『アイアス』



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登場人物 アイアス アキレスに並び立つギリシャの英雄。
テクメッサ アイアスの妻
エウリュサケス アイアスの息子
オデュッセウス ギリシアの智将、『オデュッセイア』で有名
女神アテナ 知恵の神、オデュッセウスをひいきしている
テウクロス アイアスの異母兄弟
アガメムノン ミケナイの王、トロイ戦争のギリシア軍の総帥
メネラオス アガメムノンの弟、スパルタの王、ヘレネーの夫として有名
船乗りたち コロス
使者

場所  トロイのギリシャ方陣営のアイアスのテントの前
 アキレスの死後。アキレスの鎧をめぐる争いでオデュッセウスに敗れたアイアスが復讐を企てて実行した翌朝。





 プロロゴス

女神アテナ オデュッセウスよ、お前が敵を倒す機会をうかがっている様子を、私はいつも見守ってきましたが、今も私はお前の様子を見ていますよ。ギリシャの軍勢の端に陣取るアイアスの海辺のテントのそばで、中にあの男がいるか確かめようと、さきほどからあの男の足跡をていねいにたどっていますね。お前はよく鼻の効くスパルタの猟犬のように、見事獲物のありかを探り当てました。 8

そうです、あの男はいまこの中にいます。頭のてっぺんから槍を持つ腕の先まで、ぐっしょりと汗にまみれているところです。ですからお前はもう入口から中をのぞくには及びません。それより何のためにそんなことに骨を折っているのか、私にわけを話しなさい。すべてを見通しているこの私からお前が学ぶこともあるでしょう。 13

オデュッセウス 女神アテナよ、あなたの声だ。あなたの姿は見えないけれど、大切なあなたの声はエトルリアのラッパの響きのように私にはよく聞こえます。いま私が、大きな楯の使い手として有名なわが宿敵アイアスの行方を探しておりますのは、まことにご明察です。たしかに、さっきから私が足跡をつけているのはほかならぬあの男です。 20

 というのは、あの男は、昨夜我々に対してけしからぬ所業に及んだらしいのです。しかし、確かなことは何一つわからず、我らはまったくの五里霧中。そこで、私がこの仕事をすすんで引き受けた次第です。 24

 実は、さきほど我々の戦利品である家畜が誰かの手でことごとく切り殺されて、その番人まで殺されているところが発見されたのです。皆はあの男の仕業にちがいないと思っています。あの男が血のしたたる剣をひっさげて一人で野を駆けていくところを見たという確かな報告があったのです。そこで私はすぐさま足跡を求めて飛び出してきました。しかし、はっきりした所もあれば、そうでない所もあって、誰の足跡かつかめておりません。女神よ、あなたはよいところに現れてくださいました。これまでもこれからも、常に私はあなたの手の指す方へ進んでいるのですから。 35
  
女神アテナ オデュッセウスよ、それは知っていますとも。あなたの守り神である私はさっきからあなたの追跡を助けるために出てきているのです。

オデュッセウス 親愛なる女神よ、それで私の努力は適切なものだったのでしょうか。

女神アテナ たしかに、この事件の犯人はあの男です。

オデュッセウス それで、どうしてあの男はこんな馬鹿げたことに手を染めたのでしょうか。 40

女神アテナ あの男はアキレスの武具争いに敗れた腹いせにこんなことをやったのです。

オデュッセウス それならどうしてやつは家畜の群れを襲ったのでしょう。

女神アテナ 自分では、お前たちの体から流れた血にまみれているつもりなのです。

オデュッセウス というと、やつは我らギリシャ勢に夜襲をかけるつもりだったのでしようか。

女神アテナ 私が注意を怠っていたら、本当にそうなっていたことでしょう。 45

オデュッセウス やつはまたなんという大胆なことを思いついたものでしょう。

女神アテナ 夜陰に乗じて騙し討ちにしようと、お前たちのもとへ単身乗り込んでいったのですよ。

オデュッセウス それで、やつは近くまで来たのですか やつは目指す所へ来たのですか。

女神アテナ あの男はすでにアトレウス家の両大将のテントの入口近くまで来たのです。

オデュッセウス そこまで来てどうして凶行に及ばなかったのです。 50

女神アテナ 私があの男をいま引き止めているからです。私はあの男の目に幻覚を見せて、まだ分配されずに見張りがついている戦利品の牛や羊の方へあの男を向かわせて、癒やされぬ喜びに浸らせているのです。 54

 あの男はその中に飛び込んで、家畜どもに切りかかって、牛やら羊やらを手当たり次第に頭から一刀両断にしたのです。そうしながら、あの男はある時はアトレウス家の両大将をその手で捕まえては殺し、ある時は残りの武将たちに次々と襲いかかっているつもりだったのです。私はこうして、正気をなくして暴れ回るあの男を煽り立てて、破滅の罠へ追い込んだのです。 60

 やがてこの殺戮が一段落すると、男はまだ息のある牛や羊たちを残らず縛り上げて自分のテントへ連れ帰ります。自分の獲物が人間ではなく角の生えた畜生だとは夢にも思わず、いまテントの柱に縛りつけて拷問にかけているところです。 65

 さあ、今からお前にあの男の狂気をはっきりとお目にかけましょう。よく見ておいてギリシャ勢のみんなに教えてあげなさい。何も恐がることはありません。勇気を出してあの男を迎えなさい。あの男の視線をそらしてお前の方に向かないようにしますから、お前の姿があの男に見えることはありません。 70

 もし、アイアス殿。あなたはいま捕虜にした者たちを後ろ手にしばるのに懸命ですが、ちょっとここへ出てきて下さい。アイアス殿、あなたを呼んでいるのです。テントの前に出てきて下さい。

オデュッセウス 女神よ、何をなさるのです。あの男を外に呼び出すなんてやめてください。

女神アテナ お黙りなさい。気の弱いことを言ってはいけません。 75

オデュッセウス お願いだからやめて下さい。中にいるのが分かれば充分ですから。

女神アテナ 何が恐いのです あの男はこれまでずっとお前の―

オデュッセウス そうです、私の宿敵でした。いまもそれに変わりありません。

女神アテナ それなら、敵の不幸を笑うほど愉快なことはないでしょうに。

オデュッセウス いえいえ、あいつにテントから出てきてもらうにはおよびません。 80

女神アテナ 正気をなくした男を目の前で見るのが恐いのですか。

オデュッセウス あいつが正気なら、私も怖じ気づいて逃げ出したりはしませんが。

女神アテナ でも、お前が近くにいても、あの男の目には見えないのですよ。

オデュッセウス どうしてですか あの男をめくらにするとでも言うのですか。

女神アテナ いいえ、見えているのに見えないように、あの男の目を闇で包むのです。 85

オデュッセウス なるほど、神が企みをめぐらせば何でもできるのですね。

女神アテナ さあ、もう静かになさい。そこでじっと待っているのですよ。

オデュッセウス はいはい、どこへもいきません。しかし、できればこんなことは御免被りたいたいものです。

女神アテナ もし、アイアス殿、あなたを呼ぶのはこれで二度目です。あなたの守り神であるこの私をどうしてそのようにないがしろにするのですか。 90

  アイアス、テントの中から出てくる

アイアス これはこれは、ようこそ、女神アテナよ。女神のお力添え、かたじけなく存じます。女神にはこの度の狩りのお礼として、金むくの獲物を奉納させていただきましょう。

女神アテナ それはありがたい。すると、ギリシャ勢に対する戦いではりっぱな戦果をあげたのですか。 95

アイアス 否定するまでもありません。自慢に値する戦果です。

女神アテナ それで、アトレウス家の二人の大将とは一戦交えたのですか。

アイアス やつらには二度とこのアイアスを馬鹿にできないようにしてやりました。

女神アテナ お前の口振りからすると、二人はもはやこの世のものではないらしい。

アイアス 私がもらったアキレスの鎧を横取りしたければ、あの世から戻ってくるがいいのだ。 100

女神アテナ そうですとも。ところで、ラエルテスの息子は、あの男はどうしています。まさか逃がしたとは言いますまい。

アイアス あのずる賢い古ぎつねの安否がお知りになりたいのですか。

女神アテナ そうです。お前の宿敵のオデュッセウスのことですよ。

アイアス 女神よ、あの男は私が捕らえてきた中でも最上の獲物です。いま中にいますが、簡単に死んでもらうわけにはいきません。 105

女神アテナ あの男を殺さずにどうしようと言うのです。これ以上あの男を苦しめて何の得があるというのです。

アイアス まず、あの男をテントのなかの柱にしばりつけてから―

女神アテナ まあ、かわいそうに。それでどんな目にあわそうというのですか。

アイアス むちで血の出るまで殴りつけてやります。殺すのはそれからです。 110

女神アテナ まあ、かわいそうに。あの男をそんなひどいめに会わせてはいけません。

アイアス 女神よ、ほかのことならあなたの良いようにしますが、この男はどうあっても罰を受けてもらいます。

女神アテナ あなたがどうしてもそうしたいと言うのなら、仕方がありません。それなら手心を加えずに、思う存分おやりなさい。 115

アイアス では、仕事に移りましょう。女神よ、あなたには今後ともこの度のようなお力添えをいつも下さるようお願いします。(アイアス、テントの中に戻る)

女神アテナ オデュッセウスよ、神の力の大きさを見ましたか。あなたにしてもこの男ほど慎重で時に応じて優れた行動力のある男はほかに見当たらなかったでしょうに。 120

オデュッセウス そのとおりです。かわいそうに、ひどい狂気に取りつかれたものだ。敵とはいいながら、やつも不幸な男です。でも、これはまさに私自身の姿にほかなりません。この世に生きる我々もしょせんは、はかない影か夢まぼろしのようなものなのですから。 126

女神アテナ それなら、あなたもこのあり様をよくまぶたに刻み込んでおきなさい。そして、たとえ人よりすぐれた技量を誇ろうとも、たとえ人より豊かな富に恵まれようとも、けっして神々に対して大口をたたいたり、勝ち誇ったことを言ったりしてはなりません。人の世の幸不幸など、全て一日のうちに覆るもの。そんなことより、神々は心正しき者を愛し、邪悪な者を憎むのです。 133

パロドス

船乗りたち(入場しながら音楽に合わせて語る)

  テラモンの子アイアスよ、海に囲まれたサラミス島の支配者よ、あなたの幸せは我らの喜び。だが、あなたが不運に見舞われたとき、あなたの悪い評判がギリシャ勢の間に広まったとき、臆病な小鳩のように我らの心は不安に揺れる。 140

