『梅松論』
作者不詳
現代語訳は
こちら。章分けと小見出しはこの現代語訳と同じである。
『梅松論』上
『梅松論』1
いづれの年の春にやありけん。二月廿五日を参籠の結願に定めて、北野の神宮寺毘沙門堂に道俗男女群集し侍りて、或は経陀羅尼を読誦し、或は坐禅観法を凝(ぎよう)し、或は詩歌を詠じけるに、
更に闌夜(らんや)(=深夜)にて、松の風、梅の匂ひ、いづれもいと神さびて、心澄み渡りけり。かくてしばらく念珠の隙(ひま)ありけるに、ある人の言はく、
「かゝる折ふし申せるははゞかりあれども、御存知ある方もやあると思ひ侍りて、多年心中の不審申すなり。しろしめす方もあらば、御物語あれかし。抑も先代(=北条高時)を亡ぼして、当代(=足利尊氏)御運を開かれて、栄曜他に越えたる次第委しくうけ給ひりたく候。誰にても御語り候へかし」
と申し侍りければ、やゝ静まりかへりて有りけるに、何がしの法印とかや申して、多智多芸の聞え有りける老僧進み出て申しける、
「年老ぬるしるしに、古よりの事ども聞置き侍りしをあらあら語申すべきなり。失念定めて多かるべし。それを御存知あらむ人々助言も候へ」と申されければ、本人は申すに及ばず、満座「これこそ神の御詫宣(=託宣)よ」と悦びの思ひをなして聞き侍りけるに、法印いはく、
『梅松論』2
- 日本武尊より源氏三代将軍まで -
爰(ここ)に「先代」といふは、元弘年中(1331-1334)に滅亡せし相摸(=相模)守高時入道のことなり。
承久元年(1219)より、武家の遺跡絶えてより以来、故頼朝卿後室二位禅尼(=北条政子)の計らひとして、公家より将軍を申し下りて、北条遠江守時政が子孫を執権として、関東において天下を沙汰せしなり。
将軍といふは、人皇十二代景行天皇の御時に、東夷起こる。御子日本武尊(やまとたけるのみこと)を以て大将軍としてこれを征伐し玉ふ。
同十五代神功皇后(じんぐうくわうごう)、自ら将軍として、諏訪住吉の二神相伴ひ給ひて三韓を平らげ給ふ。
同三十二代用明天皇の御宇、厩戸王子自ら大将として守屋大臣を誅せらる。
同三十九代天智天皇、大織冠鎌足を以て入鹿大臣を誅せらる。
同四十代天武天皇、自ら大将として大伴皇子を誅す。浄見原天皇(=天武天皇)これなり。
同四十五代聖武天皇、大野東人(おほのあづまひと)を大将として、右近衛少将太宰大弐藤原広嗣を誅せらる。松浦明神(=藤原広嗣)これなり。
同四十八代称徳天皇女帝、中納言兼鎮守府将軍坂上刈田丸を以て大将として、淡路廃帝并(なら)びに与党藤原仲麻呂を誅伐せらる。恵美押勝(=藤原仲麻呂)と号す。
同五十代桓武天皇、中納言兼鎮守府将軍坂上田村丸を遣して、奥州の夷、赤髪以下の凶賊を平らげらる。
同五十二代嵯峨天皇、鎮守府将軍坂上錦丸を以て右兵衛督藤原仲成(=藤原薬子の弟)を誅せらる。
同六十一代朱雀院の御宇、平貞盛・藤原秀郷両将軍を以て平将門を誅せらる。
同七十代冷泉院御宇、永承年中(1046-1053)に、陸奥守源頼義を以て安部貞任らを平げらる。
同七十二代白河院御宇、永保年中(1081-1084)に、陸奥守兼鎮守府将軍源義家を以て清原武衡・家衡を誅せらる。
同七十三代堀川天皇御宇、康和年中(1099-1104)に、因幡守平正盛を以て対馬守源義親(=義家の嫡男)を討たる。
同七十七代後白河院御在位の始め、保元元年(1156)に、御兄崇徳院と国論の時、下野守源義朝并びに安芸守平清盛を以て六条判官為義、右馬助平忠正らを誅せらる。
同七十八代二条院御宇、平治元年(1159)に、信頼・義朝ら大内(=御所)に引き籠もりしを、清盛一力を以て即時に討ち平らげて、天下静謐せしめき。
その功に誇て政務を恣にし、朝威を背き、悪逆無道なりしほどに、法皇潜かに院宣を下されしに依て、頼朝義兵を発して平家の一族らを誅伐せし叡感のあまりに、日本国中の惣追捕使、并びに征夷大将軍の職に補任せらる。御昇進、正二位大納言兼右近衛大将なり。当官補任の後、則ち両職を辞し給ふ。
正治元年(1199)正月十一日、病によりて出家。同十三日に御年五十三にて逝去す。治承四年(1180)よりその期に至るまで、天下治まりて民間の愁ひもなかりしに、
嫡子左衛門督頼家遺跡を続て、建仁二年(1202)にいたるまで関東の将軍なりしかども、悪事多きによりて、外祖父時政の沙汰として、伊豆国修善寺において子細あり。御年廿三。
次に頼家卿の舎弟実朝公、建仁三年(1203)より建保七年(1219)に改元承久、十七ヶ年の間、将軍として次第に昇進して、右大臣の右大将を兼ね給ふ。
同年正月廿七日戌刻に、鶴岡の八幡宮に御参詣の時、石橋において、当社の別当公暁〈頼家卿の子息〉討ち奉る。御年廿八。則ち討手を遣して、公暁を誅せらる。
この時に及んで、三代の将軍の遺跡絶えし間、人々の嘆き悲しむこと申すも中々愚かなり。これに依りて百余人出家す。
『梅松論』3
- 承久の変 -
しかる間、関東に将軍御座(おまし)なくては、いかゞあるべきとて、二位の禅尼(=北条政子)のはからひとして、同年承久元年(1219)二月廿九日、摂政道家公の三男頼経、二歳にして関東に御下向。御母太政大臣公経の御女なり。
嘉禄二年(1226)十二月廿九日、頼経八歳にて御元服あり。武蔵守平泰時(1183-1242)(=北条泰時)加冠たり。
去程に、武蔵守泰時・相摸守時房連署として政務を執り行ふ処に、同承久三年(1221)の夏、後鳥羽院御気色(=御考)として、関東を亡ぼさむために、先づ三浦平九郎判官胤義・佐々木弥太郎判官高重・同子息経高らを以て、六波羅伊賀太郎判官光季らを誅し、則ち官軍関東へ発向すべきよし、五月十九日、その聞え有る間、
二位の禅尼は、舎弟右京亮并びに諸侍らを召してのたまいしは、
「我なまじひに此命残りもて、三代将軍の墓所を西国の輩の馬の蹄にかけむこと、はなはだ口惜き次第なり。我存命してもよしなし。先づ尼を害してから君の御方へ参ずべし」と泣々仰られければ、侍共申しけるは、
「我ら皆、右幕下(うばつか)(=右近衛大将頼朝)の重恩に浴しながら、いかでか御遺跡を惜しみたてまつらざるべき。西を枕とし命を捨べきよし」各々申しければ、
同廿一日、十死一生の日(=大凶日)なりけるに、泰時并びに時房両大将として鎌倉を立ち給ふ。しかるに、泰時は父の義時に向ひて曰く、
「国は皆王土にあらずといふことなし。されば和漢ともに、勅命を背く者、古今誰か安全することなし。そのもと平相国禅門(=平清盛)は後白河院を悩まし奉りしかば、これに依りて故将軍頼朝卿潜かに勅命を蒙り、平家一類を誅伐ありしかば、忠賞官録残る処なかりき。
「就中、祖父時政を始としてその賞に預かる随一なり。しからば身にあたつて勅勘を蒙ること、嘆きても猶余りありて、たゞ天命逃れ難きことなれば、所詮合戦を止め降参すべきよし」をしきりに諫めける処に、義時やゝしばらく有りて曰く、
「この儀、尤(もつと)も神妙なり。但だ夫れは君王の御政道正しき時のことなり。近年天下の行ひを見るに、君の御政(まつりごと)古にかへて実をうしなへり。その子細は朝に勅裁ありて夕に改まり、一処に数輩の主を補へらるゝ間、国土穏やかなる所無し。
「禍(わざわひ)いまだ及ばざる所は、恐らく関東のはからひなり。治乱は水火の戦に同じきなり。此の如きの儀に及ぶ間、天下静謐の為たる間、天道に任せて合戦を致すべし。
「若し東士(=関東の武士)利を得ば(=勝利)、申しすゝめたる逆臣を給ひて重科に行ふべし。また御位においては、彼の院の御子孫を位につけ奉るべし。御迎ひあらば、冑を脱ぎ弓をはづし頭を延べて参るべし。これまた一義なきにあらず」
と宣ひければ、泰時をはじめとして東士は各々鞭を上げて三つの道を同時に責め上る。
東海道の大将軍は武蔵守泰時・相摸守時房、東山道は武田・小笠原、北陸道は式部丞朝時。
都合その勢十九万騎にて発向し、三つの道から同時に洛中に乱れ入りしかば、都門たちまちに破れて逆臣ことごとく討ち取りし間、院をば隠岐国に移し奉り、則ち貞応元年(1222)に、院の御孫後堀川天皇を御位に付け奉る。御治世貞応元年より貞永元年(1232)に至る十一ヶ年なり。
『梅松論』4
- 天皇・将軍・執権 -
次に四条院、天福元年(1233)より仁治三年(1242)に至るまで御治世十年なり。
次に後嵯峨天皇、寛元元年(1243)より同四年(1246)に至るまで御治世なり。
次に後深草院、宝治元年(1247)より正元元年(1259)に至るまで御治世十三年なり。
次に亀山院、文応元年(1260)より文永十一年(1274)に至るまで御治世十五年なり。
次に後宇田院、建治元年(1275)より弘安十年(1287)に至るまで御治世十三年なり。
次に伏見院、正応元年(1288)より永仁六年(1298)に至るまで御治世十一年なり。
次に持明院(=後伏見院)、正安元年(1299)より同三年(1301)に至るまで御治世なり。
次に後二条院、乾元元年(1302)より徳治二年(1307)に至る御治世六ヶ年なり。
次に萩原院(=花園天皇)、延慶元年(1308)より文保二年(1318)に至るまで御治世十一年。
後醍醐院、元応元年(1320)より元弘元年(1332)に至るまで御治世十三年。
次に当今の量仁(かずひと)(=光厳天皇)。また当今豊仁(とよひと)(=光明天皇)。
凡(およ)そ人皇始りて神武天皇より後嵯峨院の御宇に至るまで、九十余代にてまします。
次に治承四年(1180)より元弘三年(1334)に至るまで百五十四年の間、関東将軍家并びに執権の次第は頼朝・頼家・実朝、以上三代武家なり。また頼経・頼嗣、以上二代は摂政家なり。また宗尊・惟康・久明・宗邦、以上四代は親王なり。惣じて九代なり。
次に執権の次第は、遠江守時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時、以上九代・皆以て将軍家の御後見として政務を申し行ひ、天下を治め、武蔵・相摸両国の守(かみ)をもて職として、一族の中の器用を選び著して、御下文・下知等を将軍の仰せらるゝに依りて申し沙汰しける。
元三(がんさん)の垸飯(おうばん)、弓場始め・遅れの座・貢ぎ馬・随兵以下の役職の輩、諸侍共に対しては、傍輩の義を存す。昇進においては家督を徳崇(得宗)と号す。
従四品下を以て先途(=最高)として、遂に過分の振廻なくして、政道に専にして仏神を尊敬し、万民を憐れみ育みしかば、吹く風の草木をなびかすがごとくに従ひつきしほどに、天下悉く治まりて、代々目出度ぞ有りける。
『梅松論』5
- 受禅のこと -
然るに高時の執権は、正和五年(1316)より正中二年(1325)に至るまで十ヶ年なり。同じ正中二年の夏、病によりて落髪せられしかば、嘉暦元年(1326)より守時・維貞を以て連署なり。
是より関東の政道は漸く非義の聞え多かりけり。中にも殊更御在位のことを申し違へしかば、争(いかでか)天命背かざらん。
その故は昔より、受禅と申すは代々の帝禅を受け玉ひて、御在位の時は儲君(ちよくん)を以て東宮に立て給ひしかば、宝祚乱るゝことのなかりき。
粗(あらまし)往事を聞くに、天智天皇の御子大伴皇子を差し置き、御弟天武を以て御位を譲り奉り給ひしかば、御即位の望み無きよしを顕はさんがために{天武}吉野山に入り給ふ処に、大伴王子天武を襲ひ給ひける間、伊賀・伊勢に御出ありて大神宮を拝し玉ひて、官軍を駈催(かりもよふ)し、美濃・近江の境において合戦を決て、遂に大伴の乱を平らげて位に即き玉ふ。清見原天皇これなり。
次に光仁天皇譲りを受け給ふ。則ち子細あるによりて、宰相藤原百川卿を誅して(?)即位し給ふ。
次に嵯峨天皇の御在位の時、尚侍の勧めによりて平城(へいぜい)の先帝合戦(薬子の変)に及ぶといへども、桓武天皇の叡慮に任せて(=の通りに)嵯峨天皇御在位を全うし給ふ。
次に文徳天皇の御子惟高・惟仁御気色(=寵愛)何もわきがたきに依りて、御即位のこと天気(=天皇の気持)御計らひ難き間、相撲競馬雌雄決して、その勝ちにまかせて清和御門御禅を受け玉ひける。
保元に鳥羽崩御ありて、十ヶ日のうちに崇徳上皇と御兄弟(=後白河)御位争ひありしかば、勅命に任せて洛中に陣を取り、合戦に及ぶといへども、天のよるに任せて、終に主上御位を全うし給ひて、崇徳院は讃岐国に遷り奉り、院宣を受けし源平の軍士悉く誅せらる。
次に高倉院は賢王にてましましければ、御在位のほどは天下安全にて宝祚久しかるべき所に、安徳天皇三歳にして御即位し給ひける。これは外祖父清盛禅門の計らひなり。剰(あまつさ)へ天下の政務を恣にせしほどに、則ち天に背しなり。
次に承久に後鳥羽院、世を乱し給ひしに依りて隠岐国に移し奉る。御孫後堀川天皇を関東より御位につけ奉る。皆一旦御譲りの障害たりといへども、遂に正義に帰するなり。
『梅松論』6
- 持明院統と大覚寺統の分立 -
爰に後嵯峨院、寛元年中(1243-1247)に崩御の刻、遺勅に宣はく、
「一の御子後深草院御即位あるべし。降りゐの後は長講堂領百八十ヶ所を御領として、御子孫永く在位の望みをやめらるべし。次は二の御子亀山院御即位ありて、御治世は累代敢て断絶あるべからず。子細有るに依りてなり」と、御遺命あり。
これに依りて、後深草院御治世、宝治元年(1247)より正元元年(1259)に至るまでなり。次に亀山院の御子後宇多院御在位、建治元年(1275)より弘安十年(1287)に至る迄なり。
後嵯峨院崩御以後、三代は御譲りに任せて御治世相違なき所に、後深草の院の御子伏見の院は一の御子の御子孫なるに、御即位ありて正応元年(1288)より永仁六年(1298)に至る。次に伏見院の御子持明院(=後伏見天皇)、正安元年(1299)より同三年(1301)に至る。
この二代は関東のはからひよこしまなる沙汰なり。然る間、二の御子亀山院の御子孫御鬱憤あるに依りて、またその理(ことわり)に任せて後宇多院の御子後二条院御在位あり。乾元元年(1302)より徳治二年(1307)に至る。
またこの君非義(=早死)有るに依りて、立ち返り後伏見院の御弟萩原新院(=花園天皇)御在位あり、延慶元年(1308)より文保二年(1318)に至る。
また御理、運に帰す。後宇多院の二の御子後醍醐御在位あり、元応元年(1319)より元弘元年(1331)に到る。
此の如く、後嵯峨院の御遺勅相違して、御即位転変せし事、併せて(=全て)関東の無道なる沙汰に及びしより、「いかでか天命に背かざるべき」と、遠慮ある人々の耳目を驚かさぬはなかりけり。
『梅松論』7
- 両統の対立 -
抑も一の御子(=後深草院)の御子伏見院御在位の比(ころ)、関東へ潜かに連々(つぎつぎ)仰せられていはく、
「亀山院の御子孫御在位連続あらば、御治世の威勢を以てのゆえに、諸国の武家、君を擁護し奉らば、関東遂に危うからむものなり。
「その故は、承久に後鳥羽院隠岐国へ移し奉りし事、安からぬ叡慮なりしを、彼院深く思し召されて、やゝもすれば天気関東を討亡し治平ならしめむ趣なれども、時節いまだ到来せざるに依りて今に到るまで安全ならず。
「一の御子後深草院の御子孫においては天下のためにとて、元より関東の安寧を思し召し候所なり」
と仰せ下されける程に、之に依りて、関東より君を恨み奉る間、御在位の事においては一の御子後深草院、二の御子亀山院の両御子孫、十年を限りに打替々々御在位あるべきよし計らひ申す間、
後醍醐院の御時、当今の勅使には吉田大納言定房卿、持明院(=後伏見院)の御使には日野中納言の二男の卿、京都鎌倉の往復再三におよぶ。
勅使と院の御使と両人関東において問答事多しと雖も、定房卿申されけるは、
「既に後嵯峨院の御遺勅に任せて、一の御子深草院の御子孫、長講堂領を以て今に御管領ある上は、二の御子亀山院の御子孫は累代相違あるべからざる所に、関東の沙汰として度々に及んで転変、更にその期(=限り)を得ず。
