ルソーの『社会契約論』第二巻



目次

第一章 主権は人に譲り渡すことができない
第二章 主権は分割できない
第三章 全体の意志が間違いを犯すことがあるか
第四章 主権の範囲について
第五章 生殺与奪の権について
第六章 法について
第七章 立法家について
第八章 国民について
第九章 国民について(つづき)
第十章 国民について(つづき)
第十一章 さまざまな法制度について
第十二章 法の分類
 
第一章 主権は人に譲り渡すことができない


1. これまで述べてきた基本的な事柄から導き出される結論のうちで最も重要なことは、全体の意志 (訳注、原文はvolonté générale。従来この言葉は一般意志と誤って訳されている)だけが共通の利益のために国家権力を行使することができるということです。国家というのはまさにこの共通の利益のために作られるものなのです。なぜなら、個々の国民の間に利害の対立があるために共同体の設立が必要となるとすれば、個々の国民の間の利害に共通点があってはじめて共同体を設立することが可能となるからです。つまり、共同体のつながりは国民の様々な利害に共通点があるからこそ生まれてくるのです。逆に、利害の対立だけがあって何の共通点もないなら、そこに共同体が成立することはあり得ません。そして共同体は、まさにこの共通の利害という一点に基づいて運営されなければならないのです。

2. つぎにわたしが言いたいことは、主権というものはまさにこの全体の意志の現れなのですから、それを誰かに(例えば王様に)譲り渡すことはできないということです。つまり、主権者は一つの共同体以外にはないのですから、主権がその共同体以外の誰かによって代表されることなどあり得ないということです。なぜなら、権力ならば誰かに譲り渡すこともあるでしょうが、意志を人に譲り渡すことなどあり得ないからです。

3. 実際、誰か個人の意志が全体の意志と一致することはあり得ないことではありませんが、それがずっと一致し続けるかとなるとそれは無理というものです。個人の意志というものはその性質上どうしても依怙贔屓に向かいやすいのに対して、全体の意志はいつも公平であろとうとするからです。仮に全体の意志と個人の意志とがつねに一致し続けたとしても、それを保証するものは何もないのです。なぜならそれは単なる偶然の一致であって、意図的なものではないからです。

主権者すなわち全体の意志が当面ある人の意志と一致するか、少なくともその人の意志と称するものと一致することはあっても、その人の将来の意志とまで一致することなどありえません。なぜなら、いやしくも意志というものが将来にわたってその自由を捨て去ることなど馬鹿げたことであり、もし意志あるものが自己の利益に反することに同意することがあるなら、それはもはや意志に従った行為ではないからです。したがって、ある国民が誰かに無条件に服従する契約をするようなことがあるなら、その契約によってその国民は解体して、もはや国民と呼べる存在ではなくなっているのです。なぜなら主(あるじ)を頂いた瞬間に主権者は主権者でなくなり、その瞬間に市民共同体は消えてなくなるのです。

4. しかし、こういったからいって、君主の命令が全体の意志としての価値を持つことを排除するものではありません。もちろんこれは、主権者すなわち全体の意志にその命令を拒否する自由がありながらもそれを拒否しない場合のことですが。この場合には、誰も何も言わないならば、国民が同意していると考えてよいということになります。このことについては後ほど(第六章)詳しく説明することに致しましょう。



 
第二章 主権は分割できない

 

1. 主権は全体の意志の現れであるから人に譲り渡すことはできないと言いましたしたが、それと同じ理由で、主権は分割することができません。この場合、意志は全体の意志かそうでないかの二通りでしかないからです。つまり、それは市民共同体の意志であるか、一部の人の意志であるかのどちらかなのです。そして前者の場合には意志を表明することは主権による契約であり、それがそのまま法律となりますが、後者の場合には、それは個別の意志のあらわれであり、それは政令か高々勅令でしかありません。

2. にもかかわらず、既存の政治学者たちは本質的に分割できない主権を、その目的によって分割しようとしています。ある人は主権を力と意志に、ある人は立法権と行政権に、ある人は徴税権と司法権と交戦権に、またある人は内政部門と外交部門に分割しています。これらの全ての部分を彼らはくっつけたり切り離したりしているのです。つまり、彼らは主権を別々の部品を集めてつくった空想の生き物にしてしまっているのです。それは人間の体を目や腕や足など肉体のたくさんの部分から組み立てようとするのに似ています。日本の大道芸人は、見物人の目の前で子供を切り刻んでばらばらした体を全部順番に空中に放り投げて、落ちてくるまでに子供を元どおりの姿に戻すという手品を見せるそうですが、既存の政治学者たちがやっていることはこの手品とそっくりです。彼らは縁日に出してもいいほどのトリックを使って市民共同体を分割したかと思うと、いつのまにかまたそれを元通りに組み立てて見せるのです。

3. このような間違いが起こったのは、彼らが主権についての正しい見方を身に付けていないためなのです。彼らは単なる主権の表面的な現象をとらえて、それをあたかも主権の部分であるかのように思っているのです。ですから、例えば、宣戦を布告したり講和を結んだりすることは、しばしば主権による契約であると思われていますが、実はそうではありません。なぜなら、これらの契約は法律ではなく、単なる法律の一つの適用例であり、法律を個別のケースに当てはめた個別の契約でしかないからです。このことはのちに法律という言葉のもつ意味を論じるときに明らかになるでしょう。

4. この他にも主権を分割する考え方はいろいろありますが、それらもまた同じように見ていけば、全てが間違いであることが分かります。結局、主権の部分であると思われている権利や権限はすべて主権の下に従属するものなのです。そして、それらの権利や権限は最高の意志の存在を前提として成り立っているものであり、この意志を実現するためだけに存在するものなのです。

5. 政治学者たちが自らうち立てた理論を使って国民と国王のそれぞれの権利について評価を下そうとしたとき、政治的な権利について彼らが導き出した結論は、このあたりを曖昧にしたためにまったく訳の分からないものになっています。グロティウスの本〔『戦争と平和の法』〕第1巻の3章と4章を読んでみれば、この学者(あるいはその翻訳者のバルベラック〔1674-1744〕)が自分の持ち出した屁理屈のせいで頭が混乱して、自分でもわけが分からなくなっていることは誰でもわかります。彼は好意を勝ち取りたい人たちの利益を損なわないために、自分の考えを言い過ぎてはいないか、いや逆に舌足らずはないかと戦々恐々なのです。グロティウスは祖国を恨んでフランスに亡命してからルイ十三世〔在位1610-43〕に取り入ろうとしてこの本を王に捧げた人ですが、彼はこの本の中であらゆる詐術を使って国民からその全ての権利をはぎ取ってそれを王の体にまとわせようと全力を尽くしたのです。

この本を訳してそれを英国王ジョージ一世〔在位1714-27〕に捧げたバルベラックのねらいもこのあたりにあったと思われます。しかし、不幸なことに、バルベラックは、ジョージ一世の先祖で名誉革命のときに英国に迎えられたウイリアム三世〔1689-1702〕を王位簒奪者(さんだつしゃ)にしないために、当時のジェームズ二世〔在位1685-88〕の追放を譲位と名付けるなど、小心翼々として、事実の歪曲やごまかしに腐心せざるを得ませんでした。