  昨日の夜が明けるとともに、いま我々はごうごうたる非難の的になっている。あなたが牧場に乗り込んで、ギリシャ軍の戦利品である家畜の群をやいばにかけて、分配されずにいるいくさの獲物を台なしにしたという。こんな不名誉な噂が我々を悩ましている。 147

  こんな噂を立てたのはオデュッセウス。皆の耳にささやかれたこの噂を、誰もが真に受けている。彼はあなたの事をもっともらしく語り、人から人へ伝わるごとに、あなたの不幸を嘲る人たちはますます有頂天になる。名高い方なればこそ、人はとやかく言いたがるもの。我らについて噂をしても誰も信じはしまい。持てる者に妬みはつきもの。 157

  小兵ばかりで巨人を欠けば城の守りは危うくなる。巨人の力は小兵の支えがあってはじめて生きてくる。だが、小兵の方も巨人の助けが欠かせない。あなたに対する悪い噂を流した愚かなやつらは、こういうことが分からない。 164

  こんな噂から身を守るには、我らだけでは不充分。我らの王よ、あなたの力が必要だ。やつらはあなたの目が届かないことをいいことに、鳥の群れのようにぺちゃくちゃやっている。ひとたびあなたが姿を出せば、巨大なハゲワシを見ておびえるように、きっとやつらはすくみ上がって、声を無くして黙るだろう。 171

 (歌う)

  ああ、我らに恥をかかせるこの噂の力はあなどり難い。もしもこの噂どおりなら、勝利を感謝するささげ物を欠いたため、きららかな戦利品か鹿狩りのお供えを欠いたために、女神アルテミスがあなたをみんなの家畜に向かわせたのか。それとも、青銅の鎧を着た戦いの神アレースが、手助けに礼を欠いたと憤って、夜の闇に企みをめぐらして、あなたをおとしいれたのか。 182

  そうだ、テラモンの子アイアスよ、あなたは正気でいるかぎり、家畜の群に襲いかかるなどという道を外れた事をしたはずがない。これは神が送った病に違いない。神ゼウスよ、神アポロンよ、ギリシャ勢が流したこんな酷い噂を消し去りたまえ。もしもギリシャ方の二人の王と、シジフォスの卑しい息子オデュッセウスがこんな噂を編み出したのなら、我らの王よ、この海辺のテントに引き籠もってけっしてこんな悪名に甘んじ給うな。 192

  さあ、立ち上がって現れいでよ。あなたが戦いを忘れて長々と中で休んでいる間に天を焦がす破滅の炎が我らの身に迫っている。傲慢な敵どもが好き放題に悪い噂を撒き散らし、風吹きすさぶ野を炎のように駆け巡る。我らの心の憂いは深い。 200

第一エペイソディオン

  テントの中からテクメッサ登場

第一コンモス

テクメッサ(歌う) アイアスの船の仲間たちよ、大地から生まれたエレクテウスの血を引く者たちよ、遠きテラモンの家を気づかう私は嘆き悲しんでいる。あのたくましくて、力強くて、恐ろしい人アイアスがいまは病に倒れ、吹き荒れる嵐の中にたたずんでいるのだから。 207

船乗りたち(歌う) 昨夜の間にいったいどのような不幸なことが起こったのか、フリギアから来たテレウタスの子テクメッサよ、教えて欲しい。あなたはあの勇ましいアイアスが戦いで勝ち取って愛した女。あなたならあの方のすべてをよくご存じのはず。 213

テクメッサ(歌う) 言語に絶したこの出来事をいったいどう話せばよいだろう。死ぬことにも等しいこの出来事をお前たちは聞くだろう。あの名高い男アイアスは夜のあいだに狂気に襲われ、大きな恥辱を身に受けた。テントの中にはいま犠牲の供物のけだものたちが、切り刻まれて血にまみれているのが見えるでしょう。 220

船乗りたち(歌う) 勇ましいあの方の、耐えがたい、逃れがたい事実を告げるその言葉。それはまさにギリシャ勢の間で尾ひれを付けて話されている噂と同じ。ああ、この先いったいどうなることやら。あの方は人前にさらされて殺されるにちがいない。あの方は正気を無くし、馬を操る羊飼いと家畜たちを黒光りするやいばで手にかけたのだから。 232

テクメッサ(歌う) ああ、それではそこからだったのか、あの人が家畜どもに縄をかけて連れ帰ったのは。あの人はその家畜を屋敷に引き入れるなり、その場で喉をかき切ったり腹を切り割いたり。足の白い羊を二頭選びだすと、その一頭は頭のみならず舌先までも切り取って投げ捨てたのだ。もう一頭は柱にまっすぐ縛りつけ、馬をつなぐ太い縄を二つ折りの笞にして、鋭い音を立てて打ちすえた。口からはこの世のものとも思えない汚い言葉を吐きながら。 244

船乗りたち(歌う) さあ早く、頭から覆いを被って、人目を避けて逃げ出そう。いや、急いで船に乗り込んでオールをもって、船を海にこぎ出そう。アトレウス家の二人の王が恐ろしい脅し文句をわめいている。恐ろしい運に見込まれたあの方といっしょに、我々も石うちの刑で殺されるかもしれない。 256

テクメッサ(歌う) いや、稲妻が消え、荒れ狂う南風もしずまるように、あの人もやっと落ち着きを取り戻した。そして正気になったいま、新たな苦しみに見舞われている。あたりのひどいあり様を目にすると、それがまさしく自分の仕業であることを知って、大きな悲しみにひたっている。 262


船乗りたち 正気に戻られたとは、まことに幸いなこと。この災難も過ぎ去ってしまえば、もうそれほど心配する必要はないでしょう。 264

テクメッサ でもよく考えてごらん。仲間を悲しませておきながら自分は幸せでいるのと、仲間と一緒になって悲しんでいるのと、この二つのうちのどちらがよいかを。 267

船乗りたち それは奥様、一緒に悲しむ方がはるかに辛いことでしょう。

テクメッサ そうなのよ。あの人の病が癒えた今こそが、私たちの不幸のはじまりなのよ。

船乗りたち それはどういうことですか。おっしゃる意味がわかりません。 270

テクメッサ あの人は、病魔に冒されている間は、一緒に居る私たち正気の者たちを悲しませておきながらも、自分の身に降りかかった災難を楽しんでいたわ。ところが、いま病から回復するとともに、あの人もまたひどい悲しみに浸ってしまったのよ。その一方で、私たちは、前に劣らず悲しみに暮れている。これで、私たちの不幸が以前に倍して大きくなったことが分かるでしょう。 277

船乗りたち それは確かにそうですが、すると、これは何かの神のたたりでしょうか。そうでなければ、あの方は、せっかく病が癒えたというのに、それをまったく喜ばないとは、あまりにも不思議です。 280

テクメッサ とにかく、お前たちも今のこの事態をよく飲み込んでくれないと困ります。

船乗りたち なるほど。で、この不幸な出来事のそもそもの事の起こりはなんですか。私たちはあなた方と一蓮托生の身の上です。何が起こったのか、私たちに話してください。

テクメッサ これはお前たちにとってもけっして人事ではない。だから、今からこの出来事の一部始終を話しまょう。 284

 あれは夕暮れにともした明かりの火もすでに燃え尽きた真夜中ごろのこと。あの人は槍を一本手に取ってわけもなく外へ出かけようとしているのよ。私はその様子を見咎めてこう言ったの。「あなた、いったい何をしているの。使いの者が呼びに来たわけでもなく、ラッパの合図があったわけでもないのに、今ごろ一人でどこへ出かけようというの。軍は全員寝静まっているのよ」。 291

 それに対してあの人は「女はよけいな口出しをせずに黙っているものだ」といつもの調子でにべもなく言うばかり。仕方なく私が口をつぐんでいるあいだに、あの人は一人で飛び出していってしまったの。 294

 外で何があったか知らないけれど、やがてあの人は縄でしばった牛や羊や番犬どもを引き連れて帰ってきたの。それから、まるで人間に対してするように、あの人は家畜たちに襲いかかっていったのよ。頭から一刀両断にしたり、首をはねたり、頭を持ち上げて喉をかき切ったり、縛りつけて拷問にかけたりするのよ。 300

 そのあげくに外へ飛び出していったかと思うと、何かの影に向かってなにやらわめき散らしているの。大きな笑い声を上げながら、アトレウス家の両大将ことだけでなく、オデュッセウスのことも、たっぷりと暴力のお返しをして来たと言ってるのよ。それから、部屋の中へ急いで戻って来たわ。 305

 そのうちに、あの人もなぜか少しずつ正気を取り戻してきたわ。そして部屋の中の惨憺たるあり様をしばらく眺めてから、自分の頭を叩きながら大声を立てたの。そして髪の毛を両手でかきむしりながら、羊たちの死骸に囲まれたままその場にへたりこんでしまったの。そしてしばらくの間そのまま声もなくじっとしていたのよ。 311

 つぎに、あの人は私に向かって恐ろしい剣幕で脅し文句を並べ立てながら、起こったことを残らず自分に話せ、いったい何があったんだと迫ったのよ。皆さん、私は怖くなって自分の知っているかぎり出来事の一部始終を話してしまったの。その途端、あの人は悲しそうな声を立てておいおい泣き出したの。私はこれまでにあの人があんな泣き方をするのを聞いたことがないわ。あんな泣き方は気の弱い臆病者のすることだとあの人は私に常日頃言っていたし、あの人は悲しい時でも声を圧し殺して、牛がいななくようにうめくだけだったのに。 322

 いまあの人はこの悲運に打ちのめされて、何も飲まず何も食べずに、切り刻まれた家畜の山の真ん中に座り込んで、物も言わずにじっとしているの。あの悲しそうな言葉の端々は、きっと何かよからぬことを考えているに違いないわ。 327

 皆さん、私が出てきたのは、ほかでもない、お前たちに中へ入ってあの人を助けてやって欲しいからよ。こんな時には誰でも親しい者の言葉に心を動かされるものだもの。 330

