追分播磨家へあづけ置きたり昭和六年九月手を切る松戸町小料理屋の女}

昭和十一年二月十四日。344晴れて風静なり。この頃新聞の紙上に折々相沢中佐軍法会議審判の記事あり。〔此間一行強抹消。以下行間補〕相沢は去年陸軍省内にて其上官某中将を斬りし者なり、新聞の記事は其の〔以上補〕最も必要なる処を取り去り読んでもよまずともよきやうな事のみを書きたるなり。されど記事によりて見るに、相沢の思想行動は現代の人とは思はれず、全然幕末の浪士なり東禅寺英国公使館を襲ひ或は赤羽河岸にヒユウスケンを暗殺せし浪士と異なるものなし。西洋にも政治に関し憤怒して大統領を殺せしもの少からず、然れども日本の浪士とは根本に於て異る所あり。余は昭和六七年の世情を見て基督教の文明と儒教の文明との相違を知ることを得たり。浪士は神道を口にすれども其の行動は儒教の誤解より起り来れる所多し。それ兎もあれ日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行も之を要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起ることなり。然り而して個人の覚醒は将来に於てもこれは到底望むべからざる事なるべし。〔以下六行抹消〕

二月廿六日。347 朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、〔此間約四字抹消。以下行間補〕軍人〔以上補〕警視庁襲ひ同時に朝日新聞社日々新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラツパの声のみ物哀れに聞ゆるのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とを恐れ門を出でず。風呂焚きて浴す。
  ▼〔朱書〕森於菟 台北東門前町一五八文化村四条通
九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長又重傷せし由。十時頃雪やむ。

昭和十一年二月廿七日。349 曇りて風甚だ寒し。午後市中の光景を見むと門を出づ。東久邇宮門前に憲兵三四名立つ。道源寺阪を下り谷町通りにて車に乗る。溜池より虎の門のあたり弥次馬続々として歩行す。海軍省及裁判所警視庁等皆門を閉ぢ兵卒之を守れり。桜田其他内曲輪へは人を入れず。堀端は見物人堵をなす。銀座尾張町四辻にも兵士立ちたり。朝日新聞社は昨朝九時頃襲撃せられたる由なれど人死は無之。印刷機械を壊されしのみなりと云ふ。銀座通の人出平日より多し。電車自働車通行自由なり。三越にて惣菜を購ひ茶店久辺留(キユベル)に至る。居合す人々のはなしにて岡田斎藤等の虐殺せられし光景の大略及暴動軍人の動静を知り得たり。〔此間約一行抹消〕歌川竹下織田の三子と三十間堀河岸の牛肉店末広に至り晩餐をなす。杉野教授千香女史おくれて来り会す。談笑大に興を添ふ。八時過外に出るに銀座通の夜店遊歩の人出いよいよ賑なり。顔なじみの街娼一両人に逢ふ。山下橋より内幸町を歩む。勧業銀行仁寿公堂大坂ビル皆鎮撫軍の駐屯所となる。田村町四辻に兵士機関銃を据えたり。甲府より来りし兵士なりと云ふ。議会の周囲を一まはりせしが〔此間約六行抹消、以下行間補〕さして面白き事なく。〔以上補〕弥次馬のぞろぞろと歩めるのみ。虎の門あたりに商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵は人出賑なるため皆燈火を点じたれば金比羅の縁日の如し。同行の諸氏とわかれ歩みて霊南阪を上るに米国大使館外に数名の兵あり。人を誰何す。富豪三上の門内に兵士また数名休息するを見たり。無事家に帰れば十一時なり。此日新聞には暴動の記事なし。

三月十日。349 晴。風邪下痢終日家に在り。仏人アンドレヱ・ベレソール著『日本日夜の記』をよむ。日本人の微笑につきて曰く、若し日本人にして微笑の習慣を失ひたりとせんか、其顔貌(がんぼう)は野蛮粗暴実に厭ふべきものとなるべし。両頤の突出せし其顔より可憐なる微笑の光の消え失する時、貪慾的なる歯の突出することと、陰欝にして不安なる眼の輝くことのみ目立ちて見ゆるなり。これと同じく日本の都市より寺院の美観を取り去りなば残るものは矮屋と廃舎との形を成さゞる集合のみとなるべし。{京都に至る途上の記二十七頁}云々。これ平常余の見る所と一致せり。
 André Bellessort:Les Journées et les nuits Japonaises(1926)

昭和十一年四月十日。352新聞の雑報には連日血腥きことばかりなり。昨九日の新聞には小学校の教員其友の家にて或女を見染め妻にせんと言寄りしが、娘承知せざれば教員は直に女の親元に赴き掛合ひしが同じく断られたり。教員は警視庁人事相談掛のもとに到り相談せしに、是亦思ふやうに行かず、遂に殺意を起し劇薬短刀等を持ち娘の家に乱入せしところ、娘は幸外出中にて教員は家人の訴により其塲にて捕へられたりと云ふ。乱暴残忍実にこれより甚だしきはなし。現代の日本人は自分の気に入らぬ事あり、また自分の思ふやうにならぬ事あれば、直に凶器を振ツて人を殺しおのれも死する事を名誉となせるが如し。〔此間三行抹消。以下行間補〕過日陸軍省内にて中佐某の其上官を刺せしが如き事に公私の別あれど之を要するにおのれの思ひ通りに行かぬを憤りしが為ならずや〔以上補〕人生の事若し大小となくその思ふやうになるものならば、精神の修養は無用のことなり。むかし屈原は世を憤りしが人を殺さず、詩賦を貽(のこ)して汨羅(べきら)の鬼となりき。〔此間一行弱抹消。以下行間補〕現代日本人の暴悪残忍なるは真に恐るべし〔以上補〕今朝の新聞には市内の或銀行の支配人にて年既に五十を越えたるが、借金に苦しみ其妻と其子三四人を死出の旅の道づれとなせし記事あり。〔此間一行弱抹消。以下行間補〕邦人の残忍いよいよ甚だしく其尽る処を知らず〔以上補〕此世はさながら地獄の如くになれり。是日陰。風寒きこと厳冬の如し。

昭和十一年五月十六日。353 曇りて風甚冷なり。晡時佐藤春夫氏来る。三笠書房出版『荷風読本』のことにつきてなり。夜銀座に徃き不二あいすに飯す。帰途また雨。

  玉の井見物の記
 初めて玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道なり。其時は道不案内にてどの辺が一部やら二部やら方角更にわからざりしが、先月来屢散歩し備忘のため略図をつくり置きたり。路地内の小家は内に入りて見れば、外にて見るよりは案外清潔なり。場末の小待合と同じくらゐの汚なさなり。西洋寝台を置きたる家尠からず、二階へ水道を引きたる家もあり。又浴室を設けたる処もあり。一時間五円を出せば女は客と共に入浴すると云ふ。但しこれは最も高価な女にて、並は一時間三円、一寸の間は壱円より弐円までなり。路地口におでん屋多くあり。こゝに立寄り話を聞けば、どの家の何といふ女はサービスがよいとかわるいとか云ふことを知るに便なり。七丁目四十八番地高橋方まり子といふは生れつき淫乱にて若いお客は驚いて逃げ出すなり。七丁目七十三番地田中方ゆかりと云ふは先月亀井戸より住替に来りし女にて、尺八専門なり。七丁目五十七番地千里方智慧子といふは泣く評判あり。曲取の名人なり。七丁目五十四番地工藤方妙子は芸者風の美人にて部屋に鏡を二枚かけ置き、覗かせる仕掛をなす。但し覗き料弐円の由。警察にて撿梅をなす日取りは、月曜日が一部。火曜日が二部。水曜日が三部と云ふ順序なり。撿梅所は玉の井市場側昭和病院にて行ふ。入院患者大抵百人以上あり{女の総数は千五六百人なり}入院料は一日一円なり。女は抱えとは云はず出方さんといふ。東北生れの者多し。越後の女も多し。前借は三年にて千円が通り相場なり。半年位の短期にて二三百円の女も多し。此土地にて店を出すには組合へ加入金千円を収め権利を買ふなり。されど一時にまとまりたる大金を出して権利を買ふよりも、毎日金参円ヅゝを家主又は権利所有の名義人に収める方が得策なり。寝台其他一切の雑作付きにて家賃の代りに毎日参円ヅツを収るなり。其他聞く処多けれど略して記さず。
▼〔欄外墨書〕氏神祭礼六月六日より七八日白髯明神及長浦の某神社合祭の由
〔欄外朱書〕東清寺境内玉の井稲荷の縁日は毎月二日と二十日となり此縁日の夜ハ客足少き故女達ハ貧乏稲荷といふ由▲
〔欄外朱書〕毎日参円ヅゝ出すといふは家一軒の事に非ず自前でかせぐ女が張店の窓一ツを借る場合の事なり家の主人に毎日参円ヅゝ渡シ前借ハせず自由にかせぐ事を得る規約ありと云ふ

昭和十一年七月十一日。358 晴後に陰。朝の中京橋第百銀行に徃き車にて帰る。午後岡崎栄来訪。夜久辺留に徃く。雨降出したれば高橋邦夫氏と車を共にしてかへる。
 流行唄『忘れちゃいやよ』と題するもの蓄音機円板販売禁止。また右の唄うたふ時は巡査注意する由。喫茶店の女より唄の文句をきくに甚平凡なるものなり。

 乁 月が鏡であつたなら恋しあなたの面影を、夜毎うつして見やうもの
こんな気持でゐるわたし、ネヱ忘れちやいやよ、忘れないでね。
 乁 昼はまぼろし、夜は夢、あなたばかりに此胸の、あつい血汐がさはぐのよ。こんな気持でゐるわたし。ネヱ忘れちやいやよ。忘れないでね。
 乁 あはい夢なら消えましよに。こがれこがれた恋の火が、何できえましよ消されましよ。ネヱ忘れちやいやよ忘れないでね。

七月十二日 359 {日曜日}陰。為永春水の人情本数種を読む。盖徃年一読せしものなり。晩食後雲重く風断ゑ溽暑甚しければ、漫歩銀座に徃き久辺留に一茶す。高橋邦夫氏来る。杉野教授万本氏と新橋際なる駒子の酒場に立寄りて帰る。寝に就かんとする時俄に雨声をきく。
〔欄外朱書〕叛軍士官代代木原ニテ死刑執行ノ報出ヅ

八月十九日。359 快晴。涼味九月の如し。終日曝書。夜銀座食堂に飯す。蓄音機店の前に男女蝟集し、流行歌とんがらがつちやだめよ又日本よい国などいふを傾聴す。歩みて京橋より電車に乗りてかへる。窓外の虫声昨夜に比すれば更に多し。

昭和十一年九月初七日。360晴。朝の中既に華氏九十度の暑なり。夜隅田公園を歩む。芝生腰掛池のほとりなど処を択ばず殆ど裸体にひとしき不体裁なる身なりの男大の字なりに横臥するを見る。是不良の無宿人にはあらず。散歩の人ならずば近巷の若い者なるべし。女を連れ歩むもの亦尠からず。およそ東京市内の公園は夏になればいづこも皆斯くの如く、紙屑とばなゝの皮とのちらばりたるが中に、汚れたるシヤツ一枚の男の横臥睡眠するを見るなり。言問橋をわたり乗合自働車にて玉の井にいたる。今年三四月のころよりこの町のさまを観察せんと思立ちて、折々来りみる中にふと一軒憩むに便宜なる家を見出し得たり。その家には女一人居るのみにて抱主らしきものゝ姿も見えず、下婢も初の頃には居たりしが一人二人と出代りして今は誰も居ず。女はもと洲崎の某楼の娼妓なりし由。年は二十四五。上州辺の訛あれど丸顔にて眼大きく口もと締りたる容貌、こんな処でかせがずともと思はるゝ程なり。あまり執ねく祝儀をねだらず万事鷹揚なところあれば、大籬(まがき)のおいらんなりと云ふもまんざら虚言にてはあらざるべし。余はこの道の女には心安くなる方法をよく知りたれば、訪ふ時には必雷門あたりにて手軽き土産物を買ひて携へ行くなり。此夜余は階下の茶の間に坐り長火鉢によりかゝりて煙草くゆらし、女は店口の小窓に坐りたるまゝ中仕切の糸暖簾を隔てゝ話する中、女は忽ち通りがゝりの客を呼留め、二階へ案内したり{茶の間は灯を消したれば上り口よりは見えざるなり}姑くして女は降り来り、「外出」だから、あなた用がなければ一時間留守番して下さいと言ひながら、着物ぬぎ捨て箪笥の抽出しより何やらまがひ物の明石の単衣取出して着換へ始める故、一体どこへ行くのだと問へば、何処だか分らないけれど他分向島の待合か円宿だらう。一時間外出は十五円だよ。お客程気の知れないものはない。あなたなら十円にまけるから今度つれて行つてよと言ふさへ呼吸急しく、半帯しめかけながら二階へ上がりて、客と共に降来るをそつと窺ひ見るに、白ヅボンに黒服の男、町の小商人ならずば会社の集金人などに能く見る顔立ちなり。女は揚板の下より新聞紙につゝみし草履を出し、一歩先に出て下さい。左角にポストがあるからとて、そつとわが方を振向き、眼まぜにて留守をたのみいそいそとして出行きぬ。一時間とはいへど事によれば二時間過ぎるかも知れぬ臨時の留守番。さすがのわれも少しく途法に暮れ柱時計打眺むれば、まだ九時打つたばかりなるに稍安心して腰を据え、退屈まぎれに箪笥戸棚などの中を調べて見たり。女は十時を打つと間もなく思の外に早く帰り来りぬ。行つた先の様子を問ふに、向島の待合へつれて行かれしが初めより手筈がしてあつた様子にて、「ノゾキ」の相手に使はれしものらしく、ひよつとすると写真にうつされたかも知れない。通りがゝりの初会で奇麗に十五円出すとはあんまり気前がよすぎりると思ひましたと語りながら、女は帯の間より紙幣を取出し、電燈の光に透して真偽をたしかめし後、猫板の上に造りつけし銭箱の中に入れたり。早や十一時近くなりたれば又来るよとてわれは外に出でぬ。留守中にかきしこの家の間取り左の如し。
▼〔欄外朱書〕女の名詳(つまびらか)ならず自分では秋田の生なりといへど是亦詳ならず常州下館の芸妓なりし事あるが如し(九月晦日記入) 

昭和十一年九月二十日 363{日曜日}今にも大雨降来らむかと思はれながら、暗く曇りし空よりは怪し気なる風の折々吹き落るのみにて、雨は降らず、いつもより早く日は暮れ初めたり。晡下家を出て尾張町不二あいす店に飯す。日曜日にて街上雑遝甚しければ電車にて今宵もまた玉の井の女を訪ふ。この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり。驟雨濺ぎ来ること数回。十一時前雨中家に帰る。
▼〔欄外朱書〕『濹東綺譚』起稿

九月二十三日。364去七月朝日新聞社の記者某氏日高君を介して小説の寄稿を需めしことあり、其時は曖昧の返事をなし置きしにいよいよ来月中旬より拙稿入用の由申し来りし故病に托して辞退したり。余は菊池寛を始めとして文壇に敵多き身なれば、拙稿を新聞に連載せむか、排撃の声一時に湧起り必掲載中止の厄に遭ふべし。余はまた年々民衆一般の趣味及社会の情勢を窺ひ、今は拙稿を公表すべき時代にあらずと思えるなり。晡時銀座に赴き髪を理し、浅草公園を過ぎて玉の井に少憩し、再び銀座に戻り夕餉を食して家に帰る{此日秋分}

十月四日 366 {日曜日}晴。午後執筆。幸にして訪問記者来らず。薄暮夕餉を食さんとて銀座へ行く。日曜日にて雑遝甚し。去つて濹東陋巷の女を訪ふ。帰途車にて大川端を過ぐ。半月本所の岸にあり。一ツ目の夜景甚佳なり。十時過帰宅。風露冷なり。

 引汐や夜寒の河岸の月あかり

昭和十一年十月六日。366空くもりて萩の葉さへ動かぬ静かなる日なり。筆をとらむとする時日高君朝日新聞記者某氏と相携へて来る。談話一時間ばかり。家に在らばまたもや訪問記者の来襲を蒙るべしと思ひ倉皇洋傘を携へ浅草に行く。白髯橋をわたり木母寺を訪ふ。一直線に広き道路をつくり目下セメントの工事中なり。迂曲したる古き土手もところどころに残りたれど樹木なければ旧観を想起すこと能はず。木母寺は高き道路の下に圧し潰されたるが如くになりて、境内の空地には三四日前の潦水(ろうすい=たまり水)猶去らず沼のやうなれり。碑碣(ひけつ)も見ること能はざれば来路を歩み、白髯橋東畔より京成バスに乗りて玉の井なるいつもの家を訪ふ。日は早く暮れたり。家には三ツ輪のやうなる髷結ひし二十一二才の女新に来り、また雇婆も来り、茶の間にて夕餉を食し居たり。主人も来りたればこの土地のはなしをきゝて、七時頃車にて銀座に行き銀座食堂に飯して麻布に帰る。

十月七日。367 秋陰昨の如し。終日執筆。命名して『濹東綺譚』となす。夜九時過銀座に徃き久辺留に休み夜半にかへる。再び執筆暁二時に至る。静夜沈沈虫声雨のごとし。
〔欄外墨書〕登張竹風日々新聞紙上にて国語の浄化を説く名論なれど行はれ難きものなり

昭和十一年十一月十六日。小石川服部坂上に黒田小学校とよぶ学校あり。余六七才のころ通学せしことありき。今より五十二三年前の事とはなるなり。然るに右学校にてはこの事を探索し今夏七月ごろ寄附金を募集のため校員を遣し来りしことありき。余之に応ぜざりしに、昨夜またもや勧誘員を銀座金春新道喫茶店きゆうぺるに派遣し、演芸会の切符を売付けむと、余の来るを待ちゐたりし由。右茶店より通知の電話あり。余は事の善悪に係らず、現代人の事業には一切関係することを欲せざれば、いづれも知らぬ振にて取り合はざるなり。此日薄晴。風なく暖なれば墨堤に赴き木母寺其他二三個所の風景を撮影し、堀切より四ツ木に出で、玉の井に小憩し、銀座に飯して家にかへる。
  ○銀座巷譚
 ある喫茶店に玉枝とよぶ女給あり。十六七のころ咯血せしことあり。其頃には山の手の良家に小間使となりゐたりしが、実家にかへりて後継母と折合ひよからず、女給となりしなり。初の中は胸の病をおそれ身をつゝしみゐたりしが、三四年過ぎて二十一二となり、仲間の女給等と郊外に遊びに行きしかへり、喫茶店にて心やすくなりし青年に誘はれ、初て男の味を知りたり。青年は真情を以て玉枝を愛し、正妻にしたしと云ふ。玉枝はその身の賤しきを知り、且は又胸の病ある事を慮り、青年の前途を思ひ、偽りて其身には他に約束せし男あればとて結婚を拒絶したり。玉枝は自殺せむと思ひしが、若しかくの如き事をなさばそれがために青年の前途に暗き影をつくるなるべしと思返し、自殺もできず、それより後は身をほしいまゝに振舞ひ、遂に一夜連込宿にて刑事に捕へられたり。是より先玉枝を愛したる青年は郷里にかへり、後に米国に遊学したりと云ふ。何やら椿姫に似たるはなしなり。書きやうによりては小説となすことを得べし。備忘のためこゝに識す。
〔欄外朱書〕玉ノ井鎌田お花といふ家に立寄り女の語る所をきくに昨夜一ノ酉過ぎて十二時より三時迄の間に客十二人取り其かせぎ四十円なりしと云ふ尤も客一人へのつとめ五分間とはかゝらず至極楽なものなりと言へり。

十一月十七日。快晴。午後日高君両度来談。朝日新聞記者新延氏日高君と共に来り拙稿『濹東綺譚』の原稿料弐千四百余円小切手を贈らる。此日巌谷不二雄氏来り出版物の用談をなして去る。夕飯後銀座漫歩。安藤歌川の二子に逢ふ。偶然千疋屋前にて杏花君夫妻門弟某々等の一行に逢ふ。此夜風なく暖なり。
▼〔朱書〕竹下英一 入谷町三一三池田茂太郎方
〔朱書〕巌谷たま 長崎南町一ノ一八九三(落合長崎三一五〇)

昭和十一年十二月三十日。372 晴。東北の風強し。午後土州橋の病院に徃き注射をなし、乗合バスにて小名木川に抵る。漫歩中川大橋をわたり、其あたりの風景を写真にうつす。小名木川くさやと云ふ汽船乗場に十七八の田舎娘髪を桃われに結ひ盛装して桟橋に立ち舩(ふね)の来るを待つ。思ふに浦安辺の漁家の娘の東京に出で工場に雇はれたるが、親の病気を見舞はむとするにやあらむ。然らずば大島町あたりの貧家の娘の近在に行きて酌婦とならんとするなるべし。五ノ橋の大通に至りて乗合バスを待つに、若き職工風の男その妻らしき女に子を負はせ、二人とも大なる風呂敷包を携へ三輪行の車の来るを待つ。凡てこのあたりの街上のさま銀座とは異なりて何ともつかず物哀れにて情味深し。燈刻尾張町に至りさくら家にて広瀬女史に逢ふ。宮崎万本の二氏来りたれば共に鳥屋喜仙に登りて夕餉を食す。帰宅の後春水の『三日月お専』をよむ。切店(=遊郭)の光景を描写したる一章最妙なり。