もしこの二人が真実を語るという方針を取っていたら、彼らの文章に見られる難解さは一挙に払拭され、論旨の一貫した非常に読みやすいものとなったでしょう。しかし、悲しいかな、たとえ彼らが真実を語ったとしても喜ぶのは国民だけだったでしょうし、それによって彼らが大使の職や教授の地位や恩給にありつくこともなかったでしょう。真実は金儲けには不向きなのです。



 
第三章 全体の意志が間違いを犯すことがあるか


1. これまで述べたことから全体の意志は常に共同体の利益に向かうものであり、つねに正しいものであると言えるでしょう。けれども、だからといって国民の考えることが常に正しいとは言えません。人は常に良いことをしようとするのは確かですが、何が良いことなのかを常に知っているとは限らないからです。ですから、国民にそれと知りながら悪いことをさせることはできませんが、悪いとは知らずに悪いことをさせることは可能です。そして国民が悪事を犯すとすればこの後の場合だけであると言えるでしょう。

2. 全体の意志(volonté générale)と全員の意志 (volonté de tous)の間にかなりの隔たりがあるのはよくあることです。前者がつねに共通の利益を考えるのに対して、後者はつねに自分だけの利益を考える個別の意志の寄せ集めでしかないからです。しかし、これらの個別の意志の中から、互いに打ち消し合うような両極端な意志(原注a)を取り除いたときに、様々な異なる意志の集大成としての全体の意志が生まれるのです。

原注a 「各人の利害にはそれぞれ異なる理由があるが、二人の人間の利害が一致するのは、第三者の利害と対立するときである。」と言ったのは、ダルジャンソン候だが、「全員の利害の一致は、それが個々の利害と対立するときである」と付け加えたらよかった。利益の相違がなければ、何の障害にも出会わないから、共通の利益に気づくこともないからである。全ては勝手に進行して、政治は技術ではなくなるだろう。

3. しかし、全体の意志が多くの異なる意志の中から生まれて、その考えが正しいものとなるためには、国民が正しい知識をもって審議するだけでなく、市民たちの間であらかじめ互いの意志を通じておくことがないようにしなければなりません。もし一部の国民が党派を組んでそれを国家よりも優先するようなことがあれば、それぞれの党派の意志はその党員にとっては全体の意志となるとしても、国家にとっては単なる個別の意志でしかありません。そして、そのような場合には、投票が行われたとしても投票者の数と同じだけの投票があったとは言えません。それは党派の数だけしか投票がなかったのと同じなのです。

そのときには異なる意志の数は少なくなり、その中から生まれる意志はとても全体の意志とは言えないものとなるでしょう。さらに、もしひとつの党派が非常に大きくなって他のすべての党派を飲み込んでしまったときには、異なる意志はただ一つしかなくなってしまい、もはや様々な異なる意志の集大成は生まれてこなくなるのです。こうなるともはや全体の意志は存在せず、そこで勝ちを占めた意見は個別の意見でしかありません。

4. したがって、誤りなき全体の意志が生まれるためには、国家の中に党派がなく、市民の一人一人が自分の判断で投票することが大切なのです(原注b)。この点で、かの偉大なスパルタ人リュクルゴスのつくった法制度はすぐれたものでした。もし国内にさまざまな党派がある場合には、その数を増やして各党派の大きさが均等になるようにしなければなりません。アテナイ人ソロンもローマ人ヌマもセルヴィウスも、まさにそうしたのです。以上の点にさえ気を付けておけば、全体の意志はおのずから明らかとなり、国民が間違いを犯すことはなくなるでしょう。

原注b マキャベリが以下のように言ったのは正しい。「国内が敵味方に分裂していることは共和国にとって良い場合と悪い場合がある。分裂してセクトや党派が生まれているのは悪い分裂であり、それを伴わない分裂は良い分裂である。いずれにせよ、共和国の創立者は国内に敵味方があるのはどうしようもないので、セクトが生まれないようにだけは注意すべきである」(『フィレンチェ史』第七巻)。






 
第四章 主権の範囲について


1. もし国家が人為的な人格でしかなく、その生命は構成員の団結にかかっているとし、また、国家が心配すべき最重要事項が自己保存であるとするなら、各構成員を全体的にもっとも効率的に配置して動かすための総合的な強制力が必要となります。人間は誰しも生まれつき自分の手足を自由に動かす絶対的な支配力を持っていますが、市民共同体にはその構成員を自由に動かす絶対的な支配力を社会契約によって与えられます。まさにこの支配力こそが、全体の意志によって行使される権力であり、私がすでに述べたように、主権という名前で呼ばれるものあります。

2. しかしながら、市民共同体という公的な人格以外に、そこに含まれる私的な人格も考慮しなければなりません。私的な人格は気儘な自由を持っており、その生命は市民共同体からは生まれつき独立しています。ですから、市民の権利と主権者の権利はよく区別することが大切です。したがって、市民が国民の資格において果たすべき義務と、人類の資格において享受すべき自然権をよく区別することが大切です。

3. 共同体の構成員は社会契約によって自分たちの持てる力と財産と自由を手放すことに同意していますが、それは全部ではなく、共同体に関わる部分だけなのです。ただ、この関わりを判断するのはただ主権者だけだということも認めねばなりません。

4. したがって、市民は国家が自分に求める勤めを出来る限り果たせねばなりません。とはいえ、主権者といえども国にとって無用の負担を国民に課すことはできません。国家が国民にそんなことを求めることはできないのです。なぜなら、人間の本性から言っても、物の道理から言っても、何かをするには(国のため自分のためという)動機がなくてはならないからです。

5 社会契約は我々を市民共同体と結びつけていますが、それを守る義務があるのは、もっぱらそれが相互契約であるためです。つまり、この契約は、それを我々が守ることによって共同体のためになるだけでなく、かならず自分自身のためにもなるという性質のものなのです。全体の意志がつねに正しく、全員がつねに自分たち各々の幸福を願っている理由、それはまさに、誰もがみなこの「各々」を自分のことだと考え、全員のために投票するときも自分自身のことを考えているからにほかなりません。ここから明らかなことは、まず、平等な権利とそれがもたらす正しさの概念は、国民の各々が自分自身のことを最優先に考えること、つまり人間の本性に由来するということ、つぎに、全体の意志が本当に正しいものであるためには、全体的な性格のものであるだけでなく、個々の人ではなく全員を対象としなければないこと、さらに、それが全員を対象とするためには、全員から出てきたものでなければならないこと、また、全体の意志が特定の個人に向かう時には、正しさを失なってしまうことなのです。なぜなら、特定の個人が対象になると、国民は自分の利害に関わらないことを判断するのですから、もはや国民を正しい方向へ導くまっとうな道理はなくなってしまうからなのです。

6 実際、ある特定の行為や権利について、前もって社会契約によっては何も決められていない点を問題にすることになれば、それはある種の訴訟になってしまいます。この訴訟では、一方の当事者は個人で、もう一方の当事者が共同体となります。しかし、この訴訟では従うべき法もなければ、判決を下す裁判官もいないのです。そうなれば全員の意見が一致した明瞭な決議を望むのは馬鹿げたことでしょう。そんな決議は当事者のうちの一方による決議に過ぎず、それゆえ、他の一方にとっては、自分だけを対象にした他人による決議でしかありません。こんな決議は正義に反するものになりやすく、誤りに陥りやすいものです。このように、個人の意志が全体の意志を代表できないのと同じく、全体の意志も個別のものを対象にしたときにはその性格を変えてしまい、個人や個別の事件については全体の意志として決議できないのです。たとえば、アテナイの民会は自分たちの指導者を任免したり賞罰を加えたり、個人に対して数多くの決議を行って、政府の仕事をことごとく同じやり方で行いましたが、アテナイの民会には本来の意味での全体の意志はまったくなかったのです。彼らの振る舞いはもはや主権者のものではなく、執政官によるものだったのです。この見方には異論もあるでしょうが、しばらくは私の説明をお聞きください。