「当御子孫御在位の煩ひ常に篇(=言葉)に絶す。篇を尽し申さるゝといへども、以て同篇たる上は是非にあたはざるよし、再三仰せ下さるゝによつて、二の御子の御子孫後醍醐御禅を受け給ひて、元応元年(1319)より元弘元年(1331)に至る御在位の間、今においては後嵯峨院の御遺勅治定の処に、元徳二年(1330)に持明院(=後伏見院)の御子(=後の光厳天皇)が立坊の義なり。以ての外の次第なり。
『梅松論』8
- 元弘の乱 -
「凡そ後醍醐院、我が神武の以往(=以後)を聞くに、凡下(ぼんげ)として天下の位を定め奉る事を知らず。且つは、後嵯峨院の明鏡なる遺勅を破り奉る事、天命いかむぞや。たやすく御在位十年を限りに打替々々あるべき規矩を定め申さむや。
「しかれば持明院統十年御在位の時は、御治世と云ひ、長講堂領と云ひ、御満足あるべし。当子孫空位の時は、いづれの所領をもて有るべきや。
「所詮持明院の御子孫既に立坊の上は、御在位十年の間は長講堂領を以て十年亀山院の御子孫に進ぜらるべしよし」
数ヶ度道理を立て問答に及ぶといへども、是非なく持明院の御子の光厳院(量仁親王)立坊の間、後醍醐院逆鱗にたへずして、元弘元年(1331)の秋、八月廿四日、潜かに禁裏を御出有りて山城国笠置山へ臨幸あり。
卿相雲客少々供奉し、畿内の軍兵等を召され催さるゝの間、天下の騒ぎ申すも愚かなり。
是によりて、六波羅の駅使鞭を上げて鎌倉に下着、行程三ヶ日。則ち軍兵数万騎雍州(=京)に発向せしむ。
官軍無勢なりし間、果して{後醍醐院は}武士の手に移し奉りて、また洛中へ還行ありしかば、六波羅の南の方を以て皇居として押し籠め奉る。
同年関東の両使(=正式な使者)上洛して、今度君に与力し奉る卿相雲客以下与党の罪を糾明して、所犯の軽重にまかせて罪名を定めて、翌元弘二年(1332)、後醍醐院を以て先帝と申し奉り、承久の後鳥羽院旧規にまかせて隠岐国へ遷幸なし奉るべしよし治定する間、御所以下用意のために、当国の守護人佐々木隠岐守清高先達て渡海しけり。
『梅松論』9
- 隠岐遷幸1 -
{後醍醐院}京を御出、元弘二年(1332)三月七日午時なり。御幸は六波羅より六条河原を西へ、大宮を下にぞ成し奉る。御先には洛外にて召さるべき四方輿をかゝせらる。
都の中は御車下簾(したすだれ)を懸けられて、武士共関東の命に任せて前後を囲み奉る。次に准后三位局(=藤原廉子)、その外狩装束の女房、馬上に両三人。殿上人には六条少将忠顕、後には千種(ちくさ)殿と号しける、一人閑道を供奉す。
東寺の南の大門において、御車を金堂の方に向て時刻を移さる。御祈念かと思ひしかば叡慮推し図られて、これを拝し奉る貴賎魂を消し泪を流し帰る家路を忘る。
凡そ普天の下いづくも君の民にあらずといふことなけれども、御身に替て止め奉る者もなし。蒼天霞覆ひて夕日影を隠し、紅錦繍の地色を失なふ。花もの言はざれども愁ひの顏ばせ顕しければ、浅ましなども言ふばかりなし。
翌日八日、一の宮〈尊良〉は讃岐国へ、妙法院の宮〈尊澄〉(=宗良親王)は土佐国へ遷し奉るべきよし定りける程に、彼国の守護人各々請け取り奉りて、都を出させ給ひける事の躰ども、日月地に落ちると申すもこの時にやとぞおぼえし。
光陰既に移り来て廿余年に成ぬれば、見おきし事ども思ひ出すにつけても、千行の泪袖をうるほし、筆の海、詞の林を尽くしても、争(いかでか)その時の悲しみには及ぶべき。
昔より上として下を賞罰する事こそあれ、一人御遠行の例は未だ承らず。「恐ろし」とぞ人申しける。
保元には崇徳院を讃岐国へ移し奉る。これは今度の事には准ずべからず。その故は御兄弟御位争ひ給ひしかば、御弟後白河院の御計ひとして其沙汰に及びしなり。
承久には後鳥羽院を隠岐国に遷し奉り、是また今度に比すべからず。その故は、忠有りて科(とが)なき関東三代将軍家の遺跡を滅ぼさるべき天気あり。依りて下を責め給ひしかば、天道の与へざる理(ことわり)に帰して、遂に仙洞(=上皇)を隠岐国へ遷し奉る。然りと雖もなほ武家は天命を恐れて御孫の後堀川天皇を御位に付け奉る。「神妙の沙汰なり」とぞ人皆申しける。
今度は後嵯峨院の御遺勅を破りて、此の如きの儀に及ぶ条、天命も計り難し、いかゞ有るべからんと覚えし。この君御科なくして遠島に移され給ふ、叡慮のほど図り奉りて、御警固の武士どもは皆涙を流さぬはなかりけり。
『梅松論』10
- 隠岐遷幸2 -
かくて御旅の日数数十余日を経て、御座船出雲国三尾の浦に着給ふ。当津に仮に有りける古き御堂を一夜の皇居とす。君がいまだ六波羅に御座の時、板屋に時雨のはらはらと過ぎけるを聞こしめして、
住みなれぬ板屋の軒の村時雨 聞くにつけても濡るゝ袖かな
とありし御製だにも忝なかりし御事なるに、ましてこの皇居さこそと思ひやり奉りて、頻りに哀れを催さぬ者ぞなかりけり。
田舎の習ひなれば、人の詞も聞知り給はず。あらあらしきにつけても都を思し忘るゝ時の間もなく、さなきだに、御ねざめがちなる夜もすがら、浦波こゝもとに立ち騒ぐを御枕をそばだてゝ聞き給ふに、行人征馬のいそがはしげに行きかよふに付けても、昔の須磨の寝覚め、王昭君が胡地に赴きける馬上の悲しび、思召し残すかたもなし。
少しもまどろませ給はねば都に帰る御夢もなし。去程に夜も明けしかば、供奉の人に仰せられけるは、「是より大社へはいかほどあるやらん」と御尋ね有りければ、
「道はるかにへだたり候」由申し上げたりければ、武士共に向て勅して宣く、
「汝ら知るや。この御神をば素戔嗚尊(すさのおのみこと)と申すなり。むかし稲田姫を娶りて、日の川上の大蛇を命に替て是を殺して釼を得、姫を偕(ともな)ひて宮作して、八雲立といへる三十一字の詠を残して今に跡をたれ給ふ。朝家の三種の宝の中に第一の宝釼は此御神の得給ひしぞかし」とて御泪せきあへずして龍顔誠に御愁ひある躰なり。
次の日頓(やが)て御舟に召されしかば、御送の輩も同じ三尾の津より暇を申して留まりける。去年の冬上洛せし関東の両使も下向す。
『梅松論』11
- 隠岐脱出 -
その後は世の中何事となく静ならず。かゝる所に、先帝(=後醍醐院)の御子山の座主にておはしける大塔の宮御還俗ありて、兵部卿親王護良(もりなが)とぞ申しける。
去年君笠置山へ入せ給ひし時は、大和国半西より御座のよし聞えしかども、御在所分明ならざりしが、多武峰(たふのみね)吉野法師を相語ひ給ひて、御会稽を雪がるべきむね様々聞こえしかば、畿内静ならざる所に、
同年元弘二年(1332)の冬、楠兵衛尉正成といふ勇士叡慮を請(う)けて、河内国に金剛山千波屋(ちはや)と云ふ無双の要害を城郭に搆へて、錦の御旗を上しかば、去年笠置へ向たりし東士ども重ねて上洛して、
翌年の春、大将軍(=二階堂貞藤)奈良路を経て、先づ吉野へ発向して大塔宮を攻め落し奉り、則ち村上彦四郎義暉(よしてる)を討ち取りて、その勢すぐに金剛山に向ひて城を囲む。
数万の軍兵武略を尽すといへども、究竟の要害に強弓精兵多く籠る間、寄手命を落とし、疵を蒙るもの幾千万といふ数をしらず。
東士利を失ふ時分不思議成りし事は、隠岐国において守護人清高、去年の春より一族等詰番して御所を警固し奉る所に、佐々木富士名三郎左衛門尉と云者、常に龍顔に近付き奉り綸言に応じけるが、天の授くる心にや有りけむ、君を盗み出し奉る。
千種忠顕朝臣同じく供奉せられて御座船に召し、うき島をば出させ給ひぬれども、御船を寄すべき汀(みぎは)もなければ、行衛も知らぬ流れの上に漂よはせ給ひけり。叡慮の程いたはしさ縦(たとへ)て申さむ方ぞなき。水よく舟を浮かべ、水また舟を覆すと云事も今こそ思し召しあはせられけむ。
御敵只今も君を襲ひ奉らば、玉躰も危ふく思し召しける所に、御後より守護人清高兵船千余艘、速きこと矢を射るが如くにて御船に目をかけて追付き奉るほどに、皆人色を失へり。
然る間かたじけなくも御船を仕(つかまつ)りける男に勅して宣はく、
「汝敵の船を恐るゝ事なかれ。急ぎ漕ぎ向ひて釣をたるべし。異国の太公望は渭浜(いひん)で釣をたれしに、文王車の右に乗せて帰りしなり。ゆめゆめ恐れるゝ事なかれ」と仰出だされければ、此男今をかぎりと思へども、勅命の趣に身を忘れて釣を垂れけるに、
敵御船に進み寄りて「怪しき船やある」と云ひければ、「左様の舟は今朝出雲路を指して帆を上げたりしが、順風なれば、いかにも渡海しぬらむ」と答へけるほどに、
敵御船を見たれば、烏賊(いか)と云ふもので玉躰を埋隠し奉る程に、是をば思ひもよらず「疑ふべきにあらず」とて兵船ども漕ぎ過ぎけるこそ目出度けれ。
併(あは)せて君兼ねてより諸仏諸神、殊には伊勢・石清水・加茂・平野・春日廿二社を御祈念有りて種々の御願を立てられける故に、思し召しまゝに御渡海あり。
清高が船は出雲国三尾の浦に着きて、一族佐々木孫四郎左衛門高久、当国の守護人たるにより、「国中の軍勢を催して与力すべきよし」清方申遣したりけれ共、彼高久返事に及ばず。これはかねて綸旨を給ひし故なり。
『梅松論』12
- 船上山 -
去程に御座船は伯耆国奈和庄野津郷と云所に着き給ふ。御船仕りける男申して云く、
「此所に奈和又太郎と申す福裕な仁候。一所において討死仕るべき親類の一二百人も候らん。御頼候ふて御覧候へかし」と申し上げれば、
やがて「汝しるべ仕れ」とて、彼者を先に立て勅使忠顕朝臣を遣されて一向頼み思召るゝ趣なり。この奈和又太郎と申すは後には伯耆守長年(=名和長年)が事なり。勅使、長年が門外によりて此旨仰せられければ、宿所へ入れ奉り、
長年、「君はいづくに渡らせ給ふぞ」と申しければ、「いまだ御船に御座(おまし)のよし」を返事せられければ、「彼仁しばらく相待ち給へ」とて、内に入り馬に鞍置いて引出して忠顕朝臣を乗せ奉り、我身は鎧を着し、兄弟子供五十余人歩行(かち)にて御迎に参りけり。
私を皇居になし奉るべけれ共、要害の地にあらずとて家に火をかけて当国の船上山といふ所へ御馬にて成し奉る。山険阻なり。柴など折り敷きて、餉飯(そうはん)(=乾飯)を供御にそなふ。
その間に、面々着たりけ物を引割きて、縄を作て御輿に召させ舁(か)き奉り、山の頂に仮御所を作りて皇居とせり。その夜も明けしかば、錦の御旗を上げたりければ、近所の人々国人ら馳せ参ず。
翌日佐々木隠岐守清高三百余騎にて当山の麓に押寄せたりけるに、長年が親類身命を捨て終日攻め戦ふ間、寄手軍勢数輩討ち捕はれ、疵を蒙る者多かりければ引き退き畢(をはんぬ)。
然る間出雲・伯耆両国の輩一人も残らず君の御方に参りければ、清高力尽き果てゝ出雲国に帰りて舟に乗り、若狭・越前心ざして海上に浮びけり。既に此事風聞しける間、山陽・山陰十六ヶ国の軍兵悉く君の御方に参る。
併せて天与へ奉るとぞ覚えし。伝へ聞く、越王勾踐、師(いくさ)に討負けて呉王の為に囚まれしかども智臣范蠡(はんれい)が謀を廻らして囚囲を遁れて、会稽山に戦ひて呉国を亡す事、偏に范蠡の遠慮によれり。「会稽の恥を雪る」とは、是より申ならはせり。呉王夫差滅びけるは、伍子胥とて賢才にして文武相兼ねたる忠臣の謀し事を用ひざるゆえなり。
然るに、君今度隠岐国を出給ひし事は知臣の謀にもあらず。ただ天の与へ奉るにて有りける。
『梅松論』13
- 足利高氏の上洛 -
去年の春の遷幸の時、天下の貴賎関東の重恩にあづかる者も君の御遠行を見奉りて、心ある人の事は申すに及ばず、心なき山男・賎女(やまのお・しづのめ)にいたるまでも麻の袖を濡らし、悲しまぬはなかりける。いかにも宝祚安寧ならん事をぞ人々祈念し奉ける。
かゝりける所に、播磨国赤松入道円心(=則村)以下畿内近国の勢残らず君に参じける事、是偏に只事にあらず。
遂に還幸を待ち請け奉りて元弘三年(1333)三月十二日二手にて鳥羽・竹田より洛中に攻め入る処に、六波羅の勢馳せ向かひて、合戦をいたし追ひ返す。
これに依りて京都よりの早馬関東へ馳せ下る間、当将軍尊氏重て討手として御上洛。御入洛は同四月下旬なり。
元弘元年(1331)にも笠置城退治の一方の大将として御発向ありしなり。今度は当将軍の父浄妙寺殿(=足利貞氏)御逝去一両月の中なり。未だ御仏事の御沙汰にも及ばず、御悲涙にたへかねさせ給ふ折節に大将として都に御進発あるべきと高時禅門申す間、此上は御異議に及ばず御上洛あり。
凡そ大将たる仁躰もだしがたしといへども、関東今度の沙汰然る可らず。これに依りて深き御恨みとぞ聞えし。一方の大将は名越尾張守高家。これは承久に北陸道の大将軍式部丞朝時の後胤なり。両大将同時に上洛ありて、四月廿七日同時にまた都を出給ふ。
将軍(=尊氏)は山陰・丹波・丹後を経て伯耆へ御発向あるべきなり。高家は山陽道・播磨・備前を経て同じく伯耆へ発向せしむ。船上山を攻めらるべき議定有りて下向の所、久我縄手において手合の合戦に大将名越尾張守高家討たるゝ間、当主の軍勢戦に及ばずして悉く都に帰る。
『梅松論』14
- 六波羅攻め -
同日将軍(=足利尊氏)は御領所に丹波国篠村に御陳(=陣)を召る。抑も将軍は関東誅伐の事、累代御心の底に挟(さしはさま)るゝ上、細川阿波守和氏・上杉伊豆守重能、兼日(=あらかじめ)潜かに綸旨を賜て、今御上洛の時、近江国鏡駅において披露申され、
「既に勅命を蒙らしめ給ふ上は、時節相応天命の授くる所なり。早々思し召し立つべきよし」再三諌め申されける間、当所篠村の八幡宮の御宝前において既に御旗を上げらる。
柳の大木の梢に御旗を立られたりき。是は春の陽の精は東より兆し始む。随て「柳」は「卯の木」なり。東を司りて王とす。武将もまた卯(=東)の方より進発せしめ給ふて、順に西に巡りたる相生の夏の季に朝敵を亡ぼし給ふべき謂なり。
しかる程に京中に充満せし軍勢共御御方に馳せ参ずる事雲霞のごとし。則ち篠村の御陳を嵯峨へ移され、近日洛中へ攻寄らるべきよし其聞えあり。都にては去三月十二日より十余度の合戦に打負けて六波羅を城郭に搆へ皇居として軍兵数万騎楯籠(たてこも)る。
かゝる所に去春より楠兵衛尉正成の金剛山の城を囲みし関東の大勢一戦も功をなさず利を失ふ処に、「将軍(=足利尊氏)既に君に頼まれ奉り給て近日洛中へ攻め入り給ふよし」金剛山へ聞えければ、諸人驚き騒ぐこと斜めならず。
かゝるに付きても関東に忠を存ずる在京人并びに四国西国の輩、弥(いよいよ)思ひ切りたる事の躰、誠に哀れにぞおぼえし。
去ほどに五月七日卯刻(=午前六時頃)将軍の御勢嵯峨より内野に充満す。先陳は神祇官を前にあてゝ東向きに控へ、六波羅勢は白河を上りに経て、二条大宮を隔て西向きにひかへたりしかば、
辰のとき計(ばか)りに(=午前八時頃)両陳互に進み合て上矢(うはや)の鏑響き渡り、時の声聞こゆるほど有りし。入り乱れて互に今日を最後と相戦けり。馬の足音・矢叫びの音、天にも響き地も動く計りなり。
入替々々数ヶ度に及ぶ間、命を落とし疵を蒙るもの数を知らず。中にも将軍の御内(みうち)役等、五郎左衛門尉(=設楽氏)真先駆けて討死して忠節の心を顕はしけるこそ哀れなれ。
未の時計りに(=午後二時頃)大宮の戦破れて六波羅勢引き退く。御方の下の手は作路(=鳥羽作道)竹田より攻め入りける。九条辺りに数ヶ所にみえて、方々の寄手洛中へ乱れ入ければ、六波羅勢は城郭に引き籠りけり。その中に家を思ひ名を惜しむ勇者共は駆け出て戦し程に、七日は暮しけり。
『梅松論』15
- 六波羅の滅亡 -
去ほどに御方には「此大勢にて時刻を移さず城郭を囲み悉く討ち取るべきよし」諸人諌め申しける処に、細川阿波守(=和氏)申されけるは、
「しかの如くならんには敵思ひ決りて御方多く損ずべし。一方を明けて没落せしめば、敗軍になりては御退治たやすかるべきよし」申しける間、尤も然る可しとて一方を明けられけり。