船乗りたち テレウタスの子テクメッサよ、あなたのお話しのように、あの方が悲しみに正気を失ってしまわれたとは、これは容易ならぬ事態です。

アイアス(テントの中から)おお、おお。

テクメッサ あの方の声が聞こえませんか。何といううめき声でしょう。これからもっとひどくなるかもしれないわ。 335

アイアス おお、おお。

船乗りたち あのご様子では、また病気の発作が起きています。いやむしろ、ご自分の回りの混乱した様子を目の当たりにして嘆いておられるところでしょうか。

アイアス おお、うちの坊主はいないか。

テクメッサ まあ、どうしましょう。エウリュサケス。お前のことをお呼びだわ。お前をどうするつもりかしら。どこにいるの。困ったわ。 341

アイアス 私が呼んでいるのはテウクロスのことだ。テウクロスはどこだ。あいつはいつまで略奪をしてまわるつもりなんだ、私が破滅しようかというときに。

船乗りたち 正気を取り戻しておられるらしい。さあ、扉を開けてください。我らの姿を目にすれば、少しは落ち着きを取り戻されるかもしれません。 345

テクメッサ さあ、扉を開けるわよ。あの人が何をなしたか、あの人がどうしているか、その目ではっきりと見てちょうだい。

第二コンモス

アイアス(歌う)ありがとう、船乗りたちよ。今でも変わらぬ友情を私に示してくれるのは、もはやお前たちだけだ。見てくれ、私のこのあり様を。血の海のただ中で、血のしぶきにうたれているこの私の姿を。

船乗りたち(テクメッサに)ああ、このあり様は、まさにあなたのおっしゃったとおりです。あの方がこんなことをなさるとは、正気の沙汰ではございまいせん。 355

アイアス(歌う) オールを漕いではるばると海を渡ってやってきた、航海の技術にたけた仲間たちよ、私のことを心配して助けてくれる者はお前たちをおいてもう他にはいない。さあ、この私を一思いに殺してくれ。 361

船乗りたち 縁起でもない! 自暴自棄になって、これ以上不幸の傷口を広げるようなことをしてはいけません。 363

アイアス(歌う) 見ろこのあり様を。敵に囲まれていようとも恐れを知らぬ歴戦の勇士と歌われたこの私が、何も知らない畜生どもを相手にして大立ち回りを演じたのだ。とんだお笑いぐさじゃないか。私は赤恥をかかされたのだ。

テクメッサ あなた、お願いだから、そんなことを言わないで。

アイアス ほっておいてくれ! お前はこっちへ来るんじゃない! ああ。 370

テクメッサ お願い! むちゃを言わないで、少しは私の言うことを聞いてちょうだい。

アイアス(歌う)ああ、なさけない。悪人どもを取り逃がして、こともあろうに罪のない牛や羊に襲いかかって、家畜たちの黒い血に我が身を濡らした私なのだ。 377

船乗りたち やってしまったことを今更嘆いてどうなりましょう。事態はもう取り返しがつきません。

アイアス(歌う)おお、ラエルテスの小せがれめ
、お前は何でもお見通しで、あらゆる悪事のお先棒担ぎだ。わが軍広しといえども、お前ほど汚いペテン師は他にない。きっとお前はどこかで喜びの高笑いしていることだろう。 382

船乗りたち 人が泣こうが笑おうが、すべては神が決めること。我らにはどうしようもないことです。

アイアス たとえこの身は果てるとも、あの男をこのままにしておくものか。畜生! 385

船乗りたち 大口をたたくのはおよしなさい。身のほどを弁えなくてはいけません。

アイアス(歌う)わたしの先祖の神ゼウスに祈る。我が憎っくき宿敵、あの誰よりも口の上手いペテン師を殺し、あの二人の王を殺し、最後にわたし自身も死ねますように。 391

テクメッサ 自分の死を祈るくらいなら、どうぞ私の死もいっしょに祈ってちょうだい。あなたが死んでしまったら、私はどうして生きていけるかしら。

アイアス(歌う) 死の闇こそは私の光。あの世の暗闇こそ、私の喜び。死の暗闇よ、私を迎えに来い。暗闇の世界に私を連れていってくれ。神にも人間にも見捨てられた私だから。 400

  そうだ、ゼウスの娘、あの恐ろしい女神が私をこの破滅に追い込んだのだ。この愚かな狩猟に血道をあげて、おかげで、私の過去の栄光は周りのこのしかばねの山とともに消え、軍の者はみな両手に槍をたずさえて私を殺しに来るからは、もはや逃れるすべはない。私にはもう行き場がない。 409

テクメッサ まあ、どうしましょう。こんな言葉がこの勇者の口から出てくるなんて。この人はこんな言葉を口にするのを潔(いさぎよ)しとはしない人だったのに。

アイアス(歌う) ああ、海よ、逆巻く波よ、海辺の洞くつよ、海辺の牧場よ、お前たちと私とは、思えば長い付き合いだった。 415

  だがもうこのトロイともお別れだ。心ある人ならわかるはず。私はもう生きていけない。ああ、このトロイの地を流れるスカマンドロスの河よ、ギリシャ人の恵みの流れよ、お前とも永遠のお別れだ。 421

  だが、これだけは私の誇り。トロイにやったきたこのギリシャの軍勢の中で、この私にまさる強者(つわもの)は他にはいないということを。だが、その私がいま恥辱にまみれてこうして倒れている。 427

船乗りたち 私はこのような災難に会われたあなたをどうすれば引き止められるか分かりませんが、そのお言葉は辛すぎます。 429

アイアス ああ、私の名前が私の不幸にこれほど似つかわしいものになろうとは、いったい誰が考えたろう。ああ、私にはもうこんな嘆き声を繰り返しあげるしかできないのだ。私はそれほどにも悲しい。 433

 私の父はこのトロイで軍の中でも一番の手柄を立てて、すばらしい褒美を手に故郷へ錦を飾ったというのに、その息子の私は、同じようにトロイに来て、同じように武勇を誇り、父に劣らぬ手柄を立てておきながら、ギリシャ勢に恥辱を受けてこうして死んでいくのだ。 440

 だが私はこれだけは知っている。もしアキレスが生きていて、自分の鎧を与えるのにふさわしい武芸の持ち主をみずから名ざしていたならば、私以外の誰であろうとけっしてあの鎧に手を触れることはできなかったはずだと。 444

 ところがアガメムノンとメネラオスは私の武勲を省みず、あのずる賢い男にアキレスの鎧をくれてやってしまったのだ。もしこの目とこの頭が狂うことなく、思いどおりに働いていたならば、あのような不当な裁きを受ける者が今後二度と出ぬようにしていたはずだ。 449

 ところが、私がやつらに対してまさに手をふり上げた時に、私はあの目付きの鋭くあらがい難い女神の投げかけた狂気の虜になってしまい、この畜生どもから流れた血潮でこの手を汚すはめとなってしまったのだ。私の意に反して命を救われたあいつらはさぞかし高笑いしていることだろう。しかし、いくら勇敢な者でも、神に邪魔立てされたら、臆病者を取り逃がすこともあることなのだ。 456

 ああ、これから私はどうしたらいい。私が神々に嫌われていることは明らかだ。その上このトロイの国のみか、私はギリシャ勢までも敵にまわしてしまったのだ。もうこうなってしまっては、アトレウス家の小せがれどもを置き去りにして、この船の居並ぶ陣地を後に、エーゲ海を渡って故郷へ帰ってしまおうか。しかし、どの面下げて父テラモンの前にこの姿をさらせよう。たくさんの戦利品を携えて名誉の凱旋をはたした父が、何の土産ももたずに手ぶらで戻ってきた自分の息子をどんな顔で迎えるというのか。 465

 いいや、今帰るなどとうてい出来ることではない。それでは、トロイの城へ一人出向いて、敵方との一騎討ちであっぱれ手柄を立てたのちに、見事討ち死にをして果てようか。だが、そんなことをしてアトレウス家の小せがれどもをわざわざ喜ばしてやることはない。 469

 ではどうすればいい。何とかして、あの年老いた私の父に、息子がけっして臆病者ではないことを、そして、紛れもなくあの父の血を引いた息子であることを、見せてやらねばならないのだ。そもそも、もはや逆境を覆す見込みのない者が、命を永らえようとするのは恥ずべきことだ。 474

 日々を重ねては死に近づいては後ずさりする人生が愉快であろうはずがない。偽りの希望で自分自身をだましながら生きているような人間は最低だ。気高い人間は、美しく生きるか美しく死ぬか、どちらかでしかありえない。私の言いたいことはこれだけだ。 480

船乗りたち アイアスよ、あなたが本心からそう言っていることを誰も否定したりしませんよ。誰もそれが嘘だなんて言いませんよ。でも、もうそんなことを言うのはおよしなさいな。もうそんなことを考えるのはおよしなさいな。親しい者の言うことに耳を傾けて、ぜひとも思い直してみてください。 485

テクメッサ あなた、人の不幸のなかであらがい難い運命ほどに大きな不幸はないものなのよ。元をただせばこの私も、フルギア第一の富豪を父に持つ自由な生まれの娘だったのよ。それが今は奴隷の身分なのよ。もちろん、これはあなたの武勇の賜物だわ。でも、ともかくこれが神さまの御心なのよ。だからこそ、私はあなたの妻となってからは、あなたのことを第一に思ってきたのよ。 491

 だから、お願い、家の守り神ゼウスにかけて、私との結婚の契(ちぎ)りにかけて、お願いよ、どうか私を敵の手に渡して私をあなたの敵の悪口にさらすようなことはしないでちょうだい。あなたが私を見捨てて死んでしまえば、その日から私はあなたの子供と一緒にギリシャ人に連れ去られて、奴隷暮らしを強いられるのよ。 499

 私の主人となる人は私のことを嘲ってきっとひどいことを言うわ。「ご覧なさい、あれが昔ギリシア第一の武人と言われたアイアスのめかけだった女です。以前は人もうらやむ羽振りの良さだったのに、この落ちぶれようはどうでしょう」きっとこんなことを言うのよ。私はこれも運命だと諦めるけど、こんなことを言われたら、きっとあなたの家にとっても、あなた自身にとっても、恥となるのよ。 505

 それに、少しはお父様のことも考えてあげてちょうだい。あなたが死ねばお父様は悲しい老いの中に置き去りにされるのよ。それに、お母様のことも考えてあげてちょうだい。年老いたあなたのお母様はあなたが生きて帰るのをきっと繰り返し祈っているわ。それより、あなたのあの子はどうなるの。幼くして父親を失い、一人で見ず知らずの人に引き取られていくあなたの子供の身の上を不憫に思ってやってちょうだい。もしあなたが死ぬようなことがあれば、私とあの子がどんな不幸な境遇に落ちるか、考えてみてちょうだい。 513

 だって、私が頼りに出来るのは、あなた一人なのよ。私が帰るはずの祖国はあなたがその槍の力で滅ぼしてしまったし、私の両親は不幸に会って二人とも死んであの世で暮らしているわ。あなたを失えば私にはもう帰る所も生きる手立てもないのよ。あなたなしには私は生きてはいけないのよ。 519