7 以上のことから私が言いたいのは、全体の意志を形成するには議会に参加する人が多ければよいのではなくて、民衆を団結させるような共通の利益があることが必要なのです。なぜなら、この法制度においては各個人はほかの人に課する条件に自分も従うことになるからです。こうして利益の追求が公正さと見事に一致して、多数による決議を正しいものにするのです。その正しさは個別の問題について議論をし始めるとともに消えてしまいます。判断を下す側と判断を受ける側の行動基準を調和させて一致させるような共通の利益がここにはないからなのです。

8 どの方向から社会契約の原点にさかのぼって行っても、到達するところはいつも同じ地点なのです。すなわち、社会契約は市民全員が同じ条件で互いに契約し、同じ権利を享受するという平等を市民たちの間に確立するということです。こうして、社会契約のこの本質によって、主権のよる契約、すなわち全体の意志によるあらゆる正式の契約は、義務を課すにしろ、恩恵を施すにしろ、市民全員に対して平等に行われるのです。つまり、主権者の関知するところは市民共同体だけなのであって、その構成員たる個々の市民のことは関知しないのです。では、主権による契約とは本来どんなものでしょうか。それは支配者と被支配者の契約ではなく、共同体とその各構成員との契約であり、社会契約に基礎をおいているために、正当な契約であり、全員に共通であるために、公平な契約であり、全員の幸福以外のことを目的とし得ないために有益な契約であり、公権力と最高権力によって保証されているために、強固な契約なのです。国民がこのような契約に従っているかぎり、国民は誰でもない自分自身の意志だけに服従しているのです。したがって、主権者と市民の権利がおよぶ範囲を問うこと、それは市民が自分自身と、各人が全員と、全員が各人と契約できる範囲を問うことなのです。

9 以上のことから、主権はどれほど無制限、神聖不可侵であろうと、この全員との契約の範囲を超えることはないし超えられないことが分かります。また、この契約によって各人に残された財産と自由は誰でも心置きなく使うことができるのです。したがって、主権者は国民を依怙贔屓することは許されません。その時には、個別の問題を扱うことになってしまい、主権者の権限を逸脱してしまうからです。

10 いったんこの範囲が明確にされると、社会契約に入った個人は本当は何も放棄せず、実際には彼らの立場は社会契約によって以前よりも好ましいものになっているのです。何かを放棄するどころか、以前の不確実で不安定な存在様式を、別のもっと優れた確かな存在様式と、有利な交換をしたのです。また、生まれついての自由と市民としての自由とを交換し、他人を害する権利と自分自身の安全とを交換し、他人に凌駕される可能性のある自分の実力と、社会の団結によって無敵となった権利とを交換するのです。国家に差し出した自分たちの命さえも国家によって永遠に守られるのです。そして、国家を守るために命を危険にさらしますが、そのとき彼がすることは、国家から受け取った命を国家に返還することにほかなりません。このことは、自然状態のなかで、避けられない戦いに身を委ねて自分の生活を維持するものを命がけで守っていたときに、もっと頻繁にもっと大きな危険を冒して行っていたことにほかなりません。いざという時に誰もが国家のために戦わねばならないのは確かです。しかし、もはや誰も自分自身のために戦う必要はないのです。国家が失われたら自分一人だけで大きな危険を冒さなねばならないことを考えたら、自分を安全にしてくれる物のために少しだけ危険を冒すのは、価値のあることではないでしょうか。



 
第五章 生殺与奪の権について


1 社会契約のもとにある個人には自分の生命を自由にする権利はありません。にもかかわらず、自分が持たないその権利を主権者に譲渡することができるのはなぜかと問う人があるでしょう。この問いに答えることは困難に思えますが、それは問い方が悪いだけなのです。自分の命を守るためにそれを危険にさらす権利は誰にもあります。火事から逃れるために窓から飛び出した人が自殺の罪を犯したと言う人はいないでしょう。嵐の危険を知りながら船を出した人が嵐で命を落としても、その人に自殺の罪を課す人はいないでしょう。

2 社会契約の目的は契約者の保護であります。目的を実現したければ手段が必要です。そしてこの手段は必ず何らかの危険を伴うものですから、犠牲者の出ることは避けられません。他人を犠牲にして自分の命を守りたい人間は、必要なときには他人のために自分の命を差し出さねばなりません。ところで、法が市民にその身を危険にさらすことを求める場合、その危険についてはもはや市民はあれこれ言うことはできません。市民が君主から「お前の死が国のためになる」と言った時、彼は死なねばならないのです。なぜなら、それまで安寧に暮らして来れたのはまさにこの条件があったからで、彼の人生はもはや単なる自然からの贈り物ではなくなって、国家からの条件付きの贈り物だからです。

3 罪人に課せられる死罪もほぼこれと同じ観点から見ることができるでしょう。自分が殺人者の犠牲にならないために、自分が人殺しになれば自分も殺されることに同意するのです。しかし、この契約下にあっては、自分の生命を自由にするどころではなく、それを守ることだけを考えればよいのです。この契約をしようとする市民の誰かが絞首刑で殺されてやろうとあらかじめその時考えているとは、想定する必要はありません。

4 しかしながら、そもそもあらゆる犯罪者は社会契約に挑戦する者であるため、その大罪のために祖国の反逆者、裏切り者となるのです。そして社会の法を破ったことで、社会の構成員ではなくなるだけでなく、社会に戦争を挑んでいることになります。そうなれば、国家の存続と彼の存続とは両立しなくなります。この二つのどちらか一方が滅びる必要があります。そして犯罪者が殺されるときには、それは市民としてでなく敵として殺されるのです。その裁判の手続きは彼が社会契約を破壊したこと、その結果、もはや国家の構成員でないことを証明して宣告するものなのです。ところで、彼は少なくとも国内にいる間は自分は国家の構成員だと思っているので、社会契約の違反者として追放されるか、あるいは国家の敵として殺されることで国家から排除されねばなりません。そのような敵は人為的な人格(=国家)ではないからには(=国同士の戦いでは個人を殺すことは非合法である)、この敵は一人の人間なのです。そしてその時には、敗者を殺す権利は戦争の権利なのです(=国と個人の戦いでは個人を殺すことは合法である)。

5 しかし、犯罪者に刑の宣告をするのは個別の契約になると言う人がいるかも知れません 。そのとおりです。そのうえ、この刑の宣告は主権者の仕事ですらありません。これは主権者が人に付与することはできても実行することはできない権利なのです。私の考えはすべての一貫していますが、それを全部一度にわかっていただけないかもしれません。

6 そもそも刑罰の頻度はつねに政府当局の弱さと怠慢の兆候なのです。何かのきっかけで善人に改心できないような悪人はいないものです。生かしておくと危険な人間以外の人を見せしめのためであろうと殺す権利は誰にもありません。