  洲崎娼妓の手紙{現代文例として或人の余に贈りくれたるもの}
 御懷しき貴夫(あなた)様へ
 寒さきびしき折から其の後御変はりなく元気に御暮しの事でせうね
 御伺ひ致します私も御蔭様にて元気に其日々々を無事に過しております他事ながら御安心下さいね貴夫様近頃はちつともいらしてわ下さいませんのね
 どうなさいましたのかしらと毎日思はぬ日は御座居ませんのよ私もね今はとてもひまでございますによそれからして外におたのみする友たちもなく便りにするのは唯々貴夫様一人きりなのよ
 ねえ貴夫様御無理な御願ひでせうが此の手紙着きましたらぜひいらして下さいね御願ひ致しますわ何時の手紙も御無理な事ばかり書き並べ御許下さいね
 では寒き折から御身大切にね さようなら
  御懷しき貴夫様へ
                  一人寂しく待つ
                       静枝より

岩波文庫 下


昭和十二年(1937年) 荷風散人年五十九

一月十六日。8 晴天。朝の中電話の鳴ること二三回なり。家に在らば訪問記者に襲はるゝが如き心地したれば、昼飯を喫して直に写真機を提げて家を出づ。浅草に至るに土曜日と藪入を兼ねたる故にやおびたゞしき人出なり。堀切橋に至り堤防を歩む。微風嫋々たること春日の如し。綾瀬川の水門に夕陽を眺め、銀座に来りてさくらやに憩ふ。安藤歌川の二氏あり。倶に晩餐を不二あいすに喫す。この夜銀座街上酔漢多く、処処に嘔吐するものあり。十一時帰宅。枕上松亭金水作山々亭有人(ありんど)補綴(ほてい)の中本『三人娘手鞠唄』を読む。金水は元治甲子に没したるものゝ如し。芳年の挿絵あり。

昭和十二年一月二十日。8 午に近きこと起出でれば空晴れ雪解の点滴しきりなり。燈刻前京屋印刷所の人来る。『濹東綺譚』の草稿をわたす。非売品となし壱百部印形する心なり。夜銀座に徃き桜屋に一茶す。歌川酒泉其他の諸氏に逢ふ。

二月三日。9 快晴の天気立春の近きを知らしむ。午後銀座に徃き食料品を購ひて帰る。霊南阪を登るに坂上の空地より晩霞の間に富士の山影を望む。余麻布に卜居してより二十年未曾て富士を望み得ることを知らざりき。家に至るに名塩君来りカメラ撮影の方法を教へらる。夜八時W生其情婦を携来る。奇事百出。筆にすること能はざるを惜しむ。此日より当分自炊をなす事とす。一昨日下女去りて後新しきものを雇入るゝには新聞の募集の広告をなすなど煩累に堪へざるを以てなり。W生帰りて後台処の女中部屋を掃除し、夜具敷きのべて臥す。畳の上に寐るも久振りなれば何ともなく旅に出でたるが如き心地なり。

三月十八日。10 くもりて風寒し。土州橋に徃き木塲より石塲を歩み銀座に飯す。家に帰るに郁太郎より手紙にて、大久保の母上重病の由を報ず。母上方には威三郎の家族同居なすに以て見舞にゆくことを欲せず。万一の事ありても余は顔を出さゞる決心なり。これは今日俄に決心したるにはあらず。大正七年の暮余丁町の旧邸を引払ひ築地の陋巷に移りし際、既に夙(はや)く覚悟せしことなり。余は余丁町の来春閣を去る時其日を以て母上の忌日と思ひなせしなり。郁太郎方へは二十年むかしの事を書送りてもせんなきことなれば返書も出さず。当時威三郎の取りし態度のいかなるかを知るもの今は唯酒井春次一人のみなるべし。酒井も久しく消息なければ生死の程も定かならず。

昭和十二年四月十五日。11晴れたる空暮方に至り俄にかきくもりて雨そそぎ来る。燈刻銀座不二氷菓舗に飯して帰らむとする時雨車軸を流すが如し。三丁目ふじあいす地下室に入るに安東氏在り。千香女史ついで来る。拙作『綺譚』朝日紙上に出でたりと云ふ。帰途新橋にて清潭翁の来るに会ふ。夜半雨霽る。
▼[欄外朱書] 『濹東綺譚』此日ヨリ『朝日新聞』ニ連載

昭和十二年四月三十日。12 くもりて南風つよし。午後村瀬綾次郎来りて母上の病すゝみたる由を告ぐ。されど余は威三郎が家のしきみを跨ぐことを願はざれば、出でゝ浅草を歩み、日の暮るゝをまち銀座に飯し富士地下室に憩ふ。いつもの諸氏の来るに会ふ。是日平井程一氏{佐藤春夫門人}書を寄す。拙作『濹東』についての批評なり。

    余と威三郎との関係
一 威三郎は余の思想及文学観につきて苛酷なる批評的態度を取れるものなり。
一 彼は余が新橋の芸妓を妻となせる事につき同じ家に住居することを欲せず、母上を説き家屋改築の表向の理由となし、旧邸を取壊したり。余が大正三年秋余丁町邸内の小家に移りしはこれがためなり。邸内には新に垣をつくり門を別々になしたり。
一 余は妓を家に入れたることを其当時にてもよき事とは決して思ひ居らざりき。唯多年の情交俄に縁を切るに忍びず、且はまた当時余が奉職せし慶応義塾の人々も悉く之を黙認しゐたれば、母上とも熟議の上公然妓を妻となすに至りしなり。
一 彼は大正五年某月余の戸籍面より其名を取り去りて別に一家の戸籍をつくりたり。これによりて民法上兄弟の関係を断ちたるなり。
一 彼は結婚をなせし時其事を余に報知せず。(当時余は築地に住居せり)故に余は今日に至りても彼が妻の姓名其他について知るところなし。
一 余が家の書生たりしもの{先考の学僕なり}の中、小川守雄米谷喜一の二人は母上方へ来訪の際、庭にて余の顔を見ながら挨拶をなさゞりことあり。是二人は平生威三郎と共に郊外遠足などなし居りし者なり。
一 地震{大正十二年}の際、余母上方へ御機嫌伺に上りし時、威三郎の子供二人余に向ひて「早く帰れ早く帰れ」と連呼したり。子供は頑是なきものなり。平生威三郎等が余の事をあしざまに言ひ居るが故に子供は憚るところなく、此の如き暴言を放ちて恐れざるなり。
一 以上の理由により、余は母上の臨終及葬式にも威三郎方へは赴くことを欲せざるなり{威三郎一家は母上の隠居所に同居なせるを以てなり}


六月廿二日。16 快晴。風涼し。朝七時楼(=吉原)を出て京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。起稿の小説主人公の住宅を定め置かむとてなり。日本堤を三ノ輪の方に歩み行くに、大関横町と云ふバス停留場のほとりに永久寺目黄不動の祠あるを見る。香烟脉ゝたり。掛茶屋の老婆に浄閑寺の所在を問ひ、鉄道線路下の道路に出るに、大谷石の塀を囲らしたる寺即是なり。門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗りの色の残りたるに、三十余年むかしの記憶は忽ち呼返されたり。土手を下り小流に沿ひて歩みしむかしこの寺の門は赤く塗られたるなり。今門の右側にはこの寺にて開ける幼稚園あり。セメントの建物なり。門内に新比翼塚あり。本堂砌の左方に角海老若紫之墓あり。碑背の文に曰ふ。

  若紫塚記
 女子姓は勝田。名はのぶ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双(なら)びなかりしが、不孝にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは、哀れにも亦悼ましし。そが亡骸を此地に埋む。法名紫雲清蓮信女といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めばやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことゝ為しぬ。噫。
  明治卅六年十月十一日
      七七正当之日       佐竹永陵誌

又秋巌原先生之墓。明治十年丁丑二月十日歿。嗣子原乙彦受業門人中建之。ときざみし石あり。庫裏の戸口に至り、谷豊栄・遊女盛糸が墓のある処を問ひて香花を購ふ。僧は門内左側に井戸と茨の垣あるあたりを指したれば線香樒(しきみ)を受取り歩み行くに、そのあたりに唯一人遊びゐたる十二三歳ともおぼしき少女、並びたる二個の墓石を教へ、其傍に立ち独語のやうに二人仲好並んでゐるのと言ふ。この少女は寺の娘なるべし。折々墓詣する人の来るを案内して、其来歴をも知れるなるべし。十二三の年にて情死といふ事を知れるや否や。或は唯仲の好かりし二人の男女の墓とのみ思へるにや。余は何とも知れず不可思議なる心地して姑くは少女の顔を見まもりたり。目黄不動の門前に立戻りバスに乗り、銀座ふじあいすに朝飯を食し、十時過家にかへる。英文不夜城載する所の写真を見るに、盛糸・豊栄の墓は現在のものゝ如く密接せず。其間少し離れて立てられたり。現在のものは後に立直せしものなるべし。六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近鄰のさまは変りたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。銀座に飯して帰れば十一時なり。午後蔵書の中より吉原に関するものを取出して読む。夜執筆二三葉。早く寝につく。

八月廿四日。21 東京住民の生活 相応に満足と喜悦 軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、むしろこれを喜べるが如き状況なり。

昭和十二年九月八日。22 南風吹きすさみ塵烟濛々たり。朝の中より民衆歓呼の声遥に聞こゆ。晡下午睡より覚めて顔を洗ひ居たりし時、勝手口に案内を請ふものあれば戸を開き見るに、従兄永井素川氏なり。ケントン夏服にパナマ帽をかぶりたり。西大久保伯母上(=荷風の母)危篤なれば直に余が車に乗りて共に行かるべしと云ふ。何はともあれ一寸顔を出されたし、是僕が一生の御願なりなど、言葉軽く誠に如才もなき勧め方なり。余は平生より心の底を深く覚悟する所あれば、衣服を改め家の戸締りなどして後刻参上すべければ御安心あるべしと、体よく返事し素川君を去らしめたり。風呂場にて行水をなし浴衣のまゝ出でゝ浅草に至り松喜に夕餉を食し駒形の河岸を歩みて夜をふかし家にかへる。
 
九月九日。23 晡下雷鳴り雨来る。酒井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。酒井は余と威三郎との関係を知るものなれば唯事の次第を報告に来りしのみなり。葬式は余を除き威三郎一家にて之を執行すと云ふ。共に出でゝ銀座食堂に夕飯を食す。尾張町角にて酒井と別れ、不二地下室にて空庵小田某他の諸氏に会ふ。雨やみて涼味襲ふがごとし。
〔以下欄外朱書〕母堂鷲津氏名は恒文久元年辛酉九月四日江戸下谷御徒町に生る儒毅堂先生の二女なり明治十年七月十日毅堂門人永井久一郎に嫁す一女三男を産む昭和十二年九月八日夕東京西大久保の家に逝く雜司谷墓地永井氏塋域に葬す享寿七十六

    追悼
 泣きあかす夜は来にけり秋の雨
 秋風は今年は母を奪ひけり

九月十三日。23 晴。午後写真機を提げて芝山内を歩む。怠徳院廟の門前を過きむする時、通行の僧余を呼留め増上寺境内に兵士宿泊するがため其周囲より山内一円写真を撮影することを禁じたり。憲兵に見咎められて写真機を没収せられぬやう用心したまふべし、と言ふ。余深くその忠告を謝し急ぎて大門を出づ。芝神明宮祭礼にて賑なり。家にかへり午睡一二時間。岩波書店編輯掛佐藤氏来り『濹東綺譚』五千部印税金千四百七拾円小切手を渡さる。又旧作『腕くらべ』改板の校正摺を示す。夜銀座ふじあいすに夕餉を食す。安藤千香歌川酒泉の四氏に逢ふ。帰宅の後校正摺を一閲す。

昭和十二年十月四日。24 陰又晴。写真燒附。昏黒浅草に飯す。
 或人のはなしに、去る頃熱海の或旅館に共産党々員数名宿泊し居たるを、刑事等大勢捕縛に向ひたり。{八月中の由新聞には記載せられず}党人はピストルを放ちしが弾丸尽きて遂に捕へられたり。一人の刑事党人の一人に縄をかけむとする時、拳にて其顔を打ちしに、党人冷かに笑ひ、君は生命がけにて我等を捕へたり。されど政府より賞与を受くるものは君には非らず、賞与を得るものは我ピストルにて打たれ傷つきしものなり。政府の行賞はいかなる時にも公平なりし例なし。君は他日必ず我の言の当れるを知るべしと言ひしが、果して其言の如く、賞与は無事なる刑事には下賜せられざりき。是に於て其刑事は深く感ずる所あり、刑事の職を辞し、松竹キネマ会社の雇人となりしと云ふ。又或人のはなしに、戦地に於て出征の兵卒中には精神錯乱し戦争とは何ぞやなど譫語を発するもの尠からず。其等の者は秘密に銃殺し表向は急病にかゝり死亡せしものとなすなり。〔以下二字下ゲニテ六行弱抹消〕

十一月十六日。28 今年梅雨のころ起稿せし小説『冬扇記』は筆すゝまず。其後戦争起りて〔此間約一行抹消。以下行間補〕見ること聞くこと不愉快ならざるはなく〔以上補〕感興もいつか消散したり。新に別種のものを書かむかと思へどこれも覚束なし。今日は朝八時頃には目ざめたれば久しく窓を閉じたる二階の掃除に半日を費しぬ。空よく晴れて風しづかなり。日の没するや明月皎然窓を照す。銀座不二地下室に飯して後今宵もまた浅草に徃きオペラ館の演技を見る。余浅草公園の興行物を看るは震災後昨夜が始めてなり。曲馬もこのオペラ館も十年前に比較すれば場内の設備をはじめ衣裳背景音楽等万事清潔になりたり。オペラ館の技芸は曾て高田舞踊団のおさらひを帝国劇場にて見たりし時の如くさして進歩せず。唱歌も帝国劇場に歌劇部ありし頃のものと大差なし。されど丸の内にては不快に思はるゝものも浅草に来りて無智の群集と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし。

昭和十二年十一月十九日。29 快晴。堀口君その訳者オオドゥウの小説『マリイ』を郵寄せらる。空午後にくもる。晡下浅草に行きオペラ館の新曲を聴く。この一座の演ずる一幕物{社会劇}は何人の作れるにや、簡明にして人を飽かしめず。徃々人情の機微を穿つ。侮りがたき手腕あり。木戸口を出づるに今宵は曇りて月なればあたりは暗し。広小路松喜に飯し玉の井を歩む。こゝも公園と同じく案外賑(にぎやか)なり。帰途銀座不二地下室に入らむとするに、夜はまだ十時を打ちたるのみなるに、既に戸をとざしたり。枕上『むく鳥通信』を読むて眠る。
 今秋より冬に至る女の風俗を見るに、髪はちゞらしたる断髪にリボンを結び、額際には少しく髪を下げたるもの多し。衣服は千代紙の模様をそのまま染めたるもの流行す。大型のものは染色けばけばしく着物ばかりが歩いてゐるやうに見ゆるなり。売店の女また女子事務員などの通勤するさまを見るに新調の衣服{和洋とも}を身につくるもの多し。東京の生活はいまだ甚だしく窮迫するに至らざるものと思わるゝなり。戦争もお祭りさわぎの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚幸福なるものゝ如し。

十一月廿一日 30{日曜日}くもりて風甚寒し執筆の興至らず怏々として徒に時間を空費するのみ。忽にして窓暗く街上防火団の警笛をきく。燈火を点ずること能はざれば今宵も浅草公園に徃き国際劇場に入り時間を空費す。安藤君所作の『日高川』其他のルビューを看る。品好くつくりたるものなれば興味少なし。オペラ館の通俗卑俚却てよろこぶ可し。九時過芝口佃茂に夕飯を喫し料理番と雑談してかへる。深更雨ふる。

十二月初一 32 {旧十月二十九日}晴。鄰園の落葉風に舞ひて我庭に埋む。午後掃寄せて焚く。『おかめ笹』{岩波文庫}校正摺閲了。昏暮例の如く浅草公園に至り中西屋に夕飯を喫す。公園の飲食店の中にては咖啡も十五銭なれば万事上等の方なるべし。オペラ館あたりの芸人はハトヤ喫茶店といふ店を好むと云ふ。咖啡一杯五銭なりと云ふ。常盤座の演芸を立見して後電車にて上野を過ぎてかへる。
                

昭和十三(1938)年 荷風散人年六十

三月十六日 39陰。正午過銀座三越に徃き洒木綿三反購求。盖(けだ)し国産品制限の厄に備へむがためなり。街上偶然籾山柑子に逢ふ。路傍の一茶店に憩ふ。薄暮オペラ館楽屋を訪ふ。写真撮影。閉場後文芸部の淀橋氏女優竹久よし美と共に中西喫茶店にて一茶してかへる。空霽れ明月皎然。燈下歌劇台本『葛飾情話』執筆暁明に至る。

昭和十三年三月十九日 39 快晴。春風嫋々たり。午後起床。庭の落葉を掃ふ。野生の福寿草花あり。晡下オペラ館に遊ぶ。カフヱーヂヤポンに一茶して夜半にかへる。燈下『葛飾情話』の稿成る。

五月十六日 45 晴。午後三時銀座第百銀行に赴き、オペラ館楽屋及表方の中歌劇上演関係者に贈るべき金を引出し、入谷なる竹下氏の寓居に至り、其事務と執る。幸に平井氏来り事務直に終了す。燈刻二氏と共にオペラ館に至る。歌劇『情話』のけいこ午前二時に始り四時に終る。アルト永井智子を車にて上野の家に送りて麻布にかへる。街上割引電車の走るを見る。〔欄外朱書〕祝儀は一人金五円ヅゝ七拾人総額参百五拾円成

昭和十三年五月十七日45 晴。歌劇『葛飾情話』初日なり。午前十一時に起き浅草に走せ赴く。菅原君楽座に立ちて指揮をなし、正午『情話』の幕を揚ぐ。意外の成功なり。器楽の演奏悪しからず。テノール増田は情熱を以て成功し、アルト永井は美貌と美声とを以て成功し、ソプラノ真弓は誠実を以て成功をなしたり。微雨屢来りて蒸暑甚し。演奏後小川丈夫と蔦屋に一酌してかへる。午前三時。
 
六月初二 47晴れて暑し。正午華氏八十度ほどなり。晡下レコードの事につき浅草公園森永喫茶店に至り菅原安東永井の諸氏と会談す。オペラ館閉場後永井菅原の二氏と中西喫茶店に会合し映画構成の相談をなす。相携へて芝口の或喫茶店に主人黒崎氏を訪ふ{菅原君の門人なり}永井を谷中の家に送り浅草を過ぎてかへる。

昭和十三年六月廿二日 49 始めて霽る。風邪門を出でず。午後平井君来話。日記三巻四巻を交附す。夜永井智子菅原君相携へて病を問はる。

 ▼船の上
 さすらひの身をな嘆きそ
 人の世は
 ゆらるゝ夢のさだめなし。
 をさなき時は母の手に
 ゆられて眠るひざの上
 むすめとなりて恋知れば
 夢はゆらるゝ窓の風。
 ふるさと遠しさすらひの
 旅をな泣きそ人の身は
 いつもゆらるゝ夢のかげ
 行衛はいづこ雪の影。

  涙
 泣かねばならぬ悲しい事も
 泣くならせめて二人して。

 二人で泣けば悲しい事も
 心に残る思出
 消えずに残る思出
 やがて嬉しい夢になる
 泣かねばならぬ悲しい事も
 泣くならせめて二人して。

 二人で泣けば悲しい事も
 泣いてゐるうち忘られる
 せめてまぎれて忘られる
 涙なふきそこぼれても

昭和十三年八月八日 58立秋午後土州橋に行き薬価を払ひ、水天宮裏の待合叶屋を訪ふ。主婦語りて云ふ。今春軍部の人の勧めにより北京に料理屋兼旅館を開くつもりにて一個月あまり彼地に徃き、帰り来りて売春婦三四十名を募集せしが、妙齢の女来らず。且又北京にて陸軍将校の遊び所をつくるには、女の前借金を算入せず、家屋其他の費用のみにて少くも二万円を要す。軍部にては一万円位は融通してやるから是非とも若き仕官を相手にする女を募集せよといはれたれど、北支の気候余りに悪しき故辞退したり。北京にて旅館風の女郎屋を開くため、軍部の役人の周旋にて家屋を見に行きしところは、旧二十九軍将校の宿泊せし家なりし由。主婦は猶売春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との聯絡その他の事をかたりぬ。{以下三行弱抹消。以下行間補}世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言ひながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとす軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし〔以上行補〕。


昭和十四(1939)年 荷風散人年六十一

二月十九日 68 {日曜日}晴後に陰。風漸く暖なり。夜浅草に飯す。オペラ館演劇『花と戦争』と題する一幕憲兵隊より臨検に来り上場禁止せられし由{昨夜起りし事なり}浅草の踊子戦地へ慰問に赴き昔馴染の男の出征して戦地に在るものに邂逅するといふやうな筋なりと云ふ。