 だから、私のことも忘れないでちょうだい。楽しい思いをしたなら、その思い出はずっと残るものだわ。喜びは次の喜びを永遠に生み出すものよ。楽しい思い出を忘れてしまうなんて、そんな人は気高い人とは言えないわ。 524

船乗りたち アイアス殿、私と同じように哀れみの気持ちを持ってあげてくださいな。そうすればこの人の言うことももっともだと思われるでしょうに。

アイアス もちろんそうしてやろう。もしこの女がちゃんと私の言ったとおりにしさえすれば。

テクメッサ もちろん、あなた、私は何でもあなたの言うとおりにするわ。

アイアス 息子を連れてこい、私は息子に会いたいのだ。 530

テクメッサ でも、用心のためにあの子はここには置いていないわ。

アイアス お前はあの忌まわしい出来事のことを言っているのか。

テクメッサ 万一あなたに出くわして命を落としてはいけないと思ったからよ。

アイアス そうかもしれない。あの時の私にはその心配は確かにあった。

テクメッサ とにかく、そうならないように、気をつけていたのよ。 535

アイアス それはよくやった。そこによく気がついてくれた。

テクメッサ それで、これから私はあなたに何をしてあげたらいいの。

アイアス あの子に会わせてくれ、あの子に話をさせてくれ。

テクメッサ あの子なら、この近くでお供の者が守ってくれているわ。

アイアス ではあの子はどうして早くやって来ないのだ。 540

テクメッサ 坊や、お父様がお呼びですよ。あの子のおもりをしている家来の者たちよ、さあ、誰でもいいから、あの子を連れてきてちょうだい。

アイアス あの子はもうこっちへ来ているのか。それともまだ出てきていないのか。

テクメッサ ほら、もうそこまで、家来の者があの子をつれて来ましたよ。

アイアス さあ、その子をここへ。さあ、私に抱かせてくれ。この子が紛れもなく私の子ならば、この流れたばかりの血を見ても恐がることはない。だが、とにかく、この子が父の血を受け継いだたくましい勇者になるように厳しくしつけてやってくれ。 549

 息子よ、お前はけっして臆病者になってはならんぞ。父親の私に劣らぬ勇敢な男になってくれ。そして、父が手に出来なかった幸運を、息子よ、お前がつかんでくれ。だが、お前は幸せなやつだ。この父の不幸を何も知らないのだから。今の私はそんなお前がかえってうらやましい。まったく、人生は物心のつかないうちが一番幸せなのだ。人生の苦しみと喜びを知らない間がな。 555

 だがお前もやがて一人前になったら、お前は戦場の敵たちの前で、勇敢な私の血をひいた勇敢な息子であることを見せてやらねばならんぞ。だが、その時が来るまでは、荒れ狂う世間の風から守られて、こうして幼い命をはぐくみながら、ここにいるお前の母親を喜ばせてやるがいい。 559

 ギリシャ勢のことなら心配無用。やつらにはお前に指一本触れさせはしない。お前のことを軽んじたり、粗末に扱おうとするものなど一人もいないはずだ。たとえ私がいなくても、お前にはまだテウクロスという強い味方がいるからだ。今は敵を追って遠くに出かけてここにはいないが、あいつがお前を引き取って立派にお前の面倒を見てくれる。 564

 私の航海の仲間である戦士たちよ、お前たちにもくれぐれもこの子のことをたのんだぞ。それから、テウクロスに私の命令を伝えてくれ。この子を私の故郷に連れ帰ってテラモンに私の母のエリボイアにも会わせるのだ。そして、老いた父母があの世に旅立たれるまで、この子をお二人の生き甲斐にして頂くのだ。 570

 それから、私の武具が私の破滅をもたらした男の手に渡ってギリシャ人たちの争いの種になることがあってはならない。エウリュサケスよ、あの楯はお前にやろう。お前の名前は元々あの楯にちなんでつけたもの。牛の皮を七枚重ねた頑丈なあの楯を、よく編み込んだ革ひもをつけて使うがよい。ほかの武具は私といっしょに埋葬してくれ。 577

 (テクメッサに)さあ、もういい、早くこの子を受け取るのだ。それから入口の戸を閉めろ。人前でめそめそ泣くのはやめるんだ。まったく女というものは何かというとすぐめそめそする。さっさと戸を閉めんか。やぶ医者は切開する必要がある患者に向かっていつまでも呪文を唱えていると言うが、お前はそれと同じだ。 582

船乗りたち あなたがそんなにむきになっておられる様子を見ると、私たちは心配でなりません。そもそも、その頑固な物の言い方が宜しくありません。

テクメッサ ねえ、あなた、一体どうするつもりなの。 585

アイアス お前はあれこれ詮索せずに、大人しくしていればいいのだ。

テクメッサ いやよ、そんなの困るわ。ねえ、この子はいったいどうなるの。ねえ、神様にかけて、お願いよ。どうか私たちを見捨てないでちょうだい。

アイアス うるさい。神様が何だ。私はもう神様には何の借りもないのが分からんのか。

テクメッサ 縁起でもないことを言わないで。

アイアス それは無理な注文だ。

テクメッサ ねえ、聞いてちょうだい。

アイアス もう、お前にはうんざりだ。

テクメッサ でも、あなた、私、怖いのよ。

アイアス さあ、お前たち、早く戸を閉めろ。

テクメッサ お願い、あなた、強情を張るのはやめてちょうだい。

アイアス 愚かな女だ。この期におよんで、私にこの気性を改めさせようとするとは。 595

(アイアス、テントの中へ。テクメッサと子供は退場)

第一スタシモン

船乗りたち(歌う)

  サラミスよ、お前の名は上がり、とこしえに誰一人その名を知らぬ者なし。海に囲まれ波打ち寄せるお前は実に幸せものだ。それにひきかえ、哀れにも、我らは久しい以前より、このイーダの山の牧場の草に、仮寝のしとねを営み始めて、数え切れない月日が過ぎた。時の流れに身をすり減らし、故郷に帰るその前に、げに恐ろしきあの世の闇に包まれる日が来るという悪い予感に襲われる。 608

  それに加えて、ああ、情けない。アイアスは神の送った狂気という癒しがたい病の虜。たぐいまれなる勇敢さで戦いの場に乗り込んできたあの頼もしさは今はなく、一人淋しい物思いに今は深く沈みこんで、親しい仲間の者たちに大きな悲しみをもたらしている。一方、かつて打ち立てた手柄の数々は、アトレウス家の恩知らずの息子たちに踏みにじられて顧みられることもない。 621

  あの方の年老いて髪白き母のもとに、心の病に冒された息子の話が届いたら、どれほど悲しむことだろう。ナイチンゲールという哀れな鳥のように、悲しい泣き声でいついつまでも泣きやまず、声高く悲しみの歌を歌うことだろう。その手は悲しみに音を立てるほど胸を打ち、白髪を掻きむしることだろう。 634

  望みなき不治の病に伏せるより、いっそのこと死んであの世に行った方が、よほど幸せにちがいない。苦しみ多きギリシャ人の誰も及ばぬ誉れ高い名家の出でありながら、あの人は生まれもった気性を失い、人が変わってしまわれた。あの方の父は哀れな人だ。わが子がどんな苦難に出会って破滅の淵に沈んだかをいずれ聞くときが来るだろう。アイアコスの末裔は数多しといえど、誰一人アイアスほどの悲運に未だ出会った者はない。645

  (アイアス、剣を手にもってテントから出てくる。テクメッサ入場。)

第二エペイソディオン

アイアス まったく、長い時間の間には、どんなことが起こるか知れないものだ。いったん言明されたことでも忘れ去られるときが来る。この世の中には何一つ意外なことなど起こらないもの。どんなに固い決心をした者も、どんなに固い誓いを立てた者も、説き伏せられてしまうことがある。 649

 いま思えばさっきの私は自分でも不思議なくらいに強情だった。まるで焼きを入れて水につけたばかりの鋼のようだった。だが、この女の話を聞いているうちに、私の心も和らいできた。そうだ、この女を未亡人にして敵の手に渡したり、この子を父無し子にするなんて、それではあまりにかわいそうだ。 653

 ところで、私はこの体を洗うために今から浜辺に行こうと思う。女神の激しい怒りの矛先から逃れるために、この身の汚れを洗い清めようと思うのだ。それから、どこか人気のない所に行って、地面に穴を掘って、この憎んでも憎みきれない私の剣を、誰の眼にも留まらない地中深くに埋めてしまおう。こんなものは地下のあの世の暗闇に大事に保管してもらえばよいのだ。 660

 あの宿敵のヘクトールから贈り物としてこの剣をこの手に受け取ってからというもの、ギリシャ勢たちの間で、私はろくな扱いを受けてこなかった。まったく諺にも言うとおり、敵からの贈り物は災いのもと、けっして受け取ってはならないものだったのだ。 665

 よし、これからは私も神々の意に従うことにしよう。そして、アトレウス家の人たちを敬い尊ぶことにしよう。元々上に立つ者の言うことを聞くのは当然のこと。どんなに力の強いものでも、どんなに恐ろしいものでも、この世の秩序には従っている。雪の舞う冬も、実りをもたらす夏に譲るときが来る。 671

 めぐり来る恐ろしい夜の闇も、白馬が連れてくる夜明けの光の輝きの前には引き下がる。恐ろしい嵐にとどろく海も、いつかは静まるときが来る。人を捕らえる眠りの魔力もいつかは解けて、いつまでも離れぬことはない。 676

 それなのに、我々がものの道理をわきまえずにいるわけがない。すくなとも、私はそうだ。なぜなら、私はもう知っている。敵もいつかは味方になるからいつまでも憎み続けるべきではないと。また、仲のいい友でも変わる時が来るのだから、あまり肩入れすべきでない。友情といえども、誰でも安心できる港というわけではないのだと。 683

 とはいえ、これからはそれもこれもうまくいく。妻よ、お前はいまから中に入って、私の願いが間違いなく成就するようにと神々に祈ってくれ。(テクメッサ退場) 686

 仲間のものたちよ、お前たちもあの女と同様に、私の指図をよく守ってくれ。そして、テウクロスが戻ってきたら、私たちとお前たちのことを宜しく取り計らうように言ってくれ。私は行かねばならない所がある。お前たちは私の言ったとおりにするんだぞ。いまは不幸な私も救いを得たという話をお前たちは恐らく近いうちに聞くだろう。(アイアス退場) 692


第二スタシモン

船乗りたち(歌う)