7 犯罪者に法によって課せられ、裁判官に宣告された罰を、許したり刑を免除したりするのは法と裁判官の上に立つ者、すなわち主権者の権利に属しています。なお、この権利はあまり明瞭ではなく、それを使う機会も非常に稀なことです。よく統治された国家では刑罰を実施する数は少ないものですが、それは恩赦が多いからではなく、犯罪者が少ないからです。国家が衰退すると確実なことは、犯罪が頻発して刑罰を免れるようになることなのです。共和制ローマでは元老院も執政官も恩赦しようとはしなかったものです。民会も自分たちの判決を撤回することはよくありましたが、恩赦はしませんでした。なぜなら、頻繁に恩赦が行われるということは、そのうちどんな大きな犯罪に対しても恩赦の必要がなくなることを意味しているからです。それがどういうことなのか(=犯罪が罰せられなくなること)は誰にでも分かることなのです。しかしながら、私の心のささやきはこれ以上は書くなと命じています。この問題を論じるのは、一度も過ちを犯したことがなく一度も恩赦の必要がなかった正義の人に任せることにしましょう。



 
第六章 法について


1 社会契約によって私たちは市民共同体の存在と生命をもたらしました。いまや法によってその市民共同体を意思を持って動けるようにしなければなりません。というのは、市民共同体を作って団結させた社会契約によっては、その共同体を維持するために何をすればいいかは決められていないからです。

2 何が善で何が秩序に適うかは人間の契約とは無関係に自然に決まっているものです。正義は神だけが下すものであり、何が正しいかは神だけが知っています。だから、もしそれを空の高みから知る方法(=神託)が私たちに本当にあるなら、政府も法律も必要がなくなるでしょう。人の分別だけに頼った道徳があるのは誰でも知っています。しかし、道徳というものは互いに守らなければ意味がありません。人間的にものを考えると、道徳の規則は天罰がないかぎり人間の間では役に立ちません。もし善人が誰に対しても道徳を守るのに、彼に対しては誰も道徳を守らなければ、道徳は悪人にとって好都合なだけで、善人は損ばかりすることになります。そこで権利と義務を結びつけて正義を実現するために契約と法が必要となるのです。全てがみんなの物である自然状態においては、自分が認めた物だけが他人の物であって、つまりは自分の要らない物だけが他人の物なのです。法治国家ではそうは行きません。すべての権利は法によって定められているのです。

3 ではそもそも法とは何でしょうか。この言葉に哲学的な考えを結びつけて満足しているかぎり、互いの理解に至ることなく延々と議論を続けることになるでしょう。また、自然法が何であるかを語ったところで、国家の法についてそれが何であるかの理解が進むはずもありません。

4 個別の問題についての全体の意志が存在しないことはすでに述べたとおりです。ところで、この個別の問題はもし国家の内側になければ外側にあることになります。それが国家の外側にある場合には、決議は相手にとっては他人の決議であり、相手に対する個別の決議でしかありません。また、それが国家の内側にある場合には、相手は国家の一部分であることになります。すると、国家は全体と部分という別々のものに二分されてしまいます。全体と部分のこの関係においては、一つがその部分で、もう一つはその部分を除いた全体ということになります。しかし、一部分を除いた全体はもう全体とは言えません。このような関係が存在する限り、もはや全体は存在せず、不釣り合いな二つの部分が存在するだけです。一方の他方に対する決議はもはや個別の決議でしないのです。

5 一方、全国民が全国民について決定を下すときには、彼らはもっぱら自分自身のことを検討することになります。その時には全体が二分されることはなく、一つの観点から見た全体(=支配者)と、別の観点から見た全体(=被支配者)との関係があるだけです。そのとき決議で命令する対象はその決議と同じく全体的なものなのです。私が法と呼ぶのはそういうものなのです。

6 法の目的が常に全体的なものであるというのは、人を個別具体的な人とはとらえず、彼らの行動も個別具体的な行動とはとらえず、被支配者を全体としてとらえ、彼らの行動を抽象的にとらえるということです。ですから、法が命じて市民に特典を与えることはできますが、誰かを名指ししてそうすることはできないのです。法は市民の間に階級を作り、その階級に入る権利を与える資格を、市民に割り当てることができますが、その階級に入れる人を具体的に指名することはできないのです。法は君主制を設立して世襲制にすることもできますが、特定の人を王にしたり、特定の家族を王族とすることはできません。一言で言えば、特定の個人や団体に関わるどんな仕事も立法権には属さないのです。

7 この考え方に立てば、法は国民全体の意志による契約なのですから、立法が誰の仕事かは問うまでもないことは、すぐに分かるでしょう。また、王は国家の一員ですから、王が法の上に立つかどうかは問うまでもないことです。また、誰も自分自身に対して不正を働くことはできないのですから、法が不正である可能性があるかどうかも問うまでもないことです。法はまさに我々の意志の表れなのですから、どうして人が法の支配下にありながら自由であるかも問うまでもないことなのです。

8 また、法とは意志の一般性と対象の一般性をともに備えたものですから、誰であれ一人の人間が自分の判断で行う命令は法でないこともわかるでしょう。君主が特定の対象について行う命令もまた同じく法ではありません。それは勅令です。またそれは主権による行為ではなく、執政官の行為なのです。

9 したがって私は法によって統治されている国はどんな政体であってもレパブリックと呼んでいます。なぜなら、そこでは公的な利害だけが支配しており、公的なことだけが重要だからです。法的な政府はどれもレパブリックなのです(原注)。政府とはなにかについてはあとで説明しましょう。

原注 私がいうレパブリックは貴族制や民主制だけでなく、一般に国民全体の意志である法に基づいている政府のことを指します。法的であるためには、政府と主権者を混同してはなりません。政府とは主権者のしもべでなければなりません。その時には君主制国家(=たとえばイギリス)でさえレパブリックなのです。これについては次の巻で説明しましょう。

10 法とはもともと市民共同体の規約にすぎません。しかもその法に従う国民がそれを作らねばなりません。共同体の規則を制定するのは共同体を構成する人たちの仕事なのです。しかし、どうやって制定すればよいでしょうか。突然のひらめきによって合意に達するのでしょうか。市民共同体にはその意志を表現する才覚があるのでしょうか。市民共同体が法律を作ってそれを国民に知らせるためにあらかじめ公表するために必要な先見の明を、誰が彼らに与えるでしょうか。どうやって彼らは必要なときに法律を公表できるでしょうか。大衆は自分たちにとって何が良い事かを知っていることは稀なので、自分たちが何を望んでいるかをよく知らないのに、法制度などという大規模で難解な仕事を、そんな盲目の大衆がどうやって単独でやり遂げられるでしょうか。国民は自ら常に善を求めていますが、自分たちだけでは何が善であるかを常に知っているとは限りません。作られた全体の意志はつねに正しいものですが(第三章)、それを導き出す判断が常に賢明であるとはかぎりません。彼らに物事をありのままに見せてやる必要があるし、時にはどう見るべきかを教えてやる必要があります。そして、彼らが求めている正しい道を示してやって、個別的な考え方の誘惑から守ってやり、時と所をよくわきまえさせ、眼の前に見える利益の魅力と、ずっと先の目に見えない損失の危険を比較検討させる必要があります。個人は何が善であるかを知りながらそれを拒否し、大衆は善を求めながら何が善であるかを知りません。誰もが指導者を必要としているのです。各個人に彼らの意志を理性に合致させるように強制する必要がありますし、大衆には彼らの望んでいるものが何かを教えてやる必要があります。こうして国民が広く啓蒙されることから、市民共同体の中で意志と知力が結びついて、共同体の各部分が完璧に協力しあい、ついには国全体として最大の力が発揮されるようになるのです。こうして立法家の必要性が生まれるのです。