昭和十四年六月三十日 72 燈刻谷中氏の電話にうながされ浅草公園森永に至る。谷中氏の談に昨日警察署の刑事オペラ館楽屋に来り、楽屋頭取に向ひオペラ館楽屋に出入する人物の如何を質間して去りし由。其中には自然貴兄の事も話に出でしに相違なければ御用心然るべしとなり。此日午前市兵衛町々会の男来り金品申告書を置きて去る。余が手元には今のところ金製の物品無し。先考の形見なりし金時計の類は数年前の築地の歯科医酒泉氏に託して既に売払ひたり。今は煙管一本と煙管筒の口金に金を用ひしものゝ残れるのみ。浅草への道すがら之を携行き吾妻橋の上より水中に投棄せしに、其儘沈まず引汐にて泛びて流れ行きぬ。烟管筒には蒔絵にて、行春の茶屋に忘れしきせるかな荷風としるしたれば、これを拾ひ取りしもの万一余が所有物なりしことを心づきはせぬかと何とはなく気味悪き心地なり。

七月初一{旧五月十五日}くもり蒸暑し。手箱にしまひ置きし煙草入金具の裏坐に金を用ひしものあるに心付き、袋より之を剥ぎ取りて五六個紙につゝみたり。思返せば大正三四年の頃袋物を好み煙草入紙入などあまた作りしことありき。表の金具はもとより金ぴかの物を忌み、素赤また四分の一銀などを選みしが其裏座の周囲には幅輪とか称して十八金の用ひしものなきにあらず。故に之を剥取り紙に包み晩間再び吾妻橋の上より浅草川の水に投棄てたり。むざむざ役人の手に渡して些少の銭を獲んよりはむしろ捨去るに若かず。拾取りしものゝ之を政府に売りて銭に換るは其人思ひのまゝなり。広小路松喜の店口に顔馴染の女中立ち居たれば入りて夕飯を喫す。オペラ館楽屋口に至るに菅原明朗氏来れる由、知らすものありたれば、避けて池の渚の藤棚に憩ふ。須臾にして一人の踊子楽屋の裏口より顔を出し、演芸既に終りいつもの如く稽古始りし由を報ず。西川千代美及幕内の男鰐と綽名せらるゝ者と共に森永喫茶店に至るに、菅原氏其妻智子等四五人の姿見えたれば、かけ放れたる裏口のテーブルに坐して茶を喫す。此夜千束町浅間神社の縁日にて公園一帯に賑なり。

七月八日 74 晴。ますます暑くなりぬ{摂氏三十度}夜八時過銀座に飯して浅草に徃く。昨夜公園の飲食店はいづこも混雑甚しく十時過ぎても客の出入絶えやらず。酒を飲むものも多かりしといふ。
 昨日岡崎のはなしに、去月中銀座西二丁目辺裏通にて陸軍士官一人通行人と口論をなせし最中、何人とも知れず後より士官の佩刀を抜きて持逃げせし者あり。警察署及び憲兵隊より銀座西二三丁目の家々に触を廻し、右仕官の刀見附次第届出つべき旨申渡せしが今以て不明の由。

昭和十四年七月十日 74 くもりて風涼し。朝早く土州橋に至り丸の内を過りてかへる。町の辻々到る処に排英演説会の立札を見る。文久年間横浜焼打のころの世に似たり。此日の新聞に戸川秋骨君{名明三}病没の記事あり。行年七十歳と云ふ。
〔欄外朱書〕戸川秋骨没年七十

八月十三日 75 {日曜日}くもりて風涼し。晡下驟雨軽雷あり。花村に飯して後寺島町を歩みオペラ館に至る。また菅原氏に逢ふ。国木田独歩の小説販売禁止。また『ハムレツト』上演禁止となりしと云ふ。{菅原氏の語る所}踊子と森永に喫茶してかへる。

八月十四日。くもりて風すゞし。晡下土州橋病院に徃き日用の消化剤と求め銀座食堂に飯す。昨夜オペラ館楽屋口にて朝日新聞発行朝日映画とやら称する雑誌の記者、余の写真をうつさんとて折々楽屋口に来る由聞きたれば、今宵初日なれど徃く事を中止したり。この事のみならずオペラ館楽屋の者近頃は余の発句揮毫を請ふこと度々なり。かくては煩累忍ぶべからず。踊子等と会食してたあいなく時間を消費する楽しみも追々出来難くなりぬべし。

八月廿八日 75 晴。正午丸ノ内に用事あり。帰途歩みて銀座に徃く。途すがら、有楽町省線停留場を過ぐ。こゝは日本劇場の裏手なるを幸恋の出会をなす男女幾組もあり。掲示用の黒板に日劇地階の食堂でお待ちしてますと走り書きする女もあり。商店の売子にあらざれば喫茶店の女給らしき洋装のもの多し。〔この間三行弱切取〕停車場前の路上には新聞の売子大勢号外を配布せんとしつゝあり。平沼内閣倒れて阿部内閣成立中なりと云ふ。これは独逸国が突然露国と盟約を結びしがためなりと云ふ。通行の若き女等は新聞の号外などに振返るもの一人もなし。夜浅草オペラ館に行きて見るに一昨日までヒトラーに扮して軍歌を唱ふ場面ありしが、昨夜警察著よりこれを差留めたりとの事なり。〔以下六行弱切取〕

昭和十四年八月廿九日 75 晴れて風涼し。夜漫歩新橋和泉屋にて林檎を購ふ。銀座通り人出おびたゞし旧七月十五夜の月よし。街の辻々に立てられし英国排撃の札いつの間にやら取除けられたり。日独伊軍事同盟即時断行せよ又は香港を封鎖せよなど書きしもの其種類七八様もありしが皆片付けられたり。此と共にソ聯を撃てといふ対露の立札も又影をひそめたり。{この間二行弱切取}たり。人の噂によれば東京市役所の門に下げられたる反英市民同盟本部とかきし木の札も既に見えずと云ふ。

九月初一{旧七月十八日}76 晴また陰。起きて顔滌へば正午なり。此日また禁酒禁姻の令あり。ラヂオ頻に君が代を奏す。燈刻{七時}花村に夕飯を喫して浅草に至る。公園の興行物午前より大入なりと云ふ。木村時子花岡某等と森永に小憩してかへる。

九月初二。76 午後平井君来る。閑話昏暮に至る。共に出で、数寄屋橋にて別れ、有楽町停車場にて一昨日約束せし女に逢ふ。共に銀座を歩み芝口の安飲屋千成に飯す。帰途明月皎然たり。此日新聞紙独波(=ポーランド)両国開戦の記事を掲ぐ。シヨーパンとシエンキイツツ の祖国に勝利の光栄あれかし。

九月十四日。76 晴。暑気昨日の如し。午後銀座第百支店及土州橋病院に至り浅草の米作に飯す。この店は料理あまり安き方ではなし。一汁三菜にて一人前大低二三円を要す。然るに客の風采を見るに小商人または小工場の主人らしきもの多く、其中には家族づれにて酒盃を傾るものもあり。この有様は戦争の禍害を示すものにあらず寧その利福を語るものなるべし。

昭和十四年九月十五日。76 黄昏花村に至り夕飯を喫して後、三越店頭に立ちて電車を待つ。女の事務員売子等町の両側に群をなして同じく車の来るを待てり。飄々たる薄暮の涼風短きスカートと縮らしたる頭髪を吹き飜すさま亦人の目を喜ばすに足る。余は現代女子の洋装を以て今は日本服のけばけばしき物よりも遥に能く市街の眺望に調和し、巧に一時代の風俗をつくり出せるものと思へるなり。見るからに安ツぽききれ地の下より胸と腰との曲線を見せ、腕と脛とを露出して大道を潤歩するその姿は、薄ツペらなるセメントの建物、俗悪なるネオンサインの広告、怪し気なるロータリーの樹木草花などに対して、渾然たる調和をなしたり。之を傍観して道徳的悪評をなすは深く現代生活の何たるかを意識せざるが故なり。〔以下一行半切取〕

九月十九日。晴雨定りなし。晡下浅草玉の井を歩み日本橋に飯してかへる。谷中氏電話あり。銀座に至るに常盤座踊子三人谷中氏と共に在り。梅林に入りて笑語す。
〔欄外朱書〕独露両国ノ兵波蘭土ヲ占領ス

昭和十四年九月二十一日。77 昨日の涼しさに似ず残暑再び燬(や)くが如し。終日鄰家のラヂオに苦しめらる。燈刻出でゝ花村に飯し銀座を歩む。驟雨を独逸猶太(ユダヤ)人の茶店に避けてその霽るゝを待つ。家へかへれば既に十時なり。此夜尾張町のあたりに酔漢多く、{この間約半行切取。以下行間補}軍人の徃々女子を携ふ{以上補}るを見る。醜態憎むべし。余は平生より日本人の酒に酔ひたる程見苦しくまた厄介なるものはなしと思へるなり。厄介とは傍人に迷惑をかけながら毫もこれに心づかざることを謂ふなり。酔漢の中には半ば心づきて居るものもあれど、酒の上の暴言乱行は許さるべきものと承知の上にて敢てするもの尠からず。横着甚だしきものなり。日本の酔漢はおのれ一人酔ふことを好まず、必ず傍人に盃を強ひる癖あり。其の心理は明かに解釈しがたけれど、遺伝の陋習与つて力あるものゝ如し。人の家に不幸ありし時、吊悼のために集り来る日本人の通夜をなすと称して徹宵飲酒口論をなす有様を見なば{此間一行弱切取。約五字抹消。以下行間補}事自ら明かなるべし{以上補}。概して日本人は各個性の趣味嗜性の如何については考慮する余祐なく、唯おのれの好むものを人に強ゆること、恰も保険会社勧誘員の喋々呶々(どど)するに似たり。戯作者式亭三馬が四十八癖を著して酔人を罵りしは百五六十年もむかしの事なり。今日昭和戦勝国の酔漢を見るに、一世紀以前の状態と更に異るところなし。兇暴なる行為は却てそれよりも甚しくなれり。〔以下八行弱切取〕

九月念五。78 晴。晡下土州橋より浅草に徃く。帰途電車内にて酔漢の嘔吐するもの二人あり。女車掌これを見るや直様袋に入れたる砂を持来りて汚物の上にまきちらすなり。袋入の砂は平生車中に用意してあるものと見えたり。世界中いづこの街にも此の如き乗客を見ることは稀なるべく、此の如き準備をなせる車を見ることも亦絶無なるべし。{以下三行強切取。以下欄外補}余は此の如き醜態を目撃する毎にこの民族の海外に発展することを喜ばざるものなり。〔以上補〕

昭和十四年十月十八日。79 晴。新寒脉々たり。火鉢を掃除して始て炭火を置く。本年は石炭欠乏のためガスの使用制限せらるべしとの風説あり。夕刊の新聞紙英仏聯合軍戦ひ利あらざる由を報ず。憂愁禁ずべからず。夜日本橋に飯して浅草公園の森永茶店に至る。常盤座楽天地の踊子群をなして来るに逢ふ。共に仲店に亞歩む。踊子の一群婦人用装飾品を陳列せし店頭を過る毎に立止りて物品を手に取りて品評して飽くことなし。余若かりし時吉原の雛妓を引連れ仲店を歩み花簪を買ひたりし頃の事を思起して、露時雨の一際見にしむが如き心地せざるを得ず。世は移りわれは老ひ風俗は一変したれど、東京の町娘の浮きたる心のみむかしに変らず。是亦我をして一味の哀愁を催さしむ。入谷町に住める女二人を其家の近くまで送りて後、上野に出で省線電車にてかへる。

十一月三十日。82 晴。昼頃炭屋の男来り炭いよいよ品切となりたれば炭団練炭を炭にまぜてお使なされたしとて炭俵と共にそれらの物を運び来れり。炭は土釜炭にて一俵の公定値段弐円四十銭なりといふ。さらば一俵につき運搬賃として別に壱円を加へて支払ふべし。それ故年内に二三俵さがして持来るべし。いづれも現金にて買ふべしといふに、炭屋よろこぴ其値段ならば二三日中に差上げますとて帰りぬ。

十二月初一 82{旧十月二十一日}晴。終日家に在り。世の噂をきくに日本の全国にわたり本日より白米禁止となる由。わが家の米櫃には幸にして白米の残りあり。今年中は白米を食ふことを得べし。
▼〔欄外朱書〕露軍芬蘭土(フィンランド)に入る。
〔欄外朱書〕精白米ヲ禁ズ。

十二月初二。82 晴れて風なし。昏暮土州橋より帰途銀座食堂にて晩飯を命ずるに半搗米の飯を出したり。あたりの客の様子を見るに、皆黙々としてこれを食ひ毫も不平不満の色をなさず。〔以下十三行半切取、一行抹消。以下欄外補〕国民の柔順にして無気力なること寧驚くべし畢竟二月甘六日軍人暴動の効果なるべし〔以上補〕。


昭和十五年(1940)年 荷風散人年六十二

一月七日。83 晴れてあたゝかなり。薄暮門を出でむとするに細雨道を潤すを見る。尾張町三越にて葡萄酒を購はむとするに舶来品は拾円以上となりたれば、和製一壜{金弐円}を購ふ。石鹸歯磨等いよいよ和製のみとなれり。わが家には英国製シヤボン猶十個位はあるべし。酒類もキユイラツソオ、ブランデイ、オリイブ油など各一壜ウーロン茶は三四斤位のたくはへあり。

昭和十五年一月八日。84 晴。風はげしく塵烟濛々たり。昼飯の時昨日購ひたる和製葡萄酒をこゝろみるに稀薄水の如く滋味更になし。壜の形とレツテルの色のみ舶来品に似たるも可笑し。午後物買ひにと銀座に行く。煙草屋にもマツチなき店次第に多くなれり。飲食店にて食事の際煙草の火を命ずる時給仕人マツチをすりて煙草に火をつけ、マツチの箱はおのれのポケツトに入れて立去るなり。

一月十四日。85 晴後に陰。鄰家のラヂオ正午より喧噪を極むるを以て日曜日なるを知る。薄暮銀座食堂に飯して三越にて物買はむとする時偶然歌川氏に逢ふ。日耳曼(ゲルマン)茶房に入りて款語す。又図らず高橋邦氏の来るに逢ふ。街上又たまたま杉野昌甫氏の来るに逢ひ汁粉屋梅林に憩ふ。裱匠阿部氏在り。此日黄昏西銀座難波橋北詰に火災あり。附近の妓家皆弓張提灯を出せり。諸氏と共に焼跡を見る。阿部氏のはなしにこの処は数年前銀栖鳳(せいほう)といふ酒亭の火災に女中の焼死せし不吉の地なり。曾て或妓家にて老猫を殺したる祟りなりと云ふ。
〔欄外朱書)夜内閣更迭の号外出づ。

一月十七日。晴。芝口の千成屋に夕飯を喫す。女中のはなしに町の風呂屋今まで午後三時より開業のところ、午後四時となりしため入浴の時間なく、且又女湯込合ひて入ること能はざるほどなりと云ふ。
〔欄外朱書〕学生の飲酒を禁ず。

昭和十五年五月初一 90{旧三月廿四日}晴。朝岩波店員来話。掃庭。午後平井来話。黄昏土州橋医院に至る。院長余が自炊の生活過労のおそれありとて頻に入院静養の必要を説く。浅草に行かむと思ひしが院長の忠言を思起し銀座を過りてかへる。余が下女を雇はず単独自炊の生活を営み初めしは一昨々年昭和十二年立春の日よりなれば満三年をすごせしなり。

五月初二。90 晴。午後平井君来話花村に飯して銀座を歩む。疲労甚しく全身に水腫あり。昭和三年頃の病状に似たり。 

五月初三。91 晴れて風あり。
〔欄外朱書)諾威(ノルウエー)出征の英仏軍利あらず北走す。

昭和十五年五月初五 91{日曜日}薄暮物資買はむとて銀座に至るに晴れし空俄にくもり疾風砂塵を捲く。傘持たねばいそぎ家にかへる。銀座辺の噂に、本月一日例の興亜何とやらと称する禁慾日にて、市中の飲食店休業す。芸者も休みなり。女供この日を書入れとなし市外の連込茶屋また温泉宿へ行くもの夥しく、殊に五月の一日は時候もよき故遊山の女づれ目に立ちしかば、警察署にては女給芸者等を内々に取調ベ、当日遊山に行きしものは営業停止の罰を加へんとすといふ。〔以下十一行強切取。以下欄外補〕巡査等の目には人の遊ぶのがよくよく羨しと見えたり人の遊ぶのはその人の勝手ならずや彼らは袖の下さへ当てにすればよきに非らずや。〔以上補〕

五月十六日。91 晴。南風烈し。午後日高氏来話。夜ひとり浅草に至りて飯す。余は日本の新聞の欧洲戦争に関する報道は英仏側電報記事を読むのみにて、独逸よりの報道〔此問約八字切取。以下行間補〕又日本人の所論は〔以上補〕一切之を目にせざるなり。今日の如き余が身に取りては列国の興亡と世界の趨勢とは縦へ之を知り得たりとするも何の益するところもなく亦為すべきこともなし。余は唯胸の奥深く日夜仏蘭西軍の勝利を祈願して止まざるのみ。ジャンダルクは意外なる時忽然として出現すべし。

五月十八日。92 晴。全集編纂のため旧作を通読す。前日もこれがため徹宵眠ること能はざりき。晡下物買はむとて銀座に徃く。号外売欧洲戦争独軍大捷を報ず。仏都巴里陥落の日近しと云ふ。余自ら慰めむとするも慰むること能はざるものあり。晩餐もこれがために全く味なし。燈刻悄然として家にがへる。

昭和十五年五月二十九日。晴午後土州橋に至る。夜菅原氏来話。René Dumesnil:Portraits de Musisiensfrançais(1938)を貸与せらる。先月来水道の水不足にて銀座築地辺二階に水上らず水洗便所使用すること能はず。不便甚だしと云ふ。
〔欄外朱書〕清元栄寿大夫没年四十六
〔欄外朱書〕92 白耳義(ベルギー)国王独軍門二降ル。

五月三十一日。92 晴れて蒸暑し。夜平井氏と銀座に会す。〔此問二行切取。以下欄外補〕独軍の勝利につれ日本新政府の横暴益甚しからむことを慮り岩波より〔以上補〕出版すべき余が全集中には『冷笑』『監獄署の裏』の如き作品は刪除して収截せざることゝせり。明一日には市中の芸者遠出する事を禁ぜらる。

昭和十五年六月十一日。晴れて風涼し。夜平井氏と銀座に会す。岩波書店六月勘定左のごとし。

 『濹東綺譚』 第六刷二回 千五百部 金四百五十円也
 『雪解』   第二刷七回 二千部  金四十円也
 〆金四百九十円也
▼〔欄外朱書〕92 伊国参戦。

昭和十五年七月四日。晴。溽暑室内にて華氏八十四五度なり。鄰家の木槿(むくげ)盛に花のひらくを見る。木槿は立秋のころ花多く開くものなるべきに今年は梅雨無かりしためか、石榴(ざくろ)夾竹桃合歡花の如き晩夏の花皆開くこと早し。当月一日より戸口調査あり。町会より配布し来りし紙片に男女供身分其他の事を明記して返送するなり。之を怠るものには食料配給の切符を下附せずと云ふ。日蔭の世渡りするものには不便この上なき世となりしなり。此事につき久しく其所在を知らざりし昔馴染の女一人ならず二人までも電話をかけ来り、唯今さるところのアパートに住み相変はらずの世わたりをなし居れど、戸口調査にて困り居ります。表面だけ先生のお妾といふ事にして届出たく思へどお差つかへなきやと言ふなり。これに荅へて、お妾を二人も三人も抱へてゐる事が役人に知れると税務署から税を取りに来る故それは都合よろしからず、それよりは目下就職口をさがしてゐるやうに言ひこしらへて置くがよしと体よくことわりたり。晩凉を待ちて浅草に行く。踊子達と笑ひさゞめきて物くらふ楽しき世のさまの変り行くにつれていよいよ尽きぬ心地するなり。

七月五日。94 炎暑昨日に劣らねど風さはさはとして涼し。暮方薬取りにと土州橋にゆく。水天官賽日の賑ひ時局に関せざるは喜ぶべし。〔以下十九行強切取〕

昭和十五年七月六日。94 快晴。奢侈品制造及売買禁正の令出づ。但し外国へ輸出し或は外国人に売りて外国の金を獲得することは差支なしと云ふ。〔此間二行弱切取。以下欄外補〕然れば西洋人を且那にして金を取ることは愛国的行為なるべく明治峙代に在りし横浜の神風楼は宜しく再築すべきものならむ〔以上補〕。そは兎もあれ江戸伝来の蒔絵彫金の如き工芸品の制作または指物の如きものはこの度のお触にていよいよ断絶するに至るべし。此の如き工芸品の制作は師弟相伝の秘訣と熟練とを必要となすものなれば一たぴ絶ゆる時は再ぴ起らざるものなり。
▼〔欄外朱書〕奢移品制造並二販売蔡止ノ令出ヅ