  ああ、この上ない喜びに、欣喜雀躍、手の舞い足の踏むところを知らず。パーンの神よ、ああパーンの神よ、雪深きキュレネーの岩山の高みより、海をわたって現れよ。神々の踊りの音頭をとる神よ、ミュシアとクノッソスの地で有名なお得意のダンスを我らとともに舞い踊れ。そうだとも、いま我らは踊り出したいほど陽気な気分に満ちている。アポロンよ、イカロスの海越えて、デロスの島から来たれ、我らのもとにお姿を現したまえ。そして永遠にこの地に留まって我らをいつくしみたまえ。 705

  破滅の神の呪縛から解放されて深い悩みが消え去った我らは、目の前が急に明るくなったよう。病から回復したアイアスは、神々に恭順を示してつぐないの儀式をとどこおりなく果たされた。ああ、もうこれからはこれからは、高速で海を行き交う船の上にも晴れやかな明るい日差しが戻ってこよう。長い時間の間には、どんなものでも色褪せるときが来る。思い掛けずに気を入れ換えたアイアスは、怒りを抑えてアトレウスの息子たちと和解するという。まったく何が起こるかわからないもの。 718

第三エペイソディオン

  使者登場

使者 みんな! 聞いてくれ! 何はさておき、テウクロス殿がミュシアの山からいましがたお帰りになったぞ。ところがだ。あの方が軍の中央司令部まで戻って来ると、突然居合わせたギリシャ人たちから悪口の一斉攻撃を受けたのだ。 722

 と言うのは、みんなは、あの方が遠くからやってくるのを見つけるが早いか、回りをとり囲んで誰も彼も寄ってたかってあの方に、「気違いの身内よ、反乱者の弟よ、お前なんぞ死ぬまで石をぶつけて全身八つ裂きにしてやる、ぜったい逃げられないぞ」と、口々に罵詈雑言を浴びせて、それはもう大変な騒ぎだ。 728

 あげくの果てに、あちこちで刀の鞘が払われてあわや刃傷ざたかという事態にまで発展したのだ。こうして争いが頂点まで達したとき、やっとのことで長老方が中に入って「まあまあ」となだめすかして最悪の事態だけは免れた。 732

 それはそうと、アイアス殿はどちらにおられる。わしはあの方にこのことをお知らせせねばならんのだ。上に立たれる方に全てをお伝えするのが我々の役目だからな。 734

船乗りたち アイアス殿は中にはおらんぞ。決意も新たに心を入れ換えられて、今しがた出ていかれたのだ。

使者 しまった、遅かったか。もっと急いでいたら、いや、もっと早く送り出してもらっていたらこんなことにはならなかったろうに。

船乗りたち しまったとはどういうことだ。遅かったとはどういうことだ。 740

使者 テウクロス殿がおっしゃったのだ。自分が着くまではアイアス殿をけっしてテントから外に出してはならんとな。

船乗りたち だが、出て行かれたことにまちがはいない。ここは怒りを抑えて神々と仲直りをするのが得策だと考えられてな。

使者 何をとぼけたことを言っているのだ。あのカルカス殿がこれまでに何かを予言してはずれたことがあるとでもいうのか。 745

船乗りたち ええ! カルカス殿がいったいどんな予言をしたのだ。あの方はこの事の何を知っているのだ。

使者 これは本当のことなんだ。私はその場にいたのだから。いいか。カルカス殿は大将たちの評議の輪から一人だけ抜け出て、アトレウス家の者たちから離れたところで、テウクロス殿の手をしっかりと握って、「もしアイアスを死なせたくなければ、今日一日だけはアイアスを外に出してはならん」とおっしゃったのだ。「アイアスに対して腹を立てている女神アテナがアイアスを苦しめるのは今日一日だけだから、なんとしてでも今日だけはあの人をテントの中に引き留めておかねばならん」とカルカス殿はおっしゃったのだ。 757

 そして続けてこう申された。「人が人として生まれながら分を守らずに際限なく増長すると、その時にはもはや無用の者として、神々の送った過酷な運命に倒されるのだ。しかるに、あの男は家を出るときから、すでに父親の立派な言葉に耳をかさない愚か者だった。『お前は、もし戦いに勝利したければ、神様のお力添えをいただくことをけっして忘れてはならんぞ』と忠告する父に対して、あの愚か者は昂然として言い放った。『神様のお力添えがあればどんな臆病者でも戦いに勝つことはできます。しかし、私は神様にお助けがなくともきっと勝利を手にすることができると思います』。 769

「これはまた何と思い上がった言いぐさではないか。ところがそれだけではないのだ。女神アテナがわざわざあの男を励ますために戦場にやって来て『さあ、がんばって敵をやっつけなさい』と声をかけてくださったときに、あの男はこんなけしからんことを言ったのだ。『女神よ、応援ならほかのギリシャ人のところに行って下さい。ここは私がいるかぎり、敵に突破される恐れはありません』とな。人間の分際で神に対してこんなことを言えば、女神の逆鱗に触れるのはあたりまえだ。 777

「だが、それも今日一日のことだ。今日一日をあの男が無事で過ごしさえすれば、我々は神の恩寵によってあの男の命を救えるのだ」あの占い師はこう申されたのだ。それを聞いたテウクロス殿はさっそく席を立って、私を使者としておつかわしになった。この指令をあなた方のもとへ伝えてこいと言われてな。だが、カルカス殿の言うとおりなら、もしこの指令が実行出来ないときには、アイアス殿の命はないのだ。 783

船乗りたち 大変だ、テクメッサよ。あなたはよくよく運のない人だ。早く出てきてこの人の話をお聞きなさい。このままでは取り返しのつかないことになりますぞ。 785



  テクメッサ、子供を抱いて登場

テクメッサ いったい何なの。次々とやって来る災難からやっと解放されたばかりだというのに、どうしてまた呼び出したりするの。

船乗りたち とにかく、この人の言うことをお聞きなさい。アイアス殿の消息を、悲しい消息を伝えにきたのです。 790

テクメッサ まあ。何ですって。きっと何もかもお終いなんだわ。

使者 消息などどいう呑気なことではない。もしアイアス殿が出かけていたら、困ったことになるんだ。

テクメッサ ええ、あの人は出かけたわ。だったら、いったい何が困るというのよ。

使者 あの方を一人で外へ出してはいかん、テントの中に留めておけと、テウクロス殿がおっしゃったのだ。 796

テクメッサ テウクロスはいまどこにいるの。あの人は何を根拠にそんなことを言っているの。

使者 テウクロス殿はもう戻って来ておられる。アイアス殿がいま外へ出ると命があぶないのではと心配しておられるのだ。

テクメッサ 何ですって。そんなことをあの人は誰から聞いたの。 800

使者 予言者のカルカス殿からです。今日一日があの方の生死の別れ目だと。

テクメッサ まあ、どうしましょう。ねえ、お前たち、私を助けてちょうだい。事態は差し迫っているわ。お前たちはテウクロスに早く来るように呼びに行ってちょうだい。お前たちは海岸線を西と東に手分けして、可哀想なあの人の行き先を捜してちょだい。 806

 いま分かったわ。あの人は私をだましていたのよ。あの人はもう私のことなんか何とも思わずに、私を残して行ってしまったんだわ。ああ、坊や、これから私はどうしたらいいの。そうだわ。私もこんな所に座っていずに、行けるところまで行ってみよう。さあ、みんな、急いで行きましょう。いまはじっとしている時ではないわ。死に急ぐあの人を救えるかもしれないから。 812

船乗りたち もちろん行きますとも。私たちは言うだけで何もしない連中とは違います。さあ、すぐに行きましょう。(テクメッサ、子をテントに置いて退場。船乗りたちも左右に分かれて退場。使者も退場)

  アイアス登場。切っ先を上にして短剣を地面に立てる。

アイアス 残忍な殺し屋がここに立っている。いま物思いにふけっているいとまはないが、この短剣ならば切れ味は天下一品。この剣は私の知っている男の中で誰よりも憎いやつ、見るからに嫌なあのヘクトールからの贈り物だ。しかも剣の刃(やいば)は鋼(はがね)をみがく砥石にあてられ、いま研ぎすまされたばかり。それが敵地のトロイの土にしっかりと立っている。いや、この剣が私の気持ちを汲んで、情け深くもかたじけなくも、すみやかに私を死なせてくれるように、念には念を入れて私がここに埋め込んだのだ。 822

 これで準備は整った。つぎはまずお前だ、神ゼウスよ。私の先祖であるお前がふさわしかろう。ゼウスよ、私を助けてくれ。私の願いはささやかなもの。剣の上に倒れて朱(あけ)に染まった私の体を、テウクロスにいち早く運び去ってもらいたいのだ。私の敵に先に見つかって、鳥や獣の餌食にされたくはない。だから、テウクロスに私の死を伝える使いを送ってもらいたいのだ。 830

 ゼウスよ、お前に対する私の願いはこれだけだ。また、黄泉路の案内人のヘルメス神よ、お前にお願いする。私が身をおどらせてこの体に剣を突き通したあとは、断末魔の苦しみもなくこの身を安らかな眠りにつかせてくれ。 834

 次は、永遠の処女神、恐ろしいエリニュエスよ、お願いだ。お前たちは人の世のあらゆる苦しみにいつも目を光らせている女神たちならば、私のために早く来てくれ。教えてやる。私をおとしいれたのはアトレウス家の小悴どもだ。あの悪党どもをひっ捕らえて非業の死に遭わせてやってくれ。私が自分の手にかかって死ぬる姿を見たのなら、あいつらも身内の手にかかって死なせてもらいたいのだ。さあ、早く来い、復讐の神エリニュエスよ。遠慮はいらん。ギリシャ方のやつらもまとめて残らず食いつくしてくれ。 844

 おお、はるか上空に馬車を駆る日の神よ、私の故郷を見つけたら、こがね色に光る手綱を引き絞って馬をおさえて、私がこうむった災いを、私の不幸なあり様を、年老いた私の父と、ふしあわせな私の母に伝えてくれ。この悲しい知らせを耳にすれば、哀れな母は町中に聞こえるような声で泣き叫ぶことだろう。 851

 だが、今更泣き言を言っても始まらない。やるべきことはさっさと済ましてしまわねば。ああ、死神よ、死神よ、私の姿を見に来るのだ。いや、お前とはあの世に着いたら話をしよう。それより、いまこの時に輝きわたる日の光よ、馬車を駆る太陽神に私が話しかけるのはこれが最後だ。 858

 おお、光よ、おお、私の祖国、聖なるサラミスよ、先祖伝来の私の家よ、さらには栄光の都アテナイよ、そしてアテナイに住む私の友人たちよ、そして、このトロイの大地よ河よ泉よ、お前たちに別れを告げよう。さらばだ、私を養いはぐくんでくれたものたちよ。アイアスがお前たちに告げる言葉はこれが最後だ。もうこれ以上、私がこの世で言うべきことは何もない。 865(アイアス、短剣の上に身を投げる)


