キケロ『善と悪の究極について』(序文)
[1]
ブルータス君よ、これまで最高の叡智と卓越した学識を持つ哲学者たちがギリシア語で扱ってきた問題を私がラテン語の文章で表現しようとしたときに、私のこの努力が様々な批判に出くわすだろうということを私はよく知っていた。というのは、ある人たち、それもそれほどひどく無教養ではない人たちが、この哲学を学ぶことをまったく嫌っているからである。それに対して別の人たちは、哲学もほどほどにするならいいが、そんなに熱心に学ぶべきものではないし多くの労力を注ぐべきではないと考えている。
さらには、ギリシア語に精通している人たちの中には、ラテン語を見下して、ギリシア語を読むほうに労力を注ぐほうがいいという人たちがいるだろう。最後に、この種のものを書くのは格好はいいが、私のような立場の人間には相応しくないから、もっと別のものを書いて欲しいという人たちがいるだろう。
[2]
私はこれらの人たちの全部に対して簡単に反論しておこうと思う。哲学嫌いの人たちに対する答えは、ホルテンシウスが哲学を批判し非難したときに哲学を擁護し賞賛するために書かれた私の本の中ですでに充分述べてある。この本はブルータス君のように立派な判断力があると思われる人たちに受け入れられたと思うが、人々の哲学への情熱を掻き立てただけでそれを維持することが出来ないと思われてはいけないので、私はこれからも哲学の本を書くことにしている。
一方、哲学を学ぶのはとても良いことだけれど節度を持ってやるべきだという人たちについて言うなら、彼らが求めている節度とは非常に困難なものである。なぜなら、一旦自由に走り出した者を引き止める事はできないからである。私はこのように無限の探求に制限を課そうとする人たちや、発展すればするほど進歩する物に中庸を求める人たちよりは、哲学などきっぱりとやめておけという人の方が余程正しいことを言っていると思うのである。
[3]
というのは、もし知に到達することが出来るのなら、我々はその知を手に入れるだけでなくそれを楽しむべきだからであり、また、もし知に到達するのが困難なら、真理を発見するまでその探求をやめることはないからである。我々の探求するものが最高のものであるなら、その探求に飽きるということは不名誉なことである。さらに言うなら、私が著作を楽しんでいるのに、それをやめろというほど意地の悪い人がどこにいるだろう。また私が著作に苦しんでいるとしても、そんな他人の努力に限度をもうけようとする人がどこにいるだろう。
例えば、テレンティウスのクレメースは、新しい隣人が「掘り返したり耕したり何か担いだりしている」のをやめさせようとしたが、それは親切心からでる。ーー彼は隣人の努力をやめさせようとしたのではなく、召使がするような仕事をやめさせようとしたのであるーーそれに対して、私が好きこのんで背負いこんでいる苦労を見て腹が立つという人は単なるお節介屋でしかないのである。
[4]
ラテン語で書かれたものを見下しているという人たちを満足させるような反論をするのは、これまでの人たちの場合よりも難しい。というのは、彼らについてまず言えることは、もしギリシア語からラテン語に翻訳された文学作品を読むのがいやでないなら、哲学という最も深刻な事柄を母国語で読むことも好きになるはずだということである。
そもそも、エウリピデスの原作は好きだがラテン語にしたものは嫌いだからと、エンニウスの『メデア』やパキュヴィウスの『アンティオペー』を拒絶するほどに、誰がローマという名前に敵意を抱いているだろうか。「メナンドロスの原作ではなくカエキリウス・スタティウスの『仲間たち』とテレンティウスの『アンドロスの女』を読むなんてとんでもない」などと誰が言うだろうか。
[5]
私はそんなことを言う人とはまったく意見を異にしている。だから、いかにソフォクレスの書いたエレクトラが見事だといっても、私はアティリウスの手になる下手な翻訳を読むべきだと思っている。ルキリウスはアティリウスを「鉄の作家であるが、読むに値する作家だと思う」と言っている。そもそも、自分の国の作家のことを全く知らないのは怠慢な物臭(ものぐさ)か贅沢な食わず嫌いのすることだ。
自分の国の文学を知らないようでは充分に教養があるとは言えない。いやそれどころか、「ペリオンの森で樅の木が斧で地面に切り倒されなければよかった・・」(メデアの冒頭)を我々はギリシア語だけでなくラテン語でも読んできたのだから、幸福な人生についてプラトンの論じたことがラテン語で書かれていてもいいではないか?