八月初一。95{旧六月二十八日}正午銀座に至り銀座食堂に飯す。南京米にじやが芋をまぜたる飯を出す。此日街頭にはぜいたくは敵だと書きし立札を出し、愛国婦人連辻々に立ちて通行人に触書をわたす噂ありたれば、其有様を見んと用事を兼ねて家を出でしなり。尾張町四辻また三越店内にては何事もなし。丸の内三菱銀行に立寄りてかへる。今日の東京に果して奢侈贅沢と称するに足るべきものありや。笑ふべきなり。
〔欄外朱書〕贅沢ハ敵也トイフ語ハ魯西亜共産党政府創立ノ際用タル街頭宣伝語ノ直訳也ト云

八月念一。96 残暑猶盛なり。階除の秋海棠満開となる。夜王の井を歩む。例年なれぱ今宵の如き溽暑の折にはひやかしの雑沓すること甚しきが常なるに、今年七月頃より其筋の取締きびしく殊に昨今連夜の如く臨検あるが為、路地の中寂寞人影少し。されど遊客は拾円弐拾円位つかふもの多く、商売は以前の数こなしよりも楽にて収入も多き由。女のはなしなり。帰宅後初て庭前に蛼(こほろぎ)の鳴出るを聞く。

八月廿四日。97来月朔より市中料埋店膳部の値段きまると云ふ。これが為市中にはむかしの八百善伊予紋などにて出したる二ノ膳付の会席料理は其跡を断つことになるなり。余震災後の事は知らねど大正十年頃までの経験を思起すに、築地の茶料理喜多の家四五円、竹川町花月七円位、代地河岸深川亭五六円、山谷鰻屋重箱、日本橋の小松あたりいづれも四五円なりしが如し。当時{大正のはじめ}新橋芸者一時間玉祝儀共五円なにがしと記憶せり。銀座風月堂洋食壱円五拾銭それより弐円五拾銭となれり。牛肉屋は上等の店にて五拾銭あれば満腹なり{尤酒代は別なり}銀座七丁目の仏蘭西人洋食屋参円にて無類の珍味なりしが第一次大戦にて閉店したり。徃時茫々都て夢のごとし。

昭和十五年八月念九。97 薄く曇りて風なければ過日の風雨に散りみだれし枯枝木の葉を掃きよせて焚く。樹陰に椎の芽生多し。燈刻銀座に出でゝ飯す。家に在る時は隣家のラヂオ喧噪甚しく堪ふべからざるを以てなり。夕刊新聞紙に馬場先外帝国劇場九月かぎり閉場。その後は何やら官庁になると云ふ記事あり。思出せば明治四十二三年の頃なりけり。同劇場開演前たしか丸の内中央亭と云ふ洋食屋に招がれ渋沢栄一{号青淵}末松青萍(せいびよう)等卓上演舌にくるしめられたることあり。鷗外先生も出席せられしが演舌中窃かに席を立ちそのまゝ帰宅せられたり。来客の中小杉天外頻に実業家連中と談話する様子見るに堪へざるものありし事今に忘れず。同劇場こけら落しは明治四十四年四月なりしと記憶せり。委細は帝国劇場十年史に見ゆるなるべし。其頃入場券の裏には今日は帝劇明日は三越としるされたり。帝国劇場の長く我等に記憶せらるゝは、露西亜オペラとパブオワの舞踊、梅蘭芳の華劇、また欧米諸楽士の独奏をきゝたる事あるが為なり。日本人の演芸にて忘れざるは市川団蔵の菊畑をいだせし事なるべし。

昭和十五年九月念三日 100 {秋分}天気初て快晴。午後再び蝉声をきく。燈刻蠣殻町に野口を訪ふ。兜町辺の噂によれば銀行預金引出しも軈ては制限せらるべし。世の中は遠からず魯西亜の如くになるべしと云ふ。〔此間四行弱切取〕との事なり。いづれにせよ此の八月以来人心恟々、怨嗟の声日と共に激しくなり行くが如し。▼いかなる巡り合はせにや余の身も不可思議なる時代に生れ合はせたるものなり。 

九月念八日。100 晴。世の噂によれば日本は独逸伊太利両国と盟約を結びしと云ふ。〔此間産業弱切取。以下欄外補〕愛国者は常に言へり日本には世界無類の日本精神なるものあり外国の真似をするに及ばずと然るに自ら辞を低くし腰を屈して侵略不仁の国と盟約をなす国家の恥辱之より大なるは無し其原因は種々なるべしと虽(いへど)も余は畢竟儒教の衰滅したるに因るものと思ふなり〔以上補〕燈刻漫歩。池の端揚出しに夕飯を喫し浅草を過ぎて玉の井に至る。数年来心やすき家あれば立寄りて景気を問ふに昼すぎの商売は差止めになりたれば今のところさして困りもせず。抱の女は二人とも既に年あけなれどこの商売が好きで止められぬとて客あつかひよき故、馴染の客多く収入も従つて毎日平均して行く有様なりと言へり。

十月初三。101 小雨ふりては歇む。夜も燈火なければ門を出でず。『旧約聖書』{仏蘭西近世語訳本}を読む。日本人拝外思想の由つて来るところを究めむと欲するのみんらず、余は耶蘇教及仏教が今日に至るまで果していかなる程度まで日本島国人種の思想生活を教化し得たるものありしやを知らむと欲する心起りしが故なり。余は今日に至るまで殆聖書を開きたることなかりき。今俄にこの事あるは何の為ぞ。〔此間一行弱切取]べし。

昭和十五年十月初五。102秋晴の天気限りなくよし。鄰家の柿は熟し石蕗の花開かむとす。山茶花も亦二三輪ひらきそめたり。午後銀座の洋服屋冬外套の仮縫ひに来り支払勘定は受取証だけ十月七日の日附に致し置き現金は勿論品物出来上りの上にてよろしと言ふ。当月七日を限り洋服の売価制限せらるゝが為なり。日本服呉服物も同じく定価附けとなるがため目下投売盛の由。縮緬一反総匹田紋など三百円位のもの八九拾円にて手に入ると云ふ。水天宮四辻久留米絣の店は女洋服地専売になる由。是夜禁煙令解除。始めて燈火を点ず。

十月初八。102 新秋八月この方新聞紙の記事は日を追ふに従つて益甚しく人をして絶望悲憤せしむ。今朝読売新聞の投書欄に、或女学校の教師虫を恐るゝ女生徒を叱咤し運動場の樹木の毛虫を除去せしめたる記事あり。この頃の気候より推察するに毛虫のつくは山茶花また椿の類なるべく、其毛虫の害は最恐るべきものなり。むかし渋江抽斎のなめくじを恐れたることは森先生の著伝に見ゆ。余が亡母はさして毛虫を恐れざりしが蛇を見れば其日は食事を廃せられたる程なりき。然るに余の性はこれとは相反したり。子弟を教育するものは先第一にこれ等人心の機微を察せざるべからず。〔此間二十行強切取。以下欄外補〕鰻は万人悉くうまいと思つて食ふものとなさば大なる謬なり勲章は誰しも欲しがるものとなさば更に大なる謬なり都会に成長する女生徒をして炎天に砂礫を運搬せしめ又は樹木の毛虫を取らしめて戦国の美風となすは抑も何の謂ぞや教育家の事理を解せざるも亦甚しと謂ふべしジヱズイツト宗の教育家と虽かくの如くは残酷にはあらざるべし余は妻なく従つて児女なきことをつくづく喜ばんばあらざるなりこの日〔以上補〕この日天気また牢晴。夜は半輪の月明かなり。晩食の後浅草公園に至る。広小路より松竹座前通タキシ駐車場廃止となり一輛の車もなく、街上の眺望俄にひろくなりて並木の落葉の風に舞ふを見るのみ。
〔欄外朱書〕103 河合教授無罪ノ判決アリ

十月十日。103 晴天またつゞきたり。正午ニイナ洋装店主婦来話。いつぞや頼みたる家政婦の事につきてなり。午後日高氏来話。燈刻芝口の金兵衛に飯す。偶然沖電気社の歌川氏に会ひ食後金比羅祠の縁日を歩む。群集の雑沓酉の市に劣らず。山の手の繁華も亦驚くに足る。植木屋に梅もどき枝柿の盆栽甚多し。月下の江戸見坂を登りてかへる。
[欄外朱書]帝国大学慶応大学々生各数十名共産党嫌疑ニテ捕ヘラル新聞ニハコノ記事ナシト云

昭和十五年十月十五日。104雨歇みて薄き日かげ折々窓を照す。野菊の花さかりなり。夜に至り空隈なく晴れわたり十五夜の月輝き出でしが行くべきところもあらねば銀座三浦屋にて舶来オリーブ塩漬を購ひてかへる。この頃は夕餉の折にも夕刊新聞を手にする心なくなりたり。時局迎合の記事論説読むに堪えず。文壇劇界の傾向に至つては寧ろ憐憫に堪ざるものあればなり。深更夢よりさむ。また眠ること能はず。鳴しきる虫の声あまりに急なれば、

      何とて鳴くや
   庭のこうろぎ夜もすがら
   雨ふりそへば猶更に
   あかつきかけて鳴きしきる。
   何とて鳴くや
   こうろぎと問へど答へず、
   夜のみならで、
   秋ふけゆけば昼も鳴く。
   庭のみならで台どころ、
   湯どのすみにも来ては鳴く。

  ▼思出しぬ。わかき時、
   われに寄り添ひ
   わが恋人はたゞ泣きぬ。
   慰め問へば猶さらに
   むせびむせびて唯泣きぬ。
   「何とて鳴くや
     庭のこうろぎ。
    何とて泣くや
     わが恋人。」
   たちまちにして秋は尽きけり。
   冬は行きけり。月日は去りぬ。
   かくの如くにして青春は去りぬ。
   とこしなへに去りぬ。
   「何とて鳴くや
     庭のこうろぎ。
    何とて泣くや
     わが恋人。」
   われは今たゞひとり泣く。
   こうろぎは死し
   木がらしは絶ゑ
   ともし火は消えたり。
   冬の夜すがら
   われは唯泣く一人泣く。


昭和十五年十月十八日。106 陰。午後落葉掃かむとて庭に出るに門外の木の間に何やら赤ききれの閃くを見る。〔此間約八字切取。以下行間補〕女の腰巻かと見るにさにあらず。〔以上補〕これ鄰家の墺国人ナチスの旗と日の丸の旗とを其門に立てたるなり。此墺国人は第一次欧州大戦の時には既に日本に在りしが、いかなる方法を取りにしや日本に滞在し戦乱鎮定の後日本人の下女を妻となし現在の家に来たり住みしなり。家屋は下女の名義にて之を買取りしものなり。此事は余大正九年偏奇館築造の際旧の家主及地所々有者より聞きたるなり。下女は房州辺漁村の者かと思はれ二目とは見られぬ醜婦なれど、忠実に能く働く女なり。二児を挙ぐ。長女は既に廿二三なるべく男の子は十七八なるべし。名は何といふや知らず。其母折々大声にてクニトモクニトモと怒鳴りゐることあれば国友と云ふにやあらむ。此の子も近頃は日本の学童と交るようになりて我家の門前にて球投をなし行儀甚わるくなれり。〔この間約十六行強切取。以下欄外補〕日本人の教育を受くれば人皆野卑粗暴となること此実例にても明なり余が日本人の支那朝鮮に進出することを好まざるは悪しき影響を亜細亜洲の他邦人に及すことを恐るゝが故なり。〔以上補〕夜芝口の酒亭金兵衛に至りて飯す。おかみさんより小村雪岱氏の訃をきく。行年五拾余なりと云ふ。
[欄外朱書]昭和七年暗殺団首魁井上橘出獄

昭和十五年十月廿一日。107 くもりて蒸暑し。薄暮物買ひにと銀座に行く。雲散じて夕陽明媚なり。或人のはなしに書籍雑誌店も店数を減じ、閉店を命ぜられし家の主人は雑誌配給所の雇人となりて給金を貰ふことになるなり。過日市内書店営業者一同其筋の呼出しにて内閣情報部に出頭せしところ掛りの役人(此間約九字切取。以下行間補〕の他に二人の軍人剣を帯びて出で来り〔以上補〕陽には忠節とやらを説き聞かせ、陰に不平反対することを許さざる勢を見せたりと云ふ。いかなる店が配給所として残り、いかなる店が閉店の悲運に遭遇するならむか。世の中はいよいよ奇々怪々となれりと云ふ。▼左の如き偶成一篇を得たり

      昨日の雨けさの風。
   河岸の柳は散つてゐる。
   燕の群よ。旅の仕度はもうよいか。
   冬の来ぬ中お前達は南へ行く。
   時候は変る世はかはる。
      思返せば桐の花揚場の岸に匂ふころ
   わが家の倉の軒かげに
   お前達は来て巣をつくり
   雛を育てゝ今打そろひ
   南をさして帰り行く。
   時節はかはる世はかはる。
   燕の群れよ旅立つ仕度はもうよいか。
   河岸の柳は散つてゐる。
   見ずや今年の秋風のはげしさを。
   お前達の行つた後
   わたしは店をしめるだらう。
   日毎あらしは烈しくなるばかり。
   先祖のたてた老舗の倉も
   今年のあらしに倒れるだらう。
   燕の群れよお前達は南へ行く。
   家族そろつて南へ行く。
   わたし達はどうしやう。
   家族をつれてどこへ行こう。
   時節はかはる世はかはる。
   燕の群よまた来る春にお前達のまた来る時。
   お前たちの古巣はもう在るまい。
   老舗はつぶれ庫は倒れてゐるだらう。
   さらば燕よ。
   さらば古巣よ。
   さらばわが家わが老舗。
   時節はかはる世はかはる。
   河岸の柳は散つてゐる。

昭和十五年十月甘四日。110 午後より雨ふり出して風も次第に吹き添ひたり。この頃ふとせし事より新体詩風のものをつくりて見しに稍興味の加はり来たるを覚えたれば、燈火にヴェルレーヌが詩篇中の『サジヱス』を読む。戦乱の世に生を偸む悲しみを述ぶるには詩篇の体を取るがよしと思ひたればなり。散文にてあらはに之を述べんか筆禍忽ち来るべきを知ればなり。
〔欄外失書〕九段参拝の群集にまぎれ十六歳の女学生掏摸(すり)をはたらき捕へらる

昭和十五年十月三十日。110〔この間約四字切取。以下行間補〕専制政治〔以上補〕の風波は遂に操觚者の生活を脅すに至りしと見え、本月に入りてより活版摺の書状にて入会を勧誘し来るもの俄に多くなれり。文学者と活版職工との差別は唯机の上にて紙に字をかくことゝ工場にて活字を拾ふ事との相違あるに過ぎざるに至りしなり。哀れ果敢(はかな)きかぎりならずや。今入会勧誘の手紙の甚滑稽拙劣なる一例として今朝到着せし書簡をこゝに写す。(前文畧)もともと時局に処するための文学者の運動は既に数多く存する。然し本会ハ特に文学の局部的機能を強調宣伝せんとするものではない。文学そのものゝ大使命を掲げ文学報国の真意義を世に徹底せしめると同時に一国文化の担当者たる文学者の自主的機関たらしめんとするものである。(中畧)本会ハ高邁にして健全なる国民文学の建設に全力を尽し文学の社会的認識を高め日本文学界の一元化を図りつゝ新文化創造運動の一翼たらんことを期す{以下畧}余笑つて曰く、もし此文言の如くにならむと欲せばまづ原稿をかく事をやめ手習でもするより外に道はなし。
この日陰晴定らず時に細雨の来るあり。晩食後オペラ館楽屋に至り例の如く踊子三四人と共に楽屋裏の喫茶店に談笑してかへる。

十一月初四。112晴れて風なし。早朝深夜ともに火鉢の用なし。昨今の暖気は天も亦窮民を哀れむがためならむ歟。午後丸の内より土州橋に至り日本橋を過りて浅草に徃く。オペラ館芸人踊子等と森永に飯す。世の噂をきくに二月廿六日叛乱の賊徒及浜口首相暗殺犯人悉出獄放免せられしと云ふ。

昭和十五年十一月十六日。112 陰。町会のもの来たりて炭配給券を渡しくれたれば早速出入りの炭屋に行く。程なく炭一俵持来たりしが以前の如く親切に炭は切りなどせず俵のまゝ門口に置き認印を請ひて去れり。今年は炭団煉炭も思ふやうには売られぬ由なり。灯ともしごろ土州橋の病院に行く。{ホルモン注視や三度目}水天宮門前に花電車数輛置きならべあり。見物人雑沓す。一輛三千円かゝりしなど語り合へり。余病院薬局の女の語るところをきくに病院内にて花電車を見たることなしと云ふもの三分の二以上にて、之を知るものは四十あまりのものばかりなりとの事より推測して、現在東京に居住するものゝ大半は昭和十年以後地方より移り来りしものなることを知れり。浅草公園の芸人に東京生れのもの少きも今は怪しむに足らざるなり。時代の趣味の低落せしも故なきに非ず。浪花節の国粋芸術といはるゝも尤至極なり。今回の新政治も田舎漢のつくり出せしものと思へばさして驚くにも及ばず。仏蘭西革命また明治維新の変などゝは全く性質と品数とを異にするものなり。

十一月二十日。113 くもりて庭小暗し。八つ手と枇杷の花の白きが目立ちて見ゆ。灯ともしごろ雨降り出せしが姑くにして歇む。食事せんとて銀座に行く。亀屋の前にて西銀座の或商店の主人に逢ふ。其人曰く銀座西側だけにて徴兵に出るもの今年は百七拾人あり。程なく南京あたりへ送らるゝ由。丁年者の体格今年は著しく悪しくなりたりとて検査の軍人ども眉をひそめ居たりと。

十一月廿三日。113 天気よし。暮方米屋の男米を持来りて言ふ。麻布区内にて米穀配給所といふ事にて纔に閉店失業の悲運を免れし店五軒なり。其他数十軒の米屋は皆店を閉ぢ雇人は満洲に行きて百姓になるべき訓練を受け居れりと。又米穀は警察署の印判を押して貰はざるかぎり店へ運搬する事を得ず、日曜祭日などつゞく時は警官役人ともに休みとなり店に米なき時あり。不便一方ならずといふ。此度の改革にて最悲運に陥りしものは米屋と炭屋なるべく、昔より一番手堅い商売と言はれしものが一番早く潰され、料理屋芝居の如き水商売が一番まうかる有様何とも不可思議の至なりと。右米屋の述懐なり。

昭和十五年十一月廿五日。114 陰後に晴。午後谷中氏来話。珈琲及アスパラガスを饋らる。薄暮土州橋に至りかきがら町野口を訪うて帰る。此日暖気小春の如し{華氏八十五度}

    町の噂
    一熱海温泉宿より帰り来りし人のはなしに、二二六民問側犯人の中、過日大赦出獄せしものゝ一人某、熱海のスターホテルに二週間あまり宿泊し居りたるが、毎夜土地の芸者十余名を招ぎ大尽遊びをなせども、警察署にては見え見ぬ振をなし居たり。宿賃は食事附一日七円のところそれでは安過るとて間代だけ七円食膳は別に払ふと言ひてきかぬ故宿屋にては其言ふまゝに為し置きし処、帰り際には女中一人に百円ツゞの祝儀を出し、勘定も滞りなく払ひし由。毎日諸方の名士及同類の者に電報を打つ。其金高も夥しき由。また手紙をかくに書簡箋を用ず。四銭の端書に大字にて五六字かくのみなれば一の用件をかくに端書五六枚を費し得意満々の体なりしといふ。此の如き濫費の金はいづこより持来りしものか。其源は良民の税より出でたるものと思へば世の中は闇なりと、この話の主は嘆息して又次の如き奇談をなしぬ。
 熱海旅館の組合にては、内務省辺より秘密の通達ありしを奇貨となし、外国人には能ふかぎり物を高く売りて外貨獲得の効果を収めんとしつゝあり。鮪のさしみ一皿十六円。林檎一個一円ツゞ取りし旅館ありしと云ふ。現代日本人の愛国排外の行動はこの一小事を以て全班を推知するに難しとせず。八紘一宇などいふ言葉はどこを押せば出るものならむ。お臍が茶をわかすはなしなり。
▼〔欄外朱書〕西園寺老公薨去

昭和十五年十一月念七。昏暮門を出でむとする時『改造』といふ雑誌の記者来り、西園寺公及雨声会の事につき余の所感を聞きたしと言ふ。文筆商売は数年前より廃業したれば今は口にすべき事もまた筆にすべきこともなしとて情(すげ)なく断りて帰したり。いつもの如く銀座に行かむとて箪笥町の陋巷を歩みながら不図思ふに、老公の雨声会には斎藤海軍大将も二度程出席したりき。此人は二月内乱の時叛軍の為に惨穀せられし事は世の周知する所。老公も亦襲撃せらるべき人員の中に加へられ居たりしこと裁判記録にて今は明なり。而して叛乱罪にて投獄せられし兇徒は当月に至り一人を余さず皆放免せられたるに非らずや。二月及五月の叛乱は今日に至りて之を見れば叛乱にあらずして義戦なりしなり。彼等は兇徒にあらずして義士なりしなり。然るに怪しむべきは目下の軍人政府が老公の薨去を以て厄介払ひとなざず却て哀悼の意を表し国葬の大礼を行はむとす。人民を愚にすることもまた甚しと謂ふべし。余は雨声会招飲より以前に両度老公を見たることあり。最初老公の初めて文部大臣に任ぜられ官立の諸学校を巡視せし時、恰も余は一ツ橋なる附属中学校に在り。公は随員と共に余が机の近くに立ちたり{余は其頃級中にて尤身長低き生徒なりし故机は一番前の方に在りしなり}色白にて髯なく役人らしく見えざる風采は余のみならず前項の生徒を驚かしたり{この事明治二十六七年なるべし}次は余が亡父に従ひ上海に徃きし時なり。公は欧洲漫遊の途上上海に上陸し日本領事館に休憩せられたりき。余が亡父は老公の文部大臣たりし時其秘書官にて後会計課長となりしが、老公及伊藤春畒公の勧告にて明治三十年官海を去り実業界に入りしなり。亡父は官職とは関係なく両公とは詩文の交もありしなり。