  船乗りたちが半分が右手から、続いて残りの半分が左手から登場する

船乗りたちA(歌う) つらい、つらい、つらいことばかり。どこもかしこも、あちらもこちらも、くまなく探した。アイアスさまの居場所は分からない。おや、あれは何だろう。大きな音が聞こえるぞ。 871

船乗りたちB(歌う) 我々だ。お前たちと同じ船乗り仲間だ。

船乗りたちA(歌う) それで、どうだった。

船乗りたちB(歌う) 船の西側一帯は隅から隅まで探してみた。

船乗りたちA(歌う) それで、何か収穫は。 875

船乗りたちB(歌う) 骨折り損のくたびれもうけだ。

船乗りたちA(歌う) 我々の方は東側一帯を探してみたが、どこにもあの人は見つからなかった。 878

第三コンモス

船乗りたち(共に歌う) 夜を徹して漁に精出す仕事好きの漁師たちよ、この地のオリンポスに住む山の精たちよ、ボスポロスに流れこむ河の水の精たちよ、誰かどこかで気性の荒いアイアスさまのさまよう姿を見かけたなら、私たちに教えてほしい。こんなに苦労して探しまわったにもかかわらず、心の病んだアイアスさまがどこにいるのか分からない。行き先の手掛かりさえも得られない。何と困ったことだろう。 890

テクメッサ ああ、ああ。

船乗りたち 誰の声だ。近いぞ。茂みの中から聞こえるぞ。

テクメッサ 悲しいわ。

船乗りたち あれは戦の囚われ人、不幸な奥さまテクメッサの姿、あのように深く悲嘆にくれておいてじゃ。 895

テクメッサ もうおしまいよ、破滅だわ、私はもうだめよ、みんな。

船乗りたち どうなされたのです。

テクメッサ ここに死んたばかりのアイアスが倒れているわ。隠された剣に体を覆って。 899

船乗りたち(歌う) ああ、もう帰れない。共に船出したご主人を失くしては、我々もおしまいだ。ああ、憐れな奥さま。

テクメッサ この人がこうなってしまっては、泣くしかないわ。 904

船乗りたち(歌う) 誰の手を借りてこのような不幸なことをなさったのか。

テクメッサ 自分の手にかかって。ここに立てた剣に身を投げて亡くなられたわ。

船乗りたち(歌う)ああ、馬鹿だった。あなたが仲間から外れて一人で死ぬなんて。何も知らず気付かなかった間抜けな俺よ。おいたわしや、アイアス殿のご遺体はどこにあるのです。 914

テクメッサ 見てはだめよ。私がこの布ですっかり覆い隠すわ。たとえ仲間の人間でも正視するには忍びないもの。べったり傷口から鼻へ黒い血糊が覆っているのよ。

 私はこれからどうしましょう。あなたを身内の誰に運んでもらったらいいの。テウクロスはどこにいるの。今こそここに来て、倒れたこの兄の埋葬の支度をいっしょにしてほしいわ。

 ああ、哀れなアイアス、これ程の人がこうなったからには、敵味方なく涙を注いであげるべきなのよ。 924

船乗りたち(歌う)不幸なあなたはこうなるのが定め。頑ななあなたは限りない苦悩に満ちた不幸な運命を成就するのが定め。あなたが夜も昼もアトレウスの子たちに向けて吐いていた精一杯の憎しみがこんな事になった。第一の勇者を決める呪われたあの武具争いの時こそ、この災いの大いなる出発点だった。 936

テクメッサ ああ。ああ。

船乗りたち これは心の底からの偽りのない悲しみに違いない。

テクメッサ ああ。ああ。 939

船乗りたち 奥さま、これほど愛する方を失なったばかりのあなたが繰り返しお嘆きになるのはもっともなこと。

テクメッサ あなたはそれを想像するだけでしょうが、私は身をもって感じています。

船乗りたち ごもっともです。

テクメッサ ああ、せがれよ、私たちはどんなくびきの下に置かれるのかしら。私たちはどんな監視の下に置かれるのかしら。

船乗りたち(歌う)ああ、その嘆きはアトレウスの二人の息子たちの容赦ない言語に絶するひどい仕打ちのことをおっしゃっているのでしょう。それはきっと神様が守って下さいます。

テクメッサ こんなことになってしまったのも神々のご意思です。

船乗りたち それでは神々もあまりの仕打ちです。

テクメッサ  この仕打ちはゼウスの恐ろしい娘アテナがオデュッセウスのためになさったこと。

船乗りたち(歌う) 辛抱強いあの男は心の底で喜んでいる。狂気から出た不幸を大笑い。情けなや、それを聞いたアトレウス家の二人の王たちも笑っている。 960

テクメッサ 彼らがこの人の不幸を笑わば笑え。生きている時にこの人を必要としなくても、戦いになればこの人の死を嘆くようになるわ。愚かな人は掌中の玉を失うまでは気付かないもの。この人の死は私には辛く、あるいは彼らにはうれしいものでも、この人には本望なことなのよ。この人は望み通りの物を手に入れたのよ。この人は死にたがっていたのよ。だから、この人のことで彼らは何を喜ぶことがあるの。この人が死んだのは神々のため。けっして彼らのために死んだのではないわ。けっして。だから、オデュッセウスは虚しい笑いに興じていればいい。彼らにはもうアイアスはいない。彼は私に悲しみと苦しみを残して行ってしまったのよ。 973


第四エペイソディオン

 テウクロス登場

テウクロス ああ!

船乗りたち みんな、静かにしろ。テウクロスさまの声が聞こえるぞ。たしかにこの不幸を嘆かれるあの人の声だ。

テウクロス ああ、我が最愛のアイアスよ、血を分けた兄弟よ、お前は噂どおりのことになっていたのか。

船乗りたち テウクロスさま、あの方はお亡くなりになったのです。これはたしかでございます。

テウクロス ああ、私は何と不運な男だ。 980

船乗りたち こうなったからには、

テウクロス ああ、私はもうだめだ、おしまいだ。

船乗りたち 嘆かれるのも致し方ございません。

テウクロス ああ、突然やってきたこの悲しみよ。

船乗りたち まさしく、テウクロスさま。

テウクロス ああ、困った。この人の息子はどうしているんだ。トロイの地のどこにいるんだ。

船乗りたち お一人でテントの中に。 985

テウクロス(テクメッサに) 早くあの子をここに連れてこないか。敵の誰かが夫を無くした雌ライオンから子供をさらうように、あの子を奪い取らないとも限らない。さあ、急げ、いっしょに行け。人はみな死んだ人間を嘲笑うものなのだ。  989(テクメッサ退場)

船乗りたち テウクロスさま、生前あの方も、あの子の世話をまさにそのようにあなたに求めておられました。 991

テウクロス ああ、私がこの目で見た光景の中でこれほど痛ましいものはない。ああ、最愛のアイアスよ、これまで私が巡り歩いた旅路の中で、お前の不幸な知らせを聞いてからお前を探して今たどってきた旅路ほど辛いものはなかった。まるで神が広めた噂のように、お前が死出の旅に出たという噂がギリシャ人の間に広まるのは早かった。 999

 それを聞いた時は遠くで悲嘆に暮れていたが、いま目のあたりにした私はもうだめだ。畜生。さあ、覆いをはがして見せてくれ。どんなにことになっていても構わない。(アイアスの顔から覆いを取る)ああ、見るのもつらい。この顔には苦しい覚悟のあとが見える。お前は私に何と多くの不幸の種を播いて死んでいったのか。 1005

 これから私はどこへ行けようか。苦しむお前を少しも助けてやれなかったこの私が、誰のところへ行けようか。あのテラモンはお前の父であるだけでなく私の父だが、私がお前を連れずに帰ったりしたら、さぞかしお喜びになることだろう。きっとそうだ。あの人は笑うということのない人なのだ。よいことがあっても表情ひとつ変えない人なのだ。 1011

 あの人なら何でも言い出しかねない。どんなひどいことでも言うだろう。こいつは戦争の捕虜から生まれた奴隷の子だ。こいつは最愛のアイアスを女々しくおじけづいて見捨てたのだ。きっと死んだアイアスの領地と家屋敷をずる賢く手に入れようとしたのだ、とそんな事を言うはずだ。あの人は老いてから怒りっぽくなっていて、何でもないことにかっとなる人なのだ。最後に私は自由を奪われて奴隷にされて、あの地から追い出されてしまうのだ。 1020

 家へ帰ってもこんなことだ。トロイでは私のまわりは敵ばかりで助けてくれる者はほとんどいない。しかも、お前が死んだために私はこんな目にばかり会うのだ。ああ、どうしよう。かわいそうなお前の命を奪ったこのきらめく鋭い剣から、どうやってお前を引き離せばいいのだ。お前は悟ったことだろう。死んだヘクトールがいつの日かお前を殺す定めだったことを。 1027

 みんなはこの二人の運命をよく考えてみよ。ヘクトールはアイアスに贈られたベルトで馬車に括り付けられ引きずられて命を落とし、アイアスはそのヘクトールに贈られた剣の上に倒れ込んで命を落としたのだ。 1033

 この剣を鍛えて作ったのは復讐の神エリニュエスで、あのベルトを作ったのは残忍な職人たる黄泉の神ハデスではないか。こうしたことはどれもこれもきっと神々の人間に対する企みだと私は思うのだ。もちろん、この考えが気に食わない人は好きに考えたらいい。私はこう思うと言うまでだ。  1039

船乗りたち お話はその辺にして、この方を埋葬する方法を考えて、急いで指図して下さい。敵の姿が見えるのです。悪人の常として、人の不幸を笑いに来ますよ。

テウクロス 誰の姿が見えるというのか。わが軍の人なのか。

船乗りたち この遠征の原因となったあのメネラオスさまです。 1045

テウクロス 私にも見える。近くに来ているのは見間違えようがない。

メネラオス おいこら、お前はその遺体は埋葬してはならん。そのままにしておくのだ。

テウクロス それで何のために、そんなばかげたことを言っているのだ。

メネラオス 私と軍の統率者の決めたことだ。 1050

テウクロス それで何のためだ。理由を言わんか。

メネラオス その理由はこうだ。我々はこの男がギリシャ勢の味方として故郷から連れて来たと思っていたのに、実際にはトロイ勢以上にギリシャ人の敵だと分かったからだ。この男はギリシャ軍を全滅させようと企んで、真夜中に槍を持って出撃したのだ。もしどこかの神がその企てを阻止して下さらなければ、我々は殺されて不様にもこうして横たわっていたところだ。実際には、ある神がこの男の暴力を家畜の群れに向けて下さったが、さもなければ、この男の運命は我々のものとなって、この男は生き永らえていたのだ。 1061