 
第七章 立法家について


1 さまざまな国民にとってふさわしい社会の最良の規則を見つけるためには、すぐれた知性を必要とします。人々のあらゆる感情を自分では経験せずに知っている人、我々の性格と似たところは少しもないにもかかわず我々の性格を深く知っている人、自分の幸福は我々とは無関係にかかわらず、我々の幸福のために尽力する人、自分の名誉は遠い未来のことだと気にもせず、一つの時代のために働き、その成果が次の時代に来ることで満足している人(原注)、そういう人が立法という仕事のために必要なのです。そのうえ、人間に法を授けるためには、神の声を聞ける人でなければなりません。

原注 一つの国民が有名になる頃にはその国の法律は衰えはじめているものです。リュクルゴスの法制度のおかげで誰も知らないほど長い年月にわたってスパルタ人は幸福を享受しましたが、スパルタがギリシア全土で有名になったのはその後のことなのです。

2 さきにカリグラは自分の行動を理屈付けていましたが(=政治家は羊飼いである)、プラトンも『政治家』(261d以下)という本の中でそれと同じ理屈を使って、彼が求める政治家や王のありうべき姿を定義しています。しかし、偉大な国王がまれな存在であるという(プラトンの)言葉が本当なら、偉大な立法家はもっとまれな存在でしょう。王は立法家が示す手本に従うだけでよいからです。いわば立法家は車を作り出す技術者であり、王はそれに乗って操縦する運転手なのです。モンテスキューは『ローマ人盛衰原因論』の第一章でこう言っています。「社会の創生期に国の法制度を作るのは君主であるとしても、その後はその法制度が君主を作るのである」

3 ある国民の法を制定しようとするほどの人は、いわば人間をその根本から変えられるという確信がなければなりません。自分だけで完結して孤立している個々の人たちを、より大きな全体の中の一部分に変えて、その生命と存在を何らかの方法でその全体から受け取らせて、人間の体質を強化するためにあえて弱体化させて、自然に身につけた肉体による独立した生活様式を、精神的で従属的なものに変えなければなりません。それは一言で言えば人間の本来の力を奪い取って、その代わりに本人にとっては未知の力、共同体の助けを借りなければ使えない力を与えることなのです。自然の力を多く殺して失わせればするほど、それだけ獲得した力は強く長持ちするものになりますから、国の制度もまたそれだけ強固で完璧なものになるのです。その結果として、個々の市民は他のすべての市民の力に頼らなければ何者でもなく何事もなしえず、全体が獲得した力は個人全員の力を集めたものと等しいかそれを上回る状態になるのです。そうなったときに国の制度はそれが到達できる最高の完璧なものになったといえるでしょう。

4 立法家はあらゆる点で国家の中の特異な人と申せましょう。彼はその才能によって特異だとすれば、その仕事によっても特異なのです。彼の仕事は行政でも主権でもない。この仕事は法治国家(レパブリック)の法制度をもたらすことですが、その法制度の中には含まれないのです。この仕事は人間支配とはいっさい関わりのない超越した特別な仕事なのです。というのは、もし人間を支配する者が法を支配すべきでないなら、法を支配する者も同じく人間を支配すべきではないからです。さもなければ、法は立法家の欲望の道具に成り果てて、しばしば自分の悪事を正当化する役割しか持たない物となるでしょう。そして、彼の個人的な目当てのせいで彼が作った法の神聖さが損なわれることは避けられないでしょう。

5 リュクルゴスが自分の国に法を作るときには、まず王座を捨てることから始めました。多くのギリシアの都市国家は習慣として自分たちの国の法律作りを他国人にゆだねました。近代イタリアの多くの共和国はこの習慣を模倣しました。ジュネーブも同じことをしてうまくいきました(原注略)。いっぽう、ローマではその最盛期に専制政治のあらゆる悪弊が復活して、ローマは滅亡の危機に瀕しましたが(=ネロなど?)、それは同じ人間が立法権と支配権を両方とも持っていたからなのです。

6 しかしながら、紀元前451年の十人委員会でさえ自分たちの独断で法を通す権限を主張することはありませんでした。彼らは国民に言いました。「我々がみなさんに提案するものは、皆さんの同意なしには法としては通用させることはできません。ローマ人のみなさん、みなさんの幸福をもたらす法はみなさんが自ら作成者になってください」と。

7 法の編纂者には立法権はないし、あってはならないのです。またこの権利は人に譲渡できないもので、国民はこれを捨てたくても捨てることはできません。なぜなら、基本となる社会契約によれば、個人に義務を課すのは国民全体の意志だけであり、法は国民の自由な投票を経たあとでなければ、あるの一個人の意志が国民全体の意志と合致するものであることは誰も確信が持てないからです。このことはすでに(前の章で)述べましたが、繰り返しても無意味ではないでしょう。

8 ここまで考えたとき、法を作るというの仕事には、同時に両立し難いと思える二つのことがあるのに気付きます。それは一方で人間の力を超えた仕事ということであり、他方で、それを実行するための権力は立法者には皆無だということです。

9 もう一つ言っておくべき難問があります。それは賢者は大衆に向かって自分の言葉の代わりに大衆の言葉で話そうとしても大衆には理解されないということです。そもそも一般大衆の言葉に翻訳できない思想はいくらでもあります。あまりにも漠然とした考え方とあまりにも遠く先の目標は、どちらも大衆の理解を超えています。一人ひとりの大衆は自分の利害に関わる政策以外には認めないし、立派な法律のせいで課せられる長期的な不自由から得られる利益などはとても理解出来ないからです。したがって、生まれたばかりの国の大衆に政治の賢明な方針を理解させ、国政の基本方針に従わせるためには、原因と結果を逆転させる必要があるのです。つまり、法が出来た結果生まれるべき公共心は、法を作るときにすでに無くてはならないのです。また、人々はさまざまな法によってしかるべき人間になるのですが、法ができる前からそのような人間でなければならないのです。そのうえ、立法家には権力もなければ言葉で説得することもできなのですから、強制なしに人を導き説得なしに人に言うことを聞かせる別次元の権威に頼る必要があります。

10 そういうわけで、各国の父祖たちは神の力に頼るために、自分自身の考えを神から手に入れたと言ったのです。その目的は、国民に自然の法則に従うようにして国家の法律に従わせ、都市の誕生に人間の誕生と同じ神の力が働いていることを認めさせて、指導者の言うことを聞いて、公共の福祉という名の軛(くびき)をおとなしく受け入れるようにするためです(原注略)。

11 この高級な道理は一般の人には理解しにくいものですが、立法家はこの道理に基づいて、自分の決定を不死の神々の口に語らせて、慎重で頑固な人たちの心を神の権威によって捉えようとするのです。しかしながら、神々の口に語らせることは誰でも出来ることではありません。また自分は神の代弁者だと言ったところで、なかなか信用されないでしょう。立法家の使命を証明する本当の奇跡は、彼の偉大な精神です。大衆受けするために、石板に文字を刻んだり、神託を下す神を買収したり、神とこっそり交信していると言ったり、鳥を仕込んで耳元でしゃべらせたり、その他くだらない方法を探すのは誰でもできることです。こんなことしか出来ない人でもたまたま愚かな人たちの一群を集めることは出来るかもしれません。しかし、そんな人が帝国を打ち立てることはけっしてありません。しかもこの途方もない仕事も作り手が死ぬとともに滅ぶのです。むなしい仕掛けで作れるものは、はかない絆でしかありません。それが長続きするためには知恵がなくてはなりません。いつまでも続いているユダヤの法も、10世紀以来世界の半分を支配しているマホメットの法も、今日でもなお、それらを作成した人たちの偉大さを証明しています。高慢な哲学者たちや党派性の強い人たちには、彼らのことをうまくやった詐欺師ぐらいにしか見ていない人もいますが、真の政治学者なら彼らの作った法制度のうちに、強固な制度を作る偉大な天才を見て賞賛するでしょう。