十二月卅一日。121 晴。昏暮土州橋かきがら町を過り芝口の金兵衛に至りて飯す。主人仙台より取寄せたる餠なりとて数片を饋らる。盖しこの年の暮は白米のみならず玉子煮豆昆布〆其他新春の食物手に入り難ければなり。来年は雞肉牛肉等も不足となるべしと云ふ。十一時過家にかへる。そこら取片づけて寝につかむとする時、風俄に吹出で除夜の鐘鳴り出しぬ。RégnierのSujets etPaysagesをよむ。今年は思がけぬ事ばかり多かりし年なりき。米屋炭屋、菓子など商ふもの又金物木綿などの問屋すベて手堅き商人は商売行立ちがたく先祖代々の家倉を売りしもの尠からざるに、雑誌発行人芝居興行師の如き水商売をなすもの一人として口腹を肥さゞるはなし。石が浮んで木の葉の沈むが如し。世態人情のすさみ行くに従ひ人の心の奥底、別に見届けむともせざるにおのづから鏡に照して見るが如き思をなせしこと幾度なるを知らず。此の度の変乱にて戊辰の革命の真相も始めて洞察し得たるが如き心地せり。之を要するに世の中はつまらなきものなり。名声富貴は浮雲よりもはかなきものなる事を身にしみじみと思ひ知りたるに過ぎず。花下一杯の酒に陶然として駄句の一ツも吟ずる余裕あらば是人間の世の至楽なるべし。弥次喜多の如く人生の道を行くべし。宿屋に泊り下女に戯れて耻をかゝさるゝも何のとがむる所かあらむ。人間年老れば誰しも品行はよくなるものなり。


昭和十六(1941)年 荷風散人年六拾三

正月一日。123{旧十二月四日}風なく晴れてあたゝかなり。炭もガスも乏しければ湯婆子(ゆたんぽ)を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。昼は昨夜金兵衛の主人より貰ひたる餠を焼き夕は麵麭と林檎とに飢えをしのぐ。思へば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてよりも早く四年の歳月を過したり。始は物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりて見れば、むさくるしく又不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるゝ事多くなり行きけり。時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道づたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とても之を束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。

昭和十六年一月十日。124陰。午後南総隠士来話。昏暮小野すみといふ婦人来話。旧臘北越糸魚川より小説の草稿を送り来たりしものなり。在京中は故大槻如電の孫某氏の家心やすき由にて厄介になれるなりと云ふ。南総子と共に銀座に飯して浅草に至る。雨ふり来りしが帰ることには雲間に月を見たり。南風吹きて暖なり。▼深夜遺書をしたゝめて従弟杵屋五叟の許に送る。左の如し

一 拙宅死去の節ハ従弟大嶋加寿夫子孫ノ中適当ナル者ヲ選ミ拙者ノ家督ヲ相続セシムルコト其手続其他万事ハ従弟大嶋加寿夫に一任可致事
一 拙老死去ノ節葬式執行不致候事
一 墓石建立致スマジキ事
一 拙老生前所持ノ動産不動産ノ処分ハ左ノ如シ
一 遺産ハ何処ヘモ寄付スルコト無用也
一 蔵書画ハ売却スベシ図書館等ヘハ寄附スベカラズ
一 住宅ハ取壊ス可シ
一 住宅取払後麻布市兵衛一ノ六地面ノ処分ハ大嶋加寿夫ノ任意タルベキ事
西暦千九百四十年十二月廿五日夜半認之
日本昭和十五年十二月廿五日
                 荷風散人永井壮吉
従弟杵屋五叟事大嶋加寿夫殿

一月廿五日。125暮方より空くもりて風俄にさむし。やがて雪ならん歟。人の噂にこの頃東京市中いづこの家にても米屋に米すくなく、一度に五升より多くは売らぬゆゑ人数多き家にては毎日のやうに米屋に米買ひに行く由なり。パンもまた朝の中一二時間にていづこの店も売切れとなり、饂飩も同じく手に入りがたしと云ふ。政府はこの窮状にも係はらず独逸の手先となり米国と砲火を交へむとす。笑ふべく亦憂ふべきなり。白米不足の原因は之を独逸に輸出する為なりと云ふ。日本の漆も大砲の玉を塗る時は湿気の露を防ぐとてこれも独逸へ送らるること夥しきものなりと云ふ。

昭和十六年二月初四。127立春晴れてよき日なり。薄暮浅草に徃きオペラ館踊子等と森永に夕餉を食す。楽屋に至るに朝鮮の踊り子一座ありて日本の流行唄うたふ。声がらに一種の哀愁あり。朝鮮語にて朝鮮の民謡うたはせなば嘸(さ)ぞよかるべしと思ひてその由を告げしに、公開の場にて朝鮮語を用ひまた民謡を歌ふことは厳禁せられゐると荅へさして憤慨する様子もなし。余は言ひがたき悲痛の感に打たれざるを得ざりき。彼国の王は東京に幽閉せられて再び其国にかへるの機会なく、其国民は祖先伝来の言語歌謡を禁止せらる。悲しむべきの限りにあらずや。余は日本人の海外発展に対して歓喜の情を催すこと能はず。寧嫌悪と恐怖とを感じてやまざるなり。余嘗て米国に在りし時米国人はキューバ鳥の民の其国の言語を使用し其民謡を歌ふことを禁ぜざりし事を聞きぬ。余は自由の国に永遠の勝利と光栄との在らむことを願ふものなり。

二月念四。128 晴れて暖なれば午後草稿を携へて中央公論社を訪ふ。社員中余の知るもの皆外出して在らず。浅草に行き寺嶋町を歩む。時恰も五時になりしとおぼしく色町組合の男ちりんちりんと鐘を鳴して路地を歩み廻れり。昨年よりこの里も五時前には客を引く事禁止となりしなり。馴染の家に立寄るに飯焚きの老婆茶をすゝめながら、昔はどこへ行かうがお米とおてんと様はついて廻はると言ひましたが、今はさうも行かなくなりました。お米は西洋へ売るから足りなくなりといふ話だが困つたものだと言へり。怨嵯の声かくの如き陋巷にまで聞かるゝやうになりしなり。軍人執政の世もいよいよ末近くなりぬ。浅草公園に戻りて米作に飯してオペラ館に至り見るに、菅原永井智子在り。地下鉄を共にしてかへる。

三月初三。128晴れて暖なり。午後鹿沼町の女突然尋ね来たる。田舎にての縁談思はしからざるにより十日程前東京に来り、只今は蠣殻町の待合花村といふ家に住み込み、当分こゝにてかせぐつもりなりと言ふ。住込みの女三四人あり。いづれもいそがしく一日ならし二拾円のかせぎあり。この待合の客筋には警視庁特高課の重立ちし役人、また翼賛会の大立物{その名は祕して言はず}あれば手入れの心配は決してなしと語れり。新体制の腐敗早くも帝都の裏面にまで瀰漫せしなり。痛快なりと謂ふべし。

昭和十六年三月廿二日。131 日本詩人協会とか称する処より会費三円請求の郵便小為替用紙を封入して参加を迫り来れり。会員人名を見るに蒲原土井野口あたりの古きところより佐藤春夫西条八十などの若手も交りたり。趣意書の文中には肇国(てうこく)の精神だの国語の浄化だの云ふ文字多く散見せり。抑この会は詩人協会と称しながら和歌徘徊及漢詩朗詠等の作者に対して交渉せざるが如く、唯新体詩口語詩等の作者だけの集合を旨となせるが如し。今日彼らの詩と称するものは近代西洋韻文体の和訳若しくは其摸倣にあらずや。近代西洋の詩歌なければ生れ出でざりしものならずや。その発生よりして直接に肇国の精神とは関係なきもの、又却て国語を濁化するに力ありしものならずや。藤村の詩にはわが唇を汝が口にやはか合さで措くべきやなど言ひしもありき。佐藤春夫の詩が国語を浄化する力ありとは滑稽至極といふべし。これ等の人々自らおのれを詩人なりと思へるは自惚(うぬぼれ)の絶頂といふべし。木下杢太郎も亦この会員中に其名を連ねたり。彼等は今後十年を出でずして日本の文章は横にかき左からよむやうになるべき形勢今既に顕著なるを知らざるにや。今更国語の整理だの浄化だのと言ひはじむるは泥棒の去りたる後縄をよるが如し。

四月九日。133春雨瀟々たり。終日パーレーの『万国史』をよむ。此書余が少年の頃英語の教科書に用ゐられしことあり。今日たまたまこれを読むに米国人の米国を愛する誠実なる感情藹然として人を動かすものあり。愛国心を吐露せし著述中の最も良きものと謂ふ可し。日本にはかくの如き出版物殆無し。

四月廿九日。135朝の中より雨しとしとと降りて静なり。西沢一鳳の伝奇作書をよむ。燈刻銀座鳩居堂に至り白扇を購むとするに品切なり。美濃屋にて問へば僅に四五本残れりと云ふ。偶然歌川氏に逢ひフロリダ茶店に憩ふ。田舎の婆小娘三四十人ばかり隊をなし濡鼠(ぬれねずみ)となり入り来るを見る。この人々コーヒーを飲み西洋菓子を貪り喰ふなり。現代の世態人情は最早論外なり。目を掩ひて見ざるに若かず。

  噂のきゝ書
 出征軍人の妻また戦死軍人の未亡人に関する醜聞は一切新聞雑誌に記載することを禁ぜらるゝを以て却てこれをよい事にして淫行をなすもの近頃甚多くなりしと云。日本橋区かきがら町に鈴木と云ふ私娼の置屋あり。この置屋に住込みかせぎゐたる女なにがしと云ふものは出征兵士の妻なり。▼夫婦馴合にてかせぎゐたるなり。二年あまりして良人は戦地より帰り私娼の妻と共に上野阪本町辺に家を借り妻の妹を田舎より呼寄せ地獄屋をいとなみ居れりと云ふ○浅草興行町の踊子何某は一座の役者の妻なりしが、某役者召集さられ戦地に赴きし後、他の役者といゝ仲となり遂に妊娠するに至れり。先夫婦帰還の際は八九ヶ月にてかくすにも隠されず、離婚にて無事に話はつきたれど踊子は再び舞台へ出ること能はざるを以て、カッフヱーの女給となり今は好き自由に客をとり居れりと云ふ。

昭和十六年五月十日。136 午後雨霽れて俄に暑し。夜浅草に飯してオペラ館楽屋を訪ふ。踊子大部屋に左の如き紙片落ちてあり。滑稽なればこゝに転写して笑を後世に伝るよすがとなす。

 拝啓各位殿、御清祥の程賀奉ります。さて時局の進展は益芸能文化によつて戦時国民生活を側衛するの急なるを感じます。吾等はこゝに時局認識をお互に徹底し職域奉公の誠を効す目的を以て今回文部省社会教育局長及聖戦遂行に日夜砕心せらるゝ陸海軍当局要路の方々より御講和拝聴の会を左記次第にて開催致す事と相成りましたから是非御来聴下さる様御通知申上げます。
                     芸能文化連盟会長
                       伯爵 酒井忠正
東京興行者協会技芸者各団体
会員各位
 芸能翼賛講演会次第
日時 四月九日水{開場午前十一時半開会午後零時半}
場所 日比谷公会堂
挨拶 芸能文化聯盟会長 伯爵 酒井忠正
講演 文部省社会教育局長 纐纈(こうけつ)弥三郎殿
   陸軍大佐      馬淵逸雄殿
   海軍大佐      平出英夫殿
映画 陸軍省特別提供日本陸軍の威容四巻
   海軍省特別提供空の少年兵四巻
   主催 芸能文化聯盟
   後援文部省 情報局 大政翼賛会
尚御来場の節は御面倒乍ら本状を御持参願ひます
▼〔欄外朱書)側衛トハ見馴レヌ語ナリ何人ノ作リシモノニヤ

昭和十六年五月十一日。138 {日曜日}晴。薫風颯々たり。夜銀座に飯す。頃日耳にしたる市中の風聞左の如し。

一 角力取の家にはいづこも精米無尽蔵なり。南京米など食ふものは一人もなし。精白米は軍人の贔屓客より貰ふなりと云。軍人の贔屓客より貰ふなりと云。
一五月八日戦死兵士遺族九段招魂社に招待せられし時偕行社にて出したる料理は西洋食にて肉多かりし由。市中は八日の禁肉当日なるにこゝのみは酒池肉林の荘観を呈したり。又歌舞伎座へ遺族を招待せし時、食堂の掃除人折詰弁当の空きたる箱折また紙包の類をかき集め一時に之を料理場のストーブに押込み燃やせしに、煙突より火焰吹き出でたり。附近の消防暑にては火事と思ひポンプを急送する中、煙突の火焰は消え失せたり。市中の夕刊新聞この事を記載せんとせしに、招魂社招待の饗宴当日の事は其場所を問はず一切報道する事を禁ずる由軍部より差止めになりたりと云ふ。

一 築地辺の待合料理店は引きつゞき軍人のお客にて繁昌一方ならず。公然輸出入禁止品を使用するのみならず暴利を貪りて売るものあり。▼待合のかみさんも此頃は軍人の陋劣なるには呆れ返つてゐる由なり。
一俳優尾上菊五郎其伜菊之助徴兵検査の際内々贔屓筋をたより不合格になるやう力を尽せしかひありて一時は入営せしがその翌日除隊となりたり。菊五郎はもう大丈夫と見て取るや杏や、伜の除隊を痛歎し世間へ顔向けが出来ぬと言ひて誠しやかに声を出して泣きしのみならず聯隊長の家に至り不忠の詫言をなしたり。聯隊長は何事も知らざれば菊五郎は役者に似ず誠忠なる男なりと、これ亦嘘か誠か知らねど男泣きに泣きしと云ふ。
一 大谷竹次郎の伜龍造とやら云ふ者、これは父竹次郎その身分を利用し余り諸方へ伜不合格になるやうに頼み廻りしため検査の時却て甲種合格となりたりと云。

昭和十六年五月十二日。139 晴又陰。市中の煙草店煙草いよいよ不足となれり。刻煙草も早朝売切れとなる由。但し軍部に関係ある者また新橋の花柳界は不自由することなしと云。余が机上には両三年前買置きたるリツチモンドの鑵も今は僅に一個を残すのみとなれり。先夜新橋より乗りたる円タクの運転手は四十ばかりなるがガスリンも米も煙草も皆不足なれど女ばかりは不足せず、米や酒は莭約せよとの命令なれど夜中は淫行は別に莭制のお触れもなし。松の実かにんにくでも食つて女房と乳くり合ふより外に楽しみはなき世の中になりましたと語れり。

六月十日。141 晴。午後房陽漁史来訪。閑話半日。黄昏共に出でゝ芝口の牛肉店今朝に飯す。牛肉雞肉いづれも品不足のため毎月四回休業。猶午後は毎日閉店する由女中の談なり。


昭和十六年六月十一日。晴。晡下浅草公園米作に夕飯を喫してオペラ館楽屋に至る。芸人某徴兵に取られ戦地に行くとて自ら国旗を購来り、武運長久の四字をかけいふ。この語も今は送別の代用語になりしと思へば深く思考するにも及ばざれば直に書きてやりぬ。義勇奉公などいふ語も今は意義なきものとはなれり。凡て人間の美徳善行を意味する言語文字は其本質を失ひて一種の代用語とはなり終れり。恰も人絹スフの織物の如し。深更俄に腹痛を催し苦しむこと甚し。

六月十三日。141 正午土州橋の医院に至り診察を請ふ。風邪未痊ず急性肺炎を起さぬやう当分静臥養生すべしとなり。
〔欄外朱書〕去年此日巴里独人ノ侵略二遇フ

昭和十六年六月十五日。142 {日曜日}病床無聊のあまりたまたま喜多村筠庭が『筠庭雑録』を見るに、其『蜩(ひぐらし)の翁草』につきて言へることあり。
 ある日余彼菴を尋て例の筆談に余が著作の中に遠慮なき事多く、世間へ広くは出し難きこと有など謂ひけるに、翁色を正して、足下はいまだ壮年なれば猶此後著書も多かるべし。平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。但筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。遠慮して世間に憚りて実事を失ふこと多し。翁が著す書は天子将軍の御事にてもいさゝか遠慮することなく実事の儘に直筆に記し、是まで親類朋友毎度諫めて「いかに写本なればとて世間に漏出まじきにてもなし、いか成忌諱(きゝ)の事に触れて罪を得まじきものにもあらず、高貴の御事は遠慮し給へ」といへど、此一事は親類朋友の諫に従ひがたく強て申切て居れり。
余これを読みて心中大に慚るところあり。今年二月のころ『杏花余香』なる一編を中央公論に起稿せし時、世上之をよみしもの余が多年日誌を録しつゝあるを知りて、余が時局について如何なる意見を抱けるや、日々如何なる事を記録しつゝあるやを窺知らむとするもの無きにあらざるべし。余は万々一の場合を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平憶測の文字を切去りたり。又外出の際には日誌を下駄箱の中にかくしたり。今『翁草』の文をよみて慚愧すること甚し。今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るゝ事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし。
日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及ぴ満洲侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。欧洲戦乱以後英軍振はざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無智の軍人等及猛悪なる壮士等の企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。麻布聯隊叛乱の状を見て恐怖せし結果なり。今日にて忠孝を看板にし新政府の気に入るやうにして一稼(もうけ)なさむと焦慮するがためなり。元来日本人には理想なく強きものに従ひ其日々々を気楽に送ることを第一となすなり。今回の政治革新も戊辰の革命も一般の人民に取りては何らの差別もなし。欧羅巴の天地に戦争歇む暁には日本の社会状態も亦自ら変転すべし。今日は将来を予言すべき時にあらず。

昭和十六年六月十八日。143 曇りて風冷なり。町の辻々に江兆銘の名記したる立札を出し、電車の屋根にも旗を出したり。汪氏の日本政府より支給せらるゝ俸給一年五億円なりと云。

  ▼町の噂
  芝口辺米屋の男三四年前召集せられ戦地にありし時、漢口にて数人の兵士と共に或医師の家に乱人したり。この家には美しき娘二人あり。医帥夫婦は壺に入れたる金銀貨を日本兵に与ヘ、娘二人を助けくれと歎願せしが、兵卒は無慈悲にもその親の面前にて娘二人を裸体となし思ふ存分に輪姦せし後親子を縛って井戸に投込みたり。此の如き暴行をなせし兵卒の一人やがて帰還し留守中母と嫁とを預け置きし埼玉県の某市に到りて見しに、二人の様子出征前とは異り何となく怪しきところあり。いろいろ様子をさぐりしが其訳分明ならず、三月半年程過ぎし或日の事、嫁の外出中を幸其母突然帰還兵士に向ひ、初めは遠廻しに嫁の不幸なることを語り出し、遂に留守中一夜強盗のために母も嫁もともども縛られて強姦せられしことを語り災難と思ひ二人の言甲斐なかりしこと許せよと泣き悲しむところヘ、嫁帰り来りてこれも涙ながらに其罪を詑びたり。かの兵士は漢口にて支那の良民を浚辱せし後井戸に投込みし其場の事を回想せしにや、程なく精神に異状を来し、戦地にてなせし事ども衆人の前にても憚るところなく語りつゞくるやうになりしかば、一時憲兵屯所に引き行かれ、やがて市川の陸軍精神病院に送らるゝに至りしと云。市川の病院には目下三四万人の狂人収容せられ居る由。

昭和十六年六月二十日。145 雨昼近き頃漸く歇む。去年銀座の岡崎よりたのまれし色紙に句を書して返送す。伊太利亜の友と称する文士の一団より機関雑誌押売の手紙来る。時局に便乗して私利を営むなり。▼本郷の大学新聞社速達郵便にて突然寄稿を請求し来る。現代学生の無智傲慢驚くの外なし。余の若かゝりし頃のことを思返すに、文壇の先輩殊に六十を越えたる耆宿(きしゆく)の許に速達郵便を以て突然執筆を促す如き没分暁(ぼつぶんげう)漢は一人とてもあらざりしなり。現代人の心理は到底窺知るべからず。余は斯くの如き傲慢無礼なる民族が武力を以て鄰国に寇することを痛歎して措かざるなり。米国よ。速かに起つてこの狂暴なる民族に改俊の機会を与へしめよ。