 だから、どんな権力者もこの男を埋葬することは許されない。これは黄色い砂の上に放置されて海辺の鳥たちの餌食になるのだ。 1065

 これに対してお前はけっして怒ってはならない。この男が生きている間は我々はこの男を思い通りにできなかったが、死んでからはたとえお前が不承知でも我々はこの男の支配者となって好きにさせてもらう。なぜなら、この男は生きている時には我々の言うことを少しも聞こうとしなかったからだ。 1070

 実際、ろくでもない奴に限って、一兵卒の分際で上に立つ者の言うことに従おうとしないものだ。しかし、畏怖とか畏敬というもののない町では、法はうまく機能しないし、畏怖と畏敬によって守られていない軍隊は秩序が保てない。 1076

 いや、人間さえもたとえ立派な体で生まれて来ても、些細な躓きで倒れることを知るべきなのだ。畏怖と畏敬をあわせ持つ者だけが恙無い人生を送られると知るべきなのだ。 1080

 礼儀を忘れてやりたい放題を許しているとそんな社会は順風満帆な航海をしていてもいつか谷底に落ちてしまうと考えねばならない。だから、私としては然るべき畏怖の念を確立しなければならない。好き勝手に行動しても後で痛い目に遭って付けを払わずに済むと思ってはならないのだ。 1086

 世の中はこういう風に変わっていくものだ。以前にはこの男が大変威張っていたが、今度は私が威張る番になっている。だから、お前に言っておく。この男を埋葬して自分も墓の中に落ちたくなかったら、この男を埋葬してはならん。 1090

船乗りたち メネラオスさま、賢明なお考えをおっしゃりながら、その後でご自身が死者に対して無礼を働いてはなりません。

テウクロス 仲間たちよ、驚くではないか。生れの卑しい者が間違いをしでかすならともかく、よい家柄の出で通っているこいつがこんな間違ったことを言うのだから。

 おい、最初からもう一度言ってみろ。この人をギリシャ軍の味方だと思ってここへ連れてきただと? この人は自分の意思で出てきたのではない? お前がどうしてこの人の上に立つのか。お前がどうしてこの人が故郷から連れてきた人たちの支配者になれるのか。 1101

 お前は我々の支配者ではなくスパルタの支配者として来たのだ。この人がお前に命令する権利がないのと同じく、お前がこの人に命令する権利もないのだ。  1104

 お前は他人の副官としてここまで船で来たのだ。全員の上に立つ将軍などではない。ましてアイアスの上に立つ将軍などではないぞ。お前は自分の部下に命令していればいい。そんな偉そうなことは自分の部下に言え、自分の部下を処罰していろ。お前が禁じようが他の将軍が禁じようが私はこの人を間違いなく埋葬する。お前の言葉など私は怖くはないぞ。 1110

 そもそも、この人が遠征してきたのは、あのご苦労な連中とは違って、お前の妻のためではないし、お前のためではけっしてない。この人が自分がした誓いのためにやってきたのだ。この人はくだらぬ人間のことを崇めたりしなかったのだ。 1114

 こういう分けだから、お前はもっと沢山の伝令と本当の将軍を連れて出直してこい。私はお前ごときの人間のたわ言に耳を貸す気はない。

船乗りたち 私は不幸の中でそんな言葉は良くありません。いくら正しくてもそんな乱暴な言い方では相手を怒らせてしまいます。

メネラオス 弓兵のくせに威勢がいいな。 1120

テウクロス あたりまえだ。弓を使うのは卑しいことではないぞ。

メネラオス それで楯でも持たせたら、大威張りだな。

テウクロス 弓だけでも重装備のお前には負けないぞ。

メネラオス 口だけはえらく勇ましいようだな。

テウクロス 正しい人間が勇ましいのは当然だ。 1125

メネラオス 私を殺したこの男がいい目を見るのは正しいことなのか。

テウクロス お前を殺しただと? 殺されたお前が生きているとは、おかしな事を言う。

メネラオス 私が生きているのは神さまのおかげだ。だが、この男に関するかぎり私は死んでいる。

テウクロス 神さまに救われたのなら、神さまをないがしろにしないことだ。

メネラオス 私が神の掟をさげすんでいるとでも言うのか。 1130

テウクロス 現にこうして、死者の埋葬を禁じているではないか。

メネラオス 自分の敵の埋葬を禁じて何が悪い。

テウクロス それではアイアスはお前の敵にまわったことがあったというのか。

メネラオス 我々は互いに敵同士だった。それはお前も知ってのことだ。

テウクロス それはお前が投票をごまかしたいかさま師とわかったからだ。 1135

メネラオス こいつが負けたのは審判の責任で私ではない。

テウクロス お前は涼しい顔をして裏でさんざん悪い事をしているのだ。

メネラオス そんな事を言って痛い目に会うのはお前だ。

テウクロス 痛い目に会うのは私ではなくお前の方だ。

メネラオス 一つだけ言っておく。こいつを埋葬してはならん。 1140

テウクロス それに対する答えはこうだ。この遺体はすぐに埋葬される。

メネラオス 私はむかし口だけは勇ましい男を見たことがある。その男は嵐の季節に船乗りたちに無理やり出航させが、ひどい嵐の中へ入ると声も出なくなった。男が頭からマントを被っていると、船乗りたちに好き放題に踏み付けにされたのだ。お前もこれと同じで、今は大口を叩いているが、小さな雲から大きな嵐がやってきて、その大法螺を吹き消してくれるわ。 1149

テウクロス 私も一人の馬鹿者を見たことがある。そいつは不幸な仲間に無礼なことを言うのだ。その男を私と性格のよく似た人がみつけて、こう言ったのだ。「おいお前、死んだ人をひどく扱ってはならんぞ。もしそんなことをすると、あとでひどい目に会うぞ」と、心得違いの男に向かってこう忠告したのだ。そいつは私の目の前にいる。そいつはどうやら他ならぬお前だ。私の言う事が分かるかな。 1158

メネラオス 私はもう帰る。権力者が罰を下せないでぐだぐだ言っていたことが知れたら恥だわい。 1160

テウクロス とっとと失せろ。私も馬鹿者の無駄話に付き合ったことが知れたら大恥だ。

船乗りたち(音楽に合わせて語る) これから大きな争いが起きまする。
テウクロスさま、出来るだけ大急ぎで、
大きな穴を見つけて下さい。この方が人びとの長い記憶に残る湿ったお墓に入れるように。 1167

テウクロス ほら、この人のご子息と奥さまが不幸な遺体の埋葬の儀式をするのに、ちょうどいい時に近くにやってこられた。 1170

 おお、若様、こちらにおいでください。そして嘆願者となってこの近くに立ってあなたの生みの親である父上にお触れください。そして、その手に私と母上と三つ目にはご自分の髪の毛を持って、座って神に助けをお願いするのです。それは嘆願者の神への捧げものです。 1175

 もし若様をご遺体から無理やり引き離そうとする悪人が軍にいるなら、願わくばそやつは惨めな死を遂げて埋葬されずに自分の国から追放されて、私がこの髪の毛の房を切りとるように、あらゆる氏族の根を絶たれてしまいますように。さあ、若様、この髪の房をしっかり握って、誰にも動かされないようにして、ひざまずいてご遺体につかまっていて下さい。 1181

(船乗りたちに)私は誰が禁じようとこの人のお墓を手配して来る。それまでお前たちは男なら女々しい振舞いはせずこの場を離れず、若様をお助けするのだぞ。 1184

第三スタシモン

船乗りたち(歌う) いつまでも彷徨い歩く年月の最後の時は何時。戦いの苦しみに満ちたうち続く災いをこの広大なトロイの野にいる私にもたらす時には終わりがない。それはギリシャ人の悲哀と恥辱。

ギリシャ人に憎むべき武器の戦いを広く教えた人は大空の彼方に消えるか、はたまたひとなみに黄泉の国に下ってしまえばよい。災難は次々に災難を生む。多くの人が滅んだのはその人のせい。 1197

その人のせいで私は花冠りも酒席の楽しみも得られず、フルートの音楽の楽しみも、夜の眠りの楽しみも奪われた。恋することも叶わず私はこうして人から忘れられて横たわる。髪の毛は露にぐっしょり濡れて、悲しいトロイにいることを思い出させる。 1210

これまでは勇ましいアイアス様が夜の恐怖と矢玉の守りだった。今はその方も憎むべき運命に身を捧げている。これから私にどんな楽しみがあるだろうか。波洗う海に面した木の繁る岬の前、スニオン岬の台地の下まで行って、聖なるアテナの名を呼びたい。 1222


エクソドス

テウクロス おい、総大将のアガメムノンがこっちに来るのが見えるぞ。きっと私に対してふざけた事を言いに来たに違いない。私は急いできたぞ。 1225

アガメムノン 妾の子の分際でぬけぬけと、お前が大口をたたいているという報告が来ているぞ。貴族の生まれだったら、なおさら偉そうにほざいて、そっくり返ってきどって歩いていることだろう。

 なにせ用無しのお前が用無しになった男のために我々に逆らって、アガメムノンとメネラオスは陸でも海でもギリシヤ人の頭(かしら)ではなくお前たちの上役でもないと言いはり、アイアスは誰の部下でもなく自分の主人として船出したと言うのだから。 1234

 生まれの卑しい男からこんな大法螺を聞かされるとは屈辱ではないか。お前がそんな大声を出して自慢しているのはどんな男のためなのだ。私が行かなかった所でこの男が行った所この男が戦った所があるのか。この男のほかにギリシャ軍には英雄は誰もいないのか。 1238

 思えば、アキレスの武具争いをギリシャ人に告げたのが失敗だった。我々はこんな風にテウクロスにあちこちでずる扱いされるし、争いに負けたお前たちは多くの審判員の判定は受け入れようとせず、我々をいつまでも悪しざまにののしったり、反逆を企てて我々を刺し殺そうとするのだから。 1245

 だが、そんなやり方がはびこるなら、法はあっても無きがごとしだ。我々は正当な勝者をないがしろにしたり、順位が下の者を上にもってきたりするわけにはいかないのだ。そんなことは断じてだめだ。いざという時に頼りになるのは肩幅が広くてがっしりしている奴ではない。頭のいい奴がいつでも勝利を収めるのだ。大きな牛も小さな鞭でまっすぐ歩かせられる。 1254