かゝりし程に城の内に多く心替りして将軍の御方へ参じける。両六波羅の北の方は越後守仲時(=北条仲時)、南の方は越後親衛時益(=北条時益)、相談して云く、
「我等命を殞(おと)さば同じくは帝都に屍をさらさむ事、尤も本意なれども、それは私の義なり。当所皇居たる間、討死自害せしめば、禁裏仙洞の御為然る可らず。先づ行幸を洛外に成し奉りて関東の合力をば相待ち、または金剛山を囲める勢共に事のよしを通じて合戦を致すべし。然らば二たび洛中に攻め入らむこと、時刻廻すべからず」
と此よしを奏し聞え申しければ、勅答には「宜しく武家の心に任すべきよし」仰せ出ださる間、七日の夜半に六波羅を御出有りて、苦集滅路(くずめぢ)を経て東に趣きて勢多の橋をも渡りしかば、野路辺りにて天既に明けぬ。
供奉の卿相雲客はならはざる山路の深き夏草の露を分け入らせ給へば、涙もともに争ひて、いとゞ御袖濡れまさりける。かゝる処に守山辺より野伏(のぶし)ども山野に走り散りて敗軍を追ひ詰めけるほどに、討ち取られ疵を蒙る者数を知らず。
その夜は近江国観音寺を一夜の皇居とす。翌日五月九日、東へ心ざして落ち行く処に、同国番場の宿の山に先帝(=後醍醐院)の御方と号して近江・美濃・伊賀・伊勢の悪党ども旗を上げ、楯をつき並べて海道をさし塞ぎ責め戦ふ。
同七日は洛中において合戦をいたし、明日八日は野伏どもに討ち洩らさるゝ輩、馬疲れて進む事を得ずといへども、名を惜しむ兵共は戦ひ暮らしけるが、
「逃るべき所も無かりしかば恐れながら仙洞(=上皇)を害し奉り各々討死・自害仕るべしよし」一同申しければ、大将仲時いはく、「我等命を生きて君を敵に奪はれんこそ恥なるべけれ。命を捨て後は何事か有るべき」とて、酉の時計に(=午後六時頃)自害する間、従ふ輩数百人、同じく命を落とす。
南方の時益七日夜四宮河原にて流矢に当たりて死去しけるを、家子頭を取りて当所に持来けるを、北方仲時これを一目見て自害せし程に、彼時同じく腹切る者の名字共を番場の道場(=蓮華寺)に記し置ければ、世の知る所なり。
『梅松論』16
- 新田義貞の鎌倉攻め -
当所の軍破れしかば、禁裏仙洞には先帝後醍醐院已に都に入り給ふとぞ聞えし。此事金剛山へ聞えければ、正成が城に向ふ大勢、囲みを解きて南都へ引き返し、彼軍勢ども進退迷惑する処に、
「京都には六波羅を攻め落とし将軍(=足利尊氏)御座の処に、勅命を蒙り給ひて、関東を誅伐せしむべきよし」を、御教書(=命令書)を諸士に成下されける程に、早々馳せ参ず。
これに依りて正成討手の大将阿曾弾正少弼(=時治)・陸奥右馬之助(=大仏高直)・長崎四郎左衛門尉、奈良にて出家して降参しけるを即禁せらる。
去程に将軍は君に頼まれ奉り給ふよし関東へ聞えければ、皆色を失ふ事斜めならざる処に、五月中旬に上野国より新田左衛門佐義貞、君の味方として当国世良田(せらだ)に討出て陣を張る。是も清和天皇の御後胤陸奥守義重・陸奥新判官義康の連枝なり。
潜かに勅を承るに依りて義貞一流の氏族皆打立けり。先づ山名・里見・堀口・大館・岩松・桃井、みな一人当千にあらずといふ事なし。
然間、当国守護長崎孫四郎左衛門尉、即時に馳せ向ひて合戦に及といへども既に上野の輩残らず義貞に属するにこそ、相支ふるに及ばず引き退く間、義貞多勢を引率して武蔵国に攻め入る間、当国の軍勢も悉く従付けるほどに、五月十四日、高時、弟左近将監入道恵性(=北条泰家)を大将として武蔵国に発向す。
同日山口の庄の山野に陣を取りて、翌日十五日分配・関戸河原(=分倍河原と関戸河原)にて終日戦けるに命を落とし疵を蒙る者幾千万といふ数を知らず。
中にも親衛禅門(=北条泰家)の宗徒の者ども、安保左衛門入道道潭(だうたん)(=泰実)・粟田・横溝ばら最前討死しける間、鎌倉勢ことごとく引退く処、則ち大勢攻めのぼる間、鎌倉中の騒ぎ、只今敵の乱入たらんもかくやとぞおぼえし。
三つの道へ討手をぞ遣されける。下の道の大将は武蔵守貞将(=金沢氏)むかふ処に、下総国より千葉介貞胤、義貞に同心の義ありて責め上る間、武蔵の鶴見の辺において相戦けるが、これも打負けて引き退く。
武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき千代塚において合戦を致しけるが、是もうち負けて一足も退かず自害す。南條左衛門尉并びに安久井入道一所にて命を落とす。
陸奥守貞通(=北条氏)は中の道の大将として葛原において相戦ひ、是も寄せ手の軍侶手しげく戦ける程に、本間山城左衛門以下数輩打死しける程に、また打負け引き退きし間、
『梅松論』17
- 鎌倉幕府の滅亡 -
五月十八日の未刻ばかりに(=午後二時頃)義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼き払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、あはてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。
高時の家人諏訪・長崎以下の輩命を捨て防ぎ戦ける程に、当日の浜の手の大将大館(=宗氏)稲瀬川において討取らる。その手引退て霊山の頂に陳を取る。同十八日より廿二日に到るまで、山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦の鬨の声・矢叫び・人馬の足音暫しも止む時なし。
さしも人の敬ひなつき富貴栄花なりし事、おそらくは上代にも有りがたくみえしかども、楽尽きて悲来る習ひ遁れがたくして、相摸守高時禅門、元弘三年(1333)五月廿二日葛西谷(かさいのやつ)において自害しける事悲しむべくも余りあり。一類も同じく数百人自害するこそあはれなれ。
爰に不思議なりしは、稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける。
然間に鎌倉は南の方は海にて三方は山なり。嶺続きに寄せ手の大勢陳を取りて麓におり下り。所々の在家に火を放ちしに、いづかたの風もみな鎌倉に吹き入りて、残所なくこそ焼き払はれける。天命に背く道理明らかなり。
治承に右幕下(=源頼朝)草創より以来、天にせぐくまり地に抜き足して、上を尊び下を恵み、政道の法度・騎射の日記を定めおきて国を治めしかば、狼煙たつ事なく、家々戸ざしを忘れて楽栄えて久しかりしに、時刻到来にや。
元弘三年(1333)の夏、時政の子孫七百余人同時に滅亡すといへども、定め置きける条々は今に残り、天下を治め弓箭の道をたゞす法と成りけるこそ目出度けれ。
扨(さて)も関東誅伐の事は義貞朝臣その功をなす所に、いかゞ有りけむ、義詮(=尊氏の嫡男)の御所四歳の御時、大将として御輿に召されて、義貞と御同道にて関東御退治以後は二階堂(=永福寺)の別当坊に御座有りしに、諸将悉く四歳の若君に属し奉りしこそ目出度けれ。是実に将軍にて永々万年御座有るべき瑞相とぞ人申しける。
爰に京都よりは細川阿波守(=和氏)・舎弟源蔵人(=頼春)・掃部介(=師氏)兄弟三人、関東追討の為に差下さるゝ所に、路次において「関東はや滅亡のよし」聞え有りけれども、猶々下向せらる。
かくて若君を補佐し奉るといへども鎌倉中連日空騒ぎして世上穏やかならざる間、和氏・頼春・師氏兄弟三人、義貞の宿所に向ひて、事の子細を問尋ねて、勝負を決せんとせられけるに依りて、義貞野心を存ぜざるよし起請文を以て陳じ申されし間静謐す。その後一族悉く上洛有りける。
『梅松論』18
- 建武の新政 -
去程に京都には君伯耆より還幸なりしかば、御迎へに参られける卿相雲客、行粧花をなせり。今度忠功を致しける正成・長年以下供奉する武士その数知らず。宝祚は、二条の内裏なり。保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として政務を恣にせしかども、元弘三年(1333)の今は天下一統に成しことこそ珍しけれ。
君の御聖断は延喜・天暦の昔に立帰りて、武家安寧に比屋(=軒並)謳歌し、いつしか諸国に国司守護を定め、卿相雲客各々その位階に登りし躰、実に目出度かりし善政なり。
武家楠(=正成)・伯耆守(=名和長年)・赤松(=則村)以下、山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいひつべし。
御聖断の趣五幾七道八番に分けられ、卿相を以て頭人として新決所と号して新たに造らる。是は先代引付(ひきつけ)(=記録や資料の管理・作成)の沙汰のたつ所なり。
大議(=重要なこと)においては記録所において裁許あり。また侍所と号して土佐守兼光・太田大夫判官親光・富部大舎人頭・三河守師直(=高師直)らを衆中して御出有りて聞こし召し、昔のごとく武者所を置かる。
新田の人々を以て頭人にして諸家の輩を結番(けちばん)(=交代勤務)せらる。古の興廃を改めて、「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」とて新なる勅裁漸く聞えけり。
大将軍(=足利尊氏)の叡慮不双にして御昇進は申すに及ばず、武蔵・相摸その他数国の守を以て、頼朝卿の例に任せて御受領有り。
次に関東へは同年の冬、成良(なりなが)親王征夷将軍として御下向なり。下御所左馬頭殿(=足利直義)供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩大略励し奉りて下向す。鎌倉は去夏の乱に地払ひしかども、大守(=直義)御座有りければ、庶民安堵の思ひをなしけり。
爰に、京都の聖断を聞き奉るに、記録所・決断所を置かるゝといへども、近臣臨時に内奏を経て非義を申し断る間、綸言朝に変じ暮に改まりしほどに諸人の浮沈、掌を返すがごとし。
或は先代滅亡の時に遁げ来たる輩、また高時の一族に被官の外は、寛宥の義を以て死罪の科を宥らる。また天下一統の掟を以て安堵の綸旨を下さるゝといへ共、所帯を召さるゝ輩、恨みを含む。
時分公家に口ずさみあり、「尊氏なし」といふ詞を好み使ひける。抑も累代叡慮を以て関東を亡されし事は、武家を立らるまじき御為なり。然るに直義朝臣大守として鎌倉に御座ありければ、東国の輩これに帰服して京都へは応ぜざりしかば、
「一統の御本意、今においては更にその益無し」と思し召しければ、武家よりまた公家に恨みを含み奉る輩は、頼朝卿のごとく天下を専らにせむ事をいそがしく思へり。故に公家武家水火の諍ひにて元弘三年(1333)も暮れにけり。
『梅松論』19
- 護良親王の幽閉 -
翌年、改元ありて建武元年(1334)なり。元三節会(せちえ)以下の儀式、雲客花の袂(たもと)を連ね、昔に返る躰なり。然ども世中の人々心も調はず。よろづ物騒がしく見えしかば、此ままにてはよもあらじと恐ろしくぞ覚えし。
去程に、兵部卿親王護良・新田左金吾義貞・正成・長年、潜かに叡慮を請けて打立こと度々に及ぶといへども、将軍に付き奉る軍勢その数をしらざる間、合戦に及ばゞ難儀たるべきによりて、已に師有るべき日、先づ事を延ん為に、無異の躰にて北山殿へ臨時の行幸度々に及びしなり。
かやうの事に付きても洛中穏やかならざる時分、三月上旬関東に本間と澁谷が一族先代方(=北条方)として謀叛を興し、相摸国より鎌倉へ寄せ来る間、渋川刑部大輔義季を大将として、極楽寺の前に馳せ向ひて責め戦ふ事数刻ありしに、凶徒打負けぬ。
此事京都へ注進申したりし程に、去年召し置かれし金剛山の討手の大将、阿曾霜台(=時治)・陸奥右馬介(=大仏高直)・長崎四郎左衛門尉、辺土において誅せらる。是は本間・澁谷が謀叛に依りてなり。
その後もなほ京中騒動して止むときなし。中にも建武元年(1334)六月七日、兵部卿親王(=護良親王)大将として将軍の御前に押し寄せらるべき風聞しける程に、
武将の御勢御所の四面を警固し奉り、余の軍勢は二条大路充満しける程に、事の躰大義に及ぶ(=大事になつた)によつて、当日無為になりけれども、将軍より憤り申されければ、
「全く叡慮にはあらず、護良親王の張行(ちやうぎやう)(=強行)の趣なり」し程に、十月廿二日の夜、親王御参内の次(ついで)を以て、武者所に召し籠め奉りて、翌朝に常磐井殿へ遷し奉り、武家輩警固し奉る。
宮の御内(みうち)の輩をば、武家の番衆、兼日(=あらかじめ)勅命を蒙りて、南部・工藤を初めとして数十人召し預けられける。同十一月、親王をば細川陸奥守顕氏請取り奉りて、関東へ御下向あり。思ひの外なる御旅の空申すもなかなか愚かなり。
宮の御謀叛、真実は叡慮にてありしかども、御科(とが)を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞ聞えし。宮は二階堂(=永福寺)の薬師堂の谷に御座有りけるが、「武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ」と御独言有りけるとぞ承る。
『梅松論』20
- 中先代の乱 -
かくて建武元年も暮れければ、同二年(1335)、天下弥(いよいよ)穏やかならず、同年七月の初め、信濃国諏訪の上の宮の祝(はふり)・安芸守時継(=諏訪氏)が父三河入道照雲(=頼重)・滋野の一族等、高時の次男勝寿丸を相摸次郎(=北条時行)と号しけるを大将として国中をなびかすよし、守護小笠原信濃守貞宗京都へ馳せ申す間、
御評定にいはく、「凶徒木曽路を経て尾張黒田へ打出べきか。しからば早々に先づ御勢を尾張へ差し向けらるべき」となり。かゝる所に凶徒早や一国を相従へ、鎌倉へ攻上る間、渋川刑部・岩松兵部(=経家)、武蔵安顕原において終に合戦に及ぶといへども、逆徒、手しげくかかりしかば、渋川刑部・岩松兵部両人自害す。
重ねて小山下野守秀朝、発向せしむといへども、戦難儀に及びし程に、同国(=武蔵)の府中において秀朝をはじめとして一族家人数百人自害す。
これに依りて七月廿二日下御所左馬頭殿(=足利直義)、鎌倉を立ち御向ひ有りし。同日薬師堂谷の御所において兵部卿親王(=護良親王)を失ひ奉る。御痛はしさは申すもなかなか愚かなり。
武蔵の井の出沢において戦ひ暮らしけるに、御方の勢多く討たれし程に俄に海道を引き退き給ふ。上野親王成良(なりなが)、義詮六歳にして同じく相伴ひ奉る。
手越の駅に御着有りし時、伊豆駿河の先代方寄せ来る間、扈従の輩無勢といへども、武略を廻して防ぎ戦ふ処に、当国の工藤入江左衛門尉、百余騎にて御方に馳せ参じて忠節を致しける程に、敵退散しけり。則ち宇津谷を越えて三河国に馳せ付き給ひて人馬の息を休め給ふ。
爰に細川四郎入道義阿(=頼貞)、湯治の為にとて相摸の川村山に有りける所へ、息陸奥守顕氏の方より是迄無異(=無事)に御上洛の由使節を遣しけるに、
「我敵の中にありながら、一功をなさゞらんも無念なり。また存命せしめば面々心元なく思ふべし。所詮一命を奉り、思ふ事なく子孫に合戦の忠を致さすべし」とて使の前にて自害す。
此事将軍聞こし召され、殊に御愁嘆深かりき。誠に忠臣の道といへども、武(たけ)くも哀れ成し事なり。さればにや合戦の度毎に忠功を致し、{後に}帯刀先生(たてわきせんじやう)直俊(=細川氏)・左近大夫将監将氏ら討死す。
天下静謐の後、彼義阿の為とて、子息、奥州洛中の安国寺・讃州の長興寺を建立せられ、命一塵よりも軽くして没後にその威上られし事有りがたき事なりとぞ人申しける。
『梅松論』21
- 足利尊氏の鎌倉下向 -
扨、関東の合戦の事、先達て京都へ申されけるに依りて、将軍御奏聞ありけるは、「関東において凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責め入る間、直義無勢にして防ぎ戦ふべき智略なきによりて、海道に引き退きしその聞え有る上は、暇を給ひて合力を加ふべき」旨、御申度々におよぶといへども、勅許なき間、