12 以上のことから、ウォーバートンのように、政治と宗教は共通の目的を持っていると結論すべきではありません。しかし、国家が誕生するときにはしばしば一方が他方の便宜となるとは言えるでしょう。


 
第八章 国民について


1 建築家は大きな家を建てるときには、土地が重みに耐えるかどうかをよく見て調べます。それと同じように、賢明な立法家はすぐに立派な法の作成に取り掛かったりはしないものです。その前に法を書こうとしている国民ははたして法を持つにふさわしいかどうかを調べます。プラトンがアルカディア人とキュレネー人に法律を作ることを断ったのはこの理由からで、この二つの国民は豊かなので富の平等を受け入れられないと分かったからです(訳注、ディオゲネス・ラエルティオスのプラトン伝より。ただし、そこではキュレネー人ではなくテーバイ人となっている)。クレタには立派な法があるのに国民は堕落していたのもこの理由からで、ミノスが法を作ったのはすでに悪に染まった民族だったのです。

2 思うに、地上にはこれまで無数の国が栄えましたが、どれも立派な法典には耐えらませんでした。また耐えられたとしても、どれもその国の存在した期間のうちのごく短期間しか耐えられませんでした。それは次の理由からです。人間と同じように大多数の民族も従順なのは若いうちだけなのです。彼らも年をとると矯正がきかなくなります。いったん悪い癖がついて偏った考え方が身についてしまうと、それを矯正するのは危険だし無駄な試みとなるのです。悪癖を打ち破るためと言ってその病巣に触れられることは民族には耐えられません。それは医者を見ると震え上がる臆病で愚かな病人に似ています。

3 人間は病気になって頭が混乱して過去の記憶を失うことがありますが、それと同じように、国家の存続期間中に動乱の時代があって、病の発作が人間にもたらすのと同じ効果を革命が民族の上にもたすことがしばしばあります。つまり、病の発作で人は過去の恐ろしい記憶を忘れてしまうように、革命で国家は内戦の炎に焼き尽くされて、いわば灰の中から復活するのです。そして、死神の手から逃れて、若い頃の活力を取り戻します。リュクルゴスの時代のスパルタがそうでした。タルクィニウスが追放されたあとのローマがそうでした。現代では独裁者を追放したオランダとスイスがそうでした。

4 しかしながら、このようなことはごく稀なことなのです。こんな例外的なことが起きるのは、この例外の国家の成り立ちにかならず特殊な理由があるからなのです。またこのようなことは同じ民族に二度は起こりません。なぜなら、民族が解放されるのはまだ未開なうちだけだからで、人々の活力が弱体化してしまうともう起こり得ないのです。そうなると動乱が起きても民族は破壊されるだけで、革命にはもはや民族を復活させる力はありません。鎖は断ち切られても、そのときには民族はばらばらになって、ただ滅亡するだけなのです。そんな民族に必要なのは支配者であって解放者ではありません。自由な民族の皆さん、皆さんは次の原則を忘れないようにしてください。「自由は獲得することはできるが、いったん失った自由を取り戻すことはできない」。

5 人は青年期になるともう子供ではありません。人と同様に民族にも青年期があります。あるいはそれを成長期と呼んでもいいでしょう。民族を法に従わせるにはその前に民族がこの成長期に達している必要があるのです。しかし、民族の成長期を見抜くのはやさしいことではありません。もし早すぎると法律を作っても失敗します。生まれたての民族でも法に従う民族もありますが、千年たってもだめな民族もあるのです。ロシア人は永遠に本当の意味での法の支配に服することはないでしょう。なぜなら、時期が早すぎたからです。ピョートル大帝は模倣の天才でしたが、無から有を作る真の天才ではありませんでした。彼のしたことの中にはいいこともありましたが、大半は時期外れのものでした。彼はロシア人は未開であることは知っていましたが、法の支配を受けるには未熟であることを知りませんでした。彼は民族を訓練して強くすべきときに文明化して弱くしようとしたのです。彼は民族をまずロシア人にすべきだったのに、ドイツ人やイギリス人にしようとしたのです。彼は自国民にまだなってもいないものになったと思い込ませようとして、なれるものになることを邪魔したのです。それはまるでフランスの家庭教師が生徒を秀でた人間にしようと幼いうちから躾をして、永遠にだめにしてしまうのと似ています。ロシア帝国はヨーロッパを征服しようとするでしょうが、逆に征服されてしまうでしょう。ロシアの支配民族であり隣人であるモンゴル人が彼らの支配者になり、そのあとヨーロッパの支配者となることでしょう。この革命は私には確実なことと思われます。ヨーロッパの王たちはみんなこの革命が早まるように励んでいるからです。


 
第九章 国民について(つづき)


1 普通の人間の背丈には限りがあって、それを外れると巨人になったり小人になったりします。それと同じように、うまく作られた国家の広さには限度があるのです。国家はあまり小さいと自力ではうまく維持できませんが、あまり大きいとうまく支配できないのです。市民共同体には自分の力の及ぶ限度というものがあって、面積があまり広くなるとそれが及ばないからなのです。社会を結びつける力は距離が遠のくほどに緩みます。一般的に言って、狭い国のほうが広い国より比較的強いのです。

2 この原則の正しさを証明する理由は無数にあります。まず第一に、行政は距離が長くなるほど負担が重くなります。それは梃子(てこ)の端に置いたおもりは梃子が長いほど重くなるのと同じ原理なのです。また、行政は複雑になるほど国民には負担がかかります。まず市町村の行政があり、そこで税を取られます。次に郡の行政がありそこでも税が取られ、その上に各州があり、さらにその上に大きな行政府である総督府、太守府があります。しかも、段階が上がるほど多くの税を取られます。これらはすべて不幸な民衆の犠牲の上に成り立っています。そして、最後に最高府が来て全国民の上にのしかかるのです。多くの負担が積み重なって、被支配民はいつまでも疲弊させられるのです。政治にこれらの様々の段階があることで、より良い政治が行われるどころか、政府が一つしかない場合に比べてずっと悪い政治が行われるのです。それにもかかわらず、非常事態に対する備えはほとんどありません。国民がいざ頼ろうとするときには、国家はいつも破滅の瀬戸際に立っているのです。