六月念一。145 晴後に陰。午後浅草に行く。下谷辺のある菓子屋にて其主人店の者に給金の外に慰労金を与へしこと露見し、総動員法違犯の廉にて千円の罰金を取られし由。使用人に賞金を与へて罰せらるゝとは不可思議の世の中なり。

六月念二。145 日曜日。くもりて蒸暑し。寒暑計忽華氏八十度に昇る。黄昏芝口の金兵衛に至り夕飯を食す。煮肴あいなめを食す。魚介払底の時なれば珍味となすべし。歌川君来合せたれば食後共に銀座を歩む。号外売独魯開戦を報ず。偶然菅原夫婦安東氏等に逢ひ八丁目千疋屋に入るに、九時峙閉店と云ふに已むを得ず席を立ち、尾張町のブラヂルに入り笑語す。こゝは十一時まで客を迎ふ。

七月廿四日。148 晴れて涼し。風の向を見るに西南の風なり。今年は夏なくして秋早くも立ちそめしが如き心地なり。晩間土州橋に至る。下谷外神田辺の民家には昨今出征兵士宿泊す。いづれも冬仕度なれば南洋に行くにはあらず蒙古か西伯利亞(シベリア)に送らるゝならんと云ふ。三十代の者のみにして其中には一度戦地へ送られ帰還後除隊せられたるものありと云ふ。市中は 物資食糧の欠乏甚しき折からこの度多数の召集に人心頗恟々たるが如し。

昭和十六年七月廿五日。くもりて蒸暑し。夜芝口の金兵衛に飯す。この店の料理人も召集せられ来月早々高崎の兵営に行く由なり。此夜或人のはなしをきくに日本軍は既に仏領印度と蘭領印度の二個所に侵入せり。この度の動員は盖しこれが為なりと。▼此の風説果して事実なりとすれば日軍の為す所は欧州の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異らず。人の弱味につけ込んで私欲を逞しくするものにして仁愛の心全く無きものなり。斯くの如き無慈悲の行動は軈て日本国内の各個人の性行に影響を及すこと尠からざるべし。暗に強盗をよしと教るが如きものなればなり。

九月初一 150{旧七月十日}晴又陰。写真フィルム品切。煙草もこの二三日品切なり。 町の噂に近き中民家にて使用する鉄銅器を召上げらるゝとて、鉄瓶釜の如きものは今の中(うち)古道具屋に売るもの尠からぬ由なり。刻烟草のむ烟管も隠さねばならぬ世とはなれり。

昭和十六年九月初六。151 南風歇まず秋暑甚し。土用中花開かざりし夾竹桃昨今に至り花満開となれり。街頭の流言に過般内閣総辞職の事ありし其原因は松岡外相の魯国于役(うえき)の際随行せしものゝ中に間諜ありしがためなりと云ふ。

  ▼無題録
 今日我国の状態は別に憂慮するに及ばず。唯生活するに甚だ不便になりたるのみなり。今日わが国に於て革命の成功せしは定業なき暴漢と栄達の道無かりし不平軍人と、この二種の人間が羨望妬視の極旧政党と財閥、即明治大正の世の成功者を追退け之に代りて国家をわがものにせしなり。曾ては家賃を踏倒し飲酒空論に耽り居たる暴漢と、朋党相倚り利権獲得にて富をつくりり成金との争闘に、前者勝ちを占めしなり。今日のところにては未日浅きを以て勝利者の欠点顕著ならざれども遠からずして志士軍人等それ等勝利者の陋劣なること、旧政党の成金と毫も異るところなきに至るは火を見るよりも明となるべし。幕末西藩の志士の一たび成功して明治の権臣となり忽堕落せしが如き前例もあることなり。こゝに喧嘩の側杖を受けて迷惑するは良民のみなり。火事に類焼せしと同じく不時の災難にてこれのみは如何ともする道なく、唯不運とあきらめるより外無し。手堅き商人は悉く生計の道を失い威嚇を業とする不良民愛国の志土となりて世に横行す。されど暴論暴行も或程度に止め置くこと必要なり。牛飲馬食も甚しきに過ぐれば遂には胃を破るべし。隴を得て蜀を望むといふ古き諺もあり。志土軍人輩も今日までの成功を以て意外の僥倖なりしと反省し、この辺にて慎しむがその身の為なるべし。米国と砲火を交へたとへ桑港や巴奈馬あたりを占領して見たりとて長き歳月の間には何の得るところもあらざるべし。若し得るところ有りとせんか。そは日本人の再び米国の文物に接近し其感化に浴する事のみならむ。即デモクラシイの真の意義を理解する機会に遭遇することなるべし。(薩長人の英米主義は真のデモクラシイを了解せしものにあらず。)


昭和十六年九月七日 152{日曜日}秋風凉爽。銀座夜歩。街頭の集会広告にこの頃は新に殉国精神なる一文字を用出したり。▼愛国だの御奉公だの御国のためなぞでは一向きゝ目なかりし故ならんか。人民悉く殉死せば残るものは老人と女のみとなるべし。呵々。

十月初六。153 陰。残暑再来る。晩間土州橋に至る。

  慰問袋のはなし
 一老人のはなしに日露戦争のころまでは今日の如く戦地の軍隊へ各戸より慰問袋を送るが如き事なかりき。慰問袋といふ名称もなかりしなり。然るに今回の戦争も去年あたりより慰問袋の献上全く強請的となり、袋の中には物品のみならず各戸各人一通づゝ慰問状を差入れねばならぬ事とはなれり。女学校にては若き女生徒に慰問状をかゝせ住所姓名をも記入せしむる由。これにつき良家の父兄は娘の将来につき憂慮するもの尠からずと云ふ。未婚妙齢の女子その親の知らぬ間に出征の兵士と手紙の徃復写真の交換をなすものあり、又甚しきは戦地より帰還し除隊となりし兵士の中には慰問状の住処姓名をたより良家の女子を訪問し、銀座通りにて会合するものさへあるに至りたればなり。又待合の女中銘酒屋の女カフヱーの女給等は帰還後の兵士を客にせむとて、それとなく慰問状を利用して誘惑する者もありと云ふ。▼これは商売にかけて抜け目なきものと謂ふべし。

十二月十二日。160開戦布告と共に街上電車其他到処に掲示せられし広告文を見るに、屠れ英米我等の敵だ進め一億火の玉だとあり。▼或人戲にこれをもじりむかし米英我等の師困る億兆火の車とかきて路傍の共同便処に貼りしと云ふ。▲現代人のつくる広告文には鉄だ力だ国力だ何だかだとダの字にて調子を取るくせあり。寔(まこと)に是駄句駄字と謂ふ可し。晡下向嶋より玉の井を歩む。両処とも客足平日に異らずといふ。金兵衛に飯して初更にかへる。


昭和十七(1942)年 荷風散人年六十四

三月八日 167 {日曜日}晴れて風寒し。終日小説執筆。

  風聞録
 一 土方与志中条百合子村山知義等は去年より市中各処の警察署に今猶留置中なりと云ふ。
 一去年十二月八日戦功ありし海軍士官及水兵四五百名その一部は九州別府温泉一部は熱海の温泉宿に保養休暇を与へられたり。海軍省にては旅館組合の者を呼出し戸障子畳など破るものありとも制止する事無用なり。損害は海軍省へ申出れば即金にて弁償してやるべしと申渡したりと云ふ。▼熱海にては土地の芸者若し無理やりになぐさみものにされる者は組合にて後日祝儀を与ふるにつき処を問はず言ひなり次第になるやう内談せしと云ふ。以上熱海居住の人より聞きたるまゝを識すなり。

昭和十七年九月初八。175 晴。残暑燬くが如し。終日困臥。夜芝口の金兵衛に飯す。居合す客よりいろいろの話をきゝたるまゝ左にしるす。

 一 小田急沿線俗に相摸ケ原といふ処に土地を所有せし人あり。分割して値売をなさむと思居たりしに突然憲兵署に呼出されこの辺一帯の土地は軍部にて入用になりたれば即刻ゆづり渡すべし。日本国内の土地はもともと皇室のものなれば其旨とくと考へし上万一不承知なれば其趣を届出づべく、もし又承知なれば此書面に署名捺印すべしと言はれ、其男は已むことを得ず憲兵の言なり次第に捺印したり。半年ほどを経て日本銀行宛支払の書類来りたれば金高を計算せしに一坪時価十五六円の土地の買上一坪わづかに五円なりしと云。
 一 仙台辺にては日曜日に釣竿を携へ歩むものを、憲兵私服にて尾行し、人なき処に至れば之を捕へ工場其他の構内の雑草を取らせ或は土を運ばせ、一日の賃銭八拾銭を与へて放免する由。今日に至るも徃々この難に遭ふものありと云。
 一 伊豆西側の海岸に山林を有する人のはなしに、其地の蜜柑園は除虫菊剤及肥料欠乏のため樹木次第に枯れ本年は果実の収穫おぼつかなしと云。

十二月初五 180 晴。短篇『軍服』を中央公論社中氏に郵送す。夜金兵衛に飯す。帰宅後枕上『桜痴放言』をよむ。風烈しく庭樹騒然たり。頃日市中街燈を点ぜず。道路暗然たり。横浜港内怪火爆発の事ありしが故なりと云ふ。


昭和十八(1943)年 荷風散人年六十五

正月四日。183昨日に比して寒気稍ゆるやかなり。三ケ日の間一足も外に出でざりし故、三時過地下鉄にて浅草に至り見るに、群集の雑沓すること今年は更に甚しく去年の比にあらず。雷門より東武駅の内外真に立錐の余地もなし。仲店も人波に押返されて歩み難ければ観音堂にも詣ることを得ず、又玉の井にも行くよしなければ、上野行の市電に乗る。市電はいづこも思の外に雑沓せず。広小路の夜店を見歩き新橋を過ぎてかへる。

  〇犬の声
 ふけわたる 闇の夜に
  さびしさゆゑか
      吠る犬。
 消ゑかゝる ともし火に
  われ唯ひとり
      すゝり泣く。
 犬なけば かなたより
  その友聞きて
      こたふるに。
 われはそも 何ゆゑに
  声さわがしく
      なかざるや
 うたがひと さげすみの。
  この世を憂しと
      知るゆゑに。

昭和十八年正月19日。185 晴。午後浅草に行く。坊間流言あり。侵魯の独逸軍甚振はず。また北阿遠征の米軍地中海より伊国をおびやかしつゝありと。願わくばこの流言真実ならんことを。

三月初八。189 半陰半晴。凌霜子より古き『文芸倶楽部』を借覧す。其中に余が筆にせし『琴古流の尺八』と云ふものありたればなり{明治四十三年}

  流言録
 築地三丁目に河庄といふ待合あり。おかみさんは大正の初頃浦子と云し新橋の妓なり。この待合上海戦争の頃より陸軍将校等の遊場となれり。塀外に憲兵の立番をなしゐる晩は軍人中にても大あたまの者攀柳折花(=折花攀柳=芸者遊び)の戯に耽る時なりと云。今年三月一日は芸者買に二十割の税かゝる最初の夜なるに、軍人の宴会あり。東条大将は軍服のまゝにて公然自働車を寄せたりと之を目撃したるものゝ話をこゝにしるす。

五月十七日。192 細雨烟の如し。菊池寛の設立せし▼文学報国会なるもの一言の挨拶もなく余の名を其会員名簿に載す。同会々長は余の嫌悪する徳富蘇峯なり。余は無断にて人の名義を濫用する報国会の不徳を責めてやらむかとも思ひしが是却て豎子(じゆし=小人)をして名をなさしむるものなるべしと思返して捨置くことゝす。晩間雨霽れたれば食料品を購はむとて浅草に行き帰途芝口の金兵衛に憩ふ。▲おかみさん配給の玄米を一升壜に入れて竹の棒にて搗きゐたり。一時間あまりかくする時は精白米になると云へり。

昭和十八年六月初一。193 晴。電車七銭のところ拾銭に値上となる。又酒肆及び割烹店にて酒を売ること此れまでは夕方五時よりなりしが此日より夕方六時に改められしと云。

  街談録
 頃日南洋にて山本大将の戦死、つゞいて北海の孤島に上陸せし日本兵士の全滅に関して、一部の愛国者はこれ即楠公の遺訓を実践せしものとなせり。此に反して他の憂国者の言ふ所をきくに戦死の一事が若し楠公の遺訓なりとせば吾人は寧楠公戦死の弊害を論ぜざる可らずとなせり。楠公の事蹟は建武年間の歴史を公平に冷静に研究したる後始めて其勲功を定むべきなり。楠公と新田義貞とを比較し一を忠臣の第一となし一を尋常平凡の武士となすは決して公平の論にあらず。是恰も日魯戦争に於て東郷大将の勲功を第一となし上村中将をその第二位に置くが如きものなり。凡そ一国の興亡は一時の勝敗と一将帥の生死によりて定まるものに非ず。▼戦敗れて一将軍の死するは其人の自暴自棄に基くものにして一個人の満足に外ならず。▲自己の名誉とその一刹那の感情のために▼多数なる▲無辜の兵卒を犠牲にして顧みざるは、▼利己主義の甚しきものと謂はざる可からず。曾て福沢先生が楠公の敗死を以て一愚夫が主人より托せられし財布を失ひ申訳なしとて縊首せしものに譬へたりしは、今日に於ては其比喩のいよいよ妙なるを知るに足るべし。云々。
〔欄外朱書〕六月一日ヨリ電車値上トナル

昭和十八年七月初五。198 晴。午後土州橋注射。

  ▼冗談剰語
 一 東京市を東京都と改称する由。何の為なるや。其意を得難し。京都の東とか西とか云ふやうに聞えて滑稽なり。
 一 日本人は忠孝及貞操の道は日本のみ在りて西洋に無しと思へるが如し。人倫五常の道は西洋にも在るなり。但し稍異るところを尋れば日本にては寒暖の挨拶の如く何事につけても忠孝々々と口うるさく聞えよがしに言ひはやす事なり。又怨みありて人を陥れんとする時には忠孝を道具につかひ其人を不忠者と呼びかけて私行を訐(あば)くことなり。忠孝呼ばはりは関所の手形の如し。これなくしては世渡りはなり難し。
 一 日本人の口にする愛国は田舎者のお国自慢に異らず。其短所欠点はゆめゆめ口外すまじきことなり。歯の浮くやうな世辞を言ふべし。腹にもない世辞を言へば見す見す嘘八百と知れても軽薄なりと謗るものはなし。此国に生れしからは嘘でかためて決して真情を吐露すべからず。富士の山は世界に二ツとない霊山。二百十日は神風の吹く日。桜の花は散るから奇妙ぢや。楠と西郷はゑらいゑらいとさへ言つて置けば間違はなし。押しも押されぬ愛国者なり。
 一 隣の子供の垣を破りておのれが庭の柿を盗めば不届千万と言ひながら、おのれが家の者人の家の無花果を食ふを知りても更に咎めず。日本人の正義人道呼ばゝりはまづこの辺と心得置くべし。
 一 近頃の流行言葉大東亜とは何のことなるや。極東の替言葉なるべし。支邦印度赤道下の群島は大の字をつけずとも広ければ小ならざること言はずと知れたはなしなり。Greatest in the worldなどゝ何事にも大々の大の字をつけたがるは北米人の癖なり。今時北米人の真似をするとは滑稽笑止の沙汰なるべし。

七月三十日。200昨日午後上野うさぎ屋主人炭二俵を送り呉れたり。店の若い者炎暑の日盛をおそれずギアカーにて運び来りしなり。台所の縁下にかくす。日米開戦以後世間を憚り人目をしのぶ事の多くなれるも是非なし。谷崎氏其近著『初昔きのふけふ』合冊一巻を贈らる。夜久振りにて玉の井を歩す。広小路の両側に屋台店出で夜遊びの人出賑なること銀座に優れり。凉風水の如し。

昭和十八年八月初三。200 先月来町会よりの命令なりとて家々各縁の下または庭上に穴を掘れり。空襲を受けたる時避難する為なりと云。されど夏は雨水溜りて蚊を生じ冬は霜柱のため土くづれのする事を知らざるものゝ如し。去年は家の中の押入にかくれよと言ひ今年は穴を掘れと言ふ。来年はどうするにや。一定の方針なきは笑ふべく憐れむべきなり。

八月二十九日 202 {日曜日}来月より女子縮髮機械は電力を費すが故政府にて買上となす由。従つてパーマネント縮髮は本年中には消滅する筈なりと云。

昭和十八年九月九日。204 晴。残暑殊に甚し。午後佐藤観氏来話{中央公論社員陸軍主計中尉比島帰還}マニラには食料品多し。守備隊凡十万人位なりと云。黄昏金兵衛に行かむとする途次長垂坂上にて杵屋六左衛門洋装自転車に乗り来れるに逢ふ。立談五六分にて別る。金兵衛にて凌霜子よりその家人の焼きたる西洋菓子を貰ふ。清潭子と懇話す。帰途月色奇明。虫声雨の如し。

 上野動物園の猛獣はこの程毒殺せられたり。帝都修羅の巷となるべきことを予期せしが為なりと云。夕刊紙に伊太利亜政府無条件にて英米軍に降伏せし事を載す。秘密にしてはをられぬ為なるべし。
▼〔欄外朱書〕英米軍伊国ヲ征伏ス

昭和十八年九月廿六日 205 {日曜日}陰。庭を掃く。終日家に在り。深更雨。

  こうろぎ
 泣いても 泣いても
 泣きたらで
 夜はよもすがら
 ひるさへも
 泣く音つゞくる
 蛼(こうろぎ)の
 その悲しみは
 知らねども
 あらんかぎりの
 悲しみを
 命のかぎり
 泣きすだく
 蛼の身の
 羨し。
 蛼よ。蛼よ。
 泣くに泣かれぬ
 かなしみに
 泣かぬ人ある
 人の世の
 わがかなしみを
 汝(なれ)知るや。
 われに教へよ。蛼よ。
 泣くに泣かれぬ
 かなしみを
 泣かで忘るゝ
 道あらば
 われに教へよ蛼よ。
 汝が泣く声に
 また今宵
 寐もせであかす
 人の世の
 わがくるしみを
 思へかし。

昭和十八年十月念五日。209 細雨空濛たり。凌霜子黄橙のジヤムを餽らる。晡下瓦斯会社の男来り警察署より民衆の瓦斯風呂いよいよ禁止の令ありし由を告ぐ。終夜雨声淋鈴。 

昭和十八年十月念六日。209 積雨漸く霽れて日の光もうらゝかなり。午後浅草に行きオペラ館に小憩し新橋に夕餉を喫して帰る。窓外再び虫声あり。

  街談録
 一 この度▼突然▲実施せられし徴用令の事につき、其犠牲となりし人々の悲惨なるはなしは、全く地獄同様にて聞くに堪えざるものなり。大学を卒業して後銀行会社に入り年も四十ぢかくなれば地位も稍進みて一部の長となり、家には中学に通ふ児女もあり、然るに突然徴用令にて軍需工場の職工になりさがり石炭鉄片などの運搬の手つだひに追ひつかはれ、苦役に堪え得ずして病死するもの、又負傷して廃人となりしものも尠からず。幸にして命つゝがなく労働するも、其の給料はむかしの俸給の四分の一位なれば中流家庭の生活をなす能はず、妻子も俄に職工並の生活をなさゞるべからず。▼此れが為殆其処置に窮し▲涙に日を送り居る由なり。(徴集せられし者は初三個月練習中は日給弐円。その後一人前になりても最高百二三十円がとまりなりと云。▼この度の戦争は奴隷制度を復活せしむるに至りしなり。軍人輩は之を以て大東亜共栄圏の美挙となすなり。▲)
 一 大森辺に在るアパート二三個所此程突然軍部に買上げられ、兵器製造職工の宿舎となる由、従来こゝに居住せし者は本年内に立ちのきの命令を受けたれど東京市の内外には住宅もアパートの空室も皆無なればいづれも行先見当らず困難最中なりと云。