「所詮私にあらず、天下の御為のよし」を申し捨て、八月二日京を御出立あり。此比公家を背き奉る人々その数を知らずに有りしが、皆喜悦の眉を開きて御供申しけり。
三河の矢矧に御着ありて京都・鎌倉の両大将(=尊氏・直義)御対面あり。今当所を立ちて関東に御下向あるべきところに、先代方の勢遠江の橋本を要害に搆へて相支へる間、先陳の軍士阿保丹後守、入海(=浜名湖)を渡して合戦を致し、敵を追ひ散らしてその身疵を蒙る間、
御感のあまりにその賞として家督安保左衛門入道道潭(=北条方、既出)が跡を拝領せしむ。これを見る輩、命を捨てんことを忘れてぞ勇み戦ふ。
当所の合戦を初めとして同国佐夜の中山・駿河の高橋縄手・筥根山(=箱根)・相摸川・片瀬川より鎌倉に至る迄、敵に足を溜め(=止め)させず、七ヶ度の戦ひに討勝ちて、八月十九日鎌倉へ攻入り給ふとき、
諏訪の祝(はふり)父子、安保次郎左衛門入道道潭が子自害す。相残る輩或は降参し或は責め落とさる。
去程に七月の末より八月十九日到迄廿日余、彼相摸次郎(=北条時行)再び父祖の旧里に立帰るといへども、いく程もなくして没落しけるぞ哀れなる。
鎌倉に討ち入る輩の中に曾て扶佐する古老の仁なし。大将と号せし相摸次郎も幼稚なり。大仏・極楽寺・名越の子孫共、寺々において僧喝食(かつじき)(=寺の稚児)になりて適(たまたま)身命を助かりたる輩、俄に還俗すといへ共、それと知れたる人なければ、烏合梟悪(けうあく)の類共、功をなさゞりし事、誠に天命に背く故とぞ覚えし。
これ(=相摸次郎)を中先代とも廿日先代とも申すなり。
『梅松論』22
- 鎌倉占拠 -
去程に将軍御兄弟鎌倉に打入り、二階堂の別当に御座ありしかば、京都より供奉の輩は勲功の賞に預かることを悦び、また先代与力の輩は死罪・流刑を宥められしほどに、先非を悔いていかにも忠節を致さむ事を思はぬ者こそなかりけれ。
京都よりは人々、親類を使者として東夷誅罰を各々賀し申さる。また、勅使中院蔵人頭中将具光朝臣関東に下着し、「今度東国の逆浪を速やかに静謐すること叡感再三なり。但軍兵の賞においては京都において綸旨を以て宛行ふべきなり。先づ早々帰洛あるべし」となり。
勅答には大御所(=尊氏)「急ぎ参るべきよし」御申しありける所に、下御所(=直義)仰せられけるは、
「御上洛然るべからず候。その故は相摸守高時滅亡して天下一統になる事は、併せて御武威によれり。しかれば頻年(=毎年)京都に御座ありし時、公家并びに義貞隠謀度々に及といへども、御運によつて今に安全なり。たまたま大敵の中を逃れて関東に御座然る可き」旨を以て、
堅諌め御申有けるのよつて、御上洛を止められて、若宮小路の代々将軍家の旧跡に御所を造られしかば、師直(=高師直)以下の諸大名屋形、軒を並べける程に、鎌倉の躰を誠に目出度ぞ覚えし。
今度両大将に供奉の人々には信濃・常陸の欠所を勲功の賞に充て行はるゝ処に、義貞の討手の大将として関東へ下向のよし風聞しける間、先づ義貞の分国(=領地)上野の守護職を上杉兵庫禅門(=憲房)に任ぜらる。是を拝領して用意のために国に下る。
かゝりしほどに京都伺候の親類代官共は急ぎ京都へ上り、関東に忠を存ずる仁はまた京都より逃げ下る間、海道上下の輩俄に織綺のごとく、建武二年の秋冬より世上敢て穏やかならず。
『梅松論』23
- 新田義貞の下向 -
去程に数万騎の官軍関東に下向するよし聞えければ、高越後守(=高師泰)を大将として大勢を差し添へて海道に遣さる。
師泰に仰せられけるは、「先づ三河国に下りて矢作川を前に当て、御分国(=高師直の領地)たる間、駈け催して当国の軍勢を相待つべし。努々(ゆめゆめ)川より西へ馬を越すべからず」と将軍の命を請けて、当所に陳を取る処に、
爰に義貞大勢にて河の西の岸に陳を取る。両三日相支へて雌雄いまだ決せざる処に、東士三手に分かれて、先づ上下の手は河を渡りて、西の岸において火を散らして相戦ければ、中の手は両陳共に進まざりけるに、剰(あまつさへ)中の手義貞の陳より堀口大炊助(=貞満)と云ける者乗出て、四角八方を討てめぐり、武略を尽くして戦ける。
西の陳より河を渡して合戦難儀に及ける間、師泰引き退いて、その後遠江の鷺坂・駿河の今見村において相支ふといへども、爰も防ぎ難かりければ、
ここに依りて建武二年(1335)十二月二日下御所数万騎を率して、同五日、手越河原に馳せ向ひて終日入り乱れて戦ける。人馬の足音は百千の雷の地に落るかと疑はれ、剣戟の閃きけるは雷のごとし。恐ろしなむどもいふ計りなし。
かゝりしほどに、討死手負ひ数を知らず御方利を失ひし間、武家の輩多く降参して義貞に属す。名字はゞかがあるによつてこれを書かず。
然間下御所は箱根山に引き籠もり、水呑(みずのみ)を堀り切りて要害として御座ありけるに、仁木・細川・師直・師泰以下残らず一人当千の輩陳を取る。
将軍は先日勅使具光朝臣下向の時、「帰洛あるべきよし」仰せられし処に、御参なき条、御本意にあらざる間、此事に付いて深く嘆き思し召されて仰せられけるは、
「我龍顔に昵近(じつきん)し奉りて、勅命を請けて恩言といひ、叡慮といひ、いつの世いつの時なりとも、君の御芳志を忘れ奉るべきにあらざれば、今度のこと条々御所存にあらず」と思し召ける故に、
政務を下御所に御譲りありて、細川源蔵人頼春并びに近習両三輩計(ばかり)召し具て潜かに浄光寺に御座し有りし程に、
『梅松論』24
- 竹の下・佐野山・伊豆の国府の合戦 -
海道の合戦難儀たるよし聞こし召して将軍仰せられけるは、「守殿(=直義)命を落とされば我ありても無益なり。但違勅の心、中においてさらに思し召さず。是正に君の知る処なり。八幡大菩薩も御加護あるべし」
先達て諸軍勢をば向けられしかど御遠慮ありけん、小山・結城・長沼が一族をば惜しみ止めらる。
この輩は治承のいにしへ頼朝義兵のとき、最前に馳せ参じて忠節を致したりし小山下野大掾藤原政光入道の子供の連枝の人の子孫なり。曩祖(だうそ)(=先祖)武蔵守兼鎮守府将軍秀郷朝臣(=藤原秀郷)、承平に朝敵平将門を討ち取りて子々孫々鎮守府将軍の職を蒙りし五代の将軍の後胤なり。累代武略の誉を残し、弓馬の家の達者なり。
その勢二千余騎仰せを蒙りて将軍の先陳として建武二年(1334)十二月八日鎌倉を御立ありければ、諸人箱根の御陳に加て御合力あるべきと思ふ処に、将軍謀に仰せられけるは、
「我水呑に至り、その敵を支ふる計りにて利を得ること有るべからず。此あら手を以て箱根山を越えて発向せしめ合戦を致さば、敵驚き騒がむ所を誅伐せん事案の内なり」とて、
同十日の夜、竹の下道、夜をこめて天の明るを待つほどに、辰(=東南東)の一点に一宮(=尊良親王)・新田・脇屋(=新田義貞と弟の脇屋義助)の大将として、「恋せば痩せぬべし」と詠ぜし足柄の明神の南なる野に控へたり。
御方の先陳は山を下りて野山にうち上るに、坂の本にてかけ合ひ戦ひしに、敵こらへずして引退く所を、御方勝ちに乗て三十余里攻め詰めて藍沢原において爰を限りと戦ひしに、
敵数百人討取る間、御感にたへずして武蔵の太田の庄を小山の常犬丸に充て行はる。これは由緒の地なり。また常陸の関の郡を結城に行はる。今度戦場の御下文(くだしぶみ)初めなり。
是を見聞く輩、命を忘れ死を争ひて勇み戦はむ事をおもはぬ者ぞなかりける。「香餌の下には懸魚あり。重賞の処には勇士あり」といふ本文これなりけりとぞ覚えし。
翌日十二日京勢駿河に引退き佐野山に陳を取る処に、大友左近将監(=貞載)官軍してその勢三百余騎にて下向したりけるが、「御方に参らすべきよし」申しける間、
子細あるまじき(=問題ない)旨{尊氏}仰せられける程に、当所の合戦矢合せの時分に御方に加はりて合戦の忠節を致しければ、敵陳早く破れて二条中将為冬をはじめとして京方の大勢討たれぬ。
この為冬朝臣は将軍の御朋友なりしかば、彼頭を召し寄せ御覧ありて御愁傷の色深かりき。
その夜は雨ふりしかば、伊豆の国府を見下ろして山野に御陳を召さる。昨日今日の軍に御方討勝し間、御勢雲霞のごとし。
通夜の雨なりしに、明くる十三日晴れ間をも待たずして伊豆の国府に攻め入給ふ処に、義貞以下の輩水呑の陳を引き打ちて通夜没落しけるが、三島明神の御前を過ぎて海道へ出る時分に御方馳せ合て、辰巳二時の間(=午前六時頃より午前八時頃迄)合戦ありし。
鬨の声・矢叫び戦ひ合ひけるゑいや声、六種震動にことならず。爰において畠山安房入道討死す。義貞残勢わづかにして富士川渡しけるとぞ聞えし。
『梅松論』25
- 足利尊氏の上洛 -
味方は竹の下・佐野山・伊豆の国府、三ヶ日の合戦に打勝て、敵大勢で、今日十三日足柄・箱根の両大将(=尊氏・直義)一手に成て、府中より車返し・浮島原に到るまで陳を取らずといふことなし。
いろいろの幕を引き、思ひ思ひの家の紋旗立並べて、風に飄したる有様幾千万といふ数を知らず。
去程に翌十四日御逗留有りける儀に云ふ、「是より両将鎌倉に御帰りありて関東を御沙汰有るべきか」、また一議に云ふ、「縦ひ関東を全くし給ふとも、海道京都の合戦大事なり、しかじたゞ一手にて御立ちあるべし」と有りければ、同十五日、海道に向かひ給ふ。
浮島原に出給ひしに、ころは十二月半ばの事なりしかば、不二のね麓野に至るまで深雪積もりてまことに天山には弁へず。いづれの年の雪かとぞ覚えし。去る五日手越河原の合戦の時分、京方に属したりし輩、不二河にて降参す。
昔より東士が西に向かふ事、寿永三年(1184)には範頼・義経、承久には泰時・時房、今年建武二年(1335)には御所高氏・直義、御三ヶ度なり。御入洛何の疑ひかあらむとぞ勇み悦びあひける。
去りながら海道は山河の間に足掛かりの難所に付き、合戦治定(=必ず)有るべしと覚えし処に、天龍川の橋をつよくかけて渡し守を以て警固す。
「この河は流れ早く水深き間、ゆゝしき大事なるべきに橋をば誰か沙汰して渡したりけるぞ」と尋ねられしかば、渡守共云ふ、
「この間の乱に我らは山林に隠忍候て、舟どもをば所々に置て候ひしに、新田殿当所に御着ありて、『河には瀬無し、敗軍なれども大勢なり。馬にて渡すべきにあらず。また舟を以て渡さば遅くして、味方を一人なりとも失はむこと不便なるべし。急ぎ浮き橋をかくべし。難渋せしめば汝らを誅すべし』御成敗候ひし程に、両三日の間に橋をかけ出して候なり。
新田殿は御勢を夜日五日渡させ給ひて一人も残らずと見えし時、新田殿御渡り候しなり。
その後軍兵共この橋をやがて切り落すべきよし下知せしとき、義貞橋の中より立ち帰りて大いに御腹を立てられて、我等を近く召されて仰せふくめられ候しは、
『敗軍の我等だにも掛けて渡る橋、いかにも切り落としたりとも、勝ちに乗たる東士、橋を懸けんこと日をめぐらすべからず。凡そ敵の大勢に相向ふ時に、御方小勢にて川を後にあてゝ戦ふ時にこそ、退まじき謀に舟を焼き橋を切るこそ武略の一の手だてなれ。
『義貞が身として、敵とても懸けて渡るべき橋を切り落として、急に襲はれしをあはてふためきけるといはれん事、末代に至るまで口惜しかるべし。よく橋を警固仕れ』とて静かに御渡り候しなり。この故に御勢を待奉りて、橋を守り候なり」と申しければ、
是を聞人皆々涙を流して、「弓矢の家に生れば誰もかくぞ有るべけれ。疑なき名将にて御座有りける」とて、義貞を感じ申さぬ人ぞなかりける。
『梅松論』26
- 京都の陥落 -
去程に、将軍の御方には関東八ヶ国并びに海道の輩一人も残らず属し奉る間、美濃・近江になりしかば、軍勢山野村里に充満して、人馬足を立るに所なし。
さる程に京方の山法師(=比叡山の僧)道場坊阿闍梨宥覚山徒千余人を相語らひて、国人案内者たるにこそ、江州伊岐代(いきしろ)官を俄に搆へて引き籠もる。是は関東勢を当国に支へて御敵の興勢を以て後詰をせさせむと謀なる間、
則ち武蔵守師直(=高師直)を大将として大勢を率して、建武二年(1335)十二月卅日に彼城に押し寄せて一夜のうちに攻落す。この所野路の宿より西、湖の端なれば、討ち洩らされたる者共は舟に乗りて落行けるとぞ聞えし。
去程に御手分けあり。勢田は下御所大将、副将軍は越後守師泰、淀は畠山上総介(=畠山高国)、芋洗は吉見三河守、宇治へは将軍御向ひあるべきなり。
京方の瀬田の大将は千種宰相中将(=忠顕)・結城太田大夫判官親光・伯耆守長年なり。瀬田は正月三日より矢合はせとぞ聞えし。将軍は日原路を経て宇治へ御向あり。
去る元弘三年(1333)御一統の時、北畠亜相禅門(=北畠顕家。亜相は大納言の唐名)、准后腹の三の宮(=義良親王、後村上天皇)を懐き奉りて出羽陸奥両国を守として管領ありしほどに、五十四郡の軍勢を率して後詰の為に不破の関を越えて向ふよし聞えけり。
京方宇治の討手の大将義貞、橋の中二間引きて、櫓・掻楯(かいだて)を上げて相支へけり。
同八日の夕、橋の中櫓の下において、結城の山河の家人野木与一兵衛尉并びに童二人が一人当千の武略を顕して戦し程に、将軍御感の余りに御腰の物を直ちに両人に給ひし事、生々世々の面目とぞ見えし。
しかる間、後ろは川をへだてゝ日夜矢軍(やいくさ)なりける所に、細川卿公定禅を大将として、赤松入道円心、その外四国・中国の間にかねて御教書を給ふ輩数を知らず、摂津国・河内国辺りに馳せ着ける間、
同九日酉の刻(=午後六時頃)将軍の御陳へ申しけるは、「明日十日午刻以前に山崎の京方を打破て煙を上ぐべし。同時に御合戦あるべし」と申し定めて、
天の明を遅しと待ちかけて、定禅・円心・国人、同く城戸口に押し寄せて攻め戦ひけるが、案の如く十日の午の刻計りに山崎を打ち破りて久我鳥羽に攻め入り火を上げしかば、
所々京方皆逃げ上る間、同十日の夜{後醍醐院}山門へ臨幸ある。則ち内裏焼亡しけり。近比は閑院殿より以来は是こそ皇居の御名残なりしに、こはいかにと驚き悲しまぬ人ぞなかりけり。同時に卿相雲客以下、親光(=結城氏)・正成・長年が宿所も片時の灰燼となりしこそ浅ましけれ。
伝へ聞く秦の軍破れて咸陽宮・阿房宮を焼き払ひけるは、異朝のことなればおもひはかりなり。寿永三年(1184)平家の都落ちもかくやとおぼえて哀れなり。
『梅松論』下
『梅松論』27
- 結城親光の討死 -
建武三年(1336)正月十一日午刻に将軍都に責め入り給ひて、洞院殿公賢(きんかた)公の御所に御座有りしに、降参の輩注す(=名前を書く)に暇あらず。
かゝりける所に、結城太田大夫判官親光が振廻、誠に忠臣の儀をあらはしければ、見る人は申すに及ばず、聞き伝ける族までも讃(ほ)めぬ者こそなかりけり。
十日の夜山門に臨幸の時、{親光}追ひ付き奉て馬より下り冑を脱ぎ、御輿の前に畏(かしこま)り申しけるは、
「今度官軍鎌倉近く責め下りて泰平を致すべき所に、さもあらずして天下此の如く成行く事は、併せて大友左近将監が佐野において心替りせし故なり。迚(とて)一度は君の御為に命を奉るべし。御暇を給りて偽りて降参して、大友と打違てへ死を以て忠を致すべし」とて、
思ひ切て下賀茂より打帰りけれども、龍顔を拝し奉らむ事も今を限りと存じければ、不覚の涙鎧の袖をぞ濡らしけり。君も遥かに御覧じ送りて、頼母敷も哀れにも思し召されければ、御衣の御袖をしぼり給ひける。
さる程に東寺の南大門に大友が手勢二百余騎にて打出でたり。親光が一族益戸下野守家人一両輩召し具て、残る勢をば九条辺りにとどめ置いて、大友に付いて降参のよしを偽りて言ひければ、
大友子細に及ばずとて樋口東洞院の小河を隔て、うち連れて行きけるに、大友申しけるは、「将軍の御陳近く成候はゞ、法にて候。御具足を預り申さん」と云ひければ、
親光、「我等御方に参らば頓て一方をも仰せ蒙りて忠節を致すべきに、戦場において具足を進む(=差出す)事面目なしといへども、御辺(=貴殿)を頼み奉るうえは、恥辱になさぬやうに計らひ給へ」とて、