[6]
そもそも私は翻訳家のような仕事はせずに、自分が良しとする作家の書いたものを頭に入れて、それに自分の解釈を加えて自分なりのやり方で書き表している。それなのに、どうしてギリシア語からの訳ではなくラテン語の立派な文章となっているものよりも、ギリシア語で書いてあるものの方がいいと、彼らは言うのだろうか。彼らはそんな本ならギリシア語の本の中にもあると言うのだろうが、彼らが読みたい本を全部ギリシア語で読まねばならない理由はないはずだ。
ストア派の問題はギリシアのクリュシッポスが書いたものを読めば全部わかるが、それでもディオゲネスもアンティパトロスもムネサルコスもパナイティオスも他の一流の学者たちも、さらに我々にお馴染みのポセイドニオスの本もある。また、テオフラストスはアリストテレスが既に扱った問題を扱っているが充分に面白い。さらに、エピキュロスや古代人たちが書いた問題については、エピキュロス派の学者たちの書いたものも素晴らしい文章で書かれている。このように同じ問題について違う方法で書かれたギリシア語の本は沢山あって、それらがギリシア人に読まれているとしても、我々も同じようにすることはない。我々は我々の言葉で書かれた本を読めばいいのである。
[7]
しかしながら、我が国の作家たちが文学作品を翻訳したのと同じように、私もまたプラトンやアリストテレスをそのまま翻訳したりしたら、たとえそれによって彼らの神がかった天才ぶりをローマ人に伝えることが出来たとしても、私はローマ人に対して充分な貢献をしたとは言えないだろう。
とはいえ、私はこれまでそのような翻訳はしなかったが、そうしていけないとは思っていない。実際、これからは必要と思う個所は翻訳しようと思っている。特にいま名前をあげた哲学者たちについては、エンニウスがホメロスからアフラニウスがメナンドロスからよくやったように、適当だと思われる場合には、翻訳をしようと思う。
また私は我らのルキリウスのように自分の書いたものを誰にでも読んでもらうことを拒否したりはしない。むしろ私はあの博識で有名なペルシウスにいま生きていて読んでほしいと思うぐらいだ。スキピオとルティリウスには特に読んでもらいたい。ルキリウスは「俺はタレントゥムとコセンツァとシシリアの田舎者のために書いた」と言って、この二人に読まれることを嫌がったというが、もちろんそれはいつもの冗談だろう。とはいえ、当時はルキリウスが意見を仰ぐほどの知識人はいなかったし、元々彼の書いたものも軽いもので、その内容はユーモアが主で知識は二の次である。
[8]
それに、哲学の知識ではギリシア人に引けを取らないブルータス君にささげる本を書いている私がどの読者を恐れる必要があるだろうか。さの上、私はブルータス君が送ってくれた『徳について』というすばらしい本に触発されてこの本を書いているのである。ラテン語の文学が嫌いになった人の中には、ひどいギリシア語からもっとひどいラテン語に翻訳された粗悪な作品に出会ったためにそうなった人もいると思う。
私はそれを否定しない。しかし、だからといって同じ主題のギリシア語のものを読むべきだということにはならないのである。内容がよくて言葉遣いも洗練されてうまく書けているラテン語の本を誰が読まないというのだろう。そんな人はきっと自分のことをギリシア人と呼ばれたい人にちがいない。例えば、アテネのアルブキウスは法務官時代のスカエウォラにそう呼ばれている。
[9]
この話題はルキリウスが非常にうまくユーモアを込めて伝えている。その詩の中でスカエウォラは見事に言っている。
「アルブキウス君よ、君は自分のことをギリシア人と呼ばれたいと言っていたね。ローマ人やサビニー人や、ポンティウスやトリタヌスの仲間や、勇敢な百人隊長や、有名な旗手ではなくギリシア人と呼ばれたいと言っていたんだ。だからアテネの法務官だった私は君の望みどおりにギリシア語で君に呼びかけてやったのだ。『カイレ(ごきげんよう)』とね。すると警士たちも軍人たちもみんな『カイレ』と呼びかけた。それ以来アルブキウス君は僕を嫌うようになったのだ」
[10]
しかし、ギリシアかぶれの男に対するスカエウォラのからかいは当を得ていた。私もまたなぜ母国語で書かれたものをそんなに偉そうに見下す人がいるのか不思議でならない。ここはラテン語の講義をする場所ではないが、一言いっておくと、私がしばしば論じてきたように、ラテン語は決して一般に思われているほど貧弱な言葉ではなく、むしろギリシア語よりは語彙豊かな言語なのである。手本とすべき作家たちが現れた以降の時代において、私も優秀な弁論家や作家たちも流暢な文章や洗練された文章を書くのに修飾語に不自由したということはないのだ。