昭和十八年十月念七。210晴れて好き日なり。ふと鷗外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生墓碣は震災後向島興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならず其頃は電車の雑沓殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもこゝに二十余年とはなれり。余も年々病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、此日突然倉皇として家を出でしなり。吉祥寺行の電車は過る日人に導かれて洋傘家宅氏の家を尋ねし時、初めてこれに乗りしものなれば、車窓の眺望も都て目新しきものゝみなり。北沢の停車場あたりまでは家つゞきなる郊外の町のさま巣鴨目黒あたりいづこにても見らるゝものに似たりしが、やがて高井戸のあたりに至るや空気も俄に清凉になりしが如き心地して、田園森林の眺望頗目をよろこばすものあり。杉と松の林の彼方此方に横りたるは殊にうれしき心地せらるゝなり。田間に細流あり、又貯水池に水草の繁茂せるあり、丘陵の起伏するあたりに洋風家屋の散在するさま米国の田園らしく見ゆる処もあり。到る処に聳えたる榎の林は皆霜に染み、路傍の草むらには櫨(はぜ)の紅葉花より赤く芒花(すゝき)と共に野菊の花の咲けるを見る。吉祥寺の駅にて省線に乗換へ三鷹といふ次の停車場にて下車す。構外に客待する人力車あるを見禅林寺まで行くべしと言ひて之に乗る。車は商店すこし続きし処を過ぎ一直線に細き道を行けり。この道の左右には新築の小住宅限り知れず生垣をつらねたれど、皆一側並びにて、家のうしろは雑木林牧場また畠地広く望まれたり。甘藷葱大根等を栽ゑたり。車はわづか十二三分にして細き道を一寸曲りたる処、松林のかげに立てる寺の門前に至れり。賃銭七十銭なりと云、道路より門に至るまで松並木の下に茶を植えたり。其花星の如く二三輪咲きたるを見る。門には臨済三十二世の書にて「禅林寺」となせし扁額を挂けたり。「葷(くん)酒不許入山門」となせし石には「維(この)時文化八歳次辛未春禅林寺現住旹宗(=時宗)謹書」と勒(ろく)したり。門内に銀杏と楓との大木立ちたれど未だ霜に染まず。古松緑竹深く林をなして自ら仙境の趣を作したり。本堂の前に榧(かや)かとおぼしき樹をまろく見事に刈込みたるが在り。本堂は門とは反対の向に建てらる。黄檗風の建築あまり宏大ならざるところ却て趣あり。簷(のき)辺に無尽蔵となせし草書の額あり。臨済三十二世黄檗隠者書とあれど老眼印字を読むこと能はざるを憾しむ。堂外の石燈籠に「元禄九年丙子朧月」の文字あり。林下の庫裏に至り森家の墓の所在を問ひ寺男に導かれて本堂より右手の墓地に入る。檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓、その左に夫人しげ子の墓、右に先考の墓、その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆曾て向島にて見しものなり。香花を供へて後門を出でゝ来路を歩す。門前十字路の傍に何々工業会社敷地の杭また無線電信の職工宿舎の建てるを見る。此の仙境も遠からず川崎鶴見辺の如き工場地となるにや。歎ずべきなり。停車場に達するに日既に斜なり。帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。渋谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。新橋に行き金兵衛に飯す。凌霜子来りて栗のふくませ煮豆の壜詰を饋らる。夜ふけて家にかへる。

昭和十八年十二月卅一日。219今秋国民兵召集以来▼軍人▲専制政治の害毒いよいよ社会の各方面に波及するに至れり。親は四十四才にて祖先伝来の職業を失ひて職工となり、其子は十六七才より学業をすて職工より兵卒となりて戦地に死し、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人皆重税の負担に堪えざらむとす。今は勝敗を問はず唯一日も早く戦争の終結をまつのみなり。然れども余窃に思ふに戦争終結を告ぐるに至る時は政治は今より猶甚しく横暴残忍となるべし。今日の軍人政府の為すところは秦の始皇の政治に似たり。国内の文学芸術の撲滅をなしたる後は必ず劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取上げをなさでは止まざるべし。▼斯くして日本の国家は滅亡するなるべし。
〔欄外朱書〕疎開ト云フ新語流行ス民家取払ノコトナリ


昭和十九(1944)年 荷風散人年六十有六

一月初二 221 日曜日。晴。年賀状と共に時勢を痛論する手紙頻々として来る。皆未見の士の寄するところなり。これを総括して其大意を摘録すれば左の如し。

 現政府の方針は依然として一定せず何を以て国是となすや甚不明なり。されどこの度文学雑誌を一括してこれが発行を禁止せし所を以て推察すれば学術文芸を以て無用の長物となすものゝ如し。文学を以て無用となすは思想の転変を妨止し文化の進歩を阻害するものなり。現代の日本を以て欧洲中世紀の暗黒時代に回さんとするものに異ならず。斯の如き愚挙暴挙果して成功するや否や。若し成功せば国家の衰亡に帰着すべきのみ。斯の如き愚挙を断行する国が単に武力のみを以て支那印度南洋の他民族を治め得べきものなるや。現政府の命脉長きに非ざるべし。云々。

昭和十九年一月十八日。222晴。昨夜より風邪気味なり。午後歌川氏細君訪来りて雞卵菓子を饋らる。日も暮近き頃電話かゝりて十年前三番町にて幾代と云ふ待合茶屋出させ置きたるお歌たづね来れり。其後再び芸妓になり柳橋に出てゐるとて夜も八時過まで何や彼やはなしは尽きざりき。お歌中洲の茶屋弥生の厄介になりゐたりし阿部さだといふ女と心やすくなり今もつて徠徃もする由。現在は谷中初音町のアパートに年下の男と同棲せりといふ。どこか足りないところのある女なりと云。お歌余と別れし後も余が家に尋ね来りし事今日がはじめてにはあらず。三四年前赤坂氷川町辺に知る人ありて尋ねし帰りなりとて来りしことあり。思出せば昭和二年の秋なりけり一円全集にて意外の金を得たることありしかばその一部を割きて茶屋を出させやりしなり。お歌今だに其時の事を忘れざるにや。その心の中は知らざれど老後戦乱の世に遭遇し独り旧廬に呻吟する時むかしの人の尋来るに逢ふは涙ぐまるゝまで嬉しきものなり。此次はいつまた相逢うて語らふことを得るや。もし空襲来らば互にその行衛(ゆくえ)を知らざるに至るべし。然らずとするも余はいつまでこゝにかうして余命を貪り得るにや。今日の会合が最終の会合ならんも亦知る可らず。これを思ふ時の心のさびしさと果敢さ。これ人生の真味なるべし。〔以下朱書〕松過ぎて思はぬ人に逢ふ夜かな

一月念五。223 細雨霏々。去年十二月末より殆雨なかりしなり。▼凌霜子電話。菅原氏来信。昏暮谷町の混堂に浴す。

  街談録
 過日きゝたる或人の所説をしるす。
 現代日本のミリタリズムは秦の始皇抗儒焚書の政治に比すべし。ナポレオンの尚武主義とは同一ならず又徳川家康幕府の政策とも決して同様ならず。此の一は基督教国の軍国主義なり。他の一は儒仏二教の上に築かれし軍国主義なり。此点より考察すれば現代日本の軍人政治の何たるかはおのづから明白となるべし。云々。

昭和十九年三月卅一日。227 昨日小川来りて、オペラ館取払となるにつき明日が最後の興行なれば是非とも来たまへと言ひてかへりし故、五時過夕餉をすませ地下鉄にて田原町より黄昏の光をたよりに歩みを運ぶ。二階踊子の大部屋に入るに女達の鏡台既に一ツ残らず取片づけられ、母親らしき老婆二三人来り風呂敷包手道具雨傘など持去るもあり。八時過最終の幕レヴューの演奏終り看客立去るを待ち、館主田代旋太郎一座の男女を舞台に集め告別の辞を述べ楽屋頭取長沢一座に代りて荅辞を述る中感極り声をあげて泣出せり。これにさそはれ男女の芸人凡四五十人一斉に涙を啜りぬ。踊子の中には部屋にかへりて帰仕度しつゝ猶しくしく泣くもあり。各その住処番地を紙にかきて取交し別を惜しむさま、数日前新聞紙に取払の記事出でし時窃に様子を見に来りし時とは全く同じからず。余も覚えず貰泣せし程なり。回顧するに余の始めてこの楽屋に入込み踊子の▼裸になりて▲衣装着かふるさまを見てよろこびしは昭和十二年の暮なれば早くも七年の歳月を経たり。オペラ館は浅草興行物の中真に浅草らしき遊蕩無頼の情趣を残せし最後の別天地なればその取払はるゝと共にこの懐しき情味も再び掬し味ふこと能はざるなり。余は六十になりし時偶然この別天地を発見し或時は殆毎日来り遊びしがそれも今は還らぬ夢とはなれり。一人悄然として楽屋を出るに風冷なる空に半輪の月泛びて路暗からず。地下鉄に乗りて帰らんとて既に店を閉めたる仲店を歩み行く中涙おのづから湧出で襟巻を潤し首は又おのづから六区の方に向けらるるなり。余は去年頃までは東京市中の荒廃し行くさまを目撃してもさして深く心を痛むることもなかりしが今年になりて突然歌舞伎座の閉鎖せられし頃より何事に対しても甚しく感傷的となり、都会情調の消滅を見ると共にこの身も亦早く死せん事を願ふが如き心とはなれるなり。オペラ館楽屋の人々は無智朴訥。或は淫蕩無頼にして世に無用の徒輩なれど、現代社会の表面に立てる人の如く狡猾強慾傲慢ならず。深く交れば真に愛すべきところありき。されば余は時事に憤慨する折々必この楽屋を訪ひ彼等と飲食雑談して果敢き慰安を求むるを常としたりき。然るに今や余が晩年最終の慰安処は遂に取払はれて烏有に帰したり。悲しまざらんとするも得べけんや。

昭和十九年四月十一日。229毎朝七八時頃飛行機の音春眠を妨ぐ。その音は鍋の底の焦げつきたるをがりがりと引掻くやうにていかにも機械の安物たるを思はしむ。そは兎も角毎朝東京の空を飛行して何の為すところあるや。東京を妨がんとするには其周囲数里の外に備ふる所なからざるべからず。徒に騒音を市民の頭上にあびせかけて得意満々たる軍人の愚劣是亦大に笑ふべきなり。この日陰。午後土州橋病院に至り健康診断を請ふ。銀座街頭の柳花開かざる前に早くも青くなれり。電車雑沓せず。街上行人漸く稀なり。

  食物闇値左の如し
 一 白米一升  金拾円也     一 するめ一枚 一円也
 一 酢一合   金壱円也      一 沢庵一本  五円也
 一 食麵麭一斤 金弐円四拾銭也
 一 雞肉一羽  金弐拾五円也  一 醤油一升  金拾円也
 一 雞卵一個  金七拾銭也    一 バタ一斤  金弐拾円也
 一 砂糖一貫目 金百弐拾円也

五月廿七日。230雨ふる。此頃鼠の荒れ廻ること甚し。昼の中も台所に出で洗濯シヤボンを引行く程なり。雀の子も軒にあつまり居て洗流しの米粒捨てるを待てるが如し。むかしは野良猫いつも物置小屋の屋根の上に眠り折々庭の上に糞をなし行きしがいつよりともなく其姿を見ぬやうになりぬ。東亜共栄圏内に生息する鳥獣飢餓の惨状亦憫むべし。燕よ。秋を待たで速(すみやか)に帰れ。雁よ。秋来るとも今年は共栄圏内に来る莫れ。

昭和十九年六月廿九日。231昨夜むし暑く寐られぬ故むかし紐育にて読み耽りたるラマルチンの詩巻などひらき見る中短夜はいつか薄明くなりぬ。表通の塀際に配給の炭俵昨日より積置かれたれば夜明の人通りなきを窺ひ盗み来りて後眠りにつきぬ。寤めたるは十一時ごろなり。晴れて溽暑昨日の如し。
今年も早く半を過ぎんとす。戦争はいつまで続くにや。来るぞ来るぞといふ空襲もいまだに来らず。国内人心の倦怠疲労今正に其極度に達せしが如し。世人は勝敗に関せず戦争さへ終局を告ぐれば国民の生活はどうにか建直るが如く考ふるやうなれどそれも其時になつて見ねばわからぬ事なり。欧洲第一次大戦以後日本人の生活の向上せしは之を要するに極東に於ける英米商工業の繁栄に基きしものなり。これ震災後東京市街復興の状況を回顧すれば自ら明なるべし。然るに今日は世界の形勢全く一変したり。欧洲の天地に平和の恢復する日来る事あるも極東の商工業が直に昨日の繁栄を齎し得べきや否や容易に断言し得べからず。兎に角東京の繁華は昭和八九年を以て終局を告げたるものと見るべし。文芸の一方面について論ずれば四迷鷗外の出でたる時代は日本文化の最頂点に達せし時にしてこは再び帰り来らざるものなり。


昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七

三月九日。252 天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初(はじめ)長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出たり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北方の空にも火光の反映するあり、火粉は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ、余は四方を顧望し到底禍を免るゝこと能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通に走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉に出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつゝあれば行くこと難かるべしと言ふ、道を転じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃してやりぬ。余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙(スペイン)公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月(せんげつ)凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃来る人々の中には平生顔を見知りたる近鄰の人も多く打まぢりたり、余は風の方向と火の手を見計り逃ぐべき路の方角をも稍知ることを得たれば、麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴し偏倚館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはずれに立ちわが家の方を眺る時、鄰家のフロイドルスペルゲル氏褞袍(どてら)にスリツパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ、崖下より飛来りし火にあふられ其家今まさに焼けつゝあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつゞいて来り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てゝ逃げ来りし由を告ぐ。余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず、唯火焰の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり、火は次第にこの勢に乗じ表通へ焼抜け、住友田中両氏の邸宅をも危く見えしが兵卒出動し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり、蒸気ポンプ二三台来りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程を経たり、消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず、火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためこゝにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり、

五月初三、260 くもりて風甚冷なり、新聞紙ヒトラームソリニの二兇戦敗れて死したる由を報ず、

昭和二十年五月廿五日。265 空晴れわたりて風爽かに初て初夏五月になりし心地なり、室内連日の塵を掃はむとて裏窓を開くに、鄰園の新緑染めたるが如く雀の子の巣立ちして囀る声もおのづから嬉し気なり、この日余及菅原君アパート宿泊人中の当番なれば、午後已むことを得ず昭和通五六町先なる米配給所に至り、手車に玉蜀黍(たうもろこし)二袋を積載せ曳いてかへる、同宿人の中江戸川区平井町にて火災に罹り其姉のアパートに在るを尋ね来りし可憐の一少女あり、年十四五才なれど言語挙動共に早熟、一見既に世話女房也、吾等を助けて共に車を曳く、路すがら中川あたり火災当夜の事を語る、戦時の一話柄なるべし、夜いつもの如く菅原君の居室にて喫茶雑談に耽る時サイレン鳴りひびき忽空襲を報ず。余はいはれなく今夜の襲撃はさしたる事もあるまじと思ひ、頗る油断するところあり、日記を入れしボストンバグのみを提げ他物を顧ず、徐に戸外に出で同宿の児女と共に昭和大通路傍の壕に入りしが、爆音砲声刻々激烈となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三、一種の奇臭を帯びたる烟(けむり)風に従つて鼻をつくに至れり、最早や濠中に在るべきにあらず、人々先を争ひ路上に這ひ出でむとする時、爆弾一発余等の頭上に破裂せしかと思はるゝ大音響あり、無数の火塊路上到るところに燃え出で、人家の垣墻(えんしやう=かきね)を焼き始めたり、余は菅原氏夫妻と共に互に相扶けて燃立つ火焰と騒ぎ立つ群衆の間を逃れ、昭和大通落合町の広漠たる焼跡{四月中罹災の地}に至り、風向きを見はかり崩れ残りし石墻(いしがき)のかげに熱風と塵烟とを避けたり、遠く四方の空を焦す火焰も黎明に及び次第に鎮まり、風勢も亦衰へたれば、おそるおそる烟の中を歩みわがアパートに至り見るに、既に其跡もなく、唯瓦礫土塊の累々たるのみ、菅原氏夫妻の日夜弾奏せしピアノの如き唯金線の一団となり糸のやうにもつれしを見るのみ、昨夜逃入りし濠のほとりにアパートの男女一人一人集り来り、涙ながらに各其身の恙なかりしを賀す、余等三人は一トまず杵屋五叟の家に行かむと思ひ、焼かれたる戸塚大久保新宿の町々を歩み代々木の大通に到り見るに、こゝも亦中野と同じく見渡すかぎり焼原となれり、路傍に五叟の次男佇立み居て余等一同の来るを認めこの辺は廿三日の夜に焼かれしなり、一家は無事怪我するものなく代々木の駅前なる知人某の家に立退きたり、と語るほどに、五叟の妻等も来り配給の玄米むすびを恵まる、折から雨ふり出して歇むべき様子もなし、余等三人頻途方に暮れしがこのまゝ在るべきにあらねば通り過る貨物自動車の中厚意にて人をも載するものあるを見、それに乗りて渋谷の駅に至れり、このあたりも道玄坂の両側をはじめ一望悉く焦土なり、余等は駒場なる宅孝二氏の家を尋ね、もし祝融(=火事)の禍を同じくしゐたらば豪徳寺畔なる小堀四郎氏の救を請はむと思ひ定め、雨に濡れつゝ焼跡の町々を歩み過ぎ、漸くにして辿りつけば、幸にも宅氏の居邸は緑樹のかげに恙なく立ちてあり、折から雨もまた歇む、鄰家の時計の鳴るを数ふれば午前十時なり、

六月初一、晴、菅原氏曰く埼玉県志木町の農家にも行きがたくなりたれば今は其故郷なる播州明石の家に行くより外に為すべき道なしとて頻に同行を勧めらる、熟慮して後遂に意を决して氏の厚誼にすがりて関西にさすらひ行くことになしぬ、早朝氏と共に渋谷駅停車場に至り罹災者乗車券なるものを得むとしたれど成らず、空しく宅氏の家にかへる、

昭和二十年六月二日。267 未明{三時半}小雨のふる中を菅原氏夫婦と共に再渋谷の駅に赴きしが乗車券を得ざること昨日に異らず、策尽きてまた駒場に戻り、午前八時三たび行くに及びて辛くも駅員より乗車券の交附を受けたり、其手続の不便に且ツ繁雑なること人の意表に出づ、我国役人気質の愚劣なること唯是一驚すべきのみ。余菅原君夫婦と共に宅氏の兄弟に送られていよいよ渋谷駅の改札口に入ることを得たるは午後一時半なり、山の手省線にて品川を過ぎ東京駅に至り罹災民専用大阪行の列車に乗る、乗客思の外に雑沓せず、余ら三人皆腰掛に坐するを得たるは不幸中の幸なり、午後四時半列車初てプラトホームを離る、発車の際汽笛も鳴らさず何の響もなければ都会を去るの悲しみ更に深きを覚ゆ、浜松に至る頃日は全く暮れ細雨霏霏たり、余大正十年の秋亡友左団次一行と共に京都に遊びてより後一たびも東海道の風景に接せしことなし、感慨無量筆にしがたし、

六月初三、267 列車中の乗客われ人ともに列車進行中空襲の難に遭はむことを恐れしが、幸にもその厄なく午前六時過京都駅七条の停車場に安着す、夜来の雨も亦晴れ涼風習々たり、直に明石行電車に乗換へ大坂神戸の諸市を過ぎ明石に下車す、菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なる其邸に至り母堂に謁す、邸内には既に罹災者の家族の来り寓するもの多く空室なしとの事に、三四丁隔りたる真宗の一寺院西林寺といふに至り当分こゝに宿泊することになれり、西林寺は海岸に櫛比する漁家の間に在り、書院の縁先より淡路を望む。海波洋々マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ、江湾一体の風景古来人の絶賞する処に背かず、殊に余の目をよろこばすものは西林寺の墓地の波打寄する石垣の上に在ることなり、墓地につゞき数頃の菜園崩れたる土墻をめぐらしたるあり、蔬菜の青々と茂りたる間に夏菊芥子の花の咲けるを見る、これ亦海を背景となしたる好個の静物画ならずや、余明治四十四年湘南逗子の別墅(べつしよ)を人に譲りてより後三四十年の間、一たびも風光明媚なる海辺に来り遊ぶの機会を得ず、然るに今図らずもこの明石に来り其静閑なること雨声の如き濤声をきゝ、心耳を澄すこと得たり、何等の至福ぞや、西林寺の主人は年四十あまりなる未亡人にして言語快活談話巧みにして俗客の来ることを厭はざるが如し、吾等三人を客間に迎え直に昼飯をつくり、夕刻にはまた晩食の後風呂を焚き余等をして一浴覊旅の疲労を洗ひ去らしむ、夜十二時菅原君夫婦と枕を並べて寝に就きぬ、

昭和二十年六月四日、軽陰軽寒、暮春の天気を思はしむ、午後墓地の石段を下り渚を歩す、防波堤に児童の集りて糸を垂るゝを見る、海風の清和なること春の如く、亦塩気を含まざれば、久しく砂上に坐して風景を賞するも房総湘南の海辺に於けるが如く肌身のねぱつく事なし、此日菅原君用事ありて神戸大坂に赴き夜半に近く帰り来り蘆屋に住める林龍作氏の消息を伝ふ、

六月初五、晴、朝八時空襲警報あり、黒烟忽ち須磨海辺の彼方に昇るを見る、西林寺墓地下の海岸に近鄰の人々家財を運び出せり、二時間ほどにて警戒解除となる、昼食の後寺主檀家の庭に裁培したる莓を馳走せらる、東京の人戦争以来曾て口にせしことなき珍味なり、

六月初六、陰、東南の風つよし、今日も昼飯の前後に西洋莓を多く食ひぬ、百匁金拾円なりと云、午後菅原君夫妻相携へて宝塚なる知人某子の家に行けり、曾て東中野のアパート{菅原君鄰室}に仏蘭西の女と同棲せし畸人なり、晡下墓地を逍遙す、石墻に倚りて海を見る、東方に横たはる丘陵の背後より黒姻猶盛に立ちのぼりたり、昨朝の兵火未だ歇まざるを知る、被害思ふべし、寺の茶の間にかへるに菅原君夫婦在り、電車動かず、大坂には行き得ざりしと語る、夜電光閃々、雷鳴驟雨の襲ひ来るあり、