帯たる太刀を指し上げて、河を西へかけ渡す(=渡る)。その時子細なく大友「御対面のあと進ず可きのよし」云ひて太刀を受け取らんとする所に、さはなくて馳せ並びて抜き打ちに切る間、
大友すきをあらせず、むずと組むで、親光はその場にて討たる。同く親類一所にて十余人引き組み引き組み討死す。大友は目の上を横ざまに切られたりけるが、大事の手(=負傷)なりければ鉢巻にて頭をからげ輿にのりて、親光が頭を持参しける事の躰、誠にゆゝしくぞ見えし。
彼の樊於期(はんおき)(=秦の将軍)予譲(=晋の刺客)が事は遥かに聞く計なり。近くは親光が忠節を尽くしける最後の振舞、昔も今も有難ぞ覚えし。されば弓矢に携るの人々は皆「天晴(あつぱれ)勇士なり。誰もかくこそありたけれ」とて、涙を流し讃ぬ者こそなかりけれ。
同く益戸下野守も討死す。大友は翌日に死す。敵出し抜く所にて心早く打ち合て即時に討ち取り、その身も将軍の御為に命を捨てける振舞、縦へていはむ方ぞなかりける。
『梅松論』28
- 洛中の合戦・その1 -
去程に正月十三日より三ヶ日の間、山田矢橋の渡船にて宮(=義良親王)并びに北畠禅門(=顕家)、出羽・陸奥両国の勢ども雲霞のごとく東坂本に参着しければ、頓て大宮(=日吉神社)の彼岸所を皇居として三塔(=比叡山の東塔、西塔、横川)の衆徒残らず随ひ奉る。
三井寺は元より御方なりける程に、園城寺(=三井寺)を焼き払ふべきよし聞えければ、合力の為に荒手(=新手)なればとて、細川の人々を大将として四国・中国の軍勢正月十六日払暁に発向しければ、
同時に義貞を大将として、両国(=出羽・陸奥)の勢は北畠殿(=親房)の子息国司顕家卿に随て三井寺に向かふ。
大道と浜端と二手にて数刻責め戦ふ所に、三井寺の衆徒の手(=軍勢)より破れて、則ち当寺焼き払て武家の勢悉く京中へ引き返す。是によりて両大将(=尊氏・直義)二条河原に打ち立ち給ふ。
御勢、上は糺の森(たゞすのもり)(=下鴨)、下は七条河原まで来し所に、午の時計に粟田口の十禅師の前より錦の御旗に中黒(=新田の紋)の旗さし添て、義貞大将として三条河原の東の岸に西に向ひて控へたり。
御方は大勢にて鶴翼のかこみをなし、数千騎の軍兵旗を虚空に翻し、時の声天地を驚かし、互に射る矢は雨のごとし。剣戟を掛けるにいとまあらず。入り乱れて戦ひし程に、人馬の肉むら山のごとし。河には紅を流し、血を以て楯を浮かべし戦も是には過ぎじとぞ覚えし。
官軍には千葉介、義貞一人当千の船田入道(=義昌)・由良左衛門尉をはじめとして千余人討取らる。御方にも手負ひ討死多かりける。
暮に及んで宮方負軍に見えしとき御方勝ちに乗じて責め戦しに、義貞自ら旗を指し、親光が父結城白河上野入道(=宗広)と共に千余騎にて返し合ひ返し合ひ、
白河の常住院の前へ中御門(なかみかど)河原口を懸けし時は、何たまるべしとも見えざりし処に、小山・結城一族二千余騎にて入れ替て火を散らして戦し程に、敵討負けて鹿の谷の山に引き上りしが、残りずくなにぞ見えし。是は十六日酉の(=午後六時頃)終なり。
敵の上野入道も御方の小山・結城も共に一族なりし程に、互に名乗り合て戦し間、討死両方百余人、敵も御方も同家の紋なれば、小筋の直垂を着たりしが、後々の合戦には定めて御方打ちあるべしとて、小山・結城の勢は右の袖を割きて冑にぞ付けたりける。
同十七日両侍所、佐々木備中守仲親・三浦因幡守貞連、三条河原にて頭の実検ありしかば千余とぞ聞えし。
去程に官軍は山上(=比叡山)雲母坂(きららざか)・中霊山(なかりようぜん)より赤山社(=赤山禅院)の前に陳を取る。御方は、糺河原を先陳として京白河に満ちみてり。
『梅松論』29
- 洛中の合戦・その2 -
同正月廿七日辰刻(=午前八時頃)に敵二手にて河原と鞍馬口を下りにむかふ所に、御方も二手にて時を移さず掛け合て、入れ替て数刻戦しに、御方討負けて河原を下りに引き返しければ、敵利を得て手重く懸かりける。
両大将御馬を進められて思召し切りたる御気色見えし程に、勇士ども我も我もと御前に進みて防戦し所に、上杉兵庫禅門を始めとし三浦因幡守、二階堂下総入道行全、曾我太郎左衛門入道、所々に返り合ひ返り合ひて打死しける間に、河原を下りに、七条を西へ桂川を越えて御陳を召さる。彼人々命を捨て忠節を致しけるこそ有難けれ。
去程に御方大宮を下りに作道(つくりみち)を山崎へ一手にて引き返し、
爰に先立ちて、「千本口(=(鞍馬口の西側))を下りに敵むかふべし」とて、細川の人々大将として四国勢内野の右近馬場(=北野神社南東)に扣(ひか)へて相待つ所に、爰には敵向はずして、下京に烟あまた所に見えて、時の声しきりに聞えければ、細川の人々中御門を東へ向かふ所に、
河原口にて錦の旗指したる大勢に懸け合ひて追ひ散し、旗指し討ち取りて旗を奪ひ取り、西坂本まで責め詰めて、仮内裏焼き払ひ勝鬨作りて河原を下りに行く所に、また大勢二条河原より四条あたりまで支へたり。
御方かと見る所に義貞以下宗徒の敵扣へたる間、細川定禅兄弟(=顕氏)が喚き叫んで懸りし程に、この勢も散々に散らされて粟田口・苦集滅路に趣きてぞ落ち行ける。
洛中に充満しける敵共悉く追ひ払ひて、七条河原にひかへて両大将を尋ね申すところ、在地の者共云ひけるは、「御方の御勢は二手にて、一手は七条を西へ、一手は大宮を南へ、作道をさして引き給ひける」と申しければ、細川の人々急ぎ桂川を馳せ渡りて、
亥刻計(=午後十時頃)に御陳に参て「京中の敵追ひ払ひたるよし」申されける間、則ち打ち立て七条を東へ入らせ給ひしに、同じ河原にて夜明けしかば廿八日なり。
さしも御方の大勢洛中を引き退しに細川の人々が相残りて敵を打ち散らしければ、御感再三なり。されば忝くも御自筆の御書を以て錦の御直垂を兵部少輔顕氏(=細川)に送り給ふなり。
「弓矢の面目何事か是にしかん」とて見聞の輩いよいよ忠を尽くし命を軽くしけるとかや。その比、卿公定禅(=細川)をば鬼神のやうにぞ申しける。
去程に同日の申の時計(=午後四時頃)にまた山の勢、神楽岡を下るあいだ、御方の軍兵馳せ向ひて責め戦し程に、
越前国住人白河小次郎、義貞と号して討て頸を取る。赤威の鎧をはぎ取りて持来る間、諸人大慶の思ひをなす所に、これは義貞にてはあらず、葛西の江判官三郎左衛門が頸なり。存日(=生前)に義貞に顔色骨柄少しも替らず、赤威の鎧を着たりけるを、聞こゆる義貞重代の鎧薄金と同毛なる間、一旦大将討取たりとて御方の喜びけるも断り(=理)なり。
翌日廿九日は合戦無し。一昨日山崎へ引き退きし御方少々帰参しける。
『梅松論』30
- 播磨落ち -
同じ正月晦日の夜半計より糺河原の合戦初まりて、今日を限りと戦しかども、御方の軍破れて二階堂信濃判官行周(ゆきちか)討ち死す。
去年(=建武二年)八月の初め、武将(=尊氏)東夷を静めむ為に都を御出ありて、相摸次郎・諏訪の祝以下退治の間、海道の所々の合戦致して鎌倉に御下向の同じ冬、君と臣との間に御心よからざる事ありて、矢矧川(=矢作川)の戦より東士利を失ひて箱根に籠りしが、また足柄の合戦より御方が勝ちし程に、そのまま責め上りて洛中に乱れ入り、雌雄両年に及ぶ間、弓折れ矢尽き、馬疲れ人気を失ひし故に御方の戦敗れて、その日の夕に丹波の篠村に御陳を召さる。
翌(あく)る建武三年(1336)二月朔日、猶都に攻め入るべきその沙汰ありといへども、「退きて功をなすは武略の道なり」とて、細川の人々・赤松以下西国の輩を案内者として申されけるは、「先づ御陳を摂津の国兵庫の島(=大輪田の泊=神戸港)に移されて、当所の船を点じて、兵粮等人馬の息をつがせて、諸国の御方に志を同くして同時に都に責め入るべし」とて、
三草山通に播磨のいなみ野に出て、同二月三日兵庫の島に御着有る所に、赤松入道円心参て申しけるは、
「当所は要害の地にあらず。御座痛敷(いたましく)候。両大将をば円心が摩耶の城に移し奉り、軍勢は当津に陳を取るべし。兵庫と摩耶の間五十町のよし」申す所に、ある勇士の云ふ、
「円心が意見その儀なきにあらずといへども、これは当御陳計りの御用心の義なり。去年より天下二つに分かれて、諸国に敵御方対面して勝負を決せぬ国多かるべし。一夜にても両大将城に御座あらば、遠方に聞及んでは、敵は利を得て御方は力を落とすべし。始終の利こそ大切なれ。何ぞ御陳摩耶に移されがたきもの」と申しければ、その時円心、
「当所は要害にあらざるに依りて愚意の及ぶ所を申し上げ候計りなり。更に諸国のこと思ひもよらず。遠方の聞え尤も大切なる間、たとへ城に御座候へ共御出有るべきにこそ候べけれ」と赤松この儀に同じければ、当所御陳に定めらる。
去程に、先度御教書を給る周防の守護大内豊前守(=長弘)・長門の守護厚東入道(=武実)両人、兵船五百艘当津に参じたりければ、この荒手を以て都に責め登るべしとて二月十日兵庫を御立ち有りける所に、
宮方にも楠大夫判官正成、和泉・河内両国の守護として摂津の国西宮浜に馳せ合ひて、追ひつ返しつ終日戦ひて両陳相支ふる処に夜に入りて如何思ひけむ正成没落す。
『梅松論』31
- 尊氏の九州落ち・その1 -
翌日十一日細川の人々大将として周防長門の勢を相随へて責め上る間、義貞は同国(=摂津)瀬川の河原にて駆け合ひて、爰を限りに責め戦ける程に、細川阿波守和氏の舎弟源蔵人頼春は深手を負給ひけり。合戦在るにしそむじて、両陳を取りて相支へ、人馬の息をぞ継がせける。
かゝりける所に、夜更けて赤松入道円心潜かに将軍の御前に参りて申しけるは、
「縦へこの陳を打破りて都に責め入るといふとも、御味方疲れて大功をなし難し。しばらく御陣を西国へ移されて軍勢の気をもつがせ、馬をも休め、弓箭干戈の用意をも致して重て上洛あるべき歟。
「凡そ合戦には旗を以て本とす。官軍は錦の御旗を先立つ。御方は是に対向の旗無きゆえに朝敵に相似たり。所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば、先代滅亡以後定めて叡慮心よくもあるべからず。急に院宣を申し下されて錦の御旗を先立てらるべきなり。
「去年御合戦に御方利を失し事は、大将軍(=金星)西の方に有りしゆえに、関東より御発向の時毎度戦の利なかりしなり。然りといへども御運に依りて御上洛相違なし。今西国より責め上り候はゞ洛中の大将軍の方に向ふべき間、旁(かたがた)御本意を達せらるべし。
「先づ四国へは細川の一家下向あるべし。中国・摂津・播磨両国をば円心ふまゆべきなり。鎮西のことは太宰筑後入道妙恵(=少弐貞経)が子(=頼尚)・三郎将監二人今に供奉す。先達て妙恵御教書給ふ間、定めて忠節を致すべし。
「大友左近将監が去る七月京都にて親光(=結城)が為に討死にす。家督千代松丸は幼少の間、一族家人数百人当陳に祗候す。
「中国・四国・九州の軍勢を相随へて季月(=三ヶ月)のうちに御帰洛何の疑ひかあらん。先づ摩耶城の麓に御座あるべし」と再三忠言を申しける程に、夜半計りに瀬川の御陳を退て十二日卯刻(=午前六時頃)に兵庫に入御有り。
然ると雖も、下御所は尚立帰りて摩耶の麓に御座ありければ、いかにも都にむかひて命を捨つべき御所存なりしほどに、将軍御問答頻りに有りしに依りて兵庫に御帰りあり。
同く酉時計(=午後六時頃)より、船共誰乗り始むとなかりしかども、大勢込乗ける有様あはたゞしかりし事共なり。
然ると雖も、昔治承に頼朝義兵の始め、石橋の合戦に打負けて真鶴が崎より御船に召されし時は、土肥次郎実平・岡崎四郎美実以下主従七人、安房上総を心ざし給ひし海上にては三浦小太郎義盛参じけり。誠に忠信と見えしかば、頼母敷ぞ思し召されける。御舟安房の国猟島に着きければ、時刻を移さず東八ヶ国残らず相随ひて御本意を達せられき。
また、頼義・義家も奥州征伐の時、七騎になり給ふことあり。始の負は、御当家の佳例なりと申す輩多かりけり。
去程に、供奉仕る一方の大将共の中に七八人京都へ赴くあり。降参とぞ聞えし。此輩はみな去年関東より今に至るまで戦功を致す人々なり。然りと雖も御方敗北の間、いつしか旗を巻き冑を脱ぎ、笠印を改めける心中共こそ哀れなれ。
此等を見るにつけても義を重くし命を軽くする勇士はいよいよ忠節を尽すべき色をぞ顕しける。
『梅松論』32
- 尊氏の九州落ち・その2 -
戌の時計(=午後八時頃)に御座船を出さる。俄に西風吹けり。これは「たつ」と云ひて追手なりければ寅の刻計(=午前四時頃)に播磨の室の津に御着ある。去夜兵庫にて御船に乗り遅れける人々、多く陸地を経て当所に馳参じける。忠節尤も神妙なり。相随ひ奉る船三百余艘なり。
此度は播磨の灘にて順風なければ、渡海せぬ大事の渡なり。若し此風なくば御浮沈たるべき所に、併せて「仏神の御加護なり」とて下御所舎利・御剣を渡海の間にて龍神に手向けて海底に沈めらる。
当津に一両日御逗留有りて御合戦の評定区々(まちまち)なりけるに、ある人の云ふ、「京勢は定めて襲来すべし。四国・九州に御着あらん以前の御うしろを防がん為に国々に大将を留めらるべきか」と申しければ、「尤も然る可し」と上意にて、
先づ四国は細川阿波守和氏・源蔵人頼春・掃部介師氏兄弟三人・同従弟兵部少輔顕氏・卿公定禅・三位公皇海・帯刀先生直俊・大夫将監政氏・伊予守繁氏兄弟六人、以上九人なり。阿波守と兵部少輔両人成敗(=政務)として、国において勲功の軽重に依りて恩賞を行ふべき旨仰せ付けらる。
播磨は赤松(=円心)。備前は尾張親衛(=石橋和義)・松田(=盛朝)の一族を相随へて三石(みついし)の城にとめらる。備中は今川三郎四郎兄弟(=俊氏・政氏)鞆(とも)・尾道に陳取る。安芸国は桃井の布河近作(=義盛)・小早川一族を差し置かる。周防国は大将新田の大島兵庫頭(=義政)・守護大内豊前守(=長弘)。長門国は大将尾張守(=斯波高経)・守護厚東太郎入道。
かくのごとく定め置れて備後の鞆に御着きある所に、三宝院僧正賢俊、勅使として持明院(=光厳院)より院宣を下さる。是に依りて人々勇みあへり。「今は朝敵の義あるべからず」とて、錦の御旗を揚ぐべきよし国々の大将に仰せ遣はされけるこそ目出度けれ。
計(はか)らずも御遠行有るだにも御いたはしきに、舟路の事は将軍を始め奉り勇士どもにもいまだ慣れぬ多かりけるに、漫々たる海上に御座船その外数百艘の舟共、半天の雲に逆登る心地して、
行衛そことも白波の立ち帰るべき故郷は、前途程遠くして、雲行客の跡を埋め、岸の松しきりに吹く風、旅泊の夢を破り、まどろむひまも無ければ、旧里の空忘れやらぬに、命を限りの道なれば、心細さも言ふばかりなし。
『梅松論』33
- 少弐貞経(妙恵)の自害 -
うきながらつれなく、いきの松原の生きて帰らん事はしらねども、日数へぬれば、建武三年(1336)二月廿日長門国赤間の関に波風のわずらひなく御船着き給ふ。
同廿五日太宰少弐筑後入道妙恵が嫡子頼尚・兄弟一族等、五百余騎にて御迎の為に参りて、両御所(=尊氏・直義)へ錦の御直垂を調達す。御方の大慶此事ぞ見えし。
同廿九日赤間の関よりまた御船を出さる。内海行程一日、筑紫の筑前の国芦屋の津に着給ふ。秉燭(へいしよく)(=夕方)の時分に妙恵、この暁内山(=有智山)において自害す。
その故は、肥後の国より菊池寂阿(=武時)が子掃部介武敏、宮方として寄せ来る間、妙恵一昨日二月廿八日九日両日、筑後国にて力を尽くして戦しかども、筑後入道妙恵合戦し討負けて宰府の館を退ける所に、
将軍の御為または供奉の人々の用意に仕置きたりし御馬物具共数を尽して灰燼となりしを見て、妙恵云ひけるは、
「両将この境まで御下向は奇代の御事なり。先達て関東より頼み思し召すよし御自筆の御書を下されし間、微力をはげまさんが為に頼尚を御迎へに進ぜし後、合戦に討負ける条、面目を失ふ間、老後の存命無益なり。二方の御下向に命を奉るより外、別に何の志かあらん。わが君の為に忠節を尽さば、子孫永く二心を存すべからず」とて、