私はこれまでローマ国民に託された自分の立場を法廷での苦労と困難と危機の中で守り通してきたのであるから、自分の活動と熱意と努力を通じて我が国民の知的レベルを引き上げるという目的のためにもまた、自分の力の限りを尽くして頑張るしかないと思っている。だから、ギリシア語の書物を好む人が単にその振りをしているのでなく本当にギリシア語で読んでいるのなら、彼らと激しく争う必要はないのである。私としては、両方の言語を読みたい人たちや、ラテン語の本が読めればギリシア語には未練がないという人たちの役に立てばよいと思っている。
[11]
一方、私にもっと違うものを書いて欲しいという人達には寛容を求めたい。なぜなら、そういうものを私は我が国の誰よりも沢山書いているし、この命の続く限りもっと沢山書くつもりだからである。しかしながら、私が哲学について書いたものをいつも熱心に読んでくれる人なら、哲学書よりすばらしい書物はないと気づいてくれるはずだ。
というのは、人生において哲学のあらゆる問題、特にこの本の中で探求している問題以上に熱心に探求すべきものはないからである。それは善く生き正しく行動するためのあらゆる原則が従うべき究極の目的は何なのかという問題であり、人間の本性が従うべき究極の善は何であるか、人間の本性が避けるべき究極の悪は何であるかという問題である。この問題について学者の間で大きな意見の相違があるというのに、人生のあらゆる義務のうちで最善ものは何であるかを探求することが、私に与えられた立場に相応しくないと誰が言うのだろう。
[12]
いやそもそも、国家の第一人者たる人たちが人生全体を関わる哲学の問題を蔑ろにして、「召使が産んだ子供は使用者の利益に属するかどうか」などという問題を議論すべきだろうか。こんな問題をP.スカエウォラとM.マニリウスが議論して、M.ブルータスが反対意見を述べるべきだろうか。もちろんこうした問題は中々の難問であるし、市民生活には役立つものである。だから、その種の書物を私は喜んで読んできたしこれからも読むだろう。
確かにこうした物の方がよく売れるが、哲学書の方が必ずや実り多きものである。しかしこの評価は読者に任せよう。私は善と悪の究極についてのあらゆる問題をこの本のなかで説明していると思う。その際、私は自分の考えだけではなく、哲学の様々な学派の考えも出来るかぎり説明しておいた。
以下、対訳
DE FINIBVS BONORVM ET MALORVM
M TVLLI CICERONIS
LIBER PRIMVS
[1] Non eram nescius, Brute, cum, quae summis ingeniis exquisitaque doctrina philosophi Graeco sermone tractavissent, ea Latinis litteris mandaremus, fore ut hic noster labor in varias reprehensiones incurreret. nam quibusdam, et iis quidem non admodum indoctis, totumhoc displicet philosophari. quidam autem non tam id reprehendunt, siremissius agatur, sed tantum studium tamque multam operam ponendam ineo non arbitrantur.
ブルータス君よ、これまで最高の叡智と卓越した学識を持つ哲学者たちがギリシア語で扱ってきた問題を私がラテン語の文章で表現しようとしたときに、私のこの努力が様々な批判に出くわすだろうということを私はよく知っていた。というのは、ある人たち、それもそれほどひどく無教養ではない人たちが、この哲学を学ぶことをまったく嫌っているからである。それに対して別の人たちは、哲学もほどほどにするならいいが、そんなに熱心に学ぶべきものではないし多くの労力を注ぐべきではないと考えている。
erunt etiam, et ii quidem eruditi Graecis litteris, contemnentes Latinas, qui se dicant in Graecis legendis operam malle consumere.postremo aliquos futuros suspicor, qui me ad alias litteras vocent,genus hoc scribendi, etsi sit elegans, personae tamen <meae> et dignitatis esse negent.