 私の見るところ、お前も分別を身に着けないとその身の上にこの治療法が近々適用されるはずだ。今は幻になってもうこの世にいない男のために、向こう見ずに偉そうにして好き放題ほざくのはやめろ。落ち着いてよく自分の生まれを思い知れ。そして自由な生まれの別の人間をここに連れて来てお前に代わってお前の弁護をさせるのだ。お前が何を言っても私には分からない。私は野蛮人の使う言葉を理解できないからだ。 1263

船乗りたち お二人とも落ち着いて分別を取り戻して下さい。私にはこれ以上のお二人にとっていい言葉は思い浮かびません。

テウクロス 全くなさけないものだ。死者に対する感謝の気持ちは何とあっさり色褪せてしまい、死者を見捨てることだろうか。アイアスよ、あなたに対する思いやりの言葉などこの男の口からはおくびにも出て来ない。あなたはこの人のために何度も槍をもって戦い命の危険にさらされたのに、この人はそんな事はからきし覚えていないのだ。 1271

 いまお前は馬鹿なことを長々としゃべったが、お前たちが砦の柵の中に閉じ込められて絶体絶命の窮地に立っていた時にこの人が単身乗り込んできて救い出したのを何も覚えていないのか。船尾の甲板に火がついて、ヘクトールが塹壕を飛び越えて船の中まで躍り込んで来たあの時のことだ。 1279

 この窮地をはね返したのは誰だったんだ。それをやってのけたのはまさにお前が行かなかった所はどこにも行かなかったと言ったこの人ではないのか。この人はこうして充分お前の役に立ったではないか。また、ヘクトールと一対一で戦うときには、誰の命令でもなく籤を引いて自分から一騎討ちに向かったではないか。その時彼が投げ入れた籤は、外れやすい湿った土くれではなく、羽根つき兜から最初に飛び出すような籤だったではないか。 1287

 これらをやったのがこの人なのだ。そして、この人の側にいっしょにいたのが、野蛮人の母を持つ生まれの卑しい私だ。馬鹿め、お前はどこに目を付けて人のことを悪し様に言うのか。お前の祖父は古代のペロプスでフリュギア出の野蛮人であることを知らないのか。また、お前の生みの親のアトレウスは自分の弟にその息子の肉を料理にして出した穢らわしい奴であることを知らないのか。 1294

 お前自身の母親はクレタ人だが、その母親は間男しているところを父に捕らえられて、もの言わぬ魚の餌にするように命じられた女だ。お前はそんな分際でありながら私の高貴な生まれをけなすのか。私の父はテラモンで第一の戦功の褒美として私の母を得て妻にした。その私の母はラオメドンの子で王家の生まれだ。さらに、私の母を戦利品の中から選り抜いて私の父に与えたのはアルクメネの子(ヘラクレス)なのだ。 1303

 このような高貴な二人を親に持つ高貴な生まれの私が血を分けた兄を不名誉な目に会わせて良いものか。それなのにいまお前はこんな不幸の中に倒れた人を埋葬もせずに放り出そうとして、恥ずかしげもなくそんな事を言うのか。それなら、一つこれだけは忘れるな。もしお前がこの人の遺体を放り出すつもりなら、その前に我々三人を殺してから一緒に放り出すことだ。 1309

 私はお前の妻やお前の弟の妻のために死ぬよりも、この人のために決然と戦って命を落とすほうがよほどましだ。だから、お前が気をつけねばならないのは私の事ではなくお前自身のことだ。もしお前が私の体に指一本でも触れるようなことがあれば、私に対して居丈高にならずにいつものように意気地なしでいればよかったと後悔させてやるからな。 1315

船乗りたち オデュッセウス殿、良いところにおいで下さった。この結び目を固くしばるのではなく、ほどくために来られたのであるなら。

オデュッセウス 皆の者、何事だ。遠くからアトレウス兄弟の大きな声が聞こえたぞ、この勇者の遺体についてどうのと。

アガメムノン おお、オデュッセウス殿。我々はいまこの男から無礼なことを言われたんじゃないか。 1320

オデュッセウス 何を言われたんだ。悪口を言って悪口を返されたのなら仕方がないぞ。

アガメムノン 先に無礼な事を言ったのは私だが、それはこいつが私に無礼なまねをしたからだ。

オデュッセウス この男はあなたを傷つけるような何をしたのだ。 1325

アガメムノン この男はこの遺体を埋葬せずには済まさないと言うのだ。私に逆らって埋葬すると言うのだ。

オデュッセウス 君の友人として私の本心を言っても、前と同様に仲良くしてくれるかな。

アガメムノン 分かった。そなたの助言を断ったりしたら、私は賢明ではない。そなたはギリシャ人の中でも最大の親友なのだから。 1331

オデュッセウス なら、聞いてくれ。頼むから君はこの人を埋葬しないで放置するようなそんな無慈悲なことはしないでほしい。一時の衝動に駆られてこの人を憎むあまりに法を踏み付けるようなことはだめだ。 1335

 アイアスは私がアキレスの武具を手に入れてからは、この軍の中でもっとも憎むべき敵となった。しかし、いかにそうとは言え、私は彼を辱めるつもりはない。

 何と言っても、彼はトロイに来たギリシャ人の中では、アキレスを除けば第一の武芸者に違いないのだ。だから、あなたも彼を辱めるのはよくない。そんなことをしてもこの男は痛くも痒くもないが、君は神の掟を破ることになってしまう。如何に憎んでいようとも、勇者の死体を笞うつのは、正しいことではないのだ。 1345

アガメムノン 何と、オデュッセウスよ、そなたはこやつをかばって私と争うのか。

オデュッセウス そのとおりだ。私も彼を憎むべき時には憎んでいた。

アガメムノン しかし、そんな奴が死んだ今こそ踏みつけにすべきではないのか。

オデュッセウス アトレウスの子よ、そんな不名誉な勝利を誇るべきではない。

アガメムノン 支配者が慈悲を保つのは難しい。 1350

オデュッセウス だが、良い忠告をする友人を尊重するのは難しくない。

アガメムノン 良い人間は支配者の言うことを聞くものだ。

オデュッセウス そうではない。友人の忠告に従っても君が支配者であることに変わりはない。

アガメムノン そなたが親切にしている男が何者か思い出せ。

オデュッセウス この男は私の敵だったが、偉大な男だった。 1355

アガメムノン どうするつもりだ。敵の遺体がそんなに大切か。

オデュッセウス そうだ。この男が敵だったことより偉大な男だったことの方が私には大切だ。

アガメムノン そなたのような人間を変わり身が早いというのだ。

オデュッセウス いま友人だった者が、敵に変わるのはよくあることだ。

アガメムノン そんな友人を持つことをそなたは勧めるのか。 1360

オデュッセウス 強情を張るのはよくないと言っているだけだ。

アガメムノン 今日そなたは我々を腰抜けと呼ばせたいのか。

オデュッセウス そうではない。ギリシャ人たち皆に正義漢と呼ばれせたいのだ。

アガメムノン この遺体の埋葬を許せと言うのだな。

オデュッセウス そうだ。私もまたいずれはこうなるからだ。 1365

アガメムノン 誰も似たようなもの、皆自分のために骨をおる。

オデュッセウス 自分以外の誰のために私が骨をおるかね。

アガメムノン これは私ではなくお前のした事だぞ。

オデュッセウス 誰のした事にしろ、あなたの親切に変わりはない。 1369

アガメムノン これは覚えておいて欲しいが、私はそなたのためならこれより大きな願い事でも聞いてやるんだよ。だが、私はこの男は大嫌いだ。それはあの世にいてもこの世にいても同じことだ。だが、そなたには必要なら何でも許してやるぞ。 1374

船乗りたち オデュッセウスよ、あなたのこの様子を見て、あなたの事を生まれついての賢人であると言わない人は愚かな人でしょう。

オデュッセウス それからテウクロスにはいま言っておこう。かつて私は君の宿敵だったが、これからは君の親友だ。私はこの人の亡骸を君と一緒に埋葬して共に汗をかきたい。立派な人に対して人としてなすべき務めを残りなく果たしたいのだ。 1380

テウクロス 高貴なるオデュッセウスよ、実に立派なことをおっしゃったとお褒めしよう。あなたは私の予想を見事に裏切ってくれた。あなたはこの人にとってギリシャ人の中では最大の敵だったが、今はたった一人この人に救いの手を差し伸べてくれた。この将軍が怒り狂ってやって来て、自分の弟といっしょにこの人を侮辱して墓なしで放り出そうとしたのを見て、この世に生きるあなたは死んだこの人を侮辱することに耐えられなかったのだ。 1388

 だから、この人を侮辱して不当にも放り出そうとしたこの悪人どもには、天界の支配者たる父ゼウスと、執念深い復讐の神と、事を成し遂げる正義の神が、不幸な破滅をもたらせばいい。

 一方、あなたの事だが、老いたるラエルテースを父に持つ子人よ、私はあなたがこの人の墓に手を触れることを認めるわけにはいかない。それは死んだこの人の感情が許さないからだ。だから、他のことに協力してほしい。軍の人を葬儀に参列させてもいっこうに構わない。私は今から準備を万端整えよう。あなたの事は我々はとても恩義を感じていることだけは知つておいてもらいたい。 1399

オデュッセウス 埋葬に加わりたかったんだが。しかし、もし私がそうするのは君の本意でないと言うなら、君の意志を尊重して私は遠慮しよう。(オデュッセウス退場)

テウクロス(音楽に合わせて語る) もうたくさんだ。時間が延びすぎた。こちらの者たちは急いで墓穴をほってくれ。こちらの者たちは背の高い聖なる鼎(かなえ)をしかるべく火にかけろ。残りの者たちはテントから鎧を持ってこい。 1408

 若様、あなたは出来る限りの愛情をこめて、お父上の体に手をかけて私とともに持ち上げてください。まだ温かい血管からは黒々とした血が吹き出ています。さあ、味方としてここに居る者たちはみんな急いで行け。全てにすぐれて人の世で人後に落ちないこの人のために務めを果たすのだ。 1416

船乗りたち(音楽に合わせて語る) 人間がその目で見て知ることのできる事は多けれど、まだ見ぬうちに、これからどうなるかを言い当てることは誰にもできない。 1420

(船乗りたち退場。テウクロスとエウリュサケスはアイアスの遺体を抱えて退場。その後にテクメッサ退場)




Translated into Japanese by (c)Tomokazu Hanafusa 2016.10.15.
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