宰府の近き所内山といふ山寺に馳せ籠りて最後の合戦を数刻致して腹をぞ切たりける。その時に妙恵、僧を近付けて子息頼尚が元へ申し送りけるこそ哀れなれ。
「我将軍の御為に命を奉る。追善更に有るべからず。頼尚を始て一族家人生残りたらむ者共は心を一つにして忠節を尽して将軍を御代に付け奉るべし。是を以て大仏事に存ずべし。然らば冥闇も明らかならん。経陀羅尼の仏事は聊も受くべからず」
伝聞、治承に頼朝義兵の始、三浦介義明衣笠の城にて畠山の重忠と戦ける最期に、子供に命じて云ふ、「我源家累代の家人として老いの命を君に奉り、勲功を汝等に施さん事、悅の上の喜なり。一所にて命を捨べからず。義明はこの城にて防戦べし。汝等は君の御方に参じて忠を致すべし。天下は必ず源家の代たるべし」と涙を流して念頃(ねんごろ)に申しければ、
和田小太郎義盛・荒次郎義澄以下、今を限りの別れと思ひければ、互ひによはげを見せじとはしけれども、行くも留まるも皆涙をおせへてぞ出でける。此後義明は重忠に討ち取らる。この故に三浦、忠孝を今に残すものなり。
妙恵も将軍の御為に命を捨て、義明が振舞に少しもかはるべからず。頼尚以下忘るべからずとて、妙恵を初めとして頼尚が弟共越後守・尾張守父子三人、一族家人五百余人一所にて、二月三十日討死自害して名を後代に残し、子孫御感に預かりけるこそ目出度けれ。
去程に将軍天下を召されて後、頼尚恩賞数ヶ所給りて、鎮西下向の御餞別に両御所にて様々の面目を施し、中にも将軍よりは錦の御直垂を下され御盃を給はる。
下御所よりは度々の合戦に是ならでは召されざりし黄河原毛(きかはらげ)の御馬を拝領して、故郷へ錦を着て飾りし朱買臣(しゆばいしん)がいにしへもかくやとぞ覚えし。
去程に妙恵自害葦屋の御陳へ聞えける間、頼尚に御尋ねありければ。父が実説をば聞きながら、御前にては虚説のよしを申してぞ退出ける。是は御方の力を落とさじが為なり。
翌日三月朔日頼尚先陳を承りて葦屋の津を御立あつて宗像大宮司(=氏範)が宿所へ酉の刻(=午後六時頃)に御着ある。やがて両御所に御鎧・馬を進上申しけり。
当所にて妙恵が自害の事聞召定められてぞ御嘆きの色切に見えさせ給ひける。
『梅松論』34
- 多々良浜出陳 -
かゝる所に敵すでに博多にひかへたるよし聞えし間、その夜頼尚五十町御先の蓑尾浜といふ所に陳を取たりければ、頼尚一人宗像の御陳へ召されて合戦の事仰談(おほせかた)られける。頼尚申しけるは、
「先度宰府の戦の事は頼尚以下御迎に参りたりし間、無勢に依りて打負候といへども、父の入道は国の案内者にて候間、一身は定めて無為に候歟。明日の合戦には国人等かならず御方へ参べく候。菊池武敏計は頼尚が一刀を以て誅伐せん事案の内にて候」と事もなげに申ける。
その躰誠に頼母敷ぞ見えける。ある人申しけるは、
「関東より供奉の輩、命を奉る可く存る所なるに、馬ども兵庫に捨て置く間徒歩にて今夜追ひ付き奉らん事不定なり。明日計御逗留有りて御先に立てられて御合戦あるべし。打捨て御立ちは不便なり」と衆議いまだ定まらざる所へ、
夜半計に菊池既に宰府を立ちて押し寄するよし方々より注進申しける間、後陳の輩の御沙汰にも及ばず、建武三年(1336)三月二日辰刻(=午前八時頃)に宗像の御陳を御立ち有りて御向ひ有り。
五六里計御過有りける未の刻計(=午後二時頃)に香椎宮の御宝前を過させ給ふ所に、神人等杉の枝折り持て申しけるは、「敵は皆、笹の葉を笠印に付けて候。是(=杉)は御方の御笠印なるべし」とて、
両大将より始め奉て、軍勢の笠印にぞ付けさせける。奇瑞、誠に目出度くぞ見えし。殊に当社は新羅征伐の昔、神功皇后、椎木に御手を触れられけるに依りて、香ばしかりしゆえ香椎宮と申すなり。此ゆえに当社椎木を以て神躰に比し、杉の木を以て御宝とせり。
然るに浄衣着たりし老翁直に将軍の御鎧の袖に杉の葉を指し奉りければ、白き御刀をぞ給ける。後に御尋ね有りしに、神人等更に知らざるよし申しければ、「これは神の御加護、化人(=化身)を遣されけるか」といよいよ頼母敷思し召されければ、軍勢ども勇の色をぞ顕しける。
『梅松論』35
- 多々良浜の合戦・その1 -
去程に当所を御過ぎ有りて赤坂といふ所に打臨て御覧じければ、多々良浜とて五十町の干潟あり。南のはずれに、小川が一筋流れたり。筥崎(はこざき)の八幡宮は四方一里の松原あり。南は博多、東は二三里を去りて山あり。西は海遠くして唐(もろこし)をぞ限りける。
彼松浦さよ姫がひれ伏りしけん悲しびもも思ひやられて哀れなり。御陳は赤坂と松原の間、砂玉を敷けるごとし。敵は小河を越て松原をうしろに当てゝ北にむかひたり。その勢六万余騎とぞ聞えたり。
御方の先陳は、高越後守師泰并びに京都より供奉の人々、大友・島津・千葉大隅守・宇都宮弾正少弼、三百余騎にて大手(=正面)に向ひて扣へたり。東の手崎(=手先)は太宰少弐頼尚五百余騎。皆馬より下り立て支へたり。都合御勢千騎には過ぎ去りけり。
かゝる所に頼尚は、黄威(きおどし)の腹巻に同じ毛の褄取りたる袖付けてぞ着たりける。是は先祖武藤小次郎資頼文治五年の恩賞に頼朝より給ひたる当家重代の鎧と聞えけるを着て、冑の緒を締めて小長刀を抜き、黒駁(くろぶち)なる馬に乗りて只一騎両大将の御前に参りて申しけるは、
「敵は大勢にて候へ共、みな御方に参るべき者どもなり。菊池計は三百騎には過べからず。頼尚御前にて命を捨て候はゞ、敵は風の前の塵たるべし。急ぎ御旗を進めらるべし」と申しければ、寔(まこと)に頼母敷ぞ見えし。
尤も両大将御むかひ(=出陣)あるべき事しかるべきよし衆議一同にぞ申しける。将軍その日は、筑後入道妙恵が頼尚を以て進上申したりし赤地の錦の御直垂に、唐綾威の御鎧に、御剣二あつり。一は御重代(=先祖代々)の骨食(こつじき)なり。重籐の御弓に上矢をさゝる。御馬は黒粕毛。これは宗像の大宮司が昨日進上申したりしなり。
当日は御重代の御鎧・御小袖と申すを勢田の野田の大宮司に着せらる。凡そ御当家戦場の御出で立ち条々秘説あり。
むかし将軍頼義、貞任を征伐の時、自ら手を碎きて十二年があいだ暗夜雪の中にも戦し程に、馳合の時必ず誤りあるべしとて、清原の武則(たけのり)がはからひとして、七印といふ七つの印を付け奉り、皆武具の内に有るなり。容易く知る人有るべからず。今日は七まではなかりしかど、佳例に任せて少々御意にかけられけるとぞ承る。
将軍仰られけるは、「遼遠の境まで下向は本意にあらずといへども、進み退くは軍(いくさ)の法なり。珍敷敵に会て最後の合戦未練ならば、当家累代の武略を失ひ、また当国に弓箭の疵を残すにあらずなり。甚だ以て思慮あり。
「我等一緒に向ひて合戦難儀に及ぶ事あらば、何の頼りあつて残党全からん。一騎なりとも尊氏この陳にふまへば、先陳の勢力を得て戦ふべし。もし合戦利無くば馬廻りの武者どもを召し具して、入れ替て退治を致すべし。先づ頭の殿(=直義)向かはるべきよし」仰せ出だされければ、
「この御意諸人の及ばざる所なり」とて称美申さぬ者こそなかりける。去年箱根を過ぎ、足柄へ御向ひありて打勝給ひしも、将軍の武略によれりとて、御旗を進めらる。
『梅松論』36
- 多々良浜の合戦・その2 -
頭の殿は、同じく妙恵が進らせたりける赤地の錦の御直垂に紫皮威の御鎧、御剣は篠作、弓箭をも帯せらる。御馬は栗毛、是も昨日宗像の大宮司が進上申したりしにこそ召されける。
関東より供奉の輩皆歩行なりしかども我劣らじと進ける。中にも曾我上野介師資(もろすけ)、練貫(ねりぬき)の小袖の上に赤糸鎧の菱の縫目より切り捨てたるに、四尺余なる太刀二振り帯びて、白木の弓の大きなるに拾ひ矢二三十取りさしたる負ひて、冑の緒しめて、御馬の先に立たりし事の躰、人には替りて見えし。
御旗の下には仁木右馬介義長、黄威の鎧をぞ着たりける。是は宗像の大宮司が下御所に進ぜたるを給りける。時に取りて面目とぞ覚えし。栗毛なる馬に乗りて大手に向ひて進む所に、敵、少弐が勢の向ひたる東の手先より先づ二三万騎もあらんと見えて、抜き連れて時をつくり、くずし懸けてかけける勢ひ、如何なる鬼神もたまるべしとは見えざりけり。
しかれども御方少しも騒がずして、先づ歩徒なる武者ども矢を射けるに、敵しばしゆらへし所へ、すきもあらせず懸け入る折節、北風塵砂を吹き上しかば、敵めいはくして漂ひけるを見て、大手の御勢も同じく揉み合ひて爰を限りとぞ戦はる。
かゝりける所に、曾我上野介、敵を討て頸を取り、頓て月毛なる大馬に乗りて、頭の殿御前に参りて、分取り見参に入たりければ、御感斜めならず、師資(もろすけ)良き馬を得たり。「千騎万騎にも向ふべし」とてまた駆け入ける躰、実に一人当千とぞ見えし。
仁木義長は真ん前に掛け入りて、身命を捨て戦し間、敵多く切り落とし、鎧も馬も血に染てぞ罄(ひか)へたり。御方勝ちに乗りて、筥崎の松原を追ひ過ぎて博多の須浜までぞ責め詰めたり。
去程に敵の国の勢どもは立も帰らず、ひた引きに散々になりし所に、菊池武敏計取て返して今日を限りと責め戦ひし程に、御方難儀に見えしが、松原の内外東のはづれより二手に引きて来る処に、下御所少しも御驚きなくて、「御旗をよくさせ」と仰せられて、御使者を以て後陳の将軍へ御申し有りけるは、
「直義は爰にて防戦て御命に替るべし。この隙を以て長門周防にも押し渡つて、御身を全して御本意を達せらるべし」とて、錦の御直垂の右の袖を解きて進せられしを見奉る人々みな涙をぞ流しける。是に付きても、勇士共はいよいよ思ひ切てぞ見えし。
『梅松論』37
- 多々良浜の合戦・その3 -
かゝりける所に敵古びたる錦の旗をさして、三百騎ばかりにてしづしづと松原の北のはづれを打出て、小川を渡さんとしける処に、千葉大隅守が旗さし只一騎河を渡されじと打入りける見て、
敵支へて扣へたりし所に、将軍御旗をさゝせ、先立ちて引きたりし勢共を召し具して、後より時を作り喚き叫でかゝりけるを見て、頼尚「今こそ大将軍(=尊氏)の御向ひ候へ」と申しければ、頭殿(=直義)御太刀を抜き、馬の足を出さむとし給ひし間、兵ども我先にと義長・師資を始としてぞ懸りける。
去程に河を中に隔て時を移す所に、少弐が宗徒の家人、饗庭(あへば)の弾正左衛門尉、赤皮の肩白の鎧に月毛なる馬に乗て少弐に向ひて申しけるは、「爰は討死有べきところにて候へば、御先に立ち候」とて河を渡す(=渡る)を見て、饗庭が子黒皮の鎧着て黒き馬に乗ける続きて渡し、敵の中へ駆け入りて散々に討合ひけるを見て、
「是を討たせじ」と御方大勢続て責戦ひ責戦ふ程に、菊池は打負けて落ちたりけり。
饗庭父子数ヶ所手を負ふといへども、存命子細なかりけり。かゝりける程に御上洛の後、「天下安危の合戦の忠節をば饗庭弾正左衛門尉致したり」とて、下御所より御刀を下しこそ面目なれ。
去程に当所の軍破れしかば、酉刻なりしに、頓て頭殿は少弐を召し具して敵の跡を責めて、今夜亥刻計(=午後十時頃)に宰府に御着有りて、先づ妙恵の館の灰燼となりしを御覧ぜられて御愁嘆の色切成けり。
「今日御合戦に打勝給ひし事は併せて将軍の御武略より出たり」とて、いよいよ頼母敷ぞ見え奉りし。
去程に御陳は箱崎の寺にて有りしに、当社の祠官ら賞翫し奉る事限りなし。御奉幣の義は合戦の触穢(しよくゑ)の間軽く有るべしとて、御行水有りて廻廊の前にて八幡宮を拝し奉り給ふ。吉良殿の進せられし四目結びの白き御剣を宝前に納めらる。
則ち宰府に地有るべしとて、御文章の為に社家の古文を召し出されし中に、昔鎮西八郎為朝寄付の状の有りしを御覧ぜられて、「当家の祖神実に有難し」と思し召して、御社頭に向ひて合掌あつて、御敬神浅からずぞ見え給ひし。
去程に明ければ三月三日、下御所より少弐が一族武藤豊前次郎御使として将軍に御申し有りけるは、「昨日合戦に勝し事更に人力にあらず。実(まこと)に神の御加護と覚えて目出度し」
同じ酉刻計(=午後六時頃)に宰府原山に打あがりし時分、「降参の仁、数輩馳せ参ず」と。是は頼尚執り申し所なり。「当所に光臨を待ち奉るといへども、先づ啓さ令め候」と申すあり。
筥崎と宰府の間五里とぞ聞えし。午刻に将軍原山の一坊に御着有りて、両御所御対面有りけり。一昨日降参の者共を以て御門を守護せさせられけるこそ目出度けれ。
御退治の事は御案の内に思し召されたる御事なれども、急に誅罰有けるは、ひたすら太宰少弐頼尚が忠とぞ聞えける。去程に当所にて筑後入道妙恵が最後の振舞、同く子供一族家人ら命を捨てける次第、御心静かに尋ね聞こし召されて、御愁嘆切なりし御事は、亡魂もいか計か忝く見奉らん。
親類共は申すに及ばず、諸将に至るまで「此君に命を捨てん事、露計も惜しからず」とて、皆涙をぞ流しける。
下御所は「妙恵が忌中暫くは御別行あるべし」とて人の声高きをも堅く御誡め有りて、御落涙のみにて御座有りし上意の趣きども頼尚承りて、種々の駄餉(だしやう)を持参せしめ、申し上げて云く、
「君の御為に命を奉るもの、むかしを聞くにも三浦介義明・狩野介茂光・佐奈田与一義貞以下数輩なり。亡父妙恵一人に限らず。不便の御意は面目これに過べからずといへども、片時も菊池武敏御誅伐の事、いかにも急がるべき」とて、自ら魚鳥を捧げ奉りて、御酌まで申しける間、是非に及ばずその夜御酒宴有りて後は人々に御対面も有りける。
則ち一色禅門・仁木右馬助両大将として、九州の輩松浦党を先として肥後の菊池へ発向す。彼城において散々に合戦いたし、半月の内に責め落とされしかば、九国の間に残る山徒もなかりける。
『梅松論』38
- 上洛の評定 -
去程に御船に乗遅れし輩連々に参着して京都の事共を申ければ、「昔陸奥守義家・秀衡、飛脚を結番にして洛中のことを聞けるもかやうにや」とぞ仰られし。
斯(かく)て帰洛の事両儀あり。一つには諸国の御かた力を落とさぬ先に急がるべきか、一つには兵粮の為に秋を待つべき歟。御さた未だ定ずして、宰府に三月三日より四月三日まで御座ありし時分、播磨より赤松馳申て云ふ、
「新田金吾(=義貞。金吾は衛門府の唐名)大将として多勢を以て当城に向ひて陳を取り、円心が一族その外京都より九州へ参ずる輩が馳せ籠もる間、城の中の勢満足すと雖も、兵粮用意無きの間、君御帰洛延引あらば、堪忍せしめがたし。御進発を急がるべし」
また備前の国三石の大将尾張親衛同く申て云ふ、「新田・脇屋、大将として向ふ間、兵粮用意無きよし」赤松と同く申す。
是に依りて九国には一色入道・仁木右馬助・松浦党并びに国人以下をとゞめて、建武三年(1336)四月三日太宰府を立ちて御進発ありし程に、太宰少弐并びに九国の輩博多の津より纜を解きて、両将は長門の府中にしばらく御逗留にて、当所より御出船あり。
御船の事は、元暦のむかし九郎大夫判官義経、壇の浦の戦に乗たりし当国串崎(くしがさき)の船十二艘の船頭の子孫の船なり。義経平家追討の後、「此船においては日本国中の津泊において公役(=課役)あるべからず」と自筆の御下文を今に是を帯す。今度この船を以て御座船に定められけるは尤も嘉例に相叶へり。是は長門守護厚東申し沙汰する所なり。
漸く五月五日の夕、備後の鞆に御着あり。当津に御逗留有りけるに、諸国の御方同心に申しけるは、「御帰洛急がるべき」趣共なり。仍(すなは)ち御合戦評定まちまちなり。
一議に云ふ、両将は御船にて四国中国の大将・国人ら陸地を発向すべき、一議には、両将みな陸地を御向ひあるべき歟、一議には、両将みな御船にて御進発あるべき歟、各々大議に依りていまだ落居せざる所に、太宰少弐頼尚進申けるは、
「両将御船にて御進発の議、更に愚意の及ばざる処なり。天下の是非は今度の御手合によるべきか。すでに敵、播磨・備前両城を囲むよし其告あり。是等を退治して大半は落居あるべきか。然に船軍(ふないくさ)計にては山陽の退治落居しがたし。幸に両将御座の上は将軍は御船、頭殿は陸地を御発向あるべし。