さらには、ギリシア語に精通している人たちの中には、ラテン語を見下して、ギリシア語を読むほうに労力を注ぐほうがいいという人たちがいるだろう。最後に、この種のものを書くのは格好はいいが、私のような立場の人間には相応しくないから、もっと別のものを書いて欲しいという人たちがいるだろう。
[2] Contra quos omnis dicendum breviter existimo. Quamquam philosophiae quidem vituperatoribus satis responsum est eo libro, quo a nobisphilosophia defensa et collaudata est, cum esset accusata et vituperata ab Hortensio. qui liber cum et tibi probatus videretur et iis, quos egoposse iudicare arbitrarer, plura suscepi veritus ne movere hominum studia viderer, retinere non posse.
私はこれらの人たちの全部に対して簡単に反論しておくべきだと思う。哲学嫌いの人たちに対する答えは、ホルテンシウス(ーBC50)が哲学を非難し批判したときに哲学を擁護し賞賛するために書かれた私の本の中にすでに充分述べてある。この本はブルータス君など立派な判断力があると思われる人たちに受け入れられたと思うが、人々の哲学への情熱を掻き立てただけでそれを維持することが出来ないと思われてはいけないので、私はこれからも哲学の本を書くことにしたのである。
Qui autem, si(=though) maxime hoc placeat, moderatius tamen id volunt fieri, difficilem quandam temperantiam postulant in eo, quod semel admissum coerceri reprimique non potest, ut propemodum iustioribus utamur illis, qui omnino avocent a philosophia, quam his, qui rebus infinitis modum constituant in reque eo meliore, quo maior sit,mediocritatem desiderent.
一方、哲学を学ぶのはとても良いことだけれど節度を持ってやるべきだという人たちについて言うなら、彼らが求めている節度とは非常に困難なものである。なぜなら、一旦自由に走り出した者を引き止める事はできないからである。私はこのように無限の探求に制限を課そうとする人たちや、発展すればするほど進歩する物に中庸を求める人たちよりは、哲学などきっぱりとやめておけという人の方が余程正しいことを言っていると思うのである。
[3] Sive enim ad sapientiam perveniri potest, non paranda nobis solumea, sed fruenda etiam [sapientia] est; sive hoc difficile est, tamennec modus est ullus investigandi veri, nisi inveneris, et quaerendi defatigatio turpis est, cum id, quod quaeritur, sit pulcherrimum.etenim si delectamur, cum scribimus, quis est tam invidus, qui ab eonos abducat? sin laboramus, quis est, qui alienae modum statuat industriae?
というのは、もし知に到達することが出来るのなら、我々はその知を手に入れるだけでなくそれを楽しむべきだからであり、また、もし知に到達するのが困難なら、真理が発見できるまでその探求には限度がないからである。我々の探求するものが最高のものである限り、その探求に飽きるということは不名誉なことである。さらに言うなら、私が著作を楽しんでいるのに、それをやめろというほど意地の悪い人がどこにいるだろう。また私が著作に苦心しているとしても、そんな他人の努力に制限を課そうとする人がどこにいるだろう。
nam ut Terentianus Chremes non inhumanus, qui novum vicinum non vult 'fodere aut arare aut aliquid ferre denique' -- non enim illum ab industria, sed ab inliberali labore deterret --, sic isti curiosi, quos offendit noster minime nobis iniucundus labor.
例えば、テレンティウス(ーBC159)のクレメースは、新しい隣人が「掘り返したり耕したり何か担いでいる」(『自虐者』69行)のをやめさせようとしたが、それは親切心からでる。ーー彼は隣人の努力をやめさせようとしたのではなく、召使がするような仕事をやめさせようとしたのであるーーそれに対して、私が好きで背負いこんでいる苦労を見て腹が立つという人は単なるお節介屋でしかないのである。
[4] Iis igitur est difficilius satis facere, qui se Latina scripta dicunt contemnere. in quibus hoc primum est in quo admirer, cur ingravissimis rebus non delectet eos sermo patrius, cum idem fabellas Latinas ad verbum e Graecis expressas non inviti legant.