3 国土の広いことの弱点はこれが全てではありません。法の執行に際する実行力も迅速性も劣ります。迫害をやめさせたり、権力の乱用を正したり、遠隔地に起こる可能性のある反乱の企みの防止にもうまく対応できません。それだけではありません。国民は見たこともない支配者に対して愛着を持つことはありません。また、自分の目には全世界のように見える広大な祖国に対しても愛着を持つことはないし、ほとんどの人が他人である同胞市民に対しても、親愛の情をもつことはないのです。これほど多くの州に同じ法律が適応することは不可能なのです。まざまな地方の人たちはさまざまな風俗を持って、正反対の気候風土のもとで暮らしていて、そのうえ同じ支配形態に耐えられるはずがないのです。かといって、異なる法律を作っても、同じ支配者のもとに暮らして頻繁に連絡しあっている様々な民族の間に不和と混乱を引き起こすだけです。彼らは相互に交流し婚姻して、他の民族の慣習に従うことで、自分たちの伝統遺産が永遠に自分たちのものかどうかわからなくなってしまいます。そうなれば国民の福祉には手が回らず、必要なときに国家を防衛する力もほとんど残りません。組織としては大きすぎる共同体はこのようにして自分自身の重圧で崩壊して滅んでしまうのです。

4 しかし、国家が安定するためには確固とした基盤を持たねばなりません。それは必ずや経験することになる衝撃に耐えるためであり、国家を維持するために尽される努力を支えるためなのです。というのは、多くの国は一種の遠心力を持っており、それによっていつも互いにぶつかり合い、隣接する国を犠牲にして膨張する傾向があるからです。これはデカルトの言う渦巻きの原理と同じです。かくして弱い国はすぐに飲み込まれる危険があるのです。どの国も自己を維持するためには、全ての方向からの圧力をほぼ均等にするために、全ての国との間に一種の均衡状態(パワーバランス)を作る必要があるのです。

5 以上から、国家が膨張するのも縮小するのも理由があることが分かります。そして、国家を存続させるために、この両者の間に最も有利なバランスを見出すことは、政治家として重要な才覚なのです。一般的に言って、前者は対外的で相対的なもので、後者は対内的で絶対的なものなので、後者を先に考えるべきです。そして、共同体の成り立ちを健全で強力なものにすることが第一に追求すべきことですから、広大な領土から得られる資源ではなく、すぐれた統治から生まれる国家の活力を重視すべきなのです。

6 もっとも、国家の成り立ちが征服を是非とも必要とするような国、国家を維持するために休みなく膨張せざるを得ない国があることは誰でも知っています。この膨張政策はうまくいっている間はおそらく彼らも大いにそれを祝福していたことでしょう。しかしながら、この政策は国の膨張が終わるとともに、崩壊する時が必ず来ることを意味していたのです。


 
第十章 国民について(つづき)


1 市民共同体の大きさを測る尺度には二つあります。それは領土の面積と人口の大きさです。そしてこの二つの大きさの間には、国家が最善の大きさになるための適切なバランスがあるのです。国家を作るのは人間であり、人間を養うのは領土です。そして、このバランスとは、領土がその住民を養うのに十分な面積であること、住民がその領土によって養える程度の多さであることなのです。どんな人口の国民であってもその国が最も大きな力を発揮できるのは、このバランスがとれている場合です。というのは、人口に比べて国土が広すぎると、管理に手間がかかり、耕作が行き届かないのに、作物が余ってしまうからです。これはやがて防衛戦争の原因になるでしょう。逆に、人口に比べて国土に十分な広さがないと、食糧を補うために隣国に依存するようになってしまいます。これはやがて侵略戦争をしかける原因となります。貿易が止まったら戦争をするしかない国民は何であれ本来的に弱小国なのです。彼らの存在は隣国次第であり、戦争に頼るしかありません。したがって安定せず短命です。征服して状況を変えられなければ、征服されて滅亡するしかありません。つまり、彼らは国土を広げられなければ、小さいままで(人口を減らして)自由を保つしかないのです。

2 国家の領土の広さと人口の多さの双方が互いに過不足がないような一定の割合というものを数字で出すことはできません。国土の性質、土地の肥沃さ、作物の種類、気候の影響の違いだけでなく、住民の気質の違いもあり、また肥沃な国土でも消費量が少なかったり、やせた国土なのに消費が多かったりするからです。また人口については、その国の女性が多産かどうか、人口増加に適した土地の良し悪し、立法家の作った制度でどれだけ人口増加が期待できるかも考慮する必要があります。したがって、目に見えるものではなく予想されるものを判断の対象にしなければなりません。人口の現状ではなく、将来自然に到達するはずの人口に留意すべきなのです。最後に、国土の特殊な起伏のせいで見かけ以上に広い土地を抱くことが必要とされたり許されたりする場合はいくらでもあります。たとえば、山の多い地方では人々は離れてばらばらに住んでいます。自然の作物、つまり森林や牧草地の収穫はそれほど労力を必要としないのです。また山間部の女たちは平地と比べて多産であることが知られています。また、山間部の広大な傾斜地には平らな土地はすこししかなく、耕作に使えるのはそこに限られているのです。反対に、海岸地方では人々は海べりの石ころだらけの土地や砂地など農業にはほぼ適さない土地に密集して暮らしています。なぜなら、土地の作物の不足の大部分を漁業が埋め合わせられるからであり、もっぱら海賊を撃退するため人々は密集して暮らさねばならないからであり、そのうえ、海岸地方では植民によって過剰の住民を土地からたやすく移住させることができるからなのです。

3 ひとつの国民に法制度を作るためのこれらの条件のほかに、何物にも代えがたいもう一つの条件を加えねばなりません。これがなければ他の条件は無に帰してしまうでしょう。それは国民が豊かで平和な暮らしを享受しているということです。編成期の軍隊は抵抗力が無くたやすく崩壊するのと同じように、国家に法制度を作ろうとするときには、市民共同体は抵抗力が最も乏しく壊れやすいのです。軍隊の抵抗力は編成期よりも完全な混乱期のほうが強いものです。編成期には各々は自分のランクばかりを気にして危険に気が付かないからです。もしこの危険な時期に戦争や飢饉や反乱が起これば、国家は間違いなく滅亡するでしょう。

4 まさにこの波乱の時期に多くの政府が作られ、その政府がそのときに国家を崩壊に追い込んだのです。簒奪者たちはいつもこの混乱した時期を自ら招いたり選んだりして、国民の恐怖を利用しながら、冷静な国民ならけっして可決しないような破滅的な法律を通過させるのです。法制度を作る時期の選択の仕方は、立法家の仕事と独裁者のそれとを区別する確実な指標の一つとなります。

5 では、どんな国民が法制度にふさわしいでしょうか。それはすでに起源、利害あるいは社会契約によってある程度団結してはいても、まだ法の真のくびきを背負った経験のない国民です。それは慣習や迷信が染み付いていない国民であり、突然の侵略によって悩まされていない国民、隣国と紛争状態になく、単独で隣国の侵略に抵抗できるか、あるいは一方を撃退するために他方の助けを借りることができる国民、個々の人々が全員互いに知り合っている国民、一人の人間に誰も負えないような責任を負わせる必要のない国民、よその国の国民に依存せずにやっていける国民、また他のどこの国の国民から依存されていない国民(原注略)、裕福でもなく貧しくもなく自分自身に満足している国民、最後に、老いた国の国民の一貫性と新興国の国民の従順さを兼ね備えている国民でしょう。法制化の仕事で困難な課題は、何を作る必要があるかではなく、何を壊さねばならないかなのです。この仕事がなかなかうまく行かないのは、社会の要請と結びついた国民性の純朴さを見つけることができない事から来るのです。たしかにこれらの条件がすべて揃うことはなかなか難しい。だから、うまく法制化した国家は少ないのです。