「頼尚陸地の先陣を承りて、亡父妙恵が遺言に任せて百ヶ日の追善合戦して仏事は仕るべし。頼尚生前の訴訟たゞ此事なり」と、頻りに申しける間、此儀然る可しとて、将軍は御船、下御所は陸地を御発向治定して則ち御手合あり。
御船に執事師直、関東・京都より供奉の宿老、両国の輩を船に乗せられて御発向あるべし。下御所の御手には高越後守師泰、関東・京都の供奉の壮士等、ならびに少弐・大友・長門・周防・安芸・備前・備中の御家人等属し奉る。
去春二月、御下向の時より国の大小に随ひて馬・鞍・物の具・弓・矢・楯・兵粮米の用意を致すべきよし守護人らに厳密に仰せ合されしかば、皆その沙汰をいたす。これ遠方の境より供奉の輩に配分し給ふべき御計ひなり。
『梅松論』39
- 奇瑞 -
五月十日備後の鞆を立て、舟路・陸地同日御発向有り。舟は纜を解きて陸は轡(くつわ)を鳴らしぬ。先陳は、太宰少弐頼尚の二千余騎とぞ聞えし。
しばしは海と陸と互ひに見かよはしたりしに、少弐頼尚は旗の横紙に綾桧笠(あやいがさ)を付けたり。是は御眷属御霊(ごけんぞくごりよう)影向(やうがう)(=神仏が現れること)有りて蝉口(=旗布を上下する滑車の部分)に御座ゆえに、昔より当家の庭訓(ていきん)なり。
御ふね五十余町過ぎて見渡したれば、舟共多き中に、先舟には御紋の幕を引て漕ぎ向ひたりしを、
「楠が謀に御方と号して向ふ」など聞えて少々騒ぎたりしかども、さはなくして四国の細川の人々・土岐伯耆六郎・伊予の河野の一族その外の国人等数五百余艘、その勢五千余騎とぞ聞えし。
五月十五日備前国児島に着き給ふ。当所は佐々木の一族の所領なる間、加地筑前守、渚近く仮御所を造り、御風呂抔(など)たて御休息ありしに、その夜の満月に黒雲が二筋引渡し数刻見えしかば、軍勢皆合掌して拝し奉る。是は大いなる奇瑞なりし。
凡そ今度九州に御座の間、諸社の不思議共、御方の吉兆しるすに遑(いとま)あらず。ことに有難かりしは、太宰府に御座の時、博多の櫛田の宮、住吉の御社の下女に詫して云ふ、
「我今度両将を都まで守護し安穏に送るべきか、但し合戦を致すべし。白旗一流・鎧・御剣・弓・征矢(そや)・上矢の鏑を差し添て奉るべし」との御詫宣新なりし間、悉く調進せられける。
御使者見る前にて、神詫の女、弓を張り上矢の鎬をはげて云ふ、「我を疑う者多し。その証(あかし)は今度武将(=尊氏)天下を取るべくば、此矢一つもはづるべからず」とて樗樹(あふち)の細枝を射ること三度、一つもはづるゝ事なし。更に賎女(しづのめ)のわざにあらず。此外天神の使者の御霊、合戦の度毎に光を輝し給ふにぞ安堵しける。
また武将御下向の時、霊夢(=お告げの夢)の子細(=事情)有りて、白葦毛なる老馬を舷(ふなばた)に立てゝ御座船に引き添へらる。
また上より諸軍勢に至る迄、冑の真向に南無三宝観世音菩薩と書き付けて、毎月十八日観音懺法(かんのんせんぽう)を読ませらる。御下向の時は三百余艘の舟より僧たちを召れしに、人数乏しからず。御帰洛の時は云ふに及ばず勤行ありしに、
『梅松論』40
- 福山・三石の合戦 -
五月十七日に下御所の御陳、備中の河原と備前の児島の間三里なり。下御所より御使あり、
「当手には備中・備後・安芸・周防・長門の大将・守護人・国人等并びに三浦介(=高継)美作国より昨日馳せ参ず。太宰少弐・大友供奉の間、御勢数知らず候。御船には四国の勇士ら参着せのよし承り目出度く候。
「但だ播磨の赤松・備前の三石の城合戦の最中のよし聞え候処に、結句新田・江田某(=行義)、大将として馳下りて近日備中の福山に楯籠る間、今夕手分けせしめ、明日払暁に追ひ落とし火を上ぐべく候。彼城と御陳の児島近所たる間、御用心のために馳せ申す所なり」
去程に翌日十八日観音懺法行はれ、満散(=送り火)過ぎて当所の景物楊梅(=やまもも)取りに上の山に登りける。下部(しもべ)(=部下)走り下りて云ふ、「すでに御方の大勢福山を責め落として飛入りて火を放つ間、敵皆落行よし」申し上げたり。時分柄実(まこと)に仏神の御加護と、頼母敷ぞ思し召しける。
則ち陸地の御勢備前国へ責め入り給ひしかば、三石の城の寄せ手脇屋没落すと聞えしかば、下御所より飛脚を以て賀し申さる。頓て児島の御船を出さる。海と陸との御陳、日夜約束の火を揚げられしかば、山を隔てながら互ひに御陳の在所をぞ知ろしめされける。
去程に備前三石の寄せ手の勢落上りしかば、新田義貞、赤松の城の囲みを解きて没落す。しかる間、陸地の大勢は播磨の掛河(=加古川?)に陳を取る。御舟は田室の泊(=室津?)に着き給ふ。
翌日、赤松入道御舟へ参り申して云は、「今度円心が城に馳籠軍勢の着到(=名簿)并びに敵没落の時せめ口に捨置旗百余流持参す」
一々御披見有りしかば家々の紋紛れず。武将仰せられけるは、「是を見るに根本敵なるは是非に及ばず(=仕方がない)、御方へ戦功ある輩は少々見ゆるが、一旦(=当座)の害を遁れんが為に義貞に属しける心中不便なり。是等もはたして御方として参るべし」とて、
中々快悅の御顔色なりしかば、実に忝なき御意と覚えし。此旗共をば数をしるして、「後日、沙汰あるべし」とて赤松にぞ預けられける。
『梅松論』41
- 播磨灘 -
さて当所室と兵庫の間の海は、「おして(=押して=無理に)には必ず播磨灘」とて、御下向のごとく、よき順風を得ざる外は渡らざる難所たる間、日和を待たれし程に、既に陸地の御勢は進み給ふに、御舟の御逗留を諸軍勢なげきし時分、五月廿三日戌刻に雨まじりたる西風少し吹く。
将軍御悦有りて仰られけるは、「此風は天の与ふる物か、はや纜を解くべし」と有りければ、
或儀に云ふ、「海上の事その儀を得ず。異見を申しがたし。大船共の船頭を召されて御尋有べし」と有るに依りて、御座船串崎の船頭、千葉大隅守が船をきはしの(=?)船頭、大友・少弐・長門・周防の舟の船頭、拾四人、御前に列して各々申しけるは、
「この風は順風なれ共、月の出汐(いでしほ)に吹き替りて向ふべきか。出されては若し途中にて難儀あるべきか」と有りければ、爰に上杉伊豆守の乗船、名をば「今度船」と号す。長門安武郡椿の浦の船頭孫七畏りて申しけるは、
「これは御大慶の順風と存じ候。その故は、雨は風の吹出て降り候。月の出ば雨は止候べし。少しはこはく(=強く)候とも、追ひ風なるべきよし」一人申し上げたりしかば御本意たるに依りて御感再三に及ぶ、忝く御意を懸けられ左衛門尉になさる。
将軍仰せられけるは、「元暦の昔九郎判官義経、『渡る辺より大風なりしかども、順風なればこそ渡りつらめ』とて雨の止むのも御待なくして御座船出さる」
「あやふかるべき由余多の船頭申し上ぐをば聞こしめされずして一人が申すを御許容いかが」と内々申す輩有けれども、進む有なれば異見に及ばず。
既に御船を出されければ、惣じて船数大小五千余艘とぞ聞えし。去りながらその夜御供に出でし船三千艘には過ぎざりけり。月の出汐を待て、室より五十町東なる扚子浦に御船かゝる。案のごとく雨止みしかば、月と共に御座船走りけり。
強(こは)かりしかども順風なりければ皆帆を揚げて走りけるに、夜の明け方になりしかども、近くは山見えぬ海なかに浪は屏風を立てたるごとくなれば、心細かりしかども、多くの船共廿四日の暮れ程に、御船を始として播磨の大蔵谷の澳(おき)にぞ碇(いかり)を下ろしてかゝり(=停泊)給ひし。四国船を本船にて御先に走る。是も淡路の瀬戸、須磨・明石の澳にぞ泊まりし。
夜になりしかば、皆船の舳艫(じくろ)に燃やす篝火、実に浪を焼くかぞ見えし。陸地の勢は一谷(いちのたに)を前にあて、むかし土肥次郎実平が陳取たりける塩屋の辺りより始めて、後は大蔵谷・猪名見野あたりまでぞ篝火を焼きたりし。
『梅松論』42
- 湊川の合戦・その1 -
海と陸の両陳見渡たりし間、明日五月廿五日兵庫の合戦のこと御談合の御使、夜の中に往復度々に及ぶ。当所において御手分けあり。
大手は下御所、副大将は越後守師泰・大友・三浦介・赤松、播磨・美作・備前三ヶ国の惣軍勢なり。山の手の大将軍は尾張守殿(=斯波高経)、安芸・周防・長門の守護厚東并びに軍勢共なり。浜の手は太宰少弐頼尚并びに一族の分国筑前・豊前・肥前・山鹿・麻生・薩摩の輩相随て向くべきにぞ定められける。
頃は五月短夜(みじかよ)明けやすき天を待ちかねて、我も我もと人に先を懸けらじと独り言せしこそ武くも哀れなれ。
廿五日卯刻(=午前六時頃)に細川の人々、四国の船五百余艘を本船として、なほ追ひ風なれば昨日のごとく帆をあげて、敵の罄(ひか)へたる湊川と兵庫の島をば左に見なしてぞ走りける。敵の跡をふさがん為なり。
将軍の御座船は錦の御旗に日を出して、「天照大神・八幡大菩薩」を金の文字に打ちて付けられたりければ、日に輝てきらめきたりし。手をときて浦風に飜し、御船を出さるゝ時は毎度鼓を鳴らされし間、同時に数千艘の舟帆を上て、淡路の瀬戸五十町をせばしと軋(きし)り合て、更に海は見えず漕並べたりしに、
陸地の御勢も同く打立て、一谷を馳越すと見えし程に、辰の終り(=午前九時頃)に兵庫島を近く見渡したりければ、敵は湊河の後の山より里まで旗をなびかし、楯を並べて罄(ひか)へたり。是は楠大夫判官正成とぞ聞えし。
播磨海道の須磨口も大勢が向ひて支へたり。浜の手は和田の御崎の小松原を後にあてゝ、中黒の旗さして一万余騎もあるらんと見えしが、げに三切(=三重)に罄へたり。先は五百余騎計かと見え、その次は二千余騎計、次に松原を懸けて扣へたり。
時移りて巳刻(=午前十時頃)に御方の三手の勢、山の手、須磨口、浜手同時に向ひしが、あらきゝ(=荒き気)の故にや、浜の手の少弐が勢ぞ旗の下二千余騎にて進みたる。殊に一町計先立ちて五百余騎、また是に進で五十余騎向ひし中より武者二騎十杖(=丈=三メートル)ばかり先立ちたり。
一騎は黒き馬に薄紅の母衣(ほろ)(=幌)懸けたり。鎧の毛は定かに見えず。一騎は河原毛なる馬に黄威の鎧着たり。二騎ながら少弐が親類なり。母衣掛けたるは武藤豊前治郎、黄威の鎧は同く対馬小次郎。共に若年の者にてぞ有りける。
陸と舟との間一町計を隔てたれば、船よりは桟敷の前の見物にてぞありし。
『梅松論』43
- 湊川の合戦・その2 -
御座船の鼓の乱声聞こえしかば、海上よりつくり初めし時の声を陸地の大勢受け取りて三度作り、上矢の鏑響きしかば、六種の震動も是には過ぎじとぞ覚えし。
これを見て敵の先陳一矢も射ず引き退く間、次の陳に先立の一騎、馬の足を直して懸かりしを「射させじ」と跡の大勢つゞきし程に、和田の御崎の合戦破れて兵庫の端の在家より煙あがりしかば、大道もたまらず、山の手もまたかくのごとし。
去程に四国の勢、兵庫の敵を落とさじとて生田の森の辺りよりあがりける所に、義貞、兵庫の戦に打負けて三千騎計にて引けるに行き合ひたり。
敵は馬に乗る間、船の御方ども左右なく(=誰も)降りざりける所に、細川の人々従弟兄弟我も我もと進まれける。中にも卿公定禅・弟帯刀先生・古山・杉田・宇佐美・大庭を先として、舟より馬追ひ下ろして打乗り、先づ八騎にて大勢の中へ入りて戦けるが、
敵手繁かりければ、馬を打ひたして本の船に乗りける処に、讃岐の国人新野見小大夫と云ひける者勇みて、「大将の御命に替り候」とて、馬踏み放ちて汀(みぎは)に独り残て打合ひけるを見給ひて、定禅重ねて十六騎にて懸けあがり戦はれけるを見て、残る者ども船よりあがりければ、義貞打負けて都を指して落ちにけり。
定禅、義貞には目をかけずして、湊川に楠正成残て大手の合戦最中のよし聞えしかば、下御所の御勢に馳加て責め戦ふほどに、申の終り(=午後四時過ぎ)に正成并びに弟七郎左衛門(=正季)以下一所に自害する輩五十余人、討死三百余人。
惣じて浜の手以下兵庫湊川にて討死する頸の数七百余人とぞ聞えし。是程の戦なれば、御方にも打死手負ひ多かりけり。
『梅松論』44
- 楠木正成のこと -
湊川の軍破れしかば御陳は御下向の兵庫の奥の御堂にてぞ有りし。高越後守(=高師泰)の手の者討取し間、正成が頸持参せられける。実検あり。まぎるべきにあらず。哀れなるかな。
去春、将軍・下御所御両所、兵庫より九州へ御下向のよし京都へ聞えて、叡慮快かりしかば、諸卿一同に「今は何事かあるべき」とて悦び申されける。時に正成奏聞して云ふ、
「義貞を誅伐せられて尊氏卿を召しかへされて、君臣和睦候へかし。御使においては正成仕らん」と申し上げたりければ、
「不思議のことを申したり」とてさまざま嘲哢ども有りける時、また申し上げ候へけるは、
「君の先代を亡ぼされしは併せて尊氏卿の忠功なり。義貞関東を落す事は子細なしといへども、天下の諸侍悉く以て彼将に属す。その証拠は、敗軍の武家には元より在京の輩も扈従して遠行せしめ、君の勝軍をば捨て奉る。爰を以て徳の無き御事知らしめさるべし。
「倩(つらつら)事の心を案ずるに、両将(=尊氏直義)西国を打靡(なびか)して、季月の中に責上り給ふべし。その時は更に禦(ふせ)ぐ戦術あるべからず。上に千慮有りといへども、武略の道においてはいやしき正成が申す条たがふべからず。只今思し召しあはすべし」
とて涙を流しければ、実に遠慮の勇士とぞ覚えし。此儀申達たれども、討手として尼ヶ崎に下向して逗留の間に、京都へ申して云ふ、
「今度は、君の戦必ず破るべし。人の心を以てその事を計るに、去る元弘の初、潜かに勅命を受けて、俄に金剛山の城に籠し時、私の計ひにもてなして、国中を頼てその功をなしたるとき、爰に知りぬ。皆心ざしを君に通奉し故なりと。
「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前(まつさき)に命を落とすべきよし」申し切りたり。
最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。
『梅松論』45
- 比叡山の攻防 -
去程に翌五月廿六日兵庫を立ちて西宮に御陳をめされき。「湊川にて正成を討ちて、大勢にて都へ責のぼるよし」聞えければ、廿七日、去る正月の夕のごとく又山門に臨幸なる。
洛中へは先づ丹波より仁木兵部大輔頼章・今川駿河守頼貞、丹後但馬両国の軍勢を相随へて、各々錦の御旗を先立て数千騎洛中へ打入る。将軍は八幡山の上に御座有りて、下御所五月晦日御入京ありしに、去春九州御下向の時捨て奉りし輩多く降参す。今度供奉忠功の仁等列座のとき、忠不忠たる間顔色喜憂異なり。
去程に山上を責めらるべきとて、六月五日、細川の人々先陳として西坂本より合戦初め、皆歩行にて雲母坂までぞ責付けたりし。此時千種殿(=忠顕)討死す。
敵は大嶽(おほたけ)の上に陳を取る。御方は山の中の繁みを過ぎて支へたり。下御所大将として、御陳は赤山の社の前なり。
山上をば三手にてぞ責められし。今路越(いまみちごえ)をば三井寺法師旬中、大手の雲母坂は細川の人々四国勢并びに惣軍勢、横川通り篠峯は太宰少弐頼尚九国の輩発向し毎日合戦有りけるに、御方に戦利に見えし時は三井寺法師松明を用意す。是は山門放火の為かとぞ覚えし。浅間しかりし事共なり。
去程に六月廿日、今道越より御方の合戦打負けて、三手の御方同く坂本に追ひ下さる。爰に高豊前守(=師久。高師直の末弟)以下数十人、山上にて討死す。
此上は赤山の御陳無益なりとて急ぎ御勢洛中に引き退く。大将下御所は三条坊門の御所に御座あり。将軍は東寺を城郭にかまへ、皇居として警固申されけり。
去春両将浮勢にて河原に御扣へ有りし故に軍勢の心そろはず。今度は縦へ合戦難儀に及といふとも、何れの輩か東寺を捨て奉るべきとぞ沙汰有りける。軍勢は洛中に充満して狼藉を禦ぐべからず。
『梅松論』46
- 洛中の攻防 -
去程に「山の勢洛中へ寄来るよし」虚騒繁(しげ)かりし間、兼日手分け有りて、先づ細川の人々四国の勢を召し具して内野(=上京区南西地帯)に陳を取る。