ラテン語で書かれたものを見下しているという人たちを満足させるような反論をするのは、これまでの人たちの場合よりも難しい。というのは、彼らについてまず言えることは、もしギリシア語からラテン語に逐語訳された演劇作品を読むのが嫌(いや)でないなら、最も深刻な事柄を母国語で読むのも好きになるはずだということである。
quis enim tam inimicus paene nomini Romano est, qui Ennii Medeam aut Antiopam Pacuvii spernat aut reiciat, quod se isdem Euripidis fabulis delectari dicat, Latinas litteras oderit? "Synephebos ego, inquit,potius Caecilii aut Andriam Terentii quam utramque Menandri legam?"
そもそも、エウリピデスの原作は好きだがラテン語にしたものは嫌いだからと、エンニウス(ーBC169)の『メデア』やパキュヴィウス(ーBC130)の『アンティオペー』を馬鹿にして拒絶するほどに、誰がローマという名前に敵意を抱いているだろうか。「メナンドロスの原作ではなくカエキリウス・スタティウス(ーBC168)の『仲間たち』とテレンティウスの『アンドロスの女』を読むなんてとんでもない」などと誰が言うだろうか。
[5] A quibus tantum dissentio, ut, cum Sophocles vel optime scripserit Electram, tamen male conversam Atilii mihi legendam putem, de quo Lucilius: 'ferreum scriptorem, verum, opinor, scriptorem tamen, ut legendus sit.' rudem enim esse omnino in nostris poetis aut inertissimae segnitiae est aut fastidii delicatissimi.
私はそんなことを言う人とはまったく意見を異にしている。だから、いかにソフォクレスが書いたエレクトラが見事だといっても、私はアティリウスの手になる下手な翻訳を読むべきだと思っている。ルキリウス(ーBC102)によればアティリウスは「鉄の作家であるが、読むに値する作家だと思う」と言っている。そもそも、自分の国の作家のことを全く知らないのは怠慢な愚か者か食わず嫌いの贅沢者のすることなのだ。
mihi quidem nulli(pl.N.) satis eruditi videntur, quibus nostra ignota sunt. an 'Utinam ne in nemore . . .' nihilo minus legimus quam hoc idem Graecum, quae autem de bene beateque vivendo a Platone disputata sunt,haec explicari non placebit Latine?
自分の国の文学を知らないようでは充分な教養のある人とは言えない。いやそれどころか、「ペリオンの森で樅の木が斧で地面に切り倒されなければよかった・・」(メデアの冒頭)を我々はギリシア語だけでなくラテン語でも読んできたのだから、幸福な人生についてプラトンが議論したことがラテン語で書かれていてもいいではないか?
[6] Quid? si nos non interpretum(G.pl.) fungimur munere, sed tuemur ea,quae dicta sunt ab iis quos probamus, eisque nostrum iudicium et nostrum scribendi ordinem adiungimus, quid habent, cur Graeca anteponant iis, quae et splendide dicta sint neque sint conversa de Graecis? nam si dicent ab illis has res esse tractatas, ne ipsos quidem Graecos est cur tam multos legant, quam legendi sunt.
そもそも私は翻訳家の役割をするのではなく、私が良しとする作家の書いたものを頭に入れて、それに自分の解釈を加えて自分なりのやり方で書き表している。それなのに、ギリシア語からの訳ではなくラテン語の立派な文章となっているものよりも、ギリシア語で書いてあるものの方がいいと、どうして彼らは言うのだろうか。彼らはそんな本ならギリシア語の本の中にもあると言うのだろうが、彼らは読むに値する本を全部ギリシア語で読まねばならない理由はないはずだ。
quid enim est a Chrysippo praetermissum in Stoicis? legimus tamen Diogenem, Antipatrum, Mnesarchum, Panaetium, multos alios in primisque familiarem nostrum Posidonium. quid? Theophrastus mediocriterne delectat, cum tractat locos ab Aristotele ante tractatos? quid? Epicurei num desistunt de isdem, de quibus et ab Epicuro scriptum estet ab antiquis, ad arbitrium suum scribere? quodsi Graeci leguntur a Graecis,isdem de rebus alia ratione compositis, quid est, cur nostri a nostris non legantur?