6 ヨーロッパにはまだ法制化が可能な国が一つあります。それはコルシカです。この勇敢な国民が自由を取り戻してそれを守ることができたのは、その勇気と忍耐強さのおかげです。彼らのもとに賢者が現れて、彼らに自由を維持する方法を教えることは、そんな彼らにふさわしいことでしょう。わたしの予感では、いつの日かこの小島がヨーロッパをあっと言わせる日が来ることでょう。


 
第十一章 さまざまな法制度について


1 あらゆる法制度の目的はすべての人の最大幸福でありますが、それが何であるかを問うなら、とどのつまりは自由と平等という二つの主目的であることがわかるでしょう。なぜなら、個人が自由を失えば失うほど、国家共同体から力が失われるからであり、また自由は平等なしにはありえないからです。

2 市民の自由についてはすでに(一巻八章で)述べたことです。平等については、富と権力を完全に平等にすべきだという意味だと思ってはなりません。権力の平等とは、権力はあらゆる暴力を超越したものであって、権力の行使は法の権威のもとで行われなければなりません。また、富の平等とは、どの市民も別の市民を金で買えるほど豊かであってはならないし、どの市民も自分を金で売らねばならないほど貧しくてはならないという意味です。これは金持ちは富と権力をほどほどに求め、貧乏人はあまり欲深くしないということが前提にあります(原注)。

原注 国家に安定をもたらすためには、両極端な人たちを出来るだけ減らさねばなりません。つまり、大金持ちも乞食もあってはなりません。この二つの存在は本質的に分かち難いもので、国家の安寧にとってはどちらも有害です。一方は独裁政治の支持者になり、他方は独裁者の支持者になります。自由の権利の売り買いはこの両者の間で行われます。一方が売り手となり他方が買い手となるのです。

3 これらの平等は現実には存在するはずがなく脳内の妄想であるという人がいます。しかし、権力の乱用が避けられないからと言って、それを抑える必要はないということにはなりません。現実の力はいつも平等を破壊する方向に働きます。だからこそ、法律の力はいつも平等を維持しようとする必要があるのです。

4 あらゆる良き法制度が目指すべき自由と平等という二つの普遍的な目標は、それぞれの国ごとにその住民の性格と地域的な事情から生まれる目標によって修正する必要があります。各国民に個別の法制度を与える際には、まさにこの目標に基づいた制度である必要があるのです。それは法制度としては最善でなくても、その国にとって最善のものでなくてはなりません。たとえば、土地が痩せて不毛でしかも面積が人が住むには狭すぎるとしましょう。その場合には、産業や工業に力を入れて、そこから上がる収益でもって、その国が生み出せない食糧を買い入れるといいでしょう。その反対に、地味豊かな平地や傾斜地に住んでいるのに住民の数が不足しているとしましょう。その場合には農業に精を出すと人口が増えるでしょう。また工業はやめておくべきです。工業は少ない人口の住民を国内の数カ所に集中させてしまうので、人口を減らしてしまうのです。広くて便利な浜辺に住んでいるとしましょう。その場合は海一面に船を浮かべて、航海に出て貿易に励むといいでしょう。そうすれば、すぐに豊かな暮らしが送れます。もし海が岸辺を洗い岩だらけで近づけないなら、法など作らず未開のまま魚を釣って暮らすといいでしょう。そのほうが平和で豊かに暮らせて、きっと幸福になれます。要するに、誰にとっても共通の原則である自由と平等のほかに、それぞれの国の事情に合わせて、個別のやり方で彼らの原則を作り出して、彼らだけに適した法制度を作らねばならないのです。このようにして昔はユダヤ人が、最近ではアラビア人が宗教を主目的とし、アテナイ人は文芸を、カルタゴ人とフェニキア人は貿易を、ロドス人は航海を、スパルタは戦争を、ローマ人は美徳を主目的としていたのです。『法の精神』の著者は多くの実例をあげて、どのようにして立法家はその国のそれぞれの目的に合わせて法制度を作るべきかを示しています(「法の精神」第十一篇第五章)。

5 国家の法制度を真に強固で長続きするものにするためには、その国の慣習をよく観察して、つねに法とその国独特の目的が同じ点でうまく出会うようにして、法がいわばその国の目的に寄り添って確かなものにして正していくようにしなければならないのです。にもかかわらず、立法家が対象国について思い違いをして、その国独特の目標とは異なる目標を取り上げた結果、自由を目指しているのに隷属を求めたり、人口の増加を求めているのに富の増加を目指したり、征服を目指しているのに平和を求めたりすると、その国は法律によっていつのまにか弱まり、国制は変質してしまい、国は絶えず動揺にさらされて、最後に国が変化しない限り崩壊してしまうでしょう。そして、無敵の自然状態による支配が復活するのです。


 
第十二章 法の分類


1 国家の全体に秩序を与えて、国家共同体に最善の形を与えるためには、全体と部分についてのさまざまな関係を考慮に入れなければなりません。まず最初に、共同体の全体が自分自身に働きかける、全体と全体の関係があります。これは主権者と国家との関係です。そして、この関係は以下に見るように、さまざまな中間的なものから構成されています。

2 この関係を規定する法は政法(訳注,公法と同義のモンテスキューの用語である)と呼ばれ、また基本法と呼ばれます。この法が賢明なものである場合、そう呼ばれるのは無理もないことでしょう。というのは、国家に秩序を与える良い方法が一つしかないなら、それを見出した国民はそれを守るしかないからです。しかし、国家の秩序が乱れているときに、その改善をさまたげるような法は基本法とは呼べません。そのうえ、いずれにせよ国民というものは自分たちの法を自由に変えることができるのです。最善の法でも同じことです。国民が自分で自分を痛めつけたければ、誰もそれを止める権利はないのです。

3 二番目の関係は国家の構成員どうしの関係、あるいは構成員と共同体全体との関係です。この関係は前者については出来るだけ小さく、後者については出来るだけ大きくしなければなりません。つまり、市民は他の市民からは完全に独立するようにして、国家にはこの上なく従属するようにするのです。これを実現する方法はどちらも同じです。なぜなら、国家の構成員の自由を左右するのは国家の力だけなのですから。市民法(民法)はこの二番目の関係から作られます。

4 三つ目の関係として人と法の関係が考えられます。それは法律違反と刑罰の関係です。そしてこの関係から刑法が作られるのです。刑法は個人に関わる法というよりは、他の人たちからの制裁なのです。

5 この三つの法に加えて四つ目の法があります。これはどの法よりも重要な法で、大理石や青銅には刻まれていませんが、いわば市民の心のなかに刻まれている法です。これは国家の真の体制を作るもので、日々新たな力を獲得していく法です。これは他の法が古くなったり消滅したりしたときに、それらの法を復活させたり、それらの代理をしたりして、建国の精神を保存して、いつのまにか権威の力を習慣の力で置き換えるものなのです。わたしが言うのは風習や慣習や世論のことで、これは現代の政治学者たちの知らないことですが、他の全ての法の成否はここに掛かっています。偉大な立法家は個別の条文にかかりっきりになっているように見えて、心のなかではこのことに専念しているのです。個別の条文は丸天井の飾りにすぎないもので、風習は、生まれるまでは遅々としていても、結局はこの丸天井の不動のかなめとなるものなのです。

6 これらのさまざまな種類の法のなかでは、政法が政府の形を構成するものであって、唯一私のテーマに関係してします(第二巻おわり)。

誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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