法成寺河原には師直を大将として大勢を相随へて相待つ所に、六月晦日払暁に義貞大将として大勢内野の細川の人々の陳へ寄来る。
身命を捨て戦といへども、打負けて洛中へ引き退く所に、敵二手に成て大宮猪熊を下りに所々に火をあぐる。同時に師直の陳、法成寺河原において合戦ありしに御方打勝てり。
かゝる処に下御所大将として三条河原に打立ち御覧じけるに、既に敵東寺近く八条坊門辺りまで乱れ入り、煙見えし間、「将軍御座覚束なし」とて御発向あるべきよし申す輩多かりける所に、
太宰少弐頼尚が陳は綾の小路大宮の長者(=東寺長者)達遠が宿所にてぞありける。頼尚の勢は三条河原に馳せ集まりて何方にても将軍の命を受けて向ふべきよし兼ねて約束の間、彼河原に二千騎打立て、頼尚申しけるは、
「東寺に勇士が多く属し奉る間、縦へ敵、堀・鹿垣(ししがき)に付きても何事かあらん。御合力の為なりとも、御馬の鼻を東寺へ向ければ、北に向ふ師直の河原の合戦難儀たるべし。是非に付て今日は御馬を一足も、動ぜらるべからず。先づ頼尚東寺へ参るべし」とて三条を西へ向かふ所に、
敵、大宮は新田義貞、猪熊(=猪熊通)は伯耆守長年、二手にて八条坊門まで責め下りたりし間、東寺の小門を開ひて、仁木兵部大輔頼章・上杉伊豆守重能以下打ちて出て責め戦ふに依りて、一支も支へずして、敵、本の路を二手にて引きのぼる所に、
細川の人々、頼尚、洛中の条里を駆け、きりきり戦ひし程に、伯耆守長年、三条猪熊において豊前国の住人草野左近将監(=秀永)が為に討ち取られぬ。
義貞は細川卿公定禅、目をかけて度々合ひ近付き、既に義貞あぶなく見えしかども、一人当千の勇士ども折ふさがりて命にかはり討死せし間、二三百騎に打なされて、長坂をかゝりて引くとぞ聞えし。
南は畿内の敵、作道より寄せ来りしを、越後守師泰即時に追ひ散らし大勢討ち取る。宇治よりは法性寺辺りまで責め入たりしを、細川源蔵人頼春、内野の手なりしを召しぬかれて、大将として菅谷辺りまで合戦せしめ打散らしける。
竹田(=京都南辺り)は今川駿河守頼貞大将として、丹後・但馬の勢馳せ向ひて追ひ落とす。六月晦日、数ヶ所の合戦悉く未の刻(=午後二時頃)以前に打勝けるこそ、仏神の御加護と目出度かりける。翌日七月朔日、三条河原において頸の実検あり。数千騎とぞ聞えし。
かゝる所に不思議なりし事は、山王権現多くの人の夢に忿怒の御勢ひにて、「山上にて合戦破れなば、吾が山の仏法は滅すべし。先づ戦場を他所に移すべし。雌雄は天の定めるところなり」と見えさせ給ひけるよし口々に申しける。誠御方山上を退く。六月晦日の合戦に打勝たりしこそ有難かりける。
『梅松論』47
- 阿弥陀が峰の落居 -
然る程に「南方の敵ども宇治八幡あたりまで満ちみちて寄り来るべきよし」京都風聞毎日なり。
ヶ様(かやう)なりしかども、七月も過ぎ、八月廿日比に宇治に敵払ふべしとて、細川の人々大将として、河野・対馬入道同く一族二千余騎にて向かひたりしが、打負けて引き退く間、敵、木幡稲荷山を捨て、今比叡の上阿弥陀ヶ峰に陳取て、篝を焼くを見て、高大和守(=師貞)詠じていはく、
多くとも四十八にはよも過ぎじ阿弥陀が峰にともす篝火
やさしくぞ聞こえし。八月廿三日の暁より加茂糺河原において終日合戦有りしに、大将師直、身命を捨て戦ひし程に両所に疵を蒙る。此時分、御方の勇士今日を限りと責め戦によつて、義貞打負けて落ちける間、山の勢多く討たれけり。
然りといへども阿弥陀が峰の敵支へし程に、同廿四日の夜東寺において合戦の評定まちまちなり。
ある議云ふ、「皆歩行立ちに成て楯をかづき、堀・鹿垣を引き破りて責め落とすべし」と申しける処に、細川帯刀先生云ふ、
「阿弥陀が峰に立て籠もる所の敵はかばかしき者にて有るべからず。畿内近国の山人(やまびと)なり。城に籠もりて戦はん事彼らが好所なり。我等が親類四国の勢を召し具して、先づ淀・竹田へ向ひて足ぎきの敵を河へ追ひ出して木幡山に馳せ上り、稲荷山を経て峯つゞきに敵のうしろ前より馬にてかゝるべし。
「しかも敵城の後ろをばこしらへざる間、追ひ散らさん事案の内なり。但敗軍の輩必ず苦集滅路・白川をのぼりに粟田口へ赴くべし。下御所七条河原辺りに御罄へあるべきよし」申されければ、
「此議然るべし」とて、夜の明くるを遅しと細川の人々阿弥陀が峯には目もかけず、川原を下りに南へ向かひし程に、淀・竹田に充満したる敵ども、竹田縄手の小処を堀切り、竹を打切て鹿垣を結ひ、櫓をあげ、城戸を立て相待つ処に、大勢掛かりける所に、
御方の中より二町計先立ちて武者三騎諍(あらそ)ひて懸けしが、櫓近く成て、黒馬に乗たる者、真先に馬をさつとすへて、抜きたる太刀を鞘にさし、大手を広げて「櫓の下の城戸の格子を下ろさせじ」と取り付きて、馬に乗りながら冑の錣(しころ)をかたぶけし処に、
敵は格子を下ろさんと取り付て争ふわきを、二騎の武者すき間もなく馳せ来て蹴散らして、三騎ながら城戸の内へ駆け入しを、
後の大勢続きて、即時に竹田の要害を打ち破りて一人も残らず淀川にひたしけるに、一昨日廿三日の暮より翌日廿四日まで大雨にて大洪水なりしほどに、河に入る者一人も助からず。
此時の先駆けは細川帯刀先生、黒馬にぞ乗たりける。城戸に取り付し所にて内冑(うちかぶと)に疵を蒙れば、馬も数ヶ所切られしかども、東寺に帰参する迄は相違なかりしなり。
また二騎のうち一騎は帯刀先生の家人古山平三なり。当敵の大将鑑賢法師、その時還俗したりけるに、押し並びて組で落ち生け捕りにす。一騎は伊勢国の住人長野工藤三郎左衛門尉。いずれも身命を捨て忠節を致しける間、御感再三に及びしなり。
そのまゝ細川殿の勢は木幡山の上に打あがり、稲荷山を経て阿弥陀が峯の敵の後ろに近付しかば、追手の七条河原の御勢指し寄らる。先陳は太宰少弐頼尚にてぞ有りし。
城の中の敵ども驚き騒ぎける処に、すきもなく御方山の手より掛け入しかば、一支へにも及ばず没落す。爰にて敗軍打たれ、遁るゝ者は苦集滅・白川を上りに引きけるが、残り少なくぞ聞こえし。
『梅松論』48
- 和睦 -
同八月廿八日、山の勢最後の合戦すべしとて、今日君の御旗を申しおろして引き割きて笠印に付けて、夜の内より寄り来る間、また師直を大将として、あらゆる大勢一手に成て、今日を限りと責め戦ける。
去る廿三日四日の戦ひに打勝しかば、諸軍勢気に乗りて重ねて勝ちければ、当日ぞ洛中の合戦果て候ける。然りといへども、山上の敵退散せざる間、九月中旬に小笠原信濃守貞宗、甲斐・信濃両国の一族并びに軍勢を率して三千余騎、東山道より近江国へ打出て瀬田近く進む処に、
山徒に橋(=瀬田の唐橋)を引かる間、野路(=草津市)辺りへ陳を取りたりけるに、新田・脇屋大将として湖水を渡してさんざんに合戦いたしけれども貞宗打勝たり。然りといへども要害の地なるに依りて先づ引き退いて鏡山(=竜王町)に取りのぼる刻、
敵即時に重ねて寄せ来る間、また責め戦て追ひ散らし、大勢討ち取て伊吹山の中に馳せ籠もりて、事のよしを京都へ注進申すに依りて、
「元より山徒と云ひ軍勢と云ひ、近江の国の力を以て東坂本の敵共今に相支ける上は、御勢を遣し当国を打ち取りて東坂本の兵粮の通路をふさぐべきよし」御沙汰最中の時分、
小笠原合戦に及びければ、合力せしめ近江を打随へん為に、佐々木佐渡の大夫判官入道道誉仰せを蒙りて、九月の末に京を出て丹波路より若狭の小浜に出て、案内者たるに依りて北近江より国中に乱れ入り、小笠原信濃守貞宗と一手になりて一国を打取る間、山徒軍勢力を落としける程に、
建武三年(1336)十一月廿二日の夜、君は御和睦と号して都へ還幸有りければ、御迎への為に、武家の輩、加茂河原辺りにぞ参じける。
同夜義貞は内々勅を蒙りて、春宮(=恒良親王)と一宮(=尊良親王)を取り奉りて北陸道を関東へ心ざしてぞ没落しける。此時義貞重代の薄金(うすがね)といふ赤威の鎧を山王(=日吉神社)に奉り、今に社頭に在るとぞ承る。
その後道すがら哀れなる事共多かりけり。荒茅(あらち)の中山にて大雪にあひて軍勢ども寒さの為に死す。去りながら義貞は子細なく越前の国に下着給ひて、敦賀津金ヶ崎といふ無双の要害に楯籠もる間、当国の守護人尾張守(=斯波高経)・高越後守・仁木・細川の人々発向しければ、
『梅松論』49
- 金ヶ崎落城 -
君(=後醍醐院)は准后(=藤原廉子)并びに女房両三人計にて花山院殿に御座ありしを、武家より四面を警固せしむ。
「去る元弘元年の秋笠置より六波羅へ入らせ給ひしをだに思ひの外に申しけるに、御一代の内にまたかゝる事はいかなりけるにや」とて万人嘆悲ける有様、ただ日月を失なふかとぞ見えし。
「今度はいづくの国へ御幸あらんずらん」など沙汰ありし時分、潜かに花山院殿を御出有りしかば、洛中の騒動申すばかりなし。此上は京中より御敵出べしとて、急ぎ東寺へ警固を遣されける間、諸人冑の緒をしめて将軍の御所へ馳せ参じたりければ、少しも御驚き有る御気色もなくて、宗徒の人々に御対面有りて仰せられけるは
「此度、君花山院に御座の故に警固申す事その期なきに依りて、以ての外の煩ひなり。先代の沙汰のごとく遠国に遷し奉らば、おそれ有るべき間、迷惑の処に、今御出は大儀の中の吉事なり。定めて潜かに畿内の中に御座有るべき歟。御進退を叡慮に任せられて自然と落居せば然るべき事なり。運は天道の定むる所なり。浅智の強弱によるべからず」と仰せ出だされければ、聞き奉る人々、
「実に天下の将軍武家の棟梁にて御座有る御果報を今更申すも愚かなれども、大敵の君を逃し奉りて御驚もなかりしぞ不思議の事」と申し合ひける。去程に君は大和国あなふ(=賀名生)といふ山中に御座のよし聞こえしかば、「名詮自生(みやうせんじしやう)然るべからず」とぞ口々に申しける。
かゝる所に越前の国金ヶ崎は翌年建武四年(1337)三月六日没落す。義貞は先立ちて囲みを出で、子息越後守(=新田義顕)自害しければ、一宮も御自害あり。春宮をば武士迎へとり奉り、洛中へ入進せけり(=毒殺)。見奉る上下、「昔も今も、いまだかゝる御事は無し」とて涙を流さぬ者ぞなかりける。
この城に兵粮尽きて後は馬を害して食とし、廿日あまり堪忍しけるとぞ承る。生きながら鬼類の身となりける後生、推し計られて哀れなり。かゝりし間、東西南北の御敵、将軍の御旗の向ふ所に、誅罰踵(くびす)をめぐらさず、日月を追ひて静謐しける。
『梅松論』50
- 夢窓国師の尊氏評 -
一、ある時夢窓国師、談義の次(つい)でに、両将の御徳を条々褒美申されけるに、先づ将軍の御事を仰せられけるは、
「国王・大臣・人の首領と生まるゝは過去の善根の力なる間、一世の事にあらず。ことに将軍は君を扶佐し、国の乱を治る職なれば、おぼろげの事にあらず。異朝のことは伝聞計なり。わが朝の田村・利仁・頼光・保昌、異賊を退治すといへども、威勢国に及ばず。
「治承より以下、右幕下頼朝卿兼征夷大将軍の職、武家の政務を自ら専(もつぱら)にして賞罰私なしといへ共、罰のからき故に仁の闕ける所々見ゆ。今の征夷大将軍尊氏は仁徳を兼ね給へるうえに尚大いなる徳有るなり。
「第一に御心強にして合戦の間身命を捨て給ふべきに臨む御事度々に及ぶといへども、咲(え)みを含て怖畏の色無し。
「第二に慈悲天性にして人を悪み給ふ事をしり給はず。多く怨敵を寛宥ある事一子のごとし。
「第三に御心広大にして物惜の気なし。金銀土石をも平均に思し食て、武具御馬以下の物を人々に下給ひしに、財と人とを御覽じ合はさる事なく御手に任せて取り給ひしなり。八月朔日などに諸人の進物共数も知らず有りしかども、皆人に下し給ひし程に、夕に何有りとも覚えずとぞ承りし。
「まことに三つの御躰、末代にありがたき将軍なり」と国師談義の度毎にぞ仰せ有りける。
『梅松論』51
- 尊氏と直義 -
一、聖徳太子は四十九院を作り置、天下に斎日を禁戒し、聖武天皇の東大寺・国分寺を建て、淡海公(=藤原不比等)の興福寺を建立し給ひしは、上古と云、皆応化の所変(=仏の現れ)なり。
今の両将も只人(ただびと)とは申すべきにあらず。ことに仏法に帰し、夢窓国師を開山として天龍寺を造立し、一切経を書写の御願を発し、身づから図絵し、自讃・御判有り。また大飲酒の後も一座数刻の工夫をなし給ひしなり。
一、三条殿(=直義)は六十六ヶ国に寺を一宇づつ建立し、各々安国寺と号し、同く塔婆一基を造立して所願を寄せられ、御身の振廻廉直にして実々鋪(まことまことしく)偽れる御色なし。
此故に御政道の事を将軍より御譲り有りしに、同く御辞退再三に及ぶといへども、上御所(=尊氏)御懇望有りし程に御領状有。その後は政務の事においては一塵も将軍より御口入れの義なし。
ある時御対面の次でに将軍、三条殿に仰せられて云ふ、
「国を治る職に居給ふ上は、いかにもいかにも御身を重くして、かりそめにも遊覧なく、徒に暇を費やすべからず。花紅葉は苦しからず。見物などは折りによるべし。御身を重く持たせたまへと申すは、我身を軽く振廻て諸侍に近付き、人々に思ひ付かれ、朝家をも守護し奉らんと思う故なり」とぞ仰せられける。
{法印}この言は凡慮の及ばざる所と感じ申されしなり。抑も夢窓国師を両将御信仰有りける初めは、細川陸奥守顕氏、元弘以前義兵を上げんとて北国を経て阿波に赴きし時、甲斐の国の恵林寺において国師と相看なし奉り、則ち受衣(じゆえ)(=弟子になる)し、その後、両将の引導(いんどう)(=案内)申されけり。
真俗(=僧俗)ともに勧め申されしに依りて君臣万年の栄花を開き給ふ。目出度く有難き事共なり。
一、ある時両御所御会合在りて、師直并びに故(=元)評定衆を余多(あまた)召して、御沙汰規式少々定められける時、将軍仰せられけるは、
「昔を聞くに頼朝卿廿ヶ年の間伊豆の国において辛労して義兵の遠慮をめぐらせし時に、平家悪行無道にして万民の嘆いふ計なかりしを避けんために治承四年(1180)に義兵を発し、元暦元年(1184)に朝敵を平らげし其間の合戦五ヶ年なり。
「彼政道を伝聞くに、御賞罰分明にして先賢の好する所なり。然りといへども尚以て罰のからき方多かりき。是に依て氏族の輩以下疑心を残しける程に、さしたる錯乱なしといへども、誅罰しげかりし事いと不便なり。
「当代は人の嘆き無くして天下治まらんこと本意たる間、今度は怨敵をもよく宥めて本領を安堵せしめ、功を致さん輩においては殊更莫大の賞を行はるべきなり。この趣を以て面々扶佐し奉るべきよし」仰せ出だされし間、
下御所殊に喜悦有りければ、師直并びに故評定衆各々忝く将軍の御詞を感じ奉て涙を拭はぬ輩はなかりし。唐尭・虞舜は異朝の事なれば是非に及ばず、末代にもかゝる将軍に生まれ合せ奉りて、国民屋を並べ、楽しみ栄えけるこそ目出度けれ。
『梅松論』52
- 結び -
去程に春宮に光厳院の御子(=崇光天皇)御即位有るべしとて大嘗会の御沙汰が有りて、公家は実に花の都にてぞありし。今は諸国の怨敵或は降参し或は誅伐せられし間、将軍の威風四海の逆浪(げきらう)を平らげ、干戈といふ事も聞こえず。
されば天道は慈悲と賢聖(けんじやう)を加護すなれば、両将の御代は周の八百余歳にも越え、荒磯の海の浜の砂なりとも、此将軍の御子孫の永く万年の数にはいかでか及ぶべきとぞ、法印語り給ひける。
ある人是を書留めて、所は北野なれば、将軍の栄花梅とともに開け、御子孫の長久、松と徳を等しくすべし。飛梅老松年旧りて、松風吹けば梅花薫ずるを問と答ふに准(なぞら)へて、『梅松論』とぞ申しける。
※誤字脱字間違いに気づいた方は是非教えて下さい。
2005 Tomokazu Hanafusa / メール
これは芝蘭堂氏製作の上記現代語訳をもとに、続群書類従完成会発行『群書類従』第二十輯のテキストに従つて、作成したものである。、私の解釈によつて、送りがななどは適宜増やした。