ストア派の問題はギリシアのクリュシッポスが書いたものを読めば全部わかるが、それでもディオゲネス(バビロンの)もアンティパトロス(タルソスの)もムネサルコス(アテネの)もパナイティオス(ロドスの)も他の一流の学者たちも、さらに我々にお馴染みのポセイドニオスの本もある。また、テオフラストスはアリストテレスが既に扱った問題を扱っているが充分に面白い。さらに、エピキュロスや古代の人たちが書いた問題についてエピキュロス派の学者たちが書いたものも素晴らしい文章で書かれている。このように同じ問題について違う方法で書かれたギリシア語の本は沢山あって、それらがギリシア人に読まれているとしても、我々も同じようにすることはなくて、我々は我々の言葉で書かれた本を読めばいいのである。
[7] Quamquam, si plane sic verterem Platonem aut Aristotelem, ut verterunt nostri poetae fabulas, male, credo, mererer de meis civibus,si ad eorum cognitionem divina illa ingenia transferrem.
しかしながら、我が国の作家たちが演劇作品を翻訳したのと同じように、私もまたプラトンやアリストテレスをそのまま翻訳したりしたら、たとえそれによって彼らの神がかった天才ぶりをローマ人に伝えることが出来たとしても、私はローマ人に対して充分な貢献をしたとは言えないだろう。
sed id neque feci adhuc nec mihi tamen ne faciam interdictum puto.locos quidem quosdam, si videbitur, transferam, et maxime ab iis, quosmodo nominavi, cum inciderit, ut id apte fieri possit, ut ab Homero Ennius, Afranius a Menandro solet.
もっとも私はこれまでそのような翻訳はしなかったが、そうしてはいけないとは思っていない。実際、これからは必要と思う個所は翻訳をしようと思っている。特にいま名前をあげた哲学者たちについては、エンニウスがホメロスからアフラニウス(BC2世紀)がメナンドロスからよくしたように、そうするのが適当だと思われる場合には、翻訳しようと思う。
Nec vero, ut noster Lucilius, recusabo, quo minus omnes mea legant.utinam esset ille Persius! Scipio vero et Rutilius multo etiam magis,quorum ille iudicium reformidans Tarentinis ait se et Consentinis et Siculis scribere. facete is quidem, sicut alia; sed neque tam docti tumerant, ad quorum iudicium elaboraret, et sunt illius scripta leviora,ut urbanitas summa appareat, doctrina mediocris.
また私は我らのルキリウス(ーBC102)のように自分の書いたものを誰にでも読んでもらうことを拒否したりはしない。むしろ私(BC45頃)はあの博識で有名なペルシウス(BC2世紀)にいま生きていて読んでほしいぐらいだ。スキピオ(ーBC129)とルティリウス(ーBC70)には特に読んでもらいたい。ルキリウスは「俺はタレントゥムとコセンツァとシシリアの田舎者のために書いた」と言って、この二人に読まれることを嫌がったというが、もちろんそれはいつもの冗談だろう。とはいえ、当時はルキリウスが意見を仰ぐほどの知識人はいなかったし、元々彼の書いたものも軽いもので、その内容はユーモアが主で知識は二の次なのである。
[8] Ego autem quem timeam lectorem, cum ad te ne Graecis quidem cedentem in philosophia audeam scribere? quamquam a te ipso id quidem facio provocatus gratissimo mihi libro, quem ad me de virtute misisti.Sed ex eo credo quibusdam usu venire ut abhorreant a Latinis, quod inciderint in inculta quaedam et horrida, de malis Graecis Latine scripta deterius.