六月初七、驟雨午後に歇む、黄昏菅原君に導かれて海岸の遊園地を歩む、西洋風のホテルまた邸宅あり、海浜の老松害虫の為に枯死し砂上に伐り倒されたるもの幾株なるを知らず、一条の堀割あり帆船貨物船輻湊す、岸上に娼家十余軒あり、店かゞり東京風なり、絃歌の声を聞く、

昭和二十年六月初八、晴、午前七時警報あり姑くにして解除となる、朝飯を食して後菅原君と共に町を歩み、理髪店に入りしが五分刈りならでは出来ずと言ふ、省線停車場附近稍繁華なる町に至らぱよき店もあるべしと思ひて赴きしがいづこも客多く休むべき椅子もなし、乃ち去つて城内の公園を歩む、老松の枯るゝもの昨夕歩みたりし遊園地の如し、されど他の樹木は繁茂し欝然として深山の趣をなす、池塘(=池の堤)の風致殊に愛すべし、石級を昇るに徃時の城楼石墻猶存在す、眺望最佳きところに一茶亭あり、名所写真入の土産物を売る、床几に休みて茶を命ずるに一老翁渋茶と共に甘いものもありますとて一碗を勧む、味ふに麦こがしに似たり、粉末にしたる干柿の皮を煮たるものなりと云、天主台の跡に立ち眼下に市街及江湾を眺む、明石の市街は近年西の方に延長し工塲の烟突林立せり、これが為既に一二回空襲を蒙りたりと云、余の宿泊する西林寺は旧市街の東端に在るなり、漫歩明石神社を拝し林間の石径を上りまた下りて人丸神社に至る、石磴の麓に亀齢井(かめのゐ)と称する霊泉あり、掬するに清冷氷の如し神社に鄰して月照寺といふ寺あり、山門甚古雅なり、庭に名高き八房の梅あり、海湾の眺望城址の公園に劣らず、石級を下り電車通に至る間路傍の人家の庭に芥子矢車草庚申薔薇の花爛漫たるを見る、麦もまた熟したり、正午過寺に帰る、食後寺の女主人また苺を馳走せらる、午後菅原君と楼上に蔵する先代住職の書冊を見る、多くは皆現代出版の文芸書類なり、頗奇異の思をなす、

六月十日。268 晴。日曜日。明石の町も遠からず焼払はるべしとて流言百出、人心恟々たり、午後人々皆外出したる折を窺ひ行李を解き日記と毛筆とを取出し、去月二十五日再度罹災後日々の事を記す、駒場なる宅氏の家に寓せし時は硯なく筆とることを得ざりしに明石の寺には其便あり、明日をも知らぬ身にてありながら今に至つて猶用なき文字の戯れをなす、笑ふべく憐む可し、日誌をしるし終りて後晩飯の煮ゆるを待つ間、夕陽の縁先に坐して過日菅原氏が大坂の友より借来りしウヱルレーヌの選集を読む、菅原氏は仏書をよむ、夜菅原君細君岡山より帰り宅孝二氏既に彼地に在り、谷崎潤氏亦津山の附近に避難する由、余等行先の事思ひしよりも都合好かるべしと言ふ、依つて明後十二日未明の汽車にて岡山に行くことに決す、

昭和二十年六月十一日、269 晴。燈刻鷲仙紙を携へ来りて書を請ふ人あり、旧作の発句を書す、飯後寺主をはじめ同宿の避難者に別を告げ夜半枕につく、六月十二日、暁三時半に起出で晩飯の残りたるを粥にして一二碗を食し行李を肩にして寺を出づ、入梅の空明け放れんとしてあかるきまゝ雨しとしとと濺ぎ来る、一行三人傘を持たねば濡れに濡れて停車場に至る、其困苦東京駒場の避難先より渋谷の駅に至りし時の如し、初発博多行の列車は難沓して乗るべからず、次の列車にて姫路に至りこゝにて乗つぎをなし正午岡山に着す、宅氏の知人最相氏の家に至り昼飯及晩飯の恵みに与る、此夜小学校講堂にて宅氏洋琴弾奏の会あり、雨中皆々と共に行く、帰り来りて最相氏の家に宿す、
▼〔欄外墨書〕六月十三日

六月十三日、270 梅雨霏々、午前菅原氏と共に其知人池田優子なる婦人を巌井下伊福の家に訪ひ昼飯を恵まる、此の婦人の世話にて住友銀行支店に行き三菱銀行新宿支店預金通帳を示し現金引出の事を請ふ、引出金額一個月五百円かぎり、一回引出し金額金弐百円也と云、一同岡山ホテルに宿す、蚊多くして眠り難し、

六月廿八日。270 晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見。今明日必異変あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひゞかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。

昭和二十年七月九日。快晴。雲翳なし。谷崎氏及宅昌一氏に郵書を送る。午後寓居の後丘に登る。一古刹あり。山門古雅。また二王門ありて大乗山といふ額をかゝぐ。老松多し。本堂の軒にかけたる額を仰ぐに妙林寺{佐文山の書}とあり。法華宗なるべし。墓石の間を歩みて山の頂上に至れば眼下に岡山の全市を眺むべし。去月二十八日夜半に焼かれたる市街の跡は立続く民家の屋根に隠れ今は東方に聳ゆる連山の青きを見るのみ。墓地より小径を下ればわが寓居の裏手に出る道路なり。こゝより別の石径あり。三門神社の立てる丘陵の頂に登るを得べし。巖石崎嶇。松林鬱蒼たり。山麓に鳥居を立てたるところは三門町二丁目の道路にして人家櫛比す。社殿の前の平地に立てば岡山市の西端に延長する水田及び丘阜を望む。備中総社町に至る一条の鉄路田間を走る。又前方南の方に児島湾を囲む山脉を見る。風景佳ならざるに非ず。然れども余心甚楽しまず。白雲の行くを見て徒に旅愁の動くを覚ゆるのみ。こゝに於て余窃に思ふに山水も亦人物と同じく暱(したし)み易きものと然らざるものとの別あるが如し。明石より淡路を望みし海門の風光は人をして恍惚たらしむるものありしが今眼前に横はる岡山の山水は徒に寂寞の思をなさしむるのみ。一は故人に逢うて語るが如く一は路傍の人に対するが如し。

八月十四日。272 晴。朝七時谷崎君来り東道して町を歩む、二三町にして橋に到る、渓流の眺望岡山後楽園のあたりにて見たるものに似たり、後に人に聞くにこれ岡山を流るゝ旭川の上流なりと、其水色山影の相似たるや盖し怪しむに及ばざるなり、正午招がれて谷崎君の客舎に至り午飯を恵まる、小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり、余谷崎君の勧むるがまゝ岡山を去りこの地に移るべき心なりしが広島岡山等の市街続々焦土と化するに及び人心日に増し平穏ならず、米穀の外日用の蔬菜を配給せず、他郷の罹災民は殆食を得るに苦しむ由、事情既にかくの如くなるを以て長く谷崎氏の厄介にもなり難し、依て明朝岡山にかへらむと停車場に赴き駅員に乗車券のことを問ふ、明朝五時に来らざれば獲ること難かるべしと言ふ、依て亦其事を谷崎氏に通知し余が旅宿に戻りて午睡を試む、燈刻谷崎氏方より使の人釆り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ、急ぎ小野旅館に至るに日本酒もまたあたゝめられたり、細君下戸ならず、談話頗興あり、九時過辞して客舎にかへる、深更警報をきゝしが起きず、

昭和二十年八月十五日、273 陰りて風凉し、宿屋の朝飯、雞卵、玉葱味噌汁、はや{小魚}つけ焼、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、飯後谷崎君の寓舎に至る、鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る、雑談する中汽車の時刻迫り来る、再会を約し、送られて共に裏道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分発の車に乗る、新見の駅に至る間隧道多し、駅毎に応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る、されど車中甚しく雑沓せず。凉風窓より吹入り炎暑来路に比すれば遥に忍び易し、新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人より贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠りする中山間の小駅幾個所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る、午後二時過岡山の駅に安着す、焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、雞肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、
▼〔欄外墨書〕正午戦争停止

九月初九 278 日曜日、昨夜深更より東南の風烈しく暑気忽夏の如し、五叟の次男日曜日を除きて日々未明に家を出で東京なる暁星中学校に通ふ、途上の所見を語る、小田原御殿場の辺にも米国の進駐軍あり、東京の市中米兵の三々五々散歩するを見ると云、新聞紙上米兵の日本婦女を弄ぶものありとの記事を載す、果して真実ならば曾て日本軍の支那占領地に於てなせし処の仕返しなり、己れに出でゝおのれにかへるもの亦如何ともすべからず、畢竟戦争の犠牲となるものは平和をよろこぶ良民のみ、浩歎(かうたん)に堪えざるなり、今朝東京の旧友某子の書を得たり、其一節に
 十五日以来御家の大事に九太夫と伴内さては師直までうようよと騒ぎ廻る様唯々苦々しき極みに御座候、夷人も追々市内に入込みチラホラ街中にても見受ける様に相成申候、是につれ諸処に暴行沙汰も有之様子にてデマも飛廻り居候へ共如何なるものにや、されたのやさしたのやら、露は尾花と寝たと云ふなどゝ節までつけて唄つてゐた昔の人はやつぱり苦労人に御坐候、停戦に由り軍国官僚の退陣は実に積年の暗雲を一掃して秋晴の空を仰ぐが如く近来の一大快事に▼御坐候、荷風先生の時代遂に到来、万々歳に御坐候、愈々荷風時代を再現せられん事を切望に不堪候、▲老生是から先の進むべき道も五里霧中ぐづぐづと毎日を退屈しながら形勢観望罷在候、云々

昭和二十年九月廿八日。283昨夜襲来りし風雨、今朝十時ごろに至つてしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂もくもりて暗し、昼飯かしぐ時、窓外の芋畠に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり、▼戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至つては其悲惨も亦極れりと謂ふ可し、南宋趙氏の滅ぶる時、其天子金の陣営に至り和を請はむとして其儘俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀なり、数年前日米戦争の初まりしころ、独逸摸擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るかたなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見やうとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴユウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、雞冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし、是太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶ吾等日本人の特権ならむと笑ひ興ぜしことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり、我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知らざらりしなり、此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや、今日此事のこゝに及びし理由は何ぞや、幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣なかりしが為なるべし、我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面に於て顕著たりしに非ずや、余は別に世の所謂愛国者と云ふ者にもあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるゝ者を見て悲しむものなり、強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ、これこゝに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす、


昭和二十一(1946)年 荷風散人年六十八

一月十六日、294 晴、早朝荷物をトラツクに積む、五叟の妻長男娘これに乗り朝十一時過熱海を去る、余は五叟その次男及田中老人等と一時四十分熱海発臨時列車に乗る、乗客雑沓せず、夕方六時市川の駅に着す、日既に暮る、歩みて菅野二五八番地の借家に至る、トラツクの来るを待てども来らず、八時過に及び五叟の細君来りトラツク途中にて屢故障を生じたれば横浜より省線電車にて来れりと言ふ、長男十時過に来りトラツク遂に進行しがたくなりたれば目黒の車庫に至り、運転手明朝車を修繕して後来るべしと語る、夜具も米もなければ俄にこれを隣家の人に借り哀れなる一夜を明したり、

一月十七日、294 晴、荷物を積みし車の来りしは日も既に暮れし後なり、米炭その他盗まれしもの尠からずと云、

三月廿六日、296 晴、暖、午後漫歩、手児奈堂(てこなどう)に賽す、境内の借家に猪場毅氏依然として住めるが如し、店の窓に書幅を掛け玩具など並べたれば相変らず贋物の売買を業となすなるべし、出版商佐藤恒二氏来話、鎌倉文庫より使の人単行本印税新円にて金五千円持参す、薄暮近藤氏来談、


昭和二十二(1947)年 荷風散人年六十九

一月初八。302 雪もよひの空くもりて寒し。小西氏の家水道なく炊爨(すいさん)盥漱(くわんそう)共に吹きさらしの井戸端にて之をなす困苦言ふべからず。加ふるに此日朝より電気来らず。電気あんかも用ふる事能はず。終日夜具の中にうづくまりて読書す。電気は去ル六日より一日置きならでは使用すること能はざる由。三時頃凌霜子来り話す。夜小西氏今宵の寒さ氷点下二度なれば夜ふけて寒さいよいよ烈しくならん時の用心したまへとて夜具一枚持出でゝ貸し与へらる。深情謝すべし。

五月初三。308 雨。米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふ可し。


昭和二十三(1948)年 荷風散人年七十

一月初九。318晴。暖。午下省線にて浅草駅に至り三ノ輪行電車にて菊屋橋より公園に入る。羅災後三年今日初めて東京の地を踏むなり。菊屋橋角宗円寺門前の石の布袋恙(つつがな)くして在り。仲店両側とも焼けず。伝法院無事。公園池の茶屋半焼。池の藤恙し。露天の大半古着屋なり。木馬館旧の如し。其傍に小屋掛にてエロス祭といふ看板を出し女の裸を見せる。木戸銭拾円。ロツク座はもとのオペラ館に似たるレヴューと劇を見せるらしく木戸銭六拾円の札を出したり。公園の内外遊歩の人絡繹(らくえき=続く)たるありさま戦争前の如し。来路を省線にてかえる。亀戸平井あたりの町々バラツク散在す。

一月十日。318晴。暖。来訪者を避けむとて午下市川駅前より発する上野行のバスに乗り浅草雷門に至る。歩みて言問橋をわたり白鬚に至る。白鬚神社蓮華寺共に焼けず。外祖父毅堂先生の碑無事に立てるを見る。地蔵坂下より秋葉神社前に出る横町にもと玉の井の娼家移転せり。この辺も焼けざりしが如し。向島は災を免れし処随分あるやうなり。言問橋際電車通の片側また吾妻橋東詰にも瓦屋根の二階ところどころに残れるを見る。罹災の如何は一々実地について調査するに非らざれば知り難し。秋葉社前にて金町行バスの来るに逢ひ之に乗る。途中乗客雑沓して下ること能はず金町に至り京成電車に乗りかへ四時頃家にかへる。岡山三門町大能氏干柿を郵送せらる。

十二月十三日。325 快晴。温暖春の如し。午下小林氏と共に八幡の登記所に至り売主代理人と会見し家屋の登記をなす。小林氏いふは和洋衣類の売買をなすもの。余とは深き交あるに非らず、今春余は唯二三着洋服を買ひしことあるのみ。然るに余が年末に至り突然家主より追立てられ途法に暮れ居るを見て気の毒に思ひ其老母と共に周旋すること頗懇切なり。今の世にも親切かくの如き人あるは意想外といふべし。小林氏の老母は猶心あたりをさがして女中になるべきものを求めて後引越の世話をすべしと言ふ。万事を頼み家に帰り疲労を休めて後燈刻浅草に行きて夕餉を喫す。今宵も狭霧街を籠め月影あかるし。
 ▼菅野一、一二四番地平家建瓦葺家屋十八坪金参拾弐万円。登記印紙代二千四百円。登記証記載金高五万円。


昭和二十四(1949)年 荷風散人年七十一

六月十五日。晴。午前木戸氏来話。夕刻より浅草。仏蘭西映画 La grande Illusionを見る。帰途地下鉄入口にて柳島行電車を待つ。マツチにて煙草に火をつけむとすれども川風吹き来りて容易につかず。傍に佇立みゐたる街娼の一人わたしがつけて上げませう。あなた。永井先生でせうといふ。どうして知つてゐるのだと問返すに新聞や何かに写真が出てゐるぢやないの。鳩の町も昨夜よんだわ。わたし此間まで亀有にゐたんです。暫く問荅する中電車来りたれば煙草の空箱に百円札参枚入れたるを与へて別れたり。

六月十八日。晴。夕刻いつもの如く大都劇場に至る。終演後高杉由美子等と福嶋喫茶店に小憩し地下鉄入口にて別れ独電車を待つ時三日前の夜祝儀若干を与へたる街娼に逢ふ。その経歴をきかむと思ひ吾妻橋上につれ行き暗き川面を眺めつゝ問荅すること暫くなり。今宵も参百円ほど与へしに何もしないのにそんなに貰つちやわるいわよと辞退するを無理に強ひて受取らせ今度早い時ゆつくり遊ばうと言ひて別れぬ。年は廿一二なるべし。その悪ずれせざる様子の可憐なることそゞろに惻隠の情を催さしむ。不幸なる女の身上を探聞し小説の種にして稿料を貪らむとするわが心底こそ売春の行為よりも却て浅間しき限りと言ふべきなれ。

六月廿一日。雨。夕飯の後浅草に至る。東武駅の前曲角に街娼今宵はいつもより多く傘さして行人を呼留むるさま哀なり。

六月廿五日。晴。後に隂。籾山梓月子書あり。晡下浅草大都劇場。帰途吾妻橋畔にて電車を待つ時その辺に徘徊する街娼多く巡査に捕へらるゝを見る。人だかりに交りて橋畔の派出所を窺ふに過日余に話しかけし女の姿も見えたり。

七月十二日。晴。午前高梨氏来話。小川氏映画用事にて来話。晩間浅草。仲店東裏通の洋食屋アリゾナにて晩食を喫す。味思ひの外に悪からず価亦廉なり。スープ八拾円シチユー百五拾円。


昭和二十七(1952)年 荷風散人年七十四

十一月初三。351 晴。朝八時島中氏新に買入れし自働車に乗りて迎ひに来る。朝十時まづ文部省人事課に至りそれより文化勲章拝受までの次第下お如し。坂下門より宮城に入り皇居表玄関エレベーターにて階上の一室に導かれ岡野文相次に吉田首相式部官某々氏等に紹介せられ勲章拝受の順序礼法の説明を受けし後別の広間に至り王座を拝す。王座の右側窓寄りに吉田首相左側に岡野文相立ち、吉田首相箱入の勲章及び辞令を手渡しせらる。
初の休憩室らしき一室に戻り係り式部官らしき人勲章の綬を解きて拝受者の襟元に結び付け、暫くして食堂に案内す。
食卓に着席者の名札置きてあり。余の直ぐ左の席は高松宮宣仁親王、其の左は陛下なり。右隣は梅原氏なり。酒は日本酒ばかり。献立はコンソンメー(肉汁)小海老甘鯛フライ、牛肉野菜煮。菓子は栗を入れたるプデンク。葡萄バナヽ。食事終り隣室にて珈琲と日本茶を喫して歓談す。熊谷博士結核のはなし。治療のはなし。朝永博士原子物理学のはなし。実験用機械の費用莫大なりと云ふはなし。辻博士親鸞上人一時実在の人物ならずとの妄説行はれしと云ふはなし。安井氏ロートレツクと鈴木春信板画のはなし。以上諸氏の談話面白かりし為余は別にまとまりし御話もせずに済みたり。平生訥弁の余はこれにてやつと重荷を卸せし思をなしたり。玄関外に出で新聞写真班の撮影ありて後初めの応接間にてまた日本茶を喫す。これにて勲章授与式は終る。午後三時なり。島中氏の自動車にて山王下の八百善に至る。相磯凌霜子川尻清潭氏久保田万太郎氏の来るを待ち晩餐会を開く。

 日本国天皇は永井壮吉に文化勲章を授与する
 昭和二十七年十一月三日皇居において璽を捺させる
 大日本
 国 璽
  昭和二十七年十一月三日
 内閣総理大臣  吉田茂[印]
 内閣総理大臣官房賞勲部長村田八千穂[印]
 第六五号


昭和三十二(1957)年 荷風散人年七十九

三月廿七日。392 晴。午前十時凌霜子小山氏来る。小林来る。十一時過荷物自働車来り荷物を載せ八幡町新宅に至る。凌霜子、小山氏の二人と共に新宅に至り、それより小林の三人にて運転の荷物を整理するに二時間程にて家内忽ち整理す。二氏午後三時頃去る。余一人粥を煮て食事をなす。

四月十八日。393 陰。後に晴。小林来話。菅野の旧宅明日買手の人に売渡し代金持参すべしといふ。正午過浅草。アリゾナ。


昭和三十四(1959)年 荷風散人年八十一

一月一日 404{旧十一月二十一日}雨。正午浅草。高梨氏来話。日本酒を贈らる。雨雪となる。

一月二日。404 雪後晴天。風なく暖なり。正午浅草に徃きて飯す。午後帰宅。

一月三日。404 晴。正午浅草アリゾナ。

一月四日。404 日曜。雨。後に陰。正午浅草。

一月五日。404 陰。後に晴。正午浅草。

一月六日。404 晴。正午浅草。帰宅後菅野湯。

一月七日。404 晴。正午浅草。

一月八日。404 晴。後に陰。正午浅草。

一月九日。404 旧十二月一日。陰。正午浅草。

一月十日。404 晴。正午浅草。

四月廿九日。409 祭日。陰。(了)

誤字脱字に気づいた方は是非教へて下さい。

これはネット上で永井荷風『断腸亭日乗』から入力・引用されてゐるものを集めて、岩波書店『荷風全集』(1993年以降)によつて、その日の欠けた内容を補つて完全なものにして、字句を修正し、私の好みに従つて他の日の日記を付け加へたものである。

2006.2 Tomokazu Hanafusa / メール

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