それに、哲学の知識ではギリシア人に引けを取らないブルータス君にささげる本を書いている私がどの読者を恐れる必要があるだろうか。さの上、私はブルータス君が送ってくれた「徳について」というすばらしい本に触発されてこの本を書いているのである。ラテン語の文学が嫌いになった人の中には、ひどいギリシア語からもっとひどいラテン語に翻訳された出来の悪い粗悪な作品に出会ったためにそうなった人がいると思う。
quibus ego assentior, dum modo de isdem rebus ne Graecos quidem legendos putent. res vero bonas verbis electis graviter ornateque dictas quis non legat? nisi(=exept) qui se plane Graecum dici velit, uta Scaevola est praetore salutatus Athenis Albucius.
私もそれは否定しない。しかし、だからといって同じ主題のギリシア語のものを読むべきだということにはならないのである。内容がよくて言葉遣いも洗練されていてうまく書けているラテン語の本なら誰でも読むからである。それでもいやだという人は自分のことをギリシア人と呼ばれたい人だろう。例えば、アテネのアルブキウスは法務官時代のスカエウォラ(ムキウス・スカエウォラ)にそう呼ばれている。
[9] Quem quidem locum cum multa venustate et omni sale idem Lucilius, apud quem praeclare Scaevola:
この話題はルキリウスが非常にうまくユーモアを込めて伝えている。その詩の中でスカエウォラはいみじくも言っている。
Graecum te, Albuci, quam Romanum atque Sabinum,
municipem Ponti, Tritani, centurionum,
praeclarorum hominum ac primorum signiferumque,
maluisti dici. Graece ergo praetor Athenis,
id quod maluisti, te, cum ad me accedis, saluto:
'chaere,' inquam, 'Tite!' Lictores, turma omnis cohorsque:
'chaere, Tite!' hinc hostis mi Albucius, hinc inimicus.
「アルブキウスよ、君は自分のことをギリシア人と呼んでほしがっていた。ローマ人ともサビニー人とも、ポンティウスやトリタヌスの仲間とも、勇敢な百人隊長とも、有名な旗手とも呼ばれるのはいやだと言っていたんだ。だからアテネの法務官だった私は君の望みどおりにギリシア語で君に呼びかけてやったのだ。『カイレ(ごきげんよう)』と。警士たちも軍人たちもみんな『カイレ』と呼びかけた。それ以来アルブキウスは私を嫌うようになったのだ」
[10] Sed iure Mucius. ego autem mirari <satis> non queo unde hoc sit tam insolens domesticarum rerum fastidium. non est omnino hic docendi locus; sed ita sentio et saepe disserui, Latinam linguam non modo non inopem, ut vulgo putarent, sed locupletiorem etiam esse quam Graecam. quando enim nobis, vel dicam aut oratoribus bonis aut poetis,postea quidem quam fuit quem imitarentur, ullus orationis vel copiosae vel elegantis ornatus defuit?
しかし、ギリシアかぶれの男に対するスカエウォラのからかいは当然だった。私もまたなぜ母国語で書かれたものをそんなに偉そうに見下す人がいるのか不思議で仕方がない。ここはラテン語の講義をするための場所ではないが一言いっておくと、私がしばしば論じてきたように、ラテン語は決して一般に思われているほど貧弱な言語ではなくて、むしろギリシア語よりは語彙の豊かな言語なのである。手本とすべき作家たちが現れた以降の時代において、私や優秀な弁論家や作家たちが流暢な文章や洗練された文章を書くのに修飾語に不自由したということがあっただろうか。
Ego vero, quoniam forensibus operis, laboribus, periculis non deseruisse mihi videor praesidium, in quo a populo Romano locatus sum,debeo profecto, quantumcumque possum, in eo quoque elaborare, ut sintopera, studio, labore meo doctiores cives mei, nec cum istis tantopere pugnare, qui Graeca legere malint, modo legant illa ipsa, ne simulent,et iis servire, qui vel utrisque litteris uti velint vel, si suas habent, illas non magnopere desiderent.
私としては、ローマ国民によって託された自分の立場を法廷での苦労と困難と危機の中で守り通してきたと思うからには、自分の活動と熱意と努力を通じて我が国民の知的レベルを引き上げるという目的のためにも、自分の力の限りを尽くして頑張るしかないと思っている。だからギリシア語の書物を好む人が単に格好をつけているのでなく本当にギリシア語で読んでいるのなら、彼らと激しく争う必要もないし、両方の言語を読みたい人たちや、ラテン語の本が読めればそれでよくギリシア語にはあまり未練のない人たちのために尽くすのがよいと思っている。
[11] Qui autem alia malunt scribi a nobis, aequi esse debent, quod et scripta multa sunt, sic ut plura nemini e nostris, et scribentur fortasse plura, si vita suppetet; et tamen, qui diligenter haec, quaede philosophia litteris mandamus, legere assueverit, iudicabit nulla adlegendum his esse potiora.
一方、私にもっと違うものを書いて欲しいという人達には寛容を求めたい。なぜなら、そういうものを私は我が国の誰にも負けないほど沢山書いているし、命の続く限りもっと沢山書くはずだからである。しかしながら、私が哲学について書いたものをいつも熱心に読んでくれる人なら、哲学書よりすばらしい書物はないと気がついてくれるはずだ。
quid est enim in vita tantopere quaerendum quam cum omnia in philosophia, tum id, quod his libris quaeritur, qui sit finis, quid extremum, quid ultimum, quo sint omnia bene vivendi recteque faciendi consilia referenda, quid sequatur natura ut summum ex rebus expetendis,quid fugiat ut extremum malorum? qua de re cum sit inter doctissimossumma dissensio, quis alienum putet eius esse dignitatis, quam mihiquisque tribuat, quid in omni munere vitae optimum et verissimum sit,exquirere?
というのは、人生において哲学のあらゆる問題、特にこの本の中で探求している問題以上に熱心に探求すべきものはないからである。それは善く生き正しく行動するためのあらゆる原則が従うべき究極の目的は何なのかという問題であり、人間の本性が従うべき究極の善は何であるか、人間の本性が避けるべき究極の悪は何であるかという問題である。この問題について学者たちの間で大きな意見の相違があるときに、人生のあらゆる義務のうちで真実で最善のものは何であるかを探求することが、私に与えられたこの立場には相応しくないと、誰が言うのだろうか。
[12] An, partus ancillae sitne in fructu habendus, disseretur interprincipes civitatis, P. Scaevolam M'.que(=and) Manilium, ab iisque M.Brutus dissentiet -- quod et acutum genus est et ad usus civium noninutile, nosque ea scripta reliquaque eiusdem generis et legimuslibenter et legemus --, haec, quae vitam omnem continent, neglegentur?
いやそもそも、国家の第一人者たる人たちが人生全体を含むような哲学の問題を蔑ろにして、「召使が産んだ子供は使用者の利益に属するかどうか」などという問題を議論すべきだろうか。こんな問題をP.スカエウォラとM.マニリウスが議論して、M.ブルータスが彼らに反対意見を述べるべきだろうか。もちろんこうした問題は中々の難問であるし、市民生活にも役立つものである。だから、その種の文書を私は喜んで読んできたしこれからも読むだろう。
nam, ut sint illa vendibiliora, haec uberiora certe sunt. quamquam idquidem licebit iis existimare, qui legerint. nos autem hanc omnem quaestionem de finibus bonorum et malorum fere a nobis explicatam essehis litteris arbitramur, in quibus, quantum potuimus, non modo quid nobis probaretur, sed etiam quid a singulis philosophiae disciplinis diceretur, persecuti sumus.
しかしながら、こうした書物はよく売れるが、哲学の本のほうが必ずや実り多きものなのである。しかしこの評価は読者に任せよう。私は善と悪の究極についてのあらゆる問題をこの本のなかで説明したと思う。その際、私は自分の考えだけではなく、哲学の様々な学派の考えも出来るかぎり説明した。
以降は、キケロー選集10の達意の翻訳を読まれたし。第一、ニ巻の訳はよい訳である。
参考文献 :
キケロー選集10(岩波書店)『善と悪の究極について』
Cicero De finibus bonorum et malorum with an English translation by H.Rackham
The Academic Questions,Treatise De Finibus.and Tusculan Disputations Of M. T. Cicero Translated by C. D. Yonge, B.A.
Marcus Tullius Cicero De finibus bonorum et malorum Über dashöchste Gut und das größte Übel. Übersetzt und herausgegeben von HeraldMerklin
Translated into Japanese by (c)Tomokazu Hanafusa 2011. 12.13